イギリス
イギリス
最盛期の大英帝国は世界全体に広がる国でした。ビクトリア女王(1837-1901年)の時代,その領土には「日が決して沈まない」と言われました。しかし20世紀に入ると,英連邦がこの大帝国に取って代わるようになりました。
英連邦はどれほど広範囲に及んでいるのでしょうか。地表の約4分の1を占め,世界人口の約4分の1を包含しています。英連邦の53の構成国は,政治的には独立しているものの,英国の女王を文化や経済連合の象徴的な首長として認めています。
過去50年間にそれらの構成国などから移民が行なわれたことにより,英国そのものも変化しました。約5,800万の人口を擁する国際色豊かな社会になったのです。
多民族,多宗教
1948年6月22日,ロンドン近郊のティルブリに,軍隊輸送船を改造した船舶エンパイア・ウインドラッシュ号が停泊し,492人のジャマイカ人が降り立ちました。それは,カリブ海諸国からの移民25万人の最初のグループでした。西インド諸島から来たこれら幸福で陽気な人たちは,聖書に心からの敬意を抱いていましたが,英国人の多くがもはや神に対する深い信仰を言い表わさないのを知ってショックを受けました。どうしてこんなに変わってしまったのでしょうか。人々は,宗教が二つの世界大戦において無分別な殺戮に関与していたため,宗教というものに愛想を尽かしていたのです。さらに,聖書に対する信仰は,科学と宗教は相いれないとする批評家たちによっても,ひどく損なわれていました。
1960年代以来,インド人やパキスタン人,さらに最近ではバングラデシュの人々が英国に押し寄せています。1970年代には,東アフリカに住む大勢のアジア系の人が,英国に安住の地を求めました。英連邦以外では,ギリシャ人,トルコ系キプロス人,さらにはポーランド人やウクライナ人がやって来ています。1956年のハンガリー革命後,ハンガリーから2万人の難民が英国に逃れて来ました。もっと最近では,特にベトナム人,クルド人,中国人,エリトリア人,イラク人,イラン人,ブラジル人,コロンビア人などが英国で暮らすようになりました。1990年代半ばの時点で,英国に居住する100人に6人は少数民族に属する人たちでした。
英国の首都ロンドンほど,それがはっきり見られる場所はありません。観光客は,街路を行き来したり2階建てのバスで移動したり,地下鉄に乗ったりすると,ロンドンの人たちが多民族から成っていることにすぐ気づきます。実際,ロンドンの人口の4分の1近くは海外からの人たちです。こうした多様性を反映し,学校では今,キリスト教,イスラム教,ヒンズー教など,様々な宗教的好みに適応させた教育を子どもたちに施しています。だからといって,英国は特に宗教的な国であるというわけではありません。それどころか,今の時点で,英国に住む人々の大多数は,おおむね世俗的で物質主義的な人生観を抱いています。
一方,英国には12万6,000人余りのエホバの証人がいます。証人たちの背景も様々です。しかし彼らは神を固く信じています。名前のない神ではなく,エホバを信じています。エホバは,あらゆる国家的背景を持つ人々に対して,ご自分の道を歩み,愛情深い諭しを当てはめて自らを益するようにと温かく勧めておられます。(出 34:6。イザ 48:17,18。使徒 10:34,35。啓 7:9,10)エホバの証人は,聖書が霊感を受けて書かれた神の言葉であることを認めており,神がイエス・キリストを通して設けられた救いの備えに深い信仰を抱いています。将来の希望の中心に据えられているのは,神の王国と,神の目的により地上が楽園<パラダイス>になるという 聖書の教えです。(創 1:28; 2:8,9。マタ 6:10。ルカ 23:43)証人たちはこの良いたよりを熱心にふれ告げています。証人たちが切に願っているのは,それを他の人々に伝えられるよう,「良いたよりのためにすべての事をする」ということです。―コリ一 9:23。マタ 24:14。
では,世界のこの一角で,エホバの証人の活動はどのようにして始まったのでしょうか。
他の人々に伝える
19世紀の最後の20年間,英国は都市化の問題と必死に取り組みました。大勢の人々がイングランドやスコットランドやウェールズの田舎の村々から,町や都市に押し寄せたのです。技術の全くない,あるいは限られた技術しかない大勢の人たちが伝統工芸の職人たちに加わりました。1870年以降,義務教育が導入され,より多くの人々が知識を容易に得られる時代が到来しました。
1881年,J・C・サンダーリンとJ・J・ベンダー ― ものみの塔協会の仕事を先頭に立って行なっていたチャールズ・T・ラッセルの二人の親しい仲間 ― がアメリカ合衆国からやって来ました。二人がもたらした音信は,英国に住む何万もの人たちの生活を向上させてきました。「考えるクリスチャンのための糧」(英語)という心を奮い立たせる出版物を,一人はスコットランドで,もう一人はイングランドで配布し始めました。ロンドンでは,ある朝早く,鉄道の転轍手トム・ハートが仕事帰りにそれを1冊受け取りました。彼はそれを読んで興味をかき立てられ,キリストの再来について何度も話し合うようになりました。学んだ事柄に心を動かされたトムは,新しく見いだした知識を熱心に妻や同僚たちに伝えました。聖書研究者として知られるようになったこの小さなグループは,間もなく近所の通行人たちにパンフレットを配布し始めました。同じようなグループが英国各地の都市に設立されました。その人たちは皆,聖書の真理を是非とも広めたいと思っていました。
啓 18:4,「ジェームズ王欽定訳」)ラッセル兄弟は,「イングランドやアイルランドやスコットランドは,収穫を待つばかりの畑である」と報告しました。良いたよりを伝える業は成果を上げ,20世紀を迎えるまでに,10の小さなクリスチャン会衆が設立されました。聖書の出版物という霊的食物をさらに入手しやすくするため,ものみの塔協会はロンドンに事務所を開設しました。
C・T・ラッセル自身が初めて英国を訪れた1891年当時,ロンドンでは約150人,リバプールでもほぼ同数の人たちが聖書の音信に関心を持ち,「わたしの民よ,彼女から出なさい」― 古代バビロンの痕跡が残る宗教から出なさい ― という主題の講演に出席しました。(最初の支部事務所
1900年,C・T・ラッセルの別の親しい仲間だったE・C・ヘニンゲスがイングランド北西に位置するリバプール港に着き,文書集積所として使える借家を探すためにロンドンへ向かいました。4月23日,兄弟はロンドンの東,フォーレスト・ゲート,ジプシー通り131番地の土地を取得し,その場所で,ものみの塔聖書冊子協会の最初の支部事務所が機能し始めました。1世紀を経た現在,そのような支部事務所が世界の要所要所に100余り存在しています。
1914年6月30日,英国におけるエホバの組織の新たな法的機関,つまり国際聖書研究者協会がロンドンで法人化されました。当時,英国支部は,アイルランドを含むイギリス諸島全体の王国の業を世話していました。しかし1966年以降は別の支部がアイルランド全体を監督しています。その支部は最初ダブリンにありましたが,今はダブリンの南に移転しています。
国際的な移動
英国の兄弟たちの関心は,英国の畑だけに限られてはいませんでした。兄弟たちは,終わりの来る前に神の王国の良いたよりが人の住む全地で宣べ伝えられるという,イエス・キリストの予告の言葉を知っていました。(マタ 24:14)1920年代にも1930年代の初期にも,英国の大勢の兄弟たちは他の国で宣教者の業を始めることによって,宣べ伝えるための畑を拡大しようとしました。それは大きな移動であり,エホバは兄弟たちの自己犠牲的な精神を祝福されました。
1926年,エドウィン・スキナーはインドで奉仕するため,イングランド北部のシェフィールドを後にしました。兄弟は謙遜だったので,1990年に亡くなるまでの64年間,粘り強く任命地にとどまることができました。忘れてならないのは,スコットランド出身の愛情深いウィリアム・デイのことです。デイは税務調査官で相当な資産家でしたが,自分の地位も年金も断念し,デンマークのコペンハーゲン
にある協会の新しい北ヨーロッパ事務所の支部の責任者になりました。その後間もなく,デイ兄弟の勧めに応じてフレッド・ガブラーがリトアニアへ移動し,パーシー・ダナムに加わりました。ダナムは,その後ラトビアで奉仕しました。ウォーレス・バクスターは,エストニアの業を監督しました。クロード・グッドマン,ロン・ティピン,ランダル・ホプリー,ジェラルド・ギャラド,クラレンス・テイラーなど,大勢の英国出身の兄弟たちがアジアにおける活動の先駆者となりました。もう一人のスコットランド出身の兄弟ジョージ・フィリップスは,長年のあいだ南アフリカで奉仕しました。ロバート・ニズベットとジョージ・ニズベットもスコットランド出身ですが,東アフリカと南アフリカで開拓奉仕を行ないました。大陸での業を支援した勇敢な人たち
1930年代,ベルギー,フランス,スペイン,ポルトガルにおける良いたよりを言い広める業の援助要請に対して,大勢の英国人の開拓者がこたえ応じました。ジョン・クックとエリック・クックもその中に含まれていました。
アーサー・クレジーンとアニー・クレジーンは,会衆が一つもなかったフランス南部での活動を思い出します。二人は,非常に熱心でもてなしの精神に富んだポーランドの兄弟たちと出会いました。アニーは,自分たちが泊まっていたアルビの町のヨーロッパ・グランド・ホテルに兄弟たちを招いた時のことを思い出します。後にアニーは,「そのホテルは,ナポレオンの時代には名前のとおり立派な建物だったのかもしれません」と書いています。しかし,その美観は消え失せていました。さらにこう言います。「兄弟たちは日曜日の午後に到着し,わたしたちは,非常に興味深い『ものみの塔』研究を行ないました。五つの異なる国籍の人たちが,それぞれ自国の言語の雑誌を持っていました。意思を通わせる共通の手段は“ブロークンなフランス語”でした。わたしたちは順番に自分の雑誌から
節を読み,読んだ事柄を片言のフランス語で説明したのです。でも,みんなで本当に楽しい時を過ごしました」。残念ながら,そうした楽しい外国での奉仕は長続きしませんでした。当時フランス南部にいたジョン・クックは,可能な限り長くそこにとどまりましたが,結局ドイツの戦車が来る直前に自転車で脱出し,英国に引き揚げました。1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発し,英国とドイツの間で戦いが起こると,英国や他の場所でエホバの証人に深刻な影響が及びました。
国々が互いに敵対し,全面戦争に突入すると,エホバの証人は使徒 5:29)証人たちは,神の王国の到来を誠実に祈り求め,世の支配者の実体についてイエス・キリストが述べたことを知っていたので,世の党派間の争いでいずれかの側を支援することは間違いであると固く信じていました。(マタ 6:10。ヨハ 14:30; 17:14)エホバの証人は各自,『もはや戦いを学ばないこと』について聖書が述べる事柄を心に留めていたのです。(イザ 2:2-4)最初,英国の証人たちの中には,良心的兵役 拒否者として戦争に行くのを免除された人もいました。しかしその後,判事たちとマスコミの両方から,人々がエホバの証人になるのは入隊を回避するためだという声が上がり,結果として約4,300人が投獄されました。その中には,戦争努力を支援する仕事に携わろうとしなかった大勢の姉妹たちが含まれていました。しかし戦争の後も,証人たちは自分たちの動機,つまり神を喜ばせ,人類の唯一の希望として神の王国を宣伝したいという願いをはっきり示し続けました。(英国のエホバの証人の,これら初期の活動に関するさらに詳しい事柄は,『1973 年鑑』[英語]に掲載されています。)
クリスチャンとしての確固とした中立の立場を取りました。証人たちは,生活の中で神への従順が優先されるべきことをはっきり理解していました。(英国で開かれた2か国語大会
大会は長年にわたり,エホバの民の生活における重要な行事となってきました。ある時,ロンドンで開かれた大会で,ものみの塔協会の会長による幾つかの主要な話が,ラジオを通じて多くの国々に伝えられました。1950年代と1960年代には,他の50余りの国々から,代表者がロンドンの大会に出席しました。しかし,プログラムはすべて英語で行なわれました。それが変更されたのは1971年のことです。
その年,ロンドンのトウィックナムで開かれる予定の「神のお名前」地域大会の準備は順調に進んでいました。ヨーロッパの証人たちは,同じ主題の様々な大会に出席する手はずを整えていました。ポルトガルの王国の業は相変わらず禁令下にあったものの,何千人もがスペイン経由でフランスのツールーズへ行く準備をしていました。兄弟たちの気持ちは高揚していました。折しも,スペインでコレラが発生したというニュースが舞い込んできました。スペインを通過できるのは,コレラの予防接種を受けた人だけです。ところがワクチンは不足しており,大会に出席することを願っていたポルトガルの兄弟たち全員に行き渡るほどはありません。ツールーズで疑似コレラ患者が見つかり,当局は入国を取り消す厳しい
命令を出しました。ポルトガルの兄弟たちはどうすればよいのでしょうか。「まあ,いずれにせよロンドンがありますよ」と,ある兄弟は言いました。冷静かつ親しみやすい態度で知られる,トウィックナムの大会監督W・J・(ビル・)ブル兄弟は,その時のことを思い出してこう言います。「800人から900人ほどが英国にやって来ました。112人は飛行機で,残りの人たちはバスで来ました。こんなに大勢の人たちの訪問を,1週間足らずで準備しなければなりませんでした。兄弟たちはドーバーへ出向き,フェリーで到着する,ほとんどあるいは全く英語を話せないポルトガルの代表者たちを迎えました」。全員の宿舎が確保できましたが,それはおもにロンドンの兄弟たちの家でした。カフェテリア用の大きなテントが一張り,ポルトガル語の集会にふさわしい会場へと変えられました。ポルトガルの兄弟たちは英国の兄弟たちと共に,「エホバは忠節な者たちを祝福される」,「あなたの生き方をエホバの目的にかなったものとしなさい」といった主題の大会の劇を見たり,他のプログラムに耳を傾けたりして楽しい時を過ごしました。1971年8月13日付の「ミドルセックス・クロニクル」という地元の新聞は,「今回は彼らの来訪により,これまで我が国で開かれてきた証人たちの大会とは異なり,初めて2か国語大会となった」と伝えました。
ポルトガルの兄弟たちが自国での王国の業の進展に関する喜ばしい報告をした後,ポルトガルの業の監督に当たっていた兄弟が,英国の兄弟たちの親切なもてなしに対する感謝の言葉を大会出席者たちに述べました。「皆さんはわたしたちに本当に良くしてくださいました。時間を割き,家を提供し,関心や親切を表わし,この大都会の中で優しい気遣いを示してくださいました。そして,特筆すべきなのは,皆さんの愛です。兄弟たちに申し上げます。わたしたちはロンドンのことを思い出すたびに,きっと大きな喜びに包まれることでしょう。これはわたしたちの偽らざる気持ちです」。ポルトガルの兄弟たちが歌を歌って感謝を表わしたとき,聴衆席の
どこを見ても,涙を浮かべていない人はいませんでした。心からの感謝の表明に,出席者全員が深く感動したのです。エホバの愛情に満ちた家族に導き入れる
英語が母国語でない人たちの世話が必要なのは,大会の時だけではありません。英国では移住して来る人が増加していたため,良いたよりの伝道の面で大きな問題が生じました。どうすればよいのでしょうか。
英語を話す奉仕者たちは,別の国から来た異なる言語を話す人たちを援助したいと心から願っていました。証人たちは可能な場合,家の人が自国語で読める文書を提供しようとしましたが,意思の疎通が問題でした。しかし,外国から来た人の中にはエホバの証人もいて,それらの証人たちがギャップを埋める助けとなりました。
1960年代,ギリシャ語を話すキプロス出身の証人たちが,英国に住むギリシャ語を話す人たちに忙しく真理を伝えていました。イタリア人の証人たちは,ロンドンに移住して来た同国人に聖書の真理を伝えていました。
1968年の春にフランチスカという名の若いドイツ人の証人が,オーペアとして働くため,英国にやって来ました。オーペアとは,家事を行なうのと引き換えに,部屋と食事を無料にしてもらい,その家の人たちの言語を学ぶ少女のことです。その年にフランチスカは,「すべての国の民に対する福音」地域大会に出席した後,意欲的に野外宣教の時間を増やし,近所に住む他のオーペアたちに,新しく発表された「とこしえの命に導く真理」という本を紹介しました。その結果,4件の聖書研究が始まりました。その一つはスイス人の少女との研究で,ドイツ語で行なわれました。その少女は会衆の集会に出席するようになり,エホバの家の者たちの間にある愛を自分の目で見ることができました。(ヨハ 13:35)関心を持つこの少女は非常によく進歩し,翌年にはエホバに献身してバプテスマを受けるまでになりました。その後,開拓者になり,真理を受け入れる よう母親を援助することもできました。しかしこれは,オーペアたちに証言する点でフランチスカが払った努力の始まりに過ぎません。
フランチスカは熱意を込めてこう言います。「わたしはいつも,家から家でオーペアに会うと,わたしもオーペアだったと言います。すると,たちまち共通の絆ができます。いつも強調することは,わたしが英国に来た時は,ある姉妹を除いて,知り合いはだれ一人いなかったということです。にもかかわらず,会衆では歓迎さ
れていると感じました。ですから,オーペアたちがすぐに会衆と交われるように,いつも手を尽くします。わたしたちが一つの大きな家族だということを分かってもらうためです」。1974年に,フランチスカはフィリップ・ハリスと結婚しました。現在,二人はロンドン・ベテルで奉仕し,ノースウッド会衆と交わっています。フランチスカは,会衆の区域内のある家を13年余り訪問し続けています。こう説明しています。「フランス人のオーペアから,証人たちに訪問してもらいたいという手紙がベテルに寄せられました。この人はフランスの証人たちから,『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の本を受け取っていて,もっと知りたいと思ったのです。その手紙を書いたナタリーの英語力はまだ限られたものでしたが,真理に飢え渇いていることは分かりました。ナタリーはよく進歩し,やがて集会に出席するようになりました」。ナタリーは,フランスに帰国する前に王国伝道者になり,現在は,夫と共に本国のアラビア語の畑で開拓者として奉仕しています。
オーペアを受け入れる家庭には,一つの取り決めがあります。あるオーペアが帰国する前に次の子が来ると,数日間,前のオーペアが新しく来た人に,家で行なう仕事を教えるのです。ナタリーが帰国しようとしていた時,フランチスカから,「フランスに帰る前に,聖書研究がどれほど役立ったかを次のオーペアに話して,その子も関心があるかどうか見てみたら」とアドバイスされました。次のオーペアもフランスから来た女性で,イザベルといいました。そして,やはり関心がありました。フランチスカはイザベルとも研究しました。また,やはりナタリーという別の女性がイザベルの後に続き,すぐに集会に出席し始め,やはりフランスに戻ってバプテスマを受けました。
もう一人は,ポーランド出身のガブリエラです。この女性の場合,それまで一度もエホバの証人との意義深い接点がなかったの
で,フランチスカに,ドイツ人はポーランドで評判がよくないので嫌いです,と言いました。フランチスカは,エホバの証人が一度も戦争に参加しなかったことを説明してから,「第二次世界大戦中,軍隊でエホバの証人を見つけることは決してできなかったでしょう」と言いました。「わたしたちが迫害されていたことをご存じでしたか。ヒトラー万歳を唱えることやナチ政権への支持を拒んだので,強制収容所に入れられたのです」。ガブリエラは驚き,反独感情はすぐに消え去りました。ガブリエラは,フランチスカとの定期的な聖書研究を行なった後,バプテスマを受けていない伝道者になり,その後,トウィックナムの大会でエホバに対する献身を表明しました。幾年もの間にフランチスカは,10か国から来た25人のオーペアとの聖書研究を司会し,彼女たちをエホバの愛情深い家族に導き入れる喜びを味わってきました。母国語での集会
もちろん,英語で聖書を研究したり,母国語でない言語で行なわれている集会に出席したりする人がみな真理において急速な進歩を遂げられるわけではありません。どうすればよいのでしょうか。
ギリシャ語を話すキプロス出身の証人たちが,英国に住む同国人の中から関心ある人を見いだすようになると,ロンドンでギリシャ語の集会を開く取り決めが設けられました。1966年までには,定期的に行なわれるギリシャ語による会衆の書籍研究から益が得られるようになりました。次いで,公開講演が月1回行なわれるようになりました。1967年,最初のギリシャ語会衆がロンドンに設立され,もう一つのギリシャ語の群れがバーミンガムで集会を開くようになりました。
イタリアの人たちは,1967年に公開講演と「ものみの塔」研究を,ロンドンのイズリントンにある王国会館で行なうことから始めました。その後,さらに多くのイタリア語の集会が他の場所でも開かれるようになりました。物事がどのように進展したかを示す
例を挙げましょう。ベラ(ヴィー)・ヤングは,ロンドン北部のエンフィールドで一人のイタリア人女性と聖書研究を始めました。認識が深まると,その女性は,「友達を誘えるイタリア語の集会がないなんて,残念だわ」と言いました。ヴィーの夫ジェフはそれを聞いて,巡回監督に話しました。二人は,イタリアで開拓者として奉仕していた,ギリシャ語を話す兄弟を見つけました。ジェフは,「私が英語で講演をし,ギリシャ人の兄弟がそれをイタリア語に通訳しました」と述べています。30人ほどが出席し,中には,霊的によく進歩した人もいます。やがて,イタリア語を話す証人たちは,会衆を設立できるまでになりました。以来,イタリア語会衆の数は,平均すると5年ごとに一つずつ増加してきました。ギリシャ語の畑でも増加が続きました。1975年に,大会の益にあずかれるようにするための取り決めが設けられました。当時,ジェフ・ヤングとヴィー・ヤングは40代後半の開拓者でした。その子どもたち二人は成人して,いずれも「主にある」者と結婚していました。(コリ一 7:39)ジェフとヴィーには,世話の必要な高齢の親もすでにいなかったので,他の奉仕の特権を受け入れられる立場にありました。そのジェフに,当人を驚かせる割り当てが与えられました。英国に住むギリシャ語を話す兄弟たち全員のために大会を組織するのです。ジェフは,その時のことを思い起こして,「どうなるか分かりませんでした」と言います。「大会会場に着いた時,経験の乏しい私の目には,まるで内戦が行なわれているように見えました」。それはただ,保守的な英国人の目から見た活発なギリシャ人の姿だったのでしょう。ギリシャ人の兄弟たちは,業を行なう一番よい方法について話し合っていただけなのです。大会には400人余りが出席しました。
他の言語のグループも発展しました。1975年に,スペイン語会衆が活動を開始しました。ロンドンでは,1977年にグジャラティー語による最初の公開講演が行なわれました。その2年後,グジャラティー語の小規模な大会が開かれました。同じころ,
パンジャブ語の巡回大会が開かれ,約250人が出席しました。「立派な人々」
初期のころの大きな大会は,しばしばロンドンで開かれました。1960年代,毎年行なわれる大会は都市の大小を問わず,全国各地で開かれていました。たった四つの大会しか開かれないこともあれば,小さめの施設が用いられ,大会の数が17になった年もありました。サッカー競技場,公会堂,アイスリンクなどを借りたのです。1975年には,ウェールズのカーディフ・アームズ・パークで大会を開く努力が払われました。
エホバの証人の良い評判は,英国のほとんどの場所で知られているものの,証人たちのそうした大きな集まりを直接経験してこなかったスポーツ競技場の責任者たちは,最初,施設を貸すことに慎重な態度を取ることがあります。カーディフ・アームズ・パークの場合がそうでした。ウェールズのラグビー・ユニオンの理事会と交渉が始まりました。当時ラグビー・ユニオン・フットボールの会長だったウェークフィールド卿は親切にも,カーディフの役員会議で交渉を行なう時に何か難しい問題が生じたなら,わたしに電話するよう役員会のメンバーに促してください,と兄弟たちに言いました。兄弟たちは,そうした助けが得られることを本当にありがたく思いました。交渉が行き詰まったときは,ウェークフィールド卿に電話をかけて難局を切り抜けることができたのです。エホバの証人は1955年以来,ロンドンのトウィックナムで大会を開いていますが,ウェークフィールド卿は,毎年夏にトウィックナムの施設を証人たちに使ってもらっていることを,自分も理事会も深く感謝している,とウェールズの同僚たちに説明しました。そして同僚たちに,心配することは何もないと断言し,「証人たちは本当に立派な人々だ」と付け加えました。すぐに契約が交わされ,以来,証人たちはウェールズにおける大会の正規の会場として,カーディフ・アームズ・パークを何年も使用してきました。
自分たちの大会ホール
毎年の大会に加え,1年の内には小規模な大会も開かれます。1969年には,英国の王国宣明者の数は5万5,876人でしたが,4年足らずのうちに良いたよりを宣べ伝える人は,6万5,348人にまで増加しました。それまで巡回大会を開くのにホールを借りていましたが,手ごろな料金でふさわしい場所を見つけるのはますます難しくなっていました。
1970年代の時点で,自分たちの大会ホールが必要であることは歴然としていました。責任ある兄弟たちの会合が開かれ,ふさわしい地所探しが始まりました。当初,すでにある建造物を改造するという観点から計画が立てられました。1975年の初頭に,イングランド北部のマンチェスターにある映画館だった建物を買い入れる交渉がまとまり,何か月もの修復工事の末,英国のエホバの証人の最初の大会ホールが8月31日に献堂されました。9月から始まる巡回大会の新しいプログラムにちょうど間に合いました。
これより2年前,国の南東部で大会監督たちが集まり,ロンドンでホールを取得できる方法を考慮しました。委員会のメンバーで,ふさわしい建物を探す仕事を割り当てられたデニス・ケーブは,集まった兄弟たちが満場一致で,一つではなく二つのホール ― 一つはテムズ川の北,もう一つは南 ― を探すことに同意した時の驚きを覚えています。その地域の土地の価格は高かったにもかかわらず,二つのホールを探すことになったのです。
ロンドンの南30㌔のドーキングという町にある使用されていない映画館は,かなり期待が持てそうでした。ところが,不動産の投機家たちが介入し,その建物に高い値を付けました。最初デニスはがっかりしましたが,町の最高責任者から電話があり,デニスともう一人の証人に会議に出席してほしいと要請され,びっくりしました。当局は,建物が崇拝の目的で使用できるよう改築制限を解除することに加え,映画館を買い取ることと,3年ごと
に更新する継続的な賃貸借契約を交わすことに同意しました。このホールは,町が他の目的で使用することを決定するまで,10年余り活用されました。このホールに代わるものとして,兄弟たちはロンドンのガトウィック空港からそう遠くない所にある11㌶の用地を購入しました。その用地には,立派な大会ホールに組み入れられそうな建物が幾つか建っていました。何本かの狭い田舎道を通って新しいホールに入る方法をめぐって,地元から反対が生じました。理解できることですが,付近の住民は自分たちのプライバシーを守り,できるだけ邪魔されたくないと願っていました。証人たちは大会ホールへ行く際,与えられた指示を尊重し,指定されたルートや走行スピードを注意深く守るでしょうか。地元の都市計画委員会の会合に関するあるニュース記事は,「普通,そうした条件を守らせるのは不可能だと委員会は思っていたが,エホバの証人は違っていた」と述べました。同委員会の会長はこう付け加えました。「他の多くの団体や組織は,我々はこんなふうに従うと言いたがるが,この組織は実際そのように行なっている」。ヘイズブリッジのこの新しいサリー大会ホールは,用地を取得してからちょうど1年後の1986年5月17日と18日,巡回大会をもって使用し始めました。
1975年に進められたドーキング大会ホールの建設と並行して,ロンドン北部の証人たちは,ニュー・サウスゲートの元リッツ・シネマの改装工事を行ないました。1930年代半ばのこの建物は,1974年の春に映画館としては終止符を打ち,その後しばらくの間,ユダヤ教の礼拝堂になっていました。証人たちがその建物を取得した時,建築家のロジャー・ディクソンによると,それは「ひどい破損状態」にありました。ディクソンはその時のことを思い起こし,「建物は基本的にはしっかりしていましたが,雨漏りがしていました。荒れ果てた状態を繕うために,ホール内は黒く塗られていました」と述べています。最初は修復作業の大変さに圧倒されましたが,2,000人ほどの熟練工や半熟練工の自発奉仕者によって,
作業はわずか4か月半で終わりました。一方,大会ホールの仕事はウェスト・ミッドランド州でも進んでいました。1974年に兄弟たちは,ダドリーで元映画館だった建物を首尾よく購入することができました。この施設の修復にはもっと長い時間がかかりましたが,1976年9月には,こちらも使用できるようになりました。
新しい大会ホールの建設
王国伝道者は増加し続け,1974年に7万1,944人だった伝道者が,1984年には9万2,616人になりました。その多くは,イングランド北部の高度工業化地域の都市部に住む人々でした。サウス・ヨークシャー州にホールを建設する計画が立てられました。
イースト・ペナイン大会ホールとして知られる建物の建設は,1985年9月に始まりました。1,642人収容の鉄筋の建物で,地元の会衆用に350席ある王国会館も含まれています。スパンが42㍍ある屋根が,ホールを非常に魅力的なものにしています。「土木建築工学技術者」誌(英語)はこの珍しいデザインを,「八角形解決法<ソリューション>」と呼びました。この大会ホールには,ロザラム・バラ評議会からトップ・デザイン賞が贈られました。
このプロジェクトの委員会のメンバーであるノーブル・バウアーは,建設の初めから現場で作業に従事し,その後,このホールの最初の監督として奉仕しました。14か月の建設期間中に援助にやっ
て来た1万2,500人以上の兄弟姉妹は,バウアー兄弟の陽気ながらまじめな態度に励みを受けました。氷霧,氷点下の気温,雪などに負けずに工事が行なえるようにと,兄弟たちは現場の周りに,ビニール製の保護シートを固定するための足場を組みました。その中に,工業用のヒーターで温風を送り込むのです。この大切なプロジェクトを中断させるものは何もありませんでした。兄弟たちが遠方からもやって来て自発奉仕者たちを励ましました。ノーブルと妻のルイにとって,統治体の成員セオドア・ジャラズの訪問中に大会ホールがエホバに献堂された日,つまり1986年11月15日は,終生忘れ難い日となりました。
イングランドの北部,ミッドランド地方,そして南東部には大会ホールがありますが,イングランド西部やウェールズの兄弟たちの便宜を図るために何ができるでしょうか。1987年10月に,ブリストル市北部のアーモンスベリーに適当な土地が見つかりました。しかし,必要とされていた土地利用に関する許可はなかなか得られませんでした。再三の努力が求められましたが,ついに1993年2月に許可が下りました。
次いで,工事が本格的に進められました。1995年8月5日,イングランドで6番目の大会ホールを献堂する日を迎えることができたのは,大きな喜びでした。統治体のジョン・バーが,「エホバについての知識で地を満たす」という主題の話をしました。出席者全員は,兄弟の次のような親切な諭しに感謝しました。「皆さんの区域が,エホバの足台のごく一部であることを決して忘れないでください。神は,皆さんの場所と同じように地上の他の場所にも関心を抱いておられます。ですから,王国の業が世界的な規模で行なわれていることを思いに留めてください」。
その翌週,バー兄弟はロンドン北部のエッジウェアにある新しい集合式王国会館の献堂の話を行ないました。兄弟たちはここに三つの王国会館から成る立派な建物を建てました。王国会館の仕切り壁
を折りたためば全体が大会ホールになり,外国語の諸会衆が使用できるのです。この時までに,英国で王国を宣べ伝える業は,外国語の畑における反応により,新たな意義深い局面を迎えていました。「常々もっと多くのことをしたいと願っていました」
ある証人たちにとって,良いたよりを伝えるとは,宣教を拡大する方法を探し出すことでもありました。称賛すべきことに,英国の大勢の兄弟姉妹たちは,必要の大きな所に出かけて行って奉仕するための手段を講じました。1920年代と1930年代の大勢の熱心な開拓者たちの場合のように,これはしばしば,他の国へ移動することを意味しました。兄弟姉妹たちは外国へ移動することにより,新しい故郷で王国の実を生み出すと同時に,地元の兄弟たちを励ますことができました。1970年代から1980年代にかけて,いろいろな家族が英国から中南米やアフリカやアジアに移動しました。
ベラ・ブルは57歳の時,すでに二人の娘も成人して結婚していたので,ワイト島の自宅を売却し,ロンドンのイーリング会衆の若い開拓者たちと一緒にコロンビアへ行きました。ベラはすぐにスペイン語を覚え,まもなく聖書研究を18件司会するようになりました。30年ほどたった今も,多くの霊的な子どもたちに囲まれてコロンビアで奉仕しています。
トム・クックとアン・クックは,娘のサラとレーチェルを連れて幾年もウガンダで奉仕した後,1974年に事情で英国へ戻らざるを得なくなりました。翌年,クック家はまた引っ越しました。今度はパプアニューギニアです。サラはパプアニューギニアで特別開拓者と結婚しました。その後,家族はオーストラリアへ移動し,そこでレーチェルが仲間の証人と結婚しました。1991年にトムとアンは,ソロモン諸島での新しい任命を受け,トムは支部委員会の調整者として奉仕しています。
外国に移動できたとしても限られた期間だけだった人もいます。それでも,海外の生活で経験した事柄はどれも,当人にとって貴重
なものとなりました。そうした人たちの中に,バリー・ラッシュバイとジャネット・ラッシュバイがいます。バリーは,「真理に入ってから,常々もっと多くのことをしたいと願っていました」と言います。バリーは開拓者の姉妹ジャネットと結婚すると,「わたしたちの王国奉仕」に載った,パプアニューギニアで奉仕する兄弟たちを募る呼びかけに二人で応じました。「それは,わたしたちの祈りに対する答えでした」と二人は述懐しています。ポートモレスビーの支部の兄弟たちは,国の中央に位置するゴロカで奉仕してほしいと思っていましたが,バリーの就労許可はブーゲンビル島に限られていました。二人がパプアニューギニア
に着いてみると,うれしいことに,当局がバリーの就労許可を変更してゴロカに割り当てていたことが分かりました。バリーは教職に就き,ジャネットは18人の奉仕者から成る会衆で開拓奉仕を行ないました。バリーはこう述懐しています。「一つ学んだことがあります。それは,会衆の集会に出席する時になると,兄弟たちはほかの何にも注意を奪われなかったということです。雨季の厳しい天候の時もそうでした。兄弟たちは車を持っていませんので,集会へ来るのにたいてい一,二時間は歩きます。王国会館に入るとびしょ濡れなんです。でも,兄弟たちはいつも集会に来ていました」。
バリーとジャネットがパプアニューギニアで6年間楽しく奉仕した後,外国人をめぐる状況が変化しました。バリーは,英国に戻るほうが賢明だと判断しました。しかし,海外での経験を積んでいたので,今度は二人で全時間奉仕を行なうことにしました。でも,どこで行なうのでしょうか。特に必要の大きな場所で奉仕したいと思い,協会と巡回監督に相談してから,リンカンシャー州ボストンへ移動しました。住む家はすぐ見つかりましたが,バリーは,ジャネットと一緒に開拓奉仕ができるようなパートの仕事を見つけることができませんでした。それでも二人は,王国を第一にするならエホバが助けてくださるという約束に信仰を置き,バリーの仕事が見つかっても見つからなくても,9月1日から開拓奉仕を始めることにしました。9月1日,二人がコートを着て野外奉仕に出かけようとしていた時,電話が鳴りました。郵政公社の職員からで,「パートの仕事をお探しですか」と尋ねられました。バリーが,「願ってもないことです。いつから雇っていただけるでしょうか」と言うと,「そうですね,明日からではどうでしょう」という答えが返ってきました。神への奉仕を第一にしようとする二人の努力を,エホバは祝福してくださったのです。(マタ 6:33)4年後,バリーとジャネットに別の思いがけない電話がかかってきました。それは,イースト・ペナイン大会ホールの管理の仕事の割り当てでした。
進んで自らをささげる
エホバの民の特徴は,進んで奉仕する精神です。古代イスラエルのダビデ王は,エホバにこう歌いました。「あなたの軍勢の日に,あなたの民は進んで自らをささげます。……あなたは露玉のような若者の隊を得ておられます」。(詩 110:3)英国の大勢の兄弟たちは進んで奉仕するこの精神を示し,真の崇拝の関心事を促進することに十分あずかるため,自らを差し出しました。
全時間奉仕に自らを差し出していた人たちは,老いも若きも,1977年の「喜びに満ちた働き人」地域大会での発表に大いに励まされました。イングランド,スコットランド,ウェールズの七つの大会会場にいた合計11万人の人たちは,話し手が開拓奉仕学校の取り決めについて発表した時,喜んで拍手を送りました。この学校は,2週間の聖書研究課程であり,学んだ事柄を野外奉仕に適用する機会もあります。少なくとも過去1年間,開拓奉仕を行なってき
た人たちに高度な訓練が施されます。この訓練を受けた開拓者たちの中には,ほとんど,あるいは全く証言がされていない区域を切り開くことに貢献できる人がいます。英国の場合,この学校は1978年3月に北部の都市リーズで始まりました。その最初のクラスに出席した開拓者の一人アン・ハーディーは,それが本当に楽しい時だったことを覚えています。姉妹はこう述懐しています。「わたしたちは,霊的にとても築き上げられました。確かにこの学校を通して,野外宣教で会う人たちに真の関心を抱く必要性について,新たな洞察を与えられました」。現在,アンは夫と共にベテル家族の一員として奉仕しています。4人の子どもの母親で,ウェールズのポンティプリーズで開かれた学校に出席したアンドレア・ビッグスは,こう言います。「もしこれが,これから起きることの予告編だとすれば,エホバはわたしたちのために本当に楽しい事柄を用意してくださっているのです。ですから私は今,これまで以上に,新しい体制を待ち望んでいます」。今までのところ740ほどのクラスが開かれました。学校に出席した2万人の開拓者は,アンやアンドレアの言葉に同意しています。学校に出席して,開拓奉仕を生涯の仕事にしようと決意した人は少なくありません。
開拓奉仕で経験を積んだ後,幾百人もの人たちが英国支部のベテル家族の一員として奉仕することを志願しました。現在,英国のベテル家族は393人で,そのうち38人は20年あるいはそれ以上ベテルで奉仕しています。
ベテルで奉仕している人の中に,クリストファー・ヒルがいます。兄弟はなぜこの奉仕を申し込んだのでしょうか。こう答えています。「わたしは1989年に開拓奉仕を始めました。でも,全時間奉仕を行なっているのは,エホバを愛しているからであって,父や母が開拓者だったからではないということを,エホバにも,自分自身にも示したかったのです。また,真理を生活の一部ではなく,すべてにしたかったのです。ベテル奉仕は,努力は要る
ものの,それを実現できる奉仕であることが分かりました」。ゲラント・ワトキンもベテル家族の一員です。1980年代初頭,彼は大学教育を退け,開拓奉仕を選びました。自活するために,父親の農場でパートタイムの仕事をしました。開拓奉仕を楽しみながら,いつか宣教者になることを願っていました。では,なぜベテル奉仕を申し込んだのでしょうか。1989年の「ものみの塔」誌の記事から大きな影響を受けたのです。米国のベテル家族の成員マックス・ラーソンの経験談をその雑誌で読みました。ラーソン兄弟は,「将来,地上の楽園が到来するまでは,ベテルが地上で最もすばらしい場所であると私は確信しています」と述べました。ゲラントはベテル奉仕の申込書を請求した後で,ラーソン兄弟がその件についてエホバに祈り続けていたことを知りました。ゲラントはすぐその模範に倣いました。10日ほどたってから,英国のベテル家族の一員になるようにとの招待の電話がありました。ベテル奉仕では,父親の農場で得た経験を生かして,ロンドンのベテル家族に食物を供給する農場の仕事をしています。以前のゲラントにとって,農業は開拓奉仕を行なうための手段にすぎませんでした。しかし今行なっている農業は,「エホバからいただいたベテルの割り当て」だと考えています。
神権的な建設プロジェクトに魅せられた証人たちもいます。デニス(テディー)・マクニールは開拓奉仕を行ない,夫のガリーは世俗の仕事に携わって一家を養っていました。その後1987年に,二人はロンドンのベテル建設の援助を申し出ました。その時は招待されませんでしたが,1989年にベテル家族の一員となるよう招待されました。「エホバからの割り当ては決して退けてはなりません」という巡回監督のアドバイスが耳に鳴り響いていた二人は,招待を受け入れました。ベテルでは,ガリーの電気技術とテディーのデンタル・ナースとしての経歴が,非常に役立ちました。また,ロンドンの,ポーランド語とベンガル語の区域で人々の関心を高めることにも貢献してきました。
ウィリー・スチュワート,ベティー・スチュワートその他の人たちは,インターナショナル・ボランティアとして建設の援助を申し出ました。配管と暖房の技師だったウィリーは55歳で早期退職し,妻と共にギリシャを皮切りにスペイン,ジンバブエ,マルタでの建設プロジェクトに携わりました。ベティーはハウスキーピングや洗濯だけでなく,配管の援助さえ行ないました。二人とも一生懸命働き,霊的な面で豊かに祝福されたと感じています。ウィリーは,「世界中に,あらゆる年齢層の友人ができました」と述べています。
資格を備えた兄弟たちのための特別な訓練
奉仕の機会を拡大するもう一つの扉は,英国で宣教訓練学校が開設された1990年に開かれました。これは,長老や奉仕の僕として奉仕している独身の兄弟たちが,必要とされる所なら世界のどこででも奉仕することを念頭に置いて特別な教育を受ける機会となりました。学校の8週間の課程には,聖書の教えと組織上の事柄
に関する教訓がバランス良く配分されています。英国の最初のクラスは,イースト・ペナイン大会ホールで開かれました。米国から来た二人の地域監督,ジェームズ・ヒンダラーとランダル・デービスが教訓者として奉仕しました。そのクラスには,将来開かれるクラスで教えるために,長い経験を持つ英国の3人の巡回監督 ― ピーター・ニコルス,レイ・ポープル,マイケル・スパー ― も出席して訓練を受けました。1990年6月17日に,統治体のアルバート・D・シュローダーは卒業生に話をした際,国内で奉仕する割り当てを受けた生徒たちにこう言いました。「この国の業の発展のためには,皆さんのように立派な若者たちが必要です。この学校は,英国の野外にとって大きな刺激となるでしょう」。宣教訓練学校の卒業生の中に,ヒンズー教徒の家庭で育ったバーラット・ラムがいます。現在ラムは結婚して妻と共にイングランド北西部で奉仕しています。そこには,二人が援助できるグジャラティー
語を話す人たちが大勢います。ウェールズ出身のジョン・ウィリアムズは,驚いたことに,自分の持っていた技術が必要とされるザンビア支部で奉仕する割り当てを受け,その後はザンビアのキトウェで宣教者として奉仕するよう割り当てられました。ガーナで生まれたゴードン・サルコディは,12歳の時に家族と共に英国に引っ越して来ました。まだ十代だった時,一人の証人がゴードンの父親に「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を配布したのがきっかけで,聖書の真理に関心を抱くようになりました。聖書研究を行ない,1985年にバプテスマを受けました。補助開拓者のゴードンが非常に多くの聖書研究を司会していたので,開拓者の友人は,正規開拓者になるように勧めました。全時間奉仕の1年目の終わりにゴードンが開拓奉仕学校に出席した際,巡回監督から宣教訓練学校に申し込むよう勧められました。会衆の若者たちをもっとよく援助できるようになりたいという願いから,ゴードンは申込書を提出しました。英国での第7期のクラスに入学し,卒業後はロンドンで2年間奉仕し,次いで宣教者としてザンビアに任命されました。ゴードンは,エホバが命じることなら何でも喜んで応じたいと願っていたので,訓練の結果,徐々に特権が増し加えられました。12週間にわたり,現地語の一つであるシベンバ語の訓練を受けてから,ゴードンは巡回監督としてコッパーベルト州に任命されました。巡回奉仕にあずかれるように他の人を訓練する特権もありました。
英国で生まれたリチャード・フルッドは,エホバの証人である両親に育てられました。エホバに献身したリチャードは,自分のほうから献身に限度を設けるわけにはゆかないと感じ,自分を差し出して1982年に開拓者になりました。宣教訓練学校に申し込み,1990年に卒業しました。リチャードもザンビアに任命されました。シベンバ語を学習し,新しい任命地で幾らか経験を積んだ後,巡回監督に任命され,ザンビア支部で開かれた宣教訓練学校の教訓者としても奉仕しました。
これまでのところ,英国では宣教訓練学校が19クラス開かれ,433人の生徒が卒業しました。現在,そのうち79人は海外で,4人は巡回監督,12人はベテル奉仕者として奉仕しており,308人が国内で開拓者として奉仕することにより,受けた訓練の益を他の人々と分かち合っています。
宣教者の活動に入る
英国の開拓者のうち,世界の畑のどこでも必要とされる場所で奉仕することを申し出た人は幾百人もいます。その多くが,ニューヨーク州にあるものみの塔ギレアデ聖書学校で訓練を受けました。英国からは合計524人がギレアデを卒業しました。彼らは,世界各地の64の国や地域で奉仕してきました。
英国の開拓者の中には,ギレアデに招待される前から外国での奉仕を行なっていた人たちもいます。ジョン・クックとエリック・クックの場合がそうでした。二人は,フランスとスペインで奉仕していました。ギレアデに出席した後,エリックはアフリカへ派遣され,ジョンは最初スペインとポルトガル,その後アフリカで奉仕しました。ロバート・ニズベットとジョージ・ニズベットの場合も同じです。二人ともギレアデに入学する前に,15年以上南アフリカで奉仕していました。卒業後モーリシャスで奉仕してから,アフリカ大陸に戻って働きました。クロード・グッドマンは,ギレアデに入学する前の20年間,インド,セイロン(現在のスリランカ),ビルマ(現在のミャンマー),タイ,マラヤ(現在のマレーシアの一部)で奉仕し,卒業後はパキスタンへ派遣されました。エドウィン・スキナーはギレアデに入学する前の20年間インドで開拓奉仕をし,卒業してから1990年に地上の歩みを終えるまで,43年間インドで引き続き奉仕しました。
インターナショナル・ボランティアとして建設プロジェクトに参加し,外国での奉仕を予備的に経験した人たちもいます。リチャード・パーマーとルシア・パーマーの場合がそうでした。この二人は,
1989年から1994年にかけて様々な期間に,ギリシャ,タヒチ島,スペイン,スリランカで奉仕し,その後スリランカに滞在して3年余り開拓奉仕を行なった後,ギレアデに招待されました。ギレアデを申し込む人たちは,宣教者奉仕を生涯の仕事とみなすよう勧められてきました。大半の人はそのように考えて任命地に赴きます。実際,ある人たちはこの点で立派な手本を示してきました。英国から派遣され,これまで20年余り宣教者の任命地にとどまってきた人は,少なくとも45人を数えます。そのうち9人は中南米,11人はアジアの国々,11人はアフリカ,4人はヨーロッパ,10人は様々な島にいます。
宣教者として長く奉仕した人の中に,ナイジェリアで49年間奉仕したアンソニー・アットウッドがいます。兄弟は,移住に関する規制のため,1997年にロンドン・ベテルに任命替えになりましたが,心はまだナイジェリアにあります。アットウッドはこう言います。「ナイジェリアでの奉仕はすばらしい特権でした。有意義な年月を過ごすことができました。私は,真理を知る祝福にあずかっている若い皆さんすべてに,自分の前に置かれた特権は必ずとらえるよう励ましたいと思います。エホバはあなたを決して失望させません。自分の経験からそう言えるのです」。オリーブ・スプリンゲートは1951年に宣教者としてブラジルに派遣されましたが,1959年には妹のソーニャも一緒に奉仕するようになりました。デントン・ホプキンソンとレーモンド・リーチは1950年代初頭に宣教者としてフィリピンに赴きましたが,今でもフィリピンは二人の故郷です。マルコム・バイゴーは宣教者奉仕をマラウイで始め,国外追放になるまで10年間そこにとどまりました。現在マルコムは,妻と共にナイジェリアで奉仕しています。もっと大勢の人たちについて述べることもできるでしょう。実際,どの宣教者も,エホバの祝福に富む人生を送ってきました。
宣教者奉仕を始めた後,この奉仕を続けるために難しい問題と
取り組まなければならない人たちもいます。エリック・ブリテンとクリス・ブリテンは,数年間ブラジルで宣教者奉仕を行なった後,病気のために一時,英国に戻ることを余儀なくされました。その後,同じ年に,業が禁令下にあったポルトガルへの任命を受け入れました。7年後,聖書の教育活動を理由にポルトガルから追放されましたが,英国で全時間奉仕を続けました。しかし後に,宣教者として別の割り当てを受けられるかどうか,協会に手紙で尋ねました。二人はまもなくブラジルに戻って宣教者奉仕と巡回奉仕の両方を行ない,エリックが1999年8月に亡くなるまで一緒に忠実な奉仕を行ないました。クリスは今でもブラジルで奉仕しています。何年かして,家族に対する聖書的な責務のゆえに,活動を調整しなければならない,ということもあります。マイク・ポテージとバーバラ・ポテージがそうでした。26年間ザイールで奉仕した後,1991年には,つらい状況下で生活していた年老いた親を援助するために英国へ戻りました。しかし,全時間奉仕を願っていたので,家族の責任を果たしながら特別開拓者として奉仕しました。1996年に,現在のコンゴ民主共和国で再び宣教者となり,そこでさらに3年間奉仕することができました。現在は二人共,英国のベテル家族の一員です。二人は初めてザイールで奉仕して以来,この国における神の王国の宣明者が4,243人から10万8,000人余りに増加するのを見てきました。ザイールに来て1年ほどたったころ,この国のエホバの証人に法的認可が与えられた時のことは,記憶に鮮明に残っています。次の年のキンシャサにおける最初の大会は,出席者が3,817人と小規模でした。しかし,マイクとバーバラの心には,いまだに強く焼き付いています。1998年,国内の不穏な情勢にもかかわらず,神の教えから益を受けた53万4,000人の人たちが,主の晩さんを祝うために集まったのは大きな喜びでした。
ふさわしい王国会館を備える
英国で会衆の数が増え続けたため,ふさわしい王国会館を備える
ことが常に問題となりました。貸ホールなどの場所で集まっていた会衆もありましたが,崇高な神エホバを崇拝するために集まるクリスチャンに似つかわしい会場ばかりではありませんでした。ふさわしい集会場が是非とも必要でした。王国会館用の土地を取得するのは,必ずしも容易ではありませんでした。宗教的な偏見がある場所では特に,非常に激しい反対の生じることがありました。それでも,エホバに依り頼むことと責任ある兄弟たちの根気強さによって,物事は首尾よく運び,反対者たちを大いに驚かせました。
1970年代の初め,ウェールズのスウォンジーのある会衆が,使われていない礼拝堂を王国会館として購入することを申し出ました。礼拝堂を所有していた教会の執事は,礼拝堂が証人たちに売却されるのを見るよりは死んだほうがましだ,と言いました。その結果,礼拝堂は郵政公社に売り渡され,一時的に電話交換局として使われることになりました。ところが,1980年に建物が不要になると,郵政公社はそれを競売にかけました。そのことを知った会衆の一人の長老は,仲間の長老たちとどれぐらいの値を付けられるか話し合いました。鑑定士は,建物と土地を合わせて2万ポンド(3万2,000㌦)の価値はあると見積もりました。1万5,000ポンド(2万4,000㌦)の呼び値で落札できたとき,兄弟たちは大喜びしました。必要な修復作業が行なわれた後に,建物はエホバに献堂されました。
イングランド南西部の海辺の町エクマウスの会衆が大きくなり,もう一つ会衆が設立された時,兄弟たちはもっと大きな王国会館のための新たな場所が必要だと判断しました。兄弟たちは,地方協議会が,すでに宗教目的のために指定された土地を所有していることを知りました。証人たちは土地を購入する交渉を行ないました。その後,協議会が,建物の完成まで土地売買契約は成立しないという異例の規約を設けました。1997年に工事は終了し,うれしいことに,町議会は約束を守りました。その会館を使用している幾つか
の会衆は,このことを,区域内で真の崇拝を拡大しようとする努力をエホバが祝福してくださったしるしだと見ています。ヨーロッパ初
土地が取得できても,新しい王国会館の建設に幾年もかかることがよくあります。それでも,英国の会衆の数は,1982年までの10年間に943から1,147に増加しました。このような増加に,建設の業がついていけるよう何か手を打たねばなりません。
1983年9月,建設の経験を持つ米国とカナダの兄弟たちが,ロンドンの北101㌔にあるノーサンプトンに到着しました。兄弟たちは速成建設の必要と取り組んでおり,開発された実用的な解決策を分かち合うためにやって来たのです。兄弟たちは,地元の兄弟たちと一緒に働いて,新しい王国会館を経済的に速く建てる手助けをしました。翌月にビルディング・デザイン誌(英語)はこう伝えまし
た。「最近,一群のエホバの証人が,一般の建設業者なら6か月はかかることを4日で完成させた。しかも,4分の1のコストでである」。エホバは,ヨーロッパ初の王国会館速成建設を祝福してくださいました。翌年,1,000人を超える自発奉仕者がウェールズの町ドルゲラウの王国会館建設を手伝いました。今回は,4日どころか2日でプロジェクトが完了しました。地元の33人の証人たちは,ウェールズやイングランドや米国からやって来た兄弟たちの援助を受けました。フランスやオランダの兄弟たちも建て方を見学しに来ており,それぞれ国に帰ってからは,同様の工法を他の人たちに教え始めました。
英国のエホバの証人は,海外の兄弟たちによる援助の恩恵を受けたので,今度は他の人たちに援助を申し出ました。ノーフォーク州キングズ・リンにある二つの会衆は,援助を変わった方法で行ないました。1986年,これら二つの会衆は,それまで使用していた木造の建物に代わる新しい王国会館を建設するため,忙しく準備を行なっていました。兄弟たちは,アイルランドのコーブ会衆がガレージを改装した場所で集会を開いていること,45人から50人が出席していることを知って,援助を差し伸べることにしました。そして,自分たちが以前に使っていた建物と,いすや音響装置など,建物に付随する物すべてをコーブの証人たちに提供しました。窓枠を替えなければならないことに気づいた地元の兄弟たちは,その費用を賄うに足る額の寄付をしました。近隣の諸会衆は,新しい屋根のトラスのためのお金を寄付しました。それだけではありません。ノーフォーク州の兄弟たちは輸送費を全額支払いました。
キングズ・リンの主宰監督ピーター・ローズは,当時のことを思い出してこう言います。「会館の解体は,かなり大変な仕事でした。各部分を傷つけずに取り外し,個々に番号を付け,次いで巨大なジグソーパズルのように再び組み立てなければなりませんでした」。1986年5月に解体作業が終了すると,すべてがコンテナの
中に積み込まれ,アイリッシュ海を経てコーブに輸送されました。コーブの兄弟たちは,6月7日と8日の週末に自分たちの新しい会館を建てる計画を立てました。ちょうどそれと同じ日に,キングズ・リンの兄弟たちも新しい王国会館を建設することにしていました。それで,両方の王国会館がその週末に完成しました。資金や援助できる経験者を備える
「わたしたちの王国宣教」の1987年4月号の英国版には折り込みがあり,新たな建設や,建物の購入・改装の際,「適切な低い利率で融資する」ための,協会の王国会館基金が設けられたことに注意を喚起しました。この方法により,資金の均等を図ることが可能になりました。(コリ二 8:14)折り込みの記事はこう結んでいます。「当面の仕事の規模を認識し,新しい大会ホールのために諸会衆が行なってきた(また,今も行なっている)寛大な寄付に感謝すると同時に,現時点での王国会館の必要を満たすのを助けてくださるよう,エホバに全く依り頼まなければなりません。―箴 3:5,6」。
翌年,統治体は支部事務所を通じて,国内各地で専門的な経験を分かつことができ,王国会館建設が組織的に行なわれるよう援助できる兄弟たちの委員会を設けました。1998年までに,16の地区建設委員会が設置されました。この委員会は,英国の700以上の王国会館の建設や改装を援助しました。
この委員会で奉仕する兄弟たちの大半には,扶養すべき家族がいます。この活動に多くの時間専念できる人もいれば,そうでない人もいます。5人の子どもがいるマイケル・ハービーは,妻ジーンの協力を得て,王国会館建設を優先させることにしました。この夫婦は,生活の中で王国を第一にするように,というイエスの助言の価値を知りました。(マタ 6:33)マイケルは,「わたしたちにとって,イエスの言葉は全く新しい意味を帯びるようになりました。エホバは期待を裏切るような方では絶対にありません」と言います。ジーンも同意してこう言います。「娘の一人レーチェルが9歳ぐらい のとき,成長が早くて服がすぐに着られなくなってしまいました。新しい服を買えるほど余裕がなかったので,娘の体に合うよう服を直して,間に合わせようとしました。そうしたら,巡回大会の前日,主人の妹から,バーゲンで買い求めた新しい洋服が2着送られてきたのです。レーチェルにぴったりでした。タイミングも大会にぴったりでした」。二人の息子が建設奉仕に加わっている間,ジーンと娘たちは家を切り盛りし,建設プロジェクトと関連した仕事を幾らか行ないました。「建設奉仕は,わたしたち家族を一致させます。これは実際,家族ぐるみの仕事なのです」とマイケルは言います。
1980年代に建設された王国会館の中には,何百人,時には何千人もの自発奉仕者が携わったものもあります。仕事を簡素化するため,ハービー兄弟はデンマークへ行き,王国会館建設に携わる兄弟たちと情報を交換しました。加えて,新しい王国会館が必要となった場合,協会は既存のデザインのオプションを提供できるという通知が諸会衆に送られたことも助けになりました。その結果,求められる自発奉仕者は少なくなり,仕事量も大幅に減って,簡素ながら目的にかなった王国会館が英国各地で建設されています。
単なるよい話などではない
王国会館を建設するための一致した努力や完成までのスピードは,一般の人々に対する良い証言となりました。新聞は事の次第を再三にわたって報道しました。1990年に,「イブニング・エコー」という地方紙のフォトジャーナリスト,ビクター・ラグデンは,テムズ川河口域の北側にあるカナビー島で三日間行なわれた新しい会館建設を取材しました。ビクターが金曜日の午前に建設現場に着いたときは,ほとんど建築資材しかありませんでした。移動住宅のドアには,「報道関係者事務所」という張り紙がしてありました。ビクターはこう回顧しています。「その時,現場にはそれしか建っていませんでした。しかし印象的だったのは建設の奉仕者たち
で,老若男女が一緒に働いていました」。ビクターは現場の写真を撮って帰りました。それから彼は,三日足らずで会館を建てるというエホバの証人の主張が本当かどうか確かめたいので週末に時々現場に戻ってよいか,と編集主任に尋ねました。ビクターほか3人のリポーターが,工事の進捗状況を取材しました。日曜日,ビクターは新しい会館で開かれた最初の集会に出席しました。結果として,「偉大なるエホバ!」という見出しの記事が,ビクターの新聞の見開きに華々しく掲載されました。その後,地元の長老がビクターを訪問し,聖書研究が始まりました。ビクターは,「3週間もしないうちに,神の名前を知り,祈りの中で嘆願するだけでなく,感謝を,そうです,エホバへの感謝をささげるようになっていました」と述べています。ビクターは今ではバプテスマを受けたエホバの証人です。
『自分を広くする』
1970年代から1980年代にかけて,英国へ移住してきた人たちに多くの証言がなされました。証言を行なったのは,自らも移民であり,様々な言語を話す証人たちでした。しかし,さらに多くの援助が必要でした。
1993年までに,英国には200万人のアジア系の人たちが住んでおり,人口28人に1人の割合を占めていました。インド亜大陸から来た人々も多く,東アフリカ出身の人たちもいました。パンジャブ語を話す伝道者約500人と,グジャラティー語を話す伝道者150人がすでに英語会衆と交わっていて,500件を超える聖書研究をそれらの言語で司会していました。しかし,移住して来た人すべてが,神の王国の良いたよりの益にあずかる機会を得ていたというわけでは決してありません。
支部事務所は,英語しか話せない人が言語や文化の異なる人に証言しようとして無力さを感じる場合があることを理解し,地元の証人たちに,あらゆる人種の人々に対する広い愛と,他の人の福祉コリ二 6:11-13。フィリ 2:1-4)「わたしたちの王国宣教」は,「わたしたちが区域の人々に望むのは,イエス・キリストが宣教に際して示した温かさや関心を,わたしたちの内にも感じ取ってもらうことです」と説明しました。「いわば宣教者として働ける広大な畑が出現したのです」というメッセージが英国の証人たちに伝えられました。
を気遣うキリストのような精神を培うことを励ましました。兄弟たちは,『自分を広くする』ように励まされたのです。(外国語を話す人たちに関心を示す点で,英国の証人全員に対して,区域で外国人と会ったなら,相当する外国語会衆に連絡することが勧められました。そうすれば,個々の証人がほかの言語を話せるかどうかにかかわりなく,英国に移動してきた,宣教者として働ける広大な畑の世話を全員で行なうことができるでしょう。実際,外国語会衆の区域は,おもにそうした訪問依頼によって出来上がるのです。
そのようなわけで,1996年,グレース・リーはイングランド北東部のタイン川沿いのニューカッスルに住むベトナム出身の女性を訪問しました。中国語を話す女性でした。グレースは温かく歓迎され,すぐに家に招き入れられました。この女性は難民で,ベトナム戦争中に大変苦労したことが分かりました。イングランドに10年ほど住んでいましたが,ほとんど英語が話せません。この人はグレースに,絶望に追い込まれそうな時がよくあるけれど,頼れる人はひとりもいない,と言いました。
それからまた,4年前に美しい挿絵のたくさんある本を受け取ったが,英語が読めないので理解できなかった,とも言いました。しかし,憂うつになった時にはいつも挿絵を見ていました。そうすると,憂うつな気持ちが和らぎ,希望に満たされるからです。この女性は,本棚からその本を取り出してグレースに渡し,どんなことが書いてあるか読んでください,と頼みました。取り出したのは,
「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本でした。グレースは,英語の本をお読みするより良いことができますよと答え,かばんに手を伸ばして同じ本の中国語版を取り出しました。その女性は自分の目を疑いました。これで聖書の音信を学ぶことができるのです。このベトナム人の女性はすぐ聖書研究に応じました。支部事務所は『自分を広くする』業の一環として,様々な民族の人たちが霊的な面でも組織的な面でも成長するよう援助することに特別な関心を払いました。コリン・シーモアと妻のオリブは,英国各地の会衆を訪問する奉仕にすでに20年余り携わっていました。二人とも,自分が仕える人々に真の関心を示しました。実際そのことは,地中海に浮かぶマルタ島やゴゾ島の諸会衆を訪問しているとき,特に明らかになりました。二人は会衆の集会では努めてマルタ語で注解するようにもしたので,地元の兄弟たちから慕われていました。
1994年9月,コリンは英国内の英語以外の言語の群れと,幾つかの外国語会衆の巡回監督に任命されました。コリンは,それぞれの群れが会衆設立に向けてどれほど発展しているかを注意深く評価すると同時に,すでに機能している会衆を強めました。初め,この巡回区は12の会衆,750人の奉仕者で成る最も小規模なものでしたが,3年足らずのうちに奉仕者が1,968人,そのうち388人は開拓者という,最大の巡回区になりました。その後,外国語の巡回区は三つに増えました。
新しい言語を学ぶ
命を与える聖書の真理を,ほかの言語を話す移住者たちに伝えるため,英国の証人たちの中には,外国語の学習に個人として積極的に取り組んできた人もいます。その一人が,英国各地で開拓奉仕を行なってきたエリザベス・エモットです。最初は,区域の人々を援助するため,パンジャブ語を学ぶよう努力しましたが,その後1976年に新しい割り当てを受け,ウルドゥー語を学び始めました。それからグジャラティー語を学びました。さらに,関心ある人々を助けるために,大会ではインド人やパキスタン人の奉仕者を探しました。クリフトン・バンクスとアマンダ・バンクスの場合は,1993年にロシアで開かれた大会に出席したのがきっかけでした。帰国すると地元の図書館を通してロシア語のテキストを入手し,ロシア語を話す人たちの住む地域に引っ越し,その地域のロシア語会衆で開拓奉仕を始めました。しかし,世俗の責任を果たし,家族を顧みながら,また会衆や野外宣教における活動全体を世話しながら,言語学習の時間を見いだすのは,容易なことではありません。
イングランドで特別な必要があったため,そうした方法で宣教を拡大したいと願っていた開拓者たちに励ましが与えられました。彼らは開拓奉仕をやめずに,ある言語の基礎を習得したのです。開拓者の中には,必要な教育を受けるため,新しい言語の短期間の集中基礎講座を受講した人もいました。その結果には興味深いものがあります。
開拓者歴21年のクリスティーン・フリンは,1996年から1997年にかけて,他の開拓者7人とグジャラティー語講座を受講することにしました。講師はインド人の夫婦でした。この夫婦は,英語を話す人たちがこんなに大勢で受講するようになったのを見て,控えめに言っても,驚かされました。クリスティーンは,「先生方は,わたしたちを助けるために授業内容を大幅に変えてくださいました。野外奉仕の証言の準備を手伝ってくださり,集会にも出席されました」と言います。
同じころ,クリスティーンは新しい世俗の仕事に就き,職場でグジャラティー語を話す若い女性と出会いました。クリスティーンがグジャラティー語であいさつすると,その女性は驚いて,なぜグジャラティー語を学んでいるのかを知りたがりました。クリスティーンはその理由を説明し,良い証言を行ないました。この若い女性は,『こんな難しい言葉を学ぶよう勧めている宗教なんてほかにないわ。きっと本当に知らせたい重要な事柄があるのでしょうね』と言いました。
ポーリーン・ダンカンも開拓者で,1994年にベンガル語の学習に打ち込むようになりました。最初は非常に難しく感じました。ポーリーンは次のように告白しています。「私は何度も,この言語は本当に難しいのでやめてしまいたい,と泣きながらエホバに祈りました。でも,エホバの聖霊により,また自分の信念や努力もあって,大変な段階を乗り越えることができました。やめなくて本当によかったと思います。今,すばらしい成果を得ているからです」。もう一人の開拓者ベバリー・クルックは,ベンガル語を学んだことが訪問先の人たちに影響を与えたことについて述べています。「その言葉を学んでから,自分の宣教が一変しました。ベンガル語を話す人たちは,ぜひとも愛したいという私たちの気持ちを理解しています。私たちが時間を取ってベンガル語を学んでいるからです」。
ジェニファー・チャールズはフランス語会衆の開拓者で,区域には,コンゴ民主共和国からの難民が大勢います。ジェニファーはこう述べています。「新しい言語を学んで理解できるようになったことがあります。それは,この国にやって来ても,この国の言語を話せない区域の人たちがどのように感じているか,ということです」。
これまで幾年にもわたり,必要の大きな所で奉仕できる独身の姉妹たちを含め,大勢の開拓者たちは,援助を必要とする近隣の会衆への移動について巡回監督と話すよう勧められてきました。中には,外国語会衆の区域の援助のため,新しい言語を学ぶことにし
た人もいます。大ロンドンでは,すでに100人以上の開拓者の姉妹たちが外国語会衆に移動しました。英語以外の言語を話す人たちの間での奉仕は実を結んでおり,開拓者たちの援助を受けて聖書を学び,クリスチャンの集会に出席するようになった人は少なくありません。宣教者精神を引き続き示した人々
宣教者の中には,様々な理由から,英国に戻ることが必要になった人たちもいます。そうした人の多くは,引き続き立派な奉仕を行なっています。
ウィルフレッド・グーチとグウェン・グーチは14年間,宣教者奉仕を行なった後,1964年にナイジェリアからロンドンのベテルへ任命替えになりました。ナイジェリアでの奉仕に不満があったのではありません。二人はそこでの奉仕を愛していました。ウィルフレッドが英国支部を監督する割り当てを受けたのです。しかし,この夫婦は積極的な態度を示すことにより,英国の多くの開拓者を励ますことができました。開拓者たちは,エホバが組織を通して導きを与えておられるどんな奉仕に対しても自分を差し出すように鼓舞されたのです。ウィルフレッドはよく,「開拓者として30年間に学べる事柄より,宣教者として1年間に学べることのほうが多い」と言ったものです。兄弟は,聖書について多く学べると言ったのではなく,自分自身について,生活について,兄弟姉妹たちと仲良くやって行くための方法について,より多くのことを学べると言ったのです。
ギレアデ45期生のジョン・バーカーとパット・バーカーは,子どもができることになって英国へ戻りました。しかし,台湾で中国人に証言できるよう,北京<ペキン>語を一生懸命学んでいました。英国に戻ってから,二人は良いたよりに耳を傾けてくれる中国人を探し続けました。子どもたちが成人して結婚した後,ジョンとパットは正規開拓者になり,現在はミッドランド地方のバーミンガム市で,北京語の群れのある会衆と交わり,産出的な奉仕を楽しんでいます。この
二人と研究し,真理の知識を十分に携えて中国に帰った人も数人います。かつてガーナで宣教者として奉仕していたデービッド・シェパードには,現在,妻と3人の子どもがいます。しかし,デービッドは全時間奉仕を続けています。なぜ続けられたのでしょうか。「ガーナの兄弟たちの所有物が少ないのを見て,生活をできるだけ簡素にするよう助けられました」と,デービッドは説明しています。
業に適した施設
印刷された聖書文書は,王国の良いたよりを広めるうえで重要な役割を果たしてきました。1970年代の初め,ロンドンの支部は命を与える霊的食物を他の多くの国に供給する面で,重要な役割を果たしていました。文書の大半はアフリカ諸国に送られましたが,遠くオーストラリアにまで送られたものもありました。
やがて,印刷を行なっている他の支部が,雑誌の生産を幾らか肩代わりするようになり,ロンドンの輪転機室は,専ら英語,オランダ語,スワヒリ語の雑誌の生産に携わりました。それでも,英国にある2基のマンの活版印刷機の生産スケジュールはぎっしり詰まっていました。スケジュールをこなすため,1977年には1基を3週間ごとに二交代制で動かしていました。
ロンドンの協会施設を拡張する時が来ました。1950年代の後半から使用されていたミル・ヒルのものみの塔ハウスには,英国支部が印刷していた文書をすべて保管できるだけのスペースがもはやなかったのです。増改築に関する様々な規制があり,ものみの塔ハウスの工場スペースを増やすことはできなかったので,統治体は工場の移転を承認しました。同時に,業のために必要となって増員された兄弟たちを収容する目的で,ベテル・ホームの増築も承認しました。
ついに,3,000平方㍍の工場用のスペースが,13㌔ほど離れたウェンブリーで見つかりました。その建物は2階建てで,拡張される
工場だけでなく,宿舎,厨房,食堂,受付などの設備のための十分な広さがありました。1980年に工場業務がこの場所に移り,既存の設備に,五つのユニットからなる新しいハリスのオフセット印刷機が加わりました。そのため,2年足らずで雑誌の年間生産高は3,832万8,000冊に達しました。一方,ミル・ヒルのものみの塔ハウスの新しい棟の工事が始まり,ベテル家族のために41の居室が追加されただけでなく,食堂と厨房も拡張されました。地域監督で建築の経歴を持つジョン・アンドルーズが,プロジェクト・チームと共に働くようベテルに呼ばれました。国内の各地から証人たちがやって来て,週末に自発奉仕を行ないました。1981年と1982年にまたがる冬の大雪や極度の冷え込みにもかかわらず,仕事は順調に進みました。エホバの証人でない下請けの作業員も幾人か雇われ,兄弟たちと一緒に働きました。新しい棟は,わずか2年余りで使用できる状態になりました。それとほぼ時を同じくして,別の際立った出来事が生じました。
膨大な仕事
1982年6月に統治体は,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の1983年の年次総会を英国で開きたいとする同国支部委員会の意向を受け入れました。この行事は二重の意味で重要なものでした。というのは,英国支部は,新しいロンドン・ベテルの増築部分の献堂式を,年次総会を開催するその週末に行なう計画を立てていたからです。
デニス・ロフトは,その時のことを次のように回顧しています。「朝8時ごろ,ベテルのピーター・エリスから電話がかかってきました。10月1日のデ・モントフォート・ホールを予約してほしいということでした」。このホールは1941年9月2日から10日まで,記念すべき大会の会場となったところです。「子供たち」の本が発表されたのです。その当時は第二次世界大戦がたけなわで,兄弟たちはクリスチャンの中立に関する勇敢な立場を取っていました。その
ころ,英国支部の僕を務めていたのは,現在の統治体の成員アルバート・D・シュローダーでした。1983年の年次総会は,年配の人たちが初期のころからのエホバの忠節な僕たちと旧交を温める,本当にすばらしい機会となりました。1983年の年次総会は,その種の集まりとしては初めて,北米以外の場所で開かれました。レスターでのプログラムを聴けるよう,ミッドランド地方のダドリー大会ホールとつなぐ計画が立てられました。そうすれば,もっと大勢の兄弟たちがこの集まりを楽しむことができます。最初に招待されることになったのは,エホバに40年以上仕えている人たちでした。ヨーロッパ各地の支部には,その週末の行事にベテル家族を招待する知らせが送られました。ロンドン・ベテルには,それらヨーロッパの代表者全員を収容する余裕はないことが,すぐに分かりました。そのため,ゲスト全員を収容できる宿舎の取り決めに関する計画が立てられました。
一方,レスター市議会と連絡を取ったロフト兄弟はホールを予約しようとしましたが,希望していたその週末には,レスター市最大の会社が毎年恒例の大ダンスパーティーを開くことが分かりました。さらに調べてみると,パーティーが実際に開かれるのは9月30日で,その後にどうしても大掛かりな清掃が必要なため,翌日までホールが押さえられていることも分かりました。デニスは,「もし責任を持ってホールの清掃をすれば,10月1日を予約できますか」と尋ねました。役人の承諾が得られたので,デニスは胸をなで下ろしました。しかし,その時デニスは,仕事の膨大さにほとんど気づいていませんでした。
9月30日の夜半,400人の兄弟たちが,それぞれのキャプテンの下に幾つものグループに組織され,ダンスパーティーで出たごみを取り除く作業に取りかかりました。さらに兄弟たちは,集まりのためにテーブルをどかして3,000脚のいすを配置しました。それらをわずか8時間で行なうのは大変な仕事でした。デニスは次のよう
に述懐しています。「一つのユニークな点は,それらの兄弟たちのうち年次総会に招待されていた人はほとんどいなかったということです。それでも,その一部にあずかれたこと,その準備だけでも行なえたことを,兄弟たちは今でも話題にします」。兄弟たちは演壇にじゅうたんを敷き,その周りを花で飾りました。午前8時,ホールはきちんと片付いていました。そばに立っていたホール職員はあっけに取られていました。兄弟たちは,この集まりが非常に大切なものになりそうな予感がしましたが,その期待は裏切られませんでした。忘れ難い集まり
レスターの霊的宴に出席した3,671人のうち,693人が37の支部からの代表者たちでした。出席者の中には,油そそがれた兄弟姉妹が大勢いました。テルフォードのレジ・ケロンドとペイントンのエマ・バーネルは共に99歳で,英国の代表者のうち最年長でした。グラスゴー
から来たジャネット・テートや,メリー・グラント,エディス・ガイバー,ロバート・ウォーデンはいずれも第一次世界大戦以前に真理を学び,80代,90代という年齢に達しています。どの人も,生涯を費やしてエホバに奉仕したすばらしい経験を持っています。英国のエホバの賛美者の数が数千人から9万2,320人にまで増加した間,証しの業に参加した人たちです。彼らは,統治体の成員から与えられる励ましを心待ちにしていました。アルバート・D・シュローダーは,「疲れ果ててしまわないためにエホバに希望を置きなさい」という,イザヤ 40章31節に基づく主題で話をしました。また,幾人かの忠実な兄弟たちをインタビューしました。例えば,ロバート・ウォーデンとハロルド・ラブソンは,共にグラスゴー出身で,それぞれ1913年と1914年にバプテスマを受けました。ロバート・アンダーソンは開拓者として51年間奉仕しています。アーニー・ビーボーは,17年間巡回監督として奉仕し,3 人の子どもたちは宣教者奉仕を行ないました。それらの兄弟たちは皆,長年にわたるエホバへの奉仕について熱心に語りました。統治体の別の成員ダニエル・シドリックは,「最良のものはこれから到来する」という主題で話をしました。兄弟たちは今でもこの話をよく覚えています。
ある兄弟はこう書いています。「招待状を受け取った時,戦時中の1941年にデ・モントフォート・ホールで行なわれたすばらしい大会の記憶が鮮やかによみがえってきました。戦争で荒廃した英国で,まるで奇跡によるかのように開かれたその大会は,私たちが出席した大会の中で最良のものでした。しかし,『最良のものはこれから到来する』のです。エホバへの感謝にあふれた心を抱き,わたしたちの創造者,その方の任命した王キリスト・イエス,そして神が明らかに用いておられる組織に忠節であり続ける決意を固くし,この集まりから帰ってきました」。
この行事の後,大勢の代表者たちはロンドンに移動し,増築されたベテルの献堂式のプログラムを楽しみました。この集まりは,ノース・ロンドン大会ホールと電話回線でつながれていたので,さらに多くの人たちに,当時の協会の会長フレデリック・フランズによる献堂式の話を聞く機会が与えられました。
印刷工場のための勝った場所
支部施設はまだ理想的な状態ではありませんでした。ものみの塔ハウスはミル・ヒルにありましたが,工場は13㌔離れたウェンブリーにあり,いつも25人から30人の兄弟たちが仕事に通っていたのです。
その幾年か前,当時の協会の会長N・H・ノアは,ものみの塔ハウスの通りを隔てた向かい側にあるUK光学という会社の建物が,印刷工場として理想的だと述べたことがありました。しかし,その時は,建物は入手できませんでした。ところが1986年9月,郵政公社が計画した会合の席上で,発送部門の監督フィリップ・ハリスは,
UK光学がビタシー・ヒルのその建物を引き払うということを耳にしました。直ちに,その2㌶の地所を取得する手続きがなされ,2か月後に売買は完了しました。同時に,ウェンブリーの工場を売却するための交渉も上首尾に終わりました。次いで,新しい工場の建設が本格的に始まりました。新しい工場を建てるために,まずビタシー・ヒルの敷地の後ろ側にあった古い建物が取り壊されました。掘削が進んでいた時,そこが産業廃棄物の投棄場だったことが判明し,がらくたがすべて取り除かれるころには,当初の計画に加えて,大きな地下室も作れることが明らかになりました。英国や海外からの5,000人を超える自発奉仕者がこのプロジェクトに50万時間余りを費やした結果,今後も長く使える立派な工場とガレージが完成しました。
建設の第二段階は,新しい事務棟の場所を確保するために,古いUK光学の事務所と工場のビルを取り壊すことでした。地元の都市計画機関は,近隣の建物と同じ外観を保つために,新しい事務棟をれんが造りにするよう強く要求しました。半分に切ったれんがをコンクリート・パネルに埋め込むことによって,当局の求めにそうことができました。表面がれんがで覆われた157のパネルをつり上げ,所定の位置に据えると,すぐに国際聖書研究者協会ハウスの形が出来上がりました。その後まもなく現場の見学に来たある会社経営者は,れんが職人を何人雇ったのかと尋ねました。「最低でも50人はいる」と思ったようです。すべての工程を6人の女性と2人の男性だけで成し遂げたことを知ったその人は,信じられないといった様子で首を振りました。
1993年,ビタシー・ヒルの頂上に建設された新しい事務所と工場から成る建物群は,すでに使用できる状態にありました。献堂されたのは,統治体のアルバート・D・シュローダーの訪問中です。その当時,英国全体で12万7,395人が野外奉仕に参加していましたが,これは確かに喜びのいわれでした。
国際規模の援助
印刷の仕事がウェンブリーから国際聖書研究者協会ハウスの新しい場所に移される間,協会のドイツ支部が英語の雑誌の印刷を援助しました。しかし,印刷の仕事はすぐにロンドンで再開され,新しい印刷工場の輪転機から,命を与える真理を説明した雑誌が幾千万冊も流れ出ました。
東アフリカと言えば,ロンドンの印刷工場からは遠く離れた場所にありますが,その地域にも長い間ロンドンから雑誌が定期的に供給されてきました。英語版とスワヒリ語版の雑誌が,定期的に東アフリカへ輸送されてきたのです。カリブ海の島々も英国から雑誌を受け取っています。長年にわたり,バナナの輸送船が西インド諸島から英国西海岸に船荷を運んできました。輸送船は戻る際,島に貨物を運びますが,その中にはいつも,慈善団体としての協会の立場のゆえに無料で運搬される雑誌の積み荷が含まれています。
発送部門が出荷するコンテナの準備をする際,空きスペースを利用して,経済状態の難しい地域に住む兄弟たちのために,様々な必要物資が送られます。英国各地の王国会館から何万脚もの余ったいすが,リベリア,モザンビーク,セネガル,タンザニア,ザンビアなどの国々に送られました。今これらのいすは,神の王国の良いたよりを学びたいと切に願う関心ある人たちであふれ返る会衆で使われています。
1994年,ボスニアの戦況ゆえに兄弟たちのための救援活動が必要となった時,オーストリア支部は喜んで食糧や衣類などの物資を提供しました。ところがボスニア当局から,これから先,輸送物資は法的に登録された組織に送らなければならないという布告が出されると,英国支部に援助の要請がなされました。英語とクロアチア語で法律上の書類が用意され,公証人の認証を得て,急使によって運ばれました。ウィーンに書類が届いた時には,救援用の輸送車隊はすでにウィーンを出発していました。兄弟たちは車で輸送
車隊を追いかけ,国境で追いつきました。救援物資がちょうど国境を通過しようとしていた時,書類を手渡すことができました。印刷の仕事をフランスから英国に移す取り決めが設けられていた1998年8月に,増えた仕事の荷を軽くするため,ルビエのベテル家族50人がロンドン・ベテルに移動して来ました。長い話し合いの末,1999年に大型輪転機や他の印刷設備もルビエからロンドンに移せることになりました。フランス人のベテル奉仕者は英語を学ぶよう努め,英国のベテル奉仕者もフランス語の表現を用いる努力を払いましたが,聖書の真理という「清い言語」を話す点では皆が一致していました。そのようにして,エホバの誉れとなる仕事を成し遂げるため,肩を並べて働くことができました。―ゼパ 3:9。
島々に行って伝える
幾年もの間,英国支部は,様々な地域の数多くの島々における宣べ伝える業を世話してきました。その中には,イギリス諸島に含まれる島々もあります。南岸の沖合に位置するワイト島には,七つの活発な会衆があります。アイリッシュ海に浮かぶマン島には,190人の奉仕者から成る大きな会衆があります。スコットランド西岸の沖合のヘブリディーズ諸島には60人を超える奉仕者がおり,辺ぴな場所にある部落で定期的に証言しています。スコットランド北東端の沖合にあるオークニー諸島とシェトランド諸島にはどちらも,拡大を続ける会衆があり,本島から孤立した人々に徹底的な証言を行なっています。実際,シェトランド諸島の開拓者たちは,自分たちの区域を北海にまで拡大し,漁船を訪れ,船上の船員たちに宣べ伝えています。
オルダニー島やサーク島といったさらに小さな島での証言活動を世話しているのは,チャンネル諸島に属するガーンジー島の二つの会衆です。これには,並々ならぬ努力が求められます。例えば,サーク島の住民 ― 現在は575人 ― に対しては,1980年代初頭から定期的な証言が行なわれてきました。ガーンジー島の一人
の開拓者は,サーク島で伝道している時にある若い男性と会いました。その男性の母親はエホバの証人で,イギリス諸島のほかの場所に住んでいました。当初その男性は関心を示しませんでしたが,さらに話し合いを行なった後,その男性とガールフレンドは証人の夫婦と研究を始めました。研究は,ほとんど手紙で行なわれました。ガーンジー島とジャージー島の会衆は協力して,月に一度,開拓者をサーク島とオルダニー島へ遣わすための費用を出し合いました。そうした個人的な援助と手紙による研究を通して,若い男性もガールフレンドも霊的に少しずつ進歩しました。さらに援助するため,ある長老が,「唯一まことの神の崇拝において結ばれる」の本を用いて電話で研究を司会しました。1994年4月,その若い男性と,その妻となった若い女性は,バプテスマを受ける用意が整いました。現在この二人は,天候が悪くてガーンジー島へ行けなくなると,電話回線で会衆の集会から益を受け,集会に参加しています。確かに,すべての人が良いたよりの益にあずかれるよう,真剣な努力が払われているのです。近くのジャージー島には三つの活発な会衆があります。これらの会衆は,ガーンジー島の会衆と交代で毎年の地域大会を主催しており,地元の証人たち約500人と英国各地から1,000人ほどが大会に出席しています。加えて,この島には,ポルトガル語を話す季節労働者が大勢やって来るため,地元の奉仕者の中には,そうした人たちに王国の音信をもっと効果的に伝えられるよう,ポルトガル語を学んだ人たちもいます。
さらに離れた所には,フォークランド諸島があります。2,200人の島民の大半が,シェトランド諸島やスコットランドの他の地域の出身です。アーサー・ナッターとその妻は,証言の業にあずかるため,1980年に子どもたちを連れてイングランドからフォークランド諸島に移り住みました。2年後に世界情勢が変化したため,英国支部がフォークランド諸島での伝道活動を全般的に監督するのは賢明なように思われました。フォークランド諸島はロンドンから
1万3,000㌔離れていますが,小さな会衆に仕えるために訪問がなされました。英国が監督するこの取り決めは15年間続きました。過去50年間の大半もそうでしたが,今も英国支部は地中海の中心に浮かぶマルタ島でのエホバの民の活動を監督しています。マルタ島と言えば,西暦58年ごろ,使徒パウロがローマへ行く途中で難船した所です。(使徒 28:1)マルタの近くには,さらに小さく,マルタに依存する姉妹島であるゴゾ島があります。今日どちらの島にも,エホバの民の活発な会衆があります。
1936年以来,証言活動に関する報告がマルタ島から幾らか寄せられていたものの,1970年代になるまで,王国の業はマルタ島の人たちの間で十分定着しませんでした。その島の人たちに良いたよりを伝える努力は繰り返し払われましたが,ローマ・カトリック教会が政府や人々の生活を牛耳っていたのです。
ジェズアルダ・リマは13歳のころ,母親が近所のエホバの証人から詩 83:18)後にジェズアルダの両親は,娘が聖書の音信に関心を持つことに反対しました。ジェズアルダは反対にめげず聖書研究を続け,集会に出席し始め,エホバに献身してバプテスマを受けました。1981年に,非常に熱心で陽気なイタリア人のイグナツィオと結婚しました。二人はマルタ島で全時間奉仕者として仕える特権を与えられ,真理を知るよう100人ほどの人たちを援助しました。その大多数はマルタ島の人たちです。
聞いた事柄を家族に話しているのを初めて耳にしました。それは1970年のことでした。「エホバという名前を聞いた時,特別な感じがしました」とジェズアルダは振り返ります。(時計屋を営むジョー・アーシャクは,心の広い親切なマルタ人です。真理のことは,おじの家族から初めて聞きました。しかしジョーは当時,独立心があったため,家を出てオーストラリアへ行きました。ジョーがオーストラリアでエホバの証人と交わるようになると,兄は,「おまえがエホバの証人になることが母さんの耳に入ったら,母さんは死んでしまうぞ。おまえが王国会館にまた行くようなことがあったら,会館に火をつけてやるからな」と警告しました。しかし,ジョーはひるみませんでした。そして,よい結果がもたらされました。ジョーを脅した兄を含め,今では自分の兄弟姉妹7人がエホバに仕えているのです。
ジョーはマルタ島に戻って結婚しました。ジョーと妻のジェーンは,ゴゾ島の区域に特別の注意を向けることにしました。毎週末,フェリーでゴゾ島へ行きましたが,息子のデービッドが生まれてからは通うのが大変になったため,ゴゾ島に住むことにしました。1984年には会衆が設立され,二人は大きな喜びを味わいました。現在ゴゾ島には27人の奉仕者がおり,自分たちの王国会館で集まり,定期的に良いたよりを宣べ伝えています。
せめてマルタ語だったら
この島の言語,つまりマルタ語で聖書の真理が語られることにコロ 1:9,10。
よって,島のいっそう多くの人たちが助けられ,エホバとその道に関する正確な知識を得る点で進歩を遂げました。―ジェズアルダ・リマの聖書研究生の一人ヘレン・マサは,集会がすべて英語で行なわれていた時のことを覚えています。話されている内容を理解するのに苦労することもありましたが,与えられたすばらしい教育は大切に心の中にしまっています。ヘレンは,1960年代の後半から1970年代の初めにかけてマルタ島で奉仕した英国人の兄弟,ノーマン・ラザフォードの辛抱強い教え方についてよく話します。ギレアデ11期生のノーマンと妻イザベルはいつも用心深く行動していました。自分たちが外国人だったからです。二人の願いは,マルタ島にとどまり,宗教的な反対や家族からの反対に遭っても勇敢な立場を取った地元の兄弟姉妹たちを支えることでした。
1970年代の初め,英語を流暢に話せるジャーナリストのジョー・ミカレフは,ノーマン・ラザフォードが自分と聖書研究を行なうことに同意した時,非常に喜びました。ジョーは,「こちらが質問した後に,“イエス”とか“ノー”とか返事があるのがうれしかったですね」と回想しています。しかしノーマンは,教えることには単に質問に答えるより多くの事柄が含まれることに気づきました。「ノーマンは,なぜ“イエス”なのか,なぜ“ノー”なのかを詳しく説明してくれました」。この方法によって,ジョーの信仰は強められました。
ジョーが最初に出席した集会は英語で行なわれていましたが,しばらくすると,「ものみの塔」誌の幾つかの節の要点をマルタ語に要約する仕事が,ある出席者たちに割り当てられました。これは必ずしも容易なことではありませんでした。ジョーの弟レイは,割り当てられた部分の要約を書き出すことにしましたが,節全体を翻訳したほうが簡単だということが分かりました。「ピーター・エリス
は旅行する監督としてマルタ島を訪問した時,事情を察知しました。そして複写機を購入するよう勧めてくれました」とジョーは続けています。こうして1977年には,マルタ語によるタイプされた最初の「ものみの塔」誌が出されました。兄弟たちが原紙にタイプしたり間違いを修正したりする場合,必要な助けを求めるのに,印刷業界にいた人,つまりジャーナリストのジョー以上の適任者がいるでしょうか。ジョーは,「いいですか,この仕事をやり遂げるには,だれかが責任を引き受けなければなりません」と強い口調で言いました。兄弟たちが,「では,だれを推薦しますか」と言うと,ジョーは,「分かりません。でも,わたしなら喜んでやりますよ」と答えました。こうしてジョーは,マルタ語の出版物の翻訳にかかわるようになりました。もちろん今日では,出版物の翻訳の取り決めは執筆委員会を通してなされており,勝手に行なわれることはありません。1979年には,マルタ語による印刷された「ものみの塔」誌の第1号が発行されました。この仕事は徐々に翻訳者のチームに引き継がれ,現在マルタ語の「ものみの塔」誌は月2回,「目ざめよ!」誌は月1回,発行されています。1998年1月,地帯監督のダグラス・ゲストの訪問の際,さらに進展が見られました。モスタ町にある国際聖書研究者協会ハウスの新しい翻訳事務所,宣教者ホーム,王国会館が献堂されたのです。翌日には631人が集まり,マルタ島での王国の業の進展に関する報告を聞きました。
愛ある監督を行なうよう訓練される
エホバはご自分の民に愛ある関心を示し,預言者エレミヤを通して,「わたしは彼らを実際に牧する牧者たちを彼らの上に起こす」と予告されました。(エレ 23:4)そうするために,エホバはご自分の民の間に長老たちを備えただけでなく,ご自分の願いである,神の羊たちに対する愛ある監督が行なわれるよう,長老たちに教育や訓練を施してこられました。
1960年以来,英国や他の国々の資格ある兄弟たちは,王国宣教学校で与えられた訓練から益を受けてきました。この取り決めは,初め4週間の課程でしたが,後に2週間に短縮されました。旅行する監督や,会衆で監督の務めを果たす兄弟たちが招待されました。授業はロンドン・ベテルで行なわれました。その後,もっと容易に教育が受けられるようにするため,学校は地方でも開かれるようになり,国内各地で授業が行なわれました。諸会衆が,ひいては組織全体が益を受けました。
1977年,さらに15時間の課程がすべての長老のために設けられました。それ以来,長さは異なるものの,同様の集まりが開かれています。群れの愛ある牧者としてどのようにエホバに見倣えるか,会衆の集会でどのように教えるか,各会衆の区域で福音宣明の業をどのように行なえるか,またどのようにエホバの義の規準を擁護するか,といった問題に細心の注意が払われてきました。1997年の英国の王国宣教学校の集まりに,1万1,453人の長老と1万106人の奉仕の僕が招待されました。
彼らは自分たちを役立てた
会衆で奉仕する長老たちに加え,旅行する監督として奉仕する資格を備えた長老たちが,幾つもの会衆からなる巡回区や,幾つもの巡回区からなる地域区を世話しています。現在英国には,そのような旅行する監督が77人おり,合計1,455の会衆と70の巡回区を世話しています。それらの男子は,霊的な資格を満たしているだけでなく,そうした奉仕が行なえるよう自分の生活を調整した人たちです。
1970年代の初めに,ある旅行する監督が,神権的な生き方を追い求めるようデービッド・ハドソンに勧めました。しかし,当時デービッドは複写機の会社の所長であり,世俗の仕事に深くかかわっていました。ところが,その後いきなり,デービッドの仕事はもう必要ないという,会社側の判断が下されました。その時デービッド
は,1984年にウェールズのカーディフにおける集会で,統治体の成員ライマン・スウィングルが語った言葉をかみしめました。スウィングル兄弟は,この世で出世することを『沈没している船の真鍮を磨く』ことに例えました。デービッドと妻のアイリーンは,開拓者になれるよう事情を調整し始めました。幾頭も馬のいる馬小屋付きの快適な家を手離し,エホバとの関係をより重視した生活を築き上げました。1994年以来,デービッドは妻を伴い,巡回監督としての責任を果たしています。二人とも,エホバに仕える喜びは,すでに手離したどんな物質的な物をもはるかにしのぐことを認めています。レイ・ボールドウィンは1970年代の半ばに真理を学び,良いたよりの伝道は自分の時間を可能な限り費やして行なうだけの価値がある,と確信するようになりました。その結果,別の町に移動することを条件に昇進の話を持ちかけられた時,バプテスマを受ける前であったにもかかわらず,それを断わり,代わりにパートタイムの仕事を願い出ました。バプテスマを受けた後はすぐに補助開拓者になり,結婚後ほどなくして,妻のリンダと共に正規開拓奉仕を始める計画を立てました。次にレイは,神権的な活動のためにもっと自分を役立たせるため,スーパーの仕事を辞めて窓掃除の仕事を始めました。1997年9月以来,レイも巡回監督として奉仕しています。
医療機関連絡委員会と関連した責任を進んで担ってきた兄弟たちもいます。この委員会は,医療上の緊急事態に直面している証人たちに愛ある援助を差し伸べます。それには訓練の時間が求められます。しかしそれは始まりにすぎません。1990年の10月,ブルックリンのホスピタル・インフォメーション・サービスの3人の代表者が,英国バーミンガムで開かれるセミナーを司会するためにやって来ました。ベルギー,英国,アイルランド,イスラエル,マルタ,オランダから来た152人の兄弟たちは,血の問題に関する証人たちの立場を医療当局が理解できるように援助する方法につい
て優れた教育を受けました。ブルックリンから来た兄弟たちは,証人たちがこうした立場を執る理由をロンドンその他の主要都市の病院当局に説明する方法に関して,出席していた兄弟たちを訓練しました。1991年2月に2回目のセミナーがノッティンガムで開かれてから,医療機関連絡委員会が英国各地で機能し始めました。翌年,さらに16人の委員が任命され,委員になった兄弟たちはストーク・オン・トレントで開かれたセミナーで訓練を受けました。証人たちと当局との協力関係を拡大するため,1994年6月にサリー大会ホールで別のセミナーが開かれ,判事,社会福祉事業関係者,小児科医への近づき方に関する訓練が与えられました。このセミナーにより,医療専門家とのさらに強い協力関係を築くための土台が据えられました。個人的な会見の後,血と医療に対する証人たちの見方に進んで敬意を払う英国の医師3,690人余りをリストアップすることができました。
ロンドン北部のルートン地区の医療機関連絡委員会の司会者は,この委員会で奉仕するようになった時,心身両面でどれほどのことが要求されるかを理解していなかった,と率直に認めています。この兄弟は,エホバとクリスチャンの兄弟姉妹を深く愛する妻からの愛情深い支えに感謝しています。兄弟は,担当地区にある主要な病院の医療スタッフや管理者たちとのよい協力関係を徐々に築き上げました。「兄弟たちが医療上の緊急事態に直面した時,わたしたちはいつでも,すぐに支えとならなければなりません」と兄弟は述べています。このような精神でこの奉仕が行なわれているため,多くの機会に良い証言の道が開かれてきました。
世界本部での奉仕を行なう
神権的な歩みを英国で始めた兄弟たちの中には,ニューヨークのブルックリンにあるエホバの証人の世界本部で奉仕するよう招かれた人もいます。
ジョン・E・バーは,1913年にスコットランドで生まれ,両親から真理を学びました。十代の時期は内気だったため,家から家の伝道で家の人と会話するのを非常に難しく感じましたが,エホバの助けによってこの障害を克服しました。1939年,ロンドンのベテルで奉仕を始めるようにとの招きに応じました。第二次世界大戦中の多難な時期は,旅行する監督として数年間奉仕し,1946年にロンドン・ベテルに呼び戻されました。最初にベテル家族の一員になってから21年後,ギレアデ学校第11期生で熱心な姉妹ミルドリッド・ウィリットと結婚しました。ミルドリッドは結婚後,夫と共にベテル奉仕を行なうようになりました。ジョンは1977年に,統治体の成員になるよう招かれました。そのことを夫から聞かされた時,ミルドリッドは最初,冗談に違いないと思いました。しかし冗談ではなかったのです。そうして二人は次の年,ニューヨークのブルックリンにある世界本部に移りました。ジョンとミルドリッドは,引き続き本部で楽しく奉仕しています。
本部の奉仕者になるよう招かれた人はほかにもいます。リバプールで生まれ,ロンドン・ベテルで奉仕していたアラン・ボイルもそうです。ボイルの画家としての才能を十分生かすため,協会は1979年に,ブルックリンへ移るよう勧めました。エリック・ベバリッジは1949年にバプテスマを受けた時,バーミンガムに住んでいました。妻のヘイゼルと二人でポルトガルやスペインで宣教者奉仕を21年間行なった後,1981年にブルックリンのベテル家族の一員になりました。イングランド南部のケント州サンドイッチで生まれたロバート・ペビーは,9年間アイルランドで奉仕し,その後,妻パトリシアとフィリピンでさらに9年間宣教者奉仕を行なってから,1981年に世界本部で奉仕するようになりました。
支部の監督の交代
長年にわたり,霊的資格を備えた幾人かの男子が,率先して英国支部での責任を担ってきました。第二次世界大戦中にアルバート・
D・シュローダーが英国から強制退去させられると,A・プライス・ヒューズが支部の監督に任命されました。ところがその時ヒューズは,クリスチャンの中立ゆえにまだ服役していたのです。クリスチャンの中立の原則に対するヒューズ兄弟の忠誠は,徹底的に試されました。中立の問題で,第一次世界大戦中に投獄され,第二次世界大戦中にはさらに2度,投獄されたのです。ヒューズ兄弟は,エホバがご自分の組織を導いておられることに対する深い認識を持って,20年余り支部を監督しました。兄弟と共に奉仕した人たちは,兄弟の親切な態度や,どんな責任を担っていても,野外宣教に対する強い愛が衰えなかったことを今も覚えています。1976年に,一個人ではなく委員会が各支部の業を監督するという取り決めが実施され,調整者にウィルフレッド・グーチが任命されました。ジョン・バー,プライス・ヒューズ,フィリップ・リース,ジョン・ウィンも委員会のメンバーでした。最初のこのグループの幾人か
は亡くなり,他の兄弟たちが支部委員会に加えられました。現在は,ジョン・アンドルーズ,ジャック・ダウソン,ロン・ドレイジ,デニス・ダットン,ピーター・エリス,スティーブン・ハーディー,ベバン・バイゴー,ジョン・ウィンが委員会を構成しています。国際大会の喜び
エホバの証人は世界的な兄弟関係にあります。ですから,東ヨーロッパの国々で何十年も厳しく抑圧された後に自由に集まれるようになった時,世界中の証人たちの間には大きな喜びが生じました。集まり合えない期間が非常に長かった国々で国際大会を開く,絶好の時が訪れました。霊的に築き上げられると共に,一般の人々に対するりっぱな証言ともなります。英国のエホバの証人は,こうした大会に参加できたことをうれしく思っています。
1989年,ポーランドで三つの大きな「敬虔な専心」大会が取り決められ,この歴史的な機会に,少なくとも37か国から代表者たちが集まり合いました。代表者の中には英国の721人も含まれていました。ポーランドのポズナニの大会で示された霊について,デービッド・シブレーとリン・シブレーは,「本当にすばらしかった」と言い,こう付け加えています。「あのような雰囲気はこれまで経験したことがありませんでした。これまでは少人数でしか集まれなかったロシアや東ヨーロッパの大勢の兄弟たちと自由に交われたのは,本当に大きな喜びでした。兄弟たちの中には,命の危険を冒してまで集会に出席した人たちもいることが分かりました。兄弟たちは大会に圧倒されていましたが,わたしたちもそうでした」。翌年,東西ドイツを分ける国境の統制が取り除かれた後,真に勝利の宴となったベルリン大会が開かれましたが,その熱心な聴衆の中に,英国からの584人が含まれていました。1991年,今のチェコ共和国のプラハにあるストラホフ競技場に,7万4,587人が集まりました。英国から来た299人は,そこに出席できたことを本当にうれしく思いました。その同じ年に,35か国の証人たちがハンガリーのブダペストに集まり,
英国からも大勢が出席しました。1993年,ロシアのモスクワで開かれた大会には英国から770人の代表者が,ウクライナのキエフの大会には283人が出席しました。これらはどれも,決して忘れることのできない,歴史的に重要な出来事でした。さらに,アフリカ,中南米,北米,東洋で開かれた国際大会にも,英国の代表者たちが出席しました。証人たちは,そうした機会に親密な交わりを楽しみ,クリスチャン愛の絆を強めました。これは,神の言葉で予告されていたように,証人たちが「すべての国民と部族と民と国語」の中から来ることを裏づける明白な証拠です。―啓 7:9,10。
様々な背景を持つ人々
イギリス諸島で聖書の音信にこたえ応じ,エホバの証人になっ
た人たちは,様々な背景を持っています。その多くが,エホバへの愛に促されて,神に十分仕えられるよう生活を著しく変化させました。ジャマイカ生まれのプロのジャズ・ドラマー,ドナルド・デーヴィスは,1960年に英国に来ました。1969年に聖書文書を幾らか受け取ったものの,聖書に純粋の関心を抱くようになったのは,13年後に二人のエホバの証人と,神のみ名の重要性について話し合ってからのことでした。(エゼ 38:23。ヨエ 2:32)その年の後半に,ドナルドとミュージシャンの友人は,近くで開かれていた地域大会に出席しました。ドナルドはすぐに,学んだことを当てはめるようになりました。そして,だれかほかの人と話し合ったわけでもないのに,音楽の仕事を続けながらエホバに仕えるのは難しい,ということに気づきました。それで楽器を売り,1984年に開拓奉仕を始め,今でもその特権を楽しんでいます。
トニー・ラングミードは,妻がエホバの証人と聖書を研究するようになった時,英国空軍の将校でした。「言葉によらず」,クリスチャンになってからの妻の行状がトニーを引き寄せました。(ペテ一 3:1,2)トニーは,エホバの僕として平和な生き方をするために空軍を退役しました。―イザ 2:3,4。
フランク・カウエルは,英国国教徒として育てられましたが,やがてほかのところに真理を探し求めるようになり,王国会館に行ったのがきっかけで,エホバの証人と聖書の研究を始めました。現在はロンドンで経済学の教授として働いていますが,大学側で,会衆の集会の開かれる晩にセミナーを組み入れると,自分はまず第一にエホバの証人である,という決意を示します。
スザンナはロイヤル・バレエ団のメンバーだった時,偶然,昔の学友に会い,聖書研究をするようになりました。バプテスマを受けた証人となってからは,バレエ公演の数を減らして,ダンスのインストラクターになろうと決心しました。新しい仕事である開拓奉仕
のために時間を買い取り,宣教を中心とした生活を築くためです。今では結婚し,夫のケビン・ガウと共に,リバプールで増え続ける中国人に良いたよりを伝えるため,北京<ペキン>語を学んでいます。レネにはクリスティナというエホバの証人の妹がいましたが,レネのほうは,宗教を無意味なものと考えていたので,聞く耳を持ちませんでした。しかしその後ロンドンで働いていた時,何度も大英博物館を訪ねる機会がありました。ある時,聖書と博物館の様々な展示物との関連についてなされたツアーガイドの説明に興味をそそられました。妹が自分に話そうとしていた事柄を思い出し,間もなくレネ・ディアフィールドもエホバの証人になりました。
アンドルー・メレディスは刑務所で服役中に聖書を学ぶようになりました。それが生き方を大きく変化させるきっかけでした。アンドルーは釈放されてからパンジャブ人の証人と結婚し,夫婦共々,ロンドン東部のパンジャブ語を話す人々の間で宣教を続けています。
ダクシャ・パテールはヒンズー教徒の親の下にケニアで生まれ,自らも信仰の厚いヒンズー教徒でした。しかし,イングランドのウルバーハンプトンで証人たちと聖書を研究して,自分が真理を学んでいることに気づきました。生活上の様々な決定を自分で下せる年齢になった時に,バプテスマを受けて開拓者になりました。ダクシャと夫のアショクは,現在ロンドンのベテル家族の成員として奉仕しています。ベテル奉仕と関連して,聖書文書の翻訳を援助するため,インドやネパールやパキスタンに出かけてゆくこともあります。
引き続き証言を行なう
エホバの証人は,エホバの崇拝を受け入れる人々が毎年大勢加えられるのを見て,歓んでいます。1972年以来,英国の活発な証人たちの数は2倍近くになり,今では合計12万6,535人を数えます。
現在,聖書の音信に関心を示すのは,これまで一度もエホバの証人
と会ったことのない人たちでしょうか。そういう人もいないわけではありません。証人たちがビジネス街や街路での証言に手を延ばしたために見いだされた人々です。一人の証人は,初めてビジネス街の区域での伝道に参加した時,ある会社の受付をしている女性に会いました。その女性は強い関心を示し,二日後に再訪問するとすぐに聖書研究が始まり,こうして,エホバの道を歩むかどうかを決定する機会が与えられました。この人は,これまで一度もエホバの証人に会ったことがありませんでした。週日はずっと働いていて,週末はたいてい外出していたからです。多くの場合,耳を傾けるのは,結婚したり,子どもができたり,年を取ったり,突然病気になったりして,生活事情が変化した人たちです。以前はただ脇に押しやっていた疑問の答えを,是非とも知りたいと思うようになるのです。
例えば,バプテスト教徒として育てられた85歳の女性が,1995年8月に,「神は本当にわたしたちのことを気遣っておられますか」のブロシュアーを喜んで受け取りました。この女性はこれまで何度となくこの質問をしてきましたが,満足のゆく答えは得られませんでした。聖書研究に応じたこの女性は,神のご要求を学び,神の愛ある気遣いに感銘を受けるようになりました。また,生活を変化させる必要があることを察知し,約60年間続けてきた喫煙の習慣をやめました。地元の会衆の集会にも出席し始め,1997年9月にキャサリン・メイは,クリスチャンのバプテスマを受ける用意を整えることができました。巡回大会で,バプテスマを受けるために水に入ろうとしていた時,自分と同じような年配のバプテスマ希望者の婦人が目に留まりました。驚いたことに,それは別の町に住む実の妹のエブリンでした。お互い,研究していることも知りませんでした。これら年配の婦人たちは,エホバへの献身によって結ばれ,今や霊的な姉妹となって,喜びの涙を流しました。
エホバの証人を歓迎する人の中には,自分が属する教会の最近テモ一 2:12)間もなく,モーリスは英国国教会を脱退して王国会館での集会に出席するようになり,84歳の時にバプテスマを受ける用意が整いました。
の動向に心を痛めている人もいます。モーリス・ハスキンズがエホバの証人から初めて文書を受け取ったのは,1939年のことです。しかしモーリスは,英国国教会の頑強な支持者で,地元の信徒代表委員会のメンバーでした。約56年後,戸別訪問をしていた一人の証人がモーリスの義理の姉と話すことができました。この人はその証人に,モーリスを訪問してほしいと言いました。モーリスには聖書に関する質問がいろいろあるから,と言うのです。モーリスは訪問を受けるとすぐ,聖書が同性愛と女性の叙任についてどんな見方をしているか,聖句から説明してほしい,と頼みました。その後,「永遠の命に導く知識」の本を用いて聖書研究をすることに同意しました。すぐには変化は見られませんでしたが,後日,主教との会合の席では,自分が学んできた事柄から力を得て,女性を教区牧師に任命する問題について確固とした立場を取りました。(識別力や粘り強さを示す証人に助けられた人たちもいます。ジャクリーン・ガンブルは,ある女性から,わたしは「無神論者で人道主義者」ですと言われた時,何を信じているのかを礼儀正しく尋ねました。「人々や人生です」という答えが返ってきました。この女性が忙しかったため,姉妹はパンフレットを渡し,再び訪問することを約束しました。ジャクリーンは夫マーティンと共に再びその家を訪問し,「人々や人生」に関する以前の話に触れました。二人は,夫のガスが同様の見方を持ち,ソーシャルワーカーであることを知り,ガスに会うことにしました。妻のクリスティーンは聖書研究を始め,バプテスマの段階まで進歩しましたが,ガスは王国会館へ行こうとしませんでした。しかし,クリスティーンが証人たちと研究するようになってから,子どもたちが他の多くの若者のようでなく,とても礼儀正しい子に育っていることに気づいていました。
ガスに転機が訪れたのは1978年のことです。スコットランドのエディンバラヨハ 13:35)ガスはエディンバラへ戻るとすぐに研究を始め,悩まされていた様々な疑問に対する満足のゆく答えを得,エホバに献身しました。
で国際大会が開かれた際,クリスティーンは,家の近くの区域で証言していた奉仕者たちにコーヒーを入れてもてなしました。その中に,統治体の成員も幾人か含まれていました。兄弟たちは自分たちの使った食器を洗ってから帰りました。その晩,ガスが帰宅すると,クリスティーンは興奮しながら,思いも寄らないお客について話しました。ガスは,「枢機卿が我が家に来て,皿洗いをするなんて想像できないよ」と言いました。それから少したって,フランスで休暇を過ごした際,ガスは家族と王国会館へ行き,受けた歓迎や示された愛に感激しました。やがて,そうした愛は,キリスト・イエスの真の弟子たちの間にしか見いだせないことが分かりました。(もちろん,区域の人たちがほとんど,あるいは全く関心を示さない場合,訪問し続けるためには証人たちの側に忍耐や積極的な態度が求められます。何時間も人々から拒絶され,無関心な態度を示されると,落胆してしまいがちです。証人たちはどう対処しているのでしょうか。リンカンシャー州ラウスのエリック・ヒックリングは,「無関心は,難しい,試みとなる問題です」と心の内を明かします。エリックの場合は,昔の人々の模範を黙想することが頑張り通す
助けになっています。「私は熱烈に,そして頻繁に祈ります。モーセやエレミヤやパウロ,そしてもちろん,イエスについて考えます」。これまでの増加に寄与してきた極めて重要な二つの要素は,忠実に粘り強くあることとエホバの祝福です。今から39年前,フランク・マグレガーとローズ・マグレガーはある町に任命されましたが,その町の人々は信心深く,エホバの証人を歓迎しませんでした。二人は,この割り当てをどうみなしたでしょうか。フランクはこのように回想しています。「私は非常に内気だったので,自分は全くふさわしくないと感じました。しかし,妻と私は,これをエホバコリ二 4:7。
からの割り当てとみなしました」。この見方は,二人が積極的な態度を保つのに役立ちました。「私たちは地元の人々が真理を受け入れるよう祈りました」。そうした忠実な奉仕の結果,今では74人の奉仕者から成る会衆があり,その3分の2はこの町で真理を学んだ人たちです。マグレガー夫妻はそれを自慢しません。エホバから用いていただけたことをひたすら感謝しています。―エホバの証人として長い経験を持ち,今でも諸会衆を訪問することに幾らかあずかっているジェフ・ヤングは,「私はよく兄弟たちに,今日の宣教はどうでしたかと質問することがあります」と言います。消極的な返事をする人がいると,成し遂げた多くの事柄に啓 14:6。コリ一 4:2。
ついて考えてみるよう促します。ジェフは,次のような点を思い起こさせます。「わたしたちはエホバの側を選びました。献身にふさわしく生きました。『中天を飛ぶみ使い』と協力しました。エホバを知るよう他の人たちを励ますことにあずかりました。警告としての証言を行ないました」。それからジェフは,こうしたことをみな成し遂げたなら,どうしてそれが無意味な時間だったと言えるでしょうか,と諭します。そして,「人々の反応は,置かれている状況や,心の中にあるものによって違います。重要なのは,忠実に証言し,良いたよりを伝えることです」と言います。―「エホバの祝福」を歓ぶ
英国には,20年,40年,50年,あるいはそれ以上の期間,活発なエホバの証人として歩んできた人が大勢います。それらの証人たちは,自分たちの行なっている事柄をどう感じているでしょうか。聖書は箴言 10章22節で,「エホバの祝福,それが人を富ませるのであり,神はそれに痛みを加えられない」と述べています。英国の何万というエホバの証人各自は,この言葉の真実さを証明することができます。
「人間に委ねられた最大の特権です」。ベージングストークに住む70代半ばのコーネリアス・ホープは,半世紀にわたる自分のクリスチャン宣教を振り返り,宣教をそのように描写しています。50年近く前にバプテスマを受け,巡回監督の夫を持つアン・ギラムは自分の宣教について,「エホバとみ子に対する愛を示す方法です」と言います。
1942年にバプテスマを受けたデニス・マシューズは,こう語っています。「宣教は食物のようだと思います。霊的に強められます。人々が耳を傾けても傾けなくても,神のご意志を行なうことには満足感があります」。妻のメービスは,「若い時からずっとエホバにお仕えしてきましたが,これに勝る人生はないと感じています」と付け加えます。
長い経験を持つ証人たちは,人々やその反応についてどう感じているのでしょうか。40年以上エホバへの奉仕を行なってきたミュリエル・タバナーは,「人々は,今まで以上にわたしたちを必要としています。ほかのところから真の霊的な助けを得ることができないからです」と語ります。その助けを受け入れると,どんなことが起きるでしょうか。夫のアンソニーは,こう述べています。「人々が真理を受け入れて生活を変化させるのを見ることは,エホバの霊が人々を神への崇拝に引き寄せる奇跡を目撃することです」。
神の言葉からしか得られない希望を他の人に伝えることには,
満足感が伴います。デボン州プリマスの都市の監督フレッド・ジェームズとその妻は,自分たちの長年にわたる奉仕を振り返り,バプテスマまで進歩するよう援助できた人を100人以上数え上げることができました。その多くは,今では長老や奉仕の僕や開拓者として奉仕しています。3人の息子は皆,学校を卒業すると開拓奉仕に入り,現在は長老として奉仕しています。息子の一人デービッドは,ギレアデの卒業生で宣教者として奉仕しており,パキスタンの支部委員会の一員でもあります。ジェームズ兄弟姉妹は,何と豊かで,報いの多い人生を送ってきたのでしょう。英国の証人たちの中には,幾年にもわたる忠実な奉仕によって,宣教の成果を見てきた人が大勢います。リチャード・ジェソップとヘイゼル・ジェソップは,半世紀余りエホバに仕えてきましたが,その大半を全時間奉仕に費やしました。二人は,多くの人たちを援助し,エホバに献身するのを見る特権にあずかりました。ジェソップ兄弟姉妹にとっては,そのすべてがいとおしい人たちです。しかし,ジャック・ダウソンとリン・ダウソンとの研究には,特別に思い出深いものがあります。その研究は,自分と同じ背景を持つ人たちに対する友好的な訪問から始まりました。(ヘイゼルとジャックは二人とも,イングランド北東部の出身です。)間もなく聖書研究になりましたが,ある時ジャックが,しばらく研究をやめなければならないと言い出しました。リチャードは,「いいえ,それはいけません。まず,この書籍を終えましょう。その後にそうしたければ,やめてもかまいません」と答えました。彼らは「やめ」ませんでした。やめるどころか,エホバに献身し,開拓奉仕を始め,それからベテル家族の成員になりました。ジャックは現在,支部委員として奉仕しています。
ある若者たちがどのように聖書の真理にこたえ応じてきたかということは,人々に特別な喜びをもたらしてきました。スコットランドのダンディー地区の開拓者であるロビーナ・アウラーと夫のシドニー・アウラーは,ポール・カーンズの進歩に特別の喜びを感じ
ました。ポールは,12歳の時にアウラー家に来て聖書研究を行なうようになりました。真理はすぐポールの心に根を下ろしましたが,父親から研究を禁じられたため,大きくなってアバディーンの大学に通うようになるまで聖書研究の再開を待つことにしました。ポールは急速な進歩を遂げました。バプテスマを受けてからは開拓奉仕を目標とし,1992年に宣教訓練学校に出席し,シェフィールドで長老として奉仕している時にスペイン語の勉強に打ち込み,1998年に,パナマで宣教者として奉仕するよう割り当てられました。英国では1万人を超す人たちが開拓奉仕を行なっています。開拓者たちは,この奉仕に伴う祝福を宝のようにみなしています。一例として,ビル・トンプストンとジューン・トンプストンの場合,結婚後8年余りたってから最初の子どもが生まれましたが,その時も開拓奉仕を行なっていました。やがて二人は3人の娘の親となりました。ビルとジューンは,家族生活の中で開拓奉仕に重きを置くよう努めてきました。予定はぎっしり詰まっていましたが,家族で一緒に物事を行なうことが良い結果につながりました。ビルはこう説明しています。「娘たちのために,いつも時間を取りました。それは,娘たちが十代になっても変わりませんでした。アイススケート,ボーリング,水泳,球技をするときは,私たちもついて行きました」。娘はすでに3人とも結婚し,正規開拓者として奉仕しています。3人とも,ビルの言う「最良の生き方」を楽しんでいます。
現在,英国では77人の兄弟たち(大半は既婚者)が旅行する監督として奉仕しています。来る週も来る週も,来る年も来る年も,込んだスケジュールをこなしてゆく生活です。ジェフ・ヤングは,老齢と健康上の問題のために調整する必要が生じるまで,この奉仕を行なっていました。ジェフと妻のヴィーは,各地を旅行して回り,毎週違う家に滞在しました。そうした生活をヴィーはどう感じているでしょうか。「さほど大変ではありません。会衆を訪問するごとに,クリスチャン家族に加えていただけるのですから。どこへ
行っても兄弟関係の温かさを感じました。エホバが与えてくださるどのような割り当ても,私たちの人生を豊かにしてくれます」。二人は現在の生活を楽しんでいますが,将来にも大きな期待を寄せています。ジェフはこう説明しています。「この体制はもう終わりです。終わったも同然なのです。その後,この地を楽園の状態へと回復する業にあずかるすばらしい見込みがあります。復活が始まれば,聖書研究も行なわれます。本当に膨大な業が成し遂げられるのです」。ヴィーはこう付け加えます。「エホバに首尾よく対抗できるものは何もないということを知ると,喜ばしい気持ちになります」。「神の命の道」を支持する
1998年7月は胸の躍るような時でした。英国のエディンバラ,リーズ,マンチェスター,ウルバーハンプトン,ダドリー,ノリッジ,ロンドン,ブリストル,プリマスの9か所で,「神の命の道」という主題の国際大会が一斉に開かれたのです。60を超す国から代表者が出席しました。プログラム全体が,英語だけでなく,フランス語,スペイン語,パンジャブ語でも提供されました。次の週末にはギリシャ語の大会も開かれました。
統治体の成員4人 ― ジョン・バー,セオドア・ジャラズ,アルバート・D・シュローダー,ダニエル・シドリック ― が英国の大会に出席し,兄弟たちが話を行なう際には大会会場は電話回線でつながれました。さらに興奮を誘ったのは,現在外国で奉仕している宣教者たちが出席したことです。英国から宣教者として奉仕するよう派遣された人は何百人もいますが,これらの大会には110人が出席しました。彼らの熱意や自己犠牲の精神は,プログラムで宣教者たちのインタビューを聞いた人たちすべてを奮い立たせました。
出席者たちは,大会で見聞きした事柄を通して,心に深い感動を覚えました。幼い子どもたちも例外ではありません。大会の最後の部分で決議が採択されました。この決議は,出席者全員が歩むこと
を決意している敬虔な命の道について詳しく述べたものです。プログラム終了後,ダーリントンから来た証人の夫婦の4歳になる息子が,こう言いました。「ママ,ぼく本当にエホバが好きなんだ。ママもパパもとても好きだよ。だけど,エホバのほうがもっと好き」。理由を尋ねられると,エホバが楽園の希望を与えてくださったことや,ぼくたちのために死ぬようにみ子を遣わしてくださった,という点を挙げ,「だからエホバをもっと好きにならなくちゃいけないんだ」と言いました。プログラムの終わりに,エディンバラとロンドンでは,様々な国の代表者たちがハンカチを互いに振り合うと,突然拍手が沸き起こり,しばらく鳴りやみませんでした。プログラムが終了してからも,大勢が王国の歌を歌い続け,心からエホバを賛美しました。
なされてきた証言
英国では広範にわたる証言がなされてきました。それが始まったのは1881年,幾十万部もの聖書のパンフレットがわずか数週間で主要都市に配布された時のことでした。まかれた種の幾らかは,その後に実を生み出すようになりました。1914年の半年間に,「創造の写真劇」が98の都市で上映され,これを見た人は合計122万6,650人に上りました。第一次世界大戦が始まった時,英国には182の会衆がありました。1920年代と1930年代に会衆と交わる人たちが増加し,家から家の宣教に加わって家の人に個人的に証言を行なうようになると,証言は強化されました。第二次世界大戦以来,英国では,さらに6億5,074万6,716時間が宣教に費やされ,関心ある人たちに2億9,729万4,732件の再訪問が行なわれ,7,410万5,130冊の書籍や小冊子,5億6,747万1,431冊の雑誌が一般の人々に配布されました。平均すると,英国のエホバの証人は年に二,三度の割合で人々の家を訪問しています。
エホバの証人は戸別訪問による福音宣明でよく知られているため,ドアを開け,きちんとした身なりの人が立っているのを見る
と,家の人はたいてい間髪を入れず,「エホバの証人ですか」と尋ねます。地はエホバについての知識で満ちる
1891年に英国を視察したC・T・ラッセルは,そこが「収穫を待つばかりの」畑であることが分かりました。この事物の体制の終結の時期に行なわれている収穫は,明らかに,間もなく終わりを迎えます。しかも,何とすばらしい収穫なのでしょう。1900年当時,英国には聖書研究者(エホバの証人は当時,その名で知られていた)はわずか138人しかおらず,その大半が霊によって油そそがれたクリスチャンでした。今その数は910倍近くになっています。その当時,聖書研究者の用いる法的代理機関は,米国以外の場所で最初の支部を開設しようとしていました。現在,世界中に109の支部があります。アメリカ大陸には24の支部があります。ヨーロッパには25,アフリカ大陸には19,アジアと世界各地の島々には41の支部があります。590万人の証人たちはこれらの支部と協力して働き,エホバのみ名を大いなるものとし,イエス・キリストの手中にある神の王国の良いたよりを知らせる業にあずかっています。神が,もう十分であると言われるまで,証言し続ける決意を抱いています。
命を与える水はすでに,天のエホバ神とみ子イエス・キリストのみ座からふんだんに流れ出ています。「だれでも渇いている者は来なさい。だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」という招きの言葉が熱心に語られています。(啓 22:1,17)イエス・キリストの千年統治の期間中に死者がよみがえらされると,さらに幾十億もの人たちに,永遠の命を可能にする,この愛ある備えを活用できる機会が開かれるに違いありません。これまで行なわれてきた神の教育プログラムは,始まりに過ぎません。わたしたちの前途には,神の新しい事物の体制の下で,完全な意味において「水が海を覆っているように,地(が)必ずエホバについての知識で満ちる」時が待ち受けているのです。―イザ 11:9。
[86,87ページの地図/写真]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
イングランド
国中の便利な場所にある大会ホール: (1)マンチェスター,(2)ノース・ロンドン,(3)ダドリー,(4)サリー,(5)イースト・ペナイン,(6)ブリストル,(7)エッジウェア
[写真]
イースト・ペナイン
エッジウェア
サリー
マンチェスター
ブリストル
[66ページ,全面写真]
[70ページの写真]
トム・ハート
[72ページの写真]
協会の最初の支部事務所
[72ページの写真]
現在使用されている施設
[74,75ページの写真]
外国で奉仕するために移動した人たち:(1)クロード・グッドマン,(2)ロバート・ニズベット,(3)エドウィン・スキナー,(4)ジョン・クック,(5)エリック・クック,(6)ジョージ・フィリップス,(7)ジョージ・ニズベット。背景: 東アフリカに向かっている聖書文書頒布者たち
[79ページの写真]
フランチスカ・ハリスは,オーペアに特別の関心を示した
[90ページの写真]
コロンビアで奉仕しているベラ・ブル
[90ページの写真]
バリー・ラッシュバイとジャネット・ラッシュバイ ―『常々もっと多くのことをしたいと願っていた』
[92ページの写真]
ダドリー大会ホールで開かれた開拓奉仕学校
[95ページの写真]
朝の崇拝を行なっている英国のベテル家族
[96ページの写真]
英国の宣教訓練学校第1期生の卒業式
[102ページの写真]
英国初の王国会館速成建設(ノーサンプトンのウェストン・ファベル)
[107ページの写真]
マイケル・ハービーとジーン・ハービー
[108,109ページの写真]
外国語会衆で奉仕することにした開拓者たち
[116,117ページの写真]
1983年にレスターで開かれた年次総会で,長い経験を持つ人たちをインタビューするA・D・シュローダー
[123ページの写真]
沖合の区域で漁船に近づく,シェトランド諸島の開拓者たち
[131ページの写真]
ジョン・バーとミルドリッド・バー
[133ページの写真]
支部委員会(左から右へ)。座っている人たち: ピーター・エリス,ジョン・ウィン。立っている人たち: ベバン・バイゴー,スティーブン・ハーディー,ジョン・アンドルーズ,ロン・ドレイジ,ジャック・ダウソン,デニス・ダットン
[138,139ページの写真]
証しの業はまだ終了していない
[140,141ページの写真]
長年にわたる忠実な奉仕を回顧する幾組かの夫婦: (1)シドニー・アウラーとロビーナ・アウラー,(2)アンソニー・タバナーとミュリエル・タバナー,(3)リチャード・ギラムとアン・ギラム,(4)ジェフ・ヤングとヴィー・ヤング,(5)フレッド・ジェームズとローズ・ジェームズ,(6)コーネリアス・ホープとリキー・ホープ,(7)デニス・マシューズとメービス・マシューズ,(8)リチャード・ジェソップとヘイゼル・ジェソップ