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クラサオ

クラサオ

クラサオ

ベネズエラの沖合に浮かぶアルバ(Aruba)島,ボネール(Bonaire)島,クラサオ(Curaçao)島はABC3島とも呼ばれ,独特の美しさを有しています。カリブ海諸島の他の島ような,滴るばかりの緑の美しさではありませんが,砂漠独特の美しさ,夜の神秘的な物影や昼のひときわ鮮やかな色彩の美しさを楽しめます。

降雨量が少ないため,巨大サボテンが繁茂し,風景の中でひときわ目立っています。中でも見事なのはカドゥシです。樹冠が一方に奇妙に傾いた,ジビジビと呼ばれる風変わりな木も生い茂っています。昔の植民地時代の名残であるプランテーションの家々が,紺碧の空を背景にシルエットをなし,物言わぬ歩哨のように立っています。人里離れた場所では,ヤギが自由に歩き回っており,道路を素早く横切ってゆきます。

アルバ島とボネール島では観光産業が栄えています。一方,クラサオ島の人々は石油精製や沖合での事業からの収入に依存しています。どの島でも目立つのは脱塩プラントで,その施設で海水を蒸留し,飲料水と発電用の蒸気を供給しています。

現在,人口がほぼ25万人に達しているこれらの島は,15世紀にスペイン人により発見され,後にオランダに占領されました。その後,領有権は短期間,フランスやイギリスに移りましたが,1815年にこれらの島はオランダ領に復帰しました。1954年,ABC3島とリーワード諸島の三つの島から成るオランダ領アンティルが誕生し,それ以来,内政自治権を認められてきましたが,1986年にアルバ島は自治領になりました。

文化と言語

オランダ政府のもとで,これらの島の人々は,宗教的に寛容な風土に恵まれています。住民の大半はローマ・カトリック教徒ですが,プロテスタントの大きな団体も幾つかあります。クラサオ島には安定したユダヤ人社会もあります。世界の40ないし50の国や地域から来た人々が,人種差別のない社会で,一緒に平和に暮らしています。人々は一つの共通語も用いていますが,どの島も独自の個性が保たれています。多様性に富む,このような社会に聖書の真理が根づき,広まってきました。

人々は幾つもの言語を話すことができ,ともすると自分が今どの言語で話しているのかを忘れてしまいます。話しながら言語を切り替えるのは,ごく普通のことだからです。公用語はオランダ語で,ビジネスの世界では英語やスペイン語が広く用いられていますが,一般にはパピアメント語が使われています。一説によれば,パピアメント語は17世紀以前に西アフリカのカボベルデ諸島で生まれたとされています。ポルトガル人はカボベルデ諸島をアフリカ進出のための基地として利用し,アフリカ人とポルトガル人の意思の疎通を図るため,アフリカ系言語とポルトガル語との混成語である新たなクレオール語が生まれました。異なった言語グループ間の意思の疎通を可能にするこうした言語は,共通語<リングア・フランカ>と呼ばれます。後に,ABC3島に連れて来られた奴隷たちが,そのクレオール語を持ち込みました。長年の間に,その言語はオランダ語,スペイン語,英語,およびフランス語の影響を受けました。こうして生まれたパピアメント語は,それらの言語すべての混成語となりました。

奴隷たちによって編み出され,この島々に持ち込まれたこの共通語<リングア・フランカ>は,要するに,意思疎通のギャップを埋め,結束を図る手だてでした。しかし,もう一つの共通語も用いられるようになりました。それはゼパニヤ 3章9節で指摘されている言語です。こう記されています。「その時わたしはもろもろの民に清い言語への変化を与える。それは,すべての者がエホバの名を呼び求め,肩を並べて神に仕えるためである」。島民の中のある人々が社会的,人種的,そして時には国家的な相違を克服して一致できただけでなく,エホバの証人の世界的な仲間とも結び合わされたのは,まさしくこの「清い言語」を用いたためです。ですから,会衆はパピアメント語,英語,スペイン語,およびオランダ語に分かれているとはいえ,兄弟たちは聖書の真理という共通語により引き寄せられ,互いに対する堅い愛のきずなで結ばれています。

真理の曙光

これらの島で真理の種が最初にまかれたいきさつについては,正確なことは分かりません。真理の曙光はほとんど人目を引くことなくさし込み,長年にわたってローマ・カトリック教の砦であったこれらの島を覆っていた闇を一掃しました。1920年代末から1930年代にかけて,数人の人たちがこれらの島で伝道しました。また,宗教書を販売する一人の行商人が,それとは知らずに真理の種をまいたこともあります。その宗教書の中に,神の組織が発行した出版物もあったからです。その行商人と一緒に働いていた二人の娘パールとルビーは,何年かたった後,エホバの証人になりました。二人とも,今日に至るまで忠実を保っています。

1940年,製油所に勤めていたトリニダード出身のブラウン兄弟が,クラサオ島で初めてのバプテスマを施しました。バプテスマを受けたのは,兄弟と研究をしていた5人の人たちで,そのうちのマルティン・ナーレンドープとウィルヘルミナ・ナーレンドープ,およびエドゥアルト・ファン・マールの3人は皆,スリナム出身者でした。

ナーレンドープ夫妻の娘,アニタ・リーブレットはこう回想しています。「1940年,私が6歳のころ,両親が,英語を話す兄弟と研究をしていたのを覚えています。両親はオランダ語しか話せず,英語はほとんど分かりませんでしたが,何とか研究を続けて,6か月もたたないうちにバプテスマを受けました。集会は私たちの家で開かれていましたが,今のようにきちんと組織されてはいませんでした。集会は晩に行なわれる研究で,真夜中過ぎまで続き,両親は英語の本を理解しようと苦労していました」。伝道は大抵,英語で行なわれました。その小さなグループの人たちはパピアメント語を流ちょうに話せませんでしたし,パピアメント語の文書もなかったからです。

一般に,土地の人々は聖書を読むことに慣れていませんでした。聖書を読むことをカトリック教会が禁じていたからです。司祭が聖書を見つけしだい没収するのは,珍しいことではありませんでした。初めのころ,ある司祭は,兄弟たちに付きまとって足を踏み鳴らし,「わたしの羊に手を出すな!」とどなったものです。

アルバ島とボネール島で種がまかれる

1943年のこと,かつてアドベンティスト派の信者だったジョン・ヒポリートはマルティン・ナーレンドープと一緒にアルバ島を訪れ,休暇を過ごしながら良いたよりを広めました。確認できる限り,アルバ島で初めて良いたよりを宣べ伝えたのは,その二人です。クラサオ島に戻った後,ヒポリート兄弟はブルックリンの本部に手紙を書き,野外の業のための援助を要請しました。それから3年後に宣教者たちが派遣されましたが,残念ながら,その到着の前にヒポリート兄弟は亡くなりました。とはいえ,ジョン・ヒポリートをはじめとするクラサオ島の勇敢な兄弟たちは,伝道の書 11章6節にある勧めに従って,惜しみなく種をまき,それらの種は後に根を下ろして芽を出しました。

1944年には,グレナダのエドマント・カミングスとトリニダードのウッドワース・ミルズがアルバ島に来て,サン・ニコラスの製油所に就職しました。島の東端にあるサン・ニコラスの町は,製油所で働くために西インド諸島の至る所からやって来た移民でにぎわっていました。聞き手に意欲を起こさせる講演者だったミルズ兄弟の励ましにより,良いたよりを宣べ伝える業は大いに活気づきました。1946年3月8日,ミルズとカミングス両兄弟の働きにより,サン・ニコラスで最初の英語会衆が発足しました。会衆の伝道者は11人で,ミルズ兄弟が会(会衆)の僕でした。

1946年6月9日,この島で初めてのバプテスマが行なわれました。バプテスマを受けた4人の中には,ティモシー・J・キャンベルとウィルフレッド・ロジャーズがおり,1946年の末までに伝道者の数は2倍になりました。その後,エホバの証人になった移民たち,つまりバイテンマン家,デ・フレータス家,キャンベル家,スコット家,ポッター家,マイヤー家,ティーター家,フォスティン家などの人々が会衆に加わりました。

ミルズ兄弟は非公式の証言でかなりの成果を収めました。そして,同僚のオリスという女性速記者が好意的な態度でこたえ応じ,1947年1月にバプテスマを受けました。ミルズ兄弟は姉妹を得ただけでなく,花嫁も見つけたことになります。後に,オリスと結婚したからです。1956年に,二人はギレアデ第27期のクラスに出席するよう招待され,その後,ナイジェリアで奉仕するよう割り当てられました。

1950年まで,アルバ島では主にサン・ニコラスで伝道が行なわれていました。その町では大抵の人が英語を話しており,兄弟たちはパピアメント語をほとんど話せなかったからです。それまでは,アルバ島の地元の人で,真理を受け入れた人は一人もいませんでした。カトリック教会が容赦なく反対していたので,普通は友好的なアルバ島の地元の人々もエホバの証人に反対するようになり,業の進展する速度は鈍りました。初期のころ,かんかんに怒った家の人がマチェーテ(なた)を振り回してエホバの証人を追いかけるのは,珍しいことではありませんでした。兄弟たちは熱湯を浴びせられたり,犬をけしかけられたりしたこともあります。また,家の人が,兄弟たちを家の中に招き入れ,そこに座らせたまま外に出て行ってしまったこともあります。これらの島では,客の接待をしないのは無礼なことなのです。

アルバ島の開拓者,エドウィナ・ストループは当時を振り返り,「司祭たちはよく,教会を去る者には呪いをかけてやる,と言って人々を脅したものです」と述べています。それでも,そのために兄弟たちの熱意がそがれることはありませんでした。エホバと隣人に対する愛に動かされて頑張り通したのです。

砂漠の植物の中には,適当な量の雨が降ると,何十年も休眠していた種子が芽を出し,やがて美しい花を咲かせるものがあります。ボネール島の税関職員,ヤコボ・レイナの場合も同様でした。ヤコボは1928年に「創造」という本を入手しました。ローマ・カトリック教徒の家に生まれましたが,プロテスタント諸宗派について調べたこともありました。しかし,どうしても満足できませんでした。ところが,「創造」の本を読んで,その内容に真実味がこもっていることに気づきました。その本には,エホバの僕たちの発行した他の本の題名が列挙されていましたが,ヤコボはそれらの本を入手できませんでした。それから19年後の1947年になって,クラサオ島にいる姉を訪ねた際,姉の聖書研究を司会していた宣教者に会えました。そして,それまでずっと財布に入れていた一覧表に載せられている本を持っているかどうか宣教者に尋ね,宣教者のかばんに入っていた文書を全部,つまり少なくとも書籍7冊と小冊子13冊を求め,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の予約購読も申し込みました。ずっと以前にそそられた霊的な食欲が,ついに満たされることになりました。そうです,長年にわたって休眠状態にあった真理の種に,今や,成長に必要な水が与えられることになったのです。

宣教者たちが初めてクラサオ島に到着する

1946年5月16日,ギレアデの第6期生,トマス・ラッセル・イエーツと妻ヘイゼルが,それまでほとんど手つかずの区域だったクラサオ島に到着しました。イエーツ兄弟はこれらの島々における業に非常に大きな影響を与え,1999年に亡くなるまで50年余りにわたって任地にとどまりました。短い中断期間はありましたが,1950年から1994年まで支部を監督しました。ユーモアを絶やさず,底抜けの楽天家で,揺るぎない信仰を抱いていたこの兄弟は,王国を宣べ伝える業が大いに拡大するのを見る特権にあずかりました。

忠節に夫を支えたヘイゼルは,今でも忠実に任地にとどまり,すべての人の励みの源となっています。ヘイゼルは,空港に着いた時,ナーレンドープとファン・マール両兄弟,そして関心のある人だったクレメント・フレミングに温かく迎えられたことを覚えています。

ちなみに,クレメントは「子供たち」という本を手に入れて読み,真理を見いだしたことを確信していました。カトリック教会の教えの多くが納得できなかったため,若い時にローマ・カトリック教会を去り,その後,エホバの証人と交わるようになったので,これら最初の宣教者たちを歓迎する場に居合わせることができたのです。1946年7月,到着して間もない宣教者ラッセル・イエーツがクレメントにバプテスマを施しました。フレミング兄弟は今もなお王国伝道者であり,「私は93歳ですが,死ぬことなくハルマゲドンを通過して新しい体制に入る人たちの一人になるという希望を今でも抱いています」と語っています。信仰と忍耐の何とすばらしい模範でしょう。

イエーツ姉妹はこう語っています。「私たちは空港から,豚のしっぽや塩漬けの魚を売る店の上にある二間のアパートに案内されました。そのアパートには家具も浴室もなかったので,階下でシャワーを取らなければなりませんでした。6か月後にようやく,もっとましな住居が見つかりました」。ヘイゼルは何度も赤痢にかかりましたが,ヘイゼルもラッセルも気落ちしませんでした。何年も後に,イエーツ兄弟はこう書いています。「生活を興味深いものにするのは,生活条件でも,景色でも,言語でもなく,人々です。特にエホバの奉仕者にとってはそうです。そして,どこの任地に行っても,そこには人々がいるのです」。

これら勇敢な宣教者は,現地のパピアメント語を習いながら,清い言語,つまり真理という共通語<リングア・フランカ>をクラサオ島の人々に教えることになりました。そのような島民の一人,カミーリョ・ギーリーゴリャは,1950年に地元の人として初めてバプテスマを受けました。製油所に勤めていたカミーリョは,良いたよりの熱心な宣明者ヘンリクス・ハッセルをはじめ,さまざまな兄弟たちとの会話を通して真理に接しました。現在,78歳のカミーリョは長老として仕えており,これまでに24人の人々を献身の段階まで援助しました。1946年に宣教者たちはクラサオ島で最初の英語会衆を組織しましたが,最初のパピアメント語会衆が発足したのは1954年のことでした。

アルバ島で引き続き真理の光が輝く

1949年7月にアルバ島に来たギレアデ第12期生のカナダ人,ヘンリー・トゥイードとアリス・トゥイードは,清い言語を教える業において重要な役割を果たすことになりました。背が高く細身のヘンリーは親切な優しい人柄で知られ,アリスのほうは機知に富んだ話し方や,衰えることのない精力的な奉仕で知られていました。三つの島すべてで生活して奉仕した宣教者はこの二人だけで,何十年もたった今でも,人々は二人の自己犠牲の精神と熱意を懐かしく思い起こします。

1950年には,ウィリアム・イエーツ(ラッセルのいとこ)と妻メアリーがギレアデの第14期のクラスを卒業し,クラサオ島で奉仕するよう割り当てられました。1953年に二人はアルバ島に移りました。それから50年近くたった今でも,二人は任地にとどまっており,信仰と忍耐の優れた模範となっています。時たつうちにメアリーは,宣教における並外れた熱意でよく知られるようになりました。彼女が常に証しの業の先頭に立つ一方,ビル(ウィリアム)は聖書関係の出版物の翻訳に専念しました。ビルとメアリーがやって来るまで,二つの英語会衆の業は土地の人々の間ではほとんどはかどっていませんでした。ビルとメアリーは,パピアメント語を話すアルバ島民の間で辛抱強く,かつ入念に真理の種をまき始めました。二人の努力は徐々に報われるようになりました。ビルはそのころのことを思い返して,こう語ります。「私たちは,宣教者ホームの庭にあった大きなクィヒの木の下で『ものみの塔』研究を行なうようになりました。100人もの人々が出席したこともあります。私たちはカトリック教会の捨てたベンチに腰掛けました」。1954年にキリストの死の記念式が執り行なわれ,その後,パピアメント語での会衆の書籍研究が組織されました。

アルバ島の地元の住民が初めて聖書の真理を学ぶ

ガブリエル・ヘンリカスという青年は,週末に飲みすぎて,月曜日の朝,出勤できないこともありました。上司は生き方を改めさせたいと思い,自分は無神論者でしたが,ガブリエルに「目ざめよ!」誌の予約をプレゼントしました。きっと助けになると確信していたからです。その後,ガブリエルはトゥイード夫妻と出会いました。夫妻はガブリエルの義父と聖書研究をしていたのです。研究用の書籍はスペイン語だったので,ガブリエルは義父のために翻訳してあげました。やがて,ガブリエルも関心を抱くようになりました。そして,1953年にビル・イエーツとメアリー・イエーツがガブリエルと研究を始めました。「ついに,すべての疑問に対する答えを得ることができました」と,ガブリエルは述べています。ガブリエルは1954年にエホバに献身し,アルバ島の地元の住民で,最初にバプテスマを受けた人となりました。

最初のパピアメント語会衆は1956年に組織されました。当時,伝道者は16人でしたが,1957奉仕年度の終わりには26人の伝道者が報告していました。アルバ島の地元の人々は,ひとたび「大いなるバビロン」の偽りの教えに対して目を開かれ,人を恐れなくなると,真理を愛する,良いたよりの熱心な宣明者になります。(啓 17:5)ダニエル・ウェッブがそうでした。ダニエルと,初めのうち反対していた妻のニニータは,真理を受け入れて,二人とも熱心な王国伝道者になりました。他の人々はこの模範に見倣ったでしょうか。

ダニエルのように真理を学び,自分自身と家族の生活を真理にかなったものにした人は少なくありません。その一人,ペドロ・ラメインも,研究をするようになりました。ある日,ペドロが帰宅すると,敬虔なカトリック教徒である母親のマリアがペドロの研究用の書籍を破り捨ててしまっていました。新しい人格をまだ身に着けていなかったペドロは,仕返しに母親の聖像を壊しました。ペドロのしたことに腹を立てたマリアが司祭に苦情を言ったところ,何と司祭は,聖像を無価値なものとみなしたペドロは正しいと言いました。マリアは憤然としてその司祭を追い返し,聖書を調べてみることにしました。その結果,マリアと夫のヘイナロもエホバに献身しました。今では,この夫婦とその子ども11人,孫26人,それにひ孫一人,何と40人全員がエホバに仕えています。

マリアの娘婿,ダニエル・ファン・デル・リンデは,両親から勘当されたにもかかわらず,バプテスマを受けました。ダニエルは家から追い出され,カトリックの司祭に打ちたたかれましたが,真理を見いだしたことを確信し,頑張り通しました。そうした反対に遭ったにもかかわらず,ダニエルは,自分は祝福されていると考えています。というのは,聖書の真理を学ぶよう多くの人を助けるためにエホバに用いられてきたからです。娘のプリスケイラとその夫マヌエルは通いのベテル奉仕者で,クラサオの支部事務所の翻訳部門で奉仕しています。もう一人の娘婿のトニーも,エホバと,わたしたちを支えてくださるという神の約束とに対する大きな信仰を示さなければなりませんでした。病気になり,5回も手術を受けなければならなかったからです。トニーはこう語っています。「医師たちはさじを投げていますが,私は絶えずエホバに祈り,力を求めています。私と縁を切ったも同然の実の兄弟たちも,私には世界中に何千人もの霊的な兄弟たちがいることが分かるはずです」。―マル 10:29,30

これらの島における業の進展

1965年,ギレアデ第20期生のアルバート・スールは健康を損なったため,クラサオ島を去らねばなりませんでしたが,優れた「推薦の手紙」を残して行きました。(コリ二 3:1,2)その1通であるオリーブ・ロジャーズは,1951年9月に正規開拓者になりました。オリーブはある男性と17年間同棲していました。しかし,エホバの高い規準について学んだオリーブは,その男性と別れました。男性は遅まきながら,結婚したいと言いましたが,オリーブは断わり,バプテスマを受けて開拓者の隊伍に加わって,病気になるまで,ほぼ40年間,開拓奉仕を続けました。楽しそうに,くまなく区域を回るロジャーズ姉妹の姿は,至る所で人々の目に留まりました。今でも,この姉妹に関する感動的な思い出が話題に上ります。姉妹は不屈の精神と粘り強さを発揮して,幾つもの大家族を含め,大勢の人々を援助し,エホバに献身するよう導くことができました。

今日,アンティル諸島とアルバ島では,非常に多くの家族がエホバに勤勉に仕えています。マルタ家,クルース家,デイコフ家,ラメイン家,リーケト家,フォスティン家,オスティアーナ家,ルーマー家などの大家族は,会衆の土台となり,会衆を安定させる点で大いに貢献しています。

人懐っこいユージン・リチャードソンは,15歳の時にエホバの教えを受けるようになりました。正式な聖書研究はしませんでしたが,すべての集会に出席して着実に進歩し,17歳でバプテスマを受けました。1956年に正規開拓者に任命されましたが,大問題と思える状況に直面しました。交通手段がなかったのです。ユージンはこう述べています。「割り当てられた区域は家から20㌔ほど離れていました。それで,交通手段の問題を解決するため,自分のピアノと交換に自転車を手に入れました。家族はそれを聞いてショックを受け,40年たった今でもそのことを語りぐさにしていますが,私にとっては,それはたいへん現実的な取り引きでした。なにしろ,それから4か月後には,バンダ・アバウという未割り当て区域で特別開拓者として奉仕するよう任命されたからです」。

新たな区域を切り開く

現地ではクヌクと呼ばれるバンダ・アバウ地方は,クラサオ島の西側に位置し,島の面積のほぼ半分を占めています。緩やかな起伏があり,島のほかの場所よりも幾分緑の多い地域です。見渡すと,家々が点在しており,この区域を回るには相当の時間がかかります。もう一人の若い熱心な開拓者,クリントン・ウィリアムズがユージンに加わり,二人はこの新たな未開拓の区域を切り開く仕事に取りかかりました。ユージンは当時を振り返り,こう述べています。「島のほかの場所と比べると,楽な区域ではありませんでした。人々はたいへん友好的で,話していて実に感じの良い人たちでしたが,大抵,それ以上先には進めませんでした。しかし,その土地で2年間奉仕して,数々のすばらしい経験をしました。最初の月に,私はある男性に会いました。その人は,神の王国が1914年に樹立されたことを証明してもらえるなら,自分もエホバの証人になる,と言いました。そして,実際,妻子ともどもエホバの証人になりました。その後,ある女性と話をしたところ,彼女は,甥が聖書に強い関心を持っている,と言いました。その晩,私はもう一度訪問して,その甥に証言しました。シーロ・ハイデという名の人でした」。

シーロは外向的な人です。自分の側から見たその時のいきさつをこう語っています。「私はたいへん熱心なカトリック教徒で,公教要理に精通していたので,学校でそれを教えることができるほどでしたが,ある事柄にいつも悩まされていました。礼拝に行かないと大罪を犯したことになるのはなぜか,また直ちにその罪を告白しなければ地獄に落ちるのはなぜか,ということが理解できなかったのです。ある日,自転車に乗った青年が玄関先にやって来て,聖書について私のおばに話しました。おばは私が宗教に関心を持っていることを知っていたので,私のいる時にもう一度来るよう頼みました。私もその人にぜひ会いたいと思いました。宗教のことは,その人より自分のほうがよく知っている,と思っていたからです。その晩,ユージンが玄関にやって来ました。私は,自分が毎日唱えていた使徒信経にイエスは地獄[陰府]に行ったと書かれていることを指摘され,あぜんとしました。内容を考えずに早口に唱えるだけだったので,意味をつかみ損なっていたのです。一番驚いたのは,私は聖句を一つも見つけられないのに,ユージンは何を説明するにも聖書を用いたことです。その時から,私の生活は一変しました。直ちに研究を始めたからです」。その後,シーロは妻から反対されたにもかかわらず,バプテスマを受けました。シーロが立派な模範を示したので,やがて妻もエホバに身をささげました。二人はこれまで30年間エホバに忠節に仕えており,シーロは長老として25年間奉仕しています。

ユージンは1958年にギレアデ学校に入り,再びバンダ・アバウに割り当てられましたが,相変わらず交通手段が問題でした。ユージンはこう述べています。「野外奉仕のとき,兄弟たち13人に対して車が1台だけ,つまり私の車しかないということがありました。そのため,片道30㌔の道のりを2往復しなければならず,最初のグループを区域に下ろしたら,次のグループのために急いで引き返しました。そして,午後遅くには,朝と同じようにして兄弟たちを家に送り届けました。それでも,私たちは奉仕に丸一日を費やしました。疲れはしましたが,とても大きな喜びを味わいました」。ユージンはしばらくの間,旅行する奉仕の特権にもあずかりました。

クヌクにおける変化

1959年には,やはりギレアデ学校を卒業していたクリントン・ウィリアムズが,クヌクで伝道を続けていました。後に,クリントンはユージェニーと結婚しました。彼女は熱心な開拓者で,優しい人となりゆえに多くの人から愛されました。1970年には,ゾルクフリート・ベイ・ヤン・コク村に17人の伝道者から成る会衆が組織され,ピーテルス-クゥイールス家で集会が開かれました。特別開拓者である,フアナ・ピーテルス-クゥイールスと娘のエスターは,ミンゲル家やクウィーマン家と共に一生懸命働いて会衆を築き上げました。1985年までに会衆は,伝道者76人,集会の出席者125人を数えるほど大きくなりました。同年,米国の兄弟たちは愛に促されて,パナクークの王国会館の建設に進んで参加し,古い王国会館は改装されて宣教者ホームになりました。それから2年で伝道者の数が142人に増えたので,1987年にテラ・コラ会衆が組織されました。

開拓者の宿舎を見つけるのはいつも悩みの種でした。ユージンは,ヤギのすみ着いていた廃屋を改装しなければならなかった時のことを覚えています。ヤギの“香り”を消そうとして何週間も費やしたのです。ヤギの肉は地元ではごちそうとされています。長年にわたって大会で食事が提供されていたころ,ヤギは普通の食べ物で,兄弟たちは昼食にスパイスのよく効いたヤギ料理を楽しみました。もっとも,肉が傷んでいて,多くの人がトイレに駆け込むこともありました。

ラッセル・イエーツのお気に入りは,ミミという名前のヤギの話でした。その雌ヤギは,聖書を3冊,歌の本を数冊,それにほかの書籍やたくさんの雑誌も食べてしまったことがあります。飼い主のリタ・マシューズはこう言います。「そのヤギは文書類をたくさん食べたので,わたしたちは“聖なるヤギ(the holy goat)”と呼びました」。その後,ミミは売り払われました。

大会は愛と一致の精神をはぐくむ

長年にわたって,適当な集会場,とりわけ大会用の会場を見つけるのも悩みの種でした。ギレアデ第5期生のマックス・ゲアリーは,兄弟たちの所有する最初の王国会館をクラサオ島のブエナ・ビスタに建設する作業を組織しました。兄弟たちは心をこめてその会館の建設作業に打ち込み,完成した時にはたいへん喜びました。1961年,クラサオ島で2番目のパピアメント語会衆が組織されて,その美しい新築の会館で集会を開き,ビクトール・マヌエルが会衆の僕として奉仕しました。ビクトールはこれまで50年近く,良いたよりの伝道を行なっています。ブルックリン・ベテルのネイサン・H・ノアが,1962年3月28日にその王国会館を献堂しました。

1970年代には,ブエナ・ビスタの王国会館に隣接した土地を平らにし,コンクリートで床を作り,演壇も設置しました。その場所は長年,大会の会場として使われました。クラサオ島ではほとんど雨が降らないので,星空のもとで集まりを開いても大した問題はなかったのです。とはいえ,兄弟たちは突然の豪雨に見舞われて驚いたこともあります。しかし,衣服や書籍はぬれても,意気をくじかれることは決してありませんでした。慌てずに傘を開いて,引き続き一心にプログラムに耳を傾けたものです。以前,そうした集まりは二つの言語で行なわれ,英語から通訳される話もあれば,パピアメント語で要約される話もありました。地域大会はアルバ島とクラサオ島で交互に開催され,開催地の島にチャーター機で行く人もいれば,船で行く人もいました。ナイアガラ号という船に乗った大勢の大会出席者が船酔いを起こしたこともありますが,そういう不快な経験をしても,近づく霊的な宴に対する熱意は薄れませんでした。

当時,16歳だったイングリッド・セラサは,祖母が旅費を工面するために豚を1頭売ったのを覚えています。大会出席者は兄弟たちの家に泊まり,床の上で寝ることもありました。永続する友情が築かれ,喜びに満ちた,愛と一致の精神が行き渡りました。1959年には,パピアメント語の最初の大会がバンダ・アバウのサンタ・クルス・プランテーションの家屋で開かれました。イングリッドはこう回想しています。「私たちは食料や簡易ベッドなどの道具をバスに積み込み,会場に向けて出発しました。大会のプログラムは霊的な宴でした。晩には,屋外で聖書ゲームをしたり,王国の歌を歌ったりしました。そこで過ごした3日間のことは決して忘れないでしょう。私たちはまさしく兄弟どうしであることを実感したのです」。1969年の「地に平和」国際大会のような信仰を強める国際的な集まりも,兄弟たちの間の愛と一致の精神を促進するのに役立ちました。

新しい大会ホール

時たつうちに,ブエナ・ビスタの会場は手狭になりましたが,諸会衆の惜しみない寄付により,兄弟たちは製油所から一つの建物を購入できました。スヘルプウェイク地区にあったその建物は化粧直しを施され,何年にもわたって巡回大会や地域大会の会場となりました。最近,支部事務所は,その建物を取り壊して,二つの王国会館が一体となった建物を建設する計画の承認を得ました。その建物は,720人分の座席のある大会ホールとしても使え,兄弟たちはたいへん喜んでいます。

1968年以前,アルバ島では様々な会館を借りて大会を開いていましたが,拡大に伴い,恒久的な大会ホールの必要が生じました。そこで,大会にも使えるほど大きな王国会館を建設することになりました。1968年,地元の兄弟たちの勤勉な働きと自己犠牲の精神によって,エホバを賛美するための美しい会館が建設されました。建設中,現場は,林立する丈の高いサボテンで通行人の目から隠されていました。最初の大会が開かれる前の週に,政府から,そのサボテンを切り倒すようにと指示されました。何と一夜にして会館が姿を現わしました。少なくともそう見えたのです。地元の人々の目には,奇跡と映りました。会館が本当に一晩で建ったと思った人も少なくありませんでした。しかし,そのような驚異的な事柄は,後日,速成建設の王国会館という形で現実となりました。

ボネール島での活動が進展する

1949年,ブルックリン本部の特別な代表者ジョシュア・スティールマンがボネール島を訪れました。そのころ,ボネール島ではヤコボ・レイナ,および農業を営むマタイス・ベルナベラが活発に伝道していましたが,二人ともバプテスマを受けていませんでした。ボネール島で最初の公開講演を行なう手はずが整えられ,100人ほどの人々がやって来ましたが,会場に入ったのは30人だけでした。残りの70人は,集まりを中止させようと地元のカトリックの司祭が差し向けた人々でした。ラッセル・イエーツは,当時を振り返ってこう語りました。「エジプトの雹のように,石がブリキ屋根に降り注ぎ始め,爆竹がさく裂し,人々はバケツを打ち鳴らしました」。この企ては失敗しました。真理の種は広くまかれ,根を下ろしたからです。翌年,ボネール初のエホバの証人であるヤコボとマタイスは,クラサオ島でバプテスマを受けました。

1951年にラッセル・イエーツとビル・イエーツはベルナベラ兄弟の家での集会を組織し,1952年にはクリントン・ウィリアムズがボネール島に割り当てられました。クラレンディークで会館を借りて,新しい会衆を設立するためです。そのように物事を進めたところ,カトリックの司祭が憤り,クリントンを国外に退去させようとしました。司祭は,ウィリアムズ兄弟の聖書研究生である女性を説得して,兄弟からいかがわしい誘いをかけられたと言わせようとしましたが,女性はそれを拒みました。思いどおりにいかなかった司祭は,ウィリアムズ兄弟をワラワラ呼ばわりし,わたしの羊を強奪していると非難しました。ワラワラとは,これらの島々にいる肉食の鳥のことです。しかし,ウィリアムズ兄弟はエホバの霊の助けを得て,発足したばかりの会衆を強め続け,後に再びクラサオ島に割り当てられました。1954年には最初の巡回大会が開かれ,それ以来,大会はボネール島の兄弟たちの霊的な生活の面でたいへん重要な役割を果たしてきました。エホバの証人の制作した映画が上映された時にも大勢の人々が集まり,関心が高まりましたが,1969年に二人の特別開拓者,ペトラ・セラサと娘のイングリッドが派遣されるまで,ほとんど進歩は見られませんでした。

ペトラとイングリッドは到着したとき,車を持っていませんでした。それでも,島のほぼ全体を徒歩で回りました。姉妹たちの研究生の多くは後にバプテスマを受けました。この二人の姉妹は,席に座ったまま,頭にかぶり物を着けて,すべての集会を司会しました。月に一度,一人の兄弟がクラサオ島から飛行機でやって来て,姉妹たちと一緒に働き,公開講演を行ないました。後に,ペトラが島を去らねばならなくなった時,別の特別開拓者クローデット・テソイダがイングリッドに加わり,二人は,聖書の真理を学ぶよう引き続き人々を助けてゆきました。

政治家の妻が完ぺきな政府を見いだす

清い言語を学んだ人々の中に,ある著名な政治家の妻がいます。みんなから親しみを込めて「ダ」と呼ばれたカリーダド・アブラハムは,ボネール島の行政府の大臣の妻でした。二人の息子と娘婿も活発に政治にかかわっていました。ダ自身も,夫のために選挙運動を精力的に行ない,広く知られ,尊敬されていました。ダは,自分の子どもの名付け親であるプロテスタントの牧師から,エホバの証人はイエス・キリストを信じていない,と聞かされました。この牧師は友人でもあったので,ダはそのうそを信じていました。

夫が亡くなった後,オランダに引っ越したダは,プロテスタントの二人の牧師が同性愛者であることを大っぴらに告白するのをテレビで見て,ショックを受けました。宗教に幻滅したダは,教会に通うのをやめ,後に聖書研究の勧めに応じてエホバの証人になり,ボネール島に戻りました。ダはこう語っています。「真理があまりにもすばらしいので,島に帰って,身内の者に伝えないわけにはゆきませんでした」。そこで,ダは,ボネール島の抱える問題の解決策として人間の政府を推奨する代わりに,恒久的な真の解決策,つまりイエス・キリストの治める神の王国について伝道するようになりました。息子の選挙運動をしに来たのだろうと思った人々は,ドアを開けて,彼女の語ることを聞き,びっくり仰天しました。とはいえ,ダは大変よく知られていたので,ほかのエホバの証人の話を聞こうとしなかった人々も,王国の音信に注意を払うようになりました。

文書が土地の言語でも入手できるようになる

聖書関係の出版物を母語で読めるなら,真理は読者の心をもっと早く動かすものです。しかし,最初の宣教者たちが到着した当時,パピアメント語の聖書文書は1冊もありませんでした。集会は英語とパピアメント語をちゃんぽんに使って司会され,英語やスペイン語やオランダ語の出版物が用いられていたため,兄弟たちは真理を理解するのに苦労しました。ですから,翻訳された出版物を本当に必要としていました。しかし,パピアメント語の語彙は少なく,辞書もなく,パピアメント語の表記法も人によってまちまちでした。何年も後に,経験の豊富な翻訳者ビル・イエーツはこう書いています。「私たちは王国の音信を広めるため,それまでにパピアメント語で話されたことも書かれたこともない事柄を話したり,書いたりしなければなりませんでした。基準となるものを確立するのは大変でした」。確かに,容易な仕事ではありませんでした。1948年に,兄弟たちは最初の小冊子,「すべての人の歓び」を翻訳しました。1959年には,『神を真とすべし』の翻訳が完了しました。その後,ほかの書籍も翻訳され,さらにパピアメント語でトレン・ディ・ビヒランシャと呼ばれる「ものみの塔」誌や,スピェルタつまり「目ざめよ!」誌も継続的に翻訳されるようになりました。土地の人々が自分の言語で神の言葉を読み,真理を理解するようになると,人々に対する教会の冷酷な支配は徐々に弱まってゆきました。

翻訳の効果は,集会での歌にも表われました。アンティル諸島の人々は,元気いっぱいに大きな声で歌います。ところが,初期のころ,そうした熱意は多少そがれていました。歌の本がスペイン語だったからです。しかし1986年に,兄弟たちがパピアメント語の歌の本を受け取ると,澄んだ大きな歌声が王国会館に響き渡るようになりました。ついに,偉大な神エホバに対する気持ちを思う存分歌で表わすことができるようになったのです。マリア・ブリテンはこう語っています。「初めて王国会館を訪れた時,一番感動したのは歌声でした。あまりの美しさに涙が出たほどです」。―イザ 42:10

仕事が増えるにつれて,もっと多くの翻訳者が必要になり,二人の若い熱心な開拓者,レイモンド・ピーテルスとジャニン・コンセプションが翻訳の仕事を始めました。今では,翻訳部門には9人の奉仕者がいます。1989年には,翻訳者の助けになる,コンピューターとMEPS<メップス>ソフトウェアという貴重な道具が届き,やがてパピアメント語の「ものみの塔」誌も他の言語と同時に発行できるようになりました。これは伝道活動にすばらしい益をもたらしました。

宣教者がいっそうの援助を与える

1962年,ギレアデ学校の再教育課程に出席するラッセル・イエーツに代わって,ギレアデ第37期生のジョン・フライが支部の監督に任命されました。それから1年半後,フライ姉妹が妊娠したので,フライ夫妻は英国に戻り,イエーツ兄弟が支部の仕事を再開しました。1964年12月31日,ギレアデ第39期のクラスを卒業したオランダ出身のアカ・ファン・ダルフセンが到着しました。クラサオ島の土を踏んだアカを迎えたのは,打ち上げ花火の華麗な光景と,闇夜に鳴り響く,耳をつんざくような爆竹の音でした。とはいえ,島民の歓迎を受けていたわけではありません。それは,土地の人々が悪霊を追い払い,旧年の悪運を払いのけ,新年の到来を告げる年中行事だったのです。若くて精力的なファン・ダルフセン兄弟は巡回奉仕を開始し,後には地域の奉仕も行ないました。そして,ほとんどの宣教者と同様,新たな住みかを愛するようになりました。こう語っています。「人々は温かく,友好的で,正直です。ここに割り当てられたことは喜びであり,特権です」。

1974年にアカは,トリニダード出身のジュリーという姉妹と結婚し,ジュリーは夫と共に旅行する奉仕を行ないました。ジュリーは思い出をこう語っています。「人々の愛想のよい寛容な態度には感心しました。私はパピアメント語が全く話せませんでしたが,色々助けていただいたので,楽しく伝道できました。『コン タ バイ』(お元気ですか)と声をかけて,家族全員がどうしているかを尋ねるのは難しくありませんでした。ここでは,そのように尋ねる習慣があります。文書の配布も容易でした。大変だったのは,四つの言語の文書を入れた重いかばんを持ち歩くことや,ほこりや風との闘いでした。でも,私にとっては,それも本当に喜びでした」。アカとジュリーは,アルツハイマー病を患っていた,アカの父親を世話するため1980年にオランダに行きましたが,1992年にクラサオに戻りました。

ギレアデ第67期生のロバータス・バーカースと妻ゲイルは,ファン・ダルフセン夫妻の留守中,巡回奉仕を続け,全時間宣教に対する熱意を大いに高めました。1986年,オットー・クロースターマンと妻イボンヌが,ギレアデを卒業してクラサオにやって来て,クロースターマン兄弟は1994年に支部の調整者に任命されました。2000年,二人はオランダに戻りました。2000年3月にはファン・ダルフセン兄弟が支部委員に任命されて夫婦でベテルに招かれ,現在もベテルで奉仕しています。1997年,ブルックリンのグラフィックス部門のグレゴリー・ドゥホンと妻シャロンが,在外ベテル奉仕者としてクラサオに派遣されました。正看護婦のシャロンは,末期がんを患っていたラッセル・イエーツ兄弟の介護の点で,ほかの人たちと共に非常に大きな助けになりました。2000年3月,ドゥホン兄弟が支部の調整者に任命されました。兄弟は,親切な近づきやすい人柄で,みんなから深く感謝されています。現在,グレゴリー・ドゥホン,クリントン・ウィリアムズ,およびアカ・ファン・ダルフセンが支部委員会で奉仕しています。

開拓奉仕は豊かな報いをもたらす

マーガレット・ピータースは,聖書を研究し始めたころ,自分の宗教で満足していました。当時を振り返り,こう語っています。「最初は,宗旨を変えるつもりなどありませんでした。私はカトリック教徒として,また『マリアの軍団』や聖歌隊のメンバーとして積極的に活動していました。しかし,聖書を研究して,それまで教えられてきた事柄が間違っていることに気づきました。それで,野外宣教に招かれるまで待つことなく,参加させてほしいと自分から頼みました。ほかの人々にも,偽りの宗教から出て真理の側に立ってもらいたい,と思ったのです」。1974年にバプテスマを受けたマーガレットは,これまで25年間,正規開拓者として奉仕しています。

エホバはマーガレットを祝福されました。それは,彼女の多くの経験のうちの一つからもよく分かります。メルバ・クームスという名の女の子を紹介されたマーガレットは,研究することをお父さんに許可してもらうようにとその子に勧めました。クームス氏は,自分に敬意を払ってくれたマーガレットの態度に感銘を受け,娘だけでなく家族全員で研究をしたい,と言いました。7人全員で研究するというわけです。マーガレットは,その家族全員がバプテスマを受けるのを見るという喜びを味わい,後に息子たちの一人は長老になりました。

エホバの善良さを味わい知った,もう一人の開拓者は,ブランチ・ファン・ハイドーンです。彼女は1961年に,夫のハンスは1965年に,それぞれバプテスマを受けました。ブランチはこれまで35年間,開拓奉仕を行なってきました。その間に6人の子どもを育て上げ,そのうちの二人も今では正規開拓者です。身体的にも感情的にもハンスの支えがあったからこそ,そうすることができたのです。この家族は,合計65人の人々をエホバへの献身の段階まで援助しました。

ブランチの数多くの経験のうちの一つは,近所に住むセラフィーナという人に関するものです。ブランチがセラフィーナと研究し始めると,セラフィーナの夫テイオが激しく反対しました。テイオはセラフィーナの本を焼き捨て,ブランチが家に入ることを禁じた上,ブランチのためにマチェーテ(なた)を研いでいると言い触らしました。ハンスは,テイオがそこまでして反対する理由を探り出しました。どうやら,テイオの友人の妻が地元の宗教団体の僧職者と研究を始め,後にその牧師と駆け落ちしたらしく,そのためテイオは妻もそうなりはしまいかと恐れていたのです。ハンスはヘブライ 13章4節を用いて,結婚に関するエホバの証人の見方を説明しました。すっかり安心したテイオは,妻が研究を続けるのを許しました。セラフィーナはバプテスマを受け,しばらく後にはテイオもバプテスマを受けました。二人は今でもエホバに忠実に仕えています。

ブランチの話によると,午前11時に聖書研究を司会してから昼食のために帰宅し,わずか2時間後に息子のルーシャンを出産した,ということもあったそうです。ブランチは開拓奉仕の特権を今でも大切にしており,こう語っています。「開拓奉仕をしていると,絶えず準備や研究をするので,ほかでは得られない満足感を味わえます」。

普通を超えた力

マリオン・クレイフストラも,エホバに全時間仕えることに,深い満足を見いだしてきました。マリオンは十代のころ,目の見えない祖母に雑誌を読んであげているうちに真理に関心を抱くようになりました。そして1955年にエホバに献身し,1970年には正規開拓者になりました。息子のアルバートも母親の足跡に従い,これまで18年間,開拓奉仕をしています。

マリオンは,9人の子どもの母であるヨハンナ・マルティナと聖書研究を行ないました。ヨハンナの夫アントニオがひどく反対したため,夫がいるときは研究を行なえませんでした。夫が家にいると,ヨハンナは門に布切れを結び付けておき,それを見たマリオンが出直せるようにしました。マリオンの辛抱強さとヨハンナの根気強さが功を奏して,アントニオもヨハンナと共に真理を受け入れ,同じ時にバプテスマを受けました。そして,9人の子どものうちの8人をエホバに献身するよう助けました。

不幸にも,アントニオは後に交通事故で亡くなりました。それから何年か後,ヨハンナの子ども二人も交通事故で亡くなり,もう一人の子どもも痛ましい死を遂げました。しかし,そういう状況の中でもずっとヨハンナは堅く立ち,『普通を超えた力』を求めてエホバに依り頼みました。(コリ二 4:7)ヨハンナは強い信仰に支えられて,耐え難いほどの悲しみに襲われた時期を耐え忍んだだけでなく,これまで25年間,開拓奉仕を続けています。現在81歳になるヨハンナは,こう語っています。「エホバは偉大で,私を支えてくださいます。私は事あるごとにエホバに懇願しますが,エホバは決して期待を裏切ることがありません」。

これらは,一生懸命働く忠節な開拓者のほんの数例にすぎません。そのような開拓者たちは,ほとんどの会衆の主力ともいうべき存在となり,会衆を富ませています。1998年に開拓者の要求時間が調整された時,この奉仕に加わる道が他の多くの人にも開かれました。開拓者たちは,開拓奉仕学校に対する深い感謝の気持ちを言い表わしています。その学校は,より良い奉仕者になるよう開拓者を訓練する面で,すばらしい助けになってきました。また,熱心な伝道者たちもエホバに対する賛美の叫びに加わっており,次の経験からも分かるように,非公式の証言で大きな成果を収めている伝道者もいます。

1950年代の初めごろ,ガイアナ出身のアルバート・ヒースという若い医師は,インドネシアのジャカルタの大学で講師をしていましたが,そこで別の種類の治療について学ぶようになりました。眼科医だったアルバートは,イエスがラオデキアの人々に対して語られた,啓示 3章18節に出てくる「目薬」の価値を理解できました。アルバートは,これこそ自分が処方したい「目薬」だと思いました。アルバートは1964年に家族と共にクラサオ島に引っ越し,地上にいる奴隷級にイエスが託された霊的な治療計画について学びつづけました。(マタ 24:45)1969年に,アルバートは息子と一緒に大会でバプテスマを受けました。アルバートは自分の診療所で患者にも職員にもよく証言し,多くの人を真理の水に導くことができました。そのうちの幾人かは,現在,長老として仕えています。

予期せぬ混乱

かつて,クラサオ島の人々はいつものんびりとした生活を送っていました。長年にわたって,牧歌的とも言える静けさを破るような事件は起きたことがありませんでした。しかし,そうした状況を一変させるような事態が進展していました。1969年5月初め,地帯監督ロバート・トレーシーは,自己満足に陥ってはならない,島が一見平穏だからといって何の根拠もない安心感を持つのは危険である,と警告しました。その平穏さはまさに吹き飛ばされようとしていたのです。それから何週間もたたない5月30日のこと,労働争議が暴力的な様相を呈するようになり,略奪や放火が起きて,それまで穏やかだった地域社会が,大変な政情不安に巻き込まれてしまいました。クリントン・ウィリアムズは当時を振り返り,こう語っています。「上半身は裸で,目に憤りを宿した男が,私の車に向かって来ました。すると突然,かつて私と聖書を研究していた人が助けに来てくれて,『その人は違う! その人はいい人だ』と大声で叫びました。男は近寄って来て,スーパーマーケットで略奪したばかりの缶詰を私の車の座席に投げ込み,立ち去りました。私は安堵の胸をなでおろし,保護してくださったエホバに感謝しました」。

その騒然とした時期の混乱した不安な状況の中で,エホバの民は冷静さを保ち,近い将来,神の王国のもとで,すべての人に対して完全な統治が行なわれることを知っているゆえに確固としていました。その時には,エホバが「すべての生きているもの」の願いを満たしてくださいます。(詩 145:16)今では,1969年5月30日はクラサオ島の歴史における転換点とみなされています。

新しい支部事務所

1977年に亡くなるまでエホバの証人の統治体の成員として奉仕したネイサン・H・ノアは,いつも宣教者に鋭い関心を示し,しばしば外国へ旅行して兄弟たちを強めました。1956年には地帯監督も世界中の兄弟たちを訪問するようになり,それら「人々の賜物」は「強める助け」となり,ABC3島での業も促進してきました。(エフェ 4:8。コロ 4:11)1950年,ノア兄弟はABC3島を初めて訪問し,クラサオ滞在中に新しい支部事務所の取り決めを設け,ラッセル・イエーツが支部の僕を務めることになりました。ノア兄弟の行なった「捕らわれ人に自由を」という話に関して,イエーツ兄弟はこう書いています。「ノア兄弟はまるで,一人ずつステージ上に招いて,個人的にアドバイスを与えているかのようでした」。1955年に再び訪問したノア兄弟は,アルバ島のオラニェスタットにある未完成の王国会館で話をし,その後,兄弟たちと共にクラサオ島での大会に向かいました。そして1962年,最後の公式訪問の際に,クラサオ島ブエナ・ビスタの王国会館を献堂し,時宜を得た話をして兄弟たちを大いに励ましました。さらにノア兄弟は,ウィレムスタット郊外のオスターベイクストラトに新しい支部事務所と宣教者ホームと王国会館を建設することを承認しました。

それらの建物を設計するために雇われた建築家の父親はユダヤ人で,ナチスの強制収容所でエホバの証人と一緒だったことがあり,ヘイゼル・イエーツにこう語りました。「真の宗教は一つしかありません。それはエホバの証人の宗教です」。この支部事務所は1964年に献堂され,1978年には地帯監督アルバート・D・シュローダーの推薦に基づいて拡張されました。1990年には,もっと大きな施設の必要性が明らかになり,新たな建設用地を探して様々な努力が払われましたが,いずれも功を奏しませんでした。

1998年11月,既存の建物を購入し,改装して支部施設とすることが決定されました。兄弟たちは,ウィレムスタット郊外のセイル・ロラウェク通りの便利な場所にある共同住宅を取得することに決め,12月4日に購入しました。万事速やかに,かつ円滑に進んだので,兄弟たちは,詩編 127編1節と調和して,自分たちの努力をエホバが祝福してくださっていることを確信しました。改装された魅力的で快適な建物は,エホバのみ名に誉れと栄光をもたらすものとなっています。

1999年11月20日,新しい支部の献堂式が支部の中庭で行なわれ,273人が出席しました。統治体の成員,ゲリト・レッシュは預言者イザヤの言葉を引用し,新しい建物がエホバの壮大な目的にかなうものとしてどのように用いられるかを示しました。翌日,競技場で行なわれた特別なプログラムに2,588人が出席し,この集まりは多くの人にとって2000奉仕年度のハイライトになりました。

血の問題に関するラジオ報道

エホバの証人は,命を神からの贈り物とみなして大切にしており,使徒 15章29節に従って血を避けています。しかし,聖書に基づいて輸血を受け入れない証人たちの態度は,好意的な医師や当局者からも誤解されてきました。1983年,クラサオ島のある判事は,神から与えられたエズモンド・ギブスとビビアン・ギブスの親権を認めようとせず,この夫婦の赤ちゃんに輸血を施すことを命じました。この事件はニュースとして広く取り上げられ,その後も否定的な報道がかなり行なわれました。あるラジオ局は事情を明らかにする番組を放送し,ヒューバート・マルガリータと妻レイナ,および巡回監督ロバータス・バーカースを含め,7人の出演者が3時間にわたって論じ合いました。兄弟たちは血に関する聖書の律法を見事に説明したので,その番組により,それまでの緊迫した状態は和らぎ,エホバのご要求を理解するよう人々を助けることができました。

医師の中にも,輸血を拒む患者の権利を尊重する人がいます。例えば,教師のケルダ・フェルビストは大きな自動車事故に巻き込まれ,すぐ手術を受けなければなりませんでした。出血がひどかったため,ヘモグロビン値は2まで下がりました。ケルダがそれ以上失血しないよう,外科医は手術を2段階に分けて行なうことにし,手術は成功しました。エホバの証人は,そのような熟練した献身的な医師たちに感謝しています。自分自身の良心との葛藤を覚えることがあっても,輸血を拒む患者の権利を尊重する勇気と誠実さを有しているからです。

クラサオ島の医療機関連絡委員会の司会者,ギレルモ・ラマはこう述べています。「私たちはいつも,緊急事態での援助を要請されます。この委員会がなかったなら,問題はもっと多くなることでしょう」。アルバ島の医療機関連絡委員会の司会者アルフレド・マラーも同意見です。アルバ島でも最初は多少の抵抗がありましたが,今では大抵の医師がエホバの証人に協力的であるとのことです。

巡回監督たちの愛ある奉仕

当初,これら三つの島における進展はかなり遅かったものの,いつも着実に増加が見られ,文書の配布も容易でした。1964年に会衆は四つあり,伝道者は379人でしたが,1980年には会衆が16に,伝道者は1,077人に増えました。1981年から2000年までの間に,伝道者は2,154人に増え,新たな二つのオランダ語会衆と二つのスペイン語会衆を含めて会衆の数は29に増加し,記念式には6,176人が出席しました。

さまざまな言語グループに仕えるため,少なくとも三つの言語を話せる巡回監督が必要でしたが,そのような兄弟たちを見いだすのはなかなか大変でした。しかし,ABC3島は,パウロのように自分の魂を分け与えることを大いに喜びとする,旅行する監督たちに恵まれてきました。(テサ一 2:8)その業に携わった人たちの中には,現在スリナムで宣教者として奉仕しているハンフリー・ヘルマナスとラドミラ・ヘルマナス,および地元の開拓者エドセル・マルガリータとクローデット・マルガリータがいます。アルバ島の開拓者,フランキー・ハームスとマリア・ハームスも巡回奉仕を行ない,その後ベテルに招かれて,現在ではベテルの翻訳チームで奉仕しています。

1997年には,ベルギーで巡回奉仕をしていたマルク・ミレンとエイディト・ミレンが,兄弟たちを強めるために,故郷から遠く離れたこの地にやって来ました。新しい宣教者はだれでもそうであるように,ミレン夫妻も言語を学ばねばなりませんでした。言語を学ぶのは大変ですが,とても面白いことも起こります。ミレン兄弟は,クリスチャンはざんごう(ブラク)に隠れる兵士のようであってはならないと言うつもりで,何と,ロバ(ブリコ)の中に隠れる兵士のようであってはならない,と言ってしまったことを覚えています。いろいろな難しい問題があったにもかかわらず,マルクとエイディトは頑張り通しました。二人は上手に話せるようになり,今ではオランダ語とパピアメント語の会衆に仕える喜びを味わっています。2000年には,プエルトリコの巡回監督がこの島々の英語会衆とスペイン語会衆で奉仕するという新しい取り決めに基づき,最初の夫婦,ポール・ジョンソンとマーシャ・ジョンソンがやって来ました。

速成の王国会館

1985年,遠くはアラスカをはじめ,米国各地から294人の兄弟たちが,クラサオ島のパナクークに王国会館を建設するためにやって来ました。9日間で完成したその新しい会館は,たいへんな評判を得,すばらしい証しとなり,また愛が実践され,一致が実現していることを示す証拠となりました。人々は,男女子どもが米国からの自発奉仕者を手伝い,一生懸命働いている様子を見て,驚嘆していました。ラミロ・マラーはこう語っています。「やはり,技術的な問題はありましたが,乗り越えることができました。王国会館の建設にはエホバの霊が力強く働いていました。日曜日の夜,兄弟たちは真新しい王国会館でエホバを崇拝することができました。そんなことはできるわけがないと言っていた疑い深い人々は,びっくりしていました」。

この速成建設には,地元の僧職者たちも仰天したようです。テレビで放映された後のある朝,王国会館の前に1台の車が止まりました。車から降りたのはだれでしたか。3人の司祭を従えた,ほかならぬクラサオ島の司教その人でした。僧職者たちは驚きを隠せず,信じられないという様子で,白くて長い僧服をそよ風になびかせながら頭を振っていました。

兄弟たちの利他的な働きすべてについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。例えば,ファン・アイク夫妻,ホーンベルト夫妻,フェルプス夫妻,コル・テニサンなどの初期の宣教者は,これらの島の兄弟たちに仕えるため,わが家を後にしました。ペドロ・ギリゴリーは読み書きができませんでしたが,多くの人々を真理に導きました。“のっぽ”のセオドア・リチャードソンは,シェル・アシールかいわいを大またで歩き,数え切れないほど多くの再訪問を行ないました。マリア・セラサ,エドナ・アルバシオ,イセニア・“チェイナ”・マヌエル,ベロニカ・ウォールなどの熱心な開拓者たちもいます。快活なセフェリータ・ドロリータは目が見えず,多発性硬化症も患っているのに,宣べ伝える業を粘り強く行なっており,励ましに訪れてくれた人たちをいつも励ましています。これらの,またほかの忠実な人たちは惜しみなく自らを与えたので,その姿はABC3島の兄弟たちの思いと心に深く刻まれています。

砂漠は花を咲かせる

1980年代に,アルバ島は経済面で急速に繁栄しました。今では,白い浜辺に超現代的なホテルが立ち並び,照明でこうこうと輝くカジノは,ジェット機で世界じゅう飛び回る優雅な人々を引き付けています。こうした状況が人々の物の見方に影響を及ぼすことは必至です。うわべを飾った物質主義が台頭して,多くの人々に,会衆内の一部の人たちにさえ影響を与えています。しかし,特にスペイン語の区域では霊的な面で多くの成果が上がっており,率先して働く,有能な兄弟たちが緊急に必要とされています。

一方,クラサオ島は厳しい不況に見舞われており,オランダに移動する人が少なくありません。兄弟たちも移転してゆくので,諸会衆は影響を受けており,クラサオ島とボネール島では過去数年間ほとんど増加が見られません。

しかし,21世紀の今,前進してゆくわたしたちには,頭を上げて歓喜すべき理由があります。輝かしい神の王国が近づいており,神の民は引き続き,「正しく整えられた」人たちすべてに真理を教えています。(使徒 13:48)これらの島々の,かつては乾ききっていた霊的な砂漠は,真理の水で十分潤されているのです。

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フラミンゴとロバ

昔のままの静かなボネール島では,海水から塩を採る仕事が,島民の収入源となる重要な産業です。フラミンゴは,塩分の多いえさを常食としています。ボネール島の塩田ではそのようなえさが容易に得られるので,この島はその色鮮やかな鳥の世界屈指の理想的な繁殖地となっています。半野生のロバは,元来,塩田で働かせるために輸入されたものですが,機械に取って代わられて捨てられ,自力で生きてゆくにまかされ,今では人里離れた場所を歩き回っています。この動物を保護するため,島では,ロバ保護区が作られ,“ロバの里親”計画が進められています。

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クラサオ島の切り妻屋根と浮橋

クラサオ島の主都ウィレムスタットは,古風な趣のある,絵のように美しい町です。切り妻造りの建物はアムステルダムをしのばせますが,色鮮やかな塗装を施されています。町は中央部でセント・アンナ湾によって二分されており,その二つの地区はクイーン・エマ浮橋で結ばれています。この橋は,大きな船が港の奥に入るときには,ほんの数分で開くことができます。当初,この橋を渡るには,はだしでない限り,通行料を払わねばなりませんでした。はだしで歩くのは貧しさのしるしだったからです。ところが,何と,貧しい人は貧乏人だと思われないように靴を借りて渡り,金持ちは通行料を払わずに済むよう靴を隠して渡りました。

[93ページの囲み記事]

まず司祭に敬礼する?

「司祭の地位は非常に高く,高貴なので,もし道で司祭と天使に出会ったなら,我々はまず司祭に敬礼するだろう」。―クラサオで発行されているカトリック系週刊誌「ラ・ウニオン」,1951年8月10日号より。

[95ページの囲み記事/図版]

良い評判の価値

1986年9月のこと,ラッセル・イエーツは,ジャマイカから送られた,ものみの塔聖書冊子協会あての小包を受け取りました。その小包を郵便検査官の前で開けたイエーツ兄弟は,幾重にも重なった雑誌の下にマリファナ4㌔入りの包みを見つけ,びっくりしました。警察は直ちに兄弟の身柄を拘束しました。しかし,クラサオの郵政長官はイエーツ兄弟の人柄を保証し,兄弟が不法な麻薬に関与することなどあり得ない,と言いました。長官がそれほどはっきりと請け合ってくれなかったら,イエーツ兄弟は投獄されていたところです。とはいえ,兄弟はすぐに釈放されました。この事件は地元の新聞で広く報じられ,ある新聞はイエーツ兄弟について,「非常に上品かつ正直な人物」であり,「良いたよりをすべての人に宣べ伝えることに並々ならぬ関心を抱いている」と書きました。確かに,この経験は良い評判の価値を裏づけています。

[96ページの囲み記事/図版]

王国の業を行なう珍しい方法

「日ごとに聖書を調べる」という小冊子は毎年たくさん配布され,近ごろでは,開拓者たちが何百冊も配布しています。ジセレ・ハイデは入院中に,機会をとらえて他の患者たちに非公式の証言をしました。そのうちの一人のニノスカが好意的な反応を示し,「あの小さな本」を持っていませんか,とジセレに尋ねました。ジセレは最初,どの本のことなのか分かりませんでしたが,やがて,「日ごとに聖書を調べる」のことだと気づきました。それ以後,二人は毎朝,その日の聖句について話し合いました。二人が退院した後も聖書を研究する取り決めが設けられ,1年もたたないうちに,ニノスカはバプテスマを受けました。現在,夫と子どもたちもエホバの証人と聖書を研究しています。

[図版]

オランダ語,英語,パピアメント語の「日ごとに聖書を調べる」

[104ページの囲み記事]

『熱心さを抱いているが,それは正確な知識によるものではない』

ある朝,野外奉仕をしていたヒューバート・マルガリータとモレナ・ファン・ハイドーンは,モレラという女学生に会いました。モレラの様子から,『神に対する熱心さを抱いているが,それは正確な知識によるものではない』ことがはっきり読み取れました。(ロマ 10:2)モレラは,自分は毎日,ローマ・カトリックの教育を受けており,これこそ神を崇拝する道だと確信している,と述べました。ヒューバートとモレナは彼女と聖書を研究することにし,次のように取り決めました。モレラは,学んでいる事柄が正しいかどうかを確認するため,教官である司祭のところに行き,もし司祭がある教えに同意しないなら,聖書的な理由を示してくれるよう頼みます。エホバの証人の教える事柄が聖書に反していると思ったなら,いつでも研究をやめることができます。ほどなくして,モレラはカトリック教会の教えが聖書に基づいていないことを悟りました。そして,司祭が質問に不快感をつのらせていることに気づき,その人の授業に出るのをいっさいやめました。モレラは,真理に関する研究を続けてバプテスマを受け,今もエホバに忠実に仕えています。

[107ページの囲み記事/図版]

アルバ島の砂と岩

カシバリーやアイヨーにある巨大な岩層も,アルバ島の風景の魅力的な特徴の一つです。岩壁に絵が描かれている洞くつも注目に値します。その絵は,ダバジュロー・インディオが描いたものとされています。一年じゅう太陽が輝く気候と,白くて長い砂浜に魅せられて,毎年,多くの観光客がまたこの島にやって来ます。

[110ページの囲み記事]

みどりごの口から

イエスは,「みどりごや乳飲み子の口から,あなたは賛美を備えられた」と言われました。(マタ 21:16)この言葉はABC3島の子どもたちにも当てはまります。15歳のモーリスはアルバ島に住んでいます。モーリスが7歳のころ,母親は地域大会でモーリスを見失ってしまいました。心配して捜した母親は,ベテル希望者のための集まりが開かれている部屋の後ろのほうで,やっと息子を見つけました。モーリスはベテル奉仕を申し込みたかったのです。集まりの司会者はその子をがっかりさせたくなかったので,そのままとどまらせていました。ベテルでエホバに仕えたいというモーリスの熱烈な願いは衰えていません。13歳でバプテスマを受け,どんな割り当てもよく準備し,会衆で一生懸命働いています。そして今でも,ベテルで奉仕するという堅い決意を抱いています。

ボネール島で,王国会館に招かれた6歳のレンゾは,とても楽しい一時を過ごしました。そして,聖書研究を始め,それ以来,カトリック教会に通おうとしなくなりました。両親はレンゾから,教会で楽園のことを教えてくれないのはなぜなの,と尋ねられて好奇心をかき立てられ,エホバの証人と研究をするようになりました。その後,レンゾの両親がレンゾの聖書研究生の一人とともにバプテスマを受けました。現在8歳になるレンゾは,ボネール島で開かれた巡回大会でバプテスマを受けました。

[115ページの囲み記事/図版]

イグアナ・シチューはいかが?

ABC3島のどこでも,下の写真のようなイグアナをよく見かけます。この爬虫類は大切にされています。ただし,ペットとしてではありません。イグアナはスープやシチューの主要な材料なのです。地元のシェフによれば,「味はチキンそっくりで,肉は実に柔らかです」。

[71ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ハイチ

カリブ海

ベネズエラ

アルバ島

オラニェスタット

サン・ニコラス

クラサオ島

ウィレムスタット

サンタ・クルス

ブエナ・ビスタ

ボネール島

クラレンディーク

[66ページ,全面図版]

[68ページの図版]

アルバ島のホイベルク会衆では,さまざまな国籍の人たちが平和裏に協力して働いている

[70ページの図版]

父親と一緒に宗教書を販売していたパール・マーリン。後にエホバの証人になった

[73ページの図版]

アルバ島,サン・ニコラスの最初の英語会衆

[74ページの図版]

アルバ島に移住した人たち: (1)マルタ・フォスティン,近影,(2)マルタの夫ハミルトン,生前の写真,(3)ロバート・ティーターとファウスティナ・ティーター

[75ページの図版]

ウッドワース・ミルズとオリス・ミルズ,結婚式当日

[76ページの図版]

アルバ島の開拓者,エドウィナ・ストループ

[77ページの図版]

ヤコボ・レイナは1928年に「創造」という本を入手し,その内容に真実味がこもっていることに気づいた

[78ページの図版]

左から右へ: ギレアデ第6期生のラッセル・イエーツとヘイゼル・イエーツ,および第14期生のメアリー・イエーツとウィリアム・イエーツ

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ヘンリクス・ハッセル(左端)は良いたよりの熱心な宣明者だった

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カミーリョ・ギーリーゴリャは1950年に地元の人として最初にバプテスマを受けた

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アリス・トゥイードとヘンリー・トゥイードの自己犠牲の精神と熱意は,懐かしい思い出となっている

[81ページの図版]

「目ざめよ!」誌の予約をプレゼントされたガブリエル・ヘンリカスは,アルバ島の地元の住民で最初にバプテスマを受けた人となった

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ニニータ・ウェッブは初めのうち真理に反対したが,夫のダニエルと共に王国の熱心な宣明者になった

[82ページの図版]

マリア・ラメインは敬虔なカトリック教徒だったが,宗教的な像は無価値であると司祭から言われて,カトリック教会を離れた

[83ページの図版]

アルバート・スールは,優れた「推薦の手紙」を残した

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オリーブ・ロジャーズは,エホバに献身するよう大勢の人々を援助した

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上: 17歳でバプテスマを受け,開拓者として熱心に奉仕したユージン・リチャードソン

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下: 若いとき,クリントン・ウィリアムズはユージンと共にクヌクの区域を切り開いた

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アルバ島の宣教者ホーム,1956年ごろ

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上: 1962年,ブルックリン・ベテルのネイサン・H・ノアがこの王国会館を献堂した。クラサオ島の兄弟たちが所有した最初の会館

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右: 2番目のパピアメント語会衆で奉仕したビクトール・マヌエル。50年近く,良いたよりの伝道を行なっている

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上: 1969年に米国ジョージア州アトランタで開催された「地に平和」国際大会

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右: 同じプログラムで開催されたクラサオ大会の会場

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1969年にボネール島での業を援助するために派遣された特別開拓者,ペトラ・セラサ(右)と娘のイングリッド

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パピアメント語の「ものみの塔」誌

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上: ポーリーン・フライとジョン・フライ

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下: アカ・ファン・ダルフセンは,ギレアデ第39期のクラスを卒業した後,1964年に到着した

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上: 9人から成る翻訳チームで奉仕しているジャニン・コンセプションとレイモンド・ピーテルス

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右: 翻訳者を支援する貴重な道具であるコンピューターとMEPSソフトウェアを用いて仕事をするエストレリータ・リーケト

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ロバータス・バーカースとゲイル・バーカース(左)は,巡回奉仕を行なって,全時間宣教に対する熱意を大いに高めた

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ジュリー・ファン・ダルフセンとアカ・ファン・ダルフセン(下)は1992年にクラサオに戻り,2000年にはベテルに招かれた

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支部委員会で奉仕しているアカ・ファン・ダルフセン,クリントン・ウィリアムズ,グレゴリー・ドゥホン

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ブランチ・ファン・ハイドーンとハンス・ファン・ハイドーンは,65人の人々をエホバへの献身の段階まで援助した

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(1)1964年に献堂された支部事務所

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(2,3)1999年11月20日に献堂された,現在の支部

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ABC3島は,(上)ラドミラ・ヘルマナスとハンフリー・ヘルマナス,および(左から右へ)ポール・ジョンソンとマーシャ・ジョンソン,エイディト・ミレンとマルク・ミレンなど,旅行する奉仕に携わる夫婦に恵まれてきた

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初期の宣教者たち:(1)ファン・アイク夫妻,(2)ホーンベルト夫妻,および(3)コル・テニサンは,この地域の兄弟たちに仕えるため,わが家を後にした