スイスとリヒテンシュタイン
スイスとリヒテンシュタイン
スイスと聞くと,何が頭に浮かびますか。山でしょうか。時計でしょうか。それともおいしい板チョコでしょうか。スイスにはそれらの物よりはるかに貴重なものがあります。
しかし,まず,この国を紹介することから始めましょう。イエス・キリストがイスラエルで公の宣教を遂行された時代の一つ前の世紀中,ヘルベティアと呼ばれるケルト人が中央ヨーロッパからもっと温暖な南部へ移動しようとしました。しかし,ユリウス・カエサル指揮下のローマ軍がその行く手を阻みました。おびただしい死者の出る結果となった戦いの末,西暦前58年に,生き残ったヘルベティア人はやむなく引き返して,ライン川とレマン湖にはさまれた低地地方に再び定住しました。何世紀かたつうちに連邦がその地に形成され,それはヘルベティア連邦,または簡単にヘルベティアと呼ばれるようになりました。言うまでもなく,この国は現在スイスという名で知られています。
スイスはヨーロッパの真ん中に位置する,わずか4万1,293平方㌔の小さな国です。北はドイツ,西はフランス,南はイタリアと,また,東はオーストリアおよびリヒテンシュタインと接しています。狭い国土ながら,その中にこれほど変化に富む景色の見られる国はほかにまずありません。雪を頂く高い山々もあれば,南部ではヤシの並木道も見られるのです。ほぼ650万を数える住民は,ドイツ語,フランス語,イタリア語,ロマンシュ語という四つの文化および言語グループのいずれかに属しています。ロマンシュ語を話す人々は大抵ドイツ語かイタリア語も知っています。その上,仕事のために,あるいは住むためにやって来た外国人も多く,それらの人はほかの様々な言語を話します。
宗教事情
スイスに住んでいる人は大部分がプロテスタントかカトリック教徒です。今日,都市では両方の信者が隣り合って暮らして
いますが,どちらか一方の宗派が支配的な地域もいまだに存在します。例えば,ジュネーブとチューリヒはプロテスタントの宗教改革者であるカルバンとツウィングリの町として歴史的に知られています。ベルン,バーゼル,ローザンヌもプロテスタントの優勢な土地です。ところが,ザンクト・ガレン,ルツェルン,ルガノではカトリックが主流をなしており,古都フリブールは,カトリックの大学や多くの神学校があるためローマ・カトリックの要塞となっています。州の境界が宗教上の境界になっている場合も少なくありません。州によっては人口の大半がカトリック教徒で占められていたり,プロテスタントの信者で占められていたりするからです。例えば,スイスの中部について言えば,バレー州とかティチーノ州と聞くとスイス人はすぐにカトリック教を思い浮かべます。しかし,ベルン州,ヌーシャテル州,チューリヒ州 ― これらはほんの数例にすぎない ― の出身者は大抵の場合,プロテスタントです。
言うまでもなく,キリスト・カトリック,ユダヤ教,メソジスト派,その他,ほかの宗派も数多く存在しています。農村の中には,現に幾十もの異なる宗教グループの存在する村もあります。
そのような宗教心のある住民に王国の音信は喜んで迎え入れられるでしょうか。そのことを調べましょう。
聖書の真理がスイスに伝わる
1891年に,ものみの塔協会の初代会長チャールズ・T・ラッセルはヨーロッパと中東の幾つかの国を訪れる旅行を行ないました。いろいろな土地に立ち寄りましたが,特にスイスのベルンに滞在しました。同会長はその旅行の目的を説明して,「好奇心をそそる古代の遺跡や城などには全く興味がありません」
と語り,『人々の生活様式や思考の習慣および性向を判断するために人々に会いたい』と述べました。後日,「シオンのものみの塔」誌の1891年11月号に掲載された報告の中で,ラッセルは,スイスのことを「収穫を待つばかりになっている」畑であると述べています。そのような訳で,ラッセルはアドルフ・ウェーバーにスイスの「主のぶどう園に」行くよう提案しました。ウェーバー兄弟はスイス国民でしたが,米国で真理を知るようになり,ラッセル兄弟のところの植木屋としてパートの仕事をしていました。ウェーバー兄弟はためらうことなくその任務を引き受けました。この兄弟はスイスの三つの主要な言語を話せたので,その任務にうってつけの人物でした。1900年1月,ウェーバー兄弟はジュラ山脈の中にある郷里のレ・コンベールに居を定めました。
ウェーバー兄弟は植木屋や森林官をして生計を立てましたが,主な関心は真理の種をまくことにありました。まず仕事仲間に真理を伝えることから始め,次いで,ほかの村や町へ歩いて行ったり,どこにいても,会う人に話しかけたりして区域を広げていきました。冬の期間は,宣べ伝えるために徒歩でフランスや南のイタリアまで出かけて行き,春になるとレ・コンベールへ帰ったものです。最低限の物質の必需品のほかに,持てる限りの文書をナップサックに詰め込みました。
ある日ウェーバー兄弟は,ベルン州のハグネック運河に架かった橋を渡っている時,出会った人に証言をすることができました。ところが,ナップサックを降ろした時に書籍が1冊滑って,運河の閘門の端,熊手のような柵のすぐ前の浅瀬に落ちました。後に,その柵の掃除にやって来た閘門の監視員が書籍を見つけ,それを乾かして読みはじめました。それはラッセル兄弟が著した「聖書研究」の第1巻でした。閘門の監視員とその
妻は自分たちが学んでいることに驚嘆し,真理を見いだしたとの確信を抱くようになりました。宣伝を用いて関心を高める
ウェーバー兄弟は物事を開始させるためにあらゆる手段を尽くしました。直接証言したほか,一般に幾分費用のかさむことでしたが,さまざまな新聞に「聖書研究」の本の広告を出したのです。また,何人かの本屋に「聖書研究」の本を置いてもらうよう取り決めることもしました。間もなく,スイスのさまざまな土地の人が書籍を注文する手紙を送ってきました。同じ地域の人たちが互いに連絡を取り合うよう取り計らわれ,集まり合って一緒に研究することが提案されました。当時は楽しみが少なかったので,友人知人たちも,そのような集会に誘われると快く出席しました。普通,それらの人々は研究の司会者を自分たちで取り決め,多くの場合,交替で司会を行ないました。
そのごく初期のころに重要な役割を果たしたのは冊子です。少数の献身した兄弟たちは,非常な勇気を奮い起こして教会の前で冊子を配布したり,スイスのドイツ語地方の世帯主あてに幾千部も郵送したりしました。米国の兄弟たちも「シオンのものみの塔」誌のドイツ語版をスイスにいる友人や親族に郵送することにより,この国における業の開始を助けました。―伝道の書 11:1。
会長が戸口に
ウェーバー兄弟を通して真理を受け入れた初期の人たちの一人に,バーゼルのアンナ・バッハマン夫人がいます。この人は福音主義改革派教会に定期的に通っていましたが,ウェーバー兄弟が人類に対する神の目的や聖書の基本的な真理を伝える
と,聖書を調べてみようという気持ちになりました。「世々に渉る神の経綸」と題する本を求め,援助してくれる人が周囲にいなかったため自分独りでその本を研究しました。1年後,ウェーバー兄弟は再びやって来て,持ち前の穏やかな物腰で夫人の質問に答え,神の言葉の研究を続けるよう励ましました。次いで1903年の5月のこと,戸口に二人の訪問者が現われ,バッハマン夫人はびっくりしました。一人は近くのミュールハウゼン(当時はドイツの都市であったが,現在はフランス領)から来た聖書研究者で,他方はほかならぬ,ものみの塔協会の会長であるラッセル兄弟でした。その聖書研究者の通訳で交わされた会話はたいへん築き上げるもので,バッハマン夫人が進歩するのに役立ちました。やがて,夫人はエホバの献身的な僕になり,夫,そして後には息子のフリッツも共に真理を受け入れました。ほかにも何人かの人が関心を示したので,バーゼルには1909年以降研究のグループが組織されました。フリッツ・バッハマン
は現在高齢に達していますが,バーゼルにある会衆の一つに今でも交わっています。フランス語の出版物の必要
「シオンのものみの塔」誌は米国において1897年以来ドイツ語でも印刷されていました。1903年にフランス語版が発行されるようになった時,ウェーバー兄弟は大変喜びました。しかし,聖書に対する理解を増進させる上で「聖書研究」の本のフランス語版も大いに必要であると感じ,それらを自分で翻訳しました。続いてほかの出版物の翻訳も行なわれ,1903年には文書の倉庫を備えた,協会の小さな事務所がイベルドンに設けられました。
スイスでエホバに仕えていた人はそれほど多くありませんでした。集会はもとより,大会でさえ個人の家で開かれていました。しかし将来は明るく見えましたし,兄弟たちは熱心でした。アドルフ・ウェーバーはフランス語圏での業を監督する立場に任命されました。スイスのドイツ語地域については,出版物を扱い情報を処理する小さな事務所がチューリヒに設けられ,ドイツのバルメン・エルベルフェルトにあった支部事務所がそれを監督しました。
ラッセル兄弟の築き上げる訪問
業が始まった当初から「全国大会」は重要な役割を果たしました。その一つは1910年にチューリヒで開かれ,約100名の出席者がありました。出席者の数は年々増加し,ラッセル兄弟の姿もたびたび見られました。
当時のことを考えると,同兄弟の進取の気性に感銘を受けずにはいられません。20世紀初頭における旅行は今日ほど快適で
速くはありませんでした。にもかかわらずラッセル兄弟は,ヨーロッパの兄弟たちを強め,業を促進するためにほとんど毎年大洋を渡る努力を払いました。しかも,その日程は多忙を極めるものだったのです。1912年にラッセル兄弟はジュネーブ,バーゼル,チューリヒおよびザンクト・ガレンを訪れました。「墓のかなたへ」と題する公開講演は大きなポスターで宣伝されましたが,そのポスターには,1本の指が僧職者の行列を指しているところが描かれ,『災いなるかな,……なんぢらは知識の鍵を取り去りしなり』という言葉が書かれていました。(ルカ 11:52,日本聖書協会 文語訳)その主題は人々の目をみはらせ,大評判になりました。地獄の火が存在しない証拠のこと,死者は無意識であること,また死者には生き返る希望があることなどの話で町中もちきりになったものです。(伝道の書 9:10。使徒 2:22-31; 24:15)うわさは野火のようにぱっと広がりました。借りた会場は適当な広さだとはとても思えませんでした。満員のため大勢の人に帰ってもらわなければならないことも珍しくありませんでした。死者の状態に関する真理がそのように宣明されることにより,伝統的な宗教の柱が抜き取られていきました。
僧職者を当惑させる質問
牧師や主任司祭に当惑するような質問をする人も出てきました。クララ・アドラーもその一人です。この人は「死者はどこにいるか」と題する小冊子を親戚の人から受け取り,たいへん興味深くそれを読みました。死者の状態および全人類に対する希望に関する明解な説明を読んでじっとしていられなくなり,自分が味わったのと同じような感激を味わってもらおうと牧師のところへ走って行きました。
『牧師さまは,こんなにすばらしいものをお読みになったことがないに違いない』と思っていました。ところが,どうでしょう,牧師は,「知ってますよ。分かっています。……ですが,こういうものは読まないほうがはるかに良いでしょう」と答えたのです。アドラー姉妹はそれに負けませんでした。次のように語っています。「当時,真理のことはほとんど分かりませんでしたが,私にとって聖書の言葉は牧師の言葉より大切でした。神の言葉を理解するのに神学の勉強は必要でないことがその時,分かりました。むしろ神は,十分活用するための推論する能力を人間にお与えになったのです」。この姉妹は実際その能力を活用し,他の大勢の人がそうするのを援助しました。
ラッセル兄弟の教えた真理は多くの僧職者をたいへん狼狽させましたが,中には,聖書の正確な真理に人々の注意を向けようとする同兄弟の努力に共鳴する人もありました。その一人にルートビッヒ・ラインハルトという人がいます。この人は,ルカ 23章43節の訳し方で注目に値する,「新約聖書」のドイツ語訳を1877年に出版しました。その部分はこう訳出されています。「するとイエスは[その悪行者]に言われた。『本当にわたしは今日あなたに言っておきますが,あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう』」。1908年に一聖書研究者と交わした書簡の中で,このプロテスタントの牧師は次のように述べました。「したがって,私は“千年期黎明運動”をよく知っていますし,C・T・ラッセル兄弟とその仲間の方々すべての生き生きとした自己犠牲的な信心を心から評価しております……不正確な点をできる限り排除し,可能な限り忠実で正確な翻訳を出版したいという気持ちが大いにありますので,あなたやラッセル兄弟が私の翻訳の中で異論のある点をすべて指摘してくださるなら,大いに感謝いたします」。
「巡礼者」は忠実な人々を強める
「巡礼者」とは,今日の巡回監督のように,協会の旅行する代表者のことです。それらの人の払った努力は,兄弟たちの一致に貢献し,兄弟たちが神の組織と一層緊密になるのを助けました。協会は巡礼者の兄弟たちの計画された旅程を「シオンのものみの塔」誌上に発表し,その通り道にある会衆や小さな群れは訪問を望む旨協会に手紙を書きました。巡礼者たちは優れた講演者だったので,公開講演には大抵大勢の人が出席しました。例えば,1913年にスイスで行なわれた巡礼者による講演には合計8,000人の聴衆が集まりました。
ドイツから来たヘルケンデル兄弟とブッフホルツ兄弟,および他の巡礼者たちから愛ある援助を受け,それらの兄弟のことを今でも覚えている人々がいます。巡礼者たちはそれぞれの土地に一日か二日滞在しただけですが,聖書の知識を用いて兄弟たちに霊的洞察力を持たせ,反対者におびえてはならないことを新たに関心を抱いた人々に説き勧めました。ベラースハウス兄弟のお気に入りの主題は年代学でした。同兄弟は図表やグラフに基づいて延々と話をしたものです。巡礼者による奉仕の話が出るたびに,当時出席していた人々は今でもそれらの図表やグラフを思い出します。
1914年に対する期待を持って
1876年以来,聖書研究者の注意は歴史の転換点である1914年に向けられていました。異邦人の時として知られる2,520年に及ぶ期間はその年に終わることになっていたのです。(ルカ 21:24)ベルタ・オプリスト姉妹は,戦争が起きるはずだと言うと家族からしばしば嘲笑されたことを覚えています。おばあさんはこの姉妹に,「その1914年のことはもう言わないでおくれ」と よく言ったものです。ですから,1914年に戦争が実際に勃発した時のおばあさんの驚きと感動は非常なものでした。
シャフハウゼンに住んでいた幼いフルダの両親は,知り合いの人が聖書から繰り返し説明してくれても,世界の流れを変える大事件が1914年に起こることなどとても信じられませんでした。フルダ・ペーター姉妹は,戦争が勃発した時母親がすっかり興奮したのを覚えています。母親は疑問で一杯になり,ぜひとも聖書を手に入れたいと思いました。そして,目の前で真理が明らかになるにつれ,それを心から受け入れ,それまで所属していた教会を脱退してエホバ神に献身しました。
世界の舞台で生じている,1914年に始まった出来事の意味に強い興味を示すようほかの人々も助けられました。その目的のために,すばらしい手段がエホバの導きを受けて用意されました。それは,スライドと映画から成る一連の四つの講演です。
「創造の写真劇」
「創造の写真劇」の上映は大成功を収めました。最初の,ベルンでの上映は第一次世界大戦の勃発によりスイス軍の総動員が布告された数週間後に行なわれましたが,2週間にわたる上映の出席者の合計は1万2,000人を上回りました。そのあと,「創造の写真劇」は町や村で価値の分かるさらに大勢の人々を迎えて上映されました。
さらに詳しいことを知りたいからと住所氏名を教えた3,000名の人の中に,ザーフェンビルという村で「写真劇」を見たハインリッヒ・ホイベルガーがいます。その催しは四晩にわたるもので,ハインリッヒは一晩でも見逃すことがないよう心掛けました。こう語っています。「すっかり感動してしまいました。もっと知りたいと思ったので,さらに情報を得るためのカード
に記入してその夜に投函しました。それから間もなく聖書研究者の冊子を受け取りました。また公開講演への招待に応じ,そこで『聖書研究』の本の第1巻を入手しました」。ハインリッヒの雇い主は,プロテスタントの牧師の義理の兄弟にあたる人で,その本を是認しないことをあからさまに示していました。しかしハインリッヒの関心は強く,暇な時間は,邪魔されずにその本が読める森の中で過ごしました。ブルックという小さな町では,1915年に地元の「ツム・ローテン・ハウス」という宿屋で「写真劇」を上映することが予定されました。発表されていた時刻よりずっと前に広間が満員になったので,警官は戸を閉め,あとから来た人たちを帰らせました。ところが数人の勇敢な若者は,それを見逃すまいと心に決め,建物の反対側にはしごを掛けて1階の開いていた窓から会場に入り込みました。
フランス語の区域における発展
1914年までの数年間,スイスのドイツ語地域では良い増加が見られましたが,フランス語の話される区域の業は思ったほど発展しませんでした。それで,公開講演を開いたり「創造の写真劇」を上映したりして,その区域に特別の注意が払われました。それらはすべて良い成果を上げました。
イベルドンで運営されていた文書集配所は1912年にジュネーブに移され,それが支部事務所として機能することになりました。スイスのフランス語地域だけでなく,ヨーロッパ全域のフランス語の区域がその支部の監督下に置かれました。後に事務所は同じ通りに面した別の所に移転しました。その支部は23の会衆の世話をするようになっていました。1916年の記念式の報告によると,スイスのフランス語地域の出席者の合計は256人,
フランスの出席者は108人でした。1917年には,「写真劇」の上映に合計5万6,550人が出席しています。忠実さの試練は精錬になる
1918年には忠実さの試練があり,精錬がなされて浮きかすのような人々が一掃され,エホバの方法を本当に愛している人々が明らかになりました。(マラキ 3:1-3)戦争のためにさまざまな制限が,とりわけ燃料に関する制限が設けられ,その結果集会が幾度か取りやめになりました。その上,米国ブルックリンにある協会の本部の事態の進展がこちらの兄弟たちの活動に不利な影響を与えました。恐れを抱くようになった人や,業は終了しようとしていてハルマゲドンはいつ来てもおかしくないと考える人たちがいたのです。責任を持つ兄弟たちからの励ましもあまりありませんでした。1918年11月11日に戦争が終結した時の状況は以上のようなものでした。
それよりもさらに深刻だったのは,ジュネーブの事務所の責任者だったL・A・フライタークが引き起こした問題です。この人物は,英語の「ものみの塔」誌と「聖書研究」の本をフランス語に翻訳して出版する権限を与えられていたのですが,その立場を乱用して自分の考えを広めました。協会のラザフォード会長にそのことが知れると,フライタークは直ちに解任され,ジュネーブの事務所は閉鎖されました。ところが,フライタークはジュネーブにある協会の資産を自分の管理下に置いておくことを望み,財務の決算報告をしようとしませんでした。おまけに,「ラ・トゥール・ド・ガルド(ものみの塔)」という名称を使って自分の雑誌を発行したいと考えました。そして,事実をはなはだしく歪曲し,協会はフライタークの所有物を要求していると主張したのです。フライタークに対して法的な措置を取ることが必要になりまし
た。フライタークは三つの裁判すべてにおいて敗訴し,結局,協会の家具と文書および「創造の写真劇」を返却しなければなりませんでした。そして財務の計算書を提出させられました。その後は関係が絶たれ,フライタークは独自の運動を主宰しました。会衆には強い警告がなされ,親切に訓戒が与えられましたが,フライタークについて行った人は少なくありませんでした。残念なことに,1919年のフランス語による記念式に集まった304人のうち協会の側に残ったのは75人にすぎず,しかもそのうちの相当数が後にこの世に戻ってしまいました。
そのような事情にもかかわらず,エホバの霊は忠実な人々を引き続き強めました。関心を持つ人々が全国各地でさらに大勢現われ,前途にある王国の業の喜びを経験するようになりました。アリス・ベルナーもその一人です。ベルナーは少女の時,詩編 103編を暗記して,『わが魂よエホバをほめまつれわが衷なるすべてのものよそのきよき名をほめまつれ』という言葉(日本聖書協会 文語訳)に深く感動していました。その若い婦人は所属していた教会の牧師たちを困らせました。次のように回顧しています。「私がプロテスタント教会を脱退すると,大騒ぎになりました。二人の牧師は,自分たちの教会にとどまるよう私を説得しようとしました。でも,その話し合いは,あくまでも聖書の真理に基づかない機構から離れることの必要性を私に一層はっきりと理解させてくれたにすぎませんでした」。何年もたたないうちに,ベルナー姉妹はエホバへの奉仕に全時間を充てるようになっていました。自分の下した決定を少しも後悔していないことの証拠に,この姉妹は85歳の今なおベテル(現在はドイツの)で楽しく活発に奉仕しています。
アリス・ベルナーが初めて真理に接した年でもある1919年の春,海外から良い知らせが入りました。協会の会長J・F・ラザフォード
を含む,ブルックリン本部の兄弟たちが1919年3月25日に不当な投獄から釈放されたのです! ほどなくしてエホバの民は,「ものみの塔」誌のページを通して必要とされる指導を受け,なおなされねばならない大規模な業を認識するよう助けられました。証言の業は終了するどころか,かつてないほど推し進められねばならないのです。中央ヨーロッパ支部が設立される
翌年ラザフォード兄弟は物事を前進させるためにスイスを訪れました。戦争で分裂したヨーロッパにおける業を再組織するには,中央ヨーロッパ支部といったものを設立するのが最善であると思われました。また,その所在地としてはスイスがよいと考えられました。スイスは戦争に積極的に携わらなかったからです。結局,スイス支部と中央ヨーロッパ支部がチューリヒのウステリ通り19番地に集まりました。1924年には10人の職員がそこで働いていました。責任者はコンラド・ビンケレです。一緒に働いていた人の中にマックス・フレシェルがいます。この兄弟は後にブルックリンの本部で奉仕し,愛するマックスウェル・フレンドとして知られるようになりました。
中央ヨーロッパ支部はスイス,フランス,ベルギー,オランダ,ルクセンブルク,オーストリア,イタリア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,チェコスロバキア,ユーゴスラビア,ポーランド,それにしばらくの間ドイツをさえ管轄することになっていました。地元に監督者のいる国もありましたが,それらの国は中央ヨーロッパ支部と緊密な連絡を取り,毎月の報告を同支部に送りました。寄せられた報告はそこでまとめられてブルックリンへ送られました。管轄下の国々にいろいろな言語の出版物を供給するのもその支部の仕事でした。
そのころ,E・ツァオク兄弟は,フランス語の区域における業の責任者を務め,ベルンに自分の事務所を持っていました。ベルンではまた,兄弟たちが数人で印刷会社を作り,協会の出版物を生産しはじめていました。従業員が全員献身した人たちだったので,ちょうどよい値段で生産できたのです。やがて協会はそれらの印刷施設を譲り受けて印刷工場を拡張し,輪転機を設置しました。その輪転機によって「黄金時代」誌のドイツ語版の印刷が1922年10月付で行なわれました。小冊子や冊子が12を上回る言語で大量に生産されました。
しかし,1924年にラザフォード兄弟が訪問した折,文書に対する戦後のヨーロッパの膨大な需要を満たすにはもっと大きな施設の必要なことが明らかになりました。通りの向かいの土地が取得され,新しい「聖書の家」が1925年の春までに完成して,そこで業が開始しました。新しい輪転機室には輪転機がさらに1台据えつけられました。その印刷工場の能力は幾年にもわたって引き続き改善されていき,ついには,少なくとも16の言語の雑誌や冊子のほかに年間50万冊の堅表紙の書籍と100万冊の小冊子を生産するようになりました。
所在地と監督の変更
中央ヨーロッパ支部が1925年4月1日にアルメント通り39番地のその新しい建物に移ったのは大きな出来事でした。
ヨーゼフ・A・ビックはその移転に関連した当時の事情をよく記憶しています。次のように語っています。「私たちは,新しい建物を楽しみにしていました。しかし,どの職員の思いにも一つの大きな疑問がありました。だれが責任の立場に就くのかという疑問です。可能性のあった兄弟は3人いました。それまでチューリヒの事務所の責任者だったC・C・ビンケレ,すでに
ベルンにいてそこでの業務とフランス語の地域を任せられていたE・ツァオク,そして,文書頒布者の業と伝道の業の世話をしていたヤーコプ・ウェーバーです」。その兄弟たちは主として,真の崇拝の関心事を促進することに関心を持っていたでしょうか。それとも,個人の誇りや地位に対する関心のため,謙遜に仕えることができなくなるでしょうか。ビック兄弟によると,「当時は緊張した空気がみなぎっていました。しかし,会長は状況を十分理解していました」。ビンケレ兄弟は健康が衰えていたので,治療のために米国へ戻ることが提案され,その代わりに,ツァオク兄弟が監督をするよう任命されました。しかし,時たつうちに,ビンケレもツァオクも真の崇拝を捨てました。
1925年の1年間にわたる重大な試練
ベルンに新しいベテル・ホームと工場が備えられ,1925年の
滑り出しはたいへん好調でした。兄弟たちは幸福で,業をどんどん推し進めるよう励まされました。しかし中には,1925年に関して自分なりの確信を抱いている人たちがいました。その人たちは「ものみの塔」誌,1925年1月1日号の訓戒を受け入れるでしょうか。同誌はこう警告していました。「1925年になりました。クリスチャンは大きな期待を抱いてこの年を待ち望んできました。キリストの体の一部となっている人々は全員この年の間に天の栄光ある様に変えられるということを確信を持って期待してきた人は少なくありません。それは成就するかもしれませんし,成就しないかもしれません。時が来れば,神はご自分の民に関するお目的を成就されるでしょう。クリスチャンは,今年生じるかもしれない事柄に拘泥するあまり,主が自分たちに行なわせようとしておられることを喜んで行なうことができないようであってはなりません」。
中でも,ベテルの奉仕担当係の責任者だったヤーコプ・ウェーバーは警告に感銘を受けなかったようです。油そそがれた人々は皆その年の終わりまでに天で栄光を授けられるとあまりにも強く確信していたため,“解散手続き”を取ろうとしました。注文を受けてもいないのに大量の文書を諸会衆に送り,1925年が終わるまでに区域でそれらを無料で配布するよう指示したのです。
ベテルの兄弟たちはヤーコプ・ウェーバーを説得しようとあらゆる努力を払いましたが,無駄でした。その者はついにベテルを去ったばかりか,真理からも離れ,国中の兄弟たちに大きな悲嘆をもたらしました。自分と一緒に大勢の人を連れていってしまったからです。成員の数がそれまでの半分以下になってしまった会衆も幾つかありました。
ベテル家族内の別の悲しむべき状態も明るみに出ました。不道徳な行為を犯した者たちがいたのです。会長事務所により直ちに
処置が取られました。次いで,1926年2月にブルックリンからマーチン・ハーベック兄弟が到着し,ベルンの事務所の監督を引き継ぎました。スイスの伝道者はリヒテンシュタインを受け持つ
ここで,ライン川の向こう側の,スイスとオーストリアにはさまれている,世界でも極めて小さな国の一つ,リヒテンシュタインのことに触れておくのはよいでしょう。リヒテンシュタインの人々はこの国を好んでレントレ(小さな国)と呼びます。縦がわずか27㌔,横の平均が6㌔未満の国土のことを考えると,それはぴったりの愛称と言えます。住民は2万7,076人で,その大部分が都市生活の圧力とは無関係の田園生活を送っています。美しいアルプスの山々に囲まれた首都ファドーツの人口はわずか4,927人です。
カトリックの拠点であるこの国で聖書の真理の光を輝かせる責任をこれまで担ってきたのはスイスの伝道者たちです。1920年代に,ロールシャハの兄弟たちはリヒテンシュタインで伝道していて激しい反対に遭い,逮捕されて国外に追放されました。しかし,1923年に真理を受け入れた,元救世軍将校のルイ・メイエールは,マルコ 13章10節に従えば,リヒテンシュタインの羊のような人々に真理を聞く機会を差し伸べる重大な責任があると感じました。メイエール兄弟は,「ある時,私たちは小冊子を郵送して,全世帯に伝える努力を払いました。当局は『不明の差出人』を相手どって訴えを起こし,逆襲してきましたが,スイス郵政省が差出人の名前を教えるのを拒んだので成功しませんでした」と語っています。
メイエール兄弟は,支部事務所に相談したうえ,リヒテンシュタインの国境から遠くないラガツのローゼンガルテン・ホテル
で1日大会を開きました。午前の時間は家から家へ宣べ伝える業に充てられ,万一の場合に備えてベテルから奉仕部門と法律担当係の,責任の果たせる兄弟たちが出席することになりました。奉仕の指示は明快で,短い証言をして出版物を手渡し,関心のある人をノートに控えて立ち去るというものでした。万一警察が現われたら,直ちにホテルに電話しなければなりません。メイエール兄弟はこう報告しています。「最初は万事うまくいっているように見えました。ところが,昼食の時,リヒテンシュタインで宣べ伝えていた伝道者たちがいなくなってしまったのです。そこへ,『全員が逮捕され,高額の保釈金が要求されている』との電話が入りました。伝道者たちは自分たちが乗って来たバスの中に閉じ込められ,庁舎の前で『シオンの賛美の歌の本』に載っている歌をうたっていました。それを禁じることは当局者にもできないことでした。しかも,それは付近の人たちの注意を引いたので,当局者たちはたいへん気をもみました」。
協会の法律担当係の兄弟が間に入ってようやく,伝道者たちは保釈金を払わずに自由の身になりました。釈放された一つの理由は,賛美の歌をうたったことにあると伝道者たちは感じました。
忘れることのできない音信を伝える
古くからのエホバの証人は,長年の間に,忘れることのできない音信をスイスの人々に伝える特権を何度も得ました。例えば,「現存する万民は決して死することなし」という講演がありました。非常に大勢の人々がそれを聞きに詰めかけました。今でも,私たちが証言していて出会う老人はその講演の主題を覚えています。ドイツ語のsterben(「死ぬ」の意)という単語世継ぎとならない」(ドイツ語でerben)と,しゃれを言う人もいます。いずれにしても,大切なのは人々がその音信を覚えていることです。
のstを抜かして主題を少し言い換え,「現存する万民は決して「教会僧職者級を告発する」と題する冊子に載せられた音信も忘れることのできないもので,1920年代半ばという時代にその冊子を配布するのは胸の躍るような業でした。チューリヒの会衆は,シュウィーツというカトリックの州の一地区を網羅する割り当てを受けました。ゴットフリート・オーネッガーという大胆な兄弟はミサが終わった教会の前で冊子を手渡そうと決心しました。しかし,ほかの兄弟たちが,「頭がおかしいのではありませんか。そんなに挑発的に彼らを刺激したら,ひどい目に遭いますよ」と言って説得しました。
それでオーネッガー兄弟はその計画を断念しました。しかし,やはり勇敢な行動に出ました。教会の礼拝が終わり,男の人たちがみな日曜日の習慣に従って一杯飲みに宿屋へ入ると,オーネッガー兄弟は宿屋を次々に回り,テーブルからテーブルを訪れて人々にもれなく冊子を手渡したのです。その冊子がどういうものかが人々に分かると,大騒動になりました。するとオーネッガー兄弟は用心深く身を引き,事態が収まるまで鉄道の駅の待合室にいました。
ジュール・フェラーは,その冊子を配布した時の苦労を回顧して,次のように語っています。「ベテル奉仕者だった私たち5人は,山あいの谷にあるゴム地方全域にその冊子を配ることにしました。5人はいずれも自転車に十分乗り慣れていたので,自転車で行くことに意見がまとまりました。しかし,それは二日を要する旅になります。それで,5月の末の,ある日曜日の朝早く出発しました。万事順調でしたが,そのうち,まだ深い雪に
覆われた山の峠に差し掛かりました。そのような障害があるとは,全く予期していませんでした」。では,兄弟たちはどうしたでしょうか。引き返したでしょうか。いいえ。フェラー兄弟はこう語っています。「私たちは勇敢にも,荷物を積んだ自転車を肩に担いで,行く手にある険しい丘をジグザグ形の道をたどって登り始めました。しかしそれは思ったよりはるかに骨が折れ,しかも危険でした。おまけに,一人の兄弟は良い靴を持っていなかったので,凍った雪の上で絶えず滑ってしまい,前へ進む距離より後ろへ進む距離のほうが大きい有り様でした。その兄弟はすっかり気落ちして,もう帰ろうと言いだしました」。
ほかの四人はその兄弟に,荷物を運ぶのを手伝ってあげようと申し出ました。3時間登った末,雷雨のためにずぶぬれになって,峠の向こう側の最初の村にようやくたどり着きました。そこで一行は食事を取り,数時間眠って元気を付けました。フェラー兄弟はこう続けます。
「翌朝の3時から戸口の下や郵便受けに冊子を入れはじめまし
た。後に,人々が起きている時刻になると,冊子を直接手渡しました。中には,すっかり腹を立てて冊子をびりびり破ってしまう人もいました。それでも,私たちは,その堅固なカトリックの区域にあった20の村を平静な態度で網羅しました」。国際連盟の建物で証言する
支部の監督のマーチン・ハーベックは,高位高官に対してさえ好感の持てる仕方で真理を伝えることのできる精力的な人でした。ジュネーブにあった国際連盟の幾つかの部門への出入りを許可する報道関係者用の身分証明書を手に入れると,連盟関係者に話す機会を得ようと懸命に努力し,英国のアンソニー・イーデン,ドイツの政治家グスタフ・シュトレーゼマン,およびロシアのマクシム・リトビノフに文書を手渡しました。その3人はいずれも,それぞれの国の連盟代表でした。こうして,それらの人の注意は,諸国民を平和と公正をもって一致させる真
の手段,すなわち,キリストによる神の王国に向けられました。1932年にジュネーブで軍縮会議が開かれた期間中にも,諸国家の元首を含め,有力な人々に真理を伝える努力が払われました。はるか昔に記された詩編 2編10節から12節の言葉に従い,「王国は世界の希望」と題する小冊子が,その音信に最大の注意を払うよう強く勧める案内状同封の上,国家元首はじめ指導的な立場にある僧職者たちに郵送されました。こうして,世界の政界有力者292人に証言がなされました。
ロシアのために輪転機を送る?
ドイツでは1933年にヒトラーが政権を取り,同国のエホバの証人の業はまもなく禁止されました。ハーベック兄弟はマクデブルクにあった協会の資産を調べに行きました。ところが逮捕されてしまい,即刻国外に退去するならという条件で十日後にやっと釈放してもらいました。
その後,ニューヨークのブルックリンから一人の兄弟がドイツに赴き,没収された輪転機をドイツ国外へ持ち出してロシアへ輸送しようとしました。協会はロシアにおける王国の良いたよりの伝道を促進するつもりだったのです。しかしロシアの当局者は,国民が必要としているのは聖書よりむしろ靴であると考えていたので,マクデブルクの輪転機は結局ベルンに運ばれ,戦後数年たってドイツに返却できるようになるまでそこでよく用いられました。
蓄音機を使って業を行なう
蓄音機の助けによって王国伝道の業の新たな特色となる活動が1934年に始まりました。伝道者は,5分間の聖書の話のレコードがあるのでお聞かせしたいと家の人に伝えます。返ってくる
答えは普通,「しかし,うちには蓄音機がありませんからね」というものです。持ってきた蓄音機を伝道者が示すと,家の人は大抵好奇心に負けて聴くことを承知します。そのようにして関心が大いに高められ,たくさんの文書が配布されました。蓄音機を使う業は比較的に容易で,学校へ通う児童でも行なえました。ルート・ボッシャルト(現在ベテルにいる)は,十代の初めのころ,授業のない午後に割り当ての区域へ出かけていって,自分の訪問を歓迎してくれる婦人たちにレコードを聴かせたことを覚えています。その時の婦人の中の少なくとも一人はやがて神に献身しました。その年若い証人にとってそれは確かにうれしい経験でした。
おかしな状況になることも時にありました。ハインリッヒ・ホイベルガーにはこんな思い出があります。「ある時,家族が6人いる家で聖書の話のレコードをかけさせてもらえました。家族が全員居間に集合したのですが,レコードをかけている間に一人また一人と静かに消えて行き,5分の話が終わった時には私だけが残されていました。どうすることができるでしょうか。私は蓄音機を片づけると,大きな声で『アウフ・ビーダーゼーエン』(『またお会いするまで』)と言って立ち去りました」。
伝統に縛られた人々の思いに新しい考えを浸透させるには,忍耐強さや接触の繰り返しが必要でした。
『わたしたちの神は無秩序の神ではありません』
会衆の日曜学校に遅れて来る子供がいると,バーゼルのエルビン・ザナーは決まって上記のように言いました。―コリント第一 14:33。
日曜学校ですって? そのとおりです。13歳から25歳までの人のための若者の群れと,幼い子供たちを対象にした日曜学校
とがしばらくの間存在していたのです。どちらも,「楽園への道」と題する出版物(W・E・バン・アンバーグが1924年に監修し,「聖書の研究用として若者たちへ」という献辞を付した)に基づいて開かれていました。会衆の大人の成員は日曜日の午前中に交替で子供たちの指導に当たりました。「私たち親は日曜日に伝道に出かけましたが,子供を一緒に連れて行く習慣は当時ありませんでした。また,夜の集会へも連れて行きませんでした。ですから,チューリヒに若者の群れが組織された時,タールウィル会衆の子供たちも招待していただいたのはうれしいことでした」と,ウルリッヒ・エングラーは語っています。「エホバの若者」という会はベルンに独自の書記事務所まで持っていました。そこでは「エホバの若者」という名称の特別な雑誌が編集され,協会の機械で印刷されていました。創刊号の序文はラザフォード兄弟が執筆しました。その会の若者は集会を司会し,証言の業に活発に参加し,若い人々のために組織された比較的大きな集まりで聖書劇を上演したりもしました。しかし,それはやはり組織の中に作られたもう一つの組織です。聖書によれば,古代イスラエルでは大人も子供も共に集まって教えを受けるのがエホバの定められた規定でした。(申命記 31:12)そのことを一層十分に認識するようになった時,若者のためのその特別な取り決めは廃止されました。それは1936年にラザフォード兄弟が訪れた時のことです。
イタリアで光を輝かせる努力
中央ヨーロッパ支部はイタリアについて懸念していました。独裁者のムッソリーニが政権を取り,やがてエホバの僕の業は禁止されました。イタリアの兄弟はごく少数で,ファシストの警察によって厳重に監視されていました。しかし,「王国は世界
の希望」の小冊子が50万部ミラノでひそかに印刷され,配布されるばかりになっていました。スイスにいる,危険を冒すことをいとわない兄弟たちがイタリア北部へ行き,それらの小冊子をすばやく配布して,暗黒状態にある人々に光を輝かすという計画が立てられました。アルフレート・ガルマンも喜んでその業に参加した兄弟の一人です。同兄弟は次のように語っています。
「私は他の数人の兄弟姉妹と一緒にミラノへ行き,そこで指示を受けました。その運動は非常によく組織されていました。二人一組になって働き,各組は5万冊の小冊子の配布を受け持つのです。小冊子はすでにそれぞれの都市に発送されていました。パートナーと私はベローナ,ビチェンツァ,ベネチアといった都市を網羅することになっていました。僧職者からの苦情をかわし,警察に小冊子を没収されないため,速やかに業をなし終えなければなりません。
「目的地へ着くと,私たちは各自の受け持ちの通りや小路までの道を教えてくれる少年を何人か探しました。少年たちはチップをもらうために,小冊子を郵便受けに入れる仕事を喜んで手伝ってくれました。彼らはその趣旨が何かを知らずに,その奇妙な活動を心から楽しんで行ないました」。
その運動は何事もなく終わったでしょうか。だいたいにおいてそう言えます。中には警察に呼び止められた兄弟たちがいました。しかし,たどたどしいイタリア語の説明を少し聞くと,警察はそのまま続けさせてくれました。その週の終わりに全員が再びミラノに集合し,成し遂げられたことを大いに喜びました。イタリアの多くの国民の中で少数ながらもともかく一部の人が,自由と正義のための唯一の希望,すなわち神の王国に対して注意を促されました。
ナチ政権下のドイツに霊的食物を入りこませる
中央ヨーロッパ支部の仕事には,迫害を受けている兄弟たちと連絡を取りつづけることも含まれていました。ドイツは同支部の管轄下にありませんでしたが,ベルンの兄弟たちは,必要不可欠な霊的食物をドイツの兄弟に供給するため大いに努力しました。
そのために支部事務所は,タイプで打った「ものみの塔」誌の記事をバーゼルの監督のカール・カルトに送りました。「その記事を薄い紙にタイプして,定められた日付までに30部整えるよう信頼できる兄弟か姉妹に依頼するのが私の責任でした。私たちは毎晩真夜中まで働いたものです」とカルトは語っています。
次いでその資料はどのようにドイツの兄弟たちのもとに届いたのでしょうか。バーゼルは国境の都市なので,距離があまり離れておらず,戦争が始まるまでは国境の往来がまださかんでした。しかし,旅行者は時折徹底的に調べられました。カルト兄弟は続けてこう語っています。
「秘密の使命を帯びた人たちがドイツから我が家にやって来て,タイプしたものを受け取り,靴の二重底の間や衣類の下にそれを入れて国境を越え,それぞれの目的地に無事に届けました。それらの人たちが身命をかけて任務を果たすことは珍しくありませんでした」。そのような霊的食物は自由の身で動き回れたエホバの証人だけでなく,強制収容所にいた証人の手にも届きました。
ドイツの証人たちとの団結
ドイツの兄弟たちは激しい圧迫を受け,その苦しみは全地の仲間の僕たちにも伝わりました。使徒パウロが書いているとおり,コリント第一 12:26)そのことを顕著にしたのは,1934年10月7日,日曜日午前9時に,すべての会衆の特別集会で生じた出来事です。その時刻に,一通の封書が開かれることになっていました。それはヒトラー政府に送る電報の文句でした。その内容は次のとおりです。
『一つの肢体が苦しめば,ほかのすべての肢体が共に苦しむのです』。(「ドイツ,ベルリン。ヒトラー政府へ。エホバの証人に対するあなたの政府の虐待ぶりは地上の善良な人々すべてに衝撃を与え,神のみ名を辱めています。エホバの証人をこれ以上迫害するのをやめなさい。さもなければ,神はあなたとあなたの党を滅ぼされるでしょう」。
それは,ドイツの会衆を含め,50か国の会衆からその同じ日に打電されました。その日に電報が洪水のようにベルリンへ集中するところを想像してみてください。それはヒトラーとその政党に対する警告になったばかりでなく,全世界のエホバの証人の一致と団結の表示でもありました。結果について言うなら,ヒトラーおよびその政党の最期はよく知られているとおりです。
「キリスト教撲滅運動」
ナチの恐怖政治に対するエホバの証人の抵抗に一般の人々の注意を引くよう,ブルックリンの協会の事務所は「クロイツツーク・ゲーゲン・ダス・クリステンツーム(キリスト教撲滅運動)」と題する書籍の出版を承認しました。その本は,ナチのドイツでエホバの証人がたどったいばらの道を詳細に記述し,100人を上回る兄弟や姉妹の経験を載せ,なかんずく,ナチ政権下のドイツで男や女たちが自らの信仰のために戦い,苦しみ,死んでいった事実を証明していました。それは,チューリヒのオイローパ・フェルラークという民間の出版社によって出版
され,書店や新聞・雑誌販売所に並べられました。英語には翻訳されませんでしたが,フランス語とポーランド語に翻訳されました。著名な作家トーマス・マン博士は協会に書簡を寄せ,「……この本を公然と刊行された貴協会はその本分を果たされました。この出版物ほど世界の良心に訴える力を持つものはほかにないように思えます」と述べました。また,プロテスタントの牧師Th・ブルッパッヒャーは,スイスの一新聞の1938年8月19日付紙上で,次のように語りました。「将来の教会史家はいつの日か,鬼のようなナチの激怒に真っ先に耐え,信仰に従って大胆にも反対したのは,大きな教会ではなくて幾つかの小さな宗派の中傷され嘲笑された何人かの人々であったことを認めなければならないであろう。彼らは,『エホバの証人』として,またキリストの王国の志願者として,ヒトラーの崇拝,鉤十字章,ドイツ式の敬礼,選挙の強制投票を拒んだゆえに苦難に遭い,血を流した」。
避難した開拓者たちの逃れ場
1936年に協会は,健康によい食物をできるだけ安くベテル家族に供する目的でトゥーンのシュテッフィスブルクの近くにあった“ベーレンモース”農場を取得しました。2年後には,ヌーシャテルの近くのシャネラと称する別の農場も購入しました。両方の農場は,外国の任命地を離れざるを得なくなり,しかも故郷には戻れない開拓者の逃れ場になりました。そのことは特に,バルカン半島諸国で奉仕していたドイツ人の開拓者たちについて言えました。その二つの農場で30人を超す兄弟姉妹が作業員として働きました。ちなみに,農場労働者というのが,スイス当局から滞在許可の下りる唯一の職種だったのです。
ベーレンモースで奉仕していた兄弟の中にハインリッヒ・ドウェンガーがいました。この兄弟は1887年にドイツで生まれ,バルメンにあった支部事務所を1909年に訪れた時,そこでバプテスマを受けました。その時その場で全時間奉仕を行なうよう勧められましたが,決定を下すのは容易ではありませんでした。両親は真理におらず,息子の職業に関して大きな期待を抱いていたからです。にもかかわらずドウェンガー兄弟は1910年10月から全時間奉仕を始めました。最初はバルメンの支部で,次にマクデブルクで奉仕し,その後,ポーランド,ハンガリー,チェコスロバキアでの難しい割り当てを果たしました。ドイツのゲシュタポに追跡され,結局,協会の指示でスイスへ来て,ベーレンモースの作業員になり,豚の世話を喜んで行ないました。後に幾年もの間,スイス支部の予約部門で奉仕しました。
エホバへの奉仕の人生を振り返って,ドウェンガー兄弟はこう語っています。「私は神の王国の良いたよりを宣べ伝えるという聖書的な責任を真剣に受け入れて本当によかったと思っています。人生の多くの年月を,さまざまな国のベテル・ホームで奉仕して過ごしてきました。ベテルでは,自分の気に入った仕事を選ぶというより,むしろ割り当てられた務めを果たすのが私の本分でした。それらの割り当てを忠実に果たすことによって,エホバがご自分の地上の組織を通して与えてくださる指導に従おうと常に努めてきて確かによかったと思います。なぜなら,これまで豊かな祝福の源となってきたのは実際そのような従順だったからです」。
1983年1月30日,ドウェンガー兄弟は96歳でその地上の歩みを終えました。スイス内外の数多くの兄弟姉妹の記憶の中には,ハインリッヒ・ドウェンガーのことが慎みと謙遜と従順の手本,見倣うべき手本として残っています。
オスカー・ホウフマンと妻のアニーは,シャネラ農場で一時的に働いている間,1900年にスイスで良いたよりの伝道を開始したアドルフ・ウェーバーとの交わりを特に楽しみました。ウェーバー兄弟は,好調な滑り出しでエホバへの奉仕を始めたものの,やがて後ろのものに戻って行った人々を少なからず知っていました。うぬぼれの気持ちに負けてしまった人たちがいた中で,ウェーバー兄弟は忠節かつ謙遜にエホバに仕えつづけたのです。高齢になり,体の具合いが悪かったので,冬の数か月を農場で過ごしました。その慎み,強い信仰,熱心な奉仕は,同兄弟を知る人すべてに深い感銘を与えました。ウェーバー兄弟はついに1948年2月,85歳で地上の歩みを終えました。
カトリックの拠点と取り組む
1922年には,その年のラザフォード兄弟の訪問に関連してカトリック
の拠点のルツェルンで公開講演会を開いてみることになりました。兄弟たちは850人収容できる会場を首尾よく見つけました。会場は満員になり,聴衆は一心に聴き入って,講演が終わるまで席を立つ人は一人もいませんでした。そして,講演の内容に心から賛同を表わし,拍手はいつまでも鳴りやみませんでした。そのためラザフォード兄弟は再び演壇に姿を見せ,人々に大きな声で「アウフ・ビーダーゼーエン」と言って別れを告げました。ラザフォード兄弟はその約束を守りました。1936年の9月4日から7日にかけてルツェルンで国際大会の開かれる取り決めが設けられたのです。ヨーロッパのほとんどすべての国から兄弟たちが出席しました。命や自由を奪われる危険を冒しながら,ナチ政権下のドイツからさえ何人かの兄弟が出席しました。実際,ナチの手先がドイツからの大会出席者の写真をひそかに撮ったので,その兄弟たちは家に帰る途中で逮捕されました。
広く宣伝されたラザフォード兄弟の講演の主題は「ハルマゲドン ― 全能の神の戦い」というものでした。ところが,直前になってルツェルンの州当局から講演を公開のものにすることを禁じられたのです。兄弟たちは講演を聴けましたが,他のおよそ2,000人に上る人たちは,警察の妨害のために会場に入れませんでした。しかし,兄弟たちは一般の人々にもその音信を知ってもらおうと固く決意していました。資料を6時間以内に印刷することを喜んで引き受けてくれる印刷所を見つけたので,講演の資料を用意することができ,入場を阻止された人々全員に配りました。ですから,一層永続的な証言がルツェルン市に対してなされ,背後から禁止を支持していた僧職者を大いにろうばいさせました。
集会の自由のそのような弾圧が一般に知られると,スイスの
新聞を通して憤りの声がさかんに上がりました。バーゼルの「国民新聞」は長い記事の最後の部分で「私たちが大いに誇りとしている自由はどこへ消えてしまうのだろうか」と問いかけました。僧職者の努力はかえって不利な結果を招く
勇敢で率直なラザフォード兄弟は,翌日,大会出席者に一つの決議文を提出しました。その内容は一部次のとおりです。「ドイツの支配者たち,ローマ・カトリックの全僧職者団,および,キリスト・イエスの忠実な真の追随者に残虐な迫害を加える,その種の組織すべてに私たちは警告します。神の宣言によれば,それらの者たちの運命は完全な滅びです」。(詩編 145:20)この決議文は書留郵便で法王とヒトラーに送られました。
しかし,それがすべてではなかったのです。大会の最終日に,およそ1,000人の証人たちが「選べ! 富か,滅亡か,」と題する小冊子1万部余りをルツェルン市内およびその周辺で配布しました。逮捕されて文書を没収される伝道者が出ました。幾つかの新聞は当局の処置を非難しましたが,そのようにして証言は一層広範になされました。そればかりか,その大会に関する真相をすべて掲載した「黄金時代」誌の特別号が準備されました。
その雑誌の表紙には次のさし絵にあるように,ルツェルンのスカイラインを背景にして,棒に掛けられた僧職者の黒い帽子が描かれていました。そして,その絵の下には「デア・ノイエ・ゲスラーフート」(「新たなゲスラーの帽子」)という言葉が記されています。ゲスラーとはだれでしょうか。フリードリッヒ・シラーの叙事詩の中に描写されている,ルツェルン湖周辺の自由
を愛する人々を服従させようとした13世紀の圧制的な代官のことです。この人物は,棒の先に自分の帽子を掛け,それに身をかがめるよう人々に強要して従順と忠誠を示させようとしました。それで,「黄金時代」誌の特別号の表紙には圧制の象徴であるゲスラーの帽子が描かれ,僧職者にそそのかされて行なわれたその時の言論の自由に対する抑圧のことが暗に指摘されたのです。その号は10万部印刷され,そのうちの2万部がルツェルンおよびその周辺の全世帯に無料で郵送されました。1万8,000部を追加印刷しなければならなくなり,それらの雑誌も数日のうちに配布し尽くされました。今日でも,ルツェルンにおける1936年のその大会のことを記憶している人は少なくありません。
「黄金時代」誌のその特別号で注意を喚起された人に,ベルンに住んでいたエドワール・ズィセットがいます。この人は協会の事務所と連絡を取りました。編集責任者のツルヒャー兄弟と活発に論じ合ったのち,出版物をどっさり脇にかかえて帰りました。四年後の1940年にズィセットと妻のイボンは浸礼を受けました。特にその時以後この夫婦は,出版物の校正をしたり,フランス語の聖書索引の作成に尽力したり,フランス語の諸会衆を強めたりして,協会の大きな助けになってきました。二人は2度にわたりベテル家族の成員として奉仕しました。
1930年代に行なわれた法廷における闘い
スイスは,非常に古い民主国の一つとして世界に知られています。歴史家たちは,同連邦の創設者たちが外国の支配からの自由を求めて闘ったことを称賛しており,スイス国民も祖国の憲法に誇りを持っています。その憲法はなかんずく,宗教と良心の自由を保障しています。それだけに,口頭の話や印刷物にフィリピ 1:7)その闘いはほぼ30年にも及びました。1935年だけでも,111件の法律問題を処理しなければならず,そのうちの約半数はわたしたちの勝訴になりました。
よって家から家へ宣べ伝えるわたしたちの権利を『擁護し,かつ法的に確立する』ために法廷で激しく闘わなければならなかったということは驚くべきことです。(何が原因となっていたのでしょうか。神の王国の宣明者にそのような苦難がもたらされるのを背後で支援していたのはだれでしょうか。それは,エホバの証人の活動が増大するのを快く思っていなかった「大いなるバビロン」の主要な代表者たちでした。ヨエルと啓示の書の預言の中に描かれている象徴的ないなごの災いが自分たちに及んだため,彼らは裁きの音信に責めさいなまれているのを感じました。
一例として,「王国へ逃れよ」と題する小冊子がもとで,カトリックの一司祭はこう言明しました。「この出版物には,民衆を誤導することを意図した聖書の歪曲,たわごと,俗悪な名誉
毀損,および人間の官能的な傾向に訴える品のない事柄が非常に多く含まれている。わたしたちはカトリック教徒としてそのようなごまかしを容認すべきだろうか。それらの低劣なやから,および扇動者を無害なものにする法的な備えは確かにあるのである。わたしたちの法的権限を利用すべきではないだろうか。これら悪らつな聖書研究者を厳しく処置し,受けて然るべきものを彼らに与えていただきたいと管轄庁に心から願うものである」。彼らは実際に法的権限を利用した
僧職者が当局に絶えず圧力を加えた結果は現われはじめました。警察は地元の司祭にそそのかされて,野外奉仕に携わっている伝道者たちをたびたび逮捕しました。出版物中の激しい言葉遣いやどぎついさし絵が宗教感情を害したとか,信仰告白に基づく平安をかき乱したとか,あるいは日曜日の休業を義務づける法律に違反したとか,罪状は実に様々でした。許可証もなく訪問販売をしているとの告発を受けることもよくありました。
ルツェルン州では,「光」と題する本の第1巻が,その中の数枚のさし絵を理由に禁止されました。別のカトリックの州,フリブールでは数人の伝道者が法廷で,「神の救い」と題する本の配布はカトリック教会に対する非常に侮辱的な批判であると非難され,敗訴しました。グラウビュンデン州は協会の文書の配布を一切禁じ,カトリックのツーク州はエホバの証人の「平和をかき乱す活動」を禁止しました。次いで,ルツェルンの州政府がその先例に倣いました。
以上の事件や他の多数の事件において,私たちに対する処置の合法性を私たちは問題にしました。そのためには,幾つかの
裁判所で闘わなければならず,時には連邦最高裁判所にまで裁判が持ち込まれることもありました。敗訴したこともあれば,勝訴に歓喜したこともあります。エホバはご自分の民を支えてくださいました。伝道者たちが真理を宣べ伝える自由のためのそのような闘いに加わっている有り様を観察すると信仰は強められました。逮捕されるのがほぼ確実に思える区域があったにもかかわらず,伝道者たちは野外奉仕に携わりつづけました。敵の狙いは全面禁止
「今こそ,聖書研究者ことエホバの証人の活動をやめさせる時である」。そのような表現が特にカトリックの新聞にたびたび載りました。ナチのドイツでエホバの証人が禁止されたのを見て,スイスにいる私たちの敵は同様の目標を追い求める励みが得られたと感じたのです。中傷と誤り伝えることが彼らの武器でした。
強力な手段となったのは,当局者全員と新聞の編集長へ送られた月刊の情報新聞,「スイス新聞通信」です。その新聞は,1931年にザンクト・ガレンに設立された「教会ならびに法王協会」と密接な関係を持っていました。そして,エホバの証人を,国家に敵対する,そしてユダヤ人の世界政府という思想を支持する極めて怪しい組織であるかのように見せかけようと腐心していました。エホバの証人の業と文書の配布の禁止実現に向かって努力していた同紙は,「この汚濁した洪水がベルンから流れ出してヨーロッパ諸国をすべて呑みつくしているゆえに,我々スイスのカトリック教徒は[スイスにある]その本部が解散させられるのを見届ける義務がある。すばらしい我が国が,こうかつなボルシェビキ運動の出発点として誤用されるのを許す
ことはできない」と述べました。それもまた,ばかげた主張でした。その新聞社の取締役のテートリ氏は,協会の代表者のマーチン・ハーベックとフランツ・ツルヒャーを「宗教を堕落させた」との理由で告発しました。同じ訴訟事件では,協会の出版物が「低級な文書」に等しいかどうかも明らかにされることになっていました。テートリ氏による告発は,国民戦線の成員であり,ドイツのエルフルトにあった反ユダヤ人国家社会主義者宣伝センターの理事でもあったフライシュハウアー氏のくどくどしい説に基づいていました。フライシュハウアー氏の主張によれば,聖書研究者は,「キリスト教国の廃虚の上にユダヤ人の帝国を打ち建てるためにフリーメーソン団やユダヤ人と結託してキリスト教の全政府を暴力的にくつがえそうとしている」偽装された共産主義者であるということでした。
ラザフォード兄弟が聴問会に出席する
1936年8月26日にベルンの裁判所で事件の審理が行なわれた時,ラザフォード兄弟はスイスにいました。同兄弟が法廷に出頭し,問題の文書の著者として証言しました。その論議は,「起訴状にある出版物が訴えにあるとおり『低級な文書』であるなら全能の神の言葉も『低級な文書』ということになる」,なぜなら,異議の申し立てられている比喩や さし絵は聖書のエゼキエル書,エレミヤ書,ヨハネへの啓示の聖句に基づいているからである,というものでした。「立法者たちが聖書もしくは聖書を解説した出版物の配布を禁じる意図のなかったことは明らかです。これらの出版物には真理が書かれており,真理以外の事柄は書かれていません。しかも,主イエス・キリストは言われました。『真理にて彼らを潔め別ちたまえ,汝の御言は真理なり』ヨハネ 17:17,日本聖書協会 文語訳)」。ラザフォード兄弟はそのように述べて証言を終えました。
(5時間にわたって議論がやり取りされた末,レーマン裁判長は次のような結論に達しました。すなわち,「低級な文書」を禁じる法律を犯したかどで,ものみの塔協会の役員,マーチン・ハーベック氏とフランツ・ツルヒャー氏を有罪とすることはできず,ベルンにある同協会の印刷所で生産される出版物が宗教を堕落させたとすることもできない,という結論です。被告は無罪となり,告発者に対しては,弁護費用の一部負担として各被告に150スイスフランを支払うことが命じられました。
上訴がなされる
全国のカトリック新聞はその裁判を非難し,「信じがたい誤審」と呼びました。テートリは上訴し,1937年5月28日にベルン高等裁判所で再び審理が行なわれました。最初の裁判所の判決は覆され,協会の代表者は今度は「宗教を堕落させた」罪で100スイスフランの罰金を言い渡されました。ですが,同裁判所は「低級な文書」を禁じる法律に対する違犯はないとの見解を維持しました。
それから1年もたたないうちに,テートリの背後にいた扇動者たちが明るみに出ました。それは,テートリが裁判にかけられ,ナチのドイツに有利なスパイ行為のかどで有罪となり,3か月の実刑判決を受けた時のことです。もっとも,テートリはすでに姿をくらましており,欠席裁判で有罪宣告を受けました。
小冊子に対する公式の禁令
1939年,ヨーロッパの情勢は緊迫しており,スイスは全体主義
の列強に取り囲まれたも同然の状況にありました。スイスの当局者は,列強のイデオロギーをおおむね退けていたものの,それら危険な隣国を怒らせまいと必死になっていました。スイスがドイツのナチの軍隊にぐるりと取り囲まれるや,情勢はなお一層緊迫しました。ドイツ軍は,西はフランスに,東はオーストリアに,南はイタリアにいたので,スイスとリヒテンシュタインは,とどろく海に浮かぶ島のように全く孤立していました。このような空気の中でエホバの民は勇敢にも,「全体主義か,自由か」と題する小冊子を配布しました。その小冊子は,『全世界はエホバの立て給いし王キリストによって正義をもって支配さるべきか,それとも我利凶暴なる独裁権者によって支配さるべきか』という問題を提起して,ヒトラーを『サタンの代理者』と呼び,ローマ・カトリック全僧職者団が「ファシストと協力して」いることを暴露しています。この小冊子は中央ヨーロッパ支部の管轄下にあった国々で幾百万部も配布されました。しかし,連邦会議の決定に従いスイス検察庁によってそれが禁止処分になったのは驚くべきことではありませんでした。もっとも,その処置に関しては新聞紙上でさかんに議論が戦わされました。協会はある冊子を用いて逆襲しました。それはスイス全土に40万部配布されました。私たちは共産主義の宣伝をしているとの告発をしばしば受けたため,迫害の波が次々に襲ってきました。カトリックの区域では集会が阻止されたり妨害されたりすることも珍しくありませんでした。しかし,ルツェルンのヨーゼフ・ドボルザークによれば,「最も困難な時にはいつも,会衆内の支配的な霊は最も良い状態にあったと言えるかもしれません」。エホバの霊の支えがなかったなら,兄弟たちは疲れてしまい,敵の絶えざる攻撃に対する抵抗をゆるめたかもしれません。ところが,兄弟たちユダ 3。
はむしろ,「信仰のために厳しい戦いをする」ことをいといませんでした。そして,エホバに依り頼んだことは報われました。―兄弟たちの自発的な精神を物語る一つの例が,ザンクト・ガレン州のブックス会衆から報告されています。その会衆には,スイスで禁止された「全体主義か,自由か」の小冊子がかなり大量に在庫していました。兄弟たちは,外国で,つまり隣国のリヒテンシュタインでそれを配布するのが最善だと考えました。スイスと関税同盟を結んでいるので,国境を越える時に検査はありません。夜の時間を用いてリヒテンシュタインでの小冊子の配布を行なった兄弟たちの中にカール・ダンゲルマイヤーがいます。こう語っています。「特に,法王がヒトラーやムッソリーニと一緒に居る絵のために人々がどれほど動揺したか想像してみてください。幾つかの新聞は怒りをぶちまけた記事を載せ,カトリック青年運動は今にも私たちに組みつかんばかりでした。しかし,私たちは用心深く行動し,絶対に鞄を持ち歩きませんでした。それで,見つけられずにその運動をやり終えました。こうして小冊子は人々の手に渡りました」。
1939年: 第二次世界大戦勃発!
次から次へと国々を侵略していく全体主義の列強に隣接しながらしっかりした歩みをするのはスイス政府にとって生易しいことではありませんでした。国境の警備のために軍隊が動員されました。兵役は義務づけられており,そのことは神だけに献身している男子に大きな試練をもたらしました。エホバの証人は大抵の場合,クリスチャンの良心の命じるところに従って軍務に就くのを拒みました。(イザヤ 2:2-4。ローマ 6:12-14; 12:1,2)そのために軍事法廷に連れ出された証人は相当数に上り ました。数か月の実刑から5年におよぶ実刑までさまざまな判決が下りました。一つの刑期を終えた兄弟が再び軍隊に召集され,訴訟手続きがもう一度始められるということも珍しくありませんでした。二度目の刑は決まって最初の刑より長くなっていました。
良心的兵役拒否者として刑に処せられた証人すべての中で一番長く投獄されていたのはジュネーブのフェルナンド・リバロルでした。この兄弟はそのために世俗の仕事を失いました。当然ながら,妻と幼い娘にはさまざまな問題が降りかかりました。しかし,エホバは,当時すでに真理に関心を持っていた刑務所長という励まし手をリバロル兄弟のために備えられました。刑務所長は,職務の許す限りあらゆる機会を用いて,リバロル兄弟ならびに同兄弟と一緒に投獄されていた二人の兄弟を物質的にも霊的にも元気づけました。それら神の僕たちが確固とした立場を取ったことも助けになって,その刑務所長エミル・ボロメーは私たちの熱心な兄弟になりました。
兄弟たちの取った立場から,当局は,協会の活動は国益に反して行なわれており,反軍国主義活動へと人々を故意に駆り立てるものであるとの誤った結論を下しました。しかも,極めて不当にも,破壊活動を行なっているとして協会を告発することまでしたのです。
中央ヨーロッパ支部が閉鎖される
第二次世界大戦が始まり,諸国家が次から次へと全体主義の支配下に置かれるようになったため,中央ヨーロッパ支部の活動は大いに妨げられました。兄弟たちとの連絡は非常に難しくなり,全く途絶えてしまうこともありました。中央ヨーロッパ支部の仕事が当時の状況に即さなくなったので,1940年の初夏
にハーベック兄弟は妻と共に米国へ戻り,そこで地域や巡回奉仕の割り当てを受けました。スイスの業の責任は,1923年にベテル奉仕を始めたフランツ・ツルヒャーにゆだねられました。ツルヒャー兄弟は,ベルギー,ザールラント,ナーエ川流域,ラインラント,アルザス-ロレーヌ,そして言うまでもなくスイス全国で「創造の写真劇」の上映に携わり,後に,「黄金時代」誌のドイツ語版の編集の仕事をゆだねられました。奉仕担当係に関連しては,中央ヨーロッパ支部の管轄下にあった国々の開拓者およそ100名の世話をする仕事も楽しみました。
ツルヒャー兄弟がスイスで支部の責任者の立場を引き継いだのは非常に困難な時期でしたから,エホバの導きを厚く信じなければなりませんでした。敵どもの狙いは,エホバの証人の業を全面的に禁止することにほかなりませんでした。カトリックの新聞には,エホバの証人は政治的な目標を達成しようとしており,その活動は国家に有害であると非難する記事が掲載されました。それらの記事には「熱心な聖書研究者 ― ボルシェビキの開拓者」とか,「モスクワを支持する無節操な聖書研究者」といった見出しが付されていました。
そのような風潮にあって,軍当局は処置を取ることが求められていると感じました。1940年7月5日の昼過ぎ,1台のトラックに一杯乗った兵士たちがベルンの協会の支部事務所と工場を占拠しました。ベテル家族は食堂に集合するよう命じられ,徹底的な調査がすむまでそこに勾留されました。立ち入り禁止になった部屋が幾つかあり,文書が大量に没収されて運び去られました。軍当局が探していたのは,協会が兵役拒否を直接扇動したことを証明する何らかの陳述でした。それで,取り調べが始まりました。
兄弟たちの家が手入れを受ける
それからまもなく,決まった日の定刻に,スイス全国で監督や伝道者の家が多数手入れを受けました。文書は押収され,捜査官による尋問の模様は記録されました。
エーミレ・ベルダーは次のように語っています。「午前7時のことです。チューリヒ-ボリスホーヘン,マルハバルト通り37番地にあった私のアパートの玄関のベルが鳴りました。がっしりした,州警察隊の刑事二人が捜査令状を見せてから,ずかずかと家の中に入ってきました。二人はありとあらゆるものを調べて,前の晩の集会で集まった寄付や書類の入った私の鞄を見つけました。その当時私は会計の僕をしていたのです。二人は鞄の中を調べて中味を全部押収しました。私は刑事たちと一緒に警察本部へ行かなければなりませんでした。そこで刑事たちは,兄弟たちの住所氏名を聞き出せるのではないかと思い,私を少し洗脳しようとしましたが,成功しませんでした。後に,別の刑事が私の勤めていた銀行に私と一緒に行き,協会の罪証となるようなものがないか確かめるため,銀行にあった私個人の金庫を調べました。しかし,それも無駄でした」。
検閲制がしかれる
スイス陸軍参謀部は,調査の結果を待たずに,「ものみの塔」誌に対して予備的な検閲を行なうようになりました。それは協会の同意できないことでした。エホバからの霊的な食物が現在の事物の体制の軍人によって検閲されることなどどうしてあってよいでしょうか。そのため,「ものみの塔」誌の発行は公式には停止されました。しかし,そのころ千人を超えるまでになっていた兄弟たちがそれによって霊的な欠乏を経験することはありませんでした。タイプして謄写版で印刷した個人研究 用の記事を受け取ったのです。それは,会衆内で次々に回覧されました。こうして会衆の成員たちは,絶えず輝きを増す光から取り残されるということはありませんでした。
しかし,野外で配布するための文書を用意するために,「慰め」誌(以前の「黄金時代」誌)と小冊子の印刷許可を検閲当局から得ました。世界情勢を扱う際には慎重に言葉を選ぶよう当局は絶えず要求しましたが,それは,隣接する列強に対する彼らの恐れを反映していました。
現在まで60年余りにわたってベテル奉仕を行なってきた,ジュール・フェラー兄弟は,原稿を検閲局へ持っていくよう任命されていました。同兄弟は当時を次のように回顧しています。「検閲官が原稿に異議を唱えることは普通ありませんでした。率直すぎる表現を見つけて,別の方法で明確に表現するようにと言うことは時折ありました。真理を水増ししないで物事をいろんな風に述べることはもちろん可能です。ところが,ある日,私は非常に敵対的な応対を受けました。エホバの証人は国から恩恵を被りながら,兵役のような,国のためになることは何もしようとしないと非難されたのです。それは非常に激しい非難でした。
マタイ 10章18,19節にある,『あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。しかし,……どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです』というイエスの言葉の真実さを確かに身をもって経験しました。その会話は真理の勝利に終わりました。そのことがあってから,私たちは終戦まで親切な待遇を受けました」。
「それから長い討論が続きました。私は,その日に来ていた四人の係官から2時間にわたって質問攻めに遭いました。ツルヒャー兄弟に有罪の宣告
しかし,軍部による調査の結果,支部の監督のツルヒャー兄弟が起訴されました。軍規を弱体化し,国家に危険な宣伝を禁止する法令に違反したという偽りの告訴を受けたのです。2年が経過してようやく,1942年11月23日および24日に裁判が行なわれました。軍の検察官の弁論は激しい勢いで降ってくる雹のようでした。検察官はツルヒャー兄弟のことを,厳重に閉じ込めておくべき種類の最も悪質な扇動者と呼び,「光」と題する本の第2巻の171ページから174ページ(日本語版では199ページから204ページ)を引用しました。そこには,王や軍の指揮官や強い者など,サタンの組織を構成している者たちの大規模な殺戮が行なわれる間,残りの者たちは安全な場所から見守っているということが書かれています。告訴の一つが軍規を弱体化しているということでしたから,そのような宣言がなぜ検察官の怒りを引き起こしたかは明白でした。検察官はこう叫びました。「これは徴兵からの巧みな言い逃れであり,軍事に対するきわめて臆病な態度であります。スイス軍に対する彼らの態度はここから分かるのです」。
人々から非常に尊敬されていた政治通で,全国協議会の議員でもあった,被告側の弁護士ヨハネス・フーバー氏は,これまで40年間弁護士をしてきたが,このように全くの偏見に満ちる雰囲気の中で事件を扱ったことはいまだかつてないと述べました。同氏によれば,その裁判は実際には被告個人に対するものではなく,エホバの証人全体に対するものであり,エホバの証人を沈黙させようとして開かれたものでした。フーバー氏は弁論の結びに,こう述べました。「したがって,これは単に,私が弁護依頼人から委任された事柄を果たすという問題ではありません。非常に誤解され,敵意に満ちた不当な処置を受けているこれらの人たちを,見解の相違こそあれ,弁護するのは私の義務であると思います。それゆえ,本法廷に無罪の宣告をお願いする次第であります」。それにもかかわらず,ツルヒャー兄弟は懲役2年の刑および市民権の一部剥奪を宣告されました。
フーバー弁護士は控訴記録上訴裁判所に上訴しました。1943
年4月16日に最終的な判決が下り,執行猶予付きの,懲役1年,5年間にわたる市民権一部剥奪という有罪判決に変わりました。そのころの一般的な状況からすれば,それはたいへん軽い刑でした。ブルックリンとの連絡が1942年に断たれる
敵対行為の始まった時から,協会あての手紙はみな検閲されましたが,米国が参戦すると,ブルックリンにある協会の本部との連絡は一切断たれてしまいました。そのために,「ものみの塔」誌の英語版は,「唯一の光」という記事の載った1942年10月1日号を最後に届かなくなりました。英語の雑誌がそれ以上届かなくなったあと,スイス支部は管轄下にある兄弟たちのためにどのようにして霊的な食物を入手するでしょうか。
エホバはスウェーデンの支部と連絡が取れるように取り計らってくださいました。スウェーデンはヨーロッパ諸国の中で戦争に巻き込まれていなかった数少ない国の一つだったのです。そこの支部から「ものみの塔」誌の最新号が入手できました。しかし,それはスウェーデン語でした。スイスの兄弟の中にはスウェーデン語のできる人がいませんでした。もっとも,スウェーデン語とドイツ語が幾分似ていることは明らかでした。現在ドイツ支部にいますが,当時はベルンのベテル家族の成員だったアリス・ベルナーはそのことに勇気を得て,スウェーデン語を勉強しはじめました。ベルナー姉妹は比較的短期間で「ものみの塔」誌をドイツ語に翻訳できるようになりました。こうして,その後の2年間,兄弟たちに霊的な食物を供給することができました。その方法により,全部で42の記事と2冊の小冊子が供給されました。
一つも読み損ねてはいませんでした! スウェーデンから受け取った最初の号には,「唯一の光」という記事に続いて英語版に掲載された記事が載っていたのです。あの戦争の長い期間中ずっと真理の水は流れを遮断されませんでした。偉大な供給者であられるエホバに私たちがどれほど感謝したかはきっと分かっていただけるでしょう。―創世記 22章14節と比較してください。
終戦になった時,ブルックリン本部は連絡の途絶えていた期間に発行された英語の「ものみの塔」誌の記事を一括して送って来ました。スイスの兄弟たちが戦争中に読めなかった記事は幾つあったでしょうか。財政上の問題
エホバは霊的な面だけでなく,物質的な面でもご自分の民を援助してくださいました。それにもかかわらず,財政上の問題は存在しました。というのは,業は自発的な寄付によって支えられていましたし,多くの兄弟たちは戦争中財政的にたいへん苦しくなったからです。また,「ものみの塔」誌の印刷を中止したことや,ヨーロッパのほかの国へ文書を送れないこともあって,その方面からはほとんどお金が入りませんでした。そのような状況でしたから,ベテル家族の成員全員が働けるほど仕事はありませんでした。したがって,ベテルで過ごした年月は人生の中で最も幸福な時期であったとだれしも思っていたにもかかわらず,兄弟姉妹たちは大勢,進んでベテルを去る気持ちのあることを示しました。
それでも深刻な財政上の問題が続いたため,特に,ベテルと農場の奉仕者の手当の額を1か月10スイスフランに減らさなければならなくなりました。しかし,兄弟たちは不平を言わずにその経済的な処置を受け入れました。
自分の好きな色の本
戦争がたけなわの1942年に,チューリヒで感動的な大会が開かれました。日曜日の朝,会場の前方の数列は子供たちの上気した顔であふれていました。子供たちのために特別な催しが計画されていたのです。特に子供たちを対象にした話の中で,勤勉で協力的であり,他の人の力になる親切な人であるように,とりわけ,聖書の助言に従って親に従順であるようにということが述べられました。その話の終わりに,「子供たち」と題する本が発表されました。しかもその本は子供たち全員が無料で受け取ることになっていたのです。
用意された,九つの異なった色の本を持った兄弟たちが演壇に進み出ました。次いで,子供たちが全員,演壇の上を歩いて通るように招かれ,銘々自分の好きな色の本を受け取りました。それは子供たちにとって何と大きな喜びだったのでしょう。そのようにして,400冊余りの本が未来の証人たちに手渡されました。その時の子供たちは相当数が,熱心な働き人になって,今なおエホバの組織の中で活躍しています。
神権宣教学校が蓄音機に取って代わる
1944年にはスイスの諸会衆に神権宣教学校という新しい取り決めが導入されました。年の初めにベルン・ベテルでその訓練が取り入れられ,続く数か月間に,王国の音信を家の人に証言する方法に関して有益な助言を与えることもなされる,公に話すための課程が全国の会衆で実施されるようになりました。兄弟たちが良いたよりを一層巧みに説明できるようになるにつれ,レコードは伝道者自身の短い話に取って代わられはじめました。
伝道の方法のそうした変化を歓迎した証人は少なくありませ
んでした。野外奉仕の時に重い蓄音機と文書を入れた鞄を下げて歩くのはなかなか骨が折れると感じていた人もあったからです。それ以上に,その変化はわたしたちの奉仕の質が向上したことを示していました。終戦の兆しが見える
1944年6月6日,連合軍がフランスのノルマンディーに侵攻しはじめ,8月15日には,連合軍の陸軍がフランスの地中海沿岸に上陸しました。来たるべきナチの崩壊と連合軍の勝利がいよいよ明らかになるにつれ,スイス当局はエホバの証人と協会に対するそれまでの措置を緩和しはじめました。それは正に啓示 12章16節が次のように予告していた通りでした。「地[比較的安定した民主主義の強国]が女の救助にまわり,地は口を開いて,龍が自分の口から吐き出した[全体主義の反対という]川を呑み込んだ」。
支部事務所の責任ある立場の兄弟たちは安堵のため息をつきました。ラザフォード兄弟は,業が全面的に禁止されてスイス支部が閉鎖されるのをできれば避けるようにとそれらの兄弟たちに勧めていました。危ういことも何度かありましたが,最悪の事態は過去のものとなりました。支部は依然として活動しており,業も停止していませんでした! 兄弟たちは,「義なる者の遭う災いは多い。しかし,エホバはそのすべてから彼を救い出してくださる」という詩編 34編19節を書いたダビデのような心境にありました。
やがて,スイス軍参謀部によって1940年7月に没収された文書が協会に返還されました。兵士たちが出版物を正確に数えるのに数日かかりました。それらの出版物は後日,野外で大いに活用されました。
4年間の中断を経て印刷出版された「ものみの塔」誌を久し振りに手にしたら,読者はどう感じるでしょうか。月に1回ではありましたが,1944年10月1日号より「ものみの塔」誌が再び定期的に出版されるようになって,ドイツ語を話す兄弟たちとフランス語を話す兄弟たちは大いに喜びました。そして,1年ほどのちには月2回発行されるようになりました。
第二次世界大戦は終わったが,証人たちの戦いは続いた
1945年5月8日,西欧諸国は第二次世界大戦の終結を祝いました。しかし,スイスでは崇拝の自由と宣べ伝える権利を獲得するための闘いが続いていました。エホバの証人は大抵の地域で戦時中より自由に行動できましたが,カトリックの地域では依然として非常な反対がありました。
一例として,1946年1月にツーク市で「人間は世界の建設者として成功するか」という公開講演が行なわれている最中に,警察が突然会場に現われて講演をやめさせたことがあります。協会は訴訟を起こし,ローザンヌにある連邦最高裁判所にその事件を持ち出しました。その結果ツーク市当局による禁令は憲法違反とされ,新聞記事には「エホバの証人が権利を獲得」とか「崇拝の自由は維持されるべき」といった見出しが掲げられました。しかし,カトリックの新聞がその判決をそのように肯定的に報道しなかったことは言うまでもありません。
ドイツの兄弟たちに差し伸べられた援助
強制収容所から出て来た忠実な兄弟たちが悲惨な状況にあるというニュースが伝わった時,スイスの兄弟たちは「優しい同情の扉を閉じる」ようなことをしませんでした。(ヨハネ第一 3:17)初期クリスチャンの共同体の精神をもって救援運動に忙しく 携わったのです。(使徒 11:29,30。コリント第二 8:1-4)衣類や家庭用品がたくさん寄付され,品物がすべて良い状態にあることを見届けるために姉妹たちが幾人か時間と労力を提供しました。結局,1946年と1947年に正味が全部で25㌧にも上る444個の箱がドイツへ送られました。その救援計画をお金に換算すると全部で26万2,000スイスフラン(当時の日本円にして約2,200万円)に上ります。「ドイツの兄弟姉妹たちが喜んでおられることや感謝してくださっていることを聞いた時,本当にうれしく思いました。その運動で自分たちに求められた余分の仕事が大いに報われたと感じました」と,その救援運動の手伝いをしたある姉妹は語っています。
兄弟たちを強め,戦後の活動の良い出発ができるようにするには,霊的な食物も物質的な援助に劣らず大いに必要とされていました。したがって,スイス支部からは聖書文書もドイツへ発送されました。そのような形でドイツの業の再建にささやかながら貢献できるのは大きな特権だと思いました。
待望久しいノア兄弟の訪問
私たちは協会の会長の戦後初の訪問を待ち遠しく感じていました。波乱に富んだ8年が経過し,ネイサン・H・ノアが会長になっていました。ノア兄弟の1945年のベルン訪問はごく短いものでしたが,1947年5月に再び訪問がなされました。その訪問を一大行事にしたいと思い,私たちはチューリヒにある美しい大会用のホールで大会を開くことにしました。
「すべての人びとの喜び」というのが,大会の金曜日の夜に行なわれるノア兄弟の公開講演の主題でした。伝道者たちは,10万枚のビラを配ったり,ポスターを掲示したり,プラカードを着けて市街を行進したりすることを喜び勇んで行ないました。新聞
にも公開講演の宣伝が載りました。私たちは行なわれていることをチューリヒに住むすべての人に知ってもらいたいと思っていたのです。結局,1,540人が講演会に出席しました。その集まりが終わった時,エホバの証人でない人全員に小冊子が配られました。それが800冊配布されたので,出席者の大半は私たちの招待に応じてやって来た関心のある人々だったと考えられます。それは実に満足な結果でした。
開拓奉仕を強調する
初期の聖書文書頒布者<コルポーター>の時代から,ドイツ語の区域にもフランス語の区域にも忠実な全時間の伝道者が常に何人か奉仕していました。しかし,明らかにそれはほんの少数でした。例えば,1945年に伝道者は1,462人いましたが,そのうち開拓者はわずか3人にすぎなかったのです。スイスでは機会が十分開かれているわりに開拓者の数が少ないとノア兄弟は考えました。そして,その原因の一つは,訪問販売に関する法令に触れないよう出版物が多数,無料で配布されているため,伝道者が伝道の業の経費をすべて自己負担しなければならないことにあると判断しました。
ノア兄弟の観察は当たっていました。出費がまかなえないために全時間の伝道奉仕を断念せざるを得ない兄弟たちがいたからです。開拓の業に参加できるはずのそれらの人々を援助するには,自発的な寄付を求める問題が解決されなければなりません。
その解決法
当時ブルックリンで協会の弁護士をしていたヘイドン・カビントン
がその旅行でノア兄弟に同行していました。大会の席上カビントン兄弟は,米国で自分たちが行なったことを説明し,福音の伝道に関連して配布される文書に対して訪問販売の許可証がなくても自発的な寄付を受け取る権利を獲得するために訴訟を起こしたことを話しました。スイス支部も,クリスチャン宣教の権利と特権を獲得するため,その問題が解決されるまで法廷で徹底的に闘わなければならないのです。それにはスイスの全伝道者に一致した行動が求められます。伝道者たちは熱烈な拍手を送り,進んで協力する意志のあることを示しました。そのチューリヒでの大会はスイスの王国の業の歴史において一つの里程標になりました。無許可訪問販売の問題
兄弟たちはすでに1930年代に,「無許可で訪問販売を行なった」かどで逮捕されるという経験をしていました。チューリヒ大会で励ましが与えられたので,いよいよその問題に決着を付けることになりました。古代のフィリピで使徒パウロが行なったように,兄弟たちは「良いたよりを擁護して法的に確立する」つもりでいました。―フィリピ 1:7。
伝道者たちは再び,野外宣教で配布した文書に対して自発的な寄付を受け取ることになりました。すると早速,警察による摘発が,なだれのように全国各地で続出しました。しかし,協会は強行に決着を付けようと決意していました。どのような結果になったでしょうか。
例えば,プロテスタントの優勢なベルン州の高等裁判所は,自発的な寄付に基づく出版物の配布は訪問販売法に触れる行為であると長年の間主張し,数十年にわたってエホバの証人に不利な判決を下してきました。さて,1948年に一人の兄弟が下級裁判所
で,やはり20スイスフラン(約1,700円)の罰金を科されました。高等裁判所に上訴がなされました。すると,このたびは突破口が開かれたのです! ベルン高等裁判所はその意見の中で次のように述べました。「儲けが得られていなかったという事実はさておき,被告の行動で,その活動が職業的な性質のものであることを明示するものは何も認められない。自分のためであれ,エホバの証人の資金のためであれ,訪問販売によって儲けを得る意図のあったことは立証できない。事件の証拠上の状況から結論できることは,被告が生得の利己的な傾向を抜きにして,もっぱら崇高で無私の目的を持って行動したということである。少なくとも生産費をまかなえる額の支払いを期待して小冊子の提供がなされたのではない。被告にとって最大の報酬は,その宗派の精通者の数が増加することと,福音宣明が好意的に受け入れられることにある。もし人々に迷惑をかけようとする者たちから一般の人々を保護することが訪問販売に関する法令の目的であるなら,商品の販売に関する法にかこつけて家から家の宗教宣伝を妨げるのは誇張であり,したがって憲法が保障している言論の自由を侵すことになるであろう」。
ベルン高等裁判所は以上のように無罪を宣告し,その問題に関して40年間維持していた裁判上の方針を覆しました。その判決はほかの州では拘束力を有していませんでしたが,他州の多くの裁判所にとってそれは鋭い関心の的になりました。
ボー州での最も厳しい戦い
訪問販売の問題をめぐる最も長期に及ぶ,そして最もしつような闘争は,フランス語の話されるボー州で起きました。1935年に同州で訪問販売に関する法律が改正されました。その改正
箇条によれば,値段が買い手に一任され,定価のない商品を提供することは訪問販売に等しいということでした。ローザンヌの州検事はエホバの証人を起訴する根拠になるとしてその改正を歓迎しました。1948年,パイェルヌ地方裁判所は無許可で訪問販売を行なった罪でジーン・ジーゲンターラーという開拓者の兄弟に罰金を科しました。高等裁判所に上訴したところ,高等裁判所は下級裁判所の判決を維持しました。つまり,上訴人の活動は間違いなくその法律に触れるものであるとしたのです。
そのような判決が下った結果,エホバの証人の権利と自由のための闘いが始まりました。それは5年余りも続くことになります。下級の地方裁判所は大抵の場合私たちを無罪としてエホバの証人の権利を保護しました。しかし,州検事は非常に敵対的で,それらの事件を高等裁判所に上訴し,下級裁判所の判決はそこで破棄されるのでした。協会はある事件を司法の最高権威である連邦最高裁判所に持ち出すことさえ行ないました。しかし,恥ずべきことに最高裁判所は上訴を棄却したのです。
あえて異なる判決を下した勇敢な裁判官
その後,1951年9月3日に,ローザンヌの地方裁判所で裁判が行なわれました。それはジルベルテ・シュネーベルゲルにかかわる事件でした。勝訴の見込みが薄かったので,協会は弁護士をつけないことにしました。独りで法廷に座った時,その若い開拓者の姉妹がどんな心境にあったか想像できるでしょうか。
ツバイフェル裁判官が法廷に入りました。開廷を宣言すると,ツバイフェル裁判官は,「娘さん,あなたの事件は連邦最高裁判所で不利な判決を受けた事件と全く同類のものです。私自身
も法律に縛られていて,法律を変えることはできないのですよ」と父親のように優しく言いました。すると,その若い姉妹は立ち上がり,自分の立場を弁明してもよいか尋ねました。
「もちろん構いませんよ,娘さん。もちろんです。伺いましょう」。裁判官は椅子にそり返って座ると,若い婦人の陳述にじっと耳を傾けました。その姉妹は協会の法律担当係が用意した覚え書きを読みました。
ツバイフェル氏はその論議に非常な感銘を受けました。正しく疑問を抱くようになり(そのドイツ語名,ツバイフェルにはそのような意味がある),判決の言い渡しを延期しました。二日後に判決が下りましたが,それはなんと無罪でした!
実に驚くべきことでした! そのような判決を下すことはツバイフェル氏にとって非常に勇気のいる事柄でした。おまけに,高等裁判所および連邦最高裁判所双方の判決をあえて問題のある不十分なものとみなしたのです。その後にどのようなことが待ち受けていたでしょうか。
誠実な牧師が証人に有利な証言をする
それからしばらくして,別の事件がエグル地方裁判所で審理されました。その裁判では証人の一人として,プロテスタントの牧師が証人台に呼ばれました。伝道者から2冊の書籍を受け取り,自発的な寄付として4スイスフラン(約336円)を差し出したことがあったのです。その牧師は,エホバの証人が本の販売を目的としてでなく,宗教的な事柄を話し合うために自分のところへやって来たことを法廷で明確に立証しました。そして,その若者は訪問販売を行なう者でなく福音宣明者であるとはっきり述べました。その伝道者は無罪になりました。
一方,パイェルヌで奉仕していた忠実な開拓者のカール・マウラーは科された罰金を払おうとしなかったために刑務所で一昼夜過ごさなければなりませんでした。
強情な州検事がついに闘いに敗れる
1953年,その闘争はついに決定的な対決の時を迎えました。エホバの証人に対して勝利を収めることに腐心し,下級裁判所が上級裁判所の否定的な方針を無視していることに腹を立てていた州検事は,下級裁判所で被告が無罪となったある事件を繰り返し上訴しました。そのために,ボー州の高等裁判所は同一の問題に関して1948年以来4度目の審理を行なわなければなりませんでした。
さて,この度は予期しないことが起きました。新しい顔ぶれの一群の判事で構成されていたその法廷は,問題を根本的に調べ,エホバの証人の活動を訪問販売とみなすことはできないとの判決を1953年1月26日に全員一致で下したのです。州検事の上訴は棄却されました。ボー州の高等裁判所はついに,商業に関する法律の精神と条文に調和した,偏見にとらわれない健全な方針に到達したのです!
その勝訴によって,スイスのエホバの証人の業の歴史における興奮に満ちた1章が終わりました。また,その勝訴は,伝道者たちの何ものをも恐れない態度と多数の判事の自由を愛する精神を立証し,なかんずく,天与の権利と崇拝の自由のために熱心に闘ったご自分の僕たちをエホバが祝福されたことを証明するものとなりました。
依然として挑戦となる中立の問題
第二次世界大戦中に中立の立場を取った兄弟たちの状況はすでに
お話ししました。スイスは戦争に積極的に参加せず,自国の中立を正式に宣言していたにもかかわらず,全く矛盾したことに,宗教的な理由で個人として同様の権利を主張する市民を有罪として投獄しました。戦後,刑は軽くなりましたが,それでも,繰り返し有罪判決が下されることは依然として日常茶飯のことになっていました。しかし,時たつうちに,「良心的兵役拒否者」の問題に対する一般の人々の関心が高まり,新聞がその問題を大きく取り上げました。興味深いのは,兵役を拒否した人をめぐる裁判事件に関して,スイス軍参謀部元長官イエーフ・ツムシュタインの語った言葉です。1984年2月のある新聞にはその人の次のような言葉が載っていました。
「私は実態を知りたかったので,そのような裁判の聴問会に幾度か出席しました。エホバの証人をめぐる事件は一定の水準が保たれていることで際立っていました。それは,被告の側についても言えることでした。被告やその親族はよそ行きの服を着て法廷に現われ,自分たちの主義を威厳を持って弁護しました。裁判官たちはエホバの証人の立場を知っていて,慣例どおりの処罰方法を適用し,5か月か6か月の刑を言い渡しました。エホバの証人たちは,国の要求に従わない者を国が罰することをどういうわけか認めます。そして,最近軍事法廷に出廷する人々に多く見られるような,国を『雌豚』扱いにすることはしません」。
もっとも,「良心的兵役拒否者」の問題の解決策を見いだすことを狙いとしたその運動は軍事法廷に影響を及ぼしました。現在,宣告される刑は3か月の実刑から5か月の実刑までさまざまです。兄弟たちは普通,有罪判決の期間中そのほかの兵役義務を免除されます。大抵の場合,日中に病院や老人ホームで働い
て服役し,夜だけ刑務所の監房へ帰ります。しかし,毎年60件から70件の軍事裁判事件が,特に中立の立場を取る若い兄弟たちをめぐって引き続き起きています。「キリスト・イエスのりっぱな兵士として」,それらの若い兄弟たちはクリスチャンの中立のために「苦しみを共にして」います。(テモテ第二 2:3)神から求められている任務を果たすために自らを進んで差し出しているのです。グシュタートというアルプス地方の初期の油そそがれた証人の一人,アーデレ・ライヒェンバッハ姉妹はある時ちょうどそのような主旨のことを述べたことがあります。それはライヒェンバッハ姉妹が陸軍将校の夫人を再訪問した時のことでした。当の大佐が応対に出てきて,夫人が求めた書籍を返してよこすと,「この兵役拒否者たちめ! くだらないこの本を持って,とっとと帰れ!」と侮辱的に言いました。ライヒェンバッハ姉妹はこう答えたのです。「ご主人,私たちはあなたが拒否しておられる任務を遂行しているのです」。
「未割り当て区域」に達する努力
1952年以降,「未割り当て区域」で伝道するために特別の努力が払われました。「未割り当て区域」は多くの場合,辺ぴな渓谷や農村地帯から成っていて,村々には大きな教会の建物があり,道に沿ってあちらこちらに十字架が目につくように立っていました。信念の堅いカトリック教徒の住民たちがそれまでに冊子を何か受け取っていたことは考えられますが,それらの僻地の中には徹底的な証言を一度も受けたことのない所がありました。
エホバの証人のことなど聞いたこともない人々がいましたし,自分の聖書を持つことはおろか聖書を一度も見たことのない人
も少なくありませんでした。そこは正に未開拓の区域だったのです! 伝道者たちは勇気と熱意を持ってその活動に参加しました。そして,多くの土地で,得られた成果に驚きました。同様に驚いたのは僧職者たちです。自分たちの牧場だと考えていた土地がそのように侵害されるとは予想だにしていなかったからです。彼らは,出版物を一切受け取らないように,さもなければそれらを焼いて警察を呼ぶようにと信者たちに精一杯警告しました。ある村では,カトリックの若者およそ50人が家から家を巡って,証人たちが配布した文書を集めました。脅しや身体的な攻撃まで加えられました。こんなこともありました。一人の兄弟が村人に証言したところ,その村人はあとで早速警察に電話を掛けて訴えました。ところが,意外な返事が返ってきました。「その人たちには静かに業を続けさせるのだね。あの人たちはわたしたちよりも法律をよく知っていて,行なってよいことと行なってはならないことをちゃんとわきまえているからね」と言われたのです。わたしたちが崇拝の自由のために闘ったことは無駄に終わってはいませんでした!
「教会の使者」誌は関心を呼び起こす助けになる
教区民に真理を聞かせまいとする僧職者の努力は時として思いもよらない不利な結果を招きました。次に紹介する一組の夫婦の場合がそうでした。二人の若い開拓者がその夫婦を訪問した時,夫人が聖書の話に注意深く耳を傾け,二人を家に招じ入れました。「主人が興味を持つと思います」と夫人は言いました。新しい体制の設立は神によって実現されるという聖書に基づく開拓者たちの説明をその夫婦はおよそ1時間にわたり非常な関心を持って聴いていました。そして,聖書の出版物を幾冊
か求め,次回の訪問の取り決めにも応じました。間もなく,その夫婦は聖書の研究に夢中になりました。3度目の訪問の時,主人は,最初に訪問を受けた時に関心を示した理由を次のように打ち明けました。「ご承知のとおり,私は『教会の使者』誌に載っているエホバの証人に関する短い記事を読んでいます。その記事の中にこんなことが書かれていました。二人の若者がりっぱな服装で戸口にやって来て,自分たちの宗教について聖書を使いながら巧みに説明しても,その人たちの話に耳を傾けるべきではありません。私たちには所属している教会があって,そういうことは皆司祭様が教えてくださいます,と言って玄関を閉めてしまいなさい,とね。しかし,私は自由な人間ですから,物事を自分で調べたいと思います。それで,あなた方の話をお聴きしたのです」。
その若い夫婦はよく進歩して,集会に出席しはじめ,間もなく野外奉仕に参加するようになりました。そして,神への献身を象徴的に表明したのです。二人の注意を真理に向けさせたのはほかでもない,「教会の使者」誌でした。
僧職者の中にも例外的な人がいました。自分の教会の信者が援助を必要としており,エホバの証人の訪問は信者の益になるということを認める僧職者がいたのです。一例として,ある司祭は,自分の教会の新聞にこのような記事を発表しました。
「親愛なるエホバの証人の皆さんへ:
「皆さんがこの地域社会でたいへん勇敢にも家から家を訪問されることに私は非常に感謝しています。実際そのことに深く感謝しているのです。皆さんはどこでも歓迎されるわけではないものの,ひょっとしたら,全くひょっとしたらのことですが,この地域の人々に次のことを再び思い出させてくださるかもしれないからです。
「日常の糧と娯楽のほかに,喜びと嘆き,成功と失敗のほかに,生存のための闘いと職業,仕事とレクリエーションのほかに,宗教,信仰心,イエス・キリストに対する信仰といったものもあるということを思い出させてくださるかもしれないのです。皆さんが来られることそれ自体,強力な説教になっているのです!『せっかくですが,うちには所属する教会がありますので結構です』と言われたことが恐らくおありでしょう。しかし願わくば,自分には所属する教会があると言われたなら,『では,あなたは実際にどのようなことを信じているのですか』とさらに質問していただきたいのです。
「以上のような訳で私は皆さんにたいへん感謝している次第です。皆さんは,ここかしこで人々を覚醒させるのに成功されるでしょう。しかし,その点で私は公平を欠かないようにしたいと思います。つまり,自分が目覚めるために私も一般の人々と同じほどその訪問を必要としていることを認めます。皆さんの勇気には感心します。……すべての人がそのような献身的な活動に敬意を示されんことを。皆さんの善意に賛辞を呈します! 私たちは皆その活動から多くのことを学べると私は思います」。
宣教者の家が設けられる
ギレアデの訓練を受けた最初の宣教者として1947年にスイスにやって来たのは,スイス支部から第8期生としてギレアデに招待され,再び故国に割り当てられた3人の兄弟と,一人の姉妹でした。その四人が受けた訓練は,支部事務所および野外における活動の拡大に大きく貢献しました。40年後の今日,そのうちの3人は今でもベテル家族の成員で,フレット・ボリースとビーリ・ディールはスイス支部に,アリス・ベルナーは1956年以来ドイツ支部にいます。
1948年にもさらに宣教者たちがやって来ました。シャルル・レネとラウイモント・レイスティコフは巡回奉仕の割り当てを受け,任命地の世話ができるようドイツ語の勉強を一生懸命行ないました。米国出身の二組の夫婦,ロバート・ハニーと妻のエレインおよびウイリアム・ストリーグと妻のアイオニはジュネーブへ差し向けられました。ジュネーブには1950年に最初の宣教者の家が開設されました。それら四人の兄弟姉妹は,地元の兄弟たちと一緒に働くためフランス語に熟達しようと大いに努力しました。ギレアデの第15期生のフランツィスカ・トラッコフは現在ローザンヌで宣教者として忠実に奉仕しています。ジュネーブにおける増加に見られるとおり,それらの宣教者たちが力を合わせて努力したことはその地の会衆に有益な影響を及ぼしました。
ローザンヌの会衆は1951年に実際活気を帯びるようになりました。その年,ギレアデ第17期生の四人の姉妹たちの住む宣教者の家がローザンヌに設けられたのです。それらの快活な姉妹たちは,主題を用いることによって戸口での証言を改善するよう姉妹たちを特に援助しました。
新しい支部の監督
長い年月の間に大勢の忠実な兄弟たちが支部の監督としてスイスの業のために大切な指導を行ないました。1953年までは,フランツ・ツルヒャーがその任務を果たしていました。やがて,その責任の荷をもっと若い人にゆだねるべき時が来たとの判断が下され,フィリップ・ホフマンがドイツから派遣されました。1957年にジュール・フェラーがそのあとを継ぎました。フィリップ・ホフマンは現在デンマークの支部で奉仕しています。1963年には,ギュンター・クルシェウスキーがスイス支部
の監督をゆだねられました。次いでビーリ・ディールが1965年11月1日付で支部の監督に任命されました。ディール兄弟は1931年にベルンのベテルに入って全時間奉仕を始め,端物の印刷機を操作しました。15年後にはギレアデ学校へ入学するよう招待されました。結婚してから,妻と一緒に2年間開拓奉仕を行ないました。ディール兄弟は巡回監督および地域監督としても奉仕しました。1964年に再び,この度は妻を同伴して,ギレアデに入る招待を受けました。さらに広範に及ぶ課程から益を得るためです。以上の事柄はすべて,同兄弟が支部の監督として働く上でのたいへん良い下地となりました。
協会のほかのすべての支部におけると同様,スイス支部にも1976年以来支部委員会が設けられています。調整者はビーリ・ディールで,他の委員はアルミン・ベートシェン,ジョン・ジィル・ギユ,ラルス・ヨハンソン,ハンス・クレンクです。
ティチーノ州に注意が向けられる
アルプス山脈とイタリアの国境とにはさまれた,スイスの陽光輝く南部地方にティチーノ州があります。そこはイタリア語が話されている地方で,住民はほぼ全員がカトリック教徒です。この州で王国の音信が足掛かりを得るのは容易なことではありませんでした。しかし,協会は,少しでも関心が見いだせたならその関心を大切にするように手配しました。非常に豊かな収穫があろうとは兄弟たちのだれも全く知りませんでした。
ドイツ人とスイス人の混血で,イタリア語を話すアンドレアス・モンシュタインが1944年にルガノへ差し向けられました。モンシュタイン兄弟はその区域で働き,関心を持つ人たちから成る幾つかの小さな群れの世話をし,公開講演会を開きました。ゼカリヤ 4:10。
それは小さい始まりながらも侮るべきではありませんでした。―やがて,ほかの開拓者たちも加勢してティチーノ州の各地で真理の種をまきました。それは骨の折れる仕事でした。人々は聖書の知識を全く持っておらず,多くの場合は迷信や僧職者に対する恐れにとらわれていました。それでも,伝道者の小さな一団は忍耐を示しました。ところが,ついに,思いがけないところから援軍が来たのです。
イタリアから来た宣教者たち
ギレアデの訓練を受けた宣教者が大勢,突然にイタリアから追放されて,ティチーノ州に居着きました。やがて,それら宣教者たちのほとんどはイタリアへ戻ることができました。また,別の理由で去った人もいました。しかし,その間に,幾つかの会衆を設立する土台が据えられたのです。いつまでも忘れることのできない宣教者はアンジェロ・フラエセです。この兄弟はルガノの宣教者の家に20年ほど留まり,冗談に「ルガノ会衆のみ使い」と呼ばれることもありました。
ティチーノ州で初めて証言がなされてから長い年月がたち,伝道も相当行なわれました。どのような結果が得られたでしょうか。今日,活気にあふれた11の会衆があり,約950人の伝道者が交わっています。ルガノだけでも四つの活発な会衆があり,しかもそれが最後ではないのです!
「移民労働者」に伝道する
戦後スイスでは非常なにわか景気が起こりました。スイスの労働者は皆,最も良いとされる職に就きました。では,だれがありふれた仕事をするでしょうか。戦争で分裂した国々には喜ん
で働く助け手が大勢いました。こうして,移民の波が押し寄せはじめました。1968年末には,外人の居住者が全人口の15%にも上る93万3,000人を数えました。それらの「移民労働者」の大半はイタリアからの人たちでした。兄弟たちが宣教を行なっていると,間もなく国中の至る所でイタリア人に出会うようになりました。しかも,その中には真理に関心を示す人が少なくありませんでした。ルドルフ・ビーダーケールの次のような経験はその典型的なものです。フンツェンシュビルでのこと,この兄弟は1軒の古い家でイタリア人の労働者に会いました。二人はお互いに相手の言葉があまり分かりませんでした。どうしたらよいでしょうか。ビーダーケール兄弟はイタリア語の「ものみの塔」誌を1冊置いて帰りました。そして,言葉の問題があったにもかかわらず,再びその人を訪問しました。そのイタリア人はビーダーケール兄弟を見ると,すぐに「ラ・トルレ・ディ・グアルディア」誌を持って来て,目を輝かせながら,「クエストエラベリタ!」(「これは真理だ!」)と叫びました。その反応に勇気を得たビーダーケール兄弟は「神を真とすべし」と題する本のイタリア語版を3冊手に入れ,その人すなわちペラガッティ氏と夫人および12歳になる息子のジャンニの3人と研究を始めました。その家族はイタリア語の書籍を読み,ビーダーケール兄弟のほうはドイツ語版を見ました。言葉の通じない時は,手振りや身振りがふんだんに使われました。学校でドイツ語を学んでいた息子が通訳をすることもありました。
ペラガッティ家の研究に上の娘とその夫のトロンビ氏も加わりました。その人たちは5人ともよく進歩し,「神を真とすべし」の本が終わるまでには家族全員がカトリック教会からの脱退を自発的に宣言し,エホバへの献身を象徴的に表明しました。
熱心なエホバの証人だったその家族は,イタリア人のさらに多くの家族が真理を学ぶのを助ける器になりました。現在,父親のほうのペラガッティ兄弟は死の眠りに就いていますが,ジャンニとその家族は引き続き忠実な証人としてライナハのイタリア語の会衆に交わっており,トロンビ家の人々もイタリアのパルマの近くで活動しています。では,ビーダーケール兄弟はどう感じているでしょうか。同兄弟は力を込めて,「私がこの経験を今でもどんなにうれしく思っているか,ほかの方には想像がつかないでしょう」と語っています。広範囲に及ぶ結果をもたらした非公式の証言
ルツェルンでのこと,その地域で長年開拓奉仕をしていたイーレネ・フレンツェルは行きつけの美容院のイタリア人の美容師に,エホバの証人の1953年の大会に出席するため米国へ行く計画でいることを何気なく話しました。その美容師はエホバの証人という名称をそれまで聞いたことがなかったので,どういうものなのか尋ねました。仕事が終わってから話し合うこと
になり,イタリア語の話せる姉妹の助けを得て,研究が始まりました。美容師のブリューノ・クィリシは研究したいと強く願っていましたが,同時にカトリックの信条を支持していました。地獄の火の存在をめぐって激しい討論が続きました。「私たちは地獄が存在すると教えられたんです」とクィリシはこぶしをテーブルにドンドンとたたきつけながら,何度も叫びました。しかし,ついには,聖書が偽りの教理に対して勝利を収めました。クィリシ氏は聖書にすっかり夢中になり,週に2回研究することを希望しました。その間,相変わらず教会で賛美歌を歌っていました。しかし,やがて,偽りの崇拝の束縛から解放され,真理の神エホバに献身しました。ところで,そのような努力の結果をクィリシ兄弟自身に語ってもらいましょう。
「まず,ドイツ人とスイス人の混血の妻も真理を受け入れたのは本当にうれしいことでした。ですから,私たちは二人の子供を聖書の原則に従って育てることができました。アールガウ州に引っ越してみると,自分がその地方で最初のイタリア人の伝道者の部類に入ることを知りました。それで,イタリア人の労働者すべてにあまねく伝道することが自分に求められていると感じました。私の努力は祝福され,幾つもの家族が真理を受け入れました。時たつうちにイタリア語の会衆は結局七つになったのですから,このような喜びを与えてくださったエホバに本当に感謝しています」。
クィリシ兄弟は身近な所で得られた結果で満足したでしょうか。そうではありませんでした。イタリアにいる親族のことも考えたのです。こう語っています。「自分の身内の関心をかき立てようと,できるだけ早くイタリアへ行きました。それは無駄になりませんでした。姉妹二人とその家族がルッカの付近で
最初の証人になったのです。しかも,今日そこには活気にあふれた会衆が五つもあるのです」。その間にクィリシ兄弟は世俗の仕事を退き,娘に加わって正規開拓奉仕を始めました。息子夫婦もエホバに全時間仕えています。
驚くべき急速な発展
スイス人の伝道者にとって,イタリア人の間で見られた速い反応と急速な発展は驚異でした。何年にもわたってのろのろと進む,スイス人との研究に慣れていたのが,イタリア人の場合はそうでなかったからです。イタリア人は聖書の教えの要点を理解すると早速それを実行しました。1度招待するだけで集会にやって来て,しかも一人で来ることはめったにありません。親族や友人を連れて来るのです。近所の人からどう思われるかということを気にするところがありません。家族の反対を克服しなければならなかった人がいなかったわけではありませんが,故郷から離れていたことやスイス人から幾分孤立していたことが大いに幸いして,彼らの感受性に富む心にまかれた王国の種は急速に成長しました。
アルトゥーロ・レベリスによれば,同兄弟が1960年代の初めにイタリア語を話す人々のための巡回奉仕を始めた当時,訪問地になっていたのはイタリア語の九つの会衆と多くの小さな群れでした。レベリス兄弟は,「間もなく,全国各地でイタリア語の会衆が雨後の竹の子のように次から次へと設立されました。つまり,ドイツ語を話す地域やフランス語を話す地域でも,イタリア人で関心を示す人々の世話をするためにイタリア語の会衆が組織されたのです」と語っています。やがて,イタリア語の巡回区が五つ組織されました。巡回大会には大勢の人
が出席したのでイタリア人を対象とする業はなお一層活発になりました。長老たちの立派な特質
イタリア人は家族のきずなの極めて強い人々です。そのことは子供を非常にかわいがることによく表われています。しかし,イタリア人は老いていく親を深く敬う人たちでもあり,普通,親の世話をよく行ないます。そのような優しい心根は,彼らがクリスチャンの大きな家族,すなわち会衆で良い長老になる点で一役買っているようです。長老たちの,親切で思いやり深く,しかも毅然とした態度はイタリア語の畑における拡大にどれほど貢献したか知れません。
彼らは,家族全員を定期的に集会に連れて来て,ヘブライ 10章25節と申命記 31章12節の助言に従うことにより,良い手本を示しています。その良い習慣は新しく交わりはじめた人々にも伝染し,その人たちも子供を連れて来ます。王国会館で教えられていることがまだ理解できない幼い子供たちがそわそわしたり泣いたりする場合が時折あるかもしれません。しかし,その子供たちを家に置いて来るより王国会館に連れて来るほうが勝っています。そのうちに子供たちは学んで,分別がつくようになります。
王国会館が満員になって,会館内が不快なほど暑くなることはよくあるものですが,イタリア人の兄弟たちは,問題の解決策が見つかるまで辛抱強く忍耐します。フランス語やドイツ語の会衆の中には,自分たちのためではなく,同じ会館を使用しているイタリア語の会衆のために,もっと広い会館を探さなければならなかった会衆も少なくありません。
ヌーシャテルの会衆の場合はその典型的な例です。この町に
はフランス語の会衆とドイツ語の会衆がそれぞれ一つずつありました。のちに,イタリア語の会衆とスペイン語の会衆もできました。次いで,スイスで最初のポルトガル語の会衆も設立されました。このような,外国語の畑の増加のために,兄弟たちはさらにふさわしい集会場所を探さなければなりませんでした。それで,あるビルの一つの階をそっくり購入し,それを仕切って二つの王国会館にしました。そこは現在,五つの会衆が共同で使用しています。イタリア人のあと,スペイン人が組織される
イタリア人ほど多くありませんが,別の「移民労働者」のグループはスペイン人です。機敏な伝道者たちは王国の音信に精通するようそれらの人を大勢援助してきました。例えば,バーゼル出身のハンス・ボーデンマン1世はこのように語っています。
「ある日,一軒の家を訪問して何の成果も得られずに帰る途中,道端にいた二人の若者が目に留まりました。片方の若者は聖書らしき本を読んでいました。挨拶をすると,二人はスペイン人でした。若者が読んでいた本はやはり聖書でした。私は,翌日の晩同じ場所にスペイン語の話せる人とまた来るということをやっとのことで二人に理解してもらいました。
「スペインに長年住んでいたジーゲンターラー兄弟を伴って翌日の晩にそこへ行くと,四人のスペイン人が待っていました。その人たちはそれまでエホバの証人に一度も会ったことがなかったのですが,個人の家で週に1度集まって聖書研究をすることをすぐに承諾しました。
「第1回目の時は6名の人がやって来ました。次の時は8名でした。私たちが協会の映画を上映したところ,その人たちはすばらしい印象を受けました。最初の年は良かったり悪かったり
で,いろいろ変化がありました。研究生が何人か集まりに来なくなったり,スペインに帰ったりしたのです。しかし,その代わりに新しい人々が出席するようになりました。うれしいことに私は,道端で最初に話しかけた若者のうちの一人,フアン・ペレスが妻と一緒にたいへん活発な伝道者になるのを見ました」。ついに1969年12月,そのスペイン語の群れはバーゼル・エスパニョーラという,スイスで2番目のスペイン語の会衆になりました。(最初のスペイン語の会衆は1965年にルツェルンに設立された。)フアン・ペレスが会衆の監督になりました。その後,ペレス兄弟は特別開拓者の業に携わるため,1970年5月妻と共にスペインへ帰りました。
スペイン語の会衆がさらに幾つか組織され,1972年以降スペイン語の巡回区が設けられています。最初の巡回大会の出席者はわずか185人でしたが,その後巡回区の会衆の数は16に増え,伝道者もほぼ1,200人になりました。
スイスのイタリア語とスペイン語の畑に関連して,この国で一般に使われている言語のほかにそれらの言語も話せる兄弟たちがいるのは感謝すべきことだと思います。例えば,ドイツ人とスイス人の血を引く,言語能力に秀でているマックス・ボルンハルトは扶養すべき家族を持ちながら,支部事務所で非常勤の奉仕を行ない,イタリア語とスペイン語の巡回区の地域監督として奉仕しています。
感謝される協会の映画
協会の映画を見て益を受けたのはスペイン人の「移民労働者」だけではありません。私たちは皆映画の上映に乗り気でした。農村部の小さな会衆にいるため,エホバの業の全世界的な規模を思いに描くのを難しく感じている兄弟たちは少なくあり
ませんでした。ですから,多くの人種や国籍の兄弟たちが登場するいろいろな映画は,一般の人々だけでなく,それらの兄弟たちにも非常な感銘を与えました。そこに見たものは,小さな,名もないグループではなくて,全世界に及ぶ組織だったのです。黒人の兄弟たちが王国の奉仕に携わっているところを紹介した場面はたいへん好評でした。アフリカのバプテスマ希望者が衣服を完全にまとって水に浸されるのを見て,ある婦人は心配になりました。その後ぬれた衣服のまま歩き回ったら風邪を引くのではないかと思ったのです。しかし,アフリカの気温はスイスと違います!
人々に王国会館へ足を踏み入れてもらい,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」というイエスの言葉の成就の目撃証人となってもらうのに,それらの映画は優れた手段になってきました。―マタイ 24:14。
開拓者たちはリヒテンシュタインで道を整える
リヒテンシュタインについては先に,「全体主義か,自由か」と題する小冊子が配布されたところまでお話ししました。美しいこの国でその後何年かの間にどんなことがあったでしょうか。
開拓者のヘレン・クネヘトリ姉妹は1956年にこの国で働くよう任命されました。クネヘトリ姉妹は,ライン川のスイス側にあるブックスに住み,毎日徒歩で橋を渡ってリヒテンシュタインへ出かけました。伝道は聖書だけを使い,家から家を訪問して行ないましたが,関心を示す人が見いだされると再訪問の時に出版物を配布しました。クネヘトリ姉妹はたいへん親しみやすくて忍耐強い人でしたから,そういう特質によって多くの人の好意的な反応を勝ち得,家庭聖書研究を幾つか始めることが
できました。レントレと呼ばれるこの国でついに真理の足掛かりができはじめたのです!それから2年ほどして,ギレアデ学校で学んだことのあるブランカ・ヘルテンシュタインがオーストリアからスイスに移され,リヒテンシュタインで働くよう任命されました。この姉妹は自分の活動をたいへん上手に組織したため,国土が160平方㌔しかないこの国で警察が姉妹を捜してついに出会うまでに1年半も掛かりました。「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真なことを示しなさい」というキリストの助言に従い,ヘルテンシュタイン姉妹は一つの区域で二,三人の人を訪問すると,別の区域へ移ったのです。(マタイ 10:16)寛大な兄弟たちが自由に使わせてくれた車を大いに活用して,朝,国の片方の端から出発し,もう一方の端で一日を終えるまで村々を次々に伝道しました。ですから,警察が通報を受けて姉妹を捜しに来るといつも,ブランカはまるで地に呑み込まれたかのようにいなくなっていたのです!
警官たちはブランカが戸口から戸口へ行くのを禁じました。しかし,ブランカはすでに,真理に対して誠実な関心を示す人々を大勢見いだしていたので,その人たちの世話を行ない続けました。警察はそのような個人的な訪問を禁止することができませんでした。
レントレは実を結びはじめる
1961年に,リヒテンシュタインで誕生した最初の姉妹がハンブルクの大会でバプテスマを受けました。それから1年後には王国の伝道者が7人になっていて,個人の家で「ものみの塔」研究が毎週行なわれていました。
当時はカトリック教会が住民を強力に支配しており,エホバ
の証人を訴える際に国の権力を巧みに利用する方法を知っていましたが,それでも王国の業は前進しました。1965年には活発な伝道者が11人いました。のちに何人かの人が引っ越して行き,より必要の大きな所で奉仕するためにドイツから来ていた二人の兄弟もこの国を去らなければなりませんでした。さらには,不活発になった伝道者もいます。しかし,真理の光はリヒテンシュタインで輝き続けました。「目ざめよ!」誌は偏見を打ち砕く
「目ざめよ!」誌の1966年8月8日号(日本語版は1966年8月22日号)に「リヒテンシュタイン ― アルプスの宝石」という主題の魅力的な記事が載りました。その号は全国で配布され,スイスとリヒテンシュタインの伝道者たちは胸を躍らせてその特別な運動に参加しました。
その記事は非常に好評を博しました。人々は近づきやすく,喜んで雑誌を求めました。自分たちの国に関する報告が26の異なった言語で(「目ざめよ!」誌が発行されていた,その当時の言語の数)世界中の人々に読まれるということが気に入ったのです。協会は政府の報道担当部門からその優れた記事に対する感謝状を受け取りました。
その運動ののち,兄弟たちは,エホバの証人の業に対する偏見がなくなったのを感じました。その結果,1966年以降は,伝道の業を行なっても前ほどは問題に遭わずにすみました。
城で働いている友人
リヒテンシュタインの首都ファドーツに近づくと,同市の小ぎれいな家々の上方に城がそびえているのが遠くから目に留まります。それは,幾世紀も経た遺跡などではありません。統治者
の公爵が現に住まいとしている城なのです。事実,リヒテンシュタイン公国は民主議会制を基盤とした立憲世襲君主政体を取っています。さて,真理に関心を持っていた,ユーゴスラビア出身のアマリジャという名の若い女性がたまたまそこの皇室に職を見つけました。その女性は故郷にいた時からエホバの証人を知っていて,神の言葉に関する知識も幾らか得ていました。慣例として,城の教会堂の祈祷式に出席することが期待されていましたが,聖書から学んだ事柄を考えると,アマリジャは出席する気持ちになれませんでした。上司は,「私たちと一緒に教会堂へ行かないと,王妃様の機嫌を損ねますよ」と言いました。アマリジャが「でも,出席すれば,神の機嫌を損ねることになります」と答えると,そのまま自由にさせてくれました。
しかしアマリジャには,言葉の障壁によるもっと困った問題がありました。それは,どうすればエホバの証人と会えるかという問題でした。アマリジャは「失楽園から復楽園まで」と題する本を持って,スイスのブックスにある,近くの鉄道の駅へ行きました。通行人にその本を見せながら手振りや身振りを盛んに使って,同様の文書を配布している人たちに会える場所を見つけようとしました。しかし,だれにもそのことが通じませんでした。失望したアマリジャは援助を求める手紙を自分の国に出し,幾つかの支部を通じてようやく兄弟たちと連絡を取ることができました。
その若い女性は信頼できる良い働き人だったので,皇室の職員の間で非常に高い評価を得ていました。それで1969年には,ニュルンベルクで開かれた「地に平和」国際大会に出席する許可を得ることができました。アマリジャは熱意を抱いてその大会のユーゴスラビア語のプログラムに出席し,その時にバプテスマを受けた5,095人の一人になりました。
会衆が設立される
リヒテンシュタインの王国宣明者の小さな一団は1967年以来,特別開拓者の夫婦すなわちオスカー・ホウフマンと妻のアニーに支えられてきました。この二人は忠実に辛抱強く畑を耕して王国の真理の種をまき,生長する苗の栽培と世話を行なってきました。確かに収穫は圧倒されるほど多いわけではありませんが,現在シャーンには約45人の活発な証人から成る会衆が一つ設立されており,魅力的な王国会館で集会が開かれています。スイス出身の数人の伝道者が,必要とされる有能な長老としてその会衆を援助しています。
ホウフマン兄弟は,リヒテンシュタイン公国における業の報告をこう要約しています。「私たちは僧職者の反対や警察の妨害を耐え忍びましたが,そのような時代は過ぎ去り,今では物質
主義的な考えや霊的な事柄に対する無関心さに耐えなければなりません。しかし,リヒテンシュタインの忠実な兄弟たちはその挑戦にも応じる決意でいます」。兄弟たちはエホバの助けを得て,挑戦に立ち向かっていくに違いありません。ラジオ番組に出る ― まれな機会
スイスの主な宗派はプロテスタント教会とカトリック教会ですから,小さな宗教団体がラジオ番組に出るということはこれまでめったにありませんでした。しかし,私たちにはそのような機会が1956年にありました。
それぞれ異説を唱える幾つかの宗教グループが,福音改革派教会の代表者たちとの放送討論会に出るようにとの招待を受けました。しかし,招待に応じたのはエホバの証人だけでした。福音改革派教会を代表していたのは,ベルン大学神学部の教授と高等学校の校長および女教諭でした。一方,協会は支部職員のアルフレッド・ルテマンとフレット・ボリースを代表者として派遣しました。討論会はまずエホバの証人の簡単な紹介で始まり,続いて教授の短い話がありました。それから,さまざまな主題に関して公開の討論が行なわれました。
その番組は土曜日の晩という,たいへん好都合な時刻に放送されました。その放送によって,エホバの証人に好意的な,はっきりとした反応が全国で自然にわき上がりました。熱心に耳を傾けたのは私たちの兄弟たちだけではなかったようです。自分の立場を弁明する際のエホバの証人の態度を称賛する手紙が何十通も協会に寄せられました。改革派協会の代表者たちの嘲笑的な態度に反感を持った人も少なくありませんでした。最も印象的だったのは,兄弟たちが討論会のあいだ裏付けとして絶えず
聖書を引用したのに対し,教会の代表者たちは聖書を1度も使わなかったということです。ある男性は放送が終わるとさっそく支部事務所に電話を掛けてきて,「エホバの証人に脱帽!」と大きな声で言いました。その放送を聞いて教会に脱退届けを提出し,その写しを送ってきた人もいます。その人の手紙には,「自分が探していたものをついに見いだしました」と書かれていました。
オーバーレンダー・タグブラット紙はその放送討論会に関し,かいつまんで次のように述べました。「聖書の解釈に関する討論に参加する場合には,自分がキリスト教を真に実践していることが極めて肝要になる。また,思いやりをもって異説を扱う能力が大いに必要とされる。福音改革派教会の代表者たちは,そのような挑戦をうまく乗り越えていけないことを示した。討論会参加者のどちらか一方を勝ちとしなければならないとしたら,残念だが,エホバの証人派の代表者たちに軍配を挙げたいと思う」。
フランス語の放送局による放送
フランス語を話す兄弟たちがフランス語の放送によっても良い証言がなされることを切望していたのは言うまでもありません。1970年12月20日,日曜日の夜にそれが実現しました。その数週間前に,スイスでフランス語の放送を行なっているソタン放送局の事務局はプリイー会衆の監督のアンドレ・エズレに連絡してきました。スイスのさまざまな社会団体や宗教団体を扱った一連の番組の中でエホバの証人もインタビューを受けることになったのです。
エズレ兄弟のほか,二人の兄弟と一人の姉妹が討論に臨み,神や人間同胞や人類社会一般とエホバの証人との関係に関する司会者
の質問に答えました。クリスマスを目前に控えた時だったので,異教の思想や習慣に汚されない純粋な崇拝の重要性が強調されました。エズレ兄弟はこのように語っています。「その討論からわずか二日後,別の番組に出てみないかという話が先の司会者から持ちかけられました。それは,聖書の原則にのっとりクリスチャンとして中立の立場を取った結果個人的にどう感じたか,また,どんな内面的葛藤があったかということを取り上げる番組でした。私はそれを承諾しました。放送は1971年1月8日,金曜日の午後10時から10時35分まで行なわれました」。多くの人が感謝を述べましたが,特に感謝したのは,真理に好意的でない夫を持つ姉妹たちでした。そのような夫たちは,エホバの証人に対して前ほど悪い印象を持たなくなったので,妻が集会に出席したりクリスチャン宣教に携わったりするのをあまり強く反対しなくなりました。
テレビでも放映される
スイス・テレビ協会はエホバの証人に関する番組を放映するだけの度量を示すでしょうか。1965年にバーゼルで国際大会が開かれた際,大きな前進が見られました。ニュースの時間に,大会に関する短いながらも好意的な報道がなされたのです。それ以来,地域大会に関してインタビューや短い報告がドイツ語とフランス語のチャンネルで放映されています。わずか数分の報道にすぎませんが,それを通して関心を持つようになった人は少なくありません。
エホバの証人を扱ったテレビ番組の中で最も詳しく最も良かったのは1979年1月26日にイタリア語のチャンネルで放映されたものでした。それは40分間にわたって,私たちクリスチャンヨハネ 5:28,29。
の生き方の様々な面を紹介する番組でした。一般視聴者はベリンツォナに住むソルダティ兄弟が家族と一緒に行なっている聖書研究の様子を紹介されたり,イタリアのミラノで開かれた大会に案内されたりしました。また,トゥーンにある協会の支部事務所と印刷工場の見学を通して私たちの組織の活動を見ることもできました。興味深い呼び物だったのは,ルガノに住むテレサ・メディチという当時98歳の姉妹がインタビューを受ける場面でした。メディチ姉妹は80歳の時にバプテスマを受け,98歳になってもなお,自分が確信している事柄をおくせず大胆に語っていました。その愛すべき姉妹は102歳で亡くなりましたが,キリストによる復活の約束が成就することに対して揺るぎない期待を抱いていました。―史上最大の集まり
スイスにおける史上最大の集まりは人口約20万人の都市バーゼルで1965年に開かれた「真理のことば」大会でした。それは国際的な大会で,ドイツ南部をはじめ,フランスその他のヨーロッパの国々の兄弟たちも大勢出席することになっていました。外国からの出席者が3万人から4万人も見込まれていたのです。スイス人の尺度からすると,それはマンモス大会で,その準備をすることは一つの挑戦でした。
「まず頭に浮かんだのは,『そんなに多くの代表者をどこに泊められるだろうか』ということでした」と,スイスの地域監督のハンス・クレンクは当時を回顧しています。クレンク兄弟はドイツの地域監督のカール・ヘーゲレと一緒に大会を組織する仕事をゆだねられていました。
プログラムは五つの言語で,すなわち,ドイツ語,フランス語,イタリア語,スペイン語,ポルトガル語で行なわれること
になっていました。自分たちの国では業が依然禁止されていたにもかかわらず,旅行許可を得てスイスへ行くことを望んでいた,スペインやポルトガルの約2,000人の兄弟たちにとって,それは確かに一大行事でした。しかし,クリスチャンの大会に出席する計画でいることが役人に知られてしまい,旅券を発行してもらえなかったため,残念ながら出席できなかった兄弟たちもいました。大会開催日のかなり前にバーゼルで開かれた準備集会では,近くのドイツからの出席者を幾らか含む,およそ800人の伝道者たちが,ホテル・学校の寄宿舎・キャンプ場・市内および周辺の町村の個人の家で宿舎を提供してもらう方法に関する指示を受けました。そして,宿舎を探すその活動に1万8,000時間を費やしました。そのような仕事に取り組むのに助けになったのは兄弟たちに対する愛や熱意でした。代表者たちがどっとやって来た時,星空の下で寝なければならなかった人は一人もいませんでした。
私たちの,喜んで物事を行なう精神に驚嘆する
会場となる大きなスポーツ競技場では,多くの工事が必要とされました。五つの言語のグループが予定されていたので,ほかの設備すべてと共に演壇を五つ設けなければなりませんでした。77人の兄弟姉妹が時間や筋力や専門技術を進んで提供しました。例えば,フリーダ・ヘミンクは65歳の誕生日に,仮設トイレ用の溝掘りをしました。ヘミンク姉妹は今でも,「仲間の兄弟全体」への愛に基づくそのような仕事に参加できたことを特権だったと感じています。―ペテロ第一 2:17。
現場に居あわせた人の中で一番驚いたのは,市の消防署の署長でした。「あなた方はどうしてこういうことができるのです
かね。ここには,無報酬の働き人が大勢いますが,町では,高い給料が支払われるというのに労働力が深刻なほど不足しているのです」と語気を強めて言いました。巡回監督の一人で,自発奉仕部門の責任者だったドイツ出身のローレーダー兄弟は,4週間の旅をして大会都市へやって来たオーストラリアの兄弟の例を挙げて説明しました。その兄弟はバーゼルに到着すると,まっすぐ自発奉仕部門へ来て,配管の仕事を手伝いたいと申し出たのです。消防署の署長は頭を振って,「確かにすばらしいことだ。全く信じられません。無報酬で何かをするような人は今どきいませんからね」と言いました。神に用いていただきたいと思う人々を通してエホバの霊がどのような事を成し遂げ得るかなど,経験したことのないその署長に分かろうはずがありません。
大会最終日の1965年7月18日には,ノア兄弟の行なった「平和の君のになう世界政府」と題する公開講演に合計3万6,785人が出席しました。大会はそれ自体,エホバの証人が自分たちの間ですでに一致と平和を実現していることを例証するものでした。出席者の内訳は次のとおりです。ドイツ語グループ 2万9,827人,フランス語グループ 3,385人,イタリア語グループ 1,340人,スペイン語グループ 1,886人,ポルトガル語グループ 347人。
支部の建物が新たに必要とされる
1968年にノア兄弟が訪れた時,重大な決定の下される運びになりました。そして,5月29日にベルンで開かれた特別集会で会長自らがその決定を発表しました。支部に新しいベテル・ホームと工場ができるというのです! もっと良い施設が緊急に必要とされていたので,兄弟たちはその知らせに大喜びしまし
た。それは,エホバが兄弟たちの努力を祝福してくださっていることを示すものでした。ベルンの古いベテルの建物からおよそ32㌔の地点にあるトゥーンにふさわしい土地が見つかりました。そこは,トゥーン湖からほど遠くない場所で,アルプスのすばらしい景観を望む美しい環境の中にありました。ベテルの家族は胸を躍らせました。1969年の2月11日に掘削工事が始まり,3月末にはコンクリートの打ち込みが行なわれていました。その後,建設工事は急ピッチで進みました。建てられるのは旧支部の2倍の大きさの,5階建ての建物で,家族のための居室が53部屋あり,工場や倉庫や事務所も十分の広さがありました。床を張る仕事や木工事など,内装関係の仕事の多くは兄弟たちが行ないました。床を強化するために鉄筋が80㌧も使われ,その内の50㌧はもっぱら工場のコンクリートの床に用いられました。何年ものちになって,工場の床がそのように頑丈に造られたのは神の摂理によるものであったことが分かりました。
新しい輪転機も導入される
出版物の必要が増大していることを考慮して,新工場には2番目の輪転機が据え付けられることになっていました。それは,M・A・N社の35㌧の輪転機で,その据え付けにはブルックリンからミラン・ミラー兄弟が援助にやって来ました。もちろん,協会が1924年に購入した古い輪転機もありました。ラインハルト・プレッチャーは長年の間その輪転機で働きました。プレッチャー兄弟はその輪転機の面倒をよく見,仕事以外の時間にも“自分の”機械を掃除したりみがいたりするほどでした。そのような愛着ぶりに,ベテル家族の中にはとうとうその黒い輪転機を「ラインハルトの黒い奥さん」と呼ぶ人も現われまし
た。プレッチャー姉妹はそれを気にせず,ほかの人たちと一緒に笑っていました。しかし,そのようによく管理され,徹底的な分解点検を施されたので,その輪転機はトゥーンへ移されたあとも長年使用に耐えました。1973年に地上の歩みを終えたプレッチャー兄弟よりも長生きしたのです。新しい施設に対する感謝
1970年5月16日にその建物の献堂式が行なわれ,その席でノア兄弟は,古代イスラエルの幕屋やソロモンが建てた壮麗な神殿など,昔の建造物がエホバの崇拝に関連して果たした重要な役割を思い起こしました。それからこう述べました。「この新しいベテル・ホームは真の崇拝のためにささげられているものですが,全地で行なわれているエホバの業のために人々が心を込めて働かないなら,全く何の価値もありません」。
ベテル家族が新しいホームと仕事場に深く感謝しただけでなく,ほかの兄弟たちや関心のある人々4,000人余りも,その年の10月,ベテルが2度にわたって週末に公開された折,新しいベテルを見学する機会を利用しました。「美しい建物と広々とした工場にたいへん深い感銘を受けました。そして,私たちスイスの伝道者だけでなく,外国の大勢の兄弟たちもここから霊的食物を得るということを考えた時,とてもうれしく感じました」と一人の姉妹は語りました。
その新しい建設工事に関連して資金面で責任を果たすことについて言えば,強い関心と寛大な精神が示された典型的な例として,ある若い姉妹の次のような手紙があります。
「親愛なる兄弟たち,
「私は見習い訓練を終えたところです。良い成績を収めたということで,まとまった額の賞金を授与されました。それはたいへん
うれしいことでした。トゥーンの新しいベテルの建物のために使っていただくことほど優れた使い道はないと思いますので,その80スイスフラン(約6,720円)を同封いたします。「兄弟たちと一致してエホバに奉仕しつつ,心からの愛とあいさつをお送りします。
皆さんの姉妹,
マリー・ルイーズ」
辛抱強さ ― 求められる特質
この国では普通,聖書研究をしてすぐ真理に入る人はいません。ですから,非常な忍耐と辛抱強さを示す必要があります。経験の示すところによると,聖書研究は大抵の場合,人々が伝道者を信用するようになってからでないと始まりません。人々は,私たちが個々の人の福祉に誠実な関心を抱いていることを確信しないと気がすまないのです。そのことを示す良い例として,長年特別開拓奉仕を行なっているグレーテ・シュミットは次のような経験を話してくれました。
「数年前,主人と私はルツェルンに住むチェコ人の友好的な家族に会いました。奥さんは学校の先生でご主人はボートの一流選手でした。夫婦はどちらも無神論者として育てられていましたが,それでも喜んで話し合いに応じました。しかし,神とか聖書のことが持ち出されると,ただ笑っているだけでした。……結局私たちはその夫婦を訪問するのをやめました」。
二,三年が経過したころ,東京オリンピック大会で短距離走者として金メダルを獲得したことのある兄弟の経験が「ものみの塔」誌の1976年10月15日号(日本語版も1976年10月15日号)に載りました。シュミット姉妹は話を続けます。「その記事を読んだ時,私はチェコ人の夫婦のことを思い出しました。ご主人
が同じオリンピック大会で銀メダルを獲得したからです。それで,その雑誌を持ってその家族を再び訪問することにしました。最初二人はスポーツのことを話し,私は聞く側になっていました。さらに何度か訪問し,聖書のことを繰り返し繰り返し話しました」。その夫婦はどのような反応を示したでしょうか。「シュミットさん,失礼ですが,私たちが無神論者だということをお忘れのようですね」と言いました。
「それでも,その好感の持てる夫婦を訪問し続けました。その際,何か不自然なものが感じられました。そして,とうとう,その夫婦に問題のあることを知りました。二人はすでに離婚を話し合っているところでした」。
シュミット姉妹は二人にそうした問題の解決方法を聖書から話しました。聖書に収められている実際的な助言にたいへん驚いた二人は,ついに聖書研究をすることに同意しました。夫婦の絆は次第に強まっていきました。やがて二人は真理を受け入れ,1979年の春に浸礼を受けました。ジアリー・ルンダーク兄弟は現在どのように感じているでしょうか。
「以前,私は,『聖なる』とか『み使い』といったたぐいの言葉を聞くことががまんできず,耳ざわりに感じました。集会のことについて聞くのもいやでした。ところが,今では何もかも変わりました。私は仕事以外の時間を神への奉仕や家族と過ごすことに充てています。また,交際する人たちも変わりました。現在,集会がどれほど大切であるかを知っています。父親としての責任を果たすことも学びました。ですから,私たちの家族生活は幸福なものになっています。祈ることを学べるようにしてくださったことに対して,また私たちが神を探し求める前にご自分のほうから手を差し伸べてくださったことに対して,エホバ
に改めて感謝したいと思います」。辛抱強さは確かに良い結果を生みます。バプテスマ希望者の中に若い人が多いのは注目に値する
1975年には,四つの言語で開かれた巡回大会と地域大会にバプテスマ希望者として臨んだ人が空前の最高数にあたる1,138人に上りました。それ以後その数は減少しましたが,年平均約560人のバプテスマ希望者のうち,若い人々が多いのは注目すべきことです。その中には,家のしきたりから自由になるため非常に苦闘している若者もいます。しかし,それらの若者の真剣な態度は観察する人の信仰を強めます。例えば,一人の若い男性の次のような話を聴いてください。
「私がレストランで軽食をとっていると,ドイツ人の旅行者が,隣の席は空いていますかと尋ねました。空いていると私が答えると,その婦人は隣に座りました。間もなく私たちの会話がはずんで,婦人は,ドイツのコンスタンツの大学で働いているので若い人と接することが多いと言い,若い人たちに最善の生き方を教えるのはいかに大切かということを私に話しました。私も全く同感でした。多くの若者がアルコールや麻薬で苦しむ様子を自分でも目にしていたからです。最後にその婦人は『あなたの若い時代,それから最善のものを得る』と題する,若い人向けのたいへん興味深い本のことを話してくれました。そして,残念ながら今手元にないから,それを私に届けると約束しました。本当にその本を持って来てくれました。しかし,私が非常に忙しかったので,その婦人は,自分はドイツへ帰らなければならないが,その本について話し合いをするようだれか代わりの人に来てもらうことにすると言いました。
「ある兄弟が来てくれました。間もなく,私は研究を行なうだけ
でなく,どの集会にも出席するようになっていました。エホバに対する私の愛は深まりました。人生には目的がありましたし,突然新しい友人が大勢できました。私は『大いなるバビロン』から出る必要があることを悟りました。それで,1979年の2月に教会を離れようと決心しました。実家から離れていたので,その決定の実行をだれにも妨げられませんでした。「ところがどうでしょう,両親に知らせたところ,二人は猛烈な反応を示したのです! 電話を掛けてきて,気が狂ったのではないかと言いました。そして,私に気持ちを変えさせようとあらゆる方法を試みました。私は,自分が唯一まことの神に仕える必要性を悟ったこと,また,自分の考えを変えるつもりのないことを優しく説明しました。翌日,父がやって来て,『この人でなし,わたしと一緒に家へ帰るのだ!』と言いました。その時の私の気持ちを分かっていただけますか」。
それから事態はどう進展したでしょうか。若者は父親に連れられて司祭のところへ行きました。司祭は決意をひるがえすよう若者を説得しようとしましたが,聖書の言葉を進んで論じ合おうとはしませんでした。次に両親は若者をカトリックの大学へ入学させることにしました。若者はそのことについてどのように感じたでしょうか。
「私はたいへん憂うつでしたが,『心をつくしてエホバに依り頼め。自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において神を認めよ。そうすれば,神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる』というソロモンの言葉に従って,エホバに信頼を寄せました。(箴言 3:5,6)最初は非常にたいへんでした。日曜日ごとに教会へ行かなければならなかったのです。私は席に着いて,ほかの人たちが崇拝に参加している間,エホバに祈っていました。証言する機会はたくさんありました。 集会の時間には,大学で個人研究を行ないました。3か月ほどすると,司祭たちは,教会に行くようそれ以上私に強制しても無駄だということを認めました。その後,日曜日は一日中大学を離れることが許されました。私がどこへ行ったか見当がつきますか」。
大修道院長との面接が幾度かありましたが,ある時若者は大修道院長に雑誌を提供しました。今度は大修道院長が,三つのクラスでエホバの証人を主題にした話をするよう若者を招きました。それで若者は90人の生徒に証言し,その人たちに文書を配布することができました。二つのクラスでは聖書に関する質問がたくさん出たので,2時間にわたってそれらの質問に答えることが許されました。
私たちの若い兄弟はその話を次のように結んでいます。「その年の終わりに,修道院の上長たちは私に感謝まで述べて,こんなに勤勉な生徒は初めてだと言いました。現在私は目的のある人生を送る喜びを味わっています。それはエホバがご自分の地上の組織を通して私に与えてくださったものです。1980年の夏に私はチューリヒで開かれた地域大会でバプテスマを受け,今は開拓奉仕を行なってさまざまな喜びを経験しています。私はあわれみと愛ある親切を示してくださったエホバに感謝しています」。
新しいベテルに増築が必要になる
ベテルの新しい建物で活動が開始されてから数年しかたたないうちに,生産の増加に伴ってさらに広い場所の必要なことが明らかになりました。雑誌は六つの言語で印刷され,1975年には最高生産高が3,100万冊になりました。1970年にスペインでエホバの証人の業が法的に認可されたので,伝道者たちが野外
奉仕の通常の活動に一層携わるようになり,スペイン語の雑誌の需要が非常に増大しました。必要とされる雑誌を供給し続けるのは私たちの特権でした。そのことは,1974年の12月に業が正式に認可されたポルトガルについても言えました。私たちは既にフランス語,ドイツ語,英語,イタリア語の雑誌を印刷していました。1981年からはギリシャ語とトルコ語がそれに加えられ,毎月八つの言語で合計15の版の雑誌が印刷されることになりました。のちには,季刊でしたが,「目ざめよ!」誌のトルコ語版も加えられました。現在の工場の監督,ラルス・ヨハンソンはこう説明しています。「そのような事情でしたから,場所が手狭になりました。それで,私たちは,ベテルの建物をさらに一つ増やすために庭の一画を使用するのがふさわしいと考えました。印刷用の紙を入れておく大きな倉庫,および設備を一層充実させた十分な広さの発送部門をそこに設けるつもりでした。また,宿舎ももっと必要になることを見越して,新しい建物には居室も造ってさらに12人収容できるようにする計画でした」。増築されたその建物は1978年の2月に献堂されました。
新しい印刷方法の導入
「この世のありさまは変わりつつある」という使徒パウロの言葉は今の地上の古い事物の体制のことを確かに言い当てていますが,印刷方法についても当てはまる言葉かもしれません。(コリント第一 7:31)世界的な進歩と歩調を合わせるため米国やほかの国の協会の印刷工場に最新の方法が導入されたことを耳にして,スイスに導入されるのはいつだろうかと考えていました。
その準備は1980年から1981年にまたがる冬に始まりました。
ベテルの増築部分にグラフィック部門が新しく設置され,段階的に整えられていきました。まず,「わたしたちの王国宣教」が写真植字によって四つの言語で生産され,7月には,入手して間もないオフセット平台印刷機で「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌のギリシャ語版が印刷されるようになりました。次いで1982年6月に,改造したオフセット輪転機の1台目のものがブルックリンから到着しました。それを据え付ける場所をあけるため,私たちの“古い戦艦”,すなわち1924年に購入した輪転機は解体され,スクラップにされました。その輪転機は実に58年も働き,その間に膨大な数の雑誌を印刷しました。
やがて,2台目の改造したオフセット輪転機がスイス支部に割り当てられるという知らせがブルックリンから届きました。トゥーンの支部を建てた時,工場の床を非常に頑丈に造っておい
て本当によかったと思いました。その輪転機は1983年12月に到着しました。これで,私たちの工場には,100か国近い国々の兄弟たちが配布用に,あるいは個人用に使う雑誌を八つの言語で生産する設備が十分に整いました。彼らは進んで自らをささげる
エホバの目に見える組織に広がっている開拓者精神がスイスの大勢の兄弟姉妹にも見られるようになったのはうれしいことです。この国では長年の間,開拓者数の少ないことが弱い点の一つになっていました。しかし,64人の特別開拓者(リヒテンシュタインにいる二人とスイスにいる3人の宣教者を含む)に加えて,正規開拓者の数が1980年以来101人から271人に増加しました。尽きようとしている残された時の間に,心を動かされてその奉仕をとらえる人がさらに増えることを願っています。―コリント第一 7:29。
そのような全時間奉仕をぜひ行ないたいと思いながらそうすることのできない人がまだまだ大勢いることは,補助開拓者として奉仕する機会を逃さないようにしている人の数が増加していることから明らかです。この奉仕に参加する人は,1980年には361人でしたが,1986年の5月には最高数の1,117人に達しました。これは,スイスの野外において私たちが一歩前進したことを示す注目すべき事柄であると思います。
ディッティンゲン会衆は,長老たちの積極的な態度が実りの多い進展にどれほど貢献するかということを示す良い例になっています。ザームエル・フールニはバーゼルにおける1985年の秋の巡回大会の時に演壇で15人の補助開拓者を紹介しました。そして,「私たちの会衆はバプテスマを受けた26人の伝道者から成っています。そのうちの57%,すなわち15人は5月か9月,あるいは詩編 110:3。
その両方の月に補助開拓奉仕を行ないました」と述べました。フールニ兄弟によれば,その活動を率先して行なうことで長老たちの意見が一致したということです。それから長老たちは会衆の成員に近づき,「長老たちは5月に補助開拓奉仕をするのですが,あなたも私たちと一緒にやってみたいと思いませんか」と言いました。その奉仕ができると長老たちからみなされたことが余りにもうれしかったので,熱意を抱いて補助開拓奉仕を試みた伝道者たちがいました。そのように力を合わせて努力した結果すばらしい成果が得られ,それは会衆全体に益をもたらしました。それらの開拓者たちの喜びにあふれた精神によって皆が強められ,元気づけられました。―多様性があっても一致を保つ
スイスにあるエホバの民の組織の際立った特色は言語と背景が多様なことです。したがって,一致を保って共に前進するということが支部委員会の主な目標の一つになっています。
外国語の会衆を設立するには多大の努力が求められます。その世話をするには,会衆や巡回監督との通信連絡,種々の報告の分析,大会の調整と組織,情報を与える回状の発送,野外奉仕の指示を与えることと文書の供給など,管理上の仕事をすべて四つの言語で,すなわち,ドイツ語,フランス語,イタリア語そしてスペイン語で行なわなければなりません。支部事務所の兄弟たちが皆それらの言語を話せるわけではないので,翻訳作業が非常に多く求められます。
野外では,外国人の増加が伝道者にとって一つの挑戦になりました。外国人とは意思の疎通が図れないと言い訳して,それらの人たちの家をよけて通るでしょうか。それとも,その人たちがどこの国の人かを知る努力を払い,その人の言語の出版物テモテ第一 2:4。
を入手することまでは少なくとも行なうでしょうか。機敏な伝道者たちの中にはそれ以上のことを行なった人もいました。外国人を援助するために新しい言語を学んだのです。―このような訳で,既に挙げた言語グループのほかに,ユーゴスラビア人,ポルトガル人,ギリシャ人,トルコ人,さらにはタミール人やベトナム人の難民が証言を受けています。その中には,真の関心を示している人や既にエホバの側に立場を取っている人が大勢います。スイス国内にはほかにもいろいろな国の人々が住んでいるので,すぐそばに宣教者の働く畑があるかのように感じられます。
ベテル家族も多様性を反映している
ここのベテル家族の成員は65人ほどです。スイス支部は非常に古い支部の中に入りますから,私たち一同の柱のような存在になってきた,古い時代からの職員がいます。見学者たちは大抵の場合,長年働いている奉仕者が比較的多いことに感銘を受けます。12人いる65歳以上の兄弟姉妹を紹介しましょう。(215ページをご覧ください。)この人たちのベテル奉仕の年数は合わせて552年,一人平均46年になります。
そして全員が今でも熱心に働いています。数人の例を紹介しましょう。87歳のリューディア・ビーデンマンは毎日テーブルに食器類を並べる仕事をしています。86歳のジュール・フェラーは受付で働いています。86歳のアーノルト・ローラーの場合はたくさんの自転車を管理する仕事をしています。81歳のパウル・オプリストは事務所で働いています。そして75歳のビーリ・ディールですが,この人は支部委員会の調整者として奉仕しています。
最近地上の歩みを終えた愛すべき二人の兄弟はこの写真に写っていません。82歳だったダーフィト・ビーデンマンは最後の息を引き取るまで支部委員会の一員として働き,質素と自足の手本を残しました。88歳で亡くなったゴットフリート・オイツは全時間奉仕を63年間も行なった兄弟で,晩年は予約部門の仕事仲間として誠実に働きました。親切だったオイツ兄弟のことは人々の記憶からいつまでも消えないでしょう。
「白髪は,義の道に見いだされるとき,美の冠である」とは,確かにこれらの兄弟姉妹たちのことを言うのでしょう。(箴言 16:31)広い経験を持つこれらの兄弟姉妹たちはベテル家族の若い成員にとって貴重な存在です。年齢の相違は一致の妨げには決してなりません。言語の相違の場合もそうです。ここベテルには三つの公用語のどれかを話す人々が集まっています。そのことが特に目立つのは,三つの言語の注解が入り混じる,日々の聖句の討議や家族の「ものみの塔」研究の時です。
ベテルで進展している状況
この20世紀に住むエホバの証人はほとんどだれもが認めるとおり,ここ数年間の技術の進歩は目ざましいものでした。『あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で王国のこの良いたより』を宣べ伝える業を遂行するため,それもたった一つの世代の生涯中にそれを成し遂げるために,エホバはそのような現代の利器を活用できるよう取り計らってくださったに違いありません。―マタイ 24:14,34。
そのことを考えると,協会がコンピューターを最大限に利用している理由は明らかです。スイス支部には1983年7月にMEPS(多言語電算写植システム)が設備されました。私たちはこの多目的のシステムの助けを借りて支部の仕事を簡素化する方法を
学び続けています。とりわけ,予約部門に関連した膨大な量の仕事が数台のパーソナル・コンピューターでの比較的簡単な作業になってしまいました。発送部門でもコンピューターによって仕事が簡単になりました。他方,ほかの支部にも新しい建物ができ,オフセット輪転機が設備されたので,それらの支部のためにスイス支部が行なってきた印刷の仕事をかなり肩代わりしてもらえるようになりました。そのような分散化の利点の中には,時間と運送費の節約があります。各号の印刷部数はかなり少なくなりましたが,それでも現在スイス支部は2種類の雑誌をそれぞれ六つの言語で定期的に印刷しています。
事態がこのように進展したため,スイス支部の何人かの職員は野外で全時間伝道活動に携われるようになりました。その人たちの優れた業の報告を受け取るのはうれしいことです。どんな立場でも自分を用いていただこうとする人々をエホバが祝福され,父親のような愛をもってそれらの人々を顧みられるのは明らかです。
国際色豊かな地域大会
1985年の大会には特別の取り決めが設けられるという協会の発表を聞いて,どんなことが計画されているのだろうと私たちは興奮しました。やがてその内容が知らされ,外国からの訪問者のことを念頭に置いてドイツ語とフランス語の「忠誠を保つ人々」地域大会を組織する仕事に取り掛かりました。
英語を話す人々のグループが特に大きくなる見込みだったので,8月1日から4日にかけてチューリヒで開かれるドイツ語の大会と並行して,四日間全日の英語のプログラムを設ける計画を立てました。スイス在住の英語を話すさまざまな兄弟のほか,
米国やカナダや英国から出席する兄弟たちの中にも話の割り当てを喜んで引き受けてくれる人がいました。そのおかげで,劇を除いて,大会のプログラムをすべて提供することができました。そして,劇はドイツ語グループの会場で見てよいことになっていました。ジュネーブで開かれたフランス語の大会の場合,英語のプログラムはそれほど大掛かりなものではありませんでした。しかし,どちらの大会においても,地元の兄弟たちはいろいろな国の代表者の熱意にあふれた報告を聴いて楽しみました。プログラムの前後には,特に簡易食堂において,スイスの兄弟たちと外国の兄弟たちが一緒になって会話を交わす機会がありました。多くの人が,学校で習ったことのある英語やドイツ語を勉強し直して言語の障壁を乗り越えようと努力している様子を見ると,心温まる思いがしました。言葉が通じなければ,少なくとも身振りや手振りによって,抱擁によって,あるいはまなざしによって互いに理解し合っていました。それは真の兄弟関係の証明でしたが,そのような兄弟関係は神の霊の実である愛だけが生み出し得るものです。なぜなら,「それは結合の完全なきずな」だからです。―コロサイ 3:14。
外国から来た1,800人近くの代表者たちの中には,スイス人の伝道者と一緒に証言の業に出かけ,この国の兄弟たちの野外活動に関心を示した人が大勢いました。また,代表者たちの旅行の計画には大抵の場合,スイスのベテル・ホームと工場の見学が含まれていて,私たちの励みになりました。
ジュネーブの大会に出席した兄弟たちから,感動的な別れの言葉が述べられました。それは一部次のとおりです。「お別れする前にぜひともお伝えしておきたいことがあります。つまり,私たちにとって一番印象的だったのは,皆さんの国の山々の高さ
でも湖の深さでもありません。偉大な創造者に対する皆さんの大きな愛とみ父の義の原則を守ろうと忠実に努力しておられる皆さんの姿こそ,私たちがいつまでも忘れることのできないものです。忠誠を保つ人であり続けようとの皆さんの決意には励まされました。「言語の障壁があったにもかかわらず私たちと会話しようと努力してくださったことをたいへん感謝しています。
「皆さんの親しみのこもった笑顔は決して忘れません。私たちをくつろがせ,歓迎の気持ちを私たちに伝えてくれる笑顔でし詩編 133:1。
た。本当に,『兄弟たちが一致のうちに共に住むのは何と良いこと』でしょう。私たちは,兄弟たちのこのような全世界的な家族の一員であることにどれほど感謝しているかしれません!」―こうして,合計2万601人が出席した1985年の地域大会は,数々の楽しい思い出を残してくれました。エホバとキリスト・イエスへの忠誠を保ち,仲間のクリスチャンとの親交を深めるすばらしい機会が再び開かれることを期待しつつ,世界中の兄弟たちと肩を並べて進みつづける励みを受けたとだれもが感じました。
あくまでも続けていく決意をしている
1891年にラッセル兄弟が初めて訪れた時から現在までの約95年間にわたる,スイスにおける神権的な発展を一緒に概観しました。細々と流れていた真理の水は増えつづけて,すべての谷に流れ入り,人里離れた山奥の牧夫の小屋にまで達するようになりました。都市部で家庭を訪問すると,こちらが話を始める間もなく,家の人からエホバの証人ですねと言われることがよくあります。ですから,王国の音信は鳴り響きつづけ,人々はそれを聞いてきたのです。しかし,その大半は不安感を持たず,自分の生活状態に満足していて,神の王国の支配下では地上に永続する平和が実現するという,自分たちには不可能と思える事柄にはほとんど無関心です。
とはいえ,エホバの僕たちの努力は無駄に終わったわけではありません。しばらくエホバに仕えてから世に戻ってしまった人も少なくありませんが,王国の忠節な伝道者が1986年の5月に1万3,659人(リヒテンシュタインの伝道者42人を含む)という最高数に達したのはうれしいことです。1986年の記念式の出席者
は2万5,698人(リヒテンシュタインの出席者82人を含む)でしたから,エホバの忍耐が続く限り,さらに増加があるものと考えられます。興味深いことに,伝道者の相当数,恐らくその半数は,物質面で生活状態を改善しようと外国からスイスへやって来て,はからずも霊的な富を発見した人々です。それらの伝道者は多くの場合,自分の国へ帰って出身地における王国の業の促進を助けました。こうして,王国の良いたよりはそれらの国で次第に広まりました。スイスの証人たちはその一端を担えたことを光栄に思っています。「大群衆」に属する人々はイザヤ 56章6節の中で「エホバに連なって,これに仕え,エホバの名を愛し,その僕になろうとする異国の者たち」と言われています。スイスに住むそれら幾千人もの人々は,スイスおよびリヒテンシュタインに今もいる73人の油そそがれた残りの者たちと共にエホバへの奉仕をたゆまず行ないつづけ,聞く耳を持つ人々すべてに王国の希望を一致して宣明することを決意しています。
[114ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
スイスとリヒテンシュタイン
フランス
ドイツ連邦共和国
スイス
ベルン
シャフハウゼン
バーゼル
ライン川
コンスタンツ湖
ブルック
チューリヒ
ザンクト・ガレン
タールウィル
アーレ川
レ・コンベール
ツーク
ブックス
ヌーシャテル
ルツェルン
ラガツ
パイェルヌ
シュテッフィスブルク
イベルドン
フリブール
トゥーン
プリィー
ローザンヌ
ジュネーブ湖
グシュタート
エグル
ローヌ川
ジュネーブ
ベリンツォナ
ルガノ
リヒテンシュタイン
シャーン
ファドーツ
オーストリア
イタリア
言語
ドイツ語
フランス語
イタリア語
ロマンシュ語
[119ページの図版]
1900年に,王国の音信を携えて故郷にもどったアドルフ・ウェーバー
[130ページの図版]
兄弟たちは「黄金時代」誌への関心をかき立てようと,馬車に乗せた“平和のベル”をチューリヒで使った
[135ページの図版]
1925年から1970年にかけて用いられたスイス支部と印刷工場
[136ページの図版]
マーチン・ハーベック(一緒に立っているのは,夫人)とJ・F・ラザフォード
[145ページの図版]
1910年から1983年までベテル奉仕を続けたハインリッヒ・ドウェンガー,トゥーンの予約部門にて
[149ページの図版]
ルツェルンで開かれた記憶に残る大会の真相を伝える「黄金時代」誌の特別号の表紙
[159ページの図版]
1940年から1953年にかけて支部の監督を務めたフランツ・ツルヒャー
[161ページの図版]
ジュール・フェラーは1924年にベテル奉仕を始めた。86歳の今も現役で奉仕している
[183ページの図版]
支部委員会の調整者,ビーリ・ディールと妻のマルテ
[193ページの図版]
リヒテンシュタインの目じるしになっている城
[208ページの図版]
トゥーンのベテル・ホーム,事務所および印刷工場
[215ページの図版]
ベテル家族の中の経験豊かな12人の成員たち。全時間奉仕の年数は一人平均46年になる。(左から右へ: リューディア・ビーデンマン,マルテ・ディール,ジュール・フェラー,ビーリ・ディール,パウル・ビグラー,マルタ・ビグラー,パウル・オプリスト,エルンスト・ツィディ,ハンス・ルッセンバーガー,アーノルト・ローラー,ヨハネス・フェルスター,ヨセフィーネ・フェルスター)