内容へ

目次へ

パラグアイ

パラグアイ

パラグアイ

南米の中央部にある陸に囲まれた国,それがパラグアイです。その名前にはどのような意味があるのでしょうか。さまざまな説がありますが,地元で一般的に考えられているのは,「海に源を発する川」という意味です。この地域のインディオたちは,パラグアイ川が源を発するブラジルの湿地には,海のように広い池があると信じていました。領地を北から南に流れるパラグアイ川は,国土を二分しています。川の東側には,なだらかな丘陵地帯や赤土の平原,豊かな森林地帯が広がっています。西側はチャコと呼ばれる人口の希薄な地域で,草原や灌木の茂み,昆虫の大群や多種多様な熱帯の色鮮やかな鳥が生息する広大な湿地になっています。

パラグアイは,現代の科学技術と土地を耕す人たちの簡素な生き方とが対照を成している国です。ジェット機や通信衛星は世界の知識への扉を開きました。首都のアスンシオンには,高層ビル群がそびえ立っています。東の国境のパラナ川沿いに位置するイタイプ水力発電所は,世界の同様の発電所の中で最大の発電能力を誇っています。

この国ではスペイン語が話されていると思われるかもしれませんが,いつもそうだったわけではありませんし,今でも全員がスペイン語を話すわけではありません。原住民はグアラニー・インディオでした。1520年ごろ,アレホ・ガルシア率いるポルトガル人の探検家たちが,白人として最初にこの地域に入りました。1530年代にはスペイン人が現在アスンシオンとなっている地域に入植を始めました。国は1811年までスペインの支配下にありましたが,グアラニー語が征服者たちの言語に置き換えられることは決してありませんでした。その結果,音楽のように聞こえる美しいグアラニー語は,現代のパラグアイの大半の人が話す母国語であり,スペイン語と共に公用語の一つとして認められています。

ヨーロッパの探検家たちが到着してから数十年後,グアラニー族の人たちをローマ・カトリックに改宗させるため,イエズス会士たちがやってきました。当時,グアラニー族は像も神殿も持っていませんでした。しかし,イエズス会士たちはインディオを共同集落に集め,そこで彼らにカトリックの儀式や賛美歌を教えると共に,職や技術も教えました。イエズス会士は,インディオに生活必需品を備えるためにインディオの労働から得られる収益の一部を使っただけでなく,富や権力を手に入れるためにもこの取り決めを使いました。多くのスペイン系地主はこれに妬みを抱きました。彼らはスペイン国王,カルロス3世に,イエズス会士が権力を増大させていることについて不満をもらしました。グアラニー族からではなく,カトリックの入植者たちからのこの不満の声がおもなきっかけとなって,イエズス会士は1767年にスペイン帝国内から追放されました。しかし,彼らが教えたカトリックは人々の生活に影響を及ぼし続けました。彼らは表面上はカトリックの体裁を取り入れていましたが,多くの場合,土着の幾つかの信仰も守り続けました。このため,迷信を重んじる雰囲気が助長されました。彼らがカトリックを受け入れた結果,カトリックの僧職者が人々の生活に対して強い影響力を持つようにもなりました。

そのような宗教上の遺産がこの国に平和をもたらすことはありませんでした。戦争はパラグアイの歴史に深刻な影響を与えてきており,人々の生活に深い傷を残しています。1864年から1870年まで,フランシスコ・ソラノ・ロペスのもとで,パラグアイはブラジル,アルゼンチン,ウルグアイと戦いました。結果は悲惨でした。入手可能な記録によると,開戦時の国の人口は恐らく100万人余りでした。終戦時の人口は,22万人と言われ,そのうち少なくとも19万人は女性と子供たちでした。その後ほかにも戦争がありました。一つはボリビアとの間でチャコの領有権をめぐる紛争に端を発した戦争で,その他のものは政情不安が原因でした。ですからパラグアイでは,他の人の上に権力を振るうことを望む人たちが,目的達成のためにしばしば実力に訴えるとしても,決して驚くことではないでしょう。

この土地にエホバの王国の良いたよりは,まず1914年以前には,郵送された聖書のパンフレットを通して,次いで1925年以後には,個人的に伝えられました。こうして,別の川,つまりパラグアイ川やパラナ川ではなく,「命の水の川」の水が全世界と同じようにここでも利用できるようになりました。―啓 22:1

王国の真理の到達

フアン・ムニスは,スペインからアルゼンチンに移動して,地球のこの地域で良いたよりを宣べ伝える業を組織し拡大するよう,当時ものみの塔協会の会長だったJ・F・ラザフォードから依頼を受けました。兄弟はブエノスアイレスに1924年9月12日に到着し,その後まもなく,個人的にウルグアイやパラグアイにも旅行して王国の音信を広めました。聖書の真理の種はまかれましたが,進展はほとんどありませんでした。

1932年に,パラグアイは別の戦争にかかわるようになり,今回はボリビアがその相手でした。再び,国内の人的資源は激減しました。国の経済は悪化し,王国の良いたよりを携えて国外から入る人たちの安全にも悪い影響が及びました。それでも,全面戦争が行なわれていた最中の1934年に,アルゼンチン支部はパラグアイの心の正直な人たちに「命の水」をただで飲むよう招くため,3人のエホバの証人を派遣しました。その3人とはマルトンフィ兄弟,コロス兄弟,レバチ兄弟です。―啓 22:17

僧職者からの激しい反対

レバチ兄弟はこう書いています。「その年の10月に,私たちは奥地に向かう準備を整えました。それぞれ文書の箱を二つとスーツケース一つを持ちました。アスンシオンからパラグアリまで列車で旅行し,そこからは交通手段がなかったので,約30㌔先の最初の目的地カラペグアまで徒歩で行きました。その晩は文書を枕に野宿をしました。次の日,証言を始めると,村の司祭が人々を訪問して私たちの話に耳を傾けないように告げました。それから司祭は付き人と共に馬で隣の村に行き,そこの人たちに,私たちの話に耳を傾けてはならず,私たちを街から追い出すようにと言いました。実際に私たちを追い出そうとした人たちもいました」。

司祭からのこのような圧力があったため,聖書文書の配布はわずかで,配布しても戻されたものさえありました。カラペグアから彼らは歩いて,キーンディ,カープク,ビヤ・フロリダ,サン・ミゲルと,次々に町や村を訪れました。サン・フアン・バウティスタに行くため,二人は一日中歩き,真夜中まで歩き続け,野宿をし,翌朝早く起きて旅を続けました。町に着くと,最初に警察署に寄り,自分たちの活動の内容を説明しました。警察の人たちはエホバの証人たちを敬意を持って迎えてくれました。その後,兄弟たちは一日中公の宣教を行ないました。

ところが,次の朝,マルトンフィ兄弟が借りていた小屋を出ると,意外なことが兄弟を待ち受けていました。兄弟は,「今日は変わったことがある」と言って,まだ中にいたレバチ兄弟を外に呼びました。前の日に配布した文書がびりびりに破られて,小屋の周りにばらまかれていました。一部の紙切れには,侮辱の言葉や下品な言葉,町から生きて出ることはできないだろうという脅しも書かれていました。

二人が朝食をとっていると,警察がやって来て二人を逮捕しました。どうしてこんなに変わってしまったのでしょうか。レバチ兄弟は後にこう報告しました。「理由を尋ねると,彼らは新聞を見せてくれました。その新聞は私たちを説教者の仮面をかぶったボリビアのスパイだとしていました。その新聞の編集長はその地区の指導的な司祭でした」。

アスンシオンへの帰還

二人の証人は囚人としてアスンシオンに送られました。それは徒歩での長い旅でした。警察署から次の警察署まで行く間,二人はいつも武装した看守に付き添われていました。道沿いでは,侮辱の言葉をかける人もいれば,がらくたを投げつける人もいました。しかし,警察は兄弟たちを丁寧に扱い,スパイの容疑はばかげているとさえ言いました。時には,馬に乗った警察官が兄弟たちの荷物を運んでくれることもありました。一人の警察官はマルトンフィ兄弟を自分の馬に乗らせ,自分は歩きながら,レバチ兄弟が神の王国について語るのを聞くことさえしました。

しかしキーンディで,兄弟たちが軍に引き渡されると,扱いは厳しくなりました。14日間,二人は留置場に入れられ,木製の椅子にまっすぐに座るよう命令され,横になることも立ち上がることも許されず,侮辱され,馬の鞭でたたかれました。その後パラグアリでは,二人は銃剣を持った12人の兵士たちの監視のもと,手錠をかけられて駅まで連れてゆかれました。そこで再び警察に引き渡され,アスンシオンまでの残りの旅を続けました。

首都の留置場での状況も厳しいものでしたが,二人は,まだ所持品として持っていた聖書を使って,他の囚人たちに証言しました。首都で1週間勾留された後,二人は最後に警察長官の事務所に連れてゆかれました。内務大臣のリバロラ大佐も同席していました。(後に分かったことですが,リバロラ大佐はサン・フアン・バウティスタの新聞が兄弟たちを責め立てたことを聞いた時,軍の部長たちにあてて,兄弟たちが必ず生きて首都まで戻ってくるようにせよとの電報を打ったのです。)レバチ兄弟は言います。「二人は起きた事柄について遺憾の念を表明しました。そして,ここはカトリックの国だが,信教の自由があり,今までと同様に家から家へ伝道することが正式に認められているけれども,身の安全のため首都から出ることがないようにすべきだと言いました」。

ブエノスアイレスのムニス兄弟は,この経験を聞くと兄弟たちに,戻って来て終戦までアルゼンチンにとどまるように,という指示を送りました。そして,翌年には終戦を迎えました。しかし,逮捕された二人とは一緒にいなかったコロス兄弟はアスンシオンに残りました。

パラグアイでの初穂

ほぼこの時期に,一人の開拓者は,レバノンからの移民であるしゅうとのためにアラビア語の文書が欲しいという男性に会いました。こうして,フリアン・ハダドは本を受け取り,その本は彼にとって宝物となりました。自分が真理を見いだしたことを確信したフリアンは,それを子供たちに教え始めました。彼はまた,近所の人たちに配布できるよう文書を依頼する手紙を協会に出しました。数年後,一人の開拓者が,サン・フアン・ネポムセノにいたフリアンを見つけ,さらに霊的な援助を与えました。1940年に,ハダド一家はバプテスマを受け,パラグアイで最初にバプテスマを受けた地元の伝道者となりました。それ以来,フリアンと,息子の一人と,数人の孫とは開拓奉仕にあずかる喜びを味わい,フリアンは77歳で亡くなる少し前まで開拓奉仕を続けました。

そのころ,フアン・ホセ・ブリスエラはチャコ戦争がきっかけで人生について真剣に考えるようになっていました。フアンは負傷し,ボリビア側に捕虜となりました。捕虜として彼は,父親を亡くした子供たちのことで泣いているやもめたちを目にし,カトリックの司祭たちがボリビアの兵士たちを祝福しているのを見ました。自分や他の人も,パラグアイの兵士として同じような祝福を受けたことを思い起こしました。それで,こう考えました。「何かがおかしいに違いない。もし神がおられるのなら,こんなことがあるはずはない。でも,もし神がおられるのであれば,見つかるまで探してみよう」。

戦後,フリアン・ハダドはカルメン・デル・パラナでフアン・ホセに出会いました。フリアンは,フアンの抱く質問に対する納得のゆく答えを彼が自分で聖書から見いだすよう助けました。ずっと昔に使徒パウロが述べたとおり,『神を模索する』人が『本当に神を見いだす』ことを神は可能にしてくださいました。(使徒 17:27)しばらくすると,フアン・ホセはまことの神エホバを見いだしたことを悟りました。(申 4:35。詩 83:18)彼は1945年にバプテスマを受け,妻のホビタは1946年にバプテスマを受けました。

そのころ,聖書の真理はサン・ロレンソの市場の野菜売り場でも話し合われていました。そこで伝道していたのはエホバの証人ではなく,エホバの証人が教えていた事柄に関心を持った女性にすぎませんでした。セバスティアナ・バスケスは,読み書きができませんでしたが,関心を持って耳を傾けました。霊的に進歩するために彼女は文字の読み方を学び,1942年にエホバの証人の一人としてバプテスマを受けました。

小さな群れに対する信仰の試み

1939年に,パラグアイに最初の会衆,あるいは,当時知られていた呼び方で言う会が,組織されました。伝道者はわずか二人でしたが,二人とも熱心な福音宣明者でした。その奉仕年度の間に,野外奉仕に合計847時間を報告し,1,740冊の書籍や小冊子を配布しました。彼らは集会を,アスンシオンのアンテケラ通りとタクアリ通りの間の,現在ガスパル・ロドリゲス・デ・フランシア通り(以前はアマンバイ)と呼ばれている場所の個人の家で開きました。約4㍍四方の部屋で行なわれていたそうした集会には,わずか五,六人しか来ませんでした。この場所は1944年まで十分に使えました。

翌年,兄弟たちはさまざまな聖書の話題の短い話の録音を放送するため2台の録音放送機を使い始めました。僧職者はひどく腹を立て,政府にエホバの証人の今後の活動をすべて禁止するよう陳情しましたが,証人たちは業を続けました。それらの録音された,聖書に基づく明快な話が効果的だったことは明らかです。続く数年の間そうした録音は,国の南部に入植したポーランド人,ロシア人,ドイツ人,ウクライナ人の移民の集落にさまざまな言語で音信を伝えるためによく活用されました。

エンカルナシオンの近くのポーランド人とウクライナ人の入植地に住んでいたゴラシク一家は,この地域で真理を受け入れた最初の人たちです。まもなくロベルト・ゴラシクは,蓄音機と文書を持ち,馬の背にまたがって,証言をしにさまざまな入植地に出かけるようになっていました。最初は,そこでの集会は月に一回開かれていましたが,その後,月二回になり,次いで毎週一回になりました。時には五つの異なった言語グループの人が出席していることもありましたが,全員,聖書の真理という清い言語を少しずつ学んでゆきました。―ゼパ 3:9

残念なことに,当時証言に参加していた人たち全員が命に至る狭い道を歩み続けたわけではありませんでした。アスンシオンにあった協会の文書集配所の監督が個人的な見解を唱道し始めました。その人がエホバの組織から離れると,他の人たちもエホバへの奉仕をやめました。王国宣明者の数は,1943年の33人から1944年には8人に減りました。その後どうなったでしょうか。エホバは,忠実な証人であることを示した人たちを祝福してくださり,組織は再び増加し始めました。―詩 37:28

宣教者は地元の人たちのやり方を学ぶ

アルゼンチンの支部事務所は,パラグアイの群れの福祉に対して愛情深く関心を示し,業を監督するためにグウェニッド・ヒューズを遣わしました。ヒューズ兄弟が1945年に,ものみの塔ギレアデ聖書学校に出席するよう招待されると,ユアン・デーヴィスを妻のデリアと共に派遣する取り決めが設けられました。ところが,二人の必要とする旅行用の書類の準備に時間がかかったため,ギレアデ学校の卒業生ホリス・スミスがまずパラグアイに入り,デーヴィス兄弟姉妹が1945年の暮れに川船でアスンシオンに到着した時に二人を迎えました。数日後,アルバート・ラングとアンジェライン・ラングが飛行機で到着しました。この二人もギレアデの卒業生でした。その後さらに人がやってきました。宣教者の宿舎として,また会衆が集会を開く場所を備えるためにも,一軒の家を借りました。宣教者は全員熱心に奉仕しましたが,もちろん,彼らは人々の生活の仕方に慣れなければなりませんでした。

宣教者たちは人々が非常に信心深いものの,聖書の知識を持っていないことに気づきました。各都市にはその守護聖人がおり,大抵の場合,「聖処女マリア」と同一視されています。

人々の習慣を知るようになるにつれ,その多くが人を引き付けるものであることに気づきました。市場には果物や野菜がうずたかく積まれ,女性たちは重い荷物を幅の広いかごに入れ,それを頭の上に載せてバランスを保っています。店には,ニャンドゥティとして知られる,非常に繊細で見事な,クモの巣に似た手編みのレースがあります。さらにすぐに気づいたのは,人々が仕事を朝早く始め,一日のうちで最も暑い真昼には,すべてを休業にして昼寝をすることです。宣教者たちは,王国の音信を伝えるため人々の家を訪れた時は,門のところで立ち止まり,手をたたいて,招かれて初めて中に入っても良いということを学びました。人々の親しみやすさや純朴さ,温かさを感じずにはいられませんでした。しかし,彼らの言語で,つまりスペイン語だけでなく,グアラニー語でも意思を通わせる方法を学ぶ必要もありました。

1946年4月,宣教者たちが到着してすぐ後に,デーヴィス兄弟姉妹は再びアルゼンチンに任命されました。集会に出席するようになってからわずか数か月のパブロ・オソリオ・レイエスは,まだバプテスマを受けていなかったのに「ものみの塔」研究の司会をするよう任命されました。なぜそれほど早かったのでしょうか。彼はその言語を話すことができ,かなりの霊的な進歩を遂げていたからです。しかし,問題に直面しました。後に,オソリオ兄弟はこう書いています。「『ものみの塔』研究の司会者に任命されて間もなく,間違った注解を正さなければならないことがありました。注解していた人は,かっとなって怒り,その場でけんかをふっかけてきました。もちろん,私は断わり,一人の宣教者がその場を静めるのを助けてくれました。人が円熟するのに少しの責任ほど役立つものはほかにありません」。残念なことに,かっとなって怒った男性は後にエホバへの奉仕をやめました。

組織を築き上げる

1946年が終わる前に,神権的な活動の中心地として使うための,もっと大きな施設が必要になりました。宣教者としてウィリアム・シリンガーとファーン・シリンガー,それに他の4人が到着し,宣教者が6人増えたのです。マリスカル・ロペス通りに面する大きな中庭付きの家が賃借されました。その建物は国防省の真向かいにありました。「王国会館」という大きな看板が目立つように正面の門に掲げてあったので,政府の軍の部局に関係する人たちはだれでもいや応無しにその看板を見ることになりました。

その年の9月1日に,協会はパラグアイに支部を設立し,その少し前に借りた建物が支部事務所の場所となりました。組織の改善により,証言活動は一層熱心に行なわれるようになりましたが,反対も強さを増しました。僧職者たちは情報を得たり,カトリックの郵便配達人にものみの塔の文書を配達させないよう恐れを吹き込んだりするために告白場を用いていたようです。

11月に,当時機能していた小さな四つの会衆を訪問し築き上げるためアルゼンチンからヒューズ兄弟がやって来ました。その前に兄弟は,ギレアデ学校に行き,米国オハイオ州クリーブランドで開かれた「喜びを抱く国々の民の神権大会」という国際大会に出席していました。その大会では,20の言語でプログラムが行なわれ,最終日には講演を聞きに来た8万人の人々でスタジアムはいっぱいになりました。ですから,ヒューズ兄弟には兄弟たちに分け与えるものがたくさんありました。逆境の中で奉仕を続けるためにはそのような励ましが必要でした。

革命のさなかに

1947年の初めに,革命が起きました。政府軍は宣教者の家の前の歩道に機関銃を並べました。一日中戦闘状態が続いた後,ある程度事態は収拾しました。その後,3月7日に状況は再び緊迫するようになりました。市街戦が行なわれ,戒厳令が敷かれました。アスンシオンの中心街にある警察本部は反乱軍に攻撃されました。

軍の総本部にも攻撃が及ぶことを恐れた将軍は,軍事目的のために宣教者の家を徴発し,3日間で家から立ち退くよう兄弟たちに求めました。上訴を受けて期間は10日に延長されました。革命のさなかにあって,極端な住宅不足のおり,兄弟たちは自分たちも作戦を展開していると思いました。“家探し作戦”です。エホバは,パラグアイの政府高官たちにご自分の証人たちの存在をずっと意識させておくことを望まれたようです。借りることのできた唯一のふさわしい家は,幾つもの大使館が並ぶ通りの大統領官邸のすぐ隣でした。

革命に関して,支部の僕は1947年3月26日付の手紙にこう書いています。「状況は,ここでは日ごとに悪化しています。この手紙を書いている時点で,数キロ先の上空を1機の飛行機が飛んでおり,空港を爆撃しているのだと思います。飛行機は対空砲の攻撃を受けています。大統領官邸の周りを数百人の兵士が取り囲み,恐ろしい銃声がしています。空は硝煙で青くなっており,その臭いは非常に不快です。革命勢力は市に間近に迫っており,銃声や砲声が絶えず聞こえてきます。……食糧事情も日ごとに悪化しています」。

革命軍は宣教者の家から10区画もないところまで到達しましたが,その後,政府軍が彼らを押し戻し始めました。この間ずっと兄弟たちは最善を尽くして証言を続けました。革命運動は約半年続き,特に地元の兄弟たちにとって本当に試練となりました。兄弟たちがクリスチャンの中立を保つゆえに,当局者たちは兄弟たちを厳しく扱いました。

互いに集まり合うことをやめない

革命が終わると,国は通常の状態に戻り始め,アルゼンチンに逃れていた人たちも戻ってきました。1948年6月4日から6日にかけてパラグアイで最初の大会を開く計画が立てられました。しかし,悪魔は忙しく騒動を起こしていました。6月3日に軍事クーデターが生じたのです。大統領と内閣は捕らえられてしまい,首都は大混乱に陥りました。大会はどうなったのでしょうか。

ふさわしい会館を借りようとする試みはうまくゆきませんでしたが,エホバは別の備えを設けてくださいました。軍の総本部の向かいにあった以前の宣教者の家が空き家になっていました。家主は兄弟たちがその家を大会のために使用することを許可してくれました。この家は,騒動の起きていた市の中心部からは外れていました。庭を大会のプログラムのために使用し,市外から出席している人を家に泊めることができました。やってきた人たちは,すべての人と握手をする本当のパラグアイ・スタイルで互いにあいさつをしていました。「全人類の来たるべき喜び」という公開講演を聞くために100人以上が出席しました。パラグアイの人たちにとって何と時宜にかなった講演だったのでしょう。

警察が暴徒を食い止める

エホバの証人がパラグアイで聖書教育の業を行ない始めた最初から,しばしば僧職者からの反対がありました。1948年に,国の南部にあるユティという小さな町で,巡回監督は町の中央部にある小さな公園で公開講演を行なう計画を立てました。そこはカトリック教会の真向かいに当たります。地元の司祭は,講演をやめさせるための行動を起こすよう人々を駆り立て,エホバの証人は教会を壊そうとしており,人々から宗教を奪おうとしていると言いました。講演が始まる前に,大勢の暴徒が教会の前に集合しました。エホバの証人が8人,通りの向こう側の公園にいるのを見ると,彼らは,「プロテスタントは出て行け! プロテスタントは出て行け!」と叫び始めました。一方,かなりの人数の人たちが話を聞こうと待っていましたが,暴徒がいたために公園に入ることを恐れていました。

警察は機関銃を暴徒の正面に置き,だれでもこの線を越える者がいれば,機関銃で撃つと言いました。これで暴徒が食い止められている間に,兄弟たちは安全にその付近から逃れることができました。しかしながら兄弟たちは,その週の間ずっと講演を宣伝してきましたし,関心を持つ人たちに話を聞く機会を与えることを決意していました。一人の地元の証人が自分の家を使ってもいいと申し出ました。一度話が終わった後,別のグループが到着して,彼らも話を聞きたがっていることが分かりました。それで巡回監督はその日,2回その話をしました。ユティというその町では,二つの種類の崇拝の生み出す対照的な実が一目瞭然になりました。

宣教者たちは強制移住の危機に面する

パラグアイは,一般に公式のレベルでは歴史を通じて宗教に対する寛容な立場を保ってきましたが,それでも1992年まで政府公認の宗教はローマ・カトリック教でした。これまでに生じた困難な状況は,普通,田舎の地域でのことで,地元の司祭とその熱狂的な支持者たちの扇動によるものでした。ところが,1950年の初めに,ものみの塔の宣教者を国外に追放しようとする動きが役人たちの間で生じました。

新しい法律により,すべての移民が国土省に登録をして,自分の職業を証明しなければなりませんでした。ところが,宣教者たちが登録をしようとした時,彼らは実際には国内に不法滞在しているので,逮捕の必要があり,それゆえに登録はできないと言われました。彼らの仕事の性質に関して当局者たちに偽りの報告が出されていたようです。

役人たちの中には好意的な人もいましたが,彼らの努力やアメリカ大使館の努力でさえ,硬い壁に突き当たったかのように見えました。中南米では,成り行きは,本人がどんな人かではなく,どんな人と知り合いかに左右されることが少なくありません。この場合,兄弟たちはたまたま大統領の事務所で働いている一人の好意的な人と知り合いでした。この人を通して,彼らは大統領の私設秘書を宣教者の家での夕食に招くことができました。その招待は快く受け入れられました。

これにより,宣教者たちの活動の本当の性質と,それが国に与える益について話し合う機会が開けました。登録の問題も話題に上り,大統領秘書は大いに関心を抱きました。その結果,1950年6月15日に初めて宣教者の一人が聖書教育の業を続けるために国内に滞在する合法的な権利を持つ移民として登録することができました。

田舎でのつらい一日

そのころは巡回監督の業はとりわけ困難でした。何時間もかけて移動しなければなりませんでしたし,ある場合には暴力的な反対にも耐えなければなりませんでした。ギレアデ学校の卒業生ロイド・グマソンは,1952年に巡回監督として全時間の奉仕を始めました。ユティの北にある一つの会衆で過ごした後,兄弟は起きた出来事を報告しています。近くの区域は少し前に奉仕されていたので,遠くの町で証言する計画が立てられました。6人の兄弟と4人の姉妹からなる一行は午前4時に出発しました。1歳の赤ちゃんがいる姉妹を除いて,全員が徒歩でした。午前11時に区域に着き,二つのグループに分かれて伝道しました。

『ちょうど1時間ほど奉仕して,正午の12時に,草葺き屋根の家で,関心を持つ家族に,座って証言していました』と,グマソン兄弟は言います。『すると,保安官が16歳の兵士を連れて,銃を向けながら入ってきました。保安官は強硬な態度で,その家族に文書を私たちに返すようにと言い,それから私たちに警察署まで同行するよう命じました。警察署に着くと,ほかの伝道者は皆すでにそこにいました。私は保安官を説得しようとしましたが,保安官はグアラニー語しか話せず,スペイン語は話せませんでした。その目は怒りで赤くなり,私たち全員に町から出るよう命令し,二度と来てはならないと言いました。

『1㌔ほど歩いた後,私たちは木陰に座って昼食を取りました。突然,グループの全員が立ち上がって,走り出しました。あたりを見回すと,保安官と兵士が馬に乗り,長い鞭を持ってやって来ました。グループと一緒にいるのが最善だと思い,私も走り始めました。小川を飛び越えた時,サングラスを落としてしまいました。それを拾おうと立ち止まった時,鞭が背中に当たり,バシッという鋭い音がしました。それから保安官は馬で私を踏みつけようとしました。しかし,馬については多少知っていたので,証言用のかばんを馬の目の前で前後に振ると,馬は私に近づこうとはしませんでした。

『そうしているうちに,保安官は他の3人の兄弟を繰り返し鞭でたたき,それから70歳の開拓者の姉妹を馬で踏みつけようとしました。結局二人は向きを変えて町に引き返してゆき,私たちは道を進み続けました。重傷を負った人は一人もおらず,背中に鞭のあとが赤く腫れていた人が数人いただけでした。でも,だれも痛みを感じませんでした。家に着いたのは午後8時で,結局16時間歩きました』。

小さな町や村ではそうした事件が起きましたが,それにもかかわらず,王国宣明の業は繁栄し続けました。

政府の変化に従う

1954年は,国の政界にとって危機的な年となりました。ドン・フェデリコ・チャベス政権が倒され,7月11日にアルフレド・ストロエスネル将軍が大統領に当選したのです。この時から軍事政権がスタートし,34年あまり続きました。エホバの証人の活動にはどのような影響があったのでしょうか。

4日間の地域大会がその年の11月25日から28日にかけて計画されていました。パラグアイでは戒厳令が敷かれ,どんな種類のものであれ,集会を開くには警察の許可が必要でした。このことが何か問題になったでしょうか。兄弟たちはすでに講堂を借りる手はずを整えていました。しかし,大会の許可を求めに行くと,大会を開くことはできないと告げられました。なぜでしょうか。一人の警察官は司祭から圧力が加えられていることを認めました。兄弟たちは何度も足を運び,いろいろ説得してやっと,許可は出ないものの,大会の時,警察はそっぽを向いているからと告げられました。兄弟たちは分別を働かせ,ビラや新聞では大会を宣伝しないことにしました。招待はすべて口伝えに行なわれました。大会は滞りなく行なわれました。

宗教上の反対は続く

カトリックの僧職者は,エホバの証人の活動を妨げようとする努力の手を緩めませんでした。1955年の終わりごろ,首都の72㌔東にあるピリベブイで,小さな巡回大会を開く計画が立てられました。大会初日の夕方,日が暮れた後,教区司祭が大会を解散させるため,こん棒やなたを手にした暴徒を率いて来ました。地元の学校教師が間に入り,暴徒は街路に引き下がりました。暴徒はそこで一晩中叫んだり,石を投げたり,爆竹を鳴らしたりしていました。

宗教上の反対は1957年3月1日にも,首都の南西にあるイタ市で感じられました。この日付のずっと前から,兄弟たちはこの市で巡回大会を開くための法律上の取り決めを設けていました。大会を開くための法的な許可は,イタ市当局からも首都の警察からも出ていました。ところが,大会のため兄弟たちがイタに到着し始めると,何かがおかしいことに気づきました。その都市はゴーストタウンのように見えたのです。通りには人っ子一人おらず,窓やドアは閉められ,シャッターが下ろされていました。なぜでしょうか。

教区司祭が,この大会の開催を阻止すると誓いを立てていて,誓いを守るためにあらゆる手を尽くしていました。飛行機をチャーターして田舎に数千枚のビラを撒くことまでしていました。そのビラには,このようなメッセージが書かれていました。「1957年3月1日金曜日午後5時30分,教会の正面に,市やさまざまな教区のカトリックのクリスチャン全員が一同に集結する。……6時30分には“エホバの(偽りの)証人”を排撃するためのカトリック教徒の圧倒的な示威運動が行なわれる。プロテスタントの異端者どもには,イタでいかなる集会も開く権利はない」。

兄弟たちは,司祭アヤラの計画を知らされると,大会の場所を,借りていた比較的広々とした施設から一人の兄弟の家に変更するのが最善と考えました。攻撃を受けた場合,その家のほうが,より安全に思われました。

情景を思い描くことができるでしょう。兄弟の家では,平和を愛するクリスチャン60人ほどが集まって神の言葉について考慮しています。二ブロック先では,1,000人を超える群衆が,刻一刻と人数を増しながら,司祭の長々とした攻撃演説と暴力行為を扇動する言葉に耳を傾けていました。

群衆の中のすべての人が司祭と行動を共にしたわけではありませんでした。パラグアイ空軍のソラノ・ガマラ少尉は司祭の気持ちを鎮めようとしました。そして,助手たちにも話しかけましたが,無駄でした。アヤラの仲間の司祭の一人が激怒して少尉を殴りつけたため,少尉の唇が切れました。これを見て,オオカミのような群衆は少尉に襲いかかり,殴って少尉の頭に切り傷を負わせました。暴徒は少尉からシャツを剥ぎ取り,シャツを棒の上にかけて火をつけました。ガマラは命からがら逃げました。

血の味を味わった暴徒は,「エホバをやっつけろ!」とか,「エホバなんて死んでしまえ!」と叫びながら,大会に向かって来ました。大会の開かれていた家に暴徒が近づいてくると,警護に当たっていた少数の警察はどこかに行ってしまいました。兄弟たちは内側から家の扉をふさぎました。暴徒の中には隣の家の敷地から裏の中庭に入ろうとした者もいましたが,隣の家の人が敷地に立って,彼らを通しませんでした。隣の家の人は,かつて自分が病気になった時,攻撃のさなかにあった家のエホバの証人がとても親切にしてくれたのを忘れていませんでした。その間,兄弟たちはエホバを信頼して,可能な限り大会のプログラムを続けました。安全のため,全員がその晩,家の中にとどまりました。次の日,アスンシオンの警察本部から通知があり,証人たちを保護するために大会の許可が取り消されました。地元の警察が暴徒に対応できなかったからです。バスがチャーターされ,大会の残りの部分を楽しむため,出席者たちは楽しそうに歌いながら,アスンシオンの支部兼宣教者の家に向かいました。彼らは信仰の試みに遭い,それゆえに強められていました。

法的認可

イタでの暴動の後,支部事務所は使徒パウロの歩みに倣い,パラグアイで『良いたよりを法的に確立する』ための手段を講じました。(フィリ 1:7。使徒 16:35-39)このことから良い結果が生じました。地元の法的要求をすべて満たした後,1957年10月14日に,ものみの塔聖書冊子協会は法人として認可を与えられ,この土地でのエホバの証人を代表することが正式に認められました。この通知は大統領令として新聞で公表されました。そのことは,必要な地所を購入する際に非常に有用であることが分かりました。そして,宣教者たちの恒久的な住居を取得することが可能になりました。

初めての映画

1954年から1961年にかけて,映画を使用した結果,一般の人々にエホバの組織について知らせる点でとても良い成果が得られました。国の東部のほとんどの場所を縦断して協会の映画を上映する取り決めが設けられました。人数を数えた5年の間に,7万人を超える人たちが観覧しました。

発電機に加え,映画の上映に必要な他の機材全部を田舎に輸送するのは,かなりの冒険であることが分かりました。大抵は,空いているサッカー・グランドが会場に選ばれました。暗くなる前に機材を設置して,その後,拡声器で一般の人たちを招待する発表が行なわれました。時には,破壊行為を行なう人たちが石を投げつけてくる時もありました。観客の数はさまざまでした。ヘネラル・アルティガスでは,会衆の伝道者が20人よりも少なく,町から8㌔のところで上映したにもかかわらず,一晩で約1,300人が映画を見に来ました。映画の出だしでシーンが変化すると,人々が大喜びして笑う声が聞こえることも珍しくありませんでした。結局,田舎の地域では,人々にとって映画を見るのはその時が初めて,という場合が少なくありませんでした。

映画は,地元のエホバの証人にも一般の人々にも,エホバの証人が世界中で行なっている活動の規模をよりよく理解する助けになりました。

宣教者は惜しみなく自らを与える

伝道者の数が増えるにつれ,宣教者たちは彼らが円熟に向かって進歩するよう援助することに努力を集中しました。宣教者たちが1953年にニューヨーク市で開かれた「新しい世の社会大会」に出席する特権を得た時,その良い成果が現われました。宣教者たちがいない間,地元の兄弟たちがアスンシオン会衆の監督の責任を引き受ける必要がありました。野外奉仕活動の新最高数が達成されました。地元の兄弟たちはとてもよくやっていたので,宣教者たちが戻った時,地元の兄弟たちは引き続きその割り当てを果たすよう依頼されました。これにより,宣教者たちは他の場所で奉仕できるようになりました。

宣教者にとってなすべきことはたくさんありました。ワーナー・アペンゼラーは,この国に来て約4か月で,片言のスペイン語しかしゃべれませんでしたが,エンカルナシオン周辺の巡回区を回るよう任命されました。道路はまだほとんど舗装されていませんでした。移動は普通,徒歩か馬で行ないました。巡回区全体にわずか100人しか伝道者がいませんでしたが,励ましと訓練は彼らの霊的な進歩に貢献しました。数年後,ロベルト・ゴラシクの息子でこの地域出身のラディスラウ・ゴラシクが巡回の業に任命されました。

1961年の末には,ギレアデ学校で訓練を受けた宣教者がパラグアイで活動を始めてから15年がたっていました。当時国内には411人のエホバの証人がおり,22の会衆に組織されていました。この地域で,59万4,000時間もの時間が良いたよりを宣べ伝える業に費やされていました。そのころ,宣教者は五つの宣教者の家で奉仕していました。宣教者の家はアスンシオン,エンカルナシオン,ビヤリカ,コロネル・オビエド,ペドロ・フアン・カバエロにありました。これらの人口密集地から宣教者たちは周辺の地域にも足を伸ばして伝道していました。1961年までに,50人の宣教者がパラグアイでの業に加わりました。病気や他の理由で29人は母国に戻らなければなりませんでした。しかし,その全員がさまざまな方法でパラグアイでの王国の関心事の促進に貢献しました。1961年12月には,ギレアデで初めての10か月の課程を卒業したエルマー・ピシュとメリー・ピシュがパラグアイに到着しました。

自分たちの集会場所を建てる

このころまでに,アスンシオンの兄弟たちは,王国会館を建設し,献堂していました。これはパラグアイでエホバの証人が所有する初めての王国会館でした。煉瓦とセメントで建てられた立派な建物で,200人以上が座れる部屋がありました。男性も女性も子供たちも,穴を掘ったり,コンクリートをこねたり,煉瓦を磨いたり,ペンキを塗ったり,掃除をしたりする作業に一緒に加わったことは,地域社会の人たちに対して何とよい証言になったことでしょう。これらエホバの証人が勤勉に働く人たちであることは見ていた人たちにとって明らかでした。

国の南部の田舎の地域にあるバカウでは,まだ会衆になっていない,エホバの証人の小さな群れがありましたが,あまりにも大勢が集会に出席するため,自分たちにも王国会館が必要だという結論になりました。しかし,彼らにはお金がありませんでした。どうすればよいのでしょうか。彼らは森林伐採の経営者と約束をして,グループで,ある土地を切り払うのと引き換えに,建設資材とお金を手に入れました。会館が完成すると,かなり遠くに住んでいた関心を持つ四つの家族が,集会を逃さないため,自分の農場を売り払って王国会館の近くに引っ越してきました。

その後,集会や大会のための施設がさらに建てられました。兄弟たちは何度もマルティン・ペスカドール・クラブを使いましたし,アスンシオン国立大学やアメリカン・スクールの施設を使うこともありました。その後,1970年代の初めに,自分たちの大会センターを建てることのできる土地が寄贈され,何年もの間に徐々に具体化されてゆきました。

ふさわしい支部施設を備える

活動が増し加わったうえに,その結果もたらされたエホバからの祝福により,もっとふさわしい支部施設を備えることも必要になりました。長年の間,この目的のためにさまざまな家屋を借りてきました。しかし1962年に,当時ものみの塔協会の会長だったネイサン・ノアは,王国会館も含めた支部兼宣教者の家を建てるため,市内のもっと良い場所に地所を購入するよう指示を与えました。見つかった土地は首都の大通りの一つに面していて,パラグアイの中心的な運動競技場から2区画離れたところにありました。設計図が書かれ,市の認可が下りた後,1965年1月に建設は始まり,10か月もしないうちに工事は完成しました。1966年初め,ノア兄弟の地帯訪問の際に,兄弟と共に新しい施設を献堂できたことは兄弟たちにとって喜びでした。

建物の位置ゆえにアスンシオンの大勢の人たちは,エホバの証人が自分たちの間にいることを毎日気づかされました。そしてスポーツ・イベントに向かう時に通り過ぎる際,エホバがパラグアイにご自分の証人を持っておられることを,さらに多くの人たちが思い起こさせられています。

新たな管理の取り決め

世界中の協会の支部事務所と同じく,1976年2月1日に一人の支部の監督の取り決めに代わって,支部委員会が機能し始めました。それまでの30年の間に,アルバート・ラング,ウィリアム・シリンガー,マックス・ロイド,ロイド・グマソン,ハリー・ケイス,エルマー・ピシュが異なる期間,支部の監督として奉仕しました。全員が王国の業に立派に貢献しました。今や,円熟した男子から成る委員会が国全体のエホバの証人の活動を監督する業に参加するという取り決めが実施されるようになりました。

エルマー・ピシュが支部委員会の調整者に指名され,チャールズ・ミラーとイサーク・ガビランが他の委員として任命されました。ピシュ兄弟とミラー兄弟はどちらもギレアデの卒業生です。ガビラン兄弟はパラグアイ人で,パラグアイで全時間奉仕を13年間行なっていました。

役人からの反対という別の波

世界中の他の場所と同様に,エホバの証人は政治問題に関して中立です。彼らはイエスが追随者たちに言われた『あなた方は世のものではありません』という言葉を心に深く刻んでいます。(ヨハ 15:19)「自分を偶像から守りなさい」という聖書の助言を思いに留め,自分たちが偶像崇拝的であるとみなす国家主義的な儀式にも参加しません。(ヨハ一 5:21)政治体制に深くかかわって生活し,国家主義を人々を一致させるための手段とみなしている政府の役人たちは,最初,エホバの証人の立場を理解しにくく思うかもしれません。役人たちは他の宗教グループが,僧職者でさえ政治や国家主義的な儀式に躊躇せず参加することを知っています。僧職者たちは,政府の役人たちの間にエホバの証人に対する疑いの種をまくために,このような状況をしばしば利用します。

1974年10月31日付の手紙の中で,当時の宗教局局長マンフレド・ラミレス・ルッソ博士は,エホバの証人の信条と組織に関する情報を求めました。1976年2月25日,「あらゆる教育機関」で「国旗掲揚の儀式と国歌の斉唱を毎日行なうこと」を求める政府の法令が公布されました。宗教刊行物である「エル・センデロ」(通り道)の9月3日-17日号は,センセーショナルな書き方をした,「エホバの証人」と題するページいっぱいの中傷記事を掲載しました。それに続いて,政府与党の機関紙である「パトリア」(祖国)も1977年3月14日に「狂信」と題する同じような中傷記事を載せました。

そうしているうちに,エホバの証人の中央事務所の代表者が宗教局局長との会談に呼び出されました。その会合の後に,エホバの証人の教えの要約が作成されました。それは国旗,国家,兵役に関するエホバの証人の立場に特に焦点を当てていました。数日後,警察署の職員オビドゥリオ・アルグエロ・ブリテスがアスンシオンにある協会の事務所を訪れ,1月6日から9日にかけて開かれたエホバの証人の大会に関する情報を求めました。その後まもなく,法務長官クロティルデ・ヒメネス・ベニテス博士が,以前に宗教管理事務所で考慮された事柄と同じ論題について協会の代表者と会談しました。

この一連の出来事に続いて,1978年に,国歌を歌わないエホバの証人の子供たちが,別の学校に入学する可能性を断たれた状態で放校されるようになりました。しかし,それで終わりではありませんでした。

追放 ― どのような意味か

1979年1月3日に,“爆弾”がついに爆発しました。エホバの証人を代表するものみの塔協会の法的な地位を無効にする布告が公布されたのです。

その布告を公表する新聞の見出しは,エホバの証人にもそうでない人にも同じように衝撃を与えました。事実上すべての報道機関がこの事件に関心を示しました。この行動に好意的な人もいれば,非難する人もいました。新聞「ABC」は,この布告が「世界人権宣言第18条で保障されている基本的人権の侵害」であるとの意見を表明しました。

支部委員会は,禁令について知らされるとすぐ,その禁令がどの範囲に及んでいるのかは分かりませんでしたが,支部の業務が別の場所で行なえるよう物事を組織しました。教育・宗教大臣のラウル・ペニャ博士は,「決してこれを宗教上の迫害とみなすべきではない」と宣言しました。それでも,エホバの証人は小さなグループに分かれて個人の家で集会を開くことを余儀なくされました。宣べ伝える活動は制限されましたが,それでも大半の兄弟たちの熱意や勇気は影響を受けませんでした。クリスチャンの大会から益を得るには,しばらくの間,他の国のそのような大会に出席する取り決めを設けなければなりませんでした。

この一連の出来事はどうして始まったのでしょうか。マンフレド・ラミレス・ルッソ博士は,政治的な立場だけで行動したのでしょうか。興味深いことに,アスンシオンの新聞「ウルティマ・オラ」(最後の時)は,1981年8月25日にマンフレド・ラミレス・ルッソとホセ・メース大司教が親しそうに向き合って立っている写真を大々的に取り上げました。写真の下には,「教育省宗教局局長のマンフレド・ラミレス・ルッソは,カトリック教会に対して行なった奉仕を認められて,『偉大なる聖グレゴリウス』勲章を法王大使聖下ホセ・メース大司教から与えられた」という注釈が付いていました。

禁令が課された後,各地でエホバの証人の逮捕が相次ぎました。個人の家で小さな集会を開いていたり,聖書の希望の音信を他の人に伝えるために戸別訪問をしていたり,関心を持つ人たちの家で聖書研究を司会していたりするところを見つけられると,刑務所に入れられました。

1981年10月8日から11日の間に,エンカルナシオンで9人の兄弟たちが投獄されました。地元の長老で,まだ逮捕されていなかったアントニオ・ペレイラが,投獄されている兄弟たちの福祉を確かめるために警察署長のフリオ・アントニオ・マルティネスとの面会を求めると,署長は彼の逮捕を命じ,最も警備の厳しい監房に入れてしまいました。そのころ,隣の会衆のジョゼフ・ツィルナーが,起きた事柄を確認するため,最初に投獄された兄弟たちの一人の母親の家に行きました。きっとだれかが警察に通報したに違いありません。10分もしないうちに兄弟は警察官に付き添われてエンカルナシオン刑務所に向かっていたのです。

迫害の炎をあおる

禁令が課されてから数年すると,逮捕されることはなくなってゆきました。兄弟たちは徐々に王国会館を使用したり,小さな大会を開いたりし始めました。しかし,こうした事柄もすべて,1984年にエホバの証人の4人の生徒が国歌を歌おうとしなかったためアスンシオン職業技術学校から放校されたことを地元の新聞が発表すると,突然に乱されてしまいました。この報道がきっかけで,エホバの証人に対するさらに大きな運動の炎が燃え上がりました。その結果,学齢期にあるエホバの証人の子供たちのほとんど全員が放校されました。そうした子供たちの多くは,二度と学校に戻れませんでした。

その年の5月2日から5日にかけて,新聞「オイ」(今日)は,カトリックの司祭アントニオ・コロンの書いた一連の中傷記事を掲載しました。その年の後半,新しい教育・宗教大臣が就任しましたが,新大臣も前任者の方針を継承しました。新大臣が国家主義的色彩の濃い宣言を出した後,エホバの証人の子供たちの大半は,翌年に学校へ入学することを拒否されました。放校された6人と入学を拒否された4人の合計10人の生徒一団のために訴えが裁判所に提出されました。信仰や良心の命じるところを捨てることなく学校制度の中でエホバの証人が子供たちに教育を受けさせる権利を求める訴えです。法廷の裁定はエホバの証人に有利なものでした。しかし,教育・宗教省は最高裁判所に上告しました。

1985年の間中ずっと,この問題は世間の注目を集めました。コラムニストの中には,エホバの証人の立場を支持する人もいましたが,政府関係者たちは引き続き攻撃的でした。1985年7月23日,論議がまだ白熱している真っ最中に,エホバの証人の世界本部からの手紙がパラグアイの大統領に送られました。

学齢期の子供たちに関する下級裁判所の有利な判決を受けて,支部事務所は諸会衆に王国会館を再びもっと公に使用し始めるよう勧めました。これによって当局は,わたしたちに反対するのか,もっと自由を認めるのか,はっきりとした態度を取らざるを得なくなりました。

1986年3月21日に,支部委員会の調整者は警察本部に出頭を命じられました。「あなた方は集会場所を再び使用し始めているが,そのことは許可されていない」という警告が与えられました。ガビラン兄弟は答えました。「ひとこと言わせていただきますと,わたしたちの法的認可を取り消す布告はその合憲性が問われているのではないでしょうか。現時点で,その件は最高裁判所で係争中であり,裁判所の判決はまだ出されていません。合憲性を問う訴訟はその布告の執行を一時的に停止させますから,法律上の立場からすると,最終判決が出ていない限り,わたしたちには活動を続ける権利があります」。警察官は,「私は法律家ではないからその件に関しては議論できません。そういうことであれば,あなた方の集会場所のリストを私に出してください。今後のことはこちらで検討します」と答えました。こうして会談は終わりました。要求された情報は,対応する法的な論議と共に提出されました。王国会館が再び閉鎖されることはありませんでした。

ところが,1987年2月26日,最高裁判所は裁判長ルイス・マリア・アルガニャ博士のもと,学齢期の子供たちの件に関してエホバの証人に敗訴の判決を言い渡しました。知識階級の大勢の人たちは,この判決は政治的な判断を下したものであるとみなし,判決を非難した人は少なくありませんでした。こうしたことすべてはエホバの証人の業にどのような影響を及ぼしたでしょうか。

良いたよりの宣明を続ける

王国宣明の業はそうした困難な時期にも中止されませんでした。1984年1月に支部事務所は,孤立した区域で一時的特別開拓者が奉仕する運動を始めました。最初の年にはこの計画に30人が参加しました。75の異なる町が訪問を受けました。14の町では地元の当局が兄弟たちに伝道を許可しませんでした。しかし,他の場所では,この霊的な業の価値を当局者に説明すると,彼らは兄弟たちに保護を差し伸べ,中には警察署そのものに寝泊まりさせてくれたところもありました。

この活動の結果,多くの関心を持つ人が見いだされました。アスンシオンから約200㌔離れたところに住んでいる一人の女性は,開拓者から「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」という本を受け取った後,さらに援助を求める手紙を支部事務所に書きました。その依頼にこたえるためエホバの証人の夫婦が到着した時,この女性は目に涙をためて天を見上げ,エホバに感謝しました。この女性は親族からの反対があったにもかかわらず,エホバの忠実な僕となり,近所の人や知り合いに証言しています。

これら以前には孤立した区域だったところに,伝道者の新しい群れや新しい会衆が組織されました。一時的特別開拓者の運動は,毎年の取り決めとなって今でも続いており,すばらしい成果を収めています。

圧力は弱まる

政府関係者の間で,エホバの証人とその活動のことは一層知られるようになってきました。役人たちにエホバの証人の活動についてさらに明確に理解してもらうための努力は,エホバの証人の大会センターで1987年3月21日と22日に大会を開く許可を,最終的に口頭で得られるようになるまで続けられました。

それは兄弟たちにとって何と喜ばしい日だったのでしょう。兄弟姉妹たちは目に涙を浮かべながら,互いに抱き合っていました。9年に及ぶ圧力や緊張や不安定な情勢やあからさまな迫害を経験してきて,崇拝のためパラグアイで自由に集まれたのはこれが初めてでした。出席者の中には,この特別な機会に招かれたアルゼンチン,ブラジル,ウルグアイの代表者たちがいました。それは禁令の影響に対するとどめの一撃でした。

法的認可が再び

パラグアイは変化の時期に入っていました。政治的な緊張が高まりつつありました。ついに,1989年2月2日の夜,アスンシオンで重火器の音が聞こえました。革命が始まったのです。アルフレド・ストロエスネル将軍の軍事政権は翌日終わりを迎えました。

法的認可を得るための努力が直ちに再開されました。ついに1991年8月8日に,その申請は承認されました。パラグアイのエホバの民にとって何と幸せな日だったのでしょう。

1992年6月20日には,新憲法が施行されました。集会の自由,良心的兵役拒否の自由,信教やイデオロギーの自由,また国教の廃止など,人権について扱った重要な条項が含まれていました。これらや他の進展は,うれしい安堵をもたらしました。

仕事を続けなさい

パラグアイで良いたよりを宣べ伝える点では,なすべき仕事はまだまだたくさんあります。1979年に禁令が課された時,パラグアイには1,541人の王国宣明者がいました。法的認可を再び得ることができた年には,3,760人が報告しました。今では6,200人を超える伝道者がいます。しかし伝道者と人口の比率は,まだ1対817です。人々と接触するためにさらに何が行なえるでしょうか。

毎年,会衆がない町で証言するため,定期的に特別開拓者が派遣されています。しかし,人口の49%は田舎の地域に住んでいます。1987年に支部は,特別開拓者の移動式住居として使えるよう必要な基本的日用品を備えたトラックを用意しました。会衆や一時的特別開拓者によって網羅されていない田舎の区域に到達するためにこのトラックが使われるようになってから,もう10年がたちます。このような方法で,命の水はこの国の広大な区域全体に広められているのです。

川沿いに住んでいる人たちに証言するためにも特別な努力が払われています。そうした人たちが外の世界と接触する唯一の手段は船という場合が少なくありません。そこで1992年に協会は,4人の乗組員のための部屋を持つ船を建造しました。川岸に住む羊のような人たちを探すため,計画的な運動を開始しました。その船は適切にも,「開拓者」と名づけられました。

グループの責任者の兄弟はこう書いています。「私たちはパラグアイ川をジグザグに進み,アスンシオンから483㌔離れたプエルト・フォンシエレに到着し,家から家へ宣べ伝え始めました。あるお年寄りの女性との会話の中で,私たちは,神がすべての悪を滅ぼすとおっしゃっていること,私たちがエホバの証人として神がこのことをご自分の王国を通して行なわれることを伝えているのだということを話しました。その女性は会話をさえぎると,孫娘に向かって,おじいちゃんに『同じグループの人たち』が来たことを知らせるように言いました。間もなく,おじいちゃん,つまり70代になる男性がやって来ました。畑仕事をしていたので汗をかいていました。その男性は私たちを温かく歓迎し,目に涙を浮かべて,ついに私たちが来たことを神に感謝しました。そして,ずっと私たちが来るのを待っていたと話してくれました。少し驚いた私たちは,説明をお願いしました。その男性は,ペニャ・エルモサ島のある軍の隊長が聖書と『神が偽ることのできない事柄』という本をくれたのだと答えました。隊長は,詩編 37編10,11節とか詩編 83編18節といった幾つかの聖句に印をつけており,いつかエホバの証人が家に来て,エホバの目的についてもっと教えてくれると言っていました。直ちに聖書研究が始まりました」。

現在までにこの船はパラグアイ川の川岸を,北はボリビア国境から南はアルゼンチン国境まで少なくとも2回は網羅しており,総航行距離は約1,260㌔になります。

熱心な働き人たちが収穫に加わる

イエスは,1世紀のご自分の弟子たちに指示をお与えになった時,「収穫に働き人を遣わしてくださるよう,収穫の主人にお願いしなさい」とお勧めになりました。(マタ 9:38)エホバの現代の証人たちは,その言葉を心に深く刻んでおり,また主は,パラグアイでの霊的な収穫に加わるよう,熱心な働き人を大勢畑に遣わしてくださいました。

1945年から現在までに,191人の宣教者がパラグアイで奉仕してきました。このうち10年以上国内にとどまった人は60人おり(ギレアデの卒業生ではない宣教者として奉仕している22人を含む),今のところ,84人の宣教者がこの国で奉仕しています。宣教者が活動を集中したパラグアイ東部全体には,現在,61の進歩的な会衆があります。

エホバの証人一人当たりの人口がまだ817人もいるこの国で証言を行なうのを助けるため,近隣の支部はここで奉仕するよう特別開拓者を派遣してきました。他の証人たちも,いろいろな国からパラグアイに移動してきました。アルゼンチン,イタリア,ウルグアイ,英国,オーストリア,カナダ,スイス,スウェーデン,スペイン,チリ,デンマーク,ドイツ,フィンランド,ブラジル,フランス,米国,ボリビア,ルクセンブルクといった所から彼らは移動してきました。彼らは王国宣明の業を推進するために,さまざまな方法で自分たちの資産や能力を用いてきました。都会の区域で働いてきた人たちもいれば,生活環境がかなり原始的な町や村で宣教を行なっている人もいます。その大半は開拓者です。王国会館や支部施設の建設を援助してきた人たちもいます。

長年の間,パラグアイはさまざまな国家的背景を持つ人たちを移民として受け入れてきました。ドイツ人,ポーランド人,ロシア人,ウクライナ人,日本人,韓国人の移民たちは国内のいろいろな場所に定着しています。これらの人々もパラグアイに移動してきた宣教者や他の証人たちからの証言を受けています。

では,グアラニー語を話す人たちはどうなっているでしょうか。これらの人たちは人口の90%を占めています。最近の調査によると,パラグアイに住む人の37%はグアラニー語しか話せません。地元の証人たちは,これらの人々の間での業のほとんどを行なっており,その業を遂行するためにグアラニー語のブロシュアーが出たことを喜んでいます。

地元のエホバの証人の中には,長年全時間宣教に携わってきた人たちがいます。エドゥルフィナ・デ・インデは,特別開拓者として奉仕してきた36年間に,78人を献身とバプテスマの段階に至るまで援助しました。姉妹と夫は,自分たちの奉仕してきた地域に五つの繁栄する会衆があることを喜んでいます。マリア・チャベスも,特別開拓者として奉仕してきた39年間に大勢の人を援助してきました。

開拓者ではないさらに大勢の人が,やはりエホバに熱心に奉仕しています。多くの人が集会に出席するためにも,田舎の区域で徹底的に証言するためにも長い距離を歩きます。区域に向けて夜明け前に家を出ることも少なくなく,大抵は“パラグアイ・スープ”(乾燥食料)をたっぷり持っていったり,トルティーヤやユッカの根を持っていったりしました。7時までには証言を始める準備が整っており,ほとんど日が暮れるまで奉仕を続けます。家に着いた時には疲れていますが,エホバとそのすばらしい目的について他の人に告げるため自分を惜しみなくささげたことを幸福に感じます。

渇いた者たちが『命の水を価なくして受ける』

聖書に予告されていたとおり,だれでも望む者は「命の水を価なくして受けなさい」という招待が差し伸べられています。(啓 22:17)パラグアイには,その招待を受け入れてきた人が大勢います。

その一人はエレニアです。彼女はローマ・カトリック教徒として育てられ,教会の伝統と宗教的な迷信を熱心に信じていました。死者と地獄の火に対して大きな恐れを抱いていました。また,吉凶の兆しを信じ,悪い兆しと読み取れるものを見たり聞いたりした時には怖れで一杯になりました。エレニアは20年間,そのような恐れの中で生活していました。その後,1985年にエホバの証人と聖書を勉強し始めました。勉強が進むにつれ,真理の水は彼女を大いにさわやかにし,神の言葉が予告しているパラダイスで永遠に生きたいという願いを起こさせました。

1996年に,カラペグアという町に住むイサベルという名前の女性も命の水を味わいました。しかし,「永遠の命に導く知識」という本の中に書いてある事柄が自分の信条とは一致しなかったため,エホバの証人に,もう訪問しないようにと言いました。ところが,その本を自分で読み,それについて近所の人たちにも話したため,もう一度証人たちに会った時には,もっと学びたいと思っている4家族の人たちもそこにいました。ペンテコステ派の説教師からの圧力を受けて,その大半の人の関心は冷めてしまいましたが,良い証言が行なわれ,最初の女性ともう一人の近所の人が命を与える真理から益を得つづけました。

ディオニシオとアナに真理の水が最初に差し伸べられた時,二人は,ほかの人たちと同じように結婚せずに20年間同棲していました。ディオニシオと長女は1986年にエホバの証人と研究を始めましたが,アナと残りの二人の娘は反対しました。アナはエホバの証人にディオニシオと話すのをやめてくれと頼んだり,殺すと言って脅したり,警察を呼ぶと言ったり,カトリックの修道女に相談したりしました。その後,アナは聖書研究が長女を危険にさらしているという根拠で少年審判所に訴えを起こしました。判事は,ディオニシオが実際には家族の必要をきちんと満たしていることを知ると,ディオニシオと一緒に聖書を調べてみるようアナに勧めました。アナは,友人である修道女がエホバの証人は集会で不道徳なことを行なっていると警告したと言って異議を申し立てました。その女性判事は,アナを安心させ,それからこう言いました。「わたしたちカトリック教徒は聖書を知っていると言いますが,実際には何も知りません。エホバの証人は聖書を勉強します。あなたも聖書を調べてみるよう私は勧めます」。次いで判事はアナにディオニシオと結婚するよう勧めました。

驚いたアナは修道女のところを再び訪ね,自分たちと聖書を研究してくれるよう頼みました。修道女は,その必要はないと答えました。そのうえ,アナにディオニシオと結婚しないようにと言いました。もっとも,以前ディオニシオが聞く耳を持たなかったころ,修道女はアナにディオニシオと結婚すべきだと繰り返し言っていたのです。それからしばらくして,アナの父親が重病にかかり,地元のエホバの証人たちはこの家族をかなり援助しました。これがアナにとって転機となりました。彼女は研究を始め,ディオニシオと結婚しました。今では,ほぼ10年が経過し,ディオニシオは長老となり,家族全員がエホバに熱心に奉仕しています。

愛のうちに忍耐したことは,パラグアイの大勢の人の心を動かしてきました。例えば,サン・ロレンソ地域では,1982年に会衆は一つしかありませんでした。禁令にもかかわらず,多くの伝道者が開拓奉仕に参加し,その結果,近くの諸都市を含む会衆の区域は定期的に奉仕されるようになりました。エホバは彼らの熱心さを祝福されました。今ではその地域に九つの会衆があります。ワーナー・アペンゼラーと妻のアリスは,この地域で奉仕している間に見た増加が,パラグアイで奉仕してきた40年間の中で最大の喜びであると感じています。

そのような増加は,一つの地域だけでなく,国中で引き続き見られています。1996年には,新しい立派な支部施設が,アスンシオンから約10㌔離れた場所で献堂されました。国内の各地に王国会館があり,聖書教育の集会がそこで定期的に開かれています。エホバの証人は引き続き,人々の家を訪問し,街路で人々に話しかけています。彼らはあらゆる人々に「命の水を価なくして受けなさい」という招待を熱心に差し伸べています。

[210ページ,全面図版]

[213ページの図版]

フアン・ムニスは,王国の音信をパラグアイに初めて伝える業に参加した

[217ページの図版]

フリアン・ハダド,パラグアイで聖書の真理を最初に受け入れた人の一人

[218ページの図版]

ホビタ・ブリスエラ,1946年にバプテスマを受け,今でも特別開拓者

[218ページの図版]

セバスティアナ・バスケス 1942年以来エホバに仕えている

[222ページの図版]

ウィリアム・シリンガー,亡くなるまでパラグアイで宣教者として40年奉仕した

[230ページの図版]

宣教者としてパラグアイで40年奉仕しているワーナー・アペンゼラーと妻のアリス

[233ページの図版]

自分たちの王国会館ができてうれしく思っている(アスンシオンで)― パラグアイで初めてエホバの証人が建てて所有したもの

[235ページの図版]

エホバの証人の大会センター

[237ページの図版]

ビヤリカでサトウキビの収穫のために働く人たちに証言する

[243ページの図版]

フェルナンド・デ・ラ・モラ(ノルテ)王国会館

[243ページの図版]

アスンシオンのビスタ・アレグレ(ノルテ)王国会館

[244,245ページの図版]

熱心な働き人がさまざまな国からパラグアイに移動して証言活動に参加している: (1)カナダ,(2)オーストリア,(3)フランス,(4)ブラジル,(5)韓国,(6)米国,(7)ベルギー,(8)日本,(9)ドイツ

[246ページの図版]

パラグアイ川に浮かぶエル・ピオネロ号

[251ページの図版]

アスンシオンの近くにあるパラグアイのベテル・ホームと支部事務所,およびそこで奉仕している人たち

[252ページの図版]

支部委員(上から下へ): チャールズ・ミラー,ウィルヘルム・カステン,イサーク・ガビラン