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全世界の報告

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アフリカ

邪悪な者は「待ち伏せして座り,隠れ場から罪のない者を殺します」と詩編作者は述べました。(詩編 10:8)幾世紀もの間エホバの崇拝者は,邪悪な者の悪意のために罪のない犠牲者となってきました。アフリカのある地域では今日でもそのような事態が続いています。

リベリアで起きた内戦のため,33人の兄弟が殺されたほか,衣類だけを背負って自国を離れ,コートジボワールやシエラレオネへ逃げなければならなかった人は少なくありません。リベリアとコートジボワールの国境にある二つの都市に設置された救援委員会は,困窮したこれらの難民の世話をしただけでなく,リベリアに残って苦しんでいるエホバの証人に救援物資を送りました。コートジボワールとシエラレオネとガーナのエホバの証人は,衣類や医療品,食糧やお金をトラックで大量にリベリアへ送り込みました。アビジャンの兄弟たちも救援に駆けつけ,緊急に援助を必要としていた大勢の難民を親切に世話しました。

これらの兄弟たちの中には,身の毛もよだつ衝撃的な経験をした人が少なくありません。例えば,リベリアの首都モンロビアで奉仕している一人の長老はこう述べています。「1990年7月27日午前2時ごろ,私と家族は強制的に家から連れ出されました。反乱軍は私たちを無理やり歩かせ,外で数百人の隣人と合流させました。私たちは,付近の捜索はすぐに終わって家に帰れると言われていました。でも,家を見ることは二度とできませんでした。それどころか,約50㌔離れた主要な難民キャンプに連れて行かれました。妻のおばは病気だったので,私がずっとおんぶしていました。私たちは,あちこちに散らばっている死体を見ながら,エホバに力を求めてひたすら祈りました。

「反乱軍の兵士に後ろからせき立てられ,悪夢を見ているような気持ちでよろよろと1時間ほど歩いたところ,待ち伏せしていた政府軍に出くわしました。銃弾が四方八方から飛び交う中,私たちは地面に伏せていました。殺された人が大勢いましたが,逃げた人もいました。ふと,14歳の息子がいなくなっていることに気づきました。間もなく,町の人々のうち私たちを含めて45人が捕まって,放置されていたガソリンスタンドに連れて行かれました。そこで全員処刑されることになりました。一人の兵士が私を撃つために銃を取りましたが,銃に挿弾子をセットすることができませんでした。その時,軍の司令官が到着して,私たちを兵舎に連れてゆくよう命令しました。その夜,9人が処刑されました。私たちは忠実を保つことができるようにとエホバに祈りました。

「翌朝,司令官は全員を解放することにしました。そして,軍のトラックに乗せていってやろうとさえ言いました。私たちはそれを断わりました。その代わり,妻のおばを乗せるために手押し車を借りて,自分たちだけで出発しました。目的地に向かって半分ほど進んだころ,軍のトラックが爆音を立てながら追い越してゆきました。トラックが前方の交差点に差しかかった時,耳をつんざくような爆発音があったと思うと,激しい銃撃戦が始まり,約30分続きました。流れ弾が音を立てて四方八方から飛んでくる中,私たちは慌てて隠れ場を探しました。乗せてやろうと言われた軍のトラック隊は全滅しました。私たちは司令官の申し出を断わって本当によかったと思いました。

「妻は妊娠5か月だったにもかかわらず,たった1日で約58㌔の道のりを見事に歩きとおしました。私たちはまだまだ逃げなければなりませんでした。あるレバノン人の兄弟が私たちの苦境について知り,国を脱出するための唯一の手段であった古いバスに乗る料金を払ってくれました。

「ようやく私たちは国境を無事に越えて,コートジボワールに着きました。でも悲しいことに,先ほど述べた待ち伏せ攻撃の間に14歳の息子とはぐれてしまいました。息子は殺されてしまったものと思いました。ところが非常にうれしいことに,6か月してから,息子が生きていることが分かりました。そして,ここコートジボワールで一緒に暮らすように計らいました」。

恐ろしい経験をしたエホバの証人はほかにもいます。ナイジェリア人のクレメントは,モンロビアに17年間住んでいましたが,逃げることを余儀なくされました。反乱軍は国じゅうのナイジェリア人とガーナ人を駆り出していたので,クレメントも反乱軍に捕まれば,撃ち殺されてしまいます。クレメントはモンロビアからコートジボワールのダナネの安全な場所に行くまでの間に,100ほどの検問所を通らなければなりませんでした。クレメントは,自分が外国人で,国外に脱出したいのだと言って,これらの検問所のほとんどを通過できましたが,この説明の通用しない検問所があり,処刑されることになりました。クレメントは,殺される前に立派な証言をしようと思い,司令官に神の王国について話し,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を見せました。面食らった司令官は,大声でこう言いました。「いいか,おれたちには今すぐやらなければならないことがあるんだ。そっちが終わったら,お前が言うことも聞いてやる。さっさと行ってしまえ」。

後にクレメントはこの出来事を振り返って胸をなでおろしながら,エホバのみ名は強固な塔であるという箴言 18章10節の意味がよく分かると述べました。残りの検問所をなんとか通過できたのも,エホバのみ名を用い,神の王国を宣べ伝えたからにほかなりませんでした。ついにクレメントはコートジボワールとの国境を越え,安全な所にたどりつきました。最近,支部の成員の一部はリベリアに戻ることができました。

悲しい経験をしている国ばかりではありません。モザンビークからはうれしい知らせが届いています。1991年2月11日にマプトの政府は,モザンビークのエホバの証人という名称の法人に法的認可を与えました。わたしたちはこのような事態の進展を本当に喜んでいます。宣教者たちがモザンビークに居住できるようになったからです。妨害されずに書籍や雑誌を国内に持ち込むこともできます。宣教者の家が三つの都市に設けられ,合計18人の宣教者が住んでいます。それぞれの家には協会の倉庫があります。

それでも,この国ではゲリラ戦が続いているので,若い人々は中立を保ち,エホバへの忠節を表わすことが必要です。ろうあ者である12歳の少女は,反乱軍に不道徳な目的で誘拐されました。それでも,少女は聖書の原則にしたがって両親からよく訓練されており,誘拐者たちに犯されそうになりましたが,きっぱりと拒みました。この若い姉妹は,不道徳が神の律法に反することを示すために天を指差しました。少女は堅い決意を保ったため,誘拐者たちに一日中ひどくたたかれました。彼らは,少女が死んだものと思い,置き去りにしました。少女は2か月後,捕まっていた間一緒にいた女性に付き添われて両親のもとに戻ってきました。その女性は,「ご両親がこのお子さんにどんなことを教えてこられたかは知りませんが,お嬢さんの道徳的な振る舞いには感銘を受けました。兵士から圧力をかけられても決して言いなりになりませんでした。本当にすばらしいお子さんです。皆さんはどんな宗教を信じておられるのですか」と言いました。この耳の聞こえない姉妹が確固とした立場を保ったため,今その女性はエホバの証人と研究しており,真理を学ぶ点でよく進歩しています。

アジア

ダビデ王は昔,「あなたの祝福はあなたの民の上にあります」と歌いました。(詩編 3:8)今日でも,エホバの祝福はその民の上にあります。アジア諸国に住むエホバの証人はその事実を証明できます。

韓国の一人の姉妹が「医療上のお願い」のカードを携帯していたおかげで命拾いしたいきさつは,少し変わっています。その姉妹は車をとめて外に出た時,いきなり4人組の男に襲われて,車の後部の床に押し込められました。姉妹は助けてもらうために指輪と財布を差し出しましたが,許してもらえませんでした。突然,性的暴行を受けるかもしれないという恐ろしい考えが頭に浮かびました。それで,姉妹は声を限りに叫び始めました。一人の男が大声で「殺すしかないな」と言いました。姉妹は足を刺されました。男たちはテープで姉妹の目を覆い,両足を縛りました。姉妹は必死になって,エホバのみ名を声に出して,泣きながら祈り始めました。

男たちは急に黙り込みました。しばらくして一人の男が,「おい,お前はエホバの証人か」と尋ねました。男たちは姉妹の財布の中身を探った時に,「医療上のお願い」のカードを見つけていました。男たちは姉妹を殺さないことにして,姉妹の家の近くまで車に乗せて連れて行きました。そして,車の中に姉妹を置き去りにして,すばやく姿を消しました。姉妹は,これらの男たちがみな不法な行為を悔い改めて,エホバの崇拝者になるよう祈っています。

日本でも他の多くの国と同様に,働きに出る主婦がどんどん増えており,家でそうした人に会って良いたよりを伝えるのは難しくなっています。それで,新潟市に住む一人の開拓者の姉妹は,市の中心部には人がいるので,そこで王国の音信を伝えようと思い,会衆からビジネス街の区域をもらって伝道を始め,会社勤めの人に会って,手短に家庭聖書研究を勧めました。「見よ! わたしはすべてのものを新しくする」のブロシュアーを用い,少しでも関心を示した人をすべて再訪問しました。姉妹は関心を持つ人に,喫茶店やデパートの休憩所や公園で昼休みに30分ほど研究できることを伝えました。1回の研究で学ぶ要点は一つに絞るようにしています。一時はこのビジネス街で見いだした研究が8件になったこともありました。

香港<ホンコン>島には,6万人以上のフィリピン人が中国人の家庭で使用人として働くために来ています。これらの人々の大半はローマ・カトリック教徒です。そのような人にエレベーターで会ったある姉妹は,聖書についてもっと知りたいと思いませんかと簡潔に尋ねました。すると,「聖書についてもっと知りたいと祈っていたんです」という答えが返ってきたのです。早速,聖書研究が始まりました。

キプロスのニコシアに住む若い伝道者はこのように書いています。「ぼくの名前はマルコスです。年は12歳です。宗教のクラスで先生が,宗教に関する3回の授業を計画されました。ぼくは『神を探求する人類の歩み』の本を忘れずに授業に持っていきました。そして,最初の授業が始まる前に,先生に本を見せました。先生は本をぱらぱらと見て,机の上に置かれました。しばらくして先生は,『学校で配った本よりも詳しいことが書いてあるので,マルコス君が持ってきてくれた本を授業で使うことにします』と,クラスのみんなに言われました」。マルコス少年は最後に,「若い伝道者はみんな,協会の出版物をいつも学校へ持っていくとよいと思います」と書いています。

スリランカで,生まれた時からローマ・カトリック教徒だったルーカスが聖書研究を始めました。ルーカスは,ある仏教徒が所有している漁船に乗り,4人組で働いていました。雇い主は,海の神が漁を祝福してくれるよう願っていたので,ヒンズー教徒と仏教徒の両方にとって有名な崇拝の中心地へ巡礼に行くよう乗組員に言いました。ルーカスは,エホバが唯一まことの神であると信じているので一緒に行けないと説明しました。船の所有者は,「一緒に行くか,首になるかのどちらかだ」と厳しく言いました。ルーカスは,すぐに仕事をやめました。そして自分の村に帰り,幾日もしないうちに別の船で仕事を見つけました。今では,研究も定期的にすることができます。

タイに住むバンナムという若い既婚女性が聖書研究を始めた時,彼女の両親は病気になりました。祈とう師にみてもらったところ,娘が宗教を変えたことを死んだ先祖の霊がよく思っていないので,病気を治したければ娘の聖書研究をやめさせなければならないということです。両親は娘に研究をやめてくれと言いました。バンナムと研究していた特別開拓者は,死者の霊が問題を起こしているはずがないこと,むしろそれは邪悪な霊者であることを聖書から両親に説明しました。(伝道の書 9:5,6)すると両親は,娘を遠くへ追い払うしかないと言いました。しかし特別開拓者の姉妹は,聖書が親を愛するよう子供に教えていること,またバンナムは両親を愛しているので世話をするために一緒に生活したいと願っていることを説明しました。母親はそれを聞くと心がなごみ,姉妹と一緒に町へ行って,医師に診てもらうことに同意しました。医師はどこも悪いところはないと診断しました。家に帰る途中,雨が激しくなり,時間も非常に遅くなっていたので,特別開拓者は母親に,うちに泊まっていきませんかと言いました。翌朝,バンナムの母親はすがすがしい気分で目覚め,とても興奮していました。呼吸困難になることもなく一晩中ぐっすり眠れたからです。父親は,妻がこのように健康になったことを知ったとき,心霊術に関係のある装飾品をすべて捨てることに同意しました。すぐに父親も健康になりました。今では,バンナムはバプテスマを受け,夫も献身を目ざして進歩しています。

ミャンマーに住んでいるザンは軍人でしたが,除隊した時にはすっかり希望をなくしていました。絶望の生活が始まったことには次のようなわけがありました。反乱軍との激しい戦いの間に,ザンが身をひそめていた掩蔽壕の近くで砲弾が爆発しました。掩蔽壕は崩れて,体が半分埋もれてしまいました。がれきの中から助け出してはもらったものの,足がまひして動かないことが分かり,がっかりしました。ザンはすぐ除隊になりました。希望もなく,自分の不幸を嘆くようになり,神への信仰をすっかり失って,自殺を考えていました。ちょうどそのころ,特別開拓者の兄弟がザンの近所の人を訪問し,定期的に聖書研究を司会していました。ザンは,だれが定期的に訪問しているのかを知るとすぐに,特別開拓者を自分の家にも呼びました。特別開拓者は聖句を使ってザンを慰め,聖書研究が始まりました。ほどなくしてザンは,これは真理であるに違いないと思い,熱心に他の人に証言し始めました。また,8㌔ほど離れた王国会館で開かれている集会にも出席したいと思いました。それで古い自転車の車輪を手に入れて,自分で車椅子を作りました。ザンは強い決意のもとに,王国会館に行く途中の幾つかの坂を車椅子で一生懸命上ったり下りたりしながら,定期的に集会に出席しています。苦々しい失望は,より良い将来に対する輝かしい希望に変わっています。

ヨーロッパ

「わたしたちの魂は,えさでおびき寄せる者のわなから逃れた鳥のようだ。わなは破られ,わたしたち自身逃れることができた。わたしたちの助けは……エホバのみ名にある」。(詩編 124:7,8)この歌は,東ヨーロッパの兄弟たちをたいへん適切に描写しています。

昨奉仕年度はソ連のエホバの証人の歴史上,特筆すべき年になりました。伝道者と開拓者の記録的な最高数が得られたうえ,書籍の配布は7回,雑誌の配布は10回最高数に達し,兄弟たちにとっては,新たに得られた自由を歓ぶ理由がさらに増えました。これらの最高数が得られたのも,出版物の荷物を初めて大量に受け取ることができたからです。

1991年3月18日,月曜日,ドイツの支部から約20㌧の出版物を載せた最初のトラックがソ連へ向けて出発しました。以前には,兄弟たちは出版物を小包で郵便によって受け取っていました。トラックに積み込んだ最初の出版物が届いてから,状況はどうなったでしょうか。

リボフ市の長老が突然の電話を受けたのは真夜中のことでした。ドイツ支部からの電話です。黄色の運転台に青色の車体をつけた大型トラックに,ソ連という行き先のスタンプを押した出版物を積み込んでいるとのことでした。両者はソ連とポーランドの国境で待ち合わせることになりました。ソ連のエホバの証人が国境に到着した水曜日,空は荒れ模様になっていました。身を切るような寒さと雪混じりの雨を物ともせずに,不屈の精神を持つ兄弟たちは交替で,国境に近づいてくるトラックを一台一台ひとみを凝らして見つめました。一人の兄弟は,「この記念すべき瞬間を何十年も待っていました。ですから,何時間待つとしても,何日待つとしても特権だと思います」と感慨を込めて語りました。

ついに3月22日,金曜日の朝8時ちょうど,黄色の運転台に大きくて長い青色の車体をつけたトラックが国境に向けて走ってくるのが見えました。兄弟たちは天に向かって心からの祈りをささげました。トラックは国境を越えてソ連領に入りました。二人の税関職員は当惑しながら大量の出版物を見つめ,この状況をどう扱ってよいかが分からず,話し合いを始めました。書類と積み荷の検査が終わると,職員はうなずき,さっと手を振ってトラックを通過させてくれました。兄弟たちはその時のことを振り返って,「私たちは喜びを抑えきれませんでした。何十年も厳しい迫害を受けた後,兄弟たちはついにあふれるほどの霊的食物を受け取ったのです」と語りました。

積み荷を下ろす許可が出ました。70人以上の兄弟たちが仕事を手伝おうとして今か今かと待ち構えていました。兄弟たちは“ベルトコンベヤ”のように2列になり,音楽のリズムに合わせるかのように,手渡しで手際よく出版物の入った箱を運びました。翌日の土曜日には,兄弟たちがこの広大な国の各地からはるばる出版物を取りに来ました。最初に到着したのは,約3,500㌔の道のりをやって来た二人の兄弟でした。そのうちの一人は,「エホバ神はどんな人間にもできないことをなさいました。わたしたちはその出来事の目撃証人です」と述べました。

東ドイツのドレスデン市からは,このような経験が寄せられています。「妻と私は長いあいだ私の両親を真理に引き寄せようとしてきましたが,反対されるばかりでした。そんな時,1988年11月に妻は3週間入院しなければならなくなりました。やむを得ず,1歳半になる娘のサラを私の両親にあずけることにしました。

「まさに最初の日からいろいろなことが起きました。朝食の時サラは,どうしておばあちゃんとおじいちゃんは座ってすぐに食事を始めるのだろうと思いました。それで,おばあちゃんをひじでつついて手を組み,『おばあちゃん,お祈り』と言いました。サラは頭を垂れて,目をしっかり閉じていましたが,何も聞こえてこなかったので,もう一度お願いしました。ついにおばあちゃんはサラの願いが分かり,ルーテル教会のやり方で祈りました。その夜,私はどんな宗教に入っているのかと母から聞かれました。母は,私たちが教会を脱退したことしか知らなかったのです。以前は,それ以上のことを説明させてもらえませんでしたが,今回は説明できました。母は,いつも私たちがサラに接しているのと同じようにサラに接してあげようと言ってくれました。それで,『わたしの聖書物語の本』を母に渡しました。サラには毎晩一つの物語を聞かせてやっていたからです。

「サラは毎晩,三つか四つの物語をおばあちゃんに読んでもらいました。時々サラが物語をさえぎって続きを自分で話すので,おじいちゃんとおばあちゃんはサラが持っている聖書の知識に驚きました。おばあちゃんは,自分が毎晩サラに読んで聞かせていることにだんだん興味を持つようになりました。私たちは1990年5月に私の両親と家庭聖書研究を始めました。やがて両親は教会を脱退し,私たちと一緒に集会に来るようになりました。1年後の1991年5月に,母はバプテスマを受けていない伝道者になり,今ではバプテスマの準備をしています。父も大変よく進歩しています。私たちが非常に長い間努力しても成功しなかったことを,エホバが幼い娘と『聖書物語』の本を用いて成し遂げてくださったことに感謝しています」。

オーストリアでは,多くの若者が真の崇拝の側にしっかりと立っています。これはメラニーという11歳の少女の例です。家庭の事情で,メラニーの親権は母親から義理の姉にゆだねられました。義理の姉夫婦はエホバの証人と聖書研究を始め,メラニーもそれに参加するようになり,全員よく進歩しました。メラニーはカトリック教会から脱退したいと思いましたが,オーストリアの法律では14歳にならないと脱退できないことになっていました。メラニーはあきらめたでしょうか。いいえ,メラニーは青少年福祉事務所の所長の所へ行き,自分の願いを伝えました。面接の後,所長はメラニーにこのような手紙を書きました。「私はいろいろと考えた結果,あなたがカトリック教会をやめることに賛成してることをお伝えしたいと思います。でも,今の法律では,地元の裁判所が私の決定に同意してくれることも必要です」。それでメラニーは,たった一人で裁判官の前に立ち,教会をやめたいと思っている理由を説明しなければなりませんでした。1990年9月21日に,地元の裁判所から有利な決定が送られてきました。11歳の少女の大変すばらしい勝利です。メラニーは今,バプテスマを受けていない伝道者として宣べ伝える業に喜んであずかっています。

フィンランドのある女性は,自動車事故で重傷を負って病院のベッドに寝ていたとき,『もし自分の命が終わっていたとすれば,これが人生のすべてだったのだろうか』と考えました。その女性は家に帰ると,答えを求めて聖書を読みましたが,見いだすことができませんでした。それで,ため息を漏らしながら,「天の神よ,どうか人生の目的とは何かを教えてください。それが聖書の中に書かれているはずであるということは知っています。心からお願いします。理解できるよう助けてください」と言いました。10分もたたないうちにドアのベルが鳴りました。戸口に立っていたのは,温かいほほえみを浮かべたエホバの証人でした。その女性はこう述べました。「ショックでした。最初は,『まさか,だってこの人はエホバの証人でしょ』と思いました。でも,そこをぐっとこらえて,中に入ってもらいました。それ以来,聖書についてだんだん理解できるようになっています」。

ラテンアメリカ

「わたしはエホバをその義にしたがってたたえ,至高者エホバのみ名に調べを奏でよう」。(詩編 7:17)昨奉仕年度中,ラテンアメリカに住む伝道者たちはこのダビデの詩編を常に念頭に置いていました。

創造は,学校の授業で進化と同じ時間数教えられるべきでしょうか。エクアドルではこの質問がしばしば持ち上がります。港湾都市グアヤキルでのこと,一人の教師は「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」の本の内容を104人の生徒と考察することにしました。昨年1月の学期末に,この教師は生徒たちに一連の質問をしました。そのうちの一つは,「この授業で学んだ科学的証拠と聖書からの証拠をすべて考慮してみると,生命の起源についてあなたはどんな結論に達しましたか」という質問でした。答えの圧倒的大多数は神による創造を支持していました。ある生徒はこう答えています。「地球とそこにあるすべてのものが,ある完全な方によって存在するようになったに違いないという結論に達しました。地球に住む人間に関して目的を持った,非常に愛情深い方がおられたに違いありません。生きた人間のような複雑なものが偶然に生まれたと考えるのは理屈に合いません。生命ほど複雑なものを人の力で造り出すことはできません」。

聖書の真理から非常に大きな影響を受けたため,この教師は1990年12月にバプテスマを受けました。その時の地元の巡回大会でバプテスマを見ようと42人の生徒が出席しました。さらにそのころ,グアヤキルでは31人の生徒がエホバの証人と聖書を研究していました。

ガイアナの奥地のモルカ川の近くに住む一人の聖書研究生は手紙で研究しています。彼女はキリストの死の記念式の夜にエホバの証人と共に清い崇拝に参加したいという強い願いを持っていました。丸木でできたカヌーを大金をはたいて借り,13歳の息子と12歳の娘を連れて,21時間漕いでチャリティーにある最も近い会衆に行きました。それは,モルカ川を下って大西洋に出て,ポメルーン川を漕いでさかのぼり,再び内陸に入るというコースでした。晩の9時30分に出発し,途中1時間だけ止まって休憩をとり,翌日の午後6時20分に到着しました。記念式が終わると,直ちに帰らなければなりませんでした。カヌーは1日単位で借りていたからです。彼女はバプテスマを受けていない伝道者で,記念式の時には妊娠4か月でした。

昨年の3月,ベネズエラで一人のローマ・カトリックの司祭が出版物を求めて支部事務所を訪れました。それから,幾つかの教義的な点についてだれかと話し合いたいと言いました。司祭の自己紹介によれば,彼は65歳を過ぎ,37年間司祭を勤めています。司祭になるためにイタリアのローマで学びました。ここ4年間,カトリック教会の公会義に関連した資料をずっと読んできて,驚くべきことに気づいたのです。司祭はこう言いました。「教会は真理からかけ離れています」。

そして,こう述べました。「生まれてこのかた,聖書をじっくりと読むようになったのは最近のことですが,困っています。教会の教えは聖書と調和していないのです。私には教える務めがありますが,うそを教えることは良心が許しません。この苦しみから抜け出す方法を探しているところです。私は全生涯を教会にささげてきました。もう年をとっているので,この年で何ができるでしょうか。仕事が見つかるでしょうか。私は立派な家に住んでいて,高級車に乗っていますし,蓄えもあります。しかし,教会を脱退すれば全部失うことになります。どうすればいいのか分かりません」。

兄弟は,エホバがご自分に仕える者たちをお見捨てにならないことを確証する聖句を幾つか司祭に見せました。司祭がギリシャ語を学んでいたことを知ったこの兄弟は,「ギリシャ語聖書 王国行間逐語訳」を見せて,司祭の注意をマタイ 10章28節に向けました。興奮した司祭は声高にこう言いました。「これはまさに単純明快だ。明らかに魂は死ぬのだ! では,これもまたうそだったわけだ!」

しばらく話した後兄弟は,司祭が支部事務所に来た理由を尋ねました。司祭はとても興味深い話をしてくれました。カラカスにある彼の教会に14歳の伝道者が入って来て,祈っている一人の女性を見つけ,司祭がどこにいるか尋ねました。彼女は,「奥にいらっしゃるわよ」と答えました。そこでこの若い兄弟は教会の奥に入って,司祭の仕事部屋を見つけました。「何の用ですか」と司祭は少年に尋ねました。若い伝道者は,聖書について話しに来たと言いました。そして,大いなるバビロンが滅ぼされること,また司祭が偽りの宗教から出ないなら共に滅ぼされてしまうことを話しました。司祭は,14歳の少年が自分ほどの年齢の人に,これほど多くの事柄を非常に大胆に説明できることに驚いて,あ然としてしまいました。若い伝道者は司祭に支部事務所の住所を教えました。そういうわけでこの司祭は事務所にやって来たのです。

2時間ほどの話し合いの後,司祭は帰って行きました。わたしたちは,この司祭が上位の僧職者に勇敢に立ち向かい,真理を受け入れることを願っています。

北アメリカとカリブ海諸島

北アメリカとカリブ海諸島の証人たちはダビデの次の言葉を響き渡らせます。「わたしの魂よ,エホバをほめたたえよ。わたしの内にあるすべてのものよ,その聖なるみ名をほめたたえよ。わたしの魂よ,エホバをほめたたえよ。そのすべての行ないを忘れてはならない」― 詩編 103:1,2

時々,関心を示す人が,年を取り過ぎていて宗教を変えることはできないという態度を取ることがあります。しかし,カナダのブリティッシュコロンビア州に住む高齢のある婦人は,そのような見方はしません。彼女は美術の教師,また聖公会の主立った支持者でしたので,住んでいた小さな地域社会ではよく知られていました。教会の祭壇は彼女のお金で購入したものでしたし,礼拝の際には信徒奉仕者を勤めていました。聖書に関心があったので,何年もの間彼女は地元のエホバの証人の雑誌経路に含まれていましたが,それ以上進歩しませんでした。今から5年ほど前,娘夫婦が,表向きは高齢の母親を助けるという名目で彼女の家に引っ越してきました。しかし,二人はエホバの証人に反対し,老人ホームに入るよう彼女にしつこく言いました。彼女にしてみれば,それは全く不意なことでした。それで,娘と義理の息子が休暇で家を空けている間に,彼女はモービルハウスに移り住みました。

ようやく,一人の姉妹が単刀直入に聖書研究の方法を示し,聖書を研究することに関心があるか尋ねました。彼女は,「いつ言い出してくれるかしらと思っていました」と答えました。彼女は誠実に聖書を信じていたので,「聖書にそう書いてあるのでしたら,その通りに違いありません」と言いながら,聖書の基礎的な真理を急速に理解してゆきました。しかし,教会には通い続けていました。そうすれば仲間の教会員を助けることができると思ったからです。

研究を始めて1年半たったころ,聖公会の大主教が教会の基金を横領し,妻を持つ身でありながら,秘書と一緒にカリブ海でバカンスを過ごしていたということを知りました。さらに,大主教が今度は基金横領の罪を教会の執事になすりつけようとしていることも知りました。この事件の全ぼうは,教会の白熱した公開討論の最中に明るみに出ました。討論中,彼女は皆の前で大主教を「偽善者!」と呼んで教会から歩き去り,大きな音を立ててドアを閉め,二度と戻りませんでした。

王国会館の集会に初めて出席したとき,彼女はこう述べました。「こんなに大勢の男性がいて,会衆の仕事に活発に打ち込んでおられるなんて信じられませんわ。私がいた教会では,男性は来るとしても少数でしたし,座って居眠りをしているだけでした」。1990年9月29日に,彼女は87歳でバプテスマを受けました。

一人の巡回監督は最近グリーンランドを訪問し,「奇跡が起きています。しかも,これは氷山の一角に過ぎません」と言って歓びました。大勢の新しい人々が集会に出席しており,研究が始まり,新しい方々が野外宣教に参加し,バプテスマを受けています。

新しい人々の中には,エホバとの是認された関係を持つために長い間闘わなければならなかった人がいます。一例として,アンディー(仮名)という30代半ばの男性がいます。彼はユーニス(仮名)という女性と一緒に暮らしていました。アンディーはアルコール中毒者で,悪い仲間と付き合っていました。そのため二人の関係は徐々に損なわれ,時々良心の呵責がけんかという形になって表われました。しかしそのころ,ユーニスが聖書の研究を始めました。そして,エホバの目に受け入れてもらいたいなら,自分の生き方を清算しなければならないことを徐々に理解するようになり,アンディーのもとを去りました。

それによってアンディーは自分の陥っている状況を理解しました。自分は酒を選び,ユーニスはクリスチャンの生き方を選んだわけです。ユーニスは進歩を続けて,バプテスマを受け,会衆の熱心な姉妹になっています。

その後アンディーは研究を依頼しました。幾らか霊的に進歩し,学んだ事柄を歓びましたが,依然として昔の弱さに逆戻りしました。集会にはほんのたまにしか出席せず,悪い仲間たちから離れていることができませんでした。1989年,アンディーは地域大会に出席し,それが転機になりました。今度は問題を克服できることを信じ,医師のところに治療を受けに行きました。入院することになりましたが,退院して家に帰ると,会衆は直ちにアンディーを援助しました。アンディーは言います。「霊的な事柄に打ち込むためのずっとよい基盤ができていたと思います。酒をやめて,生活は安定しました。会衆の新しい仲間が以前の仲間に取って代わりました。エホバとの関係は一層現実味を帯びるようになり,これでようやく祈りによって神に近づけると感じました。それ以来,祈りは私にとって大変重要なものになりました。とても頻繁にエホバに祈ってきましたし,エホバは祈りに答えてくださいました。誘惑が余りに強く,悪いことをしたいという欲求に負けそうになった時には決まって,王国会館の友人にばったり出会ったように思います。友人は新しい生き方をしっかり続けるよう励ましてくれました」。

アンディーが酒をやめてから今年で3年目になります。神の言葉とその霊とその組織が助けになりました。アンディーは伝道を始め,昨年の8月にゴットホープ(ヌーク)で開かれた「自由を愛する人々」地域大会でバプテスマを受けました。

人がエホバの崇拝に加わろうと決心するとき,身体上の障害は何の妨げにもなりません。グレナダ島に住む,現在17歳のケンウィンの例を考えましょう。彼は4歳の時に転落して重度の歩行障害を持つようになりました。大きくなるにつれ,歩行はますます困難になりました。15歳になるころまでには,木製の松葉杖がなければ歩けなくなっていました。歩行障害を治すために17歳の時に受けた手術は失敗に終わりました。

ケンウィンがエホバの証人の宣教者と聖書の研究を始めたのはそのころでした。聖書の知識を取り入れる点ではよく進歩しましたが,家から家の宣教でその知識を他の人たちに伝える活動に誘われると躊躇していました。体の障害のために恐れていました。そして,「心の準備ができたら,僕のほうから教えますから」と決まって答えました。身体障害を抱えながら定期的に家から家に伝道している証人たちの経験を,「目ざめよ!」誌や「ものみの塔」誌の中から自分で読むよう勧められました。そのような経験を読んだ後,彼は宣教者にこう宣言しました。「もう準備はできました」。

まさにそのとおり,彼は準備ができていました。野外宣教に参加した最初の月には,他の人たちに証言するために19時間を費やしました。翌月には63時間を報告しました。昨年の3月にバプテスマを受け,次の月には補助開拓奉仕をしました。丘の多い伝道区域を,松葉杖をついて歩いて上ったり下ったりしているケンウィンの姿を見ることができます。彼は,会衆の皆にとって何と際立った模範,また励ましの源となっているのでしょう。丘が多くても,それをものともせずに伝道するので,兄弟たちは彼のことを親しみを込めて,「4WD」と呼んでいます。

太平洋の島々

「彼は海から海に至るまで,川から地の果てに至るまで臣民を持つことになります」と,詩編 72編8節は予告していました。この言葉にたがわず,大いなるソロモン,キリスト・イエスは世界中に臣民を持っておられ,太平洋の島々も例外ではありません。

グアム支部が管轄する太平洋西部の小さな島々や環礁の住民は,様々な言語で証言を受けています。「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という本はこれまでにも多くの家で配布されてきました。ある島からはこのような経験が寄せられています。その本を受け取った女性は,教会の牧師をしている父親が説教中に壇上で赤い本を使っていることに気づきました。説教が終わって彼女が見ていると,父親はほかの人に気づかれないように本をそっとかばんの中にしまいました。しかし彼女には分かりました。それで礼拝が終わってから,「ねえ,どうしてあの赤い本を使っているの」と尋ねてみました。「あの本には本当のことが書いてあるからだ」という答えです。どこでその本を手に入れたのかと聞いてみると,「お前の本だよ」ということでした。このことがあってから,彼女と夫は地元のエホバの証人の助けを得ながら聖書を研究したいと思うようになりました。そんなある日,近所の人たちは,父親が牧師なのにエホバの証人と聖書を研究しているということで彼女をばかにするようになりました。しかし父親はそのことを聞いた時,近所の人たちをとがめてこう言いました。「あの人たち[エホバの証人]のことを悪く言ってはいけない。あの人たちは神から遣わされて,福音を伝えているのだ」。

パプアニューギニア支部はモロベ管区から次のような手紙を受け取りました。「私たちはレンバティの密林地帯に住んでいます。ここには高い山が幾つかあって,車の通れる道はありません。小さな飛行場はありますが,飛行機はたまに来るだけです。1987年には,野外奉仕を行なって聖書研究を司会するエホバの証人は一人しかいませんでした。巡回監督が奥さんと一緒に来て私たちの世話をしてくれましたが,その時反対が始まりました。王国の敵たちが私たちの活動をやめさせようとして,巡回監督の目の前で王国会館に火をつけたのです。この反対はどんな結果を生んだでしょうか。今では伝道者が7人になり,建て直した王国会館で集会を開いています。王国の業を行なう時,私たちはとても幸福です。それはちょうど,世界中の兄弟姉妹がその同じ業を行なう時にみなそう感じるのと同じです」。

子供たちは,ほかの子供たちが真理を学ぶことに大いに貢献できます。オーストラリアでは,リンダという9歳の女の子が,独りぼっちで座っていたレベッカの隣に座ってほしいと先生から言われました。リンダはレベッカと友達になり,王国のことを話しました。やがて学校の昼休みに,「偉大な教え手に聞き従う」の本を使ってレベッカと研究するようになりました。それから二人がエボニーという別の女の子に話してみると,エボニーも研究に加わりました。その次にサラというまた別の女の子がやって来て,そのゲームに入れてほしいと言いました。リンダは,これはゲームではなくて聖書の勉強だということを説明しました。それでサラも仲間に入りました。そのほかにもう一人の女の子が一緒に勉強したいと言ってきました。今では,子供たちが二つに分かれて「偉大な教え手」の本を研究する時もあります。一つのグループをリンダが,もう一つのグループをレベッカが司会するのです。先生も興味を持って,子供たちが何をしているのか知りたくなりました。そこでリンダが先生に「偉大な教え手」の本を見せると,先生は,とてもいいわねと言ってくれました。

禁令下の国と地域

ダビデは救い主エホバに向かい,「わたしを迫害する者からわたしを救い出してください。彼らはわたしよりも強いからです」と叫びました。(詩編 142:6)今日,証言活動が制限されている国で,エホバの民は神に救いを求めています。そしてエホバは彼らの嘆願に答え,彼らを慰めてくださるのです。

アジアのある国に住むエホバの証人にとって,禁令以来15年目に当たる昨奉仕年度は非常に忙しいと同時に祝福された年でした。王国伝道者は9%も増加して新最高数に達しました。しかし,依然として警戒は必要です。例えば,ある会衆は長老の家で集会を開いていますが,近所の人たちはこれといった理由もなくその集会を嫌うようになり,家のトタン屋根にれんがや石を投げつけてきました。集会に来ていた何人かの兄弟たちは,かっとなって暴漢に立ち向かおうとしました。しかし長老は,腕力に訴えるのではなくエホバの霊に頼るようにと,兄弟たちを穏やかに説得しました。すると今度は隣家の住人が兄弟の敷地の塀の外側に沿って,深さ1㍍,幅50㌢の溝を掘りました。そうすれば塀が崩れて集会を開くことができなくなると思ったのです。長老は辛抱強くエホバを待ちました。1か月が過ぎたころ,近所に住む騒ぎの張本人は病気になったので,病院に行こうとしました。ところが車をバックさせた時,うかつにも,兄弟の塀沿いに掘った溝に落ちてしまいました。近所の人たちに助け出してもらいましたが,健康を取り戻すことはできませんでした。その人はどんどん衰弱し,その後まもなく亡くなりました。仕返しせずに辛抱強く待った兄弟たちは,迫害者からの救出が意外な珍しい方法で来ることを知りました。

アフリカのある国の与党青年組織は,今でもエホバの証人に残虐な仕打ちを加えています。エホバの証人が党員カードを携帯しないからです。迫害は過去24年間,容赦なく続いてきました。エホバの民はその間ずっと上位の権威に服しており,侮辱したり復しゅうの機会をねらったりすることは決してありませんでした。―ローマ 13:1

聖書の原則にしっかりと付き従う証人たちの態度は,一部の反対者からも敬意を勝ち得ています。例えば,ある兄弟は1年ほど前に逮捕され,しばらく投獄されました。責任者の警官は,「これでやっとお前を捕まえた」と言いました。しかし警察はその兄弟の神権的な活動のパターンを知り尽くしていたにもかかわらず,実際に兄弟に対して行動を起こしたのは,兄弟が車で聖書関係の出版物を運ぶ途中に警察の車と事故に遭った時が初めてでした。兄弟は刑を宣告されましたが,刑務所の中でも良い待遇を受けました。

その車の登録証の名義人だった兄弟も警察に出頭しました。兄弟は,その車にいわゆる禁書が積んであった理由を説明しなければなりませんでした。取り調べの時に,「お前はエホバの証人か」と聞かれた兄弟はこう答えました。「禁令の前に,私はエホバの証人になりました。禁令が敷かれてからも,宗旨を変えてはいません。家族も私も家で祈ります。ほかの人に干渉することはありません。そういうことですが,あなたはどう思いますか」。驚いたことに,兄弟の容疑はすべて取り下げられ,兄弟はその車で帰宅することを許されました。このように,証人たちはその期間中ずっと神に対する忠実を守ってきました。エホバは彼らに増加と,あきらめずに続けるための力を与えておられます。