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ジャマイカとケイマン諸島

ジャマイカとケイマン諸島

ジャマイカとケイマン諸島

ジャマイカ島は,地上で最も美しい場所の一つです。カリブ海に浮かび,キューバの南方わずか150㌔,そして米国フロリダ州マイアミから約770㌔の所に位置しているため,230万を超えるこの島の住民たちは,年間を通じて常夏の気候を満喫しています。1494年にクリストファー・コロンブスがこの島に到着した時,アラワク族のインディオがそこに住んでいました。この島を,“森と水の国”を意味するゼイマカと名づけたのはその人々でした。ここは確かに,常緑の山々と渓谷,青々と茂った熱帯植物,険しい岩場を落ちる滝,そして穏やかな青い海を縁どる白い砂浜の国です。この島は,“楽園の島”と呼ばれていますが,訪れる人々は美しいその景色にただ感嘆の声を上げるのみです。

聖書の真理が島にもたらされる

1897年に,さらに美しいものがジャマイカにもたらされました。それは神の王国の良いたよりです。(イザヤ 52:7)そのいきさつはこうです。コスタリカに移住していた二人のジャマイカ人がその国で真理を学び,これほどすばらしい良いたよりを自分の故国に持ち帰らずにはいられないと思ったのです。それで,ジャマイカで最初に王国の良いたよりを宣べ伝えたのは,H・P・クラークとルイス・フェイシーの二人でした。

報告によると二人は,セントメリー行政教区内の山の中にあるカンバーウェルという村へ行き,そこでパトリック・デービッドソンとその兄弟に伝道しました。二人とも聖書の真理を受け入れ,すぐに宣べ伝える業に加わりました。その音信に対する反応は励みの多いもので,2年後の1899年3月26日には,大会とイエス・キリストの死を記念する式に300名の人々が出席しました。

協会は代表者を派遣する

関心ある人々はほどなくして,幾つかの聖書研究のグループへと組織されました。非常に多くの人が関心を示したため,協会はジャマイカでの業を監督するよう代表者であるJ・A・ブラウンを遣わす必要を認めました。それはこの国に初めて真理の光が達してから6年後のことです。その年に成し遂げられた業を評して,「ものみの塔」誌の1904年12月15日号(英文)はその373ページで次のように述べていました。「ジャマイカは昨年[1903年]中,良い業の中心となりました。関心を示す人々はほとんどすべて黒人で,ブラウン兄弟は……新たな関心を呼び起こすというよりも,既に表わされた関心をまとめ上げ,その関心を本当の意味で導き,深めさせて,その地で優れた奉仕を行なってきたようです」。

確かに,ジャマイカ人は昔も今も聖書を愛する人々なので,優れた進歩が見られました。学校時代から,人々は聖書を神の言葉として敬うよう教えられます。聖書の一節を暗唱することを学ぶのは,その人たちの受ける教育の一部です。王国について教えるに当たって,聖書は神の言葉であるということをまず証明する必要はありません。住民の大多数が概してその事実を受け入れているからです。

僧職者の反対が始まる

1905年にキングストンで開かれた三日間の大会には,出席者最高数である600名という大勢の人々が集まりました。その時までに,24人の聖書文書頒布者たち(現在の開拓者に相当する)は島中で文書を配布する業に忙しく携わり,聖書研究のグループは8人の巡礼者(ものみの塔協会の旅行する代表者)の行なう聖書講演やその健全な交わりを通して励ましを受けていました。そのような活動は,ほどなくして僧職者たちの注意を引くことになりました。それらの僧職者たちは聖書研究者たちの行なう宣べ伝える業に好意的な反応を示しませんでした。

大会最終日の最後のプログラムは,質疑応答による集まりという形で行なわれました。そこへ,よりによって聖書研究者たちについて口汚ない言葉で物を書いたり,彼らに向かって暴言を吐いたりしていた僧職者の一人が現われたのです。事態を混乱させようとしたものの,形勢は逆転し,この反対者は実際そうであったように偽りの牧者であることが暴露されました。「ものみの塔」誌の1905年11月1日号(英文)は,その326ページで次のように報告しています。「反対者の質問が神の摂理により許され,訪問者たちを啓発し,結果として,訪問者の中で真理の大義の側に立つ友となった人が少なくなかった,との確信を抱けることをわたしたちはうれしく思います」。

困難にもめげずみ言葉を広める

初期のそのころ,田舎へ音信を携えてゆくには多大の勇気と信仰,そして意志の強さが求められました。自動車も,地方の乗り物も,舗装された道路もなかったのです。「ものみの塔」誌の1907年1月1日号(英文)の7ページで,ブラウン兄弟が報告している通りです。

「聖書文書頒布者の兄弟たちについて特に言及しなければなりません。ここでの業はきわめて困難であり,苦しみですらあります。その業に生涯をささげるよう動かしているのは,真理に対する愛だけであることは確かです。

「旅行をしたり,書籍を運んだりする設備は何もありません。その業はいずれも山の中で行なわれ,兄弟たちは15冊ないしは30冊の書籍を自分の肩にかついで,30㌔から100㌔の道のりを歩かねばなりません。山を越え,谷へ進むのは骨の折れることです。時には突然雨に降られ,泊まる所が見つからず野宿することもしばしばです。さらに配達に行ってがっかりさせられることもよくあります。そうすると運んで来た書籍を持って長い距離を戻らねばなりません。それでも,その業に携われるのは喜びに満ちた特権であると言う兄弟たちもいます。兄弟たちの認識のほどは,他の人々がその隊伍に加わっているという事実に表われています」。

今は故人となっているエイモス・ウィルキンソンという兄弟はある晩のことについて語りました。その晩,ある村で兄弟が泊まることができた唯一の家は牧師の住まいでした。その人は,兄弟が人々を訪問する伝道者であると聞いて,一晩泊めて欲しいとの頼みにすぐ応じました。ところが,ウィルキンソン兄弟が聖書研究者であることが分かると,その牧師は親切なもてなしの申し出を取り消し,自分の家から出て行くよう兄弟に命じました。

牧師の家を後にしたウィルキンソン兄弟は,その牧師の教会の前を通りました。試しにドアに触れてみたところ,かぎがかかっていないことが分かったので,中に入ってその晩はそこで休みました。翌朝,出かける前に兄弟は説教壇の上にあった聖書の中に,協会の冊子を幾冊かはさんでおきました。後に,兄弟がその村に戻ってみると,その同じ牧師がそれらの冊子を基にして説教をし,その後に,冊子を自分の教会員に配布したことを知りました。

種々の問題に遭遇したにもかかわらず,1906年中だけで,冊子を含めると,120万部以上の文書が配布されました。その同じ年に,協会はキングストン市に支部事務所を設立しました。王国を宣べ伝える業が,続く9年間にわたり非常に大きくなっていったため,ジャマイカ支部には,コスタリカにおける業を監督する責任が割り当てられました。最初の二人のジャマイカ人のエホバの証人は,そのコスタリカから真理を携えてジャマイカにやって来たのです。

大地震がジャマイカを襲う

1907年1月14日,大地震のためにキングストン市はほぼ壊滅状態に陥りました。ブラウン兄弟は,協会に次のような手紙を書き送りました。「集会に定期的に出席していた一人の関心を持つ友が亡くなったことを除いては,わたしたちの聞いた限りでは,主の民のうちの一人もけがをしなかったということを報告できるのは喜びです。……しかし,どう考えても不思議でならないのは,この市内で倒壊せずに,使える状態にある宗教的崇拝の場所はわたしたちの集会場だけだということです。しかも,わたしたちの使用している2階の二つの部屋を除けばその建物は他の建物のように全部れんが造りです。わたしたちの使っている部屋は,下の建物の上に重い木の骨組で据え付けてあるので,より危険な状態にあります。この経験により,わたしたちの信仰は大いに強められました」―「ものみの塔」誌,1907年2月15日号(英文),53ページ。

証言を拡大する

1908年には,キングストン以外の所で初めて大会が開かれました。それは,ジャマイカにおける王国を宣べ伝える業の発祥地であるカンバーウェルから8㌔ほど離れた海辺の小さな町,アンノット・ベイで開催されました。この大会には最高数である350名ほどの人々が出席しました。

続く4年間は,印刷物と公開講演によりみ言葉を広める熱心な努力が払われたので,目立った年となりました。僧職者たちも,人々に協会の文書を読ませまいとして圧力を増し加えました。このことは,注文の取り消しや,以前に求めた文書の代金の払い戻し請求を招く結果になりましたが,兄弟たちは気落ちしませんでした。それどころか外国の地へと繰り出して行きました。二人の巡礼者は,コスタリカとバルバドスで会衆を組織するようそれらの国へ割り当てられました。この時までにジャマイカ支部は,パナマにおける業も監督するようになっていました。

ラッセル兄弟の訪問

ものみの塔聖書冊子協会の初代会長,チャールズ・テイズ・ラッセルは,1913年2月にジャマイカを三日間訪問しました。その訪問に合わせて大会が計画されました。第一日目には,島中から約600名ほどの兄弟姉妹や関心ある人々がやって来て,ラッセル兄弟の話を聞きました。「ものみの塔」誌はその大会について報告し,次のように述べました。「これら親愛なる友の幾人かはその大会へ来るために,ほとんど全財産を使い果たしました。彼らが大変興味深い会を成しており,主と真理に対してとても熱心であることが分かりました」。

聖書研究者たちの熱心さと堅い決意の典型とも言えるのは,エバリン・プレンダギャスト姉妹でした。姉妹はカンバーウェルからほこりっぽい道を57㌔も歩いてその大会に出席したのです。そのような熱心さはジャマイカの兄弟たちの元気のよい歌声にも表われていました。「兄弟たちの歌はすばらしいものでした」と協会の会長は述べました。

大会中の公開講演には非常に大勢の人々が集まったので,二つの会場を使用しなければなりませんでした。一つは一般の人々のため,他方は聖書研究者たちのためでした。一般の人々のための建物は1,800名の人々でぎっしり埋まり,中に入れなかった人が2,000人以上いました。その聴衆の中にはかなりの数の僧職者もおり,そのうちの幾人かは人々が音信を聞く際の熱意について語りました。英国国教会の一僧職者は,証人たちの音信が「希望の福音」であるという事実のうちに人々が関心を示す秘密が隠されていると評しました。

新聞も,大会について好意的な報道を少なからず行ないました。「ものみの塔」誌の1913年3月15日号(英文)の94,95ページには次のように述べられています。「大会に集まった人々について述べている新聞は,人々の清潔さや秩序などについて,また人々がたばこも酒ものまないこと,さらに警察の監視も必要でないことについて注解しました。……新聞はまた,この大会に関して金銭や寄付のことは触れられなかったという事実にも言及しました」。1913年のその大会は,そこに出席する特権にあずかった人々の記憶に残りました。

第一次世界大戦中の試みや試練

どこに住んでいようと兄弟たちは1914年が来て,「異邦人の時」が終わるのを待ち望んでいましたが,ジャマイカの兄弟たちも例外ではありませんでした。そして彼らもまた,サタンの体制が早いうちに終わるという自分たちの期待が実現しなかったことにがっかりしました。ラッセル兄弟が1916年10月に亡くなってから,本当の信仰の試みが兄弟たちの上に臨みました。大勢の人たちが組織を捨て,忠節な者たちに圧力を加え始めたのです。米国からポール・S・L・ジョンソンが来るに及んでその圧力は増大しました。ジョンソンは真理を離れ,不忠節な者たちを支持するためにやって来たのです。エホバが,ご自分の用いてこられた機関 ― ものみの塔協会 ― を引き続きお用いになるということに信仰を持っていた人々は堅く立ち続け,そのつらい試みの期間中,真理の光をともし続けました。

その当時,ふるい分けられて組織との交わりをやめてしまった人々は少なくありませんでした。結局その人たちは小さなグループに分かれ,現在では彼らについて耳にすることはありません。その人たちは木から折り取られる枝に例えられるかもしれません。その枝は少しの間は青々としていますが,やがてしおれて枯れてしまうのです。

第一次世界大戦中,聖書研究者たちに対して外部からの圧力はありませんでした。当時ジャマイカは英国の植民地であり,英国は交戦状態にありましたが,徴兵はなかったのです。ですから中立に関する問題は何の困難ももたらしませんでした。兄弟たちにとって厳しい試みとなり,福音宣明の業の速度を遅らせたのは内部からの圧力でした。しかし,聖書に関するカラースライドや映画を,レコードと一致させてある「創造の写真劇」の上映は,その試みの期間中,王国の音信に対する関心を保つのに大きな助けになりました。その上映には大勢の観客が集まりました。

「万民」の小冊子が広く配布される

1920年には,「現存する万民は決して死することなし」と題する小冊子が広く配布されました。その主題は大勢のジャマイカ人の記憶にいまだに残っているキャッチフレーズとなりました。その年の記念式の出席者は島中で44名にすぎず,それは異邦人の時の終わりに続いて生じた精錬の期間に人々が真理を捨てたことを示しています。しかし,堅く立ち続けた人たちは気落ちすることなく,主の業においてたくさんのことを引き続き行なったので,1921年の記念式の出席者数は132名に増加しました。―コリント第一 15:58

信仰を強める巡礼者の訪問

巡礼者ジョージ・ヤングによる訪問は,忠節な人たちの信仰を強める業に大きく寄与しました。美しい北海岸の町ポートアントニオへの同兄弟の訪問の結果,並々ならぬ証言がなされました。ヤング兄弟の講演の一つが終わった後で,著名なカトリック教徒である一下院議員は次のように語りました。「だれが聞いていようと構いません。私は今晩,聖書に書かれているなどとは全く知らなかったような事柄を聞きました。私はその音信に感謝しております」。

ヤング兄弟が島の中心部にある避暑地,マンデビルという町を訪問した際,365人が同兄弟の話を聞きに来ました。聴衆の中には別の下院議員がおり,その人はヤング兄弟を歓迎し,聴衆に向かって次のように述べました。「皆さんは私が演壇に立っているのを見て驚かれることでしょう。ほとんどの人は私が聖書的な事柄で悩んだりしないと考えていますが,その人たちは間違っています。私が教会を離れたのは,火あぶりによるとこしえの責め苦の教理のせいなのです」。この町をはじめ他の町々への訪問やそこでの集会は,後年の増加の基礎を据えるものとなりました。

政府からの反対はなかった

この国で真理が宣べ伝えられるようになった19世紀の後半から,宣べ伝える業に対する政府からの妨害はありませんでした。とはいえ,1924年7月20日から28日まで米国オハイオ州コロンバスで開かれた大会で採択された告発という決議文がジャマイカで広く配布されたとき,僧職者たちが「聖書研究者たちの業をやめさせるために」,政府にひそかに働きかけようとしたことが伝えられています。証人たちの小さな一群はおじけづいてやめるどころか,王国を宣べ伝える業を続行しました。その小さな群れは田舎に住む人々に音信を携えて行くために,何キロも歩き,またロバやラバや自転車を使って旅をしました。一人の兄弟の話では,自転車で田舎の区域へ行くため朝6時に家を出るとのことでした。文書を携えて行き,広い地域でそれを配布した後,兄弟が家に戻るのはほぼ12時間後でした。

バスを用いてのグループの証言

1920年代の終わりごろ,キングストンの会衆は一群の人々が日曜日に田舎の区域で働けるようにとバスを1台入手しました。その方法により,区域の遠い所でも近い所でも大変な量の王国の種がまかれました。例えば,1929年には2万3,447冊の書籍と小冊子が,忠節な証人たちの小さな一隊によって島中に配布されました。そのバスに乗って旅をした兄弟姉妹たちの中には,いまだに元気で活発に奉仕している人もいます。そうした証言旅行の思い出は鮮やかに残っています。

チャールズ・クローフォード兄弟は当時のことを覚えており,兄弟姉妹たちは日曜日の午前3時ごろ起きなくてはならなかったと語っています。バスは午前4時に出発し,130㌔ほど走りました。伝道者たちはバスの走行経路沿いの町で下車しました。ある伝道者たちは割り当ての区域に日の出前に着いてしまったので,家の人たちが起きるまで何時間も待たねばなりませんでした。「私たちは共に喜びに満ちた時を過ごしました。持っていた文書をすべて配布したこともありました」と,クローフォード兄弟は語っています。同兄弟の話によると,そのバスは田舎の町々で大変なじみ深いものとなったので,それに一致と名づけた人々もいたほどでした。人々がそう呼んだのは,恐らくそのバスに乗って旅をした兄弟たちの一致した精神と努力のためだったのでしょう。クローフォード兄弟は,そのバスの助けを借りて自分が以前に王国の種をまきに行った町々に,現在活発な会衆があるのを生きて見られたことに深い満足を言い表わしています。兄弟は現在82歳で,小さな田舎の村で開拓奉仕をしています。

蓄音機と大型蓄音機を用いて証しをする

1933年には携帯用の蓄音機,大型蓄音機,そしてサウンドカーが採用され,業は新しい段階に入りました。これらの道具はこの国にはおあつらえ向きでした。この国の人々は音楽が聞こえるとすぐに集まって来るので,携帯用蓄音機の音を合図に,王国の音信を聞くためにたくさんの人が近所の家の戸口に集まって来たからです。より強力な大型蓄音機の音に誘われ,人々はやぶの中からどっと出て来て,それを見たり話に耳を傾けたりするために広い通りにやって来ました。

そうした大型蓄音機とサウンドカーは3台使用されていました。1台のサウンドカーを操作したのは,スパニッシュタウン ― スペイン統治下にあったジャマイカの最初の首都 ― に住んでいたエイミー・フット姉妹でした。フット姉妹がその生涯を閉じる少し前に思い出して語ってくれたところによると,姉妹は当時のものみの塔協会の会長だったJ・F・ラザフォードに手紙を書き,女性がサウンドカーを操作してもよいかどうか尋ねたとのことです。同姉妹はその許可を得て,古いフォードの車を自分で運転し,良いたよりを公に宣明しながら町や村へ熱意を込めて出かけて行きました。フット姉妹は骨の折れる仕事を行ない,いっそう多くの種まきや収穫のために畑を耕しました。

もう1台のサウンドカーを操作したのは,熱心な兄弟で,医師でもあったロバート・ローガンでした。キングストンや他の町々にいる大勢の人々は,同兄弟が公の伝道をしていたことや大型蓄音機を用いていたことを今でも覚えています。その熱心さは相当なもので,同兄弟の患者は一人残らず,診察を受ける前に徹底的な証言を聞かねばならないほどでした。証人たちでさえ,健康診断の前に,自分たちが信じている事柄を思い起こさせられました。

3台目のサウンドカーを操作したのは支部の監督,P・H・デービッドソン兄弟でした。大型蓄音機のよく通る音は僧職者の怒りを買ったため,彼らに促された政府は1936年に,公共の場所でのその使用を禁じました。しかし,この禁令は1938年に解除され,王国の音信は再び丘の上から響き渡り,谷にこだまし,人々の家に届くようになりました。

「大群衆」の実体が明らかになり,熱意がかき立てられる

1935年には,エホバの民の歴史における別の画期的な出来事がありました。同年に開かれたワシントン特別区での大会で,啓示 7章の「大群衆」の実体がハルマゲドン前に集められる地的な級であることが明確に示されたのです。この新しい理解は,より大きな活動への刺激となり,ジャマイカにおけるエホバの賛美者が着実に増加したことを記録は示しています。その数は,1914年の100名から1938年の390名にまで増加し,1939年には,自分たちに加わってエホバの賛美者になるよう他の人を招待していた人々は543名に達しました。

確かに,業はよりよく組織されるようになり,家庭聖書研究の取り決めも明確な形をとるようになりました。「大群衆」を集める業は開始され,その級の人々は,王国伝道の業において大きな役割を果たすようになっていました。事実,その人々は,油そそがれた残りの者たちと同じほどの熱心さを示し,恐れを知らない態度を見せました。

トマス・バンクスの訪問に励まされる

1936年に,米国から来た巡礼者,トマス・バンクスがジャマイカを訪れました。その訪問について,デービッドソン兄弟はラザフォード兄弟に書き送った1936年5月4日付の手紙の中で次のように語っています。「兄弟が会長として,バンクス兄弟を遣わし,ジャマイカを訪問するよう取り決めてくださったことに対し,私は個人的に感謝しないわけにはゆきません。その訪問は,まさにブルックリンをそのままジャマイカにもたらし,ブルックリンと同じ方法でここでも物事が行なわれるのを見たいという長年の念願を満たしてくれました。ですからこの地のベテル・ホームも,研究も,奉仕の業も,会の訪問も,大会も,そして公の証言もすべて,バンクス兄弟の模範と提案を通して改善されました」。

バンクス兄弟の訪問に伴いキングストンで大会が計画され,出席者最高数は2,000名でした。

法王が手紙を受け取る

そうした熱心さの模範を示したのはロナルド・フエウルタード兄弟です。同兄弟は敬虔なカトリック教徒の家族の出で,自分自身も熱心なカトリック教徒でした。真理を学んだ同兄弟は,自分には法王に証言をし,カトリック教会の僧職者団の偽りの教えを暴露する責任があると感じました。兄弟は手紙でこれを実行しました。法王庁はその手紙をジャマイカに返送し,同島のカトリック教会の指導者にそれを送りました。するとその指導者は事件をジャマイカの総督に報告しました。というのは,フエウルタード兄弟は公務員だったからです。総督は次にフエウルタード兄弟に出頭を命じ,法王に謝罪の手紙を書くよう要請しました。兄弟は自分が書いた事柄は真理であると確信していましたから,丁重にそれを断わりました。フエウルタード兄弟は昇進の機会を閉ざされるという処罰を受けましたが,法王と総督の両方に証言ができたことを喜び,忠実を全うして亡くなりました。

新しい支部の監督

1939年に協会は,支部事務所を監督するよう,トマス・E・バンクスを再びジャマイカに遣わしました。バンクス兄弟は次のように述べています。「そのころは協会の事務所にも今日ほど仕事はなかったので,私のすることはおもに,サウンドカーで島中を巡り,録音された聖書の講演を人々に聞かせ,また夜も聖書の講演をすることでした」。

バンクス兄弟は兄弟たちを励まし,ジャマイカにおける王国の関心事を推し進める点で多くのことを行ないました。兄弟は1946年まで支部の監督としての務めを続けました。同年75歳になり,健康と体力が衰えたため,より若くより元気な人が支部を監督する責任を引き受けることが必要になりました。「私は,米国に戻って子供と一緒に住むなり,あるいはジャマイカの協会の支部にとどまって健康の許す限りの仕事をするなり,選択を許されました。ジャマイカは私の任命地ですから,私はジャマイカにとどまることにしました」とバンクス兄弟は述べました。

93歳になった時,バンクス兄弟は次のように語りました。「私はあらゆる機会をとらえては,訪問者にエホバのみ言葉の真理について語り,また手紙によってそのことを伝えます。そして,外国の任命地で地上の生涯を終えること,また今もなおエホバに全時間の奉仕をしていることを非常な幸せと考えています。すべての時間をエホバへの奉仕にささげてきたことは喜びでありました。そして引き続きイエス・キリストおよび『光にある聖なる者たち』と共に,永遠に全時間奉仕を続けることを待ち望んでいます」。(コロサイ 1:12)同兄弟は96歳で地上での生涯を終えた1967年まで,自分の割り当てを最後まで忠実に果たしました。

地帯の業が組織される

1939年に地帯の業が組織されました。島は四つの地帯に分けられました。兄弟たちは地帯の僕に任命され,各会衆と1週間を共に過ごして会衆を強め,野外での証言活動で助けを与えるよう指示されました。チャールズ・ローラン兄弟は東の地帯へ,コンラッド・アンダーソン兄弟は西へ,ヘッドレー・グラハム兄弟は北へ,そしてエドガー・カーター兄弟は南の地帯へそれぞれ派遣されました。

カーター兄弟は自分が若くて,尽きることがないと言ってよいほどエネルギーにあふれた熱心な開拓者だったころのことをよく思い出していたものでした。兄弟はクラレンドン,セントキャサリン,およびマンチェスターの行政教区内の諸会衆を組織するというりっぱな働きをしました。地帯の業を行なうための同兄弟の交通手段は,自分の荷物が積めるよう荷台の取り付けてある自転車でした。兄弟にとって,長い道のりも坂道も物の数ではありませんでした。後に,地帯の業がなくなったとき,同兄弟は兄弟たちの僕(巡回監督)として諸会衆に仕え,自転車に乗って島中をくまなく巡りました。1945年に,兄弟はものみの塔ギレアデ聖書学校で訓練を受ける最初のジャマイカ人になりました。1946年1月に同校を卒業した後も引き続きジャマイカの諸会衆に仕えましたが,ほどなくして重い病気にかかり,全時間奉仕を離れねばならなくなりました。健康はすぐれませんでしたが,兄弟は1983年8月に亡くなるまでエホバの奉仕にずっと活発に携わりました。

第二次世界大戦勃発時の問題

1939年の第二次世界大戦勃発と同時に,証人たちが心配したのは,『このことはジャマイカにおける宣べ伝える業にとって何を意味するのだろうか。今回は徴兵があるのだろうか』という問題でした。総力戦に巻き込まれる国は増え続けていたので,その答えはすぐに出ようとしていました。

兄弟たちは証言を決してやめず,手をゆるめることなく人類の希望として王国を宣明しつづけました。強制的な兵役はありませんでした。ジャマイカは依然として英国の植民地であり,戦争に人を動員するよう求められてはいなかったからです。それでクリスチャンの中立というこの問題に関する試みはありませんでしたが,別の試みが忠節な人々の上に臨みました。大戦勃発後間もなく,植民地の総督は不良文書取締法に基づいて,ものみの塔の出版物を4冊禁書にしたのです。禁書になったのは「敵」という本,「光」と題する本(1巻と2巻),および「模範研究第2号」という小冊子でした。

ある兄弟たちは,今やそれらの本の内容に好奇心を深めている人々の手に,禁書になった本をすぐに渡すのは良いことだと考えました。例えば,コンラッド・アンダーソン兄弟は自分の書籍をカートンに詰め,その箱に「モンテゴ・ベイ警察署行き」というラベルをはりました。書籍が禁書になった理由を尋ねた人ひとりひとりに本が1冊勧められました。結局1カートン分全部が配布されたので,警察が没収するものは何も残っていませんでした。

全体的な禁令が課される

1941年までに,部分的だった禁令が全体的な禁令となりました。ものみの塔協会あるいは国際聖書研究者協会の出版物はいずれも,国内へ持ち込むことが禁じられました。このことは,1941年10月19日の,政府の官報ジャマイカ・ガゼット紙上で発表されました。しかし,組織は非合法とはされず,集まり合う自由はまだありました。

提供する文書がなかったので,兄弟たちは宣べ伝えるのをやめたでしょうか。決してそのようなことはありませんでした。聖書だけを武器に,兄弟たちは家から家の伝道を引き続き行なったのです。

霊的食物が不足することはなかった

禁令のために証人たちは霊的食物がなくなって霊的に飢えたでしょうか。決してそのようなことはありませんでした。「ものみの塔」誌のすべての号を含め,出版物は奇跡的な方法で島に届きました。「ものみの塔」研究が1回も欠けることのないように,それらの「ものみの塔」誌は支部事務所で複写され,会衆に送られました。表紙に題目だけが書かれた「ものみの塔」誌を郵便で受け取ることには何の問題もありませんでした。「神権宣教課程」のような他の出版物も手に入り,禁令が依然として続いていた間に,神権宣教学校が諸会衆で開設されました。

文書が時にはどのような方法でこの国へ入り込んだかを示しているのは次の経験です。米国から帰国する契約労働者たちが持ち込むものみの塔の出版物は税関吏が没収しました。彼らは労働者たちが到着した空港ビルの床に,決まって出版物を投げ捨てたものでした。税関吏たちが立ち去った後,没収された文書が拾い集められて処分されないうちに,空港で働いていた一兄弟が人目を忍んで幾らかの文書を集めたのです。確かに,ご自分の民を霊的に養われた状態に保つのにエホバがお用いになった方法や手段は数多くありました。

禁令の解除を求める努力

禁令の解除を求める努力が払われましたが,成功しませんでした。1941年10月23日付の請願書も,またその件について話し合うため地元の兄弟たちの代表者に会うようにとの当時の総督に対する要請も却下されました。しかし,兄弟たちはくじけることなく王国を宣べ伝える業に邁進したので,戦争が終わるまでに,伝道者は1939年の543名から1945年の884名へと増加していました。1943年の「活動への召し大会」のような大会も組織されました。また公開講演者の数は限られていたものの,公開集会運動が米国と同時にこの国でも始まりました。

禁令が解除される

1945年6月23日,支部事務所からの手紙で政府は,英国や英連邦の多くの国々において,エホバの証人の業に対する制限が解除されたことに注意を喚起させられました。とはいえ,文書に対するジャマイカの禁令が解除され,輸入が再び許可されたことを政府がようやく支部事務所に通告してきたのは,1946年の初めになってからのことでした。証人たちの反応は熱意にあふれたものでした。1947年の「エホバの証人の年鑑」(英文)は次のように報告しています。「政府が没収していた少量の本は返却され,配布できるようになりました。そしてわずか1か月ほどの間にそれらの本は真理に飢え渇いた人々にほとんど配布し尽くされてしまいました」。協会の書籍としてジャマイカで最初に禁書とされて有名になった「敵」という本を手に入れることを特に切望した人は少なくありませんでした。

戦後の拡大が始まる

1945年11月,ジャマイカで働くギレアデの訓練を受けた最初の宣教者としてウィリアム・ジョンソンが同国に割り当てられました。同兄弟はキングストンに一つしかなかった会衆において,幾つかの小さな変更を加えるよう提案しました。例えば,兄弟姉妹たちは集会で注解をする度に起立していましたし,奉仕会では会衆の僕がいつも司会者を務め,集会の間じゅう演壇で椅子に座っていました。ジョンソン兄弟はこうした事は必要ないと指摘し,兄弟たちは喜んでその提案を受け入れました。

1946年という年は,ジャマイカにおける王国伝道の業にとって転機となった年とも言えます。その年は,この島における業の歴史上,一番長く続いた,そして最も急速な王国宣明者数の発展を実現させた諸計画の始まりとなりました。その拡大の第一歩となったのは,N・H・ノア兄弟およびF・W・フランズ兄弟の訪問でした。

ノア兄弟とフランズ兄弟の訪問の直前に,ギレアデの訓練を受けた宣教者がさらに二人到着しました。リー・ディロンとアレック・バングルです。二人はすぐに首都キングストンで宣教の業に取りかかり,人々から良い反応を得ました。

キングストンにおける拡大

ノア兄弟は到着して間もなく,当時100人を超える伝道者がいたキングストン会衆と会合を持ち,キングストンにおける業の拡大に関する提案の大要を説明しました。同兄弟はキングストン会衆を三つの会衆に分けること,および王国会館として使用されていた,支部の建物の2階を宣教者の家に改装することを提案し,兄弟たちは喜んでそれに同意しました。ほどなくして三つの会衆が組織され,市内のそれぞれの場所にちなんで東会衆,西会衆,中央会衆と名づけられました。

ノア兄弟はその訪問中,王国の業を一層活気づけることが早急に必要であると強調し,さらにこの島に特別開拓の業を導入したいとの願いを表明しました。

急速な増加

宣教者のアレック・バングルを会衆の僕とする東会衆は,1946年4月に伝道者が26名だったのが,同年8月には67名にまで増加していました。他の二つの会衆でも同様の増加が見られました。結果として,キングストンの伝道者数は6か月以内に265名にまで増加し,島全体の伝道者数は初めて1,000人に達し,そのうち35名は開拓者として奉仕していました。

ほどなくして三つの会衆はいずれも土地を購入し,それぞれ自分たちの王国会館を建てました。拡大は長年にわたって ― 最初は急速に,そして1960年代と1970年代の20年間は着実に ― 続きました。現在キングストンとその近郊には12の王国会館と22の会衆があり,合計2,156人の伝道者がいます。

ギレアデを出た宣教者たちの役割

王国の業の拡大の点でギレアデを出た宣教者たちの果たした役割が強調され過ぎるということはあり得ません。1946年から1962年までに合計29人の宣教者たちがジャマイカに割り当てられましたが,その期間に王国伝道者の数は899人から4,465人にまで増加しました。さらに宣教者のほとんどはキングストンに割り当てられましたが,同市における会衆の数はその16年間に一つから14にまで増えました。現在,最初のグループのうち一人だけがここで宣教奉仕にとどまっています。それはジャマイカで38年間にわたり忠実な奉仕を続け,現在支部委員会の調整者として奉仕しているアレック・バングルです。153人の正規および特別開拓者がこの国でよく奉仕しているので,宣教者の奉仕の必要は大幅に減少しました。しかし,基礎は宣教者たちによって据えられたのであり,そのうちの幾人かは必要のより大きな他の国へと再び割り当てられました。

宣教者たちは裕福な階級の人々が住んでいる区域へ入り込むことができました。そのような区域の人々は,地元の伝道者たちの話にはめったに耳を傾けませんでした。こうして,かつては会うことのできなかったような階級の人々にも良い証言がなされたのです。

英国の元首相が王国の音信を聞く

かなり大勢の著名な人々が故セオドア・ヌーンズから王国の音信を聞きました。同兄弟は生地も商う仕立屋で,その顧客の中には上流階級の人が大勢いました。兄弟は大変熱心で,洋服の仮縫いの時に客が一人残らず確実に王国の音信を聞くようにしました。このような方法で多くの文書が配布されました。

宣べ伝える点でのヌーンズ兄弟の熱心さに関する一記事が,1980年6月5日付の地元の日刊新聞,ザ・グリーナー紙に掲載されました。同紙は,島を訪れていた英国の元首相(1916年-22年),デービッド・ロイド・ジョージの洋服の仮縫いをするよう,兄弟がジャマイカの当時の植民地総督であったエドワード・デナム卿に呼ばれたことを報じました。ヌーンズ兄弟は機会をとらえて神の王国が苦悩する人類の唯一の希望であることを首相に話しました。ロイド・ジョージはヌーンズ兄弟の言葉に同意し,この世の中が「安定することは二度とないでしょう」と言葉を加えました。そこで兄弟はこの元首相に,それではなぜ神の王国が人類の唯一の希望であることを英国国民に語らないのかと質問しました。国民は「それを聞きたがらないのです」とロイド・ジョージは答えました。確かにこれは,人々が神の真理を聞くことから『耳を背け』,代わりに「作り話」を好むと予告されていた通りです。―テモテ第二 4:4

僧職者は増し加えられた活動に反対する

予期された通り,僧職者たちは自分たちのえり抜きの牧場への,こうしたより著しい進出に反対しました。反対の口実が1952年にできました。その年に,200年の歴史を持つセントアンドリュー行政教区教会の近くの一区画の地所に王国会館を建設する計画がキングストンの地元の町議会に提出されたのです。その教会は由緒ある英国国教会の建物で,同教会の会員名簿には土地の多くのエリートたちが名を連ねていました。

僧職者はエホバの証人の集会は騒々しいので自分たちの教会の礼拝の妨げになり,その近辺で交通渋滞を引き起こすと強く主張しました。その問題が議会の建築委員会に持ち出されたとき,自らもエホバの証人である協会の弁護士,エノス・フィンラーソンは,それらの“根拠”なるものを首尾よく論ばくしました。それで建築委員会は申請を認可し,英国国教会の平信徒団の事務弁護士が提起した異議申し立てを退けました。その問題は広く人々の注意を引き,異議申し立てが提出された時から申請が認可されるまで,地元の新聞で継続的に取り上げられました。

僧職者と教会委員会は負けじと,その決定の裏をかこうとしました。彼らは市議会全体に訴えたのです。しかしそれは王国会館の青写真が,いつも書類に署名をする人たちの署名を得て申請人に交付された後のことで,建物の建設は進行中でした。

建築計画は取り消される

建築委員会の一員であり,申請に反対の票を投じた市長は,建設を中止し,青写真を返却するよう命じました。その青写真は,法律で求められている市の技師と町の書記官の自筆の署名がないので,署名による承認が正しくなされていないというのです。この策略の目的は建築委員会でもう一度聴問会を行なわせることにあり,その間に僧職者は,一転して自分たちに有利な決定が下されるよう同委員会に働きかけることを望んでいました。

委員会の委員長,クリーブランド・ウォーカーは公正な人物で,もう一度聴問会を行なう前にその異議申し立てについて法律家の見解を求めることにしました。そして実際にそうしました。法律家の見解は,建築の青写真にはきちんと署名がされており,それらは申請人に戻されて建設は引き続き行なわれるべきである,というものでした。その見解はさらに,もしその青写真に町の書記官と市の技師の自筆の署名がないためにその建物が不法建築になるとするなら,他の多くの建物も不法建築になり,取り壊されねばならないことになるという点を明らかにしました。なぜなら,他の建物の青写真にもそうした自筆の署名はなかったからです。こうしてまたもや,英国国教会とジャマイカ教会協議会(八つの教派を代表し,それぞれの組織の指導者が連名で署名をした抗議文を書き送った)はエホバの民に対する戦いに敗れました。

宗教上の反対者たちは次に,広い読者層を持つコラムニストに率いられて,新聞による反エホバの証人運動に乗り出しました。次いで,政府は明らかに宗教指導者の影響を受けて,二人の宣教者,ルイス・ウッズおよびコーラ・ウッズの国内滞在を許す許可証の更新を拒否しました。土地の証人たちはこのことを広く知らせました。多くの会衆はその取り消しに対する抗議の決議文を可決し,それを政府に送りました。最後には当局者も態度を和らげ,宣教者たちの滞在期間を延長しました。

文書が再び制限される

ウッズ夫妻の滞在期間が延長される前から,ジャマイカに輸入される聖書文書の支払いに当てる外貨をものみの塔協会に売らないようにとの命令が関連当局に通達されました。それで,ブルックリン本部は船荷を贈り物にする意志があるという証拠書類があったにもかかわらず,文書の積み荷は通関港で差し押さえられ,最後には(聖書を除いて)焼かれてしまいました。抗議文と14万5,000人(ジャマイカの住民14人に一人以上)の署名入り嘆願書が送られた結果,米国からではなく英国から文書を輸入する許可が下りました。聖書だけは米国から輸入できました。さらに多くの抗議の手紙と懇願が,ジャマイカおよび(ジャマイカは依然英国統治下にあったので)英国で出された結果,1954年7月19日,政府はようやく米国から文書が贈り物として入って来るのを許可することに同意しました。その取り決めは,外貨が相変わらず不足しているため,いまだに効力を有しています。

ノア兄弟が再び訪問する

証人たちを沈黙させ,その伝道活動を妨げようとするこの企てに先立って,兄弟たちはノア兄弟とヘンシェル兄弟の訪問により強められ,試みに備えることができました。

ノア兄弟の最初の訪問から4年が経過し,大幅な拡大があったため,一層の拡大を目指す計画を立てる時が来ていました。キングストンの伝道者の数は25%も増加していました。それで,ロバート・クラーク兄弟を司会者とする建築委員会は,土地の購入と新たにできる二つの会衆が用いる二つの新しい王国会館の建設とを手配するよう任命されました。新しい会衆のうちの一つは北会衆でした。前述のような僧職者の怒りを引き起こしたのは,同会衆の王国会館の建設だったのです。一新聞がその会館の写真に,「論争が建てた教会」という見出しを付けて掲載したのも不思議ではありません。

ハリケーンによる災害で兄弟愛が表わされる

1951年の夏,激しいハリケーンがジャマイカを襲い,168人の命を奪いました。支部事務所兼宣教者の家として使用されていた建物の屋根は完全に吹き飛ばされてしまいましたが,兄弟たちはだれも被害を受けませんでした。大勢の兄弟たちを含め,幾千人もの人々が住む家と家財道具を失いました。米国に住む仲間の証人たちはすぐに,また寛大にこたえ応じました。何トンもの衣類が船便で送られ,被災者の救援物資として支給されました。それは国際的な兄弟関係のうちにエホバの民を結びつけている愛を実証するものでした。兄弟たちは大いに励まされ,出かけて行って被災者を慰め,世の苦難の責任がだれにあるのかを説明しました。

新しい支部

1954年,M・G・ヘンシェル兄弟が地帯訪問を行ない,支部の建物の構造がしっかりしているかどうかを調査するよう勧めました。調査が行なわれ,新しい支部の必要が確認されました。翌年ノア兄弟が訪問して,土地を確保し,新しい支部事務所と宣教者の家の計画を立てる認可を与えました。ほどなくして,郊外のセントアンドリュー行政教区にあるトラファルガー街41番地にふさわしい場所が見つかり,建築設計図が作成され,建築当局に提出されました。

1957年には,支部の建築計画は着工可能になっていました。地元の証人たちは貸し付けや寄付によりその計画を支持しました。1,276人の聴衆を前に,その建物が献堂されたのは,1958年8月31日のことでした。。

最初の国際大会

1966年,ジャマイカは,同年に計画された国際大会が開かれる多くの場所の一つに選ばれました。地元の証人たちにとって,国際的な集いを主催するよう求められるのは初めてのことでした。兄弟たちは熱意を込めて宿泊施設やツアーを取り決め,大きな大会に関連した他のすべての責任をも引き受けました。英国からの246人,また米国からの218人を含む18か国から来た出席者たちを迎えて兄弟たちは胸を躍らせました。公開講演には,その時までにジャマイカで開かれたエホバの証人の大会としては最高出席者数に当たる9,458人が集まりました。

1970年代に入っても増加は続きました。1970年には主の夕食にそれまでの最高数である1万3,359人が出席しました。1970年代の10年間,宣べ伝える業はたゆまず続きました。良いたよりを宣べ伝え,共に集まる自由はありましたが,克服すべき問題 ― 王国の真理に敵対する者が依然としてここジャマイカにいることを思い出させる出来事 ― もありました。

もう一つの王国会館に対する反対

例えば,1978年に,キングストンの北西部に王国会館を建てる青写真が同市内の地元の建築当局に提出されました。市の都市計画課は,もっと凝った建物,同課の言葉を借りて言えば,「この地域を向上させる」ような建物を建造するために,設計図を書き直すよう求めました。これは建設費がずっと高くなることを意味しましたが,その要求を受け入れ,市の他の部局すべてに受け入れられるような設計図が,都市計画課と市議会の建築委員会の認可を受けました。

ところが,1952年および1953年に論争を巻き起こした王国会館の場合と同様,今回の王国会館の用地もその町にある聖公会の教会から少ししか離れていなかったため,その教会の牧師は自分の教会の目と鼻の先に王国会館が建つことに断固反対しました。

とはいえ,その牧師が建造中の建物が王国会館であることに気づいた時には,既に建設工事は始まっていました。牧師は,市議会議員であり,政治的影響力を持つ友人たちに連絡を取り,次にその議員たちは建築法規すべてが守られているかどうかに関する質問を提起しました。そうした法規の一つに,建設用地に人目につくような建築予定の公示をするというものがありました。それは建設に反対する人々が明示された期間内に抗議文を提出できるようにするためです。牧師はそうした公示を見なかったので,この法規が軽んじられていると考えました。しかし,町の書記官は質問を提起した市議会議員たちに,申請人はすべての法規にかなっていることを知らせたため,牧師は涙をのみました。

牧師の言いがかり

この反対者の次の手は,王国会館がCIA ― 米国中央情報局 ― の資金で建てられていると非難したパンフレットを配布することでした。牧師がこの根拠のない言いがかりをつけたのは,当時,この牧師を含む政治に携わるある人たちが,CIAは当時のジャマイカ政府を動揺させようとしていると非難していたからでした。

もちろん,王国会館の資金源に関する言いがかりは根拠のないもので,それは地元の新聞の一執筆者が早速,牧師の主張に反論して指摘している通りです。その人は次のように書きました。「エホバの証人は……義の宿る,イエス・キリストにより清められる将来の地……人間が人間を搾取することのない地を信じている。……しかしエホバの証人は純粋に霊的な解決策を信じており,アメリカの国旗や他のどの国の国旗にも敬礼することはない。またアメリカの国歌や他のどの国の国歌をも歌わない。証人たちはとてもCIAの教会などとは言えない存在である」。

既成事実に直面し,建設工事を阻止できなかったこの牧師は市議会に手紙を書き,今後は建築委員会の認可が下りる前に,教会の建造物の申請書はすべて地元のジャマイカ教会協議会に提出して推薦を得るべきであると提言しました。市議会は賢明にも今日に至るまでその提言を取り上げてはいません。

王国会館は完成し,献堂される

一方,王国会館は予定通りに完成しました。特に週末や休日に大勢の兄弟姉妹が自分たちの時間や才能を惜しみなく提供して建設工事を手伝ったからです。建設中に建築資材の値段が急激に上がり,見積もりの2倍の経費がかかってしまいました。その値上がりに対処するため,幾人かの姉妹たちはココナッツケーキやペストリーを作り,それを売ったお金を寄付しました。またある人たちは清涼飲料の空きびんを回収して現金と引き換え,それを建築計画の資金にするために寄付しました。こうして王国会館は完成し,1980年10月15日に献堂されました。献堂式の話は1,830人の超満員の聴衆に対し,ブルックリン・ベテルのU・V・グラス兄弟により行なわれました。現在三つの会衆がこの王国会館で集まり合っており,その会館は巡回大会の大会ホールとしても使用されています。こうして,エホバは再びご自分の民が反対に対して勝利を収めるよう助けを与えてくださったのです。

鉄砲水の災害

1979年6月に,まれに見るような鉄砲水が島の西の果てに災害をもたらしたとき,神の民を全世界的な兄弟関係のうちに結びつけている愛が際立ったものとなりました。洪水により家や橋は流され,家畜は溺死し,作物は全滅しました。30人の人々が,夜,急に押し寄せて来た激流にのまれて命を失いました。

長老であり都市の監督でもあるルイス・ロチェスター兄弟は,110㌔ほど離れた所に住んでいましたが,災害のことを知ってすぐに行動しました。兄弟はお金を借りて食料品を買い,それを小さなトラックに載せて被害に遭った兄弟たちに救援物資を届けようと災害の起きた地区へ向かいました。道の多くは通行不能だったため,迂回して約300㌔もの道のりを行かなければなりませんでしたが,ロチェスター兄弟はそこへたどり着き,兄弟たちはその愛の労苦を本当に感謝しました。

ロチェスター兄弟が家へ戻ってみると,40個ものカートンが届いていました。それは支部事務所から送られてきたもので,中には寄付された衣類が入っていました。それで兄弟は夫人を伴ってまた出かけて行き,感謝にあふれた兄弟たちに必要な衣類を供給しました。ある兄弟たちのグループは洪水でできた池のために孤立してしまったので,その兄弟たちにはボートで物資を届けねばなりませんでした。

巡回監督の危険な旅

巡回監督のエドガー・パターソンは,被災地の一つであるサバンナ・ラ・マールの町から遠く離れた会衆で奉仕していました。災害のことを聞いて,同兄弟は寛大な兄弟たちから食料品を集めてそれを自分の車に満載し,夫人と一緒にサバンナ・ラ・マールへ出かけて行きました。兄弟は30㌔ほど手前の海辺の町,ホワイトハウスまで来ましたが,道路が水につかっていてそれ以上車で進むことはできませんでした。それで兄弟は小さな手こぎのボートを出してもらい,残りの道のりは海から行きました。荒れ狂う波でボートは揺れに揺れました。ボートが今にも転覆するのではないかと恐れたパターソン姉妹は,王国の歌を歌い続け,無事に着けるようずっと心の中で祈り続けました。しかし,船頭が良い腕をしていたのでやっとのことで無事,サバンナ・ラ・マールに到着し,感謝の念の厚い兄弟たちや関心を持つ人々に食糧を分配しました。

政治的な暴力行為から保護される

1980年,ジャマイカでは1962年に英国から独立して以来5度目の総選挙が行なわれました。その選挙に先立って,同国でそれまでに行なわれたうちで最も暴力的な選挙運動が展開されました。幾百人もの人々が命を失い,銃撃戦が日夜猛威をふるっていたため,ある地域では神の王国を宣べ伝えるのが大変危険になりました。エホバの証人の中立の立場は保護となり,証人たちは一人も命を失いませんでした。次の経験は最も暴力行為の起きやすい地域に住み,そこで宣べ伝える業を行なったご自分の民をエホバがどのように保護されたかを示しています。

一人の長老が再訪問をしていたとき,その同じ街路で銃撃戦が始まりました。その兄弟は次のように報告しています。「その訪問が終わると,私はその地区からすぐに出ようとしました。途中,一群の男たちが私に近づいて来て,『お前は警察官のようだな』と言いました。[その選挙期間中,大勢の警察官が殺害されました。] 私はすぐに,持っていた出版物やパンフレットを用いて自分がエホバの証人であることを証明しました。彼らはそれで納得し,私は命拾いをしました。私は一人一人にパンフレットを渡し,帰りを急ぎました」。

一姉妹は集会へ行く途中,一群の男たちに呼び止められ,身体検査をされて書籍とお金を奪われました。姉妹は男たちに,「私は王国会館へ行くところなのであなた方が取った本が必要なんです。そしてそのお金は寄付しようとしたものです」と言いました。すると男たちは姉妹に全部を返したのです。

「蛇のように用心深く」

それら困難な地域に住む証人たちは,「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真」であるようにという,弟子たちに対するイエスの教訓を適用しなければなりませんでした。マタイ 10:16)ある人は時折,会衆の集会へ通う道を変えなければなりませんでした。また,兄弟たちが引き返して違う道を行ってみなければならないこともよくありました。集会場所へ行くために大勢の兄弟たちが払わなければならなかった身体的な労力はある人たちにとってエネルギーを消耗させるものでしたが,兄弟たちの態度は,「私は暴力のひどかったこの期間中,集会を一度も欠かしませんでした」と語った一開拓者の言葉に要約されます。別の伝道者は,「他の国々の兄弟たちが苦しんだ事柄に関する『年鑑』の経験は,確かに私にとって助けになりました」と語りました。

暴力行為の影響を受けた地域での野外奉仕の予定には調整が加えられねばなりませんでした。もしその地域で大きな発砲事件があるなら,事態が収まるまで二,三日野外奉仕を見合わせました。長老たちは率先して兄弟たちと共に働きました。兄弟たちは容易に見分けがつくように,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を手に持っていました。全員無事であることを確認してから解散できるよう,野外奉仕が終わった後,グループ全員が集まる特定の時間と場所が取り決められました。

中立の立場は敬意を得る

大多数の人は,政治活動に関するエホバの証人の中立の立場に敬意を払いました。例えば,一地域で書籍研究の集合場所となっている家に石などが投げられ,襲撃されたことがありました。襲撃の最中,その家に住んでいた証人は「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を持ち出し,それらを高く掲げて,「私たちは政治とは無関係です」と繰り返し叫びました。すると途端に襲撃はやんだのです。同じようなことが二度と起こらないように,兄弟たちはその家の壁に「エホバはわたしたちの救い」と書き,「目ざめよ!」誌と「ものみの塔」誌の表紙を何枚か窓ガラスにはりました。このことがあってからしばらくして,襲撃した者たちがその地域へ戻って来ました。彼らは石や手製の爆弾などを投げて多くの家を壊しましたが,書籍研究の集合場所となっていた家には手出しをしませんでした。

別の時に,兄弟たちの一グループが政治上の暴力行為のために自分たちが住んでいた地域から引っ越そうとしていると,14人の武装した男が兄弟たちの家財道具を積んだトラックに停止するよう命じ,運転していた兄弟にこう尋ねました。「車の中にだれがいるんだ。労働党員か,それとも社会党員か」。(この二つの政党が互いに争い合っていたのです。)兄弟は,「私たちはエホバの証人です」と答えました。武装した男たちの何人かがトラックに乗り込み,検査をしました。男たちが一人の兄弟のかばんを開けると,兄弟の聖書,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌および他のものみの塔の出版物がありました。それらを見て,またイエス・キリストによるエホバの王国に対する信仰と確信のゆえに自分たちは政治に関して中立であるという証人たちの説明を聞いて,男たちは納得しました。「分かった。全員行ってよろしい」と武装した男たちは言いました。兄弟たちはエホバに感謝を言い表わしながらその通りにしました。

投票日のこと,一人の長老とその妻は無理やり投票所に連れて行かれ,もし投票しないなら痛い目に遭わせると脅されました。身体的な暴行を受けましたが二人は中立を保ちました。次いで兄弟たちは自分たちの家を明け渡さねばなりませんでしたが,愛にあふれた兄弟たちが二人を迎え,夫妻は今でも幸福にそして活発にエホバへの奉仕に携わっています。他の兄弟たちもその中立の立場ゆえに脅されましたが,エホバはご自分の民に保護をお与えになり,だれも大きな危害は受けませんでした。

ある程度の平穏が戻る

その後,ある程度の平穏がこの国に戻ってきました。島中で王国を宣べ伝える業は決して停止しませんでしたが,1940年代の半ばから1960年代の初めと比べると,増加率は鈍りました。その理由の一つは多くの伝道者が米国やカナダおよび英国へ移住したからです。それは大抵,ジャマイカの経済情勢が良くないためでした。

移住にもかかわらず進歩する

それでも,1984年4月には7,517人が宣べ伝える業にあずかり,伝道者の新最高数に達しました。その同じ月には6,564件の家庭聖書研究が報告されました。「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という聖書研究の手引き書は,聖書研究のすばらしい増加に貢献しました。発表されて以来,この本は4万冊以上配布され,宣べ伝える業に多大の影響を及ぼしました。新聞の一コラムニストはこの本の宣伝に一役買いました。その人は,この本に賛辞を送り,とりわけ次のように述べました。「証人たちは聞くだけの価値のあるものを携えている。彼らが戸口に足を踏み入れることを許せないのであれば,何としても『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』を手に入れることだ」。

確かに,この国にとどまった人たちは,この美しい国に住む多くの羊のような人々を集めるため,王国の良いたよりを熱心に宣べ伝え続けています。さらに多くの人々がまだ集められることは,1984年の主の夕食に2万3,270人もの大勢の人々が出席したことに示唆されています。次の経験が示すように,王国に対して積極的な立場を取る人がまだいるのです。

一人の男性は王国会館へ来るようにとの招待を何度も鼻であしらっていましたが,別のさまざまな宗教団体の所へは足を運んでいました。後にその人は輸血の問題を論じた協会の雑誌を1冊入手し,良い印象を受けました。そして今度は王国会館に行きたいと思いました。その人は人類に対する神の目的を際立たせた聖書講演に感謝し,証人たちの友好的な態度にも感銘を受けました。それに動かされて自分がかつてエホバの証人から求めた書籍や雑誌を全部捜し出して,それを読みました。間もなく家庭聖書研究に応じ,現在この人とその家族のうち二人はエホバの献身した僕になっています。

この国にいる7,000人以上の証人たちの望みは,この家族のようにさらに多くの人々が王国を第一に求めるよう動かされ,それによってこの地球を美の楽園に変える業の一端を担う特権にあずかれるようになることです。その美の楽園はジャマイカが得ている“楽園の島”という名をはるかにしのぐものです。

しかし,ジャマイカにおける宣べ伝える業の歴史は,ケイマン諸島 ― ジャマイカの北西約300㌔にある三つの珊瑚島から成る小さな群島で,今も英国統治下にある ― に関する報告なくしては完全なものとは言えません。

ケイマン諸島

グランド・ケイマン島,リトル・ケイマン島およびケイマン・ブラック島がこの群島を成しており,1万9,000人ほどの人々が住んでいます。首都ジョージタウンは一番大きな島,グランド・ケイマン島にあります。ジャマイカ支部が,ここでの王国の業を監督しています。故P・H・デービッドソン兄弟は1929年にグランド・ケイマン島を訪れ,真理の種をまきました。同兄弟は1937年にもう一度ここを訪れ,6,000人の住民のできるだけ多くの人に会おうとしました。兄弟はケイマン・ブラック島でも伝道しました。デービッドソン兄弟はグランド・ケイマン島への二度目の訪問について語り,次のように書きました。

「島の人たちはありとあらゆる種類の宗教を持っています。ケイマン・ブラック島の元弁務官,H・W・ラティーは約25年にわたって真理の熱心な信者でした。しかし人々は真理に激しく反対しました。ある人々は人を送って,ジャマイカから“無地獄”男が来たと他の人々に警告しました。私は一般の人々の間であれほどの反対をどこにおいても見たことはありません。ある者たちは身体に危害を加えると言って脅しました」。

態度の変化

真理に対するケイマン島の人々の態度は,それ以後著しく変化しました。何がこの変化をもたらしたのでしょうか。1950年にものみの塔協会の会長,N・H・ノアがジャマイカを訪れた時,同兄弟はジャマイカから二人の宣教者をケイマン諸島に遣わすよう提案したのです。アレック・バングルとルイス・ウッズが選ばれました。

16カートン分の書籍を積んで,二人は船に乗り込み,二日後ジョージタウンに着きました。上陸は許可されましたが,文書は差し押さえられてしまいました。当局はジャマイカでまだ禁令が施行されていると考えたからです。当時ケイマン諸島はジャマイカの属領になっていました。政府官報であるジャマイカ・ガゼットを調べたところ,禁令は1945年11月に解除されていたことが分かったため,文書は解禁になりました。

宣教者たちの目的は,島全体に王国の真理の種をまくことでした。バングル兄弟は,兄弟たちが2台の自転車を手に入れ,グランド・ケイマン島全域で働いたことを覚えています。最初に町や地方の村などへき地から始めて,それから最後に首都で働きました。その作戦を使った理由は,首都ジョージタウンの当局が宣べ伝える業について聞き,もし反対すれば兄弟たちが島に滞在する許可は取り消されてしまうので,そうならないうちに島の残りの区域を網らするためだった,と兄弟は語りました。

1937年にデービッドソン兄弟が遭遇した状況とは違って,宣教者たちは人々が非常に友好的であるのに気づきました。宣教者たちはいつも家に招き入れられ,そこで家族の昔話を一通り聞かされたあと最後に証言をすることができました。6週間でグランド・ケイマン島は文書を用いて網らされ,ケイマン・ブラック島に行っていたルイス・ウッズも島全体を網らしました。二つの島で約2,000冊の文書が配布されました。それは,宣教者たちがこれらの島で過ごした7週間という期間を考えると,実に驚くべき量の種まきです。

まかれた種に水を注ぐ

1952年,別の二人のギレアデ卒業生により業は続行され,数件の家庭聖書研究が始まりました。グランド・ケイマン島のウエスト・ベイに宣教者の家ができ,集会が組織されました。1956年7月までに8人の人が宣教者に加わり,宣べ伝える業に携わっていました。10か月後,宣教者たちは島を離れねばなりませんでしたが,将来の拡大のための土台が据えられていました。

1959年,特別開拓者たちのりっぱな働きの結果,ジョージタウンに12名の伝道者から成る会衆が組織されました。

特別開拓者たちが島を離れた後,グランド・ケイマン島の土地の人であるウィルバート・スターリング兄弟が現地での王国の関心事を世話するよう会衆の監督に任命されました。兄弟は今でも年長者として会衆内で奉仕していますが,幾年も前に視力を失ってしまいました。兄弟はりっぱな模範であり,その障害にもかかわらず引き続き公開講演を行なっています。

リチャード・ダニングとその妻エイリーンは,ケイマン諸島での大きな必要にこたえ応じ,そこで奉仕するため1971年に英国を後にしました。二人は以前にいた証人たちによって高められた関心を強固なものとする点で多くのことを行ないました。ダニング兄弟は今では居住権を持ち,ジョージタウン会衆で長老として奉仕しています。

ダニング兄弟が友好的な関係を培ったケイマン人の実業家によって寄付された敷地に,りっぱな王国会館が建てられました。何年間にもわたって着実な増加が続き,1984年2月には56人の伝道者新最高数に達しました。今ではグランド・ケイマン島に二つ目の会衆を組織する計画が立てられています。

大会は関心をかき立てる

ジョージタウンの会衆はジャマイカの第2巡回区の一部です。しかし旅費がかかるためにグランド・ケイマン島で巡回大会を取り決めるのは実際的ではありません。巡回区内の伝道者のほとんどがジャマイカに住んでおり,出席できなかったからです。同じ理由でケイマン人の伝道者のほとんどはジャマイカでの巡回大会には出席できません。ケイマン人の兄弟たちが大会から益を得られるよう,プログラムに幾分変更を加えた巡回大会がジョージタウンで開かれてきました。飛行機がチャーターされ,ジャマイカ全国の兄弟が出席するよう招待されています。

そうした大会の最初のものは1970年に開かれ,94人が出席しました。二度目の大会は2年後に開かれ,200名以上の兄弟たちが2機のチャーター機に乗ってやって来ました。3回目の大会は1982年5月2日と3日に開かれ,その時も2機の飛行機がジャマイカからの兄弟たちを乗せてやって来ました。これらの集まりはケイマン人の兄弟たちを励ますものとなり,ケイマン諸島の人々に良い証言となりました。

人々は依然として友好的で良い反応を示すので,さらに増加する良い見込みがあります。時折,何年間かの契約で兄弟たちが他の国からこの島へ仕事に来ることがあり,それは会衆の組織を強める助けとなっています。

ケイマン諸島は確かに,詩編 97編1節にある「エホバ自ら王となられた!……多くの島々は歓べ」という招待にこたえ応じてきた島々の中に入っているのです。

[71ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ジャマイカとケイマン諸島

ケイマン諸島

リトル・ケイマン島

ケイマン・ブラック島

ウェスト・ベイ

グランド・ケイマン島

ジョージタウン

[地図]

カリブ海

モンテゴ・ベイ

ファルマス

サバンナ・ラ・マール

アンノット・ベイ

ホワイトハウス

ポートアントニオ

マンデビル

スパニッシュタウン

キングストン

[68ページの図版]

ジャマイカで最初に真理を受け入れた地元の人,パトリック・デービッドソン(ケイマン諸島で証言をしているところ)

[77ページの図版]

キングストン会衆の成員は,このバスを用いて日曜日に田舎で証言した

[79ページの図版]

エイミー・フット(右側)と,同姉妹が操作したサウンドカー

[80ページの図版]

医師であったロバート・ローガンは,自分の患者に一人残らず証言した

[82ページの図版]

トマス・バンクスは,長年の間,支部の監督として奉仕した

[84ページの図版]

エドガー・カーターと,同兄弟が巡回の業に活用した自転車

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ジャマイカに到着した最初のギレアデ卒業生。左から: リー・ディロン,アレック・バングル,エドガー・カーターおよびウィリアム・ジョンソン

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セオドア・ヌーンズは生地も商う仕立屋で,英国の元首相,デービッド・ロイド・ジョージに証言をした

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1952年および1953年中,僧職者の反対をかき立てた王国会館

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現在の支部事務所

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1980年に完成した王国会館。大会ホールとしても使用されている