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トリニダード・トバゴ

トリニダード・トバゴ

トリニダード・トバゴ

コロンブスが1498年7月31日にトリニダード島を発見した時,三つの丘が島の南東部に見えました。その丘を見てコロンブスは三位一体を思い起こしたと言われています。そのようなわけで,この島はそれ以来ずっとトリニダードと呼ばれてきました。もとより,アラワク族やカリブ族のインディアンたちはそれより何世紀も前にこの島を発見していました。ですから彼らにしてみれば,この島は“ハチドリの島”でした。

さらにその同じ年にコロンブスは,姉妹島であるトバゴを発見しました。中にはこの島をデフォーの小説に出てくる島であると信じて,“ロビンソン・クルーソーの島”と呼ぶ人もいます。トバゴという名前は,インディアンたちが島につけた名前,つまりタバコもしくはトバコ(たばこのこと)に由来していると思われ,それはインディアンたちが栽培して広く活用した植物を指しています。

これらの島は,プエルトリコから南米にかけて伸びる列島の中で最南端の島です。実際のところ,トリニダード島はベネズエラの海岸の目と鼻の先にあり,オリノコ川の河口近くに位置しています。トバゴ島は,トリニダード島の北東約32㌔の地点にあります。地形は対照に富み,美しい渓谷を持つ雄大な山々や肥沃な平原,そして砂浜などがあります。トバゴ島は,礁脈や魅力的なサンゴ礁でよく知られています。

紛れもない国際的住民

タバコは元来広く栽培されていましたが,徐々にカカオ農園が優位を占めるようになりました。やがて,これらのカカオ農園も,スペインやフランス,それに英国の大物の砂糖業者たちの所有する広大な砂糖農園にその重要な地位を譲り渡しました。領主たちは自分たちの農園を耕作するために何千人ものアフリカ人奴隷を徴用しました。ついに領主たちが,高まる圧力に屈して奴隷たちを解放しなければならなくなると,何千人もの東インドの原住民が年季制で雇い入れられました。今日,100万人を超えるトリニダードの住民は,ほぼ半々の割合でアフリカ系の人々と東インド系の人々とに分けられますが,ごく少数ながらヨーロッパ系や中国系の住民もおり,中には中東出身の人々もいます。これらの人々は結婚を通してかなり混じり合ったため,結果として,紛れもない国際的住民が生まれました。最終的にイギリスが支配権を獲得し,住民たちの独立を認めた1962年までこの島を植民地として統治しました。

この土地には,ヒンズー教,イスラム教,それにキリスト教世界の主要な宗派をはじめとする数多くの宗教があります。住民自体は,友好的で心の温かい人々です。それでも,終わりの日に広く行き渡る犯罪がここでも同様に見られます。

真理の種をまく業が開始される

1912年に,王国の良いたよりは,この混成民族から成る住民に宣明され始めました。その宣明者となったのは,アメリカ人のイベンダー・J・カワードです。ものみの塔聖書冊子協会の当時の会長チャールズ・テイズ・ラッセルは,聖書の真理に関する伝道を開始するという明確な目的のもとにカワード兄弟をこれらの島に派遣し,兄弟はそのことを行ないました。何年かのあいだカワード兄弟は,自分の任務を果たすことや,当時,聖書研究者として知られていたエホバの証人たちの幾つかのクラスを組織することにたいへん活発にあずかりました。これらのクラスが組織されたのは,定期的な集会を開いたり,聞く耳を持つ多くの人々に神の言葉の真理を宣べ伝えて教えたりするためでした。

今では,E・J・カワードから音信を直接聞いた人で生きている人はあまりいませんが,1986年の初めに亡くなったラグバー・ボーランド・ガウリーは,当時を振り返って次のように述べました。「カワード兄弟は,異邦人の時の終わりについて話をしました。その講演は,口頭や配布された大版の小冊子を通して人々に知らされました。兄弟はかなり大柄で,体格のよい人でした。男性的な声の持ち主で,強調や抑揚をよく用いました。大切な点を強調する時には,右手を挙げて指を鳴らす癖がありました」。やはり今は亡き別の兄弟は,「カワード兄弟は,クエーカー・オーツの箱に載っている絵の男の人と少し似ていて,髪の毛を背中のところまで長く伸ばしていました」と述懐しました。

カワードは,トリニダードのすべての主要な町で話をしました。地獄,魂の不滅,地球の将来,その他の話題に関してカワードの話す聖書の真理を聞きにやって来た群衆で会館はいっぱいになりました。その講演の幾つかもしくは一部は「ザ・ミラー」紙の中で取り上げられました。他方,「ポートオブスペイン・ガゼット」紙はカワードのことを痛烈に非難しました。しかし兄弟はまったく動じませんでした。単なる興味本位だけの人々と,真理を真剣に探し求める人々とのあいだには,はっきりとした相違が生じました。やがて,ポートオブスペインのギルバート・L・タルマの家で,定期的な聖書研究のクラスが組織されました。しばらくすると,その部屋は手狭になったため,1912年に,フィリップ通りにあるフォレスターズ・ロッジを借りました。その集会場所は62年近くのあいだエホバの証人たちによって使用されました。

“バイブル”・ブラウンはE・J・カワードと共に働く

その同じ年に,ジャマイカ人のウィリアム・R・ブラウンが良いたよりを広めるのを援助する目的でトリニダードに到着しました。ブラウンは10年近くのあいだ妻と共に,またしばらくはカワード兄弟と共に,トリニダード島,トバゴ島,そして近隣の島々の多くの区域を網羅すべく働きました。それは一つの支部事務所のもとにおける組織立った監督がなされる何年も前のことでしたが,カワードとブラウン夫妻の双方は,姿を現わし始めていた幾つかの小さな群れを訪問して強めました。やがて1923年に,ブラウン兄弟とその妻は胸の躍るような新たな任命を受けて西アフリカへ赴き,そこで兄弟は“バイブル”・ブラウンとしてその名を知られるようになりました。

カワード兄弟が講演を行なった数多くの場所の一つに,ツナプナがあります。そこにあった英国国教会の学校長ウィリアム・A・ジョーダンは,カワードの教えが間違っていることを自ら確かめるために,カワードの講演の一つに出席することにしました。ジョーダンは,カワードを論駁するための聖句を用意して行きました。ところがたいへん驚いたことに,カワードは啓示 21章8節を用いて講演を始めました。その聖句は,ジョーダンにとって,地獄の火が存在することを支持する主要な聖句だったのです。誠実で謙遜だったジョーダンは,カワードの提出した聖書の真理がより勝っていることを認め,講演の終わりにそのことを直接カワードに伝えました。

ジョーダンは真理において進歩すると,英国国教会における平信徒の読師としての,また,その学校における校長としての自分の立場がふさわしくないことをはっきりと理解し,決定を下さなければならないと感じました。このような時に,彼は,視力の低下がもとで休職しなければならなくなりました。ジョーダンは神に祈ったのち,もしもう一度目が見えるようになって仕事に復帰できることがあれば,仕事に戻った最初の日に辞職することを誓いました。1915年の3月にジョーダンはそのとおりに行ないました。そのおかげで彼は,ツナプナで新たに誕生した幾つもの聖書研究者たちのクラスを世話することができました。

らい病人の隔離地域へ

アーサー・ガイという若者は,「ザ・ミラー」紙に載せられたカワードの講演をずっと読んできて,純粋な関心を抱くようになりました。彼はこう述べています。「次いで私はC・T・ラッセル兄弟に手紙を書くことにしました。ラッセル兄弟は私の手紙をE・J・カワード兄弟に送りました。私はそのカワード兄弟の講演を以前から読んでいたのです。彼は当時バルバドスにいました。カワード兄弟は私に宛てた手紙の中で,手紙を受け取って,私が聖別されていることを確信したと述べていました。私は近いうちにタルマ兄弟とフェレイラ兄弟の訪問を受けることになり,胸を躍らせました」。その一日か二日後に約束は実現しました。

アーサーは真理において良い進歩を示し,すぐに集会に出席するようになりました。それから,一つの厳しい試練が訪れました。アーサーは,らい病人であることを宣告され,らい病人の隔離地域に移されたのです。それも一,二週間ではなく,何年ものあいだです。すぐにアーサーは,見いだしたばかりの信仰について患者に証言し始めました。ポールという名前のカトリック教徒とアーサーとのあいだで討論会が行なわれることになりました。ポールはカトリックの公教要理を用いましたが,聖句には一つも触れませんでした。今度は,アーサーの話す番になりました。アーサーはその時のことを振り返ってこう述べています。

「私はまず聴衆に次のことを思い起こさせてから始めました。つまり,この討議は,自分たちの教えられてきたものや信じてきたもの,あるいは公教要理の述べていることに基づくものではなく,聖書に基づくものである,ということです。私は,『聖書がこの問題について実際に何と述べているかに耳を傾けてみましょう』と言って,創世記 2章7節を引用しました。次いで一つの例えを挙げました。『もしブラウン氏が医学を勉強するために英国に行き,試験に合格して卒業証書を受け取るなら,彼は医者となります。仮にブラウン氏が亡くなったとすれば,その医者も亡くなったことになります。ですから,人は生きた魂となったゆえに,人が死ぬと,その魂も死ぬのです』」。聴衆は大きな是認の声を上げ,司会者は,アーサーが論議において一枚上であることを認めました。その結果,アーサーは患者たちから“バイブル”と呼ばれました。

喜んで行なう他の人々に責任が移行する

さまざまな島におけるカワード兄弟の奉仕は終わりに近づいていました。第一次世界大戦が行なわれている中で,当局はカワード兄弟を危険人物とみなしたのです。1917年ごろ,カワード兄弟は島を去るように求められたため,米国に戻りました。しかし,兄弟の奉仕はエホバからの祝福を受けて良い結果を収めていました。真理の種は既に根を下ろしていました。わずか5年後の記念式には,ポートオブスペインで68名,バルバドスのブリッジタウンで90名,そしてグレナダのセントジョージズで21名の出席者が見られたのです。業は引き続き,ゆっくりと,しかし着実に成長しつつありました。

G・L・タルマは協会の代表者としての責任を喜んで受け入れました。ウィリアム・フェレイラも同じくエホバの真の崇拝者であることを証明しました。二人とも,真理を広め,幾つもの小さなクラスを訪問するためにかなりの旅行をしました。タルマは,生まれ故郷の島バルバドスでしばらくの時間を費やし,さらにグレナダや英領ギアナ(現在のガイアナ)やオランダ領ギアナ(現在のスリナム)でも働きました。フェレイラはポルトガル系の人だったので,ヨーロッパ人のあいだで幾らかの奉仕を行なうことができました。

大勢の群衆が「写真劇」を見る

第一次世界大戦後は,島でアメリカ人が兄弟たちに仕えることはもはや難しくなっていました。そこで1922年に,協会は兄弟たちを強めるためにカナダ人のジョージ・ヤングを遣わしました。ラザフォード兄弟に宛てた報告の中で,ヤングは次のように述べました。

「今月14日の朝にトリニダードに到着しました。……ここには当面手を休める暇がないほどたくさんの仕事があります。真理はトリニダードで非常な勢いで広がっており,地元の兄弟たちはりっぱな働きをしています。幾つかの点において,トリニダードは西インド諸島中で,真理を広めるのに最良の畑と言えます」。

ヤングがトリニダードを旅行していた期間中,一般の人々の関心を呼び起こすために「創造の写真劇」が用いられました。劇の一部はかつてW・R・ブラウンによってある程度行なわれたことがありましたが,今回は,活動写真の部分を含む全体が上映されました。大勢の群衆が「写真劇」を見,その解説を聞きました。その成果のほどに関して,ヤングは次のように伝えました。

「ポートオブスペインでは,友人たちが,ある劇場を平日の二晩借りてくれました。新聞には何の宣伝も載せられませんでしたが,ビラだけは5,000枚配布されました。普段なら1万枚は配るところです。会場はすし詰めになり,かなりの人が入場を断わられました。二日目の夜,その建物は人でごったがえしました。ドアが閉じられると,群衆は劇場の横の入り口を押し開けてその開いた場所に立とうとしました。偽りの神々を崇拝している司祭たちは,警戒するようにと人々に呼びかけていましたが,何の効も奏しませんでした。真理はトリニダードにおいて徐々に進展しつつあります」。

ヤング兄弟はカリブ海に半年間滞在しました。

当時の集会

こうした初期のころに行なわれていた集会は,わたしたちが今日慣れているような集会とは訳が違いました。1981年に亡くなるまで忠実な働き人だった,ウィリアム・A・ダグラスは次のように述懐しました。

「私が初めて出席した集会は火曜日の夜でした。私たちは,『幕屋の影』という書籍の一つの課目を学びました。そのあと,壁に1枚の図表が掲示され,一人の兄弟が細い棒を手にしてある事柄を説明していました。私はその兄弟の話していることがさっぱり分かりませんでした。

「水曜日の夜に開かれた集会は,祈りの集会でした。一人の兄弟が祈りを行なうと,次に歌が歌われました。また別の兄弟が祈ると,次に歌が歌われました。出席者は一人残らず祈りました。さらに出席者は順番に一人ずつ起立しては証言を述べました。神が自分たちのためにどれほど多くのすばらしい事柄を行なってくださったかを述べる人もあれば,さまざまな誘惑に打ち勝つことができるように神がどのように自分たちを援助されたかを述べる人もいました。また,ある事故を避けられるように神がどのように自分たちを助けてくださったかを述べる人もありました。私にもその番が回ってきましたが,証言できることが何もありませんでした。……

「私は,母と共に初めて出席した『ものみの塔』集会で起きた出来事をはっきりと思い出せます。司会者がある質問をしたところ,一人の兄弟はこのように答えました。『私の考えは,しかじかです』。別の兄弟はこのように言いました。『私は,しかじかの理由でその考えには賛成しかねます』。このようなことが丸1時間も続き,研究記事の最初の節はいつまでたっても終わりませんでした。今ではエホバが協会を通してすばらしい改善を私たちに施してくださったことを感謝しています」。

大胆とはいえ,巧みさに欠けていた

1920年代中,兄弟たちは神権的な巧みさというものに通じていませんでした。兄弟たちは人々の家で聖書の音信を伝える際に,非常に率直で,時にはぶっきらぼうな話し方をしました。W・A・ダグラスは,ポートオブスペインで開かれた大会の期間中に経験したある出来事を次のように回想しています。

「私の記憶している限りでは,兄弟たちが家から家に共に働くという取り決めができたのは,その時が初めてでした。私は,年若く未熟な兄弟だったため,ある年上の伝道者と共に働くように割り当てられました……日曜日の午前中のことです。私たちは1軒の家を訪問しました。兄弟は,バルコニーにいた数人の男性に出版物を勧めましたが,言い争いになってしまいました。兄弟はある男性に向かって,『あなたがわたしのことを理解できないのは,あなたの父親が悪魔サタンだからです』と言いました。男たちのうちの一人が兄弟に近づくと,『あんたは人の家にやって来て,うちのおやじがサタンだとでも言うのかい』と言うと,兄弟の口元をなぐりました。兄弟は,歯が2本折れてしまいました。私たちは階下へ下り,通りに向かって歩いていましたが,その途中で兄弟は,もし自分が神に献身していなければ,自分は先程の若者につかみかかるところだった,と私に話しました。兄弟はその時,自分は真理のためにひどい目に遭っているのだと思っていたので,晴れ晴れとしていました」。

当時,兄弟たちは協会本部の代表者たちによる奉仕を受けていなかったにもかかわらず,自分たちの持っている聖書から得られたさらに優れた理解に従って生活を調整することに励んでいました。エホバの聖霊のこのような助けを通して,兄弟たちは,考えや言動の一致をかなりの程度まで保つことができました。

トリニダード支部が登録される

1932年5月は,トリニダードにとって大切な日付となりました。ポートオブスペインのフレデリック通り64番地にある支部事務所が政府に登録され,さらに,トリニダード・トバゴにおける協会の代表者としての法的立場がタルマ兄弟に与えられたのです。英領西インド諸島に属する他の多くの島々からの報告は,この事務所に提出されました。

携帯用蓄音機やさらに強力な録音再生機の使用によって,証言にはますます拍車が掛かりました。1934年には,6台の録音再生機が使用されていました。グレナダに1台,ドミニカ島に1台,そしてトリニダードに4台です。講演を聞くために皆が必ずしも外に出て来たわけではなく,多くの人はむしろ,開いている窓から話を聞きました。心の正直な人たちは自分たちの聞いた事柄に感謝を表わしました。次のような感想が述べられました。「これこそ正に慰めとなるものだ。みんなでもっと近づいてみようではないか」とか,「そのとおりよ。あんた,ちょっとここに来て聴いてごらん。ベルモントに戻ってあんな男[僧職者]にもうばかにされる必要はないよ」といった具合いです。兄弟たちはさらにたくさんの携帯用蓄音機を取り寄せ,それらは,証言を行なう兄弟たちの声を増し加えるものとなりました。

聖書にまで及んだ禁令

まったくの予告なしに,政府は私たちの文書の輸入を禁止しました。トリニダード・トバゴの総督代理アルフレッド・ウォレス・セイモアは,行政最高議会において,「黄金時代」誌とものみの塔聖書冊子協会の他の出版物を扇動的な文書とみなしました。1936年8月20日付の指令第49号により,ものみの塔協会と黄金時代出版社の発行するすべての文書が禁止されました。その中には聖書そのものも含まれていたのです!

聖書の禁止されたことが,総督のアーサー・フレッチャー卿の注意を引いた時,新たな指令,すなわち1936年12月3日付の指令第60号が発令され,認可を与えられた文書については,いずれも輸入してよいことになりました。その後,聖書,「神の立琴」,それに3冊の小冊子が許可を与えられました。トリニダードではこのような状態が9年間続きました。

こうしたことの背後にいたのはだれでしょうか。その後何年もたった1946年の春,当時の警察本部長ミューラー大佐は,支部の僕との私的な会談の中で,禁令が続いた実際の理由は,協会の出版物がローマ・カトリック教会を非難したことにあったと語りました。牧師たちがそのことを扇動していたのです。

1944年3月20日,トリニダードの北方に位置するセントキッツ島で,政府は手に入れたものみの塔の文書すべてをある砂糖工場のボイラーで焼却しました。それでも,証人たちは手元にある文書を用いて忙しく働き,さらに可能な場合には,いつでもどこでも自分たちの蓄音機や録音再生機を活用しました。しかし警察は幾つかの音響装置も没収しました。

長引く禁令の影響のために,伝道者の数は,1936年に293人だったのが,1940年までには229人に減少しました。しかし,今や兄弟たちは再訪問を行なって聖書研究を司会するようになっていたので,その活動は産出的なものでした。

刑務所に送られた学校の教師

W・A・ダグラスは,この迫害の期間中にトリニダードで投獄された幾人かのうちの一人でした。1939年4月に二人の警察官が,私立学校を経営していたダグラスの自宅を捜索し,「事実を見よ」と題する小冊子を見つけました。3か月後,ダグラスは法廷へ出頭を命じられました。事件の最終的な審理は10月12日になされました。ダグラスは,全英祝日祭に参加することを拒み,生徒たちに国歌を歌わせようとしなかった非愛国的な教師であるとして訴えられました。ダグラスは,自分の学校は私立であり,そこでは歌は一切歌われなかったと述べて,弁明を行ないました。弁明の中でダグラスは使徒 5章27節から32節を引き合いに出し,イエス・キリストの使徒たちと同様に,自分は『人間より神に従わねばならない』ことを指摘しました。治安判事はダグラスを有罪とし,2か月間の強制労働を命じました。ダグラスは上訴しました。

上訴裁判官としてビンセント・ブラウン判事が裁判長を務めました。ブラウンは神経質で,判決を読み上げている間にコップに3杯もの水を飲みました。ブラウンの口をついて出た第一声は次のようなものでした。「この男は地域社会で生きるのに適していない。学校の教師で,彼と同じような立場を取っている人間は,決まって,国王陛下に忠節であるよう子供たちを教えようとはしない。このような者には自由が与えられるべきではない。当法廷は,かの判事の判決を支持するものである」。

こうして1940年にダグラス兄弟は捕らわれの身となりました。刑務所にいる間,兄弟は証言を行なう機会に恵まれたので,それを活用しました。兄弟は,“事実を見よ”という名で知られるようになりました。日曜日の午前中には,刑務所の教会で行なわれる礼拝に出席しない囚人がかなりいたため,ダグラスは質疑応答の集まりを囚人たちと持ちました。彼は次のように述べました。「うれしいことに,刑務所で過ごした7回の日曜日のあいだに私は一度に200人以上の人々に話を行なう特権を得ました。さらに,私は刑務所の敷地内ならどこにでも行くことを許されていたので,知り合うようになったすべての人に,人類の唯一の希望であるキリストの王国について話しました」。

禁令が解除される

禁令期間中,トリニダードにはアメリカ軍の基地が設置されました。その基地にいた一人のアメリカ人には,真理のうちにいる数人の親戚が米国にいました。その人は親戚から「ものみの塔」誌が送られてくると,いつもそれを兄弟たちに渡しました。兄弟たちは,「ものみの塔」という表題を抜いて雑誌の写しをタイプライターで作成し,次いでそれらを諸会衆に送りました。このようにして兄弟たちは,禁令にもかかわらず霊的な食物を受け取ることができたのです。

とはいえ,禁令を解除してもらうために,1940年12月22日にザ・プリンセズ・ビルディングで大規模な集会が開かれました。そして禁令の解除を求める決議文が植民地担当大臣あてにロンドンへ送られたのです。しかし問題は戦後にまで持ち越されました。1945年9月11日には,さらに別の嘆願書が植民地担当大臣あてにロンドンへ送られましたが,今回の嘆願書には2万851人の署名が載せられていました。そして11月の初めに,禁令が解除されたという良い知らせが舞い込み,文書を再び自由に取り寄せることができるようになりました。支部事務所はその奉仕年度中,3万988冊の書籍と7万7,226冊の小冊子を,心待ちにしていた兄弟たちに発送しました。

宣べ伝える業における新たな時代の幕開け

協会は,戦後の期間を神権的活動の新たな時代とする数多くの備えを設けました。1943年に,地元の兄弟たちが有能な講演者また朗読者となるように訓練する目的で,神権宣教学校の取り決めが設けられました。また王国の業を多くの国で開始し強化する宣教者たちを養成するために,ものみの塔ギレアデ聖書学校が開設されました。さらに,1945年には,公開講演を主眼とした運動が各会衆で始まりました。こうしたことに加えて,戸口で短い聖書の話をするようにとの励ましが兄弟たちに与えられたため,蓄音機や録音再生機の使用はもはや必要とされなくなりました。さらに私たちは,初めてのこととして,ものみの塔協会の会長がカリブ海で開かれる大会で奉仕することを知って胸を躍らせました! このような方法すべてを通して備えられたあふれんばかりの援助は,その後の何年にもわたって見られた驚くべき増加に貢献するものとなりました。

ギレアデ学校第3期生のアレキサンダー・サープは,1944年7月31日に同校を卒業しました。その後サープは,英領西インド諸島支部 ― 当時はそのような名前で知られるようになっていた ― における業を顧みるためトリニダードに任命されました。というのも,ギルバート・タルマが今やかなりの年齢に達し,その上,健康を損ねていたからです。サープ兄弟は1946年3月24日に到着しました。それは,協会の役員たちによる訪問の数日前のことでした。

ノア兄弟とフランズ兄弟の泊まっていたホテルの部屋で起きたある出来事は,サープ兄弟に感銘を与え,決して忘れられないものとなりました。ある日サープ兄弟が二人の部屋に行くと,フランズ兄弟が自分のくつを磨いていました。フランズ兄弟は何も言わずにしゃがみこむと,サープ兄弟のくつを磨き始めたのです。それはごく自然なしぐさでした。サープ兄弟はそれを見て,使徒たちの足を洗われた時のイエスの行ないを思い出しました。―ヨハネ 13:3-17

大会は大成功を収め,「諸国民よ喜べ」と題するノア会長の公開講演に1,611人が出席しました。トリニダードに滞在していた期間中,N・H・ノアは,支部事務所と宣教者の家のために入手可能な場所を探すようにとの指示を与えました。フレデリック通り64番地の目立たない場所にあった事務所は所期の目的を果たしました。1946年5月30日に,ポートオブスペインのウッドブルークにあるテイラー通り21番地の建物が購入され,それは26年間にわたって支部事務所および宣教者の家としての役目を果たすことになりました。

宣教者たちは増加に貢献する

10月4日に,さらに8人の宣教者が到着しました。数年間にわたって,同支部の管轄するさまざまな島には宣教者たちが継続的に送られてきたため,これらの期間は,神権組織における改善と,急速な増加の時期となりました。ポートオブスペインでは,伝道者の数が1946年の60人から1947年の159人へと飛躍的に増加しました。町の幾つかの場所では,すべての人が宣教者の一人と聖書を学ぶことを望んでいるように見えました。時には,一人の宣教者が1か月に30件もの異なった研究を司会することもありました。

幾つかの聖書研究を通して,真の弟子が生まれました。テレサ・ベリーは最近次のように書きました。「私が司会を始めた中で最も際立っていた研究の一つに,メイベル・ギンとその家族との研究がありました。彼女と数分話した後に,彼女が次のように述べたことを今でも覚えています。『神様は私たちのためにとても沢山のことをしてくださったので,私たちは,神様のために何かできることはないかとずっと考えてきました』。私は彼女と研究を始めましたが,彼女はすぐに集会に出席するようになり,さらに奉仕にも出かけるようになりました。10人から成るこの家族は全員真理に入りました。今でもメイベルに手紙を書くことがありますが,彼女はあれから37年近くになる現在でもたいへん活発な証人です」。

やがて宣教者たちは人々からよく知られるようになりました。ある日,ピーター・ブラウンが野外奉仕から帰宅する途中で近道をしようとして墓地を通りかかると,折しも葬儀の列がやって来ました。一行はピーターが宣教者であることに気づいたため,その中の一人が近づいて来てこう言いました。「埋葬所で話をしてくださる方がだれもいないのですが,あなたにそれをお願いしてもよろしいでしょうか」。ピーターは喜んでそれを引き受けました。

新しい宣教者たちは多くの面で再調整することを求められましたが,同様に,地元の兄弟たちも幾つかの調整を図るように宣教者たちから援助を受けました。王国会館に行くと,兄弟たちが会館の片方に座り,全員が,濃紺または黒のスーツを着ていることに気づきました。姉妹たちはまっ白な服を着て,会館のもう片方に座っていました。しかし宣教者たちは,色とりどりの服を着て,会館のどちらの側にも座り始めました。やがて,このような古い習慣はなくなりました。

このころになるとトリニダードの事務所は,ジャマイカを除いて,英領西インド諸島に属するすべての島の小さな群れから報告を受け取っていました。

巡回監督たちは自らを費やす

1946年の暮れに,キューバにいたギレアデの卒業生ジョシュア・スティールマンは,会長事務所の代表者としてトリニダード支部で奉仕し,さらに島々全体で兄弟たちの僕(巡回監督)の奉仕を行なうようにとの任命を受けました。スティールマン兄弟は,野外奉仕に出かけるよう伝道者たちを励ますのがたいへん巧みで,兄弟の奉仕したすべての会衆ではほぼ例外なく,伝道者は新最高数を記録しました。

その翌年,バルバドスにある宣教者の家が閉鎖され,残っていた宣教者のベネット・ベリーは兄弟たちの僕に任命されました。ベリーの経験を書き記すとすれば,1冊の本ができることでしょう。交通手段と呼べるものはほとんどありませんでした。仮にバスがあったとしても,席に座ることは困難でした。乗客の中には,鶏や魚,それにやぎまでいたのです。それは何とも言えない体験でした。乗客はおしゃべりばかりしていました。特に山地では,道は狭く曲がりくねっていました。

ドミニカ島でベリー兄弟は,ある会衆のところに行くために29㌔も山道を歩いたり川床を上ったりしなければなりませんでした。馬が1頭手に入ったこともありましたが,その馬は倒れて死んでしまいました。それでもベリー兄弟は,謙遜な兄弟たちがエホバとそのみ子およびエホバの組織との関係をますます深く認識するようになるのを見て,大きな喜びを味わいました。さらに,兄弟たちの必要に無私の態度で仕える時に,ベリー兄弟の霊性も向上しました。

大会の宣伝に対する反応

1948年5月21日から23日にかけて,ポートオブスペインで地域大会が開かれることになりました。宣伝は大々的に行なわれることになり,物事はすべて順調に運びました。今回は,通常の宣伝行進やビラや窓用サインに加えて,それぞれの自転車にプラカードを付けた自転車部隊が編成されました。それは確かに人目を引きました。

大会に使用された建物が狭かったため,公開講演は,ビジネス街の中心に当たる,ウッドフォード広場の野外で午後8時に行なわれることになりました。会場は,熱帯地方の満月の光に明るく照らし出されました。「全人類の来たるべき喜び」と題する講演を聞くために3,623名の群衆がその広場の野外音楽堂の周りに集まったのを見て兄弟たちはたいへん喜びました。

野外公開講演

大勢の地元の兄弟たちがかなり有能な公開講演者になると,これらの兄弟たちは巡回監督たちと共に,野外公開講演を頻繁に行なうようになりました。このような講演は容易に取り決めることができました。

店の軒下で講演を行なう許可を得るために,店主との交渉がよくなされたものです。電気がない場合は,ひさしを支える棒の1本に石油ランプやカーバイドランプをぶら下げました。そして聖書と原稿を置くためのテーブルをセットすると,準備はそれですべて整いました。講演の当日もしくはその週に,その地域で口頭による宣伝やビラの配布を行なうと,100人以上の群衆が確実に来たものです。往来の物音や虫などを除けば,気を散らすようなものはほとんどありませんでした。しかしやがて,犯罪や暴力行為などが横行するようになったため,野外公開講演の時代は終わりを迎えることになりました。

とはいえ,こうした野外公開講演を通して何人かの羊のような人々が真理に導かれました。チャグワナスで行なわれたこのようなある講演の後に,一人のヒンズー教徒の若者は,翻訳された2種類の聖書を講演者から求めました。その若い男性は全時間奉仕に入り,亡くなるまで忠実にエホバに仕えました。

シビア号と「光」号

協会が1隻の帆船(シビア号)を購入した時,良いたよりを小さな島々にまで携えて行くための,新しい,胸を躍らせるような方法が採用され始めました。最初の乗組員を構成していたのは,S・J・カーター,G・マキ,R・パーキン,そしてA・ワースレーでした。四人はプエルトリコとトリニダードにはさまれたある巡回区を船で回り,すべての小さな島で徹底的な証言を行ないました。大きな島の人々でさえ,四人が物資の補給や大会出席のために短期間滞在するのを喜びました。

ほとんどの島には,海岸に沿って小さな漁村が点在していました。これらの村は必ずしも陸続きに道路があるわけではなかったので,シビア号は,これらの孤立した地域に良いたよりを携えていく上でたいへん有用なものとなりました。

協会は1953年にシビア号を,「ル・シュバル・ノアール」号と呼ばれる,二つのエンジンを積んだ大型発動機船と取り替えました。後にその名前は,「光」号という名前に変更されました。1953年11月9日に,トリニダードがこの船の母港として登録されました。

ところが,その翌年,ウッドフォード広場でノア兄弟が3,269名の聴衆に話をした時に,植民地担当大臣のモーリス・ドーマンが出席したのです。そしてその後,同じ年の7月6日に,当時,総督代理だったドーマン氏は行政最高議会においてある指令に署名しました。それは,「光」号の乗組員を望まれざる客とみなすものでした。1954年9月25日,バルバドスでの大会の奉仕を終えた「光」号が港に入ると,乗組員たちは,上陸を許可されていないということを入国管理官たちから知らされました。さまざまな話し合いが管理官たちとなされましたが,良い結果は得られず,同機船は10月5日までに立ち去ることを命じられました。「光」号は,近年カリブ海を襲った中で最悪のハリケーンの一つが吹き荒れる中を出港しました。

地元の兄弟たちによる奉仕

特別開拓者として奉仕できた地元の兄弟たちは,今やますます重要な役割を果たすようになりました。既に地元の巡回監督たちはかなりの程度まで外国人の宣教者たちと入れ替わっていましたし,やがては完全にそうなる予定でした。1950年と1951年の間,トバゴのスカルバロにある宣教者の家は機能を果たしていました。ところが,白人たちに不利な,ある種の感情が一般民衆の間に生じたため,白人たちの働きに支障を来たしはじめました。そこで1954年に二人の地元の特別開拓者エドワード・ハリーとオリバー・スミスが,王国の業を拡大すべくトバゴに任命されました。これは,結果としてすばらしい成功を収め,さらに,少なくともある区域では,資格を備えた地元の兄弟たちのほうが外国の宣教者たちよりもさらに効果的であることを例証するものとなりました。

それ以来,地元の特別開拓者たちの中のある人々は,ものみの塔ギレアデ聖書学校に出席して,トリニダードへ戻るようになりました。テレサ・チ・チー・ファットとシルビア・ペルメルはその中の二人です。二人は忠実かつ熱心に働き,エホバは,弟子を作るための二人の奉仕を祝福されました。テレサは,46人の霊的な“子供たち”に恵まれました。一方シルビアは,59人の人々がエホバに自らの命を献げ,バプテスマを受けるのを見てきました。

増加に伴って,幾つもの新しい支部が必要となる

1954年1月にノア兄弟が訪問した時,リーワード諸島における王国の業は既に十分成長していたため,独自の支部事務所を設立することが決定されました。リーワード諸島支部の管轄には九つの島が含まれることになり,残り七つの島はトリニダード支部にゆだねられました。バルバドス支部が誕生した1966年には,さらに新たな分割が生じました。今やトリニダード支部の管轄には,トリニダード島とトバゴ島だけが含まれるようになり,私たち自身の畑はますます狭くなってゆきました。とはいえ,それは王国の業の拡大によるものでした。

1950年代とそれに続く期間中は,伝道者の増加はほんのわずかしか見られず,中には減少の見られた年もありました。これは必ずしも,人々の関心を培う必要がなくなったことを意味するものではありませんでした。それは主に,経済的な事情によるものでした。失業率が高く,賃金も安い上に,家族は大所帯だったのです。このことは,他の人々と同様,エホバの証人にも当てはまりました。そのようなわけで,こうした期間中,英国,カナダ,それに米国に移民として出て行く証人たちが絶えずいました。とはいえ,霊的な成長は確かに見られるようになりました。

ふさわしい王国会館を備える

1959年の終わりごろ,トリニダードに住む一兄弟は,王国会館を建てるための資金を幾つかの会衆のために蓄えることを諸会衆に促すかどうかに関して,当時の支部の僕ロバート・D・ニュートンと協議しました。当時のトリニダードには,小さな王国会館が一つあるだけでした。それは1940年にサンフェルナンドで建てられたものです。やがて,王国会館基金が発足しました。その後間もなく,かなり大きな王国会館を建てる業がサンファンで始まりました。労働力のほとんどは,自発的な働き人たちによって賄われました。全員が証人たちから成る大勢の男性や女性が,コンクリートを練り,それを流し込むためのバケツリレーを行なっている姿は正に目をみはる光景でした。会館は,1961年の初めに完成し,その年に開設された王国宣教学校の授業を行なう会場の一つになりました。

これとほとんど時を同じくして,別の会館が建て始められました。今回の会館は,ポートオブスペインのラベンティリェ会衆が使用するものでした。しばらくすると資金が底をついてしまいましたが,こうした建設のために用意された貸付金を協会から借りることが可能になりました。さらに多くの会衆がこの備えを活用して立派な王国会館を建てました。今では27の王国会館があり,近い将来にはさらに多くの会館の建設が予定されています。

1985年5月に,王国会館の建設に関して新たな事柄が生じました。兄弟たちは,他の国々で王国会館が手早く建設されたという報告を聞いて興奮を覚えていました。そのような事をトリニダードで行なうことは可能でしょうか。調査を行なうために建設委員会が設置され,徹底的な検討がなされました。その結果,シパリア会衆の区域に,1回の週末ではなく2回の週末で会館を建ててみることが決定されました。兄弟たちの反応はたいへんなものでした。確かにその会館は2回の週末で建てられ,シパリアの兄弟たちは自分たちの新しい会館を存分に活用しています。こうした建設活動すべては,これらの島における王国宣明の業の拡大に確かに貢献するものとなりました。

地元の協会が設立される

増加を顧みるために,新たな支部施設が必要となりました。1963年に,サープ兄弟は15年ぶりに再び支部の監督として奉仕し始めました。それまでの期間は,他の人々が監督の責任を果たしてきました。ロンドンの国際聖書研究者協会が土地を借りられるようにするため,申請がなされましたが,許可は与えられませんでした。この時点で三つのふさわしい土地が見つかり,それら三つの敷地のどこにでも建設を行なってもよいとの許可が町議会から得られました。ところが,国際聖書研究者協会の名義で所有権を取得するため,首相の事務所に認可を求めたところ,断わられました。土地所有者の一人は,「彼らがあなた方に望んでいることは,地元の協会を設立することです」と言いました。

エホバの証人の地元の協会を設立するために,法律上の提案を求め,次いで必要な手段を講じることになりました。1968年8月18日に開かれた会衆の僕たちと支部事務所の職員との会合は,協会を設立する上での土台となりました。協会設立のための草案が準備され,諮問委員会の成員が選ばれました。最終的に,立法府の両院において個別的法律案が起草された後,1969年8月7日に法案は成立し,可決されました。今や兄弟たちは法人協会を持つことにより,政府からの認可なしに,土地を所有したり取得したり売却したりすることができるようになりました。

現在ある王国会館の所有権はすべてこの地元の協会に帰属しており,さらに将来取得されるすべての土地は,トリニダード・トバゴのエホバの証人によるこの協会の名義で購入することができます。今では,婚姻記録官も任命できるため,エホバの証人たちは政府の官吏を通して結婚する必要はもはやありません。

大会を取り決める

組織の拡大に伴って,毎年開かれる地域大会のためのもっとふさわしい場所を見つけることが急務となりました。劇場はかなり前から入りきらなくなっていました。利用可能で,ある程度ふさわしい場所は2か所ありました。それは,サンファンのヒマラヤクラブと,ポートオブスペインのクイーンズホールです。これらの会館は,毎年使用されました。

このころ,地元の兄弟であるエリック・グレゴリオが,自分はクイーンズ・パーク・サバンナの競馬場にあるグランドスタンドを借りられると思う,と述べました。そして,実際にそのことを行なったのです。この立派な施設を使用する許可が私たちに与えられたのは,1932年以来,この時が初めてでした。1970年10月1日から4日にかけて,大会が取り決められました。

ところが1970年の初めに,突然,ブラックパワー(米国の黒人市民権運動)による示威運動が起き始めたのです。戦闘や焼き打ち,それに何件かの殺人事件も発生しました。4月には非常事態が宣言され,外出禁止令がしかれました。地域大会は開けるでしょうか。7月に巡回大会を開くことは可能でしょうか。そうです,すべての大会を開いてよいとの許可が警察の本部長から与えられました。

どの巡回大会もすべて円滑に行なわれました。ただ,ポートオブスペインで開かれた一番大きな大会だけは別でした。その大会が始まろうとしていた直前に,巡回監督は警察の本部長から,大会を開くことはできるが音響装置は一切使用できない,ということを知らされたのです。本部長との話し合いが行なわれましたが,良い結果は得られませんでした。次に,国家の治安担当大臣と面会を行なうために一人の代表者を派遣することが試みられましたが,これもまた失敗に終わりました。本部長に考えを変えてもらうために再度の試みがなされましたが,本部長は,自分にその意志はない,とはっきり述べました。このため,金曜日のプログラムは音響装置をまったく使わずに1,300人以上の聴衆に提供されました。土曜日の朝,かつて警察官だった一人の兄弟が会見を試みましたが,本部長は週末には事務所にいない,と告げられただけでした。私たちは,できることはすべて行ないました。

次いで,土曜日の昼近くのことです。真理に関心を持っていた一人の若い女性が,この問題に関してあることを行なおうと決意しました。彼女は金曜日の夜に出席したのですが,プログラムはまったく聞き取れませんでした。彼女は本部長と面識がまったくありませんでしたが,本部長の自宅に電話をかけることにしました。まず最初に彼女は,エホバが本部長の心を和らげてくださるようにと祈りました。その結果はどうだったでしょうか。まだエホバの証人の一員とはなっていなかったこの一個人からの願いを,本部長は聞き入れたのです。大会の残りの期間中,音響状態はとてもよく,公開講演に出席した2,187人は講演をはっきりと聞き取ることができました。

「善意の人々」地域大会が10月にグランドスタンドで開かれましたが,妨害はまったくありませんでした。たいへんすばらしいことに,このとても広い会場にはすべて屋根があり,さらにグランドスタンドの真横には,十分の広さを持つ駐車場まで付いていたのです。最終日には大雨が降ったにもかかわらず3,239人が出席しました。グランドスタンドを掃除し,それをきれいな状態で返すという先例ができてからは,巡回大会や地域大会のために同会場を借りる時に問題が生じたことは一度もありません。

死に至るまで忠実に奉仕する

死に至るまで忠実に奉仕するのは,キリスト・イエスの油そそがれた兄弟たちばかりではありません。キリストの「ほかの羊」も同様に,たとえ死に面したとしても,最期まであらゆる状況のもとで忠実であることを証明しなければなりません。このことは,幾人かの宣教者たちに関して真実となってきました。

エドマンド・チャールウッドとジェリー・ドーリングは1949年に到着しました。すぐにエドマンドは巡回奉仕に割り当てられ,トリニダード支部の管轄下のすべての島を回りました。熱帯地方の焼けつくような太陽のもとでも,土砂降りの雨の中でも,エドマンドは兄弟たちと共に野外奉仕にひたすら励みました。兄弟たちのつましい家にも喜んで寝泊まりし,パンの木の実の食事やソルトフィッシュにもすっかりなじみました。エドマンドは,最初は巡回監督として,次いで地域監督として,19年間にわたり旅行しました。エドマンドがかなりの年齢に達すると,その割り当てはジェリーに与えられました。

ジェリーとその妻は,しばらくの間バルバドスで奉仕しました。その期間に行なった全時間奉仕は,地域監督としてのジェリーの奉仕を効果的なものとする上で役立ちました。ところが1971年2月,ジェリーとその妻が野外奉仕にあずかっていた最中に,突然悲劇が襲いました。二人は,幹線道路へ止まらずに入って来た1台の車にはねられたのです。ドーリング兄弟は翌朝亡くなりました。兄弟はトリニダードに来て以来ほぼ22年間にわたり忠実に奉仕しましたが,兄弟の死は確かに大きな痛手でした。

エドマンド・チャールウッドは,高齢のために体力は衰え,能力が減退してゆく中,宣教者の家で奉仕を続けました。ついに1976年8月,この忠節な兄弟は亡くなりました。エドマンドの未亡人エルシーは,ジェリーの未亡人であるアリスと共に引き続き宣教者として奉仕しています。

シビア号と「光」号の乗組員を構成していた兄弟たちの中に,スタンレー・カーターがいます。スタンレーは,島々で良いたよりをふれ告げるために他の兄弟たちと共に熱心に働きました。スタンレーがアンと結婚すると,二人は,グレナダのセントジョージズに宣教者の家を開設する割り当てを受けました。それは容易な割り当てではありませんでしたが,二人は忍耐強さを示し,エホバがその努力を祝福されるのを目にしました。1965年にスタンレーは重い病気となり,治療を受けるために妻と共にカナダに行きました。その後間もなく,スタンレーは長年にわたるその忠実な奉仕を終えました。

これら忠誠を保った宣教者たちは現在,神の記憶にとどめられている同様の人々がキリストの声によって命へと呼び出される時まで眠りに就いています。―ヨハネ 5:28,29

目ざましい補助開拓奉仕

長年にわたってこれらの島では,補助開拓奉仕の活動を拡大するために首尾一貫した方法が取られてきました。1960年代中,支部の監督は,巡回大会で開かれる,地域および巡回の監督と諸会衆の監督との集まりに参加することを習慣にしていました。支部の監督は5分か10分ほどの時間を割いてこれらの兄弟たちに話をし,4月の休暇(補助)開拓を強調するように励ましました。

次いで1968年1月にヒマラヤクラブで開かれた巡回大会において,一人の兄弟は,「開拓奉仕 ― 真の喜び」と題する奉仕会のプログラムの一部を担当しました。建物の至る所には,“VPA”という文字のサインがありました。それは何を意味していたのでしょうか。やがて兄弟の受け持つプログラムの時間がやって来ました。するとステージの上に,サンドイッチ式のサインを身に付けた一人の大きな兄弟が出て来ました。そのサインには,“1968年4月<エイプリル>”と書かれていました。その兄弟の名前は“ビッグ・エイプリル”(“大きな4月”の意)でした。ここで聴衆は,VPAという文字が“バケイション パイオニア イン エイプリル”(“4月に休暇開拓を”)という意味であることに気づきました。兄弟たちはその実演を決して忘れませんでした。

最初は徐々にでしたが,やがて兄弟たちはその励ましに急速にこたえ始めました。バプテスマを受けていない子供や大人は,休暇開拓者たちと共に働いて同じ目標時間に到達する努力を払うよう励まされました。247ページの表が示しているように,1978年以降驚くべき結果が得られるようになりました。

ポートオブスペインにあるベルモントの一会衆では,長老たちが兄弟たちに個人的に声をかけて申込書を1枚手渡し,それを読んで考慮してみるように勧めました。1週間分の時間の予定を記した何枚かの表が準備されて掲示され,主婦,世俗の仕事を持つ人,学生などがどのように目標時間に到達できるかが示されていました。すべての人が休暇開拓を念頭に置くことができるように,王国会館の壁には幾つかの標語が掲示されました。

ベルモントの会衆の成功ぶりを聞いた他の会衆は,同じ方法を用い始めました。その結果,1985年までに,ほとんどすべての会衆で補助開拓奉仕に対するすばらしい支持が見られました。ベルモントでは,全伝道者の75%が補助開拓者となり,野外での奉仕時間は平均して63時間でした。アリマ・イースト会衆では73%,マラバルでは63%以上が補助開拓者として報告を提出しました。これらの会衆はいずれも,100人以上の伝道者から成る大きな会衆でした。93人の伝道者が報告を提出しているココイエ会衆では,78%の人々が補助開拓者の隊伍に加わりました。

どうしてこれほど大勢の人々が補助開拓奉仕を行なえるのでしょうか。一姉妹は次のように説明しました。「ある月の7日に一人の長老による話が行なわれたあとで,私は自分の申込書に記入し,一人の年若い姉妹に自分と一緒に奉仕するよう励ましました。彼女の同意が得られたので,彼女が私の家に時々泊まるための許可を彼女の両親から得ました。それは,二人で早朝に街路活動を行なうためでした。私のスケジュールは次のようなものでした。午前5時ごろに起床します。午前6時半ごろに街路に出ると,午前8時まで奉仕し,そのあと世俗の仕事に出かけます。午後にはさらに2時間かそれ以上を奉仕にあてます。土曜日は休みでしたから,いつもと大体同じ時間に活動を始めると,昼食と休憩の時間を別にして午後9時まで奉仕を続け,少なくとも10時間は入れます。日曜日には野外奉仕に1時間ほどしか費やしませんでした。私は,先程の姉妹以外に,他の兄弟たちが街路活動を行なっているのを見かけるとたいへんうれしく思いました。というのも兄弟たちがいなければ,私はそんなに遅くまで外にいられなかったからです。……私は75時間を入れ,12の再訪問を行ない,2件の聖書研究を持つことができ,さらに,716冊の雑誌を配布しました。自分の報告をながめていると,ルカ 17章10節の『わたしのしたことは,当然すべきことでした』という聖句が絶えず頭に浮かんできます」。

ある会衆の70代になる一姉妹は,毎年数回開拓を行なっています。1985年4月に姉妹はたいへん重い病気になりましたが,その月の15日ごろに少し気分がよくなり始めると,再び外に出かけたいと思いました。姉妹は関節炎に病む体をベッドから引きずり起こすと,もし自分が死ぬとすれば,エホバへの奉仕にあずかっている最中の開拓者として死にたいと言いました。姉妹は相当な努力を払って外に出かけ,街路での奉仕に参加しました。そして会衆の他の成員たちは,自分たちの車を用いてこの姉妹を援助する取り決めを設けました。そしてちょうど十日後に,姉妹はその月の目標時間に到達したのです。この経験を書いている時点で姉妹は引き続き健在で,再び補助開拓を計画しています。

さらに,ベテル家族全体も,この増し加えられた野外奉仕に参加することが可能であることに気づきました。それで,家族の中の年長の一成員は,「身体的な疲れは覚えたものの,実にそう快な気分を味わいました」と述べました。

特別な学校の備え

1961年にトリニダードで最初の王国宣教学校が開かれ,すべての特別開拓者たちが出席する特権を得ました。彼らは確かにこの備えを感謝し,その課程から益を受けました。さらにその後,正規開拓者の兄弟たちがこの学校の課程から益を受ける機会に恵まれました。1985年には,すべての奉仕の僕が,彼らの益を図って準備された一つの特別な課程に参加しました。全時間奉仕に対するいっそう立派な精神がはっきりと見られるようになりましたが,前途にはさらに多くのことが待ち受けていました。

1977年に,「世を照らす者として輝く」と題するすばらしい教材が,開拓者のための2週間にわたる教訓課程の基礎として準備されました。今回は姉妹たちも,築き上げる多くの励ましと教訓を得られました。これは全時間奉仕,とりわけ補助開拓奉仕にすばらしい影響を及ぼしました。会衆の伝道者の間には開拓者精神が広まっていったようです。このことは特に,500人の補助開拓者というすばらしい新最高数に達した1978年の4月に認められました。

数多くの感謝の手紙が寄せられました。ある手紙にはこのように書かれています。「この手紙は,開拓奉仕学校に対する私の感謝を表わすものです。学校は,ヤハからの時宜にかなった実にすばらしい備えでした。学校に出席する数か月前に,私の夫は巡回奉仕を始め,私は夫に同伴しました。それは私にとって実に挑戦となりましたが,学校での広範囲にわたる課程はその挑戦に応じる上での助けとなりました。私の証言方法がさらに効果的で興味深く巧みなものとなるにつれ,野外奉仕は私にとって今や一層多くの意味を持つようになりました。これは,家の人にさらに個人的な関心を示すことに関して学校で与えられたすばらしい提案の幾つかを適用したためです。

「最も印象に残った一つの点は,私たちは宣べ伝え弟子を作る業においてエホバの同労者であり,それは,エホバとの親しい関係を培う必要を示している,ということでした。これは,野外奉仕にあずかっている時に祈りの中で一層エホバを呼び求める必要のあることを私に銘記させ,エホバの後ろ盾をさらに強く確信させるものとなりました」。

拡大に伴って新たな施設が必要となる

1972年5月,私たちは26年間を過ごしたテイラー通り21番地をあとにして,ポートオブスペインのちょうどはずれにある新しい宿舎と支部事務所に移転しました。それは新しい建物ではありませんでしたが,以前の場所に比べると確かに私たちの必要にずっとよくかなっていました。

私たちはこの敷地を取得することに決定した時,それがマラバル川に隣接しているということに気づきました。私たちが移り住んだ時は乾季でした。近所の人々にもいろいろ尋ねてみましたが,敷地が洪水になることを心配させるような言葉は何も聞かれませんでした。ところがその同じ年の12月に,鉄砲水のために川の流れが非常に激しくなり,深さ30㌢ほどの泥流が事務所や階下にまで流れ込んで来たのです。

川伝いにブロック塀が建てられ,数年間は問題がありませんでした。そして1975年に,その塀を破壊的な鉄砲水が突き破ったのです。事務所の1階は水深1.2㍍の水につかってしまい,何千冊もの書籍と事務所の機材や書類が台なしになりました。技師の勧めで,高さ2㍍,基部の厚さ1.2㍍の先細りの石壁が川沿いと敷地の周辺に建てられました。ポンプも設置されました。ところが1980年に,私たちはまたもや災害に見舞われたのです。私たちの敷地と隣接地の間に建てられた例の壁は崩れてしまいました。その結果,大量の水が支部の宿舎の周りを奔流となって流れ,ドアを打ち破って甚だしい被害をもたらし,命が脅かされるまでになりました。30日以内に洪水がさらに2回起きましたが,防護壁はまったくありませんでした。以前もそうだったように,大勢の兄弟たちが私たちの後片付けを手伝うためにやって来ました。近所の人たちは,何トンもの残がいが運ばれてなくなってゆくのを見て我が目を疑いました。驚くほど短時間に,物事はかなり平常に戻りました。すぐに新たな鉄骨鉄筋コンクリートの壁が建てられましたが,支部委員会は,支部を別の場所に移すことを統治体に提案しました。

私たちの建てた新しい支部施設

河川の氾濫による危険に加えて,再び,宿舎と事務所は仕事を行なうのにかなり手狭となりました。諸会衆の必要を世話するための十分の場所はもはやどこにも見当たりませんでした。1972年以来,伝道者の数は40%近く増加していました。

統治体は支部委員会の推薦を承認しました。やがてポートオブスペインと空港の間に,約4,000平方㍍の土地が見つかりました。問題は幾つかありましたが,一つずつ克服されてゆきました。ペンテコステ派の信者たちが教会を建てるためにその敷地を購入しようとしたことがありましたが,近所の人々は,その種の集会所の出す騒音を理由に反対しました。それに,信者から“感化される”のではないかという恐れが多少なりともあったのです。しかし,エホバの証人たちが近所の人々に,エホバの証人がその土地で建設を行なったとしても危険は何ら及ばないこと,また騒音はほとんど出ないことを請け合うと,近所の人たちは反対しませんでした。こうして1981年に,その土地はトリニダード・トバゴのエホバの証人による地元の協会の名義で購入されました。

1年半ほど経過した後に,私たちはようやく建設そのものに取り掛かることができ,兄弟たちは作業のために喜んで自分を差し出しました。床にコンクリートを流し込むことになった時は,多くの人手が必要とされました。というのも,精巧な機材は何もなく,ただ2台のコンクリートミキサーと沢山のバケツ,それに,バケツをリレーで渡す兄弟たちが立つための足場板しかなかったからです。兄弟や姉妹たちから成る二つの長い列がミキサーの所から,セメントの流し込まれている所まで続きました。空になったバケツは,もう一つの列でミキサーの所まで送り返されました。専門職の人々はしばしば夜を徹して働きました。結果として,真に一致と励みをもたらす影響が諸会衆に及びました。

1985年3月16日の献堂式のプログラムには,統治体のミルトン・G・ヘンシェルが出席しました。トリニダードのすべての会衆からも伝道者たちが出席し,2,942名がすべての座席と見晴らしのきく場所を埋め尽くしました。そこを去る時,全員が喜びと幸福な気分に満たされていました。

エホバは漸進的な改善を施す

ずっと昔にエホバはイザヤ 60章の中で,ご自分の地上の組織をその定めの時に改善し拡大するという目的を予告されました。私たちの中の古い人々は,この目的が確かに実現したことを証言できます。兄弟たちが,長老に選出されるための運動を行なっていた時のことを考えるなら,現在の諸会衆の事情はどんなにか優れているのでしょう! 今日,諸会衆は霊的な繁栄を見ています。

トリニダード・トバゴには現在50の会衆がありますが,増加はさらに見込まれています。1986年4月の報告が示すところによれば,伝道者は4,558人で,1万1,537冊の書籍に加えて13万5,000冊以上の雑誌を配布しました。家庭聖書研究は6,990件以上司会されています。記念式には,1万3,961人という励みある出席者数が得られました。それに続く月々のあいだ,さらに多くの新しい弟子たちがバプテスマを受けました。

1946年に宣教者たちが到着して以来,このような小さい支部にしてはかなり大量の文書が配布されてきました。報告は,160万冊を上回る書籍と150万冊以上の小冊子,それにおびただしい数の雑誌が配布されたことを示しています。この支部のもとに置かれてきたトリニダード島とさまざまな島では,証言が大いになされてきました。さらに,この事物の体制の終結する前に,羊のような人々の一層大きな取り入れの業が行なわれる見込みがあります。

一人の巡回監督は次のように報告しています。「地域監督が訪問中の水曜日の午前中に奉仕をしていた時,私たちはある通りに着きましたが,あいにく,『兄弟,ここは金曜日に奉仕しました』と言われました。しかし私たちは,その通りで奉仕することにしました。1軒の家を訪問すると,私たちは中に招かれました。そして私のパートナーは『会話するための話題』から話をしました。

「相手の婦人は,自分はトリニダード人で,家族と共にロンドンで暮らしているが休暇で実家に戻っている,と私たちに説明しました。彼女は,ロンドンに住む義理の母親から聖書を読むように励まされたので,しばらくすると実際に聖書を読み,それを楽しみました。義理の母親にそのことを知らせると,『それではまだ足りないから,教会の信者になりなさい』と言われました。その義理の母親はアドベンティスト派の成員だったのです。しかしこの婦人は,単に教会の信者になることだけを望んでいた訳ではありませんでした。そこで祈りを通して神に近づき,自分は,『家の玄関に最初に福音を携えて来る人々が真理を持っているということ』を一つのしるしとみなすつもりであることを神に伝えました。そして彼女の家の玄関を最初に訪れたのは,私たちだったのです。彼女がロンドンに戻ってからも聖書研究を続けられるようにイギリス支部に手紙が送られ,その研究は司会されました。現在この家族はトリニダードに戻っていますが,夫も妻もバプテスマを受けており,夫妻とその子供たちはトリニダード東部にある一会衆と交わっています。興味深いのは次の事柄です。つまり,伝道者たちは既に金曜日にそこで奉仕したのですが,彼女がロンドンからやって来たのは土曜日でした。そして私たちは翌週の水曜日にそこにいたのです」。そうです,野外奉仕では良い結果が幾つも得られており,自らを差し出す人々はこの喜びにあずかっています。

個々の会衆のためのさまざまな牧羊の取り決めが改善されたことと並行して,支部事務所による業の監督に関しても同様の改善が施されてきました。もはや支部の監督一人だけが,支部の活動に関する監督の責任を担うことはありません。支部委員会の数人の成員の間で仕事や責任を分担することによって,業に関する多くの面すべてに一層深い注意を払うことが可能になりました。この土地における支部委員会の現在の成員は,アール・デービッド,ゼフライン・ネッド,ウィンストン・サイモン,およびアレキサンダー・サープです。

“ハチドリの島”また“ロビンソン・クルーソーの島”は,生活を営み,偉大な創造者エホバに仕える上で気持ちのよい場所です。エホバは,すべてのものをその時にかなって美しく作っておられる方なのです。(伝道の書 3:11)現在のトリニダード支部は,地球上のさらに大きな国々の支部と比べるなら,面積やいろいろな数字の点では小さなものです。とはいえ,この地における業の歴史を思い巡らしてみる時,ほのぼのとした温かさが伝わってきます。私たちは,息あるすべてのものがエホバを賛美するようになる時を待ち望みつつ,王国の関心事を顧みる点で世界中の兄弟たちと共に引き続き前進してゆくことを決意しています。―詩編 150:6

[247ページのグラフ]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

補助開拓者の増加

1978 1979 1980 1981 1982 1983 1984 1985

4,000

3,500

3,000

2,500

2,000

1,500

1,000

500

16.9 28.8 40.6 39.1 47.9 52.3 54.1 56.7

全伝道者に対する補助開拓者の比率

[232ページの図版]

トリニダードの支部委員会の調整者アレキサンダー・サープと,妻のロイス

[239ページの図版]

宣教者の船,シビア号の上で