フィリピン
フィリピン
ココヤシの木々,青々と生い茂る熱帯植物,白い砂浜,美しい海 ― どれも,フィリピンと聞いて頭に浮かぶイメージです。およそ7,100の島々から成るフィリピン諸島は,“東洋の真珠”と呼ばれてきました。魅力をさらに引き立てているのは,歌と踊りが大好きな,感情豊かで陽気な人々です。あなたもこの島国を訪れるなら,人懐っこい素敵な住民のとびきりのもてなしが忘れられなくなるでしょう。
とはいえ,フィリピンと聞いて,全く異なったイメージを思い浮かべる人も少なくありません。災害というイメージです。あなたも,ピナトゥボ山が噴火して泥流が幾つもの町をそっくり流し去ったことを覚えておられるかもしれません。また,平時における世界最悪の海難事故もありました。ドニャパス号というフェリーと石油タンカーが衝突して幾千人もの死者を出した事故です。実のところ,ベルギーの災害疫学研究センターによれば,フィリピンは世界で最も災害の多い国です。台風や洪水,地震や噴火は珍しくありません。また,多くの住民はどちらかというと経済的に貧しい状況にあります。こうした面を合わせると,様々な難題を抱えた美しい国の姿が浮かび上がります。
エホバの証人はフィリピン全土で熱心に働き,国内の7,800万人の人々に聖書の真理を告げ知らせています。これは並大抵の仕事ではありません。自然災害の脅威を別にしても,たくさんの小さな島々,また山岳地やジャングルといったへんぴな所に住む人々の
もとに行くのは大変なことです。それにもかかわらず,この業は遂行されています。エホバの民は様々な状況に直面しても抜群の粘り強さを発揮し,その結果,弟子を作る業においてエホバの祝福を経験してきました。幾つかの点でフィリピンの証人たちは,エルサレムに真の崇拝を復興したいと願った古代イスラエル人と似ています。そのイスラエル人は,『エホバの喜びはあなた方のとりでです』というネヘミヤの言葉に元気づけられました。(ネヘ 8:10)イスラエル人は数々の難題に直面しましたが,エホバの崇拝を促進する業において喜びにあふれて前進しました。ネヘミヤの時代のイスラエル人と同様,フィリピン全土のエホバの証人も神の言葉を教えられています。そして,やはりエホバの喜びを自分たちのとりでとしているのです。
真理の光が初めて輝く
フィリピンは,アジアで唯一,ローマ・カトリックが優勢を占める国です。フィリピン人はもともと土着の宗教を持っていましたが,300年以上にわたるスペインの統治によってカトリックの信仰を植え付けられました。半世紀間の米国による支配下で他の宗教にも接しましたが,依然として多くの人がカトリックを信仰しており,国民の約80%がカトリック教徒です。
かつてエホバの証人は聖書研究者と呼ばれていましたが,その中心的存在だった,チャールズ・T・ラッセルは,1912年に世界講演旅行の途上マニラに立ち寄り,1月14日にマニラ・グランドオペラハウスで「死者はどこにいるか」と題する講演を行ないました。出席者には文書が配布されました。
1920年代の初め,聖書研究者のもう一人の代表者としてカナダ出身のウィリアム・ティニー兄弟が到着し,聖書の真理の種はさらに
多くまかれました。ティニー兄弟は聖書研究のクラスを組織しました。兄弟は体調を崩し,カナダに帰らねばなりませんでしたが,関心を抱くフィリピン人たちは引き続き聖書研究のクラスを開きました。郵送されてくる文書が,真理を心の中で生き生きと保つ助けになりました。こうした状況は1930年代初めまで続きました。1933年には,真理の音信はKZRMラジオ局を通してフィリピン国内に伝えられていました。その同じ年,ジョセフ・ドス・サントスはハワイから世界伝道旅行に出かけました。最初に立ち寄ったのはフィリピンでしたが,そこで旅は終わってしまいました。ドス・サントス兄弟は,フィリピンにおける王国伝道の業を指導し,支部事務所を設立する,という責任をゆだねられたのです。支部事務所は1934年6月1日に開設されました。ドス・サントス兄弟は,エホバに仕えたいという願いを持つ少数の地元の人たちと共に,伝道や文書配布に忙しく携わりました。反対を受けたものの,1938年にはフィリピンに121人の伝道者がおり,そのうちの47人は開拓者として奉仕していました。
アメリカ人による英語教育が行なわれてはいましたが,人々は母語で聖書を学ぶのが最善だということに兄弟たちは気づきました。とはいえ,それを実行するのは大変なことでした。フィリピン全土で90近い言語や方言が使われていたからです。それでも,文書を幾つかの主要言語に翻訳する努力が払われました。1939年に,支部事務所はこう報告しました。「現在,タガログ語の[聖書講演]レコードを製作中です。このレコードとともに音響機器や蓄音機をもっと活用し,主に栄光を帰したいと考えています」。また,「富」という本をタガログ語に翻訳中であることも報告に含められていました。2年後には,幾つかの小冊子を他の四つの主要言語に翻訳する作業が完了しました。こうして,国内のほとんどの人が王国の音信を理解できるようになるための道が開かれました。
そのころ真理の音信にこたえ応じた人の中に,学校教師のフロレンティーノ・キントスがいます。フロレンティーノは,ある男性と話していたときに,エホバの民の業について初めて知りました。その男性は,1912年にマニラで開かれたラッセル兄弟の講演会に出席していました。1936年にフロレンティーノは,一人のエホバの証人から,聖書について論じた16冊の色鮮やかな書籍を入手しました。ところが教師としての仕事が忙しかったため,しばらくの間,それら虹色の書籍は読まれずに飾られたままでした。その後,戦争が勃発し,日本軍が侵攻して来たため,通常の様々な活動がストップしました。ようやく時間のできたフロレンティーノは書籍を手に取り,すぐに「富」,「敵」,「救い」の本を読み終えました。日本軍から逃げなければならなかったため,それ以上読み進むことはできませんでしたが,真理の種は心に植え付けられました。
世界大戦のさなかでの急成長
第二次世界大戦のために,フィリピン諸島各地のエホバの僕たち
は,新たな難題に直面しました。開戦当時,フィリピンの伝道者は373人でした。人数はわずかでしたが,兄弟たちは清い崇拝を推し進めるために並々ならぬ熱意と柔軟性を発揮しました。兄弟たちの中には,マニラから郊外の小さな町に引っ越して,宣べ伝える業をそこで続ける人もいました。戦争のために聖書文書の輸入は不可能になりましたが,戦争が始まる前から自宅にあった書籍を配布することができました。その在庫が底を突くと,人々に書籍を貸す方法に切り替えました。
サルバドル・リワグは,戦争が勃発した時ミンダナオ島にいました。もとは学校の教師でしたが,辞職して,良いたよりを全時間ふれ告げていました。サルバドルと他の何人かの兄弟たちはジャングルや山地に避難し,そこで神権的な活動を続行しました。移動の際には,駐屯地の作業員として日本軍に徴用されないよう細心の注意が必要でした。その一方で,しばしば抗日ゲリラから日本のスパイだと疑われました。
意外にも,日本の占領下で,小さな大会を何度か開くことができました。ある巡回大会はマニラで開かれ,大勢の人が出席しました。別の巡回大会はリンガエンで開かれました。住民は,見知らぬ人たちがトラックでやって来るのを見て驚きましたが,妨害する人は一人もおらず,大会は成功裏に行なわれました。
エホバはこうした活動すべてを祝福され,証人たちの数は増加しました。開戦当時373人だったエホバの賛美者は,わずか4年後には2,000人以上になっていました。
フィリピンでの王国伝道活動の組織化を指導する,という割り当てを受けたドス・サントス兄弟はどうなったでしょうか。1942年1月,兄弟はマニラにある日本軍の捕虜収容所に入れられました。それでも,兄弟もやはり熱心さの霊を弱めませんでした。『収容所
の中でできるだけ多くの人々に良いたよりを伝えました』と語っています。収容所での生活は厳しく,多くの人が餓死しました。投獄された時に61㌔あったドス・サントス兄弟の体重は,釈放された時にはわずか36㌔になっていました。米軍は1945年に捕虜を解放し,ドス・サントス兄弟にハワイへ戻る機会を与えましたが,兄弟は断わりました。なぜでしょうか。王国の業を喜びとしており,その業をフィリピンで前進させるために自分のできることを行ないたいと願っていたのです。それに加えて,兄弟と交替する人がまだ到着していませんでした。「その人が来るまでは,私はここにとどまります」と,ドス・サントス兄弟は述べました。ヒラリオン・アモレスは,ジョセフ・ドス・サントスについて,「本当に働き者で,兄弟たちの霊的必要に関心を抱いておられました」と語っています。
宣教者が到着する
フィリピン人の兄弟たちは特別な訓練を受けてはいませんでしたが,戦争前も戦時中も最善を尽くしました。そして,戦後間もなく,助けが差し伸べられました。1947年6月14日,ギレアデ卒業生のアール・スチュワート,ビクター・ホワイト,ロレンソ・アルピチェが到着したのです。ドス・サントス兄弟は,ついに自分の代わりを迎えることができ,1949年に妻や子どもたちと共にハワイへ戻りました。
スチュワート兄弟が支部の僕に任命されました。初期のそのころにやって来た他の宣教者たちのほとんどは,野外で働くよう割り当てられました。ギレアデで訓練を受けた宣教者たちの働きについて,フィリピンからギレアデへ行ったビクトル・アモレスはこう述べています。「業を組織する面で,大きな助けになりました。兄弟たちは,それらギレアデ卒業生たちから学びました。結果として前進が見られ,1946年に2,600人に過ぎなかった伝道者は,1975年までにほぼ7万7,000人になりました」。最初の3人の兄弟たちに続いて,多くの宣教者がやって来ました。ブラウン夫妻とウィレット夫妻はセブで,アンダーソン夫妻はダバオで奉仕しました。また,スティール夫妻とスミス夫妻や,ハクテル兄弟とブルーン兄弟も加わりました。1951年に到着したニール・カラウェイは後に地元の姉妹ネニータと結婚し,二人はニールの亡くなる1985年までフィリピンのほぼ全域で奉仕しました。英国出身のデントン・ホプキンソンとレーモンド・リーチは1954年に到着し,48年以上たった現在でもフィリピンでの業に貢献しています。
フィリピンにおける王国伝道の業の組織化と拡大に貢献したのは,外国人のギレアデ卒業生だけではありません。1950年代には,フィリピン人の兄弟たちもギレアデ学校に招待されるようになり,そのほぼ全員が母国で奉仕するために帰ってきました。最初に招か
れたのは,サルバドル・リワグ,アドルフォ・ディオニシオ,マカリオ・バスウェルの3人です。前述のビクトル・アモレスは,受けた訓練を生かして,旅行する奉仕やベテル奉仕を行ないました。その後アモレス兄弟は子どもを育て上げ,再び全時間奉仕を始めました。兄弟は旅行する監督として奉仕した後,70代後半までラグナ州で妻のロリータと共に特別開拓奉仕を行ないました。1970年代における進展
王国の業が急速に前進するにつれて,伝道者数も増加しつづけ,1975年には7万7,000人を超えました。全体的に見て,エホバの僕たちは霊性を維持し,忠節に神に仕えていました。ところが,1975年に現在の事物の体制の終わりが来なかったため,大勢の人たちがエホバに仕えるのをやめてしまいました。1979年には,伝道者数は5万9,000人を割ってしまいました。1970年代半ばに巡回監督として奉仕していたコルネリオ・カニェテは,こう述べています。「一部の人々は,1975年のためにバプテスマを受け,数年間だけとどまりました。そして1975年が過ぎると,真理から離れてゆきました」。
もっとも,大多数の人にとっては,クリスチャンの奉仕に対するふさわしい見方を保つための励ましがあればよかったのです。それで支部事務所は,特別講演を行なう手はずを整えました。その結果,活発な人たちが励みを得ただけでなく,一部の不活発な人々も再びエホバの活発な賛美者となることができました。兄弟たちは,
特定の日を念頭に置いてではなく永久に神に仕えるのだ,ということを理解しました。この一時的な減少期間の後,王国伝道者の数は大幅に増加しました。期待が外れてもエホバの大いなる善良さを忘れなかった人々は,確かに祝福を経験してきました。僻地での始まり ― 山岳地域で
フィリピンの何千もの島々は,南北約1,800㌔,東西約1,100㌔ほどの海域に散在しています。無人島もあれば,険しい山々のそびえる島も少なくありません。そうした僻地に住む人々のもとへ行くのは並大抵のことではありません。
そのような僻地の一つが,カリンガ・アパヤオ州です。ルソン島北部の険しいセントラル山脈には,人々が部族や村ごとに分かれて暮らしており,それぞれが独自の方言や慣習を持っています。20世紀になって首狩りの習慣は廃れたものの,村同士の敵意が争いや殺人に至ることは今でも珍しくありません。ヘロニモ・ラスティマはこう述べています。「以前は,そのような区域に特別開拓者を遣わすのは無理でした。地元の人々が兄弟たちの跡をつけて殺そうとするからです」。
解決策は,姉妹たちを遣わすことでした。ヘロニモはこう説明しています。「地元の人は,女性の跡をつけることはしませんでした。女性を傷つけてはいけない,というしきたりがあるのです」。姉妹たちは,地元の人たちに巧みに真理を教えました。そして,今度はその人たちが,バプテスマを受けて開拓者になりました。それら地元の人々は仲間の文化を理解しており,どうすれば効果的に証言できるかも知っていました。その結果,この山岳地域のあちこちで“狩人”の姿を見かけるようになりました。とは言っても,真理を求める人を探す狩人です。1970年代,カリンガ・アパヤオ州全域にほんのわずかの証人しかいませんでしたが,現在では巡回区が二つあります。
同様に,山の多い近くのイフガオ州に
も,1950年代初めには証人が一人もいませんでした。そこで,昔ながらの棚田に囲まれて暮らす人たちに宣べ伝えるよう,3人の正規開拓者が割り当てられました。やがて地元の人々は真理を受け入れるようになり,今では,その地域の18の会衆に315人の伝道者が交わっています。アブラ州の北の外れにある山地には,いまだに証人の一人もいない村が幾つもあり,そこへ行くのは容易なことではありません。ある巡回監督は,その最果ての地域に是非とも良いたよりを伝えたいと考え,ティネグ付近の地域での伝道に自分と共に加わるよう34人の奉仕者に呼びかけました。(使徒 1:8)公共の交通手段がないので,一行は山地を7日間歩き,10の村の約250軒の家を訪問しました。
その巡回監督はこう語っています。「必要なものを全部担いで尾根伝いに歩くのは本当に大変でした。6晩のうち4晩は,山中や河原で野宿しました」。幾つかの村には,ずいぶん前に一人の証人が訪れていました。ある場所で一行が出会った人は,「わたしの父は27年前にエホバの証人の伝道を受け,エホバの証人は真理を持っていると話してくれました」と語りました。一行は,合わせて書籍60冊,雑誌186冊,ブロシュアー50冊,パンフレット287部を配布し,聖書研究の仕方を何度も示しました。
他の僻地でも宣べ伝える
パラワン島は,フィリピンの島の中では大きなほうです。細長い形をしており,長さは430㌔ほどあります。人口の多い他の島々の喧騒から遠く離れたパラワン島の森林には様々な部族が暮らしており,季節労働者などの住む孤立した集落もたくさんあります。どんな割り当ても喜んで受け入れるつもりだった宣教者のレーモンド・リーチは,巡回監督としてその島に遣わされました。そこには証人
はほとんどおらず,かなりの距離を旅行しなければなりませんでした。レーモンドは当時を振り返って,こう言います。「1955年から1958年までその島に割り当てられましたが,パラワン全体で伝道者は14人しかいませんでした。その14人を訪問するのに5週間かかりました」。それ以来,大きな進歩が見られていますが,今でも大変な所であることに変わりはありません。現在40代前半のフィビ・ロタは,1984年にパラワンで特別開拓奉仕を始めました。ドゥマラン島で奉仕していたときの出来事を,フィビはこう語ります。「わたしたちは,全部の家を訪問し終えたと思っていました。まさかまだ家があるとは考えてもいませんでした。でも,あったのです」。やしの木に囲まれた奥まった所に,ココナツ園の管理人夫婦が住んでいました。そしてなんと,その夫婦は聖書に関心を示しました。
フィビは,「エホバへの奉仕でなかったら,あそこへは二度と行かなかったと思います」と言います。フィビとパートナーは,そこへ行くために1日かけて,砂と岩の海岸沿いのココナツ園を幾つも歩いて通り抜けました。満潮時には,ひざまで水につかって歩きました。それほど遠い所だったので,月に1度だけ行って,そこで数日過ごすことにしました。そのためには,重い食料,書籍,雑誌,着替えを担いでゆかなければなりませんでした。「熱い太陽に照りつけられ,虫に刺されたりかまれたりするのですから,本当に犠牲が求められました。たどり着いたときにはいつも汗びっしょりでした」。とはいえ,こうした努力は報われました。関心を抱いた夫婦が聖書研究の面でどんどん進歩するのを見ることができたのです。
その夫婦は,エホバの証人と研究していることをバプテスト信者の経営者に知られ,ココナツ園の仕事を首になりました。フィビは,後にその妻のほうと再会したとき,うれしい驚きを経験しました。
その女性はすでにバプテスマを受けていました。でも,それだけではありません。「その地域大会の開拓者の集まりで,彼女はわたしたちと一緒に座っていたのです」,とフィビは言います。自分の労苦がりっぱに実ったのを見るのは本当に大きな喜びです。フィリピン南部の大きな島ミンダナオにも,到達困難な地域がたくさんあります。ネイサン・セバリョスは,旅行する監督として,妻と共にそのような地域で奉仕しました。二人は,会衆を訪問しない週には孤立した区域で宣べ伝えるよう努力し,他の兄弟姉妹も誘って一緒に出かけて行きました。あるときには,19台のバイクに分乗して多くの村々へ行きました。道はでこぼこでぬかるんでいます。大小の川を渡らなければならず,ほとんどの川には橋がありません。その地域の人々はほとんどお金を持っていませんでしたが,兄弟たちが持ってきてくれた文書に対するお礼として,手作りの軟らかいほうきを幾つもくれました。想像してみてください。帰り道,兄弟たちのバイクには,ほうきが満載されているのです。ネイサンはこう語っています。「みんなへとへとになり,情けない格好で帰宅しましたが,エホバのご意志を行なったという自覚があったので喜びに満たされていました」。
あらゆる手段を用いて良いたよりを宣べ伝える
近年エホバの組織は,あらゆる機会を活用して証言するよう王国伝道者たちを励ましてきました。この方法は,フィリピンの人口の多い地域にまさに適しています。ダバオ,セブ,マニラ首都圏などの大都市には,世界の他の都市と同様,たくさんの会社や事務所,集合住宅や分譲住宅地があります。そうした場所の人々に,どのようにして音信が伝えられているのでしょうか。
マルロン・ナバロは最近まで,マカティを含む巡回区で奉仕していました。宣教訓練学校を卒業した若いマルロンは,マカティの金融
街での伝道活動を組織するため懸命に働きました。その金融街は三つの会衆の区域にまたがっています。おもに開拓者の中から兄弟姉妹が選ばれ,その地域で巧みに働くための訓練を受けました。市内のこの地区にあるショッピングモールや公園で聖書研究が司会されており,それら聖書研究生の中には集会に出席している人たちもいます。コリー・サントスと息子のジェフリーは二人とも開拓者です。朝の街路証言をたびたび行なっており,時には早朝6時から行ないます。その時間帯には,工場の夜勤を終えて帰宅する人々に会えます。二人は,この街路伝道で聖書研究も取り決めています。街路伝道で初めて出会い,バプテスマまで進歩した人が幾人もいます。
郊外でも,伝道者たちは証言する機会を目ざとく見つけています。28年以上も特別開拓奉仕を行なっているノルマ・バルマセダは,乗り物を待っている女性に話しかけ,「どちらにお出かけですか」と尋ねました。
女性は,「キリノ州です」と答えました。
「そちらにお住まいなんですか」。
「いいえ,でも主人がそこへ引っ越そうと考えているんです。このイフガオは住みにくいので」。
これがきっかけとなってノルマは,人類の諸問題を解決する王国政府についての良いたよりを伝えることができました。二人はそこで別れました。何年か後のこと,巡回大会で一人の女性がノルマに近づき,わたしはあの時あなたに話しかけられた者です,と言いました。その人はすでにバプテスマを受けており,娘二人と夫も楽しく聖書を学んでいました。
ケソンシティの支部事務所でも,兄弟たちが証言のあらゆる機会を目ざとく活用しています。例えば,フェリクス・サランゴは伝道に
熱心なことでよく知られています。ベテルで奉仕しながら,しばしば補助開拓奉仕も行なっています。2000年のこと,宿舎棟の増築工事が進んでいたころ,フェリクスは,建物の外部構造の組み上げに雇われていた作業員たちに目を留めました。そして,主任技師に近づき,作業員と話しをする許可を求めました。フェリクスはこう語っています。「昼食後に現場に行くと,主任技師が100人以上の作業員を集めてくれていました。わたしは,エホバの証人の行なっていることを説明し,大患難を生きて通過するには知識が必要であると話しました。ブロシュアー1箱と『知識』の本1箱を持って行っていたので,作業員の人たちに,神の言葉の研究に関心のある方には1冊差し上げます,と言いました」。フェリクスは,エホバの証人の業が世界的にどのように支えられているかも説明し,ココヤシの木のそばに出版物と封筒を置きました。大勢の作業員が本かブロシュアーを1冊取り,そのうちの多くの人は封筒に寄付を入れました。研究に関心を示した人もいました。主任技師もその一人で,フェリクスは,毎週月,水,金曜日の昼休みに「神はわたしたちに何を求めていますか」のブロシュアーを使って一緒に研究する,という取り決めを設けました。その人はフェリクスに,「ここで学んでいることを妻や友人に話しています」と語りました。そこで働く他の二人の技師,それに警備員一人と秘書二人も研究したいと言いました。そうです,あらゆる機会に証言するなら,エホバが祝福してくださるのです。
宣教者がやって来る
これまでに,訓練を受けた外国人の宣教者69人が,王国伝道の業を支援するためにフィリピンに赴きました。それら宣教者たちは,さまざまな面で支援を行なってきました。前述のデントン・ホプキンソンとレーモンド・リーチはまず野外での割り当てを受け,最初
は宣教者として,後に旅行する監督としても奉仕しました。その後,二人は支部事務所で働く割り当てを受けました。1970年代には,始まったばかりの印刷業務を援助するため,幾人ものギレアデ卒業生が到着しました。その中のロバート・ペビーと妻のパトリシアは,かつて英国とアイルランドで奉仕していました。ロバートは,フィリピンの支部事務所に執筆デスクを設置する点で有用な働きをしました。1981年,二人が米国ニューヨークのブルックリンにある世界本部で奉仕するために出発する時には,だれもが別れを惜しみました。
米国出身のディーン・ジェイセクと妻のカレンは,1980年に到着し,ラグナ州でしばらくタガログ語を勉強した後,支部での奉仕を割り当てられました。二人は,1983年に付加的な訓練を受け,フィリピンや近隣の島国で,兄弟たちがエホバの証人の開発したコンピューター・システムの使い方を習得するのを援助しました。そのシステムは,地元の言語での聖書文書の出版をサポートする点で欠かせないものとなっています。
オランダ出身のヒュベルトゥス(バート)・フーフナゲルスと妻のジェニーンは1988年に到着しました。支部は,ちょうど大規模な建設計画に着手するところでした。この夫婦は支部建設の経験があり,バートは重機の操作もできたので,二人は建設計画を手伝うよう割り当てられました。バートは,重機を操作するかたわら他の人を訓練しました。こう述べています。「初めから,トラックやバックホー,ブルドーザー,ショベルローダー,クレーンなどの運転を地元の兄弟たちに教えるようにしました。その結果,20人から25人ぐらいの重機作業チームができました」。
その後,さらに4人のギレアデ卒業生が加わりました。ドイツ出身のペーター・ベーレンと妻のベアーテ,そして米国出身のギャリー・
メルトンと妻のテレサ・ジーンです。ベーレン夫妻も支部建設の経験があり,メルトン夫妻は米国のベテルでの奉仕を5年経験していたので,4人とも支部建設の仕事に貢献することができました。それより前の1963年,最後の宣教者ホームが閉鎖されました。資格あるフィリピン人の開拓者たちが野外の業を世話できるようになったからです。けれども,1991年に統治体は6人の宣教者を野外に遣わすよう取り決めました。それらの宣教者は支部の仕事の経験がありましたが,野外での奉仕に大きく寄与できるだけの経験も積んでいました。例えば,ジェニーン・フーフナゲルスは18歳の時に特別開拓奉仕を始めました。ですから,今度はその経験と快活な性格を生かして,兄弟たちや新しい人たちを励ますことができました。夫のバートは,他の益についてこう述べています。「この国の野外で宣教者たちが働くことにより,人々はわたしたちの業が国際的なものであることを理解できます」。一方,支部において引き続き管理面や他の分野の仕事を行なっている宣教者たちもいます。
フィリピンは,宣教者を派遣してもらっただけではありません。宣教者を送り出すこともしてきました。
宣教者として出かけて行く
フィリピンにはなおも宣教者が遣わされていましたが,フィリピン人の開拓者も宣教者奉仕を行なうために外国へ派遣されるようになりました。ギレアデの卒業生と同じ組織的な訓練は受けていなくても,フィリピン人の開拓者の中には優れた人材が大勢いました。第二次世界大戦以降,フィリピンでは,弟子を作る業が近隣諸国をはるかに超える速さで拡大していました。そのため,1964年を皮切りに,資格あるフィリピン人の開拓者たちが,アジア各地や太平洋の島々で宣教者奉仕を行なうよう招待されてきました。夫婦も送り出されましたが,ほとんどは全時間宣教の経験が10年以上ある独身の開拓者たちでした。2002年半ばまでに,149人が19の国や地域へ派遣されています。そのうちの74人は今でも任命地にとどまっています。宣教者として出かけることになった人たちは,事務手続きが済むまでの間,支部に滞在し,任命地で役立つ訓練を受けたり経験を積んだりしました。そのような宣教者たちは,長年にわたり,宣べ伝える業にどんな貢献をしてきたでしょうか。そして,どんな問題や喜びを経験してきたでしょうか。
最初に出かけて行ったのは,ローズ・カグンガオ(現在はエングラー)とクララ・デラ・クルス(現在はエローリア)です。二人の任命地はタイでした。1年ほど後,アンヘリタ・ガビーノもタイに任命されました。他の宣教者と同様,言語の習得はやはり大変でした。タイ語の習得についてアンヘリタはこう語っています。「最初の数週間はいらいらしていました。本に書かれている文字がすべて“ミミズ”のように見え,集会に行っても,言葉の壁のためにだれともほとんど話せなかったからです」。しかし,姉妹たちはやがて言語を習得し,身に着けたその言語を用いて今でも人々を援助しています。
こうした人たちに続き,意欲的な開拓者たちが次々と様々な国へ
派遣されてゆきました。ポルフェリオ・フムアドと妻のエバンジェリンは,1972年に韓国へ遣わされました。フムアド兄弟姉妹は韓国語を上手に話せるようになり,宣教者として2年半奉仕した後,巡回奉仕を行なうよう招待されました。1970年,サルバシオン・レガラ(現在はアイェ)は,他のフィリピン人の姉妹8人と一緒に香港<ホンコン>に行き,宣教者奉仕を始めました。最初にぶつかった壁は,広東<カントン>語の習得でした。広東語には九つの声調があり,声調を変えると,語の意味が変わります。サルバシオンは,声調で苦労したことを今も覚えています。ある時など,聖書研究生に,自分たちが引っ越ししたのは「家賃が高いから」と言うつもりで,「幽霊が出るから」と言ってしまいました。とはいえ,サルバシオンはやがて広東語を上手に話せるようになり,これまでに20人以上を聖書の真理の音信を学ぶよう援助してきました。最近は,香港でお手伝いさんとして働くインドネシア人によく会うようになったので,インドネシア語を勉強しています。
意志が強く,しかも親しみやすい兄弟であるロドルフォ・アソンは,1979年にパプアニューギニアに割り当てられ,それまでとは全く異なる状況に直面しました。兄弟は一生懸命に言語を勉強し,見事に習得したので,到着してからわずかのうちに旅行する監督に任命されました。とはいえ,パプアニューギニアで会衆を訪問することは,フィリピンでの場合と大きく異なっていました。兄弟はこう述べています。「わたしは,現地の人がするのと同じように,一人乗りの小さな木製カヌーを立ったまま漕げるようになりました」。
大会についてはこう述べています。「距離と,手ごろな輸送手段がないことを考慮して,わたしたちは小さな大会をたくさん開くことにしました。ラリミヤ村で行なわれた大会は,これまでに出席した中で最も小さく,出席者合計は10人でした」。別の時,兄弟は,アギ
村での集まりの大会監督に任命されました。「そのうえ,大会司会者として奉仕するよう任命され,音響部門と給食部門を世話し,劇を監督し,ダビデ王の役も演じることになりました」。ロドルフォは,そうした割り当てにまさに全力を尽くし,その後ソロモン諸島でも宣教者奉仕を楽しみました。ルソン島出身で順応性のあるアートゥロ・ビリャシンは,1982年にソロモン諸島へ遣わされました。兄弟は,そこで巡回監督として奉仕しましたが,フィリピンとは全く勝手が違うことに気づきました。多くの島には小型飛行機で行くのが最善でした。兄弟はこう述べています。「わたしたちの飛行機が墜落したこともありますが,全員,命だけは無事でした。別の時には,視界不良のためにあわや山腹に激突するところでした」。会衆を訪問する時のことについては,こう語っています。「わたしたちは雨林を抜け,ぬかるんだ険しい丘を登って会衆を訪問します。そうした森林地帯には,先祖を崇拝する原住民が住んでいます」。アートゥロは2001年に病気で急死しましたが,忠実な宣教者として長く記憶にとどめられることでしょう。
このほかにも,宣教者としてアジアや太平洋の国々へ派遣されたフィリピン人の兄弟姉妹に関する経験はたくさんあります。それら意欲的で自己犠牲的なエホバの僕たちは,数々の困難に面しながらも,そうした国々における宣べ伝える業に多大の貢献をしてきました。
エホバをとりでとするよう人々を助ける喜び
エホバの祝福は喜びをもたらします。(箴 10:22)1974年に台湾に遣わされたアデリエダ・カレテナはこう述べています。「わたしは本当に幸福です。ここでの業を祝福し,その業にあずかる機会をわたしにも与えてくださったエホバに本当に感謝しています」。
現在マーシャル諸島で奉仕しているポール・タブニガオと妻のマリーナは,こう語っています。「わたしたちは,エホバに仕えるよう72人の人を援助しました。その多くが長老や奉仕の僕,特別開拓者,正規開拓者,また会衆の活発な伝道者として奉仕していることは,わたしたちにとって大きな喜びです」。
1980年以来パプアニューギニアで奉仕しているリディア・パンプロナは,献身とバプテスマの段階まで84人を援助しました。最近の報告によると,リディアは16人の人と家庭聖書研究を行なっており,そのほとんどが集会に出席しています。リディアは次のようにコメントしていますが,多くの宣教者も同感でしょう。「奉仕の務めをゆだねてくださったエホバに感謝しています。これからもエホバがわたしたちの宣教奉仕を祝福してくださり,エホバに栄光がもたらされますように」。
フィリピン人宣教者の派遣先となった各支部は,それら宣教者の地元での働きに感謝しています。タイ支部はこう書いています。「フィリピン出身の宣教者たちはすばらしい働きをしており,タイにおいて長年,忠実さの手本となっています。彼らは年を取っても働き続けています。タイという国とタイの人を愛し,ここを自分のふるさとと考えているのです。これら立派な宣教者たちを遣わしてくださったことを心から感謝いたします」。
王国宣教学校で長老たちが訓練を受ける
フィリピンの開拓者が外国での奉仕のために送り出されるようになったころ,フィリピン国内の会衆で責任を担う資格ある兄弟の数が増えていたので,エホバの組織はそれらの兄弟たちに訓練を施しました。王国宣教学校は,そうした訓練を行なうための主要な手段の一つでした。
1961年,最初のクラスが1か月の課程として開かれました。かつてギレアデの教訓者を務め,後にベトナムで宣教者として奉仕することになるジャック・レッドフォードは,フィリピンのこの課程で教えるという割り当てを受けました。最初の学校は支部で開かれ,授業は英語で行なわれました。
英語の得意な人もいますが,フィリピンで広く使用されている他
の言語や方言のことも忘れるわけにはゆきません。自分の言語で受講できるなら,大勢の長老がもっと多くの益を得られるはずです。そのため,1960年代半ばから,この課程は幾つかの言語で行なわれるようになりました。コルネリオ・カニェテは,割り当てを受けてビサヤ諸島とミンダナオ島の各地で教えた時のことを覚えており,「セブアノ語,ヒリガイノン語,サマル-レイテ語という三つの言語で教えていたんです」と笑いながら言います。長年の間に,この課程には,日程などの面で調整が加えられてきました。最近では,一つの週末を用い,長老のために1日半,奉仕の僕のために1日という日程で開かれました。とはいえ,八つほどの言語で学校を開くのはやはり大変です。それで,それらの言語の分かる長老たちが支部から派遣され,旅行する監督のための訓練学校を開きます。次いでそれら旅行する監督たちが,会衆の長老や奉仕の僕のための実際の学校で教えます。最近開かれた学校では,1万3,000人の長老と8,000人の奉仕の僕がこの訓練から益を得ました。
開拓者を援助する
その後,開拓者も付加的な訓練を受けるようになりました。1978年,初めて開拓奉仕学校が開かれました。特別開拓者も含め,当時開拓者として奉仕していたすべての人が入学しました。それ以来,1979年と1981年を除き,毎年クラスが開かれてきました。
開拓者たちはこの学校から大きな益を得ていますが,出席するのは必ずしも容易ではありません。経済的な犠牲を払って,あるいは交通手段の問題を乗り越えてやって来た人たちもいます。
サンティアゴ市での学校に出席した人たちは,予期せぬ事態に対処しなければなりませんでした。巡回監督のロドルフォ・デ・ベラはこう述べています。「1989年10月19日,イサベラ州のサンティアゴは,突然,最大風速57㍍の超大型台風の直撃を受けました。その朝,王国会館で授業を始めた時は,雨も風も大したことがなかったので,続けることにしました。ところが,風が強くなって建物が揺れだし,やがて屋根が吹き飛ばされました。避難したかったのですが,いろいろな物が飛んでいて,外のほうが危険だ
と思いました」。建物はばらばらになりかけましたが,全員が無事でした。兄弟たちは,助かったのはエホバのおかげであるだけでなく,「目ざめよ!」誌のアドバイスのおかげでもあると考えています。そうした状況ではテーブルや机の下に身を隠すようにとアドバイスされていたのです。デ・ベラ兄弟はこう語ります。「わたしたちはテーブルの下に潜り込みました。台風が過ぎ去った時には,折れた木の枝や屋根の金属板などの下敷きになっていました。でも,建物の中にとどまりテーブルの下にいた人はだれもけがをしませんでした」。学校は,毎年七つの言語で開かれています。2002奉仕年度までに2,787のクラスが開かれ,合計4万6,650人の開拓者が課程を修了しました。この学校は,開拓者たちが技術を磨き,エホバに全幅の信頼を置きつつ「世を照らす者として輝き」続ける点で,本当にすばらしい助けになってきました。―フィリ 2:15。
オフセット印刷を行なうための初期の努力
優れた聖書文書が供給されなければ,野外や会衆でのすべての活動は非常に難しくなるでしょう。長年の間,フィリピンのための印刷はブルックリンで行なわれていましたが,1970年代初め,ケソンシティにある支部の敷地内に工場が建設され,ブルックリンのものと類似した活版印刷機が設置されました。これにより,フィリピン支部はすべての雑誌を地元で生産できるようになりました。
そのころ印刷業界では,活版印刷に代わってオフセット印刷が主流となりつつありました。世界本部からの指示によると,エホバの証人も同様の移行を徐々に行なうことになっていました。
1980年,支部は市販の写植機を購入し,すでに同種の機械を入手していた南アフリカ支部からノウハウを学びました。このコンピューター植字システムは,同じころに購入した小型の枚葉オフセット印刷機と共に用いられました。
小規模ではありましたが,こうした機器を使って,兄弟たちはオフセット印刷の技術を学ぶことができました。活版印刷用のライノタイプの操作で豊富な経験を積んでいたデービッド・ナモカは写植機の使用方法を学び,他の兄弟たちは,オフセット印刷の製版方法や,新たに購入した印刷機の操作方法を学びました。こうして支部は,1980年の終わりまでに,幾つかの言語の「わたしたちの王国宣教」や,発行部数の少ない言語の雑誌をオフセット方式で印刷するようになりました。
オフセット印刷への移行を控えて,翻訳や印刷前工程にかかわる兄弟たちのためにもコンピューターが導入され,兄弟たちは少しずつ経験を積み,自信を得ていきました。このようにして,やがて印刷の質も量も向上させることができました。そして1982年,兄弟たちは意欲的に改善を図り,単色刷りオフセット印刷機で4色刷りの「王国ニュース」第31号を印刷しました。紙は印刷機に6回通されました。4色刷りの面のために4回,裏面のために2回です。それは大仕事でした。品質面では改善の余地もあったでしょうが,自分たちの機械で4色刷りの「王国ニュース」が生産されるのを見てだれもが喜びました。
こうして物事が動き出しましたが,その後,コンピューター写植やオフセット印刷への完全な移行はどのように成し遂げられたのでしょうか。エホバの組織はある計画を立てており,フィリピン支部はやがてその益にあずかることになりました。
エホバの組織はMEPSを備える
多くの言語で良いたよりを伝えるという独特な必要を満たすコンピューター写植システムの製作が統治体により承認され,多言語電算写植システム(MEPS<メップス>)がブルックリンで開発されました。フィリピン支部では,市販の機器をしばらく使用していたので,コンピューターやオフセット印刷がすでにある程度導入されていました。とはいえ,MEPSにより,フィリピン支部は印刷の分野で全世界の支部と足並みをそろえて前進できるようになりました。
フィリピンから二組の夫婦がニューヨーク州ウォールキルに招かれ,兄弟たちはMEPSコンピューターのメンテナンスや印刷前工程におけるMEPSプログラムの活用についての訓練を受けました。別の夫婦,フロリゼル・ヌイコとその妻はしばらくブルックリンに滞在し,ヌイコ兄弟はM.A.N.オフセット印刷機の操作方法を学びました。そうした訓練は,フィリピン支部がコンピューター化された印刷前工程とオフセット印刷へ完全に移行する上でまさに必要なものでした。
1983年,1台のM.A.N.オフセット印刷機がフィリピンに届き,オーストラリア支部から来たライオネル・ディングルの助けを得て設置されました。ヌイコ兄弟は,ブルックリンで学んだ事柄に基づいてフィリピンの兄弟たちの訓練を始めました。1983年の終わり
には,この印刷機による最初の雑誌が刷り上がりました。とはいえ,システムがまだ完全にでき上がっていなかったため,しばらくの間,雑誌は活版印刷とオフセット印刷の両方で生産されました。システムは間もなく完成しました。1983年末に最初のMEPSコンピューターが届き,ウォールキルで訓練を受けた二人の兄弟がMEPS機器の操作とメンテナンスを他の人たちに教えました。短期間で生産は軌道に乗りました。このシステムを用いて翻訳,文章入力,組版,写植を行なう方法や,コンピューターの修理について,何十人ものベテル奉仕者が徹底的な訓練を受けました。フィリピンでは,扱う言語の数が多いので訓練過程は複雑です。「ものみの塔」誌だけでも,英語に加えて七つの言語で準備されています。MEPSはそうした作業にまさにうってつけでした。
生産される出版物の質は目に見えて向上しました。工場で働くシザル・カステリャーノは,印刷作業者たちについてこう述べています。「ここの兄弟たちのほとんどは農業を行なっていました。技術面での経験が全くなかった人たちもいます。エホバがご自分の霊によって兄弟たちを動かし,印刷など多くの仕事を担えるようにしておられるのを見ると,本当に感動します」。兄弟たちの技術が向上するにつれ,野外の伝道者たちの受け取る出版物はますます魅力的になりました。とはいえ,こうした印刷技術の進歩によって,もっと重要な益も得られるようになりました。それは霊的な益です。
霊的食物を同時に受け取る
フィリピン向けの雑誌がブルックリンで印刷されていたころは,英語の雑誌の記事がフィリピンの言語で出されるのに半年以上を要しました。雑誌はフィリピンで翻訳されていましたが,原稿や
校正刷りのやり取りをした後に,印刷された雑誌を発送するまでには大変な時間がかかりました。1970年代に雑誌の印刷がフィリピンで行なわれるようになり,時間は短縮されましたが,雑誌の内容は依然として英語版より6か月遅れていました。フィリピン人の兄弟たちの多くは,『英語版と同時に発行されるようになったら,どんなにいいだろう』と考えていました。長年の間,それは夢にすぎませんでした。ところが,MEPSの導入と生産手順の調整により,夢が現実となりました。統治体は,同じ資料を同時に研究するならエホバの民全体の一致が強力に促進される,ということを認識していました。それを目標とした努力が続けられ,1986年1月に,「ものみの塔」誌は,イロカノ語,セブアノ語,タガログ語,ヒリガイノン語というフィリピンの4言語で英語版と同時に発行されるようになり,やがて幾つかの他の言語もそうなりました。その後,1988年の大会で「啓示の書 ― その壮大な最高潮は近い!」の本を英語版と同時に地元の3言語で受け取ることができたのもうれしい驚きでした。関心のある人に質の高い文書を提供できるだけでなく,世界じゅうの兄弟の大多数と同時に同じ霊的プログラムで養われるようになったので,兄弟たちは大いに喜びました。
出版物に関してそのような改善が加えられたころ,国内の一部地域では不穏な事態が生じていました。出版物は,皆が絶えずエホバをとりでとすることの必要性を強調していました。
国軍と反政府勢力の衝突
1980年代,反政府グループの活動が国内各地で活発化しました。一部のグループは共産主義運動とつながりがありました。政府
軍と反体制勢力の衝突が頻発するようになり,兄弟たちのエホバへの信頼は幾度も試みられました。ある地域に,伝道者62人の会衆がありました。兄弟たちが朝,目覚めると,反政府勢力と国軍が戦闘態勢を取っていました。兄弟たちの家々はちょうど両勢力の中間に位置していました。長老の一人が反政府勢力のもとへ,別の長老が政府軍のもとに行き,大勢の一般市民が巻き込まれるのでこの地域で闘わないでほしいと頼みました。しかし,その嘆願は無視されました。脱出は不可能だったので,兄弟たちは王国会館に集まりました。一人の長老が全員を代表して,外の政府軍にも聞こえるほどの大声で,長い祈りをささげました。兄弟たちが目を開けると,双方ともいなく
なっていました。戦闘は行なわれなかったのです。兄弟たちは,エホバが保護してくださったのだと強く感じました。ディオニシオ・カルペンテロは妻と共に,旅行する奉仕を16年以上行なっています。そして,フィリピン中南部の東ネグロス州での巡回奉仕1年目の出来事を今でも覚えています。「リナントゥヤン会衆を訪問したときのことです。水曜日に40人が野外奉仕に参加したので,わたしたちは喜んでいました。でも,わたしたちは気づきませんでしたが,反政府グループに逐一活動を見張られていたのです。彼らのアジトは王国会館のそばにありました。午後4時にその4人がわたしたちの宿舎にやって来て,身分を問いただしました。その場にいた長老は,わたしが巡回監督で,6か月ごとにその会衆を訪問している,と説明しました」。
男たちはその説明を信じていない様子でした。それどころか,ディオニシオを国軍兵士ではないかと考え,長老に,こいつを殺すから外へ連れ出せ,と命じました。長老が,それならまずわたしを殺しなさいと言うと,男たちは立ち去りました。
ディオニシオはこう続けます。「犬が夜通しほえるので,反政府グループのいることが分かりました。わたしたちは,その晩エホバに導きを求めて4度祈りました。すると,乾季なのに雨が激しく降り,わたしたちの命をねらっていた男たちはいなくなりました」。
日曜日の集会後,ディオニシオは,妻と共に次の会衆へ移動することを長老たちに伝えました。しかし,そうするには,反政府勢力のアジトのそばを通らなければなりません。ディオニシオはこう述べています。「メンバーの一人が窓から外を見ていました。わたしたち
はその男に,これから出発するとはっきり伝えました。それなのに彼らは,わたしたちを捜して午後8時に王国会館に来ました。長老は,わたしたちがとっくに出発し,しかもアジトのそばを通って行ったと説明しました。驚いたことに,彼らはわたしたちを見なかったのです。この体験から,エホバに依り頼むべきこと,そして問題に勇敢に立ち向かうべきことを学びました」。ディオニシオは妻と共に,今でも喜びを抱きつつ奉仕を続けています。こうした紛争のため,時に証言活動は難しくなります。タイミングが悪く戦闘地域にいると,砲火にさらされるおそれがあります。とはいえ,戦闘が起こりそうなことを,どちらかの側が知らせてくれたこともあります。そのような場合に兄弟たちは,戦闘が収まるまで危険の少ない地域で証言するようにします。こうした状況に
もかかわらず,王国の証しの業は続行され,兄弟たちはエホバに頼ることの大切さを身をもって学んできました。中立に関する試み
イエスはご自分の追随者たちについて,「わたしが世のものでないのと同じように,彼らも世のものではない」と言われました。(ヨハ 17:14)他の国と同様,フィリピンでも,エホバの証人は世の政治や軍事紛争にかかわらないようにしています。「剣を取る」ことはせず,むしろ武器を捨て,エホバから教えられるとおりに平和の道を追い求めてきました。(マタ 26:52。イザ 2:4)この中立の立場はフィリピン全土でよく知られており,どの派に属する人々もエホバの証人が自分たちにとって危険な存在ではないことを理解しています。とはいえ,エホバの僕たちが自らの立場をはっきり示さなければならない事態もありました。そして,そうすることは兄弟たちにとって保護となっています。
旅行する監督のウィルフレド・アレリャーノは,平穏な所やそうでない所など様々な区域で奉仕した豊かな経験を持っています。1988年に,兄弟はフィリピン中南部の会衆を訪問しました。その会衆の兄弟たちは,反政府運動に加わるよう反体制勢力から圧力をかけられていたものの,断固としてそれを拒否していました。
ウィルフレドは,その時のことをこう語っています。「訪問中,会衆の区域内で政府軍の動きが慌ただしくなっていました。政府軍は,住民による民兵隊を結成して反体制勢力と戦わせようと考えていました。兄弟たちは,政府代表者との会合で,反体制派にも政府の民兵隊にも加わらない理由を説明することができました。地元住民の一部はわたしたちの立場に異議を唱えましたが,政府のスポークスマンは立場を尊重してくれました」。
その後の出来事について,ウィルフレドはこう述べています。「ある兄弟は,会合後に自分の農場へ帰る途中,重装備の兵士たちと目隠しをされた二人の捕虜に出くわしました。兄弟は,政府の会合に行ったかと尋ねられ,行ったと正直に答えました。民兵隊に入ったのかとも聞かれたので,入っていないと答え,自分の中立の立場を説明しました。すると,そのまま家に帰ることを許されました。数分後,2発の銃声が聞こえました。目隠しされていた捕虜が処刑されたのです」。
1970年代から1980年代初めにかけて,フィリピンの法律は国民全員に投票を義務づけており,違反者は刑務所に入れられました。これも,エホバの民が神への忠節を実証する機会となりました。世界じゅうのクリスチャン兄弟たちと同様,フィリピンのエホバの僕たちも政治的な中立を保ち,「世のものではない」立場を取っています。―ヨハ 17:16。
1986年の政変後,フィリピンの憲法が改正されて投票義務はなくなり,兄弟たちは少し楽になりました。それでも,多くの人,特に学齢期の若者たちは他の試みに直面しました。
「もはや戦いを学ばない」
アイリーン・ガルシアはルソン島中部のパンパンガ州で育ち,現在でも大勢の若者にとって試みとなっている問題に直面しました。高校では,軍事教練が必修となっています。しかし,学校に通うエホバの証人は,戦い方を教えるプログラムには参加できないという個人的な決定を下しています。アイリーンは,まずエホバに助けを祈り求めました。それから,預言者ダニエルの時代の3人の忠実なヘブライ人の若者のことを思いに留めつつ,軍事教練のダニ 3章)教官はアイリーンの立場を完全には理解できませんでしたが,説明には感謝しました。ただし,参加しないなら成績が悪くなるとくぎを刺しました。アイリーンは,「構いません。他の科目で最善を尽くしたいと思います」と答えました。アイリーンは,軍事教練の代わりとなる課題を与えられ,「結果として,他の証人の子どもたちも免除をお願いしやすくなり,わたしは10位以内の成績で卒業できました」と述べています。
教官のもとへ行き,教練の免除をお願いしました。(軍事教練の教官全員が免除を許したわけではありません。卒業させまいとした教官もいます。そうではあっても,エホバの原則を固守することにより,大勢の若者が重要な教訓を学びました。エホバの王国の側にしっかりと立ち,この世の事柄に関して中立を保つなら,エホバが保護と祝福を与えてくださる,という教訓です。―箴 29:25。
大会開催地の増加
では,エホバの民の霊的な集まりに目を向けてみましょう。そのような集まりはいつも,喜びに満ちたひとときとなります。フィリピンでは,第二次世界大戦前には証人の数がわずかだったので,戦後になるまで大きな集まりは開かれませんでした。とはいえ,大会によって兄弟たちを築き上げるために様々な努力が払われました。『1941 年鑑』(英語)によると,1940年3月にはマニラで大会が開かれました。
ジョセフ・ドス・サントスが日本軍によって投獄されたことを覚えておられるでしょう。兄弟は,1945年初めに,ようやく米軍によって解放されました。ドス・サントス兄弟は,兄弟たちの霊的福祉に鋭い関心を抱いていました。兄弟たちの大半は,組織と交わっ
てまだ日の浅い人たちでした。そうした兄弟たちが家庭聖書研究によって他の人に聖書の真理を効果的に教える方法を学べるよう,様々な取り決めが設けられました。その一環として,1945年の終わりごろにパンガシナン州リンガエンで全国大会が開かれました。約4,000人という出席者数は,当時の関心の大きさを物語っています。すでに戦争も終わっており,大会はまさに喜びに満ちたひとときとなりました。それ以降,大会出席者は伝道者の増加に合わせて着実に増えていきました。およそ17年後には,4,000人が3万9,652人になっていました。その後,大会は1か所だけではなく7か所で開かれるようになりました。さらに15年後(1977年),地域大会の出席者は10万人を超え,その年には,国内各地で20の大会が開かれました。8年後には出席者は20万人を上回り,1997年には30万人以上になりました。2002年には過去最高の63の大会を計画することができました。島から島への旅行は困難で,費用もかさみます。多くの場所で大会を開けば,兄弟たちにとって近くなり,出席しやすくなります。その結果,さらに多くの人がそれらの霊的な宴から益を得ています。
出席の努力をエホバは祝福される
大会に出席するのは易しいことではありません。1947年のことですが,フィリピン北部の兄弟たちは,海辺のビガンで開かれる巡回大会に出席するため,2そうのいかだに乗ってアブラ川を下り
ました。河口に着くと,いかだをばらして材木として売り,大会後に山へ帰るためのバスの乗車券を買いました。兄弟たちは,大きな米袋,まきの束,寝具などを担ぎ,大勢の子どもを連れ,にこにこしながらやって来ましたが,大会中,その笑顔はいっそう喜びに輝きました。持参した米やまき,旧式のこんろ,寝具で,物質的な必要はすべて賄うことができました。1983年,フィリピン南部の南ダバオ州にあるカブラン会衆の兄弟たちは,山の中を3日間歩いて船着き場に出,そこからモーターボートに1日乗って大会開催都市へ行きました。そして,「王国の一致」地域大会で他の兄弟たちとの交わりを楽しむと,お金を費やして努力したかいが十分にあったと感じました。
1989年には,2歳と4歳の二人の子どものいる家族が,巡回大会に出席するため,パラワン州の町エル・ニドから約70㌔を徒歩で旅しました。2日間,道らしい道のほとんどないジャングルを通り,体についたヒルをむしり取りながら歩きました。さらに悪いことに,その2日とも雨でした。大小幾つもの川を渡らなければなりませんが,橋はありませんでした。そのような困難にもかかわらず,一家は無事に到着し,大会で兄弟たちとの交わりを大いに楽しみました。
地域によっては現金収入が限られており,家族で大会に出席するための費用を工面するのは大変です。ラモン・ロドリゲスは,1984年にそうした問題に直面しました。ラモンと家族は,ルソン島の東海岸沖に浮かぶポリヨ島に住んでいます。ラモンは漁師です。大会をわずか1週間後に控えて,7人家族のうち一人が出席できるだけのお金しかありませんでした。この問題について家族でエホバに祈った後,ラモンと12歳の息子は漁へ出かけまし
た。海へこぎ出し,網を下ろしましたが,何もかかりません。しばらくして息子が,家の近くに戻ってもう一度網を下ろしてみようと言うので,そうしてみました。ラモンはこう述べています。「期待していなかったのに,網を引き上げると大漁で,舟がいっぱいになりました」。なんと500㌔もの魚が取れたのです。その魚を売ったところ,ロドリゲス家がみんなそろって大会に出席してもまだ余るほどのお金が手に入りました。次の日の夜,大会に出席したいと願っていた他の兄弟たちも同じ場所で網を下ろし,魚を100㌔取ることができました。ラモンはこう付け加えています。「同じころ,エホバの証人ではない漁師たちも漁に出て網を下ろしましたが,1匹も取れなかったので驚いていました。そして,『あいつらは大会に行くから神様のお恵みがあったんだ』と言っていました」。フィリピンの証人の家族は,生活において霊的な事柄を第一にし,祈りに調和した行動を取れば,喜びやエホバの祝福を得られる,ということを幾度も体験しています。
際立った大会
世界じゅうのエホバの民にとって,過去の大会は懐かしい思い出です。フィリピンの兄弟たちの場合も同じです。大会はどれもすばらしいものですが,特別に意義深く,より深い感動を残す大会もあります。例えば,国際的な集いや,宣教者たちが故国に戻って聴衆に経験を語った大会がそうです。
すでに述べたとおり,大勢のフィリピン人の兄弟姉妹が,アジアの他の国々や島々で宣教者として奉仕しています。世界じゅうの証人たちは,これまで何度か,宣教者たちの母国への大会出席を
援助する基金に寄付を行なってきました。フィリピン人の宣教者たちも,その愛ある取り決めの恩恵にあずかりました。1983年,1988年,1993年,そして1998年に,多くの宣教者がその取り決めによってフィリピンへ帰り,家族や友人と大会を楽しみました。1988年の報告によると,12か国で奉仕する54人の宣教者が大会のためにフィリピンへ帰りました。その54人は,その時点で全時間奉仕を平均24年間行なっていました。大会出席者は皆,プログラムの中で宣教者たちが語ったコメントや経験を大いに楽しみました。一方,何かの事件のゆえに,また数々の不便があってもあきらめない兄弟たちの固い決意のゆえに,人々の記憶に残っている大会もあります。例えば,1986年にミンダナオ島のスリガオで開かれた「神の平和」地域大会の場合,大会直前に風速42㍍の台風が同市を襲い,競技場の屋根がひどく損傷しました。市の電力供給は完全に断たれ,大会後まで復旧しませんでした。水は6㌔も
離れた場所から運んでこなければなりませんでした。それでも,証人たちは集まり合うことをやめず,ステージの残がいを拾い集め,競技場の隣の体育館の中にステージを設置しました。また,発電機を借りて,照明,音響設備,給食用の冷蔵庫の電源としました。予想出席者数は5,000人でしたが,最高9,932人もの人が大会を楽しみました。その人たちは,“日和見”クリスチャンなどではなかったのです。国際大会も特別の思い出となっています。統治体は,1991年と1993年にマニラで国際大会を開くよう取り決めました。海外からの代表者たちは,マニラの人々に強い印象を残しました。フィリピン人の兄弟姉妹にとっては,相互に励まし合うための実にすばらしい機会となりました。(ロマ 1:12)ほとんどの人は,外国旅行をする余裕がなかったからです。外国からの代表者たちは,フィリピン人の兄弟たちの温かで親しさにあふれたもてなしに感銘を受けました。米国から来た夫婦はこう書いています。「温かく歓迎してくださり,本当にありがとうございます。わたしたち全員を腕を広げて迎え,優しく抱き締めてくださいましたね」。
1993年には,マニラの3か所の競技場が用いられ,統治体の成員が話を行なうたびにその3か所が電話回線で結ばれました。出席者たちが大いに興奮したのは,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」のタガログ語版が発表されたときです。一人の若い姉妹はこう語ります。「うれしくてたまりませんでした。タガログ語の『新世界訳』が出る日を待っていたんです。受け取って本当にびっくりしました」。
1998年,立場が逆転しました。1958年以来初めてのこととして,フィリピンから外国へ代表者を送る機会が開かれたのです。
107人が,米国西海岸で開かれる大会へ行きました。9月には,35人が韓国での国際大会に出席する特権を得ました。そうした大会が,エホバの民を教育して一致させる点で,またエホバをとりでとするようすべての人を助ける点で,重要な役割を果たしてきたことは確かです。さて,野外での業に注意を向けてみましょう。非常に多くの言語が話されている国で,この業はどのように行なわれてきたのでしょうか。
多くの言語で良いたよりを伝える
先に述べたとおり,一般に,人は母語で学ぶほうが真理をよく理解できます。フィリピンでは,それは大きな課題となります。多くの言語が話されているからです。それでもエホバの証人は,相手の人の言語で証言し,様々な言語の聖書文書を用意することにより,人々の必要に応じるよう努めてきました。
普通,それぞれの言語グループに対する証言は,その言語を話せるコリ一 9:22。
人たちが行ないます。しかし,その言語を話せる証人がほとんどいない場合,熱意にあふれる伝道者や開拓者がその言語の習得に取り組んできました。そのようにして,「あらゆる人に対してあらゆるもの」となった使徒パウロに倣っているのです。―フィリピンは,英語を公用語とする国の中では4番目に人口の多い国ですが,国民の大半にとって英語は母語ではありません。だれもが英語をよく読めるわけではないので,フィリピンの幾つもの言語で出版物を準備することが必要です。エホバの証人はこれまでに,聖書関係の出版物を少なくとも17のそうした言語に翻訳してきました。中には,一つか二つのブロシュアーしかない言語もあります。南部のイスラム教徒が話すタウスグ語や,国の最北部付近に住む少数民族の用いるイバナグ語がそうです。たいていの人々は,主要7言語のどれかを理解し,無理なく使うことができます。「ものみの塔」誌はそれらの言語に翻訳され,発行されています。王国会館や大会での霊的プログラムも,主にその7言語で提供されています。
近年,政府は,タガログ語と基本的に同じピリピノ語の使用を奨励しています。その効果は徐々に表われてきました。会話や印刷物にピリピノ語がかなり使用されるようになり,他の言語の使用はこれまでどおりか減少するかしています。この変化は,「ものみの塔」誌の印刷部数にも表われています。タガログ語版の1号当たりの発行部数は,1980年には2万9,667冊でしたが,2000年にはその4倍の12万5,100冊に達しました。それと同じ期間に,英語版はほとんど変化せず,他のフィリピンの言語版はわずかに増加したにすぎません。
野外の業を支えるベテル家族
マニラ首都圏という複合都市に含まれるケソンシティのエホバの証人の支部事務所には,380人ほどの全時間奉仕者がいます。69人が地元言語の出版物の翻訳・校正作業を行なっており,その奉仕者の一部は,「新世界訳」のヘブライ語聖書部分をセブアノ語,イロカノ語,タガログ語の3言語へ翻訳する作業を最近終えました。1993年に「新世界訳」のギリシャ語聖書部分が発表されて以来,兄弟たちは「新世界訳」全巻を手にするのを楽しみにしていました。2000年の暮れに地域大会の発表文書としてタガログ語版を受け取った時,兄弟たちは胸を躍らせました。程なくして,セブアノ語版とイロカノ語版も発表されました。今では野外の大勢の人々が,明快かつ正確で一貫したこの聖書翻訳から益を得ています。
フィリピンのベテル家族には様々な経歴を持つ人たちがおり,合計28の言語や方言を話します。ですから,多くの成員は,聖書に基づく出版物の翻訳に適任です。とはいえ,ベテルで行なわれているのは翻訳だけではありません。
ベテルの自発奉仕者たちは,野外での極めて重要な伝道活動を支えるために様々な仕事を行なっています。雑誌などの出版物を印刷する兄弟たちがおり,それらをルソン島の各地に配達する奉仕者もいます。設備メンテナンス,調理,清掃など,ベテル・ホームを支える仕事を行なう人も大勢います。奉仕部門に割り当てられた兄弟たちは,多くの言語での通信物のやり取りを担当し,会衆,旅行する監督,野外の全時間奉仕者たちを助けています。フィリピン全土のおよそ3,500の会衆のために処理される通信物の量を想像してみてください。
支部事務所が開設された1934年から1970年代半ばまで,支部の仕事全体を監督する責任は,一人の支部の僕もしくは監督にゆだねられていました。ジョセフ・ドス・サントスがハワイへ帰った後,カナダ出身の宣教者アール・スチュワートが約13年間その責任を担い,その後さらに二人の兄弟が短期間奉仕しました。次いで,1954年からフィリピンで奉仕していたデントン・ホプキンソンが,1966年に支部の監督に任命されました。そして,
世界中の支部の監督方法に関して新たな取り決めを設けるのがよいとエホバの組織が判断した時まで,約10年間その立場で熱心に奉仕しました。全世界の支部に送られた指示に基づき,1976年2月に監督の務めは,一人の男子ではなく支部委員会によって行なわれるようになりました。資格ある男子から成るこの一団が統治体の指導のもとに働き,野外と支部事務所での活動に関する決定を下す責任を持つのです。フィリピンの支部委員会は当初5人で構成されていました。その後,当初の委員の大半が外国人宣教者だったため,フィリピン人の兄弟を増やしたほうがよいと判断され,委員会は一時的に7人に増員されました。
この支部委員会の取り決めの利点はすぐに明らかになりました。現在,支部委員会の調整者として奉仕しているデントン・ホプキンソンはこう述べています。「振り返ってみると,それがいかに時宜にかなった賢明な移行だったかが分かります。仕事量や組織の規模を考えると,一人ですべての物事を扱ってゆくのは不可能でした。現在では,重い責任がバランスよく分担されています」。
箴言 15章22節は,「助言者の多いところには達成がある」と述べています。他の人と相談するなら貴重な知恵を得ることができます。フィリピンの支部委員会はその原則を適用しています。ホプキンソン兄弟が支部の監督に任命されてから,ベテル奉仕者の数は10倍になり,仕事量も増えています。現在,長い経験を持つ5人のエホバの僕が支部委員会を構成しており,その全時間奉仕の年数を平均すると50年を超えます。兄弟たちのそうした経験が一体となり,フィリピン全土の業がエホバのみ手の導きのもとに力強く前進する点で,大きな助けになってきたことは間違いあり ません。支部委員会とベテル家族全員は,この業を支援できることを貴重な特権と考えています。
「あらゆる人」のもとへ真理を携えて行く
宣べ伝える業を遂行することは,「あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至る」ようにという神のご意志とまさに調和しています。(テモ一 2:4)フィリピン各地の熱心な伝道者たちはどんな人々を援助してきたでしょうか。
マルロンは何かというと問題を起こす人物で,村では,悪徳の固まりのような人として知られていました。たばこを吸い,酒に酔い,麻薬を使い,悪い仲間と付き合っていたのです。マルロンの母親は証人たちの訪問を受け,王国の音信に関心を示しました。開拓者たちは,母親との研究を行なうため,ほこりっぽい道やぬかるんだ道を歩いてやって来ました。マルロンは,初めのうちは研究に興味を示さず,時々そばを通るだけでした。しかし,母親との研究を司会していた兄弟たちはマルロンに関心を払いました。しばらく
してマルロンは研究を始め,さらに,王国会館の集会に初めて出席するため,腰まであった髪を切りました。そして急速に進歩し,人々はそのライフスタイルの劇的な変化に驚きました。現在マルロンは,全時間の開拓奉仕者として人々に真理を伝えています。何に心を動かされて真理を受け入れたのでしょうか。マルロンは,母親との研究にやって来る開拓者たちの粘り強さを見て,証人たちが真理を持っていることを確信した,と述べています。真理を受け入れそうにないと思える人もいるかもしれません。しかし,良いたよりの宣明者たちは先入観を抱くことなく,人々に聞く機会を与えます。マリンドゥケ州の小さな島でのこと,ある家での証言を終えた特別開拓者の姉妹は,ほかにもだれか住んでいますかと尋ねました。家の人は,2階にも住んでいる,と答えましたが,「行っても無駄ですよ。乱暴ですごく短気な男だから」と付け加えました。しかし開拓者は,その男性にも王国の音信を聞く機会を与えなければならないと考えました。階段を上がって戸口に立つと,その男性はまるで開拓者が来るのを待っていたかのようでした。そこで,ほほえみながら無料の家庭聖書研究を勧めたところ,カルロスというその男性がうれしそうなので,開拓者は驚きました。こうして,カルロスとその妻は聖書研究を始めました。
2度目の訪問の際,カルロスは,自分たち夫婦は深刻な問題を抱えていて自殺を図ったこともある,と打ち明けました。開拓者が最初に下の階を訪問した時,カルロスは床に耳を当てて,下の住人が開拓者に上へ行かないようにと言うのを聞いていました。そして,『どうかこの人が忠告に耳を貸さずにとにかく上がって来てくれますように。これが思いの平安を求めるわたしたちの祈りに対する答えでしょうから』,と祈っていたのです。二人は聖書研究
によって思いの平安を得ることができました。そして,一緒にバプテスマを受け,現在,妻のほうは正規開拓奉仕を行なっています。ビクターという男性の例もあります。ビクターは仏教とカトリック両方の教えに感化を受けていました。そして,世界にこれほど多くの宗教があるのはなぜかと考え,自分で真理を探求するようになりました。イスラム教,ヒンズー教,神道,儒教,進化論,いろいろな哲学などを調べましたが,どれにも満足できませんでした。探求するうちに聖書だけが正確な預言を収めていることが分かったので,探求の対象を聖書に絞ることにしました。聖書を調べた結果,ビクターとガールフレンドのマリベルは独力で,三位一体や地獄や煉獄が偽りの教えであるという結論に達しました。とはいえ,何かが足りないように思えました。
しばらく後,マリベルと結婚したビクターは,あるエホバの証人と話しをし,神のみ名を用いなければならないことを教わりました。そして,それを自分の聖書で確認すると,すぐに祈りの中でエホバのみ名を用い始めました。やがて王国会館での集会にも出席するようになり,みるみる霊的な進歩を遂げてゆきました。ビクターとマリベルは1989年5月にバプテスマを受け,ビクターは現在では旅行する監督として奉仕し,諸会衆を築き上げています。
開拓者たちはあらゆる境遇の人々を援助しています。ルソン島南部の特別開拓者プリミティバ・ラカサンディリは,ある村の夫婦と聖書研究を始めました。その夫婦には子どもが二人いて,経済的に困窮していました。ある日,聖書研究のために訪問したプリミティバは,年上の子どもが家の中で袋に入れてつるされ,泣いているのを見て,びっくりしました。プリミティバはこう述べています。「母親はナイフを手にして今にもその子を殺そうとしてい
ました。わたしが止めに入り,どうしてそんなことをしようとしたのか尋ねると,彼女は,生活が苦しいからだと言いました」。プリミティバが経済的な問題に関する聖書の助言を夫婦に説明したところ,子どもの命は救われました。夫婦は聖書研究を続け,集会場所まで8㌔も歩かなければならないのに集会に出席するようになりました。二人は進歩してバプテスマを受け,今では夫は会衆の長老です。プリミティバはこう語っています。「殺されるところだった子どもは,今では正規開拓者になっています。エホバが僕たちにお与えになった業が今と将来の命を救う,というのは本当です」。必要の大きな所で奉仕する
王国宣明者がほとんどいない地域はまだたくさんあります。そうした地域へ開拓者や伝道者が自発的に移転しています。正規開拓者として奉仕していたパスクワル・タトイと妻のマリアは,フィリピン西部のコロン島の区域での業を援助するため,特別開拓者のアンゲリト・バルボアと一緒に移転しました。生計を立てるために,パスクワルは別の兄弟と一緒に漁を行ない,マリアは米菓子を作って売りました。
巡回監督の訪問の際,クリオンという別の島でも必要が大きいということが知らされました。そこにはハンセン病の療養施設があり,伝道者が4人しかいませんでした。巡回監督から移動を勧められたパスクワルとマリアはそれに応じ,エホバは二人の努力を祝福しておられます。伝道者が4人しかいなかったクリオン島に,今では二つの会衆があるのです。
1970年代半ば,大勢の人がベトナムを逃れてボートピープルとなり,その多くはフィリピンへたどり着きました。約20年にわたっ
て難民キャンプが運営され,パラワン島にも大きなキャンプがありました。フィリピン人の兄弟たちは,そうした人々に進んで真理を伝えました。ベトナム語を話せる一人の兄弟が米国からやって来て,力を貸しました。キャンプ内で真理を受け入れた人もいれば,エホバのみ名や証人たちのことを知った後に別の場所へ移った人もいます。特別開拓者たちはフィリピンの僻地の多くで奉仕しています。遠くの区域で奉仕するときは,他の伝道者や開拓者もよく一緒に行きます。ノルマ・バルマセダは,山の多いイフガオ州での活動の様子をこう語っています。「たいてい月曜日に出発し,土曜日の朝まで活動できるよう,文書をいっぱい入れた伝道かばん,着替え,
食料を持って行きます。土曜日の午後には,自分の会衆の集会に出るために戻ります」。特に天気の良い時に伝道旅行を取り決める会衆もあります。数日から1週間かけて田舎の区域に行くのです。現在ベテルで奉仕しているニカノール・エバンヘリスタは,そのような伝道をしていたころをこう振り返っています。「フィリピンの田舎の人たちは,関心があると決まって,『泊まっていってください。煮炊きもできますよ』と言います。開拓者たちは,関心を示した人と夜遅くまで聖書研究を行なうこともありました。その家に泊まれたからです」。
アエタ族が真理を学ぶ
エホバの僕たちはあらゆる人々に証言するため,ニグリト族とも呼ばれるアエタ族にも接触してきました。アエタ族はフィリピンの原住民と考えられています。部族人口が比較的少なく,彼らと接触するのは必ずしも容易ではありません。アエタ族の多くは,狩りをしたり,野生の果物や野菜を探したりしながら山岳地帯の森林を転々としているからです。アエタ族はアフリカのピグミーに似ています。身長は150㌢以下で,色黒の肌に縮れ髪です。一般社会に溶け込んだ人たちや,人里近くに定住するようになった人たちもいます。アエタ族の多くは,かつてはピナトゥボ山の周辺の山地に住んでいましたが,大噴火の際に移動を余儀なくされました。
アエタ族の別の一集団は,フィリピン中部のパナイ島に住んでいます。ロディビコ・イーノとその家族は,その地域出身のアエタ族です。ロディビコは聖書の原則を当てはめて大きく変化しました。こう語っています。「以前は悪い習慣に染まっていました。ビンロウジ,ヨハ 8:32。
たばこ,酒,ギャンブル,おまけに暴力です。家庭も幸福ではありませんでした。そうした悪いことをやめなかったら,今ごろはもう死んでいたかもしれません。でも今では,体は清くなり,赤茶けていた歯も白くなりました。現在,会衆の長老として仕えています。このすべては,エホバ神が与えてくださった祝福です」。アエタ族のこの家族のように,少数部族の人々も,エホバの道を歩むことから得られる自由を経験しています。―自由でない人に自由をもたらす
刑務所にいる人たちにも援助が差し伸べられています。1950年代以降,エホバの証人は獄中の人たちへの訪問に特別の努力を傾けており,真理の道を受け入れるよう多くの人を助けてきました。
反政府運動に加わっていたソフロニオ・ハインカドゥトという若者は,逮捕されて6年の刑を言い渡されました。ソフロニオは,ルソン島のニュー・ビリビド刑務所にいた時,囚人のための礼拝に出席しない囚人が一人いることに気づきました。その囚人はエホバの証人だったのです。やがて聖書に関する話し合いがほぼ毎日行なわれるようになりました。ソフロニオはこう述べています。「それまで自分が闘い取ろうとしてきたものでは,社会を本当に変革して良くすることなどできないと悟りました」。神の王国だけが望ましい変化をもたらせる,ということを学んだのです。ソフロニオは,近隣の会衆の兄弟たちに助けられて霊的に進歩し,刑務所内の散水用の井戸でバプテスマを受けました。
ソフロニオは刑期を終えると正規開拓者になり,その後,特別開拓者になりました。そして,全時間奉仕を行なっていた期間中
に,真理の道を受け入れるよう15人ほどの人を援助することができました。結婚して6人の子どもが生まれ,そのうちの3人は全時間奉仕を楽しんでおり,一人は巡回監督として奉仕しています。1995年には息子二人が宣教訓練学校に出席しました。真理は,ソフロニオとその家族,そしてソフロニオが援助した人々に真の自由をもたらしました。特別開拓者たちは,パラワン島のイワヒグ流刑植民地の囚人たちにも伝道しており,敷地内に小さな王国会館を建てる許可まで得ました。放火,窃盗および数件の殺人のかどで有罪となっていた受刑者は,研究を始め,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本から学んだ点を当てはめるよう助けられると,生き方を一変させました。
23年以上流刑になっていたその受刑者は,釈放の時が近いことを知らされると,ずっと会っていない家族と再び一緒に暮らしたいと言いました。ところが家族はその人のことを恥じ,恐れていたため,「どうか帰ってこないで」という手紙を送ってきました。家族は,神の言葉によってその人の生き方がすっかり変わったことを知らなかったのです。この穏やかで温厚なクリスチャンが故郷に戻ったとき,家族は本当にびっくりしました。
マニラ首都圏のマンダルヨンには国内最大の女子刑務所があります。エホバの証人は長年,この施設の中にいる人とはあまり面会できませんでした。ところが,すでに聖書研究を行なっていた女性がこの刑務所に移送されてきたとき,状況が変化しました。その女性は刑務所内の他の宗教グループに加わるようにと言われましたが,それはできないと言って譲らず,崇拝はエホバの証人とだけ行ないたいとはっきり述べました。刑務所側はそれを了承
し,エホバの証人がこの施設を毎週訪問することを許可しました。それ以降,刑務所内の幾人かの女性がバプテスマを受けました。また近隣の一つの会衆は,関心のある女性囚人の益を図って「ものみの塔」研究などの集会を定期的に開いています。真理の音信は,囚人たちにもユニークな自由をもたらしてきました。そうした人たちもエホバにとっては貴重であり,エホバの民はそのような人々を喜んで援助しています。
長年仕え続ける奉仕者たち
聖書には,「白髪は,義の道に見いだされるとき,美の冠である」という格言があります。(箴 16:31)確かに,長年にわたってエホバの喜びをとりでとしてきた人たちを見るのはなんと素晴らしいことでしょう。
第二次世界大戦前,フィリピンの神権組織は小さなものでした。そのころから奉仕を続けている人は今ではごく少数なので,レオデガリオ・バルレイアンと会うと本当に励まされます。レオデガリオは1938年以来ずっと全時間奉仕を行なっています。戦時中,レオデガリオ
と仲間は日本軍に虐待されましたが,伝道をやめませんでした。戦後,レオデガリオは妻のナティビダドと共に全時間奉仕を続け,旅行する奉仕も行ないました。後に二人は,身体的事情を考慮されている特別開拓者としてパンガシナン州で奉仕しました。ナティビダドは2000年に亡くなりましたが,レオデガリオは任命地で奉仕を続けています。これまでずっと行なってきた宣べ伝える業を続けようとする決意には,だれもが励まされます。第二次世界大戦後,証言活動は急速に拡大しました。当時真理を学び,今でも奉仕を続けている人は大勢います。例えば,パシフィコ・パンタスは戦時中に,近くに住むエホバの証人が持っていた聖書文書を読みました。パシフィコはこう述べています。「わたしは集会に出席し始めました。それから,普通[現在の正規]開拓奉仕を申し込みましたが,まだバプテスマを受けていなかったため,バプテスマを受けるようにと言われ,そうしました」。それは1946年のことでした。パシフィコは国内のあちこちで開拓奉仕を行ない,他の特権にもあずかりました。「わたしは,ギレアデの第16期のクラスに招待され,1950年にニューヨーク市で開かれた国際大会にも出席することができました。卒業後,米国のミネソタ州とノース・ダコタ州で巡回監督として奉仕し,その後フィリピンへ戻り,地域監督として,パシグ川以南,つまりマニラからミンダナオ島までの地方で奉仕しました」。
その後,パンタス兄弟はベテル奉仕や旅行する奉仕といった様々な割り当てを楽しみました。1963年に結婚し,子どもが生まれたので,養育のために住まいを定める必要が生じました。パンタス夫妻は家族としてエホバに仕え続け,3人の子どもは成長して全員がエホバの賛美者になりました。3人とも現在長老として
奉仕しており,一人は宣教訓練学校を卒業し,もう一人はベテル奉仕者です。パンタス兄弟は高齢になった現在でも,会衆内で積極的な力の源となっています。エホバの崇拝にふさわしい建物
フィリピンのエホバの民が,崇拝の場所である王国会館を持つようになったのは,最近のことです。長い間,兄弟たちの家で集まるのが普通でした。確かに,1世紀のクリスチャンも個人の家で集会を開いていました。(ロマ 16:5)とはいえ,現代の会衆の規模が大きくなるにつれ,多くの人を無理なく収容できる場所を持つことが必要になりました。
デービッド・レッドベターはこう述べています。「資金が足りないため,それは多くの会衆にとって非常に難しいことでした。大都市のマニラ首都圏にも,会衆の所有する土地に建設された王国会館は1軒しかありませんでした。他の王国会館は,建物は会衆の所有でしたが,土地はそうではありませんでした」。兄弟たちの収入は少なく,会衆には土地を所有する資金はありませんでした。
そのため,兄弟たちは何とかやりくりし,持っている物を喜んで提供しました。その一例として,デントン・ホプキンソンはサントス・カピストラーノのことを思い出します。マニラに住むこの兄弟は,王国会館として使用してもらうために自宅の2階を40年間も提供しました。ホプキンソン兄弟はこう語っています。「カピストラーノ兄弟の奥さんが亡くなったあと,子どもたちが1階に住んでいました。2階には王国会館があり,兄弟の部屋は,片側に台所の付いたほんの小さなスペースだけでした。王国会館が2階の大部分を占めていたのです。兄弟にとって不便だっただろう,と思わ
れるかもしれませんが,兄弟はそうできてうれしいと感じていました。それが兄弟たちの精神態度だったのです」。やがて,会衆の所有する土地に王国会館を建てることが可能になりました。ペソの価値が上がり,1980年代には賃金も少し上がったので,資金の借り入れが容易になりました。その結果,一部の会衆は融資を受けることができました。
その後,統治体が親切な取り決めを設け,事態は大きく変化しました。米国とカナダで王国会館基金の取り決めが発表され,程なくしてフィリピンは,王国会館建設という特定の目的のために寄付された資金の恩恵を受けるようになりました。「均等になる」ようにするという原則に基づくこの取り決めのおかげで,資金の借り入れが可能になりました。(コリ二 8:14,15)当初の進展はゆっくりでしたが,他の場所でこの取り決めがどのように成果を上げているかを聞いて多くの兄弟たちが力づけられ,自分たちも王国会館を持とうと努力するようになりました。
この取り決めによって驚くべき変化が生じています。王国会館基金からの貸し付けに関連して,支部事務所はこう報告しています。「これまでに合計1,200以上の王国会館プロジェクトが進められました。国じゅうに衝撃を与えたのは間違いありません」。当初,基金の大部分は外国からのものでしたが,やがてフィリピンの兄弟たちが自ら取り決めを支えられるようになりました。その点に関して支部事務所はこう述べています。「ここ数年の間,王国会館プロジェクトの全資金はフィリピン国内の兄弟たちからの貸付返済金や寄付で賄われています。このように,経済水準の低い国においても資金を積み立てるなら良い成果が得られるのです」。
今では多くの会衆が王国会館を所有していますが,フィリピンには約3,500の会衆があり,自己所有の集会場所を必要とする会衆がまだあります。しかも,そのうちの500ほどの会衆は伝道者が15人未満で,王国会館基金からの貸付金を返済するのは不可能です。それで,王国会館を持てるようにするため,会衆の合併が提案されています。
集会のスケジュールに関する見方を調整する
王国会館のあるなしにかかわらず,一部の会衆はへんぴな場所に位置しています。兄弟たちは集会場所まで行くのに,でこぼこ道を2時間から4時間,あるいはそれ以上歩かなければなりません。そういうわけで,地域によっては,中心的な集会場所に週に2回以上集まることが実際的ではなく,書籍研究以外のすべての集会を1日にまとめて行なう会衆が少なくありませんでした。兄弟たちは四つの集会の予習や準備をし,昼食を持って出かけました。こうして,遠い集会場所までは週に一度だけ行けばよく,野外宣教などの活動は他の曜日に自宅の近くで行なっていました。
そのような習慣は,1980年代に,それほどへんぴでない地域の会衆にも取り入れられ,都市部の会衆にも広がりました。経済的苦境のため,お金を節約したいと思ったのかもしれません。集会に行く日が減れば移動時間も出費も減るというわけです。また,便利さを重視しすぎた兄弟たちもいました。集会以外の日を教育や世俗の仕事などの個人的な事柄のために用いていたようです。
四つの集会を1日で行なう会衆がますます増え,中には五つの集会すべてを1日で行なってしまう会衆もありました。しかしそれは,世界的なエホバの民の大部分が行なっている方法からフィリピン
の諸会衆がどんどんそれていっている,ということを意味しました。世界の兄弟たちは週に3日集会を開いているのです。この点で,フィリピンの兄弟たちは幾分平衡を欠いていました。1991年の地帯監督の訪問中にこの問題に注意が向けられ,統治体の指示を仰ぐことになりました。統治体からの返事には,「斟酌すべき極端な状況でない限り,そのような習慣は好ましいものではないでしょう」とありました。この情報は,最初に都市部の兄弟たちに,それから田舎の地方の兄弟たちにも伝えられました。指摘されたのは,集会に関する確立された世界的な取り決めに従うということだけではありません。3時間半から4時間にすべての資料を詰め込もうとするよりも,集会を分けて行なうほうが会衆は霊的に益を得られる,ということも指摘されました。幼い子どもや関心を抱いたばかりの人たちは,そのような予定に付いてゆきにくく感じていました。長老たちも,一度にたくさんの集会
を行なうよりも一つか二つの集会を行なうほうが,質の高い話を準備することができました。この助言に対する諸会衆の反応はどうでしたか。ほとんどすべての会衆が積極的に応じ,週の半ばにも集会を開くようすぐに調整を加えました。現在では,非常にへんぴな地域の会衆を除き,ほとんどの会衆がいっそう平衡の取れた霊的プログラムを毎週楽しんでいます。
大会ホール
長い間,巡回大会を開くために,学校の運動場の観覧席,体育館,陸上競技場などの公共施設を使用していました。不便ではありましたが,兄弟たちは,大会という喜びに満ちた交わりの機会を高く評価していました。
王国会館と同様に,大会ホールを取得するのも容易ではなく,やはり経済面での制約がありました。それでも,多くの巡回区が自分たちの集まりの場所を持ちたいと切に願った結果,質素な大会ホールが幾つも建設されました。そうしたホールのほとんど
は,他の国々のように幾つもの巡回区が使用するのではなく,一つか二つの巡回区だけが使用しています。多くの場合,特に田舎の地域で土地が寄付されたり手ごろな値段で購入されたりし,兄弟たちは寄付を出し合って簡素な造りのホールを建てました。たいていは壁のない構造で,日よけの屋根,コンクリートの床,ステージ,座席があるだけのホールです。マニラ首都圏では,そのようなホールの建設でさえ不可能でした。おもな理由は,地価と,ふさわしいホールを市内に建てる費用とが途方もなく高いからです。マニラ地区の諸会衆が建設基金に寄付した金額では,土地を購入することさえできませんでした。1970年代から1990年代後半まで,マニラ首都圏の大会は引き続き学校や競技場スタンドなどで開かれていました。
その間にマニラ首都圏の会衆と巡回区の数は増加し続け,大会ホールの建設が急務になりました。ふさわしい土地を探すことが始まりました。諸会衆に手紙が送られ,このプロジェクトを金銭的に支持できることが知らされました。1992年,マニラ首都圏の北の外れ,ラグロ地区の近くに約6ヘクタールの土地が見つかりました。
マニラ首都圏の会衆は,寄付や自発奉仕者という形でプロジェクトを支えました。数か国から,インターナショナル・サーバントが建設の援助にやって来ました。そのうちの一人でニュージーランド出身のロス・プラットはこう語っています。「1997年3月,ブルックリンから着工の承認を得ました。大規模な土木作業を行ない,現場の整地のために2万9,000立方㍍の土砂を運びました。50ないし60人が専属で働き,大会ホールは1998年11月に完成しました」。その後,ホールは献堂されました。最大1万2,000人を収容できるよう設計されているので,地域大会も開けます。壁がないこの大会ホールでは,中でプログラムに耳を傾けている聴衆の間を熱帯の風が吹き抜けます。現在,マニラ首都圏とその周辺の16の巡回区が,このホールで霊的プログラムを定期的に楽しんでいます。
支部の敷地の拡張
会衆と巡回区の数が増えるにしたがって,支部の仕事量も増加しました。1980年の時点で伝道者は約6万人でしたが,それから10年とたたないうちに,フィリピンは10万人以上の伝道者を有する国々に仲間入りしました。その間に,ベテル家族は102名から150名に増えました。ところが,1980年代初めにすでに支部は手狭になりつつあり,宿舎の拡張が必要でした。
統治体は用地を探すよう指示しました。フェリクス・ファハルドは,その時の様子をこう語っています。「ベテル近辺に売地がないか,家々を訪ねて回りました。フィリピン人と中国人の地主たちは,売るつもりはないと言いました。ある地主は,『中国人は売らない。我々は買うだけだ。売ったりなんか絶対しない』と言って,耳を貸しませんでした」。そのようなわけで,当時,既存の支部の近くに入手できる物件は一つもないように思われました。
他の場所でも土地探しが行なわれ,必要なら支部は市外に移転することになるだろうとも考えられていました。近隣の州で幾つかの候補地が見つかりました。統治体は,ラグナ州サン・ペドロ近郊の広大な一区画に特に関心を寄せました。ある兄弟が手ごろな値段で売却を申し出たのです。購入が承認され,そこに建設事務所,ベテル・ホーム,工場を建設する計画が練られました。しかし,しばらくすると,その場所への移転はエホバのご意志でないように思えました。電話線が引かれておらず,道路状況も悪く,治安の面でも心配がありました。結局,その土地は支部の候補地として最適でないことが明らかになり,ベテル家族に必要物を供給する農場となりました。とはいえ,それによって支部事務所のスペース不足の問題が解消されたわけではありません。
エホバの導きと思える,予期せぬ事態の進展がありました。フェリクスは続けてこう述べています。「支部のすぐ隣の人から突然,『土地の売却を考えています。1,000平方㍍ですが,あなた方に売りたいと思っています』と言われました。統治体の指示を受け,その土地を購入することになりました。これで決まりと思ったのですが,建設計画を世界本部に提出すると,『土地をもっと探すとよいでしょう。もう少し土地が必要です』という答えが返ってきました」。
「その直後,医師と弁護士がやって来て,『わたしたちの土地を売りたいのですが』と言いました。こうして,さらに1,000平方㍍の土地が見つかりました。また,支部の隣に1ヘクタールの土地を持つ女性もそれを売却したいと言い,非常に安く譲ってくれました。今度こそ十分の広さの土地を確保できたと思いましたが,本部からは『もっと探してください』と言われました」。
その後,予想外の助けが与えられました。わたしたちに土地を売った医師と弁護士が近所の人たちを訪ね,土地を売るよう説得してくれたのです。近所の人たちは次々に土地の売却を支部に申し出ました。近隣のほとんどすべての土地を購入できたので,新たな計画書を本部に送りました。ところが,またもや「もう少し必要」という返事です。兄弟たちは,『今度はどこへ行けばいいのだろう。この近所で可能性のある所はすべて当たったのだが』と思案しました。
そのような時に1本の電話がありました。以前に「中国人は売らない」と言っていた実業家の所有地が売りに出されたのです。フェリクスは言います。「リーチ兄弟とわたしは購入希望者がほかにだれもいないことを知り,破格の値段でその土地を買いました。
エホバのみ手の働きがあったのだと思います」。1ヘクタールの土地が追加され,ついに本部から,「必要な土地を入手したので,建設計画に着手してください」という返事を得ることができました。時とともに状況が変化し,サン・ペドロの農場はもはや必要ないことが分かりました。ベテル家族用の食料の多くは,大量仕入れによって,農場で生産するよりも安く購入することができました。それで農場は売却されることになり,1991年に新しい所有者の手に渡りました。売却で得た利益は,支部の新しい建物の建設費に充てられました。
新しい支部施設を建てる
こうして支部の所有地は,1947年に購入された元の1ヘクタールの敷地に比べて3倍以上の広さになりました。エホバの証人の日本支部にあった地区設計事務所の助けを得て設計図が引かれ,1988年半ばに整地工事が始まりました。幾つかの古い木造の建物は解体されることになりました。新たに建設されるのは,11階建ての宿舎棟と大きな2階建ての工場棟などで,敷地内には王国会館も建設されることになっていました。
建設を手伝うよう割り当てられたギレアデ卒業生たちに加えて,五つほどの国から300人近い兄弟姉妹が,長期のインターナショナル・サーバントもしくは短期のインターナショナル・ボランティアとして,プロジェクトを援助するためにやって来ました。近隣の住民は外国から援助に来た奉仕者たちを見て驚き,それら奉仕者のほとんどが自費で来たことを聞くとさらにびっくりしました。地元の兄弟姉妹たちも加わり,国際的な一致の雰囲気が醸し出されました。
土地の取得の場合と同様,建設期間中にもエホバの導きがありました。例えば,建物に必要なタイプの屋根材を扱う会社がフィリピン国内に1社しかなく,支部からの注文はその会社の順番待ちリストの301番目でした。兄弟たちは副社長と直接話し合う約束を取りつけ,工事がボランティアによるものであることを説明しました。会社の重役会は兄弟たちの要請を受け入れ,支部の注文を生産リストのトップにしました。資材が届けられた直後,その会社の従業員たちはストライキに入りました。
支部建設プロジェクトに携わった大勢の兄弟たちは,すばらしい
精神を表わしました。毎週約600人の自発奉仕者が近隣の会衆から手伝いに来ました。実際のところ,工事の約30%はそうした自発奉仕者によって行なわれたのです。高い建設基準が一貫して適用されました。フィリピン諸島は地震多発帯に位置するため,設計の兄弟たちは11階建ての建物が強い揺れにも耐えられるようにしました。新しい建物の質は,以前の建物とは比べものにならないほど高くなっています。以前の建物の中には,何と1920年代に建てられたものもありました。かなり古い建物は解体され,そこに新しい建物が建てられました。
1991年4月13日,ついに支部の献堂式が行なわれ,統治体のジョン・バーが1,718人の聴衆を前にして献堂の話をしました。40年以上にわたってエホバに仕えている兄弟姉妹が招待され,10か国から来たゲストと一緒にプログラムを楽しみました。翌日,国内の6か所が電話回線で結ばれ,霊的に築き上げるプログラムから7万8,501人が益を得ました。
フィリピンの兄弟たちもインターナショナル・サーバントとして出かけて行く
支部の建設中に,外国から来たインターナショナル・サーバントはフィリピンの兄弟たちに技術を教えました。訓練を行なったヒュベルトゥス・フーフナゲルスによると,「地元の兄弟たちの多くは非常に熱心で,学んだ点を応用することができました」。その結果,フィリピンのプロジェクトが終わると,それら訓練を受けた兄弟たちの一部は,外国の,特に東南アジア諸国の支部建設プロジェクトを援助するため,インターナショナル・サーバントとして出かけて行くことができました。
ケソン州出身のジョエル・モラルはその一人です。初めは1週間の自発奉仕のつもりでマニラの支部建設にやって来ましたが,ジョエルの働きが必要とされ,奉仕を延長するよう依頼されました。ジョエルは,建設の経験はあまりありませんでしたが,支部建設に携わるうちに外国人のインターナショナル・サーバントから短期間で技術を吸収することができました。
フィリピンでの建設が終わらないうちに,タイの新しい支部の建設を援助する必要が生じました。ジョエルはこう述べています。「思いがけず,タイへ行く招待を受けました。フィリピンでの建設の経験は,国際的な業に備える大きな助けとなりました」。ジョエルは,タイに1年以上とどまって建設を援助しました。
ジョシュア・エスピリトゥとサラは,フィリピン支部の建設奉仕で知り合いました。支部の献堂式のあとしばらくして結婚し,二人でインターナショナル・サーバントとして奉仕することを目標にしました。何か月か後に,外国での建設に加わるよう招待を受け,これまでに5か国で奉仕してきました。アジアの3か国とアフリカの2か国です。ジョシュアは,まだフィリピンにいたころの経験をこう語っています。「わたしたちは,外国から来た兄弟たちと共に働きながら技術を身に着け,他の人を教えられるまでになりました」。外国に派遣された二人は,地元の兄弟たちに,「わたしたちはずっとここにいるわけではありません。いずれは皆さんが仕事を行なってゆくんですよ」と教えました。外国へ行く目的について,ジョシュアはこう述べています。「働くだけのために行くのではなく,兄弟たちを教えようと心掛けています」。
当然ながら,外国へ行くには柔軟性が求められます。ジェリー・アユラは,タイ,西サモア,ジンバブエなど数か国に遣わされまし
た。こう述べています。「エホバがあらゆる経歴の人々を用いておられることを,身をもって知りました。エホバがその人たちを愛しておられるのですから,わたしたちも愛します」。こうしたフィリピン人の兄弟たちは,国際的な規模でエホバの業に貢献できることに大きな喜びを感じています。社会不安も業の妨げにはならない
エホバの喜びをとりでとすることには,困難な時も神に忠節であり続けることが含まれます。フィリピンのエホバの僕たちは,これまで何度もそのことを実証してきました。
戒厳令は1981年1月17日に解かれたものの,社会不安は1980年代を通じて続きました。1986年2月には政権の交代がありましたが,権力の移行は比較的穏やかに行なわれ,「ピープル・パワー」革命の起きた地域の会衆も妨害を受けずに集会や伝道を続けることができました。奉仕者たちは,「ピープル・パワー」の群衆のそばを通るとき,司祭や修道女たちが群衆に混ざって人々をたきつけているのを目にしました。
新政府はすぐさま改革を実施しましたが,社会不安は収まりませんでした。新政権になって最初の3年間はクーデター未遂事件が多発し,流血の事態になることもありました。支部建設中のある時,外国と地元の建設奉仕者は,離反した兵士たちが市の反対側で自軍のキャンプを爆撃しているのを見て驚きました。そうし
た衝突は一時的なものでしたが,一部の会衆には,安全な地区の王国会館で集まるようにとの勧告が与えられました。政府軍と反体制派の間の不穏な状況は,ミンダナオ島の一部で長年にわたって続いています。そうした地域の兄弟たちは,宣教奉仕をする際に思慮深く行動し,エホバに依り頼まなければなりません。宣教訓練学校の卒業生で,巡回奉仕を行なっているレナート・ドゥンゴグは,紛争多発地域で奉仕していました。ある時,レナートが舟を待っていると,一人の兵士から「どこへ行くんだ」と尋ねられました。
「わたしはエホバの証人の旅行する奉仕者で,年に2回兄弟たちを訪問して強め,一緒に伝道活動を行なっています」とレナートは説明しました。
兵士は,「お前さんには神様がついてるんだろうな。でなけりゃ殺されてたぞ」と答えました。このように,兄弟たちは騒乱のさなかでもエホバに依り頼んで業を続け,そのことのゆえに深い敬意を得ています。
国旗敬礼の問題を再び法廷へ
若者たちも,神に対する忠節を試みられてきました。1955年6月11日,ラモン・マグサイサイ大統領は,公立および私立学校に通うすべての子どもにフィリピン国旗への敬礼を求める共和国法第1265条に署名しました。エホバの証人の子どもたちは,世界中の証人の若者たちがするように,良心に従って行動しました。(出 20:4,5)国家の象徴に敬意を払いますが,何らかの対象への宗教的な専心の行為とみなす事柄は良心的に行なえないのです。マスバテのヘローナ家の子どもたちは国旗敬礼をしなかった ために放校処分になり,その件は1959年にフィリピン最高裁判所に持ち込まれました。しかし,最高裁はエホバの証人の宗教的立場を尊重せず,国旗は「像ではない」,「国旗に宗教的な意味合いは全くない」と主張しました。こうして最高裁は,何が宗教的で何がそうでないかに関する法的規定を独自に定めたのです。
もちろん,だからといって証人たちの宗教的な信条が変化したわけではありません。兄弟たちは聖書の原則に固く付き従いました。この判決によって多少の困難は生じましたが,予想したほど厳しくはありませんでした。
国旗敬礼の問題が再び持ち上がったのは,その判決が1987年の行政法に組み込まれた時のことです。その後,1990年にセブでエホバの証人の子どもたちが放校処分になりました。教育長はその法律を強硬に施行し,さらに多くの子どもたちが学校から追い出されました。
メディアが放校処分について報道すると,人権委員会が,教育の機会を奪われた子どもたちに関心を向けました。1959年に比べると状況が変化したように思われました。この件を再び持ち出すべき,エホバの時なのでしょうか。当時セブにいた長老のエルネスト・モラレスはこう述べます。「編集者,新聞記者,教育者などから,ぜひ裁判所に訴え出るべきだ,と口をそろえて言われました」。支部と世界本部の法律部門に指示を仰いだ結果,提訴が決定されました。
しかし,地方裁判所も,そのあとの控訴裁判所も,兄弟たちに不利な判決を下しました。ヘローナ事件に関する1959年の最高裁判決に逆らいたくなかったのです。残された唯一の方法は,再び最高裁判所に上告することでした。最高裁は訴えを取り上げるでしょ
うか。何と,最高裁から,受理するとの返事がありました。弁護士であるエホバの証人のフェリーノ・ガナルが,最高裁への上訴に関して中心的な役割を果たしました。幾日か後に最高裁判所は,判決が下るまでの間,放校処分になった子どもたち全員の復学を認めるように,との命令を出しました。双方の主張が提出され,最高裁判所は慎重に検討した結果,1959年の判決を覆す判決を下し,国旗敬礼,忠誠の誓いの暗唱,国歌斉唱を行なわないというエホバの証人の子どもたちの権利を擁護しました。その画期的な判決について,同裁判所は次のように述べています。「放校に処す……と脅して……国旗敬礼を強制するというのは,言論ならびに信仰告白と崇拝の自由権を保障する権利章典に慣れ親しんできた現代のフィリピン国民の良心に反する考えである」。同裁判所はさらに,エホバの証人に対する放校処分は,「1987年憲法のもとでの,自由に教育を受ける……彼らの権利を侵害する」ものであると裁定しました。マニラ・クロニクル紙(英語)は,「最高裁判所,エホバの証人への35年間の不当処置を正す」と報じています。
相手側は再審理の申し立てを行ないましたが,1995年12月29日に最高裁判所はそれを棄却し,判決は確定しました。エホバの民がまさに勝利を収めたのです。
災害に遭っても業を続行する
この報告の冒頭で触れたとおり,フィリピンは頻繁に災害に見舞われています。兄弟たちは,これまでにどんな災害に遭ってきたでしょうか。
地震: フィリピン諸島は二つの大きな構造プレートがぶつかるところに位置しているため,よく地震が起きます。ある専門家によると,1日に少なくとも5回の地震が起きており,人間の感じない揺れはもっと頻繁に生じています。そのほとんどは生活に影響を及ぼしませんが,時として強い地震が大惨事をもたらします。
1990年7月16日午後4時26分,ルソン島中部のカバナトゥアン市近郊で,非常に激しい揺れと強い余震がありました。ベンゲット州も甚大な被害を受け,学校やホテルが倒壊して人命が失われました。
その地方で地域監督として奉仕していたフリオ・タビオスと妻は,その時,ベンゲット州の山岳地で開かれる巡回大会に向かう途中でした。二人は,バギオまで野菜を売りに行く兄弟のトラックに乗せてもらい,曲がりくねった山道を抜け,道幅の狭い所に来ました。そこで対向車をやり過ごそうとしたその時,突然,山から岩が幾つも落ちてきたので,大きな地震だと気づきました。フリオはこう述べています。「兄弟が何とかトラックを広い場所までバックさせると,さっきまでわたしたちのいた所に大岩がずしんと落ちました。わたしたちは,無事だったことを感謝しました。その直後に2度目の揺れがあり,すぐ近くにあった巨大な岩が,まるで踊っているかのように揺れました」。山の斜面がそっくり崩落したのです。
地滑りで道路がふさがれ,大会会場どころか,他のどこへ行くにも山の中を歩くしかありませんでした。日が暮れて,親切な人に泊めてもらい,翌日,目的地に向けて高い山を登りました。道中,被災
した兄弟たちと連絡を取りました。兄弟たちは互いに助け合いながら,地震の被害から立ち直ろうとしていました。フリオたちは危険な山道を歩いて,ようやく,大会の開かれるナギーに到着しました。フリオはこう述べています。「うれしさのあまり泣いている兄弟たちもいました。わたしたちがもう来ないだろうと思っていたのです。わたしたちはくたくたでしたが,喜びいっぱいの兄弟姉妹に出迎えられ,元気がわいてきました」。地震があったにもかかわらず,多くの兄弟たちは努力して大会会場までやって来ており,霊的な事柄に対する高い認識を示していました。当時,支部で新しい建物が建設中だったことを覚えておられるかもしれません。宿舎棟は未完成でしたが,1990年の地震が構造強度の初試験となりました。横揺れで気分の悪くなったベテル奉仕者もいましたが,建物は設計どおり,強い揺れにも持ちこたえました。
洪水: 湿度の高い熱帯気候のため,フィリピンの大部分で雨がたくさん降り,所によっては頻繁に洪水が生じます。46年以上全時間奉仕を行なっているレオナルド・ガーメンは,昔を振り返り,「ひざまで泥につかって3㌔も歩かなければならないことがありました」と述べています。ジュリアナ・アンヘロは,パンパンガ州の,洪水の多い区域で特別開拓者として奉仕したことがあり,こう述べています。「王国の音信に関心を示した人たちのところへ行くため,小さなボートを使いました。櫂を持つ兄弟は目を凝らして,蛇が潜んでいる木をよけなければなりません。蛇がボートの中に落ちてくるからです」。1960年からずっと特別開拓奉仕を行なっているコラソン・ガリャルドは,パンパンガ州の幾つかの区域で長年奉仕しました。時々,乗るボートがなく,肩ぐらいまである水の中を歩くしかなかったそうです。何度かそうした大変な経験をしたにもかかわらず,コラソン
は今でもすばらしい精神態度を保っています。順応することやエホバに頼ることを学び,忠節な者たちを神がお見捨てにならないことを理解しているのです。ピナトゥボ山の泥流が多くの低地を埋め尽くした後,雨水が他の地域に流れ込むようになったため,パンパンガ州の洪水はいっそう深刻になっています。その地域の巡回監督ヘネロソ・カンラスによると,兄弟たちは洪水のためにしばしば長靴をはいて,あるいははだしで野外奉仕に行かなければなりません。とはいえ,兄弟たちはそうした不便を物ともせず,奉仕に出かけてゆきます。
大洪水のために地域社会全体が被害を受ける場合,エホバの証人は互いに助け合い,証人でない人たちにも援助の手を差し伸べます。フィリピン南部の北ダバオ州が大洪水に襲われた時,町の当局者は証人たちの援助に大いに感謝し,その気持ちを表わす決議を採択しました。
火山の噴火: フィリピンには火山が幾つもありますが,世界の注目を集めたのはピナトゥボ山です。1991年6月,噴火とともにすさまじいきのこ雲が発生し,昼間なのに夜のように暗くなりました。ハルマゲドンの始まりだと思った人もいたほどです。火山灰は,はるか西のカンボジアにまで達しました。ピナトゥボ山は,短時間に約66億5,000万立方㍍の火山砕屑物を噴出しました。火山灰の重みで,屋根だけでなく建物そのものが崩壊した家もありました。噴出物の大半は大量の泥流となり,家々を押し流し,あるいは覆い尽くしました。火山灰と泥流のために,幾つかの王国会館や兄弟たちの家もひどい被害を受けたり,破壊されたりしました。当時タルラクで正規開拓奉仕をしていたジュリウス・アギラールは,「わが家はそっくり火山灰に埋もれてしまいました」と語っています。アギラール家は引っ越しを余儀なくされました。
巡回監督としてその地域を奉仕していたペドロ・ワンダサンはこう述べています。「兄弟たちはエホバに対する崇拝や奉仕を決してやめず,集会の出席率はいつも100%を超えていました。さらに,宣べ伝える業に対する兄弟たちの愛も,泥流のせいで弱まることはありませんでした。わたしたちは避難した人たちに宣べ伝え続け,被災地域でもそうしました」。
このような災害の時は,クリスチャン愛を実践する機会となります。ピナトゥボ山の噴火の最中,またその後,兄弟たちは助け合いながら避難しました。支部事務所は直ちにトラックで米を届けました。そのトラックは,米を下ろした後,被災した町から兄弟たちが避難するために使用されました。マニラの兄弟たちは必要を見て取るとすぐに反応し,資金や衣類を送りました。パンパンガ州ベティスの若い兄弟たちは被災者のための救援隊を結成しました。兄弟たちが援助した関心を持つ女性は,真理のために夫から反対されていました。若い兄弟たちがその夫婦の家の建て直しを手伝うと,夫は深い感銘を受け,その後エホバの証人になりました。
台風: フィリピンの気象災害のうち,最も甚大な被害をもたらすのは台風です。フィリピン諸島には毎年平均20ほどの台風が来襲します。台風の強さは様々ですが,強風と大雨が特徴です。建物を倒壊させるほど強いものも多く,作物に被害をもたらし,農家の生活に深刻な打撃を与えます。
証人たちも何度となく家や作物に被害を受けていますが,たいてい,何事もなかったかのように立ち直って頑張り続けています。一部の地域では台風があまりに頻繁なので,特別なこととは考えられていません。褒めるべきことに,兄弟たちは対処法を身に着け,その日その日の生活上の問題に取り組んでいます。(マタ 6:34)もちろん近隣の兄弟たちは,困窮している人たちのことを聞くと自発 的に食料やお金を送って援助しています。たまにやって来る超大型台風の場合は,旅行する監督からの連絡を受けて,支部がすぐさま救援活動を組織します。
聖書文書の配達
フィリピンにはたくさんの島があるので,遅れることなく良い状態で諸会衆に文書を届けるのは並大抵のことではありません。長いあいだ郵便が利用されていましたが,「ものみの塔」誌や「わたしたちの王国宣教」が集会で扱われる時までに届かないことがよくありました。
支部の発送部門で働いているジヒュー・アモロは,変更のきっかけとなった出来事を振り返り,こう述べています。「遅配の問題があったうえ,1997年には郵便料金が大幅に値上げされました」。2週間ごとに約36万部の雑誌を発送していたのですから,多額の支払いが関係していました。
支部の兄弟たちが自ら文書を配達するという案が統治体に提出され,注意深い調査の末に承認されました。ルソン島内の配達先へは支部から直接トラックが向かいますが,他の地域は海で隔てられているため,信頼できる配送業者を利用し,フィリピン諸島各地の所定の場所に雑誌と文書を船便で送っています。それらの配送所から配達先まではトラックで運びます。兄弟たちは,長距離を運転してきたドライバーがよく休んで運転を続けられるよう,快く自宅に泊めました。
経済的なメリットがあるだけでなく,必要な出版物を良い状態で予定どおりに受け取れることを兄弟たちはとても喜んでいます。さらに,支部から来た兄弟たちと定期的に接するので組織をより身近に感じられるようになる,という利点もあります。多くの兄弟たち
は,「ものみの塔」と書かれたトラックが通るのを見るだけで元気づけられています。この取り決めは幾つかの面で証しともなっています。例えば,ルソン島南部のビコルで,配達中に洪水が起きました。水かさが増したため,車は幹線道路上で足止め状態になり,文書トラックは偶然ある兄弟の家の前に止まりました。その家族は文書トラックを見ると,そのドライバーたちに「水が引くまで,どうぞ中に入って食事をし,ゆっくりしていってください」と言いました。
エホバの証人ではないドライバーたちは食事や睡眠を取れる場所を知らなかったので,その様子を見て,ベテルのドライバーたちに尋ねました。「あんた方はこの人たちとどういう関係なんだい」。
兄弟たちは,「霊的兄弟です」と答えました。
すると,他のドライバーたちはこう言いました。「エホバの証人はそうなのか! 会ったばかりなのに,お互いを信頼できるんだなあ」。
国境を越えて
では,国外に目を向け,外国に住んでいる多くのフィリピン人のことを考えてみましょう。全盛期の大英帝国の領土では「決して日が沈まない」と言われていました。現代では,「フィリピン人の上には決して日が沈まない」と言われることがあります。フィリピンは小さな国ですが,フィリピン人は世界中に散らばっています。仕事などの理由で大勢のフィリピン人が外国で暮らしているのです。そうした外国暮らしがきっかけとなって聖書の真理を学んだ人たちがいます。どのようにでしょうか。また,すでにエホバの証人となっている人たちはどのように他の人を助けてきたでしょうか。
リカルド・マリクシは空港コンサルタントとして働いていました。仕事上いろいろな国へ行くので,リカルドと妻はそれを利用して,伝道
者のほとんどいない国で良いたよりを広めました。中には,宣べ伝える業が制限されている国もありました。二人は,イラン,ウガンダ,タンザニア,バングラデシュといった国々で,エホバを知るよう幾人かの人を援助する喜びにあずかりました。何か所かで会衆の設立を手伝ったこともあります。さらに,ソマリア,ミャンマー,ラオスなどでも仕事のかたわら宣べ伝え,リカルドが退職するまでの28年間そうした活動を行ないました。そのようにして良いたよりを広大な区域に伝えることに大いに貢献でき,二人はとても幸福に感じています。ある人たちは,仕事でフィリピンを離れた時にはエホバの証人ではありませんでしたが,移転先で真理を見いだしました。カトリック教徒のロウィーナは,仕事を求めてまず中東に行き,そこで聖書を読み始めました。その後,香港<ホンコン>で働き口を見つけました。そこでは多くのフィリピン人がメードとして働いています。ロウィーナはこう述べています。「神の国に導いてくれるふさわしい人をどうかお遣わしください,と毎晩神に祈りました」。祈りは聞かれ,二人の宣教者ジョン・ポーターとカーリーナ・ポーターがロウィーナのもとを訪れて,聖書研究が始まりました。ロウィーナは自分の体験をフィリピン支部に書き送り,まだフィリピンにいる夫のもとにだれかを遣わして聖書の音信を説明してもらいたいと書き添えました。
フィリピン人は,移住先で大きなコミュニティーを形成しています。1900年代初め,ハワイでプランテーション労働者が不足していたため,たくさんのフィリピン人が雇われました。ハワイで最初に真理を学んだ人々の中には,フィリピンからの移民もいました。現在ハワイには,イロカノ語会衆が10,タガログ語会衆が一つあります。
米国には大勢のフィリピン人が住んでおり,その中にはエホバの証人がたくさんいます。米国で最初のフィリピン言語の会衆は,
1976年にカリフォルニア州ストックトンに設立されました。米国支部の報告によると,「フィリピン言語の畑では非常に大きな増加が見られ,1996年9月3日には最初のフィリピン言語の巡回区が設けられました」。2002奉仕年度には,フィリピン言語の会衆は37あり,そこに交わる約2,500人の伝道者が米国支部の監督のもとに奉仕しています。タガログ語の会衆や群れは,アラスカ,イタリア,オーストラリア,オーストリア,カナダ,グアム,サイパン,ドイツにもあります。それらのフィリピン人は海外で暮らしていますが,フィリピン言語の出版物の翻訳はすべてマニラ支部で行なわれているため,霊的食物を得るには,やはりフィリピン国内の兄弟たちの助けが必要です。さらに,グアム,ハワイ,米国本土などではイロカノ語やタガログ語の大会も開かれており,劇のカセットを含む,大会用の資料もすべてフィリピンで翻訳され,そこから送られています。
他の言語グループの人たちにも宣べ伝える
地元の言語を話す人々に対しては,フィリピン諸島全域でおおむね優れた証言が行なわれてきました。とはいえ,近年では,十分な証言を受けていなかった人々にも宣べ伝える努力が払われています。―ロマ 15:20,21。
長年の間,フィリピンには英語会衆がほとんどありませんでした。ほとんどのフィリピン人は英語が多少分かりますが,流ちょうに話せる人は多くありません。しかし,幾つかの場所で英語の集会を開く必要がありました。1960年代末,兄弟たちはパンパンガ州のクラーク空軍基地の近くでその必要に気づきました。駐留米軍兵士の妻である姉妹たちが地元の言語を話せなかったのです。そのため,兄弟たちは英語の集会を組織し,それは長い間その地域の人たちに大きな益をもたらしました。
似たような問題はマニラ首都圏でも生じました。1970年代末から1980年代初めにかけて米国人の姉妹がその地域に住んでいました。その姉妹が交わっていたタガログ語会衆の長老パシフィコ・パンタスは,こう述べています。「姉妹は定期的に集会に出席していましたが,あまり益を得ていなかったので,わたしは気の毒に思いました」。間もなく,さらに何人かの米国人がその会衆に移転してきました。公開講演と「ものみの塔」研究を英語で行なうことが提案され,パンタス兄弟を中心に取り決めが設けられました。やがて,他の集会も行なわれるようになり,援助できる人たちが招かれました。支部で奉仕していたデービッド・レッドベターとジョシー・レッドベターもその招きに応じました。すばらしい増加が見られ,当初の小さな群れが今では二つの英語会衆になっています。
英語会衆のおかげで多くの人が益を得てきました。カリフォルニア出身のモニカもその一人です。モニカはカリフォルニアでエホバの証人と聖書の勉強を始めました。筋金入りのカトリック教徒である両親は猛烈に反対し,モニカをカトリックの環境に置くためにフィリピンへ行かせることにしました。母親はモニカと一緒にマニラまで来て,パスポートを取り上げてから,モニカをカトリック教徒の祖母の家に置いて帰ってしまいました。たとえモニカが会衆を見つけても,米国育ちでタガログ語を全く知らないため,研究を続けることはできないだろうと思われました。ところが,カリフォルニアでモニカの研究を司会していた姉妹がジョシー・レッドベターに電話し,是非だれかがモニカを訪問するようにしてほしい,と伝えました。ジョシーは,今では英語会衆があるんですよと返事しました。それこそ,まさにモニカが必要としていたものでした。ジョシーはこう述べています。「モニカは,フィリピンで“流刑”状態にあった6か月の間にバプテスマを受け,その2週間後に母親から『あなたのパスポート
を送るわ。帰ってらっしゃい』と言われました。その時にはモニカはエホバの証人になっていたのです」。モニカは英語会衆にどれほど感謝したことでしょう。さらに別の益もあります。兄弟たちは,一度も奉仕されたことのない地域にも足を運んでいます。マニラ首都圏には裕福な人の住む区域があり,その人たちの多くは英語を話します。ですから,そうした区域の扉を開くのにも英語が役立っているのです。
中国語の区域を開拓する努力も払われています。1970年代半ば,中国語の書籍研究の群れが設立され,クリスティーナ・ゴーの経営する靴屋で集会を開くようになりました。とはいえ,群れはとても小さく,援助が必要でした。
エリザベス・リーチは,宣教者のレーモンド・リーチと結婚してフィリピンへ来る前に,香港<ホンコン>で16年間奉仕していました。広東<カントン>語を使って中国人に真理を教えていたエリザベスの経験は大いに役立ちました。そのころ,エスター・アタナシオ(現在はエスター・ソー)ともう一人の特別開拓者がその区域に割り当てられました。エスターは当時を振り返ってこう言います。「その地域で奉仕を始めたころ,人々はエホバの証人のことを知りませんでした」。それでも,マニラの中国人社会の人々は次第にエホバのみ名とエホバの民について知るようになりました。
開拓者たちは広東語を話せましたが,マニラで主に話されている中国語は福建語であるため,その言葉も習得しなければなりませんでした。チン・チュンチュワという若い男性は,真理を学び始めたころからこの群れと交わるようになり,福建語を知っていたので初期の集会で通訳を務めました。
この群れは徐々に成長し,1984年8月に小さな会衆になりました。大変なことはまだたくさんありますが,援助している人たちは,
十分な証言を受けていなかったこの区域で宣べ伝えることを喜びとしています。耳の聞こえない人たちも“聞く”
しばらくすると,さらに別の言語と区域に注意を向けることもエホバのご意志であるように思われました。つまり,ろう者の言語と区域です。フィリピンでは1990年代に入っても,ろう者がエホバについて学ぶのを援助する取り決めが事実上ありませんでした。会衆に交わるろう者もいましたが,ごくわずかでした。例えば,母親がエホバの証人であるマヌエル・ルニオは,一人の姉妹から聖書の真理を学びました。その姉妹は紙に文字を書いて根気よく教え,マヌエルは1976年にバプテスマを受けました。セブ島のふたごの姉妹ロルナとルズは二人とも耳が聞こえませんが,目の見えないおじから聖書の音信について教えてもらいました。盲人の開拓者がどのようにろう者を教えることができたのでしょうか。おじは,ほかの人に手伝ってもらい,絵を用いました。また,おじのいとこは,おじの話す事柄を,ふたごが理解できる手振りで伝えました。二人は手話をきちんと習ったことがなかったからです。二人とも1985年にバプテスマを受けました。とはいえ,そうした努力が払われることは極めてまれでした。
幾つかの出来事がきっかけとなって,この分野の扉が開かれました。宣教者のディーン・ジェイセクと妻のカレンは,1993年の半ばにブルックリン・ベテルで訓練を受けていた時,翻訳サービスの兄弟たちから,フィリピンではろう者にどんな援助が行なわれているのか,と尋ねられました。フィリピンの一人の若い姉妹は,あるエホバの証人家族のろう者の友だちと意思を通わせたいと思い,手話教室に通い始めました。また,マニラ首都圏のナボタスに住むリサ・プレスニリョと仲間の開拓者たちは,区域でろう者たちに会い
ましたが,意思を通わせることができず,ろう者にも王国の音信を伝えられるように手話の勉強をしたい,と考えていました。支部は,マニラにいるアナ・リサ・アセベドという正規開拓者がろう学校で働いており,手話に関する豊かな知識を持っていることを知りました。フィリピンには,そのようなエホバの証人はほとんどいませんでした。アナは,「ベテル奉仕者に手話を教えていただけませんか」と頼まれました。
アナは依頼を受け入れました。それまでにもよく,どのようにしてろう者すべてに証言が行なわれるのだろう,と考えていたのです。ベテル奉仕者と地元の正規開拓者を交えたクラスがスタートしました。ナボタスの姉妹たちはすでに手話講座に通っていたので,そのまま勉強を続けました。
その後,事態は急展開し,半年もたたないうちにマニラ首都圏の三つの会衆で手話通訳が行なわれるようになりました。1994年には,大会でも通訳が行なわれるようになりました。当初の目標の一つは,エホバの証人の親を持つ耳の聞こえない子どもたちを助けることでした。最初にバプテスマを受けたろう者の中には,そうした子どもたちが含まれていました。手話通訳のない集会に長年忠実に出席していたマヌエル・ルニオは,こうした新しい取り決めから益を得られることをうれしく思いました。
程なくして,国内の他の場所でも援助を求める声が上がり,リサ・プレスニリョは開拓者のパートナーと一緒にオロンガポ市に遣わされ,一時的な特別開拓者としてろう者の区域で奉仕しました。たくさんの人が援助を受けました。2002年半ばの時点で,マニラ以外の20の市町村に手話の群れがあります。こうした発展における画期的な出来事は,1999年4月の,フィリピン初のマニラ首都圏手話会衆の設立です。最初の手話クラスで学び,現在はマニラ首都
圏手話会衆で長老として奉仕しているベテル奉仕者のジョエル・アセベスは,こう述べています。「とても大切なこの業においてエホバに用いていただいているので,うれしく思います」。そうです,ろう者も王国の音信を“聞いている”のです。かつては未開拓だった区域におけるこのような発展は,まさに歓びのいわれです。施設の拡張が必要になる
1990年代に新たな区域が開拓され,以前からの区域でもいっそう徹底的に奉仕が行なわれたことにより,伝道者数や,会衆に交わる新しい人々の数が着実に増加しています。より多くの雑誌が必要とされ,かつてないほど多くの書籍やブロシュアーがフィリピンの言語に翻訳されています。その結果,印刷や翻訳や校正を行なったり,兄弟たちや諸会衆の必要とする他の奉仕を行なったりする支部の奉仕者の数も大幅に増えています。新しい宿舎棟は,1991年の完成から程なくして満杯になりました。その建物は250人を収容できる設計でしたが,1999年にはベテル家族は350人になっていたのです。
支部の敷地には建て増しする余裕があったので,統治体は,1991年竣工の建物とよく似た宿舎棟の建設を承認しました。建設は1999年に始まって2001年末に終了し,この建物によって敷地内の居住定員がほぼ2倍になりました。野外の業の拡大に伴う必要にこたえる待望の事務所用スペースが設けられたほか,以前より広い洗濯室,宣教訓練学校の教室,充実した図書室なども備えられました。この工事のために,熟練した地元の奉仕者とインターナショナル・サーバントが一時的にベテル家族に加わり,新しい建物の完成後も,1991年の建物の改修工事のためにしばらくとどまりました。こうした建設プロジェクトには膨大な仕事が求められますが,それらはすべて一つの目標を念頭に置いて行なわれています。それ
は,命を与える聖書の真理の普及活動を支えるための施設を備えることです。宣教訓練学校は必要にこたえる
1987年に米国で宣教訓練学校が始まった時,フィリピンの多くの兄弟たちは,『自分たちもいつかその訓練を受けられるのだろうか』と考えました。その答えは1993年に明らかになりました。フィリピンでも翌年に開校される,と発表されたのです。この学校では,長老および奉仕の僕として組織上の経験を積んだ資格ある兄弟たちが補足的な訓練を受けます。何百人もの兄弟たちが申し込みました。
二人の旅行する監督と一人の宣教者が,教訓者としての訓練を受けました。第1期のクラスは1994年1月に始まり,訓練を受けた人たちは会衆の兄弟たちに仕える点でいっそう整えられました。ある会衆は,会衆に交わる卒業生について手紙を寄せ,「学校へ行く前と比べ,集会での割り当ての扱い方が全く変わりました」と述べています。
多くの生徒は,この霊的な訓練から益を得るために物質面で犠牲を払いました。ロナルド・モリーニョは,化学エンジニアとしての訓練を受けていました。宣教訓練学校への招待を受けるのとほぼ同時に,ある会社から,高給で,住居や保険などの特典も付いた仕事の誘いを受けました。ロナルドは二つのチャンスについて熟考し,霊的なほうを選択しました。そして,第18期のクラスを卒業し,開拓者として奉仕を楽しんだ後,最近,パプアニューギニアでの宣教者奉仕に招待されました。
ウィルソン・ティパイトは,第1期のクラスを卒業した後,一つの決定を下さなければなりませんでした。教師という収入の良い仕事を持っていたのですが,必要の大きな所で特別開拓奉仕を行なうよう招待されたのです。こう述べています。「教職は好きでしたが,生活の中で王国の関心事を第一にしなければならないことも分かっていました」。ウィルソンは特別開拓奉仕の特権をとらえ,その分野の奉仕でエホバからの祝福を経験しました。現在は,フィリピン南部で地域監督として奉仕しています。
生徒のほとんどはフィリピンの兄弟たちですが,統治体は,アジアの他の国からも生徒が来るように取り決めました。インドネシア,カンボジア,スリランカ,タイ,ネパール,香港<ホンコン>,マレーシアなどが生徒を送り,エホバの証人の業が制限されている国からも生徒が来ました。生徒たちは互いに学び合い,大いに築き上げられています。教訓者のアニバル・サモラはこう述べています。「制限のある国々から来た生徒から,あらゆる状況のもとでどのようにエホバに依り頼んでいるかを聞き,フィリピンの生徒たちは強められました」。逆に,外国から来た兄弟たちは,フィリピンの貧しい生まれの兄弟たちが難しい状況下でどのようにエホバに仕えているかを知りました。
スリランカから来たニドゥー・デービッドはこう語っています。「いつ
までも大切にしたい思い出です。エホバ神からの2か月間の訓練でした。すばらしいとしか言いようがありません」。学校が支部内に設けられているため,生徒たちは準備されたカリキュラムから益を得るだけでなく,支部でどのように仕事が組織されているかをじかに見て学ぶこともできます。ベテルにいる霊的な思いを持った兄弟姉妹と接して,見倣うべき信仰のりっぱな手本とすることもできます。また,伝道者の少ない国や制限下にある国から来た兄弟たちは,大規模な組織を見ることができます。
これまでに35のクラスが開かれ,922人が卒業しました。フィリピン人の卒業生のうち,75人は旅行する監督として,またもっと大勢が代理の巡回監督として,フィリピン全土の193の巡回区で奉仕しています。さらに,6人はベテルに割り当てられ,10人はパプアニューギニアとミクロネシアで宣教者奉仕を行なっています。何百人もの兄弟たちが開拓者として,元いた区域や必要の大きな所で奉仕しています。開校してからわずか8年の間に,フィリピンでは6万5,000人以上がバプテスマを受けました。りっぱな開拓者精神が発揮され,諸会衆では全般的に目に見えて増加が生じています。確かに,卒業生が学校で学んだ事柄を適用し,すばらしい前進に貢献しているのです。
前進
驚くべきことがフィリピン全土で成し遂げられています。3,500近い会衆に交わる熱心な兄弟たちが,考え得る最良の政府である神の王国に関する良いたよりを精力的にふれ告げているのです。
最近の非常に励みとなる報告によると,2002奉仕年度後半の7か月間は毎月,伝道者数が新最高数となり,8月には14万2,124人が王国の音信を宣べ伝えました。エホバのみ名と目的は,多くのイザヤ 24章15節で予告されている事柄に似ています。そこには,『彼らは海の島々の中でエホバのみ名の栄光をたたえる』とあります。
島々に住む人たちに伝えられています。それらの島々におけるエホバの僕たちの活動は,そうした熱心な奉仕者の中には,大勢の正規開拓者が含まれています。開拓者は,1950年には307人にすぎませんでしたが,2002年4月末には2万1,793人になりました。これに,その月の386人の特別開拓者と1万5,458人の補助開拓者を加えると,合計は3万7,637人となり,全伝道者数の27%に相当します。そして,さらに多くの人たちが,全時間の神の僕の隊伍に加わりたいという願いを表わしています。2002奉仕年度中に,5,638件の正規開拓奉仕の申し込みが承認されました。
こうして,りっぱな実が生み出されており,引き続き大勢の人がこたえ応じています。2002年3月の記念式には43万10人が出席し,毎月10万件近い聖書研究が司会されています。2002奉仕年度中,6,892人の新しい弟子がバプテスマを受けました。エホバの証人の割合は,1948年には5,359人に1人にすぎませんでしたが,現在は549人に1人となっています。エホバは依然として機会の扉を開いておられるので,さらに大勢の人が,この島々でエホバを賛美する人たちに加わるものと期待できます。
業を続けることを決意する
1912年,C・T・ラッセルが訪問した時に,わずかな真理の種がフィリピンの土にまかれました。種はゆっくりと,しかし確実に芽を出して成長し,良い実を生み出しています。「順調な時期にも難しい時期にも」,真理の側に立場を定める人たちが見いだされているのです。(テモ二 4:2)特に第二次世界大戦以降,成長の速度は増し,今では10万を超える人々が活発にエホバを賛美しています。その ようにして,フィリピンの兄弟たちは,エホバの民の世界的な会衆を構成する約600万の人々と共に喜びを抱いて業を行ない,神のみ名に栄光をもたらしています。
この報告から分かるとおり,業を行なうのは必ずしも容易ではありません。フィリピンは美しい国ですが,王国宣明者たちが多くの島々に住む人たちのもとへ行くには並々ならぬ情熱を抱いていなければなりません。奉仕者たちは,荒れた海を物ともせず,孤立した島へ出かけて行きます。羊のような人たちを見いだすために高い山の密林に分け入る奉仕者も少なくありません。フィリピン諸島では,地震,洪水,台風,火山の噴火といった災害が他の地域よりも頻繁に生じますが,それによってエホバの忠節な証人たちの業が中断することはありませんでした。
それら証人たちは,回復させられた土地で真の崇拝を再興したイスラエル人に似ています。困難に直面しても,エホバの喜びがイスラエル人のとりででした。今日のエホバの証人も,粘り強さと神への信頼を実証しています。エホバが共にいてくださることを知っており,「エホバがすべての災いからあなたを守ってくださる。あなたの魂を守ってくださる」という詩編 121編7節の言葉を信じているのです。証人たちは,この体制が終わる前に,エホバの後ろ盾を得つつ,できるだけ多くの人を援助したいと願っています。また,その終わりの後,この7,100の島々を含む全世界で,復活してくる非常に大勢の人たちを教えることも期待しています。その時,楽園となったこの島々の美しさは輝きわたり,創造者の賛美となるでしょう。
それまでの間,エホバの証人は,業を祝福してくださるエホバに全幅の信頼を置いて前進してゆくことを決意しています。神の預言者の次の言葉に調和した生き方をするよう努力するのです。「栄光をエホバに帰し,島々でその賛美を告げ知らせよ」。―イザ 42:12。
[232ページの拡大文]
「お前さんには神様がついてるんだろうな。でなけりゃ殺されてたぞ」
[153ページの囲み記事]
初期にまかれた真理の種
チャールズ・T・ラッセルの一行は1912年にフィリピンを訪れました。ブルックリン本部の正式な代表者として訪問したのはその一行が初めてでしたが,記録によると,それより前から二人の聖書研究者がフィリピンにおり,聖書の真理を学ぶよう人々を助けていました。米国出身のルイーズ・ベルは次のように書いています。
「主人とわたしは1908年にフィリピンへ渡り,教師として働いていました。シバロムの町にはアメリカ人はわたしたちしかいませんでした。わたしたちはブルックリンに聖書のパンフレットを大量に注文しました。ニューヨークから発送されたパンフレットは,サンフランシスコへ,さらに太平洋を渡ってマニラへ送られ,そこから,島と島とを結ぶ船に載せられてシバロムに届きました。
「わたしたちは機会あるごとにそれらのパンフレットを配布し,地元の人々と話しました。時間や配布数などは記録しませんでした。人々はカトリック教徒でしたが,多くの人が喜んで耳を傾けてくれました。わたしたちは医学の訓練を行なう教師でしたが,何よりも,良いたよりを伝えることを第一にしました。
「悪路を徒歩や馬で旅しました。竹を編んだ床の上で眠ったり,一つの器から一緒に魚やご飯を食べたりしたこともあります。
「1912年にパスター・ラッセルがマニラに来られた時には,電報をお送りしました」。
ベル姉妹は,マニラ・グランドオペラハウスで行なわれた「死者はどこにいるか」と題するラッセル兄弟の講演会に出席しました。
[156ページの囲み記事]
フィリピンの概要
国土: 7,100ほどの島々を合わせると,陸地面積は約30万平方㌔になります。それらの島々は,南北約1,800㌔,東西約1,100㌔の範囲に散在しています。島の大きさはさまざまで,最大のものはポルトガルより少し大きく,最小のものは満潮時に見えなくなってしまうほどです。
住民: 主にマレー系ですが,中国系,スペイン系,アメリカ系の人もいます。
言語: フィリピンでは多くの言語が話されていますが,そのうち,ビコル語,セブアノ語,ヒリガイノン語,イロカノ語,パンガシナン語,サマル-レイテ語,タガログ語などが広範囲に用いられています。英語とピリピノ語が公用語とされています。ピリピノ語は,おもにタガログ語に由来しています。
生活: 都市部は非常に変化に富んでいますが,田舎の地方では,多くの人が農業や漁業に従事しています。米,サトウキビ,バナナ,ココナツ,パイナップルなどの食用作物が広く栽培されています。
食物: 普通,食事には必ず米が出されます。熱帯の野菜や果物と並んで,魚介類もたいへん一般的です。
気候: 熱帯性の気候で,どの島でも気温はほぼ一定です。全国的に雨がたくさん降ります。
[161,162ページの囲み記事/図版]
ヒラリオン・アモレスとのインタビュー
生まれた年: 1920年
バプテスマ: 1943年
プロフィール: 第二次世界大戦中,日本の占領下で真理を学ぶ。当時,国内にエホバの証人はほとんどいなかった。
わたしは戦時中にバプテスマを受けました。そのころはまだ,兄弟たちが家から家に宣べ伝えることが可能でした。それでも,人々がわたしたちの行動を疑いの目で見ていたので,注意深さが必要でした。結局,わたしたちは田舎に逃げなければなりませんでしたが,1945年にマニラに戻りました。
当時,わたしは「ものみの塔」誌をタガログ語に翻訳する特権をいただいていました。そのため,午前2時まで働かなければなりませんでした。翻訳されたものは謄写版で印刷され,証人たちのグループに送られました。自己犠牲が求められましたが,兄弟たちの霊的な世話のためでしたから,深い満足感がありました。
真理のうちを歩むようになってからずっと,エホバが憐れみ深い方であることを見てきました。霊的にも物質的にも,確かにご自分の民を顧みてくださいます。戦後,救援物資がフィリピンに届いたときのことを思い出します。ズボンや靴,また様々な衣類を受け取って,どれだけ多くの人が喜んだことでしょう。その恩恵にあずかった大勢の開拓者は,感謝の気持ちに動かされ,全時間奉仕にいっそう打ち込みました。エホバは,必要なものを何でも与え,ご自分の民を本当に顧みてくださいます。
[173,174ページの囲み記事/図版]
みんなから愛された宣教者
ニール・カラウェイ
生まれた年: 1926年
バプテスマ: 1941年
プロフィール: エホバの証人の両親に育てられ,高校卒業と同時に全時間宣教を始める。ギレアデ学校第12期のクラスに招待され,フィリピンに割り当てられる。その地で,旅行する監督として奉仕。
ニール・カラウェイは熱心な宣教者で,兄弟たちから深く愛されました。王国の業に関して真剣であると同時に,陽気な気質も表わし,フィリピン各地で奉仕しました。割り当てられた旅行する奉仕について次のように語っています。
「区域まで行くのに,丘を幾つも越えて2時間ぐらい歩くこともありました。歩きながら王国の歌を歌います。15人から20人のグループで一列になって,歌いながら小道を歩いていると,外国での割り当てを引き受けて本当に良かったと思いました。
「田舎の小さな家々に神の言葉を携えて行き,床に座って一心に耳を傾ける謙遜な人々に会い,次の訪問ではその人たちと王国会館で再会する ― こうしたことを経験して,神の王国について語る点でもっともっと力を尽くしたいと思いました」。
ニールは,ミンドロ島出身の姉妹ネニータと結婚し,二人はニールの亡くなった1985年まで共に忠実に奉仕しました。フィリピン人の兄弟たちは,今でもニールの思い出を懐かしそうに語ります。ある人はこう語っています。「カラウェイ兄弟は,他の兄弟に自分を合わせるすばらしい兄弟でした。どんな状況にも順応するこつを知っていました」。 *
[脚注]
^ 342節 カラウェイ兄弟のライフ・ストーリーは,「ものみの塔」誌,1971年11月1日号に載せられています。
[177ページの囲み記事/図版]
イネルダ・サルバドルとのインタビュー
生まれた年: 1931年
バプテスマ: 1949年
プロフィール: 1967年3月に宣教者としてタイへ派遣される。
宣教者としてタイへ派遣されると聞いたときは複雑な気持ちでした。うれしいと同時に少し不安で,質問したいことがたくさんありました。
1967年3月30日にタイに到着しました。タイ語は取っつきにくく感じました。声調を持つ言語で,低声,高声,平声,上声,下声があります。タイ語の習得は大変でしたが,地元の兄弟たちと外国人の兄弟たちが優しく援助してくださいました。
1967年から1987年まではスクンビットにいました。その後,新しい会衆に移ることになり,つらく感じました。20年も一緒に働いた兄弟姉妹と別れなければならなかったからです。トンブリーに移動したときは,そう感じていました。でも実際のところ,それは考え方の問題です。トンブリーで12年奉仕した後,1999年にスクンビットへ戻りました。他の宣教者たちから,故郷に帰るみたいね,と言われました。でも,わたしにとっては,割り当てられた会衆はみな自分の故郷です。
[178ページの囲み記事/図版]
言語の習得の思い出
ベニート・グンダヤオとエリザベス・グンダヤオ
プロフィール: ベニートは,妻エリザベスと共にフィリピンで巡回奉仕を行なった。1980年に,二人は宣教者として香港<ホンコン>へ派遣され,それ以来53人の人が真理を学ぶのを援助してきた。
中国語と全く縁のなかったわたしたちにとって,広東<カントン>語の習得は大きな試みとなりました。真剣な努力と粘り強さ,そして謙遜さが大いに求められます。
ある時わたしは,「市場へ行ってきます」と広東語で言うつもりで,「鶏糞の肥料へ行ってきます」と言ってしまいました。また,野外奉仕のときに妻は,家の人の知り合いである姉妹について,「あら,わたし,その人を知ってます」と言いました。ところが,実際に妻の口から出たのは,「あら,わたし,彼女を食べちゃいます」という言葉でした。家の人はびっくりしたに違いありません。中国語での奉仕における経験は,本当に大切な思い出になっています。
[181,182ページの囲み記事/図版]
リディア・パンプロナとのインタビュー
生まれた年: 1944年
バプテスマ: 1954年
プロフィール: フィリピンで特別開拓者として経験を積んだ後,1980年に,パプアニューギニアで奉仕するよう招かれる。これまでに84人以上の人が真理を学ぶのを援助してきた。
必要の大きな所で奉仕したいとずっと願っていましたから,割り当てをいただいたときは興奮しました。でも,不安もありました。家族から離れるのは初めてだったからです。パプアニューギニアのことはあまり知りませんでしたし,人から聞いていたわずかな情報も心配の種にしかなりませんでした。母が,「どこへ行こうと,ご意志を行なっている限り,エホバ神が顧みてくださるわ」と言って励ましてくれたので,わたしは,割り当てを受け入れます,という手紙を出しました。
現地に到着すると,兄弟たちはとても親切にしてくださり,人々も友好的でした。フィリピンにいたころよりもずっと多くの書籍と雑誌を毎月配布できました。とは言っても,フィリピンとは言語と習慣が全く違いました。わたしは,『ここで何年か奉仕してから国に帰り,また母と一緒に開拓奉仕をすればいいわ』と考えました。
しかし,主要言語のうちの二つを習得し,地元の習慣にも幾らか合わせられるようになると,人々のことがよく分かるようになりました。ここに来てからもう20年以上になりますが,これまでずっと多くの人に真理を教え,時にはそれらの人がきちんと研究をして真理を自分のものにできるよう読み書きも教える,という特権にあずかってきました。そのような多くの祝福があるので,今ではパプアニューギニアが故郷のように感じられます。エホバのご意志であるなら,エホバが業は終わったとおっしゃる時まで,あるいはここで自分の生涯を終える時まで神への奉仕に用いていただきたい,と願っています。
[191,192ページの囲み記事/図版]
フィレモン・ダマソとのインタビュー
生まれた年: 1932年
バプテスマ: 1951年
プロフィール: 1953年に全時間宣教を開始。その後結婚し,巡回奉仕を行なう。子どもを育て上げた後,妻と共に特別開拓者として全時間奉仕を続ける。これまで,ビサヤ諸島とミンダナオ島の様々な任命地で奉仕。
1960年代,非常な生活苦のために全時間奉仕を行なうことが難しくなりました。ネズミが異常発生してトウモロコシと米が壊滅状態になり,食糧が不足したのです。わたしたちは,服も靴もぼろぼろだったので,町中では伝道できませんでした。
それで,田園や山や遠くの地区へ,大抵はだしで出かけました。ある巡回大会では,ふさわしい服がなかったので,もう少しで割り当てを果たせなくなるところでした。しかし,地域監督のベルナルディノ兄弟が親切にもワイシャツを貸してくださったので,話をすることができました。とはいえ,多くの人は物質的にもっと貧しい状態にありました。わたしたちは,くじけたりはしないと心に決めていたので,エホバの祝福を受けました。
1982年,中立の立場ゆえに試みに直面しました。ミンダナオ島で,反政府運動が激化したのです。わたしは,いわゆる反政府勢力の幹部たちと聖書研究を行なっていたので,政府軍兵士から,左派の“講師”というレッテルを張られました。しかし,わたしたちの教えが聖書だけに基づいており政治的なものではないことを,政府の役人が説明してくれました。
その一方で,わたしは反政府勢力からも良く思われていませんでした。伝道に行くたびに,まず地区長と分遣隊長に証言していたからです。それでもわたしと研究している反政府勢力の幹部の一人がかばってくれたので,手出しされることはありませんでした。
幾十年にもわたって,エホバは苦難や試みを切り抜けることができるよう助けてくださいました。エホバの憐れみと保護に本当に感謝しています。―箴 18:10; 29:25。
[217,218ページの囲み記事/図版]
パシフィコ・パンタスとのインタビュー
生まれた年: 1926年
バプテスマ: 1946年
プロフィール: 1951年にギレアデ第16期のクラスを卒業。現在,ケソンシティで長老として奉仕。
第二次世界大戦中,ラグナ州に住んでいたころ,近所にエホバの証人がいて,自分用の書籍の中から何でも好きなものを読ませてくれました。「創造」,「証明」,「和解」,「宗教」,「敵」,「子供たち」などたくさんの本があり,どれもすばらしい内容でした。日本軍に町を焼き払われて,証人たちと離れ離れになりましたが,1年余り後にマニラで再会できました。わたしは集会に出席するようになり,バプテスマを受けて,開拓者のグループに加わりました。わたしたちが割り当てられたのはタヤバス州全体で,今はケソン州と呼ばれている所です。町から町へと奉仕し,だれも乗っていないバスの中や,関心を示した人の家などで寝ました。
マウーバンに着いた時のこと,一群のゲリラが突然その町を襲撃しました。わたしたちは町役場の2階で眠っていましたが,騒ぎで目を覚ましました。階下の警察官たち
は捕らえられたようで,銃を床に投げ捨てる音が聞こえました。ゲリラは2階へ駆け上がってきました。一人が懐中電灯でわたしたちを照らし,「お前たちはだれだ」と言いました。わたしたちが眠っているふりをすると,「だれだ。フィリピン警察の回し者じゃないだろうな」と言いました。
「いいえ,違います」とわたしたちは答えました。
「だが,お前たちはカーキ色の服を着ているじゃないか」。
わたしたちは,服は寄付されたもので,靴はアメリカの兄弟たちが救援物資として送ってくれたものだと説明しました。
隊長が,「よし,じゃあ,靴をよこせ」と言ったので,わたしは靴を脱ぎました。隊長はズボンも要求しました。たちまちわたしたちは全員パンツだけの姿になりました。ところが,うれしいことにすぐそばに服がしまってありました。実のところ,ゲリラに服を取られてよかったと思いました。もし取られていなければ,町じゅうの人はわたしたちをゲリラ側のスパイだと思ったでしょう。
わたしたちは木靴を買ってマニラへ戻り,その後ビサヤ諸島へ渡って伝道を続けました。
パンタス兄弟は,全時間宣教を行ない,兄弟たちの僕(現在の巡回監督)として奉仕した後,ギレアデ学校に入校しました。フィリピンに帰国してからは,地域監督として,また支部事務所で奉仕し,その後,子どもを育て上げました。
[168,169ページの図表/グラフ]
フィリピン ― 年表
1908年: 米国から来た二人の聖書研究者がシバロムの町で証言を始める。
1910
1912年: チャールズ・T・ラッセルがマニラ・グランドオペラハウスで講演を行なう。
1934年: 支部事務所が開設され,「御国へ逃れよ」の小冊子がタガログ語で出版される。
1940
1947年: ギレアデ卒業生の第一陣が到着する。
1961年: 王国宣教学校が始まる。
1964年: フィリピン人の開拓者たちが近隣諸国での宣教者奉仕に初めて招待される。
1970
1978年: 開拓奉仕学校が始まる。
1991年: 新しい支部の建物が完成し,献堂される。ピナトゥボ山が噴火する。
1993年: タガログ語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発表される。
2000
2000年: タガログ語の「新世界訳」全巻が発表される。
2002年: フィリピン国内で14万2,124人の伝道者が活発に奉仕している。
[グラフ]
(出版物を参照)
伝道者数
開拓者数
150,000
100,000
50,000
1940 1970 2000
[199ページの図表]
(出版物を参照)
大会出席者の増加(1948-1999)
350,000
300,000
250,000
200,000
150,000
100,000
50,000
0
1948 1954 1960 1966 1972 1978 1984 1990 1996 1999
[157ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
フィリピン
ルソン島
ビガン
バギオ
リンガエン
カバナトゥアン
ピナトゥボ山
オロンガポ
ケソンシティ
マニラ
ミンドロ島
ビサヤ諸島
マスバテ
セブ島
ミンダナオ島
スリガオ
ダバオ
パラワン島
エル・ニド
[150ページ,全面図版]
[154ページの図版]
1912年,フィリピンを訪問中のチャールズ・T・ラッセルとウィリアム・ホール
[159ページの図版]
ジョセフ・ドス・サントス。妻ロサリオと共に,1948年。第二次世界大戦中の3年間の過酷な収容所生活にもかかわらず,王国宣明者としての熱意を失わなかった
[163ページの図版]
フィリピンから初めてギレアデ学校へ行った兄弟たち: アドルフォ・ディオニシオ,サルバドル・リワグ,マカリオ・バスウェル
[164ページの図版]
宣べ伝えるために山岳地域を歩く
[183ページの図版]
何万人もの開拓者が開拓奉仕学校から益を得てきた
[186ページの図版]
1980年,コンピューター写植が始まった
[189ページの図版]
良いたよりは,フィリピンの多くの言語で伝えられている
[199ページの図版]
1993年,「神の教え」国際大会
[199ページの図版]
1995年,「喜びに満ちた賛美者」地域大会でのバプテスマ
[200ページの図版]
大会の時期に帰国したフィリピン人の宣教者たち
[202ページの図版]
1993年の大会で,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」のタガログ語版が発表された
[204ページの図版]
コンピューターを活用した聖書翻訳作業
[205ページの図版]
母語の「新世界訳」全巻を受け取って喜ぶ開拓者
[207ページの図版]
支部委員会,左から右へ: (前列)デントン・ホプキンソン,フェリクス・サランゴ;(後列)フェリクス・ファハルド,デービッド・レッドベター,レーモンド・リーチ
[211ページの図版]
ベトナム人難民の多くが,フィリピンにいる間に真理を学んだ
[215ページの図版]
ナティビダド・バルレイアンとレオデガリオ・バルレイアンはそれぞれ全時間奉仕に60年以上を費やした
[222,223ページの図版]
近年建てられた王国会館
[224ページの図版]
マニラ首都圏大会ホール(上)とマニラ以外の場所にある大会ホール
[228ページの図版]
左: 1991年の支部の献堂式で話を行なうジョン・バー
[228ページの図版]
下: 支部の建物,1991年
[235ページの図版]
エホバの証人勝訴の新聞報道
[236ページの図版]
地震,火山の噴火,洪水に襲われても,熱心な奉仕者たちは宣べ伝え続けている
[246ページの図版]
熱意にあふれる開拓者たちは,耳の聞こえない人たちが霊的プログラムから益を得るのを援助するため,手話を学んでいる
[246ページの図版]
2002年初めに開かれた,フィリピン初の手話の開拓奉仕学校の生徒と教訓者
[251ページの図版]
フィリピンの宣教訓練学校第27期のクラス