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エホバの証人 ― 1991 年鑑の報告

エホバの証人 ― 1991 年鑑の報告

エホバの証人 ― 1991 年鑑の報告

その都市に農夫は住んでいませんでしたが,ある人物が商業と政治の要衝に当たる同都市の特定の住民に書き送った事柄は,農業の基本原則と関係がありました。彼は,『まず,種を植えなさい』と言いました。『それから水を注いで,作物を栽培します』。次いで,植物の生長に極めて重要な3番目の要素を明らかにし,『神がそれをずっと成長させてくださる』と述べました。―コリント第一 3:6

その都市とはコリント地峡に位置したコリントのことで,時は西暦1世紀です。筆者はクリスチャンの使徒パウロで,そのテーマの中心は,キリストの追随者たちの霊的な成長にありました。クリスチャンとして円熟に達することに関し,パウロが述べる三つの簡潔な言葉に耳を傾けてください。「わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神がそれをずっと成長させてくださったのです」。次いで,同使徒は要点を確実に理解させるため,「ですから,大切なのは,植える者でも水を注ぐ者でもなく,成長させてくださる神なのです」と述べました。(コリント第一 3:7)植えたり水を注いだりすることは補助的なものですが,エホバ神が行なっておられるのは全く次元の異なる事柄です。神は,人間には真似のできない事柄を行なっておられます。つまり,成長させてくださるのです。

『神がそれをずっと成長させてくださる』

使徒パウロは宣教で払った自らの努力に関して,「神がそれをずっと成長させてくださったのです」と明言することができました。エホバは,パウロがコリントで行なった1年6か月間の宣教を大いに祝福してくださいました。(使徒 18:9-11)さらに神は,パウロが宣教を継続した,エフェソス,フィリピ,テサロニケといった他の地域でも成長をもたらしてくださいました。―使徒 20:17-38。フィリピ 1:3-7。テサロニケ第一 1:3-10

国際的な兄弟関係にあるエホバの証人が過去12か月間に行なった,植えて水を注ぐ業について調べると,わたしたちも感謝の念に満たされて,「神がそれをずっと成長させてくださった」と言うことができます。例えば,昨奉仕年度中,王国伝道者数の平均は384万6,311人で,伝道者の最高数は401万7,213人に達しました。バプテスマを受けたのは30万1,518人で,これは過去最高の数字です。将来の成長については何と言えるでしょうか。毎月,362万4,091件の聖書研究が行なわれ,昨年の4月10日に行なわれたイエスの死の記念式には,995万58人が出席したことからすれば,実によい見込みがあります。

連綿と続く最高数

世界中から寄せられる報告は,兄弟たちが霊的な耕作の業を忙しく行なっていることを示しています。「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の新しい予約が296万8,309件得られましたが,これは23%の増加に当たります。ほとんどの支部が伝道者の最高数を報告しただけでなく,何度も最高数を記録した支部も少なくありませんでした。例えば,スウェーデンは1990奉仕年度中,5回の最高数を報告し,オーストリア,フランス,スイスはそれぞれ最高数を6回報告しました。チェコスロバキアとコートジボワールは1年間で11回の最高数,ポーランドは12回,ユーゴスラビアは7回の最高数を報告しました。ブラジルでは最高数が9回得られ,最新のところでは伝道者の合計が29万3,466人に達しています。

ひときわ目立っているのはアイルランドです。アイルランドの兄弟たちはこの1年で12回の最高数を得て,29回連続の最高数を記録し,前年度を10%上回る伝道者の増加が見られたことを歓んでいます。グアテマラでは過去42か月間で41回の最高数が得られました。では,メキシコについてはどうですか。過去80か月間に最高数が78回見られ,現在では30万4,000人に上る伝道者がいます。

わたしたちがいよいよ勤勉に働き,王国の種をまけばまくほど,神はそれをずっと成長させてくださるでしょう。一例として,ベネズエラに目を向けてみましょう。この国の会衆の伝道者は月平均14時間の奉仕と1件の聖書研究を報告しています。記念式の出席者は19万7,211人で,これは伝道者数のほぼ4倍に相当し,昨年を3万3,000人上回る増加でした。伝道者数は6年間で倍増し,2万5,305人から5万1,933人へと105%の増加を見たのです。昨年度は8回の伝道者最高数を記録しました。エクアドルからも同様の報告が届いています。「王国の拡大に関して言えば,この1年は業の歴史を通じて最良の年でした」と,支部は述べました。伝道者数のほぼ2倍に当たる家庭聖書研究が司会されたのです。8月には1万8,069人の伝道者最高数を報告し,昨奉仕年度中は7回の最高数を記録しました。

日本は,エホバが確かに成長をもたらしておられる国の一つです。1990年8月には野外の伝道者が14万7,622人に達し,140回連続の最高数を記録しました。しかもこれは,大いなるバビロンの宣教師たちが,「日本にキリスト教を本当の意味で根づかせる方法はない」と言ってあきらめた国で起きていることなのです。

『みどりごの口から』

神と共に働く者として奉仕するのは成人の男女だけではありません。年端のいかない子供たちもエホバ神に賛美をもたらすことができます。例えば,イエスが宣教を行なっておられた時のこと,幼い子供たちがイエスに賛美を歌いました。それを聞いた宗教上の反対者たちは苦々しく感じましたが,イエスは,「あなた方は,『みどりごや乳飲み子の口から,あなたは賛美を備えられた』とあるのを読んだことがないのですか」と言って,彼らの反論にお答えになりました。―マタイ 21:16

現代にも神に賛美を備える子供たちがいるでしょうか。確かにいます。例えば,ミャンマーにミミという4歳の少女が住んでいましたが,彼女は授業中の祈りに加わろうとしませんでした。担任の先生が,「あなたはクリスチャンでしょう,どうして祈りに加わらないの」と尋ねると,ミミは,「はい,クリスチャンです。でも,みんなは三位一体に祈るけど,わたしはエホバに祈るんです」と答えました。

ある教師は,ニュージーランドの証人の少女が国歌を歌おうとしなかったので,女校長のもとに連れて行きました。すると,その校長は笑いだし,証人の少女に,教師が迷惑をかけたことを詫びてから,こう言いました。「これからも勇敢に行動してください。あなたの宗教と,皆さんが学校の内外で示している勇気には感心しているのです」。

次に,ウルグアイの子供で,4歳になるファンシト坊やがいます。両親はエホバの証人ではありませんが,祖母はエホバの証人で,両親が働きに出ている間は面倒を見てくれます。ファンシトは食卓で自分が祈る時には頭を下げてほしいと両親に言いました。また,たばこの問題を扱った「目ざめよ!」誌を使って,両親が喫煙をやめるまで説得を続けました。そのかいあって,今では両親はもとより他の親族もエホバの証人の文書を読んでいます。

アルゼンチンに住む6歳のロドルフォは,自分用の「わたしの聖書物語の本」を学校に持って行ったところ,ある級友が興味を示し,自分の家に来てほしいと頼みました。どんな結果になったでしょうか。ロドルフォはその級友と聖書研究を始めたのです。ほどなくしてその両親も関心を持つようになり,今では家族全員がバプテスマを受けた証人になっています。

英国の7歳になる少女ルイーズは,エジプトの土地に関する授業の一環としてエジプトに関係のあるものを学校に持って来るようにと言われました。彼女は,「わたしの聖書物語の本」の幾つかの章でエジプトのことが扱われていたので,その本を持って行きました。また十の災厄について扱った,「エホバのみ名は全地に宣明される」という劇のカセットテープも一緒に持って行きました。教師はそのテープを個人的に聞いて深く感動したため,毎週火曜日に子供たち全員を集めてそのテープを少しずつ聞き,災厄について話し合うことを取り決めました。全部で70人の児童と3人の教師が集まりました。ルイーズがそのテープを学校に持って行くことを思いついたおかげで,今ではだれもがエホバのみ名をよく知っています。

イタリアでは,支部事務所がある月に雑誌配布に力を入れるよう呼びかけました。ある8歳の少女はその月に野外奉仕に60時間を費やして51冊の雑誌を配布し,10歳の別の少女は同じ月に61時間を費やして110冊の雑誌を配布しました。過去の時代と同様,今日もエホバが幼い子供たちによって賛美を成し遂げておられることに疑問の余地はありません。

ルーマニアに対する救援活動

1990年の初めごろ,ルーマニアで窮状に陥った仲間の奉仕者たちを援助するための際立った救援活動が組織されました。そのおかげで,ルーマニアの仲間は霊的にも物質的にも大きな益を受けました。1月と2月と3月にオーストリア,チェコスロバキア,ハンガリー,ユーゴスラビアから70㌧余りの食料が送られたのです。加えて,幾トンにも上る清掃用品その他の品物が送られ,衣類や靴などの大量の委託物資が分配されました。ヨーロッパの兄弟たちが示した反応は確かに胸を打つものでした。幼い子供たちまでが,ルーマニアで困っている兄弟たちのことを聞いて救援金を寄付したのです。

ルーマニアの兄弟たちは受け取った贈り物に深い感謝を表わし,他の人に真理を伝えるためにできる限りのことを行なおうと決意しています。兄弟たちはこう書いています。「世の人々の中には,私たちが世界中の兄弟たちから大量の救援物資を受け取るのを見て驚いている人も少なくありませんでした。物資の一部は世の人々にも分配されたので,それをきっかけに多くの人がエホバの証人に対する見方を変えました。僧職者からの援助は受けなかったものの,私たちから援助を受けたという人も少なくありません。援助がなされる度に,兄弟たちはその機会を活用して徹底的な証言を行ないました」。

ベテル・ホームの拡大

野外で奉仕者が増えれば,93のベテル・ホームでも奉仕者が増えることになります。ベテルで働く全時間の奉仕者は,自国の伝道者が王国伝道に備えて絶えず組織され,文書が十分に行き渡るよう助けています。1980年に全世界のベテル家族は5,039人を数えましたが,その10年後の人数は1万1,092人になっています。

ベテルの自発的な働き人は野外奉仕も忙しく行なっています。仕事のスケジュールが詰まっているので,補助開拓奉仕を行なえる人はほとんどいませんが,グアテマラのベテル・ホームで奉仕している一姉妹は4月に補助開拓を行ないました。朝食前と仕事後の時間に街路での証言を行なった結果,姉妹は556冊の雑誌を配布しました。

世界中で多色印刷の導入が進むにつれ,ニューヨークのブルックリンにあるものみの塔協会の世界本部では,昨年,4色刷りの高速オフセット輪転機を5台購入して検査し,箱詰めして輸出する必要がありました。それらの輪転機は以下の支部,すなわち,アルゼンチン,ブラジル,コロンビア,フランス,スペインに発送されました。また,南アフリカに送る印刷機もさらに1台注文されました。

これらの事実は,エホバがイザヤ 65章13節と14節で予告された事柄を思い起こさせます。「見よ,わたしの僕たちは食べるが,あなた方は飢える。見よ,わたしの僕たちは飲むが,あなた方は渇く。見よ,わたしの僕たちは歓ぶが,あなた方は恥をかく。見よ,わたしの僕たちは心の良い状態のゆえに喜び叫ぶ」。

エホバがわたしたちの努力をこのような仕方で祝福してくださっていることを,わたしたちは確かに歓んでいます。しかし,わたしたちが銘記しておきたい事柄が二つあります。第一に,わたしたちは熱心に植えて水を注がなければなりません。第二に,成長をもたらしてくださる方は神です。この2番目の点を銘記する神の僕たちは皆,常に謙遜になるはずです。わたしたちは農夫に似ています。農夫は植えたり栽培したりしますが,日光や雨に頼らなければならず,それは良い収穫にあずかるために神が備えてくださるものなのです。―マタイ 5:45

世界本部の拡大

「あなたの民は進んで自らをささげます。……あなたは露玉のような若者の隊を得ておられます」。ダビデ王はエホバの民の自発的な精神についてそう歌いました。(詩編 110:3)今日,エホバの見える組織には非常に大勢の若い男女がおり,まさしく露玉のように,神と仲間の崇拝者たちにさわやかな奉仕をしています。その中でも,ニューヨーク市ブルックリンにあるものみの塔協会の世界本部や,その近くの幾つかの農場でベテル奉仕者として仕えている人は4,000人余りに上ります。世界中でエホバの証人の数が急増しているため,世界本部においても拡大が生じています。

ブルックリンでは,もっと大勢の自発奉仕者が必要であると同時に,そうした奉仕者たちの宿舎もさらに必要になっています。そのため統治体は,1986年に購入したまま改装していなかったジェイ通り160番の9階建ての工場を取り壊し,その跡地にベテルの30階建ての宿舎を建てることに決定しました。そこの住所はサンズ通り90番として知られるようになります。この建物には,さらに1,000人が収容される予定です。当局は1990年8月30日に建設計画を最終的に認可しました。工事全体は約3年で完了する予定です。

協会はこの1年で,ジェイ通り85番として知られる地所の購入を済ませることができました。そこには,いろいろな大きさの建物が建っています。今の工場群から2ブロック先の敷地ですが,面積は現在の五つの工場の面積よりも広く約9,100平方㍍あります。その敷地はこの先必要が生じたときのために取っておかれます。

協会は1989年春に,建設したばかりでまだ内装の済んでいないリビングストン通り67番の建物を購入しました。ものみの塔の中央事務所から歩いて15分ほどのところにあります。29階建ての細長い建物(ニックネームはSliver,“細長い小片”の意)で,約150人のベテル奉仕者を収容でき,1990年の半ば過ぎから入居が始まりました。

1989年の初めに,協会の設計・建設スタッフがこれまでに手がけた単一の建設計画の中で最大の計画が進められているという発表がありました。それは,ものみの塔教育センターです。このセンターは,ニューヨーク州パタソンの美しい渓谷に266㌶の敷地を有しており,ブルックリンから北に110㌔,ものみの塔農場から東に72㌔のところにあります。学校と事務所が建つ予定ですが,それに加えて1,200人に上る学生やベテル奉仕者のための宿舎や様々なサービス施設が作られることになっています。最終的な敷地の計画は,1990年8月30日に認可を受けました。サンズ通り90番の建物がブルックリンで認可を受けたのと同じ日のことでした。

この巨大プロジェクトの建設許可を得たいきさつについて,パタソン農場の報告書はこう述べています。「エホバがこの計画を導いてこられたことは明らかです。その一例ですが,最近,州のほうから,川の流域にあるこの地域では廃水処理施設の認可はこれ以上行なわないという通達を受けました。認可を受けた最後の施設がわたしたちの施設だったのです」。

1990年9月1日から見学者センターが開設されました。これは週に七日間,午前8時から午後4時まで開いています。そこには見晴らしのよい展望台があり,教育センターでの工事の様子を手に取るようにして眺めることができます。

では次に,ブルックリンの工場の文書生産に注意を向けてみましょう。そこでは,116万1,189冊のデラックス版の聖書を含め,合計315万5,811冊の聖書を印刷しました。これは昨年の44%増に当たります。海外発送部門は,850万㌔余りに上る荷物を世界各地に間違いなく送り届けるよう取り計らいました。一方,国内発送部門は米国の国内向けに480万㌔余りの荷物を扱いました。

印刷の過程で出るかもしれない汚染物質はすべて除去しなければなりません。そのため,五つある工場のうち一つの工場の屋上に大きな汚染制御装置が取り付けられました。カテック社のこの新しい装置は,現在の五つの汚染制御装置に取って代わります。新装置は,摂氏760度の高温でインクの溶剤を燃焼させます。この種の装置としては,ニューヨーク市内で最初のものの一つです。環境保護局は,協会の装置が今後ニューヨーク市内で取り付けられる装置の規準になるだろうと言いました。その理由は何でしょうか。環境保護局は,協会が一連の組み立て工事に関して当局の規則をしっかり守ることや,装置の取り付け方が見倣うに値する手本となることを確信していたのです。

ものみの塔農場は,1989年10月と11月の予約運動で59万6,087件の予約を扱ったことを報告しました。米国でこれは36%の増加に当たります。この数字には,新たに得られた予約が57%増えた分も含まれています。また,協会独自のコンピューターシステム,つまりMEPSは90余りの国や地域で使用されており,190以上の言語に対応できます。

ドイツでの記念すべき出来事

東ドイツ(ドイツ民主共和国)で1989年に生じた驚くような出来事は,難攻不落とも思えた政権の崩壊につながりました。エホバの証人は1990年3月14日に合法的な立場を認められ,その活動に対する40年間の禁令に終止符が打たれました。兄弟たちはどれほど胸を躍らせたことでしょう! エホバの証人ではない人たちでさえ,その法的な認可に好意的な反応を示しました。ベルリンの一新聞には,「朗報です! 抱いている信条こそ異なりますが,深い感動を覚えます」という読者の投書がありました。

合法的な立場により,ものみの塔協会の文書を東ドイツに自由に持ち込めるようになりました。ドイツ連邦共和国の西部にあるゼルターズのドイツ支部でわき起こった興奮を想像なさってください。1990年3月30日には,25㌧に上る協会の文書がトラックに積み込まれました。そのすべてが東ドイツに送られるのです。その歴史的な出来事の目撃証人として,統治体のミルトン・G・ヘンシェルとセオドア・ジャラズもそこに来ていました。

配送は引き続き行なわれました。続く2か月間に11万5,000冊の聖書を含め,さらに250㌧の荷物を東ドイツに供給したところで,ゼルターズの在庫文書はほとんど底をついてしまいました。また1990年5月1日号の「ものみの塔」誌,および5月8日号の「目ざめよ!」誌を皮切りに,東ドイツのエホバの証人は必要とする雑誌をすべて手にするようになっています。それにしても,東ドイツの兄弟たちはそうした文書すべてを用いて何を行なうのでしょうか。

何を行なうための自由?

あるジャーナリストは,「これからは政界に進出なさるのですか」と,東ドイツの業の調整者ヘルムート・マーティン兄弟に尋ねました。多くの僧職者が先頭に立って政治の再建に取り組んでいましたから,これは無理もない質問でした。「いいえ」と,マーティン兄弟は答えました。「わたしたちの宗教にそのような意図はありません。イエスは弟子たちに聖書的な割り当てをお与えになり,わたしたちはそれを自分たちの主要な仕事とみなしています」。そうです,東ドイツで切望されていた書籍と雑誌は,神の王国の良いたよりを宣べ伝えるという「主要な仕事」に用いられるのです。―マタイ 24:14

最初の荷は,ドレスデンに近いバウツェンに届きました。バウツェンでは発送チームが組織され,文書の荷を解いて,それを諸会衆に輸送する準備に当たりました。兄弟姉妹たちは世俗の仕事を終えた後でも交代制で働き,書籍と雑誌が兄弟たちの手に遅れることなく届くようにしました。これはある人々にとって胸に迫るような経験でした。どのようにでしょうか。

禁令の期間中は,自発的に申し出た個々の人が国境を越えて文書を東ドイツに運び込みました。各人は大きな危険を覚悟の上で他の人々に霊的に仕えたのです。そのような仕事を引き受けたある兄弟が,現在はバウツェンで発送チームに加わり,全く違った状況のもとで奉仕しています。その目には涙が浮かんでいました。かつて自分が少しずつ運んだのと全く同じ種類の文書を幾トンも前にして立った兄弟の姿は小さく見えました。エホバの証人に対する厳しい迫害を思い起こす人々もいました。かつて大勢の人が投獄されたバウツェンの刑務所が見える建物から,今では兄弟たちがキリスト教の文書を自由に発送できるのです。

最初の公開講演

1990年4月に,東ドイツではエホバの証人の歴史に残るさらにもう一つの里程標が築かれました。40年前に制限が加えられて以来初めての公開講演が行なわれたのです。バウツェンでは一つの会館を借りて,その場にふさわしい飾り付けをしました。続々と詰めかける兄弟たちの目には喜びの涙が光っていました。何年かぶりに会った人もいれば,同じ都市に住んでいながら,全く初めて顔を合わせた人もいました。確かに,自由は多くの変化をもたらしました。それまでは,10人ないし12人のグループで集会を開き,各グループには要約した「ものみの塔」誌が3部だけ備えられました。ところが今回は,出席した238人の証人たちがそれぞれ各自の,しかも4色刷りの雑誌を持っていたのです。

ドイツ全土の兄弟たちは,宣べ伝える業が以前よりも自由に行なえることをエホバに感謝しています。バウツェンその他の場所で生じている余分の仕事も,王国の活動の喜ばしい拡大とみなすのです。ゼルターズでは,東欧諸国の必要にこたえるために残業が必要になっています。ベテル家族のある成員は,「生産数が増えるたびに興奮を覚えています。この活動に参加できるのはすばらしいことです」と感想を述べました。

歴史に残る大会

1990年7月1日に,東ドイツと西ドイツとを隔てていた国境の管理が取り除かれたとき,ドイツのある新聞には,「国境で起きた日曜日の出来事は目と頭だけでは理解不能」という見出しが載りました。7月24日から27日にかけて西ベルリンのオリンピア競技場で開かれた,特別な「清い言語」国際大会に東ドイツから出席した約3万人のエホバの証人も同様に感じていました。統治体の7人の成員を含め,64か国から集まった約4万5,000人の代表者たちは,神権的な歴史に残る出来事を目にしたのです。

東ドイツのある証人はこう述べました。「禁令が解かれた後,一致と愛と調和の見られる豊かな宴が開かれました。これは,過去40年にわたり非合法の活動を続けてきたことに価値があったという証拠です」。

大会は特に東ドイツの兄弟たちのために組織され,兄弟たちは興味と期待を抱いてその招待に応じました。ドレスデンの証人たちは1万6,000本の花を植えましたが,その花はちょうどよい時期に開花し,大会の二つの演壇を美しく飾りました。プログラムはドイツ語と英語で行なわれました。

東ドイツの役人はベルリンの大会に9,500人の証人たちを運ぶため13本の特別列車を仕立て,東ベルリンの各駅で拡声装置を使って代表者たちを歓迎しました。加えて,諸会衆は200台の貸し切りバスを手配しました。兄弟たちがもてなしの精神を示し,民泊できる場所を小まめに探したおかげで,また東西の役人が親切にも幾つかの学校を開放したことにより,すべての訪問者の宿舎が確保できました。

西ドイツから来たある代表者はこう語りました。「私たちは東ドイツの兄弟たちの温かさともてなしの精神を浴びるほど経験しました。私たちに宿を提供してくれた方は,22人の大人と6人の子供のためのスペースを確保し,自宅を小さな旅館にしていました。また近所にも他の人々が泊まれる場所を見つけてくれました」。東ベルリンのある夫婦は,二部屋の貸し間と庭に張った四つのテントを用いて,大会前と大会期間中に26人の訪問客を泊めました。

その大会は東ドイツの証人たちにとって,どこが特別だったのでしょうか。初めて自分の会衆と一緒に大会に出席したという人も少なくなかったのです。また,王国の歌を一緒に歌って感動を覚えた人もいれば,旧友との再会が特に心に残ったという人もいました。提供された霊的な食物と新たな発表文書は,深い感謝をもって受け入れられました。

さらに,東ドイツで長年勇敢に兄弟たちに仕えてきた長老たちによる話も大いに感謝されました。ある証人は,「東ドイツの兄弟が日々の聖句を討議するために最初に演壇に立った時,私が感じた気持ちは言葉では表わすことができません。その兄弟が長年禁令下でどんな責任を担ってこられたかを知っていたからです」と述べました。

バプテスマの話に続いて,1,018人のバプテスマ希望者が,ある人の言葉を借りれば,「喜びの極み」となる場面を飾りました。希望者たちが手を振りながら会場の外に誘導されて行くと,場内では19分間,拍手が鳴りやみませんでした。出席者の多くは喜びと感動の涙を抑えることができませんでした。「こういった出来事は,今まで文書かスライド講演の中で見たことがあるだけです」と,ある証人は語りました。東ドイツの他の兄弟たちは,禁令下で自分たちが浴槽に入ってバプテスマを受けたことを思い起こしました。

愛と立派な精神は競技場の外にも伝わり,外部の人々の注目を集めました。西ベルリン交通の責任者は,「私はこれまで20年間公共の行事に携わってきましたが,これほど礼儀正しい態度や気遣い,また自制心を示す人々は見たことがありません」と言いました。さらに,ある公共の交通機関の経営者は,「いつも乗客がこういう気持ちのよい方たちだといいですね。近いうちにまたお越しください」と述べました。

M・G・ヘンシェル兄弟は結びの話の中で,交通指導に関して,西ベルリンの警察だけでなく東ベルリンの警察にも感謝しました。禁令下での状況を思い起こす多くの人たちにとって,それは信じ難い意思表示でした。ドレスデンから来たある兄弟は,東ドイツの代表者たちの気持ちを要約して,「その出来事は,現実なのか単なる夢なのかと思わず疑ってしまうほど非常にすばらしいものでした。新しい世をかいま見た思いがします」と言いました。

東ヨーロッパで続いた特別な大会

8月2日から5日まで,ハンガリーのブダペストと他の3都市で約2万2,000人の人が集まりました。その1週間後の8月9日から12日までは,チェコスロバキアのプラハで全国大会が開かれ,2万3,876人の出席者が見られました。同じ期間中にワルシャワ最大の競技場でロシア語とポーランド語で提供された大会のプログラムには3万5,000人以上が出席し,その中にはソ連から来た1万7,000人余りの代表者も含まれていました。それはソ連から来た証人たちにとって歴史に残る出来事となりました。つまり,プログラム全体がロシア語で行なわれたのです。そのような出来事は過去に例がありません。さらに,大会プログラムのパンフレットに自国語で73曲の王国の歌が掲載され,大会で歌う曲がみな収められているという意外な喜びも味わいました。これこそエホバに賛美を歌うべき時ではないでしょうか。また,7月と8月にはポーランドでさらに10の大会が開かれ,出席者の合計は15万2,460人に達しました。

ルーマニアの証人たちは40数年ぶりで地域大会に集まりました。開催都市はブラショブとクルジュナポカで,およそ3万6,000人が出席しました。ベルリンと東ヨーロッパの諸都市で開かれた大会では,1万481人に上る人々がバプテスマを受けました。

また,全く初めてのこととして,ブルガリアの証人たちが地域大会全体を自国語で楽しみました。彼らは,1990年8月23日から26日までギリシャのサロニカに集まった6,537人の中にいたのです。そして,ブルガリアから来た兄弟たちが行なった四つの話に耳を傾けました。残りのプログラムはギリシャ語からブルガリア語に通訳されました。もう一つ初めてのことがあります。つまり,ユーゴスラビアにある六つの国家の各々で地域大会が開かれたのです。大会に関する報告は新聞に掲載されたり,ラジオで伝えられたり,テレビで放映されたりしました。

世界の多くの地域では,同じ国の中でも人々が民族問題によって分裂しています。エホバの証人は平和の満ちる国際的な集まりを開くことにより,国の背景こそ違っても一致のうちに共に生活して働くという証拠を提出しています。そのようにして,『神が彼らをずっと成長させておられる』のです。―コリント第一 3:6

支部の献堂: 『神がそれを成長させてくださった』

健康な赤ちゃんは見る間に大きくなるので,今まで着ていた服が小さくなり,親はさらに大きなサイズの服を用意しなければならなくなります。同様に,ある国で伝道者数が増加すると,監督の任にある人々は勢いを増す王国伝道者の必要にこたえるため,さらに大きな支部を探します。

支部委員会はこれを喜ばしい挑戦とみなします。それは,神が支部を成長させて祝福しておられる証拠なのです。(コリント第一 3:6)昨奉仕年度は四つの支部が,もっぱらエホバへの奉仕に用いる新しい施設を献堂しました。

オーストラリア

献堂式の日は1989年11月25日でした。従来の支部の建物群は1982年に出来上がり,1983年の初めに献堂されました。1987年には事務所が拡張されましたが,今回は,5階建ての宿舎と増築された3階建ての工場が献堂されました。

40年前,この国の伝道者はわずか4,000人余りでしたが,現在では5万1,000人を上回る伝道者がいます。実に,1,100%以上の増加です。過去10年以内に真理に入って来た人々は2万2,000人近くに達します。また,オーストラリアだけでなく,ニュージーランドや太平洋地域にある多くの島の必要を顧みるために印刷の規模が拡大しており,出版物は現在37の言語で生産されています。

グアテマラ

1989年11月26日,グアテマラ市では喜びにあふれた笑顔が一様に見られました。その日,新しい支部施設の献堂を祝うために1万3,882人のエホバの証人が集まったのです。それは,支部の建物群を作る7年がかりの活動が最高潮を迎えた日であり,その床面積は以前の建物の8倍余りになりました。現在の敷地面積は1.1㌶で,ユーカリ,イトスギ,松の木がたくさん生えています。白い壁と赤い屋根がわらを持つグアテマラの新しい支部施設は,そのような快適な環境の中に位置し,美しい輪郭の火山を背景に一際目立っています。

新しい支部施設は明らかに何年もの間必要とされていました。市の中心付近に位置した旧支部の建物は1949年以来使用されていましたが,その年の伝道者はわずか218人でした。新しい支部施設の用地が購入された1985年までに伝道者は8,135人に増加し,その4年後に建物が完成したころには37%の増加に当たる,1万1,147人の新最高数に達しました。

実際の建設は2年半続きました。その期間中,地元の諸会衆から269人の定期奉仕者と週末に働ける2,000人以上の自発奉仕者が作業に当たりました。そのほかに,近隣のコスタリカや,カナダ,フィンランド,米国といった遠方の諸外国から215人がやって来ました。それら自発的な作業員は,コンクリート作業,タイル貼り,家具の製作といった様々な職種に関して地元の兄弟たちを訓練しました。

訪問客は11月25日,日曜日に特別な歓待を受け,最初に支部の建物を見学しました。その日の最後を飾ったのは裏庭で催された晩さん会で,マリンバの音楽が流れる中,にぎやかな会話が交わされ,快いクリスチャンの交友を楽しむ友たちの笑い声が聞かれました。

ホンジュラス

1989年10月22日,テグシガルパで二日間の特別な集まりの二日目に集まった5,085人の出席者は,寒い天候の中でも心の中に温かいものを感じていました。10月21日の献堂式では,支部事務所が開設された1945年以来ホンジュラスで行なわれてきた宣べ伝える業の歴史が回顧されました。

1961年に建てられ,1978年に拡張された従来の支部の建物のすぐ隣に,支部の新しい増築部分が建っています。新しい施設には,地下室と1階と2階があるので,利用できる床面積はほぼ3倍になりました。新しい建物は屋根付きの歩道によって以前の建物とつながっています。以前の建物もすっかり改装されました。現在支部の建物群には全部で13の居室があり,新しい建物に10部屋,改装された建物に3部屋あります。支部の建物には今のところ26人まで住むことができるので,現在13人を数えるベテル家族にとっても,将来の拡大のためにも十分のスペースがあります。建設工事では,125人ほどの国際建設自発奉仕者と地元の1,500人余りの兄弟姉妹が2年間勤勉に働きました。

ナイジェリア

1990年1月20日に,ナイジェリアの新しい支部施設が4,209人の聴衆を前に献堂されたとき,29か国の代表者がそこに出席していました。その翌日,ナイジェリアの三つの都市で開かれた特別集会には6万人を超える出席者が見られました。

新しいベテル・ホームと支部事務所は,ラゴスから約360㌔離れたイギードゥマという村に近い片田舎にあります。57㌶の用地が購入されたのは1983年のことです。地所から樹木や灌木を取り払う必要がありましたが,そこにとどまっていたレイヨウが宿を見いだせるだけの草木は残され,幾百本もの果樹と7,000本に上るパイナップルの木が植えられました。ある日,建設が初期の段階にあったころ,一人の森林係官が現場に来て,なぜ樹木を伐採しているのかと建設の監督に尋ねました。しかし,その理由を聞いて,開発計画の説明を受け,自発的な援助と寄付された資材に頼って建築が行なわれている様子を目にすると,係官は大そう感心し,帰り際に,「寄付箱はどこですか」と尋ねました。そして寄付をすると,木の伐採や許可の件についてはそれ以上何も言いませんでした。

宣教訓練学校は将来の拡大に卒業生を備えさせる

米国では昨奉仕年度中,カリフォルニア州ロサンゼルスとミズーリ州セントルイスで宣教訓練学校の第5期と第6期の二クラスが開かれました。また,英国で最初のクラスを司会するために米国から経験を積んだ教訓者が遣わされ,その卒業式は1990年6月17日に行なわれました。英国では今後開かれる同校のクラスに備えて増員された教訓者の訓練も行なわれました。

長老と奉仕の僕たちから成る各クラスの平均年齢は29歳から32歳までの範囲でした。それらの兄弟たちはすでに会衆の責任を扱う面で経験を積んでおり,同学校に入校する以前から何らかの形で全時間奉仕を行なっていました。これら3クラスの卒業生たちは,英国,チリ,エクアドル,エルサルバドル,フランス領ギアナ,グアテマラ,ホンジュラス,リーワード諸島,セネガル,台湾省,米国,ザンビアといった,当面の必要が認められる場所での割り当てに就くよう招待されました。

この学校の課程では,聖書の教理,組織上の手続き,牧羊の責任やクリスチャンの生活で問題を扱うことに関する諭しなど,広範にわたる内容が徹底的に扱われます。入学者の中で,話したり牧羊したり教えたりする経験が限られている人々は,そのような経験を積むよう訓練を受け,将来さらに大きな責任を担うための優れた備えができました。この学校に通う生徒たちは,学期中に宿舎を提供してくれた兄弟たちの親切ともてなしの精神に深く感謝しました。生徒たちの朝食と昼食は,授業が行なわれる大会ホールで提供されました。毎朝,生徒たちは朝食の前に,協会のすべての支部で司会されているのと同様,日々の聖句を考慮することが日課になっていました。

卒業生は皆,自分たちのために組織が行なっている事柄に深い感謝を表わしています。例えば第6期生たちは,この学校の課程を他に例を見ないものとみなし,授業を通して生活の土台となる貴重な基盤が備えられたと述べました。英国の生徒たちは,「私たちはエホバに教えられるという喜びを経験しており,独身の兄弟たちがこの目標をとらえるよう心からお勧めします」と感想を語りました。

今奉仕年度には,フランス語,ドイツ語,イタリア語,スペイン語を含む,他の幾つかの言語で授業が行なわれる取り決めがすでに設けられています。多くの国では今年,地域監督が,この学校の入校に関心を持つ独身の長老および奉仕の僕たちと会って,そのような訓練を受ける資格を得るために満たさなければならない要求について話し合います。

ホスピタル・インフォメーション・サービス ― 必要な時の助け

1988年1月,エホバの証人の統治体はニューヨーク市ブルックリンの世界本部にホスピタル・インフォメーション・サービス(HIS)という部門を設置しました。その目的は何でしょうか。無血療法に関する医学文献を調査すること,協力的な外科医に関する記録を作成して保管すること,医療上の必要が生じた時にエホバの証人を援助する選ばれた長老たちを訓練し監督することです。―マタイ 25:36と比較してください。

そのようなサービスが今必要なのはなぜでしょうか。使徒 15章28節と29節から明らかなとおり,真のクリスチャンは『血を避け』なければなりません。これは,真のクリスチャンが偶像礼拝と淫行を避けるのと全く同じです。エホバの証人は神のこの律法に良心的に従うゆえに,この世のある強力な要素と対立してきました。その要素は証人たちを妥協させようとしており,献身した体を無理やりに汚すと脅すことにより,恐れを利用して何とか同意させようとすることも珍しくありません。(ローマ 12:1)それでも,証人たちは神に従って血を取り入れないように「堅く思い定めて」います。―申命記 12:23-25

こうした立場は,一切の医療を拒否したり,いわゆる死ぬ権利を行使したりすることに当たると誤解する人も少なくありません。エホバの証人は死ぬことを望んではいません。むしろ,同種血を使用しない代替医療を受けようとします。時には,効果的な無血療法を利用できることについて,医療関係者に情報を提供する必要が生じることもあれば,そのような治療に関する患者のインフォームド・チョイス(十分情報を与えられた上での選択)の権利を尊重してくれる協力的な外科医を探すという問題に直面しなければならないこともあります。

このため米国では1988年以来,ホスピタル・インフォメーション・サービスのセミナーが合計18回開かれ,600人以上の長老が,米国の主要都市にある100の医療機関連絡委員会の組織で奉仕するよう訓練を受けました。以来これらの委員会は,様々な病院の医療関係者に数々の有用な情報を提供し,血の医学的使用に対するエホバの証人の立場が道理にかなっていることを理解するよう助けてきました。これはどのように行なわれるのでしょうか。

委員会は現在利用できる様々な代替療法について病院関係者に知らせ,エホバの証人の患者が抱えている健康上の問題に関し,同種血を使用せずにどのように治療が行なえるか,また現に行なわれているかを説明します。次いで,医療スタッフに対して調査を行ない,エホバの証人に進んで協力する人を知るようにします。それら医療施設の中には,その後医療上の方針に調整を加えてエホバの証人の患者を受け入れるようにした所もあります。また,無血の代替療法を行なう中心施設になろうとしている病院もあります。こうした変化により,かつては証人たちが忍んだ幾つもの対立が随分少なくなったことをエホバに感謝できます。

医療機関連絡委員たちも教育を受けており,血を用いないで患者の医学的必要に対処する方法について病院の責任者や外科チームの人々などに話す面で証人たちを訓練しています。さらに同委員会は,経験の浅い外科医が同種血を用いずにエホバの証人をどのように扱ったらよいかを学べるよう,好意的な医師たちとの協議の場を設ける面でも援助できます。緊急な状況においては,文字どおり幾百もの対立関係を和らげ,輸血を強制されそうな事態を回避することさえしてきました。―イザヤ 32:1,2と比較してください。

例えば,一人のエホバの証人が自動車の正面衝突事故で重傷を負いました。その男性は左大腿骨が折れ,骨盤にひびが入り,数本の肋骨が骨折し,左のこめかみに5㌢の裂傷を負い,左腕が押しつぶされて大量出血し,肘の部分が無くなっていました。何人かの医師は,出血を止めるのに必要な手術を行なうために輸血をしなければならないと主張しました。

負傷した兄弟の親族たちは最寄りの医療機関連絡委員会と連絡を取り,自分たちの聖書的な立場に協力してくれる別の医師もしくは病院を見いだすために援助を求めました。ところが,医師たちが輸血に応じるよう家族を説得しようと無駄骨を折っている間に貴重な時間が失われたので,患者のヘモグロビン値は危険なレベル(4.5㌘)まで低下しました。このため,患者を他の場所に移すことは得策ではなくなりました。しかし,初期医療に当たった医師がある好意的な外科医と協議することが取り決められました。どんな結果になったでしょうか。可能な処置が一層よく理解できたおかげで,その外科チームは輸血しないで手術することに同意しました。手術は無事に行なわれ,患者は事故から1か月足らずで帰宅することができました。

こういう例もあります。髄膜炎にかかった生後1年4か月の赤ちゃんがしだいに重い貧血を患うようになりました。よくあることですが,貧血の原因は検査のために何度も血液を採取したことにありました。小児科医は,自分たちで引き起こした貧血に対処するため輸血をしたがりました。ホスピタル・インフォメーション・サービスは医療機関連絡委員会と協力しつつ,ある医学雑誌に載った記事をその病院に送りました。その記事には,それほど多くの血液を採取しなくてもすむ方法が説明されていました。担当の小児科医はその情報に納得して手法を変更し,赤ちゃんは輸血なしで無事に治療されました。

これはまた別の例ですが,ある新生児が高ビリルビン血症と呼ばれる,ごく一般的な黄疸にかかりました。ホスピタル・インフォメーション・サービスはこの病状に効果的な,二重光源の光線療法の益について説明した医学記事を地元の委員たちに送付し,次いで委員たちは関係する医師たちにその話をしました。この手法が採用されると,輸血という“標準的”治療は必要ではなくなりました。

昨年の2月と3月,HISのメンバーは太平洋地域の八つの支部事務所を対象に四つのセミナーを開きましたが,今後ヨーロッパとラテンアメリカを対象とした10のセミナーが予定されています。わたしたちは,兄弟たちを必要な時に援助するためのこの愛ある備えをエホバが引き続き祝福してくださることを祈っています。

アフリカ

「エホバよ,あなたのような方がだれかいるでしょうか。あなたは,苦しんでいる者をそれより強い者から救い出し……てくださるのです」。詩編 35編10節はそう問いかけています。アフリカの幾つかの国々では,エホバの民の活動に対する制限が解除されました。救出を与えてくださったエホバに感謝すべき,何と大きないわれでしょう。

過去14年近くにわたって業が禁じられていたベニンでは,1990年1月23日に当局が禁令を解除しました。政府の布告により,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会は法的に認可され,宗教活動を自由に行なうことができるようになりました。次いで4月の初めには別の布告が出て,エホバの証人の宣教者の業が認可され,1976年4月に宣教者たちを国外に追放した以前の布告が無効になりました。新しい布告は,当時追放された宣教者たちの名前も挙げており,彼らをはじめエホバの証人の宣教者はだれでもベニンで自由に宣教者として活動できることになりました。

それ以降ベニンの兄弟たちは熱意と情熱にあふれ,業の再組織や新しい王国会館の建設,さらには,かつて革命政権によって差し押さえられた支部施設や王国会館の再取得に向けて努力を傾けています。新政権は,没収された資産をすべて正当な所有者に返還することを約束しました。この記事を書いている時点ですでに,コトヌーの支部施設,ポルトノボの宣教者の家,幾つかの王国会館が兄弟たちに返還されました。王国会館はどれも修理や改装が必要ですが,会衆の集会に再び用いられるようになっています。

協会の支部施設が1990年7月中旬に返還されると,兄弟たちは早速,8月11日と12日にベテル・ホームの周辺の土地で二つの特別一日大会を開くよう計画しました。こうして地元の人々は,エホバの証人が正当な資産を再取得したことを知るようになります。ベニンの業を監督しているナイジェリア支部はこれを承認しました。

兄弟たちは準備が間に合うかどうか不安でした。わずか1か月間で,土地のかたづけや整地を行ない,竹を切って幾つかの小屋と3,000人分の座席を作り,軽食部門をはじめ様々な部門を設置し,トイレの施設を用意し,わらで編んだマットをすべての屋根にかぶせなければならないのです。しかし兄弟たちは,意外にも喜ばしい結果を迎えました。訪問講演者が到着したときには,そうした仕事だけでなく,敷地を囲むコンクリートの壁全体にしっくいを塗る作業も終わっていたのです。ベテルと王国会館の表門にもペンキを塗り直し,ひどく傷んでいた施設を改装しました。兄弟たちは以前の居住者の名を記した大きな看板を取り外し,代わりに,きれいにペンキを塗った物見の塔を取り付け,“ものみの塔協会”というサインを掲げました。表門には,“エホバの証人のベテルにようこそ”という看板も取り付けました。

敷地のすぐ外には潟があり,その潟に出る門もあったため,兄弟たちは潟に下りてゆくための階段を作りました。二つの特別一日大会の間に,その潟で22人がバプテスマを受けました。すべての人は,ベテルがエホバを賛美するために再び用いられるようになったことを歓びました。

ザイールでは,1990年4月24日に行なわれた大統領演説と記者会見で,ザイールのエホバの証人の活動に対する態度に著しい変化が見られました。

大統領は内外のジャーナリストとの会見の中で,ザイールでは出版の自由と信教の自由を含む基本的な自由がすべて認められることを保証しました。ですから一般国民の間では,エホバの証人が宣べ伝えたり,以前よりも公然と集会を開いたり,宗教活動を行なったりしているのを見ても特に驚きはありません。伝道をしたり宗教的な集会に出席したりしたために投獄されていた兄弟たちは釈放されました。真理に対する関心は強く,そうした関心の程は,伝道者や聖書研究の数が1990年に何度か新最高数を記録したことに表われています。兄弟たちはこのような喜ばしい進展が見られたことを感謝しています。

トーゴでは1978年5月以来,業が禁止されていました。しかしトーゴ政府は1987年10月21日に,人権侵害に関する報告を調査して解決策を提示する,国家人権委員会と呼ばれる委員会を設立しました。その後,信教の自由の擁護を訴える請願が行なわれ,次いで,トーゴのエホバの証人を代表する5人の長老が人権委員会の実行委員の前に召喚されました。エホバの証人について誤解が生じていた多くの問題に関し,証人たちの立場を説明するためです。

その後,1989年10月12日に,国家人権委員会は「信教の自由と公共の秩序」というテーマで公開討論会を計画し,再び5人の長老たちを招きました。討論会の模様はテレビで放映され,新聞でも大きく報道されたので,真理に関する全国的かつ効果的な証言が行なわれました。こうして,エホバの証人に対するいやがらせや,トーゴでの禁令によって生じた緊張が緩和されました。

諸会衆はこうした比較的平穏な状況をフルに活用し,トーゴの歴史上空前の規模で王国の活動を強化しています。昨奉仕年度は伝道者の最高数が9回記録され,20%の増加がありました。会衆の伝道者は毎月,平均15時間の奉仕を行なっており,2件近い聖書研究を司会しています。

兄弟たちは,「いま自由が味わえることをエホバに心から感謝し,禁令が完全に解除されることを祈っています」と書いています。

モザンビークで昨奉仕年度中最も際立った出来事の一つは,5月27日にマプトで,法人団体「モザンビークのエホバの証人協会」が設立されたことです。これは,業に対する政府の法的な認可を得るための重要な一歩でした。翌日には,同協会の設立をマプトの政府代表者に知らせました。兄弟たちはいま返事を待っています。

それより4か月前の1990年1月27日と28日に,エホバの証人はベイラのマンガ競技場で巡回大会を初めて公に開きました。753人が出席し,そのうち42人がバプテスマを受けました。この大会をきっかけに,ベイラ市では家庭聖書研究と会衆の集会出席者の数が一気に増加しました。兄弟たちの中にさえ,この巡回大会によって霊的に目覚めた人がいます。真理に入ってからそれまで“大きな集まり”に出席したことのなかった人も大勢いたのです。

アジア

「あなた方はヤハを賛美せよ。わたしたちの神に調べを奏でるのは良いことだからである。それは快いことだからである ― 賛美はふさわしい」と,詩編作者は歌いました。(詩編 147:1)アジアの伝道者たちは,信仰の試みのさなかでもエホバを賛美するのが非常に快いことを知りました。

フィリピンの支部事務所からの報告によると,ラプラプで学校の教師をしている一姉妹は,真理のために一歩も譲らない確固たる態度を示しました。姉妹の話を聴いてみましょう。「ある日,地区主任の事務所に呼ばれました。同僚教師の誕生日のプレゼントを買うために,一定額を寄付しなさいというのです。三つのことが頭に浮かびました。1番目に,それはたいした額ではないということ。2番目に,寄付すれば上司が喜び,いろいろと便宜を図ってもらえるかもしれないということ。3番目に,寄付しても会衆の人には分からないし,夫でさえ分からないだろうということです。

「しかし,それはサタンが仕掛けたわなだと思い,落ち着いて主任にこう言いました。『この件からはどうか外してください。誕生日を含め,世の祝祭から離れていること,それが私に対する神のご命令です。私は良心上,神に背くわけにはゆきません』。すると主任は大声でののしりの言葉を吐き,もし全体の方針に従えないのなら学校から出て行けと言いました。主任は私に寄付を強要することはできませんでしたが,授業の負担を増やすなどして仕事の面で圧力をかけてきました。恐らく,落ち度を見つけて解雇するつもりだったのだと思います。しかし私は,忠実に,速やかに,能率的に主任の要請を果たしました。そのため主任は,意向に背いて誕生日のプレゼントをしなかった私を後ほど昇進させました。しかし一番うれしかったのは昇進ではなく,家族が霊的に進歩したことです。私が昇進したのと同じ年に,子供たちのうち二人がバプテスマを受けました」。

ベンガル湾に浮かぶ遠いアンダマン諸島のある会衆は,「ものみの塔」誌の配布によってエホバへの賛美を増し加えたいと思いました。そこで雑誌運動の期間中,各伝道者が1週間に1件の予約を得ることを目標にするよう,またもしこの目標が達成できたなら目標を2件にするよう勧めることにより,予約の提供に対する会衆の熱意を高めることができました。会衆の集会では,兄弟たちが得た予約の合計数が毎週発表されました。また奉仕会で伝道者たちがインタビューを受け,予約を得た経験を話しました。結果はどうだったでしょうか。この小さな会衆は1か月間で150件の予約を得ました。これは,その会衆が過去2年半の間に得た予約の件数に相当するものです。

韓国のある有名なテレビ女優は,名前が売れても結局は不幸になっただけだということに気づきました。結婚にも失敗しました。彼女の女優仲間の一人がエホバの証人でしたが,その人の高潔な道徳規準には深い感銘を受けていました。その証人は彼女と聖書研究を始めました。やがて彼女は1989年6月にバプテスマを受けました。ある月に補助開拓奉仕を楽しみましたが,家から家の宣教で証言すると,どこへ行っても彼女のことを知らない人はいませんでした。今ではテレビ女優としてではなく,エホバの奉仕者として知られるようになりたいと彼女は言っています。

ヨーロッパ

「捕らわれ人の溜め息があなたのみ前に届きますように。死に定められた者たちをあなたのみ腕の偉大さにしたがって保護してください」。弾圧を受けている人の中には,詩編 79編11節のこの言葉から慰めを得てきた人が少なくありません。しかし今,ヨーロッパには変化の風が吹き荒れており,エホバの証人の宗教上の自由が拡大しています。

ルーマニアからは次のような報告が届いています。「わたしたちは,42年ぶりにルーマニアの活動に関する喜ばしい報告をお送りできることをうれしく思います。幾百万という兄弟たちの熱烈な祈りを聞き届け,無情な迫害に終止符を打ってくださった愛情深い父,エホバ神に感謝しています。―ダニエル 2:21

「3月から遠方の村々で家から家の奉仕を組織的に行なっています。大抵は村全体で宣べ伝え,借りた地区会館での無料の聖書講演を聞きに来るようすべての人を招待します。人口が1,200人のある村では,500人余りが講演会に出席しました。講演が終わると,ある教師が出席者全員を代表して,聖書のすばらしい説明に対して兄弟たちに感謝の言葉を述べました。住所を兄弟たちに知らせて訪問を依頼した人は200人余りに上りました」。

エホバはハンガリーにおいて,活動に通じる大きな戸口を開いてくださいました。ハンガリーの兄弟たちの中には,その戸口を通った人が大勢います。年頭から兄弟たちは4色刷りの雑誌を受け取っており,良いたよりを宣べ伝える業で雑誌をよく活用しています。毎月10万冊ほどの雑誌が配布されたことから分かるように,人々の関心は高まっています。前の奉仕年度の月平均と比べると,再訪問は1万3,000件増え,司会された聖書研究も1,100件増加しました。その結果,四つの「清い言語」地域大会で,901人が献身の象徴として水のバプテスマを受けました。

ブルガリアでも,昨年度に大きな変化が生じました。最初の王国会館の建設が始まりましたが,関心のある人が大勢いるため,まもなくそれはいっぱいになることでしょう。ブルガリアで状況が変化したため,他の国から引っ越してきた証人たちもいます。すでに正規開拓者や補助開拓者がいるのはそのためです。それに,チェコスロバキア,ポーランド,ギリシャの兄弟たちもやって来て,霊的食物を分配したり,集会や野外奉仕を組織的に行なったりする面で助けを差し伸べています。

昨奉仕年度中,ユーゴスラビアでは胸の躍るようなことが起きました。伝道者が7回にわたって最高数に達したのです。家庭聖書研究の数も,バプテスマを受けた人の数も着実に増加し,正規開拓者として奉仕する人も増えました。伝道者の数が増すにつれ,新しい王国会館を建てる必要が生じました。昨年度には七つの新しい王国会館が献堂されました。兄弟たちは多色刷りの雑誌を受け取れることや,「目ざめよ!」誌が月1回発行されていることを歓んでいます。

ノルウェーのある伝道者は以前に留守だった家を再び訪ねました。そこは,彼がいろいろな時間に何度も訪問していた家です。今回もその家から立ち去ろうとしたとき,ちょうど家の人が家族と一緒に帰ってきました。外出したものの,忘れていた用事があったので戻ってきたのです。伝道者は中に招かれました。そしてその人の妻から,喫煙のために何年か前に排斥されたということを聞かされました。今では会衆に戻りたいと思っていましたが,余りにも長く離れていたので難しいだろうと感じています。長老であるその兄弟は,どんな段階を踏まなければならないかを説明しました。夫は彼女が排斥された後に結婚した人でしたが,この話に一心に耳を傾け,その場で聖書研究に応じました。妻が前からよく証言していたのです。

やがて妻は復帰し,それ以来活発で熱心な伝道者になっています。夫のほうは,前妻との間に生まれてすでに成人している息子から反対を受けました。しかし父親の穏やかで優しい説明を聞いて,息子も聖書研究に同意しました。真理は息子の生活に大きな変化をもたらしました。1990年2月に,父子はそろってバプテスマを受けました。

北大西洋に浮かぶフェロー諸島の少人数の伝道者たちは,たとえ小さな孤島に行く必要があったとしても,ふさわしい人を探し出す活動にたいへん精力的に取り組んでいます。聖書研究の数は昨奉仕年度の数を39%上回るものでした。

フェロー諸島で昨年度中バプテスマを受けた人の中に,エリザベスがいます。エリザベスは王国会館のない島に住んでいるので,集会に出席するには,他の人と一緒に車や舟に乗って出かけなければなりません。バプテスマを受けて間もなく,ある親せきから,生まれ故郷の村人に宣べ伝えてみろと言われました。意を決した彼女は20冊の雑誌を手に,近所の人をすべて訪問しました。そして,帰宅したときには満面に笑みをたたえていました。2冊を残して,すべての雑誌を配布したのです。その間に夫の両親が家に来ていましたが,二人は最後の2冊の雑誌を受け取りました。

ラテンアメリカ

「苦しんでいる者と貧しい者があなたのみ名を賛美しますように」と,詩編 74編21節は述べています。健全な経済事情が悪化すると,毎日の生活必需品を備えるのが本当に課題となります。それでも,ラテンアメリカのエホバの証人は,全能の神エホバに対する賛美の声を上げ続けます。

1990年3月15日は,経済的な衝撃の日としてブラジルで長く記憶にとどめられることでしょう。政府は,月に80%を超える天井知らずのインフレに歯止めをかけるための計画を実施しました。一つの手段は,ある一定額を超える銀行預金を1年半の期間にわたって凍結することです。そのため,個人や会社が活用できるお金は,預金の最低限度額と手持ちの現金だけということになりました。

野外での文書配布が影響を受けました。会衆と伝道者は,家賃をはじめ月々の支払いに四苦八苦しました。支部事務所も,毎月送られてくる紙や物資の支払い,また1,230人の特別開拓者や228人の旅行する監督と妻たち,それに800人のベテル家族をそれぞれの奉仕において世話する面で問題を抱えました。工事半ばの新しい工場別館の建設も危ぶまれてきました。兄弟たちはこの危機にどう対処したでしょうか。

絶対に必要な物以外の購入は先に延ばされました。建設計画も縮小です。ベテル家族は,しばらくのあいだ月々の払い戻し金なしでやってゆくことに同意しました。その後,兄弟たちから寄付や貸し付けを申し出る電話が支部にかかってくるようになりました。数週間が過ぎて,危機も収まりました。ついに政府は,非営利団体が幾らかの預金を引き出すことを許可したため,協会は徐々に通常の活動に戻ることができました。

経済的な打撃を受けたにもかかわらず,3月には伝道者が新最高数に達しました。昨奉仕年度中の5回目の最高数です。その後4回にわたって最高数を記録し,ブラジルは奉仕年度末に29万3,466人の王国宣明者を報告しました。こうした増加によって,昨奉仕年度には13の新しい巡回区を作る必要が生じました。

エルサルバドルは近年,経済の混乱と手に負えない犯罪の国として知られるようになりました。エホバの民はこうした困難な状況の中で霊的に強く活発な状態を保ちつつ,12月と1月に計画されていた地域大会を楽しみにしていました。

1989年11月11日,土曜日が終わろうとしていたとき,内戦が始まり国じゅうで爆弾が爆発しました。続く数週間でかなりの人命と資産が失われました。多数の兄弟たちを含め何千人もの人が家を後にし,戦闘地区から脱出しました。群衆は国外に避難する方法を模索していました。食料も水もほとんどないまま一番安全と思われる所で寄り添いながら,1週間以上家に取り残された人も少なくありません。比較的危険の少ない地域にいた兄弟たちの多くは,困っている兄弟たちに自宅を開放しました。何とすばらしいクリスチャン愛の表明でしょう。支部事務所は直ちに策を講じ,着の身着のままで逃げてきた兄弟たちに必要な物を用意しました。戦いが小康状態に入ったころには,家を失っていた兄弟たちも少なくありません。損傷を受けた家を修理しなければならない人もいました。また,夜間外出禁止の時間までに皆が帰宅できるようにするため,晩の集会の予定を変更することも必要でした。残念ながら,この戦闘期間に二人の姉妹が命を落としました。

こうした状況は四つの地域大会の計画にどんな影響を及ぼしたでしょうか。支部の報告はこう説明しています。「当時,大会のような大きな集まりを開くのは不可能だと思われました。わたしたちは道を開いてくださるエホバに頼り,……まるで何事もなかったかのようにすべての計画を進めました。大会委員たちは,公共の集会の開催許可を与える軍当局の担当者と会見しました。12月の終わりまで激しい戦闘が続いていたサンミゲルでは,許可が得られませんでした。そこで支部委員たちが軍の幹部と会談し,わたしたちがどんな計画を立てているか,また,すべてが正常な状態に戻ってゆくという保証を人々がいかにしてこの大会から得られるかを説明しました。こうして許可が得られ,サンサルバドルとサンタアナでも大会を開くための許可が得られました。まさに奇跡だと思った人は少なくありません」。

地域大会はまさに兄弟たちが必要としていたものでした。四つの大会の最高出席者は3万2,137人に達し,758人がバプテスマを受けました。記念式の出席者数は,業が拡大を続けていることを示すもう一つの証拠になりました。1989年の4%増に当たる6万783人が出席したのです。大勢の人が,大抵はほかの場所での物質的な恩恵を求めて国外に脱出しているにもかかわらず,支部事務所はこう述べています。「わたしたちはエルサルバドルにいて,エホバのみ手の働きを目にし,真理を尋ね求めてエホバの組織と交わり続ける羊のような仲間の人々を見ることができて幸せです」。

北アメリカとカリブ海諸島

「わたしは自分の口で大いにエホバをたたえ,多くの民の中にあって神を賛美します」と,ダビデは宣言しました。(詩編 109:30)今日,エホバの証人は大勢の人々の前で,時には法廷においてさえもエホバをたたえます。

米国の三つの州の最高裁判所において,輸血を拒否する患者の権利をめぐる三つの大きな訴訟事件でエホバの証人に有利な判決が下りました。1986年4月にフロリダ州のある姉妹は,子宮から出血があったために治療を受けることにしました。病院には,いかなる状況でも輸血を受けるわけにはいかないことを伝えました。審理が行なわれ,判事は輸血の許可を与えました。その姉妹が十代の二人の息子の母親で,息子たちは自分たちを養育する親として姉妹を必要としているというのがその理由でした。輸血は行なわれましたが,この件は控訴されました。1989年3月16日,フロリダ州最高裁判所は,6対1でエホバの証人の患者に有利な判決を下しました。この判決は,たとえ未成年者の子供のいる親であっても,成人のエホバの証人には輸血を拒否する権利があることを確認するものでした。フロリダ州最高裁判所の二人の判事は,特別な同意意見の中で,協会の準備書面から一部をそのまま抜粋して,自分たちの意見として採用することさえしました。

1987年の初めに,イリノイ州に住む17歳の姉妹が白血病と診断されました。姉妹は入院するときに,血液製剤の使用には同意できないことを伝えました。母親も無血療法という娘の選択を支持しました。病院は,血液の使用を許可する法廷命令を取りつけました。1989年11月13日,イリノイ州最高裁判所の過半数を占める5人の裁判官は,当のエホバの証人がたとえ未成年者であっても,自ら異議を唱える治療を拒否する権利があるとの判決を下しました。裁判所は判決の根拠として,この姉妹には体に関する自己決定権がコモン・ロー上保障されているという点を挙げ,コモン・ローはこれまで長きにわたり,判断能力のある未成年者が自らの医療に関する決定を行なう権利を認めてきたと述べました。未成年者のエホバの証人をめぐる事件で州最高裁判所が有利な判決を下したのはこれが初めてです。

もう一つの事件はニューヨーク州が舞台になりました。母親であるエホバの証人が法廷命令によって輸血を施されました。裁判所に提出された問題は,未成年者の子供がいるという理由で,患者の意志に反する治療を強制的に施すことができるかということです。1990年1月18日にニューヨーク州上訴裁判所は,そのようなことはできないという答えを出しました。「要するに,この患者は判断能力のある成人として,自らの治療のあり方を決定する権利を持っている。その中には輸血を拒む権利も含まれる」と,裁判所は述べました。

血の問題に関するこれら三つの勝訴は,強制輸血を回避するエホバの証人の権利を擁護するために数十年行なわれてきた極めて重要な活動の成果です。また,協会の法律部門では,親権に関する情報を載せた資料を数百種保管しており,子供を養育する権利をめぐって法廷闘争に直面したエホバの証人の親たちの便宜を図っています。

アラスカでは,所によって非常に過酷な冬を迎えます。昨年の冬は,フェアバンクスと近くのノースポールという町で摂氏マイナス35度から50度という異常低温が数週間続きましたが,伝道者たちは宣べ伝える業をやめませんでした。バルディズでは15㍍を超える記録的な積雪があり,雪が家よりも高く積もりました。それでも兄弟たちは野外宣教を続けます。屋根よりも高い雪道を歩き,家の人に会うために玄関まで下りてゆくのです。

ベテル見学は,どれほどの益をもたらすものとなるでしょうか。ドミニカ共和国のベテルは,ある船員の生き方を変えるのに一役買いました。その船員の妻はエホバの証人と聖書研究を始め,船に乗っていた夫に聖書文書を送りました。夫の乗っていた航空母艦が寄港地のサントドミンゴに停泊すると,船員の仲間たちは全く世俗的な理由で上陸したがりましたが,この夫は“ベテル見学”に行くつもりだと言いました。『ベテルというのは一体何だ』と仲間たちは尋ねます。事情をよく知らない夫は,「バチカンみたいなものだろう」と答えました。

不安を感じながらもベテルを訪問すると,温かく迎えられ,施設を案内されました。土曜日だったので,一人のベテル奉仕者と一緒に幾らかの用を足しに出かけたところ,何人かのエホバの証人に会いました。船に戻る時間になりましたが,去り難い思いがしました。数か月後,支部の家族は,その人が重要機密を扱う立場にあったにもかかわらず,軍役から退くことができたという知らせを受けました。やがて夫婦はバプテスマを受けました。夫はこう書いています。「皆さんと過ごした一日が私に及ぼした影響は,とても言葉では表わせません。7月10日に海軍をやめました。9月にはバプテスマを受けていない伝道者になり,3月にエホバに対する献身の象徴としてバプテスマを受けました。今月は補助開拓奉仕をしています。1年半前には想像もできなかったことです。しかしエホバはわたしたちの心をご存じであり,エホバに従う意志さえあればわたしたちを導いてくださいます」。

太平洋の島々

「神よ,あなたのみ名と同じく,あなたの賛美も地の境にまで及ぶのです」。(詩編 48:10)詩編作者の言葉を借りれば,雑誌による証言は聖書の真理を『地の境の島』にまで運んできました。

バヌアツ群島では人がまばらにしかいないので,人々のところに行くのが大変です。そのため,良いたよりを広める効果的な道具になるのが雑誌やブロシュアーや書籍です。遠い離島の小さな村で,「ものみの塔」誌や他の出版物を見つけることも珍しくありません。例えば,「目ざめよ!」誌がビスラマ語に翻訳されています。最初の号は「死のセールス」という表題で,たばこのことを論じていました。大好評でした。厚生大臣はその号を読んで,実に見事に証拠を挙げていると感じ,人に配る分をさらに何冊か求めました。また,総理大臣の妻はジャーナリストでしたが,彼女は自分の書いた記事に「目ざめよ!」誌の抜粋を載せました。当局はわたしたちの業に反対していますが,出版物は人気があり,心の正直な人々が真理を見いだすのを助ける強力な道具になっています。

ニューカレドニア支部に割り当てられている他の区域でも,雑誌が好評を博しています。例えば,ある兄弟のもとに地元の自然保護協会の会長から電話がありました。「攻囲される熱帯雨林」という表題の特集記事を載せた,1990年3月22日号の「目ざめよ!」誌を200冊欲しいというのです。学校で配ったり,同協会の活発な会員に配布したりするためです。その人は言いました。「この記事は徹底的に証拠を挙げている。問題によく通じた人が書いた記事だ。論拠や論議は実に簡単明りょうで,さし絵も役立つ。熱帯林の破壊の影響をだれでも理解できる。こうした記事のおかげで,その危険に対する認識を深め,自然をもっと大切にするようになる人は少なくないに違いない」。

パプアニューギニアでも,王国を宣べ伝える業は加速しています。書籍の配布が何年かぶりに大幅に増え,昨年度は約20%の増加が見られました。世界中どこでもそうですが,雑誌もこの国で力強い働きをしています。例えば支部は,北ソロモン諸島に住む関心のある人から手紙を受け取り,その文面をニューギニアピジン語から翻訳しました。

その女性はこう書いています。「12歳になる娘はトニバ国際小学校の6年生で,学校の勉強の予習や調査に『目ざめよ!』誌をいつも使っています。特によくできた場合は,学校の先生が金星をくださいます。うれしいことに,娘は宿題で何回も金星や良い点をもらっています。そして,さらにうれしいのは,娘が級友に雑誌を配布しているということです。13冊配布できた日もあります」。この関心のある女性は結びにこう言っています。「ですから,良い雑誌を備えてくださることに感謝を申し上げたいと思い,ペンをとった次第です」。

禁令下の国と地域

「わたしは神によって,その言葉をたたえ,神にわたしは信頼を置き,何ものも恐れません。人はわたしに何をなし得ましょう」。ダビデの言葉は,難しい事情の中で忠実に仕えているエホバの証人の気持ちを実によく表わしています。―詩編 56:4,エルサレム聖書。

アジアのある国は,法律で制限を課してから14年目を迎えています。1989年12月31日のことですが,巡回大会が行なわれていたときに,地元の当局が集会所に押し入り,プログラムを中止させました。200人の出席者のうち,47人の兄弟が軍のトラックで地元の駐屯地に連行され,12人がそこで拘留されて尋問を受けました。後で分かったことですが,これは地元の僧職者たちの企てた陰謀でした。僧職者たちは共同の抗議書を当局に送りつけ,エホバの証人の大会会場に踏み込んで大会をやめさせるよう要求しました。

検挙をそそのかした教会幹部は,エホバの証人について様々な中傷を浴びせ,悪意のこもった偽りを広めました。挙げ句の果てには,ある証人の持ち家の外壁に,「エホバよ,自らの力を証明せよ」とペンキで書いて,憎しみをあらわにしました。検挙が行なわれた翌晩,その教会幹部の家から叫び声が上がるのを近所の人たちは聞きました。その人の心臓は止まっていました。翌日の太陽を見る前に死んでしまったのです。

王国会館を兼ねる大会ホールは当局によって閉鎖され,今のところ使えない状態ですが,その出来事は広く知られ,地元の人々や当局の注意を引かずにはおきませんでした。その結果,兄弟たちは投獄されることなく,慎重に崇拝を続けることができています。1990年4月に特別大会が開かれたときには5人がバプテスマを受けました。収穫は確かに続いています。

活発な伝道者が1万1,000人以上いるアフリカのある国は,昨奉仕年度中深刻な干ばつに見舞われ,わずか3か月の間に1万人が命を落としました。人々は路上に倒れ,牛の群れは死滅しました。農民は,実際に生育したものが何でも盗まれるため作物の栽培を中止しました。エホバの証人は生き延びるため,しばらくの間,植物の根や調理したアボカドの種を食べていました。ある地方の兄弟たちは,十分な服がないために公の宣教に参加するのをちゅうちょするほどでした。

こうした窮状が劇的な変化を見せたのは,エホバが巧みに事を運び,食料や石けんや衣服を含む25㌧もの救援物資を送ってくださったときです。(詩編 37:25)政府の公式な許可のもとに,この物資は国内に持ち込まれ,エホバの証人に配られました。軍隊が護衛したおかげで,配送は無事に行なわれました。兄弟たちはこの出来事にただただ驚き入っています。大勢の人が,エホバと,エホバが民を顧みるために用いておられる組織に感謝を表わしています。

「彼らの顔のために恐れてはならない。『わたしはあなたと共にいて,あなたを救い出す』からである,とエホバはお告げになる」。(エレミヤ 1:8)真のクリスチャンは,エレミヤに対するエホバの励ましの言葉から慰めを得てきました。彼らは恐れずに前進しています。そしてエホバは,ご自分の約束を守ってこられました。

[6ページの図表]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

全世界で『神がそれを成長させてくださる』

伝道者数 6,000,000

1950 373,430

1960 916,332

1970 1,483,430

1980 2,272,278

1990 4,017,213

開拓者数 550,000

1950 14,093

1960 30,584

1970 88,871

1980 137,861

1990 536,508

会衆 70,000

1950 13,238

1960 21,008

1970 26,524

1980 43,181

1990 63,016

[38-45ページの図表]

全世界のエホバの証人の1990奉仕年度の報告

(出版物を参照)

[11ページの図版]

この細長い29階建ての建物はブルックリンのリビングストン通り67番にある。ほとんどの階にベテルの部屋が三つ作られ,合計150人のベテル奉仕者が収容できる

サンズ通り90番の建物は30階建てで,506の居室のほかに,事務所や台所,また1,050人が座れる食堂も作られる。この建物には1,000人のベテル家族が収容される予定

[12ページの図版]

ニューヨーク州パタソンにある,ものみの塔教育センターは1,200人の宿舎になる

訪問客は144の部屋があるパタソン・インに宿泊できる

教育センターのおもな中庭

[13ページの図版]

1990年9月1日に,展望台付きの見学者センターが開設された。

6棟で成るホテル,パタソン・インの工事は1991年初めに完了の予定

[14ページの図版]

ブラジルをはじめ21の支部施設で現在増築が行なわれており,ほかにも25の支部施設が計画もしくは設計段階にある。オーストラリア,ドイツ,日本の各支部には,地区設計事務所が設置された

[19ページの図版]

1990年3月30日。東ドイツに発送される最初の文書

40年に及ぶ禁令の後,自分自身の「ものみの塔」誌を手にするバウツェンの証人たち

[20ページの図版]

ベルリンのオリンピア競技場

東ドイツの証人たちは大会を美しく飾るために1万6,000本の花を植えた

かつては東ドイツで投獄された兄弟たちが大会で集い合う

[21ページの図版]

1990年7月24日から27日までベルリンで開かれた「清い言語」大会は,東ドイツの証人たちが自由に集まり合えた40年ぶりの大会。出席者の合計は4万4,532人

東ドイツの話し手たちは大会のプログラムを次々に扱った

[22ページの図版]

東ドイツの代表者は皆,「血はあなたの命をどのように救うことができますか」および「神を探求する人類の歩み」という大会の発表文書を贈り物として受け取った

[27ページの図版]

1989年11月25日,オーストラリアでは51室を備えた5階建ての宿舎と増築された3階建ての工場が献堂された

[28ページの図版]

グアテマラの支部施設は1989年11月26日に献堂された。現在28人を数える支部の家族には今や拡大に対応できるスペースがある

[29ページの図版]

ホンジュラスの新しい支部の建物は従来の建物の隣に建てられ,1989年10月21日に献堂された

[30ページの図版]

ナイジェリア支部の建物群は1990年1月20日に献堂された。4棟から成る宿舎は400人以上を収容できる

[33ページの図版]

1990年6月17日,英国の宣教訓練学校の第1期生の卒業式が英国シェフィールドで行なわれた

[34ページの図版]

米国では宣教訓練学校の第5期生が1990年1月14日に,第6期生が1990年6月10日に卒業した