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グアドループ

グアドループ

グアドループ

ご自分が西インド諸島のグアドループ南部にある小さな島にいるところを想像してみてください。あなたのいる町の住民はわずか6,000人で,興奮を誘うような出来事はこれまでほとんど起きたことがありません。しかし今日は,人々や物資を定期的に運搬する一隻の船から,何トンもの鉄パイプやアルミニウム板が波止場に降ろされています。そうした資材はその日のうちに町外れに運ばれ,そこで組み立てられてゆきます。ほぼ1,000人を収容する大会ホールが建てられているのです。この催し物を宣伝する看板は必要ありません。ここでこのような大会を組織できるグループはただ一つしかないことを皆よく知っているのです。

それから1週間後,さらに3隻の船が同時に着岸しました。町中の人たちは1,000人ほどの男女子供が波止場から大会会場に歩いてゆくのを見守ります。みんなスーツケースや折り畳み式ベッドや水を持っています。この人たちはエホバの証人です。彼らが町に来たのは大会に出席するためだけでなく,住民に聖書の真理について話すためでもあります。長年にわたって,グアドループやその周囲の島々に住む人々はすべてエホバの証人にしばしば会ってきました。

どのようにして聖書の真理はこれらの島々に最初に伝わったのでしょうか。ここにはどのような人たちが住んでいますか。どんな島に住んでいるのでしょうか。

文化の混合

1493年にコロンブスがここに到着するずっと以前,グアドループは「きれいな水の島」― カリブ・インディオの言い方ではカルケラ ― という名前でした。恐らくインディオたちは,グアドループにたくさんあるさわやかな滝や,グアドループを取り囲む美しい海のことを考えていたのでしょう。しかし,現在グアドループで大量に流れている別の種類の水のことを後ほどお話ししたいと思います。その水が生み出しているもののほうがずっと美しいのです。

グアドループは実際には二つの島に分かれており,それに加えて幾つかの小さな属島(マリーガーラント島,レサント島,ラデジラード島,イールドラプティットテール島,サンバルテルミー島,サンマルタン島の一部)があります。地図を見ると,主要な二つの島は羽を広げた蝶のようです。西側のバステールには火山があり,東側のグランドテールには小さな丘がモザイクのように並んだ台地があります。その美しさを増し加えているのは紺碧の海や緑の田園,数多くの滝がある熱帯雨林です。

様々な人種の人々がグアドループに渡ってきました。ヨーロッパの移民に先立ち,最初に住み着いたのはアラワク族で,後にカリブ人が入りました。ヨーロッパ人の移民が初めてグアドループに入ってきたのは,スペインの後援によるコロンブスの航海から140年以上たった後のことでした。この移民はフランス人で,スペイン人ではありませんでした。彼らは徐々にカリブ人を絶滅に追いやり,砂糖工場を建て,奴隷の労働力を輸入しました。

政治的にはグアドループはフランスの海外県であり,ここ数十年の間,大勢のフランス人がここに住むためにやって来ています。しかし,本島に住んでいるのはおもに黒人で,奴隷貿易によってアフリカの沿岸から連れてこられた人たちの子孫です。といっても人口の約10%は,1848年にグアドループでの奴隷制が廃止された後にインドから来た労働者の子孫です。六つある周囲の属島の内の二つであるレサント島とサンバルテルミー島には,おもにブランペイ(地元の白人)が住んでおり,ブルターニュやノルマンディーからやって来た彼らの先祖は最初の入植者の中に入っていました。ここで事業所を経営しているレバノン人やシリア人の家族もわずかながらいます。

人口の大半はローマ・カトリック教徒と見られています。しかし,インド人社会では,融合してカトリックになってはいるもののヒンズー教の儀式がいまだに行なわれています。田舎に行くと,鮮やかな色の旗をつけた彼らの神聖な柱をあちこちで見かけます。かなりの人の信仰は先祖にまつわる迷信に影響されており,そうした迷信はキャンボワゾール(魔法使い)たちによって保たれています。

とはいえ,ここの人々は大抵,聖書に対する敬意を持っており,聖書が神の言葉であると信じています。祈る際に多くの人は詩編からの抜粋を使います。実際,聖書は開いたままにしておかれることが多く,時には火をともしたろうそくのそばに置かれることもあります。そのようにして詩編のところを開いておくと,家に保護と祝福がもたらされると信じているのです。

アフリカとヨーロッパとアジアの様々な文化が混じり合った結果,穏やかさや親切さのにじみ出る生き方が生まれました。多くの人はこれらの良い特質があるため,話し相手として楽しい人々で,王国の音信を快く受け入れます。

小さな始まり

グアドループでのエホバの証人の歴史は,「命の水を価なくして受けなさい」という神からの招待を受け入れる,誠実で心の謙遜な人々にエホバの霊が何を成し遂げることができるかを示す優れた実例となっています。(啓示 22:17)グアドループには,早くも1936年当時からエホバの証人が訪れていました。しかし1938年には,ポワンタピートル港の波止場で定期的な証言活動が行なわれるようになりました。

島の電化はまだ始まったばかりで,通りにも車は数台しか見られませんでした。港はにぎわっており,ありとあらゆる大きさの船が錨を下ろしていました。商人やその雇われ人たちが動き回っており,大きなかばんや重たい木箱や巨大な樽を運ぶ港湾労働者もあちこち動き回っていました。昼休みの間,ある男性は労働者に囲まれて,戸口の踏み段の日陰に座る習慣がありました。聖書について話していたのです。40代になるこの男性はシリル・ウィンストンです。結婚しており,グアドループの南の島ドミニカ出身でした。長身で灰色の目をした立派な風采のこの男性は穏やかにクレオール語で話しました。全時間の伝道者,つまり開拓者でしたが,家族の身体的な必要を満たすために一生懸命働いてもいました。

コンデ・ボンシャンは,シリル・ウィンストンの話を熱心に聴いた最初の人々の一人でした。こう語っています。「私たちは港で港湾労働者として一緒に働いていました。昼になると,私と他の数人の労働者がシリルの周りに座って,彼が聖書を説明するのを楽しく聞きました。しばらくすると彼は,私たちと一緒に働いていたドミニカ出身の人たちを何人か集めて集会を組織しました。出席者は5人でした」。

集会場所として,ウィンストン兄弟はルネ・サアイ夫妻のカズの中の一部屋を借りました。西インド諸島のカズというのは,骨組みとなる木材に板を釘で打ちつけた建物で,屋根はトタンです。内部はというと,部屋はパーティションで仕切られていますが,一番上は空気を循環させるために開いています。仕切りの壁があっても声はよく聞こえるので,集会のある日にはサアイ夫人はいつも話に耳を傾けていました。こうして,彼女と夫は聖書の真理に関心を持つようになりました。

ノエマ・ミスダン(現在はアプル)は,このグループに最初に出会った時のことをこう語っています。「夫の帰宅が,決まった日に遅くなり始めたことで心を乱されました。もしかしたらだれかほかの女性に関心を持っているのではないかと心配したのです。ある晩,わたしは夫の後をつけました。1939年12月25日のことでした。夫はポワンタピートル郊外の,あるカズに入りました。数分後,わたしも家の中に入りました。入ってみると12人ほどの人がいたので本当に驚きました。そこで座って話を聞きました」。こうしてノエマは集会に出席するようになりました。電気が来ていなかったので,めいめいがろうそくを持参しなければなりませんでした。

戦時中の苦労

ドイツがポーランドに侵攻した後,1939年9月3日に,フランスはドイツに宣戦を布告しました。フランス領アンティル諸島にも影響が及びました。ほどなくしてフランスとの交易が事実上停止したからです。1940年にグアドループは,ナチスに協力したフランスのビシー政府の支配下に入りました。米国との通信は停止しました。グアドループは,もはやラム酒やバナナを輸出することも,食糧や他の製品を輸入することもできなくなりました。ニューヨークから送られた聖書の出版物もポワンタピートル港の波止場で焼かれてしまいました。

しかし1940年に,ポワンタピートルの郊外で聖書研究のために集まっていた小さな群れが,ものみの塔協会の指導のもとでエホバの証人の孤立した群れとして機能し始めました。それはグアドループで最初の群れでした。

熱心で,人に対する恐れがない

その集会に出席していた人のうち数人は,すぐに真理を自分自身のものにしました。こうして1940年9月に,ウィンストン兄弟はプティブールの近くのラレザルド川で7人にバプテスマを施しました。しかし,すぐに行ける浜辺がたくさんあるのにどうして川でバプテスマが施されたのでしょうか。兄弟たちは川のほうがふさわしいと考えたのです。イエスご自身もヨルダン川でバプテスマを受けたのではないでしょうか。もちろん,本当に必要なのは,どこであれ体を浸すのに十分な量の水だけです。 *

グアドループのこれら初期の弟子たちは,誠実さや熱心さを示しただけでなく,人に対する恐れを持っていませんでした。初期の時代を思い起こして,ボンシャン兄弟はこう言いました。「日曜日には出かけて行って宣べ伝える業を行ないました。訓練は一切受けておらず,知識もほとんどありませんでしたが,皆,自分に最善と思える方法で話をしました。できるだけ多くの人を改宗させる責任があると確信していたので,ポワンタピートルのカトリック教会の正面に立ち,ミサの終了直後に大声でこう言いました。『ポワンタピートルの皆さん,エホバの言葉を聞いてください……』。昔の預言者たちが宣べ伝えるためにそのような方法を使っていたことは,以前に読んだことがありました。しばらく話していると,群衆が集まって来ました。中には聞いている人もいましたが,ほかの人たちが騒音をたて始めました。警察の本部が近くにあり,妻と私は逮捕されました。その晩は警察署で一夜を明かしました」。それでも,がっかりしてその後の奉仕をやめるようなことはありませんでした。

20歳の若い男性オルガ・ラアランドも,真理を学んだ時しりごみしなかった人の一人です。エホバの証人の小さな群れの人たちに会ってから2回目の日曜日にオルガは彼らと一緒に証しの業を行ないました。彼は非常に熱心で進歩的な兄弟になり,また人に対する恐れがありませんでした。非常に大きな声の持ち主だったため,気づかない人はいませんでした。

しかし,それらのクリスチャンが直面した忠節の試みは公の証言だけではありませんでした。

孤立していた間の謙遜さの試み

兄弟たちは聖書研究のために非常に限られた量の資料しか持っていませんでした。この地のエホバの証人の孤立した群れに交わる30人のほとんどは,まだ霊的に円熟していませんでした。戦時下での様々な制限のために協会の本部と,もはや連絡を取ることができませんでした。その上,この同じ時期にシリル・ウィンストンが病気になってドミニカに戻り,3か月後にそこで亡くなりました。兄弟たちはウィンストン兄弟を愛していましたが,今や自分たちの中で非常に困難な問題が生じるままにしていました。エホバに仕えたいと思ってはいましたが,組織をおもに人間の観点から見ていたのです。サアイ兄弟は,集会が自分の家で開かれていたので,自分に責任があると感じましたが,ほかの人たちは同意しませんでした。1942年11月29日には内輪もめが最高潮に達し,ミスダン兄弟の率いる大半の人たちは身を引いて別の場所で集まり合うことになりました。サアイ兄弟はその後も自分の家で集会を開きました。二つのグループの不和は教義的なものではなく,個性の関係したものでした。

分裂したにもかかわらず,二つのグループは証言に参加し,人々は耳を傾けました。どちらの側にも誠実な兄弟姉妹たちがいました。しかし聖書の原則が当てはめられないとき,クリスチャンにはふさわしくない状況が生じます。「あなた方の間に分裂があってはなりません」と,聖書は勧めています。「結合のきずなである平和のうちに霊の一致を守るため真剣に励みなさい」。―コリント第一 1:10。エフェソス 4:1-3

このような厳しい時期に,サアイ兄弟は協会の本部と再び連絡を取ることに成功しました。兄弟が連絡を取るために払った努力と戦時中に聖書の出版物を島に輸入しようとする粘り強い努力に協会は感謝しました。1944年2月16日に,サアイ兄弟を会の僕(主宰監督)に任命する手紙がグアドループに送られました。そのころまでに兄弟は30歳になっていました。腰が低く,線の細い感じはありますが,非常に率直で意志の堅い人でした。

会衆で奉仕するようサアイ兄弟を任命した後,協会はもう一つのグループにこのような手紙を書きました。「分離しているあなた方兄弟たちは,……これからは王国の関心事を促進するために彼と一致して協力すべきです。キリストは分裂していないのですから……地上のキリストの体も一致していなければなりません。……主と王国に対するあなた方の専心があなた方を動かして,関係している人すべてがこの件に関して抱いているかもしれないどんな個人的な感情をもわきに押しやり,まただれでも悪行を行なっている人に対して執行する必要があると感じる裁きを主が行なわれるのを待ち,そしてすべての人が前進して主に仕えるものと信じています」。それでも和解に向けた努力は困難を極めました。サアイ兄弟がその割り当てに必要な資格を身に着けているとすべての人が認めたわけではありませんでした。多くの人は群れが一つになることを望んでいましたが,個人的な感情をわきに押しやるのは難しいことでした。兄弟たちは霊的に円熟していなかったため,分裂は1948年まで続きました。

協会が認めていた会衆が1944年に報告した伝道者はわずか9人でした。

全くの公開集会

聖書の真理の音信を広めるため,証人たちは熱帯の穏やかな晩には道端で講演を行ないました。話し手は,すぐ近くの聴衆が聞こえるだけでなく,通行人の注意も引くように大きな声で話しました。ラアランド兄弟は声が大きかったのでしばしばこの奉仕の特権にあずかりました。兄弟が思い出すのはこのような光景です。「日没後,わたしたちは木の下か街角に輪になって集まります。グループの真ん中に講演者が立ち,他の人たちはたいまつで辺りを照らしました。プログラムは歌と祈りで始まりました。話は,講演者がどれだけ準備したかによって,30分の時もあれば1時間の時もありました。主題はほとんど変わりませんでした。主な目的が偽りの宗教を打ち倒すことだったからです」。

このような集会を開いた結果,かなりの人が真理を学ぶよう助けられました。しかしすべての人が話に感謝したわけではありません。時には,夜の闇に隠れて,集まっているグループに石を投げる人たちがいました。それでも兄弟たちは,集会が終わるまでその場を動こうとしませんでした。こう考えたのです。「戦争中,兵士たちは喜んで銃に立ち向かうのであれば,我々は良いたよりのために石の一つや二つを喜んで受けるべきではないだろうか」。(テモテ第二 2:3)数人の伝道者は頭にけがをすることさえありました。ある晩,一人の姉妹が話し手のために灯油ランプを持っていたところ,ランプめがけて投げられた石がはずれて一人の聴衆の頭に当たり,その人は後に病院で死亡しました。犯人は裁判にかけられ厳しい罰を受けました。

一人の兄弟が訓練を受ける

1945年にラアランド兄弟は,母親の住んでいるフランス領ギアナに行くことにしました。兄弟が落ち着いたサンローランデュマロニの近くには会衆が一つもありませんでしたが,それによって落胆して証言をやめることはありませんでした。

その後の「年鑑」はこう報告しています。「1月に二人の兄弟がフランス領ギアナに赴きました。サンローランの人たちと接していると,『もう少し川を上ったところにあなたたちと同じようなことを話す人がいる』と言われました。兄弟たちは車をチャーターしてこの男性を捜しに行きました。そして言われたとおり,グアドループから来た男性を見つけました。その人は公開講演を行なっていました。出版物は一つも持っていませんでしたが,王国について黙ったままではいませんでした。最大の敵は司祭で,司祭はこの“気違い”が言うことは聞かないようにと人々に警告することに余念がありませんでした」。

協会の支部事務所があるスリナムのパラマリボに兄弟たちが帰る時,ラアランド兄弟は一緒について行きました。そこで開拓者たちに会い,全時間奉仕を始めるよう励まされました。そして,関心のある人を引き続き訪問し,家庭聖書研究を司会する方法を教わりました。パラマリボにいた間,兄弟は神権組織について,また神権組織がどのように機能するかについて多くのことを学びました。そして本当に多くのことを学ばなければならないことに気づきました。3か月後,兄弟は特別開拓者として奉仕するよう任命され,サンローランに送り帰されました。

霊の一致を培う

その間,協会はグアドループに存在している危険な状況に気づいていました。二つのグループがエホバに奉仕しようと努めていましたが,互いに一致していませんでした。1947年に,ジョシュア・スティールマンという英語を話す巡回監督が,近くの島から遣わされてポワンタピートル会衆を訪問しました。スティールマン兄弟は大きな喜びをもって歓迎され,26人 ― 明らかに両方のグループの人を含む ― が訪問の週の間に兄弟と一緒に野外奉仕に参加しました。しかし兄弟はフランス語が話せず,また兄弟が報告の中で説明しているように,兄弟たちは英語で受け取る指示を読むことも翻訳することもできませんでした。業を組織することが甚だしく欠けていました。兄弟たちは協会の書籍のうちの1冊を週に3回研究していましたが,「ものみの塔」誌はありませんでした。それでも,野外奉仕に参加したいという強い願いがあったことをスティールマン兄弟は指摘しました。しかし,二つのグループを再び一致させる目的で与えられた兄弟の勧めがすぐに結果を生み出すということはありませんでした。

その後,協会の要請でラアランド兄弟は1948年にグアドループに戻りました。兄弟は到着するとすぐ,二つのグループを和解させようと努めました。ある兄弟たちは再び一致したいという熱烈な願いを抱いていたので朝の4時に起きて丘に登り,一致するための努力をエホバが祝福してくださるよう祈り求めました。その年の3月ごろ,5年以上続いた分裂が終わり,一致が回復されました。1947年に13人だった平均伝道者数は1948年に28人まではね上がり,46人という最高数を記録しました。詩編 133編1節が述べるとおり,「見よ,兄弟たちが一致のうちに共に住むのは何と良いことであろう。それは何と快いことであろう」。

とはいえ,この再統合をすべての人が喜んだわけではありません。全くかかわりたくないという態度を明らかにした人たちもわずかながらいました。ル・メサジェ・ドゥ・シオンと呼ばれる分派を創設し,パンフレットを準備して以前のクリスチャン兄弟たちの集会場所の前で配ったりしました。その指導者たちの一人はオートバイを買い,エホバの証人が野外奉仕に参加する時,その後について行って証人たちの活動を弱めようとしました。しかし,こうして出かけて行ったある時,その男性はサトウキビを満載した牛車に衝突し,病院で死亡しました。この後,彼のグループについては何の話も聞かれていません。

しかし,霊の一致を培うというのは単に集会に一緒に集まり,一緒に野外奉仕に参加するだけのことではありません。(エフェソス 4:1-3)この地方では当時,姉妹たちが宝石を身に着けたり,髪の毛を切ったり,頭の覆いを着けずに王国会館での集会に出席したりすることは禁じられていました。これはある聖書の助言を誤解していたために生じました。彼らはエホバの民である全世界の仲間と全く一致するためにさらに助けを必要としていました。そのような助けは,後の1948年,協会がギレアデ学校を卒業した宣教者二人をグアドループに派遣した時に訪れました。

初めて入った二人の宣教者

フランス当局は,ケネス・チャントとウォルター・エバンズという二人のカナダ人に1年間のグアドループ滞在許可を与えました。二人が入って来て,会衆の活動は増し加わりましたが,恐らく僧職者がけしかけたと思われる反対を引き起こすことにもなりました。1949年の初めごろ,二人の宣教者はすぐに島から立ち去るようにという役人からの通知を受け取りました。

それでも,二人の短い滞在は兄弟たちを霊的に強めました。地元の兄弟たちは,聖書の原則を一層はっきりと理解するようになり,全世界のエホバの証人が用いているのと同じ組織上の取り決めを当てはめる点で進歩し始めました。

デボンヌの会衆

真理の種は,グアドループ最大の町ポワンタピートル以外の場所でも徐々に芽を出し始めました。2番目の会衆の基礎は,1941年に据えられました。その時,デュベルボル・ネスターは病気でポワンタピートルの病院に入院していました。そこで初めて真理を聞き,受け入れたのです。退院した後も兄弟たちは彼を訪問し続け,強めました。アドベンティスト派の牧師は説得して彼を思いとどまらせようと,「私はかねがね,あなたの家が主のための立派な神殿になると思っていました」とさえ言いました。そして,結局のところ,1948年に2番目の会衆が組織された時,王国会館として使われたのはネスター兄弟の家でした。それはポワンタピートルから26㌔離れた村,山のふもとに位置するデボンヌにありました。

現在デボンヌには100名を超える伝道者から成る活発な会衆があり,1989年に建てられた美しい王国会館で集まり合っています。

昼休みの熱心な証言

ポワンタピートルの北約20㌔のところにあるポールルイでは,ジョルジュ・ムスタッシュが,1943年に良いたよりをその地で聞いた後,王国の真理の種をさらにまく特権にあずかっていました。そうした初期の時代を思い出して,兄弟はこう言っています。「ボーポール砂糖工場では,自分が働いていた木工所で毎日昼休みに即席の話をしました。私を悩ませていたある年配の僧職者が,ある日私に挑戦してきました。『もしまことの神を崇拝しているのなら,ここに蹄鉄の燃えている炉床がある。この火の上を歩いてみろ』。私の声が木工所全体に響き渡りました。こう答えたのです。『サタンよ,離れ去れ!「あなたは主,あなたの神を試みてはならない」と書いてあるからです』」。―マタイ 4:5-7をご覧ください。

日曜日になるとムスタッシュ兄弟は,もっと聞きたいという態度を示した同僚に証言するために何キロも歩いて行きました。野外奉仕を朝の8時から始めて晩の7時までずっと行なうこともしばしばで,時には食事も取らないことがありました。ムスタッシュ兄弟はポールルイにあったアドベンティスト派の小さなグループの指導者のところにも毎週足を運び,この人は間もなくエホバの証人になりました。他の人も真理を受け入れました。その中には,今でも忠実を保っているダニエル・ボンキョールや,1993年8月に亡くなるまで長老として忠実に奉仕したアルフレッド・クレオンもいました。

真理の水がバステールに流れる

1940年代の10年間には,グアドループの首都バステールで,真理の水が最初は少し,その後大量に流れ始めました。大工のウジェーヌ・アレクセールは,ポワンタピートルにいたとき,シリル・ウィンストンが聖書の真理を説明するのを聞きました。1948年にアレクセールの家族は真の崇拝の側に立場を定めました。バステールにある彼らの家で定期的に集会が開かれました。1年後,ベルネーユ・アンドレモンという名前の青年が彼らに加わりました。毎週日曜日,ミスダン兄弟かムスタッシュ兄弟が ― 後にはラアランド兄弟も ― ポワンタピートルからバステールまでの60㌔をバスで移動して,そこにいる関心のある人たちを援助しました。兄弟たちの努力は報われました。ほぼ45年が経過した今,その地域には八つの活発な会衆があります。三つがバステールに,一つがグベアールに,二つがバイフに,二つがサンクロードにあります。

同じころ,グランドテールの東岸にあるムールという町で,ポワンタピートルから一人の兄弟が証言をしに行った後,小さな群れが発足しました。リュスカド一家は,その地域で真理の側に立場を定めた最初の人たちの中に入っており,その家で集会が開かれていました。アナスタズ・トゥシャーはその群れの中で最初にエホバの証人になり,後に非常に献身的な長老になりました。1986年に亡くなるまで兄弟はその立場で奉仕を続けました。その地域では現在,各々100人を超える伝道者の交わる五つの会衆が活発に働いています。

司祭が一部の聴衆を引き寄せる

1953年のある日曜日に,約20人の伝道者がバステールの北東部にあるラマンタン村で朝の証言を終えた後,村の広場で公開講演を行ないました。もちろんその広場はカトリック教会の正面にありました,開会の歌の後,聖書の話が始まりました。司祭は激こうし,話し手の声が聞こえないようにするため教会の大きな扉をバタンと閉めました。ところが,乱暴にドアを閉めたため,像が壁からはずれて教会の正面で粉々になってしまいました。ますます怒った司祭は教会の鐘をすべて鳴らし始めました。大勢の人たちが走ってやって来ました。中には司祭の行動にショックを受けた人もいました。その場所で話を続けることは不可能でしたが,ある店の持ち主が自分の家の前で話をするよう講演者を招きました。そこで講演がなされ,かなりの人が出席しました。

現在,それぞれ100名以上の伝道者がいる三つの活発な会衆がその教区(あるいは地域)にあります。この場所には広々とした大会ホールも建てられています。

若者たちも,僧職者を見倣ってわたしたちの公開講演を中断させようとしました。サントローズ村の近くの田舎で講演をしていた時,カトリックのボーイスカウトの一団が,話し手と出席していた他のエホバの証人数人を取り囲みました。ある者はラッパを吹き鳴らし,別の者は大きな鉄のフライパンの底をたたき,話し手の声をかき消そうとしました。レオナール・クレマンは騒音よりも大きな声で話そうとはせず,話を続けた際,身振りを使ったり,唇を動かしたりして話している真似だけしました。間もなくボーイスカウトはあきらめて帰って行きました。その後,兄弟は話を続けました。この地域でも関心が高まり,現在三つの会衆があります。

一つの時代の終わり

グアドループでは,このような屋外での公開集会は今では過去のものとなっています。1953年に政治的な集会で暴動が起こってから,当局は屋外でのすべての公開集会と屋外での拡声器の使用を禁止しています。その時以降,兄弟たちは集会を開くための別の場所を見つけなければなりませんでした。

とはいえ,1938年から1953年までの間,屋外での公開講演は強力な公の証言を行なう点で助けになりました。伝道者たちはこの活動を支える点で,勇敢かつ熱心でした。ほとんどの人は集会場所まで歩いて行き,自転車に二人乗りして行く人もいました。余分のお金があると,1日バスをチャーターしました。当時100人の伝道者のうち車を持っていたのは一人だけで,それも旧型のフォードでした。

1954年 ― 記念となる年!

1954年の初め,当時協会の会長だったノア兄弟と秘書のミルトン・ヘンシェルが南アメリカから戻る途中,彼らの乗った飛行機はポワンタピートル空港に着陸しました。それは朝非常に早かったものの,地元の兄弟たちは二人に会おうと待っていました。ノア兄弟は彼らを助けるため,できるだけ早いうちにさらに多くの宣教者を遣わすことを確約しました。

それからほどなくしてその約束は果たされました。1954年3月17日,ポワンタピートル空港に着陸した飛行機から二人の乗客が降り立ちました。しかし,二人を出迎えた人はいませんでした。フライトが予定よりもかなり遅れていたためです。しかし,警察の人が二人をラアランド兄弟のドライクリーニング店に連れて行くことを申し出てくれました。この旅行者は,ギレアデ学校を卒業して間もないフランス出身の兄弟たちでした。長身の兄弟ピエール・ヤンキとポール・トゥブロンです。

二人の宣教者が到着して数日後,ヘンシェル兄弟が到着しました。その間,宣教者を乗せた協会所有の船フェイス号が港に入っており,乗組員たちは3月26日から地元の学校で開かれることになっていた大会の取り決めを設けるのに忙しくしていました。

プログラムが始まった時,雰囲気は楽しいものでしたが,兄弟たちはすべて順調にゆくだろうかといささか緊張気味でした。幾つかの話と実演が終わると,間に合わせのスクリーンがつるされました。その後,彼らは初めて協会の映画「躍進する新しい世の社会」を見たのです。彼らは自分の目で,これが神の組織であるという確信を強める明白な証拠を見ることができました。出席者すべては組織がどのように平和と一致のうちに機能しているかを見て深い感動を覚えました。姉妹たちはさらに,他の国のクリスチャンの姉妹たちが,ぜいたくにはならない程度に宝石を身に着けていることに気づきました。それに,大会に出席した人たちは自分たちの中に二人の宣教者がいること,つまり組織によって遣わされ,エホバへの奉仕における模範を通して会衆を強めてくれる兄弟たちがいることを知って励まされました。その晩の興奮は大きなものでしたが,ポワンタピートル会衆の主宰監督クロテール・ミスダンにとっては大きすぎるものでした。兄弟は帰宅して,その夜寝ている間に亡くなりました。妻は朝になるまでそのことに気づきませんでした。

大会の2日目にヘンシェル兄弟は,ものみの塔協会の支部事務所をグアドループに設立すると発表しました。その支部はグアドループとマルティニーク島での良いたよりを宣べ伝える業を監督することになっていました。ピエール・ヤンキが支部の僕に任命されました。これらの島々で大いに必要とされていた一層厳密な組織上の指導が与えられました。

大会後,二人の宣教者は仕事に取りかかりました。支部事務所のためにこぢんまりした木造の家を借りました。後に協会はレーゼ市立公園に質素な別荘を購入し,事務所はそこに1966年12月まで置かれていました。ヤンキ兄弟は支部の仕事を監督することに加えて,ポワンタピートルで野外奉仕にも参加し,兄弟たちとできる限り多くの時間を過ごしました。その間,トゥブロン兄弟は巡回監督として諸会衆や孤立した奉仕者を訪問し,約1年後にフランスに戻る必要が生じるまでその業を続けました。

水上の宣教者の家からの助け

エホバの組織に対する認識は,船で島から島へ定期的に訪問する宣教者たちによって刺激を受けました。約10年にわたり協会は,西インド諸島で,水上の宣教者の家となる船を所有していました。最初の船はシビア号という名前の全長18㍍のスクーナー型帆船で,後にその代わりに光号というもっと大きな船が用いられるようになりました。フェイス号という名前の全長22㍍の二軸式の船も使われました。船に乗っていた宣教者たちは英語を話した(そしてグアドループの伝道者のほとんどは英語が話せなかった)にもかかわらず,彼らの訪問はとても感謝されました。ここの伝道者たちは,そうした宣教者が野外奉仕を一日中行なって地元の伝道者と一緒に働いた時に示した熱心さを今でも覚えています。

最後の訪問の際,宣教者たちは1956年に光号に乗り込み,7月26日から8月7日までマリーガーラント島とラデジラード島で伝道をしました。マリーガーラント島では「躍進する新しい世の社会」という映画を上映しました。視聴者の一人はこう言いました。「1万フランもらっても,今晩ほどうれしい気持ちにはなれないでしょう」。

フランスから派遣された開拓者

グアドループや周囲の属島ではすばらしい進歩が見られました。業が前進し続けるよう,協会はさらに二人の開拓者をフランスから派遣しました。ニコラ・ブリザールとリリアーヌ・ブリザールは,1955年12月に到着しました。ブリザール兄弟は精力的で陽気な気質の人でした。到着するとすぐ,二人は人口の多いポワンタピートル郊外に割り当てられました。

その区域では,多くの人が木造の家に住んでおり,その家はどれも床を地面から50㌢上げるために4個の石の上に載っています。家は互いにとても近くに建てられています。ある日,ブリザール兄弟はこのような家を訪問していて,今でも笑いの種になっているある出来事を経験しました。こう語っています。「私は妻が司会している年配の女性との聖書研究に妻と一緒に行きました。しかし,その木造の家はその女性自身よりも古く見えました。中に入るよう招かれて,小さな部屋の中央に向かって歩いていたその時,突然に床が抜けて下に落ちてしまったのです。私は一生懸命謝りましたが,かわいそうなその女性はかなり恥ずかしそうにしていました」。

ブリザール兄弟夫妻はその区域で約8か月働き,その後,巡回奉仕の割り当てを受けました。1958年に二人は,ギレアデ学校の第32期のクラスに招待され,それから再びグアドループに割り当てを受けました。ヤンキ兄弟が結婚して子供ができた1960年に,ブリザール兄弟は支部の僕になりました。兄弟は今でも支部委員会の調整者として奉仕しており,ヤンキ兄弟もグアドループにとどまって支部委員として一緒に奉仕しています。

反対によって信仰が試みられる

宗教的な反対が時にはひどく敵意に満ちたものになったため,聖書に記されている真理を受け入れた人たちの多くは,非常に困難な状況のもとで自分の立場を定めなければなりませんでした。フロラ・ポンバはその一人です。夫と一緒に聖書を調べ始めたのですが,近所の人が二人に圧力をかけ始めると,夫のほうは勉強をやめてしまいました。家族で小さな食料品店を経営していたのでお客を失うことを恐れたのです。しかし妻のほうは忍耐して霊的によく進歩しました。家庭内の雰囲気は緊張しました。夫は殺すと言って妻を脅迫するまでになりました。その女性は大きなナイフが夫の枕の下にあるのを見つけて逃げ出し,熱帯林とバナナ園の中の16㌔もの道のりを経て,エホバの証人の家族のところに避難しました。夫から隠れていた時,この女性はバプテスマを受ける決意を固め,「信仰のために死に直面しなければならないのであれば,エホバの僕として数えていただきたいのです」と言いました。こうして1957年のある朝,日が昇る前に海でバプテスマを受けたのです。

和解しようと努力したにもかかわらず,姉妹は実の家族を失いました。しかし,マタイ 19章29節のイエスの約束通り,大きな霊的家族を得ました。この忠実な姉妹は全時間奉仕を始め,30年以上たった今でもラマンタンで開拓奉仕を行なっています。

忘れられない大会

1958年にニューヨーク市で「神の御心」国際大会が開かれた時,123の国々や島々から代表者たちが出席しました。グアドループからの19人の証人たちもその中に入っていました。そこで見聞きした事柄は,神権的な取り決めに対する彼らの認識を深めるものとなりました。代表者の一人ベルネーユ・アンドレモンはこう語ります。「その大会は私にとって目を見張らせるものでした。どのように物事が行なわれるべきかを理解しました」。支部の監督は,グループ全体の共通した感想についてこう書いています。「見ることのできるものをすべて目に焼き付け,耳に入るものをすべて理解するためにわたしたちは目や耳をいっぱいに広げていました。カリブ海の小さな島々から来た者たちにとって驚きとなった広大な土地だけではなく,空に向かって高くそびえる巨大なビルや道路上のびっくりするほどの交通量だけでもありません。自分たちが目にしているのは大群衆,そうです,平和のうちに一致して唯一まことの神を崇拝している,地の四隅から来た皆が兄弟姉妹という驚くべき光景なのです。二つの大きなスタジアムが満員になったのです」。

ある人たちにとっては小さなことと思えるような事柄でさえ,その大会は兄弟たちの生活に影響を与えました。例えば,レオネール・ネスターという78歳の兄弟は,自分の家を王国会館としても使っていましたが,エホバの組織をもっと良く代表できるようにするため家にペンキを塗る必要があると感じました。その結果,その王国会館はその村でペンキが塗られた初めての建物になりました。

アンスベルトランでの小さな始まり

1958年まで,グアドループ島のグランドテール北端に位置するアンスベルトラン地区の住民で,王国の音信を聴く機会のあった人はそれほど多くありませんでした。しかしその年に,マルク・エドルはパン屋である友人ドナ・タシタに聖書を見せ,「この本は神の言葉です」と言いました。二人ともカトリック教徒でした。後に,訪問販売をしているセールスマンがドナに聖書を勧めた時,ドナは自分用に1冊購入し,読み始めました。フランス語は読んでもよく分かりませんでしたが,辞書を活用しました。また,友人のマルク・エドルを家に来るよう招き,ドナの妻を含めて3人で水曜日と土曜日に聖書を読み,聖書について話し合うよう努力しました。

ぜひもっと理解したいと考えたドナは,聖書を売ってくれた人を捜しましたが,見つかりませんでした。しかし近所の人が,自分のいとこにジョルジュ・ムスタッシュという名前のエホバの証人がいて,彼なら喜んで助けてくれるだろうと教えてくれました。エホバの証人について近所の人から聞いた事柄に基づいて,ドナは何人かの人を訪問して証言さえしました。自分の信仰が死んだものになることを望まなかったからです。―ヤコブ 2:26

約半年後,エホバの証人がポワンタピートルの近くで大会を開くということを近所の人から聞いて,ドナとドナの妻とマルク・エドルは大会に出席してバプテスマを受けることにしました。その時まで彼らはエホバの証人に一度も会ったことがありませんでした。彼らは到着すると証人たちから歓迎を受けました。3人は,エホバに仕えたい,そしてバプテスマを受けたいという自分たちの願いを説明しました。兄弟たちは親切な仕方で彼らに幾つかの質問をし,バプテスマを受ける前に家庭聖書研究をする必要があることを説明しました。3人は大会の温かく親密な雰囲気に心を打たれました。そして力と決意に満たされてアンスベルトランに戻りました。聖書研究での進歩は早く,約半年後にバプテスマを受けました。

3人は聖書の真理を村のほかの人たちに熱心に伝えました。しかし激しい反対がありました。ブリザール兄弟が巡回監督として訪問した時,地元のカトリックの司祭は兄弟がそこにいられないように八方,手を尽くしました。ドナは巡回監督夫妻が泊まれるよう部屋を借りていましたが,訪問中の最初の野外奉仕の日が終わると,司祭が邪魔に入り,鍵を返すよう要求しました。それがうまくゆかないと,部屋の持ち主のところへ行き,もし鍵を戻させなければその人の母親を教会から破門すると言って脅しました。それを聞いて,その哀れな母親は気を失いました。次の日,司祭は弁護士を通じてもう一度追い出そうとしましたが,うまくゆきませんでした。そのような事柄は違法行為だからです。その巡回監督の訪問の間,何人もの羊が見いだされ,聖書研究が始まりました。数か月後,1960年の初めに,巡回大会がその村で開かれ,さらに証言が行なわれました。バプテスマが行なわれた時,その村から500人を超える人が見物のため浜辺に来ていました。その日,家から家の業は全く行なわれませんでした。すべての証人は浜辺におり,エホバの証人と彼らの宣べ伝える音信についてもっと知りたいと熱心に願う人たちに囲まれていました。

それ以来,アンスベルトランには二つの会衆が設立されました。ドナ・タシタは特別開拓者として22年間奉仕し,現在はアンスベルトランで長老として奉仕しています。

泥棒捜し ― 羊の発見

1960年代の初めごろのある日,一人の警察官がレレーゼの宣教者の家を訪れました。近所で起こった窃盗事件について聞き込みを行なっていたのです。ブリザール兄弟姉妹が家にいて,その機会をとらえて警官に証言を行ないました。話を聞いた後,警官はこう尋ねました。『どうすれば聖書を手に入れることができますか。どこに手紙を書けばよいのかあて先が分かりますか。あなたが話してくださったことはとても重要な事柄です。考える糧になりました』。警官はその場で聖書と他の文書を何冊か受け取りました。1週間後,この人は手紙でたくさんの質問をしました。すぐに,週2回の聖書研究が行なわれるようになりました。

ブリザール兄弟はその結末をこう語りました。「その警官が泥棒を見つけることはできませんでしたが,エホバの過分のご親切により,わたしたちは羊を見つけたのです」。そのかつての警官は,現在ポワンタピートルにある一会衆の長老です。

大会を開く場所を探す

グアドループで組織が拡大するにつれ,解決すべき問題が生じました。大会を開く施設がどこかにあるでしょうか。10年余りの間,ポワンタピートルの私立の学校,また,アビム市やカペステール市の市民会館を用いてきましたが,これらのホールはわたしたちが大会を開くには狭くなりました。どこか別の施設をあたらなければなりませんでした。

ラアランド兄弟の店の隣に空き地がありました。土地の持ち主は親切な人で,1964年12月末の巡回大会のためにその土地を無料で使わせてくれました。数日もしないうちに,わたしたちは地面に杭を打ってその上に板を差し渡した木造の建物を建て,その板の上に防水シートを敷いて屋根にしました。四方は壁がなく吹き抜きだったので,すぐに座席のある場所へ行けました。地元の兄弟たちが喜んで勤勉に働く様子は,手伝いに来ていた証人たちにとって大きな励ましでした。そして,700名近くの出席があったのは本当に祝福でした。新最高数だったのです。これから先の大会のために自分たちの施設が必要なことは明らかでした。

兄弟たちは,骨組みが鉄パイプで屋根はアルミニウム板という特異な建物を設計しました。700席を有する広さで,何と“大会ホール”全体が移動式でした。当時,グアドループの伝道者は約450人でしたから,十分ゆとりがあると思われました。

この建物は,1966年1月にバステール周辺で開かれた大会の際に初めて用いられました。公開講演の時間になると,907名もの熱心な聴衆が大会ホールの中にも周りにも詰めかけました。ホールはすでに狭すぎました。その後何年かの間,何度も何度もこのホールを拡張しなければなりませんでした。

巡回大会が雨の多い11月に当たることがしばしばありました。悪天候のため,泥だらけになることが多く,深い長靴を履いてゆくとよいことが分かりました。大会には慣例として満月の週末が選ばれました。兄弟たちが夜,自然の明かりを頼りに家路に就くことができるようにするためです。また月明かりのおかげで,大会の最後のプログラム終了直後に行なわれる幾らかの解体作業も容易になりました。

大会ホールの移動が可能だったため,区域のどこででも大会を開くことができたことは,グアドループで良いたよりを宣べ伝える業に優れた効果をもたらしました。さらに年に3回,そのホールを組み立て,また解体するという作業は,兄弟たちが共に働くことを学んだり,自己犠牲の精神を培ったりする機会になりました。疑いなく,この取り決めの上にはエホバの祝福があったのです。

異なった生活

アルマン・フォスティニとマルギョリート・フォスティニがグアドループでの宣教を助けるため1963年にフランスから移ってきたとき,二人はここでの生活が少々異なっていることに気づきました。まず最初に二人が驚いたのは,家の人が戸口に出て来ることもなく,ただ,「お入りください」と大きな声で言うことでした。人々の暮らし向きは質素で,あまりお金を持ってはいませんでしたが,多くの場合,人々は喜んで果物や野菜を聖書の出版物と交換しました。ですから,フォスティニ夫妻は野外宣教を続けるうちに,文書だけではなく,バナナ,マンゴー,ヤムイモ,卵などを持ち歩いていることもありました。

二人は巡回奉仕を行なうよう割り当てられました。フォスティニ兄弟はこう回顧しています。「兄弟たちは私たちを大変温かく迎えてくれましたが,時間を守るということに関しては,多大の進歩が求められました。田舎ではほとんどの人が時計を持っていないため,太陽で時間を見定めていました。結果として,集会の開始が1時間も遅れることもあったのです。季節が変わるにつれて,さらに驚かされることがありました」。

マリーガーラント島への援助

フォスティニ夫妻がグアドループに到着したその同じ年,ポワンタピートルから約40㌔南にあるマリーガーラント島で特別な証言が行なわれました。フォスティニ兄弟をはじめ16人の補助開拓者のグループがその島で丸1か月を費やし,島の住民1万4,000人に証言したのです。そのひと月の間,協会の映画「躍進する新しい世の社会」が島で何回も上映されました。次いで数年後には,特別開拓者たちがその島で証言するよう任命されました。そのうちの二人,フレデリック・フェルディナンとレオ・ジャックランはそこで子供を育てました。

マリーガーラント島で働く特別開拓者たちを支援するため,1969年4月,大会ホールをその島へ運び,そこで大会を開くことにしました。巡回監督のフォスティニ兄弟はこう報告しました。「それは類例のない大会でした。1,000人の証人たちがめいめい,水20㍑の入った缶を手に三隻の船から降り立ち,住民6,000人の小さな町グランブールに“侵入”するのを目撃した時の人々の驚きを想像なさってください。干ばつの時期で水が不足していたため,訪問者たちが水を持って来てくれたことで貯水池からの給水を節約できることに島の住民は感謝しました。波止場から町の中を通って大会会場まで果てしなく続く人々の列は,島の人たちが初めて目にする光景でした。島中の住民が証人たちの訪問を受け,ある場合は,同じ日の午前中に数回訪問を受けることもありました。幾日もたたないうちに,島の人は神の組織を知り,認識する機会を得たのです」。現在,マリーガーラント島には三つの会衆があります。

10年ほどしてから,フォスティニ兄弟姉妹はフランスへ帰らなければならなくなりました。後に,二人はカリブ海地方に戻ってくることができ,現在フォスティニ兄弟はマルティニーク島の支部委員会の成員です。

真理の水がラデジラード島やレサント島にも届けられる

1956年に協会の船,光号がグアドループの別の属島ラデジラード島を最後に訪問して以来,そこでは証言がほとんどなされていませんでしたが,1967年に協会は,その島で奉仕するよう特別開拓者のメダール・ジャン-ルイとトゥレンナ・ジャン-ルイを任命しました。全長11㌔,幅2.4㌔のこの島は,ほとんどが不毛の地で水道水もありませんでしたが,そこには1,560人の人々が住んでおり,彼らにも王国の音信を聞く機会が与えられる必要がありました。1969年から1972年にかけて,さらに二人の特別開拓者がそこで奉仕しました。もう一人の特別開拓者,ジャック・メリノンは難しい状況にあったにもかかわらず,1975年から1988年まで頑張り通しました。

何年も後に,小さな会衆が設立されました。1987年には,医師であるアンリ・タレーが家族と共にその島で奉仕していました。大勢の兄弟たち,特にムールとサンフランソワの兄弟たちからの助けにより,タレー兄弟は王国会館の建設を組織しました。

それから2年後,ラデジラード島はハリケーン・ヒューゴによって壊滅状態に陥りました。ある兄弟は次のように述べました。「王国会館の破損はひどいものでしたが,愛に動かされた兄弟たちが助けに来てくれて,間もなく私たちは王国会館や伝道者たちの壊れた家の修繕に必要な物を受け取りました。わたしたちは宣べ伝える業を続けながらも,島で最初に修復作業を始めました。区域の人々はそれに目を留め,評価してくれました。その時以来,伝道に行くと,より好意的に受け入れられるようになりました」。

バステールから13㌔離れた所に,人口3,000人のレサント島があります。1970年9月には,二人の特別開拓者,アミック・アンガービルとジャン・ジャベーがその島に割り当てられました。辛抱強さが大いに必要とされましたが,1980年,ついに小さな会衆が設立され,今では18人の伝道者がいます。

サンマルタン島が良いたよりを聞く

ポワンタピートルの北西約250㌔に位置するサンマルタン島の北部も,グアドループの属島です。この島は半分がフランス領,あと半分がオランダ領ですが,一般に英語が話されています。しかし,個々の人が使う言語が何であれ,人々は良いたよりを聞く必要があります。

サンマルタン島生まれのジョルジュ・マニュエルが,グアドループにいる時に真理を学んだのは,1940年代の初めのことでした。1949年に協会の船シビア号がサンマルタン島沖に初めて錨を下ろし,乗組員はそこから上陸して人々に聖書について話しました。次いで,ジョルジュ・ドルムワと港湾長のレオンス・ブワラールがバプテスマを受けました。1953年までに,島には6人の伝道者がいました。

文書を求めた人の中には,あまり信仰心のなかったチャールズ・ガムスもいました。ところが,チャールズは「ものみの塔」誌を読んで,真の宗教を見いだしたことを確信するようになり,自分が学んだことを弟のジャンと妹のカルメンに伝えました。カルメン・ガムスは少しの期間研究した後,ある日娘のレオネ・ホッジと共に朝の7時に宣教者の家に行き,バプテスマを受けさせてほしいと頼みました。そこに居合わせた兄弟は,二人が自分たちの行動が意味するところを理解していると確信し,別の兄弟を呼びました。そして,朝食の前にバプテスマの式が執り行なわれたのです。

二人は確かに,エホバへの献身が何を意味するかを理解していました。翌年の1959年,レオネは全時間奉仕に携わるようになり,母親もそれからほどなくして後に続きました。この二人の忠実なクリスチャン姉妹は,35年後の今でも特別開拓者です。

サンマルタン島の会衆

やがて,かなりの数のハイチ人が仕事のためにサンマルタン島へ移って来るようになりました。そのうちのある人々は真理を受け入れ,1973年にはフランス語の会衆が設立されました。二人の特別開拓者,ジョナダブ・ラアランドとジャクリーン・ラアランドは,ギレアデ学校へ行くまでの間,その会衆を築き上げる手助けをしました。

次いで1975年には,サンマルタン島における王国の業の真の転換点となる出来事がありました。2月13日と14日に,マリゴのサッカー競技場で大会が開かれたのです。移動式大会ホールの一部が船で会場へ運ばれ,屋根が作られました。この大会は島の大勢の人々に非常に強烈な印象を与えました。島の人々はこのことから,自分たちの島にいる一握りの証人たちが,大きな組織の一部であることをよく理解するようになりました。

観光事業の発展により,サンマルタン島の人口は数年のうちに8,000人から2万8,000人へと増加しました。マリゴの住宅地区には250席を有する美しい王国会館が建てられました。現在,その島には二つのフランス語会衆があります。

サンバルテルミー島での反対

グアドループ島の北西210㌔の所にあるサンバルテルミー島も,グアドループの属島の一つです。かつてバカニーアと呼ばれる海賊がその島を本拠地にしていたため,島は一時栄えていました。現在,そこは豪華なバカンスの場となっています。約5,000人を数える住民は,ブルターニュ人やノルマン人の船乗りの子孫,それにスウェーデンの移民です。彼らは礼儀正しい人々,勤勉に働く敬虔なカトリック教徒です。その中に,王国の音信を受け入れる人がいたでしょうか。

1975年9月に,フランスで特別開拓者として奉仕していたジャン・カンブとフランソワーズ・カンブという若い夫婦がその島へ移ってきました。住民たちに王国の音信を受け入れる機会を差し伸べるためです。僧職者からの強い反対がありましたが,二人は島にいた3年の間,真理の種を豊かにまきました。何年か後,ジャンの兄ピエールとその妻ミシェールが,特別開拓者としてサンバルテルミー島で2年を費やしました。彼らの働きは実り多いものでした。研究と奉仕のための小さな群れができ,後にこの群れは4人の熱意にあふれる特別開拓者の姉妹たちによって確立されました。その4人とは,パトリシア・バルビヨン(現在はモデティン。夫と共にドミニカ共和国で特別開拓者),ジェラニー・ベナン(現在はリマ。夫と共にグアドループのベテル家族の成員),アンジュリーヌ・ガルシア(現在はクシー。グアドループのスペイン語の区域で奉仕している),ジョズィー・レンセルテンです。今では18人の伝道者がその会衆と交わり,活動を報告しています。

クリスチャンの中立を保つ

世界中どこでも,エホバの証人は世の紛争に関して中立の立場をとります。証人たちはそうした紛争に参加しないので,軍事訓練を受けたりはしません。いかなる人間に言われたわけでもありません。彼らが従っているのは,神ご自身の言葉なのです。(イザヤ 2:2-4。マタイ 26:52。ヨハネ 17:16)そのみ言葉に付き従うとき,個々の証人たちに忠実の試みが生じます。

グアドループのある若者が1960年代の半ばにバプテスマを受けたとき,彼は自分が間もなくそうした試みに直面することを知っていました。彼は信仰を強めるため,直ちに補助開拓奉仕を始めました。兵役に就くよう召集された際,自分のクリスチャンとしての立場を官憲に説明しました。どんな結果になったでしょうか。彼は投獄され,独房に入れられました。そして,こう脅迫されました。「決心を変えなければ,少なくとも2年間の刑務所行きだ。そして,その間独りっきりにしてやる。だから,よく考えるんだ。2年間独りっきりなんだぞ」。しかし,兄弟はこう答えました。「皆さんはそう考えるかもしれません。しかし,私はあなた方が言うように決して独りではありません。エホバ神が私と一緒にいてくださいますし,霊によって私を強めてくださいます」。その答えに驚いた官憲は,兄弟を煩わすのをやめました。そして,その毅然とした態度,穏やかさ,りっぱな行動に感銘を受け,結果として兄弟に敬意を抱くようになりました。官憲は,自分たちが名付けた“奴のエホバ”に対して忠実を保つという兄弟の決意を何ものも変えられないことを悟りました。

数か月たち,「神の自由の子たち」という主題を掲げた1966年の地域大会の時期がやって来ました。その兄弟が釈放され,開会日に出席しているのを見て,人々は非常に驚きました。あるプログラムの中で兄弟は自分の経験を話しました。兄弟は知りませんでしたが,一人の将校が私服で大会に出席していました。プログラムが終わると,将校はこの兄弟のところへ行き,兄弟が自分の信念を固く守ったことを温かく祝しました。それから,そこにいた別の兄弟に向かってこう言いました。「あなたの兄弟が言ったことはすべて紛れもなく真実です。すべて,彼が話したとおりのことが生じました。私はその件にかかわっていたのです。ここにいるのは貴重な人物であり,敬意を受けるに値し,自分の神に忠実で自分の決意を曲げない人です。彼は自分が何を望んでいるかを知っています。そして,彼がノーと言った時は,あくまでもノーなのです。そのことで,彼の決心を変えられるものは何もありません」。次いで将校はこう付け加えました。「私の妻が何と言ったと思いますか。こうですよ。『あなた方が自分の意志であの処置を取ったのだと考えてはなりません。それをなさったのはあの人の神エホバです。彼が大会に出席できるよう取り計らわれたのです。彼の神エホバは,私たちの神より強い方です』」。将校が心を動かされているのは明らかでした。将校はこう結びました。「皆さんには感服します。もし過去の私に,神について皆さんが知っておられることを知る機会があったなら,私は間違いなく今の私ではなかったことでしょう」。

新たな挑戦

1970年以降の観光事業や商業の発展に伴ってグアドループはより繁栄するようになり,区域の様子は変化しました。他の島々,特にドミニカやハイチから人々が移ってきました。1987年1月には,ポワンタピートルに英語会衆を作ることが必要になっていました。加えて,人々の生活のテンポがますます速くなっているようでした。家から家の宣教で人々に聴いてもらうためには,直接的で効果的な紹介の言葉を用いなければならなくなりました。

神権組織内にも重要な変化がありました。1972年までには,全世界のエホバの証人の間で行なわれていたことに調和して,一人の監督ではなく,長老団が各会衆を監督していました。それまでは,“何々兄弟の会衆”という言い方をしていたものです。会衆の監督は会衆の全員から敬意を得て大きな権威を持っていましたが,これらの兄弟たちは,組織上の取り決めを聖書に一層調和させるものになった,こうした変化を喜んで受け入れました。この変更が実施された後,ブリザール兄弟は次のように言明しました。「兄弟たちの示すりっぱな精神にわたしたちは心を打たれます。このことは疑いなく,兄弟たちひとりひとりの謙遜さを試みるものとなったことでしょう。兄弟たちが皆,この試みを首尾よく乗り越えられたのを目にして,誇りに思います」。

王国宣教学校も,会衆内の霊的に改善された状態に貢献しました。1961年にグアドループで開かれた最初のクラスに出席したのは19人の長老でしたが,30年後に群島全体から長老たちが教えを受けるために集まった時は,300人が出席しました。現在,各会衆には平均して5人の長老がおり,会衆の霊的必要を世話しています。

これら霊的な羊飼いは,比較的に平常な状態のときだけでなく,危機的な状況下でも群れに対して愛ある関心を示してきました。

血についての神の律法に対する敬意

医療関係者の中には患者の権利に十分な敬意を払わない人がいるため,エホバの証人は血を避けるようにとのエホバのご要求に従う努力をする上で難しい事態に直面してきました。(使徒 15:28,29)長老たちは,医療上の危機に直面する証人たちのためにもっと助けになりたいと思いました。それで,1987年の初頭に,支部委員会はその状況について医師でもある二人のエホバの証人と話し合うため,会合を持ちました。その結果,医療関係者にもっと接する必要があることが明らかになり,一つの委員会がこの問題を監督するよう割り当てられました。委員会は病院の麻酔医たちとの会合を設けました。そして,この会合は大変有益なものになりました。

世界中の他のほとんどの国のエホバの証人たちに加えて,グアドループの兄弟たちにも今では医療機関連絡委員会があります。この奉仕を行なうために17人の兄弟が協会の指導するセミナーで十分の訓練を受けました。

火山が脅威を与える

自然災害が関係する別の危機もありました。1976年のこと,長年噴火活動をしていなかったスーフリエール火山が,再び活火山になりました。その年の初めに,震動がますます頻繁になったのです。7月8日の午前9時ごろ,山腹で断層が裂けて開き,ガスと蒸気の巨大な煙柱を吹き出しました。バステールや付近の村々には火山灰が降り始め,人も土地も灰色の塵まみれになりました。地震火山活動が激化したため,当局は8月15日,7万2,000人に徹底的な緊急避難を命じました。人々が自宅に戻るのを許されたのは,それから5か月後のことでした。

七つの会衆が避難させられました。直ちに助けが備えられ,この苦難の時期に兄弟たちが寝泊まりする場所を確保できるよう見届けられました。以前,共に集まり合い,共に奉仕した伝道者が,その時はあちこちへ散り散りになってしまいました。必要とされた霊的な助けを備えるため,長老と奉仕の僕による特別な集まりが開かれました。出席者全員が,それぞれの会衆の伝道者を捜し出し,彼らとの連絡を密接に保つよう促されました。群れが散り散りにならないようにするための特別な取り決めが設けられました。伝道者たちは自分の宿舎がある地区の会衆の集会に出席することになっていましたが,彼らのために特別に設けられた,会衆の書籍研究に出席する取り決めも作られたのです。この書籍研究は,彼らの元々の会衆の長老または奉仕の僕の一人が主宰することになっていました。この取り決めは本当に祝福となりました。羊は一人も失われなかったのです。

悪夢の夜

13年後,また別の危機が襲いました。1989年9月16日土曜日,ハリケーン・ヒューゴが情け容赦なくグアドループを襲ったのです。この島がハリケーンの大被害に遭うのはこれが初めてではありませんでした。1966年に,ハリケーン・アイネズが大半の木造の民家の屋根をはぎ取り,1か月も停電が続いたことがありました。しかし,1989年に起きたことははるかに破壊的でした。時には風速70㍍余りに達するような突風が何時間にもわたって島で吹き荒れました。その夜は永遠に明けないかのように思えました。やっと夜明けが来た時,島の様子を見てぼう然とさせられました。街路には瓦礫が散乱し,さながら戦場のようでした。約3万人が家を失いました。証人たちの間では117戸の家屋が全壊したほか,300戸が深刻な被害を受けました。8軒の王国会館は一部が倒壊し,ほかに被害を受けた王国会館が14軒ありました。

1966年にハリケーン・アイネズが破壊をもたらしたとき,プエルトリコ,マルティニーク島,フランス領ギアナ,セントクロイ島のエホバの証人たちが救援物資を持ってきてくれました。しかし,1989年にハリケーン・ヒューゴがグアドループに大きな被害を与えたときは,統治体はすぐに救援基金を用いられるようにしました。次いで,マルティニーク島やフランス,その他の場所の兄弟たちが,必要な食糧や衣料品や建物を建て直すための資材をすぐに備えました。個人的に援助を申し出るためにやって来た人もいました。グアドループの兄弟姉妹は,どっと寄せられたこの愛情に深く心を打たれました。兄弟たちは,自分たちのためになされたことを忘れることはありません。

ほかにも,国際的な兄弟関係のきずなを強める出来事がありました。

最初の国際大会

1978年に,グアドループの伝道者たちは国際大会の主人役を務めるという大きな特権を得ました。出席者は6,274名の最高数に達しました。しかもそれは,地元の証人たちが2,600人しかいない時でした。ベルギー,カナダ,スイス,米国,そのほかの国々からやって来た代表者を迎えるのは本当に喜びでした。地元のホテルの支配人が宿舎部門の責任を持つ兄弟たちに,ホテルの宿泊料を1割増しにして,その1割分を兄弟たちが取ってはどうかと持ちかけたとき,兄弟たちは,それは不正直なことになると説明し,その話を断わりました。支配人はそうした提案をしたことを恥ずかしく思い,こう言いました。「あなた方エホバの証人は確かに違いますね。ああいう提案をしたのは,以前に別の宗教団体がそれを承諾したことがあるからです。……でも,確かにあなた方は違いますよ」。

その大会が成功を見たことで,大会のためにずっと使える場所を早急に見つける必要のあることが一層明らかになりました。

新しい大会ホール

わたしたちの移動式大会ホールは何度も増設され,5,000人を収容できる重さ約30㌧の構造物群となりました。大会の度にそれを運び,組み立て,そしてまた解体するのは大仕事でした。しかし,エホバがわたしたちの必要をご存じだったことは明らかです。

この近辺の島々にあるすべての会衆から寛大な寄付が寄せられた結果,立地条件の良い,5㌶余りの土地が購入されました。翌年の1980年に,その新しい場所を初めて使用しました。移動式大会ホールは依然としてそのまま用いられました。その時開かれた「神の愛」地域大会で,出席者は新最高数の7,040名に達しました。しかし,この度は最後のプログラム終了後に全部を解体する必要はありません。本当に助かりました。

何年かの間,この新しい取り決めが用いられました。そして,わたしたちはもっと恒久的なものを建てる時が来たことを悟りました。資格ある兄弟たちが仕事に取り掛かり,広々としたホールが設計されました。側面が吹き抜きで風通しの良いホールです。この新しい大会ホールは半円形で,4,000人分の座席があります。建設許可が下り,1987年に作業は開始されました。建設現場での作業が始まってから6か月後の7月までには計画の3分の2が完了しており,その年の二つの地域大会のためにホールを使用することができました。これからは,泥だらけになることもなく,深い長靴もいらないのです。

支部における変化

こうしたことが起きている間,支部事務所では幾らかの変化がありました。1976年2月,協会の世界中の支部における監督の取り決めが変わりました。各支部に一人の主要な監督が存在する代わりに,統治体の監督のもとに,3人以上の成員から成る委員会がその責任を担うという取り決めが設けられました。グアドループでは,ニコラ・ブリザール,ピエール・ヤンキ,ジャン-ピエール・ビエチェックがこの監督の任を委ねられました。宣教者だったビエチェック兄弟がフランスへ帰らなければならなくなると,フラビエン・ベナンが代わりました。次いでポール・アンガービル,また後には巡回監督のジャン・カンブが支部委員会で奉仕するよう招待されました。

世界本部や様々な支部で専門技術が向上し,グアドループもその恩恵にあずかりました。他の国々の兄弟たちと同じ時に研究用の「ものみの塔」誌を受け取りましたし,フランス語の「わたしたちの王国宣教」も英語版と同時に印刷されました。こうした様々な方法を通して,組織のほかの部分との一体感が強くなりました。大海の中の,ほんのわずかな島々にいるとはいえ,孤立しているとは感じません。わたしたちはクリスチャン兄弟たちと共に,「一斉に」奉仕しているのです。―イザヤ 52:8

拡大する支部にふさわしい建物

1966年に,協会はポワンタピートルに近いモルヌユドル46番地の家を支部事務所として購入しました。後に,この家の隣に事務所と文書倉庫それに王国会館を備えた別の建物が建設され,この支部は拡張されました。しかし,グアドループにおけるエホバの賛美者の数の増加を考えると,もっと大きな建物が必要でした。それで,統治体は1988年の末に,全く新しいベテル・ホームと支部事務所の建設を承認しました。

とはいえ,グアドループのような小さな島でふさわしい土地を見つけるのはなかなか大変です。しかし,地の所有者であられるエホバは必要なものを備えることがおできになりますし,実際に備えてくださいました。サントアーヌにある,海を一望できる丘陵地に1㌶ほどの土地を入手することができたのです。基本設計図面および青写真はニューヨークの協会の建設事務所から与えられ,フランス人の設計士ミシェル・コニュオが貴重な助けになってくれました。サントアーヌの村長,地元の村議会,村の建築課のおかげで,記録的な早さで建設許可が下りました。

建設作業は1990年9月にスタートしました。14の国々から来た自発奉仕者たちが知識や経験を分け与え,作業を手助けしました。2年の間に,建設作業が完了しただけでなく,グアドループの証人たちと,一緒に働いた他の国々の自発奉仕者たちとの間に固い友情のきずなが築かれました。1954年に,ここに来ていたミルトン・ヘンシェルがグアドループ支部ができることを発表した時,この島の伝道者は128名でした。ヘンシェル兄弟は1992年の8月29日と30日 ― その時は6,839名の伝道者を報告していた ― にもここへ来ており,わたしたちの新しい,りっぱな支部施設をエホバ神に献堂しました。近所の人々は親しみをこめて,この施設を“エホバの証人の小さな村”と名づけました。

難題となる区域

グアドループの伝道者各人が受け入れるべき難題とは,区域が限られていることです。伝道者一人に対して,家は平均12軒しかありません。この状況にどう対処したらよいでしょうか。準備が不可欠です。ある開拓者の姉妹はこう語っています。「人々に,私に会うのが当たり前のことだと思わせるようにしています。もっとよく考察することで,今でも新しい研究が見つかります。私は自分の区域を個々の人々という見地で考えています」。伝道者一人当たりの人口の割合が28人という,ポワンタピートルの一会衆で働く奉仕監督は,「私たちのほうに興味深い話題さえあれば,人々はいつでも聴いてくれます」と述べています。時折,伝道者が「どこで伝道すればいいですか」と尋ねることもありますが,聖書研究の数が増加を続けている(現在,8,500件を上回る)ことを考えると,わたしたちは引き続き良いたよりを宣べ伝えるよう励まされます。

直接聖書を用いることは,効果的な宣教に大切な要素です。グアドループの人々は一般に,文字になった神の言葉として聖書に敬意を抱いており,最近の出来事について聖書がどう述べているかを示されると感心します。例えを効果的に用いることも,人々が物事を考えるよう促します。特に年配の兄弟姉妹たちはこの分野で想像力にあふれています。ここの兄弟たちは若いころ,自然についてじっと考えながら暮らしていました。それで年配の兄弟たちは,ちょうどイエスがなさったように,身の回りの自然に触れながら王国の音信を例えで話すのでしょう。―マタイ 6:25-32

これまでになく美しい

エホバはご自分の霊により,グアドループで優れた事柄を成し遂げてこられました。エホバは,陶器師の自由になる粘土のような,神のご意志に従って形作られることを拒まなかった謙遜な人々を見いだされました。エホバは,その裁きの音信であらゆる国民を「激動させる」このご自分の日に,「望ましいもの」をも集め,彼らをご自分の偉大な霊的神殿の地上の中庭に連れてきておられます。(ハガイ 2:7)シリル・ウィンストンが初めてグアドループに足を踏み入れてから30年後の1968年に,初めて伝道者1,000人が報告されました。1974年までにその数は2倍になりました。3,000人の目標は1982年に達成されました。7年後には3,000人が6,000人になり,現在では7,250人を超える伝道者が86の会衆で集まり合っています。住民53人につき伝道者一人の割合ですが,エホバ神からの祝福に頼りつつ,わたしたちはまだまだ宣べ伝え,教える業を続ける決意です。「きれいな水の島」は霊的な意味でこれまでになく美しくなりました。きっと,さらに大勢の人々がこれからも,「来なさい!」という招きにこたえ応じることでしょう。そして,彼らは「命の水を価なくして」受けるのです。―啓示 22:17

[脚注]

^ 23節 使徒 2章41節と比較してください。そこには約3,000人のバプテスマのことが出ています。恐らく,それはヨルダン川 ― バプテスマ希望者が片道30㌔歩かなければならなくなる ― ではなくエルサレムの中か近くの池で行なわれたのでしょう。

[116ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

グアドループ

グランドテール

ポワントピートル

バステール

[151ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

グアドループ

サンマルタン

サンバルテルミー

ラデジラード

イールドラプティットテール

レサント

マリーガーラント

[120ページの図版]

コンデ・ボンシャン。グアドループで感謝の念を抱いて良いたよりを聴いた最初の人々の一人

[123ページの図版]

夫の帰宅が遅かったので,ノエマ・ミスダン(現在はアプル)は後をつけ,なんと聖書研究者の集会に入りこんだ

[124ページの図版]

1945年,新しい証人たちにバプテスマを施すルネ・サアイ

[125ページの図版]

フランスの大会でグアドループでの活動を報告するオルガ・ラアランド

[130ページの図版]

デュベルボル・ネスターは入院中に初めて真理を聞き,受け入れた

[131ページの図版]

ジョルジュ・ムスタッシュは毎日昼休みに職場で証言した

[133ページの図版]

1950年代終わりごろのバステール会衆

[136ページの図版]

田舎での野外奉仕に出かけるため,バスいっぱいに乗り込んだ伝道者たち

[138ページの図版]

「光」号に乗った宣教者たちは証言の業に熱心に参加した

[139ページの図版]

ニコラ・ブリザールとリリアーヌ・ブリザールは1955年にフランスから初めてグアドループに派遣された

[141ページの図版]

フロラ・ポンバは厳しい患難に直面してもエホバの側に立場を定めた

[142ページの図版]

左から右に: ミカエラ・タシタとドナ・タシタ,そしてマルク・エドル,1994年

[143ページの図版]

ベルネーユ・アンドレモン。1958年の国際大会に出席したグアドループの19人の代表者の一人

[146,147ページの図版]

グアドループの移動式大会ホール

[150ページの図版]

アルマン・フォスティニとマルギョリート・フォスティニはグアドループで10年間奉仕した。現在いるのはマルティニーク島

[158ページの図版]

100歳を超える証人: それぞれ30年以上エホバに仕えている

ロランシャ・ジャン-ルイ

キャサリン・ガムス

[161ページの図版]

ラマンタンの大会ホール

[162ページの図版]

グアドループの支部事務所とベテル家族

[167ページの図版]

支部委員会(左から右に): ポール・アンガービル,ニコラ・ブリザール,ピエール・ヤンキ,ジャン・カンブ