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ハンガリー

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ハンガリーにおける王国の業にとって,1991年7月25日は喜ばしい日でした。ものみの塔協会による訓練を受け,ハンガリーで奉仕するよう任命された最初の宣教者が,この日に到着したのです。ラースロー・シャールケジーと妻のカレンは,午後1時3分,ブダペスト南部のフェリヘジ空港に降り立ちました。二人は,ラースローが宣教訓練学校を卒業後奉仕していた,カナダのトロントからやって来ました。シャールケジー兄弟にとって,これは27年ぶりの帰国でした。

ヨーロッパの南部中央に位置する現代のハンガリーには1,000万を超える人々が住んでいます。人口の95%以上がマジャール人(ハンガリー人)で,そのうちの約3分の2はローマ・カトリック教徒として登録されています。この国におけるカトリック教の起源は1,000年余り前にさかのぼります。ローマ・カトリック教の導入後間もなく,イシュトバーンは教皇シルウェステル2世から王位を授けられています。それに次いでハンガリーは,レーグヌム・マリーアヌム([聖母]マリアの王国)というタイトルを採用しました。

とはいえ,ハンガリーに住む人が一人残らずローマ・カトリック教徒であるというわけではありません。1590年にハンガリー語で出版された最初の完全聖書を翻訳したのは,ガーシュパール・カローリーというプロテスタント信者でした。改訂を重ねたこの翻訳には神のみ名が収められており,今ではハンガリー語の聖書の中で一番広く用いられています。1868年には,非カトリック教徒の存在と影響が政府によって認められ,宗教教育に関する選択の自由を個人に与える法律が施行されるようになりました。1989年,ハンガリー政府はこの権利の適用範囲を拡大し,エホバの証人にもこれを適用しました。その時から,エホバの証人の宣教者たちがこの国に入れるようになりました。しかし,ハンガリーの人々にとって,エホバの証人の活動は決して目新しいものではありませんでした。

ハンガリーで聖書の真理が広まる

ラースロー・シャールケジーとカレン・シャールケジーが到着する93年前,「シオンのものみの塔」誌(1898年5月15日号)は,カナダのある兄弟について次のような発表文を掲載しました。「我々は,同国人に良いおとずれを告げるため,故国ハンガリーへ旅立つ親愛なる兄弟に別れを告げる。故国の学校で長年教授の職にあった兄弟は,ハンガリー語は言うまでもなく,ラテン語,ドイツ語にもよく通じている。我々は,同兄弟が,神に選ばれた者たちを幾人か見いだし,彼らに証印を押すため,主に用いられるよう願っている」。

この兄弟の活動は成果を上げたようです。5年後にチャールズ・テイズ・ラッセルとその同行者たちがチューリヒを訪れたとき,一行が会った人々の中に,ハンガリーから来た二人の仲間の信者がいたのです。さらに,ハンガリーの兄弟たちから来た何通かの手紙が,1905年の「シオンのものみの塔」誌のドイツ語版に掲載されたということも,ドイツ経由で聖書文書を受け取っていた人がいたことを示しています。

1908年のこと,アンドラシュニー・ベネデク ― 当時,聖書研究者として知られていたエホバの証人になっていた,謙遜なハンガリー人女性 ― が,ハンガリー東部のハイドゥーベーセーメーニへ戻り,神の言葉から学んだ良いたよりを他の人々に伝えました。それから4年後,さらに二人の聖書研究者が米国から帰国しました。二人は,ラッセル兄弟が行なう公開講演に何度か出席して,神と神の目的に関する真理を学んだ人たちでした。ラッセル兄弟は講演の後,聴衆の中にそれまで何回か見かけた出席者がいると,その人に近づいて,「どこからいらっしゃいましたか。国籍はどちらですか。親族のところへ戻って,真理を伝えたいと思いませんか」と尋ねるのが常でした。

この二人の聖書研究者のうちの一人,カローリー・サボーは,当時ハンガリーにあったマロシュバーシャールヘイ(現在はルーマニアのトゥルグムレシュ)の町へ戻りました。もう一人の兄弟,ヨーゼフ・キスは,サボー兄弟と一緒にその町の周辺で文書を配布する奉仕をした後,故郷の町アバラ(現在はスロバキアのオボリーン)へ戻りました。二人の活動は成果を生みました。サボー兄弟の家族は真理を受け入れ,後にはその地域のさらに多くの人々が真理の側に立場を定め,良いたよりを宣べ伝える業に加わったからです。

北アメリカにおけるハンガリー人の畑

アンドラシュニー・ベネデク,カローリー・サボー,ヨーゼフ・キス,それにカナダから来た教授は,北アメリカで真理を学び,良いたよりを宣べ伝えるためにハンガリーへ戻った大勢の人のうちのほんの少数にすぎません。それほど多くの人が故国へ帰って来たということは,アメリカにおけるハンガリー人の畑でよく奉仕がなされていたことを物語っています。

事実,「ものみの塔」誌(英文),1909年8月15日号は,アメリカの「東部と中部の州のすべての主要な都市に,読書好きのマジャール人が多数」いることを兄弟たちに思い起こさせました。そこで,兄弟たちは励まされ,「一般人の説教壇」というハンガリー語版の冊子を注文し,それらを無料で配布しました。翌年の末までにその冊子は米国,カナダ,メキシコで約3万8,000部配布されました。その後の何年かにわたって出版されたハンガリー語の文書としては,「聖書研究」,「『創造の写真劇』のシナリオ」,「ものみの塔」誌,「黄金時代」誌,小冊子の「現存する万民は決して死することなし」などがあります。後に協会は,ハンガリー語のラジオ番組を通して良いたよりを広めました。1930年には,五つのラジオ局が27のハンガリー語の番組を放送していました。

ハンガリーでの障害に対処する

ラッセル兄弟は,1911年に行なったヨーロッパ講演旅行で少なくとも10か国を訪問しましたが,ブダペストにいる間に,「預言の中のシオニズム」という話ができればと考えていました。しかし,ラッセル兄弟の活動に激しく反対していた,ニューヨークに住む一人のユダヤ教のラビが,そうした集会の計画を阻止するため,オーストリア-ハンガリーにいる自分の仲間たちに働きかけました。

後にカローリー・サボーは,ラッセル兄弟にあてて次のような手紙を書きました。「ハンガリーでの活動は,アメリカでの活動よりもはるかに困難です。わずかな例外を除けば友なる兄弟姉妹たちは非常に貧しく,宣べ伝える業もずっと小規模に行なわなければならないからです。……現在のところ,さまざまな郡に42の小さなクラスがあります。5月の11日と12日に小規模な大会が開かれ,100人ほどの人が出席しました。……

「種々の宗派の牧師や司祭が,法的な手段でわたしたちの活動を阻止しようとしてきました。法廷へ引っ張り出されたこともありますが,今までのところ,自分たちの行動を擁護することができています」。

真理が首都に伝わる

第一次世界大戦前のことですが,ブダペストのある清掃作業員が,ごみを片づけていたとき,ごみの下に聖書研究者のパンフレットが落ちているのを見つけました。そのパンフレットには,マロシュバーシャールヘイの中の一つの住所が載せられていました。その人がこのパンフレットを妻に見せたところ,彼女は大変喜び,深い関心を抱いてそれを読みました。そして早速,手紙を書いて文書を依頼しました。文書が送られてきました。その後,ある人がこの人を個人的に訪問しました。

その結果,やがて小さな研究グループが作られ,この女性,つまりホルバート夫人は,そのグループの集会のために進んで自宅を開放しました。ティサカールマーン広場(現在のケズタールシャシャーグ広場)にあったこの場所は,ブダペストの聖書研究者が集会に用いた最初の場所でした。ホルバート姉妹は1923年に亡くなりましたが,姉妹のアパートはその後も集会場所として兄弟たちに使用され,一時は事務所にもなりました。

キス兄弟とサボー兄弟が投獄される

キス,サボー両兄弟や,他の兄弟たちの熱心な働きをエホバが祝福されたおかげで,第一次世界大戦が勃発した時には,首都周辺のいろいろな町に研究グループが生まれていました。例えば,ハンガリー東部のハイドゥーベーセーメーニやバガメールやバルマズーイバーロシュ,ハンガリー北部のナジビシュニョーなどです。マロシュバーシャールヘイに群れが一つあっただけでなく,コロジュバル(クルジュ)にも一つの群れがありました。両市とも現在はルーマニア領内にあります。

僧職者たちは,キス兄弟やサボー兄弟の熱心な活動にいらだちを覚え,兄弟たちに対して何らかの処置を取るよう政府をあおりました。兄弟たちは二人とも逮捕され,禁固5年の刑を言い渡されました。しかし,1919年に起きた革命の際に二人は釈放され,直ちに諸会衆の間の交流を強めることに取りかかりました。しかし,1920年のトリアノン条約の締結によって,この仕事はますます難しくなりました。この条約でハンガリーの領土の多くが取り上げられ,周辺諸国に割譲されたからです。

クルジュで組織された戦後の活動

世界大戦後は,米国で聖書の真理を学んでいた人々がハンガリーへ戻るケースが増えました。1918年にバプテスマを受けた実の兄弟,ヨーゼフ・ショーシュとバーリント・ショーシュもその中に含まれていました。1919年に故国へ到着すると,二人はすぐに,協会の出版物を用いて良いたよりを広める業を開始しました。兄弟たちの努力をエホバが祝福されたことは明らかでした。ティサエスラールに会衆が一つ設立され,次いで近隣の村々にも会衆が次々に設立されていきました。

ショーシュ両兄弟がハンガリーに到着した翌年,協会はヤーコプ・B・シーマをルーマニアへ派遣しました。クルジュへ到着してから数日後,ヤーコプは,ハンガリー,ルーマニア両国での業を再組織するため,カローリー・サボーに,その後,ヨーゼフ・キスに会いました。兄弟たちは,事務所にふさわしい場所を探しました。ルーマニア,ハンガリー,ブルガリア,ユーゴスラビア,アルバニアにおける良いたよりを宣べ伝える業は,この事務所の監督下に置かれました。

クルジュでは支部事務所にふさわしい建物が見つからなかったため,協会は1924年,そこに事務所と印刷工場を建設することに着手しました。その年の末に,「ものみの塔」誌(英文)はこう報告しています。「クルジュにある協会の印刷工場では,今年1年間に,22万6,075冊の書籍が生産され,12万9,952冊の書籍が配布された。それに加えて,二つの言語[ルーマニア語とハンガリー語]の『ものみの塔』誌と『黄金時代』誌の配布数も,それぞれ17万5,000部を上回った」。

世の人々はその様子を見て驚きました。「アズ・ウート」(道)という雑誌はこう述べています。「現在[1924年],ルーマニアには,このような近代的設備を持つ印刷工場はほかにない。……我々の……配布活動は,[聖書研究者のそれ]と比べるなら,何と小さなものなのだろう」。

愛情深く,勇敢で,憎まれた人

しかし,ハンガリー国内における王国の音信の伝道の進展は,ルーマニアの印刷工場が機能するまで待ってはいませんでした。1922年に,ハンガリーで主の死を記念するために集まった人は160人もいました。その同じ年,協会の指導のもとに,「世界の指導者たちに対する挑戦」という決議文を20万部印刷する取り決めが設けられ,兄弟たちにはそれを配布する日が一日,正式に与えられました。その決議文は,多くの官公庁や高官たちのもとへ郵便で送られました。

ジョルジー・キスは,この時期に,ハンガリーの兄弟たちにりっぱな手本を示した人です。兄弟は大柄で,愛情深く,勇敢な人でした。第一次世界大戦中,兄弟は中立の立場ゆえに死刑の宣告を受けましたが,後に終身刑に減刑され,終戦後は自由の身になりました。兄弟は命拾いした分を有効に用い,多くの会衆の設立を援助しました。また,巡礼者,つまり,聖書研究者たちのための旅行する講演者としても奉仕しました。

キス兄弟が恐れなく活動し,その活動が成果を上げていたため,とりわけ僧職者や国家警察は兄弟に憎しみを抱きました。兄弟は何度も逮捕され,虐待されましたが,兄弟が法律をよく知っていて,非難に対して巧みに答弁するため,兄弟を刑に処するのは困難でした。兄弟たちは,もっと気をつけてください,とキス兄弟に熱心に頼みましたが,兄弟は引き続き国中を旅行し,会衆を訪問して他の人々を霊的に強めることに努めました。キス兄弟は優れた模範でした。「すべての人に対して穏やかで,教える資格を備え,……好意的でない人たちを温和な態度で諭す」というパウロの言葉がよく当てはまる人でした。―テモテ第二 2:24,25

1931年7月20日,ルーマニアとの国境に近いデブレツェンでは,拡大を続ける会衆の兄弟たちがキス兄弟の来るのを待っていましたが,兄弟はついに現われませんでした。敵がキス兄弟を殺し,兄弟は天的な報いを受けて家に“帰った”のだと兄弟たちは判断しました。―ヨハネ 14:2

米国からさらに大勢の人がやって来る

1920年代中は,米国で聖書研究者になり,福音宣明の精神を抱いてハンガリーへ戻って来る人が跡を絶ちませんでした。これらの人々の中には,最初ハンガリー東部のハイドゥーソボスローへ行き,後に巡礼者として奉仕したヤーノシュ・バルガや,ハンガリー北部のナジビシュニョーへ行き,そこで熱心に福音宣明の業に携わったヨーゼフ・トルディーがいます。

1910年にラッセル兄弟の講演会に出席して真理を学んだヤーノシュ・ドーベルは,ハンガリーの西部へ行き,大いなる熱意を抱いて,ザルドバーノクで宣べ伝える業を開始しました。ごく短期間に群れが一つ誕生しました。この群れはドーベル兄弟の熱心な指導のもと,近隣の町や村を余すところなく巡って宣べ伝えました。しかし,兄弟は激しい反対に遭うことがしばしばあったため,時々,アメリカに帰りたいと思うことがありました。そんな時,妻は,「あなた,私たちはなぜハンガリーへ帰って来たの? 宣べ伝えるためじゃなかったの?」と尋ねました。すると,ヤーノシュは落ち着きを取り戻すのでした。

内部および外部からの反対

良いたよりを宣べ伝える業が多くの地域に達し,その勢いを増すにつれ,反対も強くなりました。1925年に,政府は協会の文書を配布する許可を取り消しました。兄弟たちに霊的な食物を供給し続けるためには,クルジュで出版する「ものみの塔」誌の題を,「クリスチャン巡礼者」,「福音」などといった題に定期的に変える必要がありました。

僧職者も,兄弟たちに反対する活動を強化しました。一例として,カトリックの司祭ゾルターン・ニュイストルが編集した,「千年期説信奉者である聖書研究者」と題する小冊子はこう述べています。「ラッセル主義は共産主義のボルシェビズムよりも悪質で嫌悪すべきものである。なぜなら,……ラッセル主義は,宗教に姿を変えて無政府主義をあおりたてるものであり,革命,教会に対する迫害,僧職者の粉砕もしくは絶滅を神の計画としているからである」。

兄弟たちが警察から受けた残忍な扱いは,多くの場合,諸教会の扇動によるものでした。そうした残虐行為が実際にあったことは,米国に戻ったカローリー・サボーの体に残っていた傷跡からも明らかです。

こうした迫害に加えて,サタンと悪霊たちは内部に不和を引き起こしました。クルジュにいたヤーコプ・B・シーマが利己的な目標を追求し始め,神の王国の良いたよりを宣べ伝える業の重要性を見失い,自分に注意を引くことを望むようになったのです。このことは大きな分裂につながりました。

それから間もなく,ハンガリーでの活動に関する指示を受けた,ものみの塔協会のマグデブルクの事務所(ドイツ)は,ラヨシュ・サボーに,ブダペストへ赴いて,宣べ伝える業と「ものみの塔」誌の翻訳の仕事を組織する援助をするよう依頼しました。それ以後,ハンガリー語の「ものみの塔」誌は,「キリストの血を信ずる人々のための雑誌」という題で,マグデブルクで印刷されるようになりました。

ドイツの兄弟たちからの援助

1931年,世界中の聖書研究者たちは,神の言葉に明確に述べられていることを考えるなら,自分たちがエホバの証人として知られることはきわめて適切であるということを理解しました。(イザヤ 43:10)ハンガリー語で出版された「神の国 ― 全地の希望」および「解説」という小冊子は,エホバの証人という名称が採用された理由を論じ,さらにその名称にふさわしく,エホバと,王国に関連したエホバの目的とに注意をそそいでいました。

1933年の「年鑑」(英文)は次のように報告しています。「『神の国』の小冊子が出版されたとき,それは,ハンガリーの首都で大々的な証言を行なう特別な機会となった。ある決まった時刻にドイツ人の友なる兄弟姉妹たち90人がそこへ繰り出し,5日間で約12万5,000部の『神の国』の小冊子と20万部のパンフレットを配布した」。

ドイツの証人たちは,ハンガリーの兄弟たちをさまざまな機会に援助しました。「神の国」の小冊子の配布はそのうちの一つにすぎませんでした。ドイツでヒトラーが政権の座に就き,エホバの証人を迫害し始めたとき,大勢の兄弟姉妹はドイツを去らなければならなくなり,一部の兄弟たちはハンガリーへ移って来ました。その中には,それまですでにブルガリアで1年を過ごし,ずっと後に統治体の成員になったマーティン・ポエツィンガーや,その妻になったゲルトルート・メンデもいました。

やはりドイツ語を話す証人,ゲルハルト・ツェニーグは,この時期にサボー兄弟と共に働いていました。ツェニーグ兄弟は強健でなかったにもかかわらず,バラージという刑事から特に残虐な扱いを受けました。ドイツの支部事務所から直接遣わされたハインリッヒ・ドウェンガーも,ブダペストの兄弟たちの記憶に残っていて,兄弟たちに愛されています。温和で善良で,賢明な助言を与えたドウェンガー兄弟は,ハンガリーの兄弟たちにとって大きな助けになりました。ドイツ人の開拓者たちは,この兄弟を“開拓者のお父さん”と呼びました。兄弟が自分たちを愛情深く世話してくれたからです。

この時期には,ファシズムがハンガリーに強力な影響を与えるようになっていました。ドイツの兄弟たちは強制的に出国させられ,ハンガリーの兄弟たちに対する迫害も激しくなりました。兄弟たちの多くは警察から残忍な扱いを受けた後,長期の禁固刑を言い渡されました。

注意深く開かれた集会

1930年代の終わりになると,集会は秘密裏に,また少人数でしか開けなくなりました。文書と言えば大抵,各会衆に「ものみの塔」誌が1冊あるだけで,兄弟たちはそれを回覧しました。

ティサバシュバーリ出身のフェレンツ・ナジは回顧します。「当時の『ものみの塔』研究は,今とは違っていました。来るはずの人が全員来ると,ドアを閉めました。時には,一つの記事を検討するのに6時間もかかることがありました。私は当時5歳ぐらいで,弟は私より一つ下でしたが,二人とも小さな椅子に座って,その長い研究に耳を傾けているのが好きでした。本当に楽しいひとときでした。今でもその時学んだ預言的な劇を幾つか覚えています。両親が私たちを育ててくれた方法は,良い実を結びました」。

80代になった今でもブダペストで忠実に奉仕しているエテル・ケチケメーティネー姉妹は,ティサカラーダで兄弟たちが昼休みに自分たちの畑で集会を開いていたことを覚えています。兄弟たちは,最初にある証人の土地を共に耕し,次に別の証人の土地へ行くという方法をとっていたため,役人たちはそうした集会を防止することができませんでした。秋と冬には,姉妹たちは一緒に腰を下ろして糸を紡ぎ,兄弟たちはその場に加わりました。警察は兄弟たちの活動を調査したものの,それをやめさせるわけにはいきませんでした。集まり合うそうした機会がない場合,兄弟たちはどこか別の場所で,朝の早い時間か夜遅くに集まりました。

機略縦横の宣明者たち

家から家の伝道が禁じられると,証人たちは聖書の真理を伝える別の手段を見いだしました。当時,携帯用蓄音機を使うことは比較的新しい方法で,その使用を禁じる法律はありませんでした。そのことを考えた兄弟たちは,良いおとずれを録音したレコードをかけてもいいですか,と家の人に尋ねました。家の人が,どうぞと言うと,ラザフォード兄弟の話のレコードをかけました。このために兄弟たちは,ラザフォード兄弟の講演を幾つか収めたハンガリー語のレコード盤を作製し,携帯用蓄音機と,大きなスピーカーのついた録音再生機の両方を活用しました。

それら録音された強力な聖書の音信について,後にケチケメーティネー姉妹の娘と結婚したヤーノシュ・ラコーは,思い出を語ります。「私は録音された話をシャートロイヨウーイヘイで聞きましたが,それはとてもうれしい経験でした。その話の中に,私の心に深く刻み込まれたこんな一節がありました。『君主政治,民主主義体制,貴族政治,ファシズム,共産主義体制,ナチスなど,すべての支配力はハルマゲドンにおいて消え去り,やがて忘れ去られるであろう』。聖書の真理が力強く話されるのには驚きました。1945年のその時に,私に深い感銘を与えたその話には,預言のような響きがありました」。

困難は続く

その後も迫害は続き,激しさを増してゆきました。あるカトリックの司祭がブダペストの協会の事務所を訪れ,ありったけの情報を集めて行ってからは,新聞紙上で中傷運動が始まりました。それに伴い,教会の説教壇から,またラジオを通じて,警告が発せられました。協会の文書は全国で押収され,証人たちは情け容赦なく殴打されました。キシュバールドでは,大勢の証人たちが役場に連行され,ひとりずつ別の部屋に連れて行かれて極悪非道な殴打に遭い,拷問されました。この様子を伝えた1938年の「エホバの証人の年鑑」(英文)は,こう問いかけました。「『復活祭』,すなわち,礼拝行進を行なう日曜日。この復活の日に彼らは何を祝うのか。ローマの異端審問の復活であろうか」。

僧職者たちは,ある役人たちを思いどおりに動かせないときには,ほかの手段を用いました。1939年の「年鑑」(英文)はこう報告しています。「友なる兄弟姉妹たちは,向こう見ずな連中にしばしば打ち据えられ,虐待されている。連中はそうするよう説き伏せられ,多くの場合,そのための報酬を受けるのである。ある場所では,地元の僧職者がこうした連中一人一人に,神の子らを偽って告発した報酬として,たばこ10㌔を与えていたことが分かった」。

非合法化される

5年間ドイツのマグデブルクにある協会の事務所で働き,その後,当時チェコスロバキア領だった場所で奉仕していたアンドラーシュ・バルタは,チェコスロバキアの一部とカルパト-ウクライナの一部がハンガリーに併合された後の1938年には,いつの間にかハンガリーの領土の中にいました。バルタ兄弟は早速,ハンガリーにおける協会の業を監督する役目を割り当てられました。ドイツでは,ナチス国家のもとでエホバの証人の活動はすでに禁止されていました。チェコスロバキアでは,証人たちの集会が禁じられていました。次いで1939年12月13日,ハンガリーでも証人たちの活動が非合法化されました。

その同じ年に,ハンガリーに二つの収容所が建てられました。一つはブダペストから約30㌔離れた所に,もう一つは,ハンガリー南西部の,ユーゴスラビアとの国境から約26㌔の所にある,ナジカニジャの町に設けられました。これらの収容所は間もなく,信用できないと言われていた人々 ― 社会の脅威として告発された犯罪者や共産主義者,そしてエホバの証人でいっぱいになりました。

同じころ,ブダペスト中央警察の警視は,エホバの証人の“指導部”を暴いて,この非合法団体の機能や対外関係を調べる目的で,刑事から成る班を組織しました。その後,逮捕,身体的また心理的虐待,投獄などが続きました。

こうしたことのためにハンガリーのエホバの証人の活動は停止したでしょうか。そのようなことはありませんでした。しかし,事態が事態だけに,伝道者一人一人に,「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真」でありなさいというイエスの助言に留意することが求められたのは確かです。(マタイ 10:16)1940年の「年鑑」(英文)は一例として,ある開拓者の姉妹がどのように用心深く行動したかを示しています。姉妹は黒いスカーフを頭にかぶり,肩にも黒いスカーフを巻いていました。一つの村で少し奉仕したころ,ある家の人が,二人の憲兵と一緒にこちらへ向かって来るのが目に入りました。その姉妹は脇道に隠れて,黒いスカーフを別の色のものに変え,二人の憲兵の方へ向かって落ち着いて歩きだしました。憲兵に,黒いスカーフをした女を見なかったか,と尋ねられた姉妹は,見ましたよ,急いでいるらしく反対の方へ走って行きました,と答えました。憲兵と,彼らのスパイは,その女を捕まえようと走って行きました。一方,この証人は静かに家に帰りました。

ある忠実な開拓者の姉妹は,僧職者から圧力を受けていた当局者の指示で,自分がどのように逮捕されたかを回想します。姉妹は一時,警察の監視下に置かれ,月に2回,警察に出頭することを義務づけられていました。しかし,警察署を出るが早いか,姉妹はいつも自転車に乗って自分の区域へ行き,伝道しました。姉妹が証言をやめないので,当局は姉妹を刑務所に入れました。最初は5日間,次は10日間,15日間,30日間,そして40日間が2回,その次は60日間,100日間が2回,そしてついには8年間も投獄しました。なぜでしょうか。人々に聖書を教えたからです。イエス・キリストの使徒たちのように,姉妹は,自分の支配者として人間より神に従ったのです。―使徒 5:29

バルタ兄弟が翻訳の仕事にかかりきりになったため,協会は1940年,以前に地帯の僕(巡回監督)だったヤーノシュ・コンラードに,ハンガリーでの業の監督を委ねました。

収容所が増える

1940年8月,トランシルバニア(ルーマニア)の一部がハンガリーに接収されました。翌年,この地域での迫害は激しさを増しました。トランシルバニアのクルジュに収容所がもう一つ建てられ,老若を問わず,何百人もの兄弟姉妹がこの収容所に連れて来られました。証人たちは,信仰を捨てて以前の宗教に戻ることをしなかったため,のちほど,その収容所でさんざん残忍な仕打ちを受けました。この知らせが収容所の外にいる証人たちの耳に入ると,国中の忠実な兄弟たちは,心を一つにして収容所の兄弟たちのために祈りました。それから間もなく,当局によるクルジュ収容所の調査で不正行為が明るみに出,部隊指揮官と大半の看守が転属となりましたが,中には投獄された者もいました。この変化によって兄弟たちの苦難はある程度軽減され,兄弟たちはそのことをエホバに感謝しました。

一方,ハンガリー南西部では,ナジカニジャの近くにあった収容所に何組もの夫婦が一緒に拘禁され,まだ自宅にいた証人たちが,拘禁された夫婦の子供たちの面倒を見ていました。これらの収容所ではどこでも,エホバの民に圧力が加えられました。信仰を捨て,エホバの証人とのかかわりを一切放棄することを誓約して国家の認める以前の宗教に戻ります,と書かれた書類にただ署名しさえすれば,自由になれると持ちかけられたのです。

1941年6月27日,ハンガリーが対ソ戦に加わるに及んで,エホバの証人の置かれた状況はさらに危険をはらむようになりました。

国の僕が逮捕される

エホバの証人を扱う刑事から成る班の活動はその勢いを増し,多くの兄弟たちの家に手入れを行なうようになりました。コンラード兄弟は,何度も召喚状を受け取り,自宅は警官に踏み込まれ,そして週に2度,中央警察署に出頭するよう義務づけられていました。

1941年11月,コンラード兄弟は地帯の僕(巡回監督)を全員集め,自分は遠からず逮捕されるに違いないので,自分が逮捕された場合,地帯の僕の一人であるヨーゼフ・クリニエッツが業を監督することになると述べました。

果たしてその翌月の12月15日,コンラード兄弟は逮捕されました。拷問者たちは,地帯の僕や開拓者の名前を吐かせようとして,兄弟に対して数日間,言語に絶する野蛮な方法で残忍な仕打ちをしましたが,彼らの試みは成功しませんでした。最後に兄弟の身柄は地方検事に引き渡されました。結局,兄弟にはわずか2か月の禁固刑が言い渡されただけでした。ところが,刑期を終えても兄弟は釈放されませんでした。それどころか,社会にとって危険な人物という理由で,キシュタルチャの強制収容所に移されました。

国の僕が二人

一方,スイスにあった中央ヨーロッパ事務所は1942年,ハンガリーでの業を監督するよう,デーネシュ・ファルベーギを正式に任命しました。ファルベーギ兄弟は生来温和で柔順な性格でしたが,真理に対する熱意によって他の人を奮い立たせることができる人でした。兄弟はトランシルバニアで教師をしていたことがあり,第一次世界大戦後は,ルーマニアにおける業を組織するのに大きな働きをしました。

しかし,コンラード兄弟が,逮捕される場合に備えて一時的に業の責任を委ねていた地帯の僕クリニエッツ兄弟は,ファルベーギ兄弟にその任務が与えられたことを快く思いませんでした。ファルベーギ兄弟には難しい任務に立ち向かう能力はないと考えたのです。

クリニエッツ兄弟はいつも熱心で勇敢な,そして温和というよりも,むしろしっかりした性質の人でした。野外奉仕に熱心で,国中の兄弟たちからよく知られ,愛されていました。兄弟たちは二つのグループに分かれるようになりました。一方は,協会が任命したファルベーギ兄弟を認めるグループ,他方は,クリニエッツ兄弟と意見を共にし,そうした困難な時期の監督の責任はしっかりした人物の手に委ねられなければならない,とするグループです。

中には,同時に二人の地帯の僕の訪問を受ける会衆もありました。一人はファルベーギ兄弟が,もう一人はクリニエッツ兄弟が遣わした僕でした。残念なことに,そのような事態が生じると,二人の地帯の僕は兄弟たちを励ますどころか,互いに口論することもありました。忠実な兄弟たちがこれに心を痛めたのも無理からぬことでした。

アラグにあった競走馬の馬小屋

1942年8月,当局はハンガリーのエホバの証人を亡きものにしようと決意しました。そのため,10か所に収容場所を設け,老若男女の別なくエホバの証人をそこへ集めました。エホバの証人と接触のあることが知られている人であれば,まだバプテスマを受けていなくてもそこへ連れて行かれました。

ブダペストやその周辺の証人たちは,アラグにあった競走馬の馬小屋に連れて行かれました。小屋の両側には外壁に沿ってわらが敷いてあり,兄弟姉妹は夜その上で睡眠をとりました。もしだれかが夜,体の向きを変えたいと思う場合,そんな簡単なことでも,看守から正式な許可を得なければなりませんでした。昼間は,兄弟たちは強制的に壁のほうを向いて木のベンチに一列に座らされました。その間,看守たちは銃剣を持って馬小屋を行ったり来たりしていました。話すことは許されませんでした。

馬小屋の隣には小さな部屋があって,そこではイシュトバーン・ユハースとアンタル・ユハースという実の兄弟二人の指示のもとに,刑事たちが“取り調べ”を行なっていました。刑事たちは幾つかの方法で兄弟たちに拷問を加えましたが,その中には口にできないほど下劣なものもありました。

姉妹たちも容赦されませんでした。一人の姉妹は,悲鳴を上げても聞こえないよう,自分のストッキングを無理やり口の中に押し込まれました。それから,無理やり地面にうつ伏せにさせられたかと思うと,一人の刑事が姉妹の上に乗って姉妹の両足を持ち上げ,別の刑事が情け容赦なくその足の裏を打ちたたきました。その音と姉妹の悲鳴は,兄弟たちがいた部屋にもはっきりと聞こえました。

アラグで開かれた“法廷”

“取り調べ”は11月の末までに終わりました。その月,アラグにあったあるレストランのダンスホールに間に合わせの法廷が設けられ,ハインリッヒ・ワースの参謀である裁判官がそこで64人のエホバの証人に関する事件を扱いました。この法廷に入ったとき,証人たちは文書,聖書,タイプライター,蓄音機,レコードなどを目にしました。それらは,家宅捜索が行なわれたときに没収された品々でした。

告発されたこれら64人のうち,一人として軍の検察官から尋問を受けることもないまま,また,法廷が証人たちの弁護を委任した弁護士と話すことすらできないまま,裁判は開かれました。被告全員に対する尋問はわずか数時間で終わり,証人たちは自分を弁護する実質的な機会を与えられませんでした。一人の姉妹は,武器を持つ覚悟でいるかどうか尋ねられ,「私は女です。ですから,武器を取る必要はありません」と答えました。すると,「もし男だったら,武器を取るか」と尋ねられました。姉妹はこう答えました。「その質問には,男になったときにお答えします」。

その後,判決が言い渡されました。バルタ兄弟,ファルベーギ兄弟,コンラード兄弟は絞首刑でした。終身刑を宣告された人たちもあり,残りの人たちは2年から15年の禁固刑を言い渡されました。その日の午後,兄弟たちはブダペストのマルギット通りにあった軍刑務所に連行されました。死刑宣告を受けていた3人の兄弟たちは,すぐにも処刑されるだろうと考えていましたが,投獄されてからちょうど1か月後,弁護士がやって来て,兄弟たちの死刑宣告が終身刑に減刑されたことを伝えました。

兄弟たちが集められていたほかの九つの収容場所でも,アラグの馬小屋の場合と同様の方法で取り調べが行なわれました。有罪宣告を受けた兄弟たちは最終的に,国の北部のバーツにあった刑務所に移されました。

看守は修道女

姉妹たちは大抵,ブダペストのコンティ街にあった防諜刑務所に拘禁されました。3年以上の刑を言い渡された姉妹たちは,スロバキア国境近くにあるマーリアノストラ(我らのマリア)という村の女子刑務所に移されました。姉妹たちは,そこで看守を務めていた修道女たちから大変ひどい目に遭わされました。別の刑務所に以前いた証人たちも,この刑務所に連れてこられました。

だれであれ,修道女たちの設けた刑務所の規則に従う気のない者は地下牢に入れられました。これらの規則の中には,教会に出席する義務や,「イエス・キリストは褒むべきかな」というカトリックのあいさつをすることが含まれていました。囚人たちは,何かを与えられたなら,「このゆえに神が汝に報い給わんことを」という感謝の言葉を述べることになっていました。

もちろん,忠実な姉妹たちはこれらの規則に従いませんでした。教会へ行くことを拒否するたびに,地下牢に24時間閉じ込められました。そういうときには姉妹たちは,「このゆえに神が汝に報い給わんことを」と言ったものでした。証人たちは,小包の受け取り,親族との文通,面会など,普通なら与えられるはずの特権も,すべて取り上げられていました。ほんのわずかですが,これ以上苦しめられたくないと考えて妥協した人もいました。しかし,しばらくすると,忠実な証人たちに対する過酷な扱いは止みました。

ボールの強制収容所

1943年の夏には,国中の刑務所に収容されていた49歳未満の兄弟たちが地方の一つの町に集められ,兵役に就くよう命じられました。忠実な兄弟たちはまたしても残忍な仕打ちを受けましたが,確固とした立場を保って兵役を拒否し,提供された軍服の着用に同意しませんでした。しかし,グループの中の9人は軍の宣誓を行ない,制服を受け取りました。妥協はしたものの,彼らに平安はありませんでした。9人の離反者を含め,そこに集められた160人全員がボール(セルビア)にあった強制収容所に移されました。それから2年後のこと,それら離反者の一人は,処刑班の一員にされたときライフルを手に,青くなって震えていました。自分が処刑する人の中に,忠実な証人である実の弟がいたのです。

兄弟たちは,収容所への途上でも,また収容所内でも,苛酷な扱いを経験しました。しかし,収容所長は大抵,兄弟たちの良心に反する作業を強要することはしませんでした。一部の兵士が,証人たちを拷問にかけて無理やり良心に背かせようとしたとき,所長が謝ったことさえありました。

今でも忠実に仕えている70代の兄弟,カローリー・アーフラはこう語っています。「私たちの信仰をくじこうとする試みが幾つかありましたが,私たちは堅く立ち続けました。ある時,私たちはコンクリートで銃座を作ることになり,この作業のために二人の兄弟が選ばれました。二人はその仕事をきっぱりと拒否し,自分たちが投獄されたのは,戦争にかかわることを一切行なわないからだと言いました。将校は,作業を行なわなければ処刑する,と二人に告げました。兄弟たちのうちの一人が,ある兵士に山の向こう側に連れて行かれ,次いで銃声が聞こえました。将校はもう一人の兄弟の方を向いて,『さあ,お前の兄弟は死んでしまった。考え直すなら今だぞ』と言いました。

「その兄弟は,『私の兄弟が信仰のために死ぬことができたのであれば,私にできないことがあるでしょうか』と答えました。将校は先ほどの兵士に命じて“銃殺された”兄弟を連れて来させ,もう一人の兄弟の背中を軽くたたきながらこう言いました。『これほど勇敢な者たちなら,生きている資格がある』。そして,二人を解放したのです」。

兄弟たちは,自分たちが生きているのは,エホバの証人として奉仕するためであることを知っていました。ボールの収容所にはほかに何千人もの囚人がおり,証人たちはそれら囚人の多くに,エホバとその王国について徹底的に証言しました。こうした困難な時期に,エホバの証人は ― 刑務所内であれ,強制収容所内であれ,またほかのどこであれ ― 国中の至る所で証言する機会を終始活用しました。彼らはどこでも親切な人々に出会いました。要人の中にもそうした人がいて,証人たちの勇気ある忍耐を褒めました。中には,「引き続き信仰をもって耐え忍ばれますように」と励ましてくれる役人もいました。

証人たちが,忍耐を極限まで試されるボール収容所の危険な状況のもとに置かれてすでに11か月が経過していたとき,ゲリラ隊が村を襲撃しようとしている,といううわさが立ち始めました。収容所から退去するという決定が下されました。出発予定日の二日前に,徒歩での退去になることを知った証人たちは,早速,二輪荷車や四輪荷車を作り始めました。いざ出発という時に,証人たちのところには非常にたくさんの荷車があったため,将校や兵士や他の囚人たちも見に来て,エホバの証人のしたことに目を丸くしていました。

旅に出る前(3,000人のユダヤ人の囚人と共に),兄弟たち一人一人に700㌘のパンと魚の缶詰5缶があてがわれましたが,それは,これからの旅にとうてい足りる量ではありませんでした。しかし,将校たちが備えなかったものはエホバが備えてくださいました。どのようにでしょうか。兄弟たちが旅の途上で通った地域に住んでいたセルビア人とハンガリー人の手を通してです。彼らが兄弟たちに喜んでパンを提供したので,兄弟たちはそれらのパンを集めておき,休憩時間に,たとえほんの一口でも各人に一切れずつ行き渡るよう均等に分けました。何百人もの囚人がドイツ兵に引き渡され,途中で処刑されましたが,証人たちの上にはエホバの保護のみ手がありました。

再び忠誠が試みられる

1944年の終わりごろ,ソ連軍が接近してきたため,証人たちは,ハンガリーとオーストリアの国境の方へ移動するよう求められました。強健な男子がみな,戦地にいることに気づいた証人たちは,自国で重労働に従事するその地方の女性たちの手助けをしました。兄弟たちは,寝泊まりした場所では,その機会をとらえて証言しました。

1945年1月,収容所長は証人たちに,働ける者は全員ヤーノシュハーザの村役場に出頭せよ,と通達しました。ドイツ人の一人の士官が,塹壕を掘らせるためにそこから証人たちを村の外に連れ出しました。選ばれた最初の6人の兄弟がその作業を拒否すると,将校は直ちに,「やつらを処刑しろ!」と命じました。6人の兄弟は整列させられ,ハンガリー人の兵士たちはライフル銃を持ち,命令が出ればいつでも撃てる態勢で立っていました。残る76人の兄弟たちはそれを見守っていました。一人のハンガリー人の兵士がそっと,見守っていた兄弟たちを促し,「向こうへ行って,お前たちも道具を捨ててこい。さもないと,兵士たちは彼らを撃つぞ」と言いました。兄弟たちはすぐにその勧めに従いました。ドイツ人将校はひどく当惑し,最初は信じられないといった様子でじっと見つめているだけでした。それから,「こいつらも働きたくないというのか」と尋ねました。バルタ兄弟がドイツ語でこう答えました。「もちろん,働きたいのはやまやまですが,信仰に反する仕事はできません。私たちがどんな仕事も,最善を尽くして,良心的に,また効果的に行なってきたこと,そして今でも行なっていることは,ここの軍曹に尋ねればお分かりになるでしょう。しかし,あなたが私たちにさせようとしているこの仕事は,するわけにはいきません」。

これらの兄弟のうちの一人は,後にこう語りました。「すると将校は,私たちを全員逮捕すると言いました。それは全く滑稽な話でした。いずれにせよ,私たちはみな囚人だったのですから」。

忠誠を保ったほかの人々

上記の兄弟たちと同様,国中の何百人もの兄弟姉妹たちが,他の多くの強制収容所や刑務所で自分の信仰のための同じ戦いをしました。

1944年の春,大勢のユダヤ人がナジカニジャの収容所からドイツの幾つかの収容所に移されました。その中に,エーバ・バースとオルガ・スレージンガーという二人のエホバの証人がいました。生まれがユダヤ人で,それぞれ,20歳と45歳でした。どちらの姉妹も熱心で誠実なエホバの崇拝者でした。バース姉妹は大変きゃしゃな人でしたが,逮捕される前はずっと開拓者として奉仕していました。姉妹はドゥナベチェで野外宣教に携わっていたとき,警察に逮捕され,村役場へ連行されました。

村長の扇動によって,姉妹は屈辱的な扱いを受けました。バース姉妹はその時のことをこう述べています。「私は髪を全部剃り落とされ,何も身にまとわずに10人から12人ほどの警察官の前に立たされました。それから警官たちは尋問を始め,ハンガリーにおける私たちの指導者がだれかを聞き出そうとしました。私は,イエス・キリストをおいてほかに指導者はいないことを説明しました」。それに対して警官たちは,こん棒で情け容赦なく姉妹を殴りつけました。しかしバース姉妹は,クリスチャンの兄弟たちを裏切るようなことはすまいと決意していました。

姉妹はまたこのように回想します。「その獣たちは私の両手両足を束ねて私の頭の上で縛り上げ,一人の警察官を除いて全員が私をレイプして辱めました。警官たちがあまりにきつく縛り上げたので,3年後にスウェーデンに来たときにも,まだ手首に跡が残っていました。私は甚だしく虐待されました。一番ひどい傷が癒えるまで,警官は私を地下室に2週間隠したほどです。私の惨状をあえてほかの人に見せるようなことはしなかったのです」。バース姉妹はナジカニジャの収容所に送られ,そこから,スレージンガー姉妹と一緒にアウシュビッツへ送られました。

姉妹は続けます。「オルガといると,安心していられました。オルガはつらい状況の中にいても,ユーモアのセンスを持っていられたのです。メンゲレ医師は新しく囚人が入って来ると,作業ができそうにない者と健康な者とを分ける仕事をしていました。前者はガス室に送られました。私たちの番になったとき,メンゲレはオルガに『年はいくつだ?』と尋ねました。オルガは茶目っけのある目つきで大胆にも,『二十歳です』と答えました。本当はその2倍の年齢でした。しかし,メンゲレは笑って,オルガを右側に行かせ,生かしておきました」。

姉妹たちの服には,ユダヤ人であることを示す黄色い星が縫いつけられていましたが,二人は異議を唱え,自分たちはエホバの証人であると主張しました。そして,黄色い星をはぎ取り,エホバの証人であることを示す紫色の三角形を縫いつけるよう求めました。そのためひどく殴られましたが,二人は言いました。「あなた方が何をしようとも,私たちがエホバの証人でなくなることなどありませんよ」。

その後,姉妹たちはベルゲンベルゼンの強制収容所に連れて来られました。突然,収容所内で発疹チフスが発生したのはそのころです。スレージンガー姉妹は重体になり,他の多くの人と共に収容所を出され,二度と姿を見せませんでした。それから間もなく,この地域は英軍によって解放されました。バース姉妹は病院に連れて行かれ,その後スウェーデンへ移り,すぐに兄弟たちと連絡を取りました。

ハンガリーで投獄されていた兄弟たちの多くは,後にドイツへ強制移送されました。そうした兄弟たちの大半は戦後,ハンガリーに戻りましたが,中には戻れなかった人もいます。デーネシュ・ファルベーギは,ブーヘンワルトの強制収容所からダハウの強制収容所へ送られる途中に亡くなりました。兄弟は30余年,エホバに忠実に仕えました。

死に至るまで忠実な証人たち

1944年の秋にナジカニジャの収容所の機構が解体したとき,まだドイツへ移送されていなかった証人たちは釈放されました。しかし,戦線に阻まれて家に戻ることができなかったため,事態が好転するまで周辺の農場で仕事をすることにしました。そして,1944年10月15日,ドイツのナチ党の支持するニーラシュケレステシュ・パールト(矢十字党)が権力を握り,時を移さず,若者たちを兵役に召集し始めました。

それから間もなく,兄弟たちは中立を保つゆえに再び逮捕されました。逮捕された年若い兄弟たちのうち5人は,オーストリアとの国境から10㌔ほどの所にあるケルメンドへ連れて行かれました。この町の学校の校舎の中では軍事法廷が開かれていました。最初に裁判にかけられたのはベルタラン・サボーで,銃殺隊による処刑を言い渡されました。サボー兄弟は,処刑される前に感動的な別れの手紙を書きました。「エホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々」の662ページをご覧になれば,その手紙を読むことができます。その後,もう二人の兄弟,ヤーノシュ・ジョンドルとアンタル・ホーニシュが法廷に連れ出されました。この二人も揺るぎない態度を示したため,やはり処刑されました。

シャーンドル・ヘルメッツィは同じ場所で投獄されました。兄弟はその時のことを次のように回顧します。「私たちは,決まった時刻に中庭にあるトイレを使うことを許されていましたが,彼らは,これから起きることを私たちに見せるため,その時間を変更しました。『これで,お前たちもどうなるかが分かるだろう』と言いたかったのです。それは,愛する兄弟たちが命を失って倒れるのを見るという悲痛な瞬間でした。そのあと,私たちは監房に連れ戻されました。

「10分後,私たちは監房から呼び出され,兄弟たちの血痕をきれいにするよう言いつけられました。それで,兄弟たちの顔を間近に見ることになりました。ヤーノシュ・ジョンドルの表情は,普段のままでした。微笑を浮かべた,人なつっこい,穏やかなその表情からは,恐れはみじんもうかがえませんでした」。

同じころ,20歳になるラヨシュ・デリーという別の兄弟は,オーストリアとの国境から40㌔ほどの所にあるシャールバールという町のマーケット広場で,公然と絞首刑に処せられました。その様子を目撃していた一人の元役人は,1954年に,その日の出来事を思い出して次のように述べています。

「私たちは,民間人も軍人も,大勢で西へ向かって逃げているところでした。シャールバールを通ったとき,マーケット広場に絞首台が立てられているのを目にしました。その絞首台の下には,大変感じのよい,穏やかな表情の青年が立っていました。見物人の一人に,あの青年は何をしたのかと尋ねたところ,彼は武器を取り上げることもスコップを手にすることも拒否したのだ,という話でした。その近くには,機関銃を持った矢十字党の新兵が数人いました。新兵の一人が,皆に聞こえるような声で,『これが最後のチャンスだ。銃を取れ。さもないと絞首刑だぞ!』と言いました。若者は何も答えませんでした。その言葉に対して微動だにしませんでした。それから,しっかりした声で,『絞首刑にしたければしてください。でも,私は,単なる人間よりも私の神エホバに従います』と言いました。彼は絞首刑に処せられました」。

1946年の「年鑑」(英文)によれば,1940年から1945年にかけて,16人の証人が良心的兵役拒否のために殺され,そのほかに26人が虐待された結果,死亡しました。証人たちは,自分たちの主と同様,信仰によって世を征服しました。

戦後の新たな出発

家に戻った兄弟たちの大半は,1945年の前半に戻っています。1942年以降,組織立った方法で活動することはできなかったとはいえ,証人たちは真理について証しすることをやめたりはしませんでした。それでも,1945年の終わりにはすでに,報告の提出を再開した人が590人いました。翌年にはその数は,戦前の時代のどの時よりも多い,837名という最高数に達しました。

戦後の厳しい経済不安はすべての人を圧迫しました。1時間の間に価格が2倍になることもありました。物の値段は食べ物に換算して決める必要がありました。その基準となったのは,卵1個でした。ですから,兄弟たちは協会の事務所に文書のための基金を渡すとき,食料 ― 卵,料理用油,小麦粉など ― を事務所に持って行きました。それで,事務所はそれらの食料を蓄えておいて売らなければなりませんでした。紙代や印刷代が食料品で支払われることもしばしばでした。1946年8月20日に新しい通貨が導入されたときに,ある程度楽にはなりました。しかし,それよりもはるかに励みとなったのは,ほかの国々のクリスチャンの兄弟たちが,何箱もの衣類や大量の食糧を贈り物として送ってくれたことでした。

やがて,まさにこのハンガリーで,大規模な集会が公然と開けるようになりました。1945年にシャーロシュパタクで行なわれた公開講演には500名以上の人々が出席し,兄弟たちは喜びに包まれました。1946年10月にはニーレジュハーザで全国大会が開かれ,600人が出席しました。1947年にはもう一つの全国大会が,この度は首都ブダペストで開かれました。ハンガリーの国有鉄道は,特別列車で大会へ行く人たちの運賃を5割引くことさえしてくれました。この列車には,「エホバの証人の大会」というサインが掲げられていました。出席者は今度は1,200名に達しました。その同じ年,ものみの塔協会の支部事務所として使用するため,ブダペストで1軒の土地付き住宅が購入されました。

ヨーゼフ・クリニエッツの後悔

さて,ここでもう一度,ヨーゼフ・クリニエッツについて触れておくのは妥当なことと思われます。クリニエッツは,野外宣教に熱心でしたが,譲らない態度が強かったため,1942年に兄弟たちの間に深刻な分裂を引き起こした人です。彼は戦後,ブルックリンにある協会の本部にあてて,コンラード兄弟とバルタ兄弟を責めたてた8ページに及ぶ手紙を書きました。ものみの塔協会の当時の会長だったノア兄弟は,その手紙に対する返事の中でクリニエッツに,王国の良いたよりを宣べ伝える業がハンガリーで再び進展していること,また,兄弟たちを責める手紙を書くことに時間を費やすよりも,宣べ伝える業にあずかるほうが賢明であることを指摘しました。ノア兄弟は,ローマ 14章4節を引用し,『他の人の僕を裁くとは,あなたはだれなのですか』と問いかけました。

ヨーゼフ・クリニエッツは,手紙に書かれていたことを考えた末,コンラード兄弟のところへ行ってこう言いました。「ノア兄弟から手紙をいただきました。私はそれを読んで深い感動を覚えました。自分のこれまでの行ないを吟味し,生き方全体を考え直しました。私は祈りを通してエホバに許しを請いました。そして,できるものなら,兄弟にも許していただけるよう,今,こうしてやって来ました」。コンラード兄弟は愛情を込めて,「エホバがあなたをお許しになったのであれば,私たちが許さずにいられるでしょうか」と答えました。

クリニエッツ兄弟はそれを聞いて泣き出しました。今までなら,もし兄弟たちの一人が,いま自分がしているように自分のところへ来たとしたら,その兄弟を家から追い返してしまっていたと思えるほどに心がすでに硬化していたことを認めたのです。しかし自分は,全く異なった方法で,本当に気持ちよく迎えられました。クリニエッツ兄弟はこのことがあってからすぐに,野外宣教を再開し,後に開拓奉仕を始めました。エホバは,悔い改めてご自分のもとへ戻り,ご自分の道を歩む者たちを,なんと優しく,憐れみ深く扱われるのでしょう。―イザヤ 55:6,7

政情の変化

1948年,共産党が徐々にハンガリーで権力を握るようになりました。その年には,証人たちはまだ巡回大会を開くことができたものの,難しい状況のもとで開くことがしばしばでした。シャートロイヨウーイヘイの劇場で開かれた大会に関連して起きたことについて考えてみてください。

兄弟たちは,聴衆席だけではなく,劇場前の広場にもプログラムを流すことを計画していました。外に設置した拡声器のテストをする際,兄弟たちは公開講演の宣伝をしました。すると即座に,大会組織の責任を持つ兄弟が警官の休憩所に呼び出されました。ヤーノシュ・ラコーは警官に,「わたしたちはこれから巡回大会を開くので,公開講演の知らせを行なっていました。この件については,すでに警察署でお伝えしたはずです」と説明しました。それに対して警官は,「だが,あの時は,拡声器のことは言わなかったじゃないか。すぐに拡声器を取り払いなさい!」と答えました。

ラコー兄弟が,自分に言われたこと,またそれを言われたときの状況を他の兄弟たちに話したところ,兄弟たちはこう忠告しました。「兄弟が禁じられたのですから,兄弟は何もしないでいてください。しかし,わたしたちは何かできるかもしれません。一人の警官が禁じたからといって,別の警官も許可してくれないとは限りませんよ」。

そう言って兄弟たちは,戸外拡声器の使用に関する要請書を正副2通作成し,警察署に提出しました。当直の警官は上官たちに電話で連絡を取ろうとしましたが,うまく連絡がつきませんでした。兄弟たちがその警官に,要請書をファイルに入れ,写しのほうに判を押してくださるだけで結構ですと言うと,警官はそうしてくれました。

案の定,公開講演中に警官が現われ,兄弟たちに拡声器の電源を切るよう命じました。

「許可証があるのに,切るんですか」。

「どこにあるんだ」と警官たちは尋ねました。

「大会を組織している者が持っています」。

「ここへ呼んで来なさい」。

その兄弟が見つかり,そこへ来て許可証を警官たちに見せました。警官たちはそこにしばらく立って,講演を聴いていました。会場は満員になり,ほかに大勢の人が外の拡声器を通して講演を聞きました。その日は,すべてがうまくゆきました。とは言っても,前途にはさらに厳しい問題が控えていました。

別のレッテルをはられる

戦争前,新聞は繰り返しエホバの証人に,“共産主義者”あるいは“共産主義のための準備工作をする”者たちという烙印を押しました。しかし,共産党が権力を握ると,そのような烙印はもはや反対者の目的にかなうものではなくなりました。そのため1949年には,証人たちは米国から資金を提供されている“アメリカ帝国主義の傭兵”である,と非難する記事がほとんど毎週のように掲載されました。

1950年には,共産主義者,僧職者,報道機関が,エホバの証人に対して共同戦線を張りました。兄弟たちが,関心を持つ人たちからよく聞いたのは,関心を持つ人たちが教会を正式に脱退することを司祭に告げると,「何だって? エホバの証人は帝国主義者の手先だというのに,彼らの仲間になりたいと言うのかね」と言われた,という話でした。逮捕されることも多くなり,その年には302回に及びました。公開講演が行なえたのは葬儀の時だけでしたが,それでも,その1年間にそういう機会が72回ありました。幾多の困難にもめげず,兄弟たちは1,910人という伝道者最高数を報告することができました。

主立った監督たちが再び逮捕される

そして1950年11月13日,協会のブダペスト支部事務所に刑事たちが踏み込んで,家宅捜索を行ないました。刑事たちが荒らしまくったため,事務所はさながら戦場のようでした。支部の僕のヤーノシュ・コンラードと翻訳者のアンドラーシュ・バルタ,および巡回の僕のヤーノシュ・ラコーは,ほかの4人の兄弟たちと共に逮捕され,アンドラーシ街60番にある刑務所に連行されました。

ヤーノシュ・コンラードは,そのことについて次のように書いています。「その刑務所での取り調べでは,警察での取り調べのときほど多くの,そして苦しい身体的拷問は受けませんでしたが,夜中に行なわれる洗脳や精神的拷問は,身体的拷問よりもひどいことがありました。

「私たちの裁判は1951年2月2日に行なわれました。罪名は,『国家と社会の転覆をねらう組織の共同指揮,および反逆罪』でした。裁判長のヨーナーシュ裁判官(5年後の反革命運動のさなかに恐怖のあまり自殺した人物)は,私たち7人に5年から10年の禁固刑を宣告しました。この刑が事前に決められていたのは明らかでした。というのは,審議は一切行なわれなかった上に,ある兄弟が以前,取り調べを受けた際に取り調べ官にこう言われたことがあるからです。『お前たちを10年間刑務所に入れる。10年たったころには,我々の人民共和国は今より強力になっており,国民はイデオロギーをたたき込まれているから,お前たちが聖書で感化しようとしても影響を受けないだろう。そのときには,お前たちを釈放してやる』」。

コンラード兄弟は続けます。「私たちはブダペストの北のバーツにあった刑務所に送られましたが,皆同じ監房に入れられたことを喜びました。ついに,考えや経験を話し合えるようになったのです。交替で準備した日々の聖句をもって1日を始め,予定に従って1日を過ごしました。聖書すら持ってはいませんでしたが,それでも思い出せる節を引用して,聖書を最初から“通読”し始めました。『ものみの塔』誌の記事も同じようにして“読み”ました。そして,外にいる兄弟たちが堅く立ち続けられるよう助けてください,と毎日エホバに祈りました。

「しかし,あまり長くは一緒にいられませんでした。私たちは別々にされ,世の囚人たちと一緒にされたからです。当局者は,私たちをずっと一緒にしておけば互いに信念を強め合い,決して“向上”しないだろう,と判断したのです。その後,私たちはまた一緒にされました。今度は,私たちが世の同房者に神の真理を確信させてしまうことを恐れたからです。私たちが刑務所にいる間,このゲームは何度も繰り返されました」。

新しい委員会が機能し始める

1953年の春には,責任を委ねられていた円熟した兄弟たちは,一人残らず逮捕されたと言っていいほどでした。兄弟たちの逮捕は,兄弟たちの家への手入れと同時に,突然,予期しないときに行なわれました。ハンガリーにおける業を完全に組織し直す必要がありました。今度は,3人の巡回監督が新しい委員として奉仕することになりました。その3人とは,ゾルターン・フビチャーク,ヨーゼフ・チョバーン,ジョルジー・ポドロビッチです。

1953年11月,この委員会の3人の成員は逮捕され,ベーケーシュチャバの国家保安刑務所に連行されました。しかし,不思議なことに,3人は10日後に釈放されました。後になって分かったことですが,ヨーゼフ・チョバーンが圧力に屈し,当局者の仕事をすることに同意していたのです。それはともかく,委員会は再組織されました。ミハリー・パウリニュイがヨーゼフ・チョバーンに代わり,チョバーンは地域の僕になりました。

委員会の主な責任の一つは,「ものみの塔」誌の研究記事を翻訳し,それが各巡回区に一部ずつ確実に届くようにすることでした。その後,巡回監督がその写しを作り,各会衆に1部ずつ配りました。

それに加えて,強制労働収容所に拘禁されている兄弟たちにも霊的な食物が届かなければなりません。強制労働収容所の中で最もよく知られていたのは恐らく,国の北部にあった炭鉱,トーラーパの収容所でしょう。一番多いときには,265人の兄弟たちが当局によって働かされていました。採鉱所で兄弟たちと一緒に働いていた本職の鉱夫の多くは,エホバの証人に好感を持ち,証人たちのために文書をこっそり持ち込んだり,報告をこっそり持ち出したりしてくれました。

その当時,敵は,二つの目標を追求していました。証人たちを強制的に兵役に就かせることと,強制的に自由教会連合に加盟させることです。しかし,敵はどちらの目標も達成できなかったため,別の策略を試みました。

刑務所内の甘言

1955年に,ヤーノシュ・ラコーは再びヤーノシュ・コンラードと同じ監房に移されました。サボー氏なる人物がラコー兄弟に近づき,一つの話を持ちかけてこう言いました。「コンラードとは話にならなかったよ。彼はひどく強情だね。君はもっと頭がいい。我々には,いつでも君たちを釈放し,君たちの活動を認可する用意があるんだ。コンラードはここに残るが,会衆は集まり合える。君たちはエホバの証人でいられるし,好きなだけ祈ることもできる。ただし,人心をかき乱してはいけない」。

ラコー兄弟は,「つまり,証言をしない証人になるということなんですね。そんな約束はできません」と答えました。

「まあ,よく考えておいてくれたまえ。また来るから」。サボー氏は再びやって来て幾つかの質問をし,「コンラードはどうしているかね」とも尋ねました。

「ええ,まあ元気です」。

「彼と最後に会ったのはいつだね」。

「さっきですよ。同じ監房にいるんですから」。

「この間話し合ったことを彼に話したのか」。

「もちろん話しました。コンラードは私の兄弟ですから」。この政府の手先は怒って立ち去り,二度とラコー兄弟を訪ねて来ませんでした。

同じ年,共産党員たちは,「ものみの塔」誌に2ページ分の共産党の宣伝を載せれば,同誌の発行を許可すると言ってきました。兄弟たちがそれに同意できなかったのは言うまでもありません。

欺くための別の企て

1955年の夏,100人ほどの兄弟たちがトーラーパの収容所から釈放されました。久しぶりに家族そろっての生活を6週間ばかり楽しんだとき,兄弟たちはブダペストの近くにある,センテンドレという村に行くよう命じられました。

センテンドレに着くと,兄弟たちはある大広間へ案内されました。すると一人の将校が,政府がお前たちの感謝するような特別な規定を設けたので,もう武器を取らなくてもよくなると言いました。武器を携行したり弾薬を運んだりしなくてもよく,道路や橋の建設,鉄道の敷設,またそれに類似した仕事を手伝うだけで,数か月後には家族のもとへ帰れると言うのです。あまり経験のない兄弟たちには,最初,その規定は申し分ないように思えましたが,円熟した兄弟たちの中には,わながあるのを感じ取った人たちがいて,すぐさま,「わたしたちは軍の建設計画にも手を貸すことになるのですか」と尋ねました。しかし,それに対する直接の答えは返ってきませんでした。

次に兄弟たちは,軍服を着用する必要があるのかどうか尋ねました。将校は,帽子は支給されるだろう,もし望むなら軍服を着ることもできる,そうすれば私服を着古す必要もない,と答えました。ある兄弟たちには,それもそうだと思えたようでした。次いで,次のような命令が出されました。「二,三か月働いて,それから家族のもとへ戻るという覚悟ができた者は,補給所へ行って平服から軍服に着替え,長靴を履いてよい。その覚悟ができていない者は,5年から10年の禁固刑だと思え」。

兄弟たちにとってこれは厳しい試練でした。これらの兄弟たちのうちの何人かは,すでに4年間,刑務所や抑留所で暮らしてきました。せっかく6週間の自由を味わったのに,どこか人里離れた鉱山か採石場に送られ,それまで経験してきたことをすべて,また最初から繰り返すことになるのです。中には,ほんの数か月のことだし,それさえ終わればまた家族のもとへ帰って,エホバに自由に仕えられる,と考える人もいました。100人のうち40人ほどが,そろそろと軍服に着替えに行きました。

そのほかの兄弟たちは,持ちかけられた話は軍の野外活動にほかならず,自分たちは軍の労働隊になってしまうと,祈りのうちに判断しました。クリスチャンの中立を守ることを望んだ兄弟たちは,この提案を拒絶しました。

さて,広間の一方は軍服を着た人たちで占められ,もう一方は着なかった人たちで占められました。すると,そこへ一人の伍長が入って来ました。伍長はそばにいた証人に向かって,「お前は敬礼できないのか」とどなりました。その兄弟は,自分は民間人であって,軍人ではないと答えました。伍長はそのとき初めて,兄弟たちが軍服を着ているグループと平服を着ているグループの二つに分かれていることに気づきました。伍長は軍服を着ている兄弟たちの方を向き,命令的な態度で,「貴様ら,よく聴け! 軍の野外活動を受け入れたお前たちは,きょうから,自分より位の高い者が部屋に入って来た時には敬礼し,気をつけの姿勢で立っていなければならない。きょうからお前たちは軍人だ。あらゆる命令に従う義務がある」と告げました。

兄弟たちはがく然とし,沈黙が部屋中に広がりました。と,次の瞬間,軍服を着た兄弟たちの間から,「わたしたちは軍人ではありません! いかなる軍務に就くことにも同意しませんでした! 働くことに同意しただけです!」という大きな憤りの声が上がりました。騒ぎを聞きつけて,最初に兄弟たちに話をした将校がもう一度部屋に入って来ました。そして,伍長が事を台なしにしてしまったことを悟りました。将校は兄弟たちを説得しようとしましたが,大半の兄弟はすでに軍服を脱ぎ,平服を返してくれるよう求めていました。補給所を管理していた兵士は,平服を返そうとしませんでした。兄弟たちの断固たる努力の結果,翌朝になってようやく私服を取り戻すことができました。

それから間もなく,高位の将校が数人入って来ました。兄弟たちは整列させられました。将校の一人が,「野外活動に就く意志のある者は一歩前に出ろ!」と命じました。だれも動きませんでした。次に将校は,「野外活動に就くつもりのない者は一歩前に出ろ!」と命じました。この度は,正しいボタンを押したかのように,皆が一斉に前へ出ました。

囚人の食物

1956年の革命の際,兄弟たちは釈放されましたが,それはごく短い間のことでした。2週間後に共産党員が再び権力を得たのです。続く数か月間,当局は,革命が起こった時点で刑務所に収容されていた人々を ― エホバの証人はもちろん,他の人々も ― すべて再逮捕しようとしました。

それでも,霊的には,兄弟たちは引き続き養われました。シャーンドル・ベルジェシュは投獄されたとき,妻に,ケーキを焼いてその中に「ものみの塔」誌の記事を入れるよう頼みました。ある姉妹が,「ものみの塔」誌の研究記事をそっくり,2枚の薄い紙の両面に写しました。しかし,ベルジェシュ兄弟はケーキを受け取っても,それをすぐに“食べる”ことはできませんでした。兄弟の監房には世の人たちもいたからです。兄弟は,翌日,仕事場のトイレでケーキを切って中を開けました。それから,折り畳んだトイレットペーパーに,少し大きな字で書き写して記事の写しを作りました。この作業は大抵,刑務所全体が比較的平穏で静かな土曜日の午後と日曜日に行なわれました。

捕らわれの身の人たちが自由になる

1960年3月,9年の刑に服していたバルタ兄弟が釈放されました。兄弟は,1979年に亡くなるまで,引き続きエホバに忠実に仕えました。多くの兄弟は今でも,不屈の翻訳者,またユーモアのセンスを持った真実の友として,バルタ兄弟のことを覚えています。

兄弟たちは皆,徐々に自由の身になってゆきましたが,当局者は兄弟たちと頻繁に接触を持ちました。当局者が,警棒の代わりに,甘言と説得をもってエホバの証人の決意をくじこうとしていたことが明らかになりました。

ラジオによる“証言”

1960年代の終わりには,公の報道機関がしばしばエホバの証人を攻撃しました。証人たちを誹謗するデマがラジオを通じて放送されることもありました。しかし,その種の放送の一つで,エホバの証人に対する警告を含めたはずの1時間の放送劇が,実際には一つの証言となったことがありました。次の報告は,その劇のことを述べています。

「そのストーリーは,ある若い女性が実際に経験した事柄に基づいて制作されたものでした。地方で教師をしていた一人の若い女性は,共産党から行き届いた世話を受けていません。例えば,適当な住居をあてがわれていませんでした。彼女の受け持ちのクラスにはエホバの証人の子供たちがいました。兄弟たちはこの教師に部屋を提供します。兄弟たちの家庭の親切で愛情あふれる雰囲気は,この若い女性に感銘を与えます。エホバの証人に対して抱いてきた偏見はすべて崩れ去り,この女性は真理によって結ばれた姉妹になりました。

「この放送劇の目的は,こういった変節のないように,共産党が党員をよく世話するべきであるということを示す点にありました。すでに述べたとおり,この話はハンガリーで実際にあったことです。この元教師は,今ではある兄弟の妻となって幸福に暮らしています。この放送劇は,図らずもわたしたちのために証言する結果となりました。兄弟たちが特にうれしく感じたのは,その劇の中で,『それは,人々が,その名をエホバというあなたが,ただあなただけが全地を治める至高者であることを知るためです』という,詩編 83編18節の聖句が読まれたことでした」。

森の中の集会

1970年代と1980年代には,集まることが禁じられていたため,エホバの証人は森の中で集会を開きました。(ヘブライ 10:24,25)こうした森の中での集会は,春から秋にかけて国中で開かれました。ブダペストの会衆のほとんどは,首都周辺の丘で集まりを開きました。

ベルジェシュ兄弟は当時を思い出して語ります。「丘に囲まれた森の中に,直径30㍍ほどの円形の空き地があったので,兄弟たちはそこに集まりました。その場所は美しい環境の中にありました。小鳥のさえずりがその静けさを明るいものにしていました。空は晴れわたり,草の香りが満ちていました。そこは,偉大な創造者を賛美するいわれが至る所に見られる,理想的な場所でした。

「神権宣教学校と奉仕会も定期的にそこで行なわれました。雨のときは,ビニールの雨具で雨をしのぎました。会衆の集会だけでなく,大会もそこで開かれました。

「用心のため,兄弟たちが見張り役を割り当てられ,不審な人物が近づいて来たらそれを知らせることになっていました。ところが,1984年の夏も終わりのある日のこと,前もってよく用心していたにもかかわらず,いきなり私服警官が現われました。

「拡声器が木の幹に釘づけにしてありました。警官たちはそれをとがめました。釘を打ちつけて,木を傷めていると言うのです。警官たちはそのほかにも環境に関することで異議を唱えました。その件では,一人の兄弟が責任を取り,ほかの兄弟たちが巻き込まれないようにしました。

「私たちが,これはエホバの証人の集会です,と警官たちに話したところ,私服警官の一人は,なぜ当局に集会を開く許可を求めないのか,と尋ねました。私たちは,『許可は絶対に得られないと思うからです』と答えました。警官たちは『やるだけやってみなさい』と勧めてくれました」。わたしたちはそれを実行に移しました。

禁令が解かれる

国内委員会の成員であったベルジェシュ兄弟とオラベッツ兄弟は,内務省の高官たちに会い,警察官が来て,集会を開く許可を申請するよう提案してくれたことを話しました。この会見は1984年10月23日に行なわれ,それ以降,全国の会衆が集会を開く許可を求めるようになりました。時折,許可が下りることもありました。

後に,国家教会事務局と何度か交渉が行なわれました。1987年には,統治体の成員,ミルトン・G・ヘンシェルとセオドア・ジャラズ,およびドイツ支部のビリー・ポールが,これらの件に関してエホバの証人を正式に代表することができるようになりました。そして,ついに1989年6月27日,禁令は解除されました。国家教会事務局にとって,エホバの証人の認可は,この種の業務の最後のものとなりました。それから4日後の1989年7月1日,同局は閉鎖されたからです。

公開の大会

1950年代初頭にエホバの証人の大規模な逮捕があってからは,証人たちのだれにとっても,大規模な大会に出席するのは大変難しいことでした。兄弟たちの中には,1963年に開かれた一連の「永遠の福音」大会の場合のように,海外で開かれる大きな集まりに何とか出席する人もありました。さらに,1978年から1988年までは,限られた人数のハンガリーの代表が,地域大会のプログラムをオーストリアで,しかも自国語で聴くこともできました。そのほかの証人たちは,本国の森の中で ― 最初は非公認の状態で,1986年以降は当局者の承諾のもとに ― 集まりました。

しかし1989年にエホバの証人が法的認可を得てからは,公の大会が速やかに組織されました。禁令が解かれた次の月に,ブダペスト・スポーツホールで開かれた「敬虔な専心」地域大会には9,073人が出席しました。翌年には,ブダペストだけではなく,デブレツェン,ミシュコルツ,ペーチでも大会が開かれました。

1991年には,ハンガリー最大の競技場であるネープ競技場で初めての国際大会が開かれ,4万601人がそこに集まって温かい兄弟愛を味わいました。統治体の代表者,ジョン・E・バー,ミルトン・G・ヘンシェル,セオドア・ジャラズ,カール・F・クラインは,建設的な話を行なって,ハンガリーの兄弟たちや35か国からの訪問者たちを励ましました。

組織上の進展

再び自由が得られたことに伴って,ハンガリーのエホバの証人の活動を,他の国々に住むクリスチャンの兄弟たちの方法に合わせるための組織上の調整を行なう道が開かれました。例えば,巡回監督の中には,週中に世俗の仕事をしている人もいました。共産主義のもとでは,そうすることが普通に求められていたからです。したがって,巡回監督たちは週末にしか会衆に仕えることができませんでした。しかし,資格を備えた,家族を扶養する義務のない十分の数の兄弟たちがすでに訓練を受けていたため,1993年1月には,会衆に対する巡回監督の奉仕は火曜日から日曜日にまで拡大されました。

1980年代に開かれた開拓奉仕学校は範囲が限られていましたが,1994年には,資格にかなった開拓者は全員招待されました。9か月の間に401名の兄弟姉妹たちがこの特別な学校で授業を受けました。

エホバの証人の教育活動に対する反応が良かったため,速成建設という方法による王国会館の建設活動を組織する必要が生じました。諸会衆は,学校やカルチャー・センターや空き家になった兵舎,さらには旧共産党が以前使っていた事務所などで集会を行なっていました。しかし,1993年には地区建設委員会が設立されました。オーストリアの兄弟たちによる訓練が行なわれ,多くの国の証人たちからは経済的な援助が差し伸べられました。1994年5月には,速成建設による最初の王国会館が,ブダペストにほど近い町,エールドに建てられました。1995奉仕年度の終わりにはすでに23軒の王国会館が建てられ,さらに70軒が予定されていました。

血の誤用を禁じる神の律法を守る決意をしているエホバの証人を支援するため,医療機関連絡委員会も設立されました。他の国々と同様,ハンガリーにも,血を用いる必要のない代替療法があることに気づいていない医師がいます。現在,ブダペスト,デブレツェンとミシュコルツ,セゲド,ペーチ,タタバーニャで活動している医療機関連絡委員会は,そうした医師たちに最新情報を提供しています。すでに120名ほどの教授,医長,外科医などが委員会に協力しています。最近の例としては,12歳のダルマ・ベルジェシュに関係した件があります。ブダペストの医療機関連絡委員会がブルックリンのホスピタル・インフォメーション・サービスに連絡を取ったところ,3時間以内に無血療法に関する必要な情報が手に入り,その方法を用いて成功しました。

ギレアデおよび宣教訓練学校の卒業生

ものみの塔協会による訓練を受け,ハンガリーへ正式に遣わされた最初の宣教者は,ラースロー・シャールケジーでした。それから約5週間後の1991年8月31日には,ドイツで開かれた宣教訓練学校の最初のクラスの卒業生4人が到着しました。その4人とは,アクセル・ギュンター,ウーベ・ユングバウアー,ウォルフガング・マールト,マンフレート・シュルツです。10月の初めには,米国から来たギレアデ卒業生,マーティン・スコーガンとボニー・スコーガンが彼らに加わりました。

現在では,ものみの塔ギレアデ聖書学校かまたは宣教訓練学校を出た14人の兄弟姉妹がハンガリーで奉仕しています。彼らは,ベテル奉仕や特別開拓奉仕,また旅行する奉仕を割り当てられました。一方,ハンガリー人で初めてそうした訓練を受けた兄弟,イシュトバーン・ミハールフィは,巡回監督としてハンガリー語を話す兄弟たちに仕えるため,ウクライナに遣わされました。

最初のうちは,ハンガリー語の知識が限られている兄弟たちもいましたが,その兄弟たちは持っている知識を活用しました。オーストリアから来たステファン・アウミュラーはこう語っています。「ハンガリー語の知識が限られていたので,私の証言は非常に簡単なものでした。大抵,『永遠に生きる』の本を開いて,家の人に聖書を研究したいかどうか尋ねるだけでした。その結果,たくさんの研究が取り決まりました。他の伝道者たちも,この簡単で,直接的な方法がいかに効果的であるかが分かると,すぐその場で家庭聖書研究を勧め,同様の成功を収めました。このことは,会衆の拡大に貢献しました。1992年8月には25人だった伝道者の数が,1995年6月には84人が報告するまでに増加したのです」。

自由を愛する人々は前進する

ハンガリーは,マジャール人の国と呼ばれています。ハンガリー人が自分たちを指して呼ぶマジャール人という名称は,「話す」という意味の言葉から来ていると言われています。いみじくもハンガリー語は,この国に住む1万6,907人の伝道者が神の王国の良いたよりを話すために用いられています。ダビデ王がエホバの僕について述べたとおりです。「彼らはあなたの王権の栄光について語り,あなたの力強さについて話します」― 詩編 145:11

12の巡回区内の219の会衆と交わるエホバの証人は,このことを熱心に行なっています。1995年中,証人たちは,『エホバの王権の栄光』について隣人に話すため,226万8,132時間をささげました。毎月1万4,000件の聖書研究が司会され,1995年の記念式には3万7,536人が出席しました。伝道者の数は年々着実に増加しています。ハンガリーにおける王国の業が再び公に行なえるようになった1989年6月から1995年8月までの間に,伝道者の数は9,626人から1万6,907人に増加しました。同時に,正規開拓者の数も48人から644人に増加しました。

ソロモンの時代にエルサレムの神殿がエホバに献堂された時と同様,ハンガリーの兄弟たちも1993年7月31日,ブダペストのベテルに新しく増築された宿舎と事務所の献堂式に関連して「歓び,心に楽しく感じ」ました。(列王第一 8:66)次の大きな計画は,初めての大会ホールの建設です。場所はブダペストです。今のところ,ブダペスト地方の巡回区は,以前に共産党が党大会を開いていたエフェドス議会センターで,巡回大会や特別一日大会を行なっています。

ハンガリーにおけるエホバの証人の活動は,長年,ルーマニア,ドイツ,スイス,一番最近ではオーストリアなど,他の支部の監督下にありました。しかし,1994年9月からは,ハンガリーはブルックリンにある世界本部直轄の支部になりました。

ハンガリーのエホバの証人は,今から100年近く前に活動を始めましたが,まさにその当初から,迫害や宗教上の偏狭を経験してきました。しかし,神の王国の良いたよりを宣べ伝える業は,停止するどころか,以前にも増して力強く前進しています。ハンガリーに住むエホバの証人たちは,エホバの助けを得て,詩編作者ダビデの次の言葉に和する決意を抱いています。「わたしの口はエホバの賛美を語ります。すべての肉なる者が,定めのない時に至るまで,まさに永久にその聖なるみ名をほめたたえるように」― 詩編 145:21

[66ページ,全面図版]

[74ページの図版]

ヤーノシュ・ドーベル(上)とヨーゼフ・トルディー(右)は,聖書の真理をハンガリーに持ち帰り,熱心な福音宣明を行なった

[79ページの図版]

1934年から1935年にかけてブダペストで働いた熱心な開拓者: (左から右へ)アディー・ボスとシャルロッタ・ボス,ユリウス・リッフェル,ゲルトルート・メンデ,オスカー・ホフマン,マーティン・ポエツィンガー

[82ページの図版]

ナジカニジャの強制収容所に収容された証人たち

[83ページの図版]

ヤーノシュ・コンラードは,中立を保つクリスチャンとして12年間投獄された

[90ページの図版]

死に至るまでエホバに忠節を保つ: (上)ベルタラン・サボー,銃殺隊により; (右)ラヨシュ・デリー,絞首刑で

[102ページの図版]

他の大勢の証人たちと同様,ヤーノシュ・ラコーも迫害者に妥協することを拒否した

[107ページの図版]

イローナ・ベルジェシュは,ケーキの中に霊的な食物を隠して投獄されていた夫のもとへ送った

[108,109ページの図版]

1986年の“森林大会”から,1991年に首都のネープ競技場で開かれた国際大会へ

[110ページの図版]

エールドに建てられた,ハンガリー初の速成建設の王国会館

[115ページの図版]

ブダペストの支部施設とベテル家族