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エクアドル

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エクアドル

地球の中央にあり,しかもその中心からは最も遠く離れたところ ― そこに,赤道をまたぐエクアドルがあります。低地にある湿潤なジャングルとは対照的に,岩肌の多いアンデス山脈の高地には,“とこしえの泉の都市”があります。太平洋の沿岸では二つの異なる海流が,陸地に達する順番を競い合っています。5月から12月にかけては,ひんやりとするペルー海流が優勢になり,冷たい乾燥した気候を中央部の地域にもたらします。次いで1月から4月にかけて,エルニーニョ潮流と名づけられた暖流が,暖かく湿り気のある風を運びますが,新たな季節雨を降らせるので土地は再び生気を取り戻します。

エクアドルの人々は,自分たちが住んでいる国と同じほど,あらゆる面で多様性に富んでいます。数あるインディオの部族の中で,恐らく最も広く知られているのはオタバロ・インディオです。通常,男性は編んだ髪の毛を後ろに垂らして,黒っぽい色のフェルト帽をかぶり,白のズボンとシャツの上に濃紺のポンチョを着ます。中には,世界の各地を回って,自分たちの編んだ毛布や肩掛け,ポンチョなどを外国で売る人もいます。一方,コロラド・インディオは衣類をほとんど身に着けません。男性はお椀のような形の髪型をし,明るいオレンジ色の顔料を体一面に塗っていることで見分けがつきます。

人口の別の重要な部分は黒人で,その祖先は直接ジャマイカやアフリカにたどることができます。さらに,金を求めてやって来た征服者たちが及ぼした影響の結果として,人々の顔の特徴にも,建築物にもスペインの名残が見られます。そこに東洋人,ユダヤ人,アラブ人,それにヨーロッパの商人たちから成る大勢のグループを加えれば,今日のエクアドルが出来上がります。彼らはもてなしの精神に富む国民で,他の人々とあいさつをする時には,たいてい温かい微笑みを浮かべて,握手を交わします。そのような友好的な態度のおかげで,彼らの多くは,ある音信を受け入れて,自分たちの生活をたいへん豊かにすることができました。

良いたよりがエクアドルに届く

エクアドルの少なくとも一部の人々は,1935年に初めて神の王国の良いたよりを耳にしました。その年,チリに向かう途上の二人のエホバの証人,セオドア・ラグナと彼のパートナーが,エクアドルで10か月のあいだ宣べ伝える業を行ないました。その後1946年に,ギレアデ学校からエクアドルに任命された宣教者たちが港湾都市,グアヤキルに到着しました。そのメンバーは,ウォルター・ペンバートンとウィルメッタ・ペンバートン,それにトマス・クリンゲンスミスとメアリー・クリンゲンスミスでした。

必要な法的手続きを済ませると,これら最初の宣教者たちはすぐに,海抜約3,200㍍の火山灰台地にある首都キトに向かいました。そのような高地までつながっている,通行可能な道路はなかったので,彼らはグアヤキルから鉄道を利用してキトに行きました。そのときの旅を振り返って,彼らはこう述べました。「多くの人がしていたように,列車の屋根に乗ったり,両側にぶら下がったりする必要がなかったのは幸いでした。沿線の先々で売るために,バナナやパイナップル,それに鶏肉を運搬している人も結構いました」。

デビルズ・ノーズ(悪魔の鼻)と呼ばれた急な勾配を乗り切るため,列車はジグザグに続く山岳鉄道をよろよろと上って行きました。まるで,崖の壁面を切り崩して作った,狭い岩棚に乗っているようでした。列車は険しい斜面を曲折して一方向にしばらく上って行くと,そこで停車し,今度は後ろ向きに動き出して,次の折り返し地点まで上って行きました。宣教者たちが山上にたどり着くまで,このようなことが何度も繰り返されました。二日がたち,日も暮れかけたころに,宣教者たちは目的地に近づきました。彼らはそこで,雪をいただいた火山の峰々を目にして,畏敬の念に打たれました。中でも圧巻なのは,世界で最も高い活火山コトパクシで,その高さは5,897㍍もありました。

いよいよ,実際の宣教者生活が始まりました。1軒の家を借りる必要がありました。冷蔵庫はなかったので,食料は毎日買いました。調理は,薪を燃料とする暖炉を用いて行ないました。衣類はどのように洗濯したのでしょうか。洗濯機などは使いませんでした。洗濯板の上に衣類を置いて,素手のこぶしで,ごしごしと,一枚ずつ洗ったのです。それでも,宣教者たちの一人は,「これまでにみんながそれほど不平を述べたという記憶はありません。みんなはただひたすら,宣べ伝える業を続けました」と述べています。

スペイン語に関する彼らの知識は非常に限られていたので,宣べ伝える業はやはり挑戦となりました。それでも,彼らはエホバに対する信仰を抱いて,家から家に出かけ,証言カードや蓄音機によるレコード,それに自分で考案した多くの身振りを活用しました。ほどなくして良い結果が見られました。

真理を見いだした最初のエクアドル人

ある晩遅く,ウォルター・ペンバートンがキトの狭い裏通りを歩きながら区域の下見を行なっていると,一人の小さな男の子が駆け寄って来て,時間を尋ね,それからまた駆け足で戸口の中へ戻って行きました。ウォルターが中をのぞくと,一人の男性が一足の靴を作っていました。ウォルターはおぼつかないスペイン語で自己紹介をして,自分が宣教者であることを説明し,聖書に関心があるかどうか,その男性に尋ねました。「いや,ないけれども,うちの兄弟がとても関心を持っているよ」という答えが返ってきました。その男性の兄弟とは,ルイス・ダバロスというアドベンティスト派の信者で,自分の宗教にかなりの疑問を抱き始めていました。

翌朝早く,ウォルターはルイスを訪ねました。ウォルターはこう語っています。「私は限られた知識のスペイン語で,神の王国のもとで地球は楽園<パラダイス>にされ,人類がそこで永遠に生きるという神の目的を彼に説明しました」。

これを聞いて,ルイスは,「どうしてそのように言えるのですか。イエス様は,彼らのための場所を準備するために自分は天に行こうとしている,とおっしゃいました」と答えました。

ウォルターは,イエスが小さな群れを念頭に置いておられたことや,この小さな群れが14万4,000人に限定されていることをルイスに示しました。(ルカ 12:32。啓示 14:1-3)さらに,この囲いのものではなく,いまある地上で生きる見込みを持つことになる,ほかの羊についてイエスが話されたことも説明しました。―ヨハネ 10:16

ルイスは,「これまでずっと,善人はみな天に行くと教えられてきました。この地上のグループについてさらに証拠を得たいと思います」と述べました。そこで,二人は他の聖句も一緒に調べましたが,そのあとでルイスは,「これは真理だ!」と感嘆の声を上げました。―イザヤ 11:6-9; 33:24; 45:18。啓示 21:3,4

ルイスは,砂漠でのどが渇いて死にそうになっている人のようでしたが,彼が渇望していたのは真理という水でした。ルイスは,三位一体,魂の不滅,地獄の火,その他の教理について聖書が教えている事柄をただちに知りたいと願いました。言うまでもなく,ウォルターはその晩遅くなるまで家に帰れませんでした。まさにその翌日から,ルイスは友人たちにひたすら証言をして,「自分は真理を見いだした!」と話しました。

「自分の祈りに対する答え」

このころ,エクアドルにおけるアドベンティスト派運動の創始者の一人,ラモン・レディンもまた,自分の宗教に幻滅を感じ始めていました。教会で見られた分裂のために,彼は心を乱されていました。実際のところ,すべての宗教に疑念を抱いていたのです。ある日,彼は神に向かって,「どうか私に真理をお示しください。もしそうしてくださるなら,私は人生の残りの期間,あなたに忠実にお仕えいたします」と祈りました。

このあとまもなく,彼の友人の一人であるルイス・ダバロスが,とても重要な事柄があるので話をしたいと言いました。「ラモン,セブンスデー・アドベンティスト派は真理を持っていないことを知っていたかい?」と,ルイスは尋ねました。ラモンはこう答えました。「ルイス,ぼくのことを気遣ってくれてありがとう。でも,実際のところ,聖書の真理を教えている宗派など,どこにもないんだよ。だから,ぼくはどの宗派にも興味がないんだ」。それでも,ラモンは1冊の「ものみの塔」誌と,宣教者の家の住所を記したメモを一応受け取り,少なくとも宣教者たちと話をして,彼らが自分の疑問に答えてくれるかどうか調べてみることを約束しました。彼は一見無関心な態度を示しましたが,それは彼の本当の気持ちを表わすものではありませんでした。真のキリスト教と呼べるものがあるかどうか,心底探したいと思っていたのです。それで,その友人の家を出ると,ラモンは2時間がかりで宣教者の家を探しました。

依然スペイン語と奮闘していたウォルター・ペンバートンは,ラモンが尋ねた質問に,最善を尽くして答えました。例えばラモンは,「エホバの証人は,聖書について自由に論じることを人々に許しますか」といった質問をしました。ウォルターはこう答えました。「私たちはだれに対しても,当人の良心に反することは無理に行なわせません。私たちは人々が聖書について論じるのを望んでいますし,そのようにすれば,正しい結論に到達することができます」。

「では,証人たちは安息日を守りますか」と,ラモンは尋ねました。「私たちは安息日に関して聖書が述べる事柄は守ります」と,ウォルターは答えました。―マタイ 12:1-8。コロサイ 2:16,17

ラモンはたどたどしい英語で話し,ウォルターは限られたスペイン語で話をしましたが,驚いたことに,真理はラモンの思いの中で明確な形を成し始めました。ラモンはこう述懐しています。「その最初の1時間で私は非常な感銘を受けたため,心の中で,『これは自分の祈りに対する答えに違いない』と考えたのを覚えています」。

くる日もくる日も,話し合いは続けられました。ウォルターは英語の聖書で聖句を調べ,ラモンはスペイン語の聖書を見てそのあとを追うようにしました。ラモンが最初の訪問を行なってから15日後,エクアドルにおける最初の組織立った群れの証言に参加した人々の中に,ラモン・レディンに加えて,ルイス・ダバロスと他の3人のエクアドル人がいました。神はレディン兄弟の祈りに答えて真理をお示しになり,兄弟は人生の残りの期間神に忠実に仕えるという,自分の立てた誓いを守るため最善を尽くしました。現在87歳になるレディン兄弟は,特別開拓者としての生活を楽しんでいます。

ペドロは答えを見いだす

小規模ながらも急速に成長していたこのグループに,まもなく一人の青年が加わりました。その青年は17年のあいだ真理を探し求めてきました。ペドロ・トゥレスは10歳の時に,司祭が三位一体を説明するのを聞きました。その意味が理解できなかったペドロは,どうして3人の人がひとりの神になれるのですか,と司祭に尋ねました。司祭は返事をする代わりに,ペドロの頭を物差しでピシャリとたたき,侮辱的な言葉を浴びせました。ペドロは心の中で,『自分もいつか,これが一体どういう意味か分かるようになるだろう』と考えました。

結局,アドベンティスト派の信者としばらく付き合った後,彼はエホバの証人の集会に出席するようになりました。三位一体の“奥義”は,ほぼすぐに解明されました。それは奥義ではなく,まやかしであることをペドロは知りました。イエス・キリストは,ある人の言うように,“み子なる神”ではなく,「神の子」です。(ヨハネ 20:31)ペドロは,証人たちの全員が家から家に宣べ伝えていることを知って感銘を受けました。それはかつて,彼がアドベンティスト派の信者たちを説得して行なわせようとした業だったのです。彼は,使徒たちの手本に倣うにはこの種の福音伝道が必要であると信じていました。(使徒 5:42; 20:20)それでもなお,ペドロは信仰の面であいまいな態度を取っていました。

四,五か月の間,彼は引き続きアドベンティスト派の集会に出席し,一方では証人たちとも交わっていました。ついに,ウォルター・ペンバートンはペドロにこう告げました。「ペドロ,あなたは決定を下さねばなりません。もしアドベンティスト派の信者が正しいのなら,彼らと共に行きなさい。しかし,もしエホバの証人が真理を持っているのであれば,彼らに固く付きなさい。真理は何にもまして優先されるべきものです」。―列王第一 18:21と比較してください。

ペドロはこう述べています。「この言葉のおかげで,私は自分の人生でかつて行なった最善の決定を下すことができました。それで1947年8月10日に,私は自分の献身を表明してバプテスマを受けました」。翌年,ペドロは開拓奉仕を始め,以来全時間奉仕を忠実に行ない続けてきました。彼はギレアデ学校の訓練を受けた最初のエクアドル人となり,その後エクアドルに戻って,同地における業を援助しました。

本部からさらに援助が与えられる

1948年には,さらに12人の宣教者がエクアドルに任命され,宣べ伝える業は真の盛り上がりを見せました。そのうちの6人はキトに行き,他の6人は,エクアドル最大の都市で主要な港であるグアヤキルに行きました。グアヤキルに遣わされた宣教者たちの中に,アルバート・ホフマンと妻のゾラ・ホフマンがいました。二人はそれまでに,これほど大勢の好奇心旺盛な,関心ある人々を目にしたことはありませんでした。アルバート・ホフマンは,その様子をこのように語っています。

「日曜日の午後,私たちは,ふだん人が見られる河岸に沿って,群れによる最初の証言を行ないました。私たちは蓄音機を用いて,スペイン語のレコードを鳴らしました。まず,私たちがすばらしい,重要な音信を持っていることを人々に話し,それから蓄音機をかけました。すぐに大勢の人々が耳を傾けるために集まって来ました」。

同様に,雑誌を用いた街路活動を行なう際には,人通りの多い商業地区に宣教者たちがじっと立っていると,すぐに,友好的な人々が大勢周りに集まって来ました。質問をする人もいれば,雑誌を求めようとする人もいました。新しい宣教者たちは,これほどはっきりした関心をあまり目にしたことがなかったので,彼らにとってこれは,胸の高鳴るような経験でした。

それら初期の宣教者たちが特に記憶している一つの出来事が,1949年3月に生じました。それはどんな出来事だったのでしょうか。ものみの塔協会の会長N・H・ノアとその秘書M・G・ヘンシェルが,初めてエクアドルに地帯訪問を行なったのです。キトでは,「あなたが考えているよりも時は迫っている!」と題する講演を聞くために82人の人々が集まりました。グアヤキルでも同じ講演が予定されました。ノア兄弟は新しい宣教者たちが熱心に宣伝を行なっているのを見て,「大勢の人が来なくても,あまり落胆することはありません」と言いました。何といっても,彼らはまだその地で2か月半しか働いていませんでした。しかしやがて,280人の人々が姿を見せ,ほかにも数え切れない人々がラジオでその講演を聞いたことを知って,みんなは驚きました。

地震のために,宣教者の割り当てが変更される

1949年,アンデス高地のキト周辺にある都市の一部に注意を向け始めるのはふさわしいことに思われました。選ばれたのはアンバトでした。ところが8月に,この都市と周辺の町々は,エクアドルが何世代もの間に経験した中で最も破壊的な地震に見舞われました。村という村がすべて姿を消したのです。推定によれば,6,000人以上の人々が命を失い,アンバトは混乱状態に陥りました。

その荒廃ぶりは実にひどかったため,翌年になっても,新しい宣教者たちのふさわしい住居は依然手に入りませんでした。そこで,彼らは南方にある次の都市リオバンバに遣わされることになりました。ジャック・ホールとジョセフ・セケラクが,この未開の区域を開拓する任務を引き受けました。しかし,周囲から孤立し,非常にカトリック色の強いこの町では,進歩はゆっくりしたものでした。

学んだ事柄を適用する

ある日,リオバンバで証言を行なっていたジャックは,「神を真とすべし」という本を,セサール・サントスという若い既婚男性のもとに残してきました。セサールはそこに書かれていた内容が非常に興味深かったので,その本を全部読み終えるまで,その晩は本を手離すことができませんでした。すぐに興味をそそったのは,「崇拝の際に偶像の使用」という章でした。そこにはこうありました。「汝我前にほかの何ものをも神とすべからず。汝己のためにいかなる彫像をも作るべからず……これに身をかがむべからず,これに仕うべからず」。(出エジプト記 20:3-5,欽定訳)さて,セサールは特にカトリックの聖人サンアントニオに献身し,その像を家に置いていました。けれども本を読み進むうちにセサールは,かつては好ましく思えた聖人像を憎悪の眼差しで見上げ,「早速,お前を始末することにしよう」と言いました。セサールはその章を読み終えると,手を伸ばして聖人像をつかみ,それを外に持って行って,投げ捨てました。

セサールが自分の学んだ事柄を親族や友人たちに伝え始めると,彼らは,セサールは気がふれたのだと考えました。それでも,1週間後,彼は弟のホルヘのもとを訪ねて,その本を読んでみるように勧めました。ホルヘはそこに見られる論理に感銘を受け,地上の楽園<パラダイス>の見込みに深い感動を覚えました。1か月後,ホルヘは宣教者たちと一緒に野外奉仕にあずかっていました。

しかしホルヘにはまだ学ぶべき事柄がありました。ある日,ジャック・ホールが訪ねて来た時,ホルヘは食事をしていました。ホルヘの母親は,エクアドルのこの地域では一般的な料理である,血を材料にしたフライを幾らか食卓に出していました。少し食べてみるように勧められたジャックは,丁重に断わってから,その機会を活用して,聖書が血に関して述べている事柄を説明しました。(創世記 9:4。使徒 15:28,29)ホルヘはすぐにそのことを心に留めました。ホルヘが自分の皿の上にあった物を食べ終えようとしなかったので,母親はたいそう驚いていました。

まもなく,この家族のさらに多くの成員が真理から益を受けることになりました。

神に仕える決意をする

セサールの18歳になる義理の妹オルファは,かつてカトリックの一司祭に,だれが神を造ったのか教えてください,と頼んだことがありました。その司祭は答えを知らなかったので,彼女は福音伝道師である主任司祭に尋ねてみました。彼もまた彼女の質問に答えることができませんでした。それで彼女はセサールに尋ねたところ,彼は聖書から,エホバには始めも終わりもないことを説明しました。(詩編 90:2)この簡明な真理を聞いただけで,オルファの関心は燃え立ち,その影響は彼女の実の姉妹二人にも及びました。家族からの強い反対にもかかわらず,オルファと妹のヨランダは聖書を研究し始め,ひそかに集会にも出席しました。このため,二人は集会から帰宅するたびに両親から打ちたたかれました。

このころまでに,セサールの妻でオルファの姉でもあったルシアは,聖書の緊急な音信に対して無頓着な態度を取っていました。そうしたある日,オルファはルシアを咎めて,「わたしが真理のために耐えねばならない事柄をよく見てちょうだい!」と述べて,背中の部分の服を引き下げ,みみずばれと打ち傷とを見せました。その時から,ルシアは急速な進歩を遂げました。

そのころ,司祭がオルファの母親に彼女を家から追い出すよう指図し,母親はその通りにしました。とはいえ,これは結果として祝福になりました。いまや独立したオルファは,バプテスマを受けるための準備を始め,ルシアもそうしました。次の大会で彼女たちに加わったバプテスマ希望者の中には,何と妹のヨランダもいました。ヨランダは家に戻った際に自分がどんな扱いを受けるかを考えることなく,姉たちと一緒にバプテスマを受けるため,バスで160㌔以上の旅をしました。彼女たちは3人で団結し,どんな事があろうとも自分たちはエホバに仕えるという決意を表明しました。

僧職者たちの反対に抵抗する

1950年代の初めに,さらに多くの宣教者たちが到着すると,良いたよりを宣べ伝える業はすぐに,沿岸の低地にある孤立した町々 ― マンタ,ラリベルタード,ミラグロ,マチャラ,その他 ― にも広がり始めました。急速な成長が見られ,大勢の伝道者のグループが宣教に参加したため,カトリック教会は警戒し始めました。そこは,同教会が征服者たちの助けを得て獲得した地域であり,同教会はいかなる対抗勢力をも容認するつもりはありませんでした。他方,真のクリスチャンたちには,エホバによる無敵の霊の後ろ盾があり,どれほどの迫害であっても,神の王国の良いたよりを広めるという彼らの燃えるような願いを消滅させることはできません。どのような結果が見られたでしょうか。

ペドロ・トゥレスはこう述懐しています。「キトの郊外にある,マグダレーナと呼ばれる地区で,司祭が一群の暴徒を私たちにけしかけると,一人の男性が近寄って来て,『司祭さん,あんたはここで何をしているのかね』と言いました。司祭は,『わたしの羊の群れをこれらの人々から守っているのだ。神について彼らに教える権利を有しているのはわたしだけだ』と答えました。するとその男性は,こう答えました。『いや,あんたには教会で教える権利はあるが,この外の街路や公園では,あの人たちも全く自由に聖書を教えることができる。彼らはだれも傷つけてはいない。いままであのような人たちは見たこともなかったが,彼らはうちの家ではいつでも歓迎されているということを,あんた方全員に知っておいてほしい』」。

キトに近いさらに別の地域では,一人の司祭が証人たちを町から追い出そうと腐心していました。証人たちがある橋を渡っていると,その司祭と仲間の暴徒たちが,それら伝道者たちを川に突き落とそうとしました。ちょうどその時,ペドロがそれまでに何度も訪問していた男性が姿を現わして,「こんにちは,ペドロ,こんなところでどうしたんですか」と言いました。

それに答えて,ペドロは,「私たちは平和な態度で人々に聖書を教えているのに,この人が人々をけしかけて,私たちを町から追い出そうとしているんです」と述べました。

これを聞くと,その男性は拳銃を取り出して,その司祭のもとに歩み寄り,大きな声で,「おい,あんた,何をしているんだ。あんたたちと同じ権利がこの人たちにもあることを知らないとでも言うのか。あんたたちのしている事は法律に反することなんだ」と言いました。司祭が自分の行動を正当化しようとすると,その男性は,「ここで起きた事柄は,明日,エル・コメルシオ紙に掲載されるだろう」と答えました。その男性はたまたまその新聞社で働いていたのです。そして彼の言ったとおり,その司祭のクリスチャンらしからぬ行動は,翌日,キトの主要紙の見出しに取り上げられました。

政府は反対者たちに警告を与える

アルフレッド・スローは,自分が宣教者として奉仕していたときに生じた出来事を振り返って,こう述べています。「ある“勇ましい”男性は関心があるふりを装っていましたが,そのあと急に,宣教者の一人である姉妹の手から1冊の『ものみの塔』誌をつかみ取り,それを得意そうな様子でずたずたに引き裂きました。このころ,私は,自転車に乗った司祭が服の裾をなびかせながら,にわかに近づいて来て,私たちの所在を確認していることに気づきました。

「その司祭が到着してまもなく,暴徒たちが集結しました。それを先導していたのは,『ものみの塔』誌を引き裂いた先ほどの男性で,二人の修道女が手助けしていました。あとの人々はほとんどが若者で,ポケットに石をいっぱい詰め込んであるのが見えました。私たちはひとまとまりになって,数ブロック先のバス停に向かってゆっくりと歩き出しました。暴徒たちは私たちのすぐあとに続きました。このような緊迫した状態で歩いている間,暴徒たちは小石を私たちに放り投げる程度で満足していました。幸いなことに,だれも大したけがはしませんでした。バスが止まると,ついに暴徒たちは一気に士気を高めて,こちらに向かって駆けだし,大きな石を投げつけました。彼らがバスの傍らに来るころには,姉妹と若者たちは全員乗車したので,私も飛び乗りました。私たちはバスの中に石や泥土が雨あられと投げ込まれる中を出発しましたが,バスに乗っていたその地域の住民は暴徒たちに向かってどなり声を上げ,彼らのことを野蛮人と呼びました。バスに乗っていた人々は親切な態度で私たちに座席を譲り,泥をぬぐうのを手伝ってくれました。このことからも分かるように,この出来事は,明らかに司祭の言いなりになって誤導されていた,ごく少数の人々が取った行動でした。私たちは町に戻るまでの間ずっと,すばらしい証言の機会に恵まれました」。

新聞はすぐに反応を示し,「司祭が犯罪を手引き」,「マグダレーナで,狂信者たちがエホバの証人派の信者たちを襲撃」,「宗教上の不寛容」といった見出しを掲げました。

言うまでもなく,司祭は暴徒たちの行動とのかかわりを一切否定し,自分は近隣の別の場所にいたと述べました。その地域のカトリックの協会や委員会も,自分たちの身の潔白を主張する請願書に署名しました。しかし政府の行政機関は次のように解答するよう,警察署長に指示を与えました。「憲法ならびに当共和国の法律は,宗教の自由を認めている。この理由で我々当局には,市民の権利が脅かされることのないように見守る責務がある。……今月の六日に生じた事柄と同様の事件が今後繰り返されることのないよう,強く切望する。さもなければ当局は,法律に従って責任者たちの処罰に踏み切らざるを得ない」。

それでも,教会は,その虜となっている信者たちを去らせる気がなかったので,嫌がらせはさらに続くことになりました。

困難な地クエンカ

エクアドルで3番目に大きく,人口15万2,000人を有する都市クエンカは,紛れもない,カトリック教会の要塞でした。住民はまだ証言を受けていなかったため,ペドロ・トゥレスは,さらに新しく到着したギレアデ卒業生カルル・ドチョウと共に,1953年10月にクエンカに任命されました。それは実に困難で,しばしば落胆を覚える割り当てでした。

カルルは,ある狂信的な女中が,「あなたは処女マリアを信じないのですね!」と興奮気味に話したことを覚えています。カルルが聖書を開いて,マタイ 1章23節を示すと,彼女はおびえ始め,「私たちは聖書を読むことを禁じられているんです」と言いました。そう言うなり,彼女は家の中へ戻ってしまい,カルルは玄関に立ったまま置き去りにされました。別の機会に,一人の女中は関心を抱いて話に耳を傾けていましたが,その家の婦人が帰宅して,起きている事柄をひと目見ると,カルルの書籍鞄を階下へ蹴落としました。これもまた別のときですが,カルルは,腹を立てた家の人が薪を振り回しながら追いかけて来たので,中庭から逃げ出したことがありました。サンブラスの地域では,宣教者たちが証言するたびに,司祭は教会の鐘を鳴らしました。そして,子供たちが駆け寄って来ると,司祭は,宣教者たちに石を投げつけるよう子供たちを促しました。

3年の間,クエンカの人はだれ一人として,真理に立場を定める勇気を持ちませんでした。カルルはよく悲しくなると,川岸を散歩しながら,もっと産出的な任命地をお与えください,とエホバに祈ったものです。ついにカルルは,のんびりとした,おうような人々が住むマチャラに割り当てられました。とはいえ,クエンカがエホバの証人を目にするのは,これが最後となったわけではありません。

大会で暴徒たちが起こした暴力事件

ジャック・ホールとジョセフ・セケラクが区域を開拓するため1950年に遣わされた都市リオバンバは,1954年にニュースで取り上げられました。3月に同地のアイリス劇場で巡回大会が開かれました。万事は順調に運んでいましたが,やがて,イエズス会の一司祭がラジオを通してエホバの証人を糾弾し,彼らには“カトリックの都市リオバンバ”で大会を開く権利などない,と述べました。その司祭は,翌日予定されていた公開集会を阻止するよう人々に呼びかけました。もっとも,兄弟たちはその脅迫のことを警察に通報しました。

「愛 ― 利己的な世にあっても実際的」と題する公開講演は予定どおり開始され,130人の人々が出席しました。ところが10分もしないうちに,「カトリックよ,永遠なれ!」,「打倒! プロテスタント」という叫び声が,どこからともなく聞こえてきました。暴徒たちがその劇場に近づくにつれ,刻一刻と,その叫び声は大きくなってゆきました。

8人の警官が劇場の入り口を固めました。怒り狂った反対者たちの群衆は数を増し加え,警察は剣を抜いて,彼らを交差点まで押し返しました。彼らはその場所から,入り口に向けて石を投げ続けました。しかし,このような騒動にもかかわらず,プログラムは最後まで行なわれました。「終わりまで耐え忍ぶ」という最後の話は,当を得たものでした。

聴衆が会場を出ると,そこには彼らを守る40人ほどの警官がいました。しかし兄弟たちが警察の保護区域から遠ざかるにつれ,状況は緊迫の度を増し加えました。宣教者の家と王国会館の所在地はよく知られていたので,そこにはさらに大勢の暴徒たちが集まっていました。もう一度警察の保護を求める必要がありました。官憲たちは宣教者たちを家まで送り届け,家の周囲で一夜を明かしました。証人たちに手を出せなかった暴徒たちは,やり場のない怒りをアパートの建物にぶちまけ,石を投げつけて,通りに面する窓という窓をほとんど壊し,やはりそこに住んでいた,エホバの証人ではない他の6家族の反感を大いに買いました。

不寛容に対する国民の抗議

翌日,兄弟たちが通りを歩いていると,人々が何回も近づいてきました。彼らは証人たちの業にほとんど関心を持っていないのに,昨晩起きた事柄に対する非難の気持ちを伝えようとしました。二日目になると,国全体が抗議を行なっていました。崇拝の自由を支持し,エホバの証人の権利を擁護する一連の新聞記事が,まる一週間,国内の各地で次々と掲載されました。

首都で最も権威のある新聞「エル・コメルシオ」は,その襲撃事件の模様を伝えた後,異端審問やヒトラーの大虐殺,その他歴史に残る残忍な事件を想起させました。

グアヤキルの主要紙「エル・ウニベルソ」のある特別欄執筆者は,「不寛容の結果」に関する記事を書いて,次のように述べました。

「この記事で私が目的とするのは,サン・フェリペ高校の校長に直接的な形で,一つの質問を投げかけることである。同学校では不寛容を説いて,年若い生徒たちに棒きれと石とを持たせ,辛抱強い……エホバの証人を襲わせることまでしている。イエズス会神父である校長尊師が,自分の行動の結果に敢然と立ち向かえる人物であるなら,この質問に答えていただきたい。その質問とは,ごく単純な,次のようなものである: プロテスタント信者に対して校長が自分の生徒たちに行なわせているような事柄を,もしカトリック教徒が少数派である国々において行なったとすれば,それは校長の目にどう映るだろうか。……最高司教に率いられた,全世界のカトリック教徒は寛容を願い求めている。彼らは異口同音にそれを要求している。国連でも,ベルリン会議においても,また,ありとあらゆる大会や,東西が集う集会のすべてにおいて要求している。チャーチル(プロテスタント信者)やアイゼンハワー(プロテスタント信者)と密接に一致していた法王やカトリック首長は,ロシアとその衛星国に,投獄されている大司教や枢機卿に対する寛容と自由を求めた……

「聖堂で祈っているカトリック教徒に対して,棒きれを手にして襲うチェコスロバキアの共産主義者のグループと,“この利己的な時代における愛”に関する説教に耳を傾けるリオバンバのエホバの証人に対して,棒きれを手にして襲うサン・フェリペの生徒たちとの間に,どんな違いがあるというのだろう」。

リオバンバのイエズス会の司祭が述べた呪いの言葉は,ちょうどバラムの場合と同様,エホバがご自分の民とおられたゆえに,祝福という結果につながりました。―民数記 22:1-24:25

キリストに対してより大きな愛情を抱く

このころ,すでにアメリカ合衆国で真理を学んでいた年若いエクアドル人,カルロス・サラサールが全時間の宣教奉仕を始めました。

カルロスがちょうど16歳の時,ニューヨーク市のある開拓者の姉妹はカルロスの母親に,1冊の聖書と「これは永遠の生命を意味する」という本を配布し,母親はそれらをカルロスに渡して読むようにと言いました。カルロスは宗教に関心がなかったので,それらを書棚に置きました。ところが,ある日セントラル・パークで遊んでいるときに,カルロスは足の骨を折ったため,家でずっと寝ていなければなりませんでした。暇を持て余したカルロスは,聖書研究を勧める開拓者の申し出にしぶしぶ応じましたが,ただしそれは,彼女がカルロスに英語を幾らか教えるという条件に基づいていました。カルロスは,「その本を読めば読むほど,これが真理であることを私はますます確信するようになりました」と述べています。

まもなくカルロスは集会に出席し始めて,野外奉仕にもあずかり,街路に立って雑誌を提供するまでになりました。なるほど,カルロスの母親はその本を彼に渡しはしましたが,彼女はカルロスがその本を読んでいるのを見て,非常に腹を立て,彼をエクアドルに送り返すと言って脅しました。エクアドルにはエホバの証人が一人もいないと母親は考えていたのです。それで1953年にカルロスは,熱心なローマ・カトリック教徒である大おばのロサに付き添われて,エクアドルに戻りました。

「カルロス,あなたはもうエクアドルに戻って来たのだから,これからはまたミサに出席するのですよ」と,その大おばは言いました。

けれどもカルロスは,永遠の命の希望ほど貴重なものを手離すつもりはありませんでした。(ヨハネ 3:36)「わたしに対するより父や母に対して愛情を抱く者はわたしにふさわしくありません」というイエスの言葉を,カルロスは真剣に受け止めていたのです。(マタイ 10:37)カルロスはこう答えました。「ロサおばさん,おばさんは今のところ,私のしていることがお分かりにならないでしょうが,ここエクアドルに戻って来たからには,私はエホバの証人になるつもりですし,この願いをぜひ尊重していただきたいと思います」。

カルロスは1954年にバプテスマを受けた後,開拓奉仕を始めました。1958年に,彼はギレアデ学校に招待された二人目のエクアドル人となりました。カルロスは再び故国に割り当てられ,そこで全時間奉仕を続けました。彼は大おばに10年間辛抱強く証言を行なった末,ついに彼女が同様に真理を受け入れるのを目にしました。84歳になる大おばは,いまも活発な証人です。

勇敢な姉妹たちは良いたよりを弁護する

1958年に,ギレアデ学校の卒業生である二人の姉妹がエクアドルに遣わされました。ノルウェー出身のウン・ラウンホルムとニューファンドランド島出身のパートナー,ジュリア・パースンズは,キト北部の渓谷に横たわる美しい都市,イバラに割り当てられました。この地でもまた,崇拝の自由を求める果敢な弁護がなされました。ウンはそれらの出来事を鮮明に記憶しています。

「イバラの都市で区域を網羅し始めた私たちは,美しい木彫品と多くの宗教的な像が作られていたサンアントニオと同様,業を行なえない小さな町々が近くにあることに気づきました。その場所に私たちのいることが地元の司祭に伝わると,司祭はただちに馬に乗って姿を現わすか,さもなければ一群の人々を従えて駆けつけ,私たちを立ち退かせるためによく騒動を起こしたものです。そのため私たちはアトゥンタキと呼ばれる,近隣の別の小さな町に専念することにしました。

「ある日,教会のそばで奉仕をしていると,外に一群の人々がいることに気づきましたが,地元の保安官が姿を現わすまでは全く気にも留めませんでした。その保安官は私が以前に訪問したことのある友好的な人物で,事実,幾らかの文書も受け取っていました。ところが,今回は興奮した様子で私をせき立てて,『お嬢さん,どうかすぐにこの町を離れてください。司祭があなた方に対するデモを計画しているのですが,私には皆さんを守るだけの部下がいないのです』と述べました。あとで分かったことですが,サンアントニオの司祭がアトゥンタキに配置換えになっていて,またもや策略を仕組んでいたのです。

「その日,私たちは四人で伝道を行なっていたので,みんなが集合して立ち去るまでにはしばらく時間がかかりました。その後,イバラに行くバスはあと1時間しなければ来ないことが分かりました。それで,バスが到着するまで身を守る場所になるだろうと考えて,あるホテルに向かいました。私たちがそこへ向かっていると,途中で叫び声が聞こえてきました。群衆が私たちのあとを追って来たのです! 白と黄色から成るバチカンの旗をグループの前面でなびかせながら,司祭は,『カトリック教会よ,永遠なれ!』,『打倒! プロテスタント信者』,『処女なるマリアよ,永遠なれ!』,『信仰の告白よ,永遠なれ!』といったスローガンを叫んでいました。そのたびに,群衆は司祭のあとに続いてスローガンを一語一語繰り返しました。

「どうしたらよいかと,ちょうど私たちが考えていたところ,二人の男性が近づいて来て,地元の労働会館に入るように勧めてくれました。それは組合の建物だったので,そこならきっとだれも危害を加えないだろう,と彼らは述べました。それで,暴徒たちが外に立って,『打倒! フリーメーソン団(秘密結社)』,『打倒! 共産主義者』といったスローガンを叫んでいる間,私たちは,何が起きているのか見ようとして好奇心を抱いて中に入って来た人々に,忙しく証言を行ないました。私たちは手元にあった文書を一つ残らず配布しました。

「アトゥンタキでかなりの程度関心が見られたことを思い返して,私たちは再びそこを訪れることにしましたが,今回は,町はずれで用心しながら業を開始しました。ところが,きっとだれかが私たちのことを知らせたのでしょう,教会の鐘が狂わんばかりに鳴りだしました。まもなく,ある人が大きな声で,司祭が一群の人々を従えてこちらに向かっている,と警告するのが聞こえました。司祭は私に近づくと,開口一番,『お嬢さん,この間の出来事に懲りないで,よくもまあ戻ってこれたものだ!』と言いました。私は司祭に道理を説こうとして,国の憲法で信教の自由が保障されていることを説明しました。『しかし,ここはわたしの町なのだ!』と,司祭は言いました。『そうです』と私は述べて,こう話しました。『けれども,私にはこれらの人々に話をする権利がありますし,彼らにも,望む場合には耳を傾ける権利があります。私たちが訪問をするときに,聞くことを望まないならドアを開ける必要はなく,その場合私たちは次の人のところに行くことを,みんなにお話しになったらいかがですか』。

「すると司祭は群衆のほうを向いて,『この人々がさらに一歩前進するようであれば,わたしはきっとこの町を去るだろう』と言いました。これを聞くと,私たちに耳を傾けていた幾人かの人々は,引き続き業を行なうよう私たちに勧め,司祭に対抗して私たちを支援することを約束してくれました。けれども,内戦を招くようなことは望まなかったので,その場を立ち去って,また別の日に戻るのが最善であるとの判断を私たちは下しました」。

サンアントニオに戻る

ラウンホルム姉妹はさらにこう語っています。「この過激な司祭がその町に移転してきたことが分かったので,私たちは別の町サンアントニオを再び訪れることにしました。私たちが多くの家を訪問しないうちに,教会の鐘が鳴り始め,数人の女性たちが棒きれとほうきを手にして,街路に集まりだしました。ある家の人が中に招き入れてくれたので,私たちが中にいると,ドアをたたく大きな音がしました。それは,地元の保安官でした。彼は町を離れるよう私たちを促して,『あなたたちはアトゥンタキで起きた事を知っているでしょう,それに,いいですか,わたしたちはすでにクリスチャンなのですから,ここに来る必要はないのです』と言いました。私は,棒きれを手にして人々に立ち向かうのは真のクリスチャンのする事だと思われますか,と保安官に尋ねました。そして,外に行って,人々に家に帰るよう勧めてください,とお願いしました。やってみましょう,と保安官は述べましたが,じきに戻って来て,人々は耳を貸そうとしない,と言いました。

「これを聞くと,近所に住む別の人が,自分の家に来て家族に話をしてほしいと述べて,道中の案内までしてくれました。私たちが家の中にいると,またもやドアをたたく音がしました。今度は,ライフル銃で武装した警察官でした。警官たちは,保安官の命を受けてイバラからやって来ました。『皆さんの問題についてはすでに伺っています。どうぞ引き続き家から家を訪問なさってください。私たちは皆さんのすぐ後ろで護衛に当たりましょう』と彼らは言いました。私たちは警官たちの親切に感謝を表わしてから,事の全体を牛耳っているのは地元の司祭なので,彼のもとに行ってください,とお願いしました」。

警察はその提案どおりにしました。その時以来,姉妹たちはそれ以上問題を抱えることなく,サンアントニオの町で証言を行なえました。

沿岸地域

太平洋岸にある村々に王国の音信を伝えるため,さらに二人の宣教者,レイ・ノーチと妻のアリス・ノーチが割り当てを受けました。人口約1万人の漁村マンタに行くため,二人はグアヤキルからバスでおよそ16時間の旅をしました。道中,橋のない川の浅瀬を渡る必要が何度かありました。時折,道路に植物がはみ出して路面が非常に滑りやすくなっていたため,乗客たちは車を降りて,急な坂道を上れるようにバスを後押ししなければなりませんでした。

家から家に宣べ伝える業は,二人が以前に経験したものとはわけが違いました。それまで一度も外国人を見たことのない大勢の子供たちが,物珍しそうに,二人のあとを家から家に付いて回りました。人々は聖書の音信に好意的だったので,ほどなくして一つの会衆が設立されました。

次に,レイとアリスは海岸を南下して,さらに別の漁村ラリベルタードに移りました。この村への移動は,家畜運搬船でなされました。二人が到着するころには,衣服や家具,その他すべてに,泥臭いにおいが染み付いていました。けれども二人はここラリベルタードで,ジャマイカ出身の男性フランシスコ・アンガスに出会いました。彼は一心に音信に耳を傾けて,聖書研究に応じました。およそ半年で,彼と妻のオルガは野外奉仕に参加するまでになりました。アリスはこう述べています。「フランシスコのことで印象に残っているのは,彼はよく一晩中仕事をしたあとで,朝,家に戻ると,顔や手を洗って,奉仕の支度をしたということです」。後日,フランシスコは妻と共に開拓奉仕に入って,その後巡回監督となり,現在は支部委員会の一員として奉仕しています。

マチャラは実を結ぶ

そのころ,カルル・ドチョウともう一人の宣教者ニコラス・ウェスレーもエクアドルのバナナの主産地マチャラで,聞く耳を持つ人々を見いだすようになりました。体格のがっしりした,酒場の主ジョアキン・パラスは,地上の楽園<パラダイス>で生きる希望についてカルルが説明すると,たいへんな興味を示して耳を傾けました。ジョアキンは快く研究に応じました。彼はとても立派な認識を示して,研究の時間中は酒場を閉めたほどでした。燃えさかる地獄のないことを知ると,ジョアキンは興奮を覚えるあまり,近所の人々を何人か訪ねて,自分の学んだ事柄を伝えました。ところが,近所のある人から,「ジョアキン,まず自分自身の家庭を整えてから,聖書について話をしに来たらどうだい。君は,一緒に住んでいる女性と結婚さえしていないじゃないか」と言われて,いささか面食らいました。

ジョアキンはどうすべきかをカルルに尋ねたところ,合法的な結婚をするようにという答えが返ってきました。そのすぐ翌日,ジョアキンは同居している相手と一緒に役所へ行き,書類を整えました。次いで,彼はぜひとも職業を変えなければならないと考えました。酒場を売り払うと,ジョアキンは妻と共に生計を立てるため,炭を製造し始めました。後日,二人はそろって開拓奉仕に入りました。

マチャラにあった王国会館は,作りが簡素で,割り竹でできた壁を通して日の光と空気が自由に入り込めました。兄弟たちは気づきませんでしたが,近所に住む,好奇心の強い一人の女性は何が行なわれているのかを見ようとして,壁に小さな穴を設けました。彼女は兄弟たちが集会の前後にあいさつを交わし,会話を楽しむ様子を2か月間観察しました。こうした友好的で,愛の感じられる雰囲気は,彼女がそれまでに所属した数々の宗教の中で一度も経験したことのないものでした。彼女,フロリセルダ・レアスコは自分もそこに加わりたいと思ったので,集会に出席し始め,ほどなくして,信仰を持った姉妹となり,その後熱心な開拓者となりました。

ポルトベロにおける執ような反対

マチャラから数キロ離れたところに,アンデス山脈のふもとに横たわる,金鉱採掘の町ポルトベロがあります。この町に住む熱心なカトリック教徒ビセンタ・グランダは,最も忠実にミサに出席していた人々の一人でした。いわゆる聖週間になると,彼女はレサール・ビアクルセスとして知られる儀式を厳密に守りました。イエスが捕縛されてから死に至るまでの苦難を描いた12枚の絵の前で,彼女は七日間続けて祈るのを常としました。熱心な信者たちは,この儀式を行なえば,その年に自分が犯した罪を皆すっかり赦してもらえると教えられていました。

さて,ビセンタ・グランダは神についてもっと知りたいと思ったので,2冊の聖書,バレラ訳とトレス・アマット訳を入手しました。彼女は早くもそれらを2回読み終えて,その時点で多くの疑問に満たされていました。アリス・ノーチが彼女の家を訪問して,「神を真とすべし」の本を提供すると,ビセンタはただちにそれを受け取って,すぐさま夢中になって読み始め,アリスがいるのもすっかり忘れたほどでした。アリスが再訪問をすると,ビセンタはこれ以上待ち切れないといった様子で,アリスにこのように質問しました。「『処女マリア』には,ほかにも子供がいたんですか」。「父のみ名は何というのですか。私はずっと知りたいと思っていたのですが,私たちの司祭は,その方のお名前はエホバではないと言うのです」。彼女自身の聖書から幾つかの聖句を開いただけでその答えは得られ,彼女は満足しました。(マタイ 13:53-56。詩編 83:18)時々,巡回監督とその妻が訪問して,さらに個人的な援助を彼女に与えました。

一方,ビセンタがカトリックの宗教を捨て去ったことを司祭は知ると,彼女を教会から公に追放しました。ある日,ビセンタが市場に行くと,かつての友人たちのグループが彼女を取り囲み,自分の宗教を捨て去ったという理由で彼女を打ちたたこうとしました。しかし,それを目撃した一人の勇敢な人が警察を呼んでくれました。この町で家から家の証言を行なうのは事実上不可能で,そのようにする人は決まって石を投げつけられました。それでも,ビセンタ・グランダは,「たとえ自分の命を失うことになろうとも,私は決して聖書の研究をやめません」と述べました。

やがて,彼女はマチャラに移り,そこで霊的な進歩をいっそう容易に遂げることができました。彼女は1961年にバプテスマを受け,その後同じ年に開拓者となり,それ以来ずっと全時間奉仕を続けています。

後日,ジョアキン・パラスは妻と共に特別開拓者としてポルトベロに割り当てられました。彼らもまた例にもれず,自らをこの町の支配者とみなしていた司祭から厳しい反対を受けました。かつて,その司祭はジョアキンに,もし定めた期日までに町を去らなければ,人々を送り込んでお前の家を燃やしてやる,と告げました。ところが,司祭がその脅しを実行しないうちに,何と本人の家が火事になりました。

この町での王国の業を中止させるためにさまざまな企てがなされましたが,1970年代の初めには一つの会衆が設立されました。今日,兄弟たちは集会を開いて,命を救う業を平和裏に続けることができています。

すべての人が真理を受け入れるわけではない

アンデス山脈の西側の斜面に,たいへん美しい環境に囲まれた小さな村,パラタンガがあります。マルハ・グラニーソは24年前にこの地で,実の姉妹が訪ねて来た時に初めて真理に接するようになりました。彼女は“世の終わり”について話された事柄に感銘を受けましたが,神のお名前がエホバであると告げられたときは,快く思いませんでした。それでも,マルハは引き続き霊的な事柄をもっと知りたいと思ったので,死者の状態と復活について地元の司祭に尋ねました。司祭は軽蔑した様子で彼女の質問を無視し,復活を信じるのは,食べすぎのために悪夢を見た人間だけだと答えました。けれども,そのような皮肉な言葉のためにマルハの関心が弱まることはありませんでした。

マルハの姉は後日,マチャラから来た年若い姉妹ナンシー・ダビラを連れて戻りました。ナンシーはとても親切で,愛情深い態度を示したので,マルハは感動して,『こういう人を自分の子供の友達にしたい』と心の中で思いました。マルハが最初に尋ねたのは,「死者はどこにいるのだろうか,そして,復活はあるのだろうか」という質問でした。マルハは,死者が無意識の状態で墓におり,復活を待っているという答えを自分が得て,喜びのあまり,この新たに見いだした真理をみんなに伝えたいと思ったのを覚えています。(伝道の書 9:5。ヨハネ 5:28,29)それで彼女はナンシーに,山の高地に住む隣人たちを訪問するので一緒に付いて来てほしいと頼みました。

しかし,ほかの地域でもそうだったように,司祭はこれらの村でも王のように振る舞っていました。そのため,二人がマルハの生まれた村を訪ねようと山奥に向かっている間に,すでに司祭の命令はこれらの村に届いていたようです。二人は一軒の家で,卑わいな言葉をなぐり書きした大きな看板を目にしました。

さらに別の家では,一人の親族が,「伝道しようとする者たちは棒きれと石とをもって殺されるべきだと司祭が話している」と言いました。マルハはそれに答えて,「私たちを殺したら,刑務所に行くことになるのはだれですか。あなた方ですか,それとも司祭ですか」と述べました。

「わたしたちだ」と,その親族は答えました。

「でも,自分の子供たちのことを考えてください」とマルハは道理に訴えて,こう述べました。「あなた方が刑務所に行ったら,だれが子供たちの面倒を見るのですか。司祭は自分が命令を出して殺そうとしている者たちに関して心配していません。その責任を負うのは,自分ではないからです。私たちは犬などではありません。もし私たちが殺されれば,だれかが告発を行ない,その責任はあなた方が負わねばならないのです」。

忍耐の記録

パラタンガに2か月滞在した後,ナンシーはマチャラに戻る必要が生じたので,マルハは再び一人となり,あとには四人の子供と年配の母親が残されました。それでも彼女は,一刻も早くエホバの民と交わる必要があると考えたので,リオバンバに出かけて証人たちを探しました。その場所で彼女は巡回大会に出席して,バプテスマを受けることができました。

しばらくの間,彼女はお金ができる度にリオバンバまで交わりに出かけました。後日,近所の人々が,証人たちを痛い目に遭わせるか,殺してさえやると言って脅したにもかかわらず,リオバンバの兄弟たちはパラタンガで証言できるようマルハを援助し始めました。

ある日,リオバンバの兄弟たちが協会の準備した映画の一つをパラタンガの町の広場で上映する計画を立てたとき,事態は頂点に達しました。すべては平穏無事に進行していましたが,やがてエホバのみ名に言及する最初の箇所が出て来ると,突然,人々は,「マルハ・グラニーソはここから出て行くのがよかろう,さもなければ,我々は彼女の命については責任を持たない!」と叫びだしました。一人の人が映写用のスクリーンとして掛けられていたシーツを引きはがしました。教会の鐘が狂ったように鳴り始めると,人々は棒きれと石を手にして家から出て来ました。そこで兄弟たちはただちに機材をまとめて,町を去るためバスに乗りました。バスが道路を進み始めると,人数が数えられました。すると,証人たちの一人であるフリオ・サントスの姿が見えません! 彼は暴徒たちに捕まったのでしょうか。

不意に,一人の大柄な男がバスに向かって走って来るのが見えました。彼は暴徒たちの先頭に立って,石を投げつけながら,「棒きれと石でやつらを痛い目に遭わせてやれ!」と叫んでいました。それはフリオだったのです! どういうわけか暴徒たちがフリオとバスとの間に入り込んだため,彼は身を守る目的でわざと彼らの一人を装っていたのです。フリオがバスに追いついて,飛び乗ると,そこから証人たちはリオバンバに向かいました。

マルハと彼女の家族も身を守るためバスに乗っていました。ところが,村の外れまで来ると,彼らはバスを降りて,家に向かい始めました。どうやって家までたどり着くのでしょうか。暴徒たちは彼らを捜し求めていました。暴徒たちがそばを走るたびに,彼らは何度も身を隠さねばなりませんでした。ようやく,晩の遅くに彼らは無事,家に到着しました。

この孤立した区域で24年間忍耐した結果はどのようなものでしたか。まず第一に,パラタンガで実に多くの問題を引き起こした司祭は,20年後,不道徳と盗みを働いたかどで,町の同じ住民から訴えられ,彼らの手で追放されました。人々は徐々に,聖書の音信にとても好意的な態度を取るようになりました。まだこの土地には一つの孤立した小さな群れがあるだけですが,マルハ自身,現在11の聖書研究を司会しています。1987年には,ある広いレストランを利用して記念式が開かれ,150人の人々が出席しました。そうです,パラタンガはすばらしい眺めの山々に囲まれた,マケドニアの現代版で,その広大な区域全体に良いたよりを宣べ伝えるため,だれかがやって来てこの小さな群れを援助してください,と言わんばかりです。

「真理を有する唯一の宗教」

イバラに住んでいたホルヘ・サラスのように,ある人々はエホバの証人を捜し求めることさえしました。ホルヘはたまたま,当時ウルグアイに住んでいたベロコチェア博士の著した,「ラ・グラン・オブラ」(偉業)と題する本を読みました。なかでも,その本には,真理を有する唯一の宗教はエホバの証人であると記されていました。それこそホルヘが求めていたものでした。そこで彼は,証人たちを捜すためキトに行くことに決め,もしそこで証人たちが見つからなければ,グアヤキルに行くか,必要とあらばウルグアイまでも行くつもりでした。

キトに着くと,ホルヘは午前5時半から証人たちを捜し始めました。歩き疲れると,タクシーを拾いました。タクシーの運転手が運転に疲れると,また別のタクシーを拾いました。昼になると,2番目のタクシーの運転手は,腹がすいたので,もうやめにしよう,と言いました。けれども,ホルヘは続けてくださいと言って,譲りませんでした。

ついに,ある人が一人のエホバの証人の居所を教えてくれ,そこからホルヘを連れて,宣教者の家の玄関まで案内してくれました。その日の調理当番だったアーサー・ボンノは,エプロンを付けたまま玄関に出て,ホルヘを中に招き入れました。ホルヘは内心,『料理人が白人で,こんな立派な身なりをしているのであれば,自分に応対してくれる宣教師とはどんな人なのだろう』と思いました。少したって,強烈なインディオの特徴を備えた一人の宣教者がやって来て,ホルヘの世話に当たりました。それはペドロ・トゥレスでした。またもやホルヘは考え込みました。『肌の白いほうの人がインディオに仕えているとは,これは一体どんな宗教なんだろう』と。エホバの証人が他と異なっているのはこれだけではないことを,ホルヘは知ることになりました。まもなく,ホルヘは自分の不道徳な生活を改め,離婚した以前の妻と再婚し,真理を受け入れるよう彼女と子供たちの大部分を援助することができました。

ホルヘとは違って,当初は,証人たちがどこかへ行ってしまうことを願っていた人々もいました。

ポーランド人の実業家

ポーランドから移住して来たジョン・フルガーラと妻のドラ・フルガーラは,グアヤキルで,同市の建築業者や大工また配管業者すべてによく知られた金物店を経営していました。ゾラ・ホフマンはドラに1冊のパンフレットを配布し,週末に再び訪問しました。けれども,ドラの夫ジョンは自分の休みの日を邪魔されたくなかったので,ゾラの証言かばんにあった書籍全部を求めました。そのようにすれば,ゾラは何も提供するものがなくなって,これ以上訪問して来ないだろうと考えたのです。ところがゾラは,ポーランド語を話す一人の宣教者を遣わし,こうしてドラとの研究が始まりました。

後日,フルガーラ家の人々が会衆の集会に招かれると,ジョンは,「ドラが行って,学んでいることを私に教えてくれればいいですよ」と答えました。ジョンは聖書に関して乗り気ではありませんでしたが,やがて,軽い心臓発作を患い,医師から15日間寝ているようにと言われました。彼は心を紛らすために,聖書とその出版物を読み始めました。不意に,彼は初めて目が開かれたように感じました。彼は毎日のように妻を呼んでは,「ちょっと,ご覧。新しいことを発見したよ!」と言いました。まもなく,二人はそろってバプテスマを受けました。とはいえ,二人に金物関係の事業があったことを考えると,ジョンは本当にエホバの奉仕を第一にするでしょうか。

ジョン・フルガーラは良いたよりを恥じてはいなかったので,彼にとって著名な実業家であることは何ら障害とはなりませんでした。(マタイ 10:32,33)彼は自分の店で扱う道具や金物に加えて,ものみの塔出版物を展示するための魅力的な台を設置しました。店員が客の注文に応じている間,ジョンはその客に証言を行ないました。当時,一定量の金物を購入した顧客に対しては,手数料を支払うのが普通でした。ジョンはそうする代わりに,エホバの証人の雑誌を無料で予約することを客に申し出ました。ジョンがひと月に60ないしそれ以上の予約を取り決めるのは珍しいことではありませんでした。

一人の政治家は真の公正を受け入れる

あらゆる階層の人々 ― 富んだ者や貧しい者,刑務所にいる人々や,この事物の体制における著名な人々 ― は,真理を聞くための機会を与えられる必要があります。ラファエル・コエリョは,若いときから社会の公正を探し求めていました。このため,彼は1936年に共産党の一員となりました。ラファエルは7年間,暴動や抗議運動に参加しましたが,幻滅を感じると,党を脱退して,他の幾つかの政党と関係を持つようになりました。そのような状態で彼は悪評と名声の双方を経験しました。かつてラファエルはエクアドルの大統領によって大使に指名され,国際連合の主催する特別の集まりに派遣されました。ところが別の時期に,反対政党が権力を握ると,彼は投獄されてしまいました。アルバート・ホフマンがラファエルを訪問して,「神を真とすべし」の本を残して帰ったのは,その刑務所でのことでした。

7年後,優しそうな顔つきの男の人がラファエル・コエリョの家を訪問しました。「それがだれなのか,私はすぐに分かりました。自分でも気づかないうちに私はその人を待つようになっていました。アルバート・ホフマンは私を再び捜していたのです」と,ラファエルは語っています。「これは永遠の生命を意味する」という本を用いて研究が始まりました。ほどなくして,ラファエルは,自分がこれまでの年月ずっと探し求めてきたものを見いだしました。真の公正は神の王国を通してのみ到来することを理解したのです。彼は20年以上にわたり政治家として広く知られていたので,1959年に彼がバプテスマを受けたときは,かなりの物議をかもしました。

かつては人間の公正を求める熱烈な闘士であったのと全く同様,彼は今や,神の公正を強力に擁護する者となりました。長い年月を振り返って,コエリョ兄弟は,「元大統領から身分のたいへん低い労働者に至るまで,私はあらゆる立場の人に対してエホバの公正について語る特権に恵まれてきました」と述懐しています。兄弟はかつてグアヤキルの控訴裁判所で判事を務めていたので,同地の司法局によく通じており,そこに勤める多くの裁判官や弁護士たち一人一人に証言をしに戻りました。その結果,兄弟はかつての同僚たちとの間で大々的な雑誌経路を取り決めました。

国際的な兄弟関係

兄弟たちは王国の真理の種を植えて水をまく業をたくさん行なったので,あらゆる階層の人々が良いたよりを聞くようになりました。しかし増加をもたらされたのはエホバです。(コリント第一 3:6)エホバの目に見える組織全体の上に働いているこの方の霊が,そのような増加を可能にしたのです。

米国ニューヨーク市における,1958年の『神の御心』国際大会で受けた励ましにより,多くの兄弟たちが必要の大きな所で奉仕するためエクアドルにやって来ました。1959年に,協会の会長による訪問がなされ,会長は,外国から来ていた120人の人々に話を行ないました。多くの新しい人々は,彼らが払った努力によって真理を知るようになりました。ある人々は,新しい会衆を設立したり,会衆の種々の責任を果たすよう地元の兄弟たちを効果的に訓練する面で有用な働きをしました。

1967年に,エクアドルの証人たちはさらに別の仕方で真の国際的兄弟関係を経験しました。どのような機会にでしょうか。グアヤキルで開かれた「神の自由の子たち」国際大会においてです。この大会に出席していたのは,協会の理事たちに加えて,各国から来たおよそ400人の兄弟たちでした。2,700人を超えるエクアドルの兄弟や関心ある人々との,何と喜ばしい交友関係が結ばれたのでしょう。海外から訪問した人々はもとより,地元出身の兄弟たちからも,実に多くの感謝の言葉が寄せられました。

クエンカで見られた異なる精神

1967年になると,エクアドル第3の都市クエンカで良いたよりを確立するために,再度の試みを行なうのはふさわしいことに思われました。どのようにこのことを行なうのでしょうか。まず,カルロス・サラサールが特別開拓者として同地に遣わされました。その少しあとで,このころ新たに到着した四人のギレアデ卒業生 ― プエルトリコ出身のアナ・ロドリゲスとデリア・サンチェス,および米国から来たハーリー・ハリスと妻のクローリス・ハリス ― も到着しました。

当時,10万人を超えるこの都市で地元の証人だったのは,青年カルロス・サンチェスただ一人でした。カルロスは真理を学ぶ何年か前に遭った自動車事故のために下半身が麻ひしていました。集会の都度,宣教者たちはカルロスのアパートから彼を階下まで運んで,スクーターの後ろに乗せ,その後,階上にある王国会館まで運びました。カルロスが見せた笑顔と楽観的な態度は,この小さな群れにとって本当に励ましとなりました。

クエンカはエクアドル中で最も強力なカトリックの都市として知られていたことを思い起こしてください。宣教者たちの注意を真っ先に引いた事柄の一つは,教会の数が驚くほど多いことでした。四つないし五つのブロックごとに一つの教会があるように思われました。そして,そのすべてより高くそびえ立っていたのは,中央広場に位置する巨大な聖堂でした。毎朝,宣教者たちは,夜の明けるずっと前から,早朝のミサに人々を呼ぶための教会の鐘の音で目を覚ましました。聖週間として知られていた期間中は,いろいろな教会から像が外に運び出されて,クエンカの街々を練り歩きました。こうした像の行進行列を終えるには,たいてい丸一日を要しました。

それで証人たちのこの小さなグループは,細心の注意を払って家から家の奉仕を開始しました。同市の特定の地区で奉仕するため過去に払われた数々の努力の中で,石を投げつけた暴徒たちの話はいまだに語り草となっていました。ところが今回は,そうしたことが何も起こらなかったので,宣教者たちはたいへん驚きました。それどころか,人々は最初の訪問から宣教者たちを自分の家に迎え入れ,多くの文書を求めました。人々は霊的に飢え渇いていたのです。

クエンカで最も人気のあった司祭たちの一人について,ハーリー・ハリスはこのように語っています。「私たちは,スペイン出身のファン・フェルナンデスという名の司祭に関する話をしょっちゅう耳にしました。彼はさまざまなミサに対して異なる料金を請求しなかったので,クエンカの司教とうまく折り合っていませんでした。彼にとって,ミサはどれも皆同じものでした。問題は,彼が司教を満足させるだけの収益をもたらさなかったことです。二つ目に,彼は自分の教会から像という像をほとんど全部取り除いてしまいました。これは自由主義のカトリック教徒から拍手喝采を浴びましたが,より保守的な人々からは反感を招きました。

「そうしたある日,一人の婦人から,彼女の近所に住む人が私たちの話を断わったあとで,それをフェルナンデス司祭に報告したということを聞きました。彼女と他の人々がたいへん驚いたことに,その司祭はミサで彼女を公然と咎め,出席していた人々に対して,だれかが自分の家を訪ねて来て聖書について話をするなら,それがだれであろうと,聖書には真理が収められているので,その話に耳を傾けるように,と言いました。

「私はこの司祭にぜひ会ってみようと思い,幾らかの努力を払った末,彼の住所を手に入れることができました。彼を家に招待したところ,うれしいことに彼はやって来て2時間とどまりました。驚いたことに,彼は聖書の基本的な幾つかの教理にかなり通じていました。私は,二つの国の間で政治紛争があった場合,クリスチャンはどのような立場を取るべきだと思うかと彼に尋ねたところ,彼はすぐさま,『クリスチャンが取れる立場はただ一つであり,それは中立です。人を愛するようにというイエスの命令に従いながら,一方で人を殺すことはできないからです』と答えました。会話は温かい友好的な雰囲気で終わり,彼は私たちの出版物をたくさん注文しました」。

とはいえ,彼は司教と口論したために,司祭の職を解任され,その同じ週にスペインに送り返されました。その司祭が話した事柄は,町の多くの住民を精神的束縛から解放するものとなり,それ以後人々は聖書の音信に耳を傾けるようになりました。

それでもなお,人々が真理に固く立場を定めるのを妨げるものがあったようです。多くの人は聖書の研究に応じ,集会にも来ましたが,野外奉仕に出かける段になると,ほとんどの人がそうするだけの勇気を持ちませんでした。それは近所の人々に対する恐れのためであるという結論にわたしたちは達しました。この障壁を克服するために何が助けになるでしょうか。

「母さん,まだわたし,死ねないわ」

元宣教者のボブ・イセンシーと妻のジョアン・イセンシーは,自分の子供たちをクエンカで育てることにしました。10歳になる娘のミミは,ある日学校で遊んでいて,荷物を満載したダンプカーの車輪に踏みつぶされました。彼女は大急ぎで診療所に運ばれ,懸命の救命処置が施されました。母親が顔色を変えて駆けつけると,ミミはまだ意識があり,か細い声で,「母さん,まだわたし,死ねないわ。聖書研究を司会したこともないのよ」と言いました。そしてこの少女は自分の意志で,治療に一切血を使用しないでほしいと看護婦に話しました。その診療所がエホバの証人を扱うのはこれが初めてでした。そして,これは忘れられない経験となりました。

医師は到着すると,内部の損傷状況を見極めるため,手術が必要であると述べました。父親は,手術を受けることに全く異存はないものの,「聖書はいかなる形の血の使用も禁じているので,どうか,血は使用しないでください」と事情を伝えました。(使徒 15:28,29)医師はショックを受けました。これほど重大な手術をするに当たって,血を使用しないでほしいと言われたことはそれまでに一度もありませんでした。これは親としての責任であって,外科医の責任ではありません,と父親は述べました。父親はその結果に対する責任すべてを受け入れるつもりでした。ただし,血に関する神の律法を犯すことなく,医師が子供の命を救うためにできることは何でも行なってほしい,と父親は頼みました。

謙遜にもその医師は,こう述べました。「私にも自分なりの宗教信念があり,他の人に尊重してほしいと思いますから,私もあなたの信念を尊重します。できるだけのことはやってみましょう」。

手術室に運び込まれる直前に,ミミは父親に,「父さん,心配しないで。もうエホバにお祈りしたから」と言いました。

すでに5時間以上が経過しました。その間にこの家族の知り合いや,事故のことを聞いた多くの人が診療所に駆けつけ,手術の結果を待ちました。一方,両親はそれらの人々に,万一娘が亡くなったとしても,復活によって彼女と再び会うのを自分たちが確信していることを説明しました。こうした態度は他の人々にどんな影響を与えたでしょうか。

このような言葉が聞かれました。「私も父親だから,子供を失うことの意味は分かるよ。でも,この件に関して君が示している冷静さは,僕には真似のできないものだ」。別の人は,「こういう人たちのような信仰が私にも持てたら,人間としてこれほど幸福なことはない」と言いました。このしばらく前に夫を亡くした隣家の人が二人を慰めに来ましたが,自分のほうが慰められて帰りました。彼女はこう述べました。「夫が亡くなってから2年の間,ずっと気が滅入っていました。でも,お二人と,神に対するお二人の信仰,それにお二人の抱く希望を目にして,初めて幸福を見いだすことができました」。

それにしても,子供はどうなったでしょうか。ようやく長時間の手術が終わると,両親は心配そうな様子で医師に近づき,状況を尋ねました。内臓は相当の損傷を受けていました。横隔膜に通じる動脈が切断されて,体内の血液は半分以上が失われ,肝臓は数か所が裂けていました。極端な圧力を受けたために,胃はまともに横隔膜を突き抜けていました。ダンプカーは心臓を破裂させる一歩手前で止まったのです。

医師は,両親が冷静な態度を示したことに感謝し,おかげでより一層落ち着いた気持ちで手術に臨むことができたと述べました。ミミは急速に回復し,みんなはたいへん喜びました。このニュースはクエンカ市全体に広まり,生じた事柄すべては結果として大々的な証言につながりました。ラジオ放送局はイセンシー家が示した際立った信仰と冷静さについて伝えました。一人の著名な医師はこの父親に,「今回の事例が医学界の人々の間で真の奇跡と呼ばれていることを,ぜひ知っていただきたい」と語りました。

自転車競技の選手が異なったレースに参加する

生まれてからずっとクエンカに住んでいたマリオ・ポロは,全国的な自転車競技で数年間連続して優勝し,無敗のまま引退したことで知られていました。当然のことながら,クエンカ市はこの地元出身者を誇りに思っていました。

マリオの妻ノルマが証人たちと研究を始めると,彼は自分の抱いている疑問の幾つかに対する答えが得られるかどうかを確めるため,一度参加してみることにしました。彼がまず知りたいと思ったのは,「啓示の書の中で言及されている娼婦とはだれか」という事柄でした。(啓示 17:3-5)私たちはふつう聖書のもっと簡単な事柄から始めます,と宣教者は答えました。けれどもマリオがすでにその質問を持ち出していたので,宣教者は,聖書が世から離れた状態を保たない全世界の宗教全体を表わすために,大いなるバビロンという名の不道徳な女を象徴的表現として用いていることを説明しました。―ヤコブ 4:4。啓示 18:2,9,10

そのとき以来マリオは聖書研究に深い関心を示すようになり,町からやや離れた場所で仕事をしていたにもかかわらず,研究に出席するために大きな努力を払いました。そうしたある夜,マリオがとても心配そうな表情で宣教者の家にやって来ました。エホバの証人のことを痛烈に非難した幾らかの文書を福音伝道師たちから受け取ったのです。宣教者は,証人たちに対するそれらの非難が気になるのであれば,福音伝道師に来てもらい,その裏付けを提出できるかどうか見るのがそれら非難に答える最善の方法である,と返答しました。それはマリオにとって全く公平なことに思えました。それでマリオと兄弟は,その文書を頒布していたプロテスタント牧師を訪れました。

マリオは牧師に,以前エホバの証人に対して彼が述べた事柄を弁護するため家に来てほしいと頼みました。もし出席しなければ非難が偽りであると認めることになるので,牧師はその招きに応じる以外にありませんでした。

牧師が自分の教会のもう一人の牧師を伴って現われると,マリオの友人と親族を含む10人の人々が待っていました。論題に選ばれたのは三位一体でした。その教理を裏づけるための聖句が引用されるたびに,マリオや妻,あるいは友人たちの一人は,その聖句が当てはまらない理由を牧師に示そうとしました。宣教者はほとんど何も言う必要がありませんでした。

およそ半時間もすると,牧師は自分の時計に目をやって,もう一件約束があると述べました。出席者の一人は不服そうな態度で,「けれども,牧師さん,あなたはまだ何一つ証明していません。まさか,私たちをこのまま置き去りにして,ご自分のおっしゃるこれら狼のなすがままにさせるのではないでしょうね」と言いました。牧師は,またそのうちに取り決めを設けようと述べましたが,その日時は約束せずに帰ってしまいました。

ある日牧師は確かに戻り,ノルマ・ポロに,また来るけれど,エホバの証人がいない時にそうしようと話しました。これはマリオにとって不公平に思えたので,彼は牧師の家を訪ねて,うちの家に来ていただくのは結構ですが,エホバの証人が自らを弁護するために同席している場合に限ってください,と述べました。今やマリオにとって,だれが真理を持ち,それを大胆に弁護できるかは非常にはっきりとしていました。

その時以来,マリオは着実な進歩を遂げてきました。ほどなくして,彼は紛れもない自分自身の地域社会で野外宣教にあずかるようになり,後には妻と娘も加わりました。

同市出身の様々な住民が自らをエホバの証人と名乗るようになると,他の人々にもたいへん大きな影響が及びました。医師,法律家,宝石商,農夫など,クエンカに住むあらゆる階層の人々が今や何百人も真理を受け入れていました。20年前,クエンカには会衆が一つもありませんでした。現在この区域には11の会衆があります。いわゆる聖週間になると,街路では宗教的な行進が終日続いたものですが,いまでは過去の遺物が通り過ぎるのを見るのに数分もあれば十分です。それとは対照的に,現在エホバのみ名はこの地方の至る所で知られています。

必要とされた励まし

1960年代の後半から1970年代の初めにかけて,エクアドルにおける王国の業は穏やかな拡大の時期を享受しました。他の宗教が人々を扇動する能力はもとより,その影響力も弱まってゆきました。伝道者たちは王国の良いたよりを国内の隅々に広めるため熱心に働きました。

1963年には1,000人の伝道者が野外宣教に活発にあずかっていました。5年後,その数は2,000人に達しました。1971年にその合計は3,000人となりました。さらに2年のうちに,わたしたちは4,000人の王国宣明者を報告しました。翌年その数は5,000人となり,1975年10月には5,995人の最高数に達しました。

ところが,その後,何年もの間なかった減少が始まったのです。1979年には,良いたよりの活発な伝道者の総数はわずか5,000人余りに落ち込んでいました。何が起きていたのでしょうか。どうやら,この国の新しい人々の中には,エホバとその道に対する真の認識を土台とする代わりに,ある日付に対する熱意に押し流されていた人がいるようです。いずれにしても,1980年には再びわずかな増加が見られ,1981年にも増加がありましたが,進歩はゆっくりとしたものでした。

そのころ各国は相次いで区域における立派な成長を報告していたのに,何が増加を妨げていたのでしょうか。この国で背教が起きたという話はありませんでしたし,エホバがご自分の霊を差し控える原因となるような汚れもないように思われました。祈りのうちに問題は何度も考慮されました。1981年の記念式には2万6,576人の出席者 ― 王国伝道者一人に対して関心のある人が5人という割合 ― が見られたので,成長の見込みは十分にありました。

エクアドルの兄弟たちが本当に必要としていたのは,励ましであるとの結論が下されました。長老と奉仕の僕たちには野外で率先する責任があることを思い起こさせる必要がありました。不活発になっていた人々は霊的な事柄に対する感謝の念を再び燃え立たせるため,聖書研究を司会してもらう必要がありました。

それで支部委員会は,1981奉仕年度の報告を作成した後,エクアドル各地の主要都市で開かれる短い集まりに長老と奉仕の僕全員を招待する取り決めを設けました。兄弟たちは共に分かち合えた情報をたいへん喜びました。だれもが業に対する新たな精神を抱いて家に戻りました。結果としてその奉仕年度には,伝道者が14%増加し,家庭聖書研究も19%増加しました。記念式の出席者も一気に28%増加し,3万4,024人が集まりました。確かに野外は収穫を待って白く色づいていました。

集中豪雨

今度は別の障害が立ちはだかりました。1982年10月から1983年7月までの丸10か月間,国が過去100年を通じて全く思い当たらないような大雨と洪水を経験したのです。グアヤキルと周辺の地域では,数か月で2,540㍉を超える降雨が記録されました。幾つもの橋が流し去られて,町々は孤立し,通信は困難を極めました。王国会館と兄弟たちの家屋も損害を受けました。

それでも兄弟たちは引き続き集会を開く決意をしました。ババオヨでは,集会に行くために腰まで水につかって歩かねばならない人々もいました。さらに南のミラグロでは,水が王国会館の中で膝に達するほどの深さになりました。けれども兄弟たちはただズボンの裾をまくり上げて,大水にもめげず集会を楽しみました。

孤立した地域の兄弟たちとも連絡を保つために,熱心な努力が払われました。食糧その他の必要物に不足している人々のいることが分かると,支部は会衆に情報を伝え,地元の兄弟たちは寛大な態度でこたえ応じました。国内の各地から,兄弟たちは必要なお金や食糧,それに衣類や薬を親切に備えました。このように絶え間なく雨が降っていた期間の真っ最中に,支部は再び長老と奉仕の僕との集まりを計画しました。励みの多い経験が語られ,そのような厳しい天候の中で宣べ伝える業を継続する方法に関して幾つもの提案が出されました。「み言葉を宣べ伝え,順調な時期にも難しい時期にもひたすらそれに携わり(なさい)」というパウロの言葉は,たいへん当を得ているように思われました。―テモテ第二 4:2

どのような結果が見られたでしょうか。天候の不利な影響を受けた会衆の多くから寄せられた報告は,驚くほどの増加を示していました。そのような雨にもかかわらず,1983奉仕年度の終わりに兄弟たちは,伝道者が平均17%増加し,7,504名の新最高数に達するのを経験しました。この同じ時期に,家庭聖書研究は一気に28%も増加しました。兄弟たちが区域で働けば働くほど,さらに多くの産出が見られました。

支部施設を拡大する必要

エクアドルにおける王国の業は,他の多くの国々に比べると割合に新しいと言えます。宣べ伝える活動が初めて継続的に行なわれるようになったのは,わずか40年余り前のことです。成長する若者が新しい一揃いの服を必要とするように,この地における王国の業の拡大に伴って,さらに広い支部施設が必要となりました。

当初,支部事務所は専ら宣教者の家で機能していました。1957年までには,新しい施設がグアヤキルに建てられました。後日,この建物は拡張されました。1977年に,地帯訪問を行なっていたグラント・スーター兄弟は,さらに広い地所をグアヤキルの外で探し始めるよう兄弟たちに提案しました。ある日,一人の兄弟が支部事務所にやって来て,協会に自分が寄付したいと思っている土地に関心があるかどうかを尋ねました。それはちょうどグアヤキルを出たところにありました。わたしたちは心から喜んでこの申し出に応じました。

当時早急に必要とされた別の事柄は,たとえ屋外であっても地域大会の一つを開催できる場所を探すことでした。この新しい地所の整地がある程度予備的になされた後,最初の大会がそこで開かれました。丘陵の斜面は自然の円形劇場を成し,兄弟たちは地面に敷物を広げて座席としました。この敷地は長年,沿岸部における地域ならびに巡回大会の際に役立ちました。

ついに1984年の後半,この地所に立派な大会ホールを建設する業が始まりました。それは3,000人を収容できるホールでした。今回の建設のために約32万3,000平方㍍余りの土地が利用できました。とはいえ,大会ホール以上のものが必要とされていました。統治体の承認により,1985年の初めに同じ敷地内の別の場所で新しい支部の建設が始まったのです。友たちは,このすべてを完成させようとする自分たちの努力をエホバが祝福なさるのを経験し,本当に胸の躍るような時期を過ごしました。建設は協会の国際的な建設計画が始まる直前に開始されましたが,建物はその指導のもとで完成を見ました。兄弟たちは14の国から来た国際建設自発奉仕者による専門的な技術援助が受けられたことを喜びました。この援助は実にすばらしい祝福となりました。わたしたちは援助してくださった方ひとりびとりに深く感謝しています。

監督の業における変化

1949年にアルバート・ホフマンは支部の最初の監督となり,この国における初期の業を組織するために大いに助力しました。その後1950年に,この監督の業は,同じくギレアデの訓練を受けたジョン・マクレナハンに移行しました。1970年になると,再び監督の業に幾らかの調整を加えることが必要になりました。別のギレアデ卒業生ハーリー・ハリスが支部の監督に任命され,そのとき以来支部でずっと奉仕しています。現在支部は,フランシスコ・アンガス,アーサー・ボンノ,ハーリー・ハリス,バーン・マクダニエル,そしてラウレアノ・サンチェスの5人から成る支部委員会によって監督されています。

大勢の人々が払った犠牲

エクアドルにおける王国の業の歴史には,兄弟たちが払ったおびただしい数の犠牲が含まれています。中には,わたしたち人間が気づかないほど小さな犠牲もありますが,エホバの目に留まらないものは決してありません。これら忠節な人々には皆,ヘブライ 6章10節に記されている,『神は不義な方ではないので,あなた方の働きと,み名に示した愛とを忘れたりはされない』という保証の言葉が当てはまります。

この地で奉仕するために他の国々から来た人々は,学び始めたばかりの言語で自分の意思を伝えようとして何度も気落ちしたことをいつまでも忘れないでしょう。彼らは地元の言語を聞いて,まるで言葉による集中砲火を凄まじい勢いで浴びているように思いました。一人の宣教者は,「再び話すことを学んでいる赤子のような心境でした」と述べています。

では,そろそろ言語を習得したと自分では考えていたのに,何か誤った印象を与えるようなことを話したときはどうだったでしょうか。例えば,一人の兄弟は英西辞典を調べた後,金物店に行って,「キエロ・ウナ・リブラ・デ・ウニャス」(指のつめ<ネイル>を1ポンド[約450㌘]ください)と言いました。兄弟はくぎ<ネイル>を注文したつもりだったのです! 一人の姉妹はバスの中で立っていたところ,急に運転手が車を発進させたので,後ろにのけぞって,ある男性の膝の上に倒れかかりました。姉妹は謝っているつもりで,「コン・ス・ペリシモ」(あなたの許可は得ております)と言いました。その男性が温厚な態度で,「お嬢さん,だいじょうぶですよ」と答えると,乗客たちはどっと笑いました。

エクアドルで地上の歩みを終えるまでずっと宣教者の任命地にとどまったゾラ・ホフマン姉妹は,はばかりのない態度で証言をしたことでよく覚えられています。姉妹はだれかに良いたよりを話すことを恐れたでしょうか。とんでもありません! 姉妹のお気に入りの区域は,グアヤキルの商業地区でした。その場所で姉妹はほとんどすべての人 ― 重役,法律家,裁判官,その他大勢 ― から知られていました。姉妹の葬式には,彼女が証言を行なった町の人々がたくさん出席しました。このため,王国会館は満員となってあふれ,外に立っていた人々は通りの向こう側までずっと連なっていました。出席者の中には,エホバに献身するよう姉妹が個人的に援助した94人のうちの何人かもいました。

かつては十分な声量の持ち主だったアルバート・ホフマン兄弟は,今では蚊の鳴くような声しか出ません。何があったのでしょうか。ある晩,集会から車で家に帰る途中,兄弟は信号にしたがって停止しました。一人の見知らぬ男が近づいて来て,兄弟の肩にピストルを突き付け,何か言いました。恐らく,お金を要求していたのでしょう。アルバートは難聴だったので,すぐに応対しませんでした。怒った男は,引き金をひきました。弾はアルバートの首を貫通して,右肩に食い込み,途中,声帯を断ち切りました。声帯をこのように損傷したアルバートは,今では非常に弱々しい声となりましたが,エホバを引き続き賛美しています。兄弟はほぼ60年にわたる全時間奉仕の記録を有しています。

その決断力のゆえに注目できる他の人物は,必要の大きな所で奉仕するため妻と共にドイツからやって来たヘルマン・ガウです。兄弟はどんな困難が生じようとも,物事を成し遂げ,しかも迅速に行なうのを好みました。ジャングルの町プヨの小さな会衆が王国会館を必要としていたので,ガウ兄弟は,「ジャングルに出かけて,材木になる木を何本か伐採しよう」と考えました。兄弟は一本のまっすぐに伸びる,立派な外観の木に目をつけましたが,一緒にいた土地の兄弟は,「私なら,この木は切り倒しませんね。中にアリがいるんです」と忠告しました。

「この立派な木を王国会館に使用させまいとして,私を阻止できるアリなどいませんよ」と,ヘルマンは述べました。それで兄弟たちはなたを使ってその木の伐採に取りかかりました。一部が洞になったその木が地面に倒れると,おびただしい数の怒ったアリが防衛行動に出て,一斉に兄弟たちに群がりました。兄弟たちは必死で川まで走って行き,服も何もかも身に着けたままで飛び込みました。それ以来ヘルマンは,土地の人が木について話すときには耳を傾けました。「でも,王国会館は確かに建てました!」と,ヘルマンはさも愉快そうに語っています。

若者たちが真理を受け入れる

とはいえ,王国会館を建てるよりもさらに大きな挑戦となる事柄があります。それは子供たちを真理のうちに育て上げることです。ホルヘ・サントスと妻のオルファ・サントスは30年近く全時間奉仕を行なってきました。二人はその間に5人の子供をも育て,現在,全員が親の良い模範に倣って全時間奉仕にあずかっています。これはほんの一例であり,他の多くの経験も,子供たちを行くべき道にしたがって訓練する上で親の良い模範が重要であることを例証しています。―箴言 22:6

しかし,カルロス・サラサールはこの種の霊的な教育を受けませんでした。それどころか,彼はエホバに仕えることを選んだとき,母親に家を追い出され,実の兄弟姉妹から縁を切られました。それでもカルロスは34年間全時間宣教に専念し,国際的兄弟関係を成す300万以上の人々は言うに及ばず,母国エクアドルだけでも1万2,000人以上の霊的な兄弟姉妹を得てきました。良いたよりのために“孤児”となった人々にエホバがお与えになる愛ある配慮を,カルロスはどれほど深く感謝するようになったことでしょう。

ジム・ウッドバーンとフランシス・ウッドバーンは宣教者の夫婦として多大の熱心さを示し,王国の種を遠く広くまきました。二人は多くの高校を訪問して,「あなたの若い時代 ― それから最善のものを得る」という本を提供しました。この本は,より優れた道徳を学び,教師を敬い,麻薬の危険を悟るよう若者を援助する面で,学校での差し迫った必要を満たしました。さらに,「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」という本も提供されましたが,これは特異なもので,進化について論じ,問題の両面を取り上げた唯一の本でした。教師たちと学校当局者は,ウッドバーン兄弟姉妹が直接教室に入って生徒たちに文書を提供するのを許可しました。司祭と修道女たちが運営する神学校でさえ好意的な反応を示しました。一人の司祭は生徒全員を学校の講堂に集めて,「これはまさに君たちが必要とする本で,各自で1冊求めることを勧めます」と述べました。訪問された65以上の学校のうち,この肝要な資料を生徒たちに提供することをウッドバーン夫妻に許可しなかった学校は一つもありませんでした。二人はひと月に1,000冊以上の書籍を配布したこともありました。

前途の見込み

今日,キト,クエンカ,リオバンバ,それにサンアントニオの街々を歩くと,少し前までこれらの地で良いたよりを宣べ伝える自由を求めて精力的な闘いが行なわれたとは,なかなか想像できません。叫び声を上げる暴徒たちに代わって,穏やかな人々が聖書の音信に深い敬意を抱いて耳を傾けています。エホバがわたしたちにお与えになった勝利の記念碑ともいうべきものが,現在,至る所で見られます。それらの場所,すなわち王国会館では188の会衆が集い,神のみ言葉を取り入れています。

今年度はさらに伝道者が飛躍的に増加し,1万3,352人の最高数に達しました。伝道者のほぼ2倍に相当する数の聖書研究が司会され,キリストの死の記念式には6万6,519人が出席しました。このすべては,真理を同様に受け入れるよう他の人々を援助する面でまだこの国において行なうべき業が多くあることを示しています。

激しい迫害のさなか,心の正直なエクアドル人が兄弟姉妹たちの弁護に回り,「一杯の冷たい飲み水」を与えたことは,実にさわやかな経験でした。イエスの言われたとおり,そのような人々は自分の報いを決して失いません。(マタイ 10:42)森林に覆われた熱帯平原から雪をいただいた山の峰々に至るまで,赤道沿いのこの地ですでに幾千幾万もの人々が,真理のさわやかな水によって報われてきました。この体制が終わりを迎える前にさらに大勢の人々が益を得るようにと,わたしたちは心から願っています。

[201ページの囲み記事/地図]

エクアドルの概要

首都: キト

公用語: スペイン語

主要な宗教: ローマ・カトリック

人口: 1,005万4,000人

伝道者: 1万3,352人

開拓者: 1,978人

会衆: 188

記念式の出席者: 6万6,519人

支部事務所: グアヤキル

[地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

太平洋

コロンビア

イバラ

アトゥンタキ

サンアントニオ

赤道

キト

マンタ

アンバト

リオバンバ

ババオヨ

グアヤキル

ミラグロ

ラリベルタード

アンデス山脈

クエンカ

マチャラ

ペルー

[199ページ,全面図版]

[202ページの図版]

トマスおよび妻のメアリー・クリンゲンスミス(左)と,ウィルメッタおよび妻のウォルター・ペンバートンは,1946年にギレアデ学校から来た,エクアドルで最初の宣教者となった

[207ページの図版]

ギレアデ学校の訓練を受けることになった最初のエクアドル人,ペドロ・トゥレス

[209ページの図版]

ものみの塔協会の3代目の会長N・H・ノア(左)と,その傍らに立つ,同じく世界本部から来たM・G・ヘンシェル。二人は1949年3月にエクアドルを訪問した。アルバート・ホフマン(右)は,エクアドルで最初の支部の監督となり,後日,銃で撃たれたが命を取り留めた

[210ページの図版]

セサール・サントスは偶像崇拝をやめて,エホバの証人となった

[215ページの図版]

ギレアデの訓練を受けたカルル・ドチョウは,クエンカの都市で抵抗に面した

[218ページの図版]

ギレアデ学校に出席した二人目のエクアドル人,カルロス・サラサール

[220ページの図版]

ウン・ラウンホルムは1958年に宣教者としてエクアドルに遣わされた

[223ページの図版]

太平洋岸の村々に割り当てられた宣教者,レイ・ノーチと妻のアリス・ノーチ

[227ページの図版]

左はマルハ・グラニーソ,一緒にいるのは彼女の孫たちと義理の娘

[230ページの図版]

左はジョン・フルガーラ,自分の経営する金物店の外で

[233ページの図版]

控訴裁判所の元判事ラファエル・コエリョは,グアヤキルの司法局で以前の同僚たちに証言を行なう

[238ページの図版]

元宣教者のボブおよび妻のジョアン・イセンシーと,その子供たち。彼らは輸血の問題に直面した

[241ページの図版]

全国的な自転車レースで優勝したマリオ・ポロ。現在マリオと妻のノルマは聖書の真理を擁護している

[245ページの図版]

エクアドルの新しいベテル・ホームと受付部分

[246ページの図版]

新しい屋外大会ホールの施設と,後方に見える新しい支部