内容へ

目次へ

バルバドス,西インド諸島

バルバドス,西インド諸島

バルバドス,西インド諸島

皆さんを,「トビウオの国」また西インド諸島の玄関であるバルバドスに歓迎いたします。読者はこの小さな島が,世界で最も人口密度の高い国の一つであることをご存じでしたか。面積がおよそ430平方㌔のこの土地に,25万3,500人以上の人々が住んでいるのです。しかし,諺にもあるとおり,「美しいものは小さな入れ物に収まる」ので,このことはカリブ海諸島の東端に位置するこの島にも確かに当てはまります。

バルバドスの東部の海岸線に出ると,絵に描いたような景色のなだらかな丘陵地帯が,絶え間なく動く大西洋の白波を見下ろしており,一方の西海岸では,白く縁取られた浜辺に,カリブ海のさらに穏やかな波がやさしく打ち寄せています。

かつてはサトウキビが,バルバドスの経済を支配する“王”でしたが,最近では,観光業が主要な財源となりました。毎年この島は,島全体の人口を上回る何十万人という観光客を迎え入れています。

西暦1627年に英国の移民がバルバドスに入植した時から,1966年にバルバドスが独立を認められるまで,英国,およびそれに付随する英国国教会との強いきずなが保たれました。このことは日常の生活にどの程度の影響を及ぼしたでしょうか。一時は,『家族の祈りと教会への出席』を命ずる法律が制定され,朝と晩には祈りをすることが義務づけられました。それに少しでも違反した場合は,科料として18㌔の砂糖を納めねばなりませんでした。すべての人が,いかなる逸脱も許されることなく,教会の支配と規律に服することを求められたのです。このため,ある歴史家は,バルバドス人は「のりと英国国教会主義とで固くなっている」と評しました。とはいえ,現在では141の異なる“キリスト教の”分派や宗派が存在するため,状況はやや変化したと言えます。そのような宗教の砦の中で,真の崇拝は発展してゆけるのでしょうか。

王国の真理という種をまく

メシアの王国が天で設立される9年前の1905年,ジョセフ・ブレースウェイトは,当時エホバの証人の間で聖書文書頒布者<コルポーター>と呼ばれていた全時間の奉仕者として,バルバドスで証言の業を開始しました。彼はすでに英領ギアナ(現在のガイアナ)で真理を学んでいました。やがて,アルジェノン・シモンズとその妻モードのような,真理を渇望する人々が王国の喜ばしい音信を受け入れました。二人はそろって1909年にジュリエット・シェパードと一緒にバプテスマを受けました。シモンズの下の娘ウォルデマー(後にビア・ライス夫人となる)は,ほどなくして両親と共に聖書のパンフレットを配布するようになりました。

これら初期の聖書研究者たちは,自分たちが学んだ事柄について他の人々に話すことを熱烈に願っていました。緊急感と自己犠牲の精神に動かされて,彼らは島の多くの村に音信を携えて行き,ものみの塔協会の出版物を配布しました。ライス姉妹は,こう語っています。「首都ブリッジタウンで事業を営んでいた父[彼女の父親]は,田舎の区域を網羅する業に参加していた聖書研究者たちのグループを運ぶために,よく自分のラバと荷車を利用しました。私たちはおもに週末によく出かけました。気の毒なことに,ラバはあまり休憩させてもらえなかったので,家に帰る途中でしょっちゅう立ち止まっていました ― 疲れていたせいなのか,ただ単にひねくれていたせいなのか,その理由は何とも言えません。おかげで,私たちが日曜日に帰宅する時間はたいへん遅くなり,ときには真夜中をかなり過ぎていることもありました。それでも,私は翌朝目を覚まして,学校に行かねばなりませんでした」。

胸の躍るような日々の思い出

自分の活動がそれら初期の時代にまでさかのぼる人たちの中に,リナ・ゴール姉妹がいます。姉妹は,若い人からも年配の人からも親しみを込めて,“ゴールばあや”と呼ばれました。姉妹の記憶は以前ほど鮮明ではないにしても,姉妹は当時の胸の躍るような日々を思い起こし,エホバがご自分の民を扱われたすばらしい方法を回想するのがとても好きです。現在90代になるゴールばあやは,1910年の昔に,彼女の父親と母親が学校の教師のトマス氏から1冊のパンフレットを受け取ったときのことを思い出します。聖書研究者が印刷したこのパンフレットや他の出版物の助けを得て,家族はやがて地獄,魂,三位一体,その他の教えに関する真理を学びました。家族はほどなくして,ワークマン・ビレッジにあるクリスチャン伝道団教会とのつながりを一切絶ち,ブリッジタウンのローバック通り40番で集まっていた聖書研究者のエクレシア(つまり会衆)とすぐに交わるようになりました。1911年になるころには,リナの両親はどちらもバプテスマを受けるまでになり,その翌年にはリナも浸礼を施されました。

ゴール姉妹と彼女の両親アレクサンダー・ペインとジョセフィン・ペインは,クリスチャン伝道団と交わるかつての仲間から“迷い出た羊”とみなされ,姉妹の家族を“取り戻す”ためのいろいろな努力が払われました。その目的で,この伝道団はペイン家の自宅の真ん前で公の集まりを開き,彼らをクリスチャン伝道団の囲いの中に送り返してください,と主に嘆願しました。

ゴール姉妹は,にこやかな微笑みを浮かべて目を輝かせながら,その伝道団から彼女の母親のかつての親友がペイン家に遣わされたときのことを回想します。まるでそのときの会話をもう一度全部聞いているかのように,姉妹はこう語っています。

「母の友人は,『ペイン姉妹,私はあなたへのメッセージを主から預かって来たの』と言いました。

「『あなたは主と会ったの? どんな姿だった?』と,母は言葉を返しました。

「『主は背の高い白人で,白い衣装をまとい,白馬にまたがっておられたわ。そして,あなたに対して,ワークマン・ビレッジ・ホールに戻って来るようにとおっしゃったの』。

「母がそのあとに返した一言で,伝道団教会に私たちを連れ戻そうとする彼らの試みはあえなく失敗しました。母はこう言ったのです。『じゃあ,戻ったら,その“男性”に,私,ジョセフィン・ペインは戻る気がないと言っていることを伝えてちょうだい』」。

ペイン家の人々はもとより,それら初期に聖書研究者たちと交わっていた他の人々は,かなりの嘲笑や根強い反対に遭いました。とはいえ,それらの人々の信仰は強いものでした。振り返ってみると,聖書の中で提起されている,「小さな事の日を侮ったのはだれであろうか」という質問の意味がよく理解できます。(ゼカリヤ 4:10)ご自分のみ名を全地でふれ告げさせるというエホバの目的の中に,西インド諸島にあるこの小さな島が含まれていることに疑問の余地はありません。

ゴール姉妹はいまも活発に奉仕しており,1912年にバプテスマを受けて以来,一月も欠かすことなく良いたよりを宣べ伝えてきました。地元で“過ぎ越し”と呼ばれる発作を2度患ったものの,姉妹は依然しっかりとした思考力を保ち,他の人々と良いたよりを分かち合う機会を常に探し求めています。

衰えることのない熱心さ

もう一人の熱心な働き人ウォルデマー・ライス姉妹は,過去70年以上にわたり,あらゆる階層の人々に真理を効果的に伝えてきました。姉妹はバルバドス語,すなわち“バハ”方言をじょうずに操るこつを心得ています。地元の表現にたいへんよく通じているため,姉妹が行なう証言は,その威厳を損なうことなく,さらに生き生きしたものとなり,王国の希望に対するそのあふれんばかりの熱意は,地元の言語で表現されるときに,聞く者の耳をしっかりととらえます。悪化する世界情勢について,身分の低い人々に話しかける場合には,姉妹はこう述べることがあります。「いまの世の中,見るからに混乱してますよね。ほんとに,そうでしょ,どっかで困ってる人がいるかと思えば,ほかの所じゃ飢きんがあるし,そのまた向こうでは暴動があるものね」。

姉妹は大胆かつ恐れることなく真理をふれ告げており,その模範によって長年,大勢の若者が励まされてきました。体力的な衰えはあっても,エホバの奉仕に対するライス姉妹の熱心さは,人生のちょうど87年目にさしかかって,なおも活気を帯びています。

白人の地域社会に足を踏み入れる

バルバドスは,西インド諸島の大部分の島と同様,そのほとんどがアフリカの黒人奴隷の子孫たちから成り,人口の90%を占めています。白人の住民で最初に真理を受け入れた人々の中にルーシー・グディングがいますが,彼の家族はかつて,ブリッジタウンで現在支部の建物と王国会館が位置している場所に住んでいました。

ジョン・ベンジャミンが王国の音信をグディング家に携えて行ったのは,1910年のある晩のことでした。英国国教会の筋金入りの信者だった彼らは,自分たちが貴重とみなしていた信条の幾つかに関して聖書が述べる真理を説明してもらって,たいへん驚きました。心配になった彼らは,自分たちの牧師に話をしました。牧師は,「どうしてそんなことで気をもんでいるのですか。そんなことは忘れて,教会にしっかり付き従いなさい」と答えました。グディング家の人々はそうする代わりに,教会をやめました。

グディング姉妹はとても個性のある人で,真理を明快に説明することができ,多年にわたり王国の業の第一線で働きました。姉妹の家はごく最初のころから,バルバドスを訪れる協会の特別の代表者のために,非公式の宣教者の家として役割を果たしました。

これら初期の証人たちの間に差別や不一致といったものは全く存在しませんでした。地域社会の他の部分で見られたような社会的また民族的分裂が,証人たちの隊伍に入り込む余地は決してなかったのです。今もわたしたちと共にいる古い人々は皆,自分たちが互いに感じていた,また依然感じているたいへん強い愛や愛着の証拠についてすぐに話してくれます。「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」と,イエスが言われたとおりです。―ヨハネ 13:35

ルーシー・グディングの義理の姉妹であるウィニフレッド・ヒースは,初期のことや,エホバの是認された僕となるために自分自身が遂げなければならなかった変化のことを覚えています。姉妹は自分のことを笑いながらも,恥ずかしそうな様子で,「それはもう,漁師のようなひどい罵りの言葉を私は吐いていました」と述懐しています。それらの変化はゆっくりとしたペースでなされたので,姉妹がバプテスマを受けたのは初期の年代ではなく,「ほかの羊」を集める業が始まっていた1940年のことでした。

公開講演から得られた益

公に行なわれた聖書の講演は,真理を広めるうえで重要な役割を果たしました。もともとはガイアナが出身地であるアルフレッド・ジョセフは,ブリッジタウンの港に近いブランドンズ・ビーチの屋外で行なわれた聖書講演で,初めて真理に接しました。「死者はどこにいるのか」という講演を聞くために,およそ50人が出席しました。これをきっかけにして彼は聖書の教えを学ぶようになり,1915年にバプテスマを受けましたが,そのバプテスマは,彼が例の聖書講演を最初に聞いた現場からさほど離れていない場所で行なわれました。

イエスは,「[あなた方は]真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」と言われました。(ヨハネ 8:32)霊的に自由にされたジョセフ兄弟は,その同じ自由を得るように今度は他の人々を援助することができました。興味深いことに,1516年,スペイン国王の認可によって,アフリカからの奴隷売買を合法的に行なう道が開かれましたが,それは3世紀半以上にわたって続きました。とはいえ,多少皮肉になるかもしれませんが,どちらもアフリカ人奴隷の子孫であるアルフレッド・ジョセフとジャマイカのウィリアム・R・ブラウンは,西アフリカに住んでいる大勢の人々に霊的自由への道を指し示すためアフリカに向かいました。こうして,1915年の6月29日,ジョセフ兄弟はシエラレオネでの仕事の契約を果たすため汽船で旅立ちましたが,同地で兄弟は自由人のように働くこともして王国の良いたよりを広めました。

ジョセフ兄弟は18年後にバルバドスへ戻ると,屋外での講演を行なう面で指導的な役割を果たしました。あるとき,ジョセフ兄弟は兄弟姉妹たちの一グループを伴って,セントジョージの教会区にあるウェイバリー・コットで奉仕しました。いつものように兄弟たちは午前中の時間を使って,家にいる人々に宣べ伝え,午後に開かれる公開集会に彼らを招待しました。その目的で,ある公民館が借りられました。ところが,講演が始まったとたん,兄弟姉妹たちだけが中にいる状態で,セントルカ教会のチャーチアーミーの団員たちがバス,つまり“ドーン”という大きな音の出るドラムとティンパニを鳴らしながら,その会館のすぐ外に集合したのです。講演者の声をかき消す目的で,ドラムが大きな音で鳴らされ,それに合わせて歌がうたわれました。大勢の人が集まりましたが,その騒音はどうしようもないほど大きく,ジョセフ兄弟の声は,音響装置がなかったので,ほとんど聞き取れませんでした。

すると,どうでしょう,兄弟たちや外にいた群衆が驚いたことに,突然激しい雨が降ってきたのです。といっても,空は晴れていましたし,あらしの襲来を告げるような気配は全くありませんでした。兄弟たちが集まっていた会場以外に雨宿りができる場所はほかにどこもなかったので,ドラムをたたいていた者たちを含め外に集まっていた人々は全員,その会場の中に大急ぎで駆け込みました。場内はたちどころに満員となりました。すべての人が1時間にわたる講演の間そこにとどまり,その講演も楽しんだのです。兄弟たちは帰宅の途に就いて,不思議なことに気づきました。つまり,その雨は先ほどの会場があった地域だけに降っていたということです。

他の島々にも種が落ちる

現在バルバドスのブリッジタウンにある支部事務所は,他の五つの島,すなわちベクイア,カリアコウ,グレナダ,セントルシア,それにセントビンセントでの王国を宣べ伝える業を監督しています。これらの島はバルバドスの西方に位置し,すべて253㌔以内の範囲にあります。

これらの島のうち最も南西に位置するグレナダは,広さがわずかに311平方㌔で,11万2,000人の友好的な住民がいます。グレナダには,シナモン,チョウジ,トンカ豆,ココア,それにナツメグといった香辛料がいたる所にあるため,“香料の島”という愛称があります。

この色彩豊かな島に真理の種が植えられたのは,第一次世界大戦が勃発した年のことです。パナマでの季節労働者だったエライアス・ジェームズは,神の王国に関する音信を受け入れ,献身してバプテスマを受けた伝道者となっていました。故郷の島の人々にぜひ真理を伝えたいと願っていたエライアスは,1914年に帰郷しました。ほどなくして彼は,グレナダに住んでいたバルバドス人,ブリッグズ氏と出会いました。ブリッグズはすぐに王国の音信を受け入れました。

ちょうどそのころ,バルバドスの熱心な働き人たちは,“ロワー・アイランズ(下方の島々)”に住む知人たちに,パンフレットその他の文書を幾らか送っていました。ジュディス・カレンダーは,数年前に亡くなるまでエホバに忠実に仕えた女性ですが,彼女の話によると,バルバドス人の父親フランシスと一緒にグレナダに住んでいた時,彼女のおじの“ポピー”が父親のもとによくパンフレットを送ってきたようです。今度は,彼女の父親が仲間のバルバドス人と良いたよりを分かち合うようになりました。

真理を受け入れた人々の中に,エライアス・ジェームズの義理の姉妹に当たるクリセルダ・ジェームズがいました。彼女は夫の執ような反対に遭いましたが,9人の子供から成る家族を真理のうちに首尾よく育て上げました。9人の子供は全員バプテスマを受けた証人となりました。彼女は油そそがれた者の一員であることを認め,1986年に87歳で亡くなるまで,忠節で忍耐強いクリスチャンであることを実証しました。彼女の子供たちのうち3人は彼女よりも先に亡くなりましたが,ほかの子供たちは引き続き活発で,そのうちの二人は正規開拓者として,もう一人は長老また特別開拓者として奉仕しています。

さらに,グレナダにおける王国の業にあずかった人々として,訪問旅行を行なっていた奉仕者たちのことを思い起こすことができます。その中には,A・T・ジョンソンやW・R・ブラウン,それにE・J・カワードがいました。カリブ海東部におけるカワード兄弟の奉仕は,どの面から見ても成功を収めました。しかし,その奉仕が僧職者たちのしっと深い目を逃れることはありませんでした。真理の敵たちは,第一次世界大戦中に存在していた恐れを利用して悪質なうわさを広め,E・J・カワードがドイツのスパイであるとほのめかしたのです。僧職者たちからのこうした圧力を受けて,政府の役人たちはカワード兄弟に対して,英領西インド諸島を離れるようにと命じました。こうして,同地域における兄弟の宣教は突然に終わりを迎えました。このことがあってから,協会は,米国の聖書研究者はだれであれ,島への立ち入り許可を容易に得られないことを悟りました。そこで,1922年にカナダ人のジョージ・ヤング兄弟を同地域へ派遣する取り決めが設けられました。

長年の間,大会にはおもに年配の人たちが出席していたため,人々はそのことを指して,“老人の宗教”と呼ぶようになりました。しかし,兄弟たちは,若々しく熱意のある精神を抱いていました。これら献身的な働き人たちが,ときには激しい熱帯降雨の中を8㌔以上も歩いて週ごとの集会に出席するのは,珍しいことではありませんでした。

ご一緒に今度は,グレナダからちょうど118㌔北にあるセントビンセントに移り,そこでの業が始まったいきさつを調べてみましょう。

セントビンセントにおける始まり

セントビンセントは388㌔平方の面積から成る色彩に富む島で,カリブ海の東部で最も古い植物群の一つが生育しており,1913年にA・T・ジョンソン兄弟が訪れました。その際,エセル・トムソンとモード・トムソン,それに彼らの父親が王国の音信にいくらかの関心を示しました。その後何年もしてから,トリニダード人のフィリッパ・ラ・ボルデがこの島に定住しました。

西インド諸島の農夫たちの間では,「落ちた種は,植えられた種よりも多くの実を結ぶ」という鄙びた表現がありますが,これはしばしば真実となってきました。言い換えれば,偶然に落ちる一粒の種は,意図的にまかれた種よりも多くを産出するということです。例えば,1918年のこと,フィリッパは洗濯をする前に夫のポケットを探っていたところ,以前に夫がW・R・ブラウンからもらっていた聖書のパンフレットを1冊見つけました。このパンフレットは強烈な関心を引き起こしました。彼女とその夫は二人とも研究を始めて,真理を受け入れ,その後,1918年8月1日にバプテスマを受けました。それから数年後,1923年より少し前に,二人は健康上の理由でセントビンセントに行きました。二人は数か月だけ滞在するつもりでしたが,結局は何十年も滞在することになりました。

セントビンセントに行って受けた最初の印象を振り返って,フィリッパはこう述べました。「通りはでこぼこで,ほこりだらけでした。けれども,人々はたいへん友好的で,大切なのはその事でした」。それから50年あまりの間,島全体で一般に“ラブ母さん”と呼ばれてきたラ・ボルデ姉妹は,政府の官僚たちに音信を伝えることができました。というのも,以前に姉妹は幼稚園の先生としてそのうちの何人かを受け持っていたからです。彼女は小柄で,見た目もきゃしゃでしたが,たいへん個性的な女性で,聖書の真理を簡明かつ論理立った仕方で伝える才量を持っていました。

姉妹が進取の気象を備え,機知に富んでいたことは,彼女がセントビンセントの出身者マリオン・ダンをバプテスマの段階まで援助した方法を見ても明らかです。ダン夫人は1914年にキューバで初めて真理に接するようになりました。その後まもなく,彼女はセントビンセントに戻りましたが,その後は,一緒に住んでいた彼女のいとこからの頑固で執ような反対に遭いました。そのいとこは執念深かったため,ダン夫人は自分の命をエホバに献げて,そのことを水のバプテスマで象徴するのを躊躇していました。しかし,ラ・ボルデ姉妹が必要な聖書的励ましと助けを与えた後,1935年にラ・ボルデ姉妹の家で,マリオン・ダンに個人的にバプテスマを施す取り決めが設けられました。何年も後に,ラ・ボルデ姉妹は当時を回顧して,「私はダン姉妹と一緒に働いて多くのことを,つまり忍耐や謙遜さを学びました」と述べています。

さらに援助が備えられる

米国の協会本部で働いていたジョン・C・レインボーは,1924年にセントビンセントの証人たちと共に1週間を過ごすよう割り当てを受けました。兄弟の訪問はこれら忠実な姉妹たちだけでなく,首都キングスタウンのカーネギー・ライブラリーにおける兄弟の講演に出席した人々にもすばらしい励みを与えました。

ジョージ・ヤングは各島を回る2度目の宣教旅行の際,これらの姉妹たちを援助するためにセントビンセントにも立ち寄りました。1932年のその時,カーネギー・ライブラリーで上映された「創造の写真劇」はたいへんな好評を博しました。事実,聴衆の要請でもう一度,今度は首都の裁判所庁舎で上映する取り決めが設けられました。ヤング兄弟は一連の公開講演を行ない,週ごとの「ものみの塔」研究を取り決めるよう姉妹たちを援助しました。兄弟はさらに,これら謙遜な人々の間で真の崇拝を促進する助けとして,この島で家から家の宣教を始めました。

神を模索し,その方を見いだす

1939年から1945年にかけての戦時中,セントビンセントで進展したある出来事は,羊のような人々を集め入れる面でみ使いの導きがあったことを確かに例証しています。ライレー山脈の高みに立って,そこから南方を見ると,およそ16㌔先にベクイア島が一望でき,さらに北方を見ると,目がくらむような眺めのメソポタミア渓谷が眼下に見渡せます。この山脈の高地に住んでいた誠実な人々の一グループは,神について学ぶため定期的に集まっていました。彼らは間違った指導を受けていましたが,それでも『神を模索して』いました。(使徒 17:26,27と比較してください。)そのグループの主教レオナード・ポープと,リーダーのアルバート・フォーブズ,それに彼らが称するところの“シェーカー教徒たち”の会衆は,ものみの塔出版物の価値を認めるようになって,それらの出版物を自分たちの集まりで用いていました。

1942年のある日,ルパート・G・ワイリーは,キングスタウンのポールズ・ロットと呼ばれる地域で説教を行なっていたレオナード・ポープの話を聞こうと立ち止まりました。ポープは大きな声で説教を行なっていましたが,ものみの塔協会が発行した文書の読者だったワイリーは,ポープが話す事柄を聞いて,ポープも同じ文書を読んでいるに違いないと感じました。さらに,ジェスチャーをするためにポープが勢いよく振りかざしていた手には1冊の本がありましたが,彼はそれを頻繁に引用して,自分が言っている事柄はここから証明できると述べました。ワイリーの回想によると,『彼がシェーカー教徒であることは確かだが,今,彼は聞くに値する事柄を話している』と考えたようです。後日ワイリーと話をした時,ポープは,「キングスタウンのどこかに,これを学ぶための場所があるはずだ」と述べました。ワイリーはラ・ボルデ姉妹やダン姉妹を知っていたので,ポープを二人のもとに案内しました。ポープは姉妹たちと会って,真理についてさらに学びました。ほどなくしてポープと,8人から成る彼の会衆は,週ごとの「ものみの塔」研究に出席するため,8㌔の道のりを歩いてキングスタウンまで出かけるようになりました。

1944年,協会のトリニダード支部の監督ギルバート・タルマがセントビンセントを訪問中に,彼ら8人は皆,エディンボロ・ビーチでバプテスマを受けました。とはいえ,ライレーのこの証人たちのグループが組織されて,セントビンセントで2番目の会衆が設立されたのは1947年になってからでした。最初の会衆はキングスタウンにありました。その翌年,かつての“シェーカー教徒たち”の幾人かは全時間の開拓者となり,起伏の多い田舎の地域で効果的な証言を行ないました。

ポープ“主教”のグループにいた元8人の最後の一人,レオノーラ・フォーブズは,関節炎のために足が不自由でしたが,1988年3月に亡くなるまで,王国の良いたよりを広める業に最後まで活発にあずかり続けました。彼女は若い人にも年配の人にもすばらしい励ましの源でした。

王国会館を建てるために丘の上の小さな地所が寄付されたとき,これら勤勉な働き人たちは熱心に仕事を行ないました。そこはすばらしい景色が見渡せる場所でしたが,そこで建設を行なうのは挑戦となりました。兄弟姉妹たちは建築材料を頭の上に載せて,川や一番近くの道路から2.4㌔離れた建設現場まで運びました。ついに会館は完成し,兄弟たちが島で所有する最初の王国会館となりました。美しい眺めのこの王国会館に近づくには,粘土質の丘を切り崩して設けた階段を上って行きます。言うまでもなく,雨天の場合にはこの階段は非常に滑りやすくなるため,旅行する監督たちの中には,上っている途中で足を滑らせて,立ったまま,もしくは別の格好で丘の下まで滑り落ちた人も少なくありませんでした。

続いてセントルシア島へ行く前に,バルバドスに少し戻り,そこでの業の進展を見てみましょう。

証言を行なうためにバスを借りる

聖書文書頒布者<コルポーター>(現在は開拓者と呼ばれる)は,聖書文書を配布する業を広範囲にわたって行なっていました。現在77歳になるカスバート・ブラックマンは,1931年にバルバドスにいた10人の開拓者たちの一人でしたが,ほかにも44人が時間や事情の許す範囲で業にあずかっていました。

今日,バルバドスの住民は近代的な道路網を利用することができます。事実,この島は“長さが34㌔,幅は目と鼻の間ほど”と言われているのに,舗装もしくはアスファルト舗装を施した道路の距離は1,280㌔にも及びます。もっとも,50年前の交通事情は今とは大きく異なっていました。たいていの道路には見通しの悪い交差点がありましたが,それは本来,ロバが引く荷車用に考案された17世紀の道路網の名残でした。そのような理由から,ブラックマン兄弟は,「おかげで,エドウィン・ハケット兄弟の忠実な馬ハリーに兄弟の荷車を引かせて,いろいろな用を足すことができました」と述べています。

とはいえ,他の交通手段が普及してくると,兄弟たちは証言を行なうためにバスを借りるようになりました。このようにして,島にある11の教会区すべてをグループによる証言で規則正しく網羅することができました。一時期,兄弟たちは証言カードを用いて自分たちの訪問理由を説明しました。のちには,ラザフォード兄弟の説教を録音したレコードを家の人のために携帯用蓄音機にかけたり,比較的大勢の聴衆には録音再生機を用いたりしました。

通常,この島の人々は一日の早い時間に起きます。アルフレッド・ジョセフの思い出によると,ある朝,彼と他の何人かの兄弟は,西海岸の小さな部落ホールタウンで早い時間から証言の業を始めることにしました。彼らは録音再生機を木の高い場所に吊して,その音が朝の静かな空気の中を遠くまで伝わり,さらに多くの人々のもとに届くようにしました。この積極的な方法は,ある反応をすぐに引き起こしました。ジョセフ兄弟は,こう述べています。「すぐに一人の巡査部長が現場に姿を現わし,自分が“牧師”によって遣わされていることを伝えて,私たちの聖書教育のプログラムは中止されるべきであると述べました。私たちは,数分のあいだ耳を傾けてみるよう彼に勧めました。早朝から活動していること以外に,私たちが治安を乱すことは何もしておらず,私たちの王国の音信にも悪いところが何もないことを見て取ると,巡査部長は帰って行きました」。

大胆な証人たち

兄弟たちの熱心さと大胆さは,徹底的な証言を行なうという決意と相まって,当時の特徴となりました。これら初期の証人たちは,いわば門口まで音信を携えて行きました。キリスト教世界の偽善と混乱を暴露するのに熱心だった彼らは,本来なら行なわなかったであろう事柄に多くの人々の関心を呼び覚まし,真剣な考慮を払わせることに成功しました。

例えば,バルバドスのクライストチャーチにあるセントローレンス・ナザレン教会のインスという“牧師”は,アフリカにおけるジョセフ兄弟の旅行について聞くと,自分の会衆に対してアフリカでの生活に関する話をしてもらうためジョセフ兄弟を招きました。ジョセフ兄弟は,このように述懐しています。「私は快く応じ,1時間の話をすることを引き受けました。そのうちのかなりの時間を割いて,シエラレオネで私が行なった奉仕の業とそこでの生活様式について話しました。けれども,その際,ある程度聖書の教えを何か話すべきだと感じました。私はインス“牧師”と彼の伝道師に,私が引用していたエゼキエル 34章やイザヤ 28章などの聖句のあとを目で追ってほしいと言いました。そのあと,なおいっそう大胆になった私は,イザヤ 56章10節と11節を読んでみるようインスに勧めました。[そこにはこう書かれています。「その見張り人らは盲目なり。みな無知にして,みな物言えぬ犬にして,……」― 欽定訳]とはいえ,これは少し行き過ぎたようです。というのも,インスはすぐに賛美歌をうたうよう要請したからです。けれども,会衆がうたい始める前に,私は自分の論題を引き続き発展させました。

「ちょうどそのあとで,インスは寄付を集めるよう要請しました。さて,この点でも私がインスと議論を交わしている場面を想像していただけるでしょうか。それも,何と彼自身の教会においてです。ところが,私はそうしたのです。というのも,私の脳裏には協会の方針 ―『入場は無料で,寄付は集めない』― が深く刻み込まれていたので,何も語らずにその機会を見過ごすことはできませんでした。私は会衆全体の前で,わたしたちが少しも寄付集めをしないことや,集会中に使用される電気代の支払いさえすることを説明しました。結局,寄付集めは最後までなされませんでした。

「私の話をまた別の機会に聞くことを望んでいるかどうか,会衆の人々に尋ねたところ,ぜひそうしてほしいという反応が返ってきました。とはいえ,彼らの“牧師”は二度と私を招待しませんでした。

「その出来事のしばらく後,私は屋外に録音再生機を取り付け,同じナザレン教会の後ろの部分にしっかりと向きを合わせて,ラザフォード判事のレコードをかけました。その結果,教会員たちが礼拝に集まったとき多くの人は教会の中に入らず,むしろ外にとどまって,録音された講演に耳を傾けました。それがおもに好奇心から出たものなのか,真の関心から出たものなのか私には分かりませんが,次のことは言えます。つまり,外にいた“私の会衆”のほうが,教会の中にいた人々よりも多かったということです」。

1936年ころまでに,バルバドスにはエホバの証人の会衆が四つ設立され,ブリッジタウンに一つと,クライストチャーチとセントジョージ,それにセントフィリップの教区にそれぞれ一つがありました。

盲人の男性の助けを得て他の人々の目が見えるようになる

島の各地では多くの人が真理を受け入れていました。彼らはその表明として,当時,会<カンパニー>と呼ばれていた会衆の前でキリスト教世界との以前のつながりを否認し,自分たちの聖別(献身)を宣言していました。のちには,水のバプテスマによってそのことを象徴するようになりました。1930年代の後半にこのことを行なった人々の中に,セシル・アレンがいます。

セシルはある異なった状況で公の宣言を行ないました。セントフィリップのブレーズ・ヒルにあるナザレン教会の副牧師として,彼はすでに多くの聖句を覚えていましたが,「健全な言葉の型」を理解したことは一度もありませんでした。(テモテ第二 1:13)それでも,ブラックマン兄弟が彼に証言をしたとき,セシルは盲人であったとはいえ,真理を見定めるのに時間をさほど要しませんでした。この時点で彼は,ナザレン教会との交わりにおいて自分が霊的な啓発を長年得損なってきたことに大きな怒りを覚えました。その後まもなく,彼は教会の中で立ち上がって,宣言を行ない,自分がもはや教会の人々とは交わらないことや,エホバの証人の一人になったことを告げました。彼は教会員たちから非常に深く愛されていたので,その場にいた人々の多くは涙を流し,彼に去らないでほしいと頼みました。しかし,アレン兄弟が彼らに行なった証言の結果,その後年月がたつうちに,これら涙を流した人々の多くが真理を受け入れました。

兄弟は生まれつきの盲人ではなかったので,地域にたいへんよく通じていました。人に付き添われて区域内を回る時は,自分がいる正確な場所と,その際に自分が通り過ぎるどの家の住人をも言い当てることができました。その並外れた熱心さと優れたユーモアのセンスゆえに,兄弟は他の人々から慕われました。兄弟は魅力的な態度で人々と接し,そこに笑顔を誘うような笑いを交えることにより,自分が取り上げている聖書の論点を十分強調するとともに,要点を心にしみ込ませるための休止を興味深く取り入れることができました。後日ブレーズ・ヒルに設立された立派な一会衆のために,兄弟は少なからず貢献しました。兄弟が証言をして大きな助けを差し伸べた人々の一人に,オズワルド・バトソンがいます。バトソンは開拓者となり,後には巡回監督として,その後は1957年に亡くなるまで支部の区域内にある六つの島で地域監督として奉仕しました。アレン兄弟も同様に亡くなりました。

第二次世界大戦中の神権組織

世界中のエホバの民にとって1938年は歴史的に意義のある年となりました。完全な神権組織の必要性がその年に理解されたからです。カリブ海の東部では,世界の各地と同様,組織の構造が強化されつつありました。これはまさに神慮によるものでした。というのも,そのような組織は,その後まもなく起きた世界大戦の時期に中立を保つよう真のクリスチャンを助けるのに必要とされた一致に貢献したからです。

これらの島は直接戦闘に巻き込まれなかったものの,イギリスの植民地として,軍務に必要とされる人材を提供しました。しかし,兄弟たちは軍事活動に一切関与せず,人類の唯一の希望としてエホバの王国を指し示すことに努力を傾けました。協会の出版物に対する公の禁令は課されていませんでしたが,役人たちは自分たちの高い地位を利用して,王国の活動において助けとなる文書やレコード,書類その他の供給物の輸入を規制しました。

結果として文書の不足が生じました。そのため,兄弟たちが受け取った出版物は何であれ,細心の注意を払って使用されました。ルーシー・グディング姉妹ならびにバルバドスにいた他の数人は,専従の筆記者となって,自分たちが受け取ったすべての「ものみの塔」誌の研究記事を複写し,兄弟たちに分配しました。セントビンセントのラ・ボルデ姉妹は,当時交わっていた人々すべてが示した態度を回顧し,心からの感謝を表明して,こう述べました。「私たちは最新の情報について行けたことを,エホバに,また私たちと共に天の召しにあずかった親愛なるグディング姉妹に感謝しています」。

戦争が終結した後,協会の出版物を再び輸入するための許可を求める訴えが政府に対してなされました。その後まもなく,積み荷は届くようになり,それ以来困難な状況は生じていません。

ギレアデの卒業生たちが到着する

このころ,バルバドスを含む多くの国が,予期していなかった祝福を受けようとしていました。1945年を皮切りに,ものみの塔ギレアデ聖書学校の卒業生たちが到着したのです。これは業に何と大きな刺激を与えたのでしょう。

ジェームズ・ベリーとベネット・ベリーの二人の肉の兄弟,それにフランクリン・ラマー・ペートは1945年11月に宣教者として奉仕を開始しました。彼らは当時兄弟たちの僕と呼ばれた巡回監督として,現在バルバドス支部の管轄下にある他の島々でも奉仕しました。彼らはギレアデで受けた優れた訓練を兄弟たちと分かち合ったので,会衆内と野外宣教の双方において,教える面での基準は目に見えて向上しました。

初めてバルバドスの兄弟たちは,割り当てられた研究資料の予定された節すべてを定められた時間内で網羅することの益を認識しました。これは特に,一部の人々の間で議論的な霊が芽生えていたブリッジタウン会衆を益するものとなりました。そうした霊が改善されることにより,霊的な成長がさらに促進され,新しい人や若い人が大勢交わるようになりました。

このころ,バルバドスには六つの会衆があり,72人の活発な伝道者が交わっていました。その年の記念式には199人が出席しました。一方,グレナダでは15人の伝道者が報告を提出し,記念式に22人が出席しました。

会長の訪問

戦争が終わった翌年の1946年,協会の会長ネイサン・H・ノアと当時の副会長フレデリック・フランズが初めて西インド諸島を訪れました。といっても,今回は,カリブ海東部の島すべてにおける王国の業を監督していたトリニダード島だけが訪問を受けました。

トリニダードのポートオブスペインにある支部事務所から一通の手紙が届いたとき,実に大きな興奮と感謝の念がわき起こりました。すべての会衆にあてられたその手紙には,一部こう記されていました。「大会が取り決められ,公開集会ではノア兄弟が話をしてくださいます。今回の旅行でノア兄弟とフランズ兄弟が他の島々を訪問するのは不可能であるため,どうぞ兄弟たちに次の事柄をお知らせください。……できる範囲で,会<カンパニー>の僕たちと開拓者たちが来るのはよいことと思われます。これは西インド諸島の兄弟たちにとって,協会の会長と副会長に会い,王国の奉仕を促進する面で大変貴重な情報を得るためのすばらしい機会となるでしょう」。

とはいえ,トリニダードに出かけることができなかった人々でさえ,その大会のプログラムの益にあずかりました。そのことを可能にするため,その年の10月にバルバドスで大きな大会が開かれたのです。このころには,ギレアデのもう一人の卒業生ジョシュア・スティールマンが到着していて,大会のプログラムの一部にあずかりました。この大会で兄弟たちは,現在巡回監督と呼ばれている“兄弟たちの僕”が諸会衆を定期的に訪問するようになるという知らせを聞いて喜びました。出席者の最高数は902人でした。これはバルバドスにおいて,大規模でよく組織された大会を行なう時代の始まりとなりました。

その大会によって強められた人々の中に,ゴール家の実の兄弟であるセントクレアとフランクがいました。宣教者たちが示した真の開拓者精神は二人にたいへん大きな感銘を与えたため,彼らもやはり開拓奉仕を始めました。1950年にフランク・ゴールとフィッツ・グレッグは,ギレアデ学校に出席するよう招待された最初のバルバドス人となりました。第16期のクラスを卒業すると,二人は共に英領ホンジュラス(現在のベリーズ)に任命されました。

地元の兄弟たちは時として並々ならぬ努力を払い,エホバは彼らの上に豊かな祝福を注がれました。81歳になるダドリー・メイヤーズは,当時を振り返って,こう述べています。「セントジェームズのホールズ村にあった私たちの小さな群れには,私の家族4人を含む10人の人々しかいませんでした。兄弟たちの一人は高齢で,そのうえ姉妹たちが多かったため,私は,当時 会<カンパニー>と呼ばれていた会衆の中で僕が有する立場すべてに任命されました。後日,私たちはその最初の場所から5㌔ほど離れた,セントマイケルのケーブヒルに場所を移しましたが,そのときから物事は実際に改善され始め,今日では135人の伝道者と,日曜日の集会に200人以上の出席者が見られるまでになりました」。心臓発作を3度経験したものの,メイヤーズ兄弟自身,補助開拓者として定期的に奉仕を続けています。

彼らはあきらめなかった

宣教者たちが地元の環境に順応し,風土病に対してある程度の免疫ができるまで,しばらくの時間がかかりました。彼らの多くはあきらめることなく,任命地にとどまりました。

途中でやめることをせず,兄弟たちからたいへん愛されるようになった人の立派な例として,スベン・ヨハンソンがいます。彼とリチャード・ライドは1949年3月にグレナダで宣教者として奉仕するよう割り当てられました。スウェーデン出身のヨハンソン兄弟は,マラリア熱にかかった時のことを思い出します。その病気がどのようなものかを知らなかった兄弟は,風邪だと思い込み,独身として自分が知っていた最善の方法で治療を試みました。しかしついに,その病気が自分の想像した以上にずっと深刻なものであることに気づきました。兄弟は次のように記しています。「医師の手当てを受けたときは,手遅れの状態でした。みんなは私が死ぬものと考えました。私のパートナーである宣教者のリチャード・ライドは,葬儀の取り決めについてノア兄弟に手紙を書くことさえしました。ノア兄弟はすぐに返事を書いて,利用できる最善の治療が私に施されるのを見届けるよう,リチャードに指示しました。

「最終的に,私は生き延びました。すると今度は,私のパートナーが同様の病気にかかりました。私たちは共に同じ症状を何度も繰り返しました。あるときには二人とも病気になって,同時に寝込んだこともありました。どちらが起き上がって他方の世話をし,必要な家事を顧みるかを決めるため,よく体温を比較したものです。熱の高いほうは寝ていることができました。私たちは長年,この厄介で,繰り返し再発する熱と闘ってきました。私について言えば,治るまでに8年かかりました」。

正直な仕事ぶりゆえに尊敬される

ヨハンソン兄弟は,自分が地元の姉妹と結婚した場所であるグレナダだけでなく,セントビンセントでも奉仕しました。1951年に兄弟は妻と共にセントビンセントに行き,そこで数年間正規開拓者として奉仕しました。もっとも,兄弟がそこに落ち着いたとたん,警察署長からの通告で,五日以内に島を離れるようにと命じられました。そのすぐあとに行なわれた署長との会見で,兄弟は外国のスパイであるゆえに望まれない人物であると告げられました。ヨハンソン兄弟は,自分がエホバの証人の一人で,政治には関与していないことを署長に説明しました。警察署長はあくまで態度を変えませんでした。

ヨハンソン兄弟は,次のように記しました。「私はぜひ島の行政官に会わせてほしいと願い出ました。面会の約束を取りつけた後,私は30分ほど行政官と話をすることができました。行政官は前もって警察署長から聞いていたこと,つまり私が今や望まれない訪問者であることを確認しました。行政官はさらに,私がカトリック教徒たちに反対していると断言しました。自らもカトリック教徒だった行政官はそのことをとても気にしていました。私は,自分がカトリック教徒に反対しているわけではないので安心できることを行政官に伝えました。そして,自分の通っていた床屋の主人がカトリック教徒であったことや,聖書について話し合うためカトリック教徒たちの家を訪問したことを説明しました。最後に,行政官はこう述べました。『ヨハンソンさん,あなたはラジオをとても上手に修理されるそうですね。うちには修理の必要なラジオが2台あるのですが,明日,あなたのところに送って修理をお願いするつもりです。島には滞在していただいても構いません』。そのあと行政官は受話器を取って,警察署長に電話をかけ,私が島に滞在できるよう署長に指示を与えました」。

ヨハンソン兄弟が世俗の仕事において模範的であることから,一度ならず立派な証言がなされました。一人の実業家は欠陥のあるラジオの修理を担当させるため,信頼のできる正直な人を探していました。その人は種類が同じで,調子のよいラジオ2台を選んで,各々のラジオの回路にある線を一本切断しました。そのあと,自分が取り引きしている中で最もふさわしいと思われる技師二人のもとに,それら2台のラジオを送りました。ヨハンソン兄弟は修理のために受け取っていたそのラジオを送り返す際に,40㌣(約50円)の請求書を同封して,切れていた線をはんだ付けしたことを伝えました。もう一人の技師は,真空管や他の部品の交換に要した費用の請求書を送りました。ヨハンソン兄弟はその会社でラジオの修理技師として働くことになりました。

ヨハンソン兄弟はこれらの島で過ごしてきた39年間に,巡回や地域,それに特別開拓の業にあずかりました。現在はバルバドスに住んで,正規開拓者として,さらにはこれらの島における王国の業を監督する支部委員会の一員として奉仕しています。兄弟は最近,重い心臓発作を患いましたが,再び元気を取り戻しました。兄弟の心臓はやや弱ってきているので,幾分ゆっくりと活動する必要があります。長年にわたる兄弟の模範を見て,コリント第二 6章4節から6節にあるパウロの注解を思い出す人は少なくありません。そこにはこうあります。「あらゆる点で自分を神の奉仕者として推薦するのです。多大の忍耐と,患難と,窮乏と,困難と,……辛抱強さと,親切さと,聖霊と,偽善のない愛と(によってです)」。

セントルシアで王国の業は前進する

バルバドスの北西192㌔の地点にあるセントルシアは,樹木の生い茂る美しい熱帯の島で,12万人の住民がいます。海面からそそり立つ,円錐形の一対の鋭峰,グロ峰とプティ峰で有名なこの島は,バナナとコプラを産することでも知られています。

1947年には,セントルシアもまた王国の実を生み出すようになりました。地元で最初の証人となったのは,リアナ・マチュリンです。彼女は真理を受け入れた時,ガイアナのデメララに住んでいました。彼女はノア兄弟に手紙を書いて,セントルシアで良いたよりを広めるため自分に手伝えることが何かあるかを尋ねました。ノア兄弟からの励みある返事を受け取った後,彼女は首都カストリーから48㌔ほど離れた村,ミクーに移りました。

2年後,ギレアデで訓練を受けた宣教者,ロイド・スタルとウィリアム・カマーズが到着しました。この島におけるエホバの証人の全人口は,この二人とリアナ・マチュリンとで成り立っていました。

この熱心な姉妹は,フランス語と英語の入り混じった地元の方言に通じ,田舎に住む人々の多くに聖書からの慰めの言葉を伝えました。姉妹は自分の個人的な資金を使って小さな王国会館を建てました。その会館には二つの部屋が,それぞれの側に一つずつ付け加えられました。姉妹は一つを自分の住まいとし,もう一つは旅行する奉仕者のために確保しました。姉妹は82歳になりますが,正規開拓者として引き続き熱心に奉仕しています。

カトリックが優位を占めるセントルシアで,宣教者たちがふさわしい住居を手に入れるのは多少の挑戦となりましたが,スタル兄弟は,「自分たちが必要とするものはすべて,家から家の宣教で備えられるという見方を私たちは持ちました」と述べています。そして確かに,彼らの必要とするものは幾度にもわたって顧みられました。

長年の間に,さらに多くの宣教者がセントルシアに遣わされました。その中には,米国から来たフレッド・ディアマンや,カナダから来たウィリアム・ホンシンガーとエディス・ホンシンガーがおり,彼らはいまも忠実に自分の任命地で奉仕しています。彼らの愛ある労苦に対して,エホバの祝福はまさしくはっきりと表わされてきました。というのも,現在この島には四つの立派な王国会館があり,五つの会衆とそこに交わる380人の熱心な伝道者の必要に役立っているからです。

大会旅行の際に見られた船酔い

最初のころ,兄弟たちはさまざまな島で開かれる大会に出席するため,スループ(一本マストの縦帆船)や帆船やスクーナー(縦帆船),または島と島の間の海上を移動する船を何でも利用しなければなりませんでした。島々を結ぶ,信頼できる航空便はありませんでした。たくましい船乗りだった人々にとって海上の旅は何でもないことでしたが,スタル兄弟のような一部の人には,たいてい気分の悪くなる経験となりました。

ある人はそうした旅の一つを,このように描写しました。「船に強くなかったスタル兄弟は,たいへんな船酔いをしました。さらに,事態をさらに悪化させたのは,一日の旅となるはずのものが,海が荒れたために三日もかかってしまったことです。

「船倉と客室には積み荷があったので,睡眠は甲板の上で取らねばなりませんでした。覆いとなる防水シートもありましたが,結局,雨や波しぶきが入り込んできました。スタル兄弟は船酔いがひどく,身をかばう体力もなかったので,ほとんどずっと風雨にさらされていました。太陽が照っている日には,私たちは兄弟の体を一方の側に寝返らせて乾かし,その後もう一方の側に寝返らせて体をすっかり乾燥させました。やがてまた悪天候が続くと,同じことを繰り返しました」。

大会の行なわれる島が見える範囲内に友人たちがたどり着くまで,その悲惨な経験は続きました。しかしその段階でもまだ,安心はできませんでした。潮の流れが逆転すると,船は沖に押し流されて,また見えなくなりました。ようやく接岸できたと思ったら,入国管理と税関の担当職員がすでに部署からいなくなっていることを知り,兄弟たちはたいへんがっかりしました。そのため,兄弟たちはスクーナーの上でもう一晩過ごさねばなりませんでした。

宣教者としてグレナダにいたリチャード・ライドも,島から島に移動する旅で困難な経験をしました。兄弟はバルバドスで行なわれる大会の司会者として奉仕することになっていました。兄弟はバルバドスまでの連絡船があると考えて,グレナダから船でセントビンセントに行きました。島と島の間の交通が当てにならないことを知っていた兄弟は,大会前の仕事にあずかれるように,十分の時間を見込んでおきました。ところが海の状況のせいで,ライド兄弟がバルバドスに着いたのは,公開講演にやっと間に合う時間だったのです。兄弟の乗っていた船がバルバドスに近づくと,乗客の目には陸地が何度か見えました。岸を歩く人々の姿さえ見分けられました。けれども潮流の逆転と風のために,岸にはなかなかたどり着けませんでした。迷信深い船員たちはこれらの状況を不吉な兆しとみなして,十字架をかざしましたが,何の役にも立ちませんでした。無理もないことですが,嫌気がさしたライド兄弟は船員たちに,「皆さん,十字架など不要です。必要なのは補助モーターです」と言いました。

本部からの訪問

1949年,カリブ海を回る2度目の旅行でノア兄弟がバルバドスを訪問するという知らせを聞いて,兄弟たちはどれほど喜んだことでしょう。今回は,同じく本部の成員であるミルトン・ヘンシェルが同行することになっていました。スティール・シェッドで開かれることになっていた,島々を結ぶ地域大会は,その訪問と同じ時期に取り決められました。

「あなたが考えているよりも時は迫っている!」と題する公開講演には3,000人が出席しました。その後の25年間,その数字を上回る記録は見られませんでした。その大会中,ノア兄弟はさらに,カリブ海の島々に霊的恩恵をもたらすことになる論題,すなわちギレアデにおける訓練の見込みについて開拓者たちと話し合いました。

“地獄を否定する宗教”

バルバドス人の生活文化には,聖書に対する人々の深い愛が織り込まれています。そのうえ,多くの人は読み書きができ,学習意欲が旺盛であるため,家から家の宣教は楽しく,やりがいのあるものになっています。話を断わられることはめったにありません。むしろ,生き生きとした宗教上の話し合いに発展することがあるので,聖書によく通じ,それを巧みに用いることが求められます。

特に1960年代から1970年代にかけて,しばらくの間,人々はよく証人たちのことを,“地獄を否定する宗教”と呼びました。兄弟たちの一人は,ガートルード・リントンが地域社会の人々から“地獄を否定するガーティー”と呼ばれたのを思い出します。その意図は明らかに,わたしたちの音信に関心を示していた人々をつまずかせることにありました。そのため巡回大会のプログラムの一部で,ジェームズ王欽定訳を用いて,こうした反対意見に対処する方法を示すことが必要になりました。ジェームズ王欽定訳の中で欄外参照の付いた,詩編 55編15節と86編13節,またイザヤ 14章9節やヨナ 2章2節などの聖句が用いられました。たいていの家庭には,欄外参照の付いた同じ版の聖書があったので,兄弟たちは人々と論じ合う際に彼らの聖書を用いて,聖書で言及されている地獄が火の責め苦のある場所ではなく,墓であることを確かめるよう彼らを援助できました。この方法はたいへん効を奏したようです。というのも,こうした反対意見はもはやほとんど聞かれなくなったからです。

グレナディン諸島を証言で覆う

当時この支部の区域にあった主要な島々では立派な証言がなされていましたが,グレナダとセントビンセントの間に散在している小さな島々にも注意を向ける必要がありました。これらの島はグレナディン諸島と呼ばれています。

今日この地域を飛行機で旅行する人がこれらの島を見失うことはまずありません。しかしずっと以前に協会は,これらの島に行くため,シビア号と呼ばれる,長さ20㍍のスクーナーを購入しました。宣教者たちから成る国際的なグループが,グレナディン諸島中最大の島カリアコウに錨を降ろしたのは,1950年3月18日のことでした。乗組員たちの中には,アーサー・ワースレー,スタンレー・カーター,ロナルド・パーキン,それに船長を務めたガスト・マキがおり,全員が良いたよりの熱心な宣明者でした。ほどなくして,この34平方㌔の島に住む7,000人の人々が,最初の組織立った証言を受けました。

比較的孤立しているとはいえ,人々の間に心温まる精神が見られることに兄弟たちは気づきました。人々は物質的には多く持っていませんでしたが,これは宣教者たちにとって少しも問題ではありませんでした。宣教者たちは与え,分け合う目的でそこにいたからです。これら謙遜な人々を援助するため,宣教者たちはしばしば聖書や他の文書を地元の産物である落花生やとうもろこし,それに野菜と交換しました。1950年8月29日に,地元の最初の証人である姉妹がバプテスマを受けました。1952年9月22日には一つの会衆が組織されました。今日その会衆には43人以上の伝道者がいますが,言うまでもなく,島から移転した伝道者も多くおり,彼らは現在ヨーロッパや北アメリカ,カリブ海の他の島々に住んでいます。

グレナディン諸島の中で,昔のままの姿を保ち,素朴な美しさを残している島にベクイアがあります。その島の美しい港ポート・エリザベスにシビア号が入ったのは,1950年4月5日のことでした。その後何年もの間にシビア号は,およそ6,000人の住民がいるこの島を10回にわたって訪問しました。今日,約20人の伝道者から成るしっかりとした会衆が,この島における関心事を顧みています。

1953年に協会の会長は,シビア号に取って代わる大型の船として,「ル・シュバル・ノアール」と呼ばれる発動機船の購入を承認しました。その名称は,「光」という一層ふさわしい名称に変更され,この二軸式の船の目的を正しく伝えるものとなりました。船内には8人が生活できるスペースがありました。島と島の間の短い距離を移動する場合には,50人もの人を運ぶことさえできましたが,これはたいてい,大会に出席する伝道者たちを島から島へ運ぶ場合になされました。

ハリケーン・ジャネット後の援助

1955年9月にハリケーン・ジャネットが,バルバドス,ベクイア,カリアコウ,グレナダ,それにセントビンセントの島々を吹き抜けました。この地域に住む人々の記憶ではそれまでに一度も経験したことのない速度の風が,怒り狂った雄牛のように,樹木や家屋を引き裂きました。さらに北へ移動する前に,ジャネットはまる一週間,凄まじい破壊力でこれらの島々を吹き荒れました。カリアコウの家屋や建物の90%が倒壊ないしは全壊しました。

ハリケーンの影響を被った人々に対して兄弟たちが示した愛は,まさに際立っていました。ガスト・マキは,このように述べました。「ハリケーンが吹き荒れていた間,私たちは光号と共にプエルトリコの地域にいました。プエルトリコの兄弟姉妹たちは,カリアコウの兄弟たちのもとに持って行くようにと,多くの衣類と食料品を私たちに託しました」。人々が示した反応を振り返って,兄弟はさらにこう続けました。「カリアコウにあった教会はすべて破壊されたので,数か月間,礼拝は行なわれませんでした。カトリックの司祭たちが,島を離れる前に自分たちの教会員の家に行き,聖さん式を施す姿が見受けられました。英国国教会の司祭は一人の教区民の家を訪ねて,教会を修理するための資金を求めましたが,この人は当時,間に合わせに作った台所で生活していました。その女性は,『うちの主教はお金を請い求めるために来るけれど,エホバの証人は仲間の信者を助けるために来る』と話していたようです」。

移住は成長に影響を及ぼす

1950年から1970年までの年月を通じて,支部の区域全体で組織の成長と発展の傾向に変化が見られました。カリブ海東部の各地から来た人々は,“より良い生活”と経済状況の改善を求めて,さらに開発の進んだ国に移住する必要があると感じていました。このことは特にバルバドス人に当てはまりました。30年の間にバルバドスでは,正味7万4,000人の人口の流出が報告されました。

兄弟たちの経済事情は,他の人々の場合と何ら異なりませんでした。多くの兄弟たちは二つの差し迫った必要 ― 家族のために衣食住を備える必要と,霊的な事柄を引き続き第一にして,真の崇拝における家族の一致を保つというさらに緊急な必要 ― のどちらを優先すべきか悩んでいました。こうした状況は,島に住む家族の頭たちに相当の自己吟味を求めるものとなりました。

たいへん熱心な伝道者であった兄弟たちの一部が島を去ったので,多くの会衆はかなり弱くなりました。ある場合には,家族の一人が長いあいだ家を留守にしたことが原因で配偶者が不忠節になり,結婚生活に生じた裂け目を修復するため,長老たちによる戒めと指導が必要になりました。家族が一緒に生活しなかったために,子供たちが非行に走る例も見られました。歳月が経過し,戻って来た移住者はたいてい,暮らし向きがよくなっていましたが,家族関係に及んだ被害と霊的な損失を考慮して,『果たして,得るところがあったのだろうか』と自問する人々もいました。

より優れた選択と,より大きな祝福

とはいえ,経済的な誘惑に抵抗し,家族の結束を保って,困難な時期を忍耐した人々もいました。彼らはまさに創意工夫を凝らし,そうすることによって豊かに祝福されました。立派な手本を示した人々として,ミルトン・アレンとフィッツ・ハインズの二人を考慮してみましょう。

ミルトン・アレンは熟練した,経験のある請負業者でしたが,移住してみたいという強い衝動に抵抗しました。単に経済面だけでなく,それ以外の面でも自分の家族を援助し,地元の兄弟たちを援助できるように,兄弟はその土地にとどまりました。兄弟は家族の結束を保った結果,現在では四人の子供全員が献身してバプテスマを受け,真理に活発であるという喜びを経験しています。現在,二人は正規開拓者として,一人は特別開拓者として奉仕しています。アレン兄弟は現在,バルバドスのヒラビー会衆の主宰監督として奉仕しています。

フィッツ・ハインズも辛抱強い忍耐を示しました。兄弟は36年以上にわたって会衆における指導の任に当たり,神権的な活動の最前線に立ってきました。バルバドスのシュガーヒルで現在「ものみの塔」研究の司会者として奉仕している兄弟は,やはり,真理のうちに成長するよう家族全員を援助する喜びを味わいました。3人の息子は全員奉仕の僕で,娘たちの一人は正規開拓者です。家族の残りの成員たちも,一年のさまざまな時期に補助開拓奉仕を定期的に行なっています。

幸いなことに,1950年代から1970年代にかけて見られた傾向は逆転してきていると言えます。現在では,さらに資格のある熱心な兄弟たちの中で,経済的な理由だけのために移住することを考える人は少なくなっています。

全時間奉仕の特権をとらえてきた人々の中には,ギレアデ学校の訓練を受ける機会に恵まれてきた人もいます。長年の間にバルバドス支部が10人の全時間奉仕者をギレアデに遣わしてきたことを思い巡らすと,心の温まる思いがします。各島で急速に拡大している業に対応するため,この地に再び任命された二人の卒業生,A・V・ウォーカーとO・L・トロトマンは,現在スベン・ヨハンソンと共に支部委員会の成員として奉仕しています。

弟子を作る業が順調に発展してきたことは明らかです。この邪悪な事物の体制が終わろうとする現代に,兄弟たちは必要とされる組織的な能力を身に着け,主の業と関連した責任をさらに受け入れてきました。

光号の後に継続して行なわれた業

光号(船名)に乗った宣教者たちは,島々で貴重な業を行ないました。とはいえ,一つの難しい面もありました。これらの小さな島では,人々は,誕生後の赤ちゃんにだれが洗礼名を授け,自分たちが死んだときにはだれが最後の秘跡を施し,また埋葬を行なうかをたいへん気にしていました。宣教者たちと研究を行ない,中には自分たちの教会を去るまでになった,関心のある人々は,宣教者たちが船の錨を引き揚げて別の島に行かねばならなくなると,見捨てられたように感じました。『今後はだれが,島で亡くなった人々を埋葬してくれるのだろう』と,彼らは考えました。それで,また自分たちの教会に戻りました。

こうして1957年ころまでに,協会所有の浮かぶ宣教者の家,光号は,所期の目的を果たして,売却されました。その船に乗っていた宣教者たちは他の場所に割り当てられました。陸に拠点を置く全時間の働き人たちが,示された関心を引き続き高めていく準備が今や整ったのです。

スタンレー・カーターとアン・カーターは,グレナダのセントジョージズに割り当てられました。兄弟たちを強めるために二人は忠節かつ忠実に働きました。同市の熱心な証人たちが表わした熱意により,ほどなくして,さらに広い集会場所が必要とされるようになりました。美しいセントジョージズ港を見下ろす場所に立派な王国会館が建てられ,1964年3月に地帯監督として訪問した本部の成員ロバート・ウォーレンによって献堂されました。

再調整によって,不満を抱く者たちがふるい分けられる

会衆の特別開拓者や宣教者や長老のために協会が1961年に設けた,王国宣教学校による付加的な訓練の備えは,業を組織的に強めるうえで多くの事を成し遂げました。その備えを通して,資格のある兄弟たちは経済的な便宜のために移住する代わりに,自分の任命地にとどまるため努力することの価値を認識するよう助けられました。道徳的に汚れた生活を送っている伝道者が関係した状況にも注意を向ける必要がありました。そのような問題は時として,迅速に扱われていませんでした。そのため,バルバドスのブリッジタウンとセントビンセントのキングスタウンで設けられた1か月に及ぶ訓練課程は,物事の見方において必要とされた聖書的再調整を施すものとなりました。

種々の調整がなされて,不満を述べた人もいましたが,他の人々はどのような資格であってもエホバに仕えられることを謙遜な態度で感謝しました。例えば,ルーベン・ボイスは,バルバドスのブリッジタウン会衆における主宰監督の立場を退くことになったとき,自分にとってそれは“大きな驚き”となったことを認めています。しかし彼は,それをエホバの導きによるもの,もしくはその方が許しておられるものとして受け入れました。一方,いまはもう真理の道を歩んでいない一人の人は,同情した振りを装ってボイス兄弟に近づき,「どうなさったんですか。一体,なぜあなたが削除されたのでしょう」と言いました。

ボイス兄弟は,「何をおっしゃりたいんですか」と答えました。

すると,不満の念をかき立てようとしていたその人は,「そんなことじゃ,だめですよ。あなたはこの件に関してどうするつもりですか」と述べました。

ボイス兄弟の返事は,大部分の兄弟たちが抱いていた忠節な態度を反映していました。兄弟はこう言いました。「いいですか,兄弟,これは話すような事柄じゃないんです。協会が会衆内のある立場に人を任命する場合,協会はあなたを任命する予定です,などとは言いません。それで,協会があなたを削除しても,大騒ぎをしないことです。普段のように続ければよいのです。ですから,腹を立てる事など何もありません」。こうして,その会話は終わりました。

長年にわたってボイス兄弟は,エホバとその組織に対する忠節を保ち続け,必要な懲らしめから益を得てきました。現在は全く目が見えず高齢に達していますが,兄弟は長老として奉仕しています。最近では,かつて未信者だった妻が献身してバプテスマを受けるという祝福も得ました。

新しい支部が組織される

1966年2月号の「王国宣教」(トリニダード版)に掲載された神権的ニュースの項目の中で,短いとはいえ重要な次の発表がなされました。「バルバドス,ベクイア,カリアコウ,グレナダ,セントルシア,それにセントビンセントにおける業を監督するため,1966年1月1日からバルバドスで新しい支部事務所が機能し始めました」。この時には,これら六つの島にいる証人たちの数は合計1,084人になっていました。これらの伝道者たちには,合わせて50万人以上の住民に宣べ伝える割り当てがありました。言うまでもなく,すでに証言はかなりなされていました。

宣教者の家を開設して,そこに支部事務所を設置するため,二人の宣教者がバルバドスに遣わされました。それはベンジャミン・メーソンとベリル・メーソンの二人でした。メーソン兄弟はギレアデの第2期および第39期のクラスに出席していました。兄弟を特徴づけたのは,宣教に対する熱心さでした。兄弟は少しばかり猫背でしたが,持ち前のユーモアのセンスを発揮して,自分が猫背なのは「主の奉仕において前向きに取り組んでいる」結果である,とよく話していました。

まさにその最初から,新しい支部は時を逸することなく,兄弟たちにいっそう個人的な注意を払い,その必要をさらに顧みました。そのうえ,支部事務所は島の地域社会内にあったので,会衆が供給物を受け取ることはいっそう容易になり,トリニダードに注文をして,島と島の間の当てにならない輸送業務に頼る必要はなくなりました。ほどなくして,支部の兄弟たちは皆,新しい“支部の家族”の一員としての生活に慣れました。

協会にとって今や,バルバドスに恒久的な根を下ろす時が訪れました。新しい支部事務所と宣教者の家,それに王国会館として使用するため,ブリッジタウンに立派な地所が購入されました。そこは,50年以上にわたって実に多くの神権的活動がなされた中心地,すなわち,ルーシー・グディングの家の敷地だったのです。

バルバドスの支部事務所はブリッジタウンの理想的な場所に位置し,新しい郵便本局から一ブロック,ブリッジタウン港からは歩いて約10分のところにありました。その立派で清潔な外観の建物は,そばを通る人々 ― その人々は建設に携わる証人たちの一致した努力をも目にした ― からしばしば称賛の言葉を受けました。すべての会衆は実際の建設に参加し,それ自体が大きな証言となりました。

支部の建物の建設作業に協力したことや,そこから生まれた連帯感をきっかけに,兄弟たちは,必要とされていた王国会館の建設についていっそう真剣に考慮しました。にわかに兄弟たちは,建設の人材を島の兄弟たちの間で容易に賄えることに気づきました。こうして,支部の建物が献堂されてから18か月のうちに,八つの新しい王国会館が支部の管轄区域に建てられました。数例だけを挙げてみると,最初の会館がバルバドスのケーブヒルで献堂され,それに続いてセントルシアのカストリーやグレナダのグレンビルで他の会館が献堂されました。支部の区域全体には現在28の王国会館があるため,33の会衆すべては,兄弟たちの所有する建物で集まることができます。

周囲で起きた政治的変化

1958年を境に,西インド諸島の各地で大きな政治的変化が生じました。北西のジャマイカから南のトリニダードにかけて,西インド諸島の十の島々が結合して連邦となったのです。しかしこれは大失敗に終わったため,1962年5月に解体されました。これらの島すべてが一つの国家として政治的独立を行なう代わりに,それぞれの島が自らの力で独立を目ざすことになりました。このようなわけで,バルバドスは1966年11月30日に独立国となりました。グレナダやセントルシア,それにセントビンセントも後日独立を果たしました。

しかし,こうした政治情勢が,各島に住む兄弟たちの関係に影響を及ぼすことはありませんでした。これらの島が独立する以前にも,またそれ以後にも,兄弟たちは常に聖書の中立の原則と調和した生活を送るように努めました。兄弟たちは,キリストがご自分の追随者たちに関して,「わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」と言われたことを十分承知しています。(ヨハネ 17:16)さらに兄弟たちは,使徒パウロの述べた,「できるなら,あなた方に関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい」という言葉によっても導かれてきました。(ローマ 12:18)兄弟たちは政治に関与せず厳正中立を保ったので,愛されることはなくとも,それぞれの島の政府から大いに尊敬されるようになりました。兄弟たちは,特に選挙期間中,市民の義務とみなされる事柄を行なわないので,政治家たちが時としていらだちを覚えることはありますが,この問題に関して兄弟たちが実際に深刻な問題を抱えたことは一度もありません。

例はわずかながら,証人の子供たちの中には,政治的な忠誠の誓いや宣誓を行なわないために放校処分の脅しを受けてきた児童もいます。そうした事態が生じた場合,特にバルバドスでは,島の憲法の特色の幾つかに学校当局者の目を向けることが助けになりました。そこで保障されている権利を学校当局者に思い起こしてもらうと,事態がさらに困難になることは滅多にありませんでした。「学校とエホバの証人」のブロシュアーは,わたしたちの立場を学校当局者と教師たちに説明するうえで優れた道具となりました。

ギレアデ卒業生たちは立派な手本を示す

すべての島は,ギレアデの訓練を受けた旅行する監督や宣教者たちから益を受けてきました。そのひとりびとりが,良いたよりを広めることや諸会衆を強めることに大きく貢献したのです。

1960年にジョン・ミルズとリン・ミルズは巡回の奉仕を行なうため,トリニダードからバルバドスに来ました。しかも二人は幼い子供を持ちながら,多年にわたりこの奉仕を首尾よく果たしました。

リチャード・トウズとゲイ・トウズは宣教者の割り当てを果たすため,1967年2月21日にバルバドスに到着しました。その同じ年にトウズ兄弟は支部の監督をするよう割り当てられ,兄弟はその責任を13年間立派に果たしました。使徒パウロがテモテに行なうようにと指示したとおり,当時支部にいた兄弟たちは,外国の宣教者たちよりもむしろ地元の兄弟たちが責任を担って肝要な割り当てを果たせるよう,それら兄弟たちを育成し,訓練することに努めました。―テモテ第二 2:2

気さくで,勤勉なゲイ・トウズ姉妹は,バルバドスで生活した年月を通じて,立派な宣教者であることを実証しました。姉妹は“バルバドスの”表現にたいへんよく通じるようになり,家から家の宣教でそれらの表現を頻繁に用いました。もっとも,カナダ人がバルバドスの慣用句をたとえよどみなく話しても,本来の発音と全く同じようには聞こえませんでした。姉妹は関心のある人々を組織に導く面でかなりの成果を収めました。健康を害したために,トウズ兄弟と妻のゲイはやがてカナダに戻りましたが,二人は現在地域の奉仕にあずかっています。

現在,バルバドス支部は10人の宣教者と五つの宣教者の家を有しています。5人の旅行する監督のうち四人は,ギレアデの訓練を受けた人々です。現在全時間奉仕で仕えている人々の多くが,全時間奉仕を始める動機付けとなった事柄の一つは宣教者たちの立派な手本にあった,と述べています。

宣教者によるこれほどの援助があったので,当時存在した不道徳な状況さえなければ,増加はさらに大きくなっていたかもしれません。ある島では,地元で生まれた子供全体の78%は私生児です。キリスト教世界の諸宗派はいわゆる新しい道徳を安易に取り入れようとしますが,エホバの民はそのようにできません。ある島の行政官は,そのような乱れた性関係がもたらす結果に社会的尊厳を付そうとして,最近提出された家族法改革法案の中で,(私生児を描写するための)非嫡出子という言葉を法令集の中から削除しました。それで兄弟たちは,エホバの高い道徳規準につき従うことを再三にわたって強調する必要がありました。

ブリッジタウンで行なわれた国際大会

1978年に一連の国際大会の一つを開催した際,バルバドスの兄弟たちの霊的成長と円熟,それに進歩を示す兆候がはっきりと観察されました。兄弟たちはそうした特権を喜んで受け入れ,大々的な成功を収めました。バルバドスで行なわれたどのような種類の大会でも,これほど大勢の代表者を外国から迎えたことはそれまでに例がありませんでした。代表者たちは28の国からやって来ました。

これら何百人もの代表者がバルバドスの人々と親しく交わり,ホテルや他の場所で優れた証言がなされました。その結果,ブルックリン・ベテルのカール・アダムズが行なった公開講演には6,000人以上が出席しました。英国のロンドンから来たジャック・バーとミルドリッド・バーもそこに出席し,バー兄弟はプログラムの肝要な部分を幾つか扱いました。兄弟は当時,統治体の成員として奉仕するため,米国への入国を許可する法的書類が届くのを待っていました。

無料のラジオ放送を通して証言が行なわれる

バルバドスでは,ある問題や慣行,または祝い事が話題になると,たいてい,ラジオ放送局でさまざまな意見を放送する企画が組まれました。この討論番組は,種々の問題に対するわたしたちの立場を説明するため神の民によって効果的に活用されてきました。これは結果として,わたしたちの業に対する偏見を取り除くものとなりました。あるとき,わたしたちは,クリスマスを題材にした視聴者参加番組で解答者のメンバーになれる代表者を1名派遣してほしいという要請を受けました。というのも,わたしたちはこうした祝いを行なわないからです。

解答者たちの中に英国国教会の主教がいました。プログラムが放送される前,証人たちを代表していた兄弟はその主教に近づいて,彼のことをどう呼んだらよいか尋ねました。神父,主教,または牧師とでも呼んでください,とその主教は簡単に述べました。兄弟は,そのような習慣を聖書は認めていないので,自分はそうした称号をどれ一つ用いることができない,と丁寧に説明しました。その牧師は気が動転したらしく,プログラムの司会者のところに行って,自分はあのエホバの証人と一緒に番組に出演したくないと述べました。これは,その牧師かエホバの証人のうちどちらか一方が選ばれることを意味しました。証人たちを代表する兄弟は解答者たちの中で唯一,クリスマスの祝いに同意しない人物だったので,兄弟は残らざるを得ませんでした。そういうわけで,その牧師はたいへん腹を立てて,恥ずかしい思いをしながら放送局を出て行きました。

輸血の問題と同性愛の行ないが話題になったときにも,やはり証人たちが,各々の解答者を務める代表者を派遣して,聖書の見方を述べるよう依頼を受けました。

気を散らす事柄を避ける

過去84年間に地元の神権組織が長足の進歩を遂げたと言えるのは喜ばしいことです。これらの島では神の民に対する組織的な抑圧がなかったとはいえ,ずる賢い敵対者である悪魔サタンは,他の方策に訴えてきました。不道徳,あら捜し,過度の娯楽といった,さらに巧妙な落とし穴を利用したのです。

例えば,島で最も人気のあるスポーツにクリケットがあります。これは熱烈な人気を博しているため,一人の作家は,「クリケットはスポーツを超えて,宗教に近い存在となった」と評しました。ファンの人々は,ラジオやテレビで試合の模様を知るか,さもなければ直接,バルバドスのケンジントン・オーバルにある“神聖な”クリケット競技場に出かけて観戦します。しかし兄弟たちの大半はこのスポーツがとかく時間を要することを知っているので,このほかにも,人の霊的生活を侵害しうる種々の娯楽に対して平衡の取れた見方を保つように努めました。

4月中,補助開拓奉仕に対して示された反応は,兄弟たちが王国の関心事を第一にするために本当によく努力していることを例証しています。1988年4月に,バルバドスの支部は1,009人という補助開拓者の最高数を報告しました。これは,支部の監督下にある六つの島で,会衆一つにつき平均32人以上の補助開拓者がいたことを意味します。全部で兄弟たちの46%が,その月に何らかの形で全時間奉仕にあずかったのです。そのような熱心な活動がきっと寄与したのでしょう,その年の4月に支部は2,571人という伝道者の新最高数をもって祝福されました。

島々でエホバの賛美を告げ知らせる

エホバの証人の歴史は,今やバルバドスの歴史の一部となりました。カリブ海の玄関に位置する,その静かな歩哨の地は,過去80年にわたり神の王国の良いたよりをふれ告げてきました。しかもその大きな声のゆえに,この島は,エホバ神とそのみ子イエス・キリストとの優れた関係を得ることから「さわやかにする時期」を享受するためにやって来た幾千幾万もの人々にとって,まさに霊的な門戸となりました。―使徒 3:19

ずっと昔に,預言者イザヤはこのように記しました,「エホバに新しい歌を,地の果てからその賛美を歌え……栄光をエホバに帰し,島々でその賛美を告げ知らせよ」。(イザヤ 42:10,12)この支部の区域に住む2,571人の王国宣明者すべては,エホバの賛美を告げ知らせようとする自分たちの努力の上にその方の祝福が引き続きあるようにと,一致した祈りをささげています。

[150ページの囲み記事/地図]

バルバドス支部の概要

バルバドスの首都: ブリッジタウン

公用語: 英語

主要な宗教: 英国国教会

総計人口: 62万9,184人

伝道者: 2,571人

開拓者: 299人

会衆: 33

記念式の出席者: 8,065人

支部事務所: ブリッジタウン

[地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

大西洋

バルバドス

バテシバ

ホールタウン

ブリッジタウン

セントルシア島

カストリー

ミクー

セントビンセント

キングスタウン

ベクイア島

ポートエリザベス

グレナディン諸島

カリアコウ島

グレナダ

グレンビル

セントジョージズ

カリブ海

[148ページ,全面図版]

[153ページの図版]

バルバドスの初期の証人,リナ・ゴール“ばあや”(左)とウォルデマー・ライス

[155ページの図版]

ルーシー・グディング。彼女の家は宣教者の家として用いられた

[156ページの図版]

ウィニフレッド・ヒースは生活を変化させてふさわしい資格を身に着け,1940年にバプテスマを受けた

[158ページの図版]

グレナダのクリセルダ・ジェームズは,9人の子供を真理のうちに育て上げた

[159ページの図版]

ブルックリン本部から来たE・J・カワードは,カリブ海東部の島々で奉仕した

[161ページの図版]

1918年以来の証人,フィリッパ・ラ・ボルデ“ラブ母さん”は,セントビンセントで50年間奉仕した

[165ページの図版]

カスバート・ブラックマンは荷馬車を用いて開拓奉仕をした

[170ページの図版]

バルバドス人で最初のギレアデ卒業生の一人フランク・ゴール(左)と,バルバドスにおける初期の会衆の設立を援助したダドリー・メイヤーズ

[173ページの図版]

リチャード・ライド(左)とスベン・ヨハンソンは宣教者として1949年にグレナダに遣わされた

[175ページの図版]

セントルシアに遣わされた最初の宣教者たちの一人,ロイド・スタル

[180ページの図版]

宣教者の業に用いられた,長さ20㍍のスクーナー,シビア号

[183ページの図版]

シビア号に取って代わった,二軸式の船,光号

[184ページの図版]

支部委員会の成員: A・V・ウォーカー(左),O・L・トロトマン,そしてスベン・ヨハンソン

[188ページの図版]

宣教者の家の開設に助力したベンジャミン・メーソンとベリル・メーソン

[191ページの図版]

1967年にバルバドスに任命された宣教者リチャード・トウズとゲイ・トウズは,現在カナダで奉仕している

[192ページの図版]

バルバドスのブリッジタウンにある支部の建物と王国会館

[193ページの図版]

1978年にバルバドスのナショナル・スタジアムで開かれた「勝利の信仰」国際大会

[194ページの図版]

バルバドスの大西洋側に面したバテシバ海岸