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全世界の報告

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大群衆を収容するために建てる

1935年当時,エホバの証人は聖書から,神のお目的について次のことを理解しました。それは,現在の事物の体制が存続しているこの時期に,楽園の地でエホバに永遠に仕える見込みを持つ大群衆を集めるということです。(啓 7:9,10)その同じ年に,ハワイの証人たちの集会場の一つが初めて王国会館と呼ばれるようになりました。現在,そうした幾万もの王国会館が,聖書の心温まる約束や聖書の義の規準を受け入れた人々で満ちあふれています。

王国会館で開かれる集会に定期的に出席している人は,幾百万人にも上ります。毎年,幾十万もの人々がバプテスマを受けているため,さらに多くの王国会館が緊急に必要とされています。1998年に行なわれたある調査から,40の発展途上国で,さらに約8,000もの王国会館が緊急に必要とされているということが分かりました。昨年1年間,この必要を満たすために何が成し遂げられてきたでしょうか。

地区王国会館事務所が,南アフリカ,オーストラリア,ドイツといった主要な場所で設立されました。それらの場所を基点としてプロジェクト監督たちが,東西アフリカ,アジア太平洋地域,東ヨーロッパにおける王国会館建設計画の組織を援助し始めています。これまでに77人のインターナショナル・サーバントが,アフリカの21か国,東ヨーロッパの7か国,アジア太平洋地域の4か国で,この業を援助してきました。中南米の二つの国も援助を受けました。可能な場所では,全時間の王国会館建設グループを設立する努力が払われてきました。地元の建築方法や資材をできる限り用い,地元の兄弟たちが建設に参加するよう励まされました。しかしまず最初に,一人か二人のインターナショナル・サーバントが率先してこれらの人たちに必要な訓練を与えるでしょう。集会場所を緊急に必要としているものの,地元の兄弟たちにとって建築資材の購入が経済的にまず不可能な場合,この点でも国際的な兄弟仲間が援助を差し伸べようとしています。

ガーナの兄弟たちは王国会館建設プロジェクトを簡素化するよう援助を受けると,最近の数年間の王国会館建設の平均が4軒だったのに対し,昨年は13軒建設することができました。ブルンジでは国際的な援助が得られたことによって,わずか数か月で11の王国会館を建設できました。ブルンジのジテガにある王国会館は,ある丘に建てられた最初の建物でした。今ではこの地域の住民の多くはその丘について語る際,地元の習慣に従って,その丘をエホバの山と呼んでいます。

リベリアは,奉仕者の数が1998年に40%,1999年には19%増加しました。幾年も続いた内戦が終わると,大半の会衆は王国会館を必要としていました。それでも,大多数の兄弟たちは,失業をはじめとする深刻な経済難に見舞われています。必要な王国会館を建設できるよう,他の国々の兄弟たちから経済的な援助が差し伸べられたことを,兄弟たちは本当に感謝しています。また,建設の業を組織するのを助けるためにやって来た,5人のインターナショナル・サーバントにも感謝しています。

ナイジェリアでは,王国会館をさらに1,800あまり必要としています。ナイジェリアのアベオクタで,近くの教会の指導者は,建設奉仕に携わる地元の証人たちが示している一致と熱心さに動かされ,自発的に援助を申し出ました。現在,彼女は自分も建設の手助けをした王国会館を使用している会衆と共にエホバに仕えています。トーゴでは,ある村で王国会館を建てようとした際,厳しい反対があったため,兄弟たちは他の場所に計画を移しました。ところが反対者たちは,本当に魅力的な王国会館が建設されたのを見て,問題の場所にもう一つ会館を建設してもらえないだろうか,と言ってきました。

スリランカでは,個人の家や,屋根がココナツの葉でふいてある一時しのぎの小さな建物,また裏庭に設けられた日よけの下などで会衆の集会を開いてきました。兄弟たちは,崇拝のためのもっとふさわしい品位のある建物が得られるようになって,本当に喜んでいます。スリランカでは,13の王国会館プロジェクトが進行中です。さらに20が計画段階にあり,次の5年間に50のプロジェクトが計画されています。

快適な王国会館があると,人々は,エホバが与えておられる教育から益を受けるためにもっと気軽に集まるようになります。ですから,ペルーのリマ郊外に新しい大きな王国会館が建てられると,その会館を使用している三つの会衆はそれぞれ出席者が増加しました。そして一年足らずのうちに,75人の新しい奉仕者が野外奉仕に参加し始めました。

大勢の奉仕者がいる大都市では,地所を効果的に用いるために二つ以上の王国会館のある建物が建設されています。5月29日と30日の週末に,ルーマニアでそうした複数の王国会館のある建物が三つ献堂されました。クルジュナポカの一つの建物は,四つの王国会館があり,別のものは二つの王国会館があります。翌日,ティルグムレシュでは七つの王国会館のある建物が献堂されました。

大会ホールを備える

もっと規模の大きな集まりのために,多くの国では大会ホールが建設されています。エストニアでは1年間に,王国会館 兼 大会ホールの建物が二つ献堂されました。それぞれの建物には,三つの別個の王国会館があり,それをつなぎ合わせると大きな大会ホールになります。ポーランドにおける1999奉仕年度の際立った出来事は,一つの週末に三つの大会ホールが献堂されたことです。統治体の二人の成員セオドア・ジャラズとダニエル・シドリックがこの特別な集いに参加し,それぞれのホールで励みとなる話を行ないました。それらのホールのうちソスノウィエツ市の一番大きいホールに隣接して,6,400人収容の野外講堂が建てられ,7月にはここで五つの地域大会が開かれました。

現在98万419人の王国伝道者がいる米国では,昨年四つの大会ホールが献堂され,大会ホールは合計40になりました。52万8,034人の奉仕者がいるブラジルでも,17番目の大会ホールが献堂されました。この大会ホールは,二つのホールから成る1万人収容の施設で,サンパウロから車で1時間ほどの所にあります。昨年ナイジェリアで,さらに二つの,壁のない大会ホールが献堂されました。一つはオタで,もう一つはイバダンですが,これらのホールは,それぞれ1万人と5,000人を収容することができます。

世界的な聖書教育プログラムを支援するために,他の施設も備えられています。

ものみの塔教育センター

現在28棟の建物群から成る,米国ニューヨーク州パタソンのものみの塔教育センターを建設するために,最初の必要な法的手続きが取られたのは1986年のことです。1989年,ついに建設を始めることができるようになりました。1994年には,エホバの証人の教育活動と関連するさまざまな事務所が,これらの建物を使用し始めました。1995年には,ギレアデ学校がこの施設に移されました。支部委員や旅行する監督の学校もそこで開かれています。ついに1999年には,献堂式のプログラムが行なわれました。(献堂式に関する報告は,「ものみの塔」誌,1999年11月15日号に掲載されています。)毎年,幾万人ものエホバの証人や関心ある人たちが,これらの施設を見学しています。見学者たちは,自分たちの自発的な寄付や,進んで行なう兄弟姉妹たちの一致した努力,そしてとりわけエホバの祝福によってどんな事柄が成し遂げられたかを目にすることができ歓んでいます。

必要とされていた支部施設

多くの国でエホバの賛美者の数が増加したため,新しい支部事務所も必要になりました。世界本部ばかりでなく,そうした支部事務所の奉仕者もベテル家族の成員で構成されています。

ボリビア: 際立った神権的拡大のため,1999年3月20日にボリビアのサンタクルスで新しい支部施設が献堂されました。ボリビアの王国宣明者数は,以前の支部が献堂された1968年の714人から,1万5,388人という最高数を記録し,1999年の記念式には5万3,312人が出席しました。

ボリビアの熱帯低地に位置する新しい支部事務所全体は,地元の労働力 ― その大部分は証人たちの自発奉仕 ― と,地元で入手できる趣味のよい材料で建てられました。冷房がなくともかなり涼しくて,樹木が茂った土地にとてもよく溶け込むデザインの建物となりました。これらの施設は,統治体の成員ゲリト・レッシュの訪問中,国内で最初の大会ホールと共にエホバに献堂されました。何千人ものボリビアの証人たちと11の国から来た訪問者たちが,この喜びに満ちた集いに出席しました。その中には,54年にわたるボリビアの宣教者奉仕の歴史のいずれかの時点において,そこで奉仕したことのある元宣教者たちも含まれていました。

モザンビーク: 「エホバは大いなる方。……大いに賛美されるべき方」。(詩 48:1)この言葉は,モザンビークのエホバの証人の間で好んで使われています。1998年12月19日に,インド洋に近いマプトで新しい支部施設が献堂された時にも,この言葉がよく聞かれました。数年前には考えられないようなことです。エホバの証人は,1991年に至るまで20年あまり政府の禁令下にあったのです。その年,証人たちの数はちょうど6,000人を超えたところでした。1998年の終わりには,2万9,514人の伝道者の最高数が報告されました。新しい支部施設が必要でした。

モザンビークの兄弟たちはほとんどこうした建設工事の経験がないのに,支部はどのようにして建ったのでしょうか。大勢のインターナショナル・サーバントやインターナショナル・ボランティアが援助を差し伸べ,地元の証人たちに実地訓練を施したのです。献堂式には15の国からのゲストが出席し,その同じ週末には,26㌔離れたマトラにおいてモザンビークで最初の大会ホールも献堂されました。確かにエホバは偉大な方です。神の愛ある気遣いがなければ,モザンビークに住む僕たちは,こうした歴史的な出来事を決して目にすることができなかったでしょう。

ニューカレドニア: 1998年10月24日,新しい支部事務所と大会ホールがニューカレドニアで献堂されました。支部の施設は3倍以上に拡張されたことになります。三つの翻訳チームがニューカレドニアや周囲の属島の必要のためにここで働いています。

献堂式は,喜びに満ちた多彩な集いになりました。プログラムの呼び物は,視聴覚に訴える,建設プロジェクトのハイライトに関する展示でした。ニューカレドニアのエホバの証人にとって特にうれしかったのは,統治体の成員ロイド・バリーが出席して献堂式の話を行なったことです。

セネガル: 1951年に最初のエホバの証人がセネガルへ来て以来,この支部の区域に住む幾百万もの人々に音信を伝えるため,多大な努力が払われてきました。18の国から来た194人の宣教者がセネガルで奉仕しました。人口の90%以上がキリスト教徒ではないこの区域で,幾百人もの人たちが宣教者の援助によってエホバに仕えるようになっています。

ダカール郊外のケープ・アルマディアスにある新しい支部の建設には,その地域の大半の人たちにとって目新しい建築方法が採用されました。クレーンが,前もって型枠で作られた大きなパネルを所定の位置に持ち上げるたびに,見ていた人たちは拍手をしたり歓声を上げたりしていました。すべてが文句の付けようがないほど,正確で,まっすぐに出来上がっていました。1999年6月19日に,アフリカ大陸の最西端で行なわれた献堂式のプログラムの結びに際して出席者全員は,「エホバよ,わたしたちは感謝します」という歌に心から加わりました。

アフリカ

アフリカにおける現代のエホバの証人の歴史は,1880年代の初期にまでさかのぼります。この大陸で徹底的に宣べ伝える業が公に始まったのは,1920年代のことでした。昨年,アフリカ全土で,「神の壮大な事柄」について隣人や他の人に伝える業にあずかったエホバの証人の数は,83万人余りの最高数に達しました。―使徒 2:11

多くの若い人が自分たちの学校を証言のための区域としているのを見るのは大変励みになります。モザンビークのドルカスという若い姉妹は,クラスメートはもとより,自分の学校の校長先生をはじめ,他の先生全員に証言することを個人的な目標にしてきました。現在,ドルカスは聖書研究を8件司会しており,その聖書研究生のうちの6人は集会に定期的に出席しています。ほかの3人の研究生は進歩してバプテスマを受け,その後,資格を得て正規開拓者になりました。ドルカスの学校の先生のうちの4人は,色々な時にドルカスの招きに応じて会衆の集会に出席しています。今では,ドルカスの父親がそのうちの一人の先生と研究を行なっています。5年前,ドルカスが別の学校に進学しようとしていた際に証言した,もう一人の先生は,彼女の粘り強い努力にこたえ応じて,真の崇拝にあずかることを目指してドルカスと共に聖書を研究することに同意しました。

1995年以来,ナイジェリアでは推定500万人の聴力障害者にいっそう注意が向けられてきました。地域大会の話が手話に通訳されるのを見た健聴者の伝道者たちで,手話を学びたいと思った人は少なくありませんでした。1年と少しの間に,61の会衆の伝道者や開拓者たち216人が,聖書研究を司会したり集会で通訳できるほど手話をよく勉強しました。現在,80余りの会衆の集会で,ろう者のために手話通訳が行なわれています。

コートジボワールに住むフローレンスという若い女性は,修道女になることを決意しました。しかし,何の説明もなく奥義とされている教えに失望し,またある司祭から再三言い寄られてあきれてしまい,修道院を去りました。後日,ブルキナファソに住んでいたころ,戸別訪問による宣教に携わっていたエホバの証人と出会い,「求め」のブロシュアーや「知識」の本で研究をした結果,すぐにエホバの幸福な僕の一人になりました。

中央アフリカ共和国のバンギでは,戦争で疲弊したコンゴ民主共和国を去り,川を渡って逃れざるを得なかったエホバの証人のために,昨年は二度,王国会館や個人の家が開放されました。7月には,200人以上の兄弟姉妹とその家族や他の人々が国境を越えてバンギに逃れなければなりませんでした。難民の大半は港のそばの戸外に集まったままにされていましたが,わたしたちの兄弟たちは身体的にも霊的にもよく世話されていました。兄弟たちのためにリンガラ語の集会が2か所の王国会館で行なわれ,毎週五つの集会がすべて行なわれました。このすべてを見ていた地元の一当局者はこう言いました。「皆さんはこうした気の毒な人々を収容するために自分たちの会館を開放して素晴らしいことを行ないました。皆さんはその点で称賛に値します」。王国会館のそばを通りかかった別の男性は,ある宣教者を呼び止めてこう言いました。「皆さんはご自分の説いていることに従って行動しておられます。ご多幸を祈ります。そのことで,神が皆さんを祝福してくださいますように」。

ガーナに住む,バプテスマを受けていないある伝道者が,何年か前に入院した際,かなり具合が悪かったのに病院内でベッドからベッドへと患者に証言しました。この女性の話すことを喜んで聞いた人もいれば,聞こうとしなかった人もいました。ある婦人は話に耳を傾けましたが,これといった反応はありませんでした。それから何年かたった後,現在,特別開拓者になっているかつての伝道者は,「神の命の道」地域大会の一つに出席した際,見覚えのある女性に会いました。その人が前述の婦人であることを知った開拓者は,「どうしてここに来たのですか」と尋ねました。すると,婦人は言いました。「エホバは偉大な方です。いつかもう一度あなたにお会いして,あの病院で私の心に植えてくださった王国の真理のことでお礼を述べられたらといつも考えていました。あの時は具合が悪くて返事もできませんでしたが,『「わたしは病気だ」と言う居住者はいない』,神の王国の支配下のパラダイスでの生活について,あなたが話されたことを思い出して考えずにはいられませんでした。それで退院するとすぐ,エホバの証人を探し,さらに多くのことを教えてもらいました。その後まもなく転勤した私は,転勤先でエホバの証人を探し,聖書研究を続けました。その結果,私は明日,この大会でバプテスマを受けることになったのです」。この二人の女性は抱き合い,うれし涙を流しました。病院で行なったその証言は,確かに良い実を結びました。

マリに住むある女性は,魔術の影響で身体障害者になって13年間過ごした後,エホバの証人と接するようになりました。その女性は両手と両ひざを使ってはうようにして,どうにか動き回ることができました。聖書研究が始まり,その女性を援助していた姉妹は,会衆の集会について話しましたが,身体障害の程度から見て,王国会館に行くことはとても望めないと思いました。ところが,真理は女性の心を動かしたのです。その女性が王国会館の前で,集会が始まるのを待っているのを見た兄弟姉妹が,どんなに驚いたか想像してみてください。集会後,車を持っているある兄弟が女性を家に送り届けるよう取り計らいました。研究が進み,エホバに対する信仰が深まるにつれて,その女性は邪悪な霊に捕らわれた状態から解放されました。そして,徐々に両脚をもう一度使えるようになり,6か月後に,何と再び歩けるようになったのです。今,この女性はバプテスマを受けたエホバの僕です。

ウガンダのある正規開拓者は新しい職場で,2日目の昼休みに,一人の同僚とこのように会話を始めました。「やあ,同僚全員の名前を知るのはなかなか難しいことですね」。すると,その同僚は言いました。「いや,心配しないでください。じきに分かりますよ。僕はウィリアムといいます」。開拓者はこう答えました。「こうして自己紹介してくださり,ご親切を感謝いたします。それにしても,他の人々の名前を知るのは世界的な問題だと思います」。すると,ウィリアムはこう尋ねました。「それはどういう意味ですか」。それで,開拓者はこう続けました。「例えば,宇宙とすべての生き物の創造者のみ名を知っているかと問われたなら,すぐに答えられるでしょうか」。こうして,神のみ名について話し合った結果,翌日,聖書研究が始まりました。ウィリアムは開拓者を自宅に招いて家族で話し合いました。今,その家族のうちの5人はバプテスマを受けた証人です。その開拓者は記念式の前に,事務室を次々に訪ねて,その大切な行事に出席するよう同僚たちを招待しました。40人もの人々が出席するのを見るのは本当に大きな喜びでした。

アフリカでは色々の国で戦争が行なわれているため,多くの人が苦しんできました。家を捨てて逃げなければならないこともしばしばありました。しかし,エホバの証人はたとえ難民になっても,良いたよりを宣べ伝える業を続けます。西アフリカのギニア-ビサウの首都に住む多くの兄弟姉妹は,約240㌔離れたブーバという町に逃げました。その町には一人の兄弟とその妻が住んでいるだけで,会衆はありませんでした。しかし,首都から証人たちが到着して間もなく,集会が組織され,証言の業も進展しました。ほどなくして,40人ほどの人が集会に出席し,聖書研究が70件司会されるようになりました。

ブルンジのギテラニ会衆の30人の伝道者は約160㌔の道のりを歩いて,カヤンザで催された巡回大会に出席しました。その旅行は3日かかりました。自転車を持っていた人たちはほかの人を乗せて遠い地点に運び,後から歩いて来る人たちを乗せるために引き返し,それらの人をもう少し先の遠い地点に運ぶというふうにしたのです。ヌゼイマナ・ジーンの家族は,妻と姑,それにポリオのため杖を使っている子どもを含め,7人の子どもたち全員がその旅行を終え,皆,大きな喜びを抱いて大会会場に到着しました。

南北アメリカ

18世紀当時,入手できた全訳聖書は,英語,フランス語,スペイン語,およびポルトガル語の聖書で,南北アメリカで最も広く用いられていたのはそれらの言語でした。19世紀後半には,後にエホバの証人として知られるようになった人々が聖書教育の計画に着手し,1935年にはその計画が南北アメリカのほとんどの国に浸透していました。現在,これらの国には合計276万9,625人の熱心な証人たちがいます。

場所によっては気候が非常に寒くなりますが,良いたよりを宣べ伝える業は続けられています。アラスカのノースポール会衆の一長老からの知らせによると,気温が零下37度になっても戸別訪問の業は続けられ,気温が零下48度に下がっても集会は行なわれます。こうした条件のもとで奉仕するには忍耐が求められます。

大都市の区域の中にはビルの多い場所があり,そこでは犯罪に対する恐怖心のため,家の人が伝道者と面と向かって話をすることはめったにありません。アルゼンチンのそうしたビルで証言をしていたある伝道者が,インターホン越しに一婦人と話をしたところ,その婦人は注意深く話に耳を傾けました。その話し合いを別の機会に続ける取り決めが設けられ,面と向かって話すことなく何度も再訪問が行なわれました。それでも,興味深い話し合いが続き,インターホン越しに色々な聖句が読まれました。4か月後にようやく,婦人は自分のアパートに伝道者を招き入れ,聖書研究が始まりました。伝道者の粘り強い努力は報われました。

米国には1万7,000余りの老人ホームがあり,何十万人もの高齢者が入居しています。どうしたら,それらの高齢者に良いたよりを伝えられるのでしょうか。そうした施設の活動責任者と交渉して,入居者の霊的な必要を満たす面で自発的に援助できることを申し出て成果を収めている会衆もあります。ある場合,会衆の自発奉仕者が,参加したい方ならだれとでも聖書研究を毎週無償で司会できると伝えたところ,その申し出は快く受け入れられました。そして,職員や家族の人たち,それに他の訪問者やボランティアもしばしば研究に参加しました。その活動責任者はこう書いています。「この研究サークルは霊的な支援を行なっており,当ホームの入居者の福祉を促進しています。同サークルの人たちは聖書研究をたいへん喜んでおります」。その女性の責任者は,同サークルの活動が高齢者にたいへん良い精神的刺激を与えていることを高く評価していました。老人ホームに来て以来,口をきいたことのないある高齢の婦人が,研究中に注解をするようになったことは,職員にとって大きな喜びでした。このホームの他のどんなサークル活動にも決して加わらなかったある高齢の男性は,聖書研究に熱心に参加しました。

チリに住む一姉妹は,ある共同墓地で証言をしていた際,事故で12歳の息子を亡くした女性と話をしました。悲嘆に暮れていたその母親は,息子の墓を1日に2回訪れていました。証人がこの母親に復活の希望を伝えたところ,聖書研究が始まりました。その女性は,やはり若い息子を亡くして毎日息子の墓を訪れていた近所の婦人に話をしたところ,その婦人も研究を始めました。この婦人の母親は共同墓地を訪れていた折,亡くなった孫のために追悼の祈りをささげてもらいたいと司祭に頼みましたが,司祭から不快な返事を受けたため,教会に通うのをやめて,聖書を研究するようになりました。今,これら3人の婦人は新たに見いだした希望をその共同墓地で他の人々に伝えています。

たとえ個人的な能力に限界があっても,真理を学ぶようだれかを助ける面で,あなたもエホバに用いていただきたいと思われるのではないでしょうか。コスタリカに住むある宣教者の姉妹もそう思いました。姉妹はまだスペイン語で意思の疎通を十分図れませんでしたが,それでもアンナという敬虔なカトリック教徒の女性と聖書研究を始めました。聖書と共に,「神はわたしたちに何を求めていますか」というブロシュアーが用いられました。アンナは視力が弱かったので,本文の各節や聖句が読まれるのをじっと聴き,それから読まれた事柄について注解を述べました。ある週のこと,アンナはその宣教者の姉妹に励みとなる次のようなことを述べました。「わたしは意思の疎通を完全に図れなくても気になりません。これまで話し合ってきた事柄の多くは,カトリック教会が教えている事柄とは違います。もし完ぺきな言い回しで,長々しい説明を受けていたとしたら,信じられなかったのではないかと思います。しかし,あなたはそれらの事柄を直接聖書から示してくださるので,それは本当に聖書の教えだということが分かるのです」。

ニカラグアの証人たちは特定の号の「目ざめよ!」誌を学校の先生に届ける特別な努力を払ってきました。「今日の若者にはどんな希望があるか」という表題の雑誌は,典型的な特集号の一例です。こうした情報がどれほど価値があるかは明らかです。ある都市では,一人の女の先生が異議を唱えたものの,別の学校の校長先生は全校生徒に話をしてもらいたいと証人たちに頼みました。それで,1時間半のシンポジウムが行なわれ,多くの生徒が文書を求めました。その後,前に異議を唱えた先生が,今度は自分が校長を務めている学校でもその話をしてもらいたいと申し出たので,証人たちはそれに応じました。その先生は聖書研究をするようになり,今では証人たちに毎月話をしてもらいたいと考えています。

ユーラシア

ユーラシアとは,ヨーロッパとアジアを一つの大陸として呼ぶ際の名称です。エホバが初めてアブラハムに良いたよりを宣明したのはこの土地でした。(ガラ 3:8)また,イエス・キリストが現代にまで及ぶ福音宣明の業の基礎を据えたのもこの土地です。(マタ 28:19,20)エホバの証人は,ユーラシアの80か国近い国々すべてにおいて人々に良いたよりを伝えるよう努力しています。ものみの塔協会は聖書文書を幾百もの言語で印刷していましたが,地球上のこの地域の1億7,000万に上る,さらに大勢の人に良いたよりを伝えるため,1995年からは新たに36の言語による印刷も行なうようになりました。その中には,パンジャブ語(ナスタリーク),ウズベク語,カザフ語,タジク語,アゼルバイジャン語,モンゴル語も含まれています。

1999年中,コソボでは問題がいっそう深刻化しました。アルバニア系住民は80万人近くが難民となって近隣の国々へ逃れました。そのうちのほぼ50万人はアルバニアに避難しました。その中には,14人のエホバの証人とその子どもたち8人が含まれていました。アルバニアに住む証人たちはその兄弟たちに自宅を開放して,困難きわまりない時期を切り抜けることができるよう助けました。民族紛争が激化するにつれて,コソボの兄弟たちが何を優先しているかがいっそう明確になりました。兄弟たちはセルビア人の兄弟たちの無事を確認したいと思いました。一方,セルビア人の兄弟たちはアルバニア系の兄弟たちの無事を確認するため,兄弟たちと連絡を取ろうと特別の努力を払っていたのです。あからさまな民族的憎しみの中にあって,それとは対照的な,なんと素晴らしい愛が示されたのでしょう。4か月が経過し,コソボの兄弟たちはぜひ家に帰りたいと思うようになりました。兄弟たちが関心を持っていたのは物質的な物を多く持ち帰ることではありませんでした。むしろ兄弟たちが欲しいと言ったのは,神の王国の慰めとなる音信を他の人々に伝える際に用いる文書が箱詰めされたものでした。

ベルギーに住む証人がインターホン越しに話をしたところ,相手の女性から,今はそのようなことについて話す気になれないという率直な言葉が返ってきました。姉妹は,後日お電話いたします,と言いました。数日して本当に電話をもらった女性は驚いていました。その人が言うには,引っ越さなければならなくなっており,福祉事務所に頼んで別の部屋を探してもらっているということでした。もう一度電話で会話できましたが,その後は連絡が途絶えてしまいました。そこで姉妹は女性あての手紙を書いて福祉事務所に送ることにしました。福祉事務所はその手紙を女性のファイルに入れておいてくれました。二,三週間後,手紙がようやく女性の元に届き,再び連絡を取れるようになりました。ちょうどそのころ「わたしたちの王国宣教」には,「研究を始めるために皆で力を合わせ,その努力を祝福してくださるようエホバに祈り求めるなら,新しい研究を見いだせるに違いありません」とありました。姉妹がエホバに熱烈な祈りをささげてから電話をかけ,ぜひご一緒に聖書を勉強したいと言うと,女性は研究に応じました。現在,この女性は夫婦で会衆の集会に出席し,自分が学んでいる良い事柄を家族や友人に話しています。

ある雨の日,一時的な特別開拓者の姉妹とそのパートナーは,証言がほとんど行なわれていない,マレーシアのある町で店主たちと話をしていました。激しい雨のやむのを近くで待っていた一人の中学生が開拓者たちに近づき,開拓者たちの提供している文書が欲しいと言いました。開拓者たちは無料の家庭聖書研究ができることについて説明し,自分たちの滞在場所を教えました。1週間ほどして,その少女から電話がかかってきました。入手した文書を全部読んでしまい,さらに文書が欲しかったのです。聖書研究が始まりました。少女は読書欲が旺盛で,訪問するとほとんど毎回のように,別の出版物を持ってきて欲しいと言いました。出版物の中に載っている文書をもらいたいと言って,ときどき夜遅くに電話をかけてくることもありました。開拓者たちがその町にいたのは一時的だったので,少女との研究は直接に,あるいは手紙によって行なわれました。少女は2か月足らずで「知識」の本を学び終え,友人に,またバスの中で宣べ伝えるようになっていました。少女は良い進歩を遂げ,現在ではバプテスマを受けていない伝道者となっており,バプテスマを受ける資格を得ることを強く願っています。

イタリアの一人の証人は,近所に引っ越してきた女性と親しくなりました。その女性は夫に勤め口の当てがあったので,ドイツからイタリアに戻ってきた人でした。ところが,夫は仕事に就くことができず,仕事を見つけるため,家族をイタリアに残して再び外国に出かけました。証人である夫婦は,女性が夫の留守を守っている間,買い物を手伝い,その家の息子を学校に連れて行き,女性と子どもたちを何度か食事に招き,大いに必要とされていた精神的支えを与えました。女性は証人たちに,これほどまでにしてくださるのはどうしてですかと尋ねました。どのような返事が返ってきたでしょうか。「わたしたちはエホバの証人で,隣人を愛しているからです」という答えでした。その女性は,これまで証人の話を聞く時間が全くなかったけれど,証人たちが何を信じているのか今では知りたいと思う,と言いました。女性と定期的に聖書研究が行なわれ,女性は会衆の集会にも出席するようになりました。やがて夫が家に帰ってきました。証人たちは夫にも聖書研究を勧めましたが,気持ちが落ち着かないからと言って断わられました。仕事が見つからないという問題をまたもや抱えていたのです。その家族がイタリアの別の場所に移る時,証人の夫婦は引っ越し先の王国会館の住所を調べて,王国会館に行くよう女性を励ましました。ところが,その女性はとても内気だったので王国会館には行きませんでした。それでも,姉妹は毎週女性に電話をかけ,女性がエホバへの関心を失わないよう助けました。ちょうどそんな時,女性は2人の証人たちが街路伝道をしているのを見つけて,聖書研究をしたいと申し出たのです。女性は集会にも出席するようになりました。そのころに夫も仕事が見つかり,自分も研究したいと申し出ました。今では夫婦共,献身しバプテスマを受けたクリスチャンとなっています。上の2人の子どもたちもバプテスマを受けており,3番目の子どもはバプテスマを受けていない伝道者です。

ルクセンブルクに住む一人の開拓者の姉妹は,区域の人々すべてに証言することに鋭い関心を抱いていました。1軒の家はブラインドがいつも閉まっていて,人がだれもいませんでした。ところが,ある日,娘を学校へ迎えに行く途中,いつも留守のその家の前に車が1台止まっているのに気づきました。確かに,姉妹はそのとき野外奉仕に行こうとしていたのではありませんでしたが,格好の機会をみすみす逃したいとは思いませんでした。ベルを鳴らすと,男の人が出てきて,聖書にはあまり関心がないが,イエス・キリストについてはもっと知りたいと思う,と言いました。姉妹は「これまでに生存した最も偉大な人」の本を配布しました。姉妹が夫と共に何回か再訪問すると,研究が始まりました。もっとも,最初その人は,予定がぎっしり詰まっているので,3週間に1度だけなら研究してもよいと言いました。しかし人生に対して徐々に新しい見方を持つようになりました。神のご意志を学んでそれを行なうため,もっと多くの時間を割く必要のあることが分かったのです。この男性は,週4日,晩の時間を卓球に充てていましたが,卓球に熱中するのをやめました。クリスチャンの中立の問題のことをはっきり理解すると仕事を辞め,収入がそれまでの半分にも満たない仕事に就きました。そのように変化することについて,この男性はどう感じていたでしょうか。こう述べています。「変化したことをうれしく思います。なんと言っても,わたしは生活を聖書の原則に調和させたいと心から願っていたのです。真理において引き続き進歩していったので妨げとなるものがなくなり,バプテスマを受けていない伝道者となれましたし,5か月後には水のバプテスマによってエホバへの献身を表わすことができました」。この男性は,開拓者の姉妹が宣教奉仕を徹底的に行なってくれたことを大いに感謝しています。

地球上の島々

エホバは,島々に住む人々を含め全地の人に対して,ご自分が王であることを歓べと言っておられます。(詩 97:1)西暦33年のペンテコステの時にはすでにクレタ島の人々も,この勧めを受け入れた人々の中に含まれていました。20世紀においては,地球上の島々に住む幾十万もの人々がこの勧めに応じてきました。フィリピン諸島では,13万2,496人がエホバの王権の栄光について他の人々に語っています。日本列島では,22万2,857人がこの楽しい奉仕に携わっています。住民がごく少ない島でも,神の王国の良いたよりを歓ぶ機会はあります。

サモアに住む若い開拓者の兄弟は,親切な行ないをした結果,エホバの証人に対する偏見に打ち勝つことができました。この兄弟が地元の病院の外来診察を受けに行くと,番号を告げられて,診察の順番を待つようにと言われました。しかし,兄弟の番号が呼ばれた時,隣に座っていた年配の女性が,順番を待っている人の中で最も具合が悪そうでした。そこで兄弟は親切にも,その女性と順番を入れ替わってもよいかと看護婦に尋ねました。看護婦は驚きながらも,いいですよと言ってくれました。兄弟が再び呼ばれた時には,自分の村の首長(マタイ)の一人がやって来て隣に座っていました。この人のほうが自分より具合が悪かったので,兄弟はまた順番を替わって,すぐに診察を受けられるようにしてあげました。後日,兄弟は例の年配の女性に,今度は市場で会いました。女性は兄弟に会えたことをとても喜び,あなたはエホバの証人ですかと尋ねました。そうです,という返事を聞くと,その女性は,自分はこれまでエホバの証人の訪問を受けても話を聞こうとしなかったが,今では,あなたがたが隣人を本当に愛していることが分かる,と言いました。女性の住所が分かり,定期的な聖書研究が始まりました。村の首長はどうなったでしょう。首長が兄弟の父親に語ったところによると,それまでは証人に敬意を持っていなかったが,今は家に来てくれるのを歓迎している,ということです。首長は記念式にやって来てこう言いました。「嫌いだったものが好きになることもあります」。

ビジネス街で聖書研究を取り決めようとすることは実際的でしょうか。実際的な場合もあります。キプロスの一人の特別開拓者は,あるビジネスマンに定期的に雑誌を届けていました。この男性が雑誌に対する感謝の気持ちを述べると,開拓者は一緒に聖書研究ができることを伝え,実際に「求め」のブロシュアーを使って研究の方法を説明しました。現在,男性の仕事場で研究が行なわれています。しかし,開拓者は状況を考慮し,毎回の研究を10分から15分にとどめています。

グアドループで特に力を入れているのは街路伝道です。人口に対する伝道者の比率が55対1という状況で,街路伝道は本当に必要でしょうか。人々の間では,家にいる時は衛星放送やケーブルテレビに夢中になるという傾向がますます強まっています。外に出ている時に良いたよりを聴いてもらうほうが容易なのです。ある巡回監督の報告によると,サンマルタン島で街路伝道を行なった伝道者15人のグループは,パンフレットに加え,雑誌250冊を2時間ほどで配布しました。もちろん,文書を快く受け取っても忙しくて話せないという人もいます。しかし,生活の諸事情によって霊的な食欲が刺激されると,物事の優先順位が変わることもあります。例えば,レ・アビム市に住む一人の女性は,父親を亡くしてからさまざまな疑問を抱くようになりました。毎日でも研究したいと言い,最初は「求め」のブロシュアーで,その後は「知識」の本で研究しています。「論じる」の本を調べて,参照聖句を紙に書き出すことさえしています。この女性は,「自分用に聖書の写しを作ったイスラエルの王のような」気分ですと述べ,結論としてこう語っています。「いわゆるキリスト教の宗派で聖書を持っていない宗派はない」ことでしょう。「でも,聖書に書かれていることを実践しているのは,エホバの証人だけです」。

日本に住むハツ子はひとり親で,二人の子どもを育てています。家族を養うために二つの仕事を持っています。エホバや,人類に対するエホバの愛ある目的について他の人に語る時間をどのように見いだしているのでしょうか。どちらの職場も自転車で通勤するのに20分ほどかかります。それでハツ子はその時間を利用して毎日証言することにしました。道行く人や,自動販売機で何かを買っている人,宅配便の人や工事をしている人など,会う人に話しかけます。内気で人と話すのが苦手でしたから,最初は必死の思いで話しかけていました。しかし,自分で多くを語る代わりに雑誌そのものに語らせればよいと考えました。また祈ってから出かけることにより,だんだんと楽に声をかけることができるようになりました。過去2年間このような方法で奉仕を続け,今では雑誌を毎月200冊から300冊配布しており,その中には街路での雑誌経路で定期的に配布する雑誌も含まれています。

「エホバの証人 ― その名前の背後にある組織」というビデオは,エホバの用いておられる組織に対する人々の認識を高めるうえで強力な道具となっています。オーストラリアでのこと,5年前から協会の雑誌その他の文書を受け取っていた女性がいました。ある週に証人が,このビデオを見てくださいと言って置いていきました。次に訪問を受けた時,女性は証人を家に招き入れました。ビデオを見て,感動のあまり泣いてしまったということです。この女性は家に来る証人たちを信頼していましたが,今度はエホバの証人の組織も信頼できると感じていました。その日,「知識」の本による正式な研究が始まり,翌週,女性は王国会館で開かれる集会に出席しました。

人々はだれにアドバイスを求めているでしょうか。新聞や雑誌のコラムニストに求めることがあります。ニューカレドニアのある開拓者は,一般の雑誌で取り上げられたそのような相談事に対する適切な答えが「目ざめよ!」誌に載っていることに気がつきました。そこで姉妹は投書した人にあてて手紙を書き,雑誌社に転送を依頼しました。手紙には,その問題に関する有益な情報があることを記しました。さらに,記事の主題と副見出しの幾つかを挙げ,二,三の文をよく吟味して引用し,その資料を差し上げることができる旨を記しました。すぐに返事がきたので,雑誌を送り,こうしてさらに霊的な援助を行なう道が開かれました。

アイルランドの伝道者は区域で,アフリカや東ヨーロッパや東洋からやって来た人々に出会います。ベルファストの一会衆は,北京<ペキン>官話(標準中国語)による公開講演と「ものみの塔」研究の集会を取り決めました。関心を持つ人々がこの集会に22人出席しました。このような結果が得られたのは,一組の宣教者の夫婦が,ベルファストで仕事をしている中国人や大学に通う中国人の間で良い働きをしているためです。この宣教者の夫婦は1993年以来,中国の17の省や台湾の様々な都市から来た人たち75人と聖書を研究してきました。関心を持つ人が帰国した後も接触が保たれている例は少なくありません。ある時,聖書研究を喜んで行なっていた夫婦がいましたが,妻のほうが帰国しなければならなくなりました。その女性は,中国では聖書研究を続けることができないと思い,気落ちしていました。しかし数週間後,夫は妻から連絡があったと興奮気味に話しました。ある日,仕事に行っている間に証人たちが訪ねて来て,「お訪ねするようアイルランドのお友達から依頼されました。また伺います」というメモを残していったということです。そして実際,証人たちは訪問してくれたのです。別の夫婦は中国から次のような手紙を寄せました。「お二人にお会いできないのでとても寂しく感じます。覚えておくに値することは本当にたくさんありましたが,最も貴重だったのは,お二人と聖書を勉強したことだと言わなければなりません。聖書は今では私たちの生活に不可欠なもののように思えます」。

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(1)モザンビーク,(2)セネガル,(3)ニューカレドニア,(4)ボリビア