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ブラジル

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ポルトガルの探検家たちがブラジルに上陸した1500年に,ペロ・バズ・デ・カミーニャは,ポルトガル国王にブラジルについて報告書を送りました。彼はその中で,「そこから得られる最良の実は……その住民[インディオ]を罪から救うことであると思われます」と述べていました。この言葉は,15世紀から16世紀にかけてポルトガルが海外に領土を拡大した主要な理由の一つを明らかにしています。それはキリスト教世界の宗教的な教えを他の土地に広めることでした。

しかし,ブラジルの住民が神の言葉,聖書を手に入れ,自分でその教えを確かめることができるようになったのは随分後のことでした。ポルトガル語の聖書全巻が初めて入手できるようになった(ヨーロッパの一部と南部インドの一部で)のは,1751年のことでした。それから125年たってようやく,ブラジルで話されるポルトガル語の聖書が印刷されました。さらにブラジルのインディオの部族のいずれかの言語で聖書の一部が出版されたのは,20世紀もかなりたってからのことでした。

ブラジルは,南米の中でもスペイン語を主要な言語としない数少ない国の一つです。主要な言語はポルトガル語です。南米のほぼ半分を占め,チリとエクアドル以外の他のすべての国と国境を接するブラジルは,非常に変化に富んだ国です。人々は情熱的で親しみやすく,霊的な事柄に関心を持っています。大半(1億6,100万の住民の85%)はカトリック教徒であると公言しますが,この中には心霊術に傾いている人がかなりいます。また,近年,福音主義的な教派の信奉者の数が目立って増加しています。

真の聖書教育が始まる

神のご意志は,「あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ること」です。(テモ一 2:3,4)この種の知識を広める活動がブラジルで始まったのは19世紀の終わりごろです。サンパウロのサラ・ベロナ・ファーガソンが,米国から郵送されたものみの塔協会の出版物を幾冊か初めて受け取ったのは1899年のことでした。彼女は貴重な聖書の真理を学ぶと,それを他の人に伝えるため,自分にできる事柄を行ないました。それからおよそ25年後に機会が訪れて彼女はバプテスマを受けました。

そうこうしているうちに,ニューヨーク市に入港していた船の若いブラジル人の水兵が8人,休暇で上陸していた時,聖書研究者(当時エホバの証人はその名で知られていた)の集会に興味をひかれ,ポルトガル語の聖書をそこで入手しました。そしてその聖書を理解するための援助も受けました。ニューヨークで数か月聖書研究者と交わり,1920年3月にブラジルへ戻りましたが,彼らは引きつづき集まりを持ち,学んだ事柄を他の人たちに話していました。最初,彼らは研究の助けとしてスペイン語のものみの塔出版物を用いていました。ポルトガル語の出版物は何もなかったからです。しかし,数年後,ジョージ・ヤングがブラジルに派遣され,出版物をポルトガル語に翻訳して出版する取り決めが設けられました。1923年には,この広大な国で聖書教育を促進することを目的として,ものみの塔聖書冊子協会の支部がリオデジャネイロに開設されました。

さらに援助者が到着する

この良いスタートとは裏腹に,進歩は遅々たるものでした。それで,当時,ものみの塔協会の会長だったJ・F・ラザフォードの勧めに応じて,アルストン・ユールは,ブラジルの証人たちを助けて,エホバが目に見える組織を通して与えておられる霊的な備えから一層十分に益を受けられるようにするため,1936年にブラジルに到着しました。兄弟と共に,妻のモード,さらに同労者として,また少なくとも当初は彼の通訳としても働いたアントニオ・ピレス・デ・アンドラーデも来ました。3年後には,オットー・エステルマンとエーリッヒ・カットナーが開拓者として奉仕するようヨーロッパから派遣され,人々の家を訪ねて聖書の真理がいかに有益かを知らせる業に専念しました。そして1945年,ギレアデ学校第1期生の宣教者,チャールズ・レスコとハリー・ブラックの二人がやって来ました。

エホバは,これらの人たちや他の大勢の熱心な王国宣明者の働きを祝福され,ブラジルで神の言葉の貴重な真理を他の人たちに伝えるエホバの証人は,1948年にはすでに1,000人になっていました。その数は急速に増加し,1957年には1万人,1968年には5万人になりました。その間に,ベテル・ホームや工場も拡張が必要になり,1968年には支部事務所がリオデジャネイロから,サンパウロのもっと大きな施設に移されました。(1920年から1972年までのブラジルでの業についてさらに詳しく知りたい方は,「1973 エホバの証人の年鑑」[英文],33-88ページをご覧ください。)

神ご自身の言葉を入手できるようにする

50年ほど前,ブラジルの平均的なローマ・カトリック教徒は,いつもミサに行き,いつもマリアに祈り,いつも司祭に従い,決して聖書を読みませんでした。なぜでしょうか。一つには,ローマ・カトリック教会の出版許可のない聖書を教会員が所有することを司祭たちが禁じていたからです。同時に,教会が承認したそのような聖書にはすべて,とてつもなく高い値札が付いていて,普通の教会員には手が届きませんでした。当時,聖書を一度も見たことのないカトリック教徒に証人たちがしばしば出会ったのも不思議ではありません。

長年宣教者として働いてきたファーンは,「私はそのような人たちに,よく主の祈りを読んであげたものです。カトリック教徒はその祈りを暗記していましたが,聖書に書いてあるのを見て驚いていました」と,当時を振り返って語りました。多くの場合,驚きは関心に変わり,その関心は「聖書を手に入れていただけませんか」という頼みに変わりました。証人たちは喜んでブラジル聖書協会から手ごろな値段の聖書を入手してあげました。

当時サンパウロにいた10人の宣教者は,市内の聖書協会の販売代理店をよく訪れました。しかし,代理店のプロテスタント信者の店員は,エホバのお名前を載せた翻訳聖書であるブラジル・ポルトガル語訳の在庫がすべて,棚から宣教者たちのかばんに入ってゆくのを快く思いませんでした。ある日,店員は宣教者たちに,その聖書はもう売ることができないと言いました。その後間もなく,ブラジル・ポルトガル語訳は絶版になりました。多くの証人たちが変化を待ち望んだのも驚くにはあたりません。1963年に米国で開催された国際大会でポルトガル語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発表された時,ブラジルからは57人の代表者が出席していました。その4年後に「新世界訳」全巻がポルトガル語で入手可能になり,聖書の頒布を細々と行なう時代はついに終わりました。

過去30年の間に数百万冊の「新世界訳」が協会の印刷施設から国内に流れ込み,一般の人々の目に留まるようになりました。1987年にブラジルの大手週刊誌「ベジャ」は,「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」のことを「最もよく整った国内随一の翻訳聖書」と述べました。ブラジルのエホバの証人(現在43万人を上回る)は,自分たちの聖書頒布運動の結果,様々な都市や町や村に住む大勢のブラジル人が,今やついに,神の言葉を収めた書を自分用に持ち,感謝に満ちた思いでページをめくっていることを認めて感動しています。

聖書の真理を個人的に教える

聖書を読むことと,読んだ事柄やその当てはめ方を理解することとは別問題です。そうしたことを理解するためには聖書を個人的に教える計画が必要です。1968年,つまりポルトガル語の「新世界訳」全巻が発表されてから1年後に,ブラジルに住む5万人の証人たちは,「とこしえの命に導く真理」という,聖書研究の助けとなる本を受け取りました。

その本を読んだ後,経験を積んだ一人の開拓者は,「この本は何百万もの人が真理を学ぶのを助けることになるでしょう」と感嘆の声を上げました。そしてその通りになりました。1年間の書籍配布数は3倍以上になりました。聖書研究の数も劇的に増加しました。ブラジル南部出身のルーティの言葉は,それを学んだ多くの人たちの意見を代表しています。「『真理』の本を勉強した時,感謝と同時に憤りを感じました。死者の状態や楽園の希望についての真理を学んだことについては感謝し,カトリック教会がこれまでずっと私を惑わしていたことには怒りを感じました」と,ルーティは述べています。

その後,1983年に,証人たちは聖書教育のための新しい助け ― ポルトガル語の「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という書籍 ― が出たことを喜びました。この本は,あらゆる階層の大勢の人々の心を動かしました。1996年の初めにはすでに50万を超える人々が聖書教育の益を受けていましたが,その大半はこの効果的な教育の道具に基づく研究を通してその益にあずかっていました。

『永遠に生きる』の本の文章が,字の読める一般のブラジル人の心を動かしたのに対し,「地上での生活を永遠に楽しんでください」のブロシュアーのさし絵は,ブラジルに住む字の読めない2,800万人のうちの多くに聖書の真理を教えてきました。これらポルトガル語のブロシュアーは,ここ13年の間に600万冊以上印刷されました。字の読めない人々も聖書の教えを理解しているのでしょうか。確かに理解しています。マリアというお年寄りの女性の例を考えてみましょう。ブロシュアーの助けを借りて彼女は,自分の名前がセニョーラ(奥さん)ではなくマリアであるのと同じように,神の名前はセニョール(主)ではなくエホバであることを学びました。それまで神の名前は聞いたこともありませんでしたが,最初の聖書研究でこの新しい真理を喜んで受け入れました。彼女を教えていた証人が帰る時にマリアは,「エホバがあなたと共におられますように」と言いました。マリアの誠実な願いは確かに実現しました。エホバの祝福により,ブラジルでの聖書教育は進展しています。

再び印刷のためのスペースを設ける

支部事務所がサンパウロに移転してから3年後の1971年に,活発な証人の数は7万人を超え,全国に1,202の会衆がありました。エホバの証人は公の宣教に1,100万時間以上をささげ,平均5万8,902件の家庭聖書研究を司会していました。この教育プログラムに必要な指導と設備を備えるため,支部施設を再び拡張しなければならないことは明らかでした。エホバに導きを求めつつ,兄弟たちはこの必要に注意を向けました。

ブラジルでは長年の間,ポルトガル語の「ものみの塔」誌は,古い平台印刷機1台で印刷されていました。しかし1957年には,需要の増加,印刷機(1918年に製造された)の問題,紙の供給量不足のために,この印刷の仕事はニューヨークに移されました。ところが,印刷機と紙の問題の解決策が見つかったので,兄弟たちは印刷の仕事をブラジルで再開することができました。

印刷に必要なスペースを作り出すために,支部施設に別館を増築する作業が始まりました。同時に,高速凸版活字輪転機を輸入する手はずも整えられました。わたしたちの雑誌は教育的な性質を持つものであるため,印刷機に対する関税の免除を得る努力が払われました。しかし,物品に対する関税を免除された宗教組織が,後にそれらを売却して大きな利益を上げることが時々ありました。無理からぬことですが,当局者の中には,宗教グループにこれ以上免除を与えることをしぶる人たちもいました。ところが,その助けは予想もしなかったところから,つまり不可知論者だった,政府のある役人から差し伸べられたのです。この人はわたしたちの免除申請に関心を示し,手続きをどのように進めるべきかを教えてくれました。わずか4か月後の1972年11月に,待望の免税許可が下りました。協会の事務所で働いていたアウグーストゥー・マシャーズーは,その時のことを思い起こしてこう語ります。「私たちは事実上何も知らないまま,ゼロからスタートしましたが,エホバに依り頼みながら,入念な下調べを行なった結果,必要なものを手に入れることができました。エホバは確かにご自分の僕たちを導かれます」。

学ぶべきことは多い

巻き取り紙を使う凸版活字輪転機での印刷の見込みによって新たな難問が生じました。1972年12月,完全に分解された印刷機が47個の大きな木枠に梱包されて到着しました。その中には一個が6㌧もあるものもありました。正しく組み立てられるようにするため,世界本部からミラン・ミラーが派遣されました。ミラー兄弟は,印刷機を設置する総勢9人の兄弟たちのグループの仕事の調整を行ない,その後彼らに操作の仕方を教えました。彼らが印刷機の設置に携わったことは,その保守の仕方を理解するのに役立ちました。チームの大半は若い兄弟たちで,それまでに印刷の経験はほとんどありませんでした。設置の作業に参加したカール・リーツは工場の監督で,現在でもその立場で引きつづき奉仕しています。

ほぼ同じころ,雑誌の印刷のために輸入した紙が到着しました。それを持ち帰るため,ベテルから港に遣わされたユークリーデス・ジュスティーノは次のように述懐します。「最初の積み荷の量は150㌧でした。サントスの港からサンパウロのベテルまで紙を輸送するために数台のトラックを手配しました。ところが,私たちは知らなかったのですが,港のフォークリフトは巻紙をただトラックに載せるだけだったので,それらの巻紙をトラックの荷台の上で並べる屈強な男たちが必要でした。それでマシャーズー兄弟と私はトラックに登り,一つ400㌔の重さの巻紙を傾けて転がし,きちんと並べ始めました。沖仲仕たちは,ネクタイをした男二人が巻紙と奮闘しているのを見て大笑いしていました。幸いにも,昼食の時間が近かったので,すぐに作業は中断されました。残りの仕事を終わらせるため,昼食の間に人夫を雇いました」。しかし,兄弟たちは徐々に,巻き取り紙を使う輪転機での印刷に関係した仕事を幾つか習得してゆきました。

1973年には2台目の巻き取り紙印刷用輪転機が到着しました。その印刷能力は1台目とほぼ同じで,1時間に雑誌を1万2,500冊印刷しました。その後,さらに4色刷りの能力を持つ印刷機が幾つか設置されました。それで,何年もの間,聖書の出版物の需要についてゆくことができました。

ベテルの新しい別館の献堂式

その2台目の印刷機が到着する約4か月前に,ベテルの新しい別館が献堂されることになっていました。期日通りに建設工事が完了するかどうか疑問視する人もいました。しかし,「あなたには兄弟たちのことが分かっていない」というのが支部の監督フレッド・ウィルソンの答えでした。兄弟たちは仕事に心を打ち込み,夜遅くまで,また土曜日にも日曜日にも働きました。1973年3月17日,献堂式の日になっても,まだ彼らは仕上げを行なっていました。しかし正午には,準備は万端整っていました。ごみくずを載せた最後のトラックが裏門から出て行くと,訪問者たちがロビーに入り始めました。

献堂式には,当時のものみの塔協会会長のネイサン・H・ノアと,ブルックリンの工場の監督マックス・ラーソンが出席していました。献堂の話を行なったのはノア兄弟でした。翌日,3時間の特別なプログラムがあり,出席した2万8,000人を超える群衆がイビラプエラ体育館を埋め尽くしました。その際にノア兄弟は,日々の聖句を定期的に考慮することの大切さについて話し,その後,ポルトガル語で初めて発行された1973年の「年鑑」を発表しました。(それ以前には,日々の聖句の討議の基礎となる資料は,ポルトガル語では「ものみの塔」誌に載せられていました。)そのようにして日ごとに神の言葉の一部を読みまた討議することは,エホバの民の生活の中の重要な部分であって,イエス・キリストご自身が語られた事柄と調和しています。「人は,パンだけによらず,エホバの口から出るすべてのことばによって生きなければならない」のです。―マタ 4:4

「神の勝利」国際大会

1973年の暮れには,エホバの民がブラジルで開いた過去最大の大会が,サンパウロのパカエンブ競技場で12月26日から30日にかけて行なわれました。「神の勝利」というテーマを宣伝する大きなアドバルーンが,競技場の上に浮かんでいました。出席者たちはそのプログラムによって,神の王国による神の勝利こそ人類に最大の祝福をもたらすのだという確信を強めました。大会の間に彼らは,聖書に記されている神のご意志に関する教育によって,ブラジルの何万もの人の生活がすでに変化していることを示す証拠を見ました。28年前,ノア兄弟は近くの体育館で765人の聴衆を前に話をしたことがありました。その時兄弟は,その巨大な競技場に目をやりながら,果たしてブラジルのエホバの証人があの施設を埋め尽くす時が来るでしょうかと言いました。その考えは1973年に現実となり,ノア兄弟はまさにその競技場で,9万4,586人の超満員の聴衆を前に講演を行なったのです。その前日には3,187人の新しい奉仕者がバプテスマを受けていました。5日間の大会そのものが,神の勝利の証拠でした。

出席者たちは国内のあらゆる地域から来ていました。4,000㌔ほど離れたアマゾナス州の州都マナウス市からは,3台のバスと4台の車で代表者たちがやって来ました。危険をはらむアマゾン横断道路を通ったのは彼らのグループが初めてでした。別のグループは,3,000㌔ほど離れた北岸のベレンから来ました。リオデジャネイロ州からは特別列車と180台のバスで,喜びに満ちた代表者たちが到着しました。大会は非常に広く宣伝されたため,サンパウロ州の知事とサンパウロ市の市長が大会会場を訪れました。

これら何万人もの代表者たちの宿舎を確保するのは大仕事でした。というのは,多くの人はホテル代を支払うことができなかったからです。宿舎部門は約2万1,000の宿舎請求を扱いました。「人をもてなすことに努めなさい」という聖書の助言に従って,証人たちや他の人たちは自宅の部屋を提供しました。(ロマ 12:13)王国会館にも6,000人以上の代表者たちが泊まりました。アマゾン流域地方からの代表者は全員,ある姉妹の夫が提供した工場に宿泊しました。マットレスは証人たちや関心を持つ人たちから借りました。

その2か月後に,同じプログラムの大会がバイア州サルバドルでも開かれ,3万2,348人が出席しました。

『あなた方は聖なる者とならなければならない』

エホバの証人は,喫煙を良くないものと見ていましたが,1973年までは,その重大さを完全には理解していませんでした。そのため,一部の証人たちはバプテスマを受けた後でさえ引きつづきたばこを吸っていました。しかしエホバはご予定の時に,ご自分の僕たちが,その習慣に対する自分たちの態度に影響を与える聖書の原則を見きわめるよう助けてくださいました。(コリ二 7:1。ガラ 5:19-21,脚注)「ものみの塔」誌の1973年12月1日号(ポルトガル語)は,今後,バプテスマを希望する人は皆,喫煙の習慣を断っていなければならないということを指摘しました。すでにバプテスマを受けていて,まだたばこを吸っている人には,もし会衆にとどまりたいと思うならその習慣をやめるよう,6か月の猶予が与えられました。

正しい動機を与えられたので,大半の人はその汚れた習慣を断ち切ることができました。1964年にバプテスマを受けたものの,その時まだたばこを吸っていた一人の兄弟は,他の人たちが健康上の理由でやめることができるのであれば,エホバに仕えるためならば,なおさらやめるべきであると考えました。排斥された人もいたことは確かですが,その中には,結局思いと心を改め,たばこをやめて復帰した人がかなりいました。このようにしてエホバの民は,神聖さに関する神の高い規準に適応するよう引きつづき努めました。―レビ 19:2。ペテ一 1:16

時は尽きようとしていますか

主権の論争に関してエホバの側に立つことが緊急に必要であることを人々が理解するよう助ける目的で,1970年代には「王国ニュース」のパンフレットの集中的な配布が行なわれました。「王国ニュース」第16号の主題は,「人類にとって時は尽きようとしていますか」というものでした。過去25年間ベテルで奉仕してきたアマロ・サントスはこう説明します。「協会はそれぞれの会衆に,伝道者一人あたり100枚に相当する数のパンフレットを発送しました。それを,1974年3月22日から31日のわずか10日間に無料で配布するのです。そのパンフレットは,普段は王国の音信に無関心な人たちでさえも注意をひかれるような,魅力的なスタイルで印刷されていました。7,000人を超える新しい伝道者が他の証人たちに加わって,合計800万枚のパンフレットを配布しました」。

パンフレットを受け取った人の中には,学んだ事柄に基づいて直ちに行動した人たちがいました。サンパウロに住んでいた22歳の大学生もそうでした。緊急な状況にあることを感じたその大学生は,「とこしえの命に導く真理」の本を使って聖書を学ぶことに同意しました。そして学んだ事柄をすぐに大学で他の人に話し始め,3か月後には別のパンフレットの特別配布活動に参加しました。

奥地の人たちに伝える面でも熱心な努力が払われ,若い伝道者たちが喜んで参加しました。そうした若者二人がリオ・グランデ・ド・スル州でどんなことをしたか,当時15歳だったベラルミノ・コラはこう書いています。「私たちは午前6時に家を出ましたが,家がまばらなため午前10時ごろまでだれにも会いませんでした。時には,馬では通れない小道があって,歩かなければならないこともありました。午後8時半まで働き,それから関心を持つ人のところで夜を過ごしました。翌朝7時には伝道を再開し,午後3時まで働いてから家路に就き,真夜中に帰宅しました。2日間に90㌔歩いて,配布したパンフレットはわずか30枚でした」。これらの王国宣明者たちは,自分たちの広めている音信が,永遠の命を意味し得る機会を人々の前に置くこと,そしてブラジルの人々にはそれから益を受ける機会が必要であることを認識していました。彼らはパンフレット第16号の主題に示されていた緊急性を感じていました。

『証人たちから逃れることはできない』

1974年に,当時特別開拓者だったエディバルド・ジル・ダ・シルバと妻のマルリは,サンパウロ州リベイラン・プレトに近い,人里離れた農場に住んでいた一人の女性と月に2回,聖書研究をすることを取り決めました。そこに行くために二人は,午前4時に牛乳を運ぶトラックに便乗させてもらい,それからさらに約10㌔歩きました。研究は順調でしたが,数か月たつと夫が反対し始めました。そして移転先を知らせずに家族を引っ越しさせてしまいました。

それから8年後,ある地域大会で,一組の夫婦がエディバルドとマルリのところにやって来て,「私たちのことを覚えていらっしゃいますか。お二人が来てくださった農場にいた夫婦です」と言いました。夫は,エホバの証人から逃れるために引っ越ししたことを説明しました。ところが,新しい家に着いてトラックから家具を下ろしてもいないうちに,二人の証人が現われ,人類に対する神の目的について話し始めました。夫はこのことで考えさせられました。そして聖書研究をすることに同意し,よく進歩して数か月後に妻と一緒にバプテスマを受けたのです。

霊的にさわやかにされる訪問

1974年9月に,サンパウロの兄弟たちは特別なもてなしにあずかりました。それは何だったでしょうか。当時,ものみの塔協会の副会長だったフレデリック・W・フランズの訪問です。兄弟のブラジル訪問はそれが初めてではありませんでした。1945年に,サンパウロでノア兄弟とともに大会プログラムを扱ったことがありました。しかし今回は,そのすぐ後にエホバの証人の統治体の一員として兄弟と共に奉仕し始めたカール・クラインと一緒でした。彼らは休暇でサンパウロに3日滞在しましたが,クリスチャンの兄弟たちに「霊的な賜物を少しでも」分け与えることも喜んで行ないました。(ロマ 1:11,12)霊的な事柄を話し合う以上に楽しいことがあるでしょうか。早速,劇場で特別集会を開く手はずが整えられました。合計2,000人が出席しました。

1967年から支部のスタッフとして奉仕しているマサスエ・キクタは,その時のことを振り返ってこう語ります。「フランズ兄弟は流ちょうなポルトガル語で話をして皆を驚かせました。80歳という年齢であったにもかかわらず,聖書も筋書きも使わずに(兄弟の視力はすでに衰えつつあった),2時間以上にわたって詩編 91編全体を節ごとに説明してくださいました」。後になってわたしたちは,パラグアイの兄弟たちのためにもスペイン語で同じことを兄弟が行なわれたことを知りました。

11人の孤児が真理を学ぶ

そのころ,ゴイアス州に住んでいたある家族は,人間の苦しみの理由と生きることの真の目的を理解するための助けを緊急に必要としていました。父親は深刻な経済問題に絶望して自殺し,数か月後には,母親が心臓発作で亡くなったのです。ビニャル一家の残りの11人は全員孤児になりました。1974年にそのようにして災難が一家を襲った時,一番上の子供は17歳で,末っ子は生後わずか40日しかたっていませんでした。固い決意を抱いて一生懸命に働いたため,5人は一緒に生活することができましたが,年下の6人の子供はやむなく親族に預けられました。彼らを慰めようとして,この悲劇は神のご意志だったんだと言う人もいました。もちろん,この言葉は彼らを一層落ち込ませるだけでした。

一番年上のマリア・ルシアは,神とカトリック教会に関してまじめな疑問を抱いていました。ある証人が職場の同僚に無料の聖書研究を勧めたと聞いて,彼女は興味をひかれました。彼女が関心を抱いているのを見た同僚は「とこしえの命に導く真理」をプレゼントしました。数日後,マリア・ルシアはその証人に再び会ったので,同僚に勧めた無料の聖書研究を私ともしてくださいと熱心に頼みました。ヨハネ 5章28節と29節のイエスの言葉に示されている復活の約束は,彼女を希望で満たしました。神が悪を許しておられる理由について聖書が述べている事柄を学んだことは,神が自分たちを忘れているわけではないことを認識するのに役立ちました。そのうちに,末っ子を除いて全員が家族として再び一緒に生活するようになり,互いに霊的に励まし合いました。そして11人の子供全員が聖書を学んでバプテスマを受けました。彼らは,クリスチャンの振る舞いに関する原則を聖書から学びました。霊的な意味で彼らはもはや孤児ではなく,百倍もの「兄弟と姉妹と母」を持つようになりました。(マル 10:29,30)現在,姉妹のうちの一人は特別開拓者,もう一人はパラグアイの宣教者で,パウロは妻と共にブラジルのベテルで奉仕しています。

10万人の伝道者!

長年の間,王国伝道者の数は着実に増加していました。1959奉仕年度には前の年に比べて23%の増加がありました。続く10年間,増加の割合は,9%ないし14%に減少しました。そして1975年に,バプテスマを受けた人の数は1万6,789人に上昇し,伝道者の数は,前の年に比べて17%増加して,初めて10万人の大台を突破しました。そして孤立した区域や,たまにしか奉仕されない区域で働くことがさらに強調されたため,特別開拓者の数がやはり初めて1,000人の大台を超えました。その後の10年間,増加率は減少していったものの,宣べ伝える業は前進しました。そしてさらなる増加が待ち構えていました。

そのころ,ブラジルの人口は1億人を超えており,そのうちの20%には,良いたよりが定期的には伝えられていませんでした。そうした人たちの多くは,大都市からかなり離れた小さな町に住んでいました。この人たちに会い,関心を示す人が十分いるところでは集会を開くことを目標として,統治体は,すでに奉仕している1,000人の特別開拓者に加えて一時的な特別開拓者を任命することを承認しました。当初は,任命期間が3か月の人たちもいましたが,後にその期間は延長されました。これら一時的な特別開拓者の最初の人たちは1985年11月に任命を受け,128人が113の異なる町に遣わされました。その成果はとても励みになるものでした。

ゴイアス州のある町で,「新世界訳」を求めた女性を開拓者たちが再訪問したところ,その女性は泣いていました。なぜでしょうか。その聖書はエホバという違う神の名前を載せているので,読んではいけないと言われていたのです。しかし,開拓者たちの援助でその点をよく調べたところ,彼女とその友人たちは,自分たちの聖書にも幾つかの場所にエホバという名前が出ていることを知りました。彼女は自分の教会の牧師に対してひどく腹を立てました。その結果,45件の新しい聖書研究が始まりました。

ピアウイ州では,真理の水に渇いている男性が見つかりました。開拓者たちが出会う前にその男性は,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という本を借りて,ところどころを読んでいました。その内容に強い興味を感じた彼は,手でこの本を書き写すことにしました。開拓者たちがその人に会った時には,すでに21章まで書き写していました。自分のものになる印刷された本を受け取り,それを使って定期的な聖書研究をしてもらって,その人はどんなにうれしかったことでしょう。

セルジペ州で奉仕していた二人の開拓者の姉妹に対して,司祭の代理をしていた教会の助祭がひどく反対していました。どんな結果になったでしょうか。助祭は,エホバというのは神の名前ではなく,アメリカの一分派が作り出した名前であると,スピーカーを使って一般の人々に告げました。これはただ大勢の教会員の関心を引き起こしただけで,わずかの間に開拓者たちは67件の家庭聖書研究を司会するようになりました。

リオ・グランデ・ド・ノルテ州で,開拓者たちは一人の女性と研究を始めました。最初の研究がとても楽しかったので,その女性は次の研究に近所の人たちを招待しました。その準備として彼女は学校からベンチを五つ借りてきました。30人出席しましたが,もっと大勢の人が参加したがったので,研究はその後,学校の中庭で続けられました。

マト・グロッソ・ド・スル州の一つの小さな町では,ある医師と妻が聖書を学び,そのうちに二人は野外宣教に参加するようになりました。この医師が家から家を訪れて聖書のことを話している光景は,その町で大評判になりました。この夫婦と研究をしていた開拓者たちが町を去らなければならなくなった時,そこに残された活発な証人はこの医師と妻だけでした。二人は補助開拓者として奉仕し,後に正規開拓者になりました。最初のうちは二人だけで集会を開いていましたが,そのうちに10人の伝道者から成る会衆が設立されました。その夫婦は今ブラジルのベテルで奉仕しています。

最初の大会ホール

国中でエホバの証人の数が増えるにつれ,大会を開くのにふさわしい場所を見つけることはますます難しくなってゆきました。自分たちの地所を持つ最初の試みがなされた所は,1年中温和な熱帯性気候のバイア州サルバドルでした。1975年には,優に4,000人が座れるコンクリート製のベンチの列を備え,一部に屋根のある円形劇場が,ある谷の斜面に建てられました。そこは大会公園と呼ばれました。その年の後半には,サンパウロ市から40㌔ほど離れた,サンパウロ州リベイラン・ピレスの美しい森林地帯の中で,大会ホールの建設が始まりました。数年後,この最初のホールの脇に別のホールが建てられ,有線のテレビで最初のホールと結ばれました。この二つのホールは合わせて3,300人を収容することができます。1979年には,リオデジャネイロの近くのドゥケ・デ・カシアスで,二つ目の大会ホールの建設が始まりました。

これらの大会ホールの建設のために働いた人たちは,熱意にあふれた精神を示しました。このりっぱな精神は,多くの人の経験のなさと,ふさわしい機械や設備の不足を埋め合わせました。例えば,リベイラン・ピレスでは,土台の基盤となる硬い地層まで7㍍ほど掘り下げる必要がありました。バックホーも使いました。しかし,そのバックホーは必要な深さの半分のところまでしか使えません。それで残りはつるはしとシャベルで掘らなければなりませんでした。そのような坑を20以上掘る必要がありました。

コンクリートを混ぜて流し込む作業はどうだったでしょうか。リベイラン・ピレスの計画では,コンクリートのプラントもミキサー車もありませんでした。ベテル家族の成員ナタール・バトゥレビシンスは語ります。「コンクリートは,原料を手動で供給する古いコンクリートミキサー2台で混ぜ合わされ,コンクリートを流し込む場所まで一輪車で運ばれました。一輪車を押す20人から30人の自発奉仕者の列が幾つかありました。高くて上りにくいところでは,二人目の人が一輪車にフックを引っ掛けて引っ張りました。床の部分にコンクリートを流し込む時には,事務所で働く人々を含め,すべての自発奉仕者が参加しましたが,24時間かかったこともありました」。

新しい管理

1976年,全世界のエホバの証人は,支部組織の構造に重要な変化が生じたのを見ました。その年の2月1日から,支部委員会の取り決めが実施されました。一人の監督に代わって,統治体を代表する霊的に円熟した兄弟たちの委員会が,それぞれの国の業を監督するよう任命されました。これらの人は全員が霊的な年長者で,神の羊の群れの羊飼いです。

ブラジルの委員会は最初,マサスエ・キクタ,ジョン・クシュニル,アウグーストゥー・マシャーズー,カール・リーツ,アマロ・サントス,ハインリッヒ・セルバート,フレッド・ウィルソンの7人で構成されていました。その後歳月を経るうちに,セルバート兄弟は家族を世話する責任が生じてブラジルを離れなければならなくなり,クシュニル兄弟は1988年に亡くなりました。他の人たちは委員会の成員として奉仕を続けており,1995年にはエステン・グスタブソンが委員会の6番目の成員として任命されました。1976年の末には,ブラジルの支部委員会の一部の成員は,統治体がニューヨークで開いた集まりに,世界中の他の支部の代表者たちと共に参加しました。その集まりは,委員会が自分たちの責任について,また統治体の成員や世界本部について一層十分に知るのに役立ちました。

大会からさらに益を受ける

また,1976年には大会で使用される音響システムの改善の必要に注意が向けられるようになりました。それまでは,小さな会場用に設計されたアンプやスピーカーが使用されていました。一つの大会で幾つかの違う種類のものが使用されましたが,その中には時々非常に古いものもありました。どんな結果になったでしょうか。音量が十分ではなく,プログラムが中断されることもしばしばありました。

この状況を改善するためには,何年にもわたる働きと,多くの新しい設備が必要でした。今では,ほとんどの大会で,出席者すべてが霊的プログラムをはっきりと聞き取ることができ,プログラムを楽しむことができます。1995年には82の異なる都市で158の地域大会が開かれ,72万4,849人がそれらの大会に出席するために多くの時間とエネルギーとお金を費やしたことを考えると,これはとても重要なことと言えます。彼らは,プログラムから十分に益を受けられるよう,最良の音響でプログラムを提供されるに値する人たちです。リオ・グランデ・ド・ノルテ州の巡回監督は成果に満足して,1994年にこう書いています。「わたしたちの大会では音響状態は非常に良く,その結果,兄弟たちは話に熱心に耳を傾け,盛んにノートを取っていたことを報告できるのは喜びです」。

しかし,国中の王国会館の音響の質はどうだったでしょうか。1993年には,会衆の集会の音響の質を改善する実際的な方法を提案するため,特別のプログラムの集まりが全国で100回以上開かれ,9,000人を超える兄弟たちが出席して話を聞きました。一人の講師は次のように語りました。「ピアウイ州フロリアノで話が行なわれた時はひどい干ばつの時期で,兄弟たちは経済的には苦しい状況にありました。それでも招待していた人は全員出席しました。中には12時間かけてやって来た人もいました」。

カショエイラス・デ・マカクで自由が制限される

役人側が誤解していたために障害が持ち上がることがありました。1976年6月13日,日曜日,リオデジャネイロ州カショエイラス・デ・マカクにあった王国会館は,その市の裁判官の命令で警察により閉鎖されました。市内で王国を宣べ伝えることもすべて禁止されました。理由は何だったのでしょうか。

それより2日前,17歳の若者が誤って散弾銃で自分を撃つという事故を起こしました。病院にかつぎ込まれたときは,体内出血を起こしており,ひどい貧血状態でした。父親は医師に,息子の命を救うために手を尽くしてほしいが,輸血だけはしないでもらいたいと頼みました。残念なことに若者は,父親が表明した意志に逆らって輸血が施されたにもかかわらず,手術中に亡くなりました。責任の所在を明らかにするため,裁判所による調査が行なわれました。事実をゆがめたニュース報道が決定に影響を与え,その結果,王国会館を閉鎖するようにという命令が出されました。地元の会衆の監督ラジスラフ・レーキーは,4人の弁護士の援助を得て,処分の差し止めを申し立てました。その申し立ては10月26日,ついに審理されることになりました。弁護士の一人,オルランド・ド・N・パウラ兄弟は,この機会を利用して,その事件に関する口頭の陳述をてきぱきと行ないました。裁判官は全員一致で差し止めを認め,こうして最初の命令が無効になり,王国会館の使用再開と王国を宣べ伝える業の継続が可能になりました。信教の自由は再び認められました。

翌年の「喜びに満ちた働き人」地域大会で,血を神聖なものとして扱うようにというエホバのご要求を再び強調する話がありました。(レビ 17:10,11。使徒 15:28,29)その際に「エホバの証人と血の問題」の小冊子が発表され,1978年4月から5月にかけて,この小冊子を裁判官,弁護士,医師,看護婦,病院関係者に配布する運動が行なわれ,エホバの証人の取る立場を理解し尊重するよう助けるための努力が払われました。兄弟たちはこの小冊子を掛かりつけの医師に渡すよう励まされました。しかし,それに加えて兄弟たちは,個々の伝道者が接触しそうにない医師や専門家たちに手紙を添えてこの小冊子を配る仕事を割り当てられました。ブラジルには7万人を超える医師がいました。それは大がかりな計画でしたが成功裏に終わりました。なすべきことはまだたくさんありました。この件に関してはまた後ほど取り上げることにしましょう。

さらなる増加のための準備

王国宣明者の数がさらに増加し,その証しの業の範囲もさらに広がりつつあったため,その準備をしなければなりませんでした。イザヤ 54:1-3と比較してください。)必要な出版物を生産するため,凸版活字輪転機の代わりに,もっと新しくて高速のオフセット印刷機を導入することが必要になりました。したがって作業場もさらに大きなものが必要でした。この必要を満たすための間に合わせの策として,1975年にリベイラン・ピレスにある大会ホールの別館が建てられました。これにより,用紙の一部を保管するスペースができました。しかし,支部事務所や印刷施設,それにベテル・ホームを拡張するための地所も見つけなければならないことは明らかでした。

サンパウロにすでにある施設の近くに地所を買い足す可能性も考慮されましたが,都市区画法のことや地価が高いことを考えると実際的ではありませんでした。これに代わる方法は,支部を全く新しい場所に移すことでした。統治体は,サンパウロ市の郊外で地所を探すことを勧めました。幾つかの候補地が検討された後,1977年8月,サンパウロ市から約150㌔の所にあるサンパウロ州セザリオ・ランジェ市の市内に,115㌶の地所が購入されました。

『皆さんの計画では小さすぎる!』

地所の購入後直ちに,建設用地の整地を手伝う自発奉仕者たちに招待状が送られました。建築計画案も統治体に提出されました。この計画は,将来長期にわたる拡大に対しても十分な余地があるとわたしたちは考えていました。それどころか,計画が大きすぎるのではないかとも考えていました。しかし,統治体からの返事に,わたしたちは皆驚いてしまいました。『皆さんの計画では小さすぎます! この計画の約2倍の大きさのものを建てるべきです』とあったのです。

その結果,宿舎と工場および事務所をサンパウロにあった施設の5倍の広さにする計画が立てられました。それほどのものが必要だったのでしょうか。実は,ブラジルのエホバの証人の数は1977年の4倍になり,1年間に宣教にささげられる時間は当時の約6倍になっているのです。

一つの建設会社が新しい支部施設を建てる取り決めが設けられました。しかし,兄弟たちも作業の必要な分野を扱いました。エホバの証人であり,経験を持つ土木技師でもあるパウロ・ティノコ・カルネイロは,家族と共にサルバドル市から建設現場の近くに引っ越して来ました。ベテル家族の成員を幾人か含む約150人の証人たちは,アルミの窓枠の製作,作業をする人たちの食事の支度,維持・管理や掃除などの支援サービスを行ないました。建設作業のピーク時には,1日に3度の食事が1,000人を超える作業員に提供されました。それは決してなまやさしい仕事ではありませんでした。

建設会社が雇っていた大勢の従業員は,晩や週末に宣べ伝える業を行なうことができるすばらしい区域になりました。ある月に一人の兄弟は従業員に「わたしの聖書物語の本」を80冊以上配布しました。聖書研究が幾つも始まり,6人の従業員はバプテスマを受けるところまで進歩しました。そのうちの一人は今,ブラジルのベテル家族の成員として奉仕しています。

増し加わった責任を担う

新しい支部の建設に伴って,責任も増し加わりました。世界本部のマックス・ラーソンは,1980年にブラジルを訪れた際,この点に関する話をしました。サンパウロのパカエンブ競技場で行なった励みとなる話の中で兄弟は,それぞれの国の兄弟たちが,自分たちの区域でなされる宣べ伝える業や,印刷工場およびベテル・ホームの建設に要する資金を賄う必要のあることを強調しました。ブラジルの兄弟たちがこの責任を負うことは可能でしょうか。ブラジルは深刻な経済危機に直面しており,ひどいインフレと高い失業率に悩まされていました。それにもかかわらず,反応はすばらしいものでした。諸会衆も個人も自発的に,また定期的に寄付を行なったため,建設は完了し,必要な機器も設置されました。その物惜しみしない態度は,ダビデ王の時代にエルサレムの神殿の建設計画が立てられた時,古代イスラエルが表わした精神を思い出させました。―代一 29:3-9

サンパウロからセザリオ・ランジェへの,ベテル家族の成員225人とすべての印刷施設の引っ越しは,1980年8月に始まりました。引っ越しには,トラック160台分を超える荷物がありました。その後,機器が設置され,新しい環境に慣れるまでの調整期間がありました。

献堂式は1981年3月21日に行なわれました。統治体の成員,ロイド・バリーが出席して,献堂の話をしました。エルサレムの神殿の奉献式の時にソロモン王が述べた美しい言葉を引用しながらバリー兄弟は,りっぱなベテルの建物の誉れと栄光はすべてエホバ神のものであることを明快に説明しました。そしてその後,『これらの建物が建てられたのは,宣べ伝える業が増大したためです。ですから宣べ伝える業は,皆さんすべてが心を集中して行なうに値するものなのです』と述べて話を終えました。

その後数か月の間,全国各地からグループでベテルの見学に来る証人たちが跡を絶ちませんでした。ある休日には,たった1日のうちに,300台のバスと何十台もの車で1万2,000人が訪れました。

彼らは,支部が新しい建物に移ったということだけでなく,それ以上のことが生じているのを見ることができました。それは聖書関係の出版物を印刷する分野での重要な前進でした。1981年には,スペイン語の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌がブラジルで印刷され,スペイン語を話すボリビア,パラグアイ,ウルグアイなどの隣国に発送され始めました。雑誌の印刷に加えて,ブラジル支部は聖書研究に用いる書籍の印刷と製本も始めました。それには多くの新しい設備と,新たな技術の修得が必要でした。1981年には,新しい工場の製本ラインが稼動し始め,最初に生産されたのは,ポルトガル語の1982年の「年鑑」でした。その後間もなく,4巻から成る「聖書理解の助け」の第1巻が印刷され,製本されました。そして1987年から,最も重要な本がその製本ラインを通って出て来るようになりました。それは聖書,ポルトガル語の「新世界訳聖書」でした。

協会のトラックでの配達

出版物の発送の費用を削減し,諸会衆への到着を確実にする目的で,1982年には,協会の自動車を使った配達システムが拡大されました。この取り決めは1974年から実施されていましたが,今や北東部の諸会衆もこのシステムに含められることになりました。それらの会衆の中には3,000㌔も離れた場所にあるものもありました。

現在,協会のトラックは3週間ごとに463か所に配達を行ない,その走行距離は3万2,000㌔を超えています。この取り決めのもとで,4,600を超える会衆が定期的に出版物を受け取っています。トラックのルートは12ほどあり,最も長いルートは約7,000㌔で,15日かかります。運転手はベテル家族の成員です。沿道のさまざまな会衆の証人たちが運転手を温かく迎えて自分の家に泊め,運転手は夜を過ごす場所で地元の兄弟たちと会衆の集会に出席します。

孤立した区域にも伝えるよう努める

良いたよりを宣べ伝える業は,それまで証言がほとんど行なわれていなかった地域にも達するよう続行されました。1976年に,フランシスコ・アルブケルキとその妻は,アマゾン地域のテフェで特別開拓者として奉仕しました。二人は,ボートで町にやって来る人たちに,祭りの時を利用して伝道しました。ある日フランシスコは,得意先回りをする若いセールスマンに「とこしえの命に導く真理」の本を配布し,その研究の仕方を説明しました。ようやく再会したのは2年後で,そのときフランシスコは,この男性がその本を研究していること,答えの部分の下線の引き方から彼がその本をよく理解していることを知りました。その男性との週ごとの聖書研究が始まりました。若者が住んでいた所までボートで2時間かかったため,フランシスコが若者の家に2回行き,次の2週間は若者がフランシスコの家に来るようにしました。短期間にこの若者と他の4人の男性がバプテスマを受けました。この若者は自分の家の一室を王国会館に変え,その後間もなく会衆が設立されました。

1977年に国の中央部の小さな町や遠隔の地域で証言を行なった特別開拓者たちはトレーラーハウスに寝泊まりしました。それらの開拓者の一人で,今はベテル家族の成員であるジャイル・パイバ・フェレイラは語ります。「私たちは中心となる大きな町にトレーラーハウスを止め,そこから車で証言に出かけました。朝早く起き,栄養豊かな朝食を食べた後,午前8時までには区域に入っていました。1日中働いた後,川の近くに場所を探し,水浴をし,それから夕食を食べました。そして車の中で眠るのですが,眠りを妨げるものといえば,風の音とこおろぎのすだく音ぐらいでした。朝起きると,オウムやコンゴウインコが近くを飛んでいるので,それらを眺めると,とてもさわやかな気分になりました。区域に住む人々はどうかというと,彼らは真理に渇いていました。それを見ると心の温まる思いがしました。中には,私たちが持っている本を全部1冊ずつ求めた人たちもいました。1日に48冊の本を配布したこともあれば,1か月に109件の再訪問をしたのに,それでも関心を持つ人全員に会うことはできていなかったということもありました。多くの研究が始まり,字を読むのが難しい人が多かったにもかかわらず,かなりの数の人が真理に入りました」。

結婚 ― 神と人との前で誉れあるもの

読み書きという基本的な教育を受けていなかったことに加えて,真理を自分のものにするのにもう一つ障害となっていたのは,彼らの結婚の状態でした。一部の人たちは民事婚の結婚式と宗教的な結婚式の両方にお金を払うことができないため,宗教的な結婚式のほうを選び,それには法律上の効力がありませんでした。もちろん,そうした人たちが聖書を学ぶ時,結婚関係を合法的なものにする必要について学びます。―ヘブ 13:4,18

ミナスジェライス州ウベルランディアに,このような状況のもとにあった女性がいました。彼女は7年前にカトリックの式を挙げて“結婚”しており,相手の男性は自分たちの関係を合法的なものにする必要性を全く理解してくれませんでした。彼女はどうしたでしょうか。聖書を理解する点で進歩した時,彼女はその男性に,もし自分たちの関係を合法的なものにしてくれないなら,そうしたくはないけれども,彼のもとを去らなければならないということを話しました。この問題について彼女が真剣に考えていることに気づいたこの男性は結局同意しました。結婚すると,彼女はすぐにバプテスマを受けました。

1977年まで,ブラジルに離婚のための規定は全くありませんでした。それで,結婚していた人が,その後配偶者のもとを去り,別の相手と関係を結んだ場合,その関係を合法的なものにする方法がありませんでした。その2番目の関係を通して孫までいる人もいました。無知ゆえの過去の罪を許すエホバご自身の模範に従って統治体は,そのような状況にある聖書研究生が配偶者に対して忠実を誓う宣言書に署名し,可能になり次第自分たちの関係を合法的なものにすることを約束すればバプテスマを受けられるということにしました。(使徒 17:30。ロマ 3:25)一時期,協会のファイルには,かなりの数のそのような宣言書がありました。

そのうちの一つは,13人の子供を持つ母親の例です。彼女は8年間聖書を研究していましたが,結婚に関する自分の立場を合法的なものにすることができないでいました。それで,宣言書に署名し,バプテスマを受けることが認められました。母親がバプテスマを受ける資格を得るのに何が関係していたかを子供たちが知った時,そのうちの8人がやはり聖書を研究し,後に5人がバプテスマを受け,それ以外の子供たちも集会に出席し始めました。

結局,離婚に関する法律が可決され,法的な別居から離婚まで3年間待つことが規定されていたものの,宣言書に署名していた人のほとんどは,問題を解決することができました。1988年に政府は待つ期間を1年に短縮しました。

宣教のための特別な学校

1978年には,会衆の長老たちを訓練することに一層の注意が向けられました。1959年以来,王国宣教学校は,監督として任命された人たちに対して特別な訓練を施してきました。しかし1978年には,ブラジルのすべての長老が,以前その学校に出席したかどうかに関係なく,2日間にわたる特別な学校のプログラムから益を得るよう招待されました。その期間中に彼らは,羊の群れの牧者また教え手として自らの向上を図る方法,福音宣明の業において率先する方法,会衆を霊的また道徳的に清く保つ方法,さらには長老団として共に働く方法を聖書に基づいて討議しました。7,000人近い長老たちが出席しました。それ以来,王国宣教学校の再教育の課程が周期的に開かれてきました。

奉仕の僕たちも忘れられてはいませんでした。1985年から,彼らのための王国宣教学校のクラスもブラジル国内で開かれるようになりました。そして1988年以降,王国会館だけでなく大会ホールも学校のために使用できるようになったので,大勢の長老や奉仕の僕が一緒に出席できるようになりました。1995年に開かれた最近の課程には,2万2,092人の長老と,2万7,544人の奉仕の僕が出席しました。会衆の責任を担う聖書的な資格を持ち,進んで働く何とりっぱな人々の一団でしょう。

しかし1978年,もう一つの学校がブラジルで機能し始めました。それは開拓奉仕学校です。期間が2週間の最初のクラスがセアラ州フォルタレザで開かれました。この学校の目的は,開拓者たちがエホバとの関係を強め,イエス・キリストの足跡に一層十分に従って歩むよう助け,宣教での効果性を向上させることです。

協会の記録によると,過去18年間に1,650のクラスがブラジルで開かれ,3万9,649人の正規開拓者がこのすばらしい備えから益を受けました。1994年だけでも,全国の開拓者を支援するために187のクラスが107の異なる都市や町で開かれました。

この学校に出席するために一部の開拓者が払った努力は注目に値します。未信者の夫がいる一人の姉妹は毎朝5時に起きて,クラスに出る前に家事を済ませ,クラスが終わるとすぐに,学校から帰る子供たちを迎えに行きました。別の姉妹は学校に出席するために休暇の日付を変更してもらいたいと思いました。雇い主は承諾してくれませんでしたが,姉妹は認めてもらおうと努力を続けました。いつも「無理だ!」という同じ答えが返ってきました。結局,エホバに祈りをささげた後,雇い主に,仕事を辞めるつもりであることを話しました。なぜでしょうか。どうしても学校に出席したかったのです。姉妹の誠実さに感銘を受けた雇い主は,ついに休暇の日付の変更を許可してくれました。

最初のクラスの教訓者パウロ・アゼベドはインタビューの中でこのように述べました。「開拓奉仕学校は,家の人に個人的な関心を示してその人の問題や環境や思想や信条を考慮に入れる必要性を強調することにより,開拓者たちが自分の区域に対して新たな見方をするよう助けます。この点を銘記している開拓者たちは,口を揃えて,新しい区域で働いているように感じると言います」。

ブラジルに来た宣教者たち

宣教者たちは,堅固な組織構造を確立するために貴重な奉仕を行なってきました。ギレアデ学校第1期生である宣教者が二人,最初にブラジルに到着したのは1945年のことでした。1967年までにはギレアデ卒業生の数は76人に増加し,1974年には117人の最高数に達しました。リヒャルト・ブトゥケとルーツ・ブトゥケや,エリック・ブリッテンとクリスティナ・ブリッテンのように,巡回や地域の業で何十年も奉仕してきた人たちもいます。年月が流れる間に,11の国から250人の宣教者が来てこの国で奉仕しました。

一般的に言って,ブラジルの人は外国人に敬意を示します。それでも,気候や食べ物や言語や習慣の違う新しい国に慣れるには,決意と豊かなユーモアのセンスが求められます。スウェーデン出身の宣教者シルビア・グスタブソンは思い出をこう語ります。「夫のエステンと私がブラジルで初めて行なった再訪問の相手は,ミナスジェライス州ベロ・オリゾンテに住むある夫婦でした。1時間ほど話した後,もうおいとましなければと言うと,『まだ早いですよ。もうちょっといてください』という答えが返ってきました。本当に関心があるのだと思い,もう一度座って話を続けました。30分後,もう一度,おいとましますと言いました。するとまた,『まだ早いですよ。もうちょっといてください』と言います。こうしたことが3回あり,結局,真夜中ごろその家を出ました。その後,何度かの訪問でもこのことが繰り返され,それでやっと『まだ早いですよ。もうちょっといてください』という表現が,訪問に対する感謝を表わすための丁寧な言い方にすぎず,必ずしももっといなければならないという意味ではないことを知りました。幸いにも,その夫婦の真理に対する関心は本物でした」。

ブラジルから他の国へ行った宣教者たち

ブラジルに来た宣教者たちから受けたすばらしい援助のことを考えると,1982年にブラジルの兄弟たちが他の国で宣教者として奉仕するよう招かれたと聞いたときには,本当にうれしく思いました。その年の末にはすでに,3組の夫婦がボリビアに行くよう任命されており,その後90人のブラジルの兄弟姉妹が,アンゴラ,ボリビア,モザンビーク,パラグアイで宣教者として奉仕するよう招待されました。

これらブラジル人の宣教者たちの中には自分自身,他の宣教者から真理を学ぶよう援助された人たちもいました。ベレン出身のアティラ・カルネイロの場合がそうです。彼は宗教に幻滅を感じていました。宣教者のデルフィナ・ムングイアに会った時には真理に関心を示し,雑誌を定期的に受け取るようになりました。しばらくしてデルフィナは,彼が宣教者の兄弟と週に3回聖書を研究するよう取り決めました。2回目の研究をしたころから,アティラは学んだことを他の人たちに話すようになり,バプテスマを受ける前でさえ,聖書研究を3件司会していました。バプテスマを受けた後,正規開拓者として奉仕し,その後特別開拓者になりました。今ではアティラは妻と共にモザンビークで宣教者として奉仕しています。

ベンジャミン・シルバと妻のヨランダも,モザンビークで奉仕しているブラジル人の宣教者です。二人は長年,ブラジル北部で開拓奉仕を行ないました。そして二つの大きな責任を首尾よく両立させました。その二つとは,開拓者として奉仕することと子供を育てることです。娘のマルタが結婚すると,二人は宣教者として奉仕できるよう状況を整えました。マルタは開拓奉仕を続けており,3人が皆エホバの祝福を受けていることは明らかです。

南部で起きた洪水

1世紀以来クリスチャンは,大きな苦難が生じた時に兄弟たちを物質的に援助してきました。(使徒 11:29,30)1983年に,南部のパラナ州,サンタ・カタリナ州,リオ・グランデ・ド・スル州はひどい洪水によって徹底的に破壊されてしまいました。サンタ・カタリナ州ブルメナウでは,イタジャイ-アス川の水位が通常より16㍍も高くなり,ほとんど全市が浸水しました。他の場所の証人たちは,1世紀のクリスチャンの模範に倣って救援物資 ― 43㌧の食糧と41㌧の衣類 ― を寄付しました。

援助したいという願いを実証したのは,1,400㌔離れたマト・グロッソ・ド・スル州カンポ・グランデに住む長老,ジョアン・ビセンティン・カレールです。テレビで洪水のことを知ると,ジョアンは協会の事務所に電話をかけ,どうすれば援助できるかを尋ねました。そして,他の長老たちと共に,市内の諸会衆が用意した3㌧の食糧,衣類,医薬品を集めました。その日のうちに,ジョアンと息子は救援物資を持ってブルメナウに向かいました。

送られた物資の分配に当たったブルメナウの長老ルイス・ボグナルは,こう書いています。「兄弟たちの助けを借りて船に車輪を付け,水の中で進むことも,川から突き出た小高い場所を乗り越えることもできるものに改造しました。それから孤立した兄弟たちを捜しに出かけました。水位が高くて,電線を切らなければ通り抜けられない場所も幾つかありました。10歳と12歳になる二人の息子も私に同行しました。泳ぎが上手でしたし,子供たちを乗せたボートは他の船よりも丁寧に扱ってもらえることも分かっていたからです」。

ある家には16人の人がいました。10日間取り残されたままで食糧は尽きていました。ボートが到着する少し前にその人たちはその日の聖句を考慮しており,その際,一人の兄弟が,エホバはご予定の時に必要なものを備えてくださると注解しました。そしてその通りになりました。別の家では,22人が1週間,2階と屋根裏に閉じこめられていました。ボートが近づく音が聞こえた時,彼らは最初,泥棒ではないかと考えました。ところがその時,だれかが「バルター・ゲルメル兄弟!」と呼ぶ声が聞こえました。救援に来た兄弟たちだったのです。やはりその家にいた人で,今ではブラジルのベテル家族の成員になっているジャニス・ドゥベは,「それはエホバの証人ではない近所の人たちに対して良い証言になりました」と語りました。備えられたものは1日か2日の必要量をはるかに上回るものでした。「保存のきく食品は数か月間,一切買う必要がありませんでした」と,彼女は言いました。

開拓者精神が広まる

緊急事態が生じると,エホバの証人は物質面で互いに助け合いますが,エホバの証人のおもな活動は,神の王国の良いたよりを宣べ伝えることです。王国だけが人類の抱える数え切れない問題を永遠に解決するということを彼らは知っているからです。この業を強調するため,協会の事務所は1984年,ブラジル国内のバプテスマを受けた伝道者一人一人に手紙を出しました。その書き出しは,「今回わたしたちは,4月に補助開拓奉仕に参加するよう,皆さんに招待を差し伸べるための手紙を書いています」となっていました。それは,その月の間,聖書の真理を隣人に伝える業に少なくとも60時間を費やすことを意味しました。この招待は受け入れられたでしょうか。それまでの補助開拓者の最高数は1983年4月の8,000人でしたが,この招待にこたえて,3万3,000人を超える人たちが参加しました。伝道者合計の21%に当たる数です。それはまた何と楽しい神権的な奉仕の月だったのでしょう。

勤勉な努力が必要でした。トラックの運転手をしているエホバの証人とレンガ職人のもう一人の証人は,世俗の仕事が終わった後,午後6時30分から8時30分まで定期的に野外奉仕を行なう計画を立てました。家で裁縫をしているある姉妹は,朝早く起きて仕事を済ませてから野外奉仕に出かけました。8人の子供 ― 一番上が12歳で一番下は生後5か月 ― を持つある母親は家族の手を借りました。年上の子供たちは年下の子供の面倒を見るのを手伝い,夫は夕食を準備しました。ある会衆では12人の伝道者のうち5人が補助開拓者として奉仕しました。その中には,それぞれ10人の子供と14人の子供を持つ家族の頭二人がいました。二人とも市から約15㌔離れた所に住んでいました。二人は野外奉仕に参加するため週2回その市に通い,そこに行った日は毎日9時間奉仕しました。歩くことのできない別の姉妹は,家の前の歩道に椅子を置いて腰かけ,通行人に話しかけました。

その月に補助開拓奉仕をした人の中には,この奉仕で喜びを味わったため,正規開拓奉仕の申し込みをした人もいました。(詩 34:8)1984年4月には3,500人の正規開拓者が名簿に載せられていました。6か月後にはその数は4,200人になり,1年後には5,400人になっていました。今では国内に2万2,500人を超える正規開拓者がいます。今日地上で行なわれている最も重要な業にこのように十分に参加している彼らは何と大きな喜びを味わっているのでしょう。

同時出版

1984年以前は,英語の雑誌に載せられた記事がポルトガル語の雑誌に載るのは6か月後でした。しかし,その年に,2台のオフセット輪転機とMEPS(ニューヨークの世界本部の兄弟たちが開発した多言語電算写植システム)がブラジルに導入されました。翻訳された資料は直接コンピューターに入力され,MEPSプログラムが組み版の過程を大幅にスピードアップさせました。ポール・バウアーとエーリッヒ・カットナーとフランツ・シュレドゥルが,ニューヨークに行き,MEPSの操作と維持・管理の訓練を受けました。こうして1984年には,英語で出される記事がポルトガル語でも同時に印刷されるようになりました。

1台当たり1時間に3万2,000冊の雑誌を印刷できるオフセット輪転機は,米国の兄弟たちが寄付したものでした。ブルックリンのベテル家族の一員,ハリー・ジョンソンが設置を監督しました。最初に出てきたのは同時出版の出版物でした。その後間もなく4色刷りとなり,もっと良質の紙に印刷されるようになりました。その結果はすばらしいものでした。1か月間の雑誌の予約があれほど多かったことは,かつてありませんでした。1987年6月に5万件の予約が得られたのです。予約の数は着実に増加し,1994年4月には8万7,238件という最高数に達しました。今ではポルトガル語とスペイン語の雑誌を毎月,平均350万冊印刷しています。

記録的な数の忠誠を保つ人々の集まり

1985年にあったもう一つの際立った出来事は,「忠誠を保つ人々」地域大会のために,ブラジルで最大級の二つの競技場 ― サンパウロのモルンビ競技場とリオデジャネイロのマラカナン競技場 ― を同時に使用したことでした。これらの大会は,1985年8月23日から25日にかけて開かれ,11か国からの代表者が出席しました。統治体のジョン・バーとライマン・スウィングルの二人も出席しました。

「神の時と時期 ― それらは何を指し示しますか」という公開講演をサンパウロで行なったのはジョン・クシュニルで,そこには16万2,941人が出席し,リオデジャネイロでは,アウグーストゥー・マシャーズーが8万6,410人の聴衆にその話をしました。聴衆の合計はほぼ25万人でした。1958年にニューヨークの二つの野球場に同時に123か国の代表者が集まった時と同じくらいの人数です。しかし,1985年にブラジルで開かれた大会はそれだけではありませんでした。

これら二つの国際大会以外にも,23の大会が全国各地で開かれ,その出席者合計は14万4,000人,バプテスマを受けたのは1,192人でした。バプテスマを受けた人たちの中には,リオ・グランデ・ド・スル州サン・レオポルドに住むある女性もいました。その女性は少し前に事故で子供を亡くし,その結果,心霊術に頼っていました。しかし,「目に見えない霊たち ― 人を助けるものですか,それとも害をもたらすものですか」というブロシュアーを読み,その内容に深く感動したため,地元の王国会館を探しに行きました。そしてそこで聖書研究を勧められてそれに応じ,バプテスマを受けるまでに急速に進歩しました。今では彼女と夫と孫娘がエホバに仕えています。

距離が離れていても「集まり合う」

ブラジルのクリスチャンの兄弟姉妹は,集まり合うことをやめたりせず,エホバの日が近づくのを見てますますそうするようにという聖書の助言を本当に認識しています。(ヘブ 10:24,25)集まり合うためには,かなりの努力が求められることもあります。バイア州ファゼンダ・タクアリにある会衆の一人の兄弟は,70歳の高齢でしかも足が不自由であるにもかかわらず,王国会館まで約8㌔の道を歩いて来ます。バイア州オリンディナ会衆の兄弟たちは,川を渡る時に服が濡れるので,着替えを入れたビニールの袋を持って16㌔ほど歩きます。パラ州では,幾つかの家族が森の中の道を6㌔ほど歩いてやって来ますが,森の中ではジャガーの足跡を見ることも少なくありません。また,アマゾナス州レポウゾ・ド・アマタリの会衆では,二家族の合計15人がジャングルを徒歩で通り抜けてきます。一人の大人が先頭にたち,ヘビを追い払うために木や地面を棒でたたきます。

ある身重の姉妹は,トカンティンズ州アシシャという小さな町の王国会館まで約16㌔の道のりを,トラックに乗せてもらえない時はいつも,子供を腕に抱いて歩きました。バイア州の一人の姉妹は,小さな子供たちを王国会館に連れて行くため,子供たちを二つの大きなかごに入れ,そのかごをろばの背に振り分けにして掛け,自分はそのろばを引いて行きました。

アクレ州クルゼイロ・ド・スルで巡回大会が開かれた時,アマゾナス州リオ・バデジョの会衆から37人が出席しました。しかしその会衆で報告していた伝道者はわずか9人でした。そのグループは出席するために8時間歩きました。中には8人の子供を抱える姉妹もいて,その一番下の子は5歳でした。また,ピアウイ州フロリアノでの大会に出席するため,10人の兄弟は約100㌔の道を自転車で走りました。彼らは,エホバが設けてくださる霊的な備えに本当に感謝しています。

群れの自己犠牲的な羊飼い

伝道者の数が急速に増加したため,神の羊の群れを世話するさらに多くの霊的な羊飼いが必要になっています。(使徒 20:28。ペテ一 5:2)各会衆の世話をする長老たちだけでなく,巡回区や地域区を愛をもって監督するために旅行することのできる,資格を備えた監督たちの必要もあります。30年以上も旅行する監督として仕えてきた兄弟たちも幾人かいます。毎年,平均12の新しい巡回区が設立されており,今ではブラジルの野外には326人の巡回監督と21人の地域監督がいます。これらの兄弟たちはりっぱな精神を表わしており,どこでも,どのような状況のもとでも喜んで奉仕しています。

どんなことが関係しているのでしょうか。中には快適な家を後にした人たちもいます。今は,様々な状況のもとで生活している兄弟たちの家に喜んで泊まります。熱帯性気候ですから,蚊などの虫に対処しなければなりません。暑いので,ベッドではなくハンモックで寝る人もいます。屋根はあっても壁がない家もあります。遠隔の地域での交通手段は,船とか,馬とか,おんぼろバスとかで,ただ歩くだけのこともあります。

マラニョン州で1970年代に巡回監督として奉仕したジョゼ・ベルテマッティは,こう書いています。「シティオ・セアラやギマレインスの会衆に行くために,妻のマゾリーナと私は船に2時間乗り,それからはどんな乗り物であれ,とにかく何か来るのを待たなければなりませんでした。バスが走っていなかったからです。何度かトラックに乗せてもらいましたが,マゾリーナは席に座り,私は荷物の上に乗りました。荷物は豚,鶏,やぎ,麦粉や米や豆の入った袋などでした。トラックがぬかるみにはまると,私たちも降りて押さなければなりませんでした。もし万事が順調にいったとしても,旅行のこの部分には約5時間かかりました。それから王国会館まで,さらに4時間歩きました」。地元の証人たちは,こうした訪問をとても感謝しました。

ギマレインスの王国会館で開かれていた集会に出席するために,ある兄弟たちは毎週30㌔ほど歩かなければなりませんでした。それには五,六時間かかりました。巡回監督の訪問の際には,訪問から十分に益を受けるため,いつも兄弟たちは丸1週間町にとどまりました。

人口密度の希薄な巨大な地域を含む巡回区もあります。例えば,1980年代に,一つの巡回区はアクレ州,ロンドニア州,マト・グロッソ州の一部とアマゾナス州の一部を含んでいて,その広さはスペインと同じくらいでした。その巡回区にいた時,アデニール・アルメイダは,アマゾナス州ラブレアにある会衆を訪問しました。その町では多くの人がハンセン病,つまりらい病にかかっていました。そこに行くために兄弟はバスに4時間乗り,下宿屋に泊まり,そして朝,他の8人の乗客と共にアルコール飲料のビンを積んだトラックの後ろに乗って出発しました。暑いので五,六時間後には,全員のどがからからになりました。手に入る液体と言えば,ビンの中のものしかありません。アルメイダ兄弟は,そのような状況のもとで,積み荷からくすねた飲み物を一緒に飲むようにという勧めに抵抗するのは大変だったと告白しています。焼けつくような太陽のもと,たくさんのほこりをかぶり,雨にも降られて10時間揺られた後,ついにラブレアに着きました。そこでは会衆が全員出迎えてくれました。二人の特別開拓者とバプテスマを受けていない伝道者二人です。日曜日には二人の伝道者にバプテスマを施す喜びを味わいました。

ブラディミール・アレクサンドラクという,30年近く旅行する監督として奉仕している独身の兄弟の場合,地元の刑務所に泊まったこともあります。それは1972年のことでした。ある孤立した伝道者を訪問しましたが,夫は未信者でした。町は小さく,ホテルがなかったため,巡回監督は刑務所に泊まることにしました。兄弟は笑いながらその時のことを語ります。「自由に刑務所に出入りしていましたし,スーツにネクタイという格好だったので,皆は私が新しい警察署長だと思っていました。最初,そこにいたのは私だけでしたが,2日目には豚を盗んだ男が入ってきました。それで,その男性に証言することができました」。

これらの自己犠牲的な監督たちは,どんなに不便でプライバシーがなくても,兄弟たちが示す温かな愛や純粋な熱心さはそれを埋め合わせて余りあったことをすぐに認めます。

西へ向かう

1980年代には,南部の多くの家族が,「若者よ,西部へ行け!」という呼びかけに応じました。彼らはブラジル西部,特にロンドニア州に引っ越し,耕作に適した土地を探しました。政府は土地を無償で与えました。森を切り開いて,ラインと呼ばれる,長さ約35㌔の道路が幾つか造られ,これらの“ライン”に沿った両側の土地は入植者に開放されました。これは証言のためのすばらしい区域となりました。

ロンドニア州ピメンタ・ブエノでは,福音派に属していた理髪師が教会を建てました。しかし,この男性は,自分の宗教の牧師たちが,お金のより多く集まる教会へ行きたがって口論しているのを見て,動揺してしまいました。エホバの証人の言うことに耳を傾けたことは一度もありませんでしたが,ある日その理髪師は,特別開拓者たちが通りに沿って奉仕しているのをじっと見ていました。そして,彼らがとても楽しそうだったので,『もし自分が真理を持っているのなら,なぜこんなに動揺しているのだろう。それに,もし彼らが“偽預言者”なら,なぜあんなに楽しそうなんだろう』と考えました。彼は,他の人たちに見られないように夜になって開拓者たちのところを訪問し,聖書研究の勧めを受け入れました。学んだ事柄に感銘を受けた彼は,その開拓者たち,つまりジョナス・バルボサ・デ・ソウザとロブソン・バルボサ・デ・ソウザを招き,自分の教会の30人の教会員に宣べ伝えてもらいました。数人が真理を受け入れ,しばらくすると教会は閉鎖されました。その後間もなく,その地域にあったカトリック教会も使われなくなりました。礼拝を執り行なっていた男性とその家族もエホバの証人になったからです。

その会衆を巡回監督が最初に訪問した時には,すでに49人の伝道者がおり,公開講演には280人が出席しました。区域は小さく,わずかの間に全住民がエホバの証人であるか,または証人たちと研究しているという状態になりました。それで伝道者たちは,伝道するために近隣の集落にトラックで出かけなければなりませんでした。彼らは,約600㌔離れた最寄りの都市ポルト・ベリョでの大会にも,トラック(幌つきの)で行きました。

アマゾン地域

アマゾン地域での証言には特別な難問が付きまといますが,そこに住む人々の霊的な必要は無視されていません。ここは西ヨーロッパよりも広い地域です。ブラジル領内の森林地帯は,国土全体のほぼ半分を占めていますが,住民はわずか900万人で,ブラジルの人口の約6%です。この地域の川の一部は本当に海のようです。例えば,アマゾン川の主な支流の一つネグロ川は,州都マナウスの近くでは川幅が約18㌔もあり,アマゾン川の三角州では本流の河口の幅は約50㌔に達します。世界の河川の中でもアマゾン川はほとんどの点で王者とみなされています。

この地域では,ある都市から別の都市へ行くのに船で数日かかることがありますが,それは別に珍しいことではありません。人口2万人の町アマゾナス州エイルネペで奉仕するよう任命された二人の特別開拓者は,こう書いています。「任命地までの旅行は船で13日かかりました。私たちは船も自分たちの区域の一部であると考えました。船に乗っている間に,数冊の出版物を配布し,8件の聖書研究を始めて,それぞれ1日に2回司会しました。アマゾン流域地方では213人の特別開拓者が,神の言葉から益を受けるよう人々を援助する業に忙しく携わっています。

協会の船に乗り込んで

1991年以来,数人の特別開拓者は宣教に通常必要とするものの一つとして船を用いてきました。その年に協会は,その目的のための船を2隻備えました。ボアス・ノバス(良いたより)号は,ネグロ川,プルス川,マデイラ川,ソリモンエス川を航行します。プロクラマドール・ダス・ボアス・ノバス(良いたよりの宣明者)号は,アマゾン川の河口にあるマラジョ島 ― その広さはオランダと同じ ― の周りを回っています。

それぞれの船には5人の特別開拓者が割り当てられて乗っています。二組の開拓者は奉仕に出かけますが,一人の開拓者は船に残り,食事の準備や掃除を行なうと共に,生じ得る海賊行為を警戒します。主要な目的は,川岸にある小さな村落の住民や,杭の上に建てられた小屋や水上に浮かぶ家屋に住む人たちと接触することです。

開拓者たちは家に近づくと,必ずと言っていいほど,「エントレ!」(お入りください)という歓迎の言葉を聞きます。それに続いて40分以上の証言を行ないます。大きめの集落では,開拓者たちは2か月近くとどまり,関心を持つ人たちとの聖書研究を司会します。研究が週に何度か行なわれることも少なくありません。公開講演や「ものみの塔」研究は大抵,学校か個人の家で開かれます。その他の集会は船の上で開かれます。もし人々がエホバに仕えたいという純粋な願いを表わすなら,特別開拓者たちはそこにとどまるよう任命され,その関心を育てるようにします。

マナウスから船で約3時間のところにあるジャナウアカの近くには,地元の兄弟たちによって建てられた珍しい大会ホールがあります。ここでは,遠くから大会にやって来る人たちの宿舎を得る点で問題はありません。多くの人は水上に浮かぶ家に住んでいるため,島の上に建てられた大会ホールまで,船で家を引いてきて“駐車”し,上陸して大会に出るのです。近くの諸会衆の伝道者は100人にも満たないのですが,大会の出席者は250人に近い数になります。

インディオが真理を学ぶのを助ける

一般の人から不敬な扱いを受けることが非常に多いインディオたちは,エホバの証人が本当に敬意をもって接する時に感銘を受けます。かなりの人がバプテスマを受けるまでに霊的に進歩しました。―使徒 10:34,35

インディオが住んでいる地域で巡回監督として奉仕したアミルトン・ビエイラは,インディオに関係した一つの経験を覚えています。ある話の中で兄弟は,「食べ過ぎや飲み過ぎ」について警告しているルカ 21章34節から36節を引用しました。最初兄弟は,「食べ過ぎ」について論じました。聴衆はそれが何を意味するのか理解できなかったので,説明を加えました。するとインディオたちは驚き,そして笑い始めました。食べ過ぎという考えは彼らにとって全くばかげていたからです。川の一方の側で魚を取り囲んでも,捕るのはその時に必要な量だけでそれ以上は捕らない,というのが彼らの生き方だったからです。でも,「飲み過ぎ」についてはどうでしょうか。

残念なことに,アルコール飲料の飲み過ぎはインディオの間では普通のことになっています。アルコール飲料の乱用は,酒を彼らにおごり,酔っ払った彼らのこっけいなしぐさを見ることを娯楽と考えている人たちによって助長されていました。ビエイラ兄弟は,食べ過ぎがばかげているのと同じように,飲み過ぎも同じくらいばかげていることを説明することができました。

この地域を訪れる人は時々,森の中の細い小道を通り抜けなければならず,小さな川の上に橋のように渡してある数本の丸太の上を,バランスを保ちながら歩くことも学ばなければなりません。それらの丸太は大抵,濡れていて滑りやすくなっています。ビエイラ兄弟は思い出しながらこう言います。「その上を歩くのは私にとって容易ではありませんでした。地元の兄弟たちは平気で,子供を抱いた姉妹たちも,そして恥ずかしいことに,私の荷物を持ってくれている姉妹たちでさえ平気なのに,私のほうはバランスを保つことに必死でした」。

予期せぬ援助

1970年代と1980年代には,スライドの上映を含む公開講演が,良いたよりの伝道において重要な役割を果たしました。バイア州パタイバには住民が1,500人しかおらず,小さな会衆が一つあるだけでしたが,スライドの上映には1,572人が出席しました。どうしてそのようなことになったのでしょうか。巡回監督のモアシル・ソアレスはこう説明します。「王国会館が小さかったので,私は,カトリック教会の向かいにある,中央広場の中の市場の使用許可を町長からもらうことを長老たちに提案しました。許可が得られたので,私たちは売り台を動かして聴衆の席を作りました。その週は『聖週間』で,私たちの公開講演が始まる午後6時に,教会から大きな行列が出発することになっており,近隣の町々からも人々が呼ばれていました。司祭がいなかったので,別のところから司祭が来て行列を先導することになっていました。しかし,車のタイヤがパンクし,司祭は時間に間に合いませんでした。その結果,行列のために来た人のほとんどが,行列に加わる代わりに私たちの話を聞きました。話の主題は,『終わりの時に,多くの者を義に導く』という適切なものでした」。

20万人の伝道者!

1987年1月にブラジルの王国伝道者の数は20万人を超え,増加は速いペースで続いていました。1988年には367の新しい会衆が設立され,1989年にはさらに370増えました。平均すると1日に一つ以上です。働く人の数が増えると,出版物の必要も増えます。それで,わたしたちを助けるため,1時間に3万8,000冊の雑誌を印刷する能力のある,3台目の輪転機が送られてきました。また,諸会衆から寄せられる何千という文書注文を扱うことができるよう,発送部門の近代化も必要でした。

既存の工場を建て増しする計画が立てられ,こうして作業場の面積は2万7,000平方㍍から4万2,000平方㍍に増加することになりました。建設は1988年12月に始まり,何人かのインターナショナル・サーバントの専門的な指導のもと,ベテルの建設チームがその作業に当たりました。全員が自発奉仕者でした。

インターナショナル・サーバントの援助

工場を拡張するこのプロジェクトを援助し,その後さらに幾つかの宿舎棟を建てるために他の国々から来た,技術を持つ35人の兄弟たちが共にいてくれたのはうれしいことでした。何週間か奉仕した兄弟姉妹もいれば,何か月も奉仕した人もおり,6年以上奉仕した人も少数ながらいます。彼らがいることは励みになり,建設的であり,その専門技術ゆえに生産的でもありました。

これらのインターナショナル・サーバントの中には,若い人もいれば,孫がいる人もいました。先陣をきって1989年3月に到着したキース・コルウェルと妻のレイ・エッタは,後者の部類の人でした。二人は50歳を超えていました。キースはこう語ります。「二人の娘や娘婿,4人の孫たち,母や父から遠く離れているのは容易なことではありません。時々,家に帰ってただの『おじいちゃん,おばあちゃん』になることを考えることもあります。でも,用いていただける限り,また力がある限り,私たちは喜んで,『ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください』と言うつもりです」。―イザ 6:8

ダーウィン・ハーリーと妻のシャーリーも,ブラジルで6年近く奉仕しました。彼らも4人の子供と8人の孫たちのことを考えると郷愁を感じました。それでも生活の中でエホバを第一にし,この点で子供たちに手本を示しつづけることを決意しました。それで,末っ子が結婚した後,ダーウィンとシャーリーは,何をすべきかについて何の迷いもありませんでした。インターナショナル・サーバントとしてずっと奉仕を続けることを申し込んだのです。今では60歳を超えていますが,二人は気持ちを込めて,「このような特別な方法でエホバに奉仕する機会を与えてくださった統治体に感謝しています」と語りました。他の国々から来たこれらの忠実な僕たちに,ブラジルのベテル家族が別れの言葉を告げなければならなかった時,多くの成員は目に涙を浮かべていました。自分の家に帰った人もいましたが,新しい任命地に向かった人たちもいました。

司祭が真理を学ぶ

エホバがブラジルで行なってこられた壮大な事柄の中で最も際立っているのは,偽りの宗教に深くかかわっていた人たちの解放です。ある日,一人のエホバの証人はバスに乗った時,ブラジルのカトリック教会で10年間司祭として仕えてきたアデミール・デ・オリベイラの隣に座りました。「地獄」という言葉の意味について議論が始まりました。後でアデミールはその会話を思い返し,わたしたちの雑誌を読んだ時,頭の中で真理が明らかになりました。

教会で彼は,エホバは神であり,像を使用するのは間違っていると教え始めました。しかし,教えている事柄を自分は実践していないことに気づきました。結局,教会には依然として像があったからです。そのうち,父親と母親がわずか10か月の間に亡くなった時,カトリック教会を去ることを考えているので神から罰を受けているように感じ始めました。しかし,母親の埋葬の際,母親を再び生き返らせることができるのはエホバであることに気づきました。1989年に初めて王国会館での集会に出席し,その後は定期的に出席しました。彼はカトリック教会を去り,王国伝道者となった最初の月には60時間を報告し,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本を12冊配布しました。バプテスマのあと正規開拓者になり,今でもサンパウロ州ジュンディアイで長老として奉仕しています。

若い人が尋ねる質問に対する答え

若い人たちも,受け入れられる仕方でエホバに仕えるには援助を必要とします。(伝 12:1)1989年に開かれた一連の「敬虔な専心」地域大会では,その目的で有用な道具が備えられました。15歳の少女はこう書いています。「プログラムの初めに,10歳から19歳までの若者は全員,聴衆席の前の方に座るようにという発表がありました。皆とても興奮して,何が始まるんだろうと考えていました。最後のプログラムの時,熱のこもった話が行なわれた後,講演者は,『若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え』の本をすべての若者がプレゼントとして受け取るようにという発表を行ないました。とても,とても興奮しました。泣きたいくらいうれしかったです。私たちがちょうど必要としていたものでした。それからは,助言がほしい時にはこの本をよく開きます。エホバからのこの価値ある贈り物があれば,この体制の圧力に立ち向かうため,十分に備えをすることができます」。国内で開かれた108の大会で,7万冊を超える本が若い兄弟姉妹に配られました。

ブラジルで会衆の集会に出席している人の約35%は,若い人たちと推定されています。彼らは,物質主義的で不道徳な世の,人を堕落させる影響に日ごとに立ち向かわなければなりません。大人になった時の生活に備えてふさわしい世俗の教育を受けると同時に,生き残って義の新しい世に入るための備えをさせる神の言葉から得られる肝要な教育を受けるという課題に直面しています。大半はこの課題に敢然と立ち向かっています。多くの若者が,学校に通っている間でさえ補助開拓者として奉仕し,卒業するとすぐに正規開拓者になっています。学校を自分の区域と考え,すべての機会を活用して証言している若者もいます。

ミナスジェライス州で,あるエホバの証人が学校を訪問し,一人の先生に話しかけたところ,その教師はこう説明しました。「私のクラスには,9歳と11歳になる二人の女の子がいました。私はその二人が他の生徒たちとは違うことに気づきました。観察していると,私たちが祈っている間,二人は他の人たちと一緒に静かに立っていますが,祈りの言葉を復唱しません。祈りの仕方を知らないのか,あるいは祈るのが嫌なのか尋ねたところ,エホバ神は同じ言葉を繰り返す祈りは聞かれないこと,そして私たちが祈っている間に無言で祈っていたことを話してくれました。それで,『どういうふうに祈るの?』と聞くと,年上の子が『どうぞ頭を下げてください』と言って,祈り始めました。彼女は両親や食事や先生についてエホバに感謝し,聖書の真理を自分たちに教えてくれる母親の健康についてさえ祈りました。私は涙を抑えることができなくなり,洗面所に走って行って泣きました」。この少女たちの家族は,その教師が教えていた町に王国会館がなかったので引っ越したということを,再訪問した時に伝道者は知りました。先生は,「二人がいなくなってとても寂しい」と語りました。

変化をもたらす真理の力

神の言葉には,人々の生活を変化させる強い影響力があります。例えば,悪霊のとりこになっていた人たちは解放されます。家族が心霊術を行なっていた,サンパウロのある若者の場合がそうです。その若者は13歳の時からずっと,心霊術(マクンバ)の道場の管理を任されていました。そこには,家族の扱い方,健康,就職,男女交際といったあらゆる種類の問題を抱えた人たちが大勢,助けを求めてやって来ます。儀式には薬草を混ぜ合わせたものを使うほかに,カエル,鶏,やぎといった動物の犠牲を夜の墓地でささげることも含まれていました。時には,墓地で盗んできた人骨を使うこともありました。彼は1990年,19歳の時にエホバの証人に初めて接しました。学んでいる事柄が真理であることに気づいた時,自分のもとで働いていた11人の霊媒を呼んで,聖書が心霊術の行ないを非としていることを説明しました。悪霊の攻撃から自由になるため,持っていた心霊術に関係する物品をすべて焼き捨てました。5か月聖書研究をした後,伝道者になり,伝道を始めた最初の月には12件の聖書研究を報告しました。(使徒 19:19,20)その大半は彼の近所に住む人たちで,彼をマクンベイロ(マクンバの達人)と見ていた人でした。バプテスマを受けた後,彼は補助開拓者として奉仕し,それから正規開拓者になって,その後,ブラジルのベテル家族の一員になりました。

20年間,毎年カーニバルに活発に参加していたある男性の生活も大きく変化しました。彼は,リオデジャネイロの有名なカーニバルのダンス・パーティーに参加して何度か賞をもらったこともありました。過度の飲酒,ギャンブル,あらゆる種類の不道徳を行なう人などとの付き合いが彼のライフスタイルの一部をなしていました。真理を学んだ時,彼は生き方を完全に変えました。今では奉仕の僕になっており,大会のステージを飾ることに自分の才能を用いています。

リオデジャネイロの別の若者はサッカーに情熱を傾けていました。彼はクラブが組織した応援団に入り,相手チームの応援団のセクションにいる人たちにいつもひどい嫌がらせをしていました。拳銃や手製の爆弾で武装してサッカーの競技場に行くのが習慣で,試合の時はほとんど毎回,相手チームの応援団や警察との小競り合いに加わっていました。しかし,エホバの証人である以前の学友が彼と聖書研究を始めました。彼はだれが自分の真の友人で,だれが最大の敵かを理解するようになりました。それで聖書の真理によって人格を変え,それからバプテスマを受けました。

サンパウロに住むペドロという若者も,暴力的な生き方をしていました。カポエイラと呼ばれる一種の武道(暴力で人を攻撃する技術)に入門し,好んで小火器を持ち歩いていました。身長が2㍍という堂々とした体格のペドロは,いつもけんかをしていました。しかし,ある日,聖書研究をすることに同意したのです。王国会館で聖書の話を聞いた後,自分の生活を大きく変えなければならないことに気づきました。そして武器を壊してバプテスマを受けるまでに進歩しました。それ以来,一緒にエホバに仕えるよう家族のうちの10人を援助してきました。

真理は内気を克服する助けにもなるでしょうか。サンパウロに住んでいる一人の女性の場合は助けになりました。最初に聖書の音信を聞いた時,学んでいることに驚嘆しました。それでも,集会に出席することと,良いたよりを公に宣べ伝える業に参加することは,彼女にとってはとてつもなく大きな障害でした。なぜでしょうか。内気な性格であるためと,夫の意志に反して物事を行なうことを恐れていたためです。しかし,マタイ 10章37節のような聖句を心に銘記していくうち,ついに野外奉仕に参加する勇気を得ることができました。エホバを喜ばせたいとは思いましたが,涙を流すことも度々あり,やめて家に帰りたいという衝動と闘いました。それでも,やがて証言は容易なもの,また楽しいものとなりました。不屈の努力の結果,母親と5人の兄弟と夫がみな真理を学びました。

高い率のインフレに対処する

1980年代の大きな問題の一つは,ひどいインフレでした。幾つもの経済計画が打ち出されたにもかかわらず,インフレ率は上昇しつづけ,ついに1989年5月から1990年4月の間には,その率は6,584%に達しました。物価が1日で3%近く上昇した月も時々ありました。月末には,同じものを買うにも月の初めのほぼ2倍のお金が必要でした。この状況に対処しようと努力して,政府は1990年3月以降18か月にわたり,すべての銀行預金を凍結しました。さらに,政府は一度ならず,お金からゼロを幾つか取り除き,新しい紙幣を印刷しなければなりませんでした。

もちろん,インフレの問題は目新しいものではありませんが,1990年のインフレ率は桁外れに高いものでした。幸いにも,支部には印刷のための紙や他の物資が十分に在庫していました。それで,どうしても必要なものだけを購入して,他のものは後回しにしました。800人のベテル家族の成員は,しばらくの間毎月の払い戻し金なしでやっていくことに同意しました。さらに,協会の事務所が機能しつづけるよう,寄付や貸し付けを申し出る電話や手紙が兄弟たちから寄せられたのも励みになりました。数か月後,政府はわたしたちのような非営利の組織が通常の業務を再開することを許可しました。協会に関しては危機は過ぎ去りました。

この困難な時期にも,証人たちは活発な宣教を続けました。彼らは自分の時間やお金やエネルギーを賢明に用いました。多くの人たちは,王国を第一に求めるようにという神の助言に対する真の認識を示しました。(マタ 6:33)その結果,1990年中に伝道者,開拓者,書籍の配布は新最高数を記録しました。その年の伝道者の増加率は11%でしたが,その年以降,その増加率を上回った年はありません。

銀行預金が凍結されていた時,サンタ・カタリナ州ジョインビレ市フロレスタ会衆には,王国会館の建設に使うための預金が,米ドルに換算して10万㌦ほどありました。彼らは工事を延期しましたが,受け取った寄付によって,銀行預金を使わなくても新しい会館を建てることが可能になりました。銀行にある資金の凍結がついに解除された時,この会衆は王国会館の隣の土地を駐車場として購入することができ,また他の会衆が王国会館を建てるのを援助することもできました。

聖書を読んで理解することを学ぶ

詩編作者は,幸せな人について,「その人の喜びはエホバの律法にあり,その律法を昼も夜も小声で読む」と描写しました。(詩 1:2)しかし,学校に通って読み方を学ぶ機会が一度もなかった人は大勢います。そういう人たちも詩編作者の述べた喜びを経験できるように援助することができるでしょうか。1958年から,読み書きを知らない人たちを援助するための特別なクラスが王国会館で開かれました。1970年には,ポルトガル語の「読み書きを学びましょう」という小冊子が発表されて,この教育プログラムはさらに一歩前進しました。現在までに2万人が援助を受けて読み書きを習得しており,その中にはエホバの証人ではない人もたくさん含まれています。

エホバの証人ではない人の中にさえ,このクラスが益をもたらすのを見て感謝する人がいます。サンパウロでは,ある未信者の夫が,妻に読み書きを教えるために行なわれた事柄に対して地元の会衆に感謝しました。ミナスジェライス州フェロスの警察署長は,刑務所内で受刑者たちを教えるために行なわれている働きに関し,協会に次のような称賛の手紙を書きました。「霊的な観点から見ても,物質面から見ても,エホバの証人は受刑者たちに読み方を教えて,この警察署長に協力してくれています。静かに降れども川をあふれさせる霧雨のごとく,証人たちは受刑者を社会に復帰させるべく多くのことを行なっています」。

もちろん,読む能力は,人が神の言葉に喜びを見いだし,それを他の人たちに伝える時に最大の価値を発揮します。読み書きのコースから益を受けた,リオデジャネイロの74歳の証人の場合は,まさにその通りで,今では近所に住む多くの人たちに真理を教えることができるようになっています。

「読み書きを学びましょう」の小冊子が発表された時,伝道者たちは,そのような援助を必要とする,関心を持つ人たちと研究をする際に,この小冊子を用いるよう励まされました。パラナ州クリティバで宣教者として奉仕していたソーニャ・スプリンゲートは,ある日,彼女の証言を聞いていた相手の女性に,啓示 21章4節を読んでいただけませんかと頼みました。その女性はためらい,そして「いえ,あなたが読んでください」と言いました。その人を再訪問したとき,ソーニャはこの女性が字の読めない人であることに気づきました。この女性は4人の子供の世話で忙しくしていましたが,「読み書きを学びましょう」の小冊子の助けを借りて研究が始まりました。最初は気落ちしましたが,励まされて努力を続け,1年のうちに読むことができるようになりました。現在,彼女と夫はバプテスマを受けた証人となっており,子供たちも真理のうちに進歩しています。

字が読める人たちの中にも,内容を把握する点で援助の必要な人たちがいました。その問題に対処するため,1990年には幾つかの会衆で,読解力と会話の面でさらに進んだ援助を受けるグループが組織されました。この種の援助は今のところ6,000人に近い証人たちに対して行なわれており,良い成果が見られています。そのコースが始まったばかりのとき,リオデジャネイロに住むある姉妹は,会衆の書籍研究の資料を読んで理解するのに約2時間かかっていました。コースが始まって2か月後には,それが20分でできるようになっていました。

雑誌の特別配布活動

エホバの証人が読むものの中でも大切なものの一つに「ものみの塔」誌があります。この雑誌の目的は,真理を愛する人たちが聖書を理解するのを助けることです。それはエホバ神を宇宙の主権者なる主として高め,神の王国が人類の諸問題をどのように解決するかを示します。その姉妹誌である「目ざめよ!」誌は,現代の出来事の背後にある真意を指摘し,平和で安全な新しい世をもたらすという,創造者の約束に対する確信を強めます。エホバの証人は,この価値ある情報を他の人たちに熱心に伝えています。これらの雑誌の配布数を増やし,資格を満たした新しい人たちが宣教に参加するよう励ますため,1990年5月1日の休日に特別な雑誌配布活動が計画されました。諸会衆は,午前,午後,晩の野外奉仕を計画するよう勧められ,家族は全員がその日に奉仕に参加することを勧められました。

反応はすばらしいものでした。例えば,リオデジャネイロでは,125人の伝道者がいるある会衆で,午前中に121人,午後には118人が奉仕に出ました。その月には,全国の伝道者の数が28万8,107人の新最高数に達し,その日1日で50万冊以上の雑誌が配布されたことが報告されました。それ以来,特別な雑誌の日が何度か計画されるようになり,良い成果が上がっています。

「清い言語」地域大会

大会はエホバの証人の生活の中では里程標となっており,出席した人たちにとっていつまでも忘れることのできない大会もありました。1990年8月にサンパウロで開かれた大会はその一つです。その「清い言語」地域大会の最終日には,13万4,000人を超える人たちが,― 8万6,186人はモルンビ競技場で,4万8,220人はパカエンブ競技場で ― 二人の講演者が同時に行なった公開講演に耳を傾けました。統治体の成員のC・W・バーバーとA・D・シュローダーをはじめ,14か国から2,350人の代表者たちが出席していました。

どちらの競技場でも,最後の話が終わると,代表者たちはハンカチやスカーフを振り始めました。多くの人は,その光景を目の当たりに見て深く感動し,喜びの涙を流していました。ブラジルの証人たちは,クリスチャンの兄弟姉妹たちが他の国々から来てこの壮大な催しに加わってくれたことをどんなにか感謝したことでしょう。

エホバの僕の間にはっきり見られる際立った愛は,誠実な人たちが真理を見分けるのを助ける大きな要素です。(ヨハ 13:35)未亡人となった母親がエホバの証人と聖書を勉強することに反対していた,ある若い男性とその姉の場合がそうでした。一人の長老がこの家族を訪問して,サンパウロでの大会の日曜日午後の部に出席するよう誘いました。この長老は,競技場で自発奉仕をすることになっていたので,朝早くこの家族を迎えに行きました。二人は心を打たれました。競技場内の秩序と清潔さ,物事がよく組織されている様子,そして,訪問していた代表者たちに対して大会の終わりにそそがれた愛について感想を述べました。そして聖書研究の勧めに応じ,よく進歩して,母親と共にバプテスマを受けたのです。現在,この若者は奉仕の僕になっています。

医療機関連絡委員会

あらゆる種類の血を避けることは,クリスチャンに求められている重要な事柄であることを,エホバの証人はすべて,バプテスマを受けて間もない人か経験を積んだ人かにはかかわりなく知っています。(創 9:3,4。使徒 21:25)1984年には,医師たちにインタビューをしたり,輸血を拒否するという患者の決定を尊重する医師たちを登録したりするために,経験のある長老たちから成る委員会が幾つかつくられました。この取り決めは,1991年に医療機関連絡委員会(HLC)の国際的なセミナーがサンパウロで開かれた時,さらに力を得ました。米国ニューヨークのブルックリンのホスピタル・インフォメーション・サービスからユージン・ロザムとフレッド・ラスクが来ていました。さらに,HLCの委員はもちろん,幾人かの医師や弁護士の兄弟たちを含む,700人を超える他の兄弟たちが出席していました。

セミナーは前途に多くの仕事が控えていることを示しました。委員会は組織し直され,委員たちは医師たちや医療チームに対し,血の使用に関するわたしたちの立場を明らかにしたり,無輸血治療に関する科学的な記事を提供したりして説明を行なう仕事を始めることになりました。医師たちとの関係に関して,委員たちの前に置かれた目標は,「意思の疎通と協力であって対決ではない」というものでした。再組織の後,その数は,200の委員会に属する1,200人から,64の委員会に属する350人へと減らされました。その結果,委員会の数は減りましたが,備えの一層整った委員会が,大きな医療センターのある都市部に存在するようになりました。

1992年10月には,サンパウロで開かれた第22回国際輸血会議で,100以上の国から来た1,300人の医師たちを前に説明を行なう機会が開かれました。血液学者のゼリタ・ダ・シルバ・ソウザ姉妹は会議の主催者の許可を得て,輸血に替わる65の代替医療処置を挙げたポスターを展示しました。ベテルのペドロ・カタルドとセルジオ・アンタンは,こう報告しています。「最初,どんな応対を受けるか少し気がかりでしたが,個別に接触した500人以上の医師は非常に好意的な反応を示しました。会議の主要な話し手の一人は,ポスターと展示されていた記事とを注意深く調べました。そして後に,メイン会場で行なった話の中で,『意外なところから,つまりエホバの証人から』提供された価値ある情報に対して称賛の言葉を述べました」。

そのあと数か月の間,20の地区医療審議会に対して説明が行なわれ,その中には,輸血に関連する問題が生じたなら地元のHLCと連絡を取るよう医師たちに勧める審議会も幾つかありました。過去4年の間に,そのような説明が600回以上行なわれ,今では1,900人を超える協力的な医師の名前が名簿に載せられています。

興味深いことに,無輸血の代替療法の利点を認める医師たちは,医療に携わる他の人たちとこの件について話し合うため,ブラジルでセミナーを幾つか開催しました。医師である兄弟たちや,HLCの委員として奉仕している兄弟たちが幾人かそれに招かれました。その種のセミナーは最初リオデジャネイロで,後には他の都市でも開かれました。その後,リオデジャネイロの地区医療審議会は代替療法を使うことを勧める声明を発表しました。

「あの祈りのことは絶対に忘れないでしょう」

HLCは病気の兄弟たちやその家族に対して多くの援助を行なってきました。特別開拓者のアライディ・デフェンディは思い出をこう語ります。「1992年2月にパラナ州クリティバで,妹が自動車事故に遭って負傷しました。医師は輸血すれば妹の命は助かると言いました。私がHLCに電話をすると,15分もたたないうちに,スーツにネクタイ姿の兄弟3人が手提げかばんをもって病院に現われ,医師に名刺を手渡しました」。

患者を40㌔離れた別の病院に移送する手はずが整えられました。輸血を拒否する人の中には,骨髄を刺激して赤血球の産生を高める合成ホルモンであるエリスロポエチンという製剤を受け入れる人がいますが,医師はこの治療薬はブラジルにはないと言いました。しかし兄弟たちは,サンパウロのHLCのある委員と連絡を取り,その委員はその日のうちにその薬を航空便で送ってきました。デフェンディ姉妹は最後にこう言いました。「妹が重篤な状態にあった時,HLCの委員の方が一人,一日中病院にいてくださり,危篤状態になったときには,私を脇に座らせて,『エホバに祈りましょう』と言ってくださいました。あの祈りのことは絶対に忘れないでしょう」。

リオの丘の上のスラムを訪れる

リオデジャネイロの中の,麻薬取り引きが横行している地域に住むエホバの証人たちは,本当に神に献身した人々という評判があるため,こうした地区でも宣教を続けることが可能です。これらの場所にも幾つかの会衆があり,一人の長老が説明した通り,兄弟たちが伝道すればするほど評判は良くなります。兄弟たちは麻薬の売人たちに知られるようになり,彼らから煩わされることはありません。幾つかの丘に,20万を超える人がスラムのような状態の中で生活しています。これらの人たちの大半は麻薬とは関係がありませんが,経済的な状況のために別の場所に住むことができないのです。

市内の別の地区に住む一人の長老が,それらの会衆の一つで公開講演を行なうために車でスラムの地域に入りました。王国会館の正面に車を止めると,武器を持った二人の若者が現われ,お前は何者だと質問してきました。兄弟が,自分はエホバの証人で,公開の聖書講演をするために来たと言うと,若者たちは兄弟に,行ってもいい,車には何もしないから心配するな,と言いました。

巡回監督のフランシスコ・ドアルテはこう言います。「ある時,集会の終わりごろ売人たちが王国会館に来て,銃撃戦があるから気をつけるようにと兄弟たちに言いました。妻と私は少しびっくりしましたが,伝道者たちは銃声が聞こえていても普通に話を続けていました。しばらくすると,売人たちがまたやって来て,銃撃戦は終わったので帰っても大丈夫だと言いました」。

外部から来た人たちが,地元に住んでいる人の付き添いなしで歩き回るのは賢明なことではありません。また,泥棒たちの注意を引かない服装をすることも必要です。ドアルテ兄弟は,地元の伝道者と一緒だったにもかかわらず,一人の男に呼び止められて時計を渡すように言われました。ドアルテ兄弟は思い出しながら語ります。「私は最初,強盗だと思いました。しかし,その男は言葉を続けて,『あなたが新しい巡回監督だということは知っています。でもその金色の腕時計をずっとはめていれば,だれかが金だと思って盗むでしょう。私の時計を使って,あなたのはポケットにしまっておいてください』と言いました。その男性は兄弟だったのです。そのことから,もっと注意深くなければならないことを学びました」。

麻薬の売人の一味だったある若者は,聖書の勉強を始めて,自分の職業を変えなければならないことに気づきました。しかしどうすればよいのでしょう。彼は,もし一味から抜けるなら,普通は,他の人たちに秘密が漏れないよう,安全策として仲間から殺されることを知っていました。それでもこの若者は,勇気を奮い起こし,エホバに祈り,一味のリーダーのところへ話をしに行きました。そして自分がエホバの証人と聖書を研究していることを説明し,聖句を幾つか読み,一味としてこのまま留まることができないことを話しました。彼は一味のリーダーも昔聖書を勉強していたことを知りました。それで,報復を受けることもなく自由にされ,今では会衆の活発な伝道者になっています。

30万人の伝道者!

新しい人たちが会衆に入って来るにつれ,聖書教育のプログラムで使うための出版物がさらに多く必要になりました。印刷工場は既に拡張されていましたが,支部で働く自発奉仕者,つまりベテル家族を収容するための,さらに広い場所が必要でした。若い兄弟たちの中には,一部屋に20以上のベッドがある共同寝室で寝ている人もいました。それで1990年には,サービス棟と,8棟で合計384部屋ある宿舎棟の工事が始まりました。食堂も1,500人を収容できる広さに拡張されました。

この建設計画のために全国から1,000人を超える自発奉仕者がやって来ました。数週間働いた人もいれば,数か月の人もいました。多くはその分野ではプロの人たちでした。(約130人が後にベテル家族の正式な成員になりました。)2,000㌔以上離れたバイア州フェイラ・デ・サンタナからは,12の異なる会衆の兄弟たち23人のグループがやって来ました。彼らは1週間働くためにバスを借りて40時間かけてやって来たのです。他の国々からも35人の経験ある兄弟たちが工事を手伝うためにやって来ました。また,ベテルの近くにある諸会衆の何百人もの兄弟姉妹も週末に貴重な援助を行ないました。

1991年中に伝道者の数は30万の大台を超えました。わずか4年間で10万人が増加したことになります。拡張された支部施設が本当に必要となってきました。

「あなたたちは本当に速い」

弟子を作る業の進展により,崇拝の場所もさらに多く必要になりました。これまでに大会ホールは,バイア州のサルバドル,リオデジャネイロ州のドゥケ・デ・カシアス,サンパウロ州のリベイラン・ピレス,コズモポリス,セルタンジニョ,ミナスジェライス州のベティンに建てられました。国内で最大の大会ホールは,サンパウロ州のバルジェン・グランデ・パウリスタにあり,その建設は1992年10月に終了しました。その後間もなく,収容能力4,000人のホールがリオデジャネイロ州ケイマドスに完成しました。1993年9月にはさらに五つの大会ホールが,セアラ州フォルタレザ,リオデジャネイロ州イタボライ,パラナ州クアトロ・バラス,ペルナンブコ州レシフェ,リオ・グランデ・ド・スル州サプサイア・ド・スルで同時に献堂されました。現時点では,16の大会ホールが使用されていて,さらに五つが設計段階にあります。

集まり合うことをやめないようにという聖書の命令に従って,大挙して詰めかける羊のような人々の世話をするためには,さらに王国会館が必要です。(ヘブ 10:23-25)ブラジルでは自分たちの集会場所を持っている会衆はわずか3分の1で,新しい会衆が設立されるペースは建設のペースよりもずっと速くなっています。そのうえ,新しい王国会館が完成するまでに平均3年かかっていました。それで1987年には,建設の経験を持ち,諸会衆の長老団を援助できる長老たちから成る地区建設委員会が組織され始めました。ベテルの設計部門も実際的な提案をしました。

1992年には,もう一つの重要な進展が見られ,王国会館速成建設プログラムが開始されました。最初の建設はサンパウロ州アグドスで行なわれ,200人の自発奉仕者とベテルからの25人のチームが働きました。この工事は3週間かかりましたが,それ以後,このような建物に必要な日数は16日に短縮されました。1995奉仕年度以降,合計129の新しい王国会館が完成し,エホバへの奉仕のために献堂されました。

周りで見ている人たちはいつも建設のスピードに驚きます。ある王国会館の建設の最初の週の終わりに,窓ガラスを納入する業者の作業員は,次の水曜日には必ずガラスをはめに来るようにと兄弟たちから念を押されて驚きました。作業員は,「勘違いしているんじゃありませんか。来週には窓ガラスを入れるどころか,壁でさえ立ち上がってはいないでしょう」と言いました。彼は水曜日にまた来ましたが,窓ガラスを持って来ていませんでした。ところが,1週間もたっていないのに,壁が立ち上がってしっくいが塗られ,窓枠がはまっていて,屋根も付いているのを見て,作業員は5分ほどトラックから降りることができませんでした。「あなたたちは本当に速い」と,その人は言いました。そして窓ガラスを取りに行きました。

王国会館の建設現場の近くに住んでいた一人の男性は,建設のペースに驚いて,「お手伝いするには何をしなければなりませんか」と尋ねました。「まずはわたしたちと聖書を勉強しなければなりません」というのが答えでした。すぐ次の日からその人との聖書研究が始まりました。

手話で音信を伝える

急速な増加のゆえに,耳の聞こえない人や目の見えない人たちに対する関心が薄れるということはありませんでした。彼らの必要に注意が向けられると,すばらしい成果が見られました。1992年には,耳の聞こえない人たちに手話を教えるため,「手話」という336ページのポルトガル語の本が生産されました。この本は,ブラジルのエホバの証人の間で使われる手話を統一し,バビロン的な概念に基づく手話を取り除くことに努めています。一つの例は,水を振りかける仕草をまねた手の動きですが,もちろんこれはクリスチャンの水のバプテスマの概念を正しく伝えていません。

耳の聞こえない人と難聴の人のための最初の会衆は,1982年にリオデジャネイロに設立されました。今ではそのような会衆が六つあり,様々な都市に50の小さな群れがあります。1994年には,18の大会に手話グループがありました。幾つかのグループでは,通訳が劇中の登場人物の役の通訳をしました。1996年,「神はわたしたちに何を求めていますか」のブロシュアー全体を手話で表現する,協会製作のビデオを受け取った時,耳の聞こえないブラジルの証人たちは喜びの涙を交えた笑みを満面に浮かべていました。耳の聞こえない人の多くは字は読みませんが,手話は分かるので,これはどれほど有益だったことでしょう。

称賛に値するのは,これらの会衆で長老とか奉仕の僕とか開拓者として奉仕している兄弟たちの進んで行なう気質です。手話を学ぶためには時間と努力と粘り強さが必要ですが,満足のゆく結果がもたらされています。

「姉妹は私を見ることも,私の話を聞くことも,私に話しかけることもなく,私を励ましてくださいました」。これはローズマリー・バレラを知っている人たちがいつも使う表現です。姉妹は目が見えず,耳も聞こえないのですが,過去3年間,補助開拓者として奉仕してきました。彼女は生まれつき耳が聞こえません。その結果,話し方を学ぶことができませんでした。そして徐々に視力を失い,今ではほとんど失明しています。言いたいことは手話で表現し,他の人の手話を手で触って理解します。

ローズマリーは真理を学ぶ前に視力を失いました。そのことは夫との意思の疎通に大きな影響を与え,彼女は絶望のあまり自殺を考えました。そのころ,手話を知っている若い開拓者のニルザ・カルバリョと出会いました。そして,どんな種類の障害を持つ人でもいやすという神の約束を知って,聖書研究の勧めに応じました。(イザ 35:5)間もなく彼女は,サンパウロの耳の聞こえない人たちの会衆の集会に出席し始めました。集会中,通訳が彼女の隣に座り,演壇で表現されることを触覚通訳によって伝える取り決めが設けられました。後に夫も聖書研究をするようになり,喫煙をやめ,二人で1992年2月にバプテスマを受けました。バプテスマの後間もなく,二人は定期的な補助開拓者になりました。ローズマリーは,耳の聞こえない他の人たちとの聖書研究を20件も司会し,同時に家での自分の務めも果たしています。

視力に障害のある人たちを助けるために,協会は1980年に,ポルトガル語点字(グレード1)の出版物を生産し始めました。今では,聖書や「ものみの塔」誌をはじめ,協会の出版物の多くは点訳されています。ポルトガル語点字の聖書全巻は84巻に分かれていて,ポケット版とはとても言えません。点字を学びたいと思う人たちのための助けとして手引き書も生産されています。統計によると,ブラジルでは視力に障害を持つ人が100万人以上います。

北部で生じた干ばつ

干ばつはブラジル北東部では慢性的な問題ですが,1993年の状況はとりわけ深刻でした。地域によっては2年間雨が降りませんでした。最も深刻な被害を受けたのは,田舎の地域に住んでいて自給自足の生活をしている人たちでした。セアラ州ムンババでは,残された唯一の泉から水を手に入れるため,昼も夜も人々は列に並びました。干ばつの結果,幾つかの町では食料品店やスーパーマーケットが略奪に遭いました。その地域の兄弟たちを助けるために,サンパウロ,リオデジャネイロ,クリティバの諸会衆は,1世紀のフィリピのクリスチャン兄弟たちと同じような寛大さを示し,4台の大型トラックで80㌧の食料や衣類や靴を送りました。五つの州にまたがる合計65の町の兄弟たちが援助物資を受け取りました。―フィリ 4:14-17

ある検問所では,番をしている人がトラックの運転手に,この危険な仕事をすればどのくらいの金がもうかるのかと尋ねました。略奪行為が横行していたために輸送は危険だったのです。その人は,運転手がエホバの証人であることを知ると,「ただでこんなことをするのはエホバの証人だけだろうな」と言いました。別の幹線道路の検問所では,運転手が自分はエホバの証人だと言うと,番をしている人は運転手と同乗者の「医療上の事前の宣言および免責証書」を見せるようにと言いました。カードを調べ終わると,その人はもう一人に,「確かにエホバの証人だ。通してやれ」と言いました。

パライバ州では,ある男性が援助活動を見て,「ほかの宗教は口だけだが,あなた方は隣人のためになる事柄を実際に行なうんだね」と言いました。苦しい状況のもとに置かれてはいましたが,基本的に必要な物はエホバが備えてくださることを兄弟たちは信じていたので,絶望に追い込まれることはありませんでした。ある姉妹はこう書いています。「皆さんは雨を降らせてほしいという私たちの願いを満たすことも,水不足という問題を解決することもできませんが,送ってくださった援助物資により,私たちはこの世界の中で孤立しているのではない,また,私たちのことを思ってくれている人たちがいるのだ,という信仰と確信をほんとうに強めてくださいました」。―ヤコ 2:14-17

「エホバの証人万歳!」

大会はエホバの証人にとって特に幸福な時です。しかしスポーツ行事を行なう施設で大会が開かれるときには,予期せぬ問題が持ち上がることがあります。1992年にサンパウロのパカエンブ競技場で「光を掲げる人々」地域大会が行なわれた時,難しい状況が生じました。わたしたちは競技場を3日間使用する契約をすでに交わしていましたが,場所によっては,スポーツの行事は他の何にも勝って重要なものとみなされています。果たして木曜日の午後,大会が始まる1日前に兄弟たちは,日曜日の午後6時からサッカーの試合が行なわれ,国内屈指の強豪2チームが対戦することを知らされました。それで,午後4時までに競技場を明け渡さなければならなくなりました。

大会監督のジョアン・フェルナンデスはその時のことをこう語ります。「契約書にサインしてあったとはいえ,私たちに選択の余地はありませんでした。金曜日の晩に集まりを開き,各部門から3人ずつ,合計110人の兄弟たちを集めて,大会設備の電撃的な撤去計画を練りました。設備を撤去するだけでなく,3万人の退場を妨げることなく設備を輸送するには,関係者すべての緊密な協力が必要でした。ステージと音響システムはものの数分で解体されました。他の設備は,サンパウロの古いベテルの建物まで運び,そこできれいに掃除して保管しました。午後3時45分,プログラムが終了してから1時間ちょっとで,すべてが終了しました」。

大会の週に,テレビの解説者の中には,サッカーファンが到着する前にエホバの証人が競技場を明け渡すことはできないだろうと言った人たちもいました。日曜日のスポーツニュースの中で,別の競技場にいた解説者がパカエンブ競技場の解説者に,「競技場はどうですか。その宗教グループの人たちは約束を守って時間通りに競技場を明け渡しましたか」と聞きました。答えはこうでした。「ええ,彼らはやってのけました! 時間通りに競技場を返しただけでなく,どこもかしこも実にきれいでした。トイレがきれいに掃除されていただけでなく,スタンドのほうも清掃されていて気持ちがよかったですよ。エホバの証人万歳!」

孤立した場所でのミニ大会

アマゾン地域では,大会の開かれる都市から桁外れに遠く離れた所に孤立した群れがあったり,家族が住んでいたりします。そういう人たちの交通手段といえば,非常に運賃の高い飛行機か,非常に遅い船しかありません。そのためこれらの伝道者は,大抵の場合,地域大会や他の大会に出席することができません。最寄りの大会開催都市マナウスから約1,600㌔離れたアマゾナス州タバティンガの兄弟たちの場合がそうでした。

この問題を考慮して,1990年には,大会のプログラムを短縮して,巡回監督の訪問の際に提供する取り決めが設けられました。この取り決めは三つの巡回区の中の五つの町に住む兄弟たちのために続けられています。王国会館がある所では王国会館に,そうでなければ講堂に,50人ないしは180人もの人々が集まります。

「これで私も開拓者になれますよね」

バプテスマを受ける人たちが示す霊的な事柄に対する認識には,本当に心温まるものがあります。1993年にアマゾン地域のテフェで開かれた小さな大会で,巡回監督のプブリオ・カバルカンティは,それまで見たこともなかった若い男性がバプテスマ希望者の席に座っているのに気づきました。その地域には兄弟たちが非常に少ないため,巡回監督は大抵,兄弟たちをみな個人的に知っています。プブリオは長老たちに,あの青年は間違ってあそこに座っているのではないかと尋ねました。長老たちは,『いいえ。この人はここから船で35時間から40時間くらいの所に住んでいます。手紙で真理を学びました。6か月に1度,特別開拓者がジュルアに住む彼の所を訪ね,1か月ほどそこに滞在するようにしていたのです』と説明しました。

巡回監督はその後,この若者のところへ行き,話をしている間に,聖書研究を司会したことがあるかどうか尋ねました。彼は,『ええ,11件持っています。あの人は私の聖書研究生です』と答えて,聴衆席に座っている別の若者を指さしました。話を続けていると,彼は別の二人の若者を指さして,彼らとも研究をしていると言いました。研究生たちは,大会に出席し,友人のバプテスマを見るため,35時間かけて自費でやって来たのです。その日バプテスマを受けた後,この若者は特別開拓者に,「これで私も開拓者になれますよね」と尋ねました。今のところ,その地域では集会が開かれていませんが,この伝道者がバプテスマを受けたので,特別開拓者は,集会を司会できるよう彼を訓練することを計画しています。

まれにしか奉仕されない地域で宣べ伝える

エホバの証人は,幾らかでも野外奉仕に参加していればそれで十分だとは考えません。すべての人が良いたよりを聞く機会を必要としていることを認識しています。ブラジルには,どの会衆にも割り当てられていない,あるいはまれにしか奉仕されない町がたくさんあります。大抵の場合,それは孤立した小さな町か,行くのが難しい所です。1990年に行なわれた調査によると,未割り当ての区域内には400万人が住んでおり,まれにしか奉仕されない区域には900万人が住んでいます。その年には,これらの人々に接触するための特別な活動が行なわれました。2,000人を超える伝道者がこの活動に参加し,それまで未割り当てだった177の町で奉仕しました。その後,新しい会衆の中核となるために約30家族がこれらの町に移動しました。

証人たちにとって,資力が限られていることは,そうした活動に参加する際の克服しがたい障害とはなりません。ブラジルで最も乾燥していて最も貧しい地域の一つ,セアラ州ソブラルの四つの会衆の長老たちは,1993年9月に会合を開き,幾つかの町で定期的に奉仕する方法を決定しました。彼らには十の町が割り当てられていましたが,それまでは時たま奉仕されているだけでした。それらの町までのバスの運行予定では,伝道者たちがそこに行くのはほとんど不可能でした。

それらの町はソブラルから半径130㌔ほどの範囲内にあったので,長老たちは伝道者が区域まで毎日行けるように,中古のバンを購入することにしました。朝出発して晩に戻って来ることができます。この決定が知らされると,諸会衆はバンのための自発的な寄付を送ってきました。関係した長老の一人ビルソン・P・ディアスは,「自動車が購入できたのは,地元のだれか一人からの多額の寄付によるのではなく,すべての人の努力によるものでした」と書きました。別の兄弟は,「4会衆から2,000㌦の寄付があり,英国から来た兄弟が同額の寄付をし,残りは分割払いで払いました」と書いています。

50人以上の伝道者と開拓者がこの取り決めに参加し,それぞれ週の決まった曜日に車を使いました。このような方法で,彼らは約11万の人たちに伝道しています。彼らの援助により,王国宣明者になった人や,再び活発になった人たちもいます。今では四つの町で集会が定期的に開かれています。

1995年初頭に,ブラジルの支部事務所の監督のもとで未割り当て区域や遠方の区域に住む人たちに伝道し,また関心を持つ人たちの世話をする手段として別の取り決めが提案されました。幾つかの会衆は,そうした地域で6か月間喜んで奉仕する正規開拓者の費用を会衆が支払う取り決めを設けました。その例にならう会衆が増え,その結果はとても励みになるものでした。今までのところ,340人以上の正規開拓者が350の町で奉仕するよう割り当てられ,すでに300人以上の人が援助を受けて伝道者となっています。

同時に,正式な特別開拓者と一時的な特別開拓者1,400人によって多くの良い働きがなされてきました。これらの特別開拓者の中には,経験のある兄弟たちのいない会衆で働くよう割り当てられている人たちも少なくありません。例えば,アクレ州リオ・ブランコの一つの会衆では,90人の伝道者の世話をするのに,一人の特別開拓者以外に地元の長老は一人しかいません。しかし,特別開拓者の大半は,会衆のない小さな町で奉仕しています。りっぱな働きがなされているを見るのはうれしいことです。

大きな都市の兄弟たちも,遠くの区域やまれにしか奉仕されない区域での活動に参加しています。リオデジャネイロの兄弟たちは,そうした区域で数週間働くグループを組織することを9年間連続して行なってきました。最近では,68人の兄弟姉妹が17日間に2,500㌔移動して,パラナ州の20の都市で奉仕しました。グループのまとめ役の一人ジョルジュ・ガジは,ただ一つ残念に思うのは,こうした証言旅行をもっと早くから始めなかったことだと言います。

関係者以外立入禁止のマンション

会うことが難しいのは未割り当て区域に住んでいる人だけではありません。大都市では,防犯のため,関係者以外立入禁止になっているマンションやアパートに住むのを好む人たちが大勢います。こうした人たちに接触することは難しいとはいえ,不可能ではありません。1980年代に一時期全時間奉仕を行なっていた一組の夫婦は,サンパウロの近くのこうした建物の一つに引っ越しました。彼らはそこを自分たちに個人的に与えられた区域とみなしました。母親はその時のことを思い出してこう語ります。「買い物や銀行に行くときとか,子供たちを迎えに学校に行くときなど,いつも近所の人たちに近づく準備をして出かけました」。そして後ほど,注意深くきちんと計画を立ててその人たちを訪問しました。

学校に通う子供を持つ親たちの集会で,一人の母親が姉妹に,うちの子供は注意を集中するのが難しいようです,と話しました。姉妹はその問題を扱った「目ざめよ!」誌の記事のコピーをその人に渡し,それがきっかけで聖書研究が始まりました。結局,この女性と二人の娘がバプテスマを受けました。別の隣人は姉妹に,困窮している人々のための食糧を集める活動に協力したいと思うかどうか尋ねてきました。姉妹は,近所の人たちを助ける活動にすでに参加していることを伝え,家庭聖書研究の取り決めについて説明しました。この女性と夫と18歳の息子が勉強を始め,最後にはバプテスマを受けました。

別の女性と青年期の3人の娘が聖書研究をすることにしました。夫は,自分のことを信心深い人間だと考えていましたが,研究には反対しました。娘の一人が父親に,集会に来て自分で調べてみてはどうかと提案すると,父親はそれに同意しました。数日後,姉妹がこの家族を昼食のために自宅に招待すると,家族でやって来ました。皆が驚いたことに,夫は自分の出席した集会のことを話題にしました。その後,聖書研究をすることに同意しました。現在,この家族は全員エホバに奉仕しています。

他の人たちも聖書研究をしました。その結果,1991年11月に,その一つのマンションの住人だけで成る会衆が設立されたのです。その会衆には46人の伝道者がおり,1995年の記念式には80人が出席しました。ですから,神の言葉の真理は,人々に接するのがほかより難しい地域にも浸透してゆくのです。

40万人の伝道者,もっと増える!

聖書の真理の種がブラジルに初めて届けられたのは,100年近く前のことで,郵送によってでした。それから約25年後に,ものみの塔の出版物をブラジルで定期的にポルトガル語に翻訳し,それらをリオデジャネイロで印刷する取り決めが設けられました。次の25年間にブラジルでは約1,000人の人がエホバの証人になり,神の王国の良いたよりを他の人に広める活動に定期的に参加するようになりました。しかし,1995年4月にはすでに,王国伝道者の数は40万人以上に増加していました。それでもまだ,行なうべきことがあったのでしょうか。

イエス・キリストは,終わりが来る前に,王国の音信が「人の住む全地で」宣べ伝えられることを予告なさいました。(マタ 24:14)ブラジルではそれがどの程度行なわれてきたでしょうか。ブラジルで最初のころ,エホバの証人(当時は聖書研究者として知られていた)が開いていた集会には,サンパウロやリオデジャネイロで開いていたものが含まれます。現在それらの地域には,エホバを愛し,エホバに仕える人々で満ちあふれている会衆がたくさんあります。主要都市のサンパウロには今では837の会衆があり,リオデジャネイロには539,サルバドルには276あります。国全体では,熱心なエホバの証人から成る6,650以上の会衆があります。これらの都市に住む多くの人たちには,王国の音信を聞く機会が頻繁にあり,場所によっては毎週聞くことができます。

小さな町や奥地では,すべての人がそれほど頻繁に訪問を受けているわけではありません。どの会衆にも割り当てられていない350ほどの小さな町(人口の合計は推定150万人)と広大な奥地があります。これらの地域では定期的な証言活動は行なわれていませんが,約6か月に1度はそれが行なわれるよう,努力が払われています。

大都市に住んでいる人であろうと,奥地に住んでいる人であろうと,さらに多くの人が聖書の音信の価値を認識するよう助けることができるでしょうか。彼らの心を動かすことを目的として,1995年4月と5月には,できるだけ多くの人に個人的に会い,「人生にはなぜこれほど問題が多いのですか」というパンフレットを手渡す特別な努力が払われました。3,400万部以上が印刷され,配布用として諸会衆に発送されました。一人の男性は,そのパンフレットを一部受け取った時に,『今朝ね,これと同じ疑問が湧いてきて,みんなと話し合ったんですよ』と言いました。ある女性は,『長年の間この質問を自分に問いかけてきましたが,答えがあるなんて夢にも思いませんでした』と言いました。また,「パンフレットがとてもよかったので,聖書研究をお願いいたします。ほんとうにありがとうございました」という手紙を協会に送ってきた人もいます。

ブラジルのエホバの証人は,自分たちの業が終了しており,王国に関する証言を行なうようにというイエスの預言的な命令に従う点でこれ以上行なえる事柄はない,などとは感じていません。頻繁に訪問している地域でさえ,多くの人が家を留守にしていることに証人たちは気づいています。人々は仕事をしているか,買い物をしているか,だれかを訪問しているか,あるいは次の週に備えてエネルギーを回復するために遅くまで眠っているのかもしれません。証人たちはそのような人々のことも気に掛けています。この状況に対処するために,リオ・グランデ・ド・スル州ポルト・アレグレの旅行する監督は次のような方法を採用しました。彼は寒い冬の日にはベッドの中が一番暖かいので,多くの人は遅くまで寝ているのを好むことに気づきました。監督と監督に付いて行く人とはブロックを回って,人が起きている気配のある家だけをノックしました。一つのブロックを9回まわり,その度に起きている人が増えていることに気づきました。すべての家で文書を配布でき,こうして再訪問の道が開けました。

ブラジルには神の言葉に関心を示す人がたくさんおり,エホバの証人は,そのような人々が聖書を理解し,毎日の生活に当てはめる方法を学ぶよう熱心に助けています。現在,証人たちは,個人や家族との家庭聖書研究を50万件以上定期的に司会しています。そして1995年からエホバの証人は,「永遠の命に導く知識」という本を使い,正しく整えられた人々が基本的な聖書の教えを以前よりも早く学ぶよう助けるためのプログラムをスタートさせました。そのような援助を受け入れる人に加えて,証人たちの配布する,聖書に基づく出版物を,全国の他の大勢の人々が喜んで受け取っていることは,1996奉仕年度に書籍が233万4,630冊,雑誌が2,116万8,979冊,ブロシュアーが278万7,032冊配布されたという事実が示しています。

ブラジルの兄弟姉妹たちが神権的な関心を示す範囲は,ブラジルの国境を越えてはるか遠くにまで及んでいます。多くの開拓者が,まだそれほど大規模に証言の行なわれていない,必要の大きな国や地域で奉仕するためにブラジルから移動しました。セザリオ・ランジェにある支部からは,良いたよりを宣べ伝えるのに使う,聖書に基づく出版物がブラジルだけでなく,アンゴラ,アルゼンチン,ボリビア,ドイツ,モザンビーク,パラグアイ,ポルトガル,ウルグアイにも送られています。以前に行なわれた業とは関係なく,業のペースは年々速まっているようです。

それは喜びです!

確かに,ブラジル全土で証言を行なうことには多くの仕事が関係しています。しかしそれは喜ばしい仕事です。もちろん,良い時もあれば難しい時もあります。しかし,エホバがご自分の忠実な僕たちの活動の上に祝福を注がれた証拠を自分自身の目で見るとき,わたしたちは心が温まるのを覚えます。

エーリッヒ・カットナーは,1939年と1940年に,ブラジルの奥地で証言していた時,出版物の入ったかばんを枕に,よく野宿をしたことを今でも覚えています。当時エホバの証人は全国に数百人しかいませんでした。彼が訪問する家の人で聖書を持っている人はごくわずかでした。関心を持つ人たちに配布する聖書を入手するために,よく地元の聖書協会の店に行きましたが,しばらくするとその店は彼に聖書を売ってくれなくなりました。しかし,彼はこう言います。「私は1963年にニューヨーク市で開かれた『永遠の福音』大会に出席するという,胸のわくわくするような特権をいただきました。その大会で,ポルトガル語を含む六つの言語の『クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳』が発表されたのです。私は特にポルトガル語の聖書を受け取ったことをエホバに感謝しました。任命地のブラジルで使うことができるからです」。1967年以降,「新世界訳」の全巻,つまり創世記から啓示まで,ポルトガル語のものが入手できるようになりました。このことは,ブラジルでの聖書教育の業に何と大きな恵みとなってきたのでしょう。ブラジルでエホバを活発に賛美する人の数は,1963年に3万118人だったのが,1996年には43万6,000人を超えるまでに増加していました。

アウグーストゥー・マシャーズーは,ブラジルに派遣された初期の宣教者の一人が与えてくれた援助に感謝しています。また,初めて出席したエホバの証人の大会のことも覚えています。それはリオデジャネイロでの大会でした。N・H・ノアとM・G・ヘンシェルがニューヨークから来ていました。出席者はわずか1,064人で,話の主題の一つは「愛のさらに勝った道」というものでした。マシャーズー兄弟は,こう述べています。「そして1958年には,ニューヨークで開かれた8日間の国際大会に出席した25万3,922人の群衆の一人に数えられるという特権にあずかりました。どちらの大会にも同じ愛の精神が行き渡っていました。……エホバの民が,部族や人種による分裂もなく,歴史上比類のない世界的聖書教育の業を行なっていることをかつてなく強く確信してニューヨークから戻りました」。

そして1985年に彼は,その聖書教育の業がブラジルで何を成し遂げてきたかを示す際立った証拠を見ました。マシャーズー兄弟は,サンパウロとリオデジャネイロで同時に開かれた国際大会で話をする特権を得ました。出席者の合計は25万人近くに上り,その大半はブラジルから来ていました。それから10年後,キリストの死の記念式が行なわれた際,ブラジル全土のエホバの証人の諸会衆に,114万4,000人を超える人が集まりました。

今日,エホバの献身した僕はすべて,困難な時代に生活しているとはいえ,喜ぶべき理由を数多く持っています。神がすでに行なってくださった事柄や将来に約束してくださっている事柄について黙想するとき,わたしたちの心は深い感動を覚えます。ブラジルを含め,あらゆる国民の中から,「望ましいもの」が神の崇拝の霊的な家に集められています。(ハガ 2:7詩編 144編15節にある通り本当に,『エホバをその神とする民は幸いです!』

[167ページの地図/図版]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

アマゾン川

マナウス

アマゾナス州

マト・グロッソ州

セザリオ・ランジェ

リオ・グランデ・ド・スル州

ベレン

フォルタレザ

レシフェ

サルバドル

リオデジャネイロ

サンパウロ

[図版]

1. レシフェの浜辺

2. リオデジャネイロ

3. アマゾンの多雨林

4. アマゾンでの証言

5. セザリオ・ランジェの支部事務所

[124ページ,全面図版]

[126ページの図版]

アルストン・ユールとモード・ユールは,1936年にブラジルでの奉仕を始めた

[126ページの図版]

ギレアデ第1期生のチャールズ・レスコは今でもブラジルのベテルで奉仕している

[133ページの図版]

1973年にはサンパウロで凸版活字輪転機の運転が始まった

[134ページの図版]

サンパウロの「神の勝利」大会で,代表者たちは自分たちの一致した証言の心温まる成果を目の当たりにした

[142ページの図版]

一部に屋根のあるサルバドルの「大会公園」

[145ページの図版]

支部委員(左から右に): マサスエ・キクタ,カール・リーツ,アマロ・サントス,エステン・グスタブソン,アウグーストゥー・マシャーズー,フレッド・ウィルソン

[150ページの図版]

1981年に,支部の献堂式でロイド・バリーは,『良いたよりを宣べ伝える業に心を集中する』よう勧めた

[156ページの図版]

3万9,000人を超える人たちが開拓奉仕学校で訓練を受けた。これはサンパウロ州ソロカバで開かれたクラス

[158ページの図版]

宣教者と,全時間奉仕を行なっている他のギレアデ卒業生。配偶者と共に。1996年に地帯監督が訪問したとき

[162ページの図版]

同時出版を行なううえでオフセット輪転機とMEPSは重要な道具だった

[170ページの図版]

良いたよりを宣べ伝えるためにアマゾン川の河口で用いられている船

[175ページの図版]

他の国々からの自発奉仕者が,支部施設を建設する地元の証人たちを援助した。ここに写っているのはハーリー夫妻(上)とコルウェル夫妻

[176,177ページの図版]

43万を超えるブラジルの証人たちの活動を監督するために今使われている支部施設

[192ページの図版]

現在のところ,16の大会ホールがブラジルのエホバの証人の必要を満たしている

[193ページの図版]

さらに多くの王国会館が必要。速成建設方式はその必要を満たすのに役立っている

[194ページの図版]

一部の会衆では,耳が聞こえず,目も見えない人たちを特別に援助している

[205ページの図版]

ポルトガル語の「新世界訳」の出版を喜ぶエーリッヒ・カットナー

[207ページの図版]

アウグーストゥー・マシャーズーは,ブラジルにおける聖書教育の成果を示す際立った証拠を見た