ボリビア
ボリビア
南米の中心部に位置するボリビアは,まさに息をのむような地形を成しています。アンデス山脈の山々の頂は7,010㍍にも達し,海抜3,812㍍を誇るチチカカ湖は航行可能な水域としては世界で最も高い場所にあります。東部は山々の渓谷,さらに広大な草原,低地の森林地帯から成っています。
西部にはアルティプラノと呼ばれる高原地帯が広がっています。この高原地帯は二つの山脈にはさまれており,平均標高は3,810㍍ほどです。気温が低く,岩地のこの高地で植物を見ることはまれです。居住には適さないように思えますが,ここは堂々としたラマやアルパカ,巨大なコンドル,そして多くの人々の住まいとなっています。事実,およそ640万を数えるこの国の人口の約3分の2の人々がここに住んでいるのです。他の人々は北部や東部の谷あいや温暖で湿度の高い低地に住んでいます。
権力と富の探求
15世紀の半ばごろ,インカ帝国の軍隊がボリビアの高地を侵略し,新しい文化を強いましたが,16世紀にはスペイン人がインカ帝国から支配権を奪い取りました。スペイン人の征服者たちは富を探し求め,信じられないほど埋蔵量の豊かな金銀の鉱床がボリビアにあることを発見しました。原住民は強制労働に就かされ,アフリカからは奴隷が連れて来られてポトシで発見された銀鉱を開発しました。17世紀の半ばまでに,ポトシは15万余の人口を有するアメリカ大陸最大の都市になっていました。
スペイン人はローマ・カトリックの宗教を持ち込みました。この宗教は多くの人々に無理やり押しつけられ,人々を支配する手段として利用されました。しかしながらこの新しい宗教は,太陽や月,そしてインカ人がパチャママと呼ぶ“母なる大地”を崇拝する彼らの以前の慣習や信仰の多くを許容し,また取り入れました。
19世紀の初頭に他国の支配からの自由を得ようとする努力がなされ,独立を見るに至りました。シモン・ボリバルは“解放者”とうたわれ,この国の名は彼にちなんで名づけられました。それ以降,政権は何度も変わっています。
こうした背景は,神の王国の良いたよりがもたらされた時の人々の反応に大きな影響を与えました。
聖書の真理がボリビアにもたらされる
エホバの証人の開拓奉仕者がボリビアで宣べ伝える業を幾らか行なったことはありましたが,1945年10月に王国宣明の業はより首尾一貫した方法で進められるようになりました。それはものみの塔ギレアデ聖書学校第3期の卒業生,エドワード・ミチャレックとハロルド・モリスが小型の双発機から降り立ったときのことです。二人は,標高約4,110㍍の,世界一高い場所
にある民間空港にまさに到着したところでした。陽の光がいつになくまばゆく,空も一段と青く感じられました。二人はいち早く,希薄で身のひきしまるような空気の影響を感じ取りました。酸素を十分に吸い込めなかったからです。二人を乗せた小型バスが空港を後にして走り始めた時,二人は約460㍍の眼下に広がる広大な峡谷の町,ラパス市のみごとな景観に圧倒されてしまいました。無数の金属製の屋根が太陽の光を反射する様は,まるで銀のスパンコールを散りばめたようでした。同市には迷路のように入り組んだ狭い通りや曲がりくねった小道があり,群生するそびえ立つようなユーカリの木々があちらこちらに見られました。ここが宣教者としての二人の任命地でした。
曲がりくねった狭い道を下降しながら市内に向かう途中,超満員の他のバス何台かとすれ違いました。乗客は前のドアからも後ろのドアからも身を乗り出していました。人々に注意を向けてよく見ると,至る所で褐色の肌,黒い目,そして真っ黒な髪の人々を見かけました。男の人たちは着古したスーツやセーターを身に着け,先がとがっていて耳おおいの付いた毛糸の帽子をかぶっていました。婦人たちのほうは典型的な山高帽,編んで作ったショール,そして多種多様なゆったりとしたスカートで着飾っていました。ある女性はしま模様の色鮮やかな布を自分たちの首に結びつけ,それを使って赤ちゃんを背負い,あやしていました。市場では,山ほど積んだ売り物の果物や野菜の真ん中で腰掛けに座っているチョリタ(典型的な衣服を身に着けたラパスの地元の女性)をよく目にしました。市の中心部では,小さなアドービれんが造りの住居に代わってコロニアル風の家や近代的なホテルが多く見られます。そのすべての壮大な背景となっていたのは,はるか遠くに見える雪をいただいた雄大なイリマニ山でした。
彼らは貴重な贈り物を携えて来た
その人たちが新たにボリビアにやって来たのは,単なる観光のためではありませんでした。また彼らは,昔の貪欲な冒険家や征服者のような人々でもありませんでした。自分たちが奪い取れるものを取りに来る代わりに,この人たちは,銀や金よりもはるかに貴重な宝である贈り物 ― 神の言葉の真理をボリビアに携えて来ていたのです。―箴言 8:10,11。
続く二,三日の間,二人は居住証明書を手に入れ,住む所を決めるよう努めました。標高3,700㍍の丘陵の多いこの市内を歩き回るのは,初めは易しいことではありませんでした。慣れないスペイン語で苦労して人々と話そうとする時は息が切れそうでしたし,心臓の鼓動がはねハンマーのように速くなりました。これから先,何が起こるのか二人には全く分かりませんでした。
成人の85%は全く字が読めませんでした。アイマラ語とケチュア語という二つの言語には,文字さえありませんでした。多くの人はスペイン語を学んではいたものの,話すことができませんでした。外国人に対する懐疑心が強く,旅には危険が伴いました。貧困のため,非常に多くの人々が1日に12時間から14時間という労働時間に縛られていました。アルコール中毒や,この国で合法的に栽培されるコカの葉の中毒によって,多くの人の道徳心は徐々に弱められており,男女間の合意上の性関係は普通のことになっていました。異教の神秘主義は,優位を占めるカトリック教徒の間にも浸透していました。とはいえ,これらの障害物も時たつうちに一つ一つ,エホバの聖霊とその組織の助けによって克服されてゆきました。
聖書の教えに対する感謝の念に満ちた反応
スペイン語で録音された聖書の音信を流す蓄音機と文書の
入ったかばんを持って,宣教者たちは新しい区域で証言を開始しました。これだけ標高の高い所で傾斜の急な通りを登るのは一苦労でしたが,ほとんどの人たちはレコードの音信に耳を傾けましたし,文書を受け取る人も大勢いました。信仰心の厚いカトリック教徒もいましたが,その人たちが「私は使徒伝承のローマ・カトリック教徒ですが,司祭たちは好きではありません」と語ることも珍しくありませんでした。わずか2か月のうちに宣教者たちは41件の家庭聖書研究を司会していました。ボリビアで最初に喜んで真理を受け入れた人たちの中に,穏やかな話し方をする会計士,カルロス・アラヤがいました。この人の名前は,宣教者たちがボリビアに向かう前に受け取った「ものみの塔」誌の予約者のリストに載せられていました。宣教者たちのスペイン語の知識は限られていましたが,アラヤは感謝の念をもって彼らと聖書を学びました。アラヤは少しずつですが着実に霊的な進歩を遂げ,1953年11月にエホバ神への献身の象徴としてバプテスマを受けました。後には,会衆の監督としてラパスの仲間の証人たちを大いに強めました。視力の衰えと老齢のために近ごろではできることが限られていますが,兄弟は相変わらずエホバへの強い愛を抱いています。
暴力行為のただ中でエホバに依り頼む
最初の宣教者が到着してから7か月後,新たに4人の宣教者がやって来ました。そのグループにはオールデン・シールと妻のメアリー,メアリーの姉妹であるベティー・ジャクソンおよびエリザベス・ホリンズがいました。
第二次世界大戦が前の年に終わったばかりで,ボリビアでは政治的な大変動が起きていました。南米におけるナチの復興への恐れと政治上の対立が,激情的な街頭デモや暗殺事件を引き起こし
ていたのです。ボリビアの大統領は殺害され,その死体は大統領官邸に面した街灯に掛けられました。ミチャレック兄弟の記憶によれば,歩道が血の海になることも珍しくありませんでした。兄弟はこう伝えています。「ある日,見晴らしの良い場所から観察していたときのこと,1台の戦車が,ある大邸宅の芝生に乗り付けてその大砲でねらいを定めたかと思うと,家の真ん中に向けて発砲するのを見たのです。その家にはあまり好まれていない人物がいるのだと思いました」。後にエド・ミチャレックの妻となったエリザベス・ホリンズも当時を思い出してこう語っています。「家を出ることすらでき歴代第二 16:9。
ないこともありました。9月に,バスに乗って目抜き通りの広場を通り過ぎようとしたとき,3人の若い男性が柱に掛けられているのを目にしました。こんなことは以前に見たことがなかったので,私は小さな声で叫びました。一人の女性が私に『見たくなけりゃ顔をそむけているがいいよ』と言いました」。これらの出来事により,兄弟たちはこうした危険な時期のあいだ自分たちを保護してくださるエホバに大いに依り頼む必要性を銘記させられました。―動乱のただ中で,真理の言葉は謙遜な人々の心に根づき始めていました。そのため1946年9月に,ものみの塔聖書冊子協会はボリビアにおける王国の関心事を監督すべく,ラパスに支部事務所を設立しました。事務所が一緒になったこの賃貸式のアパートは宣教者の家としても使用されました。数か月後にボリビアで最初の会衆ができた時も,この同じアパートが集会場所になりました。それはささやかな始まりでした。
恐怖心をかき立てるユンガスへの旅
そのころ,ミチャレック兄弟とモリス兄弟はユンガスへの旅を計画していました。ユンガスはラパス北方の森林地帯で,その低い谷あいには小さな村が数多くあります。兄弟たちはそこで王国伝道の業を開始したいと思っていましたが,他の乗客に混じってトラックの後ろに乗り込んだ時には,恐怖心をかき立てる旅が前途に待ち構えていようとは少しも知りませんでした。
約4,600㍍の高さまで登ると,兄弟たちを乗せたトラックは曲がりくねりながら短い道のりで何百メートルも下ってゆきました。トラックには狭すぎるように思えた道は,急勾配の山腹を切り出したものでした。ガードレールはなく,道路のまっすぐ下が300㍍ないしはそれ以上の断崖絶壁になっている所も少なく
ありませんでした。ミチャレック兄弟がその旅について述べているとおりです。「運転手はU字形の急カーブに向かって突進しました。ほとんどスピードを落とさずに荒々しくハンドルをきり,どうやらうまくハンドルをさばいていましたが,対向車が来るかどうかなどはおかまいなしでした」。兄弟たちは,もし対向車が来たらどうなるかについては努めて考えないようにしました。ある急斜面では,道幅いっぱいに羽をひろげた大きなコンドルをひかないように,運転手はがくんと急ブレーキをかけました。所々,山腹がまっすぐに切り立っていて傾斜がなかったので,道路は三方を削ってくりぬいたトンネルのようになっていました。トラックがそこを通る時,乗っている人たちは岩の出っ張りを避けるため,素早く身をかわさなければなりませんでした。また,滝の中を通り抜ける時など,後ろに乗っている人たちはずぶぬれになりました。
アンデスの山でのこの体験を通して二人は,もしユンガスに会衆が設立されたなら,旅行する監督たちには,兄弟たちに対する大きな愛と並々ならぬ気遣いが求められることに気づかされました。
目的地に到着すると,二人の兄弟は友好的な人々に多くの文書を配布し,聖書の真理という種をたくさん植えました。後になって,これらの種は諸会衆の成長と繁栄に貢献しました。
他の大きな都市へ出かけてゆく
ラパスへ戻って間もなく,ミチャレック兄弟は二番目に大きな都市,コチャバンバへ向かいました。今回は一人で,オレンジを積んだトラックに乗り込みました。果物を覆っていた粗布の上にそっと上り,その180㌢の体をできるだけ平均に積み荷の上に伸ばして,つぶさないようにしました。トラックはほこり
だらけのでこぼこ道を南に向かって走りました。一晩中,山道をくねくねと下ってようやく,温暖で気持ちのよいコチャバンバの谷あいに到着しました。不毛のアルティプラノとは対照的に,ヤシの木と近代的な家が立ち並ぶこの町はたいへん心地よく思えました。この穏やかな気候に引き寄せられてか,外国から司祭や修道女が大勢やってきて,支配的な勢力を振るいました。ミチャレック兄弟が人々を訪ねた時にも,懐疑的な態度を執る人が少なくありませんでしたが,兄弟はエホバの導きがあったことの証拠を目にしました。ミチャレック兄弟は協会の出版物の読者だった退役陸軍大佐を訪ねましたが,この人は真理に対する熱意を抱いているようでした。次の日,兄弟と元大佐の二人は自転車に乗って,この元大佐が聖書について話したことのある,さまざまな人々を訪問しました。そのうちの一人,カルロス・
サベードラという名の学校の教師は,純粋な関心を示し,自分と家族が読むための文書を受け取りました。1週間後,ミチャレック兄弟は古い旅客列車に乗って,当時3番目に大きな都市だったオルロに向かいました。そこはアルティプラノ高原にある荒涼とした寒冷地で,付近の鉱山地帯へ向かう鉄道はそこから出ていました。あまり魅力のある環境ではありませんでしたが,人々は概して謙遜で友好的でした。でも,こうした謙遜な人々の多くをとりこにしていたある悪魔的な儀式のことを当時のミチャレック兄弟はほとんど知りませんでした。
オルロへのこの最初の訪問で出会った人の中に,すず鉱夫だったライムンド・バスケスがいます。後に,この人はオルロの会衆の監督として長年奉仕しました。次いでその同じ年に行なわれた訪問の際,ソフィア・レイナガ(現在はソフィア・フローレス)という若い女性と聖書研究が始まりました。非常に早い時期にこの女性は他の人と聖書の真理を分かち合うようになり,ほどなくしてバプテスマを受けました。始まりは小さかったものの,1947年にはオルロに会衆ができました。また,翌年の1月にはコチャバンバにもう一つの会衆が設立されました。
しかし,個々の人の進歩はさまざまです。ソフィア・レイナガはエホバの証人ではない人と結婚し,その後10年近くも不活発な状態に陥っていました。でもやがて,別の証人が彼女と聖書研究を始めました。ソフィアの心の奥深くに真理を鳴り響かせるための必要な助けが与えられました。この20年間,姉妹は再び活発な王国宣明者となっており,会衆内の比較的新しい人たちは姉妹から励ましを得ています。コチャバンバに話を戻せば,あの退役陸軍大佐は他の人々を助けてはいたものの,1970年代の後半になるまでバプテスマを受けたエホバの証人にはなりませんでした。一方,カルロス・サベードラとその妻はほどなく
して野外奉仕に出るようになりました。サベードラ夫妻の家は王国会館になり,サベードラ兄弟は会衆の監督になりました。子供たちのほとんどはエホバの証人になりましたし,子の代,孫の代の真理の宣明者の家族もみな,最初にカルロスと研究した時のことを覚えています。36年にわたる忠実な奉仕を終え,サベードラ兄弟は1983年に亡くなりました。悪魔の支配から解き放たれる
カトリックの聖職者たちが来る以前から幾世紀にもわたって,ここボリビアの鉱山労働者たちは,鉱山は彼らがエル・ティオ(文字通りには「おじ」の意)と呼ぶ下界の主に支配されていると信じていました。カトリック教会はその信仰を根絶できなかったため,それを取り入れ,奨励することさえしています。エル・ティオは今では悪魔となり,鉱山労働者たちは“聖母”に保護を求めるよう教えられています。鉱山における状況はその迷信の一因となっています。
鉱山の入り口はつららで覆われているかもしれませんが,これら洞窟の中は湿気が多く,摂氏50度の暑さになることもあります。鉱山労働者たちは,じめじめした穴の中で重い工具を持って働きます。穴の中では酸欠状態になり,ほこりや有毒ガスに苦しまなければなりません。労働者たちの口が暗緑色に染まっているのはコカの葉の中毒にかかっている証拠です。飢えの苦しみを抑え,自分たちが元気旺盛であると感じられるようにするため彼らはコカの葉をかむのです。このような苦痛に満ちた状況が,地獄の火という異教の概念と相まって悪魔崇拝への道を開くものとなっています。
ほとんどの鉱山の入り口にある壁のくぼみにはエル・ティオの小さな偶像があります。角や尾のそろったこの偶像に,酒やたばこやコカの葉などが惜しみなく供えられます。こうすれば,
悪魔が鉱山労働者を地下で死ぬことから守ってくれるだろうと考えられているのです。悪魔踊りを特色とする,年に一度の祭りが行なわれる前とその最中には,凝った衣装を作ったり,コカの葉や酒を買ったりするために多額のお金が費やされます。多くの場合,とてもそんなお金を払えそうにない人たちがそうするのです。通りは悪魔踊りの踊り手たちであふれます。彼らはソカボン・カトリック教会(鉱山の教会)で自分たちの儀式の最後を飾ります。その人たちはそこで“聖母”に敬意をささげ,「あなたの悪魔の子供,坑道を守るいとしい母の子供である私たちは,あなたの恵みを請うために地獄からやって来ました」と詠唱します。これらの「悪魔の子供」のためにカトリックの司祭が特別なミサをささげます。祭りが開かれている数日の間,泥や小さな色紙や粉を体じゅうにくっつけた酔っ払った男女の群れで辺りは混乱状態になります。彼らは水をかけ,調子っぱずれな歌をうたい,けんかをするのです。これこそ,使徒ペテロの記した『放とうの下劣なよどみ』です。―ペテロ第一 4:4。
エホバの証人がオルロや周辺の鉱業中心地で伝道したところ,こうした迷信および迷信が招いた不敬虔な習慣にうんざりしている心の正直な人々を見つけました。そうした人々は,この地を義の行き渡る楽園にするという神の目的を学んで大変喜びました。そして,神の言葉が,「不釣り合いにも不信者とくびきを共にしてはなりません。義と不法に何の交友があるでしょうか。また,光が闇と何を分け合うのでしょうか。さらに,キリストとベリアル[すなわち,サタン]の間にどんな調和があるでしょうか」と述べているのを知り,感謝しました。(コリント第二 6:14,15)根強く残る迷信やコカの葉の中毒,そしてアルコールの乱用などから解放されるのに悪戦苦闘した人も少なくありませんが,それらの人たちは援助を受けて霊的な自由を 得た時,次のように書き記した聖書の詩編作者と同じように感じました。「[エホバ]は苦しむ者の苦悩をさげすむことも,忌み嫌うこともされなかったからだ。神はみ顔をその者から覆い隠されたこともなく,彼が助けを求めて叫ぶとき,聞いてくださったのである」― 詩編 22:24。
あらゆる人に大胆に宣べ伝える
1949年までには,オルロに13人の熱心な伝道者がいました。セレメ・ワキンという体のがっしりしたレバノン人もそのうちの一人でした。この人は,仕事仲間,自分の営む織物店の顧客,また耳を貸しそうな人ならだれにでも大胆に証言しました。ある日,彼は自分の店で,司祭と友好的な話し合いを始めました。セレメは,「司祭殿[彼は司祭をこう呼んでいた],カトリックの聖書そのものが禁じているのに,教会はなぜ像を使うのですか」と尋ねました。司祭は,「像を崇拝するのは山奥に住んでいる読み書きもできない無学な人たちだけですよ。教育のある聡明な人々は像を崇拝したりしません。神を崇拝することを思い出させるものとして像を持っているだけです」と答えました。ちょうどその時,身なりのよい,名門の出の婦人が店に入って来ました。セレメは,今度はその婦人に,「あなたはご自分の像をどうお考えですか。ただ,神を忘れないようにするために持っておられるのですか。それとも,崇拝しておられるのですか」と尋ねました。婦人は大きなジェスチャーをしながら語調を強めて,「崇拝していますわ」と答えました。
店を売却したあと,セレメは開拓者としての全時間宣教に努力を傾け,専念するためにラパスへ移りました。ある時,兄弟はスーツケースにどっさり書籍を詰め込み,駐屯兵の兵舎へ行きました。兄弟は兵士たちにたくさんの書籍を配布し,兵士たちは兄弟を食事に招きました。彼らは司祭も招待しました。ほどなく
して兵士たちは二人の間で交わされる活発なやり取りを聞くことになりました。聖書に関する知識の違いがきわめて明らかになり,食事が終わった時,兵士たちはセレメに敬意を表していっせいに拍手喝さいしました。セレメは高官たちによく証言し,聖書文書を配布しました。ボリビアの大統領にさえも謁見を取り付け,大胆な証言をすることができました。大統領は好意的な態度で証言を聞きました。
協会の会長が初めて訪問する
1949年の3月,ものみの塔協会の当時の会長だったN・H・ノアは,秘書のM・G・ヘンシェルと共に初めてボリビアを訪れました。その折にラパスで大会が開かれました。主要な話はノア兄弟の話で始まり,残りの部分はミチャレック兄弟が話しました。閉会時の出席者は56名でしたが,ほかの人がみな帰宅したあと30分もしてから,数人の人たちが会場に到着しました。この時,ノア兄弟たちは,いつも遅れて来るというボリビア人の長年の習慣のことをひやかし半分に表現したホラ ボリビアナ(ボリビア時間)が何を意味するかをじかに目にしました。しかし地元の習慣がどうあれ,ボリビアのエホバの証人は,世界の他の場所にいるクリスチャン兄弟たちと同様,自分たちの集会を時間通りに始めています。
大会が終わると,ボリビアにおける王国の業を組織し,拡大する助けとなる愛のこもった助言がふんだんに与えられました。宣教者がもっと派遣されることになり,支部と王国会館をもう少し中心地に近い所へ移すことが勧められました。その通りに行なったところ,集会の出席者が大幅に増え,野外宣教にあずかっていた群れはそれぞれ20名,あるいはそれ以上の伝道者にふくれ上がりました。今度は,当時四番目に大きかった都市の状況に注意が向けられました。
サンタクルスに注意を集中する
東部の低地に位置するサンタクルス・デ・ラ・シエラはこの国の他の場所からはほぼ孤立した状態にありました。ここへの陸路は舗装されていない一本道しかなかったため,雨季には,コチャバンバから来るのに1か月もかかることがありました。宣教者たちがさらにボリビアに到着した時,ジョンおよびエスター・ハンスラーを含むそのうちの幾人かはサンタクルスに割り当てられました。
亜熱帯のこの低地ではトタイーと呼ばれるヤシ,パパイヤ,柑橘類,そして幹がビヤ樽形で面白い形をしたトボロチの木(「酔っ払った柱」を意味するパロ ボラチョとも呼ばれる)などが生育していました。街路は砂とぬかるみの通り道になっていました。風がしょっちゅう吹くので,人の顔や食べ物の中に砂が吹き込んできました。でも,一番興味深かったのは,人々そのものでした。
アルティプラノの人々が大抵,遠慮深く,まじめで,よそ者に対して少々懐疑的であるのに対し,サンタクルスの人々はもっと
陽気で,のんきで,社交的でした。その騒々しくて陽気な音楽も,山岳地方で聞かれる哀愁を帯びた音楽とは大いに異なっていました。夜通しのパーティーでブラスバンドの演奏があると,幾晩も寝られないことがありました。宣教者たちが戸別に証言をすると,人々はたいてい彼らを招き入れ,30分ないしはそれ以上の時間耳を傾けました。しかし,友好的ではあるものの,ほとんどの人は世界情勢を特別気にかけてはおらず,自分たちの生き方にすっかり満足していました。性の不道徳が広く行なわれていました。さらに,もし自分の宗教を変えようものなら,広範囲にわたる親族から嘲笑されることになりました。それでも,3年後には小さな会衆を組織することができ,やがて10人の伝道者が報告するようになりました。しかし,当時のサンタクルスはそれ以上増えそうになかったので,ハンスラー姉妹の妊娠を機に宣教者の家は閉鎖されました。
ハンスラー夫妻はボリビアにとどまることにしました。それは,快適な暮らしを犠牲にして不便な部屋で生活することを意味していました。しかし,二人は,4人の元気な子供たちに恵まれ,その全員がエホバの僕となりました。そして,全員が全時間奉仕にあずかっているか,あるいは過去にその特権にあずかっています。ジョンとエスターは,再び,元の任命地であるサンタクルスで特別開拓者としての奉仕を楽しんでいます。
革命の時
ボリビアでの最初の5年間で,宣教者たちはたびたび起こる政治的な変動に慣れっこになっていました。ところが,1952年に一般市民が政府に対して反乱を起こし始め,それはこの国の歴史上最も恐ろしい革命の一つとなりました。ラパスでは,ライフルや機関銃の銃声,時にはダイナマイトの爆発音がここかしこ
から聞こえてきました。市の上方に高くそびえる峡谷の端から発射された迫撃砲の砲弾が民家の近くに飛んできました。死傷者を運ぶため,救急車が通りを駆け抜けます。砲撃と爆撃は三日間続きました。主の夕食を記念する準備が進められていたのは,まさにこうした時期でした。ラパスでは,だれも通りを抜けては来られないと思ったので,宣教者たちは自分たちだけで記念式を行なう準備をしました。弾丸をよけながら,他の兄弟たちが身を危険にさらしてこの神聖な集会にやって来た時,宣教者たちはどんなに驚いたことでしょう。
真理は進んで行なおうとする心を動かす
1953年のこと,宣教者の一兄弟が,あまり上手ではないスペイン語で一人の女性に証言をしていたところ,ウォルター・マルティネスという好奇心旺盛な青年が,話を聞こうとそばへ寄って来ました。宣教者はその若い男性に,“「ものみの塔」の目的”をその婦人に読んで聞かせてほしいと頼みました。青年は
その通りにし,婦人は雑誌を求めました。次いで,宣教者はさらにウォルターと会話を続け,彼との聖書研究を取り決めました。その週中に研究が3回行なわれ,日曜日には,ウォルターは会衆の集会に出席しました。2週間後,巡回監督がオルロの会衆を訪問していた際,ウォルターは,すべての人が野外奉仕にあずかるようにとの招待に注意を払いました。「野外奉仕」はスペイン語でセルビシオ デル カンポといいますが,このカンポという言葉を聞いて,ウォルターは田舎へピクニックに出かけることを連想しました。ウォルターはその時のことを思い出してこう語っています。「それで,日曜日の朝,私はピクニックへ行く用意をすっかり整えて王国会館に一番乗りをしました」。ほかの兄弟たちが来た時,だれもお弁当を持っていない様子なので,彼は不思議に思いました。代わりに,みんなが書籍や雑誌を求めていたのです。自分だけ違っているのはいやだったので,ウォルターは2冊の本と20冊の雑誌を求めました。これから兄弟たちと一緒に何をするのか,全く分かりませんでした。ところが,兄弟たちが市場へ向かって歩き始めると,ウォルターは恐怖の念に襲われました。「こりゃいかん。この人たちは,福音伝道師が日曜日にするように市場で歌をうたうつもりなんだ」と,ウォルターは考えました。ウォルターはわざとゆっくり歩いて気づかれないように逃げようと思いましたが,うまくいきませんでした。兄弟たちが市場を通り過ぎて立ち止まらずに歩いてくれたとき,ウォルターは本当にほっとして,助かったと思いました。今ようやく彼はセルビシオ デル カンポが一体何なのかを学ぼうとしていたのです。
区域に到着すると,巡回監督はウォルターに,「一緒に奉仕しましょう」と言いましたが,間もなくウォルターは自分でも熱心な証言をするようになり,その日の午前中に,持っていた
文書を全部配布しました。その後,ウォルターは急速な進歩を遂げてバプテスマを受け,やがて喜びのうちに開拓奉仕に入りました。後に,ウォルターとハイメ・バルディビアはボリビア人として初めて,ものみの塔ギレアデ聖書学校に出席する特権を得,その後,二人ともボリビアで旅行する監督として奉仕しました。スクレにおけるカトリックの惨状
ボリビア政府の所在地はラパスですが,法律的にはスクレが首都です。この地方にはタラブコ族が住んでいますがその部族の男性は,スペイン人の征服者たちの帽子に似たヘルメット形の帽子をかぶっています。標高が低く気候が心地よいため,昔はスクレもポトシで働いていたカトリックの移住者にとってお気に入りの聖域でした。スクレは,国内のほかのどの都市よりも人口に対する教会の数が多いのを誇りにしています。
同市が受け継いだカトリックの伝統は,この地における王国の音信に対する対応の仕方に大いに影響を及ぼしました。司祭たちは自分の“羊の群れ”に,エホバの証人には耳を貸さないよう警告し,カトリックの子供たちは,宣教者が家々を訪問したら,いやがらせをするようにと教え込まれていました。
スクレにおける王国の業を活気づけるため,1955年に同市の巡回大会が計画されました。商店の窓にポスターをはって,公開講演を宣伝しました。ところが,大会の日が近づくにつれ,ポスターが姿を消し始めました。商店主たちの話では,“エホバの証人の若者たち”が,大会がとりやめになったと言ってポスターをはがしていったとのことでした。明らかに,エホバの証人を装ったカトリックの若者の仕業でした。司祭は,大会が開かれることになっていたホテルの所有者に契約を破らせようとしました。しかし,その人は脅迫に応じませんでした。
大会がまさに始まろうとしていた時,聖心カトリック学校から来た少年たちの群れがホテルを取り囲み,大声でわめき散らしたり,石を投げたりしはじめましたが,警察が彼らを追い払ったので,一時的に静かになりました。次いで,大会最終日には,司祭やカトリック・アクションに携わる女性,それにいきり立った学生たちが現われました。通りの反対側にある教会の上からは,強力な拡声器がカトリック教徒全員に,“プロテスタントの異端者”から教会と“聖母”を守るよう訴えていました。その群衆の中の多くは穏やかな人だったので,兄弟たちはうまく機会をとらえてその人たちに証言しました。しかし,腹を立てたスクレの司教が来るに及んで緊張は高まりました。
すでに大会に来ていた市長と知事は,もし何事かが起きたら,司教の責任になることを当人に警告しました。司教が落ち着いたので,市長らは彼が会場内に入るのを許しました。警官がさらに出動を命じられました。大会の主要な話は始まっていました。講演が終わりに近づいた時,司教は立ち上がって,自分の話を聞くようにと,人々の注意を喚起しました。大会司会者のミチャレック兄弟が司教のところへ歩み寄り,司教の質問は後ほど扱われることを説明しました。知事と市長は司祭の一人に,彼らが恥知らずな振る舞いをしたことを告げ,「もうお帰りなさい」と言いました。司祭は,「だれのことを言っておられるのですか。エホバの証人ですか,それともわたしたちのことですか」と,やり返しました。「あなた方のことですよ」と,知事は答えました。それで,司教と司祭,およびその仲間たちは騒ぎをやめて帰りました。
知事と市長は兄弟たちに謝り,あの狂信者たちの行動は決してスクレ市の意向ではないと断言しました。長年にわたりボリビアの政府高官の大半は,エホバの証人の業に対して同様の公正な態度を示しました。スクレの兄弟たちは,古代エフェソス使徒 19:35-41。
で,扇動された信仰の厚い群衆が使徒パウロとその仲間たちに対して反乱を起こした時,エホバがパウロを保護されたように,これらの高官を通してエホバが兄弟たちを守ってくださったのを感じました。―そのスクレでの件で事は好都合に運びましたが,集会の出席者は一時的に減少し,人々は証人たちに耳を傾けるのを恐れているようでした。それで,ポトシにもっと注意を向けることになりました。
ポトシは真の富に感謝を表わす
“ばく大な財産”または“巨額の金”を意味するポトシは,もはや17世紀当時のような大都市ではありませんでした。銀も大部分は掘り尽くされ,過去の栄光の面影をとどめるものはほとんどありませんでした。
標高3,960㍍の息をのむような高所で奉仕すべく,宣教者たちはポトシの丘陵地帯を登って行き,友好的な住民にたくさんの文書を配布しました。その反応はすばらしいもので,わずか5年で,会衆は40名の伝道者を報告していました。
1956年に,宣教者の一人であるリチャード・ホールマンは,イビエタ家族と聖書研究を始めました。8歳になるマルコもその研究に参加していました。同家族は,一時はよく進歩し,活発な伝道者になったのですが,1959年に理由も分からないまま会衆を離れてしまいました。しかし幼いマルコは,ホールマン兄弟の熱心さを決して忘れませんでした。兄弟は寒い晩でも,雨の降る晩でもいつも時間通りに研究に来てくれたのです。数年後,マルコは弟と一緒に,ラパスでもう一度聖書研究を始めました。マルコはこう語っています。「聖書の正確な知識を取り入れるにつれ,エホバの組織に対する愛が眠ったような状態から目を覚まし,活気を帯びるようになりました。ポトシ会衆と
交わっていたころの楽しい思い出は,真理を真剣に受け止める上での大きな刺激になりました。私たちが1970年に再び研究を始めた時,私はちょうど大学に入ろうとしていました。でも今では,聖書を研究したいという熱烈な願いに取って代われるものは何もありません」。マルコは開拓者になり,後にはラパスにあるベテル家族の一員になりました。マルコは現在そこで,支部委員の一人として奉仕しています。ボリビア人のエホバの証人が新しい分野を切り開く
特に1956年以降,数を増していた献身的なボリビア人の証人たちが開拓者となって全時間奉仕を始め,新しい分野を切り開くのを助けました。大抵の兄弟たちはケチュア語ができたので,まだ良いたよりを聞いたことのない大勢の人たちに会って話すことができました。そうした熱心な働き人の中には,ウォルター・マルティネス,ハイメ・バルディビア,ハイメ・バレリなどがいました。後にホアキン・コーパ,アントニオ・サムーディオ,そのほかの人々がその隊伍に加わりました。これら初期の開拓者の精力的な努力の結果,ウユニ,アトチャおよび他の鉱業中心地に会衆ができました。兄弟たちは,鉱山労働者や岩塩の採取業者,そして農業に従事する人々の家族の多くが宗教的な迷信から解放されて,エホバの忠節な僕になるのを援助しました。
これら開拓者の自己犠牲的な精神は模範的でした。それを例証するものとして,次のようなことがありました。ある特別開拓者の夫婦は,自分たちに分からないことがあって巡回監督にその説明を求めました。二人はわずかばかりの小切手を差し出して,「これは何のためでしょうか」と尋ねたのです。毎月協会は,特別開拓者の生活費を補うために少額の手当を送ります。特別開拓者は伝道に多くの時間をささげるので,普通世俗の仕事
をする時間がないからです。この夫婦は,自分たちに奉仕する特権があることをただひたすら感謝していたのです。王国の真理が熱帯のベニに伝わる
それより前の1952年,王国宣明者たちは北部の広大なベニ地方を訪問しました。この地方には,ワニやゾウガメがたくさん生息しています。ここではまた,自家用飛行機付きの大きな牛牧場と,土でできた小屋に住む貧しい人々との著しい対照が見られます。多くの場合自分たちも裕福であるカトリックの僧職者は,金持ちをひいきすることで知られており,不道徳な僧職者も少なくないことは周知の事実です。その結果,人々は無神論も同然のカトリック教徒になってしまいました。それでも,例外も幾つかあり,それらは心温まるものです。
一例として,ある小さな村の警察署長が,その地方を訪問していたエホバの証人から証言の業についての説明を受け,非常に関心を持つようになりました。その署長は証人たちが聖書文書を配布するのを手伝うとまで言いました。農家の人たちが町にやって来て,何があったのかを一目見ようと警察署の周りに集まりましたが,その人たちは結局その署長から聖書文書を受け取りに行ったようなものでした。ある男の人は,近所の人たちに配布すると言って30冊の雑誌を求めました。その間に宣教者は家から家を忙しく訪問していました。
1957年に,宣教者たちはベニ地方の二つの主要都市,トリニダードとリベラルタに割り当てられました。宣教者たちは,聖書が,とうてい守れない道徳上の規則を載せた単なる人間の書いた本ではないことを人々に納得させるのが,大抵の場合難しいことに気づきました。しかし,フェリシア・チンチリャは真理を喜んで受け入れ,宣教者たちの任命地が変わった時でさえ,引き続き忠実に奉仕しました。死期が迫っていた時,チンチリャ
姉妹が一番気にかけていたのは,子供たちをエホバの崇拝者にすることでした。姉妹はその地域の特別開拓者に,娘たちを養女にしてくれまいかと頼みました。開拓者たちはそれができる立場にありませんでしたが,娘さんを霊的に助ける上でできることなら何でもすると姉妹に約束しました。今では,その娘のうちの一人が,夫と共に特別開拓者となっています。火のような試練の時期
長年にわたって兄弟たちは数々の試練を経てきましたが,1960年代の初頭は,個々の人が自分の信仰の質を証明する必要性に気づく時となりました。国内には少なからぬ政治的緊張があり,愛国的な活動も頻繁に行なわれていました。ある兄弟たちは,クリスチャンの中立の問題や,偶像礼拝を避けることに何が関係しているかを明確には理解していませんでした。(マタイ 22:21。ヨハネ第一 5:21。ダニエル 3:16-18)1962年11月1日号の「ものみの塔」を皮切りに,兄弟たちは「上位の権威」に対するクリスチャンの態度や相対的な服従の問題について聖書が述べている事柄の徹底的な討議によって強められました。(ローマ 13:1-7)それはまさに『時に応じた霊的食物』でした。(マタイ 24:45)それでも,職を失ったり,子供が放校処分になったりはしまいかと恐れてしりごみする人たちがいました。しかし,大部分の人はののしりにもめげず,自分たちに強い信仰があることを証明し,神の前に清い良心を持てるよう行動しました。
翌1963年には,さらに別の試練と精錬がありました。過去16年間に排斥された人とほぼ同じ数の17人もの人を排斥しなければならなかったのです。排斥された人のうちの幾人かは長年交わっていて,よく知られた人たちでした。それで審理上の措置を受け入れ難いと考える人もいました。しかし,そのような神聖箴言 24:23。
な事柄において不公平はありませんでしたから,こうした事の進展はエホバとその見える組織に対する個々の人々の忠節を試みるものとなりました。―その同じ年,宣教者の姉妹が,サンタクルスに近い小さな町で不道徳を犯していたことが発覚しました。必要な審理上の措置は取られましたが,その町の人々はエホバの証人に対して敵意を抱くようになりました。戸別に証言するのはほとんど不可能になったので,開拓者たちは別の区域に移ることになりました。最近では関心を持つ人がいるものの,今日に至るまでその町には会衆が存在しません。
こうした試練にもかかわらず,1963年中にボリビアは王国伝道者500名の目標を超えました。同年の終わりにはヘンシェル兄弟の訪問がありました。その訪問の直前に,同兄弟は西アフリカのリベリアにおいて,個人としてクリスチャンの中立に関する厳しい試練に遭いました。ヘンシェル兄弟がその時の経験を話し,勇気を持って堅く立つことの大切さを強調してボリビアの証人たちを強めたので,兄弟たちは深く感動しました。
法的認可と支部事務所
ヘンシェル兄弟の訪問中,支部の新しい建物を建設することが話し合われました。その第一段階はものみの塔聖書冊子協会の法的認可を得ることでしたが,1年がかりの面倒な書類上の手続きの末,やっと認可が下りました。次は土地を探すことでしたが,険しい山に囲まれた人口密度の高い都市で土地を探すのはたやすい仕事ではありませんでした。結局,1965年のノア兄弟の訪問中に,ラパスの町の中心に近い住宅地に敷地を購入する取り決めが設けられました。2年後に完成したその建物には,大きな王国会館と14人の宣教者の宿舎が含まれていました。この立派な施設は,ボリビアにおける王国の業に対してエホバの
組織が純粋の関心を抱いていることを,地元の証人たちにさらに証明するものとなりました。資格にかなった数人の兄弟たちが,それぞれ違った時期にボリビアの支部事務所での業を調整してきました。最初の宣教者の一人であるエドワード・ミチャレックは,約10年間その立場で奉仕しました。後に,J・R・ディッキー,ハロルド・モリス,ドン・アンダース,チェスター・クロックマル,J・F・ミラー,およびオールデン・シールなどがみな,それぞれ違った期間,支部の監督としての大役を果たしました。一人一人が自分自身を喜んで与え,王国の業の推進に貴重な貢献をしました。新しい支部の建設が進められていた1966年に,支部を監督する務めは,当時ギレアデを卒業したばかりだったJ・D・ローズに割り当てられました。
失敗に終わった陰謀
ちょうどそのころ,サンタクルスは国内で二番目に重要な都市へと変化しつつあるところでした。石油やガスが発見され,その上コチャバンバからの道路が舗装されたので,それまで少数の大家族が寄り集まって暮らしていた所へ大勢の人々が引っ越して来ました。地元のエホバの証人の会衆では急速な増加が見られ,1966年までに50名を超える伝道者が王国の奉仕にあずかっていました。さらに別の宣教者たちも同市へ着いたばかりでした。ところが,それからすぐに思いも寄らず,会衆の監督が尋問を受けるため,ある高官に呼ばれたのです。
部屋は兄弟の知らない人たちでいっぱいでしたが,その人たちは報道関係者であることが分かりました。彼らのいる前でその高官は,兄弟の世俗の仕事について尋問しました。高官は兄弟の仕事が違法なものであると言い張っていたのです。兄弟は高官に,自分の仕事は決して違法ではないと断言しました。兄弟
はさらに,翌月から全時間の伝道活動を始めるため,仕事をやめたことも説明しました。高官は,自分も“信者”であるが,兄弟は“大きな間違い”を犯したと答えました。兄弟とその妻の個人に関する資料を押収してから,高官は二人を帰しました。その会衆の監督と,彼と一緒に世俗の仕事をしていたもう一人の兄弟は,ある地元の会社が,自分たちの会社の仕事を兄弟たちに取られはしまいかと心配していることに気づきました。この会社からの不満の声を聞き,セブンスデー・アドベンティスト派の狂信的な信奉者であったこの高官は,エホバの証人の業をこの件に巻き込む陰謀を企てました。何が起こったのでしょうか。
翌朝の新聞を見て,兄弟は我が目を疑いました。四つの新聞のいずれもが,一面の見出しで昨日の件を扱っていたのです。一つの新聞は太文字で兄弟の正式な姓名を出し,国際的横領犯がサンタクルスで拘留されたと公言していました。別の新聞紙上では,例の高官が『エホバの証人は同派の活動の傍ら不法な商売をしている』と唱えてエホバの証人に汚名を着せていました。その翌日には,一面に同様のニュースがさらに載せられていました。今回は,わたしたちの兄弟が,今は亡命中の身で敵とみなされている元大統領の“相談役”であったことが“発覚”したと公表されていました。同時に,ラジオ放送局も同じニュースを伝えていました。中傷的な宣伝が来る週も来る週も,そして何か月も続きました。
兄弟たちを処罰する法的な根拠がなかったので,高官は明らかに,世論を刺激し,できれば警察に行動を起こさせるために宣伝運動を利用していました。最悪の事態を考えて,兄弟たちは警察に連行される心構えでいました。しかし,警官はやって来ませんでした。また,だれも法廷に訴える人はいませんでした。
証人たちが家から家を訪問すると,人々は引き続き耳を傾け,聖書研究も増加しました。まるで人々が,盲目になって新聞が読めず,耳がふさがれてラジオが聞けなかったかのようでした。やがて,例の高官はその公職を退けられました。こうした苦しい状況にあった最中に,地元の兄弟たちは次の大会で,「エレミヤ」の劇に出演する割り当てを受けました。その劇は,忠実な神の預言者エレミヤが経験した迫害の模様を生き生きと描くものでした。胸がわくわくするような劇の吹き込みや練習のおかげで,兄弟たちは,自分たちの上に垂れこめていた暗雲を忘れることができました。
前述の会衆の監督は,自分の上にのしかかった大きな圧力のもとでいくらか平衡を失いましたが,後には,以前に計画していた全時間奉仕に入る資格を身に着けました。この兄弟と前述のもう一人の兄弟は二人とも,偏見に満ちた高官の陰謀が失敗に終わってから20年近い今でも,ボリビアで開拓者また監督として奉仕しています。
サンタクルスにおける急速な成長
サンタクルスの会衆は一時的な減少を経験しましたが,永続的な痛手は被りませんでした。宣教者に励まされた地元の証人たちは,今まで以上に熱心に働きました。サウロの組織した迫害が終わった後の1世紀のクリスチャン会衆がそうであったように,サンタクルスの兄弟たちも『平和な時期に入り,築き上げられ,人数を増して』いきました。(使徒 9:31)集会場はほどなくしていっぱいになり,人々は窓越しに話を聞いていました。それで,150人が入れる新しい王国会館が建てられましたが,2年もたたないうちに拡張が必要になりました。会衆は分会し,市の反対側に大きな王国会館が建てられました。現在ではサンタクルスに11の会衆があり,合計で約800人の伝道者が熱心 にエホバの王国を宣明しています。ラパス,コチャバンバ,オルロおよび他の鉱業中心地でも胸の躍るような増加を経験していました。
真理に対する確固とした立場は良い結果をもたらす
サンタクルスのイグナシア・デ・トレスは,ラパスから来た自分の姉妹が聖書の真理について話した際に耳を傾けました。イグナシアはそれほど強い反応を示しませんでしたが,真理の種は成長しはじめました。1963年に,宣教者がイグナシアと聖書研究を始めました。しかし,イグナシアの夫が激しく反対しました。彼は背が高くてがっしりした警察官でした。この人は,かっとなっては警官用の連発拳銃を空中に向かって撃ち,一方,イグナシアと子供たちは危なくない所へ逃げるのでした。
ある日,別の宣教者であるパメラ・モーズリーが研究を司会していると,イグナシアの夫が帰って来ました。彼は,パメラの耳をつんざくような大声で,すぐに帰るようにとどなりました。でも,パメラはあきらめませんでした。ある日のこと,この夫は宣教者をつかまえようと家で待ち構えていましたが,イグナシアは夫に,もし彼が家で研究するのを禁じるなら,王国会館に行くつもりでいることをはっきりと伝えました。そして,「家で研究したほうがいいのではありませんか」と尋ねました。そのことがあってから,反対はやみました。
エホバとクリスチャン兄弟に対するイグナシアの愛は,引き続き成長しました。姉妹はしばしば,看護婦として受けた訓練を惜しみなく生かして病気で苦しむ兄弟姉妹を援助しました。しかし,もっと大切なこととして,姉妹は人々を霊的な束縛から解放するために熱心に働きました。3人の子供たちも,母親の専心の模範に見倣ってエホバの証人になりました。そして長年の間熱烈に祈った結果,姉妹が深く心に抱いていた一つの望み
がかないました。あれほど強く反対していた夫が真理を調べ始め,10年間聖書を研究してさまざまな面で人格を変化させた末,1984年1月にバプテスマを受けたのです。真理を汚点のない状態に保つ
1世紀にも生じたように,人間の不完全さと弱さは,責任ある立場にいる人たちを含め,クリスチャンの行動に影響を及ぼすことがあります。(使徒 15:36-40。ガラテア 2:11-14)例えば,1960年代にある兄弟たちは,支部で働く協会の代表者や彼と密接に交わる他の人たちに対して非常に批判的になりました。よく知られていた一人の旅行する監督は,不平をこぼしていた人たちに同調し,自分自身も批判的な意見を述べることさえしました。この兄弟は,会衆の訪問中に社交的な集まりを奨励すれば,兄弟たちを一致させる助けになると考えていました。しかし,こうした集まりは大抵の場合,度を過ごした飲酒を伴う大宴会へと発展しました。このことは,アルコール中毒を克服しようと懸命に闘ってきた人たちにとってつまずきの原因になりました。新しく関心を持った人のうちの何人かは,自分たちが目にしたことのために聖書の研究をやめてしまいました。他の人がしていたからという理由で自分たちの行ないを正当化し ようとした少数の人は,後にその大酒のことで懲らしめを受けねばなりませんでした。
巡回の業に携わっていた別の兄弟は,以前は他の人を助ける面で大きな働きをしていましたが,仕事上の問題に関して今や好ましくない手本を示し始めました。巡回監督であるのに,この兄弟は個人的な仕事上の問題を第一にするため,大切であるはずの霊的な事柄を後回しにしたのです。
しばらくの間,事態を正すはずの人たちも,自制や平和の霊のうちにそうすることができないように思われました。それでも数年後には,事態を正す処置が最終的に取られました。(ガラテア 6:1。ヤコブ 3:17)さらに,霊的な問題を抱えていた人のうちの幾人かが,エホバとの良い関係を回復しようと努力したことからも,喜びがもたらされました。
真の崇拝のための新しい建物
1969年までには伝道者が869名になり,24の会衆が存在していましたが,大半の王国会館は借り部屋で,中もあまりきれいではありませんでした。ある場所では,個人の家のテラスに部分的に覆いをした所で会衆の集会を行なっていましたが,そこは雨が降るといろいろな問題が起きました。
協会からの貸付けの援助を得て,最初に自分たちの恒久的な王国会館を建てたのはトリニダード会衆でした。その後,他の都市 ― ラパス,ポトシ,オルロ,サンタクルス,コチャバンバ,タリハ,スクレ ― の多くの会衆もそれに続きました。
チョロルケの王国会館は疑いなく,世界で最も高い場所にある王国会館の一つでしょう。ここでは,すず鉱業が数千人の人々の生活を支えています。空気が希薄なため,唇や顔が青みがかった灰色をしている人も少なくありません。これら鉱山労働者の家族のうちかなり大勢が真理にこたえ応じてきました。
一鉱山業社の寄贈による土地の一画に建てられた彼らの王国会館は,何と標高4,800㍍の所にあります。エホバは逃れ道を備えてくださる
王国の音信は,この国の辺境まで届きつつありました。塩分の多い広漠とした湿地帯,エル・サラール地方の村々に住む人たちでさえ,良いたよりを聞き逃すことはありませんでした。とはいえ,反応がいつも友好的であったわけではありません。トリビオ・クルス兄弟が住んでいるコケサで1970年に起きた出来事は,そうした状況下でエホバがどのようにご自分の僕を助けてくださるかを示すものでした。
地域監督とその妻,巡回監督,および宣教者の夫婦がコケサを訪問しました。そのうち,ボリビア人だったのは巡回監督だけでした。それで,外国人に対して非常に懐疑的な見方をする場所に一行が到着した時,そこで少なからぬ騒ぎが起きました。ただでさえ張り詰めた空気が漂っていたのですが,宣教者の兄弟が冗談のつもりで不適切な発言をするに及んで事態は一層悪化しました。人々はそれを冗談とは受け取らず,ほどなくして町中の人が学校に集まり,これら外国人たちをどうしたものかと相談しました。危険を感じ取った巡回監督のマルティネス兄弟は,外国人の兄弟たちのグループにすぐ引き揚げるよう勧めました。しかし,他の兄弟たちは一晩とどまって,様子を見ることにしました。
翌日,使いの人が来て兄弟たちに,「町の者はみな,あなた方の話を最後まで聞きたがっています。どうか広場においでになってわたしたちに教えてください」と言いました。広場へ来てみると,その三方がふさがれているのに気づきました。わなであることに感づいた地域監督は,急いで車に駆け戻り,一緒に来るよう大声でほかの兄弟たちを呼びました。他の兄弟たち
が逃げようとしている間に,暴徒たちはトリビオを捕まえました。暴徒のうちのある者は猛烈な勢いで後を追って来て,マルティネス兄弟のマフラーをひったくったり,宣教者の兄弟の顔に切りつけたりしました。兄弟たちは急いで車に乗り込み,暴徒が石を投げ付ける中,車のスピードを上げて走り去りました。しかし,トリビオは暴徒に捕らえられていました。彼らにひどく乱暴になぐりつけられたので,トリビオは自分が絶対死ぬものと思いました。でも,最後には何とか逃げ出すことができたので,彼は走り出しました。すぐあとを暴徒に追われつつ,トリビオは深くて流れの急な川まで来ました。川幅が広すぎて,自分にはとても跳び越せないと思いましたが,ほかに方法はありません。トリビオは全身の力を振り絞って跳びました。自分でも信じられませんでしたが,何と跳び越せたのです。川っぷちにたどりついた暴徒たちは,トリビオが向こう岸で姿を消してゆくのをただぼう然と見ているだけでした。
全身傷だらけの上に,ろくに着るものも着ていなかったトリビオは,山の近くで凍えるような一夜を過ごしました。しかし,トリビオが信じられないような跳躍を見せたため,どうやら人々は,トリビオの神が彼を助けたのだと確信したようでした。彼らは過去にしたように,トリビオの家を焼き払うことはせず,手を付けずにおきました。トリビオは町に戻って,煩わされずに生活することができ,今では地元の会衆の主宰監督になっています。
湖にまつわるのろいを解く
チチカカ湖は海抜3,810㍍の高所に位置しているだけでなく,その水深が270㍍以上に及ぶという記録もあります。その湖面にはトトラと呼ばれる葦舟が浮かんでいますが,これはトール・ヘイエルダールが大西洋横断に用いたパピルス製の舟の原型と
なったものです。とはいえ,この湖にあるのは目に見える物だけではありません。ずっと昔から,チチカカ湖は神秘主義の中心となってきたのです。こうした環境の中に住む人たちの生活に,聖書の真理はどんな影響を及ぼしたでしょうか。
1966年にさかのぼりますが,ある時,一人の男性が「真理はあなた方を自由にする」という本を捨てたところ,その義理の弟がそれを拾って家に持って帰りました。この人の母国語はアイマラ語でしたからスペイン語の知識は限られていましたが,それでも,この本にはエホバ神についての資料が収められていることは分かりました。彼は,このエホバという名が聖書に出てくるのに,教会では説明されていないことに気づきました。この人は時々ラパスへ出かけては,また別の文書を求めました。エホバとの関係は成長しはじめ,自分が学んでいることを近所の人たちと分かち合いました。やがて,彼はバプテスマを受け,後に開拓者になりました。
湖の周辺に住む他の人たちも,真の崇拝を受け入れるようになりました。しかし,この地方の大方の人は文字を読むことができず,アイマラ語しか話せませんでした。この地を訪れていた兄弟たちは,ある人たちが,エホバの証人になる前に使用していた魔術的な物品をまだ処分していないのに気づきました。それでも,この件に関する聖書の助言が自分たちの母国語で説明されると,兄弟たちはすぐにその助言を真剣に受け止めました。(使徒 19:19,20。申命記 7:25,26)異教の踊りに使われた高価な衣装,五穀豊穣や牛の多産を願うお守り,家族の家宝で偽りの神々に捧げものをするのに用いられた道具,十字架,そして偽りの宗教の文書類など,取って置かれたものは一つ残らず処分されました。ある年配の姉妹は病気で全くの寝たきりでしたが,娘が姉妹の持っていた異教のお守りを焼いてからは 病気もよくなり,それ以来,一度も会衆の集会を欠かしたことがないとのことです。
エルアルトにおける大幅な増加
1945年に最初の宣教者たちがラパス空港のあるエルアルトに降り立った時,ほんのわずかなアドービれんが造りの家のほかは,何もありませんでした。ところが1960年代には,ラパスの人口が増えて中心地に人が住めなくなったため,近郊の大勢の人々は山地を切り開いてそこに住むようになりました。そのころ,エルアルト出身の二人の若い男性,ウゴ・フェルナンデスとその兄弟がラパスの集会に出席しはじめました。家に帰るために二人は夜遅く峡谷から2時間もかけて危険の伴う山登りをしなければなりませんでしたが,それでも集会に出席し続けました。
やがて,全部の集会がエルアルトの群れで行なわれるようになりました。ウゴは毎週,午前中いっぱいかけて集会の割り当てを準備しました。ウゴには骨の折れる務めでしたが,それはウゴの霊的な成長に大きく寄与しました。バプテスマを受けて間もなく,ウゴは自分が開拓者になることに関心を持っていることを巡回監督に話しました。巡回監督は「なぜ今すぐ始めないのですか」と尋ねました。ウゴは,靴を作る今の仕事をあと半年ほど続けるべきだと思っていました。「半年で靴を何足作れますか」と巡回監督は尋ね,それからこう付け加えました。「何人の人の命が救われるのを待っているでしょうか」。ウゴはそのことを真剣に考えました。そして8月1日には,ウゴは特別開拓者になっていました。ウゴはエルアルトの群れが何倍にも増え,最初の群れがエホバの賛美者で成る四つの会衆になるのを見てきました。
愛ある関心が旅行する監督たちを駆り立てる
ミチャレック兄弟とモリス兄弟が1946年に初めてユンガスへの危険な旅をした時,二人はボリビアでの旅の醍醐味を味わいました。現在ではそれよりさらに行き難い地方に幾つかの会衆があります。献身的な旅行する監督たちとその妻は,一番奥地にある諸会衆や小さな群れまで行くために,自分たちにできる限りのことをしてきました。兄弟たちはしばしば,激しい標高の変化を経験しながら旅行をしました。徒歩でしか行けない場所も少なくなかったので,これら献身的な兄弟たちの幾人かは200㌔も歩いて行くことがありました。特に,ナイン・エスカレラ兄弟,ウォーレス・リバランス兄弟,マーク・ペファマン兄弟およびそれぞれの妻が,この自己犠牲的な活動にあずかりました。
当時,巡回監督をしていたウゴ・フェルナンデスの経験は,こう詩編 18:1,2)兄弟は無事に次の会衆に到着しました。1977年以来,フェルナンデス兄弟はボリビアの支部委員の一人として奉仕しています。
した訪問中にどんなことが起こり得るかを例証しています。雨のために道路は滑りやすいぬかるみになりました。重い荷物を載せたオートバイで,フェルナンデス兄弟は約140㌔の道のりを8時間かけて何とか進むことができましたが,増水して幅が何メートルにもなった川が行く手を阻みました。そろそろ日が暮れようとしていましたが,この土砂降りの雨の中で一晩野宿するなどとても考えられませんでした。とはいえ,川を渡るのも不可能に思えました。兄弟はエホバに祈った末,川を渡ってみることにしました。オートバイのエンジンをビニールで包み,川に飛び込みました。兄弟はこう語っています。「重い荷物を積んだまま川に入ったので,冷たくて急な流れの中でハンドルを操作する苦労は並大抵のものではありませんでした。顔に水がはねかかって視界を遮りました。頭の上まで水をかぶるのを感じました。でも,自分でも分からないうちに反対岸に着いていたのです」。その直後に,1台の車が反対側から川を渡ろうとしましたが,途中で立ち往生してしまいました。ウゴはエホバに本当に感謝しました。こうした困難な事態に陥った時に,エホバが自分にとって逃れさせてくださる方になられたと感じたのです。(忘れられないF・W・フランズの訪問
現在のものみの塔協会の会長F・W・フランズが1974年にボリビアを訪問したことは,この国の兄弟たちの懐かしい思い出になっています。ギレアデの第1期を卒業した二人の宣教者と,ほかにブルックリン・ベテルの家族の成員3人がフランズ兄弟に同伴していました。フランズ兄弟の勧めにより,これらの兄弟たちは皆,プログラムの割り当てを受けていました。そのうち
の一人の姉妹は,宣教者としてボリビアに9年以上いたことがあったので,“外国の任命地”をもう一度訪れる機会に大変感謝していました。ラパスの野外劇場で特別集会が開かれ,国中の至る所から大勢の聴衆が集まりました。その会場で,フランズ兄弟は詩編 91編に基づくみごとな話を展開させました。集まりの初めから激しい雨が降りだしましたが,ほとんどの聴衆は丸2時間,席を立とうとはしませんでした。もっとも,ある兄弟たちは,フランズ兄弟がどうやって聖書と原稿を濡らさないようにしているのか不思議に思いました。でもよく見ると,同兄弟は長い聖書の引用文を含む講演全体を,スペイン語であるにもかかわらず,完全に記憶だけで話していることが分かりました。
兄弟たちは,フランズ兄弟の愛,気取らない態度,謙遜さ,そして聖書からの質問に答えるため同兄弟が遅くなるまで快くとどまったことに深い感銘を受けました。
支部委員会は監督の役を果たす
支部を監督するため,一個人に代わって支部委員会という取り決めが設けられた時,霊的な事柄に関するより平衡の取れた,包括的な指導が可能になりました。1977年,アルゼンチンで長年の全時間奉仕の経歴を持っていたエルドン・ディーンが,支部の調整者の務めを果たすため,統治体から遣わされました。同兄弟は,ウゴ・フェルナンデス,マルコ・イビエタ,そしてラパスのベテルで20年近く奉仕したウォルター・メインバーグと共に,支部委員の責任を分かち合っています。支部委員会の取り決めの上にエホバの祝福があったことは明らかです。
司祭たちが「バビロン」から逃れ,神に近づく
『バビロンの水』は加速度的な勢いでかれ続けています。確か啓示 16:12)あるイエズス会士もその一人です。フリオ・イニエスタはコチャバンバでエホバの証人と聖書を研究し,その後,故郷のスペインで自分の命をエホバにささげました。 *
に,人々は偽りの宗教を支持しなくなっているのです。(バレグランデ出身のウゴ・ドゥランは,小さい子供のころから神に近づく必要性を大いに感じていました。そして,そのための最善の方法はカトリックの司祭になることだと考えていました。しかし,司祭になるための準備に10年間をささげた結果,以前よりも神から遠のいてしまったように思えました。ウゴはこう説明しています。「神学校で神との個人的な出会いを経験することはできません。神には名前もなく,個性もなく,人間に対する関心もありません。『神は死んでいる』という考えが浸透しているからです。私たちがおもに学んだのは空で覚えた数限りない儀式でしたが,それらのもの全部をもってしても,人の渇きをいやす,命を与える水の一滴にもなりませんでした。私たちの神学校でお金が必要になった時,司祭たちは女性歌手を呼んで資金集めのショーを開きました。女性を見つめることさえ罪であると教えられていたのですから,司祭たちがただお金を集めるために我々を『罪人』にしたことは,彼らが真の偽善者であることを明らかにするものでした」。
ついにウゴは神学校を去り,かつて修道女だった人と結婚しました。ウゴは何とかして神を見いだそうと祈り続けました。そのころ,あるエホバの証人がサンタクルスにあるウゴの家を訪ねました。その後何回も話し合いをした末,定期的な聖書研究が始まりました。今ようやくウゴは神とは実際にだれなのかを学び始めたのです。名前もない無関心な神格ではなく,神とはエホバという名を持たれ,ご自分の僕たちの必要とする肝要な物すべてを顧みてくださる愛ある父なのです。(詩編 83:18。ルカ 11:2-4。フィリピ 4:6)最初は幾つか理解しにくい面もありましたが,ウゴは絶えず祈り,やがては真理を確信するに至りました。1973年にバプテスマを受けて以来,ウゴは他の大勢の人が神に近づくのを助け,現在では愛あるクリスチャンの長老として奉仕しています。
エホバの組織を通して備えられた助け
我が身を滅ぼすような生き方を追い求めて必ず身に招く惨事を,神の言葉の力によって免れたという例は数多くあります。しかし,サンタクルスに住む若い宝石職人,カルロスの場合は,自分一人で聖書を読むだけでは不十分でした。エホバの組織からの助けが必要だったのです。
カルロスはへべれけに酔っ払い,飲み友達に背負われて帰宅することがよくありました。家族はそんな姿を泣きながら見ていました。やがて,エホバの証人がカルロスの妻に会いました。彼女は聖書に慰めを見いだし,聖書がカルロスをも助けてくれることを願いました。カルロスは自分が深刻な問題に陥っていることに気づいていましたが,エホバの証人が解決策を知っているはずはないと思い込んでいました。それで,飲みたいという誘惑に駆られた時はむしろ,家族のことを考えたり,カトリック教会での祈りを暗唱したりしました。聖書を読んでもみましたが,エホバという名前があまり好きではなかったので,“神”という名前に置き換えました。しかし,何をやっても問題の解決にはなりませんでした。
その時エホバの証人と研究をしていたカルロスの妻と兄弟は,聖書についてカルロスに話そうとしましたが,ぶっきらぼうな反応が返ってくるだけでした。状況は一見,望み薄に思えましたが,カルロスの妻は夫が変化するのを助ける機会が与えられるよう祈り続けました。ある日,家族のだんらんの折,カルロス
は一緒に王国会館に行かないかと家族に誘われました。せっかく誘ってくれたので,カルロスは同意しましたが,会館の中には入らないつもりでした。ところが,王国会館に来ると妻は,「せっかくいらしたのですから,少しだけ中にお入りにならない?」と言いました。カルロスはしぶしぶ承知しました。しかし,丸2時間そこにいました。ほとんど理解できなかったものの,そこで話されたことすべてが聖書に裏づけられていることに感銘を受けました。カルロスはその同じ週に別の二つの集会にも出席し,日曜までには本気で聖書を研究する決心をしました。とはいえ,飲酒の問題が一晩で消え去ったわけではありません。その後,8か月間大酒を続け,研究や集会を欠かすこともしばしばでした。カルロスと研究をしていた兄弟は,ルカ 6章46節にしたがって,学んでいることを実行する必要性をカルロスの心に銘記させました。そこにはこう書かれています。「では,なぜあなた方は,わたしのことを,『主よ! 主よ!』と呼んでいながら,わたしの言うことを行なわないのですか」。しかし,どうすればカルロスはアルコールが欲しくてたまらない気持ちを克服することができるのでしょうか。別の兄弟は,誘惑に駆られたまさにその時に,エホバに熱烈に祈るよう提案しました。カルロスはそれを実行に移し,何と成功したのです! かつては崩壊していたカルロスの家族はみな霊的に成長し,そのきずなは強まりました。経済状態も大変よくなり,自分で宝石商を始められるほどになりました。カルロスとその妻,そして子供たちのうち二人がバプテスマを受けました。現在,この子供たちは開拓者に,そしてカルロスはクリスチャンの監督になっています。エホバが,み言葉から益を得るようご自分の組織を通して備えられる助けを一人一人が感謝して受け入れるなら,本当にすばらしい結果がもたらされるのです。
神の言葉はタリハの人々の心を和らげる
タリハに住む人たちの気質は穏やかで温和ですが,ここは霊的な意味で『硬い土地』でした。ボリビア南部のこの地方の人々は,自分たちの伝統的な生き方に徹しているからです。しかし,1978年までにはこの土地で,30人から成る会衆の伝道者が報告していました。とはいえ,かつて業を率先していた人たちが示したいくらか批判的な態度のためだと思われますが,多くの人が自分には十分に資格がないと感じていました。以前に,王国の音信を宣明する業にあずかった人の中には,不活発になってしまった人もいました。しかし,そのうちの15人は励ましを受けて,再び活発なエホバの証人になりました。証人たちが以前より友好的になり,議論をしなくなったので,地域社会の人々も一層音信を受け入れる態度を示すようになりました。
最初は20人の伝道者でしたが,次いで30人,40人,時には50人の伝道者をトラックに乗せ,兄弟たちは石ころだらけの山道
を越えて田舎の村で働くために出かけて行きました。数年のうちに,今まで音信が届かなかったこの山岳地帯に点在する約35の村々に初めて良いたよりが伝えられました。エホバの証人が「わたしの聖書物語の本」やそのきれいなさし絵を用いて真理を説明すると,大勢のチャパコス(タリハの山地の住民)が注意深く耳を傾けました。こうした伝道旅行のおかげで,兄弟たちのきずなが強められ,みな自信を持つようになりました。わずか4年の間に伝道者の数は2倍以上になりました。現在では繁栄する二つの会衆が,もっと多くの心の正直な人々に音信を伝えようとそこで忙しく奉仕しています。「海を耕しているだけ」?
ずっと以前に,ボリビアの著名人が初期のエホバの証人に,証人たちの業はむだに終わると警告したことがありました。キリスト教に対する疑念をオーバーに表現して「あなた方はただ海を耕しているだけですよ」と,その人は断言しました。神の言葉の力とエホバの霊の働き,そしてエホバの証人の愛ある決意のほどを彼は理解していなかったのです。
確かに,文字を読める人が最初は15%しかいなかった国でしっかりとした弟子を作るのは,実際に挑戦となりました。しかしエホバの証人は,人々が自分で神の言葉を読めるよう大勢の人に読み書きを教えました。かつては全くの文盲だった人が,今では長老として霊的に深い事柄を説明しながら大会で講演をしているのを見るのは,本当に喜ばしいことです。
1946年当時ラパスで集まり合っていた小さな群れは,今では同市内だけで20の会衆になっています。真の崇拝を追い求めていたのが一家族だけだったコチャバンバ市には,現在六つの会衆があります。そのほかにオルロには三つ,そしてポトシには
二つの会衆があり,ボリビア全体では,85を超えるエホバの賛美者の会衆があります。うなぎのぼりのインフレ,国中をまひ状態に陥らせるストライキ,そして非常な悪天候などにもかかわらず,1985奉仕年度中,次々と伝道者最高数を記録し,4月には4,207名に達しました。さらに4月中,さまざまな分野における開拓奉仕者の合計は1,005人になりましたが,それは伝道者合計数の何と24%に当たります。その上,エホバの賛美者がさらに増える可能性が十分あります。土砂降りの雨に遭いながらも,記念式に1万7,169名が出席したことはそのことを示唆しています。忍耐強く耕されたことにより,ボリビアの畑は豊かに実りました。価値のある鉱物資源を堅い決意で探し求める鉱山労働者のように,エホバの証人は義に心を向ける人々を探し出すため,可能な限りのあらゆる手段を活用してきました。証人たちは自転車,オートバイ,川船,カヌー,トラック,飛行機,馬,ロバ,そしてとりわけ自分たちの足で旅をし,遠隔地に住む人々の所へ王国の音信を携えて行きました。過去40年間に,180名を超える宣教者がこの業にあずかりました。
古い体制の終わりの日の間,ボリビアのエホバの証人は証言の業を増大しつつ,引き続きエホバに信頼を置きます。彼らのただ中でエホバが行なわれたことを心に留める証人たちは,霊感を受けて次のように書き記した詩編作者と同様に感じています。「わたしの神エホバよ,あなた自ら多くのことを行なわれました。すなわち,あなたのくすしいみ業と,わたしたちに対するそのお考えとを。あなたに比べられるものは何もありません。それについて語ったり話したりしようとしても,それは語り尽くすことができないほど多くなりました」― 詩編 40:5。
[脚注]
^ 136節 「ものみの塔」誌1983年2月15日号,10-15ページをご覧ください。
[71ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ボリビア
リベラルタ
トリニダード
チチカカ湖
ラパス
コチャバンバ
サンタクルス
オルロ
バレグランデ
スクレ
コケサ
ポトシ
ウユニ
アトチャ
チョロルケ
タリハ
ペルー
チリ
アルゼンチン
パラグアイ
ブラジル
[74ページの図版]
エドワード・ミチャレックと妻のエリザベスは,過去40年間にわたりボリビアにおける実り豊かな宣教を経験してきた
[80ページの図版]
ボリビアの最初の宣教者の一人であるハロルド・モリス(中央)。写真は1949年にN・H・ノアおよびM・G・ヘンシェルと共に写したもの
[82ページの図版]
サンタクルスの王国会館で人々を歓迎するジョン・ハンスラーと妻のエスター(右)および成人した4人の子供たち
[95ページの図版]
ラパスの支部事務所
[100ページの図版]
チチカカ湖の近くでアイマラ族の家族に証言する宣教者,シャーロット・トマシャフスキー(右)。湖に浮かぶ葦舟はよく見かける風景
[107ページの図版]
支部委員会の成員の全時間奉仕年数を合計すると90年になる(左から,エルドン・ディーン,ウォルター・メインバーグ,マルコ・イビエタ,ウゴ・フェルナンデス)