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コートジボアール

コートジボアール

コートジボアール

1895年から1958年にかけて,フランスは西アフリカの八つの地域を統治し,その連合をフランス領西アフリカと称していました。コートジボアールは,かつてその連合を構成していた国の一つです。

この地域が象牙の取り引きにちなんでコートジボアール(フランス語で“象牙海岸”の意味)と呼ばれるようになったのは,15世紀後半のことです。象狩りが盛んに行なわれたため,現在,象がいるのは主に南西部の森林地帯に限られています。100㌔もの牙を持つ象を発見できた時代はもはや過去のものとなりました。今日見られる象の牙はせいぜい18㌔から23㌔そこそこです。

コートジボアールは1890年代にフランスの植民地となり,1960年に独立国となりました。アフリカ西部のフランス領で独立運動を指導したフェリックス・ウフエ・ボワニが1960年に大統領に選ばれました。以来,同氏は5年ごとに再選されており,現在でもこの国の元首です。

この国は西アフリカの円くふくらんだ部分に位置しており,西はリベリアとギニア,東はガーナと国境を接しています。北には内陸の国オートボルタとマリがあります。コートジボアールは,面積が32万2,000平方㌔で,エルサルバドルの約15倍,アメリカのニューメキシコ州とほぼ同じ大きさです。

コートジボアールは,典型的な熱帯の国です。沿岸の気候は高温多湿で,国土のほぼ半分が樹木の生い茂る森林で占められています。その森林地帯は北に伸び,国の中央部に行くにつれて低木の生い茂るサバナに変わり,ついには葉のない低木の生えた乾燥しきったサバナになります。近年起きた干ばつの影響はサハラ砂ばくからやや南にまで及びましたが,ずっと南方の熱帯雨林はほとんど影響を受けませんでした。

コートジボアールの人口は約750万人ですが,そのほぼ半数が20歳未満です。美しい首都アビジャンは,1945年には人口約2万人の比較的小さな町でした。しかし,現在そこに100万人を超す人々が住んでいます。沿岸にあるこの首都から内陸部へ行くと,バナナ,コーヒー,カカオ,パイナップルの大きな農場で働く人々の姿が見られます。西部のガニョア市やダルワ市の近くでは,人々が米の畑で農作業に励んだり,高地の木材切り出し場で大きなマホガニーの木を切り倒したりしています。

コートジボアールの住民は様々な部族集団から成っており,19世紀の末には60を上回る部族がいました。それぞれの部族集団は互いに離れた所に住み,自給農業を営んでいるため,部族が混じり合うことはめったにありませんでした。東部にはガーナから来たアシャンティ族がおり,リベリアに伸びる西の森林地帯からはベテ族がやって来ました。マリとオートボルタからは丈の高い砂ばく人種が,ギニアの山岳地帯からはダン族が移って来ました。さらに,海岸沿いには,砂浜とココヤシに縁どられた潟湖のそばにエブリエ族が住んでいます。この部族の主な経済活動は潟湖で魚を取ることです。

公用語としてフランス語が用いられていますが多くの言語や方言があります。五つの主要な語族に属する70ほどの土着の言語が話されているのです。その大部分は,これまで全くと言ってよいほど文字化の試みがなされていない言語です。回教徒の貿易業者が用いるディウラ語は,他の多くの人の間でも商業目的で用いられており,重要な商業用語となっています。このような訳で,コートジボアールでは多くの人が土着の方言とフランス語とディウラ語という三つの言葉を話します。

宗教

コートジボアールが1890年代にフランスの植民地となった時,カトリックの宣教師たちはこの国に足掛かりを築きました。そして,植民地権力と手を結び,沿岸の拠点から自分たちの教えを次第に広めていきました。多くの部族集団,とりわけ沿岸地域の集団がカトリックを信奉するようになりましたが,精霊崇拝<アニミズム>に根ざした部族の宗教をも固持しました。アニミズムとは,川とか湖とか潟湖のような無生のものに魂がある,もしくは崇敬の対象となる霊が宿っているとする信仰です。

北の地域では,すでにイスラム教に改宗していたスーダンの諸部族の流入により,イスラム教が勢力を得ました。しかし,イスラム教は非常な抵抗に遭って拡大を阻まれ,精霊崇拝者<アニミスト>でその新しい「服従」の宗教を受け入れた者はほとんどありませんでした。たとえそれを受け入れた場合でも,アニミズムを引き続き信じていました。

近年,プロテスタントの諸宗派も幾らか進出しました。1913年から1936年にかけて,ハリズムとして知られる新しい宗教がコートジボアールに急速に広まりました。リベリア人の伝道師でその宗派の創始者であるウィリアム・ウェイド・ハリスにちなんでそう呼ばれています。ハリスの教えはヘブライ語聖書を土台としており,非常に地方色が濃く,歌と踊りと異教の儀式を幾つかの聖書的な考えと結び付けています。

コートジボアールが独立の道を歩みはじめ,信教の自由が一層認められるに及んで,プロテスタントのほかの宗派や集団が次々と現われました。真のキリスト教の光がコートジボアールに輝きはじめたのは,30年余り前のそうした宗教事情の下でした。その当時,人口の60%はアニミスト,25%はイスラム教徒,15%は自称クリスチャンであったと推定されています。

最初の野外奉仕報告

ウィリアム・C・ワールデンとジョージ・L・コバートは1948年2月にギレアデを卒業し,コートジボアールに任命されました。査証を得るのが難しかったので,協会は結局二人をゴールドコースト(現在のガーナ)に派遣しました。そこからコートジボアールへの入国を試みるためです。

1949年3月,当時ゴールドコーストの支部の監督であったアルフレッド・G・ベイカーとウィリアム・ワールデンはアビジャンへ行き,フランスの総督と会って査証の申請をしました。総督は提出された参考書類に感銘を受けた様子でしたが,すぐに手続きを取ってはくれませんでした。二人の兄弟はアビジャンに滞在していた四日間に野外奉仕を行ないました。これはこの国で報告された野外奉仕としては最初のものとなりました。

時がだらだらと過ぎ丸1年たちました。その件について幾度も手紙を送ったにもかかわらず,宣教者の入国は認められませんでした。ついにゴールドコースト支部は,ゴールドコーストの首都アクラで開拓者をしていたアルフレッド・エリヤス・シューターを正規開拓者としてコートジボアールへ派遣しました。

定期的な伝道の開始

1950年6月,アクラにあった支部はアビジャンにいたシューター兄弟から最初の野外奉仕報告を受け取りました。シューター兄弟は良いたよりを宣べ伝える活動に100時間を費やし,20件の再訪問を行ない,家庭聖書研究を二つ始めていました。次の月には,アクラからアビジャンに引っ越して来ていた不活発な伝道者を再び活発にならせました。アルフレッドは8月までに聖書研究を12件司会するようになっていました。

シューター兄弟は,アビジャン市内の一区域トレシュビルの潟湖のそばに間借りした小さな部屋の家賃を払うためにパートタイムの仕事に就きました。1950年12月,シューター兄弟はゴールドコーストの全国大会に出席しました。それでベイカー兄弟はシューター兄弟とコートジボアールにおける伝道活動について話し合うことができました。アルフレッドの妻は1951年2月に,アビジャンで夫と同じように正規開拓者になりました。二人は,力を合わせて,コートジボアールの人々が聖書の真理を学ぶのを助けるために多くの事を行ないました。1951年3月にアビジャンで行なわれた主の記念式には17人が出席し,特別講演には25人が出席しました。書籍研究の群れが組織されましたが,その集会には12名の定期的な出席者がありました。

ギレアデの卒業生が入国

ギレアデの第16期のクラスを卒業したガブリエル・パターソンと妻のフロレンスは1951年7月コートジボアールに入国し,シューター兄弟姉妹の所に身を寄せました。パターソン兄弟はゴールドコーストの生まれで,何年か前にアルフレッド・シューターと研究をして,シューター兄弟が真理の知識を得るよう援助した人物でした。外国の任命地で会ったことは二人にとって非常に喜ばしい再会でした。

それら若い夫婦にとって当時の生活は決して楽なものではありませんでした。ガブリエルは自分たちの住まいの様子をこう語っています。

「私たちがアビジャンに着いた時には,すでにアルフレッドが厚紙を使って自分たちの一間を拡張してくれていました。タールを塗った厚紙で,拡張した所に屋根をふき,私たち夫婦が寝る部屋をつくってくれたのです。紙の屋根をふいたその部屋で,私たちは一緒に料理をして食事をしました。雨が降ると雨漏りで目を覚ましました。私たちは部屋をつくってくれた二人を起こさないように部屋のすみへ行って雨漏りを避けました」。

最初の弟子

そのように厳しい条件でしたが,開拓者たちはくじけませんでした。間もなく4人の活動は実を結ぶようになりました。ゴールドコーストから来ていたロバート・マーキンという人が友人の事務所で「神を真とすべし」と題する本を目にしました。その本を貸してもらえないかと頼んだところ,友人は本を貸してくれる代わりに,パターソン兄弟姉妹とシューター兄弟姉妹が住んでいる所を教えました。

ロバートは早速,潟湖のそばのその小さな家に行き,本を求めました。パターソン兄弟はロバートと一緒に彼の家に行き,2時間研究しました。翌朝ガブリエルは,証言活動がどのように行なわれるのかを見るために野外奉仕に出てはどうかとロバートを誘いました。こうしてコートジボアールで初めて,エホバの証人になる道を歩む人物が生まれました。ロバート・マーキンはほかの二人の人と一緒に1952年4月アビジャンのグボボ潟湖でバプテスマを受けました。

間もなく,ロバートの家で集会が開かれるようになりました。最初のころ,その集会は普通英語で司会され,出席者に応じてフランス語に通訳されたり,エウェ語やトウィ語といったガーナの言葉あるいは地方語の一つに通訳されたりしました。芽を出しかけたそのグループを当初主に構成していたのは,ゴールドコーストやフランス領トーゴランド,ダオメーからコートジボアールに来ていた外国人でした。1954年に初めて,コートジボアールの地元の人が数名バプテスマを受けました。

兄弟たちに法的な処置が取られる

1952年の夏,5人の人が開拓者と一緒に伝道活動を行なうようになった後,兄弟たちは警察に通報されました。パターソン兄弟が逮捕され,家宅捜索を受けました。協会の出版物はどれも政府の認可を受けていなかったことをお話ししておかねばなりません。白人の警察本部長は,処置を取らねばならないことは残念に思うが,禁止されている文書を100冊余りも部下が発見したのでは上司に報告せざるを得ないと言いました。しかし,その警察本部長は自分が読むために,差し押さえた書籍から数冊を取っておきました。そして,パターソン兄弟と仲の良い友達になりました。

兄弟たちは最高裁判所のあった,グランバサンという近くの町で裁判にかけられました。禁書の所持と「外人身分証明書」不携帯のかどで告発されました。

ゴールドコーストの支部の僕アルフレッド・ベイカーはコートジボアールへ来て,兄弟たちのために弁護士を雇いました。その弁護士は非常に説得力のある弁護をしましたが,法廷は,「コートジボアールではエホバの証人のいかなる伝道活動も文書も認められない」という政府の決定を支持しました。パターソン兄弟とシューター兄弟は有罪とされて,1か月から6か月の執行猶予付きの刑を言い渡され,そのうえ5,000フランの罰金を科されました。

二,三か月後,兄弟たちがグランバサンで奉仕していると,没収された出版物が市場で売られているではありませんか。政府は,押収した文書を商人に売るのを何とも思わなかったようです。兄弟たちは早速,自分たちの本の多くを買い戻しました。出版物を国内に持ち込むことが困難であったことを考えれば,それは実にうれしいことでした。

政府の役人に助けられる

そのころ,警察と移民局は,査証を持っていないことを理由に開拓者を国外退去させようとしていました。兄弟たちを悩ますそのような動きは1952年から1953年にかけて続きました。兄弟たちは長期滞在査証を得ようとして政府の多くの役人を訪ね,フェリックス・ウフエ・ボワニとケジン・コリバリを含む政府の有力者数人とも会いました。

ウフエ・ボワニ氏は,後にコートジボアールの大統領になりましたが,当時は,アフリカ民主共和国大統領,コートジボアール地域議会議長,フランスのパリのブルボン宮殿にあった国会の議員という肩書きを持っていました。パターソン兄弟はこの著名な役人に自分たちの問題を説明しました。ウフエ・ボワニ氏は思いやりをもってそれを聞き,兄弟たちがコートジボアールにとどまれるよう取り計らうことを約束しました。そして,「真理を妨げ得るものは何もない。真理は強大な川のようである。それをせき止めても,せきを越えて流れて行く」と言いました。ウフエ・ボワニ氏は兄弟たちの問題を代理人であるケジン・コリバリに委任しました。その後,コリバリ氏とパターソン兄弟は非常に親しくなりました。

フランス領西アフリカの政庁所在地であるセネガルのダカールで外人身分証明書を発行してもらうことが必要でしたが,コリバリ氏が間に入ってくれたので,パターソン兄弟は身分証明書を容易に得ることができました。また同氏は国家安全局の責任者に話して,パターソン兄弟の査証が延長されるようにも取り計らってくれました。国家安全局のその役人は,カトリックの司祭とメソジスト派の牧師がやって来て,エホバの証人が伝道している事柄はコートジボアールの国民に害になると言っていたと語りました。しかし,コリバリ氏はどう考えたでしょうか。同氏はこう述べました。「私はこの国の人民を代表している。この国の国民である私たちはエホバの証人に好意を持っており,この国にとどまってほしいと思っている」。

立派な土台を据える

コリバリ氏の取りなしがあってから,兄弟たちは比較的平穏に,神から与えられた任務を遂行していくことができました。1953年に王国伝道者の数は17名という最高数に達し,3月の主の記念式には85人が出席しました。

パターソン兄弟は協会に次のような推薦をしました。「伝道者の中には僕として奉仕する能力のある人がおり,この土地に会衆を設立することは可能です」。こうして,1954年4月1日に,アビジャンのトレシュビルに最初の会衆が設立されました。

兄弟たちは小さなトラックを借り,道中王国の歌を歌いながら辺ぴな地域に伝道に出掛けたものです。午前中伝道したあと野外で簡単に食事を取り,それから学校の講堂や関心を示した人の家の庭で公開講演を行ないました。それがすむとトラックに乗り込み,疲れてはいても幸福な気持ちで,来た時と同様,歌を歌いながら家路に就きました。1954年には,毎月平均19名の伝道者が野外奉仕を行なっていました。

教会の有力者がエホバの証人になる

1955年の際立った事柄として,教会の有力者二人が真理の側に立ったことが挙げられます。ロバート・マーキンが友人の事務所で「神を真とすべし」と題する本を見ましたが,その友人とは興味深いことに,その二人のうちの一人サムエル・デノーでした。ロバートがパターソンに会い,その結果コートジボアールで最初の弟子となるきっかけを作ったのが,ほかならぬこのサムエルだったのです。

さて,サムエル・デノーはメソジスト派の教会の有力な教会員で,バイブルクラスの責任者だったエマヌエル・クワク・グラゴと一緒にパターソン兄弟を招き,教会員に話をしてもらいました。パターソン兄弟の話はたいへん喜ばれ,会員の多くと聖書研究が始まりました。その中にはデノー氏とグラゴ氏も含まれていました。

教会の有力者であったその二人は間もなく真理の道を歩むようになりましたが,反対がなかったわけではありません。二人はメソジスト教会の牧師たちに呼ばれ,それまで属していた教会を捨ててエホバの証人に加わった理由を説明するよう求められました。サムエル・デノーは次のように説明しました。

「皆さんもよくご存じのように私は妻を数人持っていました。それでも皆さんは私を教会の顧問および理事会の役員に任命されました。エホバの証人は,私が生活を聖書と調和させるまで私にバプテスマを受けさせようとはしませんでした。エホバの証人のおかげで,私はエホバとはどのような方か,またどのように崇拝すべきかを知ることができました」。

エマヌエル・グラゴはメソジスト教会とエホバの証人の根本的な違いを強調してこう言いました。「皆さんの教会では平信徒が神よりも牧師を崇拝し,牧師に従っています。エホバの証人には僧職者と平信徒という区別がありません。そのすべてが神の僕として王国の良いたよりを伝道し教えることによりエホバ神を崇拝し,エホバ神に従っています」。

牧師の一人は,二人が教会に戻ることができるし教会で説教することも許されると言いました。しかしエマヌエルは次のように答えました。「私がどんなことを説教するというのですか。人間の魂の不滅性,死後にある火の燃える地獄,『なぞに包まれた』三位一体その他,代わり映えのしない陳腐な教えですか。そのような説教をしたいとは思いません。エホバの証人の教えを受けて,教会のそれらの教理は間違っており異教に起源を有していることが分かったのです」。

その話し合いは2時間余りも続きましたが,牧師たちは二人を復帰させることができないまま去りました。その後間もなく,サムエル・デノーは自分の家を王国会館に使ってほしいと申し出ました。やがて,コートジボアールに任命された宣教者の大半は,そこに住むようになりました。

ゴールドコーストで開かれた1955年の大会

1955年の非常に際立った出来事は,言うまでもなく,11月17日から20日にかけてゴールドコーストのアクラで開かれた大会でした。コートジボアールからは25名が,小さなトラックと船を交互に使って大会に出席しました。国境でパターソン兄弟は船から降り,この人たちは“新しい世”の市民で,アクラの“仲間の市民”の大会に出席するところだと国境の役人に言いました。船は通行を許され,兄弟の中で役人に煩わされた人は一人もいませんでした。

やがて一行はアクラに到着しました。兄弟たちは大会会場で何とすばらしい光景を目にしたのでしょう。兄弟たちはクリスチャンの集まりに100名の人が出席するのを見たことさえありませんでした。ところが,その大会の最初のプログラムには7,000人が,また公開講演には1万4,331人もの人が出席したのです。コートジボアールで伝道を開始したシューター兄弟姉妹はゴールドコーストにそのままとどまりました。一方,コートジボアールから来た残りの兄弟たちは,伝道活動を遂行する新たな力を得て帰りました。

ブアケで活動を開始する

1955年まで証言活動はアビジャンとその周辺の地域に限られていました。ほかの土地に住む親族に伝道していた人もいますが,その人たちを定期的に訪問することはされていませんでした。しかし,アクラの大会後,ロバート・マーキンは仕事の都合でコートジボアール第2の都市ブアケに転勤を命ぜられました。

最初ロバートは,兄弟たちから離れ一人でどうしたらよいのだろうかと心配しました。しかし,パターソン兄弟は,「あちらへ着いたら,小さな家ではなく大きな家に住んでください。そうすれば,関心を持つ人をみんな集めて集会が開けます」とロバートに言いました。

ブアケへ着いたところ,ロバートの甥がすでに家を見付けてくれていました。その家は大きくありませんでした。それで,ロバートは,パターソン兄弟の指示に忠実に従い,そこを断って,将来集会が開けるような大きな家を見付けました。そのすぐ後に,ロバートは,伝道をしていて回教徒のある家族に会いました。その家族の成員20人が聖書の討議に加わるようになりました。ほどなくして,ブアケの大勢の人が関心を示すようになりました。1956年には,コートジボアール全国で平均53人が王国の伝道を行なっていました。

旅行する監督の訪問

1957年10月に巡回監督による訪問が始まりました。ゴールドコースト(その年に国名がガーナに変わった)出身のウィリアム・T・ダーコがアビジャンの会衆とブアケにある孤立した伝道者の小さな群れを訪問しました。そのころにはダルワ,ディムボクロ,グランバサン,およびアビジャンの郊外のはずれにあるクマッシにも孤立した伝道者がいました。1957年12月,パターソン兄弟は巡回監督に任命されました。翌年ブアケの群れは16人の伝道者を報告するようになっていました。

特別開拓者がブアケへ行く

ガーナに住んでいたナイジェリア人の特別開拓者ダニエル・ケボーは1958年9月,任命地であるブアケへ出発しました。ケボー兄弟は町と町を結ぶ貨物自動車に乗り,二日間揺られ赤味を帯びた砂ぼこりをいっぱい浴びて到着しました。疲れてはいましたが兄弟たちに会って喜びました。次の日,地元の兄弟の一人に伴われ,住民登録のために警察署へ行きました。

警察は直ちにダニエルの出版物を押収し,二人を数時間留置しました。そして兄弟たちの活動についていろいろ質問しました。3か月後,二人は裁判所に出頭を命じられました。裁判官は二人にそれぞれ2,500フランの罰金を科しました。

しかし,アフリカ人の下役たちは兄弟たちに同情し,罰金の徴収を命ぜられたら兄弟たちに会えなかったと言うから,罰金を払わないようにと言いました。この経験は,エホバの証人に対する当時の役人の態度がどのようなものであったかを大変よく示しています。そんな事件があっても,ダニエルは気をくじかれることなく,ブアケでの証言活動を開始しました。

外国人は退去を余儀なくされる

1958年当時でも,コートジボアールの地元の人で真理を受け入れていた人はごくわずかしかいませんでした。兄弟たちの大部分はトーゴとダオメー(現在のベニン)の出身者でした。ですからエホバの証人の信仰はしばしばダオメー人の宗教と呼ばれていました。ある兄弟によると,エホバの証人だというだけで人々からよくダオメー人に間違えられたということです。

さらに,1958年にはコートジボアール在住の外国人をめぐる騒動が発生しました。幾度か暴動が起き,大きな被害が出ました。事態は険悪化し,政府がコートジボアール在住のトーゴ人とダオメー人の安全をもはや保障できないまでになりました。そのためトーゴ人とダオメー人はそれぞれの出身国へ帰るように要請されました。

暴動で殺された人は兄弟たちの中にはいませんでしたが,ほかの外国人の場合と同様,命の危険にさらされていました。それで,政府の命令に従い,兄弟たちも大勢コートジボアールを離れました。その結果,コートジボアールは,2年分の働きの実に相当する約25名の王国伝道者を失いました。その多くは会衆で率先していた兄弟たちでしたから,それは非常に大きな痛手でした。

地元の兄弟たちは自力でやっていけるでしょうか。立派にやっていけるという答えが出たのは言うまでもありません。パターソン兄弟は直ちに,地元の兄弟たちを訓練しはじめました。兄弟が孤立した伝道者を訪問している間アビジャン会衆を世話し,その責任を担ってもらうためです。伝道活動は続けられ,やがて新しい弟子が誕生するようになり,暴動のために帰国した人々の補充がなされていきました。しかし,1958年に60名だった平均伝道者数は,外国人の帰国のために1959年には46名に減少しました。

伝道活動の発展に貢献した人物

そのころ,アビジャンの空港で働いていたブライ・ブレイという人がフランス語の「ものみの塔」誌を1冊受け取りました。その人は雑誌の内容が気に入り,さらに情報を求める手紙を書きました。最後にパターソン兄弟がその住所の連絡を受け,ブライ・ブレイに会いました。聖書研究が始まり,1959年3月にブライは,「神の御心」大会に出席するコートジボアールからの20人の出席者の一人としてガーナのクマサイへ旅行しました。1万3,754人の大群衆に混じって神のみ言葉に基づく助言や励ましを得たことは,ブライにとって胸の躍るような経験でした。

ブライは集会が開かれていた所からおよそ10㌔離れた,アビジャンの郊外ポルブウェという所に住んでいたので,週に3回開かれる集会に出席することは困難でした。それで,ブライ兄弟は自分の住んでいる所で関心を持つほかの人々を集め,定期的に集会を開きました。こうして,ポルブウェ会衆の中核が出来上がりました。

1959年6月には,コートジボアールで初めて巡回大会が開かれ,62名が出席しました。6か月後にはアビジャンで別の大会が開かれました。その大会では,153名の人が「神の御心」大会に関する協会の映画を初めて見ました。

順調でなかった旅行

1962年は,コートジボアールの代表者たちがガーナのアクラで開かれた地域大会に出席し良いスタートを切りました。一行は海岸に沿って旅行し,国境で潟湖を渡り,次いで町と町を結ぶ貨物自動車に乗りました。貨物自動車の利用にはある程度の危険が伴います。というのは運転手たちが仕事に対してやや運命論的な態度を取ることが少なくないからです。「ここから目的地へ行くのが神の意志なら,絶対に行ける」と言って,運まかせの運転の仕方をするのです。ですから事故が頻発しました。残念ながら,その旅行も例外ではありませんでした。

国境のガーナ側のタコラディ付近で自動車が道路からはみ出て転覆してしまい,ぐっすり眠っていた一人の兄弟は自動車から葦の茂みに放り出されてしまいました。兄弟たちが数分間必死で捜して茂みの中の兄弟を見付けました。なんと兄弟は無傷でした。乗客の中の何人かは重傷を負いましたが,兄弟の中には一人もいませんでした。病院で軽い傷の手当てを受け,一晩地元の兄弟たちの家に泊まってから,一行は次の日大会へ出発し,プログラムを心ゆくまで楽しみました。

ブアケでの事件

1962年にブアケで開かれた巡回大会で,長年の間王国伝道の発展の妨げとなった不幸な偶発事件が起きました。大会第一日目の夜は182人が出席しました。大会の後半に,ある排斥された人物がやって来て騒ぎを起こしました。兄弟たちが体を押さえていると,その男は突然地面に倒れ,てんかんの発作を起こしたようになりました。そこへ,すでに呼ばれていた警官が到着し,その者を病院へ連れて行くよう指示しました。その男は病院で死亡しました。

コートジボアールの人々は,人が死ぬと,単なる自然死とは考えないことがよくあります。老衰で死んでも,魔術の呪がかけられたとか毒殺されたとか考えることがあるのです。ですから,その人の場合も,病気であることが分かっており,医師から興奮したり怒ったりしないように言われていたのですが,親族はそうした事実を全く考慮に入れようとしませんでした。そして,病院から心臓発作が原因で死亡したという通知を受けたにもかかわらず,殺されたのだと決め込んでいました。

告訴されたため,最終的に9人の兄弟たちが投獄されました。そのうちの5人は数日後に釈放されましたが,残りの4人は正式に殺人の罪に問われました。4か月間拘置された後,さらに3人が釈放されました。検死の結果,兄弟たちの無実がはっきり確証されたからです。

刑務所の中で兄弟たちは大胆に証言しました。受刑者全員の前で兄弟たちの質問に答えなければならないはめになるので,地元のセブンスデーアドベンティスト派の人々は刑務所を訪問しなくなりました。兄弟たちは刑務所の中で公開講演をすることを許され,釈放されるころには講演会に30名もの人が出席していました。ほかの集会も定期的に開かれ,受刑者のうち二人が真理の側に立つようになりました。

結局兄弟たちの無実は完全に証明されましたが,その事件はのちのちまでも影響を及ぼしました。死んだ男の人の親族が大部分を占めていたガニョアの群れが,その後間もなく消滅してしまったのです。またブアケの会衆も解散になりました。なぜならその後長い間兄弟たちが町に姿を見せることは非常に危険だったからです。

援助者がさらに派遣される

1962年9月に,ハイチから追放された宣教者シモンズ兄弟姉妹がコートジボアールに到着しました。翌月アビジャンで大会が開かれ,出席者の最高数は108名でした。出席者が比較的少なかったのは,ブアケで起きた事件のためだったと思われます。この大会にはガーナの支部の僕ハーバート・ジェニングスが出席しました。ジェニングス兄弟は,宣教者をさらに送るなら,コートジボアールの伝道活動は安定するのではないかと考えました。こうして,ギレアデ第37期生のエネボルドスン兄弟姉妹がコートジボアールに任命され,1963年1月にアビジャンに到着しました。数か月後,特別開拓者のコスマス・クレボールがガーナから派遣されました。

到着したクレボール兄弟は,出迎えの兄弟たちが自分を非常に不信そうに見ているので意外に思い,どうしてだろうと考えました。しかし,宣教者の姿を見付けてその名を呼んだところ,兄弟たちの顔から不信の色が消えました。兄弟たちの話によれば,ほんの数分前に,外国から来たエホバの証人だと偽って兄弟たちに話し掛けてきた男がいたのだそうです。それで,兄弟たちはコスマスも偽者ではないかと警戒したのです。

宣教者の住まい

1964年1月,宣教者たちはそれまで住んでいたアパートからサムエル・デノーの家へ引っ越しました。トレシュビルの大通り沿いにあるデノー兄弟の大きな家には,すでに王国会館がありました。やがてそこには15名もの宣教者が起居するようになっていました。その家には以前住んでいたアパートよりも明らかに良いところがありましたが,欠点もなかったわけではありません。

交叉点の信号機のわきにあったので,自動車の騒音にかなり悩まされました。さらに,隣の屋敷に4人の妻を持つ男性が住んでいたのですが,年上の妻にたたかれる若い妻の悲鳴でほとんど毎朝夜明けごろに起こされる始末でした。数年してその建物が取り壊され新しい建物がそこに建てられた時には,皆ほっと胸をなで下ろしました。ところが,その新しい建物はナイトクラブになることが分かりました。そこからはしばしば,以前にも増して耐え難い金切り声が聞こえてきました。

1964年の大会

1964年は,アビジャンのクマッシ地区で152名の出席者を迎えて開かれた巡回大会をもって良いスタートを切りました。その年,アビジャンに2番目の会衆が設立されました。ジョージ・クワキ兄弟は大会で一つのプログラムを担当し,勇気を持つことの大切さについて話しました。クワキ兄弟がちょうど,体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはならないというイエスの言葉を引用しているとき,演壇にへびが現われました。前列にいた兄弟たちが身振りで危ないことを知らせたので驚いたジョージは講堂の裏に逃げました。ほかの兄弟たちがそのへびを処分した後,ジョージは,幾分恥ずかしそうにしながら再び演壇に現われ,話を続けました。

それから間もない3月に,アビジャンのトレシュビルにある文化センターで地域大会を開く取決めがなされました。不法集会が開かれているという訴えがあったので,警察は大会を解散させました。そしてエホバの証人の活動はコートジボアールでは認可されていないから公の大会を開くことは許されないと言って,プログラムを担当した兄弟たち数名を警察署に連行しました。しかし,大会はトレシュビルの王国会館で無事続けられました。1964年中,伝道者の数は,コートジボアールで初めて143名という最高数に達しました。

法的な認可を求める

兄弟たちは,ものみの塔協会の活動を登録できないものかどうか問い合わせることにしました。コートジボアールはすでにアフリカの独立国となっていたので,努力すれば,以前よりも成功する可能性が大きいように思われました。それで,伝道活動の法的認可を申請する,ものみの塔協会会長の手紙が1964年9月14日付でコートジボアールの大統領に送られました。

その間にも伝道活動は引き続き行なわれました。事実,1965年5月には巡回大会が,この度はグランバサンで開かれました。公開講演の出席者数は200名というすばらしいものでした。ところが,同年6月3日,政府はエホバの証人がコートジボアールで活動することを許可しないと通知してきました。

それによって,事態に何かの変化が生じたでしょうか。少なくとも最初は大きな変化はありませんでした。その決定がなされる前でさえ,エホバの証人の活動はコートジボアールで公認されていませんでしたが,それでも宣教者たちは国外に退去させられませんでしたし,集会も禁止されませんでした。例えば,トレシュビルの集会は,大きな看板を高々と掲げた王国会館で開かれていました。新たに出された通達に兄弟たちが譲歩したことといえば,熱帯の気候にもかかわらずこれからは集会中に窓を閉めるということくらいでした。

驚いたことに,4人の新しい宣教者たちがコートジボアールに滞在する査証が発給されました。禁止された協会の宣教者であることがはっきり分かっていたにもかかわらず許可されたのです。それで,ギレアデを卒業したジョセフ・クローフォードと妻のマーシャおよびジョセフ・ハインズと妻のリリーは1965年11月4日に到着しました。4人は,知らされていなかったので,伝道活動に制限が課されていることなどつゆ知らず,野外奉仕を熱心に開始しました。そのうちの一人は最初の月に300冊余りの雑誌を配布しました。

逮捕や妨害に悩まされる

しかしほどなくして,事態は非常に深刻になってきました。1966年1月1日ダニエル・ケボーがクマッシで投獄されたのです。ダニエルはクマッシの宣教者の家のすぐ下の中庭にある建物に住んでいました。そこに住んでいた新しい宣教者たちが,二晩続けてダニエルの家の玄関が閉まっているのに気付き,ダニエルを捜しはじめました。ダニエルが禁止されている宗教の伝道活動をしたかどで投獄されたことを知ったときの宣教者たちの驚きを想像してください。

宣教者たちは大急ぎで家に帰り,宣教者の家の階下にあった王国会館から看板をはずしました。そして,国外追放を覚悟して荷物をまとめることさえしました。しかしやがて,事態はそこまで深刻ではないことを悟りました。もっとも,それ以来,宣教者たちは幾分慎重に伝道活動を行なうようになりました。

数か月後の6月5日,警察はさらに厳しい措置を講じるようになりました。クマッシの王国会館が警察の手入れを受け,会衆の監督ジョージ・クワキと他の二人の兄弟が逮捕されたのです。そして,掲示板,年の聖句,文書その他のものを持ち去りました。翌日サムエル・アチューとアーネスト・ノメルの二人の兄弟が,逮捕された兄弟たちに面会しに行ったところ,その二人も即刻逮捕されてしまいました。

警察は掲示板にロバート・ラスミという名前が出ていたのを見付けて,ラスミを逮捕しようと彼の家に向かいました。ちょうどその時そこでは会衆の集会が開かれていました。しかし,玄関で見張っていたラスミ姉妹は警官が近付いて来るのを見て合図をしました。3人の兄弟を除いて全員がひそかに出て行きました。間に合わなかった3人の兄弟は寝室へ行ってベッドにもぐり込みました。二人の警官は寝室をちょっとのぞきましたが人のいる気配がしなかったので,家の裏を調べに行きました。3人の兄弟はそのすきに逃れました。

それでもクマッシの6人の兄弟が刑務所に入れられ,宣教者たちはその兄弟たちを訪問することを許されませんでした。しかしある姉妹は兄弟たちに食べ物を持って行くことを許可されたので,聖書2冊をこっそりと手渡すことに成功しました。毎晩,兄弟たちは集会を開き,王国の歌を歌いました。同じ獄舎に投獄されていた他の受刑者たちは「この獄舎のおれたちには神のお加護がある」と言ったものです。そして,兄弟たちの歌声を聞くのを喜びました。それらの受刑者の中には,集会に出席する者もいました。

結局,兄弟たちは裁判にかけられましたが,そのとき検察官は,コートジボアールでは聖書を学んだり教えたりすることは禁じられていない,禁じられているのはエホバの証人の考えを広めることであると言いました。どこにその違いがあるかは言いませんでした。兄弟たちは執行猶予となり,合計35万フランの罰金を科されました。上訴した結果,罰金は払わなくてもよいことになりました。兄弟たちはクマッシに帰り,以前と同様引き続き伝道し,集まり合いました。

しかしそのような事が起きたのは1度だけではありませんでした。ローランス・ランバートも逮捕されました。ローランスは警察で長々と尋問されたうえ,手荒な扱いを受けました。当局は区域に住む兄弟たち全員を逮捕するため,名前を聞き出そうとしました。それに対してランバート兄弟は,「司祭は教会のミサに出席している人の名前を全部知っているでしょうか」と答えました。警察はランバート兄弟から兄弟たちの名前を一つも聞き出すことができませんでした。

また,エホバの証人に対する当時の当局者全般の態度を物語る次のようなこともありました。エホバの証人でない,ナイジェリアのある男の人が,「エホバ」という名前をトラックに付けていたという理由で投獄されてしまったのです。その人は自分がエホバの証人でないということをやっとのことで当局者に納得させ,釈放してもらうことができました。

禁令の解除を求める

禁令が敷かれている限り活動を拡大するのは難しいことが明らかになりました。それで,禁令の解除を求めるあらゆる努力が払われました。宣教者のジョセフ・ハインズとジョセフ・クローフォードは内務大臣のナンロ・バンバ氏および同氏の政治顧問であるフランス人のクリスチャン・ブロードと会見することができました。また,米国の団体組織の認可が拒否されていたため,アメリカ大使館の関係者も協会のために間に入ってくれました。

ものみの塔協会の側でもエホバの証人の中立の立場を明らかにする13ページにわたる文書を1967年4月に準備しました。エホバの証人は,市民の義務を果たさないよう人々に勧めているのではなく,市民が当局に従順であることの大切さを強調していることがその文書の中ではっきり述べられていました。また,西アフリカのほかの国々でエホバの証人の活動が認可されていることを示す公式文書の写しも入手されました。それらの文書は1967年5月18日付の手紙と共にフェリックス・ウフエ・ボワニ大統領に送られました。後に伝えられたところによると,同大統領はその手紙を読んでその内容を承認し,それを内務大臣に送ったということです。

早速4人の兄弟たちが派遣され,内務大臣のナンロ・バンバ氏を再び訪ねました。それまでエホバの証人は「外国の」協会と呼ばれることが多かったので,この度はコートジボアールの地元の兄弟4人が行きました。内務大臣はまず,一人一人にどの部族の出身かを尋ねました。全員がコートジボアールの部族の出身者であることを知ると,大臣は得心し,会見を続けることを許しました。次いで,兵役の問題を取り上げてエホバの証人は国家のために戦おうとしないと述べました。エホバの証人の取るクリスチャンとしての中立の立場が説明され,協会の出版物数冊が大臣に贈られました。バンバ氏はほかの人々とも相談する必要があると言い,その時には決定を下しませんでした。

どんな決定が下されたかを知る

それから2週間後の,1967年6月初旬のこと,一人のエホバの証人と関心を持つ人が戸別の伝道活動を行なっていました。その関心を持つ人は,伝道活動が大変楽しいので,エホバの証人が帰った後も引き続き伝道をしていました。その人は家の人から次のように言われてびっくりしました。「エホバの証人はコートジボアールで活動することが禁じられていましたが,今では伝道をすることが許可されていますよ」。その人は自分がその問題を扱った役人の一人であること,またその決定は2週間前になされたと語って,それが真実であることを保証しました。

新しい伝道者はその良いニュースを持って宣教者の家に走って行きました。翌日兄弟たちはその政府の役人の事務所を訪れ,公式の通達文書の写しを受け取りました。それによると,エホバの証人は確かに,公式の認可を受け,1年間活動を続ける許可が与えられていました。そしてその後は毎年許可の申請ができることになっていました。

宣教者の一人は次のように述べました。「証言活動が認可されたので,皆は,肩から大きな重荷が取れたように感じました。コートジボアールにおけるエホバの民の業の歴史の中でも,その厳しい危機の時期を忍耐できたことを私たちは大変うれしく思いました」。

禁令が解除されたというニュースを聞いて,兄弟たちは伝統的な方法で喜びを表わしました。つまり,集会後みんな集まって,疲れて歌えなくなるまで歌いまくったのです。

忍耐の際立った模範

1967年宣教者のリリー・ハインズはポーリーンという名のバウレ族の16歳の少女と研究を始めました。少女の父親は政府の役人でした。少女は父親が決めた進路を進むように期待されていました。ですから,寄宿制の私立の学校に入れられるなど,あらゆる点で最高のものを与えられていました。

やがて父親は聖書研究をやめるよう少女に圧力をかけるようになりました。少女は部族会議に掛けられましたが聖書研究をやめようとはしませんでした。次に魔術が利用され,呪術師が魔よけをした美しい金の指輪が何も知らない少女に与えられました。少女は激しい頭痛に襲われましたが,その指輪をしてから頭痛が始まったことを考え,指輪を捨てたところ,頭痛は次第に治まりました。殴打や脅しでさえ,少女に聖書研究をやめさせることはできませんでした。

集会に出席するのをやめさせるために,監視人が雇われましたが,少女はよく,監視人たちの裏をかいたものです。ある時など,老婆に変装し,監視人のそばを歩いて通って大会会場へ行きました。会場に着くと変装用の衣装を取って,プログラムを楽しみました。プログラムがすむと再び老婆に変装し,監視人のそばを通って家に帰りました。

別の時には寄宿舎の裏のへいを越え,ブアケ行きの汽車に乗り,ブアケの大会でバプテスマを受けました。そして別の汽車でアビジャンへ帰り,だれにも気付かれずに学校へもどりました。父親が後にそのことを知り,だれと一緒に行ったのかと娘に尋ねたところ,少女は「シスター(姉妹)たちとです」と答えました。父親は学校の尼僧<シスター>たちのことだと考え,「それならいい」と言いました。

少女がエホバの証人によってバプテスマを受けたことを知ったとき,父親は烈火の如く怒りました。少女の身のまわり品を荷造りし,著名な政治家に彼女の面倒を見てもらうことにして,フランスで学業を終えさせるために娘をパリへ送りました。父親は,少女がパリで目もくらむようなまばゆいこの世の魅力にとりつかれて新しい宗教のことなど忘れてしまうようにと願ったのです。

ポーリーンにとって,パリの生活は確かに眩惑的なものに映りましたが,そのためにエホバへの熱意を失うことはありませんでした。「目ざめよ!」誌から支部の住所を見付け,そこで行なわれている集会に定期的に出席するようになりました。後に,ポーリーンが住んでいた郊外の最寄りの会衆に行きはじめました。また学校では大勢の級友と聖書研究を始め,現在そのうちの7人以上がバプテスマを受けたエホバの証人となっています。

ポーリーンはその後コートジボアールへもどり,アビジャンの会衆の一つで夫と共に奉仕しています。ポーリーンは王国のために物質的な富を捨てたことを後悔していません。また,いつの日か父親が心を変えてくれることを願っていますが,父親にかわいがってもらえなくなったことを後悔していません。ポーリーンが今抱いている主な願いは,何一つ差し控えることなくエホバに仕え,夫の力となって子供たちをエホバの道に沿って訓練することです。

禁令解除後の最初の大会

1967年9月に兄弟たちは,1965年5月以来初めて開かれる巡回大会に出席する用意をしていました。しかし,ぎりぎりになって大会会場を変更したり,新しい会場に照明がないため午後のプログラムに調整を加えたりしなければならなかったにもかかわらず,兄弟たちの熱意はそがれませんでした。それでも,初めて,全く自由に集まり合うことができたので,その大会はそれまでで一番すばらしい大会でした。様々な妨害がありましたが,公開講演には416名が出席しました。2年前の大会の出席者は200名でしたから,実に大きな増加でした。

さらに大勢の宣教者が到着

1967年9月のその大会で,コートジボアールにさらに宣教者が任命されたということが発表されました。その年の末までに7人の宣教者が到着し,コートジボアールの宣教者の合計は11名になりました。そのときアビジャンの郊外のアジャメに新しい宣教者の家が設けられました。

次いで同じ年の11月に,協会のブルックリン本部からドン・アダムスが地帯監督として訪問しました。そして,さらに多くの宣教者を派遣することを勧めました。その結果1968年の3月と4月に宣教者が9人やって来ました。3週間にわたるフランス語の集中的な訓練を終えた後,4人の宣教者は新しい宣教者の家開設のためブアケに割り当てられました。1968年10月にはさらに9人の宣教者が到着しました。

外国人の宣教者がこの国へ来て奉仕を行なうのはどのようなものだったでしょうか。ハイドリンド・プールは次のように述べています。

「飛行機を降りると,サウナぶろに入ったようでした。トレシュビルの宣教者の家に着いて驚いたことに,窓にはガラスがなく,よろい戸が付いているだけでした。言うまでもなく,ここの気候では窓ガラスなどいらないのです。事実,非常に暑くて,わずかでも涼を得ようと,夜ベッドから出てセメントの床にマットを敷き,横になることがよくありました。

「区域の人々は非常に親切でした。最初,私はほとんどフランス語を話せませんでしたが,どの人もとても辛抱強く話を聴いてくれました。時には,証言かばんの中に何があるか尋ねて,自分の欲しい本を取り出す人もいました。聖書研究を始めることは少しも難しくありませんでした。20かそれ以上の研究を持つことも時々ありました。

「ある家を訪問して男の人に『真理』の本を配布したところ,その男の人は集会に来るようになりました。その人はベニンに住む婚約者に自分が最近知った信仰について手紙を書きました。婚約者はその価値を全く認めず,その宗教を続けるなら自分のことは忘れてほしいと男の人に言いました。私がその男の人を初めて訪問したのは10月のことです。12月の末までにその人は,生活をすっかり清いものにして野外奉仕に出ていました。翌年の3月にバプテスマを受け,今ではアビジャンの一つの会衆で長老として奉仕しています。その人の婚約者は許しを求める手紙をよこしました。その人は休暇で実家に帰り,姉妹にその女性と聖書研究してもらうよう取り決めました。1年後二人は結婚しました」。

ブアケの拡大

1962年の騒動で会衆が消滅して以来,ブアケには王国伝道者が三,四人いるだけでした。宣教者たちがそこで活動を開始したとき,どんなことが起きたでしょうか。わずか2年間に,伝道者の数は50人に増え,すべての集会の出席者数の平均は80名になりました。宣教者の一人オットー・ハックはその期間に12名の人を,バプテスマに至るまで援助しました。高校の理事であったサンテ・ポテもそうした援助を受けた人の一人です。

サンテは高潔な人で,正妻以外に妻を持ってはどうかと言うカトリックの友人たちの勧めに耳を貸そうとはしませんでした。間もなくポテ夫妻と4人の子供はバプテスマを受けました。サンテは引き続き高校に勤務していますが,その傍ら正規開拓者として奉仕しており,妻は夫と共に時折り開拓奉仕をしています。

迷信を克服する

多くの部族の人々がいるアビジャンは別として,コートジボアールのほとんどの町は主に,一つか二つの主要な部族の人々から成っています。ブアケには,北部出身の回教徒が大勢住んではいますが,住民の大部分はバウレ族の人々です。バウレ族は森林地方の部族民で,ガーナのアシャンティ族と血族関係にあります。また,これらの人々は一般に,土着のアニミズムを信仰し,呪物の力を深く信じています。

ブアケ近在の小さな村々にはほとんどの場合,大きな呪物が置かれています。それは大抵,霊や動物の姿を彫ったものです。村の祖先の顔を丸木彫りにした呪物もあります。その彫り物に宿る霊が夜になると出て来て村を歩き回り,悪い霊から村を保護してくれると信じられています。また,呪物は,不忠実な者を殺すとも考えられており,呪物の霊をなだめるために絶えず犠牲を捧げることが求められています。卵や米,時には羊や酒が捧げられることもあります。捧げ物を取り扱うのは,ふつう,アニミズムの祭司です。

アビジャンで,宣教者のマーシャ・クローフォードは,ブアケ近郊のある村の出身であるバウレ族の一夫婦と研究をしました。婦人の兄にあたる人も研究のときに同席していましたが,教えられている事柄に大変批判的でした。しかし,婦人の方は非常に関心を示したので,その夫婦がブアケへもどるときマーシャは残念に思いました。幸いにもそのころ,宣教者の家がブアケに設けられたので,その夫婦との研究は続きました。やがて夫も真理の面で進歩し,持っていた呪物をすべて焼き捨てました。

それから二日後,夫は父親から村へ帰って来るようにという急な知らせを受け取りました。父親がろうばいしながら語ったところによると,アニミズムの祭司が聖なるヒョウタンを調べたところ,村人全員の霊はあったが息子の霊だけはなく,祭司は,「この男はもはや我々の仲間ではない。この男の霊は我々から離れており,したがってこの男は弱くなっていて,もはやどんな呪物に対しても保護することができない」と言ったのだそうです。

息子は父親に,それは何よりもうれしい知らせですと言いました。それは,その人がもはや悪霊崇拝者の仲間ではないことを意味していたからです。息子はさらに,自分には呪物に対してほかのものとは比べものにならないほどの保護があることを父親に説明しました。そのとき以来,その人は決して振り返ることなく,真理の道を歩んでおり,呪物はその人に何の害ももたらすことができませんでした。

しかし,その人には多くの問題がありました。例えば,正妻との間に6人の子供があったほか,何人かの女性によって5人の子供をもうけていました。その子供たちは全員,一つ屋根の下で育てられ聖書の原則を教えられました。その結果,やがて一致した家族になりました。

一方,アビジャンのマーシャ・クローフォードは,婦人の兄で,研究に同席して批判していた人に再び会いました。驚いたことにその人は「目ざめよ!」誌を1冊欲しいと言ったのです。その人の考え方は変わったのでしょうか。正にその通りです。いやしを与える真理の力によって妹の家族が大きく変化したことに深い感銘を受け,今やその人は定期的に研究するようになりました。それで,前述の夫婦と妻の兄の3人が,1969年の「地に平和」大会でそろってバプテスマを受けました。

1968年のすばらしい拡大

1968年の初めに,アビジャンに五つ目の会衆が設立され,その年は良いスタートを切りました。次いで2月に,禁令以来初めての地域大会が開かれ,公開講演に486名が出席しました。3月には,長老たちのための新しい王国宣教学校がトレシュビルで開かれました。その学校を司会したのは,当時巡回の僕をしていたクローフォード兄弟です。その学校は確かに,各会衆の組織の改善を図る面で大いに役立ちました。

4月に行なわれた主の記念式には,前年を175人も上回る577名が出席しました。また,伝道者の平均が1967年の180人から1968年の220人に飛躍的に増加しました。それら王国宣明者の大部分はコートジボアールの六つの会衆と交わっていました。

「真理」の本は取り入れを速める

1968年10月の「喜びに満ちた働き人」地域大会は取り入れの活動を大いに鼓舞するものとなりました。646名という優れた出席者があり,21名がバプテスマを受けました。しかし,最も興味をそそったのは,「とこしえの命に導く真理」と題する新しい本のフランス語版が発表されたことでした。その本によって聖書研究活動には大きな変化がもたらされました。それは聖書研究のとても優れた手引き書で,人々に真理を短期間で教えるのに役立ちました。コートジボアールの平均伝道者数はわずか220名でしたが,6か月間で聖書研究が950にも増えました。協会から最初に送られて来た5,000部の「真理」の本は数週間のうちに配布されてしまいました。

宣教者たちはみな,その新しい本が配布しやすく,研究も始めやすくなったことに驚きました。人々が街頭で宣教者を呼び止め,「あの青い本」を欲しいと言うことも珍しくありませんでした。また人々は,よく宣教者の家や王国会館にやって来て本を欲しいと言い,だれか自分と研究してくれないだろうかと頼みました。中には,エホバの証人が戸口に立っていると,その奉仕かばんをのぞき込み「真理」の本を見付け出して,早速1冊欲しいと言う人もいました。

孤立した伝道者を強める

1968年コスマス・クレボールは,全国の孤立した兄弟たちおよび関心を持つ人々を訪問する旅行に出るよう指示されました。コートジボアールでは郵便の宛て先と家の住所とが同じではないので,それらの人たちを見付けるのは必ずしも容易なことではありません。おまけに,町の通りに名前が付いていないことがよくあります。

最初に訪問した町はディムボクロでした。コスマスはそこの兄弟および関心を持つ人々に集会の司会の仕方を教えました。その人たちはその集会に非常に感激し,神権学校と奉仕会を毎週開く決意をしました。現在その町には24人の伝道者から成る会衆があります。

コスマスはそこからギグロとドュエクエに行きました。ドュエクエの兄弟についてコスマスが知っていることと言えば,その兄弟が木材伐採会社に勤務しているということだけでした。それで,その地域の行政副長官の所へ行き,木材伐採会社で働くエホバの証人を知らないか尋ねました。副長官はその兄弟のことを知っており,町からかなり離れた所にいる兄弟の所まで自動車でコスマスを案内することまでしてくれました。

その兄弟は木材伐採会社の職長で,同僚たち全員に証言していました。そしてその晩同僚たちがコスマスの講演を聞きに来るよう取り決めました。そのうちの一人は非常によく進歩しました。

それから数か月後,クレボール兄弟は,もう一度同じ土地の兄弟たちを訪問する旅行に出ました。コートジボアールの東部にある町アベングールーにいたとき,8歳の少女がコスマスに近付いてきて,エホバの証人が真理を持っていることを知っていると言いました。少女はどうしてそう考えるようになったのでしょうか。以前,その子の両親は少女をグランバサンのあるエホバの証人の家に下宿させて,そこの学校へ通わせました。そのエホバの証人は少女を集会に連れて行き,真理を教えました。しかし,そのことを知った両親はそれが気に入らず,娘をアベングールーの学校へ転校させたのです。少女はエホバの証人が町にいることを聞くと,証人を捜すためにさっそく区域を1軒1軒訪ねて回りました。コスマスは,少女が進歩するのを援助できる,その町の関心ある人に少女を会わせました。

それからクレボール兄弟はダルワへ行きました。そこでは「真理」の本が孤立した伝道者によって配布されていただけでなく,この世の人によっても配布されていました。その人物はアメリカドルで1㌦近くもの値段でその本を売っていたのです。コスマスはその人から「真理」の本を求めていた人々が町のエホバの証人と連絡を取るようにしました。また,求めた本を研究するようにも勧めました。それは本を売ったこの世の人が行なわなかったことです。

援助者が新しい土地に任命される

それらの土地の関心を持つ人々を援助するために資格のある伝道者が必要なことは明らかでした。コートジボアールには,アビジャンとブアケ以外の土地に宣教者の家がありませんでした。それで,1970年6月にまずダルワに,その数か月後にはアベングールーの町に宣教者の家が開設されました。

同じころ,ずっと西にある風光明びな町マンにも宣教者の家が開設されました。アビジャンからマンに任命地が変わったシャーリー・ミッチェルはこう語りました。「環境があまりにも違っていました。荷物を載せた大きなトラックで当地に夜到着しました。朝起きて周囲の山々を見たとき,本当に驚きました。そんなに高くはありませんでしたが,とても美しく,ながめているとゆったりとした気分になりました」。シャーリーは言葉を続け,王国の音信に対するマンの人々の反応についてこう述べました。

「多くの人はフランス語を話さず,フランス語が読める人も少ししかいませんでした。それでも,人々は私たちの話をしきりに聴きたがっていました。私たちが家々を訪問すると,人々は大急ぎで通訳してくれる人を探したものです。ときには10人かそれ以上の人に話をすることがありました。

「人々が,聖書研究をしてほしいと宣教者の家に頼みに来ることも度々ありました。私が宣教者の家で仲間のために料理を作っていた時に訪ねて来た人のことを今でも覚えています。その男の人は,エホバの証人を知っている親せきの人から話を聞いて真理に関心を持つようになりました。でも,その人は文字が読めませんでした。それで私はその人に,私が一緒に研究し,読み方の勉強も援助しましょう,ただし集会に定期的に来なければなりません,と言いました。その人はそれに同意しました。そして読み書きを学び,今では会衆の奉仕の僕として奉仕しています」。

リンダ・ベリーも1971年にマンで奉仕を始めた宣教者の一人です。リンダはラビナドラス・ルイスという名のインド人の獣医に会いました。ルイス夫妻はすぐに集会に来はじめました。しかしラビナドラスには克服しなければならない大きな問題がありました。それは喫煙でした。巡回大会が近付いていたので,ラビナドラスは大会の前にたばこをやめようと必死になっていました。どのようにしたかと言うと,たばこを吸いたくなったとき落花生を食べたのです。ところが落花生を食べすぎて病気になり,大会に出席できませんでした。しかしエホバの援助により,やっとのことで喫煙の習慣を捨てることができました。ラビナドラスも妻も真理の面で良い進歩を示し,現在二人はマンにある会衆の成員となっています。

巡回監督のジョセフ・アッピアーは,新しく設立された会衆を訪問しようとダルワからマンへ向かっているときに偶然とは思えない経験をしました。ジョセフはこう語っています。

「バスには座席が二つ残っていたにもかかわらず,車掌は私と妻を乗せようとしませんでした。バスの所有者の親族二人が同じ方角に行こうとしていたからです。その二人が停留所にやって来て私たちの代わりにバスに乗りました。ところがそのバスは,80㌔ばかり行ったところで,大型のトラックと衝突するという大事故に遭いました。バスの所有者の二人の親族は即死しました。ほかにもけがをした乗客が大勢いました。そのあと事故現場に差し掛かったとき,人々はあなた方の神は実に強力な方だと私たちに言いました。それが良い機会となって,人々に証言することができました」。

ブアケの巡回大会

1969年3月にブアケで巡回大会を開く計画がなされました。市長は公会堂を無料で使用することを許可してくれました。ところが大会の二,三日前に,大会が予定されていた期間,ある政党がそこで集会を開くというラジオ放送がありました。市長はその政党の指導者たちと会ってくれましたが,彼らは協力的ではないようでした。しかし市長は,構わないから公会堂に入るようにと兄弟たちに言いました。党員数名が公会堂の近くに立って成り行きを監視していたので,幾らかどきどきしながら,兄弟たちは市長の言う通りに公会堂に入りました。兄弟たちはどんな事があっても,1962年に経験したような騒ぎを起こしたくないと思っていたのです。

しかし大会が始まっても妨害はありませんでした。大会は平和のうちに開かれ,公開講演に343名が出席しました。ある全国紙に,「目ざめよ!」誌の特別号の「神が悪を許されているのはなぜか」という記事の大部分が掲載され,大会のことが広く報道されました。このように非常に優れた証言がなされたので,みんなはブアケというと,かつての騒動のことより,成功を収めた大会のことを思い浮かべるようになりました。

「地に平和」大会

その後数か月にわたり,宣教者たちはそれぞれの国へ帰って,「地に平和」大会に出席しました。そしてコートジボアールへもどって来ると,それまでになかったようなすばらしい大会を組織する援助をしました。929名という喜ばしい出席者数と78人の受浸者という優れた数字のみならず,プログラムに対する聴衆の熱意には並々ならないものがありました。特に聖書劇は喜ばれました。

1970年の顕著な事柄

1970年にはコートジボアールで目ざましい神権的な発展が見られました。3月の主の記念式には,わずか2年前の出席者を2倍も上回る1,234名が出席しました。またこの年,会衆の数は10に増え,毎月平均389人の伝道者が野外奉仕を報告しました。注目すべきことに,その年バプテスマを受けた人の数は132名でしたが,それはコートジボアールの全伝道者数の約3分の1に当たりました。

1970年8月,グランバサンで異例の巡回大会が開かれました。日曜日の朝,400人近い人々が集まって日々の聖句と注解を聴き,そのほぼ全員が野外奉仕に出掛けたのです。グランバサンはかなり小さな町ですから,町じゅう至る所にエホバの証人の群れがいるように思えました。また,「法と秩序 ― いつまたどのように」と題する公開講演には801名という大勢の人々が集まりました。地元の新聞がエホバの証人を扇動的な分子のように書き立てていたので,その主題は特にふさわしいものでした。

大会を開く許可をアビジャンの警察から得ていたものの,兄弟たちはグランバサンの警察官に知らせることは忘れていたようです。グランバサンの警察官は,大会が一体どういうものかを知るために兄弟たちに会いに来ました。そのあと,警察官は非常に満足し,人々が皆エホバの証人のように法律を守れば,警察は法と秩序を維持するために苦労しないですむのだがと言いました。

しかし1970年の最も興味深い出来事は,12月にアビジャンで開かれた「善意の人々」地域大会でした。アメリカのような遠い国を含む様々な国の代表者たちが初めてこの国の大会に出席しました。それらの旅行者は協会が取り決めたツアーで来たのです。訪問者の中には,当時ものみの塔協会の副会長であったF・W・フランズもいました。地元の兄弟たちは特に,統治体の成員と話すことができて喜びました。というのは,兄弟たちの大部分は真理に入ったばかりでしたし,真のクリスチャンの中で天の命の希望を持つ人にそれまで一度も会ったことがなかったからです。主の記念式のときその希望の象徴物にあずかる人はコートジボアールにそれまで一人もいませんでした。

大会の前にコートジボアールで選挙が行なわれたため,大会の宣伝に制限が加えられました。また,当局は,大会会場に予定されていた文化センターの修理を行なうことを決めたため,会場は直前になってボクシングクラブに変更されました。しかし,このような障害があったにもかかわらず,公開講演には1,003名が出席しました。聖書劇の一部と,大会の内容の一部がテレビの全国放送網で放映されました。

支部を組織する

次の月,すなわち1971年1月に,ものみの塔協会の会長ネイサン・H・ノアがアビジャンを訪問しました。首都アビジャンの兄弟のために集会が予定されましたが,そのことを聞いた兄弟たちが全国から集まって来ました。その結果,講演会とスライドの上映に全部で761名が集まり,霊的に大きな励ましを得ました。

ノア兄弟はコートジボアールに支部を開設する意向を表明しました。支部があれば兄弟たちがエホバの組織をさらに認識する上で役立ち,結果として霊的に一層大きな発展が期待できると考えたのです。かつてマラガシー共和国で支部の監督を務め,1年前にコートジボアールへ来ていたサムエル・ギルマンはその計画を実現するための指示を与えられました。こうして1971年9月1日,コートジボアールの支部は活動を開始し,コートジボアールおよびオートボルタの伝道活動を監督するようになりました。

区域をさらに開発する

会社員だったアゴディオ・アピ兄弟が1972年に転勤で海港都市サンペドロへ行ったので,サンペドロに初めてエホバの証人が住むようになりました。アピ兄弟は関心のある人を大勢見いだしました。そこでそれらの人たちの霊的必要を世話する助けとなる特別開拓者の派遣を要請する手紙を書きました。そしてついに,サムエル・ギルマンと妻のテルマがほこりの舞い上がるでこぼこ道を1日掛かって旅行し,夜の6時ごろ到着しました。二人は疲れて,ほこりまみれになっていましたが,仲間の兄弟に会えて喜びました。

到着してすぐ,ギルマン兄弟は,自分が20分後に町の関心のある人々に講演をする予定になっていることを知らされました。そこで兄弟は急いでほこりを洗い落とし,服を着替え,アゴディオがその特別な話に集まるよう招待していた39人の人々に励ましを与える特権を果たしました。間もなく特別開拓者数名がその地域に派遣され,今ではそこに30名の伝道者と3人の開拓者から成る会衆があります。

ギルマン兄弟姉妹は,学校の教師の家に宿泊し,そこでとても親切なもてなしを受けました。例えばその人は特別な郷土料理をごちそうしてくれました。その中にはカバの肉も入っていました。これにはギルマン兄弟も,「カバの肉は好物ではありません」と白状してしまいました。主人は二人に,「お二人が先週ここにいらっしゃらなかったのは残念ですねえ。いらっしゃったら,ご一緒に象の肉を食べられたんですが」と言いました。

サンペドロの地域で伝道活動が開始されたのとほとんど同じような手順で,他の地域でも伝道活動が開始されました。まず,兄弟たちが,王国の音信に関心を示す人々を見いだしたという手紙を支部事務所へ書きます。すると巡回監督が1週間その区域で奉仕するように派遣されます。巡回監督の推薦により,可能であれば,引き続き関心を高めるために特別開拓者が割り当てられ,やがてそこに会衆が設立されます。

宣教者の一人ライル・シップリーは北部の町フェルケセドーグーとコルホーゴを訪問し,その地の畑は熟していて霊的な刈り入れを待っているように思えると報告しました。後にそこに特別開拓者が派遣され,今ではそれら二つの町に各々エホバの証人の会衆があります。

ガニョアでの伝道

1971年9月,4人の宣教者がガニョアに派遣され,その地の伝道者の合計は5人になりました。宣教者の一人ウォールトロード・ビショフはこう語っています。

「ガニョアでの最初の日,私はほかの町に住んでいる男の人に2冊の雑誌を配布しました。その人は再びガニョアに来たとき,やはり雑誌を求めました。間もなく二人の特別開拓者がその人の町に派遣されました。その人は開拓者たちの援助を受け,すぐに真理を受け入れました。その人の家で集会が開かれるようになり,間もなくその人は自分の家に引っ越して来るよう開拓者たちを招きました。こうして,エホバの僕と密接に接する機会を得たその人は,すばらしい進歩を示しました」。

羊のような人を見いだす上で,み使いの導きをはっきり感じることが時としてあります。例えば,アビジャンに住む肉親の兄弟からエホバの証人について聞いていた一人の青年がビショフ姉妹に近付いて来ました。その青年はもっと学びたいと願っていたので,次の日にある場所でその青年と会う取決めがなされました。

ところが翌日,青年は約束の場所に早く来て,15分待っただけで学校へ行ってしまいました。ビショフ姉妹がそこへ現われた時には,青年の姿は見えませんでした。その後,ビショフ姉妹は啓示 14章6節を思い出し,中天を飛んでいる「み使い」がわたしたちの活動を導いていることを考えました。それでその青年を見いだせるようエホバに助けを祈り求めました。それから間もなく,道を歩いているとその青年に会ったのです。青年も姉妹をずっと捜していました。青年は聖書を売っているプロテスタント系の小さな展示販売店へ行って,エホバの証人がどこにいるか教えて欲しいと頼みました。店の人たちは,分からないと言いました。それでもと来た道を注意しながら引き返していたとき,姉妹に会ったのです。

「真理」の本を用いた聖書研究が始まりました。ボニフェス・トリフォ・コヒは謙遜な人で,学んだ新しい事柄を実行に移すよう努力しました。例えばある時,ボニフェスは,夢の意味を説明していると思われる本を持っているのは良いかどうか尋ねました。申命記 18章9-13節を読むように勧められました。ボニフェスはその本を処分するのが最善だということをすぐに悟り,それを実行しました。その本はアメリカドルにして4㌦ぐらいで,学生にとってはかなりの額の本でしたから,家族は非常に驚きました。その後ボニフェスはすばらしく進歩し,現在では特別開拓者として奉仕しています。現在ガニョアには30人の伝道者から成る活発な会衆があります。

「神の勝利」国際大会

1973年12月,コートジボアールのエホバの民は,「神の勝利」国際大会から大きな励みを得ました。うれしいことに,統治体の成員を再び迎えることができました。このたび訪れたのはウィリアム・ジャクソン兄弟でした。

大会会場は前回と同じアビジャンのボクシングクラブでした。公開講演の出席者数は2,080名で,F・W・フランズ兄弟が出席した3年前の大会の出席者数の2倍を上回っていました。特に喜ばしかったのは,1964年1年間に全国でバプテスマを受けた人の数より多い,103名もの人がバプテスマを受けたことでした。

僧職者の反対

長年にわたり,コートジボアールの兄弟たちは宗教指導者の反対をしばしば受けて来ました。巡回監督として奉仕しているジョセフ・アッピアーは,そうした反対が失敗に終わったある時のことを次のように語りました。

「アビジャンから約100㌔の地点にある小さな島ティエバを訪問している時,カトリックの司祭たちが私たちの活動を妨害しようとしました。エホバの証人は偽りの預言者だから,その話に耳を貸さないようにと村人全員に告げました。ところがどうでしょう。協会のスライドの上映に,村人のほぼ全員に当たる600名ほどの人がやって来たのです。村人たちは,多くの人が偽りの宗教に誤導されてきた様子をスライドで見ました。話の後,司祭は,私たちに石を投げつけるよう若者たちに命じました。しかし,一人の老人が立ち上がり,『我々はこの村で40年間誤導されてきた。このスライドは私がこれまで人生で知らなかった新しいものを教えてくれた』と言って若者たちを止めました」。

別の時には,僧職者が巡回大会の開催を阻止しようとしました。アッピアー兄弟はその時のことをこう語っています。

「1974年4月,協会はアビジャンから約90㌔離れたところにある,アボビルで巡回大会を開く計画を立てました。私が公安委員長の許可を得たあと,カトリックの司祭たちが許可を取り消させようと公安委員長に圧力をかけました。私たちは会場として文化センターを使うことになっていました。大会の1週間前に,公安委員長は私たちを呼び,その会場は使えないと言いました。しかし私たちが,できれば町でエホバの証人の大会を開くことを許して欲しいと頼んだところ,それには応じてくれました。

「私たちは直ちに地元の兄弟の家の庭で大会を開く取決めを設けました。その地域には川がなかったので,バプテスマを施す場所を確保するのが問題でした。何軒かのホテルでプールの使用を断わられました。しかし,エホバは私たちを見捨てられませんでした。フランス人の老人が自分の家のプールを使わせてくれたのです。その人はカトリック教会の熱心な信者でしたが,私たちに好意的でした。私たちが29人のバプテスマ希望者の最後の人にバプテスマを施し終えたちょうどその時,司祭がやって来てプールを私たちに使わせないようにとそのフランス人に言いました。司祭はほんのひと足遅かったのです。その大会の公開講演には,454人という優れた出席者がありました」。

急速な発展

1970年代の前半には,伝道活動がコートジボアール全国に広がるのを目にして力付けられました。1970年当時,国全体で会衆がわずか10あったにすぎず,王国の音信を宣明する伝道者の毎月の平均は389人でした。それが,5年後には,会衆が34,毎月の王国伝道者数の平均は949人となっていました。

そのような発展の多くは首都以外の,大勢の宣教者が派遣された比較的小さな都市や町で見られました。宣教者たちは多くの会衆を設立する面でよい助けとなってきました。しかし,それらの場所における活動はやがて停滞してしまったように見えました。それはなぜでしょうか。

一つに,言語の問題がありました。コートジボアールの公用語はフランス語で,宣教者のほとんどはそれを使いこなせるようになっていたのですが,地方には部族ごとに独自の言語があります。ですからそれらの地域の人々が霊的に進歩するのを援助するには,地域の人々の習慣や考え方だけでなく,土地の言語を知っている人のいる必要がありました。

そのような理由で,その後何年かにわたり,宣教者に代わって特別開拓者が,マン,アベングールー,ガニョアなど,内陸部の町々に任命されました。そして,宣教者たちはアビジャンで時間や能力をより有効に用いて,アビジャンの幾つかの新しい会衆を強め,100万人を超すアビジャン市民に対する伝道活動を行なうという決定がなされました。

アビジャンでの拡大

内陸部の宣教者の家が閉鎖され,アビジャンに新しい宣教者の家が設けられました。アビジャンの郊外ウイリアムズビルにあったガブリエル・ディアネの家の2階は8人の宣教者の宿舎となりました。そのうちの何人かは設立されたばかりのウイリアムズビル会衆を強め,ほかの人たちは近くのアジャメに任命されました。アジャメの会衆は分会して二つの会衆になったばかりでした。

伝道活動が禁止された,アフリカの他の国々からコートジボアールへ何人かの宣教者が移って来ました。その中に,1973年5月にウガンダから来たスティーブン・ハーディと妻のバーバラがいます。二人は内陸の町々でしばらく奉仕した後,アビジャンに移り,ポルブウェ会衆に割り当てられました。最初の集会の時に,関心を持つ人々数名が二人に聖書研究を申し込みました。それら新しい人々はよく進歩し,会衆はたちまち大きくなって,伝道者が28名から50名を上回るようになりました。

新しい支部の建物

1972年1月,ノア兄弟が再び訪問しました。このたびはブルックリンの工場の僕マックス・ラーソンも一緒でした。ノア兄弟は「いつかここに小さな支部の建物を建てたい」と述べました。しかし,アビジャンの郊外デュプラトに土地が購入されたのは1978年9月のことでした。そして1980年6月に,その新しい支部の建物の建設が始まりました。

この建物は大いに必要とされています。現在,文書を保管しておく適当な場所がありません。新しい支部ができれば,その問題が解決されるばかりか,事務所,王国会館,12人ほどの人々の宿舎も備わります。また,コートジボアールの王国活動の一層ふさわしい中心地となることでしょう。

「勝利の信仰」国際大会

1978年の主要な出来事は,12月にアビジャンのスタドカンプル・フットボール競技場で開かれた「勝利の信仰」国際大会でした。そのための準備が1年掛けて行なわれました。その準備には,協会が取り決めたツアーでアメリカからやって来る大勢の兄弟たちをはじめ,アフリカの他の国々の兄弟たちを受け入れる態勢を整えることも含まれていました。統治体のライマン・スウィングルと,以前にも訪れたことのあるウィリアム・ジャクソンがこの大会に出席しました。

大会の金曜日には,何百人という熱心な兄弟たちがアビジャンの郊外にくり出し,「二十世紀のエホバの証人」と題する新しい冊子を配布して自分たちの勝利の信仰を宣明しました。スウィングル兄弟姉妹とジャクソン兄弟は数人の宣教者たちと一緒に奉仕しました。関心のある人々が協会の文書を飛びつくようにして求めたので,兄弟たちの文書を入れたビニールの手提げは間もなく空になりました。ブルックリンの本部で63年間奉仕しているグレイス・デチェッカ姉妹も,89歳という高齢にもかかわらず元気で,野外奉仕に参加しました。それはアビジャンの人々にとって非常に優れた証言となりました。

その晩,プログラムが終わってから,宣教者と本部から訪問している兄弟たちとの特別な会食がありました。全部で64名が集まりました。その中には,ガーナからの訪問者フロレンス・パターソンもいました。フロレンスは夫と共に,1951年にコートジボアールに来た最初の宣教者でした。彼女はこう語りました。「昔,地元の人たちに,エホバの証人の中には白人もいるということを納得してもらうのは難しいことでしたが,どうでしょう,今では,世界中からこんなに宣教者の方々が来ておられます」。

フットボール競技場における大会の最高潮を成した12月17日には,すばらしいことに,19か国から2,728名の人が出席していました。

エホバは確かにコートジボアールの活動を祝福してくださり,自発的な働き人や,宣教者や特別開拓者を与えてくださいました。現在,それらの人々の働きの結果がすばらしい仕方で見られます。1980年1月には伝道者が最高数の1,322人に達しました。また,聖書研究が1,600件余りも司会されていますから,今後王国の賛美者の数が大いに増加するものと考えられます。コートジボアールの兄弟たちは,キリスト・イエスの弟子として多くの実を生み出し,王国奉仕をたゆまず行ない続ける決意を言い表わしています。

[145ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

コートジボアール

マリ

オートボルタ

ギニア

ガーナ

リベリア

大西洋

フェルケセドーグー

コルホーゴ

マン

ブワケ

ダルワ

アベングールー

ギグロ

ディムボクロ

ガニョア

アボビル

サンペドロ

アビジャン

ポルブウェ

グランバサン

[151ページの図版]

初期にコートジボアールで奉仕したギレアデの卒業生,ガブリエル・パターソンと妻のフロレンス

[155ページの図版]

ロバート・マーキン(左)とサムエル・デノー。この二人はコートジボアールでごく初めのころにエホバの証人になった

[160ページの図版]

アビジャンの空港で働いていたブライ・ブレイは,フランス語の「ものみの塔」誌を1冊受け取ってその内容が気に入り,やがてバプテスマを受けた

[168ページの図版]

各地で開拓奉仕をした経験のあるダニエル・ケボー。アビジャンのクマッシ地区で伝道中に投獄された人の一人

[173ページの図版]

ポーリーン・ブル。この女性は,何一つ差し控えることなくエホバに仕えるために物質の富を捨て,父親の愛情を失うことにも甘んじた