ポルトガル
ポルトガル
「陸地が終わり,海が始まる所」,これが,ヨーロッパ大陸の西の果てにある国,ポルトガルです。ポルトガルという名称は,ローマの交易集落としてドウロ川の河口付近に発達したポルトという都市に由来しています。ポルトはポルトゥカレ,つまり船の寄港地でした。
イベリア半島のその西の角に,ポルトガル語を話す950万の人々が住んでいます。ポルトガル語はロマンス語の一つで,構造と語いの点ではスペイン語に似ていますが,音声と発音の点では大いに異なっています。ポルトガルの面積は,その東と北に隣接するスペインの5分の1にも達しませ
ん。しかし,ここで目にする風景は実に変化に富んでいます!南部の田園には優れた果樹園やアーモンド,イチジク,イナゴマメの畑があります。北へ向かうと,小麦畑やリバテジョ牧畜地帯の青草の茂った牧草地を通り,コウヤマキやユーカリの木立ちに縁取られたブドウ園やオリーブの木立ちの中を通ります。国の中部では,ベイラ地方の山脈に雪の見られることがあり,雄大な景色を引き立てています。北部の特色を成しているのは,ポートワインの発祥地として世界的に有名な,ドウロ川の深い渓谷の見事なブドウの段々畑です。
良いたよりがポルトガルに伝わる
ポルトガルは海運国として世界的に有名になりました。15世紀にポルトガルの航海者や探検家たちはインドに至る海路を発見したほか,ブラジルやマデイラ諸島,アゾレス諸島,カボベルデ,サントメ,そしてアフリカの多くの土地を発見し,同国は黄金時代を迎えました。しかし,ポルトガルでマタイ 24章14節の意味が知られるようになったのは,1925年になってからのことです。その年,ブラジルで奉仕していたカナダ人のジョージ・ヤングが,王国の関心事を促進するためポルトガルを調査しに来たのです。彼は,ものみの塔協会の会長,J・F・ラザフォードが1925年5月13日に「地上で永遠に生きる方法」と題する公開講演を行なう取り決めを設けました。
カトリックの司祭たちからの反対があったにもかかわらず,その公開講演は大成功を収め,ある高等学校の体育館は2,000人余りの人でいっぱいになりました。満員で入場を断わられた人がそのほかに2,000人いました。目撃者であるフランシスコ・
ウルランはその時の模様を次のように回顧しています。「カトリックの僧職者はその集会を解散させようと試みましたが成功しませんでした。わめき声が上がり,いすが打ち壊されました。幸い,ラザフォード兄弟は何とか事態を収拾しました」。話の結びの部分で,関心のある人は住所氏名を案内係に告げて帰るようにという勧めがなされました。フランシスコ・ウルランとアンヘル・デ・カストロを含む,数名の人がその勧めに応じました。その人たちは真理を受け入れ,この国で最初のエホバの忠実な僕となりました。その顕著な出来事はポルトガルで王国の業が始まるきっかけとなりました。
その後の事態の急速な進展は,エホバの霊の強力な導きがあったことを如実に物語っています。その最初の年に,リスボンで「ものみの塔」誌のポルトガル語版が発行されました。1925年9月に発行された最初の号は,第1ページに編集者としてジョージ・ヤングの名前を載せていました。1925年の末には,予約と通信物を扱う事務所が,リスボンのルア・サンタ・ジュスタ95番地に開設されました。1年もたたないうちに「ものみの塔」誌はよく知られるようになったので,遠くはアゾレス諸島からも予約の申し込みがありました。
共和国の期間
昔から超保守的なカトリックの国で,そうしたことがどうして可能になったのでしょうか。様々な政治情勢により,非常に自由な風潮が行き渡りました。1908年2月1日に国王ドン・カルロス1世とドン・ルイス・フィリペ皇太子が暗殺され,王制は大きな打撃を受けました。そして,1910年10月5日に共和主義者による革命がドン・マヌエル2世の支配を終わらせ,
支配権力としてのポルトガル王制を終結させました。その結果,言論と出版の自由が認められるようになったのです。人々が僧職者への反対を表明し,カトリック教会の力は衰え始めました。民衆は,バチカン市国へ代表を派遣することを中止するよう政府に働きかけるため,リスボンの市街でデモをしました。新聞も,教権反対の態度を表明する共和主義の指導者たちの演説を掲載しました。軍部は宗教儀式に参加することを禁じられ,「聖人の」日はもはや祭日ではなくなりました。宗教的な誓いも法的効力を持たなくなり,政府は学校での宗教教育や大学での神学課程を廃止しました。1911年4月,政教分離法により,ローマ・カトリック教会の低められた地位が明確にされました。共和国創立者たちは王位と教会をほとんど無価値な制度とみなしました。
そのころ,リスボンで少数の人々から成るグループが真理に対して関心を示していましたが,聖書研究のクラスが定期的に開かれるようになったのは1926年からのことでした。「ものみの塔」誌の1926年4月号には,編集者としてビルジーリオ・フェルグゾンの名が掲げられました。ジョージ・ヤングはほんのしばらく業を組織するために留まったにすぎませんでした。フェルグゾン兄弟は,夫人を伴いつつ,ポルトガルで王国の関心事の世話をするよう任命されました。
1926年5月に英国ロンドンのアレクサンドラ・パレスで行なわれたJ・F・ラザフォードによる特別公開講演は,リスボンで広く報道されました。その講演の中で,「世界の支配者たちへの証言」と題する決議が提出されました。その決議文はポルトガル語に翻訳され,無料配布用の大きな冊子の形で印刷されました。
異なった政府のもとで
その後1926年5月28日に,カトリックの全聖職団の支持を得た保守分子に促され,一発の発砲もなしに軍事クーデターが実行されました。その結果,軍事独裁制が確立されました。それは,オ・エスタード・ノボ(新国家)として知られるようになり,その新政体の主要な人物は,大蔵大臣のアントーニオ・デ・オリベイラ・サラザール博士でした。1932年同氏は議会議長(首相)になりました。
1926年に新国家独裁が確立され,言論の自由はより一層狭められました。「ものみの塔」誌は,1926年11月号から毎号,政府の検閲を受けなくてはならなくなり,表紙には,「検閲委員会認可済」という一文が載せられました。
1927年に発行された「年鑑」の報告は次のように述べています。「ポルトガルの業はリスボンにある協会の支部の指導を受けています。ポルトガル語の『ものみの塔』誌の予約購読者は,現在450人です。1年間に合計764冊の書籍および小冊子が配布されました。真理についての問い合わせの手紙が多数寄せられ,それらはきちんと扱われました。次に掲げるのは,ポルトガルの責任者であるフェルグゾン兄弟の報告を一部引用したものです。
「『この地の人々にはさらに大規模な証言がなされなければならないと思います。人々が真理の音信に留意する時期が来たようです。真理の音信に関心を示す人はさらに多くなるでしょう』」。フェルグゾン兄弟の観察は見事に事態を言い当てていました!
実際そのとおりのことが,アゾレス諸島のフロレス島で起きていました。そのころ「ものみの塔」誌に関心を抱いていたある男の人が亡くなりました。その人の娘と息子が父親の
事務所を片づけていると,「ものみの塔」誌の古い号が見つかりました。息子のアビリオ・カルロス・フロレスはその雑誌に特に関心を持ちました。こう語っています。「『ものみの塔』誌は聖書を大変明快に説明していたので,ビルジーリオ・フェルグゾンに早速手紙を書いて,予約を申し込みました」。真理の種は実を生みました。1974年に亡くなるまで,フロレス兄弟はエホバに活発に仕える僕でした。1927年5月までに,ポルトガル語の「ものみの塔」誌はスイスのベルンで印刷され,政府の厳しい検閲のもとで配布されるようになっていました。政治色の強い“新国家”は,出版の統制や国民の自由の制限をますます厳しくしてゆきましたが,そのために拡大が止まることはありませんでした。1927年に,兄弟たちは書籍と小冊子を合計3,920冊,そして「ものみの塔」誌を6万1,000部配布しました。
最初のバプテスマ
1927年の夏,本当に喜ばしい出来事,すなわち初めてのバプテスマが行なわれました。そのときバプテスマを受けた14名の新しい兄弟たちの中には,スペイン人のフランシスコ・ウルランとアンヘル・デ・カストロの二人がいました。新たに見いだした信仰への熱意に燃え,二人は王国の音信を広めるために祖国を訪れました。1927年8月15日,二人はそれぞれ郷里へ行きました。フランシスコ・ウルランは,故郷の町で早速スペイン人の僧職者の反対に遭い,15日もしないうちに国外退去を命じられました。アンヘル・デ・カストロも郷里の町で同様の仕打ちを受けました。聖書の冊子を配布したため,騒動が起きたのです。カストロ兄弟は地元の司祭に冊子を1部送りました。その司祭は使いを通して次のような返事
をよこしました。「スペインの異端審問所が過去のものとなってしまって残念に思う。さもなければ,亡き者にしてやるのに,とこの男に言っておけ」。海外からの援助
1929年1月4日に,自分が学んだ良いたよりを広める目的で,ジョアンウ・フェリシアーノが米国からポルトガルへ帰って来ました。フェリシアーノはフェルグゾン兄弟と連絡を取り,リスボンの別の地区で聖書研究のクラスが始まりました。また,フェリシアーノ兄弟は非常に熱心に,家から家を訪れて聖書文書を配布しました。そして,多くの人を援助し,「かごを持った人」として知られるようになりました。出版物を大きな果物かごに入れて持ち運んだからです。1961年に亡くなるまで,フェリシアーノ兄弟はエホバの忠実な僕でした。
1931年11月に,「エホバの証人」という名称が新たに採用されました。「神の王国 ― 世界の唯一の希望」というラザフォード兄弟の講演全文を掲載した,「ルーシュ・エ・ベルダーデ」(光と真理)が驚くべきことに26万部配布されました。
最初の聖書文書頒布者
そのころまでに,マヌエル・ダ・シルバ・ジョルダンウは聖書文書頒布者として働き,国の端から端まで旅行して,予約者をすべて訪問し,良いたよりを宣べ伝えていました。北部の予約者が大勢関心を示したので,ジョルダンウ兄弟はブラガへ行きました。ある日,街頭で,一人の男の人がジョルダンウ兄弟に走り寄ってこう言いました。「こんにちは。お会いできて本当にうれしいです。聖書についてあなたから学び
たいと思って来たのです」。ジョルダンウ兄弟がその人に,聖書について幾らか知っているか尋ねたところ,「はい,『ものみの塔』誌を予約していまして,リスボンのビルジーリオ・フェルグゾンという名の人と文通しています。あなたがこの町に来られた時から,私はずっとあなたを探していました」と,その人は答えました。ブラガのその関心を持つ人の家で,7名ほどの人から成る小さな群れが聖書を研究するようになりました。ブラガは「ポルトガルのバチカン」として知られていますから,ほどなくしてカトリック教会からの反対が起きました。僧職者はジョルダンウ
兄弟のことを警察に通報し,警察は夜中にジョルダンウ兄弟を起こして拘置所へ入れました。ジョルダンウ兄弟が翌日釈放されると,地元の司祭は,裁判所の第一記録係に市の中央広場で同兄弟との論戦の場を設けさせました。二人は,ジョルダンウ兄弟が偽りのクリスチャンで,高等教育を受けていないことを暴露しようとたくらんだのです。その“形式ばらない集い”の場面に50名ほどの人がやって来ました。司祭が姿を現わし,どのような人がクリスチャンであるかについて,またクリスチャンが行なうべき業について活発な討議が行なわれました。最後に,裁判所の記録係は,大声で司祭にこう言いました。「あなたはカトリック教会を弁護するためにやって来たと思ったが,聖書から一つの聖句さえ示すことができないではありませんか!」目撃証人たちによれば,きまりが悪くなった司祭はそそくさと立ち去ったということです。
支部事務所が閉鎖される
1933年の末ごろ,フェルグゾン兄弟姉妹はポルトガルを去り,「ルーシュ・エ・ベルダーデ」という出版物も発行されなくなりました。支部事務所との直接の連絡は事実上断たれました。支部事務所は閉鎖されたのです。したがって,国内から霊的な食物が供給されることはなくなりました。ポルトガルで政治色の強い新憲法が採択されたのと同じ年にそのことが起きたのは意義深いことです。新憲法は国家の権限を広げ,出版に対する絶対的権威と完全な統制権を国家に与えていました。
その後,1940年5月に,ポルトガルはバチカンとの政教条約に調印し,ローマ・カトリック教会にたいへん有利な立場を
与えました。公立学校では宗教教育が復活し,1910年以前に教会が所有していた資産は返還されました。困難な時代の始まり
今や王国の業は,聖書文書頒布者マヌエル・ダ・シルバ・ジョルダンウの世話を受けることになりました。その後の困難な時期の間,ジョルダンウ兄弟はスペインの兄弟たち数名と何とか連絡を保ちました。ハーバート・F・ゲイブラーはポルトガルの兄弟たちを数回にわたって訪問しました。1938年ごろ,米国民のO・E・ローセリー兄弟がポルトガルを訪れ,証言カードと呼ばれるものを使って家から家へ行くよう兄弟たちを励ましました。やがて,組織的に宣べ伝える業すべてが徐々に途絶え,業は無活動の期間に入りました。
新たな出発
1940年に,アンヘル・デ・カストロはリスボンにいた友人を訪れました。その友人とはしばしば聖書のことを話し合っていました。その友人の息子で,14歳ぐらいのエリーゼウ・ガルリドはその会話に興味を抱くようになりました。カストロは古い「ものみの塔」誌数冊を読んでみるようにエリーゼウに渡しました。その後,様々な教理についての聖句を自分でまとめた手書きの本をエリーゼウに見せました。少年はその300ページの参考書を高く評価し,自分で写し始めました。やがて,「創造の写真劇」の写真の入った本も読みました。それは少年エリーゼウの思いに強い影響を与えました。カストロの参考書を写し終えるとすぐ,エリーゼウは,「こうした事柄を信じている人がリスボンにはほかにいないのですか」と尋ねました。
数日後には,マヌエル・ダ・シルバ・ジョルダンウがエリーゼウの家にやって来ました。エリーゼウをさらに援助するためです。ジョルダンウ兄弟は,エリーゼウが靴職人のジョアキン・カルバーリョと連絡を取るようにしました。カルバーリョの家は,聖書研究者たち全員が集まる集会場所となっていました。
ジョアキン・カルバーリョは1930年代の初期に真理を学びました。1933年に支部が閉鎖された時に残っていた文書はすべて,リスボンのカルバーリョの店に保管されました。
カルバーリョたちの聖書研究は一層ひんぱんに行なわれるようになりました。しかし,出版物から離れ,個人的な解釈を加える傾向が生じました。ついに,若いガルリドは率直にこう言いました。「ほかの情報を持ち込まないで,雑誌に載せられている資料にどうして付き従わないのですか。結局のところ,わたしたちが必要としているものはすべて協会の出版物に載っているのではないでしょうか。わたしたちは既に,エホバの組織に全幅の信頼を置くことができるということを確信しています。わたしたちの研究を,質問をし,聖句を調べてから全部の節を読むことだけに限るようにし,自分の好きな節だけを読むということはしないよう提案します」。
その再覚せいの期間に,兄弟たちは「創造の写真劇」を使用し始めました。ジョアキン・カルバーリョには,プロテスタントの少数グループ,特にアドベンティスト派のグループとのつながりが数多くありました。それらのグループは写真劇のことを知り,自分たちの集会場所でそれを上映して欲しいと頼んできました。中には,自分たちの聖書研究で協会の聖書文書を使用したいと思うグループもありました。あるアドベンティスト派のグループは,協会の書籍から,発行者の
名が記載されている見開きのページを削除することまでしました。そして自分たちの集会の時刻と住所のスタンプを押したのです!ジョアキン・カルバーリョがそれらプロテスタントのグループの指導者たちとの関係を保ちたがっていることが明らかになりました。彼らがしばしば会っているうちに,プロテスタント側が聖書研究者と信仰合同を結びたいとしきりに願っていることが分かってきました。そのことが明らかになると,エホバの祝福を得るにはもっときっぱり手を切る必要があることを悟り,聖書研究者たちはプロテスタントのグループとのつながりをすべて断ち切りました。
宣べ伝えることが重要になる
その時まで公の証言は主として冊子の配布によってなされていました。しかし1944年までに,そのグループは宣教の面でもっと多くのことを行ないたいという切なる願いを表わすようになっていました。そして組織の出版物に注意深く従う必要を悟っていました。ブラジルの兄弟たちと文通することにより,「通知」を定期的に受け取っていたので,野外奉仕への関心が高められました。
それで,兄弟たちは家から家に行って,印刷された証言カードを家の人に見せる時期が来たと判断しました。家の人が証言カードを読み終えると,文書を提供するのです。
日曜日に兄弟たちが二人一組になって,証言カードを使って家から家へ良いたよりを宣べ伝えるのが習慣となりました。しかし,そうした宣教活動を報告するようになったのはさらに後のことでした。
同じ時,その小さな群れは,拡声装置と蓄音機のあることを
知って大変喜びました。ブラジルの兄弟たちはその群れに,ポルトガル語のレコード10枚と蓄音機1台を送ってきました。兄弟たちは証言するためのその新しい備えに胸を躍らせました。それらのレコードは,煉獄,魂,王国のかぎなどの題目に関する真理を説明していました。群れの人々は勇気を奮って,その装置を使い出すことにしました。エリーゼウ・ガルリドは最初のころの思い出をこう語っています。「リスボンのカンポリデ地区の小さな広場へ行きました。その広場の周りには家が何軒かかたまって建っていました。そこに蓄音機をすえ,家の人たちに広場に来て聖書の興味深い音信を聞くよう招待しました。30人ばかりの人がやって来て,熱心に耳を傾けました。最後に,私たちは聖書文書を提供して喜びました」。
宣べ伝えることにより,交わりが深まる
それ以来,兄弟たちは,密接な交わりの必要をより一層自覚するようになっていきました。日曜日の聖書研究に定期的に出席していた関心を持つ人々の群れは15名ほどに増えまし
た。出席者が増えていたので,専用の集会場として使う小さな部屋を借りることにしました。それらの集会で用いられた主な出版物は「ものみの塔」誌でした。兄弟たちは次第に,エホバの民の世界的な組織ともっと密接なつながりを持つ必要を認識するようになりました。1946年10月に,実に歴史的な決定が下されました。ジョアキン・カルバーリョとエリーゼウ・ガルリドは,ブルックリンにある協会の本部と連絡を取る時が来たと判断したのです。二人は協会あての手紙の中で,宣教者をポルトガルへ派遣して欲しいと頼みました。
真理のほかの種も芽を出すようになる
リスボンの聖書研究者たちは知りませんでしたが,ポルトガルの他の土地で興味深い事態が進展していました。タグス川の対岸のアルマダに住む,デルミーラ・マリアーナ・ドス・サントス・フィグエイレドは16歳の息子を亡くして非常な打撃を受けていました。彼女はこう語っています。「私は,息子のこと,また息子がどこにいるか,神はなぜ息子が死ぬのを許されたのかなどを考えながら毎日墓地で過ごしました。そして父が以前に聖書から話してくれたことを思い出すようになりました。父は1927年当時ビルジーリオ・フェルグゾンを知っていて,集会に出席したことがありました」。
ある日,墓地から帰ったデルミーラは,父親が持っていた古い本を探し始めました。それからほどなくして,自分が神の言葉の真理を見いだしたことを悟り,1945年にブルックリンに手紙を書きました。返事が来た時,喜びの涙がデルミーラのほほを伝って流れました。とうとうデルミーラは神の民と連絡を取ることができたのです。
その手紙は,ブルックリン・ベテルの成員で,アゾレス諸島生まれのジョン・ペリーという兄弟からのものでした。その手紙には,聖書を持っていないなら,聖書を1冊買い求め,復活の希望と義の宿る新秩序に関する神の約束について手紙の中に挙げてある参照聖句を読むようにと書かれていました。ジョン・ペリーを通して協会はデルミーラに書籍と小冊子の小包を送るようになりました。そして人々にそれらを無料で配布するよう勧めました。デルミーラは早速提案を実行し始めました。彼女の主な区域は墓地でした。自分が神について考えるようになったのはそこだったからです。友人や近所の人々は,息子を亡くしてデルミーラは気が違ったのだと考えました。週に数回,たった独りで墓地へ行き,親族を亡くした人々に復活の希望を話すよう努めました。「気違い女」という評判が立ちましたが,そのために良いたよりを宣べ伝える熱意が損なわれることはありませんでした。そして,宣べ伝えれば宣べ伝えるほど,デルミーラの信仰は強くなってゆきました。
デルミーラは次のように思い出を語っています。「ある日のこと墓地で,一人の婦人が数日間続けて墓にひざまずいているのに気づきました。その人に話しかけてみると,22歳の娘を亡くして,悲嘆に暮れていることが分かりました。復活のこととパラダイスをもたらすという神の目的とについて聞くと,デオリンダ・ピント・コスタというその婦人は,もっと知りたいとの熱意が非常に強く,家へ来て毎週聖書研究をして欲しいと言いました。間もなく私たち二人は,嘆くためではなく,自分たちが知ったすばらしい希望を宣べ伝えるために墓地へ出かけるようになりました」。
この二人の熱心な婦人は,真理に対する愛に動かされ,関心を示した数名の人々のために聖書研究の集まりを設けまし
た。毎週水曜日の午後,デオリンダ・ピント・コスタの家で,6名かそれを上回る数の婦人が集まり,協会の出版物の助けを得て聖書を研究しました。ブルックリンのジョン・ペリーとの文通により,関心を持つその婦人たちの群れは中核となる兄弟たちがリスボンにいることを知りました。時を同じくして,リスボンの兄弟たちの方も,関心を持つ人々がアルマダにいるという知らせを受けました。それで,会合を持つ取り決めが設けられました。行ってみると,驚いたことに,毎週聖書研究を開いている,婦人ばかり8名のグループがあったのです。早速,リスボンの兄弟たちを交えた集会をデオリンダの家で定期的に開くことが取り決められました。そのアルマダの群れの最初の姉妹たちが今でも忠誠を保ち,今日に至るまで王国奉仕を活発に行なっているのを見るのは,実に大きな喜びです。
真理はさらに北へ広まる
同じころ,トラース・オス・モンテスという,ポルトガルの最果ての県で興味深い事態が進展していました。米国で真理を学んだプリフィカサンウ・デ・ジェズス・バルボザが,親族に良いたよりを宣べ伝えるため,1945年11月に帰国しました。彼女の故郷ローザは,リスボンから400㌔余り離れた所にあります。親族の大半は真理を受け入れず,軽べつの態度を表わしましたが,二人の若いいとこは関心を示しました。プリフィカサンウは22歳になるマリア・コルデイロに,聖書と数冊の小冊子を贈りました。マリアの弟で,13歳になるアントーニオ・マヌエル・コルデイロは,生まれて初めて聖書を手にして興奮しました。アントーニオはいとこと初めて聖書について話し合った時のことについてこう語っています。
「いとこは,創世記の第1章を読んでから,美しい地球とそこにあるすべてのものを造られた神のお名前を見せてくれました。生まれて初めて,私は神のみ名,エホバを耳にし,その日以来,偉大な創造者への深い愛と感謝の念を培うようになりました」。
1年余りの間毎日,姉と弟は,畑仕事を終えて帰るのを待ち遠しく感じました。父親が,かけ事をしたり酒を飲んだりしに出かけたあと,いとこの家へこっそりと行って,聖書のことをさらに学べるからです。二人は,「エホバ」,「救い」,「子供たち」と題する書籍を読んだほか,神の言葉の基本的な真理の数々を学ぶようになりました。1年ほどして,訪れていたいとこは米国へ帰りました。しかしその人の努力は豊かに祝福されました。なぜなら,真理に関心を持つ二人のいとこと一人の女性があとに残ったからです。
確固とした立場を取る
忠誠の試みが早い時期にマリア・コルデイロとアントーニオ・コルデイロに臨みました。二人は兄弟たちから全く孤立していましたが,カトリック教会との交わりを絶ちました。すると,司祭が二人の親に会いに来て,十字架にせっぷんをするのを拒んだことでアントーニオとマリアを嘲笑しました。宗教的な祝祭日には,問題を避けるため,アントーニオとマリアは朝早く家を出て森へ行き,聖書と協会の出版物とを読んで丸一日を過ごしました。
2年ほど後,当時15歳だったアントーニオ少年は,病気にかかり,カトリック系の病院に入れられました。手術の前に告白と「祝祷」を断わったため,司祭と尼僧たちの怒りを買いました。アントーニオを家に引き取りに来た父親は,息子の行状に関する報告を受けました。父親は家で,「悪い行ない」すべてに対して許しを請うようにと言い,告白に行くことをアントーニオに命じました。こうして強制されたため,アントーニオは出かけました。そして,司祭と一対一になると,告白を拒んだ理由を説明しました。神だけが,キリストを通して罪を許すことがおできになると聖書は教えているからです。それはおよそ告白とは違っていました。少年は司祭に,聖書に基づいた自分の信仰について徹底的な証言を行なったのです。
アントーニオ少年は,法定年齢に達するまで家にとどまらねばならないことを知っていました。それで,両親の意向に従い,日中は従順に畑仕事をしました。しかし,夜は姉と一緒に聖書を研究し,あらゆる機会を利用して,自分が学んでいる良い事柄を他の人に話しました。『忍耐がその働きを全うした』と言えるのは実に感動的なことです。というのは,ヤコブ 1:4。
幾年も後に,その若い二人は共に,ポルトガルの最初の正規開拓者の中に数えられるようになったからです。アントーニオはやがて結婚し,長年にわたり巡回監督として奉仕しました。そして今でも開拓奉仕に携わっています。―組織することを学ぶ
王国の業をさらに組織する時が来ていたことは明らかでした。カルバーリョとガルリドの手紙にこたえて,協会は1947年5月に二人の代表者をポルトガルへ派遣しました。F・W・フランズ兄弟とH・C・カビントン兄弟は,5月5日にリスボン空港で8人の喜びにあふれた兄弟たちの出迎えを受けました。長年の間忠実を保った,それら少数の献身したエホバの僕たちにとって,それはすばらしいときでした。兄弟たちはフランズ兄弟が「組織の指示」という主題の話をポルトガル語で行なうのを聞いて大いに喜びました。そのとき,リスボンの最初の会衆の世話をするよう,4人の僕が一時的に任命されました。
その訪問中,カビントン兄弟,フランズ兄弟,カルバーリョ兄弟,ガルリド兄弟は,業の認可を得,宣教者を送り込む許可を得る可能性を調べました。しかし,その申し入れはにべもなく断わられました。
同年12月13日には,ノア兄弟とヘンシェル兄弟が初めてポルトガルを訪問しました。これはもう一つの里程標となりました。二人の兄弟と一緒に,ものみの塔ギレアデ聖書学校第8期で,スペインとポルトガルで奉仕するよう割り当てられたジョン・クックもやって来ました。悪天候のため飛行機が大変遅れたので,二日間の訪問が数時間に短縮されました。一行
は真夜中に到着し,翌朝の8時15分に出発したのです。一晩中,質疑応答がなされ,王国の業の進展について話し合いがなされました。その小さなグループが完全には一致していないことが極めて明らかになりました。出席者の中には,組織や真理そのものを批判する強情な人間だということをあからさまにした者たちもいました。そうした好ましくない精神のため,進歩がほとんど見られませんでした。一つ明るい希望が持てたのは,アルマダの姉妹たちのグループでした。
しかし,兄弟たちは必要な懲らしめを受け入れたので,業は発展しました。「組織の指示」という小冊子のほか,ブラジルから送られてくる「通知」の部数が増えたことは大きな助けになりました。クック兄弟が到着する前に,リスボンの群れは4人の伝道者の初めての奉仕報告をブルックリンへ送りました。戸別訪問の業を組織的に始めるようにという指示が与えられていました。証言を始めた最初の通りで,兄弟たちは400部の小冊子を配布し,その結果,聖書研究がたくさん始まりました。
宣教者の活動が始まる
1948年8月にクック兄弟がスペインからリスボンに着き,再度ポルトガルを訪れたとき,神権的に宣べ伝える方法を学びたいと願う一群の人々に迎えられました。しかし,古くからいる一,二の人は,組織の指示に従いたがりませんでした。その宣教者が初めて出席した集会は大変なものでした。クック兄弟はこう語っています。「アルマダの群れの人たちに初めての話をスペイン語で行ないました。エリーゼウ・ガルリドがポルトガル語に通訳してくれました。集会の結びの部分を
扱ったのは司会者を務めたカルバーリョ兄弟でしたが,最後に群れの人たちの前に立ち,信心深そうな様子で,聴衆の前に両腕を伸ばして会衆に祝福を述べました。何年もの間,カルバーリョは大いなるバビロンの習慣や考え方の多くを捨てず,大変扱いにくい人物でした」。1948年9月27日,クック兄弟が到着してから初めてのバプテスマが行なわれ,合計8人がバプテスマを受けました。エリーゼウ・ガルリドもその中に含まれていました。そのうちの6名は姉妹たちで,皆アルマダの人たちでした。しかし,リスボンの群れは“男性専用”という特色をもっていました。姉妹たちは温かく迎えられなかったのです。組織の方法が取り入れられると,リスボンの比較的古くからの兄弟たちの幾人かは,力を尽くして新しい宣教者を支持しようとはしませんでした。集会の出席者は減少しました。しかし,アルマダの姉妹
たちは,家から家の宣教に出かける熱意と意欲を持っていました。クック兄弟は次のように報告しています。「アルマダの姉妹たちと一緒に初めて宣教に出かけたときのことは決して忘れられません。6人全員が一つの家を一緒に訪問したのです。6人の女性が1軒の家の戸口を囲み,そのうちの一人が聖書の話をしているところを想像してみてください。しかし,少しずつ格好がつくようになり,物事は動き出しました」。
宣教者の到着は本当に祝福となりました。兄弟たちは,自分の意見を捨てて組織の指示に合わせるよう助けられ,神権宣教学校と奉仕会が開かれるようになりました。デルミーラ・マリアーナ・ドス・サントス・フィグエイレドは次のように語っています。「クック兄弟が来てくださってから,『ものみの塔』誌を質問と答えで研究するようになりました。それまでは一人の兄弟が朗読し,私たちは聴いているだけでした」。
印刷された証言カードを片づけて,家から家の業で用いる短い聖書の話を準備する時が来ていました。クック兄弟は,戸口でパンフレットだけでなく「ものみの塔」誌を紹介するよう兄弟たちを備えさせました。
最初の王国会館
宣教者の到着と同時に,兄弟たちは集会を開く場所として,プラサ・イリャ・ド・ファイアルという所に小さな部屋を借りました。業が栄えるようになったので,もっと広い場所の必要なことが明らかになりました。
1949年の記念式は,アルマダの,ある人の家で開かれました。兄弟たちは116名の出席者を見て胸を躍らせました。いつも使っていた居間には入り切れず,隣の部屋も,あふれた
人でいっぱいになりました。話し手は戸口に立って,両方の部屋にいる聴衆に同時に話をしました。それから間もなく,リスボンの群れはルア・パッソス・マヌエル20番地のしょうしゃなアパートの1階に集会場所を見つけました。それはポルトガルで最初の非公式の“エホバの証人の王国会館”として知られるようになりました。長年の間,そこは清い崇拝の中心地としての役目を果たしました。アパートに住む他の人々の注意を引かないため,兄弟たちはリスボンの王国会館で賛美の歌を歌いませんでした。しかし,川の向こうの個人の家で集まっていたアルマダの群れを訪問するときには,大声で長いあいだ歌う喜びを味わいました。
連絡を取る
トラース・オス・モンテスのローザの,孤立した人々は,その
ころ,米国のいとこからリスボンの兄弟たちの住所を入手しました。マリア・コルデイロは,「私たちを援助してくださる方をどなたか遣わしていただけませんか」と書いた手紙を出しました。彼女は激しく反対する家族からそれまでに数回打ちたたかれていました。ジョン・クックは400㌔の旅に出かけました。それは大変興奮に満ちた経験になりました。同兄弟は次のように話しています。「最寄りの鉄道の駅からローザの村へ行くのに山を3時間登りました。その地域は,『山々のかなた』を意味するトラース・オス・モンテスと呼ばれています。その名のとおりだということが分かりました。その村には道路が通じておらず,踏みならされた細いでこぼこ道があるだけでした。バスも自動車もなく,医師も薬局も警察も,そして一本の電話もありませんでした。家は石造りで,屋根は粗末なかわらぶきになっていて,煙突がありません。床で火をおこして料理をしますが,煙は屋根や戸の裂け目から出て行きます。村人は非常に迷信深く,カトリック教会に完全に支配されていました。
「家族の反対のため,マリア・コルデイロやその弟のアントーニオを訪問することは大変困難でした。私は,米国から来てその地域に真理を伝えたエホバの証人の母親の家に何とか泊めてもらいました。それでも,励みのある話し合いをするために,私たちは二,三度集まることができました。一方,私は家から家の業を行ない始めました。司祭は早速私のことを村人に警告しました。再訪問をしているとき,近所の人たちが,私の泊まっている家を襲って焼き打ちにするといううわさがあると教えてくれました。訪問先の家の人たちはそのうわさが本当だと言い,夜道を家へ帰るのはとても危険
だからといって自分たちの家に一晩泊まるよう私を説得しました。翌朝,町はうわさでもちきりで,張りつめた空気で満ちていました。「関心を持つ人の家に私がまだいるときに,地元のレジェドール(町の行政官)が私に会いに来て,私の行なっていることを自分で調べに来ました。短い説明を聞くと,行政官は満足して立ち去りました。そのあと司祭がやって来ました。司祭は家の中に入って来なかったので,わたしたちは外の街路に立って話しました。知らないうちに,わたしたちの話し合いを聞きに大勢の人が集まってきていました。その司祭は若い人でしたが,狂信的ではなかったので,穏やかで友好的な話し合いをすることができました。司祭は,教理に関して自分に不利な状況を切り抜けるため,『勝った知識』を持っていることを町の人たちに印象づけようとして,しばしばラテン語で聖書を引用しました。しかし,聖書を持っていないことを認め,自分用に聖書を1冊私から入手できるかどうか尋ねてから立ち去りました。そのことがあって,張りつめた空気は和らぎました。私は即座の話をして,多くの冊子を配り,平和裏に訪問を終えました」。
心霊術を克服して進歩
悪霊の影響を受けてフランス語で詩を書いていた,やもめの一婦人との聖書研究が始まりました。その婦人はフランスの有名な作家ビクトル・ユーゴーの霊に導かれていると信じていました。復活に関して詳しい討議がなされた結果,その人は真理を理解し,心霊術を捨ててバプテスマを受けました。リスボンで有名な霊媒だった心霊術者とも研究が行なわれました。その婦人は悪霊の影響を振り切るため精神的に厳しい
闘いをしなければなりませんでしたが,やがてその婦人もバプテスマを受けました。明らかにそうしたことが理由となって,指導的な心霊術者数名が討論しようと王国会館へやって来ました。宣教者は,エホバの証人が公開討論会に関心を持っていないことをはっきり述べました。そのグループの指導者たちは,自分たちの主な目的が宗教上の幾つかの事柄についてエホバの証人の見解を聞くことであるから非公開のものだと言い張りました。そして,会場を王国会館にすることと,話し合いは聖書に基づいて行なうということに同意しました。
その集まりの晩,心霊術者のグループのメンバー約50人がやって来ました。演壇には,それぞれの側のスポークスマンを務める二人の代表者がいました。心霊術の指導者が提出した最初の質問はマタイ 10章28節に基づくもので,次のように尋ねました。「聖書には魂は死なないと書いてあるのに,エホバの証人はどうして,魂は死ぬと信じることができるのですか」。クック兄弟は,それは簡単です,とあっさり答えました。同じ聖句の最後の部分を読めば,そこには「魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」となっています。それによって,インテリたちのグループの論議は覆されました。聖書だけに基づく討論が自分たちにとって難し過ぎることを悟った彼らは,クック兄弟に,エホバの証人の信仰のあらましを聖書から話して欲しいと頼みました。その結果優れた証言がなされました。
アゾレス諸島で業が始まる
一方,アゾレス諸島で興味深い事態が進展していました。サンタマリア島を除き,アゾレス群島の九つの島は火山島です。
温泉があり,雨量も多く,太陽の輝く夏が巡って来るので,植物が繁茂しています。オレンジ,アンズ,レモン,バナナ,イチジクといった果樹もたくさんあります。豊富な魚類は島民の食糧となっています。アゾレス諸島では,カトリック教会が幾世紀もの間人々の生活を支配してきました。また,島民はだれもが知り合い同士です。正義を愛する数名の人が聖書に対する純粋の愛を表わしたのはそうした状況においてでした。良いたよりがそれらの島に伝わる何年も前の1902年に,注目すべきことがピコ島で起きました。
アゾレス諸島の,神を恐れる6人の島民が5歳の男の子の葬式を執り行ないました。その人たちはカトリックの司祭に立ち合ってもらわずに式を行ない,新教の賛美歌を歌いました。そのような大胆な行為に,土地の司祭は激怒し,彼らを裁判にかけて,国教ばかりか神ご自身に対しても罪を犯したと訴えました。その件は1903年にアゾレス控訴院で審理され,やがて,リスボンの最高裁判所で扱われましたが,証拠不十分で却下されました。
裁判にかけられる前に,6人のうちの一人,ジョアンウ・アルベス・ペレイラ(ジョン・ペリー)は米国へ移民しました。そして,エホバの民と出会い,既に述べたとおり,ブルックリンのベテル家族の成員となり,1965年に亡くなるまでベテルで奉仕しました。ペリー兄弟がピコ島の家族と友人に送った最初の出版物には,「神の立琴」,「現存する万民は決して死することなし」などがありました。
その後,1902年のあの葬式に出席したほかの二人の人たちの息子も米国へ移民し,どちらも真理を学びました。そのうちの一人,イザアク・アービラ・フォンテスは,父親のジョゼ・
シルベイラ・フォンテスに文書を送りました。ジョゼは独りで研究し,良いたよりを他の人々に伝え始めました。1940年には,葬式に出席した3人目の人の息子,アニーバル・ヌネシュもエホバの証人と出会いました。アニーバルとその妻は,故郷の人々を援助しようという熱意と決意にあふれ,1947年に米国をたって,生まれ故郷のピコ島へ戻りました。二人が話しかけた最初の人の中に,近所に住むマリア・アービラ・レアルという若い主婦がいました。アニーバルがその婦人に証言している時,教会の鐘が3度鳴りました。信心深いカトリック教徒であったその主婦は,アベ・マリア(天使祝詞)を唱えることがどれほど重要かを説明し始めました。
ヌネシュ兄弟はマリアに,この地球の創造者はだれか知っているか尋ねました。「ええ,もちろん神様です」とマリアは答えました。「本当にそうですか」と念を押して,マリアの答えを確認したあと,ヌネシュ兄弟は,「地球を造られた時,神の母親はどこにいたんですか」と尋ねました。「神には母親はいません」とすぐに答えが返ってきました。それでヌネシュ兄弟はこう質問しました。「どういう意味で,『神の御母聖マリア』と唱えるのですか。神について言っているのですか,それとも神のみ子イエスについて言っているのですか」。三位一体が誤りであるということを,マリアは即座に納得しました。イエスは神ではなくて神のみ子であること,そして聖母とされているマリアはイエスの人間の母親であったことをすぐに理解しました。
ヌネシュ兄弟は,到着してから十日もたたないうちに,真理に耳を傾けるよう大勢の人を説得していました。ヌネシュ兄弟は実の兄弟の家で公開集会を開く取り決めをもうけました。82名が出席し,その多くは戸や窓のそばに立って聴きまし
た。講演はろうそくの光のもとで夜行なわれました。その講演は,マリア・アービラ・レアルが教会へ行かなくなったことと相まって,数百戸の家からなる小さな地域社会に大変な騒ぎを引き起こしました。461平方㌔のその島の集落や村々を結んでいたのは,荷馬車の通る道だけでしたが,教会が非常に熱心な会員一人を失ったというニュースは野火のように伝わりました。敵意を抱いた司祭は,若いマリアに恐れを抱かせようと躍起になり,マリアについて根も葉もないありとあらゆる事を言い広めました。近所の人々はマリアを村八分にして嘲りとののしりの矛先を向けました。しかし,それはいずれも効果がありませんでした。神の言葉の真理は良い土に落ちたのです。マリアは非常に熱心で勇気のある伝道者となり,数年にわたり特別開拓者として奉仕しました。
1949年のこと,マリアの23歳の兄弟はこの新しい宗教を奉じないようマリアを説得しようとしました。ある日マリアは「宗教は狂風をかりとる」と題する小冊子をその人に贈りました。その人は小冊子に触れたくもないと思うほど偏見に満ちていましたが,どうした風の吹き回しかそれを受け取りました。エホバの証人の文書を持っていることを知られるのを恐れて,その人は小冊子を丘のほら穴に持って行き,そこで最初から最後まで丹念に読みました。その小冊子の音信は,マヌエル・アービラ・レアルにすぐに影響を与えました。マヌエルはカトリック教会との交わりを絶ち,エホバの証人と集まり合うようになりました。マヌエルは今でも,その1冊の小冊子の音信がぐさりときたことをはっきりと記憶しており,こう語っています。
「神の言葉の真理を私に確信させてくれたのは,この忘れることのできない小冊子の中で,非常に明確かつ大胆に偽りの宗教を非としていた強力な聖書の真理でした」。
同じころ,1902年に司祭を呼ばずに葬式をしたかどで裁判にかけられた6名の人の一人ジョゼ・シルベイラ・フォンテスがサンミゲル島に引っ越しました。サンミゲル島は九つの島のうち最大の島で,以前は二つの火山だったのが,大量の溶岩と灰を噴出した結果,その二つはやがて一つになりました。ランと茶のかん木の茂るこの島で,ジョゼは「ものみの塔」誌から自分が学んでいた事柄を他の人々に話しました。主要な都市であるポンタ・デルガダで非公式に宣べ伝えた結果,地元のエホバの証人がまず4人生まれました。二人の姉妹,マリア・ローザとマリア・レイテは今でも熱心にエホバの名前を宣明しています。
別の島グラシオサでのこと,ある港湾労働者は仕事仲間の
ポケットから1枚のパンフレットが落ちるのに気づきました。その人はそれを拾って,読んでもいいか尋ねました。仕事仲間は,船の乗客がくれたのだが,自分は文字が読めないと言って喜んで読ませてくれました。港湾労働者のマヌエル・モニシュ・ベッテンコールトは,「新しい世」と題するそのパンフレットを読みました。そして協会に手紙を書いて,パンフレットをさらに送ってもらい,島じゅうにそれを配布し始めました。真理の種はグラシオサ島でまかれていたのです。こうして,もう一人の証人の宣教が始まりました。さらに幾人かの宣教者が到着する
1950年には,二人のギレアデ卒業生ポール・ベーカーとケネス・ウイリアムズがピコ島にやって来て,アゾレス諸島の業は新しい時期を迎えました。超保守的でカトリックの支配的なこの島で,業は進展し始めたのです。しかし,僧職者の圧力を受けた政府はその宣教者たちを追放しました。しかし,それまでに良い業が行なわれたので,21名という伝道者の新最高数が得られていました。ポール・ベーカーはビザを申請し直し,それは承認されました。しかし,ほどなくして警察がベーカー兄弟の下宿にやって来て,共産主義の活動に携わったかどで兄弟を逮捕しました。そして,次に出航するリスボン行きの船に連れて行かれ,リスボンで1週間拘置所に入れられました。そこで,でっち上げられた嫌疑は取り下げられましたが,国外退去を命じられました。
その間,ポルトガルの業は着実に前進していました。イベリア半島で3年間独りで働いていた,ジョン・クックは,1951年に二人の宣教者メルビン・パースローとバーナード・バックハウスを迎えて喜びました。
1951年のF・W・フランズの訪問
F・W・フランズ兄弟の再度の訪問に期待を寄せて,リスボンでは興奮が高まっていました。忙しい1週間の最高潮は,傘のような大きな木々の下で開かれた一日大会でした。90人が出席し,11人がバプテスマを受けました。ポルトガルで業が始められて日の浅いその当時,統治体の成員の訪問を度々受けたことは,兄弟たちが業の中核を身近に感じる助けとなりました。
訪問の最後の夜,フランズ兄弟は宣教者の家で別れの話をしました。主題は,「火のバプテスマ」という心を引きつけるものでした。そのあと,宣教者の家の付近は人通りがいつもよりも多くなりました。近所のだれかが苦情を言ったに違いありません。というのは,翌朝早く,秘密警察の係官が事情を調べるためにやって来たからです。係官は事態をのみ込んだ様子でした。もっとも,宣教者が秘密警察を見掛けたのはそれが最後ではありませんでした。しかし,宣教者たちは貴重な教訓を学びました。つまり,それ以降,活動を余りおおっぴらに行なってはいけないという教訓です。
クック兄弟は,スペインの諸会衆を訪問して英国の国際大会に出席するフランズ兄弟に同行するためリスボンをたちました。バックハウス兄弟のビザの期限が切れ,当局者はその更新を拒みました。したがって,その後間もなくバックハウス兄弟はスペインに向けて出発しなければなりませんでした。クック兄弟の方は病気にかかってしまい,戻って来ることができませんでした。業の世話をするために残っていたただ一人の宣教者はパースロー兄弟でしたが,この兄弟も重い病気にかかっていました。その後,同兄弟は比較的若くして
亡くなりました。その生涯はオーストラリアとポルトガルで献身的に奉仕した実りあるものでした。組織を清める
前途には幾つかの重大な問題が控えていました。ある者たちが批判や陰口をほしいままにするようになったのです。特に二人の兄弟が,業の指導の仕方に心を乱していました。その一人でサントスという名の時計屋は,O Nosso Pastor(我々の牧者)という言葉を刻んだジョン・クックの肖像画を売り始めました。この頑固な人物は,真理に比較的古い兄弟たちの幾人かを自分につかせることに成功しました。
サントスは自分が僕に任命されない理由が理解できず,ブルックリンに長い手紙を幾通も書きました。そうした手紙の一通の中で次のように書いていることから,サントスがどんな考えを抱いていたかが分かります。「私は確かに王国会館に掛ける時計を宣教者に贈りましたが,それでも,宣教者たちは私を僕にしてくれませんでした」。
サントスは,それまで数か月の間どの集会にも出席していなかったジョアキン・カルバーリョと一緒になって不満を述べることが多くなっていきました。そして二人は,宣教者がポルトガル人でなく,ポルトガル語を十分に理解しておらず,自分たちのように土地の状況を本当に把握してはいないということを他の人々にほのめかしました。こうして,二人は不満の種をまいたのです。それは伝道者の大多数にどんな影響を与えたでしょうか。出席者数が減少しました。組織との関係を絶って別個の集会を開くようになった者たちもいました。しかし,忠実な宣教者は,エホバが物事を導かれることを信頼し,忍耐しました。
その兄弟の祈りは答えられ,1952年2月にノア兄弟とヘンシェル
兄弟の訪問がありました。また,元気になったクック兄弟が戻って来ました。不満を持つ者たちと僕たちおよび宣教者たちの集まりが開かれました。それは大変興味深い集まりとなりました。不満を持つ人々と僕たちは長い陳述をタイプで打って用意していました。しかし,ノア兄弟はちょっとした身振りをして,用意された書類を皆脇へ押しやり,こう言いました。「書類は要りません。ここにはあなた方の兄弟たちがいます。さあ,この人たちに何か不満があるなら,それを率直に言ってみてください」。問題に対するこうした直接的で,簡潔で,聖書的な取り組み方に,いざこざを起こしていた者たちはすっかり困惑してしまいました。そしてしばらくの間何を言ったらよいのか分からなくて,まごついていました。するとノア兄弟はこう言いました。「さて,ここに1時間座っていますが,皆さんが実際に不平を述べたことといえば,この姉妹(通訳していた人)が,集会であなた方の一人が述べた何かについて微笑したということだけですね」。すると数人の者が,自分たちが軽んじられていると感じている特定の点を幾つか挙げました。主に不平を述べた二人,すなわちサントス兄弟とカルバーリョ兄弟は明らかに悪い精神を示して,けん責されました。言うまでもなく,出席者全員に,個人の不和はさておいて,良いたよりを宣べ伝えるという真に重要な業を推進するよう率直な良い助言が与えられました。
その日の午後アルマダで行なわれた集会で,ノア兄弟は出席していた122人の兄弟に強い助言を与え,エホバの組織に対してすべての人が抱くべき正しい態度を説明しました。そのとき,二つの群れから成る一つの会衆の監督としてクック兄弟が任命されました。
早速反発が起きました。サントス兄弟はその任命を認めよう
とせず,研究の群れは自分の家で開かれているから自分のものであると述べ,組織に従いたい者は自由にそうすればよいと述べました。また,提供した時計を返して欲しいと言いました。クック兄弟がカルバーリョ兄弟の司会していた書籍研究に出席しようとすると,入室を断わられました。間もなく,その独立的な群れは活動しなくなり,サントスとカルバーリョはやがて排斥されました。サタンがポルトガルの神権組織を破壊しようとしていたことは明らかです。しかし,それは成功しませんでした。ノア兄弟の訪問の後,状況全体は急速に好転しました。その奉仕年度の終わりには62名の伝道者が報告し,記念式では207名の新最高数が得られ,新たに関心を持つ人々が急激に増えました。
こうした事情は,「1954年の年鑑」の報告で次のように要約されました。「エホバの証人に関する限り,1952年に徹底的な浄化が行なわれました。この国の今年の報告は,新世組織を清く保つことの大切さを示しています。というのは,すばらしい増加が見られるようになったからです。……神の言葉の側に立たず,神がわたしたちに絶えず教えてくださっている優れた原則に従わない者たちについて言えば,会衆は伝道者を失うことを決して恐れるべきではありません。エホバがご自分の組織を世話しておられることを忘れてはならないのです」。
クック兄弟が出国を余儀なくされる
ポルトガルの二つの会衆は規模の点でも円熟性の点でも成長していました。1月に,エリーゼウ・ガルリドがポルトへ引っ越し,ポルトガル第二の都市での王国奉仕のとびらを開きました。しかし,予期しない出来事が待ち受けていました。
当局はクック兄弟のビザの更新を拒んだのです。ポルトガルにおけるクック兄弟の宣教者としての奉仕は終わりました。ポルトガルに別れを告げ,アンゴラへ向かいます! クック兄弟は現在南アフリカ支部で忠実に奉仕しています。マデイラ島
王国の業はマデイラ島でも行なわれるようになっていました。ポルトガル語のマデイラという言葉には「森」という意味があります。山の多いこの島が発見された1420年ごろ,島には人が住んでおらず,深い森に覆われていたのでこの名が付けられました。人口は約25万7,000で,渓谷の入口や比較的低い傾斜地にある町や村に固まって住んでいます。ニューヨーク出身の開拓者,フライタス兄弟がこの島で数か月過ごしました。良いたよりを宣べ伝えたのはフライタス兄弟が最初だったようです。兄弟の努力は豊かに祝福され,間もなく4人の伝道者が報告するようになっていました。1954年の初めての記念式には,すばらしいことに,21名という出席者がありました。
コルデイロが良いたよりを広める
一方,ポルトガルでは,トラース・オス・モンテス出身の少年アントーニオ・マヌエル・コルデイロがポルトガルの最初の補助開拓者の一人になっていました。コルデイロはそのときにはリスボンに来ていて,兄弟たちとの交わりや野外奉仕に時間を用いていました。コルデイロ兄弟のいとこは,この度は息子を連れて,米国から再びやって来ました。同兄弟は思い出をこう語っています。
「1954年の夏,いとこの息子と私は孤立した区域で半年間良いたよりを広めることにしました。私たちはブラガンサや
ガルダの片いなかの幾十もの村で証言しました。司祭が苦情を述べたのでサルディン村で逮捕され,ガルダ市へ連行されて,地下ろうへ投げ込まれました。そこで一晩を過ごし,長時間の尋問を受けた後,指紋を取られて釈放されました。唯一の交通手段は自分の足で,時折,牛車に乗せてもらうこともありました。食糧は包みに入れて運び,道々パンとチーズを買いました。時々ペンサンウ[下宿屋]で温かなおいしい食事をとりました」。セイショ・デ・カルラゼーダ・デ・アンシアンイスに着くと,そこにはペンサンウといったものがないことを知りました。しかし幸い,アントーニオが最初の日に証言したある家族が,村のすべての家で証言し終えるまで食事と部屋を提供してくれました。別の村へ遅い時刻に到着したところ,寝られる
場所は,ロバの隣の干し草のベッドしかありませんでした。当時を振り返って,アントーニオはこう語っています。「そうした状況にがっかりしたり,不満を持ったりしませんでした。むしろ,それらの人々に良いたよりを伝える特権を得て幸福感でいっぱいでした」。前途に垂れ込める暗雲
ギレアデの卒業生である宣教者のエリック・ブリテンは支部を監督するため妻のクリスティーンを伴って1954年11月にブラジルからやって来ました。浜辺の樹木に覆われた場所で定期的に「ピクニック」を開くことが習慣になりました。後に,それら樹木に覆われた場所はオ・サランウ・ド・レイノ・ベルデ(緑の王国会館)として知られるようになりました。これは霊的に非常にさわやかにする機会となりました。1955年5月,コバ・デ・バポールの地区で特別な一日「ピクニック」が取り決められました。兄弟たちはタグス川を渡って浜辺へ行くフェリーボートを借りました。しかし,間もなく招かれざる客のいることに気づきました。二人の私服警官が1日じゅう兄弟たちと行動を共にしたのです。その「ピクニック」には,最高数の230人が出席しました。
翌朝,秘密警察の係官が何人かの兄弟たちの家を訪れました。兄弟たちは次のような質問を受けました。どんな種類の組織に属しているのか。講演者はだれか。そのうちの幾人かは外国人ではないか。昨日浜辺で集会を開いたのは本当か。そのようなピクニックをどれほど頻繁に行なうのか。これは,警察が証人たちをよく観察していることを初めて示した出来事の一つでした。
1956年には,P・I・D・E(国際警察国防庁)として知られている秘密警察がさらに頻繁に集会に姿を現わしました。
7月に,親切な近所の人が,宣教者のメルビン・パースローに,警察が同兄弟夫妻を監視していると告げました。パースロー姉妹は生まれながらのポルトガル国民だったにもかかわらず,それから間もなく,二人はポルトガルから追放されました。さらに,警察が干渉した結果,リスボンの二つの集会場所は閉鎖されました。ポルトでの発展
ポルトでは,業が大いに発展していました。1955年に最初の会衆が組織され,1956年には最初の王国会館を借用する運びとなりました。1957年,F・W・フランズ兄弟は,ポルトで喜びにあふれた30名ほどの聴衆に話をしました。それから間もなく研究を始めた人の中に,アルマンド・モンテイロと妻のルイザがいます。二人はやがて,この歴史的な都市で王国の関心事を熱心に推し進めるようになります。ポルトは新たな祝福を受けました。二人の宣教者,すなわちスペインから
追放されたドメニク・A・ピコネと妻のエルサがやって来たのです。1959年には,ギレアデ第33期生のロバーツ夫妻とベブリッジ夫妻がやって来て,ポルトガルは宣教者の援助をさらに受けることになりました。非公式の証言
ポルトにおいて,あるいはポルトガルの他のどこにおいても,非公式の証言が,真理を学ぶよう他の人を助ける優れた方法だということを兄弟たちは知りました。例えば,ポルトガルの最初の伝道者の一人アルピナ・メンデスはカルデラスの湯治場で治療を受けていました。そこにいる間に,ジョゼ・マリア・ランサというジャーナリストに証言しました。それから15日間二人は神の目的について毎日話しました。その間に,ランサは「神を真とすべし」という本を2度読みました。リスボンへ戻ると,ランサは聖書研究を始め,間もなく集会に出席しました。4か月後にはバプテスマを受け,今では旅行する監督となっています。
リスボンの公園や庭園は,回復されたパラダイスについて話すのに優れた自然の舞台となっています。現在長老であるアルマンド・ローレンソは,1956年に自分が聖書を学んだいきさつを次のように語っています。「陽光がさんさんと注ぐある日のこと,リスボン・カンポ・グランデ公園で腰掛けて聖書を読んでいました。そこへジォズエ・ギリェルミノが腰を下ろして,フィリポがエチオピア人に尋ねたように,『あなたは自分の読んでいる事柄がほんとうに分かりますか』と聞きました。私は,エチオピア人がフィリポに尋ねたように,『だれかが手引きしてくれなければ,いったいどうして分かるでしょうか』と言いました」。(使徒 8:30,31)ローレンソ兄弟は4か月後にバプテスマを受け,やがてギレアデ学校に入学 し,ポルトガルへ戻って来て,長年の間各地で巡回監督として奉仕しました。
カボベルデに真理が伝わる
1958年に王国の真理の種が初めてカボベルデ諸島にもたらされました。十の島から成るこの群島は,アフリカの西海岸の440㌔ほど沖合いの大西洋上にあります。米国へ移民した島民のひとりが1958年にここを訪れ,相当量の文書を配布し,「ものみの塔」誌の予約を得て帰りました。
1958年の末ごろサンチアゴ島で,協会の文書が幾冊か熱心な人々の手に渡りました。ルイス・アルベス・アンドラーデは,写真家の友人を訪ねた際に,「御国のこの良いたより」と「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」と題する2冊の小冊子を見つけ,それを読ませて欲しいと言いました。この男の人は小冊子をそれぞれ注意深く研究し,古い聖書を使って参照聖句をすべて調べました。1週間後,友人のところへ行き,「神を真とすべし」という本を見つけて胸を躍らせました。アンドラーデはそれを喜んで受け取り,最初から最後まで独りで徹底的に研究しました。そして,神の言葉の真理がエホバの証人によって教えられていることは間違いないと感じました。アンドラーデは2冊の雑誌の予約購読を申し込みました。かなりの年月の間,予約した雑誌が霊的食物を受け取る唯一の手段でした。
拡大の時
関心を持つ人々が増加し,王国会館は出席者であふれるほどになりました。ポルトガルに拡大の時が来ていたのです。それで,ピコネ兄弟が最初の全時間の巡回監督に任命され,全国各地の孤立した群れや関心を持つ人々を訪問しました。最北端
のミニョ地方のモンサンウに住む関心のある婦人の家に着くと,外人が町に来ているといううわさがぱっと広まりました。ピコネ兄弟がその婦人に証言を始めるか始めないかのうちに,近所の人々がやって来ました。他の人々を訪問するためにその家を離れる必要はありませんでした。良いたよりをぜひ聞きたいという人々でその家はいつもいっぱいだったからです。1959年の秋に,ピコネ兄弟はアゾレス諸島を訪問しました。同兄弟はこう語っています。「九つの島のうち波止場があるのは二つだけですから,アゾレス諸島を訪問することはちょっとした経験となります。大西洋の真ん中に位置しているので,島の周囲の海が荒れていることは珍しくありません。私たちが着いたときもそうでした。汽船のはしごを降りて,待機しているボートに乗り移るのは大きな挑戦でした。波でボートがはしごと同じ高さの所に来るまで待って,時をたがえず,望みをかけて跳び移らなければなりませんでした。協会の映画の装置,荷物,文書を船から無事に下ろすのは大仕事でした。それが終わると,熟練したこぎ手が,船の転覆を避けるために岸に着くタイミングを考えながら,波の間をぬって進みました。
「ピコ島で映画を上映することにはさらに問題がありました。兄弟たちは電気のない村に住んでいたので,どんな取り決めをもうけられるか調べるため隣の町まで歩いて5マイル(8㌔)ほど行かねばなりませんでした。町へ向かう途中,ぶどうを摘んでいたある男の人は私が外来者であることに気づき,自分のぶどう酒の倉を見るように私たちを誘い,親切にぶどう酒を勧めてくれました。会話は映画を上映する話になりました。驚いたことに,その人の弟で,ぶどう搾り器のぶどうを踏んでいた人が土地の映画館を所有していたのです。
その映画館で次の晩に協会の映画を上映する取り決めができました。翌日映画館に行ったところ,快い驚きを覚えました。映画が上映されることを近所のすべての人に知らせるため,花火が上がっていたのです。150人ほどの人が映画を見に来ました」。アゾレス諸島全体に真理は引き続き広がってゆきました。1960年に,大西洋を横断する飛行機の旅行者にはなじみの深いサンタマリア島に真理が伝わりました。飛行機の修理で出発が遅れている間に,ひとりの兄弟は時間を活用して,空港で男の人に証言しました。その人は「ものみの塔」誌を予約しました。兄弟は他の人に話すようその人に勧め,十分な数の人が雑誌を予約するよう取り決めることができるなら,聖書を理解する助けを得るために,協会の代表者の訪問を受けることができると話しました。その人は友達の所へ行って幾つか予約を得ました。そして協会に手紙を書き,自分たちを訪問してくれる人をだれか派遣して欲しいと申し込みました。19人の人が協会の映画を見にやって来たので,旅行する監督は驚きました。
1961年には胸の躍るようなことがありました! 長年の間,ポルトガルの伝道者は王国伝道者の数が1,000人を超えることを切望していました。その非常に重要なときが1月にやって来たのです。伝道者数は,前年の平均の30%の増加を見ました。
聖書の配布
聖書を手に入れることが難しかった1940年代に,エリーゼウ・ガルリドは古本屋へ行って古本の聖書を何冊も買い込みました。ある時など,1冊5エスクード(米ドルにして17㌣)というわずかな額で25冊も買ったことがあります。
マヌエル・アルメイダは,1960年に,著名な聖書協会とのやり取りで興味深い経験をしました。アルメイダはこう語っています。「私はリスボンの証人たちみんなのために聖書を購入していました。その数量は絶えず増加し,2割引きで購入することができました。ある日理事は,聖書協会が何冊輸入したらよいか知ることができるよう,正規の継続注文をするようにと言いました。証人たちは毎月少なくとも125冊得られたらありがたいと言ったところ,理事はびっくりしました。聖書協会の毎月の注文の合計はわずか250冊だったからです」。
エホバの証人が,その聖書協会の受け取る聖書の総数の半分を配布していたことを知ったのは大きな励みとなりました。その「聖書の愛好家たち」は,宗教的偏狭に取りつかれたようです。というのは1960年の後半になって,聖書協会はエホバの証人にもはや大量の聖書を供給しないとアルメイダ兄弟に通知してきたからです。
マカオに良いたよりが伝わる
南シナ海の沿岸,広東<カントン>川と珠江<チューチャン>のデルタ地帯に位置するポルトガルの海外領マカオで王国の業が始められたのは1961年のことでした。マカオは,1557年の昔から,中国本土と交易をした最も古いヨーロッパの植民地という特徴をもっています。軍隊にいた夫と共に,一人の姉妹がマカオへ引っ越しました。自分の話す言葉を話せる人がほとんどいませんでしたが,その姉妹は王国の真理の種をまきました。翌年,姉妹はポルトガルへ戻りました。数人の関心を持つ人と予約購読者は香港支部の世話を受けるようになりました。
アンゴラの困難な時期
連絡をよりよく保つため,アンゴラの業は,1960年に南アフリカ
からポルトガルの監督下へ移されました。アンゴラの警察はエホバの証人の監視を強化しました。1959年2月,P・I・D・Eは地帯監督のアーノット兄弟に,入国許可を与えようとしませんでした。それから警察は,白人の証人とアフリカ人の兄弟たちが一緒に集会を開いたり交わったりすることを一切禁ずる厳しい命令を出しました。その時から,二つのグループは別個に秘密の集会を開きました。1961年3月,恐怖と暴力と破壊の波が,コンゴの国境からアンゴラを襲いました。幾つかの村が焼き打ちに遭って全焼しました。手足などが切り取られ,だれであるか見分けがつかなくなった黒人と白人双方の死体が発見されました。男性は首をつられて豚のように殺され,女性は腹部を切り裂かれ,子供たちは虐殺されました。その非道な大量殺りくが起きて間もなく,エホバの証人はテロ行為のかどで非難されるようになりました。先頭に立ってそのように事実をひどく誤り伝えていたのはローマ・カトリック教会でした。カトリック系の雑誌「ア・プロビンシア・デ・アンゴラ」は,証人の出版物は破壊活動をあおると非難しました。
テロ行為に対する戦いがやがて総力をあげた対決になる
と,政府の公式出版物は,アンゴラのテロ行為を扇動した責任をエホバの証人になすりつけようとしました。そうした出版物の一つ「ウルトラマー」は次のように述べました。「テロ行為が始まる前この宗派は,特にルアンダとモクシコの地域でアンゴラの人々に影響を与えたことを,シルバ・クニャ博士は認めている。我々も,クニャ教授の推測が十分根拠のあるものであると考える。……ものみの塔は規模が大きく資本も大きい,アメリカの運動である。米国は,たとえほかに何の成果を得ないとしても,少なくとも大いに威信を高めることから直接の益を得るであろう。……ホワイトハウスがアフリカでこの運動に何らかの保護を与えていることは想像できないことではない」― 1964年第5巻,17号,54ページ。この種のゆがんだ考え方が激しい国家主義的な精神に火を付け,それに伴って兄弟たちが厳しい監視を受けるようになったことは想像に難くありません。アフリカ人は3人を超えて交わってはならないという厳しい制限が課されました。そのため,ルアンダの兄弟たちは集会を組織し直し,もっと小さなグループで開くようにしました。非常に張りつめた状況にあったにもかかわらず,1961年3月の記念式に130名の出席者があり,兄弟たちは感激しました。
中立は祝福となる
テロ行為が起きた時,その責任が本当にエホバの証人にあるのかということで当惑した人は少なくありませんでした。カルロス・アゴスティーニョ・カディはアンゴラ北部の,コンゴ国境近くの農園で働いていました。命を失う危険が非常に大きかったので,農園の所有者は,カディ兄弟にあとを任せてコンゴへ逃げました。農園の主人がコンゴへ出発するやいなや,ポルトガル軍が進軍して来て,アフリカ人の労働者
全員を逮捕しました。そして,テロリストの疑いがあるとして,全員を射殺するよう命令しました。命ごいをしても全く聞き入れられませんでした。その時カルロス・カディは,持っていた書類を兵士に見せました。それは自分がエホバの証人で,テロ行為と全く関係のないことを証明するものでした。そのおかげで,処刑は後に回されました。到着してその書類を調べた司令官は,取り調べのためカディをP・I・D・Eに引き渡しました。こうしてカディは命拾いをしました。
信仰の人
1943年に協会の出版物に接したアフリカ人,ジョアンウ・マンコカは,そのころルアンダにいました。1961年6月25日,マンコカがルアンダで「ものみの塔」研究を司会していると,警察軍が銃剣の付いた武器を手にして突然現われました。警官
は姉妹と子供を家に帰してから,兄弟たちをむごい目に遭わせました。マンコカは次のように話しています。「私たちがどんな扱いを受けたかは口で表現できません。兵士を率いていた伍長は私たちを打ち殺してやると言ってはばかりませんでした。残酷に殴られて肉の塊同然にされると,その伍長の言葉がうそでないように思えました。手錠を掛けられ床に横たわった私は,木のこん棒で何度もひどく殴打され,その後90日の間血を吐いたほどでした。しかし今度は,木のこん棒で残忍な殴打を受けた仲間たちの命のことが心配になりました。祈りの中でエホバに,ご自分の羊であるその人たちを顧みてくださるようお願いしました。だれか死ぬに違いないと考えて,兵士たちは夜の間およそ30分ごとにやって来て,死んだ者がいるかどうか尋ねました。兵士たちは,私たちが非人間的な拷問に遭いながら生き延びたことを非常に不思議に思っている様子でした。そして,私たちが生き延びたので,この神は真の神に違いないとだれかが言うのを耳にしました」。
兄弟たちは5か月間,ルアンダのサンパウロ刑務所にいました。約600人が収容されている大きな獄舎に移されたとき,兄弟たちは機会をとらえて証言しました。マンコカ兄弟は3回にわたり,300人を超える受刑者たちに話をすることができました。その人たちは後日釈放されましたが,そのうちで真理を受け入れた人は少なくありませんでした。そして幾人かは現在ルアンダで長老として奉仕しています。エホバの僕を沈黙させ,おじけづかせようとした刑務所当局者の計画は裏目に出てしまいました。
その後,兄弟たちはアンゴラの南部に移され,さらに5か月間,モッサーメデスの秘密警察の刑務所に入れられました。厳しい監視を受けてはいましたが,非公式の証言の機会
を捕らえ,定期的に書籍研究を開くことさえできました。ここでもまた,すばらしい証言がなされました。不法な政治活動で有罪となっていた幾人かの受刑者は,短期間に,神の王国が人間の唯一の希望であることを悟りました。次に兄弟たちは,流刑地となっている島バイア・ドス・ティグレスへ送られ,「居住制限」の刑を言い渡されました。つまり,政府の労働収容所で,動きを制限されたのです。ある労働収容所にいた兄弟たちに送られた文書が差し押さえられました。怒った労働収容所の管理者は,はるか内陸のセルパ・ピント付近に建てられて間もない労働収容所へ兄弟たちを送るという罰を与えました。3か月後,他の130人の囚人と共に,ジョアンウ・マンコカと3人の兄弟たちおよびサラ・ラモス・フィレモンは,家畜運搬車でその労働収容所へ移されました。到着早々そこで受けた仕打ちは,前途にあるものの恐ろしい予告編となりました。
兄弟たちは動物のように運搬車から駆り立てられ,激しく殴打されて小突きまわされました。またもや,余りにも荒々しく殴られたので,兄弟たちは死ぬかと思いました。その収容所には有刺鉄線がすっかり張り巡らされていました。重労働を課せられ,食べ物はほとんどなく,着る物は全くないという苛酷な状況が日常のことになりました。兄弟たちは,魚の干物,質の悪いトウモロコシの粉,そして固い信仰で生きていました。非人間的な扱いに耐えきれず,4人の政治犯が脱走を試みましたが,捕らえられ,全員拷問にかけられて殺され,みせしめにされました。
ポルトガルで反対が始まる
1961年にアンゴラで起きたテロ行為はポルトガルの業に早速影響を及ぼしました。エホバの証人は一般大衆を唆して反乱
を起こさせているという偽りの宣伝がポルトガルに洪水のように流れ込んできたために,ポルトガルの警察はエホバの証人の伝道活動に干渉するようになりました。リスボンの東方約130㌔にあるエボラという町で,オラーシオ・アルナールド・デュアルテという開拓者は地元のP・I・D・E本部に呼び出されて取り調べを受けました。警察は手足を切り取られたポルトガルの兵士の写真を見せ,その責任がエホバの証人にあると言いました。1961年の夏,特別開拓者のアルツー・カナベイラは何週間もP・I・D・Eの係官に尾行されました。そして,9月に逮捕されました。カナベイラ兄弟はその時のことをこう語っています。「私は破壊活動,および共産主義と何らかの関係があるとして訴えられました。3か月間尋問を受け,無理やり共産主義者であることを認めさせようとするためのひどい殴打を経験しました。混乱させようとして,一度に四,五人の係官が質問を浴びせるのです。尋問はいつも,抵抗力が一番弱っている夜に行なわれ,悲鳴を消すためにラジオがかけられていました」。
その間,リスボン郊外のフォルト・カシアスのP・I・D・E刑務所へ移されるまで,ずっと独房に入れられました。そして,1962年1月22日に釈放されました。
それからわずか四日後の,同年1月26日に,当時支部の監督だったエリック・ブリテン兄弟,ドメニク・ピコネ兄弟,エリック・ベブリッジ兄弟およびそれぞれの妻たち,つまり宣教者全員はP・I・D・E本部に呼ばれ,30日以内に国外へ出るよう命じられました。自分たちの宗教について他の人々に話し,中立の立場を取るよう教えているからだ,とその理由を告げられました。ベブリッジ兄弟姉妹の取り調べのとき,P・I・D・Eの局長は,ポルトガルの一青年が兵役を拒否すると
いうそのころ起きた出来事に言及し,青年のそうした行動の責任はエホバの証人にあるとしました。そして,ポルトガルでは良心的兵役忌避は許されないと付け加えました。宣教者たちが去って行くのは大きな打撃で,多くの涙が流されました。宣教者たちは本当にできる限りのことを心から行ない,その熱意と立派な模範のゆえに深く愛されました。ブリテン兄弟姉妹は,やがてブラジルへ戻り,今でも巡回の業を行なって全時間奉仕しています。ピコネ兄弟姉妹にとっては,宣教者として派遣された土地から追放されたのは,これが二度目でした。二人はモロッコへ行きましたが,現在ではエルサルバドルにいます。ベブリッジ兄弟姉妹はスペインに任命され,そこで19年間奉仕した後,ブルックリンのベテル家族となりました。
王国宣教学校
宣教者が追放される直前に,最初の王国宣教学校を開くことができたのは,実に時宜を得たことでした。ポルトガルの20人の会衆の僕たちに,前途の困難な時期の準備をさせたその学校は非常に時宜にかなった備えでした。それらの兄弟の大半が今も忠実に奉仕していることは,本当に大きな喜びです。これまでに幾年にもわたって継続的な課程から有益な教訓が得られ,福音宣明の精神を生き生きと保たせるだけでなく,業の統一をもたらす結果になってきました。
開拓者たちが先頭に立って業を行なう
宣教者たちが去ったため,地元の兄弟たちは宣べ伝える業を続行するという挑戦に応じました。当時を回顧して,巡回監督のギルベルト・セケイラはこう語っています。
「協会が1958年に宣教者をポルトガルへ派遣したとき,私たちも自分の最上のものをエホバにささげるべきであり,もし可能なら,開拓者の隊ごに加わるべきだと思いました。幼い娘がいましたが,私は1959年に特別開拓者になり,与えられた祝福すべてを他のいかなる生き方とも交換しようとは思っていません。最初に任命されたのは,リスボンの外れのモスカビデ会衆でした。多くの場所で研究が始まりました。人々はお金をほとんど持っていなかったので,卵やオレンジやレモン,ケーキその他の品物と文書を交換することが少なくありませんでした。自分が研究した何人かの人が,現在訪問する特権を与えられている会衆で,それぞれ長老として奉仕しているのを見るのは本当に大きな祝福です。全時間奉仕,およびエホバとの間に培う貴重な関係に比べ得るものは何もありません」。
エンリケ・アルケス兄弟も,その当時開拓者の隊ごに加わりたいと心を動かされた伝道者の一人でした。妻と共に20年余り全時間奉仕に携わってみて,同兄弟はこう述べています。「開拓者がもっと必要であるという知らせがあったので,私は喜んでそれに応じました。小さな始まりの日を決して侮ってはならないということを学びました。マデイラ島,アゾレス諸島,カボベルデ諸島での奉仕を含め,ポルトガルのあらゆる土地へ行くことができたのは特権でした。高収入の仕事を提供されたこともありましたが,それらはエホバが提供してくださるものに決して太刀打ちできません」。
支部事務所が地下に潜る
警察の監視が厳しくなったので,支部は地下で活動するために再組織を余儀なくされました。支部は,リスボンで紳士服の仕立屋をしていたアントーニオ・マティアスの家の裏庭
の人目に付かない物置に移されました。ギレアデ学校を卒業した宣教者,ポール・フンダートマークと妻のエベリンは1960年にスペインから追放されてポルトガルに来ており,ポルトガル語を学んでいました。突然,ポールは地下の支部を世話することになりました。それは実に大きな挑戦でした。迫害が激しくなる
1962年の宣教者の追放に続いて,当局はエホバの証人に対する迫害の運動を強化しました。そして,協会の聖書文書は“人心を害する”として,それが出回るのを禁ずる通知をすべての郵便局に送りました。また,聖書やものみの塔協会発行の文書を大量に押収し,それらを刻んで焼きました。「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の大勢の予約購読者は,雑誌を受け取る権利がないとされました。
警察は何十人もの兄弟の家を次々に捜索して文書を押収しました。また,集会に出席し続けるなら投獄すると脅しました。警察の手入れを最初に受けた兄弟たちの中には現在支部委員として奉仕しているマヌエル・アルメイダもいました。家宅捜索の令状を持っていないにもかかわらず,警察は協会から出された出版物すべてを押収しました。迫害の波が終わるまでに,この兄弟は,7回家宅捜索を受けただけでなく,P・I・D・Eに同じ回数だけ出頭を命ぜられ,長時間にわたる尋問を受けました。それから警察はリスボンの王国会館の手入れをするようになり,1962年の初めに,最初の王国会館が警察の命令によって閉鎖されました。
最初の裁判
1962年に,集会を開いているとして12人の兄弟から成るグループ
が警察に通報されました。兄弟たちは警察本部に呼ばれて取り調べを受け,聖書研究のために引き続き集まるなら投獄すると脅されました。1963年1月,そのうちの何人かの兄弟は,カルダス・ダ・ライニャの公安警察の署長から次のような命令を受けました。「カルダス・ダ・ライニャ地方のカルダス・ダ・ライニャ町[住所]に住む[兄弟の氏名]に次のことを正式に通達することを担当者に命ずる。この者は聖書を読むこと,エホバの証人の活動をすること,および他のいかなる宗教的性質の活動も今後行なってはならない。なお当人が所属すると称する団体を含めて,国際的な性質を持つあらゆる団体を推進・設立・組織または指導してはならない」。
公共省は許可なくして宗教的な集会を開いていたとして兄弟たちを訴えました。1963年3月21日に裁判が開かれた時,法廷が傍聴人でいっぱいになっているのを見て,判事は驚きました。国が原告のこの種の裁判は,数分で終わるのが常でした。ところが,公正なその判事は正しい裁きが行なわれることに非常に関心があったので,裁判は3時間近くに及びました。そして,判事は被告側の3人の証人が証言することを認め,聖書の幾つかの論題に関しても質問しました。真の崇拝に有利な判決が下り,被告は無罪になりました。
巡回大会がとりやめになる
ポルトガルの南岸にあるファロで1963年7月に巡回大会が開かれることになっていました。兄弟たちは協会の映画の一つを上映するため大きな倉庫を借りましたが,何者かが警察に苦情を言いました。そのため兄弟たちは直前になって大会をとりやめました。それは賢明な決定でした。警察は「政治
集会」があるという通報を受けたので,真夜中ごろ,機動隊の特別班が倉庫を取り囲みました。そして,予想される武装抵抗に備えて機関銃を構えました。倉庫が空だと分かって機動隊はあぜんとしました。巡回監督のセーザリオ・ゴメスは,後日非常に長時間にわたって尋問を受けました。その後の出来事をゴメスはこう語っています。「私の車から没収した物品すべてが運び込まれて,警察署長の机の上に置かれました。とても心配だったのは,巡回区の監督たち全員の住所氏名の一覧表のことでした。きっと見られてしまうに違いないと思いました。私はすぐさまエホバに祈り,詩編 118編6節から8節の内容に調和して,兄弟たちを保護してくださるよう神の助けを願い求めました。署長が品物を一つ一つ調べ,その説明を書き留めていたので,私は机の角にひじを置くことができました。そして,署長の注意がそらされたすきに,氏名を書いた紙片をうまく取りのけました。それから手洗いへ行く許可を得,その一覧表を急いでトイレに流しました」。
宣教者がカボベルデ諸島へ行く
カボベルデ諸島における業の歴史の中で際立った年は,ギレアデ卒業生のジョージ・アマドが到着した1962年でした。それから間もなく,宣教者のアマド兄弟と共にブラバ島で働くため,特別開拓者のジャック・ピナがやって来ました。2か月もしないうちに,その宣教者は14件の家庭聖書研究を報告していました。ほどなくして,週ごとの聖書研究に20名が集まるようになりました。1963年の記念式には,45名という優れた出席がありました。その後,事態は一変しました。二人の開拓者はカボベルデ諸島から退去するよう命令されたのです。
しかし,既に真理の種はまかれ,それは根づいていました。旅行の冒険
1963年にイタリアのミラノで開かれた「永遠の福音」大会は様々な理由で特に記憶に残っています。その大会はポルトガルから兄弟姉妹が出席した初めての国際大会で,すべてのプログラムがポルトガルの兄弟たちにより母国語で扱われました。往復4,000㌔の旅行も忘れられないものでした。兄弟たちの多くにとって,それは初めての外国旅行でした。旅行するために,自動車の運転の教習を受けて初めて自動車を買った人々もいました。一人の兄弟の自動車はクラッチと変速装置に故障が起き,ギアが次々に壊れてしまいました。バックギアだけが働いたので,その兄弟はついにバックで町に入りましたが,それはちょっとした光景でした。
アルマダのアメーリコ・カンポス兄弟は車を3台連ねて旅行しましたが,その時に経験したことを次のように語っています。「スペインのバルセロナで二人の兄弟はパスポートもろとも所持金すべてを盗まれてしまいました。帰りの旅行では,フランスの泥棒のほうがスペインの泥棒よりもさらに熟達していることを知りました。私たちがぐっすり眠っている時に,フランスの泥棒は車に押し入って何もかも取っていったのです。私たちが寝ていたテントにまで入って来て,お金や土産物を取りました。物質はすっかり奪われてしまいましたが,大会で霊的なものをふんだんに与えられていたので,私たちは積極的な態度で,マタイ 6章19節の次のようなイエスの言葉が真理であることについて語りました。『あなた方は自分のために地上に宝を蓄えるのをやめなさい。そこでは 蛾やさびが食い尽くし,また盗人が押し入って盗みます』」。
教会の扇動による迫害は続く
エホバの証人に敵対的な記事が一層頻繁に新聞に載るようになりました。1963年の夏に,エホバの証人に関する5回連続のテレビ番組がリスボンで放映されました。ローマ・カトリックの司祭が討論を司会し,嬉嬉としてエホバの民を大いに誤り伝えました。
1963年8月22日の夕方,手に銃を持った5人のP・S・P(公安警察)の係官が,北部沿岸地帯にあるアベイロ市の個人の家に突入して,そこで開かれていた集会を妨害しました。出席者は一人残らず逮捕されて警察署に連行されました。午前4時になって,子供たちは釈放されました。あとの人はその日の午後7時半まで待たねばなりませんでした。そして,不法集会を開いたかどで正式に起訴されました。それで,ポルトガルで2度目の,エホバの証人に関する裁判が行なわれることになりました。個人の家のプライバシーが侵害されたことは証拠から明らかでした。1か月も裁判を続けた後,判事は10人の証人全員に有罪の判決を下しました。アントーニオ・ベイランウ兄弟とその妻は集会を開いた責任を問われ,幼い子供が二人いたにもかかわらず1か月の実刑を言い渡されました。
受刑者たちはアンゴラで証言する
一方,アンゴラでは,1963年のカトリック公会議の影響が流刑労働収容所にも及んでいました。キリスト教世界の幾つかの宗派の代表者が,特別に日を決めて宗派を超えて祈りをささげる許可を与えてくれるよう労働収容所の管理者に願い出ました。各宗派の代表として最もふさわしい受刑者が,その
祈りの会に参加するよう招かれました。エホバの証人の代表として招待を受けたマンコカ兄弟は,辞退しました。しかし,その機会を利用して,異宗教間の集まりには参加しないというエホバの証人の立場をはっきりと説明しました。いわゆる友好的なキリスト教世界の指導者たちはマンコカ兄弟を非常に無礼な人間であると考え,腹いせに事を起こそうとしました。収容所の管理者を用いて,マンコカ兄弟を黙らせようと企てたのです。収容所当局は,受刑者仲間と宗教上の会話を交わしたり,いかなるものであれ宗教活動を行なったりすることをはっきりと禁じ,それに違反すれば死刑にすると言いました。そして,『彼が命令に従わないなら』,マンコカ兄弟の『追随者はカボベルデ諸島の流刑地へ追放される』と言いました。マンコカ兄弟は収容所の管理者に手紙を書き,自分がそうした命令に従うことができないこと,また実際,その命令は,信教の自由を保障しているポルトガルの憲法に反するものであることを丁重に述べました。
その手紙に対する反応は速やかでした。マンコカを他の受刑者全員から引き離し,60㍍ほど離れた所に留置して,だれとも話せないようにしました。収容所の看守は,同兄弟が自分の宗教を実践していないかどうか,つまり聖書を読んでいないかどうか見るため監視を強化しました。そのように困難な中で,マンコカは「王国のこの良いたより」という小冊子をウンブンドゥ方言に翻訳することができました。
ルアンダの孤立した群れが援助を必要としていることが明らかになりました。そこで,マヌエル・ダ・シルバと妻および二人の子供が,協会の招きに応じて,1963年3月にアンゴラへ移りました。シルバ兄弟姉妹は特別開拓者だったので,早速業が組織され,すばらしい成果を生みました。それから間もなく,
1963年10月14日に,マヌエル・ダ・シルバとマヌエル・アカーシオ・サントスがルアンダで逮捕され,投獄されました。翌月,P・I・D・Eは,ルアンダの業の世話をしていた兄弟,マヌエル・ゴンサルベス・ビエイラを逮捕しました。警察署長はビエイラ兄弟に,「エホバの証人の業はアンゴラ全土で禁止されている」と言いました。警察はビエイラに,エホバの証人と関係したすべての活動を中止することを約束した声明文に署名しなければ刑務所行きだ,という最後通告を出しました。脅しに屈しなかったので,ビエイラ兄弟は直ちに2か月間独房に入れられました。二,三週間後にはビエイラ姉妹が3番目の子供を出産することになっていたにもかかわらず,そうした処置が取られたのです。その時までに,マヌエル・ダ・シルバも,受刑者仲間に良いたよりを伝えたかどで独房に入れられていました。
結局,1964年1月23日に3人は,ポルトガルへ強制移送処分にするとの通告を受けました。
警察の活動
一方リスボンでは,1939年以来忠実な証人であったジョアキン・マルティンス兄弟がドライクリーニングの店を幾つか経営して,実業家として成功していました。1964年2月,マルティンス兄弟のところに,不意の客がありました。P・I・D・Eの係員が協会の発行した出版物を見つけようと,マルティンス兄弟の家と店の中をひっくり返して探し,1925年にまでさかのぼる貴重な蔵書を含むマルティンス兄弟の文書を押収しました。
マルティンス兄弟は店の一つに,ひそかにバプテスマを施す
ための大きな水そうを持っていました。何年もの間,幾十人もの兄弟がそこでバプテスマを受けました。マルティンス兄弟は後に事業を処分し,開拓者となり,忠実を保って1979年に亡くなりました。1964年中,世界各地からの手紙や,「目ざめよ!」誌の幾つかの号を通して,ポルトガルの識者たちは自国で起きている事柄を正確に知るようになりました。
アゾレス諸島では,マヌエル・レアル兄弟が,「目ざめよ!」誌を地元の当局者に手渡すのがよいと判断しました。そして,知事,警官その他の人々に「目ざめよ!」誌を渡しました。数日後,公安警察が,取り調べのためレアル兄弟に出頭を求めました。厳しい尋問のあと,警察は,レアル兄弟が雑誌を置いてきた家の住所と住人の氏名を明らかにするように命じました。罪のない人々が迫害の的となるから,情報を流したくないと言って,レアルはそれを拒みました。副署長は,尋問の報告書を書き始めましたが,レアルが住所氏名を教えない理由が,それをすれば警察がそれらの人を迫害するというものであることを書かねばならなくなって,困惑しました。いら立った副署長は,用紙を破って,部屋を出て行きました。
その仕事はとうとう秘書に回され,副署長がそれを助けました。二人とも混乱してしまいました。供述書が完成した時,結局,レアルはそれに署名しようとしませんでした。事実がわい曲されていたからです。レアルは次のように語っています。「私たちの信仰を説明しようとし,エホバの名前を使うと,副署長は,『その名前を使うな! 今度使ったら,刑務所行きだぞ!』と叫びました。自分を弁護するにはその名前を使わなければならないこと,そしていずれにしてもその名前
はカトリックのミサの本に出ているということを言って,すぐにそれを見せ,彼らをくやしがらせました。すばらしい証言がなされました」。政府の反対が激しくなる
当局は心をかたくなにしてゆきました。1964年10月に,非常に偏見に満ちた次のような広報が内務大臣から配布されました。
「次のことをよく理解しておかねばならない。すなわち『エホバの証人』派は宗教の教派ではない。なぜならば,彼らの目的は全く物質的なものであって,宇宙的な神権政治をもたらす準備として,政府・権威・教会・現存する諸宗派を消滅させることにあるからである。聖書を使用しているのは,政治的野心[下線は原文通り]を持つ運動の宣伝および当局に対する防御の方便にほかならない」。
警察は,この政府の公文書を後ろだてにして,毎日のように,全国の兄弟たちの家を手入れしました。
エホバの証人の立場を釈明するため,アメリカ国務省の援助により,エホバの証人で構成される3人の外国人代表団が,当時の外務大臣フランコ・ノゲイラ博士と会見する運びになりました。フィリップ・リース兄弟,リチャード・アブラハムソン兄弟およびドメニク・ピコネ兄弟から成る代表団はリスボンに赴き,1965年2月25日に,エホバの証人の厳正中立の立場について説明しました。ノゲイラ博士は,エホバの証人の信教の自由を否認する理由はないように思われると述べ,事情を調査すると約束しました。しかし与えられた唯一の解答は,警察の干渉の絶えざる強化でした。
困難な時期にもかかわらず,組織は発展していました。1965年4月には,伝道者が2,839人という新最高数に達し,次々と生まれる多くの新しい会衆の世話をするために四つの巡回区が組織されました。
警察のやり方
ポルトガルは警察国家であると考えていた人は少なくありませんでしたが,法執行機関の多岐にわたる機構を見れば,そう考える理由は容易に理解できます。公安警察(P・S・P),共和国国民軍(G・N・R),憲兵隊(P・M),主要道路警ら隊(P・V・T),司法警察(P・J),および,秘密警察として一般に知られていた国際警察国防庁(P・I・D・E)がありました。兄弟たちは共和国国民軍と国際警察国防庁からひどい扱いを受けました。一般の人々は,特に,雇われた情報提供者制度に大きく依存していたP・I・D・Eを恐れました。伝えられるところによると,P・I・D・Eは,第二次世界大戦中
にはゲシュタポの情報員の助けを得て,ナチのゲシュタポの型に倣って設けられたということです。エホバの証人の中立の立場ゆえに,若い兄弟たちが大勢P・I・D・Eの手で残酷な仕打ちを受けました。アルマダのララジェイロに住むルイース・アントーニオ・デ・シルバ・カニリャスは,1965年7月9日に2時間にわたる尋問のあと,自分自身の身に起きた事柄について次のように語っています。
「彼らは窓やドアを全部閉めると,私の体の至る所を殴りはじめました。腹部に受けた一撃で,私は床に倒れました。別の一撃で目の周りに黒いあざができました。片足がもたついて立てないでいると,彼らは耳を引っ張って立たせ,再び殴りだしました。私のことを犬のように扱ったときの彼らの形相は,人間のものとは思えませんでした」。
年配の人々も同様に,屈辱的な扱いを受けました。リスボンの一監督だった72歳のマヌエル・バズは取り調べのため,7月にP・I・D・Eの本部に出頭を命ぜられました。5時間にわたって荒々しい仕方で侮辱され,尋問を受けました。P・I・D・Eの一係官はバズ兄弟にこんなことを言いました。「真の宗教はカトリックだ。カトリックは聖書を保存し,イエス・キリストと使徒たちに従っている。お前のような無知な男に聖書を教える資格などない。権威を与えられた者だけに教えることが許されるのだ。しかしお前らは自分の宗教を自由に実践したいと思うだろう。そんなことは決してさせないぞ! 絶対にだ!」
1965年の夏が近づき,400名ほどの兄弟たちは,スイスのバーゼルで開かれる「真理のことば」大会に出席するため長距離旅行の準備をしていました。いよいよという時になってP・I・D・Eは大会の計画を妨害することを決めました。出発
の1日前に,警察は,既に旅行許可を得ていた50人の兄弟たちに,その許可は取り消しになったと告げました。しかし,兄弟たちを乗せた1台のバスは既に出発したあとで,警察は大いにくやしがりました。国境に緊急の電話で命令が飛びましたが,間に合いませんでした。バスはスペインへ入ってだいぶたっていたのです!1965年11月,ロッシオ・アオ・スル・ド・テジョで,3人の警察官が,「ものみの塔」誌の研究に集まっていた17人の兄弟たちのグループに集中攻撃を掛け,集会を解散させ,聖書や文書すべてを押収しました。今や暴徒の観を呈してきた,やじ馬から,ちょう笑や悪口がせきを切ったように浴びせられる中で,兄弟たちは厳重な身体検査を受けて警察署に連行されました。
その晩,兄弟たちは,それぞれ2,000エスクード(70㌦)の保釈金で自由の身になると告げられました。要求された額のお金を集められたのは7人だけでした。その後警察当局は,集会の組織者であると考えられていたアントーニオ・マヌエル・コルデイロとティアゴ・ジェズス・ダ・シルバを除く全員を釈放しました。その二人にはそれぞれ2万エスクード(700㌦)の保釈金が要求されました。普通の市民の月給はわずか1,700エスクード(60㌦)でしたから,それは法外な額でした。二人は数日間独房に入れられ,最終的に告発が取り下げになるまでの3か月間拘置所に入れられていました。
警察が,ロッシオ・アオ・スル・ド・テジョの集会を解散させたのと同じ日に,大学都市コインブラのP・I・D・E係官はその土地の王国会館にやって来ました。20分ほど耳を傾け
てから,集会を中止させ,聖書と協会発行の文書をすべて押収しました。監督が,各々個人用の聖書を持つことは許して欲しいと言うと,係官はこう答えました。「いや,それを許すわけにはゆかない。それも持ってゆかなければならない。お前たちの聖書には線が引いてあって,その特定の箇所には異なった解釈が施されているからだ」。反対者の裏をかく
警察の活動は盛んになってきていましたが,兄弟たちもそうした際どい状況に巧みに対処するようになってゆきました。例えば,17歳の伝道者の経験はそのことを示しています。この人は次のように語っています。
「やむを得ない事情があって,15分遅れて王国会館に行きました。様子が変だということにすぐに気づきました。ひとりの男が王国会館の前を行ったり来たりしているのです。P・I・D・Eの係官に違いないととっさに感じました。それで,私も,その男とは逆の方向へ行ったり来たりしました。何度か擦れ違いました。とうとう15分後に,その男は近づいて来て,こうささやきました。『君はこの連中の仲間だと思ったが,そうでないことが分かった。おれと同じことをしているはずがないからな』。『もちろんです。遅くなってすみませんでした』と,確信を込めて答えると,その男は言いました。『いや構わない。もしよかったら,夕食をとりに行っている間ここを見張っていてくれないかね。すぐ戻って来る!』『大丈夫,任せておいてください』と私は答えました。数分待ってから,王国会館へ入って行きました。外であったことを兄弟たちに話し,一人残らず急いでそこを出ました!」
マデイラ島における増加
兄弟たちはマデイラ島でも反対を受けていましたが,業はよく進歩していました。1966年のこと,マデイラの一兄弟は,警官を伴って家から家を訪問するという珍しい経験をしました。家から家の宣教に携わっているときに逮捕されたのですが,警察本部で,家々での布教が純粋に聖書に基づいているかどうかについて疑惑が生じました。警察は,その疑惑を解決する最善の方法は,その兄弟が訪問した家にもう一度行って確かめることだと判断しました。それで,兄弟は警官に伴われて出かけて行きました。行く家ごとに,どんな話がなされたかが確認され,付加的な証言も行なわれました。最初の時には耳をかさなかった家の人の中には,兄弟と一緒にいる警官を見て驚き,この度は注意深く聞いた人も少なくありませんでした。警官はしばらくしてからやめたいと考えましたが,兄弟は以前に訪問した家全部を調べるようにと強く勧めました。ついに警官は疲れ果ててしまい,兄弟の粘り強さと,聖書の音信を説明する能力について必ず有利な報告をすると言いました。
王国会館が閉鎖される
ポルトガル各地の王国会館が警官の手入れを受けるケースが増えて行きました。高価な備品は失われました。組織を合法化するためのどんな努力も目に見える成果を全く生み出していませんでした。こうして1966年に,エホバの証人を取り巻く事情を現実的に評価する時が来ました。様々な要素から,個人の家で小さなグループとして集まったほうが王国の業はよりよく成し遂げられるということが分かりました。政府はエホバの証人を法的に認可することを拒みましたが,エホバ
の証人の存在は否定できませんでした。増加を続けるエホバの証人が現におり,良いたよりを首尾よく宣べ伝えていました。「忠実で思慮深い奴隷」の指導に全幅の信頼を置いてはいたものの,大勢の兄弟たちにとって当時は厳しい時でした。組織がどのように前進するかをいぶかった人もいました。20人ほどの伝道者の小さな書籍研究の群れに分かれて,会衆がどのように効果的に機能するかについて疑問を持った人もいました。言うまでもなく,そのために一層多くの業が求められました。なぜなら,各群れは週ごとの五つの集会のプログラムすべてを行なうよう求められたからです。多くの兄弟姉妹たちが,毎週奉仕会か神権宣教学校,あるいはその両方で割り当てをもらいました。しかし,より多くの業が一層高い霊性と,より多くの成果を生み出したので,兄弟たちの心配が根拠のないものだったことが分かりました。
重大な裁判
1966年6月,リスボン全体裁判所で裁判が行なわれました。フェイジョ会衆の49人の成員に関するその裁判は,ポルトガル全国の注目を集めました。その事件の発端は,1年前に警察が,アフォンソ・メンデスで開かれていた約70人の集会を解散させ,監督のアルリアガ・カルドーゾとジョゼ・フェルナンデス・ローレンソを逮捕したことにありました。
その二人の兄弟は4か月と20日投獄された後,保釈されました。獄中では,聖書を含む一切の読み物を読むことを禁じられ,長時間にわたる取り調べを受けました。政府は,二人の監督とその会衆の他の47人の成員について訴訟を起こす準備をしました。保釈金は一人につき2,000エスクード(70㌦)
と定められました。政府は416ページの準備書面を作りました。エホバの証人は,「国家の安全保障を脅かす罪」を犯したとして訴えられました。起訴状はさらにこう述べています。「彼らは,一般大衆,それも特に徴兵適齢の青年の反抗,扇動,破壊活動を目的として様々な国からやって来る政治運動を構成している」。公判の当日,精神的支援を与えるために兄弟たちが全国からやって来ました。北部のポルトからは貸し切りバスが1台やって来たほどです。警察官たちはそのような光景をそれまで見たことがありませんでした。幾千人ものエホバの証人が裁判所に集まって来ていたのです。
その出来事について,リスボンのオ・セクロ紙はこう報じました。「昨日ラルゴ・ダ・ボア・オラ[裁判所広場]に着いた人は皆驚くべき光景を目撃したことであろう。……裁判所の2階および3階の窓や,数多い廊下は人々でうずめ尽くされ,中庭も人々で一杯だった。……しかし秩序は少しも乱されなかった。建物の内外に集まった群衆は推定2,000人余りであった。これほど大勢の人が集まったのは裁判所開設以来初めてのことである。その大半は,被告やその宗教の支持者たちであった」。
アントーニオ・デ・アルメイダ・モーラ判事は時を移さず,最初の被告アルリアガ・カルドーゾに,信教の自由に関する憲法上の保障はエホバの証人のような宗教には当てはまらないと言いました。1966年6月24日付のリスボンのディアーリオ・ポプラー紙は同判事の言葉をこう伝えました。「新しい宗教を始め,神その他それに類する名によって,自分の欲することを行なう自由は何人にも認められていない。人はこの地上の事物を支配する人間に服従しなければならない。……
被告が告発されたのは,国の法律に対する全般的な不服従の問題である」。カルドーゾ兄弟は聖書に手を伸ばしかけました。国の法律が神の律法に反しない限り,エホバの証人は地上の「上位の権威」に服さなければならないことを示すため,ローマ 13章1節を読もうとしたのです。(使徒 5:29)すると,判事はそれをすぐにさえぎり,前述の新聞によれば次のように述べました。
「聖書を使ってはならない! 被告にとって聖書がどんなに大切であろうと,法廷でものを言うのは法律である。市民の活動を動かすのは聖書ではない。聖書を引き合いに出してはならない。聖書は自分勝手に,また私利私欲に応じて解釈されるものだ。聖書は我が国の憲法ではない。この法廷は,一部のアメリカ人が解釈しているような仕方で,聖書をポルトガル共和国の憲法として受け入れる必要はない」。
公判の二日目,被告側は,エホバの証人が政府の法律を破ることを勧めたり助長したりしてはいないことを証明する多くの証拠を提出しました。1966年7月7日の最終公判で,被告側の弁護士,バスコ・デ・アルメイダ・エ・シルバは,政府の準備書面が事実無根であることを大胆に暴露しました。エホバの証人が「政治運動を構成し」,『一般大衆の扇動,破壊活動』を助長したことを示す証拠はただの一つも提出されなかった事実を効果的に指摘しました。
そしてその大胆な弁護の結びで,1世紀の律法教師ガマリエルの助言を敬意をもって考慮するよう法廷に巧みな仕方で訴えました。ガマリエルの次の言葉を引用しながら,判事たちを見つめて,心から懇願したのです。「この人たちに手出しせず,彼らをほっておきなさい。(この企て,またこの業使徒 5:38,39。
が人間から出たものであれば,それは覆されるからです。しかし,それが神からのものであるとしたら,あなた方は彼らを覆すことはできません。)さもないと,あなた方は,実際には神に対して戦う者となってしまうかもしれません」―検察官は三日にわたる全公判中,ただ一人の証人も出さず,被告あるいは被告側の証言に関して反対尋問もしませんでした。実際のところ,ただ1度話しただけで,最後に,「正しい裁きをお願いします」と語ったにすぎません。
二日後,全体裁判所は,49人の被告全員に45日ないし5か月半の懲役刑を言い渡しました。ポルトガルの弁護士たちは,その裁判のことを「笑いもの」,「恥辱」,「法の運用の誤り」と呼びました。直ちに最高裁判所に上訴されましたが,真の崇拝のための戦いが前途に待ち受けていることはそれまで以上に明らかでした。
用心の必要
公判が終わるとすぐに,「神の自由の子」地域大会に出席するためフランスへ出発する時が来ました。エホバの証人に対する当局の敵意がまたもや表面化しました。この度は,約150名の兄弟が旅行の準備をしている時に,団体のパスポート申請が却下されたのです。
1966年のフランスでの大会に関連した一つの興味深い経験は,時として驚くべき仕方で保護が与えられることを示しています。支部の監督,ポール・フンダートマークは,飛行機で旅行する手はずをしたためたメモをパリの支部に書き送りました。フンダートマーク兄弟はポルトガルからある重要な書類を持ち出すつもりでいました。支部の住所は秘密だった
ので,発信人の住所としてマヌエル・アルメイダの住所を使いました。その後間もなく,マヌエルの家にP・I・D・Eの手入れがあり,文書類を探しましたが,見つけ出すことができませんでした。警部は,文書の在りかを明かさないなら職を失うことになるとマヌエルを脅しました。本気でそう言っていることを示すため,マヌエルの勤め先の住所を聞いて,持っていた紙片に書きつけました。捜査の最中に,警部はその紙片をテーブルの上に置きました。ところが,マヌエルの家を立ち去る時,その書きつけを忘れてゆきました。マヌエルがそれを急いで取って,裏を見ると,ただ「通信。L・ポンテス,パリ」という奇妙なことが書かれているだけでした。マヌエルにはその意味が分かりませんでした。数日後,フンダートマーク兄弟が訪れた時,マヌエルはその紙片を見せました。フンダートマーク兄弟にはそこに書かれている事柄の意味がすぐに分かりました! P・I・D・Eはパリの支部の監督,L・ジョンテス(P・I・D・Eはつづりを間違えていた)あての匿名のメモを途中で奪っていたのです。フンダートマーク兄弟のパリ行きの計画がすっかり知られたことは明らかでした。同兄弟が大会行きを取りやめたことは言うまでもありません。支部の監督も秘密の書類も,安全な状態に戻りました。
1966年7月14日付の,リスボンの新聞ディアーリオ・ダ・マニャ紙の第1面に掲げられた記事は,兄弟たちの注意を本当に喚起し,貴重な教訓を与えるものとなりました。フランスの地域大会へ行くための旅行の指示を与える内密の手紙が,何らかの方法で当局者の手に渡り,その内容がそっくりその新聞に掲載されたのです。兄弟たちは,「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真なことを示しなさい」というイエスマタイ 10:16)しかし,430名ほどの兄弟は首尾よくその地域大会に出席することができました。そのとき聖書劇が初めて上演されましたが,今でもそれらの劇は人々の記憶にとどめられています。その一つに,ポテパルの妻の誘惑をきっぱり退けた,エジプトでのヨセフに関する劇がありました。
の助言に一層の注意を払わなければなりませんでした。(アンゴラの一兄弟の経験は,それら時宜にかなった劇が有益であったことを実証するものです。その兄弟は,大きな農園でトラックの運転手をしていましたが,血の混ざった食物を食べようとせず,売春婦と付き合わないので,しばしば嘲笑されていました。ある日,特別のごちそうのあと,働き人たちがいる所で,その兄弟は魔術が神のご意志に反することを暴露する優れた証言を行ないました。ある心霊術者はそのことにすっかり腹を立て,兄弟が性的誘惑に遭ってもそれに抵抗するかどうか他の仕事仲間と一緒に試すことにしました。兄弟が夜勤で出かけたあと,同兄弟を誘惑するために売春婦が雇われました。兄弟が自分の部屋に戻ったところ,驚いたことに,自分のベッドに女性がいたのです。部屋を出て行くようその女性に命ずると,隣の部屋からどっと笑い声が起こりました。しかし,そのたくらみは失敗に終わりました。
迫害下にあって真理は広まる
しかし,アンゴラでは,激しい迫害が依然として主要な試みとなっていました。セルパ・ピントの付近の流刑植民地でマンコカ兄弟は,信仰を否認する書類に署名するようにという勧めを何度も受けました。手に入った少しばかりの文書もまた没収されましたが,そこの管理者は2冊の読み物を贈り物としてくれました。それは,エホバの証人の反対者が書いた
本でした。マンコカ兄弟は次のように回顧しています。「その2冊の本をくれたあと,彼らは,エホバの証人を非難する文章を書いたその著者たちのやり方に倣うよう再三再四勧めました。当局に協力するなら,完全に自由にしてやるとも言われました。5年の刑を終えたあと,釈放されるはずだったのが,当局の思いどおりにしなかったので,釈放してもらえませんでした」。結果として,マンコカは,1966年に,モッサーメデス地方のサンニコラウの人里離れた労働収容所へ移されました。その新しい収容所の責任者の顔を見てぞっとしました。それは,マンコカが初めて逮捕された1961年に,ルアンダでマンコカをひん死の状態にした伍長その人だったのです。そして,エホバの証人と国とどちらが正しいか間もなく分かるだろうとその人物から告げられました。当時を思い起こして,マンコカは次のように語っています。「ここでも,無理やり考えを変えさせるための尋問が絶えずありましたが,私は手をこまねいて自由になるのを待っていたわけではありません。無活動は死に等しいということを知っていました。まだ死んではいなかったので,エホバを賛美するために引き続き命の息を用いてゆこうと思いました」。
マンコカは非常な注意を払いながらも,受刑者たちに非公式の証言をする機会を求めていました。この忠実な兄弟の宣教は豊かに祝福されました。12人の関心のある人々から成るグループができていったからです。そのうちの何人かは,比較的信頼されていた受刑者だったので,時折,モッサーメデスへ使いにやらされました。こうして,貴重な雑誌を靴の中に隠して,首尾よく労働収容所へ持ち込んだのです。
アンゴラの兄弟たちは,絶えず警察に監視されながら,非常
な困難のもとで業を続行しました。1967年,モッサーメデスで,ジョアンウ・ペドロ・ジンガ兄弟とアントーニオ・セケイラ兄弟が日常の雑用を済ませるために通りを歩いていると,警察が突然姿を現わし二人を逮捕しました。そして,行政委員会へ引き渡しました。二人は裁判なしに,2年間の強制労働を言い渡されました。この兄弟たちは二人共,それ以前に3年間服役した経験がありました。兄弟たちが王国の音信を広めるよう熱意をこめて努力した結果,どの流刑労働収容所でも受刑者たちが真理を学びました。受刑者たちは援助を求める手紙をリスボンへ書いたものです。モッサーメデスから寄せられたそうした手紙の一部を次に紹介しましょう。「私たちを助けてくれる,資格のある兄弟を遣わしてくださるようエホバに求めました。私たちの中には,あとは献身を象徴するのを待つばかりの人が大勢います。厳しい反対を受けてはいますが,ただ保護されているというだけのことではありません。友好的な警官の手助けにより,当地の港で文書を幾らか受け取ったのです。私たちを支える神の力は確かに偉大です」。
別の取り組み方を企てる
真の崇拝の敵たちは,エホバの僕を中傷したりわなに掛けたりしようと,飽くことなく様々な企てをします。ポルトガルの当局は,1966年10月に,エホバの証人を挑発して,政府に反対する集団デモを行なわせようとする大胆な計画を立てました。その月の初旬に,リスボンの監督たち数名は,地元の一監督の署名入りの次のような短い手紙を受け取りました。
「エホバ兄弟へ:
「政府に抗議する“わたしたちの大運動”を支持するという無言の表示をすることを,全エホバの証人にできる限り知らせるということです。
米国の諸会衆の決定により,次のことが求められています。すなわち,今月の15日午後1時[土曜日]に,プラサ・ド・コメルシオ[リスボンの一広場]の内務省へ行って,抗議の我らの神エホバのために,
シルベリオ・シルバ」
支部は,直ちに,1966年10月12日付でリスボンの諸会衆に短い手紙を送り,それが仕掛けられたわなであることを知らせました。
言うまでもなく,羊の衣を着たそれらのおおかみの計画は完全にくじかれました。だれひとりデモに現われなかったのです。様子を見るため遣わされた二人の兄弟は,警察と軍の機動隊が数台の放水砲と青い染料を用意し,抗議者たちが来たら攻撃しようと待ち構えているのを見ました。
アゾレスで圧迫が強まる
一方,アゾレスでは,開拓者のマヌエル・レアルが,1966年10月12日に隣の人と話しているときに,P・I・D・Eの係官に逮捕されました。警察本部へ向かう車の中で,その係官は,マヌエルが証言した人の住所氏名を教えるよう何度も要求しました。しかし,秘密警察官はあ然としてしまいました。その開拓者は,「あなたのお父さんですよ!」と答えたのです。確かに,レアルはその人の父親に数回話したことがありました。レアルはこう報告しています。「その人の父親の名前を挙げると,秘密警察官はすっかり動揺して,『二度と父の名を口にするな!』と言いました。そのあと警察本部へ着くまで,それ以上質問しませんでした」。
警察本部でP・I・D・Eの係官たちはレアルに,口ぎたない言葉の限りを尽くし,テルセイラ島を去るよう命じました。レアルはどう反応したでしょうか。「私は,自分がこの島に16年以上住んでおり,子供たちもこの島で生まれたこと,そして引っ越す気持ちはないことを話しました。私が宣べ伝えているところを今度見つけたら,80日間刑務所に入れるぞ,と脅されました。そして,島にとどまりたいなら,保証金を払って,私の居住に責任を負ってくれる,きちんとした地元の市民を探さなければならないとも言いました。そのように述べてから,家に帰るよう命じました。お金をも含め所持品全部が取り上げられていたので,家まで19㌔の道のりを帰るのに必要なお金だけでも返して欲しいと頼みましたが,署長はお金をくれず,歩いて帰るように命じました」。
レアル兄弟は,警察の脅しを受けても保証金を払って,レアル兄弟の居住に責任を負ってくれる有力者をやっとのことで見つけることができました。さて,警察の暗黙の了解を得て,僧職者たちはカトリック・アクション団の若者たちを扇動してエホバの証人に攻撃を仕掛けさせるようになりました。1966年に数度にわたり,暴徒が兄弟たちに石を投げつけました。猛犬がけしかけられたこともありました。数人のエホバの証人が押されたり小突き回されたりしている間に,ほかの証人たちが武器代わりのくわをかざした追っ手に追い掛けられたこともありました。そのような困難な期間にも,兄弟たちは悲しんだり悲観的になったりしませんでした。どんな態度を示していたでしょうか。レアルはこう伝えています。「私たちは,コリント第二 6章10節に述べられている精神を抱いていました。そこにはこう書かれています。『悲しんでいるようでいて常に歓んでおり,貧しいようでいて多く の人を富ませ,何も持っていないようですべての物を所有している』」。
最高裁判所の判決が下る
1967年2月22日,最高裁判所は上訴されていたフェイジョ事件の判決を下し,全体裁判所の判決を支持して,フェイジョ会衆の49人の成員に懲役刑を言い渡しました。49人全員は,4年の間の公民権の停止を受けました。バプテスマを受けていない10人の関心を持つ人々は執行猶予になりました。刑期は1番短い1か月半から,5か月半にまで及びました。また,エホバの証人各々に対して,1,350エスクード(47㌦)から5,000エスクード(175㌦)に及ぶ額の罰金が科され,裁判の費用として一人につき1,000エスクード(35㌦)が要求されました。
姉妹たちの夫の多くは真理におらず,要求された額のお金を用意して妻を刑務所に入れないようにしたいと考えたので,結局刑務所に入ったのは全部で24人でした。最年少者は20歳で,最年長者は70歳でした。夫婦が二人共投獄されるというケースも幾つかあり,その場合,子供たちのことが問題になりました。生後15か月の幼児から16歳の子供まで20人がクリスチャンの両親から引き離されました。しかし,他の兄弟姉妹たちがそれらの子供たちの世話を買って出て愛を表わしました。必要とされる数以上の申し出があったのです! それらの子供たちを世話するための寛大な寄付が寄せられました。米国からだけでも,13万エスクード(4,600㌦)相当の寄付が寄せられました。愛ある関心と気遣いが本当にすばらしい仕方で示されました。
1967年5月18日,有罪となった証人たちは刑務所へ入るため
全体裁判所に出頭しました。姉妹たちはモーニカス刑務所,兄弟たちはリモエイロ刑務所に入れられることになりました。どちらの刑務所も裁判所から歩いて約20分の所にあります。続いて,全く前代未聞の出来事が起きました。兄弟たちは,護送なしで刑務所まで歩いて行き,自分で出頭するようにと命じられたのです。考えてもみてください!「国家の安全保障」を脅かす者として懲役刑を科せられた「危険人物」とされる一家の頭や主婦たちが何の拘束も受けずに刑務所へ歩いて行けるのです。兄弟たちの弁護士を務めたバスコ・デ・アルメイダ・エ・シルバ博士は,一人一人に直接別れのあいさつをしました。そして,次のように述べました。「わめき声も叫び声もありませんでした。姉妹たちが感情を爆発させることもありませんでした。あっぱれなほど落ち着いていて,威厳がありました。それはまさに,至高の神の真の証人のあるべき姿だと思います。確かなことが一つあります。それら刑務所で多くの証言がなされるということです」。これほど真実を言い当てている話はなかったでしょう。行状は証言となる
刑務所の婦人看守は55歳になる特別開拓者アルダ・ビダル・アントゥーネスだけをより抜いて特別な扱いをしました。婦人看守がカトリック教会の祭壇のテーブルクロスに刺しゅうを施すよう命じたところ,アントゥーネス姉妹はそれができない理由を丁重に述べ,ほかの仕事なら喜んで行なうと言いました。そのため,礼拝堂に数時間監禁され,最後にはカトリックの修道女たちが監督に当たっていたティレス刑務所へ移されました。
その証人が到着すると,女子修道院長は無理やりミサに出席
させようとしました。しかしアントゥーネス姉妹はきっぱりと断わりました。すると,修道女たちは,アントゥーネス姉妹を冷たいコンクリートの独房に1か月余り入れました。姉妹のクリスチャンにふさわしい行状は,他の受刑者たちに次第に影響を及ぼし,受刑者たちの振る舞いがよくなりました。騒いだり叫んだり,監房の戸を打ちたたいたりすることがずっと少なくなったのです。女子修道院長はとうとう,エホバの証人について次のことを認めました。「この人たちは本当に聖書を信じています。人格全体が異なっているように思えます。自分と同じ宗教を奉じる人たちに目を向けると,非常に対照的だと感じます」。4人の子供を抱えていたアフォンソ・コスタ・メンデス兄弟が投獄されていた時,同兄弟の職場の職長は,その機会に兄弟の仕事ぶりについて悪い報告をして,兄弟を解雇させてしまおうと考えました。メンデス兄弟は勤続30年になろうとしており,退職金を得られるかどうかが懸かっていました。しかしメンデス兄弟は,エホバの手にその問題をゆだねるべきことを知っていました。刑務所当局は,社会生活指導員と一緒に働くようメンデス兄弟を割り当てました。社会生活指導員はメンデス兄弟の立派な行状を観察しました。そして,刑期も終わりに近づいたある日,社会生活指導員はメンデス兄弟を自分の部屋に呼びました。驚いたことに,そこには以前に勤めていた工場の人事部長が来ていました。メンデス兄弟が優れた働き人であり,どんな雇い主からも一番信頼されて然るべき人物だということが,その人事部長に話されました。社会生活指導員は,メンデス兄弟を,様々な特典もすべて元のとおりにして復職させるように推薦しました。実際そのとおりになりました。
引き続き悩まされる
兄弟たちの服役中に,ポルトガルとアンゴラ全土で逮捕が続きました。1967年2月28日,アンゴラのルアンダで,7名の兄弟たちが個人の家で集まっていたところ,ライフルや機関銃を手にした7人のP・S・Pの係官に包囲されました。P・S・Pの係官たちは聖書を含む出版物すべてを押収し,取り調べのためにそのグループを警察本部まで引き立ててゆきました。取り調べは午前2時まで続きました。警察署長はその事件の結論として,兄弟たちに次のような助言があると言いました。「聖書を研究することなんかやめて,時間をもっと賢明に使うよう警告しておく。たとえば,若い女の子をうまくものにすることにでも精を出したほうが時間を賢明に用いられる。聖書について本当に知りたい事があるなら,司祭のところへ行けばよい。司祭は聖書のことをよく知っているのだから」。
そのころ,ウイリアム・ロバーツと妻のドロシーは,1959年以来ポルトガル北部で宣教者の業を行なっていました。警察は,ポルトガルで最もカトリックの勢力の強いブラガでとうとうロバーツ兄弟を見つけました。それは,1967年4月の巡回訪問中のことでした。当局は,ロバーツ兄弟姉妹の滞在許可証を押収しました。それから間もなく,熱心に福音宣明を行なっていたその夫婦はアイルランドで奉仕するためにポルトガルを去りました。
国境での取締り
ポルトガルのための「人々を弟子とする」地域大会は,1967年の夏にフランスのマルセイユで開かれました。9台の貸し切りバスでポルトガルへ帰る途中,兄弟たちは予期していなかった特別な取締り委員会の出迎えを受けました。P・I・
D・Eの係官が税関の係員と共に,エルバスに近い国境に着いた最初の6台のバスに積んであったおよそ40カートンの文書を押収したのです。高く積み上げられた幾十ものカートンの中に入っている,押収された品物は何なのかと尋ねた観光客たちは,「聖書と聖書文書です」という答えに耳を疑いました。スペインへ向かう旅行者と話していた,ある機転のきく兄弟は,「これが全部じゃないんです! 同じものを積んだバスがもう3台こちらに向かっているんです」と言いました。全く見ず知らずのその人は,それを聞くと,「ここでぐずぐずしてはいられません。わたしがあとのバスを止めて,起きていることを伝えてあげられるかもしれません」と言いました。その人は約束をたがえずにそうしてくれました。貴重な文書は一時的にスペインのバダホスの貸間に保管されました。存在する証拠からすれば,兄弟たちがフランスから文書を持ち帰ることをだれかが当局に密告したことは明らかです。
リスボン出身で気立てがよく小太りの,イザベル・バルガス姉妹は,別の折に,かろうじて文書を取られずにすんだいきさつを次のように語っています。「警官はバスに乗り込んで来て,聖書文書を全部出せ,出さなくても取り上げるぞと言いました。そして,私の真ん前の席にそれを山と積み上げました。何年間ものあいだ書き込みをしてきた私の個人用の聖書が一番上に載っていました。私は我慢ができず,警官たちが向こうを向いたすきに,深呼吸をして,それをすばやく胸元に入れました。ほかにも数冊入れました。私が急に前よりも太くなったことには気づかれずにすみました!」
リスボンのエミーリア・アフォンソ・ゴンサルベス姉妹には厳しい措置が取られました。ゴンサルベス姉妹はスペインで生まれ,スペイン人と結婚しましたが,父親はポルトガル
人でした。そして,40年間リスボンで暮らしていました。52歳になるこのつつましいやもめは,48時間の猶予しか与えられずに国外退去を通告されたのです。リスボンのスペイン領事はその短い猶予の時間を延ばすことができず,P・I・D・Eからの公式の通告を姉妹に見せました。それにははっきりと,姉妹が「エホバの証人派」に所属するゆえに追放されると述べられていました。1967年9月16日,ゴンサルベス姉妹はスペインに向かいました。勇敢な態度
当局者の前に呼ばれても,エホバの民にとって恐ろしいものは何一つありません。身をすくませたり震えたりするのではなく,むしろヘブライ 13章6節に述べられている次のような態度を表わします。「ですから,わたしたちは勇気を持って,『エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人がわたしに何をなしえよう』と言います」。その一例として,ジョアキン・フレイタス兄弟の経験があります。フレイタス兄弟は以前カトリック教徒でした。そして,多くの従業員を雇って事業をしていました。P・I・D・E本部に出頭するようにという命令を受けた時,当局側はどう切り出してよいか分からないようでした。どんなことが起きたか,フレイタス兄弟自身に語ってもらうのが一番よいでしょう。
「P・I・D・Eは非常に丁重で,貴重な時間を割いて頂かねばならず,お呼び立てしなければならなかったのは残念なことだ,と言いました。呼び出した理由を切り出せない様子だったので,私はこう言いました。『ええ,私の時間は貴重です。あなた方とて同じでしょう。皆さんは,きっと何かを知りたいと思っておられるに違いありません。恐らく私がエホバ
の証人かどうかを知りたいと思っておられるのでしょう。確かに私はエホバの証人です! ほかにお知りになりたいことがありますか』。「このように率直な態度に出たので,言わばその場の空気が打ち解けたものになりました。そこで,P・I・D・Eは,その組織がいかに悪いか,その組織を離れて再び良いカトリック教徒にならねばならないのはなぜかを話しました。そこで私は話す機会を与えてもらい,自分がカトリック教徒として育てられ,友達の中には司祭さえいること,そしてその司祭が酔っ払ったのを見たことを話しました。他の多くの人たちと同様,私もかつては不道徳な人間でしたが,エホバの証人と聖書を学んで以来,生活を清め,今ではクリスチャンの夫に求められているとおり,一人の妻と生活しています。それで,『皆さん,一つお尋ねしたいことがあります。私は元のカトリック教徒に戻るべきでしょうか,それともエホバの証人としてとどまるべきでしょうか』」。フレイタス兄弟が直ちに放免されたことは言うまでもありません。
カボベルデにおける進歩
1963年に宣教者が追放されて以来,カボベルデでの業の進展ははかばかしくありませんでした。しかし1966年には特別な訪問者がありました。米国に住む一兄弟が故郷の島に帰って来て,サンビセンテ島とサントアンタン島で多くの文書を配布し,王国の証言を行なったのです。
サンチアゴ島には,関心を持つ孤立した男の人がいました。その人は写真家の友人の家で見つけた「神を真とすべし」と題する本を読んで1958年に独りで真理を学び,リスボン支部と手紙で連絡を取り続けていました。1965年には,8名の人を
集めて記念式を祝いました。その喜ばしい時のことについて支部に次のように書き送りました。「8人のうち6人だけが象徴物にあずかったことをお伝えしなければならないのは,残念なことです。他の二人はまだ未熟だからに違いありません」。その人々が援助を必要としていたことは明らかです。1968年に旅行する監督の訪問を初めて受けて,その人たちは大喜びしました。記念式の時には,3人の伝道者が報告し,合計31人が集まりました。この度はだれも象徴物にあずかりませんでした。
危なかった訪問
1968年の夏にフランスで地域大会が開かれることになっていました。聖書劇を含めすべてのプログラムを翻訳し,練習を重ね,テープに吹き込まなければならなかったので,準備に数か月間かかりました。それに関連して,ルアス家の人々は一つの経験をしました。セレステはそのことについて次のように語っています。
「エフタの娘の劇をやっと録音しおえて,次の練習のためにそのテープを家に置いておきました。朝7時ごろ,玄関のベルが鳴りました。『どなたですか』と言うと,訪問者は,P・I・D・Eの係官だと名乗りました。着替えをするまでちょっと待って欲しいと言いました。それまでにも何度か警察の来訪があったので,家にはほとんど文書がありませんでしたが,とっさにテープのことを思い出しました。それを台所に急いで持って行き,ガスこんろの上の部分を取り外して下にテープを滑り込ませ,外した部分を元の位置に戻しました。
「係官は入って来て,家の中を隅から隅まで捜し,ついに台所にやって来ました。ちょうど調べの終わるころ,娘のディナ
が入って来て,『ママ,コーヒーを入れるわ』と言って,こんろの火をつけに行きました。どうしましょう。何か言えば,テープは発見され押収されてしまうでしょう。何時間もかけて準備したものが煙になってしまう様が目に浮かびました。幸い,娘は反対側のバーナーの火をつけたのです! コーヒーはでき,結局テープは警察に見つからずにすみました」。数日後,100名の大会出席者のための旅行関係の書類がP・I・D・Eの係官にすんでのことで押収されるところでした。ディアマンティノ・フェルナンデス兄弟はそのことについてこう語っています。
「2台の貸し切りバスのための資金と完全な書類を届けるため,妻と地域監督と一緒にアルメイダ兄弟の家へ行きました。アルメイダ兄弟が管理人をしているビルに入り,受付のテーブルに封筒を置いた時,突然,P・I・D・Eの3人の係官がアルメイダ兄弟のアパートを捜査するために現われました。二人の係官がアルメイダ兄弟と一緒に階下へ行き,その間に,3人目の係官がテーブルの上の封筒を調べはじめました。私たちはかたずをのんで,その係官を盲目にしてくださいとエホバに祈りました。その人は,何も言わずに封筒をテーブルの上に置き,仲間に加わるために階下に行きました。その人の姿が見えなくなるやいなや,私たちは貴重な書類を持って立ち去りました。ここでもまた,エホバの保護が明らかに見られました」。
イエスは,マタイ 10章17節で,『人々に用心していなさい。人々はあなた方を引き渡すからです』と弟子たちに指示を与えられましたが,次の経験が示すとおり,それは賢明な助言です。
「私たちは祭日である母の日に会衆で“ピクニック”を計画
しました。モンサントの森に集まるとても良い口実になったからです。要所要所に見張りを立て,兄弟たちは弁当を入れたバスケットや,ぶどう酒,サッカーボールやレコード・プレーヤーを携えて行きました。正午近くになっていました。公開講演が終わり,「ものみの塔」研究の最後の節にきたところで,見張りが危険の合図を送ってきました。みんなが一斉に行動し,たちまちのうちに弁当を入れたバスケットが開けられ,ぶどう酒が振る舞われ,レコード・プレーヤーが鳴り,男の子たちはサッカーボールをけって回りました。そこへ警官が現われました。状況を判断してから,『ここで何をやっているんだ。何か宗教的な集会か』と聞きました。こういうときに代表して話すよう任命されていた兄弟は,『ご覧の通り,ピクニックをしているんです』と答えました。警官は何も言わずに立ち去りました。「念のため,文書と聖書を皆集めて,道のずっと向こうにある1台の車の中に置くようにという発表がなされました。それが終わるやいなや,警官が手にライフルを持ったG・N・Rの兵士15名を伴って戻って来ました。そして,弁当を入れたバスケットを丹念に調べました。しかし,1冊の文書も聖書さえも見つけることができませんでした。巡査部長と部下たちは,苦笑いを浮かべ,『いいだろう,今回はうまくだましたが,お前たちが何をしているかは分かっているぞ!』と言いながら手ぶらで立ち去りました」。
時代は変わる
1968年9月初旬,サラザール首相は卒中で倒れました。マルセルロ・カエターノ教授が議会の議長に任命され,新政府が組織されました。サラザールは1970年に死亡するまでその
変化を知ることがありませんでした。権力の移行は,多くの人々が予想していたよりもずっと平和裏に行なわれました。1969年初頭には,警察の干渉は明らかに緩和されたことが認められました。警察が兄弟たちを逮捕すると,改善がはっきり認められるほど丁重で礼儀正しく兄弟たちを扱いました。ある兄弟は,P・I・D・Eの係官から次のように言われて,この事実に対して注意を促されました。「非常に親切な扱いを受けていることに気がつきませんか。少しも悪い扱いを受けていないでしょう。座り心地の良いいすに座っていませんか」。ずっと人道的な扱いを受けるようになったのは確かに励みになりました。警察から悪い扱いを受けるどころか,むしろ保護してもらったという報告さえありました。
そうした報告の一つはリスボンのある集会のときに起きた出来事を次のように伝えています。二人の警官が夜10時ごろ玄関のベルを鳴らしました。姉妹が応対に出ると,二人は警官であることを明かし,集会が開かれているという苦情があったので調べに来たと言いました。姉妹は慎重にこう答えました。「皆さんがご自分の務めを果たしておられることはよく分かります。でも,主人のいないときに見知らぬ男性を絶対家に入れてはならないと厳しく主人から言われております。それで,私の立場を理解していただけると思います。よろしければ,明日の朝一番に警察署へ伺って質問にお答え致します」。警察はそれを承知しました。翌朝,姉妹は警察官から快く迎えられました。そして,次のような会話が交わされました。
「おはようございます。昨晩の集会はどうでしたか」。
「とてもよい集会でした,ありがとうございます」と姉妹は答えました。
「何人出席しましたか」。
「よく分かりませんが,25名くらいだったと思います」。
「いいえ,もっと多かったですよ。正確に言うと,32人でした。わたしたちは建物から出て来る人を数えたのです」と,警官は言い,こう付け加えました。「奥さん,あの建物にはとてもいやな人たちが住んでいます。いつももんちゃくを起こし,何かにつけて苦情を言っています。昨晩お宅に伺ったのも,苦情があったので型通りの取り調べに行っただけなのです。しかし,しばらく前からお宅で集会が開かれていることは知っていましたよ。建物に入るときできるだけ静かにするよう,仲間の方々に話したらどうですか。そうすれば,だれも苦情を言わないでしょう。時にはどこかほかの家を使ってもよいと思うのですが」。
ポルトから川を隔てたビラ・ノバ・デ・ガイアでも前例を見ないような事態の変化がありました。二人の姉妹が,昼食前に最後の家を訪問したところ,その家の主婦は「真理」の本を求めました。お金を持って来るから待っていてくださいと姉妹たちに言って,その主婦は急いで警察に電話しました。警官がやって来ましたが,意外なことに,その主婦も警察署へ来るようにと言いました。主婦は,もうじき帰宅する主人のために食事を作っているところだからと抗議しましたが,警官はどうしても来るようにと言いました。
警察署では,事件に関する徹底的な報告が作られました。その主婦はますます不安になりました。警官は,これはほんの始まりにすぎず,この事件が裁判になれば,さらに多くの時間を失うことになると告げました。その婦人は,すっかり取り乱してこう言いました。「どうしましょう! エホバの証人に対処する一番良い方法はすぐに警察へ電話することだ
と司祭から言われたので電話しただけなのに。こんなことになるのだったら,電話なんか掛けなかったのに!」警察が提案すると,その主婦は願ってもないと言わんばかりに告発を取り下げました。パリ ― 1969年の大会
1969年の大きな行事は,フランスのパリのコロンブ・スタディヨムで8月5日から10日にかけて開かれた「地に平和」国際大会でした。ポルトガル語のプログラムに合計2,731名の人が出席したのを見て,だれもが胸を躍らせました。それはちょうど1年前のツールーズにおける出席者の3倍を上回っていました。マデイラ島,アゾレス諸島,カボベルデ諸島およびはるか遠方のアンゴラから代表者が出席したのは特に喜ばしいことでした。多くの人にとって,それは初めての大会でした。
支部の監督はこの大会で興味深い経験をしました。安全のために,ポルトガル語のプログラムは隔離され,特別な通行証を持っている人しか入れませんでした。支部の監督が,講演者のノア兄弟と一緒に到着したところ,警備に当たっていた兄弟は,二人がだれであるか分からず,中へ入れようとしなかったのです。確かに警備は行き届いていました。
教会が政治に干渉する
カトリック教会のある分子は,明らかに不満を抱いていました。1970年9月27日に,マルセルロ・カエターノ首相は,ラジオとテレビの全国放送で不穏な動きを見せる僧職者を公に強くしっ責しました。1970年9月28日付の,リスボンの新聞オ・セクロ紙の伝えるところによれば首相は次のように述べました。
「カトリック教会の幾つかのある分子は,国家当局が不安にならざるを得ないような傾向を表わしている。……統治する者が無関心ではいられないことがある。すなわち,一部の僧職者たちが,反社会的および非愛国主義的政治活動に携わるために,口実をつけては司祭の地位を利用し,自分たちが人々に抱かせている伝統的な敬意および自分たちの享受している崇拝や教化の自由を利用していることである」。
「信教の自由」法案が提出される
1970年10月6日に,「信教の自由」と称する法案を組合議会に提出するという政府の意向は,特にエホバの証人の関心を引きました。その法律は信教の自由の枠を広げるものでした。その法案に対してどんな反応があったでしょうか。カトリック教会は非常に批判的でした。司教たちは,自分たちの恵まれた立場を失うのを恐れて,それにはっきりと反対しました。
カトリック教会を特に当惑させたのは,法案の第4条でした。それは次のようなものです。「(1)国家は特定の宗教を持たない。また,様々な宗教グループを代表するそれぞれの組織と政府の関係は政教分離の原則に基づくものとする。(2)宗教団体は平等に扱われる権利を有する」。
全体主義的なやり方はなかなかなくならない
しかし,警察国家の精神は消えませんでした。そのことは,「極秘」と記され,内務大臣の署名入りの,エホバの証人に関する次のような公文書が急送されたことからも分かります。
「(1)G司令部第2師団幕僚部第1班21088管区警察隊,S.I. ― 981/70号,1970年10月21日付,同文通牒によって,問題の
宗派の違法性,特に同派の宣伝の違法性に関する指示は既にまとめて与えられた。「(2)『信教の自由』法案の条項が最近新聞に掲載されたが,同法案の性質上,その目的が異なって解釈される可能性がある。兵役免除を申し立てる若い男子が特にそうする可能性が強い。
「(3)2項に述べられている事柄にかんがみて,これらの事実を内務大臣閣下に提出したところ,内務大臣閣下は次の急送公文書を作成することを適当であるとみなされた。
「『信教の自由法案は,最大の国益を図る理由から,エホバの証人に課されている制限を決して変えるものではない。また,エホバの証人の活動は今後も阻止されるべきである』」。
アンゴラで迫害が続く
一方,アンゴラでは,新たな迫害の波が起きていました。1970年3月16日,ノバリスボアで,関心を持つ人7名が,協会の出版物を使って聖書を研究したかどで逮捕されました。7人とも2年から5年の刑を言い渡されました。そのうちの一人から寄せられた手紙は,7人がどんな扱いを受けたかを次のように述べています。「6月10日,サダバンデイラのウイラ地区へ移されました。そこで四日間過ごしましたが,毛布も与えられず,板の上で眠り,真っ暗な監房に入れられました。食べ物といえば,毎日午後4時に支給されるスプーン1杯のスープだけでした」。
アンゴラ植民地当局者が,エホバの証人の業を「やめさせ,つぶしてしまう」絶好の機会だと考えていたと信じる十分の理由がありました。ジョアンウ・マンコカ兄弟は,流刑労働収容所で9年余り服役した後ようやく1970年8月に釈放されて
いましたが,1971年4月付で他の30人を超える忠実な証人たちと共に再び投獄されました。迫害は進歩を促す
アンゴラでエホバの証人に対する新たな攻撃が加えられたにもかかわらず,永遠の命にふさわしい気質の人々の心に,神の王国の音信は引き続き達していました。フランスとドイツとイタリアを合わせたよりも広いこの広大な土地に住む500万人を上回る人々の中から,幾百もの人が真理を学ぶようになっていました。1971年の伝道者の最高数は487名で,これは前の年の平均を88%上回っていました。記念式には1,311名が出席しました。
困難な事態が生じた1961年当時,ポルトガルには1,000人ほどの伝道者がいました。ところが10年後には,9,086名という空前の最高数を記録したのです! その年の記念式には,2万824人という記録的な数の出席者がありました!
変化の傾向
1971年6月15日,120人の議員から成る国民議会が,信教の自由に関する法案を討議するために招集されました。新聞や雑誌は,政府の検閲を通るとは多くの人が夢想だにしなかったような論説を掲げるようになっていました。例えば,ポルトガルの主要な週刊ニュース雑誌ビダ・ムンディアルの1971年3月26日号には「カトリック信仰と国民性」と題する次のような一文が載りました。
「宗教面に関してポルトガル国家の実状と全く一致しない[カトリック教会のための]口実のもとに,様々な特権を得る目的で,最近多くの主張がなされてきた。ポルトガルはカトリック
国家ではない。国民の多くがカトリック教徒であると唱えている国にすぎず,何よりも,様々な人種を抱え,様々な宗教の存在する国である。この点を否定することはできない。……それがたとえどれほど魅惑的に見えようとも,国家当局がある一つの宗教に好意を示すのはふさわしいことではない……一つの宗教が認可されるなら,自由に関する最も健全な諸原則の名において,すべての宗教が認可されるべきである」。議員たちが証言を受ける
ポルトガルの立法府の議員たちにエホバの証人のことを知らせる時が来ていました。信教の自由を支持していることで知られている,国民議会の14名の議員との会見が取り決められました。エホバの証人は,国家の最高立法機関の議員と話すことに初めて成功しました。それら議員の自宅へ招かれ,何時間にもわたる友好的な会話を交わした例も幾つかありました。エホバの証人の信条を説明した12ページの声明文と数冊の出版物が各議員に手渡されました。
ポルトのアルマンド・モンテイロ兄弟は,高校時代の同級生で議員になっていたサカルネイロ博士と話す機会がありました。サカルネイロ博士は,市民的自由にかけてはポルトガルのスポークスマンであるという評価を得ていました。同博士はモンテイロ兄弟にこう語りました。「特にアンゴラで戦争が起きていますし,皆さんがそうした紛争にかかわりを持たないので,認可を得るには厳しい闘いをしなければならないでしょう。しかし,私はすべての人に信教の自由が与えられるべきだと考えております。信教の自由を保障する法律が可決されるよう自分の力の及ぶ限り,どんなことでもするつもり
です」。興味深いことに,この人物は,後にポルトガルの首相となり,1980年に死亡するまでその地位にありました。信教の自由法
1971年8月21日,ポルトガルは市民的自由の一つの分野で里程標に達しました。その日,信教の自由を認める4/71法が採択されたのです。この法律によれば,認可を求める宗教は,500人の会員の署名入りの公式嘆願書を,信条,集会,出版物その他に関する詳しい情報と共に提案しなければならないことになっていました。
翌年,だれもが予期しなかったことですが,嘆願書の署名すべてについて公証人の証明を求める別の法律が作られました。1972年11月,厚さ5㌢にもなる書類が法務省に提出されました。こうして,エホバの証人は,新しい法律の下で法的認可を求める最初の宗教グループになりました。役人の言葉から,その成否がすぐに分かると考えるべきでないことは明らかでした。
1971年の地域大会が中止になる
ポルトガルでは依然として大会が禁じられていたので,フランスへ旅行することは大きな年中行事となっていました。ツールーズの「神のお名前」地域大会を待ち焦がれていた3,500人の兄弟たちは,出発日の1週間前になって,コレラの流行の恐れがあったためにその旅行が中止になったと知って,ショックを受けました。どうすることができるでしょうか。リスボンの兄弟たちは,英国のロンドンの大会が同じ日付に行なわれることに気づきました。バス会社との契約の再交渉をするために大急ぎで取り決めが設けられました。記録的な速さで,政府が10台の貸し切りバスのための旅行許可証
を発行してくれたので,最後の障害は克服されました。長旅の末,兄弟たちはロンドンが広くて,いくら探し回ってもトゥイッケンハムの大会会場が見つかりそうにないので圧倒されてしまいました。すっかり道に迷って片言の英語で,「わたしエホバの証人。トゥイッケンハムどこ?」と泣きつくしかなかった人もいました。英国の警官は大変親切で,兄弟たちの中には大会会場まで警官に連れて来てもらった人もいます。数台のバスはついに,早朝ミルヒルのベテルへ到着しました。兄弟たちは,温かく迎えられたことを決して忘れることができません。ロンドン・ベテルの王国会館は,大急ぎで宿舎に変えられました。
耳の不自由な兄弟たちが逮捕される
1971年10月のこと,耳の不自由な兄弟たちから成る熱心な群れがリスボンで定期的に集会を開いていました。警官が突然その会衆の書籍研究の場所にやって来ました。しかし,ノックする音が聞こえなかったので,だれも戸口に出ませんでした。まごついた警察は,集会が終わるまで待ち,兄弟たちがその家を出るところを逮捕しました。だれも質問に答えず,一言も話さないので,警官は奇妙に思いました。
兄弟たちが,耳も聞こえず口もきけないことを,穏かな手振りや身振りで示すと,警官はいよいよ疑いを抱きました。耳の聞こえないふりをしているのだと考える者がいたために警官たちが混乱している様子はむしろこっけいでした。近所で家主が見つかり,警官は17人の耳の不自由な兄弟と一緒に家主も警察本部へ連れて行きました。逮捕された兄弟たちが本当に耳の不自由な者であることを確かめる検査をあれこれ行ないました。そして,納得すると,訴えを取り下げました。
隠れた動き
時流は信教の自由を認める方向に向かっていたことを考えると奇妙に思えるかもしれませんが,1972年の春,抑圧的措置が復活するといううわさが流れました。真理に関心を示した一警察官を通して共和国国民軍(G・N・R)公報が兄弟たちの手に入りました。それは,1972年3月9日付の「公報1441/3a号共和国総本部」で,「エホバの証人派の活動」という表題が付されていました。その内容は一部次のとおりです。
「上記の問題につき,軍司令官は次の事を通知するよう命じられた。すなわち,彼らの活動を暴露し,それに応じて行動するよう一層努力すべきであるということである。この宗派が破壊的な性質のものであることは明白であり,現行の法律はその活動を抑圧することを認めている」。
ですから,1972年3月29日の主の記念式の晩に,リスボンの三つの集会場所に警官が押し入り,全員を警察署へ連行したのも驚くにはあたりませんでした。しかし,警察は保釈金を要求せず,間もなく兄弟たち全員を釈放しました。ほかにはどんな事件も報告されませんでした。ですから,この特別な警察軍の兵士たち一般はエホバの証人を攻撃する全国的な運動に乗り出したいとは思っていなかったようです。
親切な警察署長たち
実際のところ,エホバの証人に寛大な態度を示す警察官は少なくありませんでした。二人の姉妹は次のような経験を語っています。「家から家の奉仕をしていると,パジャマ姿の男の人が怒って戸口に出て来ました。私たちは礼儀正しく立ち去って,証言を続けました。その建物を出るところで,パジャマ姿の男の人が私たちを待ち受けていました。その人
は警察官で,自分について来るようにと言い張りました。私たちはその人に,コートを着てはいかがですか,逃げませんからと言いました。その人がコートを取りに行っているわずかなすきに,そばのごみ箱に文書を隠しました。「私たちを捕まえた警官は,警察署に入るなり横柄で,誇らしげにこう言いました。『二人のエホバの証人が伝道しているところを捕まえて連れて来ました。逮捕してください!』ところが,その人は大きなショックを受けました。『警官がパジャマ姿で通りを歩くとは何事だ。恥を知れ。家に帰って,きちんとした服装をしてくるんだ!』と署長に叱られたからです。署長はそう言ってから,私たちを帰らせてくれました。それで,私たちは文書を取りに戻りました」。
別のときのことですが,野外奉仕の途中で逮捕された二人の兄弟が警察署に着くと,警官が自慢げにこう言いました。「エホバの証人をもう二人連れて来ました。留置所へぶち込んでください!」それに対して署長は,「一体何をしているんだ。ここにもうエホバの証人を連れて来てもらいたくないねえ。この次は,僕の母を引っ張って来るに違いないだろうよ!」と答えました。署長はそれ以上問題にせずに,兄弟たちを釈放しました。
再び法廷へ
共和国国民軍(G・N・R)が1972年3月に発行した公報はエホバの証人の諸活動を抑えるものとならなかったため,公安警察(P・S・P)がわたしたちの集会をやめさせるために使えるような法律が1972年11月に可決されました。コンドマー,トルレス・ベドラス,パレデ,リスボン,マデイラ島のフンシャルなどの土地で逮捕の波が兄弟たちを襲いました。
一連の裁判が行なわれ,勇気ある判事たちはエホバの証人に無罪の判決を言い渡し,信教の自由を大胆に支持しました。古くからカトリックの拠点である北部地方のペゾ・ダ・レーガで行なわれた裁判には,大きな期待が寄せられました。その孤立した区域では業が開始されてから日が浅かったにもかかわらず,新たに関心を抱いた18名の人から成るグループが個人の家で聖書研究をしたかどで裁判にかけられていたのです。そのグループの世話をしていた特別開拓者,アゴスティニョ・バレンテ兄弟はそのときの模様をこう語っています。
「結局のところ,最も優れた証言をしたのは非常に低い生まれの,関心を持つ二人の婦人でした。厳粛な雰囲気の法廷は,普通は人をおびえさせるものですが,その二人の婦人には何の影響も及ぼしませんでした。二人は,聖書から数々のすばらしい事柄を学んで得ている喜びを,少しのてらいもなく,はっきりと,そして力強く説明したので,判事自身も感銘を受けていることがありありと見てとれました」。その判事は無罪の判決を下しました。
中立を守るクリスチャンの信仰が試みられる
ポルト出身のフェルナンド・シルバ兄弟は,クリスチャンの良心上の理由で兵役に服することを拒んだため忠誠を守る厳しい試練に遭ったことをまざまざと思い浮かべてこう話しています。「私は1972年12月に逮捕され,15か月間投獄されました。身体的な“説得”を含め,様々な努力が繰り返し払われましたが,私は妥協しませんでした。私はリスボンの近くのトラファリア刑務所へ移され,私に対する“処置”にはむち打ちが含まれるようになりました。そして最後に,飛行機に乗せられ,アンゴラへ連れて行かれました。
「無気味な将来が控えていることはすぐに分かりました。結局ノバリスボアに行き着き,残酷なことで有名な大尉の下に置かれたのです。殴打は日常生活の一部となり,その回数や厳しさも増しました。食べ物が与えられないことも珍しくなかったので,私は日増しに弱ってゆきました。絶えずエホバに祈りました。そして,エホバは私をお見捨てにならなかったと言うことができます。たたかれればたたかれるほど,痛みを感じなくなりました。親切な兵士たちがパンと果物を持ってきてくれました。
「ある晩,大尉が紙とペンを持って監房にやって来ました。そして,お前は射殺されることになるので,両親に別れの手紙を書くようにと言われました。耐える力をエホバに請い求めながら,死ぬものと思い込んで,手紙を書きました。やがて,それが策略だったことを知ったのです。最後に,軍事法廷で裁判を受け,2年4か月の懲役刑を言い渡されました」。
ある名家の出の医師はまだバプテスマを受ける前だったのに,中立の問題ではっきりとした態度を取りました。その人の兄弟は植民地戦争で勇敢な働きをして勲章をもらった人物で,当然その医師も同様の愛国精神を示すものと思われていました。しかし,アフリカの植民地の紛争に参加しないことを決めたその医師は,ふさわしい機会をとらえて,家族の親睦会の席で聖書に基づく自分の立場を説明しました。息子の決定を素直に受け入れられなかった母親は,軍の本部で面談を取り決めました。そのときの模様はジョゼ・マヌエル・パイバ自身に語ってもらうのが一番良いでしょう。
「私が一家の“つらよごし”になっているということで,母
が感情的に動揺していることは,最初から明らかでした。それで,自分が決定を下した理由を説明させてもらいたいと頼みました。将校が注意深く聞いている時にも,母は会話をさえぎって,『あのエホバの証人たちが悪いんです。息子を洗脳してしまいました。あの人たちは狂信者ですわ!』と言いました。驚いたことに将校はこう答えました。『いや,私は彼らが狂信者だとは思いません。息子さんがご自分の信条について説明するのを聞かせていただきました。自分がしていることやその理由をわきまえておられます。もちろん,私は職業軍人ですから,息子さんの考えに同意するわけにはゆきません。しかし,私はあの人たちに敬意を抱いています。ほかの幾人かの証人たちから戦争に参加しない理由を聞いたことがありますが,皆,自分の信仰を理性的に説明することができることを知りました。狂信者とは,信じる理由や,何を信じているかも分からずにファティマ[ポルトガルにあるカトリック寺院]へ行く人たちのことです』。「それから将校は私に言いました。『あなたは医師なんですから,病気にかかっているという宣誓供述書に同僚二人の署名をもらうようになさったらどうですか。それをあなたに関する書類に添付しておきます。そうすれば兵役が免除になるでしょう』。私は将校の配慮に感謝したものの,うそをつくことになるからそういうことはできないと話しました。驚いたことに,将校は母に目を向けてこう言いました。『お聞きになりましたか。エホバの証人はうそをつくことさえしないのを知っていたので,わざと言ってみたのです。そこが息子さんのいいところです。このようなお子さんを持って,誇りに思うべきですよ!』」この兄弟は,現在長老として奉仕しています。
急激な増加
1972奉仕年度の終わりに,神権組織は力強く前進していました。伝道者数は6か月間連続の最高数を記録し,バプテスマを受けた人の数も,3年間連続で1,000人を上回りました。1万件余りの聖書研究が司会されており,記念式の出席者の総計は,2万3,092人を数えました。リスボンでは人口226人に一人の割合でエホバの証人がいたので,支部は,必要のより大きな所へ出かけて行って奉仕するよう兄弟たちを励ましました。
大きな都市でさえ援助を必要としていました。リスボンの南わずか40㌔にあり,人口6万人のセツバルの場合が良い例です。1968年に,セツバルの会衆には伝道者が27人しかいませんでした。支部はそこへ5人の特別開拓者を任命しました。1972年までに伝道者は140人の最高数に達し,記念式には375人が出席しました。今日セツバルには三つの会衆があります。
1973年の国際大会
増加は続き,ブリュッセル万国博覧会の会場で開かれた「神の勝利」大会のポルトガル語のプログラムに,8,150人という記録的な出席者数が得られました。スペインとベルギーの兄弟たちが何万人も出席したので,出席者最高数の合計は5万人を超えました。ポルトガルから出席した人々の大半はパスポートを持っておらず,政府はパスポートを発行しようとしなかったので,それほど多くのポルトガルの兄弟が出席したのは驚くべきことです。自分の引率する25人から成る旅行者のグループが,ポルトガルに帰国することを請け合った証人たちに対して,「集団パスポート」という特別なパスポート
が発行されたのです。交通手段として,それぞれ1,000人の大会出席者を運ぶ特別な列車4編成,チャーター機6機,何十台ものバスなどが取り決められました。モザンビーク,アンゴラ,カボベルデ,マデイラ島,アゾレス諸島など遠く離れた地からやって来て再び一堂に会する機会は,それらポルトガルの兄弟たちにとって信仰を強めるものでした。愛は言語の相違を越えて示され,また感じ取られるものです。そのことは,ブリュッセル大会の宿舎の取り決めにも表われていました。想像してみてください。50人の伝道者が交わるブリュッセルの一つの会衆が,訪れる350人の兄弟のための宿舎を取り決めたのです。訪問者のために自分のベッドを喜んで提供した兄弟は少なくありませんでした。家に25人もの人を泊めた兄弟もいました。一人の兄弟は,自分の家に15人の出席者を泊めるように割り当てられましたが,もっと多くのことをしたいと考えました。それで,大会会場の近くの小さなホテルの部屋を大会の期間中ずっと借り切って,宿舎部門の責任者にこう言いました。「本当に困っている人たちにここの部屋を割り当ててください」。
鉄道の駅での別れの光景は,決して忘れられないものでした。あちらでもこちらでも抱き合ったり口づけをしたりする姿が見られ,花や記念品が贈られ,その見送りは忘れ難いものでした。一人の警官は,そのようにクリスチャン愛が示されるのを見て感激し,自分も贈り物をすることにしました。
その大会は兄弟たちに強烈な印象を与えました。市内を通るとき,警官が付き添って出席者たちの一団を案内してくれたので,一人の兄弟はこう言いました。「何という違いだろう! ここでは警官が前に立って私たちを案内してくれる。 ポルトガルでは警官がいつも私たちの後ろから追いかけているのに」。
ポルトガル語の大会の結びの言葉として,ノア兄弟はこう述べました。「忠実にエホバに仕えつづけてください。エホバがどんなことを可能にしてくださるかはだれにも分かりません。この次の国際大会がポルトガルで開かれないとも限りません!」
クーデター
軍の内部で電撃的な革命が企てられ,1974年4月25日に実施されました。アフリカの植民地戦争が長引いていたので,不満が募っていました。アンゴラ,モザンビークあるいはギニア-ビサウで軍部が勝利を得る見込みはありませんでした。政府が植民地に対して断固たる政策を取っているので,兵士たちは自分たちで戦争を終結させる時が来たと判断しました。
国民一般は,無血革命に近いその革命を全面的に支持しました。人々を驚かせたのは,万力のように国を締め付けていた強力な諸制度が一夜にして崩壊したことです。P・I・D・Eの係官が幾百人も逮捕されました。兵士たちがP・I・D・Eの係官に銃を突き付けて連行する光景が見られましたが,それは事態の大きな変化でした。
過渡期
新政権はさっそく言論の自由と市民的自由の回復を宣言しました。それから間もなく,司法省はエホバの証人の弁護士に,審理中のエホバの証人の裁判すべてを打ち切ることを通知してきました。
また,前政権は法的認可に対するわたしたちの要請をたな上げ
していたことも分かりました。わたしたちは毎週当局者と折衝するようになりました。当局者はエホバの証人の業が法的に確立されることを支持する側に立っていました。外国で開かれた最後の大会
1974年の夏,合計1万2,102名のポルトガル人が,フランスのツールーズで開かれた「神の目的」地域大会に出席しました。外国の大会出席のためにこれほどの大量輸送がなされたことは,ポルトガルの歴史始まって以来かつてないことでした。鉄道の一監査官は,兄弟たちが車両の掃除をしているのを見てこう言いました。「鉄道に勤めて25年になりますが,このような光景を見たのは初めてです。全く異例のことです。この列車で旅をするどんな人たちとも全く異なっておられます」。
例年のことになっていた外国での滞在はその年に最高潮に達しました。兄弟たちは地域大会に出席するためあらゆる犠牲を払い,歓迎の言葉の冒頭から,祈りの最後の言葉まで一心不乱に耳を傾けました。幾年にもわたり,受け入れ側として
仕えてくださった人々すべての努力はいつまでも記憶にとどめられることでしょう。歴史的な出来事
1974年12月18日,エホバの証人は法的認可を得ました。それからわずか三日後,N・H・ノア兄弟とF・W・フランズ兄弟の出席を得て,二つの忘れ難い集まりが開かれました。一つはポルトで開かれ,7,586人が出席しました。また,もう一つはリスボンで開かれ,3万9,284人が出席しました。
1974年12月26日付の,リスボンの新聞,ディアーリオ・ポプラー紙はこの出来事の意義を次のようにまとめました。「4月25日まで,エホバの証人になるのは,危険なことで,さらには破壊活動分子のレッテルをはられることをさえ意味した。ところが時代は変わった。今や,ポルトガルでエホバの証人になることが可能になったばかりか,公に集まることも可能になったのである。実際,リスボンのタパディニャ・スタジアムで集まりが開かれ,幾万もの人が何の拘束も受けずに集まった。……比類のない,『神による政府』のもとでの平和という主題が,拡声装置を通して響き渡った。何とそれが,宗教心を高めることとはほど遠い集まりの開かれてきたサッカー競技場で起きたのである」。
霊的食物が備えられる
禁令下にあった期間中ずっとエホバはその組織を通して兄弟たちに霊的食物を供給しつづけてこられました。多くの支部から,文書の入った小さな小包が定期的に送られました。しかし,時がたつにつれてそれらの小包が没収されるケースが次第に多くなってゆきました。休暇でポルトガルにやってテモテ第二 1:7。
来る兄弟たちが,幾年もの間,数少ない貴重な出版物を持ち込んでくれました。それらの兄弟たちが示してくださった勇気に深く感謝し,そうした活動に喜んで参加してくださったすべての方々にお礼を申し上げたいと思います。―禁令下の文書集配所
組織が成長するにつれ,業の拠点となる場所が必要になりました。幾つかの都市で,便利な場所を見つけました。その一つに,“穴”と呼ばれた場所がありました。日光が全く入らない場所だったので,新鮮な空気を入れる穴を壁に開けなければなりませんでした。一人の兄弟は8年間そこで忠実に奉仕しました。その兄弟はこう語っています。「私はそれまでネズミと蚊が特に苦手でした。不幸にして,“穴”にはその二つがうようよしていました。最初のころは,“穴”に入るとき,ネズミたちの上を飛び越えねばなりませんでした。ネズミたちは逃げ場を求めて走りました。私の存在に慣れてくると,仕事をしている私のそばをゆっくり通って行ったものです。不思議なことに,そうした状況下では,ネズミと蚊がいても平気でした」。
商社に勤めている兄弟たちを通して,「ものみの塔」誌の特別号を国内に輸入することができました。税関の役人たちは,自分たちが許可しているものに対して明らかに「盲目」にされていました。兄弟たちの必要が大きくなりすぎるまで何年もの間その方法は成功していました。1970年代初期の紙不足の時期にさえ,エホバは,何トンものニューズプリントの紙がわたしたちの手に渡るよう物事を取り計らわれました。
幾年もの間,大勢の忠実な長老たちは,重要な出版物が時間
どおり確実に入手できるようにするため,世俗の一日の仕事が終わってから長時間懸命に働きました。記録によれば,幾百万冊もの小冊子や雑誌やパンフレットに加え,140万冊を超える書籍が民間の印刷業者の手で生産されました。エホバが保護し祝福してくださったことは明らかでした。しかし,業が法的認可を得たので,本部から文書を輸入することができるようになりました。1975年に,14㌧のコンテナーの最初の船荷を受け取ったときの感激は並々ならぬものでした。そのコンテナーに積まれていたのは,新たに発表される,「神の千年王国は近づいた」と題する416ページの書籍でした。
拡大に備える
信教の自由が認められたので,組織をすべての面で近代化するための処置が講じられました。リスボン郊外のエストリルに,支部として使うのに良い建物を見つけました。その近代的な3階建てのビルの所有者はエホバの証人に貸すことをためらっていました。しかし,弁護士に相談して疑念はすっかり取り除かれました。弁護士はこう言いました。「あれほど良い住人は得られませんよ。エホバの証人は借りている場所を,まるで自分たちのもののように管理します」。わたしたちはその建物を1976年に購入し,1977年には小さなオフセットの印刷所と文書倉庫を設けるために増築がなされました。
兄弟たちが喜びにあふれてとらえた新しい特権は,自分たちの巡回大会と地域大会を組織することでした。巡回区には備品が全くなく,やかんやなべさえもなかったので,それは少なからぬ挑戦となりました。12の巡回区がすべての備品を備える際に統一が図れるよう,支部は一連の会合を開きました。地域大会で円滑な作業が行なえるよう,共通して使える
簡易食堂と音響装置が共同所有されました。1975年の夏,ポルトガルで初めて三つの地域大会が開かれた際,それらの備品すべては調っており,申し分なく利用されました。その大会の公開講演の出席者は,合計3万4,529人でした。王国会館が再び開かれる
1975年1月,支部は諸会衆に,王国会館を開いても差し支えないことを知らせました。諸会衆は大きな喜びをもってその機会をとらえ,その年が終わるまでに,100余りの王国会館が開かれました。土地や建物の値段が高いので,唯一の解決策は会館を借りることでした。王国会館が,地域社会でも指折りの立派な講堂であることも少なくありません。王国会館には,カーペットやカーテンをはじめ兄弟たちが自分の家には備えることもできないような物が備わっていることが少なくありません。それは大変ほめるべきことです。家賃は法外な値段になっていき,場合によっては月600㌦(約15万円)を超すこともあります。それを支払っていくため,大抵の都市では,一つの会館を四つか五つの会衆で使用しています。
チモール島
チモール島はオーストラリアの北にある,東インド諸島の一つの島です。この島の東半分は16世紀初頭にポルトガル領になりました。1975年,チモール島民はポルトガルからの独立を要求しました。そのころ協会の本部は,チモール島の主都ディリへ行くことのできる経験のある特別開拓者の夫婦を探すようポルトガル支部に依頼してきました。あるオーストラリアの兄弟がそこを訪れた時,幾らか関心を示す人のいることが分かったので,その関心を育ててもらうためです。
ガブリエル・サントス兄弟姉妹は宣教者になるその任命を喜んで受け入れました。二人は1975年4月にディリに到着しましたが,そこでの宣教奉仕は長く続きませんでした。同じ年の8月の初めに,対立する政党間の内戦がぼっ発したのです。サントス兄弟はそのときの模様をこう語っています。
「撃ち合いが始まるちょうど二日前,間もなく自分のアパートに監禁同然の身になることなどつゆ知らず,私は2週間分の食糧を買い込みました。弾丸がアパートに当たり始めたとき,心配しても何にもならないことを悟り,エホバに祈って自分たちの命をみ手に委ねました。ほぼ2週間が過ぎ,食糧もほとんど尽き,アパートに残っているのは私たち二人だけになっていました。ほかの7家族は既に難民キャンプへ逃げていたのです。どうしようかと考えていた矢先,ある船の船長がドアをノックしました。私たちはそれまでその人の奥さんと聖書研究をしていました。それで船長は激しい戦火をくぐって私たちを助けに来てくれたのです。私たちが難民キャンプへ向かって出発すると,どういう訳か,この2週間で初めて
のこととして撃ち合いがやみました。奇妙に聞こえるかもしれませんが,私たちが難民キャンプに入るやいなや撃ち合いが再び始まったのです。キャンプで三日を過ごしたあと,その船長がノルウェーの船まで連れて行ってくれました。その船は,1,157人の他の難民と共に私たちをオーストラリアのダーウィンまで運んでくれました。エホバの保護の手が差し伸べられたことを感じたので,私たちは以前にも増して,忠実にエホバに仕え続けたいとの願いを抱いています」。その二人の開拓者はわずか3か月の間に567冊の書籍を配布しました。そしてディリの集会に出席するようになっていた人の中には,ポルトガルへ帰ってからついにバプテスマを受けた人もいます。現在はインドネシアがこの区域を統治しています。今後どうなるかは事態の推移を見なければ分かりません。
さらにすばらしいことが起きる兆し
1975奉仕年度の終わりに,信教の自由が認められてからわずか1年の間に,どれほど多くの顕著な出来事が起きたかを振り返って見るのは興味深いことでした。9か月間連続で伝道者の最高数が得られ,その結果,伝道者は1万6,183名の最高数に達しました。それは,前年の平均を23%上回るものでした。合計3,925人がバプテスマを受け,記念式の出席者は何と4万1,416人に達しました。すべては,さらに大きな拡大の見込みがあることを示していました。
自由は新たな試練をもたらす
1974年の革命はポルトガルの社会に大きな変化をもたらしました。急進勢力が一般民衆を扇動して不穏な状態がしばらく続きました。「工場委員会」と共に「居住支部」と呼ばれる
グループが組織されました。「工場委員会」はしばしば人民裁判で職員を免職にしました。街路の壁には,スターリン,レーニン,マルクス,毛沢東のポスターや大きな肖像画がはられ,共産党の新聞が売られて,ハンマーとかまがどこにでも見られるようになりました。皮肉なことに,放逐された右翼政体の圧制が厳しい批判を受けていたにもかかわらず,今度は左翼政権がそうした圧制の手段を用いるようになったのです。そのことは,オレガーリオ・ビルギニオの語る次のような経験からも分かります。「政府は,大衆の支持の自発的な表われとして,ある日曜日に働くようあらゆる人に呼びかけました。市民すべては,『軍部の勝利を祝う労働の日』に,畑や工場や事務所に出かけるよう求められました。私はそれに参加しないことにしたので,その当日,出て来ないと重大な問題を抱えることになるという脅しの電話を受けました。翌日,仕事に行く途中,工場の入り口にある大きな木に,『エホバどもを絞首刑にしろ』という文句の書かれた人形が懸けられているのを見ました。
「それから,従業員全員の総会が招集されました。約400人が出席し,私はその聴衆の前に呼び出されました。委員会の17人の委員全員が裁判官として席についていました。私が革命に関して中立の立場を取ったことを弁明しはじめると,共産党員たちが言葉をはさんで,私の宗教信条を攻撃しました。そしてエホバの証人は輸血を拒むから殺人者だと非難し,愛国的でないと訴え,私の免職を要求しました。ほかの人たちはそのようには考えませんでした。一人の人は率直に意見を述べ,その会合が人の宗教上の信念を裁くためでなく,従業員として価値があるかどうかを判断するために招集されたものであると述べました。私の仕事の記録に関して有利な報告
が提出されました。そして,模範的な振る舞いをしているので従業員として私をとどめるということでその集まりは幕を閉じました。興味深いことに,人形を懸けた本人は後ほど自殺しました」。別の種類の試練
そのころ,サルバドール・アレンデなど,故人となった革命指導者に崇敬の意を表して5分間の黙とうをささげることがよく行なわれるようになっていました。ポルトガルの一兵士の死に関連したそのような黙とうの機会に,マーリオ・ネトは次のような経験をしました。
「私がその儀式に加わらなかったので,共産党員である仕事仲間たちはその機会をとらえて私を非難しました。総会の日,250人の従業員が講堂に集まりました。長いテーブルには,事務所の様々な部門を代表する9人の裁判官が座っていました。私は弁明に際し次の三つの条件を出し,それは認められました。(1)話を中断しないこと,(2)弁護の話が終わってからだれでも質問することができる,(3)聖書を使ってもよい,の3点です。
「死者に対して崇敬の意を表することで非難を受けていたので,死者の状態について聖書が何と教えているかを説明することができました。また,動揺してやまない搾取された人類の抱える諸問題の唯一の解決策である王国の希望のあらましを述べました。その集まりは3時間に及びました。その時に行なった話は,私がこれまで行なう特権のあった公開講演の中で最も重要な講演だったと思います。会合のあと,事務所の仕事仲間たちが近づいて来て,好意的な意見を述べてくれました。例えば,ひとりの共産主義者はこう言いました。『私は絶えず死を恐れてきました。特に,死人が私にどんなこと
をする力があるかということを恐れてきました。君の説明はとても納得のゆくものでした。本当にありがとう』。また,カトリック教徒の一女性はこう言いました。『すばらしかったわ! 現代の聖パウロのような真のクリスチャンを見ているような気がしました。自分の立場を見事に守り通されましたね。お話を伺えて特権でした』。1週間後に発表された全員一致の決定は,私を解雇しないというものでした」。一層大きな戸口が開かれる
業は急激に伸びていました。1975年から1977年までの3年間に,平均して毎週一つの新しい会衆が作られました。以下の数字を考えてみてください。1976年から1977年の2年間に,11万冊を上回る聖書が配布され,エホバの証人はポルトガルで最も大量に聖書を配布するグループになりました。同じ期間中に,支部は100万冊を上回る書籍を会衆に発送しました。1977年の伝道者の最高数は2万335名で,記念式の出席者は4万7,787人という空前の最高数に達しました。
同じ期間中,未割り当ての区域すべてに良いたよりを伝える大々的な運動が組織されました。幾十人もの一時的な特別開拓者たちがグループで車に乗り込んで出かけて行きました。支部は,さらに1,000冊の書籍を急いで送って欲しいという電話を幾度も受けました。4人の開拓者から成る一つの自動車グループが1か月に2,000冊を上回る書籍を配布することは珍しくなかったのです。強力な証言がなされていました!
開拓者たちがギニア-ビサウへ
ギニア-ビサウはアフリカの西海岸にあって,セネガルとギニアの間に位置しており,53万人の人口を擁しています。この国はアフリカの新しい共和国の一つで,1973年に一方的に
独立を宣言し,ポルトガルの革命後,1974年に完全な意味で独立を獲得しました。人口の多くは回教徒です。長年の間に,数名の伝道者がこの国を訪れ,王国の真理の種をまくために自分のできることを行ないました。しかし,1976年4月に,ポルトガルから二人の特別開拓者が派遣されて,組織的な活動が始まりました。二人は続く14か月間に,本当に驚くべき業を成し遂げました。マヌエル・シルベストレはこう報告しました。「人々は真理を快く受け入れる態度を示します。パートナーと私は二人で合計67件の聖書研究を司会しています」。
二人は,1977年5月の巡回監督の訪問期間中に遠く離れた都市で宣べ伝える計画を立てました。ロドリゴ・ゲルレイロ兄弟の報告によると,その結果は次のとおりです。「ほんの短い期間しか車を借りることができなかったので,できるだけ多くの文書を車に積み込みました。二人の特別開拓者および家内と共に,マンソーア,バファタ,ノバラメゴへ向けて出発しました。一人の家の人に書籍を五,六冊配布することは珍しい経験ではありませんでした。わずか二日半で合計774冊の書籍と聖書を配布しました」。
良いたよりを宣べ伝える人々をさらに派遣する計画が進められていましたが,一方,カトリック教会は開拓者たちの存在をおもしろく思っていませんでした。ある日,ひとりの司祭はあざ笑うような調子でマヌエル・シルベストレ兄弟に言いました。「あなたがたがアフリカで戦おうとしなかったので,我々がポルトガルでの事態を難しくしてやったのだ。だから,この土地での業にも反対があることを精々覚悟しておくことだな」。
それから間もなく,その「活動が国内の安全を脅かす」という口実のもとに,二人の特別開拓者たちは,48時間以内に
国を出るように言い渡されました。1977年9月,リスボン駐在大使に会見し,追放された開拓者が,国内の安全を脅かすどんなことを行なったのかをはっきりさせようとしましたが,大使は何の説明も与えませんでした。エホバがこの国のためにどんなことをなさろうとしておられるかは今後明らかになるでしょう。しかし,特別開拓者たちは,その国で奉仕している間に,大統領を含め大勢の大臣に直接証言しました。
カボベルデにおける発展
1968年当時,カボベルデには3人の伝道者がいました。ポルトガルの幾つかの植民地が独立を獲得した1974年には,伝道者が14名という最高数になっていました。カボベルデ諸島は7年続きの干ばつに見舞われていましたが,それとは対照的にすばらしい霊的祝福が豊かに注がれる兆しが見られていました。
ポルトガル出身の4人の特別開拓者が二つの島へそれぞれ任命されました。4人はすばらしい働きをし,1976奉仕年度の終わりに,伝道者は最高数の60名になっていました。それは,前年の130%増加に当たります。その年,3,000冊を上回る聖書と書籍が,10人の開拓者を含むようになっていた熱心な人々によって配布されました。記念式には130名という記録的な数の出席者がありました。
1977年に首都のプライアで,すべてのプログラムの扱われる地域大会が初めて開かれたことは本当に特筆すべき出来事でした。兄弟たちは四日間の大会のために主要な映画館を借り,聖書劇を三つとも全部上演しました。公開講演には合計284人が出席しました。
1978年1月に,予期しない出来事が起きました。4人のポルトガル
の特別開拓者が好ましからざる人物として追放されたのです。しかし,そうした措置は一層活発に活動するよう兄弟たちを奮起させたにすぎません。1982年には,カボベルデの野外で合計21人の開拓者が奉仕しており,伝道者は147人という最高数を記録していました。同年の主の記念式の出席者数は470人に達しました。現在,五つの島で王国を宣べ伝える業が行なわれています。確かにこの区域ではより一層の収穫を期待できます。アゾレス諸島で良いたよりが広まる
アゾレス諸島の近年の歴史の特色となってきたのは,移民が絶えず流入して来ていることです。それと同時に,羊のような人々も絶えずやって来て,エホバの民の諸会衆に集め入れられ,「囲いの中の羊の群れのように」一つに結ばれてきました。それら多くの賛美者の声は今やどの島にも達しています。―ミカ 2:12。
一例を挙げましょう。サンタ・クルシュ・ダス・フロレスの会衆は1975年に組織されました。米国にいたジョゼ・リマ兄弟は,良いたよりを親せきや同国人に伝える目的で生まれ故郷の島へ戻りました。巡回監督がそこを訪問したとき,公開講演の会場として,モダンな宴会場が提供されました。出席者は33人でした。集会後,その会館の所有者は,「ところで,何か特別の集まりを開くのにこの会場を月に1度無料で皆さんにお使いいただいて差し支えありません」と言いました。
この小さな島で,1981年12月には伝道者が12人という最高数に達しました。その年の記念式の出席者数は50人でした。最近,立派な王国会館がこの島に完成しました。
1980年1月1日の地震はテルセイラ島に大きなつめあとを残し,
死者56名,家を失った人約1万5,000人を出しました。幸い,兄弟たちで命を失った人は一人もいませんでした。もっとも,家屋に被害を受けた兄弟たちは少なくありませんでした。主要な都市,アングラ・ド・エロイズモで被害を受けなかった唯一の宗教建造物は王国会館でした。そこは兄弟たちの一時的な宿泊所になりました。ポルトガル支部は政府の最初の積荷と共に,450㌔を上回る食糧や他の非常用物資を送りました。状況を調べるために派遣された地域監督はこう報告しました。「被災者のほとんどは不満や失意の霊にとらわれていますが,兄弟たちの中にはそうした人はいません。各人の状況を知るために他の島々から直ちに派遣された兄弟たちの示した純粋の関心は大きな励ましの源でした」。大西洋の真ん中にあるこれらの島ではエホバへの賛美の声が年ごとに高まり,現在303名という最高数を数える忠節な伝道者が賛美の声を上げています。
マデイラ島での進展
この島の王国伝道者の数が100名台に達したのは,伝道が開始されてからほぼ20年後の1970年代初頭のことでした。それから何年もたたないうちに良いたよりの伝道者の最高数が300名を超えるとはだれにも想像できなかったことでしょう。伝道者の現在の最高数は396人で,1981年の主の記念式の出席者数は初めて1,000人を超えました。
1973年,マデイラ島の主都フンシャルの豪華なホテルで一人のバンドリーダーが演奏を行ないました。その人は自分の経験をこう語っています。「私ははなはだしくこの世的で,たびたび泥酔し,不道徳な生活を送っていました。妻が私のもとを去って行ったあと,かつて私のバンドの団員だった人が,自分の新たに見いだした,聖書に基づく希望を話してくれる私の希望でもあることが分かりました。2度目の聖書研究のあと王国会館へ行きましたが,髪がボサボサで,ひげも手入れしていなかった私には場違いな感じがしました。身なりはきちんと整えても,神に喜んでいただくにはさらに変化する必要のあることは分かっていました。
ようになりました。その人から最初にもらった幾つかの出版物を読んで,王国の希望は「自分が学んでいることを他の人に伝えたいという燃えるような願いがありましたが,アゾレス諸島で演奏する契約を既に結んでいました。出発前に,研究用として雑誌の古い号を70冊ほど用意しました。その雑誌を全部読み終えると,それらを他の人たちにも読んでもらいたくなりました。それで,午前3時に演奏が終わったあと,家から家へ行って,各戸口の下に,自分で書いたメモと一緒に雑誌を入れました。聖書研究を始めて2か月目の終わりに,私はエホバに献身しました。
「筋金入りの回教徒だった母は,私の新しい生活ぶりに目をみはりました。そしてある日こう言いました。『あの気ままな生活からお前を自由にしてくださいと,これまで度々神に祈りました。その神がエホバで,わたしの祈りを聞いてくださったことを知って,本当にうれしいよ』。73歳になる母は研究を始めて6か月後にバプテスマを受けました」。今日ジョン・ビエイラ兄弟は長老として奉仕しています。
1981年の「王国の忠節」地域大会の会場としてエスターディオ・ドス・バルレイロス(バルレイロス・スタジアム)を使用する契約が交わされたという発表を聞いて,多くの兄弟たちは自分の耳を疑いました。フンシャル市役所は寛大にも大会用にと2,000㌦(約50万円)相当の材木を寄付しました。
新聞,ラジオ,テレビは優れた宣伝を行ない,公開講演の出席者は832人という記録的な数になりました。アンゴラでの胸の躍る出来事
1974年1月,興奮を呼ぶニュースがアンゴラに伝わりました。ポルトガルで採択された信教の自由に関する法律は植民地にも適用されると海外領土省が発表したのです。その後王国の業に大きな影響を及ぼす一連の出来事が次々と起こりました。1975年3月までに,兄弟たちは法的認可を得るための必要な書類すべてを,500人の伝道者の住所氏名を添えて提出しました。自由に集まり合う権利が回復されていたので,早速機会をとらえて,初めて公の巡回大会を開きました。その会場は,ルアンダで最も優れた屋内競技場,シダデラ・デスポルティバで,3月16日と23日の週末に行なわれました。
オクタシーリオ・フィグエイレドはそのときの模様を懐かしそうにこう語っています。「最初の大会は,伝道者および集会に定期的に出席している人たちだけが参加できるものでした。公開講演に2,888名が出席し,私たちは胸を躍らせました。万事が円滑に運んだので,2度目の大会を開くことになりました。その時は,関心を持つ人々すべてを招待しました。2度目の公開講演に7,713名が出席したのを見たときの驚きは,とても言葉では言い表わせません! 出席者の中には,植民地の刑務所や労働収容所で15年以上も過ごした人々が含まれていました。最後の歌を歌うとき,それらの人のほほには喜びの涙が幾筋も伝っていました」。それら忠実な兄弟たちにとって,それはまさに自分たちの人生における感動的な瞬間でした!
ルイス・サビノ兄弟はその巡回大会での一つの経験を次のように語っています。「ポルトガル人と戦いを交えたことの
ある三つの政治運動の激しい抗争が表面化していたので,大会の警備をするために警察官が派遣されました。その前の週に同じ屋内競技場で政治的な決起集会が開かれ,騒動が起きました。一人の警官はどんなことが話されているか聞くため会場内に入ることを心に決めていました。エホバの証人について,賛否両論を余りにもたくさん耳にしていたからです。深い感銘を受けたその人は,急いで家に帰り,妻子を連れて戻って来ました。その結果,警官と家族は家庭聖書研究を始めました」。1975年9月5日付の政府の公報はエホバの証人を「認可された宗教」と宣言しました。手紙を通して各地方に関心のある人が幾百人もいることが分かりました。巡回監督が辺ぴな孤立した群れを訪れたところ,大変驚いたことに,583名もの人が公開講演に集まりました。
アンゴラで業が禁止される
必死で独立を求めていたこの国で内戦がぼっ発しました。1975年11月11日に正式に植民地支配が終わり,新しい共和国が設立されましたが,国内には多くの問題があり,困難な時期が続きました。1978年3月14日,突然エホバの証人は禁令下に置かれました。しかし,エホバの証人たちは引き続き模範的な生活を送り,政府の高官たちが事実を調べるよう祈っています。事実を調べれば事は明らかで,エホバの証人が平和を愛する人々だということは十分に立証されます。アンゴラのエホバの証人たちは,「敬虔な専心を全うし,まじめさを保ちつつ,平穏で静かな生活をしてゆく」ことを決意しています。―テモテ第一 2:1,2。
ポルトガルにおける初めての国際大会
さて,ポルトガルに話を戻しましょう。ポルトガルでは,
リスボンが1978年の「勝利の信仰」国際大会の開催地となるということが発表されました。これは大きな期待を起こさせました。ほかの国でお客となるのではなく,初めて主人役の特権を得るのです。タグス川とヨーロッパ最長のつり橋を見下ろす,レステロ・スタジアムはこの大会の理想的な会場であることが明らかになりました。大会出席者たちは12を超える国からやって来ました。出席者の最高数は3万7,567人で,バプテスマを受けた人は合計1,130人でした。約6,000人の出席者が野外奉仕に参加しました。初めて街頭で証言をした人は少なくありません。鉄道やバスの駅,公園,市場に集まって,25万枚のビラと2万5,000冊の雑誌を配布しました。
そのころ,フィリピン人の一兄弟がポルトガルへ向かう石油のタンカーに乗っていました。その兄弟はどこかの国際大会に出席したいと切に願っていましたが,そのときは海の上にいました。それでも,そのことを絶えず祈り続けました。タンカーがタグス川をさかのぼっているとき,川岸に双眼鏡の焦点を合わせました。するとどうでしょう,リスボンの国際大会の公開講演を知らせる大きな広告板が見えるではありませんか! タンカーはほんの二,三時間寄港するだけの予定でしたが,驚いたことに,ちょっとした修理があるため数日停泊しなければならないという発表が船長からありました。フィリピンの兄弟は,幸福な大会出席者に加えられて,エホバに感謝しました。
その大会は喜ばしい再会の機会となりました。幾年も前にマリアとエリザは親友でした。しかしマリアはオランダへ移民し,その間にエリザはエホバの証人になりました。1974年7月,エリザがフランスでの地域大会に出席する用意をしていると,ドアのベルが鳴りました。訪問者はマリアでした。エリザ
と一緒にポルトガルで数日休暇を過ごすつもりでオランダからやって来たのです。スーツケースに目を留めたマリアは,「どこへ行くところなの」と尋ねました。「大会に出席するためにツールーズへ出かけるの」。
「何ですって。あなたはめったに旅行しなかったじゃない。一体どういう大会なの」。
「エホバの証人の大会よ」。
「まあ。あんなひどいグループによくも入っていられるわねえ」。
腹を立てたマリアはそそくさと立ち去りました。しかし,どこで休暇を過ごしたらよいでしょう。一つはっきりしていたのは,エホバの証人の家で過ごすつもりはないということです! マリアは別の友人を訪れました。招じ入れられてすぐに,所狭しと幾つものスーツケースが置かれているのに気づきました。ためらいがちにマリアは尋ねました。「こんなにスーツケースを持ってどこへ行くの」。
「あしたフランスへ出発するのよ」という答えです。
「まさかツールーズじゃないでしょうね」。
「そのとおりよ! エホバの証人の大会に出席するの。でも,どうして分かったの」。
「そんなことどうでもいいじゃない。ぞっとするわ。わたし,もう失礼します」。
幾年かたちました。二人の姉妹には,マリアから何のたよりもありませんでした。ところが,国際大会の直前に,エリザはマリアから手紙を受け取ったのです。その手紙の中で,マリアは乱暴な言葉を吐き,無作法な態度を取ったことをわび,それからこう依頼してきました。「リスボンでの国際大会の期間中,あなたの姉妹をお宅に泊めていただけませんか」。かつて 親友だった二人が,今や勝利の信仰により姉妹として結ばれたその喜びを想像してみてください!
ニュース雑誌,オプサンウの1978年8月10-16日号は,大会について次のように報じました。「巡礼の時期にファティマに来たことのある人にとって,これは実際非常に異なっている。……宗教的な雰囲気が違うのである。ここでは神秘主義が姿を消し,それに代わって信者たちが自分たちの抱える問題や信仰や霊的な物の見方を一致して話し合う集会が開かれる。彼らの互いに対する振る舞いには,気遣いを示し合う人間関係のはっきりとしたしるしが見られる」。
さらに祝福が注がれる
1981年9月に,支部は,兄弟たちが再び「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の個人の予約購読を申し込むことができるという知らせを送りました。1961年に迫害が始まって以来,そうした予約は一時中断されていたのです。
1982年2月に,新たに建設されたリスボンの大会ホールがF・W・フランズ兄弟によって献堂されました。それは家族の再会のような機会でした。フランズ兄弟は,1947年に第二次世界大戦後初めてポルトガルを訪れた統治体の成員だったからです。1,315人を収容するその優れた施設は兄弟たちによって建てられ,リスボンとその近郊の九つの巡回区によって用いられています。
神の力による結果
野外奉仕の最初の報告がブルックリンへ送られた1947年当時,ポルトガルの神権組織が現在のように大きくなるとはだれも考えませんでした。この報告の中にとても名前を挙げることのできないほど大勢の,熱心な兄弟姉妹たちが,神の力エフェソス 3:20。
によって良いたよりをポルトガルの隅々にまで勇敢に宣べ伝えました。マデイラ島,アゾレス諸島,カボベルデ,ギニア-ビサウ,アンゴラ,チモール島,そしてマカオへ開拓者たちが出かけて行きました。使徒パウロが述べたように,神は,「わたしたちのうちに働かせておられる力により,わたしたちが求めまた思うところのすべてをはるかに超えて」行なってくださり,すばらしい証言がなされました。―最初の開拓者のうちの幾人かは,今でも活発に自分の割り当てを果たしています。特別開拓者の数は202人に増加しました。その人たちはどのような気持ちを抱いているでしょうか。特別開拓者として20年余り奉仕してきたマリア・ジョゼ・エンリケス姉妹はこう語っています。「私は60歳になりますが,奉仕に対する喜びや,他の人々を助けたいという願いは
今でも変わりません。89人の人をバプテスマを受けるまで援助し,また任命地が変わる際には,献身を目指して進歩していた他の大勢の人をあとに残して行けたのは大きな特権でした。そのご配慮のすべてと過分のご親切に対してエホバに感謝しています」。18年間特別開拓者として奉仕してきた,グラシエテ・アンドラーデという別の姉妹は次のように語っています。「106名の人が真理を学ぶのを援助し,三つの会衆の土台を据えることができたのは胸の躍るような経験でした。会衆で,円熟した男性の方々が長老として率先するのを見,それらの方々を援助する特権を得たことを思う時,深い満足を覚えます」。
業は拡大しつづけています。1982奉仕年度には会衆と孤立した群れが合わせて393あり,それらに交わる王国伝道者の数はふくれ上がり,同奉仕年度の最高数は2万2,515人に達しました。全人口に対する割合は住民413人につき一人のエホバの証人ですが,なすべき業はまだ沢山あります。人口の1割は未割り当ての区域に住んでいるからです。この報告を書いている時点で最新の主の記念式の出席者数は5万8,003名でした。これは,今後の増加の見込みが十分にあることを示しています。
困難な時期にも急速な拡大の時期にも,エホバの組織はポルトガルでの業を導き監督してきました。ご自分の羊の群れの偉大な牧者,エホバ自ら,エレミヤ 23章3節に記録されている,次の壮大な約束を確かに果たしておられます。「そして,わたしはわたしの羊の残りの者を,わたしが彼らを追い散らしたすべての地から集めるであろう。わたしは彼らをその牧草地に連れ戻す。彼らは必ずよく生んで,多くなる」。ポルトガルの兄弟たちは,さらに多くの羊のような人々が現在の救いの日を活用するように援助しつつ,王国を宣べ伝える業の最終的な完成を目指して喜びのうちに前進しています。
[234ページの図表]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
伝道者の増加
22 *
1982
20
1978
18
16
14
12
10
8
6
1968
4
2
1958
1948
1938
0
[脚注]
^ 483節 伝道者数。千人単位
[135ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ポルトガル
モンサンウ
ブラガンサ
ブラガ
ポルト
ゴンドマー
ペゾ・ダ・レーガ
ビラ・ノバ・デ・ガイア
アベイロ
ガルダ
コインブラ
ローザ
カルダス・ダ・ライニャ
トルレス・ベドラス
エストリル
パレデ
リスボン
アルマダ
セツバル
ファロ
スペイン
大西洋
アゾレス諸島
フロレス島
サンタクルシュ
グラシオサ島
ピコ島
テルセイラ島
アングラ・ド・エロイズモ
サンミゲル島
ポンタデルガダ
サンタマリア島
マデイラ諸島
ポルトサント島
マデイラ島
フンシャル
大西洋
アゾレス諸島
マデイラ諸島
ヨーロッパ
アフリカ
[175ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
マカオ
アジア
マカオ
オーストラリア
インド洋
中国
マカオ
マカオ海
ソイチャイ島
ローワン島
[177ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
大西洋
アフリカ
カボベルデ諸島
ギニア-ビサウ
アンゴラ
インド洋
アジア
アンゴラ
ルアンダ
ノバリスボア
モサメデス
ザイール
ザンビア
ナミビア
大西洋
カボベルデ諸島
サントアンタン島
サンビセンテ島
サンタルジア島
サンニコラウ島
サル島
ボアビスタ島
マイオ島
サンチアゴ島
プライア
フォゴ島
ブラバ島
ギニア-ビサウ
ノバラメゴ
バファタ
大西洋
セネガル
ギニア
[239ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
チモール島
チモール島
ディリ
チモール海
インドネシア
オーストラリア
インド洋
アジア
アフリカ
インド洋
太平洋
チモール島
オーストラリア
[138ページの図版]
1926年にポルトガルにおける王国の関心事の世話をするよう任命されたビルジーリオ・フェルグゾンと,良いたよりを広める目的で1929年に故郷に戻ったジョアンウ・フェリシアーノ
[143ページの図版]
エリーゼウ・ガルリドは少年の時に真理に関心を抱き,ポルトガルにおける業を推し進めるのに助力した
[146ページの図版]
アルマダの聖書研究の群れを組織した熱心な姉妹たち,デルミーラ・M・S・フィグエイレドとデオリンダ・P・コスタ
[151ページの図版]
ジョン・クックはポルトガルで奉仕した最初のエホバの証人の宣教者で,業を組織する面で主要な役割を果たした。写真には妻のキャサリーンと共に写っている。
[153ページの図版]
リスボンのこの建物の1階の一室が,ポルトガルで最初の王国会館となった
[159ページの図版]
A・ヌネシュが生まれ故郷のピコ島へ帰ったとき,アゾレス諸島で最初の公開講演が行なわれた家
[167ページの図版]
ポルトガルで最初に補助開拓者の一人となった,アントーニオ・マヌエル・コルデイロと妻のオデテ。二人は今も開拓奉仕を続けている
[169ページの図版]
霊的なさわやかさを得させる目的で開かれた「ピクニック」の一つ
[191ページの図版]
ポルトガルの最初の全時間の巡回監督D・ピコネと妻のエルサ(左の夫妻)と良いたよりの熱心な伝道者ジョアキン・マルティンスとその家族
[240ページの図版]
エストリルの支部事務所
[255ページの図版]
リスボンの大会ホール