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アルゼンチン

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アルゼンチン

アルゼンチンは,南米大陸の南東に位置し,約4,000㌔にわたって伸びる驚くほど多様性に富んだ国です。この国には,6,000㍍を超す峰々をいただく険しいアンデス山脈があります。北部には,ジャガーやバクの徘徊する熱帯林があります。南部のティエラ・デル・フエゴ沖合の極寒の海では,ペンギンやクジラが戯れ,波のうねりは30㍍もの高さに達します。平原では,馬にまたがったガウチョ(アルゼンチンのカウボーイ)たちが,広大な牛の放牧場をパトロールしています。

この国のどこへ行ってもエホバの証人に出会います。証人たちは,国中の主要な都市や町に必ずいます。12万人余りを数える証人たちが,山で,密林で,平原で,そして海岸で宣べ伝えています。その姿は,首都の高層ビルの中でも,僻地の村でも見かけます。この国の地形が変化に富んでいても,それが良いたよりの伝道の妨げとなることはなく,文化や言語の障壁,経済上の問題も妨げとなりませんでした。イエスが予告されたように,良いたよりは宣べ伝えられているのです。―マル 13:10

それは単なる偶然の所産ではありません。熱意と信仰に満ちた献身的な男女が,どんな状況に置かれていようとも聖書の音信を宣明するという決意を実際に示した結果なのです。それらの男女は,「み言葉を宣べ伝え,順調な時期にも難しい時期にもひたすらそれに携わり……なさい」という,使徒パウロがテモテにあてた助言を心に留めてきました。(テモ二 4:2)それでも,成し遂げられてきた事柄を自分たちの手柄とはしていません。彼らは,エホバの霊によってのみ,それが成し遂げられたことを知っています。―ゼカ 4:6

基礎が据えられる

この国における業の基礎が据えられたのは,何十年も前のことです。真理がどのようにアルゼンチンの僻地に達したかを示す記録は,確かに信仰を強めます。1923年にカナダからジョージ・ヤングが南米にやって来ました。ヤングはブラジルで広範な証言を行なった後,アルゼンチンに注目し,数か月のうちに,アルゼンチンの25の主要な都市や町で1,480冊の書籍と30万部の他の聖書文書を配布しました。ヤングは南米の他の国々への宣教旅行を続けるにあたり,「王国の音信を広める努力に対する神の是認のほほえみは,歴然としていた」と述べました。

1924年,当時のものみの塔協会の会長J・F・ラザフォードは,フアン・ムニスという名のスペイン人にアルゼンチンで奉仕する割り当てを与えました。2年後,ムニス兄弟は,アルゼンチン,チリ,パラグアイ,そしてウルグアイにおいて王国を宣べ伝える業を世話するため,ブエノスアイレスにものみの塔協会の支部事務所を設立しました。

ムニス兄弟は,アルゼンチンにドイツ語を話す人々が大勢いることに気づき,それらの人々も良いたよりが聞けるよう,援助を要請しました。それに対しラザフォード兄弟は,その言語グループを援助するために,ドイツ人の全時間奉仕者カルロス・オットを派遣しました。

この国にはギリシャ人も少なくありませんでした。1930年,ギリシャ出身のニコラス・アルヒロスは,聖書の音信を学ぶと,ブエノスアイレス地区に住むギリシャ語を話す何百人もの人たちに宣べ伝えるようになりました。その後,スペイン語が上達してからは,国の北半分に努力を集中し,アルゼンチンの22州のうち14州で神の言葉の種をまきました。

同じころ,ポーランド人のフアン・レバチがエホバの証人になり,別のポーランド人の証人と共に全時間宣教を始めました。彼らは全時間奉仕者をさらにもう二人伴って,アルゼンチンの南部の区域を回って奉仕しました。

1930年の報告には,幾十万冊もの文書がドイツ語やギリシャ語,スペイン語ばかりでなく,アラビア語,アルメニア語,イタリア語,イディッシュ語,ウクライナ語,英語,クロアチア語,ハンガリー語,フランス語,ポーランド語,ポルトガル語,リトアニア語,レット語,ロシア語でも配布されたことが示されています。

ですから,王国を宣べ伝えて弟子を作る業は,わずか7年で,スペイン語を話す人々や他の言語グループの間で根を下ろしました。まさに,増加の続く順調な時期でした。

広大な区域も障害とならない

回らなければならない区域は広大でした。それは,おおよそアメリカ合衆国の3分の1の広さに相当します。とはいえ証人たちにとっては,そうした広大さも,王国の音信を広めるうえで障害にはなりませんでした。徒歩で移動した人もいれば,自転車や列車,馬,馬車で移動した人もいました。

1930年代の初めに,中央部の州コルドバに住むアルマンド・メナツィは,真理を見いだしたことを確信するようになりました。アルマンドは全時間奉仕者として仕えるために,自分の自動車修理工場を売却しました。その後,古いバスを購入してキャンピングカーに改造し,10人以上の奉仕者が一緒に旅行して,良いたよりを広めることができるようにしました。彼らは少なくともアルゼンチン北部の10の州を旅行しました。

1930年代の時点で,アルゼンチンの鉄道網は中南米で最も整備されており,その総延長はおよそ4万㌔にも達していました。これは宣べ伝える業を拡大するための優れた助けとなることが分かりました。開拓者の中には,線路沿いの集落を奉仕するよう割り当てられた人もいました。例えば,ホセ・ラインドルの区域は,大西洋岸のブエノスアイレス州からチリ国境と接するメンドサ州までの西部路線全体で,総延長1,000㌔余りに及ぶ地域でした。

鉄道で働いていたエホバの証人は,その状況を活用し,アルゼンチンの遠い場所に聖書の音信を伝えました。北東部のサンタフェ州で真理を学んだエピファニオ・アギアルは,鉄道会社の辞令で,さらに北のチャコ州に転勤になり,転勤先ですぐに宣べ伝え始めました。仕事の関係で2,000㌔南のチュブト州へ,その後は再び北のサンティアゴ・デル・エステロ州へ行く必要が生じましたが,それらの州で王国の音信を広めました。

熱心な開拓者であるリーナ・デ・ミドリニ姉妹は,バイア・ブランカ市から50㌔ほど離れたメダノスで証言しました。姉妹は自転車を列車に載せ,目的地に着くとそれを大いに活用しました。それで人々から,自転車に乗ったバイブル・レディーと呼ばれました。非常によく知られていたので,ある日,帰りの列車に乗るはずの姉妹が来ていないことに気づいた列車の機関士は,姉妹のために列車の発車を遅らせたほどでした。

ギレアデで訓練を受けた宣教者たちがやって来る

初期の証人たちは,広く各地を旅行して多くの文書を配布し,神の王国の希望に人々の注意を喚起しました。しかしやがて,系統だった聖書教育と組織の改善の必要性が明らかになり,1945年には,当時のものみの塔協会の会長ネイサン・H・ノアがアルゼンチンを訪問して,スペイン語による神権宣教課程(神権宣教学校)を始めるよう諸会衆を指導しました。ノア兄弟は,アルゼンチンの兄弟たちに,開拓奉仕を始めて,ものみの塔ギレアデ聖書学校に出席する目標を持つようにも勧めました。

間もなく,二人のアルゼンチン人がギレアデ学校に出席し,1946年にアルゼンチンに戻って来ました。その二人に続いて1948年には,他の国での任命を受けていた宣教者たちがやって来ました。その中には,ギレアデ第1期生のチャールズ・アイゼンハワーとロリーン・アイゼンハワー,ビオラ・アイゼンハワー,ヘレン・ニコルス,ヘレン・ウィルソン,それにギレアデ第4期生のロベルタ・ミラーがいます。その後,ソフィ・ソビアク,イーデス・モーガン,エセル・ティッシュハウザー,メアリー・ヘルムブレクトなど,大勢の人がやって来ました。これまでアルゼンチンに派遣された宣教者は78人を数えます。地元の証人たちは,宣教者たちの示す福音宣明の精神に倣うよう鼓舞されてきました。1940年当時,開拓者は国全体で20人でしたが,1960年には382人に増加し,今日では1万5,000人余りの開拓者がアルゼンチンにいます。

難しい時期に対処する

アルゼンチンにおける宣べ伝える業は長い間にわたって,順調な時期にあったと言えます。しかし,イエスが予告されたように,すべての人がイエスの追随者の活動を認めるわけではありません。(ヨハ 15:20)例えば,1949年にノア兄弟がアルゼンチンを訪問した際,警察は突然,ブエノスアイレスの非常に立派なホールでの集会に対する許可を取り消す,と言ってきました。そこで大会は王国会館で開かれましたが,妨害がなかったわけではありません。日曜日の午後4時40分,警察はノア兄弟の講演を中断させ,出席していた人たちとノア兄弟を逮捕しました。警察は逮捕の理由を示しませんでした。当局は,翌日の明け方近くまで,兄弟たちを広い中庭に何時間も立たせておきました。その後,兄弟たちは釈放されました。

アルゼンチンのエホバの崇拝者たちに逆風が吹き始めたことは明らかでした。その同じ年,ローマ・カトリック教会の影響を受けて,すべての宗教団体に外務省の宗教局への登録を命じる法案が可決されました。翌年,フアン・ドミンゴ・ペロン率いる政権が,アルゼンチンにおけるエホバの証人の業を公式に禁止しました。政令により,エホバの証人の公の集会や宣べ伝える活動は禁止されましたが,ものみの塔協会の支部事務所は閉鎖されませんでした。

全体的に言えば,当局は,証人たちが大きな困難を経験せず活動を続けられるようにしてくれました。しかし,政府の役人たちは,大会の許可を取り消したり,王国会館を閉鎖したりして,しばしば禁令を強化しました。証人たちが個人の家で集会を開いたり,公の宣教に参加したりすると,逮捕されたり嫌がらせを受けたりすることがありました。

ですから,証人たちは努めて『蛇のように用心深いことを示し』ました。(マタ 10:16)他の人に証言するときは,聖書だけを使いました。会衆は,8人から12人の小さなグループに組織されました。禁令が課された最初の数年間は,集会場所を頻繁に変えました。兄弟たちは目立たない集会場所を見つけましたが,その中には牛舎,かやぶき屋根の建物,農家の台所だけでなく,木の下さえありました。重要なのは,集まり合うことでした。―ヘブ 10:24,25

ノア兄弟は兄弟たちを励ますため,1953年にミルトン・ヘンシェルと共に再びアルゼンチンを訪問しました。禁令のため,大きな大会を開くことはできませんでした。世間の注目を引くからです。それでも,全国的な規模の大会と呼ばれるものを取り決めました。ノア兄弟はチリから飛行機でメンドサ市に行き,ヘンシェル兄弟はパラグアイからアルゼンチンに入国しました。二人は別々に旅行し,56か所で開かれた地元の“大会”で話を行ないました。それらの集まりの中には,地元の証人の所有する農場で,ピクニック風に行なわれたものもありました。ブエノスアイレスでは,ノア兄弟もヘンシェル兄弟も,集まった証人たちのもとを訪れ,それぞれのグループのために2時間の集会を司会しました。ある日には9か所でそうした集まりが開かれました。この非常に変わった大会に合計2,505人が出席しました。

禁令が和らぐ

1955年にフアン・ペロンの軍事政権が倒れると,もっと大きなグループが組織されました。王国会館を所有していた会衆の兄弟たちは,王国会館と分かる看板は掲げないものの,そこで集まるよう勧められました。当局からの嫌がらせが時折あったとはいえ,エホバの祝福のもとに,会衆の数や規模は着実に増大しました。

1956年に,支部は国内の各地で小規模な大会を開くことにしました。最初の大会は,ブエノスアイレスから約60㌔離れたラプラタ市で開かれました。300人の出席者は,「諸国民よ,神の民と共に喜べ!」という最初の歌をよく歌えませんでした。感極まって声が出なかったのです。こんなに大勢の仲間の信者と集まって一緒に歌えるのは6年ぶりのことでした。

とはいえ,禁令は続いていました。1957年12月にブエノスアイレスのレザンバサドゥールの会館で全国大会を開こうとした時のこと,警察は代表者たちが到着し始めると会館を閉鎖しました。4人の兄弟たちが警察に勾留され,警察の許可なしに集会を開いたかどで告発されました。

アルゼンチンの憲法では,信教の自由と集会の自由が保障されているので,兄弟たちはこの件を法廷に持ち込みました。1958年3月14日に,証人たちに有利な判決が下されました。それは,アルゼンチンのエホバの証人にとって最初の法的勝利となりました。

1958年,政府に別の変化が生じました。今度はアルゼンチンにおけるエホバの証人の業の法的認可が得られそうに見えました。アルゼンチンにおけるエホバの証人の活動および証人たちの立場を説明した特別な手紙が,立法機関のメンバー,新聞や雑誌の編集者,下院議員,裁判官の全員に送られました。立派な証言がなされましたが,法的認可は得られませんでした。

証人たちはあきらめませんでした。その翌年,信教の自由を求める嘆願書が準備され,政府に送られました。その嘆願書には32万2,636人の署名が載せられていました。支部の代表者としてチャールズ・アイゼンハワーが政府当局を訪問しました。海外からは,法的認可を嘆願する手紙が7,000通余り寄せられました。それでも,法的地位は与えられませんでした。とはいえ,証人たちに対する政府の態度はかなり緩和されました。そこで兄弟たちは,徐々に順調になってきた時期を利用して会衆を霊的に強めました。

1961年に,旅行する監督たちや会衆の監督たちを訓練するために王国宣教学校が組織されました。最初,ブエノスアイレスの中心地にある王国会館の一つで,1か月に及ぶ課程が開かれました。その後,学校は支部事務所に移されました。神の羊の群れを世話する一層十分な資格を身に着けた監督たちが備えられ,1960年代は伝道者と開拓者の数が毎年増加し,1970年には伝道者の最高数が1万8,763人,開拓者は1,299人に達しました。

支部の拡張

アルゼンチンの王国宣明者の増加に伴い,支部事務所の拡張が必要になりました。1940年以来,ものみの塔協会の支部事務所は,ブエノスアイレスのホンジュラス通り5646番地で機能してきました。その建物は取り壊され,1962年10月には,同じ敷地内に建てられたもっと大きくて新しい建物が使用できるようになりました。

1960年代の終わりまでに,支部は再び手狭になり,増加についてゆけなくなりました。そこで支部の建物の裏側にある地所が購入され,地元の証人たちが新しい宿舎と事務所の建物を建てました。さらに,フィッツ・ロイ通りにある建物が購入されました。その建物は,古い支部の建物と新しい地所の両方に隣接していました。1970年10月に古い支部の建物の取り壊しが始まりました。建築の技術を持つ地元の証人たちが主要な労働力となり,支部の奉仕者たちも正規の仕事時間が終わってから援助に駆けつけました。週末には,近隣の会衆のエホバの証人も一緒に働きました。

結局,三つの建物は連結されて一つの複合施設になりました。当時ものみの塔協会の副会長であったF・W・フランズが,1974年10月に献堂式の話を行ないました。アルゼンチンの兄弟たちは,完成した支部施設でハルマゲドンまで野外の必要を賄えるはずだと思っていました。それが始まりに過ぎないことなど知る由もなかったのです。

支部が献堂された年,エホバの証人の統治体は,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を地元で印刷することを決定しました。当時,アルゼンチンのエホバの証人は宗教団体として法的に認可されていなかったので,印刷機器を輸入できる法人の資格を得るため,1974年12月にアソシアシオン・クルトゥラル・リオプラテンセ(リバプレート文化協会)が設立されました。印刷機はフランス,断裁機はドイツ,中綴じ機は米国から来ましたが,これらはみな寄贈されたものでした。

とはいえ,輪転機室の奉仕者たちはすぐに,機械を手に入れることと動かすこととは全く別問題であることに気づきました。多くの難題を克服しなければならなかったものの,「ものみの塔」誌,1975年4月15日号が巻取紙オフセット輪転機から流れ出たときは大きな喜びを味わいました。このオフセット輪転機は,世界中のものみの塔協会が使用する最初のオフセット輪転機だったのです。このことは,エホバの証人の印刷の歴史における里程標となりました。

「神の勝利」国際大会

1974年の初め,アルゼンチンのエホバの証人は,リオ・セバーヨスとブエノスアイレスで開かれた,「神の勝利」という主題の国際大会を楽しみました。その大会に,1万5,000人ほどの代表者が出席しました。

何か月も前から,非常に大勢の訪問者たちのためにふさわしい宿舎の準備が始められました。証人でない大勢の人が,訪問している代表者に宿舎を提供しましたが,代表者たちは「言葉」だけでなく「行ない」によって,愛に関する立派な証言を行ないました。(ヨハ一 3:18)当局は,広い空き地の使用を許可してくれました。そこはテント村となり,テントやトレーラーがきちんと幾列も並び,おまけに道には聖書的な名前も付けられました。こうしたことすべてが,地域社会によい影響を与えました。

暗雲が姿を現わす

兄弟たちは崇拝の自由が拡大するのを経験していましたが,前途には難しい時代が待ち受けていました。1973年6月に,フアン・ペロンが17年余りに及ぶ亡命生活から戻り,大統領の座に就きました。ペロン派と反ペロン派との間のゲリラ闘争によって,国は引き裂かれていました。政治に関係した暴力行為は激しさを増し,1976年3月24日に軍部が政権を握りました。

軍事政権は議会を解散させ,左翼を一掃する運動を開始しました。ワールドブック百科事典(英語)はこう説明しています。「彼らはその過程で,大勢の人々の市民権を侵害した。幾万もの人たちが,裁判を受けることなく投獄され,拷問を受け,殺された。それらの犠牲者の多くはまだ発見されていない。そうした人々は,ロス・デサパレシードス(行方不明者たち)と呼ばれている」。市民活動への警察の監視が強まりました。政治的な混乱状態のただ中でエホバの証人は中立の立場を保ちましたが,1976年7月,ヘンテ誌(スペイン語)に,エホバの証人とされる子どもたちが国旗に背を向けている写真入りの記事が掲載されました。それは事実をひどくゆがめた記事でした。その地域に住む4人の子どもの証人たちは,写真が撮られたとされる日には登校していなかったのです。さらに,エホバの証人は国家の象徴に対し,そうした不敬な態度を取ることはありません。にもかかわらず,そうした宣伝活動によって,多くの人が敵がい心を抱いて証人たちを見るようになりました。

政府の方針に対する異議と思えるものが少しでも見えると,政府が神経をとがらせたのは,社会不安のためだったのでしょう。このころ,旅行する監督だったカルロス・フェレンシアは,非常に危険な地域にある会衆を訪問していました。カルロスは支部事務所から,アルゼンチンのエホバの証人の業が今にも禁止されそうだという趣旨の手紙を受け取ったばかりでした。カルロスが歩きながら手紙について考えていた時,1台の車が通り過ぎたかと思うと,向きを変えてカルロスの方にやって来ました。3人の男が車から降り,カルロスに銃を突きつけました。男の一人が,身分証明書を見せろ,と荒々しく言いました。カルロスは,自分がエホバの証人であることを伝えましたが,警察署に連行されました。カルロスは,手紙が男たちの手に渡らないようにとエホバに祈りました。

警察官はカルロスを薄暗い部屋に連れて行き,まぶしいライトを彼の顔に当て,「かばんの中身は何だ」と怒鳴りました。テーブルの上にかばんの中身が空けられました。聖書と何冊かの雑誌,そしてあの手紙です!

警察官の一人が,「『ものみの塔』!『ものみの塔』! 危険だ,危険だ!」と叫びました。

ところが,上司は,「だまれ。おまえは『ものみの塔』を見たことがないのか,このバカ者」と彼をたしなめました。

その間,カルロスは努めて平静さを保ち,敬意を示すようにしました。警察官は出版物を調べ終わると,全部片づけるようにと言いました。ところが,一人の警察官がそれをさえぎり,「その封筒に何が入っているんだ」と言いました。

カルロスは,協会の手紙が入った封筒をその警察官に渡し,数秒してからこう尋ねました。「失礼ですが,一言申し上げてよろしいでしょうか」。

「いいだろう」と警察官は答え,手紙から顔を上げました。

カルロスは言葉を続けました。「あなたが地域社会の安全のために働いておられることはよく承知しております」。その言葉が警察官の注意を引き付けました。次いでカルロスは,今の暴力的な状況が聖書の預言の成就であることを聖書から示しました。

カルロスが説明し終わると,警察官は,「わたしも同感だ。同志よ」と言って,手紙を読まずに返しました。

すでに禁止されている業に対する禁令

支部事務所は,禁令が目前に迫っていることをどのようにして知ったのでしょうか。1976年8月下旬に,連邦警察が協会の支部を家宅捜索しました。捜索の責任者は,支部が銃器を蓄えているとの通報を受けたと言いました。当時,支部委員の一人だったウンベルト・カイロは警察官を文書の保管所へ案内しました。もちろん,銃などありません。警察官がウンベルトに向けている銃しかありません。警察官はウンベルトを2階にある,支部委員会の調整者アイゼンハワー兄弟の事務所に連れて行きました。その事務所で捜査官が捜査結果についての報告書をまとめ,兄弟たちに署名させました。次いで捜査官は,政府はエホバの証人に対する政令を準備していると述べました。支部委員会は直ちに旅行する監督たちに宛てて,政府による禁令に備えるよう手紙を書きました。

しかし,アルゼンチンのエホバの証人の業は1950年以来,禁令下に置かれてきました。すでに禁令下に置かれている業を禁止することなどできるのでしょうか。その答えはすぐに与えられました。支部委員の一人,トマス・カルドスは,新しい禁令が敷かれた1976年9月7日に何が起こったかを思い出してこう語ります。「午前5時に,通りからの物音で目を覚ましました。点滅する赤い光がよろい戸のすき間から漏れていました。妻は急いで起き上がり,窓の外を見てから私の方を向き一言,『来たわ』と言いました」。

重装備の警察官が4人,護送車から飛び降りました。直ちに事務所や工場に監視が配置されました。カルドス兄弟はさらにこう述べています。「いつものように日々の聖句を考慮して朝食を取ることができるだろうか,と考えました。警察官は異議を唱えませんでした。それでその朝,一人の武装した警察官が入口を監視し,もう一人が礼儀正しくテーブルに着いているという状況で,私たちは聖句を討議しました。私たちは皆,『次に何が起きるのだろう』と思いました」。

1976年8月31日に出された政令により,エホバの証人の業は全国的に禁止されました。実際には,1950年からすでに禁令下に置かれている活動が禁止されたのです。警察は支部事務所と印刷工場を閉鎖しました。その後まもなく,国中の王国会館も閉鎖されました。

こうした状況にもかかわらず,兄弟たちはイエスの使徒たちの模範に倣い,支配者として人間より神に従う決意をしていました。(使徒 5:29)アルゼンチンの証人たちは,「難しい時期にも」聖書の音信を宣べ伝え続けました。―テモ二 4:2

困難を克服する

支部事務所が公式に閉鎖されていたため,支部委員会は事務所と印刷工場の移転を決定しました。ウンベルト・カイロは,自分の事務所を頻繁に ― 毎月のように ― 移動しなければならず,仲間の信者のアパート,店舗,自宅,オフィスなどで仕事をしました。チャールズ・アイゼンハワーは,ある兄弟の所有するワインの店で仕事をしたことがあります。支部委員会は,ブエノスアイレスの商業地区のガレージで集まりを開きました。

ベテル家族の住居は閉鎖されなかったので,支部の奉仕者たちは,ベテル・ホームで食事を取り,眠り,家族で日々の聖句を討議しました。それから,それぞれの仕事場に通いました。事務所が近い人たちはベテルに戻り,ベテル・ホームの世話をしている家族と一緒に昼食を取りました。

警察は,ベテルで生活している人たちの活動を不審に思っていました。10人ほどのベテル家族全員が,尋問のため警察の本部に連れて行かれたことも何度かあります。警察は,アルゼンチンのエホバの証人の業についてすべてを知りたがりました。地元の会衆を世話しているのはだれか,どこに住んでいるのか。アイゼンハワー兄弟はその時のことをはっきりと覚えています。「私たちは,業や兄弟たちが危険にさらされないようにしながら,なおかつ正直でなければなりませんでした。それは非常に難しいことでした。当局の尋問は執拗だったからです」。

「オチャ ハ チュウシ」

1976年の禁令が課される直前に,協会は,「王国ニュース」の特別号を全世界で配布する取り決めを設けました。政府がエホバの証人の活動に対してさらに制限を加えたら,どうなるのでしょうか。当時,旅行する監督だったパブロ・ジュスティは,次のように回想しています。「答えが与えられていなかったので,支部に相談しなければなりませんでした。キャンペーンを延期するのが賢明であると支部が判断したなら,長老たちは,『オチャ ハ チュウシ』という電文を受け取ることになっていました。この指示による誤解が生じるとは想像だにしませんでした」。

政令が実施されて間もなく,ジュスティ兄弟姉妹は初めてマラルゲ会衆を訪問しました。マラルゲ会衆は,国境警察の本部があるメンドサの南部にあります。ジュスティ兄弟姉妹は,その町の郊外に立つ全国ハイウエー・サービスの建物に住み,そこで働いている一人の長老の住所しか知りませんでした。その長老は留守でしたが,ある従業員が,その人なら,よく運動をしに行く近くの林にいるかもしれません,と言いました。ジュスティ兄弟はそこへ向かう小道を歩きながら,その場所が周囲から隔てられ,人気のないことに気づきました。なるほど,ここなら怪しまれずに集まり合うのにうってつけだと思いました。その日が日曜日だったので,会衆が集まっているところに出くわすかもしれないとも考えましたが,そこにいたのは,運動をしている長老の兄弟一人でした。ジュスティ兄弟姉妹は意外なことを聞かされることになります。

互いに自己紹介してから,パブロが会衆のことについて尋ねると,兄弟は,「ええ,ここマラルゲでは,全部中止しています」と言いました。

「全部というのは,どういう意味ですか」と,パブロは聞き返しました。

答えは,直截簡明でした。「『オチャ ハ チュウシ』という電報を受け取りました。それで,わたしたちは集会,伝道……全部中止しました」。幸いなことに,そうしたことを行なったのはこの会衆だけでした。

慌ただしい訪問

支部が閉鎖されたとき,支部委員たちは巡回監督と会合し,どのように巡回の業を続けるかについて指示を与えました。巡回監督たちの活動がなるべく疑いの目で見られないように,世俗のパートの仕事を見つけて住所を定めるよう指示されました。ほとんどの監督たちは,午前中に様々な製品を売り,午後に諸会衆で奉仕しました。

巡回監督は,支部からの指示を携えて巡回区内を慌ただしく回りました。わずか1週間で,各巡回区を構成している20ほどの会衆の長老たちを訪問しました。巡回監督は,集会を行なう方法や,状況の変化を考慮に入れた証言方法などに関して指示を与えました。また,巡回訪問の長さは必ずしも丸1週間ではなく,会衆の書籍研究の群れの数によって決まることが長老たちに知らされました。集会は,個人の家で行なわれ,各群れは1日の訪問を受けます。

禁令が課されていた間,巡回監督は,地元の奉仕者たちと支部委員会とが連絡を保つうえで重要な役割を果たしました。禁令期間中,巡回監督として奉仕したマリオ・メンナは,次のように回想しています。「あの当時,諸会衆に仕え,兄弟たちを慰めることができたのは本当に特権でした。大会のプログラムを録音したテープや,近隣の国々から入手した新しい出版物,築き上げる経験などを分かち合って,兄弟たちを励ますことに努めました」。

宣教者たちはどうするか

社会不安は増大していました。外国人は好ましく思われていなかったので,宣教者たちは他の任命地へ移る機会が与えられました。その招待を受け入れ,新しい任命地で忠実に奉仕した人たちもいました。

アルゼンチンに留まった人たちもいます。ギレアデ第13期生のメアリー・ヘルムブレクトは,サンタフェ州のロサリオで奉仕していました。禁令が施行されたその日の午前中,メアリーは1軒の家を訪問し,呼び鈴を鳴らしました。暑い夏の朝で,ドアは開いていました。ラジオが,がんがん鳴っています。突然メアリーの耳に,アルゼンチン全土でエホバの証人の活動が禁止されたというニュース速報が飛び込んできました。メアリーはこう述べています。「女性が玄関に出て来ました。私は気持ちを静めて,いつものように伝道しました。私たちは予定通り午前中ずっと伝道しました。私たちのいた所には大きな問題がないように思えたので,留まることにしました。そのようにして本当によかったと思います。会衆の中で,恐れの気持ちにとらわれて伝道できなくなっていた人たちも,私たちに何事も起きなかったのを見て,すぐ私たちに加わりました」。―テサ一 5:11

隠された宝

当時の順調でない時期に,地元の証人たちは勇気と機知を示しました。ロベルト・ニエートは次のように語っています。「ある同情的な治安判事が,王国会館がこれから閉鎖され,文書も押収されることになっているとこっそり教えてくれました。私たちは車2台に分乗して直ちに王国会館へ行き,在庫していた大量の文書を持ち出しました。会館を去ろうとした時,後ろに警察と軍隊の人たちが見えました。王国会館の閉鎖と文書の押収を指示した命令を執行するために到着したのです。しかし,彼らは命令の最初の部分しか実行できませんでした。会館に残っていた書籍と言えば,図書棚にあるものだけだったからです」。

別の場所では,会衆の長老たちが夜間に注意深く王国会館に入り,こっそり文書を持ち出しました。その後,文書は幾つも小さく包んで,兄弟たちに配られました。

トゥクマン州では,ネリダ・デ・ルナが文書を自宅に隠しました。この姉妹はこう述べています。「大きな植木鉢や壺の中に書籍を隠し,その上に造花を置きました。また,文書の箱も洗濯室に隠しました。ある朝,二人の兵士が洗濯室の辺りをはじめ,家中を捜索しました。その間,私たちはそばに立って熱烈に祈っていました。兵士たちは何も発見できませんでした」。

霊的食物を供給する

もちろん,地元の兄弟たちが回収して隠し持っていた文書は,すべてすぐに使い果たされました。しかし,エホバは引き続き兄弟たちに霊的食物をお与えになりました。フィッツ・ロイ通りの印刷工場は閉鎖されていましたが,印刷はブエノスアイレスの他の場所で続けられました。雑誌はサンタフェ州とコルドバ州でも印刷され,ほかの場所に送られて綴じられていました。初めのうち,会衆が受け取れる雑誌は,各研究グループに1冊だけでしたが,後に奉仕者一人につき1冊に増やされました。そうした印刷所の一つは,大統領のオフィスからわずか2区画しか離れていない家の屋根裏にありました。

禁令の期間中,文書の印刷と発送にかかわっていたルベン・カルーチは,印刷を行なっていた家の家主から,憲兵隊が1軒ずつ家宅捜索を行なっているという知らせを受けた時のことを覚えています。兄弟たちはすぐ印刷をやめ,印刷機以外のすべての物を素早くトラックに積み込みました。ルベンはこう述懐しています。「捜索は非常に広範に行なわれていたので,私たちは包囲され,その地域を出ることができませんでした。私たちは近くにレストランがあることに気づき,そこに入って捜索が終わるのを待ちました。4時間待たなければなりませんでしたが,その甲斐がありました。兄弟たちが貴重な文書を受け取ることができたからです」。

“ガンファイターのペピータ”

「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌は,一時,首都にある建設中の建物の中で秘密裏に綴じられていました。そこは元々,王国会館になるはずの建物でした。ベテル家族の一員として長年奉仕しているルイサ・フェルナンデスは,その仕事に携わっていました。ある朝,ルイサと仲間の奉仕者たちが作業を始めた途端,だれかがドアをノックしました。それは警察の幹部でした。その警察官から,機械の騒音のことで近所の人たちから苦情が出ているということを知らされました。「その苦情はよく理解できました。あの中綴じ機はとてもうるさかったので,ペピータ・ラ・ピストレラ(ガンファイターのペピータ)というあだ名を付けていたのです」と,ルイサは言います。

ちょうどその時,支部委員の一人が到着して,私たちの行なっていることについて説明を加えました。警察官は,「今日の午後,私がここに戻って来た時にだれもいなければ,何も見なかったことにする」と言いました。兄弟たちはすぐ,トラックにあらゆる物を積み込み始め,2時間後には,雑誌を綴じる作業が行なわれていた形跡は全くなくなっていました。

機械類はどこへ持っていったのでしょうか。支部の印刷工場は閉鎖されていましたが,裏口から建物に入ることができました。ルイサたちは,以前のベテルの印刷工場に機械類を全部運び入れ,だれにも気づかれずに,雑誌を綴じる作業を続けました。

クッキー工場よりもよい

雑誌を生産し,アルゼンチン全土に届けるためには,国内の他の地域にも雑誌を綴じる場所が必要でした。1957年から特別開拓奉仕を行なっているレオニルダ・マルチネリは,ロサリオでそうした仕事に携わりました。綴じるための印刷物が届くと,割り当てられた兄弟姉妹たちは長いテーブルをセットし,印刷された紙の束を番号順にテーブルの上に置いてゆきます。それから一人ずつ,一方の端から他方の端まで紙を集めてゆきます。完成した雑誌の山ができたなら,箱の中にもっと雑誌を入れるため,空気抜きをしなければなりません。油圧プレス機などありませんでしたから,恰幅のよい一人の姉妹がその仕事を買って出ました。かなり大きな雑誌の山ができると,きちんと平らになるまで姉妹が雑誌の上に座ります。次に,別の人が雑誌をきれいに箱詰めします。この方法が功を奏したので,この作業に関係した人たちは,姉妹にダイエットしないよう強く勧めました。

サンタフェ市では,ガイタン家が雑誌を綴じる場所として自宅を提供しました。注意していたにもかかわらず,箱を出し入れするところを近所の人たちに見られてしまいました。その人たちは,ガイタン家ではクッキーを作っているのだろうと考えていました。その後1979年に,支部はその作業を別の場所で行なうようにしました。近所の人たちは不思議に思い,後で,クッキー工場は閉鎖されたのかと尋ねてきました。ガイタン姉妹は当時を回想し,「私たちの作った“クッキー”はおいしくて,近所の人たちが思っていた以上に栄養がありました」と述べています。

文書を届ける

雑誌や他の文書を兄弟たちに届けるのも大変なことでした。大ブエノスアイレス地区には,要所要所に配置された文書集積所に雑誌を供給する経路が組織されていました。ある時,ルベン・カルーチは,雑誌を配達して残り1か所になった時,警察官から,護送車の後ろに止まるよう指示されました。ルベンは緊張しながら言われたとおりにしましたが,その間ずっとエホバに助けを祈り求めていました。トラックを路肩に寄せて止まると,警察官がやって来て,「すみませんが,車を押してもらえませんか。動かないんですよ」と言いました。ルベンはほっとため息をつき,一も二もなく承諾しました。それから,配達を済ませるためにいそいそと立ち去りました。

サンタフェ州ロサリオ地区で巡回監督として奉仕していたダンテ・ドボレッタは,雑誌を綴じている場所で雑誌を受け取ってから,自分の巡回区の全会衆に分配しました。これは,月に最低2回,往復約200㌔の旅行をすることを意味しました。見つからないようにするため,その旅行は夜遅くに行ないました。会衆の活動が終わった後に出かけて,時には夜明けに戻って来ることもありました。ある時,ダンテは,検問所に車の長い列ができているのを見ました。重装備の兵士30人余りが一人一人の身分証明書と荷物を注意深く調べています。一人の兵士がダンテに,「車の中は?」と尋ねてきました。

ダンテは,「私物なんですけれど」と答えました。

「急いでトランクを開けろ」と兵士は命じました。

そこでダンテは,「わたしたちはエホバの証人です。わたしたちが運ぶものと言えば何でしょう?」と答えました。

この会話を耳にした別の兵士が,「大丈夫だ。エホバの証人なら武器や密輸品は絶対に運ばない」と言いました。ダンテは2年間,持ち物検査をされずに文書を配達することができました。

集まることをやめたりしない

禁令が課されたその週以降も,アルゼンチンのエホバの証人が「集まり合うことをやめ(る)」ことはありませんでした。(ヘブ 10:25)小さなグループで集まり,集会の場所や時間も頻繁に変えました。やむなく同じ集会を何回も違った家で司会することの多かった長老たちにとって,これは余分な仕事を意味しました。

トトーラスという小さな町では,集会を開ける唯一の家が町の中心にありました。ですから,地元の証人たちは普通以上の注意を払いました。家の所有者であるレベルベリ兄弟は,小間物をしまう引き出しが付いていてごく普通に見えるテーブルを作りました。ところが,天板が持ち上がるようになっていて,中に書籍や雑誌を隠せる場所があったのです。だれかがドアをノックすると,文書はすべて素早くテーブルの中に隠すことができました。

奉仕者たちは普段着のまま集会にやって来ました。姉妹たちは時々,髪にカーラーを巻いたり,スラックスをはいたり,買い物袋を提げたりしていました。集会はマテアダスとして親しまれました。マテとは,よくクッキーやケーキと一緒に飲むお茶のことです。アルゼンチンでは,マテ茶を飲むために集まるのはごく一般的な習慣ですから,霊的な集まりの絶好のカムフラージュとして,その習慣が用いられたのです。

しかし,緊張する瞬間もありました。忠実で,もてなしの精神に富む姉妹テレサ・スパディーニは,近所の人たちから非常に良い評判を得ていました。巡回監督の訪問の際,集会が開かれる姉妹の家に35人の人たちが集まりました。すると突然,家の前にパトカーが止まり,警察官がドアをノックしました。話を行なっていた兄弟は,すぐさまほかの人たちと同じように腰を下ろしました。テレサが玄関に出たところ,警察官は,「テレサ,電話を貸してもらえないかな」と言いました。

警察官の視線が集まっている人たちに向けられたので,テレサは,「親族のパーティーなんです」と説明しました。その人が警察署に電話している間,集まっていた人たちは,全員を連行するための護送車を要請しているのではないかと思い,息を凝らしました。しかし別の用件だったので胸をなで下ろしました。警察官は電話を切ると,テレサの方を向いてお礼を言い,それから,集まっていた人たちを見て,「お邪魔して申し訳ありませんでした。パーティーをお楽しみください」と言いました。

警察の手入れに対処する

何人かの人々がバプテスマのために集まっていた時,近所の人が警察に集会のことを通報しました。兄弟たちは,集まりの真の目的を悟られないようにするため,アサードつまりバーベキューを計画していたので,計画通りに事を進めました。アルゼンチンでは焼き肉は人気料理です。ですから,この楽しいカムフラージュを気にする人はだれもいませんでした。招かれざる“客”が軍用トラックで到着すると,兄弟姉妹たちは兵士たちを温かく歓迎し,気さくな集まりに加わるよう招きました。兵士たちは辞退し,“デザート”に何が出されるのかも知らずに帰って行きました。

エホバの証人の間で使われている用語が保護になることもありました。近所の人が,個人の家で行なわれていた集会を当局に通報した時のことです。警察官が到着したのは,長老を除く全員が去った後でした。警察官がドアをノックすると,その家の姉妹は,「僕たち以外は皆帰りました」と答えました。

警察官は,「僕には用はない。責任者に用があるんだ!」と言って,何の収穫もなく去って行きました。

禁令下で宣べ伝える

制限は加えられていましたが,宣べ伝える活動は続けられました。もちろん,そうした難しい状況下で兄弟たちは慎重を期しました。普通,一つの区域で二人以上の証人が同時に働くことはありませんでした。サラ・シェレンベルク姉妹は,ブエノスアイレスでどのように人々を訪問したかを思い起こし,こう言っています。「私たちが作った区域地図は手のひらに入るほど小さなものでした。地図の裏には蛇腹に折った紙が付いていて,その紙に全部の家の番号がリストアップされていました。一つのブロックごとに,ある道路に沿って並ぶ家々のうち1件だけを訪問し,それを各道路について行ないます。その区域で次に働く奉仕者が別の家に入れるよう,訪問した家をリストから消します。それから,別のブロックへ移って,別の家を訪問しました」。

この方法が取り入れられて間もなく,セシリア・マストロナルディ姉妹は一人で伝道していました。1軒のドアをノックしていた時,オートバイに乗った警察官が突然姿を現わしました。セシリアはこう述べています。「警察官は私に,そこで何をしているのかと尋ねました。一つだけ思いついたのは,警察官に証言して,『進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか』の本を提供することでした。その人は本を受け取り,寄付をして,にこやかに別れのあいさつを述べました。その時,その警察官が止まったのは,私を逮捕するためでなかったことが分かりました。彼は,私が訪問したその家の住人だったのです」。

宣べ伝える活動をカムフラージュするために様々な方法が用いられました。一人の姉妹はわざわざ化粧品会社で働くようにしました。戸別訪問して顧客に話ができるようにするためです。現在86歳で,これまで29年間正規開拓奉仕を行なってきたマリア・ブルーノは,バッグに植物を入れて持ち歩きました。植物を少しバッグからのぞかせて,園芸について話したいと思う主婦を引き付けるのです。このような方法でマリアは会話を行なうことができ,結果として真理の種が植えられました。

店主であり,禁令が施行された直後にバプテスマを受けたフアン・ビクトル・ブッケーリも,自分の学んだ良いたよりをほかの人に話したいと思いました。それまでは店の壁に宗教画や有名なスポーツ選手,芸能人のポスターを飾っていましたが,今度はそれを風景画に替え,絵の下に聖句を付けました。店の客は大変驚きました。ブッケーリ兄弟は,風景画や引用した聖句について尋ねてくる人に証言し,その方法で10件以上の聖書研究を始めることができました。ある人たちは真理に入り,今でも忠実な兄弟たちです。

緑色の聖書を持った人たち

アルゼンチンの奉仕者たちは,禁令期間中の様々な難しい問題によって,より良い奉仕者となるよう訓練されました。最初の訪問は聖書だけを使ったので,反対を克服したり,人々を慰めたりする聖句を見つけるのが上手になりました。

怪しまれないよう,「新世界訳」以外の聖書を使うこともありました。ある兄弟は古代スペイン語で書かれたカトリック聖書トレス・アマット訳を使っていた時,予想外の反応に遭遇しました。聖句が読まれるのを聞いても内容を理解できなかったその家の女性は,兄弟に,ずっと分かりやすい聖書を持ってくると言いました。大変驚いたことに,家の人は「新世界訳」を持ってきたのです。

その当時,「新世界訳」には緑色の表紙が付いていました。そういうわけで,地域の人々は,緑色の聖書を持った人たちの話に耳を傾けてはいけないと警告されていました。しかし,政府の課した制限に賛成している人はほとんどいなかったので,そうした禁止令は人々の好奇心をそそったにすぎません。ある家の人は一人の姉妹に,あなたの聖書は何色ですか,と尋ねました。姉妹が正直に,緑色ですと答えると,その人は,「よかったわ,緑色の聖書を持った人たちの話を聞きたいと思っていたのよ」と言いました。姉妹は家の中に招き入れられ,活発な話し合いができました。

書籍を持っているのはだれ?

しばらくの間,アルゼンチンの証人たちは自分たちが隠していた文書を使って伝道を続けました。しかしやがて,それも底を突き,新しい文書を輸入することは不可能な状況でした。とはいえ,押収された22万5,000冊の書籍が支部の倉庫に眠っていました。

連邦警察は,それらの書籍を没収し,紙の再処理業者に売却することにしました。ベテルへ行って書籍を積み込み,再処理工場に運ぶ仕事は運送業者が請け負いました。たまたまその運転手は,近所のエホバの証人と聖書を学んだことがある人でした。何を運ぶかを知った運転手はかつての隣人に,エホバの証人の皆さんにはこの書籍を買うお気持ちがありますか,と尋ねました。必要な手続きが取られ,警察の認可も得て,書籍は支部の指定した場所に移されました。こうして,禁令にもかかわらず,22万5,000冊の書籍は,当局の期待とは大いに異なる方法で再利用できるようになりました。

さらにエホバは,勇敢な兄弟たちを通して,ご自分の民を養われました。兄弟たちは,協会が発行した書籍を他の国々から運び入れる仕事を買って出たのです。正規開拓者のノルベルト・ゴンサレスは,こう語っています。「ある時,ウルグアイの支部委員から王国宣教学校の教科書100冊をアルゼンチンの責任ある兄弟たちに届けるよう依頼されました。私たちは,この重要な資料を国内に持ち込むことができました。全員が無事税関を通過できた時には,喜びのあまり皆で跳び上がりました」。一人の兄弟があまり高く跳び上がれなかったのは,多分,木製の義足の中に資料を隠していたからでしょう。

アルゼンチンの証人たちは,ものみの塔協会発行の文書をかつてないほど大切にするようになりました。禁令が始まった時,それぞれの研究グループは,「ものみの塔」誌を1冊しか受け取れませんでした。その1冊の雑誌は奉仕者全員に回覧され,奉仕者たちは研究用に質問と答えを写し取り,注解に参加できるようにしました。(フィリ 4:12)「ものみの塔」誌の表紙は,内容が分からないよう白紙のままでしたが,その中の霊的食物は非常に素晴らしいものでした。兄弟たちは,それらの特別な備えによって支えられ,一致を保ちました。

大会と悟られない方法

アルゼンチンの兄弟たちは,手に入る文書は何でも使って少人数の集会を開き,その集会を通して霊的に養われました。しかし,世界の他の場所にいるエホバの証人が楽しんでいる年3回の大会の益は,どのようにして得られるのでしょうか。禁令が施行された後,最初に開かれた大会は,予備大会と呼ばれました。大会には,長老たちとその家族だけが出席し,後に長老たちが自分の会衆で同じプログラムを扱いました。長年にわたり,旅行する監督として根気強く奉仕してきたエクトル・チャップは,こう語っています。「時々,野外で大会を開くことができました。田舎に出かけ,家畜のいる中で開くのです。話を聴くことに熱中していたので,動物のことはほとんど気にも留めませんでした。兄弟たちの多くは,出席できなかった人たちのためにプログラムを録音していました。後でテープを聞いた兄弟たちは,話に混じって牛や鶏の鳴き声,ロバのいななきなどが聞こえたので,大笑いしました」。

大会はたいてい田舎で開かれたので,兄弟たちは大会を“ピクニック”という愛称で呼びました。ブエノスアイレス州で人気のあった場所は,サンタフェの州境に近いストラゴ・ムルドという農村地区です。そこは理想的な場所でした。周りには木々があって,それが格好の覆いになったからです。ところが,“ピクニック”の出席者たちはある日,その立派な木々が切り倒されているのを知って,ショックを受けました。覆いになる物は何もありませんでしたが,一つの切り株を話し手の演壇に,他の切り株は出席者全員のベンチにして,“ピクニック”を続けました。

兄弟たちが大会のために用いた別の場所は,あるエホバの証人が所有していた工場でした。工場の所有者は,覆いの付いた少し大きめのトラックを持っていて,そのトラックで大会に出席したい人たちを拾って行きました。運転手はあちらこちら走り回って,一度に10人から15人の兄弟たちをトラックに詰め込み,工場に戻ると車庫の扉を閉め,その裏で兄弟たちを降ろしました。このようにして,100人ほどが,近所の人たちや警察に気づかれずに集まり合うことができました。当時,アルゼンチンの証人たちの中には,大会から得られる霊的な備えの益にあずかるため,ブラジルやウルグアイへ旅行した人もいました。

刑務所での集会

1976年の禁令の前でさえ,若い兄弟の多くは,クリスチャンの中立ゆえに忠節の試みに直面しました。イザヤ 2章4節の「戦いを学ばない」という聖書の原則に従ったために,3年から6年の自由刑を言い渡された人は少なくありませんでした。

とはいえ,刑務所内でも兄弟たちは,聖書を研究したり集会を開いたりする方法を編み出しました。また,刑務所内で熱心に王国の音信を伝えました。近隣の会衆の長老たちは,進んでそれらの忠実な若い兄弟たちを訪問して励ましを与え,また非常に大切な霊的食物を備えました。

1982年からベテルで奉仕しているオマール・ツェーダーは,1978年から1981年までブエノスアイレス州マグダレナ軍刑務所に投獄されていました。軍服の着用を拒否したためです。この刑務所は幾つかの突き出た建物から成り,縦2㍍横3㍍の監房20室が一つの廊下に面する造りになっていました。投獄されていた証人たちは,廊下の端の三つの監房を集会のために使っていました。一度に10人から12人しか集まれなかったため,集会が毎週8ないし14回開かれることも珍しくありませんでした。

兄弟たちは,一人がのぞき穴から見張り,だれかが近づいて来たら全員に警告することにしていました。警告の合図も幾つか考え出され,見張りが壁をノックするだけのこともあれば,見張りと聴衆の一人を糸で結んだこともあります。危険が迫った合図として見張りが糸を引っ張ると,糸のもう一方の端にいる人がグループに警告するのです。別の方法は,合い言葉を入れて何かしゃべることでした。例えば,見張りが,「だれか封筒を持っていませんか」と大声で言うとします。「封筒」という合い言葉を聞くと,兄弟たちは身を隠します。ベッドの下,ドアの裏など,隠れる場所はそれぞれ決まっていて,看守がのぞき穴から見た時に見つからない場所ならどこへでも隠れました。その慌ただしい移動すべては,瞬く間に音を立てずに行なわれました。兄弟たちはよく組織されていなければなりませんでした。

ある集会の最中,兄弟たちは,建物に不審な人物が入って来たという通報を受け,急いで身を隠しました。エホバの証人ではない一人の囚人がドアを開け,テーブルに何かを置きました。その囚人は出て行く時に,振り返って,「お前ら,何で隠れてるんだ?」と言いました。ちょうどその時,看守が笛を鳴らしながら,掃除の志願者を探していました。それで兄弟たちは,「あの人に見つからないよう隠れているんです」と答えました。囚人はすぐに事情を察し,急いで立ち去りました。兄弟たちは,それ以上邪魔されずに集会を終えることができました。

刑務所の秘密の図書室

証人たちは振る舞いが良かったため,刑務所内で付加的な責任をゆだねられるようになりました。刑務所の印刷機を操作したり,映画館や診療室や理容室の責任者になったりしました。兄弟たちは王国の関心事を促進するために,得られた特権を十分活用しました。例えば,マグダレナ刑務所の青写真を見ると,映画館は長方形でしたが,壁のコーナーは丸みを帯びていました。つまり,壁の裏側に高さ2.4㍍,幅1.8㍍,奥行き1.2㍍の空間がありました。聖書やものみの塔協会の出版物を置く図書室にうってつけの場所です。

この刑務所で3年間を過ごしたエクトール・バレーラの説明によれば,兄弟たちは映写室の壁板を外してから作業台をよじ登り,その場所に入ることができました。書籍は,食堂の食器棚の中にも隠されていました。

時折,刑務所の敷地から出て,少しのあいだ家族を訪問する許可が兄弟たちに与えられました。兄弟たちはよくその機会を利用して,最新号の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を刑務所に持ち帰りました。現在は旅行する監督のロドルフォ・ドミンゲスは,そのようにした時に生じたある出来事について語っています。「私たちは『ものみの塔』と『目ざめよ!』を衣服の下に隠しました。刑務所に着くと長い列ができていました。看守たちが徹底的な検査をしていたからです。検査が行なわれている場所に少しずつ近づき,ちょうど私たちの番になった時のことです。何と,看守が替わって検査は打ち切られてしまいました」。

ドミンゲス兄弟はこう続けています。「刑務所では,会衆のすべての集会が開かれました。実のところ,私が初めて公開講演を行なったのはこの刑務所でした」。投獄されていた証人たちは,時代衣装を着けた聖書劇さえ演じました。それは,家族を訪問した際に手に入れた個人の品物を持ち込むことによって実現しました。看守がサンダルやトーガ(古代ローマの外衣)などの用途について疑問を抱くことはありませんでした。

刑務所内で弟子を作る

宣べ伝えて弟子を作る業は,刑務所内でも大きな成功を収めました。刑務所内の兄弟たちの熱意と立派な行状から益を受けた人に,ノルベルト・ヘインがいます。ノルベルトはアルゼンチン国軍にいた時,麻薬の問題で告発され,刑務所に送られました。数か所の刑務所で,良心的兵役拒否を理由に拘禁されていた若い証人たちと出会い,その態度に感銘を受けたノルベルトは,プエルト・ベルグラノ刑務所に収監されている時に聖書研究を申し込みました。1か月足らずで,「とこしえの命に導く真理」の本の研究を終えた後,マグダレナ刑務所に移され,1979年に刑務所内でバプテスマを受けました。

ノルベルトは次のように思い出を語っています。「バプテスマの話は日曜日の晩9時ごろに行なわれました。聴衆は10人ほどで,ほかの兄弟たちは監房の外で見張っていました。話の後,私は二人の兄弟と食堂に行きました。そこには,鍋や釜を洗うための大きな水槽がありました」。その“バプテスマ用の水槽”には冷たい水が張ってありました。ノルベルトがそのことを鮮明に覚えているのは,それが冬だったからです。

ノルベルトはエホバの証人と交わったために迫害されましたが,終始確固としてエホバに仕えました。(ヘブ 11:27)ノルベルトと妻のマリア・エステルは,15年以上にわたりベテルで忠実に奉仕してきました。

『わたしの処罰を神に求めることはしないでほしい』

証人たちに寛大な看守は少なくありませんでしたが,そうでない人もいました。ある軍刑務所の看守長は,自分の勤務の日には必ず兄弟たちの食物や毛布を取り上げました。この看守は気性の激しい人でした。ウーゴ・コロネルは次のように語っています。「ある日のこと,この看守は夜明けが近づいていたころに監房のドアを蹴り開け,私を引きずり出し,5人の武装した兵士を指さしながら,お前もいよいよおしまいだな,と言いました。彼は,信仰を否認する用紙に署名させようとしました。私が拒むと,お前はもうすぐ死ぬから母親に手紙を書け,と言いました。怒り狂った看守は,次に私をれんが塀の前に立たせ,銃を構えるよう銃殺執行隊に命じ,『打て!』の号令を出しました。撃針のカチッという音しか聞こえませんでした。ライフルには銃弾が込められていませんでした。私の忠誠を打ち砕くために仕組まれた単なる策略だったのです。看守は,私が恐ろしさのあまり泣いているに違いないと考えて,私の方へやって来ました。私が平然としているのを見ると,かっとなり,怒鳴り始めました。私は監房に連れ戻されました。少し震えていましたが,確固としていられるようにと願った私の祈りに,エホバが答えてくださったことをうれしく思いました」。

ウーゴが別の刑務所に移される予定の日の数日前,この看守長は刑務所内にあるバラック全体に,明日は何としてもウーゴに軍服を着用させると宣言しました。エホバでもそれは阻止できない,とまで言いました。では,どんなことが起きたでしょうか。ウーゴはこう述べています。「翌日,ひどい交通事故が起きて,その看守の頭が胴体から切り離されたことを知りました。この事件は受刑者全体に大きな衝撃を与えました。神はその看守長を,驕りと脅しのゆえに処罰されたと見る人がほとんどでした。実際,その晩,私を監房まで連れて行った看守は,自分の処罰も神に求めることはしないでほしい,と私に嘆願したほどです」。現在ウーゴはミシオネス州ビヤ・ウルキサで長老として奉仕しています。

一つのことは確かです。それは,兵役を拒否したそれらの若い男子が,非常に難しい状況の下で忠誠を保ったということです。刑務所の当局者たちから,銃殺すると脅された人もいました。殴打され,食物を取り上げられ,独房に入れられた人もいます。そうした扱いにもかかわらず兄弟たちが示した信仰と忠誠は,兵士にとっても他の囚人たちにとっても強力な証しとなりました。

定期的な家族研究から益を得る

「だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できる」ようにすることは,子どもたちにも求められました。(ペテ一 3:15)フアン・カルロス・バロスの息子たちは,当時7歳と8歳で公立学校へ通っていました。校長の女性は年上の息子に,クラス全員の前で国旗に敬礼するよう要求しました。それを拒むと,校長は怒鳴り,その子を打ちたたいて,国旗の方に押しやりました。それでもその子は国旗に敬礼することを拒みました。次いで校長は,二人を校長室へ連れて行き,1時間にわたり愛国的な歌を歌わせようとしました。その努力が徒労に終わり,校長は二人を放校することに決めました。

この件は行政裁判所に持ち込まれました。審問中,裁判官は二人をわきに連れて行き,尋問を行ないました。二人が幾つもの質問にすぐ答えたため,裁判官は狼狽し,ぶるぶる震え出し,こぶしでテーブルをたたくと部屋を出て行ってしまいました。裁判官は15分後に戻って来ましたが,まだ震えているのが分かりました。しかし,判決は証人たちに有利なものでした。裁判官は有利な判決を読み上げてから,バロス兄弟にこう言いました。「実に素晴らしい家族をお持ちです。もしすべての家族がこのような高い原則に従っていれば,この国はもっとよくなるでしょう」。バロス兄弟は,「この経験から,子どもたちが堅く立てるようにするうえで,定期的な家族研究がいかに有益か,よく理解できました」と語っています。結局,1979年にアルゼンチン最高裁判所は,子どもたちには教育を受ける権利があるとの判決を下しました。

再び順調な時期を迎える

1950年以来これまで,アルゼンチン支部はどの新政府に対しても,エホバの証人を宗教団体として法的に認可することを要請してきました。法的認可を得ることには幾つかの段階が関係しています。まず,特定の数の会員を有し,人々に聖書を教えるといった社会的・宗教的目的を持つ法人の設立が必要でした。次に,その法人を登録しなければなりません。その目的の合法性を政府が認めなければなりません。政府が認可すれば,登録番号が与えられます。この番号があれば,宗教団体としての法的認可を求める申請書を作成することができます。エホバの証人は業が禁止されていたため,1981年まで,その社会的・宗教的目的は違法であるとして退けられてきました。

エホバの証人の業に対する新たな禁令が施行されてからわずか2か月後の1976年11月に,支部事務所は,禁令を解くようアルゼンチンの国民裁判所に提訴しました。それだけでなく,証人の子どもが愛国主義的な儀式への参加を拒否したために放校された問題,兄弟たちが良心的兵役拒否のゆえに投獄された問題,ものみの塔協会の出版物が押収された問題などに関して上訴しました。

1978年10月10日,それらの上訴事件は米州人権委員会にも提出され,同委員会は,アルゼンチン政府がエホバの証人の人権を侵害したと判断し,禁令を解くよう勧告しました。

1980年12月12日に,事実上の軍事政権は米州人権委員会の勧告を受け入れ,禁令を解きました。これにより,アルゼンチンのエホバの民は自由に集まることができるようになりました。そのため,兄弟たちには大きな喜びがもたらされました。一方,エホバの証人の活動自体はもはや禁令下にはありませんでしたが,証人たちの宗教組織はいまだ法的認可を受けていませんでした。

結局,1984年3月9日に政府はエホバの証人協会を宗教団体として認可しました。法的認可を求める多年にわたる闘いに終止符が打たれました。ようやく,王国会館に看板を掲げることができるのです。アルゼンチンの兄弟たちの歓びもひとしおでした。「エホバは,わたしたちに対して行なったことにおいて大いなることを行なわれた」と歌った詩編作者に皆が共鳴しました。―詩 126:3

しかし,法的認可は,王国会館に看板を掲げる以上のことを意味しました。ブエノスアイレスに住むクリスチャンの長老シリアコ・スピナは,こう言います。「禁令が解かれ,大きな大会を再び開けるようになったわたしたちは,利用できる最良の施設を用いてわたしたちの神エホバに誉れを帰したいと思いました。これまで何度も,マール・デル・プラタの新しいシティー・スタジアムを使わせてもらおうとしましたが,法的に認可されていないとの理由から,使用許可は1度も与えられませんでした。その後1984年には,エホバに感謝すべきこととして,証人たちに法的認可が与えられました。今はシティー・スタジアムと,最近では,新しいスポーツ・センターの両方を大会会場として使用できます」。

兄弟たちが大規模な集まりの活気ある雰囲気を味わってからかなりの年月がたっていました。それで支部は,近づいていた地帯監督フレッド・ウィルソンの訪問を十分活用することにしました。2週間足らずで,大ブエノスアイレスの兄弟たちをベレスサルスフィールド競技場に収容する取り決めが設けられました。禁令が解かれてから初めて開かれる大規模な集会です。急な知らせだったにもかかわらず,1984年2月15日に開かれた,喜びに満ちた霊的な「祭り」に3万人近い人々が出席しました。―詩 42:4

禁令の結果

軍事政権下では,何万もの人が失踪し,処刑されました。驚くべきことに,政府がエホバの証人に対して強硬な態度を取っていたにもかかわらず,失踪者の中に証人は一人もいませんでした。

禁令によって,証人たちは命が救われただけでなく,一層広く人々に知られるようになりました。禁令が課される前,証人たちに対して,何という宗教ですかと尋ねた人たちは,「エホバの証人です」という返事にけげんな顔をしました。禁令後,そのようなことはなくなりました。全時間奉仕者として37年奉仕してきた,スサナ・デ・プケッティはこう言います。「禁令が解除された後,私たちはもう,“エホバの子たち”とか,“エホバども”とは呼ばれなくなりましたし,福音主義派と混同されることもなくなりました。禁令が課されていた間,正しい名称がラジオや新聞で何度も繰り返し伝えられました。喜ばしい結果になりました。やがてエホバの証人という名は,人々に知られるようになったのです」。

合法的な兵役免除

同じころ,エホバの証人協会を宗教団体として認可する措置を取った宗教庁次官マリア・T・デ・モリニ博士は,エホバの証人協会の代表者たちが宗教庁長官,国防大臣と会合する重要な取り決めを設けました。この会合の目的は,エホバの証人の兵役免除を考慮することでした。支部委員会は,正規開拓者の兵役免除を望んでいましたが,当局はその枠をさらに広げることをいといませんでした。

学生とみなされる人ならだれでも免除を受けられるというのが当局の意向であり,神権宣教学校に入校している人たちは皆,神学生とみなされました。バプテスマを受けた兄弟が18歳になり,兵役につく義務が生じると,会衆の長老たちは,その兄弟の良い行状を証明する書類に必要事項を記入して署名します。その書類は,支部事務所に送られて署名が付され,次いで宗教庁の登記所に転送されます。すると宗教庁は,その兄弟が兵役を免除されるために軍当局に提出すべき証明書を発行します。この効果的な制度は,1990年代に兵役義務が廃止される時まで活用されました。

至る所で見られた驚くべき増加

1950年から1980年にかけて,エホバの証人の業は政府によって禁止されました。その難しい時期に,兄弟たちは熱心にみ言葉を宣べ伝え続けました。その結果,エホバは増加をもって祝福してくださいました。1950年当時,アルゼンチンの奉仕者は1,416人でしたが,1980年には,3万6,050人になっていたのです。

法的認可が得られてからは,イザヤ 60章22節の「小さな者が千となり,小なる者が強大な国民となる。わたし自ら,エホバが,その時に速やかにそれを行なう」という言葉どおり,一層の増加がもたらされました。全国から寄せられた報告を少し見るだけで,その言葉の真実さがよく分かります。例えば,禁令が解かれてから,大ブエノスアイレスのフランシスコ・ソラノ会衆の奉仕者は70人から700人に増加し,現在では七つの会衆と交わっています。

リオ・ネグロ州シンコ・サルトスで長老として奉仕しているアルベルト・パルドは,シンコ・サルトスにわずか15人の奉仕者しかいなかった時のことを覚えています。今日,そこには三つの会衆に合計272人の奉仕者がおり,住民の100人に1人が証人です。ブエノスアイレスのカルメン・デ・パタゴネス会衆に交わるマルタ・トローサは,「1964年当時,狭い部屋に集まっていた小さな群れのことを思い,それに比較して今では三つの王国会館に250人の兄弟姉妹が集まっていることを考えると不思議な気がします」と言います。

パルミラと周辺の町々における急激な増加のため,毎週末に公開講演と「ものみの塔」研究を2回行ない,兄弟姉妹が王国会館で一層快適に過ごせるようにする必要がありました。出席者が常時250名を超えていたため,記念式にはもっと大きな会館を借りました。当初パルミラ会衆に割り当てられていた四つの異なる町に,1986年以来,幾つかの会衆が設立されてきました。

当初33人の奉仕者から成っていた大ブエノスアイレスのホセ・レオン・スアレス会衆は拡大し,五つの会衆に分かれました。その会衆の長老フアン・シェレンベルクは言います。「新しい会衆が設立されるたびに,区域が狭くなりました。今では,縦16区画,横8区画の小さな区域しかありません。割り当てられた地区は週に一,二回網羅されています。私たちが宣べ伝える人の多くは無関心ですが,まだ良い経験をしますし,聖書研究も始めることができます。王国会館は中心にあるので,100人の奉仕者の大半は集会に歩いて来ることができます」。

開拓者精神が広く行き渡る

禁令が解かれたことに伴って,広大な活動の分野が開かれました。王国宣明者の必要の大きな区域は少なくありませんでした。

1983年12月,エホバの証人があまり奉仕していない区域で宣べ伝える活動を開始するため,10組の夫婦が3か月だけ一時的な特別開拓者として派遣されました。選ばれた夫婦は,すでに正規開拓奉仕や補助開拓奉仕を行なっていて,巡回監督から推薦された人たちです。目標は,文書を配布すると共に聖書研究を始めるよう努力して,大々的な証言を行なうことでした。関心を示した人たちの世話は,近隣の会衆の奉仕者がするか,文通でするかになっていました。このキャンペーンは素晴らしい結果をもたらしました。現在,それらの開拓者たちが奉仕した10の町のうち九つに会衆が存在します。

アルヘンティーナ・デ・ゴンサレスは,それら一時的な特別開拓者の一人でした。アルヘンティーナは夫と共に,エスキナに任命されました。二人は,4人の子どもたちとエスキナにやって来ました。週3回,家の寝室の一つが集会場になりました。家から家を訪問すると,ほとんどの人から家の中に招き入れられました。家の人はまず最初に,彼らがどこから来て,何人子どもがいて,どこに滞在しているのかを知りたがりました。アルヘンティーナはこう述べています。「家の人の好奇心を満たしてあげると,彼らはとても喜んで音信に耳を傾けました。私は7件の聖書研究を取り決めることができましたが,そのうちの1件は,一人の女性とその4人の子どもたちとのものでした。彼らはすぐ集会に出席し始め,決して休みませんでした。数か月もたたないうちに,その母親は娘と共にバプテスマを受け,娘さんのほうはその後,開拓者になりました。今でも全員がエホバに忠実に仕えているのはうれしいことです」。

どんな境遇にあろうとも自足する

開拓者精神を抱くある人たちは,厳しい気候,孤立状態,原始的な生活環境などに進んで順応します。ホセ・フォルテとエステラ・フォルテが特別開拓者としてサンタ・クルス州リオ・トゥルビオに遣わされた時,その地域には,ほかの証人たちや聖書研究生は一人もいませんでした。そうした難問に加え,リオ・トゥルビオはアルゼンチンの最南端に位置しており,気温が華氏零度(摂氏マイナス18度)をずっと下回ることも珍しくありません。

フォルテ兄弟姉妹は,ある証人の親族が所有する家の狭い一室に滞在し,リオ・ガエゴスにある最寄りの会衆まで300㌔の道のりを車で走りました。ある時,集会からの帰り道,人気のない幹線道路で車のエンジンがオーバーヒートしてしまいました。ラジエーターから水が漏れていたのです。気温は危険なほど低く,地元の人たちがエル・スエーニョ・ブランコと呼ぶ,死をもたらす抗しがたい眠気に襲われ始めました。二人は,眠り込まないようにエホバに助けを祈り求めました。近くの牧場にたどり着き,そこで体を温め,ラジエーターに水を補充できた時は,本当に感謝しました。

最初,フォルテ兄弟姉妹は最も人口の密集した地域を重点的に伝道し,間もなく30件以上の進歩的な聖書研究を持つようになりました。短期間のうちに,その町に群れが設立されました。次に,山間部や農村部に住む人々に会う努力が払われました。年に1度,ホセは馬に乗って6日から7日の伝道旅行をしました。ある時,ホセと仲間がある牧場に近づいてゆくと,攻撃的な番犬を連れた一人の女性に出会いました。自分たちはエホバの証人であると言うと,その女性は二人を見て噴き出し,「ここまで来るんですか」と言いました。どうしてそのような反応を示すのかと尋ねたところ,その女性は,以前ブエノスアイレスのベテルの近くに住んでいたと答えました。それから,「エホバの証人がこんなに辺ぴな所まで,しかもガウチョのような格好をして来るなんて,考えもしなかったわ」と言いました。二人は食事に招かれ,活発な聖書の話し合いを行なうことができました。フォルテ兄弟姉妹の粘り強い努力は実を結び,現在リオ・トゥルビオには31人の奉仕者から成る活発な会衆があります。

水上王国会館

ある人たちは,宣べ伝えるのに順調な時期を活用しようと決心し,ブエノスアイレスに近い,パラナ川のデルタ地帯に住む人々に証言するという,やり甲斐のある仕事に取り組みました。デルタ地帯で証言するのは,決してたやすい仕事ではありません。島と島の間の距離,利用できる輸送機関,気まぐれな天候などの問題があるからです。自家用ボートでの旅は費用もかかり,危険な場合もあります。それでも,粘り強さは報われました。1982年に,孤立した群れがティグレ会衆の一部として設立されたのです。

経費を削減するために,ティグレ会衆のアレハンドロ・ガスタルディニ兄弟が,プロパンで動くエンジンの付いた全長7㍍の軽量プラスチック・ボート,エル・カルピンチョ号を作りました。それとほぼ時を同じくして,ブエノスアイレスのラモン・アントゥネスとその家族が,デルタ地帯で王国の関心事を促進するために,ヨットを提供しました。これらの熱心な兄弟たちが精力的な態度で先頭に立ち,他の会衆の奉仕者たちに週末の宣教を支持するよう呼びかけました。幾つもの研究が始まり,実を結ぶようになりました。幾つもの家族全体が真理を受け入れるようになったのです。

それらの島の住人はほとんどボートを持たず,公共の乗り物もあまりなかったので,関心のある人の大半は集会に出席するのが困難でした。それで兄弟たちは,集まり合って霊的に強め合えるよう,互いに助け合いました。例えば,全員が記念式に出席できるように,ボートで辺り一帯を回って,バプテスマを受けた証人たちや関心ある人たちを拾ってゆきました。こうして,船上で記念式を祝うことができました。

その後,カルロス・ブストスと妻のアナ,そして娘のマリアナが開拓者としてデルタに割り当てられました。支部は,プレクルソール1号というモーターボートを購入して援助しました。このモーターボートには,台所と洗面所,そして3人の寝られる場所がありました。船尾にあったマリアナのベッドは,とても細長く棺桶に似ていたので,エル・サルコファゴと呼ばれました。

現在,このデルタ地帯には20人の奉仕者が住んでおり,ティグレ会衆の一部としてエホバに仕えています。兄弟たちの大半は個人用ボートを持つようになり,神権的な責任を果たすためのより良い備えができています。しかし,自分たちの王国会館を建てるという夢は実現不可能に思えました。なぜでしょうか。

この地域では洪水が絶えないため,建物を建てるのに適した土地は非常に値が張るのです。限られた資金しかない少人数のグループにとって,この障害は克服し難いように見えました。とはいえ,土地は不足しているものの,水は豊富にあります。ですから,水上王国会館を建てるのはどうでしょうか。支部は率先して,そうした王国会館の建設を進め,会館は1999年6月に完成しました。今では,ティグレ会衆の長老たちが交代でその王国会館を訪問し,群れのために毎週の集会を司会しています。

韓国語を話す人々に伝える

アルゼンチンのエホバの証人は,地理的に異なる様々な場所に住む人だけでなく,様々な国籍の人にも宣べ伝えるよう尽力しています。2回目の禁令が敷かれる前,黄龍瑾<ファン ヨンキュン>という韓国人の兄弟が,1971年に家族と共にアルゼンチンへ移住し,スペイン語会衆と交わり始めました。韓国人の間で弟子を作る業が多くの実を結び,韓国からさらに証人たちが移住して来たので,ブエノスアイレス州モロンに韓国語の群れを設立することができました。しばらくすると,会衆の五つの集会すべてを毎週開けるようになり,1975年には,アルゼンチンで最初の韓国語会衆が設立されました。その1年後,韓国語会衆の最初の王国会館がエホバに献堂されました。

禁令の期間中,韓国語会衆は幾つかの小さなグループに分けられました。韓国人の兄弟たちは,会衆として集まり合うことを切望したので,月に1度,公園で公開講演と「ものみの塔」研究を行なう取り決めが設けられました。警察は韓国語を一言も理解できなかったので,その集まりが宗教的な性質のものであることなど全く分かりませんでした。

禁令が解かれてから,韓国語の畑は着実な増加を見せました。韓国人は国中に散らばって住んでいるため,それらの人たちに宣べ伝えるためには,多くの場合,ふさわしい人たちを求めて何百キロも旅行することが必要でした。韓国人の証人たちは年に二,三度,韓国人の商人を探すため,遠く離れた幾つかの州に赴きました。エホバは彼らの勤勉な努力を祝福されました。今日,韓国人の平均伝道者数は288人となり,四つの会衆と交わって熱心にみ言葉を宣べ伝えています。

最近まで,韓国語会衆は,スペイン語を話す巡回監督の訪問を受けており,集会や野外奉仕,牧羊訪問の際に通訳が必要でした。しかし1997年に,ギレアデ第102期卒業生のスティーブン・リーとジューン・リー(李承浩<イー サンホ>と金允卿<キム ユンキョン>)がアルゼンチン,ブラジル,パラグアイの韓国語会衆で奉仕するよう任命されました。リー夫妻は,韓国系の人で韓国語を流ちょうに話せるため,兄弟たちはその訪問から大きな益を得ています。公平なエホバ神のこの愛情深い取り決めに,皆が心から感謝しています。―使徒 10:34,35

リー兄弟姉妹は,3か国の気候や水や食物にいつも順応しなければなりません。6か月のうち3か月はアルゼンチン,2か月はブラジル,1か月はパラグアイに滞在します。韓国語会衆で奉仕するとはいえ,地元の言葉も話さなければなりません。ブラジルでポルトガル語を話すことに加え,2種類のスペイン語にも精通しなければなりません。それでも二人は,まさに国際的なこの巡回区で楽しく奉仕しています。2年後,この巡回区の開拓者の数は10人から60人に増加しました。

ろう者の人たちがエホバを賛美する

1970年代にろう者が何人か会衆の集会に出席するようになり,この人たちも特別な援助を必要とすることが明らかになりました。そうした人たちが集会から益を得るには,手話通訳者が必要でした。1979年の時点で,あるグループが,ブエノスアイレス州ビヤ・デボトに住むろう者の夫婦ココ・ヤンゾンとコカ・ヤンゾンの自宅で集会を開いていました。それは始まりにすぎませんでした。

真理を受け入れるろう者の数は禁令期間中だけでなく,1980年代および1990年代にも増加しました。1980年代に,ろう者の兄弟姉妹と通訳者が大ブエノスアイレスの特定の会衆に割り当てられました。プログラム全体がろう者のために通訳され,ろう者は集会から益を得ることができました。

しかし,ろう者の人たちは,一層十分に会衆の活動に参加したいと思いました。それで,1992年に支部は,ろう者と通訳者を一つの手話会衆に集めることにしました。こうした方法により,ろう者の奉仕者たちは自分たちの言語で,教えたり注解したり伝道したりすることに活発に参加し始めました。

「手話会衆は,私の祈りに対する答えです」と,ろう者の姉妹であり,一人で子どもを育てている,シルビア・モリは言います。「ろう者の兄弟姉妹と前より多く接触できるので,非常にうれしく思います。以前は,幾つかの健聴者の会衆に分かれていたので,週に1度しか会えませんでした」。

別のろう者の姉妹エルバ・バサーニはこう言います。「手話会衆がなかった時,私には落胆する傾向がありました。でも今は補助開拓ができ,忙しくエホバに奉仕することができます。霊的な兄弟たちと接触する機会も多くなりました。エホバに深く感謝しています」。

手話は視覚的な意思伝達の手段ですから,協会のビデオは特に効果的です。「エホバの証人 ― その名前の背後にある組織」のビデオは,アルゼンチン手話ですでに入手することができます。さらに,「神はわたしたちに何を求めていますか」のブロシュアーや,他の出版物の手話版のビデオも準備されています。現在アルゼンチン全体で四つの手話会衆があり,長老や奉仕の僕として仕えている38人のろう者の兄弟を含め,合計200人の奉仕者がいます。

英語を話す人々を援助する

1993年の終わりごろ,アルゼンチンで外国企業が業務を開始しました。アルゼンチンに派遣された社員の中には,英語は分かるものの,スペイン語はあまり話せないバプテスマを受けた証人もいました。それらの人々の霊的必要を顧み,増え続ける英語人口を構成する人々に音信を伝えるため,国内初の英語会衆がブエノスアイレスに設立されました。英語を学んだことのあるアルゼンチン人の中には,この新しい会衆を援助するため自分を差し出した人もいます。

この会衆では1994年6月の設立以来,10人がバプテスマを受けました。さらに,一時的にアルゼンチンに住んでいる大勢の人たちも,自分たちの理解できる言語で提供される集会を楽しみ,同時にそこから益を得ることができます。

一人のマプチェの若者が道を開く

「あらゆる人」を「真理の正確な知識に至る」よう援助することには,居留地に住む先住民のインディオに音信を伝えることも含まれます。(テモ一 2:4)南西部にあるネウケン州には,マプチェ族のインディオの居留地があります。その共同体の首長は,ほかの宗教団体の過去の行ないを理由に,証人たちに居留地に入る許可を与えませんでした。パトリシア・サビナ・グアイキミルというマプチェ族の若い女性は,母親から何冊かの出版物をもらいました。母親が居留地の外で働いていた時に受け取っていたものです。パトリシアは,さらに詳しい情報を求める手紙を支部に書き送りました。返事を書くように指示されたモニカ・ロペス姉妹は,パトリシアに,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本を送り,聖書研究の取り決めについて説明しました。パトリシアは研究に応じ,1年のあいだ文通によって研究しましたが,二人は一度も会ったことがありませんでした。

ある日,モニカの家のドアをノックする音がしました。モニカはそこにパトリシアがいるのを見て大喜びしました。パトリシアは,出産を控えた実の姉に付き添って救急車で町にやって来たのです。一緒に過ごせる時間はほんのわずかしかありませんでしたが,モニカはパトリシアに王国会館を見せて,どのように集会が行なわれるかを説明し,近づいていた巡回監督の訪問に招待しました。

パトリシアは,家に戻ってからも素晴らしい進歩を続けました。実際,ある朝,日々の聖句の中で伝道の重要性が強調されていた時には,雌馬に鞍をつけ,朝の7時から夕方近くまで近所の人たちに証言しました。パトリシアの証言活動は,外部のエホバの証人がその居留地で伝道するための道を開きました。パトリシアは1996年にバプテスマを受け,引き続き「救いの良いたより」をインディオの社会に広めています。(詩 96:2)他のインディオの居留地は,証人たちが定期的に訪問しています。

王国会館が必要になる

禁令後の順調な時期にアルゼンチンのエホバの証人が宣べ伝える業を熱心に拡大したため,ふさわしい王国会館が必要になりました。王国会館の中には,粗末な造りのものもありました。例えば,北部のサンティアゴ・デル・エステロ州のある会館は,壁がプラスチックでできていました。長年,王国会館建設プロジェクトに携わってきたルイス・ベニテスは,こう言っています。「フォルモサへ行った時,アイゼンハワー兄弟と私は,兄弟たちの集会場所が,高さ1.2㍍の壁だけで,天井もドアも窓もないことに気づきました。兄弟たちは,レンガに板を載せて椅子代わりにしていました。雨が降ったらどうするのかと聞くと,兄弟たちは,『傘を持ってくる人もいますが,残りの人は濡れています』と言いました」。

1980年に禁令が解かれた後,チュブト州トレリュー会衆の長老たちはすぐに,霊的な教えを求めてやって来る大勢の人たちを収容する十分な広さの場所がないことに気づきました。ある集会場を所有していた家族の下で働いていた一人の姉妹は,集会のためにその集会場を使わせてもらえないだろうかと尋ねました。その願いは聞き入れられ,会衆は7ないし8か月間,無料でその会場を借りて集会を開きました。その後はしばらくの間,ある兄弟の経営する室内装飾店を使いました。しかし,いつもその場所を使えるわけではなかったので,少人数のグループに分かれて兄弟たちの家で集まる取り決めを設けなければなりませんでした。集会のために常時使用できる場所が必要なことは明らかでした。会衆の成員は,自分たちの最初の王国会館を建設することを決意しました。集会場所探しに5年の歳月を費やした後,トレリューのエホバの証人は,ついにエホバに献堂できる王国会館を持つことができました。ところが,程なくして奉仕者の数が増加し,また別の王国会館を建てる必要が生じました。

国中で,諸会衆は王国会館を必要としていました。真の崇拝にふさわしい建物を備えるために,何らかの手を打たなければなりませんでした。

支部が救援の手を差し伸べる

この必要にこたえるべく,支部は王国会館建設プロジェクトを企画しました。建設資金の貸し付けの取り決めが設けられ,専門家による快適で実用的かつ簡素な会館の設計図が示されました。さらに,建設工事を組織する方法についても提案が与えられました。資格を持つ兄弟たちが技術援助を与えるよう割り当てられました。このプロジェクトにより,王国会館は最初2か月で,その後はわずか30日で建てられるようになりました。

王国会館をもう一つ必要としていたトレリューの諸会衆は,この簡素化された建設プロジェクトの恩恵にあずかりました。工事が開始されてからわずか60日後に,新しい会館での集会を楽しむことができたのです。それは町の住民にも素晴らしい証言になりました。ごみ捨て場同然だった空き地に,突然美しい王国会館が建つのを見たからです。その地域の建設業者たちはたいへん感銘を受け,兄弟たちを雇いたいと思いました。

大規模な集まりのための大会ホール

一方,アルゼンチンの兄弟たちは,規模の大きな集まりのための大会ホールが必要なことに気づきました。北部の州ミシオネスのオベラで,ある家族が土地を寄付し,地元の兄弟たちが壁のない屋根付きの施設を建てました。1981年にここで大会が開かれ,300人が出席しました。今その同じ敷地には,2,200人収容の常時使用できる建物が建っています。

1984年にエホバの証人協会が登録されてから,ブエノスアイレス地区で二つの大会ホールが,一つは1986年にモレノで,もう一つは1988年にロマス・デ・サモラで,エホバに献堂されました。ロマス・デ・サモラにあるホールは,元々,使われていない工場と倉庫でした。1985年7月9日,18日間途切れることなく重労働が続くプロジェクトのために,約1,500人の自発奉仕者がやって来ました。建物をきれいにし,工場の一部を,1,500人を楽に収容できるホールに改装しました。1985年7月27日に開かれる最初の大会に間に合わせるため,夜通し働いた人もいました。今は,コルドバ市で1993年に献堂されたものを入れて,四つの大会ホールがあります。

地域大会はどこで開けるのか

絶え間ない増加のため,地域大会のためのふさわしい施設を借りることがいよいよ難しくなりました。会館使用料は高く,多くの場合,管理者側は契約の条項を尊重しませんでした。音響設備や他の必要な装置を運んで組み立てるのは,不便なだけでなく非効率的でした。そのうえ,大きな野外スタジアムでは風雨にさらされるため,聴衆がプログラムの益に十分あずかるのは難しくなります。

こうした問題を解決するため,首都の南西部に広がる農村地域カニュエラスで土地が購入されました。コンベンション・ホールが建設されて,地域大会や他の大会のために使用されることになりました。このホールは,国内ですでに使われている四つの大会ホールを補うものとなります。

プロジェクトが始まってから6か月もしないうちに,9,400席ある広々としたコンベンション・ホールが,1995年10月に開かれる最初の地域大会のために整えられました。(ヨエ 2:26,27)この施設は1997年3月にエホバに献堂されました。統治体のケアリー・バーバーは熱意のこもった献堂の話を行ない,その翌日は大きなリバプレート競技場で開かれた特別集会にも参加しました。競技場は,国中からやって来た兄弟たち7万1,800人で一杯になりました。その中には,パタゴニアから3,000㌔の距離を旅して来た人々も含まれていました。

新しい支部施設

1984年12月には,王国宣明者の数は5万1,962人という新最高数に達しました。この増加によって,さらに多くの文書が必要となり,さらにはより大きな印刷工場も必要になりました。この必要を満たすために,工場と事務所のスペースを拡大することになり,ブエノスアイレスのカルダス通り1551番地にある一群の建物が購入され,改装されました。さらに支部は,ブエノスアイレスのエルカノ大通り3850番地にある,使われなくなったセラミック工場を購入し,それを取り壊して,美しい一群の宿舎棟を新築しました。

この建設プロジェクトに,国際建設計画から派遣された259人を含む,合計640人の専従奉仕者が携わりました。さらに,週末には幾百人もの人たちが手伝いにやって来ました。建設現場では,外国から来た200人余りの自発奉仕者たちが,興味深い状況を作り出しました。一人の兄弟は要求書に,白いパロモス(雄バト)12と書きました。購入部門の監督は,なぜ鳥が必要なのだろうと不思議に思いました。後で分かったことですが,その兄弟は白いペンキ12ポモス(チューブ)が欲しかったのです。

そのプロジェクトが進行していたころ,アルゼンチンは極度のインフレに見舞われていました。建設資材の価格が一日に3倍になることがあり,購入の関係者たちは難しい問題を突き付けられました。この間ずっと,現場の兄弟たちは最も重要な業,つまりみ言葉を宣べ伝える業を決して忘れませんでした。ある納入業者は,よく社員を現場へ行かせましたが,彼らは必ず,資材の注文と共に徹底的な証言を受けました。合計すると雑誌20冊,書籍5冊がこの会社の従業員に配布され,社長室には,何冊もの雑誌が展示してありました。

建設そのものが証しとなりました。兄弟たちはティルトアップ工法,つまり,鋼鉄で補強されたコンクリート・パネルを現場で成型し,その後クレーンで所定の場所に持ち上げる,という工法を用いました。それは珍しい建設工法だったため,地元の建設業者の注意を引きました。土曜日の朝になると,建築を学ぶ大学生たちが見学に来て,案内されました。

1990年10月に,この美しい一群の建物はエホバに献堂されました。統治体のセオドア・ジャラズが,イザヤ 2章2-4節に基づく感動的な献堂の話を行ないました。アルゼンチンで真理の種をまく初期の業に携わった大勢の人たちと共に,他の支部からのゲストが,この喜ばしい行事に参加しました。

さらなる拡張

新しい支部施設が献堂されるとすぐに,カルダス通りの工場群に関係した拡張が始まりました。隣接地に,文書倉庫として地上3階地下1階の建物が建設されました。25人の自発奉仕者のグループによって,このプロジェクトは8か月で完了しました。

事務所スペースを増やす必要が生じたちょうどその時,ベテル・ホームから1ブロック離れたところにある建物が売りに出されました。建築許可を出すことに市がますます難色を示すようになっていたので,建物付きの土地を取得するのは妥当な選択と言えました。その建物は建てられてから30年はたっていたものの,高級な建築資材で作られ,内側は硬材を用い,外側は大理石仕上げになっていました。この建物は取得後に改装され,現在では,管理関係の事務所や購入部門,奉仕部門,建設部門,会計部門が用いています。この建物はカニュエラスのコンベンション・ホールと同じ1997年に献堂されました。

近隣の国を援助する

禁令の期間中,ブラジルやウルグアイといった近隣の国々のエホバの証人は,アルゼンチンの兄弟たちが霊的食物を得られるよう援助してくれました。しかし今はアルゼンチン支部が隣国チリの必要を満たしています。1987年1月以来チリに届けられている雑誌は最初,民間の業者が運搬していましたが,1992年からは協会所有のトラックで運んでいるのです。

チリへ行くには,アンデス山脈の標高3,100㍍の場所を通らなければなりません。雪に覆われた山々の曲がりくねった道でセミトレーラーを上手に操るには,運転手の巧みな技術が必要です。ある区間には,危険なヘアピンカーブが31か所もあります。しかし,遅れずにチリの兄弟たちが雑誌を受け取れるのですから,この長旅も報われます。

4色刷り印刷が雑誌をより魅力的なものにする

世界的に絵や写真を好む傾向が強まってきたため,協会は,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の4色刷り印刷について検討を加えました。経済的に妥当な範囲で,魅力的な雑誌を作り出すことがその目的でした。米国のものみの塔協会からアルゼンチン支部に,中古のハリス社4色刷りオフセット輪転機が送られてきました。輪転機は,分解され,梱包された後に,ニューヨークのウォールキルから発送される必要がありました。1989年10月10日,この貴重な荷物がブエノスアイレスに到着した時には,それを再び組み立てる仕事も必要でした。世界本部の経験ある兄弟たちがアルゼンチンへやって来て,その仕事を監督し,オペレーターを訓練しました。

4色刷り印刷により,雑誌の配布数は大幅に増えました。例えば,4色刷り印刷が始まってから1年たった1991年には,628万4,504冊から724万8,955冊へと,100万冊近い増加を記録しました。

国際大会によって互いに励まし合う

多年にわたり禁令下に置かれていたアルゼンチンの証人たちは,再び国際大会の開催国となる機会を待ち望んでいました。その願いはついに実現し,1990年12月には,「清い言語」国際大会のために20以上の国からやって来た6,000人近い代表者たちを,ブエノスアイレスに迎えることができました。統治体のジョン・バーとライマン・スウィングルが出席し,励みとなる話を行ないました。4日間のプログラムは,リバプレート競技場とベレスサルスフィールド競技場の両方で提供され,合わせて6万7,000人を超える人々が出席しました。

崇拝の面では一致しているものの,代表者たちの間には多種多様な文化の違いがはっきり見られました。美しい民族衣装を身にまとったスペイン人の姉妹や,伝統的な着物を着た日本人の女性,黒いスーツに身を包み,つば広のソンブレロをかぶったメキシコの代表者が目に留まりました。

大会が終わっても,だれ一人その場を去ろうとはしませんでした。いろいろな国籍のグループが,ごく自然に王国の歌を自国語で歌い始め,ハンカチを振りました。この状態が1時間近く続いたあと,大会出席者たちはようやく帰途につきました。ある報道写真家は,「これほどの感動,これほどの温かさを感じさせた事柄は……アルゼンチンではいまだかつて起きたことがない」と述べました。

別の国の国際大会に出席するよう招待された,アルゼンチンの人々の興奮を想像してください。それは1993年のことでした。目的地はチリのサンティアゴです。アルゼンチンから1,000人以上が出席しました。14台の貸し切りバスで,ブエノスアイレスからサンティアゴまで1,400㌔の旅をしました。代表者たちは26時間の旅の間にアンデス山脈を越え,壮大な景色を楽しみました。しかしそうした経験でさえ,4日間の「神の教え」地域大会で24か国から来た約8万人の仲間のクリスチャンと一つに結ばれた時の喜びとは比較になりませんでした。

その後,1998年にアルゼンチン支部は,「神の命の道」国際大会のために,ブラジルのサンパウロと米国カリフォルニア州サンディエゴへ代表者を派遣してほしいとの連絡を受けました。長年,特別開拓奉仕を行なっているサラ・ブフドゥードは,アルゼンチンからの代表者400人余りと共に,サンディエゴでの大会を十分に楽しみました。サラはこう言います。「私たちを兄弟たちの家に宿泊させるという統治体の取り決めは,本当に愛のこもったものでした。人種や言語の障壁がもはやない新しい世での生活をかいま見ることができました」。

「教えられた者たちの舌」

兄弟たちが熱心に宣べ伝えたことと,国際大会をはじめとする霊的なプログラムにより,大勢の人々が真理にこたえ応じて,増大する奉仕者の隊伍に加わりました。1992年には9万6,780人の最高数に達しました。1984年に証人たちが法的に認可されてから,その数は2倍になりました。

増大するエホバの羊の群れを世話する牧者がさらに必要なことは明らかでした。(イザ 32:1,2。ヨハ 21:16)そのようなわけで,エホバは,会衆の世話をする独身の長老や奉仕の僕を訓練するためのプログラムを備えられました。宣教訓練学校です。この学校は,1987年に米国で始まり,1992年11月にはアルゼンチンでも開かれました。古いベテルの施設が学校を開く理想的な場所となりました。

近隣の国々からの91人を含む375人の生徒たちが,この特権のために素晴らしい認識を示しました。宣教訓練学校のために2か月間世俗の仕事を休むことは一つの試みでした。仕事を辞めたり,辞めさせられたりした人もいます。それでも,エホバは,生活の中で王国の関心事を第一にする人たちを顧みてくださいます。以前より良い条件で,給料の良い仕事に就くことができた人は少なくありませんでした。―マタ 6:33

ウーゴ・カレーニョは銀行に勤めていた時に第1期のクラスに招待されました。給料は良く,仕事の予定も開拓奉仕ができるほど余裕がありました。ウーゴはエホバに熱烈に祈ってから上司に申し出ましたが,学校へ出席するための休暇は認められないと言われました。それを聞いてウーゴは,「本当に行かなければならないのです。でも,学校の課程が終わるまで私の仕事を残しておいてくだされば,本当にありがたく思います」と言いました。

取締役会でこの件が考慮され,ウーゴの休暇願は受理されました。ところが,ウーゴは卒業後に特別開拓者として奉仕するよう任命されました。これは,1か月に140時間を宣教に費やすことを意味します。ウーゴは熱烈に祈ってから,退職を上司に申し出ました。上司はどう反応したでしょうか。「君に辞められるのは残念だが,君の新しい仕事の成功を祈っているよ」と言いました。現在,旅行する監督として奉仕しているウーゴは,「私たちが生活の中で神への奉仕を第一にする時,エホバが支えてくださることを何度も見てきました」と言っています。

それらの卒業生たちは,割り当てられた会衆を築き上げると共に,「知恵はその働きによって義にかなっていることが示される」というイエスの言葉の真実さの証しとなっています。(マタ 11:19)集会の質は向上し,結果として集会の出席者も増加しました。兄弟たちは神の羊の群れを牧す際に,受けた訓練を活用しながら,「疲れた者にどのように言葉を用いて答えるか」を見分けるように努めています。(イザ 50:4)卒業生の中には,現在巡回監督として奉仕している人もおり,代理の巡回監督も少なくありません。

『血を避けている』よう助ける

奉仕者の数が増えるにつれ,医療を必要とする証人の数も増加しました。証人たちは,『血を避けている』ことを求める聖書の命令に従って生きるよう努めています。それで,証人たちを助けるために,ネットワーク化された支援サービスを提供するのが実際的であることが分かりました。―使徒 15:29

医学界は,輸血が必要と考えられる場合に輸血をしないということには,乗り気ではありませんでした。そのうえ,ほとんどの裁判官は,証人の患者に輸血を強制的に施す許可をすぐに与えました。例えば,ある裁判官は,どんな状況下でも血を受け入れないことを明示した,法律的に有効な書類を所持していた患者に輸血を命じました。

1991年2月にブエノスアイレスで,医療機関連絡委員会(HLC)を発足させるための国際的なセミナーが開かれました。ブルックリンのホスピタル・インフォメーション・サービスの3人の兄弟が,アルゼンチン,ボリビア,チリ,パラグアイ,ウルグアイから来た230人の兄弟たちの教訓者となりました。このセミナーの参加者たちは,証人の患者の必要を確認する方法や,無輸血治療に関する情報を用いて医師を援助する方法を学びました。

今日,98人の長老たちから成る17のHLCが,アルゼンチン各地の主要都市で活動し,医学界に重要な情報を提供すると共に,エホバの証人に愛ある支援を与えています。彼らの仕事を補佐するのが,患者訪問グループを構成する他の何百人もの自己犠牲的な長老たちです。それらの長老たちは,証人の患者を訪問して,援助と励ましを与えます。現在アルゼンチンには,エホバの証人に対する無輸血治療への協力を惜しまない医師が約3,600人います。

愛を動機とした救援活動

もちろん,アルゼンチンも自然災害を免れることはできません。エホバの証人はそうした逆境にどう対処するのでしょうか。1977年11月23日にマグニチュード7.4の地震が起き,アルゼンチンの中西部全域に深刻な被害をもたらしました。当時,エホバの証人の業は禁令下にありましたが,兄弟たちは直ちに救援活動を組織しました。愛に動かされた近隣の証人たちは,様々な困難があったにもかかわらず,救援活動に参加しました。―テサ一 4:9

災害が起きた日,近隣のメンドサ州やサン・ルイス州の証人たちは,考え得るあらゆる乗り物で被災地に向かいました。地震によって巨大な地割れができたため,当局は,壊滅したカウセテ市に通じるほとんどの道路を封鎖しました。近隣の町々へ迂回しながら,証人たちは食糧や衣類や救急用品を運びました。カウセテ市に向かう道で,地面から立ち上る煙のようなものが見えました。しかしその実体は地震によって発生した土煙でした。人々は,数秒のうちに家や所有物を失い,中には命を落とした人もいました。うめき声があちこちから聞こえてきます。カウセテでは1,000軒以上の家屋が全壊しましたが,兄弟たち全員の家も含まれていました。証人たちは急いで一時的な避難所を作り上げました。約100人の証人たちが救援活動に携わりました。

カウセテ会衆の正規開拓者マリア・デ・エレーディアは,こう語ります。「近所の人の娘さんは産気づいて,陣痛が起きていました。兄弟たちは,その人の敷地に大きな避難用テントを張りました。その晩,ひどい嵐がありました。その人は深く感謝し,『意外でした。わたしたちの安否を気遣って来てくれた教会の人は一人もいませんでした。避難所を必要としていた時に助けに来てくれたのは,エホバの証人だったのです』と熱心に述べました」。

1998年4月に,証人たちは再び救援活動に携わりました。集中豪雨によりアルゼンチン北部,とりわけコリエンテス州,フォルモサ州,チャコ州,サンタフェ州に大洪水が起きたのです。コリエンテス州のゴヤ市では,72時間の総雨量が600㍉に達しました。その地域に住むエホバの証人のうち,洪水で家屋が浸水したり所有物が損なわれたりした人たちは全体の80%に上りました。洪水は農作物や動物だけでなく,橋や幹線道路をも流し去ったため,都市に通じる道路が寸断されました。被災した地域の巡回監督エリベルト・ディプ兄弟は,地元の長老たちと協力して区域を分割し,自宅にいる兄弟たちの様子を確かめました。カヌーで王国会館に避難した人もいました。食糧や衣類や医療品が全員に供給されました。

近隣のエントレ・リオス州のエホバの証人は,ゴヤにいる仲間の信者の苦境を知ると,すぐに行動を起こしました。わずか2日間で,エントレ・リオス州のパラナにある12の会衆は,約4㌧の保存食糧や衣類を集めて,幹線道路省から借り受けたトラックに積み込みました。

救援物資を届けるのは決してたやすいことではありませんでした。橋が2か所流されていました。一つ目の橋があった場所を渡る際,兄弟たちは一時トラックを止めて,幹線道路の作業チームが何百もの土嚢を積む手助けをしました。それから,兄弟たちは自分たちの荷物をトラックから降ろして川向こうまで運び,待機していた幾台ものトラックに積み込みました。

旅の第2行程では,勢いよく水が流れる冠水した道路を進まなければならず,トラックをうまく運転できないほどでした。日暮れになって,2番目の川を渡る場所まで来ました。そこでは,兵士たちのもとに大型のボートがあり,ボートを何回か往復させて荷物を向こう岸まで運ぶことに兵士たちは同意してくれました。

救援班はそこで,ゴヤからやって来た兄弟たちとついに出会い,彼らと一緒に道を進みました。ゴヤの兄弟たちは,仲間の信者たちの愛と決意に心から感動しましたが,パラナから来た兄弟たちは,洪水の被害者たちの揺るぎない忍耐に励まされました。

水害地域の諸会衆が終始示し続けた愛も証言になりました。例えば,ある姉妹の未信者の夫は,この雨で経済事情が悪化したことについて大きな不安と悲しみを言い表わしました。姉妹は夫に,会衆が絶対助けに来てくれる,と言いました。その翌日,長老たちが食料品を一杯持ってその家を訪れた時,夫の憂うつな気持ちはうれしい驚きに変わりました。政府や民間からの救援物資がやっと被災者に届けられた時,証人たちは救援物資をすでに四,五回も受け取っていました。

開拓者精神は弱まらない

兄弟たちは,洪水の影響を受け,物質的には困窮しましたが,み言葉を宣べ伝えることを決意していました。水害地の奉仕者で,宣べ伝える活動に以前より多くの時間を費やした人は少なくありませんでした。ある会衆では,区域の80%が浸水しましたが,多くの人が補助開拓者になりました。

会衆は,中心部のビジネス街の区域や,病院,バスターミナル,高層ビルで伝道することを取り決めました。雨は降り続きましたが,開拓者たちはそれらの区域で働くことができたので,さほど濡れずにすみました。補助開拓者たちも,チームで働くようにし,野外奉仕の取り決めを支持したり積極的な精神を示したりしました。極めて困難な状況の下でエホバの愛情深い世話を経験した結果,現在その多くは正規開拓者として奉仕しています。

世のありさまは変わりつつある

「この世のありさまは変わりつつある」ことを見て取ったアルゼンチン支部は,巡回監督たちに,もっと大勢の人と接することができるよう奉仕の予定を調整することを勧めました。(コリ一 7:31)ある地方では,全時間の仕事に就く人が増えているため,日中,家の人と会うのが難しくなっています。そのようなわけで,日中の早い時間に街路証言かビジネス街の証言を行ない,家から家へ宣べ伝える業は夕方まで残しておくようにと提案されました。電話証言や非公式の証言も強調されました。奉仕者たちは,目ざとく機会をとらえて人々に話すことを勧められました。

ある姉妹は家から家へ宣べ伝えている時,通りの向こうで一人の男性が子どもたちと遊んでいるのに気づきました。少しためらいましたが,姉妹とパートナーはその男性に近づいて会話を始めました。意外なことに男性は好意的な反応を示し,自宅の住所さえ教えてくれました。姉妹が夫と一緒にこの男性の家を訪問したところ,その人と奥さんは訪問を心待ちにしていました。数回の話し合いの後,聖書研究が始まりました。エホバの証人は,その人の家をよく訪問していたのですが,奥さんは関心を示したことがありませんでした。現在,この家族は良い進歩を遂げており,集会に出席するだけでなく参加もしています。

南部のサンタ・クルス州で,クラウディオ・ユリアン・ボロケスはツアーガイドとしての立場を利用して,氷河国立公園を訪れる観光客に非公式の証言を行なっています。この公園には,幅がおよそ5㌔もあるペリト・モレノ氷河をはじめ,13の大きな氷河があり,世界各地からやって来る観光客を魅了しています。観光客が氷河の美しさに驚嘆すると,この兄弟は,創造者に注意を喚起し,いろいろな言語の文書を配布します。確かに,アルゼンチンのエホバの証人はあらゆる機会をとらえて,「あらゆる人」にみ言葉を宣べ伝えています。―テモ一 2:4

聖書の音信を人々に伝える別の方法は,街路証言です。非常に熱心に街路証言を行なっているビクトル・ブッケールは,不定期な伝道者を街路証言に誘いました。その奉仕者は朝8時半までに職場に着いていなければならなかったので,二人は午前5時半から街路証言を始めることにしました。この早朝活動によって,この伝道者とその家族9人は,再び定期的に宣教奉仕に携わるよう助けられました。幾つか聖書研究を取り決め,1か月に176冊もの雑誌を配布することができました。それに励まされて,ほかの人たちも早朝の街路証言に加わりました。

長い経験を持つ宣教者たち ― 今でも活発な奉仕者たち

これまで大勢の宣教者がアルゼンチンで奉仕してきました。新しい言語を学び,異なる習慣に順応し,健康上の問題に耐え,禁令下で困難な状況に勇敢に立ち向かいました。任命地の変更や,健康上の問題,家族の責任のためにやむなくこの国を去った人たちもいます。ギレアデ第6期生のグウェニッド・ヒューズ兄弟は,結婚して二人の息子を育て,死に至るまでエホバに忠実に仕え続けました。ほかにも,オフェリア・エストラーダやロリーン・アイゼンハワーといった人たちが任命地で亡くなりました。とはいえ,ギレアデの初期のクラスの献身的な宣教者の中には,今でも任命地で活発に働いている人たちがいます。

ギレアデ第1期生のヘレン・ニコルスとヘレン・ウィルソンは,1948年にアルゼンチンに任命されました。二人は1961年に,北西部のトゥクマン州に派遣されました。当時,サン・ミゲル・デ・トゥクマン市には小さな会衆が一つしかありませんでした。今日その都市には,13の会衆と七つの王国会館があり,さらに五つの会衆が周辺の地域にあります。この増加に貢献したこれらの宣教者は,何という喜びを味わってきたのでしょう。

ギレアデ第1期生のチャールズ・アイゼンハワーは,キューバで宣教者奉仕を開始しました。キューバで1943年から1948年まで奉仕し,奉仕者の数が500人から5,000人に増加するのを見ました。次いでアルゼンチンに任命され,宣教者として,その後は巡回監督,さらには1953年4月まで地域監督として奉仕しました。その時点で支部の監督として任命されました。兄弟は,アルゼンチンの奉仕者が900人から12万人余りに増加するのを見る特権にあずかってきました。支部委員会の調整者として奉仕しているアイゼンハワー兄弟は,「エホバへの奉仕に命をささげること以上に,若い人たちに幸福をもたらすものはありません」と述べています。

エホバに仕える喜び

生涯の仕事として全時間奉仕を始めたアルゼンチンの証人たちも,エホバへの奉仕に自分の命を用いることを喜びとしています。マルセロ・ポピエルとマリア・オリバ・ポピエルは,それぞれ1942年と1946年にバプテスマを受けました。二人は共に特別開拓者として44年間奉仕しています。ポピエル兄弟姉妹にとって,1976年の禁令は別に新しい経験ではありませんでした。1950年の禁令直後に業に対する規制を経験していたからです。二人は,新たな禁令によって生じた規制に対処するよう新しい人たちを助け,忠実に奉仕を続けるよう励ましました。マルセロは,これまでエホバに仕えてきた年月を貴重なものと考えています。彼はこう言います。「エホバに忠節にお仕えできたことは喜びです。エホバが,ご自分に仕える特権を私たちに差し伸べてくださったことや,真に価値ある業のために,人生の最良の時期を費やすことを許してくださったことについて,深く感謝しています」。

1957年にバプテスマを受け,特別開拓者としてほぼ40年間奉仕している,ピエトロ・ブランドリーニも同じ感情を抱いています。全時間奉仕に自分の人生を費やしたことを幸福に思っています。というのも,自分が願った以上に多くの祝福を受けたからです。兄弟は,エホバは常に霊的にも物質的にも顧みてくださった,と熱意をこめて語ります。

ピエトロは70歳を過ぎており,時折,健康上の問題も抱えますが,今も特別開拓者として活発に奉仕しています。最近ピエトロは,カトリック系の学校の教師をしている男性に会いました。ピエトロが聖書研究を申し出ると,その教師は喜んで応じました。4回研究した後,この人はピエトロに,自分が学んでいることは真理だと思う,と言いました。ピエトロが,エホバの証人と研究していることが学校の司祭に知れると職を失うかもしれませんよ,と言うと,この男性は,仕事はほかの場所でも見つかるから心配していない,と言いました。この教師が神の言葉の真理を本当に価値あるものとみなしていることを知って,ピエトロはどんなにかうれしかったことでしょう。

りっぱな業に熱心

さらに,大勢の人たちが時の緊急性を認めて,「りっぱな業に熱心」なことを示しました。(テト 2:14)現在,アルゼンチンには12万人を超す奉仕者がおり,そのうち7,000人余りが事情を調整して正規開拓奉仕を行なっています。その一人にエルナン・トレスがいます。この兄弟はもうすぐ70歳になります。目が見えず,車椅子の生活をしているため,開拓者の要求時間を満たすには余分の努力が求められます。朝早く起き,自分が暮らしている老人ホームの一角へ行く日もあります。その場所で,他の人たちに聖書のことを話したり,再訪問を行なったり,雑誌経路になっている入居者に雑誌を届けたりします。天気が良ければ,ホームの外に出て,通行人に伝道します。兄弟か姉妹がエルナンに同行して家から家の宣教を行なう日もあります。エルナンは目が見えないので,話しかけている相手のことは一緒に奉仕している人が教えます。戸口に男性が出て来ると,一緒に奉仕している人は兄弟の肩を1回たたきます。女性なら2回,若者なら3回たたくのです。

ロランド・レイバも正規開拓者であり,理容師です。彼の理容店には,ものみの塔協会の出版物が展示してあり,最新号の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌がいつも並べられています。お客さんは,ものみの塔の出版物しか読み物がないことに慣れています。「散髪料金をとても安くしているので,お客さんは喜んで私の条件を呑んでくれます」と,ロランドは言います。兄弟は,一人のお客の散髪をしながら,鏡を見て,待っているお客さんを観察します。「だれかが興味深そうに雑誌を読んでいるのを見ると,その人の髪を切りながら会話を始めます」。そのようにして,ロランドは1奉仕年度に163の予約を得ました。また,店のお客さんと数多くの聖書研究を始めました。現在司会している研究の8件は,理容店での非公式の証言で取り決めたものです。

若い人々もみ言葉を宣べ伝える点で熱意を示しています。13歳の兄弟エルベル・エギーアは,フフイ州サン・ペドロのセントロ会衆で2年間開拓奉仕を行なっています。ある姉妹は,街路証言を行なっていた時に出会った一人の男性の住所をエルベルに渡しました。その男性を訪問したエルベルは,その人が格闘技を教えていることを知って驚きました。兄弟がその指導員に近づいて訪問の目的を説明したところ,この男性は「永遠の命に導く知識」の書籍を受け取りました。書籍を楽しんだ男性は,自分が格闘技を教えている生徒たちの分も欲しいと言いました。結果として,エルベルは,書籍50冊,ブロシュアー40冊,そして雑誌数冊を配布しました。その指導員および生徒25人と聖書研究が始まり,ある人たちはよく進歩しています。

地の最も遠い所へ出かけて行く証人たちと,地の最も遠い所からやって来た証人たち

初めは,ほかの国の熱心な奉仕者たちがアルゼンチンに良いたよりをもたらし,アルゼンチンの兄弟たちが彼らの自己犠牲的な精神に倣いました。ベテル家族は286人に増加し,他の300人の兄弟姉妹は,ほかの分野の特別な全時間奉仕に携わっています。

必要の大きな国々での奉仕に自分を差し出した人たちもいます。(イザ 6:8)例えば1980年代,統治体は,20人のアルゼンチンの兄弟がギレアデ学校へ行かずにパラグアイで宣教者として奉仕することを取り決めました。もっと最近では,必要の大きな所で奉仕するために,大勢の独身の姉妹その他の人たちがパラグアイに移動しました。そうした人々は,良いたよりを宣明するために,進んで蒸し暑い気候に順応しました。現在パラグアイで奉仕している73人のアルゼンチンの兄弟姉妹の多くは,さらに大勢の人に音信を伝えるために,現地のグアラニー語を習得しようと努力しています。

これまで何年もの間に,たくさんの人たちがボリビアやチリへ移動して開拓者や旅行する監督として奉仕しています。東ヨーロッパで業が公に行なえるようになった時,ハンガリー語を話す一人のアルゼンチンの兄弟は自分を差し出し,今ではハンガリーで巡回監督として奉仕しています。ある夫婦は,宣べ伝える業の援助のためにアフリカのベニンへ移動することについて尋ねられ,宣教者としてその国に派遣されました。二人の示した愛は,国境など存在しない霊的パラダイスに住む,エホバの民すべての態度を反映しています。

アルゼンチンでは,王国の良いたよりの熱心な宣明者たちが,「順調な時期」にも「難しい時期」にも進んで『み言葉を宣べ伝え,ひたすらそれに携わって』います。(テモ二 4:2)その粘り強い努力の結果,今日アルゼンチンでは12万人余りの人々が,エホバを賛美し,その豊かな祝福を享受しています。―箴 10:22

[186ページのグラフ/図版]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

禁令期間中の証人の数の増加

1950年 1960年 1970年 1980年

1,416 7,204 18,763 36,050

[148ページ,全面図版]

[150ページの図版]

アルゼンチンにおける良いたよりの伝道の基礎を据えるのに貢献した人たち: (1)ジョージ・ヤング,(2)フアン・ムニス,(3)カルロス・オット,(4)ニコラス・アルヒロス

[152ページの図版]

アルマンド・メナツィや他の熱心な証人たちは,このバスで,少なくとも10の州を巡って宣べ伝えた

[156ページの図版]

ノア兄弟(右)。禁令期間中の1953年に開かれた大会の一つ

[161ページの図版]

エホバの証人が使用した最初の巻取紙オフセット輪転機

[162ページの図版]

リオ・セバーヨスの「神の勝利」国際大会。1974年

[178ページの図版]

難しい時期に森の中で開かれた大会

[193ページの図版]

パラナ川のデルタ地帯にある水上王国会館

[194ページの図版]

韓国人の国際的な巡回区で奉仕しているスティーブン・リーとジューン・リー

[200ページの図版]

ティエラ・デル・フエゴ州ウスワイアにあるこの会館は,最南端にある速成建設の王国会館の一つ

[202ページの図版]

アルゼンチンの大会ホール: (1)モレノ,(2)コルドバ,(3)ロマス・デ・サモラ,(4)ミシオネス

[204ページの図版]

カニュエラスのコンベンション・ホール

[208,209ページの図版]

1990年の国際大会

[215ページの図版]

アルゼンチン北部を襲った大洪水のために,多くの人が住む場所を失った

[218ページの図版]

アルゼンチンで現在も奉仕している初期の宣教者たち: (1)フィリア・スパシル(2)イーデス・モーガン(3)ソフィ・ソビアク(4)ヘレン・ウィルソン(5)メアリー・ヘルムブレクト(6)チャールズ・アイゼンハワー

[223ページの図版]

(1)支部委員会(左から右へ): M・プケッティ,N・カバリエリ,P・ジュスティ,T・カルドス,R・バスケス,C・アイゼンハワー

支部施設: (2)事務所,(3)印刷工場,(4)ベテル・ホーム