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スリナム

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スリナム

南米で土地と人口が最も少ない国スリナムは,その大部分がヘビやジャガーの潜む山岳降雨林に覆われています。そしてエホバ神の崇拝者たちの勇気について言えば,この国は他と比べて少しも劣りません。

長年競い合ってきたイギリス帝国とオランダ帝国は,1667年7月31日に講和条約を結び,その領有地を交換しました。すなわち,オランダはイギリスにニューアムステルダムを渡し,イギリスはオランダにスリナムを譲ったのです。この交換でイギリスが取得したニューアムステルダムについては,読者はよくご存じかもしれません。その名称は後にニューヨークと改められました。では,スリナムについてはどうですか。

かつてオランダ領ギアナと呼ばれ,その後スリナムとなったこの国は,南米の北東岸に位置し,ガイアナ,ブラジル,フランス領ギアナに三方を挟まれています。その熱帯性気候はフロリダ(米国)を思い起こさせますが,大きさは同半島の面積をやや下回ります。でも,待ってください。もしあなたが青い海で泳いだり白い浜辺でくつろぎたいのであれば,スリナムはあなたが望むような所ではないかもしれません。事実,この国の海岸は泥を多く含み,およそ人に馴染む様子がないため,初期の移住者たちはそれを野生海岸<ワイルドコースト>と呼びました。しかし,冒険好きの人であれば,防虫剤やマラリア予防薬や蚊帳を持参して,草木の生い茂る,神秘に満ちた自然界を探検なさってください。そこには雄大な降雨林があります。

飛行機から見ると,天蓋のように広がる降雨林は一面緑のカーペットを成し,唯一それを切り裂いているのは,北方の大西洋に向かって蛇行する数多くの河川です。しかも,そのカーペットの下をのぞくと,他に例を見ないほど多様性に富んだ生息地があります。そこは,逃げ足の速いジャガーや,色鮮やかなコンゴウインコ,騒々しい声を発するサル,並外れた大きさのアナコンダ(大ヘビ)が住む世界です。

多様性はスリナムの住民の特徴でもあります。元々いた住民はアメリカ・インディアンです。次いで西アフリカから,コーヒー農園で働くために連れて来られた黒人奴隷がいます。後に,逃亡奴隷のブッシュ・ニグロが,うっそうと茂る降雨林の中でまばらに広がる部族を形成しました。スリナムの80%はそのような降雨林に覆われています。その後,東インド系の移民とインドネシア人がやって来ました。それらの住民に,中国人,レバノン人,ユダヤ人,オランダ移民の子孫を加えると,40万人で成るスリナムの住民が,時として“ポケットサイズの世界”と呼ばれる理由が分かります。

同様に,この国にはヒンズー教徒,イスラム教徒,モラビア教徒(プロテスタント信者),ローマ・カトリック教徒,精霊崇拝者<アニミスト>,呪物崇拝者などの多種多様な信条が見られる結果,宗教が複雑に入り混じっています。加えて,オランダ語(公用語)からスラナン・トンゴ語(地元の言語)に至るまで約10の異なった言語があることを考えると,「スリナム ― 七つの国民の地」という本の中で,国が一致を見るのはまだ「遠い先の話」である,と記されている理由が理解できます。

しかし,今世紀が始まってまもなく,もう一つの言語 ― 聖書の真理という「清い言語」― がスリナムに到来し,その言語が学ばれる場所ではどこでも一致がもたらされました。(ゼパニヤ 3:9)とはいえ,聖書の真理を町や田舎に,また降雨林の中に広めるには,勇気と忍耐と犠牲,そして何よりも,エホバ神の支援が必要でした。エホバの僕たちはどのようにして成功を収めたのでしょうか。90年に及ぶ王国伝道の業の中から,目立った点をご一緒に振り返ってみることをお勧めします。では,時間を遡って1903年に戻ってみましょう。場所はスリナムの北西部です。

真理が渡来する

ガイアナからスリナムの小さな町ニュー・ニッケリーまで乗客を運ぶ1隻の大型ボートが,コランタイン川の河口を苦労しながら渡っています。乗客の一人で,20代半ばの商人ハーボネット氏は,一刻も早く上陸して,自分が携えてきた何冊かの本を友人たちに見せたいと思っていました。

彼の友人たち ― パン焼き人のマリー・ドンク,食料雑貨商のアルフレット・バイテンマン,靴屋のユリアン・ディクムトは,それらの書籍に記されている聖書の真理の簡潔な説明にすぐに魅せられました。ほどなく,その4人の友人たちはパン焼き人のマリー・ドンクの家で聖書研究のグループを結成しました。その家で彼らは,それらの書籍の著者である,米国出身のものみの塔協会の初代会長,チャールズ・T・ラッセルが著した出版物をさらに研究しました。

雄弁なユダヤ人のマリー・ドンクは,その研究グループに参加するよう自分の顧客に積極的に勧めました。客の反応は今一つ冴えませんでしたが,やがてこのパン焼き人は,ニッケリーの古い住民たちがいまでも覚えている,「ニャン・ブレド・ソンドロ・フレデ!」(恐れずにパンを食せよ!)というキャッチフレーズを採用しました。アルフレット・バイテンマンの娘で,83歳になるリーン・バイテンマンは,「それは集会後に人々がパンを無料でもらえるという意味でした」と説明しています。

そのキャッチフレーズは効果がありました。集会の出席者は練りたてのパン生地のように,つまり,パン焼き人のドンクが日曜日に田舎で自分と一緒に宣べ伝えるよう聴衆に勧めるまで,膨れ上がりました。その後,集会出席者のほとんどが行動を中止したのです。

それでも,1910年から1914年にかけて,一部の忠実な人たちはドンク兄弟のあとに付いてニッケリー郊外の干拓地<ポルダー>に出かけ,カカオ農園の排水路の中に入って,バプテスマを受けました。「そのバプテスマを見物するために何百人もの人が集まりました」と,現在86歳になるジェームズ・ブラウンは述べています。彼自身,その光景をうっとりと眺めていたのを覚えています。そのときドンク兄弟は,衣服を身に着けたままの新しい弟子を水に浸けて,「父の名において」と大声で述べました。次いで兄弟は,同じ人に2回目の浸礼を施して,「子の名において」と叫び,さらに3回目には,「聖霊の名において」と述べました。そのバプテスマを施し終えると,兄弟は見物人のほうを振り返って,「来てください! バプテスマを受けて,生き長らえてください!」と叫びました。中にはやって来た人々もいましたが,そのほとんどは,1914年に世が終わるのではないかという恐れからバプテスマを受けました。1914年が到来して過ぎ去ると,その相当数が離れ去りました。

「神の王国が来た」

しかし,1920年ごろ,力強く前進していた聖書研究者たちは,米国から船で来た一人の兄弟が「創造の写真劇」を上映したとき,士気を大いに高められました。

ジェームズ・ブラウンはこう述べています。「それは町じゅうの話題になりました。私は早くからカカオ農園の倉庫に出かけて,前列に席を取りました。その場所は500人の人々で一杯になりました。上映が開始されました。私はそのようなもの ― スライド,映画,音楽 ― を一度も見たことがありませんでした。ある男性は立ち上がって,『今晩,ニッケリーに神の王国が来た!』と言いました」。

こうして再び増加が始まり,1930年代の初めに,兄弟たちはドンク兄弟の庭に小さな集会所を設立しました。しかし,再び試みとなる問題がニッケリー会衆に臨もうとしていました。

慎み深い兄弟が進み出る

1930年代半ばに,マリー・ドンクが聖書の道徳規準に反する生活を送っていることが分かりました。それでも彼は引き続き集会を司会しました。だれが事態を正すでしょうか。

小柄で,話し方の穏やかなアルフレット・バイテンマンは,1903年にバプテスマを受けて以来,目立たない仕方で会衆を経済的に援助してきました。リーンはこう述懐しています。「ところが,ある集会で,父が前に進み出て,大きな声で,今後の集会場所は私たちの家の居間にしますと発表したので,私は大変驚きました」。幸いにも,兄弟たちの大半はその動議を支持しましたが,一部の人々はパン焼き人のドンクと行動を共にし,そのグループはやがて消滅しました。

その後バイテンマン兄弟はニューヨークの協会本部と連絡を取って,文書を受け取り,1936年以降,自分に託された会衆を忠実に牧しました。

では,しばらくの間,240㌔東方に注意を向けて,過去に25年さかのぼってみましょう。到着先は首都パラマリボで,時は1911年です。

貧しいペンキ職人が模範を示す

米国から来た巡礼者(巡回監督は当時そのように呼ばれていた)のブレイクとパウエルは,パラマリボの港に立ち寄った折,バルバドス生まれで,30代後半の柔和なペンキ職人,フレデリック・ブライワイトに会いました。フレデリックは真理を認め,妻のクレオパトラと彼の友人たちの一人も関心を示しました。フレデリックは小さな木造の自宅で集会を司会するようになりました。

フレデリックは巡礼者たちと同じように,聖書の真理を分かち合う方法を模索しました。その結果,彼は職場で大工のウィレム・テルフトに証言しました。その大工は自分の聞いた話が気に入り,自分の友人と共に,「真摯な聖書研究者」の集会に出席し始め,研究者の数は3人から5人に増加しました。

ブライワイト兄弟はそれらの集会に対する認識を示しました。何年か前にウィレム・テルフトはこう述べました。「ブライワイト兄弟は貧しかったにもかかわらず,いつも集会のためにプレスしたての白いスーツを着ていました。兄弟は経済的に食事をする余裕がないときには,空腹でおなかがグーグーと鳴っているのが聞こえる日もありました。それでも兄弟は,どの集会もいつもどおりに熱心に司会しました」。

ブライワイト兄弟の模範に鼓舞されたウィレム・テルフトは,1919年2月19日にバプテスマを受け,その後,王国の関心事を拡大する面で顕著な役割を果たしました。

一般公開

1920年代に首都で聖書研究者はほとんど知られていませんでした。しかし,1930年代半ばに,その状況は変化しました。聖書研究者のグラハム兄弟が,賑やかな市場と向かい合った店先にベンチを設置したのです。兄弟は凸凹になったスーツケースを開いて,カラフルに製本された協会の書籍を展示しました。英語を話すこの年配の兄弟は,平日には必ずその持ち場に就きました。

スーツケースの周りに集まって,議論を望む買い物客も少なくありませんでした。最近78歳で亡くなったレオ・ムエイデンは,こう述べました。「しかし,グラハム兄弟が述べる意見は常に簡潔で,ごく短いものでした。ある日,そのスーツケースの中に,1冊の小冊子と共に,走っている青年の姿を描いた絵があるのを目にしました。私はグラハム兄弟に,『この青年はどこに向かって走っているのですか』と尋ねました。その年配の兄弟は顔を上げて,『この小冊子を読めば答えが分かります』と言いました。その通りでした。それで,私は『御国へ逃れよ』を読んで,その答えを得たのです」。

王国の音信が増幅される

パラマリボの人々は,書籍以外にレコードを通しても王国の音信を学びました。どのようにですか。証人たちに共感を覚えた店の主コルネルス・フォイフトが,日曜日の晩になると,自宅の2階に自分のレコード・プレーヤーと強力なスピーカーを据え付けたのです。テルフト兄弟はこう述べています。「それから,フォイフトはローマ・カトリックのミサのレコードをかけ,次に宗教音楽を流しました。その後,人々が十分に集まると,レコードを交換し,音量を目一杯上げました。すると協会の2代目の会長ジョセフ・F・ラザフォードの声が,突然聴衆の間に鳴り響き,ずっと遠くまで伝わりました」。

しかし,平日の晩は,有名な医師である息子のルーイが自宅の隣で診療を開始するのを待つだけで,聴衆の注意を引く必要はありませんでした。待ち合い室が患者で満員になると,フォイフトはすかさずレコードをかけました。その医師の妻であるヘレン・フォイフトは,当時を振り返って,「患者たちは自分が望んでいようといまいと,ラザフォード兄弟の話に否応なしに耳を傾けました」と述べています。ですから,証人たちは,書籍やレコードを通して,今や一般の人々の目と耳を引き付けていました。

一つが三つになる ― しかし増加はない

第二次世界大戦はスリナムのはるか遠方で起きたため,スリナムの兄弟たちは致命的な戦災を被ることはありませんでした。とはいえ,パラマリボ会衆は幾らかの騒動に見舞われました。どんな騒動ですか。それは,兄弟間の争いです。

1938年以来集会に出席し,80歳になるレオ・リーフデは,「1945年ごろに会衆が三つの異なるグループに分裂し,異なる三つの場所で集会を開きました。しかも,三つ共,自らをエホバの証人と称していました」と述べています。また,1946年に協会の3代目の会長ネイサン・H・ノアがスリナムを訪問するという発表がなされたとき,ムエイデン兄弟の説明によると,「三つのグループは“自分たちの”会長を迎えるのを楽しみにしていた」ようです。ノア兄弟はどう反応するでしょうか。

1946年4月1日,月曜日,ノア兄弟は当時の副会長フレデリック・W・フランズと共にパラマリボに到着しました。同じ日の晩,フランズ兄弟とノア兄弟の話を聞くために各派閥から39人の兄弟たちが,中立の場である校庭に集まりました。その後,質問を行なう時間になると,兄弟たちはそれぞれ異なる意見を表明しました。会長はしばらく耳を傾けましたが,その話はすでに十分に聞いていました。

ムエイデン兄弟はこう述懐しています。「ノア兄弟は話を手短にして,『皆さんの中でこの地に宣教者が来ることを望む人がいますか』と言いました。私たちは全員手を挙げました。するとノア兄弟は,『結構です。その宣教者は今月ここに遣わされます』と述べました」。その約束にたがわず,1946年4月27日にギレアデ卒業生のアルビン・リンダウが確かにやって来ました。

新時代の幕開け: 宣教者の到着

26歳のアメリカ人,アルビン・リンダウは,バプティスタ兄弟のもとに移り住んで,異なる派閥を一つのグループにまとめてゆきました。1か月後,リンダウ兄弟は,『報告を提出する伝道者が二人から18人に増えた』という喜ばしい報告をしました。ノア兄弟のほうにも,スリナムに対する良い知らせがありました。兄弟は手紙で,1946年6月1日から支部事務所が開設されることを知らせました。そして,「パラマリボにおける業を前進させる時が訪れたことを私は確信しています」と付け加えました。

支部の監督に任命されたリンダウは業に着手しました。まず,支部をバプティスタ兄弟の家から,スワルテンホーヘンブルク通り50番の広い2階建ての建物の階上に移し,1階を王国会館に改造しました。次いで,週ごとの書籍研究,奉仕会,「ものみの塔」研究を開始し,その後,兄弟たちに家庭聖書研究の司会方法を教えました。

次に,リンダウ兄弟は,「今度は攻勢をかける番です!」と発表しました。ある古い人はこのように回顧しています。「兄弟は,家から家に『子供たち』の本を配布するよう私たちを招待しました。最初,私は躊躇していましたが,リンダウ兄弟は,『成功するか失敗するかのどちらかです』と私に言いました。それで,私は鞄の中に書籍を詰め込み,会館の周辺に住んでいる人々にその新しい出版物を提供しました。うれしいことに,私の鞄は短時間のうちに空になりました」。

しかし,書籍を配布するよりも講演を行なうことを好んだ幾人かの兄弟たちは,『我々はものみの塔協会とは何の関係もない。我々が信じているのはラッセル師だ』と不平を鳴らしました。そのため,彼らは「失敗」しました。もっとも,大部分の兄弟たちは書籍の運動を支持しました。しかし,兄弟たちは訓練の必要性も感じました。続く月々はその訓練を施す期間となりました。

漸進的な教育の年

1946年9月にパラマリボ会衆で神権宣教学校が始まりました。同じ月に,王国会館で公の話を行なう運動がスタートし,宣伝ビラは警察をはじめ,一般の人々の注目を集めました。

最初の話を目前に控えた水曜日に,話し手が警察に呼び出されました。警官は,「ものみの塔協会が活動するのは我が国が最初か」と質問しました。実際のところ,スリナムは協会が到達した最後の国々に入ることを知ると,警察は反対を差し控えました。以来,公開集会はずっと開かれています。

翌10月中に,会衆はギレアデ卒業生のマックス・ゲアリーと妻のアルシーア,およびフィリス・ゴスリンと妻のビビアンを迎えました。“ものみの塔から来た5人のアメリカ人”は地元の兄弟たちと協力して働くことにより,市内全体で宣教者が知られると共に,伝道者たちが進歩するのを見届けました。

1946年の終わりまでに,宣教者たちの骨折りと愛ある世話は大きな成果を上げていました。宣べ伝える業は拡大し,分裂に代わって一致が見られました。しかし,前途にはさらに進歩が控えていました。

12月には,「喜びを抱く国々の民の神権大会」という最初の大会が開かれました。「神を真とすべし」という書籍の発表に熱意を燃え立たせた20人の伝道者たちは,公開講演の宣伝ビラ8,000枚をわずか1時間で配布しました。出席者は213人の最高数に達しました。

同じ月に,兄弟たちは「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を前面に掲げて,ビジネス街を行進しました。伝道者たちの周囲には好奇心を抱く通行人が集まりました。ロバに乗って馬車を引いていたある男性は,雑誌を持った姉妹を見かけると,姉妹がいる曲がり角に直接馬車を差し向けました。雑誌が欲しかったのです。その日の午前中に配布された雑誌は101冊に上りました。本格的な街路伝道が始まったのです。

振り出しに戻る

1948年に伝道者数は100人を超えるまでに増加しました。ところが,その後,熱帯地方の暗闇が日の光を不意に襲うように,減少が増加に取って代わりました。1949年3月には,88人の伝道者だけが活動を続けていました。再び争いが生じたのです。問題は何でしょうか。

ある宣教者が,宣教者の家における由々しい不品行を明らかにしたのです。本部の奉仕者であるN・H・ノアとM・G・ヘンシェルは,1949年4月にスリナムを訪問した際,その問題を詳しく調べました。その後,当時ガイアナの宣教者だったジョン・ヘマウェイが問題を調査するために遣わされました。その調査の結果,3人の宣教者が去ることになり,ゲアリー夫妻のもとには,59人の伝道者から成る会衆が残されました。兄弟たちは振り出しに戻ったのです。問題は,兄弟たちを再び行動に促す方法でした。

マックス・ゲアリーは一時的な支部の監督に任命され,陰鬱な時期にあって面倒見のよい牧者であることを示しました。現在76歳になる開拓者のネリー・ファン・マールセンは,このように回顧しています。「私は当時会衆内の多くの人たちと同様,悲しみを味わい,気を取り乱していました。けれども」と姉妹は述べて,温かい口調で,「マックスは愛のある兄弟でした。人をくつろがせてくれました。今でもゲアリー兄弟姉妹のことを思い出すと,目に涙が浮かびます」と話しています。

マックス・ゲアリーは減少したグループの傷に3か月間,いわば手当てを施しました。その後1949年11月にカナダ出身の新しいギレアデ卒業生,J・フランシス・コールマンとS・“バート”・シモナイトが,元の状態に立ち直るよう兄弟たちを援助するためにやって来ました。

それよりも以前に,支部と宣教者の家はヘメーネランツ街80番の狭い地所に移っていました。そのため,新たに到着した人たちの住居としてプリンセン通りに二つ目の家が借りられました。27歳のバート・シモナイトは支部の新しい監督として任命されました。

1950年1月22日,兄弟たちはエホバの組織からの配慮をまさに肌で感じました。その日,ノア兄弟が兄弟たちを励ますためにスリナムまで特別に出向いたのです。ノア兄弟は75名の兄弟たちを前にして,このように述べました。『人々がエホバの証人についてうわさ話をして悪口を言うとしても,そのために動揺してはなりません。皆さんが送っている生活と皆さんが宣べ伝えている音信によって,皆さんは真理を探し求めている人々を慰めることができます。他の人々が何を行なうとしても,また将来何を行なおうとも,わたしたちはこの事を行なわなければなりません』。

三日間に及ぶ築き上げる交わりの後,ノア兄弟は兄弟たちと別れを告げました。力づけられた兄弟たちは,勇気をもって前進しました。

正常な状態に戻る

パラマリボ会衆が正常な状態に戻ると,宣教者たちは西のニッケリーに目を向けました。そこでは,パラマリボでの出来事に左右されなかったバイテンマン兄弟と他の5人の伝道者たちが,1936年以来,手を緩めることなく王国の音信を宣べ伝えてきました。ゲアリー夫妻は当時71歳になったバイテンマン兄弟を援助するためニッケリーに移りました。その後,集会場所はバイテンマン兄弟の家からハウベルネール通りにある宣教者の家に変更されました。

当時40代後半だった,信頼の置ける実の兄弟ジョン・ブラウンとジェームズ・ブラウンは,ゲアリー兄弟を補佐し,その代わりに徹底的な訓練も施されました。やがて,水曜日の晩ごとに,灯油ランプの明かりのもとでジョンとジェームズは,ニッケリーと周辺の村々で野外公開講演を行ないました。

その後,二人の実の兄弟アントン・ブラウンも真理を受け入れ,町の人々から“ブラウン教会”と呼ばれていた会衆はその活動をさらに拡大しました。1953年2月にニッケリーで最初の巡回大会が開かれたころには,伝道者数は3倍に増えて21人になりました。会衆が宣教者たちの存在から益を得ていたのは明らかです。では,パラマリボにいた他の宣教者,バート・シモナイトとフランシス・コールマンはどんな様子だったでしょうか。

野外奉仕 対 薬

バートとフランシスは一部の古い伝道者たちを再び活気づけるために最善を尽くしましたが,芳しい成果が得られませんでした。それらの伝道者たちは野外奉仕に参加する約束をしても,多くの場合,「兄弟,薬を飲んだので行けませんでした」という,お決まりの返事で言い逃れをしたのです。

確かに,熱帯地方には様々な腸の寄生虫がいるので,そのような返事は時として真実の場合もありました。「しかし,その是非を問わず,私はこの小さな会衆で服用されている薬が相当な量に上るという結論に達しました」と,バートは述べています。それにしても,どんな対策を講じたらよいでしょうか。

ファン・マールセン姉妹は助けになりました。ある日,姉妹は野外奉仕に来なかったあとで,「兄弟,私は正直なところ,疲れ果てていたんです」と言いました。姉妹の正直さに心を動かされたバートは,背の高い身をかがめて,姉妹を優しく抱き締め,「ネリー,そのことを私に正直に話してくれた人は,私の知っている限りではあなたが最初だと思います」と言いました。この言葉は伝道者たちの間に知れ渡るだろう,とバートは考えました。「きっと知れ渡ったに違いありません。というのも,薬の使用量が目に見えて減少したからです」と,バートは述べています。

我が家の息子たち」

会衆の中で宣教者たちの精力的な働きに感謝した人々は少なくありません。そのため,伝道者たちはまもなくバートとフランシスを家の中だけでなく心の中にも迎え入れました。今でも,古い人たちにバートとフランシスの話をすると,かすんだ目は輝き,しわの寄った顔はほころんで,数々の思い出がよみがえります。

「バートとフランシスは身内も同然でした。我が家の息子たちだったのです」と,現在91歳になるドゥフリースばあや<オマ>は述べています。彼女は揺り椅子に座りながら,隣家の2階を指差しました。「二人はあそこに住んでいたんですよ。それは愉快な人たちでした」。

「バートの吹く口笛が聞こえるときはいつでも,奉仕に出かけることが分かりました」と,ばあや<オマ>の娘であるルスがまず話します。

「そして,フランシスがバイオリンを弾き,2個のスプーンを使ってどうにか音楽を奏でると,彼のリラックスしている時が分かりました」と,娘のヒレが続けます。「でもバートが王国の歌の81番,『覚めよ! 王国の歓呼の歌』を大声で歌っている時には,シャワーを浴びていることが分かりました」。

「そして」と,もう一人の娘デッテが話に加わります。「料理の焦げている臭いがすると,息子たちは研究中であることが分かりました」。そこで,ばあや<オマ>が二人のために食事の差し入れを始めます。彼女は屈託のない笑顔を浮かべて,このように話を締めくくっています。「私は料理鍋をほうきの柄に結わえると,それを自宅の2階の窓から突き出しました。すると,隣の家からバートの長い腕が伸びてきて,鍋をつかみ取り,夕食の支度が整うのです」。

フランシスが恐ろしい熱帯病のフィラリアに感染したとき,兄弟たちは大いに胸を痛めました。それは発熱と共に,足がだんだん腫れ上がる症状を伴いましたが,フランシスはその後2年余りのあいだ宣教者奉仕を続けました。けれども病気のために最後にはやむなくカナダに戻りました。コールマン兄弟は会衆の力強い援助者でした。彼の援助で会衆の霊は著しく向上し,伝道者数は83人に増加しました。

懐かしい奉仕者たちの思い出

伝道者数が急増したため,バート・シモナイトはブルックリンにあてた手紙の中で,「伝道者が今年100人の大台を超えるとすれば,それはすばらしいことではないでしょうか」と述べました。果たせるかな,1952年4月には30%の増加が見られ,伝道者は109人になりました。

当時の懐かしい二人の奉仕者,ヘンドリック・ケルクとウィリアム・ジャックをご紹介しましょう。魅力的な笑顔で,優しい目をした大柄な男性ヘンドリックは,かつてギャングのボスとして,礼儀正しい社会よりも警察によく知られていました。「ヘンドリックは粗削りのダイヤモンドでした」と,バートは述べています。ヘンドリックは真理を受け入れると,会衆を心から支援し,後に地元の最初の特別開拓者となりました。

次に,70代の朗らかな,疲れ知らずの働き手,ウィリアムがいます。彼は粗末な小屋に住み,清潔とはいえ,あちこち繕った服を着ていました。そして,カヌーに何時間も乗って,川岸に散在する住民に証言するのが習わしでした。関心を持つ人たちが見つかると,心臓が弱かったにもかかわらず,長距離の旅をして彼らを訪問しました。

バートはこのように思い出を語っています。「ある朝早く,私たちは関心のある一家族を訪問するため舟を何時間もこいで川の上流に進みました。ようやく到着すると,少し休憩して,夜の6時ごろから研究を始めました。ジャック兄弟はまず,『真理は汝らを自由にすべし』という本を研究しました。それが終わると,『ものみの塔』誌に切り換え,その後,私が眠気を催して頭を垂れるころに,3冊目の出版物を討議しました。距離があるため,彼はこの家族を2週間に一度しか訪問できませんでしたが,その時間をとても大切にしました。私たちは翌日舟で帰途に就きました。実に楽しいひと時でした」。

支部の監督が講じた特別な手段

1951年12月に,良い知らせが発表されました。シェドリック・ポイナーと妻のウィルマ,ミュアリアル・シモナイト,コニー・マッコネルの4人の宣教者が新たにスリナムに任命されたのです。しかし,悪い知らせがまもなく届きました。キリスト教世界が植民地に任命した僧職者の影響を受けた法務長官が,新しい宣教者たちの入国をことごとく拒否したのです。

それでも,支部の監督はその法務長官を繰り返し訪問しました。法務長官は最後に,『二人の宣教者の入国を認めましょう。希望する宣教者を二人決めてください』と言いました。会衆には兄弟がもう一人必要だったので,シモナイトはポイナー夫妻を指名しました。『その要望は認められました』。しかし,支部の監督は問題をそこで終わらせるつもりはありませんでした。

「その後私は,ミュアリアル・シモナイトが自分の実の姉妹であり,彼女の入国を禁じて私たちを引き離さないでほしいと長官に説明しました」と,バートは述べています。法務長官はその願い出を断わり切れず,『要望は[再び]認められました』。それにしても,コニー・マッコネルの入国許可を得る方法が見つかりませんでした。得点率は依然4分の3でした。しかし,バートはくじけることなく,別の手段を講じました。

バートはこう説明しています。「私は,カナダのケベック州でマッコネル姉妹と奉仕していた私の実の姉妹から受け取った手紙を通して,その若い婦人のことをよく知るようになりました。それで後日,1953年に開かれたニューヨークの大会で彼女と会ったとき,私は彼女と婚約しました。彼女は私のフィアンセとしてスリナムに入国する許可を得,私たちはスリナムで結婚しました。最終成績は4分の4になったのです。私はその結果に少なからぬ満足感を覚え,私たちは皆そのことで大笑いしました」。

辺境に足を踏み入れる

そのころまで,兄弟たちはパラマリボとニッケリーの町にもっぱら注意を向けていました。しかし1953年にレオ・ツアルトがメールゾルグに移ったのを機に,真理はこの村にも伝わりました。

当時40歳だったレオは,1944年以来真理に接していました。小柄で元気がよく,いつも茶色のフェルト帽をかぶっていたレオは,パラマリボ港で港湾労働者として働き,正直者で名が通っていました。レオは自分の村でよい評判を得ていましたが,村人の間で弟子を作る業に関しては,支部がヘンドリック・ケルクという形の“突撃部隊”を派遣するまで,進歩は依然見られませんでした。

まもなく,ヘンドリックとレオは3人の男性と出会い,彼らは聖書研究に応じました。エホバの霊に動かされ,ヘンドリックの徹底した指導を受けた3人はバプテスマを受けるまでに進歩し,レオと共に,一致調和したチームに溶け込みました。

チームワークは彼らの次の計画 ― 王国会館の建設 ― にも欠かせませんでした。金銭には恵まれていなかったものの,3人の新しい兄弟たちは自分たちの畑の一部を取り分けて,そこで稲を栽培し,その収穫の利益を建設計画のために寄付しました。

しかし,ツアルト兄弟には稲を栽培する土地がありませんでした。兄弟はその計画に貢献するため,銀行から200ギルダーを融資してもらい,その返済は自分の乏しい稼ぎの中から少しずつ行なうことにしました。それら4人の貧しい兄弟たちは所期の目的を達成し,立派な王国会館を建てました。

ところで,これらの兄弟たちは,その建設計画が半ばを過ぎたころに,パラマリボで開かれる特別な大会に出席するため作業を中断しました。1954年1月18日,水曜日の夜,彼らはノア兄弟とヘンシェル兄弟の話を聴くために集まった159人の中にいました。

現在77歳になるレオ・ツアルト兄弟は,「その集会でノア兄弟とヘンシェル兄弟は私たちの新しい王国会館を見学したいと言われました」と,その時の様子を述べています。そして,例のフェルト帽を正しながら,こう言いました。「私はいささか緊張を覚えましたが,それは不要な心配でした。二人の兄弟は私たちの仕事をほめてくださいました。『ただし,会館の前にある,あの美しいマンゴーの木は切らないでください。あの木があれば,日除けになり,涼しさが味わえます』と,ノア兄弟は言いました。私たちはノア兄弟の提案に従いました。おかげで,その木はいまもそこにあり,日除けと涼しさ,そしてマンゴーの実を提供してくれます」。

辺境の奥に踏み込む

増加に対応するため,支部事務所はスワルテンホーヘンブルク通りにある4階建ての家屋に移りました。1階にはファスマという靴屋がありました。2階は王国会館と台所で,3階は支部事務所と宣教者の家になり,最上階は文書倉庫として使用されました。

当時28歳のミュアリアル・シモナイトは,その場所から定期的な伝道旅行を行ない,パラマリボの南約30㌔に位置する村,オンフェルダフトとパラナムに出かけました。週に一度ミュアリアルに同伴したヘレン・フォイフトは,その時の思い出をこのように語っています。「私たちは早朝,ボーキサイト鉱山まで労働者を運ぶバスに無料で乗せてもらいました。次いで,鉱山の近くに住む人々に宣べ伝えて,昼にはサンドイッチを食べ,さらに宣べ伝える業を行なった後,労働者と一緒にバスで帰りました。私たちは疲れながらも満足感を覚えて,晩の6時ごろに帰宅しました」。

やがてミュアリアルは,温厚で体のほっそりとしたルディー・パーテルに出会いました。ルディーは真理を受け入れましたが,もっと遠くまで真理を広めたいと考えて,ある交通手段を活用しました。それは,ハーレー・ダビッドソンという大型のオートバイでした。

ルディーはこのように回顧しています。「ミュアリアルは早くからパラナムに出かけて,終日奉仕しました。それから,晩になると,私はハーレーに乗ってパラナムに出かけて,ミュアリアルと落ち合い,二人で聖書研究をさらに何件か司会しました。真夜中に近づくと,ミュアリアルはハーレーの後部席に飛び乗り,私たちは豪快な音を響かせて家に帰りました」。

結婚式,それとも自動車?

前述の村々で大変好ましい反応が得られたので,その後ルディーはもっと多くの伝道者が同伴できるよう自動車を購入することを考慮しました。ルディーはこう述べています。「私にはある程度の蓄えがありましたが,それはまもなく行なわれる自分の結婚式の費用に必要な資金でした。私はやはり聖書を研究していたフィアンセのメアリーとその件について話し合った結果,彼女は結婚式を延期することに同意しました。それで私は英国製のヒルマンを購入し,それ以後は私たち5人が田舎で宣べ伝える業を行ないました」。どんな結果になりましたか。1954年には,パラナムとオンフェルダフト,さらに市外の三つの場所でグループ研究が行なわれました。

ちなみに,二人の結婚式は無事に行なわれました。今日,パーテル兄弟姉妹はパラマリボで伝道者として立派な働きをしています。

監督の業に生じた変化

1954年の終わりまでに,幾つかの変化が生じました。産出的な宣教者,シェドリック・ポイナーと妻のウィルマがスリナムを去りました。マックス・ゲアリーと妻のアルシーアはクラサオ島に移り,その後米国に帰国するまで宣教者として同島でさらに10年間奉仕しました。地元の最初の特別開拓者,ヘンドリック・ケルクとメリー・ディクムト ― 靴屋のユリアン・ディクムトの娘 ― は新しい区域に遣わされました。また,バート・シモナイトの妻コニーには子供が生まれる予定だったので,ふさわしい時期に支部の監督シモナイト兄弟と交替できる別の宣教者を派遣する必要も生じました。

それで1954年11月,バートはスリナムの監督の業を,わずか22歳の内気なオランダ人宣教者,ディアク・ステヘンハに委ねました。言うまでもなく,ステヘンハ兄弟は周囲の状況に慣れるまでしばらく時間がかかりました。

宣教者生活を始める

現在57歳になるディアクは,当時を振り返ってこのように述べています。「私が到着して二日後に,バートとコニーは巡回奉仕に旅立ちました。そしてミュアリアルは国外にいました。そのため私は不安を感じながら,独りで,あの大きな家にいました」。

その後,ディアクがうとうとし始めたころに,突然,ピー,ピーという鋭い音が寝室に飛び込んできました。家のすぐそばでカーブを描いて走り去る蒸気機関車が,汽笛を鳴らしたのです。列車が再び速度を出すと,街路の騒音はみな,シュッ,シュッ,シュッという機関音にかき消されました。油を多く含んだ煙と火の粉が,街路や家屋に,そしてディアクの部屋に充満しました。ディアクはこう続けます。「次いで,ぼう然となった私の目の前で,火の粉は,私がニューヨークから持参したナイロン100%のワイシャツの上に舞い落ちて焼け穴を作り,全部のワイシャツが穴だらけになりました。私は惨めな気持ちになりました」。

翌日になると,熱さと騒音,煙と火の粉が増し加わり,ワイシャツの穴はさらに増えました。「その後,なお悪いことに,私は台所を走り回っている大きなネズミを何匹も見かけました。事態はもはや私の手に負えなくなっていました」とディアクは付け加えています。幸いにも,この孤独な宣教者をふびんに思ったヘレン・フォイフトが,ディアクの食事を作って彼の心を和ませました。ディアクは感謝の念を込めて,「ヘレンは母親のようでした」と述べています。

しかし他の宣教者たちが戻った後,ディアクはすぐに気を取り直し,バートの指導を受けながら業に全力を傾けました。

何か月か後,ディアクとバートは挑戦となる区域,つまり未開の降雨林に注意を向けました。『そこに地歩を築くことは可能だろうか』と,二人は考えました。その答えを得るため,1955年9月に二人は鞄に荷物を詰め込み,汽車に乗って密林に出かけました。王国伝道の業において胸の躍るような一連の出来事が始まったのです。

敵意が見られる区域で活動する「目ざめよ!」通信員

このころまでに,降雨林の住民であるアメリカ・インディアンやブッシュ・ニグロの中で真理を受け入れた人は一人もいませんでした。しかし1947年に,ある兵舎の中で幾つかの話が行なわれた際,数人のブッシュ・ニグロが王国の音信を初めて聞きました。その兵舎は首都を訪問していたブッシュ・ニグロたちの宿舎になっていました。

また,1950年には二人の兄弟が,スリナム川に面する,1,300人のブッシュ・ニグロの村ハンセを訪問しました。ところが,村のモラビア教徒である牧師が,「二人の偽預言者が本を売り歩いている!」というデマを飛ばしました。やがて,証人たちがある年配の男性の小屋で4冊の本を配布したところ,扇動された幾百人もの教会員が証人たちを川岸まで追いかけてきました。兄弟たちは大急ぎで自分たちのカヌーに乗って岸を離れ,辛うじてリンチを免れました。

5年後の今,列車が軽快な音を響かせながらカベルに到着するころ,バートもディアクもその出来事を思い出していました。そこは終点の駅で,最終目的地のハンセまでは舟をこいで2時間かかります。二人は今回どんな待遇を受けるでしょうか。敵対行為を未然に防ぐため,支部は前もって村長に手紙を出し,二人の「目ざめよ!」通信員がブッシュ・ニグロに関する記事に役立つ情報を集めるためハンセを訪問する許可を求めました。村長からは,通信員を歓迎するという返事が届きました。

当日,バートとディアクがカヌーに乗ってハンセに到着すると,村長とその補佐たちが二人を出迎えるために待機していました。ディアクはその時の様子を次のように語っています。「私たちは王室並みの待遇を受けました。彼らは,私たちの宿泊所となる,村で指折りの立派な家を見せた後,私たちを川まで案内し,私たちが水浴を終えるまで礼儀正しく背を向けていました。そのあと,私たちは彼らと社交的な集いを楽しみました。もっとも,会話の大半は,スラナン・トンゴ語を話せるバートが受け持ちました」。

翌日,兄弟たちは村を見学しながら,何人かの村人たちに巧みに証言しました。数日後の日曜日,二人は朝早くカベルに向けて出発しました。カベルに着くと,翌日出発する列車を待つため迎賓館に宿を取りました。 *

舟で宣教者たちのあとを追う

ところで,宣教者たちがハンセを去ってから何時間か後,18歳のブッシュ・ニグロ,フレデリック・ワフターがそこへやって来ました。友人たちは彼に,エホバの証人と思われる,背の高い二人の白人が来ていたことを話しました。フレデリックは気を落としました。自分がそれまで1年間捜していた証人たちが,今までここにいたのに,再び去ってしまったのです。しかし,宣教者たちが翌日の列車に乗って出発することを聞くと,フレデリックは,「列車が出発する前に是非とも二人に追い付きたい」と言いました。果たして彼は間に合うでしょうか。

月曜日の朝,宣教者たちは目を覚ますと,小柄で内気なブッシュ・ニグロが外で待っていることに気づきました。「お二人が私の村に伝道に来られた方たちですか」と,フレデリックは尋ねました。「そうです」,と宣教者たちは驚いた様子で答えました。「なぜそんな事を尋ねるのですか」。

「お二人が訪問なさったとき私はいませんでしたが,皆さんの教えについてもっと多くのことを知りたいと思ってお訪ねしました」。宣教者たちはフレデリックと一緒に腰を下ろして,安息日,バプテスマ,王国,その他について彼の質問に答えましたが,この聡明な青年が一体どのようにしてエホバのことを知るようになったのか興味をそそられました。フレデリックには,次のような経緯がありました。

1950年のこと,二人の兄弟たちがハンセから追い出される直前にフレデリックのおじに4冊の書籍を配布しました。4年後,フレデリックはそれらの本を見つけて読み,死者の実際の状態について知りました。それ以来,彼は自分の部族の迷信的な儀式に従うことを拒みました。さらに,モラビア教会からも脱退し,いつかエホバの証人に会える日を待ち望んでいたのです。

その月曜日の朝,彼の希望は実現しました。しかし,折しも列車がやって来ました。宣教者たちは「神を真とすべし」という本をフレデリックに渡し,首都に来たら支部を訪ねるように勧めて,別れを告げました。フレデリックはそうすることを約束しました。

最初のブッシュ・ニグロの兄弟

翌10月,一人の裸足の青年が宣教者の家の玄関をノックしました。ディアク・ステヘンハはこう述懐しています。「フレデリックは『神を真とすべし』の本を読んで詳細な点までみな記憶し,真理を理解していました。彼は2週間宣教者の家に毎日通って研究しました。しかし集会に来なかったので,私たちは不思議に思いました」。

ディアクは続けます。「ある日,彼を再び招待したところ,フレデリックは目を伏せて,『僕には靴がない』とつぶやきました。彼は集会に来るのがきまり悪かったのです。さて,私たちは,彼を“物貰いクリスチャン”にして靴を与えたいとは思いませんでした。むしろ私は,『映画が上映されるので室内は暗く,あなたが裸足であることに気づく人はいないでしょう』と言いました。その晩,聴衆の中にフレデリックがいるのを見て,私たちは大きな喜びを味わいました」。さらに,フレデリックは,「躍進する新しい世の社会」という映画の中で,靴を履いていない大勢のアフリカ人が歓喜しながらエホバに仕える姿を見て,どれほどうれしく感じたことでしょう。

2週間後,フレデリックは別の願いを抱いて家に戻りました。すなわち,その年の12月に開かれる「勝利の王国」大会に出席するのです。彼は大会の旅費を蓄えるために毎日働きました。そして,その目的をついに果たし,12月11日にバプテスマを受けました。何という喜びでしょう! それは,最初のブッシュ・ニグロの兄弟を歓迎できる日だったのです。現在,ワフター兄弟は,聖句を記憶する優れた能力を活用しつつ,特別開拓者として奉仕しています。ディアクはこのように要約しています。「私はフレデリックの経験を通して,私たちがエホバのみ手にあって取るに足りない器であることを思い起こしました。結局のところ,私たちがフレデリックを見つけたのではなく,彼が私たちを見つけたのです」。

協会の映画が政府の決定に影響を及ぼす

その年,ワフター兄弟に役立ったのと同じ映画が,すでに別の方法で活用されていました。どのようにでしょうか。支部事務所は,スリナムに二人の新しい宣教者が割り当てられたことを知ると,入国許可を申請しました。ところが,筋金入りのプロテスタント信者である法務長官がその申請を却下しました。しかし,法務長官が休暇に出かけると,イスラム教徒である司法警察大臣との会見が急きょ取り決められました。同大臣は許可を承諾するでしょうか。ディアクは,次のように述べています。

「大臣は私の話を聴いてから,ある書類ばさみを取り出しました。そこには,下線を付した『ものみの塔』誌が何冊か入っていました。次いで,大臣はその中のある雑誌から,エホバの証人はこの世の5か年計画を支持しないという文面を読みました。『スリナムには5か年計画があるので,我が国の計画に反対する宗教は望ましくないのです』と,大臣は述べました」。

支部の監督が,政府への従順に関する証人たちの見方を明らかにすると,大臣は満足した様子を見せました。しかし,許可を得る上で実際の妨げとなったのは,キリスト教世界の僧職者でした。ディアクは話を続けます。「大臣がイスラム教徒だったので,私は,証人たちが三位一体を信じておらず,イスラム教徒と同様,唯一まことの神を信じるゆえにキリスト教世界から嫌われていることを伝えました。大臣はその事に興味を抱き,以前より同情を深めて,援助を約束しました」。

何週間たっても返事はありませんでした。そこで,後に証人となったルーイ・フォイフト医師が,「大臣と法務長官代理は私の患者ですから,二人を夫人たちと共に私の家にお招きしましょう。協会の映画を上映するために宣教者の皆さんもおいでください。そうすれば偏見を取り除けるかもしれません」と提案しました。

政府の高官たちは協会の映画を実際に見て,感銘を受けました。「許可は2週間後に得られました」と,ディアクは述べています。宣教者のウィレム・ファン・シーエル(通称“ウィム”)と妻のグリートヘ(通称“グレ”)は,すでにスリナムに向かっていました。

冷ややかな歓迎

1955年12月7日,すでに休暇から戻り,非常に腹を立てていた法務長官は,古い貨物船のコッティカ号が港に到着するのをいらいらしながら待っていました。やがて,乗客のウィム・ファン・シーエルと妻のグレが上陸すると,法務長官は二人を自分のところに出頭させました。「法務長官は,犯罪者でもあるかのように私たちを眺めました」と,ウィムは述べています。「長官は,『君たちの行動範囲はパラマリボに限られる。一歩でも市外に出て伝道したときは国外追放だ!』と断言しました。次いで,それらの制限を記した書類を私たちに手渡すと,私たちは帰宅を許可されました。実に温かい歓迎でした」と,ファン・シーエル兄弟は皮肉混じりに述べています。

しかし,二人の宣教者は会衆にとって実質的な拡大となりました。実際二人はスリナムに来る前から,奉仕の面で立派な記録を築いていました。どちらもナチ占領下のオランダで真理を学んで,1945年にバプテスマを受け,その後は巡回奉仕で経験を積みました。

二人の優れた援助は,増加につながりました。1956年2月に,支部は,「私たちは会衆を二つに分けました」と書いています。4月には,「見事な成果です! 47%の増加が見られました」と述べ,6月には「伝道者は200人に達しました」と伝えています。支部は最後に,「前途は有望です」と述べています。

そのころ,赤ちゃんのキャンディーが生まれて増加をみたシモナイト兄弟の家族は,翌年,特別開拓者として奉仕するためにコロニーのココナツ農園に移転しました。しかしその後,バートが健康を害したため,同家族は1957年にやむなくカナダに帰国しました。バートはスリナムで過ごした8年間,献身的に奉仕しました。エホバの祝福を得て,バートは牧羊の業を首尾よく果たし,会衆を,言わば,不安定な子供の状態から,信頼できる,責任能力を備えた若者へと育て上げました。これは決してささいな成果ではありません。現在シモナイト家は,グアテマラで王国の関心事を顧みるために貢献しています。

貧しい姉妹が示した信仰の行ない

1955年に,靴屋の上の老朽化した王国会館で集会に出席したステラ・ダウラトは,家に歩いて帰りながら,物思いにふけっていました。やがて,マンゴーとカイニットの木々に囲まれた小さな自宅に着くころ,彼女の考えは定まりました。『会衆がふさわしい会館を建てるための場所として自分の敷地を提供することにしたのです』。彼女は同じく証人であった母親とその事について話し合い,二人で『土地を無料で提供する』ことに決めました。ステラにはほかに行く場所がなかったので,家を敷地の後ろに移動できるかどうか一応尋ねました。「大丈夫です,家は私たちが移動しましょう」と,兄弟たちは言いました。

しかし,ダウラト姉妹の地所 ― 彼女の曾祖母が奴隷の身分から解放された1863年に得た土地を相続したもの ― は,彼女にとって住居以上の意味がありました。姉妹は木から採れる果実を売って,わずかな生計をも賄っていたのです。したがって,地所を手放せば生活の手段を失うことになります。「ステラの決定は信仰に基づく行ないでした」と,ある兄弟は称賛しています。

兄弟たちはその贈り物を感謝して受け取りましたが,建設資金に不足していました。しかし,何か月か後に,建設に着手せざるを得なくなりました。なぜでしょうか。1955年12月,その王国会館で百人以上の人々が席に就いていたところ,建物が揺れ始めたのです。その建築物がそれほど大勢の人々を支えるのはもはや不可能でした。その時の様子について,ウィム・ファン・シーエルは,「私たちは気が気ではありませんでした。床が今にも抜け落ちて,全員が階下の靴の中に着地するのではないかと思いました」と述べています。集会の終わりに,前列に座っている人たちが立ち上がって階段を下りる間,他の人々は席を離れないようにという発表がありました。その後,列の順番にしたがって兄弟たちは次々に退場し,やがて会館は空になりました。「その日,私たちは即刻結論を下して『資金はともかく,代わりの王国会館を建てよう』と言いました」と,ウィムは付け足しています。

新時代の訪れを告げる新しい王国会館

建設計画は,1919年にバプテスマを受けたウィレム・テルフトが監督しました。彼はステラに,「家具を運び出す手間は不要です。姉妹の家はそのまま移動します」と言いました。通行人が見守る中,兄弟たちは,その壊れやすい家を持ち上げて幾本もの丸太の上に載せ,それらを回転させながら家を後方に移しました。「窓を街路の方角に向けることは可能かしら。そうすれば眺めがよくなるわ」と,ステラは言いました。問題ありません。家を4分の1回転させたのです。その後,ステラは家に入ると,壁に掛かった絵の位置を調整し,窓の前に椅子を据えて,建設作業員の仕事を見学する準備を整えました。どんな光景が見られるのでしょうか。

まず,兄弟たちは樹木を根こぎにしました。次に,基礎を据えて,分厚い堅固なコンクリートの壁を築きました。この段階で資金が尽きましたが,協会の援助で貸付金が得られ,建設は続行されました。6か月の工期と1万3,000ギルダー(約100万円)の工費を要した後,200人を収容できる会館が完成しました。献堂式は1957年1月13日に計画されました。

建設中,「この会館ならハルマゲドンまで使用できる」と述べた伝道者は少なくありませんでした。しかし献堂式後,そのように断言できる人はいなくなりました。出席者が899人も集まったのです。聴衆は場内や窓際また屋外で,証人たちの合唱隊によるすばらしい歌を随所に取り入れた,話とスライドのプログラムを楽しみました。その夜,喜びに満たされて家路に就いた兄弟たちは,パラマリボに新しい拡大の時代が訪れたことを感じ取りました。

隣人はヘビ使い

やがて,宣教者の家をよりふさわしい場所に移す必要が生じました。そのころ,宣教者の家にはネズミ以外にヘビも住んでいました。なぜでしょうか。宣教者の家の裏庭に,タペツランゲン(ボア)を使って悪魔崇拝を習わしにする呪術医がヘビと一緒に暮らしていたのです。時には,体長2㍍ほどのボアが籠の中から逃げ出して,宣教者の家の自転車置き場に入り込むこともありました。「グレとミュアリアルが自転車を取りに行くと,大抵,目の前に,天井からぶら下がったボアがいました」と,ウィム・ファン・シーエルは言っています。さらにグレは,「それらのヘビは階段を上って台所の近くまで来ました」と述べています。

支部と宣教者の家がパラマリボのウェイデ通りに移転したとき,宣教者たちが後悔しなかったのも不思議ではありません。

別れと旅立ち

1958年にミュアリアル・シモナイトが去ると,宣教者の家族は4人に減少しました。献身的な奉仕者だったミュアリアルは,真理を受け入れるよう多くの人々を援助しました。彼女は当時リベリア支部の監督だったワルター・クリンクと結婚し,その後同国で真理のゆえに幾多の厳しい境遇を耐え忍びました。やがて病気のために彼女は夫と共にやむなく米国に戻りました。現在,ミュアリアルは夫に伴って米国で巡回奉仕にあずかっています。

さらに1958年には,地元の最初の開拓者で25歳のマックス・レイトスが,ギレアデ学校に出席するために旅立ちました。コロニーで教職に就いていたころにバートから真理を学んだ思慮深い兄弟マックスは,ギレアデ第32期のクラスに出席した後,スリナムに戻りました。彼を必要とする仕事があったのです。

降雨林の住民が援助を要請する

ギレアデを出たばかりのマックスは,降雨林の中を流れる河川に沿って関心を持つ人たちを見いだすという困難な割り当てを受けました。マックスが最初の旅に出かけてから何週間か後に,支部はブッシュ・ニグロの村から一通の手紙を受け取りました。その中で,一人の部族民は,「皆さんのおかげで幸福になれたことを感謝いたします。レイトス兄弟を遣わして,私に福音を知らせてくださったからです。私は良いたよりを家から家に宣べ伝えるよう努力しています。良いたよりについてさらに詳しく知りたいと思いますし,ほかにも大勢の人が私のもとにいます」と述べました。そこには,「私たちには意欲がありますが,助けが必要です」というメッセージがはっきりと読み取れました。

巡回区が援助を開始し,10馬力の船外機を備えた小型ボートが購入されました。3人の男性乗組員がスリナム川の上流に向かいました。兄弟たちには,すべての村で宣べ伝え,特別開拓者を配置できる場所を探すという二重の任務がありました。

奥地に100㌔ほど進んだところで,兄弟たちは,地図に載っていない村が見つかったので驚きました。その村には,降雨林の全域から800人のブッシュ・ニグロが一時的に移り住み,水力発電所とダムの建設を行なっていることが分かりました。兄弟たちは,自分たちが広範囲に及ぶ発見を行なったことに気づきました。その村,スラルココンドレには,異なる多くの部族民に宣べ伝えることができる驚くべき機会がありました ― サラマッカナー族,アウカナー族,マツアリール族,アルクス族,パラマッカナー族,クウィンティス族が,みな一堂に会していたのです。特別開拓者の派遣先は間違いなくこの場所にすべきです。

ボートは2か月後に戻って来ました。沢山の文書,米袋,調理器具,ハンモックがあるところを見ると,乗組員のマックス・レイトスとフレデリック・ワフターはここにとどまる予定のようです。反対する村長や僧職者の姿はなく,異なる部族から来た20人のブッシュ・ニグロが,ガド・ウォルツスマ(神の言葉の人々)― 村人は兄弟たちをそのように呼んでいた ― とすぐに聖書研究を始めました。その後,集会が組織され,翌年,スラルココンドレは熱帯雨林の中で最初の会衆となりました。

その後,1963年にダムが完成すると,スラルココンドレのブッシュ・ニグロたちは各々の故郷に戻りました。しかし,そのうちの21人は貴重なもの ― エホバ神に関する正確な知識を持ち帰りました。こうして,真理は降雨林の中を通って幾つかの村々に浸透しました。レイトス兄弟は最後に,「スラルココンドレが見つかったのは,エホバの導きがあったおかげです」と述べています。

「エホバが彼らを加えておられる」

エホバの導きは,サラマッカ川の沿岸で生じた事柄の中にもはっきりと認められました。1960年末のある朝,シードという敬虔なブッシュ・ニグロが舟をこいで教会に出かけました。何年も前に精霊崇拝<アニミズム>をやめ,モラビア教徒としてバプテスマを受けた彼は,神にいっそう仕えるためその教会の近くに移って来ました。

その朝,教会のそばに来た彼は,騒々しい音を耳にしました。さらに近づくと,教会の前に,商品を山積みしたテーブルが幾つも見えました。そこは教会のバザー会場だったのです。彼は,イエスが神殿から商売人たちを追い出されたという聖書の記述を思い出し,「ではどうしてここで市場を開くことなどできるだろうか」と考えました。嫌気がさしたシードは,ぐるりと向きを変え,舟をこいで家に帰ると,妻に,「教会には二度と戻らない!」と言いました。

それでも,神に仕えたいという彼の願いは弱まりませんでした。そのため,知人から証人たちに関する話を聞くと,彼はすぐに興味を覚え,『それは真のクリスチャンかもしれない』と考えて,真相を確かめることにしました。1961年1月,シードは友人のバヤ・ミスディアンと共に首都に出かけ,大会が行なわれているサッカー場に入って行きました。多くの人々がこちらを振り向きました。

「私たちは二人を見て,思わず『ブッシュ・ニグロだ!』と叫びました。大事件だったのです」。ウルグアイの元宣教者で,ディアクの妻であるナタリー・ホイト・ステヘンハはそう述べています。当時,ブッシュ・ニグロの兄弟はフレデリック・ワフターだけでしたが,そこへ突然,二人の仲間が現われたのです。「私たち宣教者は互いに『エホバが彼らを加えておられるのです。彼らは来ています!』と言いました」と,ステヘンハ姉妹は付け加えています。そして確かに,シードとバヤは加えられました。二人はエホバのご要求について学ぶと,各々の結婚関係を合法化して,バプテスマを受け,サラマッカ川沿岸の熱心な伝道者となりました。

同じころ,国内の東端にあるマロニ川の沿岸でも,他の開拓者たちが関心を持つ人々を見いだしていました。こうして,1960年代初頭までに,三つの川に沿って地歩が築かれました。降雨林の中で業を推し進める基盤が整ったのです。

スラナン・トンゴ語で発行された最初の出版物

当時真理を受け入れたブッシュ・ニグロの中で,フィリー・スラフタントのことを覚えている人は少なくありません。フィリーはかつて熱心な政治活動家でしたが,エホバの証人となりました。彼女はフィラリアを患い,片足がひどく腫れ上がっていましたが,『王国のこの良いたより』という小冊子を忍耐強くスラナン・トンゴ語に翻訳しました。それは,地元の言語で発行された最初の協会出版物でした。その後,スラフタント姉妹はさらに多くの出版物をスラナン・トンゴ語に訳しました。やがて,姉妹は病気のために片足を切断することになり,オランダに帰国しました。ある長老はこう述べています。「それでも,私がオランダに出かける時には必ず,ブッシュ・ニグロの兄弟たちからスラフタント姉妹あての手紙を託されます。兄弟たちは,自分たちの最初の翻訳者が払った愛ある労苦を忘れてはいないのです」。

田舎にいる大勢の人々のもとへ出かける

1960年代初めに,王国伝道に役立つ道具がさらに備えられました。1961年の大会で,ミルトン・G・ヘンシェルは,「失楽園から復楽園まで」という本をオランダ語で発表したのです。8か月後には,在庫していた3,800冊のすべてが配布されました。

大会が開かれた週に,全国的なラジオ局「アピンティ」がヘンシェル兄弟をインタビューしました。その後,ヘンシェル兄弟は定期的な放送を行なう許可を求めました。放送局の所有者は許可を認め,以来30年近くの間,「人々が考えているもの」と題して,聖書の真理を広める15分間の番組が毎週放送されてきました。

良いたよりを広く知らせるため,兄弟たちはラジオの使用に加えて,協会の映画を大々的に上映しました。とはいえ,それにはかなりの準備が求められました。ある開拓者はこう述べています。「私は,このベル・アンド・ハウエル社の映写機と,リールを納めた幾つものケース,それに発電機をオートバイの上に苦労して結わえた後,そのオートバイに乗って田舎に出かけました。映画に魅せられて,何百人もの村人と何千匹もの蚊が集まって来ました」。1961年までに,これらの映画を通して3万人に上る人々が王国の音信を聞きました。言わば,田舎の土壌が耕されて,種がまかれたのです。今度は,真理の種に水を注ぐ奉仕者を遣わす時が来ました。それにしても,だれを遣わすのでしょうか。

意欲に燃える若い先駆者たち

田舎で進んで奉仕する開拓者が必要になると考えたディアク・ステヘンハとウィム・ファン・シーエルは,十数人の若者たちを集めました。当時二十歳だったユスフ・スレマンは,その時の思い出をこう語っています。「週に一度,ディアクとウィムは,聖書の教理,野外宣教で聞かれる反対意見,私たちが直面するであろう様々な問題を討議しました。その訓練が終わると,私たちに期待されている事柄が分かりました。出かけて行って,先駆者になるのです」。それで,彼らは行動を開始し,徒歩やバス,自転車やカヌーを利用して各々の新しい任命地に出かけました。

当時20代前半だった有能な兄弟,パウル・ナーレンドープは,オートバイで旅をした時の様子をこう述べています。「私は両足の間に携帯用ベッドをはさみ,後ろには,スーツケースや文書鞄などを積みました。しかし,1963年に結婚すると,積み荷は2倍に増えました。今度は,二つの携帯用ベッド,以前より大きなスーツケース,二つの証言鞄,それに,もちろん,私の妻もいます」。それでも,パウルは,「あのころは実に楽しかった」と述べています。

当時23歳だったヒレ・ドゥフリースは,19歳の妹のルスと一緒にスリナム北西部のある村に派遣されました。ヒレはこのように述懐しています。「私たちは月ごとに支給される45ギルダー(約3,500円)の手当の中から,15ギルダーの家賃を払いました。水道も電気もありませんでした。水浴にはかんがい用水を,飲料には雨水を使用しました」。

ルスはこう述べています。「私たちには灯油を十分に買うお金がなかったので,ランプは集会中だけ使用しました。そのほかの夜は暗闇の中で過ごしました。それでも,文書と引き換えに食べ物をもらえたので,収支は必ず合いました。つらい事もありましたが,二人とも幸福でした」。

「この辺りにはヘビがいますか」

田舎に派遣された若い開拓者たちが感動を覚えた事柄の一つは,孤立した伝道者たちを訪問することでした。では,パウル・ナーレンドープのあとに付いて行きましょう。彼は,大西洋岸に近い小屋で暮らしていた60代の貧しい漁師,リフェネル・リンヘルと共に旅をしました。

リンヘル兄弟は伝道旅行を毎週,それも大抵一人で行ないました。今回はパウルが同行します。二人は午前3時に行動を開始して,舟をこいで川を3時間ほど遡り,アメリカ・インディアンの村に着きました。そして,伝道を一日じゅう行ない,晩の7時には帰宅しました。2時間後,二人はその日最初の暖かい食事を取り,深い満足感を覚えました。

とはいえ,都会っ子のパウルには気がかりな事がありました。「この辺りにはヘビがいますか」と,彼は尋ねました。リンヘル兄弟は平然とした様子で,「ええ,少しはいます。それもサカスネキス[熱帯地方のガラガラヘビ]がほとんどです」と答えました。パウルはぞっとして,「あんなヘビに噛まれたらおしまいだ」と言いました。「先週そこに1匹いましたよ」とリンヘル兄弟は述べて,パウルの頭上のわらぶき屋根を指差しました。「食事の最中に見つけたのです。『少しでも動いたら,痛い目に遭わせよう』と思いました。そして,食事を済ませ,皿洗いをした後,短剣でそのヘビを始末したのです。体長はこのくらいでした」。そう言うと,兄弟は1.2㍍くらいの間隔に両手を広げました。パウルは再びぞっとしました。

しかし,リンヘル兄弟はその訪問者を脅かすつもりではありませんでした。それは兄弟にとって現実の生活だったのです。「その晩,私はうずくまって,頭から毛布をかぶり,寝る前にエホバに長い祈りをささげました」と,パウルは述べています。

このように,1960年代のそれら若い開拓者たちの多くは,様々な経験を積みながら円熟し,今日では諸会衆の柱となっています。

熱心な研究生が移って来る

やはり当時の開拓者で,19歳のセシル・ピナスは,首都から西に190㌔離れた居住地,ワヘニンヘンで精力的に奉仕しました。セシルはその場所で,21歳の機械工,アドルフ・ヘフェリー(通称“イェフ”)と出会いました。アドルフは真理を聞くと,素直にそれを受け入れました。

イェフとの聖書研究は三,四時間に及びました。ある時,研究が終わると,セシルと彼のパートナーは,「イェフ,私たちは疲れたので,もう帰ることにします」と言いました。イェフは,「途中までお送りしましょう」と言いました。開拓者たちは途中で立ち止まりましたが,イェフは聖書の質問を尋ね続けました。開拓者たちが再び歩きだすと,イェフは一緒に付いて来ました。家に到着した開拓者たちは,「イェフ,おやすみなさい」と言いました。けれども,イェフはまだ質問を続けました。「いいですか,イェフ」と,セシルは言いました。「質問をしても構いませんが,私は寝ることにします。ですから,私が返事をしなければ,寝ているのです」。『それは名案だ』とイェフは思いました。彼は床の上で横になり,話し合いはセシルが返事をしなくなるまで続きました。

翌日,イェフは身の回り品を持ってその開拓者たちの家に行きました。セシルは笑いながら,こう述べています。「私たちの知らない間に,イェフは移って来たのです。私たちは少しでも時間があると研究を行ないました。イェフは3か月でバプテスマを受け,2年後に特別開拓者となりました」。

掘削機から新しい王国会館まで

ワヘニンヘンにいた3人の機械工の一人で,直向きなイェフは,廃棄された1台の掘削機を指差して,「あの掘削機を買い取って,修理し,それを売って,王国会館の建設資金にしましょう」と提案しました。掘削機の所有者たちは,「あの代物は修理不能な,錆の塊だ。持って行きなさい」と言いました。

人の背丈ほどある雑草の間を踏み分けて行ったところ,その残がいは幾つかの部分に分かれていました。その後,兄弟たちは不足している部品を購入し,その掘削機を少しずつ修理しました。2年後,そのエンジンを試験できる日が訪れました。イェフはこう述べています。「私たちは不安でしたが,一人の兄弟がエンジンをかけました。すると,それは動き始めたのです。皆は歓声を上げました。次いで,掘削機が動くと,さらに大きな歓声が上がりました。本当にすばらしい瞬間でした」。

掘削機は1万5,000ギルダー(約110万円)で売却され,そのお金に貸付金を加えて,王国会館と,開拓者たちが住む1軒の家が建てられました。こうして,真の崇拝は田舎に新たな拠点を得ました。

何年もの間,幾人かの開拓者と宣教者たちがこの土台の上に建てる業を行なってきました。今日,ワヘニンヘンでは,ナミビア出身のギレアデ卒業生,リアーン・ドゥ・ラーンと妻のマルサが立派な奉仕を行なっています。

1963年に,テルフト兄弟は再び建築計画をその老いた腕に託されました。すなわち,首都に支部事務所と宣教者の家を建設するのです。兄弟たちが新しい場所に親しめるように,土ぼこりの多い現場で大会が開かれ,建設に備えて何百人もの人々が土地を踏みならしました。その後,100人の自発奉仕者たち ― その多くは退職した職人たち ― があとを引き継ぎ,建物は1年半後に完成しました。それは,事務所,王国会館,宣教者の居室を備えた2階建ての建物でした。ウィヘルストラートにできたこの新しい施設は,1964年8月以来,支部事務所の所在地になっています。

「楽園」の本は道を備える

支部が完成すると,兄弟たちはサラマッカ,スリナム,タパナホーニの三つの川に沿って宣べ伝える業に専念しました。セシルの実の兄弟ネル・ピナスとバヤ・ミスディアンは,証人たちがそれまで訪れたことのない遠方のタパナホーニ川に沿って,ブッシュ・ニグロのアウカナー族のもとに出かけました。しかし,王国の音信はすでにその地に届いていました。「失楽園から復楽園まで」という本が道を備えたのです。どのようにでしょうか。

1959年にネル・ピナスは,スリナム北東部にあるアルビナという村で,アウカナー族出身の文盲の女性,エドウィナ・アパソンと出会い,「楽園」の本にある絵を彼女と討議しました。エドウィナは自分の学んだ事柄が気に入りましたが,7か月後にタパナホーニに戻り,消息が途絶えてしまいました。

ところが,8年後,ネルはタパナホーニに出かける1週間前に,首都でエドウィナを見つけたのです。エドウィナの話によると,彼女はそれまでずっと自分の部族の中で「楽園」の本の絵を用いて宣べ伝えていたようです。彼女はネルがタパナホーニに出かけることを聞くと,関心を持つ二人の人たち,ヤブという若い男性とタイオニという若い女性をぜひ捜してほしいと頼みました。

心温まる反応

タパナホーニに到着して二日後,兄弟たちはヤブの住んでいるヤウサ村を見つけましたが,彼は留守でした。けれども,翌日の晩,ヤブは兄弟たちのもとに来ました。そして,自分はすでに悪魔崇拝をやめ,神に仕えることを願っている,と述べました。ヤブは五日間の休職許可を得て,兄弟たちと毎日8時間研究しました。その後,彼はまことの神エホバに仕えることを願いました。

次に兄弟たちは,二十歳のブッシュ・ニグロの女性,タイオニを捜しました。彼女はすでに自分の村グランボリで「楽園」の本の絵を見せて宣べ伝えていました。ところが,呪術医である実の兄弟がその本を彼女から取り上げました。タイオニは涙を流しながら,「どうか,エホバ,『楽園』の本をもう1冊お与えください」と祈りました。二人の兄弟たちが彼女を見つけたいという気持ちに駆られたのも不思議ではありません。

ある日,タイオニは,近くの村に証人たちが来たという話を聞きました。彼女は舟をこいで大急ぎでその村に行きましたが,残念なことに,兄弟たちは出かけたあとでした。しかし,その後兄弟たちは戻って来て,彼女と三日間研究しました。彼女はかつて食べ物がなくなると,決まって親族から血抜きしていない野獣の肉を勧められたと述べました。父親は,信仰を捨てなければ殴打すると脅しました。それでも,彼女は,「たとえ命を奪うと脅されても,私は妥協しません」と言いました。しかもこれは,文字が読めず,真理を絵だけで学んだ少女が述べた言葉なのです。その信仰に感銘を受けた兄弟たちは,手元にあった最後の「楽園」の本を彼女に渡しました。彼女はその本を抱き締め,喜びを抑え切れない様子で,自分の祈りが聞かれたことをエホバに感謝しました。

2か月後,兄弟たちはパラマリボに戻りましたが,その後,ネルと妻のヘルダが特別開拓者としてタパナホーニに移り,降雨林で築いたその足がかりを基にして建てる業を行ないました。

ギレアデからさらに援助が与えられる

その後まもなく,1968年に,ギレアデ卒業生で,カナダから来たロジャー・ベブルゲとグロリア・ベブルゲ,ドイツから来たロルフ・ウィークホルストとマルグレット・ウィークホルストが到着し,宣教者の家族は四人から8人に倍増しました。新しい宣教者たちは,その温かい特質に加えて,他の人々の福祉に対する誠実な関心を示したので,地元の兄弟たちからすぐに慕われるようになりました。

それ以前に,もう一人のギレアデ卒業生,アルベルト・ズールもパラマリボに到着しました。1953年にギレアデ第20期のクラスを卒業したアルベルトは,クラサオ島で宣教者として13年間奉仕しましたが,てんかんを患って同島をやむなく去り,スリナムにいる親族のもとに移り住みました。彼は病身で開拓奉仕を再開し,後に健康をさらに損なって老人ホームに移り住むまでその立場にとどまりました。しかし,アルベルトは王国伝道の業を断念しませんでした。ご一緒に,アルベルトがいる場所を訪ねてみましょう。

午前中,アルベルトは何冊かの「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を娯楽室に掲示します。その後,視力の弱い80歳の隣人のために,日々の聖句を大きな文字で書き出します。次に,入居者と看護婦たちに雑誌を配布します。一日の終わりに,アルベルトは腰を下ろして個人研究をします。現在68歳のアルベルトは,「健康が優れないので活動は限られていますが,エホバにお仕えしたいという心の願いはいまも変わりません」と述べています。慎み深いので口には出しませんが,彼は最近,ある月に126時間も宣べ伝える業を行ないました。ある宣教者は,「アルベルトのように目立たない仕方でこつこつと働く人たちを見ると,信仰のあるべき姿を思い起こさせられます」と述べています。

“水の大会”

何年かの間,伝道者数の合計は500人のあたりで伸び悩みました。しかし,やがてその数は550人を上回りました。増加の理由は何ですか。支部の報告は,「『地に平和』国際大会によって業に大きな弾みがつきました」と述べています。

1970年に開かれたその大会は,“水の大会”として記憶されています。1月16日の晩,1902年以来の大雨が降り,パラマリボとそこにあった大会会場のスタジアムは洪水に見舞われました。「その朝,ある伝道者たちは目を覚ますと,自宅がひざの高さまで水に浸かっていました。それでも,彼らは大会に直行しました」と,グレ・ファン・シーエルは述べています。同大会の組織者の一人は,「1,200人余りの人々が泥水をかき分けてスタジアムに入って来るのを見て,私たちは大変驚きました。あれほど大勢の人々が集まったことは過去に一度もありませんでした」と述べています。

ああ,バスよ!

洪水が起きるのは稀でしたが,バスの故障は大会の前後に付き物でした。1960年代末のある日曜日,48人の人々が,パラマリボまで戻る30人乗りのバスを待っていましたが,バスはやって来ませんでした。ロルフ・ウィークホルストは,その時の思い出をこう語っています。「私たちがそのバスの運転手を捜したところ,彼はバスのエンジンを分解していました。周囲には何百個もの部品が散らばっていました。運転手は,『ギヤボックスの故障ですが,直してみます』と言いました」。

旅は4時間後に始まりました。しばらくすると,バスの中に焦げくさい臭いが漂いました。運転手は,「4速目のギヤしか使えないのです」と言いました。夜半過ぎに,バスは坂を下って小さな渡し場に着きました。それにしても,4速目のギヤでどのようにして坂を上るのでしょうか。ロルフは話を続けます。「何という光景でしょう! 若者や老人,それに赤子を背負った母親までが,王国の歌と,うなるエンジンのリズムに合わせてバスを後押ししているのです。バスはじりじりと坂を上りました。私たちはついに坂を上り終えて,その朝の3時に帰宅しました」。

ある時,ニッケリー会衆も大会に出かけるためにバスを借りました。一行は午前7時に出発しましたが,10時には,バスは人通りのない未舗装道路で故障しました。運転手は,「また戻って来ます」と言ってどこかへ歩いて行きましたが,乗客のマックス・レイトスは,「彼は二度と姿を見せないだろう」と言いました。食糧と水が尽きると,二人の兄弟が救援を求めて運河沿いに歩き始めました。二人は15時間後にボートを伴って戻りました。旅行は継続され,一行は正午に大会に到着しました。30時間に及ぶ,240㌔の旅でした。マックスは笑いながら,「そう言えば,あのバスには,『歓迎』という名前が書いてありました」と付け加えています。

とどまる決意をする

ナタリー・ステヘンハには子供が生まれる予定だったので,ステヘンハ夫妻は1970年9月に宣教者の家を出ました。ディアク・ステヘンハは16年間支部の監督として勤勉に働きました。その後国の監督は宣教者のウィム・ファン・シーエルに託されました。

「私たちはとどまる決意をしましたが,それは大きな試練でした」と,ディアクは述べています。さらにナタリーは,「住む場所は見つかっても,家賃を払えませんでした。手ぬぐいさえなかったのです」と話しています。しかし,その後,友人たちが援助を差し伸べて,ディアクは勤め口を見つけ,妻と娘のヘリルを養うことができました。現在,ステヘンハ家はスリナムにとどまり,3人共,全時間奉仕者として働いています。

移住の結果,会衆と学校が設立される

1970年代の初めに,何千人ものブッシュ・ニグロが職を求めて首都に移住しました。マルグレット・ウィークホルストは当時を回顧して,「中には,私たちの会衆で行なわれるオランダ語の集会に出席して,真理に愛着を示す人たちもいましたが,彼らはオランダ語を理解できませんでした」と述べています。それで,彼らを援助するために,フレデリック・ワフターが大会の話を各部族の言語で要約して伝えました。その後さらに多くの集会が組織され,1971年6月に,首都で最初のブッシュ・ニグロの会衆が発足しました。

少し以前に読み書きを学んだ二人のブッシュ・ニグロの姉妹たちが,この新しい会衆の特別開拓者として任命され,エホバの側に立場を定めるよう幾つかの家族を援助しました。やがて,これらの新しい弟子たちは読み書きを学びたいと思いました。それで,同会衆は読み書きの学校を開設しました。

1975年以来,「読み書きを学ぶ」というスラナン・トンゴ語のブロシュアーが週に2回,数クラスの授業で使用されています。8人の教師の一人,エルフィラ・ピナスはこう述べています。「生徒たちは授業に忠実に出席しています。聖書を自分で読めるようになることを真剣に願っているからです。さらに,粘り強さも見られます。ある年配の姉妹は授業に7年間通いましたが,今では文字を読むことができます」。現在,住民の20%は読み書きができませんが,この学校のおかげで,バプテスマを受けた証人たちの間では文盲率がわずか5%に低減しました。

信条の衝突

読み書きの学校には別の利点もありました。1974年にエドウィナ・アパソン(「楽園」の本のさし絵から真理を学んだ文盲の女性)はこう書いています。「喜ばしいことに,私は特別開拓者としてタパナホーニ川流域に割り当てられました。私はその地域を出たとき,文字が読めませんでしたが,今では読むことができます。自分の部族を援助する優れた備えができたように思います」。

しかし,エドウィナが出身部族に戻るには勇気が求められました。なぜでしょうか。彼女の部族民は,死んだ先祖を恐れながら生活し,食べ,働き,眠っており,邪悪な霊から身を守るためのお守りを大切にしています。また,川や木や石には生霊が宿ると信じて,自然をあがめています。「こうした生活様式を少しでも変えれば,大変な騒ぎになります」と,エドウィナは述べています。

エドウィナが月経を迎えるころに,聖書の教えと部族の信条との間で最初の衝突が生じました。さて,村人の信条によれば,月経中の女性が近くにいると,男性のお守りは効力を失うため,邪悪な霊は致死的な病気でその家族全体を打つことができます。それを防ぐため,月経を迎えた女性は皆,村から隔離された小屋に移らなければなりません。この信条は悪霊に対する恐れに由来しているので,エドウィナはその信条に従いませんでした。そして案の定,大きな騒ぎが起きました。

エドウィナは脅迫され,棒で打ち叩かれましたが,それでも妥協しませんでした。その後,彼女と聖書を研究していた女性の何人かが彼女の勇気ある態度に見倣った結果,村八分にされて,小屋から追い出されました。エドウィナは彼女たちを引き取り,この勇敢な女性グループと共に部族からの仕返しに耐えましたが,宣べ伝える業をやめませんでした。そうするうちに,思わぬ助け手がやって来ました。それはだれでしょうか。

のろわれた男が神の是認を得る

アパソン姉妹は以前,70代の呪術医,パイツに伝道を行ないました。パイツは,通称アマカ(ハンモック)と呼ばれていました。かつてライバルの呪術医の手で健康をひどく損なわれ,ハンモックに寝たきりの身となったからです。パイツはすぐに聖書の音信の意味を悟りました。そして,ある日,ハンモックから降りると,自分が持っていた像やお守り,霊薬の類を寄せ集めて,村人たちをたいそう驚かせました。次いで,彼は自分のカヌーに乗り込んで,その魔術の道具一式を川の中に投げ捨てました。それ以後,彼は健康を取り戻し,やがて伝道者たちの援護に出かけました。

パイツはまず,迫害のために追い出された女性たちのために小屋を建てました。次に,その女性たちが生計を立てられるように幾らかの農地を開墾しました。やがて彼女たちは急速な進歩を遂げ,バプテスマを受けました。その中の一人で,自分が受けた援助に心を打たれたディヤリ姉妹は,興奮した口調で,「エホバにどのように感謝できるかしら? 唯一の方法は開拓奉仕だわ!」と言いました。そして姉妹は今日までその奉仕を行なってきました。パイツは1975年にバプテスマを受け,同じ年に,エドウィナの村ゴド・オロで20人の伝道者から成る会衆が発足しました。真の崇拝のために忍耐した彼らは,何と大きな報いを得たのでしょう!

他の民族が仲間に加わる

ところで,スリナムの住民の一部を成すイスラム教徒やヒンズー教徒の間に,真理はどの程度浸透していたでしょうか。1970年代の初めまでに,そのことを行動に表わしたのは数人にすぎませんでした。しかし,ようやく1974年に,支部事務所はインドネシア系のイスラム教徒が一部こたえ応じたことを報告しました。そのようにこたえ応じたのは,勇気のある人たちでした。なぜそう言えるでしょうか。

「多くの人々は絆の強い伝統的な家族の中で暮らしています」。幾人かのイスラム教徒に真理を教えた,インドネシア系の,ギレアデ卒業生,ヤン・バイスと妻のヨアンはそう述べています。ヤンはさらにこう述べています。「これらの伝統に背くなら,大抵,迫害に直面します。私は以前,あるイスラム教徒の若い男性と聖書研究をしました。しかし私は,彼の親族たちが非常に怒った様子で床を掃くのを見て,自分が歓迎されていないことを悟りました。それでも,私たちは塵がもうもうと舞う中で研究を行ないました」。その方法が失敗すると,親族たちはけんか腰で議論を挑んできました。その男性はその議論にも応じなかったので,家から追い出されて,勘当されました。彼は首都の郊外に移って聖書研究を続け,妻と共にエホバの証人となりました。

ヤンはこう述べています。「歳月が過ぎ,この兄弟の親族たちは,一族の中で結婚生活の問題を抱えていないのは彼だけであることに気づきました。そして,彼の勧めに応じて母親がそのもとで暮らすようになると,親族はエホバの証人に対する見方を改めました」。この兄弟の勇気に励まされて,他のイスラム教徒もわたしたちと交わるようになりました。

ヒンズー教徒についてはどうか

今日,この国で最大の民族を形成しているのは東インド人です。その生活には宗教儀式が深くかかわっていますが,真理を愛するヒンズー教徒で,王国の音信を聞いてエホバの組織に引き寄せられる人々は増えています。ニッケリーの町の近くでヒンズー教徒の家庭に生まれた,サマ・カルーという少女はその良い例です。

サマの父親は稲作に従事する勤勉な農夫で,12人の子供を立派に育てました。サマは若いころから,ヒンズー教に固く付き従って,東インド出身のヒンズー教徒とのみ結婚するよう父親から教え諭されました。「私たちの年代の若者がそれらの規律を破ると,父は決まって涙を流しながら自分の願いを私に何度も聞かせました」と,サマは述べています。サマは父親を愛していたので,父親を悲しませる事は行なうまいと決意しました。

1974年,19歳になったサマは,教育大学に通うためパラマリボに移転しました。そして,パラマリボにいた実の兄弟の家で「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を見つけたのです。彼女はその中の記事に興味をそそられましたが,幾らかの疑問も覚えました。サマはこう続けています。「そこで私は,これらの雑誌を配布している人たちに引き合わせてください,と神に懇願しました。すると翌日,エホバの証人の夫婦が私を訪問してくださいました」。

宣教者のロジャー・ベブルゲと妻のグロリアは週に2回彼女と研究しました。「彼女はまもなく会衆の集会に出席し,野外宣教を始めました。この熱心な少女は1976年9月にバプテスマを受けました」と,ロジャーは述べています。

サマは卒業すると,ニッケリーで教職に就いて,両親のもとへ戻りました。父親は娘の新しい信仰のことが気になりましたが,同時に,娘が教師であることを誇りに思いました。もっとも,サマは,隣人のヒンズー教徒に全時間宣べ伝えたいと願いました。しかし,父親の気持ちを傷つけたくはありませんでした。彼女は一つの解決策を見いだしました。

サマは両親を喜ばせるために教職を続け,仕事後に開拓奉仕をしたのです。何か月もしないうちに,彼女はヒンズー教徒との聖書研究を18件司会するようになり,彼女の熱意に助けられて研究生の多くがバプテスマを受けました。グロリアはこう付け加えています。「同時にサマは,愛のこもった態度で両親に接し,家族の習慣にも従いました。しかし,必要な時には固く立場を定めました」。その後まもなく,彼女はエホバに対する愛を試みられました。

『主にある者とだけ結婚する』

そのころ,サマはすでに20代半ばにありました。スリナムでは,ヒンズー教徒の少女は15歳から19歳までの間に結婚するのが普通で,独身の女性は珍しいため,親族たちは,サマの家に求婚者が立ち寄るように手配しました。しかし,彼女はどの縁談も辞退しました。そして,圧力に屈することなく,「主にある者とだけ」結婚するための助けをエホバに願い求めました。(コリント第一 7:39)とはいえ,彼女は両親の希望に添って東インド人の伴侶を見いだすように努めましたが,「もしエホバの組織の中にそのような伴侶がいなければ,自分は独身を保つ」ことを誓いました。

彼女の忠実さは,28歳の時に報われました。サマは,オランダ在住の会衆の長老で,東インド系のアルフォンス・クンディビハリと出会ったのです。二人は愛し合うようになり,結婚を決意しました。サマの両親はアルフォンスと面識がなかったので,ある日,彼女は母親の前で聖書を読み,エホバがクリスチャンの長老に求めておられる事柄を聞いてもらいました。母親は注意深く耳を傾けた後,「あなたの未来の夫は立派な人なのね」と言いました。後日,サマの実家で結婚式の感動的な話が行なわれると,彼女の父親はいたく感激し,ある宣教者のもとに歩み寄って,「皆さんの神様から息子を授かりました!」と述べました。

1984年以来,サマはオランダで開拓者として奉仕していますが,スリナムで彼女が示した模範はいまもなお記憶されています。彼女の助けで,言わば,潮流が変化してからは,かつてヒンズー教徒だった人々が兄弟関係の中に流れ込んできました。

斬新なアイディア

このように様々な住民の間で良い反応が得られた結果,1974年8月までに伝道者は831名の最高数に達しました。しかし,大会にはその2倍に相当する人々が出席しました。この増大するグループを収容できる大会会場がどこかにあるでしょうか。兄弟たちはある斬新なアイディアを考え出しました。

『大会ホールのステージを兼ねた王国会館を建てるのです』。どのようにでしょうか。『まず,王国会館の床を地面から1㍍の高さに設置します。次に,会館の一方の側面に,スライド式の巨大な2枚戸をはめ込みます。大会中にそれらの戸を開け放つと,会館はステージになります。次いで,人々を日差しと雨から保護する大屋根をそのステージの前方に取り付けると,熱帯地方にふさわしい大会ホールが出来上がります』。

幅40㍍,長さ200㍍の用地が購入され,建設が始まりました。この簡素な大会ホールは1年後の1976年11月28日に献堂され,これまで何年間も兄弟たちの役に立ってきました。

ノア号 ― 川じゅうの話題

伝道者はタパナホーニ川流域でも増えたため,やがてある建造計画が持ち上がりました。首都で開かれる大会に会衆全体を輸送できる大型のカルヤール(丸木をくりぬいたカヌー)を作るのです。奥地の業を監督しているセシル・ピナスは,「それは挑戦となる計画でした」と述べています。「それほど大きなカルヤールが作られたことは今までに一度もなかったのです。しかしパイツ兄弟は,『皆で行なえば実現できます』と言いました」。

カルヤール作りの専門家,パイツ兄弟が一本の大木を選ぶと,4人の兄弟たちがその木を一日がかりで切り倒しました。その後,兄弟たちは2か月を費やしてその木をくりぬき,全長18㍍のカヌーに仕上げました。それは地元で建造された最大のカヌーでした。この証人たちの舟はまもなく川じゅうの話題になりました。村の子供たちは,そのカヌーが通るたびに走り出て,「ノア・エ・プサ!」(ノア号が通る!)と叫びました。

降雨林で最初の王国会館

1976年9月に,教職を持つ4人の若いエホバの証人がタパナホーニ川流域に移って来ると,発足後まもないゴド・オロ会衆は新たな活気を呈しました。教師たちの一人,ハルツィフ・ティヨン・ア・サンは,「私たちは学校で教えるために同地域に出かけましたが,そこに移転した主な目的は,その新しい会衆と共に働くことでした」と説明しています。そして彼らは立派な働きをしました。彼らは文盲の兄弟たちに読み書きを辛抱強く教え,その後は,会衆の次の行動計画に進んで援助を差し伸べました。つまり,ゴド・オロに王国会館を建設するのです。

それ以前に,村長のアルファイシが兄弟たちに会館の建設用地を提供しましたが,兄弟たちには資金がありませんでした。では,兄弟たちはどんな手を打つでしょうか。兄弟たちは,「森からは木材が採れるし,川には砂と砂利がある。そしてエホバは,それを集めるための力を私たちに与えてくださる」と考えました。足りないのはセメントだけでした。この面でノア号が役に立ちました。

ノア号は旅行に便利で安全であるという評判を得ていたので,政府の職員たちはその舟を借りて海岸まで出かけるために,年間およそ4,000ギルダー(約30万円)の使用料を支払いました。セメントは,首都でその収益を用いて購入できたのです。それにしても,セメントをどのようにゴド・オロまで運ぶのでしょうか。ここでもノア号が活躍しました。

アルビナでは,長身の強健なブッシュ・ニグロで,舵取りの名手でもあるドー・アメドンが,他の兄弟たちと一緒に,重さ50㌔のセメント袋を40個そのカルヤールに積み込みました。その後彼らは,ふなあしの深くなったノア号に乗ってマロニ川を遡って,南の急流<スラ>へ向かいました。それらの急流には,マンバリ([急流を通り抜ける際の]人々の悲鳴)とか,プルグドゥ([その急流で多くの舟が転覆し,人々が持ち物を失う]落とし物)といった名前が付いていました。一行はその急流を無事に乗り切るでしょうか。

乗組員たちの耳に,ごうごうと鳴り響く最初の滝の音が聞こえました。前方を見ると,川の水は巨大な階段に似た岩塊の上を流れ落ちて,その通り道をふさぐ大きな石にぶつかり,狭くて危険な川筋を通り抜けて,ノア号に打ち寄せました。アメドン兄弟はへさきに立つと,その荒々しい川を見渡して進路を見定めました。次いで,手に持った長いさおを渦巻く水の中に突き入れて,背を弓なりにし,ノア号を一本の川筋に押し進めました。兄弟の合図と共に,エンジンが停止され,ノア号は急流<スラ>の手前でつなぎ止められました。

ドー・アメドンはセメント袋を頭に一つ載せると,滑りやすい岩の上を次から次に飛び移って,急流をどうにか横切り,セメント袋を乾いた場所に下ろしました。その後,他の兄弟たちもセメント袋を頭に載せて川を渡り,全部の袋を運び出しました。次に兄弟たちは,白く泡立った水の中からノア号を注意深く引き上げ,その後再びセメント袋を積み込みました。旅行が再開されて,次の急流<スラ>まで進むと,そこでも同様に,袋を頭に載せて,岩を飛び移り,荷物を積み直す作業が行なわれました。最終的に,七つの急流を通って11日間を費やした後,セメントはゴド・オロに到着しました。

そのころ,他の兄弟たちは木を伐採し,姉妹と子供たちは250樽分の砂と砂利を建設現場まで運びました。建設が始まり,1年後の1979年4月15日に,降雨林で最初の王国会館が献堂されました。

では,ノア号はどうなりましたか。「普通,カヌーの寿命は4年ですが,ノア号は10年ほど使用されました」と,セシル・ピナスは述べています。ノア号はいまどこにあるでしょうか。「引退しました」と,セシルは笑いながら言います。「しかし,いまでも時々使用されています。もう,メトセラ号という名前のほうがお似合いです」。

下降 ― なぜ?

1970年代末に,スリナムの伝道活動は衰えを示しました。1977年には1%の減少,1978年には4%の減少,1980年には7%の減少が見られたのです。なぜでしょうか。大規模な移住があったのです。

1975年11月にスリナムが独立国になると,何万人ものスリナム人が政治紛争を懸念してオランダに移住しました。社会学者のJ・ムールラントは,自著「スリナム」の中で,『雇用や教育,また社会的安全を求めて,あるいは家族と再会するために国を去る』移民もいた,と注解しています。ムールラントはさらに,当時『尋ねられたのは,「移住の予定があるか」ではなく,「移住の予定はいつか」という質問であった』と述べています。移住が下火になった1981年までに,3人につき一人の住民が国を離れました。今日,オランダでは20万人のスリナム人が生活しており,その中には,新しい環境のもとでエホバに引き続き仕えている何百人もの証人たちが含まれています。

証人たちは新たな弾みを得る

業の速度を上げる面で助けとなった一つの取り決めは,1976年に発足した支部委員会です。支部の監督ウィム・ファン・シーエルは支部委員会の調整者となり,同委員会を構成するセシル・ピナス,ネル・ピナス,ディアク・ステヘンハと責任を分担しました。他の場所と同様,この新しい取り決めによって,霊的な事柄に対する指導はいっそう平衡の取れたものとなりました。

勢いを持続するため,国内各地の会衆は,1974年から1980年にかけて到着したさらに10人の宣教者を迎えました。もっとも,そのうちの二人,ハンス・ファン・ブーレと妻のスージーは新参者ではなく,どちらも幾十年に及ぶ経験を積んでいました。二人はそれぞれギレアデの第21期と第16期のクラスを卒業し,宣教者としてインドネシアの群島で奉仕しました。

スリナムに到着して2か月後,二人は巡回奉仕を始めました。「その割り当ては,この国と兄弟たちとを早く知るのに役立ちました」と,60歳のハンスは述べています。さらにスージーは,「私は,人々が協会の文書を大変快く受け取ることに気づきました」と述べています。その事を示す例がありますか。「あります」と,スージーは言います。「私たちは2年半の巡回奉仕で,約4,000冊の書籍と1万冊の雑誌を配布しました。この例が示すように,私たちが行なうべき宣べ伝える業はまだ多く残されています」。

降雨林の別の“扉”が開かれる

それ以前に,政府はスリナム南西部の人里離れた降雨林に通じる,全長350㌔の道路を建設しました。その道路は,全く新しい区域に入って活動を行なうための“扉”をも開きました。その区域とは,コランタイン川に沿ったアメリカ・インディアンの村,アプラとワサボでした。

1977年に,米国出身の証人,ペピア・アバナシーとセシリア・キーズがその扉を開きました。二人はその年,建設会社の従業員である夫たちと共に,アプラから50㌔離れた作業キャンプに移り住みました。その後,同地のアラワク・インディオと接触する姉妹たちを援助するために,二人の宣教者が派遣されました。彼らは成果を収めたでしょうか。

ペピアはこう述べています。「私たちは大勢の人と聖書研究を始めました。その後,私とセシリアは週に2回彼らを訪問しました。私たちは午前4時に起きて,7時には最初の聖書研究を始め,午後5時ころに帰宅しました」。姉妹たちは,英語を話すアメリカ・インディアンを熱心に教えましたが,2年後にスリナムを去る必要が生じました。では,だれが二人の奉仕を引き継ぐのでしょうか。

僧職者の反応

1980年9月,宣教者のヘルマン・ファン・セルムと妻のカイは,古いランドローバーに乗ってジャングルの中を進みながら,アプラに向かいました。二人はその後アプラに5年間とどまりました。「私たちは30件の聖書研究を引き継ぎ,さらに多くの研究を取り決めました」と,カイは述べています。二人は書籍研究の群れを三つに分けました。公開講演には60人の村人が集まり,翌年の記念式には169人の出席者が見られました。まもなく6人の人が野外奉仕に参加する準備を整え,各々が所属する教会に脱退届けを提出しました。

僧職者はどんな反応を示しましたか。牧師はその脱退届けを握りしめて,「彼らは一体どういうつもりだ? 私に聖句まで引用している!」と叫びました。牧師は宣戦を布告しました。聖書研究生たちは,職や家を失うという脅しを受け,学校や診療所また埋葬所は自分たちで探すようにと告げられました。その反対のために,研究の数は減り,集会の出席者は減少の一途をたどりました。ある時,集会に一人の人が姿を現わしましたが,それは単に空き箱を探すのが目的でした。カイはこう述べています。「私たちは落胆を覚えましたが,引き続き励ましを与えて,宣べ伝える業を行ないました。喜ばしいことに,土台となる何人かの人々が固い立場を定めて,バプテスマを受け,アプラ会衆が発足しました」。

「今度はいつ来てくださるのですか」

1982年のこと,ガイアナのオレアラ村から何人かのアメリカ・インディアンが,舟を約8時間こいでコランタイン川を遡って来ました。彼らは宣教者たちに,「今度はいつ来てくださるのですか。私たちは聖書研究をしたいのです」と言いました。アプラの群れが独り立ちできるころには,宣教者たちはオレアラに毎月出かけていましたが,中には証人たちが来るのをずっと待っていた村人もいることが分かりました。ヘルマンはこう述べています。「私が出会ったある年配の猟師は,自分は以前『慰め』誌を読んでいたが,その後協会と連絡が取れなくなった,と言いました。そして,自分のラジオを指差して,『皆さんのラジオ局がニューヨークにあるとお聞きしましたが,ご存じのとおり,私のラジオではその放送を聞き取れないのです』と言いました。私が,WBBRは1950年代に放送を中止したことを伝えると,彼は信じられないといった様子で頭を振りました。そして,笑いながら,これは多少遅れた分を取り戻すのに絶好の機会だと述べて,聖書研究に応じました」。

オレアラで,大酒飲みの人たちが,聖書研究の助けを得て家庭を顧みる父親に変化してゆくのを見るのは報いの多いことでした。ある50歳の父親は家族研究の司会方法を学んだ後,その方法を試してみましたが,少々強引な司会になりました。「朗読しなさい!」と,父親は命令しました。次いで,質問をしました。沈黙が続きます。「さあ,恥ずかしがらずに,何か話しなさい!」子供たちはすでに目に一杯涙をためています。しかし,時たつうちに,この家族の研究方法は改善されました。その後,子供たちが家に走りながら帰る姿が見られました。どうして急いでいるのでしょうか。「家族研究があるから!」と,子供たちは笑顔で答えます。

その後しばらくして,兄弟たちはオレアラである地所を譲り受けました。それで,ギレアデ卒業生のヘスロ・リューベンハーゲン(現在はアプラで奉仕している)が,自分たちの王国会館を建てるよう地元の兄弟たちを援助しました。その会館は,さらにもう一つの民族であるアメリカ・インディアンが,一致をもたらす「清い言語」を学び始めたことのしるしでした。―ゼパニヤ 3:9

英語を話す住民の間で増加が見られる

1970年代に,ガイアナからニッケリーへ移住する,英語を話す労働者が増加しました。そのため,英語の集会を始める目的で二人の宣教者がニッケリーに派遣されました。それらの移住労働者はよい反応を示しました。今日,ニッケリーには30人の伝道者から成る会衆があります。

これらの新しい伝道者の中には,真理を以前から何年も慕い求めてきた人々がいます。例えば,インドラデフィは12歳の時,ガイアナで隣人から,「失楽園から復楽園まで」という本を受け取りました。彼女はその本を大事にしました。その後彼女は結婚して,ニッケリーに近い米作干拓地<ポルダー>,クレイン・ヘナルに移転しました。1982年にハンス・ファン・ブーレが彼女と出会いました。ハンスはこう述べています。「私は彼女の数少ない持ち物の中に,使い古された『楽園』の本を見つけました。インドラデフィによると,彼女は1962年にその本を求めて以来,それを肌身離さず持ち歩いたようです。彼女はエホバについてさらに詳しく知りたいと願っていました。そして,その願いは20年後に実現したのです」。彼女は研究を行なって,ヒンズー教の像を取り除き,やがてバプテスマを受けました。

ガイアナ人が示したよい反応は,パラマリボでも同様に観察されました。パラマリボでは1980年に小さな群れが発足しました。1982年に伝道者は20人でしたが,4年後にその数は90人となり,現在の集会の出席状況に照らすと,増加は今後も期待できます。

英語会衆に交わる宣教者,パウル・ファン・デ・リープは,「中には,様々な犠牲を求められる人たちもいますが,集会には150人を上回る出席者が見られます」と述べています。例えば,収入の乏しいある家族は,午前8時に家を出発して,徒歩でかなりの距離を進み,バスが来るのを1時間余り待って,その後集会に出席します。帰宅するのは午後2時ころになります。パウルはこう付け加えています。「この家族は,集会に出席するために毎週,一日分の賃金に相当するバス代を使っています」。

現在,英語を話す約150人の証人たちが,パラマリボで一致してエホバを崇拝する三つの言語グループの一つを構成しています。

衝撃的な現実に直面する

1980年2月25日,銃撃の音で目を覚ましたパラマリボの住民は愕然としました。伍長たちの一団によって,政府が倒されたのです。のんびりした気質のスリナム人は,史上初のクーデターに少なからぬ衝撃を受けました。この国では戦災が生じたことも,疫病が横行したことも,ハリケーンが吹き荒れたこともないので,人々はしばしば,「スリナムは神に祝福された国である」と述べました。しかし1980年以来,経済問題は悪化しているため,多くの人々は現在,聖書預言が間近で成就していることを認めています。

1982年に政治紛争が生じた結果,海外からの援助は中止され,国内の経済はマヒ状態に陥りました。食糧の価格は急騰し,貧困が生じました。パラマリボのある長老は,このように伝えています。「それ以来,ブッシュ・ニグロの兄弟たちの中には,ひと月にわずか200㌦(約3万円)相当の賃金で10人以上の子供に衣食住を備えるという苦境に面している人も少なくありません」。

しかし,兄弟たちは経済問題のために速力を落としてはいません。それどころか,物質的に困窮したある会衆では,最近,171人の伝道者のうち106人が補助開拓奉仕にあずかったのです。また1986年中,全国の伝道者数は1,200人余りに増えました。

文書の配布も引き続き増加しました。レオ・ツアルトに尋ねてみましょう。彼はこれまで46年間,港から支部事務所まで文書を運送してきました。ツアルト兄弟は当時を振り返って,「昔はひと月に十数個のカートンを受け取りました。私は75㌣で1頭のロバを借りて全部のカートンを支部まで運びました」と述べています。次いで,にこやかな表情で,「しかし最近は1週おきに100個のカートンを受け取るので,トラックを借りて配送しなければなりません」と言っています。現在スリナムでは,どの月でも,3万2,000冊を上回る「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌が配布されています。これは,住民13人につき1冊の割合に相当します。

もっとも,活動の拡大に気づいているのはレオ・ツアルトばかりではありません。最近,一人の僧職者から支部事務所に電話がかかってきました。彼は,エホバの証人の熱意を見倣うよう自分の羊たちを励ました,とある宣教者に話しました。「しかし何の手ごたえもなかった」とその僧職者は嘆いて,「皆さんの秘訣は何ですか」と尋ねました。その兄弟は,「聖霊です」と答えました。

戦火をくぐり抜けて

1986年の半ばに,ゲリラ戦が勃発しました。数か月後には,マロニ川に面するアルビナ村を中心に,軍隊といわゆる密林部隊<ジャングル・コマンド>(その大半はブッシュ・ニグロ)との間で武力衝突が生じたため,スリナム南東部に住むブッシュ・ニグロの兄弟たちは,パラマリボで開かれる大会に出かけるかどうか決定を迫られました。「出かければ戦火にさらされることは分かっていましたが,兄弟たちは大会を欠席したくなかったので,出かけることに決めました」と,セシルは述べています。大会の十日前,60人の兄弟姉妹と子供たちがカヌーに乗って川を下り,戦闘地域に向かいました。一行は金曜日にアルビナに着き,王国会館の中でハンモックを吊して,そこで眠りました。

夜明け前に,アルビナの通りで激しい銃声が響き渡りました。密林部隊<ジャングル・コマンド>が村を急襲したのです。軍隊は反撃し,銃弾が王国会館の屋根をかすめました。証人たちは物陰に飛び込み,そこで一日じゅう身を伏せていました。

その晩,証人たちの一人がやっとの思いで支部事務所に電話をかけました。「私たちを救出してください」と,その兄弟は嘆願しました。日曜日の午後,3人の長老たちが現地に向かい,晩の11時ごろ,孤立した兄弟たちのもとに到着しました。

長老たちは翌日引き返したいと思いましたが,ブッシュ・ニグロの兄弟たちは,「すぐに出発しましょう。銃撃がいつ始まるとも分かりません」と言いました。長老たちはエホバに導きを祈り求めました。夜半過ぎ,積載量をオーバーした3台の自動車が首都に向かってゆっくりと進みました。

運転手の一人だったパウル・ナーレンドープは,その時の様子をこう述べています。「道路には人気が全くありませんでした。軍隊の検問所に近づくにつれ,私の心臓は鼓動を速めました。考えてみてください。軍隊が密林部隊<ジャングル・コマンド>と戦火を交えているところに,60人のブッシュ・ニグロを乗せた自動車の一行が突然姿を現わしたのです。しかも,その多くは若くて,たくましい男性たちでした」。軍隊は兄弟たちの一行を,密林部隊<ジャングル・コマンド>と間違えないでしょうか。

一人の兵士が柱の後ろから,一行に止まるようにと合図しました。パウルは話を続けます。「1台の戦車が私たちに面と向かって砲身を構え,重装兵が私たちを取り囲みました。不審な動きをすれば,銃がいつ火を吹くとも限りません。しかし,私たちがエホバの証人であることを説明すると,兵士たちは自動車を調べた後,私たちを行かせてくれました」。

パラマリボに着いた兄弟たちは,アルビナで戦闘が再び激化したことを聞きました。兄弟たちは丁度よい時に出発したのです。

しかし今度は元に引き返す

大会が終わると,兄弟たちは,軍隊がアルビナに通じる唯一の道路を封鎖したことを知りました。そのため,ブッシュ・ニグロの兄弟たちは再び身動きが取れなくなりました。彼らは2週間待ちましたが,降雨林に戻りたいという気持ちをもはや抑え切れなくなり,「私たちを川まで連れて行ってください。そこから家に戻ります」と申し出ました。

計画が練られ,エホバに導きが求められました。まず,10人の舵取りとパラマリボの何人かの長老がアルビナまで行くことにしました。ある長老は,「理由はよく分かりませんが,軍隊は私たちを見かけても,追い返しませんでした」と述べています。ブッシュ・ニグロの兄弟たちはやがて前方にマロニ川を認めると,小躍りして喜びました。

翌日には姉妹と子供たちが出発し,他の人々が足止めされているなか,検問所の通過をやはり認められました。川に着くと,舵取りたちがボートと共に待機していました。何と喜ばしい再会でしょう。

もう一つの旅行が計画されました。2台のトラックに,96袋の米,16樽のガソリン,7樽の灯油,それに食糧を積み込んで,兄弟たちは再び検問所に向かったのです。これらの物資が運び込まれた地域では,密林部隊<ジャングル・コマンド>が主導権を握り,物品の通過は一切許されていませんでしたが,番兵はトラックの通過を認めました。ある兄弟は,「まさに奇跡です。エホバのみ手があったことは明らかです」と述べています。

1週間後,60人の兄弟たちとすべての物資が家に到着しました。彼らは三日間の大会に出席するために5週間を費やしました。何週間か後に,軍隊は奥地に運ばれる物資の供給を一切断ち,深刻な食糧不足が生じました。しかし,大会に出席した兄弟たちのもとには,何か月分もの食糧と,宣べ伝える業に必要なガソリンがありました。「いま振り返ってみると,エホバは,私たちがふさわしい時にふさわしい決定を下せるよう導いてくださったことが分かります」と,セシルは述べています。

命からがら逃げ出す

戦闘は翌年,パラマリボの東にある鉱山の町ムーンゴに場所を移しました。軍隊が進撃しましたが,激しい抵抗に遭いました。町中は銃弾で引き裂かれ,家屋は焼失し,人々は命からがら逃げ出しました。

地元の大部分の兄弟たちは降雨林の中に姿を隠し,安全な場所に急いで逃れました。パラマリボにたどり着いた人もいれば,フランス領ギアナと境をなすマロニ川に向かって舟をこいだ人もいます。後者の人たちは幅5㌔の川を渡って,フランス領ギアナに入りました。その国境を越えて50人の証人たちが命拾いしました。

フランス領ギアナの証人たちはすぐに,食糧・衣類・シーツ・毛布・医療品をそれら避難してきた証人たちに支給しました。マルティニーク島の支部事務所も援助を差し伸べ,避難者たちを助けるための特別基金を準備しました。セシル・ピナスはこう述べています。「難民キャンプの当局者は,証人たちの組織が実に迅速な救援活動を行なったことに驚いた様子で,『皆さんは口に出さなくとも行動しておられます』と述べました」。

舵取りの牧者

急流の中でノア号の舵取りを務めたドー・アメドンは,当時の不穏な情勢の中で有能な牧者であることを示しました。アウカナー族のブッシュ・ニグロで,1974年に自分の部族の中で特別開拓者として働くためパラマリボをあとにしたドーは,人々を気遣い,彼らの問題を理解する,有能な組織者です。事実,彼は聖書に基づいた大変優れた助言を与えるので,部族民たちは彼を“パピー”(お父さん)と呼んでいます。といっても,彼はまだ現在40歳です。

ドーはまず,タパナホーニ川流域の兄弟たちを援助しました。その後,1980年代半ばには,他の開拓者たちと共にマロニ川に移りました。反応はすこぶる良好でしたが,同地域のブッシュ・ニグロは余りにも広く散在していたため,一人一人の住民に会うことは不可能でした。しかし,その問題は1985年に解決されました。どのようにでしょうか。

その年に統治体は,降雨林で働く特別開拓者に与えられるガソリン代の増額を承認したのです。今や船外機に必要な余分の燃料を手にした開拓者たちは,カヌーに乗って一つの居住区から次の居住区へと出かけ,関心を持つ人々を次々に見いだしました。1985年には,ガカバという村で約30人の伝道者から成る新しい会衆が発足しました。何か月か後に,その数は50人になり,うち20人の伝道者が開拓奉仕を始めました。その後まもなく,ドー・アメドンは再び急流を通ってセメント袋を運搬しました。降雨林に2番目の王国会館が誕生したのです。

10倍の増加

最近その地域を訪問した,支部委員会の調整者ウィム・ファン・シーエルは次のように報告しています。「若い兄弟たちのグループが,マロニ川の風光明美な島で200人を収容できる王国会館を完成させました。次に彼らは,それまで一度も伝道が行なわれたことのないラワ川に舟で自発的に出かけました。その流域でも,真理はアルクス族のブッシュ・ニグロの間で広まっています」。

内戦の最中,王国の音信は降雨林の奥深くに浸透しました。10年前にタパナホーニ川流域で奉仕した20人のブッシュ・ニグロの兄弟たちは,今日200人の伝道者へと増加し,スリナム東部の河川流域で四つの会衆が組織されました。10倍の増加です!

同様な増加は,国内の他の場所でもはっきりと認められました。集会の出席者が伝道者数の2倍に達し,手狭になった王国会館にそれら大勢の人々を収容できないという報告が,多くの会衆から寄せられました。そのため,統治体は1987年の初めに,幅34㍍長さ60㍍の大きな大会ホールと四つの王国会館の建設を支部に許可しました。それは時宜にかなった決定でした。

当時大会ホールの仕事を担当したヘンク・パンマンは,こう説明しています。「私たちがセメントを購入してまもなく,国内のセメントが品切れになりました。幾つもの建設現場が閉鎖されましたが,私たちの工事は滞りなく進行しました」。その後,オランダ支部からの援助で,建築材料を積んだ四つのコンテナが送られてきました。建設作業員と何百人もの自発奉仕者が1年半働いて,四つの魅力的な新しい集会所を完成させました。

建築と言えば,1955年に自分の地所を寄付したステラ・ダウラトを覚えていますか。自宅が移動された後,彼女はそこで心地よく暮らしました。しかし最近,会衆で「ダウラト姉妹のために新しい家を建てます」という発表がなされ,姉妹は驚きました。兄弟たちは彼女の古い家の隣に広いレンガ造りの家を建て,それを78歳のステラに贈りました。彼女は涙を浮かべて,「エホバから何とすばらしい贈り物をいただいたのでしょう」と言いました。

エホバは彼らの働きをお忘れにはならない

ステラと同様,スリナムの何百人もの人々はエホバの祝福を経験しました。残念ながら,紙面が限られているため,それら忠実な人々すべてに言及することはできませんが,彼らがエホバへの奉仕において日々示している忍耐を,エホバが見過ごされることはありません。エホバは,『彼らの働きを忘れたりはされない』のです。―ヘブライ 6:10

過去40年間に,41人の宣教者たちが地元の兄弟たちと肩を並べて奉仕し,その熱意のゆえに記憶されている人々も少なくありません。現在もなお18人のギレアデ卒業生が,国内各地の会衆で貴重な奉仕を行なっています。

私たちは,エホバが1,466人の伝道者たち(3分の2はオランダ語,4分の1はスラナン・トンゴ語,残りは英語を話す)を育ててくださったことを感謝しています。彼らは皆,真理の清い言語をも習得したのです。しかし,取り入れの業はまだ完了していません。1989年の記念式には,伝道者数の3倍以上に相当する,4,443人の出席者が見られたのです。

このように非常に多くの証人たちが誕生しているので,新たな建設計画,つまり新しい支部事務所の建設が必要となりました。そのため,パラマリボの郊外に3㌶の土地を購入する計画が立てられています。これらの新しい支部施設が完成すれば,『「来なさい!」そして,だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい』という,ますます大きな声で響き渡る招待の言葉にこたえ応じているすべての人を世話するために,支部事務所はさらに優れた備えができるでしょう。『勇気を持って,「エホバはわたしの助け主」と言いなさい』という神のご命令に全世界で従うわたしたちの働きを,神が引き続き祝福してくださいますように。―啓示 22:17。ヘブライ 13:6

[脚注]

^ 115節 同通信員たちによる記事,「スリナムの奥地<ブッシュ>における生活」は,「目ざめよ!」誌,1956年2月8日号(英文)に掲載されています。

[252ページの図表]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

スリナム

伝道者最高数

2,000

1,440

810

561

361

67

1950 1960 1970 1980 1989

平均開拓者数

400

235

 

 

 

 

63

54

41

10

1950 1960 1970 1980 1989

[192ページの囲み記事/地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

カリブ海

コランタイン川

ガイアナ

スリナム

ニュー・ニッケリー

パラマリボ

ワヘニンヘン

メールゾルグ

ムーンゴ

オンフェルダフト

パラナム

アルビナ

オレアラ

サラマッカ川

マロニ川

グランボリ

タパナホーニ川

ブラジル

フランス領ギアナ

[囲み記事]

首都: パラマリボ

公用語: オランダ語

主要な宗教: ヒンズー教

人口: 40万人

支部事務所: パラマリボ

[194ページの図版]

アルフレット・バイテンマンは60年余りの間エホバに忠実に仕えた

[197ページの図版]

リーン・バイテンマンとジェームズ・ブラウンは,1920年ごろに見た「創造の写真劇」を鮮明に覚えている

[199ページの図版]

1919年にバプテスマを受けたウィレム・テルフトは,後に国内の王国会館の建築者になった

[207ページの図版]

ドゥフリースばあやは,宣教者である“息子たち”の面倒をみた

[215ページの図版]

エホバの証人になった最初のブッシュ・ニグロ,フレデリック・ワフター

[218ページの図版]

ステラ・ダウラトは,首都で最初の王国会館を建てるために自分の土地を寄付した

[230ページの図版]

ギレアデ第20期卒業生で,老人ホームの中で証言を行なうアルベルト・ズール

[241ページの図版]

支部委員会の成員: C・ピナス,W・ファン・シーエル,N・ピナス,D・ステヘンハ

[246ページの図版]

レオ・ツアルトはほぼ半世紀にわたり証人として奉仕している

[251ページの図版]

ウィヘルストラート8-10にある現在の支部事務所