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チリ

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チリは対照的なものが実に多い国です。この国は南アメリカの西海岸に沿って4,265㌔も伸びています。つまり,同大陸の太平洋沿岸の半分余りを占めているのです。ですから,チリは,北の乾燥しきった砂漠から南のフィヨルドと氷河に至るまで無限の変化の見られる国となっています。西の鳴りとどろく海原と東の畏怖の念を抱かせるアンデス山脈にはさまれたこのような地域の中に,鉱石が豊富に埋蔵されている険しい山々,草木も育たない砂漠,肥よくな渓谷,森林,きらきら光る無数の湖,島々,氷河があります。陸地の高さも海面から,西半球の最高峰アコンカグア山の山腹にまで及んでいます。この山はアルゼンチンとの国境にそびえ,標高は約7,000㍍あります。

チリの北部は,地上の他の地域にはないほどの,ほぼ完全な砂漠です。それもそのはずで,アタカマ砂漠には,20年間に1滴の雨も降ったことのない所が幾つかあるのです。ところが,南部では,年間の降水量が2,500㍉余りもあります。

チリは山国ですが,中央に低地帯があって,そこに人口の約67%の人々が住んでいます。またそこは,世界の庭園に数えられるほど風光めいびな所でもあります。中央低地帯の気候はカリフォルニアの気候に似ていて,りんご,梨,桃,あんず,プラム,さくらんぼ,ぶどう,いちじく,オレンジ,レモンなどの果物の栽培に適しています。

チリの南部には湖水地帯があります。そこには,エスメラルダ湖とも呼ばれる,かの有名なラゴデトドスロスサントスがあります。セオドール・ルーズベルトはかつてこの湖を,「世界各地で見た湖の中で最も美しい湖」と呼びました。ラゴデトドスロスサントスは山々の懐に包まれて横たわり,そのエメラルド色の湖水を波立たせるものは,ただ,山からこの静かな湖に落ちる幾筋かの滝のみです。

チリには,本土のほか,数多くの島があります。バルパライソ市の西方587㌔の所にはフアンフェルナンデス諸島があります。有名なロビンソンクルーソー島は同諸島にあります。イースター島はチリの沖合3,200㌔ほどの所にあり,そこにはポリネシア系の人々が住んでいます。この島には,考古学者の間で長年なぞとされてきた,目のない奇怪な石像が幾百もあります。

チリの言語はスペイン語で,スペイン系の人々が人口の大半を占めています。もっとも,ここ100年の間にそれらの人々はドイツ人,イギリス人,アメリカ人の影響を強く受けました。人口の約3分の1はスペイン人とインディオの血を引いています。チリという国名は,インディオがこの地方を,「地の終わる所」という意味のチリと呼んだことに由来します。初期の原住民が,果てしなく広がる太平洋を眺めたときは,まさにその言葉通りの感慨を抱いたに違いありません。

「良いたより」がチリに伝わる

チリにおける神の王国の良いたよりの伝道はリヒャルト・トラウプの到着と共に始まります。トラウプ兄弟はアルゼンチンのブエノスアイレスで真理を学び,1925年にエホバに献身しました。アルゼンチンのアンデス山脈の近くで開拓奉仕をしているとき,トラウプ兄弟の心に,チリで伝道の業を開始したいという願いがわいてきました。当時アルゼンチンの支部の監督だったフアン・ムニス兄弟はその考えに賛成し,トラウプ兄弟はチリに任命されました。

サンチアゴに着いたのは1930年4月30日の夕方でした。いうまでもなく,駅にはトラウプ兄弟を出迎える人はいませんでした。その晩,兄弟は近くのホテルに泊まり,翌日ある家の部屋を借りました。トラウプ兄弟は,業を開始するための資金としてもらった小切手を換金しようとしましたが,すぐにお金をもらうことはできませんでした。銀行は小切手の額を支払えるだけの預金があるかどうかを確かめなければならなかったからです。その間にトラウプ兄弟の手持ちのお金ともらった食糧は尽きてしまいました。この自己犠牲的な開拓者は食事を取らずに八日間も暮らしたのです。

提供する文書は持っていませんでしたが,トラウプ兄弟は1930年5月4日に家から家の業を開始しました。エホバへの全き信頼と真の宣教者精神を抱いて,当時人口が400万のチリで最初のエホバの証人として業を始めました。

政教分離を明確に定める新憲法が承認された1925年まで,ローマ・カトリックがチリの国教となっていました。家から家の業を行なっているときに警官から尋問されたことがありましたが,行なっている業の性質を説明したところ問題は全くなくなりました。ここには確かに信教の自由がある,とトラウプ兄弟は思いました。

同兄弟は初期のころの自分の気持ちを次のように述べています。「毎週日曜日には,『ものみの塔』研究の時間が近付くと,サンクリストバル山へ歩いて行き,木陰で研究と祈りに没頭したものです。とても寂しくて,ほかの兄弟と真理について話したいという矢も楯もたまらない気持ちになりましたが,個人研究をしたあとは強められたように感じ,独りぼっちではないんだという思いに満たされました。そして,次の週の業を行なう心の準備ができていました」。

関心を示す人々が見いだされる

家から家へ証言をしているとき,トラウプ兄弟は,フアン・フロレスという名のたいへん信心深い男性に会いました。その人は文書を求め,いろいろ質問をしました。そのとき,フアン・フロレスはセブンスデー・アドベンティストの信者数名の訪問を受けているところでした。しかし,その人たちとトラウプ兄弟との間に交わされた話し合いを聞いた後,フロレスは「神の立琴」と題する本を研究することにしました。

トラウプ兄弟はこう語っています。「その後私はアパートを借り,毎週日曜日に公開聖書講演と聖書研究に人々を招待し始めました。その招待に応じた最初の人であるフアン・フロレスは,『ところでほかの人たちはいつ来るのですか』と尋ねました。『ほかの人たちも来ますよ』と私は答えました」。それから間もなく,ほかの人々が出席するようになりました。

キンタノルマルという地区でトラウプ兄弟が会ったある男の人は,文書を求め,自分の福音派の教会で聖書講演をしてくれるようトラウプ兄弟に頼みました。フアン・フロレスはトラウプ兄弟に同行し,同兄弟が集まった人々に王国の音信を伝えるのを聴きました。出席者に対して,再び来るようにとの招待が差し伸べられました。トラウプ兄弟が訪れた後は出席者が増え寄付盆が一杯になるので,その福音教会の伝道師は喜びました。トラウプ兄弟は寄付盆を回すことに同意できませんでした。それで,ヨハネ 10章12節の「雇われ人」に基づく話を教会で行ないました。すると,教会に通っていた人の大部分はトラウプ兄弟が開いていた集会に出席し始めました。その中には,コンスエロ・ガルベスという若い女性もいました。やがて福音教会の伝道師は独りぼっちになってしまいました。教会員たちがいなくなってしまったのです。

フアン・フロレスはトラウプ兄弟に,コンコン通りにある自分の家に住み,集会場としても自分の家を使ってほしいと申し出ました。(フロレスの家はその後増築され,今でも王国会館として用いられています。)活動が開始されてから10か月と少したつと,関心を持つ人々がバプテスマを受けるまでになりました。そこでトラウプ兄弟はムニス兄弟に手紙を書き送り,歴史に残るその式に出席してくれるよう依頼しました。

チリにおけるエホバの証人による最初のバプテスマは1931年2月13日に執り行なわれ,ムニス兄弟がバプテスマの話をしました。その時バプテスマを受けた8名の人は次の通りです。フアン・フロレスと妻のテレサおよびフアンの母親のデルフィナ・ビリャブランカ,フアン・カスティリョ,ペドロ・オルティス,ロベルト・ロハス,マルガリータ・サンドバルおよび別のフロレス姉妹。トラウプ兄弟によれば,その8人全員は忠実を保ちました。ビリャブランカ姉妹は開拓者になり,亡くなるまで開拓奉仕を続けました。フアン・フロレスはイヤペルで小さな会衆を組織することに貢献しました。しかし,バプテスマを受ける人はさらに現われました。

1931年3月29日に,さらに5名がバプテスマを受けました。その中には,後にトラウプ姉妹として死ぬまでトラウプ兄弟の忠実な伴りょとなったコンスエロ・ガルベスもいました。1年もたたないうちに13名の人がバプテスマを受けました。

その間にも,ほかに幾人かの人が真の崇拝の側に立場を取ろうとしていました。サンチアゴにおける業は地歩を固めつつありました。しかし,遠い地方へ真理の種をまくことはどのように行なわれるのでしょうか。

別の精力的な開拓者の到着

早い時期にチリへやって来た開拓者の中にカーテ・パルムがいます。この姉妹は前述の質問に対する答えを与える上で際立った役割を果たしました。チリの野外におけるその熱心な業についてパルム姉妹自身に語ってもらいましょう。同姉妹は次のように書いています。

「1934年11月,ヒルマ・ソーバーク姉妹は,米国からコロンビアへ船で行く旅費を,ものみの塔協会の本部へ送りました。協会は,南米でソーバーク姉妹を援助する気持ちはないか,と私に問い合わせてきました。本当にすばらしい備えです。それで私は12月までにコロンビアのブエナベンツラに着き,ソーバーク姉妹はエクアドルからやって来ました。私たちは1年ほどボコタへ行き,幾カートンもの書籍を配布しました。その後,ソーバーク姉妹は米国のテキサス州へ帰らなければならなくなりました。姉妹は私に,独りでコロンビアに残るようなことはしないようにと言って,チリで業を開始した兄弟に手紙を書くよう勧めてくれました。

「ついに,チリへ来るようにとの招待を受け取りました。トラウプ兄弟の家に開拓者一人が住めるようになったのです。チリ全体が区域になるのです! でも,どうやって行ったらよいでしょう。一番良いのは船を使うことです。それでブエナベンツラへ戻りました。荷役監督の話では,チリの船が間もなく入るとのことでした。そのようなわけで戸口は開かれたのです。

「貨物船の船長はこう言いました。『いいですとも,乗せていって上げますよ。だが,あなたのわずかな所持金(15㌦)をもらうわけにはいきませんな。そこに持っている本を数冊分けてもらいましょうか。さあ,おかへ行って荷物を取って来なさい。船室に案内しますから』。船員や数人の船客にたくさん証言のできた楽しい17日間が過ぎ,船はチリに到着しました。トラウプ兄弟はバルパライソまで迎えに来てくださいました。1936年2月のことです」。

パルム姉妹がサンチアゴで特にすばらしいと思ったのは,雪を頂く山々を背景に,満開の日本の桜が一つの街路全体をピンクに彩っている風景でした。本当に美しい景色でした。しかし,パルム姉妹の話はさらに続きます。

「トラウプ兄弟が割り当ててくださった最初の区域はサンチアゴの中心部でした。そこには大統領官邸や各省の庁舎,様々な事務所や商店がありました。私はこの区域で書籍をたくさん配布しました。ものみの塔協会が当時発行していた書籍全部をセットで配布したことも珍しくありません。大統領官邸では邪魔してはいけない電信課を除き,訪ねた事務所で断わられた所はどこもありませんでした。最後の階には官邸図書館がありました。図書館員は協会の書籍を見てすぐにそれと分かり,自分がすでに持っている書籍すべての題名を挙げました。私は当時最新の書籍だった『立証』という本(第1巻)の英語版とスペイン語版を配布しました。図書館員はそれらの本を手に入れて大変喜びました。一人の人は,政府に関する限りわたしはあなたと立場を代わりたいとさえ言いました。その人は神権的な政府に勤めることのはるかに勝った価値に気付いていたのです。

「1936年のこと,商業地域で奉仕していた時にドイツ名の宝石商に会いました。そこで私はその人にドイツ語で証言し,『立証』を見せました。その人は,本の中にエホバという名前が出ているのを知ると真っ青になり,私に向かって,ここから出て行け,さもないとピストルを持って来て殺すぞ,と叫びました。叫びながら私めがけて握りこぶしを振り回し,それで陳列ケースを思いきりたたいたので,ガラスが割れて手にけがをしました。その時には書籍用のかばんをまとめてあったので,私はすばやく店を出ました。通りに出て恐ろしさに震えながら,ドイツの美術品を扱う隣の店へ行きました。店の人は,『あの人のことについてとやかく言いたくありません。熱狂的なナチ党員だということしか知らないので』と言いました。当時は第二次世界大戦の始まる前の時代でした」。

感謝された携帯用の蓄音機

パルム姉妹によれば,トラウプ兄弟は戦前に,短い聖書講演を収録した78回転のレコードと共に協会の携帯用の蓄音機を1台入手することができました。トラウプ兄弟はそのことを大変喜んでいました。パルム姉妹はこう語ります。「なんと,トラウプ兄弟は,チリの兄弟たちの多くがそれぞれチリ製の蓄音機を持てるようにと,その蓄音機と同じ物を作ろうとさえしました。

「何年か後,私をチリまで運んでくれた船の二等航海士が,ニューヨークへ幾度か行く機会を捕らえて,ある時ものみの塔の本部を訪れました。アダムスストリート 117番でその航海士が会ったフレッド・ピーチ兄弟とハリー・ピノック兄弟は,もっと多くのレコードや新しいレコードと共に最新式の縦型の蓄音機を私にあてて託してくださいました。それは戸口で使うのに便利でした。また,だれもそのような型の蓄音機を見たことがなかったので,ずいぶん珍しがられました。1時間の講演のレコードは,サンチアゴの幾つかの放送局でも使われました。二,三年後には,それらの講演は地方の主要都市のほとんどすべての放送局から放送されていました」。

真理の種を北部にまく

トラウプ兄弟は,パルム姉妹に真理の種をチリの北部にまいてもらうのがよいと考えました。パルム姉妹はその時のことを次のように語っています。「私は,北の端のアリカや肥よくなアサパの渓谷から業を始めるよう割り当てられました。そこでどの町でも家から家の業を行ない,公共図書館や学校の図書館,また労働会館で美しい多色刷りの書籍をセットで配布するように常に心掛け,それは大抵成功しました。

「銅山や鉄山のある大きな町はもとより,大小の別なくあらゆる鉱山町や硝石の町,会社町で家から家の業を行なって証言しました。次に訪れる土地へ前もって幾カートンもの書籍を送ってもらわなければなりませんでした。証言の業はほとんど徒歩で行ないました。ロバに付けるようなサドルバッグを見付け,その一方に書籍を30冊ほど,もう一方に小冊子を150冊から200冊ほど詰めました。それを両肩に掛け,戸口では文書を一杯詰めた別の手さげを用いたものです。毎晩たどり着いた土地で宿を探すのが普通でしたから,毛布や歯ブラシその他も携行しなければなりませんでした。

「コピアポでは,アンデス山脈の中腹の高い所に硫黄採取場がありました。そこには三,四十人の鉱夫,主任とその補佐およびその二人の家族が住んでいました。その人たちは女性が訪ねてきたので驚いていました。私は一体どのようにしてそこへ行ったのでしょうか。その採取場へ自動車で行く男の人をたまたま見付けたのです。その人は私を快く乗せてくれました。『あなたがあそこに住んでいる二人の女の人のどちらかに泊めてもらえるようにしてあげましょう』と,その人は言ってくださいました。

「それから採取場の人たちは口をそろえて言いました。『ここではお金は使われていません。賃金はすべて,休暇を取った時に町の事務所で受け取るんです』。それで,主任は,みんなが自分の欲しい文書を取り,表に名前と冊数を書き込むのを許可しました。私は持っていた文書を全部配布したうえ,さらに多くの文書の注文を受けました。注文の文書は町の事務所に届けました。鉱夫たちは皆,出版物を読むことを心から願っている様子で,『良いたより』を大変喜んでいました」。

1939年に,キューバで奉仕していたベタ・アボット姉妹が,チリへやって来る旨,連絡してきました。アボット姉妹は,サンチアゴのすぐ南にある“エル・テニエンテ”の銅山で働くアメリカ人に証言を行なう割当てを受けました。そこではほんの短い間しか奉仕することができませんでした。そこは標高が高いため,体力が続かなかったのです。しかし山のふもとの町ランカグアでは問題はありませんでした。

ランカグアではルシラ・レイエス姉妹が自分の経営するホテルに住むようにと言ってくれました。アボット姉妹はそこで数年暮らしました。レイエス姉妹とその夫はそれより二,三年前にトラウプ兄弟から「良いたより」の説明を受けて,真理を見いだしました。それ以前に,福音教会の牧師がレイエス家をたびたび訪問して,神に従いたいならホテルに置いてあるワイン(よい収益になっていた)を全部処分すべきであると強く主張しました。レイエス氏はかわいそうに,チュイコ(10㍑入りのびん)全部の中味を下水にあけたのです。その後トラウプ兄弟が訪れて聖書の真理を説明しました。レイエス氏は言いました。「なんですって,ワインは禁じられていないんですか」。トラウプ兄弟がレイエス家の聖書を使ってそのことを証明したとき,その説明はレイエス氏の耳に快く響きました。レイエス家の自宅とホテルはエホバの証人であればだれでも,いつも自由に出入りできました。

1949年にランカグアで全国大会が開かれましたが,その時すでに夫を亡くしていたレイエス姉妹はホテルを空にして,大会出席者をできるだけ多く受け入れられるようにしました。ランカグアの中心部で“サンドイッチ行列”(主要な講演を宣伝する大きなプラカードを体の前後に付けた兄弟たちの行列)が行なわれました。しかし問題が起きました。学校の講堂で大会を開くことは文部大臣によって許可されていたにもかかわらず,学校の校長が兄弟たちに講堂を使わせようとしなかったのです。上訴裁判所の判事,ダニエル・ゴンサレス氏はその話を聞くと,出掛けて行ってその校長に面会し,数週間前に同じ講堂でカトリックの集まりが開かれるのを許したのはなぜかと尋ねました。その事実を突き付けられて,校長は断われなくなってしまいました。すばらしい大会がランカグアで開かれました。

数年後,アボット姉妹はサンチアゴに移りました。アボット姉妹は洋裁の優れた技術で生計を立てていたので,大使夫人その他,著名な人々からよく注文を受けました。それはそうした人々に証言する機会となりました。これはエホバのお取り計らいに違いない,とアボット姉妹はよく言っていました。エホバの証人がその人たちの邸宅を訪問しても,女中たちは主人に会わせようとはしないからです。長年にわたって忠実な奉仕を行なったアボット姉妹は,1975年に93歳で亡くなりました。

南部を網らする

チリの最南端マガヤーネス州で奉仕するのに最も適した季節は夏だったので,トラウプ兄弟はパルム姉妹に船でプンタアレナスへ行くよう指示しました。パルム姉妹の配布用として書籍10カートンがプンタアレナスへ発送されました。

乾燥した北部とはうって変わって,パルム姉妹がここで目にしたのは,みずみずしい緑の草木,櫂船,帆船,ランチ,小さな汽船,次々と現われる島々でした。それは大変楽しい風景でした。フィヨルドと氷河の地方を数日間旅して,ついに,マゼラン海峡に面する町プンタアレナスに着きました。パルム姉妹は続けてこう述べています。

「私はチリのすべての町の中でプンタアレナスがいつも一番好きでした。ハエもノミも南豆虫も,そしてこじきもいませんでした。ですから,訪れた土地の中のほかのどこにいるよりも熟睡でき,快く目覚めることができました」。

プンタアレナスでの証言活動にはスペイン語以外の言語の出版物を携えていく必要がありました。ユーゴスラビア系の人が大勢いますし,英国人が管理するエスタンシア(羊の大放牧場)が多数あったからです。エスタンシアの中には約1,000平方㌔の土地に8万頭もの羊のいるものがあります。美しい湖のふちまで続く氷河に覆われた壮大な山々を背景に,良く訓練された犬を連れ,馬にまたがる羊飼いたちの姿が絵のような美しい風景を作り出していることは今日でも変わりません。

孤立しているこのプンタアレナスとプエルトナタレスの地域の人々は友好的でもてなしの精神に富んでいることでよく知られています。エスタンシアに着くと,さっそく大きな台所に通されます。そこにはコーヒーかマテ茶(薬草湯)の入ったポットとパンが用意されています。食事の時にはいつもコルデロ・アサド(子羊の焼肉)が食べ放題です。大勢の人が関心を示し,伝道の業に対する反応はよいものでした。

プンタアレナスからチエラ・デル・フエゴ ― 火の土地 ― へ渡ることができます。この名前は,1520年にフェルディナンド・マゼランがその名前の付された海峡を航行している時に命名したものです。パルム姉妹はこの島のポルベニールという小さな町に着き,地の果ての土地で真理の種をまくという特権にあずかりました。ある親切なエストニア人の家族が数週間泊めてくれたので,その地方のエスタンシアをすべて訪問することができました。

再び北へ

冬が近付き,汽船で北へ向かう時となりました。パルム姉妹は帰路チロエ島へ渡りました。姉妹はこう記しています。「島の小さな港を次々と訪れ,親切な人々に会いました。その人たちは決まってよく耳を傾け,たくさんの質問をし,煉獄や地獄の火についてどうしてこんなに長い間だまされてきたのかと驚きました。そしてほとんどの人が文書を求めました。

「ある小さな港の近くでのこと,ひとりの司祭がうまく私を見張っていました。そして,私がちょっと目を離したすきに,書籍を詰めたサドルバッグと手製で明るい色合いのボリビア製の毛布を司祭の手先のひとりに盗まれました。警察に届け出ると,警官たちはただ肩をすくめるだけでした。それでも,手さげの中に持っていた文書を用いてその日の奉仕を続けていると,ひとりの男の人がやって来ました。その人は私が持ち物を盗まれたことを聞いていて,自分や妻やほかの人たちが気の毒に思っていることを私に知らせたいと考えていました。『わたしの家へ一緒に来てください。家内が新しい毛布[もちろん手織り]を持っていますから。今晩はうちに泊まってください』と言ってくれたので,私はついて行きました。その奥さんの毛布は盗まれた毛布よりずっと良い物で,大き目のポンチョでした。私はさっそくそれを求めました。手ごろな値段だったのです。その晩はそこに泊まり,家の人たちから出された,聖書に関する多くの質問に答えました」。(以来35年余り使ったそのチロエのポンチョを,パルム姉妹は今も持っています。)

トラウプ兄弟の指示に従って北へ進んでいたパルム姉妹はオソルノを訪れました。その地方の知事はパルム姉妹を喜んで迎え,自分が興味深く読んだ「政府」と題する本を見せました。そして,オソルノではだれもエホバの証人の業を妨害することはないと約束しました。そしてその言葉通りになりました。

バルディビア州へ進んだパルム姉妹は,港町コラルへ行きました。姉妹の話を聞きましょう。「『事実を見よ』と題する1時間の講演のレコードを聞かせるための会場として労働会館を見付けました。会場は招待された人々で満員になりました。人々はチリの美しい国花ユリカズラにシダの葉を添えて持ってきて,会場を飾ってくれました。場内のむっとするようなたばこの煙のにおいを消すため,ユーカリの葉をたいてもらったところ,良い香りを漂わせることができました。ある若い女性が場内の飾り付けを上から見ようと中二階へ上がって行って,『まあ,アトキンソンの香水のようだわ』と言いました。(チリで有名な英国製の香水。)私は笑いこけてしまいました。講演の後,出席者には小冊子と雑誌が渡されました。出席した人たちから,こんどいつこのような有益な話が聞けるのかと質問されました」。

別の熱心な開拓者

チリの津々浦々に真理の種をまくことに関するこの報告も,米国からチリに来た別の熱心な開拓者セオドール・ラグナのことを語らずしては完全とは言えません。ラグナ兄弟は1935年にワシントン特別区で開かれた大会に出席し,王国の良いたよりを南米に携えていくことを考慮してみるよう主の民に勧めるラザフォード兄弟の非常に励みの多い講演を聴きました。ラグナ兄弟は熱意に燃え,移り住む計画を立てました。そして,1936年にチリに到着すると,さっそくコンセプシオン市で伝道の業を始めました。数年間開拓奉仕を行なった後,ラグナ兄弟は結婚し,子供を育てながらチヤン市に住みました。そしてその地の会衆の霊的成長を助けました。

ものみの塔ギレアデ聖書学校の卒業生がやって来る以前の,伝道の業の初期には,これら自己犠牲的な開拓者たちが重要な役割を果たしました。アリカからプンタアレナスおよびチエラ・デル・フエゴに至るまで真理の種はたくさんまき散らされました。もっと大勢の「良いたより」の伝道者が人々のもとに行って真理の水をさらに注ぐまで休眠状態にはありましたが,真理の種はまかれており,花を咲かせてエホバの賛美となる時を待っていました。

最初の王国会館 ― 最初の大会

チリで最初の王国会館の建設が1944年に始まりました。ある姉妹がサンチアゴの土地を寄付し,兄弟たちがれんがとモルタルで作業を行ないました。建設はその年の8月に終わり,チリで初めて開かれた大会に間に合いました。

公開講演は「平和 ― それは続くか」と題するもので,250名が出席しました。四つの放送局がその講演を放送し,そのうちの二つは,大会後もその年の末まで協会の番組を放送しました。

宣教者および支部事務所

1945年になると,ギレアデで訓練を受けた宣教者たちが初めて到着しました。ジョセフ・フェラリー兄弟とアルバート・マン兄弟の二人です。当時チリには伝道者が65人しかいませんでした。

それより前,協会は大会の開催を取り決め,それに合わせて,ものみの塔協会の会長と副会長,すなわちN・H・ノアとF・W・フランズが初めて訪問することになっていました。1945年3月25日,340人の聴衆を前にして,「一つの世界,一つの政府」と題する講演が行なわれました。この大会で5名の人がバプテスマを受けました。

訪問中にノア兄弟は支部事務所を開設することを取り決め,支部の監督としてジョセフ・フェラリーが任命されました。チリにおける業はそれまでアルゼンチン支部の管轄下にあったのです。

さらに,ノア兄弟は,特別開拓者になるのはどうかとパルム姉妹に尋ねました。「はい,やってみます」とパルム姉妹は答えました。こうして,同姉妹はチリで最初の特別開拓者になりました。長年の間,王国の音信を携えて一つの場所から他の場所へと絶えず移動していた姉妹が,サンチアゴに落ち着いて家庭聖書研究の司会の仕方を学ぶことになったのです。「真理はあなたがたを自由にする」と題する本がスペイン語に訳されていて,それには,聖書研究の際に役立つ質問集が付いていました。

聖書研究の業

その後間もなく,パルム姉妹は,家庭聖書研究を取り決めようと思うので一緒に来ませんか,とある姉妹から誘われました。「私は震えてしまいました」とパルム姉妹は回顧します。想像できるでしょうか。知事その他要職にある人々と話したことのある姉妹が,関心を持つ人との家庭聖書研究を司会することを考えて震えたのです。

パルム姉妹は続いてこう語っています。「それで私たちは出掛けて行って訪問を行ない,書籍を配布して聖書研究を取り決めました。その後,子供たちは,若い母親と同じように研究に進んで応じました。父親だけが研究に加わろうとはしませんでした。こうして,私が初めて聖書研究を司会した人は真理に入り,子供たちも成長して,やはりエホバに献身しました。

「家庭聖書研究を司会することに恐れを感じなくなると,世話しきれないほど多くの研究が持てることに気付きました。でも,研究の司会には奉仕時間の半分だけを充てるようにという指示が与えられていました。私にとって聖書研究の司会は,様々な証言の業の中で一番楽しい活動です」。恐れは喜びに変わりました。エホバの前進する組織と共に進歩するとは正にこういうことなのです!

宣教者がさらに到着

1945年の末ごろ,さらに10名の宣教者が到着しました。その名前は次の通りです。ルイーズおよびフランシス・スタッブズ,ステラ・バートン,ステファニア・ペイン,エルサ・サトン,ジョンおよびルイーズ・バクスター,クレラ・ギザ,リディア・ウォルサー,ローラ・ビュンテイン。言語,仕来り,人々の習慣など,すべてはその人たちにとって新しいものでした。しかし,一生懸命努力すれば人々と意思を通じ合わせることができるということが分かりました。チリの人々は新しく来た人々が言語を覚えるのを辛抱強くまた親切に援助してくれました。

このグループの宣教者たちは,サンチアゴのリヨン通り3004番に最初の宣教者の家を開設する特権にあずかりました。その家の一部は支部事務所ともなっていました。元からの会衆は市の反対側にあったので,食堂と居室の部分を一緒にすることによって新しい会衆を組織することが決定されました。こうして,1946年に人口150万人の首都サンチアゴに2番目の会衆が設立されました。

最初の巡回監督

チリに最初にやって来た二人の宣教者のうちの一人アルバート・マン兄弟は1946年7月にチリで最初の巡回監督に任命されました。当時会衆はわずか九つで,チヤン,コンセプシオン,ランカグア,メリピヤ,イヤペル,サンチアゴといった所に合計93名の伝道者がいました。マン兄弟の信仰と専心の模範は,大人だけでなく真理にいる大勢の若い人々にとってすばらしい励ましとなってきました。

マン兄弟が巡回監督になった当時,小さな会衆では宿舎を提供されることがまれでした。それでホテルに泊まりました。バーや娯楽室が一晩中騒がしくて,眠れないことが時々ありました。各会衆に2週間滞在したので,組織のことを兄弟たちに教え,何よりも,「良いたより」の伝道者として野外奉仕の訓練を施す時間を十分にとることができました。

バルパライソでの宣教者の業

1946年11月,新たに9名の宣教者が到着しました。港湾都市バルパライソに宣教者の家が設けられ,チリで2番目に大きなこの都市で証言の業が始められました。バルパライソは,広い不凍結湾に沿って三日月形に連なる41の丘の上にあります。それぞれの丘へ行くには16のケーブルカーが使えますが,丘を登って人々と話すのは骨の折れる仕事でした。

バルパライソで真理に反応を示した最初の人々の中にアイダ・グズマンがいました。この女性は1948年に宣教者の家の居間で開かれた集会に出席しました。いすが足りないので文書を入れるカートンを部屋のあちこちに置き,それに木の板を渡してベンチを作っていたのをアイダは覚えています。

他方,宣教者たちは忙しく奉仕していました。後にホリス・スミスと結婚したエルサ・サトン姉妹は聖書を学びたいと願っている一人の青年を見いだしました。アルベルト・ムノスというその青年は母親から反対され,研究は公園で行なわれました。ムノス青年は自分が学んだことをすべて二人の妹と近所に住むセルヒオ・ゴンサレスに話しました。今度は妹たちがそれを母親に話して聞かせました。二人の娘が愛と粘り強さを示したことにより,母親はついに家族の聖書研究を願い出ました。息子と二人の娘は開拓奉仕を始め,後に娘たちすなわちグラシエラとエレナはギレアデ学校に入学するよう招待を受けました。近所に住んでいたセルヒオ・ゴンサレスも真理を受け入れ,チリの初期の特別開拓者の一人になりました。

宣教者たちによって始められたバルパライソでの業は長年にわたって確かに繁栄を見てきました。現在そこには九つの会衆があります。

首都での拡大は続く

1946年,ラリーおよびマーガレット・ライングとドロシア・スミスおよびドラ・ウォードの4人の宣教者がサンチアゴに任命されました。新しい宣教者のだれもが経験するように,新しい言語を学ぶ際の愉快な出来事が語られています。例えば,一人の宣教者はある日,肉の市場に行ってプルパつまり肉を1ポンド求めました。肉屋や店にいた他の人たちはおなかを抱えて笑いました。その宣教者はプルポつまりたこを1ポンドくださいと言ったからです。

1948年,11歳の少女が真理を見いだしました。グラディス・ラミレスというその少女は休暇開拓者として奉仕し,宣教者から受ける訓練を喜びました。グラディスは自分もいつの日か宣教者になりたいと考え,英語の勉強を始めました。およそ10年後,グラディスはその目的を達成することができ,ギレアデ学校に招待されて1958年に卒業しました。グラディスは現在でもバルパライソ市で正規開拓者としてエホバに忠実に奉仕しています。

ところで,愛するパルム姉妹はどうなったでしょう。彼女はサンチアゴの北部地域で特別開拓者として奉仕するよう任命されていました。兄弟たちの熱心な働きにより,1948年にはサンチアゴに三つ目の会衆が組織されました。一人の兄弟が自分のガレージを提供してくれました。そこを集会場所として使うため,ペンキを塗ったり修理をしたりしました。インデペンデンシア会衆は成長し,何度も分会しました。事実,サンチアゴのその地域には現在12の会衆があり,サンチアゴ全市では79の会衆があります。この会衆が組織されると,パルム姉妹は最初の会衆であるキンタノルマル会衆へ戻り,そこで奉仕しました。しかし,彼女によれば,新しい土地で業を始めたいという強い願いが依然としてあったということです。そのことは,パルム姉妹の次の話からも分かります。

「私は毎週月曜日に休暇をとって町から出掛けました。[休むためですか。そうではありません。] 田舎での証言が懐かしかったからです。バスで行ける所まで行き,サンチアゴ周辺全域の小さな果樹園や野菜を作っている農家で証言の業を行ない,夜遅く帰宅して,火曜日には再び町の区域で奉仕したり研究を司会したりしました。そのような月曜日には,持てるだけ持っていったたくさんの雑誌や書籍,小冊子を配布することができ,大抵は果物や野菜を書籍のかばんや予備の買い物袋に一杯詰めて帰りました。

「時にはひよこを持って帰ることもあり,トラウプ姉妹はとり小屋の鶏が増えるので喜びました。ある時,私は子ブタを持って帰りました。トラウプ姉妹はそれをたいへん喜びました。なぜでしょうか。1953年にはニューヨーク国際大会が開かれることが発表され,トラウプ兄弟はそれに出席したいと考えていたのです。それでその子ブタを大きく育てて売れば旅費の足しになるわけです。トラウプ姉妹は育てて売るためにめんどりのひなをたくさん買いました。

「数週間後のある朝早くトラウプ姉妹は心配げな様子で私の部屋にやって来ました。何があったのでしょう。大きくなったブロイラー種のめんどり数羽が死んでいたのです。病気です。それから二,三日というもの,トラウプ姉妹は毎朝やって来て,夜の間にさらに数羽が死んだことを告げました。ひなを新たに買って最初からやり直すにはニューヨークへ行く日が迫っていました。チリで一番古いエホバの証人である兄弟を大会に出席させるために何ができるでしょうか。トラウプ姉妹は言いました。『ノア兄弟に手紙を書いて事情を話してくださらないかしら』。私はそうしました。その結果,トラウプ兄弟は支部事務所に呼ばれ,旅費がどの位不足しているか尋ねられました。エホバはその旅行を可能にしてくださいました。トラウプ兄弟がチリに戻ってからお土産話を聞くのは本当に大きな喜びでした」。

裁判官が真理を学ぶ

その間にも業は拡大し,王国の音信はいよいよ多くの人々に伝えられていました。1946年,チリに来てわずか二,三か月しかたっていなかったジョン・バクスターはサンチアゴの上訴裁判所の所長ダニエル・ゴンサレス氏に会いました。研究が始まり,この人は集会に出席するようになりました。そして,チリ大学の法律学部やその他の学校などを大会会場として借りる上でたいへん尽力してくれました。

1953年,ゴンサレス判事は脳出血で倒れ,数週間ほとんど意識がありませんでした。ゴンサレス氏は司祭の見舞いなど一切受けたくない,エホバの証人だけに面会を許すようにと妻に厳しく言い渡しました。著名なホセ・マリア・カロ・ロドリゲス チリ枢機卿ですら面会を拒否されました。ゴンサレス判事が亡くなると,同夫人はエホバの証人に葬式の話を依頼しました。600人余りの人が参列し,その中には最高裁判所長官をはじめ,法務大臣や他の幾人もの閣僚および様々な国会議員がいました。それら高官たち数名が告別の話をした後,宣教者の一人が,「友人ゴンサレス判事の抱いていた希望」と題する話をしました。そのなかで,ゴンサレス判事が抱いていた復活というすばらしい希望を説明したのです。居並ぶ政府の高官たちに優れた証言がなされ,その多くは話の後,講演者と言葉を交わして内容に対する感謝を述べました。

支部の変化

1949年フェラリー兄弟は健康上の理由でもはや支部の監督を続けることができなくなり,コンセプシオンにおける業を援助するよう招かれました。アルバート・マン兄弟が支部事務所の責任者となり,10年間その立場で奉仕しました。マン兄弟は,支部事務所と宣教者の家にする新しい場所をサンチアゴ市のもっと中心部に探すようにと勧められました。サンチアゴの繁華な中心地から数ブロックの所にある,モネダ通り2390番地に土地が見付かりました。

奉仕者がさらに到着

1949年までにチリで奉仕する宣教者は25人になっていました。その働きの結果は,チリの伝道者が211人になっていたことからも明らかです。宣教者が初めて到着した1945年当時,伝道者は65人でしたから,それはすばらしい増加です。それでも,人口に対するエホバの証人の割合はまだ2万人に一人でした。これは援助が大いに必要とされていることを示していました。兄弟たちの思いにあった大きな疑問は,「ハルマゲドンはいつ来るか」ということではなく,「終わりが来る前に人々すべてにどのようにして『良いたより』を伝えるのだろうか」ということでした。

助けは与えられました。その年の末に,ギレアデの第13期生である20人の宣教者が新たに到着したのです。その人たちは組織にとって実にすばらしい助けとなりました。6人の兄弟,すなわちジョンおよびハリー・ウィリアムズ,チャールズ・コリー,レイモンド・タブス,ダニエル・デビッドソン,ボイド・コリンズはテムコ市で奉仕するよう任命されました。6人が赴いた時,テムコにはエホバの証人が一人もいませんでした。しかし1950年8月までには30人の王国宣明者からなる会衆ができていました。ハロルド・ジャクソン,ドウェイン・グレイバー,ロバート・ナイト,ジョージ・ウィルクスといった兄弟たちからなる2番目のグループは,バルパライソの険しい丘陵地帯に割り当てられました。

司祭は反対するが,影響力を失う

当時まだ,聖書はプロテスタントの本でカトリック教徒には禁じられていると一般に考えられていました。一人の宣教者はチリで初めて,友好的な主婦に聖書を配布しましたが,その後司祭がやって来て人々の面前でそれをずたずたに破ってしまいました。

「聖書<バイブル>」と言っただけで「うちは使徒創設のローマ・カトリックです」と言ってすぐにドアを閉める家が時々ありました。それで学校で教えられる宗教史(セイクリッドヒストリー)という言葉に響きの似た「聖書(セイクリッドスクリプチャーズ)」という言葉を使いました。そして家の人が強い関心を持っていることが分かると,それは聖書を意味する別の言葉であることを説明しました。

カトリック教会はコレムスという新しいミサの本をチリで広く配布していました。その中に,聖書はカトリックの本であり,忠実な人々すべてが読むべきものであるということを述べた短い一節がありました。ほとんどの人はそれに気付いていませんでした。それで,聖書に反感を抱いている人がいると,わたしたちはさっそく,「ところであなたはコレムスをお読みになりましたか」と尋ねました。人々は大抵,「ええもちろんです」と答えたものです。すると,「ではその21ページに書かれていることをご一緒に読みましょう」と言います。この方法で多くの人の目が開かれ,戸も開かれた状態になりました。

チリのローマ・カトリック教会はこれまで,エホバの証人の業に対し,他の土地において行なったような激しい迫害を実際に加えたことはありません。エホバの証人を非難するパンフレットや時には本まで発行し,拡声器の使われたこともありましたが,人々をけしかけて暴力を振るわせることはありませんでした。チリの人々は忍耐強く親切で,信教の自由を高く評価しているので,エホバの証人を激しく非難する人は,かえって人々から非難されました。司祭たちの振舞いを見て,司祭の語る事柄にほとんど敬意を払わない人もいます。このことは,「わたしはカトリックですが,司祭を信じてはいません」とか,「わたしはカトリックですが,自分なりに信仰を持っています」といった言葉をひんぱんに耳にすることからも分かります。そうした人々は喜んで聖書の話し合いに応じます。ただ,時間がないために全部の人と聖書研究を行なうことができない状態です。

コンセプシオン地域での発展

1946年にやって来た9人の宣教者のうちの5人は南のコンセプシオン市に任命されました。その5人とは,ロバートおよびボラ・ハナン,ドロシー・ブレマー,ウィリー・ブラウンおよびジョーン・ブラウンです。ジョーンは重い病気にかかって米国に帰り,1950年に亡くなりました。しかしその忠実さは,彼女に聖書研究を司会してもらった多くの人々の記憶にとどめられています。

業の先頭に立つ宣教者たちの大きな働きのお陰で,コンセプシオンの地域は発展しはじめました。1949年に,ボラ・ハナンはアルマンド・バディリャの家を訪問しました。アルマンドは「真理はあなた方を自由にする」と題する本を喜んで受け取りました。そして,聖書研究で学んでいる事柄を仕事仲間に話しました。間もなくハナン姉妹はさらに二つの研究を司会するようになりました。その数人の人々から後には7人の伝道者が生まれ,そのうちの3人は特別開拓者になりました。バディリャ兄弟は進歩して会衆の僕となり,現在では,コンセプシオンにある三つの会衆の一つで長老として奉仕しています。

宣教者の奉仕には多くの喜びもあれば問題もあります。ハナン姉妹は脾脱疽に感染し,後日高熱を出して倒れました。そのため,数年前にナチスドイツから亡命して来ていたあるドイツ人の婦人を再訪問することができませんでした。姉妹の容態をハナン兄弟から知らされたそのドイツ人の婦人は,自分が外国へ来て間もないころのことを思い出し,すぐハナン姉妹を見舞って,自分の掛かり付けの医者に往診を依頼することを申し出ました。その婦人のお陰で姉妹は市民病院の個室に2か月間入院し,主立った医師の一人の治療を受けることができました。しかも,費用は一銭も支払わずにすみました。その病気のためにハナン姉妹は耳が聞こえなくなりました。ですから,証言の業において新たな出発をしなければなりませんでした。ハナン姉妹は,その障害を克服する上で,チリの人々の辛抱強さと親切な気質がたいへん助けになったと感じています。

特別開拓者のセルヒオ・ゴンサレスはしばらくの間コンセプシオンで奉仕した後,コロネルという鉱山町で奉仕するように割り当てられました。そこには誠実な鉱夫たちがいて,福音教会の教えとエホバの証人のより正確な教えとの違いをすぐに認めました。ゴンサレス兄弟は,交替制で働いていたそれらの人たちに,非番のとき27㌔離れたコンセプシオンへ汽車で行って集会に出席するようにと勧めました。それらの人は苦労して家族を養っており,難しい状況下で働いていました。海底の数キロ下にある採掘現場まで降りて行って石炭を掘っていたのです。この世の物資にも事欠く状態だったにもかかわらず,彼らは王国の業のために多くの犠牲を払いました。1954年にコロネルの会衆が組織されたとき,そのような境遇の兄弟たち6人が乏しい収入の中から王国会館の家賃を払いました。しかもそれを喜んでしたのです。

将来の拡大の土台となった裁判

1952年までにチリには15の会衆ができていて,伝道者の合計は831人でした。活動が拡大していくので,セブンスデーアドベンティスト派が反対するようになりました。アドベンティスト派は「エル・アタラヤ」と題する雑誌を配布しており,エホバの証人は「ラ・アタラヤ」という雑誌を配布していました。それで,アドベンティスト派はエホバの証人の雑誌の名称が自分たちのそれと似ていることを問題にしました。彼らは,自分たちの雑誌の名称をすでにチリで登録してあるので,エホバの証人の雑誌の発行をやめさせる権利があると考えました。以下は,1952年2月7日付でN・H・ノア会長がアドベンティスト派の組織の一代表者にあてて送った手紙の一部です。

「ブルックリン,コロンビアハイツ124番の私をお訪ねくださった時に申し上げた通り,『ラ・アタラヤ』誌はスペイン語で発行され,ブルックリンで印刷され,全世界のスペイン語が話されるすべての国で配布されています。この雑誌は世界中のスペイン語を話す人々の間で,ものみの塔協会の出版物として知られてきました。皆さんの雑誌の名前は全く異なっています。貴誌『エル・アタラヤ』には『夜警』という意味がありますが,当方の雑誌『ラ・アタラヤ』には『ものみの塔』という意味があります。人間と石の建造物との間には確かに大きな相違があります。私はこの二つが混同されるとは思いません。二つのスペイン語が似ているのは当方の責任ではありませんし,両者は明らかに同じ意味ではありません。

「当協会にはスペイン語の雑誌の名称を変える気持ちはありません。これはアメリカで発行されている出版物であり,世界のどの場所にも郵送され,南アメリカの各地で配布され得る雑誌です。お話によりますと,皆さんはメキシコその他の国々では雑誌に別の名前を用いておられるとのことです。紛らわしいようでしたら,貴誌の名称を一つにし,全世界で統一なさってはいかがでしょうか。もちろん,私には貴誌の名称の変更を提案する権威はございません。皆さんは望む題名を選ぶ権利をお持ちですし,すでに,人間を指す『エル・アタラヤ』,つまり『夜警』という名称を選択しておられます。『ラ・アタラヤ』,すなわち『ものみの塔』は石の建造物です。スペイン語を話す人々がこの二つを混同することがないのは明らかです。さらに,雑誌の体裁も全く異なっています。私は,スペイン語を話す人々が,二つの雑誌名の違いを見分けるだけの知性を持っていると信じております」。

このような説得がなされたにもかかわらず,アドベンティスト派は問題をチリの法廷に持ち込みました。1953年3月10日に第一審裁判所が下した判決によれば,裁判官たちは名称の違い以外にも大きな相違を認めたことが明らかになりました。「エホバの王国を告げ知らせる」という副題はものみの塔聖書冊子協会の雑誌を他と区別するものであると判断されたのです。それで同法廷は,詐欺行為が行なわれてアドベンティスト派の諸権利が侵害されたとは言えないとの判決を下しました。アドベンティストはその事件を上訴しましたが,上訴裁判所は,その件を再び調査し,エホバの証人の「ラ・アタラヤ」誌の方がアドベンティスト派の雑誌よりもはるか以前に発刊されたとして,第一審裁判所の判決を支持しました。エホバの証人は最も重要な聖書研究の手引に関し明らかに勝利を収めました。

喜ばしい拡大

1953年の末,ノア兄弟が地域大会に出席のためチリを訪れました。同兄弟はまた,1951年に借りて支部事務所および宣教者の家として使用していたモネダ通り1710番の土地と建物を購入する手はずを整えました。さらに,もっと遠い地方へ宣教者を派遣する取決めも設けました。それらの地方で伝道活動を開始するためです。さらに多くの地元の兄弟たちも地方の都市へ出掛けて行く特権にあずかれるよう,特別開拓者の業が大いに強調されました。

パルム姉妹は郡部へ移るようにとの要請を受け,サンアントニオに任命されました。夏ともなると砂浜やホテルが行楽客でにぎわう海沿いのそのすばらしい区域では雑誌がたくさん配布できました。二人の開拓者,オルガ・チフェレとグラディス・ラミレスの助けを得て,1956年にサンアントニオに会衆が組織されました。サンアントニオは港町であったうえ,支部には数か国語の文書が幾カートンもあったので,そのうちのどれかの言語が読める船員の乗っている船を見付けてはどうかという問い合わせがパルム姉妹に届きました。パルム姉妹は港湾当局から許可証をもらい,1959年の末まで普通とは違うこの証言の業を行ないました。

伝道者の数が念願の1,000人に達したという発表が1954年になされた時,国中の伝道者は皆とても喜びました。最高数である1,018名の人が野外奉仕に参加したのです。

ついに南アメリカの先端へ

マゼラン海峡に面した,当時人口が約4万人のプンタアレナスへ宣教者が6名初めて派遣されたのは1956年のことでした。最初のグループに加わったステラ・セムジンジン姉妹は次のように語っています。「私たちは1956年6月に到着しました。洪水があったばかりの時で,冷たく雨の多い天候でした。私たちは真理に関心を示す人をたくさん見いだし,1か月に書籍を60冊から70冊配布しました。ほとんどの人は聖書を一度も目にしたことさえありませんでした。聖書を読むことは司祭たちから禁じられていたためです。

「五つの部屋と集会用の別の一つの部屋のある小さな家を本拠にして活動を開始しました。1957年3月,初めて7人の伝道者を報告しました。1年余り後には15名からなる群れが私たちと共に奉仕していました。そしてその年の10月には,集会場としてもっと大きな部屋のあるそれまでよりも大きな宣教者の家が必要になりました。やがてその部屋も手狭になり,私たちの部屋三つを会館として使いました。しかし,1967年に会衆は別の王国会館を借りました。これまでの拡大はすばらしいものでした」。全くすばらしい拡大でした。現在そこには二つの活発な会衆があり,200名を超す伝道者が交わっています。二つの会衆は一つの大きな王国会館を共有しています。

南アメリカの南端にある別の町はプエルトナタレスです。プエルトナタレスは,「ウルティマ エスペランサ」つまり最後の希望と呼ばれる地域の中心都市です。この地域には羊の大放牧場があり,町には,アルゼンチンとの国境にある炭鉱で働く労働者が住んでいます。この地方には絶えず強い風が吹き渡っています。木の高さが1㍍以上になることはめったにありません。9月から3月にかけての夏の間は秒速27㍍の風が吹くので,これらの木は斜めに生えています。恐ろしいほどせきばくとした所ともなるこの土地では,草木も地面に身をすくませています。

しかし王国伝道者たちは風で身をかがめながら伝道を続けました。何年もの間,宣教者や特別開拓者がある期間その地方に派遣され,会衆を強めました。パルム姉妹は1940年代の初期にこの地で最初の真理の種をまきました。エホバと多くの兄弟たちの熱心な業のお陰で,現在ここには会衆があり,会衆の成員の中には開拓者もいます。

カラマで宣教者と共に

1957年に,ダフニ・クラム,オルガ・ロドリゲス,ルイーズおよびフランシス・スタッブズはチリの北部へ任命されました。4人が到着した当時,カラマ市にはエホバの証人が一人もいませんでしたが,宣教者の家で開いた最初の集会に100名もの人が出席しました。

ルイーズ・スタッブズがカラマで奉仕をしていた時,「ものみの塔」誌の予約者であったガリャルド教授が,開校されて間もない学校で宗教の時間に生徒を教えてくれるよう姉妹に依頼しました。そしてこう言いました,「あなたの持っておられる本を用いていただいて結構ですし,ご都合のよいように授業を進めていただいてかまいません。聖書のことを生徒に教えてほしいのです」。スタッブズ姉妹はまず「すべての良い業に備える」と題する本で授業を始め,後に「失楽園から復楽園まで」という本を用いました。やがて町のカトリックの司祭がその授業を受け持つことを申し出ましたが,ガリャルド教授はその司祭に,学校側はカトリックの宗教ではなく聖書について教えてもらうことを望んでおり,それができるのはエホバの証人だけであると告げました。スタッブズ姉妹は2年間教え,次いでダフニ・クラムが1年間教えました。こうして,その地方ですばらしい証言がなされました。これは,伝道の業がカラマでしっかりした足掛かりを得るのに役立った方法の一つでした。

オルガ・ロドリゲス姉妹は,この4人の宣教者の一人でしたが,彼女が宣教者の精神を植え込まれた経緯は興味深いものです。オルガの母親アナ・ロドリゲス姉妹は次のように語っています。「私が娘にしてやれた一番のことは宣教者の精神を娘に培わせたことです。娘はバプテスマを受けてから1年間伝道者として奉仕した後,正規開拓奉仕を始めました。私は娘に規律正しく,辛抱強く奉仕することを勧め,雨のときや暑いとき,少しぐらい調子が悪いときでも奉仕に出掛けるように励ましました。エホバへの奉仕が生活の中で最も重要であることを認識させるように努めました。

「その後,娘は特別開拓者の業を行なうよう招かれました。それは,私たち親子が離れ離れになることを意味します。多くの人は,家にとどまって年老いた母親の世話をする責任があると言って,オルガの気をくじこうとしました。エホバの証人の中にさえそのように言う人がいました。しかし,私は娘にこう言いました。『あなたは一人っ子かしら。わたしにはあなたと同じ責任を持つ子供がほかに5人いるのではないかしら。米国やカナダやヨーロッパから来てくださっている宣教者の方々のお母さんたちのことを考えてごらんなさい』。このような会話がなされ,娘はたいへん励まされて,特別開拓者になっただけでなく,ギレアデを卒業し,私にとって喜びと幸福の源となってくれました」。

カラマとその近郊に住む人々は,アイキナの聖母の崇拝を非常に熱心に行なっていました。カトリック教会はその聖母を祭る寺院をカラマから約96㌔離れた砂漠に建てました。人々は聖母に敬意を表するためにそこへ出掛けます。最も大切な祭日には,これを祝うため特別な踊りが行なわれます。幾人かの踊り手からなるグループにはそれぞれキャプテンがいて,キャプテンは自分のグループが上手に踊れるだけでなく,ほかの踊り手たちよりも長く,何時間も続けて踊れるように訓練します。音楽は単調なメロディーで,管楽器で演奏され,太鼓の音が入ります。各グループは怪奇な祭りの仮面をつけ,中国やスペインの衣装,インディオやボリビア人の衣装など,思い思いの衣装をつけます。

その特別な日になると,信者は聖母をたたえ,聖母の衣にピンでお金をとめて誓いを立てます。その間にも踊り手たちは絶え間なく踊り続け,各グループは他のグループよりも長く踊り続けようとします。聖母の衣がお金で覆われると,新しい衣が着せられます。お金は袋に集められ,司教がそれを車で持ち去ります。エホバの証人の中には,かつてアイキナの聖母の信者であった人が少なくありません。その人たちは今では,人間の作った像ではなく,生けるまことの神に敬意と崇拝をささげています。

鉱山町でくじけることなく奉仕した姉妹

1957年エベリン・マックファーレイン姉妹は,ペドロデバルディビアという鉱山町で業を始める特権にあずかりました。そこに着いてみると,貸家はおろか貸間さえ見付けることができませんでした。マックファーレイン姉妹はがっかりして立ち去るどころか,別の都市で知り合い,今はこの町に住んでいる婦人と連絡を取りました。その婦人は真理に関心を持ってはいませんでしたが,その家の床の上で寝るのを許してくれました。マックファーレイン姉妹はまた,やはり真理に関心を持っていない別の婦人の家で食事を作らせてもらいました。

マックファーレイン姉妹は最初の月に一つの通りで10件の聖書研究を始めました。その後,一人の研究生の家で「ものみの塔」研究を始めるために,それら研究生たちを集めました。後には,関心を示す人たち数人の援助を得て,集会場として労働組合の会館を借りることに成功しました。その結果,間もなくすべての集会が開かれるようになり,新しい人々がエホバとその目的に関する知識を深めてゆきました。

マックファーレイン姉妹は次のように書いています。「5月に伝道を始め,その年の12月25日には25名の人を自分と一緒に伝道活動に加わらせることができたのですから,わたしの喜びがどんなだったか想像していただけると思います」。その後間もなく,鉱山会社が建築資材と土地を提供してくれたので,王国会館を建てることができました。

責任を担った兄弟たち

王国の関心事がチリにおいて発展する上で注目すべき役割を果たすことになる人々がこの時期に真理に入りました。その一部を挙げれば,カルロス・ヌネス,オスバルド・ベリョ,ウィリー・ラミレス,ルシオ・リオス,マニュエル・ウォングです。これらの兄弟たちおよびアーネスト・オーツ,セルヒオ・ゴンサレスといった兄弟たちは実際,チリの津々浦々で知られるようになりました。

1959年に,ギレアデの卒業生であるフレッド・ウィルソン兄弟が,アルバート・マン兄弟に代わって支部の監督になり,アルバート・マン兄弟は旅行する監督として引き続き兄弟たちに仕えることになりました。ウィルソン兄弟は原子物理学者として有望な道を歩むのをやめてエホバに献身し,開拓奉仕に入った兄弟です。ウィルソン兄弟が支部の監督になった当時,チリには56の会衆があり,伝道者は1,879人の最高数を記録していました。

大地震がチリを揺すぶる

1960年は四つの大地震が起きた年として,チリの人々の間ではいつまでも記憶に残ることでしょう。地面が数分の間,立っていられないほど激しく揺れたときの恐ろしい力を,生き残った人たちは忘れないでしょう。それに加え,エホバの証人は,災害に直面して兄弟たちが示したすばらしい愛と一致を忘れないでしょう。

地震後二,三日もしないうちに,世界の各地から見舞いや援助の申し出が電信,電報,手紙によって支部事務所に届き始めました。ニューヨークのものみの塔協会,チリの諸会衆および他の国々の個人から多額のお金も送られました。さらに,ブルックリンから1㌧余りの衣類が届き,困っている人々に配られました。震災に遭った500人の兄弟たちに,救援物資が公平に分配される取決めが設けられました。

支部の監督フレッド・ウィルソンは,地震に襲われた大都市を視察し,次のように報告しました。「最初に訪問したのはコンセプシオンです。最も被害がひどかったのは,ブロックやアドービレンガ造りの建物でした。木造家屋の多くにはブロックの防火壁がありましたが,ほとんどの場合,その防火壁は家の上に崩れ落ちて木の壁を押しつぶし,家の中にいた人は死亡しました。エホバの証人と交わっていた人で亡くなったのは,聖書を研究中の年配の婦人だけでした。中風であったその婦人は,数分間続いた2度目の地震のすさまじいショックで心臓麻ひを起こしたのです。

「翌日,私は飛行機に1時間乗って,南のバルディビアへ行きました。そこでは地震と非常に大きな津波のために町の50%が破壊されていました。まるで巨大な手にぶっつけられてぺしゃんこにされたように,街区<ブロック>全体がおびただしいがれきと化した所が幾つもありました」。

当時バルディビアで奉仕していた宣教者の一人エステル・パーキンズはこう伝えています。「激しい震動を感じたとき,私たちはちょうど『ものみの塔』研究に出掛ける支度をしているところでした。さらに15分して,一連の長い地震が町を揺すぶり始め,家々は一組のトランプのように倒れ出しました。私たちが住んでいた通りには25軒の家がありましたが,4軒を除いて残りは倒壊するか人の住めない状態になりました。

「私たちが聖書研究をしていた人のご主人は,二人の幼い娘をボート乗りに連れて行き,大地震が起こって津波が来る直前には自分のボートに乗っていました。ボートは津波のてっぺんに乗ったまま川をどんどんさかのぼりました。そのご主人はすぐに娘たちをボートの底に押しつけ,ボートを岸まで導こうとしました。幸いボートは岸に打ち上げられました。ご主人は直ちに子供たちを救い出して高台へ走りました。その時亡くなってその様子を話すことのできない人が大勢いる中で,そのご主人はたいへん恵まれた人でした。会衆の伝道者26名のうち亡くなった人は一人もいませんでした。そのことを全員がエホバに感謝しました」。

エステル・パーキンズとロレーン・セレスキーの二人の宣教者は,望むなら被災地を去ってサンチアゴへ行く機会がありました。しかし二人はそこにとどまって,関心のある人々や兄弟たちをその一番困っているときに助けたいと考えました。二人は二日間街路で寝起きし,その後宣教者の家の持ち主のガレージへ移りました。その間毎日200回から300回もの余震があり,気を緩めることができませんでした。

恐ろしい毎日を送っている間にも,姉妹たちは自分の研究生を捜そうとしました。しかし,尋ねて行ってみると,家が跡形もなくなっていたり,がれきの山と化していたり,あるいは家はあっても人がいなかったりしました。いろいろな人が宣教者の姉妹たちを捜して話し掛け,たくさんの質問をしたのでよい証言がなされました。宣教者の家の持ち主は姉妹たちにこう言いました。「妻もわたしもこの恐ろしい期間にあなた方が家を借りていてくださったことを本当に有り難く思いました。冷静で取り乱さなかったのはあなた方だけだったと思います。それがわたしたちにはたいへん助けになりました」。

1960年5月22日,日曜日,プエルトモント市の午後は静かで平穏でした。人々はコンセプシオンでの恐ろしい地震と多数の死者が出たことをまだ語り合っていました。プエルトモントでそのようなことはかつて一度も起きたことがありませんでした。しかし,ここではそうしたことが起こり得ないと考えていたのはたいへんな間違いでした。まず3時2分前の強い揺れで,その間違っていることが証明されました。次いで15分後に再び激しく揺れ始め,この度は立っていることさえできませんでした。家が目の前で崩れました。

4人の若い宣教者たちは目の前で家の壁が街路の方へ倒れるという恐ろしい経験をしました。続く混乱で宣教者の一人エレナ・ムノス姉妹の足にレンガが幾つか落ちました。ムノス姉妹はそれと気付きませんでしたが,足の骨が何箇所か折れていました。30分たたないうちに会衆の兄弟たちが到着し,直ちに姉妹たちに必要な援助を差し伸べて自分たちの家に連れて行きました。他方,人々は,長い夜の間じゅう余震が続く中を周囲の丘へ逃げました。

法人が組織される

1960年にチリの協会を法人化するための努力が払われました。チリの諸事情を考えると,王国会館の建設用地を購入するにはそうするのが賢明でした。1960年9月29日,法務大臣は「ラ・コムニダド・レリヒオサ・テスティゴス・デ・ヘオバ」(エホバの証人の宗教団体)という名の法人団体を組織することを許可しました。これにより,協会は税金が免除されるほか,チリで認可されている宗教団体すべてに認められている他の恩典にも浴せるようになります。

1960年の主の記念式の出席者は,5,995人という目覚ましい数に達しました。宣教者が初めて到着したほんの15年前には主の記念式の出席者が103名に過ぎなかったことを考えると,それ以来実にすばらしい増加が見られたことになります。

チロエ島

1963年,特別開拓者はまず,チリ南部の沖合いにあるチロエ島へ派遣されました。読者は,1940年代初期にパルム姉妹がチロエを訪れたことを思い出されるでしょう。今や,徹底的な証言のなされる時が訪れたのです。その時までにバニー・バレンスエラという名前でチリの人々によく知られるようになっていたエベリン・マックファーレイン姉妹とその夫はチロエ島で特別開拓者として働く特権を得ました。二人は住む場所を一生懸命探しましたが見つかりませんでした。それで,業を成し遂げるには,小さな家を建てなければならないと考えました。わずかなお金しかなかったので,二人は家を建てるのに必要な最低限の物しか買いませんでした。それで,しばらくの間二人の家には電気も水道も,また窓さえありませんでした。しかし二人には住んで体を温める場所,とりわけ,開拓奉仕を始めることのできる場所がありました。

その区域では偏見や迷信また心霊術に出くわすことが少なくありませんでした。人々はカトリック教会の支配下に置かれていました。しかし,増加が見られるようになり,最初の年には6名の人が二人と一緒に野外奉仕に参加しました。兄弟たちの孤立した群れが組織されました。その時以来,この美しい島ではアンクード,カストロ,リナオに会衆が組織されてきました。

大会は発展を促す

チリのエホバの民は1965年までに目覚ましい増加を遂げていました。記念式の出席者は9,522人に急増し,21名が表象物にあずかりました。伝道者はすばらしく増加して,3,758名という最高数に達していましたが,なすべき膨大な業があることは明らかでした。なぜなら,89の会衆の王国宣明者たちは3,917件の聖書研究を司会していたからです。

1967年1月にチリで最初の国際大会がサンチアゴで開かれることになりました。この「神の自由の子たち」国際大会には,米国,カナダ,中央アメリカおよびヨーロッパから300名の旅行者が出席し,チリの兄弟たちはそれらの兄弟たちを空港で熱烈に出迎え,民族衣装を着けた歌い手や踊り手が芸をひろうして歓迎しました。

大会会場は完成したばかりの室内競輪場でした。大会の二,三週間前には,その建物はまだ完成していませんでした。それで兄弟たちは,五日間にわたる大会の開会日である1967年1月7日,日曜日までに準備が万端整うように,大掛かりな清掃作業をしなければなりませんでした。441人がバプテスマを受けましたが,チリにおける業のそれまでの歴史で1年間にそれほど大勢の人がバプテスマを受けたのはその時が初めてでした。

大会で聖書の「新世界訳」のスペイン語版が発表され,兄弟たちは大いに喜びました。監督の一人は次のように書いています。「このようなすばらしい助けを備えてくださったことに対して,エホバとエホバの組織に感謝しています。新しい聖書と優れた索引および聖句を説明した付録その他を使用できるのは実に大きな喜びです。兄弟たち,本当にありがとうございます」。これほど心から深い感謝をもって迎えられた出版物はいまだかつてありません。

以来1980年の末までに,チリの支部事務所はこの聖書を35万冊発送しました。これは,チリの兄弟たちがこの聖書を熱心に用い,それを読んで研究したいと望む人々を大勢見いだしていることの紛れもない証拠です。

この大切な大会は,チリにおける王国の関心事の拡大の新時代を画したと思われます。例えば,1968年には5,805名の伝道者が合計103万4,871時間を野外奉仕にささげました。加えて,主の記念式には,伝道者数のほぼ3倍に当たる1万5,405名が出席しました。また,会衆の数は103となり,巡回区は七つありました。活発な活動の行なわれた優れた1年であったと言えます。

1968年には,「とこしえの命に導く真理」と題する書籍が「すべての国の民に対する福音」地域大会で発表されました。全国の5か所で開かれた地域大会の出席者1万1,369人は業を開始し,発表の時から1980奉仕年度が終わるまでに,チリの兄弟たちはその本を67万冊以上も配布してきました。この本を支部事務所に在庫として残しておくことはほとんど不可能です。

新しい支部事務所の建物

1968年はさらに別の点でも顕著な年となりました。パンアメリカンハイウェイの建設のため,支部事務所の敷地を買い上げるという政府からの通達が協会に届きました。1968年12月,ノア兄弟はサンチアゴを訪問し,支部の建物を新たに建設する別の土地を選びました。そそり立つアンデス山脈の近くの静かな住宅地に良い土地が見付かりました。その後特別集会が開かれました。チリ全国にそのことが知らされ,4,083名がサンチアゴに集まってノア兄弟の話を聞きました。その話の中で,ノア兄弟は支部事務所を新たに建設する計画があることを発表し,兄弟たちは心からの熱意をもってそのニュースを迎えました。

1969年の初め,支部の監督フレッド・ウィルソン兄弟がブラジルへ移り,そこの支部の監督として奉仕するという知らせがありました。ウィルソン兄弟姉妹はチリで20年間宣教者として奉仕し,同国の兄弟たちから深く愛されていました。それで二人に別れを告げるため地元の兄弟が幾百人も空港へ見送りに行きましたが,その日はその兄弟たちにとって悲しい日でした。ギレアデ卒業生であるアルゼンチン出身のペドロ・ロバトが新しい支部の監督に任命されました。

新しい支部の建設は1969年8月に始まりました。工事の大部分を兄弟たちが行ない,外部の人をほとんど頼まずに済んだことを協会は喜びました。全部で35名の兄弟が建設に携わりました。それに加えて,工事の進展を図るため時間や技術を提供できることがサンチアゴの諸会衆に知らされ,兄弟たちはその要請に立派にこたえ応じました。一例として,ラシステルナ会衆は貸し切りバスで兄弟たちを工事現場へ運び,姉妹たちは屋外炊事場を設けて,兄弟たちが良い食事を取って一日中仕事ができるようにしました。自発奉仕者は建設のために延べ3,124時間をささげました。

新しい支部は街路から11㍍奥に入った所に建てられ,2階建ての白い建物で,広い入口には板石が敷かれ,その両側には広々とした芝生があります。建物の正面の一部は緑色のタイルで化粧張りがなされています。それが白いセメントのまばゆいほどの輝きを和らげています。主要な通路は黒の大理石で縁どられ,それが,アルミニウムのわくの付いたガラスのドアと鋭く,かつ好ましい対照をなしています。

この建物の献堂式は1970年11月21日に行なわれ,255名が出席しました。その話の中で,支部の監督ペドロ・ロバト兄弟は,建物そのものが重要なのではなく,むしろエホバの目に価値があるのは,人々がどのような仕方でこの建物を用いるかということであると述べました。その建物には,16人分の宿舎のほか,広々とした美しい王国会館,事務所や発送部門のための十分なスペースがあります。

バルパライソに寄港する船

1960年の初めに,パルム姉妹は港町サンアントニオから,主要な海港都市バルパライソへ移りました。パルム姉妹は午前中船の上で証言し,午後には群れの人たちと一緒に家から家の業を行ない,聖書研究を司会しました。姉妹はこう語っています。

「私は協会から外国語の文書を数カートン受け取っていました。その中には英語の聖書がありました。それをどのように配布できるだろうかと思案していました。すると,アフリカの船がガーナからやって来ました。その乗組員は全員がガーナ人でした。そしてどの乗組員も英語の聖書をたいへん欲しがっていました。母国語のエウェ語やガ語のほか全員が英語を話しました。それで私は3回も家に戻り,英語の聖書30冊余りを船まで運ぶのに若い姉妹に手伝ってもらわねばならない有様でした。さらに,一等航海士に『ものみの塔』誌と『目ざめよ!』誌の予約を提供しました。私にとっても,その人たちにとってもすばらしい祝福でした」。

チリの各地で開拓奉仕をして35年後,パルム姉妹は1936年に初めてチリに向かう時に乗った船の二等航海士だった人に会いました。その人は独立して船主になっていました。そして,最近パルム姉妹のことを考えていたところだったのでパルム姉妹に会えてうれしい,と言いました。一体どうしてでしょうか。パルム姉妹の話によれば次の通りです。「その人の船はプエルトモント地区を航海しているようです。その人は船長として信頼できる人物を探していました。ひとりの人物が見付かりました。どのようにその人を推薦できるか尋ねたところ,『この人はエホバの証人です』という答えが返ってきました。それ以上良い推薦の言葉はありません,とその船主は言いました。そしてさらにこう続けました。『ケイさん,チリにおけるこれまでの長年のものみの塔の業において,たとえほかに何の成果がなかったとしても,少なくともわたしはこの立派な人物を見付けることができました。この人はエホバの証人で,信頼できる人物ですからね』」。この言葉を聞いたときの姉妹の感激をご想像いただけるでしょう。パルム姉妹の心はエホバへの深い感謝の念で一杯になりました。

パルム姉妹の精力的な宣教の感動的な物語は続きます。姉妹は現在79歳ですが神権的な活動に熱心に携わっています。バルパライソの丘で転んで片足が不自由になっていますが,それでも1980年度の毎月の奉仕状況は平均して,時間132時間,雑誌168冊,再訪問56件,研究5.6件,書籍24冊でした。パルム姉妹のその堅い信仰と献身的な態度および驚くべき活力は,パルム姉妹を知って愛している人々すべての励ましの源となってきました。最初の宣教者たちにとって,事情が許す限りチリにとどまり,初期のころの伝道者と共に奉仕してエホバの豊かな祝福によるすばらしい発展を目撃できたことはこの上ない特権でした。

マルクス主義の政府が政権を執る

1970年は,主の記念式に1万9,850人が出席し,優れた出発をしました。また,4月には7,422名という伝道者の最高数に達しました。これはわずか5年前の伝道者数の2倍に当たります。

1970年9月,幾つかの政党の連合したウニダド・ポプラールが選挙に勝ち,キリスト教民主党は政権の座を追われました。マルクス主義の新政府は,「チリ人民のためのチリを」という愛国主義的なスローガンを掲げ,外国の資本家によって管理されていた大きな銅山を完全に国営化しました。また地主からは大農場を接収して貧しい人々に与えました。貧しい人の中には,待ち切れず,農場から地主を力づくで追い出し,そこを占拠した者もいます。また,都市部では,多くの空き地が不法に占拠されました。人々は空き地にただチリの国旗を掲げて小さな家を建てたのです。

当然のことながら,裕福な階級の人々は,マルクス主義政権に激しく反対し,チリを去った人が大勢いましたし,その準備をしている人もいました。変化に反対する動きが激しさを増し,それは暴力と流血を招きました。

諸団体は政治の分野で両極へ分かれていきましたが,エホバの民は中立の立場を取り続けました。怒りが今にも爆発しそうなところまで募っていき,かつてはのどかなこの国に憎しみと恐れが見られるようになりました。しかし,その不穏な時期に,人々を王国へ導く業は引き続き勢いを増していきました。例えば,翌年には,主の記念式の出席者は2万2,918名という最高数に達し,伝道者は13%増加して,平均7,810人になりました。

インディオのアラウカノ族

その伝道者の中には,アラウカノ族のインディオでバプテスマを受けて間もない人々も含まれていました。アラウカノ族は,スペイン人の征服者が出合った中で一番勇猛果敢な闘士だったと思われます。スペインの歴史家によると,アラウカノ族の征服には,南米の残りの部分を征服するよりも多くの時間と血と資金を要したということです。スペイン人は2世紀にわたる絶えざる戦いの末にやっと,アラウカノ族のしゅう長や戦士を支配下に置くことができました。征服に使われた武器はライフルやピストルなどではなく,白人の種々の悪徳でした。それらがインディオを非常に堕落させ,完全に意気を阻喪させて戦う意欲を失わせたのです。

アラウカノ族は今日でも多数,政府が指定した保護地区で独自の社会的規範に従って生活しています。アラウカノ族は見たところエスキモーに大変よく似ていますが,その起源は今もって明確にされていません。この種族には独自の文字がなく,したがってその宗教信条はそれほど明確ではありません。一般に魂の不滅と生まれ変わりを信じています。興味深いことに,アラウカノ族の間には,世界的な洪水が起きてごくわずかな人が生き残ったという伝説があります。

聖書の規準と調和して生きるために生活を調節し,エホバに献身した人はアラウカノ族の中に大勢います。それらの人はテムコ会衆と交わっています。血肉を持つ人間との戦いにおいてではなく,王国の良いたよりを宣明してこの世の神サタンおよび悪霊の勢力と戦うことにおいて,それら新しい兄弟姉妹がその父祖たちと同様の精神力と勇気を示すよう,心から望んでいます。

不安な政情の中で王国を宣べ伝える

マルクス主義政権の成立とそれに続く幾つかの出来事はいわば地震を引き起こし,多くの人々を揺すぶりました。それによって,サンチアゴのバリオアルトすなわち高級地区に住む人々のそれまでの固い態度が和らぎました。経済的に貧困状態にあった人の多くはサルバドル・アジェンデが自分たちの抱える問題を解決してくれることを期待していましたが,社会経済面でてんびんのもう一方の側にいる多くの誠実な人々は自分たちの将来がどうなるのだろうかといぶかるようになっていました。それらの人は長年の間労し,犠牲を払ってきましたが,今やすべてが脅かされていました。将来を安全なものとするために物質的な持ち物よりも優れたものが何かあるでしょうか。「良いたより」の精力的な伝道者たちは満足のゆく答えを与えました。

バリオアルトにおける増加の例を挙げるなら,1971年9月にサンチアゴのその区域には六つの会衆があり,その月に奉仕報告をした伝道者は324名でした。ところが現在では11の会衆があり,最近990名もの伝道者が報告されました。これは実に206%の増加です。

言葉による非難や政治的暴力行為が日常茶飯事になっていっただけでなく,食糧を求めて人々が長い列を作ることも普通になりました。家族のためにパンやその他の食糧を買うため,主婦が1日平均3時間,ひどいときには6時間も費やさねばならないことは珍しくありませんでした。そのように時間の奪われる状況に姉妹たちはどう対処したでしょうか。

ある姉妹たちは,自分が読んだり,非公式の証言に用いたりできるよう,文書を持っていくことを習慣にしました。1区画も続く長い列で,一人の婦人が多くの時間の奪われることを嘆いていました。そばにいた姉妹は,人間は自らの問題を解決できないことを話して王国の希望の音信を伝えました。その婦人は関心を示したので,姉妹はその人の家を訪問する約束をし,やがて研究が始まりました。現在その人は活発な伝道者で,娘は正規開拓者です。

伝道活動をしていることでよく知られていて,その振舞いゆえに尊敬されていた多くの姉妹たちは,毎日列に並ばずに済みました。親切な店の主人がいつどんな品物が入るかを教えてくれたからです。熱心な姉妹たちがこのような状況を利用して王国の証言をした心温まる経験はたくさんあります。

1973年は,330%に達する天井知らずのインフレ,生活を麻ひさせるストライキ,食糧不足,暴力行為をもたらしました。社会主義者の候補が大統領に選ばれる以前にはチリのエホバの証人の増加は極めて目覚ましく,20%,16%,あるいは17%といった増加を見ていました。選挙後,増加は,13%,9%,6%と次第に停滞するようになりました。しかし,前述のようにその期間にバリオアルトでは増加が見られました。

一方,謙遜な人々の中には,熱狂的なウニダド・ポプラールに魅惑され,神の王国から人間の努力へ注意をそらされた人が少なくありませんでした。宗教指導者の多くはそうするよう人々を励ますことさえしました。例えば,1971年4月に,80人の司祭は「社会主義建設にカトリック教徒が参加する」ことに賛成する立場を表明しました。チリの宗教指導者たちは新政府の政策を支持しました。そのうちの一人は次のように言いました。「我々が望んでいる王国がここに形を取り始めている。その柱の一つは公正である」。聖書のイザヤ書の預言までが新しい政治体制に適用されました。しかし,彼らの夢は実現するでしょうか。

突然の変化

その答えは1973年9月11日に与えられました。その日,軍部がマルクス主義政権を倒したのです。私たちのほぼ全員はそれまで戦闘地帯にいたことが一度もなかったので,革命は驚くべき経験でした。その日の早朝,兄弟たちの多くは何の疑いも持たずに出勤していました。支部のほぼ真上に数機のヘリコプターが飛んで来た時,ベテルの家族は忙しく働き,宣教者たちは野外へ出掛ける支度をしていました。私たちは空を見上げて驚きました。ヘリコプターのドアが開いて,いつでも撃てるように機関銃が構えられているではありませんか。「これは何事だろう」とだれかが言いました。それでラジオをつけると,数年間にわたるチリ国民の間の憎しみと戦いを終わらせるため軍部が政権を執ったという発表が流れてきました。すべての人は家にいて街路に出ないようにと警告されました。市の中心部およびサンチアゴ周辺にある,貧民居住地区で激しい戦闘がありました。当然のことながら,支部に住んでいた宣教者たちは事態が収まるまで一時的にベテル奉仕者になりました。朝早くそれぞれの工場に出掛けていた兄弟たちはどうしたでしょうか。

何人かの兄弟は逮捕され,左翼分子の疑いのあるグループと一緒にサンチアゴの国立競技場へ連行されて尋問を受けました。エホバの証人であることを証明するのは保護となりました。エホバの証人は最初に釈放される人々に加えられたからです。

軍部が政権を執る前,過激分子が思い切った行動に出る計画を立てていた形跡があります。彼らが排除しようとしていた人々の中にはエホバの証人も含まれていました。もしそれが事実であれば,すばらしい仕方で保護が与えられたことをエホバに感謝せずにはいられません。

クーデター後の緊張した幾日かの間,広く知られているエホバの証人の中立の立場は祝福および保護となりました。工場や会社では,左翼の活動家が検挙されて大切な職に空席ができると,そこで働くエホバの証人が重要なポストに就けられることは珍しくありませんでした。一例として,クーデターの起きた朝,兵士数人がひとりのエホバの証人の家にやって来て,地元の石油精製所が操業できるようにするにはどのくらいの時間がかかるか尋ねました。資格があっても信頼できる人がほかにいなかったのです。

明け方に各地区で火器類の抜き打ち捜査がありました。エホバの証人であることが知られている人の家は捜査されずにすむ場合が少なくありませんでした。ひとりの兵士は,本箱から「とこしえの命に導く真理」と題する出版物を取って,「この本の内容をみんなが読んで実行するなら,こんな捜査なんかしないですむんですがね」と言いました。

国際大会

その後数か月の間,人々は依然として幾分いら立っていて,時々暴力ざたが起こりました。そのような状況の中で,「神の勝利」国際大会を開く計画が立てられていました。サンチアゴのサンタラウラ競技場を使用するための契約は成立していましたが,大会のような集まりを開くことは許可されるでしょうか。9月に包囲状態が宣言されて以来,大きな集会はほとんどすべて禁止されていました。当時大会が開けたなら,それこそ奇跡でした。しかし,エホバの手が短過ぎることはなかったのです。―イザヤ 59:1

大会の日が近付くにつれて不安が募りました。大会の1週間前になって,許可が下りないことが分かりました。二人の兄弟がただちに国防省に赴き,外国から大勢の出席者が来る取決めがすでに設けられていて,国際大会が許可されないとすればそれらの人たちに大変悪い印象を与えることになると説明しました。すると大佐はその件を上官に諮り,「許可が下りた」という答えを持って戻って来ました。私たちの祈りは聞き届けられたのです。

兄弟たちはだれ一人,チリにおけるそれまでで最大の大会を逃したいとは思いませんでした。乾燥した不毛の北部から,あるいは氷河が点在する南部の荒野から出席する費用をまかなうために,家具やテレビ,レコード・プレーヤーその他を売った証人は少なくありません。

最初に述べた通り,チリには太平洋に沿って4,265㌔も伸びた海岸線がありますから,バスや電車の旅は長時間に及びます。アタカマ砂漠のイキケからは子供や赤ん坊を含む1,300人が8両の貸切り電車でやって来ました。電車の旅は遅くて疲れました。しかも旅の大半は暑い砂漠を通りました。しかし,四日半の後にその厳しい旅行は終わりました。いや,ほぼ終わったと言ったほうがよいでしょう。電車はちょうど夜間外出禁止令が実施されることになっていた晩に着いたので,兄弟たちはその夜電車の中で過ごすはめになったからです。

歓迎委員が兄弟たちを出迎えるためその日の比較的早い時刻に駅へ行くと,電車は遅れて到着すると言われました。それはつまり,兄弟たちがもう一晩電車の中で過ごさなければならないということなので,コーヒーをわかしたり,幾箱ものくだものを購入したり,毛布を入手したり,サンドイッチを作ったりする手配がなされました。到着する兄弟たちの世話をするため,その夜は48人の兄弟たちが自発的にマポチョ駅に詰めていました。言うまでもなく,それは駅を監督していた軍当局の許可のもとに行なわれました。事実,当局者は兄弟たちの手順のよさにすっかり感心して,手伝いを買って出ました。電車が遅れて到着すると,普通,自分勝手な群衆は夜間外出禁止令を守ろうとしません。ですからいつも兵士たちは空に向けて銃を撃ってふとどきな群衆を引き戻し,夜の間車内に閉じ込めていました。ところがエホバの証人だけが乗っていたその電車の場合,大声を上げたり何度も命令を与えたりする必要がありませんでした。ある兵士は,「エホバの証人は自分たちが礼儀をわきまえていて規律正しいことを実証しましたね」と感想を漏らしました。

翌朝,電車でやって来た兄弟たちにもう一度コーヒーがふるまわれたあと,サンチアゴの会衆の兄弟たちが駅へ来て,彼らを宿舎へ運びました。示された心からの親切に対し,また,兄弟たちが寒くて暗い駅で夜を明かすことをいとわなかったことに対して,それら大会出席者たちは深く感謝しました。それは確かに,自己犠牲的な愛が実践されたすばらしい例です。

待ちに待った日がやって来ました。ノア兄弟を含む外国からの出席者も到着し,興奮は高まりました。外国からの兄弟たちが出席したことは,兄弟たちおよび,水のバプテスマを受けてエホバへの献身を象徴した1,502名という大勢の新しい人々にとって大変大きな励ましとなりました。出席者の数は,一つの大会の出席者数としては最高の,2万1,321人でした。道を開き,すべてを可能にしてくださったエホバに私たちは感謝しています。

再び急速な増加が始まる

1973年にチリで起きた事柄は,詩編 146編3節の真実さを例証するものとなりました。その聖句は,「地の人」に信頼を置いてはならない,「彼らに救いはない」と告げています。今は故人となった大統領に信頼を置いていた人々は幻滅して希望のない状態にありました。エホバとその民の精力的な働きとによって,大勢の心の正しい人々が,人類の唯一の希望として王国の音信を受け入れ,真の崇拝の側に立ちました。

政権の交代があってからわずか1か月後の1973年10月に,チリの伝道者数は初めて1万人台に達し,1万119人になりました。そのあとに国際大会があり,それによって将来の増加へのはずみがつきました。というのは同奉仕年度は22%の増加をもって終わり,平均伝道者数は1万962人に達したからです。32の会衆と二つの巡回区が新たに組織され,伝道者の最高数は1万2,491人,バプテスマを受けた人の合計は2,660人でした。翌年にはさらに大きな増加が見られ,増加率は30%,平均伝道者数は1万4,220人でした。また,3,842人という驚くほど大勢の人がバプテスマを受けました。

急速な増加や,広く宣伝された大会が好評だったことは,宗教上の敵の目に留まらずにはすみませんでした。敵は以前よりも活動的になり,カエサルとの特別な関係を利用して,陰で働き始めました。エホバの証人の中には共産主義者が潜り込んでいるという非難がなされました。それで,バプテスマを受ける人はその前に「ふるいにかけられる」ということを一度ならず説明しなければなりませんでした。当局者はそれに満足した様子で,その件はたな上げされたように見えました。もっとも,忘れられたわけではありません。

ノア兄弟は,国際大会に出席した折,小規模な印刷を行なうことを許可してくれました。1975年1月まで,「王国宣教」と筆記の復習用紙はアルゼンチンから送られていました。しかし,冬はアンデス山脈に大雪が降るので,それらの到着が遅れて間に合わないことが何度となくありました。しかし,今やチリには自分たちの印刷所があり,用紙類・プログラム・「王国宣教」・筆記の復習用紙を供給して兄弟たちの必要を満たすことができました。

国立競技場で開かれた大会

1949年にさかのぼりますが,ノア兄弟が大会に合わせてチリを訪れた際,ディグナ・ゴンサレス姉妹は冗談半分に国立競技場を使用してはどうかと言いました。さて,ゴンサレス姉妹にとって非常にうれしいことに,国立競技場を使用する時が到来したのです。1976年1月,「神の主権」地域大会で同競技場を使用する特権がありました。サンチアゴ市周辺を含む地域から1万5,619人が出席しました。プロのサッカーチームが年度末の決定戦を行なうため,ナイターができるよう大会のプログラムは早い時刻に終了してほしいとの申し入れがありました。チリの兄弟たちはそれを難なく成し遂げました。サンチアゴの一日刊新聞は次のように評しました。「エホバの証人は3時間以内に競技場をすっかり片付け,そこの備品をすべて元に戻さなければならなかった。だが問題は全くなかった。というのは,だれもが快く協力し,競技場を宗教的な場所に変え,それをまた競技場に変えるという奇跡をやってのけたからである」。

インフレで新通貨に切り替わる

この期間に悪性インフレが進行しました。一例を挙げると,1970年8月に1米㌦はチリの通貨にして14エスクドでしたが,わずか5年後には,1米㌦が6,000エスクドにもなっていました。1975年9月,政府は新通貨を発行して1,000エスクドを1ペソに切り替え,公定為替相場を1米㌦に対し6ペソとしました。

すばらしい拡大

インフレや深刻化する失業が困難な事態をもたらしていたにもかかわらず,「良いたより」を伝える熱意は失われませんでした。1976奉仕年度中に伝道者数は空前の最高数である1万6,862人に達し,2,782人がバプテスマを受けました。伝道者数は驚異的に増加していましたが,それと同じ速度で長老を養成するのは,言うまでもなく非常に困難なことでした。1972年9月には131の会衆がありました。ところがわずか4年の間にその数は2倍を上回る269に増えました。新しい会衆が組織されたため,以前は3人以上いた長老が一人か二人に減り,伝道者数はほぼ同じであるという会衆が珍しくありませんでした。

それでも物事は順調に進みました。伝道者の最高数は次々と更新され,新しい会衆や巡回区が組織され,巡回大会と地域大会の出席者の合計は3万人を超え,主の記念式の出席者数はそれまでの最高数である4万6,940人に上りました。サタンがこうした神権的拡大のすべてを快く思っていなかったことは明らかです。それで「ほえるライオン」は,集められて間もない「子羊たち」を脅そうと,できる限りのことを行ない始めました。

業に対する反対が表面化する

チリでは,12月から2月にかけての夏の時期に入る前に地域大会の計画が立てられます。万事が順調に運んでいましたが,やがて,南米の端のマゼラン海峡に近い三つの孤立した会衆が開こうとしていた,規模の小さな大会の開催を軍当局が許可しないという知らせが入りました。しかし,兄弟たちの評判が大変良いことや,大佐が数人のエホバの証人を個人的に知っていることなどから,将官はその大会の開催を許可しました。ただし,それを書面では行なわず,また宣伝はしないでほしいと言いました。

その後,幾つかの州では地域大会が問題なく開かれました。間もなく地帯監督の訪問を受けることになり,サンチアゴ市周辺を含む地域の会衆が室内競輪場に集まって地帯監督の話を聴く計画がなされました。ところが驚いたことに,直前になって許可が取り消されたのです。それを不服としてなされた訴えも聞き入れられませんでした。

次いで軍当局は,サンタラウラ競技場で開かれることになっていた地域大会の許可も取り消し,非常事態であるから規模の大きな集まりは許可しないと述べました。そしてこちらが頼んでも,面会を申し込んでも,とりあってくれませんでした。サンチアゴ市内およびその周辺の100の会衆に交わる兄弟たちのためばかりでなく,大会のプログラムを扱うためにチリへ来る手はずを整えていたアルゼンチンの兄弟たちのためにも,なんとかしなければなりません。

四日間のプログラムが二日に短縮され,サンチアゴの比較的大きな八つの王国会館で大会の内容の約70%を扱うという取決めが直ちに設けられました。講演者の四つのグループが会場を回るようにするため,さらに何人かの兄弟たちに話の割当てが与えられました。会場のスペースが限られているため伝道者だけが招かれました。5回の週末が終わった時の出席者数は1万209人でした。八つの王国会館は超満員でした。プログラム,劇,その他すべてに払われた,多数の関係者の努力に感謝を言い表わす人は少なくありませんでした。

その後当局は,サンチアゴ地域で巡回大会を開くことを全く許可しなくなりました。そこで,情報のほぼ9割を含む1日の大会を開く取決めが作られました。協会は兄弟たちに首都の外へ出掛けて行くよう要請しました。設備に限りがあるため,土曜日と日曜日にそれぞれ一つの巡回大会を開きました。

この方法は1977年から1980年6月まで良い成果を生みました。その後,それまで大会を許可していた二つの土地でも許可されなくなりました。したがってサンチアゴの二つの巡回区はそれぞれの区域内の比較的大きな王国会館で巡回大会を開くことを考えなければなりませんでした。そのために仕事は増え,不便なこともありますが,大切なのは,「忠実で思慮深い奴隷」によって備えられた霊的な食物が兄弟たちに与えられることです。

やがて,法務省から地元の法人団体の理事に対して会見のため出頭するようにとの要請がありました。会見の内容は大部分が中立の問題に関することでした。その場の雰囲気は最後のほうまでやや敵対的で緊張したものでした。しかし,機会が訪れ,質問に対して聖書から答えがなされると,敵対的な空気は和らいで敬意のこもったものになりました。

そのような会見がなされたり,後にエホバの証人の中立に関する説明が文書でなされたりした結果,それ以上何の措置も取られませんでした。エホバのおかげで,敵はざ折してしまったのです。

統治体からの良い助言

私たちは妨害を受けずに「良いたより」を伝道し,王国会館で集まることができます。そのような祝福を感謝しています。大きな集まりを開くことは依然問題となってはいますが,エホバのご援助および『思慮深く行動するように』との統治体からの優れた助言により,霊的パラダイスは続いています。―詩 47:7

例えば,1979年にM・G・ヘンシェル兄弟が地帯監督としてチリを訪れた時,バエナール,プンタアレナス,プエルトナタレスなどの土地では王国会館が短い期間でしたが,一時期閉鎖されました。あらゆる可能性を調べ尽くすまでは,「へびのように用心深く,しかもはとのように純真」であり,問題を起こさないようにとの助言が与えられました。(マタイ 10:16)それからほどなくして地方の役人が代わったか,問題を忘れたかして,今ではすべての会衆が以前と同様に活動しています。

事実,プンタアレナスでは将官が代わったので,兄弟たちは会見を求めました。そして,王国会館で集会を開くことは許されていなかったが,将官が交代したため前任の将官との話し合いは結論に達していないと話したところ,新任の将官は好意的に応じてくれました。そして,ローマ 13章に示されている通り,エホバの証人が当局者を悩ますことはないということを聞くと,将官は次のように答えました。「確かにそうだ。エホバの証人のことはよく知っているが,大変良い市民だ。あなた方が望むなら,今すぐにでも集会を開くのを妨げる理由は何もないと思うが」。

驚いた兄弟たちは感謝にあふれて“はい”と返事をし,プエルトナタレスの会衆にも同様の許可を与えてほしいと願い出ました。許可は下りました。しかもそれはちょうど主の記念式に間に合いました。1979年のその大切な祝いに,プンタアレナスで448人の出席者があったことは大きな喜びでした。その時以来,兄弟たちは新しい王国会館で巡回大会や地域大会を開く特権さえ得ています。

1977年に問題が始まった時,適当な大会会場を見付けるのが困難でした。バルパライソ地方ではエホバが私たちのために戸口を開いてくださいました。ある兄弟は,大会会場としてちょうどよい広さの小さな競技場のある市の市長に交渉しました。市長は承諾してくれました。兄弟たちはその会場をすばらしい状態にして返したので,そこで何度も大会を開けるようになりました。

伝道者の減少

エホバの証人にとって事態が難しくなり始めたころ,兄弟たちの間に様々なうわさが流れました。長びくインフレによる経済的な圧迫に加えて,そうした難しい状況や人間に対する恐れが原因したものと思われますが,大勢の人が弱り始めました。1942年以来初めてのこととして,1977年に伝道者数が減少し,1万5,947人から1万5,339人になりました。そうした挑戦に応じるには,そして信仰の面で成長し続けて信仰を表明するよう兄弟たちを励ますには,どうしたらよいでしょうか。

支部の組織が強められる

1975年12月10日,統治体はすべての支部に,統治体の六つの委員会を模範とする組織上の新しい取決めを通知しました。それにしたがって設けられた支部委員は1976年2月1日付で機能し始めました。統治体によって任命されたチリの支部委員は次のように国際色豊かな顔ぶれでした。アルゼンチン人一人(ペドロ・ロバト),カナダ人一人(トマス・ジョーンズ),チリ人一人(フェルナンド・モラス),アメリカ人二人(アルバート・マンとリチャード・トラベルソ)。

残念なことですが,1975年の末にジョーンズ兄弟姉妹はカナダへ帰りました。それは健康を損ねていたジョーンズ姉妹が検査を受けるためであり,検査の結果姉妹は重い病気の末期的状態にあることが分かりました。愛するフローラ姉妹は,41年間にわたるエホバへの献身的な奉仕を終えて1976年2月に亡くなりました。ジョーンズ兄弟はカナダにとどまり,現在カナダ支部の成員となっています。二人は1964年にチリに来て以来すばらしい働きを行ない,チリの兄弟たちから慕われていました。ジョーンズ兄弟の代わりに,ホセ・バリエンテがチリの兄弟としては二人目の支部委員に任命されました。現在5名からなる支部委員には若さと経験が混じり合っています。5人がエホバに献身して奉仕してきた年数は合計131年です。

聖書の真理は人を大きく変化させる

チリでは,その間,特に1973年以来大勢の人々が真理に入って来ましたが,その中には様々な人がいます。ほんの一部を挙げるだけでも,大学生,尼僧,心霊術者,政治に幻滅を感じた人,サッカーの花形選手などがいます。それらの人は皆,エホバに喜ばれるため,またエホバの規準にかなうために生活を変化させなければなりませんでした。

例えば,サッカーチームのキャプテンであったある花形選手は,エホバがご自分に仕える者にお与えになる喜びを得るため,この世の名声を捨てました。その選手が所属していたプロのサッカーチームの理事たちは,彼が聖書を学ぶことを最初のうち喜んでいました。その選手の振舞いが良くなり,ゲーム中の態度が悪いためたびたび退場させられるということがなくなったからです。しかし,ついに彼がサッカーシューズを更衣室に永久に掛ける時がやって来ると,理事たちは喜びませんでした。それでも,理事たちは,その選手の決意が固いのを知ると,最後のゲームを“必ず勝てるゲーム”にして,優秀選手としての栄誉を与えようと申し出ました。しかし,彼はそのような栄誉を受けることを丁重に断わり,バプテスマを受け,今では,ランカグアの会衆の一つで奉仕の僕として仕えています。

このように様々な背景を持つ兄弟たちと共に奉仕することは本当に大きな特権です。また,似かよった背景を持つ人々の心を動かすためにエホバがこれらの兄弟たちやその他の兄弟たちを用いておられるのを目の当たりにすることも大きな励ましです。

医師は「血」の小冊子に助けられる

1978奉仕年度の顕著な事柄の一つは,血の問題に関するパンフレットと小冊子を配布する活動でした。ある宣教者の手紙によると,手術の前に輸血をしないと約束しておきながらエホバの証人にいつも輸血をしていることを認めた医師が何人かいたということです。倫理的な問題を取り上げ,医師と患者の間に信頼がなければならないことを説いているその小冊子は,医師に提供するために正に必要とされていたものでした。医師たちはその問題に関してさらに情報が得られたことを喜んでいました。

別の宣教者は,ある外科医が次のように語ったと伝えています。「わたしはあなた方と全く同じ意見です。あなた方がそのような立場を取っておられることに対して拍手を送ります。わたしたちも過去には輸血を盛んに行なっていました。しかし,日を追うにつれて用いなくなっています」。「これこそ必要としていたものです」とか「本当に興味深いと思います」という言葉が多くの医師から聞かれました。

「勝利の信仰」大会

「勝利の信仰」国際大会が開かれたことにより,1978年はさらに際立った年となりました。世界中の寛大な兄弟たちのおかげで,宣教者とその他の全時間奉仕者は,信仰を強める大会に出席できました。チリから米国やヨーロッパへ行ったのは99人で,大勢の人から成る別のグループはペルーのリマへ行きました。プログラムや兄弟たちの愛のすばらしさについて熱のこもった言葉がしきりに聞かれました。真の崇拝者から成るこの国際的な家族の一員であることは確かに大きな特権です。

当局はチリで国際大会を開くことを許可しようとしなかったので,協会は1979年1月から同じ主題で一連の小規模な地域大会を開き始めました。兄弟たちは大会会場にやって来るだけでも大きな犠牲を払うことでしょう。したがって,兄弟たちの多くはホテル代をまかなうことができません。それで,出席者の大部分は霊的な兄弟たちの家に宿泊します。

ある大会でのこと,宿舎部門は十分の宿舎が得られず困りました。そこで大会委員は,もてなしの精神を示すよう兄弟たちを励ますために各会衆で短い話をする取決めを設けました。熱心に話したあと,講演者は,やって来る出席者に部屋を提供できる人が何人いるか確かめるために挙手を求めました。しかし,だれも手を挙げませんでした。ちょっと間があってから,7歳ぐらいの男の子が手を挙げ,僕はほかのところで寝ますから,結婚している人が僕の部屋に泊まれますと申し出ました。それが兄弟たちの硬い態度を和らげ,宿舎の提供が殺倒しました。事実,宿舎の業が終わった時,部屋を提供した会衆の中でその会衆が最も多くの部屋を提供したことが分かりました。

再び伝道者がふるわれた年

1978年と同様,1979奉仕年度にもさらに減少がありました。それは,神のみ言葉で定期的に信仰を培う手段を講じなかった人々が疲れ果ててしまったからです。明らかにエホバの民をふるい分ける業が進行していました。なぜなら,新しい人が大勢バプテスマを受けていたにもかかわらず,伝道者は増加しなかったからです。減少のあった3年間に3,357人がバプテスマを受けました。新しい人々が信仰において安定するよう援助する必要が大いにあることは明らかでした。

見通しが明るくなる

1980奉仕年度に入ると事態は好転し始めました。1979年10月に,チリの法人団体の年次総会を1976年以来初めて開くことが許可されました。遠方からはるばるチリに来た円熟した兄弟たちとの会合に参加することは本当に大きな喜びでした。

それから夏の1月,2月になり,「生ける希望」地域大会が行なわれました。大会では,合計2万5,544人という非常に良い出席が得られました。月日がたつにしたがい,チリの証人たちはあらゆる点から見て次第に軌道に戻っていました。その奉仕年度の伝道者数は5%増加し,平均1万5,081人でした。それに加えて,主の記念式の出席者数は空前の新最高数である5万508人でした。(1981年にはこれをさらに上回り,出席者は5万4,796人を数えました。)

区域の端に達する

チリの区域は広範囲にわたっていて,太平洋上のイースター島とロビンソンクルーソー島を含んでいます。それら遠方の土地にも王国の良いたよりは伝えられているでしょうか。

イースター島にはしばらくの間孤立した伝道者が一人いました。その女性は,支部の宣教者である一姉妹と文通して霊的な援助を受けました。彼女はその後本土に帰って来ましたが,イースター島で「ものみの塔」を予約している人々の記録は現在もあります。大変驚いたことに,1980年4月のある日,主の記念式をいつ祝ったらよいか教えてほしいという長距離電話が,関心を持っている人からかかってきました。その後同じ年にバルパライソの一組の夫婦がイースター島へ引っ越し,二人は関心を持つ人々との聖書研究を司会してきました。1981年の4月にはイースター島で初めて主の記念式が開かれ,13名の出席者がありました。「良いたより」がその孤立した地域にも浸透しつつあるのは実にうれしいことです。

では有名なロビンソンクルーソー島はどうでしょうか。1979年の暮れのこと,バルパライソの一長老は仕事の関係でこの島に派遣されました。その時文書をどっさり持って行きました。島の見物をしている時,その兄弟はガイドに島民の宗教に対する傾向を聞いてみました。ガイドの答えによれば,カトリックの司祭はまれにしか来ず,プロテスタントの牧師は島から立ち去ったということです。「ですが,それはわたしにとってどうでもよいことです。わたしはエホバの証人です」とガイドは言いました。その兄弟の驚きを想像できるでしょうか。自分はこの島へ「良いたより」を最初に伝えることになるのだ,と兄弟は思っていたのです。

その話はさらにこう続きます。サンチアゴで聖書を勉強していたある婦人が仕事の関係でロビンソンクルーソー島へ移りました。この婦人はサンチアゴにいた時野外奉仕に参加するところまで進歩していました。そして,島へ移ってからも引き続き「良いたより」を宣べ伝え,大勢の人と聖書研究を始めました。前述の兄弟はそれらの人と会って大変喜び,非公式ながら5名の人が集まって,送られてくる1冊の「ものみの塔」誌を一緒に読む取決めを設けたほか,書籍研究の群れを作るのを援助しました。

数名の人がバプテスマを受けたいと言ったので,セルヒオ・プルガル兄弟は本土に帰った時に支部へ手紙を書いて指示を仰ぎました。5か月後に島へ戻ることになっていたからです。そして島へ帰ると,バプテスマ希望者と共に80の質問を復習しました。3名がバプテスマを受けました。プルガル兄弟は11名の出席者を迎えて主の記念式をも司会しました。1980年3月以来,この離島から野外奉仕報告が寄せられており,現在は4人が報告しています。

チリの区域の遠い端と言えば,南極地方を忘れることはできません。確かに「良いたより」は,世界のその最果てまで伝えられています。その極寒の地方にある科学基地で仕事をするために,ひとりの電子工学の専門家が派遣されました。その人の妻は,夫のスーツケースの中味を用意しながら,聖書と「真理」の本をそっと入れました。12名の職員で成るその基地は,世界の他の地域から全く隔離されており,唯一の娯楽は読書でした。二,三日して,その人は文書を取り出して読み始めました。別の職員が通りかかり,「やあ,僕もその本を知っているよ!」と大声を上げました。二人は親しくなり,機会を見付けては一緒に聖書を研究しました。二人を通して,ロシア語の聖書文書が近くにあった別の科学基地で配布されました。この二人のうちの一人は現在サンチアゴの一会衆で奉仕の僕となっています。どんなに遠隔の地であろうと,また孤立した土地であろうと,強力な「良いたより」は浸透していき,希望の音信を人々にもたらしています。

聖書の新しい手引き書 ― その大きな成果

チリの兄弟たちは「わたしの聖書物語の本」と題する本に関連して特筆すべき経験を幾つかしました。その一つは,南部からサンチアゴへ来ていた特別開拓者の経験です。その開拓者は任命地へその本を数冊持って帰ろうと支部を訪れました。着いた時,支部はちょうど閉まるところだったので,「物語」の本8冊を包装せずにもらいました。姉妹はそれをこわきにかかえてバスに乗りました。ひとりの子供がその本を見て,「あの女の人は,お母さんが買ってくれるって言った本を持ってるよ。ねえ,買ってちょうだい!」と大声で言いました。母親は本について尋ね,姉妹は証言して,その人にそれを配布しました。近くに座っていた人々は二人の会話を耳にして,その本を見せてほしいと言いました。開拓者の姉妹はバスを降りるまでに8冊全部を配布しました。それで彼女は任命地へ戻る前にもう一度支部へ行って本を求めました。もっとも今度は十分に包装してもらいました。

別の姉妹はある婦人に「聖書物語」の本を配布しました。その婦人はそれを息子の学校の先生に貸しました。その教師は最寄りの会衆に電話をかけ,「物語」の本を2冊届けてもらえないかと言いました。2冊の本は届けられました。教師は「物語」の本を司祭に見せました。すると司祭は,子供たちに聖書を教えるのにちょうどこのような本を必要としていたと言いました。女教師はその言葉をまじめに受け取り,電話でさらに7冊を注文しました。それを学校へ届けに行った姉妹は,待っている間に別の婦人に話し掛けました。その人は校内暴力について自分の考えを述べました。姉妹は,その問題に対して聖書が持つ解決策のことを話しました。すると婦人は姉妹に再び来てもらって話し合う日時を約束するよう秘書に依頼しました。その婦人は校長だったのです。

その姉妹は,さらに14冊の本を届けるためと,校長に会うため,約束の日に学校へ行きました。しかし,校長に面会する前に,5人の教師と話をしました。その人たちは「物語」の本24冊と「若い時代」の本5冊をほしいと言いました。そのうちの一人は,「わたし用に何かよい読み物はありませんか」と尋ねました。その人は「目ざめよ!」誌を予約しました。次は校長の番です。姉妹はそこでも「聖書物語」の本2冊と「若い時代」の本1冊を配布しました。そして後日,注文のあった24冊の本を持って学校へ行き,またもや,来週さらに14冊届けてほしいと頼まれました。この経験の初めに登場した教師は現在昼休みに姉妹と聖書研究をしています。宗教の時間の教材として,これまでに88冊の「聖書物語」の本と27冊の「若い時代」の本が先生に配布されました。これらの本のことが伝わっていくにつれて,この経験はさらに続いていきます。

前述のような精力的な開拓者と伝道者は,聖書文書を大量に配布する業にあずかってきました。その証拠として,1980奉仕年度中配布された文書の合計は26万4,317冊でした。自己犠牲の精神にあふれる開拓者たちはそれらの出版物を用いて,カラウエ,フレシア,パンギプリといった土地で新しい区域を切り開き,将来会衆を組織するための土台をすえました。霊的な楽園を拡大するために一致して働く際,『エホバがそのご意志を行なわせるためにわたしたちに備えてくださったあらゆる良いもの』を用いることは本当に大きな喜びです。―ヘブライ 13:21

忠実な僕たちは粘り強く業を続ける

1982奉仕年度を迎えましたが,忠実な宣教者たちがその割当てに引き続きとどまっているのを見るのはすばらしいことです。アルバート・マン兄弟は外国での奉仕が36年になります。現在妻のグラディスと共に支部で奉仕しています。1945年の末に到着したルイーズ・スタッブズもチリへやって来た最初の宣教者の一人です。スタッブズ姉妹は,雨の多い南部でも,北部の暑くて乾燥している不毛の砂漠でも奉仕しました。そして,74名の人を献身とバプテスマの段階にまで援助する特権にあずかりました。宣教者として35年間奉仕してきたハナン兄弟姉妹は,その間に,コンセプシオンの最初の会衆が約1,000人の伝道者の交わる15の会衆へと発展するのを見ました。二人は,181名の人が真の崇拝の側に立場を定めるよう個人的に援助しました。ドロシア・スミス姉妹とドラ・ウォード姉妹は35年間パートナーとして一緒に宣教者奉仕に携わってきました。献身とバプテスマの段階にまで二人が援助した人の数は合計100人です。二人がチリに来たのは1946年でしたから,伝道者が93人しかいなかった初期の時代から組織が拡大するのを見てきたことになります。

ジョン・ウィリアムズとハリー・ウィリアムズ(実の兄弟ではない)はギレアデの第13期のクラスを卒業して1949年にチリに来ました。二人はそれぞれ,巡回監督や様々な土地の会衆の長老として働き,チリにおいて真の崇拝が発展する上で大切な役割を果たしました。そうした忠実な兄弟たちがどれほど感謝されているかは,病気で亡くなる前の数か月間ジョン・ウィリアムズ兄弟に差し伸べられた愛や慰めや援助がよく物語っています。地元の兄弟たちはこうした状況に実に立派にこたえ応じ,国際的なすばらしい兄弟愛を十分に発揮しました。(ヨハネ 13:34,35)ウィリアムズ兄弟は生ける希望を最後まで保ち,訪問者すべての励ましの源となりました。同兄弟は宣教者として31年間忠実に奉仕して亡くなりました。

ミリアム・スメンとエベリン・マックファーレインもウィリアムズ兄弟たちと同じギレアデのクラスを卒業して1949年にやって来ました。スメン姉妹は南部の各地で業を開始することに貢献し,真の崇拝のための勇敢な闘士として優れた働きを行ないました。そして,45名の人が命に至る道を歩むよう援助するという増し加わった喜びを得ました。マックファーレイン(バニー・バレンスエラ)姉妹はチリ人の兄弟と結婚し,1978年にがんで亡くなりました。忠実な人とみなされて地上に復活し,真理を知るよう自分が援助した113名の人にあいさつするのは,マックファーレイン姉妹にとってさぞかしうれしいことでしょう。

現在チリには宣教者として20年以上奉仕している人が13人います。その人たちはエホバが組織を祝福されるのを目撃し,これまでの驚くべき拡大に自らあずかることができました。チリ全国でギレアデの卒業生は合計37名おり,何らかの形の全時間奉仕に励み,霊的な楽園を拡大すべくチリの兄弟たちと肩を並べて働いています。

チリにいる他の多くの宣教者についてもっとお話ししたいのですが,紙面が許しません。ギレアデの卒業生が初めてやって来た1945年以来,全部で194人の宣教者がチリで奉仕しました。そのうちの11人はチリ人で,ものみの塔ギレアデ聖書学校を卒業して自分の国へ帰って来た人たちです。

1930年代に真理に入った古い兄弟姉妹の大半はすでに亡くなっています。例えば,良い反応を示した最初のチリ人で,1931年にチリで初めてバプテスマを受けた8人の一人でもあるフアン・フロレス兄弟。チリ人として最初の開拓者になったデルフィナ・ビリャブランカ姉妹(1931年)。チリで最初の王国会館の敷地を提供したコンスエロ・トラウプ姉妹(1931年)。楽しそうな顔をした明るい性格のマヌエル・ドゥラン兄弟(1935年)。そして,54年間にわたってアルゼンチンとチリで奉仕し,1979年4月に亡くなったリヒャルト・トラウプ兄弟。これらの兄弟姉妹はみな天的な報いを目指して亡くなりました。ですから今ごろはきっと,エホバへの奉仕に引き続き励みながら,チリにおいて成し遂げられつつある業に関心を持っていることでしょう。

真理に古い人としてはこのほかに,マックス・ジンマー(1934年),セバスティアン・イニンガー(1936年),エドゥアルド・ベネガス(1940年),およびフアン・フロレス兄弟のおいであるセラフィン・フロレス(1942年)がいます。これらの人は健康が許す限りエホバへの奉仕を続けており,王国の良いたよりの恐れを知らない宣明者の立派な手本となっています。事実,上に挙げた4人の兄弟は皆,それぞれの会衆で長老として奉仕しています。

トラウプ兄弟が1930年にやって来て,チリで最初のエホバの証人として伝道し教え始めた当時から今日までずいぶん長い年月がたちました。聖書の講演に出席した最初の人,フアン・フロレスが,「ところでほかの人たちはいつ来るのですか」と尋ねたのを思い出してください。トラウプ兄弟は何と答えたでしょうか。「ほかの人たちも来ますよ」と答えました。

そして,確かに何百何千人もの人々,エホバの組織に安らぎと平安を見いだした幸福で愛すべき人々がやって来ました。現在280の会衆と幾つかの群れがあり,1万6,000人を優に上回る伝道者が交わっています。それらの伝道者は,人口に対する伝道者の割合が非常に高い乾燥した北部から,まだまだなすべき仕事の多い肥よくな南部まで真理の種をまいています。エホバが機会のとびらを開いておられる限り,チリの兄弟たちは,エホバの過分のご親切により,まだ行なわなければならない業を成し遂げて,エホバに賛美と栄光を帰す決意をしています。

[103ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

伝道者の増加

16,000

15,081

14,220

12,000

8,000

6,923

4,000

3,370

2,025

1,034

361

65

0 1945 1950 1955 1960 1965 1970 1975 1980

[39ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

チリ

アリカ

カラマ

ペドロデバルディビアー

コピアポ

バエナール

イヤペル

バルパライソ

サンアントニオ

メリピヤ

サンチアゴ

ランカグア

コンセプシオン

チヤン

コロネル

カラウエ

テムコ

バルディビア

コラル

オソルノ

フレシア

プエルトモント

アンクード

カストロ

プエルトナタレス

プンタアレナス

ポルベニール

ロビンソンクルーソー島

フアンフェルナンデス諸島

イースター島

ペルー

ボリビア

アルゼンチン

大西洋

太平洋

[41ページの図版]

フアン・フロレス,真理に対して好意的な態度を示した最初のチリ人。「ところでほかの人はいつ来るのですか」と尋ねた

[49ページの図版]

カーテ・パルム,1936年にチリに来て,北の端から南の端まで全国に真理の種を精力的にまいた

[57ページの図版]

チリで伝道の業を開始したリヒャルト・トラウプと妻のコンスエロ

[71ページの図版]

プエルトモントの宣教者の家の残がい,1960年の地震後の光景

[79ページの図版]

チリのサンチアゴ市にある支部の建物

[81ページの図版]

エベリン・マックファーレイン(バニー・バレンスエラ),1978年に亡くなるまでに,真理を受け入れるよう113名の人を援助した

[105ページの図版]

ロバートおよびボラ・ハナン,宣教者として長年奉仕し,その間に181名の人が真理を学ぶのを援助した