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日本

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粘り強く熱心に働く,一致して事に当たる,といった特質のゆえに,日本は第二次世界大戦の荒廃から立ち直り,世界の工業大国の一つという現在の役割を担うようになりました。今日,1億2,500万の人口を擁するこの国は,桜の花,ツツジ,雪を頂く3,776㍍の富士山で知られているのと同じほど,カメラや車や電気製品の商標名でも知られています。

しかし,戦後の神権的な進展のほうがもっと印象的です。1951年に東京で開かれたある大会に,ものみの塔ギレアデ聖書学校を卒業した40人ほどの宣教者と,地元の日本人の奉仕者約200人が出席しました。当時,ものみの塔協会の会長だったN・H・ノアは,地元の日本人の王国宣明者が非常に多くなって,その中にいる宣教者を捜すのが難しくなるような時が来るのを楽しみにしていると言いました。その日が来るまで,それほど長くかかりませんでした。宣教者たちが神と共に働く者として,イエス・キリストを土台とし,日本人の伝道者の最初の1,000人を集めるのに10年かかりました。ところが,1992年には,平均して毎月1,000人の新しい伝道者が増加するまでになっていました。(コリント第一 3:9-11と比較してください。)日本列島に住む,神の王国の奉仕者の総数は,22万663人の最高数に達し,18年以上,毎月最高数を記録しています。これまでに生じてきた事柄は,「雲のように,巣箱の穴に向かうはとのように飛んで来るこれらの者はだれか。島々はわたしを待ち望むからである」というイザヤ 60章8,9節の成就の感動的な部分です。

1973年の「年鑑」(日本語版は1978年)は,1972年までの日本のこの初期の歴史を扱っています。その年には,伝道者が約1万4,000人おり,そのうち3,000人以上が,急速に拡大しつつあった開拓奉仕の分野にあずかっていました。このころの歴史とその後の25年を,これから振り返ってみましょう。

初期にまかれた真理の種

伝統的に仏教と神道を奉じるこの国で,これほど豊かな霊的収穫を産み出した種はどのようにまかれたのでしょうか。1911年に,当時の,ものみの塔協会会長C・T・ラッセルは,実情調査のため日本を見て回りました。ラッセルの報告によると,キリスト教世界の宣教師たちはかなり落胆しており,一般の人々は宗教に対して純粋な関心をほとんど示していませんでした。しかし,人々が必要としているのは「王国の福音」であることをラッセルは感じました。アメリカ人のR・R・ハリスターが東洋における協会の代表者として任命されました。「世々に渉る神の経綸」をはじめ,パンフレットや書籍が,おもに雇われた日本人によって翻訳され,数百万部配布されました。1926年に,米国在住の日本人,明石順三が協会の代表者として日本に派遣されました。1927年の初め,支部事務所が神戸に開設され,その年の後半には東京に移転しました。1938年にはすでに,雑誌や書籍を頒布する聖書文書頒布者<コルポーター>の数は110人にまで増えていました。しかし,日本全土で熱狂的な宗教的国家主義があおり立てられ,それが直接第二次世界大戦へとつながってゆきました。1939年6月21日には一斉検挙が行なわれ,灯台社(当時エホバの証人の日本の組織はそう呼ばれていた)のメンバー130人が逮捕,投獄され,戦時中の組織的な活動は事実上停止しました。

残念なことに,支部の監督は圧力をかけられて背教しました。石井家や三浦家といった,ごく数少ない忠実な例外を除いて,灯台社のメンバーのほとんどが彼に従い,エホバへの奉仕をやめてしまいました。このグループが忠実を保てなかった原因の一つとして,彼らが一人の人間,つまり明石順三に従っていたことを挙げることができます。明石は,すでに妻がいたにもかかわらず,一夫多妻という日本の伝統的な習慣を受け入れました。妻のほうはニューヨークで40年以上開拓者として忠実に奉仕を続けました。ウエスト・マンハッタンには今でもその人,つまり小河内姉妹を懐かしく思い出す人たちがいます。ギレアデの宣教者たちは,戦後日本に入った時,大阪に灯台社の大きなグループを見つけました。これらの人たちはバプテスマの代金を請求し,さらに悪いことに,明石にならって非常に不道徳な生活をしていました。彼らはそのような生き方をやめようとしなかったので,会衆の清さを保つため,約30人を排斥しなければなりませんでした。

忠実を保った人々

それとは対照的に,日本で最初の聖書文書頒布者<コルポーター>であった石井治三とマツエのことを考えてみましょう。石井兄弟姉妹は1929年から1939年にかけて日本全国を回りました。1939年6月に二人は逮捕され,仙台の刑務所に入れられました。マツエは今でも,最初の1年間,狭くて汚い,ノミのいっぱいいる独房に入れられていたことを覚えています。シャワーを浴びることも風呂に入ることも許されず,体は南京虫にかまれました。体重は30㌔にまで落ち,骨と皮だけになり,死ぬ寸前でした。別の刑務所に移送されると,いくらか健康を取り戻し,1944年の末には釈放されました。夫も同じような仕打ちを受け,後には,輸血を拒否して忠誠を示しました。(使徒 21:25)兄弟は71歳の時に亡くなりました。マツエは今でも忠実な証人として奉仕を続けています。姉妹はこう言います。「能力と知性に恵まれていた戦前の多くの仲間の方々は,大きな圧力を受けた時ほとんど神の組織から離れていきました。……忠実を保ったのは,特別の能力があるわけではない,目立たない人々でした。確かに,私たちはだれでも,常に心からエホバに依り頼んでいなければなりません」。―箴 3:5

もう一組の忠実な夫婦は,1931年に聖書文書頒布者<コルポーター>の奉仕を始めた,三浦勝夫とはぎのの二人です。彼らも1939年に広島で逮捕されました。彼らは天皇を崇拝することや日本の軍国主義を支持することを拒否しました。勝夫はひどく殴られ,1945年8月に原爆によって刑務所が破壊されるまで監禁されていました。兄弟はわずか38歳でしたが,健康を損なっていたため,釈放された時は老人のように見えました。そして仙台近郊の石森に戻りました。そこではもっと前に釈放されていたはぎのが幼い息子勉を育てていました。

勝夫はどのようにしてエホバの組織と再び連絡を取ることができたのでしょうか。日本の有力紙,朝日新聞は,ものみの塔の宣教者である5人の若い女性が大阪に来ていて,日本家屋で和式の生活をしていることを知りました。記者たちはそれらの宣教者を取材し,5人の姉妹を,桜の花のように天から舞い降りてきた天使にたとえたすばらしい記事を写真付きで掲載しました。この記事には宣教者の家の住所も載せられていました。数百キロ北の地で,勝夫は偶然この記事を見つけたのです。それですぐに組織と連絡を取り,開拓者になりました。兄弟は,1957年に亡くなるまで忠実に奉仕を続けました。

現在92歳の出井みよは今でも日本の神戸で奉仕しています。姉妹は真理のうちを歩んだ65年の間に数々の苦難を経験してきました。興奮を誘う姉妹の経験談は,「ものみの塔」誌,1991年9月1日号に掲載されています。

“49年組”

第二次世界大戦後,宣べ伝える業のための状況はかなりよくなっていました。しかし1947年に明石順三は,ニューヨークのブルックリンにあるものみの塔協会の事務所に,自分はもはや聖書の教えに同意していないということを知らせました。ノア兄弟は直ちにハワイに呼びかけ,宣教者となる訓練を受けるためギレアデ学校第11期のクラスに進んで入る気持ちのある日系ハワイ人を募りました。1920年代の初めにJ・F・ラザフォードの秘書を務めたことのあるハワイ支部の監督は,「ところで,ノア兄弟,ハズレット夫妻はどうでしょうか」と,嘆願しました。それで,二人は50歳に手の届く年齢でしたが,その招待はドン・ハズレットと妻のメーブルにも差し伸べられました。ギレアデでは,桃原真一とエルシー谷川が20人以上の生徒たちに日本語を教えました。

1949年に,「ハワイの人たち」,つまりドン・ハズレットとメーブル・ハズレット,ジェリー当間とヨシ当間,桃原真一と桃原正子およびその3人の子供たち,そしてエルシー谷川が,爆撃で焼け野原になった東京都内の,割り当てられた区域で働くようになりました。その同じ年に,彼らに続いてオーストラリアからのグループ,エードリアン・トムソン,パーシー・イズラブとイルマ・イズラブ,ロイド・バリーとメルバ・バリーが,戦争で荒廃した都市,神戸で奉仕するよう任命されました。これら最初に日本にやって来た宣教者たちは“49年組”と呼ばれるようになりました。このうちの6人は,任命地でいわば“職務中に”亡くなり,ほかの8人は日本や,ニューヨークのブルックリンで今も全時間奉仕を行なっています。1949年には,8人の地元の奉仕者も王国奉仕に時間を費やしたことを報告しました。

東京における増加

ハワイから来たグループの東京での活動はすばらしい進展を見ました。ヨシ当間は,戦後のその年に「防空壕から防空壕へ」と伝道しながら区域を回ったことを覚えています。姉妹はこう言います。「人々は貧しく,戦争の影響から立ち直るために奮闘していました。食物は配給制で,ドン・ハズレットはキャベツの配給を受けるために近所の人たちと一緒に列に並びました」。しかし,訪問する家の人たちは礼儀正しく親切で,これらの宣教者たちが日本語で話そうと奮闘する間,辛抱強く聴いてくれました。宣教者たちは家に入る時には靴を脱ぐことを学ばなければなりませんでした。それから,一段上がって隣の部屋に入ります。でも,天井が低いため,背の高かったドン・ハズレットは何度も頭をぶつけて傷をたくさん作りました。一,二年のうちに,「ハワイの人たち」は東京にしっかりとした土台を据え,現在では会衆の数は139になっています。

“49年組”の中の,油そそがれた証人ドン・ハズレットとメーブル・ハズレットは,高齢になっても,野外奉仕の面で立派な模範を示しました。ドンが1966年に亡くなってその葬儀が行なわれた時に棺を王国会館に運び込んだ6人の兄弟は,ドンが真理に導いた人たちでした。彼らは当時,東京にあった成員19人の日本のベテル家族の中で奉仕していました。

メーブルはドンの死後8年生きました。70代後半になって姉妹は結腸ガンを患いました。東京の虎ノ門にある一流の病院は理解ある態度を示し,2週間前に入院するという条件で,無輸血手術を行なうことに同意しました。入院した最初の日に,一人の若い医師が,なぜ輸血を拒むのか知りたいと思って,姉妹の病床を訪れました。これがきっかけとなって,聖書に関するすばらしい討議が始まり,手術の日までそれは毎日続きました。その手術は大手術だったため,4人の医師で行なわれました。メーブルは意識が戻ると,「アダムはのろわれよ!」と言いました。何とぴったりの言葉でしょう。メーブルが集中治療を受けたのはわずか一日だけでしたが,その日に同じ外科手術を受けて輸血をしたほかの4人の患者は数日間,集中治療室にいました。ところで,その若い医師はどうなったでしょうか。後にこの医師はメーブルにこう言いました。『ご存じないでしょうが,あの手術室には5人の医師がいたんです。私もそこにいて,あなたに輸血が絶対に行なわれないように見守っていたんです』。富永医師は横浜で聖書研究を続けました。現在,富永医師とその妻,同じく医師である父親とその妻は,会衆の活発な成員です。入院したことから得られたすばらしい成果でした。

メーブルは,東京,三田の宣教者の家にいて,宣教者奉仕を続けました。78歳の時,ガンが再発し,姉妹は寝たきりになりました。しかし,ある晩,宣教者たちが帰宅して,「王国ニュース」のキャンペーンで得られたすばらしい経験を語ったところ,メーブルは私も「王国ニュース」を配りたいから,服を着せて外に連れて行ってくださいと言って譲りませんでした。近所の家を3軒訪問する力しかありませんでしたが,その3軒は姉妹が日本に到着して初めて証言した時の家と同じ家でした。数週間後,姉妹は地上での歩みを終え,天での割り当てに移りました。―ルカ 22:28,29と比較してください。

神戸における進展

神戸でも増加はすぐに見られました。日本で最初の真に神権的な大会は,神戸の宣教者の家の広々とした敷地で,1949年12月30日から1950年1月1日にかけて開かれました。神戸の垂水小学校の講堂で開かれた日曜日の公開集会では,出席者が101人にまで膨れ上がりました。垂水の大きな銭湯で3人がバプテスマを受けました。

神戸の宣教者グループのエードリアン・トムソンは,日本語がめきめき上達し,1951年には日本で最初の巡回監督に任命され,後に,最初の地域監督になりました。兄弟はその後の発展の堅固な土台を据えることに大きく貢献しました。ニュージーランドで長年忠実に開拓奉仕を行なってきた姉妹の息子であったエードリアンは,トップクラスのラグビー選手として名を馳せていましたが,第二次世界大戦が勃発すると,スポーツで脚光を浴びる立場を退き,バプテスマを受けた証人となり,その後オーストラリアで全時間奉仕を始めました。1977年に亡くなりましたが,“トミー”の尽きない活力と,エホバへの『全き専心を求める』態度はこれからもずっと人々の記憶に残ることでしょう。―民 25:11

宣教者たちが日本の家屋や文化や言語に慣れるには時間がかかりましたが,彼らがおもに関心を抱いていたのは聖書の真理を他の人に伝えることでした。オーストラリアのクイーンズランド州出身で,外向的な“タイガー”(パーシー)・イズラブは楽しそうに思い出を語ります。「私たちはたくさんの聖書研究を司会しました。私は36件,イルマや他の宣教者たちも同じくらい司会していました。研究生はたいてい,宣教者の家に来て研究をしていました。毎日何人か来ていました。毎晩,三つかそれ以上の聖書研究があり,家のどの部屋でも研究が行なわれていました。私たちは英語と日本語の両方の研究資料を広げました。そして二人とも,行の数を長々と数えながら答えのある箇所にたどり着くという方法で研究生を助けました。悠長なやり方でしたが,それでも研究生は,聖句を読み,それを出版物と比較するだけで理解してゆくのですから驚かされました。しかも彼らは今日でも真理の中にいるのです」。

初めのころ,宣教者たちは宣べ伝えるための王国文書をほとんど持っていませんでした。戦前の日本語版の「光」の第2巻が1箱,神戸で見つかりましたが,人々は『まず第1巻を読みたい』とよく言いました。それでも,神戸で真理に入った一番最初の日本人の中の一人は,第2巻を読んで関心を持つようになり,そのうち,円熟して,巡回監督になりました。間もなく,「神を真とすべし」という本が資料として使われるようになりました。研究生の中には,その本の幾つかの章を自分で翻訳していた人たちがいたので,それを謄写版で印刷して,他の聖書研究でも使うよう,宣教者たちに貸し出しました。ところが,これらの翻訳の一部は怪しいものでした。イルマ・イズラブは,そうした翻訳の一つに,“イルマ・イズラブさんによる解釈”という脚注が幾つかのページに挿入してあるのを知って,たいそう驚きました。

それから約10年後に,パーシーは福岡市で大変すばらしい経験をしました。雇われて二人の人を殺害していた狂暴な死刑囚,中田公弘は聖書研究をすることを望み,パーシーが彼と研究をしたのです。その結果,公弘は「古い人格」を完全に捨て去り,刑務所内でバプテスマを受けました。パーシーは彼のことを,「私が知っている中で最も熱心な王国伝道者の一人」というふうに言っていました。(エフェ 4:22-24)公弘は点字を学んで,「神を真とすべし」という本や『御国のこの良いたより』という小冊子,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌の記事を点訳しました。これらの出版物は,盲学校をはじめ日本の各地に配布されました。しかし,1959年6月10日の朝早く,警察の車が宣教者の家の前に止まりました。その朝処刑されることになった公弘は,処刑に立ち会うようパーシーに頼んだのです。パーシーは頼みに応じました。処刑場で二人は短い会話を交わし,最後に王国の歌を一緒に歌いました。公弘はパーシーに,「なぜあなたが震えているんですか。緊張するのは私のほうのはずですよ」と言いました。絞首刑になる前の最後の言葉は,「今日,私はエホバと,贖いの犠牲や復活の希望を固く信じています。しばらくの間,私は眠りますが,もしエホバのご意志でしたら,私はパラダイスで皆さんとお会い致しましょう」というものでした。彼は世界中の兄弟たちに温かいあいさつを送りました。公弘は,命には命を与えるという公正の要求を満たして死にました。絶望的でかたくなな犯罪者としてではなく,献身してバプテスマを受けたエホバの忠実な僕として死んだのです。―使徒 25:11と比較してください。

イルマ・イズラブは,10年ほどガンと闘った後,日本の海老名にあるベテル・ホームで1988年1月29日に亡くなりました。その後パーシーは,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の成員の一人として協会の年次総会に数回出席し,最近の総会では日本に関するすばらしい報告を行ないました。その後,兄弟も1996年に亡くなりました。

メルバ・バリーは神戸で野外奉仕に出た最初の日に,言語の障壁をものともせず聖書研究を始めました。それは1949年の暮れのことでした。その研究から二人の新しい伝道者が誕生し,そのうちの一人,高木美代は数十年にわたって開拓奉仕を行ないました。後になって美代はメルバに,二人の宣教者の姉妹が私のところに来るためにぬかるんだ原っぱを通っているのを見て感激しました,と話しました。48年後の現在も,美代は車椅子で家から家への奉仕を続けています。任命地が変わって東京で宣教者として奉仕するようになるまでの3年足らずの間に,メルバは7人ほどの人が真理を受け入れるのを援助しました。これらの人たちは長年耐え忍び,幸いなことに1995年の阪神大震災にも生き残りました。

さらに多くの宣教者が野外へ

1950年の初めには,ギレアデの第11期のクラスの卒業生で,ニューカレドニアへのビザが入手できなかったため任命地が変更になった5人の姉妹たちが,日本の神戸に来ました。その中に,今では開拓奉仕歴67年になるロイス・ダイアと,モリー・ヘロンがいました。二人は過去49年間パートナーとして奉仕し,現在では東京,三田の宣教者の家で奉仕しています。ロイスの経験談は「ものみの塔」誌,1980年9月15日号に掲載されています。

モリー・ヘロンは思い出を語ります。「神戸のホームは広々していたので,最初の宣教者たちが到着した6か月後にそこで記念式が行なわれました。約180人が姿を見せ,食堂も廊下もいっぱいになり,通訳される話を窓越しに聴いた人さえいました」。その集会で野外奉仕に関する発表があり,それを聴いた人たちが,翌朝(日曜日)35人ほど,奉仕に参加するためにやって来ました。バリー兄弟はこう報告しています。「それぞれの宣教者が,新たに関心を抱いた人を三,四人連れて玄関に立たなければなりませんでした。宣教者たちはまだ言葉が流暢には話せなかったので,家の人は一緒にいる日本人のほうを向いて,彼らと話をしました。それら関心を抱くようになって間もない人たちが家の人に何を話していたのかは,結局分からずじまいでした」。

1950年6月末に突如,朝鮮戦争が勃発しました。もちろん,日本にいた宣教者たちは,韓国で奉仕していた同級生8人がどうなっているのか知りたいと思いました。その答えは長く待つ必要はありませんでした。戦争が始まって2日後のこと,神戸の宣教者数人が通勤電車で帰宅する途中,駅に着いた時に反対方向からの電車も同時に駅に着きました。両方の電車が駅を出ていった時,何としたことでしょう。神戸の宣教者たちは,反対側のプラットホームに韓国の宣教者のグループ8人が立っているのを見たのです。本当に思いがけない再会でした。韓国にいた宣教者たちは,民間人を運ぶ最後の飛行機で国外に脱出することができたのです。こうして,神戸の宣教者の家の人数は10人から18人に増えました。大部分が焼け野原になっていた神戸市内の区域は,徹底的な証言を受けました。

間もなく,スコット・カウンツとアリス・カウンツは東京の宣教者の家に移りましたが,10月には,韓国から来た8人の宣教者が全員,名古屋に開設された新しい宣教者の家に移動しました。韓国からのグループのうち,ドン・スティールと妻のアーリーンだけは,状況が許すようになった時,韓国に戻ることができました。

収穫を待って色づいている畑

名古屋に宣教者の家が開設された時,グレース・グレゴリーとグラディス・グレゴリーもそこにいました。二人はその区域が収穫を待って色づいていることを知りました。1951年4月にグレースは,ピアノ販売店で働いていた18歳の杉浦 勇に会いました。グラディスは昔を振り返って語ります。「母親は勇を神道の一派の信者となるよう育てました。それで勇は,日本は神州(神国)なので,神風が日本を守り,戦争に勝つよう助けてくれると聞かされていました。しかし,日本が降伏し,戦争によって生じたひどい経済状態と食糧不足を経験するようになった時,日本の神々に対する勇の信仰は崩れ去りました。父親は終戦の翌年に栄養失調で亡くなりました。若い勇は地球が楽園になるという希望に良い反応を示し,1951年10月の巡回大会でバプテスマを受けました」。

その大会には約50人の宣教者と250人ほどの日本人が出席しました。勇は,第二次世界大戦が6年前に終わったばかりなのに,宣教者たちが偏見もこだわりもなく,日本人の中に溶け込んでいることを見て非常に感銘を受けました。杉浦兄弟はギレアデ学校,巡回,地域の奉仕を含め,45年にわたり魂をこめた奉仕を続け,今は海老名ベテルで支部委員として奉仕しています。

グラディス・グレゴリーは,ある女性を訪問した時のことを覚えています。その女性は元は名目だけの仏教徒でしたが,後にキリスト教世界のいろいろな教会に行ってみました。しかし,幻滅を感じて教会を離れていました。自分の聖書(文語)には7,000回近くも神ご自身の名前が出ているのに,牧師が神とはだれなのか,神の名前をなぜ使わないのかをはっきり説明できなかったことにその女性はがっかりしました。牧師は彼女のたくさんの質問に答える代わりに,「ただ信じなさい」と言いました。彼女は隣の家の人にグラディスが配布していた「ものみの塔」誌(1951年5月から月1回,日本語で発行されていた)を入手し,読んだことに感銘を受けて,グラディスを捜し出したのでした。この経験について,グラディスは後にこう語りました。「彼女は自分の質問に対する聖書の答えを見て感動し,早速,会衆の書籍研究にやって来ました。その場で行なわれた次の日の奉仕に関する発表を聞くと,私も行きたいと言いました。私たちは,その前にまず少し勉強する必要があるんですよと言って,彼女のはやる気持ちを静めようとしました。すると,『分かりました。勉強しますが,奉仕にも行きたいんです』と言いました。彼女は確かにやって来て,最初の月に50時間以上奉仕しました。1年もたたないうちにこの女性はバプテスマを受け,開拓奉仕を始め,後に産出的な特別開拓者として奉仕しました。80歳になった今でも,開拓奉仕にとどまっています」。

エホバが成長させてくださった

1951年に大阪での奉仕を割り当てられた5人の宣教者の姉妹たちは,大勢の人が研究のために宣教者の家に直接来てくれるのをうれしく思いました。しかし,これらの新しい宣教者たちは日本人を一人一人見分けるのを難しく感じた時期がありました。スイス生まれのリナ・ウィンテラーは言います。「研究生が到着すると,5人がそろって玄関に出て,研究生に自分の司会者を見つけてもらいました」。宣教者たちは日本の習慣に倣って,家に来た人が履けるよう玄関にスリッパを並べました。しかし,宣教者たちは,お客様用のスリッパとトイレで使うスリッパの違いが分かりませんでした。ある日,一人の研究生がリナにそっと,「トイレ用のスリッパをお客さんに出すことはしないのよ」と教えてくれました。宣教者たちは徐々にいろいろなことを学んでゆきました。

神戸の宣教者の兄弟たちは時々大阪を訪れ,そこにいる5人の独身の姉妹たちを援助しました。当時は大阪全体に一握りの伝道者しかいませんでした。ある時,ロイド・バリーは,大阪の幾人かの宣教者と一緒に,甲子園の広い野球場で行なわれた屋外オペラ・コンサートに行きました。「いつかこの球場が大会で満員になったらすばらしいと思いませんか」と,兄弟は言いました。それは不可能なことに思えました。

ところが,1994年の終わりごろ,現在はブルックリンの統治体の一員であるバリー兄弟が,新たに建てられた兵庫大会ホールの献堂の話をするよう招かれました。このホールは神戸地区の52の会衆も使用しています。それは楽しい集会で,その地方の最初の日本人伝道者が何人も出席しました。翌日は,それよりもさらに大規模な集会が計画されていました。この集会はどこで開かれるのでしょうか。ほかならぬその甲子園球場です。4万人を超える人々が集まりましたが,それはなんと秩序正しい集団だったのでしょう。電話回線で結ばれた日本中の他の40か所の会場にも大勢の人が出席しました。したがって出席者合計は25万4,000人を超えました。1958年に開かれた大規模なニューヨーク大会よりも多くの人が出席したのです。エホバは日本における業を何とすばらしく『成長させてくださった』のでしょう。―コリ一 3:6,7

1951年の初め,横浜に宣教者の家が開設されました。この都市も非常に産出的な畑であることが分かりました。宣教者の家の最初の僕であったゴードン・デアンは,今では妻を亡くしていますが,東京に支部事務所を置く海老名ベテルで全時間奉仕を続けています。今日,横浜には114の会衆があり,地元の兄弟たちが宣教者たちの後を継いで活動しているため,拡大は続いています。

1952年に京都市にも宣教者の家ができました。大阪と神戸の宣教者たちが京都に移動して,そこの新しい熱心な宣教者のグループに加わりました。1954年4月に,ロイス・ダイアとモリー・ヘロンも神戸から京都に移ることになりました。

京都には約1,000もの仏閣があり,町ごとにお寺があると言ってもいいほどです。戦時中,この都市は爆撃を受けませんでした。寺院を保存するためです。ロイスは思い出して語ります。「そこにいる間に,私たちは食料雑貨卸売業者の美馬勝三に会いました。彼は長期にわたる病気で自宅療養中でした。熱心な仏教徒ではありましたが,まことの神のことを知りたいと私に言いました。聖書研究を始めるのはとても容易でした。後に妻と娘たちも勉強し,家族が全員真理に入りました。人当たりの良い勝三は京都会衆の霊的な柱となりました」。

スイス生まれのマルガリット・ウィンテラーは,京都で姉のリナと一緒になりました。この新しい任命地で,彼女は話される言葉だけでなく話されない言葉にも慣れなければいけないことに気づきました。例えば,文書を受け取るかどうかを妻が決めることを期待する男性は,妻が家にいないことを示すため,ただ小指を振るだけかもしれません。一方,妻のほうは,夫を表わす親指を立てて,夫が家にいないと言います。マルガリットは,京都の人たちが提供された雑誌を注意深く1ページずつめくりながら,ただじっと見ているだけの時は,実際にはボディーランゲージで雑誌を断わっており,口で言わなくても悟ってほしいと思っているのだということに気づきました。言葉によるものにせよボディーランゲージによるものにせよ,決してすべての答えが否定的であったわけではありませんでした。今日,京都にはエホバの証人の繁栄する会衆が39あります。

寒い冬と新しい言語に対処する

1953年にアデライン名幸とパートナーのリリアン・サムソンを含む宣教者たちが,さらにハワイから日本に着いた時,彼らは北の方の寒い都市,仙台に派遣されました。仙台では夜間の気温が摂氏零下5度にまで下がります。ドン・ハズレットとメーブル・ハズレットが前の年の10月に新しい宣教者の家を開設していて,桃原真一と正子もそこに来ていました。熱帯のハワイ育ちの人たちにとって,仙台の冷たい冬は身にこたえました。彼らは“新鮮冷凍ハワイ人”として知られるようになりました。

リリアンは回想します。「生まれて初めて,かまどで燃やす薪の割り方を習いました。火の気は台所にしかなかったので,湯たんぽで寝床を暖めました。昼間は石焼きいもを買ってポケットに入れ,それで手を暖め,昼食にそれを食べました」。

しかし,問題となったのは寒さだけではありませんでした。宣教者たちが日本語の文字を読むことができるようになるまでは,まずい状況も生じました。アデラインがいまだに忘れられないのは,日本語が読めなかったために,赤い呼び鈴だと思って,火災報知器のボタンを押した時のことです。何事かと人々がアパートから一斉に飛び出して来ました。彼女はそのことでひどく叱られました。

とはいえ,これら宣教者たちの記憶には,日本に来て間もないころの個人的な経験よりもはるかに多くのものが含まれています。宣教者たちにとって,日本人の大勢の兄弟姉妹たちや,彼らと一緒に経験した出来事がすべて“家族のアルバム”の中に収められています。日本における神権社会の成長に寄与した他の出来事を振り返りながら,そのアルバムのページを調べてご覧になるようお勧めします。

特別開拓者が新たな畑を切り開く

特別開拓者の活動は地の最も遠いところにまで王国の音信を広める点で重要な要素となってきました。これら特別開拓者の一部は宣教者から個人的に訓練を受け,エホバに対して同じような熱心さを示しました。これら日本人の特別開拓者たちは,宣教者たちが働いている場所とは別の,もっと小さな市や町に派遣されました。初期の特別開拓者たちの多くは,任命された時,バプテスマを受けてからまだ日の浅い人々でしたが,非常に優れた専心と忍耐を示しました。

涌井ひさ子は,バプテスマからわずか1年4か月後に,任命を受けました。ひさ子とパートナーの佐藤孝子とは,1957年から一緒に特別開拓者として奉仕しています。二人が九つの任命地で,バプテスマを受けた証人となるよう援助してきた人は80人を超えました。

ひさ子は,最初のころ司会した聖書研究の一つにエホバの祝福がそそがれた結果についてこう報告しています。「その女性は熱心な教会員でしたが,『聖書研究でしたら,毎日だっていいですよ』と言いました。神の名前がエホバであり,神がイエスの父であることを知るとすぐに教会を脱退し,やがて野外奉仕に出るようになりました」。会衆が一つもない,非常に寒い地域に引っ越しても,その熱意が冷めることはありませんでした。今日,彼女の夫と4人の子供たちは全員真理のうちにいます。3人の息子は長老として奉仕しており,娘は特別開拓者です。

ひさ子と孝子は,山梨県の都留にいた時,増加のペースが非常に遅いことに気づきました。集会にはわずか四,五人しか出席していませんでした。巡回監督は,二人の任命地を別のもっと産出的な区域に変えてもらうほうがよいのではないかと考えましたが,姉妹たちは都留を離れることに乗り気ではありませんでした。エホバが自分たちを都留にお遣わしになった以上,ここにも羊がいるに違いないという気持ちが非常に強かったのです。そこで巡回監督は,「もし週末の公開講演に18名が出席するようであれば,この任命地にとどまりたいという姉妹たちの願いを協会に伝えましょう」と言いました。開拓者たちは,日曜日の集会に人々が来るよう,聖書的に行なえる事柄をすべて行ないました。驚いたことに,19人もの人が出席しました。次の週,出席者はまた四,五人に戻りましたが,開拓者たちは引き続きその区域で働くことができました。今日,都留会衆には,一群のすばらしい伝道者がおり,美しい王国会館もあります。

小林計子も特別開拓者の一人で,新しい区域を開拓することに40年をささげてきました。京都にいた宣教者のポーリーン・グリーンが初めて彼女に会った時,計子は人生の目的を探し求めていました。ポーリーンは伝道の書 12章13節を見せ,計子はそれに満足しました。彼女は,クリスチャンの生き方に最もよく調和しているのは宣教者の生き方であると結論し,そのような人生を自分の目標としました。特別開拓者として任命された時は,バプテスマを受けてからわずか3年しかたっていませんでした。それでも,特別な奉仕においてエホバの愛情深い保護の手をすぐに経験するようになり,良い成果を見ました。さらに,計子は,田舎の村に住む人たちの感じ方,つまりほかの人がどう思うだろうかという恐れが人々の決定に影響を及ぼすということを理解しました。この問題にどのように対処したのでしょうか。姉妹はこう言います。「友達になるよう努力しました。人々を愛し,どこへ行っても,エホバもそこの人々を愛しておられるということを忘れないようにしました。そうすると,すぐに親しくなりました」。

1971年3月,支部事務所は孤立した区域での伝道を目的に,さらに多くの新しい特別開拓者を派遣しました。その典型的な例は,出井みよの養女である出井あけみ(現在は小原)と,吉岡和子(現在は徳盛)です。二人は成人したばかりの若い姉妹で,日本の中央部にある加賀での奉仕を割り当てられました。それまで二人は,自分の親や会衆という保護の“傘”のもとで奉仕していました。「でも今度は全然違います」と和子は回想します。「割り当てられた区域の中で良いたよりを宣明していたのは私たちだけでした」。よそ者に懐疑心を抱く人たちと打ち解けるために,土地の方言で,しかも全く同じイントネーションで自己紹介ができるように練習しました。真理を受け入れた人たちの中には,陸上競技選手だった3人の青年がいました。この3人が野外宣教を始めた時,彼らについて行くのは大変だったと,和子は語ります。3人は長距離走者だったので,文字通り農家から農家まで走ったのです。

熱心な特別開拓者たちが,それまで未割り当てだった区域で働くうちに,会衆や孤立した群れの数は増加し,1976年1月には1,000の大台に達しました。

沖縄における進展

沖縄の島々でも進歩が見られました。120万の人々が住むこれらの島は,第二次世界大戦後,米国の管理下に置かれました。沖縄の人々は生来,控え目で,辛抱強く,温かく,親しみやすい気質で,そのうえ,沖縄の兄弟姉妹たちは真理に対する熱意や忍耐という立派な特質を示します。

沖縄での奉仕は日本支部に割り当てられ,そのころ東京の支部の監督だったロイド・バリーが1953年に,彼としては初めて沖縄を訪れました。出迎えに来ていた4人の兄弟は全員が,再建のために来ていたフィリピン出身の労働者で,すぐに兄弟を車で米軍の営倉に案内しました。そこには3人の兵士が拘禁されていました。この若者たちは聖書の真理の側に立場を取ってはいましたが,かなり無神経なところがあり,極端でした。例えば,夜遅くまで王国の歌を大声で歌うので,兵営内の人はだれも眠れませんでした。それで,もっとバランスを取るよう援助されました。ついでながら,刑務所の従軍牧師は,これらのことを見て,キリストの王国は1,000年先のことだと言いました。これらの青年のうちの一人は後にブルックリンのベテル家族の一員となって奉仕しましたし,3人とも,クリスチャン会衆の信頼できる僕となりました。その訪問の間に集会が開かれ,100人を超える島の人々が,かまぼこ兵舎に集まりました。

沖縄生まれの比嘉ヨシはその集会に出席していました。沖縄では,死んだ人の体を,子宮の形をした入口の大きな墓穴の中に置くのが習慣でした。それは死んだ人がその出て来た場所に戻ることを示していました。第二次世界大戦の激烈な沖縄戦の際に,ヨシはそうした墓穴の一つに避難し,その中で人間の遺体を見ました。そして,死んだ人は本当に死んでいるのだということを確信するようになりました。ですから,聖書を学んだ時,死者の状態やすばらしい復活の希望についての教えをすぐに受け入れました。

ヨシは,沖縄で最初の伝道者,また最初の正規開拓者となりました。地元のラジオ局は聖書の話を放送することに意欲的でしたが,キリスト教世界の僧職者たちはきちんとプログラムを提供しませんでした。しかし,ラジオ局はヨシが非常に協力的な態度で足りない部分を埋めてくれることに気づきました。数か月にわたり,彼女は「ものみの塔」誌の記事を朗読しました。

しばらくして,12人の新しい地元の伝道者のために巡回大会を計画することができました。プログラムは,エードリアン・トムソンとロイド・バリーが代わる代わる日本語で扱いました。業は急速に拡大し,伝道者と開拓者の数は急増しました。

比嘉ヨシは開拓奉仕を1954年5月に始めました。43年におよぶ忠実な開拓宣教を通して,姉妹は50人を超える人々が真理を学ぶのを援助しました。初めのころに姉妹の“推薦の手紙”となった人の多くは,かつて地元の首里教会に属していた人たちでした。(コリ二 3:1-3)姉妹は引き続き宜野湾で開拓奉仕を行なっています。

もう一人の熱心な証人は,未亡人の友寄美津子です。姉妹は娘の正子と共に1957年に,かつて沖縄の首都だった首里で開拓奉仕を始めました。美津子は今でも目を輝かせて,開拓奉仕を楽しんだ過去40年間のことや,永遠の命に導く真理を受け入れるよう援助してきた大勢の人々について語ります。

1965年に,ものみの塔協会は沖縄に支部を開設し,ハワイから来ていた宣教者,桃原真一を支部の監督にしました。(彼は沖縄出身者の子孫でした。)この取り決めは,1972年の沖縄返還の後も変わりませんでした。1976年2月に支部委員会の取り決めが実施された時,桃原真一とジェームズ・リントン(オーストラリア出身の宣教者)と宇根忠吉(沖縄出身でギレアデの卒業生)が委員として奉仕するよう任命されました。

忍耐力が必要とされる

1976奉仕年度中,良いたよりを宣べ伝える業を拡大する努力の一環として,沖縄支部の管轄下にあるさらに多くの島々に特別開拓者たちが任命されました。良い反応を示した島もありましたが,慣習や迷信,強い家族の絆を乗り越えられるようになるまでに長年かかる島もありました。そうした島で働くよう割り当てられた特別開拓者には並外れた忍耐力が必要でした。地元の人たちはよそ者に警戒するので,空き家がたくさんあるのに,住居を見つけるのが不可能に近い場合も少なくありませんでした。借りられるのは,自殺者の出た家しかないということもありました。しかし,地元の人々の迷信を考えると,そうした家は集会場所には使えませんでした。

それでも,開拓者たちは忍耐強くひたすら奉仕を続け,その成果を目にするようになりました。徳之島では,巡回監督の訪問中の公開講演に一組の家族がやって来ました。父親は,地元で根強い人気のある闘牛(牛同士を闘わせて,押しの強さを競うもの)の愛好家で,競技のために調教された優勝牛を飼っていました。しかし,本土でエホバの証人から話を聞いた娘を通して,聖書に関心を持つようになっていました。一家は聖書研究に応じ,その人と妻,娘,3人の息子が献身した証人となりました。さらに近所の二家族も真理に入りました。このグループは,蜜蜂の巣箱のような活気に満ちた活動の中核となりました。この小さな島には現在,49人の伝道者と16名の開拓者から成る会衆があります。

はるか南方の石垣島では,有名なボクシング選手だった一人の青年がエホバの証人を探し出して聖書研究を依頼したので,伝道者たちは驚きました。彼は以前に横浜で研究していましたが,聖書の真理がはっきり示している責任に立ち向かうことを恐れていたのです。その責任から逃れるため,人口もまばらな西表島ならきっとエホバの証人は一人もいないだろうと思ってそこに逃げました。ところが,それほどたたないうちに,ものみの塔の出版物を見かけ,ここにもエホバの証人が伝道に来ていたことを知ってショックを受けました。それで,エホバのみ前から逃げる方法はないと結論しました。(ヨナ 1:3と比較してください。)出版物の一つに書かれていた伝道者の住所を頼りに,彼は近くの石垣島でエホバの証人を見つけました。短期間にこの青年は献身した証人となり,熱心な開拓者になりました。

1980年9月のミルトン・ヘンシェルの地帯訪問の後,沖縄は再び日本支部の管轄下に入りました。桃原兄弟とその妻,また宇根兄弟とその妻は,沖縄で全時間奉仕を続け,リントン兄弟姉妹は,日本のもっと大きな島々での地域区の奉仕に戻りました。

旅行する兄弟たちが重要な役割を果たす

旅行する監督とその妻は,自己犠牲的な精神を抱いているので,日本の諸会衆の増加と円熟にさまざまな方法で貢献することができました。彼らの奉仕は,諸会衆に良い影響を与えました。兄弟たちは,これらの監督や妻たちが『良いたよりのために,家や母や父を後にして』きたことを認識しています。―マル 10:29

初めのころは,巡回監督が諸会衆を訪問する際,本当のプライバシーが確保できる家はきわめて少ない状態でした。しかし,彼らは提供されるものを何でも気持ちよく受け入れるため,兄弟たちに愛されるようになりました。1983年という比較的最近のこと,吉田啓一は,本州北部の大きな農家に未信者の家族と一緒に住んでいた独身の兄弟のところに妻と共に泊まりました。彼はその時のことを思い起こし,笑いながらこう言います。「私たちは家族に温かく迎えられ,私たちの泊まる部屋に案内されました。その部屋には大きな仏壇がありました。私たちが床に就こうとしていると,寝間着姿のおじいちゃんが,いきなりふすまを開けて入って来て,私たちには何も言わずに仏壇の鉦を鳴らし,線香をたき,手を合わせて拝み,反対側から出てゆきました。ほかの人たちもそれに続きました。私たちはその一週間,いつ,どの方向から仏壇を拝みに来るのか分からないので緊張していました。でも,この親切で人をよくもてなす家族と楽しい一週間を過ごしました」。

現在209人を数える旅行する監督たちは,平均すると約20年全時間奉仕に携わっています。その大半は以前特別開拓者でした。こうした背景があるため,家から家の証言で他の人たちをよく訓練することができます。野外奉仕に対する彼らの熱意は,日本におけるすばらしい開拓者精神の高揚に大いに貢献してきました。

これらの巡回監督の中には,王国の証人たちの必要が大きい地域へ移動する動機づけを個人や家族が得るよう援助してきた人たちがいます。また,未信者の配偶者に特別な注意を向ける監督もおり,その結果,ある人々はバプテスマを受けた証人となりました。若者たちも,旅行する兄弟たちから個人的に特別な関心を示されたり,その模範を見たりした結果,霊的な目標を追い求めるようになりました。

宣教者は分け与えつづける

1970年代までには,宣教者たちも比較的小さな都市へ派遣されるようになっていました。それらの土地の人々は一層保守的で,伝統に縛られているため,弟子を作る業の進展はほかの所よりも緩やかでした。会衆があるところでは,宣教者たちは地元の兄弟たちを先頭に立たせて,彼らが経験を積むのを助けました。宣教者たちが奉仕したのは,秋田,岐阜,甲府,川口,高知,長野,和歌山,山形といった都市でした。

地元の証人たちが聖書の真理全体を受け入れることの知恵を認識するよう,宣教者たちは辛抱強く援助することに努めました。(ヘブ 6:1)甲府市のある会衆の主宰監督,藤巻正夫は,「あなたの家族生活を幸福なものにする」の本を会衆で研究していた時のことを覚えています。ある年配の兄弟は,妻に愛情を率直に表現するようにという夫に対する教えを受け入れにくく感じていました。「戦前の教育を受けた我々には,そういうことは難しくてとてもできませんね」と言いました。その会衆にいた宣教者の一人リチャード・ベイリーは,人のいない所でその兄弟に,『私たちが学んでいる真理は国家的背景も世代も超越したもので,いつでも当てはまり,いつでも有益です。もし真理のある部分を軽視するなら,私たちは大胆になって,もっと重要な点でさえ退けてしまうかもしれません』と,親切に話しました。(ルカ 16:10)この兄弟は要点を理解し,その後,うれしそうに妻と一緒に座っている姿が見られるようになりました。それは彼らにとって新しい経験でした。

地元の証人たちはその他の点でも宣教者たちとの交わりから益を受けました。一人の姉妹はこのように言いました。「宣教者は明るい人たちで,喜びのうちに神に仕える方法を知っていました。また,規則を作るのではなく,愛に基づいた原則に従うことの大切さを教えられました」。―申 10:12。使徒 13:52

宣教者たちは,自分は世界的な兄弟仲間の一人であるということをもっと敏感に感じるよう多くの人を助けました。最初東京でメルバ・バリーと研究した佐藤和子は,宗教的な反感がかなり強い田舎で開拓奉仕を行なっていた時,どのように励まされたかを覚えています。さびしくなった姉妹は,以前の会衆で交わっていた宣教者への手紙に,「たった一人で奉仕しています」と書きました。数人の宣教者のメッセージが書かれた返事が届きましたが,あるメッセージには,苦労の跡が見られる平仮名で,「和子,あなたは一人ではありません。耳を澄ましてごらんなさい。りんご畑のかなたから,世界中の熱心で忠実な兄弟たちの足音が聞こえてくるでしょう」とありました。―啓示 7:9,10と比較してください。

現在のところ,41人の宣教者が日本の五つの宣教者の家で今なお奉仕しています。宣教者の家は山形,いわき,富山にあり,東京には二つあります。それに加え,9人の宣教者が旅行する奉仕を行なっており,9人は海老名ベテルで奉仕しています。これらの宣教者たちは,エホバとその組織に忠節である点で立派な模範を示してきました。そして言葉と行ないにより,日本のエホバの証人の見方を『広げ』,真理に対する彼らの理解を深めることに貢献してきました。―コリ二 6:13。エフェ 3:18

夏の活動で未割り当て区域を回る

遠く離れたところにある市町村に良いたよりを広める活動には他の人たちも参加しました。1971年に,正規開拓者たちに対して,夏の間,未割り当て区域で働くことが勧められました。その後,1974年には,夏に3か月間だけ一時特別開拓者として働く取り決めがスタートしました。毎年,50人の一時的な特別開拓者が25の異なる区域に派遣され,大量の文書が配布されました。

1980年にはすでに,日本のどの会衆にも割り当てられていない区域に住む人の数は,余すところわずか780万人ほどになっていました。そこで支部事務所は,一時的な特別開拓者を派遣する代わりに,会衆や開拓者のグループや家族が夏の間,未割り当て区域で働くよう勧めました。日本の証人たちは,何事も他の人と一緒にするほうが好きなので,それはとても楽しみな活動でした。

その成果には心温まるものがありました。1986年に,未割り当て区域で働いていた一人の伝道者が,茨城県美和村の山の中の1軒の家に近づいたところ,その家の主婦は,「あなたの家族生活を幸福なものにする」と「わたしの聖書物語の本」を両手に抱えて戸口で待っていました。この女性は以前にそれらの本を受け取り,幾度も読み返していたのです。聖書が欲しくて書店で探してみましたが,見つからなかったので,クリスチャンの家族が村に引っ越してくるということを聞いて心待ちにしていました。すぐに聖書研究が始まり,今ではその家族は全員真理のうちにいます。

残りの町や村はしだいに近くの会衆に割り当てられました。

長老たちのための特別な教育

良いたよりを宣べ伝える業が拡大するにつれ,会衆の数も増え,規模も大きくなってゆきました。指導の任にあたる資格のある兄弟はというと,一つの会衆にわずか一人,あるいは二人という場合が少なくありませんでした。そういう兄弟たちの中でも,会衆の事柄に関して多くの訓練を受けた人はわずかでした。しかし,1972年10月1日に長老制が導入された後,新しく任命された長老たちは沼津にあった支部事務所に招かれ,2週間の特別な教育を受けました。

この学校は本当に画期的なものでした。仲間の証人たちを扱う際に純粋の愛を示し,平衡を保ち,道理にかなっていることの大切さを兄弟たちが理解するよう助けることに教訓者たちは努めました。(コリ二 1:24)さらに,自分の家族を霊的に顧みることの大切さも強調されました。(テモ一 3:4; 5:8)この点は東洋の家庭では普通あまり強調されないからです。

兄弟たちは学校で教えられることをできる限り多く家に持ち帰りたいと思っていたので熱心でした。それでも,学生時代と同じように機械的に丸暗記する傾向のある人も少なくありませんでした。教訓者の一人,阿部孝司はこう述懐します。「生徒たちは夜遅くまで,その日の討議内容を一生懸命にノートに写していました。それで私たちは,ノートをたくさん取ったり,規則を作ったりするのではなく,むしろ思考力を働かせて聖書の原則を適用するよう勧めました」。―ロマ 12:1。ヘブ 5:14

多くの兄弟たちは個人的に多大の犠牲を払ってこの学校に出席しました。1,300㌔北の雪の北海道や1,800㌔南の亜熱帯の沖縄から来た人もいました。家族のもとに戻った時,新しい世俗の仕事を探さなければならないという事態に直面した人もいました。1977年には二日間の課程の学校が,国中のさまざまな箇所で開かれました。これにより,兄弟たちは出席するのがずいぶん容易になりました。

家族の反対に対処する

日本でクリスチャンになることはそう簡単なことではありません。「特に田舎では,新しい人たちは同じ村に住む親戚からひどく反対されます」と,開拓歴37年の江藤弘子は説明します。「親戚の人たちは,身内の者の中に村の人たちとは違っている者がいると,きまり悪く感じるのです。人を恐れる気持ちには非常に強いものがあります」。

弘子の母,江藤百合子はエホバの証人と接する前から聖書を愛していました。しかし1954年に,忠実なクリスチャンの小さな群れを天に召されるだけでなく,地をエホバの幸福な僕たちの満ちるパラダイスにするという神の目的を認識するよう援助されると,熱心にこの良いたよりを他の人に伝えました。百合子と子供たちは,エホバの是認を得るため多くの人が人に対する恐れを克服するよう辛抱強く援助してきました。

弘子は,一人の誠実な女性を助ける努力を払った際に次のような経験をしました。研究を始めた一人の主婦は,同居している姑の反対に直面しました。家庭内に波風を立てたくないと思ったその主婦は,研究をやめました。姉妹はこう語ります。「私はその人が道を歩いているところを見つけては,姑に親切にして,聖書を学ぶのは良いことだということを示すよう励ましました。この主婦は自分が学んでいる事柄について夫に巧みに質問をし,夫が徐々に関心を持つようにしました。最初夫は,『こんな田舎でクリスチャンになるのは無理だ』と言っていました。それでも,エホバに対する愛によって何度も反対を乗り越えました」。今ではこの夫婦と,その長男はバプテスマを受けています。夫は,奉仕の僕になり,自分の家で開かれる会衆の書籍研究を司会しています。姑は,自分の息子が初めて公開講演を行なう時に集会に出席して,皆を驚かせました。

反対はしばしば配偶者から来ます。夫たちの中には,嫉妬心のために反対する人や,亭主関白が当たり前の環境で育ったために反対する人もいます。1970年代の初め,当時新婚の市丸恵子が聖書研究を始めた時,夫の博之は強硬に反対し,集会に行ってはいけないと言いました。博之は,「宗教の後塵を拝するという考えがどうしてもがまんならなかったのです」と,後で語りました。恵子は夫を愛していたので,自分が学んでいることが正しいものかどうか見きわめてほしいと巧みに頼みました。博之は自分で聖書を勉強することにしましたが,理解できませんでした。結局彼は妻に,研究に参加してもいいかと尋ねました。二人ともバプテスマを受けた証人となり,結局,博之は正規開拓者になり,今では長老です。

王国宣明の業が1971年に筑後で始まった時,最初に聖書の音信を受け入れた人の中に坂本真幸がいます。夫の登代太は,妻と幼い息子が隣の市で開かれていた集会に出席するようになると,反対しました。集会に行かせまいと心に決めた登代太は,反対を強めてゆきました。妻が1973年にバプテスマを受けた後も,14年間反対し続けました。ある時彼は,妻に銃を突き付け,「やめなければ殺すぞ」と怒鳴りました。妻の落ち着いた反応に登代太は興味をそそられました。なぜそんなにしっかりしているのだろうと不思議に思いました。

その間ずっと,真幸は夫に愛を示すように努めました。夫が真理を学ぶのを助ける努力を決してやめませんでした。(ペテ一 3:1,2)ある日登代太は,自分が世俗の仕事をしている間に妻と息子は開拓奉仕をしている,と思うと腹が立ち,職場に出かけて行き,仕事を辞めてしまいました。登代太にしてみればこれは思いきった行動でした。というのは,一般的に日本の男性は仕事をほとんど神聖視しているからです。登代太は,妻と息子が同情してくれることを望んでいました。ところが,家に帰って,辞めてきたぞと話すと,二人は手をたたいて喜びました。これには登代太も考えさせられました。すぐに彼は研究を始め,しばらくすると妻や息子とともに開拓奉仕を行なうようになり,今ではクリスチャンの長老として奉仕しています。

1970年代の初めごろ,わたしたちの集会に初めて出席した男性は,女子供ばかりだ,とよく言ったものです。しかし,それ以来,何万人もの男性が霊的にすばらしい進歩を遂げてきました。今では霊的に円熟した男性が組織の堅固な基盤となっており,組織面の必要な事柄をすべて扱っています。その中には1970年代には反対者だった人もいます。

開拓者たちが学校に行く

1970年代には,どの会衆にも開拓奉仕者が高い割合で(25ないし30%)いたため,日本では1978年1月に始まった開拓奉仕学校への入校者が大勢いました。この学校の課程は諸会衆の円熟に大いに貢献しました。

学校に最初に招かれたのは,特別開拓者や宣教者,旅行する監督たちとその妻たちでした。最初の教訓者の一人,吉岡 繁は語ります。「これらの経験豊かな開拓者が最初のクラスに呼ばれたことは大きな助けになりました。円熟したそれらの奉仕者たちの注解や経験から学んだ事柄を,それ以後のクラスで用いることができたからです」。

1980年2月以降,開拓奉仕学校は巡回区ごとに開かれることになりました。学校にすでに出席した巡回監督や他の円熟した兄弟たちが教訓者として奉仕しました。学校が始まってから8年の間に,正規開拓者の数は平均して1年に22%増加しました。それに対して伝道者数の増加は12%でした。今では,ほとんどの巡回区で,毎年25ないし30人の生徒からなる開拓者のクラスが二つ以上,定期的に開かれています。

この学校に出席する開拓者の大半は,まだ真理にかなり新しい人たちですが,この学校に入ると,宣教を行なう自信と技術が身につき,またクリスチャンの生活に関する貴重な教訓を学びます。一人の開拓者はこのように言いました。「今までは,奉仕,子供の訓練,クリスチャン人格,聖書の知識が頭の引き出しの中に全部ごちゃまぜに入っていました。でも,十日間の課程を通して,それを全部,ふさわしい場所にきちんと整理することができました」。1997年9月の時点で,3,650のクラスが開かれ,8万7,158人の開拓者が出席しました。

あらゆる人がこたえ応じる

実にさまざまな背景を持つ人々が,日本の神権組織という色彩豊かな織物を織り成しています。丹羽利明は,横浜のある会衆で奉仕する温厚な長老です。しかし,第二次世界大戦の終わりごろ,彼は米海軍の艦船に体当たりする神風特攻隊の一員として,桜花というロケット機のパイロットになる訓練を受けていました。そのような任務を果たすことは天皇に対する忠誠の証拠とみなされていました。ところが,彼が国のために死ぬ機会が訪れないうちに戦争が終わりました。後に,彼の妻はエホバの証人と聖書を研究しました。利明は,エホバの証人が戦時中,厳正中立の立場を守ったことを知ると,関心を抱くようになりました。そして1977年には,妻とともに聖書の平和の音信を他の人に伝えるようになっていました。

芸能界にも,自分のライフスタイルを喜んで変化させ,エホバの賛美者となった人たちがいます。長崎義弘は大学時代の友人数人とディキシーランドジャズのバンドを結成していました。彼らは自分たちにジャズを教えてくれた人に,バンドリーダーになってくれるよう頼みました。その人,つまり日本の一流ジャズ演奏家であった笠井義正は,そのころ,ハワイから来ていたトランペット奏者“トラミー”・ヤングと出会っていました。今は支部委員として奉仕している義弘はそのころのことを回想します。「まさにその日からレッスンが始まりました。でも音楽ではなく真理のレッスンでした。私たちは関心がありませんでした。全くなかったのです。でも,彼があまりにも熱心に話すので,またバンドリーダーとしての彼を失いたくなかったので,話に耳を傾けました」。また,聖書研究をすることさえ承諾しました。しかし,1966年4月に巡回大会に出席した時が,義弘の転機となりました。その大会で,以前に会ったことのある女子高生が,一緒に野外奉仕に参加するよう義弘を誘ったのです。その姉妹は聖書を使って証言し,義弘は家の人にビラを渡しました。「そのとき初めて,真理が自分にとって本当に意味を持つものとなりました」と彼は語ります。その大会に出席した後は毎日奉仕に参加し,急速な進歩を遂げました。そのバンドの6人のメンバーのうち4人が,今では活発な証人になっています。

佐藤新寺は,日本の最も重要な神社の一つである,島根県の有名な出雲大社の神主でした。彼はまた,出雲大社教の教師でもありました。20年近く神主として仕えていましたが,神主たちの間に見うけられる愛の欠如や不公正に幻滅を感じていました。そして,神道の神々が何の救いも施さないことを悟り,まことの神を探しはじめました。聖書を読み始めましたが,それでもたくさんの疑問を持っていました。

そのころ路上で,ある知人に出会いました。その人がエホバの証人であることは知っていたので,真の宗教を見分けるしるしであると感じていた事柄を質問してみました。「あなたの宗教は政治に関与しませんか。あなたの組織は非営利組織ですか。あなたたちの教えは人間から出た教えではなく神から出た教えですか。本部の人たちは自分たちの説く事柄を実践していますか」。そのあと彼は,「もしあなたの組織がこれらの条件を満たしているなら,聖書を私に教えてくださいませんか」と頼みました。ついに大いなるバビロンから解放された時,どんなにほっとしたことでしょう。(啓 18:4)彼はこう言っています。「今はエホバの証人としてまことの神の道を他の人に教えているので,『エホバの祝福,それが人を富ませるのであり,神はそれに痛みを加えられない』という箴言の言葉の通りに感じています」。―箴 10:22

有名な芸術家や音楽家,漫画家,力士,競輪の選手だった人たちがみな,過去の栄光を後にしました。医師,有名な書道家,弁護士といった専門職の人たちが真理の光を見て,王国の関心事を促進するために自分の能力を用いています。以前にはやくざ,不良,警察官,政治家だった人たちが,霊的な兄弟たちと平和のうちに共に住んでいます。(イザ 11:6-9)仏教の僧侶,神道の神官,教祖だった人が大いなるバビロンから出てきました。(啓 18:2)学校教師,著名な実業家,さまざまな技術を持つ職人が,神権的なプロジェクトのために共に働いています。エホバの組織は,「神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された新しい人格を着ける」よう助けられた,あらゆる人を含むまでに成長しました。―エフェ 4:24

熱心な開拓者精神

区域が小さくなり,宗教に無関心な人が増えているにもかかわらず,開拓奉仕に対する大きな熱意は衰えていません。大勢の補助開拓者が開拓者の隊伍に加わる春には,全開拓者の合計は奉仕者の50%を超えるまでに増加します。1997年3月には,10万8,737人が開拓者として奉仕しました。

「日本にはなぜそんなにたくさんの開拓者がいるのですか」と,よく尋ねられます。これには幾つかの要素があるように思われます。日本の戦後の成長の土台は熱心な宣教者たちによって据えられましたが,感謝の念の深い研究生は教え手に倣おうとします。(ルカ 6:40)その結果,宣教に対する熱意という遺産が次の世代の弟子たちに伝えられてゆくのです。また,大抵の場合,日本の住居はそれほど大きくないので,維持管理にそれほど手間がかからず,生活は伝統的に簡素に保たれています。このため,主婦は霊的な関心事を優先することがそれほど難しくないのです。(マタ 6:22,33)さらに,日本では気候が一般に穏やかであり,また国内の政治的,経済的な状況も都合の良い状態が続いてきました。

文化的な背景や国民性も,もう一つの要素のようです。全体として日本人は指示に従順で,仲間の励ましに敏感に反応し,熱心に働きます。戦後最初の宣教者の一人として日本にやって来た日系米国人の桃原真一は,この点に触れて,『神風特攻隊のパイロットは敵艦に飛行機で体当たりし,天皇に自らの命をささげました。日本人が人間の主君に対してそれほど忠実なのであれば,まことの主エホバを見いだしたらどんなことをするでしょうか』と言いました。そうです,開拓奉仕申込書1枚1枚の背後には,エホバを喜ばせたいという熱い願いが秘められているのです。

開拓奉仕を行なう親たち

開拓奉仕を行なっているのはどのような人たちでしょうか。大半は姉妹たちで,その多くは結婚していて子供がいます。未信者の夫や親族の霊的な支えなしで開拓奉仕を行なっている人も少なくありません。

藤沢に住む,20年以上開拓奉仕を行なってきた陸子は言います。「私が開拓奉仕を始めた時,末の娘は生後わずか数か月でした。銀行に勤めていた夫は,私たちが晩の集会から帰った後に帰宅するのが常でした。とても努力が求められましたが,開拓奉仕は続けたいと思いました」。3人の子供たちが全員,高校を卒業後,共に開拓奉仕を行なうようになった時,彼女の努力は報われました。夫の反対と,その後の無関心の時期は長く続きましたが,夫も変化し始めました。会衆で,息子が公開講演の前半を話し,夫が後半を話すのを,陸子はどんなにかうれしい気持ちで聞いたことでしょう。

開拓奉仕を行なう父親たちも良い影響を及ぼしています。久高は,父親が開拓奉仕を始める目的で情報処理の教師の立場を退いたことを知っていました。小学校の夏休みの時,父親は久高に早朝の牛乳配達を一緒にするように誘いました。久高は思い出して語ります。「東の空が見事なオレンジ色に染まるころ,父はエホバに魂を込めて仕えるのがいかに報いのあることか,自分の深いところにある感情を言い表わしてくれました。父が楽しそうにエホバのために骨折って働いているのを見たのは,どんな言葉も不可能なほど私の心を動かしました」。久高は今,海老名のベテル家族の成員として働いています。

「過労死」から救われる

「死ぬほど仕事がしたければ,日本の会社に入ればよい」と,ふざけて言う人もいます。こう言われるのは,家族を持つ典型的な日本人男性が極端なまでに仕事に没頭し,職場で長い時間を過ごすからです。しかし,かつては「過労死」しそうなほど働いていた大勢の父親が今では世俗の会社にではなく,エホバ神に献身し,家族とともに開拓奉仕を行なっています。

神戸地方に住む俊二は,大手の建設会社に勤めていました。こう言っています。「私を動かしていたのは,仕事に対する愛着と出世したいという願望でした。現場が家から遠い時など,家族のところには,せいぜい週末にちょっと帰る程度でした」。それをすっかり変えてしまったのは何だったのでしょうか。俊二はこう答えます。「私は死を恐れていました。もし自分が死んだら家族はどうなるのか心配でした。妻と息子がどうしてあんなに喜んで伝道に出かけてゆくのか分かりませんでした」。会衆の王国会館が建設されていた時,技術面の細かい事柄について援助していたところ,一人の長老が聖書研究をするよう勧めてくれ,俊二は研究をしました。今では家族と共に正規開拓奉仕の喜びを味わっています。また,地区建設委員としての奉仕も楽しんでいます。

家族の頭が,開拓宣教に必要な時間を作るため,終身雇用は確実とみなされている会社を辞め,いくらか不安定なパートタイムの仕事に就くには,本当に信仰と自己犠牲の精神が求められます。千葉の光伸の父も仕事を変えました。父親は,自分が以前勤めていた大企業の事務所を回って,リサイクル用の古紙を集める仕事を始めました。以前の同僚たちは管理職に就いていました。光伸は心からの感謝を込め,「開拓奉仕がいかに価値あるものかを認識するよう個人的に教え,こうしてそれを生涯の目標にするよう助けてくれた両親に本当に感謝しています」と語ります。生活をそのような形で調整した人たちは,金銭的な報いは一時的なものにすぎず,霊的な宝にははるかに大きな価値があることを確信しています。―マタ 6:19-21

もっと長生きできるように気を配りなさい

エホバへの奉仕に最善を尽くすことを熱烈に願う人たちの中には,深刻な健康問題をも乗り越えた人たちがいます。「せいぜい息子さんが大きくなるのを見るまでしか生きられないでしょう。働きすぎは禁物です。もっと長生きできるようあらゆる点に気を配りなさい」。小野八重子の心臓に関係した健康問題を診断した医師はそう言いました。彼女の息子は当時3歳でした。彼女は病院から家に帰る途中,「どうしたら残りの人生を悔いのないように生きられるだろうか」と自分に問いかけ,家に着くまでには,開拓者になることを決意していました。そのことを聞いた親戚は心配しましたが,それでも彼女は考えを変えませんでした。彼女は言います。『私は1978年9月に開拓奉仕を始めました。その時は自分が妊娠していることは知りませんでした。母が重い病気になり,自分の体調も悪化しました。それでも,「からしの種粒ほどの信仰があるなら,この山に,『ここからあそこに移れ』と言うとしても,それは移るのです」という言葉に勇気づけられました。(マタ 17:20)私は最善を尽くすことに決めました』。

17年後,八重子は,「慰めを与えるエホバの手が私を包んでいるのを感じます」と言いました。時には問題に圧倒されそうになることがありましたが,エホバの祝福を数え上げるようにしたので,それが耐え抜く助けになってきました。姉妹の熱心さに影響されて,夫も勉強を始めました。姉妹の熱烈な祈りがかなえられて,夫が開拓奉仕のパートナーとなった時,八重子の喜びは頂点に達しました。

日本の開拓者たちはこのような質の開拓者です。このほかにも,首から下が麻痺していても,おもに手紙による伝道で開拓者として奉仕し,常に他の人の励ましのもととなった兄弟,ちょうど今世紀が始まった年に生まれ,1994年まで人生の最後の13年間を,雪に閉ざされた地域で開拓者としてすごした姉妹,ある町に移転して開拓奉仕を行ない,その土地の小さな会衆を援助した目の見えない長老など多くの人を挙げることができます。これらの人は皆,古代の忠実な証人たちのように,身体面では弱いところがあっても,ご意志を行なうため神によって「強力な者とされ」ました。―ヘブ 11:32-34

「新世界訳」が日本語に

公の宣教の際に聖書を使うことは,世界のどこでもエホバの証人のトレードマークとなっています。日本の伝道者たちは,現代日本語の正確で読みやすい聖書が出ることを心から願っていました。文語体の聖書を読むのに苦労していた人が少なくなかったのです。その翻訳は表現も美しく,広く神のお名前を用いているとはいえ,戦後に教育を受けた人たちにとって,古風な構文を理解するのは難しいことでした。ですから,支部の兄弟たちは,「新世界訳」のギリシャ語部分を日本語に翻訳することを許可する手紙が1970年1月に本部から届いた時,たいへん喜びました。

それから3年後,大阪で開かれた「神の勝利」国際大会で,統治体のライマン・スウィングルが日本語版の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を発表した時,3万1,263人の聴衆は喜びをそのまま表わし,万雷の拍手を送りました。その聖書は発表された後の9年間に114万冊配布されました。その数は最初に発表された当時の伝道者数の約75倍に当たります。印刷は米国で行なわれましたが,そうした印刷や製本が日本のわたしたちの施設で行なわれるようになる日はそれほど先のことではありませんでした。

集会場所は改善できたか

日本中で会衆の数が増えるにつれ,ふさわしい集会場所の必要が極めて大きいことが次第に明らかになってきました。1970年代以前は,自分たちの集会場所を持っている会衆はごくわずかでした。実際のところ,1960年代の10年間に献堂された王国会館はわずか9軒でした。ほとんどの会衆は,借りた公共のホールや個人の家で集まっていました。

そのような“移動式集会”の不便さを思い起こしながら,弘前の姉妹,中村 愛はこう言いました。「1963年ごろは毎週末,市の教育会館を借りていました。15人ぐらいの会衆でしたから,会館が休館の時には,私の家に来て集会を開きました。集会のたびに,皆で雑誌や文書や移動式の演台などを運搬しなければなりませんでした」。借りた会場はしばしば,とてもたばこ臭かったり,政治的あるいは宗教的な標語が掲げられていたり,飾りつけがされていたりすることもありました。そのうちのどれ一つとして,エホバの証人の集会の霊的な内容に似つかわしいものはありませんでした。

モリー・ヘロンとロイス・ダイアは,京都で集会のために借りていた会場のことを覚えています。そこはある商店の2階にあった和室でした。その部屋を挟んでどちらの側にも別の和室があって,片方では,日本古来の弦楽器である三味線の稽古をしており,もう片方では,男の人たちが日本のチェッカーゲームである碁を打っていました。「そのように騒々しい中で私たちは懸命に『ものみの塔』研究を司会しました。当時はそういう場所を使うしかなかったのです」と,ロイス・ダイアは言いました。エホバの証人は,他の宗教団体が持っているような定まった集会場所を持っていなかったので,人々はわたしたちのことを,取るに足りない,やがては消えてなくなる一派にすぎないと考える傾向がありました。

しかし,1970年代の半ばまでには,新しい会衆の数がどんどん増えたため,兄弟たちは王国会館として使用できる建物を探すようになりました。1974年7月にはすでに,全国で646の会衆が約200軒の王国会館を使用していました。このうちの134軒は,1974奉仕年度のわずか1年間に献堂されたものでした。

兄弟たちは資金面では限界がありましたが,創意工夫の才は豊かでした。例えばこれは九州であったことですが,北九州市若松会衆は,地元のある奉仕者が提供した土地に130平方㍍の王国会館を建てました。会衆は解体中の5軒の家から中古の材木や瓦を入手しました。さらに,営業をやめた銭湯から,無料で木材をもらいました。購入したのは,会館が完成した時に目に見える部分の建築資材だけでした。閉館した近くの映画館からは椅子を無料で手に入れ,ペンキを塗り直して会館に設置しました。兄弟たちは6か月間一生懸命に働いて,立派な王国会館を完成させました。

地価が非常に高いため,都市部に地所を所有している証人たちの中には,自分の家を取り壊して,1階部分を王国会館にし,その上を住居にする形で建て直した人たちもいます。

支部の建設も並行して行なう必要があった

子供の服が絶えず小さくなってゆくように,日本支部が使用してきた施設も,国内の証人の数の増加に合わせて繰り返し拡大する必要がありました。1971年に,美しい富士山がくっきりと見える沼津に,3階建ての工場と5階建てのベテル・ホームを建てるための設計図が作成されました。

当初,工場の建物は,おもに日本語の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の印刷に用いられました。この点に関して言えば,新たに設置された東京機械の40㌧の輪転機で,特別号の「目ざめよ!」誌,1972年10月8日号が印刷されたのは画期的な出来事でした。それは沼津の印刷施設で兄弟たちが初めて生産した雑誌でした。しかし,輪転機室のスタッフは,たくさんのことを学ぶ必要がありました。時には,果たして輪転機を正しく操作できるようになるのだろうかと思うこともありました。印刷に携わっているある兄弟はこう言います。「そのころは,一部の文字はインクが厚くついて,手で触っただけで字が読めるほどでした」。かと思うと,薄かったり,かすれたりした文字もありました。しかし,兄弟たちが経験を積むにつれ,印刷の質は着実に改善され,野外宣教で配布される雑誌の数は増加しました。

1973年にノア兄弟が沼津のその支部施設の献堂式で話をした時,招待客は新しい工場の3階の空きスペースに集まりました。兄弟はこの階が何に使われるかに言及してこう述べました。「このあいている場所はみなさんの信仰を表わしています。わたしたちはこれから一,二年のうちにその場所が必要になる,ということを信じているのです。神の組織は前進しています。しかも速い速度で前進しています」。

ノア兄弟の予告どおり,そのスペースはすぐに目いっぱい使用されるようになりました。1974年までには,さらに二つの建物が必要になりました。一つは在庫品の保管のため,もう一つは働く人が住むための建物でした。本間年雄はこう説明します。「これは日本のエホバの証人がすべてを自分たちで行なう最初の建設工事でした。経験者が十分いるかどうか,少しの不安がありました。神は,大手の建設会社で30年以上働いた経験のある現場監督の深山唯三のような人たちを備えて,私たちを祝福してくださいました」。

仕事で長年家族と離れて暮らしていた唯三は,家族と過ごす時間を増やすため退職したばかりのところでした。それで,沼津に来てベテルの増築工事を監督することが可能かどうか打診された時には複雑な気持ちでした。再び家族を後に残して行かなければならないのでしょうか。「いいえ」というのが支部からの返事でした。妻と共に18歳と20歳の二人の息子も招待されたのです。

その後のものに比べると当時の建物は比較的小規模のものでしたが,この工事によって兄弟たちは経験を積み,エホバの助けがあればもっと大きな工事もできるという自信を持つことができました。

日本人の兄弟たちが一層重い責任を担う

1952年以来支部の監督であったロイド・バリーは,エホバの証人の統治体の成員として奉仕するため,1975年4月に日本を去りました。兄弟は,1949年に8人の伝道者からスタートした神権組織が,3万人を超える熱心な王国宣明者へと成長する間,熱心に働きました。兄弟が去るにあたり,支部の監督は,当時工場の監督として奉仕していた日本人の兄弟,本間年雄に委ねられました。

本間兄弟の能力について,工場で彼を補佐していた人はこう言いました。「年雄は,何もせずに傍観して,何をすべきかだれかに一から十まで教えてもらうのを待っているような人ではありませんでした。仕事を与えて,『これがわたしたちの向かう方向です』と言えば,困難な仕事でも行なうことができました。良い組織者であり,人にやる気を起こさせる人でした」。

もう一つの組織上の変更は1976年2月に行なわれました。世界中の他のすべての支部と調和して,日本支部を監督する責任は,一人の支部の監督にではなく,兄弟たちから成る委員会に任されることになりました。最初に任命された5人は,本間年雄,織田正太郎,池畑重雄,田中祺一郎,ジェームズ・マンツでした。この新しい取り決めは日本の兄弟たちにすぐに受け入れられました。というのは,集団で物事を扱い,決定の過程で意見の一致を図るという考え方によく通じていたからです。委員の一人は後にこう述べました。「支部委員会の取り決めにより,兄弟たちは円熟した兄弟たちの一団を組織の代表者とみなして彼らに頼ります。このことは,兄弟たちの注意を個人にではなく神の組織に向ける結果になりました。重大な決定を下さなければならない時,この取り決めにより,さまざまな背景や能力を持つ霊的な男子の一団がそれを考慮し,聖霊と神の言葉の導きを求めることができます」。

1983年1月には,1960年2月以来ベテルで奉仕してきた織田正太郎が本間兄弟に代わって調整者になりました。この時,本間兄弟には2歳になる息子がいたので,家族を養うためにその立場を退きました。それ以降,期間はそれぞれ異なるものの支部委員として奉仕した他の人たちとして,藤本亮介,パーシー・イズラブ,杉浦 勇,長崎義弘,中島 誠,三村健次,リチャード・ベイリーがいます。現在のところ,7人の兄弟が支部委員として奉仕しています。業が拡大するにつれ,これらの兄弟たちの一人一人が,世界という畑のこの地域における神の王国の関心事の推進のため,謙遜な態度で自分の能力を用いて貢献してきました。

織田兄弟はこう言います。「今になって振り返ってみると,委員会の取り決めには神の知恵が働いていたことを見ることができます。委員会の取り決めが導入された1976年以降,業は拡大して,とても一人では扱いきれないまでになりました。その責任を多くの兄弟たちに委ねるよう神は統治体に知恵を与えてくださり,そのようにして,仕事のスムーズな流れが妨げられないようにしてくださったのです」。

日本人の兄弟たちが大会を組織する

同様に,1970年代には,大会の組織に関連した責任も日本人の兄弟たちに委ねられるようになりました。大会監督として奉仕した最初の日本人の地域監督の中に阿部孝司がいます。兄弟は,パーシー・イズラブのような宣教者たちと共に働くことにより,貴重な経験を積んでいました。パーシーは,1969年に東京の後楽園競輪場で開かれた「地に平和」国際大会の大会監督でした。2年後に阿部兄弟は,同じ競輪場で開かれた全国大会で,大会監督として奉仕しました。1969年の大会の時に得た経験から,大会は順調に運営されました。しかし,もっと重い責任が待ち受けていました。

1973年に,阿部兄弟は協会により,大阪で五日間にわたって開かれる「神の勝利」国際大会の大会監督に任命されました。外国からの400人の代表者をはじめ,約3万人の出席者が見込まれていました。兄弟はどう反応したでしょうか。兄弟はその時を振り返って語ります。「任命の手紙を受け取った時,体の具合が非常に悪くなって,数日間寝込んでしまい,起き上がることもできませんでした。大会の部門すべてを組織するという大変な仕事のことしか考えられませんでした。大会の数か月前,協会から『大会組織』という小冊子を受け取った時には,本当にうれしく思いました。聖書に基づいた手順に従った結果,多くの問題が解決しました」。

当面問題になっていた事柄の一つは,出席者全員が座れるだけの座席を確保することでした。大会は大阪の万博(1970年)記念公園のお祭り広場で開かれることになっていましたが,その広場には座席もステージもありませんでした。近隣の会衆は大会のために借りることができる椅子についての情報を寄せるよう依頼を受けました。ある都市では,すべての学校の校長と交渉が行なわれました。さらに,日本の大手の電気機器製造会社の社長にも,大会のために椅子を借用できないかどうか頼んでみました。この依頼に関して大会監督は会社の代表者と会うことになりました。会社側には,貸し出せるような余分の折り畳み椅子はありませんでしたが,5,000脚の椅子が借りられるだけのお金を喜んで寄付してくれました。それでも,まだ椅子が必要でした。どのように解決したのでしょうか。建設会社から借りた足場板でベンチを作ったのです。ベンチは大会の数日前に完成し,3万1,263人の聴衆が公開講演を聞きました。人数が増加の一途をたどったため,日本と沖縄のエホバの証人がすべて一つの大会に集まることができたのはこれが最後でした。

大会には統治体の成員5人とブルックリンにある世界本部の工場の監督とが出席し,聴衆を励ましました。他の代表者たちは,英国,オーストラリア,カナダ,ドイツ,グアテマラ,ハワイ,ニュージーランド,ナイジェリア,パプアニューギニア,米国から来ており,本当に国際的な大会となりました。

大阪で開かれたその大会以後,さらに大勢の日本人の兄弟たちが大会の組織に関連した責任を担うようになりました。これにより,兄弟たちは大会前の仕事と他の責任との平衡を取ることが一層容易になりました。それに加えて,その後旅行する監督たちは,大会前に何か月間かを大会の仕事に充てる代わりに,自分の割り当てに注意を集中することができるようになりました。

1978年の「勝利の信仰」国際大会

日本で開かれた4番目の国際大会は,1978年の五日間におよぶ「勝利の信仰」大会でした。今回は,すべての出席者を収容するために四つの大会会場が使用されました。大阪で開かれた主要な大会の出席者最高数は3万1,785人で,その中には米国,カナダ,ドイツ,スイスのほかに,ヨーロッパ,アジア,南米の他の国々から来た200名を超える代表者たちも含まれていました。統治体の成員も3人出席し,大会のプログラムを扱いました。

年がたつにつれて,すばらしい協力の精神が培われてきました。兄弟たちは,エホバの助けがあれば,もっと大きな神権的割り当てでも果たすことができるという十分の確信を抱くようになりました。

ボーリング場が大会ホールに

王国会館を持つことに加えて,大規模な施設を大会のために確実に利用できるようにする必要があることも明らかになりました。1970年代の初めごろには,多くの公共施設が宗教団体に施設を貸してくれなくなりましたし,体育館の借用を契約しても,地元のスポーツイベントが優先されるため,直前になってキャンセルされることがありました。東京地方の大会監督として長年奉仕した諸橋祐文は,自分たち専用の大会ホールを探し始めるよう兄弟たちを動かしたある出来事を覚えていて,こう語ります。「1974年のこと,私たちは巡回大会で小山市の遊園地内にあるホールを使用するため,20万円の頭金を支払いましたが,その後,その遊園地は倒産してしまいました。頭金を回収するにも,大会を開く別の場所を探すにも本当に苦労しました」。そこでパーシー・イズラブは,オーストラリアの古い織物工場が美しい大会ホールに改装された写真を彼らに見せました。東京の兄弟たちは,自分たちも同じようなことを試みてみるべき時だと感じました。

彼らは使われなくなったボーリング場を見つけました。それは東京近郊の東松山にありました。建物の持ち主は,エホバの証人のことを何も知らなかったので,自分が米国滞在中に世話になった家族に手紙を書き,エホバの証人について尋ねてみました。返事はとても好意的なもので,エホバの証人は米国で一番信頼の置ける宗教団体であるとのことでした。それ以来,事は大変順調に運び,契約が結ばれました。

こうして,1976年12月に日本で最初の大会ホールが完成しました。その間,重要なもう一つの建設工事が進行していました。

エホバが移動を導かれる

沼津の拡張部分が献堂された1977年までには,伝道者は4万人を超えていました。支部は,沼津の敷地の4倍の広さの土地を探すようにという指示を受けました。沼津と東京の中間にある海老名に,古い紡績工場が見つかりました。工場の敷地面積は約7㌶で,沼津の敷地の17倍に当たりました。統治体は,地価が途方もなく高いこの国で,そのような移動を承認するでしょうか。この土地を購入するには,1867年に米国がロシアからアラスカを買い戻した時の2倍よりも多い額を支払わなければならないでしょう。本部からはしばらく返事がありませんでした。「その後,急きょニューヨークからバリー兄弟が,協会のブルックリン工場の監督マックス・ラーソンと共に土地を見に来ました。そして,私たちは承認をいただきました。この20年間に生じた増加を今振り返ってみると,このような広い土地を購入するよう導いてくださったエホバに感謝しています」と,本間年雄は言います。

1979年1月に,2階建ての工場棟,事務棟,ベテル奉仕者の部屋が161室ある3棟の宿舎,王国会館と小さな作業場2棟の建設が始まりました。その工事は,エホバの証人による建設プロジェクトとしては,それまで世界のどの場所でも行なわれたことがないほどの最大級の工事の一つでした。

家族を持つ建設技術者の中には,建設工事に参加するため,それまでしていた仕事を辞め,家族で海老名やその周辺の都市に引っ越した人が少なくありません。佳昭はその一人です。最初,配管工としてプロジェクトに参加するようにという招待を受けた時は,必要の大きな所で奉仕するため四国の小さな町に引っ越したばかりのところでした。幼い子供が3人いるうえに,当時は失業中で,蓄えも少なかったため,初めは招待を辞退しました。しかし速達で3度目の招待を受けた時,エホバが行きなさいと言っておられるのだと感じました。兄弟はそのことを妻と話し合いました。妻は,留守の間,自分が子供たちを養ってゆくと言いました。佳昭は当時を振り返り,「ベテルに着いて初めて,家族5人が全員招待されていたということを知りました。信じられませんでした」と言いました。3人の子供たちは成長して開拓者になり,その一人は今では海老名のベテル家族の成員として奉仕しています。

建設委員会の司会者を務めたジェームズ・マンツは当時を振り返ってこう言います。「その建設に関連して,エホバが私たちのために幾度となく道を開いてくださったのを見てきました。乗り越えられそうもない壁が目の前に立ちはだかっているように感じたことがありました。神奈川県には国内でも最も厳しい公害防止条例があります。私たちは敷地内を通っている用水路に一滴たりとも排水を流してはならないと言われました。しかし,エホバが道を開いてくださいました。敷地に建っていた以前の工場は,三つの井戸から汲み上げた水で機械を冷却していました。その水は用水路に流され,近所の人たちはその水を作物に与えていました。その水の供給がストップするということを聞くと,近所の人たちは市役所に行って,『私たちは作物に与える水を,あの敷地から出る水に頼っているのだ』と苦情を申し立てました。それで市当局は決定を覆し,農家に水を供給するため,私たちが用水路に毎日流すべき水の最低量を定めました。農家の需要を満たすため,用水路に流れ込む浄化された排水に加え,井戸から水を汲み上げなければなりませんでした」。

完成した建物は,1982年5月15日,当時のものみの塔協会会長フレデリック・フランズも出席する中,エホバに献堂されました。ロイド・バリーと妻のメルバも出席して献堂式のプログラムに参加しました。バリー兄弟がギレアデの第11期を卒業して日本に派遣された仲間14人にインタビューした時,聴衆はバリー兄弟が日本の兄弟たちに対して抱いている深い愛を感じることができました。

量と質の面での進歩

伝道者は増加を続け,それに伴って文書の需要も増加し続けました。海老名の施設が献堂される前,つまり1979年10月に,支部はすでに1台目の巻き取り紙オフセット輪転機を手に入れていました。この印刷機は重量が75㌧,全長が20㍍で,4色刷りの雑誌を1分間に300冊生産することができました。それで,需要を満たすことができたでしょうか。

マンツ兄弟は振り返ってこう言います。「1981年にジャラズ兄弟の地帯訪問がありました。兄弟は印刷機を2交替で動かしていることに気づき,2台目の印刷機の購入許可を申請するよう勧めてくださいました。1台で何とかやってゆくほうが経済的であるため,私たちは2台目の印刷機の要求を躊躇していました。ところが,1か月もたたないうちに,ブルックリンから,2台目のオフセット輪転機を注文するようにとの指示がありました。その時は,その先に何が待ち受けているのか知りませんでした。しかし,1年後の5月に輪転機が届いた時,わずか2か月先に控えた地域大会で発表するため,日本語の『新世界訳』全巻の印刷をすぐに始めなければなりませんでした。その年の大会では,『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』も発表されることになっていました。それで,この時もエホバのみ手が物事を導いているのを見ることができました。1台の印刷機で雑誌と聖書と書籍の全部を生産することは決してできなかったでしょう」。

3台目になる,高性能の三菱の印刷機は1984年に設置されました。この機械は巻き取り紙を二つ使い,4色のユニットのほかに,もう一つ黒のユニットがあり,1分間に1,000冊の雑誌を印刷する能力があります。当時それは国内で最速の輪転機であり,一般の印刷業者の間でも話題になりました。印刷機を操作する特別な訓練を受けた松永一樹は,その機械が最高速で動くのを見て興奮を覚えました。「でも,印刷された音信が非常な速度で出てゆくようになることを考えると,もっと心が弾みます」と兄弟は言います。

1時間に6万冊生産される雑誌を能率的に扱うにはどうしたらよいのでしょうか。結局,マシン・ショップの兄弟たちが電動コンベヤーシステムを設計,製作しました。そのシステムにより,印刷機から出てきた雑誌は油圧プレス機と三方断裁機を通って,梱包ステーションに送られます。そのシステムを操作している監督はこう説明します。「印刷機は1本0.5㌧の巻き取り紙を20分で消費します。コンベヤーの末端では,ラベルの貼られた段ボール箱に雑誌が直接箱詰めされ,すぐにも発送できる形になります」。巻き取り紙が印刷機に入ってから断裁機を経て段ボール箱に入るまで,ものの5分もかかりません。このインライン・システムによって作業員数人と,かなりの保管スペースを節約することになりました。

この設備によって高品質の印刷が可能になると共に,アートワークも上達し,紙質も改善されて,雑誌が人に与える印象は非常に良くなりました。奉仕者たちは野外宣教で雑誌を熱心に提供しました。

『専門家がそろう』

協会は,オフセット印刷への移行に合わせて,印刷前の諸工程の作業をコンピューター化しはじめました。この変更の仕事を引き受けて行なうことができる十分の技術的背景を持つ日本人のエホバの証人がいたのでしょうか。いたのです。日本のコンピューター科学の分野の技術的草分けの一人,石井康雄が,エホバの献身した僕となっていました。兄弟は自分の信仰を仲間にも伝えていました。その結果,システム・エンジニアや熟達したプログラマーが6人,すでにバプテスマを受けた証人となっていたのです。このグループの人たちが全員,ある人たちはベテル奉仕者として,他の人たちは通いの奉仕者として,協会のプロジェクトに参加するようにとの招きに応じました。当時の支部委員会の調整者,本間年雄は,そのことを振り返って,「エホバはまさに必要な時のために専門家をそろえていてくださいました」と語りました。

使用するコンピューターに関して,ブルックリンの事務所は,これから発売されるIBMの汎用コンピューター4341をリースすることを推薦してきました。この最新型のコンピューター本体を受け取る順番の抽選で,協会の日本支部は2番目になりました。ところが,その会社の日本の代理店は,プログラムを組む素質のある得意客にそれを渡すほうがよいと考えました。プロジェクトに参加していた5人の兄弟と一人の姉妹は,協会の特殊な必要に関する仕様書を急いで書き上げました。これらの詳しい仕様書を見ると,その会社は早速,この新しいモデルの最初の発送に,わたしたちの注文したものを含めてくれました。

これら専門家の巧みな指導のもとに,40人を超える若い兄弟姉妹がプログラマーとなる訓練を進んで受けました。目標は,協会の日本語の出版物の組版をして写植するための,完全に自動化されたシステムを構築することでした。そのシステムはSCRIPT(System of Character Reproduction Incorporating Photo-Typesetting)と呼ばれるようになりました。2年もたたないうちに,テストができるまでになりました。このシステムで最初に生産された出版物は,「あなたの王国が来ますように」という192ページの書籍でした。

1987年までには,一般のパーソナルコンピューターの性能が,日本語の文書の独特の必要を満たすまでに進歩してきました。そこで,SCRIPTシステムに接続されていた写植機が故障した時,もっと安価な協会の写植システムへの切り替えが行なわれました。その時,兄弟たちがSCRIPTシステムのために開発していた,約8,000個もの複雑な日本語文字から成る日本語“アルファベット”を組み込む特殊な機能がMEPSシステムに統合されました。地元の日本語システムのために働いていたプログラマーの中には,今では協会の世界的な出版システムを支援するために他の国々で働いている人たちもいます。

新しい部門がスタートする

ほぼ30年にわたり,ブルックリンにある協会の印刷工場は,野外で配布するために必要な書籍を日本に供給してきました。しかし,1978年に海老名で新しい工場の建設が始まった時,日本支部に自分たちの書籍の生産を開始させるという決定が下されました。

わたしたちが計画している事柄を知って,接着剤を作っている大きな会社の社長が訪ねてきました。わたしたちが自分たちで接着剤を作るつもりでいることが分かると,社長は必要な原材料と機材の調達を申し出てくれました。あるいは,もし良ければ,喜んで原価で接着剤を作ってあげます,とも言いました。なぜでしょうか。数年前,その社長は米国のシカゴで開かれた印刷・製本機械の展示会を見に行きました。そこで,社長の一行はブルックリン・ベテルから来ていた兄弟たちに出会い,ニューヨークにある,ものみの塔協会の印刷工場を見学するよう招かれました。仕事の全体を見て,特に兄弟たちの親切な態度や一生懸命働いている姿を見て,一行はとても感銘を受けました。それで,自分のできることなら何でもして助けになりたいと思ったのです。結局,接着剤は自分たちで作るよりも,この会社から手に入れるほうが安上がりであることが分かりました。また,この社長の紹介で,原材料を扱う他の業者とも接触でき,かなりの節約になりました。

多くの機械製造業者も同じように協力してくれました。三方断裁機と丁合機のメーカーの代表者たちは,契約のために海老名に来た時,建設現場で見たことすべてに,とりわけ自発奉仕者たちが熱心に働く姿に,とても感銘を受けていました。その結果,機械の価格を100万円値引きすることを申し出ました。

だれが兄弟たちを訓練するのか

工場には,製本の仕事を実際に経験した人は一人もいませんでした。そこでロバート・ポブダがブルックリンに招かれ,約6週間の訓練を受けて,日本の兄弟たちを訓練するための情報を得ることになりました。その資料は翻訳され,製本学校が開かれました。営利企業の専門家たちが来て,兄弟たちに製本材料の使い方を教えてくれました。そのような助けにより,足りない部分を補うことができました。さらに,幾つかの一般の製本業者の仕事を見学する取り決めも設けられました。

ある時,そのような製本所の一つを見学した後,兄弟たちは社長室に呼ばれました。「なぜ皆さんに来ていただいたかご存じですか」と,社長は尋ねました。「普通なら,私たちは外部の製本業者に自分の工場を見学させることなど決してありません。でも,皆さんが見学を申し込まれる1週間前に,一人のエホバの証人が家に来られて,『ものみの塔』誌と『目ざめよ!』誌を置いて行かれました。その方の態度や,読んだ雑誌の内容に私は感銘を受けました」。社長は,さらに文書を受け取り,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の予約もし,自分の工場で1か月間,数人の兄弟たちを訓練するという援助も申し出てくれました。

それからかなり年月がたちましたが,製本部門にいる人たちは引き続き技術を改善し,知識を深めています。世俗の製本会社が幾つも,社員にわたしたちの工場を見学させることさえしています。清潔さと,細かい点に至るまで気が配られていることとを観察して,彼らは必ず感銘を受けます。工場の監督だったジェームズ・マンツは語ります。「一つの製本会社は,代表者たちが正規の見学コースを回る時,ビデオを撮ることを許可されていました。彼らはビデオを利用して自社の工場の作業員を訓練する計画でいたのです。その会社は同じ設備を持ち,同じような仕事をしていましたが,ベテル奉仕者をモデルに使いたいと思ったのです。それは,作業中の晴れやかな顔に表われているベテル奉仕者の心構えと,彼らが仕事をとても能率的にこなしているためでした」。マンツ兄弟はさらに,ある会社の重役が協会の製本施設を見学した時,驚いていたことを覚えています。その人はこう言いました。「日本の若者たちは,いわゆる3K症候群にかかっています。それは,危険,汚い,きつい,の三つです」。このどれかに当てはまる仕事には見向きもしない若者がほとんどです。でも,海老名の工場ではそのようなことはありません。

協会のデラックス製本には特別の関心が寄せられてきました。海老名の施設にある製本部門は,日本のデラックス製本に関する情報の主要な発信源の一つとなってきました。この製本施設により,革表紙の聖書が大量生産されています。

「新世界訳」の全巻を生産する

オフセット印刷への切り替え,製本部門の設立,そしてSCRIPTシステムの開発はすべて,「新世界訳」の全巻を生産するための土台となりました。

1975年,「新世界訳」のヘブライ語聖書部分の翻訳を進める許可が下りました。この作業はチームで行なうことになっていました。3人の翻訳者がプロジェクトに参加するよう指名されました。異なる翻訳者の間で高いレベルの統一性を保つためにはどうしたらよいのでしょうか。訳文に加え,固有名詞,動物,植物,鉱物,色彩,病気,また道具,衣服,食物,犠牲のささげ物といった品目の詳細かつ長大なリストが作成され,翻訳者たちは共にそれを利用しました。何百もの類語グループや重要表現も,注意深く調査し,リストに加えなければなりませんでした。後に,聖書翻訳者たちが,本部で聖書翻訳支援システムを設計していた人たちに,その経験を伝えるよう招かれたとき,日本の聖書翻訳者たちもその中にいました。彼らの提案も,現在世界中の聖書翻訳者たちに利用されています。

日本語の「新世界訳」全巻は,海老名にある施設で印刷され,製本されました。1982年に17か所で開かれた「王国の真理」地域大会で発表するために必要な13万6,000冊の聖書を生産するために,グラフィックス,輪転機,製本の各部門は1日24時間働きました。一部の兄弟たちは,1日に12ないし16時間働きました。彼らは,『神の律法の熟練した写字生』エズラが昔に行なったのと同じ種類の仕事を推し進めているのだという点をいつも思いに留めて,気持ちを高めました。といっても,エズラは手書きでその作業を行ないましたが,彼らは日本語でのその作業を高速の巻き取り紙オフセット輪転機を使って成し遂げました。その熟練した写字生に見倣うことを忘れないため,彼らは輪転機のそばにエズラ 7章6節の言葉を貼りつけました。

その年,製本の兄弟たちは全員,福島で開かれた最後の大会に出席しました。発表に必要な聖書の最後の1冊を生産したのは,大会前の最後の仕事日の終わるわずか8分前でした。当時製本部門にいた吉岡 繁は,そのころを振り返って,「私たちは皆,疲れきっていましたが,長年待ち続けた『新世界訳』の全巻を手にした兄弟たちの顔に喜びの涙を見た時,努力しただけの価値は十分あったと感じました」と言います。

日本語に翻訳された聖書をコンピューターのデータの形で持っていたため,さまざまなサイズの版を作るのは困難ではありませんでした。1982年に完成して以来,さまざまな版の日本語の「新世界訳」が300万冊近く生産されてきました。

増加に対応するための増築

ぐんぐん成長する思春期の若者のように,日本の神権組織は急速に成長し,支部施設は狭くなってしまいました。1984年2月,さらに増築が行なわれることが発表されました。今回は,6階の工場の建て増しと,8階の宿舎棟の建設が行なわれることになりました。それぞれに地下室があります。新しい工場の床面積は2万2,500平方㍍になる予定で,最初の海老名の工場の2倍に相当します。新しい宿舎棟には,ベテルの自発奉仕者が住む部屋が128あります。

増築工事は1984年9月に始まり,1988年2月に完成しました。その間に日本の伝道者数は10万人を突破し,今でも増加は続いています。この工事により,支部は,日本の野外における必要の拡大にこたえる用意だけでなく,他の国々の印刷物の必要を満たす面で助力するための用意も整うことになりました。1989年5月13日,新しい建物は,施設が必要になるほどの増加をもたらしてくださったエホバに献堂されました。

家族の世話を他の事柄よりも優先する

国内のメディアは時々エホバの証人にスポットライトを当ててきました。1986年にあったメディアのキャンペーンは,エホバの証人がどれほど子供のことを気遣っているかを人々に気づかせるものとなりました。マイニチ・デーリー・ニューズ紙に,「国鉄上級管理職員が家族と生活するために辞職」という見出しが掲載されたのです。日本では,十代の子供を持つ親は,たとえそれが昇進を意味してはいても,転勤の辞令を受けるとジレンマに直面します。転勤の辞令は家族の状況に関係なく出されます。子供が高校に通っている場合,親は現在住んでいる町を一家全員で離れることを望まないことが少なくありません。父親は転勤し,家族は後に残るというのが普通です。日本ではこれを単身赴任と呼びます。その新聞記事は,エホバの証人の一人,田村 剛が日本国有鉄道(JNR)の九州総局長に任命されていたことを報じました。ところが,彼はこの高い地位に就いて家族から離れているよりも,むしろ辞職を選びました。ある新聞が伝えたところによると,田村兄弟は「総局長の仕事は私でなくても務まる。だが,親は私しかいない」と語りました。

人々は戸惑いました。少し前にマスコミは,エホバの証人を残酷な人々として描き,子供を平気で死なせる人たちであるかのように表現していました。ところが,家族とともにいることを望んで,ほとんどのJNR職員がどんな代償を払ってでも得たいと思う地位を勇敢にも辞職した男性がいるのです。テレビのレポーターは家々を回りました。また,週末を家族と過ごす単身赴任のサラリーマンが電車から降りたところをつかまえてインタビューしました。レポーターは人々に田村兄弟の決定についてどう思うか尋ねました。たいていの人の反応は,『敬服しますね。自分にもあれだけの度胸があればいいんですがね』というものでした。

起きた事柄を思い出しながら田村兄弟は語ります。「マイニチ紙がこの情報をどのように手に入れたのか私には分かりません。普通の場合,国鉄はそういう情報が漏れると,報道されたことは事実とは違うということを証明するために,人事計画全体を意図的に変えてしまうんです。ところが,今回はマスコミが報道した通りになりました。これらのことの背後にはエホバがおられたに違いありません。マスコミを通して日本人は,エホバの証人が自分の家族を気遣う人たちであることを示すメッセージを受け取ったのです」。現在,田村兄弟とその家族はそろって全時間の福音宣明者として奉仕しています。兄弟は会衆の主宰監督として,息子はベテルの一時的な自発奉仕者として奉仕しています。

沖縄における進展

沖縄が日本支部の管轄下に置かれた後,古い伝統がいまなお人々の生活に強い影響を及ぼしているこの地域で,さらに良い進展が見られました。70歳の砂川キクは高齢だからといって開拓奉仕を始めることを躊躇することはありませんでした。彼女は長年,土地でユタと呼ばれている巫女のとりこになっていました。しかし,まことの神には名前があり,まことの神は心をご覧になるということを聖書から学んで,たいへん感動しました。そして早速,ユタと関係のある物品をすべて処分しました。その後,神のご意志についてもっと多くの知識を得るため,字の読み方を学ぶ決意をしました。研究司会者は必要な援助を辛抱強く行ないました。キクは1981年にバプテスマを受け,翌年には開拓奉仕を始めました。

姉妹は以前は字が読めませんでしたが,今では,お年寄りの聖書研究生とその夫がバプテスマに向けて進歩するよう,夫のほうに読み書きを教えることができるまでになっています。感謝の念の厚いこの夫婦は,立派な王国会館を新築するのにふさわしい土地を赤道会衆に提供しました。キクの努力はさらに祝福され,二人の妹がユタの束縛を脱して,まことの神エホバに仕えるようになりました。

1989年のこと,浜松に住む年配のある夫婦は,沖縄本島から約60㌔沖にある小さな粟国島で証言するよう割り当てを受けました。二人は遠く離れたこの島に行くために結婚指輪を売り払って必要な旅費の一部に充てました。島にある600軒の家を訪問するには20日かかりました。ある日,真夏の炎天下を石垣に沿って歩いていると,二人の女の子から水筒の水を勧められました。その親切に動かされて,少女たちの親を訪問することにしました。自己紹介をしてエホバの証人であることを告げると,両親はこの夫婦を温かく抱きしめました。この家族は8か月前に沖縄本島から引っ越して来ましたが,それ以来,エホバの証人に会っていなかったのです。手紙による聖書研究が取り決められ,後ほど,その研究は沖縄の那覇市にある会衆に渡されました。その両親は1993年に長女と一緒にバプテスマを受けました。現在,その家族は,この孤立した島で多くの人が真理を学ぶのを助けています。

1980年に沖縄が日本支部の管轄下に戻った時,沖縄や近くの島々の伝道者数は958人で,22の会衆がありました。今では2,600人の王国宣明者が沖縄県で活発に奉仕しています。

地区建設委員会による援助

数十年にわたって諸会衆は,地元で得られる経験や資産だけで自分たちの王国会館を建ててきましたが,構造面でも法律面でも,またそれ以外の面でも問題がありました。ほとんどの会衆は配色にそれほど注意を払いませんでした。働き手の大部分は素人の自発奉仕者だったため,工事の完成までに長い時間がかかっていました。建設工事の中には数か月,時には数年かかるものさえあり,会衆の霊性,それも特に工事に従事する人たちの霊性を脅かしていました。米国で実用化されつつあった速成建設の原則を応用できるかどうか検討するための機は熟していました。

最初の地区建設委員会は1990年9月に関東地方で組織されました。さらに七つの委員会が順次設けられ,国内の残りの部分をカバーするようになりました。1991年3月,速成建設工法による日本最初の王国会館が茨城県の那珂湊に建てられました。2日目は暴風雨になったため,一時的な遅れは生じましたが,席数120の会館がたった4日で完成したのです。

それ以来,日本全体に八つあった当初の地区建設委員会は11に増加し,毎年80ないし100軒の王国会館の建設を援助しています。その中には,地価が高いため,二つの王国会館が一体になった構造のものもあれば,1階部分が駐車場になっているものもあります。沖縄では,頻繁にやって来る台風に対処するため,地区建設委員会は設計に調整を加えなければなりませんでした。

沖縄の東風平会衆では,速成建設工事が始まる前日に,その土地を寄贈した兄弟が亡くなりました。王国会館はまだ建てられていませんでしたが,葬儀は次の日曜日の午後4時から王国会館で行なわれることになりました。その兄弟は土地の名士だったため,葬儀の知らせは報道機関を通して発表されました。建設現場にコンクリートの基礎しかないのを見て人々は,「本当に,葬儀までに建物は建つのですか」と尋ねました。その通り,会館は完成して葬儀に間に合い,法曹界や政界の人を含め,多くの人が集まって,葬式の話を聞きました。

現在のところ,日本と沖縄全体に1,796の王国会館があり,そのうちの511は速成建設工法で建設もしくは改装されました。これらの会館はエホバの証人の存在を雄弁に証しするものであり,彼らが崇拝する神にふさわしい賛美をもたらしています。

全国の大会ホール

巡回大会や特別一日大会が開かれる大会ホールについても同じことが言えます。大会ホールの建設は1980年代に始まって,関西,海老名,千葉,東海,兵庫,群馬,北海道,栃木に,次々と建てられてゆきました。9番目の大会ホールは,九州に建てられ,1997年に完成しました。

多くの場合,熱心に働く兄弟たちの模範的な行状は,最初は好意的でなかった近所の人たちの気持ちを変えるのに役立ちました。名古屋の近くに東海大会ホールが建てられていた時,近所のある人は建設計画に強く反対し,工事の中止を求める運動を組織しようとしました。その男性は敷地内で何が行なわれているかを調べに毎日やって来ました。ある日,この人はのこぎりを手にしてやって来ました。工事の責任者の兄弟が,何をするつもりなのか尋ねたところ,その人はこう言いました。「これまでずっとお前たちのやっていることを見てきたが,ここにある竹やぶが邪魔になっているようだ。今日はわしも奉仕させてもらうぞ」。そう言うと,勢いよく手伝いはじめました。

1995年に兄弟たちが日本最北の島,北海道に大会ホールを建てていた時,資金はかなり限られていました。ですから,2,000脚の椅子が無料で手に入った時は大喜びしました。どういう経緯でそのようになったのでしょうか。大会ホールの建設が行なわれている間に神戸と近隣の都市が大地震に見舞われ,多くの建物が使いものにならなくなりました。美しいコンサートホールのあった神戸国際会館もその一つでした。その建物が取り壊されることになった後,音楽家たちがその会館に別れを告げる様子がテレビのニュースで報道されました。神戸で救援活動を行なっていた兄弟たちは,そのニュース番組を見て,会館の責任者と連絡を取り,座席を撤去して北海道大会ホールへ送る許可を得ました。2,000脚の椅子の3分の1は新品で,そのほかは張り替えをすれば使える状態でした。コンサートホールを解体した業者も,椅子が片づいたので喜びました。

1995年の栃木と北海道の大会ホールの建設を皮切りに,地区建設委員会のもとで王国会館建設のために奉仕する資格を持つ兄弟姉妹たちが,大会ホールの建設にも参加するようになりました。兄弟たちは大会ホールや,大会時に交わる機会を高く評価しています。そして,これらの立派な建物は,価値ある賛美の犠牲をささげるための自分たちの努力がエホバによって豊かに祝福されている,もう一つの証拠であることを兄弟たちは認識しています。

ふさわしい大会会場

1980年代には,大規模な地域大会のほとんどは,屋外の競技場で開かれていました。そのため,夏の酷暑と湿気,それに夏の大会の時期に日本を襲いはじめる台風にも対処しなければなりませんでした。

1983年8月18日から21日にかけて,大阪の万博記念公園の緑地広場で2万人を超える規模の地域大会が計画されていました。その準備として,自発奉仕者たちは8月14日の日曜日に,二つの巨大なテントを建てました。ところが,風速45㍍の台風が大阪を直撃しようとしていたのです。兄弟たちは,危険を回避するため,テントをたたむことにしました。「台風の動きを注意深く見守っていたので,大会本部はあたかも気象台のようでした」と,大会監督だった中川勝吾は言います。

「16日は祈りの日となりました。もし大会を時間通りに始めるとすれば,兄弟たちは8月17日午前5時にはテント張りを始めなければなりませんでした。8月16日の夕刊には,『近畿に大雨の恐れ』とありました。テントを予定通り張り始めるためには,台風のスピードが上がり,右寄りにそれ,西側の雨雲が切れてなくならなければなりませんでした。まさにその通りのことが起きたのです。17日の午前4時,大阪南部は大雨が降っていましたが,大会会場周辺は降っていませんでした。テントを張り直す作業は開会に間に合い,大会はスケジュール通り,18日木曜日の午後1時20分に始まりました」。

しかし,徐々に,1万人以上の収容能力を持つ屋内競技場や会館が利用できるようになりました。1990年代には,エホバの証人はこれら空調設備の整った会館を借りるようになりました。これら屋内での大会のうち,最大級のものが1992年に東京ドームで開かれました。この「光を掲げる人々」地域大会には合計3万9,905人が出席しました。このスタジアムは東京の中心部にあるため,大会は周りで見ている人たちに良い証言となりました。スタジアムの近くで働いているある男性は,自宅を訪れた開拓者に,自分も同僚もエホバの証人に対して批判的だったことを認めました。しかし,大会出席者たちを見た後,そのことを謝り,こう言いました。「今は見方が変わりました。その雑誌,家内と一緒に読ませてもらいます」。

避難者は歓迎される

1980年代に,別の必要を満たす能力に関して兄弟たちは試みを受けました。1世紀のクリスチャンが,ユダヤにいた困窮している仲間の信者に援助の手を差し伸べて自分たちの愛の深さを示す機会を得たのと同じように,日本のエホバの証人にも近年,災害時にそうしたクリスチャンの特質を表わす機会がありました。(使徒 11:28,29。ロマ 15:26)その特質の表わし方は,「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」というイエスの言葉が成就している一層の証拠を示すものとなりました。―ヨハ 13:35

最初に大規模な救援活動が行なわれたのは,1986年11月21日に伊豆大島の三原山が噴火した後でした。午後4時17分,島の唯一の会衆の長老,西村次郎は大きな爆発があったのを感じました。「外に出てみると,原爆のようなキノコ雲が三原山の上にありました」と,西村兄弟は語りました。1時間に80回,地震が島を揺さぶりました。その晩のうちに1万人を超える島民が島から脱出しました。

避難するエホバの証人の世話をするため,噴火から数時間のうちに,救援委員会が伊豆半島と東京に設置されました。避難命令が出された後,中村義男は東京の諸会衆の人たちと一緒に,伊豆大島会衆の成員を援助するため,午前2時に桟橋に駆けつけました。避難してきた人の一人は後にこう語りました。「船を降りようとしていた時,『エホバの証人』と記されたプラカードを目にしました。……兄弟たちが波止場に迎えに来てくれているのを見て,家内はほっとして涙をぽろぽろこぼしました」。

島原の噴火

それから5年もたたない1991年6月,長崎に近い島原半島の雲仙普賢岳が噴火し,40人以上の人が亡くなりました。あるエホバの証人とその子供たちは,ちょうど家のある場所を超高温のガスと灰の流れが通り抜けましたが,間一髪のところで逃げることができました。島原会衆と交わっていた42人の伝道者のうち,30人が避難を余儀なくされました。王国会館は警戒区域の中にあったため,会衆はもはや会館を使用できなくなりました。国中の会衆に被災地の兄弟たちの窮状が知らされ,救援基金のための銀行口座が開設されました。反応がすばやく,また余りにも大きかったため,地元の銀行は対応が間に合わないほどでした。それで,努力するので処理が追いつくまでの間,送金を一時延期してほしいと言ってきました。1か月もたたないうちに地元の救援委員会は,必要以上の額のお金が送られたため,送金を中止するよう諸会衆に頼みました。送られた寄付で,仕事や家を失った人を援助することができ,それに加えて,島原会衆の新しい立派な王国会館と,避難民の半数が交わる,新たに設立された有家会衆の王国会館を建てることもできました。

救援活動や,寄せられた3,000通以上の手紙に表明されていた愛のこもった関心は,被災地のエホバの証人の心を大きく動かしました。その結果,災害が発生した翌年の4月には,島原会衆の28人の伝道者と有家会衆のバプテスマを受けた成員20人が補助開拓奉仕を行ないました。それはエホバに対する彼らの感謝のしるしでした。

法律上の援助が必要となる

もちろん,サタンはエホバの僕たちの一致した活動を喜んではいません。他の国におけると同様に,エホバの民の前進を妨げる目的で,障害物を置くことを試みてきました。そのため,時には問題を裁判に持ち込む必要がありました。―使徒 25:11と比較してください。

法律上の助言が必要な状況を扱うため,1980年代の前半に支部事務所に法律デスクが設けられました。1991年に,一人の若い弁護士が,妻とともに支部で全時間奉仕することを自発的に申し出ました。法律関係の仕事を行なっている他の兄弟たちと相談した後,この兄弟は,王国会館の賃借や所有,エホバの民に加えられる暴力行為に対する適切な対処の仕方,離婚や親権の紛争の際の賢明な行動といった問題に関する非常に役立つ情報を長老団のために用意しました。それに加えて支部は,聖書文書の出版,輸出やそれに類する事柄に関係した法律の改正などに対応するために必要な助言を得ることができました。

宗教上の良心が法廷に

法廷に持ち出された注目に値する事件は,神戸市立工業高等専門学校に入学した16歳の小林邦人に関係したものでした。(日本の工業高等専門学校では,高校教育に相当する3年間を含む,義務教育ではない5年間の課程を履修します。)一部の学校では,武道の授業に参加しない生徒を留年,もしくは退学させるのが慣例になっていました。そのようなわけで,生徒たちは教育を受ける権利を奪われていました。1986年12月にロイド・バリーが地帯訪問で支部を訪れていた時,この問題に直面している模範的な兄弟の中から,できれば長老の息子を選んで,退学取り消しを求める訴訟を起こすことが提案されました。

1990年に,小林邦人と他の4人の生徒は,イザヤ 2章4節の『剣をすきの刃に打ち変え,もはや戦いを学ばない』という指示にしたがって,剣道実技の授業を受けることを拒否していました。その結果,彼らは次の学年に進級させてもらえませんでした。邦人は,成績はクラスでトップだったにもかかわらず,2年連続で体育が落第点だったという理由で,その後退学になりました。邦人と他の4人は学校側のその処置に対して訴訟を起こし,憲法で保障された信教の自由と教育を受ける権利が侵害されたと主張しました。上訴を重ねた結果,邦人の件は最終的に最高裁判所に持ち込まれました。1996年3月8日,最高裁判所の第二小法廷は全員一致で邦人に勝訴を言い渡し,学校側は宗教か教育かの二者択一を強制するという過ちを犯したとしました。これは,カリキュラムに対する学校の権威と信教の自由のどちらを優先させるかに関して最高裁が判断を下した初めての判決でした。新しい校長は全校生徒を集め,この件に関して学校側に良い判断が欠けていたことを認め,「復学する小林さんを仲間として温かい心で迎えてもらいたい」と話しました。1996年4月,退学処分を受けてから4年後,今や21歳となった小林兄弟は再び学校に通いはじめました。

この判決は全国に広く報道されたため,エホバのみ名と義の道が再び一般の人々の注目を浴び,また好意的な証言がなされたことをエホバの証人は喜びました。―マタ 10:18

血に関する神の律法に対して敬意を示す

エホバの証人が仲間の命を気遣うことは広く知られていますが,血の神聖さに対する証人たちの敬意を批判する根深い偏見を克服するには,精力的な努力が必要でした。(創 9:4。使徒 15:28,29)1980年代以前にも,支部事務所は無輸血の外科手術を行なったことのある病院や医師たちのリストを持っていました。しかし,これは協力的な医師たちのリストではありませんでした。中には,いやいやながら無輸血で手術を行なったにすぎない医師たちもいました。

無輸血で外科手術を行なってくれる医師たちの名前を必要とする証人たちを助けるために,もっと何かできないのでしょうか。この必要を満たすことに直接携わった魚谷明広は,振り返って語ります。「輸血なしでも手術してくれる医師の名前を知りたいと,必死の思いで協会に電話をかけてくる人に,どうしてあげればいいのか分からないことがしばしばあって,がっかりしていました」。その後,1989年の初めに,米国で医療機関連絡委員会(HLC)のセミナーが開かれているといううわさが日本にまで伝わってきました。支部はそれに関心を持ち,ブルックリン本部に問い合わせの手紙を出しました。その後,同じ年の11月に,ブルックリンのホスピタル・インフォメーション・サービスから返事が届き,1990年3月に日本でHLCのセミナーを開く許可が出版委員会により与えられたことを支部は知らされました。それは,米国以外の国で開かれる最初のセミナーの一つとなるのです。

新たにHLCのメンバーとして任命された91人に加え,旅行する監督111人,エホバの証人である日本人医師25人,韓国の兄弟44人,ブルックリンから来る教訓者3人が出席することになっていました。セミナーは英語で行なわれ,韓国語と日本語に通訳されることになっていました。

「セミナーにおいて,教訓者は『医師たちを教育する』ことを繰り返し強調しました」と,魚谷兄弟は語ります。「中には,医師との会見を取り決め,病院を訪問し,医師を教育するというやり方が日本で受け入れられるかどうか,真剣に疑念を表明する人もいました。日本人は伝統的に,医師の施す治療を質問もせずに受け入れ,医師たちも自分たちがすることを素人に説明しようとはしないため,特にそういうことが言えました。ところが,セミナーが終わると,3人の教訓者は連絡委員とチームを作って関東地方の病院をいくつか回り,とても良い結果を得ました」。

メディアと医師を教育する

偏見に満ちた報道と新聞に載せられた不正確な情報のために,血に関するわたしたちの立場に関して医師だけではなくメディアをも教育する努力が必要であることが感じられました。そこで,「血はあなたの命をどのように救うことができますか」という冊子が発表された後の1990年9月から,支部は,全国版あるいは地方版の新聞に医療関係の記事を書いている記者と会合を開くキャンペーンを展開しました。これは大成功を収めました。記者の中には,示された事柄に感銘を受け,無輸血で外科手術を行なう医師に関する記事を書くことを申し出た人さえいました。

このキャンペーンのもたらしたもう一つの良い結果は,大阪HLCが,複数の大手全国紙の科学部の記者から,国立循環器病センターの倫理委員会がエホバの証人の扱い方について検討中であるという情報を得たことでした。それでHLCはすぐにセンターの病院長に面会を申し込む手紙を書きました。この会合には病院長と倫理委員会の副委員長が出席しました。その結果,1991年4月22日に,輸血を拒否するエホバの証人の権利を尊重する決定が下されました。

このすばらしいスタートに続き,他の病院でも倫理委員会と会合を持ち,同じような成果を得ました。東京都立病産院倫理委員会が,宗教上の理由で輸血を拒否する人たちの扱い方に関するガイドラインを作成していた時,支部のホスピタル・インフォメーション・サービスの代表者と東京のHLCのメンバーとが参加するよう招かれました。13人の委員から成る倫理委員会は,東京都が経営する16の病院すべてに対し,輸血が必要と医師が判断する場合でも,無輸血の治療を希望する成人の患者に対しては,その意志を尊重するよう勧めました。「意識を失って病院に運ばれた場合にも,本人が輸血を拒否する意思を証明する書類があれば,医師の判断でその意思を優先させる」と,毎日新聞は報じています。さらに,「高校生は,本人の意思を尊重する立場から,大人に準じた対応をする」とも報じました。

以前は「エホバの証人お断り」という貼り紙をしていた幾つかの病院でさえ態度を変え,エホバの証人の治療を,しかも無輸血で行なう意志があることを示しています。今では,協力的な医師のリストに1万5,000人以上の名前が載せられています。医師たちの中には,地元のHLCに見過ごされていると,軽視されていると感じる人もいます。1995年10月,松戸にある新東京病院は輸血に関するエホバの証人の立場を全面的に尊重した無輸血治療プログラムを開始しました。それで,この重要な問題に関しても,すばらしい前進が見られました。

組織に結ばれた愛

イエス・キリストの予告通り,この終わりの日にはそこからここへと大地震が発生し続けています。(マタ 24:3,7)そのうちの一つが,1995年1月17日,火曜日に神戸地方を襲いました。マグニチュード7.2を記録したこの地震で,5,000人以上の人が命を失い,数十万人が家を失いました。被災地に住んでいた9,000人のエホバの証人のうち,バプテスマを受けた証人13人と,バプテスマを受けていない伝道者二人が命を落としました。西宮中央会衆で奉仕していた特別開拓者の夫婦,金子 寛と佳津は,その日の朝,古いアパートの瓦礫の下に埋もれているところを発見されました。瓦礫を除去して金子兄弟を助け出すのに4時間以上かかりましたが,妻の佳津はすでに圧死していました。寛は長時間重い瓦礫の下にいたため,腎機能が停止し,何日も危篤状態が続きました。寛はこう言います。「物質的な物がいかに役に立たないかを痛感しました。それと比べて,信仰や希望といった内面の特質の大切さがよく分かりました。それらの特質は,最悪の状況でもうまく乗り切れる力となります」。

兄弟たちに対する熱烈な愛に動かされて,証人たちは迅速に救援活動を開始しました。都合の良いことに,神戸周辺の巡回区はいずれも市内を南北方向に分割して組織されていました。被災したのは東西に伸びる海岸沿いの地域だったため,各巡回区に被災しなかった会衆があり,それらの会衆が被災した兄弟たちを援助することができました。災難を免れた近隣の会衆の長老たちは,率先して救援活動を組織しました。最初の地震があった日の翌日,16台のオートバイの輸送チームが,神戸の中心街の諸会衆に食物と水を配りました。

巡回監督たちは,被災地のエホバの証人の世話をするため,直ちに仮設の救援センターを設置しました。支部は,壊れなかった六つの王国会館を救援物資の集配センターに指定しました。支部委員の一人で,仲間のエホバの証人のオートバイの後ろに乗って被災地に入った長崎義弘は,当時を振り返って言います。「5時間もしないうちにそれらの会館は物でいっぱいになりました。それで,救援物資の送り先を近くの大会ホールに変更するよう兄弟たちにお願いしなければなりませんでした。設置された補給センターでは,地元の会衆の代表者が必要な物品を持ち帰り,それから各会衆の長老たちが会衆の成員に物資を分配する取り決めを設けました」。

聖書はクリスチャンに,『すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なう』よう勧めています。(ガラ 6:10)エホバの証人は受け取ったものを喜んで近所の人たちにも分けました。神戸での地震の二日後,エホバの証人のある長老は,証人たちへの救援物資は十分にあるのに,他の人たちは極端に窮乏していることに気づき,急いで2台のワゴン車に食糧をいっぱいに詰め込むと地元の避難センターに届けました。

一層の援助が差し伸べられる

感情的また霊的な必要にも注意が向けられました。会衆の集会を引き続き開くための取り決めが直ちに作られました。ある会衆は,地震の起きた当日に公園で集会を開きました。地震が起きた週の日曜日には,被災地のほとんどの会衆がすでに,いつものように「ものみの塔」研究を開きました。これら被災者たちの感情的,霊的な必要を顧みるため,被災した五つの巡回区には,正規の巡回監督に加えて,さらに7人の巡回監督が派遣されました。彼らは特別な訪問を行ない,兄弟たちを励まし,災害に遭ってはいても生活の中でいつも王国の関心事を第一にするよう助けました。

10軒の王国会館が使用できなくなっていました。また,大勢の兄弟たちの家が全半壊していました。日本の11の地区建設委員会はそれぞれ,21人ほどの作業者を一チームとして,壊れた家を修理するチームを幾つか編成しました。また,救援活動に参加するため,自費で米国から駆けつけたエホバの証人のチームもありました。これらのチームは作業を完了するまでに1,023軒の家を修理し,全壊した家を4軒解体しました。全国各地から駆けつけた自己犠牲的な兄弟たちによって,5軒の王国会館が建て直され,4軒の修理が行なわれました。

家族の中の未信者の成員も信者と同じように親切に扱われました。未信者の夫と四人の子供がいた一人の姉妹は,地震で次男を亡くしました。その家族は1週間,王国会館で他の証人たち70人と一緒に過ごしました。兄弟たちがよく気を配って実際的な援助を与えている様子を見て,夫はエホバの組織を高く評価するようになりました。ある日,この夫は吹田にある救援本部を訪れ,そこで大勢の兄弟たちが見ず知らずの人たちのために一生懸命働いているのを見ました。胸がつまって,涙を抑えることができなくなりました。その日に,このご主人は聖書研究をすることに同意しました。

変化に積極的に対応する

年を経るにつれ,日本の状況も変化してきました。1949年に最初の宣教者のグループが到着してから43年後の1992年3月末には,日本支部に割り当てられた区域全体に,王国の良いたよりが定期的に伝えられるようになっていました。しかし,人々の態度や環境も変化してきているため,エホバの証人の側にも柔軟性が求められています。

長年旅行する奉仕を行なっている宣教者のロドニー・ケアロハは,こう観察しています。「25年前[1970年代]の日本の人たちはとても礼儀正しく,友好的でした。エホバの証人が訪問すると,人々はたとえ関心がなくても,耳を傾けてくれました」。また,時間を割いて読書をし,概して,善い行ないや社会秩序を尊重していました。ところが,物質的に繁栄するにつれ,心が徐々にほかの事柄にそれてゆくようになりました。主婦も働きに出るようになり,日中,家にいる人は少なくなりました。そして家にいる人々でも,忙しすぎて宗教のことを長く話し合うことができませんし,読む時間はないと考えて文書も受け取ろうとはしません。

立ち入りの制限されているマンションやインターホン付きの家が建てられるようになっています。こうした地域に住む奉仕者は,証言をインターホン越しに行なうよう順応しなければなりませんでした。また,親切な気持ちのよい態度で応対しただけの人をも再訪問するようになりました。札幌で奉仕している開拓者の弘子は,神道の信者だと言う主婦にインターホンで断わられました。その女性の明るい声と丁寧な態度から,この人は良い心を持っているに違いないと確信した弘子は,再び訪問してみました。インターホン越しに徐々に友好関係を築くことができました。そのような訪問を10か月続けた後ついに,「ちょっとお待ちください」と言ってもらえたのです。その女性は玄関に出てきて,弘子を家の中に招じ入れました。家族の問題に関する話がきっかけになって,すぐに聖書研究が始まり,その後バプテスマを受けました。今では開拓者であるこの新しい姉妹は,確かに良い心の持ち主でした。

多くの人は日中めったに家にいないため,「わたしたちの王国宣教」は,夕方の奉仕と街路証言を増やすように勧めました。奉仕者たちは,直ちに熱意を持って,その勧めにこたえました。やがて街路で,特に人通りの多い駅の周辺で,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を掲げて立つ伝道者たちの姿が日本中で見かけられるようになりました。

典型的な例は,横浜の近くに住む一人の姉妹です。姉妹は全日の仕事を持っていましたが,補助開拓者になりたいと思いました。ある長老から,毎日世俗の仕事に行く前に駅前で午前6時から8時まで街路伝道をすることを勧められました。内気な性格でしたし,初めのうちは一部の通勤者からあざけられましたが,それらを克服した彼女は,約40件の雑誌経路を取り決めました。雑誌を喜んで受け取るそれらの人の中には,通勤者や駅員,近くの店の店主などがいました。開拓者が普通,1か月に30冊ほどしか雑誌を配布できない区域の中で,姉妹の平均雑誌配布数は235冊でした。聖書の話を毎日わずかな時間するだけで6件の聖書研究を取り決めることができました。そのうちの一人は警察官でした。

立ち入りを禁止されている建物に住む人たちと接触するため,他の奉仕者たちは電話証言に関する提案を実行しました。人の心に訴える話題を提供して話すことと根気強さにより,数多くの聖書研究が始まっています。電話で証言していたある姉妹が,一人の女性に,自分と家族の将来がどうなるのか,じっくり考えてみたことがあるかどうか尋ねたところ,その女性はそのことを考えていたと答えました。そして,助けてくれるはずの人たちの力のなさに失望して,健康を害していました。その結果,家に閉じこもっていたのです。エホバの証人の示した純粋な関心に心を動かされた彼女は,姉妹と近くのスーパーマーケットで会うことになりました。そして「家族生活」の本の内容を見ると,すぐに聖書研究を始めることに同意しました。

野外での精力的な活動と,諸会衆が円熟したこととがあいまって,着実な増加が持続しました。現在の一連の連続伝道者最高数の記録は1979年1月に始まり,18年以上にわたって途切れることなく続いています。1980年代の後半から1990年代の前半にかけて,日本の伝道者数は平均して毎年1万人以上増加し,1995年3月には国内の王国宣明者の数は20万人になりました。1972年8月の時点で1万4,199人の伝道者が320の会衆と交わっていたのに対し,1997年8月にはすでに,22万663人の伝道者が3,785の会衆と交わっていました。しかし,この伝道者数には日本語が母国語ではない人たちが含まれており,その数は増加しています。

外国語グループに対する援助

日本経済が強くなった結果,日本語以外の言語を話す大勢の労働者が国内に流入しました。その中にはエホバの証人も含まれています。日本はもはや,ほとんどすべての人が日本語を母国語とする,というような国ではなくなりました。外国語を話す人たちをどのように霊的に援助できるでしょうか。

1980年代以前は,外国語を話す人たちの数は比較的に少数でした。米軍関係者の妻や子供たちや他の関心を持つ人たちのために,孤立した小さな群れや会衆が三沢,立川,沖縄に設立されました。

この中で最も大きかったのは,沖縄の米軍基地のグループでした。1968年に,以前韓国で宣教者として奉仕していたカール・エマーソンとエバリン・エマーソンが,沖縄の英語を話す人たちを援助するため,幼い息子を連れて移って来ました。その後,この産出的な畑にやって来て彼らに加わったのは,ギレアデ第40期の卒業生ビル・アイブスとメアリー・アイブス,ギレアデ第52期の卒業生ウェイン・フレイジーとペニー・フレイジーでした。ウェインは,不規則に広がる嘉手納空軍基地の周りで,ぼろぼろになった360ccの小型自動車を乗り回していましたが,自分自身が軍隊経験者だったため,召集兵の間で働く際には特に良い成果がありました。ウェインとペニーは,沖縄で奉仕した15年の間に合わせて約100人の人をバプテスマまで援助しました。二人の宣教があまりにも効果的だったため,ある基地の部隊長は,別の場所で伝道してくれ,と二人に頼みました。なぜでしょうか。「我が隊の一番優れた兵士たちを引き抜いていってしまう」と,部隊長は愚痴をこぼしました。

他の軍事基地への配属替えがあるので,人々は絶えず会衆に入ったり出たりしていましたが,実際に何千人もの人が集会に出席し,数百人がエホバの側に立場を定めるよう助けられてきました。これらの人々の大半は米国に戻ってもエホバに仕え続けました。中には長老や奉仕の僕になった人たちもいます。そのうちの一人,ニック・シモネリは,後にギレアデ第93期のクラスに出席し,研究を司会してくれた人の足跡に従いました。彼は今,妻とともにエクアドルで奉仕しています。

日本における英語の区域

1970年代の終わりごろ,ベトナム戦争の終息とともに,日本の英語グループは徐々になくなってゆきました。しかし1980年代の初め,ジェームズ・マンツ・ジュニアは,ベテルから車で15分ほどのところにある米海軍厚木飛行場の周辺に英語を話す人たちがかなりいることに気づき,当時米国カリフォルニア州に住んでいた両親を招き,東洋に渡って来て助けてくれるよう頼みました。(使徒 16:9と比較してください。)そこで,1981年3月に,ジェームズ・マンツ・シニアと妻のルツは,それぞれ62歳,59歳という年齢で,厚木基地の近くの相模原に移転しました。「私たちの区域にはどこにでも英語を話す人たちがいました」と,ルツは回想します。「街路伝道をしていた時,ルツはよく,雑誌を見せるために手を差し伸べ,自転車に乗った若い兵士たちの足を止めていました」と,海老名のベテル家族の一成員は思い出して語りました。残念なことにジェームズ・マンツ・シニアは日本に来てまもなく亡くなりましたが,ルツはその地域にとどまり,真理に入るよう大勢の人を援助しました。相模原の小さな英語の群れは1985年10月,会衆になりました。

1980年代に日本経済が強くなるにつれ,外国人の数は劇的に増加しました。フィリピン,南米,アフリカ,中国,韓国から,大勢の人が外国人労働者として国内に流入しました。協会は,これら外国語を話す労働者たちを霊的に助けるための方策を講じました。大勢のベテル奉仕者をはじめとする,英語を話す日本人の開拓者が,援助にあたるよう割り当てられました。長年英語会衆と交わっている一人の兄弟は,「この点で協会が率先するようになると,すぐに増加が見られました」と言いました。1997年9月1日には,18の英語会衆があり,独立した巡回区を形成していました。

ブラジル人に対する援助

ブラジルに移民した日系人の2世や3世が,日本で働くために大勢戻ってきましたが,彼らは,日本語も英語も分かりませんでした。以前ブラジルで奉仕していた元宣教者の夫婦,桐谷和幸と奈々子は,ポルトガル語を話す姉妹や聖書研究生が数人いた横浜に,1986年に引っ越しました。この小さなグループは月に一度,ポルトガル語で「ものみの塔」研究と短縮された神権宣教学校を開くようになりました。

1991年の春,協会は,東京,名古屋,豊橋に住む3人のブラジル人の長老と桐谷兄弟を招き,ポルトガル語の分野での発展について話し合いました。1991年8月には,四つのポルトガル語の群れが機能し始めました。支部はすでにベテル奉仕者の中から有志を募って,ベテルでポルトガル語の授業を開いていました。彼らは意欲的にこの言語を学び,ポルトガル語の群れの基礎の一部となりました。新たに設立された群れはすぐ会衆となり,6年もしないうちにポルトガル語会衆の数は21に増え,独自の巡回区が組織されました。

スペイン語の分野が開かれる

1987年9月,それまでポルトガル語の群れと交わっていた8人の姉妹たちを助けるため,最初のスペイン語の集会が開かれました。ペルー出身の独身の兄弟ルイス・デルガドが率先して物事を進めました。当時,姉妹たちの中には,スペイン語の集会に出席するため,6時間もかけてやって来る人もいましたが,霊的に助けられたことを考えると,そうするだけの価値はありました。経済的安定を求めて日本人と結婚した人たちの中には,言語の障壁のため,結婚生活の面で問題を抱え,日本語会衆の長老たちに自分の気持ちを表現することも難しく感じている人たちがいました。

スペイン語の群れでは野外宣教も大きな課題でした。区域を組織するため兄弟たちは,東京の中心部を環状に走る山手線の29駅すべての周辺を回り,玄関にスペイン語の名前がある家を探しました。この活動は非常な労力を要し,時間のかかるものでしたが,兄弟たちが働くためのしっかりとした区域が出来上がりました。

日中は,姉妹たちのグループが,コロンビア人女性の大勢住んでいる地域を訪問しました。それらの女性はバーで働いていましたが,それらのバーの経営者は大抵やくざでした。ある人が霊的に進歩しているように見えると,やくざが介入してその人を別の場所に移動させてしまいます。それでも,そのような聖書研究生の一人は進歩して,エホバに喜ばれるためには仕事を変えなければならないことを悟るようになりました。それは,やくざから逃げ,身を隠すことを意味します。この女性は,研究司会者の援助で結局仕事をやめ,母国に帰ることができました。

こうして,1990年代の初めにペルー,アルゼンチン,パラグアイ,ボリビア,その他の国々から大勢の労働者が日本に流れ込んできた時,エホバは彼らの霊的な必要を満たせるよう,準備の整った小さなスペイン語の群れを持っておられました。1991年には,援助する気持ちのあるベテル奉仕者のためのスペイン語の授業が始まりました。1年もたたないうちに,ある人たちは公開講演を行なうようになっていました。1993年に,東京に最初のスペイン語会衆が設立されました。1997年には,繁栄する13のスペイン語会衆があり,独立した外国語巡回区がありました。

アジアから来た人たちを助ける

中国人も相当数日本に来るようになっています。その中には,大勢の留学生のほかに,第二次世界大戦が終わった時,中国に取り残された日本人孤児の子孫も含まれています。日本に住む中国人は30万人以上と推定され,そのうち20万人は首都圏に住んでいます。目を上げて中国語の畑を見ると,兄弟たちはそれが収穫を待って白く色づいていることが分かりましたが,「働き人は少ない」状態でした。―マタ 9:37。ヨハ 4:35

山本雅幸と妻の正子は,以前宣教者として8年間台湾省で奉仕していました。1992年,中国語を話す人たちを援助したいという気持ちのある大勢のベテル奉仕者に中国語の教育が行なわれました。雅幸は幾らか中国語が話せる人たちと直ちに連絡を取り,28人の伝道者から成る中国語の群れがスタートしました。そのほとんどは日本人の開拓者で,まだ中国語に四苦八苦していましたが,中国語を話す,聖書に関心のある人たちを助けたいという意欲がありました。日本人の証人たちが示したそのような熱意は中国人の心を動かしました。ある女性は,同じ学校に通っている兄弟から「これまでに生存した最も偉大な人」を受け取り,1週間で読み終えてしまいました。感動した彼女は全部の集会に出席するようになりました。中国語を話す人たちに良いたよりを伝えることだけを目的として大勢の日本人が中国語を勉強しているのを見て,彼女は驚きました。その人とその人の弟は共に急速に進歩して,1年もしないうちにバプテスマを受けました。この女性は,バプテスマを受ける前でさえ,自分で聖書研究を司会していました。

1993年5月に,初めての中国語の巡回大会が開かれました。399人が出席し,8人がバプテスマを受けました。しばらくすると,北京<ペキン>官話の会衆が五つと,日本語会衆に属する中国語の書籍研究の群れが一つ機能するようになっていました。

他の言語のグループ

1980年代の終わりに,ペン・ピトレストとその妻のフィクサンは聖書の勉強を始めました。二人ともカンボジアからの難民で,故国で生じた大虐殺の際に両親を失っていました。カンボジア語の研究用出版物は事実上存在していなかったので,進歩はゆっくりとしていました。しかし,最終的に二人はバプテスマを受けました。仲間のカンボジア難民の霊的な必要を気にかけて,二人は彼らと聖書研究を行なうよう努力しました。まもなく,カンボジア語の小さな群れが形成されました。1994年に「ものみの塔」誌がカンボジア語で出版されるようになり,彼らは一層の助けを得ました。その後,ベテルの10人の兄弟たちがその言語を勉強するようになり,カンボジア語の集会に出席するよう割り当てられました。

日本で最大の外国語グループといえばコリアン(韓国語あるいは朝鮮語)のグループですが,その大半は日本語が理解できます。そのため,長年の間独立した会衆がありませんでした。しかし,そのうちに,在日朝鮮・韓国人も,母国語で学ぶほうが早く真理を把握できるということが指摘されました。これがきっかけで,1996年4月にベテルの近くにコリアンの群れが形成され,その後,兵庫県伊丹市にも群れができました。

手話会衆も見過ごすわけにはゆきません。大勢の人が,全国の聴覚障害者を援助するため,自発的に日本語手話を勉強してきました。1982年以降,協会は幾つかの地域大会で手話通訳を組織してきました。しかし,聴覚障害者を援助するための一致団結した努力は,1992年に福岡市と熊本市に手話会衆が設立された時に始まりました。また,手話のビデオも製作されています。今では日本全体で11の会衆と九つの小さな群れがあり,聴覚障害者を熱心に援助しています。

このように,日本のエホバの証人は,国内の多くの言語グループの人々に接触し,かつ援助することにすばらしい努力を払い,その人たちが一番よく理解できる言語で良いたよりから益を得られるようにしてきました。

新しい学校に対する熱意

1993年には,日本の独身の長老や奉仕の僕たちに,胸が躍るような新たな機会が開かれました。それは,国内や海外で奉仕を拡大する機会を与えるものとなりました。旅行する業に数十年の経験を持つジェームズ・ヒンダラーとデービッド・ビーグラーという二人の兄弟が米国から派遣され,日本で最初の宣教訓練学校が開かれたのです。英語で司会されたこの最初のクラスには,日本,韓国,フィリピンからの7人のオブザーバーも出席しました。これらのオブザーバーは,それぞれの国で教訓者として奉仕する備えをすることができました。

学校から生徒たちがどんな益を受けたかを話している中で,最初のクラスの生徒の一人はこう述べました。「私たちの多くは,自分で考えたり,適切な聖書の原則を当てはめて自分で決定を下したりするのが苦手だったように思います。それよりも規則に従うほうが楽でした。でも学校の期間中は,“なぜ”,“どのように”という二つの質問が頻繁に用いられ,事実や答えの背後にある理由を熟考するよう訓練されました」。同じ点について,そのクラスの別の生徒は次のことを思い出しました。それは,雑誌を扱う奉仕の僕が最新号の雑誌を提供する際の証言方法を準備し,それを伝道者たちに教えてあげることを一人の教訓者が提案した時のことです。この点に関して一人の生徒が質問をしたところ,それがきっかけとなって義と善良さの違いに関するすばらしい解説が行なわれたのです。教訓者はこう説明しました。「義は書かれている指示を実行しますが,善良は他の人の益のために,要求されている以上のことを行ないます。わたしたちは義なる者となるだけでなく,善良な者となり,書かれた規則がなくても,会衆の成員の益のためにできることは何でも行なう必要があります」。

日本の若い独身の兄弟たちは一般的に結婚を急ぎません。最初の18のクラスの生徒たちの平均年齢は29歳で,真理のうちに13年おり,全時間奉仕を8年行なっていました。1997年8月までに,宣教訓練学校の33のクラスを790人以上の生徒が卒業し,何千人もの兄弟がなお入校を待っています。卒業の際,巡回監督,特別開拓者,宣教者に任命された人もいます。―詩 110:3

これらのよく訓練された長老や奉仕の僕が会衆に戻ると,その益が会衆に及んでいることがすぐに感じられます。ある長老は,卒業生が会衆に与えた良い影響について,こう語りました。「会衆はとても生き生きして明るくなりました。開拓者精神が増し,会衆の成員すべてが神権的な手順で物事を行なう大切さをより深く認識するようになりました。霊的な事柄に関する若い人たちの熱意は高まり,多くの人が神権宣教学校に入校しました」。このように諸会衆は強められ築き上げられてきました。

代表者を海外の大会に派遣する

日本のエホバの証人が,国際的な兄弟仲間に対する愛を表明する点で『自分を広くする』機会はこれまでたくさんありました。(コリ二 6:13)海外旅行が手ごろな費用でできるようになると,協会は日本支部に,ヨーロッパ,アフリカ,アジア,南北アメリカ,ハワイ,ニュージーランドで開かれる特別な国際大会に代表者を派遣するよう勧めました。

年がたつにつれ,招待に応じる代表者の数は増え,代表者の中に大勢の開拓者や他の全時間奉仕者が混じっていることも珍しくありません。1996年に特別な大会がチェコ共和国とハンガリーで開かれた時,日本からは1,320人の代表者が出席しましたが,そのうちの1,114人は全時間の奉仕者でした。

これらの特別な大会で日本の代表者たちが見聞きしたことは,兄弟たちの視野を広げ,エホバへの心からの奉仕に弾みをつけるものとなりました。1978年の国際大会で韓国,香港<ホンコン>,フィリピン,台湾省を訪問した池畑重雄はこう説明します。「外国の兄弟姉妹の愛の絆に極めて強い印象を受けました。エホバの証人が清い言語によって結ばれているのを自分の目と肌で確かめることができ,特に自分の奉仕の特権に対する認識や祈りの中身が変化しました」。

エホバの僕たちがひどい迫害に耐えてきた国を訪問し,その経験を直接に聞いて,代表者たちは彼らの信仰に見倣うよう心を動かされました。織田美佐子は,1992年にサンクトペテルブルクで開かれた旧ソビエト連邦初の国際大会に出席しました。姉妹はその時のことを振り返ってこう語ります。「大会初日,開会の歌が始まりましたが,隣に座ったロシア人の姉妹がすすり泣きをはじめました。目を上げてみると,ほかにも大勢のロシア人の姉妹たちが,歌を歌えずに,涙を流していました。エホバと忠実な兄弟たちの勝利を示すその歴史的な瞬間に,迫害も何も経験したことがない私ですのに,彼らと共にいることを許してくださったエホバの過分のご親切に深く感謝しました」。

若い開拓者の姉妹,難波清子(現在は中島)は,1990年のブエノスアイレス大会のことをよく覚えています。姉妹はこう語ります。「アルゼンチンの兄弟姉妹から,愛と感謝を表わす方法,その気持ちを人に示す大切さを教えていただきました。ある年配の姉妹は,別れる時,私を抱きしめて,プレゼントをくださいました。そして涙を流しながら,『アスタ・ルエゴ・エン・エル・パライソ』[楽園でまた会いましょう]と,何度も何度も言ってくださいました。日本に帰国してから,自分の会衆や区域の人たちに,同様の愛や親切を示すよう努力しました」。日本から行った他の代表者たちも,たいていは恥ずかしがりやで控え目なのですが,中南米の兄弟姉妹と交わることにより,愛を示す点でもっと積極的になるよう助けられました。

これまで何年もの間,日本支部は他の国々で開かれた特別な大会に何千人もの代表者を派遣する特権にあずかってきました。諸会衆に招待が差し伸べられる際の驚くほどの反応は,国際的なクリスチャン家族と共に過ごす機会に対する兄弟たちの熱意と認識のレベルの高さを物語るものです。

世界的な必要に貢献する

全世界の兄弟仲間に対して現在さまざまな方法で貢献できるのは大きな特権です。貴重な印刷の経験を持っているため,日本支部は近隣の支部が印刷物の必要を満たすのを支援することができます。海老名の工場では,現在,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌が10か国語で毎月900万冊以上印刷されています。

日本支部は現在,中国語,ラオ語,シンハラ語,タミール語(スリランカ向け),タイ語,フィリピンの11の言語を含む,26の言語の書籍,聖書,小冊子,ブロシュアーをすべて4色刷りで印刷しています。高速のオフセット輪転機は工場が野外の必要に迅速に応じることを可能にしています。例えば,1993年9月に,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を含む,待望のタガログ語聖書の特別版を印刷するための資料が日本に送られてきました。10月の半ばまでには,7万冊のタガログ語聖書が印刷され,発送されました。そのため12月の地域大会にちょうど間に合い,発表することができました。その後まもなく,セブアノ語とイロカノ語の聖書が続きました。ポルトガル語とスペイン語の聖書のデラックス製本も現在,海老名の印刷工場で行なわれています。

1989年に世界本部に翻訳サービス部門が設立された後,日本支部はアジア・太平洋地域全体の翻訳者を支援する仕事に参加するよう勧められました。世界人口の半数以上がこの地域に住んでいますが,さまざまな言語を話す人々の多くは,ものみの塔出版物をまだ自国語で入手することができません。そこで,翻訳者を見つけ,訓練して翻訳者のチームを組織するのを助け,協会が翻訳者を支援するために開発したソフトをインストールするため,日本人の兄弟で翻訳の技術を持っている人やコンピューター機器に詳しい人たちがインド,パキスタン,スリランカ,ネパール,レバノン,マレーシア,タイ,カンボジア,インドネシア,ミャンマー,ソロモン諸島,グアム島,その他の土地や国を訪問する特権にあずかってきました。

相互の励まし

見過ごしてならないのは,日本で奉仕する宣教者たちに見倣って,海外で王国の関心事を促進するという割り当てを熱意を持って受け入れ,九つの国に赴いた76人の日本人の兄弟姉妹たちです。このグループの中の13人は宣教訓練学校の卒業生です。派遣された国はブラジル(7人),カンボジア(一人),グアム島(二人),マレーシア(二人),ナイジェリア(一人),パプアニューギニア(11人),パラグアイ(8人),ソロモン諸島(5人),台湾省(39人)です。任命地にいる人たちから来る手紙は,彼らが新しい言語,習慣,食べ物,熱帯病に上手に対処できるようになったことや,現代の豊かな日本とは対照的に,時には水道もガスも電気もない未開の地域で喜んで奉仕していることを物語っています。彼らは地元の人たちに対する愛を培い,敬虔な満足を学んできました。そして,このような方法で王国の関心事を促進できることを喜んでいます。

日本における神権的な拡大で,支部施設を再び拡張しなければならなくなった時,作業は国際的な協力の下に始まりました。工事には13階層のツインビルの宿舎部分と,5階層のサービス棟部分が含まれています。1994年に米国のフランク・リーが建設監督として奉仕するよう任命されました。米国出身のインターナショナル・サーバントであるスティーブ・ギブンズも建設委員会の一員として奉仕しています。49人以上の自発奉仕者が,オーストラリア,カナダ,コスタリカ,英国,フィンランド,フランス,イタリア,ルクセンブルク,ニュージーランド,米国から来て,作業に参加しています。この人たちは自分の経験や技術を海外の兄弟たちに伝え,王国の関心事を促進するために,より安定した母国での生活を喜んで犠牲にしてきました。

日本の兄弟たちの圧倒的な反応も注目に値します。技術者やそうでない人を含め,4,600人を超える日本人の兄弟たちがこのプロジェクトで働くことを申し込みました。その兄弟たちの大半は,短い期間工事に参加するにも,大きな調整が必要でした。それには仕事と家族を離れることが関係しているからです。しかし,その努力は豊かに報われたと兄弟たちは感じています。

年を取っても熱心

日本におけるエホバの賛美者のこの大群衆の成長は,1949年と1950年にギレアデ第11期生の宣教者が到着した時に始まりました。数人の第7期生と,後のクラスから来た人々を含め,他の人たちが彼らに加わりました。そのうちの59人が今でも日本で全時間奉仕を行なっています。数人は,現在70代,80代になっていますが,今でも全員奉仕を熱心に行なっています。64年にわたり決然たる態度で全時間奉仕を行なってきたロイス・ダイアは,こう言いました。「ダビデが,『わたしの力がまさに衰えてゆくときに,……神よ,老齢と白髪に至るまでもわたしを捨てないでください』と,自分の気持ちをよく言い表わして祈ったのと同じように,私も確信を込めて祈り続けています」。(詩 71:9,18)人生の大半を忠実に王国奉仕のために費やした,これら忠実な人たちを,エホバは見捨てたりなさいません。宣教者家族の一人はそのことをこう言い表わしました。「エホバの組織は母親のように,暖かい毛布で私たちを包み,抱き寄せてくださっています」。

長年奉仕を続けているこれらの人たちのうち,21人は現在,東京,三田の宣教者の家にいます。支部となっていた最初の建物は,これらの高齢になった宣教者たちの宿舎として全面的に改装されました。この宣教者の家族は類例のない家族です。平均して年齢は74歳,真理のうちにいる年数は50年になります。そのうちの8人はギレアデ第11期の卒業生です。この宣教者の家族は,合わせて567人ほどの人たちを真理に導き,長年にわたって証しの小山を築いてきました。数人は80代の半ばをすぎ,深刻な健康問題を抱えてはいますが,それでも決して手を休めたりはしません。1997奉仕年度中,彼らは1か月に平均40時間以上も野外奉仕を行ない,よく網羅されている区域で合計1万7,291冊の雑誌と数百冊の書籍を配布しました。長年奉仕しているこれらの人たちは,会衆の成員から敬われ,近所の人たちからも敬意を得ています。

現在86歳になるルツ・ウルリックは,68年を開拓者また宣教者として奉仕してきました。姉妹はこう言います。「こんなにたくさんの人たちが,異教の宗教から脱出して真理に入り,本当に私たちの兄弟姉妹となるのを見て,私は信仰を強められてきました」。

日本のエホバの証人の現代の歴史を告げる“家族アルバム”をずっと見てきて,多くの熱心なエホバの僕たちに会うことができました。しかし,それらの人たちも,日本で神の王国についての良いたよりを宣明している,22万を超える伝道者のうちのほんの一握りにすぎません。宣教者たちは自分たちの霊的な子供たち,孫たち,3代,4代にわたって成し遂げられている事柄に深い満足を感じています。さらに,現在の体制が終わりに向かう間,そして今や間近に迫っているすばらしい新しい世で,エホバが自分たちにさらにどのような役割を与えてくださるのか,それを見ることに鋭い関心と期待を抱いています。

[66ページ,全面図版]

[71ページの図版]

戦前からの忠実な日本人伝道者: (1)石井治三とマツエ,(2)出井みよ,(3)三浦勝夫とはぎの

[72,73ページの図版]

1949年から1950年に日本で奉仕を始めた宣教者の一部: (1)ドン・ハズレットとメーブル・ハズレット,(2)ロイド・バリーとメルバ・バリー,(3)ジェリー当間とヨシ当間,(4)エルシー谷川,(5,6)パーシー・イズラブとイルマ・イズラブ,(7)ノーリン・トムソン(旧姓,ミラー),(8)エードリアン・トムソン,(9)ロイス・ダイア,(10)モリー・ヘロン,(11)桃原真一と正子

[79ページの図版]

1951年に神戸の宣教者の家で開かれた大会で話をするN・H・ノア(上の左側)

[81ページの図版]

ギレアデ学校第11期生のグレース・グレゴリー(上)とグラディス・グレゴリー

[82ページの図版]

マルガリット・ウィンテラー(右,ギレアデ第23期生)は姉のリナ(第15期生)と日本で一緒になった

[88ページの図版]

東京のベテル・ホームにいるドン・ハズレットとロイド・バリー,1953年

[89ページの図版]

40年間奉仕してきた日本人の特別開拓者(左から右に): 佐藤孝子,涌井ひさ子,小林計子

[90ページの図版]

沖縄支部,1979年

[95ページの図版]

冬の北海道で証言に出かける

[95ページの図版]

上: アデライン名幸

下: リリアン・サムソン

[99ページの図版]

江藤百合子

[102ページの図版]

野外奉仕に出かける幸せな開拓者の家族

[110ページの図版]

東京の支部事務所,1949年から1962年

東京の支部事務所,1963年から1973年

沼津の支部施設,1972年から1982年

[115ページの図版]

本間年雄,1970年代の半ばごろの支部の監督

[116ページの図版]

支部委員会,1997年(左から右): リチャード・ベイリー,池畑重雄,杉浦 勇,織田正太郎,中島 誠,長崎義弘,三村健次

[124ページの図版]

工場の監督を務めたジェームズ・マンツ(一緒に写っているのは妻のサラ)

[132ページの図版]

大会ホール: 兵庫,海老名,関西

[139ページの図版]

小林邦人

[142ページの図版]

1995年の震災後の神戸

[150ページの図版]

山本雅幸と正子

[156ページの図版]

海外の大会に出席している日本の代表者たち:(1)ケニア(2)南アフリカ(3)ロシア

[158ページの図版]

海老名にある支部事務所とベテル・ホーム。挿入写真は1997年に増築中の部分