内容へ

目次へ

エホバの証人 ― 1993 年鑑の報告

エホバの証人 ― 1993 年鑑の報告

エホバの証人 ― 1993 年鑑の報告

「この世のありさまは変わりつつある(の)です」。使徒パウロは有名なコリント市に住む仲間のクリスチャンにこう書き送りました。(コリント第一 7:31)コリントは,知識の面では進んでいて,物質的に繁栄していましたが,道徳的には腐敗していた都市でした。そこには様々な人々が入り乱れて住んでおり,ほとんどは商人や旅行者でした。その人たちは数日滞在しては都市を出て行くため,まるで,舞台の袖から現われて自分の役を演じると,すぐに姿を消して次のシーンまで出て来ない俳優のようでした。きらびやかな富に囲まれたコリントの人々の上辺の生活様式,つまり「ありさま」は,はかなく,入れ替わりの激しい,絶えず移り変わってゆくものでした。それでパウロは兄弟たちに世を十分に用いないよう警告しました。パウロは世の地的な事柄に没頭してしまわないようにと述べたのです。それらのものは長続きしません。残されている時は短いため,クリスチャンには人間の移り変わりやすい計画にしがみついている時間はありません。ですからパウロは,「気を散らすことなく絶えず主に仕え(る)」生活を送るよう勧めたのです。―コリント第一 7:35

パウロの言葉は19世紀以上前に書かれたとはいえ,今でも真実です。現在の世の中の様子は絶え間なく変化しています。舞台の場面が入れ替わってしまうように,物質的な所有物や,やっとのことで手に入れた財産は,今日は手元にあっても明日にはなくなってしまうかもしれません。洪水,地震,ハリケーンなどの天災が,人々の生活を一瞬のうちに台なしにしてしまうこともあります。長い間奉じられ,しばしば流血の事態を招いてきた政治的・経済的なイデオロギーでさえ,一夜にして変わってしまいます。例えば3年ほど前までは,東ヨーロッパの国々は安定しているように見えました。しかし1989年11月,突如としてベルリンの壁が崩れると,何十年にもわたって固く信じられてきたイデオロギーも,東ヨーロッパ諸国の中を倒れてゆくドミノのように影響力を失ってしまいました。

10億時間!

しかしエホバの証人は,そうした変わりゆく情勢の影響を受けながらも,絶えず主に仕えるような仕方で生活しようとする努力を怠りませんでした。昨奉仕年度中エホバの証人は,447万2,787人の伝道者最高数を記録し,229の国や地域の6万9,558の会衆でエホバ神の王国の良いたよりを宣べ伝える活動に10億2,491万434時間を費やしました。このような活動を行なった宗教組織がほかにあるでしょうか。

しかも宣べ伝えるだけでなく,数百万の人々に神の言葉を無料で個人的に教えました。毎月平均で427万8,127件の家庭聖書研究を司会したのです。こうした福音宣明によってどのような結果が得られたでしょうか。エホバへの献身の象徴としてバプテスマを受けた人は30万1,002人に達しました。また,1992年4月17日の晩にはイエス・キリストの死を記念して神聖な集まりが開かれました。その夜,エホバの証人の世界中の会衆に1,143万1,171人が集まりました。

どの国の王国会館も一杯になっています。例えば,良いたよりの伝道者最高数が8万460人を数えるザンビアでは,人口の4%にあたる36万5,828人が記念式に出席した時喜びに沸き返りました。メキシコでは,記念式に128万3,203人が出席しました。その国の9,000の会衆が記念式を祝う様子を想像してみてください。さらに伝道者最高数が2万5,435人のチェコスロバキアでは,記念式に合計5万4,082人が出席しました。また,その国では初めてのことでしたが,三つの刑務所でも記念式が行なわれ,54人の囚人と看守が出席しました。ある刑務所の役人たちは,よく準備された聞きやすい話や歌に対する感謝を言い表わしました。別の町では,記念式を見守るため一人の囚人が看守と一緒に王国会館にやって来たので,兄弟たちはとても驚きました。

3月に33万2,050人の伝道者がいたブラジルでは,合計98万5,252人が記念式に出席しました。これは昨年の出席者数と比べて8万7,513人の増加です。この特別な集まりに出席することにより若い人たちも益を受けています。

1990年のことです。9歳のポールは学校でたった一人のエホバの証人でした。担任の女の先生はポールの行儀が良いことに気づきました。しかし,クラスでお祈りをするときポールは頭を下げませんし,生徒が一人ずつ順番にお祈りの言葉を言うときになると,ポールはそれを断わるのです。先生はキリスト教国で祝われる聖金曜日に,十字架に掛けられたイエスの絵をクラス全員に描かせました。ところがポールは杭に掛けられたイエスを描いたため,先生はその理由を尋ねました。ポールはその理由を説明し,先生に聖書文書を渡して,記念式に招待しました。

さらにポールは,クラス全員を相手に定期的な聖書研究を司会する許可を得ました。研究は聖書と「わたしの聖書物語の本」を使って毎週40分間行なわれました。校長先生や事務員,ポールの担任の先生や他の人も出席しました。次の年には,別の3人の先生が自分のクラスで研究してほしいと頼んできました。地元の司祭はこのことがおもしろくありません。子供たちがエホバという神の名を使っているのを聞くといらいらするのです。そこで司祭は保護者と会合を開き,親も子も神の名を使ってはいけないと話しました。保護者は先生に苦情を述べ,先生はポールにそのことを話しました。

「神のお名前を使うことができないのなら,研究を続けることはできません」とポールは言い,神のお名前を神聖なものとすることが主の祈りの一番大事な部分である,とその理由を述べました。この説明で研究は続けられ,1992年現在,学習障害を抱える子供たちのグループを含め,五つのクラスで研究が行なわれています。神の目的について学ぶとき,子供たちが皆静かに耳を傾け,ほかの授業の時よりもおとなしくしていることに教師たちは驚いています。

今ではエホバの証人が自由に伝道できる

アルバニアでは,政府の布告により1992年5月22日にエホバの証人が法的に認可されました。自由化の布告が出される直前の記念式には325人が出席しました。1992年6月には56人が良いたよりを宣べ伝えていました。1991年6月には9人だったことを考えると大きな変化です。一人の男性は街路でエホバの証人にこう語りました。「私たちは共産主義の時代にみんな神を捨ててしまいました。どんな試練や苦境のもとでも神に忠実だったのはエホバの証人だけです」。

アンゴラでは,1992年4月10日にエホバの証人の良い活動が法的に認可されました。迫害と戦争の数十年が過ぎ,この国の伝道者たちは,『ご自分の善良さをもって年に冠を授けられた』エホバへの感謝を表わすという特別な方法で喜びました。―詩編 65:11

何年もの間,この国に割り当てられた宣教者たちはすぐに国外退去させられました。1950年代には,多くのエホバの証人が刑務所に入れられました。15年以上の懲役刑を宣告された人もいれば,処刑された人もいました。エホバの証人は手を休めることなく,良いたよりを他の人に伝えることを貴重な特権とみなしていることを示しました。その忠実な奉仕にはどのような報いがあったでしょうか。

業が登録されたまさにその月に,伝道者数は前の年の平均と比べて30%の増加にあたる1万8,911人の新最高数に達し,5万6,075件の家庭聖書研究が司会されました。報告によれば,関心を持つ人々は兄弟たちの家に家庭聖書研究を司会してほしいと頼みに来るということです。伝道者が100人以上いる会衆はどこも300人から500人が公開集会に出席します。兄弟たちは,業の法的認可が得られる少し前の良い状況のもとで,初めての地域大会を20か所で開くことができ,出席者最高数の合計は1万7,064人でした。

アンゴラの幾つかの会衆の区域は非常に小さいので,証人たちは出会うすべての人に目ざとく伝道する必要があります。ある家の主人は一人の兄弟に,自分はカトリックなので興味がないと言いました。翌週この兄弟は,同じ家の前を通りかかったとき,一人の女性が戸口のところに立っているのに気づき,この機会に話してみることにしました。反応はご主人と同じでしたが,人は同時に二つの宗教を奉じることはできないという意味で,「犬は2本の骨をくわえることはできない」ということわざを付け加えました。その次の週,兄弟はまた同じ家の戸口のところに今度は女の子が立っているのを見ました。兄弟はこの家族の信仰心が篤いことを知っていましたが,「若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え」という本を女の子に提供しました。この女の子は注意深く耳を傾けて本を求め,兄弟に次の週再び訪問してもよいと言いました。兄弟は知りませんでしたが,隣の部屋では父親が話し合いを聞いていました。数日後その父親は道端で兄弟に近づき,娘が本を全部読んでしまい,しかもとても楽しそうだったと言ったのです。そして,約束どおり必ず訪問してほしいと念を押しました。現在この家族は全員研究しており,集会にも出席しています。

難民が良いたよりを聞く

スイスでも,この世のありさまは変わりつつあります。この国では以前のように状況がいつも安定しているわけではありません。スイスで倒産が相次ぎ,失業者が増加するなどということは初めてです。またこれほど多くの外国人が,難民として,あるいはもっと良い経済状態を求めて,移住して来たことは今まで一度もありませんでした。しかし,そうした人々は失望を味わうことが少なくありません。政府にとっても,人々を満足させる決定を下すことはますます難しくなっています。それで支部事務所は,「こうしたことすべてから不安感を募らせる人が増えており,多くの人と聖書に基づいたわたしたちの希望について話し合う機会が開けました」と述べています。

そのことをよく示しているのはナイジェリア出身のフェリシアの経験です。フェリシアは結婚生活がうまくゆかず,夫のジミーと別居していました。幼い息子を両親に預けて彼女はスイスにやって来ました。フェリシアはジュネーブで一から出直すつもりでいましたが,残念なことに亡命を求める外国人が仕事や家を見つけるのは,考えていた以上に大変なことでした。ある日仕事中に,彼女は別の難民に自分の問題について相談しました。その人はエホバの証人と聖書を研究しており,聖書から学んだすばらしい事柄や,神のご意志を行なうことによって多くの問題がどのように解決されるかをフェリシアに話しました。フェリシアは聖書研究に応じ,8か月後にはバプテスマを受けていない伝道者になりました。そのころ,フェリシアは自分の家族の状況のことが心配になり始め,会衆の長老にそのことを打ち明けていました。

同じころ,法律上はまだ夫だった人もスイスに到着し,自分のもとを去った妻の人格が変化していることに気づいて,大変感銘を受けました。夫も自分の住んでいる町で兄弟との聖書研究に応じました。フェリシアは研究を始めてからわずか11か月後の1991年11月にバプテスマを受け,すぐに補助開拓者として奉仕を始めました。その間に夫のほうはバプテスマを受けていない伝道者になり,会衆の神権宣教学校に入校しました。その時点で二人はまだ別居していましたが,物事を同じように考えられるようになり,もう一度同居して一緒にクリスチャンの家庭で息子を育てたいと思っていました。それでジミーとフェリシアは会衆の長老たちに合法的な結婚の証拠を提出し,夫また妻としての関係を回復し,エホバのみ名とクリスチャン会衆にそしりをもたらすことを避けたいと願っていると宣言しました。ジミーは1992年にジュネーブの「光を掲げる人々」地域大会でバプテスマを受けました。この夫婦は,クリスチャンの原則にしたがって息子を育てるため,ナイジェリアに戻ることを計画しています。

スウェーデンは,難民を快く受け入れてきた国です。会衆は難民たちに彼らの言語で証言するという問題を克服してきました。その成果には目をみはるものがあります。例えば,昨年の夏に開かれた11の地域大会のうち,スウェーデン語で開かれた大会はわずかに五つでした。残りの六つは,アラビア語,英語,ギリシャ語,スペイン語,セルビア-クロアチア語,フィンランド語で開かれました。英語の地域大会には77の国々から来た696人が出席しました。ペルシャ語やロシア語での証言活動も始まっています。

過去数か月の間,旧ユーゴスラビアから5万人を超える難民がスウェーデンにやって来ました。セルビア-クロアチア語の会衆はこれらの難民に証言する業に努力を集中し,すばらしい成果を収めています。どこの集会にも75人から100人を超える難民が出席しています。集会に出席している人の中には,4か月か5か月研究しただけで献身し,バプテスマを受けるところまで進歩した人もいます。

オランダのエホバの証人は17の異なった言語で伝道を行なっています。スペイン語会衆の一人の兄弟は,難民としてオランダにやって来た男性に会いました。この男性はアフリカのある国の大使として幾つかの国で働いてきた人でしたが,政府の機嫌を損ね,難を逃れてオランダにやって来たのです。最初に聖書研究が始まったころ,妻はまだポルトガルにいました。最終的に家族はオランダで一緒になり,5人の子供のうち長男を除いて家族全員が研究に参加しました。この家族は良い進歩を遂げ,かつての大使は今では霊的な兄弟となっています。この男性は1992年7月25日にバプテスマを受けました。妻と娘の一人はバプテスマを受けていない伝道者となっています。この新しい兄弟はこう語っています。「これまでは自分の国の王の大使を務めてきましたが,今では至高の王また神の王国の大使です」。

困窮した兄弟たちのための「救援」

1世紀のローマ皇帝クラウディウスの時代に,領土内で大飢きんが発生しました。シリアのアンティオキアの会衆のクリスチャンは,「各々がそのできるところに応じて,ユダヤに住む兄弟たちに救援を送ることに決め」ました。(使徒 11:28,29)バルナバとサウロは救援基金をユダヤの年長者団に届けました。これら年長者たちは必要な援助を施す責任がありました。これはクリスチャン会衆が行なった大規模な救援活動として記録に残っている最初の例です。今日でも同様に,エホバの証人は世界の他の地域に住む兄弟たちが大変困っていることを知るとき,可能な範囲で進んで助けを差し伸べます。救援活動の態勢が素早く整い,実施に移されます。以下にその例を挙げます。

東ヨーロッパ

1991年の末に,統治体は西ヨーロッパにあるものみの塔協会の七つの支部に対して,東ヨーロッパの困窮している兄弟たちのために食糧や衣類を備えるよう呼びかけました。 * 窮状について初めて聞いた時,スウェーデンの証人たちはどのように応じたでしょうか。全国津々浦々の会衆から,支部にトラックが次々と到着しました。スウェーデン支部に衣類や他の物資の置き場がなくなってからも品物がひっきりなしに届いたため,支部施設の外の会館を借りて,寄付された品物すべてを保管しなければならないほどでした。近隣の会衆の兄弟姉妹が手伝いに来て,平均35人が衣類の仕分けや梱包の自発奉仕に参加し,目的地に向かう15台のセミトレーラーの準備が整いました。さらに3台のセミトレーラーで51㌧を超える食料品がロシアに届けられました。

発表が行なわれてからわずか数日で,食糧が750個の箱に分けられました。それぞれの箱には約20㌔相当の小麦粉,調理油,肉の缶詰,粉ミルクなどの基本食料品が入っており,まずはロシアのサンクトペテルブルクにトラックで運ぶ準備が整いました。ロシア語に翻訳された税関の書類に不備はなく,1991年12月19日,トラックの第1便が国境を無事に通過しました。サンクトペテルブルクの証人たちは荷物を待ちわびており,もっと小型の車両に積み荷を移し変え,各地の分配センターに届けるための手はずを整えていました。各分配センターからは,困っている兄弟たちに食糧をすぐに渡すことができます。トラックが着いた時の歓迎は大変なものでした。待機していた兄弟たちは喜びにあふれ,スウェーデンの兄弟たちを抱き締めました。

会衆の成員は衣類を寄付するため,洋服だんすを丹念に調べ,きちんとしたきれいな衣類を取り分けました。新しい服を買いに行った兄弟たちもいました。ある証人は紳士服店に行き,スーツを5着購入しました。店主はわけを知りたがり,その理由を聞くと,さらに5着のスーツを寄付しました。別の兄弟は,衣料品店に出かけて靴下や手袋などの品を数袋購入し,大量に購入するわけを話しました。すると店主は同情してスーツ30着を2着分の価格で譲ろうと申し出ました。兄弟は喜びを隠すことができず,すぐにそうしてもらいました。また,別の兄弟は衣類の山をドライクリーニング店に持ち込み,行なわれている救援活動について話したところ,店主は客が取りに来なかった衣類をそっくり渡してくれました。さらに,あるスポーツ用品店の店主は,品物はすべて困窮している人に直接届けられることを聞くと,真新しい冬用の靴やブーツ100足を棚から取り出して寄付しました。

品物の分類作業の態勢も整いました。品物を見る目のある姉妹たち10人が衣類を紳士用,婦人用,子供用に仕分けし,別の姉妹たち10人が仕分けされた衣類を手際よく箱詰めしました。次いで,体格のいい兄弟たちが箱にテープを貼ってパレットの上に積み上げ,トラックで運べるようにしました。こうして毎日合計約40立方㍍の衣類や靴が箱詰めされたのです。

オランダスイスの証人たちにも救援活動にあずかる機会が差し伸べられました。オランダの兄弟たちは52㌧の食糧とトラック11台分の衣類を寄付し,スイスの兄弟たちは合計12㌧にもなる食料品の包みを600個準備しました。子供たちも貢献したでしょうか。ウクライナの証人たちは72㌧の衣類を受け取りましたが,子供服の包みを開けると,中からおもちゃも出てきました。それは証人の子供たちが,見知らぬ小さな友に贈ったものでした。加えて,かなりの数の板チョコも衣類の間に入っていました。

こうして1991年から1992年にかけての冬に実施された救援活動で,約400㌧の食糧と,男女子供のための大量の衣類が集まりました。そして,これらの物資が遠くはシベリアのイルクーツクや,日本に近いハバロフスクに至るまでの旧ソ連領のほぼ全域に配られました。

アフリカ

南アフリカポルトガルの証人たちが寛大にも食糧や衣類を寄付したため,救援物資をアンゴラに送ることができました。さらに,大いに不足していた出版物も送りました。なぜ不足が生じたのでしょうか。

アンゴラは1990年に厳しい干ばつに見舞われ,幾千幾万もの人が死亡し,国中で作物は全滅しました。ある地域の兄弟たちはきちんとした服がないため,公の宣教にあずかることをためらっていました。それで,南アフリカの仲間の証人たちは,25㌧の救援物資が無事に送り届けられ,アンゴラの兄弟たちの間で公平に分配されるよう見届けました。国内は長引く内戦のため分裂状態にあり,依然として衣類が不足していました。アンゴラの証人たちに衣類を寄付するようにという呼びかけがポルトガルのリスボン市内と近隣の諸会衆になされ,すばらしい反応がありました。1991年3月から1992年8月にかけて長さ約6㍍のコンテナ7個分,合計75㌧にも及ぶ衣類や食糧や出版物が積み出されました。

北米

1992年8月24日,月曜日の早朝,ハリケーン「アンドルー」が大西洋から襲来し,フロリダ州南部を直撃しました。その後ハリケーンはメキシコ湾を抜けながら向きを変えて,ルイジアナ州を襲いました。ハリケーンはサイレンのような音をたてながら風速約64㍍を維持し,最大瞬間風速は70㍍を超え,フロリダ州南部の約430平方㌔の範囲を壊滅させました。アンドルーで家を失った人は25万人にのぼり,推定6万3,000軒の家屋が倒壊し,38名の死者が出ました。保険会社で支払い請求を長年扱ってきた担当者は,「被害額は米国で史上最高に達した。私の知るかぎりでは最悪の規模だ」と述べました。

証人たちもハリケーン「アンドルー」の猛威にさらされずにはすみませんでした。3,500人の証人たちは家を失いました。それと言うのも,証人たちの家屋1,120軒が被害を受け,150軒は修理不能となったからです。王国会館も10軒が被害を受けました。統治体は直ちに事態に対応し,フロリダの被災地の約60㌔北方に位置していた大会ホールを拠点とする救援委員会を設置し,非常用の備品の購入のため,早速資金を提供しました。ハリケーンの風が弱まるにつれ,助けを差し伸べるため,被害を受けなかった地域から証人たちが続々と詰めかけてきました。8月29日,土曜日までにこの大会ホールに届いた建築資材の総重量は305㌧に達し,翌日曜日までにトレーラー約70台分の物資が届きました。8月31日付のマイアミ・ヘラルド紙は,「全国から約3,000人のエホバの証人の自発奉仕者たちが被災地に集まり,まず仲間を助け,次いで部外者を助けた」と報じました。

風が収まって間もない時期に生じたある出来事は,エホバの証人がいかに速やかに救援の態勢を整えていたかを示しています。エホバの証人ではない人たちが2台の車に分乗し,被災地の市役所に乗りつけて援助を申し出ました。すると警察は,組織立って修理作業をしていた唯一のグループであるエホバの証人のもとにその人たちを案内したのです。

全米各地の証人たちは,世界本部で全時間奉仕にあずかっている人も,救援活動に対して寄付をしました。わずか1週間でブルックリン,パタソン,ものみの塔農場のベテル家族は合計2万6,291㌦10㌣(約328万6,387円)を寄付しました。フロリダに届いたお金に混じって,6㌦81㌣(約851円)分の小銭の入った小さな貯金箱がありました。中にはこのようなメモが入っていました。「しんあいなるきょうだいたち,おげんきですか。みんなできょうだいたちのためにおいのりしました。ぼくは6さいです。あいとともに,チャンス」。

これまでに取り上げた事例は,エホバの証人が初期クリスチャンの会衆と同様の思いやりや一致の精神を示していることの確かな証拠です。(使徒 4:32)ですからわたしたちは,エホバ神がこの終わりの時に聞く耳を持つ全世界の人々に霊的な滋養物を備えるにとどまらず,必要が生じたときにはすぐに団結して物資を備えることのできる世界的な兄弟関係を維持してくださっていることに対し,感謝する十分のいわれがあります。それでわたしたちは強い信頼と確信を抱いて,世界中に住む人が一つの愛ある兄弟関係で結ばれる将来を待ち望むことができるのです。

世界本部で『霊に燃える』

「自分の務めを怠ってはなりません。霊に燃えなさい。エホバに奴隷として仕えなさい」。(ローマ 12:11)世界じゅうのベテル・ホームで働く1万2,068人の奉仕者は,すべて特別な宗教団体の一員であり,使徒パウロのこの言葉を心に留めています。彼らは変わりゆく世のありさまによって自分たちのクリスチャン宣教から思いをそらされることがないようにしてきました。主の務めに対するその熱意は熱く煮えたぎっているかのようです。ニューヨーク,ブルックリンの世界本部や近くのものみの塔農場,ニューヨーク州パタソンのものみの塔教育センターの4,520人の家族の成員が成し遂げた仕事は,エホバに奴隷として仕えるためベテル奉仕者全員が払った努力を表わしています。世界本部で行なわれた事柄を少しだけ取り上げてみることにしましょう。

ファーマン通りの施設

1991年の9月と11月,ファーマン通り360番の建物の8階に新しい洗濯室とドライクリーニング施設が設置されました。そこは,ブルックリン本部の3,000名を超える成員から毎週出される25㌧の洗濯物を扱う奉仕者たちにとって気持ちのよい環境です。

ファーマン通りの施設でほかにどんなことがあったでしょうか。昨奉仕年度中650万本ものカセットテープが複製されました。1978年にこの部門が発足してから5,300万本を超えるカセットが生産されたことになります。大工部門では戸棚などの家具を過去最高の1万1,000点生産しました。大工事務所はこのように報告しています。「1993年の生産高はさらに多くなるのではないかと思います。というのも,サンズ通り90番の工事では2年間にわたって年間4,000から5,000の戸棚が必要ですし,パタソンでは少なくとも今後3年は毎年4,000点の戸棚が要るからです」。

事務棟群

世界じゅうの兄弟たちは,血の使用に関してはっきりと述べている神の律法を破ることがないよう固く決意していますが,コロンビア・ハイツ25番にあるホスピタル・インフォメーション・サービス(HIS)はそのような兄弟たちを援助する部門です。(使徒 15:29)過去数年の間,世界じゅうの多くの医師や病院はいろいろな点で,その態度や行動を大きく変化させてきました。

その一つに無血の手術や治療を行なう病院を挙げることができます。少し前まで証人たちに親切に協力してくれるのはほんの一握りの医師に限られていましたが,HISは現在854の医療機関連絡委員会が機能している64か国の支部から2万7,420人にのぼる協力的な医師たちのリストを得ており,その数は増える一方です。これは委員会を構成している4,300人の長老たちの立派な働きに負うところが大きいのです。

協力的な医師たちが増え続ける中,幾つかの大病院では医師団がチームとしてエホバの証人を扱う際に血を用いないことに喜んで同意するケースがあることにHISは気づきました。結果として米国ではそのような大病院が目下14あります。デンバー・ポスト紙は第一面に「ついに大学病院で『無血』手術が可能に」という見出しを掲げました。「輸血を見直す医師たち」という見出しを載せた新聞もあります。その小見出しは「エホバの証人を助けるために準備された計画はすべての人の役に立つ」となっていました。

他の国々でも同様の成果があがっています。ノルウェーでHISが行なった会見には,国内最大のがんセンターの医師や看護婦,79人が出席しました。現在その病院はエホバの証人を受け入れており,プログラムに協力することを拒むスタッフは一人もいません。ドイツでは五つの病院が血を用いないで治療を行ないます。スペインには無血治療を行なう病院が二つあり,一つはバルセロナ,もう一つはマドリードにあります。オーストラリアにも一つあります。同じようにイタリアでも無血治療を行なう病院が増加する傾向にあるようです。ペルーのある病院長は次のように言いました。「皆さんを通してエホバの証人の兄弟たちにお伝えしておきたいのですが,当病院では皆さんが必要とするどんな医療についても輸血[なしで]行ないますので安心してお越しください」。

医療専門家の態度も変化しています。オーストリアでは,ウィーンでも指折りの大きな病院の指導的な立場にある医師が兄弟たちにこう述べました。「皆さんはご自分の宗教上の見解のために,わたしたちより前に正しい道を取っていましたね」。ニュージーランドのオークランドにある病院の主任医師は,無血治療についてHISが準備した資料に表われている調査の「徹底ぶりに驚いた」と述べました。同じ病院の小児科の教授はこう言っています。「エホバの証人は情報を提供し,輸血に対する態度を吟味し直すよう励ましてくれました」。米国の著名な小児整形外科医はこう述べました。「血の危険に関して我々が現在知っていることからすれば,エホバの証人は正しかったと言わざるを得ない」。米国の大学病院の心臓胸部麻酔科の医長はこう述べました。「エホバの証人を含めすべての患者は,輸血に代わる代替療法を各地の医師に伝えるために皆さんが払っておられる努力から益を得るでしょう。皆さんのグループとその努力は本当にすばらしい」。

コロンビア・ハイツ30番の建物にある建設事務所は,アンティグア島からジンバブエに至るまで50ほどの国や地域の建設プロジェクトをまとめています。法律部門は「親権や離婚家庭の子供について書かれた雑誌が,弁護士やソーシャルワーカー,心理学者たちの間で良い評価を得ている」ことを喜んでいます。親権に関する争いに巻き込まれた一姉妹は,ある家庭裁判所の仲裁人が当事者の不和を解決するために「親権 ― 心の痛む問題」という題で特集を組んだ1988年10月22日号の「目ざめよ!」誌を定期的に使っていることを知ってびっくりしました。その仲裁人は記事がとっている中立の立場を高く評価しており,そうした状況下に置かれている親すべてに役立つと感じています。

ビデオサービス部門の報告によると,最初に発表した「エホバの証人 ― その名前の背後にある組織」というビデオテープは現在まで5か国語で50万本以上生産され,他の22の言語でも間もなく手に入るようになるとのことです。この計画に携わったオランダ支部はこう書き送りました。「わたしたちベテル家族にとって,東ヨーロッパの諸言語を含めて19の異なった言語でそのビデオのレコーディングに参加できたのは励みとなる経験でした」。

ある太平洋の島では,このビデオが一風変わった仕方で上映されました。フィジーの支部事務所から寄せられた手紙はそのことを示しています。「スバから500㌔離れた離島のロトゥマに会衆が一つあります。島にはきちんと電気が供給されていないのですが,巡回監督は協会のビデオを持って行きました。島民のだれかが発電機,ビデオデッキ,テレビを持っていれば,それらを借りて会衆の13名の伝道者に見せられると思ったのです。見込みはほとんどなさそうでした。ところが驚いたことに,王国会館からさほど遠くないところで商店を経営していた人がその三点セットを持っていました。お願いしたところ,その人の家で見たらいいと言ってくれました。兄弟たちがその人の家に着いた時には,かなりの人数の人がカウボーイのビデオを見ていました。そのビデオは直ちに止められて協会のテープがセットされました。すべての人がその場にとどまってビデオを見ました。合わせて80人以上もいたのです。孤立した場所であったにもかかわらず,兄弟たちはエホバの組織の大きさを目の当たりにし,自分たちがその一部であることを実感して喜びました。ビデオを見て感動した一人の婦人は王国会館で開かれた次の集会に出席しました。彼女は今までに見た一番いいビデオだと述べたのです」。

新しいビデオ「聖書 ― 正確な歴史,信頼できる預言」(英語)もすでに出されています。それは3巻セットの第1巻です。

ものみの塔農場

ものみの塔農場は米国のベテル家族のために食物を生産し供給する中心地となっています。ここはまた,ものみの塔ギレアデ聖書学校の一時的な所在地でもあり,世界各地から来た兄弟姉妹たちが宣教者奉仕のための訓練を受けています。加えて全米に配布する「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の印刷が行なわれている場所でもあります。

ものみの塔農場のコンピューター部門は協会の世界的な多言語コンピューターシステムを用いて,前年の208か国語に加えさらに三つの言語で聖書文書の組版,翻訳,出版を行なえるよう支援しています。「新世界訳聖書 ― 参照資料付き ディスケット版」(英文)の発表も際立った出来事でした。この新世界訳聖書のディスケット版を用いるなら,コンピューターを持っている人は聖書の検索を一層素早く行なえるようになるでしょう。

パタソンの工事

ものみの塔教育センターの建設は急ピッチで進んでいます。9棟の建物と,汚水処理施設,浄水場がすでに完成しています。現在9棟の建物が建設中であり,さらに4棟の建設が年内にも着工される予定です。800人を超える兄弟姉妹たちが毎日このプロジェクトのために働いています。このセンターはいずれギレアデ学校の最終的な所在地となる予定です。統治体は世界的な教育活動と関連したブルックリンにある幾つかの部門も教育センターに移ることになると発表しました。

宣教訓練学校の益の及ぶ範囲を広げる

1992奉仕年度中,10か国で宣教訓練学校の14のクラスが開かれました。オーストラリア,メキシコ,ナイジェリア,スウェーデンで学校が開かれたのは初めてでした。この結果,さらに多くの兄弟たちに対して特別な訓練を受ける機会が開かれました。シドニーでの最初のクラスに出席したニュージーランドとオーストラリアの生徒たちは感謝を言い表わして,授業の範囲の広さと質にたいへん感動したと述べました。メキシコの最初のクラスに出席した生徒たちは,勉強の結果エホバとその組織に一層近づくことができたと言いました。ナイジェリアのクラスから届いた手紙によると,生徒たちがエホバの備えのいろいろな面を一層十分に認識するようになり,宣教と奉仕の質を向上させようと決意したことがはっきりと分かります。スウェーデンでの学校は英語で開かれ,デンマーク,フィンランド,オランダ,ノルウェー,スウェーデンから独身の長老や奉仕の僕たちが出席しました。彼らは,会衆で教えたり,牧羊をしたりする時だけでなく,野外宣教の時も含めて,生活のすべての面で神の言葉に従う必要があることを今まで以上に認識しました。

この学校が開かれたすべての国で,兄弟たちはエホバの前進する組織の中で会衆での責任や他の責任をふさわしく担う決意を言い表わしています。この学校の卒業生は現在50以上の国や地域で奉仕しており,会衆,支部,巡回区,宣教者の分野で責任を果たすよう任命されています。

エホバの幸福な民のための支部の献堂式

「エホバをその神とする民は幸いだ!」(詩編 144:15)世界中のエホバの証人はそのように感じています。新しい支部の建物ができた場所では,歓ぶべき特別な理由があります。エホバの民は,変わりゆくこの世のありさまに欺かれなかったため,エホバから増加という祝福を与えられました。

フィンランド

1992年6月13日,フィンランドのバンターとしては異例なほど暖かい夏の日となりました。1年3か月のあいだ進められてきた支部事務所の増築が完了し,ついに献堂式の日が来たのです。99人のベテル家族と,100人を超す一時的な建設奉仕者,国内のすべての旅行する監督が招待されました。献堂式のプログラムを聞くため,王国会館や食堂,新しい施設の他の場所に合計559人が集まりました。

ベテル・ホームが最初に建てられて以来,増築は今回で7度目です。地帯監督としてスカンディナビア諸国を訪問していたロバート・トレーシーは献堂式の話の中で,「お隣のスウェーデンに行った時,フィンランドではいつも工事をしていると言われました」と述べました。元の建物には最新式の印刷設備,製本部門,発送部門,事務所,住居があります。5階建てで約7,200平方㍍の増築部分は,ベテルの39の部屋,健康管理のための施設,サウナ,倉庫から成っています。これは,今までこの支部施設で行なわれた中で最大の増築でした。現在,建物全体の床面積は約2万1,600平方㍍になっています。

フィンランドはロシアと隣接しており,何十年もの間,西側世界と旧ソ連との間の門になっていました。ですからフィンランド支部は,フィンランド語の出版物の生産に加え,エストニア語の「ものみの塔」誌と,リトアニア語やラトビア語の出版物の印刷を行なっています。フィンランドの1万8,316人の伝道者は,エホバが東ヨーロッパでのご自分の業を支える点でそのような特権を与えて僕たちに報いてくださったことをとてもうれしく思っています。ベテル・ホームの増築部分は大きな祝福であり,その地域に住むエホバの証人すべてにとって益となるでしょう。

タイ

1992年2月8日,タイでは歓ぶべきもっともな理由がありました。新しいベテル・ホームが献堂されたのです。それは2年におよぶ勤勉な仕事の最高潮でした。この新しい施設はなぜ必要になったのでしょうか。

タイで最初のベテル・ホームが開設されたのは1947年のことです。当時,全国で奉仕していた良いたよりの伝道者は31人でした。賃借りしていたその建物には宣教者も住んでいました。1962年に伝道者数は300人以上にまで増加し,3人のベテル奉仕者全員と宣教者の一部は協会所有の新しい建物に移りました。その後25年の間に,伝道者数は3倍になり,ベテル家族も16人に増えました。バンコクのその住宅地で増築を行なうことは不可能だったので,統治体は支部委員会に新しい地所を探すよう勧めました。長い間探した結果,1987年に兄弟たちはバンコク郊外の新しく開発された地域にふさわしい土地を見つけました。

雨季に水浸しにならないようにするため,建設を始める前に,およそ6,000平方㍍の土地を約1㍍高くしなければなりませんでした。それから,総床面積が約3,000平方㍍になる2階建ての建物を建設するのです。それには大きな王国会館も含まれています。また,全長およそ370㍍におよぶ外壁を建て起こす必要もあります。長さがおよそ6㍍の145本の杭を支えとして,約1,200枚のプレキャスト・コンクリートパネルを建てるのです。これらの作業すべてをだれが行なうのでしょうか。“建設の家族”を形成し,外部の業者から援助をあまり受けないでこのプロジェクトを完成させるため作業を助けるのに十分な自発奉仕者を,約900人の伝道者の中から集めることができるでしょうか。これまでのベテルと宣教者の家は,業者が全部建てたものでした。

1987年に全国の33の会衆に差し伸べられた招待に対して,満足のゆく反応がありました。特別な技術をもつ自発奉仕者はわずかでしたが,大勢の兄弟姉妹が「進んで自らをささげ」,時間とエネルギーを無償で差し出し,建設現場で新しい技術を喜んで習得しました。(詩編 110:3)推計によると,建設の行なわれた2年間に,バンコク市とその近郊の八つの会衆の伝道者は,毎月平均して約7時間を建設に費やしたということです。それでも,伝道者たちが野外奉仕に費やした時間はほとんど影響を受けませんでした。中でも重要だったのは,4か国から来た37人のインターナショナル・ボランティアからの援助です。その援助はとても感謝されました。

献堂式の日は,招待された427人の出席者すべてにとって本当に喜ばしい記念すべき機会となりました。その中にはアジア・太平洋地域の六つの支部の代表者も含まれていました。地帯監督H・V・モリッツ兄弟の献堂式の話の中では,歴史を通じてエホバはご自分の業と崇拝を行なうのに必要なものをご自分の民にいつも備えてこられたという点に注意が向けられました。プログラムが終了したときには,出席者すべてが活力を新たにして宣べ伝える業を遂行するよう大いに励まされていました。

1992年に西インド諸島の二つの支部が統治体の成員によって献堂されたことも増加のしるしです。リーワード諸島支部は2月2日にミルトン・G・ヘンシェルによって,バハマ支部は2月8日にジョン・E・バーによって献堂されました。

[脚注]

^ 28節 「ものみの塔」誌,1992年3月15日号のデンマークからの報告をご覧ください。

[5ページの図版]

シベリアのイルクーツク市を含め,229の国や地域で良いたよりを宣べ伝える業に10億時間以上が費やされた

[12ページの図版]

東ヨーロッパに送られる食料品や衣類の包みを準備するスイスの証人たち。オーストリア,デンマーク,フィンランド,イタリア,オランダ,スウェーデンからも救援のために援助が差し伸べられた

[14,15ページの図版]

ハリケーン「アンドルー」は1992年8月24日にフロリダ州南部を荒らし,3,500人の証人たちが家を失った

[19ページの図版]

午前6時になると,洗濯物を集める協会のトラック1台がブルックリンにある21の建物の幾つかを回り始める

ファーマン通り360番の建物に到着したトラックは,積み荷を降ろすためエレベーターでトラックごと8階まで運ばれる

[20,21ページの図版]

1. 洗濯物の識別番号を確認する

2. 一つの部屋では15㌔から200㌔までの容量を持つ14台の洗濯機がゴロゴロとうなっている。これらはすべてコンピューターによって制御されている。大きな洗濯機1台に入っている洗濯物は,家庭でいえばシャツ1,000枚以上に相当する

3. 洗濯と乾燥の済んだ衣類はアイロンがけの部屋へ送られる。毎日4,500枚以上の衣類にアイロンがかけられる

ドライクリーニング部門は毎週3,000から4,000点の衣類を扱う。1991年には約7万㌔㌘のドライクリーニングを行なった

[22ページの図版]

サンズ通り90番にそびえ立つ30階建ての建物は,ブルックリンにあるビルの中でもすぐに見分けがつく。地上から10階までの部分は1993年末までに完成する予定

サンズ通り90番の建物

[26,27ページの図版]

メキシコのテスココ,1992年1月

オーストラリアのシドニー,1992年8月

ナイジェリアのイギードゥマ,1992年3月

スウェーデンのエーレブルー,1992年5月

[28,29ページの図版]

フィンランド

フィンランド支部の大きな増築部分は1992年6月13日に献堂された

[30ページの図版]

バハマ

バハマ支部と大会ホールは1992年2月8日に献堂された

タイ

タイの新しいベテル・ホームの献堂式は1992年2月8日に行なわれた

リーワード諸島

リーワード諸島(アンティグア)の支部は1992年2月2日に献堂された