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ニュージーランド

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1769年,ヨーロッパ人が初めてニュージーランドの岸辺に降り立った時,彼らを迎えたのはかっ色の膚をしたマオリ族でした。マオリ族は白人がやって来る400年余り前,すなわち14世紀にカヌーで南太平洋のこのはるかかなたの島にやって来ました。「西暦1350年の“船団”に関するマオリ族自身の記録は,外的な証拠によって極めて明白に確証されているので,証明済みの歴史の重みがある」と一歴史家は結論しています。

1840年にはニュージーランドに白人がわずか2,000人ほどしかいませんでしたが,その時までに何千人ものマオリ族は聖書に関心を持つようになっていました。1840年代の初頭にクリスチャン・ギリシャ語聖書がマオリ語で約6万冊出版されました。当時,読み書きのできる人の割合は白人よりもマオリ族のほうが高かったのです。

しかし,ニュージーランドへやって来るヨーロッパ人の数はどんどん増え,ついにマオリ族との間に戦争が起こりました。マオリ族の人口は激減し,白人の数は急速に増加しました。現在ニュージーランドの人口は300万人を上回っていますが,マオリ族はその8%を占めるにすぎません。ニュージーランドには今でも毎年多くの移民があり,人口の約15%は外国で生まれた人々です。

人口の大半は,北島と南島という二つの主要な島に住んでいます。この二つの島を隔てているのは幅26㌔の海峡です。北島の方が小さいにもかかわらず,人口の70%余りが北島に住んでいます。ニュージーランドの総面積は26万9,057平方㌔で,その広さは本州と九州を合わせたのとほぼ同じです。

なだらかに起伏する緑の田園地帯,絵のように美しい湖とフィヨルド,間欠泉や地中から絶えず噴煙や熱湯を吹き出している場所のある温泉地帯,非常に美しく特色のある植物相,幾百もの砂浜,雪を頂く険しい山々,氷河,スモッグの比較的少ない都市,こうしたものが,アオテアロアすなわち「たなびく白雲の国」とマオリ族の呼ぶこの国の風景の美を織りなしています。ニュージーランドで人口が10万を超える主要な都市は,大きさの順に言うと,オークランド,ウェリントン,クライストチャーチ,ダニーディンです。

国民の大半はキリスト教を奉じており,英国国教会に属している人が90万人余り,長老派教会の会員が約57万人,ローマ・カトリック教徒が48万人,メソジスト派が17万人います。エホバの証人は約7,000人おり,そのうち1,000人ほどがマオリ族の人々です。ニュージーランドのエホバの証人の歴史は75年余り前にまでさかのぼります。

揺籃期

1904年ごろリチャードソン兄弟姉妹がアメリカから北島のオークランドにやって来て,小さな聖書研究会を開きました。1907年には南島のクライストチャーチでも,H・S・タールトンの家で集まりが開かれていました。しかしその後間もなく,バプテスマの意義に関する論争が原因で幾人かの人が漂い出て行きました。

とはいえ,その揺籃期にクライストチャーチで良い種がまかれました。当時エホバの証人の全時間の伝道者は聖書文書頒布者と呼ばれていましたが,その一人がコロネーション通り1番地を訪問しました。心の優しいバリー夫人は,『その老人がかわいそうだったので』ラッセル師の著書6巻を求めました。1909年の初頭,バリー夫人の息子ウィリアムと一人の友人は英国へ向けて6週間の船旅に出ようとしていました。二人は旅行中『暇つぶしになるもの』が必要だと思っていたので,その6冊の本を見て,旅行かばんの一つにほうり込みました。バルパライソ,ホーン岬,リオデジャネイロ,テネリフェを経由してロンドンに至る世界半周の航海をしている間に,ビル(ウィリアムの愛称)・バリーはその6冊の本を研究し,そこに書かれている事柄が真理であると認めるに至りました。

数年後の1914年6月,ビル・バリーは,一緒に船旅をした友人から,『ビル,世界はかつてないほど平和に見える。ラッセル師は間違っていたに違いないよ』という手紙を受け取りました。しかし7月,8月が過ぎ,大事件が起きて第一次世界大戦が勃発しました。聖書研究者がその年に起こると予期していた通りになったのです。

1920年代に,真理はクライストチャーチの実業界で「ビル・バリーの宗教」としてよく知られるようになりました。バリー兄弟には若いころに僧職者の知り合いが数人いて,兄弟はその人たちと真理についてよく話し合ったものでした。第一次世界大戦前には『慎みのある』教会区司祭が大勢いたが,戦争後はそのような司祭に一人も会えない,とバリー兄弟は語っていました。その原因は,僧職者たちが戦争を擁護して流血の罪を負い,その結果エホバに裁かれ退けられているからである,というのが同兄弟の意見でした。

その後ビルは聖書の真理を子供たちの心に立派に植え付けました。やがて息子のロイドはオーストラリアのベテルで奉仕するようになり,その後日本で宣教者として25年間奉仕し,さらにここ7年間はニューヨークのブルックリンでエホバの証人の統治体の一員として奉仕しています。

1910年前後のその初期の時代,首都ウェリントンにはエバンズ姉妹とブリック姉妹が住んでいました。旅行する聖書文書頒布者が,ウェリントンから24㌔ほど離れたタイタに住む農夫を訪問しました。それはやがて二人の姉妹に大きな喜びをもたらしました。その聖書文書頒布者が訪問した農夫はジャック・ウォルターズという人でした。ジャックは「聖書研究」を3巻注文しました。ジャックの妻エディスは次のように語っています。

「注文した本は2か月後に届きました。主人はその3冊の本を読み終えるまで昼も夜も読み,私たちの話題といえばその本のことばかりでした。主人はアメリカに手紙を書き,聖書とさらに数冊の本を注文しました。すると,『聖書研究』の4巻,5巻,6巻が送られてきました。ほかにも3巻あるとは知らなかったので,主人は驚いたり喜んだりしました。また,協会のメルボルン支部の住所も教えられました」。

ジャック・ウォルターズはオーストラリアのメルボルンに手紙で書籍一箱を注文しました。それが届くと,本を自転車に積み,丘を越え,近くのワイヌイオマタ渓谷へ行き,人里離れて住む少数の農夫たちに自分が新たに見いだした信仰について語りました。今日,そこでは盛んに宅地造成が行なわれており,エホバの証人の王国会館があります。

ウォルターズから文書の注文を受けると,メルボルンの支部事務所は早速エバンズ姉妹とブリック姉妹に手紙を送り,J・F・ウォルターズという名の関心を持つ人が近くのタイタにいると知らせました。二人の姉妹はこの26歳の青年,真理にいる兄弟を得て大いに喜びました。こうして,1911年にウェリントン会衆が発足しました。ジャック・ウォルターズの母親,またその姉妹や兄弟および家族の他の成員も真理に入りました。

伝道の業の先駆者となった人々

ニュージーランドにおいて真の崇拝の初期の発展に大いに貢献したのは,活力と熱意にあふれたエド・ネルソンでした。エドは機転のきくタイプではありませんでしたが,魂を込めて主の業を行なった人で,フィンランドなまりはありましたが,確固とした話し方をしました。エドは,1902年の夏にアメリカのロサンゼルスでバプテスマを受け,1909年と1910年に協会のメルボルン支部で奉仕し,その後ニュージーランドへ来ました。そして1961年8月に亡くなるまで,50年間開拓奉仕をしました。ニュージーランド北部のカウリマツの原野からブラフ(ニュージーランドの南端)に至る各地でエド・ネルソンの訪問を受けた記憶のある人に今でも会います。

ネルソン兄弟は,1912年12月にニュージーランドで初めてエホバの民の大会を組織しました。20名ほどの人々がウェリントンの,ある個人の家の裏に集まりました。そのうちの8名はバプテスマを希望して前に進み出ました。当時バプテスマは非常におごそかな儀式とされ,バプテスマを受ける人は黒くて長い外衣をまとっていました。

1914年にフランク・グローブがエド・ネルソンと一緒に奉仕するようになりました。フランクは1913年12月にバプテスマを受け,その後間もなく,自分がクライストチャーチで経営していた本屋をたたみました。1914年の秋に体制が終わると期待されていたので,その前に数か月でも開拓奉仕をしたいと思ったのです。後年フランクは,「あなたはわたしをだまされましたので,ああエホバよ,それでわたしはだまされました」というエレミヤ記 20章7節(新)の聖句を好んで引用しました。フランクは短期間のつもりで始めた開拓奉仕を1967年に亡くなるまで50年余り行ない続け,多くの報いを刈り取りました。

協会の質問表に答える機会があった時,フランク・グローブは,健康に関する欄に,「視力が非常に弱い」と書きました。フランクを知っている人々は,彼が非常に度の強いメガネをかけ,決して衰えることのないよく通る力強い声をしていたのを覚えています。証言活動に参加した人々は,昼の弁当の時フランクの周りによく集まりました。すると,フランクは,長い聖句を暗唱しました。レビ記などの聖書の本から一つの章全体を暗唱することさえありました。フランクは長年の間クライストチャーチで会衆の監督を務め,その後1940年から1945年にかけてインバーカーギルでもやはり同じ立場で奉仕しました。

フランク・グローブは1913年12月に開かれたニュージーランドで2番目の大会に出席しました。その大会には全国から50名が集まりました。当時自動車というものはなかったので,大会出席者は汽車でローアーハット駅まで行き,そこから迎えの馬車に乗って,大会会場である農場へ行きました。大会出席者たちのほとんどは初対面でしたが,一緒に楽しい時を過ごしました。大きな納屋が,集まりを開けるよう手を加えられていました。干し草置場は掃除され,兄弟たちに借りたシングルベッドが所狭しと置かれていました。姉妹たちは1軒の家具付き貸家とその農場の母屋に泊まりました。

1914年までに,非常に小さいながらしっかりとした,王国宣明者の中核ができていました。聖書文書頒布者が4人,および当時「自発」奉仕と呼ばれていた活動をする人が8人いました。それは,日曜日の朝,家々のドアの下に「一般人伝道者」と「聖書研究者月刊」を差し込んで配布する活動でした。全部で12名から成る,王国伝道者のその小さな一隊は,1914年に書籍を3,172冊,雑誌を75冊配布しました。

「創造の写真劇」

「創造の写真劇」というのは,聖書に教えられている神の目的に関する映画とスライドでした。それはものみの塔協会により作製され,1914年に発表されました。「創造の写真劇」は,カナダのバンクーバー出身のリー兄弟によってニュージーランドにもたらされ,1914年10月1日にウェリントン市公会堂で上映されました。

ラッセル師の録音した声が画面と一致することもありましたが,大抵,ずれていました。それでも,その映画は優れた作品でした。その映画を見て真理に入った人は少なくありません。アリス・ウエブスターもその一人で,今でもローアーハット会衆の忠実な伝道者です。

当時クライストチャーチには聖書研究者が3人しかいなかったので,映画とスライドの上映を手伝うためにウェリントンからさらに3人がやって来ました。その人たちはクライストチャーチで一番大きな会館であるキングズ劇場を借りました。その劇場は丸1か月の間,毎晩満員になりました。そのため場内にはたばこの煙がもうもうとたちこめ,その煙の中で映写するには7,000燭のアーク灯が必要でした。

アーク灯は45ボルト用だったので,兄弟たちは110ボルトの電圧を45ボルトに下げるために,どこにでもあるような垣根用の針金で作った大きなコイルを使いました。そのコイルは時々過熱し,そのため映写室に火がついたこともありました。目ざとい消防士がすぐに電気を切りました。それ以来,兄弟たちは,そのような緊急の場合を考えてぬれた毛布をいつも数枚手近な所に置いておくようにしていました。しかし,煙のたちこめた会場も粗末な装置も,映画の説得力を減じるものとはなりませんでした。観衆はただただ感動し,画面に見入っていました。

試練の時

ものみの塔協会の会長チャールズ・テイズ・ラッセル会長が1916年に死亡し,ジョセフ・F・ラザフォードがそのあとを継いだとき,分裂の問題がニュージーランドにまで波及しました。ラザフォード兄弟が任命されたことに公然と異議を唱える者が組織の中にいたのです。アメリカの二,三人の扇動者たちは,分裂を引き起こそうとしてニュージーランドの兄弟たちに手紙を送りました。同じ時に,外部からの攻撃もありました。ニュージーランドの新聞各紙がエホバの民を口汚ない言葉で攻撃したのです。ウェリントンでの聖書研究の集まりに,刑事数人が潜り込んでいたこともありました。兄弟たちの中に反政府感情をつのらせる扇動家を見付けようとしていたのです。

しかし,伝道活動は順調に進み,王国宣明者の数は1914年の12名から1918年の18名に増加しました。戦時中,小さなウェリントン会衆に交わるようになった人々の中に,かつて救世軍の大尉だったオリバー・キャンティがいました。オリバーは「聖書研究」と題する本を読んで真理を見いだしたことを悟り,救世軍を脱退しました。1917年にウェリントン会衆の姉妹と結婚し,ダニーディンへ移ってそこで1934年に亡くなるまで会衆の監督を務めました。こうして,ニュージーランドで4番目に大きな都市に会衆が設立され,全国で会衆は合計六つになりました。これらは,1920年代の精力的な伝道の主要な推進力となりました。

真理はこうして広がった

初期のころの開拓者たちは文字通りの意味で草分けでした。交通手段がまだまだ発達しておらず,道と言っても大抵農道と変わるところがなかったその時代に,ニュージーランドの最も辺ぴな所にまでも足を踏み入れました。アーリー姉妹はそのような草分けの一人でした。後年,開拓者たちが任命地へ行くと,そこはすでにアーリー姉妹の証言を受けていたのでした。ある開拓者は,「Earlyという名前を小文字で書くと“早い”という意味になりますが,いずれにしてもアーリー姉妹が“早かった”ことに間違いはありません」と語りました。

アーリー姉妹は34年間開拓奉仕をし,1943年に74歳で亡くなりました。姉妹は全国を自転車で網羅しました。関節炎のために足が不自由になり自転車に乗れなくなっても,寄り掛かったり書籍を運んだりするのに自転車を使い,クライストチャーチの商業地区を奉仕しました。階段を上ることはできましたが,降りる時には足が不自由なため後ろ向きに降りなければなりませんでした。ある晩,掛かり付けの医師は「アーリーさん天国へ行く用意ができていますか」と尋ねました。

「1日も早く来てほしいものですわ,先生」と答えました。アーリー姉妹が自分の希望について悟っていたことは明らかです。そして『姉妹が行なったことはそのまま姉妹に伴って行きました』。―啓示 14:13

オーストラリア支部事務所から派遣された兄弟たちによる公開講演も,1920年代の神権的な発展を大いに促しました。例えば,ビル・クーパーは,ウィリアム・ジョンストンが1920年にウェリントン市公会堂で行なった「現存する万民は決して死することなし」と題する講演に出席しました。そして真理を受け入れ,長年の間ウェリントンで主宰監督として奉仕しました。

同じ講演がワイヒという金鉱の町でも行なわれ,若いビル・サムソンとその妻が講演への招待に応じました。二人は住所氏名を渡して帰ったので,エド・ネルソン夫妻がその夫婦を訪問しました。その後,ネルソンに代わってフレッド・フランクスがサムソン夫婦を訪問し,二人が真理に入るのを援助しました。

1920年代に,クライストチャーチ会衆は建築業者会館の奥の薄暗い部屋で集会を開いていました。当時その会衆に交わっていた人の中に,第一次世界大戦で片足を失った,かつての兵士マイケル・カシディ・オーハロランがいました。これはアイルランドに多い名前ですが,マイケルもやはりアイルランド人で,カトリック教徒でした。後にマイケルが入院してもう一方の足を切断したとき,病院の職員はアイルランド名の人がどうしてエホバの証人になれたのか理解しかねていました。体は不自由でしたが,ミックはニュージーランドとオーストラリアで長年全時間奉仕を行ないました。いつも朗らかでアイルランド人特有の当意即妙の機知で,様々な年齢の人々が真理の道を歩むように励ます点で大いに貢献しました。

熱心な奉仕者の配布した協会の文書がきっかけとなって真理の道を歩むようになった人は少なくありませんでした。ワイヒの近くの別の金鉱の町,テムズに住んでいたレジ・ジョンストンの場合,物心ついた時から家の本だなに「聖書研究」全6巻がありました。レジの母親は1916年に亡くなりましたが,亡くなる前にその本の内容について息子に話して聞かせたものでした。レジはもっと知りたいと思うようになり,フレッド・フランクスの父親でフランクス“おじいちゃん”と呼ばれていた人と後に連絡を取りました。レジはこう話しています。

「その年配の兄弟は毎晩,私が真理を理解するのを援助してくださいました。私たちは真理を非常に貴重なものと考えていました。真夜中近くになり,兄弟が『さあ家に帰る時間だよ』と言うことがよくありました。

「父は当時まだ生きていました。それで父をはじめ親族の者は,テムズで“フランクスの宗教”と呼ばれていた宗教に私が改宗したことを怒りました。そしてとうとう最終的な決着を付けなければならなくなり,父は,英国国教会に付き従おうとしないという理由で私を勘当しました」。

その後レジ・ジョンストンは結婚し,妻のレタと共にオーストラリアのベテルで3年半奉仕しました。そして1940年にニュージーランドへもどり,1940年から1946年にかけて,今日の巡回監督に当たる「兄弟たちの僕」として奉仕しました。

ケン・ペピンは1924年にイギリスからニュージーランドへやって来ました。1928年9月のある日,1日長時間働いて家に帰ろうとしたとき,ケンは,一人の人が「ああ! また1日墓場に近付いた!」とため息をついているのを耳にしました。

ケンは一緒に歩いていた同僚に,「また1日天国に近付いたということだろう」と言いました。

「いやそうじゃない,彼の言う通りだ」と意外な答えが返って来ました。数分会話が続きましたが,路面電車のターミナルの所まで来て,二人はそこから別の線に乗って,家路に就きました。ところが,翌朝,ケンの同僚は「死者はどこにいるか」という小冊子を持って来てくれました。ケンはこう語っています。

「私はその内容が間違っていることを証明しようとして,述べられている事や参照されている事柄全部を聖書と突き合わせながら小冊子を読みました。ところが,間違っていたのは以前に自分の信じていた事柄の方であることが明らかになりました。それで私は二度と再び教会へ行きませんでした」。ケンは後に開拓者になり,ニュージーランドで長年奉仕しました。

クリフ・クーガンは北島の中央にあるタウマルヌイで肉屋をしていました。1928年,オークランドにいる婚約者から,聖書を非常に明確に説明している本を読んだところだという手紙を受け取りました。婚約者はその本,つまり「神の立琴」を包んでそれをクリフあてに郵送しました。その日その女性の家は丸焼けになりました。何もかも失われましたが,その本だけは郵送されていました。

その本はクリフの人生を変えました。クリフはオークランドへもどると約30名から成る地元の会衆の集会に出席するようになりました。現在オークランドには21の会衆があって,約1,800人の王国伝道者が奉仕しています。クリフはそこで長老として奉仕しています。

1920年代の後半,ニュージーランドは深刻な失業問題に見舞われました。そのような時に世俗の仕事を辞める人はまずいないものですが,バート・クリスチャンセンは1928年に世俗の仕事を辞めて開拓奉仕を始めました。「私は一瞬たりとも後悔したことがありません」とバートは語っています。バートの任命地はどこだったでしょうか。何と南島の西海岸全域でした。友人の家や下宿屋など,泊まれる所に泊まりながら,区域全体を網羅するのに6か月掛かりました。

1928年にはニュージーランドに開拓者が10名,パートタイムの奉仕者が63名ほどいました。それらの人々はその年,書籍を約1万2,000冊,小冊子を2万8,000冊配布しました。それら熱心な伝道者に文書を絶えず供給するため,1928年にウェリントンに文書倉庫が設けられました。やがてウェリントンのケントテラス69番の1軒の家が文書倉庫として購入されました。そこは1947年に支部が設立されるまでニュージーランドのエホバの証人の本拠地となっていました。

マオリ族の大会

マオリ族の最初の集まりは,北島の東岸のタラデイルにあるトゥイリ・タレハの家で1928年に開かれました。トゥイリは協会の出版物を親族から入手し,やがて真理を見いだしたことを確信するようになり,教会を脱退しました。息子のチャールズはその時の模様をこう述べています。

「父はマオリ族の社会で著名な人でしたから,父が教会を脱退したことは英国国教会の僧職者たちの間に騒ぎを引き起こすことになりました。僧職者たちは直ちに,父の脱退を撤回させる目的で特別の集まりを開くことを求めました。父は集まりを開くことに同意しましたが,教会でではなく,私たちの家の敷地の中で開きたいと言いました。そこには集まりのための大きな演壇が設けられました。ニュージーランドの英国国教会の主教F・ベネットを含め大勢の僧職者が,出席しました。それに白人やマオリ族の人々,合わせて約400名もの群衆が集まりました。

「教会の代表者を務めたマオリ族の人は,故意に聖書を使わないようにしているようでした。その人はむしろ感情に訴えていました。『我々の先祖は魂が死後にも存在すると信じていました。ところがあなたは,魂の存在を否定する宗教を受け入れることにしたのです』とその人は言いました。すると父は,人間自身が魂であり,したがって人が死ねば魂も死ぬということを聖書から説明しました。父はまた,神は人を再び生きた魂として復活させる能力を備えておられると説明しました。

「英国国教会の僧職者は,自分の論議に説得力のないことがはっきりしたとき,私の曾祖父が建てた近くの教会の方を向き,いら立たしげな身振りをしながら感情的にこう叫びました。『あなたの傑出した先祖からあなたが受け継いだこの神聖な相続物を捨てないようにと,最後のお願いをします』。

「次いで父が立ち上がり,居並ぶ人々全員に出席してくれたことを感謝してから,今自分が真理を見いだしたことをこれまで以上に確信したと言いました。そして,私たちが定期的に開いている聖書研究の集まりの日時を出席者全員に知らせ,それに出席するようすべての人を招待しました。その招待に応じた人は少なくありませんでした」。

片田舎の羊飼いに真理が伝わる

1929年のこと,ルー・ジェイムズと言う人が南島のシェビオットの近くにある羊の大牧場で働いていました。ある晴れた暖かな日のこと,昼食を済ませてから,ルーが小屋で一眠りしていると,入口に人影が現われました。それはベン・ブリッケルという若者で,ベンは,「神のみ言葉聖書を個人的に調べてその知識を得るよう人々を助けるためにあらゆる人に会う」努力をしていると言いました。ルーは,「あんたは死んだらどうなるんだい。永遠の責め苦の場所って本当にあるのかい」といった様々な質問を浴びせました。

ルーはその模様を次のように話しています。「その人がやすやすと聖書を開いて,私の質問の答えとなる聖句を読むのには全く驚かされました。その人は1時間ばかりの間,復活のことや来たるべき一千年の平和のこと,地上に楽園が復興されること,そしてとりわけエホバが真の神であるということを話してくれ,私はその話にすっかり引き込まれてしまいました」。

ルーは「創造」,「預言」,「神の救い」,「政府」と題する4冊の書籍を求め,さらにほかの文書を郵送してもらうことにしました。やがて,ルーは羊飼い仲間たちと真夜中まで聖書について話し合い,彼らに「ものみの塔」誌を読ませました。そしてついにオーストラリアの支部に手紙を書いて,開拓者になりたいと申し出ました。すると,クライストチャーチのフランク・グローブに会うようにという指示が来たので,羊牧場を辞め,開拓者としてエホバに仕えるという新しい,生涯の仕事に就くためクライストチャーチへ向かいました。

王国の関心事を第一にする

そのころクリフ・クーガンは結婚を考えていました。毎月発行されていた「通知」(現在の「わたしたちの王国奉仕」)に,「なんじらもぶどう園へ行け」という大きな見出しが出ました。クリフは,「これが最後の機会だというはっきりした召しのように思えました」と語っています。それで1930年,クリフと妻のエドナは2週間の新婚旅行中開拓奉仕をしました。二人の区域はオポティキからダニーバークまでの,北島のほぼ4分の1の区域でした。クリフは,ある時使った寝具のことをこう語っています。

「オポティキで私たちはブリキの小屋を借りました。そして金網マットレスに寝ました。幾つかの箱の上に置かれたその金網マットレスには毛布が1枚かぶせてあるだけでした。私たちはそれを“印刷機”と呼びました。というのは,ひと晩その上で寝ると,体に金網の跡が付いたからです」。

1931年,クーガン兄弟姉妹に男の子が生まれました。それで一家はオークランドで冬を越しました。しかし二,三か月後には幼い息子を連れて王国の音信を人々に伝えに出掛けていました。

困難な時期に開拓奉仕をする

クーガン兄弟姉妹は開拓者の隊伍に加わりました。その開拓者の中にはノーマン・コックランとオリーブ・コックラン,ワリー・ウッドと娘のアイリーン,レン・ロウとアーサー・ロウおよびレン・ベルチャーがいました。その開拓者の群れは,オークランドの南部を皮切りに,南方へ向かって島の東岸から西岸まで区域をくまなく網羅しました。

当時ニュージーランドは不況に見舞われており,人々は生きていくのが精一杯の有様でした。未開墾の低湿地が大部分を占めるハウラキ平野に,政府の救済キャンプが設けられていました。医者や弁護士を含む人々が北島全域からそこへぞくぞくと集まっていました。中には,480㌔余り離れたウェリントンから歩いて来た人もいました。その人々は低湿地を切り開いて運河や放水路を掘る仕事をしました。その多くは開拓者の話に耳を傾けましたが,文書を求めるお金を持っていませんでした。

1932年の12月が近付き,開拓者たちはウェリントンで開かれる全国大会に向かいました。オーストラリアの支部の僕マックギルバリー兄弟と,ニュージーランドの伝道活動を組織する任務を受けていたハロルド・ギル兄弟がその大会に出席しました。その大会で,開拓者たちは南北の主要な島で組織的に奉仕するよう取決めが設けられました。

北島で奉仕する

開拓者の一つのグループは,ウェリントンの北方145㌔にあるパーマストンノースを本拠にするよう指示を受けました。そのグループはビュイックのトレーラーとビュイックの自動車1台,テント二つ,自転車4台を持っていました。自転車は自動車の前に付けた台に載せて運びました。わき道があると,開拓者一人が自動車から降り,自転車を下ろしてその区域を奉仕しました。姉妹たちは大抵町の中で証言を行ない,兄弟たちは郡部で奉仕しました。

エケタフナでキャンプ生活をしていた時,兄弟たちは朝6時に家を出,でこぼこのじゃり道を42㌔余りも自転車で走ったものです。農場から農場を訪問したところ,どの家も空き家だったということがよくありました。人々は不景気のために何もかも失い,一家そろって家を捨てたのです。家具は家の中に置き去りにされていました。会えた人々は大抵王国の良いたよりを喜んで聴き,エホバの定めの時に「自らの手で働いた結果を長く楽しむ」ようになるということを知って喜びました。―イザヤ 65:22,欽定訳。

その後突発的な事件が起きました。選出された長老数人の反抗的な行為のために,オークランド会衆で非常に難しい問題が起きたのです。そこで,オーストラリアの支部事務所は開拓者のグループにオークランドへ帰るよう指示しました。忠節な人々を支え,そこに開拓者の家を設けるためです。こうして,北島グループの予定の活動は急に中断されました。

南島の開拓者のグループ

南島の開拓者のグループは12名から14名ほどの開拓者から成っていました。ハロルド・ギルがそのグループを組織し,やがてジム・テイトもそれに加わりました。

ジムはまじめな青年で,クライストチャーチの市民劇場で行なわれたJ・F・ラザフォードのレコード講演に誘われ,それに応じました。市民劇場に着くと,ジムはハロルド・ギルに紹介されました。ジムが証言の内容に本当の関心を示したことを聞いていたハロルドは,あすの晩市民劇場でお会いしたいのですが,とジムに言いました。翌日の夕方,ジムは大急ぎで牛の乳をしぼり,自転車に乗って約10㌔離れた市民劇場へ行きました。二人はハロルドの自動車の中で話しました。最後にギルはこう言いました。「これこそ神の組織だと確信しておられるなら,すぐに開拓奉仕に入るべきですよ」。

「『開拓奉仕』って何ですか」とジムは尋ねました。

そこで,ジムは開拓者のグループの取決めについて説明を受けました。ジムは世俗の仕事を辞め,そのような不況の時代に世俗の仕事が約束していた安心感を捨てるでしょうか。ジムはそうすることに決めました。その時の模様をこう語っています。

「ギル兄弟は予定通り私の家に来てくださいました。その日は暑く,強い北西の風が吹いていました。私は濃紺の背広を着,真新しい帽子をかぶっていました。身の回り品と自転車がギル兄弟の自動車に載せられました。私は両親に別れを告げ,開拓者のグループに加わるために出掛けて行きました。その時にも,開拓奉仕とは実際にどんなことをするのか十分に分かっていませんでした。ただ一つ私が確信していたのは,自分が神の組織に入るのだということでした」。

良いたよりの勇敢な宣明者たち

それらの開拓者たちは頑健な人たちで,辛い仕事や厳しい条件に耐える意志と能力のある人々でした。安い価格で支給される文書から得られる収入だけで生計を立て,手当をもらわずに,毎日8時間から10時間奉仕しました。

南島の冬は忍耐を試みるものでした。朝起きてみると,寝ている間に息が凍ってつららとなり,テントの内側に垂れ下がっていました。テントは凍って板のように硬くなっていました。朝の洗顔といえば,1㌢余りも厚く張った氷を割らなければなりませんでした。兄弟たちは,オーバーを着込んで体を温めながら朝食を取ることがよくありました。

兄弟たちは,洗たく,および「鉄の馬」(自転車)のオーバーホールと修理のために毎週一日を空けておきました。洗たくは,上部を取りはずした石油かんを石油バーナーの上に載せるという原始的な方法で行なわれました。姉妹たちは石油で熱するアイロンを使い,兄弟たちは毎晩マットレスの下にズボンを敷いて寝押しをしました。

コリント第二 11章26節には使徒パウロが「川の危険」に遭ったことが記されていますが,その開拓者たちは,南の果てのツアタペレという小さな町へ行った時,同様の経験をしました。そのころ開拓者たちは6人から成る二つのグループに分かれていました。兄弟たち数人はツアタペレから少しはずれた,ワイアウ川の岸でキャンプしました。そして使われていない壊れかけた小屋を見付け,そこに移りました。

気候が珍しく暖かだったので,時ならず山の雪が解け,そのために川が増水しました。しかし,開拓者たちは夕食の時あまり心配しませんでした。ところが夕やみが迫るころ,水が床を打つ音に気付きました。兄弟たちは逃げ場を失ってしまったのです。照明にはろうそく2本しかありませんでした。その夜遅くエホバに祈りを捧げた後,兄弟たちはやっと眠りました。

その晩,川の堤が決壊しました。開拓者たちは流木とか丸太が壊れかかった小屋にぶつかる音で目を覚ましました。一人の開拓者は,毛布をベッドの上に引っ張り上げようとして手を伸ばしたところ,手が水に触ったのでびっくりしてしまいました。それは恐ろしい経験でした。翌朝,開拓者たちは,水位が床下に下がり,悪臭を放つ泥や沈澱物が層になっているのを見て,エホバに感謝しました。そして,水の中に取り残されたような格好で,もう一晩その小屋で過ごしました。翌日安全になってから水の中を道路のところまで歩いて渡り,ひるむことなくエホバの奉仕を続けました。

その開拓者の群れは南島を2回網羅しました。興味深いことに,そのグループと丸1年間開拓奉仕を共にした後,1933年になって,ジム・テイトは10月のある寒い日に海でバプテスマを受けました。島を2回目に回っているとき,ジムは入れ歯一組を買うため文書を配布したお金をためることにしました。その旅行が終わった時,ちょうど必要な25ポンドがたまっていました。ジムは,エホバがそのように自分の必要を賄えるようにしてくださったことを喜びました。ところが,入れ歯を買う前に,当時証言がなされていなかったチャタム諸島に行く気はないかという手紙を協会から受け取りました。

チャタム諸島はクライストチャーチの東方800㌔の地点にあり,ニュージーランドの一部とされています。当時そこには,主として農業と漁業を営む800人ほどのマオリ族が住んでいました。その人たちは原始的な生活をしており,自転車さえ見たことがありませんでした。唯一の交通機関は馬でした。ジムはリトルトンから船で,チャタムの主要な島にある小さな港ワイタンギまで,自費で行かなければなりませんでした。旅費はちょうど25ポンドでした。

チャタム諸島で奉仕する

こうしてジムはチャタム諸島へ出発し,入れ歯の方は将来のお楽しみになりました。ジムは書籍と小冊子を入れたカートン数個を持って到着しました。ジムは次のように語っています。

「その島に知人が一人もおらず,だれも出迎えてくれませんでした。人々はみな馬に乗っていました。道路などなく,モーターを使った乗り物は一切ありませんでした。私は一人の農夫の所へ行って馬を貸してもらいました。そして大きな袋で手さげを作り,それに本を一杯入れて鞍の両側に付けました。また王国の音信を伝えながら島を網羅するために出発した時,ひげそりの道具とタオルを入れた別の袋を背中にしょいました。

「人々は好奇心が強く,夜にはいつも泊めてくれる人がいました。エホバのそのような備えに,私は心から感謝しました。何キロも馬に乗って,たった一軒か二軒の家しか訪問できない日もありました。40㌔も離れた,はるかかなたの羊の牧場に行く道順を教えてもらったことがありますが,その道順というのが実に変わっていました。例えば,目印の一つは1頭の雄牛の死体の干からびた骨でした。そこから方向を変えある地点まで行くと浅い湖に出ます。その湖をまっすぐ6㌔ほど横切らなければなりません。そうしないと道に迷い,馬も私も流砂のようなものにのみ込まれてしまいます。エホバは今晩私に食物と宿を与えてくださるだろうか,牧場主の家に泊めてもらえるだろうか,もし泊めてもらえなかったらどうしよう,と私は考えはじめました。

「その家に着いて馬をつないだときには日が暮れていました。本の入ったかばんを持って玄関に近付き,ノックしました。玄関に出て来た女の人は私を見たとたん,息が止まるほど驚き,『ジム・テイトじゃないの。こんなところで何をしているの』と言いました。その若い婦人は,子供のころ一緒に学校へ通った人だったのです。私は歓待を受けました。エホバ神は再び私を養ってくださいました。私は本当に幸福でした。持っていた本の大部分をその農場で配布し,次の日ワイタンギへの帰路に就きました」。

ジムは2か月間チャタム諸島で証言をし,幾カートンもの書籍を配布した後クライストチャーチの港リトルトンへ帰りました。文書から得た寄付と支出を清算したところ,ちょうど25ポンド残っていることが分かりました。それで入れ歯を買うことができました。数年後ある大会で,ジムは幼い子供を連れた一人の姉妹に会う喜びを得ました。その姉妹はチャタム諸島の自分の家にジムが初めて訪れた時のことを覚えていました。

クライストチャーチで宣伝する

クライストチャーチ会衆は市の中心部にある劇場で公開講演を開く取決めを設けました。その講演は「ファシズムか自由か」と題するもので,ものみの塔協会の会長ジョセフ・F・ラザフォードのレコードによる講演でした。市議会は,両肩から体の前と後ろに広告板を下げて行進する許可を与えました。同じ時分に予定されていた楽隊のコンクールの催しとぶつからないように,行進の道順が指定されました。

兄弟たちは広告板を体の前後に付け,二列になって出発しました。目抜き通りに近付くと,楽隊の演奏する音が次第に近付いて来ました。交差点に差し掛かった時,壮快な行進曲を奏でながら一つの楽団が通り過ぎました。次の楽団との間には15㍍ほどの間隔がありました。兄弟たちはどうするでしょうか。兄弟たちの一行は,講演を宣伝するプラカードを掲げて,二つの楽団の間に入りました。こうして道の両側に並んでいた何千人もの人々にすばらしい証言がなされました。その日曜日,クライストチャーチの小さな会衆が催した公開講演に500名もの人が出席しました。何と力強い証言がなされたのでしょう。

熱心な姉妹たち

一方,1930年代に北島で伝道活動に率先していたのは,アイダ・トムソン姉妹,バートン姉妹,ジョーンズ姉妹およびプリースト姉妹でした。姉妹たちは九日間ずつの旅行に出ては,ウェリントンの北方数百キロのありとあらゆる町や農場で証言しました。幾カートンもの文書を持って行きましたが,ほとんど例外なく一冊残らず配布しました。夜は大抵干し草小屋や車の中で眠りました。姉妹たちは王国のために不自由な生活を忍ぶ覚悟があり,1932年から1940年までその活動を続けました。アイダ・トムソンの息子エドリアンは,1949年に日本へ行った最初の宣教者の一人でした。エドリアンは日本のエホバの証人の最初の巡回監督として,母親と同様の「開拓者」精神を示しました。

当時は専ら文書の配布に力が注がれました。出版物を読んで研究するよう人々に勧めることはされましたが,今日のような聖書研究は全く知られていませんでした。とはいえ真理の種が大々的にまかれました。

サウンドカーによる活動

そのころ王国の音信を宣べ伝える主な方法は,サウンドカーを使うことでした。ラザフォード兄弟の話が,時には5㌔先まで聞こえるほど大きく増幅して放送されました。あるとき家の人はジム・テイトにこう言いました。「今朝とても珍しいことがありました。雲の中から音楽と人の声が聞こえたのです。世の終わりが来たのだと思いましたよ」。その人は,事の次第の説明を受けると,聖書の文書を喜んで求めました。

オークランドの人々は,サウンドカーの活動に様々な反応を示しました。サウンドカーの発表に続いて伝道者が到着すると,手にお金を持って文書を求めようと家の人々が待っていることもあれば,怒った群衆が屋根から拡声器を引きずり降ろそうとして自動車を揺さぶることもありました。

J・F・ラザフォードの訪問

J・F・ラザフォードは一度だけ,1938年にニュージーランドを訪れました。同兄弟はオーストラリアでの大会に出席する途上,4月に立ち寄り,ファウンテン・オブ・フレンドシップ・ホールでオークランド会衆の人々に話をしました。その晩,ラザフォード兄弟を乗せた船はオーストラリアのシドニーに向けて出帆しましたが,その時ニュージーランドから14名の兄弟が同行しました。その兄弟たち全員は4月15日ラザフォード兄弟の船室に招かれ,記念式を祝いました。

2週間後の帰りの船の中で,組織的な証言が行なわれました。早朝だれも気付かないうちに,各船室のドアの下にパンフレットが差し込まれ船全体に証言がなされたのです。1938年5月2日,オークランドで数時間の停泊時間があったので,ラザフォード兄弟は昼食の時間にオークランド市公会堂で公開講演をしました。

不穏な雲行きの中での活動

1939年ロバート・レイズンビーはウェリントンにあったニュージーランドの文書倉庫を管理するよう任命されました。オーストラリア・ベテルで奉仕していたレジ・ジョンストンがロバートと一緒に働くようになりました。当時ウェリントン会衆には12人ほどの兄弟たちしか交わっていませんでした。集会は文書倉庫の本部として使われていたケントテラス69番の家の居間で開かれていました。1939年には,ニュージーランドに35名の開拓者を含む320人の王国伝道者がおり,19の会衆がありました。

そのころ,宗教的反対のあらしの兆しが現われていました。特にカトリック教会は,エホバの証人が配布する文書によって自分たちの教理や慣行が暴露されることに憤慨していました。ニュージーランド・カトリック・タブレット誌の1939年4月19日号はエホバの証人に言及し,こう述べていました。「一方,この増大する脅威について自分たちの代表者である国会議員に異議を申し立てるのは善良な市民すべての義務である。十分に異議が申し立てられるなら,政府は処置を取らざるを得なくなるだろう」。

伝道活動が禁止される

1年後の1940年10月13日,兄弟たちは南島の小さな町オーマルーで,「政府と平和」と題するラザフォード兄弟のレコードによる講演を宣伝していました。その晩,巡査一人を含む40名ほどの人が講演会に集まりました。ヨーロッパは第二次世界大戦のさなかで,エホバの証人に対する迫害は強まっていました。それでジョージ・エドワーズとハレット・リドリングが玄関で警戒に当たりました。銃剣を付けた30.3口径のライフル銃を持つウィリアム・ミーハンという人物が二人に近付いて来て,「さあ,逃げられないぞ。手を挙げろ。さもないと撃つぞ」と言いました。

二人の兄弟たちはその男からライフルを奪おうとして,つかみ合いになりました。銃が撃たれ,そばに立っていたフレデリック・マッコーリーが足を撃たれて倒れました。出血がひどかったため,フレデリックは急いで病院に運ばれました。六日後も容体は思わしくなく,フレデリックの足は切断されました。その後フレデリックは順調に回復しました。裁判にかけられたミーハンは,エドワーズとマッコーリーを銃で脅したというだけの罪に問われ,重労働2か月の判決を言い渡されました。

その発砲事件の三日後,オーマルー退役軍人協会の幹事A・C・パイパー氏はウェリントンにあるニュージーランド退役軍人協会書記長に次のような手紙を書き送りました。

「オーマルー退役軍人協会の理事会で,次のような決議案が満場一致で可決されました。すなわち,1940年10月13日オーマルーで開かれた,『エホバの証人』と称する宗派の集会で起きた惨事のことを考え,またこの宗派に対する地元住民の強い敵意を考え,ニュージーランド自治領全域でこの宗派を禁止するよう政府に要請されたい。……この国の他の地域でさらに問題が起きないうちにその活動をやめさせるべきである」。

こうして1940年10月に,エホバの証人の活動はニュージーランドで禁令下に置かれました。しかし興味深いことに,6週間後,戦時緊急条例に関する討論の最中,P・フレイザー首相は次のように述べました。

「私はある特定の教会を支持するつもりはありませんが,戦争中に人々の宗教に侮辱が加えられるのを防ぎ,できればさしあたりそれをなくすことが首相である私のつとめと心得ています。……私は法務長官がエホバの証人と何らかの協定に達することを希望しています。私はエホバの証人が誠実でひたむきであることを疑わないからです。エホバの証人に反対すべき理由は何もありません。また自分の良心に従って崇拝する権利が彼らにあるかどうかを問題にするものでもありません」。

1941年5月8日,政府はエホバの証人に対する禁令を改正しました。それにより,エホバの証人は「聖書を研究し,祈りをささげ,あるいは崇拝するために」集会を開くことができるようになりました。実際には,聖書だけを携えていくのであれば戸別に証言することも許されたので,兄弟たちはそのようにしました。

禁令下での活動

ケントテラス69番の施設が手狭になったので,禁令が出る直前に,ダニエル通り177番の土地家屋がベテルホームとして購入されました。ケントテラスの建物は1945年に禁令が解除されるまで下宿屋として貸しに出されました。禁令が敷かれたという発表があって,文書は国内の諸会衆に運び出されました。そしてベッドの下や物置の中,屋根裏などに隠されました。ダニエル通りの家では,レジ・ジョンストンが天井裏を大きく仕切って,はね上げ戸を付けそこに文書を保管しました。そして手紙で文書の注文があるとそこから発送し,必要な場合には町の中の兄弟たちの家に隠してある在庫文書で補給しました。

警察は不意に伝道者の家に来て協会の文書を捜したものです。非常に巧みに隠してあったので,大抵警察には見付かりませんでした。一人の姉妹は文書をカーペットの下に隠していましたが,警察はその上を歩いていたのに何も発見できませんでした。また別の兄弟はその当時のことをこのように語っています。「警察が見付けたのは私たちの個人研究用の出版物だけでした。天井に50カートンもの文書があったのですが,警察はそれに気付きませんでした」。

モリー・トムソンは「ものみの塔」誌の毎号の研究記事を原紙にタイプしました。それから作られた印刷物は研究用として各会衆に送られました。「子供たち」と題する新しい本も謄写版刷りで1,000部印刷されました。それは製本されずに一折りずつ,週中行なわれる書籍研究用の質問と一緒に兄弟たちへ送られました。印刷したり複写したりする道具は,オークランドのやや辺ぴな所にあったジョージ・コバチーの家の壁や天井のパネルの裏に隠されていました。

また,兄弟たちは夜遅くひそかに集まり,郵便受けに小冊子を入れて回り,時には夜中の2時ごろ家に帰ることがありました。翌日,人々が電話で警察に通報して大騒ぎになったものです。クライストチャーチで,メサビー姉妹が逮捕され1週間投獄されました。警察はニュージーランドのエホバの証人の指導者たちを知りたがっていました。メサビー姉妹は,特別に教えてあげましょうと言いました。3人の警官が身を乗り出して来たとき,メサビー姉妹は,その指導者はエホバ神とイエス・キリストですとささやき,3人を大いに悔しがらせました。

禁令が敷かれた直後の4か月間に14件の訴訟がありました。多くの兄弟は3か月の実刑を言い渡され,執行猶予になった人々もいました。グレース・バグナルは証言していたとき,ローマ・カトリックの男の人が警察に通報したので捕まりました。5ポンドの罰金の支払いを拒否したところ,14日間投獄されました。

中立の立場を取ったために監禁される

政府は戦争中,仮収容所を設けました。兄弟たちは兵役に服さなかったため,戦争中と戦後6か月間,その収容所に監禁されました。そのような収容所は八つほどあり,およそ80人の兄弟たちがそれぞれ4年半以上そこに入っていました。それらの兄弟たちは松林の木のせん定や道路工事などの仕事をさせられました。ロバート・レイズンビーとレジ・ジョンストンは収容所にいる兄弟たちを1か月に1度1時間ずつ訪問することができました。

冬の間収容所の兄弟たちは非常につらい思いをしました。掘っ立て小屋に収容された上,火を使うことは許されませんでした。インクはびんの中で凍りました。兄弟たちは寒さをしのぎ,熱を逃がさないために毛布の間や体の下に新聞をはさみました。収容所には鉄条網が張り巡らされ,見張りが四六時中監視していましたが,「ものみの塔」誌や他の新しい出版物は収容所に持ち込まれました。

出版物を収容所の中に入れるために色々な方法が使われました。ドリス・ベストは夫のクリフを訪問すると,幼い赤ん坊を夫に手渡したものです。クリフは赤ちゃんをほかの兄弟たちに順番に手渡して,しばらくの間抱かせます。赤ん坊の服の中には文書が隠されており,兄弟たちはその文書を抜き取ってから赤ん坊を母親に返しました。また,油を通さない紙で包んだ雑誌を真ん中に入れてケーキを焼き,それを受刑者に郵送するということも行なわれました。

収容所にいる間兄弟たちは耳を傾ける人すべてに王国の音信を宣べ伝えました。集会も開かれました。ロトルアから64㌔離れた所にあるストラスモア収容所では大会のプログラムさえ準備されました。兄弟たちは宗教的な集まりのために利用できた,2軒の小屋にまたがった細長い部屋の使用許可を得ました。そして収容所にひそかに持ち込まれたプログラムを基にしてプログラムを作り,他の受刑者をひそかに招待しました。そのプログラムに31人の兄弟のほか大勢の受刑者たちが出席しました。

禁令の解除

一方,外部の兄弟たちは禁令を解除するよう引き続き政府に強く働きかけました。ついに1945年3月29日,ニュージーランド全国の新聞は禁令の解除を報道しました。ウェリントンのドミニオン紙は一段の小さな見出しの下に次のように報じました。

「昨日,メーソン法務長官は,エホバの証人に課されていた特別な制限を取り除くと発表した。同長官は,公安緊急条例の下に,エホバの証人の組織が破壊活動分子であるとした自らの通告を撤回すると述べた。……(他の国々と同様)オーストラリアでもエホバの証人はかなりの期間制限を課されておらず,その結果は全く満足のゆくものである。……政府は,オーストラリアで制限を廃止した結果得られたと同様の良い結果が,ニュージーランドでも得られるという保証を十二分に得ている」。

今日でもエホバの証人の活動の反対者たちは,戦時中エホバの証人が破壊活動分子だったと非難したがります。しかし,禁令が解除されたのは戦争がまだ行なわれていた時だったという事実から,その非難が不当なものであることは明白です。カトリックアクションは,退役軍人協会と手を結んで,エホバの証人はいざこざを引き起こしているということを証明しようと計りました。オーマルーの発砲事件は,エホバの証人を抑えなければ国中で起こりかねない問題の表われである,ということを示そうとしていました。

禁令の解除によって,兄弟たちがあまり経験しないことが起こりました。クライストチャーチで,警察がアンドリゥー・ダウニーに,没収した出版物全部を取りに来るようにという電話をかけてきました。ダウニー兄弟はスコットランド人独特のがんこさを発揮して,「ですが,私たちがそれをお届けしたわけではありません」と言い,書籍を没収したのは警察だから,警察が返しに来てくれるのが筋だということをはっきりさせました。没収した書籍全部を返すために,警察は貨物自動車で2往復しなければなりませんでした。

禁令下にあったにもかかわらず,王国伝道者の数は1939年の320人から1945年の536人へ一足飛びに増加しました。戦争の終結と共に,さらに大きな増加が見られました。1949年には1,131名という伝道者最高数に達したのです。またその年に開かれた最初の大会には1,000人を超す出席者がありました。

組織を強める

1946年12月にチャールズ・クレイトンが到着しました。クレイトン兄弟はギレアデ学校の卒業生の中でニュージーランドに任命された最初の人でした。翌年の3月,ものみの塔協会の会長ネイサン・H・ノアがニュージーランドを訪れ,ウェリントンに支部事務所が設立されました。ロバート・レイズンビーが支部の僕になりました。それから数か月後に,さらに3人のギレアデ卒業生が到着しました。それはハワード・ベネシュ,オービル・クロスホワイトおよびサムエル・ベトリーです。

ベトリー兄弟はマオリ語を学び,マオリ族に対する伝道活動の発展に貢献しました。「1950 年鑑」はこう伝えています。

「マオリ族の間でさらに増加する見込みは十分にあります。……1年間にマオリ語で20の公開講演が行なわれ,合計470人が出席しました。その大半は真理をまだ聞いたことのない人々でした。マオリ族の習慣に従い,講演が始まる前に村の長老の一人がまず講演者と他の村からの訪問者を歓迎します。講演が終わっても人々はすぐに帰らず,講演について話し合うために残っています。恐らく一人か二人の人が即席の演説をし,講演者が挙げた要点について自分の考えを述べることでしょう。そのことに全く賛成だと言う人もいますし,賛成できないと言って質問をする人もいます。すると,最終的な発言権のある講演者が,さらに説明を求められた点をはっきりさせます。このような話し合いはすべてマオリ語で行なわれ,公開集会が終わってから長時間行なわれることが少なくありません」。

1950年,ニュージーランドで最初の王国会館がマオリ族の兄弟たちによりワイマに建てられました。材木の多くは,兄弟たち自身の土地から切り出した木から製材したものでした。

王室の訪問者に文書が手渡される

1954年の初め,イギリスの女王はマオリ族のある姉妹を通して,ニュージーランドのエホバの証人の活動について知りました。ニュージーランドのウェリントンのドミニオン紙はこう述べています。

「女王は,今日,ネピアーのマクリーン公園に設けられたひな壇で女王とエジンバラ公に謁見したマオリ族の一女性から思い掛けなく,ものみの塔協会発行の聖書と書籍を手渡された。王室からの訪問者に謁見した74名の中にトゥイリ・タレハ夫妻もいた。タレハ夫人は女王と握手する代わりに,茶色の紙できちんと包んだ小さな包みを女王に手渡した」。

その包みの中には「クリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳」と「新しい天と新しい地」と題する書籍が入っていました。新聞には,タレハ兄弟の語った次のような言葉が載っていました。「女王陛下はかつて,臣民を平等かつ公平に支配できるようソロモンのような知恵を持ちたいとおっしゃったことがあります。私たちはこれらの本が女王陛下にお役に立つと確信しています」。

1950年代の増加

1950年代の初期から半ばにかけて,ニュージーランドでは神権的に目覚ましい増加が見られました。1951年にウェリントン市公会堂で開かれた全国大会で,「全土に自由をふれ告げよ」と題するノア兄弟の公開講演を1,645名の聴衆が聴きました。1953年12月31日付のニュージーランド・ヘラルド紙は,行なわれたばかりの国勢調査を評して,エホバの証人がなぜそのように増加するのかという質問を起こし,次のように述べました。

「総数に移民の増加が影響を及ぼしていることもある。例えば,1945年当時,オランダ改革派教会の信者はニュージーランドにわずか37人しかいなかったが,1951年には264名になったと言われている。しかし,同じ期間にエホバの証人が示した650名から1,756名という増加を,そのような単純な理由に帰すことはできない」。

ニュージーランドの英国国教会の指導的な僧職者,チャンドラー主任司祭は,エホバの証人の増加の理由をある程度明らかにしていると言えます。同司祭はクライストチャーチのスター-サン紙の紙上でこの問題についてこう書きました。

「わたしたちの重大な手落ちは,恐らく牧師の訪問がなされていないということだろう。というのは,羊飼いが羊の群れを絶えず見回ることが必要なのと同様に,教区民の精神的な悩みとなっている重大な問題について話し合ったり,教区民が捕らわれていると思われる異教のわなから彼らを救う機会を見付けることは必要だからである。こう言っているわたしも,その点で自分が怠慢であったことを痛感している」。

同司祭はさらにこう続けています。

「語る事柄を印刷物によってもっと補わなければならないという確信を,これまで以上に強くしている。教会員に強い信仰を持ってもらいたいなら,今よりはるかに多くの本を読んだり研究したりするよう教会員に勧めなければならない」。

言うまでもなく,それはニュージーランドのエホバの証人が人々に行なうよう勧め,そのために援助の手を差し伸べてきた事柄にほかなりません。そして,大勢の人がこたえ応じて,クリスチャンの円熟へと成長していきました。事実,ニュージーランドは他の土地に霊的援助を差し伸べていたのです。1951年までに,ニュージーランドから合計13名の開拓者がギレアデ学校を卒業して他の国々で奉仕すべく派遣されていました。その中には,マオリ族として初めてギレアデを卒業したルドルフ・ラウィリも含まれています。ルドルフは後にニュージーランドへもどり巡回の業に携わりました。

新しい支部

1956年にノア兄弟は再びニュージーランドを訪問しました。この度はオークランドのカーロウ公園での全国大会で行なわれた同兄弟の講演に,3,510名が出席しました。訪問中,オークランドに土地を購入し,そこに新しい支部を建設するという決定がなされました。

ウェリントンはニュージーランドの首都で,支部もそこにありましたが,オークランドのほうが急速に発展しています。それで,オークランドにベテルの宿泊施設と事務所と王国会館,それに発送部門と印刷工場のための新しい建物が幾むねか建設されました。1958年3月,ベテル家族は完成したその建物に入居しました。

1958年6月13日から15日にわたる三日間,協会の新しい王国会館と支部の建物を献堂する,励みの多いプログラムが催されました。それはたまたま,ニューヨークで開かれた1958年の国際大会に出席する途上にあった150人のオーストラリアの兄弟たちの1日訪問と重なりました。やがて,その歴史的な神の御心国際大会に,ニュージーランドからも152名が出発しました。ニュージーランドの87の会衆のうち,半数を上回る会衆から出席者がありました。兄弟たちはこうした催しから大いに励まされました。そのことは,8月にニュージーランドの王国伝道者が3,346名という新最高数に達したことからも明らかです。こうして,ニュージーランドの人口に対する伝道者の割合は,616人につき一人になりました。

その月,ニュージーランドの兄弟たちの多くが神の御心大会に出席している間に,支部の僕ロバート・レイズンビーが亡くなりました。オークランドのマウントアルバート会衆で奉仕に関する話をしていた最中の突然の出来事でした。ノア兄弟は,そのことを連絡したギボンズ兄弟に対して手紙を送り,こう語りました。

「わたしはレイズンビー兄弟との交友をいつも楽しみました。そして兄弟が,アメリカで使われる表現で言うなら靴を履いたまま忠実に,兄弟たちに仕えながら亡くなられたことを知ってうれしく思います。そのような仕方で亡くなるのはとてもすばらしいことです。レイズンビー兄弟が病気であることは知っていました。レイズンビー兄弟にも是非この大会に出席していただきたかったのですが,大会のすばらしい結果や大会で起きた事柄を知っておられたことを聞いてとてもうれしく思います」。

ギレアデを卒業し,1957年からニュージーランドの支部事務所で奉仕していたベンジャミン・メーソンが新しい支部の僕に任命されました。

法的な闘い

1958年1月,兄弟たちは,レビン準市および地域戦争記念会館を三日間の大会に使用する許可を申請しました。レビン市会は,退役協会[後に退役軍人協会となった]が強く反対するまでは,その申込みに好意的でした。「戦争記念館は,危急の時に国家に尽くした人々を記念して建てられたもの」なので,エホバの証人に施設を使用させるべきではないという主旨の決議が採択されました。市会の議員数人が退役協会(R・S・A)の圧力に抵抗しましたが,他の多くの議員は意気地なくもその圧力に屈してしまいました。その結果,エホバの証人は幾十もの記念会館を使用できないことになりました。

兄弟たちは,それらの施設の使用を拒んで差別をしようとするそのような企てを覆すために訴訟を起こしました。1959年5月の審理の際に,協会の弁護士F・H・ハイは次のように論じました。

「このような使用拒否は実に不合理なことと言ってよい。1958年になって,戦争の記念物で実用性の高いものを使用する権利があるかどうかを第二次世界大戦中に人が行なったことによって決めるべきであるとする根拠は全くない。市会の措置は不当な差別によるものであり,しかるべき公正さを欠いている」。

1959年8月21日,ニュージーランド最高裁判所のT・A・グレソン判事は,次のような判決を言い渡しました。

「準市の市民で,エホバの証人である者たちがその地域社会で法律を守る階層を成していることに疑問の余地はない。そして,比較的少数であるとはいえ,エホバの証人も,退役軍人協会の会員と同様の法的権利を享受し,法的義務を負わねばならないとわたしは考える。原告に会館を使用することを拒否した被告市会は,広義の背任行為を行なったとみなせる。……

「こうした事情にかんがみ,次のように宣告する。『ものみの塔聖書冊子協会には……マウントロスキル市会が指定する妥当な回数,妥当な条件で,聖書の講演会を開くためにマウントロスキル戦争記念館を利用する権利がある』」。

翌日どの日刊新聞もその判決を報道しました。オークランドのワイヘケ・レジデント紙は,「道路委員会の屈辱の1週間」という見出しの下にこう述べました。

「グレソン判事は地方団体の宗教的な差別に関して判決を下し,合計8人の暗愚な委員を動揺させた。……道路委員会は,国のあちらこちらにある多くの意志薄弱な地方団体のように,R・S・Aから,エホバの証人に記念会館を使用させるべきではないと言われると,あわててそれに従った。グレソン判事によれば,エホバの証人はR・S・Aと同様の権利を有する。したがって,道路委員会はワイヘケ記念会館をエホバの証人に解放しなければならない。さもなくば,エホバの証人の民主的権利を踏みにじったと同様,今度は法をあからさまに踏みにじることになる。今やエホバの証人たちは,ワイヘケ道路委員会の圧制を受けることなく独自の方法で自分たちの神を崇拝することができる」。

「永遠の福音」大会

1963年にオークランドで開かれた「永遠の福音」大会の会場は,ニュージーランド最大の劇場であるシビック劇場でした。しかし,そこも出席者を収容しきれなかったので,2,000人を収容するオークランド市公会堂も使用されました。出席者の最高数は,16か国から来た191名を含む6,005名でした。一連の「永遠の福音」大会に出席しながら世界一周をする代表者たちの中には,当時ものみの塔協会の副会長だったフレッド・W・フランズもいました。

到着したフランズ兄弟は,シビック劇場の前の歩道でマオリ族の伝統的な歓迎を受けました。通行人も,美しい民族衣装をまとって歌うマオリ族の踊り手たちの方にたちまち集まって来ました。その珍しい歓迎を一番楽しんだのはだれか,夢中になって見ていた人々なのか,フランズ兄弟か,それともフランズ兄弟と握手し鼻をすり合わせて同兄弟を歓迎したマオリ族の姉妹たちなのか,判断がつきかねました。

その大会は,確かに,ニュージーランドの歴史上里程標となりました。ラジオとテレビによって空前の報道がなされました。最も興味深かったのは,バプテスマの模様を伝える95秒間のテレビ放映でした。大会出席者の伝道と振舞いの双方によって,優れた証言がなされました。シビック劇場の支配人は,「あなた方ほどよく組織され,際立って行儀の良い人々は見たことがありません」と言いました。

王国会館の建設

先に述べた通り,マオリ族は1950年にニュージーランドで最初の王国会館を建てました。その後,ニュージーランドで2番目の王国会館がギスボーンで献堂されたのは,1955年になってからのことでした。しかし,1960年代には,58の王国会館が建てられました。兄弟たちは,それまで,大抵かび臭くてたばこやアルコールのにおいの染み込んだ会場を借りていましたが,そこからエホバの崇拝に捧げられた美しくて清潔な新しい建物へ移ることができ,それら新しい王国会館を心から感謝しています。

こうした建設計画は1970年代にも続きました。現在,ニュージーランドにはエホバの証人の会衆が119あり,そのうち112の会衆が自分たちの王国会館で集会を開いています。また,さらに幾つかの王国会館の建設が計画されています。

「地に平和」大会

1969年11月,美しいアレクサンドラ公園のオークランド繋駕速歩クラブ競馬場は,1,500人の自発奉仕者の働きできれいな大会会場に変えられました。5,000鉢余りの花,300本の木や低木,数十平方㍍の“即席の芝生”で,演壇が飾られました。また,赤いベゴニアを背景に,ゼラニウムの斑(ふ)入りの葉の緑で“ハエレ・マイ”(マオリ語で“歓迎”の意)という文字が描き出されました。そこで行なわれたのは,六日間にわたる「地に平和」国際大会で,N・H・ノア兄弟とF・W・フランズ兄弟のほか外国から幾十人もの代表者が出席しました。

海外からの出席者のために,マオリ族の歌と踊りを含む特別なプログラムが用意されました。マオリ族の一人の兄弟は,熱心に聞き入る聴衆に向かって,その大会に実の親族193人が出席していると話しました。それは,マオリ族が王国の音信にいかによくこたえ応じているかを如実に物語っていました。

オークランド繋駕速歩クラブ委員会の委員の中には,エホバの証人に自分たちの施設を使わせることに疑念を言い表わしていた人々がいました。ところが,同委員会の幹事から,大会に対する委員たちの感想を示す次のような手紙が寄せられました。

「皆様の大会が終了したので,この機会に,皆様がアレクサンドラ公園競馬場において優れた仕方で大会を運営されたことに対し皆様と,出席者の方々すべてに,私たち委員会の感謝の言葉を述べさせていただきたいと思います。

「また,皆様がすばらしい協力を示されたこと,および大会中施設をよく維持してくださったことに対して皆様と,皆様の作業員の方々にお礼を申し上げたいと思います。

「この地域で再び大会を開かれるようであれば,ぜひアレクサンドラ公園の施設をご利用ください。

「最後に,私と競馬場支配人から個人的に関係者すべてに御礼申し上げます。皆様にご利用いただけて光栄に存じます」。

しかも,競馬場の役員,ホテルの経営者,交通関係者,取引業者たちが,自分たちの方から,エホバの証人の清潔さや親しみ深さまた模範的な振舞いを心からほめました。一人の保安官は,40年間仕事をしていてエホバの証人の大会に匹敵するものを見たことがないと言いました。エホバの証人の大会は,これまでニュージーランドで開かれた大会の中で最もよく組織されていたと言った人々もいました。

この度の大会も,報道機関を通じて十分に報道されました。421人の新しいエホバの証人のバプテスマの模様は全国的に報道されました。大会の講演者の一人は,ニュージーランドのバプテスマを受けた活発な証人全員の10人に一人がその大会の1969年11月7日にバプテスマを受けたことになると述べました。ノア兄弟による『楽園の平和に戻る道』と題する公開講演には,8,400人という大勢の出席者がありました。

支部の増築

1973年には,王国伝道者の数が6,000人を上回る最高数に達し,そのため1958年に完成した支部の施設は手狭になりました。そこで,1973年7月に,その建物に大規模な増築をする工事が始まりました。1973年の12月の「王国奉仕」はこう伝えています。

「11月18日,日曜日に最後のれんがが積まれました……それまでの18週間に増築計画全部が文字通り終了しました。概算によれば,その間に248名の異なった兄弟が約1万6,000時間働きました。兄弟たちのそのようなすばらしい支持を心から感謝しています。そして,わたしたちは仕事場が広くなったことの益をすでに味わっています」。

1970年代に開かれた里程標となった大会

1973年の「神の勝利」国際大会は,南島最大の都市クライストチャーチでそれまでに行なわれた神権的な行事の中で最も大規模な集まりでした。オーストラリアから500名,北アメリカから350名が加わって,ランカスター公園には1万1,640名という驚くほど大勢の人々が集まりました。それは,1969年の国際大会の出席者数を3,000人余りも上回っていました。その大会の主な話し手は,統治体のレオ・K・グリーンリース兄弟でした。

5年後の1978年12月には,オークランドのエデン公園で「勝利の信仰」国際大会が開かれました。その大会はニュージーランドで開かれたエホバの証人の大会の中で最大のものとなり,出席者数は1万2,328名という最高数に達しました。ロイド・バリー,ジョン・ブース,テッド・ジャラズといった統治体の成員が大会のプログラムを担当しました。

人々の霊的必要の世話をする

過去何年もの間に,サモア,トンガ,ニウエ,ラロトンガなどの島々から6万人余りのポリネシア人が,ニュージーランドに住居と仕事を求めてやって来ました。そのうちの3万6,000人ほどは大オークランドに住んでいます。それらの人たちの霊的必要の世話をするため,1977年2月にはオークランドにサモア語の会衆が設立されました。その会衆は,ニュージーランドでも特に増加の速い会衆の一つで,1980年3月には216名が記念式に出席しました。

羊のような人々をもっと効果的に援助する備えを兄弟たちに与えるため,特別の学校が開かれました。1978年,ニュージーランドの700人のクリスチャンの長老たちは,内容に変更の加えられた15時間にわたる王国宣教学校に出席しました。次いで,1979年には,184人の全時間の王国伝道者たちが,2週間にわたる開拓奉仕学校から大きな益を得ました。同じころ,ニュージーランド支部の支部委員たちジョン・ウィルズ,エド・ギボンズ,チャールズ・タレハ,ジョン・カミングはブルックリンの世界本部で開かれた5週間にわたるギレアデ支部学校に出席しました。その学校で,兄弟たちはニュージーランドの人々の霊的必要を世話するための責任を担うのに役立つ実際的な教えを受けました。

王国の教育活動を促進する別の優れた備えは,ニュージーランドのエホバの証人の新しい大会ホールです。オークランドの郊外にある,1934年に建てられた古い州立映画館が購入され,400人ほどのエホバの証人の自発的な奉仕者によって見違えるように修復されました。その美しい施設は1978年2月に献堂されて以来,七つの巡回区が年に2回そこで大会を開いています。

エホバの後ろ盾によって

ニュージーランドのエホバの証人の活動を75年余り前の始まりから振り返ってみると,エホバ神の祝福が注がれて来たことがはっきりします。毎週何千人もの人々が,100を超える立派な王国会館に集まり,エホバ神やその壮大なお目的に関する知識を深めています。1980年3月31日には,1万5,385名という大勢の人が記念式に出席しました。その多くは王国の希望を活発に宣明しています。

現在ニュージーランドには王国宣明に参加している伝道者が7,000人余りいます。そのうち約350名は開拓者です。それらの人々は全体として毎年伝道活動に約100万時間を費やし,100万部を上回る「ものみの塔」誌,「目ざめよ!」誌を配布しています。ニュージーランドのほとんどの家庭は,年に3回ほどエホバの証人の訪問を受けています。

ニュージーランドでも世界のどこでも,王国の良いたよりを宣べ伝える点で成し遂げられてきた事柄は,単に,一個の人間や人間の団体の努力や能力によるものではありません。むしろ,エホバご自身が述べておられるように,それは,『軍勢によらず,権能によらず,わたしの霊によって』成し遂げられているのです。―ゼカリヤ 4:6,新。

[208ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ニュージーランド

タスマン海

太平洋

オークランド

テムズ

ワイヒ

ロトルア

オポティキ

ギスボーン

タウマルヌイ

タラデイル

ダニーバーク

パーマストンノース

エケタフナ

ローアーハット

ウェリントン

シェビオット

クライストチャーチ

リトルトン

オーマルー

ダニーディン

ツアタペレ

インバーカーギル

[210ページの図版]

ビル・バリー(右): 真理はクライストチャーチで「ビル・バリーの宗教」として知られた。その息子のロイド(左)は現在エホバの証人の統治体の一員になっている

[214ページの図版]

1967年に亡くなるまで50年余の間,開拓奉仕を行なったフランク・グローブ

[220ページの図版]

現在ニュージーランドのベテルで奉仕している,マオリ族出身のチャールズ・タレハ。マオリ族の中で著名人だった父親が真理を受け入れたとき,マオリ族の宗教界は大騒ぎになった

[228ページの図版]

1930年代の南島での開拓奉仕 ―「川の危険」

[230ページの図版]

J・F・ラザフォードの講演を1度聴いただけで仕事を辞め,それから得られる安心感を捨てて開拓者になったジム・テイト

[232ページの図版]

王国の音信を宣明するために用いられたサウンドカー

[237ページの図版]

ダニエル通り177番のベテルホーム。禁令下にあったとき,この家の屋根裏に文書が隠された

[242ページの図版]

1950年にマオリ族の兄弟たちがワイマに建てた,ニュージーランドで最初の王国会館

[247ページの図版]

1958年に亡くなるまで長年支部の僕を務めたロバート・レイズンビー

[249ページの図版]

「永遠の福音」大会に出席するためオークランドを訪れたフランズ兄弟は,握手をして鼻をすり合わせるというマオリ族の風習に従ったあいさつを受けた

[253ページの図版]

オークランド支部の建物

[255ページの図版]

オークランドの郊外デボンポートの古い州立映画館が購入され,大会ホールに改造された