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オーストリア

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オーストリアのアルプスには音楽の息吹が感じられます。ハイドン,モーツァルト,シューベルト,シュトラウスといった人々が生み出した音楽作品で名高いオーストリアは,その自然が美しいことでもまた有名です。雪をいただくアルプスは,深い森や澄んだ湖,広い渓谷を随所に織りまぜて連山を成し,3,797㍍の空高くにその雄姿を誇っています。そしてそれらの峰々は,なだらかな起伏の丘陵地へと徐々に姿を変え,最後に東部の肥沃な低地平原に溶け込みます。こうした雄大な環境をさらにすばらしいものとしてきたのは,1900年代の初めに姿を見せた聖書の真理という霊的な美しさです。それ以来,オーストリアの広大な山々と緑の渓谷には『エホバ神をほめたたえる歌』がこだましてきました。―詩編 149:6

何世紀もの間,オーストリアはドイツ人の国である神聖ローマ帝国の一部となっていました。後に同帝国は,オーストリア-ハンガリー二重帝国のもとにハンガリーと併合されました。ですから,オーストリアの人口の98%に当たる人々がドイツ語を話し,民族の中にマジャール族(ハンガリー人),クロアチア人,スロベニア人が含まれていても驚くには当たりません。ウィーンが広大な帝国の首都であった時分,さらには二つの世界大戦の後の期間中,大勢の人々はドナウ川の流れるこの色彩に富む都市で生活するために群れを成してやって来ました。このようなわけで,現在,およそ755万5,000人を数えるオーストリアの人口の20%以上はウィーンに見られます。

ハプスブルク家の支配者による命令で,オーストリアでは何世紀ものあいだローマ・カトリックが公式の宗教となってきました。今日でも,住民の84%はローマ・カトリック教徒を自認し,オーストリアとバチカンとの間には,カトリック教会に対する政府の財政援助を保証する政教条約があります。さらに別の6%はプロテスタント信者として名簿に記載されています。とはいえ,宗教団体に対する人々の献身の度合いは非常に弱まっているため,これらの数字は宗教に対する人々の真の態度を示すものではありません。一般のオーストリア人の関心事は,『人は何と言うだろうか』ということであるため,それら信者を自認する人々の多くは,伝統的な宗教との結びつきを公に絶つことは差し控えます。

神を恐れる人々を探し,それらの人々にエホバの道を教えるには,多くの努力とエホバの霊による祝福が必要とされてきました。結果として,オーストリアでは今日,1万7,770人に上る人々が,『神は何と言われるだろうか』ということが自分たちのより大きな関心事であることを実証してきました。これらの人々は,246のエホバの証人の会衆を構成しています。

証言を行なう初期の試み

20世紀の初頭,オーストリアにおける宗教的な生活は,主としてローマ・カトリック教会が定めたテンポに合わせて営まれていました。プロテスタント信者は1781年のいわゆる寛容令のもとに認められた一定の権利を有していたものの,他の大部分の人々は,自分の宗教を内々に実践することしか許されませんでした。それでも,ものみの塔協会の初代会長チャールズ・テイズ・ラッセルは,まずユダヤ人の住民に注意を向けようと,1911年にウィーンを訪れることにしました。

ラッセルは列車による旅をして,ウィーンに到着しました。そこでは3月22日のために,コンチネンタル・ホテルの広い会場が借りてありました。誠実なユダヤ人に訴えるよう意図されたラッセルの話は,「預言におけるシオニズム」と題するものでした。聖書預言に関するラッセルの説明に,同地のユダヤ人の住民はどのような反応を示すでしょうか。一人のユダヤ人教師はニューヨークから長々とした電報を打って,誤った情報を伝え,当時聖書研究者として知られていたエホバの証人に気をつけるようにとユダヤ人たちに警告しました。その結果,ラッセル兄弟が演壇に上がるころには会場は満員になっていましたが,聴衆の約3分の1は自分の話を妨害する決意でいることにラッセルは気づきました。

後日,ラッセルはこう報告しています。「私たちの話のまさに最初から,彼らは会場の至る所で大声を上げたり叫んだりし,ある者たちは悪霊につかれているように見えた。……聴衆の恐れを静めるために私たちは一言か二言話そうと努めたが,全く無駄であった。……私たちを捕まえようとやっきになっている者たちも何人かいたようだが,より良識のある人たちが強力な非常線となって,私たちの周りでバリケードを張ってくれた。私たちは何も恐れていなかったが,反対者たちをよく知っている人たちは私たちのことをとても心配しているようだった。私たちは何もできないことが分かったので,笑顔を見せながら手を振って,計画を断念したことを示し,演壇を降りた。私たちのためにバリケードを張ってくれたユダヤ人たちは,私たちの前に通路を設け,いかなる反対者も近づかせることなく,私たちを会場の外まで誘導してくれた……翌日,15人ほどがやって来て神のご計画に関する質問をさらに尋ねた」。

真理を探し求める誠実な人々の益を図るため,ラッセルの講演の全文を新ウィーン・ジャーナル紙に掲載する取り決めも設けられました。

ラッセル兄弟がウィーンを訪れたのは,この時が最初ではありませんでした。ラッセルはそれより20年前の1891年に,ドイツのドレスデンからウィーン経由でロシアのキシニョフに行く旅行をしたことがありました。ラッセル兄弟は自分なりに理解した当時の状況に関して,1891年11月の「シオンのものみの塔」誌上で注解し,「ロシアには真理を受け入れるための機会や備えがまだできていなかった。……イタリアやトルコ,またオーストリアやドイツでも,いくばくかの収穫を期待させるようなものは何もなかった」と述べました。

それでも,同地の人々を多少なりとも援助するための努力がさらに払われました。1914年の初め,マックスウェル・G・フレンド(ユダヤ人の両親のもとに生まれ,当時はフレッシェルの名で知られていた)は,メシアの王国に関する良いたよりをユダヤ人の間で広めるために,ドイツのベテル・ホームからオーストリア-ハンガリー二重帝国に赴くよう要請を受けました。ウィーンでフレンドは「シオンのものみの塔」誌の予約者二人と定期的な家庭聖書研究を始めることができました。フレンドは,次のように報告しました。「ユダヤ人たちは相変わらず良いたよりにこたえ応じようとしませんでした。彼らは私たちをキリスト教世界の宣教師たちと混同していたからです。ユダヤ人たちは,キリスト教世界が自分たちを国から国へと追いやり,火と剣で無慈悲にも殺害したため,同世界に対して少しも愛を抱いていません」。

それから数か月もしないうちに,第一次世界大戦が勃発しました。良いたよりをオーストリアの人々に宣べ伝えるための努力は,これによってすべて無駄に終わるのでしょうか。

戦後の収穫の始まり

世界大戦による恐ろしい状況の中でも,霊的な事柄について考え,それらについて語った人々がいました。ヨハン・ブロッツゲはまだ若者でしたが,とても厚い信仰を抱いていました。ヨハンはドルンビルン市にある自分の職場で,溶鉱炉の係を務めるデーゲンハルトという名の男性に石炭を届ける仕事をしていました。1917年の初秋,ヨハンがそうした配達に来た折に,デーゲンハルトは神の王国について話し始めました。その後まもなくして,若者であったヨハンは兵役に徴用されました。ヨハンが聞いた真理の種は,根を下ろすでしょうか。

戦争の恐ろしさを経験した後,ヨハンは家に戻りました。神の王国に関する話は強烈な印象を残して,まだヨハンの思いの中にありました。ヨハンはデーゲンハルトを捜し始めました。ところが,何と悲しいことでしょう,デーゲンハルトはそのころすでに亡くなっていたのです。しかし,ついに1919年の春,ヨハン・ブロッツゲは当時聖書研究生だったオットー・マティスおよびクサベア・クリーンと連絡を取れるようになりました。ヨハンはずっと以前から欲しいと思っていた聖書文書を,このオットーから入手しました。これらの男性はオーストリア西部での最初の聖書研究生でした。

そこからおよそ680㌔離れたオーストリアの東端で,真理は受容力のあるもう一つの心に宿りました。年若いヨハネス・エームは,1919年から1920年にかけて,マルヒフェルト平原にあるドイッチュ・バグラム村で音楽の教師として働いていました。ヨハネスの友人である一夫婦は,ドイツから来た一人の技師を下宿人として迎えました。その夫婦はヨハネスに,ゴラー氏というその技師が全く目新しい,奇妙な事柄について話をしたと語りました。ゴラー氏の話によれば,世界の終わりは近いこと,地獄の火は存在しないこと,信仰を抱く人々の多くは天に行くのではなく,むしろいつの日か地上で生きるようになるということでした。そればかりでなく,ゴラー氏はそのことをすべて聖書から証明できると述べたのです。この夫婦は,「そうした話し合いに参加してみる気がありますか」と,その若い音楽教師に尋ねました。

その話し合いで,ヨハネスは生まれて初めて聖書を目にしました。ヨハネスは後日,「ゴラーは見るからに落ち着き払った様子で,私の質問すべてに ― それも,かなりの数の質問に ― 冷静な態度で答えてくれました」と述べています。すぐにヨハネスは,C・T・ラッセルの著した「聖書研究」を6巻注文し,それらを熱心に研究し始めました。

そのころ,オーストリア南部のクラーゲンフルトでは,簿記係をしていた若者フランツ・ガンシュテルが,エッグという名のスイスの男性と手紙を通して知り合うようになりました。二人が行なった文通には,切手の収集や絵はがきの交換以上のことが含まれていました。すでにエッグは聖書研究生の一人だったので,この若い簿記係はエッグから聖書の音信を聞きました。ガンシュテルはスイスで入手可能なものみの塔の出版物すべてを注文しましたが,それらの出版物は,1921年にスイスからオーストリアに戻ったレオポルト・ケーニヒという桶製造人によって直接届けられました。このあと事態がどう進展したかについては,後ほど見ることにしましょう。

ほぼ同じころ,ドイツから来た一人の聖書研究生が,オーストリア北部のリンツに住む一夫婦のもとに1冊の小冊子を置いていきました。その小冊子は,「現存する万民は決して死することなし」と題するものでした。小冊子を読んだ後,その夫婦はそれを友人のジーモン・リートラーという名の農夫に手渡し,「この小冊子は衝撃的な文体で記されている」と述べました。それでジーモンは,やや偏見に満ちた考えを抱きながらも,その小冊子に何気なくざっと目を通しました。内心では,『どうせ,くだらないものに決まっている』と考えていたのです。

それなのに,ジーモンはその小冊子を2度,また3度と読み直しました。最終的にジーモンはその小冊子の中の宝石のような真理の価値を認識したでしょうか。確かに,認識しました。自分が最初に抱いていた偏見のことを恥ずかしく感じたほどです。

この音信についてもっと徹底的に調べたいと思ったジーモンは,その小冊子の裏側に記されていた住所にしたがってウィーンあてに手紙を書きました。ずっと以前からジーモンは聖書を持ちたいと願っていたのです。このようなわけで,ジーモンは,スイスから戻って今や聖書文書頒布者<コルポーター>として奉仕していた桶製造人のレオポルト・ケーニヒと連絡を取るようになりました。ケーニヒ兄弟はポケットサイズのルター訳聖書をその農夫(ジーモン)に送ったとき,それが非常に大きな歓びをもたらすことになろうとは想像だにしなかったことでしょう。ついにジーモン・リートラーは自分自身の聖書を手にしたのです! それに伴ってジーモンは,「シオンのものみの塔」誌と「考えるクリスチャンのための糧」という本を読みました。ジーモンの家族や親族,それに近所の人たちはジーモンをさんざん笑い物にしました。しかし,ジーモン・リートラーは真理を見いだしたのであって,それが何よりも大切な事柄でした。「私の心は満たされ,唇から溢れんばかりでした」と,ジーモンが後日述べたとおりです。

忘れ難い講演に集まった,聞く耳を持つ人々

1921年の秋も深まったころ,絵のように美しい都市ウィーンにあるゾフィーンゼーレという大きな建物で,「現存する万民は決して死することなし」という衝撃的な主題の講演が行なわれました。その音信に対する反応は,それよりも10年前にラッセル兄弟が出会ったものとは大いに異なっていました。

その集まりに関して,報告はこのように述べています。「その音信は大きな衝撃を与えた。宣伝のおかげで街角では集まりが始まる前から大騒ぎとなり,議論が大いに交わされた。会場は超満員で,ドアは講演が始まるかなり前から閉じられ,数百人が入場を断わられた。聴衆は神の王国の設立に関するすばらしい音信と,現存する万民は死ぬ必要がないという慰めとなる聖書の約束とに一心に聞き入った」。その晩,「万民」の小冊子が2,100冊配布され,その後の訪問がなされるために住所を記したメモが1,200枚提出されました。

その話に深い感銘を受けた人々の中に,ハンス・ロノフスキーがいました。彼はゾフィーンゼーレには居合わせませんでしたが,数週間後にウィーンの商店街を散歩していた時,同じ講演がコンサートホールで行なわれることを宣伝するポスターに目が留まりました。彼はそこへ出かけましたが,それはシュトラウスのワルツやモーツァルトのコンサートを楽しむためではなく,聖書の真理が奏でる美しい調べに耳を傾けるためでした。

地方における活動

今度は,国内で人口の多い他の地方に注意が向けられました。ある日,フランツ・ガンシュテルはウィーンから一枚の絵はがきを受け取りました。フランツは,オーストリアの業を監督するためドイツのドレスデンから派遣されていたエミール・ウェッツェル兄弟が行なう講演のために,クラーゲンフルトで探し得る最大のホールを借りることになりました。『それなら,ザントビルト・ホテルの会場がよかろう』とガンシュテルは考え,早速,そのホテルの持ち主を探し始めました。

そのホテルの支配人は,「これは提案ですが,きっとほんの数人しか来ないでしょうから,会場がもっと埋まっているように見せるためテーブルやいすを置いたらどうでしょう」と言いました。

ガンシュテルはき然とした態度で,「私が受けた指示は,座席だけを備えた会場を借りることです」と答えました。

では,講演のための沢山の招待状は,だれが配るのでしょうか。自らも労働者だったガンシュテルは,ある考えを思いつきました。ガンシュテルは二人の男性を雇い入れ,彼らは市内で3,000枚のビラを配ったのです。後ほど見られた出席者数からすると,彼らは有用な働きをしたと言えます。ホテルの支配人の推定では,2,000人ほどが講演に出席しました。しかも,本会場ばかりか階上席までが満員になったのです。

それら出席者の中に,二十歳になる学生のリヒャルト・ハイデがいました。リヒャルトは,「現存する万民は決して死することなし」という講演の宣伝ポスターを見たあと,父親に,「父さん,だれが何と言おうと,ぼくはあの講演を聞きに行くからね。その話が単なるこけおどしなのか,それともそこに何か真理があるのか知りたいんだ」と言いました。こうしてリヒャルトは確かに出かけましたが,彼の父親と姉のテレーゼもリヒャルトと一緒に行くことに決めました。

講演の後,出席者の多くは文書の注文と共に,自分の住所を記したメモを置いて帰りました。こうした依頼に応じるため,フランツ・ガンシュテルは「聖書研究」の本を大量に注文しました。フランツのもとには非常に多くの文書が届いたため,女家主はそれらの小包すべてをフランツはどこに置くのだろうと考えました。フランツの部屋には床から天井に達するまで文書が堆く積まれ,フランツ自身の身の置き場さえないほどでした。

講演に感激したハイデ氏も「聖書研究」を7巻注文し,それらを熱心に読みました。ほどなくして,彼のアパートでは集会が開かれるようになり,彼の居間には30人もの人々がぎっしりと集まることも珍しくありませんでした。

グラーツでもまた,早くも1922年の春から集会が開かれていました。講演は他の地方の町々でも行なわれました。ですから,エホバの業は地方においても力強く拡大していました。

クラーゲンフルトのこれら伝道者たちは小さなグループとはいえ,何と熱心だったのでしょう。彼らはまだ浸礼さえ受けていなかったのです。ようやく1922年7月5日になってからウィーンで浸礼が行なわれ,その翌週には,カリンティア地方でバプテスマが施されました。そこでは,この地域の初穂とも言える人たちが美しいベルター湖の水で浸礼を受けました。これらの人々の中にはフランツ・ガンシュテルとハイデ夫妻(両親のほう),同夫妻の二人の子供リヒャルトとテレーゼ,それにコパッチュ氏なる人物がいました。コパッチュ氏は後にその熱心さとはばかりなく語る態度とでよく知られるようになりました。

そのころ,ウィーンではある事柄が生じて,神の民の間だけでなく他の人々の間でも活発な論議が交わされていました。

大変な騒ぎとなったウィーンでの集会

ものみの塔協会の2代目の会長ラザフォード兄弟は,1922年に各支部への訪問旅行を行なった際,5月30日から6月1日にかけてウィーンを訪問することにしました。広々としたカタリーネン・ホールで講演を行なう計画が立てられました。11年前にウィーンでラッセル兄弟が講演を試みた時よりもさらに好意的な反応が得られるでしょうか。

ラザフォード兄弟と通訳のコンラート・ビンケレ兄弟(スイス出身)が演壇に立った時,場内は通路も含め,どこも人で埋め尽くされていました。中には,演壇に上がって,話し手の目の前に座っている人々さえいました。それでもなお入場を試みる人たちもいました。ところが,何千人もの出席者のうち,何百人かの人々は話を静かに聞くためではなく,むしろそれを妨害するために来ていたのです。聖書の音信に反対する者たちは自分たちの部下を聴衆の中,特に場内の後ろの方に配置していました。

話の最初の40分ほどは万事が順調にいっていました。とはいえラザフォード兄弟は,集まりを阻止する企てがなされていることを知らされていました。それで兄弟は,まず講演の主要な点を扱って,そのあと詳しい話をするつもりでいました。ところが,主要な点が扱われたとたん,騒動が始まりました。200人から300人ぐらいの厄介者たちがどなり声を上げ,荒々しい畜牛の群れのように足を踏み鳴らし始めたのです。若い男女たちはいすの上に飛び乗って,四方八方に合図を送りました。疾風のような勢いで,これら厄介者たちは話を突然終わらせてしまったのです。

ラザフォード兄弟は,冷静になってふさわしく振る舞うよう聴衆に呼びかけましたが,何の効果もありませんでした。再び兄弟は通訳を通して聴衆に話すことを試み,「私は聴衆の皆さんと採決を行なって,どれほどの人たちがこの話を最後まで聞きたいと願っているか知りたいと思います」と述べました。聴衆の大半は肯定の答えを示す手を挙げましたが,騒ぎを起こしていた者たちは大きな声で不賛成を唱えました。そこでラザフォード兄弟は力強い声で,「話を聞きたくない人たちはどうかすぐに退場して,本当に聞きたいと願っている人たちに話を聞かせてあげてください」と言いました。

その言葉を聞くと,妨害者たちは怒りをぶちまけました。騒動の先導者たちは人々を押し分けて通路を進みました。彼らが演壇から5㍍以内の所まで来ると,騒動を起こしていた者たちは「インテルナツィオナーレ」という歌をうたい始めました。その行動はあまりにも狂気じみていたため,彼らは悪霊につかれているように見えました。

このときホールの支配人が到着して,話し手に急いで演壇から降りるよう要請しました。ラザフォード兄弟は,やがて騒動は収まり,警察が聴衆を静まらせて,自分は講演を続けられるだろうと期待しました。しかし,事態はそのように運びませんでした。ホールの支配人は照明の一部を消しましたが,反対者たちはそれらを再び付けました。ますます恐れを抱いた支配人と彼の部下数人は,演台のもとに走り寄り,ラザフォード兄弟の腕をつかんで,後ろの見えない場所に兄弟を引っ張って行きました。

暴徒たちは演壇の前まで来たとき,まだ歌をうたっていましたが,そのうちの何人かは,「彼はどこだ,彼はどこだ,我々の旗は真っ赤に染まっているのだ!」と叫びました。暴徒たちはラザフォード兄弟が見つからないため,出口に見張りを配置しました。しかし,彼らは演壇の後ろにある一つのドアを明らかに見過ごしていました。普段はかぎが掛けられて,かんぬきが下ろされているそのドアは,すぐに開きました。ラザフォード兄弟と,ニューヨークから兄弟に同行して来たアルトゥール・グー兄弟がそのドアを急いでくぐり抜けると,ドアはすぐに閉じられて,かんぬきが下ろされました。

新ウィーン・ジャーナル紙は,「聖書講演会での醜悪な場面」―「共産主義者が集会を解散させる」と報じました。

オーストリアで当時協会の仕事を監督していたエミール・ウェッツェルは,監督に割り当てられてから最初の6か月は自分たちの公開集会はほとんどすべて妨害された,と後日記しています。他方,出席した人々の多くは真理に飢え渇いており,彼らを顧みるための取り決めが設けられました。そうした世話を容易にするために,協会は1923年にオーストリアで最初の事務所をウィーンのポウト通り12番に開設しました。

『わたしは決してあなたを離れない』

1924年,国際聖書研究者協会の総会がウィーンで初めて開かれました。その翌年,ウィーンで再び大会が開かれた時,出席者の中にドレスデンから来たヨハネス・シンドラーがいました。これはヨハネスの人生における転換点となりました。どうしてそう言えるでしょうか。話の一つは,「オーストリアで補助宣教者として奉仕したい人はいますか」(今日そのような人は開拓者と呼ばれる)という呼びかけで最高潮に達しました。その場で応じた6人の兄弟たちの中に,ヨハネス・シンドラーがいました。

シンドラー兄弟はまず,自分が仕事を辞めることを雇い主に知らせるためドレスデンに戻りました。兄弟は当時,有名な「エアネマン-ツァイス-イコン-ワークス」社で精密光学器械の製作者として働いていました。しかし,その仕事を辞めたら,シンドラー兄弟はどのようにして自分の物質的な必要を顧みるのでしょうか。兄弟は文書の寄付として支払われるお金のうち一定の額を,個人的な使用のために蓄えてもよいことになっていました。ところが,オーストリアでは家から家に文書を売ることはできず,その法律はわたしたちの業にも当てはまると思われました。できる唯一の事柄は,家の人に親切な態度で,「もしこの宣教者奉仕を支持するために何か寄付することをお望みでしたら,自由にそうすることができます」と述べることでした。人がそのような状況のもとでこうした割り当てを受け入れるには,エホバに対する全幅の信頼が求められました。しかしエホバは,「わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない」と言われたのではないでしょうか。―ヘブライ 13:5

24歳になるシンドラー兄弟は,すでに母国ドイツで良いたよりの宣明者として2年の経験を積んでいました。兄弟はベルスの町とその周辺で奉仕を始めるため,手元にある100ライヒスマルクを携えて,1925年10月17日にオーストリアにやって来ました。

兄弟はできるだけ節約しながら生活するように努めました。ところが,すでに最初の月から貯金に頼らねばなりませんでした。3か月もすると,兄弟の蓄えは底を突きました。この時から,エホバに対する兄弟の信仰と信頼は本当の意味で試されました。そしてエホバはご自分の方法で兄弟の必要を確かに顧みられました。

例えば,ある土曜の晩,パートナーの開拓者と共に一晩泊まる部屋の家賃を支払うため最後のお金を使い果たしたシンドラー兄弟は,思わず次の日のことを考えてしまいました。兄弟はパートナーと一緒に,祈りのうちに天の父に近づきました。日曜の朝になると,シンドラー兄弟は,日曜日には1時間しか開かない郵便局へ真っ先に向かいました。何か郵便物が届いていないかを見るためです。自分あての小包を手渡された時,兄弟はどんなにか驚いたことでしょう。中身は何だったのでしょうか。500冊の小冊子と,それら小冊子が無料であることを記した添え付けの手紙が入っていたのです。

地元の教会ではちょうど礼拝が済んだところで,男たちはいつもの習慣通り,日曜日の飲酒を楽しみ,トランプをするため酒場に寄り集まりました。シンドラー兄弟は酒場の主に近づくと,小冊子を1冊提供して,テーブルにいる客にも話をしてよいかどうか尋ねました。その願いは聞き入れられました。

シンドラー兄弟はあるテーブルに近づくと,そのテーブルの周りにいた男たち一人一人の前に小冊子を1冊置いて,「今生きている幾百万もの人々は決して死にません。聖書に記されているこの預言はまもなく成就します。私たちはこれらの小冊子を売っているわけではありませんが,もし私たちの宣教者活動のために何か寄付をなさりたい方は,自由にそうすることができます」と言いました。男たちの一人がテーブルの上に幾らかの小銭を置くと,すぐに他の男たちも自分の財布を取り出して同じようにしました。それでシンドラー兄弟は臆することなくテーブルからテーブルへと移動し,小冊子を配ることができました。

その村にはほかにも酒場がありました。1時間半もしないうちに,文書を入れた鞄は空になりました。シンドラー兄弟とそのパートナーは,いま一度食物を買い,宿代を支払うのに必要なお金を手にすることができたのです。二人はエホバに対する信頼を抱きつつ,次の日を楽しみに待ちました。

ヨハネス・シンドラーは1986年12月23日に亡くなるまで,開拓者の隊伍にずっと留まり,最後はドイツ連邦共和国で奉仕しました。

注目を引いた葬儀

シンドラー兄弟がオーストリアで開拓奉仕を始めたその同じ年,ドイツからゲオルゲ・ゲルツがウィーンの支部事務所に遣わされました。ゲルツ兄弟は優れた話し手として国内の大きな都市ではどこでもよく知られるようになりました。

クラーゲンフルトのハイデ兄弟が亡くなったとき,ゲルツ兄弟はその葬式の話をするように割り当てられました。ハイデ兄弟は伝道活動に熱心なことでよく知られていました。兄弟は住所録を活用して,カリンティアの全域に見本の雑誌や,「聖職者に対する告発」,「バビロンの倒壊」といった様々なパンフレットを送ったことがありました。あて先別に封筒の仕分けがなされると,兄弟の子供たちは父親が洗濯かごの中の封筒の束を郵便局に届けるのを手伝いました。ハイデ兄弟はしばしばカリンティアのいろいろな町や村の関心ある人々から手紙を受け取りましたが,できるときにはそれらの人々をなんとか直接訪問するようにしました。

それでハイデ兄弟の死に際して,その葬儀の取り決めに多くの人が関心を示したのも驚くことではありませんでした。オーストリアの田舎の住民にとって,葬式は多くの事を意味します。人々は亡くなった人のことを大いに称賛することもあれば,痛烈に非難することもあります。今回の葬式はオーストリアのどのエホバの証人にとっても最初のもので,およそ2,000人が出席しました。また,オーストリアの人々は葬式について語るのを好むので,人々は10年たってもまだその葬式について話していました。

小さな始まりと,ねばり強い努力

今日,オーバーエーステライヒ州のリンツとその周辺には16の会衆があります。しかし,聖書の真理がこの地に定着するまでにはことのほか時間がかかりました。宗教的に言って,この地はカトリック教会の砦であり,この地域で王国の音信をふれ告げるのは容易ではありませんでした。

前に登場した謙遜な農夫ジーモン・リートラーは,自分が学んだ貴重な聖書の真理についてこの地域の人々に熱心に語りました。1930年ころ,ドイツのミュンヘン出身のナスル兄弟がリートラーの援助に駆けつけ,二人は関心のある人々を幾人か見つけることができました。リートラー兄弟は一群の人々に講演を行なったり,協会の出版物を彼らに読み聞かせたりしました。普通これらの集会には,30人から35人の人が集まりました。しかし,加えられた圧力のために関心は弱まってゆき,報告が示すところによると,1940年になってもリンツには忠節な姉妹が一人いただけでした。

西のほうでは,リヒテンシュタインとの国境に近いフェルトキルヒ市で,早くも1922年から,ウィルヘルム・コレトという名の税関職員が同僚たちに証言を行なっていました。アガーテ・テイラーと彼女の母親は,当時ラウテラッハの村に住んでいて良いたよりを聞きました。地元の司祭を交えて,アガーテの両親の家で話し合いを行なう取り決めが設けられ,20人から25人の人が集まりました。司祭は,提出された論議をどれ一つ聖書から論駁することができませんでした。どのような結果になったでしょうか。その家族の全員が真理を受け入れたのです。1925年に集会は専らドルンビルンの町で開かれるようになり,講演を行なうためにスイスの近くから兄弟たちが来ました。1917年という早い時期に初めて真理を聞いたヨハン・ブロッツゲも,講演を行なうまでに進歩していました。

国内の各地でなされていた進歩は記念式の出席者の数に反映されました。1926年にウィーンでは312人,グラーツでは43人,クラーゲンフルト26人,その他の場所で合計52人が報告されました。

この同じ年,オーストリアにおける王国の業の監督はドイツの支部事務所に移行されました。必要とされていた地元の監督を行なうため,一人の有能な兄弟がオーストリアに遣わされました。

圧力に面しながらも前進する

当時の宣べ伝える業は困難な状況のもとで遂行されました。特に農村部では,神の王国の良いたよりを他の人に伝える者はだれであれすぐに警察によく知られるようになりました。

ある日,兄弟たちの一グループは1台のバスを借り,ウィーンの北にある田舎の地域バルトフィールテルの幾つかの村を訪れて宣べ伝える業をいくらか行なうことにしました。そこに到着してみると,すでに兄弟たちを待ち受けている人々がいました。村の入り口には,地元の司祭に扇動された村人の一団が敵意を抱いて立っていたのです。群衆の中には,金属製ヘルメットをかぶりライフルを持った男たちもいましたが,彼らはいわゆるハイムベーア(国民防衛軍)と呼ばれる市民軍に属し,一部の地方警官たちの支持を得ていました。兄弟たちがバスを降りるやいなや,彼らは兄弟たちに襲いかかり,その手元にあった文書をすべて奪い取りました。

言うまでもなく,兄弟たちはこの事件以来,田舎の地域で奉仕するときには村の外でバスを降り,回り道をして村に入りました。ところが,真理の反対者たちは,兄弟たちが採用した新しい方法に合わせてすぐに別の手段を講じました。一部の地域は僧職者たちによってしっかりと掌握され,兄弟たちを弾圧する僧職者に対して警察隊は協力を惜しみませんでした。

兄弟たちが立ち向かわねばならなかった敵意の数々は生活のあらゆる面におよび,死そのものをもってさえ終わることはありませんでした。ガイスベルガー夫妻はシェールディングという小さな町の近くに住んでいましたが,真理を受け入れて,1923年にカトリック教会から脱退しました。このため,その後ほどなくして,ガイスベルガー姉妹は裁縫教師としての職を失いました。その後,彼女の夫が亡くなると,村の司祭はガイスベルガー兄弟の葬儀を地元の墓地で一切行なわせようとしませんでした。もちろん,法律的に見れば,どんな人でも埋葬を拒否されることはあり得ませんでした。そこで兄弟たちはその件を地方行政官のもとに提出しました。聖書を信じ,聖書と調和した生活を送ろうと努めたこの男性を埋葬するために,どんな取り決めが設けられるでしょうか。その埋葬は,自殺を行なった人々の墓専用に設けられた墓地で行なわねばならなかったのです。ウィーンのウェッツェル兄弟は,少なくとも葬式の話をすることだけは許されました。

クリスチャンであるゆえに迫害される

聖書は,この世においてクリスチャンであることには苦難が伴うという事実をはっきりと示しています。イエス・キリストは,ご自分の追随者たちにこう言われました。「奴隷はその主人より偉くはないと,わたしがあなた方に言った言葉を覚えておきなさい。彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう。……しかし彼らは,わたしの名のゆえにこれらすべてのことをあなた方に敵して行なうでしょう。わたしを遣わした方を知らないからです」。(ヨハネ 15:20,21)当時のオーストリアでイエス・キリストの足跡に従って歩もうと努めた人々は,このことを経験しました。イエスが警告なさったとおり,反対は身近な家族の成員からもたらされました。(マタイ 10:32-39)しかしそのためにオーストリアの兄弟たちは神の王国の側に立つことをやめたりはしませんでした。

ベアトリーチェ・ロイダは社会主義運動の女性スポークスマンでしたが,ナツィオナールラート(立法議会のことで,国会の下院に当たる)の選挙に立候補していました。彼女が政治活動で知り合った女友達の一人 ― 名前はブレトシュナイダー ― は,エホバの証人になったため,当然のことながら神の王国についてベアトリーチェに話しました。ベアトリーチェはウィーンのコンチネンタル・ホテルに講演を聞きに来るよう誘われました。それはまさしく,1911年の昔にラッセル兄弟が講演を行なおうとして果たせなかった,あのホテルでした。ベアトリーチェは神を信じていなかったので,最初は,「神はまずわたしのところにあいさつに来るべきだわ!」と述べて,全く取り合おうとしませんでした。それでも彼女は自分の友人を喜ばせたかったので,その講演に出席しました。自分の気持ちとは裏腹に,彼女はその講演の途中でさえ,思わず,「これは真理だわ! これは真理よ!」と,ブレトシュナイダー姉妹に何度か言いました。

イエスがご自分の弟子たちに言われた,『あなた方は世のものではない』という言葉に調和して,ベアトリーチェが政治生活から身を退くまでに時間はさほどかかりませんでした。(ヨハネ 15:19)とたんに,困難な問題が生じました。彼女の夫は,自分の言う『正気に彼女が戻ら』ないなら離婚する,と言って彼女を脅したのです。しかし彼女は信仰のうちにしっかりと立ち,亡くなるまでその立場を貫きました。

ザルツブルクのフランツ・モンフレダは熱心なカトリック教徒でしたが,真理が彼の心を動かしました。1927年3月12日にカトリック教会を去った後,フランツは自分の命を神エホバに献げました。フランツの家族は彼の行動を全く快く思わず,彼に非難の言葉を浴びせて,敵意をむき出しにしました。そのために彼は自分の家と仕事を失うまでになりました。別の仕事が見つかるまでにかなりの時間がかかったため,彼の信仰は大いに試されました。それでも彼はエホバへの忠実を保ちました。当時のことをフランツはどう感じているでしょうか。「私は現在,自分がその時期を乗り越えて真理に付き従えたことをうれしく思っています。エホバのみ腕が短すぎるということは決してありませんでした」と,フランツは述べています。―イザヤ 59:1と比較してください。

1台の自転車しかなかった

ブルゲンラント州リートリングスドルフの地域に住む兄弟たちは,主の業において並々ならぬ熱意を示しました。兄弟たちの区域は広範囲におよび,しかも交通手段と呼べるものがほとんどありませんでした。自動車は言うにおよばず,バイクを持つことさえ兄弟たちには全く無理な話でした。多くの人は自転車さえ持っていなかったのです。そこである兄弟たちは,次のような方法を用いて野外奉仕を行ないました。

まず一人の兄弟が徒歩で出かけ,家々を訪ねては宣べ伝えて行きます。二番目の兄弟は自転車に乗って,あらかじめ定められた場所へ先に向かい,そこに自転車を置いておきます。その兄弟は今度は徒歩で自分の活動を続けます。最初の兄弟は自転車が置かれている場所まで来ると,それに乗って,前もって打ち合わせておいた次の場所に向かうのです。もし走行距離計がその自転車に付いていたなら,王国を宣べ伝えるために費やされたその合計距離は,疑いなく記録的な数字となったことでしょう。

兄弟たちは野外奉仕に日曜日しか参加できなかったので,その時間を最大限に活用しました。ある時など,午前の3時に家を出て,夜遅くに戻ることもありました。その宣教には,魂のこもった努力がはっきりと表われていました。

法的権利のために闘う

宣べ伝える業が一層徹底したものとなるにつれ,その伝道活動のために兄弟たちが地元の行政機関へ出頭を求められるのは珍しいことではなくなりました。兄弟たちは自分たちのできる範囲で,自分の弁護を行ないました。場合によっては法的な助けを得られることもありました。それでも,法的な処置がいつでも兄弟たちに有利な結果となったわけではありません。

とはいえ,判決を覆すことよりもはるかに困難だったのは,ものみの塔協会の地元の支部の登録を行なうことでした。宗教団体として認可を得ることは,まだ全く不可能な状態でした。兄弟たちは少なくとも協会として登録をしてもらおうと努めましたが,関係当局は,「あなた方が意図しているのは宗教団体の結成であり,その種の組織はオーストリアの法律のもとでは設立できない」と理由を述べて,認可を拒否しました。

兄弟たちは憲法裁判所に訴状を提出し,協会を設立する自分たちの法的権利が拒否されていることを申し立てました。オーストリア憲法裁判所の裁判官たちが直ちに下した判断は,1929年12月7日の訴訟却下でした。次に兄弟たちは,宗教的な機能を一切伴わない,聖書および聖書文書を頒布する協会としての登録を試みました。この申請は拒否されませんでした。こうして,1930年5月24日付で,兄弟たちの法的手段として機能する地元の協会が設立されました。

兄弟たちが対処しなければならない問題は,ものみの塔協会に対する法的認可が下りた後も決してなくなりませんでした。それでもエホバの僕たちは,自分たちの聖書的な責任にあくまで忠実でした。高官たちにも証言がなされねばならないことを認識していたのです。―マルコ 13:11

新しい会衆が設立され,出席者は増加する

あまり多くの論争を引き起こさないために,兄弟たちはより大きな大会の開催を差し控えることにしました。1922年にウィーンで初めて公開された「創造の写真劇」だけが,地方の比較的小さな町でも上映されることになりました。

それでも幾つかの地域では,会衆の集会出席者は相当の数に上りました。エドゥアルト・パイアーが全時間奉仕をしていたレオーベンの町がそうでした。エドゥアルトが来るまでは,聖書研究者について聞いたことのある人はだれもいませんでした。しかしエドゥアルトは非常に熱心に宣べ伝え,やがて集会には200人ほどの出席者が見られるようになりました。1932年になるころにはエドゥアルトはスティリアの州都グラーツで奉仕していましたが,ここでもやはり,集会には数百人の出席者が見られました。そうした出席者たちの一人に,フランス外人部隊の元隊員レオポルト・ピテロフがいました。ピテロフは後に強制収容所に入れられましたが,そこで忠実を保ちました。オーストリアにおける組織された聖書研究のグループ(つまり,当時のいわゆるクラス)の数はすでに30に増えていました。

反対は強まる

政治舞台でその後生じた変化は,わたしたちの最大の反対者であった僧職者たちにとってたいへん都合のよいものでした。キリスト教社会主義者のエンゲルベルト・ドルフス博士は,1932年5月20日付で連邦首相に就任し,教皇秘書の立場にあったパーチェリ枢機卿から祝電を受けました。ドルフス博士の任期中,市民的自由を著しく侵害する事態が発生しました。ドルフスは1933年に生じた非常事態を巧妙に利用して,議会を解散させました。その後,政権を手中に収めたドルフスは,自らが称するところの「ヨーロッパで最初の,カトリックのモデル政府」を発足させました。僧職者たちのグループはドルフスのことを理想的なカトリック政治家と評しました。

このような状況下で,わたしたちのクリスチャンの集会を禁ずる企てがなされたなら,それは驚くべきことでしょうか。幾百人もの集会出席者が見られたグラーツでは,ほどなくしてそのような禁止令が実施されたのです。兄弟たちはひるむことなく,直ちに訴えを起こしました。法律に触れることを兄弟たちは何もしていなかったので,その訴えは認められてしかるべきでした。ところが,当局は何人かの開拓者の居住権をはく奪して,彼らを町から追い出してしまいました。ほとんど毎週のように,兄弟たちに対する偽りの訴えがなされました。カトリックの一新聞は,政府はわたしたちのクリスチャンの業を中止させるべきであると述べて,こうした画策の背後にだれがいるかをはっきり露呈しました。

ちょうどそのような時に,エホバの組織は励みとなる助けを差し伸べました。ラザフォード兄弟は予定していた1933年に来ることができませんでしたが,N・H・ノアとM・C・ハーベックを派遣しました。二人はウィーンにあるビンベルガー・エタブリスマンで兄弟たちと会い,その集まりは兄弟たちをたいへん強めるものとなりました。

文書の検閲と没収

人間の支配は天の神の王国に取って代わられるという聖書預言と調和して,協会の出版物は人間の支配が迎える悲惨な結末を臆することなく強調してきました。(ダニエル 2:44; 7:13,14,27)政府の役人たちはそのような文章が自分たちの目に都合の悪いものと映った場合には,腹を立てました。結果として,1930年代の初期には協会の文書が相次いで没収されました。

1933年から1934年にかけて,兄弟たちはほとんど毎週のように当局の前に呼び出され,ありとあらゆる異議・不満を聞かされました。役人たちはしばしば,出版物の中のある文章を読みにくい文章にするよう要求しました。問題の文章すべてが実際に削除されるのを確実に見届けるため,一人の警官が協会の事務所にまで配置されました。その作業は長時間におよび,真夜中までかかる日もありました。そして,警官の目も時として疲れることがあったので,出版物のある箇所は結局,読みやすい状態のまま残りました。

政情不安のために種々の制限が生じる

さまざまな政党間に見られた対立は,急速な勢いで激化しました。社会民主防衛同盟(社会党の武装軍)は抵抗運動を繰り広げました。1934年2月には,労働者階級による反対が残忍な方法で打ち砕かれ,社会民主党は活動を禁じられました。その後も個人の自由に対する種々の制限はさらに続きました。

新しい時代の訪れを告げるかのように,オーストリアは1934年5月に新憲法を布告しました。その序文は,一宗教信条のような響きを持つ,次のような文面となっていました。「あらゆる律法がその源を発する全能の神の名において,オーストリア国民は,永久に続くキリスト教的かつドイツ的連邦国家を念願し,ここに当憲法を迎え入れる」。しかし隣国ドイツでは,やはりカトリック教徒とはいえ異なる政治概念を抱くヒトラーが,すでに強大な権力を振るっていました。そして7月には,ヒトラーの率いる国家社会労働党の一支持者により,オーストリアの首相ドルフス博士が暗殺されました。

その後何か月もが経過し,政府はクルト・シューシュニック首相の指揮下にありましたが,「全能の神」に仕えることを真に願う人々にとって救済は何らもたらされませんでした。聖書文書はそれらの人々からなおも奪い取られ,彼らは引き続き法廷の前に連れ出されました。多くの場合,聖書の集会を公に開くことも禁止されました。

地元の協会が当局により解体される

ついに,1934年9月10日に出された布告により,ウィーンの連邦保安委員は,エホバの証人の用いていた法人団体,バハトゥルム・ゲゼルシャフト(ものみの塔協会)を解体させました。しかし,その後兄弟たちは訴えを行ない,その布告は,公安委員会の権限を持つ連邦首相局によって取り消されました。

しかし,とりわけ証人たちの業の撲滅に腐心していた役人たちは手を緩めませんでした。1935年6月17日と7月17日には,またもや布告が出されました。今回の布告は連邦保安長官によるもので,「ニューヨーク市ブルックリンのものみの塔聖書冊子協会の支部であるものみの塔協会」が解体されることになりました。兄弟たちは再びこの布告に対する訴えを試みましたが,この度は無駄に終わりました。

障害に面しても王国を第一にする

いまや兄弟たちは注意を働かせつつも,家から家の業を続行しました。そのように用心していても,兄弟たちはしばしば逮捕され,投獄もしくは罰金刑を言い渡されました。投獄は何週間にもわたる拘留を意味しましたが,兄弟たちは罰金を支払うよりも投獄されるほうを選びました。そこで証言を行なう機会があると考えたのです。

当時の不穏な状態と経済の変動が見られる中で,レオポルト・エングライトナーは全時間奉仕に入りました。1934年1月にレオポルトは自分に割り当てられた上部スティリアの区域に移りましたが,そこは当時までほとんど証言がなされていませんでした。

上部スティリアではすでに国家社会主義が強力な影響を及ぼしていました。そのため,幾つかの場所では戒厳令が敷かれていました。シュラトミングはその一つで,ナチ介入の結果として市民軍に占拠されていました。事態の深刻さを考慮して,エングライトナー兄弟は,人目を引かないように少量の文書だけを上着のポケットに忍ばせて持ち歩きました。最初は町のごくはずれで奉仕をして,兄弟は自分が信頼を置けると感じた人にだけ文書を提供しました。

ある日,エングライトナー兄弟は捕らえられ,当時高まっていた政治気運のゆえに武器を所持していないかどうか,警察署で尋問されました。持っています,と兄弟は答えると,自分のポケットに手を入れて1冊の聖書を取り出し,それを警官たちの前でテーブルの上に置きました。(エフェソス 6:17)警官たちはひとしきり笑った後,兄弟を去らせました。

しかし僧職者たちは,エホバのこの僕のことで気が立っていました。兄弟が大きな村で宣べ伝える業を始めるたびに僧職者たちは,警察隊をはじめとする村人の全員にそのことを知らせるように手配しました。エングライトナー兄弟は立て続けに逮捕され,その度にすぐさま投獄を言い渡されました。最初は一度に48時間ほどしか投獄されませんでしたが,徐々に刑は長くなってゆきました。とうとう兄弟は,別の場所に移って活動することを余儀なくされました。

新しい区域に移った兄弟は,山あいの僻村で,人家を一つも見逃さないように注意深くしました。家にだれもいない場合でも,兄弟は家の人が読む物を何か残してきました。あるとき,雇われ農夫が農場から最初に帰宅しました。農夫はパンフレットが置いてあるのに気づき,注意深くそれを読んでから,文書をさらに注文し,その後忠実な兄弟となりました。その後32年たってから,この農夫は地域大会でエングライトナー兄弟とばったり出会ったのです。

なぜ彼らはそこにいたか

リートリングスドルフの村で起きた出来事は,当時の緊迫した状況を如実に物語っています。その村では葬式が予定されていて,ウィーンのロノフスキー兄弟が話を行なうことになっていました。当時,葬式は大勢の人々に証言を行なえる唯一の機会でした。ところが,ロノフスキー兄弟は墓地に着くと,ただならぬ様子を目にして驚きました。そこには,警察隊と市民軍の男たち50人ばかりが待ち構えていたのです。男たちは金属製ヘルメットをかぶり,ライフル銃を脇に抱えて,今にも襲って来る雰囲気でした。その場には,地元の司祭を含め全部で100人ほどの人がいました。ロノフスキー兄弟はできる限り最善を尽くして,エホバ神とそのみ子,それに復活の希望について証言を行ないました。それにしても,それら武装した男たちはなぜそこにいたのでしょうか。

その後しばらくしてロノフスキー兄弟は,神経のすり減るような出会いをしたそのわけがはっきりと分かりました。その村の兄弟たちからあとで聞いた話によると,地元の司祭は,エホバの証人が政府の転覆を謀る共産主義者だといううわさを広めていたため,兄弟が聖書から行なった説明を聞いて警察隊と市民軍の男たちは驚いていたということです。

集会に対する制限

1935年以降,集会はもはや公に開くことができなくなりました。「ものみの塔」研究を行なうことは,個人の家でさえ一切禁じられていました。当局はその言い分として,公共の安全が脅かされたと述べることもあれば,別の時には,カトリックの住民たちがそのような集まりに腹を立てているのだとも言いました。しかし,神の言葉は,『集まり合うことをやめてはならない』と命じていました。―ヘブライ 10:25

兄弟たちは引き続き集まりました。といっても,それは個人の家のみで,しかも8人から10人ほどの小さなグループでした。集会場所は絶えず変更されたので,兄弟たちが不当な注意を引くことはありませんでした。集会で兄弟たちは「ものみの塔」誌や,「神の立琴」,「創造」,「預言」,「政府」,「光」といった他の出版物を活用して,聖書の討議を行ないました。さらに,聖書講演を録音したレコードが手元にある場合は,それらのレコードも聞きました。政府の禁令にもかかわらず,神の民はその数を着実に増し加えていました。

かなりの努力が求められる場合でも,兄弟たちは仲間の信者と定期的に交わるように心がけました。ウィーンは,チェコスロバキアの都市ブラティスラバ,つまりプレスブルクからそれほど遠くなかったので,兄弟たちは「ものみの塔」研究を開くために,隔週の週末にバスを借り,ウィーンからブラティスラバによく出かけました。1935年6月9日に,オーストリアの兄弟たちはユーゴスラビアのマリボルで開かれた地域大会に出席し,1936年には,スイスのルツェルンで開かれた大会に行きました。しかし,オーストリアの国内では,緊張はなおも高まっていました。

予期された迫害に備える

ドイツから届く報告は,同国の兄弟たちが耐え忍んでいる事柄をおぼろげながらも伝えるものとなり,それを聞いたオーストリアの伝道者たちは身震いをしました。オーストリアの兄弟たちは,そのような痛みと苦しみに耐えるための必要な力をエホバに祈り求め,必要であれば,忠実のうちに留まれるようにとも祈りました。しかし,事態はまだそれほど極端に深刻なところまで進んでいませんでした。

1937年の夏,チェコスロバキアのプラハで開かれることになっていた大会に,できる人はすべて出席するよう励まされました。ウィーンからプラハまでの旅行を申し込んだ人々を運ぶため,3台のバスが必要とされました。それはまる1日かかる旅行でした。といっても,すべての人にバスで行くだけの経済的余裕があったわけではありません。エングライトナー兄弟と,バート・イシュルから来た他の5人は,いろいろな事情もあって,360㌔以上におよぶその旅を自転車で行なったのです。

その大会に出席した人々は皆,自由に楽しめる大きな集まりはきっとこれが最後になるだろうと感じました。行なわれた各話の論題は,前途の危機的な時代に兄弟たちを備えさせるという目的に十分かなうものとなりました。その大会中,兄弟たちは厳しい試練の時期に急速に近づいているという点が繰り返し指摘されました。兄弟たちは迫害下での振る舞いに関する特別の教訓を与えられることによって力づけられました。家宅捜査を受けた場合に他の人々への危害が及ばないようにするため,仲間の証人たちの氏名を記した名簿は一切置かないようにとの注意も受けました。(マタイ 10:16)ドイツの兄弟たちが示している確固とした忍耐が,見倣うべき立派な模範として強調されました。大会出席者たちは,何が起ころうとも,エホバに対する全き信頼を抱いて忠実かつ従順に忍耐するように励まされました。―箴言 3:5,6

こうしてその大会は終わりを迎えました。兄弟たちは悲しみに満ちた気持ちで,「再び会う日まで,神汝と共にあれ」という歌をうたい,それから兄弟たちと,寛大なプラハの都市に別れのあいさつを告げました。この大会に出席するよう励まされた理由を兄弟たちはいまや理解していたので,別れの際に多くの人が涙を流しました。

ドイツ軍が国境を越える

事態はすべて,ドイツ軍がまもなくオーストリアに進軍して来ることを予想させるものばかりでした。中には,オーストリアがドイツと併合されて景気が一気に好転することを心待ちにする人もいました。しかしヒトラーの思想に共鳴しなかった人々は,報復を恐れました。兄弟たちに関して言えば,エホバに対する自分たちの忠誠が必ず試みられるようになることを覚悟していました。まさに懸念されていたとおり,ヒトラーの軍隊は行動を起こし,オーストリアの国境を越えました。それは,1938年3月12日のことでした。

これより1週間ほど前,起ころうとしていた事態を予測して,ウィーンにある協会の建物は売却され,責任者の兄弟は妻と共にオーストリアを離れてスイスに向かいました。このことを知ったオーストリアの兄弟たちは,『これは一体どういうことだろう』,『どのようにして業は継続されるのだろうか』,『どこから自分たちは霊的食物を得られるのだろうか』と思案に暮れました。

協会の事務所で働いていたアウグスト・クラーフト兄弟(クラーフツィヒとしても知られる)も,オーストリアを離れるかどうか選択の機会を与えられました。しかし兄弟は,「私は羊と共に留まりたいと思います」とはっきり述べました。兄弟は羊たちを愛をもって励まし,強め,世話しました。神を恐れ,自分たちを優しく世話してくれた牧者であるこの兄弟に,オーストリアの兄弟たちはどれほど感謝したことでしょう。自分の名前がすでにドイツのゲシュタポの指名手配者リストに載っていたにもかかわらず,兄弟はそのようにしたのです。兄弟は引き続き各地を回って,クラーゲンフルトにあるインスブルックの兄弟たちや国内の他の場所を訪れました。兄弟は細心の注意を払いつつ,夜遅くに兄弟たちの家を訪問し,翌日の朝早くに再び出発しました。

新政権が要求した事柄

4月10日は,緊張に包まれた一日となりました。オーストリアの国民は,オーストリアとドイツとの併合に同意するかどうかを投票で示すことになっていました。しかし,実際のところ,結果はずっと以前から決まっていました。だれの目にも見過ごされることがないように,「あなたの一票をヒトラーに」という,民衆に威圧的に訴えるポスターがいたる所に貼ってありました。

兄弟たちはどうしたでしょうか。自分たちがどのように行動しようとも,選挙委員会は投票者の一人一人が下した決定を探り出せることを兄弟たちは知っていました。ウィーンのヨハン・フィーレクルは選挙の当日,朝早くから森に出かけて,あたりが暗闇に覆われる夜の遅くになるまで家に戻りませんでした。のちほど近所の人たちがヨハンに語ったところによれば,投票委員会の役員たちはヨハンの家に5回もやって来ました。事前に申し合わせたわけではありませんが,他の兄弟たちも中立を保つためにヨハンと全く同様の行動を取っていました。兄弟たちにとって今や明らかになった一つの事柄は,新しい支配者たちの視線が自分たちに向けられているということでした。

新政権に対する自分たちの結束を表明するために,人々は自分の家の窓に,かぎ十字を描いた旗を飾るように要求されました。クニッテルフェルトの小さな町では,通りに面するアパートにアルテンブフナー姉妹が住んでいました。政府の地元代表者たちは再三にわたって姉妹のもとを訪れ,姉妹の家の窓にかぎ十字旗を掲げるようにと要求しました。もし姉妹がそうするのを断わるなら,姉妹は周辺の住民すべての恨みを買うことになるので覚悟するように,とも述べました。姉妹は結束した敵の矢面に立たされたかのようでした。良心上の理由ゆえに,姉妹は旗を掲げない決意をしました。どのような結果になったでしょうか。姉妹は法廷命令により,通りに面している自分のアパートを引き払って,そのアパートの後ろにある家に住むよう割り当てられましたが,そこでは旗を掲げることを要求されなかったのです。これは姉妹が全く予想もしていなかった解決策でした。

必要とされた食物の供給

ヒトラーがオーストリアを侵略した後,兄弟たちはウィーンでしばらくの間,目立たないようにして小さな集会をどうにか開いていました。ウィーンの各地区にある研究の群れを霊的に世話する責任は,一人の兄弟が担当していました。

当初,クラーフト兄弟はフォアアールベルクに行き,スイスの兄弟たちが国境を越えてこっそりと持ち込んだ「ものみの塔」誌を何部か持ち帰りました。ウィーンに戻る途中で兄弟は,インスブルックで中休みをしてデフナーおよびゼッツ両兄弟と連絡を取り,二人はチロル地方に雑誌を持ち帰りました。ゼッツ兄弟はその貴重な資料を,自宅の裏に積み上げた薪の下に保管しておきました。このように言うと,万事が極めて容易に運んだように聞こえますが,忘れないでいただきたいのは,ゲシュタポやその通報者はいたる所にいたということです。

勇敢な姉妹たちが肝要な必要を満たす

クラーフト兄弟は,自分が逮捕されたあとも兄弟たちの霊的食物が引き続き供給されるよう,すぐさま取り決めを設けました。勇敢な姉妹たちは,霊的な食物を供給する業を手伝うために喜んで自分を差し出しました。その一人に,ウィーンのテレーゼ・シュライバーがいました。クラーフト兄弟はテレーゼ姉妹に,簡単な機械を用いて「ものみの塔」誌を謄写版で刷る方法を教えました。

地下活動のためにテレーゼの時間はかなり奪われましたが,彼女は世俗のパートタイムの仕事を見つけて,自分と母親を経済的に顧みることができました。彼女は用心深くあるように努めました。すでに相当数の兄弟たちが逮捕されていたのです。またテレーゼの母親は重い心臓の病気を患っていたので,もし自分の娘が逮捕されたなら,どのようにして生活するのでしょうか。テレーゼは母親を慰め,エホバはきっとお母さんを窮地に置き去りにしたりはされないと述べて,母親を安心させました。

同様に他の勇敢な姉妹たちも,何であれ必要とされている方法でエホバの関心事に仕えるつもりでいました。ベルス出身のシュタットエッガー姉妹は,西部に出かけて,研究資料をチロル地方の兄弟たちに届ける仕事を進んで引き受けました。姉妹はこの仕事を続けているうちに,ゲシュタポに捕まってしまいました。何の法的手順も踏まれないまま,姉妹はラベンスブリュックの強制収容所に送られたのです。姉妹は二度と戻って来ませんでした。その後しばらくして,今度は姉妹の夫が投獄されました。

サタンは勝利を収めていたか

その後再び兄弟たちを強めるために訪問を行なっていたクラーフト兄弟は,1939年5月に,ウィーンのこぢんまりとした自宅でほんの短期間過ごした後に,ゲシュタポの情け容赦ない攻撃に遭いました。兄弟は5月25日に逮捕されました。マウトハウゼン強制収容所の焼却炉の蓋が開かれ,兄弟はその中で処刑されました。兄弟の死を知らされた時,兄弟たちの心は深い悲しみに包まれました。エホバと仲間の兄弟たちに対する際立った愛ゆえに,クラーフト兄弟は親愛の念と共に記憶されています。

サタンとその手下たちは,これら神の僕たちを捕らえて投獄し,死に渡すことさえして,本当に勝利を収めていたでしょうか。全くその反対です! ヨブの場合に示されたように,サタンの主張は,人は自分にとって物事がすべて順調に運んでいるように見えるときだけエホバに仕えるというものです。ですから,苦難のもとで忠実を実証した証人たちは一人残らず,悪魔は大うそつきで,エホバがまことの神であるという疑いようのない証拠をさらに増し加えたことになり,このエホバを彼らは心を込めて愛したのです。エホバはそのような忠節な者たちすべてに豊かに報いてくださることでしょう。―ヨブ 1:6-12; 2:1-5。ヤコブ 5:11

2種類の食物袋

宣べ伝える業に関する責任を当時託されていた兄弟は,協会の事務所で働くことはせずに,小さな八百屋を営んで自分と妻の必要を顧みました。この兄弟はペーター・ゲレスといいました。兄弟の言葉を借りれば,「組織的な指示は何もなかった」のですが,それら厳しい状況のもとでも可能な限り神の民の活動を続行させるようにと兄弟は依頼されました。

クラーフト兄弟はもはや兄弟たちのもとにいなかったので,ゲレス兄弟が聖書の研究資料の写しを作って国内の各地に届ける業を監督しました。兄弟は冷たい地下室で夜間にこっそりと働き,日中は自分の店に姿を見せました。郵便を利用するのは安全ではなかったので,文書は使いの人が運びました。入って来る寄付だけでは旅費を十分に賄えなかったため,ゲレス兄弟は自分自身のお金を使いました。大抵の客は自分が買った野菜や他の食料品を紙袋に入れて持ち帰ったので,ある特定の人が兄弟の店からやや中身の異なる紙袋を持ち帰っても,人目を引くことはありませんでした。使いの人やウィーンの兄弟たちは,時々このような方法でゲレス兄弟から霊的食物を手に入れたのです。

責任を担う兄弟に対する援助

1938年以降,スイスおよびオランダと接触を保ちながら,国内に少なくとも数冊の「ものみの塔」誌を持ち込むことはますます困難になりました。逮捕のために多くの連絡は途切れてしまったうえ,列車による旅をして外国から霊的な食物を得るには時に1週間以上を要しました。ゲレス兄弟はチェコスロバキアのプレスブルクを通して霊的な供給を受けられるように努力し,カットナー姉妹がそこから研究資料を持ち帰りました。しかしこの経路もやはり,ほどなくして断たれました。

そのころ,エルンスト・ボヤノーウスキ兄弟が登場しました。兄弟はドイツから来ましたが,すでにオーストリアの兄弟たちと連絡を取っていました。ボヤノーウスキはゲレス兄弟のために進んで働き,シュライバー姉妹と協力して研究資料を謄写版で印刷しました。ボヤノーウスキは,よく率先して働く勇敢な人物という印象を他の人に与えました。彼は文書を届ける旅にも出かけました。また三度にわたって,新しい兄弟姉妹たちにバプテスマを施すことさえしました。

別の助けとなったのは謄写版印刷機で,ウィーンのある庭師の家の地下室に設置されていました。その印刷機は使用の都度,隠してある場所から運び出さねばならなかったので,それを使用するのは大仕事でした。それでも,行なわれている事柄に気づいた人は一人もいませんでした。というのも,その家の持ち主は外国に住んでいたので,わたしたちの兄弟の一人であるその庭師だけが残って,その家を管理していたのです。

イタリアとの国境に近い西方では,他の兄弟たちが援助を行なっていました。ゲルミ姉妹は,ナルシソ・リートがイタリアの国境を越えて持ち込んだ,「ものみの塔」誌の記事のスライド写真を引き伸ばしました。それから姉妹は,謄写版印刷用の原紙をタイプで打ち,刷り上がった雑誌はある山の高い場所に運ばれました。そこから分配作業がなされたのです。インスブルックから来たタンメルル姉妹と,シュバーツから来たエントアハー姉妹たち(母と娘)が,研究資料を仲間の信者に分配する仕事にあずかりました。それら姉妹たちは,捕まった場合に自分たちの身に生じ得る事柄を理解していましたが,必要とあらばそれに立ち向かう覚悟をしていました。

敵の掌中に陥る

特に1939年の9月から10月にかけて,突如,新たな逮捕の波が押し寄せました。証人たちの間に広まった話では,一人の兄弟が仲間たちの氏名を当局に明かしたということでした。現在ゲシュタポに関する記録は閲覧することができるので,読者はご自分の目でそれら資料の詳細をはっきりと読むことができます。ゲシュタポがウィーンに関して記した1939年11月2日付の報告には,こう記されています。

「1939年10月31日の日誌で言及されていた人物クーデルナが述べたところでは,IBV[国際聖書研究者協会]の不法な活動はごく最近までなされていたようだ。クーデルナはさらに,ウィーン管区のほぼ全体にいる,IBVの指導的立場にある兄弟たちの氏名を明らかにした」。

ヨハン・クーデルナは1924年以来仲間の兄弟となっていました。詳しい理由はこれ以上何も分かりませんが,ヨハンは意図せずして敵に利用されたようです。

さらに大きな打撃となったのは,雑誌の配送に際して姉妹たちの用いていた暗号が当局の手に渡ったことです。こうして当局は,“‘レージー’20部”という表現が意味するところを容易に理解するようになりました。シュライバー姉妹の名前はテレーゼだったので,彼女は略してレージーと呼ばれたのです。シュライバー姉妹は捕らえられ,何の法手順も取られないまま,ラベンスブリュック強制収容所に入れられました。姉妹の母親はどうなったでしょうか。母親はその2か月前に亡くなっていました。

法廷で勇敢に証言を行なう

しばらくたった後,シュライバー姉妹は強制収容所からウィーンに連行されました。当局は姉妹をどうするつもりだったのでしょうか。やがて姉妹はその理由を知りました。ウィーンの地方法廷で訴訟手続きが取られている間,姉妹はヒトラーの名前を記した「ものみの塔」誌が机の上に何部もあるのを目にしました。それらの雑誌は地下で生産されたものでした。シュライバー姉妹は,雑誌の印刷と分配の双方に自分がかかわっていたことをゲシュタポは知っているのだと結論しました。

「これらの印刷物はあなたが作ったのですか」と,裁判官は強い語調で姉妹に尋ねました。姉妹はすでに逮捕される以前から,エホバのために良い証言が行なえるよう,言うべきことを自分に教えてください,とエホバに祈っていました。「はい,私が作りました」と,姉妹は力強く答えて,その責任を負いました。

シュライバー姉妹は見た感じが好ましく,極めて礼儀正しい人でした。裁判官はそのことに感銘を受けたようで,姉妹を無罪にしたいと考えました。しかしゲシュタポは姉妹をそのまま監禁して,強制収容所に送り返しました。姉妹は5年半におよぶ拘留を忍ばねばなりませんでしたが,後日,強制労働収容所へ輸送される途中で救出されました。

文書を謄写版で印刷する

当時は,忠節な同労者たちが次々と捕らえられ,ゲレス兄弟にとっては困難な時期でした。兄弟は霊的な食物を引き続き分配するために最善を尽くすよう努力しました。しかしだれが兄弟を手伝うのでしょうか。兄弟は数か月前に一人の姉妹が自分に近づいて来て,「ゲレス兄弟,主の業のために何かをさせていただきたいのですが」と述べたのを思い出しました。それはハンジ・フローン(現在のブフナー)で,彼女は1931年にバプテスマを受けていました。姉妹は外国で何年かを過ごしました。そしていま,危機的な時期にオーストリアに戻ったのです。姉妹は心から進んで,困難な使いの仕事を引き受けました。

ルートビヒ・ツィラネークも同じく援助を申し出ました。彼はドイツですでに2年の刑期を終えていましたが,釈放されるとすぐに地下活動を再開し,ウィーンの兄弟たちのために自分の経験を活用しました。ツィラネークは,「ものみの塔」誌の印刷という危険の伴う仕事に携わりました。

しかし,謄写版印刷機の隠し場所は見破られなかったのでしょうか。定かな答えは分かりませんが,兄弟たちは最初に印刷機をある場所に移動し,その後また別の所へ移したようです。ツィラネーク兄弟が原紙に書き込む間,プラハ出身のヨーゼフ・シェーン兄弟とウィーン出身のアンナ・フォル姉妹がツィラネーク兄弟のために原稿を口述し,エルンスト・ボヤノーウスキともう一人の兄弟が一緒に謄写版で印刷を行ないました。また,異なる場所からでしたが,ハンジ・フローンはそれら印刷物を取りに来て,兄弟たちに配達しました。

再び謄写版印刷機の移動が必要となり,シェーン兄弟は公園にある休憩所にその隠し場所を見つけました。兄弟ともう一人の兄弟はその場所で印刷を行なったのです。その神権的な用事を済ませると,シェーン兄弟は研究資料を兄弟たちに配達しました。ある日,配達先で兄弟は,ちょっと休んで話でもしてゆくようにと言われました。これは誤算でした。兄弟はそのあとすぐに逮捕されたのです。

フローン姉妹はこの残念な経験から教訓を得ました。姉妹は配達を手早く行なっては,また次の所へと向かいました。およそ6か月後に,姉妹もやはり逮捕されました。それでも姉妹は,『主のために何かを行なう』という自分の熱烈な願いを果たすことができたのです。

時たつうちに,兄弟たちはますます上手に文書と群れの研究場所を隠せるようになりました。このようなわけで,警察が不意に家宅捜索を行なっても,文書は何も見いだせませんでした。また,集会を開くために一部の地域の兄弟たちは,山や森に出かけて研究を行ないました。トウモロコシがほどよい高さにまで成長している場合は,トウモロコシの茎が生え並ぶ畑のまん中に少人数で集まったので,その姿は道路から見えませんでした。それに,「ものみの塔」誌の研究記事も実にふさわしいものでした。それらの記事には,「忠実な国民」,「真理のうちに耐え忍ぶ」といった記事が含まれていたのです。それは正しく,『時宜にかなった食物』でした。―マタイ 24:45

敵は謄写版印刷機を捜す

当局の役人たちは新たな一撃を用意していました。役人たちはできるだけ多くのエホバの証人を捕らえたいと考えていましたが,同時に,「ものみの塔」誌の複製に使用されていた複写装置を血眼になって捜していました。

閲覧が可能になっているゲシュタポの記録文書には,1940年6月8日に発令された布告が含まれており,そこにはこう記されています。「1940年6月12日にベルリンのRSHA[ドイツ国家の中央保安局]が下した命により,IBVのメンバー全員はもとより,この運動のために働く者たちすべてと聖書研究者として知られる者たちは皆,拘禁に処されねばならない。……拘留されるべき者たちの中には女たちも含まれる。……国家警察はこの処置をドイツ国家の全土で実施し,処刑は1940年6月12日に突発的になされるべきである。逮捕を行なうと同時に家宅捜索をして,聖書研究者の運動に用いられるいかなる物件をも差し押さえねばならない」。

あまりにも急にこの敵襲はなされたため,その状況を細部にいたるまで再現することはできませんが,一斉に逮捕された44名の兄弟姉妹たちの中に,兄弟たちの使いとして働いたハンジ・フローンがいたことは確かです。

しかし,証拠からすると,敵は人々以上のものを手に入れようと必死になっていたようです。このことは,ウィーンの一法廷で下された1941年1月28日付の判決にも明らかに示されています。そこにはこう書かれています。「入念な捜索がなされた後にやっと,印刷物の生産された場所を見つけることができた。シャフトが発見されて,複写器と共に,タイプライターその他の物品が見つかり,押収された」。エホバの民の敵たちのさも満足げな様子が,これらの文面には読み取れます。

彼は妥協したのか

後日,フローン姉妹が取り調べを受けていた時,官憲は突然尋問を中断して,部屋を出て行きました。官憲がいない間,フローン姉妹はある調書,すなわち記録に目が留まりました。それはエルンスト・ボヤノーウスキの取り調べに関するものでしたが,姉妹はそれを読んで,ショックを受けました。そこには非常に多くの兄弟たちの氏名と,ほかにもボヤノーウスキが当局に協力したとしか思えない詳しい情報がおびただしく記されていたのです。

官憲は故意にそれらの書類をそこに残しておき,姉妹の意気をくじいて,姉妹からさらに多くの情報を聞き出そうとしたのでしょうか。ボヤノーウスキの取り調べに関する調書は戦時中も保存されました。同調書には,1938年から1940年1月までのオーストリアにおける,エホバの証人の業の歴史とも言える内容が記されていました。兄弟たちの間で,「我々は裏切られた」という言葉が広まったのも不思議ではありません。

ある特定の,霊的な意味での地下活動にたずさわるため,ボヤノーウスキは1939年12月にドイツへ行かねばなりませんでした。彼はアンナ・フォルと共に,ドレスデンで捕らえられました。ナチ政権の公式機関紙「フェルキシャー・ベオバハター」に1941年3月21日付で掲載された一記事は,そのときの様子をさらによく伝えています。そこには,こう記されています。

「ドレスデン,3月20日。ドレスデンの特別法廷は……ルートビヒ・ツィラネークに……死刑を宣告した……理由は,軍隊の士気をくじき,同時に,兵役に反対する団体に参加し,真摯な聖書研究者国際協会に対する禁止令に背いたためである……ベルリンのエルンスト・ボヤノーウスキは同様の罪状により,さらに刑を宣告され,12年の禁固刑と10年の名誉剥奪に付された」。

上に言及されたルートビヒ・ツィラネークは,すでに2年の刑期を終えた後,さらに地下活動を行なうため恐れることなく自分を差し出した忠実な兄弟でした。ボヤノーウスキはどうだったでしょうか。残忍な殴打に遭っていたのでしょうか。自分の身の安全を気遣うあまり,兄弟たちに関する情報を漏らしたのでしょうか。例の調書は事実を一部歪曲したものでしたか。わたしたちには分かりませんが,ドイツの兄弟たちによれば,ボヤノーウスキは短期間だけ刑務所にいました。

年若くても,忠節

ナチ時代に保存された公文書は,すべての事柄を明らかにしてはいません。とはいえそれらの文書を調べると,エホバへの破れることのない忠誠を示した人々は確かに多くいたことが分かります。アウグステ・ヒルシュマン(現在のベンダー)は,両親も真理にいましたが,17歳の少女の時にゲシュタポの取り調べを受けました。彼女の確固とした態度は,以下に記す1941年10月の報告の中にはっきりと読み取れます。

「彼女は両親によってIBVの教理を教え込まれ,今日にいたるまで,エホバの証人であると公言している。この者は両親と共に聖書を繰り返し研究し,本人が自ら認めるとおり,『自分の信仰と忠節をそのようにして強め』,IBVが標榜する教理を固守できるほどに強くなったのである……ヒルシュマンは同様の信念を抱く者たちに関するいかなる情報も提供することを拒んでいる。矯正不能としか言いようがない」。

エリザベート・ホレックは,か弱く,病気がちな18歳の少女でしたが,やはり確固とした態度を取り,真理の側に立場を定めました。1941年12月17日付の調書の中で,官憲は,こう述べざるを得ませんでした。「エリザベート・ホレックはいまもなおIBVの考えに固執し,同志たちと集まり合ったことを認めている。しかし彼女は,他の聖書研究者たちに関する情報の提供を一切拒み,そのような行為は裏切りであり,『組織』の中では行なわれていない事柄であると断言している」。彼女は母親と共にラベンスブリュック強制収容所に連れて行かれ,そこで亡くなりました。

しかしここで,ヒトラーの軍隊がオーストリアを侵略した翌年に当たる1939年に戻ってみましょう。

記念式の晩に行なわれた逮捕

1939年4月4日の記念式は,多くの兄弟たちにとって厳しい試練の一日となりました。兄弟たちは各自の準備を行なって,話の主要な点をもう一度復習し,それから表象物を用意しました。しかし,ほかにも準備を進めている者たちがいたのです。

バート・イシュルでは,記念式を祝うためにフランツ・ロートハウアーのアパートに5人が集まりました。彼らは,エホバの目的を成し遂げる面でイエス・キリストの死が持つ意義を思い起こすために集まっていました。イエスは厳しい試練を経験して死にいたりましたが,破れることのない忠誠を実証されたことを彼らは知っていました。

エングライトナー兄弟は少人数の人々に話を行なうためによい準備をしましたが,原稿は何も持っていませんでした。とはいえ,兄弟が話をし始めた矢先に,窓を乱暴にたたく音がして,話はさえぎられてしまいました。家の人がドアを開けると,5人の男が兄弟たちのいた部屋になだれ込んで来ました。それら侵入者たちのうち二人は,恐ろしいゲシュタポのメンバーで,3人はSS隊員(ナチ党の親衛隊)でした。兄弟たちは手を挙げて,取り調べが済むまでその場にじっとしているように命令されました。男たちは部屋中の物を一つ残らずひっくり返しましたが,ものみの塔の文書は何も見つからなかったので,ひどく腹を立てました。

彼らが行なった提案は,兄弟たちが自らのことを,総統(アドルフ・ヒトラー)の命令に喜んで服する宗派の成員と認め,エホバの証人とつながりを持つことを一切望んでいないと言明することでした。もちろん,そうしようとした兄弟はだれもいませんでした。結果として,兄弟たちは全員逮捕されました。ただ一人エングライトナー兄弟が帰宅を許されましたが,兄弟は後に捕らえられました。ほかの兄弟たちは,州都リンツにある刑務所へすぐさま連行されました。その刑務所で兄弟たちは,その晩に逮捕されていた他の多くの証人と一緒になりました。その後ほどなくして,兄弟たちはダハウ強制収容所に移送され,姉妹たちのほうはラベンスブリュックに送られました。

アロイス・モーザーとヨーゼフ・ブフナー,そしてブラウナウとその周辺にいた他の兄弟たちも,その晩に同様の経験をしました。彼らも記念式を祝っていた最中に逮捕されたのです。ブフナー兄弟は,兄弟たちがダハウに到着したときに収容所司令官のグリュネワルトが行なった話を何年かたった後でもまだ覚えていました。グリュネワルトは,こう述べました。「さて,聖書研究者の諸君,諸君はダハウの“生ける在庫品”となるのである。そして,紛れもない当収容所のこの場所で,諸君は腐ることになる。諸君がここから出ることはない。煙突を通って出るのだ」。グリュネワルトは,兄弟たちの遺体が焼却炉で焼かれるという意味で,そう述べたのです。

そうです,兄弟たちは,自分たちが集まってその死を記念した方がそうであったように,真の崇拝の敵対者たちによる死に立ち向かうよう求められていたのです。兄弟たちは強制収容所での6年間におよぶ苦難の数々に耐えた後,ついに解放されました。

クリスチャンの中立の立場

ずっと昔,預言者イザヤは次のように記していました。「末の日に,……多くの民は必ず行って,こう言う。『来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう』。……そして,神は諸国民の中で必ず裁きを行ない,多くの民に関して事を正される。そして,彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」。(イザヤ 2:2-4)これとは対照的に,ナチ政権は強健な男子すべてに軍事教練を受けるよう要求しました。オーストリアのエホバの証人はどうしたでしょうか。

ナチスがオーストリアを侵略してからほどなくして,ある政令が布告され,第一次世界大戦中に兵役についた者はすべて,三日間の野外演習に参加することを求められました。そのため,ヨハン・ライナーは,インスブルックにある軍隊の兵舎に出頭するようにとの通知を受けました。

何という光景でしょう! 800人ほどの男子が,兵役の誓いをするために不動の姿勢を取っていました。その全員の前で,ライナー兄弟は兵役を拒んだのです。即刻,兄弟はある部屋に連れて行かれ,取り調べを受けました。その部屋を出る際,兄弟は一人の従軍牧師を見かけました。クロッツという名のその牧師は,軍服を身に着けて,首から大きな十字架をぶらさげ,胸には第一次世界大戦中に贈られた多くの勲章を飾っていました。その司祭は「ヒトラー万歳!」と唱えてから,官憲に近づき,ライナー兄弟について自分の意見を述べました。

その後しばらくして,ライナー兄弟はさらに尋問を受けるため数人の官憲の前へ再び連れて行かれました。官憲の一人は,司祭が自分たちに語った事柄は,ライナー兄弟が言った事柄とは食い違っていたと述べました。ライナー兄弟は,マタイ 23章をお読みになればそうした宗教指導者たちについてイエスが言われた事柄,つまり彼らは偽善者であるということが分かります,と答えました。別の官憲はためらうことなく,「この男の言うとおりだ!」と述べました。それでも,ライナー兄弟は監禁され,彼の裁判は地方法廷にゆだねられました。この時点で,ライナー兄弟が以前勤めていた卸し売り食料雑貨店の女所有者が警察署長と連絡を取り,ライナー兄弟のしていた仕事を行なえる人がほかにだれもいないと訴えました。それで,兄弟は自分の家族のもとに戻り,職場に復帰することを許されました。

少なからぬ裁判において,影響力のある,証人ではない親族や雇い主が兄弟たちのために仲裁に入りました。というのも多くの場合,それらの人々は兄弟たちの正直さと勤勉な働きを高く評価していたからです。それでも,すべてがそのように順調だったわけではありません。

ナチの高官たちが払った無駄な努力

ヒトラーの軍隊がオーストリアに進軍してから約1年がたちましたが,フーベルト・マティシェクは依然あきらめることなく宣べ伝える業を続けていました。しかし1939年の3月,1台の車が彼の家の近くで止まり,二人のゲシュタポの官憲が中から出て来ました。マティシェク兄弟は,その二人がだれを訪ねに来たのか推測する必要はありませんでした。兄弟は落ち着いており,冷静でした。

「不法文書がないかどうか家宅捜索をさせてもらう」と,ゲシュタポの一人は述べました。マティシェク兄弟は用心のために,すでに文書の大部分を分散させておき,残りの分も家の外の安全な場所に保管してありました。それで捜索は官憲たちにとって期待はずれのものとなりました。

「これからすぐ兵役につくよう召集されたら,お前はどうするつもりか」と,ゲシュタポの一人が尋ねました。

マティシェク兄弟はためらうことなく,「私は兵役の誓いを拒否しますし,戦争と関係のある他のいかなる事柄も行ないません」と答えました。

それを聞いて,もう一人の官憲は,「その結果がどうなるか,お前は知っているのか」と尋ねました。

兄弟は,「ずっと前から,十分に心得ております」と答えると,その場ですぐに逮捕されました。

何週間か後,マティシェク兄弟は他の兄弟たちと一緒に家畜運搬車に乗っていました。行き先は,ダハウ強制収容所です。マティシェク兄弟は合わせて三つの異なる強制収容所で忍耐強く過ごしましたが,その後,解放の扉は突然に開かれました。

兄弟たちがマウトハウゼン強制収容所に到着すると,悪名高い司令隊長シュパツェネッガーが兄弟たちを出迎えて,「ジプシーも聖書研究者もだれ一人,ここから生きて出ることはない」と言いました。確かにそこで多くの人が亡くなりました。

兄弟たちは,この殺人機関から逃れるための機会を何度も提供されました。例えば,兄弟たちがマウトハウゼン強制収容所にいたときのことですが,ある日の朝早く,フーベルト・マティシェク兄弟とその実の兄弟ビリは,収容所の門のところに出頭するようにと言われました。無理もないことですが,二人は緊張しながら門のところまで歩いて行きました。二人は収容所司令官ツィーライスのもとに連行されましたが,ツィーライスの周りには,党の上級指導者の一団と何人かの親衛隊員がいました。さらに,オーバーエーステライヒ州のガウライター(党管区指導者の階級名)であるアウグスト・アイグルーバーもいました。

ツィーライスは自ら話を行ない,二人の兄弟のほうを向いて,こう述べました。『ここにおいでの党管区指導者は,君たち兄弟二人をすぐにでも家に送り戻したいと考えておられる。君たちがすべきことは,エホバの証人用に特別に作成された一枚の書類に,ただ署名をすることだけだ。そうすれば,君たちは何年にもおよぶ苦しみを味わわずに済むだろう』。

短い沈黙があった後,高官たちは,兄弟たちが確固とした態度で,「私たちはエホバ神と自分たちの信念に不忠実になることを望んでおりません」と答えるのを聞いて,困惑した様子を見せました。

司令官のツィーライスは,その場にいた男たちに向かって,「だから言ったではありませんか」と述べました。彼らはエホバの証人が自分たちの態度を曲げないことについて,以前から話していたようです。

国民勤労奉仕の訓練

フランツ・ボールファールトは,(ドイツ)帝国の国民勤労奉仕に徴用されました。しかし,フランツは訓練所に到着すると,その制度のねらいが予備的な軍事訓練にもあることを悟りました。フランツは制服を着ること,および飾り留めが付いたベルトの着用を拒否しました。その後のある日,300人の若者と,下級ならびに上級の指導者約100人が点呼の庭に整列しました。そして,フランツ・ボールファールトは,ヒトラーへの挙手礼をしながら行進するように命じられ,同時にかぎ十字旗への敬意を表するようにとも言われました。そうする代わりにフランツは,古代バビロンでネブカドネザルの建てた像に身をかがめるよう命令された3人の若いヘブライ人が行なったことを思い起こしました。(ダニエル 3:1-30)それはフランツを大いに力づけるものとなり,フランツは彼らの忠実な模範に倣いました。

それからあまり日がたたないうちに,今度は,ベルリンから来た高官アルメンディンガー博士が直接,年若い兄弟たちの考えを変えさせようとしました。「君たちは自分たちが一体何のためにここにいるかを分かっていない」。アルメンディンガー博士は会話の中でそう指摘しました。

「いいえ,私は分かっています」,と20歳のある兄弟は答えて,さらにこう言いました。「私の父は,同様の理由でほんの数週間前に首をはねられました」。アルメンディンガー博士はそれであきらめてしまいました。最終的にフランツは,ドイツのロールバルト収容所で5年間服役するように言い渡されました。

クリスチャンとしての中立ゆえに処刑される

1939年9月のある日,山すその都市ザルツブルクの一帯で穏やかならぬうわさが広まりました。そのうわさを聞いた人々は,不安を募らせました。ヒトラーの支配から大きな益が得られると期待していた人々でさえそうでした。人々はどんなことを互いに耳打ちしていたのでしょうか。ザルツブルクの近くのグラネッグにある軍隊の敷地内で,二人の男性が銃殺されたらしいということでした。

当初うわさと思われた事柄は,厳然とした事実でした。その男性たち,つまりヨハン・ピヒラーとヨーゼフ・ベークシャイダーは,二人ともわたしたちの兄弟でしたが,軍務を拒否したために軍隊の派遣班によって処刑されました。しかしその処刑は,司令官たちが考えていたほど順調には進行しませんでした。二人の兄弟は自分たちに目隠しは不要であると言いましたが,とにかくそれはなされました。次いで命令が下されましたが,兵士たちは発砲を拒否しました。兵士たちは,もし従わないなら懲戒処分に付すという強い調子の警告を与えられ,再度命令を下されるにおよんで,ついにそれら無実の男性たちに向かって引き金を引きました。とはいえ,それ以上のことがあったのです。

ザルツブルクでの裁判の期間中,裁判官とその同僚は,それら被告人に自分たちの考えを変えさせようとしました。裁判官は,それらの男性が自分の妻の姿を見れば屈するのではないかと考えて,彼らの妻を法廷に呼び出しました。ところが逆に,夫人たちの一人は彼らに励ましの言葉をかけて,「あなた方の命は神のみ手のうちにあります」と述べました。この言葉を聞いた裁判官は深い感銘を受けたため,動揺のあまり,自分のこぶしで机を打ちたたいて,大声でこう述べました。「これらの人々は犯罪人でも反逆者でもない,いや,それどころか,その数が二,三人に限られない,幾百,幾千にもおよぶ信者たちの仲間なのだ」。それでも,法律によって死刑が要求されました。

処刑が行なわれる前日,独房にいたピヒラー兄弟とベークシャイダー兄弟に対する訪問が行なわれ,彼らに自分たちの考えを変えさせるための新たな試みがなされました。最後の望みは何かと尋ねられて,二人は聖書が欲しいと言いました。それは先ほどの裁判官の手で直接届けられました。裁判官は独房にいる二人を真夜中まで見守り,去って行く際に,「これらの男性はどちらも,自分たちの最後の時間を神と結ばれて過ごした。彼らはまさに聖人である」と述べました。

処刑がなされると,密葬用の二つの柩が送り出されました。およそ300人がその葬儀に参列しましたが,言うまでもなく,それは警察の厳重な監視下でなされました。歌をうたうことは禁じられ,祈りは,ゲシュタポの官憲が発した荒々しい言葉によって事実上中断されました。彼はその祈りが長すぎると考えたのです。ゲシュタポはさらに,エホバのみ名を用いることも禁じました。しかしそんなことにお構いなく一人の兄弟は,柩が地中に降ろされてゆく間,「エホバの王国でまたお会いしましょう!」と大きな声で言いました。

この処刑にまつわる出来事がザルツブルクで知れ渡ると,他の処刑はすべて,ドイツのベルリン・プレツェンゼーに場所を変えて行なわれました。

死の独房からなされた信仰の表明

ベルリン・プレツェンゼーの収容所から,36歳のフランツ・ライターは,1940年1月6日付で自分の母親に,次のような手紙を送りました。「私は強い確信のもとに,自分が正しい行動を取っていると信じています。ここにいると,まだ考えを変えることもできますが,それは神に対する不忠節となります。ここにいる私たちみんなは,神に対する忠実を保って,その誉れに寄与したいと願っています」。

彼が「私たちみんな」と言ったのは,彼の郷里の近くから来たさらに5人の兄弟がいたためで,彼らもフランツと同じく,ギロチンによる死を待つ身でした。フランツの手紙は,さらに続きます。

「私は,自分が[兵役の]誓いをするなら,死に値する罪を犯すことになるのを知っていました。それは私にとって悪事となり,復活の見込みを失うことになるのです。しかし私は,キリストが言われた,『だれでも自分の命を救おうとする者はそれを失うが,だれでもわたしのために自分の命を失う者は,必ずそれを受ける』という言葉に付き従いました。さて,親愛なるお母さん,それに私のすべての兄弟姉妹たち,今日,私は刑を宣告されました。そして,恐れないでほしいのですが,それは死の宣告で,私は明朝処刑されます。私は神によって力づけられていますが,それは過去に亡くなった真のクリスチャンすべてが常にそうであったのと同じです。『だれであれ神から生まれた者は罪をおかし得ない』と,使徒たちは記しています。同じことが私にも言えます。私はこのことを皆さんに実証しましたし,皆さんはそのことを認めてくださるでしょう。親愛なる人よ,どうか悲しまないでください。皆さんすべてが聖書をさらによく知るのは良いことです。皆さんが死にいたるまで堅く立つなら,わたしたちは復活によって再び会うことでしょう。……

「あなたのフランツより

「再びお会いするまで」。

同様の手紙を受け取った人々の中には,配偶者の人もいました。グラーツのエントシュトラッサー姉妹は,郵便配達夫から1939年12月15日付の一通の手紙を受け取った時,まだ年若い妻でした。以下の文面を彼女がどんな気持ちで読んだか,想像なさってください。

「親愛なるエルナへ,

「私が下した決定はまさに次のようなものです……どうか,泣かないでください。なぜなら,わたしたちは世に対しても,そしてみ使いや人間に対しても劇場の見せ物となったからです。(コリント第一 4:9)もう一度,あいさつと,心の中での口づけを送ります。

「あなたのダーティより。

「王国で再びお会いしましょう」。

りっぱな信仰の表明となったそのような手紙は,まだ自由を享受していた人々にとって,忠実を全うするよう励ますものとなりました。他方,手紙を受け取った人々は,自分にとって何らかの危険を意味するような場合でも,投獄されていた兄弟たちを励ますことに努めました。

例えば,フランツ・ツァイナーがベルリンで投獄されていた時に受け取った手紙の中には,「信仰のうちに強くあってください。イエス・キリストがわたしたちを助けてくださいますし,わたしたちの天の偉大な父……もそうです」という励ましの言葉が記されていました。当然のことながら,この手紙はすでに検閲官に読まれていました。フランツ・ツァイナーは1940年7月20日に処刑されました。では,この手紙をフランツに書いて信仰のうちに強くあるようにと励ましたウィルヘルム・ブラシェクはどうなったでしょうか。彼は発見されて,逮捕され,1941年8月11日に刑を宣告され,“軍隊の士気をくじいた”かどで,刑務所での4年間にわたる重労働を科されました。

自分の子供から引き離される

他の人々が直面した試練には,子供が関係していました。聖書に基づく,エホバの証人の信条を自分の子供に教えていたという理由で,リヒャルト・ハイデとヨハン・オプベーガーは,セントファイト/グラン地方裁判所長官の前に出頭するよう命じられました。

その後,ハイデ兄弟は,自分のもとから子供を引き離すことを命じる法廷判決を受けました。その判決理由は,次のようなものでした。「彼[息子ゲルハルト]を父親の世話にゆだねることは危険である。父親は聖書研究者であるため,ヒトラーへの敬礼をしたり国歌をうたったりすることを息子にさせないからである」。

ゲルハルトは他の人に面倒を見てもらうようになりましたが,父親は息子とたまにしか会うことを許されませんでした。後日,ゲルハルトと彼の学校の級友たち全員は,オストチロルのリーエンツにある児童収容所に送られ,彼は1945年に戦争が終結するまでそこにいました。それでも,ゲルハルトは両親から教えられた事柄を忘れませんでした。彼はこれまで開拓者として38年以上奉仕してきました。

若くても忠実

ところで,ヨハン・オプベーガーの娘はどうなったでしょうか。彼女ヘルミーネは両親から引き離されて感化院に入れられた時,わずかに11歳でした。しかし彼女の両親はいろいろな機会を十分に活用して,娘に真理を教え込むようにしました。

真理の反対者たちは,エホバに対するヘルミーネの忠節さを破ることができませんでした。愛国的な歌をうたうことや,「ヒトラー万歳!」という挙手礼を彼女に行なわせようと猛烈な努力が払われましたが,どれも効を奏しませんでした。彼女はいかなる妥協をも断固として退けました。ある日,一人の教官は,ドイツ婦人連盟の制服の上着を無理やり彼女に着せようとしました。しかし,それに手を貸した人々はいくら必死でその上着を彼女に着せようとしても,両肘から上はそでを通させることができなかったため,ついにあきらめてしまいました。

感化院の責任者たちは賛成しませんでしたが,両親は引き続き自分の娘を訪問することを許されました。当然のことながら,二人はそれらの機会を活用して,信仰のうちに堅く立つよう娘を励ますようにしました。ヘルミーネは兄のハンスが示した忠節さにも励まされました。彼女は,ハンスが投獄されたことや,彼が軍務を拒否したためにその後強制収容所に入れられたことを知っていました。そして,忠実のうちに耐え忍んでいることも知っていました。ところが,彼女の兄の一人は何と軍隊に入ったのです。感化院の主任たちは彼女の忠節さを打ち砕くために,そのことを話題に取り上げて抜け目なく利用しました。しかし彼らはヘルミーネの決意のほどを理解していませんでした。彼女はき然とした態度で,「わたしは兄に見倣う者ではなく,キリスト・イエスに見倣う者です」と答えました。

彼女が妥協しようとしなかったことと,役人たちが彼女の両親の訪問をやめさせたいと思っていたことが理由で,ヘルミーネはドイツのミュンヘンにある修道院に送られました。しかし,1944年の5月に彼女は数日間の帰宅を許されました。これは彼女の両親をたいそう驚かせました。とはいえ,当局はそのときに起きた事柄を知るよしもありませんでした。ヘルミーネは家にいる間にバプテスマを受けたのです。バプテスマの話を行なったのは,まだ自由の身で兄弟たちに仕えていたガンシュテル兄弟でした。これによってヘルミーネはますます強められ,最終的にナチ政権が崩壊するまで,残りの期間中もエホバに対する忠節さを保ちました。

スパイと密告者に用心せよ!

どの町や村でも相変わらず密告者たちがスパイ活動を行なっていたことに加えて,地区の担当者たちがスパイ活動を行ない,他の人々もゲシュタポのために働いていたため,兄弟たちが霊的な活動を行なうのはますます困難になりました。ある日,ヨハン・フィーレクルは,当時オーストリアにおける宣べ伝える業の監督の責任をゆだねられていたペーター・ゲレスを訪問したいと思いました。フィーレクル兄弟は直接ゲレス兄弟の店に行く代わりに,その隣の家に立ち寄って,真理に関心を持っていると思われる,ゲレス兄弟と顔見知りの女性実業家に情報を求めました。ペーター・ゲレスの様子や,彼が逮捕されたかどうかなどを兄弟は尋ねました。ところが,彼女は何も教えようとせず,代わりに,通りの向かいにある花屋へ行ってみるようにと言いました。そこに行けば,必要な情報が得られると言うのです。

それを聞いてフィーレクル兄弟はにわかに疑問を抱くようになり,花屋に行く代わりに家へ戻りました。その後まもなくして兄弟は,その花屋にはゲシュタポが待機していて,ゲレス兄弟に会おうとする者を一人残らず途中で取り押さえて逮捕していたことを知りました。ほどなくして,その店は閉じられ,ゲレス兄弟と彼の妻は1940年6月12日に刑務所に入れられました。

異例の裁判

ゲレス兄弟は,オーストリアにおけるエホバの証人の業を指導したかどで訴えられました。何か月か拘留された後,兄弟は,死刑を宣告することで悪名をはせ,聖書研究者のことをドイツ国民の膿瘍と怒りを込めて呼んでいた裁判官の前に引き出されました。検察官は死刑の判決を要求しました。ゲレス兄弟が訴状に対して聖書的な答えを述べ,彼の弁護人が話を行なった後,法廷は一時閉じられました。裁判が再開される前に,事態は驚くような進展を見ました。

朝早くゲレス兄弟は,独房の扉のかぎが開けられる音を耳にしました。刑務所の所長は一緒に付いて来るようにと兄弟を促し,ある監禁室に兄弟を連れて行きました。そこで兄弟を待っていたのはだれでしょうか。先ほどの裁判官が,ただ一人でいたのです。

「君に話したいことがあるのだが」と,その裁判官は切り出して,こう言葉を続けました。「被告と個人的に話すということは,職務に大いにもとる行為なのだが,あえてこうするわけは,裁判が始まって以来,私は全く気が休まらず,眠ることもできていないからだ。もし私が君に死刑を言い渡せば,私は自分のことを殺人者とみなすだろう」。

部屋には静寂が漂いました。結局ゲレス兄弟が口を開いて,こう述べました。「そのような状況を作り出している張本人は,サタンです。この者は実際の殺人者です。そして,あなたについて言えば,あなたは裁判の諸事実に基づいて刑を宣告する立場にある方です」。緊迫した雰囲気はこうして和らぎました。

「私は君が命を失うことのないような仕方で,訴訟を扱うことに努めよう」と,その裁判官は約束しました。それから裁判官は,自分に重大な結果をもたらしかねない事柄をさらに口にして,「実際のところ,私は国のために原告となることは望まないし,むしろ,君が窮地から脱するのを手助けしたいと思っている」と述べました。それから裁判官はゲレス兄弟の肩に手を置いて,もう一方の手で兄弟の手を握り締めました。

その後再開した裁判は,前よりも公平な仕方で進行しましたが,裁判官は終始おびえている様子でした。法廷は死刑の判決を求める検察の要求を受け入れず,代わりに,減刑を認めない,禁固10年の刑をペーター・ゲレスに言い渡しました。兄弟はニーダーエーステライヒ州のシュタインにある刑務所の独房で,その後の3年半を過ごしました。

謙遜な僕

政府当局は,エホバに全く献身していたこの謙虚な男性ペーター・ゲレスが,地下活動において非常に重要な役割を果たしたことに気づきました。ゲシュタポの記録中に保存された調書を見れば,そのことは明らかです。そこに記されている表現から想像されるのは,力強くて,たくましい指導者です。ところが,全くそのような人物ではなかったのです。彼は決して目立つことを望まない,慎み深い男性でした。1945年にナチ政権が崩壊すると,彼はオーストリアにおける組織の再建にあずかりましたが,その後は再び目立たない存在となりました。何年かの間は,ウィーンのベテルで,文書の包みを発送するための準備を手伝いました。親切で友好的な気質の持ち主であったゲレスは,終始彼を支えた根気強い妻ヘレーネと共に,迫害下のみならず戦後の時期においても,兄弟たちにとって励ましの源となりました。

ゲレスは1975年9月2日に亡くなるまで,忠実な奉仕を行ないました。彼はキリストの共同の相続人の残りの者であるとは公言しませんでしたが,それでも「忠実で思慮深い奴隷」に対する深い認識を表わし,非常に困難な時期にもこの奴隷と協力しながらオーストリアにおける業を顧みました。―マタイ 24:45

乏しい「食物」を扱う

戦争の最後の数年間,オーストリアのほとんどの場所でエホバの証人の業は事実上停止しました。さまざまな町や村の兄弟たちは,ごくたまにしか集まることができず,非常な注意深さが求められました。

それでも,クラーゲンフルトでは,神権的な活動が引き続き行なわれ,ほかのどの場所よりも恵まれているように思われました。ガンシュテル兄弟は自分が受け取った文書を,「ものみの塔」誌の各号を複写していたペーター・ファイフォーダに渡しました。あるとき,ガンシュテル兄弟は,プラッツァー家の人々とバンデラー姉妹を訪問するため,人目に付かないように「ものみの塔」誌を何号か体に隠し持って,クラーゲンフルトからクルムペンドルフまで(約7㌔)を歩きました。しかも,たまたま同じ方角に向かって歩いていたのはだれだったでしょうか。普段は兄弟に尋問を行なっていた,ゲシュタポのある官憲です。しかし,その官憲は何も怪しむことをせず,二人は一緒に歩きました。とはいえ,それはガンシュテル兄弟にとって確かに容易なことではありませんでした。

ウィーンでは,ゲレス兄弟が逮捕されるにおよんで,地元における「ものみの塔」誌の複写は中断しました。それでも兄弟たちは,世俗の仕事でスイスからウィーンへ出かける必要があった一人の兄弟を通して,ときどき霊的な食物を受け取りました。その兄弟はふさわしい用心をしながら,「ものみの塔」誌を何部か自分の手で携えて来ました。一人の兄弟がそれらの雑誌を受け取っても,その兄弟はそれを自分用に取っておくことはできませんでした。他の兄弟たちの分まではなかったので,雑誌を受け取った兄弟はすぐにそれを読み,そのあと,信頼の置ける次の兄弟に渡しました。といっても,直接にではなく,買い物かごか他の何かに隠すことによってです。このようにして,それら貴重な文書の幾らかが手から手へと渡っていきました。試練となる状況のもとにいた兄弟たちにとって,その霊的な食物は非常に重要でした。

何人かは後退する

兄弟たちの抵抗を打ち砕き,エホバの証人とのつながりを一切断つという宣誓書に署名をさせるため,ゲシュタポは,すでに多くの兄弟たちが署名をして釈放された,と主張しました。それは全くの誇張でした。

ゲシュタポは,署名をした者はだれでも自由の身となるので,何年もの間苦しみを味わわずに済むと約束しました。それは実際のところ,代わりに良心の痛みという精神的な苦しみを何年も味わうことを意味しました。問題となっていたのは明らかに,エホバとその組織に対する忠節に関するものでした。大多数の兄弟たちは,忠誠において揺らぐことはありませんでしたが,中には署名をした人もいました。しかしそれら署名をした人々のすべてが実際に自由にされたわけではありません。それらの人々は普通,絶え間ない監視のもとに置かれました。

ある日,アグネス・ヘッツルは,真理のために強制収容所にいた一夫婦とウィーンで出会いました。しかし彼女は,その夫婦が釈放された事情に気づきませんでした。彼女は喜びにあふれて,二人にあいさつをしました。すると二人は,彼女が全くの他人でもあるかのように,一言も口をきかずに彼女のそばを通り過ぎて行きました。今や彼女は,何が起きたのかを察知しました。別の機会に彼女は,自宅の近くにある工場の入り口付近にいたのですが,自分の目が信じられませんでした。兄弟であると自分が考えていた男性の胸に,かぎ十字章が付いていたのです。その男性もまた,彼女を知らないかのように,おどおどした様子で通り過ぎて行きました。それらの人々は,忠実を保っていた人々にとって大きな打撃となりましたが,エホバと,残っている忠節な兄弟たちに対する彼らの忠節な愛を弱めるものとはなりませんでした。

強制収容所での苦痛に耐える

1939年,ブラウナウのアロイス・モーザーとランスホーヘンのヨーゼフ・ブフナーは,他の142名の兄弟たちと共に,ダハウ強制収容所からオーバーエーステライヒ州のマウトハウゼン収容所に移送されました。兄弟たちは真夜中近くにマウトハウゼンに着いて,鉄道の家畜運搬車から降りると,こう告げられました。「マウトハウゼンはダハウのような療養所とはわけが違う。我々はお前たちを一人残らず根絶してやる」。推定では,1938年の8月から1945年の5月にかけて,合計20万6,000人がここに収容され,記録によると,3万5,270人が亡くなりました。

最初の3年間,兄弟たちはすべて例外なく,石切り場での重労働をさせられました。冬になると,気候は極端に寒くなりました。事実,何百人という囚人が石切り場で凍死したのです。夜になって囚人たちが収容所に戻る時には,各自が大きな石を抱えて,186段から成る“死の階段”を上らねばなりませんでした。司令隊長のシュパツェネッガーは,10㌔に満たない石は軽すぎるという通達を出しました。彼は40㌔以上の重さがある石を囚人たちに運ばせたため,中には疲労困ぱいして倒れる囚人も少なくありませんでした。そのようにして倒れた囚人は大抵,その場で殺されました。

やがてモーザー兄弟とブフナー兄弟は,収容所内のさまざまな場所から出た裸の死体を積んだそりを引くように割り当てられました。それぞれの遺体は,足の親指に付けられた,氏名と囚人番号を記した札で身元を判別できました。この割り当てで二人はあるバラックに行きましたが,そこに収容されている囚人の大半は下痢に苦しんでいました。その場所で二人は,何と驚いたことに,アウグスト・クラーフト兄弟を見つけたのです。そのあまりにも悲惨でむごたらしい様子を目にして,二人の兄弟はただただ涙を流しました。しかしクラーフト兄弟はむしろ,自分がエホバのみ手にあって享受した数々の祝福を思い巡らして,「私はすべてのことをエホバに感謝しています!」と述べました。次の日には,クラーフト兄弟もまた,そりの上に横たえられていました。「賞である上への召し」という目標を,兄弟は最後までひたすら追い求めたのです。―フィリピ 3:14

兄弟たちは,愛のうちに互いの福祉を気遣いました。ある人々が特に衰弱すると,ほかの兄弟たちが自分のわずかな食事をスプーンで幾杯か分け与えて,それら弱っている人たちが必要な力を取り戻せるようにしてやりました。

収容所内における神権的な活動

収容所の中でさえ,神権的な活動は続けられました。しかし,それには相当の思慮深さが求められました。証言が行なわれて,聖書研究が司会され,幾つかの集会も開かれて,数人がバプテスマを受けました。

フランツ・デッシュは,マウトハウゼンからさほど遠くないギューゼン収容所に移されました。そこで彼は,一人の親衛隊員と聖書研究をすることができました。どれほどの進歩がみられたでしょうか。では,何年も後に,二人が大会で兄弟として会えた時の大きな喜びを想像なさってください。

新しい囚人たちが多くの異なる国から送り込まれました。それらの人々に王国の真理を伝えるため,兄弟たちは彼らの言語で書かれた証言カードを活用しました。囚人たちは郵便物を受け取ることができたので,バラックに入って来た親衛隊の監視員は,人々がまさか郵便物以外のものを読んでいるとは思ってもみませんでした。

ギューゼンの収容所では,カール・クラウゼ兄弟が鍵の作業所を監督していました。それにしても,何とユニークな作業所だったのでしょう。収容所内で用いる鍵の製作と修理だけでなく,そこでは5人のポーランド人が,それ専用の目的で作られた木製の洗い桶の中で,ひそかにバプテスマを受けることもなされたのです。

霊的な強さを保つために,兄弟たちは夜中に小さなグループで集まって聖句を討議しました。ときには,聖書が手に入ったこともありました。そういう場合は,幾つかの部分にその聖書が分割されて,一人の人から他の人へと渡っていきました。兄弟たちは,ベッドの下で横になって,わずかに持てた自由時間の間にそれを読みました。

兄弟たちは主の晩さんを祝うことさえできました。表象物を何とか手に入れた兄弟たちは,ほかのみんなが眠っている間に集まりました。ギューゼンの洗面所とトイレはバラックとバラックの間に位置していて,6㍍ばかり離れていました。そのような洗面所で,ろうそくに明かりをともして,兄弟たちは記念式を祝ったのです。エホバの愛ある保護のもとに,万事はうまく運びました。

忠実さに関する記録

ナチ統治下のオーストリアにおける兄弟たちの忠実さの模範に関しては,さらに多くの経験を語ることができます。以下に述べるのは,苦難に耐え,破れることのない忠節さを示したことに関する幾つかの例を取り上げたものにすぎません。

ヒトラーの軍隊がオーストリアに進軍する以前,この国には549人の伝道者がいました。その後,合わせて445人がさまざまな期間にわたって投獄されました。1938年から1945年の間に,このうち,姉妹を含めて48人が処刑されました。13人は,殴打やガスによって殺されるか,または倒錯した医学実験の犠牲となりました。このほかに少なくとも81人が,刑務所または強制収容所で病気や極度の疲労によって亡くなりました。

そのような悲しい時代の犠牲者について語る際に,やむを得ず,統計が用いられます。しかし,それらの犠牲者は,ぬくもりのない数字よりもはるかに価値ある存在です。その一人一人がクリスチャンの兄弟または姉妹であり,夫や妻,父親や母親,息子や娘でもあるのです。何千年もの間にエホバの忠実な僕たちが積み重ねてきた記録に,これらの人々は自分たちの証言を加えました。すなわち,エホバの忠実な僕たちはエホバに対する愛に動かされて,自分たちの神また主権者であられるエホバに対する自分たちの忠節を証明するために,必要とあらば,自分の命をさえなげうつこともあるという証言です。

まず何を行なったらよいか

戦争ならびにナチのオーストリア支配は,1945年の春に終わりを迎えました。日ならずして兄弟姉妹たちは強制収容所から戻り始めました。それらの人々の思いにあったのは,まず他の兄弟たちと集まり合うことでした。再び集会を取り決めるのは大きな努力を要しましたが,1945年7月21日にクラーゲンフルトで戦後初めて組織された集会には,27人の出席者が見られました。秋になるころには,集会はウィーンでも開かれていました。

忠実な兄弟たちは業の再組織に着手しました。オーストリア最西端の州フォアアールベルクでは,数人の兄弟たちが,スイスのベルンにある事務所から来たフランツ・ツルヒャー,ゲオルグ・ゲルツ,それにダーフィト・ビーデンマンと会って,会衆の集会と宣べ伝える業を再開するために講じなければならない手段について話し合いました。オーストリアからは,ペーター・ゲレス,フェリクス・デフナー,レオポルト・ピテロフ,それにフランツ・ガンシュテルが出席しました。戦時中の困難な経験にもかかわらず,王国の実ははっきりと現われ始めました。1937年に活動していた伝道者は549人でしたが,1946奉仕年度の終わりには,王国宣明者の数は730人に増加していました。

刑務所から戻った後,ペーター・ゲレスは戦後最初のオーストリア支部の監督となりました。ウィーンのフローリアニ通り58番にあったゲレスのアパートが支部事務所となりました。その後1947年4月から,事務所の仕事は,爆弾によってかなりの損失を被った学校の建物で行なわれました。その建物で兄弟たちは,「ものみの塔」誌と4,000冊ほどの小冊子を謄写版で印刷しました。聖書文書の謄写版印刷を行なったために投獄されていたテレーゼ・シュライバーも再びその仕事に戻り,複製作業にあずかりました。クラーゲンフルトでは,「子供たち」という書籍全体を兄弟たちが謄写版で印刷して,堅表紙製本を施すことさえ行ないました。紙とインクは乏しく,入手は困難でしたが,エホバの助けを得て,兄弟たちは必要とされたものを何とか手に入れました。

1947年には,戦後最初の大会を楽しむ機会が兄弟たちに訪れました。大会は四日間にわたって開かれました。出席者は1,700人で,現在開かれている大会に比べると少なく思えるかもしれませんが,当時のオーストリアの兄弟たちにとっては大群衆であり,それは成長の見込みがさらにあることを示す証拠でした。

その月も後半となった6月21日の土曜日には,再組織に関連した別の重要な段階が踏まれました。「ニューヨーク市ブルックリンのものみの塔聖書冊子協会の支部であるものみの塔協会」を地元の協会として再組織するため,7人の兄弟が学校の建物に集まったのです。こうして,文書の出版を行なうための法的な手段が再び得られるようになりました。

そして今度は,シベリア!

オーストリアは連合国(米国,フランス,英国,それにソ連)の軍隊によって1955年5月まで占領され,四つの占領地区に分割されていました。ドイッチュ・バグラム村はソ連地区にありました。そこにはフランツ・マリーナ兄弟が住んでいました。兄弟はロシア語の話し方を心得ていたので,極めて率直な仕方で占領軍の兵士たちに証言を行ない,兵士たちの何人かと聖書研究を司会することさえしました。さらに,ロシア語の聖書文書を入手して,それらを兵士たちの間で配布することも行ないました。

兄弟の活動が見過ごされることはありませんでした。1948年の初めごろ,兄弟に好意的な二人の男性は,兄弟にこう警告しました。「フランツ,ここから出て行きなさい。彼らは君を逮捕したがっている。君の文書がロシア人のところから見つかったんだ」。それでもマリーナ兄弟は逃げることをせず,病身の妻と子供たちのもとに残る決意をしました。しかし,ほどなくして兄弟は逮捕されました。兄弟はソ連の地元司令官の事務所に八日間拘留され,最後にはソ連軍参謀部に移送されました。そこで6週間の滞在を余儀なくされた兄弟は,兵士や将校たちにも同じように率直に宣べ伝えて,エホバの王国について彼らに話しました。最終的に兄弟は,いまや耳慣れた表現となった,“軍隊の士気をくじいた”かどで,10年の強制労働を言い渡され,はるかかなたのシベリアへ連れて行かれました。

ついに兄弟はウラル山脈を越えて広大な地域にたどり着きました。その地域で兄弟は,ほとんど徒歩で一つの収容所から別の収容所へと移動しました。脱出はまず不可能でした。兄弟は大抵どの収容所でも,ソ連の各地から連れて来られた兄弟たちと会いました。新しい収容所に着くと,ごく当然のように兄弟たちを捜しました。兄弟たちが見つかると,彼らはマリーナが本当にエホバの証人かどうかを見定めるために彼を試しました。そうするために彼らは,「ヨナダブの家族は元気かい」とか,「ものみの塔協会の会長はだれかね」といった質問をしました。

マリーナが確かに兄弟であることを確信すると,兄弟たちは,収容所での厳しく,不慣れな生活に耐えられるよう,愛をもって彼を援助しました。年齢のせいもあって,彼は“お父さん”と呼ばれました。5年のあいだに,彼は30の収容所を知るようになりました。そして,1953年に,彼は恩赦を認められて,家に戻りました。彼の妻はそのころすでに亡くなっており,長女が母親の役割を引き受けていました。では,マリーナ兄弟は落胆したり,打ちひしがれたりしたでしょうか。その反対です。それから数日もしないうちに,早くも兄弟は立ち直って家から家に再び良いたよりを宣べ伝えていました。兄弟は1964年に亡くなるまでこの業を続けました。

開拓者たちは収穫にあずかる

第二次世界大戦以降の何年もの間に,オーストリアにおけるエホバの民の業は大きな拡大を見てきました。こうした増加に大いに貢献してきたのは,熱意に燃える開拓者や特別開拓者,それに宣教者たちです。

そうした熱心な働き人たちの中に,ハンス・ローテンシュタイナーと彼の妻がいます。真理に初めて接してから1年もしないうちに,二人は開拓奉仕を始め,1955年には,特別開拓者に任命されました。二人に割り当てられた任命地の一つは,アルプス地方のカープルン周辺の区域でした。ハンスの話によれば,その場所で二人は次のような経験をしました。

「私たちは感謝の心を抱いて,主の羊を探す業に取りかかりました。そうするうちに,バルヒェンで,すでに幾らかの文書を持っている一家族を見つけました。ただちに研究がその家族の全員と取り決まり,彼らは何人かの友人にもその研究に加わるようにと誘いました。ときには12人もの人が出席したこともありました。研究は極めて順調に進んだため,家族の人々はただちに教会を去る決意をするまでになりました。しかし,そうするためには,バプテスマの証明書が必要でした。そこで,それら心根の善良な人々の一人であるロイスは,家族全員の証明書をもらうためにある有力者のもとに行きました。これらの家族には沢山の子供がいたので,全部で17通の証明書が必要でした」。ロイスが地元の神父と交わした会話は,およそ次のようなものです。

ロイス: おはよう,バプテスマの証明書が数通欲しいんですが。

司祭: “数通”というのは一体どういう意味かね。それに,何のために必要なのかね。

ロイス: 教会をやめたいんです。

司祭: ほう,そういうわけか。で,どれだけの証明書が欲しいのかね。

ロイス: メモを書いてきました。えーと,そう,これですけど,17通ばかり必要なんです。

司祭: 何だって。一体またどうして,あなた方のそんなに多くが教会をやめたいと思うようになったのかね。

ロイス: 実は,家族で聖書を研究し始めたんです。それだけの話です。神父さん,あなたが今まで私たちに教えてこられたことはおよそ真実からかけ離れており,イエスがこれまでにおっしゃったのでも,聖書が述べたのでもないことばかりです。

こういう会話がしばらくのあいだ続き,ロイスは証明書を持たずに帰りました。とはいえ,後日,神父との話し合いが行なわれて,ハンスもそこに出席しました。話し合いも終わりになると,ロイスは司祭にこう言いました。「神父さん,あなたが証明できたものはこれっぽっちもありませんでした。そういうわけですから,バプテスマの証明書をいただけるでしょうか,それも少しばかり急いでお願いします」。神父は何も言うことがなくなり,言われた通りにするしかありませんでした。

現在アルプスのこの村には,90人から成る一会衆があります。

1978年中,オーストリア全体で,278人の補助開拓者をはじめとする626人が,開拓奉仕の祝福にあずかりました。しかし,1988年4月には,同様の奉仕を報告した人の数は,補助開拓者1,102人を含む1,925人に上りました。

支部の取り決め

ギレアデ学校での10か月に及ぶ,組織上の事柄に関する特別の訓練課程を卒業してまもないローウェル・L・ターナーは,1965年8月1日に支部の監督の責任を割り当てられました。その責任を10年近く果たした後,ターナー兄弟は1975年7月にオーストリアを離れて,ルクセンブルクでの新しい任命地に向かいました。1976年1月以来,数人の兄弟たちから成る委員会がオーストリア支部の世話をしてきました。

支部施設の拡張

世界各地にある協会の支部事務所は,絶え間なく増加するエホバの賛美者たちの必要を顧みるために,支部の施設を拡大してきました。オーストリアでは事情は多少なりとも異なっていたでしょうか。そのようなことは全くありません。

時たつうちに,ウィーンの庭園地区にある,1957年に購入された建物は,支部事務所としては手狭になりました。それで1970年から1971年にかけて,その建物は拡張され,発送部門と王国会館に充てるためのさらに広い余地が設けられました。しかし数年のうちに,さらに拡大を必要とすることが明らかになりました。近所に住む人たちの一人が自分の地所の一部を売却することを申し出たとき,その問題にエホバの介入しておられることが分かりました。1983年に新しい建物の建設が行なわれていたとき,隣接する土地を支部に売却することを申し出る別の話がさらに持ち上がりました。1987年の夏に行なわれた新しい施設の献堂によって,さらに約5,000平方㍍のスペースが使用可能となり,これまでの4倍以上の面積となりました。これだけの広さが本当に必要だったのでしょうか。オーストリアの事務所の世話を受けていた証人たちの数は,以前の建物が購入されてからすでに3倍になっており,事務所の兄弟たちは非常に窮屈になった部屋で働いていました。

近隣の人々の苦情等に対処するため,建設計画が完了するまでに施設の設計図は何度も変更を求められました。これは多くの余分の仕事を要しました。それでも,支部は次のことを認めています。「結局,必要とされた変更のほとんどすべては私たちの益につながりました。多くの場合,兄弟たちは,『私たちの以前の案よりも今回の案のほうが優れている』と言わざるを得ませんでした」。

多言語の地域

オーストリアに住んでいる人すべてが実際にオーストリア人であるわけではありません。また,同国の住民すべてが,オーストリアの主要な言語であるドイツ語を流ちょうに話せるわけでもありません。この国には,ユーゴスラビアやトルコから来た多くの移住労働者がいます。1970年代の初め以来,支部はこれら移住労働者たちに聖書の音信を伝えるための取り決めを設けてきました。肥沃な土壌に種が落ち,しばらくすると,研究の群れが設立できるようになりました。

現在九つの会衆が,もっぱらセルボ・クロアチア語(ユーゴスラビアで話されている主要な言語の一つ)で集会を開いています。さらに,トルコ語,スペイン語,ポーランド語,日本語,英語,それにアラビア語で行なわれている研究の群れもあります。ウィーンのベテルで妻と共に奉仕し,その神権的な経歴が50年以上にもなるレトーニャ兄弟は,移住労働者たちの間でなされている業の様子を次のように伝えています。

「1971年に私は,ユーゴスラビア人の移住労働者たちに良いたよりを宣べ伝えていた5人の兄弟たちに加わるよう割り当てられました。この目的で,私はセルボ・クロアチア語を話すことを学びました。1988年の今日,ウィーンとその周辺には,セルボ・クロアチア語のグループに属する伝道者が320人以上います。これらの兄弟たちと働くのは実に楽しい事柄です。彼らはたいへん家族思いです。真理に対するその熱心さは他の人にも移るらしく,彼らはお互いに励まし合っています。夜の遅い時刻まで終日奉仕にとどまる人も少なくありません。移住労働者ゆえの困難な労働条件にもかかわらず,そのうちの何人かは定期的な補助開拓奉仕にあずかっています。彼らが行なう熱心な会話は,もっぱら真理を中心としたものです。

「さらに,それら労働者の中にはかなりの数に上るジプシーもおり,彼らにとって会衆は家庭のような所です。あるジプシーの家族からは,少なくともすでに25人の成員が浸礼を受けており,ほかにも19人以上の親族が真理に関心を抱いています。これらの兄弟たちと共に働くのは,まさに祝福です」。

大会において,もてなす側となる

過去の困難な時期に,オーストリアにいるわたしたちのうちのある人々は,会衆の集会や大きな大会に出席するためにしばしば国境を越えました。わたしたちが行った地域の兄弟たちが差し伸べてくれた愛あるもてなしを,わたしたちはよく覚えています。今度は,オーストリアのそれら兄弟たちが,もてなす番となる機会を得たのです。

実際にそれは,ギリシャから1,200人の友たちがウィーンの地域大会にやって来た1965年に始まりました。その大会に使用された建物の別館で彼らがすべてのプログラムをギリシャ語で聞けるように,種々の取り決めが設けられました。

その後,1967年には,オーストリア南部のクラーゲンフルトで開かれた地域大会に,ユーゴスラビアから889人の兄弟たちが出席しました。彼らもまた,自国語でプログラムを楽しむことができました。ユーゴスラビアから来る人々の数は増加しました。1968年には,彼らのために取り決められたフィラハでの集まりに2,319人が出席したのです。

1978年に開かれた地域大会で,ハンガリー語でもプログラムを提供できたのは特権でした。オーストリアにはハンガリー語を母国語とする長老が何人か住んでいたので,割り当てを取り決めるのはさほど困難ではありませんでした。しかし,大会の何週間か前に,組織上の事柄を担当していた兄弟たちは,『ハンガリーの兄弟たちに国境を越えて大会に出席してもらうことはできないだろうか』と考えました。ハンガリー語のプログラムの出席者が400人の大台を超えたときは,実に感動的でした。それ以来,ウィーンの地区で開かれる地域大会には,ほぼ毎回ハンガリー語のプログラムが含められてきました。1986年には,それらの集まりにおける出席者の数は1,781人にも上り,だれもが大いに喜びました。ほかにもまだ,わたしたちがもてなしの精神を差し伸べられる人がいたでしょうか。

ポーランドの兄弟たちについてはどうか

1980年の大会の主題は「神の愛」でした。ポーランドから1,883人の兄弟姉妹が出席して,ウィーンにおける自国語のプログラムを聞いたこと以上に,この主題をさらに強調できたものがあったでしょうか。ポーランド語のグループは大きなテントに収容されましたが,ハンガリー語とクロアチア語の集まりには,各々に一つのホールが用意されました。ドイツ語のプログラムのためには,一つのスタジアムを同じ会場に借りました。

大会司会者の補佐は,一つの提案をして,「日曜日の最後の歌に際して,他の言語のグループの兄弟たちにもスタジアムに来ていただくのはどうでしょう」と述べました。大会事務所は喜んでその提案を受け入れました。

大会の最後に見られた次のような光景を思いに描いてみてください。スタジアムの一方の側には5,000人のオーストリア人の出席者が ― その前面には,競技場となっているまばゆいばかりの緑の芝生があります。一つの発表がなされると,スタジアムの反対側の観客席が人で埋まり始めました。それぞれの言語グループにしたがって取り決められたとおりに,兄弟たちは入場をして,起立しました ― ユーゴスラビア人,ハンガリー人,ポーランド人の兄弟たちです。そのあと,四つの言語で合図がなされると,およそ8,000人の人々が,「エホバよ,わたしたちは感謝します」という賛美の歌に声を和しました。

結びの言葉を述べた兄弟は,その際,ポーランドから来た兄弟たちに呼びかけて,「もし次回に,皆さんのほうがドイツ語のプログラムにいる私たちよりも多いようでしたら,その時はスタジアムを皆さんに解放しましょう!」と言いました。プログラムが終わっても,兄弟たちはいつまでも互いに名残を惜しんでいました。それは人々の心を打つ大会となり,国境によって分け隔てられた兄弟たちが多くのことをじっくりと語り合う機会になりました。その後,支部事務所は,深い幸福感に満たされて,統治体に次のように書き送りました。

「皆さんにも是非味わっていただきたい経験でした。エホバの霊とその『神性な愛』による結合の力が極めて強力に実証されました。結びの歌が終わってしばらくしても,兄弟たちはまだ互いに手を振っており,だれも帰ろうとしませんでした。一人の兄弟は次のように述べて,兄弟たちの多くが抱いていた気持ちを言い表わしました。『私にとってこれは10回目の地域大会です。けれども,これほどの温かさや誠意,それにこのような一致の絆における優しい愛情といったものは,これまでに経験したことがありません。私は自分の腕を差し伸べて,兄弟たちすべてを抱き締めたいと思いました。霊的な意味で,私はそうしたのです』」。

そのまさに翌年の1981年,「王国の忠節」地域大会の準備が最終段階にさしかかるにつれて,一つの事柄が明らかになりました。つまり,今回は,ポーランドから来る5,000人以上の兄弟たちのためにスタジアムを解放する必要があるということです。そして,ウィーンとその周辺の地域に住む兄弟たちはいま一度,寛大な精神の持ち主であることを示しました。

さらに,大会を充実させたもう一つの事がありました。統治体のセオドア・ジャラズ兄弟とダニエル・シドリック兄弟がウィーンに来たのです。ハンガリーやポーランドから来た兄弟たちと交わるのは,二人にとって実にすばらしい機会となりました。二人が行なった励みとなる話や,二人がどの言語グループの兄弟たちと接する際にも示した友好的な温かい態度は,非常に深く感謝されました。シドリック兄弟は自分に割り当てられたプログラムの中で,キリストの弟子であるバルナバについて話をしました。兄弟たちは一心に注意を払いました。二言か三言話されると,話し手と聴衆は,オーストリアのことわざに言う,「一つの心,一つの魂」となりました。

1982年以来,ポーランドの兄弟たちは自分たち自身の大会を開くことができていますが,オーストリアの兄弟たちはハンガリーから来る兄弟たちを引き続き喜んでもてなしています。

将来に向けて前進する

オーストリアでは,物事は概して“楽に”運ぶと言われています。しかし,神の王国の良いたよりの宣明に関しては,そのようには言えません。目をみはるような成長はなかったとはいえ,エホバの賛美者の数は着実に増加してきました。1950年代のことですが,一人の地域監督は兄弟たちを励まして,こう述べました。「オーストリアの伝道者がいつの日か1万人になったとしても,わたしたちにとってそれはさほど驚くことではないでしょう」。それはすばらしい話に思えました。しかし,オーストリアは小国であり,わずか750万の住民しかいません。それに当時は,国内全体における伝道者は5,000人にも満たない状態でした。それでも,1971年にその数は1万人を超え,現在,この国におけるエホバの賛美者の群れは1万7,000人を上回るまでになりました。

オーストリアは,山々や音楽の国としてよく知られています。とはいえ,絶えず増大している群れを成す人々の生活の中で,彼らにとって最も重要な意義を持っているのは「エホバの家の山」,すなわち真の崇拝の高められた地位です。そして,この国で聞くことのできる最も快い調べは,「新しい歌」をうたうことにあずかっている1万7,705人の伝道者のもとから出ており,それはエホバの王国を高める歌なのです。―イザヤ 2:2。詩編 98:1,4-6

[72,73ページの囲み記事/地図]

オーストリアの概要

首都: ウィーン

公用語: ドイツ語

主要な宗教: ローマ・カトリック

人口: 757万5,700人

伝道者: 1万7,705人

開拓者: 1,398人

会衆の数: 246

記念式の出席者: 3万216人

支部事務所: ウィーン

[地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

オーストリア

コンスタンツ湖(ボーデン湖)

ドルンビルン

フォアアールベルク

インスブルック

チロル

東部アルプス

ザルツブルグ

バート・イシュル

ザルツブルグ

オーバーエーステライヒ

リンツ

マウトハウゼン

ドナウ川

ウィーン

ニーダーエーステライヒ

ノイジードラー湖

ブルゲンラント

スティリア

クニッテルフェルト

グラーツ

カリンティア

クラーゲンフルト

スイス

ドイツ連邦共和国

チェコスロバキア

ハンガリー

ユーゴスラビア

イタリア

[66ページ,全面図版]

[69ページの図版]

C・T・ラッセルが1911年3月22日に講演を行なうことを試みた,ウィーンのコンチネンタル・ホテル

[クレジット]

From the Pictorial Archive of the Austrian National Library

[74ページの図版]

ジーモン・リートラー(左)とフランツ・ガンシュテルは,1921年に初めて真理を聞いた

[79ページの図版]

J・F・ラザフォードは,1922年にウィーンのカタリーネン・ホールで話を行なった

[クレジット]

From the Pictorial Archive of the Austrian National Library

[81ページの図版]

1924年にウィーンで行なわれた聖書研究者による最初の大会プログラム。次の大会はヨハネス・シンドラーにとって転換点となった

[83ページの図版]

オーストリア人の初期の証人,ハイデ家の人々,1924年

[87ページの図版]

エミール・ウェッツェルは,1922年から1926年までオーストリアの業を監督した

[95ページの図版]

レオポルト・エングライトナーは,伝道活動を行なったために1934年に投獄された

[99ページの図版]

アウグスト・クラーフトは,1939年5月25日にナチに逮捕された。右はクラーフトに関するゲシュタポの最終意見を記した記録

[クレジット]

DÖW, Vienna, Austria

[108ページの図版]

テレーゼ・シュライバー(左)は,謄写版で文書を印刷し,ハンジ・フローン(ブフナー)は使いを務めた。二人とも逮捕を経験した

[109ページの図版]

ゲシュタポの記録から,謄写版印刷に関する組織的地下活動の詳細を知ることができる

[クレジット]

DÖW, Vienna, Austria

[115ページの図版]

アロイス・モーザー(左)は,七つの刑務所と強制収容所で生活した。ヨハン・ライナーは兵役の誓いを拒否した。フランツ・ボールファールトは,自分の父と兄弟が処刑されても,忠誠を保った

[117ページの図版]

ギューゼンにある強制収容所への入り口。マウトハウゼンとギューゼンで生き残った証人たち,1945年

[クレジット]

DÖW, Vienna, Austria

[120ページの図版]

ヨーゼフ・ベークシャイダー(左)とヨハン・ピヒラーは,1939年9月26日にザルツブルクの近くで銃殺された

[124ページの図版]

ヘルミーネ・オプベーガー(左)は,11歳の時に両親のもとから引き離された。アウグステ・ヒルシュマン(現在のベンダー)は,17歳の時にゲシュタポの前で確固とした態度を示した

[126ページの図版]

ペーター・ゲレスは1940年6月12日に逮捕された。彼はこの裁判所で刑を宣告され,この独房に監禁された

[137ページの図版]

フランツ・マリーナは,シベリアの強制労働収容所に5年間拘留された

[140ページの図版]

1965年から1975年までの支部の監督ローウェル・L・ターナーと妻マーゴット

[141ページの図版]

支部事務所とベテル・ホーム,1957年

[142ページの図版]

拡張された支部,1987年