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ウクライナ

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イエスは,りっぱな土に植えられた種に関する例えを話されたとき,神の言葉に対する深い認識を培う人々について描写しました。それらの人々は,困難や苦しみに直面しながらも忠実に神の音信をふれ告げることにより,「耐え忍んで実を結(び)」ます。(ルカ 8:11,13,15)このことが,ウクライナほど顕著に当てはまる場所はそう多くありません。50年以上にわたって禁令と厳しい迫害があったにもかかわらず,この国のエホバの証人は耐え抜き,繁栄しました。

2001奉仕年度中,ウクライナの伝道者は12万28人という最高数に達しました。そのうち5万6,000人余りは,過去5年以内に聖書の真理を学んだ人たちです。また,過ぐる2年間に兄弟たちは5,000万冊を超える雑誌を配布しました。これは国の人口とほぼ同じ数です。支部事務所には,関心を持つ人々から,さらに情報を求める手紙が毎月平均1,000通送られてきます。これらすべては,少し前までは考えられないことでした。清い崇拝の何と輝かしい勝利でしょう。

ウクライナの歴史をひもとく前に,その土地について考えてみましょう。イエスが言及した比喩的な土とは別に,ウクライナには文字通りの豊かな土壌があります。国土のほぼ半分は,黒い肥沃なプレーリー土で覆われており,ウクライナの人々はそれを“黒い土”という意味のチェルノーゼムと呼んでいます。この土壌と穏やかな気候のおかげで,ウクライナは世界有数の農産地となっており,テンサイ,小麦,大麦,トウモロコシ,その他の作物が生産されています。古代から,ウクライナはヨーロッパの穀倉地帯として知られてきました。

東西に約1,300㌔,南北に900㌔ほどあるウクライナは,フランスよりもやや大きい国です。123ページの地図を見ると分かるとおり,この国は東ヨーロッパにあり,黒海の北に位置しています。ウクライナ北部は森林に覆われていて,南には肥沃な平野が広がり,美しいクリミア山脈に至ります。西は丘陵地帯から険しいカルパティア山脈へと続き,そこにはヤマネコやクマ,バイソンが生息しています。

ウクライナにはおよそ5,000万人が住んでいます。謙遜で,人をよくもてなす,勤勉な国民です。多くの人は,ウクライナ語とロシア語の両方を話します。もし家に招待されたなら,ボルシチ(赤カブ入りのスープ)やバレニキ(具の入ったゆでだんご)をごちそうしてもらえることでしょう。おいしい食事の後は,フォークソングを楽しめるかもしれません。ウクライナ人の多くは,歌や楽器の演奏が大好きだからです。

ウクライナの人々は,様々な宗教的信条にさらされてきました。10世紀には,東方正教が伝えられました。後にオスマン帝国がウクライナ南部にイスラム教を持ち込みました。また中世には,ポーランドの貴族がカトリックの信仰を広めました。20世紀に入ると,共産主義のもとで多くの人が無神論者になりました。

今でこそエホバの証人は国の至る所にいますが,第二次世界大戦前には,主にウクライナ西部に住んでいました。そこは四つの地域に分けられました。ボルイニ,ハリチナ,トランスカルパティア,そしてブコビナです。

ウクライナに真理の種がまかれる

現在ではエホバの証人として知られる聖書研究者たちは,ウクライナで100年余りにわたって活動してきました。主だった聖書研究者C・T・ラッセルは,1891年に初めて海外へ旅をし,ヨーロッパや中東の諸国を訪れました。兄弟はトルコの,当時で言うコンスタンティノープルに向かう途中,ウクライナ南部のオデッサに立ち寄りました。その後,1911年にヨーロッパの主要都市で一連の聖書講演を行ないましたが,その中にウクライナ西部のリボフも含まれていました。

ラッセル兄弟は列車で旅をし,リボフに到着しました。3月24日に予定されていた講演のために,人民の家と呼ばれる大きな会場が借りてありました。地元の七つの新聞に九つの広告が載せられ,大きなポスターも張り出されて,「ニューヨークの高名かつ名誉ある講演者」― パスター・ラッセル ― による「預言の中のシオニズム」という講演を聞くようすべての人が招待されました。ラッセル兄弟は当日その講演を2回行なう予定でした。ところが,ラッセルの活動に激しく反対するユダヤ人のラビが,米国からリボフにいる仲間に電報を打ち,聖書研究者たちを非難しました。その電報に駆り立てられた一部の人々は,ラッセルの話を妨害しようとしました。

会場は午後の部も夜の部も満員でしたが,反対者たちも出席していました。地元の新聞「ビエク・ノービ」はこう報じました。「[ラッセルの]通訳が話し始めるやいなや,シオニストたちは一斉に騒ぎ立て,大声でわめいたり口笛を吹いたりして,この宣教師に話すことを許さなかった。パスター・ラッセルはステージを去らねばならなかった。……その晩の8時に行なわれた講演の際には,抗議行動はさらに激しさを増した」。

しかし,ラッセル兄弟の話を聞きたがった人も大勢いました。それらの人たちは音信に関心を持ち,聖書文書を求めました。後に,ラッセル兄弟はリボフへの訪問についてこう感想を述べました。「こうした出来事に関連して,何がご意志であるかは神のみぞ知ることです。……この論題に関する[ユダヤ人たちの]騒ぎのおかげで,ある人たちは,落ち着いて整然と話を聴いていた場合よりも,さらに詳しく調べるよう促されたかもしれません」。音信に対してすぐに反応があったわけではありませんが,真理の種はまかれ,後にリボフだけでなくウクライナの他の地域でもたくさんの聖書研究者のグループが作られました。

1912年,ドイツの聖書研究者の事務所は,大きな広告の入ったカレンダーを発行し,それがウクライナで配布されました。広告は,ドイツ語版の「聖書研究」を読むよう勧めるものでした。その結果,ドイツの事務所は,「聖書研究」に加えて「ものみの塔」誌の予約購読を申し込む50通ほどの手紙をウクライナの人々から受け取りました。1914年に戦争が勃発するまで,事務所はそれら関心を持つ人たちとの連絡を保ちました。

第一次世界大戦の後,ウクライナは四つの近隣諸国の間で分割されました。ウクライナ中部と東部は共産主義のロシアに占領され,ソビエト連邦の一部となりました。ウクライナ西部は他の三つの国によって分けられました。ハリチナとボルイニはポーランドに,ブコビナはルーマニアに,そしてトランスカルパティアはチェコスロバキアに併合されました。これら三つの国はある程度の信教の自由を認め,聖書研究者たちが伝道活動を続けることを許しました。このように,後に実を結ぶことになる真理の種の多くは,まずウクライナ西部にまかれたのです。

初期の芽生え

20世紀初頭,ウクライナの多くの家族が,より良い生活を求めて米国に移住しました。ある人たちは聖書に基づくエホバの証人の出版物を読み,ウクライナにいる親族にそれらを送りました。中には,聖書研究者の教えに親しむようになり,帰国して郷里で宣べ伝え始めた家族もいました。聖書研究者のグループが幾つか誕生し,やがて成長して会衆となりました。1920年代の初めには,ポーランドの聖書研究者たちにより,ハリチナとボルイニで真理の種がまかれました。同じころ,ルーマニアとモルダビア(現在はモルドバ)の兄弟たちがブコビナの地域に真理を伝えました。

こうして,将来の増加のための良い土台が据えられました。「ものみの塔」誌,1921年12月15日号はこう伝えています。「最近,幾人かの兄弟たちが[ブコビナ]を訪問しました。……数週間の滞在の成果として七つのクラスが組織され,現在は『聖書研究』や『影としての幕屋』を学んでいます。一つのクラスには,70名ほどの成員がいます」。1922年,ブコビナのコリンキフツィという村で,ステパン・コリツァが真理を受け入れ,バプテスマを受けて伝道を始めました。知られている限りでは,ウクライナで最初にバプテスマを受けた兄弟です。後に,10家族が活動を共にするようになりました。トランスカルパティア地方でも,同様の増加が生じました。1925年までには,ベリキー・ルチュキとその近隣の村々に,およそ100人の聖書研究者がいました。その後,最初の全時間奉仕者たちがトランスカルパティアで伝道を始め,聖書研究者の家で開かれる集会を司会するようになりました。たくさんの人がバプテスマを受けました。

長年の証人であるアレクセイ・ダヴィジュクは,人々がどのように真理を知るようになったか,当時の状況を振り返ってこう述べています。「1927年に,ある村人が,ボルイニ地方のランコベという村に出版物を持って行きました。それを読んだ数人の村人たちは,地獄の火や魂に関する教えに興味を持ちました。その書籍にはポーランドのウッジにある聖書研究者の事務所の住所が載せられていたので,村人たちはだれかを村に派遣してもらうよう手紙を書きました。1か月後に,一人の兄弟が赴いて,聖書研究のグループを組織しました。15家族がそのグループに加わりました」。

真理に対するこうした熱意は,初期のころによく見られました。例えば,ハリチナ地方から,ブルックリンの聖書研究者の本部にあてて書かれた一通の手紙には,次のような言葉で感謝が言い表わされています。「貴協会の出版する本は,我々の抱える多くの傷をいやし,国民を日の光へと導きます。もっと多くの本を送ってくださるよう何とぞお願いいたします」。関心のある別の人はこう書きました。「こちらでは文書がなかなか手に入らないので,送ってくださるようお願いすることにしました。わたしたちの村の一人の男性は数冊の本を受け取りましたが,近所の人たちに持って行かれてしまいました。まだ全然読んでもいなかったようです。現在その男性は村人たちを訪ねて回り,本を取り返そうと努力しています」。

このように鋭い関心が示された結果,リボフのペカルシカ通りに聖書研究者の事務所が設置されました。この事務所はハリチナとボルイニからたくさんの文書依頼を受け取り,定期的にブルックリンに転送して文書を送ってもらいました。

1920年代の半ばまでに,ウクライナ西部で確かに真理の種が芽生えていました。聖書研究者のグループが次々と組織され,その幾つかは後に会衆になりました。この初期の活動の記録はごくわずかしか残っていませんが,入手可能な報告によると,1922年にはハリチナで12人が記念式を祝いました。1924年には,ウクライナ南部のサラタという町で49人が記念式に出席したと,「ものみの塔」誌は伝えています。1927年には,370人を超える人たちがトランスカルパティアで記念式に出席しました。

「ものみの塔」誌,1925年12月1日号は,世界の様々な国における活動を報告した記事の中で,次のように述べています。「今年,アメリカから一人の兄弟が,ヨーロッパのウクライナ人のもとに遣わされました。……ポーランドの支配下にある地域において,多くの良い業がウクライナの人々の間で行なわれています。そこでの文書の需要は大きく,さらに増大しています」。数か月後,「黄金時代」(現在の「目ざめよ!」)誌はこう伝えました。「ガリシア[ハリチナ]だけで,20のクラス[会衆]があります。その幾つかは……週中に集会を開くよう組織されました。また日曜日だけ集まるクラスもあれば,まだ組織されている段階のものもあります。さらに多くのクラスが設立される見込みです。ただ,率先して指導に当たる人が必要とされています」。こうしたことすべては,霊的な意味でウクライナの土壌が非常に肥沃であることを示していました。

初期の野外宣教

トランスカルパティア出身のボイテフ・チェヒは,1923年にバプテスマを受け,その後ベレゴボ付近で全時間宣べ伝える活動を始めました。兄弟はいつも,文書の入ったかばんを片手に提げ,もう一つのかばんを自転車にくくり付け,さらに文書の詰まったリュックサックを背負って奉仕に出かけました。兄弟はこう回想しています。「わたしたちは,24の村から成る区域を割り当てられました。伝道者は15人だったので,文書を携えてそれらの村を年に2度回るには多大の努力が必要でした。毎週日曜日の朝4時に,一つの村に集まりました。そこから15㌔かそれ以上,歩いたりバスに乗ったりして,周辺の地域に行きました。通常,午前8時に家から家の宣教を始め,午後2時まで働きました。そして多くの場合,自分たちの家まで歩いて帰り,同じ日の晩の集会では,みんなと楽しく経験を語り合いました。天気が良いときもひどく荒れているときも,森を横切って近道をしたり,川を渡ったりしましたが,だれも不平一つ言いませんでした。創造者に仕え,その方の栄光をたたえることを喜びとしていたのです。兄弟たちが集会への出席や伝道のために40㌔歩くことさえ何とも思わないのを見て,まさに真のクリスチャンとして生きていることを人々は理解しました。

「宣教ではいろいろな人に会いました。ある時,一人の女性に『神の国 ― 全地の希望』の小冊子を紹介しました。その女性は,受け取りたいのですが,寄付するお金がありません,と言いました。わたしはおなかがすいていたので,ゆでたまごと小冊子を交換できます,と言いました。女性は小冊子を受け取り,わたしはたまごを食べました」。

クリスマスの時期になると,トランスカルパティアの住民は家から家へ行き,イエス・キリストの誕生について歌いました。兄弟たちはこの慣習を利用することにしました。かばんに文書を入れて人々の家に行き,自分たちの信仰を表明する歌を歌ったのです。多くの人がそのメロディーを楽しみました。兄弟たちはしばしば家の中に招き入れられ,もっと歌うように頼まれました。歌ってからお金をもらうこともあったので,その引き換えに喜んで聖書文書を渡しました。このため,クリスマスの季節には,よく文書集積所が空になりました。ローマ・カトリック教徒とギリシャ・カトリック教徒はそれぞれ別の週にクリスマスを祝うので,この歌のキャンペーンは2週間続きました。しかし,クリスマスが異教に由来することが徐々に明らかになったため,1920年代の後半までには,聖書研究者たちは歌のキャンペーンをやめました。兄弟たちは徹底的に宣べ伝える活動を通して大きな喜びを経験し,トランスカルパティアでは伝道者の新しいグループが次々と誕生しました。

初期の大会

1926年5月,トランスカルパティア地方における聖書研究者の最初の大会が,ベリキー・ルチュキ村で開かれました。150人が出席し,20人がバプテスマを受けました。翌年,同じ地域にあるウジゴロド市の中央公園で屋外の大会が開かれ,200人が出席しました。程なくして,トランスカルパティア各地の町で大会が組織されるようになりました。1928年には,リボフで初めて大会が開かれました。その後,ハリチナとボルイニでも大会が開催されました。

1932年の初めごろ,トランスカルパティアのソロトビノ村で大会が開かれました。会場は聖書研究者たちが定期的に集会を行なっていた家の裏庭でした。およそ500人が出席し,その中にはドイツから来た責任ある兄弟たちもいました。地元の会衆の長老であるミハイロ・ティルニャクは,こう述べています。「わたしたちは,ドイツとハンガリーから大会に来てくださった兄弟たちの,よく準備された話を大いに楽しみました。兄弟たちは目に涙を浮かべながら,来たるべき試練のもとで忠実を保つよう励ましてくださいました」。そして第二次世界大戦が始まると,確かに厳しい試練が始まりました。

1937年,チェコスロバキアのプラハで開かれる大きな大会に出席する代表者たちのために,列車が丸ごと借りられました。列車はソロトビノ村を出発してトランスカルパティア全域を巡り,各駅に停車して出席者たちを乗せました。列車の各車両には,「エホバの証人の大会 ― プラハ」というサインがありました。それは地域の人々に対する優れた証しとなり,年配の人たちは今でもその時のことを覚えています。

崇拝の場所を建設する

初期の聖書研究者のグループが幾つも作られてゆくにつれ,自分たちの崇拝の場所を建てる必要が生じました。最初の集会場所は,1932年にトランスカルパティアのディブロワという村に建てられました。その後,さらに二つの会館が,近隣の村であるソロトビノとビラ・ツェルクワに建てられました。

幾つかの会館は戦時中に破壊されたり差し押さえられたりしましたが,兄弟たちは王国会館を持ちたいという願いを抱き続けました。現在,ディブロワ村には八つの王国会館があり,近隣の六つの村には合計18あります。

翻訳の進展

19世紀末から20世紀初頭にかけて,多くの家族がウクライナから米国やカナダへ移住しました。その新天地で真理を受け入れた人たちもいて,ウクライナ語を話す人々のグループがたくさん作られました。すでに1918年には,「世々に渉る神の経綸」がウクライナ語で出版されていました。しかし,ウクライナ内外に住む,ウクライナ語を話す人々に霊的な食物を供給するためには,もっと多くのことを行なう必要がありました。1920年代に入ると,資格ある兄弟が定期的に聖書関係の出版物を翻訳する必要のあることが明白になりました。1923年,カナダ在住のエミール・ザリツキーは,全時間奉仕の招待を受け入れました。兄弟にとって,これはおもに聖書関係の出版物をウクライナ語に翻訳することが関係していました。兄弟はまた,カナダと米国にある,ウクライナ語,ポーランド語,スロバキア語のグループを訪問しました。

エミール・ザリツキーはウクライナ西部のソカリという町の近くで生まれ,後に両親とカナダに移住しました。兄弟はそこでウクライナ出身のマリヤという女性と結婚し,二人は5人の子どもを育てました。家族に対する重い責任があったにもかかわらず,エミールとマリヤは神権的な割り当てを果たすことができました。1928年,ものみの塔協会はカナダのウィニペグに家を購入し,そこがウクライナ語への翻訳作業の拠点となりました。

当時,兄弟たちは家から家の宣教で,携帯用蓄音機と聖書講演のレコードを用いていました。ザリツキー兄弟はブルックリンに招かれ,そのような講演のウクライナ語版の吹き込みを行ないました。1930年代には,ウィニペグのラジオ局で,ウクライナ語による30分の番組が幾つか作成されました。そのようなラジオ放送で,エミール・ザリツキーや他の経験ある兄弟たちが,意味深い公開講演を行ないました。講演と共に,1928年に出版された歌の本に基づく四部合唱も放送されました。それを聞いた人たちから,何百という感謝の手紙や電話が寄せられました。

エミール・ザリツキーと妻のマリヤは,40年にわたって翻訳者としての割り当てを忠実に果たしました。その期間中,毎号の「ものみの塔」誌がウクライナ語に翻訳されました。1964年には,モーリス・サランチュクが翻訳の仕事を監督するよう任命されました。兄弟は長年,妻のアンと共にザリツキー兄弟を援助していました。

霊的な助けが届く

一握りの熱心な伝道者たちが個人的にウクライナ全土で真理の種をまき,水を注いでいましたが,1927年になってようやく,トランスカルパティアで組織的な宣べ伝える業が始まりました。その後,ハリチナでも業が開始されました。それ以前には宣べ伝える活動の報告はなされていなかったものの,ルーマニア語,ハンガリー語,ポーランド語,ウクライナ語の書籍や小冊子がすでにたくさん配布されていました。孤立したグループが会衆として組織されるようになり,奉仕者たちは定期的に家から家へと宣べ伝え始めました。その時期,多くの聖書文書が配布されました。1927年,トランスカルパティアのウジゴロド市にウクライナで最初の文書集積所が開設されました。1928年には,当時チェコスロバキアの一部だったトランスカルパティア地域の会衆と聖書文書頒布者<コルポーター>を世話する仕事が,ドイツのマクデブルクの事務所にゆだねられました。

1930年,ウジゴロドに近いベレゴボの町に事務所が設立され,トランスカルパティアにおける聖書研究者の活動を監督するようになりました。ボイテフ・チェヒが事務所の監督として奉仕しました。この新しい取り決めは,宣べ伝える業に大いに寄与しました。

プラハやマクデブルクの事務所にいた幾人かの兄弟たちは,自己犠牲の精神を示しました。しばしば長い距離を旅してカルパティア山脈に入って行き,その美しい地域の隅々に神の王国の良いたよりを伝えたのです。そうした熱心な兄弟たちの中に,マクデブルクの支部事務所から来たアドルフ・フィツケがいました。兄弟はカルパティア山脈のラホフという地域で宣べ伝えるよう遣わされました。この忠実で,慎み深く,あまり多くを要求しない兄弟を今でも懐かしく思い出す地元の証人は少なくありません。2001年現在,その地域には四つの会衆があります。

1930年代には,トランスカルパティアの多くの町や村で,「創造の写真劇」が上映されました。この「写真劇」は,スライドと映画を組み合わせた8時間に及ぶプログラムで,レコードに録音された聖書に基づく解説が同時に流されました。エーリヒ・フロストがドイツから派遣され,「写真劇」を上映するために地元の兄弟たちを援助しました。プログラムに先立ち,兄弟たちはビラを配り,ポスターを使って一般の人々を上映会に招待しました。関心は大いに高まりました。ベレゴボの町では,非常に大勢の人が集まったため,1,000人以上が路上で待たなければなりませんでした。警察はその大きな群衆を見た時,事態が混乱して収拾がつかなくなるのではないかと心配しました。そのため,催しを中止することも考えましたが,結局そうしませんでした。上映の後,「写真劇」をもう一度見たいと願う大勢の人が住所を残していきました。地元の宗教指導者たちは,非常な関心が示されたことに警戒し,良いたよりを宣べ伝える業を妨害しようとあらゆる手段を講じました。しかし,エホバ神は引き続き業を祝福して成功へと導かれました。

1920年代から1930年代にかけて,ボルイニとハリチナの地域は,ウッジにあるポーランド支部の監督下にありました。1932年,ポーランドの兄弟たちはそれらの地域に注意を向け,「ものみの塔」誌の予約購読者の住所をブルックリンから入手して,すべての人を再訪問しました。

当時ポーランド支部を監督していたウィルヘルム・シャイダーは,こう述べています。「ウクライナの人々は,多大の熱意をもって真理を追い求めました。雨が降った後のキノコのように,関心を抱く人々のグループが次々とハリチナの諸都市や村々に現われました。どんどん大きくなって,地域全体を包含するものもありました」。

兄弟たちの大多数は困窮していましたが,宣べ伝えるうえで,また霊的に成長するうえで助けとなる文書や蓄音機のレコードを手に入れるため,多くの犠牲を払いました。ハリチナ出身のミコラ・ボロチーは,1936年にバプテスマを受け,蓄音機を買うために2頭いた馬のうち1頭を売りました。農家の人にとって,馬を売ることが何を意味するか考えてみてください。兄弟は4人の子どもを養う必要がありましたが,1頭の馬で十分やっていけると結論したのです。その蓄音機から流されるウクライナ語の聖書講演や王国の歌を聞いて,大勢の新しい人がエホバを知り,エホバに仕えるようになりました。

1930年代にハリチナとボルイニで伝道者数が大きく増加したことについて,ウィルヘルム・シャイダーはこう説明しています。「1928年にポーランドの伝道者は300人に達しましたが,1939年までには1,100人以上になり,その半分はウクライナ人でした。しかも,彼らのいた地域(ハリチナとボルイニ)では,ずっと遅れて業が始まったのです」。

そうした増加に対応するため,ポーランド支部からルドヴィヒ・キニツキが旅行する監督としてハリチナとボルイニに遣わされ,宣べ伝える業を援助することになりました。兄弟の家族はハリチナのチョルトコフ出身で,20世紀の初めに米国に移住していました。キニツキ兄弟は米国で真理を学び,後に誠実な人々を助けるために故国に戻りました。多くの兄弟姉妹は,この熱心な奉仕者を通して得た霊的な助けを決して忘れないでしょう。1936年の秋,ポーランド語の「黄金時代」誌が発禁処分になり,編集者が1年の禁固刑を宣告されました。キニツキ兄弟は,発禁となった「黄金時代」の代わりに発行されるようになった「新時代」誌の編集者として任命されました。1944年,兄弟はゲシュタポに逮捕され,マウトハウゼン-ギューゼン強制収容所に連れて行かれ,そこでエホバへの忠実を保って亡くなりました。

神はあるゆる人を引き寄せられる

1920年代の初め,ローラという名の聖書研究者が,生まれ故郷の町,ハリチナのゾロティ・ポティクに戻りました。彼は自分の聖書を用いて良いたよりを宣べ伝え始めました。ローラが自分の持っていた宗教的な像などをすべて壊したため,人々は彼を気違い呼ばわりしました。地元の司祭は,ローラが宣べ伝えるのをやめさせようとしました。司祭は警察官を訪ねて,「ローラを歩けなくさせれば,ウイスキーを1㍑あげよう」と言いました。警察官は,自分の仕事は人を殴ることではないと答えました。その後ローラは,米国の兄弟たちから文書の入った小包を受け取るようになりました。司祭は再び警察官に近づき,共産主義の文書の入った小包が郵便局に届いたと告げました。翌日,警察官はだれがその小包を取りに来るか見るため,郵便局で待っていました。来たのはもちろんローラでした。警察官はローラを警察署に連れて行き,司祭も呼び出しました。司祭は,その文書が悪魔からのものだと叫びました。警察官は,文書に共産主義の教えが含まれているかどうかを確かめるため,地元の裁判所に何冊か送り,残りは自分で預かることにしました。そしてそれらの出版物を読むうちに,真理が収められていることに気づきました。程なくして警察官とその妻は,聖書研究者の集会に出席するようになりました。そして後にバプテスマを受け,熱心な伝道者になりました。ですから,弟子を作る業をやめさせようと躍起になっていた司祭は,それと知らずにルドビク・ロダクが真理を受け入れるのを助けてしまったのです。

同じころ,あるギリシャ・カトリックの司祭が,妻と共にリボフから米国に引っ越しました。しかし,間もなく妻は亡くなりました。悲嘆に暮れた司祭は,妻の魂がどこに行ったのかを突き止めようとして,ニューヨークにいる幾人かの心霊術者たちの住所を手に入れました。彼らが集まる場所を探しているときに,間違えて同じ建物の別の階に行ってしまい,気がつくと聖書研究者の集会に出席していました。その集会で,死者の状態に関する真理を学びました。後にこの人はバプテスマを受け,少しの間ブルックリン・ベテルの印刷工場で働きました。しばらくして兄弟はハリチナに戻り,熱心に良いたよりを宣べ伝え続けました。

ウクライナ東部における一筋の光

これまで見てきたように,初期の宣べ伝える活動の大半はウクライナ西部で行なわれました。では,真理はどのように他の地域に伝えられたのでしょうか。その霊的な土壌は,ウクライナ西部と同じように豊かに実を結ぶでしょうか。

1900年代の初め,ウクライナ東部の炭鉱地帯に,スイス出身の聖書研究者,トルンピ兄弟が技師として働くためにやって来ました。兄弟はその地域における最初の聖書研究者として知られています。1920年代に兄弟が行なった宣べ伝える活動の結果,ハリコフ市の近くのリュビミフスキー・ポストという村で聖書研究のグループが誕生しました。

1927年,西ヨーロッパから別の兄弟が,カリニフカ村の炭鉱で技師として働くためにやって来ました。兄弟はスーツケースいっぱいの聖書文書を持って来て,それを用いてバプテスト派の小さなグループに宣べ伝えました。その人たちは王国の希望に大きな関心を示しました。兄弟は,それらの人たちが聖書研究者の小さなグループになるのを見届けた後,しばらくして故国に帰りました。1927年の「ものみの塔」誌は,18人が記念式を祝うためカリニフカに集まったと伝えています。隣のイェピファニフカという村では,11人が出席しました。さらにその年,30人がリュビミフスキー・ポストで記念式を祝いました。

ブルックリン本部の兄弟たちは,ソビエト連邦における進展を絶えず注意深く見守り,王国を宣べ伝える業を法的に確立することに努めました。その目標を念頭に,ジョージ・ヤングというカナダ人の兄弟が1928年にソ連を訪れました。滞在中,兄弟はウクライナ東部のハリコフ市を訪ねることができ,そこで地元の聖書研究者のグループと3日間の小規模な大会を組織しました。その後,当局の反対により,兄弟は国を去らなければならなくなりました。兄弟は,当時キエフにもオデッサにも聖書研究者のグループがあることを知りました。

ヤング兄弟はソビエト連邦における状況をブルックリンに報告しました。ヤング兄弟の推薦により,ウクライナのダニイル・スタルヒンが,ウクライナだけでなくソ連全土における聖書研究者を代表するよう任命されました。スタルヒン兄弟は,ジョージ・ヤングの訪問の数年前,当時のソ連教育省長官アナトーリ・ルナチャルスキーとの討論で,聖書を擁護することができました。ブルックリン本部のJ・F・ラザフォードにあてた手紙の中で,ヤング兄弟はこう書いています。「ダニイル・スタルヒンは熱意あふれる行動派です。15歳の少年だったころ,聖書に関して司祭と議論しました。司祭は非常に怒って自分の十字架で少年の頭を殴り,ダニイルは意識を失って床に倒れてしまいました。その時の傷跡がまだ頭に残っています。ダニイルは絞首刑になるところでしたが,未成年だったため,刑務所に4か月入れられるだけで済みました」。スタルヒン兄弟は,地元の会衆を登録してウクライナで聖書文書を印刷する正式な許可を得ようとしましたが,ソビエト当局はそうすることを許しませんでした。

1920年代後半から1930年代にかけて,ソビエト当局は無神論を盛んに奨励しました。宗教はあざけりの的となり,伝道をする人は“祖国の敵”とみなされました。1932年の豊作の後,共産党員はウクライナの村人たちの食料をすべて押収しました。その結果,人為的に引き起こされた飢きんのため,600万人を超える人たちが亡くなりました。

報告の示すところによると,幾つもの小さなグループに交わるエホバの僕たちは,国外の兄弟たちとまったく接触がなかったにもかかわらず,この困難な時期に忠誠を保ちました。ある人たちは,信仰のゆえに長い年月を刑務所で過ごしました。そのように忠誠を保った人々の中に,トルンピ家,ハウゼル家,ダニイル・スタルヒン,アンドリー・サベンコ,シャポワロワ姉妹がいます。これはほんの一部にすぎません。わたしたちは,エホバが『彼らの働きと,彼らがみ名に示した愛とを忘れたりはされない』ことを確信できます。―ヘブ 6:10

厳しい試練の時

1930年代の終わりに,東ヨーロッパ諸国の国境に大きな変化が生じました。ナチス・ドイツとソ連が勢力範囲を拡大し,弱い国々を併合していったのです。

1939年3月,ハンガリーはナチス・ドイツの支援を受けてトランスカルパティアを占領しました。エホバの証人の活動に禁令が課され,王国会館はすべて閉鎖されました。当局は兄弟たちを残酷に扱い,その多くを刑務所に送りました。ウクライナのベリキー・ビチキフやコビレツカ・ポリャーナなどの村では,証人たちの大半が投獄されました。

1939年にソビエト軍がハリチナとボルイニの地域に達すると,ウクライナの西の国境が封鎖されました。そのため,ポーランドの事務所との連絡が絶たれました。第二次世界大戦が始まると,組織は地下活動を行なうようになります。兄弟たちはサークルと呼ばれた少人数のグループで集まり,以前よりも用心深く宣教を続けました。

それから少したって,今度はナチスの軍隊がウクライナを侵略しました。ドイツの占領下で,僧職者たちは民衆をあおるようになり,エホバの民に敵対させました。ハリチナでは迫害の嵐が吹き荒れました。エホバの証人の家々の窓ガラスはたたき割られ,大勢の兄弟たちが激しく殴打されました。冬になると,十字を切らなかった兄弟たちの中には,冷たい水の中に何時間も立たされた人もいました。棒で50回打ちたたかれた姉妹たちもいます。忠誠を保って命を失った兄弟たちもいました。例えば,ゲシュタポはカルパティア山脈で全時間奉仕を行なっていたイリヤ・ホブチャクを処刑しました。ホブチャク兄弟が熱心に神の王国について宣べ伝えていたため,カトリックの司祭が兄弟をゲシュタポに引き渡したのです。それは厳しい試練の時でした。それでも,エホバの僕たちは堅く立ち続けました。

エホバの証人は,しばしば危険が伴っても,互いに助け合いました。スタニスラフ市(現在のイワノ・フランコフスク)では,ユダヤ系の女性とその二人の娘がエホバの証人になりました。3人はユダヤ人街に住んでいました。兄弟たちは,ナチスが市内のユダヤ人の抹殺を企てていることを知り,3人の姉妹たちを逃れさせるよう計画しました。証人たちは自らの命を危険にさらしながら,戦争の期間中ずっとこのユダヤ人の姉妹たちをかくまいました。

第二次世界大戦中,ウクライナ西部の兄弟たちは一時的に組織とのつながりを絶たれ,進むべき方向を見失ってしまいました。第二次世界大戦の勃発がハルマゲドンの始まりを意味していると考えた人もいました。その教えは,しばらく兄弟たちの間に誤解を生じさせました。

戦場で種が芽生える

第二次世界大戦は,ウクライナに深い悲しみと荒廃をもたらしました。同国は3年のあいだ巨大な戦場と化していました。戦線がまず東へ,そしてまた西へとウクライナの領土内を移動するにつれ,多くの町や村が完全に破壊されました。戦時中,民間人550万人を含む,およそ1,000万人のウクライナ人が死にました。戦争の恐怖の中で,多くの人が人生に幻滅を感じ,道徳上の規範を無視しました。しかし,そのような状況のもとでさえ,真理を学んだ人たちがいました。

1942年,ミハイロ・ダンは兵役に召集されました。トランスカルパティア出身のこの若者は,第二次世界大戦前,エホバの証人の話に喜んで耳を傾けていました。ある軍事教練のときにカトリックの司祭が兵士たちに配った宗教的な冊子の中に,共産主義者を少なくとも一人殺した者には天での命が約束されていると書かれていました。そうした情報はこの若い兵士を困惑させました。戦争中,ミハイロは僧職者が人々を殺すのを見ました。そのことは,エホバの証人こそ真理を持っていると確信する助けになりました。戦争の後,家に戻ったミハイロは,エホバの証人を見つけて,1945年の終わりにバプテスマを受けました。

その後,ダン兄弟はソビエトの刑務所での恐怖を耐え忍びました。釈放された後,兄弟は長老に任命され,現在はトランスカルパティアの一会衆で主宰監督として仕えています。前述の冊子を思い出しながら,兄弟は皮肉っぽくこう言います。「わたしは共産主義者を一人も殺しませんでした。ですから,天での命は期待していません。でも,地上の楽園で永遠に生きることを心待ちにしています」。

強制収容所で肥沃な土壌が実を産み出す

冒頭で述べたように,豊かな土壌は大豊作をもたらす可能性を秘めています。そのため,ナチス・ドイツの占領下では,肥沃な黒土がウクライナから持ち去られました。貨車に次々とウクライナ中部の肥えた土が積み込まれ,ドイツへと輸送されたのです。

一方,他の貨車にも,後にいわば肥沃な土壌のように実を結ぶものが載せられていました。およそ250万人の若い男女が,ウクライナからドイツへ強制労働のために連れて行かれました。そのうちかなりの人数が強制収容所に入れられ,そこでクリスチャンの中立のゆえに収監されていたドイツの証人たちを知るようになりました。強制収容所の中でさえ,証人たちは他の人に良いたよりを伝えるのをやめず,言葉と行ないの両方によって証ししました。ある囚人はこう回想しています。「エホバの証人は,強制収容所にいた他の人たちとは異なっていました。友好的で前向きな気質を持っていました。その言動から,彼らには他の囚人に伝えるべきとても重要な事柄があると分かりました」。そのころ,ウクライナから来た多くの人が,共に強制収容所に入れられていたドイツの証人たちから真理を学びました。

アナスタシヤ・カザークは,ドイツのシュトゥットホーフ強制収容所で真理に接しました。戦争が終わるころ,アナスタシヤと14人の証人を含む数百人の囚人たちは,貨物船でデンマークへ運ばれました。デンマークの兄弟たちはそれら信仰の仲間を見つけ出し,身体的および霊的な必要を顧みました。その年,19歳だったアナスタシヤはコペンハーゲンの大会でバプテスマを受け,故郷のウクライナ東部に戻り,熱心に真理の種をまきました。後に,カザーク姉妹はその宣べ伝える活動ゆえに,再び11年間投獄されました。

姉妹は,若い人たちにこうアドバイスしています。「人生の中で何が起きても ― それが試練であれ,反対であれ,他のどんな問題であれ ― 決してあきらめないでください。エホバに助けを求め続けてください。わたしが経験したように,エホバはご自分に仕える者たちを決して見捨てられません」。―詩 94:14

戦争による試練

戦争は厳しく残酷で,兵士だけでなく民間人にも難儀や苦しみ,死をもたらします。エホバの証人も,戦争の悲惨な結果を免れることはできません。しかし世にいるとはいえ,世のものではありません。(ヨハ 17:15,16)エホバの証人は指導者であるイエス・キリストに倣い,政治面で厳正中立を保ちます。ウクライナでも,他の場所と同じく,エホバの証人はこの立場を保つことにより,真のクリスチャンとして際立ってきました。世は戦功を立てた人をその生死にかかわらず尊びますが,エホバはご自分に対する忠節を勇敢に実証する人たちを尊ばれます。―サム一 2:30

1944年が終わる時点で,ソビエト軍はウクライナ西部を奪回し,全面的な徴兵制を実施しました。同じころ,ウクライナのゲリラ隊が,ドイツとソビエト両軍を相手に戦闘を繰り広げていました。ウクライナ西部の住民は,ゲリラ隊に加わるよう圧力をかけられました。こうしたことすべては,エホバの僕たちが中立を保つうえで新たな試練をもたらしました。戦うことを拒否したために,幾人もの兄弟たちが処刑されました。

イワン・マクシミュクと息子のミハイロは,イリヤ・ホブチャクから真理を学びました。戦争中,武器を取ることを拒んだため,二人はゲリラ隊に勾留されました。その少し前に,ソビエトの兵士も一人捕らえられていました。ゲリラ隊員は捕虜にしたその兵士を殺すようイワン・マクシミュクに命じ,そうすれば釈放してやると言いました。マクシミュク兄弟が拒否すると,ゲリラ隊は兄弟を残虐な仕方で殺害しました。息子のミハイロ,およびユーリー・フレユクとその17歳の息子ミコラも,同じようにして殺されました。

ある兄弟たちは,ソビエト軍に入隊することを拒んだために処刑されました。(イザ 2:4)10年の拘禁刑を宣告された兄弟たちもいます。投獄された兄弟たちが生存する見込みはごくわずかでした。戦後のウクライナでは,自由な人々でさえ飢えていたからです。1944年,ミハイル・ダーセビッチは中立の立場ゆえに投獄されました。10年の拘禁刑に先立って6か月にわたる取り調べを受けた兄弟は,憔悴しきっていました。刑務所の医療部は,兄弟に“高カロリー食”を与えるよう指示しました。それで,刑務所の厨房職員は,兄弟のおかゆに小さじ1杯の油を加えるようになりました。兄弟にとってそのおかゆが,唯一許されていた食べ物でした。しかしダーセビッチ兄弟は生き延び,ソ連の国内委員会で23年間奉仕し,後にウクライナの国内委員会でも仕えました。

1944年,ブコビナの一会衆の兄弟たち7人が軍に入隊するのを拒み,各々3年ないし4年の拘禁刑を言い渡されました。そのうち4人は刑務所内で餓死しました。同じ年に,近くの会衆の兄弟たち5人が,シベリアの収容所における10年の懲役を宣告されました。戻ってこられたのは一人だけで,他の兄弟たちはそこで亡くなりました。

「1947 年鑑」(英語)は,これらの出来事について次のように述べています。「1944年にナチスという怪物が西に押しやられると,ロシアにとって有利な終戦を迎えるために,西ウクライナで……あらゆる人が動員されるようになりました。しかし兄弟たちはこのたびも,永遠の契約と中立の立場を不可侵なものとして守り通しました。主に対する忠実さゆえにたくさんの兄弟たちが命を失い,他の兄弟たち ― この時は1,000人を優に超えた ― は再び東へ,この広大な大陸の大平原地帯へと連れて行かれました」。

そのような大移動にもかかわらず,エホバの証人の数は増え続けました。1946年には,油そそがれた者4人を含む5,218人が,ウクライナ西部で記念式に出席しました。

ひとときの安らぎ

第二次世界大戦が終わった後,あらゆる苦難を耐え忍び神への忠節を保った兄弟たちは,戦場から戻って来る人々に希望と励ましの力強い音信を宣べ伝えました。兵士も戦争捕虜も帰郷した時には幻滅を感じ,人生の意義を見いだすことを切望していました。ですから,多くの人が喜んで聖書の真理を受け入れました。例えば1945年の暮れごろ,トランスカルパティアのビラ・ツェルクワ村では,51人がティサ川でバプテスマを受けました。年の終わりには150人の伝道者がその会衆にいました。

当時,ウクライナ西部とポーランド東部に住むウクライナ人とポーランド人が,互いに憎しみをつのらせていました。ウクライナ人やポーランド人の抗争グループが幾つも結成されました。それらのグループは,相手国籍の住民がいるのが分かると村人全員を殺害することもありました。悲しいことに,そうした虐殺に巻き込まれた兄弟たちもいます。

その後,ソビエト連邦とポーランドの間の協定により,約80万人のポーランド人がウクライナ西部からポーランドへ再移住させられ,約50万人のウクライナ人もポーランド東部からウクライナへ移動させられました。移住者の中にはたくさんのエホバの証人がいました。会衆ごと移動させられるところもあり,兄弟たちは新たな神権的割り当てを受けることになりましたが,その強制移住を新しい区域で宣べ伝える機会とみなしました。「1947 年鑑」はこう述べています。「こうした行き来のおかげで,通常ではおよそ不可能だった地域にさえ真理が急速に広まるようになりました。ですから,このような不幸な状況でさえ,エホバのみ名の栄光のために,その役割を果たしたのです」。

ウクライナの西の国境が閉鎖されると,兄弟たちはウクライナおよびソ連全域におけるエホバの証人の活動を組織するために行動を起こしました。すでにパブロ・ズヤテクが,ウクライナとソビエト連邦全体のために,国の僕として奉仕するよう任命されていました。その後,ズヤテク兄弟を援助するため,スタニスラフ・ブラクとペトロ・トカルという二人の熱心な兄弟が割り当てられました。兄弟たちは,リボフのクリスチャンの姉妹の家でひそかに暮らしながら,文書を印刷し,ソ連全土に霊的食物を供給しました。リボフで翻訳と印刷を行なうためにポーランドから文書を持ち込むことには,大きな危険が伴いました。時折,幾人かの兄弟姉妹が,ポーランドにいる親せきを訪ねる許可を得,その帰りにエホバの証人の文書をこっそり持ち込みました。一時期,汽車の機関士が,ボイラーの中に隠した金属の箱に文書を入れて運搬したこともありました。

1945年の終わりごろ,ズヤテク兄弟は逮捕され,10年の拘禁刑を宣告されました。兄弟に代わって,ブラク兄弟が国の僕になりました。

再び迫害が始まる

1947年6月,ある兄弟が,印刷された文書を持って兄弟たちに届けていたところ,リボフの街路で呼び止められて逮捕されました。保安局は,文書を定期的に届けている証人たちの住所を教えるなら,エホバの証人の組織を法的に登録すると申し出ました。兄弟はその言葉を信じて,国の僕だったブラク兄弟をはじめ30人近い兄弟たちの住所を教えました。後に,それらの兄弟たちはみな逮捕されました。この兄弟は心から後悔し,不適切にも保安局に信頼を置いてしまったことを認めました。

逮捕された兄弟たちはキエフの刑務所に連行され,さらに取り調べや法廷審問を受けました。その後ほどなくして,ブラク兄弟は刑務所で亡くなりました。逮捕される直前,ブラク兄弟はボルイニの地域の僕であったミコラ・ツィバと何とか連絡を取って,ウクライナおよびソビエト連邦全域における業の監督をゆだねることができました。

ソビエトの保安局が,一度にこれほど多くの責任ある兄弟たちや,秘密の印刷所の作業者たちを検挙したのは,初めてのことでした。ソ連の当局者たちは,エホバの証人の文書を反ソビエト的とみなしました。国家の秩序を乱しているという虚偽の告発が証人たちに対してなされ,大勢が死刑を宣告されました。しかし死刑宣告は,収容所における25年の懲役へと減刑されました。

兄弟たちはシベリアで服役するよう言い渡されました。ある弁護士に,それほど遠くに送られる理由を尋ねると,その弁護士は冗談めかして,「多分,あなた方の神についてそこで宣べ伝えるためでしょう」と答えました。この言葉は,後にまさしく真実となりました。

1947年から1951年にかけて,多くの責任ある兄弟たちが逮捕されました。証人たちが勾留された理由は,文書を印刷していたからだけでなく,軍に入隊せず,選挙で投票せず,子どもたちをピオネール団やコムソモール(共産主義青年同盟)の組織に加入させなかったためでもありました。ただエホバの証人であるというだけで,投獄される十分の理由となりました。しばしば,偽の証人が裁判で証言をしました。大抵の場合,その人たちは近所の人や同僚で,保安局に脅されたり,買収されたりしていました。

時には,陰で同情を示してくれる当局者もいました。イワン・シムチュクは逮捕され,6か月間独房に監禁されました。独房の中は何も聞こえず,街路の騒音さえ耳に届きません。兄弟はその後,裁判にかけられましたが,調査官が答え方を兄弟に教えて助けました。「タイプライターや文書をどこでだれから入手したか,何も話してはいけない。そうした質問には答えないように」と忠告したのです。尋問のために兄弟が連れて行かれる時,調査官は,「イワン,あきらめてはいけない。あきらめるな,イワン」と言いました。

幾つかの村では,エホバの証人は窓にカーテンを掛けることを許されませんでした。それは,証人たちが文書を読んだり集会を開いたりしていないか,近所の人や警察官によく見えるようにするためでした。それでも,兄弟たちは霊的に養われる方法を見つけました。「ものみの塔」研究の司会者の“演壇”は,時として,ユニークなものでした。「ものみの塔」誌を読んで司会する兄弟はテーブルの下に座り,床まで届くテーブルクロスがかけられます。“聴衆”はテーブルの周りに座り,注意深く耳を傾けて注解をしました。テーブルの周りに座っている人たちが宗教的な集まりを楽しんでいるのではないかと疑う人は,だれもいませんでした。

法廷での証言

前述のミハイロ・ダンは,1948年末に逮捕されました。その時兄弟は結婚していて1歳の息子がおり,妻はもうひとり身ごもっていました。裁判の際に,検察官は25年の拘禁刑を求刑しました。ダン兄弟は判事たちへの最後の陳述の中で,エレミヤ 26章14,15節の言葉を引用しました。「わたし自身は,あなた方の手の中にあります。あなた方の目に良いこと,また正しいことにしたがってわたしに行なってください。ただ,もしわたしを死に処すなら,あなた方は自分自身と,この都市と,その住民の上に,罪のない血を置くことになるということを是非知ってください。なぜなら,エホバが本当にわたしをあなた方のもとに遣わして,これらすべての言葉をあなた方の耳に語るようにされたからです」。この警告に判事たちは動かされました。協議の末,10年間の投獄およびロシアの僻地へ5年間流刑にするという判決が下されました。

ダン兄弟は祖国の裏切り者として有罪判決を受けました。それを知ったとき,兄弟は判事たちにこう言いました。「私はチェコスロバキアの統治下にあったウクライナで生まれ,後にハンガリーの支配下で暮らしました。今はソビエト連邦がその土地を占領しており,私は国籍の上ではルーマニア人です。私が裏切ったのはどの祖国でしょうか」。もちろん,この質問が答えられることはありませんでした。裁判の後,ダン兄弟は娘が誕生したという喜ばしい知らせを受け取りました。その知らせは,ロシア東部の刑務所や収容所における屈辱的な扱いを耐え忍ぶよう,兄弟を助けました。1940年代の後半に,ウクライナ,モルダビア,ベラルーシから来た兄弟たちの多くがソビエトの刑務所で餓死しました。ダン兄弟自身,体重が25㌔も減りました。

ウクライナの姉妹たちに対する迫害

ソビエト政権によって迫害され,長期刑に処されたのは,兄弟たちだけではありません。姉妹たちも同じように過酷な扱いを受けました。例えば,マリヤ・トミルコは,第二次世界大戦中にラベンスブリュック強制収容所で真理を学びました。その後,姉妹はウクライナに戻り,ドニエプロペトロフスク市で宣べ伝えました。その宣べ伝える活動のゆえに,1948年,姉妹は懲役25年の刑を宣告されて収容所に入れられました。

収容所における20年の懲役を言い渡された別の姉妹は,こう述べています。「取り調べの間,わたしは多くの犯罪者と一緒に一つの監房に入れられました。しかし,わたしは恐れずにそれらの女性たちに宣べ伝えました。意外にも,みな注意深く聞いてくれました。監房は満員で,わたしたちは床でぎゅうぎゅう詰めになって寝ました。寝返りを打つには,かけ声と共に全員一斉にそうするしかありませんでした」。

1949年,ザポロージエ市のバプテスト派の指導者が,地元の保安局に5人の姉妹たちに関する不利な情報を提供しました。そのため姉妹たちは逮捕され,反ソビエト運動を扇動したかどで告発され,それぞれ25年の刑を宣告されて収容所に入れられました。所有物はすべて押収されました。恩赦が与えられるまでの7年間,姉妹たちはロシア北部の僻地で服役しました。そのうちの一人,リディア・クルダスはこう述べています。「わたしたちは年に2通しか家に手紙を書くことが許されず,手紙は徹底的に検閲されました。その期間中,文書はずっと手に入りませんでした」。それでも,姉妹たちはエホバへの忠実を保ち,王国の良いたよりを宣べ伝え続けました。

モルダビアの兄弟たちを援助する

こうした困難な時期にも,エホバの証人は互いに愛を示しました。1947年に,隣国のモルダビア(現在はモルドバ)が厳しい飢きんに見舞われました。ウクライナの兄弟たちは,自分たちも困窮していたにもかかわらず,モルダビアにいる仲間の信者の必要にすぐさまこたえ,小麦粉を送りました。ウクライナ西部の証人は,モルダビアの証人たちをたくさん招いて自宅に泊めました。

モルダビアに住んでいたある兄弟は当時を振り返ってこう述べています。「孤児だったわたしは,政府から毎日パン200㌘を受け取るはずでした。しかし,わたしはピオネール団に属していなかったので,もらえませんでした。ウクライナ西部の兄弟たちが小麦粉を送ってくださり,伝道者1人あたり4㌔を受け取った時,わたしたちはとても喜びました」。

ソ連で法的な登録を試みる

1949年,ボルイニ地方の3人の長老(ミコラ・ピャトカ,イリヤ・バビュチュク,ミハイロ・チュマク)が,エホバの証人の活動の法的登録を申請しました。その後まもなく,チュマク兄弟は逮捕されました。残った二人の兄弟の一人,ミコラ・ピャトカによると,最初に申請書を送ったときには返事がありませんでした。そのため,2回目の申請がモスクワに提出されましたが,その書類はキエフに転送されました。キエフの役人たちは兄弟たちの話を聞く機会を設け,エホバの証人が当局に協力する場合に限り登録できると告げました。兄弟たちはもちろん,中立の立場を曲げることには同意しませんでした。しばらくして,これら二人の兄弟も逮捕され,それぞれ収容所における懲役25年の刑を言い渡されました。

モスクワからボルイニ地方当局に送られた特別な連絡書には,エホバの証人の「カルト」宗教は「明白な反ソビエト運動であり,登録の対象にならない」と書かれていました。地元の宗教局の局長は,エホバの証人をひそかに見張って国家保安省に報告するよう命じられました。

宗教指導者たちが当局に協力する

1949年,トランスカルパティアのバプテスト派の指導者が当局に訴え出て,エホバの証人が教区民を改宗させていると苦情を述べました。そのため,地元の会衆の長老ミハイロ・ティルニャクが逮捕され,10年の拘禁刑を宣告されました。兄弟の妻は二人の幼い子どもと共に家に残されました。

宗教指導者たちのそうした行動は,誠実な人々がエホバの証人の活動を理解し,正しく評価するための一助となりました。1950年に,トランスカルパティアのワシリナ・ビベンというバプテスト派の少女は,自分の教会の僧職者が,地域に住む二人のエホバの証人の活動を当局に通報したことを知りました。証人たちは逮捕され,6年の拘禁刑を言い渡されました。釈放後,二人は家に戻りましたが,僧職者に対して敵意を示す様子は全くありませんでした。ワシリナは,その証人たちが本当に隣人を愛していることを理解しました。感銘を受けたワシリナは,証人たちと聖書を学び,バプテスマを受けました。「とこしえの命に至る道を見いだせたことを,エホバに感謝しています」と,姉妹は述べています。

ロシアへの流刑

エホバの証人がふれ告げる聖書の真理は,共産主義政権の無神論的な思想とは相いれないものでした。証人たちはよく組織されていて,神の王国を推し進める文書をひそかに印刷し,配布しました。加えて,聖書の教えを隣人や親族に広めました。1947年から1950年にかけて,当局は1,000人余りの証人たちを逮捕しました。それでも,兄弟たちの数は増え続けました。そのため1951年に,当局は秘密裏にある計画を進めて,神の民を打ち砕こうとしました。残っている証人たちを東へ5,000㌔,遠くロシアのシベリアへと流刑にするのです。

1951年4月8日,ウクライナ西部から6,100人余りの証人たちがシベリアへ追放されました。朝早く,兵士を乗せたトラックがエホバの証人の家々に乗りつけ,それぞれの家族はわずか2時間で旅支度をするよう命令されました。持って行くことが許されたのは,貴重品と身の回りのものだけでした。家にいた人は全員,男性も女性も子どもも流刑になりました。高齢や病弱のために流刑を免れた人はいませんでした。速やかに,わずか1日で貨物列車に集め入れられ,送り出されました。

その時家にいなかった人たちは後に残され,当局もそれらの人を捜しませんでした。流刑になった家族と一緒になれるよう,正式に願い出た人たちもいます。しかし当局はそうした問い合わせに答えず,親族がどこに送られたかを教えることもしませんでした。

ウクライナ以外にも,モルダビア,ベラルーシ西部,リトアニア,ラトビア,エストニアのエホバの証人が流刑にされました。これら六つの共和国から,合計およそ9,500人の証人たちが追放されました。証人たちは軍の護衛の付いた貨物列車に乗せられて送り出されました。通常それらの貨物列車は,牛を運搬する時にのみ用いられたので,人々から牛舎と呼ばれていました。

証人たちはだれ一人,どこに連れて行かれるのか知りませんでした。長い旅の間,祈り,歌を歌い,互いに助け合いました。一部の人は貨車の外に布をつるし,「ボルイニ地方のエホバの証人」とか「リボフ地方のエホバの証人」という言葉を書いて,自分たちの出身地を示しました。途中の駅で停車すると,ウクライナ西部の他の地域から来た,似たようなサインを掲げた列車を目にすることができました。それによって兄弟たちは,他の地域の証人たちも流刑になったことを理解しました。そうした“電報”は,2週間から3週間に及ぶシベリアへの列車移動の間,兄弟たちを力づけました。

この移動は,恒久的な追放とみなされていました。計画では,エホバの証人を決してシベリアから去らせないことになっていました。刑務所にいたわけではありませんが,証人たちは定期的に地元の登録所に届け出なければなりませんでした。そうしない人は数年間投獄されました。

到着すると,一部の人はそのまま森の中に降ろされ,おのを渡されて,自分たちで木を切って家や生活に必要なものを備えるように言われました。最初の数年の冬を乗り切るために,証人たちは大抵,地面を掘って芝土で覆った,粗末なシェルターを作らなければなりませんでした。

現在クリミアで長老として奉仕しているフリホリー・メリニクは,こう語っています。「1947年に姉が逮捕された後,わたしはしばしば尋問のため当局に連れて行かれました。よく木の棒で殴打されました。壁際に16時間立たされたことも何度かあります。こうしたことはすべて,エホバの証人だった姉に不利な,虚偽の証言をするよう強いるためのものでした。わたしは16歳でした。姉に不利な証言をすることを拒んだため,地元の当局者たちはわたしが気に入らず,追い払いたいと思っていました。

「それで,わたしと二人の弟および妹は孤児だったにもかかわらず,1951年になるとシベリアへ流刑にされました。両親はすでに亡くなっていて,兄と姉は10年の刑に服していました。わたしは20歳で,弟二人と妹を養う責任を担っていました。

「わたしはよく,シベリアでの最初の2年間を思い出します。食べる物といえば,じゃがいもと紅茶しかありませんでした。当時カップはぜいたく品だったので,紅茶はスープ皿に入れて飲みました。でも,霊的にはとても元気でした。到着して数日のうちに,わたしは公開集会を司会し始めました。後に神権宣教学校も始まりました。弟たちや妹を養うため,非常に疲れる肉体労働をする必要があったので,そうした責任を果たすのは容易ではありませんでした」。そのような苦難の中でさえ,メリニク家はエホバとその組織に対する忠実を保ちました。

シベリア当局は,間もなく到着するエホバの証人と地元の人たちとの交流を防ごうとして,人食い族がシベリアに来るといううわさを流しました。証人たちのあるグループは到着後,地元の村々で家をあてがわれるまで,数日間待たなければなりませんでした。それで,寒空の下,凍ったチュルイム川の岸辺に腰を下ろしました。4月半ばでしたが,地面にはまだたくさんの雪が残っていました。兄弟たちは大きな火をたいて,体を温め,歌を歌い,祈り,旅の経験を語り合いました。不思議なことに,村人たちはだれも近寄ろうとしません。それどころか,家の戸口や窓をすべて閉め,証人たちを招き入れませんでした。3日目に,度胸のある村人たちが,おのを手に証人たちに近づき,会話を始めました。村人たちは最初,本当に人食い族がやって来たと思ったのです。しかし,すぐにそうではないことが分かりました。

1951年,当局はトランスカルパティアの証人たちも流刑にする計画を立て,空いている貨車を手配することさえしました。しかし,兄弟たちを追放するという決定は,何らかの理由で取り消されました。トランスカルパティアは,禁令期間中,ソビエト連邦全域のために文書が生産された主要な地域の一つとなりました。

一致が保たれる

兄弟たちの大半がシベリアへ流刑にされたため,残された人の多くは組織との接触を失いました。例えば,チェルノフツイのマリヤ・フレチナは,6年以上も組織や仲間の信者との接触がありませんでした。それでもエホバに依り頼み続け,忠実を保ちました。1951年から1960年代の半ばにかけて,兄弟たちの大半は投獄か流刑に処されていたため,多くの会衆では姉妹たちが率先して物事を行なう必要が生じました。

こうした出来事を目の当たりにしたミハイル・ダーセビッチは,こう回想しています。「シベリアへの流刑は,わたしには直接影響しませんでした。流刑者リストが作成された時,わたしはまだロシアで服役していたからです。ウクライナへ戻ってから間もなく,地域にいた証人たちのほとんどがシベリアへ送られました。そのため,組織と接触を失った個々のエホバの証人を捜し出して,書籍研究の群れや会衆を編成しなければなりませんでした。それはつまり,巡回監督の責任を果たすことを意味していました。でも,その仕事を行なうようだれかから任命されたわけではありません。毎月すべての会衆を訪問し,報告を集め,まだ手元にあった文書を会衆から会衆へと分配しました。しばしば姉妹たちが会衆の僕の仕事を行ない,一部の地域では巡回の僕の責任も果たしました。兄弟たちがいなかったからです。わたしたちの巡回区では,安全上の理由で,会衆の僕たちの集まりはすべて夜に墓地で行ないました。人々が一般に死者を恐れていることを知っていたので,そこならだれにも邪魔をされないと確信していたからです。通常,そういう集まりでは小声で話しました。ある時,少し声が大きくなり,墓地を通りかかっていた二人の男性が全速力で逃げて行きました。死者が話していると思ったのでしょう」。

そのころ国の僕だったミコラ・ツィバは,1951年の流刑の後も,地下壕でひそかに聖書文書を印刷する仕事を続けました。1952年,保安局が兄弟の居場所を突き止めて逮捕し,兄弟は長い年月を刑務所で過ごしました。兄弟は1978年に亡くなるまで忠実を保ちました。ツィバ兄弟を手伝っていた幾人かの兄弟たちも逮捕されました。

その時期,国外との連絡は全く断たれていたため,最新の文書を予定どおり受け取ることができませんでした。ある時,数人の兄弟たちが,1945年から1949年までの,ルーマニア語の「ものみの塔」誌を手に入れることができました。地元の兄弟たちはそれをウクライナ語とロシア語に翻訳しました。

流刑や投獄に処されなかったウクライナの証人たちは,仲間の信者に深い気遣いを示しました。収監されている人たちのリストを作り,暖かい衣服,食物,文書などを送るために,多大の努力が払われました。例えば,トランスカルパティアのエホバの証人は,ソビエト連邦全域の54の収容所にいる兄弟たちと連絡を保ち続けました。多くの会衆では付加的な寄付箱が設けられ,「確かな希望のために」と表示されました。この寄付箱で集められたお金は,服役している人々の必要を賄うために用いられました。刑務所や収容所から届く温かい感謝の手紙と野外奉仕報告は,自由な立場で忠実かつ自己犠牲的に仕える兄弟たちにとって大きな励みとなりました。

状況は改善される

ソビエトの首相ヨシフ・スターリンの死後,エホバの証人に対する態度は好転しました。1953年からソ連で恩赦が行なわれ,一部の兄弟たちは釈放されました。その後,国家委員会が形成され,実刑判決の再検討が行なわれました。結果として,多くの兄弟たちが釈放され,他の兄弟たちも刑期を短縮されました。

その後の数年間に,投獄されていた証人たちの大半は釈放されました。しかし恩赦は,1951年に流刑となった人々には適用されませんでした。一部の刑務所や収容所では,エホバの証人になった人たちの数が,当初そこに送られた証人たちの数を上回りました。そのような増加は兄弟たちの励みとなり,その時期に堅く立ったからこそエホバが祝福してくださったのだという確信につながりました。

釈放後,多くの兄弟たちは家に戻ることができました。組織との接触を失った証人たちを捜すために多大の努力が払われました。ドネツク地方に住んでいたボロジーミル・ボロブイェフはこう述べています。「わたしは1958年に再び逮捕されるまで,組織との接触を断たれていた約160人の証人たちを捜し出し,助けることができました」。

恩赦が行なわれたとはいえ,兄弟たちはそれまで以上に宣べ伝える自由を得たわけではありませんでした。多くの兄弟姉妹はいったん自由にされましたが,間もなく再び長期刑を宣告されました。一例として,ドニエプロペトロフスクのマリヤ・トミルコは,25年の刑期のうち実際に服したのは8年だけでした。1955年3月に恩赦が与えられたからです。しかし3年後,姉妹は再び10年の拘禁刑と5年の流刑を言い渡されました。なぜでしょうか。判決文にはこう書かれていました。「被告人は,エホバ主義的な文書や手書きの原稿を所持して読み」,また「エホバ主義の信条を隣人に広めるべく,盛んに活動した」。7年後,姉妹は身体障害者として釈放されました。トミルコ姉妹はあらゆる試練を耐え忍び,現在に至るまで忠実を保っています。

愛は決して絶えない

当局は特別な努力を傾けてエホバの証人の家族を引き離そうとしました。保安局はしばしば,証人たちに一つの選択を突きつけました。神を取るか家族を取るか,というものです。しかし,ほとんどの場合,エホバの民は極めて厳しい試練の中でもエホバへの忠節を実証しました。

トランスカルパティア出身のハンナ・ボコチの夫ヌツは,熱心な伝道のゆえに逮捕されました。姉妹はこう述べています。「投獄されていた間,夫は悪意に満ちた様々な侮辱を耐え忍びました。6か月も独房の中で過ごしましたが,そこにはベッドはなく,いすが一つしかありませんでした。ひどく殴打され,食事もろくに与えられませんでした。数か月で夫はやせ細り,体重はわずか36㌔,つまり普段の半分になりました」。

兄弟の忠実な妻と幼い娘が後に残されました。当局はボコチ兄弟に,信仰の面で妥協して協力するよう圧力をかけました。兄弟は,家族を選ぶか死を選ぶかどちらかにしろと言われました。ボコチ兄弟は信念を曲げず,エホバとその組織に対する忠実を保ちました。刑務所で11年間過ごし,釈放後は長老として,また後に巡回監督として,1988年に亡くなるまでクリスチャンの活動を続けました。兄弟は詩編 91編2節の次の言葉から幾度も力を得ました。「わたしはエホバに申し上げよう,『あなたはわたしの避難所,わたしのとりで,わたしの依り頼むわたしの神です』と」。

並々ならぬ忍耐の別の模範を考えましょう。ユーリー・ポプシャはトランスカルパティアで旅行する監督として奉仕していました。しかし,結婚式の10日後に逮捕されました。新婚旅行に行く代わりに,兄弟はロシアのモルドビニアの刑務所で10年間過ごしました。忠実な妻のマリヤは夫を14回訪ね,そのつど片道およそ1,500㌔の旅をしました。現在,ポプシャ兄弟はトランスカルパティアの地元の一会衆で長老として仕えており,最愛のマリヤも優しく忠実に夫を支えています。

苦難のもとで忍耐する点でさらに別の模範となっているのは,ザポロージエ市に住んでいた夫婦,オレクシー・クルダスとリディア・クルダスです。1958年3月,娘のハリナが生後17日のときに,二人は逮捕されました。同じ地域でさらに14人が逮捕されました。クルダス兄弟は収容所での懲役25年の刑を宣告され,妻は10年の刑を言い渡されました。二人は引き離され,オレクシーはモルドビニアの収容所へ,リディアは小さな娘と共にシベリアへ送られました。

クルダス姉妹は,ウクライナからシベリアまでの3週間に及ぶ旅についてこう述べています。「ひどいものでした。わたしと娘のほかに,ナディヤ・ビシュニャクと,彼女が数日前に取り調べで刑務所にいた時に生んだばかりの赤ちゃん,そしてもう二人の姉妹がいたのですが,6人とも,囚人を二人だけ運ぶために設計された貨車の一室に入れられました。子どもたちは下の寝台に寝かせ,わたしたちは旅の間ずっと上の寝台で身をかがめて座っていました。食べる物といえば,パンとニシンの塩漬けと水だけでした。しかも,大人4人分の食物しか供給されず,子どものためには何も与えられませんでした。

「目的地に到着すると,娘と一緒に刑務所の病院に入れられました。わたしはそこで出会った何人かの姉妹たちに,調査官から,娘を連れ去って孤児院に送ると言って脅されたことを話しました。すると姉妹たちは何らかの方法で,わたしの窮状についてシベリアの地元の兄弟たちに伝えてくれました。しばらくして,18歳のタマラ・ブリャク(現在はラブリュク)が収容所の病院に来て,娘のハリナを引き取って行きました。タマラに会ったのはそれが初めてでした。霊的な姉妹とはいえ,面識のない人に愛する娘を託すのは,非常につらいことでした。しかし,収容所の姉妹たちがブリャク家の忠節さについて教えてくれたので,とても慰められました。タマラに世話をゆだねたとき,娘は生後5か月と18日でした。娘と再会できたのは,それから7年もたった後のことでした。

「1959年に,ソ連は新たな恩赦の布告を行ないました。それは7歳未満の子どものいる女性に適用されました。でも刑務所当局は,わたしにまず信仰を捨てるようにと言いました。わたしは同意しなかったので,収容所にとどまらなければなりませんでした」。

クルダス兄弟は,1968年に43歳で釈放されました。真理のために刑務所で合計15年間過ごし,そのうち8年は,外部から隔絶された特別な刑務所にいました。兄弟はついにウクライナの妻と娘のもとへ帰ることができました。やっと家族が再び一つになったのです。ハリナは父親に会うと,ひざの上に座ってこう言いました。「パパ,長い間パパのひざの上に座れなかったから,今からこれまでの分を取り戻さなくちゃ」。

その後,クルダス家は転々と引っ越しました。当局が一家を繰り返し住まいから追い出したためです。最初はウクライナ東部に住み,次いでグルジア西部,そしてシスコーカサスに行きました。やがてハリコフに落ち着き,現在もそこで幸福に暮らしています。ハリナは結婚しました。家族はみな引き続き忠実にエホバ神に仕えています。

信仰の高潔な模範

時には,信仰の厳しい試みが,数か月,数年,あるいは数十年続くことさえありました。一つの例を考えましょう。ユーリー・コポスは,トランスカルパティアの美しい町フストにほど近いところで生まれ育ちました。1938年,25歳のときに,エホバの証人になりました。第二次世界大戦中の1940年,兄弟は8か月の禁固刑に処されました。ナチ政権を支持するハンガリーの軍隊に入ることを拒んだためです。当時トランスカルパティアの地域法は,宗教上の理由で投獄された人の処刑を許可していませんでした。そのため兄弟たちは,ナチスの法のもとで処刑が許されていた前線へと送られることになりました。1942年,コポス兄弟は,21人のエホバの証人を含む他の囚人たちと共に,軍に護衛されながらロシアのスターリングラード付近の前線へ連れて行かれました。処刑のためにそこへ送られたのです。しかし,到着して間もなくソビエト軍が攻撃を始め,ドイツ兵と兄弟たちを捕らえました。証人たちはソビエトの収容所へ送られ,1946年に釈放されるまでそこにいました。

コポス兄弟は家に帰り,地元の区域で活発に伝道を行ないました。1950年,その活動ゆえに,ソビエト当局は兄弟に対して,収容所での懲役25年の刑を宣告しました。しかし,恩赦が与えられ,兄弟は6年後に釈放されました。

44歳になったコポス兄弟は釈放後,ハンナ・シシュコと結婚する予定でいました。彼女もエホバの証人で,刑務所で10年の刑に服した後,少し前に釈放されていました。二人は婚姻届を提出しましたが,結婚前夜に再び逮捕され,収容所における懲役10年の刑を言い渡されました。それでも,二人はこうした苦難を乗り越えました。二人の愛は,結婚が10年後に延びたことも含め,すべての事に耐えたのです。(コリ一 13:7)1967年に釈放された後,二人はようやく結婚できました。

二人の物語はこれで終わりではありません。1973年,コポス兄弟は60歳で再度逮捕され,5年の懲役および5年の流刑を宣告されました。兄弟は郷里のフストから約5,000㌔離れたシベリアで,妻のハンナと共に流刑に服しました。その地域に車や列車で行くことはできず,交通手段は飛行機しかありませんでした。1983年,コポス兄弟は妻と一緒に故郷のフストに戻りました。ハンナは1989年に亡くなり,兄弟は1997年に亡くなるまで忠実にエホバに仕え続けました。コポス兄弟は各地の刑務所で合計27年服役し,5年間の流刑も経験しました。すべて合わせると32年にもなります。

この慎み深く柔和な兄弟は,1世紀のほぼ3分の1をソビエトの刑務所や強制労働収容所で過ごしました。このような際立った信仰の模範は,いかなる敵も神の忠節な僕たちの忠誠を破れないということを明らかに示しています。

一時的な分裂

人類の敵である悪魔サタンは,真の崇拝を実践する人々と戦うために様々な方法を用います。身体的な虐待を加えるだけでなく,疑念を広めて兄弟たちの間に不和を生じさせようとします。そのことは,ウクライナのエホバの証人の歴史においてもよく表われています。

1950年代,エホバの証人は容赦ない攻撃にさらされました。当局は,文書が印刷されている場所を見つけようと,常に捜索していました。責任ある兄弟たちは次々に逮捕されました。このため,先頭に立って業を監督する兄弟たちは何度も入れ替わり,数か月おきに替わることさえありました。

流刑,投獄,身体的暴力,拷問などによってエホバの証人を沈黙させられないことを悟った保安局は,新たな手段を講じました。兄弟たちの間に不信の種をまくことにより,内側から組織を分裂させようとしたのです。

1950年代半ば,保安局は,責任を持つ活発な兄弟たちを即座に逮捕するのをやめ,監視するようになりました。そうした兄弟たちはたびたび保安局の事務所に呼ばれ,協力すればお金と良い仕事を与えると言われました。協力を拒むと,投獄や屈辱が待っていました。神に対する信仰が欠けていた一部の人は,恐れや欲に駆られて妥協しました。組織の一員としての立場を保ちながら,エホバの証人の活動について保安局に密告するようになったのです。さらに,当局の指示をそのとおり実行し,潔白な兄弟たちが他の忠実な兄弟たちの目に裏切り者と映るように仕向けました。こうしたことすべては,多くの兄弟たちの間に不信感を広めました。

パブロ・ズヤテクは,そうした不信感や,いわれのない疑いのために大いに苦しみました。この謙遜で熱心な兄弟は,長い年月を収容所で過ごし,エホバへの奉仕に生涯をささげました。

1940年代半ば,ズヤテク兄弟は国の僕として奉仕しました。逮捕された後,ウクライナ西部の刑務所で10年間過ごし,1956年に釈放され,1957年には国の僕としての務めを再開しました。国内委員会には,ズヤテク兄弟以外に8人の兄弟たちがいました。4人はシベリア出身,4人はウクライナ出身でした。これらの兄弟たちは,ソ連全域における王国伝道の業を監督していました。

距離が非常に離れており,迫害が続いていたため,兄弟たちは連絡を密に保ったり定期的に集まったりできませんでした。そのうち,ズヤテク兄弟や他の委員に関するうわさが広まりました。ズヤテク兄弟は保安局に協力している,証言活動を推し進めるための基金を使って豪邸を建てた,軍服姿を目撃された,というような話です。そのような報告はスクラップブックに集められ,シベリアの地域監督や巡回監督たちに送られました。そうした非難はいずれも事実無根でした。

1959年3月,シベリアの巡回監督の幾人かが,とうとう国内委員会に野外奉仕報告を送るのをやめてしまいました。離れていった人たちは,そうするに当たって本部に助言を求めませんでした。また,国内の監督として任命されていた兄弟たちの指示にも従いませんでした。このことにより,ソ連のエホバの証人の組織に分裂が生じ,何年も続きました。

離れた兄弟たちは,同様の立場を取るよう他の巡回監督たちを説得しました。結果として一部の巡回区では,毎月の野外奉仕報告が,任命された国内委員会にではなく,離れた兄弟たちに送られました。諸会衆の兄弟たちの大半は,自分たちの野外奉仕報告が国内委員会に届いていないことを知らなかったので,会衆の活動は影響されませんでした。ズヤテク兄弟が何度かシベリアに赴いた後,幾つかの巡回区は再び国内委員会に野外奉仕報告を送り始めました。

神権組織への復帰

1961年1月1日,ズヤテク兄弟は,シベリアへの伝道旅行から帰る途中の列車の中で逮捕されました。兄弟は再び10年の懲役刑を宣告され,今度はロシアのモルドビニアにある“特別”収容所に送られました。その収容所はなぜ“特別”だったのでしょうか。

兄弟たちはさまざまな収容所で服役することにより,他の囚人たちに宣べ伝える機会を得,多くの人がエホバの証人になりました。当局はそのことに危機感をつのらせました。それで,主要な証人たちを一つの収容所に集め,他の人に伝道できないようにしました。1950年代の終わりごろ,ソ連各地の収容所から400人を超える兄弟たちと100人ほどの姉妹たちが集め出され,モルドビニアの二つの収容所に入れられました。囚人の中には,国内委員会の兄弟たちに加えて,エホバの意思伝達の経路から離れていた巡回監督や地域監督もいました。それらの兄弟たちは,ズヤテク兄弟が収監されているのを見て,兄弟が保安局に協力していたと信じるべき根拠がほとんどないことに気づきました。

その間,ズヤテク兄弟の逮捕を考慮して,イワン・パシュコフスキーが国の僕の務めを代行するようすぐに取り決められました。1961年の半ばごろ,パシュコフスキー兄弟はポーランドの責任ある兄弟たちに会い,ソ連の兄弟たちの間に分裂が生じていることを説明しました。兄弟は,ズヤテク兄弟が支持されていることを示す手紙を,ブルックリン本部のネイサン・H・ノアに書いてもらえないか尋ねました。パシュコフスキー兄弟は後に,ソ連のエホバの証人にあてた1962年5月18日付の手紙を受け取りました。その手紙にはこう書かれていました。「私の手元に時折届く連絡によると,ソ連の兄弟たちはエホバ神の忠実な僕であり続けたいという強い願いを保っておられます。しかし皆さんの中には,兄弟たちとの一致を保つ面で問題を抱えている人もいるようです。これは,貧弱な通信手段,およびエホバ神に反対する一部の人々が故意に広めている偽りの情報のためと思われます。ですから私は,パブロ・ズヤテク兄弟,およびズヤテク兄弟と共に働く兄弟たちが,ソ連で責任を担うクリスチャン監督として協会の承認を得ていることを皆さんにお伝えするため,ペンを執りました。妥協することも,極端な見方をすることも避けなければなりません。私たちは健全な思いを持ち,道理をわきまえ,融通を利かせながらも,神の原則に堅く付かなければならないのです」。

この手紙と,ズヤテク兄弟が10年の懲役刑を宣告されたという事実は,ソ連のエホバの民を一致させる助けになりました。離れていた多くの兄弟たちは,各地の刑務所や収容所にいましたが,再び組織と共に歩み始めました。ズヤテク兄弟が組織を裏切ってはおらず,本部が兄弟を全面的に支持していることを理解したのです。投獄されていた兄弟たちは,家族や友人に手紙を書く際,地元の会衆の長老たちに,忠実を保っている兄弟たちと連絡を取って野外奉仕活動を報告するよう勧めました。続く10年の間に,離れていた兄弟たちの大半はこの勧めに従いました。しかし,これから見るとおり,一致という目標を達成するのは依然として大きな課題でした。

収容所で忠節を保つ

収容所での生活は厳しいものでした。しかし,収監されていたエホバの証人は,その霊性ゆえに他の囚人よりも大抵うまく対処できました。証人たちには文書があり,円熟した信仰の仲間と意思の疎通を図ることができました。こうしたことはすべて,良い精神状態および霊的進歩に寄与しました。ある収容所では,姉妹たちが地面の中に文書を極めて巧みに埋めたため,だれもそれを見つけられませんでした。ある検査官は,“反ソビエト的文書”を敷地から一掃するには,収容所の周りの地面を2㍍の深さまで掘り返して,土をふるいにかけなければならないとまで言いました。収監された姉妹たちは雑誌を徹底的に研究したので,中には50年たった今でもそれらの「ものみの塔」誌の一部を暗唱できる姉妹もいます。

兄弟姉妹はエホバへの忠節を保ち,困難な時期にも聖書の原則を曲げようとしませんでした。宣べ伝える活動のゆえに収容所で5年間過ごしたマリヤ・フレチナは,こう回想しています。「わたしたちは,『血の神聖さを尊重して潔白を保つ』という記事を載せた『ものみの塔』誌を受け取ると,肉料理が出される時には収容所の食堂で昼食を取らないことにしました。収容所で使われる肉は多くの場合,ふさわしく血抜きされていなかったからです。刑務所長は,エホバの証人が特定の昼食を食べない理由を知ると,無理にでもその信条を破らせようとしました。毎日,朝も昼も晩も肉を出すように命じたのです。わたしたちは2週間,パン以外何も食べませんでした。エホバがすべてをご覧になり,わたしたちがどれほど長く耐えられるかご存じであることを知っていたので,エホバに全幅の信頼を置きました。そのような“栄養食”の2週目が終わるころ,所長は考えを変え,野菜やミルクや少量のバターさえ出すようになりました。エホバが本当に顧みてくださることを実感しました」。

耐え忍ぶための助け

兄弟たちは他の囚人と比べて,人生に対するとても前向きで確信のこもった見方を保ちました。そうすることによって,ソビエトの刑務所の惨めな状況を耐え忍ぶことができました。

刑務所で長い年月を過ごしたオレクシー・クルダス兄弟は,こう述べています。「わたしにとって耐え忍ぶ助けとなったのは,エホバとその王国に対する深い信仰と,刑務所における神権的な活動への参加,そして定期的な祈りでした。さらに助けとなったのは,自分はエホバに喜ばれるような仕方で行動しているという確信でした。また,常に忙しくしているようにしました。刑務所で最も怖いのは,退屈することです。それは人格を破壊し,精神を病ませます。ですから,神権的な事柄にいつも忙しく携わるように努力しました。また刑務所の図書室から,世界史,地理,生物学に関する本をできる限り取り寄せました。そして,命に対する自分の見方を支持する箇所を探しました。そのような方法で信仰を強めることができました」。

1962年に,セルヒー・ラブリュクは3か月間独房で過ごしました。兄弟はだれとも話ができず,看守たちと話すことさえ許されませんでした。正気を保つために,兄弟は知っている聖句をすべて思い起こし始めました。1,000を超える聖句を覚えていたので,それらを鉛筆の芯で紙切れに書き留めました。鉛筆の芯は床の小さな溝の中に隠しておきました。兄弟はさらに,以前に研究した「ものみの塔」誌の記事の主題を100以上思い出しました。また,続く20年間の記念式の日付を計算しました。こうしたことはすべて,精神面だけでなく霊的にも粘り強くあるよう兄弟を助けました。そのおかげで,エホバに対する,生きた強い信仰を保つことができたのです。

看守たちによる“サービス”

保安局の妨害にもかかわらず,エホバの証人の文書はあらゆる障壁を乗り越え,刑務所にいる兄弟たちにさえ届きました。看守たちもそのことに気づいており,時々すべての監房を徹底的に検査し,文字どおりすべてのすき間をのぞき込みました。また,文書を見つけようとして,定期的に囚人たちを一つの監房から別の監房へと移しました。そうした移動の際,囚人はみな念入りに検査され,文書が見つかると没収されました。兄弟たちは文書が発見されるのをどのように防いだのでしょうか。

大抵の場合,兄弟たちは文書をまくらやマットレスや靴の中,また服の下に隠しました。さらに一部の収容所では,「ものみの塔」誌が非常に細かな字で書き写されました。囚人が監房を移される際,兄弟たちは時々,縮小した雑誌をビニールで包んで舌の裏に隠しました。そのようにして,わずかな霊的食物を保存することができ,霊的に養われ続けたのです。

ワシル・ブンハは,真理のゆえに長い年月を刑務所で過ごしました。兄弟は同じ監房にいたペトロ・トカルと一緒に大工道具箱の底を二重にし,刑務所にこっそり持ち込まれた出版物の原本をその中に隠しました。二人は刑務所の大工で,刑務所内で大工仕事をする時に道具箱を渡されていました。その箱を借り出すたびに,二人は雑誌の原本を取り出して写しました。一日の仕事が終わると,雑誌は道具箱に戻されました。のこぎりやのみなどの大工道具は囚人たちに凶器として使われるおそれがあったため,刑務所長は道具箱に三つのかぎをかけ,施錠した2枚の扉の向こうに保管していました。ですから,聖書文書の捜索の際,看守たちはかぎのかかった道具箱を調べることなど思いつきませんでした。所長の持ち物と共に保管されていたからです。

ブンハ兄弟は,文書の原本を隠す場所をもう一つ見つけました。兄弟は目が悪かったので,眼鏡を幾つか持っていました。囚人は一度に一つの眼鏡しか所持することが許されていませんでした。他の眼鏡は特別な場所に保管され,必要に応じてそれを出してもらえました。ブンハ兄弟は特別な眼鏡ケースを作り,出版物の縮写版の原本をその中に入れました。雑誌の写しを作る必要が生じると,ブンハ兄弟は看守にただ別の眼鏡を持ってきてくれるよう頼みました。

時には,み使いたちが看守の手から文書を守ったとしか思えないこともありました。ブンハ兄弟は,チェスラフ・カズラウスカスが刑務所に棒状のせっけんを20個持ってきた時のことを思い出します。そのうちの半分に出版物が詰められていました。看守は10個のせっけんを選んで突き刺しましたが,その中に文書の入ったせっけんは一つもありませんでした。

一致のための継続的な努力

1963年以降,国内委員会の兄弟たちは定期的にブルックリンへ野外奉仕報告を送れるようになりました。兄弟たちが出版物をマイクロフィルムで受け取る手はずも整えられました。その当時,ソ連全体に14の巡回区があり,そのうち四つはウクライナにありました。神の民が増えるにつれて,ウクライナに七つの地域区が設けられました。保安上の理由から,各地域区は女性の名前で呼ばれていました。ウクライナ東部の地域区はアーラと呼ばれ,ボルイニのはウスティーナ,ハリチナのはリューバ,そしてトランスカルパティアの地域区はそれぞれカーチャ,フリスティーナ,マーシャと呼ばれていました。

一方,KGB(国家保安委員会)はエホバの証人の一致を砕こうとする試みを続けました。あるKGB事務局の局長は,上司にこう書き送りました。「我々は,このセクトの分裂に拍車をかけるべく,エホバ主義の指導者たちの挑発的活動を抑制し,仲間の信者の前でその信用を失墜させ,不信感が広まるよう仕向けております。KGBの諸機関の働きかけにより,このセクトを対立する二つのグループに分裂させることができました。一方は,現在服役中のエホバ主義幹部ズヤテクに従う者たちから成り,もう一方はいわゆる反対派の支持者たちで構成されています。こうした状況は,一般信者の間の思想的な不和を助長し,組織単位のさらなる分裂を促すうえで,望ましい環境や条件を生み出しました」。しかし手紙の続く部分は,KGBの努力が困難に直面していることを認めています。こう書かれています。「エホバ主義の最も反動的な指導者たちは,我々の行動に対抗する手段を講じており,あらゆる方法で組織単位の結束を試みています」。そうです,兄弟たちは一致を保つために働き続け,エホバはその努力を祝福されました。

KGBは,離れていた兄弟たちに,ノア兄弟からのものと称して偽の手紙を提示しました。それは,別個の,独立したエホバの証人の組織を形成するという案を支持するものでした。この手紙は,組織の伝達経路から離れることが許される例として,アブラハムとロトの別離を引き合いに出しており,ソ連全土で配布されました。

忠実な兄弟たちはその手紙の写しをブルックリンに送り,1971年に,その手紙が全くの偽物であることを示す返答を受け取りました。ノア兄弟は,神の民から離れたままでいる兄弟たちにあてた手紙の中で,こう述べました。「協会は唯一の伝達経路として,皆さんの国の任命された監督たちを用いています。それら任命された監督たち以外,国内のいかなる個人にも,皆さんの間で指導的な立場を取る権限は与えられていません。……エホバの真の僕たちは一致したグループです。ですから私は,皆さんすべてが任命された監督たちのもとでクリスチャン会衆の一致に立ち返り,私たちが一丸となって証しの業に携わるようになることを願い,祈っています」。

この手紙は,兄弟たちを一致させるうえで大きな助けになりました。しかし,依然として個人的に本部と接触を持とうとする人もいました。既存の伝達経路をまだ信用していなかったのです。そのため,離れていた兄弟たちは一つの実験を行なうことにしました。ブルックリンに10ルーブル紙幣を送り,それを二つに切って両半分ともウクライナに送り返すよう兄弟たちに依頼しました。紙幣の片方は離れている兄弟たちに郵送し,もう片方は本部が用いる経路を通して送ることになっていました。

その依頼どおり,半分は郵送され,もう半分は伝達係を通して国内委員会に渡されました。次いで委員会はそれをトランスカルパティアの責任ある兄弟たちに渡し,その兄弟たちは離れていた兄弟たちのもとに遣わされました。にもかかわらず,離れていた兄弟たちの中には,国内委員会が保安局と本当に結託していると思い込んで,不信感を拭いきれない人もいました。

とはいえ,離れていた兄弟たちの大半は組織に戻りました。ソ連のエホバの証人の組織を分裂させて壊滅させようとするサタンとKGBの策略は,失敗に終わりました。エホバの民は数と力において増大し,一致を促進しながら新しい区域で真理の種をまく業を熱心に行ないました。

ワシーリー・カーリンはこう述べています。「当局は様々な手段を用いて,クリスチャンとして生きたいというわたしたちの願いを抑えつけようとしました。しかしわたしたちは,信者でない流刑者仲間に宣べ伝え続けました。それらの人たちは,種々の理由や様々な犯罪のために追放されていました。多くの人が音信に関心を示し,やがてエホバの証人になる場合も少なくありませんでした。わたしたちが国家保安委員会と地元当局の両方から迫害されていることを知りながら,そのような立場を取ったのです」。

禁令下のクリスチャン生活

では,禁令の最初の数十年間,クリスチャンの活動がどのように行なわれていたかを概観してみましょう。エホバの証人の業は,1939年以降,ウクライナ全土で禁止されました。兄弟たちは他の人に証しするときに十分注意しなければなりませんでしたが,それでも伝道や会衆の活動は進展しました。関心を持つ人は,訪問しているのがエホバの証人だということを最初は知らされませんでした。家庭聖書研究はしばしば聖書だけを用いて行なわれました。大勢の人がそのようにして真理を学びました。

会衆の集会も同様の状況下で開かれました。多くの場所では,兄弟たちは週に数回,夕方遅くか夜が更けてから集まりました。見つからないように,窓には厚い布のカーテンを掛け,石油ランプの明かりを頼りに学びました。原則として,各会衆は手書きの「ものみの塔」誌を1冊だけ受け取りました。後になって,兄弟たちは複写機で印刷された雑誌を受け取るようになりました。「ものみの塔」研究は通常,週に2回,個人の家に集まって行なわれました。KGBは,責任ある兄弟たちを処罰しようと,エホバの証人の集会場所を執ように探しました。

兄弟たちはまた,結婚式や葬儀の機会を利用して集まり,よく準備された聖書の話によって互いに励まし合いました。結婚式では,多くの若い兄弟姉妹が聖書のテーマに基づいた詩を読み上げ,時代衣装を着けた聖書劇を上演しました。こうしたことはすべて,エホバの証人ではないたくさんの出席者に対するよい証言となりました。

1940年代と1950年代には,多くの兄弟たちがそうした集いに出席していただけで逮捕され,投獄されました。しかし,1960年代になると状況は変わりました。集会が見つかると,保安局はたいてい全出席者のリストを作り,家主は月給の半分の罰金を科されました。しかし時折,この方策は非常識なまでに徹底されることがありました。ある時,ミコラ・コスチュークは妻と共に息子を訪ねました。すぐさま警察が来て,“すべての出席者”のリストを作りました。後にコスチューク兄弟の息子は,“エホバ主義者の違法な集会”を理由に罰金を科されました。コスチューク家はこの件に関して異議を申し立てました。集会を開いていたわけではなかったからです。当局は罰金を取り消しました。

記念式

絶え間なく続く困難に対処するのは容易ではありませんでした。それでも兄弟たちは落胆したりせず,定期的に集まり続けました。最も挑戦となったのは,記念式を行なうことです。KGBはいつも記念式のおおよその日付を知っていたので,その時期は特に目を光らせていました。エホバの証人を監視していれば,記念式の会場を見つけられると期待していたのです。期待どおりにいけば,保安局は新しい証人たちと“知り合いになる”ことができました。

兄弟たちはその作戦を知っていたので,記念式の日には極めて慎重に行動しました。集いは見つかりにくい場所で行ないました。関心のある人たちは,記念式の日付と場所を前もっては教えられませんでした。証人たちは大抵,記念式の当日に関心のある人の家に行き,そのまま会場に連れて行きました。

ある時,トランスカルパティアの兄弟たちは,一姉妹の家の地下室で記念式を行ないました。地下室は浸水していたので,ひざまで水のある場所で人が集まるとはだれも思いませんでした。兄弟たちは水面より高いところに足場を作り,地下室を記念式にふさわしい状態に整えました。低い天井の下で,身をかがめて足場に座らなければなりませんでしたが,だれにも邪魔されず,喜びのうちに記念式を執り行なうことができました。

1980年代の別の時,あるクリスチャン家族は記念式に出席するために朝早く家を出発しました。日が暮れるころ,他の兄弟たちと森に集まり,記念式を行ないました。どしゃ降りの雨だったので,兄弟姉妹はみな傘をさして輪になって集まり,ろうそくを持って明かりにしました。結びの祈りの後,全員家路に就きました。家に着くと,家族は庭の門が開いているのに気づきました。警察か保安局が探しに来ていたのは明らかでした。家族はぬれて疲れてはいましたが,朝早く家を出て記念式に出席し,当局との対面を避けられたことを皆で喜びました。

キエフでは,記念式のための安全な場所を探すのが非常に困難でした。ある年,兄弟たちは車の中で記念式を執り行なうことにしました。一人の兄弟が運送会社でバスの運転手をしていたので,兄弟たちはバスを1台借りました。バスはエホバの証人だけを拾い,それから市外に出て,森の中の空地へ行きました。そのバスの中で,兄弟姉妹は表象物を置いた小さなテーブルを準備しました。ほかに食べ物も幾らか持ってきていました。突然警察が現われましたが,兄弟たちの邪魔をする理由は見当たりせんでした。一日の仕事の後にバスの中で夕食を取っているようにしか見えなかったからです。

ウクライナの他の地域では,記念式の当日に兄弟たちの家が捜査の対象となりました。日没とほぼ同時に,3人か4人の警察官を乗せた車がエホバの証人の家に乗りつけました。警察は,兄弟たちが家にいるか,それとも宗教的な祝いの準備をしているか確かめました。証人たちはいつも,こうした捜査に備えていました。きちんとした服の上に古い仕事着を着て,いつもどおり家の仕事にいそしんだのです。そのようにして,自分たちは家にとどまり,宗教的な祝いに行くつもりはないという印象を与えました。捜査が終わるとすぐに古い服を脱ぎ,記念式に行く用意をしました。地元当局は自分たちの責任を果たしたことで満足し,兄弟たちは平安のうちに記念式を執り行なうことができました。

文書を隠し持つ

1940年代の終わりごろ,エホバの証人は家に文書を持っているだけで25年の懲役刑を宣告されたことを思い出してください。1953年にスターリンが死んだ後,文書所持に対する刑は10年に減刑されました。その後,エホバの証人の文書を所持していた人には罰金が科されるようになり,文書は没収されて処分されました。そのため禁令期間中,兄弟たちは文書を安全に保管する方法を注意深く考えました。

ある人はエホバの証人でない親族や隣人の家に文書を置いていました。金属製のタンクやビニール袋に入れて,庭に埋めた人もいます。トランスカルパティアの長老,ワシル・グゾーは,1960年代にカルパティア山脈の森を“神権的な図書室”として使ったことを思い出します。兄弟は文書をミルクの缶に入れて森に持って行き,ふたが地面とすれすれになるようにして埋めていました。

クリスチャンの活動のために刑務所で16年間過ごした一人の兄弟は,こう述べています。「考え得るあらゆる場所に文書を隠しました。地下壕,地面の中,建物の壁,二重底の箱,床を二重にした犬小屋などです。また,ほうきや,中が空洞の延べ棒(普段は野外奉仕報告も入れていた)の中にも隠しました。他の隠し場所としては,井戸,トイレ,ドア,屋根,まきの山などがありました」。

秘密の印刷所

共産党のスパイや当局が目を光らせていたにもかかわらず,霊的食物は義に飢え渇いていた人々に供給され続けました。真理に敵する者たちは,ソ連からエホバの証人の文書を締め出すことができず,そのことを認めざるを得ませんでした。1959年の終わりに,ソビエトの鉄道従業員の新聞「グドク」は,エホバの証人が風船を使って聖書文書をソビエト連邦に送り込んでいるとさえ主張しました。

もちろん,文書は風船によってウクライナに送り込まれたのではありません。現地の個人の家で複写されたのです。そのうち兄弟たちは,巧妙に隠された地下壕で文書を印刷するのが最も実際的かつ安全であることを悟りました。そうした地下壕は,地下室や丘に作られました。

1960年代に,そのような地下壕の一つがウクライナ東部に作られました。換気孔があり,電気も使えました。その地下壕の入口は実にうまく隠されていたので,ある時など数人の警察官が一日中その真上に立って地面を鉄の棒でつついていましたが,何も見つけられませんでした。

秘密の印刷所が保安局に厳しく監視されたこともありました。保安局はその家で文書が印刷されているのではないかと勘ぐり,関係する人たちを捕らえようともくろんでいました。そのため,兄弟たちは問題に直面しました。どのように家に紙を運び込み,文書を持ち出せばよいのでしょうか。やがて解決策が見つかりました。一人の兄弟が紙の束を赤ちゃん用のブランケットに包み,あたかも赤ちゃんを抱いているようにして家に入りました。中に入ると紙を置き,今度は印刷されたばかりの雑誌をブランケットに包んで,その“赤ちゃん”を家から持ち出したのです。KGBの職員は兄弟が出入りするのをずっと観察していましたが,何も疑いませんでした。

ドネツク地区,クリミア,モスクワ,レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の兄弟たちは,その地下壕で印刷された文書を受け取りました。幾人かの若い兄弟たちは,ボルイニ地域のノボボルインスクという町に,似たような地下壕を作りました。その地下壕の場所を内密に保とうと,兄弟たちは非常に固く決意していたので,他の兄弟たちにそれを見せたのはウクライナで業が合法化されてから9年もたった後のことでした。

カルパティア山脈の奥深くでも,同様の印刷所が機能していました。兄弟たちは小川から地下壕に水を引き入れ,その水が小さな発電機を回し,明かりのための電力が供給されました。しかし,印刷機は手動でした。相当量の文書がこの地下壕で印刷されました。KGBは,その地域に出回っている文書の量が増えたことに気づくと,印刷所を探しにかかりました。警察は地下壕を見つけようと広範囲にわたって地面を掘り返し,地質学者に扮装して山を歩き回ることさえしました。

当局が地下壕を見つけるのも時間の問題に思えたとき,イワン・ドジャブコが印刷所の監督を買って出ました。兄弟は結婚しておらず,逮捕されて自分がいなくなっても子どもが悲しむということはなかったからです。1963年の夏が終わるころ,地下壕は発見され,ドジャブコ兄弟はそのすぐ近くで直ちに処刑されました。地元当局は大喜びし,そこを“エホバの証人が無線送信機でアメリカと通信していた場所”として,大人にも子どもにも無料のツアーを行ないました。その主張は偽りでしたが,そこで生じた悲しい出来事は地域のすべての人に対する証しとなりました。多くの人が,エホバの証人の音信にもっと関心を持ち始めたのです。現在では,カルパティア山脈のその地域に20を超える会衆があります。

親の施す訓練の価値

文書の押収,罰金,投獄,拷問,処刑以外に,子どもから引き離されるという胸の張り裂けるような経験をした証人たちもいます。ウクライナ東部に住んでいたリディア・ペレピオルキナには,4人の子どもがいました。内務省の役人だった夫は,リディアがエホバの証人であることを理由に,1964年に離婚訴訟を起こしました。裁判所は,ペレピオルキナ姉妹から親権を取り上げるという判決を下しました。姉妹の7歳の双子 ― 男の子と女の子 ― は夫に渡され,夫は二人を連れて約1,000㌔離れたウクライナ西部へと引っ越しました。裁判所はさらに,他の二人の子どもを孤児院に送ることを決定しました。リディアは発言の機会が与えられた時,判事たちにこう言いました。「わたしは,エホバが子どもたちをわたしに返してくださる力をお持ちであると信じています」。

裁判の後,リディアはエホバの導きと配慮を感じました。何らかの理由で,当局は残った二人の子どもを孤児院へ送らず,リディアと暮らすことを許しました。続く7年間,リディアは休暇のたびに他の二人の子ども,つまり双子に会いに行きました。以前の夫はリディアが二人に会うことを認めませんでしたが,リディアはあきらめませんでした。子どもたちが住んでいる都市に着くと,駅で夜を過ごし,それから通学途中の子どもたちに会いました。リディアは,そのような貴重な機会を用いて,エホバについて子どもたちに話しました。

年月が過ぎましたが,リディアは忠節に子どもたちの心に『涙をもって種をまき』ました。後にリディアは「歓呼の声をもって刈り取る」ことになります。(詩 126:5)14歳になった双子は,母親と暮らすことを選んだのです。リディアは一生懸命,子どもたちに真理を教えました。子どもたちのうち二人は違う道を選びましたが,リディアと双子は忠節にエホバに仕えています。

事態の好転

1965年6月,ウクライナの最高裁判所は,エホバの証人の文書が宗教的性質のものであり,反ソビエト的ではないという判決を下しました。この判決は一つの裁判にのみ適用されましたが,ウクライナ全土におけるその後の判決に影響を及ぼすことになりました。当局は,聖書文書を読んだかどで人々を逮捕するのをやめました。もっとも,宣べ伝える活動を行なったエホバの証人は引き続き投獄されました。

1965年の後半に,別の重大な進展がありました。ソ連の政府は,1951年にシベリアへ流刑にされたエホバの証人を全員釈放するという行政命令を出したのです。今や証人たちは,ソビエト連邦内を自由に行き来することが許されました。ただし,没収された家,家畜,その他の所有物の返還を請求することはできませんでした。登録に関係した複雑な問題のため,以前住んでいた場所に戻れたのは,ほんの一部の人だけでした。

1951年にシベリアへ送られた兄弟たちの多くは,ソ連のさまざまな地方に住むようになりました。例えば,カザフスタン,キルギスタン,グルジア,シスコーカサスなどです。ウクライナ東部や南部に落ち着いた人もいて,それらの地域に真理の種をもたらしました。

圧力に面しても堅く立つ

上記のような好ましい進展はあったものの,KGBはエホバの証人に対する態度を変えず,様々な方法を用いて証人たちを脅し,信仰を捨てさせようとしました。例えば一つの常套手段は,兄弟を職場から連れ出して,KGBの事務所やホテルに何日か監禁することでした。そして監禁中,KGBのメンバーが3人か4人でその兄弟に対して説得,尋問,懐柔,脅迫などを試みました。それを交替で行なって,兄弟の睡眠を奪いました。そのあと兄弟は釈放されますが,一日か二日後に再び監禁され,同じ扱いを受けます。KGBは,それほど頻繁ではなかったにしろ,姉妹たちに対しても同じことをしました。

兄弟たちは繰り返しKGBの事務所に呼ばれました。保安局は信仰を捨てさせるために圧力をかけ,エホバの証人の組織内に新たな協力者を確保しようとしました。さらに,兄弟たちが信仰を曲げることに同意しなかった場合,道徳面および精神面で圧力が加えられました。例えば,トランスカルパティアで巡回監督として長年奉仕したミハイロ・ティルニャクは,当時を振り返ってこう述べています。「ある時,軍服を来た保安警官たちと話をしましたが,彼らはとても親切で好意的でした。近くのレストランで一緒に食事をしないかと誘われました。しかし,わたしはただほほえんで50ルーブル(月給のほぼ半分)をテーブルに置き,皆さんだけで食べに行ってください,と言いました」。ティルニャク兄弟は,軍服を着た人たちと飲食を共にしている様子が必ず写真に撮られることを見抜いていたのです。そうした写真は,兄弟が信仰を曲げた“証拠”として後に使われるかもしれません。そうなれば,兄弟たちの間に不信の種がまかれることになります。

多くの人にとって,信仰を捨てさせようとする圧力は何十年にも及びました。トランスカルパティア出身のベラ・メイサルはその一例です。1956年に初めて逮捕された時,まだ若くて経験の浅かった兄弟は,それと知らずにエホバの証人の活動に関する幾つかの書類にサインをしてしまいました。結果として,一部の兄弟たちは保安局に呼び出されました。後にメイサル兄弟は自分の過ちに気づき,それらの兄弟たちが刑を受けないよう,エホバに懇願しました。結局,兄弟たちは逮捕されませんでしたが,メイサル兄弟自身は8年の拘禁刑を言い渡されました。

やっと家に戻ると,今度は村から出ることを2年間禁止されました。毎週月曜日,登録のために警察署に出頭しなければなりませんでした。1968年,兄弟は軍事訓練に参加することを拒んだため,1年の拘禁刑に処されます。釈放後,家に戻り,引き続きエホバに熱心に仕えました。1975年,兄弟は再び47歳のときに投獄されます。

メイサル兄弟は5年間の刑期を終えると,さらに5年間の流刑のためにロシアのヤクーツク地方へ送られました。その地域に通じる道路はなかったので,飛行機で運ばれました。飛行中,護衛を割り当てられた若い兵士たちは,「じいさん,なんであんたが危険な犯罪者なんだい」と尋ねました。兄弟はそれに答えて自分の生き方を説明し,地球に対する神の目的について良い証言をしました。

メイサル兄弟が到着した当初,地元当局はその“特に危険な犯罪者”を恐れていました。兄弟は書類の中でそう描写されていたのです。後日,メイサル兄弟のクリスチャンとしてのりっぱな行状ゆえに,地元当局者は保安警官にこう言いました。「同じような犯罪者がまだいるなら,わたしたちの所へ送ってください」。

1985年,メイサル兄弟は57歳のときに故郷に帰りました。兄弟が服役していた21年間,忠実な妻のレギナはトランスカルパティアの家で暮らしていました。姉妹は,長距離の移動やかなりの出費があったにもかかわらず,刑務所にいる夫をたびたび訪ね,合計14万㌔余りを旅しました。

メイサル兄弟は釈放後も,ラコシノ村の自宅で何度も警察官や保安警官の訪問を受けました。そうした訪問は,ある愉快な出来事につながりました。1990年代の初め,統治体のセオドア・ジャラズと国内委員会の兄弟たちは,トランスカルパティアのウジゴロド市を訪問しました。リボフに戻る途中,兄弟たちはメイサル兄弟の家に少しだけ立ち寄ることにしました。近くに住んでいた一人の姉妹は,メイサル兄弟のささやかな家に3台の車が乗りつけ,9人の男たちが降りるのを見ました。姉妹は非常に怖くなり,別の兄弟のところまで走って行って,KGBがまたメイサル兄弟を逮捕しに来たと,息を切らしながら報告しました。それが思い違いだったと分かり,姉妹はどんなに安心したことでしょう。

組織上の改善と変更

1971年,ミハイル・ダーセビッチが国の僕に任命されました。当時の国内委員会を構成していた兄弟たちは,ウクライナ西部出身が3名,ロシア出身が2名,そしてカザフスタン出身が1名でした。兄弟たちはそれぞれ旅行する監督としても奉仕し,そのうえ家族を養うために世俗の仕事も行なっていました。ウクライナ西部出身の兄弟たちが監督していた区域は,住んでいた場所からかなり離れていました。ステパン・コジェンバはトランスカルパティアまで出かけて行き,アレクセイ・ダヴィジュクはウクライナ西部の残りの部分と,エストニア,ラトビア,リトアニアを訪問しました。ダーセビッチ兄弟は,ウクライナ東部,ロシア西部と中央部,シスコーカサス,そしてモルダビアに赴きました。国内委員会の兄弟たちは,これらの区域を定期的に訪問し,巡回および地域監督と会合を開き,地元の証人たちを励まし,奉仕報告を集めました。

兄弟たちは,国外から派遣された運搬係とも接触を持ちました。運搬係は観光客として入国し,文書や郵便物を持ち込みました。1960年代後半から1991年に信教の自由が認められるまでの間,反対者たちは一度も郵便物のやり取りを妨げることはできませんでした。

1972年,統治体は,兄弟たちの長老の任命に関連して推薦状を書くよう指示しました。しかし,一部の兄弟たちはそうするのをためらいました。推薦リストが警察の手に渡るのを恐れたのです。それ以前は,どの会衆にもそのようなリストは存在しませんでした。兄弟たちは,会衆にいる他の兄弟の名字さえ知らないこともよくありました。初めのうち,自分の名前がリストに載るのを多くの人が望まなかったため,長老の推薦はわずかでした。しかし取り決めが確立され,何も悪い結果が生じないのを見て,他の人たちも考え直して推薦を受けました。兄弟たちは会衆で長老としての責任を忠実に果たしました。

捜索の際に差し伸べられたエホバの保護

ある朝,警察がワシル・ブンハと妻ナディヤの家を捜索しにやって来ました。ブンハ姉妹は家にいて,4歳の息子もまだ寝ていましたが,突然ドアをたたく大きな音がしました。姉妹は警察が来たことを察知して,野外奉仕報告や,証言活動と関係のある他の書類を急いで暖炉に投げ込みました。そして,ドアを開けて警察を中に入れました。警官たちは暖炉に駆け寄り,焼けた報告を慎重に取り出し,テーブルに広げた新聞紙の上に並べました。紙は焼けていましたが,書かれた文字はまだ識別できました。家の中の捜索が終わると,警官たちは全員,ブンハ姉妹と共に納屋へ行ってそこを探し始めました。その間に,幼い息子は目を覚まし,テーブルの上の焼け焦げた紙を見つけると,きれいに片付けることにしました。燃えた報告をかき集めて,ごみ箱に捨ててしまったのです。それから自分のベッドに戻りました。戻ってきた警官たちは,ショックを隠せず,ただうろたえるばかりでした。もろい“物的証拠”がすべてふいになってしまったからです。

1969年に,ブンハ家の自宅が再び捜索されました。今回はブンハ兄弟も家にいました。警察は会衆の野外奉仕報告を見つけましたが,うっかりテーブルの上に置いたままにしていたので,ブンハ兄弟はすきを見てそれを破棄してしまいました。兄弟はその行為により,15日間の禁固刑に処されました。その後,保安局はブンハ兄弟に家を引っ越すよう強制したので,兄弟はしばらくの間グルジアとダゲスタンに住み,そこで宣べ伝えました。後にウクライナに戻り,1999年に亡くなるまで忠実を保ちました。

保安局の計画した“宣教旅行”

1960年代と1970年代に,多くの活発な兄弟たちが保安局によって一つの場所から他の場所へと強制的に移転させられました。なぜでしょうか。地方当局は,自分たちの地域における反宗教運動の結果をキエフに送るとき,良くない報告をしたくありませんでした。当局は監視活動を通して,エホバの証人の数が年々増加していることに気づいていました。しかし,キエフへ提出する報告の中では,証人たちが増えていないことを示したかったのです。それで地方当局は,兄弟たちを行政区から追い出すことによって,自分たちの地域でエホバの証人は増えていないと報告できるようにしました。

こうしてエホバの証人があちらこちらへ移動した結果,真理の種が広範にまかれました。移動させられたのは大抵,先頭に立って業を行なっていた証人たちでした。つまるところ,それら熱心な兄弟姉妹たちは,今で言う“必要の大きな所”へ移動するよう,当局に“励まされた”のです。そうした場所で奉仕がなされ,やがて新しい会衆が幾つも設立されました。

一例として,テルノポリ近辺に住んでいたイワン・マリツキーは,家を引き払うように言われました。ウクライナ南部のクリミアに引っ越しましたが,そこにはわずかな兄弟たちがいるだけでした。1969年には,クリミアに一つの会衆しかありませんでしたが,今では60以上あります。イワン・マリツキーは現在でもその一つで長老として仕えています。

禁令の最後の数年

1982年にソ連の政治指導部が変わった後,新たな迫害の波がウクライナを襲い,2年間続きました。この迫害は,ソ連の指導者たちが奨励したものではなかったようです。むしろ,ソビエトの新しい指導者たちは,各共和国に変化や改革を要求しました。ウクライナの一部の地方当局は,そうした改革に対する熱意や意欲を示すために,主だった証人たちを投獄しました。この迫害の波は大部分の兄弟たちには影響を及ぼしませんでしたが,感情面また身体面で害を被った証人たちもいます。

1983年,トランスカルパティアのイワン・ミガリは,4年の拘禁刑を宣告されました。ソビエト当局は,この58歳の長老の所有物をすべて没収しました。ミガリ兄弟の家が捜索された時,保安局はエホバの証人の雑誌を70冊見つけました。この謙遜で穏やかな兄弟は,地元では聖書の伝道者としてよく知られていました。その二つの事実,つまり,文書の所持と伝道活動が,逮捕の根拠とされました。

1983年から1984年にかけて,ウクライナ東部で一連の集団裁判が行なわれました。多くの証人たちが4年ないし5年間投獄されました。兄弟たちの大半は,極寒のシベリアやカザフスタンではなく,ウクライナで服役しました。刑務所の中でさえ迫害された人もいます。刑務所の規則に違反したという偽りの告発がなされたためです。それは,証人たちの刑期を延長するための口実にすぎませんでした。

多くの刑務所長は,兄弟たちをソビエトの精神病院に送りました。証人たちが精神病になって,神を崇拝するのをやめるだろうと踏んだのです。しかし,兄弟たちはエホバの霊に支えられ,エホバとその組織に対する忠実を保ちました。

神権政治の勝利

1980年代後半になると,清い崇拝への反対は幾らか和らぎました。各地の会衆で伝道者が増え,兄弟たちはもっとたくさんの文書を入手できるようになりました。国外の親せきを訪ね,雑誌や書籍を持ち帰った証人たちもいます。とりわけソビエトの収容所にいた兄弟たちにとって,聖書出版物の原物を手にするのは初めての経験でした。一部の人たちは,自分たちが生きている間に「ものみの塔」誌の原本が鉄のカーテンをくぐり抜けるとは夢にも思っていませんでした。

当局は長年の間エホバの証人に敵対していましたが,ようやく態度を和らげ始めました。兄弟たちは,地元の宗教局の民間代表者たちと会うよう招待されるようになりました。当局者の中には,ブルックリンの世界本部のエホバの証人と会いたいと言う人もいました。無理もないことですが,兄弟たちは当初,それがわなではないかと思いました。しかし時代は確かに,エホバの民にとって好転していました。1987年,当局は投獄されていたエホバの証人を釈放し始めました。後にある兄弟たちは,隣国のポーランドで開かれる,1988年の地域大会に出席しようとしました。書類上では,友人や親族を訪ねることになっていましたが,大変驚いたことに,当局は国外旅行を許可しました。ポーランドの兄弟たちは,ウクライナから来た訪問者たちに惜しみなく文書を分け与えました。帰る途中,ウクライナの兄弟たちは国境で持ち物検査を受けましたが,ほとんどの場合,税関検査官は文書を没収しませんでした。こうして,兄弟たちは聖書や他の出版物を国内に持ち込むことができました。

もてなしの精神に富むポーランドの兄弟たちは,翌年,さらに多くの人をウクライナから招待しました。それで1989年には,ポーランドで開かれた三つの国際大会に大勢の人が目立たないように出席し,ウクライナにたくさんの文書を持ち帰りました。その同じ年,宗教省との合意により,エホバの証人は宗教文書を国外から郵便で受け取れるようになりました。ただし,各出版物は1回の郵送につき2部ずつと定められました。ドイツの兄弟たちは,書籍や雑誌の入った小包を定期的に送り始めました。地下壕や,夜遅く自宅の地下室でひそかに雑誌の写しを作る代わりに,兄弟たちは地元の郵便局を通して出版物を正式に受け取れるようになったのです。まさに夢のようでした。長年仕えてきた多くの証人たちは,流刑からエルサレムに帰還したユダヤ人と同じように,「わたしたちは夢を見ている者のようになった」と感じました。(詩 126:1)しかし,そのすばらしい“夢”はまだ始まったばかりでした。

ワルシャワの大会

1989年,ブルックリンの兄弟たちは,公に宣べ伝える業を登録するために当局と交渉を始めるよう国内委員会に勧めました。さらに,ブルックリン・ベテルのミルトン・ヘンシェルとセオドア・ジャラズが,ウクライナの兄弟たちを訪ねました。その翌年,当局は何千人ものエホバの証人がポーランドの大会に出席することを正式に許可しました。兄弟たちは旅行の手続きのために書類を提出する際,友人や親族を訪ねるためではなく,エホバの証人の大会に出席するためにポーランドに行きたいと,誇らしげに,目を輝かせながら,はっきり伝えました。

ワルシャワの大会は,ウクライナから訪れた人たちにとって非常に特別なものとなりました。喜びの涙がほほを伝いました。それは,クリスチャンの仲間に会えた喜び,4色刷りの出版物を自分たちの言語で受け取った喜び,そして集まり合う自由を得られたことの喜びです。ポーランドの兄弟たちはそれらの訪問者たちを温かくもてなし,必要なものをすべて備えました。

同じ信仰のゆえに投獄されていた多くの人たちが,このワルシャワの大会で初めて集い合いました。モルドビニアの“特別”収容所には何百人ものエホバの証人が収監されていましたが,そのうち100人余りがこの時に顔を合わせました。その多くは,ただ立ち尽くして互いに見つめ合い,喜びのあまり涙を流しました。モルダビアから来た一人の証人は,ベラ・メイサルと同じ監房で5年間過ごしましたが,メイサル兄弟になかなか気づきませんでした。なぜでしょうか。その証人はこう述べました。「縞模様の囚人服を着た兄弟しか記憶になかったのに,今ではスーツ姿でネクタイまでしているではありませんか」。

信教の自由がついにもたらされる

1990年の終わりごろから,司法機関は一部のエホバの証人の無罪を認めて放免し,その権利や特権を回復させるようになりました。同じころ,国内委員会は政府当局者と会合を持つため,エホバの証人を代表する一つのグループを作りました。ドイツ支部のウィリー・ポールがそのグループを監督しました。

モスクワとキエフの政府当局との長期にわたる会合の末,ついに待望の自由がもたらされました。1991年2月28日,エホバの証人の宗教組織はウクライナで正式に登録されました。それはソ連領内で最初のことでした。1か月後の1991年3月27日,同組織はロシア連邦においても登録されました。こうして,50年以上にわたる禁令と迫害の後,エホバの証人はようやく信教の自由を得ることができたのです。その後まもなく,1991年末にソビエト連邦は消滅し,ウクライナは独立を宣言しました。

良い土は豊かに実を生み出す

1939年に現在のウクライナの地域には王国宣明者が約1,000人いて,人々の心という肥沃な土壌に真理の種をまいていました。52年に及ぶ禁令の期間中,兄弟たちが経験したものといえば,第二次世界大戦の恐怖,シベリアへの流刑,激しい殴打,拷問,処刑などです。にもかかわらず,「りっぱな土」はその期間を通じて25倍以上の実を生み出しました。(マタ 13:23)1991年には2万5,448人の伝道者がウクライナの258の会衆に交わり,旧ソ連の他の共和国には約2万人の伝道者がいました。その大半は,ウクライナの兄弟たちから真理を学んだ人々です。

そのような土壌は,聖書出版物という“肥料”を必要としていました。そのため,業の法的な登録がなされた後,ドイツのゼルターズから発送される文書を受け取るための準備がなされました。最初の発送文書は,1991年4月17日に届きました。

兄弟たちはリボフに小さな集積所を設け,そこからトラックや列車,さらには飛行機まで使って文書を配送しました。ウクライナ,ロシア,カザフスタンをはじめ,旧ソビエト連邦の国々の諸会衆に文書が届けられ,さらなる霊的成長が促されました。1991年の初め,人口200万人の都市ハリコフには会衆が一つしかありませんでした。しかし,その年の後半には,670人の伝道者から成るこの会衆は八つに分会していました。現在,ハリコフには40余りの会衆があります。

ソ連は1991年に存在しなくなりましたが,国内委員会は1993年まで旧ソビエト連邦の15の共和国をすべて世話していました。その年,統治体の兄弟たちとの会合において,二つの委員会を設置するという決定が下されました。ウクライナに一つ,そしてロシアと旧ソビエト連邦における他の13の共和国のために一つです。ミハイル・ダーセビッチ,アレクセイ・ダヴィジュク,ステパン・コジェンバ,アナーニー・フロフリに加えて,新たに3人の兄弟たちがウクライナの国内委員会に加えられました。ステパン・フリンスキー,ステパン・ミケビッチ,そしてロマン・ユルケビッチです。

その後,ウクライナ語の文書の需要が高まり,それを満たすために,翻訳チームを設けることが必要になりました。前述のとおり,カナダのエミール・ザリツキーとモーリス・サランチュクという二人の兄弟が,妻たちと共にその仕事を行なっていました。この献身的な働き人から成る小さなチームは,多くの出版物を翻訳しました。しかし1991年から,増強されたウクライナ語翻訳チームがドイツで仕事を始めました。1998年にこの翻訳チームはポーランドへ移動して仕事を続け,最終的にウクライナに移りました。

地域大会

ジャラズ兄弟は,1990年にリボフの兄弟たちと会合した後,都市の競技場を下見して,「来年の地域大会のためにここを使えるかもしれません」と言いました。兄弟たちはほほえみ返しましたが,そんなことが可能だろうかと思いました。組織はまだ登録されておらず,兄弟たちは一度も大会を計画したことがなかったからです。しかし,まさにその翌年,組織は登録されました。1991年8月,ほかならぬその競技場で地域大会が行なわれ,1万7,531人が出席し,1,316人の兄弟姉妹がバプテスマを受けました。ポーランドの兄弟たちが前もってウクライナに招待され,この大会の計画を援助しました。

その8月,もう一つの大会がオデッサで計画されていました。しかし,大会の週の初めにロシアで政情不安が生じ,地元当局はオデッサでは大会を行なえないと兄弟たちに通知しました。兄弟たちは市の関係者に許可を求め続け,エホバに全く頼りつつ最終的な準備を進めました。ようやく,責任を担う兄弟たちは,木曜日に当局者たちと会って最終決定を聞くように言われました。その日の午後,兄弟たちは予定どおり大会を行なう許可を得ました。

その週末に1万2,115人のエホバの証人が集まって,1,943人がバプテスマを受けるのを見るのは,本当にすばらしく,驚くべきことでした。大会の2日後,兄弟たちは再び市の関係者を訪ね,大会を許可してくれたことに感謝を表わしました。市長には,「これまでに生存した最も偉大な人」の本が渡されました。市長はこう言いました。「わたしは大会には行きませんでしたが,そこで行なわれたことはすべて知っています。これに勝るものは今まで見たためしがありません。集まりの許可が必要な時には,いつでも喜んで与えましょう。約束します」。それ以来,兄弟たちは美しいオデッサ市で定期的に地域大会を行なっています。

際立った国際大会

別の重要な催しは,1993年8月にキエフで開かれた「神の教え」国際大会です。ウクライナでそれまでに行なわれた大会の中で最も多い6万4,714人が出席し,その中には30を超える国から来た何千人もの代表者たちが含まれていました。英語で提供されたプログラムは,16の言語に同時通訳されました。

スタジアムの五つの区画を埋め尽くした兄弟姉妹たちが,立ち上がってバプテスマに関する二つの質問にはいと答えるのを目にするのは,なんと感動的なことだったのでしょう。続く2時間半の間に,六つのバプテスマプールで7,402人がバプテスマを受けました。これは神の民の現代史において,一つの大会でバプテスマを受けた人数としては最大のものでした。エホバの証人にとって,この際立った出来事は,いつまでも大切に記憶にとどめて置かれるでしょう。

キエフ市には11の会衆しかなかったのに,どのようにそれほど大規模な大会を組織できたのでしょうか。それまでの年と同様に,ポーランドの兄弟たちが宿舎部門を援助するためにやって来ました。地元の兄弟たちと共に,できるだけ多くのホテルや寄宿舎と契約を結び,川船を借りることさえしました。

最も難航したのは,スタジアムを借りるための許可を得ることです。スポーツ競技が行なわれるのに加えて,週末になるとスタジアムは大きな市場と化し,それまでだれもその市場を中止する許可を得たことがありませんでした。ところが,許可が与えられたのです。

市当局までもが特別な委員会を設置し,兄弟たちの準備を助けました。その委員会には,警察や交通局,また観光局など,様々な公共機関の責任者が含まれていました。大会出席者が市内を移動できるように,特別な取り決めが設けられました。兄弟たちは公共の交通機関の料金を前払いし,大会バッジを着けている人が乗車する時に運賃を払うのではなく,大会会場で支払いを行なえるようにしました。そのため出席者たちは,東ヨーロッパで最大級のレスプブリカンスキ・スタジアム(現在はオリンピック・スタジアム)への往復の際に,地下鉄や路面電車,また市営バスを速やかに利用できました。大会出席者の便宜を図って,スタジアムの周辺には幾つかのパン屋が出店し,兄弟たちが次の日の食事をすぐ手に入れられるよう取り計らわれました。

警察署長は大会の秩序正しさに驚嘆し,こう感想を述べました。「伝道活動もさることながら,皆さんのりっぱな振る舞いを含め,なされたすべての事柄に深い感銘を受けました。人は,聞いた事柄は忘れるかもしれませんが,目にした事柄は決して忘れないでしょう」。

近くの地下鉄の駅で働いていた幾人かの女性は,大会の管理事務所にわざわざやって来て,出席者たちの良い行状に感謝を表わしました。こう述べています。「ここで働きながら,スポーツとか政治関連の様々なイベントを見てきましたが,これほど礼儀正しく,幸せそうで,わたしたちに関心を示してくれるお客さんに会うのは初めてです。みんなあいさつしてくれました。他のイベントではあいさつされることなどめったにありません」。

キエフの諸会衆は,大会後も大忙しでした。関心を示した2,500人ほどの人たちが,さらに学ぶことを希望し,住所を残して行ったからです。現在キエフには,熱心な証人たちの会衆が50以上あります。

ある兄弟たちのグループは,大会への道中で荷物をすべて盗まれてしまいました。それでも,自分たちを霊的に富ませることを決意していたので,キエフへの旅を続けることにし,着の身着のままで大会会場に到着しました。ちょうど旧チェコスロバキアから来た兄弟たちが,必要としているかもしれない人たちのために余分の衣類を持って来ていました。大会管理部門にそのことが知らされると,盗難に遭った兄弟たちはすぐに必要な衣類を提供されました。

前進するための助け

こうした利他的な愛が示された例は,ほかにもたくさんあります。1991年,統治体は,西ヨーロッパの複数の支部に,東ヨーロッパの兄弟たちのために食料や衣類を提供するよう呼びかけました。証人たちは援助を差し伸べる機会を喜び,その進んで分け与える精神は期待をはるかに上回りました。多くの人が食料や自分の服を寄付しました。新しい衣類を購入した人もいます。そうした品々の入った段ボール箱やスーツケースや袋が,西ヨーロッパ各地の支部事務所に集められました。イタリア,オーストリア,オランダ,デンマーク,ドイツ,スイス,スウェーデンから,大量の食料や衣類が何台ものトラックでリボフに運ばれました。東ヨーロッパにおける王国の業のために,自分のトラックをさえ寄付した兄弟たちも少なくありません。国境の係官たちは必要な書類を発行する面でとても協力的で,配送はすべてほとんど支障なく行なわれました。

物資を届けた兄弟たちは,到着した際に受けた歓迎に感動しました。オランダからリボフまで車を走らせた兄弟たちのグループは,その旅についてこう報告しています。「140名の兄弟たちが勢ぞろいし,積み荷を降ろす態勢が整いました。この謙遜な兄弟たちは,作業を始める前に皆で祈りをささげ,エホバに頼っていることを表わしました。作業が終わると,彼らはまた集まってエホバに感謝の祈りをささげました。それから,わたしたちは現地の兄弟たちのもてなしを受けました。兄弟たちはわずかしかないものを惜しみなく与えてくれました。その後,兄弟たちはわたしたちを幹線道路まで案内し,別れ際に道端で祈りをささげました。

「帰りの長い道中,多くのことを思い起こしました。ドイツやポーランドの兄弟たち,それにリボフの兄弟たちによるもてなし,その強い信仰や祈りのこもった態度,自分のものにさえ事欠く状況の中で宿舎や食物を提供するというもてなしの精神,兄弟たちの一致と団結,彼らが示した感謝の念。また,たくさんのものを寄付した自国の兄弟姉妹たちのことも考えました」。

デンマークから物資を運んだ運転手はこう言いました。「持って行ったものより多くのものを持ち帰りました。ウクライナの兄弟たちの示した愛と犠牲的な精神に,わたしたちの信仰は大いに強められました」。

寄付された品々の多くは,モルダビア,バルト諸国,カザフスタン,ロシアなど,大いに必要とされていた他の地域にも送られました。中には,コンテナに入れられて,東へ7,000㌔以上離れたシベリアやハバロフスクに送られた物資もあります。援助を受けた人たちから寄せられた心温まる感謝の手紙は,感動的で,励みを与え,一致のきずなを強めました。こうして,関係したすべての人は,「受けるより与えるほうが幸福である」というイエスの言葉の真実さを実感しました。―使徒 20:35

1998年の末に,トランスカルパティアで大災害が起きました。公式の情報によると,6,754の家屋が浸水し,895軒が土砂崩れで完全に破壊されました。全壊した家のうち37軒はエホバの証人のものでした。リボフの支部は直ちにその地域にトラックを送り,食料,水,せっけん,ベッド,毛布などを供給しました。後に,カナダとドイツの兄弟たちから衣類や家庭用品が届きました。スロバキア,チェコ共和国,ハンガリー,ポーランドの証人たちも食料を提供し,破壊された家々を建て直すための建設資材も送りました。地元の多くの兄弟たちも復旧作業に加わりました。証人たちは,食料や衣類やまきを,仲間の証人だけでなく他の人々にも分け与えました。エホバの証人でない人たちの庭や畑をきれいにしたり,家の修理を手伝ったりもしました。

霊的な援助を与える

差し伸べられた援助は,物質的なものだけではありません。ウクライナの証人たちは,50年以上も禁令下にあったため,自由な環境の中で業を組織することに慣れていませんでした。そのため,1992年にドイツ支部から兄弟たちが派遣され,ウクライナの業を組織するのを助けました。こうして,将来のベテルでの仕事の基礎が据えられました。その後,カナダ,ドイツ,米国から他の兄弟たちが遣わされ,弟子を作る業を監督する面で援助を与えました。

経験ある兄弟たちが野外でも大いに必要とされていました。初めのころ,ポーランドから宣教訓練学校の卒業生たちがたくさん来て,全国の諸会衆を世話し,後には巡回区や地域区も世話するようになりました。加えて,カナダと米国から夫婦が何組かやって来て,現在は巡回奉仕を行なっています。さらに,イタリア,スロバキア,チェコ共和国,ハンガリーの兄弟たちも巡回監督として働いています。こうした取り決めは,奉仕の務めの様々な分野において聖書的な規準を当てはめ,調整を行なうよう,多くの会衆を助けてきました。

聖書文書に対する感謝

1990年代の後半で際立っていたのは,文書の特別なキャンペーンです。1997年に「王国ニュース」第35号が配布されると,関心を持つ人たちから1万枚近いクーポンが送られてきました。それらの人たちは,「神はわたしたちに何を求めていますか」のブロシュアー,もしくは個人的な訪問を依頼しました。

エホバの証人の文書は広く感謝されています。兄弟たちは,ある産科病院を訪問した際に,「幸せな家庭を築く秘訣」の本を毎週12冊届けるよう頼まれました。なぜでしょうか。病院の職員は,その本を出生証明書と共に,赤ちゃんが生まれたすべての夫婦に渡したいと思ったのです。

ここ数年の間に,大勢の人がエホバの証人の雑誌を知り,それを高く評価するようになりました。一例として,ある公園で宣べ伝えていた証人たちは,一人の紳士に「目ざめよ!」誌を紹介しました。その人は礼を言い,「これはいくらですか」と尋ねました。

兄弟たちは,「この活動は自発的な寄付によって支えられています」と説明しました。男性は1グリブナ紙幣 ― 当時約65円に相当 ― を寄付し,公園のベンチに座ってすぐに雑誌を読み始めました。その間も,兄弟たちは公園にいた他の人たちに証言していました。すると15分ほどして,その男性は兄弟たちに近づき,先ほど受け取った雑誌のためにもう1グリブナ寄付しました。それからベンチに戻り,兄弟たちが伝道している間,雑誌を読み続けました。しばらくして,男性は再び兄弟たちに近づき,さらにもう1グリブナ渡しました。そして,雑誌が非常に興味深かったので定期的に読みたいと言いました。

良い教育は成長を速める

業が法的に認可された後,組織の前進は速度を増しました。しかし,何も問題がなかったわけではありません。初めのうち,家から家の宣教に慣れるのに苦労した人たちもいました。50年以上,すべての証言は非公式に行なわれていたからです。しかし,兄弟姉妹たちはエホバの霊の助けにより,自分たちにとっては新しい証言方法に首尾よく適応しました。

さらに,それぞれの会衆で,毎週の五つの集会をすべて組織できるようにもなりました。このことは,奉仕者たちを一致させ,さらなる活動に備えるよう意欲を高めるうえで,肝要な役割を果たしました。兄弟たちはすぐに学び,宣教の様々な分野で進歩しました。幾つかの新しい学校がウクライナの証人たちに良い教育を与えました。例えば1991年にはすべての会衆に神権宣教学校が設立され,証人たちは宣べ伝える業のために訓練されるようになりました。1992年からは長老と奉仕の僕のための王国宣教学校が開かれ,兄弟たちが野外奉仕に率先し,会衆を教え,群れを牧するうえで,大きな助けとなってきました。

1996年,ウクライナで開拓奉仕学校が始まりました。最初の5年間に,7,400人余りの正規開拓者がこの2週間の課程に出席しました。開拓者たちはどのような益を得たでしょうか。一人の開拓者はこう書きました。「私はエホバのみ手の中にある粘土として,この学校を通して形作られることができ,幸せでした」。別の開拓者は,「開拓奉仕学校の後,わたしは“輝く”ようになりました」と述べています。ある開拓奉仕学校のクラスはこう書きました。「この学校は,出席者すべてにとって本当に祝福でした。人々に対する鋭い関心を培うよう鼓舞されました」。この学校は重要な役割を果たし,57か月連続で正規開拓者の最高数が記録されていることに貢献しています。

困難な経済事情の中で,開拓者たちはどのように必要な物を備えているのだろうかと不思議に思う人は少なくありません。奉仕の僕として仕えている一人の開拓者は,3人の子どもを養っています。兄弟はこう述べています。「妻とわたしは一緒に自分たちの必要を徹底的に吟味し,生活に欠かせない物だけを入手するようにしています。つましく暮らし,エホバに依り頼んで生きています。正しい態度を保つことによって,どれだけわずかなものでやっていけるか,自分たちも時々驚かされます」。

1999年に宣教訓練学校が導入されました。最初の年には,100人近い兄弟たちが出席しました。その多くにとって,経済的苦境が続く中で2か月間の課程に出席するのは挑戦でした。しかし,エホバが兄弟たちに支えを与えたのは明らかです。

宣教訓練学校に招待されたある兄弟は,遠い区域で正規開拓奉仕をしていました。兄弟は開拓者のパートナーと一緒に,冬に備えて食物と石炭を買うのに足りるだけのお金をためました。それで,学校への招待が来た時,二人は石炭を買うか,それとも兄弟が学校に行けるよう列車の乗車券を買うか,どちらかを選ばなければなりませんでした。話し合いの結果,学校に行ったほうがいいということになりました。その決定をして間もなく,海外に住むその兄弟の妹から,プレゼントとしてお金が送られてきました。それは,学校までの交通費として十分の額でした。学校が終わると,この兄弟は特別開拓者として奉仕するよう任命されました。

こうした教育プログラムは,野外奉仕や会衆の活動にさらに有意義な仕方で参加するようエホバの民を備えさせています。奉仕者たちは,より効果的に宣べ伝える方法を学びます。長老や奉仕の僕は,どうすれば会衆内でさらに大きな励ましの源となれるかを教えられてきました。結果として,「諸会衆は信仰において堅くされ,日ごとに人数を増して」います。―使徒 16:5

急激な増加は変化をもたらす

ウクライナのエホバの証人が法的に登録されて以来,その成員の数は4倍以上になりました。国内の多くの地域で,際立った増加が見られています。資格ある長老たちが大いに必要とされています。多くの場合,長老が二人になると会衆はすぐに分会します。伝道者が500人に達した会衆もありました。こうした急激な増加のため,業の管理の仕方に変更を加える必要が生じました。

1960年代まではポーランド支部がウクライナの業を監督するのを助け,その後,ドイツ支部によって監督と援助がなされました。1998年9月,ウクライナはブルックリンの世界本部の監督下にある支部となりました。その時,組織上の事柄を管理するために,支部委員会が設置されました。

急激な増加が見られたため,支部施設を拡張する必要も生じました。1991年より,旧ソ連の15の共和国のためにリボフが文書配布センターとして使われるようになりました。その翌年には,ドイツの支部事務所から二組の夫婦がやって来て,程なくしてリボフで小さな事務所が機能し始めます。1年後,家屋が購入され,事務所で働く全時間奉仕者たちはそこに住みました。1995年の初めごろ,ウクライナの事務所で働く自発奉仕者の数が急激に増えたため,また引っ越しが必要になりました。次の移動先は,17の会衆が使う六つの王国会館を含む複合施設です。兄弟たちはこの間ずっと,『いつどこに自分たちのベテルを建てられるだろうか』と考えていました。

支部と王国会館の建設

早くも1992年には,支部施設を建てるための土地探しが始まっていました。候補地を調査する間に数年が経過しました。兄弟たちはその必要についてエホバに祈りつづけ,時が来ればふさわしい場所が見つかるという確信を抱いていました。

1998年の初め,絵に描いたような美しい松林の中に土地が見つかりました。そこはリボフから北に約5㌔離れたブリュホビチという小さな町にあります。禁令期間中には,その近くの森の中で,二つの会衆が集会を開いていました。ある兄弟はこう述べています。「この森での最後の集会から10年たって,再びその同じ森で集まる機会があるとは,思ってもみませんでした。しかし,当時とは状況が全く異なります。新しい支部のための敷地になっているのですから」。

1998年の終わりに,最初のインターナショナル・サーバントたちが現場に到着しました。ドイツのゼルターズの地区設計事務所から兄弟たちが来て,忙しく製図に取りかかりました。1999年1月の初旬に政府の許可が下りると,建設現場で作業が始まりました。22の異なる国籍の自発奉仕者250人余りが現場で働きました。週末には,最高250人の地元の自発奉仕者たちもプロジェクトに参加しました。

このプロジェクトに参加する特権に,大勢の人がとても感謝しました。皆で週末に自発奉仕を行なうために,多くの会衆がバスを借りてブリュホビチへやって来ました。現場に時間どおり到着して建設作業を手伝えるよう,夜通し移動した人たちも少なくありません。そして丸一日,一生懸命働いた後,また一晩かけて帰りました。兄弟たちは疲れてはいましたが,また来たいと思うほど満ち足りて幸福でした。20人の兄弟たちから成る一つのグループは,ベテルの建設を8時間行なうために,ウクライナ東部のルガンスク地区から列車で34時間の旅をしました。兄弟たちはこの8時間の建設の業のために,それぞれ世俗の仕事を二日休み,月給の半分以上を払って乗車券を買いました。そのような自己犠牲の精神は,ベテルの建設に携わっていたすべての人とベテル家族を励ましました。建設は速やかに進行し,2001年5月19日に支部を献堂することができました。35か国から来た代表者たちがその場に集いました。翌日に特別な集まりが開かれ,セオドア・ジャラズがリボフで3万881人の聴衆に話をし,ゲリト・レッシュがキエフで4万1,142人に話しました。合計7万2,023人が出席しました。

王国会館はどうでしょうか。1939年に,トランスカルパティアにあった数軒の王国会館が破壊されて以来,1993年までウクライナには正式な王国会館がありませんでした。その年,トランスカルパティアのディブロワ村に,四つの王国会館から成る美しい建物が,わずか8か月で建てられました。その後まもなく,ウクライナの他の地域でさらに六つの王国会館が完成しました。

伝道者が大幅に増えたため,王国会館が大いに必要とされました。しかし,複雑な法的手続き,インフレ,建築資材の値上がりなどの理由で,1990年代には110軒しか王国会館を建てられませんでした。まだ何百軒も必要です。そのため,2000年に新たな王国会館建設プロジェクトが始まり,すでに必要を満たし始めています。

収穫の業において前進する

2001年9月現在,ウクライナには12万28人のエホバの証人がおり,1,183の会衆を39人の巡回監督が訪問しています。長い期間にわたってまかれた真理の種は,良い実を豊かに結びました。5世代にわたってエホバの証人という家族もあります。それは,「土」がまさしくりっぱなものであることを示しています。多くの人は「りっぱな良い心でみ言葉を聞いたのち,それをしっかり保ち」ます。長年の間,兄弟たちはしばしば涙をもって「植え」ました。そして,肥沃な土壌に「水を注ぎ」ました。エホバはそれを成長させてくださり,ウクライナの忠実な証人たちは『耐え忍んで実を結び』続けています。―ルカ 8:15。コリ一 3:6

幾つかの区域では,人口に対するエホバの証人の割合が際立っています。例えば,トランスカルパティア地方の,ルーマニア語が話される八つの村には59の会衆があり,三つの巡回区に組織されています。

宗教上および世俗の反対者たちは,流刑や厳しい迫害によってウクライナのエホバの証人を根絶しようと試みましたが,すべて失敗しました。この国の人々の心は,聖書の真理の種にとって,まさに肥沃な土壌だったのです。現在,エホバの証人は豊かな実りを収穫しています。

預言者アモスは,収穫の時について予告し,『すき返す者がまさに収穫する者に追いつく』と述べました。(アモ 9:13)エホバの祝福によって土壌が非常に産出的になるので,次の農耕期に畑を耕す時が来ても,まだ収穫が続いているのです。ウクライナのエホバの証人は,この預言の真実さを実感してきました。2001年の記念式には25万人以上が出席したことから,将来における発展の見通しは極めて明るいと兄弟たちは確信しています。

アモス 9章15節にあるように,エホバはこう約束しておられます。「わたしは彼らを必ずその土地に植え,彼らはわたしが与えたその土地からもはや抜き取られることはない」。神の民は,真理の種をまき,豊かな収穫を続けながら,エホバがこの約束を完全に成就される時を,鋭い関心をもって待ち望みます。それまでの間,目を上げて畑を見るなら,まさに収穫を待って白く色づいているのが分かるでしょう。―ヨハ 4:35

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「ダニイルは絞首刑になるところでしたが,未成年だったため,刑務所に4か月入れられるだけで済みました」

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「エホバの証人は,強制収容所にいた他の人たちとは異なっていました。その言動から,彼らには他の囚人に伝えるべきとても重要な事柄があると分かりました」

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1951年4月8日,ウクライナ西部から6,100人余りの証人たちがシベリアへ追放された

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「しばしば姉妹たちが会衆の僕の仕事を行ない,一部の地域では巡回の僕の責任も果たしました」

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新婚旅行に行く代わりに,兄弟は刑務所で10年間過ごした

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「面識のない人に愛する娘を託すのは,非常につらいことでした」

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流刑,投獄,身体的暴力,拷問などによってエホバの証人を沈黙させられないことを悟った保安局は,新たな手段を講じた

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KGBは,離れていた兄弟たちに,ノア兄弟からのものと称して偽の手紙を提示した

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KGBはいつも記念式のおおよその日付を知っていたので,その時期は特に目を光らせていた

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兄弟たちにとって,聖書出版物の原物を手にするのは初めての経験だった

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「伝道活動もさることながら,皆さんのりっぱな振る舞いを含め,なされたすべての事柄に深い感銘を受けました。人は……目にした事柄は決して忘れないでしょう」

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「ウクライナの兄弟たちの示した愛と犠牲的な精神に,わたしたちの信仰は大いに強められました」

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兄弟たちはこの8時間の建設の業のために,それぞれ世俗の仕事を二日休み,月給の半分以上を払って乗車券を買った

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過去の聖書翻訳

ウクライナの人々は長い間,西暦9世紀に翻訳された古代教会スラブ語の聖書を用いていました。言語の変化に伴い,この聖書は何度か改訂されました。15世紀の終わりごろ,ゲンナディウス大主教はスラブ語聖書の全面改訂版を監修しました。この版はさらに改訂が加えられ,最初の印刷されたスラブ語聖書が完成しました。この訳はオストローグ聖書として知られ,1581年にウクライナで印刷されました。権威者たちは今でもそれを優れた印刷技術の実例とみなしています。その聖書は,後のウクライナ語やロシア語の聖書翻訳の基礎となりました。

[図版]

イワン・フェドロフは,1581年にウクライナでオストローグ聖書を印刷した

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ワシーリー・カーリンとのインタビュー

生まれた年: 1947年

バプテスマ: 1965年

プロフィール: 1951-1965年 流刑。1974年から1991年まで,写真製版の技法を用いて文書を印刷。1993年よりロシア支部事務所で奉仕。

わたしの父は,多くの異なる政治形態や政府当局のもとで生活しなければなりませんでした。例えば,ウクライナ西部がドイツに占領されたとき,ドイツ人は父を殴打しました。共産主義者だと思ったのです。なぜかと言うと,司祭がドイツ人将校たちに,エホバの証人は教会へ行かないから共産主義者だと告げていたからです。その後,ソビエトの支配が始まりました。父は,またしても他の多くの人と共に抑圧され,アメリカのスパイ呼ばわりされました。なぜならエホバの証人の信条が,当時の主だった宗教の信条と異なっていたからです。そのため,父は家族とシベリアへ流刑にされ,死ぬまでそこで暮らしました。

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イワン・リトワクとのインタビュー

生まれた年: 1922年

バプテスマ: 1942年

プロフィール: 1944-1946年 投獄。1947年から1953年まで,ロシア最北部の強制労働収容所で働く。

1947年,わたしは政治に関与しようとしなかったために逮捕されました。ウクライナのルーツクにある重警備の刑務所に連れて行かれ,手をひざに置いて背筋を伸ばして座らされました。足を伸ばすことは許されず,その姿勢で3か月間座っていました。黒いコートを着た男がわたしを尋問しました。その男は,業の先頭に立っている兄弟たちについて話すよう求めました。男はわたしがそのことについて知っているのを分かっていましたが,わたしは話すのを拒みました。

1947年5月5日,わたしは軍事裁判所で有罪判決を受け,僻地にある重警備の収容所に10年間拘禁されることになりました。わたしは当時まだ若かったので,第1種と呼ばれるグループに配属されました。第1種にいたのは若者ばかりで,エホバの証人もそうでない人もいました。わたしたちは家畜運搬車で運ばれ,ロシアのはるか北部にあるボルクタへ送られました。それから蒸気船に乗せられ,4日間航海してカラ海峡にたどり着きました。

そこには生き物がほとんど存在せず,ツンドラとヒメカンバがあるだけでした。そこから4日間,昼も夜も歩かされました。まあ,若かったということなのでしょう。乾燥させたパンの皮とトナカイの肉の薫製を与えられ,さらに茶わんや温かい毛布も支給されました。雨が激しく降りました。運んでいた毛布はずぶぬれになり,重くてとても運べなくなりました。二人がかりで1枚ずつ絞ると,また軽くなりました。

やっとの思いで目的地に到着しました。わたしはずっと,『あとほんの少しすれば屋根のある所に,頭の上に屋根がある所に着くだろう』と思っていました。しかし,着いたのは,びっしりこけで覆われた空地でした。警備兵たちは,「ここに落ち着け。お前たちの住む場所だ」と言いました。

泣いた囚人もいれば,政府をのろった人もいましたが,わたしは決してだれものろったりはしませんでした。むしろ静かにこう祈りました。「エホバ,我が神よ,あなたはわたしの避難所であり,とりでです。ここでもわたしの避難所となってください」。

鉄線がなかったので,この居住区の周りにはロープが張り巡らされました。見張りも立てられました。例のごとく見張り番はいつも本を読んでいて,2㍍以内に近づいたら銃で撃つと言いました。わたしたちはこけの上で夜を過ごしました。雨が激しく打ちつけてきました。夜中に目が覚め,周りの1,500人に目をやると,皆の体から湯気が立ちのぼっているのが見えました。朝になって目を覚ますと,半身が水につかっていました。こけが水をたくさん含んでいたのです。食べるものは何もありませんでした。食糧を運ぶ飛行機が着陸できるように,滑走路を造れと言われました。警備兵たちは,ぬかるみなどにはまらない大きなタイヤを持つ特別なトラクターを使っていました。それで自分たちのための物資を運んでいましたが,わたしたちは何ももらえませんでした。

滑走路を造る作業は三日三晩続きました。飛行機が着陸できるように,こけを取り除かなければなりませんでした。軽飛行機が小麦粉を運んできました。わたしたちはお湯に小麦粉を溶いたものを与えられたので,それを食べました。

仕事は重労働でした。道路を造り,鉄道を敷きました。まるで人間ベルトコンベヤーのように,重い石を運びました。冬の間はずっと暗く,こごえるような寒さでした。

わたしたちは夜空の下で,覆いもないまま寝なければなりませんでした。どしゃぶりの雨に打たれることもあり,ずぶぬれになって,おなかがすき,寒さに震えました。でも若さのおかげか,幾らか余力がありました。警備兵たちは,そのうち屋根ができるから心配するなと言いました。やがて軍のトラクターが,400人を覆えるだけのシートを持ってきました。それで,シートを広げてつり上げました。でも,やはり寝場所はこけの上しかありませんでした。わたしたちは草を集めて,その間に合わせのテントに運び入れたのですが,それが腐って腐葉土になってしまい,その中で寝ることになりました。

その後,シラミに悩まされました。シラミにはとにかく死ぬほど食われました。体だけでなく,服もシラミだらけでした。大きいものも小さいものもいて,悲惨な状態でした。仕事から帰ってきて横になると,ひっきりなしに食われるので,体をかきむしりました。眠ると,体の隅々までやられます。わたしたちは現場主任に,「生きたままシラミに食べられてしまいそうです」と訴えました。主任は,「そのうちお前たちのシラミを焼き殺すさ」と言いました。

刑務所当局は,もっと暖かくなるまで待たなければなりませんでした。気温がずっとマイナス30度ほどだったからです。寒さが幾らか和らぐと,移動式の消毒所が設置されました。しかし気温はまだマイナス20度で,そのテントは穴だらけでした。それでも,「服を脱げ。体を洗うんだ。早く脱げ。服も消毒する」と言われました。

そういうわけで,わたしたちはマイナス20度の中で服を脱ぎ,穴だらけのテントの中で裸になりました。板が持ってこられたので,それを床として使いました。その板の上に座りながら,わたしは自分の体をながめました。何とひどい有様でしょう。隣の人を見ても同じです。筋肉は少しもありません。すべてしなびていました。わたしたちは骨と皮ばかりでした。貨物車に乗り込めないほど疲れきっていました。にもかかわらず,わたしは健康な若い労働者として,第1種に分けられていました。

わたしはもうすぐ死ぬのだと思いました。実際,多くの人が死にました。みな若者たちです。逃れ道がないように思えたので,助けを求めていよいよ熱烈にエホバに祈りました。エホバの証人ではない人たちの中には,仕事から逃れるために,わざと手か足を凍らせて切り落とす人もいました。身の毛もよだつ恐ろしいことでした。

ある日,見張り場の近くに立っていると,一人の医師がいるのを見つけました。わたしが逮捕された後に一緒に旅をし,神の王国について証しした人でした。この人も囚人でしたが,恩赦を与えられていました。近づいて見てみると,いかにも自由の身になった人のようでした。わたしは名前を呼びました。たしかサーシャだったと思います。彼はわたしを見て,「イワン,君かい?」と言いました。その言葉を聞くや,わたしは少年のように泣きました。「すぐに医療部に行きなさい」と,彼は言いました。

医療部に行ったわたしは,労働者第1種の枠から外されました。しかし,まだ収容所には入れられたままでした。第3種になったため,静養が必要な人のための区画に送られました。司令官は,「別にお前を招待したわけじゃない。お前が勝手に来たんだ。だから,おとなしく自分の仕事をしろ」と言いました。それで,少しずつそこでの生活に慣れるようにしました。もう重労働はしなくてよくなりました。

1953年8月16日,わたしは釈放されました。「お前は自由だ」と告げられたのです。どこでも好きなところに行ってよいということでした。それでまず,エホバが保護してくださったことに感謝しようと思い,森に行きました。その小さな森に入ると,ひざまずいて,生き長らえさせてくださったことをエホバに感謝しました。将来のため,また神の神聖なみ名の栄光をたたえる業のために,わたしを生き長らえさせてくださったのです。

[拡大文]

『あとほんの少しすれば屋根のある所に,頭の上に屋根がある所に着くだろう』

[拡大文]

その小さな森に入ると,ひざまずいて,生き長らえさせてくださったことをエホバに感謝しました

[155,156ページの囲み記事/図版]

ボロジーミル・レブチュクとのインタビュー

生まれた年: 1930年

バプテスマ: 1954年

プロフィール: 1946-1954年 政治活動のゆえに投獄。モルドビニアの強制労働収容所でエホバの証人と出会う。

わたしはウクライナの国家主義者でした。そのため,1946年に共産主義者たちは,わたしに対して収容所での懲役15年の刑を言い渡しました。収容所にはエホバの証人がいました。証人たちが宣べ伝える事柄を聞いて,すぐに真理だと分かりました。重警備の収容所にいたので,聖書を持っている人はいませんでした。それで,わたしは紙切れを探して取っておき,少したまると小さなノートを作りました。そして兄弟たちに,覚えている聖句や,それが聖書のどこに書かれているかを教えてもらい,ノートに書きました。あとから入ってきた兄弟たちにも尋ねました。だれかが聖書預言の大まかな内容を知っていると,それも書き留めました。多くの聖句が集まったので,それを宣べ伝える活動に使い始めました。

伝道を始めたころ,自分と同じ年ごろの若者がたくさんいました。わたしは最年少で,わずか16歳でした。その若者たちと話をしたとき,わたしはこう言いました。「わたしたちは無駄に苦しみ,他の人々と共にいたずらに命を危険にさらしてきました。どんな政治思想も,何ら良いものをもたらすことはありません。神の王国の側に立つ必要があります」。わたしは自分のノートから暗記した聖句を引用しました。記憶力は良いほうでした。わたしはすぐに仲間を納得させることができ,彼らはわたしたちエホバの証人のもとへ来るようになりました。そして,兄弟になりました。

[157ページの囲み記事/図版]

エホバの証人に課せられた刑罰

国内流刑: 流刑にされた人々は大抵シベリアの僻地へ送られ,そこに住んで働かなければなりませんでした。その新たな居住区を去ることはできませんでした。週に1度あるいは月に1度,地元の警察に届け出る義務がありました。

屋内刑務所: 鍵のかかった監房に3人から10人の囚人が拘禁されました。食事は1日2回か3回でした。1日に1度,もしくは週に1度,刑務所の中庭を歩くことが許されました。労働はありませんでした。

収容所: そのほとんどはシベリアにありました。何百という囚人がバラックで共同生活をしました。(一つの建物に大抵20人から100人収容されました。)毎日少なくとも8時間,収容所の敷地内か他の場所で働かされました。仕事は重労働で,工場の建設や鉄道の敷設,あるいは木の伐採などがありました。仕事の行き帰りは守衛に付き添われました。収容所の中では,労働時間以外は自由に動き回ることができました。

[図版]

ロシア,シベリア: 流刑にされたウクライナの証人の子どもたちが,まき割りをしている。1953年

[161,162ページの囲み記事/図版]

フョードル・カーリンとのインタビュー

生まれた年: 1931年

バプテスマ: 1950年

プロフィール: 1951-1965年 流刑。1962-1965年 投獄。

取り調べのために刑務所にいたとき,エホバは一度,奇跡と思えるようなことをしてくださいました。KGB(国家保安委員会)の長官が,1枚の紙を持って来ました。取調官は席についており,検察官もその隣に座っていました。KGBの長官は,取調官にこう言いました。「これをあいつに渡せ。アメリカの同胞たちがよからぬことを企んでいるのを読ませるんだ」。

わたしは紙を渡されました。それは大会の決議文でした。それを一度読み,それからもう一度注意深く読みました。検察官はいらいらし始め,「カーリン君,暗記しているのかね」と言いました。

わたしは,「1回目はざっと目を通しただけです。意味をよくつかみたいのです」と言いました。心の中では喜びの涙を流していました。決議文を読み終えると,わたしはそれを返してこう言いました。「皆さんには本当に感謝しています。でも何より,こうするようあなた方を動かしたエホバ神に感謝します。今日この決議文を読んで,わたしの信仰は大いに強められました。わたしはこれらの証人たちに加わり,ためらうことなく神のみ名を賛美します。収容所でも刑務所でも,また他のどんな場所でも神について人々に話します。それがわたしの使命です。

「どんなに拷問を加えても,わたしを沈黙させることはできないでしょう。この決議の中で,エホバの証人は何らかの反乱を起こそうとしているとは述べていません。むしろ自分たちに何が起ころうとも,たとえ最も厳しい迫害に遭ったとしても,忠実を保つための助けが神から与えられることを確信しつつ,エホバに仕え続けることを決意しています。わたしは,この困難な時期にあって信仰のうちに堅く立つため,わたしを強めてくださるようエホバ神に祈ります。

「わたしは決して揺らぎません。この決議文によってわたしは非常に強められました。今ここでわたしを射殺するために壁ぎわに立たせても,ひるみません。エホバは復活を通して救ってくださることもできるのです」。

取調官たちが肩を落としているのが分かりました。大きな間違いをしたことに気づいたのです。決議文はわたしの信仰を弱めるはずでしたが,逆にわたしを強めました。

[167-169ページの囲み記事/図版]

マリヤ・ポポビッチとのインタビュー

生まれた年: 1932年

バプテスマ: 1948年

プロフィール: 刑務所や強制労働収容所で6年間過ごす。真理を学ぶよう10人以上助けた。

1950年4月27日に逮捕された時,わたしは妊娠5か月でした。7月18日,10年の拘禁刑を宣告されました。判決の理由は,伝道を行ない,人々に真理を伝えたということでした。兄弟4人と姉妹3人,合計7人のエホバの証人が刑を言い渡されました。それぞれ10年の刑でした。8月13日に,息子が生まれました。

刑務所にいる間も,わたしは落胆しませんでした。殺人者や盗人としてではなく,クリスチャンとして苦しみに遭うなら幸福であると神の言葉 聖書から学んでいたからです。わたしは確かに幸福でした。心に喜びを抱いていました。独房に入れられたときも,その中を行ったり来たりしながら歌を歌いました。

一人の兵士が小窓を開けて,「こんな状況にいるのに歌っているのか」と言いました。

わたしは,「だれにも何も間違ったことをしていないので,幸福でいられるのです」と言いました。兵士は黙って窓を閉めました。わたしは殴打されませんでした。

「信仰を捨てろ。自分の置かれている状況をよく考えてみろ」と言われました。それは,刑務所の中で出産せざるを得なくなるという意味でした。でもわたしは,神の言葉に信仰を置いたために刑を宣告されたので,幸福で晴れやかな気持ちでした。自分が犯罪者ではないことを知っていましたし,エホバに対する信仰ゆえに耐え忍んでいることも知っていました。だからこそ,ずっと幸福でいられたのです。当時はそういう状況でした。

後日,収容所で働いている時に,手が凍傷にかかりました。病院に連れて行かれ,そこの医師の好意を得るようになりました。その女医は,「あなたは健康を害しているわ。わたしのところで働くのはどう?」と言ってくれました。

もちろん収容所の所長はその案が気に入りませんでした。所長は,「なぜこの女に働いてほしいんだ。別のグループからだれか選んだらどうだ」と言いました。

女医は,「ほかの人ではだめなの。この病院には,善良で正直な人が必要なのよ。だから彼女に働いてもらうことにしたの。彼女は絶対に何かを盗んだり,麻薬を使い始めたりしないから」と言いました。

わたしたちは信用されていました。信仰の篤い人には特別な敬意が示されました。皆わたしたちがどんな人なのか気づいていたのです。そのことは益となりました。

とうとう女医は所長を説得しました。所長は,わたしが材木を切るのが上手だったので,手放すのを渋っていたのです。エホバの民はどこで働いていても,常に正直でまじめな働き人でした。

注記: マリヤの息子はウクライナのビンニツァの刑務所で生まれました。その子は続く2年間,刑務所の孤児院に預けられました。その後,親族は,すでにシベリアへ流刑にされていた父親のもとへその幼子を送ります。ポポビッチ姉妹が刑務所から釈放された時,息子は6歳になっていました。

[拡大文]

「だれにも何も間違ったことをしていないので,幸福でいられるのです」

[175ページの囲み記事/図版]

マリヤ・フェドゥンとのインタビュー

生まれた年: 1939年

バプテスマ: 1958年

プロフィール: 1951-1965年 流刑。

列車の中で腰を落ち着け,興奮も収まって旅が始まると,皆これといってすることがありませんでした。わたしたちは歌を覚えていたので,歌い始めました。歌の本の中から,覚えている歌を全部歌いました。

最初のうちは,自分たちの貨車の歌声しか聞こえませんでした。しかし,わたしたちの列車が止まって他の列車に先を譲ると,そこにも兄弟たちが乗っていることに気づきました。それらの列車から歌声が聞こえてきたのです。モルダビアから来た人たちもいましたし,ブコビナから来たルーマニア人も通り過ぎました。かなりの数の列車が走っていて,様々な場所で互いに追い越し合いました。すべて兄弟たちだと分かりました。

わたしたちは多くの歌を覚えていました。列車の中で作られた歌もたくさんあります。歌はわたしたちに励みを与え,思いをふさわしく整えました。そうした歌はまさにわたしたちの注意をエホバに向けさせました。

[177ページの囲み記事/図版]

リディア・スタシチシンとのインタビュー

生まれた年: 1960年

バプテスマ: 1979年

プロフィール: 208-209ページにインタビューが掲載されているマリヤ・ピリピフの娘。

わたしが子どもだったころ,祖父は長老で,会衆を監督していました。祖父の日課を覚えています。朝起きると,顔を洗い,祈りました。それから祖父は聖書を開き,皆で一緒に座って日々の聖句とその章全体を読みました。祖父はよく,紙で包むかバッグに入れた重要な書類を,町外れに住む別の長老に持って行くようわたしに頼みました。その長老の家に行くには,丘を登らなければなりませんでした。わたしはその丘がきらいでした。急な坂で,登るのは一苦労だったからです。わたしはよく,「おじいちゃん,行きたくない。お願いだから行かせないで」と言いました。

祖父は決まって,「いいや,行きなさい。お前が書類を持って行くんだよ」と言いました。

わたしは内心,『絶対行かない,行きたくない』と思いました。でもそのあとで,『いいえ,何か重要な事がこれにかかっているかもしれないから,やっぱり行かなくては』と考え直しました。いつもそのことが思いの片隅にありました。本当は行きたくなかったのですが,それでも行きました。ほかに行く人がいないことも知っていました。何度も何度も通いました。それはわたしの仕事,わたしにゆだねられた責任でした。

[178,179ページの囲み記事/図版]

パブロ・ルラクとのインタビュー

生まれた年: 1928年

バプテスマ: 1945年

プロフィール: 刑務所や収容所で15年間過ごす。現在,ウクライナ東部のアルチョモフスク市で主宰監督として奉仕。

1952年,わたしはソ連のカラガンダの厳重に管理された収容所にいました。その収容所にはエホバの証人が10人いました。時のたつのがとにかく遅く感じられた,とてもつらい時期でした。喜びと希望を抱いてはいましたが,霊的食物は全くありませんでした。わたしたちは仕事の後に集まって話し合い,以前に「忠実で思慮深い奴隷」を通して学んだ事柄を何でも思い起こすようにしました。―マタ 24:45-47

わたしは姉に手紙を書くことにし,収容所での状況や霊的食物がないことを説明しました。囚人はそうした手紙を送ることが禁止されていたので,手紙を届けてもらうのは困難でした。しかし,何とか姉は手紙を受け取ることができました。姉は準備した小包に,かりかりのパンと一緒に新約聖書を入れ,わたしあてに送りました。

受け取りの手順はとても厳しいものでした。当局は必ずしも囚人に小包を渡しませんでした。中に入っているものはしばしば壊され,何もかもが念入りに調べられました。例えば缶の場合,二重底や側面に何か隠されていないかチェックされました。硬いパンの中さえ調べられました。

ある日,小包受け取りリストにわたしの名前があるのを見つけました。非常にうれしかったのですが,姉が小包に新約聖書を入れて送ったとは夢にも思っていませんでした。一番厳しい検査官が当直でした。囚人たちはその検査官を短気おやじと呼んでいました。わたしが小包を取りに行くと,検査官は「どこから来た小包がほしいんだ」と尋ねました。それで,姉の住所を言いました。検査官は小さなバールで箱をこじ開けました。

検査官がふたを開けたとき,箱の側面と食物の間に新約聖書があるのが目に留まりました。わたしはとっさに心の中で,「エホバ,それを与えてください」と言いました。

驚いたことに,検察官は「さっさと箱を持って行け」と言いました。起きたことを信じられないまま,わたしは箱にふたをしてバラックに持ち込みました。そして新約聖書を取り出し,マットレスの中に入れました。

新約聖書を受け取ったことを兄弟たちに話すと,だれも信じてくれませんでした。まさにエホバからの奇跡でした。全く何も手に入らない状況にいたわたしたちを,神は霊的に支えてくださったのです。わたしたちは天の父エホバの憐れみと気遣いに感謝しました。さっそく聖書を読み始め,自分たちを霊的に強めました。この件で,どれほどエホバに感謝したことでしょう。

[180,181ページの囲み記事/図版]

リディア・ブゾビとのインタビュー

生まれた年: 1937年

バプテスマ: 1955年

プロフィール: 1949-1965年 流刑。

十代のころを,父と一緒に過ごせなかったのはとてもつらいことでした。大抵の子どもと同じように,わたしたちも父を愛していました。わたしは父に別れの言葉を言えませんでした。イワンもわたしも,父が連れて行かれた時その場にいませんでした。畑できびを収穫していたからです。

畑から帰ると,父が逮捕されたことを母から聞きました。何かぽっかり穴が開いたように感じ,心が痛みました。しかし,狼狽したり憎しみに駆られたりはしませんでした。それは予期すべきことだったのです。わたしたちは繰り返し,「彼らがわたしを迫害したのであれば,あなた方をも迫害するでしょう」というイエスの言葉を言い聞かされていました。(ヨハ 15:20)ごく幼いときからこの聖句を覚えていて,模範的な祈りと同じくらいよく知っていました。また,わたしたちは世のものではないため,世に愛されないということも理解していました。当局者たちの取った行動は,すべて無知ゆえのものでした。

モルダビアがルーマニアの支配下にあったとき,父は自分の件について法廷で弁明できることを知りました。わたしたちも裁判所に行くことが許されました。とても幸せな一日となりました。

父はすばらしい証しをしました。だれも検察官の告発を聞くことには関心がなく,みな興味津々と父の証言に耳を傾けました。父は1時間40分も話し,真理を擁護しました。その証しは,とても明快で分かりやすいものでした。裁判所の職員たちは目に涙を浮かべていました。

わたしたちは,父が法廷で証言し,真理を公に擁護できたことを誇りに思いました。絶望感は全くありませんでした。

注記: 1943年,ドイツ当局はブゾビ姉妹の両親を逮捕し,ソビエト側に協力したかどで25年の拘禁刑を言い渡しました。1年もたたないうちに,ソビエト軍がやって来て二人を解放しました。しかしその後,今度はソビエト当局が姉妹の父親を逮捕しました。兄弟は合計20年を刑務所で過ごしました。

[拡大文]

大抵の子どもと同じように,わたしたちも父を愛していました。わたしは父に別れの言葉を言えませんでした

[186-189ページの囲み記事/図版]

タマラ・ラブリュクとのインタビュー

生まれた年: 1940年

バプテスマ: 1958年

プロフィール: 1951年 流刑。真理を学ぶよう約100人を助けた。

これはハリナに関する話です。1958年,ハリナが生後17日のときに両親は逮捕され,ハリナと母親はシベリアの収容所に送られました。ハリナは母親の母乳が出ていた間,つまり5か月目まで,母親と一緒にいることが許されました。その後,母親は仕事に就かされ,赤ちゃんは託児所に預けられました。わたしの家族は,近くのトムスク州に住んでいました。兄弟たちがわたしたちの会衆へ手紙を書き,だれかその小さな女の子を保育所から引き取って,両親が釈放されるまで育ててもらえないかと尋ねてきました。言うまでもなく,その手紙が読まれた時,皆がため息をつきました。赤ちゃんがそのような状況にいるのは,悲しく痛ましいことでした。

しばらく考える時間が与えられました。1週間たちましたが,だれも赤ちゃんを預かることを申し出ませんでした。みんな厳しい状況にあったのです。2週目になり,兄が母に,「うちでその赤ちゃんを預かろう」と切り出しました。

母はこう言いました。「何を言っているの,ヴァーシャ。お母さんはもう年を取って体の具合が悪いのよ。それにいいかい,人様の赤ちゃんを預かるというのは,大変な責任なんだよ。動物のようにはいかないんだから。牛でも子牛でもなく,赤ちゃんなのよ。しかも,知らない人の赤ちゃんでしょ」。

兄は,「だからこそ預かるべきなんだよ,母さん。動物じゃないんだ。赤ちゃんがそんな状態で,収容所のような場所にいるのを想像してみてよ。まだとても小さくて,無力なんだ」と言い,こう続けました。「いつかこんな風に言われる時が来るかもしれないよ。『わたしは病気で,収容所にいて,おなかをすかせていたのに,皆さんはわたしを助けてくれませんでした』」。

母は,「ええ,そう言われるかもしれないわ。でも,だれかの赤ちゃんを預かるというのは,本当に大変な責任なのよ。預かっている間にその子に何かあったらどうするの」と言いました。

兄は,「じゃあ,収容所で何かあったらどうするの」と言いました。そしてわたしを指さして,「うちにはタマラがいるじゃない。いつでも行って赤ちゃんを連れて来られるでしょ。みんなで働いて,その子の世話をすればいいよ」と言いました。

皆でよく考えて話し合った結果,とうとうわたしが行くことに決まりました。それで,わたしはマリインスク収容所に行きました。赤ちゃんを引き取りに行ったのです。兄弟たちから,収容所に持って行くよう文書を手渡されました。また,赤ちゃんの母親をだれも知らなかったので,分かるように写真を撮るためのカメラも渡されました。収容所にカメラを持ち込むことは許されませんでしたが,文書は持って入ることができました。つぼを買って,文書を中に入れ,その上から油を入れたのです。入口を通ったとき,門衛は油の中を調べることはしませんでした。そのようにして,文書を収容所内に持ち込みました。

わたしは赤ちゃんの母親,リディア・クルダスに会うことができました。しかも,子どもを釈放するのに必要な書類がまだできていなかったので,収容所に一晩泊まることになりました。それから,ハリナを家に連れて帰りました。我が家に来た時,ハリナは生後5か月と数日でした。皆でよく世話をしたのですが,重い病気になってしまいました。医師たちが来ましたが,どこが悪いのか分かりませんでした。

医師たちはこの子がわたしの赤ちゃんだと思い,わたしを責めました。「君はどういう母親なんだ。なぜミルクをやらないんだ」と言うのです。わたしたちは,収容所から連れて来た赤ちゃんだと言うのを恐れていたので,どうしていいか分かりませんでした。わたしはただ泣くだけで,何も言いませんでした。医師たちはわたしをとがめ,母に向かって,わたしは嫁にやるには若すぎた,わたしこそミルクが必要だとどなりました。わたしは18歳でした。

ハリナは最悪の状態で,呼吸困難に陥っていました。わたしは階段の下に行ってこう祈りました。「神エホバ,神エホバ,この子が死ななければならないのでしたら,わたしの命を代わりに取り去ってください」。

赤ちゃんは医師たちの目の前であえぎ始めました。「もうだめだ。この子は助からない。もう助からない」と,医師たちは言いました。わたしと母の前でそう言ったのです。母は泣いていました。わたしは祈っていました。ところが,その子は生き延びたのです。ハリナは母親が釈放されるまでわたしたちと一緒に暮らしました。7年間一緒にいましたが,それから一度も病気にはなりませんでした。

ハリナは今ウクライナのハリコフに住んでいます。わたしたちの姉妹で,正規開拓者です。

[拡大文]

「神エホバ,神エホバ,この子が死ななければならないのでしたら,わたしの命を代わりに取り去ってください」

[図版]

左から右へ: タマラ・ラブリュク(旧姓ブリャク),セルヒー・ラブリュク,ハリナ・クルダス,ミハイロ・ブリャク,マリヤ・ブリャク

[図版]

左から右へ: セルヒー・ラブリュクと妻のタマラ,ミコラ・クイビダと妻のハリナ(旧姓クルダス),オレクシー・クルダスと妻のリディア

[192ページの囲み記事]

巡回監督からの報告 1958年

「兄弟たちがどれだけ大変な目に遭っているかは,以下の点からある程度推察できるでしょう。共産党青年組織の成員約10名が,ほとんどすべての兄弟をスパイしています。それだけではありません。すぐに裏切る隣人,偽兄弟たち,多数の警察官,さらには収容所や刑務所における最高25年の実刑判決,シベリアへの流刑,生涯にわたる強制労働,場合によっては暗い監房における長期の拘禁などがあります。これらすべての事柄は,神の王国について二言三言話しただけで,だれにでも生じ得ます。

「それでも,奉仕者たちは恐れていません。エホバ神への尽きない愛を抱きつつ,み使いたちのような態度を保ち,闘いを放棄することなど考えていません。業がエホバのものであること,そして最終的な勝利の時までそれが続けられなければならないことを知っています。兄弟たちはだれのために忠誠を保っているのか理解しています。エホバのために苦しむことは,兄弟たちにとって喜びです」。

[199-201ページの囲み記事/図版]

セルヒー・ラブリュクとのインタビュー

生まれた年: 1936年

バプテスマ: 1952年

プロフィール: 刑務所や収容所で16年間過ごす。引っ越しを7回強制された。真理を学ぶよう約150人を援助。妻タマラのインタビューは186-189ページに掲載されている。現在ハリコフ市近郊のロハニ会衆で長老として奉仕。

わたしは7年間モルドビニアで暮らしました。重警備の収容所にいましたが,わたしがいたころは多くの出版物が手に入りました。看守たちの中には,文書を家に持ち帰り,それを自分で読み,家族や親族に渡す人もいました。

時々,看守が第二交替勤務のときにわたしの所へやって来て,「セルヒー,何か持っていないか」と言いました。

「何が欲しいんですか」と,わたしは答えます。

「何か読むものだよ」。

「明日は検査がありますか」。

「ああ。明日は第5区画で検査がある」。

「分かりました。ある寝台のタオルの下に『ものみの塔』誌を置いておくので,持って行ってください」。

検査が行なわれ,看守は「ものみの塔」誌を持って行きました。しかし,他の看守たちは文書を何も見つけられませんでした。わたしたちが検査のことを前もって知っていたからです。このように,わたしたちを助ける看守もいました。彼らは真理にひかれていましたが,仕事を失うことを恐れていました。兄弟たちは長年そこにいたので,看守たちはその暮らしぶりを見ていました。分別のある人は,わたしたちが何も罪を犯していないことを理解しました。ただ,そのことを口に出すとエホバの証人の支持者とみなされて職を失うので,何も言えなかったのです。それで看守たちは,ある程度わたしたちの活動を支援してくれました。文書を受け取って読むこともありました。このことは,火のような迫害を冷ます助けになりました。

1966年には,300人ほどの証人たちがモルドビニアにいました。管理者たちは,どの日に記念式が行なわれるかを知っていました。それで,その年はそれを阻止することに決め,こう言いました。「お前たちにはすでに『ものみの塔』を勉強させてやっているが,記念式はやめてもらうことにする。その日は何もできないだろう」。

様々な警備班のメンバーが,警戒解除の合図があるまで事務所で待機することになりました。監視員,管理役員,収容所の司令官など,全員がそれぞれの持ち場に就いていました。

それで,わたしたちはみな外に出て,毎日朝と夕方に集合して点呼がとられる広場に行きました。そして会衆や群れごとに分かれて集まり,広場を歩き回りました。各グループの中で一人の兄弟が歩きながら話をし,他の人たちは耳を傾けました。

表象物はなかったので,話だけ行ないました。その当時,収容所に油そそがれた者はいませんでした。午後9時半までにはすべてが終了し,どのグループも道を歩きながら記念式を終えました。

歌だけは兄弟たち全員で一緒に歌いたいと思いました。それで,入口の検問所から最も遠い一角にある浴場のそばに集まりました。夜にタイガで300人の男性が集まり,そのうち80人ないし100人が歌っている様子を思い描いてください。その歌がどれほど鳴り響いたか想像できるでしょうか。古い歌の本から,「我,汝らのために死ねり」と題する25番の歌を歌ったのを覚えています。皆その歌を知っていました。監視塔にいる兵士たちでさえ,大声で「25番の歌を歌ってくれ」と言うことがありました。

その夜,わたしたちが歌い始めると,全職員が事務所から浴場まで駆けつけてきて,やめさせようとしました。しかし,到着しても歌を中止させることはできませんでした。歌っていない兄弟たちが,歌っている兄弟たちを全員でしっかり取り囲んでいたからです。それで,わたしたちが歌い終わるまで,看守たちはただ周りを狂ったように走り回るばかりでした。歌が終わると,みな散り散りになりました。看守たちには,だれが歌い,だれが歌わなかったか分かりませんでした。全員を独房に入れることもできませんでした。

[203,204ページの囲み記事/図版]

ビクトル・ポポビッチとのインタビュー

生まれた年: 1950年

バプテスマ: 1967年

プロフィール: 刑務所で生まれる。167-169ページにインタビューが掲載されているマリヤ・ポポビッチの息子。伝道活動ゆえに1970年に逮捕され,刑務所で4年間過ごす。3日間の法廷審問の際,35人がポポビッチ兄弟から伝道を受けたと証言した。

エホバの証人の置かれていた状況は,単に人間同士の関係という観点で考察すべきではありません。神の民に対する迫害を,すべて政府の責任として片づけることはできません。当局者の大半は,ただ与えられた仕事をこなしていたにすぎないのです。政権が変わると,当局者たちは忠節を示す対象を変えましたが,わたしたちの状態は元のままでした。わたしたちは,聖書が諸問題の真の源を明らかにしていることに気づきました。

わたしたちは,自分たちのことを単に圧制者に苦しめられる罪なき犠牲者とみなすことはしませんでした。耐え忍ぶ助けとなったのは,エデンの園で提起された論争,つまり神の支配権に関する論争の明確な理解でした。その論争はまだ決着がついていません。わたしたちは,エホバの支配権を擁護する機会があることを知っていました。個々の人間に関係する事柄だけでなく,宇宙の主権者の権益にかかわる論争において,自らの立場を定めたのです。わたしたちは関係する真の論争について,はるかに勝った理解を得ていました。それはわたしたちを強め,最も過酷な状況下でも忠誠を保つ助けとなりました。わたしたちは,単なる人間同士の関係以上のことに目を向けていました。

[拡大文]

神の民に対する迫害を,すべて政府の責任として片づけることはできません

[208,209ページの囲み記事/図版]

マリヤ・ピリピフとのインタビュー

生まれた年: 1934年

バプテスマ: 1952年

プロフィール: 1951年,追放された姉を訪ねてシベリアに行く。シベリアで真理を学び,そこへ流刑にされていた兄弟と後に結婚。

父が亡くなった時,警察が家に来ました。村と地域の行政機関から,たくさんの警官が送られてきました。歌や祈りは一切禁止すると警告されたのですが,わたしたちは祈りを禁じる法律はないと返答しました。警察はいつ葬式を行なうのかと尋ね,日付を教えると去って行きました。

兄弟たちは朝早くからやって来ました。集まり合うことは禁じられていましたが,葬式に行くことは許されていました。警察が来ると分かっていたので,早いうちから始めました。一人の兄弟がちょうど祈り始めた時,警官を大勢乗せたトラックが到着しました。兄弟は祈りを終え,わたしたちは墓地に向かいました。

警察は後からついてきましたが,墓地に入るのは止めませんでした。兄弟がもう一度祈りをささげると,警察は兄弟を逮捕しようとしました。しかし姉妹たちは,兄弟を警察には渡すまいと決意していました。たくさんの警官がいたので,皆で兄弟を取り囲みました。その後の混乱に紛れて,一人の姉妹が兄弟を墓地から連れ出し,家々の間を縫って村に入りました。思いがけず知人が自家用車で通りかかったので,兄弟はその車に乗って去りました。警察はあらゆる場所を探しましたが兄弟を見つけられず,そのまま帰りました。

姉妹たちはしばしば兄弟たちを守りました。普通はその逆ですが,当時はそうする必要があったのです。姉妹たちが兄弟たちを守らなければなりませんでした。そういう状況は何度もありました。

[拡大文]

当時はそうする必要があったのです。姉妹たちが兄弟たちを守らなければなりませんでした

[220,221ページの囲み記事/図版]

ペトロ・ブラシュクとのインタビュー

生まれた年: 1924年

バプテスマ: 1945年

プロフィール: 1951-1965年 流刑。流刑になって間もなく,息子が病気で亡くなる。翌年,二人目の息子を出産した妻が合併症を患い,やがて亡くなる。ブラシュク兄弟には小さな赤ちゃんが残されたが,1953年に再婚し,新しい妻が子どもの世話を助けた。

わたしは,1951年にウクライナからシベリアへ流刑にされた人たちの一人でした。でも何も恐れていませんでした。エホバは兄弟たちのうちにそのような精神を注ぎ込んでくださったので,皆が信仰を抱き,それは言葉の端々にはっきり表われていました。宣べ伝える任務を果たすため,わざわざあそこまで旅しようとはだれも思わなかったはずです。ですから,明らかにエホバ神は,政府によってわたしたちがあそこへ送られるのをお許しになったのです。当局者たちは後に,「我々は大きな間違いをした」と言いました。

「どういう意味ですか」と,兄弟たちは尋ねました。

「お前たちをここへ連れて来たら,今度はここでも人々を改宗させている」。

「皆さんはまた間違いをすると思います」と,兄弟たちは言いました。

当局の二つ目の大きな間違いは,わたしたちに恩赦を与えて釈放した後,家に帰さなかったことでした。「どこへ行ってもよいが,自分の郷里はだめだ」と言ったのです。後になって,当局は間違いに気づき,判断を誤ったことを思い知るようになりました。その政策のおかげで,良いたよりはロシア全土に広まったのです。

[227ページの囲み記事/図版]

アンナ・ボブチュクとのインタビュー

生まれた年: 1940年

バプテスマ: 1959年

プロフィール: 1951-1965年 流刑。10歳のときにシベリアへ送られる。1957年から1980年まで地下活動を行ない,聖書文書を印刷した。

KGBはよく,兄弟たちの身元を明かさせようとして,わたしたちに写真を見せました。わたしは,「あなた方にでしたら,教えることは何もありません。あなた方の探している人ならだれも知りません」と答えました。わたしたちはいつもそのように答えていました。後に,結婚して間もないころ,町に向かって歩いていると,アンガルスクのKGB局長に会いました。尋問のために何度もわたしを呼び出した人で,わたしのことをよく知っていました。

局長はこう言いました。「ステパン・ボブチュクに関して,君はその男を知らないと言ったはずだ。それなのに彼と結婚するとはどういうわけかね」。

わたしはこう答えました。「写真を見せて彼を紹介してくれたのは,あなたではありませんか」。

局長は手を打ち合わせて,「なんと,また我々の失敗か」と言いました。

それから二人で大笑いしました。それはわたしの人生の中で,楽しくて幸せなひとこまでした。

[229,230ページの囲み記事/図版]

ソフィヤ・ボブチュクとのインタビュー

生まれた年: 1944年

バプテスマ: 1964年

プロフィール: 1951-1965年 流刑。7歳のときに,母親,姉,兄と共にシベリアへ送られた。

シベリアに連れて行かれた時,お前たちは永久にそこにいるだろうと言われました。自由がもたらされるとは思えませんでした。他の国々で開催される大会について書かれた「ものみの塔」誌の記事を読んだとき,一生に一度でいいので,わたしたちにも他の国で開かれるような大会に出席する機会がありますようにとエホバに祈りました。そして,エホバは確かに祝福してくださいました。1989年に,わたしたちはポーランドで開かれたエホバの証人の国際大会に出席できたのです。その場にいられたことの無上の喜びや感激は,とても言葉では言い表わせません。

ポーランドの兄弟たちは,わたしたちを心から歓迎してくれました。4日間そこにとどまりました。本当に大会に出席できたのです。エホバについてさらに学び,神の言葉から諭しを受けるのは,この上ない喜びでした。本当に幸せでした。わたしたちは皆と経験を分かち合いました。たくさんの国籍の人がいましたが,みな兄弟たちです。スタジアムを歩き回っていると,すばらしく平和な気持ちに包まれました。長年禁令下にいて,その間に経験したすべてのことを思うと,もうすでに新しい世にいるかのようでした。ののしり声などを聞くことはなく,何から何まで清潔で美しかったのです。プログラムの後,皆と一緒に時間を過ごしました。すぐに帰ったりせず,兄弟たちと交わり,語り合いました。言語が分からなくても通訳してくれる人がいました。たとえ言葉が通じなくても,互いに口づけを交わしました。幸福の一言に尽きます。

[243,244ページの囲み記事/図版]

ロマン・ユルケビッチとのインタビュー

生まれた年: 1956年

バプテスマ: 1973年

プロフィール: 中立の立場ゆえに収容所で6年間過ごす。1993年よりウクライナの支部委員会で奉仕。

真理は,他の人を助けて支えるよう人を動かします。そのことを特に強く感じたのは,1998年にトランスカルパティアで大規模な洪水が起きた時です。実に何百という人々が,一夜にして家や持ち物をすべて失いました。

二日もたたないうちに,兄弟たちの一団が現地に到着して救援委員会を設けました。その委員会は,それぞれの家族や村にどのような援助を差し伸べるか判断しました。ワリーとビシュコベという二つの村が,特に大きな被害を受けていました。わずか二,三日のうちに,どの家族がどんな助けを得,だれがそれを行なうかという計画が出来上がりました。そして,兄弟たちがトラックに乗って駆けつけ,泥の海をシャベルでかきのけてゆきました。

兄弟たちが乾いた木を持ってきたので,地域の人々は皆びっくりしました。エホバの証人でない人たちは目を丸くしていました。ビシュコベの一姉妹は,ちょうど兄弟たちの救援チームが泥をかきのけていた付近にいました。一人の新聞記者が姉妹に近づいて,「この人たちがだれだか知っていますか」と尋ねました。

姉妹はこう答えました。「あまり詳しくは知りません。話す言葉が,ルーマニア語,ハンガリー語,ウクライナ語,ロシア語と,みな違うので。でも一つのことだけは確かです。この人たちはわたしの兄弟姉妹で,わたしを助けてくれているのです」。

二,三日のうちに兄弟たちは救援に向かい,被害を受けた家族の世話をしました。それらの家族は他の地域へ移されました。しかし半年後にはエホバの証人の家はほとんどすべて建て直され,証人たちは真っ先にその地域に戻って新しい家に住むことができました。

[254ページの図表]

(出版物を参照)

ウクライナの正規開拓者(1990-2001)

10,000

8,000

6,000

4,000

2,000

0

1990 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2001

[254ページの図表]

(出版物を参照)

ウクライナのエホバの証人 *(1939-2001)

120,000

100,000

80,000

60,000

40,000

20,000

0

1939 1946 1974 1986 1990 1992 1994 1996 1998 2001

[脚注]

^ 582節 1939年から1990年までは概数

[123ページの地図/図版]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ウクライナ

ボルイニ

ハリチナ

リボフ

トランスカルパティア

ブコビナ

キエフ

ハリコフ

ドニエプロペトロフスク

ルガンスク

ザポロージエ

ドネツク

オデッサ

クリミア

黒海

トルコ

ブルガリア

ルーマニア

モルドバ

ポーランド

ベラルーシ

ロシア

[118ページ,全面図版]

[127ページの図版]

ボイテフ・チェヒ

[129ページの図版]

1932年8月,ハリチナのボリスラフという町での最初の大会

[130ページの図版]

1932年,トランスカルパティアのソロトビノでの大会

[132ページの図版]

マリヤ・ザリツキーとエミール・ザリツキーは,40年にわたって翻訳者としての割り当てを忠実に果たした

[133ページの図版]

1927から1931年にかけて,ウジゴロドのこの家にウクライナ最初の文書集積所があった

[134ページの図版]

1935年,カルパティア山脈のラホフ地域にバスで伝道に向かうグループ: (1)ボイテフ・チェヒ

[135ページの図版]

ウクライナ語の初期のレコード,「宗教とキリスト教」

[136ページの図版]

1938年,コスマチ会衆: (1)ミコラ・ボロチーは,蓄音機を買うために2頭いた馬のうち1頭を売った

[137ページの図版]

熱心な奉仕者として多くの人の記憶に残るルドヴィヒ・キニツキは,ナチスの強制収容所でエホバへの忠実を保って亡くなった

[142ページの図版]

イリヤ・ホブチャク(上の左側)が,オヌフリー・リリチュクと共に山地で伝道したときの様子。そして,妻パラスカとの写真(右)。ホブチャク兄弟はカトリックの司祭によってゲシュタポに引き渡され,処刑された

[146ページの図版]

アナスタシヤ・カザーク(1)シュトゥットホーフ強制収容所にいた他の証人たちと共に

[153ページの図版]

イワン・マクシミュク(上,妻のイェブドキヤと共に)および息子のミハイロ(右)は,忠誠を曲げることを拒んだ

[158ページの図版]

ウクライナ語の初期の聖書出版物

[170ページの図版]

フリホリー・メリニクは20歳で,弟二人と妹を養う責任を担っていた

[176ページの図版]

マリヤ・トミルコは15年に及ぶ投獄を耐え忍び,忠実を保った

[182ページの図版]

ヌツ・ボコチ。刑務所で娘との短時間の面会。1960年

[185ページの図版]

リディア・クルダスとオレクシー・クルダス(上)は,娘のハリナが生後17日のときに逮捕され,別々の収容所に入れられた。3歳のハリナ・クルダス(右): この写真は両親がまだ収容所にいた1961年に撮られた

[191ページの図版]

結婚式の前夜,ハンナ・シシュコとユーリー・コポスは逮捕され,収容所での懲役10年の刑を宣告された。二人は10年後に結婚した

[191ページの図版]

ユーリー・コポスは,1世紀のほぼ3分の1をソビエトの刑務所や強制労働収容所で過ごした

[194ページの図版]

パブロ・ズヤテクはエホバへの奉仕に生涯をささげた

[196ページの図版]

ネイサン・H・ノアがソ連の兄弟たちにあてて書いた,1962年5月18日付の手紙

[214ページの図版]

ウクライナをはじめソビエト連邦全域に送られた文書は,このような地下壕で印刷された。これはウクライナ東部のもの

[216ページの図版]

一番上: カルパティア山脈の奥深くにある,森林に覆われた丘。イワン・ドジャブコはここで秘密の地下壕を監督した

[216ページの図版]

上: ミハイロ・ディオロフが,かつての地下壕の入口の横に座っている。ここでイワン・ドジャブコに紙を供給した

[216ページの図版]

右: イワン・ドジャブコ

[223ページの図版]

ベラ・メイサルは刑務所で21年間過ごし,忠実な妻のレギナはその間,たびたび夫を訪ね,合計14万㌔余りを旅した

[224ページの図版]

ミハイル・ダーセビッチは,1971年に国の僕に任命された

[233ページの図版]

1991年2月28日,ソ連領内で初めてのこととして,ウクライナのエホバの証人が登録された

[237ページの図版]

1993年にキエフで開かれた国際大会で,7,402人がバプテスマを受けた。神の民の現代史において,一つの大会でバプテスマを受けた人数としては最大

[246ページの図版]

リボフで開かれた最初の宣教訓練学校の卒業式で。1999年の初め

[251ページの図版]

一番上: 複数の王国会館を含む複合施設。1995年から2001年までベテル家族はここで奉仕した

[251ページの図版]

真ん中: ベテル家族が1994年から1995年にかけて使用した家

[251ページの図版]

下: ナドビルナの町にある王国会館 ― ウクライナの新しい王国会館建設プロジェクトによって建てられた最初のもの

[252,253ページの図版]

(1-3)新しく献堂されたウクライナ支部

[252ページの図版]

(4)支部委員会,左から右へ: (前列)ステパン・フリンスキー,ステパン・ミケビッチ,(後列)アンドリー・セムコビッチ,ロマン・ユルケビッチ,ジョン・ディダー,ユルゲン・ケック

[253ページの図版]

(5)ウクライナ支部の献堂式で話をするセオドア・ジャラズ。2001年5月19日