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スウェーデン

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1991 年鑑の報告

中世のヨーロッパを覆っていた暗闇の中から,突然に姿を現わしたのが北方のバイキングでした。スカンディナビアのこれらゲルマン民族の勇士たちは海戦の術を心得,大型で船足の速いガレー船を考案して,その勢力を南や西また東へと広げました。ノルウェーとデンマークのバイキングがイギリスやアイルランドやヨーロッパ大陸の海岸を目指して船を進めたのに対し,スウェーデンを船出したバイキングたちはその船首を東方に向け,バルト海を横切って河川と湖に入りました。その先にはカバの生い茂る,ロシアの広大な森林と大草原があったのです。バイキングの船は8世紀末からおよそ250年にわたり,交易と富を求めて北方の水路を支配するようになりました。

19世紀の終わりに,スウェーデン人は再び外国の地に向けて船出しましたが,今回は平和な征服を遂げたいと考えていました。彼らは凶作,失業,さらには飢きんによる痛手を被っていたのです。1865年から1914年までの間に,暮らし向きをよくしたいと考えて国をあとにしたスウェーデン人は100万人に上りました。その大半は北米に移住して物質面での繁栄を見ましたが,中にはそれよりもはるかに価値のあるものを見いだした人もいました。それは生きた信仰に基づく,霊的に豊かな生活であり,スウェーデンに残された友人や親族もまもなくそのような生活を享受することになっていました。この霊的な宝箱は最終的に,どのようにしてスウェーデンの海岸にたどり着いたのでしょうか。

『200人のスウェーデン人がそれを受け入れた』

1882年ごろ,米国で平信徒の福音伝道師だったスウェーデン人のチャールズ・セアグリンは,「考えるクリスチャンのための糧」を含む,チャールズ・テイズ・ラッセルの著した出版物を何冊か読みました。そこに書かれていることが真理であると確信した彼は,伝道でそのことをスウェーデンの移民に熱心に知らせました。そして半年にわたる伝道の後,ものみの塔協会の初代会長だったラッセル兄弟に手紙を書いて,こう述べました。「私がこの真理を宣べ伝えた期間中に,およそ200人のスウェーデン人がそれを受け入れ,歓びを見いだして他の人々にも伝えています。……我が国[スウェーデン]には,聞く耳を持つ人が大勢いるようです。……スウェーデン語でも糧が得られるとすれば,それは主の祝福を得て大変すばらしい結果を見ることでしょう」。

この手紙を受け取ったラッセル兄弟は,「シオンのものみの塔」誌(1883年6月号)の中で,スウェーデン語で文書を印刷するための特別な「スウェーデン冊子基金」がすでに創設されていることを読者に思い起こさせました。しかし,同基金の蓄えがその時点でわずか30㌦であることを伝えてから,確信を込めてこう述べました。「わたしたちの主人は富んでおられます。千の丘はもとより,それら丘の上にいる家畜も所有しておられ,金や銀も皆この方のものです。もしこの業が必要であると主人がお考えになるなら,必要な備えを設けてくださるでしょう」。

そして,「わたしたちの主人」は確かに行動なさったのです。それからわずか4か月後に「シオンのものみの塔」誌はこう発表しました。「スウェーデン冊子基金は,スウェーデン語で『塔』の見本を発行してもよいほどの額に達しました。それは米国とスウェーデンにおいて,スウェーデン人とノルウェー人のクリスチャンの間で冊子として用いられることになっています」。その10年後に,「千年期黎明」という双書 ― 後に「聖書研究」と呼ばれた ― の第1巻がスウェーデン語で出版されました。

こうして,スカンディナビア諸国中最大のこの国に王国の真理の種を携えてゆくための土台が据えられました。では,その国民と彼らの特色,またその慣習や土地についてはどうですか。そこでは良い「収穫」が見込めるでしょうか。―マタイ 9:37,38

一面に広がる森林

スウェーデンの景観を成すのは,緑と青に彩られた楽園です。とはいえ,この国は北極圏をまたぎ,ヨーロッパの北端沿いに位置しているのに,どうしてそのような景色が見られるのでしょうか。雄大な山並みや実り豊かな平野部,また針葉樹林や砂浜や美しい群島に恵まれたスウェーデンは,メキシコ湾流に暖められた心地よい風を受けて快適な環境の中にあるのです。

“万人の権利”というユニークな伝統があるおかげで,人々は森林や野原で気ままなハイキングを楽しみ,イチゴのような果実やキノコを採ったり,泳ぎに出かけたり,あるいは許可を得なくてもボートを係留したりすることができます。ヨーロッパで4番目に大きな国土を持つスウェーデンは,北から南まで約1,600㌔,東のバルト海から西のノルウェーと北海までは約500㌔の距離があるため,人口約860万の住民には広々としたスペースがあります。それで,統計的に見た一人当たりの居住スペースは約5㌶で,うち約3㌶はカバ・トウヒ・松といった樹木が生える森林地で成り,一人当たりに換算した樹木の本数は平均7,500本に達します。そこに生い茂る緑の松が放つ芳しい香りをあなたも感じ取ることができますか。

混成王国

世界で最も古い王国の一つであるスウェーデンでは,久しく民主主義の伝統が受け継がれ,多党制による議会政治が行なわれています。スウェーデン国民のほぼ95%はルーテル国教会に属していますが,教会に通っているのはごくわずかの人々にすぎません。しかしここ数十年の間に到来した非常に多くの移民により,スウェーデンは様々な宗教・文化の入り交じった社会へと変化しました。国民の特色を成すのは,もはや金髪や褐色の髪に青い目をした長身のスウェーデン人だけではありません。

スウェーデンの住民は“揺り籠から墓場まで”をカバーする福祉制度を備えられ,政府が補助する様々なサービスのほかに,児童手当や無償の教育,住宅手当や疾病手当,事実上無料で利用できる医療,また老齢年金や障害年金などを享受しています。産業革命に伴う工場や機械類の導入は遅かったものの,スウェーデンは現在,世界有数の産業国の仲間入りを果たしています。また,やりがいのある事柄は十分に行なう価値があるという秘めたる確信の中には,北欧人の際立った精神の真髄が宿っているように思われます。では,このような快適とも思える生活環境のもとで,王国の種は根を下ろして生長するでしょうか。

最初の種がスウェーデンに届く

米国で真理を意欲的に受け入れたスウェーデン人の移民たちが,スウェーデンの親族や友人たちに文書を送り始めたのは今から100年前のことです。そのようにして送られた真理の種の幾らかは,スウェーデン南岸沖の小島,ストゥルケーのこぢんまりとした家の中に落ち,そこにいた一青年の心の中で見る間に芽生えたのです。

1898年のある晩,25歳の精力的な,体格のがっちりした救世軍の隊長,アウグスト・ルンドボリが,ストゥルケーにいたペテル・ラーソンとその家族を訪れました。その家の中でしばらく一人きりになった彼は,2冊の本に目が留まりました。それは,C・T・ラッセルが著した「千年期黎明」の最初の2巻でした。彼はそれらの本のページをめくるうちに,キリストの贖いの犠牲に関する説明を見いだし,とても驚くと同時に,大喜びしました。そして,それらの本を借りてむさぼるように読み,軍の集会で早速それらの本から教え始めたのです。

行動力のある人だったルンドボリは,1898年12月21日付でラッセル兄弟に手紙を送り,こう述べました。「親愛なるラッセル氏: 下に署名を付した元救世軍隊長は,神が貴氏の著作『黎明』を通して放たれた光のおかげで,上述の組織を去ることができました」。ルンドボリは自分が見いだした真理に対する感謝を表わし,結びの部分で,「もしあなたが望まれるのであれば,私はここスウェーデンにおける聖書文書頒布者<コルポーター>の業に心から喜んで参加いたします」と述べました。ラッセル兄弟はためらうことなく「千年期黎明」の最初の3巻をルンドボリに55セット郵送し,彼の“軍隊”の元同僚たちにそれらを送るよう勧めました。

その積み荷が届くと,ルンドボリは大変がっかりしました。書籍の量が十分ではなかったのです。彼は短期間のうちにそれらの書籍を元同僚や他の人々に全部配布してしまい,すぐにラッセルに手紙を書いて追加注文を行ないました。首を長くしてその到着を待ちましたが,書籍は一向に来る気配がありません。ルンドボリは書籍が不足してもひるむことなく,家から家に全時間宣べ伝え,1899年5月にストックホルムで聖書文書頒布者<コルポーター>の活動を開始しました。そして意欲的に書籍の注文を取り,後日それらを配布することにしました。王国の種をまく業はそのようにして継続されたのです。

最初の会衆が発足する

ラッセル兄弟はさらに,デンマークのS・ウィンターなる人物の住所をルンドボリに書き送りましたが,その人はデンマークのほかにスウェーデンの最南でも真理の種を広め始めていました。ルンドボリはただちに彼をストックホルムに招き,スウェーデンで紛れもなく最初の聖書集会を取り決めました。関心を持った幾人かの人たちは,ルンドボリから文書を入手した一家族の狭い台所に身を押し込むようにして集まりました。霊的に飢え渇いていたそれらの人々は真理の言葉に熱心に聴き入り,その部屋は騒然とした熱気に包まれました。

1899年の終わりまでに,この活気にあふれた小さなグループは日曜日ごとに集会を開くようになり,アペルベリ通りに面した小さな木工所を一晩につき2クローナ(33㌣)で借りました。1900年4月12日には,スウェーデンで最初の記念式を祝うためにグレブ・マグニ通りに借りたある部屋に8人が集い,増加を促す神の霊を祈り求めました。

数か月後,彼らはさらに大きな場所を求めてトロングスンド8番にアパートを借りました。その場所で1901年6月20日から同27日にかけて,彼らが“自ら組織した”最初の大会が開かれたのです。そこにはデンマークから来た何人かの聖書研究者も出席しました。それらスウェーデンの人たちはストックホルム以外の場所でも関心を持つ人がいるかどうかを確かめたいと思い,ストックホルムの北にある大学都市,ウプサラで集会を開くことにしました。そして大変驚いたことに,そこには関心を持つ人が150人も出席しました。

真理は今や新たな進展を見せ始めました。ストックホルムのクング通り20番に借りた小さな部屋は,事務所ならびに文書倉庫として活用されました。ルンドボリは徒歩,馬車,列車,船などにより,あらゆる方面で精力的に『種をまき』続けました。(マタイ 13:3-23)そして1902年には,スウェーデンの中部および南部にあるほとんどすべての都市と町で活動を行なったと報告しています。

さらに多くの種が芽生える

国内の他の地域にさらに多くの真理の種が届くにつれ,それらの種は多くの意欲的な人々の心の中で芽生え始め,彼らはその業に速やかに参加しました。1902年のある日,マルメ市でP・J・ヨハンソンという青年が公園の中を歩いていましたが,彼はあるベンチの前で足を止めました。ベンチの上に「あなたはご存じか」という題のパンフレットがあることに気づいたのです。彼はそれを読んで,そこに書かれている事柄が真理であることを悟り,時間を無駄にすることなく,すぐに聖書文書頒布者<コルポーター>として奉仕し始めました。

スウェーデン中部の西方にあるセグモンに,アクセル・グスタフ・ルドという鍛冶屋が住んでいました。彼は35年にわたり自由教会の教会員として,また人気のある説教師として過ごしてきましたが,北米に住む親族たちから郵便で「千年期黎明」の本を受け取りました。親族たちはその本についての意見を聞きたかったのです。ルドはその本に書かれている事柄が真理であることを十分に確信すると,自分の教会の礼拝堂で,「今まで私は偽りを語ってきたが,これからは真理を語ろう」と宣言しました。

彼と他の教会員およそ30人がその教会を去った時,地元の日刊紙は,「このような類まれな説教師」を失うのは遺憾である,と報じました。かつて彼の仲間だったある信者は,「ルドが我々から地獄を取り去った今,我々は何を信じればよいのか」と言って嘆きました。ほどなくして,近くの町グルムスでは聖書研究者の会衆が発足しました。

スウェーデンにおける初期の「ものみの塔」誌

1902年に業の強化を図ったルンドボリ兄弟は,是非ともスウェーデン語で雑誌を印刷してほしいという願いをラッセル兄弟に伝えました。ラッセル兄弟はこう答えました。「パンフレットの配布に加えて,聖書文書を頒布する業は,いかなる言語による雑誌の発行よりもはるかに重要であるという信念を私は依然として抱いています。ですから,あなたもそのような仕方で時間を費やされるようにお勧めします」。

ところが,意志の強固なルンドボリは自分の計画を推し進めました。その年の終わりまでに,「イ・モルゴンベークテン」(「朝の見張り時に」)という月刊誌の最初の号を印刷して配布したのです。同誌には「シオンのものみの塔」誌からの抜粋が掲載され,ラッセル師の説教や詩,また読者からの手紙が含まれていました。1903年5月にヨーロッパを旅行していたラッセル兄弟はストックホルムを訪れた際,その雑誌の名称はC・T・ラッセルを編集者とする「シオンのものみの塔」誌にすべきであると判断しました。そのことは1904年1月に実行されました。

最初の“本格的な”大会

ラッセル兄弟のストックホルム訪問中,1903年5月3日と4日に最初の“本格的な”大会が開かれました。同兄弟は心を奮い立たせる幾つかの話を行ない,スウェーデン国教会の元牧師がその通訳を務めました。出席者は約250人でしたが,そのうちの半数は“部外者”,つまり新しく関心を持った人々でした。

兄弟姉妹たちはラッセル兄弟にとても深い愛着を覚えました。ラッセル兄弟の著作を通してその信仰や考えに共鳴していた彼らは,同兄弟を目の当たりにし,その音信を聞いて胸を躍らせました。ある兄弟はこう書いています。「ラッセル兄弟のカールした褐色の髪の毛にはすでに年齢に応じた銀髪が混じっていましたが,その堂々とした風貌や若々しい外見,また幸福そうな表情を見て私たちは驚きました。兄弟の温和な,それでいて真剣なまなざしからは,親切と愛が輝きを放っていました。その話は生き生きとした興味深いものでしたが,決して大げさなところがありませんでした。兄弟はまさしく最初の瞬間から私たちの共感を得たのです」。

スウェーデンで最初の女性聖書文書頒布者<コルポーター>となったマティルダ・リンドロスは,喜びにあふれて,支部にこう書き送りました。「今では当時のことが美しい夢のように感じられます。願わくは,それらを記憶するだけでなく,学んだ事柄を進んで実践する面でも神が私を助けてくださいますように。……またそのような立場に最後までとどまるよう,意欲的で従順な僕たちを主が助けてくださいますように」。彼女は1945年に91歳で亡くなるまでエホバに仕えて忠実を全うしました。

ラッセル兄弟は後日,その旅行から得られた満足感を要約して,こう書きました。「スカンディナビアへの訪問は決して忘れないでしょう。また,主がその地におけるご自分の業を祝福なさるよう祈り求めてやみません」。

全時間奉仕 ― 業の主軸を成すもの

真理を最初に学んだ人たちの中には,ラッセル兄弟の信仰と前向きな精神に励まされて,全時間の伝道活動に熱心に従事するようになった人もいます。それ以来スウェーデンでは,全時間宣教が王国の業の主軸を成してきました。

それら初期の聖書文書頒布者<コルポーター>はためらうことなく業に着手しましたが,何か特別な訓練を受けたわけではなく,大抵は恒久的な住居を持たず,パートの仕事だけで生計を立て,自分の足だけが唯一の交通手段となりました。彼らは自分たちの業の見通しや緊急性を認識し,家から家に歩くというよりは走っているという感じで,広い地域を素早く網羅しました。ルンドボリはラッセル兄弟にこう報告しました。

「私はいつも,あなたの手紙にあるとおり,アメリカで適用されているのと同じ方法に従って,できるだけ実際的であるように努めています。つまり,あらゆる場所にある家をくまなく訪問するのです。私は家から家に,またブロックごとに(朝早くから夜遅くまで)訪問を行ない,それから次の町に出かける準備を整えます。もっとも,私が今訪れている所(約1,100人の住民がいるマリエフレッド)よりも広くない場所では,さほど多くの時間を要しません」。

歩くにしては距離が遠すぎる場合,聖書文書頒布者<コルポーター>は他の交通手段 ― 大抵は運賃が安くて速度の遅いもの ― を利用しました。もっとも,時間は賢明に用いられました。同じ報告はさらにこう述べています。「私の旅行は安上がりです。少々手荒な扱いをたまに受けることがあっても,私にはそれに持ちこたえるだけの体力があります。どこでもできるだけ水路の旅をし,時には貨物船に乗ることもあります。時々,蒸気客船(そこで昼夜を問わず空いている場所は,何も物を置いていない甲板だけ)で一番安い宿を取ります。そのような船上で過ごす時間も注意深く活用し,人々と話をしたり,聖書研究を行なったりします」。

旅行する監督の訪問が始まる

新しい会衆をよりよく組織する上での励ましと援助を与えるために,旅行する監督による定期的な訪問が必要とされました。それで1905年に,巡礼者の兄弟と呼ばれる円熟した男子による訪問が取り決められました。最初の巡礼者の兄弟となったのは,米国で真理を学び,1904年に汽船で到着したチャールズ・エドバーグで,彼はこの国における初期の王国の業の組織に大きく貢献しました。

「ものみの塔」誌の中で,諸会衆は協会に手紙を書いて訪問を要請するようにとの発表がなされました。会衆は訪問する兄弟によって開かれる集会を取り決め,その兄弟の宿舎を備えることになりましたが,その他の特別な準備は一切行なわないように提案されました。「ものみの塔」誌の言葉を借りれば,「その兄弟は仕えてもらうためではなく,仕えるために来る」からです。

エドバーグ兄弟は1回につき,少なくとも二日にわたる訪問を行ないました。その話を聞いて鼓舞されたある人は,訪問後,「私は過去20年間に学んだよりも多くのことをこれらの話から学びました」と言いました。また別の人は,「私たちが聞いたことも見たこともない事柄が聖書の中にこれほど沢山あるというのは驚くべきことです」と述べました。エドバーグ兄弟は,諸会衆へのそのような訪問が85年余り後の現在でも巡回および地域の監督によって行なわれていようとは,想像もしなかったことでしょう。

移転を繰り返す支部

スウェーデンの小さな支部事務所 ― そのおもな備品は文書のカートンとルンドボリ兄弟のベッド ― はごく初期の時代に,ストックホルムの中心に当たる場所から別の所に移動しました。クング通り20番の窮屈な奥まった部屋からアドルフ・フレドリクス・シルコガタ7番にあるアパートの一角に移ったのは,1905年のことです。借りたのは三部屋で,一つは集会所に,一つは事務所として,もう一つはカートンとルンドボリのベッドを置くために用いられました。しかしその年が終わる前に,アパートの持ち主がそれらの部屋の返却を望んだため,支部はロードマン通り39番Bに移されました。

東海岸のストックホルムと西海岸のエーテボリの2大都市で業が特に拡大すると,ルンドボリは両都市の中間に当たる地点から業を指導するのが得策であることに気づきました。それで1907年に支部はストックホルムの西約200㌔にあるエーレブルーに移され,そこにほぼ20年間とどまりました。

ラッセルはスウェーデンに関心を抱く

ラッセル兄弟がルンドボリ兄弟にあてた多くの手紙には,スウェーデンでの王国の業に対する深い関心がはっきりと表われていました。常に温かさと励ましを伴うそれらの手紙には,明快で確固とした数々の指示が含まれていました。ある手紙には,「たとえ私が厳しいことを言う必要があると考える時でも,どうか私の愛と思いやりを受け止め,絶えず確信してください」と記されていました。

1909年にラッセルが2度目のスウェーデン訪問を行なった際,エーレブルーで開かれた大会におよそ300人の人が集まりました。それからわずか2年後にも再来して,ストックホルム最大のホールで「大きな白い座の裁き」というテーマの話をしました。そのころまでにラッセルは,スウェーデンでその名を広く知られていました。ホールは満員になり,約1,500人が入場さえ果たせずにがっかりしていました。市内は興奮とうわさに包まれました。ラッセルとその一行がコペンハーゲン行きの列車に乗ったとき,その風格ある姿に見とれた発車係は,目を見開いて口を大きく開けたままそこに立ち尽くし,定刻の発車合図をするのを忘れてしまいました。「あの気品のある紳士はだれなのですか」と,人々は尋ねました。

ラッセル兄弟が世界一周旅行の一環としてスウェーデンを最後に訪れたのは1912年のことです。兄弟はユルゴルデンのシルクスで,「墓のかなた」と題する公開講演を行ないました。ある姉妹は,自分の郷里であるカールスタードをラッセル兄弟が訪れたときの人々の興奮した様子を思い起こして,「集会のために借りた会館には,床が抜け落ちてしまうのではないかと思えるほど大勢の人が詰めかけました」と述べています。

ラッセル兄弟は本部から兄弟たちを遣わしてスウェーデンに引き続き関心を示しました。派遣された兄弟たちの中には,後にものみの塔協会の会長となったJ・F・ラザフォードもいました。1913年にラザフォード兄弟は,わずか3週間でスウェーデンとノルウェーの比較的大きな15の都市を訪問しました。その熱意や聖書の知識,またその力強い話は兄弟たちを大いに奮起させました。ラザフォード兄弟は,「死者はどこにいるか」という公開講演を行ないました。ある兄弟はエーテボリで開かれた集会に関する思い出をこう語っています。「その話の中でラザフォード兄弟は,『聴衆の中に,人間が不滅の魂を持っていることを証明できる人がいれば1,000㌦を差し上げましょう』と言いました。その挑戦を受けて立った人は一人もいませんでした」。

1916年10月31日にラッセル兄弟が亡くなったという知らせがスウェーデンに届いたとき,兄弟がいかによく知られていたかということが如実に示されました。幾つもの日刊紙が親愛の情をこめてその悲報を知らせ,同兄弟に対する敬意を表しました。中には兄弟の説教を掲載した新聞もありました。ラッセル兄弟がスウェーデンに関心を示したことが,王国の業を前進させる上での励ましとなったことに疑問の余地はありません。

第一次世界大戦は意外なことではない

スウェーデンの聖書研究者にとって,第一次世界大戦の勃発は意外なことではありませんでした。彼らは何年も前から,聖書の年代計算が「世界的な混乱」の予想される時として1914年を指し示しているということを,ものみの塔の文書で読んでいたのです。1914年が始まると,期待が高じる余り,食料品をため込むようになった人さえいました。それで,戦争の知らせが届くと,彼らは自分たちの救いが近いことを歓びました。

当時11歳だったアーサー・グスタブソン兄弟はこう述べています。「1914年8月2日の日曜日のことを今でもはっきり覚えています。私の父がエーテボリで集会の司会をしていた時,『世界的紛争勃発!』と外で新聞売りの少年の叫ぶ声が聞こえてきて,会場の中にいた兄弟たちは互いに顔を見合わせました。1914年について私たちがふれ告げてきた事柄が一部実現し始めていたのです」。その後グスタブソン兄弟は56年にわたる全時間宣教の業を行ない,1987年に地上での歩みを終えるまで宣べ伝え続けました。

スウェーデンは第一次世界大戦には参加しませんでしたが,食料その他の必需品は乏しくなりました。多数の労働者は無法な行動に走り,行進を組織して田舎に繰り出し,農場などで略奪をはたらきました。しかし,ブルックリン本部との連絡がかなり制限されていた中で,エホバ神は戦時中,スウェーデンのご自分の民を霊的な面で常に豊かに養われました。「ものみの塔」誌は途絶えることなく発行され,「聖書研究」の第7巻もスウェーデンに届き,戦時中にその翻訳と印刷がなされました。

新たな道具となった「創造の写真劇」

第一次世界大戦が燃え盛る中,「創造の写真劇」の上映装置もスウェーデンに届きました。これは音声と同時にスライドと映画が進行する,数時間に及ぶ作品でした。その装置の使用法を説明するため,米国からスウェーデン系アメリカ人の夫妻,ウィリアム・ウンデインとベラ・ウンデインがやって来ました。兄弟たちが「創造の写真劇」に対して熱心さと熱意を示したことは,スウェーデン語版の「ものみの塔」誌,1914年10月15日号の中で,次のようにはっきりと表われています。

「わたしたちは今や,国内の大都市や比較的大きな地域社会すべてにできる限り早く到達しなければなりません。……わたしたちが見ているとおり,頭上には憤怒の空が広がっており,人類は,現在の物事の秩序をすでに揺り動かしている嵐のために恐怖におののいています」。

最初の上映は1914年9月25日にエーレブルー劇場で行なわれました。場内は人で一杯になってあふれ,外の通りは入場できなかった人たちでごった返しました。上映はその後幾晩も続きました。「ものみの塔」誌は,「入場者の数は増えるばかりなので,毎回,制服姿の警官たちの全面的な協力を得て,人波を懸命に抑えました」と伝えています。

スンツバル発行の新聞は1915年にこう伝えています。「優秀な警備のおかげで,無法な状態は起こらず,ドアが容赦なく閉じられても,ただ静かにあきらめる人が見られるのみであった。入場できなかった幾千人もの人々はその場をなかなか立ち去ろうとせず,至って忠実な人たちは,上映が行なわれている限りそこにとどまった。せめて,そのくすしいもの,驚嘆すべき作品のそばにいたかったのである」。

その後3年以上にわたり,「創造の写真劇」は多くの場所で上映されました。1915年だけで,その上映回数は1,256回に達したのです。それは人々がエホバの目的を知り,聖書に活気を与えるのに大きく貢献しました。先ほど引用した新聞はさらに,ラッセルとその仲間の信者たちが「様々な聖句を説明することによって,聖書を普及させ,神についての聡明な考えを伝えるために働いていることは周知の事実である」と述べました。

若い女性のエリン・アンダーソンは,「創造の写真劇」の上映を手伝いました。90歳になる彼女は当時を回顧して,目に涙を浮かべながらこう述べます。「私は『写真劇』のセットを持って国内を旅行した12人の兄弟姉妹から成るグループの一員でした。私の仕事は座席の割り当てと聴衆の案内でした。やって来るそれらすべての人々を目にし,彼らが大変感動しているのを見るのはすばらしいことでした。『写真劇』を何度も見に訪れ,席が手に入るまで何時間も列に並んで待つ人も少なくありませんでした。それは実に忘れ難い,幸福なひと時でした」。

戦時中,真理はラッセル兄弟の説教を転載した新聞によっても広まりました。それは戦前から始まって1916年まで続きました。全部で五つの新聞が,そのために数欄もしくは全紙面を充てたのです。中には土曜日の号にその説教を定期的に掲載した新聞さえありました。当時はまだラジオやテレビが身近にはなかったので,それは非常によい宣伝となりました。

大活躍する姉妹たち

興奮を覚える1914年が近づいたころ,何人かの王国宣明者たちは生活を急速に変化させるよう励まされました。若い女性は結婚して子供を育てるべきだと考えられていた時代に,何人もの若い姉妹たちがためらうことなく全時間奉仕を始め,死に至るまでその奉仕を続けました。彼女たちの奉仕は豊かに祝福されてきました。現在スウェーデンで同様な熱意を示している証人たちは,彼女たちのことを霊的な母親や祖母,あるいは曾祖母とさえ呼ぶことができるからです。―ヨエル 2:28

若い看護婦エバ・パルムは,霊的に病んでいる人たちを是非とも援助したいと考えて,看護婦の制服を着たまま伝道を行ないました。彼女の制服は看護婦として高く評価されている階級,ソフィア・シスターズを表わすものだったので,多くの上流家庭の戸が開かれました。聖書文書頒布者<コルポーター>となった彼女は,最初の3か月間で1,085冊の装丁本と非常に多くの小冊子を配布しました。

エバの姉であるエレンは銀行員の仕事をやめて,聖書文書頒布者<コルポーター>として奉仕し始めましたが,その熱心さは際立っていました。結婚後,彼女は夫と共に汽船に乗って,バルト海のフィヨルドや入り江に沿って人々を訪問しました。

アンナ・ウィックボムは警視総監の娘でした。彼女はロシア皇帝の宮廷で教師として仕え,後にある伯爵家族の家庭教師になりましたが,自宅のそばの区域で聖書文書頒布者<コルポーター>として働きたいと考えて,収入のよい仕事を辞めました。彼女の素性を知っていた近所の人たちは彼女を恭しく迎えました。アンナは様々な言語に通じていたおかげで,多くの家の戸が開かれました。

ある時,彼女は立派な屋敷を訪問しました。そこに住んでいた伯爵夫人はアンナを脅かそうと考えて,玄関に執事を遣わしました。その執事はどなり声で,「伯爵夫人は今日はフランス語でしか会話をなさらないのだ」と言いました。「それは願ってもないことです」と,アンナは言葉を返しました。アンナの大変上手なフランス語を聞いたその伯爵夫人は,自分が下手なフランス語を話していたので,とても恥ずかしくなり,「スウェーデン語にしていただけますか」と頼みました。言うまでもなく,伯爵夫人は深い感銘を受け,その後何年もの間,証人たちが訪問するたびに文書を求めました。

別の若い女性,マヤ・ルンドキストは,「写真劇」の案内係として3年間自発的に働きました。その特権を心ゆくまで楽しんだ彼女は大きな励ましを得,亡くなるまでの53年間,全時間宣教を熱心に続けました。彼女は外国の船の上で証言するのが得意でした。長年,ドックやデッキの上には朗らかで元気のよい,この小柄な婦人の姿がしばしば見られました。そのようにして,神の王国について船長や乗組員に話し,様々な言語の文書を大量に配布したのです。「私にとって港は最高の区域なの」というのが,彼女の口癖でした。

それら開拓者の姉妹たちは並々ならぬ根気と信仰と粘り強さを示しました。今は亡き支部委員会の調整者,ヨハン・H・エネロスは,かつてこう報告しました。「か弱く力のない婦人たちが本の入った重いかばんを持ち,時には道のない森の中を何キロも歩いて幾らか孤立した小さな村を見つけ,非常に難しい環境下で生活している人々に希望の音信と慰めと活気をもたらしている様子について知ると,本当に胸を打たれる思いがします」。

1918年に戸は閉まるのか

1918年が始まると,兄弟たちは期待に胸を膨らませました。様々な預言は,その年に「第一の復活」が始まり,キリストの花嫁級が天に連れ去られることを示唆していました。(啓示 20:5,6)これには,当時地上で生きていた最後の人たちを含め,油そそがれた者すべてが関係するのでしょうか。マタイ 25章10節で語られた,「婚宴」の戸はまもなく閉じられるのでしょうか。兄弟たちの間ではそのような質問が飛び交い,幾つかの大変込み入った議論へと発展しました。その年の3月26日に開かれた記念式では,1,714人が表象物にあずかりました。中には,今回の集まりがこの行事を祝う最後の機会になったと考える人も少なくありませんでした。しかも,業の速度までが鈍っている様子でした。熱心な巡礼者の兄弟,エルンスト・リグネルは支部にあててこう書きました。

「こちらでこの種の祝いを行なうのは今回が最後となり,次回は王国で歓びの杯から飲んで祝うことができるよう,わたしたちは希望しています。しかし,すべてのことにおいてわたしたちの主のご意志がなされますように! もし主がわたしたちをこの地の『死の影の谷』にもうしばらくとどめることを喜ばれるのであれば,わたしたちはその決定に服したいと思います。とはいえ,状況を見る限り,時は非常に短いように思えます」。

しかし花婿は,地上の油そそがれた者たちの最後の人々のために別の壮大な事柄を念頭に置いておられました。1919年にオハイオ州シーダーポイントで開かれた大規模な大会で,彼らは主の大使として神の輝かしい王国の到来を告げ知らせるという特権について思い起こさせられたのです。同大会の反響がスウェーデンに届くと,兄弟たちは歓び,その任務に合わせて速やかに行動しました。業は再び速度を増し加えたのです。

配布された文書は相当量に上りました。「現存する万民は決して死することなし」,および「死者はどこにいるか」という小冊子は熱烈に歓迎されました。時折こうした文書が至急必要になると,聖書文書頒布者<コルポーター>たちは支部に対して,「万民500」を送れとか,「死者200」を送れといった電報を打ちました。多くの交換手はそのようなメッセージに面食らいました。

1920年代の重大な試練

さて,こうした精力的な活動が大敵対者である悪魔サタンの注目を逃れることはありませんでした。悪魔は落胆につながる考えを広めることにより,業に対する兄弟たちの熱意をくじこうとしました。次いで,人格上の弱点を巧みに利用することを試みました。この策略は1920年ごろから始まり,1925年に最高潮に達しました。協会の支部の責任を約20年間担ってきたアウグスト・ルンドボリが,神の組織との関係における自分自身の立場を見失い始めたのです。彼は組織からの諭しや指示を無視し,「ものみの塔」誌を独自の解釈にしたがって編集しました。兄弟たちは混乱に陥り,業の速度は鈍りました。過ちを犯した人にその間違った歩みについて気づかせ,悔い改めを促すため,多くの時間と努力が愛のうちに払われました。

神の組織はサタンの策略に対抗するため,機知に富む方策を講じるようにしました。ラザフォード兄弟はそれらの問題について知ると,1921年5月にA・H・マクミラン兄弟を派遣して迅速な行動を取り,問題の解決を図りました。それでもサタンは引き下がりませんでした。問題は再度持ち上がり,1922年にはラザフォード兄弟自身がスウェーデンに赴くことになりました。兄弟たちの励ましとなるよう,エーレブルーでは大会が開かれました。

その翌年,さらに深刻な問題が起きたことを知ったラザフォード兄弟は,1923年5月23日付で兄弟たち全員に対する手紙を送り,奉仕を活発に行ない続けるよう励まして,こう述べました。「スウェーデン全土で一致した行動を取る時が訪れました。この紙面を通じて,スウェーデンの聖別された人すべてに対し,真理を宣明する業に一緒に加わり,完全な調和を保って協力するよう心からお勧めします」。

1924年には,協会の当時の副会長,C・A・ワイズ兄弟が援助を行なうためにスウェーデンに遣わされました。同兄弟からの報告を受けたラザフォード兄弟は,1925年春のヨーロッパ旅行にスウェーデンを含めることにしました。エーレブルーでは5月に,スウェーデン,ノルウェー,デンマーク,フィンランドを対象にした大会が開かれ,約500人の出席者が見られました。

変化の時

次いでラザフォード兄弟は,数年前にスイスで設立された中欧事務所に似た新しい事務所として,北欧事務所がデンマークのコペンハーゲンに開設されるという喜ばしい発表を行ないました。この新しい事務所は,当時独立していたバルト諸国 ― エストニア,ラトビア,リトアニア ― を含め,スウェーデン,デンマーク,ノルウェー,フィンランドにおける業を監督することになりました。さらに,「ものみの塔」誌の法律上の編集権も引き継ぐ予定でした。スウェーデン,デンマーク,ノルウェー,フィンランドの各支部は従来どおり機能しますが,その直接的な監督に当たるのは北欧事務所で,ロンドンから来たウィリアム・デイが責任者となりました。その場に集った500人のうち大多数の人々はその発表を熱烈に歓迎しました。

大会後しばらくして,ルンドボリ兄弟がもはや支部の責任を担いたいとは思っていないことをラザフォード兄弟に知らせました。そこでラザフォード兄弟はこう書きました。「もしルンドボリ兄弟が退くのであれば,それは彼自身が選んだことであり,その場合,私はデイ兄弟に依頼して,同事務所の責任をヨハン・ヘンリク・エネロスにゆだねます。ご存じのとおり,彼はスウェーデンに生まれ育ち,その地の人々や様々な状況に通じており,何よりも,主に全く献身しています」。

新たな時代を迎えた支部の運営

エネロス兄弟は第一次世界大戦中,王立スウェーデン陸軍で中尉を務めていた時に真理を学びました。スウェーデン北部で任務に就いていたころ,彼の母親が「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれる,「聖書研究」の第4巻を彼に送りました。エネロスは,「その本を読んで,世の諸国家が参加している戦争よりもはるかに重要な戦いに人類が直面していることを悟りました」と述べています。ある日彼は勇気を出して,ある聖書研究者の家を訪問しました。「その男性と彼の妻が見せた表情を想像なさってください。制服姿の陸軍士官が自分たちの家の玄関に立って,聖書研究を申し込んだのです」とエネロスは言いました。そして,「最初はあっけにとられていた二人も落ち着きを取り戻すと,私を心から歓迎してくれました」と付け加えています。

エネロスは陸軍をやめると,すぐに全時間奉仕に入りました。そして,1920年にエーレブルーの支部で奉仕するよう招かれました。その後同じ年に,ルンドボリによって解任され,1925年にエーレブルーの支部の責任をゆだねられるまでデンマークで奉仕しました。ですから,エホバは,救世軍の元隊長が長年支部を顧みた後に,今度は王立スウェーデン陸軍の中尉にその任務をゆだねられたのです。

エネロス兄弟がスウェーデン支部の監督になったのは,わずか32歳の時でした。そして,自分の割り当てに50年間忠節に付き従い,1982年2月7日に忠実を全うしてその地上での歩みを終えました。

兄弟たちを再び一致させる

エネロス兄弟は自分の任務を引き受けた後,デイ兄弟の助けを得て,兄弟たちが再び一致して宣べ伝える業を行なうよう援助し始めました。二人はおよそ1年をかけて国内にある約70の会衆を一緒に訪問しました。エネロス兄弟はデイ兄弟のために通訳を務めました。「私たちは多くの場所で,兄弟たちを文字どおり二つの列に並ばせる必要がありました。一方は協会に賛成する側で,他方は協会に反対する側でした」とエネロス兄弟は言っています。

このようにして,兄弟姉妹たちはエホバの組織を信頼して業を推し進めるよう力強い励ましを受けました。そして徐々に再組織され,エホバの祝福を再び十分に味わったのです。反対者たちは一時のあいだ何かと騒ぎを起こし,自分たちの方法で物事を取り決めようとしましたが,他の似通った状況と同様,彼らはすぐに衰えて,跡形もなく消え去りました。業を阻止しようとするサタンのたくらみは,またもや惨めな失敗に終わったのです。

典型的なスコットランド人で,かつてロンドンで税務調査官を務めたデイ兄弟は,スウェーデンの事務所で物事をどのように処理したらよいか心得ていました。1926年3月以降,業を行なう上での助けとして,奉仕の指示と準備された証言を掲載した「会報」(現在の名称は「わたしたちの王国宣教」)が毎月すべての伝道者に送られました。さらに国土も,もっと実際的な大きさの区域に分割されました。こうした様々な助けに励まされた兄弟たちは,新たな努力を払うようになりました。1927年に発行された最初の「年鑑」は,スウェーデンからの報告の中で,有望な見込みを示す次のような言葉を載せました。

「組織と歩調を合わせて行なうべき事はまだ沢山ありますが,友たちがその考えをますます把握している様子を目にするのは大きな喜びです。すなわち,わたしたちは現在,王の王また主の主のもとで戦っているということです。また忠実な人たちは皆,『ものみの塔』誌の価値を高く評価しています。同誌は新たな号が発行されるたびに,さらに多くの光やさわやかさ,また励ましをもたらし続けています。ますます多くのクラスが『ものみの塔』誌を用いて研究を始め,そこから得られる大きな祝福について報告しています」。

葬式で証言する

1926年以来,スウェーデンのエホバの証人は新たな証言方法を活用できるようになりました。ある法案が可決したことにより,国教会の牧師の助けを借りずに葬儀を行なえるようになったのです。そのおかげで,多数の遺族は聖書の話から慰めを得ることができました。本来なら耳を貸さなかったと思われる非常に大勢の人が,葬式の際に行なわれた証言に耳を傾けたのです。

王国の業に67年間活発にあずかった故マーティン・ウェンデルキストは,たびたび葬式の話を行なうよう依頼されました。このように言ったことがあります。「私は,葬式の話をして遺族を慰めるということを,スウェーデンとフィンランドの各地で600回以上行ないました。葬式以外で,聴衆がこれほどよく注意を払い,好意的な反応を示す場面はめったにありません。その後研究が始まり,人々が真理に導かれたという例も数多くあります」。

心機一転

1926年9月に支部事務所が再びストックホルムに移ったことは,神権的な意味における心機一転となりました。兄弟たちは市内のちょうど真ん中にあるドロットニング通り83番にふさわしい地所を見つけました。しかも隣には「エグネルルスカ・ボクトリクケリエット」という印刷所があって大変重宝しました。都合のよいことに,その場所で協会の雑誌を28年間も印刷できたのです。

どうやって事務所を移動したのでしょうか。奥地の都市エーレブルーから200㌔離れた海岸沿いのストックホルムまで,荷物を満載した2隻の運河汽船で支部の設備を全部運んだのです。ベテル家族は3隻目の汽船に載ってその後に続き,一昼夜に及ぶ旅をしました。

その3年後に,市内の中心地にあるルントマカレ通り94番で4階建ての石造りの建物が利用できるようになりました。ラザフォード兄弟は協会がその建物を購入することを望みました。また多くの兄弟たちも,その建物の担保を払うためのお金を喜んで貸しました。長年移動を繰り返してきた支部事務所はようやくここに落ち着き,その後王国の関心事を顧みるために25年間使用されることになりました。

大評判になった最初の自動車

1927年に支部はラザフォード兄弟の許可を得て,同支部で最初の自動車となる,真新しいA型フォードを購入することになりました。といっても,それは支部の成員が市街で使うリムジンになるわけではありません。その車を使うのは二人の開拓者の兄弟で,ほとんど通行不能に近い道を通って遠方の村々まで,つまりラップランドの極北にある森の奥地まで出かけるのです。二人は1930年4月から9月にかけて約1万1,000㌔を走破し,2,000冊余りの書籍と4,000冊の小冊子を配布したと報告しています。

それらの孤立した場所で,フォード車は人々の注目を集めました。そこでは自動車をめったに,あるいは全く見かけることがなかったのです。地元の人々の中には,兄弟たちに近づいて文書を求める人も少なくありませんでした。理由は単純です。その不思議な機械をもっと近くで眺め,自分たちにとって香水のように感じられる,その排気ガスの臭いを嗅ぎたかったのです。村人たちは,その自動車をぬかるみの中から出すのを手伝うよう頼まれると喜んで手を貸したり,あるいは自分たちの馬を使って溝の中から車を引っ張り上げたりしました。

ある日,それら二人の兄弟が道路作業員のグループに何冊かの本を提供しました。彼らはお金を持ち合わせていなかったので,その中の一人がこう言いました。『この道に沿って行くと,やがて1軒の家が見えてきます。それが私たちの宿舎です。そこの家政婦にこれらの本を渡し,私の枕の下から財布を持って来て代金を支払うように伝えてください』。兄弟たちはそこに着くと,玄関の戸をノックしましたが,だれも出て来ませんでした。戸には鍵がかかっていました。ところが,家の外を調べてみると,壁の上の小さな窓が開いていました。二人の脳裏に浮かんだのは,『彼らは窓から盗人のように入り込む』という,ヨエル 2章9節の預言の言葉でした。そこで一人が壁をよじ登り,窓から中に入って財布を見つけ,正当な金額だけもらいました。それから財布を枕の下に戻し,ベッドの上に本を置いて,入って来たのと同じ手順で用心深く外に抜け出したのです。二人はあの道路作業員が真理に入ったかどうか知ることはできませんでしたが,彼がそれらの本を手にしたことだけは確かです。

自転車の時代

1930年代に入って自転車が普及すると,働き者の聖書文書頒布者<コルポーター>たちは,雨が降っても晴れても自転車に乗り,石だらけのぬかるんだ道路や小道を進んで,それら広大な区域にある遠方の農場や村に出かけました。強い信仰と豊かなユーモアのセンスに加えて,自転車も持っていたルーサ・グスタブソン姉妹は,1930年代に義理の姉妹のミリヤム・グスタブソンと一緒に行なった聖書文書頒布者<コルポーター>の業についてこう話しています。

「私たちは教区から教区へ移動し,靴,衣類,ふきん,歯ブラシ,ポット,なべ,それに一番大事なものである書籍と小冊子のカートンなど,運べる荷物はみな自転車の上に結わえました。まさに見物でした。宿を探すのは必ずしも容易ではありませんでした。エホバに助けを切に祈り求めることもしばしばでした。こういう日がありました。ミリヤムと私は,一日中別々に奉仕を行なった後,晩の遅くに落ち合いました。一緒に自転車に乗って雨の中を進み,遠くにぼんやりと見える明かりを目指しました。そこは農家だったのです。体はすっかり冷え込み,長くて心身の疲れる一日となりました。にわかに家の形が見え始めると,私たちはひどく落胆しました。『あそこは反対者のうちだわ!』そう叫んだ私たちは顔を見合わせました。ミリヤムはためらいがちに恐る恐るそこの玄関に近づき,宿を願い求めました。その家族が中に招き入れてくれたときは,驚きを感じながらも,ほっと一安心しました。その家で一番よい部屋に通されて,おいしい食事にあずかったのです。おなかが一杯になって満足した私たちは,食卓を離れた後,その晩泊まる予定の寝室に案内されました。ベッドは,私たちにはおよそ手の届かない最高級のリネンを使って支度が整えられていました。

「その夜は心地よい夢と共に過ぎ去り,瞬く間に朝がやって来ました。もっとも,私たちは朝食が済んでから丁寧に経費の支払いを申し出ましたが,家の人はお金を受け取ろうとしませんでした。どうすれば,この感謝を表わせるでしょうか。私たちの気持ちを伝えるには,『神の救い』という題の本を贈るのが最もふさわしいように思えました。それで,『感謝のしるしにこの本を受け取ってもらえますか』と言いました。『ええ,もちろん。その本は是非いただきます』と,すぐに答えが返ってきました。『知人の女性から聞いた話によると,あなた方は彼女の家に宿泊された時にその本を彼女にプレゼントされたそうですが,とても気に入ったと言っていました』。言うまでもなく,私たちはこのことから一つの教訓を学びました。つまり,聖書文書を1冊配布することからどんな成果が得られるかはだれにも分からないということです」。

背丈は小さくても霊的には巨人のアクセル・リチャードソン兄弟は,こう述べています。「1936年のこと,私は細身で小柄な妻のアスタと共に,エームトランド県の西部にある広大な山岳地域で奉仕するよう割り当てられました。当時私たちが所有していた持ち物と言えば,2台の自転車とテント,マットレス・ケース,それに1個のスーツケースだけでした。それでも,孤立したラップ人の宿営地や山あいの農場を一つ残らず訪問して自分たちの区域を網羅する決意を固めました。ブーツを履いて山道を歩くことが多く,足がむくんで痛みを伴いました。日用品と文書は背負ったり腕に抱えたりして運びました。起伏が激しく,条件の厳しい山地を1日に何十キロも進む必要があったのです。アクセルは妻が同行しなかった時のある経験を思い起こして,こう言いました。「ある親切な見知らぬ男性がモーターボートで私を湖の向こうまで運んでくれました。岸辺に降ろされた私は,その人が対岸に戻って行くのを眺めました。辺りを見渡しましたが,そこにいたのは私一人で,あとは自転車と重い書籍かばんがあるだけでした。全く人けのない所だったのです。私は見捨てられた気がしてなりませんでした。その区域には全部で3軒の家しかありません。それらの家を訪問してから,私は何としても移動せねばと思いました。それにしても,どうやって移動するのでしょうか。片側は湖で,その反対には険しい山が立ちはだかっていました。選択の余地はありません。一方の肩に自転車を担ぎ,もう一方には書籍かばんを掛けて,その山を登り始めました。骨の折れる坂道を何時間もあえぐようにして上り詰めると,私は安堵のため息をついて,反対側を下り始めました。その山のふもとに住んでいたある男性が,『一体どこからやって来たのか』と尋ねました。私が今しがた下りて来た高い山を指差すと,その人はびっくりした様子で私をまじまじと見つめて,『あの方角から,しかも自転車に乗って来たのはあんたが初めてだよ』と言いました。私は良いたよりのためにそのような努力を払えたことを幸せに思いました」。

あらゆる手段を活用する

1930年代の半ばには,約60人の開拓者が蜂のように忙しく活動し,国内の津々浦々に良いたよりを広めるため,スキー,かんじき,自転車,荷馬車,バス,列車,ボートなど,可能な交通手段はすべて活用しました。

二人の兄弟が1935年の3か月間にストックホルム南部の東海岸に沿った284の島々をモーターボートで訪問し,それら孤島の住民に伝道を行ないました。二人の報告によれば,合計1,053人の人に会って428冊の書籍と1,145冊の小冊子を配布し,68件の予約のほかに496冊の「黄金時代」誌を配布しました。中には,その年以前には王国の良いたよりを知らせる訪問がなかったという小島も幾つかありました。

良いたよりを広めるために,様々な創意工夫がなされました。イォーでは1930年代の初めに,10名ほどの伝道者から成る小さな会衆が時々小型トラックを借りて,その荷台に幌を張りました。それは野外奉仕に打って付けの車となりました。後日その車の持ち主が真理に入り,彼らの工夫は報われました。この男性はその後トラックを小型バスに改造し,そのバスは六つの町と132の自治区で真理を広めるために引き続き数年間使用されることになりました。

1939年には,二人の開拓者,デービッド・ベールイェソンとエイリス・フルテインが2㌧半の中古トラックを購入しました。「私たちはそのトラックをせっせと改造し,開拓奉仕で使用するトレーラーハウスに仕上げました」と,今や年配になったエイリスは言います。彼はステッキに寄りかかり,愉快そうに目を輝かせながら話を続けます。

「壁は薄い繊維板でできていましたが,灰色のペンキを塗ったので,その外見はまるで装甲車でした。私たち4人の勇ましい独身の兄弟たちは,その装甲車風のトレーラーハウスの中で仲よく生活しました。その車をスウェーデン中部の任命地で利用できたのはうれしいことでした。

「当時,ヨーロッパでは第二次世界大戦が猛威を振るっていました。無理もないことですが,何人かの人々は,自分たちの近所に灰色のトラックが止まっているのを見て大いに怪しみました。中には恐怖心を抱いて,森の方へ道を迂回する人もいました。反対者たちは時々警察を使って私たちのあとを追わせました。ある晩,二人の官憲が取り調べにやって来ました。二人は録音された幾つかの説教を聴いて良い証言を受けると,何も文句を言わずに立ち去りました。また,私たちのグループの中に何人の仲間がいるかを確かめるために警察署長がやって来たこともありました。『あのトラックの中には少なくとも10人はいるに違いない』と人々が通報したのです。別の時には,一人の農夫がやって来て,半分泣きそうな顔をしてこう頼みました。『若い衆,どうか,うちの土地からあの車を移動してもらえまいか。お願いだ。私があんた方をここに置いていると言って,みんながののしるのだよ』。

「戦時中に何度か迎えた冬は,ことのほか冷え込みました。ある晩,私たちは石油ヒーターでトラックを暖めようとしました。ところが,寝室の壁の内側に水分がたまって流れ落ち,床が凍りついてしまいました。ある朝,下の方のベッドで寝ていたデービッドが,体が氷のように冷たいと文句を言いました。無理もありません。彼の寝床の下にあった引き出しが,完全な氷の塊と化していたのです。私たちは気休めに,『凍った物には絶対にカビが生えないよ』と言いました。皆はたくましくなり,だれも病気をしませんでした。この『装甲車』は,心根の正しい多くの人が真理を見いだすのに役立ちました」。

第二次世界大戦に先立つ拡大

第二次世界大戦に先立つ期間には,すばらしい拡大が見られました。1925年から1938年にかけて,王国宣明者の数は約250人から1,427人の最高数に増加しました。そうした時期にこれら熱心な伝道者たちはおよそ500万冊の書籍と小冊子を配布したのです。言うまでもなく,何千件もの予約が得られ,配布された雑誌は何万冊にも上りました。

これら勇敢な伝道者たちは徹底的な証言を行なうのが普通でした。1932年のある時期に,一般の人々に対して行なわれた証言の回数が数えられました。およそ300人の伝道者が毎週,証言の業に参加し,51万5,119回の証言を報告しました。これはスウェーデンの人口の12分の1に相当しました。

ヒトラーに警告するための努力

1933年にドイツでナチによる恐怖時代が始まった後,スウェーデンには,ドイツのエホバの証人が大きな弾圧を受けているという報告が次々に届きました。その翌年,興奮を誘うようなある出来事が生じました。ブルックリン本部からの提案により,スウェーデンの兄弟たちはドイツと他の48か国の兄弟たちに加わって,ドイツの兄弟のために自分たちの意思を表明することになったのです。

1934年10月7日の日曜日にすべての会衆で特別な集まりが開かれた後,ヒトラーに対する次のような勧告が電報で送られました。「エホバの証人に対するあなたの政府の虐待ぶりは地上の善良な人々すべてに衝撃を与え,神のみ名を辱めています。エホバの証人をこれ以上迫害するのはやめなさい。さもなければ,神はあなたとあなたの党を滅ぼされるでしょう」。

新しい「級」の実体が明らかにされる

1935年に米国のワシントン特別区で開かれた大規模な大会から,際立ったニュースが届きました。ラザフォード兄弟は,啓示 7章9節の「大いなる群衆」もしくは「大群衆」が『ヨナダブ級』,つまりマタイ 25章31節から46節にある羊級と同一であるという聖書的な根拠を提出したのです。(エレミヤ 35:18,19)自分たちが霊的に副次的な級であると考えていた多くの人々は,地的な希望を持つ「ほかの羊」に属していることを今や悟りました。―ヨハネ 10:16

ワシントン特別区からこの驚くべきニュースを知らせる電報が届いたのは,例年のストックホルム大会でプログラムの一つが進行している最中のことでした。その知らせが聴衆に対して読まれると,300人の代表者たちは大いに沸き立ちました。すべての出席者はこれらほかの羊を探す業に着手するようにという呼びかけがなされました。

1936奉仕年度に関する報告の中で,この呼びかけに対する反応のほどがはっきりとうかがえました。こう記されています。「スウェーデンでは,こうした群衆が引き続き自分たちの立場を明らかにしている。……昨年[1935年]の10月1日以来,150人に上るヨナダブ級の人たちがエホバのご意志を行なうために自らの聖別を表明したことが報告されている。また幾つかの場所では,そうした表明の機会を待っている人が大勢いることも知られている。奉仕大会のたびに,この級に属する人が幾人か現われて証言の業に着手するのである」。

「彼らの妨げとなるのはやめなさい」

前述の大会で,神の民の中のある特定のグループに関する重要な問題が明らかにされました。良いたよりを広める業に子供たちがあずかることについて討議がなされたのです。スウェーデン語の「会報」,1935年8月号は,「彼らの妨げとなるのはやめなさい」という見出しのもとに,その点を要約してこう述べました。

「これは全く正しいことです。……手始めに,子供たちを親や他の大人の伝道者に同伴させなさい。……もし子供たちがこの活動に参加するなら,ほかならぬ祝福がもたらされることでしょう。もちろん,それには条件が伴います。すなわち,そのようなことが生じる理由となるのは,子供たちが理解の及ぶ範囲で偉大な神を愛して敬い,その王国に歓びを見いだすことを親や仲間から学んだということです」。若者たちはこのすばらしい知らせに興奮して大いに沸き立ち,スタートを前にした馬の一団のような活気にあふれていました。

戦時中の困難を切り抜ける

ここで,活動の主軸を成した開拓奉仕に戻ってみましょう。第二次世界大戦中,金銭や食料や衣類や燃料は不足しましたが,開拓者たちは国内の各地で以前にもまして熱心に真理を広め続けました。スウェーデンは実際の戦争こそ免れましたが,行政当局は様々な規制や配給制度を設けました。「その当時の開拓者は本当にエホバに依り頼む必要がありました」,と言うのはグスタフ・シェルベリです。彼は1930年代末にレスラーとしての経歴を捨て,真理に自らを全く献げました。現在も開拓奉仕をしているグスタフは,こう述懐しています。

「夏の時期,私は仲間の開拓者と一緒にテント生活をしましたが,冬の間は個人の家で寝泊まりしました。大抵これは困難を伴い,費用がかさみました。協会は援助の一環として,自転車で牽引できる,折りたたみ可能なトレーラーの作り方を記した説明書を送ってくれました。私たちは早速1台作ってみました。

「そのトレーラーは薄い繊維板でできていたので,冬にはとても寒い思いをしました。木の枝や松かさをストーブで燃やしてトレーラーを暖める以外に,ありったけの服に身を包んで初めてほどよい暖かさを保てました。ある晩,パートナーが私を起こしました。頭が持ち上がらないので何とかしてほしいと言うのです。それもそのはずです。ボリュームのある髪の毛がベッドの鉄枠に凍り付いてしまったのです。私は彼を助けるため,両手で凍った部分を温めて溶かさなければなりませんでした。とはいえ,二人共そのトレーラーに住んでいた間はずっと病気になったことがなく,そこで長らく生活しながら良いたよりを宣べ伝えることができたのです。本当にすばらしい時期でした」。

イングバル・ウィールボリはラップ人に証言を行ない,1930年代末に北極地方の広大な区域を網羅しました。こう思い出を語っています。「北極圏の極北の地は人口が希薄で,キルナからノルウェー国境までの距離は130㌔に及びます。私は道を探すため鉄道の線路に沿って徒歩かスキーで進まねばならず,そういうことを年に2度行ないました。暗くて寒いある晩のこと,私の後ろに突然列車が近づいて来ました。私はその強力な除雪機でスキーやリュックもろとも空中高くほうり出され,深い谷間に転落しました。しかし方向を見定めるのに時間はさほどかかりませんでした。アビスコ観光ホテルから漏れてくる光のおかげで,道を探し当てることができたのです。同ホテルの従業員たちは,私が雪だるまになってつかつかと中に入って来たので,あっけにとられていました。そして,『一体どうやって来たのですか』と尋ねました。『空からです』と,私は愉快そうに答えました。ホテルの人たちは温かいココアとサンドイッチを出して親切にもてなしてくれました」。

スウェーデンにおける当時の困難な生活条件のもとでも,また寒さがことのほか厳しい冬にあっても,熱心な開拓者たちは活動の手を緩めませんでした。エホバが絶えず彼らの心を温めておられたのです。そのような時期にも業は着実に拡大しました。崇拝者の数は1938年に1,427人だったのが,戦後の1945年には2,867人となり,2倍以上に増加したのです。

反対の炎が燃え上がる

キリスト教世界の宗教スポークスマンも神の民の意気をくじくのに懸命でした。支部はこう報告しています。

「このころになると,国内のどんな種類や内容の新聞にしても,エホバの証人を糾弾する悪意に満ちた記事を一つも載せていないものなどまず見当たりません。例えば,『外国資本に支えられた裏切り者』,『共産主義の前衛部隊』,『偽預言者』,『国家と社会の敵』といった具合いに,お決まりの表現を目一杯用いています。言うまでもなく,その背後にいるのは僧職者たちです。……5月中旬に首都で大きな教会会議が開かれた時,新聞紙上の不平や不満は頂点に達しました」。

こうした憎しみの炎が燃え盛るようになったのは,エホバの証人が「銃後の自由のために戦う」という題の小冊子を精力的に30万部配布した直後のことでした。怒りに燃えた僧職者たちはキャンペーンを展開し,わたしたちと同じような手法を用いて,つまり家から家に人々を訪問して,エホバの証人に反対する内容の文章を読ませました。

裏目に出たキャンペーン

ところが,そのキャンペーンの結果,エホバの業は以前にもまして国内の各地でよく知られるようになったのです。新たな力と励みを得た王国宣明者たちは,「悪い評判と良い評判」の両方を経験しながら引き続き前進しました。―コリント第二 6:8。詩編 143:10

1944奉仕年度中,開拓者たちは再び祝福を受けました。特別開拓者たちは17の新しい会衆を組織することができて,歓ぶべき十分のいわれがありました。他の開拓者たちも努力を払った結果,11の新しい会衆が発足したことを喜びました。その年は,144もの新会衆が誕生したのです。このように,証人たちに対するキャンペーンは裏目に出ました。その典型となったのが次の例です。

ある地方教区の国教委員会の決定により,二人の開拓者の姉妹に対して,(1)文書を携えて人々を訪問するのをやめ,(2)主イエスを信じ,(3)同教区の外に即刻二人の住所を移すことが要求されました。

その姉妹たちに宿を提供していた地主も,彼女たちを立ち退かせるよう地元の牧師から圧力を受けました。姉妹たちを立ち退かせるために同委員会が下した決定について地主に知らせる手紙は,『貴殿と彼女たち(二人の姉妹)に心からのあいさつを送ります』という言葉で結ばれていました。地主とその実の兄弟はどちらも教会に通っていましたが,そうした偽りの非難にほとほと嫌気がさし,教会に行くのをやめて,その姉妹たちが司会する研究に出席するようになりました。

すべての牧師が反対したわけではない

ある姉妹は自分の区域で公開講演を行なってもらうため,近隣の会衆から一人の兄弟を招待しました。皆が驚いたことに,地元の牧師がやって来て,話に注意深く耳を傾け,ノートを取りました。その後たくさんの質問をし,教会の教えには多くの間違いがあることを認めました。そして,自分が真理を伝えたとしても人々は教会に来ないだろうと不満を述べました。

講演をした兄弟は,その牧師と仲間の人々がキリストとその追随者たちがしたとおりに行なう,つまり,家から家に出かけるべきであると言いました。すると牧師は,「ええ,そうすべきです。でも私たちは臆病者で,あまりにも怠惰です。その上,行なうべき世の事柄が多過ぎるのです」。その牧師は帰り際に友好的な握手を交わし,講演に対する感謝を話し手に伝えました。

内気を克服する

スウェーデン人は元来,控え目なところがあります。多くの人はあまり話し好きではなく,粗相のないように気を遣っています。ですから,大勢のスウェーデン人がそのような性向を克服して家から家に出かけ,マタイ 28章19節と20節にある,「行って」「人々を弟子とし……教えなさい」というイエスの命令を実行できているというのは大変すばらしいことです。

イエスはさらにルカ 18章27節で,「人には不可能な事も,神にとっては可能です」と言われました。エホバは,自分は流ちょうな話し手ではないと訴えたモーセにアロンを助け手として与えて援助されたように,スウェーデンの伝道者たちにもご自分の組織を通して異なった“アロン”,すなわち物を言う道具を備えて,彼らを援助してこられました。そのことは以下の例から分かります。

“第1のアロン”― 証言カード

そのような“アロン”の一つになったのが証言カードで,これは1934年に導入され,1940年代に入ってからもかなり活用されました。そのカードには印刷された短い説教と文書を勧める言葉が載っていました。「会報」はこう説明しました。「戸別訪問の際,玄関の戸を開けた人にはこのカードを手渡して,その内容を読んでもらいます。それから,ブロシュアーを手渡します。あとは,このカードに説明されていたのがこのブロシュアーです,と言えばよいのです」。これは実際にどのように役立ったでしょうか。

ある開拓者は,このように思い出を語っています。「言われたとおりにやってみました。時には誤解が生じたこともありましたが,大抵はとてもうまくゆきました。カードをすんなり受け取ると中に入って戸を閉めてしまう人もいれば,私には言語障害があると思って,同情するような態度で本を何冊か求めてくれる人もいました。中には慈善のつもりで物をくれる人もおり,私も家の人も大笑いするような出来事が幾つもありました」。

こうしたカードは家の人と打ち解けるだけでなく,広い区域を短時間で網羅するためにも役立ちました。幸いなことに,スウェーデン人はみな無口というわけではありません。ある伝道者たちがユーモアを交えて協会に語ったところによれば,主がこの取り決めを設けられたのは,自分たちが『話し過ぎによる時間の浪費という悪習を克服する』のを助けるためである,と考えたようです。

“第2のアロン”― 蓄音機

別の“アロン”となったのは携帯用蓄音機で,聖書の説教を収めた5分間のレコードが付いていました。この新しい道具は数年にわたって十分に活用されました。

1937年,エネロス兄弟は蓄音機によるラザフォード判事の講話をスウェーデン語で録音しました。レコードが利用できるようになると,伝道者たちは熱意に燃えて,いなごの群れのように区域に出かけました。最初の10か月で10万7,077回に及ぶ説教が再生され,15万3,786人がその話に耳を傾けました。エネロス兄弟自身,そのレコードを最初に使った人たちの一人でした。兄弟は当時を振り返って,笑いながらこう言いました。「ストックホルムである夫婦のためにその中から一枚のレコードをかけました。すると夫人が,『あなたの声の響きはいま聞いた声とそっくりですね。きっと何度もお聞きになったのでしょう』と言ったのです」。

当初,携帯用蓄音機はやや大きくて目方がありました。しかしまもなく,小型で折りたためるタイプのものが登場し,書類かばんに入れて持ち運べるようになりました。とても考え抜かれた造りになっていて,蓄音機よりもレコードのほうがずっとかさばるくらいでした。伝道者が家の人に聖書の講話レコードをかけてもよいかと尋ねると,家の人は大抵,「うちには蓄音機がありません」と答えました。すると伝道者は早速その小さな蓄音機を取り出します。家の人は好奇心に駆られて伝道者を中に招き入れたものです。中にはその蓄音機が売り物かどうか尋ねる人もいました。こうして,普段なら証言に耳を貸さないような人が大勢耳を傾けたのです。

蓄音機のおかげで,兄弟たちは奉仕においてたびたび勇気づけられる思いをしました。一人の兄弟はこう述べています。「ある農場に行ったところ,子供のバプテスマを祝う盛大なパーティーが開かれていました。私は聖書の講話を録音したレコードをかけてもよいか主催者に尋ねてみました。主催者はパーティーに幾らか宗教的な雰囲気が加わると考え,そこに牧師がいたこともあって,客人全員が集められました。客たちは話に注意深く耳を傾けました。牧師もその中にいましたが,その後足早に立ち去ったので,皆はとても驚いていました。私は多くの質問に答え,何人かの客は文書も求めました」。

“第3のアロン”― 拡声装置

支部は,自転車のトレーラーに設置できるスピーカー・システムに蓄音機をつないで,特別な拡声装置を作り上げました。こうすれば,広い住宅街の中でも録音された説教の音が聞き取れます。まず人々の関心を呼び覚まし,戸や窓を開けて耳を傾けるよう,最初に音楽が流されました。講話が終わると,兄弟たちは戸別訪問をして,質問に答えたり文書を提供したりしました。

ある熱心な兄弟は,近所の人たちが畑でイモ掘りをしている間に説教を聴いてほしいと思いました。そこで松の木の高い位置にスピーカーを据えて,蓄音機のスイッチを入れました。力強く歯切れのよい声が空中にこだますると,人々は仕事を中断し,口を開けて空を見つめたまま,耳を澄ましました。天からのお告げだと思ったのです。

1940年代も半ばになると,蓄音機はもはや使用されなくなりました。1938年から1943年にかけて,およそ1,200台の蓄音機が使用され,150万人の人が録音された説教を聴きました。この時期に,伝道者数は1,427人から2,571人へと増加しました。

蓄音機の使用が中止されたのはなぜですか。良いたよりを広める上ではるかに効果的な方法が推奨されるようになったのです。つまり,奉仕者自身が宣べ伝えて教えるのです。口数の少ないスウェーデン人が,どのようにそのことを実行できたのでしょうか。

“第4のアロン”― 神権宣教学校

スウェーデンで王国の業が発展を見た背景の中で,一つの重要な要素となったのは何でしたか。それは神権宣教学校でした。証人たちはこの学校から質の高い訓練を受けたのです。

米国でこの学校が開校された1年後の1944年,同校はスウェーデンの全会衆で開設されました。最初は兄弟たちだけが入学でき,一人の兄弟が協会から教訓者として任命されました。毎回の集会を点呼で始めることにより,定期的に出席することの大切さが強調されましたが,その方法は後に廃止されました。

この学校は多くの生徒にとって,勤勉さと多大の自己吟味を求めるものとなりました。ある兄弟は当時を振り返って,「その晩研究生の話をする予定の兄弟たちは,集会が始まる前でもすぐに見分けがつきました。大抵顔が青ざめていて,ぼうっとした感じでうろうろしているのです」と言いました。ある会衆でのこと,教訓者が聴衆に,「話の割り当てをもらって,皆さんが最初にすることは何ですか」と尋ねました。一人の兄弟は,「恐ろしくなることです」と答えました。

ある地域監督はこう報告しました。「多くの生徒は家の中のひっそりとした所で数え切れないくらい話を練習しています。ある兄弟は,話の最中に頭の中が空っぽになり,話を中断して,しばらく聴衆を眺めてから,『すいません,あまりうまくゆきませんでした』と言いました。そして落ち着きを取り戻すと,力強い声で,『でも薪小屋の中で私が行なった話はぜひ聞いていただきたかった』と言いました」。

ある巡回監督はこう述懐しています。「中には,あせる気持ちに打ち勝つために本当に真剣な闘いをしなければならない兄弟たちもいました。ある兄弟が初めて研究生の話をすることになりました。集会中,自分の番が来るのを緊張しながら待ちましたが,途中何度か外に出る必要がありました。とうとう演壇に上がると,その兄弟は,『私は3回外に出て行ってもどしました』というショッキングな紹介の言葉を述べました」。

別の兄弟はこう思い出を語っています。「私たちの会衆で最初の研究生になった人たちの一人で,背の高い二枚目の人が話を念入りに準備しました。話を暗記したほどで,自信は満々でした。ところがいざ本番になると,緊張が高まって,急に口がきけなくなったのです。何やら永遠に続くような気配でしたが,その人は突然,『こんにちは!』と言って聴衆にあいさつをしました。その一言で舌の緊張が解けたのです。そして話をする気力を取り戻し,研究生の話を立派にやり遂げました」。

優れた成果

神権宣教学校は立派な公開講演者ばかりでなく,玄関や家庭で人々と話し合える立派な教師をも生み出しました。姉妹たちもこの訓練にあずかるよう招待されると,王国宣明者としてやはり大きな進歩を遂げました。

スウェーデンの若者たちも,この学校のおかげで優れた進歩を示しました。この学校を通して,王国の業に十分にあずかるよう心を動かされた少年少女は少なくありません。ある7歳の男の子は,学校の監督に自分が入校できるかどうかを尋ねました。「どうして入校したいのですか」と,その監督は言いました。すると男の子は,「一生を無駄に過ごすわけにはいきません」と即座に答えました。

街頭行進

スウェーデンの兄弟たちは,組織からの提案があれば必ずその方法に従ってエホバへの奉仕に打ち込みました。例えば,1940年代と1950年代初期に米国と英国で大会の公開講演を宣伝する行進が行なわれ,サンドイッチ式の広告板とプラカードが使用されていることを知ると,スウェーデンでも同様の取り決めが積極的に設けられました。

当時地域監督として奉仕し,そのような行進を数多く取り決めたジャック・プラムベリは,そのころを思い出してこう述べています。「冬になると,スウェーデンの北部では午後のとても早い時間に日暮れが訪れます。それで私たちは,宣伝効果を高めるためにたいまつを使いました。ある時そのような宣伝の際に,『唯一の光』というのが公開講演の主題になりました。たいまつの行列が町を練り歩いたのですが,突然,停電が生じました。町じゅうが真っ暗になったのです。しかし,私たちのたいまつは赤々と燃え,プラカードをはっきりと照らしました。人々がそこに読み取れたのは,『唯一の光』という文字でした」。

旅行する監督のスベン-エイリック・ラーソンは,このように思い出を語っています。「時々,兄弟たちは大きなサインを掲げた棒を持って街路を進み,大会で行なわれる公開講演を宣伝しました。1948年のこと,二人の若者が単なる好奇心から,エーレブルーで開かれた大会に出席しました。まだエホバの証人になろうとは思っていませんでした。私はあるプログラムが終わってから,二人がだれかも知らずにプラカードを手渡し,行進する場所を指示しました。二人はためらいながらもプラカードを受け取り,行進に加わって町なかを練り歩いたのです。その一人,ラース・リンドストレームはこれまで長年にわたり会衆の長老として働き,もう一人のロルフ・スベンソンは地域監督として奉仕しています」。

クリスチャンの中立の立場が問題になる

スウェーデンは政治面で厳正な中立を保とうとしてきましたが,防衛面では兵役の義務を伴う強力な体制が維持されてきました。そのため,兄弟たちはクリスチャンの中立の立場に関する忠誠を試みられてきました。第二次世界大戦が始まる以前,兄弟たちは通常,兵役に代わる強制的な文官勤務を行ない,消防士や木こりとして働いたり,遺跡の発掘をしたり,他の様々な文官勤務に就いたりしました。その後,第二次世界大戦が進行するにつれ,兄弟たちは事実上,軍当局の意のままになる兵士とみなされていることに気づきました。このため,そのような文官勤務を拒否しました。

結果として投獄が相次ぎ,初めて拒否した場合には1か月の刑を言い渡されました。釈放されると再びすぐに徴兵されて,刑務所に戻され,今度はさらに2か月の刑に服しました。再び釈放されると,同じことを4回,5回,6回,あるいはそれ以上繰り返さなければならず,その都度,前回よりもさらに1か月長い刑を言い渡されるのが普通でした。長年の間に何百人もの兄弟が投獄され,その服役期間の合計はほぼ1,000年に達しました。当時開拓者だったウェルネル・ヨハンソンは12か月の刑を言い渡されましたが,それは13年余りに延びました。こう述べています。

「何度も徴兵されて,法廷手続きを繰り返し,異なった刑務所を同じように何度も出入りするのはとても大きな挑戦でした。私には扶養家族もいました。しかし,兄弟姉妹たちから受けた愛と励ましはすばらしい助けになりました。結局それは感動や興奮を覚える期間となり,関係者全員に証言を行なう機会が数多く開かれました」。

兄弟たちは時には検察官や判事にののしられたり,どなられたりしたこともありました。開拓者のエイリック・V・ヨハンソンは,自分が初めて受けた裁判を振り返ってこう言います。「検察官と判事は,私が自分の責務を果たさなければ痛い目に遭うことになると言いました。私は,ライオンのほら穴に投げ込まれたダニエルのような苦しみを受ける覚悟ができていると告げました。すると検察官は,『ヨハンソンをライオンのほら穴に投げ込んで,その信仰にどんな価値があるか見るのは興味深いでしょうな』と言いました。翌日,その判事に会うと,彼は私をひっつかまえて,『この悪党め,おまえは銃殺ものだ。きっとそうなるぞ』と言いました」。ところで,そのようなことはいまだに起きていません。すでに80歳を超えたヨハンソン兄弟はいまも健在で,全時間奉仕を活発に行なっています。

当局は窮余の策を試みる

当局は,これら若い男子に懲役を言い渡しても忠誠をくじけないということをはっきり悟るようになりました。「判事と検察官は,言わばゲームに参加して,自分たちに勝ち目のないことが分かったのです」。証人たちの処遇に関して,スウェーデンの元国会議員はそう述べました。

戦争が終結に近づくと,当局は焦りの色を濃くし,事態の打開を図って窮余の策を講じました。強制労働を拒絶した126人のエホバの証人に対して,突如,精神鑑定を命じたのです。もし精神に欠陥があると宣言されれば,法廷は証人たちを違った仕方で扱うことになりました。この件について,支部の報告はこう述べています。

「その鑑定は異なる三つの町で実施され,鑑定を受けた人たちは各々五日ないし六日の間,牧師と二人の医師から質問を受けました。こうした処置を甘んじて受けた兄弟たちは証言を行なう数多くの機会に恵まれ,極めて励ましの多い経験になったという点で意見の一致を見ました。それらの鑑定に立ち会った牧師たちはすっかり当惑して不安の色を隠し切れず,医師たちまでがおもしろがりました。医師たち自身,エホバの証人が強固な信念と高い道徳規準を持ち,概して知能の優れた人々であることを認めました」。

増大する問題

証人たちに対する前述の精神鑑定は,無駄骨となってすぐに中止されました。とはいえ,判事,検察官,刑務所長,看守,また教戒師の中にさえ,不安をいっそう抱くようになった人が少なくありませんでした。ある検察官は国会で次のように語ったと言われています。

「私は検察官ですが,本件のような懲罰による脅しには賛成いたしかねます。……1958年というこの年に,魔女試験の名残とも言える,また実際にそうなのですが,そのようなものに煩わされ,本来なら何も責められるところのない人たちを巻き添えにする必要が本当にあるのでしょうか。それらの人たちが当刑務所で訴訟依頼人の犯罪者と一緒にされてしまうというのは実に恐ろしいことです。正直なところ,そのような人たちを禁固刑に処する要求を行なうよう強要される時だけは,自分が検察官であることを恥ずかしく思います」。

受刑者による刑務所

真理を受け入れる若い男子が増えるにつれ,投獄される人の数も多くなりました。刑務所は犯罪者で込み合い,経費もかさむ一方でした。兄弟たちは刑期を勤めるためにやむなく方々の刑務所に詰め込まれたので,更生管理局は,エホバの証人に独自の刑務所を運営させるという異例の措置を講じました。

その建設はすべて受刑者,つまりエホバの証人によって行なわれました。看守の見張りもなく,日に12時間の単独行動を許されたのです。時々,一人の役人が食料と建築資材を運んで来ました。役人が二人の兄弟たちを見張りに任じ,受刑者を看守にした時もあったのです。証人たちは日曜日ごとにすべての集会を開き,終日訪問者を迎えることができました。証言は手紙で行なわれました。この“受刑者による刑務所”はばかげた実験としてマスコミに取り上げられましたが,兄弟たちはその刑務所を完ぺきに運営しました。脱走や脱走未遂は1件もありませんでした。

救済策が講じられる

国会議員や他の行政官はやがて,政策の変更が必要であることを悟りました。兄弟たちや他の心ある人たちが救済を求めて官吏と折衝を重ねるにつれ,事態は注目を集めるところとなりました。

政府のある官吏の家を塗装した一人の兄弟は,その人の前でこの問題を持ち出しました。後日,この官吏はその兄弟の助けを借りて,証人たちを刑務所に収容しておくために国家が負担する費用を計算しました。その結果に驚いたこの官吏は,その数字を同僚に見せることを約束しました。さらに,ストックホルムのある仕立て屋は顧客に国会議員たちを持っていたので,この事態にたびたび彼らの注意を喚起し,問題を正すために何らかの措置を講じるよう促しました。

1964年1月,国防大臣は修正法案の起草委員会を発足させました。協会の支部事務所から二人の代表者が同委員会の前に呼び出され,徴兵に代わる提案を求められました。しかし同委員会は,いかなる種類の兵役からも証人たちを免除するという提案に従う代わりに,彼らの公報にしたがって,次のような提案を行ないました。「それゆえ,本委員会の意見としては,エホバの証人を一時的に不適格者と宣言する……ことを真剣に考慮すべきである。これは,特定のアルコール中毒者や反社会的人物に適用されるのと同じ原則にしたがうものである」。

牧師も時には味方になる

エホバの証人を「特定のアルコール中毒者や反社会的人物」と比較したことで,人々は憤りを覚えました。証人たちが法を遵守する立派な市民として知られていたからです。教会の当局者でさえ異議を唱えたのです。ある新聞は,ヘルネサンド教区議会の次のような言葉を引用しました。

「[証人たちの]信念に対して懲役をもって応じるのは不本意な解決策であると同委員会が考えるのはもっともなことである。しかし,この点に関する問題処理の結論として,エホバの証人に属する若い男子を反社会的人物やアルコール中毒者と同じ範疇に置くよう提案することにより,同委員会は問題の真相を扱う点で過ちを犯し,人間の尊厳に対する敬意を示し損なっている」。こうした差別は,不当にも同じような部類の人間とみなされたイエスのことを思い起こさせます。―マタイ 11:19

最終決定

1966年5月25日の国会決議により,良心的兵役拒否者がエホバの証人である場合には,逐一,個別の調査が行なわれることになりました。政府はこの調査に基づき,現時点では当人を徴兵しないことに決めます。長年にわたる辛抱の末に得られたこの勝利に,大きな喜びが沸き起こりました。兄弟たちはもはや邪魔されることなく,良いたよりを堂々と宣べ伝えることができるのです。

米国ブルックリンの協会本部には電報が打たれました。その時ボルティモアで大きな大会に出席していたスウェーデン人の一夫妻は,当時の協会の副会長,F・W・フランズ兄弟が聴衆にその電文を読み上げるのを聞いて胸を躍らせました。「フランズ兄弟はスウェーデンの当局者をほめ,スウェーデンを模範国と呼びました」と,その夫妻は述べています。

スウェーデンの模範

スウェーデン政府が定めた手続きは,他の国々の当局者からスウェーデンの模範と呼ばれてきました。それら当局者たちは同様の解決を図る際に,スウェーデンの模範を参考にしてきたのです。具体的に言って,それはどのような手続きでしょうか。

召集を受けた人は各々,自分がバプテスマを受けたエホバの証人の一人で,会衆と交わっている定期的な伝道者であることを証明する,一通の証明書を会衆の長老たちからもらわなければなりません。協会の支部事務所は,それらの署名が任命された長老たちのものであることを確認します。被徴募者はこの証明書に加えて,徴兵免除を個人的に申請する書面を該当する徴兵委員会に提出し,その委員会が当面の兵役免除を許可するのです。民間防衛義務のために召集された一部の姉妹たちに関しても,同様の手続きが取られてきました。

妥協を求める新たな試み

国会がこうした決定を下した後,兵役に代わる強制労働に証人たちを就かせようとする試みがなされてきました。1970年代初頭には,良心的兵役拒否者に対する扱いを見直すための行政委員会が発足しました。当局は統一を図るため,エホバの証人が他の宗教団体と同様の条件で務めを果たし,強制的な代替業務を行なうことを望みました。

支部事務所の代表者たちが同委員会の前に出頭し,エホバの証人は兵役に代わるいかなる務めであろうと,またその仕事がどれほど立派なものであろうと一切受け入れられないことを説明しました。また,エホバの証人はすでに家から家の宣教で一種の社会奉仕を行なっており,人々が生活を清いものに改め,法を遵守する立派な市民になるよう援助していることを示しました。その後,同委員会の一員が大変驚くようなアイディアを思いつきました。

その委員は,わたしたちが各自の会衆内で一定の期間,家から家の宣教を全時間行なうことに同意し,それを強制労働に相当する代替業務として当局に報告できるかどうか考えていたのです。兄弟たちは,神に対するわたしたちの奉仕が決して強制的なものにも国家の仕事にもなり得ないことを説明しました。同委員会は最終的に,1966年の決定の保持を提案し,その最終報告の中でこう結論しました。「本委員会の意見によれば,現在のところ,我が国ではエホバの証人と比較できるような宗教団体はほかに見当たらない」。

何千人もの人が教会を去る

スウェーデンの証人たちは政治上の事柄に関して中立の立場を固く保っただけでなく,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンから出るようにという,啓示 18章4節の命令に留意する点でも忠節を示しました。このことに関連して,1952年1月1日は記念すべき日となりました。信教の自由を規定する新しい法律が発効したのです。その法律により,スウェーデン国民は皆,政府に認可された別の宗教団体に加入しなくても国教会から脱退できる権利を付与されました。

手続きは簡単で,所定の用紙に書き込むか,または1枚の紙に教会からの除籍願いを記してから,だれかの立ち会いのもとに署名し,その書類を教区牧師の事務所に置いてくればよいのです。その事務所では異議も質問も話し合いもなしで除籍が記録されます。

一般のスウェーデン人は,もっぱら無関心という理由から,その機会を活用しませんでした。しかしエホバの証人はできる限り早く教会にその用紙を提出しました。その時点で,合計5,000人の証人たちが一個人として脱退したのです。多くの牧師はがく然とし,質問をせずにはいられませんでした。その数か月後,支部はこう報告しました。

「この件に関して教区牧師の事務所を訪問することにより,それら証人たちは王国について証言できる優れた機会に恵まれました。中には,牧師が文書を求め,そのような会見の結果として,わたしたちの信条をもっと詳しく調べるため研究にさえ出席したという例も幾つかありました。折しもスウェーデン語で発行された聖書のパンフレットがこの面で非常に役立ちました。ある牧師はとても深い関心を示したので,その村で会<カンパニー>[会衆]を組織している年配の一姉妹が,その時以来,『神を真とすべし』という本を用いてその牧師と毎週研究をしています。牧師は訪ねて来たある開拓者の兄弟に,姉妹が定期的にやって来て研究を続けてくれることをうれしく思っていると伝えました」。

エホバの証人を支持しないラジオ

スウェーデンのラジオは放送が始まって以来,国家に独占されてきました。独占というのは,国家を代表する委員会がラジオ(および現在はテレビも)放送を完全に支配しているという意味です。スウェーデンは宗教上の差別が違法とされる民主政治の国なので,わたしたちは放送時間を得るための努力を払いました。

1953年のこと,一人の牧師がエホバの証人の“化けの皮をはがす”ため,わたしたちに注解する機会を与えずに30分のラジオ演説を行ないました。その後二人の兄弟が反論のプログラムを放送する許可を求めるため,宗教番組の部長である国教会牧師のもとに遣わされました。一方の兄弟は,その時の思い出をこう語っています。

「その牧師は横柄な態度で,『エホバの証人がラジオ・スウェーデンの放送許可を得ることは絶対にありません。わたしたちはあなた方をクリスチャンとは思っていないのです』と言いました。『なぜですか』と,私たちは尋ねました。『あなた方は三位一体を信じていません。それだけです。ところで,あなた方は自分たちの文書の中で聖書を偽って引用しているそうですね』。『何か例がありますか』と,私たちは尋ねました。『私の書棚にあなた方の本が1冊あります。これです。お見せしましょう』。彼は『すべてのことを確かめよ』(聖書の質問を満載した本)の英語版と英語の聖書とを取り出しました。そして両者を一字一句比べ始めて,数分間調べました。間違った箇所がどこにも見つからないので,彼は立ち上がると,『いずれにしても,放送を許可されるのはクリスチャンだけです』と言って,私たちを追い返しました」。

“化けの皮をはがす”試みが裏目に出る

1976年10月,ラジオ・スウェーデンのある役人が3部から成る一連の番組に参加するようわたしたちを招きました。わたしたちのことを人々に知らせる番組だと言うのです。わたしたちは公平な扱いがなされるという約束を得た後に招きに応じました。その番組は,わたしたちの集会を録音した部分と幾つかのインタビューとに基づく予定でした。

録音の際,兄弟たちは,その番組がエホバの証人を攻撃するために企画されたことをはっきり悟りました。インタビューを受けた兄弟たちは,辛らつで,挑発的な質問を浴びせられましたが,冷静な態度で,事実に基づいて答えました。次いで,そのテープは先ほどの役人によって,できるだけ最悪の印象を与える番組となるような仕方で編集されたのです。

その放送の後,支部事務所は国内各地の聴取者から数々の手紙と電話を受けました。それらの人々は口々に,エホバの証人とその攻撃者との相違に気づいたこと,またそこには終始真理の響きが感じられたことなどを伝えました。ちなみに,その放送から1か月たった1976年11月には,スウェーデンで伝道者が1万6,693人の新最高数に達したという良い知らせが聞かれました。わたしたちは,『あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さない』という聖句が真実であることを実感しました。―イザヤ 54:17

新しい支部が必要とされる

1940年代に,伝道者数は1940年の1,726人から1949年の3,702人へと2倍以上に増加しました。1949年のある報告は将来の増加の見込みについて,「ほとんどすべての会<カンパニー>から寄せられた巡回の僕たちの報告によれば,野外では地元の伝道者たちが世話し切れないほど多くの関心を持つ人がいるようです」と発表しました。

さらに兄弟たちは,雑誌を自分たちで印刷する必要もありました。1950年までに,二つの雑誌の発行部数は毎月合わせて12万3,000部に達しました。印刷は相変わらず世俗の会社が行ない,支部事務所の地下室には,手で給紙する小型のディーゲル印刷機と比較的小さな用紙類を印刷する端物印刷機を置くだけのスペースしかありませんでした。そのため,さらに広い施設が大いに必要とされ,ふさわしい用地探しが始まりました。

毅然とした行動

建築技師のレンナート・スンベリは,当時を振り返ってこう言います。「私たちはストックホルムの中心部で幾つかの興味深い場所を見つけました。また,同市の北西約20㌔の地点にあるヤコブスベリの地域では,隣接する二つの地所を紹介されました。しかし市内の中心で25年も過ごした後に市外に移動することなど夢にも思っていませんでした。

「私たちは,当時協会の会長だったノア兄弟が1951年にスウェーデンを訪問した際,兄弟とその件について話し合いました。エネロス兄弟と私は市の中心部にある幾つかの場所を推薦しましたが,ノア兄弟はさらに別の見込みを念頭に置いて,ストックホルムの郊外にある土地を求めるように勧めました。私たちはヤコブスベリの地所について不満を漏らしましたが,ノア兄弟は毅然とした様子で,『早速それらを購入してください』と言いました。

「ストックホルムのエリクスダルシャレンでは折から全国大会が開催されていましたが,ノア兄弟は発表を行なうため直ちに契約が交わされることを望みました。私は大至急ヤコブスベリに行き,何時間も探した末,それら二つの地所の持ち主を見つけて契約書に署名をしてもらい,大会会場に急いで戻ってノア兄弟にその事を知らせました。兄弟は喜びに満ちる熱心な代表者たちに対して,確信のこもった態度でその計画を発表しました」。

建設工事はまもなく急ピッチで進められました。スンベリ兄弟は話を続けます。「スウェーデン中の兄弟たちが,何袋ものジャガイモや新たに屠殺した子牛,果物やイチゴ類その他多くの食料物資を寄贈して私たちを支援しました。財政面でも順調な進展が見られました。以前の古い土地を購入した会社は現金で支払いを行ない,協会が長年利用していた銀行は,協会の良い評判のゆえに担保なしで私たちに融資しました。支部に対する貸し付けや寛大な寄付を行なった兄弟も少なくありませんでした。寄付をするために自分の事業を手放した姉妹もいたのです」。

1954年3月31日は,歴史に残る日となりました。ヤコブスベリに新しいベテル・ホームが開設したのです。支部の家族は900平方㍍の手狭な土地から,面積が3,600平方㍍ある真新しい施設に移りました。そこには,近代的な印刷設備に適した広い場所も備わっていました。支部は1954年5月15日号と7月8日号を皮切りに,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の独自の版を印刷し始め,その場所は,スウェーデンにおける王国の関心事を顧みるためにその後26年間使用されることになりました。

外国の区域が誕生する

第二次世界大戦後,新しい区域が誕生しました。フィンランドや南ヨーロッパを中心とする異なった国々から,出稼ぎ労働者とその家族が次々に来て定住したのです。さらに,世界中から来た何千人という難民がスウェーデンの社会に仲間入りしました。こうして,約100の言語を話す,何十万もの人々から成る新しい外国の住民が良いたよりを受け入れるためのふさわしい機会に恵まれました。

伝道者たちはまず,家の人の国籍を知り,その人の言語で書かれた出版物を求めて配布するよう提案されました。関心を示した人たちはスウェーデン語を話す会衆に徐々に交わるようになりましたが,これは実際面であまり効果的ではありませんでした。外国人の中には会衆に来るのをためらう人たちも少なくなかったので,進歩はほとんど見られませんでした。

1970年に一つの変化が生じました。ブルックリン本部から来たミルトン・ヘンシェル兄弟が,地帯訪問の際,それら外国語を話す兄弟たちをその言語にしたがって群れや会衆に組織するよう提案したのです。同兄弟によれば,人は自分が一番よく知っている言語で真理を学ぶときに,霊的な成長が早まり,真理に対する理解が深まります。

外国語の会衆

その同じ年の12月に,最初の外国語の会衆として,エーテボリのフィンランド語会衆が発足しました。その後まもなくストックホルムでもフィンランド語の会衆が誕生しました。その会衆の組織を援助した一人の巡回監督は,こう報告しました。

「フィンランド人の兄弟たちの間では熱意と喜びが高まっています。フィンランド語を話す兄弟姉妹たちが方々からやって来て,ほとんど一晩のうちに,大きい活発な会衆ができ上がりました。まるで,乾いた原野に温かい雨が降り注いだようです」。このほかにもフィンランド語の会衆が相次いで誕生し,1990年までに33の会衆と12の群れが発足しました。それらの会衆は三つの巡回区に組織され,1,700人余りの伝道者と119人の開拓者を擁しています。

他の言語グループに関しても,業はほどなく発展しました。1971年に,ある巡回監督がストックホルムでスペイン語を話す人たちを対象に“関心を試みる”集まりを開いたのです。そこに来たのは56人でした。それ以来,どんな進展が見られたでしょうか。支部事務所で外国語の区域における業の組織を援助しているラース-エイリック・エイリックソンは,こう報告しています。「現在のところ,スペイン語を話す七つの会衆と七つの群れがあります。フィンランド語とスペイン語の会衆や群れ以外に,イタリア語で一つ,ユーゴスラビア語で四つ,ギリシャ語で三つ,英語で三つの会衆があり,このほかにユーゴスラビア語,ギリシャ語,英語,アラビア語,トルコ語で幾つかの群れが集会を開いています。さらに,四つ目の英語会衆とポーランド語の三つの群れ,またフランス語の一つの群れを組織する計画も進められています。このように,それら外国語の区域で2,700人余りの人が見いだされて,50の会衆と28の群れに集め入れられたのです」。

真理に対する渇望

移民の間でなされたこれらの業が多くの人にとってどれほど大きな祝福となってきたかは,続く幾つかの経験からも分かります。イタリア人の血を引くシロ・ペルトットは,外国語の諸会衆と共に長年奉仕してきましたが,こう話しています。

「スウェーデン人のある姉妹から,イタリア人の何家族かを訪問するので手伝ってほしいと頼まれました。私は二の足を踏みました。すでにそこに行ったことがあり,その人たちが少しも関心を持っていないように思えたからです。仕方なく付いて行きましたが,そこで会ったのは,以前に一度も見たことのない女性でした。姉妹が私たちのことをスウェーデン語で紹介すると,彼女は戸を閉めようとしました。とっさに私は,イタリア語で,『私たちは神の王国が与えている希望について話をしています』と言いました。すると彼女は話に耳を傾けました。再び彼女を訪問したところ,彼女はこう言いました。『お二人が最初に来られる直前まで,私は自殺をするつもりでした。「もし神がおられるなら,私が神に対する信仰を失い,人生がこれほど無意味に思えるのはなぜでしょうか」と神に祈っていたのです』。言うまでもなく,彼女は家庭聖書研究を通して,人生に真の意味があることを悟りました。そして,これまで長年にわたり熱心な活気あふれる開拓者として奉仕しています」。

ある女性はスウェーデンに移る前にチリでしばらくエホバの証人と研究をし,向こうに着いたらすぐに証人たちを探すようにと言われました。彼女はそうしましたが証人たちは見つかりませんでした。ある日,電話番号を記した友人の手帳をたまたまめくってみたところ,とても乱雑だったので,内容を整理し始めました。すると何が見つかったと思いますか。あるページに2度走り書きされた婦人の名前があり,続けて“エストゥディオ・デ・ラ・ビブリア”(聖書研究)と記されていたのです。「これはエホバの証人に違いない」と考えた彼女は,胸をどきどきさせながらその番号に電話をかけました。その人は確かにエホバの証人でした。その同じ日の晩,彼女はスペイン語の書籍研究に出席しました。今では幸福な,バプテスマを受けた伝道者になっています。

一人の旅行する監督がある家の玄関でスペイン人の女性に会いました。彼はスペイン語を話せたので,その女性を講演に招待し,証言し始めました。彼女は話し合いに夢中になるあまり,電話の受話器を外していたことを忘れてしまいました。通話の相手は仕事場にいた彼女の夫で,怒りを募らせながら待っていたのです。電話の回線がふさがると,夫の上司がその電話を使う必要が生じました。やけになって帰宅した夫は,だれが訪問していたかを知ると,ますます腹を立てました。そうしたハプニングにもかかわらず,この妻は集会に出かけ,その後も出席し続けました。最終的には夫も出席するようになったのです。その家族から9人の成員がバプテスマを受けた証人となりました。

ラップ人の間で証言する

今でもラップ人の中には,雪の多い北部でトナカイの群れを飼って遊牧生活を営む人たちがいますが,彼らの間で伝道をすると,時折ユニークな経験をすることがあります。ラップ人の家に入って家人にあいさつをしたら,早速会話に入れるなどと思わないでください。しばしの沈黙があるのです。それから天候などについて少しずつ話し始めることができます。会話の流れがいよいよ聖書的なものに向かうと,重大な分かれ目に差しかかるかもしれません。

中には,聖書を神聖視するあまり,大半の人々は聖書を読むのに値しないと考えるラップ人もいます。長老で,自らもラップ人のグスタブ・ケイミはこう言います。「特に年配のラップ人に話しかけると,彼らは聖書について話すことさえいけないと考えているような気がするくらいです。ある年配のラップ人の女性は,そっけない態度で,『血の涙を流すようでなければ,聖書を開く資格はないね』と言いました。別のラップ人は,聖書の中を見たがっていた子供に向かって,『だめだめ,子供がおそれ多い聖書を見ては』と言いました」。

しかし,何人かのラップ人は聖書の真理にこたえ応じてエホバの側に立場を定めました。といっても,カタツムリのようなペースの時もありました。あるラップ人が1940年代初めに「救い」という題の本を求めました。彼はその本を学んで内容を心に留めましたが,それについては10年ほど沈黙を守りました。その後,エホバの証人である別のラップ人のもとを訪ねましたが,エホバの証人がたばこやかぎたばこを吸わないのはなぜだろうと思いました。その理由を聞いて,彼は納得がゆきました。そして次にその証人に会うと,うれしそうな様子で,「かぎたばこはもうやめました。子供たちが私のかぎたばこの箱を全部隠してくれたのです」と言いました。この人はその後まもなくバプテスマを受けました。

一歩前進を見た,神権的な結婚式

エホバの証人は良いたよりを「法的に確立する」よう常に努力してきました。(フィリピ 1:7)結婚は神による取り決めであるため,エホバの証人の奉仕者たちはクリスチャンにふさわしい結婚式を行なうことを望みます。しかし1981年3月19日以前は,エホバの証人のカップルは世俗の記録官を介してのみ結婚できました。それ以後は,会衆の任命された監督が,政府の認可を個人的に得て王国会館で結婚式を執り行なうことができます。

それらの監督は認可を得るために,記録官を養成する課程に出席しなければなりません。支部は世界本部の指示のもとにこの課程を設けました。同課程には,婚姻法典,姓名法,住民登録規定,適用される刑法その他の関連した詳細事項が含まれています。次いで,地元の地方裁判所の裁判長によって監督たちの知識と資格がテストされます。その裁判長の推薦に基づいて政府が任命を行なうのです。

証人ではない多くの親族は結婚式に出席するために王国会館を訪れます。結果として,良い証言を受けるほかに,結婚の種々の責務や特権に関する良いアドバイスも受けるのです。この取り決めができる以前に結婚した夫婦の中には,ユーモアをこめて,この神権的な取り決めのもとで再び結婚したいと言う人たちもいます。

一人の新聞記者はある王国会館で行なわれた結婚式の様子について,「美しくて楽しく,ユーモアと温かさに満ちている」と述べて,こう続けました。「神権的な結婚式は国教会のようにひどく形式張ったものでも,儀式の詰まったものでもなく,大げさなところもない。結婚式の威厳を損なわずに楽しい行事となるよう意図されている」。

スウェーデンで3人目の支部委員会調整者

1975年,二人目の支部委員会調整者で当時83歳だったエネロス兄弟は,その立場で50年余り行なってきた忠実な奉仕を振り返ることができました。それらの年月を通して,王国の業は何と立派な成長を遂げたのでしょう! 伝道者は1925年に250人ほどだったのが,その当時は1万6,000人になっていました。エネロス兄弟は心の中で深い喜びとほのぼのとした満足感を覚えながらも,自分の担ってきた責任を別の兄弟が顧みる時が訪れたと感じました。長年エネロス兄弟を補佐してきたベングト・ハンソン兄弟が調整者としての責任を顧みるために任命されました。

自分の神権的な経歴を幾らか述べてほしいと頼まれて,ハンソン兄弟はこう思い出を語っています。「私は16歳の時に父の農場から近くの町に移り,そこで何人かの実の兄弟姉妹と私を交えた聖書研究が始まりました。私は集会に出席し始めましたが,ほどなくしてそれが何を意味するかを悟りました。つまり,朗読をしたり,皆を代表して祈ったり,聴衆の前で話を行なったりするのです。これは困ったと思いました。というのも,私は学校の授業で朗読や実演をするのが大の苦手だったからです。エホバに対する愛と,全時間奉仕に自分の身を全く献げたいという熱烈な願いが大きな助けになりました。けれども,正直なところ,私は自分の弱点のことで悲嘆に暮れていました。即席の話をするよう頼まれたときは,ほとんどパニック状態に陥りました。

「次いで,私はあることを行ないました。その後の人生で自分にとって大変重要な意味を持つようになった事柄です。自分の弱点にすっかり落胆した私は,エホバに祈り,自分の心を開いて真理に導いてくださったことを感謝し,もし必要とあらば死に至るまでも,エホバへの奉仕に自分の命を献げることを約束したのです。そして,決して後戻りしないことを約束しました。

「私の人生の中でこの祈りがそれほど重要な意味を持つようになったのはなぜでしょうか。臆病になっている時にはいつでも,この祈りを必ず思い起こすことができたからです。そのおかげで自分の責務を忠実に果たすことができました。それで,あの祈りをささげて以来経過した40年余りを振り返ってみると,エホバは確かに,時にはユーモラスとも思える仕方で,そこに関係している事柄すべてに気づかせてくださったと言うことができます。

「その時以来,私は割り当ての中に次々に投げ込まれるといった感じで,エホバに全く頼ることを求められました。バプテスマを受けてから半年後の18歳の時に公開講演の割り当てを受け,1年もしないうちに開拓者になりました。8か月後にはベテルに呼ばれ,その後,巡回奉仕に派遣されました。しかも,まだ22歳でした。30歳になって地域奉仕に割り当てられましたが,その奉仕を始める前に,私は妻のウラと共にブルックリンのギレアデ学校で10か月から成る最初の課程に出席するよう招待されました。1961年のことです。その後,私たちはスウェーデンのベテルで奉仕する割り当てを受けました。そして今もそこにおり,力を尽くしてエホバへの奉仕を楽しく行なっています。

「私が元々持っていたあの弱点は果たして克服できたのだろうか,と思われる方がいるかもしれません。まだ残っているとは言いたくありませんが,一応,現在では改善が見られると信じています。主がコリント第二 12章9節でパウロに語られた,『わたしの過分の親切はあなたに対してすでに十分である。わたしの力は弱さのうちに全うされるのである』という言葉は,私にも当てはまると感じています」。

アルボガ ― 新たな中心地

1978年9月8日,一人のたくましい意欲的な兄弟がチェーンソーを手にして,アルボガの郊外にある石の多い山林で最初の木を切り倒しました。理由は何でしょうか。そこを切り開いて,王国の業の新たな中心地とするのです。これを合図に,長期間にわたる計画と協議が終わりを告げ,一群の建物を建設する工事が始まりました。それらの建物は,ある新聞記者が述べた通り,「自発的な作業員によって建てられたものとしては国内で最も際立った,最大級の建物」となるのです。

ヤコブスベリで26年間使用された支部の建物群は,すでに数年前からベテル家族を収容し切れなくなっていました。数多くの祈りが頻繁にささげられ,ふさわしい場所探しを2年間行なった後,建設の地はアルボガと決定しました。そこは便利のよいことに,スウェーデンの2大都市,ストックホルムとエーテボリの間を抜ける,交通量の多いヨーロッパ・ハイウェー3号の近くにありました。

ユニークな建築計画

続く2年半の間,スウェーデンと近隣の国々から来た約5,000人の自発奉仕者が,現場で短期あるいは長期にわたる作業を無償で行ないました。普通,建築作業員は働いている期間中に快適なホテルなどに寝泊まりしませんが,協会は町の中でアパートと部屋を備えた古いホテルを買い取り,それを改修した後,自発奉仕者の住居として使用しました。そのホテルは工事が完了してから売却されました。

建設工事は喜ばしい仕事でしたが,幾つかの問題もありました。今回の組織を担当した一人,ガンナ・ハインシュテットは,「私たちは最初に迎えたあの冬のことを忘れもしません」と述べて,こう続けます。「あれは今世紀中,最も寒い冬の一つとみなされました。ある期間など,基礎の準備中でしたが,気温が摂氏マイナス30度まで下がりました。地面が火打ち石のように固くなったので,現場の大部分を防水シートで覆ってその下に熱風を吹き込まなければなりませんでした。ヒーター代わりに使ったのはドラム缶でした。私たちは仕事を立派に続けたのです。これは,私が建築技師また施工者として働いた35年間の中で,最も喜ばしい経験の一つになりました」。

深く感謝された新しい施設

1980年12月23日は,太陽が午前8時55分に昇って午後2時50分に沈み,アルボガの一年を通じて最も夜の長い一日でしたが,建築期間全体の中では最も輝かしい,幸福な一日となりました。その日,新しい支部がエホバ神に献納されたのです。献堂式の話は統治体のミルトン・ヘンシェル兄弟が行ない,新しい建物を用いながら心をこめて神のご意志を行ない続けるよう兄弟たちを励ましました。

ベテル家族のある成員はこう言いました。「その日,ヤコブスベリの手狭になった支部施設をあとにして,この真新しい広々としたベテルの建物群に引っ越した私たちは,まるで水源地に解き放された子牛のような気分でした」。2万平方㍍の床面積と12㌶の山林および庭を有する支部で,家族は広々とした静かな雰囲気に迎えられました。美しい公園,娯楽施設,様々な果樹,菜園,愛らしい花壇などは,全時間の働き人にとって健全な環境を作り出し,さらに大きな活動を行なうための意欲を高めました。

業を促進する新しい印刷機

新しい工場ができたので,兄弟たちはさらに性能のよい優れた印刷設備を使えるようになりました。古くて速度の遅い印刷機に代わって,ブルックリンからM.A.N.の改良型オフセット輪転機が導入されたのです。その印刷機は5年余り使用されましたが,その後1989年5月に4色刷りの印刷機と交代し,その翌年に同じ種類の印刷機がもう1台設置されました。1990年中,スウェーデン語とノルウェー語による両誌の印刷部数は月産ほぼ80万冊に達しました。工場の監督で支部委員を務めるインイェ・オロフソンは,こう述べています。

「支部で最初の印刷機となった,足で操作し手で給紙するディーゲルは1940年代の代物で,新しい支部の一角に据えられています。まるで博物館の展示品のようで,私たちが長年目撃してきた業のすばらしい発展をほうふつとさせます。それを見ると,『人には不可能な事も,神にとっては可能です』というイエスの言葉を思い起こします」。―ルカ 18:27

王国の関心事のすばらしい進展

スウェーデンでの1世紀近くに及ぶ王国の活動を振り返ってみると,その途上に数多くの障害があったことは明らかです。増大する物質主義,宗教上の無関心や無神論,公の反対や嘲笑,スウェーデン人一般の特徴とも言える控え目な気質などがその例です。こうした様々な障害があっても,エホバの証人は隣人を愛し神を愛するゆえに,良いたよりを隅々に行き渡らせるための努力を続けます。証人たちが携えて来るすばらしい音信に依然として感銘を受ける人たちは少なくありません。

地域監督のエイリック・ノードストレームは,こう思い出を語っています。「妻と私は37年前に旅行する奉仕を開始し,巡回奉仕や地域奉仕をしながらスウェーデンの300以上の会衆を数回にわたって訪問しました。20万㌔余りを旅行し,この細長い国をあちこち回ったのです。北極圏に属する北部の寒い天候やブリザードにも,南部の日ざしや暑さにもひるむことなく前進しました。

「それで,45年に及ぶ全時間奉仕を行なってきた今,スウェーデンでの霊的な進歩に関する感動的な時期を振り返ることができます。古い世が経験したものとは対照的に,神権社会は常に前進を見てきました」。

「王国の関心事はこの国の至る所でしっかりと確立されています」と言うのは,支部の奉仕部門の監督を務めるルネ・グラーンです。こう報告しています。「現在,国内各地には338の会衆が散在しています。その範囲は最南端から,真夜中の太陽が見られる,遠い北極圏内の地まで及びます。スウェーデン語では15,外国語では八つの巡回区があり,地理的には全国をカバーする,四つの大会ホールで定期的に集い合っています。1990年8月には王国伝道者が2万2,742人の最高数に達し,その中のほぼ1,700人は正規開拓者でした。1990年の記念式には3万8,339人の出席者が見られたので,わたしたちがこの業を続行するのをエホバがお許しになる限り,増加は今後も見込まれます」。

長年の間に,スウェーデンの業は一歩一歩前進を見てきました。兄弟姉妹たちは,根気と信仰,それに忍耐を示してきました。そして,自分たちの天の父がその地上の組織を通して表明される願いに忠節かつ熱心に従い続けています。それゆえに,エホバが引き続き祝福してくださるという確信を抱いて将来を待ち望んでいるのです。また,わたしたちの神に忠節であり続けることを絶えず祈っています。その方は,他の200以上の国や地域はもとより,スウェーデンでも同様の驚くべきことを行なっておられます。「あなたは大いなる方であり,驚くべきことを行なっておられるからです。あなたが,ただあなただけが神なのです」― 詩編 86:10

[185ページの図表]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

スウェーデン 28,000

1950 4,460

1960 8,593

1970 11,696

1980 17,311

1990 22,742

伝道者最高数

4,000

1950 178

1960 314

1970 754

1980 1,190

1990 2,724

平均開拓者数

[116ページの囲み記事/地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

大西洋

ノルウェー

北海

デンマーク

コペンハーゲン

スウェーデン

キルナ

北極圏

ヘルネサンド

スンツバル

ウプサラ

アルボガ

ヤコブスベリ

エーレブルー

グルムス

ストックホルム

エーテボリ

マルメ

バルト海

フィンランド

[囲み記事]

スウェーデン

首都: ストックホルム

公用語: スウェーデン語

主要な宗教: ルーテル派

人口: 857万4,698人

支部事務所: アルボガ

[118ページの図版]

スウェーデンの秋日に多く見られる憩いの場

[129ページの図版]

ルーサ・グスタブソンとアーサー・グスタブソンは一緒に59年間,王国を活発に宣べ伝えた

[136ページの図版]

北欧諸国の監督たち。左から右に向かって: テイラー(ラトビア),エネロス(スウェーデン),ハルテバ(フィンランド),デイ(総監督),ルティッチャウ(デンマーク),エーマン(ノルウェー),ウェスト(エストニア)

[137ページの図版]

ヨハン・H・エネロスは1925年に支部の監督になった

[139ページの図版]

ウィリアム・デイは1925年に協会の新しい北欧事務所の監督になった

[140ページの図版]

ストックホルムのルントマカレ通り94番の支部事務所は1929年に購入され,王国の関心事を顧みるために25年間使用された

[141ページの図版]

良いたよりは,スウェーデン北部の森の奥地まで届いた

[143ページの図版]

ある日曜日にストックホルムの郊外で全員が宣べ伝える準備を整えたところ

ルレオーから来たあるグループが,北極圏の真南で宣べ伝えるために自動車に乗って出かけようとしている

[145ページの図版]

アスタ・リチャードソンとアクセル・リチャードソンは1936年中,エームトランド県で奉仕した

[147ページの図版]

イォーでは広さ5,000平方㌔の区域を網羅するため,初期の証人たちが小型バスを使用した

[150ページの図版]

王国の奉仕を行なうのに年齢が若すぎることは決してない

[155ページの図版]

良いたよりを告げ知らせるために携帯用蓄音機が用いられた。それらの蓄音機を“第2のアロン”と呼べたのはなぜだろう

[160ページの図版]

ベルナムーで母親と一緒に良いたよりを知らせる年若い伝道者たち。1946年

サンドイッチ式の広告板で公開集会を宣伝する人たち。ストックホルムにて

[170ページの図版]

1954年から1980年までヤコブスベリに置かれた支部事務所

[176,177ページの図版]

アルボガにある支部事務所とベテル・ホームは,1980年12月23日に献堂された。協会の会長F・W・フランズが,白いヘルメットをかぶって完成間近の支部の建築現場を訪れた

[178ページの図版]

支部委員。左から右に向かって,オーケ・カールソン,ルネ・グラーン,ベングト・ハンソン,インイェ・オロフソン

[183ページの図版]

新しい印刷機が古いM.A.N.の輪転機に取って代わる。新しい印刷機は多色刷りで聖書の出版物を印刷する

[184ページの図版]

ゴトランド島のユプビークで漁師たちに,また南部の小さな都市ユースタードのある家の裏庭で証言しているところ