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ギリシャ

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ギリシャ

ついに1993年5月25日,法律上の大きな闘いが終わりました。その闘いは,陽光の降り注ぐ地中海の一つの島で7年余り前に始まり,ヨーロッパ最高位の法廷でクライマックスを迎えました。1986年3月のこと,ギリシャのクレタ島でコキナキスという名の年配の夫婦が,近所の人と聖書について話し合うために戸別訪問をしていました。この夫婦はある女性と話をしました。あとで分かったことですが,この女性の夫はギリシャ正教会で聖歌前唱者を務めている人でした。この夫はエホバの証人のこの訪問を快く思わず,警察を呼んだため,この夫婦は逮捕されました。

ミノス・コキナキスは,その結果言い渡された有罪宣告や判決や罰金刑に対して闘い,ギリシャの最高裁である破棄院にまで上告しましたが,その訴えは棄却されました。それで1988年に,コキナキスはヨーロッパ人権委員会に申し立てを行ないました。ヨーロッパ審議会の加盟国を代表する23人の法律専門家で構成されるこの委員会は,この件をヨーロッパ人権裁判所で審理すべきであると裁定しました。こうして1992年の秋に審理が行なわれました。そして1993年5月25日,この裁判所は6対3の票差で,ギリシャが人権を,すなわち信教の自由を確かに侵害したという判決を下しました。

しかし,基本的人権をめぐるこのような大々的な闘争が繰り広げられることになったのはどうしてでしょうか。昔から気高い理想を追求してきたことで有名な国で,エホバの証人がそのような闘いをせざるを得ないのはなぜでしょうか。ギリシャとはどんな国ですか。

歴史の潮流

遠い昔からギリシャの海岸は打ち寄せる波に洗われてきました。この国は,地中海へ南に向かって突き出た大きな半島の付け根に位置し,エーゲ海とイオニア海に浮かぶ幾百もの島々に囲まれています。そのため,その無数の海岸は人間が考える以上に多くの波や嵐にさらされてきました。ノアの大洪水の水が引いて以来,ギリシャは人類史の潮流というもっと大きな波にさらされてきました。中には,西洋文明はここで生まれたと言う人さえいます。

ノアの孫ヤワンの家族は人の流れを形成し,東のほうから押し寄せました。これら移住者たちの多くはギリシャの魅力に引き寄せられました。 * これらの人々が,ノアの日の大洪水と水で覆われた世についての話を携えてきたものと思われます。古代ギリシャ神話の中には,聖書に記されている実際の出来事をゆがめたり形を変えたりした話としか思えないものもあります。

実際,古代ギリシャの歴史は聖書に記された歴史と絡み合っています。ヘブライ人の預言者ダニエルが西暦前6世紀に行なった予告によると,ギリシャは歴史の潮流の背後にある力によって世界強国の地位を極めることになっていました。アレクサンドロス大王は驚くべき征服を遂げましたが,突然に死没し,その結果として彼の帝国は四つに分裂しました。ダニエルの言葉があまりにも正確にそうした出来事と一致するため,一部の学者はそれらの章句が事後に書かれたものであることを証明しようとしてきたほどです。もちろん,その試みは成功していません。―ダニエル 7:2; 8:5-8,20-22

聖書は,ギリシャがイスラエルを支配した時代について詳しいことを述べていませんが,その時代の名残はクリスチャン・ギリシャ語聖書にはっきりと見られます。1世紀のイエスの追随者の多くは,当時の文明世界の共通語であったギリシャ語を話したり,書いたりしました。プラトンやアリストテレスといったギリシャの哲学者の思想は,イエスの時代のユダヤ人の間にも広まっていました。使徒パウロは,コリントの会衆にあてて,神の言葉は『強固に守り固めた推論を覆す』と書きましたが,そうした高慢な思想家のことを念頭に置いていたに違いありません。―コリント第二 10:4,5

キリスト教の盛衰

ギリシャは,イエス・キリストの使徒がヨーロッパで最初に訪れた国です。パウロはネアポリスの港に着くと,北部のフィリピ,テサロニケ,ベレアや,南部のアテネとコリントといった都市を訪れました。精力的なことが初期のキリスト教の特徴だったので,それらの都市にはすぐに会衆が設立されてゆきました。パウロがギリシャにいる間に書いた,フィリピやコリントやテサロニケのクリスチャンにあてた手紙や,他の場所にいるクリスチャンにあてた手紙は,そのとき以来,大勢のクリスチャンの信仰を強めてきました。

しかし残念なことに,最後の使徒であるヨハネ ― 彼はギリシャのパトモス島に流刑にされていた時に与えられた驚くべき啓示を記録した ― の死後間もなく,別の潮流がギリシャに押し寄せます。背教の暗い波がクリスチャン会衆を呑み込み,大半の人々の信仰が汚されました。諸会衆は霊魂不滅,地獄の火の責め苦,三位一体,僧職者と平信徒の区別といった,非聖書的な教えを受け入れました。

その後,何世紀も霊的な暗闇が続きました。その間,ローマ教皇にはキリスト教世界の首位権が与えられていました。しかし,コンスタンティノープルの主教はギリシャや東方の国々にある教会を監督していました。長年にわたる東と西の間の緊張は1054年に頂点に達し,神学上の不明瞭な点をめぐる討論をきっかけに突然,大分裂が生じました。その結果,ローマ・カトリック教会から東方正教会が分離したのです。ギリシャは東方正教会に対する忠節を保ちました。事実,今日に至るまで,ギリシャに住む1,000万の人々の98%は,東方正教会傘下の自治組織であるギリシャ正教会に所属しています。

東方正教会は長年にわたって政治に関与してきました。1400年代から1800年代にかけて,イスラム教のオスマン帝国がロシア以外のヨーロッパの正教会の国をすべて支配した時,征服者たちはコンスタンティノープルの主教を,帝国内の正教会の“クリスチャン”すべての世俗の支配者にしました。

1820年代にギリシャがオスマン帝国の支配に反旗を翻した時,ギリシャ正教会は大きな役割を果たし,ギリシャの国家主義と独立を促進しました。それ以来,僧職者たちはギリシャの政治において支配的な勢力となっており,政府からの俸給を受けてさえいます。この国では僧職者が絶大な影響力を持っているため,この国のエホバの民の現代史は大方,迫害の歴史となってきました。

今日のこの国と住民

今世紀に入って間もなく,真のキリスト教の潮流が再びギリシャに押し寄せ始めました。20世紀初期の伝道者たちはこの国と住民が,約19世紀前にパウロが出会った時と様々な点で類似していることに気づきました。

海岸線は不規則で深く入り込んでおり,島は国土の2割を占めるほど数多くあるため,ギリシャには海から遠く離れた場所はありません。そのため,漁業と海運業は今でも一般的な職業です。国土は岩だらけで山が多く,耕作に適した土地が少ないものの,海沿いや中央部には肥沃な谷あいの平地が幾らかあります。気候は,夏になると暑くて乾燥するので,オリーブやブドウの栽培に向いています。

人々についてはどうでしょうか。ギリシャ人は活発で,華やかで,情熱的で,活気にあふれる寛大な人々として世界に知られています。一般にギリシャ人は強い意見を持っていて,遠慮なく自分の意見を言います。パウロがアテネを初めて訪れた時,パウロは,「すべてのアテネ人とそこにとう留している異国人(が),暇な時間といえば何か新しい事柄を語ったり聴いたりして過ごしている」ことに気づきました。(使徒 17:21)今日でも,ギリシャ人はアゴラ,つまり市場に座って,政治や哲学や宗教についておしゃべりをするのが大好きです。また,極めて忠節な人々でもあります。その特性を正教会の僧職者たちは時々利用してきました。

1900年代の初め

真理の水は,移住の結果ギリシャに戻ってきました。大勢のギリシャ人が米国へ移住し,当時は聖書研究者として知られていたエホバの証人と出会い,聖書の真理を愛するようになりました。間もなく彼らは,学んでいる事柄を故郷にいる親族にぜひとも伝えたいと思うようになりました。彼らの送った手紙やパンフレットは,多くの場合,良い土の上に落ちた種となりました。しかし,多くの人は家にパンフレットを送るだけでは不十分であることを悟りました。旅行でしばらくギリシャに戻った人もいれば,身を落ち着かせるために故郷に戻った人もいました。

1900年に米国で真理を学んだギリシャ人,ジョージ・コッシファスは,ものみの塔聖書冊子協会の会長,チャールズ・テイズ・ラッセルによって1905年にギリシャへ派遣されました。彼は「聖書研究」を携えて行きました。クレタ島に住む説教師で英語の教授だったジョン・ボスドヤニスがその本をギリシャ語に翻訳しました。次いで「聖書研究」の本は印刷され,アテネや港町ピレウスの書店に配送されました。アテネのスタジアム通りにある有名なヘスティアという書店にさえ陳列されたのです。コッシファス兄弟は“街路の業”も行ない,ギリシャの国会議事堂の周りにある低い塀の上にこの本を並べて,歩行者の質問に答えました。

クレタでは,ジョン・ボスドヤニスが熱心な研究生を見いだしました。その人はアタナシオス・カラナシオスという写真家で,1910年に真理を受け入れました。彼は英語だけでなく,古代のヘブライ語と,コイネー,つまり共通ギリシャ語も勉強しました。

アテネで最初に関心を示した人の中に,エクサルヒアに住むイコノムという名前の,体のまひした人がいます。1910年ごろ,この人も真剣に真理を受け入れ,熱心に他の人に伝えました。しかしこの人は寝たきりだったので,聖書の幾つかの節を紙切れに書いて,通りがかりの人が見つけてくれることを願いながら窓の外に投げました。また,関心を持つ人にパンフレットを送ったり,手紙を書いたりしました。そのころ,真理を学んで間もないマイケル・トリアンタフィロプロスという若者が町や村を回って,さらに多くのパンフレットを配布し,関心を持つ人が互いに連絡を取れるように助けました。

最初の集会はイコノム兄弟の家で開かれました。その後間もなくピレウスのコッシファス兄弟の家にも一つの群れが組織されました。彼らは,「聖書研究」や忠実で思慮深い奴隷級が備えた他の出版物を使って討議をしました。(マタイ 24:45-47)ですから,ラッセル兄弟がギリシャ訪問を計画していると知った時,彼らは胸を躍らせたに違いありません。

ラッセル兄弟がギリシャを訪れる

ラッセル兄弟は世界旅行の途上,1912年にアテネとコリントを訪れました。当時ギリシャにはわずか12人ほどの伝道者しかいませんでした。パウロが19世紀ほど前にアテネで広く行なわれていた偶像礼拝にいら立ちを感じた都市であるそのアテネにあるビジネスマンズ・クラブ・ホールでラッセル兄弟は講演を行ないました。(使徒 17:16)非常に大勢の人が話を聞きに来たため,2回目の講演を行なうことを取り決めなければなりませんでした。しかし,2回目の時にはギリシャ正教会の司祭が大勢やって来て,講演を妨害し,騒動を引き起こしました。その後,ラッセル兄弟はイコノム兄弟の隣に座って,聖書に関する多くの質問に答えました。

ラッセル兄弟は列車でコリントに向かいました。そこでラッセル兄弟を大変驚かせたのは,ギリシャ正教会の聖パウロ大聖堂で話す取り決めが設けられていたことです。その場には市長に加え,何人かの司祭や軍の司令官も出席していました。講演の主題は,「大いなる前途」というもので,非常によい反応があり,もう一度話してほしいと頼まれました。そののち,市長はガイドをつけてラッセル兄弟を古代都市コリントの見学に連れて行きました。その都市でパウロは,油そそがれたクリスチャンの会衆を築き上げるために1年半を費やしました。―使徒 18:11

ラザフォード兄弟が訪れる

1920年9月28日,シンプロン・オリエント急行は,ものみの塔協会の2代目の会長,J・F・ラザフォードを乗せてアテネの駅に到着しました。アシナ紙は,「現存する万民は決して死することなし」という題のラザフォード兄弟の講演について知らせました。兄弟は,パウロが西暦50年ごろ,あの効果的な証言を行なったアレオパゴス,つまりマルスの丘でも話しました。(使徒 17:22-34)後に,ラザフォード兄弟は適切にもこう書きました。「ギリシャは僧職者の権力下にある国ですが,人々は自分たちが盲目の案内人にだまされ,惑わされていることに気づきつつあると思われます。また,この国には真理を証しするための広い畑があると思われます」。

ラザフォード兄弟は,ギリシャにおける組織を改善する必要があることも認めました。1922年まで公式の組織はありませんでした。1922年には,アテネのロンバルドゥ通りに,ものみの塔聖書冊子協会の支部が開設され,アタナシオス・カラナシオスが支部の代表者となりました。業が組織されるにつれ,旅行する講演者が主要な諸都市に遣わされました。小さな町や村に遣わされた講演者もいました。当時,野外には疲れを知らない働き人が合計20人ほどいました。

公開講演によって良いたよりを広める

そうした初期のころには,良いたよりを広める点で公開講演が重要な役割を果たしました。「すべての国民は今やハルマゲドンに向かって行進するが,現存する万民は決して死することなし」という講演が行なわれることになった時,小さなアテネ会衆は行動を開始しました。市議会は,アテネ市立劇場を無料で使用する許可を与えてくれ,アシナ紙はその講演を一面トップの大見出しで宣伝しました。カラナシオス兄弟は満員の聴衆に向かって講演し,同じ講演をフィディウ通りのオディオン音楽堂でも行ないました。大勢の人が,「現存する万民は決して死することなし」という小冊子を手に入れました。

有名な詩人で,法律の勉強をしていたジョージ・ドゥラスは,1920年に1枚のパンフレットを読んで真理を知りました。そして1922年から1925年にかけて巡礼者,つまり旅行する奉仕者として奉仕しました。彼は1923年11月に,西海岸の港町パトラスの映画館で公開講演を行ないました。その時に出席していたパブロス・グリゴリアディスは教養のある人で,後に聖書研究者になりました。弟のグリゴリスも真理を学び,今でもギリシャのベテル家族の一員です。

その同じ年に,ドゥラス兄弟はカラマタの町で公開講演を行ないました。ディミトリス・ロギオタトスは昔を思い出して,こう語っています。「『現存する万民は決して死することなし』という講演の広告を見た時,私と同じように町中の人がびっくりしました。私は行って聞くことにしました。着いてみると,会館は満員でした。私が座った席の前には,アテネ大学の教授で,“正教会のウグイス”として知られていた神学者のトレンペラ氏がいました。私は,その著名な神学者と聖書研究者の間で繰り広げられた霊的な闘いの,どんな細かい点も見逃しませんでした。それは真理の勝利でした! あとで私は,講演と同じ題の小冊子をたくさん手に入れました。私は一晩で読んでしまい,喜びに満たされ,友人や親戚のところに走って行って,このすばらしい小冊子を配りました」。

「マケドニアへ渡って来て,わたしたちを助けてください」

世界中のクリスチャンは,使徒パウロが神の霊を通して受けた,マケドニアの区域で宣べ伝えるようにという緊急な招きのことをよく知っています。それは,「マケドニアへ渡って来て,わたしたちを助けてください」という要請でした。(使徒 16:9)パウロの場合は最初にマケドニアに赴きましたが,今世紀になって良いたよりがマケドニアに広まったのは,ギリシャの南部と中央部よりも少し後のことでした。

パウロがヨーロッパで最初に足を踏み入れた都市であるカバラ,つまり古代のネアポリスでは,公開講演を皮切りに宣べ伝える業が始まりました。ニコラス・クズニスは,そこにいた1922年当時のことを思い出しながらこう語っています。「私は霊的な悩みを抱えていました。ちょうどそのころシメア紙に,『現存する万民は決して死することなし』という題の公開講演が,あるコーヒー店で行なわれる,という広告が載りました。講演の後に私は,『生きている人は死者と話せるか』という小冊子を手に入れました」。クズニス兄弟は学んだ事柄に深く感動し,すぐに一人の仲間と一緒に,一度に数か月にわたって車で旅行しながら町や村で宣べ伝え,トルコ国境まで行きました。良いたよりは北東部のアレクサンドルポリスに広まり,ネアオレスティアダ,サコス,カルキディキ県にも広まりました。

サロニカ(またはテッサロニキ)はギリシャで2番目に大きな都市です。古くからの町で,使徒パウロやその仲間たちの宣教とも深い関連があります。早くも1926年には,元軍人のスピロス・ザハロプロスと教師のタナシス・ツィンペラスがその地区で伝道を行なっていました。ディオゲニス・コンタクソプロスは1928年から1933年にかけて,セレ県の村々に良いたよりを伝えました。東マケドニアと西トラキアには,ヤナコス・ザハリアディスの忠実な伝道によって王国の音信が伝えられました。

良いたよりはそのような遠く離れた地域にどのようにして届いたのでしょうか。宣べ伝えずにはいられなかったために流刑の罰を受けた兄弟たちの中には,流刑地を選ぶことのできた人もいました。カバラのクズニス兄弟は1938年にカルキディキ県に流刑になりました。兄弟はエホバに導きを求めた後,ネアシマントラ村を選びました。なぜ流刑になったのかと村人たちから聞かれた時はいつも,私はクリスチャンだからですと答えました。考えさせるこの返事をきっかけに多くの人と話し合うことができました。しかも,兄弟はとても上手に聖書を用いました。やがて,ネアシマントラに会衆が設立されました。良いたよりはそこからガラティスタに伝わり,そこにも会衆が誕生しました。ネアムダニアでは数人の女性が信者となりました。マストラキ姉妹,スタンプリ姉妹,デニキ姉妹といった人たちです。姉妹たちはフロイタで他の人を教え,その結果そこにも会衆ができました。それから真理はカサンドラにも広まりました。

テッサリアでの初期の年月

ギリシャ中央部のテッサリア地方では,早くから良いたよりが進展しました。特に注目に値するのは,ラリサのカラマキとトリカラのエレフテロホリという二つの小さな村での進展です。聖書研究者であるという理由で解雇された学校教師のジョージ・ククティアノスは,1922年11月,旅行中に天気が崩れたため,カラマキのディミトリス・パルダロスの家で一晩を過ごすことになりました。ジョージはもてなしの精神に富むその主人に証言をしました。どうなったでしょうか。ディミトリスとその町のもう二人の人,テオドロス・パルダロスとアポストロス・ブラハバスがエホバを知るようになったのです。

この3人は周りの村々で家から家へ証言し始めました。また,毎年2か月ないし3か月かけて遠くの区域で伝道を行なっては,自分たちの村へ戻り,力を取り戻したり,将来の運動に必要な資金を稼いだりしました。移動は徒歩で行ない,出版物や,それと引き換えにもらった農産物をどっさり運びました。

それでも時には,その生活にも愉快な事がありました。彼らの一人はこう語っています。「ある時,川を歩いて渡らなければならないことがありました。冬だったので,冷たい水でした。私は連れの一人よりも体が大きかったので,私がおぶって行ってあげようかと言いました。1回で渡ってしまおうと思い,片手に出版物の入ったかばんを持ち,もう一方の手には靴とソックスを持ちました。同時に,卵のいっぱい入ったかごの取っ手をくわえました。ところが,川の中ほどまで来た時,私はうかつにも,おぶっている連れに大丈夫かと尋ねたのです。もちろんのこと,すぐに卵のかごは落ちてしまいました。それを拾おうとして,靴とソックスと出版物を落としてしまい,落としたものを取ろうとしていると,何と背中にいた兄弟が川に落ちてしまいました」。二人は何年も前の,その川を渡った時の出来事を思い出して笑いました。

田舎の地域での業は努力を要しました。「聖職者に対する告発」のパンフレットを配布した時,エホバの証人は警察署に留置され,次いで法廷に引き出されることがありました。しかし,迫害によって彼らの信仰と王国に対する熱意は強められました。その結果,1930年以降,カラマキ会衆の人数は着実に増加しました。

内部からの反対

1931年に神の民は,エホバの証人という名称を採択しました。しかし,すべての人がこの名称を受け入れたわけではありません。ラリサのコスタス・イコノムは昔を思い起こしてこう語っています。「私は新しい名称について知るとすぐ,走って行って,地域内の兄弟たちにこの喜ばしいニュースを伝えました。ところが不思議なことに,これらの兄弟たちは,『我々は名称を変えることはできない』と言いました。エホバの証人と呼ばれることを望まなかったのです。

「次の集会の時,私は彼らの態度を戒めました。どんな反応があったでしょうか。その場にいた兄弟10人が全員立ち上がり,私を集会から追い出したのです。しかし次の日,私はエホバが別の会衆を与えてくださるに違いないと考えて,伝道を始めました。兄弟たちのこの最初のグループは互いに集まり合うことをやめ,徐々に散ってゆきました。ラリサで忠実を保った兄弟は一人か二人しかいませんでした」。

ほかにもエホバの組織内にいながら組織の指導に快くこたえ応じない人たちが現われました。ある人々にとっては宣べ伝える業が試みとなりました。1928年のキリストの死の記念式では,168人が表象物にあずかりました。しかしその同じ年に,ギリシャには良いたよりの伝道者が97人しかいませんでした。宣べ伝える業が組織されてゆくにつれ,参加しようとしない人たちは徐々にふるい分けられてゆきました。

エレフテロホリにおける反対の中での成長

トリカラ地方のエレフテロホリという村に初めて真理の光がさし込んだのは1923年のことでした。ジョン・コスタレロスという兄弟が,アメリカから生まれ故郷のエクサロフォス村へ戻り,家から家へ伝道を始めました。弟のディミトリスがこたえ応じ,二人は近くのエレフテロホリで定期的に伝道しました。1924年に二人はジョージ・パパヨルイウに会いました。ジョージは後にこう語っています。「最初,私は反対していました。彼らにこう言ったんです。『おいおい,あんたたちエクサロフォスの無学なやぎ泥棒が,我々に福音を教えるというのかい? ここには司祭や主教のような教育のある人がいるんだ。余計なお世話だ』。二人は去ってゆきましたが,後日またやって来ました。私は二人に近づいて話を聴きました。何を聞いたと思いますか。聖書のどこそこの書には,『……と書いてあります』という言葉です。これには考えさせられました」。間もなくジョージは一緒に宣べ伝える業を行なうようになりました。

これら兄弟たちは1925年に3人そろってアテネに行き,バプテスマを受けました。彼らは一緒に宣べ伝える業を続け,1928年にはジョージ・パパヨルイウの甥と,近くのバルティノ出身のジョージの娘婿が真理を受け入れました。

ニコス・カラタナシスが真理を受け入れた時,親族は彼にバルティノから出て行くようにと言いました。いとこたちはニコスの髪の毛をつかんで,地面に投げ倒そうとしましたが,すんでのところで父親が間に入りました。弟のジョージもエホバに仕え始めたため,それ以後迫害はひどくなりました。狂信的な親族は,眠っている間にジョージを殺すよう彼の妻を説得することさえしました。しかし,斧を手にした妻がまさにそれを振り下ろそうとしたその時,ジョージは目を覚ましました。そして,妻にとても優しく話しかけたので,妻は夫の態度と,夫を責める人たちの態度との違いを見て,斧を下に置きました。彼女は真理において進歩し,他の親族も同様に進歩しました。結局,みんな家族全員でエホバに仕えるようになったのです。ジョージの息子の一人コスタス・カラタナシスは,1975年にものみの塔ギレアデ聖書学校を卒業し,妻のマリアと共にキプロスで宣教者として奉仕しています。

バシリス・アブゲリノスは,1927年9月に聖書研究者に初めて会った時,エレフテロホリで学校の教師をしていました。こう語っています。「到着するとすぐ,村でジョージ・パパヨルイウという名前の“フリーメーソン団員”が偽りの教えを教えて地域社会をかき乱していると告げられました。教師だった私は,『彼に身のほどを知らせる』ことになっていたのです」。パパヨルイウ兄弟はこう語ります。「私はこの教師と討論をしました。村人たちはこの教師の私に対する答え方が華麗だったので感心していました。そして,村人たちは笑ってこう言いました。『我々村人はあまり多くのことは知らないが,あんたは自分のことを教育があると言っている。それなら今度は教師の前で身の証を立ててみろ』」。しかしわずか数日後,この教師はパパヨルイウ兄弟に「聖書研究」の第1巻が欲しいと言い,すぐに全巻を求めました。この人はどのような反応を示したでしょうか。「ついに私は真理を見つけたのです」と,本人は語っています。この人は夫婦そろって宣べ伝える業に加わりました。

それで,その地域の伝道者は7人になりました。迫害はあらゆる方面から来ました。アブゲリノス兄弟はこう述べています。「私たちは公に侮辱され,通りで呪いの言葉をかけられ,警察や教育省に対して告発され,法廷に引き出され,辱められました。しかし,私たちにとって大きな喜びとなったのは,私たちをあざけったり非難したりしていたそれらの人の中から,後に兄弟となり,私たちと一緒に宣べ伝える業に加わる人が出たことです」。

ギリシャの島々 ― クレタ

ギリシャの島々は,陽光をさんさんと浴びるその美しい風景で世界中に知られています。使徒パウロは,エーゲ海に面する石灰岩のごつごつとしたこれらの海岸を何か所か訪れたことがあります。西暦56年には,3回目の宣教旅行の帰りにミテレネとキオスとサモスに立ち寄りました。(使徒 20:14,15)また,クレタでも時を過ごしたようですが,ギリシャの他の島を訪れたかどうかは知られていません。(テトス 1:5)使徒ヨハネはパトモス島に流刑にされましたが,他のギリシャの島の幾つかは現代でも流刑地として使われています。―啓示 1:9

ラザフォード兄弟は,1920年にアテネを訪問した後,クレタ島のカニアとイラクリオンの町も訪れました。その3年後,ドリアナ村出身のニコス・ベニエラキスは,靴屋で「神の立琴」の本を目にしました。彼は後日,C・T・ラッセルの書物を翻訳した,カニアのジョン・ボスドヤニスと連絡を取りました。3人の兄弟がドリアナで一つの群れを作りましたが,残念なことにボスドヤニス教授は独自の小冊子を出版し始め,もはや協会に協力しようとはしませんでした。

しかし,マノリス・リオヌダキスという謙遜な教師は真理の点で実際に進歩しました。家から追い出されたマノリスは教師の仕事をやめ,イラクリオンで開拓奉仕に加わりました。そして,家から家へと回り,市全体を網羅しました。この活動のためにマノリスは法廷に立たされ,キクラデス諸島のアモルゴス島への1年間の流刑を言い渡されました。彼は昔を思い出しながらこう語っています。「そこに着いてから6か月たった時,突然,クレタからコキナキスという名の男性が到着しました。私はクレタでこの人に真理について話したことがありました。彼は関心を示し,今度は自分の新たな信念のために流刑にされてここに来たのです。ついに私は『ものみの塔』を一緒に研究する仲間を得ました。私のこの仲間はアモルゴス島の海でバプテスマを受けました」。

コキナキス兄弟は現在84歳です。これまで54年にわたってエホバに忠実に奉仕してきました。兄弟は1938年に,改宗の勧誘を禁じる法律に違反したとして逮捕されたギリシャで最初のエホバの証人となりました。兄弟の一番最近の法律上の闘いについては,この記述の冒頭で触れられています。これまでに兄弟は,自分の崇拝を平和的に行なったということで合計60回以上逮捕されました。

そのように始まりは小さなものでしたが,現在クレタには13の会衆があります。これは,難しい状況下で長年にわたって兄弟姉妹が示してきた忍耐と熱心な働きの証となっています。

サモス

サモス島の初期のエホバの証人の一人,ディミトリス・マクリスは,初めて真理を学んだいきさつについてこう語っています。「1926年1月に,私はある店で一人の聖書研究者が話しているのを耳にしたので,自己紹介しました。翌日,ピネロピと私は討議に出席しました。そして兄弟たちに,なぜ聖書からすぐに答えることができるのかと尋ねました。すると,『聖書研究をする必要があります』と言われました。兄弟たちは『神の立琴』の本を見せ,研究の方法を教えてくれました。それで私たち5人は一緒に毎晩,明け方までその本を研究しました。その年の終わりごろ,巡礼者のククティアノス兄弟が来られた時,私たちはバプテスマを受けました。1927年にはサモス島で小さな大会が開かれ,島の40人が出席しました。

「私たちは島のすべての村を訪ねることにしました。持っていた唯一の出版物は『地獄』という題の小冊子で,『それは何か。だれがそこにいるか。そこから出ることは可能か』という副題が付いていました。私たちは行く先々の村で殴られました。1928年3月のこと,ある司祭は,私と米国出身の姉妹を法廷に連れ出しました。自分私たちを殴っておきながらそうしたのです。審理の際,主席判事は司祭に『村にはこの男をつるす[木が]なかったのかね』と尋ねました。私は2か月の刑を宣告され,その年は記念式を一人で行ないました」。

エホバは兄弟たちの忍耐と熱心な働きを祝福してこられました。サモス島には現在,活発な会衆が三つあります。

コルフ島での小さな始まり

イタリア本土を向こうに,ギリシャ西岸の沖合いに浮かぶ美しい島,コルフ島には,1923年に4人の兄弟がいました。ジョージ・ドゥラスとクリストス・パパコスは当時の業を振り返ってこう言います。「私たちは島の中心地にある劇場で公開講演を行なうことにしました。午前10時には,約1,000人の出席者で満員になりました。前方の席には法律家が数人座っていました。しかし,警察署長がやって来て,講演を行なうことはできないと言いました。聴衆の中のある法律家は怒って理由を尋ねました。大主教がその張本人と知って,その法律家は大声でこう言いました。『皆さん,私はフランスの領事です。この劇場ではこの講演を聞くことが禁止されています。一緒にフランス領事館に来てください。そこでなら講演を聞くことができます』。講演者のドゥラス兄弟がまず領事の後に続きました。それから聴衆全員が後に付いて行きました。考えてみてください。講演を聞くために大勢の人がフランス領事館に向かってコルフ島の通りを歩いて行ったのです」。

コルポーター(全時間奉仕者)のハラランポス・ベラティスも,1923年ごろコルフ島で反対にぶつかりました。こう語っています。「パギという村では,村人全員が広場に集まりました。私は協会の出版物を紹介し,多くの人が書籍を受け取りました。その時,村の司祭が現われ,私の上着をつかむと,『法と王の名において,お前を逮捕する』と宣言しました。そして,電話で警察を呼ぼうとしましたが,電話機の調子が悪く,うまく通じませんでした。私は声を出さずに,何をすべきか導いてくださいとエホバに祈りました。そして最後に,本の入ったかばんを拾い上げ,大声で,『エホバの名において,私はこれで失礼します』と言いました。皆は静まりかえり,だれも何も言いませんでした。私はそのままそこを立ち去り,宣べ伝える業を続けました」。

ギリシャの周りに散在する島々には,現在47ほどの会衆があり,約2,500人のエホバの証人がいます。

開拓者の働き

初期のこうした多難な時期にさえ,宣教を生涯の仕事にしたいと思った熱心なギリシャ人がいました。初期の開拓者の一人マイケル・カミナリスは,良いたよりを全時間宣べ伝えたいというあふれんばかりの願いを抱いて1934年にギリシャに戻りました。ほどなくしてマイケル・トリアンタフィロプロスが彼に加わりました。この二人はギリシャの幾つかの地方を網羅しました。カミナリス兄弟はこう語っています。「業が進展するにつれて,反対が激しくなりました。マグリアナ村では暴徒に直面しましたし,プラシノ村では地元の司祭が先導して私たちを攻撃しました。メッセニア県やアイトリア県,アカルナニア県でも改宗の勧誘をしたかどうかの問題で数十件の訴訟事件がありました。

「逮捕者の数を減らすために,協会は私たちが一緒に働くよりも一人で行動するよう勧めました。話し相手なしで一人で働くのはつらいことでしたが,危険や孤独感についてくよくよ考えることなく,エホバを信頼して前進しました。人々はよくこう言ったものです。『はるばるここまでやって来るからには,たんまりもらっているんだろう』。空腹を抱え,寝る場所があるかどうかさえ分からない時も多かったのですが,彼らはそのことを全く知りませんでした。敵対的な地域にいる時など,寝場所として一番安全なのは墓地の中ということもありました」。カミナリス兄弟は1945年からベテル家族の一員となっています。1938年に8人だった正規開拓者の数は大いに増加し,1993年には約1,800人になりました。

宣べ伝える業をやめさせようとする努力

急速に拡大する宣べ伝える業を支援するため,ギリシャで最初の協会の印刷所 ― 中古のオッフェンバッハ平台印刷機1台を備えた印刷所 ― が,アテネのロンバルドゥ通り51番地の地下室で1936年2月19日に仕事を始めました。それでその年の5月に,その印刷機で「黄金時代」誌(現在の「目ざめよ!」誌)が印刷されました。「ものみの塔」誌はその時もまだ米国で生産されていました。

しかし,僧職者はこの新しい雑誌が配布されることを望みませんでした。そのため,「黄金時代」誌の1936年8月号は,通信郵政局の政務次官が僧職者に影響されて,この雑誌の郵送配布を禁止したことを発表しました。とはいえ予約者たちには,雑誌を引き続き定期的に受け取れることが確約されました。しかし,前途にはさらに厳しい状況が待ち受けていたのです。

1936年8月4日,政変が起こりました。イオアンニス・メタクサスが国の新しい大統領になり,独裁的な権力を握りました。伝道者数が212人に達した1938年に,改宗の勧誘を禁じる法律が制定されました。それ以来この法律は,ギリシャでの宣べ伝える業の最大級の障害となってきました。1939年10月には,アテネの集会で85人の兄弟姉妹が逮捕されました。秘密警察は姉妹たち35人を一つの部屋に入れ,兄弟たちをあちこちの地方警察本署に分散させて留置しました。

次の日,支部の僕カラナシオス兄弟が協会の事務所で逮捕されました。印刷所は閉鎖され,協会の資産は没収されました。僧職者の扇動により,逮捕された兄弟たちは皆,ギリシャ正教会に戻るという宣言書に署名するよう圧力をかけられ,エーゲ海の孤島に流刑にするという脅しを受けました。

その85人の中の一人コスタス・クリストゥは,相手が圧力をかけるために使った卑きょうとしか言い様がない方法についてこう語っています。「クリストゥさん,奥さんはもう声明書に署名されましたよ。奥さんは釈放されます。あなたがセリフォス島に流刑にされて,奥さんがひとりぼっちになるなんて,かわいそうじゃありませんか」。しかし,クリストゥ兄弟はこう答えました。「妻は私ではなくエホバを頼りにしています。妻がどんな決定をしようとそれは自由です。でも,きっと署名してはいないでしょう。それに,何に署名するんですか。創造者を崇拝するのは悪いことだという文章にですか」。

大統領と親しい間柄にあったある人は,エホバの証人のこともよく知っていました。この人は,エホバの証人を流刑にするという決定を全く非道なことだと思いました。それで大統領にこう言いました。「この人たちは政治面でわたしたちに反対しているわけではありません。何をしているのでしょうか。神の王国を待っているのです。神の王国が来たらすばらしいでしょうね。わたしたちもそれを期待しているのです」。その独裁者はこの言葉に納得し,その決定をすぐに撤回するよう命じました。兄弟たちは胸を躍らせました。結局,逮捕された85人のうち,圧力に屈して妥協したのは6人だけでした。法廷での審理の後,支部の資産とお金は全部返却されました。支部事務所と印刷所は再び自由に活動し始めました。しかし,それも長続きしませんでした。

戦時下の年月

1940年10月28日,イタリアがギリシャに宣戦を布告し,ギリシャは第二次世界大戦に突入しました。ドイツとブルガリアの軍隊がギリシャに侵入し,多くの人が殺され,19人の兄弟が命を失いました。戒厳令が敷かれ,225人の伝道者のうち,多くの兄弟が中立の立場ゆえに軍法会議にかけられました。7年ないし20年の刑を宣告された人もいれば,終身刑を宣告された人もいます。中にはクレタのエマヌエル・パテラキスのように,死刑を宣告された人もわずかながらいました。しかし,ドイツ占領下のギリシャでは,どの死刑宣告も執行されませんでした。

占領下にあった間,協会の書籍は発行禁止になりましたが,幾らかは引き続き兄弟たちのもとに届きました。1941年4月以降,霊的な食物は地下活動によって供給されました。本部の兄弟たちとの通信が全く断たれてしまったため,古い「ものみの塔」誌の記事や「宗教」,「救い」といった書籍,「避難者」の小冊子が謄写版で複写されました。兄弟たちは宣べ伝え続けましたが,伝道は非公式に行なわれました。関心を示した人に小冊子を貸し出し,その人がさらに関心を示したなら,小グループに分かれて行なっていた集会に招待するのです。このような方法で多くの人が真理を学びました。

危機一髪

ギリシャ人の間では,ドイツの占領軍と戦うためにゲリラグループが幾つか形成されました。1943年10月18日,ドイツ軍はテッサリアのカラマキに侵入しました。そこの会衆は長年活発に活動してきました。その地域を拠点にしていた左派ゲリラは村人たちに,命を守るため山へ逃げるよう勧めました。兄弟たちは祈った後,村にとどまることにしました。ドイツ軍がやって来た時,兵士たちは家々を略奪し,人のいない家には火をかけました。3分の2の家が焼かれましたが,エホバの民の家は焼かれませんでした。カラマキの80世帯足らずの住民のうち,65人が殺されましたが,その中にエホバの証人は一人も含まれていませんでした。

1944年8月24日,メガロポリス市の近くの村,トゥルコレカスで4人の兄弟が反逆罪で訴えられ,ゲリラによって死刑を宣告されました。そして処刑場へ引き立てられていた時,ドイツの砲兵隊が奇襲を仕掛けてきました。そのためゲリラは散り散りに逃げ去ってしまいました。兄弟たちは難を免れたのです。

時々,ドイツの兵士たちはある地域を取り囲み,妨害活動の報復として男性を皆殺しにすることがありました。アテネ郊外のカリテアで,ドイツ軍の兵士たちは処刑のためにすべての男性を逮捕しました。兵士たちがタナシス・パレオロゴスの家を捜索し,彼を逮捕しようとしたその時,隊長は机の上の本や雑誌が,禁止されているエホバの証人の出版物であることに気づきました。それでこう尋ねました。「お前は聖書研究者か」。パレオロゴス兄弟は,「そうです」と答えました。隊長は,「ドイツにいるわたしの母も聖書研究者なんだ」と言うと,兵士たちを連れて立ち去ったのです。

戦時中の迫害

設立されて久しいエレフテロホリの会衆も戦時下の難局をしのいでいました。エリアス・パンテラスはこう報告しています。「1940年から1950年にかけての10年間は,厳しい試練の時でした。兄弟たちが家から家へ行くと,教会の鐘が鳴り,村長が司祭や地元の警官と共にやって来て,兄弟たちを逮捕し,裁判所まで引っ立てて行きました。また,一人の警察官の率いる国家主義者の幾つかのグループが兄弟たちの家の中を捜索し,兄弟たちを正教会の教会に連れて行くということが2回ありました。彼らは兄弟たちに無理やり十字を切らせようとしたり,宗教的なイコンに口づけさせようとしたりしました。兄弟たちがそれを拒むと,容赦なく殴りつけました」。

あるとき幾つかの共産主義者のグループと地元の指導者たちが兄弟たちを逮捕して,見張りに立つよう命じました。兄弟たちはそれを拒んだ時,近くの村に連れて行かれ,当局に引き渡されました。当局はニコス・パパヨルイウとコスタス・クリスタナスとコスタス・パパヨルイウを処刑することに決めました。その委員会のメンバー7人のうち,処刑を支持しなかったのはわずか一人だけでした。兄弟たちは山腹にある村に連れて行かれました。死刑判決が読み上げられ,縛られて殴られました。殴られているうちに,ニコス・パパヨルイウは手足を縛られたまま,山腹を途中まで転がり落ち,川のすぐ上の岩棚でかろうじて止まりました。兄弟たちは8日間にわたり繰り返し殴られ,その後釈放されました。

ニコス・パパヨルイウはこう語っています。「民族解放戦線の班長が私を事務所に連れて行き,あなたを処刑する権限を与えられたことを知らせなければならないのは残念だと言いました。彼は,助けになりたいと思っているが,そのためにはあなたも協力してくれなければならないと言いました。私は手を伸ばして彼の右手を取り,こう言いました。『私のためを思ってくださるのでしたら,直ちに処刑してください。もし私が自分の信仰を否認したなら,私のために泣いてください』」。この班長は心を動かされたに違いありません。パパヨルイウ兄弟を釈放したのです。興味深いことに,この後間もなく,この処刑を命じた人はすべて戦争で命を落としました。

パパヨルイウ兄弟は現在90歳ですが,今なお精力的にエホバに奉仕しています。現在エレフテロホリには活発な二つの会衆があります。明らかにエホバの祝福により,エクサロフォス出身のジョン・コスタレロスという一人の忠実な兄弟から始まって,数百人にまでなりました。―イザヤ 60:22と比較してください。

教会の高位僧職者が真理を学ぶ

戦時中には至る所で僧職者が迫害を引き起こしていたにもかかわらず,ヘレン・クジオニはある司祭を通して真理を学びました。彼女はこう語っています。「私はアテネの高等女学校の教師として働いていました。1941年に,私のよく知っていた修道院長[主教の下の位の高位僧職者]で神学の教師でもあったポリカルポス・キニゴプロスが私の学校に配属されました。ある日たまたま,エホバの証人であった,町の靴磨きがキニゴプロス氏の靴を磨きながら彼に伝道しました。興味を抱いたキニゴプロス氏は,その会話について私に話し,私たちは一緒にジョージ・ドゥラスの家に行きました。私はそのとき初めて,地上をパラダイスにするという神の目的について聞きました。帰り道に私はその神学者に,『これは真理だわ。私はもう教会には行きません』と言いました。彼は私に,『そう急ぐことはないでしょう』と警告し,『まず勉強しなければなりません』と言いました。『もちろん,勉強します。でも,私はここにとどまります。あなたはどこへでも望む所へおいでになってください』と,私は言いました。そうこうしているうちに,彼はアテネ地域にいた知り合いのすべての主教のところに話しに行きましたが,だれも注意を払いませんでした。

「その後,地元のある司祭がキニゴプロス氏を告発するための証人を探し始めました。私がこの友人に危険を警告すると,彼はすぐにあごひげをそり落とし,髪を切り,茶色のスーツを着て,別人のようになりました。彼は自分がエホバの証人になった理由を書いた弁明書を用意し,教会当局に個人的に手渡しました」。1943年の終わりごろ,彼と彼の実の妹ソフィア・イアソニドゥ,それにヘレン・クジオニはバプテスマを受けました。彼はもはや“ポリカルポス神父”ではなく,キニゴプロス兄弟になったのです。

フィリピ地区での増加

西暦50年ごろ古代マケドニアの都市フィリピで,使徒パウロと仲間のシラスは殴打され投獄されました。そのフィリピの近くにキリアと呼ばれる村があります。現代になって,1926年に真理を学んだヤナコス・ザハリアディスがその周囲の地域に良いたよりを伝えた時,ロドリボス村のある家族が「政府」の本を受け取りました。それから何年もたった1940年に,19歳のティモレオン・バシリウはその家族のもとを訪れ,屋根の上に積んであった本の山を見つけました。その中に「政府」の本がありました。彼はこう語っています。「私は何時間も屋根の上にいてその本を読み通しました。真理を見いだしたのです」。

この若者は街路で証言を始めました。そのようにして仲間のエホバの証人を見つけました。クリストス・トリアンタフィルという名前の元警察官です。ティモレオンはクリストスからさらに書籍を求め,間もなく8人の若者から成る会衆がロドリボスに設立されました。これらの兄弟たちのうち,ティモレオン・バシリウとタナシス・カロス,パナヨティス・ジンゾプロス,ニコス・ジンゾプロスは,1945年10月3日に単にエホバの証人であるという理由で逮捕されました。彼らは警察署に連行され,24時間続け様に殴られ,特に足の裏を打たれました。これらの若者たちは1か月ほど歩けませんでした。

1940年に僧職者は,当時旅行する監督として奉仕していたザハリアディス兄弟を殺すために一人の男を雇いました。彼らはこの殺し屋に,処罰を受けないで済むようにすると約束しました。それで,ザハリアディス兄弟の家で集会が開かれていた時のこと,突然,ドアをノックする音が聞こえました。戸口には見知らぬ人が立っています。その人はザハリアディス兄弟に会いたいと言いましたが,兄弟はちょうど話をしている最中でした。兄弟たちはその人に腰を下ろすようお願いしました。ザハリアディス兄弟は,見慣れない人が来たことに気づき,それに応じて話を調整しました。あとで,兄弟たちはその人にあいさつをし,ザハリアディス兄弟もその人と知り合うようにしました。するとその人はザハリアディス兄弟に,隣の部屋に行って二人だけになりたいと言いました。そして,ポケットから拳銃と,支払われたお金を取り出すと,こう言いました。「私は,ここに来てあなたを見つけ,殺すようにと主教から権限を与えられました。これが拳銃で,これはこの犯罪を犯すことに対して払われたお金です。しかし神は,私が罪のない血を流すことがないよう守ってくださいました。僧職者たちの言っていたこととは逆に,あなたこそ神の人だということを悟るよう神は助けてくださったのです」。

これらの兄弟たちの忠実な働きにより,ロドリボス,ドラビスコス,パレオコミ,マブロロフォスに会衆が組織されました。これらギリシャ北部で,業は拡大し続けてきました。

ブルックリンとの連絡が再開される

ギリシャの外部の組織との連絡は1945年になってやっと回復し,その年にエジプトのアレクサンドリアの兄弟たちから出版物が幾らか送られてきました。ギリシャ支部は,ついにブルックリンと連絡が取れた時,こう報告しました。「真理をつないでおくことはできません。エホバの霊はその僕たちを導いて,羊を集める業を行なわせました」。1940年から1945年までの間に,王国伝道者の数は178人から1,770人へと10倍近く増加していました。

ギリシャ支部はアルバニアでの業も監督していたため,時折アルバニアへの訪問が行なわれました。1938年の「年鑑」はその国での業についてこう述べています。「ここでもサタンは,ローマ・カトリックの僧職者たちを通して,王国の音信の宣明に反対して行動しています。書籍は押収され,アルバニア政府に嘆願しているにもかかわらず,いまだに戻ってきていません」。1939年の伝道者数は23人でした。ある兄弟が1948年にアルバニアを訪れた時,伝道している人の数は35人ほどでした。その後,政治情勢のゆえに,その国の兄弟たちと連絡を保つことは困難になりました。ですから,数十年にわたる禁令の後,1992年5月にアルバニアでの業が法的に認可された時,50人の伝道者がいたというのは本当に良いニュースでした。

ギレアデ卒業生が到着する

1946年は画期的な年でした。二人のギレアデ卒業生,アンソニー・シデリスとジェームズ・トゥルピンがギリシャに派遣されたのです。アタナシオス・カラナシオスは長年のあいだ支部の僕として忠実に奉仕してきましたが,病気になったので,シデリス兄弟と交代しました。宣べ伝える業と翻訳の業が再組織されました。

1946年6月には,ブルックリンから出版物の入った152個のカートンが船便で届きました。その船荷のことが僧職者に知れるとすぐに反対が始まりました。『これらの書籍の輸入は,いかなる手段を使ってでも阻止するように』と述べた回状が税関当局に回されました。しかし,その回状は遅すぎました。兄弟たちはすでに書籍を運び去っていたのです。そしてすぐにエホバの証人の間で配ったので,教会の代理人たちが書籍を差し押さえるために支部に来た時には,もう書籍はありませんでした。

僧職者たちは不敵にも1947年に新しい戦術を試みました。教育宗教省は,エホバの証人の出版物にはすべて「異端であるエホバの証人」と表示しなければならないと述べた回状を政府の各省庁に送付しました。その結果,郵便局や税関はそのような印が押されていない限り,わたしたちが米国から文書を受け取ることも,ギリシャ内部に何かを郵送することも許可しようとしませんでした。その年の際立った出来事は,協会の第3代会長N・H・ノアと,後に第5代会長となったM・G・ヘンシェルがギリシャを訪問したことです。アテネのテネドゥ通り16番地に新しい支部施設を建てるための打ち合わせが行なわれました。残念なことに,その年の11月には二人のギレアデ卒業生もギリシャから退去させられました。協会の支部の代表者にはプラトー・イドレオスが任命されました。

迫害に関する政府への報告

政府の役人がギリシャでは宗教上の迫害は行なわれていないと宣言した後,1946年8月に,エホバの証人に対する虐待についての報告書が政府に提出されました。実際,迫害は絶えず新たな頂点に達していました。1946年の,わずか5か月の間に442人の兄弟が法廷に連れ出されました。中には,処刑された人もいます。

1946年3月に,テッサリアのフィキで,クリスチャンの原則を犯そうとしなかった10人のエホバの証人が,こん棒や銃で殴られ,地面に投げ倒され,顔の形が変わるほど荒々しく踏みつけられました。それから石灰の入った穴に投げ込まれ,石灰の中で転がされました。村人たちはそばに立って眺めていました。晩になって一人の仲間の信者が兄弟たちのもとを訪ねに行った時,その人も同じ仕打ちを受けました。

その翌日には近くのエレフテロホリでも,トリカラの主教の扇動による同じような暴行事件が起こりました。一人の兄弟がエホバの証人に対するこの虐待に抗議するため新聞報道を使おうとしたところ,兄弟は警察署の地下室に連れて行かれ,意識を失うまで殴られました。兄弟は血を流したまま警察署の裏の狭い路地に投げ出されました。通りかかった人が兄弟を手当てのために薬局へ連れて行きました。兄弟は15日間意識不明で,何が起きたのか話せるようになるまでには1か月かかりました。

カルディツァのパレオカストロ村のエホバの証人で一家の頭であるグリゴリス・カラヨルゴスも,自分の宗教上の原則を曲げようとしませんでした。彼は1946年8月15日に,自警団のグループに捕らえられ,中世のスタイルの異端審問にかけられ,その結果やがて亡くなりました。

同じような残虐行為は,1947年6月26日にスパルタの近くでも起こりました。ブロンダマス村で,武装警官の一グループはパナヨティス・ツェンベリスが,新たに関心を抱いた女性の聖書研究を司会しているところを見つけました。二人は殴られ,警察はこの女性を絞首刑にしたいと思いましたが,村人たちに止められました。警官たちは兄弟を拷問にあわせ,あごを殴ったあと,兄弟を縛って村の外へ1.5㌔ほど引きずって行きました。兄弟はそこで武装警官に射殺されました。

同じ村で,一人の姉妹は十字を切ろうとしなかったために腕を折られてしまいました。近くのゴリツァでは,ある姉妹の自宅に武装警官がやって来て,姉妹の服を脱がせ,姉妹を逆さ吊りにして拷問を加えました。開拓者のジョージ・コンスタンタキスは近くの森に連れて行かれ,処刑されました。

もちろん,こうした残忍な行為が行なわれても,宣べ伝える業は停止しませんでした。1949奉仕年度中,700人を超える兄弟姉妹が法廷に連れ出されたにもかかわらず,伝道者数は2,808人の新最高数に達したのです。

流刑!

一家の頭が大勢,イアロス島やマクロニソス島といった孤島へ流刑にされました。マクロニソス島は水のない荒れ果てた島で,そこに抑留される囚人は厳しい扱いを受けるという評判でした。テオドロス・ニロスは回顧してこう語っています。「私たちは1952年2月に船でマクロニソス島に連れて行かれました。私と一緒だったミハリス・ガラスとジョージ・パナヨトゥリスは,すでに刑務所で5年間過ごしていました。二人は釈放されたのですが,今度はクリスチャンの中立のゆえにまた罰を科せられていたのです。到着すると,二人はひどく殴られました。

「何日も強制労働をさせられた後,ある晩に数人の兵士が私たちの監房に入って来て,眠っていた私に,『立て。これからお前を処刑する』と言いました。私は目が覚め,『分かりました』と言って,服を着始めました。彼らは,『やめろ。そのままにしていろ』と言い,しばらくして,『何か言うことはないのか』と聞いてきました。『ありません。何を言えばいいのですか』と答えました。『お前は処刑されようとしているというのに,何も言うことはないのか』。『何もありません』。『では,親族に書き置きするつもりはないのか』。『はい,私が死ぬかもしれないことはもう親族も承知しています』。『では,行こう』。外に出ると,士官が大声で,『壁のそばに立たせろ。後ろを向かせろ』と言いました。しかしその時,一人の兵士が私に,『まず軍事裁判にかけてからでなければ処刑できないことを知らないのか』と言いました。これはすべて,私の忠誠をくじくための策略だったのです」。

ニロス兄弟は,流刑にされていた兄弟たちにエホバがどのように霊的食物を供給されたかについてもこう語っています。「ある日,私のもとにルクーミア[ギリシャのキャンディー]の箱が送られてきました。もちろん,包みはすべて検査されるのですが,検査に当たった者たちはルクーミアを味見することに熱中するあまり,下に入っていた詰め物を見落としてしまいました。それは1冊の完全な『ものみの塔』誌でした。兄弟たちは,『兵士たちはルクーミアを食べたけれども,私たちは「ものみの塔」を食べた』と言いました。そうしたいろいろな苦しみからも確かに良いことが生じました。エホバの証人が他の流刑囚と研究しているあいだ監視しているよう割り当てられたある看守は,25年後にエホバの証人になり,その人の家族も大勢エホバの証人になりました。私たちは会うと,昔のそうした経験を思い出します」。

忠誠を保つ人々の処刑

1948年4月8日号の「目ざめよ!」誌は,ギリシャのエホバの証人に加えられている迫害について報告しました。ギリシャの公安大臣にあてて特別な手紙が送られました。それは,4人の子供の父親で37歳のクリストス・ムロタスが,ゲリラに対する奉仕を行なわなかったという理由で,1948年3月5日にゲリラによって処刑されたことに抗議する手紙です。またその手紙は,政府当局が1949年2月9日にラリサのカリツァに住むジョン・ツカリスを処刑したことも述べていました。

ラリサ会衆の兄弟たちはジョンを釈放してもらおうと努力しましたが,無駄でした。彼が亡くなる前の数日の間に,兄弟たちは何通かの手紙を渡すことができました。1949年2月7日付のツカリス兄弟の最後の手紙にはこう書いてあります。

「親愛なる兄弟,私の状況は万軍のエホバのみ手の内にあります。今朝,……私はミズルロ[処刑場]へ連れて行かれましたが,処刑は行なわれませんでした。彼らが言うには,時刻が遅すぎたということです。それでも,彼らは私の勇気を見て感心していました。処刑が明日の朝になるかどうか,私には分かりませんが,私たちは常に確信を抱き,エホバに懇願しましょう。人を恐れてはなりません。なぜなら聖書は,『人に対するおののきは,わなとなる。しかし,エホバに依り頼んでいる者は保護される』と述べているからです。シャデラク,メシャク,アベデネゴのような信仰を持ちましょう。彼らは実にはっきりと,こう言いました。『王よ,もしそうとなれば,わたしたちの崇拝している神は,わたしたちを燃える炉から救い出すことができます。しかし,もしそうされないとしても,ご承知ください。あなたが立てた金の像をわたしたちは崇拝いたしませんし,あなたの神々を崇拝することもありません』」。

2月9日に彼はミズルロへ連れて行かれ,処刑されました。「目ざめよ!」誌の読者は,そうした処刑に抗議する何千通もの手紙を,政府の大臣や大使館や領事館に送りました。しかし,ギリシャ正教会の神学者でアテネ大学の教授でもあったある人はツカリス兄弟の処刑を支持して,こう言いました。「良心上の理由で武器を取ろうとしないなどということは,わたしたちの間では全く知られておらず,想像もできない事柄である」。残念ながら,実情はこの言葉の通りです。

戒厳令が撤廃される

ついに戒厳令が解除され,兄弟姉妹は良いたよりを宣べ伝える運動の点でより大きな自由を得ました。長年を経て初めてのこととして,「神を真とすべし」という装丁した書籍を一般の人々に提供することができました。1950年から1951年にかけて,伝道者は26%増加し,開拓者の隊伍は28%,聖書研究は37%増加しました。

もちろん,迫害がやんだわけではありません。1950年にギリシャ正教会は別の戦術に出ました。エホバの証人の子供に強制的に洗礼を受けさせようとしたのです。ティモシーという名前の17歳の若者は,幼い時から真理の内に育てられましたが,無理やり洗礼を受けさせられ,デメテリオという洗礼名をつけられました。

1951年12月,ノア兄弟とヘンシェル兄弟は2度目のギリシャ訪問を行ないました。警察は大会の許可を与えてくれませんでしたが,これらの兄弟たちはいろいろな家で905人のエホバの証人に話をしました。

神権的な活動の拡大に伴い,新しい支部施設を建てることが必要になりました。選ばれた用地はアテネの下町のカルタリ通りにありました。工事は1953年に始まり,1954年10月には,ベテル家族の住居と工場と事務所を備えた3階建ての新しい建物が完成しました。その年には伝道者が4,931人の新最高数に達しました。

攻撃を受けても祝福は続く

「躍進する新しい世の社会」という協会の映画が1955年にアテネで上映された時,80人の兄弟姉妹が逮捕され,フィルムと映写機は押収されました。9人の兄弟たちが改宗の勧誘の罪で訴えられました。当局は映画がどのようなものかを調べるため,それを司祭や教授,警察官をはじめ,200人ほどのゲストに見せました。映画はとても感動的だったので,いろいろな新聞が映画について論評しました。好意的な判決が下り,そのあとフィルムと装置は兄弟たちに戻されました。

ギリシャ正教会は1959年を「反異端」年と宣言しました。アテネの新聞によると,その目的は「エホバの証人を一掃すること」でした。神の民は一掃されるどころか,その年に大きな祝福を受けました。

5月にノア兄弟の訪問があり,兄弟はアテネの劇場やベテル・ホームで1,915人に話をしました。その1週間後には,ヘンシェル兄弟がサロニカを訪れ,市内で一番大きなオリンピオンという映画館で1,250人に話をしました。全国各地で小規模な大会が開かれました。マケドニアの古代フィリピの近くでは,パウロがかつて祈りのために集まった人々に宣べ伝えた場所の近くにあったその同じ川で,27人の兄弟姉妹がバプテスマを受けました。―使徒 16:12-15

1963年7月30日の一日大会のために,協会はアテネの“パナティナイコス”競技場を借りました。警察の許可をもらい,外国から何千人もの訪問者を招待し,ホテルの予約も済ませました。ところが突然,政府が崩壊したのです。新政府は,正教会の圧力を受けて大会を中止させました。

このために失意を味わったものの,1965年に協会が5日間にわたるギリシャ語の大会をオーストリアのウィーンで開くことを発表した時,失意は幾らか和らげられました。その旅行をした1,250人の兄弟姉妹の喜びはひとしおでした。旅行のためにチャーターした12両の貸し切り列車は,「動く王国会館」となりました。

1966年の半ば,クリストス・カザニスという若いエホバの証人が,クリスチャンの中立の立場ゆえに死刑を宣告されました。この事例は広く報道され,ギリシャ全土だけでなく他の国々にも及ぶ大々的な証言となりました。アテネの主要な新聞各紙は毎日その判決とエホバの証人の信条について長々と論評しました。最終的に判決は4年半の刑ということになりました。クリソストモス大主教は,銃を使用することを拒んだ若者の処刑に賛成しているという印象を与えたため,その件で厳しい批判を浴びました。

政権の乗っ取り

1967年4月21日の夜,突如,軍がギリシャ政府を乗っ取りました。集会と報道の自由を保障する憲法の条項は停止され,「ものみの塔」誌の印刷を中止しなければなりませんでした。法律によって,5人以上の集会は開けなくなりました。宣べ伝える業を注意深く行なわなければなりませんでした。いつものことながら,正教会の僧職者たちはこうした時勢を利用して兄弟たちを苦しめました。

業は地下に潜って続けられました。兄弟たちは人里離れた森の中で集会を開かなければなりませんでした。後に協会の第4代会長になったF・W・フランズが1969年にギリシャを訪れた時,兄弟はサロニカの近くの森の中で1,000人を超える兄弟たちに話をしました。

エホバの証人に対する憎しみは,1974年に起きたある事件に関係して特に明らかになりました。ポリカンドリティスという名前の夫婦の子供が誕生後まもなく死亡したのですが,埋葬の許可をもらえなかったのです。なぜでしょうか。新聞の報道によると次のとおりです。両親はエホバの証人であり,1954年に信者同士で結婚しました。しかし,先の政府の下で内務省は,エホバの証人によって執り行なわれたすべての結婚を無効とする布告を出したのです。これにはギリシャ正教会の支持がありました。そのため地元の戸籍係は,両親がその子供を私生児として届け出てからでなければ埋葬の許可は出せないと主張しました。父親は届け出を拒否しました。うそをついて家名と自分の良心を汚す気はなかったからです。論争が長引いている間,子供の遺体は4日間冷蔵庫に保管されました。ギリシャの世論は大方,この偏狭な迫害を非難しました。アテネの新聞「ト・ビマ」はこれを「およそ卑劣さの点で中世的である」と評しました。

軍事政権下での数々の問題にもめげず,王国を宣べ伝える業は進展し続けました。伝道者数は,1967年の1万940人から1974年には1万7,073人へと増加しました。その困難な時期に,聖書研究と集会の出席者も急増しました。

組織の拡大に備えての建設計画

エホバの証人の集会所はギリシャ国内に多数ありますが,それを王国会館と呼ぶことは最近まで認められていませんでした。それで多くの会館は単に「講堂」と呼ばれていました。今のところ,ギリシャには「エホバの証人の王国会館」という名称のついた建物は25軒ぐらいしかありません。それでも,アテネだけで117ほどの会衆に約9,500人のエホバの証人が集まっています。

しかし,エホバの民はこれまでギリシャで建設を行なうことができました。1977年に,兄弟たちはアテネの北,約35㌔の所にある森林地に5㌶ほどの土地を購入しました。山や松林の中のたいへん美しい場所に,1,800人分の座席を備えたマラカサ大会ホールが建設されました。この大会ホールは特別な造りになっていて,引き戸になった壁を開け放つと3,500人を収容できる広さになるのです。隣接した敷地には地域大会が開けるだけのスペースがあり,そこで開かれた特別集会には2万人が出席しました。また,サロニカの大会用地では,何千人もの人が巡回大会や地域大会を楽しむことができます。

クレタ島では,数年前に兄弟たちが山や谷やぶどう畑に囲まれた山腹に土地を購入し,そこに円形劇場と二つの王国会館を建設しました。今ではこの大会会場は,その地域の最も際立った建物となっています。段々になった山腹には多種多様な花や木が植えられており,周囲の風景に美しく溶け込んでいます。その静穏な雰囲気は理想的です。演壇から神の言葉が説明されている時,兄弟たちはよく,「楽園にいるみたいだ」と言います。

ギリシャ支部はそれまで25年間,アテネのカルタリ通りにありました。その期間に伝道者数は5,000人足らずから1万8,000人余りへと増加し,もっと多くのスペースが必要なことは明らかでした。1962年にはアテネ郊外のマルシに1㌶の土地が購入されました。その時そこは27部屋の寝室や,一つの工場,幾つかの事務所,その他の施設を備えた,新しいベテルの建物を建てるのに理想的な場所でした。献堂式は1979年7月16日に行なわれ,その時はライマン・スウィングルが統治体の代表として訪れました。

新しい支部では,進歩した科学技術のおかげで兄弟たちはさらに質の高い雑誌や書籍を生産できるようになりました。1986年7月から,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌は英語版と同時出版になっています。

再調整の期間

1980年代には支部組織内の再調整が必要でした。1977年から1981年にかけて,少しの停滞がありました。その期間に2,134人がバプテスマを受けたものの,伝道者の数はずっと1万8,500人前後のままでした。何が問題だったのでしょうか。諸会衆の中のある種の汚れに注意を向ける必要がありました。また兄弟たちの中には,「長老」や「奉仕の僕」といった言葉を称号とみなし,エホバの羊を世話する責任を表わすものとはみなしていなかった人も少数ながらいました。さらに,この期間中には背教もその醜い頭をもたげ,諸会衆は分裂をもたらすこの影響力からも清められなければなりませんでした。いったんそうした措置がとられると,再び着実な増加が見られるようになりました。

協会の代表者として30年以上奉仕してきたプラトー・イドレオスは,今や高齢に達したため,別の人に立場を譲り,その後の何年かの間に何人もの人が次々と支部の調整者になりました。これはアテネのベテル家族にとって難しい時期でした。個性の衝突や誇りが業の障害となることもありました。しかし,統治体や他の忠実な兄弟たちから絶えず援助があり,組織は強められました。

街路伝道

1983年,ギリシャ正教会の僧職者たちはショックを受けました。兄弟たちは地域大会に関連して,初めて街路伝道を組織したのです。

それは大きな反響を巻き起こしました。何百人ものエホバの証人が逮捕され,地元の警察署に連行されました。その結果,38件の裁判が行なわれましたが,そのうちの35件で兄弟たちは完全に勝訴し,3件は上訴裁判所に持ち込まれました。僧職者たちは負け戦をしていることを思い知らされました。怒った僧職者たちはエホバの証人に反対するデモを行なおうと,人々に抗議集会への参加を呼びかけました。デモの参加者を運ぶために数十台のバスを借りましたが,結局のところ,姿を現わした人の数はバス1台分にもなりませんでした。神の民はそれ以来ずっと,街路での証言を続けており,よい成果を収めています。

1985年の特別大会

1985年に協会は,その年の特別大会の開催場所の一つにギリシャを選びました。会場として,アテネのアポロ・スタジアム,アテネ郊外のマラカサ大会ホールとその敷地,サロニカの近くの大会用地の3か所が選ばれました。

17か国から数百人の代表者が訪れ,統治体の成員,ギャンギャス兄弟とバリー兄弟も出席しました。訪れた人たちのために,話はヨーロッパの幾つかの言語と日本語に通訳されました。ギリシャ人であるジョージ・ギャンギャスは大会出席者にギリシャ語で話をし,聴衆をたいへん喜ばせました。三つの大会の出席者の合計は3万7,367人で,368人がバプテスマを受けました。

世界の非常に多くの場所からやって来た兄弟たちの間の愛は,特に昼の休憩の時にはっきり見られました。大会用地の松の木陰に座っていると,王国の歌を歌う大勢の人の声が聞こえました。

大会が攻撃される

翌年の夏,1986年6月にイ・ラリサ紙は,700人のエホバの証人が巡回大会のために集まっていたガラクシアス映画館の前に,司祭たちに率いられた群衆が集まったことを報じました。暴徒は大会をやめさせようと決意していましたが,警察がやって来て彼らを解散させました。ラリサのイ・アリティア紙は,暴徒の示した態度を,イエスを殺すよう求めて叫んだ群衆の態度と比較して,こう述べました。「しかも残念なことに,何とその“リーダー”は気違いじみた……司祭だった! 司祭は脅迫したり,悪態をついたりした。そして,中にいる人たちに会館を出るまで5分間の最後の猶予を与えた。出て来なければ,『我々が入っていって,やつらの頭を粉々にしてやろう』」。

そうした攻撃が加えられていたので,統治体はその問題に関する二つの記事を出すことに決めました。そのため,「目ざめよ!」誌,1986年10月22日号には,「ギリシャにおける宗教上の迫害 ― なぜ?」と題する記事が載り,「ものみの塔」誌,1986年12月1日号には,「信教の自由が攻撃にさらされるギリシャ」という記事が載りました。結果はどうなったでしょうか。ギリシャ政府の要人に手紙が殺到しました。エレフテロティピア紙は,「208の国や地域のエホバの証人から20万通の手紙が寄せられた」と述べています。アブイ紙によれば,法務省は毎日何千通と届く抗議の手紙を処理するために特別な部局を設けなければなりませんでした。

兄弟たちは1988年の地域大会のために,ピレウスの港の近くの近代的な平和友情競技場を借りました。契約書に署名を済ませ,エホバの証人は6,000時間をかけてその施設の掃除をしました。ところが,競技場の理想主義的な名称とは裏腹に,ある著名な僧職者が激しい抗議を行ないました。諸教会の鐘を鳴らすよう命令することまでしたため,多くの人は何か戦争のような災難が始まったかと思いました。さらに,競技場の使用許可を取り消さなければ競技場を乗っ取ると脅すことさえしました。残念なことに,そのような圧力を受けて,合法的な契約は破棄されました。それも,大会が始まるわずか三日前のことでした。兄弟たちは四日間のプログラムのために別の場所を準備するべく昼も夜も働きました。努力のかいあって,合計3万人が直接,あるいは電話回線によってプログラムの幾つかを聞くことができ,喜びました。

良いたよりを擁護する注目すべき訴訟事件と判決

使徒パウロは,古代マケドニアのフィリピの会衆にあてた手紙の中で,「良いたよりを擁護して法的に確立すること」について述べました。(フィリピ 1:7)ギリシャにおける現代のエホバの証人の組織は,良いたよりを宣べ伝えるためにこれまで何度も裁判という手段に訴えなければなりませんでした。この国で今までエホバの民の最大の敵となり,今なお敵対しているのはギリシャ正教会です。僧職者たちは様々な省庁に働きかけることにより,神の民をひどく苦しめてきました。しかし,偏見を持たない裁判官の言い渡した判決の幾つかは,エホバの証人の宣べ伝える業の助けになってきました。

例えば,「反異端」年であった1959年に,エホバは注目に値する勝利を与えてくださいました。ギリシャ正教会の僧職者団は最高裁判所に,エホバの証人が「周知の」宗教かどうかという案件を提出しました。最高裁判所の意見は,エホバの証人が周知の宗教であり,それゆえに国の憲法によって保障されるというものでした。

サタンは兄弟たちを妥協させようとして,こうかつな手段を用います。請求書の支払いに関連した問題さえあるのです。パトラスの町で,住民は電気代の請求書に変わった項目が含まれていることに気づきました。「聖アンデレ教会建設のため」という請求が加えられていたのです。言うまでもなく,エホバの証人はこの余分の請求に対する支払いを拒否しました。電力会社は,電気を止めると言って脅しました。事件は法廷に持ち込まれ,強制的な寄付は違憲であると裁定されました。

ギリシャ正教会がしばしば用いてきた別の策略は,エホバの証人のことを,世界シオニズムを支持するユダヤ人の組織であると主張することです。ギリシャのユダヤ人社会はこの宣伝に当惑しました。それによって自分たちも不利な状況に陥る可能性があったからです。

ギリシャ・ユダヤ人中央評議会の代表者たちはギリシャ正教会の指導者たちに対して,1976年9月21日付の手紙の中で,そのような主張には何の根拠もないと述べました。クレタではエホバの証人の法人団体結成の許可に反対してギリシャ正教会が訴訟事件を起こしました。エホバの証人はシオニストの組織だという主張が彼らの主要な論議の一つになっていました。ユダヤ人社会の法律上の代表者は,エホバの証人とユダヤ教の間には何のつながりもないと述べました。上訴裁判所の審理で,裁判官たちはこの陳述を受け入れました。僧職者たちの陰険な策略はまたしてもくじかれたのです。

中立に関連した数々の勝利

兵役のために召集される兄弟たちは皆,中立の問題に直面します。1977年まで,兄弟たちは召集されては刑に服す,ということを何度も繰り返してきました。中には,12年以上刑務所で過ごした人たちもいます。1977年4月25日に,オランダの代表がこの件をストラスブールにあるヨーロッパ審議会に提出しました。審議会の決定の結果ついに,刑期は4年間で,1回だけに限られるということになりました。それでも,ギリシャの刑務所にはいつも平均400人の兄弟たちがいます。

官報によると,ギリシャ軍は確かに,「周知の宗教の聖職者,修道士,ならびに訓練中の修道士は,望むなら」兵役を免除されると述べています。にもかかわらず,1988年から1992年までの間に,宗教上の奉仕者と認められている幾人かの兄弟が中立の立場ゆえに刑に服していました。

そのうちの一人が国家評議会に訴えを提出しました。兄弟は自分が宗教上の奉仕者と認められていると述べ,軍隊に入るようにという命令に関して提訴し,またその後の刑についても提訴しました。この訴えは支持されました。これは,エホバの証人が周知の宗教であることが認められただけでなく,政府から聖職者と認められたエホバの証人は兵役を免除されることが確認されたという点で,二重の勝利でした。ほかにも二人の兄弟が同様の裁判を起こし,同じように釈放されました。

改宗の勧誘に関する法律

改宗の勧誘を禁じる法律は,ギリシャで非常に大きな障害となってきました。この法律は最初,1938年に制定され1939年に改正されましたが,1975年の憲法で再確認されました。

改宗の勧誘に関連した最も目ざましい訴訟事件は,「コキナキス対ギリシャ」事件です。コキナキス兄弟は改宗の勧誘を行なったかどで罰金と4か月の刑を言い渡されました。兄弟が控訴したところ,刑は3か月に軽減され,次いで罰金に変更されました。判決の取り消しを求める訴えが,ギリシャの最高裁判所である破棄院に提出されました。1988年4月,最高裁判所は上告を棄却しました。このためコキナキス兄弟には,ストラスブールのヨーロッパ人権裁判所に個人的に訴えを提出する機会が開かれました。1990年12月7日,ヨーロッパ人権委員会は事件をよく調べ,ギリシャが信教の自由をうたったヨーロッパ人権条約第9条の重大な違反を犯していることを全員一致の票決で認めました。事件は「適格」とされ,ストラスブールのヨーロッパ人権裁判所に持ち込まれました。

その結末は,この話の冒頭で述べた通り,ギリシャにおける信教の自由の大勝利に終わりました。ギリシャの裁判所や裁判官,陪審員たちが1993年5月25日付のこの高等法院の審判にどのように反応するかは,時間がたってみなければ分かりません。しかし,公正を愛する人は皆,人間のどんな法廷よりもはるかに高い法廷があることを覚えていれば慰められるでしょう。神によって任命されたその裁き主はすべての人間の心を読まれます。その方は人間が公正を成し遂げるかどうかに関係なく,公正をもたらしてくださいます。―イザヤ 11:1-5

極度の身体的虐待

ベルギーで発行されている「国境なき人権」という雑誌は最近,改宗の勧誘に関するこの法律について詳細に報じました。その中で,この法律を「悪名高い」ものと呼び,「[この法律は,]この国の『優勢で支配的な』宗教の追随者にあえてならない人すべてに向けられた,ギリシャにおける宗教上の迫害という“組織的大虐殺”を自由に行なわせるための『法律上の口実』となった」と付け加えています。そして,この法律のために裁判,罰金,流刑などから,「残忍な身体的虐待,あらゆる種類の苛酷な剥奪や拷問」に至るまで様々な「故意の人権侵害」が生じてきたこと,「多くの場合そうした拷問によってさいなまれた罪のない犠牲者は,一生治らない身体的疾患や障害を抱えたり,もだえ死んだりすることになった」ことに注目しています。

この同じ雑誌は,そのような迫害を切り抜けたエホバの証人の言葉を数多く引用しています。忠実な兄弟姉妹は極度の虐待について語っています。こぶしで殴られ,平手で打たれ,突きとばされ,あざだらけになるまで殴打され,血まみれになって意識を失ったことや,むちで打たれ,暴徒に襲われ,つばを吐きかけられ,地面に投げ倒されて踏みつけられ,石を投げつけられ,火をかけられ,拷問にあわされ,ロープや鎖で縛られ,銃で撃たれたことについて語っています。サバス・ツェズメツィディスはこう回顧しています。「私は服を脱がされ,手と足を一緒に縛られて丸裸のまま地べたを,いばらやあざみの中を引きずられ,同時に殴られたり蹴られたりしました」。

兄弟たちは拘禁されて,ひどい苦しみを経験しました。その話によると,兄弟たちは家族から引き離され,水浸しの監房で何週間も過ごし,冬に暖房のない吹きさらしの監房で凍えそうになり,じわじわと餓死に至るようにさせられ,治療をほとんど,あるいは全くしてもらえず,糞尿や口では言えないような他の不潔なものをわざと食べ物に入れられ,あらゆる種類の心理的,感情的な責め苦に遭わされました。

例えば,この雑誌はそのような囚人の一人の次のような言葉を引用しています。「刑務所に入るとすぐ,まず初めに刑務所の地下室に降りて行く。降りて行くにつれ,この迷宮内では人間の品性や個人の尊厳らしきものはすべて埋没し,完全に失われることが分かってくる。その時から,すべてが,そしてだれもが,どんな犠牲を払っても生き残りたいという低次元の意識と,逃れたいという欲求にのみ支配されるようになる。……そうした地下室の汚い壁には,不幸にも人生の一部をそこで過ごさなければならなかった男たちの歴史と苦しみと惨めさが刻み込まれている。こびりついた手垢,そこかしこに積み上げられたごみやがらくた,ネズミ,息も詰まるような空気,暗闇の中を何とか照らそうとする1個の哀れな電球,詰まってあふれたトイレ,汚い……水たまり,使用済みの注射器と針,床やセメント製のベンチに付いた血こん,横になってすぐに寝入っても数分で寝苦しくなるぼろぼろのスポンジゴムのマットレス,レロス島の精神病院に入れられている不憫な患者を思わせるような絶望的で惨めな顔つき,『今日はいったい何月何日か』と哀れにも尋ねてくる絶望した人,聞きなれない言語で悲しい歌を口ずさむ,方々からの難民,だれかれ構わず侮辱し,プラスチックのびんに入れた水を法外にも300ドラクマで売ろうとするコーヒー売り,抑圧された性欲をすべて仕切りの陰で解放しようとする“終身刑囚”,この“生き地獄”からパラダイスに呼び出す天からの声のような,自分の名前を呼ぶ看守の長のどなり声を最後には聞きたいという,自分の内部でだんだん大きくなるたまらない欲求などである」。

同じように,フォティス・ラザリディスはこう語っています。「私は土間に使い古しの紙袋を敷いて眠っていました。……着ていた服は薄くて軽いものでした。その紙袋も長い間使うことはできませんでした。小さくちぎって壁のネズミの穴に詰めなければならなかったからです。……最初の晩,眠っている間ネズミは文字どおり私の上をはい回っていました。トイレの“設備”はといえば,自分の部屋の隅を使うしかなく,その部屋も縦2㍍横1㍍の……小さなものでした。……湿気のため壁からしずくが落ちて[いました]」。

1938年(改宗の勧誘に関する法律が通過した時)から1992年までの間に,改宗の勧誘のかどでの逮捕が2万件近くあったことをこの雑誌は挙げています。また,「良心的兵役拒否者」として2,269人が裁判にかけられ,68人が流刑にされ,42人が死刑を宣告され,2人が処刑され,4人が拷問のために死亡したことも載せられています。そして最後に,この雑誌は4,828件の身体的虐待の例を挙げており,そのうち2,809件は軍の士官によるもの,1,059件を警察によるもの,252件を司祭によるものとしています。この最後の統計に関しては,「ほかに何千人もの人々がありとあらゆる下劣な扱いを受けた」とも述べています。

そのような厳しい仕打ちにどうして人間が耐えられるのでしょうか。真のクリスチャンにとって暴力的な迫害は今に始まったことではありません。使徒パウロはまさにこの国で虐待され,投獄されました。そして,自分が耐えたのは自分自身の力によるのではないことをはっきりと示し,「自分に力を与えてくださる方のおかげで,わたしは一切の事に対して強くなっているのです」と書いています。(フィリピ 4:13)何千人ものエホバの証人がこれまでそうした苦しみを耐え忍ぶことができたのは,エホバ神に対するそのような変わらない信仰を抱いていたからにほかなりません。

しかし,ギリシャ人は公正と自由を愛することで歴史的に知られてきました。世界中のエホバの証人は,ギリシャ政府部内の心の正直な人たちが,ギリシャ正教会の影響力を減らすことにより,また罪のない人々を迫害から守ることによって自国の国際的評判を守るべく,すぐに行動してくれるよう期待しています。

拡大しているため新しい支部施設が必要になる

様々な反対があるにもかかわらず,宣べ伝える業はギリシャで進展し続けています。事実,1985奉仕年度の終わりには2万人を超える伝道者がいました。マルシの支部施設は今や,増大するベテル家族が住むには狭すぎる状態になりました。初めのうち,支部は近くのアパートを借りたり,後には約4㌔離れた所にある小さなホテルを購入したりしてその問題をしのいでいました。しかし,こうした措置は一時しのぎにすぎませんでした。

統治体の許可を得て,新しい支部施設を建てるための土地探しが始まりました。これは容易なことではありませんでした。建築に関する厳しい法律があるため,宿舎棟と工場を連ねて建てることができないからです。結局,アテネの北60㌔の所にある,アテネとサロニカを結ぶ国道に近い22㌶の土地が購入されました。建築許可が得られるまで2年半待った後,兄弟たちは1989年に工事に取りかかることができました。

敷地はエレオナの山腹にあり,そこからは山々や水の豊かな渓谷の眺めが楽しめます。支部の建物は道路からも列車の中からも見える所にあります。宿舎は22棟の建物から成っており,1棟に8人住むことができます。宿舎群のすべての建物は同じ形で,美しく素朴なスタイルになっています。

言うまでもなく,正教会の僧職者たちは最初から工事に反対していました。現場での約2,500人のデモを計画することさえしました。しかし,当局は200人の機動隊を送り,暴徒が敷地内に入ることを阻止したため,抗議は気勢をそがれて失敗に終わりました。司祭たちはまた,工事に抗議する横断幕を持ってアテネの市街を練り歩くデモ行進の先頭に立ちました。

新しい支部は1991年4月13日に献堂され,兄弟たちはギリシャにおけるエホバの民の歴史の中で画期的なその日を,統治体のミルトン・ヘンシェルとアルバート・シュローダーと共に過ごせたことを喜びました。何千人もの兄弟姉妹が自発的に自分の時間とエネルギーを提供して工事を助けました。エホバ神とその地上の組織から愛と配慮が示されていることは明白でした。傍観していた世の人たちでさえ,多くの建物が「キノコのように急に現われた」のには驚きました。様々な反対があったにもかかわらず,エホバはエレオナで現代の奇跡を起こしてくださいました。コリント第二 13章8節のパウロの言葉が頭に浮かびます。「わたしたちは真理に逆らっては何も行なえません。ただ真理のためにしか行なえないのです」。

真理の潮流は推し進む!

エホバの賛美者の数は1905年の小さな始まりから,今や2万5,000人を超えています。真理の水の流れは小川のせせらぎだったのが,今では紛れもない洪水のようになっています。この国でのエホバの民の活動は,わたしたちの神エホバのみ名を大々的に証しするものとなってきました。この報告にはわずかな人の名前しか挙げられていませんが,実際には大勢の兄弟姉妹が証しに貢献してきました。真理の炎は幾千人ものギリシャの人の心の中で,またギリシャ全土とその島々で恐れることなく良いたよりを語ってきた謙遜な男女の心の中で赤々と燃え盛っています。エホバのみ名のためにひどい苦しみを経験した人は少なくなく,命を失った人さえいます。彼らが忠節に忠誠を保ったことはエホバの心を歓ばせてきました。―箴言 27:11

偽りとの戦いはこの事物の体制の終わりまで続けなければなりません。パウロが良いたよりを擁護するためにアレオパゴスに立ったこの国で,またヨハネがパトモス島に流刑にされている時に啓示を受けたこの国で,エホバの証人は信仰のために厳しい戦いを続けています。僧職者たちのたくらんだ幾千もの裁判や迫害にもかかわらず,また真の崇拝者が死に処せられることさえあったにもかかわらず,真理の光が消されることは決してありませんでした。今日,真理の光はかつてなかったほど明るく輝いています。そして,これからも輝き続けるのです。真理の水の上げ潮はこれからも続き,ギリシャだけでなく地球全体が,「水が海を覆っているように……エホバについての知識で満ちる」ようになるでしょう。―イザヤ 11:9

[脚注]

^ 7節 ギリシャの西岸に接するイオニア海の名称はヤワンの名に由来するようです。

[109ページの囲み記事]

理解しやすい聖書

1993年の「神の教え」地域大会は,ギリシャのエホバの証人の歴史を画するもう一つの出来事でした。何十年もの間,良いたよりの宣明者たちはバンバス訳の聖書を用いてきました。19世紀に出されたこの翻訳は,カタレブサという純粋ギリシャ語を使っており,クリスチャン聖書原文のコイネーよりも現代的であるとはいえ,現代の読者にはあまりにも古くさいものになっています。特に若い人々にとって,バンバス訳には理解しにくい所がたくさんあります。これは聖書を理解する点での進歩の妨げとなってきました。

そのためギリシャのエホバの証人は,1993年7月18日,日曜日,「神の教え」地域大会の最終日に統治体のアルバート・シュローダーが新しい出版物,「新世界訳から訳されたクリスチャン聖書」を発表したとき,胸を躍らせました。電話回線で結ばれた三つの大会会場で,案内係は約3万冊を大会出席者に5分足らずで配りました。こうして,シュローダー兄弟がバンバス訳と比べた,この新しい出版物に見られる多くの改善点の幾つかに言及した時,すべての人は話についてゆくことができました。改善点のうち最も注目に値するのは,エホバという神のみ名が本文中に237回用いられている点です。この新しい翻訳には,68ページから成る索引や,本文についての学問的な注解,地図,「話し合いのための聖書の話題」もついています。ですから,この新しい出版物が万雷の拍手と喝采をもって,また涙さえ流す人もいる中で,迎えられたのも驚くには当たりません。

[114ページの図表]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

伝道者

25,000

20,000

15,000

10,000

5,000

0

1938 1950 1960 1970 1980 1992

逮捕者(累積)

25,000

20,000

15,000

10,000

5,000

0

1938 1950 1960 1970 1980 1992

[66ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

フィリピ

サロニカ

ラリサ

コリント

アテネ

エレオナ

テッサリア

コルフ島

クレタ島

[72,73ページの図版]

1. ジョージ・ククティアノス,1927年。2. ニコラス・クズニス,悪名高いカバラ刑務所で,1948年。3. グリゴリス・グリゴリアディス,アテネのカルタリ通りにあったベテルの自分のデスクで。4. レフカスで漁網を繕っているところ。5. ジョージ・ドゥラス(矢印),アテネ会衆の人と。背景: カバラ,つまり古代のネアポリス。使徒パウロはこの港に上陸し,ヨーロッパに初めて足を踏み入れた。

[88,89ページの図版]

1. プラトー・イドレオス。妻のフィリスと共に。2. アタナシオス・カラナシオス,ギリシャでの協会の最初の代表者。3. ミテレネ島のモリボスの漁師。4. マイケル・カミナリス(左から2番目),今でもギリシャのベテル家族の一員。5. コリント運河。背景: パトモス島。西暦96年に,この島で使徒ヨハネはイエス・キリストから啓示を受けた。