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イタリア

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イタリアはしばしば“美しい長ぐつ”と呼ばれてきました。アプリアをかかと,カラブリアをつま先,アルプスを脚の上の部分に例えると,同国は18世紀の長ぐつのような形をしているからです。このように,イタリアは地中海に突き出た細長い半島なのです。その名称は,古代ローマ人がこの半島の南部に与えた呼び名 ― イタリア ― に由来します。伝説によると,これは“雄牛の地”あるいは“放牧場”を意味します。平原・山々・湖・浜辺・オリーブの木立ち・ぶどう園・いとすぎの木の生い茂る山腹など,イタリアの田園地帯の自然の魅力的な景観はよく知られています。シチリア島とサルジニア島の二つの大きな島もイタリア領です。

ほぼ5,700万人に上る人口の大半はカトリック教徒ですが,教会の活動への参加はごく限られています。

真のキリスト教は最初にこの地にどのように定着し,後に消滅することになったのでしょうか。この国でのエホバの証人の宣べ伝える業は,いつどのようにして始まりましたか。

イタリアの初期のクリスチャンたち

西暦59年のことでした,一人の中年の男性を含む囚人の一行が軍隊の一士官に護送されて骨の折れる,危険な旅をしていました。難船に遭いながら奇跡的に助かった後,一行はイタリアの南にある島,マルタ島に上陸し,3か月後にはその旅をどうにか再開することができました。一行の乗り込んだ船は,水夫を危険から守ると信じられていた,ゼウスの双子の息子にちなんで,「ゼウスの子ら」と呼ばれていました。しかし,囚人のうちの一人は,ギリシャ人やローマ人の神々の崇拝者ではありませんでした。その人はイエス・キリストの弟子で,パウロという名の人物でした。一行はシチリア島のシラクサに着き,そこで三日を過ごした後に,メッシナ海峡を通ってレギウムに停泊しました。それから程なくして,一行はナポリに近いポテオリに上陸し,そこで地元の霊的な兄弟たちから少しの間とどまるよう懇願されました。さらに七日を過ごした後,一行は,同帝国の主要な長距離軍事商業幹線道路であるアッピア街道を,ローマへ向けて旅立ちました。パウロが間もなく到着するというニュースがローマ会衆に伝わり,兄弟たちは“アピウスの市場”および“三軒宿”まで愛に動かされて迎えに行き,そこから旅程の終わりまで旅人たちに付き添いました。―使徒 27:1-28:16

パウロはローマのクリスチャンたちを非常に高く評価していたので,それ以前に,「あなた方の信仰のことが世界じゅうで語られている」と書き送ったほどでした。―ローマ 1:8

ところが,ある期間繁栄した後に,真のキリスト教は背教にのみ込まれてしまいました。そうした背教の起きることをイエス・キリストは予告しておられました。(マタイ 13:26-30,36-43)宗教指導者たちの振るう世俗的な権力は大きくなってゆき,とうとうコンスタンティヌス帝の時代に,宗教と政治の各分子が力を合わせるようになりました。その結果,教皇制を伴うカトリック教が設立されました。

霊的な闇がイタリアを覆う

暗黒時代には,いわゆる宗教改革の影響もイタリアではほとんど感じられず,この半島の住民の上に垂れ込めた霊的な闇は相変わらず至高の権威を振るっていました。神の言葉の真の知識を得ようと努める人がわずかながらいましたが,その大半は自分たちが新たに見いだした聖書の知識を他の人々に分かつことのできる外国へ逃れました。イタリアにとどまった人々は投獄され,異端審問所で死刑を宣告されました。

1870年に,カトリック教会が俗権を握っていた広大な土地である“教皇領”は,現在でもバチカン市国が占めているわずかばかりの地域を除いて,イタリア王国に併合されました。その結果,その土地で信教の自由が拡大される良い見込みがもたらされました。ところが,1922年にベニト・ムッソリーニが政権を握ってから程なくして,そうした希望は打ち砕かれました。ムッソリーニは1929年にカトリック教会との政教条約<コンコルダート>に調印し,カトリック教会と僧職者に例外的な特権を与え,抑圧の新たな期間へと道を開きました。それで,現代のイタリアにおけるエホバの証人の宣べ伝える業はどのようにして始まったのだろうか,という質問が生じます。

始まり

真のキリスト教の再生は19世紀末にまでさかのぼります。それは,ピエモンテ州のトリノから38㌔ほど離れた所にあるピネロロという小さな町でのことでした。ピネロロは“ワルド派の谷”として知られる,コチアン・アルプスの幾つかの美しい谷の一つに位置しています。“ワルド派の谷”という名は,聖書の数々の真理に対する認識を示したリヨンの商人,ピエール・ワルドの追随者にちなんで付けられました。

1891年に,あるアメリカ人の旅行者がその最初のヨーロッパ歴訪の途上ピネロロに立ち寄りました。この人はものみの塔協会の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルでした。そこピネロロで,ラッセルはダニエレ・リボイレ教授に会いました。この人はトッレ・ペリチェのワルド派文化センターで幾つかの言語を教えるワルド派の信者でした。リボイレ教授は結局エホバの証人にはなりませんでしたが,ものみの塔協会の出版物に説明されている聖書の音信を広めることに深い関心を示しました。

数年が過ぎ,その間に,ピネロロに近いサン・ジェルマノ・キゾネに住むワルド派の信者,ファニー・ルリが,アメリカに住む親族から「世々に渉る神の経綸」と呼ばれる本を受け取りました。1903年までに,この女性は本の中に書かれている事柄が真理であることを認め,自宅に少数の人々を集めて集会を開いていました。

さらに1903年前後に,リボイレ教授は,「世々に渉る神の経綸」という本をイタリア語に翻訳しました。教授は自ら費用を負担し,その本を1904年にティポグラフィア・ソシアーレで印刷しました。それは米国でこの本のイタリア語版が出される前のことでした。自分の出した1904年版の中で,リボイレ教授は読者に対して次のような注を書いています。「わたしたちはこの最初のイタリア語版を主の保護にゆだねます。神がこれを祝福してくださいますように。その結果として,数々の至らない点があるものの,この版が主の極めて神聖なみ名を賛美し,イタリア語を話す主の子供たちをより深い専心へと励ます一助となりますように」。エホバは確かにこの本の配布の結果を祝福されました。

リボイレ教授は,「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌をイタリア語に翻訳するようになりました。それは1903年に季刊誌として出版され,ピネロロで印刷されました。興味深いことに,この雑誌は郡の特に主立った中心地の主要な新聞雑誌小売業者へ正規のルートを通して配布されました。

この同じ時期に,クララ・チェルリ・ランタレトとジョズエ・ビットリオ・パシェットも真理を知るようになり,数年後にレミージョ・クミネッティもこの二人に加わりました。これらの人々の名はいずれも,この報告を読み進むにつれて耳にすることになるでしょう。

会衆が組織される

1908年にエホバの現代の僕たちで成る最初の会衆がイタリアで組織されました。集会は木曜日の晩にピネロロのピアッツァ・モンテベロ7番地のチェルリ姉妹の家で開かれ,日曜日の午後にはサン・ジェルマノ・キゾネの近くにあるゴンディニのルリ姉妹の家で開かれました。

ラッセル兄弟が1912年に当時存在していた唯一の会衆を訪れるためイタリアを再び訪問した時,40人ほどが集会に出席していました。当時,業はものみの塔協会のスイス支部事務所により監督されており,この取決めは1945年まで続きました。イタリア語だけでなく,英語とフランス語をも話せるチェルリ姉妹がイタリアでのスイス支部の代表者を務めていました。

むなしい期待

第一次世界大戦中,イタリア人の兄弟たちで成る小さなグループは,世界の他の国々の兄弟たちが経験したような試みと清めの期間を経ました。1914年に,当時聖書研究者と呼ばれていたエホバの証人のある人々は,『雲のうちに取り去られて空中で主に会う』ことを期待し,自分たちの地上での宣べ伝える業は終わりを迎えたと信じていました。(テサロニケ第一 4:17)現存する記録は次のように述べています。「ある日のこと,そうした人々の幾人かはこの出来事が起きるのを待つために人里離れた所に出掛けて行きました。ところが,何事も起きず,一同は非常に打ちひしがれた気分で家へ戻ることを余儀なくされました。その結果,これらの人々のうちかなりの人が信仰から脱落しました」。

15人ほどが忠実を保ち,集会に出席し続け,協会の出版物を学び続けました。その期間について,レミージョ・クミネッティ兄弟は,「期待していた栄光の冠の代わりに,私たちは宣べ伝える業を行なうためのがんじょうな編み上げぐつを受け取りました」と述べています。

法廷でのクミネッティ兄弟の公判

1915年5月にイタリアが参戦したため,会衆の成員の一人,レミージョ・クミネッティ兄弟にとって非常に困難な時期が始まりました。軍務に就くよう選抜されたとき,クミネッティ兄弟は中立を保つことにしました。(イザヤ 2:4。ヨハネ 15:19)これはアレサンドリアの軍事法廷の前で裁判を受けなければならなくなることを意味しました。クララ・チェルリ姉妹は公判を傍聴し,ブルックリン・ベテルのジョバンニ・デチェッカ兄弟にその模様を詳しく書き送りました。同兄弟がイタリアの野外で起きている事柄にいつも関心を抱いていたことを知っていたからです。1916年9月19日付のその手紙は,そのとき起きた出来事に関する信頼のおける記述です。

「キリストにおける私の親愛なる兄弟,

「私たちの親愛なる兄弟,レミージョ・クミネッティがアレサンドリアでの公判の際に信仰のために確固とした立場を取り,立派な証言をしたことに関する良い知らせをすぐにお伝えすべきであると思いました。

「ファニー・ルリ姉妹と私は,公判を傍聴し,私たちの兄弟の確固とした信仰の公の告白に励まされる大きな特権にあずかりました。

「判事は何度も私たちの兄弟をわなに陥れて何らかの自白を取りつけようとしましたが,レミージョは一度たりとも混乱させられることはありませんでした。公判でのやり取りの記録は次のようなものです。

判事: 『被告はこの法廷で重大な嫌疑について裁きを受けようとしていることを警告しておく。それなのに何かおかしいことでもあるかのような顔つきをしているとは何事だ』。

クミネッティ兄弟: 『この顔の表情はどうしようもありません。心の中で自分の感じる喜びはどうしても顔に出てしまうものです』。

判事: 『被告はなぜ軍服の着用を拒み,国家防衛のために軍務に服することを拒むのか』。

クミネッティ兄弟: 『私がこの法廷に立っているのは,軍服の着用を拒んだからです。それだけのことです。私はそのほかにいかなる犯罪行為にも関与しておりません。憎しみと戦争の象徴である軍服を着用するのは神の子の一人としてふさわしくないと私は思います。同じ理由で,腕章を着けて工場で働き,戦争遂行の一端を担うことを私は拒否します。私は自分の隣人に対して平和的に行動することにより,神の子の一人としてらく印を押されることを望みます』。

判事: 『被告はクネオの刑務所で服を脱いで下着だけになったことを認めるか』。

クミネッティ兄弟: 『認めます,裁判長閣下,その通りです。私は3度軍服を無理やりに着せられ,3度それを脱ぎ捨てました。私の良心は,自分の隣人に害となる事柄を行なうという考えを受けつけません。私は他の人の益のために自分の命を差し出す用意はありますが,仲間の人間を傷つけるためには指一本上げることさえしないでしょう。神はご自分の聖霊を通して,隣人を憎むのではなく愛するよう私たちに指示しておられるからです』。

判事: 『被告はどんな教育を受けたのか』。

クミネッティ兄弟: 『それは余り重要なことではありません。私は聖書を研究してきました』。

判事: 『こちらの質問に答えるように。何年間学校に通ったのか』。

クミネッティ兄弟: 『3年です。しかし,繰り返して申し上げますが,キリストの学校で私の受けた訓練と比べればそれは余り重要なことではありません』。

判事: 『被告を誤った道へ導いたある者たち[ルリ姉妹と私のことを指している]と被告が接するようになったのはかわいそうなことだ。[非難するように]被告はその“聖書”とやらをどれほど研究したのか』。

クミネッティ兄弟: 『6年間です。後悔しているのはもっと前に始めればよかったということだけです』。

判事: 『この新しい宗教を被告に教えているのはだれか』。

クミネッティ兄弟: 『神ご自身がご自分の民を教えられます。より円熟した研究者たちが聖書の真理を理解するよう私を助けてくれましたが,神のみが私たちの理解の目を開いてくださいます』。

判事: 『被告は自分の不従順な行動の重大さを悟っているのか。自分の決定がもたらす結果を甘んじて受けられるほど強い決意を抱いているのか』。

クミネッティ兄弟: 『はい,自分でそのような決意を抱いていると確信しています。どんなことが起きようとそれを甘んじて受けるつもりです。たとえ死刑の宣告を受けようとも,私は主にすべてを尽くして仕えるという自分のした約束を決して破りません』。

「その後,検察官はクミネッティ兄弟に対して4年4か月の刑を求刑しました。そして,今度は弁護側の話す番になりました。

「弁護士が立ち上がり,このような人物は懲役刑を科されるどころか,その勇気と自分の神に対する忠実さとのゆえに称賛されるべきであると述べ,私たちの兄弟の立場に関してすばらしい証言をしてくれました。殺してはならないという聖書の命令に逆らって自分の良心に背くようなことを被告はしたくないのだ,という点が指摘されました。神の律法に従って行動していたのです。

「その後,判事たちは5分間退廷し,その後に判決を読み上げるために法廷に戻りました。『国王と国法に対する反逆のかどで,レミージョ・クミネッティを懲役3年2か月の刑に処す』。

「私たちの兄弟はにこやかな顔で判事たちに感謝の言葉を述べました。

「次いで,判事が,さらに言いたいことがあるかどうか兄弟に尋ねました。

「レミージョはこう答えました。『神の愛と人類に対するそのすばらしいお目的について話したいことは沢山あります』。

「それに対して判事はつっけんどんに言い返しました。『そのことについてはもう十分に聞いた。もう一度質問を繰り返す。判決に関してさらに述べたいことがあるか』。

「私たちの兄弟は熱情に顔を輝かせて,『ありません。繰り返し申し上げますが,私は他の人の益のために自分の命を差し出す用意はありますが,仲間の人間を傷つけるためには指一本上げることさえいたしません』と答えました。

「これで公判は終わりました。

「ファニー・ルリ姉妹と私は,私たちの愛する兄弟に話をする特権にあずかりました。だれもが兄弟のことを称賛しました。判事たちでさえ,地上の権力の前に屈服しようとしない光の子の勇気と結び付いた謙遜な態度に目をみはりました。神に霊と真理をもって祈るときに,光の子らは神だけに身をかがめることでしょう」。

「ある良心的兵役忌避者の遍歴」

この公判の後に起きた出来事はそれだけで別の話になります。この裁判が非常に著しいものであったため,幾年も後にリンコントロという雑誌が1952年7月/8月号の中でこの裁判について詳しく説明したほどでした。次に挙げるのは,「第一次世界大戦中のある良心的兵役忌避者の遍歴」と題する記事からの抜粋です。

「このエホバの証人は,1890年にポルテ・ディ・ピネロロに生まれた,レミージョ・クミネッティだった。……

「ところが,戦争が始まるとその機械工場[ビラール・ペローサのRIV]は戦争に協力することになり,従業員は腕章を着用し,自らを軍隊の権威の下にある者とみなすことを求められた。クミネッティはこれを受け入れ,民間人としてとどまることもできたであろう。そうしていたなら,後に耐えなければならなかった数々の裁判を受けずにすんだであろう。特殊な仕事に従事していたので,恒久的な懲兵猶予を得ようと思えば得られたであろうが,クミネッティはすぐにこう考えた。『神に自分の命をささげたのに,神のご意志を行ないながら,同時に戦争に協力する作業に貢献できるだろうか。間接的であるとは言え,私は「殺してはならない」および「自分のように自分の隣人を愛さなければならない」という命令に従わないことになる。ドイツ人,オーストリア人も,フランス人や英国人やロシア人と同じように,自分の隣人ではないだろうか』。曲がったことの嫌いなこの人にとって,答えは明らかで,明快であると思えた。……

「この人と同じ年齢層の人々が召集されたとき,クミネッティは自分の信念を貫いて入隊を拒否した。その結果,クミネッティは再び逮捕され,アレサンドリアの軍事法廷で裁かれた。そして,懲役3年半[実際には3年と2か月]の刑を言い渡され,ガエタの軍事刑務所に送られた。……ところが軍当局は,同胞が戦場で命を懸けているときに,彼が刑務所でのうのうと時を過ごしているのでは不公平であると考えた。……そこで当局はクミネッティを刑務所から出し,軍の管轄部隊に送り,そこで無理やり兵隊にさせて,国のために戦わせようとした。……そこに着いてから,彼は軍服を着用することを拒み,シャツだけの姿で庭に拘置された。

「ある期間,仲間からの全面的な嘲笑のただ中に置かれて過ごした後,クミネッティはこの問題をよく考え直し,特定の衣服を着用するだけで兵士になるわけではないと判断した。自分の上着に星を付けなければ,兵士とみなされることも,軍の規律に服させられることもないと考えたのである。そこで,星を付けずに軍服を着用したが,そのえりに星を付けさせることはだれにもできなかった。当局は彼を刑務所に戻し,そこから精神病院に移した。クミネッティは気が狂っているに違いないと当局は判断したからである。クミネッティはほかの人々と同じように推論する能力があったので,院長は彼を精神の錯乱した人物と類別することができずもう一度その連隊に彼を送った。軍隊の星を着用することもいかなる軍務に就くことをも断固として拒んだために,クミネッティは程なくして刑務所に戻された。それで,数か月の間,刑務所と精神病院との間を行ったり来たりした。

「最後に,クミネッティは所属の連隊に戻され,今回は一人の陸軍少佐がこれを最後にクミネッティの抵抗を打破しようと決意していた。ある日のこと,この少佐はクミネッティに銃を突き付けて,武器を取ってざんごうへ入るよう命じた。クミネッティは,……この少佐が既に何人もの兵士をもっとさ細な罪で殺していることを知っていたので……最後の時が来たに違いないと考えた。それでも,クミネッティは武器に手を触れることを,穏やかな態度で拒否した。そこで,少佐はほかの二人の兵士に命じてクミネッティのために背嚢を準備させ,それをクミネッティに背負わせ弾薬帯やサーベルなどを腰の周りにバックルで付けさせた。このようないで立ちをさせてから,少佐はけん銃を突き付けて脅しながら,前線へ出て行くよう命じた。クミネッティが動かなかったので,二人の兵士がその手足をつかんで力ずくでざんごうへ運んで行くよう命じられた。このとき,二人に連れて行かれる際に,クミネッティはこう述べた。『イタリアも惨めなものだ。兵士を力ずくでざんごうへ連れて行かなければならないようでは,一体どうやって戦争に勝てるだろうか』。この言葉に,さしもの荒々しい執念深い少佐も意気をくじかれ,クミネッティに着けさせた軍隊の装備を脱がせて,刑務所へ送り帰すよう命じた。

「その後少ししてから,この連隊の大佐が彼を呼びにやった。この将校は優しく論じることにより,クミネッティに軍隊の星を着用させようと決意していた。大佐は自分の執務室にクミネッティを呼んで,命令に従えば決して銃を手にする必要はなく,銃後で勤務するよう取り計らってやると言って,ありとあらゆる保証の言葉を与えた。クミネッティは後日……これが自分の経験した中で一番つらい試みであったことを認めた。一時は,その謙遜で恭しい態度を見て,大佐は戦いに勝ったと思い,父親のような口調でこう言った。『かわいそうに,軍隊の恐るべき力の前にどうして一人で立ち向かうことができようか。結局は打ち負かされることになるのだよ。さあ,わたしが星を付けてやるから,もう抵抗しないでそれを着用するのだ。君のためを思ってこれをしてあげるのだ。君が人を撃つようなはめには誓って陥らせないし,君の考えが全面的に尊重されることを誓おう』。

「クミネッティはごく簡単に,『大佐殿,私の制服に星を付けようとなさるならどうぞご随意に。しかし,外へ出次第,再びそれを取らせていただきます』と答えた。そのような不動の決意の前に,大佐はそれ以上何も言い張ろうとせず,彼をその運命に任せた。

「無学で謙遜なこの男は,その信仰のゆえに5度裁判にかけられた。そして,レジナ・チェリ,ローマ,ピアチェンツァ,およびガエタで投獄され,レッジョ・エミリアの精神病院にも入れられた」。

さらに余分の月々を刑務所で過ごした後,クミネッティ兄弟はとうとう前線に連れて行かれ,担架の担ぎ手をさせられました。前述の雑誌はこう伝えています。

「ある日のこと,前線の任務に就いていたとき,負傷した将校がざんごうの前に横たわっていて,戦列の後ろまで戻って来る力がなくなっているということを彼は耳にした。出掛けて行って,その将校を連れて来ようとする者は一人もいなかった。クミネッティは即座にこの危険な任務を引き受け,足に負傷することになったものの,その将校を安全な場所に連れ戻すことに成功した」。

クミネッティはこの行為に対して従軍記章を授与されました。「しかし,自分は隣人愛から行動したのであって,メダルを得ることを考えてしたのではないとの理由で,その勲章を受けようとしなかった」のです。

1916年8月18日にアレサンドリアの軍事法廷がクミネッティに対して宣告した評決は,ミラノにある軍事法廷記録保管所の公判記録10419に登録されています。疑いもなく,クミネッティ兄弟はクリスチャンの中立の立場を取った最初のイタリア人のエホバの証人でした。そして,イタリアの現代史上最初の良心的兵役忌避者であったと思われます。

イタリア事務所の開設

戦争が終わり,半島の至る所に死者と廃きょが残されました。業は引き続きスイス支部の指導の下に置かれていましたが,1919年以後イタリアに事務所が開設されました。それはピネロロのシルビオ・ペリコ通り11番地に借りた家に置かれました。

1922年に,レミージョ・クミネッティ兄弟がチェルリ姉妹に代わって協会のイタリアの代表者になりました。十分すぎるほどに忠誠を実証した男子がいてこの責任の立場を占めることができるのに,女性がその立場を占めているのはもはやふさわしくないと考えられたのです。ところが,チェルリ姉妹はこの変更に腹を立て,真理を離れました。

大戦後,ものみの塔協会の出版物を翻訳する仕事はジュゼッペ・バンケッティ教授により行なわれました。教授はワルド派の牧師でしたが,真理を学び,その価値を認識していました。説教壇からの説教によって自分の宗教にも,その中のある教えを組み込もうとさえしましたが,成功しませんでした。しかし教授は,この国の各地に真理の種を残しました。1913年前後に,教授はフォッジャ郡のチェリニョーラにおり,協会は同教授にあててそこに文書の積送品を定期的に送っていました。この積送品は教授の死後も土地のワルド派の教会に届けられ,後日,文書を読んだ人々により聖書研究者のグループが組織されました。

バンケッティ教授はものみの塔のほかにも,「神の立琴」や「神の救い」などの本,および数々の小冊子を翻訳しました。リボイレ教授同様,聖書に対するものみの塔協会の説明を信じ,その音信を広めてはいましたが,ワルド派の教会から完全に手を引くことはとうとうしませんでした。

1926年にバンケッティ教授が亡くなると,翻訳は短期間コウルティアル夫人なる人物によって行なわれ,この人は「創造」の本を翻訳しました。しかし1928年に,この仕事は献身した人,ジョズエ・ビットリオ・パシェット兄弟に割り当てられました。同兄弟は1939年11月7日にファシストの警察に逮捕される日まで翻訳の仕事を遂行しました。この期間にパシェット兄弟は,「政府」,「和解」,「生命」,「預言」,「光」(2巻),「立証」(3巻),「備え」,「保護」,「エホバ」,「富」,「敵」,および「救い」などの本を翻訳しました。これらの出版物は,神の民にとってまさに『時宜を得た食物』でした。(マタイ 24:45)特にそのうちの1冊である,「敵」という本の,中立の問題に関する忌たんのない態度のゆえに,当時存在していた兄弟たちの小さなグループの上に途方もなく大きい迫害の波が押し寄せました。

パシェット兄弟は1943年8月23日に釈放され,その後1956年に地上での歩みを終えるまで他の翻訳者たちと共に働き続けました。

外国からの助け

さて,第一次世界大戦が終わった時点にまで話を戻しましょう。1918年からほどなくして,米国で真理を知るようになったマルチェロ・マルティネリ兄弟がイタリアに戻って来ました。同兄弟は,コモ湖に通じるレートアルプスの美しい渓谷の一つ,バルテリナの出身で,王国の音信を携えて幾度もその区域を網らしました。そして1923年に“聖書文書頒布者”,つまり全時間の王国伝道者になり,ピネロロ地区のクミネッティ兄弟に加わりました。マルティネリ兄弟はその心の善良さゆえに深く愛されました。その善良さに促されて,同兄弟は迫害の激しい時期に各地に散在する少数の兄弟たちに愛のこもった手紙を書いたのです。同兄弟は1960年に自分の地上での宣教を終えるまで伝道の業を続けました。マルティネリ兄弟が主の業を遂行したソンドリオ郡には聖書研究者の小さなグループが組織されました。

1920年から1935年の間に,ベルギーやフランスや米国で真理を受け入れた移民がほかにもイタリアへ戻って来ました。それらの人々は,再び定住した土地で熱心な伝道を行ない,聞く耳を持つ人々を数多く見いだしました。このようにして,聖書研究者たちのグループがほかにも組織されました。

1923年にスイス支部は,イタリア語を話すスイスのティチノ州で働く3人の聖書文書頒布者に,イタリアへ移るよう勧めました。その3人はイグナツィオ・プロッティと彼の二人の妹アデーレとアルビナでした。翌年,もう一人の聖書文書頒布者エマ・ホッツ姉妹が3人に加わりました。

5人の聖書文書頒布者の熱心な活動

これら熱心な聖書文書頒布者たちの活動は確かに特筆するに値します。3人の姉妹たちは一つの区域で働き,イグナツィオ・プロッティとマルチェロ・マルティネリの両兄弟は別の区域で働きました。1923年から1927年にかけて,彼らはピエモンテの各地とロンバルジアの一部を網らしました。アデーレ・プロッティ姉妹は後にスイス出身のブルン兄弟と結婚しましたが,幾年も前に次のように書いています。

「1924年に,『望ましい政府』という小冊子がピネロロで2万部印刷されました。私たちはまた,『教会僧職者級を告発する』という冊子をベルンから10万部受け取りました。この冊子には1924年のオハイオ州コロンバスの大会で読み上げられた告発が載せられていました。それは強い口調で僧職者たちを非難するもので,イタリアの主要都市すべてで配布されました」。

1925年12月1日号の「ものみの塔」誌に載せられた報告は,この運動について次のように述べていました。「わたしたちのイタリアの兄弟たちは“告発”を10万部配布しました。兄弟たちは特に,法王をはじめとするバチカンの高官たちが必ず各々1部ずつ受け取るようにしました」。

このような厳しい音信を携えて行くことに,これら聖書文書頒布者たちが胸を躍らせたことは十分ご想像いただけるでしょう。ブルン姉妹はさらにこう述べています。

「クミネッティ兄弟とホッツ姉妹と私は,ジェノバで『告発』を一日で1万部配布しました。『世の支配者たちへの証言』という冊子が幾十万部もスイスから送られて来ましたが,その大半は官憲に押収されてしまいました。ほぼ3か月に一度,私たちは集会で自らを霊的に築き上げるため,サン・ジェルマノ・キゾネの兄弟たちを訪ねたものでした。一時の間,兄弟たちにお目に掛かりたいという私たちの切なる思いや熱烈な願いは言い表わし難いものでした。

「ある時,一つの村で一日中働き,非常に満足のゆく結果を得ました。森の中を通る,家までの一本道を通って帰途に就いたとき,私の心は喜びに満たされていました。楽しい事柄で頭の中を一杯にしながら歩いていたとき,ふと気が付くと,自転車を引いた若い男の人が私のそばを歩いていました。私は別に驚くこともなく,平和と公正の王国の統治についてその人に証言をし始めました。アレサンドリアまで戻る道のりを歩くのに2時間かかりました。その旅も終わりに近付いたころ,若者は私に向かってこう言いました。

「『お嬢さん,あなたのおかげで恐ろしい罪を犯さずに済んだ,ということをお話ししなければならないと思います。あなたに追いついたとき,あなたに危害を加えるつもりだったのです。抵抗したら,あなたを殺してさえいたかもしれません。ところが,あなたの晴れやかな顔と信頼しきった無邪気な表情を見て,あなたの信頼を裏切ることはできないと思ったのです。それから,これまでに聞いたこともないようなすばらしい事柄の数々を話してくださいました。この2時間で,人生に対する自分の態度が全く変わりました。今では自分がどんなに惨めな人間であったかが分かります。私は自分の生き方を是非とも変えたいと思います。こうした事柄について書いたものがあれば何でも私に譲ってください』。

「そこでカバンの中に残っていた文書すべてをその人に渡すと,その人は代金を支払いました。それから私と握手をして,さようならを言いました。ほかのときと同様このときも,私は本当にすばらしい仕方で保護されました」。

ブルン姉妹は50年間専心的に奉仕した後,1976年にチューリヒで亡くなるまで忠実を保ちました。彼女の兄で,やはり5人の聖書文書頒布者の一人であったイグナツィオは1970年にこう書いています。

「私たちは奉仕に費やす時間を数えることさえしませんでした。ただ朝から晩まで働いただけです。しばしば逮捕されては,少ししてから釈放されました。ガララーテ(バレーゼの近く)で,マルティネリ兄弟と私は,僧職者たちのでっち上げた偽りの嫌疑で逮捕され,投獄されました。私たちは1日に1時間ずつ,刑務所の庭に出て歩くことを許されており,それは他の受刑者たちに証言をする機会になりました。大抵の場合,私たちは耳を傾ける人々のグループに取り囲まれ,看守たちが立ち止まって聞いてゆくことさえありました。ある日のこと,刑務所の所長もやって来ました。受刑者たちは私たちが釈放されることを知ると,私たちを抱きしめ,心から感謝の言葉を述べました。私たちはこのことに大変心を動かされ,これらの人々に伝える機会を与えてくださったことを神に感謝しました」。

プロッティ兄弟はさらにこう言葉を続けています。「ある日のこと,家から家を回っていると,一人の人がつけて来るのに気が付きました。程なくして1軒の家から出て来たところを,秘密警察の情報員だと名乗るその人に呼び止められました。身分証明書を提示するよう求められ,何をしているのか尋ねられました。『私は望ましい政府の到来について宣明しています』と答えました。その同じ主題の小冊子を紹介しようと思ったのです。それを聞くと情報員は怒りそうになって,望ましい政府はすでに存在していると答えました。それは明らかにファシスト政権を指していました。そこで私はこう説明しました。『あなたの言っておられる政府は一時的なものにすぎません。私が告げ知らせているものはいつまでも続く政府です』。それから聖書を取り出して,ダニエル書 2章44節と7章14節とを読んでもらいました。この人がどんなに注意深くこれら二つの節を読んだかお目に掛けたいくらいです。私は逮捕されると思っていましたが,その人は聖書を返して,私を逮捕せずに,そのまま行かせてくれました。あれからもう何年にもなりますが,ファシスト政権が倒れたときあの情報員が私たちの交わした会話のことを覚えていたかどうか,いまだに気にかかります」。

プロッティ兄弟は王国奉仕を最後まで忠実に果たし,バーゼルで1977年に80歳で亡くなりました。

1925年 ― 最初の大会

数多くの困難があったにもかかわらず,業は拡大してゆき,1925年4月23日から26日まで,ピネロロで最初の大会が開かれました。協会の本部のA・H・マクミラン兄弟は,海外を歴訪していたので,その大会に出席することができました。大会はコロナ・グロッサ・ホテルの大きな部屋で開かれました。

ファシストの政府当局がこの大会の許可を与えるなどと期待するのはとても考えられないことでした。そこで兄弟たちはこの集まりを結婚式に見せかけました。大会中に,レミージョ・クミネッティ兄弟がスイス人の聖書文書頒布者の一人,アルビナ・プロッティ姉妹と結婚したのです。その歴史的な大会には70人が出席し,そのうちの10人がバプテスマを受けました。

「それらの日々は祝福と喜びと幸福感に満ち満ちていました」と,その大会に出席したブルン姉妹は書いています。同姉妹はさらにこう語っています。「ホテルの所有者はほかの泊り客や得意先の人々をホールに連れて来て,『皆さんちょっと見てご覧なさい。この屋根の下に原始教会があるんですよ!』と言いました。……すべてがよく組織されており,普通,見る間に物を取り払っていすを並べたものです。終わってから,私たちはいすを片付け,すべてをきちんと元通りにしてそこを去りました。だれもが喜んで,また進んで手を貸しました。それは大きな証言になりました」。

とはいえ,その最初の大会中奇妙なことで不便を忍ばなければなりませんでした。「私たちは様々な点で異なっていましたが,どうやらうまくやってゆくことができました。しかし,歌をうたう点ではどうにも調和が取れませんでした。北部出身の兄弟たちは生き生きとしたリズムでうたい,一方,南部出身の兄弟たちはゆっくりと非常に感情をこめてうたったので,とてもかわいそうで歌い方を変えさせることはできませんでした。そこで主宰していた兄弟たちは,イタリア南部出身の兄弟たちが最初にうたい,次いで北部出身の兄弟たちがうたうよう取り決めました」。

業が下り坂に向かう

宣べ伝える業は前途有望でした。1924年12月1日号の「ものみの塔」誌(英文)に載せられた報告はこう注解していました。「田舎の地方を行き巡り,文書を配布し本を販売する3人の聖書文書頒布者のために自転車が備えられました。近い将来にイタリアで真理が広範囲に広まるという大きな希望があります」。

その少し前に,クミネッティ兄弟は1万リラを相続しました。それは当時にしてはかなりの額でした。おかげで同兄弟は,兄弟たちをその地元の区域に訪れて励ます業や証言に自分の時間を専ら当てることができるようになりました。1925年5月1日号の「ものみの塔」誌(イタリア語版)には,1924年の末にクミネッティおよびマルティネリ両兄弟が行なった「イタリア縦断の旅の報告」が載せられました。両兄弟は5,000㌔に及ぶ旅をして,孤立した地域にいる兄弟たちやロンバルジアからシチリア島に至るまで様々な地区に住む関心を持つ人々を訪問しました。その報告は,ポルト・サンテルピディオ(中央イタリア)で,講演をするための会館の使用許可を得るための書類が提出されたことを述べています。そして,「当局側は少しの間問題をよく検討していましたが,私たちが粘り強く頼んだので,最後にはその許可を与えなければならなくなりました。……講演の当日,『死者の帰還は今や近い』を聞くために200人以上の人々がやって来ました」。それは疑いもなく大成功でした。

その後,様々な理由から業は徐々に下り坂に向かいました。1926年から1927年にかけて,3人の聖書文書頒布者が健康およびその他の理由でスイスに戻らなければなりませんでした。しかし,衰退の主な理由はカトリック教会に格別の特権を認める,同教会とファシスト国家との間の政教条約が1929年に調印されたことにありました。これは宗教的な抑圧の悲しい時期の始まりを印づけるものでした。

真理の小さな燈火がわずかながらあちこちで燃え続けました。ある所には兄弟たちから成る小さなグループがあり,また孤立した人々もいました。それらの人々と連絡を取り,彼らを一致させておくのは困難でした。その人たちは灰の下に隠された残り火の中の赤い石炭のようで,完全に消されてしまう危険がありました。そして事実,消し去られてしまった人もいました。クミネッティ兄弟は自分の手紙の中の一つで,その状況を次のように説明しています。

「もっと多くのことを行ないたいのですが監視の目がいよいよ厳しくなってきています。……彼らはありとあらゆる事柄を妨害します。『黄金時代』[現在の『目ざめよ!』誌]を3月までは受け取りましたが,それから届かなくなりました。最新の本や小冊子の入った小包みを幾つか送ったとの連絡がブルックリンから来ましたが,何も届いてはいません。あて先まで届く『ものみの塔』誌の数はいよいよ少なくなっており,熱心さを示す兄弟たちはだれであれ敵の手で逮捕されてしまいます。……国内の別の場所へ流刑にするとか,様々な種類の虐待を加えるとか言われて脅された人々もいます」。

王国の業は完全には制圧されない

「エホバの手は救いを施すことができないほど短くなったのではない。また,その耳は聞くことができないほど重くなったのではない」という事実がなかったとしたら,ファシストの支援者たちの後ろだてを得た僧職者たちにとって数十人の人々の活動を制し,やがてそれを完全に撲滅するのはそれほど難しいことではなかったでしょう。(イザヤ 59:1)神はご自分の忠節な者たちが打ち負かされてしまうことをお許しになりませんでした。

王国伝道者の小さなグループがあちらこちらで辛うじて生き延びていました。そうした人々が存在するようになり,保護されたという事実そのものは,エホバがご自分の強力な活動力によって彼らを守ってくださったことを示しています。

プラトーラ・ペリーニャの群れ

王国の良いたよりが初めてアキラ郡のプラトーラ・ペリーニャにもたらされたのは1919年のことで,それを携えて来たのは米国で真理を知るようになった一人の移民でした。この兄弟,ビンチェンツォ・ピッツォフェラートは,1951年に亡くなるまで天への召しに対して忠実でした。この兄弟はスルモナ,ライアーノそしてポポリなど近隣の町々で果物の行商人として働き,果物と配布用の文書を満載した二輪の手押し車を引いてそれらの町々にやって来ました。「世々に渉る神の経綸」,「神の立琴」などの出版物がこのような仕方で配布され,やがて関心を持つ人々から成る小さなグループが同兄弟の周りに集まるようになりました。

1924年に,同兄弟がポポリ(ペスカラ)の墓地の近くで「死者の帰還は間近い」という冊子の配布を終えようとしていたとき,司祭がファシストの若者たちを伴ってその活動を妨害し,尋問のために警察署へ同兄弟を引き立てて行きました。ところが,マレシアロ(警察署長)は音信に極めて好意的だったのです。署長はその警察署にいたカラビニエリ(国家警察官)全員を呼び集め,同兄弟の話を聞かせました。それで優れた証言が行なわれ,文書が配布されました。ピッツォフェラート兄弟がこれ以上ファシストに悩まされないようにするために,マレシアロは二人の警察官に鉄道の駅まで同兄弟を見送らせました。

1925年にピネロロで大会が開かれたとき,ピッツォフェラート兄弟は自分の妻と,兄弟になった関心を抱く人とを伴って出席しました。その当時すでに30人ほどから成る群れが同兄弟の家で集まっており,後日ある家族が新しい家を建てたとき,一つの部屋が王国会館用に取っておかれました。

1939年に僧職者たちは策略を弄して当局との間に問題を引き起こさせ,兄弟たちは非常に難しい事態に陥りました。文書は押収され,集会を開くことは禁じられました。ピッツォフェラート兄弟は逮捕され,ローマの特別法廷で裁かれて懲役刑を言い渡されました。同兄弟はほどなくして健康上の理由で釈放されると,再び逮捕される恐れがあったにもかかわらず,すぐに「良いたより」を宣べ伝え始めました。このように,この土地の兄弟たちの群れが完全に制圧されたことは一度もありませんでした。

ロセト・デリ・アブルッチの群れ

ロセト・デリ・アブルッチはテラモ郡の海岸沿いの村です。その土地の住民はカテリーナ・ディマルコという名の姉妹から最初に真理を聞きました。ロセト生まれのこの姉妹は米国へ移住し,1921年にフィラデルフィアで真理に接しました。そして,1年後にバプテスマを受け,1925年にロセト・デリ・アブルッチに戻りました。戻って来てからどんなことをしたでしょうか。同姉妹は次のように語っています。

「到着するとすぐに,私は他の人々に信仰について話し出しました。海水浴のための小屋の近くの浜辺で冊子や小冊子を配布していたこともありました。ある地元の男性はそれらの小冊子を読んで『おっ,これはカテリーナがアメリカから持って帰って来た新しい宗教に違いない』と声を上げました。その人は私の持っている残りのすべての文書も読みたいと思いました。そして,それらを読んで,それが真理だと確信するに至りました」。この人が最初で,その後に他の誠実な人々が続きました。デチェッカ兄弟はかつて,ディマルコ姉妹のことを,宗教上の反対者たちに対して振るわれる「真の剣」であると呼んだことがありました。体は弱ってはいますが,85歳のこの姉妹は今でも忠誠を保ち続け,自らの希望を固く守っています。

同姉妹の伝道の結果,真理に入った最初の人であるドメニコ・チモロージは,87歳で死ぬまで,正規開拓者として奉仕しました。死ぬ数年前に,その地域で業が始まったいきさつについてドメニコは次のような報告を書きました。

「私は自分の兄弟や父親,いとこや同僚に真理について話し始めました。結局,私たちは五,六人で『民のための慰め』という私の持っていた唯一の小冊子を読み,自分たちの聖書で聖句を開いて確かめていました。そして,アメリカ帰りの婦人,カテリーナ・ディマルコのところを訪ねてみようということになりました。その婦人の説明は筋道が通っていることをすぐに理解できたので,彼女の家で集会を開くようになりました。すぐにファシストが私たちのことを見付けだそうとしましたが,エホバの助けでどうやら集会場所を秘密にしておくことができました。

誠実な人々で成るその小さなグループの人々はほどなくして宗教的な不寛容の圧力を感じるようになりました。カテリーナ・ディマルコはこう語っています。「教区司祭が,『教会僧職者級を告発する』の冊子を配布したかどで私を告訴しました。無罪の判決が下りましたが,問題は終わっていませんでした。後日,イル・ドゥーチェ[指導者,ムッソリーニ]の話を聞きに行かなかったという理由で,私は初めて逮捕されました。なぜ行かなかったのかと治安判事から尋ねられたので,金の像の前でひざまずこうとしなかった3人のヘブライ人に関するダニエル書 3章の言葉を引用して,それに答えました。私は,イタリアの別の場所へ5年間の流刑に処すという判決を受けました」。

ドメニコの息子であるビットリオ・チモロージは,1930年代にしばしば文書が押収されたことを覚えています。それでも,数冊の「ものみの塔」誌とその他幾冊かの出版物はあて先に届きました。ビットリオはこう語っています。「デチェッカ兄弟は父やその他の関心のある人々にしばしば手紙を書いて,霊的な食物を送ってくれました。兄弟はわたしたちを危険にさらさないために遠回しの表現をしばしば用いました。ある時,『“敵”がなければ,モントーネに行けば見付かるだろう』と書いてきました。この提案に従って,グェリーノ・カストローナ兄弟はモントーネ村へ行き,『敵』という本と他の文書を持っている人を見付けだしました。

マロの群れ

「若いころから神を恐れる者になれたという貴重な賜物に対して,エホバにどれほど感謝してもし足りません」。これは,1962年に死亡するまでクリスチャンの割当てに忠実であり続けた一人の兄弟,ジロラモ・スバルキエロの書いた言葉です。その個人的な経験談は,やがて活気にあふれた会衆となってゆくエホバの証人の一グループに関する話と切り離すことができません。

スバルキエロ兄弟は元々熱心なカトリック教徒でした。そして,結び目を付けたひもを腰にじかに巻き,それにより自らをむち打ち,自分の罪に対するざんげの印として苦行をしていました。自分の苦しみを神にささげることができるように小石の上にひざまずいて祈りをささげることもよくありました。徒歩の巡礼にも加わり,一度は50㌔の距離を歩きました。そして1924年に,ジロラモはアメリカでエホバの証人と接していた人から初めて王国の音信を聞きました。ジロラモはどんな反応を示したでしょうか。ベネトのビチェンツァに近い小さな村,マロの出身であるこの信仰心の厚い大工はこう書いています。

「私は昼間働き,夜は聖書を読みました。雇い主が自分の入り用でない聖書を私にくれたのです。自分の読んだ事柄をそれほど多く理解できはしませんでしたが,ハルマゲドンの戦いに関する記述に非常に心を打たれ,それについてすぐに他の人々に話し始めました。ピネロロで奉仕していたクミネッティ兄弟に手紙を書きましたが,同兄弟からの手紙は私にとって大きな助けになりました。とはいえ,個人的な援助を全く受けなかったので,真理を十分把握するには8年の歳月を要しました。真理を把握すると,それまで毎朝欠かさず教会へ行って聖体拝領にあずかっていたのをやめました」。

迫害は遅れることなくもたらされました。スバルキエロ兄弟は次のように話しています。「聖書を研究するために,人里離れた場所で生けがきの影に身を潜めたものです。一度などは,ほら穴の中で記念式を執り行なったことさえありました。ほかの人たちも音信に関心を持つようになり,私に加わりました。ある日曜日の午後,私たち5人は聖書を研究するために個人の家に集まりました。少ししてから,村の司祭がずかずかと入って来て私たちを侮辱し,お前たちのような無知な者に聖書を理解できるはずがないと言いました。さらに,司祭だけが魂を救う力を持っている,と付け加えました」。

白熱した議論があり,投げ掛けられた質問に全く答えられなかった司祭は警察を呼びました。ところが,マレシアロ(警察署長)はその兄弟のこと,またその兄弟が善良さのゆえにその地方で非常に尊敬されていることを知っていたので,何の措置も取りませんでした。

スバルキエロ兄弟の話はさらにこう続きます。「その後少ししてから,協会は『王国は世界の希望』という小冊子を使っての運動を展開することにしました。私は小冊子を165冊携え,自転車に乗ってパドゥーアへ向かいました。ところが,途中で警察に呼び止められ,拘禁され,私をイタリアの別の場所へ流刑にするためのおぜん立てが整えられました。幸い,郷里の当局者がこれを知り,それに介入して私の肩を持ってくれました。そしてとうとう首尾よく釈放までこぎ着け,郷里まで連れ戻してくれました。私たちが主な広場に戻った時,当局者たちは私に,『もう懲り懲りしたでしょうね』と言いました。そこで,『とんでもない。これまで以上に決意を強めましたよ』と答えました。それを聞いて,彼らはあきれたように顔を見合わせました」。

ジロラモの息子,ジュゼッペ・スバルキエロはこう話しています。「ある日のこと,父に『私たちに反対する幾千人もの強い人たちに一体どうやって抵抗し,証言を続けていけるのでしょうか』と尋ねたことがありました。父は,『恐れることはないんだよ。この業は「人間からではなく,神から出た」ものなのだから』と答えました」。―使徒 5:33-40と比較してください。

ファエンザの群れ

1923年にスイスからイタリアへやって来た聖書文書頒布者,イグナツィオ・プロッティを覚えておられますか。1924年に,イグナツィオは自分の生まれ故郷である,山と栗の木に囲まれた小さな村,マッラディで証言する機会にあずかりました。真理の種は「りっぱな土」の上に落ち,幾人かの人が音信を受け入れました。(マタイ 13:8)そして今度は彼らがこの知識を他の人々に伝えました。

数年後,マッラディにほど近いファエンザ郡のサルナで,ドメニコ・タローニという名の農夫が人から数冊の文書をもらいました。この人はすぐに「良いたより」を受け入れ,1927年に「ものみの塔」を予約しました。もっとも,手元に届いたのはほんの数冊にすぎませんでした。その中のあるものはたまたま当局の目を逃れたものと思われますが,そのほかの数冊は秘密裏に届けられました。タローニ兄弟は肥よくなロマーニャ地方の最初のエホバの証人の一人でした。同兄弟が最初に真理をもって接触した人の一人はビンチェンツォ・アルトゥシで,この人は忠実な兄弟になり,後日ファエンザにある三つの会衆のうちの一つで長老として奉仕し,1981年に亡くなるまでその立場で仕えました。そして今度はビンチェンツォが他の人々に真理を広め,その人たちの中にはエミリオ・バビーニとその弟アントニオがいました。二人は死に至るまでエホバに忠実を保ちました。

これらの熱心な兄弟たちは個人の家で集い合いましたが,僧職者に見付かるやいなや迫害されました。脱落した人も幾人かいましたが,ほかの人は忠誠を保ちました。1939年にこの地方にまだ残っていた兄弟たちは9人で,それは,戦後の大規模な活動に取り掛かるのに十分過ぎる数でした。

ツォルテアの群れ

1931年と1932年に二人の移民が心に真理を入れて外国から戻って来ました。その二人は,ベルギーから来たナルチゾ・ステファノンとフランスから帰って来たアルビノ・バッティスティでした。二人はすぐに宣べ伝える業に取り掛かりました。前者は山の中腹を1,000㍍ほど上った所に,へばり付くようにして集落を成す人口数百人の小さな村,ツォルテアで,また,ポーランド人の兄弟たちから真理を聞いた後者はトレントから15㌔ほど離れたカリアーノで宣べ伝える業を行ないました。

ナルチゾ・ステファノンはイタリアへ戻る直前に「ものみの塔」誌を予約し,協会の他の出版物を数冊読んだだけでした。ツォルテアに戻ってから,ナルチゾは少しの間教会に通い続け,そして正にそこ,教会の中で最初の証言を行なったのです。ある日のことミサの際に,教区司祭が福音書の幾つかの部分を説明した説教を行ないましたが,ナルチゾは司祭の話に対して公に異議を唱え,ディオダティ版の聖書を使って司祭の誤りを示しました。

教会員はステファノンを支持する側と司祭を支持する側と真っ二つに分かれました。しかしやがて,司祭がその影響力を振るった結果,前者のグループは徐々に衰退し,実際に王国の音信を受け入れた人はごくわずかにすぎませんでした。ナルチゾ・ステファノンはそれを限りにカトリック教会を完全に後にし,ほかの人々もナルチゾに加わって,「忠実で思慮深い奴隷」の出版物を研究するようになりました。(マタイ 24:45-47,新世界訳)彼らは馬小屋の2階や納屋,そのほか僧職者やファシストの監視の目を逃れられる所ならどこででも集まり合いました。当時の政権は真のクリスチャンを容赦なく追跡して捕らえていたのです。

フランチェスコ・ツォルテアは『聞く耳』を持つ人の一人でした。この人の姓は村の名と同じでした。フランチェスコは1933年に真理を初めて聞いた時25歳でしたが,それ以来1977年に亡くなるまでずっとエホバへの不屈の信仰を示し続けました。

自分のクリスチャンとしての宣教の経験談の中で,ツォルテア兄弟は次のように書きました。

「私たちは見張られ,つけられ,取り締まられました。それが余りにもひどく,聖書を調べたい時には隠れてそうしなければならないほどでした。私は身をもってこの種の経験を幾つもしましたが,それらはいずれも信仰を弱めるのではなく,強めるものとなりました。1934年4月に,私は自宅から20㌔ほど離れたフォンツァーソ(ベッルーノ)で証言をするために,そこまで歩いて行きました。王国の音信を携えて家から家を回っていたとき,警官に呼び止められて警察署まで連行されました。そこで尋問を受け,文書を押収され,翌朝まで監房に投げ込まれました。

「後日,1935年7月に,緊急な公的連絡があるので警察署に出頭するよう通知を受けました。行ってみると,マレシアロ[署長]からこう言われました。『ツォルテアさん,あなたに関する事件がトレントのプレトゥーラ[地方治安判事裁判所]に回されたことをお伝えしなければなりません。そして,そこの当局は,あなたが携わっている活動がどんな種類のものかを詳細に供述するように求めています』。そこで,自分は人々に『神の王国を告げ知らせていた』と答えました。

「その後ほどなくして,8月に,再び警察署に緊急に出頭するよう求められました。今回は,トレントのプレトゥーラが私の最初の供述に満足しなかったと告げられました。『神の王国を告げ知らせる』という表現が何を意味するかを説明する別の供述を求めていたのです。そこで,主の祈りにある,『あなたの王国が来ますように』という言葉と調和したこの表現の聖書的な意味を説明しました。当局者はこの王国が政治的な政府であると誤解していたに違いありません!」―マタイ 6:9,10

しかし,この兄弟が本当に難しい事態に直面するのはまだ先のことでした。1935年10月にイタリアはエチオピアに対して宣戦を布告しました。ツォルテア兄弟は召集を受けたとき,中立を保つことに決めました。同兄弟は,「私は軍服を着て仲間の人間と戦うというようなことを拒否しました」と書いています。その結果,ツォルテア兄弟はイタリアの別の場所へ5年の流刑を言い渡されました。ステファノン兄弟とバッティスティ兄弟も同じ道をたどりました。

ポテンツァ郡のムロ・ルカーノへ流刑にされたツォルテア兄弟は宣べ伝える活動を続けました。同兄弟はこう伝えています。「私は落ち着くとすぐにレミージョ・クミネッティ兄弟と連絡を取り,宣べ伝える業を行なうための文書を求めました。ほどなくして,小冊子の小包みを受け取り,それを注意深く配布し始めました。私は様々な方法を使いました。個人的に手渡したものもあれば,道端のだれでも座れる腰掛けや駐車している車の中などに置いてきたものもありました」。

政府の大赦のおかげでツォルテア兄弟は1937年にツォルテアの自宅に戻ることができ,僧職者がエホバの証人に向けて爆発させた宗教的な不寛容の別のエピソードをちょうど目撃することになりました。地元の姉妹の一人が亡くなりましたが,司祭は聖なる土地を汚すことになるという口実をもうけて,姉妹を教区の墓地に葬ることを許そうとしませんでした。三日が過ぎましたが,事態は依然として暗礁に乗り上げたままでした。それから,ツォルテアと近隣の村のプラーデの教区司祭は議会の書記およびポデスタ(ファシズム政権下の市長)と会合を開きました。続いて起きた出来事は,初期クリスチャンに関する記録から取られたと言っても少しも不思議ではなかったことでしょう。ツォルテア兄弟は次のように書いています。

「三日目の正午になってやっと,すぐに葬式を行なうべきこと,また遺体は議会が墓地の中に土地を持っているプラーデで葬られなければならないことが伝えられました。そこで,私たちは出発しました。私たち四人に姉妹の家族と他の関心を持つ人々が続きました。町議会の役人一人と警察官一人が護衛につきました。途中笑い声やののしりの言葉や嘲笑が私たちを迎え,プラーデに着くと,一番面白いはずの,喜劇の終幕を見ようと群衆が待ち構えていました。

「正門は“祝福”されているので,私たちは正門から墓地に入ることは許されないとの決定が下されていました。その結果,私たちは墓地の内側と外側に一つずつ立て掛けた二つのはしごを使って壁越しにひつぎを入れなければならないことになっていました。群衆は私たちが壁越しにひつぎを運び込む光景を見て楽しもうとしてやって来たのです。この時点で,議会の役人が中に入り,このような取決めを作った責任者はだれかと尋ねました。すると,地元の司祭がその決定を下したとの答えが返って来ました。それを聞いて役人は,この葬列は正門を通って入るべきであると市長が命令を与えていると述べ,それから私たちにそうすることが許されました」。

モンテシルバノ,ピアネラ,およびスポルトーレの群れ

1930年代の初めに,ルイージ・ダンジェロがアブルッチ地区のスポルトーレに戻って来ました。この人はフランスで真理を知るようになり,帰って来てから自分の知っている事柄を親族や友人や隣人に伝えることによってそれらの人々に対するクリスチャン愛を示しました。ルイージのことを今でも覚えている兄弟たちは次のように述べています。

「ルイージは非常に活発で,熱意にあふれていました。孤立した兄弟たちを訪問する旅には数多くの困難が伴ったにもかかわらず,しばしば何キロにも及ぶ旅をしてそのような訪問を行ないました。当時一番普及していた交通手段は自転車でしたが,同兄弟の一番長い旅のことを思い起こすと,今日の私たちにとって励みになります。そのとき,同兄弟はアベリーノに住む一人の兄弟を訪ねるため,アペニン山脈を越えて合計ほぼ600㌔に及ぶ道のりを自転車で走破しました。出発前に,兄弟は山越えの際オオカミに出会ったときに備え,自転車に結び付けてゆくためのしっかりした棒を探してきました。さらに座席にクッションを取り付け,熱意にあふれて出発しました。わたしたちすべてが切実に必要としているクリスチャンの交友によって,もう一人の兄弟を励まそうという願いに燃えていたのです。同兄弟の宣教は短期間のものでした。1936年に病気にかかって亡くなられたからです」。

しかし,この兄弟が植えた真理の種は死滅しませんでした。むしろ,それらの種は「成長させてくださる」神のご意志にしたがって芽を出しました。(コリント第一 3:7)それで,ただ一人のエホバの証人から,ペスカラ郡のモンテシルバノ,ピアネラ,そしてスポルトーレの町々に伝道者の群れが形成されました。これらの兄弟たちもまた,「自分の苦しみの杭を取り上げて」,イエス・キリストの追随者として迫害に耐えなければなりませんでした。―ルカ 9:23

王国の音信を受け入れたそれらの人の中にモンテシルバノのディチェンソ家があります。一家は自分たちの宗教的な偶像を処分しました。その後間もなく,この家族の家が聖書を研究したいと願う人々の集会場所になりました。それからどんなことが起きたでしょうか。今でも真理の道を忠実に歩んでいるマリアントニア・ディチェンソ姉妹は次のように語っています。

「ほどなくして僧職者が私たちに反対するようになりました。僧職者たちは印象的な行進を組織し,村人がこぞってそれに参加しました。その行進は私たちの家の周りに徐々に集まって来て,参加者たちは一本の十字架を地面に突き刺し,『プロテスタントは出て行け! 教会へ戻れ!』と叫び始めました。私たちは見せ物にされ,自分たちだけでこの反対に当たらなければなりませんでした。エホバだけが私たちを支え,真理を擁護して前進するために必要とされる力を与えることがおできになりました」。

モンテシルバノの群れの別の成員であるジェラルド・ディフェリチェは,数多くの機会に自分の信仰を試みられました。一度などは自宅で聖書研究を司会していた際に,僧職者に扇動された熱狂的なファシストの一団が家に乱入し,ジェラルドを殴打し,意識を失ったジェラルドを床に放置して立ち去りました。

後日,ジェラルドは勇気をもって自分の中立を守りました。そしてこう書いています。「まず最初にバリの陸軍病院に送られ,次いでビシェリエの精神病院に送られました[ここで彼は“偏執病”を患っているとの理由で除隊になりました]。ある日のこと,枕の下に聖書を隠して読んでいるところを,尼僧に見付けられてしまいました。その尼僧は聖書を没収し,これは悪意に満ちた本だと言いました」。

モンテシルバノで時計屋を営むフランチェスコ・ディジアンパオロ兄弟はこう話しています。「司祭に扇動された不良の一団が大きな土の塊を私の住む建物に向かって投げ始めたとき,私は忙しく仕事をしていました。近所の人やほかの居住者たちは,『私たちはプロテスタントではない!』と叫びながらすぐに外に飛び出して行きました。その人たちは土の塊をぶつけられましたが,私は無傷でした。

電撃的な運動

さて,1932年に話を戻すことにしましょう。スイスの支部の監督であるマーチン・ハーベック兄弟は,事務所がピネロロではなくもっと中央部の重要な都市にあれば,イタリアでの業がもっと前進するであろうと考えました。そこで,その年にミラノに事務所が開設されました。クミネッティ兄弟はその迫害の激しいときに別の町へ移るのは無謀なことであると考え,ピネロロに残って人目を忍んだ方法で兄弟たちと連絡を取り続けました。

新しい事務所はコルソ・ディ・ポルタ・ヌオバ19番地に開設されました。それは立派な調度を備えた事務所になるよう設計された瀟洒なアパートの一室でした。マリア・ピッツァート姉妹がハーベック兄弟の秘書として働くよう割り当てられました。

ピッツァート姉妹が真理を学んだいきさつは興味深いものです。今世紀の初めころ,「ものみの塔」誌が郡の主要都市の主立った新聞雑誌小売業者の手で頒布されていたということを覚えておられるかもしれません。さて,1903年と1904年の両年,マリア・ピッツァートの母親がビチェンツァにあるピアッツァ・ビットリオ・エマヌエレの,町でも最大級の規模の新聞雑誌小売業者からこの雑誌を数冊求めました。マリア・ピッツァートがより大きな注意を払ってこれらの雑誌を読んだのは,それからずっと後の1915年のことでした。そのときには関心が引き起こされ,マリアはピネロロに手紙を書くことにしました。その当時姉妹であったクララ・チェルリが返事を書き,幾冊かの出版物を送りました。こうして,マリア・ピッツァートは命を与える真の知識を認識するようになりました。

ミラノの新しい事務所は,「ソチエタ・ウォッチタワー」の名称で,聖書に関する本や冊子を印刷し,配布するための協会として地元の商工会議所に登録されました。責任者はハーベック兄弟でした。郵便局の口座が開かれ,私書箱も借りられました。準備は万端整い,今や国中で大規模な活動を行なってゆけるという確信に満ちた期待が持たれました。

その業は,「王国は世界の希望」という小冊子を用いて行なう運動をもって始まることになっていました。この運動は恐れの的になっていたO.V.R.A.(反ファシスト活動を扱う秘密警察)の不意を突くほど迅速に行なわれることになっていました。当時イタリア人の兄弟たちの数はごく少なく,全部合わせても50名に満たないほどでした。そこでベルンの事務所は,地元の兄弟たちにとって困難な事態が生じないようにするため,20人のスイスの兄弟たちが実際の配布の業を行なうよう取り決めました。このスイス人の伝道者各人は,イタリアの北部および中部のそれぞれ異なった町へ行き,フィレンツェまで南下し,戸別訪問で,また街頭や公共の広場で小冊子を配布しました。

ミラノ郡の専門職に就いている人々と知識人すべてに,この小冊子が1部無料で郵送されました。当時の法律は海外から文書を輸入することを禁じていました。そこで,小冊子はミラノのアルケティポグラフィアで印刷されました。必要とされる許可を求めるためにプレフェットゥーラ(州)の報道統制局に3冊提出し,許可が与えられました。

この神権的な電撃戦に政治当局および教会当局はどのような反応を示すでしょうか。定められた日はカトリック教会の暦では聖ヨセフの日に当たる3月19日の数日前でしたが,その定められた日の幾日か前には準備がすべて整っていました。この特別な運動について,この活動に参加した20人のスイス人のエホバの証人の一人であるアデーレ・ブルン姉妹は次のように書いています。

「私はトリノへ遣わされました。ベルンのボス兄弟が私のことを待っていました。兄弟は私のためにすでに部屋を探してくださっており,幾つもの包みに包装された1万冊の小冊子は町の倉庫に保管されていました。業はできるだけ速やかに行なわれなければならなかったので,同兄弟は私に,地元の新聞販売人たちと連絡を取って配布を手伝ってもらうよう取り決めることを指示しました。私はその通りにしました。そして,同兄弟はこの地を去り,私は一人だけになりました。

「私は合計12人の新聞販売人と連絡を取り,当日小冊子を配布することに対し各々20リラを受け取るということで同意が成立しました。そのうちの一番熟達した人を選んで作戦を指揮してもらい,うまく組織してくれたらもう10リラ出すと約束しました。また,4人の販売人を選んで,必要になったときに小冊子を補給する補給センターの役割を果たしてもらいました。この活動は大成功で,小冊子はレストランやオフィスなどを含め,ありとあらゆる所に置かれました。

「その後,正午に,小冊子を保管してある倉庫の所有者がやって来て翌々日の聖ヨセフの日には倉庫を閉めると言って来ました。どうしたらよいのでしょう。その休日の後まで待っていれば,文書を押収するための時間を司祭に与えることになるでしょう。

「午後3時ごろに,12人の新聞販売人たちが一人また一人と帰って来ました。皆非常に疲れており,食事をする機会がなかったので家に帰りたがっていました。彼らを家に帰す代わりに,私は出掛けて行って幾らか食料を買い,一緒に食事をしました。それから,『今夜までに仕事を終わらせてくれたら,10リラ余分に差し上げましょう』と私は提案しました。一同は仕事を続けることに同意し,少し休んでから再び仕事に出掛けて行きました。その晩中に彼らは小冊子を全部配布し終えました」。

ノバラ市まで行ってそこでの運動に参加した後,ブルン姉妹が引き揚げるときになりました。同姉妹は思い出をこう語っています。「私はミラノ行きの列車に乗りました。そこでは20万冊の小冊子が押収されていました。そして,その同じ日の晩にスイスへ向けて旅立ちました。スイスでは主人が私の到着を首を長くして待っていました。この活動は非常に速やかに,不意を突いて行なわれたために,20人の兄弟たちのうちで逮捕された人は一人もいませんでした」。

かなりの数の文書が押収されたにもかかわらず,約30万冊の小冊子が配布されたと見られています。

反応はすぐに現われました。ピッツァート姉妹はこう語っています。「この運動のほんの二,三日後に,新聞,それも特に僧職者の影響下にある新聞が私たちに対して激しい攻撃を浴びせはじめました。コルソ・ディ・ポルタ・ヌオバの事務所は問い合わせの山に埋もれ,イタリア全国から本や説明を求める手紙が届きました。

「この重大なときに,二人の警察官が事務所へやって来て,ハーベック兄弟と私にクェストゥーラ[警察本部]の報道統制局に即刻出頭するよう命じました。そこで幾つもの質問を受けた後,ハーベック兄弟は事務所を閉鎖するよう命じられました。スイスへ輸出するという条件の下で,押収されていた小冊子を取り戻せることになりました。こうした措置が取られているのは,ラテラノ条約に基づいてカトリック教会の名声と威信とを守るためであると説明されました」。

ミラノの事務所が開設されてから数か月後に閉鎖されたため,クミネッティ兄弟だけが兄弟たちとの忍耐強い通信連絡を人目を忍んで行なってゆくことになりました。クミネッティ兄弟は時々文書や個人的な手紙を送り,主の業にあって兄弟たちを励ますために,できるときには兄弟たちを訪問しました。

クミネッティ兄弟は1935年にピネロロからトリノのボルゴネ通り18番地へ移転し,その地下活動を続けました。この取決めは1939年1月18日にクミネッティ兄弟が手術を受けた後亡くなるまで続きました。クミネッティ兄弟は医師や看護婦に最後まで証言しました。まだ50歳そこそこでしたが,亡くなった結果,第二次世界大戦中もう一度苦しい“遍歴”を経験せずに済んだと言えるかもしれません。その激しい迫害の期間中エホバに対する忠誠を示す特権は,ほかのエホバの証人たちに与えられることになりました。

激しい迫害

1935年にイタリアがエチオピアに宣戦布告し,1940年6月に第二次世界大戦に参戦することを決めたため,同国内の少数のエホバの証人に対する迫害は激しさを増してゆきました。時がたつにつれて,兄弟たちが中立の立場を守るのはいよいよ難しくなってゆきました。

スイス支部は王国伝道者たちとの連絡を保つために最善をつくし,1939年にイタリア北部と中部の兄弟たちを訪問するようにアデーレ・ブルン姉妹を任命しました。同姉妹の訪問は3週間に及ぶものでした。それらの励みになる訪問から受けた喜びと励ましをいまだに覚えている兄弟たちもいます。スイスに戻ったときに,ブルン姉妹はやもめになった姉のアルビナから,警察にずっとつけられていたことを知らされました。

伝道者たちの数は少なく,互いに遠く離れてはいましたが,特にマルティネリ兄弟によりひそかに伝道が組織されました。文書はスイスとの国境を越えて働く人々によって国内に持ち込まれました。その人たちは上手に隠された文書を携えて,晩に家に戻りました。

その後,ハーベック兄弟はピッツァート姉妹と秘密の会合を持ち,クミネッティ兄弟の死後組織との接触を失った兄弟たちと連絡を取るよう励ましました。同姉妹にはベルン支部事務所から50人ほどの住所が与えられました。彼女の文書の在庫はミラノにある,関心を持つと思われる人の家に預けられていました。その人はすでに亡くなっていたあるクリスチャン姉妹の娘でした。ところが,この女性は何らかの仕方で警察に協力していたに違いありません。ピッツァート姉妹は次のように語っています。

「業のこの新たな活動はごく短期間しか続きませんでした。1939年9月に私たちは小包を送り始めました。小包の重さは3㌔を越えませんでした。当時有効だった郵便規定によれば,3㌔までの小包には送り主の住所を表示する必要がなかったためです。私は文書を夕方包装し,疑われないようにするために朝,仕事に行く途中,様々な郵便局から小包を送るようにしていました」。

ところが,それらのエホバの証人に対する迫害を引き起こすような出来事が生じました。都合の悪いことに,1939年10月28日,モンテシルバノの一郵便局員がこれらの小包の一つを開けてしまったのです。その中には数冊の小冊子と「敵」の本が入っていました。その中味はすぐに警察の手に渡り,小包に送り主の名前が書かれていなかったにもかかわらず,その結果行なわれた調査で小包がどこから出されたかがやがて明らかになりました。その文書はマリアントニア・ディチェンソ姉妹にあてられており,彼女は翌日逮捕されました。次いで,11月1日に,ファシストの警察,O.V.R.A.の者たちがピッツァート姉妹を訪れました。同姉妹はこう語っています。

「朝非常に早く,ミラノ市ビンチェンツォ・モンティ通り28番地にある私の家に警察がなだれ込んで来ました。6人の係官と一人のコミッサリオ[警察本部長]の総勢7人でした。部屋の中に飛び込んで来て,私が危険な盗賊でもあるかのように,手を上げるようぶっきらぼうに言いました。彼らはほどなくして,証拠物件にできると考えられるもの,すなわち聖書と聖書文書を見付けだしたのです」。

O.V.R.A.はピッツァート姉妹のアパートで他の様々な兄弟たちの住所を見付け,警察はそれらの人たちの家を一斉に手入れしました。10月から12月の初めまでに,ほぼ300人が警察の尋問を受けました。もっとも,その多くは「ものみの塔」誌の予約者であっただけとか,協会の出版物を所持していたというだけの人たちでした。120ないし140人ほどの兄弟姉妹たちが逮捕され判決を受けました。そのうちの26人は首謀者として特別法廷にかけられました。

後者の部類に入れられたグエリーノ・ダンジェロは,自分が逮捕されたときの模様を次のように話しています。「男性がすでに刑務所に行っていて男手のない,兄弟たちの家族のために私はトウモロコシの種をまいていました。家に残されていたのはお年寄りと子供たちだけだったのです。警察がやって来て,種まき器をその場に置くよう命じました。そして,拘置所へ私を引き立てて行き,私はそこで激しく殴打されました」。

ビンチェンツォ・アルトゥシはこう語っています。「1939年11月15日のことでしたが,仕事に出掛けようとしたところ,二人の警察の係官が階段の下で私を待っているのに気付きました。二人は私に,アルトゥシさんですか,と尋ねました。そうだと告げると,警官は私を家の中へ戻らせ,私を待たせておいて家の中を上から下まで捜索しました。警官は私に不利な証拠を見いだそうとして,何から何までひっくり返し,引き出しを引き抜きました。そしてとうとう,捜していた物 ― 聖書と「敵」の本 ― をやっとのことで見付けだしました。警官は,私が3人の子供たちに別れの口づけをすることをも許さず,私を引き立てて行きました。それから,警察の係官であふれんばかりになっている部屋に連れて行かれ,そこで3時間にわたって尋問を受けました」。

夫を失ったばかりのアルビナ・クミネッティ姉妹は逮捕され,特別法廷で裁かれました。姉妹は次のように書いています。

「私は逮捕され,車で拘置所に連行されました。車の中には,二人の警察の係官とコミッサリオ,そして内務省の高官が一緒に乗っていました。連行される途中,私のようなか弱い女性を逮捕するために4人の男性が必要で,しかもそのうちの二人が位の高い役人であるということを考えると,ほほえまずにはいられませんでした。私はその人たちのことを恐ろしいとは思いませんでした。むしろ,神の王国について一生懸命話しました。彼らは笑いはじめましたが,それは私を笑いものにしているのではなく,エホバ神の約束を笑いものにしていることであり,そんなことをすれば刑罰を免れることはないと話しました。そして,彼らの皮肉は苦痛に変わるであろう,と付け加えました。実際,そのコミッサリオと役人はファシズムが崩壊した後,獄死しました」。

ファシスト政権は特別な手段を講じる

すでに述べた通り,1935年以後真のクリスチャンに対する迫害は激しさを増しました。なぜでしょうか。

1935年4月9日に,内務省の宗教部は“ペンテコステ派諸結社”に関する通達を出しました。当時,当局はエホバの証人を正しく識別しておらず,“ペンテコステ派”の共同体の一部であると考えていました。各郡の行政中心地へ送られたその通達は,「我が国の社会秩序に反し,我々の人種の身体および精神面での福祉を害する」とされた活動を行なうそれらの結社を即座に解散させることを求めていました。

1939年8月22日には,「ペンテコステ派およびそれに類似した宗派」に関する別の通達(441/027713号)が出されました。それは次のようなものでした。

「すでに幾年にもわたって,海外,それも特にアメリカから入って来た福音主義的な特定の宗教の存在がイタリアで観察されてきた。その教理は既存の政府すべてに反対するものである。……

「これら“ペンテコステ派”は極めて活発で,執ような宣伝家で,彼らに対して最近幾つかの措置が取られてからは,できる所ならどこでも,田舎の野外であっても,集まり合おうとしている。しかし,大抵は信者の中の一人の家で昼夜の別なく集まり,警戒を怠らない当局の目を逃れようとしている。……

「最近,召集を受けた者たちの中に,自分は“ペンテコステ派の会員”であるため原則に基づいて武器の使用に反対するという理由で射撃訓練を拒否する者がいるという事例が見られる。……

「ゆえに,最大限の決意をもってこれらの宗派に反対する必要がある。……

「このために,様々な郡におけるこれら“ペンテコステ派”あるいは他の類似の宗派の存在の可能性を確かめるために綿密な調査を行なうよう要請する。集会や宗教儀式や宣伝活動に携わったことが明らかになったものに対しては訴訟を起こすべきである。他の事例の場合にどう訴訟を進めるかについては,内務省に指示を仰ぐべきである。さらに,問題になっている諸宗派の信者として知られている者すべてを厳しい監視の下に置き,宣伝を目的として印刷物を所持していないかどうか,あるいは崇拝を目的として仲間の信者と接触を保っていないかどうかを確かめるために,ごくわずかな疑いがあっても定期的にその住居を捜索するよう勧告する。……

「この“ペンテコステ”派の信者からこれまでに押収された小冊子はいずれも,ほとんど例外なくJ・F・ラザフォードなる者によって書かれ,『ものみの塔聖書冊子協会-国際聖書研究者協会-米国ニューヨーク市ブルックリン』により印刷されている。……小冊子の主題には次のようなものがある……[ものみの塔の出版物の一覧表が続く]。

「このような小冊子の我が国への導入,およびそれに続く配布は阻止されねばならない。

「結論として,はっきりと識別されているのは“ペンテコステ”派ただ一つではあるが,ここで言及されているのはただ一つの宗派ではなく,幾つかの宗派であることに注目すべきである。上記の小冊子は,従来見られた様々な福音主義的宗教の中から他の宗派や思想の流れが生まれてきたとの印象を与えるからである……」。

この通達の中で勧告されていた措置が取られた結果,1939年末のエホバの証人の大量投獄に至る逮捕の波が起きたのです。

エホバの証人に関してなされた報告

アベッツァーノ(アブルッチ)の警察総本部長,パスクアレ・アンドリアニ博士は,前述の通達に示されていた意向にしたがって尋問を行ないました。1940年1月12日に,同博士は国家治安維持特別法廷の検察官にその報告を送りました。また,警察本部長にも写しを送りました。この報告の主題は,「“エホバの証人”の宗派」というものでした。ここに幾つかの目立った点を挙げることにしましょう。

「昨年8月に出された通達の中で,内務省は政治的な分野にその活動を広げている宗派の会員を見分けることに関して指示を与えていた。ゆえに,これらの宗派は破壊的な性質の政治運動と同じようなものとみなされ,同じようなものとして扱われなければならない。

「これらの命令を効果的に実行に移すには,我が国土のある郡ではかなりの数の信者を擁するグループに代表される様々な宗派を区別するためにさらに調査が必要であると考えた。……

「この[エホバの証人の]宗派は,政治的な見地からして特に危険である。……

「手短に言えば,[『警告』の小冊子で]イル・ドゥーチェは巨人ゴリアテになぞらえられ,『今日の憎むべき怪物は絶対的で専横な独裁者の下にある全体主義的な政治形態』で,『大娼婦』,ローマ・カトリック教会の支持を受けている,ということになる。この政治形態はイタリアの人民を支配下に置いた後,『多くの人命を犠牲にして』エチオピアの征服に乗り出した。……

「しかし,問題の最もゆゆしい側面は,『汝殺すなかれ』というキリスト教の教えに対する彼らの敬意と自分たちの仲間の人間に対してどんな理由があっても武器を取るべきではないというその信念から生じる。

「ゆえに,彼らはいかなる種類の兵役をも免除されるべきであると考えている。これらの若者たちは予備訓練を行なうことを拒否し,その立場ゆえに投獄されても,刑期が終わったときやはりそれに加わることを拒否する」。

この報告はまた,ピッツァート姉妹が兄弟たちに送っていた手紙に言及し,その中から一部を抜粋して引用しています。報告はこう述べています。「我々の手元にある数多くのそうした手紙の一部を同封するものであるが,この手紙によって……,信者たちは『この不幸な時に,大いに必要とされる霊的な食物』を欠かさないよう励まされ,『文書』を注文し,『ものみの塔』誌の予約を更新することのできる文書倉庫がミラノに設けられたことを知らされている。手紙を受け取った者たちはまた,『この国に存在する難しい状況を考えて』,文書を注文するに当たって『非常に用心深く』ある必要性についても知らされている。注文は,幾つかの数字や文字を用いて行なわれ,欲しい本を表わす,決められた暗号にしたがって書かれることになっていた。それには次のようなものがある。『敵』1-33-1,『警告』2-44-2,『王国』3-55-3,『ものみの塔』W.T.」。

扇動した者たちの正体があらわになる

わたしたちに対する当局の動きは決して空を打つようなものではありませんでした。でも,なぜでしょうか。一連の逮捕劇の背後に実際にいたのはだれでしょうか。前述の報告はミラノ事務所の閉鎖について述べ,はっきりと次のように述べていました。「ほんの数か月後には,ミラノ警察の手でその事務所は閉鎖された。それらの本の反ファシスト的な調子とカトリックの僧職者の反応のためであった」。(下線は編者)

この報告はさらに,イタリアにおけるこの宗教運動の主な責任は逮捕された26人のエホバの証人の活動にあると述べています。

さらに,ファシスト当局との問題を引き起こさせた主な原因は僧職者にあるという事実は,カトリックの機関誌「フィデス」の1939年2月号に載せられた一記事に含まれている偽りの非難によく示されています。この記事は,匿名の“司祭かつ魂の守護者”により書かれたもので,次のように述べていました。

「ラザフォード[ものみの塔協会の第二代会長]は……国家と人民を支える基本原則を徐々に損なおうとしている。彼の考えは,間近に迫った世界革命のために道を備えさせるものである。その革命の期間中に,すべての宗教,それも特にカトリック教会がすべての政府や王国と共に覆され,それによって無神論的な共産主義のユートピア的な体制が招じ入れられることになる。……エホバの証人の運動は無神論的な共産主義の現われであり,国家の安全に対するあからさまな攻撃である」。

非常に尊敬されている僧職者からのこうした非難を無視することなど,ファシスト当局にはとてもできませんでした。そのためエホバの証人は,『王国や政府を覆し』,『無神論的な共産主義者のユートピア』を設立しようとして活動していると非難され,迫害されたのです。

業は完全に禁令下に置かれる

この報告を受け取った後,内務省はこの種のものとしては最後になった別の通達を送り,エホバの証人をはっきりと識別した上で,禁令下に置いています。それは1940年3月13日付の通達441/02977号で,「“エホバの証人”つまり“聖書研究者”の宗派および我が国の制度に反する原則を擁するその他の宗派」に言及するものでした。それは次のように述べていました。

「1939年8月22日付の本省通達441/027713号の頒布の後,それらの諸宗派についてより詳しい調査が行なわれてきた。それらの宗派は,すでに知られている“ペンテコステ”派とは分けられ,別個のものであり,その教理は我が国の体制に反する。

「そのような調査から,『ものみの塔聖書冊子協会-国際聖書研究者協会-米国ニューヨーク市ブルックリン』……は一般に『エホバの証人』あるいは『聖書研究者』として知られている別個の福音主義的な宗派であるということが確認できた。逮捕されたその[会員]の多くの陳述を考慮し,それらの者たちが所持していた印刷物を検討した結果,この宗派の特徴をはっきりと正確に描写することができるようになった。……

「『エホバの証人』の認める唯一の法律は神の律法である。しかし,市民法が神の律法に反しない場合にそれを守ることを認めている。……

“エホバの証人”は,“イル・ドゥーチェ”もファシズムもいずれも悪魔から出ており,勝利の期間は短く,啓示の書に予告されている通り,これらの事象は必ず崩れ去ることになる,と宣べ伝えている。……

「ゆえに,この宗派の活動が少しでも明らかになるなら,それを抑圧するための努力を差し控えてはならない。その活動は『ものみの塔』の編集した印刷物によって支えられているので,そのような文書をあらゆる機会に押収したり,それが郵送されるようであれば途中でそれを没収したりするために強硬な手段を用いる権威を与える」。 *

特別法廷に立たされて

1926年10月にボローニャでムッソリーニに対する暗殺未遂があってからファシスト特別法廷が設けられました。それは反ファシストの異議をつぼみのうちに摘み取るために取られた数々の措置の一つでした。公的には,「国家治安維持特別法廷」として知られており,1927年から1943年まで活動し,その間に42件の死刑判決(そのうち31件は執行された)を含む5,000件以上の評決を言い渡しました。この本部はローマの司法宮にありました。

1940年4月19日のこと,司法宮の堅苦しい法廷で,広く恐れの的となっていたトリンガリ・カザノーバの主宰のもとに判事たちがその堂々たる半円形の裁判官席に着席しました。被告が法廷の一方の側に,数名のカラビニエリ(係官)の監視を受けて一列に並んで座っていました。4人の女性と22人の男性がおり,後者は手錠を掛けられていました。古代ローマの時代に真のクリスチャンの身に生じた出来事がまたもや起きたのです。

ピッツァート姉妹は次のように語っています。「裁判は茶番以外の何ものでもありませんでした。たった1日で終わって,片付けられてしまったのですから,判決は前もって決まっていたに違いありません。幾年もたった今になって思い返してみると,こっけいとさえ思える一つの出来事を覚えています。私は最初に法廷に立たされましたが,神経が高ぶっていたために,私は飛び上がって法廷の主宰者に向かって突進して行きました。暴力行為が起きるか,ばり雑言がほとばしると思ったのでしょう,カラビニエリが後から走って来て,私を一定の距離をおいた所にとどめました。法廷の主宰者の代理であったトリンガリ・カザノーバ公は真っ青になりました!

「法廷はローマのフォーラムから数人の弁護士を選んで,私たちの弁護に当たるよう任命していました。弁護士たちは優れた弁護を行なったと言わなければなりません。非常な温かさをもって私たちの側に立って語ったため,裁判長がそのうちの一人に,明らかに皮肉と分かる仕方で,何らかのきっかけがあってエホバの証人の宗教に改宗したのではないか,と尋ねたほどでした!」

七人の弁護士は最善をつくしましたが,兄弟たちは定められていた通り有罪とされました。弁護士の一人は,26人のエホバの証人を「イタリア国民の花」と呼ぶ勇気を持ち合わせていました。別の弁護士は,「ファシスト政権が主張されている通り強力なものなら,どうしてこれらの人々を恐れなければならないのか」と尋ねました。さらにもう一人の弁護士は,「この裁判は19世紀前に開かれ,ピラトが『真理とは何か』という質問を投げ掛けたときのもう一つの裁判を思い起こさせる」と言いました。それから,兄弟たちの方を身ぶりで示しながら,こう言いました。「ここにいるこれらの人たちは私たちに真理を告げているのに,あなた方はこの人たちを刑務所へ送ろうとしています。これら善良な人々はその信仰のゆえに大いに尊敬されてしかるべきです」。別の弁護士ははっきりとこう言いました。「この人たちは26人いますが,あたかも一人の人であるかのように語ります。全員が同じ教え手を擁しているからです」。―ヨハネ 18:33-38

兄弟たちの中には尋問を受けて脅され,死刑の判決を言い渡されるおそれのあった人がいたにもかかわらず,兄弟たちは勇敢で確固としていました。グエリーノ・ダンジェロ兄弟は思い出を次のように語っています。

「26人から成る私たちのグループの中で,人間への恐れに屈して,妥協したのはたった一人でした。その人はファシスト国家に対する服従の宣誓文に署名し,判事の一人がそれを読み上げました。ところが,その人は同じような判決を言い渡されたのです。判事は兄弟たちに向かって,『この男は我々にとっても,お前たちにとっても何の役にも立たない』と言いました。後にこの人は真理を離れ,忠誠を保たなかったごく少数の一人になりました」。

これらの兄弟たちは合計186年10か月の懲役刑を言い渡されました。個々の判決は懲役2年から11年に及びました。この法廷の決定は最終的なものであり,上訴の可能性はありませんでした。刑を言い渡された兄弟たちは,ファシスト政権が倒れるまで刑務所に入れられていました。幾つかの例外を除いて,その兄弟たちは1943年8月以降に釈放されました。

「アウラIV ― トゥティ・イ・プロチェシ・デル・トリブナレ・スペシアレ・ファシスタ」(「第4法廷 ― ファシスト特別法廷の裁判のすべて」)と題する本は,26人のエホバの証人に関する1940年4月19日の評決第50号に言及し,次のような注解を述べています。

「米国に源を有する宗教運動がイタリアで広まり始めた。『エホバの証人』と呼ばれるその追随者たちは,ファシストの絶えざる迫害を経験した。それでも,戦争に対する嫌悪感を広め,仲間の人間に対して武器を取ることを拒み,ファシスト政権を『サタンからの流出』とみなした。一連の逮捕の最大の波は,1939年の秋に生じた(国家の利益に反する結社の結成,及びその会員になること,宣伝,“ドゥーチェ”および法王に対する侮辱。)」。

兄弟たちに対してもたらされた非難がどんなものであったかは,ビチェンツァのプロクーラ・デル・レ(検察官事務所)がピッツァート姉妹に対して出した文書からうかがえます。姉妹は五つの訴因に基づいて判決を言い渡されていました。「政治的陰謀を目的として結社を作ったことに対し懲役5年,ファシズムの“ドゥーチェ”,すなわち政府の首長の威信および名声を損なったことに対し懲役1年,法王に不快感を感じさせたことに対し懲役2年,外国の首長[ヒトラー]の威信を損なったことに対し懲役1年,および国王また皇帝の名声を損なったことに対し懲役2年」。

起訴されたエホバの証人26人のうち13人までがアブルッチ地区の出身者であったため,ラファエル・コラピエトラ(ロッコ・カラッバ出版)著の「アブルッツォ・ウン・プロフィロ・ストリコ」(「アブルッチ地区の歴史大綱」)という本はこう言い切っています。「沿岸部出身のこれら柔和で害のない農民たちほど,数の点で,また手荒い扱いを受けたことで誇れるグループは,[アブルッチ地区に]一つの政党といえども存在しない。共産主義者でさえそれには及ばない」。

刑務所での兄弟たち

戦争中懲役刑に服した兄弟たちの経験は,わたしたちにとって勇気と信仰の模範になるだけでなく,エホバの愛ある援助は決して途絶えないことを示しています。刑務所の中でも「良いたより」について他の人々に熱心に語り続け,刑務所の中でさえ僧職者からの迫害を経験しました。

逮捕された当時25歳の女性であったロセト・デリ・アブルッチのサンティナ・チモロージは次のように語っています。

「私たちは戦争に同意しないので国家にとって危険だ,と言われて警察署に連行されました。父[ドメニコ・チモロージ]は一つの監房に,私は別の監房に入れられました。監房の中は暗く,カラビニエレが懐中電燈をつけて,木の寝台がどこにあるかを示しました。それから,私を監禁したのです。とびらに錠が下ろされる音を聞いて,不快感と恐れにどっと襲われ,泣き出してしまいました。そこでひざまずいて,エホバに声を出して祈りました。恐れは少しずつ消えてゆき,私は泣きやみました。エホバは力と勇気を送ってその祈りに答えてくださったのです。それで,エホバの助けなしには自分が無に等しい存在であることが分かりました。その晩は祈り明かし,翌朝,テラモの刑務所に連れて行かれました。そこでは私と父とカテリーナ・ディマルコ,それに他の3人の兄弟たち計6人が同じ監房に入れられました。

「時々,“指導者”がだれであるかを調べ出そうとして尋問が行なわれました。彼らはしばしば私に,『お前はまだエホバの証人なのか』と尋ねました。当然のことながら私はいつも『はい!』と答えました。二度と再び刑務所からは出られないと言って彼らは私をおびえさせようとしましたが,私はエホバと助けを与えるその力とに信頼を置いていました。後日,祭壇が私の監房のドアの前に置かれました。それは特に私のためにそこに置かれており,数週間にわたって司祭がそこでミサを執り行ない続けました。私がカトリック教会に戻りたがっているかどうかを見るためでしょうか,あるいは私が礼拝の邪魔をして刑期が長くなるように願っていたのでしょうか,私の監房のとびらは開けられたままになっていました。しかし,私はあたかも外で何も起きていないかのように静かに監房の中にいて,賢明な行動を取るよう助けてくださったことをエホバに感謝しました。私が反応を示さないのを見て,彼らは少ししてから祭壇を取り除き,司祭ももう来なくなりました」。

マルチェロ・マルティネリ兄弟から真理を学んだダンテ・リョッジ兄弟は次のように話しています。「刑務所の中では親族にもほかのだれにも手紙を書くことは許されませんでした。文書やお金,腕時計は取り上げられました。[1939年の]11月から2月の終わりまで,寒さに震えていました。監房は暖房がきいていなかっただけでなく,窓にガラスが入っていなかったからです。着替えすら与えられず,ほどなくして私は寄生動物に悩まされる,惨めで,不快感をもよおす存在になっていました。司祭が二,三回訪れ,両親の宗教に戻れば釈放されることになろうという保証を与えました。私はクェストゥーラ[警察本部]に申請を出し,聖書を手に入れました。その後,自分たちの命が危険にさらされても忠誠を保ってエホバの祝福を受けた忠実な人々の模範から勇気を得ました。祈りはエホバの約束に対する自分の信仰を強めるもう一つの手段となりました」。

40年以上忠実に奉仕し,今でもテラモ郡の一会衆で長老として奉仕している兄弟,ドメニコ・ジョルジーニ兄弟は次のように話しています。「1939年10月6日のことでした。ぶどう園でぶどうの収穫をしていたときに,二人のカラビニエリの乗った1台のトラックが家の前に止まるのを見ました。彼らは私をテラモ刑務所へ連れ帰り,私はそこに5か月間入っていました。その後,ベントテネ島への3年間の流刑が言い渡されました。そこでは5人の兄弟たちと約600人ほどの政治犯と一緒になりました。後者のグループの中には,政治的に著名な人物が幾人かおり,後日共和国の大統領になった人もいました。そして,私はそれらの人たちに神の王国について証言する特権にあずかりました。ファシスト政府はこれら政治犯の多くを特に危険分子と見ていたので,島は厳しい監視の下におかれていました。逃亡を試みる者にはいつでも発射できる機関銃を装備したモーターボートが島の周りをパトロールしていました」。

刑務所での姉妹たち

特別法廷で懲役11年の刑を言い渡されたマリアントニア・ディチェンソ姉妹はこう語っています。「予備審問を行なった治安判事の言葉を私は決して忘れることがないでしょう。判事はこう言いました。『私は事の全容を調べるために彼らの文書を読み,起訴された26人を尋問した。彼らは皆一貫して同じことを信じており,自分の仲間たちを助けるために自らが非難を受ける用意がある。事態は考えられていたほど深刻なものではない。聖職者はこの問題について大騒ぎをしすぎている』」。

ディチェンソ姉妹はペルジャで服役しました。ペルジャで投獄されていた別の姉妹は,1962年に忠実のうちに死んで天へ召されたアルビナ・クミネッティでした。次のような記録が残っています。「あるとき別の受刑者がアルビナにどんなことをしたのか,と尋ねました。アルビナは,『何もしていません。仲間の人間を殺すことを拒んだためにここにいるのです』と答えました。

「『何ですって!』とその女性は声を上げ,『人を殺そうとしなかったからここにいるんですって? 何年の刑を言い渡されているんですか』と尋ねました。

「『11年です』とクミネッティ姉妹は答えました。

「それを聞いて相手は大きな声でこう言いました。『こんなばかげたことがあるかしら。仲間の人間を殺そうとしなかったということであなたには11年の刑が言い渡され,夫を殺した私には10年の刑が言い渡されてるなんて。こんなこと我慢できないわ。私が狂っているのか,政府のお偉方が狂っているのかどちらかだわ』」。

その記録はさらにこう述べています。「ある日のこと,アルビナは受刑者たちの監視をまかされた修道女の立ち合いのもとで刑務所長に証言する機会にあずかりました」。

刑務所長からの手紙

1953年に,クミネッティ姉妹は刑務所で自分と一緒にいた3人の姉妹たちとある大会で再会し,ペルジャの刑務所長に手紙を書きました。そのときまでに所長はアレサンドリアへ転勤していましたが,やがてその手紙を受け取り,1954年1月28日付で次のような意味深い返事を寄せました。

「拝啓,

「お手紙の中で私についてご親切なお言葉を述べてくださり,ありがとうございました。あなた方は皆実体のない犯罪のゆえに刑を言い渡されていました。あなた方が裁判にかけられたまさにその都市,ローマで,この度は大会につどってあなた方の神エホバへの賛美をうたうために再び一堂に会されたことを知り,非常にうれしく思っています。

「自分たちがかつて信じ,今なお信じている神のために非常に大きな苦しみに遭われたほかのご婦人たちにお会いしたり連絡を取られたりする折には,どうか私からよろしくとお伝えください。私は決して皆様のことを忘れず,皆様の信仰としっかりした人格とを称賛するものです。

「送ってくださった本に感謝しつつ,

敬具

アントニオ・パオロロッソ博士,

アレサンドリア刑務所総所長」。

「あなた方の信仰の試された質」は,「金よりはるかに価値(が)ある」と,使徒ペテロは語りました。(ペテロ第一 1:7)迫害の下にあっても忠誠を保った兄弟たちは,こうした困難な問題が自分たちを強めるものになったことを認めています。

中立は身の守り

ほかの国々と同様,中立を保つことはイタリアの兄弟たちにとっても身の守りとなりました。例えば,第二次世界大戦中投獄され,流刑にされた76歳の忠実な兄弟,アルド・フォルネローネは次のような経験を語っています。

「ナチは退却していましたが,依然として私の住んでいた地区を制していました。そして,応報出征のさなかに,3人のドイツ人兵士が私たちの家へなだれ込みました。将校は一目でテーブルの上にある聖書と壁に掛けられている絵とを見て取りました。その絵は,オオカミと子羊,ライオン,やぎ,そして子牛が小さな子供と皆一緒にいる,イザヤ書 11章6-9節の情景を描いたものでした。将校はドイツ語で,『ビベルフォルシェール?』つまり,『聖書研究者か』と尋ねました。私はうなずきました。

「すると将校は,家内に何か食べる物をくれとフランス語で求め,ドアを閉じて家の中にとどまるよう部下たちに指示しました。そして再びフランス語で,『部下にここなら大丈夫だと言ったところです。あなた方がエホバの証人で,我々の信頼できる唯一の人たちだからです』と言いました。さらにその将校は,ドイツにいる自分の親せきがエホバの証人であるという理由で強制収容所に送られたことを話しました。この兵士たちが食事をしている間,外では銃声が聞こえ,多くの家に火がつけられ,大勢の民間人が殺されました。応報出征が終わって,これらの兵士たちが村を離れるときに,その将校は別れを告げる際に私たちと握手を交わしました。

「その後ほどなくして,イタリア人のレジスタンス・グループの指揮官が16人の部下を引き連れてやって来ました。『やつらはなぜあなたたちをほかの民間人と一緒に連れて行かなかったんだろう』とその人は尋ねました。指揮官は私のことを知っており,私が戦争に参加しないために刑務所に送られ,流刑になったという事実をも承知していました。一同は私が証言するのに耳を傾け,『民のための慰め』という小冊子を受け取りました。食べ物と飲み物にありつくと,その一行もやはり去って行きました。指揮官は,『あなたたちのような人ばかりなら,我々も野獣のように追い掛け回されることはないでしょうし,世界にこのような問題も生じないことでしょう』と言いました。この経験を通して,中立の立場を守ることの価値をかつてないほど認識できました」。

兄弟たちからの助け

刑務所に送られた兄弟たちの中には,妻や幼い子供たちを家に残してきた人が少なくありませんでした。そうした残された者たちを助ける人がいたでしょうか。ビンチェンツォ・アルトゥシはこう語っています。

「私が1年間イタリアの別の場所へ流刑になっていたときには,妻と3人の幼い子供たちのことが心配でなりませんでした。また,僧職者が私のいないのをいいことに,妻を唆して真理から離れさせるのではないかと恐れていました。妻は関心を持ってまだ間もなかったからです。しかし,エホバは家族のことを見守っていてくださり,まだ自由の身であった兄弟たちの助けで,家族は物質的にも霊的にも支えられました。霊的にも築き上げるものであった兄弟たちの愛ある訪問の結果として,妻はカトリック教会から最終的に離れました」。

戦争にもめげず業は続けられる

ファシズムは1943年に滅び,兄弟たちの大半はその後刑務所から釈放されました。それでも,戦火は依然として国中で燃えさかっており,連合軍が南から進軍して来るのに対し,ナチの軍隊は徐々に北へ退却し,死者と破壊の跡とを残して行きました。

戦争の最も暗い時期にさえ,依然として自分の家にいて比較的自由に行動できた兄弟たちと連絡を再び取るための努力が払われました。1980年に亡くなるまで忠実を保った兄弟,アゴスティーノ・フォサーティは,真理のゆえにスイスから追放されていました。1940年と1941年に,この兄弟はある兄弟たちとの連絡を取るためにできる限りのことを行ない,自分がフランス語に翻訳した「ものみの塔」誌の記事を含め様々な出版物を兄弟たちに送りました。同兄弟は1942年1月に逮捕され,流刑に処されました。

それからしばらくして,ナルチソ・リエト兄弟がイタリアへ逃れて来ました。ウディネ郡出身のイタリア人を両親に持ち,ドイツで生まれたこの兄弟は,強制収容所に「ものみの塔」誌をひそかに差し入れるその活動がゲシュタポに見付けられるまでミュルハイムアンデアルールに住んでいました。もはやこれ以上とどまっていると危険なことが明らかになったとき,鉄道で働く兄弟の助けを得て,一足先にイタリアへ行ってスイスとの国境にほど近いコモ湖畔のチェルノッビオに住んでいた妻のもとへ行きました。

スイス支部は「ものみの塔」誌をドイツ語からイタリア語に翻訳し,それを兄弟たちに送る仕事をリエト兄弟に割り当てました。警察に途中で差し押えられることが決してないようにするため,北部および中部イタリアのそれほど遠くない所にいる兄弟たちには直接配達が行なわれることになっていました。

リエト兄弟はタイプライターを購入してすぐに雑誌の主要な記事の翻訳に取り掛かりました。同兄弟は流刑から戻って来たアゴスティーノ・フォサーティ兄弟の助けを得,後日1943年にマリア・ピッツァート姉妹が釈放されてからは同姉妹の助けを得ました。雑誌は秘密の手段でイタリアへ持ち込まれました。翻訳が終わると,謄写版で雑誌が刷り上げられ,配達の責任者であったフォサーティ兄弟に渡されました。フォサーティ兄弟は逮捕され投獄される危険を絶えず冒しながら,この霊的な食物を兄弟たちに届けるためペスカラ,トレント,ソンドリオ,アオスタ,ピネロロへと旅をしました。

ピッツァート姉妹がやって来てから,ナチ党員はファシストの部下たちの助けを借りて,リエト兄弟の居所を突き止め,ピッツァート姉妹が次に語るような事柄が生じました。「12月末のある日のこと,その家は包囲され,ヒトラー親衛隊の将校とその部下たちがなだれ込みました。ナルチソは逮捕され,兵士たちが家を捜索する間,銃を突きつけられていました。ほどなくして兵士たちは自分たちが探していた“犯罪にかかわる”証拠 ― 2冊の聖書と数通の手紙 ― を見付けだしたのです! ナルチソはドイツに戻る長い旅に出され,そこでダハウの強制収容所に入れられ,ひどい拷問に遭いました。長い間,天井の低い細長い監房に犬のように鎖でつながれ,昼も夜も丸くなったままでいることを余儀なくされました。次々に別の収容所で多大の苦しみに遭った後,連合軍がベルリンを占領する前に,ほかの恵まれない受刑者たちと共に死刑に処せられました。同兄弟の遺体は見付からずじまいでした」。

ピッツァート姉妹はリエト兄弟の始めた業を続け,フォサーティ兄弟が再び逮捕されると姉妹は霊的食物を配達することも自分でしなければなりませんでした。翻訳された記事を各々70部ほど作った後,旅行することが可能であった間はずっとそれを個人的に配達しました。

爆撃にあってすべての連絡の経路が断たれたとき,ピッツァート姉妹は1945年1月1日号(英文)の「ものみの塔」誌の主要記事の翻訳文をソンドリオ郡にあるカスティオネ・アンデベンノの兄弟たちにあてて郵便で送ることにしました。その記事は途中で押えられ警察へ渡されました。それでピッツァート姉妹はもう一度尋問を受けるために連行されました。しかし,その後家へ帰ることを許されたので,ほかの人々が巻き込まれないようにするため,その地域を去る機会をすぐにとらえることにしました。その同じ晩,姉妹は1943年12月から1945年3月までの自分の活動の証拠を破棄し,友人たちの助けを得てリエト兄弟の未亡人と共にスイスにたどり着きました。

戦争が終わってすべての難民はイタリアへ戻らなければならなくなり,二人の姉妹たちはチェルノッビオへ戻りました。ファシズムが完全に一掃され,戦争が終わったので,スイス支部は兄弟たちとの新たな連絡を取る仕事をピッツァート姉妹に与えました。兄弟たちは厳しい試みに遭いましたが,エホバに感謝しており,熱意にあふれていました。悪魔のわなの犠牲になった人はごくわずかでした。今や兄弟たちの前には非常に大規模な活動に通ずる大きな戸口が開かれていたのです。―コリント第一 16:9

業の再組織と支部事務所の開設

1945年の終わりごろ,ものみの塔協会の当時の会長であったN・H・ノア兄弟とその秘書M・G・ヘンシェルがヨーロッパを訪れました。スイス支部はピッツァート姉妹にベルンへ行って,イタリアにおける活動についてノア兄弟に報告するよう招待しました。その会合について,ピッツァート姉妹は次のように書いています。

「ノア兄弟は,宣べ伝える業を再び始めるにはイタリア語で小冊子を印刷することが緊急に必要であることを認められました。そのために,米国から文書が届くのを待つ間,ある小冊子をミラノかコモのいずれかで印刷する取決めを設けるべきであるとの指示を与えて行かれました。ノア兄弟はまた,こうした事柄における私の助力には大変感謝しているが,これは一時的な取決めとしかみなすことができず,業の責任を執る兄弟を米国からできるだけ早いうちに送るよう既に計画している,と私に伝えました」。

スイスに住んではいるもののイタリア国籍を持つ若い男性,ウンベルト・バノッツィ兄弟もその会合に出席していました。バノッツィ兄弟は,兄弟たちの小さな群れを順次訪問しエホバの道において兄弟たちを強め,教訓を与えるよう一時期割り当てられました。

コモで印刷施設が見付かるとすぐに,「新しい世における自由」と「『柔和な者は地を継ぐ』」という小冊子が2万部印刷され,「諸国民よ喜べ」が2万5,000部,「すべての人びとの喜び」が5万部印刷されました。

当時チェルノッビオは人口3,000人ほどの小さな町で,期待される拡大を考慮に入れるととても業の中心地に適しているとは言えませんでした。その理由で,1946年の春にノア兄弟は六,七人から成る小さなベテル家族を収容するのに適した場所を見いだすよう兄弟たちに指示しました。ベルン事務所の一兄弟の助けを得て,ミラノ市のベジェツィオ通り20番地にある6部屋から成る家屋が購入され,新たに確立されたわたしたちの活動の中心地はそこへ移されました。それは1946年7月のことでした。その年の平均王国伝道者数は95人で,最高数は35の小さな会衆に交わる120人の伝道者でした。これが将来の拡大の基礎になりました。

1946年10月に米国からジョージ・フレディアネリ兄弟が到着しました。同兄弟は1943年にものみの塔ギレアデ聖書学校を第1期生として卒業し,それ以来巡回監督として奉仕していました。そして,今度はアルプス山脈からシチリア島にまで及ぶイタリアに存在する唯一の巡回区の兄弟たちを訪問するよう割り当てられました。

1947年1月に,さらに二人の宣教者,ジョセフ・ロマーノとその妻アンジェラ・ロマーノが到着しました。ロマーノ兄弟は支部の監督になるよう任命されていたので,ミラノの新しいベテルですぐに業に取り掛かりました。数か月後,さらにもう一組のギレアデ卒業生の夫婦が遣わされました。それはカルメロ・ベナンティとコンスタンス・ベナンティでした。そして1949年3月14日さらに28人の宣教者がこの国に到着し,まさに宣教者の当たり年になりました。これらの宣教者たちは確かに,拡大の見込みを抱いて物事を動かしてゆくためのエホバの備えの一つでした。当初これらの宣教者たちは,ミラノ,ジェノバ,ローマ,ナポリ,パレルモの五つの都市で働く群れに割り当てられました。

1946年に戦後の新たな出発が見られたときには,100人を少し上回る伝道者が国中のあちこちに散在していました。それらの伝道者たちは互いに連絡を取っておらず,組織との連絡も途絶えていました。定期的な集会は開かれていませんでした。もっとも伝道者たちは,個人の家であろうと牛舎であろうとできる所ならどこでも集まり合うために最善をつくしていました。そして,いずれかの出版物を読み,聖句を調べ,自分たちにできる範囲でそれらについて注解を加えました。宣べ伝える業は友人や親族に話すことだけと言ってもよいほどで,クリスチャン会衆の神権的な構造は知られていませんでした。

ドメニコ・チモロージは次のように書いています。「責任の立場を割り当てることが一般投票ではなく,神権的な方法で行なわれるべきことを私たちがようやく学んだのは,1944年ごろになってからのことです。どのようにして行なったらよいか分からなかったので,私たちはマッテヤを選ぶのに用いられた方法を採用するとよいと考えました。(使徒 1:23-26)私たちは群れの中の年長の人たちの間から選ばれた10人の兄弟たちの氏名をそれぞれ別個の紙片に書き,その紙を折り,つぼの中に入れました。次に幼い女の子が紙を1枚ずつ取り出しました。最初に氏名の取り出された人が監督になることになっていました。このようにして私が選ばれ,最初の巡回監督がやって来るまでこのような方法で物事を行ないました」。

兄弟たちは自分たちの手に入るごくわずかな手段を用いて,自らを霊的に築き上げていました。そして,明らかに聖霊がそれを大いに補っていました。しかし,エホバがご自分の民の増加を『速める』ときが到来していたのです。―イザヤ 60:22

戦後最初の大会

ミラノに支部事務所が開設された後,ノア兄弟はわたしたちを訪問して,新たに組織された活動にさらに励ましを与えることにしました。同兄弟の訪問に合わせて,1日の大会が取り決められました。それは終戦後に開かれる最初の大会になりました。兄弟たちも関心を持つ人々も,だれもがその大会およびノア兄弟やヘンシェル兄弟と会うことを心待ちにしていました。

1947年5月16日に,それらすべての人は大会の開かれることになっているチネマ・ツァーラにやって来ました。午前と午後のプログラムにイタリアの各地から239人が出席しました。中には遠く離れたシチリア島から来た人もいました。その日にバプテスマを受けた人の数は31人で,そのうちの13人は姉妹でした。驚いたことに,これらバプテスマを受けた姉妹たちの中には,ファシスト特別法廷で有罪の宣告を受けたほどなのに,クリスチャンに対する要求について知識が不十分であったため,まだバプテスマを受けていなかった人がいました。晩の8時半に行なわれた「すべての人びとの喜び」と題する公開講演でその日のプログラムは最高潮に達しました。その講演には700人が出席しました。

兄弟たちがその大会に行くには,大きな犠牲を払わなければなりませんでした。兄弟たちは非常に貧しかったので,兄弟たちにとって旅費や宿泊費はかなりの出費のようでした。それだけでなく,戦争の影響で鉄道はまだ各所で寸断されたままでした。チェリニョーラ出身の年配の姉妹テレサ・ルッソは次のように語っています。

「当時の私たちはとても貧しかったので,大会に行くお金がありませんでした。どこでそれを手に入れればよいのでしょうか。砂糖を使わないでため始めたときのことがまるで昨日の出来事のように思い出されます。その後,ためたこの砂糖をなんとか売って,汽車賃と宿泊費にあてるのです。砂糖をケースに詰め,腰の周りに砂糖の入った袋をぶら下げました。食糧を同様の方法で運ぶハンターのようなかっこうになりました。だれもがとても太って見えました。それでも,このようにして,私たち7人はミラノに行き,大勢の兄弟たちに会うという喜ばしい経験にあずかることができたのです」。

出席者の中には,かつて刑務所や流刑地で会った兄弟たちと自由に集まり合えるようになったときの感情を今でも覚えている人がいます。その大会に出席したアルド・フォルネローネはこう語っています。

「刑務所や流刑地で共に過ごしたイタリア中部や南部の愛する兄弟たちと再会し,抱き合ったときのあの深い感動は決して忘れられません。信教の自由が回復された国で集まり合えるようになったことに対する私たちの感謝がどれほど深いものであったかをご存じなのはエホバお一人です。私たちは偉大な神であられるエホバに感謝をささげました。エホバがご自分の民のために事態に介入してくださったからです」。

大会中,ノア兄弟はこの国における神権的な拡大計画の概要を示しました。6月から月に1回,会衆への指示を載せた,「通知」と呼ばれる文書が発行されることになりました。群れや会衆は6か月ごとに巡回監督の訪問を受けることになりました。さらに,巡回大会も開かれます。

「通知」の1947年6月号は第1号になりました。最初の数か月間は,謄写版で刷ったものが発行されました。協会の会長の発表した活動計画について説明する第1号は,心を動かす次のような勧めの言葉で結ばれていました。「ですから兄弟たち,ここイタリアにおいても,他の国々の民の中にいる神の民と共に神への賛美を歌う聖別された人々の群れを真の神が持たれることを期待して,前進しようではありませんか」。

巡回の活動が始まる

旅行する監督たちは諸会衆を訪問して兄弟たちを築き上げ,神権的な原則を教え,宣べ伝える業において訓練を与えてきましたが,これらの監督たちの活動を通して王国の関心事の拡大が大いに促されたことに疑問の余地はありません。1945年にノア兄弟やマリア・ピッツァート姉妹と会ったウンベルト・バノッツィのことを覚えておられますか。バノッツィは1930年代に,フランス,ベルギー,オランダで開拓奉仕を行なっていました。しかもその大半は地下活動でした。ノア兄弟と会った後,バノッツィはイタリア各地に散らばっている兄弟たちを訪ね,宣教者たちがやって来る前に,それらの兄弟たちと再び連絡が取れるようにしました。このようにバノッツィは,1946年の5月と6月に,当時としては最も大きな,兄弟たちの幾つかのグループを訪問しました。

しかし,最初の巡回監督に任命されたのはジョージ・フレディアネリ兄弟でした。フレディアネリ兄弟は1946年11月に訪問を始め,第1回目の訪問旅行にはバノッツィ兄弟が同行しました。

1947年には,二つ目の巡回区が組織され,最初にジュゼッペ・トゥビーニ兄弟がこの巡回区に割り当てられました。数か月後に同兄弟がベテルに入ると,後任としてピエロ・ガッティ兄弟がその立場を引き継ぎました。これらの兄弟は共にスイスにある難民キャンプで真理を知りました。ナチスの手を逃れようと逃亡して来た幾千人ものイタリア兵でごった返す難民キャンプが幾つもあったのです。外国で真理を学んでいた兄弟たちが終戦直後のこの時期にほかにも大勢戻って来て,イタリアに王国の音信を伝えました。33年余り後の今日でも,トゥビーニ兄弟はベテルに,ガッティ兄弟は巡回の業に引き続きとどまり,全時間奉仕に携わっています。

バノッツィ兄弟の旅行

バノッツィ兄弟の旅行の記録は,当時の旅行する監督たちが耐え忍ばなければならなかった様々な不便を理解するのに役立ちます。同兄弟は次のように書きました。

「コモを出た後,様々な危険を冒してプーリャ地方のフォッジャにたどり着きました。駅を探し回りましたが,むだでした。爆撃で完全に破壊されてしまっていたからです。最初の訪問地として指示されていたチェリニョーラに向かう汽車に乗ったものの,しばらく行くと,列車はこれより先には行かないと告げられました。そこで,トラックに乗って旅を続けました。翌日の夜7時に目的地に着きましたが,そのときにはほこりにまみれて疲れきっていました。このすべてにもかかわらず,集会で一人の兄弟が祈りをささげ,長年待ち望んだ末ついに組織から訪問者が遣わされたことをエホバに感謝する言葉を聞いたとき,その努力が報われたのを感じました。訪問の終わりに兄弟たちは涙を流し,私も深い感動を覚えました。

「私は陸路でイタリア中を回りました。道路には依然として戦争のつめあとが残っており,まともに架かっている橋は一本もありませんでした。2万2,000の橋が爆破され,通行可能な橋は連合軍の手で一時的に補修されたものでした。焼けただれた幾百両もの客車や機関車を目にしました。また,どの町も爆撃の被害を受けていました。

「私はベネベント郡のピエトレルチナにある群れを訪問するため,朝の6時にチェリニョーラをたちました。自分の荷物の上に腰掛け,牛車で3時間も揺られた末,夜の7時にベネベントに着きました。駅に着くと,兄弟たちが私を見付けられるよう,打ち合わせ通り,『ものみの塔』誌を手にして待ちました。ところが,だれも現われません。どうしたらよいのでしょう。

「ピエトレルチナはここからさらに12㌔ほど離れており,夜のこの時間ではそこに行くすべがありません。その場で立って待っていると,一頭立ての2輪馬車に乗った人が私を乗せてくれました。夜の9時半になっていましたが,私は暗闇の中でミケレ・カバルッツォ兄弟の家を探し始めました。それは容易なことではありませんでした。しかし,エホバのみ使いが私を見守っていてくれたため,いつまでも絶望の淵に置かれてはいません。ついに,カバルッツォ兄弟の家を見付けました。兄弟は大喜びで,すぐに食事を準備してくれました。私はおなかがペコペコでした。前の晩から食べ物を何も口にしていなかったのです。とても疲れていて床に就きたかったのですが,愛するカバルッツォ兄弟は沢山の質問をし,兄弟が真理に入ったいきさつを一部始終私に聞かせようとしました。そこで私たちは真夜中まで起きていました。翌朝になって私の到着を知らせる電報が配達されました。私の方がレースに勝って,先に着いてしまったのです。

「バプテスマを受けた兄弟はほとんどいなかったのに,毎晩のように35人ほどの人が集会に出席しました。私は午前4時に,兄弟の一人が御者を務める一頭立ての荷馬車に乗り込み,ピエトレルチナをたってフォッジャに向かいました。監督のドナト・イアダンツァ兄弟が同行してくれました。当時は1920年代ではありませんでしたが,終戦直後のこの時期には,これが最も一般的な交通手段だったのです。午前6時にベネベントに着きましたが,残念なことに列車は出た後でした。

「そのときだれかが,フォッジャに回送される機関車があるので機関士に話してみるよう勧めてくれました。機関士に追い付いてみると,当の機関士は,何とか乗り込もうとしている他の人々に文句を言っているところでした。乗客を乗せる場所などないと言っているのが聞こえました。それでも,その場にいた全員が乗り込むことができました。イアダンツァ兄弟は機関車の後を追い掛けて来て,やっとのことで私の荷物を手渡してくれました。他の10名ほどの人と一緒に機関車の中の狭い場所に詰め込まれ,すし詰めの状態で丸5時間の旅をしました。全員が空気の不足と熱で汗まみれになり,かまの下から飛んで来る火の粉であちこちに焼け焦げができていました。フォッジャの近くまで来ると,機関士は田園地帯の真ん中で機関車を止め,乗っていた全員が降りました。

「その後,私はスポルトーレ,ピアネラ,モンテシルバノ,ロセト・デリ・アブルッチ,ビラ・ボマノにあるそれぞれの群れを訪問しました。この一連の訪問の最後に訪れたのはファエンザでした。そこの集会には50名ほどの人が出席していました。私は若い人々に開拓奉仕を行なうよう励まし,この群れに関する報告の中で次のように書きました。『いつの日か,これらの若い人々の中から奉仕のこの特権にあずかる人々の隊ごに加わる人が出ることを期待しましょう』」。

フレディアネリ兄弟の巡回の業

現在では支部委員の一人であるジョージ・フレディアネリ兄弟は,巡回の業を行なっていた当時の出来事を回想して,こう語っています。

「兄弟たちを訪問すると,親族や友人が集まっており,皆が是非話を聞こうと,私の到着を待っていることがよくありました。再訪問に行った時でさえ,人々は親族を呼んでいることがありました。実際のところ,巡回監督は週に1回公開講演を行なうのではなく,再訪問のたびに二,三時間の講演を行なうことになりました。これらの訪問の際には,30名,時にはそれ以上の人々が集まっていて,話に注意深く耳を傾けることもありました。

「戦争の余波で,巡回の業の生活には困難の伴うことが少なくありませんでした。兄弟たちも他のほとんどの人と同様,非常に貧しい生活を送っていましたが,兄弟たちの愛ある親切がそれを補っていました。兄弟たちは手元にあるわずかな食糧を心から分け与えてくれました。また,私にはベッドで寝るようしきりに勧めて自分たちは寝具も掛けずに床の上に寝ることも少なくありませんでした。これらの兄弟たちは貧しくて,余分な寝具を買うことができなかったのです。牛舎の中のわらや乾いたトウモロコシの葉の山の上で眠らなければならなかったこともあります。

「ある時,先頭を行く蒸気機関車の出すばい煙で顔を煙突掃除夫のように真っ黒にしながら,シチリア島のカルタニセッタに着きました。80㌔から100㌔の旅をするのに14時間かかりましたが,気持ちの良い風呂に入ってからホテルかどこかで休むことを思いに描くと,到着と同時に元気が出てきました。しかし,そのようにうまくはいかなかったのです。聖ミカエルの日を祝う人々でカルタニセッタはごったがえしており,町中のホテルはどこも司祭や修道女で満員でした。仕方なく,待合室にあったベンチで寝ようと思って駅に戻りました。ところが駅は,終列車が到着した後で閉じられていることが分かり,その希望も消えうせました。腰を下ろして少し休める所と言えば,駅前の階段しかありませんでした」。

巡回監督の援助によって,諸会衆は「ものみの塔」研究と書籍研究を定期的に開くようになりました。さらに,奉仕会の質が向上するにつれ,兄弟たちは宣べ伝え,教える業の面で,より良い資格を身に着けるようになりました。

チェリニョーラの群れの霊的状態

バンケッティ教授の伝道の結果できたチェリニョーラの群れのことを覚えておられますか。「その群れの霊的状態は本来あるべき状態から掛け離れていました」とフレディアネリ兄弟は語っています。同兄弟はその点を次のように説明しています。

「そこには奇妙な状態が見られました。その会衆 ― もっともこの群れをそのように呼ぶことができればのことですが ― は主に,エホバの証人であると自称するプロテスタント信者と共産主義者から成っていました。私はその群れの成員と何時間もかけて話し合い,偽りの宗教を捨て去ることと政治に関して中立の立場を保つことの必要性を納得させなければなりませんでした。

「次の訪問のときには,記念式の話を行ない,象徴物にあずかれるのは油そそがれた級だけであることをはっきり説明しました。集会が終わるまで,すべてが順調に進みました。集会が終わるとすぐ,自分が群れの責任者であると考えていた一人の人物が私に公然と反対し,私が象徴物について語った事柄は真実ではないと言い張りました。これによって群れの成員の間に混乱が生じたように見えたので,出席している人々にその場で決定を下すよう求めるのが最善であると考えました。私はこのように言いました。『真理とエホバの証人の側にいる人は私と一緒に外へ出てください。真理に反対の人は残ってよろしい』。

「ほとんど全員が私について外に出たので,ほっとしました。反対者と共に残ったのはほんの三,四人にすぎませんでした。その反対者は地元の共産党の名の知られた指導者だったのです。それから,ごく少数の人を除きこれら出席していた人々は,私と共に別の部屋に入りました。これらの人はその後も真理のうちに引き続き進歩していきました」。

最初の巡回大会

1947年9月に,ロセト・デリ・アブルッチで最初の巡回大会が開かれました。本来はペスカラで開かれることになっていたのですが,僧職者の反対によって,会館の使用許可が取り消されてしまったのです。兄弟たちはそれにくじけることなく,袋小路になっているある私道で集まりました。それはドメニコ・チモロージ兄弟の家の庭にだけ通じている道路でした。道路は閉鎖され,その上に防水シートが張られました。ぶどう棚の日陰の部分にテーブルが置かれて,話し手の演壇が準備されました。そこには,喜びにあふれた100人ほどの兄弟たちが出席しました。

1950年代の初期には,大会の開会時に普通40名から60名ほどの人しか出席していませんでしたが,公開講演になると大抵,平均200名ほどの人が出席しました。これほど大勢の人が出席するとは本当にすばらしいことだと兄弟たちは思いました。

業は進歩を続け,1954年にジョージ・フレディアネリ兄弟は地域監督として働くよう割り当てられました。

他の備え

1945年1月に,協会はほとんどの国で公開講演運動を始めました。イタリアでは,その後数年間この運動を実施できませんでした。1948年2月号の「通知」に,この運動が3月28日から開始されることが発表され,次の月には13の公開講演が行なわれました。すべての会衆でこれらの講演を定期的に行なうには,さらに数年を要しました。

兄弟たちが訓練を必要としていることは明らかだったので,1948年に神権宣教学校が開設されました。イタリア語の適当な出版物がなかったため,兄弟たちは当初,自分たちで最善を尽くしてこの集会を行ないました。英語を理解できる人のいる会衆では,「王国伝道者のための神権的助け」の本から幾つかの課程が翻訳されました。しかし,1948年当時,英語を理解できる兄弟たちはごく限られていました。その後,1950年の末ごろになって,諸会衆は「すべての良い業に備える」の本の幾つかの課程を収めた謄写版刷りの印刷物を受け取るようになりました。これは学校の質を改善するのにとても役立ちました。

1956年にはさらに進歩が計られました。「ものみの塔」誌は1956年1月1日号(イタリア語版)から「すべての良い業に備える」の各課程を訳した連載記事を,また「目ざめよ!」誌は1956年1月8日号(イタリア語版)から「奉仕者になる資格」を訳した同様の連載記事を掲載し始めました。そしてついに,「すべての良い業に備える」の本が1960年に,また「奉仕者になる資格」の本が1963年にイタリア語で印刷され,新しく交わるようになった兄弟たちもプログラムに付いてゆき,集会の準備ができるようになりました。

支部事務所がローマへ移る

ミラノはイタリアのかなり北部に位置しているので,支部事務所をもっと中央部に移せば,拡大する活動に対処しやすくなるものと思われました。移転地としてすぐにローマが選ばれました。ローマはこの国の首都であり,行政府の中心地でもあったからです。1948年9月に,地下室の付いた3階建ての建物が購入されました。この建物は12の部屋と近代的な設備を備えているだけでなく,モンテ・マロイア通りの木立ちや庭園に囲まれたとても魅力的な場所に位置していました。事務所はその月の間にここに移転しました。ミラノの土地は後日売却されましたが,モンテ・マロイア通りの建物は今でもものみの塔協会のもので,今日に至るまで大いに活用されています。

「神を真とすべし」の本の翻訳が新しいベテルで行なわれ,翌年,つまり1949年にその印刷が完了しました。この本は宗教的背景を持つ人々にとって非常に興味深い教理上の問題を扱っており,幾千人もの人々が真理を見いだすのに役立ってきました。

宣教者を追放しようとする陰謀

何世紀もの間,人々が聖書について何も聞いたことのないこの国において,宣教者の活動は豊かな実を結びました。すでに述べたように,1949年の春に,それまでで最大の宣教者のグループがイタリアにやって来ました。宣教者たちが奉仕するよう割り当てられた所ではどこにおいても,会衆が誕生しました。人々は本当に神の言葉を「渇望して」いたのです。

外国に住みその言葉を学ぶことと関連した通常の問題に加えて,宣教者たちはそれよりはるかに難しい一つの障害を克服しなければなりませんでした。それは,パスポートのビザが切れた後,当局者から滞在許可を得るという問題でした。支部事務所は1949年度の滞在許可の申請書を内務省に提出しました。ところが,許可が与えられるどころか,宣教者たちは国外へ退去を命じる通知を受け取ったのです。それはまさに青天のへきれきと言える出来事でした。執ように抗議をした結果,1949年12月31日までの滞在許可が下りました。その日までに,全員がイタリアを去っていることになるのです。好調な出発を見たその活動は,これによって重大な打撃を受けることになるでしょう。

なぜ宣教者たちはイタリアを去るよう命じられたのでしょうか。その背後にはだれがいましたか。「1951年の年鑑」(英語版)に載せられた報告は,舞台裏で進行していた策略を暴露しました。その報告は1951年3月1日号の「ものみの塔」誌(イタリア語版)にも掲載されました。そこにはこう書かれていました。

「1949年の3月に28人の宣教者がイタリアに到着する前,支部事務所はすでに,その全員のための有効期間1年のビザの正式の申請書を提出していました。初めに当局者が語ったところでは,政府は経済的観点から問題を考慮しており,私たちの宣教者の場合にはおそらく大丈夫だろうということでした。ところが,6か月後に突然,内務省から通知を受け取り,兄弟たちは月末までに国外に退去するよう命じられました。1週間の猶予もありませんでした。当然のことながら,法廷闘争もせずにこの命令を受け入れるようなことはしませんでした。そして,このような陰険な攻撃を背後で操っている張本人を突き止めるためにあらゆる努力が払われました。内務省の関係者と個人的に接触したところ,私たちの書類には警察その他の当局者による苦情は書き添えられておらず,この問題の背後にいるのは“高官”のだれかとしか考えられないことが分かりました。それは一体だれでしょうか。内務省に勤める一人の友人から,政府は米国籍を持つ人々に対して非常に寛大かつ友好的な政策を取っているので,私たちの宣教者に対する今回の処置は実に奇妙であることを知らされました。

「大使館が助けになってくれるかもしれないと考え,幾度も大使館を個人的に訪問して大使の秘書と会談を重ねましたが,その努力はいずれも実を結びませんでした。米国の当局者も認めるように,ものみの塔の宣教者がイタリアで伝道するのを,イタリア政府部内で強大な権力を振るっている何者かが望んでいないことは歴然としていました。この強大な権力を前にして,米国の外交官はただ肩をすくめてこう言いました。『ご存じのように,ここでは,カトリック教会は国教とされており,事実上その望み通りに事を運びます』。

「宣教者に対する内務省の措置の実施を9月から12月まで引き延ばすことができました。しかしついに,最終期限が定められ,宣教者たちは12月31日までに国外に去らなければならなくなりました。命令に従う以外に道はありませんでした。私たちは宣教者たちをスイスのイタリア語の話されている地域に送りました。二,三か月して,宣教者は全員イタリアに戻り,再び伝道を始めました。

「今回,これらの宣教者は別の都市に割り当てられました。しかし,それは業を一層拡大させることになるでしょう。

「では,宣教者たちが,以前に割り当てられた都市で見いだした善意の関心者についてはどうでしょうか。『羊』が見捨てられることはありませんでした。ノア兄弟は,宣教者の家に住んで良い業を継続するためにイタリア人の特別開拓者を新たに選ぶことを承認しました。この移行は時を移さずして行なわれ,業は影響を被りませんでした。この出来事によって,み言葉は新たな処女地へと広まって行ったのです」。

国外に退去させられた宣教者たちは,どのようにして再び入国したのでしょうか。有効期限3か月の観光ビザを利用したのです。そのため,3か月ごとに国外へ出て,数日後にイタリアへ戻らなければなりませんでした。しかもその度に,ビザの更新を拒否される恐れがありました。幾つかの町では,僧職者が宣教者たちを見付けだして地元の当局者に圧力をかけ,宣教者たちを追い出そうとしました。そのようなときには他の場所へ移らざるを得ませんでしたが,常に警戒を怠ることなく,できる限り注意深く行動しました。

「宣教者たちを追い出すのだ。そうすれば,それに追随する者たちのちっぽけな群れは,陽を浴びて溶ける雪のように消え去ってしまう」と,僧職者たちは考えました。それらの僧職者は,神の目的を妨げることも,それを成し遂げる何者も抗し得ない神の力と戦うこともできないという事実を認識していませんでした。

宣教者の業における経験

カルメロ・ベナンティとコンスタンス・ベナンティの二人はイタリアで33年以上にわたり宣教者奉仕を行なっています。ベナンティ兄弟は次のように語っています。

「ブレシアにいる間,妻はある特定の区域に努力を集中しました。そこの住民は近くの修道院と特にそこに住む修道士の一人の影響を強く受けていました。そのような影響力の下にあったものの,16名の人が真理を受け入れました。何年も後に,私たち夫婦は再びブレシアを訪問して,真理を知るようかつて自分たちが助けた兄弟たちを訪ねました。一群の兄弟たちと食事をしている際,その地域で業が開始された当時の様子を話して欲しいと頼まれました。そこで妻は,修道士が自分を困らせようと男の子たちをけしかけた時のことを話しました。子供たちは爆弾で破壊された家の壁の後ろに隠れ,妻がやって来たら,飛び出して石を投げつけようと待ち構えていたのです。このことに気付いた妻は,自分がけがをしないようエホバに祈りました。ここまで話すと,ブレシアのある会衆の監督の一人が次のように言いました。『姉妹,その男の子たちの中に私もいたのです。もちろん,当時は非常に幼く,あなたに石を投げつけたら,あの修道士からお菓子をもらえることになっていました。どうして石を投げつけなかったのか,私たちにも分かりませんでした』」。

別の宣教者は次のように語りました。「ナポリにいた時,きちんとした身なりをしていたので金持ちに間違えられたことが一度ありました。通りを歩いていると,一人の男が後をつけて来るのに気付きました。私を襲うつもりのようでした。私は後ろを向いて,その人に真理について話すことにしました。相手はこうした事態の成り行きに驚くと同時に,音信そのものに深い感銘を受けました。事実,その人はやがて真理を受け入れました。後で分かったことですが,その人は本当に私を襲って金を奪うつもりでいたそうです。当然のことながら,その男の人が真理に対して心を開いた時,そのような歩みは変化しました。かつてのこの泥棒は特別開拓者になり,死ぬまで忠実にエホバに仕えました」。

初期の集会場所

戦後間もない時期に兄弟たちが集まり合うのに用いた場所について簡単にお話しすれば,この国の業がそれ以来どれほど進歩してきたかを知るのに役立つでしょう。一時期,ほとんどすべての王国会館は個人の家にありました。その理由の一つは,適当な建物があっても,所有者が僧職者に脅されて,その建物をめったにエホバの証人に貸そうとしなかったことにあります。現在,地域の奉仕を行なっている,ギレアデ卒業生の一人,ウィリアム・ウェンガート兄弟は次のように語っています。

「当時,都市部の私たちの会館は大抵地下にありました。集中暖房装置<セントラルヒーティング>はなく,会館によってはトイレも備わっていませんでした。電気の照明の代わりにしばしば石油ランプ二つで室内を照らさなければなりませんでした。ランプは一つを演壇に,他の一つを聴衆席に置きました。しかし,当時を振り返って気付くことですが,その時の私たちはそれをごく普通のこととして受け入れていました。しかも,これを補うように,兄弟たちはいつも幸福感にあふれ,互いに対する温かい愛に満ちていました。大きな声で歌が歌われる時,ひときわ感動を覚えました。イタリア人は本当に楽しみながら歌を歌います。エホバはこの国における業を祝福してくださり,今ではその聖なるお名前を賛美するために兄弟たちが集まり合うことのできるとてもすばらしい会館が備えられています」。

間に合わせの会館で満足しなければならなかったとはいえ,1950年代のこれら愛する兄弟たちは幸福な人々であり,集会に対して深い認識を示しました。ニコラ・マニ兄弟の次の言葉はそれを裏付けています。「台所のテーブルの上にボール箱をひっくり返したものがしばしば演台の代わりに用いられましたが,それでも結構用をなしました。出席している兄弟たちの目は喜びに輝いており,ランプで照らされた薄暗い部屋の向こうから喜びに満ちた兄弟たちの生気あふれた視線が注がれていました」。

集会場所の状況がしばしばそのようなものであったため,時には珍事も起きました。旅行する監督の一人フランチェスコ・ボンテンピ兄弟はミラノにあった初期の王国会館の一つを思い起こしてこう語っています。

「王国会館は地下にありましたが,内部はとても清潔でした。ある晩,集会が始まってから,珍客の訪問を受けました。一匹のとても小さなネズミが紛れ込んだのです。ネズミは会館の中に入って来て,かなり太った一人の姉妹の座っているいすの脚を登り始めました。姉妹の方はプログラムに熱中しています。ネズミはいすの脚のさんの近くで止まり,かなり長いことじっとしていました。私はあえて余計なことをしませんでした。集会を妨げたいと思わなかった上,姉妹がどんな反応を示すかは十分想像がついたからです。やがて,ネズミはいすの縁に沿って走り,かろうじて姉妹の足には触れずに,音もなくどこかに姿を消しました。私はほっと胸をなで下ろしました。しかし,このようなちょっとした不都合はあったものの,会衆には兄弟愛や奉仕に対する熱意があふれていました」。

「1976年の年鑑」(日本語版)によると,兄弟たちの手で最初に建てられた米国の王国会館はペンシルバニア州のロセトの王国会館と考えられています。この会館は,1927年に,ジョバンニ・デチェッカ兄弟の行なった公開講演によって献堂されました。偶然の一致ですが,イタリアの兄弟たちの手で建てられた最初の会館もロセトと呼ばれる場所,つまりロセト・デリ・アブルッチにありました。米国の先輩格の会館が建てられて26年後の1953年に,この会館は完成しました。

僧職者の扇動によってさらに問題が起きる

イタリアで現在享受されている自由は,イタリア共和国憲法が施行された重要な日である1947年12月27日にまでさかのぼります。その憲法はエホバの王国を告げ知らせる私たちの業と直接関係のある幾つかの基本的権利を認めていました。それらの権利は独裁政権の下で容赦なく踏みにじられてきました。

しかし,新憲法が施行されてはいたものの,エホバの証人にとって困難な事態が過ぎ去ったわけではありませんでした。カトリックの僧職者団が頼りにしていた独裁政権はもはや存在していませんでしたが,彼らは同国で最も有力な政党と強い絆で結ばれていることを依然として誇っていました。僧職者は王国の関心事の息の根を止めようと躍起になって,憲法とは相反しながらもまだ廃止されていなかったファシスト時代の法律を持ち出しました。

司祭たちが狂信者たちで成る暴徒を唆して,集会に出席していたり野外宣教に携わったりしている兄弟たちを襲わせることもありました。例えば,1954年9月22日付の日刊紙ウニタは,「モルフェッタで司祭に扇動された婦女子の暴徒が“エホバの証人”を襲う」という見出しの記事を掲載し,こう伝えました。

「善良な市民に対する狂信的敵対行為が一司祭[住所氏名を明記]の扇動によって発生したが,これは極めて重大なことである。上記の僧職者と異なる宗教を奉じているというのがそれらの市民のただ一つのとがめる点であった。……

「数日前,勤勉さと秩序正しさを誇りとする町モルフェッタで,宗教的迫害という実にいまわしい光景を目にした。それは宗教裁判のあの暗黒時代を思わせるものであった。町の住民10人ほどがいつものようにズペッタ通り7番地で集まっていると,司祭[氏名を明記]が婦女子や若者から成る暴徒の一群を率いて賛美歌を歌いながらやって来た。そして,司祭が合図をすると,手の付けようがない大騒動が発生し,それは2時間以上にわたって続いた。その示威行動の間,集会場のドアや窓には絶え間なく石が投げ付けられた。また,群衆は乱暴に振る舞い,大声で脅し,ばり雑言を浴びせていた。……

「最悪の事態を避けるために外に出ることを余儀なくされたこれらの人々は,荒れ狂った女や子供たちに取り囲まれ,ちょう笑や侮辱の言葉を浴びせられ,脅迫された。殴られたり,石を投げ付けられたりしながら,やっとのことで警察署にたどり着いた。保護を求めると同時に,この不法な暴力行為の扇動者を処罰してもらうためであった。ところが,責任者は明らかに相手側に好意を抱いていたため,法律と憲法に認められている諸権利に敬意を払わせるべく事態に介入しようとはしなかった。そのため,個人の基本的権利の擁護と身辺の安全を図ることを務めとするはずの者たちの暗黙の了解を得て,扇動者も加害者も処罰されなかった。この事件では,これらの権利は実に卑劣かつ不面目な仕方で踏みにじられ,無視された」。

この同じ新聞の1959年1月3日付の紙面にも,「“エホバの証人”に対する宗教的不寛容行為がラピオで発生」という見出しの記事が載りました。このときは,どのようなことが起きたのでしょうか。1958年12月29日に,アントニオ・プリエリとフランチェスコ・ビテリという名の二人の伝道者がアベリノ郡の小さな町ラピオで「良いたより」を宣べ伝えていました。午前11時ごろ,二人の前に地元のカトリック司祭に率いられた若者や子供たちから成る暴徒の一群が現われました。司祭は大声で叫びはじめ,「出て行け! うそを言いふらす無学なろくでなしめ! お前らは聖書など分かってやしない。群れを滅びに陥れるだけだ」とどなりました。

暴徒が本気のようだったので,二人の兄弟は町役場に逃げ込みました。司祭は二人の後を追って階段を上って来ましたが,町長が間に入って二人を助けました。その町で伝道していた他の兄弟たちはどうだったでしょうか。前述の二人の兄弟はこう語りました。「町役場の守衛と一緒に,他の兄弟たちが働いていた地区に行きました。すると,兄弟たちは司祭に率いられた群衆に取り囲まれていました。司祭は兄弟たちを盛んに脅していました。幾らかの問題を乗り越え,やっとのことで兄弟たちをそこから連れ出し,私たちを乗せて行くことになっていたバスの所に戻ることができました。私たちがバスに乗り込むと,司祭はその前に立ちはだかってバスを発車させないようにし,群衆を駆り立ててさらに暴力を振るわせようとしました。幸いにも,人々はそれ以上司祭の言葉に従いませんでした」。

これらは僧職者が背後にいて引き起こした事件のほんの数例にすぎません。当然のことですが,これらの行為を非難する記事を載せたのは普通,野党系の新聞で,カトリック色の強い多数党系の新聞は一般にそれを無視して報道しませんでした。

カトリック教会によるこうした執ような反対は別に驚くべきことではありません。それは,カトリック教会が他の宗教を扱う際にごく普通に取ってきた態度を反映しています。その方針を明らかにするカバリ“神父”の次のような言葉が月2回発行されるイエズス会の雑誌チビルタ・カトリカの1948年3月27日号に載りました。

「カトリック教会は,唯一の真の教会として,当教会だけが行動の自由を主張する神聖な権利を有すると確信している。それにより,この特権は真理に対してのみ与えられ,誤謬に対しては与えられなくなるのである。他の宗教について言うなら,カトリック教会が実際の剣を取り上げてそれらの宗教と戦うことは決してない。しかし,それらの宗教が偽りの教理を広めることがないようにするため,合法的な経路や有効な手段を活用するであろう。ゆえに,カトリックの優勢な国においては,カトリック教会は,誤った宗教信条が法的認可を受けることがないようあくまでも主張する。特定の宗教的少数者が根強く存続する場合は,その存在そのものを既成事実として認めるにしても,その信条を広める機会を一切与えないよう主張する。政府の敵意や反対グループが数の面で優勢であるなどのために,この原則を厳格に適用することが不可能な状況の下では,カトリック教会は自らのために最大限の譲歩を得るよう努力し,他の宗派の合法的存在を軽微な害悪として容認する。国によっては,カトリック教徒自ら信教の自由という絶対権を認め,自分たちだけがその国において繁栄する権利を有してはいても,他の異教集団との共存を計らざるを得ない……」。(下線は編者)

言い換えれば,このカトリックの僧職者はエホバの証人や他の人々に対し,『思い通りになるものなら,お前たちを始末してやる』とあからさまに語っているのです。しかしエホバは,『ご自分のみ名を知るようになった』人々がそうした反対に打ち負かされるようなことをお許しになりませんでした。―詩編 91:14

大会を妨害しようとする試み

僧職者たちはわたしたちの平和な活動を妨げようと,自分たちにできるすべてのことを行ない,様々な手段に訴えて大会を妨害しようとしました。例えば,司祭たちは聴衆の中によく妨害者を潜り込ませました。このような妨害者は大抵若者でした。会場に入ると,しばらくは出席者の間で静かに座っていますが,やがて大声を上げたり騒ぎを起こしたりして,集まりを混乱に陥れます。この時点で警察が事態に介入しますが,騒ぎを起こした者たちを連れ去るのではなく,その集まりが「平和をかく乱」しているという理屈をつけて大会そのものを中止させてしまうことが少なくありませんでした。

ウィリアム・ウェンガートは当時を回顧してこう語っています。「大会が始まった時点では,最後までプログラムを行なえるかどうか確信がありませんでした。当時は実に様々な妨害や問題があったのです」。

大会を組織する巡回監督や地域監督たちは簡単で実際的な対応策を見いだしました。がっしりした体格の案内係からなる非常に効果的なグループを組織し,入口の近くにそれらの案内係を大勢配置したのです。旅行する監督の一人は次のように語っています。「巡回大会が始まったばかりで,僧職者の妨害が予期されました。地域監督は入口にいる案内者たちに対して,自分の知らない人はすべて止めて,『どちらからいらっしゃいましたか』とか『会衆の監督はだれですか』といった二,三の質問を何気なくするよう指示しました。納得のゆく仕方で答えた人だけが中に入ることを許されました。

「それでも,問題を起こす者たちが聴衆の中に紛れ込んだならどうでしょうか。その場合には,き然とした表情の一群の案内者,つまり“機動隊”が現場に急行し,静粛にするよう反対者に対して親切に促します。それでも騒ぎが続くようだと,“機動隊”は慎重にその反対者を座席から持ち上げ,その者が退場するのを『手伝い』ました。妨害されることなく集まりを開く権利を警察が擁護してくれなかったため,私たちは問題を自分たちで解決しなければならなかったのです」。

僧職者があおりたてた数多くの事件のうちのごく一部を次にお話ししましょう。最初の事件は,中部イタリアのアブルッチ地区の肥よくな谷にある小さな町スルモナで開かれた巡回大会の際に起きました。1948年9月26日,日曜日の公開講演会には2,000名ほどの人が出席しました。当時のイタリア全体の伝道者がわずか472人であったことを思い起こすと,これがいかに大きな群衆であったかが分かります。その時,どのようなことが起きたでしょうか。「1950年の年鑑」(英語版)からの抜粋を以下に記します。

「日曜日の午前10時半には,市内で一番大きな劇場は2,000人を超す聴衆で超満員の状態になり,講演が始まる予定時間の何分も前にとびらを閉めなければなりませんでした。入場を断わられて仕方なく帰って行く人も少なくありませんでしたが,それらの人々も小冊子をもらうまでは帰りませんでした。会場内は立錘の余地もなく,通路にまで人があふれていました。会場の中では,熱心に耳を傾ける聴衆が話の最中と結びに何度も拍手をして,真理に対する感謝と賛同の意を表明しました。

「ところが,集まりが終わる前に,会館の後ろの方に立っていた一人の狂信的な若者が二人の司祭からメモを受け取り,演壇の所まで来ました。そして両手を挙げて大声で叫びだし,自分の話を聞くよう求めました。司会者は穏やかな語調で,一般の人々の質問には集まりが終わった後に個人的に一対一で答えることができる旨を説明しました。この狂信者が,騒ぎを起こして私たちの公開集会を自分の宗教の宣伝に利用しようとしていたのは明らかです。僧職者と同様,この男も恐らく,最近の教会の信者席ががらがらなことに気付いていて,人々に説教を行なうための他の場所を探していたのでしょう。身を隠した卑劣な司祭たちにけしかけられて,その男は大会が終わると同時に演壇によじ上り,気違いのように両手を振って声を限りに叫び,人々の注意を引こうとしました。後ろの方にいた二人の司祭は,僧職者用のカラーを隠すために頭を少し下げたかっこうで,賛同の意を表わして叫んだり口笛を吹いたりしました。それがきっかけで,自分たちの雇った男に対する熱狂的な支持の動きが生じることを期待していたのです。でも,そのようにはなりませんでした。聴衆は,改宗者を得ようとするこの男のあつかましい行動を認めませんでした。拍手をしたりその男が話したりするのを許すどころか,聴衆は『ファシストーネ!』[ファシスト!],『ベルゴニャ!』[恥を知れ!],『いくらもらっているんだ』と叫んでその男の抗議の声をかき消してしまいました。思い通りの事態にならないのを見て,妨害をもくろんだこの者は早々に演壇から飛び降りると,仲間の司祭たちと一緒にあわてて姿を消しました。その後,聴衆は劇場から秩序正しく静粛に退場し,提供される無料の小冊子を喜んで受け取りました」。

その報告は次のように結ばれていました。「事態は逆転し,ここでもエホバは勝利を与えてくださいました」。

最初の地域大会

宗教的不寛容の精神が示された別の出来事についてお話ししましょう。イタリアで最初の地域大会が1950年10月27日から29日にかけてミラノのテアトロ・デラルテで開かれることになっていました。ところが,直前になって,そこで大会を開く許可が警察本部長によって取り消されてしまいました。大会組織の責任を持つ二人の兄弟に対する説明は,プロテスタントの集まりにカトリック側が憤慨するかもしれず,その場合に生じかねないカトリック教徒の反対行動を避けるためにそうした手段が講じられたというものでした。全く道理に反する説明です。正直な市民から平和に集まり合うための権利を奪い取る口実にすぎませんでした。

それに対する兄弟たちの様々な反論は明らかに筋道が通っていましたが,警察本部長は決定を変えようとしませんでした。最後の手段として,兄弟たちが,こうした権威の乱用を報道機関に通報すると言ったところ,本部長は何も言えなくなり,兄弟たちを自分の事務所から追い出しました。告げられた事柄を私たちの手元にある他の情報とも合わせて考えると,僧職者がこの問題に関与していることは明らかでした。今回,僧職者たちは,警察の権力に対する自分たちの影響力を行使するという,それまでとは別の方法を考え出したのです。

その大会で大会監督の補佐をしていたジョージ・フレディアネリ兄弟はその時のことを思い返してこう語っています。

「この時の状況は次の通りでした。大会が始まるまでに24時間そこそこしかなく,兄弟たちはイタリア中からミラノに到着し始めていました。それなのに,別の会館をどこにも見付けることができません。どうしたらよいのでしょう。私たちはとても心配しました。しかし,この時も,エホバは私たちのために事態に介入してくださいました。

「大会前日の午前中,私は大会監督であるアンソニー・シデリス兄弟と共に別の会館を探していました。フェンスで囲まれたある敷地のそばを通った時,私たちは突然一つの考えを思いつきました。『ここを三日間使わせてもらえるかどうか,土地の所有者に尋ねてみてはどうだろうか』。地主は手ごろな値段でその土地を貸してくれました。私たちは次に,大会が開けるような幾張りかの大きなテントを探しに行きました。快く大テントを貸してくれる有名なテント工場をついに見付けることができました。その工場では,テントを張る手助けまで申し出てくれました。良い宣伝になると考えて,喜んでいたのです。

「次に直面した問題は,当局の許可を得る仕事をもう一度最初からやり直さなければならないことでした。時間内に許可が得られる見込みはほとんど,もしくは全くなかったため,既成事実を作り上げることにしました。ほかに方法がなかったのです。兄弟たち全員をそのまま家に帰らせることなどできませんでした。一晩中かけて大テントを張り,様々な部門を組織しました。だれにも気付かれずにすみ,大会は時間通り,午前9時に始まりました。

「そのすぐ後に警官がやって来ました。完全武装の警官がジープから飛び降りました。何と対照的な姿でしょう。実にこっけいな光景でした。静かに座って賛美歌を歌っている人々を規制するために武装警官が派遣されたのです。シデリス兄弟は警官に対し,もし大会を妨害するなら後悔することになるだろう,と話しました。その事実を地元の報道関係者や国際報道機関に通報し,イタリアの新憲法は遵守されておらず,ファシスト独裁政権が再び台頭しつつあることを知らせるつもりだからです。おじけづいた警官は上司の指示を求めるため,会場から去って行きました。後ほど戻って来た警官は,大会を続けてもよいと告げました」。

公開講演には800名ほどが出席し,45人がバプテスマを受けました。テントを張った場所のあたりには幾つかの工場があったため,兄弟たちは,昼休みを利用して様子を見に来た工員の多くに証言する機会を得ました。寒くてじめじめした10月に,大テントの中に座っているのはどのようなものだったでしょうか。フェルン・フラエーゼは次のように語っています。「プログラムを聞いている間,コートを着ていました。湯タンポを抱えて暖をとっている人も少なくありませんでした。それでも,私たちはとても幸せで,このようなすばらしい霊的食物が得られることを喜んでいました」。

僧職者の不寛容な態度は逆効果をもたらす

僧職者が背後にいてあおりたてた不寛容な精神の現われとして,1951年6月の最後の週に一つの出来事が起きました。それはチェリニョーラで開かれることになっていた巡回大会と関連したものでした。どんなことが起きたのでしょうか。「1952年の年鑑」(英語版)の報告にはこう記されています。

「昼に二人の警官が会館にやって来て,私たちがその場所で私的な集まりを開くことはできないと告げました。直ちに地元のコミッサリオ[警察本部長]の所に行って,一体どういうことになっているのかを調べることにしました。警察署に入ろうとすると,満面笑みをたたえた若い司祭が出て来ました。その司祭はとても喜んでいるようでした。やがて,司祭が満足を覚えるような理由を警察が与えていたことが分かりました。コミッサリオ自らが説明をかって出て,自分にはどうすることもできない理由で警察の許可が取り消されることになっていると語りました。当局は会館が安全な状態にないことをその“理由”に挙げていました。しかし,だれもそのようなことを信じるはずがありません。この問題について幾分白熱した論議が交わされた後,郡都に行って郡の“最高責任者”,クェストーレに話してみるよう告げられました。

「二,三時間後に,郡の警察本部に入って行くと,驚いたことに,コミッサリオの事務所で出会ったカトリックの司祭がいました。今回は,偉そうに構えた年長の司祭と一緒でした。後で分かったことですが,一緒にいた男の人は,私たちが大会を開こうとしていた都市の司教代理でした。司祭たちはクェストーレと話をするために待っていましたが,その補佐である警察本部長がやって来ると,二人の司祭は警察本部長の事務所に案内して欲しいと言いました。その数分後に,クェストーレがやって来ました。……その態度から,私たちの話を聞く前に既に考えの決まっていることがはっきり分かりました。……開口一番,私たちを逮捕すると言って脅しました。クェストーレの見るところでは,その会館は集会を開くのに不適当であり,そうした会館を借りたので逮捕するというのです。脅しつけ,悪いことをしたのは私たちであり,私たちの方こそ叱責を受けるに値すると思い込ませるのがその戦術でした。……

「警察のこのような専横でファシスト的な行動に,闘いもせずに屈するつもりはありませんでした。クェストーレの事務所で1時間以上にわたり,この問題に関係している法律上の事柄について議論しました」。

それにもかかわらず,クェストーレは自分の決定を変えませんでした。それでは,大会はどうなったでしょうか。報告はさらにこう続いています。

「私たちは戻ると,2軒の個人の家で大会を開くことを取り決めました。拡声装置を用いて,どちらの場所でも同時に同じプログラムが聞けるようにしました。司祭たちは翌朝教会で,その日のエホバの証人の公開集会にだれも出席しないよう発表して,表面を取り繕おうとしました。(彼らは実際には,大会の開催が禁じられていることを初めから知っており,大会は開かれないものと考えていたのです。)このように取り繕ってみても,僧職者の不寛容な態度は多くの正直な人々の義憤を呼び起こしました。……しかし,ここでも司祭たちは敗北を被りました。エホバの証人は口を閉じることなく,偽りの宗教家の偽善と誤った教えを引き続き暴露したからです。それによって,さらに多くの善意の人々の目が開かれる結果になりました」。

長期にわたる法律上の闘い

1956年にイタリアには,非カトリック教徒が約19万人いました。当時,王国伝道者の数は数千人にすぎませんでしたが,それらの伝道者は活動的で熱意に燃えていました。エホバの民の目をみはるような増加とは対照的に,一般に他の宗教では信者の数は次第に減少していきました。真理は野火のように広がっていきました。アドリア海沿岸のアブルッチ地区とロマーニャ地区でそのことが特に顕著に見られました。熱意に燃えるこの地域の伝道者たちは大勢でバスに乗って近隣の町々に伝道に行き,やがてそれらの町々にも会衆が設立されるようになりました。

危機感を抱いたカトリックの僧職者たちはわたしたちの伝道の業に対する反対運動を組織しようとしました。バチカンを代弁する新聞,オッセルバトーレ・ロマーノは1954年2月1日と2日付の紙面で,エホバの証人の行なっている業に反対するよう僧職者や教会員を促しました。記事の中で特定の名前は挙げられていませんでしたが,それが主としてエホバの証人を対象としていたのは明らかです。そこにはこう書かれています。

「プロテスタントの宣伝が激しさを増している点にも注意を向ける必要がある。その種の運動は一般に外国から持ち込まれたものであり,極めて有害な誤謬の種をこの国にまくことを目的としている。……すべての教区司祭,教会役員,および群れの各員にこの種の運動に絶えず警戒し,それを速やかに主務官庁に通報するよう勧める」。(下線は編者)

ここで言及されている「主務官庁」は警察を指しているとしか考えられません。ですから,バチカンは実際には,伝道者たちを逮捕させるよう司祭に勧めていたのです。事実,幾百人もの伝道者が警官に呼び止められて,拘引されました。多くの人はその場で自由にされましたが,罰金を科されたり,逮捕されたりした人もいました。エホバの民は長期にわたる法的な闘いを強いられることになりました。それは1970年代の初めにまで及びました。1947年から1970年までの間に,エホバの証人の関係した裁判が100件以上も行なわれました。

伝道者たちは警察法のファシズム的な法規である第113,121および156条に違反したかどで訴えられました。これらの法律は,印刷物を配布する者(113条)や戸別訪問を行なう行商人(121条),特別の目的のための募金を行なう者(156条)に免許を所持するか正式に登録することを義務づけていました。

王国伝道者たちが商業活動に従事していたり募金活動を行なったりしているのでないことは明らかです。「良いたより」を伝道する際,相手の人が寄付のできる立場にいるなら,印刷代を賄う寄付を得て雑誌その他の出版物を手渡します。ですから,わたしたちの業は,宗教信念を広める活動,つまりイタリア憲法第19条で認められている,自己の信仰を「布教する」方法の一つとみなされるべきです。明らかにその当時,法律を利用して信教の自由を抑圧しようとする試みがなされていました。1956年になってようやく,第113条のうち,免許なしに印刷物を配布することを禁じる部分は憲法に抵触することが認められ,廃棄されました。

裁判ではほとんどすべての場合に,兄弟たちにとって有利な判決が下されました。ごく一部の兄弟が有罪を宣告されましたが,いずれも後日,控訴審で無罪を言い渡されました。二,三の事件は破毀院つまり最終判決を下すイタリアの最高裁判所の審理を受ける必要がありましたが,ここでもすべて兄弟たちに有利な判決が下されました。

そのうちの一つの事例を取り上げて調べてみましょう。兄弟たちに対する告発が業をやめさせるための単なる口実にすぎなかったことが分かります。これまで32年以上にわたってベテル奉仕を行なっているロモーロ・デレリチェ兄弟は,かつてローマ地方裁判所で,「小冊子やパンフレットの配布に関連して物乞い行為をしたゆえに……罰金4,000リラ」の判決を受けました。デレリチェ兄弟は上訴し,1959年12月2日にローマ裁判所で無罪を言い渡されました。その判決の中で,「前述の小冊子やパンフレットの配布はいかなる意味においても物乞い行為を成すものではなく,むしろそれは,エホバの証人……のための宗教上の布教活動の一部である」ことが認められました。

ローマにおける大会

ローマで大会を開くことは兄弟たちが長年熱望してきたことでした。特別法廷で審理を受けていた兄弟たちでさえひそかにこう考えることがありました。「いつの日かローマで大会が開かれ,自分たちが現在投獄されているほかならぬこの都市で自由に集まり合えるようになるかもしれないのだ」。

この期待は,1951年12月に,ローマ貿易博覧会の敷地で全国大会が開かれたときにかなえられました。「清い崇拝」というその大会の主題は,古い歴史を持つその都市で勢力を誇ってきた伝統的な宗教と著しい対照をなすものでした。ヨーロッパの14か国の兄弟たちが出席したため,その大会は国際色豊かなものとなりました。「1953年の年鑑」(英語版)は次のような報告を載せました。

「ローマ大会はその年の忘れ難い出来事となりました。協会の会長がその大会を主宰する予定であるという発表を聞いたイタリアの兄弟たちは,大きな犠牲を払ってでもそこに行く決意を固めました。イタリアの貧しい生活状態から,兄弟たちが国際大会のために国外に出ることは困難でした。そこでノア兄弟がローマ大会に出席するよう近隣の国々の兄弟たちを招待することを提案すると,非常にすばらしい反応が見られました。英国,デンマーク,フランス,ベルギー,スイスその他のヨーロッパの幾つもの国から七,八百人ほどの出席者がありました。このようにしてローマ大会は,イタリアの兄弟たちにとって忘れることのできない国際色豊かな大会となったのです。国籍や人種の異なる兄弟たちの間に見られる愛や一致を実際に味わうのはイタリアの兄弟たちにとってこれが初めてでした。他の国々におけるように,今やイタリアでも,エホバの民の同様に祝福された集まりが開かれることを期待できます。今後開かれる大会に出席するため,兄弟たちはこれまでにも増して努力を払うことでしょう」。

特別の小冊子運動

1955年には二つの重要な出来事がありました。その一つは,「キリスト教世界それともキリスト教 ―『世の光』はどちらですか」と題する小冊子を用いて世界中で行なわれた特別の運動でした。すべての伝道者はこの小冊子を30部配布するよう求められ,国内のすべての僧職者は一部ずつ郵便で受け取ることになっていました。すべての僧職者の住所を調べ,一部ずつ手紙を同封して10万冊の小冊子を郵送するのは膨大な仕事でした。

発行者の手紙に答えを寄せた僧職者はほとんどいませんでしたが,一部の僧職者は新聞社に手紙を送って激しい反応を示しました。例えば,ファエンザで発行されているカトリックの新聞,イル・ピッコロは1955年9月4日付の紙面に,「偽りの預言者に気を付けよ ― エホバの証人に対する我々の回答」というどぎつい見出しの下に一つの記事を掲載しました。そこにはこう書かれていました。

「エホバの証人(大抵の人からは聖書の亡者と呼ばれている)は最近,自分たちの宣伝用小冊子を司祭や宗教団体に送りつけ,それに対する回答を求めた」。その記事は,エホバの証人を「驚くほどの無知と,非礼なまでの厚かましさとがんこさ」を兼ね備えた「哀れな愚人」と呼び,その結びでダンテの「神曲」からの抜粋を「黙想」してみるようエホバの証人に勧めました。

エホバの民を非難するこの種の記事や類似の記事が新聞に掲載されました。時にはこれらの記事が人々の好奇心を呼びさまし,エホバの証人の訪問を受けた時に数多くの質問をする人もいました。

勝利の王国大会

1955年のもう一つの顕著な出来事は勝利の王国大会でした。この国際大会に出席した4,351人の中には32か国からの出席者が含まれており,378人がこの大会でバプテスマを受けました。これは,出席者のほぼ10%が水のバプテスマによって自らの献身を象徴したことを意味します。実に驚くべき割合です。兄弟たちで満員の5本の特別列車がパリから到着しました。列車に乗っていた人々の大半は米国から来た兄弟たちでした。兄弟たちの到着はかなり注目を集めました。ローマにこれほど大勢のアメリカからの観光客が一度に訪れたのは初めてだったからです。

パラッツォ・デイ・コングレッシを大会のために借りるのは容易なことではありませんでした。当時この建物は,大会用のホールとしてはヨーロッパで一番良いホールの一つでした。全面に白大理石がはられており,周囲には出席者が利用できる緑の公園がありました。最初の使用申込書は受理され,万事が順調にいっているように思えました。大会の始まる十日前になって,ホールの使用許可が取り消されたという通知を受け取りました。別の契約で使用されるというのが表向きの理由でした。しかし,最終期限の二日前,ローマで大会を開くのは無理だと思えた矢先,管理者から通知を受け,最終的に集まりを開けるようになりました。

訳がわからないこうした措置の背後にはどんなことがあったのでしょうか。1955年10月30日付のメリディアノ・ディタリア紙に載った,「バベルの塔 ― カンピドリオのカラス」と題する記事に,その答えを見いだせます。そこにはこう書かれていました。

「キリスト教民主党ローマ市議会議員コルナキオーラ氏[この議員の名前は文字通りには“小さなカラス”を意味する]は,名誉職であるとはいえバチカン市国の要職にあるレベッキーニ氏[当時のローマ市長]より親バチカン派のようである。

「事実,コルナキオーラ氏 ― コルナキオーラが彼の名前なのである ― は,『EUR[Esposizione Universale Roma]の建物がプロテスタントの一派である“エホバの証人”によって大会会場に使用されることになっている理由』を調べるためにローマ市長に質問をした。自分はローマの住民に代わって,『これに抗議し,この件全般に責任を持つ者たちをけん責するよう[望む]。我らの主イエズス・キリストの代理者の住居であるローマは,法王の住まいにふさわしくないこの種の集まりを決して容認できない』と,コルナキオーラ議員は語った」。

同紙の記事はさらにこう続けています。「ここで問題にされている許可はプレフェットゥーラの当局者(アツィオネ・カトリカ[カトリック・アクション]の重要人物でもある,閣僚の一人,タンブローニ氏)から得ているが,それを別にしても,ローマはイタリアの国家元首の住まいであり,キリストの代理者はバチカン市国に住んでいることを念頭に置いておくべきである。

「グロンキ大統領には様々な職務が課せられているが,イタリア共和国憲法を擁護することはその務めの一つである。そして,同憲法の第8条は次のように述べている。『すべての宗教には自由に行使できる平等の権利があり,各々の規定に従って自らを組織する権利を等しく有する』。

「もしコルナキオーラ氏がイタリア憲法に異議を唱えるのであれば,初めにローマ市議会議員の職を辞すべきである」。

エホバの証人の振舞いについても好意的な報道がなされました。イル・ジオルナーレ・ディタリア紙は1955年8月7日,日曜日の紙面で,次のように報じました。

「偏見を持たない観察者であれば,とりわけ次の三つの点に感銘を受けるであろう。第1点は出席者の模範的な振舞いである。彼らは語られている事柄に敬意をこめて静かに,また明らかな霊的親族関係を保って従う。第2点は,実に様々な人種の人が一つの宗教の名の下に集まり合っている事実である。この宗教は,考えや行動が道徳的方正さの域に達するほど清らかであるよう彼らを動かしていると思われる。第3点は子供,それも黒人,白人,黄色人種の1歳から13歳までの子供の数が非常に多いことである。しかもそのすべてが不思議なほど行儀よく,中には話を聞きながら忙しく聖書を繰っている子供もいる」。

新しい出版物が発表され,大きな熱意をもって迎えられました。出席者はとりわけ,「目ざめよ!」誌が1955年8月8日号からイタリア語でも発行されるという知らせに胸をときめかせました。次の文書がイタリア語で発表されました。「新しい天と新しい地」の本,「新しい世を信ずる基礎」,「神の王国による世界の征服は近い」および「御国のこの良いたより」の3冊の小冊子。

1957年の二つの重要な勝利

1957年に,エホバの民はイタリアにおいて二つの重要な勝利を収めました。その一つは特別法廷において刑を宣告された26人の兄弟たちに関連したものでした。この法廷で刑を宣告された大勢の人は,ファシズムが倒れた後に事件の再審理を願い出て,無実であったことが立証されました。忠実な兄弟たちは自分たちの立場ゆえに不正な扱いを受けたことを知っていました。世の人々の目に自分の個人的な立場がどのように映るかについては余り心配していませんでしたが,一つのとしてのエホバの証人の権利を擁護するために事件の再審理を願い出ることにしました。それが必要とされたのは,特別法廷が神権組織を,「政府の形態を覆す意図を持つ活動を行ない,国民的主体性を損なう有害な宣伝を流布し,犯罪的意図[を持つ]秘密結社」であるとしていたためでした。

ですから,政府当局との良い関係を築くという観点からして,この判決を無効にしてもらうことはわたしたちにとって大きな益をもたらすはずでした。

1957年3月20日に,アキラの控訴裁判所で再審が行なわれ,関係している26人の兄弟のうち11人が出廷しました。その時の弁護士の一人にニコラ・ロムアルディがいました。この弁護士はエホバの証人ではありませんでしたが,裁判でわたしたちを快く弁護してくれる弁護士を見付けるのが非常に難しかった1950年代の初期から,兄弟たちの権利をためらうことなく弁護してくれました。同氏はこれまで30年以上にわたって,クリスチャンの中立の権利と「良いたより」を宣べ伝える自由を確立するための闘いにおいて,幾百人もの兄弟たちの弁護を快く引き受けてくれました。

訴訟記録によると,カトリックの僧職者階級が政治に関与しているゆえにエホバの証人は彼らを娼婦とみなしているとロムアルディ氏が説明したところ,「判事たちは笑みを浮かべて意味ありげな視線を交わした」とされています。法廷は先の有罪判決を破棄する決定を下し,それに伴って,エホバの証人の業は不法な活動でも破壊活動でもないことが確認されました。

もう一つの勝利は,6月の末に開かれたミラノ地域大会の際に得られました。その大会は“オデオン冬の庭園”のホールで木曜日の午後から始まり,その日の晩のプログラムが終わる直前まではすべてが順調に進みました。しかしそれから,いつもとは違うことが起きたのです。ロベルト・フランチェスケッティ兄弟は次のように語っています。

「プログラムの終わりまでにはまだ10分も余裕があったのに,最後の話し手であるジュゼッペ・トゥビーニはかなり急いで話を終わらせ,出席者に結びの祈りを行なうことを告げました。話が急に終わったことと結びの歌がないことにだれもが気付いていました。どうして結びの歌が歌われなかったのでしょうか。正面の出入口のそばに立っている私たちエホバの証人は祈りの際に敬意をこめて頭を垂れていましたが,祈りの言葉が語られている間も頭を垂れず,帽子をかぶったままの男たちに囲まれていることに気付きました。警官であるに違いありません。

「後になって詳細が分かりました。少なくとも三,四十人の警官がホールの中に入って来て,大会を終えるよう命じたのです。ホールの所有者側が必要な許可を申請しなかったというのがその口実でした。大会の責任者たちは,中止命令が所有者側ではなくエホバの証人を罰するものになることを分からせようとしましたが,全く聞き入れられませんでした。金曜日の午前中には野外の証言活動が予定されていました。兄弟たちは近くの通りに移動し,区域,雑誌,文書の各部門が開かれました。すべての人に必要なものが供給され,計画通り業が行なわれました。別の会館を必死で探し回りましたが,時間はどんどん過ぎてゆきます。2時間後にプログラムが始まることになっているというのに,解決策は見いだされていませんでした。

「その時,“冬の庭園”の所有者から,私たちのためにアレネラ・チネマに一つの場所を見付けたという知らせが届きました。兄弟たち全員が手を貸し,夢中で各部門を次々に移動させました。時間ぎりぎりで何とか間に合いました。このようなことがあったにもかかわらず,プログラムは時間通りに始まりました。

「それでも,警察はあきらめませんでした。新しい会館にやって来て,さらに問題を引き起こそうとしました。私は案内係に任命され,たとえ警官であっても部外者はだれ一人会館の中に入れてはならないと告げられていました。間もなく,警察のコミッサリオが部下二人を連れてやって来ました。私はその三人を呼び止めて,しばらく待つよう告げました。ところが,三人はそれを全く意に留めず,あくまでも中に入ろうとしました。そこで私は,コミッサリオの懐中時計の鎖のあたりに手を突き出して,押しとどめなければなりませんでした。膝ががくがく震えていましたが,幸いなことにここで大会監督が間に入ってくれました」。

大会は開かれ,兄弟たちは大いに築き上げられ,このようなすばらしい勝利に終わったことを喜びました。しかし,これでこの件がすべて終わったわけではありませんでした。報道機関が前例のないほど大々的にこの事件を取り上げ,わたしたちに好意的な報道をしました。多くの新聞は警察の行動を「前代未聞の権利の乱用」と評しました。また,この不法な介入は上院の会期中に議会でも質疑の対象となりました。これについて,1958年2月8日付のイル・パエセ紙は次のように報じました。

「議事が最も活気を滞びたのは質疑の時であった。事実,宗教活動への干渉というかなり微妙な問題について幾つかの質問が行なわれた。共和党のスパリッチ上院議員は,“エホバの証人”(聖書研究者)の文化・宗教協会により民間のホールで開かれていた大会を直ちに中止するようミラノのクェストゥーラが命じた理由を知るため質問をした。答弁に立ったビゾーリ内務省次官の説明はかなり歯切れの悪いものであった。同次官は,それらの措置が組織上の理由に基づいて取られたことを説明した。冷やかな雰囲気が漂う中で,政府側は,今回の措置は信教の自由を制限する意図でなされたのではなく,公安関係の法規が遵守されなかった結果引き起こされたものであると語った」。

この問題によって,エホバのみ名とその民のことが政府高官の間でも広く注目を集めることになりました。ところで,大会を中止させようと実際に望んでいたのはだれだったのでしょうか。ローマのリベラルな週刊誌イル・モンドは1957年7月30日号の中で次のように解説しました。

「憲法第17条はすべての市民が秩序正しい仕方で集まり合う権利を保障している。またその第一項には,『当局は公の集会について事前の通知を求めない』と明記されている。しかも,オデオンで行なわれた大会はある宗教協会の信者だけのためのものであった。問題の会館は四日間借り切られていたのであるから,契約の有効期間中,そこは私的な集会場所とみなされてしかるべきであった。それゆえ,すべてが法律に従って取り決められていたばかりか,予定されている集まりについてクウェストゥーラに通知するというその良心的な規律正しさに対しては大会組織者に賛辞を送ってしかるべきである。さらに,エホバの証人は国家の安全を脅かす不届きな陰謀家でもなければ,危険な扇動家でもない。

「大司教[ジョバンニ・バッティスタ・モンティニ,後に法王パウロ6世になった人物]を満足させようとして官僚がファシスト時代にさかのぼる治安関係法規を利用しようとしたため,法律や市民の責務に対する敬意のこもった良心的な態度のことなどほとんど考慮されなかったようである」。

率直な決議

1958年の夏は世界中のエホバの証人にとって忘れられない時となりました。その夏,ニューヨーク市のヤンキー野球場とポロ・グラウンドで同時に,「神の御心」国際大会が開かれるという特筆すべき出来事がありました。25万3,922人の出席者の中には,小人数のイタリア人のグループも含まれていました。それらの兄弟たちは,見聞きした事柄に大きな喜びと驚嘆を覚えつつ帰途に就きました。

ニューヨーク大会のプログラムはフィレンツェ,ナポリ,メッシナで行なわれた三つの地域大会でも再度行なわれました。それらの大会の出席者は,「キリスト教世界はどのように全人類の期待に背いてきたか」と題する率直な決議を決して忘れることがないでしょう。その決議は大会のプログラムの中で採択されました。

当然のことながら,その決議文が特別な運動期間中に配布されることを知った時,兄弟たちの熱意はひときわ鼓舞されました。1958年12月に,伝道者は各自その決議文を100部配布するよう要請されました。イタリア全土でこの決議文は50万部配布されました。

サンマリノにおける真の自由

世界で最も古い共和国であるサンマリノに通じる幹線道路を旅行者が自動車で行くと,「ようこそ,昔からの自由の土地へ」という標語が目に入ります。四方をイタリアの国土に囲まれているこの独立共和国におけるエホバの証人の業はイタリア支部事務所の管轄下にあります。

面積がわずか60平方㌔そこそこのこの小さな国に,真の自由がもたらされたのはいつのことだったのでしょうか。1958年に,特別開拓者たちがこの区域で業を開始しました。10年以上たって,9人の伝道者から成る小さな群れが出来上がりました。その群れは1971年に会衆になりました。1972年に,その共和国で最初の巡回大会が開かれ,1,700人が出席しました。これまでになかったその出来事は明らかに,地元の人々に思考の糧を与えたようです。今日,81人の伝道者が同会衆で業を行なっています。サンマリノでは住民252人に一人がエホバの証人であることを考えると,これは非常にすばらしい数字です。

中立の問題

クリスチャン会衆内の若い男子は,『その剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えるように』との霊感による勧めの言葉(イザヤ 2:4)を真剣に心に留め,世の論争に関して個人として中立の立場を保つことを決意しました。―ヨハネ 17:14,16

レミージョ・クミネッティの「遍歴」や1930年代に若いエホバの証人が経験した試練についてはすでにお話ししました。しかし,クリスチャンの中立の問題は第二次世界大戦後に一層深刻な事態を迎えることになりました。はるかに大勢のクリスチャン青年が良心上の理由で世から離れていたいと願うようになったためです。

この時期に裁判にかけられた最初の兄弟たちは非常に重い刑を宣告され,刑務所の中で難しい時期を過ごしました。中には,5回も6回も裁判にかけられ,合わせて4年以上の懲役刑を宣告された人たちもいました。これは,若いエホバの証人が刑務所から出て来ると,再び徴兵され,妥協を拒む度に刑務所に送り返されたためでした。理屈の上では,当人が軍務に召集されずに済む45歳になるまで,これが繰り返されることになっていました。しかし,数回刑期を終えると,兄弟たちの中から殉教者を出させないために,軍当局は健康上の理由に基づいて兄弟たちの兵役を免除にするのが常でした。それらの兄弟たちは“宗教的偏執症”もしくは“宗教的せん妄症”にかかっているとされました。言い換えれば,精神的欠陥者とみなされたのです。

このような試みを克服した兄弟たちの経験の幾つかを簡単に考慮することはわたしたちすべてを築き上げるものとなるでしょう。1950年代に5回も刑の宣告を受けたエンニオ・アルファラーノは,自分がどのようにしてこの難しい時期を切り抜けたかを今でも覚えています。

「私はガエタで投獄されました。大尉は私たち三人を何とかして軍旗に敬礼させようとしました。全員がそれを拒むと,私たちは罰として両手と両足を背中のところで堅く縛られ,8時間放置されました。これは激しい苦痛を伴いました。しかし私たちは,祈ることによって,また互いを励ますために歌を歌うことによって勇気を保ちました。このようにしたことは助けになりました。その後三日間はパンと水だけしか与えられないことになっていましたが,投獄されている他の兄弟たちがそれを知って,私たちががんばれるよういつも十分の食べ物をうまく持って来てくれました」。

同じように1956年から1961年にかけて5回刑の宣告を受けたジュゼッペ・ティモンチーニは次のように回顧しています。

「軍の当局者は,『長い間抵抗できたエホバの証人は一人もいない。一度裁判にかけられると,大抵の者は軍務につくようになる』と言って,私の意気をくじこうとしました。それは真実ではないと私はいつも答えましたが,その度に当局者は軍隊に入ることに同意した者たちの名前を並べ上げました。もちろん,それはねつ造されたものでした。

「幾月にも及ぶ厳しい監禁状態に自分が耐えられるよう,刑期の終わりのことはできるだけ考えないようにしました。時には,刑期があと何か月と何日残されているかを完全に忘れてしまうこともありました。今振り返ってみると,人生におけるこの時期に数多くの有益な訓練を受けることができたと思います。いかなる状況にも自分を順応させ,謙遜になり,エホバ神により一層頼ることを学ぶ上で役立ちました」。

4年以上投獄されていたギノ・トセッティは次のように語っています。

「独房に入れられていた最初のころは非常に耐え難く感じました。パレルモで起きたことを今でも覚えています。ある朝,看守が起こしに来て,『起きろ,トセッティ,まき割りだ。山と積まれたまきがお前の来るのを待っているぞ』と言いました。この看守は,それまで毎朝,私にまき割りの仕事をさせていました。でも,その日は体の具合が悪く,まき割りができる状態ではありませんでした。両手に幾つもの豆ができ,ひどく痛んでいたため,斧をつかむことなどできませんでした。

「医者にみてもらいたいと言ったところ,看守は,『寝ていてもよいのは熱があるときだけだ。もしも熱がなかったら,ただでは済まないぞ』とまくしたてると,去って行きました。大変なことになると思った私は,エホバに助けを祈り求めました。看守たちが戻って来て私の体温を計ったところ,体温が39度もあり,彼らは驚きました。私も看守たちと同じほど驚きました。

「証言をする機会には事欠きませんでした。ある時,40人ほどの兵士のグループに話をすることができました。兵士たちは私を取り囲み2時間近くにわたって話に注意深く耳を傾けていました。私たちの良い行状を見て,真理を受け入れるよう励まされた人は少なくありませんでした。その中には看守もいました。ある朝,警備勤務についていた一人の兵士が私にこう言いました。『トセッティ,今まで君を随分ひどい目に遭わせてきたが,許してくれ。私があんなことをしても,君は決して仕返ししようとはしなかった。昨晩,警備勤務についている際に,「ものみの塔」という君たちの雑誌を読んだんだ。この雑誌は,これまで重要だとは考えていなかった様々な事柄を理解するのに役立った。もっとよく理解できるよう助けて欲しいのだが』。

「この若い兵士はこれまで何かにつけて私を困らせてきましたが,喜んで許すことにしました。その後,お互いに会うことがなくなり,数年が過ぎました。そのころには私も自由になり,ある地域大会に出席していました。すると,一人の男の人がやって来てこう言ったのです。『私のことを覚えておられますか[その人は自分の名前を告げました]。獄舎のゲートを開閉する仕事をしていた時,あなたからよく真理について話を聞かせていただきました』。その人は兄弟となっていたのです。私たちはお互いに目に涙を浮かべ,抱き合いました」。

エホバの証人の数が増えるにつれて,この問題は一般大衆と当局者の双方の注意を絶えず引くようになりました。軍務に代わる仕事に就くことを拒否する人々は一度だけ刑期をつとめればよいとする法律がついに成立し,若い兄弟たちは今では12か月から15か月の懲役刑を科されています。

その間に,軍刑務所の中の状態も改善されました。エホバの証人は定期的に集会を開くことができ,個人研究を行なうための助けとして神権的な図書類も備えられています。巡回大会や地域大会のプログラムも聞くことができ,衣装を着けた聖書劇まで行なわれます。刑務所にいる間にエホバに献身する決意を固めた人たちにバプテスマを施す許可も与えられました。特別に割り当てられたクリスチャンの長老たちが,それぞれの軍刑務所を定期的に訪問しています。

1978年から1980年にかけて,年間平均500人の若い兄弟たちが中立の問題ゆえに獄中にありました。現在までに幾千人ものエホバの証人が,この面でエホバ神のみ前に汚れのない良心を保ってきたものと考えられます。1980年12月に,全国放送のテレビに出た国防大臣は兄弟たちの立場をさらに改善するものとなる法案の議会提出を考慮中であると発表しました。インタビューの中で,同大臣はエホバの証人を「品位のある人々」と評し,新しい法律によって「国はすべての宗教に敬意を表することになろう」と言明しました。

クリスチャンの中立に関連して若いエホバの証人が示してきた行動はエホバの民の良い評判を一層高めるものとなりました。例えば,イル・コリエレ・ディ・トリエステ紙は次のように報じました。

「エホバの証人の確固たる一貫した態度は称賛に値する。他の宗教とは対照的に,一つの民として一致を保つことにより,紛争当事者のそれぞれの側に祝福が臨むよう同じキリストの名によって同じ神に祈るといったことや,政治と宗教を融合させて国家や政党の指導者たちの関心事に仕えるといったことから守られている。大事な点が最後になったが,彼らは,人間の救いのために定められた根本的戒律である,汝殺すなかれという戒めを破るよりは死の危険に面することをいとわない」。

「永遠の福音」大会

「永遠の福音」大会はイタリアのエホバの証人の歴史において一つの重要な里程標となりました。しかしながら,この大会をローマで開くことはできませんでした。カトリック教会が1963年に第2バチカン公会議の開催を決めていたため,わたしたちの代表者たちは政府のある役人から,カトリック以外の宗派がその時期にローマで大会を開くのを許可するのは適当ではないと考えられている旨,はっきり告げられました。さらにこの役人は,1963年中ローマは非カトリック教徒にとって立ち入り禁止区域とみなされるであろうとも語りました。観光客として同市を訪れることは認められるが,集団による意思表示行為は禁止されるということでした。

そのため,八日間にわたる国際大会はミラノにある室内競輪場,ベロドローモ・ビゴレリで行なわれました。2万人の出席者が見込まれるこのような大きな大会を組織することはイタリアの兄弟たちにとって初めての経験でした。一番大きな問題は何だったでしょうか。その時大会の準備の仕事を行なった旅行する監督の一人,ジュゼッペ・チアリーニ兄弟は次のように語っています。「幾つものホテルに予約した私たちが使うことのできる部屋を別にして,さらに幾千もの部屋が必要でした。そこで,宿舎を提供してくれる個人の家を探すことになり,宿舎の仕事を行なうために特別開拓者たちが呼び寄せられました。一般の個人の家に宿舎を求めたのはイタリアではその時が初めてでしたが,約6,000人の兄弟たちがこの方法で部屋の割当てを受けました」。

別段驚くべきことではありませんでしたが,間もなく僧職者の反対が始まりました。大会が始まる数日前に,司祭たちは教区民にエホバの証人に宿舎を提供しないよう警告し始めました。ミラノの聖アンデレ教会の教区司祭は教会の壁に,「エホバの証人はクリスチャンではない」と書いた人目を引く注意書きを張り出しました。僧職者の宣伝によって,何人かの人が宿舎の提供を取り消しました。

しかし,ある特別開拓者の次の経験から分かるように,すべての司祭が大会の組織に敵対的であったわけではありません。その特別開拓者はこう語っています。

「宿泊料金のことで話し合っていたところ,家の人は最初の訪問で私たちが示した額より低くしたいという態度を示しました。それには次のような理由があったのです。この人は,私たちに部屋を貸してもよいかどうか司祭に尋ねてみました。すると司祭は次のように答えました。『大会のためにやって来るエホバの証人に是非とも宿舎を提供してあげなさい。エホバの証人は神について語るために集い合う唯一の誠実な人たちです。この時代に,神をよりよく知るという崇高な目的のために進んで集まり合うこのような人たちがもっと多くいればよいのです。エホバの証人を歓迎する人は人類に対して善を行なっていることになります』」。

宿舎を探す活動は別の観点からも大きな成功を収めました。ミラノ市の全域で集中的な証言が行なわれる結果になり,多くの人がエホバの証人の行状を高く評価するようになりました。この点について,一人の特別開拓者の姉妹は次のように語っています。

「ドアをノックすると一人の婦人が応対に出て来ました。訪問の目的を話したところ,その婦人は,10名ほどの人を泊める部屋があるにはあるが,警察官をしている友人に相談してからでなければどんな約束もしたくないと言いました。翌日再び訪問すると,婦人はにこやかな笑顔で私を迎え,次のように言いました。『お嬢さん,喜んで10人の方をお泊めいたしましょう。友人が何と言ったと思います? 友人の言ったとおりのことをお伝えしましょうね。このように言ったのです。「奥さん,あの人たちなら,泊めても安全なだけでなく,望むなら,鍵を渡してアメリカに行っても大丈夫ですよ」。全部の部屋を使っていただけるとよいのですが,大会中留守にできなくて本当にごめんなさい』」。

大会前の非常に骨の折れる仕事の一つは室内競輪場の清掃でした。どうしてそれほど大変だったのでしょうか。アントニオ・カパレリ兄弟は次のように語っています。「大会が開かれるしばらく前に,モンティニ枢機卿の召集したカトリックの集まりがベロドローモで行なわれました。その集まりは法王ヨハネ23世が死ぬ直前に行なわれました。出席したカトリック教徒全員が火をともしたろうそくを手にしていたため,競技場の階段席は溶けたろうとチューインガムで覆われていました。至る所にこびり付いたろうとガムをこすり取り,きれいにするのに,遠くトリノから来た兄弟たちを含め,幾百人もの兄弟たちの働きが必要とされました。この仕事は丸1週間かかりました」。

この大会には52もの国から出席者がありました。聴衆席は,フランス語,イタリア語,ポルトガル語,スペイン語の四つに区分けされ,これらの言語で同時にプログラムを行なえるようになっていました。英語のプログラムも幾つか行なわれました。水曜日の午後のプログラムの最後に,大会に出席している人々の話す前述の四か国語とドイツ語およびオランダ語で「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を今や入手できるようになったというノア兄弟の発表を聞いて,聴衆は大きな喜びに満たされました。

1925年にピネロロで開かれた最初の大会の出席者70名のうちの数人がこの記念すべき場にも出席していました。想像に難くないことですが,公開講演に2万516名が出席しているのを見て,これらの人々は忘れることのできない深い感動を覚えました。そのような姉妹の一人は次のように書いています。「ピネロロ大会に出席した方なら,40年近く後にミラノの大会に出席できることが私にとってどんなことを意味するかご想像いただけるでしょう。この経験一つだけでも私の大きな喜びを説明するのに十分です」。

大会が終わっても,だれも帰ろうとはしませんでした。様々な国籍の兄弟たちが,その場を去る時が訪れたことに幾分寂しさを感じながら,いつまでも別れを惜しんでいました。スペインとポルトガルの兄弟たちが階段席に腰を下ろし,幾百枚ものハンケチを振って兄弟たちに別れを告げている光景を今でも覚えている人は少なくありません。

支部事務所における監督の仕事

ジョゼフ・ロマーノ兄弟は,1947年にイタリアに着くと,支部の監督に任命されました。同兄弟は1954年5月まで支部の監督として奉仕しました。1954年から1960年まで,アンソニー・シデリス兄弟がこの立場で奉仕するよう割り当てられました。その後,しばらくの間ロマーノ兄弟がその跡を引き継ぎ,1964年にバルテル・ファルネティ兄弟が支部の監督になりました。何年も前にバノッツィ兄弟がファエンザの会衆を訪問し,その後次のように書いたのを覚えておられるでしょう。「いつの日か,これらの若い人々の中から奉仕のこの特権[開拓奉仕]にあずかる人々の隊ごに加わる人が出ることを期待しましょう」。それらの若い人々の一人にファルネティ兄弟がいたのです。ファルネティ兄弟は地域監督として奉仕した後,ものみの塔ギレアデ聖書学校の10か月の課程に出席し,その後支部の監督に任命されました。同兄弟は現在でも支部の調整者です。

一層の進歩をもたらす二つの出版物

私たち自身の手による訳の聖書と分かりやすい言葉でそれを説明する小型の手引書という組み合わせ以上に,進歩を促す優れた手段があるでしょうか。「新世界訳聖書」と「とこしえの命に導く真理」の本は真の崇拝者を啓発するための時宜にかなった出版物と言えます。

イタリア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」は1963年から入手できるようになっていました。その発行は大きな前進であったとはいえ,神の民が聖書全巻の翻訳を必要としていたことは明らかでした。イタリアのエホバの証人はカトリックやプロテスタントのかなり高価な聖書を大量に購入していました。集会で話し手が一つの訳から聖書を読むと,聴衆は考えを調整して,聞いた言葉を自分たちが手にしている様々な訳の表現と結び付けなければなりませんでした。「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が使われるようになってからも,ヘブライ語聖書からの引用に備えて別の訳の聖書を手元に置いておかなければなりませんでした。

ついに「新世界訳」全体がイタリア語で印刷されるようになったという知らせを聞いた時,兄弟たちは胸を躍らせました。1968年の春に最初に到着した分の聖書はたちまちなくなってしまいました。6月にこの聖書を配布する特別運動が行なわれたからです。それ以来,160万部以上が配布されてきました。神の民は,この書物の著者を賛美し,その戒めを誠実な人々に教える際に語る言葉の面での一致を図れるようになりました。

「とこしえの命に導く真理」には,「時にかなった待望の本」という言葉がぴったりでしょう。この本は1968年の夏の大会で発表され,秋には諸会衆の手に渡りました。この出版物は,1980年までにイタリア語版だけですでに400万冊以上配布され,王国の業の進歩を早めるのに確かに役立ってきました。

「地に平和」国際大会

1969年の夏に,別の大規模な霊の宴がローマで開かれました。それは,「地に平和」国際大会です。当時自国で集まり合うことが許されていなかったスペインの兄弟たちも出席しました。イタリア語を話す人々は美しいパラッツォ・デロ・スポルトで大会のプログラムを聞き,スペイン語を話す人々は1955年に勝利の王国大会が開かれたパラッツォ・デイ・コングレッシに集まりました。

35か国からの出席者があり,公開講演には合計2万5,648人が出席しました。バプテスマを受けた人の数は2,212名に達しました。浸礼希望者がこれほど多いとはだれも予想していませんでした。それは大規模な増加が始まったことのしるしでした。

報道機関はこれまでになかったような規模で大会のことを報じました。1969年8月15日付の日刊紙ローマは,バプテスマについて報じた記事の中で次のように伝えました。「すべてが平安かつ静穏な雰囲気のうちに[進行した]ため,不意の緊急事態に対処するため派遣されたカラビニエリがひどく場違いに見えるほどであった。昨日の午前,あまりに秩序正しく辛抱強い態度を目にして,エホバの証人がイタリアにもっと多くいたら,バスに乗るにせよ,公共の場所で順番を待つにせよ,列に並んで競技場に入るにせよ,(さらには)公休日に旅行するにせよ,様々なことがずっと容易になるであろうと,だれもが考えずにはいられなかった」。

リビアにおける業

リビアは広大な国土を有していますが,そのほとんどが完全な砂漠です。この国は地中海に面しています。人口はほぼ250万で,その大半がイスラム教を信じるアラブ人です。第二次世界大戦前とその戦争の結果が明らかになる前,この国はイタリアの支配下にあり,繁栄したイタリア人社会がありました。しかし,1960年代の終わりまでに,これらイタリア人のほとんどはリビアを去ることを余儀なくされました。

リビアにおけるエホバの証人の業は1950年4月に始まりました。その年,ミケル・アントノービックが世俗の仕事を行なうためエジプトからトリポリにやって来ました。やがてこの兄弟の伝道は,特にイタリア人の間で実を結ぶようになりました。そのため,エジプト支部の管轄下にあったこの国の業は,1953年1月をもってイタリア支部の管轄下に入ることになりました。業が進歩するにつれて,様々な問題が持ち上がりました。逮捕,裁判,文書の押収,その他の事態が生じるようになったのです。

1957年に,業の法的認可を求める申請が提出されましたが,偽りの非難によって却下されてしまいました。わたしたちがシオニスト運動と手を結んだ秘密結社であるという主張もなされました。このような動きにもかかわらず,業は進歩し,1959年には89人の伝道者と一人の特別開拓者が活動するまでになりました。当局者が多くの兄弟たちを国外に追放し,これらの兄弟はイタリアに戻らざるを得なかったので,その直後から業は後退し始めました。

1964年には業が禁止されました。さらに,1969年に政権が交代した後,残っていた兄弟たちを含むイタリア人のほぼ全員が退去を余儀なくされました。ですから,過去においてリビアでは優れた質の実が生み出されていたと言えるとはいえ,その将来は今ではエホバのみ手に託されています。

新しいベテルの建設

1968年にイタリア支部を訪問した際,ノア兄弟は,新しいベテルを建設するためのふさわしい土地を探すよう兄弟たちに指示しました。ローマの北東の郊外に打って付けの土地が見付かりました。その上,この地域は“サンハイウェイ”と呼ばれるイタリアで最も重要な高速道路に近く,交通の便にも恵まれていました。

建築許可を得るため,ローマ市議会に計画書が提出されました。しかし,神権組織がまだ国家によって公式に認可されていなかったので,幾つかの問題が生じました。それでも1969年になり,都市開発計画局の責任者たちが種々の報道から,わたしたちの国際大会に2万5,000人以上が出席したことを知りました。その結果,関係者はようやく,この宗教グループは現実に存在しており,もはや無視できないと考えるようになりました。1971年3月についに建築許可が下り,直ちに作業が開始されました。建築の仕事はほとんどすべて兄弟たちの手で行なわれ,1972年の春に地下室のついた3階建ての建物が完成しました。

新しいベテルは1972年5月27日に落成し,翌日ノア兄弟は,フラミニオ・スタジアムに集まった1万5,700人の聴衆を前に,「霊的教えのための家」と題する話を行ないました。そこに集った兄弟たちの多くは新しいベテルを訪問し,エホバがイタリアの野外における業を祝福してくださっているのを見て非常に喜びました。

「神の勝利」大会

1973年8月にフラミニオ・スタジアムで開かれた全国大会の主題,「神の勝利」は感動を起こさせるものでした。イタリアの3万人の伝道者はこの大会に5万7,000人が出席するのを目にして胸をときめかせました。スタジアムは超満員の状態でした。印象的なこの大群衆それ自体が,進行しつつある取り入れの業の規模を明白に物語っていました。3,366名がエホバへの献身を象徴するためバプテスマを受けましたが,これはイタリアで行なわれた集団浸礼の機会としては最大のものでした。

新聞は合計で長さ6,000㌢に及ぶ記事を掲載し,「他に例を見ない大群衆」について,またエホバの証人の「目覚ましい増加」について報じました。

1973年8月11日付のイル・メッサジェロ紙はこう伝えました。「信者たちは皆,とても若く,熱意に燃え,非常に熱心で兄弟愛に満たされている……」。

1973年8月14日付のイル・テンポ紙はこう報じました。「様々な団体が次々に崩壊し,人々が独自の道徳律や時には独自の宗教まで作り出そうとしている世界にあって,あらゆる職業の人々,また様々に異なる文化的背景を持つ人々が全き調和のうちに集い合い,共通の救いをもたらす確かな手だてに対して各人の信仰を深めようとしているのを見るのは興味深いことである」。

エホバがご自分の民に注いでくださる祝福

「あなたの祝福はあなたの民の上にあります」と詩編作者は語りました。(詩 3:8)1946年当時の伝道者120人の小さな群れのことを覚えておられますか。初めは進歩も緩やかで困難が伴いましたが,これら忠節な崇拝者たちは祝福を受け,絶えず増し加わる豊かな「収穫」の取り入れにあずかってきました。後に掲げる表に示されているように,エホバの民は特に1960年代の半ば以降,驚くべき増加を見てきました。1980年にはイタリアに8万4,847人の伝道者がいました。しかし1981年6月には,その数はさらに増加して9万191人に達しました。

表に記されている数字は王国の関心事に関連して生じた拡大を裏付けるだけでなく,将来に優れた見込みがあることをも示しています。

この報告を書いている時点で1,357の会衆があり,これらの会衆は84の巡回区と五つの地域に組織されています。また,信頼のおける統計によれば,エホバの証人はイタリアにおいてカトリック以外の宗教の中で最大のものになっています。しかし統計のことはさて置き,わたしたちがよく理解しているように,エホバの目に重要なのはその是認と祝福を得ることです。―箴 10:22

雑誌がベテルで印刷される

王国伝道者と雑誌の予約者の数が増加の一途をたどるにつれ,イタリア語の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の需要も増えていきました。一時期,雑誌はブルックリンから直接送られてきていました。1969年からしばらくの間はロンドン支部で印刷され,1971年の4月からはスイス支部で印刷されました。しかし,このいずれの場合も幾つかの問題が生じました。そこで,1972年の6月号から,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌はローマの民間の会社で印刷されるようになりました。ストライキやその他の不都合な事柄のため,やがてこの取決めも不適当なことが明らかになりました。期日に間に合わないことがしばしばあったのです。

このような状況を考慮して,協会はローマのベテルに輪転機を設置する計画を立てました。この計画はやがて実行に移され,ついに1975年の暮れ,ローマの印刷工場では雑誌を生産する準備が整いました。この輪転機で最初に印刷されたのは,1976年1月22日号の「目ざめよ!」誌と1976年2月1日号の「ものみの塔」誌でした。

1980奉仕年度には,イタリアで1,850万冊以上の雑誌が印刷されました。イタリア語の「ものみの塔」誌の平均発行部数は毎号52万部,「目ざめよ!」誌はほぼ47万部に達しています。

雑誌を用いる街路の業

1974年まで,イタリアの兄弟たちは「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を家から家の業で配布してはいたものの,街路や公共の広場では配布していませんでした。その理由はどこにあったのでしょうか。「良いたより」を宣べ伝える権利を確立するために,兄弟たちが100件以上もの裁判で争わなければならなかったことを覚えておられるでしょう。雑誌を用いる街路の業を禁じる法律はありませんでしたが,協会の法律顧問から,段階的に事を進めた方がよいという提案がありました。わたしたちはまず,家から家に伝道する権利を主張することにしました。その後,次の段階に進むことができます。

業はイタリア全土で順調に進められていたので,活動を拡大すべき時が訪れたものと考えられました。しかし,雑誌を用いる街路の業を全国的な規模で行なう前に,ミラノ,フィレンツェ,ナポリといった幾つかの都市で試験的にこの活動が行なわれました。すばらしい成果が得られ,何の問題も起きなかったことから,1975年11月号の「王国宣教」を通して指示が与えられ,雑誌を用いる街路の業を国の法律にかなった仕方で行なう方法が教えられました。その時以降,この業はイタリアの各地で行なわれてきました。

組織が法律上の認可を得る

神権組織の公式な認可を求める試みが1951年に行なわれました。ミラノにおいて法律にのっとって団体が組織され,その法的認可を求める申請書が提出されました。1953年2月11日に,ミラノ・プレフェットゥーラ(州)は,「申請を認める必要条件」が満たされていないとの理由でその申請を却下しました。法的認可のよりどころとなる「必要条件」とはどのようなものだったのでしょうか。法律によると,満たされなければならない次の二つの基本条件がありました。(1)その宗教は政府によって「知られて」いなければならない。(2)その目的とするところが法と秩序,もしくは公衆道徳を損なうものであってはならない。

1950年代の末に,内務省に対しても同様の申請を提出しましたが,この時も成功しませんでした。認可されなかった主な理由は,わたしたちの組織が政府関係者の間でほとんど知られておらず,好ましくない目で見られることが少なくないというものでした。わたしたちの申請を担当した弁護士は,イタリアでは「自由な精神が伝統とされてきたが,その欠如」が依然として認められると記録しています。

数年が過ぎ,神の聖霊の助けによって,エホバの証人の業は繁栄を見,兄弟たちは数々の優れた道徳的特質のゆえにこの国でよく知られるようになりました。1976年2月に申請書が更新され,ついにそれが受理されました。その決定は同じ年の6月に支部事務所に通知されました。ペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会は法的に認可されたのです。

それによって,新たな見込みが開かれました。事実,1976年の末には,結婚式を執り行なう資格を有する宗教上の奉仕者を任命することが国によって認められました。さらに,1976年と1979年に二つの政令が布告され,全時間奉仕に携わっている人々は僧職者が受けることのできる医療サービスや年金を受けられるようになりました。最近設けられた別の取決めによって,エホバの証人の援助を求める刑務所内の受刑者を訪問する資格が一定数の監督たちに与えられました。

ものみの塔協会が認可されたことは,資産をこの名称のもとに今や登記できることを意味します。そこで,幾つかの会衆は王国会館を購入したり建てたりして,その不動産を協会の名義で登記しています。それまで,ほとんどすべての王国会館は借りた建物を利用していました。会衆は王国会館を一人かそれ以上の兄弟の名で登記しなければならなかったため,エホバの証人の所有する王国会館はほとんどありませんでした。

イタリアには現在,二つの大会ホールがあります。最初の大会ホールは1977年10月にミラノで落成しました。これは映画館だった建物を改造して,大会ホールとしての必要を満たすようにしたものです。もう一つはトリノの郊外にあり,大会ホールとして特別に建てられ,1979年5月に落成しました。

組織がイタリア政府によって公式に認可されて以来,エホバの証人はより自由に活動できるようになり,これまで以上に効果的な手段を用いて清い崇拝の関心事を推し進めていることは明らかです。

ラジオとテレビの番組

イタリアには,テレビ・ラジオの全国ネットワークに加えて,ラジオ局が3,000,テレビ局が600あると言われています。「良いたより」をより大規模に広めるため,1976年からこれらの民間ネットワークを活用するようになりました。現在,わたしたちの製作した番組が280のラジオ局と30のテレビ局から無料で定期的に放送されています。テレビ番組に関連して,支部事務所は対談やインタビューのための筋書を兄弟たちに提供しています。巡回監督の行なうスライド講演に基づく視覚に訴える番組も準備しています。現在までにほぼ200のラジオ番組と50のテレビ番組が放送されています。

寄せられる報告からすると,これらの番組は大きな成果を収めているようです。すぐに良い結果が得られる場合もあります。サルジニア島のオリスタノの場合がそうでした。そこでは,自分の家にエホバの証人を遣わして欲しいと依頼してきた人が15人いました。サレルノ郡の三つの町では,わたしたちの番組を聞いた後,35名ほどの人が聖書研究を始めました。一人の監督は次のような報告を寄せています。「ラグーザ郡[シチリア島]で家から家に奉仕を行なっていたある伝道者が一人の男の人に会いました。その男の人はこのように言いました。『あなたが来るのを待っていました。毎週木曜日に皆さんの番組を見ているので,遅かれ早かれ皆さんが訪問してくれるものと確信していました』。この男の人は聖書研究に応じました」。

もちろん,いつでもすぐにこのような成果が得られるわけではありません。しかし,これらの番組のおかげで,区域内のある地域では多くの人が王国の音信に対してより良い態度を示すようになり,伝道者が訪問すると,家の人はこれまでよりも注意深く話に耳を傾けます。

「血」の小冊子を用いた運動

イタリアでは,1960年代に輸血の問題が大きく取り上げられるようになりました。当時の医師たちは多くの症例に輸血をどうしても必要な治療法とみなしており,輸血に伴う危険にはほとんど考慮が払われませんでした。ですから,輸血なしで手術をしてくれる外科医を見付けるのは非常に難しく,伝道者は多くの場合幾つもの都市を尋ね回って,手術をしてくれる外科医を探さなければなりませんでした。幾つかの緊急事態が発生した時には,新聞はエホバの証人に対する反対運動とも言える記事を掲載しました。このような場合,一部の地域では激しい敵意が見られ,兄弟たちはこれに対処するのにかなり苦慮しました。

1970年代の半ばには,エホバの証人の見解を理解するようになった医師が増え,事態は改善されていきました。しかし,事態が著しく改善されたのは,明らかに1977年の12月以降のことでした。それはなぜですか。その月に,「エホバの証人と血の問題」の小冊子を用いて全国的な運動が行なわれたのです。イタリアでは,8万7,000人の医師,4万8,000人の弁護士と裁判官,および20万人に上ると推定される看護婦にこの小冊子が配布されました。この運動の結果はわたしたちの期待を明らかに上回る非常に好ましいものでした。

まず第一に,わたしたちが確固とした態度で「血を避ける」ためエホバのみ名に不当にも加えられていた非難の多くがすすがれました。(使徒 15:19,20,28,29)また兄弟たちもこの問題の基本的な考えをよりよく把握でき,医療関係者と接する際に一層の確信を抱けるようになりました。加えて,わたしたちの信念を尊重してくれる医師がさらに多く現われ,助けを差し伸べてくれるようになりました。

輸血に関する会議

この小冊子の配布によって関心が高まった結果,問題を深く調べるための幾つもの会議が専門家によって開かれました。1978年2月21日には,ミラノにある有名なカルロ-エルバ財団で,「外科手術・輸血・エホバの証人」というテーマのもとに会議が開かれました。世界的に有名な科学者カルロ・シルトーリ教授を議長にして行なわれたこの会議では,この問題におけるわたしたちの立場に理解を示す数多くの発言がなされました。

1979年4月21日には,法医学専門大学主催の別の会議がシエナで行なわれました。法医学研究所の所長で同大学の前総長でもあるマウロ・バルニ教授が話を行ない,「エホバの証人の成人による輸血拒否と憲法の条項」という会議のテーマが紹介されました。同教授は次のように述べました。

「解決しなければならない基本的な問題は,エホバの証人の側がはっきり拒否しているにもかかわらず輸血を施そうとする医師の態度を我々がどう見るかということである。そのような態度は倫理的観点からも認容し得ず,明確に拒否の意思表示のされている行為を暴力によって強制することに関する刑法610条の適用を明らかに受けるものである」。

1979年7月7日に,アスコリピチェノ郡のリパトロンソーネという小さな町で,地元のある病院が「輸血と代替療法」というテーマのもとに会議を開催しました。主立った講師の一人チェザーレ・ブレスタ博士は,輸血なしで行なわれた240以上の外科手術の成功例について論じました。1979年7月23日号のパノラマ誌は次のように報じました。

「彼らは何年にもわたって,病院から追い出され,医師たちから嫌われ,だれからも顧みられず,欺かれ,非難されてきた。……しかし今日では,新たな代替技術が開発されたおかげで,イタリアで活動している宗教的少数者としては最も活発でよく組織されたものの一つであるエホバの証人でさえ……長い悪夢のような時代の終わりを迎えつつあるようである。……ブレスタ博士によると,これらの[代替]技術を活用することによって,手術の99%まで輸血なしで行なうことが可能である。この研究の結果は大きな益をもたらすであろう」。

長年にわたって非難めいた報道が執ように繰り返されてきた後,輸血に関するわたしたちの立場がこれほど理解されるようになろうとは,どんなに楽観的な人でも夢にも考えなかったことでしょう。「エホバの証人と血の問題」の小冊子の配布をエホバが祝福してくださったことに対して,エホバの民は深く感謝しています。

「勝利の信仰」大会

「勝利の信仰」大会に集まった大群衆は,真の神に対する信仰が過去の何年にもわたる反対に対して勝利を収めてきたことを明白に物語る証拠でした。1978年には,すべての兄弟たちを収容するために,2か所で大会を開く必要がありました。一つの大会はミラノで,別の大会はローマで開かれ,合計で11万1,320人が出席しました。

1981年には「王国の忠節」地域大会が22か所で開かれ,13万2,200人の出席がありました。これは一連の大会の出席者数としてはそれまでで最高でした。

大きな助けとなってきた開拓者たち

エホバがわたしたちの努力とみ名のために示す愛とを決してお忘れにならないという事実に促されて,多くの人はエホバに一層十分に仕えるようになりました。(ヘブライ 6:10)1946年にはイタリア全土に一人の開拓者しかいませんでした。年月の経過と共に,この貴重な奉仕にあずかる人々の数は次第に増えていきました。1980年には,特別開拓者が500人以上にもなり,正規開拓者は1981年2月に2,142人という新最高数に達しました。1981年5月には,1万51人の伝道者が補助開拓者として王国を宣べ伝える業にあずかりました。

特別開拓者が一番多く割り当てられているのは,シチリア島とサルジニア島です。その結果,どちらの区域においてもすばらしい進歩が見られます。シチリア島には七つの巡回区と125の会衆があります。サルジニア島ではシチリア島よりずっと後になって業が始められましたが,シチリア島より人口がずっと希薄であるにもかかわらず,ここには三つの巡回区と53の会衆があります。開拓者たちが成し遂げてきた業のおかげで,この国の区域の99%は会衆や群れに割り当てられており,定期的に奉仕されています。残りの1%の区域では時々奉仕がなされています。

困難に面した兄弟たち

イタリアは世界の地震帯の一つに沿っているため,この国を襲う自然の災害の多くが地震によるものであっても特別驚くべきことではありません。1976年5月に,オーストリアおよびユーゴスラビアとの国境に近いフリウリ地方の大半が激しい地震に見舞われ,千人近くの人が亡くなり,幾千もの家屋が倒壊しました。かなりのエホバの証人が家を失いましたが,死亡したり大けがをしたりしたエホバの証人は一人もいませんでした。災害が発生するや,近隣の兄弟たちは被災地域に住む兄弟たちが緊急に必要としているものを顧みるため,直ちに行動を起こしました。

1980年11月23日,日曜日,午後7時34分に発生してイタリア南部の広い地域を襲った地震は,さらに大きな被害をもたらしました。震動は国中で感じられました。地震の衝撃で町中の建物が倒壊し,幾千人もの死傷者が出ているという報告が,カンパーニャ地方やバシリカータ地方から届きました。その地域には130の会衆があり,支部の記録によると,約8,500人の伝道者と4,500人の関心を持つ人々の合わせて1万3,000人が住んでいました。

当初,これらの人々の身の安全がかなり案じられましたが,災害に見舞われた翌日の朝には支部事務所はすでに正確な情報を入手していました。エホバの証人や関心を持つ人々の中には,死者やけが人は一人もいなかったのです。死者の数や生き残った大勢の人々の苦しみを考えるのは悲しいことでしたが,兄弟たちが死なずに済んだことを聞いてほっとしました。

地震に見舞われた地域にいた伝道者たちは,地面や周囲の建物が激しく揺れ動く非常に危険な時のさなかにエホバにより頼む態度を表わしました。その後も難しい状況のもとで冬の厳しい天候に耐えなければならなかった伝道者たちは,引き続きエホバにより頼む態度を保ちました。幾つかの会衆では地震に見舞われた時,集会が開かれていました。エボーリ(サレルノ)の会衆の一長老は次のように語っています。

「『ものみの塔』研究を始めたばかりの時,王国会館の床が突然激しく揺れるのを感じました。一方,壁や頭上の天井が大きく揺れ動きながら不気味にきしめいていました。数秒の間,だれもがただぼう然としていました。事態を把握する間もなく,さらに激しい揺れに見舞われました。4階建ての建物が頭上に崩れ落ちてくるのではないかと思われました。この恐ろしい瞬間はいつまでも忘れることのできないほど長く感じられました。

「研究司会者であった私は出席者を守るためにすぐに決定を下さなければなりませんでした。しかし,一体どうすればよいのでしょう。会館の中の今いる場所にとどまっているか,外に出るかのどちらかです。私は正しい決定ができるよう,導きを求めてエホバに熱烈に祈りました。その時,数年前にフリウリのジェモナの兄弟たちが直面した同様の状況のことを思い起こしました。私は兄弟たちに会館の中にとどまるよう勧め,声を出して祈りました。出席していた130人のうちのだれ一人として,外に飛び出したりパニック状態に陥る徴候を示したりする人はいませんでした。町中が大混乱に陥っている中で,私たちはエホバにより頼み,『ものみの塔』研究を続けました。

「私たちは心からの感謝の祈りをもって集会を閉じました。保護が差し伸べられたことがこのように歴然としていたので,出席者の多くは感謝の余り涙を流していました。ヘブライ 10章24,25節の使徒パウロの勧めに従っていたことを,私たちは深く感謝しました。この命令に従うことによって命が救われたのです。50人の兄弟たちが集会を開いていた近くの町の兄弟たちともすぐに連絡を取りました。周囲の建物はいずれも大きな損害を受けたものの,これらの兄弟たちも無事で,みな元気でいることが分かりました。町にある二つの大きな教会は崩れかけていました」。

ベリッツィ(サレルノ)の会衆の一人の監督はその時のことを思い起こして次のように語っています。「集会が終わって5分ほどしたころ,突然,悪夢のただ中に投げ込まれました。王国会館の中は大混乱に陥ったかのようでした。だれかが,『エホバ,助けて』と叫びました。私は兄弟たちに向かって大声で,『落ち着いてください。階段を降りてはいけません』と叫びました。私たちは全員無事でした」。

被災地の兄弟たちは進んで助け合い,イタリア全土のエホバの証人もヨーロッパの他の国々の証人たちも金銭,衣類,その他の物資を惜しみなく送りました。援助を特に必要としている地区に援助の手が差し伸べられるよう指示を与えるため,緊急救援本部が設けられました。地震に見舞われた翌日の夕方には,食糧,テント,毛布,衣料品を積んだ協会の最初のトラックが被災地に到着しました。

「兄弟たちは必要な援助がこれほど早く差し伸べられたことに驚いていました」と,この地域に任命されていた旅行する監督は語りました。この監督はさらにこう言葉を続けています。「私たちは直ちに自分たちの炊事場を設置し,姉妹たちが調理した食べ物を兄弟たちに毎日配りました。町に住む他の人々にはまだ救援の手が差し伸べられていなかったので,それらの人々はできる範囲で最善を尽くしていました。もちろん,兄弟たちは利己的ではありませんでしたから,エホバの証人以外の大勢の人とも食べ物を分け合いました。モンテラ村に食糧を運んだ時には,兄弟たちの近くに住む家族にもパスタや米,油,砂糖,パン,ミルクを配り,子供たちにはビスケットをあげました」。

震災に見舞われた月には,全国で8万6,192名という伝道者の新最高数が得られました。この事実は,被災地の兄弟たちが主の業に対するすばらしい熱意を保ってこの増加に寄与したことを物語っています。様々な国の仲間の崇拝者たちが,物質の援助を差し伸べ,さらにその祈りの中に兄弟たちのことを含めることによりこれらの兄弟たちに対して示してくださった愛に感謝しています。エホバは苦難の時にわたしたちを助けに来てくださる方であられるので,わたしたちの感謝はエホバに向けられます。―詩 54:4

ベテルの拡張

1972年の春に新しいベテルが落成した時,わずか4年後にこれが手狭になることなどだれ一人想像もしていませんでした。当時,この国には真の神の崇拝者がおよそ2万5,000人いました。ところが,1976年にはすでに,この建物は伝道者の必要をまかなうのに十分ではなくなっていました。その当時,伝道者の数は何と6万人にまで増加していたのです。

1975年と1976年にこれまでの土地に隣接した2区画の敷地が購入され,わたしたちが自由に使うことのできる土地の広さは合わせて14万平方㍍となりました。しかし,ローマ市開発計画局からは新しい敷地に農場の建物を一棟建てる許可しか得られませんでした。計画の修正を求める申請書が提出されました。その間に,ベテル家族のための農産物を生産する,牛舎と納屋を備えた小さな農場を作る許可を申請しました。この工事は1978年に始まり,1980年の春には小さな農場が完成しました。

そしてついに,1979年10月,新しいベテルホームと印刷部門のための建物を建設する許可が下りました。直ちに工事が始まり,1980年10月には印刷部門が出来上がりました。輪転機と雑誌を生産するための諸設備はすでに設置されています。一方,ベテルの工事を完成するためにまだまだなすべきことが多くあります。建設工事の大部分は兄弟たちの手で行なわれてきました。イタリア中の至る所から兄弟たちがやって来て建設工事に携わっているのを見るのは大きな励ましです。兄弟たちは,この建物がイタリアで続いている拡大にこたえ応じる上で必要なことをよく知っているのです。完成の暁には,この建物には70の部屋と食堂,厨房,王国会館および他の必要な諸設備が備わっているはずです。

現在,98人の兄弟たちがベテルでの奉仕に割り当てられており,仲間のクリスチャンに仕える一つの幸福な家族を形成しています。この中には,家族のための必需品をまかなうため農場で働いている人もいれば,発送部門で働くよう割り当てられ,文書や雑誌,および会衆が必要とする他のものを発送する仕事に携わっている人もいます。

諸会衆に文書を供給する

郵便の遅配やストライキの影響で,遠くの会衆では文書や雑誌が期日に間に合わないことがよくありました。ある巡回監督は次のように語っています。「シチリア島のある会衆を訪問していた時,一人の姉妹と一緒に家から家を訪問していました。その姉妹が2か月遅れの雑誌を配布しているのを見て,どうしてもそのことに触れざるを得ませんでした。すると姉妹は,この雑誌が会衆に届いた最新号であると答えたのです」。

このような遅れを考慮して,文書類の配達の大部分は協会が配達用に購入した4台のトラックによって行なわれています。トレーラーをけん引するそのうちの1台は積載量が34㌧で,ウィースバーデンのドイツ支部から文書を運んで来るのにも用いられています。会衆の注文した文書類はイタリア半島,シチリア島およびサルジニア島の各地にある120か所以上の文書集配所に配達されます。文書類はそこからさらに各地域に配達されるのです。この取決めによって,諸会衆は必要な霊的食物を期日に間に合うように受け取れるようになり,経費も大幅に削減できました。

神の保護に感謝する

以上がイタリアにおけるエホバの証人の活動の現代における歴史です。この期間に成し遂げられたすべての事柄に対する誉れを人間に帰すことはできません。個人の名が挙げられてはいますが,この記録は,神の導きと保護によって一つの民がどのように存在するようになり,僧職者からの激しい反対に耐え,繁栄してきたかを物語る編年史を成しています。

ローマの会衆を訪問して,そこの兄弟たちに「霊的な賜物を少しでも分け与え」たいという使徒パウロの強い願いがかなえられてから,すでに1920年以上の歳月が流れました。(ローマ 1:11)その後この国は,大規模な背教によって幾世紀もの間霊的な濃い暗闇の中に置かれてきました。しかしもはやそうではありません。一握りの散らされていた人々の歩みが真理のかすかな光によって最初に照らし出されるようになった今世紀の初期のころのような時代もすでに過去のものとなりました。執ように繰り返され,エホバの民が忠節に耐えてきた宗教上の迫害の波も過去のものとなりました。

現状に目を向ける時,わたしたちの心は喜びに満たされます。第二次世界大戦が終結した当時の王国伝道者の数は平均90名ほどでしたが,現在のイタリアには「良いたより」をふれ告げる人々が9万人以上もいるのです。将来の見込みも実にすばらしいものです。イタリアでは1981年5月に,6万2,068件という家庭聖書研究の最高数が得られました。また,1981年の記念式には,18万7,165名もの人が出席しました。歴史的な都市,ローマでは,現在51の会衆が活動しています。

これらの数字は,神の是認のもとにさらに増加が見込まれることを示唆しています。それはわたしたちの神エホバへの賛美を一層増し加えるものとなるでしょう。幸福に満ちたエホバの崇拝者たちは,現在の繁栄した状態がもたらされたのはひとえにエホバによることを進んで認めています。そして,イタリアにおける真のキリスト教の現代の歴史の様々な出来事を読み返すごとに,詩編作者ダビデと同じく,感謝の言葉を言い表わさずにはいられません。ダビデは感動の余りこう叫びました。

「人々がわたしたちに向かって立ち上がったときに,エホバがわたしたちの側にいてくださらなかったなら。そのとき,彼らはわたしたちを生きたまま呑み込んでいたことだろう。彼らの怒りがわたしたちに向かって燃えていたそのときに。エホバがほめたたえられるように。神はわたしたちを彼らの歯にえじきとして渡されなかった。わたしたちの魂は,えさでおびき寄せる者のわなから逃れた鳥のようだ。わなは破られ,わたしたち自身逃れることができた。わたしたちの助けは,天地の造り主エホバのみ名にある」― 詩 124:2,3,6-8

[脚注]

^ 221節 3通の通達から引用された文は,ジオルジオ・ペイロト著,ジュフレ発行の「Provvedimenti ostativi dell'autorità di polizia e garanzie costituzionali per il libero esercizio dei culti ammessi」(「警察当局の取った抑圧的な措置と憲法によって保障されている特定の宗派の教えを実践する自由」)という本から取られました。

[247ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

伝道者の増加

100,000

90,191

75,000

60,156

50,000

25,000

22,196

10,278

120 1,742 3,491 6,304

0 1946 1951 1956 1961 1966 1971 1976 1981

[248ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

会衆の増加

1,600

1,357

1,200

1,141

800

433

400

35 97 139 242 275

0 1946 1951 1956 1961 1966 1971 1976 1981

[249ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

記念式の出席者の増加

200,000

187,165

150,000

130,348

100,000

53,590

50,000

200 2,897 5,790 12,113 19,682

0 1946 1951 1956 1961 1966 1971 1976 1981

[114ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

イタリア

ジェモーナ

ソンドリオ

アオスタ

バレーゼ

コモ

ガララーテ

ブレシア

ビチェンツァ

ノバラ

ミラノ

トリノ

ピアチェンツァ

ピネロロ

アレサンドリア

ボローニャ

ジェノバ

クネオ

ファエンザ

フィレンツェ

シエナ

ペルジャ

テラモ

ポポリ

アベッツァーノ

スルモナ

ローマ

フォッジャ

チェリニョーラ

ビシェリエ

モルフェッタ

ガエタ

ナポリ

アベリーノ

バリ

サレルノ

シチリア島

パレルモ

メッシナ

カルタニセッタ

コルシカ島

サルジニア島

フランス

スイス

オーストリア

ハンガリー

ユーゴスラビア

地中海

[119ページの図版]

ピネロロの近くにあるファニー・ルリの家。この家の1階,バルコニーの下の部分で最初の集会が開かれていた

[127ページの図版]

レミージョ・クミネッティ,イタリア人のエホバの証人として最初にクリスチャンの中立の立場を取った人で,イタリアの業の責任を執った最初のイタリア人の兄弟

[135ページの図版]

イグナツィオ・プロッティとその二人の妹,アルビナとアデーレは,聖書文書頒布者としてイタリアで熱心に奉仕するためスイスから移り住んだ

[137ページの図版]

ピネロロにあるコロナ・グロッサ・ホテル。1925年に,ここでイタリアにおける最初の大会が開かれた

[153ページの図版]

マリア・ピッツァート,この人の母親は,1903年から1904年にかけてビチェンツァのこの新聞雑誌小売所で「ものみの塔」誌を幾冊か求め,それがきっかけとなってマリアが真理を学ぶようになった

[177ページの図版]

アルド・フォルネローネは,第二次世界大戦中クリスチャンの中立の立場の価値を身をもって体験し,今でも長老として奉仕している

[193ページの図版]

ロセト・デリ・アブルッチで1947年に開かれた,イタリアで最初の巡回大会。私道に沿ったいちじくの木とぶどう棚の下で兄弟たちが集まり合った

[209ページの図版]

イタリアで最初の地域大会。僧職者の反対があったにもかかわらず,1950年10月27日-29日にミラノで大きなテントを張って行なわれた

[223ページの図版]

パラッツォ・デイ・コングレッシ。1955年の国際的な「勝利の王国」大会がローマではここで開かれた

[240,241ページの図版]

支部の建物。左上: ローマで1948年に入手された建物。右上: 1972年に完成した支部の建物。右下: 最も新しい増築した建物を含むベテルの側景

[250ページの図版]

トリノの大会ホール,1979年に落成