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エホバの証人の1990 年鑑

エホバの証人の1990 年鑑

エホバの証人の1990 年鑑

証拠は至る所にあります。アフリカにも,アジアにも,ヨーロッパにも,アメリカ大陸にも,海に浮かぶ遠く離れた島々にも。『何の証拠ですか』と,お尋ねかもしれません。それは,いよいよ大勢の人々が神に栄光を帰し,イエス・キリストの本当の弟子であることを示しているという証拠です。

その人々は,どのようにしてそれを行なっているのでしょうか。多くの立派な実を結ぶことによってです。これこそ,わたしたちが期待してしかるべき事柄です。イエスご自身,「あなた方が多くの実を結びつづけてわたしの弟子であることを示すこと,これによってわたしの父は栄光をお受けになるのです」と言われたからです。(ヨハネ 15:8)食卓に出す文字通りの実を選ぶときには,だれでも質の良い物を探します。では,キリストの弟子を自任する人々の生活や活動の中に,質の劣ったものを期待すべきでしょうか。質は重要ですから,神に仕えている人の活動や生活様式においては,良い特質が顕著でなければなりません。

クリスチャンは神に栄光を帰すにあたって,仲間の人間の命にかかわる重要な事柄のためにも力を尽くします。そのため,クリスチャンの活動は,人間の普通の務めとは極めて対照的です。彼らの大きな活動とは特に何でしょうか。イエスは,マタイ 13章18節から23節の中で,この点を例えによって示されました。そしてその23節で,王国の言葉の意味を悟る人が,ほんとうに実を結び,それぞれ百倍,六十倍,三十倍を生み出す人であることを示されました。ですから,真のクリスチャンの活動は,実を結ぶこと ― つまり,王国こそ地上に住む人々に終わりのない命の祝福を招来するための神の手段であると宣明すること ― なのです。これこそ,エホバの証人が今世紀を通じて行なってきた事柄です。1989年中,エホバの証人は,212の国や地域に住む人々に王国の良いたよりを宣べ伝えることにより,かつてないほど多くの実を結びました。

エホバの証人が非常に異なっているのは何のためでしょうか。それは聖書に基づく音信と,肝要な活動に関連した,神が持たれるような特質のためです。イエスは,ご自分の追随者が培いまた示すことになる,ある重要な特質を強調されました。そして追随者たちに対し,ヨハネ 13章35節の中で,「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」と言われました。世界のどの地域で奉仕することになろうと,彼らにはキリストのようなこの自己犠牲的な愛があるので,それによって見分けられるのです。

彼らにはまた,彼らの主人が持っていた喜びがあります。(ヨハネ 15:11)喜ばしい見込みがあるだけではなく,証言することからも喜びが得られるのです。それに,問題の多い世界に住んではいても平安があります。(ヨハネ 14:27; 16:33)大半の人々が自分たちの音信を退けるとしても,この特異な平安もしくは平和を失うことはありません。―マタイ 10:12,13

愛,喜び,平和 ― これらは,ガラテア 5章22節と23節に霊の実として列挙されている最初の三つの特質です。クリスチャンの宣教を行なうときに,そしてまた日常生活のあらゆる面で,これらの特質や神が持たれるような他の特質を生みだすならば,神に栄光を帰し,神の是認を得ることになります。(マタイ 7:17-20)わたしたちは,世界的な交友関係を持つエホバの証人として多くの立派な実を結ぶことにより,栄光あるみ名にふさわしく歩んでいること,そしてイエス・キリストの真の弟子であることを示す圧倒的な証拠を提出しているのです。―コロサイ 1:10

霊的パラダイスの中で歓喜する

エホバは遠い昔に,霊的に繁栄した状態が出現することを予告しておられましたが,エホバの民は現在それを享受しています。(イザヤ 51:3)霊的パラダイスの拡大と共に,そこに住む人々の数も増加してきました。(イザヤ 26:15; 60:22)それで昨奉仕年度中,伝道者の最高数が非常に多く得られたのは,何と喜ばしいことでしょう。毎月平均して,362万4,773人の証人たちがいました。実を結ぶ活動に参加した人は378万7,188人の最高数に達しました。王国を宣べ伝える活動に費やした時間の合計の点でも史上空前の年になりました。エホバの栄光をたたえる大規模な活動に,8億3,542万6,538時間がささげられたのです。

エホバの証人は,自分たちが本当にキリストの弟子であることを示すために,キリスト・イエスが命令された事柄すべてを必ず他の人々に教えます。ですからエホバの証人は毎月平均して341万9,745件の家庭聖書研究を司会しました。その結果,1年で26万3,855人の新しい弟子がバプテスマを受けたのです。ほかにも大勢の人々がエホバの民と活発に交わるようになる可能性は,記念式に947万9,064人が出席した事実にも表われています。では,昨奉仕年度に関する,心を奪う魅惑的な経験や報告を幾つか調べてみましょう。

惜しみなくまいて豊かに刈り取る

パナマでは,国内の政情が非常に不安定であるにもかかわらず,この1年もエホバの証人にとっては実り豊かな年でした,と支部は報告しています。昨奉仕年度中,合計731人がバプテスマを受けましたが,これは前年にバプテスマを受けた人の数の3倍以上であり,国内の全伝道者数のほぼ13%に当たります。正規開拓者の隊伍に加わる伝道者の数も増加しており,今では1984奉仕年度のほぼ3倍になっています。

カリブ海に浮かぶ島国グアドループの兄弟たちは,7回にわたって伝道者の最高数を得ました。5,980人が報告した5月の数字が最後の最高数でしたが,これで,55人の住民に対して一人のエホバの証人がいる比率になりました。兄弟たちは,区域の人々を繰り返し訪問することで落胆しているでしょうか。「そのようなことは全くありません」と,支部は答えています。頻繁に訪問した結果,家庭聖書研究の数は8,438件という最高数に達したのです。

ジャマイカでは,兄弟たちの示した愛が立派な証言になりました。ハリケーン・ギルバートがこの島を襲った時,35の王国会館が被害を受け,さらに11の王国会館と兄弟たちの家238戸が壊滅しました。そのため,国際的な兄弟関係による愛がほとばしり出ました。米国,カナダ,オランダ領アンチル諸島からも自発奉仕者がやって来て地元の兄弟たちに加わり,壊れた建物を修理したり建て直したりしたのです。支部はこう伝えています。「研究をしていて集会にも出席していたある婦人は,兄弟たちに家を直してもらいました。これはすばらしい影響をこの婦人に及ぼしました。それ以来,伝道者になったのです。そのような愛が示されたのを目の当たりにしたその実の姉妹も研究を希望しました。1か月後,この人は自分の教会に脱退届けを出し,あざけりや反対にもめげず会衆の集会に出席しています」。

コスタリカでは増加が続いています。「今奉仕年度,伝道者が1万2,001人の最高数に達したのは,わたしたちにとって非常に喜ばしいことでした。さらに,以前の補助開拓者の最高数は785人であったのに対し,1989年1月にはそれが2,007人になり,わたしたちは喜びにあふれました」と,支部は報告しています。またマレーシア支部は,「1989奉仕年度は,非常に喜びに満ちた年になりました」と述べています。去る2月に,マレーシアの伝道者は1,000人の大台を超え,その後,合計1,102人の新最高数に達しました。記念式の出席者数も新最高数で,2,790人でした。

兄弟たちの側の立派な振る舞いには,「すべての人に対して平和を求め(る)」ことが含まれます。(ローマ 12:18)正直な心を持つ人々はこれに引き寄せられます。ケニアでのことですが,ある女性は真理に敵意を持ち,自分の子供がエホバの証人の子供と遊ぶことを禁じました。しかし,しばらくしてその女性は,近所に住んでいたエホバの証人に近づいて,どうしてエホバの証人はそんなに違うのですかと尋ね,「皆さんは絶対にけんかをしませんね。皆さんの家族はとても和やかです」と言いました。この女性は聖書研究を始め,今では真理にいます。

次はニュージーランドです。英国国教会の会報は,「信仰の危機」に言及して警鐘を鳴らし,国内の教会の中には閉鎖するところもあることや,全国で有給の宣教活動を維持することがもはや不可能になったことなどに触れていました。それとは対照的に,ニュージーランド支部からの報告は,「生きた信仰の証拠として,最高1万1,007人の王国宣明者 ― 前年の平均に対して9.6%の増加 ― が『救いのために公の宣言』をすることに参加しました」と説明しています。―ローマ 10:10

戦争に悩まされるレバノンでは,情勢の不安定な他の地域の場合と同様,集会に出席し,良いたよりを宣べ伝える活動に参加するには強い信仰が求められます。兄弟たちが王国会館で行なわれる集会に出席していた時に,近くで爆弾が落ち始めました。激しい爆撃が続き,それがだんだん王国会館に近づいてくると,「ものみの塔」研究に出席していた仲間たちの中には,徐々に心を痛め心配するようになる人が少なくありませんでした。それを感じた監督たちは,忠節な者たちの魂を守っておられるエホバに確信と信頼を寄せるよう,すべての人を温かく穏やかに励ましました。(詩編 97:10)彼らはこの試練を乗り越えた後,保護してくださったエホバに感謝をささげました。

ポルトガルでは,豊かな収穫が行なわれています。5年前,この支部は六つの区域に住む3万4,091人の伝道者の世話をしていました。しかし今では4万8,044人の伝道者がいます。これは41%の増加です。すべての区域で報告された家庭聖書研究の最高数は6万1,657件であり,5年間に何と64%も増加しました。ある地方の幾つかの会衆では,伝道者として報告した人よりも開拓者として報告した人のほうが多かった月もありました。例えばある会衆は,10人の正規開拓者と83人の補助開拓者と58人の伝道者を報告しました。この会衆は,人口に対する伝道者の比率が160人に対して一人という都市にありますが,それでも99件の家庭聖書研究を報告しており,依然として区域は産出的だと考えています。

親切な行為がきっかけとなって,人が真理を学ぶようになることもあります。ポルトガル人の二人の伝道者は,野外奉仕から歩いて帰る途中,気分の悪そうな年配の女性がバスから降りてくるのに気づきました。二人は立ち止まり,何かできることがあるでしょうか,と尋ねました。その婦人は,見ず知らずの二人から関心を示されたことに非常に驚き,どうしてそのように親切にするのか,その訳を知りたがりました。こうして短い証言をする道が開けました。その婦人は姉妹たちに喜んで住所を伝え,わたしの家にも来てください,と温かく招待しました。再訪問が行なわれ,家庭聖書研究が始まりました。やがてこの婦人は自分の偶像を処分して,集会に出席するようになりました。今では,友人や家族に聖書の真理を伝えています。

非公式の証言は実を結ぶ

イエスは,弟子たちに光を輝かせるよう勧めました。今日エホバの証人は,あらゆる機会にそれを行なうことによって,多くの人々に良いたよりを伝えています。ブラジルのある兄弟はこう報告しています。「私はいつも職場のロッカーに自分の聖書と文書を置いておくので,昼休みに証言できます。ある時,工場の男性の看護士に『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』という本を配布しました。ちょうどそのころ,別の兄弟が同じ本を女性の看護婦に配布しましたが,その看護婦は引き出しにしまっておきました。もう一人の看護婦がその本を見つけ,非常な興味を抱いて7時間で読み通しました。そして,私が本を配布した最初の看護士にその本のことを話しました。するとその看護士は彼女を私に紹介しました。私が集会に招待すると,その看護婦は3人の子供を連れてやって来ました。その家族と聖書研究が始まりました。その娘の一人はバプテスマを受ける準備をしています。母親と他の娘たちは野外奉仕に参加しており,夫も研究中で一緒に集会に出席しています」。

わたしたちの活動が制限されている中央アメリカのある国でのこと,バス停で待っていた一人の兄弟が,やはりそこで待っていた若い男性に2枚のパンフレットを渡しました。それから,神の王国について生き生きした会話が始まりました。最後には両方ともその場を去りましたが,数か月後,ある訪問講演者がその兄弟の会衆に来た時,一人の若者が一緒に来ました。この若者はその兄弟を見るなり近づいて,こう言いました。「私を覚えていますか。数か月前にバス停で声をかけてくださいましたね。2枚のパンフレットをいただいた数週間後に聖書研究を始めました。今は伝道者です。近々バプテスマを受ける予定です」。

さらに多くの王国会館の建設

この収穫期の取り入れが続いているので,さらに多くの王国会館が必要になっています。イタリアでは宗教界からいくらか反対がありますが,支部が伝えるところによると,エホバの証人は,「車庫や倉庫や地下室や店舗といった間に合わせの集会場から出て,今では一般の人々の目によく見える立派な王国会館や大会ホールに集まっています」。現在イタリアには12の大会ホールがありますが,そのうちの一つは昨年の夏に献堂式が行なわれ,ほかにも三つのホールが建設中です。

チリでは,5万件余りの家庭聖書研究が司会されており,記念式の出席者数は伝道者数の3倍でした。「エホバの崇拝を威厳あるものにする王国会館をもっと多く建てることが緊急に必要となっています。昨奉仕年度は,この点で際立った進展がありました」と,支部は述べています。ボリビアでは,12の新しい大きな王国会館が建設中であり,この国における将来の拡大の見込みは非常に明るいものがあります。

アイルランドからは,伝道者が30人にも満たない会衆でさえ立派な王国会館を建てることができたという報告が寄せられています。台湾省でも各地で建設作業が行なわれています。この島で現在活動している22の会衆のうち,自分たちの王国会館を建てたり購入したりした会衆や,今建設計画が進行中の会衆は12にのぼります。

王国会館の建設はオーストラリアでも急ピッチで進んでいます。過去5年間に,170余りの新しい王国会館が建ちました。トリニダードでは,昨奉仕年度中,五つの建設計画が完了しました。さらに二つの会衆が,増加に対応するために王国会館の改築を行ないました。ジャマイカでは,新しい王国会館を建てる“速成の”方法が初めて採用されました。ある現場には,完成した建物を見るために,そこの町長がやって来ました。町長は当初,その計画について懐疑的で,二日で完成させるなどと言う人は気がふれていると感じていました。しかし自分の目でそれを見た後は,兄弟たちの腕前に驚いていました。

法律的な問題

メキシコでは,4月1日に,エホバの証人の立場と組織上の手順に関して変化が生じました。今では,会衆のすべての集会で自由に祈りをささげることや,野外奉仕で聖書を用いることができます。カトリックの聖書研究講座で活動しているある女性は,エホバの証人の新しい宗教的自由について,「あの人たちは前から私たちを沈黙させていたのに,今度は戸口で聖書を開くのですもの,もうお手上げだわ」と言いました。

最近,東ヨーロッパで,献身したクリスチャンがさらに多くの実を結ぶための扉が開かれました。ポーランドでは,責任のある兄弟たちと政府高官との間で,兄弟たちに法律的な立場が与えられるかどうかに関する話し合いが長期にわたって行なわれてきました。5月18日に,エホバの証人の宗教協会の申請が認められ,正式に登録されて,ホジュフ(カトビツェの近く),ポズナニ,ワルシャワで計画されていた大きな大会にちょうど間に合いました。

1か月余り後の6月27日に,ハンガリーの兄弟たちは,国内のエホバの証人に法律的な立場が与えられたことを歓びました。当局は初めて,様々な都市で地域大会に公共の会場を使用する許可をエホバの証人に与えました。

世界中のエホバの証人は,メキシコやハンガリーやポーランドの同労者と共に歓びます。その同労者たちがクリスチャンの実を結び,神のご意志を十分に行なう時,エホバがその活動を豊かに祝福してくださいますように。―テサロニケ第一 4:1,9,10

血の問題に直面する

エイズの急速なまん延は世界中の人々を悩ませていますが,南太平洋の小島トンガも例外ではありません。昨年の11月初めに,エイズの原因と予防に関する1日の会議がトンガで開かれました。WHO(世界保健機関)の代表者も出席していました。提出された問題の一つは,その国で非血液性の増量剤が手に入るかどうかという点でした。出席者たちは,エホバの証人が血の問題に関して取っている立場を知らされました。そして,「エホバの証人と血の問題」という小冊子と,エイズの問題を扱った1988年10月8日号の「目ざめよ!」誌が配られました。一人を除いて全員が喜んでそれらの出版物を受け取りました。

その近くにある西サモアの島々では,国立病院の医療委員会のある医師が,医者は患者の望み通りに治療を行なうべきで,患者の良心を傷つけるべきではないことを指摘しました。そして,エホバの証人は喜んで代わりの治療を受けるので,医学的な見地からしても,外科医には証人たちの望みを尊重すべき正当な理由があると説明しました。

大会で神を賛美する群衆

詩編作者ダビデは,エホバを賛美する集合した群衆の中にいることから大きな喜びを感じました。(詩編 26:12)そして昨奉仕年度中,全世界のエホバの民もまさしくそれと同じ感情を抱きました。1988年の後半から1989年の初めにかけて行なわれた「神の公正」地域大会には,627万3,804人が出席しました。

出席するために並み並みならぬ努力が求められた兄弟たちもいます。例えばミャンマー(以前のビルマ)では,危険な地域があるので安全に旅行することができませんでした。しかし,霊的な宴にあずかり損なうことがないようにするため,危険を物ともせずに,何日もかけて歩き,ぎゅうぎゅう詰めの列車に乗った伝道者たちもいました。またケニアの伝道者たちは,出席するために自転車か徒歩で長距離の旅行をしました。

大会では,人種的な偏見のない雰囲気がはっきりと感じられましたが,ザンビアから南アフリカに行ったある兄弟は,「このヨハネスブルクの大会に出席できて大変よかったと思います。様々な人種の兄弟たちとの交友を本当に楽しみました。すべての人が一つの家族として集まっていました」と書きました。セネガルに住むイスラム教徒のある若者は,集会には一度も出席したことがありませんでしたが,大会出席者たちの愛に満ちた精神や,間違った習慣に反対するエホバの証人のはっきりとした立場に強い感銘を受けました。そして日曜日のプログラムが終了した後,それまで身を守るために腰に結びつけていた魔よけや幸運のお守りを所持し続けるのはもはや正しくないと感じるようになりました。「そういう物を頼りにしなくてもよいことが分かりました。私はエホバの証人が真理を持っていることを知っています。エホバの証人の中には,身を守るために魔よけを身に着けている人は一人もいません。エホバが彼らを守ってくださるのです」と,その若者は言いました。

大会の特色である清潔さや秩序正しさは,有利な証言になっています。ブラジルのある競技場の管理者は,「皆さんに使っていただいて本当によかったと思います。競技場は前よりもきれいになり,きちんとした状態で返ってくるからです。皆さんの清潔さは表彰ものです。また使ってください」と言いました。

1989年の地域大会の主題は,「敬虔な専心」でした。すばらしい出席者数と,何万人もの人々がバプテスマを受けたことに関する報告が,世界中の多くの場所から寄せられています。例えば,米国支部が管轄している地域での出席者数は136万6,700人に達し,1万8,011人がバプテスマを受けました。この一連の大会は南半球では1990奉仕年度の前半まで続きます。

しかし,1989年8月に関心の的となったのはポーランドでした。エホバの民がそこで経験した事柄は,決して忘れることができません。

歴史に残るポーランドの大会

1987年10月,協会のペンシルバニア法人の年次総会において,国際的な大会が1989年にポーランドで開かれると発表されました。その時,この集まりがどれほど意義深いものになるか,理解していた人はほとんどいませんでした。ホジュフとポズナニは,8月4日から6日にかけて同時に開かれる大会の開催都市になりました。ワルシャワにおいても,8月11日から13日にかけて大会が開かれました。

22か国から14万人ほどが,これらの霊的な宴に集まると予想されていました。しかし合計出席者数は16万6,518人になり,国の数も当初の予想を上回りました。

7月28日を皮切りに2週間にわたって,ワルシャワ空港はまさしく沸き立っていました。来る日も来る日もポーランドの兄弟たちが,ヨーロッパ各地はもとより日本や北アメリカからやって来る代表者たちを歓迎したのです。中には,1万1,000㌔もの距離をおもに列車で丸六日間かけて旅行した代表者たちもいました。シベリア,カザフ,カフカス,バルト諸国,それにウクライナ共和国から人々がやって来たのです。休暇の時期であったため,またその他の理由により遅れが出ましたが,それでも兄弟たちには何のためらいもありませんでした。この霊的な祝宴に集うことを心から喜んでいたのです。

ポーランドの公式な旅行代理店であるオルビス国際会議局は,西ヨーロッパ,日本,北アメリカからの代表団に関し,ポーランドを訪れて大会に出席した国際的な訪問者の一団としては史上最大であったことを認めました。その職員たちは,兄弟たちの立派な振る舞いや効率的な組織に強い感銘を受けました。

当局の協力は非常にありがたいものでした。空港でもバス・ターミナルでも駅でも,ポーランドの大会関係者たちは,当局者や職員から親切な援助を受けました。

1万2,000人ほどの人々が大会の開催都市のホテルに宿泊しましたが,6万人余りの代表者たちは,地元の兄弟たちの家,アパート,王国会館,学校の寄宿舎,テントなどに泊まりました。86人の伝道者から成るある会衆は500人余りの訪問者を泊め,ワルシャワの西の郊外にある,146人の伝道者から成る別の会衆は1,276人の代表者たちをもてなしました。

各大会の金曜日の朝には,競技場に通じるすべての主要道路に代表者たちがあふれたため,大渋滞が生じました。話がはずみ顔をほころばせた証人たちを乗せた路面電車が到着しました。周りの都市や町から,兄弟たちを一杯に乗せた貸し切りバスがやって来て,あらかじめ決められた場所に駐車しました。ほかの証人たちは特別列車でやって来ました。どの人も大会のバッジをつけていました。

三つの大会では,外国の代表者用に特別に指定した区画が用意されていました。様々な国,とりわけチェコスロバキアから大勢の人々が来ました。ソ連から友人や親せきを訪ねて来た人々も大勢出席していました。

プログラムの特色

大会は国際的な規模で行なわれたので,約25か国からの報告を聞くことができました。プログラムの一部は16もの言語に同時に通訳されましたが,各言語のグループは,競技場内の他の言語の区画に妨げられることなくプログラムをはっきりと聞くことができました。この取り決めを実行する方法に関して相談を受けた,オーディオ関係の仕事をしている男性は,「出席者が同時に16か国語でプログラムを聴けるように,競技場内の音声を増幅することなど不可能だ」と言いました。それにもかかわらず,兄弟たちはまさにそのことを行ないました。すべての人が,ポーランドの国内委員や統治体の成員の話に注意深く耳を傾けることができたのです。

土曜日の午後に,ポーランド語で2種類のパンフレットが発表されたのは,大きな驚きとなりました。ポーランドの兄弟たちが大会の発表物を手にしたのはこれが初めてだったのです。日曜日の午前中に,「あなたは三位一体を信ずるべきですか」というブロシュアーが発表されましたが,これはさらに大きな驚きとなりました。ポーランドにおいては,三位一体という偽りの教理を暴き,生ける唯一まことの神とそのみ子キリスト・イエスに関する真理を知るよう,正直な心を持った人々を助ける点で,この出版物は非常に効果的な道具となることでしょう。

土曜日に行なわれたバプテスマは感動的な光景でした。各大会の開催都市で,バプテスマ希望者が,話し手の提起する二つの質問に答えるために起立した時,割れんばかりの拍手が起こり競技場を揺さぶりました。ポーランドの大会でそれほど大勢の人々がバプテスマを受けたことはかつてなかったのです。すべての人の目には喜びの涙があふれました。

これら三つの大会の雰囲気は,幾つかの理由で,忘れることのできない印象を残しました。第一に,このような大きな競技場で,「忠実で思慮深い奴隷」によって整えられたエホバの食卓からすばらしい霊的な食物を共にいただくことは,大きな喜びであり大きな特権でした。(マタイ 24:45-47)また,チェコスロバキア,ハンガリー,東ドイツ,ソ連,ユーゴスラビア,あるいはその他の地方から来た兄弟たちの隣の席に座ることは,本当に胸の躍るような経験でした。これまでそうした兄弟たちは,大勢の仲間の信者と会う機会がなかったのです。

ソ連から来たある人はこう言いました。「私たちは何年もの間この日を待っていました。そして今,こうしてこの国際的な大会に出席しています。このすべては私たちの理解を超えているように思います。なかなか実感がわいてきません。まさに夢のようです。見聞きした事柄すべてを言葉で言い表わすことはできません。巨大なすり鉢形の競技場が人で埋め尽くされるのを目にし,音楽を聞いた時,私たちの目には涙があふれました。そして祈り。私たちすべてがじっとして一つに結ばれていた間,背筋がぞくぞくするほどの感動を覚えました。祈りは非常に厳粛で,全員が一つになってその祈りに和していました。このワルシャワ大会は本当に見事な輝かしい大会であり,これをしのぐのは新しい世だけでしょう。私たちは,このすばらしい数日間のことをいつまでも忘れません。これは,忘れることのできない事柄なのです。わたしたちの創造者エホバ神に格別の感謝がささげられ,栄光が帰されますように」。

1989年8月16日付の,ポーランドの新聞「ジチエ・ワルシャウイ」は,ワルシャワのジエシエチオレチア競技場で開かれた大会について,こう述べました。「エホバ神を崇拝する人々は ― 彼ら自身が言うとおり ― その集まりを非常に高く評価している。それはまさしく彼らの間の一致を表わし示すものである。……それに加えて,大会出席者たちは,秩序正しさ,穏やかな態度,清潔さなどの点で見倣うべき手本である」。

兄弟同士だという意識や愛や共にいる喜びなどを言い尽くすことは,とてもできそうにありません。ですから各大会の開催都市で,兄弟たちが結びの話の後もその場に残っていたわけがよく分かります。その場を去りたくなかったのです。その瞬間を忘れたくなかったのです。遠からず,わたしたちの偉大な創造者エホバを愛し,一致してエホバに仕える人々で全地が満ちること ― それが兄弟たちの確信であり信仰なのです。

1989年夏のポーランド大会に出席する特権にあずかった人々にとって,詩編 70編4節の言葉は本当に適切です。「あなたを求めている者たちが皆,あなたにあって歓喜し,歓びますように。彼らが,『神が大いなるものとされますように』と絶えず言いますように ― あなたの救いを愛している者たちが」。

宣教訓練学校は実を結ぶ

1989奉仕年度中,この学校のさらに二つのクラスが米国で開かれました。ミズーリ州セントルイスと,ペンシルバニア州コラオポリスの大会ホールが,それぞれ第3期,第4期のクラスのために用いられました。第5期のクラスは,1989年春にオーストリアのウィーンで開かれました。

第3期生は25人中6人が外国への任命を受けました。ほかの人たちは,米国とカナダで奉仕するよう任命され,中には巡回奉仕を行なうようになった人もいます。第4期生に関して言えば,24人のうち16人が外国で働くよう任命されました。現在のところ,他の人たちは米国とカナダで全時間奉仕を続けています。

1989年4月後半に,宣教訓練学校は一層国際色を帯びるようになりました。米国で旅行する監督として奉仕している,長い経験を持つ二人の教訓者がウィーンに派遣されました。ヨーロッパにおける最初のクラスを構成した23人の生徒たちは,オーストリア,ベルギー,フランス,ドイツ,オランダ,スイス,ユーゴスラビアからやって来ました。また,将来のクラスで教訓者を務める見込みのある8人が,ドイツ,フランス,イタリア,スペインからその学校に出席しました。立派な教室に加え,図書室の施設や学校のための事務所も用意されました。宿泊場所はベテル・ホームの中に準備されました。

教訓者たちは,生徒の立派な進歩に大変喜びました。生徒たちにとっては,決して忘れたり後悔したりすることのない,まさに生涯に一度の経験となりました。卒業生のうち,4人がヨーロッパ以外の地域に任命されましたが,今のところ他の人たちはヨーロッパ大陸の中で割り当てを果たしています。

学校での課程が終了した後,ウィーンのクラスから手紙が来ましたが,それには一部こう書かれていました。「私たちのほとんどは,学校に来る前から牧者として奉仕していました。しかし今では,神の民の牧者に対する規準とは一体何なのか,一層深く理解しています。このすばらしい教育を受けなければ決してできないような,はるかに優れた仕方でエホバと兄弟たちと仲間の人間に仕えられるよう,十分に訓練を受け,整えられたと確信しています」。

現時点で,宣教訓練学校の卒業生たちは,自分の出身国以外の25の国や地域で奉仕するよう任命されました。1990奉仕年度中に,この学校の益がもっと広範囲に及ぶことが期待されています。

神に栄光を帰す,支部の献堂式

主権者なる主エホバに献身した日は,その人の生涯における特筆すべき日です。同様に,「天と地と海とその中のすべてのものを造られた方」であるその同じ主権者なる主に,支部事務所の施設を献堂することは,その国の神権的な歩みにおける特筆すべき出来事となります。(使徒 4:24)昨奉仕年度中,メキシコを含む五つの支部の献堂式が行なわれました。

ペルー

1988年11月6日の明け方は,どんよりとした雲がかかり冷え冷えとしていました。しかしやがて空は,リマのモンテリコ・チコにある特別な場所に向かう人々の幸福な表情に力づけられたかのように,まばゆいばかりの陽光にあふれました。エホバの民は特別な催しを心待ちにしていました。それは,「ペルー・ベテルの増築」計画の最後を飾る喜ばしい催しでした。支部の新しい王国会館に集まった694人の人々の心は感謝にあふれていました。リマ郊外のカンポイにある大会会場に集まった4万8,150人の聴衆も,電話回線で結ばれて献堂式のプログラムに注意深く耳を傾けました。全国に3万1,000人の証人たちしかいないことを考えれば,これは驚くべき出席者数です。統治体のセオドア・ジャラズが献堂式の話をしました。

1980年に支部の元々の部分の建設が計画された時,伝道者がこれほどまでに増加するとは思いも寄らないことでした。それで,1984年12月に計画が完了するころには,すぐに支部を増築しなければならないことが明らかになっていました。

「ペルー・ベテルの増築」計画とは,それまでの建物を耐震設計と耐震工法によって2倍に建て増すというプランでした。ティルト・アップ工法はかなりの好奇心をそそりました。1枚が何トンにもなる,形成された重いコンクリートのパネルを,60㌧クレーンでつり上げて所定の位置に据えつけた日には,見物人が詰めかけました。全部で120枚のパネルが使用されました。これらのパネルに電気系統の配線が行なわれ,窓やドアの枠が取り付けられて,パネルは完成しました。この工事が行なわれている間,大工室の兄弟たちも働きバチよろしく,ペルーのジャングルで育った美しいマホガニーで,必要なあらゆる木工品を作りました。

55人の国際建設自発奉仕者たちは,時間と旅費を愛のうちにささげ,他の国々から援助にやって来ました。外国からの訪問者は普通,健康上の特定の問題にさらされやすいものですが,建設奉仕者たちも例外ではありませんでした。それで建設奉仕者たちは,疲れを見せずに医療上の世話をしてくれたエホバの証人の二人の医師に感謝を表わしました。建設が行なわれた全期間を通じ,ほかにも大切なサービスが行なわれました。例えば,二人の理容師の兄弟たちは1週間交替で現場に“店を開き”,元気よく全員の髪を切りました。

60人のベテル家族は,「ペルー・ベテルの増築」計画が緊急な必要から生じたものであり,その完成がエホバに賛美をもたらしていることを証言できます。

エルサルバドル

「たたえよ神の支配を,くすしくも増しゆくよ」。1988年11月12日,土曜日,2万2,091人が声を合わせて,このような心を奮い立たせる歌を歌いました。その日に,中央アメリカの国エルサルバドルの新しい支部事務所とベテル・ホームの献堂式の祝いが行なわれたのです。

郊外の丘陵地帯という絶好の場所に位置する事務所と宿舎の建物からは,首都サンサルバドルを一望に見渡せますし,幾つかの火山の眺めも楽しめます。この国はそれらの火山で有名です。

統治体の一員であるジョン・バー兄弟は,「増し加わる神権支配の歌」という主題で熱のこもった話をしました。プログラムのもう一つの特色は,地元の100人の兄弟姉妹たちが行なった華やかな民俗舞踊でした。

北アメリカや中央アメリカ,それにヨーロッパの9か国を代表する300人余りの兄弟たちが,献堂式の喜びにあずかることができました。この中には,工事に大きく貢献した326人の国際建設自発奉仕者のうちの幾人かも含まれていました。

増し加わる神権支配の歌の旋律が最初に聞こえたのは1945年でした。その年,当時の150万人の住民に真理を伝えるという途方もない務めが,最初の二人の宣教者であるロスコー・ストーンとヒルダ・ストーンに与えられたのです。それ以来,この歌を歌う声はしだいに大きくなってゆきました。今年は,伝道者が1万7,647人の最高数に達し,322人の住民に対して一人の伝道者という比率になりました。支部の建設が行なわれていた期間 ― 1983年4月に最初の用地を購入してから,2年半の建設期間を経て,1988年7月に支部が完成するまで ― にも,この国において50%という驚くべき増加がありました。正規開拓者や特別開拓者の中には,建設工事に加わっている間は野外の任命地を留守にした人が少なくなかったにもかかわらず,このような結果が生じたのです。新たに関心を持って記念式に出席した人々の膨大な数からは,もっと大きな増加の可能性を見て取れます。1989年には5万8,503人が出席しました。

耐震構造の新しい建物の建設は,1986年10月10日に早くも試験を受けました。その月に,大きな地震がサンサルバドル市を襲いました。市の中心部にある建物の大半が倒壊し,何百人もの人が命を失い,何千人もの人が家を失ったにもかかわらず,この新しい支部で働いていた兄弟たちは全員無事で,建物も損傷を受けませんでした。これらの現代的な施設は完成し,エホバの霊は引き続きエルサルバドルの兄弟たちの上に働いています。兄弟たちは,増し加わる神権支配の歌の絶え間ない歌声に世界中の兄弟たちと共に和するのです。

モーリシャス

青い海,サンゴ礁,白い砂浜に囲まれ,宝石のごとくインド洋に浮かぶこの熱帯の島国には,昔の移民たちの子孫が100万人余り住んでいます。そのほとんどは,サトウキビ栽培のためにモーリシャスにやって来ました。ここには,火山のとがった頂上が点在するエメラルド・グリーンの風景がありました。今日,住民の大半はヒンズー教徒のインド人で,ほかにもカトリック教徒のクレオールやイスラム教徒のインド人,ヨーロッパ人や中国人がいます。英語が公用語ですが,住民のほとんどはフランス語の方言であるクレオール語を話します。

1933年に,南アフリカの支部は,バート・マクラッキーとロバート・ニスベットという二人の開拓者をこの島に派遣しました。二人は王国の最初の種をまきました。しかし,その種が根を張って芽を出したのは,18年後にロバート・ニスベットの実の兄弟であるジョージが加わってからでした。

その間に王国のたよりは,レユニオンとロドリゲスという近くの島にも届きました。今日,レユニオン,ロドリゲス,マヨットの島々,それにコモロ諸島における王国を宣べ伝える活動は,モーリシャス支部の指示のもとに組織されています。実のところ,レユニオンにはモーリシャスよりも多くのエホバの証人がいます。

何十年にもわたり支部は施設を賃借して使っていましたが,ベテル・ホームと王国会館のある新しい支部事務所が,ボコアスという内陸の町に建てられ,1988年12月10日に,この建物の献堂式が行なわれました。統治体の一員であるケアリー・バーバーの献堂式の話を聞いた701人は,どんなにか喜んだことでしょう。

この建設計画は,近所に住む多くの友好的な人々の興味をそそりました。そうした人々が,そこに住み込んで働いていた若い兄弟たちの立派な振る舞いについて感想を述べることも珍しくありませんでした。その一人で,近所に住むアムリタという女性は,支部の敷地に隣接している小さなトタン板の家で母親と祖母と3人で暮らしています。建設が始まったばかりのころ,家から家の宣教で訪問を受けた時に聖書研究を始めました。アムリタは学んだ事柄に心を動かされたため,毎日仕事を買って出て,おなかをすかせた作業者たちのために調理を手伝いました。こうして健全な交友を持った結果,霊的に立派な進歩を遂げ,今では献身しバプテスマを受けた証人として全時間の宣べ伝える活動に携わっています。

世界のこの地域におけるエホバの民の増加は,長年にわたって真理にいる人々に実に大きな喜びをもたらしてきました。1951年に最初の会衆が設立された時,王国伝道者は8人だけでした。しかし今日,インド洋に浮かぶこれらの島には,30の会衆に交わる2,564人の伝道者がいるのです。外国から来た4人の全時間奉仕者がここで奉仕してきた年数を合計すると132年になりますが,この4人の気持ちはユーニス・プライス姉妹の言葉に見事に要約されています。「私たちは植えたり,種をまいたりしましたが,成長させてくださったのはエホバです。自分のこの目でその様子を観察できたのは本当にすばらしい特権でした」と,姉妹は言いました。

日本

500人余りの兄弟たちが5年間働いた後,1989年5月13日に,海老名市にある日本支部の献堂式が行なわれました。献堂式には,統治体のケアリー・バーバー,ジョン・バー,ロイド・バリーが特別な講演者として参加しました。 * この極めて喜ばしい特別な式典に出席した3,213人の中には,日本にいるすべての宣教者と旅行する監督,建設工事に加わった伝道者たちとその家族,また長年にわたって忠実に奉仕してきた大勢の伝道者たちが含まれていました。また13の支部を代表する60人ほどの訪問客が海外から参加しました。

献堂式の翌日の5月14日,日曜日に,46か所を電話回線で結ぶ特別集会が取り決められました。こうして23万3,780人が,様々な国の代表者や統治体の代表者による話に耳を傾けることができました。確かにこの二日間に行なわれた催しは,日本の神権的な歴史に残る出来事となりました。

現在のところ約38の支部が,新しい建物の建設や今までの施設の拡張を計画しているか,もしくは実際に工事を行なっています。国際建設自発奉仕者計画によって,奉仕者たちが30の支部に派遣され,地元の建設奉仕者たちを援助してきました。確かにエホバは,『証しをする』ための大いなる力を様々な方法でご自分の民に与えてこられました。それは神の栄光となり,み子の栄光となっています。―使徒 4:33

アフリカ

神のご意志は『あらゆる人が救われる』ことです。1989奉仕年度は,この目標に向けてアフリカ大陸で着実な進歩が見られた年でした。―テモテ第一 2:4

セネガルのある高校教師は,協会の雑誌を何年も予約してきました。この教師はクラスの生徒たちを教える際に,しばしば「目ざめよ!」誌の記事を使います。この教師は生徒たちが授業をよりよく理解するために,自分の雑誌を生徒たちに貸していました。しかし,生徒たちが雑誌をなかなか返してくれないため,この人は一年の終わりに製本した雑誌を手に入れ,それを教室で使っています。

ギニア共和国ではエホバの証人の数はわずかですが,宣べ伝え弟子を作る業は非常に熱心に行なわれています。兄弟たちは,道路からやや離れた丘の上で,小さな大会ホールの建設に忙しく携わっています。兄弟たちは,現場に砂を運ぶ方法を思案していました。そこで,砂を運ぶトラックを借りるため,道路建設の会社に行きました。会社の経営者は,兄弟たちがトラックとショベルローダー(トラクター式積み込み機)を自由に使えるように取り計らってくれました。砂を運搬するには,6回往復しなければなりませんでした。兄弟たちがトラックとショベルローダーの使用料を払いに行くと,経営者は作業はすべて無料ですと言いました。そして,「ただ皆さんは,エホバの崇拝に対する私たちの関心が深まるよう,エホバに祈ってください」と言いました。

コートジボワールに任命されている一人の巡回監督は,ボンドークー市で特別のスライドを上映するために,十分な大きさの会場を探していました。兄弟は地元の文化センターの責任者に連絡を取ってみました。初めのうち,その責任者はエホバの証人が会場を使うことに反対していました。以前,別の幾つかの宗教団体が騒ぎを起こしたことがあったからです。しかし責任者は巡回監督に,申請の理由を記した手紙を書くようにと提案しました。その同じ日に,巡回監督は一人の警察官に会いましたが,その人は以前アビジャンでこの巡回監督と聖書を研究していた人でした。さらにこの警察官は,偶然にも会場の責任者の友人でした。この警察官は責任者に近づき,エホバの証人は信用してよいと説明しました。すると責任者は会場の使用に同意し,警察官に鍵を渡しました。21人の伝道者から成る小さな会衆は,この責任者と友人の警察官を含む124人が出席したのを見て喜びました。責任者は会場の清潔さと,健全で霊的なプログラムに深い感銘を受けたため,将来必要な時にはいつでも会場を使ってよいと申し出ました。さらに,この人は聖書研究にも応じました。

シエラレオネに住む11歳のメアリーは,鎌状赤血球貧血と呼ばれる,痛みを伴う病気にかかっています。メアリーは,この病気のために冒された脚の骨を除去する手術を受けなければならず,過去2年間入退院を繰り返してきました。メアリーは,輸血に関して医師たちと常に争うことになっても,使徒 15章29節に明示されている神の律法,すなわち『血を避けていなさい』というおきてを破るまいと決意しています。母親は娘の決定を支持していますが,メアリーは血を拒絶することについては自分で話します。2年前,メアリーが9歳だった時,彼女は3か月間を病院で過ごしましたが,その間医師や看護婦や他の患者たちは,輸血の伴う手術に同意するようメアリーに圧力をかけました。外科医は,手術は輸血なしではできないし,手術を受けなければ二度と歩けなくなると警告しました。メアリーが死ぬ危険性もありました。それでもメアリーは,こう答えました。「血を取り入れるくらいなら死んだほうがましです。輸血は,エホバが認めておられないことです。……もし,血を取り入れたら,エホバのみ前で汚れた者となってしまうでしょう」。

次に医師たちはメアリーの母親に圧力をかけ,あなたは娘が死ぬのを望んでいる,もし死んだらあなたの責任だといって責めました。医師たちは,母親がメアリーを洗脳したと主張しました。

メアリーと母親は,神の律法に従うという自分たちの決定を堅持しました。とうとう二人の外科医が協働して手術を行なうことに同意しました。そのような方法により,血を使うことなく素早い手術ができます。しかし外科医たちは,成功の見込みはあまりないと言いました。意識を取り戻したメアリーが最初に発した言葉は,「ああエホバ,あなたの奴隷をお救いください」というものでした。メアリーは,その日血液を使って同じ手術を受けた二人の患者よりも早く回復しました。

悲しいことに鎌状赤血球貧血は不治なので,メアリーにはこれからも痛みと手術が続きます。歩行が困難なので,もはや多くの集会に出席することもできません。兄弟たちは自動車を持っておらず,公共の交通機関もありません。彼女は多大の努力を払って昨年の記念式に出席しましたが,家に帰る途中で何度も倒れました。

メアリーは背が低く,きゃしゃに見えますし,木製の松葉杖を使って歩きますが,その信仰には弱々しい所は少しもありません。これを示す実例は,メアリーが犬につけた名前です。その犬は,初めて手術を受けようとしていた時に,母親がペットとして与えたものでした。メアリーはその犬にホールドファスト(「しっかりと保つ」の意)という名前を付けました。彼女の叔父は訪ねて来たとき,「犬をしっかりつないでおいて,だれにもかみつかないようにその名前をつけたのかい」と尋ねました。

メアリーはこう答えました。「そうじゃないの,叔父さん。聖書は私たちに,しっかりと忠誠を保つように教えているからその名前を付けたの。忠誠をしっかり保っていれば大丈夫なのよ」。

ブルキナ・ファソで,ある宣教者は一人の婦人と聖書研究をしましたが,その人の夫は激しく反対しました。この夫は仕事がら旅行することが多かったので,宣教者は,夫が旅行する時にスーツケースに雑誌を入れておくよう,この婦人を励ましました。夫は少しずつ雑誌を読みはじめ,反対はまもなくやみました。この夫は1988年の記念式に招かれ,そこに出席して大勢の人を驚かせました。その時以来聖書研究が始まり,この人が生活を大きく変化させたので,その家族や友人たちは,彼をこれだけ向上させたのだから,エホバの証人は真の宗教を持っているに違いないと言いました。

アフリカの別の国では,兄弟たちが集会に出席している時に警官が突然乱入してきました。ある特別開拓者は逮捕されて刑務所に連れて行かれ,取り調べや尋問を受けました。警察は,この特別開拓者が集会で聖句を書き留めていた紙を押収していました。警察は,ヨハネ,ペテロ,エレミヤなどの名前の後に数字が書いてあるのを見て,この開拓者に巨額のお金を借りている人たちのリストだろうと結論しました。警察は,「おまえが刑務所にいたら,この人たちはどうやって金を返済するんだ」と尋ねました。その開拓者は,このような厳しい状況にいながら,思わずほほえんでしまいました。

アジア

アジアの兄弟たちは,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の予約を熱心に提供しています。兄弟たちは,聖書の音信に関心を持つ人を勤勉に探し出すことにより,人々が神の言葉を『聴き』,それによって『魂を生きつづけ』させるよう助けています。―イザヤ 55:3

インドで奉仕している一人の正規開拓者の兄弟は,「わたしたちの王国宣教」で与えられた提案に従いました。予約活動中に雑誌の予約を取ることを念頭において,自分の知人や親せきや聖書研究生のリストを入念に準備したのです。この兄弟の誠実な努力はすばらしい結果を生み,兄弟はその月に30件の予約を得ました。

ある大きなバス輸送会社で働いている別の兄弟は,従業員3万6,000人を対象に行なわれたコンテストに応募し,安全運転のための10項目の提案を述べました。兄弟が応募した案は,「目ざめよ!」1988年1月8日号に基づいており,10項目の提案としてはもっとも優れたものでした。兄弟は表彰され,この州のおもだった新聞もこれについて報じました。しかしこの兄弟は,「このことについては,私が称賛を受けるべきではありません。これは,この有用な情報を備えてくださった,エホバとその組織のおかげです」と謙遜に認めています。

日本のある巡回監督は,予約活動中に訪問した諸会衆で,予約を得るため特別の努力を払うよう励ましました。この結果として,この巡回監督は,最初の会衆では1週間に181件,2番目の会衆では153件,3番目の会衆では145件の予約が得られたと報告しています。5月30日から巡回訪問が始まった会衆では,予約活動はあと1日しか残っていませんでした。それでも,この巡回監督は兄弟たちに,翌日最善を尽くすように励ましました。兄弟たちは1日で84件の予約を取りました。そのうち56件は家から家の奉仕の際に得たものでした。

別の会衆で奉仕している一人の姉妹は,4月と5月の予約活動中に,それぞれ30件の予約を得る目標を立てました。姉妹は1983年の「わたしたちの王国宣教」の折り込みの提案に従ったと述べており,エホバは姉妹の努力を祝福されました。姉妹は,集金人やセールスマンや配達人など,家に来る人々に雑誌を勧めました。また,電話や訪問によって知人に提供したり,買い物の時にはひまそうな店員にも予約を勧めました。姉妹は4月に40件,5月に32件の予約を得ました。このうち46件は非公式の証言で得られたものでした。

大韓民国の釜山<プサン>の一兄弟は,野外宣教を行なう際に,会社のビル街があまり奉仕されていないことに気がつきました。この兄弟は弁護士なので,容易にオフィスへ入り,会社の社長や経営者と話すことができます。兄弟はどんな方法を使って証言をするのでしょうか。短く,簡単な証言をするのです。相手から好意的な反応が返ってきた時にだけ,さらに話すようにします。このような方法で,兄弟は予約活動の月に26件の予約を得ることができました。この種の区域では,普段よりも多くの階段を登らなければなりませんが,兄弟は目標を達成するよう決意し,ためらいませんでした。兄弟は中風で半身が麻痺しているので,これには努力が必要でした。

台湾省は,世界でもっとも人口が密集している地域の一つで,2,000万人以上が住んでいます。住民の95%は中国人で,その大部分は仏教と道教を信じています。この人々は王国の音信にこたえ応じるでしょうか。その通りです。今では仏教徒も道教徒も,多数の名目上のクリスチャンと共に良いたよりにこたえ応じており,自分たちの創造者について学んでいます。伝統的な中国の考え方を持つ人々は,何に引き付けられて聖書の研究を始めるのでしょうか。

以前は仏教徒だったある兄弟は,彼を引き付けたものについてこのように語っています。「私は,熱心な仏教徒の家で育てられ,自宅の隣は寺院でした。それで幼いころに仏教の強い影響を受けました。学校に通っているとき,家族でもっと大きな都市へ引っ越し,そこで初めて聖書と長老派教会に接しました。実際には聖書は少しも理解できませんでしたが,その教会が追い求めていたものと,当時の自分の目標は似通っていたので教会員になりました。私は裕福になって経済的に独立したいと思っていました。教会は教区民から金銭や物質上の支持を受けることや,物質主義的な態度を強調していました。それで,この教会が気に入ったのです。

「時たつうちに,私は経済的に安定し,結婚して子供をもうけましたが,心の中ではまだ満足することができませんでした。ある日,一人のエホバの証人が妻を訪問し,神のみ名を知っていますかと尋ねました。妻が知りませんと答えると,そのエホバの証人は神のみ名がエホバであることを示しました。(詩編 83:18)私が仕事から帰って来ると,妻は私に同じ質問をしました。私は,永年にわたって長老派の教会員でありながら,今に至るまで神のみ名がエホバであるということさえ知らなかったことに気づき,心から幻滅を感じました。私たちは,その開拓者の姉妹と聖書研究を始めました。

「約3か月研究した後に,私は何が求められているかを理解するようになり,家族の生活や態度に調整を加えはじめました。私はエホバが実在者であり,聖書は本当に神の霊感を受けたみ言葉であることを認識するようになりました。過去6年間,私たち家族は霊的に前進してきました。今私は,地元の会衆で長老として奉仕する特権をいただいています。妻と私は毎年時間を取り分けて,補助開拓奉仕をしています。二人の息子は伝道者で,家族としての目標は正規開拓者になることです。私たちは,神の組織の導きにより,仏教やいわゆるキリスト教の宗教によっては得られない,真の目標を持って家族が一致していることをエホバに感謝しています」。

新しい宣教者が台湾省に到着すると,最初の3か月は中国語を学ぶことに注意を集中します。これには一日数時間の教室での授業が含まれています。それから学んだ知識を応用しながら4時間を家から家の宣教に用い,その後さらに何時間か宿題をします。宣教者たちが家から家の宣教を始める時に,どれほど中国語を理解できるのでしょうか。初めのころはあまり理解できません。一人の新しい宣教者は,家の人に自分の訪問の目的を簡単に説明することはできましたが,結論の部分と,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の予約を提供する方法は忘れてしまいました。その家の人は親切にも電話で支部事務所と連絡を取り,話の結論を理解してから,「ものみの塔」と「目ざめよ!」の両誌を予約しました。

ヨーロッパ

詩編 148編12節と13節は,「若者たちよ,また,処女たちよ。年老いた者たちも少年たちも。彼らがエホバのみ名を賛美するように」と述べています。ヨーロッパの兄弟たちは,まさにそのとおりのことを行なっています。

9歳のフランキーはルクセンブルクに住んでいます。フランキーはしばらく入院した時に,自分のカセットプレーヤーと「偉大な教え手に聞き従う」のカセットを一緒に持って来ていました。あるローマ・カトリックの司祭は,毎晩病室を回っておやすみと言うことにしていました。フランキーの病室に入った時,司祭はカセットを見つけましたが,何も言いませんでした。翌日の正午,司祭はもう一度やって来ましたが,フランキーは寝ていました。司祭はカセットを手に取り,カセットプレーヤーに入れてからこの子のベッドに腰掛け,その両面を聴きました。フランキーが目を覚ますと,司祭は幾つかの質問をし始めました。司祭はフランキーに,神様を信じているのは立派なことだと言いました。

フランキーはこう語っています。「それから司祭は,このカセットの内容が書いてある本をもらえないだろうかと言いました。それで僕は『偉大な教え手』の本と,『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の本も配布しました」。

フランスのパリ地方で,ラオス出身の二人の若者がエホバの証人から聖書の真理を学ぶようになりました。しかし,この二人は先祖崇拝に加わろうとしなくなったため,父親から暴力を振るわれるようになりました。この父親は二人が隠れて聖書研究を続けているのを知ると,怒りにまかせて息子の一人の喉を切ろうとしました。父親はためらうことなく,自分の車やアパートの壁に大きな文字で「エホバの証人に死を」と書きました。

このような大変な状況の中で,この二人の若者は野外奉仕を始めることにしました。父親の反対が公に知られていたにもかかわらず,二人は区域の人々から好意的に迎えられるのを見て驚きました。現在では二人共バプテスマを受けており,一人は数年間全時間宣教に携わってきました。父親について言えば,今では自分の息子たちがエホバの証人であるという事実を認めています。

耳の聞こえない人も,エホバのみ名を賛美することを学んでいます。イタリアに住む一人の聴力障害者はスポーツを愛好し,特に射撃に熱中する生活を送っていました。この人は聴力障害者の協会に通っており,その協会は様々なスポーツ活動を組織していました。この人の夢は,聴力障害者のオリンピックに出場することでした。

この人には暇な時間に福音書を読む習慣がありましたが,世の終わりがやって来るという考えが強く印象に残りました。ある日,エホバの証人が家に来て,この人の妻と話しましたが,妻はその時にはあまり関心を示しませんでした。しかし,夫のために「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本を受け取り,再び証人に訪問してもらう約束を取りつけました。夫はこの本にどんな反応を示したでしょうか。

この人は,「その本を楽しみながら一晩で読み終えました。それで,自分が所属している宗教は,イエスが教えられたものではないことが分かりました」と語っています。それでこの人は,聖書研究の勧めに応じました。こう続けています。「1か月後にはスポーツ活動をやめ,射撃用の武器を人手に渡し,聴力障害者のオリンピックに出場することを断念しました。私は全部の集会に出席しはじめました。しかし,私には問題がありました。耳が聞こえないため,一言も理解できなかったのです。幾人かの兄弟たちが愛を示し,考慮中の資料を書き取ってくださったことには感銘を受けました。しかし,1か月後には気落ちしてしまい,自分が兄弟たちにまったく依存しているように思われ,『こんなことが何になるんだ』と考えました。しかしこの時期に聖書からのある話に接して,大いに考えさせられました。

「話し手は,人格を変化させるには,正確な知識が必要だと述べました。しかし,集会に来るのをやめてしまったとすれば,そのような知識をどこに見いだせるでしょうか。問題の解決策は,会衆のだれかが手話を学ぶことでした。私はマラキ 3章10節でエホバご自身が招いておられるとおり,エホバを試みることにしました。エホバは私の願いを聞き届けてくださり,何人かの会衆の成員が,手話を学ぶ学校に出席するよう,神の組織から招かれました。エホバや兄弟たちの側からそのような愛を示してくださったことが転機となり,私は神に献身してバプテスマを受けました。2回ほどは補助開拓者として奉仕しました。兄弟姉妹たちが私の手振りを家の人に通訳してくださったおかげで,なんとかその奉仕ができたのです。息子の研究を司会できるのも喜びです。息子は健聴者ですが,息子となら自由に意思を通わすことができます」。

カトリックの高位僧職者たちが,エホバの証人の活動をやめさせようとして相当の敵意を示していることを考えると,イタリアにおける祝福はさらに際立ってきます。例えば,アブルッツィ中央部のある町の聖堂区主任司祭は,連続12日間の朝の祈りを取り決めました。何のためですか。エホバの証人の活動が,カトリックの群れにこれ以上影響を及ぼさないように祈るためでした。しかしこの司祭の祈りは,バラク王の時代に神がバラムの呪いを祝福に変えられた時と同じく,逆効果になりました。(民数記 23)イタリアで伝道者の新最高数が続き,8月には17万2,382人に達したことがその証拠です。

スペインでのこと,チャロはある土曜日に,証言を終えたところでした。夫と買い物をする途中,チャロはもう一人だけスザーナという名前の十代の若者に近づきたいと思いました。スザーナは,「エホバの証人はどのようなことを信じていますか」というパンフレットを見るとすぐに関心を示しました。一月ほど前,同じパンフレットを手に入れ,それ以来証人たちと連絡を取ろうと努めていたのです。スザーナはチャロに自分の住所を知らせ,聖書研究を始める取り決めがなされました。後にその住所が修道院の住所だと分かったので,チャロは本当に驚きました。スザーナは両親が離婚してから尼僧に育てられていたのです。初めての聖書研究は修道院の中庭で行なわれましたが,不審そうに見る尼僧が通るたびに聖書や書籍を隠さなければなりませんでした。翌日スザーナは巡回大会に出席し,次は集会に定期的に参加するようになりました。『永遠に生きる』の本を3章学んだところでスザーナは修道院から追い出され,今では妨げられることなく真理において進歩を遂げています。

同じくスペインのフェリクス兄弟は,自分のタクシーの中で1年に1,500冊以上の書籍と1,500冊の雑誌を配布しました。どのようにですか。兄弟は乗客すべてにとりわけ丁寧に接し,走った距離に見合った料金だけを正直に請求するようにしています。それで兄弟が神の言葉について証言すると,乗客は喜んで聞くのです。

オランダからは,13歳の少女がこのような手紙を寄せています。「書籍研究の前に野外奉仕に携わるようにという提案がありました。最初の家で,私は13歳の女の子に会いました。この少女はよく聞いてくれて,本を求めました。次の日学校で,この女の子が同じクラスだということが分かりました。私たちは最初から友達になりました。2週間のうちに『永遠に生きる』の本を配布し,一緒に勉強しましょうと誘いました。彼女はそれに応じ,大変よく進歩しています」。

ラテンアメリカ

弟子ルカは初期のキリスト教について,「主を信じる者が,男も女も大ぜい加えられていった」と記録しています。今日,ラテンアメリカでも,心の正直な人たちが現代の神の組織に着実に流れ込んでいる様子が見られます。―使徒 5:14

グアテマラで巡回監督が上映した「エホバに教えられている,おびただしい数の人々」と題するスライドは,多くの人々がエホバの組織を認識するのに役立ちました。その中には,グアテマラの山地に住む人々も含まれていました。そこではゲリラの活動が多大の影響を及ぼし,兄弟たちが示すクリスチャンの中立は何度も試みられています。ある地域の兄弟たちのグループは合計65名の伝道者から成る小さなものですが,スライドの上映には1,426人が出席しました。

一人の巡回監督はこう述べています。「軍の宿営地の近くで働いていた時,兵士たちにスライドを見せる許可を求めたところ,司令官からの許可が得られました。その夜,私たちは小型トラックに機材を積んで到着しました。映写機とカセットデッキを食堂に設置すると,司令官は兵士全員が中に入るように命令しました。兵士のうち約90人がライフルを携え,急いで入って来て,スライドの始まりから終わりまで気をつけの姿勢を取ったまま静かに見聞きしていました。静聴に感謝し,幾らかの結びの言葉を述べた後,私たちはトラックの荷台を雑誌や書籍の配布所にしました。そこで一人の姉妹は,さらに学ぶ意欲を示した,かなりの数の兵士たちに雑誌や小冊子や書籍を配布しました」。

1989年2月21日,エホバの証人の35家族が,6年以上過ごしたメキシコの難民キャンプから帰ってきました。彼らは1983年に,当時頻発していた虐殺事件のためにグアテマラから逃げることを余儀なくされていたのです。エホバの証人と聖書を研究していたかなりの数の人々や,関心を示して難民キャンプで集会に出席していた人々も兄弟たちと共に帰ってきました。送還された人たちは,国連が提供した合計6台のバスでグアテマラに帰りました。難民の家族がグアテマラのウェウェテナンゴに着くと,エホバの証人の歓迎委員会が彼らを迎えました。政府が設立した機関であるCEARは,難民を本国に送還するように取り計らい,フライドチキンや米やトルティーヤ(とうもろこしのパン)を準備しました。兄弟たちはメキシコからバスに乗っている9時間の間,食べる物が何もなかったため,食欲おう盛で,食事に感謝しました。

兄弟たちは,霊的に良い健康状態で帰ってきました。支部委員会は救援委員会を組織する必要を見てとり,救援委員会は17の家族のために家を建て,9家族が自分たちの家を完成させるのを援助するよう取り計らいました。兄弟たちには食料品も送られました。統治体は親切にも必要な資金を備えました。

ベネズエラでは,ほとんどの人々がカリブ海に近い北部に住んでいます。南部地方では,広大な雨林に数多くのインディオの部族が住んでいます。一組の特別開拓者の夫婦は,1987年以来,ブラジルとの国境に近いサンタ・エレナ・デ・ウアイレンに住んでいます。この夫婦は,インディオの区域で最近興味深い経験をしました。すでに様々な部族が『啓示の書の最高潮』の本について知っており,マリキュレス(酋長)たちが自分の部落のためにこの本を注文してきたのです。3カートンの書籍が発送されましたが,とても足りませんでした。もう1カートンの『啓示の書の最高潮』の本が届いた二日後には,これも空になりました。サンタ・エレナから車で2時間の所にある,サムパイ地区の一人のインディオの学校教師は,特別開拓者の夫婦に学童たちに配布するための「若い時代」の本を1カートン注文しました。この女教師は,自分が担当するクラスで,通常の宗教教育の代わりにこの本を使うことを願っています。

特別開拓者のスザーナは,アルゼンチンで戸ごとに証言している時,最近その地区に引っ越してきたある婦人に会いました。この人の夫は銀行の支店長で,転勤前に同僚から「目ざめよ!」誌の予約を贈られていました。この婦人は,1冊の「目ざめよ!」誌が命を救ったと述べました。どのようにですか。

この人は自分が妊娠していることを知らずに,何回もレントゲン写真を取っていたと説明しました。エックス線をかけると奇形児の生まれることがあるので,20人の医師がそれぞれ妊娠中絶を勧めました。医師たちは,胎児が奇形児である可能性は95%もあると言いました。医師と家族は中絶するよう圧力をかけました。しかし,最後の決定を下す前に,この人は教区司祭に相談したいと思いました。二人の司祭に相談してみましたが,どちらの司祭も,中絶したからといって神から処罰されるわけではないと答えました。婦人はこの答えに大変動揺し,神に導きを祈り求めました。ちょうどその時,「子供を産みますか それとも中絶しますか」という表題の「目ざめよ!」誌が郵送されてきました。この人は,「これこそ私の祈りに対する神からの答えだわ」と感嘆の声を上げ,中絶しませんでした。どんな結果になったでしょうか。「『目ざめよ!』誌のおかげで,今私にはかわいらしくて健康な娘がいます。『目ざめよ!』誌が私のかわいい娘の命を救ったのです」とこの人は述べました。

北アメリカとカリブ海諸島

詩編作者は,「あなたはご自分の善良さをもって年に冠を授けられました」と書きました。(詩編 65:11)次の経験が示すように,わたしたちは確かに幸福で祝福された活動の年を経験しました。

カナダからは,両親が子供に聖書の原則を教える際に,単に規則を教えるのではなく,自分の知力を働かせてそのような原則を適用できるように教えることの大切さを示す経験が寄せられています。テラは11歳でまだバプテスマを受けていませんでしたが,先生から予期しない仕方で試されました。そのころ,全校でエホバの証人はテラだけでした。

ある朝テラは,先生が授業中に一人のクラスメートを少しの間だけ教室から連れ出したのに気がつきました。そのすぐ後,先生は穏やかな口調で,一緒に校長室まで来るようにとテラに言いました。その時には,理由は何も話されませんでした。しかし校長室へ行って,テラは校長先生の机にカナダの国旗が掛けてあるのに気がつきました。部屋にいたのは,テラと先生と校長先生の3人だけでした。

それから先生はテラに,カナダの国旗につばを吐きかけるよう命令しました。先生は,テラは国歌も歌わないし国旗にも敬礼しないのだから,命令されれば国旗につばを吐きかけないわけがないと言いました。テラはこの命令に本当に驚きましたが,国家の象徴を冒とくすることを拒み,エホバの証人は国旗を崇拝しませんが,敬意は払います,と説明しました。テラが自分の立場に確信を持っているのを見た先生は,テラと一緒に教室へ帰りました。

先生は教室に帰ると,たった今一つの実験をしてきたところだ,と言いました。この先生は,学童二人を一人ずつ校長室に連れて行き,国旗につばをかけるよう命令したのです。最初の女の子は愛国主義的な儀式に参加していましたが,命令された時には国旗につばをかけました。それとは逆にテラは,先生の説明によれば,非常に高潔な原則に従っていました。国歌を歌ったり国旗に敬礼したりはしませんが,そのような方法で国旗に不敬を示そうとはしなかったのです。この先生は,ふさわしい敬意を示したのはテラだと言いました。敬意のこもったテラの行状は,エホバとその組織に何とすばらしい誉れをもたらしたのでしょう。

ドミニカ共和国で,ある旅行する監督の妻は,若い女性に雑誌の予約を提供し,この人は聖書研究にも応じました。この研究はその訪問の週に始まり,地元の会衆の信頼できる姉妹に世話が託されました。次の巡回大会で,その伝道者は研究生を伴って巡回監督の妻の所にあいさつに来ました。この時までに,研究生は良いたよりの伝道者になっていました。6か月後に再会した時には,この若い女性が献身しバプテスマを受けてからもう数か月がたっていました。彼女は巡回監督と妻を食事に招き,自分の夫に会わせました。夫は外科医で,研究を始めたところでした。そのしばらく後,地域大会で全員が再会した時,巡回監督と妻は,この夫もバプテスマを受けたことを知って喜びました。このすべては,わずか1年半のうちに起こりました。巡回監督の妻が努力を払ったことと,引き継いだ会衆の伝道者が羊のような人々の霊的な関心を定期的に養い続ける必要性を真剣に受け止めたこと,そしてエホバの祝福がそうした結果をもたらしたのです。

米国ではこの一年が,聴力に障害を持つ人たちや,英語以外の言語を話す人々の間で,神権的に際立った業が成し遂げられた年となりました。これらの人々の間で,良いたよりは,手話を含め20の言語でふれ告げられています。スペイン語を話す人々の区域ではすばらしい拡大があり,昨奉仕年度中90の新しいスペイン語会衆が設立されました。この国に住む10万1,000人以上の伝道者たちが,1,150以上のスペイン語会衆と交わっています。

その他の際立った特徴は,生産された書籍と聖書の数で,その数は3,581万1,861冊に達しました。これは前年の2倍の生産量であり,前年比で生産が倍増したのは1938年以来初めてのことです。カセットは特に多くの需要がありました。1989年度中,350万巻のカセットが生産されましたが,これは前年の71%増に当たります。これによって,カセットの生産が始まった1978年4月以来,合計3,671万5,613巻のカセットが生産されたことになります。生産されたカセットの中に,「ものみの塔」誌の録音カセットがあります。昨奉仕年度の初めには,カセットの予約は2万9,559件でしたが,奉仕年度の終わりには3万8,896件に達しており,31%の増加でした。

協会の雑誌を多言語で同時に印刷するための助けとして,原稿や写真や図版に関する情報はコンピューターのディスケットに入力されるか,フィルムに印画されます。このため,米国支部は雑誌用だけで毎週約50枚のディスケットと,3,000ないし3,500枚のフィルムを発送しなければなりません。こうして世界中の支部で,印刷機が「ものみの塔」誌を45の言語で同時に印刷することが可能になっているのです。

太平洋の島々

使徒パウロは王たちに宣べ伝えましたが,現在でも上位の権威者たちが真のキリスト教の「道」を知る機会が開かれています。―使徒 24:22。ローマ 13:1

フィジーの一人の特別開拓者は,ある高位の首長と聖書を研究しています。この首長の父親は島の内務大臣であり,この首長の兄弟はフィジー中央銀行の頭取です。この首長は,最近開かれたある地方会議に議員として出席しました。この会議は高位の首長たちの集まりで,フィジーの大統領が議長を務めていました。特に日曜日の公共の活動を規制する,安息日に関する法案が議題となり,メソジスト教会員にとって深刻な問題となりました。

会議の途中,ある議員がエホバの証人を禁令下に置く法案を審議しようとしました。そこで研究生である首長が介入し,証人は自分に聖書を教えるため,定期的に自分の家へやって来ると述べました。その首長はこう言いました。「私にはエホバの証人がどんな人々なのか,また彼らが自分たちの教えに動かされて私たちの家を訪問するのはなぜかが分かってきました。また,エホバの証人が月曜日から日曜日まで聖書を携えているのとは対照的に,我々メソジストは日曜日しか聖書を持って歩かないことにも気がつきました。エホバの証人は聖書の預言をはっきりと,そして的確に説明します」。それから,その首長はエホバの証人に対する禁令の動議を提出した議員に向かって,「あなたはドアを開いて,証人たちの話を聴いたことがありますか」と尋ねました。

「ありません」とその議員は答えました。するとその首長は,「では,一度も聴いたことのない宗教を禁止すべきだと考えるのは理不尽です」と応じ,次いで逆の動議を提出しました。「エホバの証人の教えを聞いたことがある議員で,彼らにこの地域で引き続き宣べ伝えてほしいと思う方は手を挙げてください」。30人の議員のうち,20人が手を挙げました。

パプアニューギニアは,生活水準や習慣の点で両極端が見られる土地です。主要都市での証言は,大抵の西洋諸国での証言と似通っていますが,古くからの因習に支配されている村落では事情は全く異なります。兄弟たちは,ローマ・カトリック教会が優勢な未割り当て区域で働いていた時,戸別訪問の許可を村の酋長から得るようにと勧められました。その村の全権は酋長が握っているからです。証人たちが,ある村の酋長に会った時,どんなことが起きたでしょうか。

グループの責任者だった兄弟はこう述べています。「私たちは,村の外れに車を止めました。それから,私たちのうち3人がその村に入り,酋長の家を探しました。村人たちに村の中央近くにある家まで案内してもらい,そこで酋長とその家族を紹介されました。酋長は印象的な人で,酋長にふさわしくふさふさとした白髪があり豊かなあごひげをたくわえていました。高い教育を受けた人で,英語を流ちょうに話しました。彼は,私たちグループの兄弟姉妹全員を村へ連れて来るように告げました。それから私たち全員を座らせ,その間に若者たちを家々にもれなく遣わして,私たちの述べることを聴くようにと言わせました。それで私たちはその後の2時間半,二人ずつ組んで家々を訪問しました。大抵の村人が私たちを招じ入れ,多くの人は文書を受け取りました。家々を訪問し終えると,酋長は自分の前に座るよう,もう一度私たちを招きました。酋長は,キリスト教世界の諸教会が村人たちを『洗脳して』しまったと感じており,自分はもはやカトリックの教えを信じてはいないと説明しました。そしてもう一度村に来るよう私たちを親切に招いて,地元のカトリックの司祭から厳しくとがめられるだろうが,自分は少しも頓着しないと言いました」。

「マスターマインド」というのは,ニュージーランドで全国的に放映されているテレビのクイズ番組です。この番組では4人の出場者が,それぞれ自分で選んだ特定の問題と,一般常識の問題についての質問を受けます。事務弁護士である一人の出場者は,「エホバの証人の歴史と教理」を特別な問題として選んだため,テレビ局は支部事務所に,この番組のため30の質問を準備して提出してほしいと依頼してきました。

この番組は放映の1週間前から宣伝されるため,当然のこととして番組が宣伝されるたびにエホバのみ名がテレビの画面に現われ,何万人という視聴者がそれを見ることになります。番組が放映された時,視聴者は次のような質問に対する答えを聞きました。

ナチの強制収容所でエホバの証人を見分けるのに使われたマークの色と形を述べてください。

1985年8月,9万4,000人のエホバの証人が大会のために集まった,共産主義の国はどこでしょう。

他の質問は,ものみの塔ギレアデ聖書学校,協会の会長,杭と十字架,ハルマゲドン,離婚の聖書的な根拠などに関するものでした。

同支部は,「テレビの視聴者だけでなく,問題について調べるため訪問してきたテレビ局の職員や,製作関係者にも証言がなされたことを報告できるのは喜びです」という手紙を寄せています。

禁令下の国と地域

主イエスは,「彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう」と言われました。今日,この迫害の一部として,イエスの弟子たちは36の国や地域で禁令下に置かれています。―ヨハネ 15:20

昨年,アフリカの数か国で,神権的な活動に対する数々の反対運動が起こりました。そのような国の一つにある支部事務所は,こう書いています。「機関銃で武装した兵士の一団が支部の建設現場のフェンスをよじ登り,警備に当たっていた兄弟を押さえつけ,門を開けて侵入してきました。兵士たちはそれ以来ずっと居座っており,今この敷地を新兵の訓練所として使っています。当局者にあてて何通もの手紙が書かれ,外交筋からの介入があったにもかかわらず,敷地とそこに保管されている出版物を取り戻そうとする努力は,今のところ無駄に終わっています。接収の4か月後,司法庁長官と法務大臣は,活動の中心地を閉鎖するだけでなく,この非合法な宗教を宣べ伝えて捕らえられた者を迫害することも奨励しました。5か月後,同じ司法庁長官は,あらゆる宗派の代表者から成る会議を召集しました。司法庁長官はその席上,エホバの証人を特に糾弾し,証人たちは正真正銘の悪霊だと述べました」。

それでも,この地の兄弟たちは勇敢な証言を続けています。例えば,ある巡回監督が奉仕する区域では,当局者全員に,証人たちの活動が活発化していることを憂慮し,禁令について役人たちに思い起こさせる公式通知が送られました。それにもかかわらず,この巡回監督は一人の地元の兄弟を伴ってある地域の市長を訪問することに決めました。二人は出かける前にエホバに熱烈に祈りました。市長が家に居なかったので,二人は執務室へ行き,自分たちの素性を明かしました。驚いたことに市長は部屋のドアを閉め,二人を自宅に招じ入れました。市長が最近妻を亡くしたことを知った兄弟たちは,聖書から慰めの言葉をかけました。すると市長は,禁令下に置かれているのを知っていながら宣べ伝え続けるのはなぜかと尋ねました。兄弟たちは聖書から市長と論じ,市長は1冊の書籍と5冊の小冊子を受け取りました。

アジアのある国は13年間禁令下に置かれています。昨奉仕年度中,この国の兄弟たちは迫害が増し加わるのを経験してきました。それでも,伝道者は10%増加し,聖書研究も新最高数に達しました。

この国において,ある軍の将校の妻と聖書研究が始まりました。この婦人と5人の子供たちは,すぐに集会に出席し始めました。夫からの強烈な反対が始まり,夫は軍人用のベルトで妻を打つことさえしました。激しい反対が続いていた間も,この婦人は学んだキリスト教の原則を実践することに努めました。結局,妻がクリスチャンとしての立派な行状を首尾一貫して示してきたことに夫は深い感銘を受け,その後に退役し,現在は一人の兄弟と聖書研究をしています。

数々の国や土地が禁令下に置かれ,それに伴う制限があるにもかかわらず,エホバはご自分の民の努力を豊かに祝福してこられました。このすべてを通して,エホバはご自分の腕が短くないことを明らかにされました。羊たちは養われており,多くの新しい人が真の希望の源を認めるようになっています。―詩編 18:2

[脚注]

^ 92節 詳しい情報については,「ものみの塔」誌,1989年11月1日号をご覧ください。

[18ページの図表]

ポーランドにおける1989年の地域大会

都市 日付 出席者 バプテスマ

ポズナニ 8月4日から6日 4万442人 1,525人

カトビツェ 8月4日から6日 6万5,710人 2,663人

ワルシャワ 8月11日から13日 6万366人 1,905人

合計 16万6,518人 6,093人

[34-41ページの図表]

全世界のエホバの証人の1989奉仕年度の報告

(出版物を参照)

[18ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ポーランド

ポズナニ

ワルシャワ

カトビツェ

[6ページの図版]

昨奉仕年度中,26万3,855人の新しい弟子がバプテスマを受けた

[13ページの図版]

イタリアの「敬虔な専心」大会で,「若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え」という新しい本が発表される。自分の新しい本を得意げに見せる若者たち

米国の大会で,「聖書 ― 神の言葉,それとも人間の言葉?」という本が発表される

[19ページの図版]

カトビツェの近くにあるホジュフのシュロンスキ競技場が大会出席者で埋め尽くされる。大勢の人々がバプテスマを受けた

[20ページの図版]

東ヨーロッパから来た代表者たちは,ポズナニの大会に出席した大群衆の中で胸を躍らせた。その大会で,「あなたは三位一体を信ずるべきですか」という新しいブロシュアーがポーランド語で発表された

[21ページの図版]

ワルシャワの競技場は,28か国から来た代表者たちで満員になった。この大会では,プログラムの一部が16か国語で同時に通訳された。立っているのはフランス人の通訳で,共にいるのはポーランド人の話し手

[22ページの図版]

オーストリアのウィーンで,ヨーロッパにおける宣教訓練学校の最初のクラスは1989年6月18日に卒業した

[23ページの図版]

米国における宣教訓練学校の第3期生は1988年11月13日に卒業し,第4期生は1989年6月11日に卒業した

[27ページの図版]

モーリシャス支部には事務所と宿舎があり,敷地の一方の端には王国会館がある

[28ページの図版]

エルサルバドルのベテルの建物群は,8,900平方㍍に及ぶ四つの建物から成り,青々とした熱帯の庭園に囲まれている。これらの建物には,新しいロビー,200人が座れる食堂,72人のベテル奉仕者のための居室がある

[29ページの図版]

ペルー支部の建物群には新しい倉庫と王国会館がある。36の居室が追加され合計で58室になった。右はロビーの様子

[30ページの図版]

日本支部の新しい8階建ての宿舎棟は,床面積が8,980平方㍍でベテル奉仕者のための128の居室がある。右はロビーの様子。新工場の床面積は2万2,600平方㍍である