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過ぐる1年の際立った事柄

過ぐる1年の際立った事柄

過ぐる1年の際立った事柄

『わたしのところに来なさい。そうすれば,あなた方をさわやかにしてあげましょう』。マタイ 11章28節にある,イエス・キリストのこの言葉は,2002年の年句でした。過ぐる奉仕年度中,多くの人が確かにやって来ました。26万5,469人が神の招きに応じ,バプテスマを受け,さわやかさを見いだし,キリストの弟子として心地よいくびきのもとで仕える他の600万余りの人々に加わったのです。

以下のページでは,エホバが全地のご自分の民を引き続き豊かに祝福しておられる様子をご紹介します。では,2002奉仕年度の際立った神権的な進展を幾つか振り返りましょう。

熱心さを奮い立たせた地域大会

エホバの証人は例年どおり,世界の幾百もの会場で,年1度の地域大会のために集まりました。2002/2003年の大会の主題は,「王国を熱心にふれ告げる人々」というものでした。基調をなす話では,今日の神の民が宣教を果たす面でイエス・キリストの熱心さと勇気に見倣っていることが述べられました。他の話で説明されたとおり,熱心さは神の言葉の研究によって培われ,善を行なうこと,とりわけ神の王国を熱意をこめて宣明することによって示されます。

時代衣装を着けて演じられた,「困難な時代にあってしっかりと立つ」と題する劇は,預言者エレミヤに焦点を当てました。エレミヤはイエスのように,困難に遭っても際立った熱心さと忍耐を示し,エホバを信頼し,神からの音信を恐れなく宣明しました。今日のクリスチャンにとってなんと立派な手本でしょう。

この大会では2冊の本が発表されました。出席者は金曜日に,「唯一まことの神を崇拝する」の本を受け取りました。この192ページの本は,聖書研究用の2冊目の手引きの一つとして,神の言葉の真理を聖書研究生の心に響かせるために用いられます。新しい人たちが霊的に成長し,神の義の新しい世での命に至る狭い道を歩む上で,この出版物は必ずや役立つことでしょう。

土曜日には「エホバに近づきなさい」という本が発表されました。この本はセクションに分かれており,それぞれのセクションでエホバの四つの主要な属性である力,公正,知恵,愛が取り上げられています。序文はこの本の書かれた目的を次のように述べています。「あなたがエホバ神にいっそう近づく点で,また神との潰えることのないきずなを築き,永久に生きてその方を賛美する点で,この本が助けとなりますように」。大会のプログラムおよびこれらの新しい出版物は,世界中の心の正直な人が創造者への愛において成長する助けになるでしょう。

「危機の時代」に対処する

使徒パウロはテモテに手紙を書き,「終わりの日」は「対処しにくい危機の時代」になると述べました。(テモ二 3:1)自然その他による災害は様々な問題や困難をもたらします。しかしそれは,クリスチャンが互いへの愛を示す機会ともなります。過ぐる奉仕年度中にも,多くの災害が起きました。そのうちの二つに注目しましょう。

世界貿易センターの惨事: ものみの塔ギレアデ聖書学校第111期の卒業式が,2001年9月8日土曜日に開かれました。その3日後の9月11日,卒業生とその家族は米国のニューヨーク市を見物していました。澄んだ青空が広がる暖かな美しい朝でした。ところが,午前8時46分,1機のジェット旅客機がマンハッタン南部にある世界貿易センターの北棟に激突しました。その数分後に,さらにもう1機が南棟に突っ込みました。

午前9時59分に南棟が崩壊し,ほこりや破片が濃い雲のようにマンハッタン南部全域を覆いました。その後,北棟も崩壊しました。3,000人近い犠牲者が出ました。どちらの棟も1973年に完成したもので,110階建てでした。二つの建物の崩壊から生じた濃い粉塵は風に運ばれて,3㌔足らずのところにあるブルックリン・ベテルにも届きました。

米国支部事務所の兄弟たちは直ちに調査を開始し,証人たちのうちこの恐ろしい悲劇の被害に遭った人がいるか,またどんな援助が必要かを調べました。9月11日火曜日の夜には,ブルックリン,パタソン,ウォールキルにある,三つのベテル施設で働くベテル家族全員の無事が確認されました。木曜日の午後までには,ギレアデ卒業生の全員がギレアデ事務所と連絡を取り,自分と家族が無事であることを知らせていました。その間にも,電話連絡を受けたニューヨーク地区の37人の巡回監督は各会衆の長老たちと連絡を取り,長老たちは伝道者各人の安否を調べました。9月14日金曜日の朝までに,支部は兄弟姉妹14名が死亡したか行方不明であることを把握していました。この数はその後も変わりませんでした。

生存者たちは自らの経験を語りました。正規開拓者のシンシア・タッカーは,世界貿易センターの向かいにある世界金融センターで働いていましたが,その37階で,最初のジェット機がタワーに激突するのを見ました。たいへんな事故であると思い,外に出てジェット機が衝突した建物を見上げました。破片が辺り一面に散乱していました。その時,もう1機が頭上をかすめました。タッカー姉妹はこう述べています。「巨大な機体でした。ビルに突っ込もうとしていることに気づきました。走って逃げたいと思いながら,その場に立ちすくんでしまいました。どうしたらよいか分からなかったのです。その飛行機はビルを貫通するように見えました。これ以上はないような大音響で,水中にいるみたいに,音の振動を肌で感じました。空気は重く,砂が混ざっているかのようでした。息をするのも困難でした。人々は右往左往していました。わたしはある建物に走り込み,南棟が崩れるのを見ました。人々は粉塵を避けるため,シャツを脱いで,それで顔を覆っていました。周囲の建物から,子どもやペットを連れた人々が出て来ました。だれもがおびえていました。動物も普通ではいられませんでした。口では言えない恐ろしさでした」。タッカー姉妹は,長老たちが訪ねて来て,聖書から慰めの言葉を話してくれたことに感謝しています。

その後の数か月間,ニューヨーク地域の兄弟たちは,聖書の慰めと希望の音信を地域社会の人々に伝えました。グラウンド・ゼロ,つまりツインタワーの崩壊現場で宗教上の奉仕者として働く特別許可を得た兄弟たちもいます。開拓者のロイ・クリングスポルン兄弟はその一人でした。兄弟はこう述べています。「救援活動に携わっていたある空軍軍曹は,感謝を込めて,『みんなが食べ物や,熱いコーヒーや乾いた服などを持ってきてくれますが,聖句を読んでくれたのはあなたが初めてです。こういう時にこそ神が必要です』と言いました」。

東アフリカの火山噴火: コンゴ(キンシャサ)東部の兄弟たちの多くは,内戦,病気,貧困,失業などを経験してきました。難民だった人,またいまだに難民である人もいます。こうした難問題に加えて,ゴマ市に程近いニーラゴンゴ山が突然噴火しました。2002年1月17日の朝,山は煙と火を噴き出しました。夕方には,火山から流れ出た溶岩が,ゴマに向かい始めました。恐れをなした何十万もの人々が,近くにあるルワンダのギセニという町に向かって逃げました。道は,少ない家財を持てるだけ持った人々であふれました。ギセニも危険でしたが,その地の兄弟たちは王国会館をコンゴの兄弟たちの避難所として用いるように取り決めました。ギセニの兄弟たちの中には,火山から逃げてきた人々に自宅を開放したいと直ちに申し出た人たちもいます。

地元の長老の一人はこう述べています。「何が起きているかを知って,何人かの兄弟たちと共にすぐ,ゴマとギセニを結ぶ幹線道路に行きました。『ものみの塔』誌と『目ざめよ!』誌を高く掲げました。もう暗くなっていましたが,目に付きやすいところに行きました。兄弟たちは雑誌を見て,わたしたちがエホバの証人であることを知りました。わたしたちはそれらの兄弟たちに,避難所となっている王国会館への道を教えました。わたしたちはその道路沿いに朝まで立っていました。こうしてわたしたちは,数年前にゴマの兄弟たちがしてくれたのと同じことをしました。ルワンダでの戦争の後,何十万人もの人がゴマに逃げました。その時,ゴマの証人たちは昼も夜も雑誌を掲げて道沿いに立ち,兄弟たちを見つけられるようにしてくれました。証人たちによって組織されている避難所に案内してくれたのです」。

火山から逃げた人々の大半はその夜を戸外で過ごさなければなりませんでした。中には,混乱と暗闇のために雑誌を掲げた人たちに気づかなかった兄弟たちもいました。ある長老はこう述べています。「翌朝早く,兄弟姉妹は雑誌を手にして再び出て行きました。そしてギセニ中を回ったので,だれもが彼らを目にすることができました。こうして,ゴマの兄弟で前の晩に証人たちに会えなかった人たちすべてが捜し出されました。まもなく,なおも迫って来る溶岩のために,わたしたちの王国会館も危険になりました。直ちに,他の五つの王国会館を避難所として使えるように取り決めました」。ゴマの24の会衆の兄弟たちの中には,コンゴの奥地に逃げた人たちもいましたが,大半の約2,000人はルワンダに逃れました。

ルワンダのキガリにある支部事務所は即刻,食料品,医薬品,毛布,水を入れるポリ容器を購入しました。これらの物資は直ちに避難所に送られました。災害からわずか1日で救援物資を積んだトラックが到着した時,ゴマの兄弟たちはなんと喜んだことでしょう。エホバの証人ではない人々からも多くの好意的な感想が聞かれました。ある兄弟は人々がこう言っているのを耳にしました。「これは良い宗教だ。本当に愛し合っている」。

ゴマ市の約3分の1が破壊されました。すべてを失った兄弟姉妹もいました。しかし,家が無事だった証人たちは,家を破壊された兄弟たちの家族を直ちに進んで自分の家に迎え入れました。(ロマ 12:12,13)後日,ルワンダの兄弟たちは,避難してきた人が全員無事にゴマに帰れるように取り計らいました。ヨーロッパの証人たちもベルギーから飛行機2機分の救援物資を送って援助の手を差し伸べました。

ニーラゴンゴ山の噴火は災難でした。多くの人命が失われ,多くの資産が破壊されました。しかし,互いに対して示された愛によって,だれが真のクリスチャンであるかが明らかになりました。―ヨハ 13:35

王国宣教学校は霊性に重点を置く

王国宣教学校は1959年に始まり,当初は1か月のコースでした。米国ではニューヨーク州のサウスランシングで,他の国ではそれぞれ支部事務所の取り決めた場所で開かれました。当初,入校できたのは会衆の長老(当時は会衆の僕と呼ばれていた)と特別開拓者たちでした。しかし,1966年にこの課程は改訂されて期間が2週間だけになり,長老だけが参加することになりました。1977年には,すべての長老が15時間の課程に出席する取り決めが設けられました。それ以来,期間の異なる同様の会合が数年ごとに取り決められてきました。1984年以降は,奉仕の僕も王国宣教学校で訓練を受けてきました。

この年の王国宣教学校は三つのクラスから成っていました。最初は火曜日から木曜日までで,旅行する監督たちのため,2番目は金曜日と土曜日で,会衆の長老たちのため,3番目は日曜日で,奉仕の僕たちのためのものでした。この課程は霊性を維持することに重きを置きました。その昔,モーセはエホバにこう祈りました。「あなたの道をどうかわたしに分からせてください。わたしがあなたを知り,こうしてあなたの目に恵みを得るためです」。(出 33:13)モーセがこの祈りの言葉を述べたのは,十の災厄を目撃し,紅海の水が分けられるのを経験し,シナイ山で40日間エホバと親しく語り,十戒を授かったあとのことでした。80歳になり,エホバに際立った仕方で用いられた後に,モーセは自らの霊的な必要を意識しました。この例と調和して,長老や奉仕の僕は,どれほど長くエホバに仕えてきたとしても,霊的な人として進歩し続けるように励まされました。

この課程の資料は翻訳されて,世界中の支部で用いられました。多くの国から感謝の手紙が届いています。ギニアの長老の一人はこう書きました。「わたしは,この学校に出席するために犠牲を払ったことも1,000㌔の旅をしたことも惜しいとは思っていません」。別の長老はこう書いています。「言葉では言えないほど,この訓練に感謝しています。本当にありがとうございました!」

韓国のある兄弟はこう書いています。「この学校で自分が霊的な人かどうかを真剣に考えるように助けられました」。

エルサルバドルの支部事務所は次のように書いています。「とりわけ会衆の書籍研究に関する新しい取り決めに関心が示されました。この取り決めは,各群れの成員にもっと十分でもっと深い個人的な関心を払う助けになると思います」。

ドイツのある長老団はこう書いています。「与えられた提案や指示は実際的で,それを適用すれば,わたしたちにゆだねられた人々の益になるでしょう」。

スイス支部は次のように述べています。「この学校は,霊的な無感動と闘うために必要な励ましを与えるのに役立ちました」。

法律上の進展

アルメニア: リョーバ・マルガリャンが関係した裁判は国際的な注目を集めました。マルガリャン兄弟はエホバの証人として活動したかどで刑事告発されたのです。その申し立てには「未登録の宗教の伝道をしたこと」が含まれていました。2001年9月18日,第一審裁判所はマルガリャン兄弟を全面的に無罪としました。上訴がなされましたが,上訴裁判所は無罪判決を支持し,エホバの証人の一人として宗教を教えることは犯罪ではなく,アルメニアの憲法によって保護されているとしました。すると,検察側は同国の最上級の上訴裁判所である破棄院に上告しました。2002年4月19日,破棄院の6人の判事団はそれまでの無罪判決をどちらも支持しました。この勝利は喜ばしいことでしたが,アルメニアの徴兵年齢にある若い兄弟たちについては,宗教上の理由で兵役を拒否するゆえの逮捕・投獄が続いています。

グルジア: グルジアでは,エホバの証人に対する暴力行為が処罰されずに繰り返される,という非人道的な状態が続いています。1999年10月以来,暴徒による襲撃は,記録に残るものだけで80件を超え,男女,子ども,お年寄り,障害者など,1,000名余りの人が被害を受けています。家を略奪され,荒らされ,焼き打ちにされた証人たちもいます。700件以上の刑事告訴が行なわれてきましたが,そうした暴行に対する有罪判決を受けた加害者は一人もいません。2001年9月,ついに,襲撃に関与したかどで,ペトラ・イバニゼと,正教会の元司祭で,聖職を剥奪されているワシーリ・ムカラビシビリに対する告訴がなされました。しかし,審理を開始しようとする努力が幾度も払われてきましたが,法廷を支配している状況のために,それは不成功に終わっています。被告人の追随者が,以前に武器として使われた大きな十字架とエホバの証人に反対する悪意のスローガンを書いた旗を振りかざしながら,法廷に入ることが許されています。2002年5月30日現在で,7回にわたって審理が延期されています。エホバの証人はヨーロッパ人権裁判所(ECHR)に二つの件を提訴しました。一つは野放し状態の暴力行為に政府が何も行動を起こさないことに抗議するもので,もう一つはエホバの証人が用いる二つの法人の登録を取り消したグルジア最高裁判所の裁定に異議を申し立てるものです。2001年10月までに,ECHRはこの件を優先的に扱うために,二つの提訴を一つにまとめました。

2002年7月23日,エホバの証人はもう一つの件をECHRに提訴しました。この訴状には,グルジアの証人たちが宗教的な過激派,正教会の僧職者,警察官らによって襲撃された30の事件が詳細に記されています。その一つに関連して一通の重要な書類があります。その書類は,100名近くの警察官によって実行された,2000年9月のエホバの証人の平和な大会を阻止する計画の概要を述べたものです。この書類を承認し,署名したのは,西部のズグジジ市の内務省高官たちでした。

ロシア: モスクワでのエホバの証人の活動禁止をもくろむ裁判が2002年2月12日に再開されました。エホバの証人が,いわれのない同じ非難に対して自らを弁護しなければならないのは,これで7度目です。2002年4月4日,検察当局の起訴状を2か月にわたって再審理した後,裁判所は専門家を任命してエホバの証人の宗教文書と組織内の通信物の両方を調査させる判決を下しました。エホバの証人が宗教的不一致を引き起こし,家族を崩壊させ,市民の権利と自由を侵害しているとの主張を裏付ける明確な証拠を検察側が何も提示しなかったにもかかわらず,裁判所はこの決定を下したのです。専門家による調査の結果が出るまで,審理は延期されました。

韓国: 2001年12月の終わりに,良心的兵役拒否ゆえに服役している韓国のエホバの証人の数は1,640人に達しました。この数は年ごとに着実に増加しています。兵役法の規定によれば,武器を持つことを拒む者は最高3年の刑に処されます。韓国は,宗教奉仕者や良心的兵役拒否者の兵役免除を認めていません。1950年代以来,韓国の合計7,000人を超える証人たちが兵役につくことを拒んで投獄されてきました。2002年1月29日,先例のないことでしたが,ソウル地方裁判所の朴時煥<パク シーファン>首席判事は,李鏡洙<イ キョンス>の件を憲法裁判所に送りました。朴<パク>判事は,良心的兵役拒否者の権利が認められないために信教と良心の自由を侵害されたという,李<イ>兄弟の主張に関する意見を求めました。同裁判所に要求を提出し,朴<パク>判事は審理を一時中断し,李<イ>兄弟を保釈出所させました。審理は,問題条項の合憲性に関する判断を憲法裁判所が下した後に再開されることになっています。

米国: 2002年6月17日,合衆国最高裁判所は,「ニューヨーク法人 ものみの塔聖書冊子協会 対 ストラットン村」事件において,歴史的な判決を下しました。この事件の発端は,村がエホバの証人に,戸別訪問を行なう前に村長の許可を得ることを強く求めたことでした。裁判所はこう述べています。「[エホバの証人は]法廷で,宣べ伝える権限を聖書から得ているので許可を申請しなかった,と説明した。[証人たちは]『伝道のために自治体当局の許可を求めることは,神を侮辱することに思える』[と述べている]」。裁判所はこの許可条例を無効とし,この条例は「修正第1条によって保護されている価値観のみならず,自由社会の根本概念をも侵すものである。市民は日常会話の場面で,隣人と話しがしたい旨をまず行政当局に通知し,その上でその許可を得なければならないことになる」とした上で,「村長執務室による許可の発給が行政上の職務として迅速に行なわれ,かつ申請者に費用を発生させることがないとしても,そのような会話に許可を要求する法律は,我が国の国家的遺産や憲法上の伝統から甚だしく逸脱している」と述べています。

裁判所はさらに,エホバの証人が合衆国憲法の確立に及ぼしてきた多大の影響について好意的なコメントを述べました。「当裁判所は,50年余りにわたり,戸別訪問運動やパンフレットの配布に対する制限を無効としてきた。修正第1条をめぐる訴訟のほとんどがエホバの証人によって提起されてきたことは,単なる歴史の偶然ではない。戸別訪問運動はその宗教の要求事項だからである」。裁判所が述べているとおり,これらの「件が明らかに示すとおり,エホバの証人は言論規制に抵抗することによって自らの権利のためだけに闘ってきたわけではない」のです。

また,2002年7月1日には,サウス・カロライナ最高裁判所が,あるエホバの証人の輸血を拒む権利を支持しました。(使徒 15:28,29)チャールズ・ハーベーは,主治医が自分の輸血拒否を故意に無視したとして,賠償を求める訴訟を起こしました。ハーベー兄弟は手術の前に,聖書に基づく自分の立場を主治医にはっきりと知らせていました。しかし,手術後,ハーベー兄弟が意識を失っている間に合併症が生じた時,その医師は輸血をするためにハーベー兄弟の,エホバの証人ではない母親の了解を得ました。サウス・カロライナ最高裁判所は,母親の了解を退けて,「患者が何らかの医療処置や医療行為を受けることを拒み,そのことを手術に先立って医師に知らせておいた場合,主治医はその意向に従う義務がある」としました。こうして同法廷は,主治医が輸血なしでハーベー兄弟を治療するという約束を破ったかどうか,さらにその医師がハーベー兄弟の了解なしに輸血を施すことによって医療過誤を犯したかどうかを陪審に判定してもらう権利がハーベー兄弟にあるとの判決を下しました。

不動の姿勢をしのんで

30年以上にわたり,ナチ強制収容所跡にあるブーヘンワルト記念館は,エホバの証人について何も言及しませんでした。それは,ナチ政権の被害者および反対者に関する東ドイツ当局の概念に,証人たちが当てはまらなかっただけのことです。今日でも,ドイツでは,不動の姿勢の点で証人たちが残した比類のない記録を認めにくく思う人が少なからずいます。ですから,2002年5月9日は特に意義深い日となりました。ブーヘンワルトで苦しみに遭った証人たちを記念する銘板が,ブーヘンワルトおよびミッテルバウ-ドーラ記念財団の副理事である,R・リュトゲナウ氏の手で除幕されたのです。

当日は暖かくうららかな日でした。絵のような田園地方を一望できる,木の茂る丘の上の収容所跡は,すがすがしい新緑に彩られていました。しかし,この場所はかつて,ブーヘンワルトの緑の地獄と呼ばれていたのです。今日,この場所を訪れる人の大半にとっては想像しがたいことですが,点呼の時にバラックの向こうにある同じ美しい風景を見ながら,再び自由を得てそれを楽しむ希望のない収容者たちはどれほど深い絶望感を味わっていたことでしょう。

しかし,エホバの証人たちは,聖書に基づく希望とエホバに対する全き信頼を抱いていました。それによって忠誠を守り,「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」と語った使徒たちの手本に勇気をもって倣うことができました。(使徒 5:29)その信念のゆえに,少なくとも38人の証人たちが,収容所内で,あるいは作業班の一人として収容所外で働いていた時に亡くなりました。記念の銘板には「使徒たちの活動」の書からの前述の聖句が引用され,その後に「信仰のゆえに迫害を受け,ここで苦しみに遭い,死んでいったエホバの証人たちをしのんで」という銘が刻まれています。

ナチスにより長年にわたって同収容所に収容された25万人余りの人々の中に,聖書研究者<ビーベルフォルシェル>と呼ばれ,服に紫色の三角形を縫い付けられた約800名の収容者たちがいました。1937年にすでにそこにいて,同収容所の建設に強制的に従事させられた証人たちもいます。1945年,生き延びていた囚人たちが解放された時,自由にされた証人たちは,救出してくださったエホバを賛美しました。ブーヘンワルトがナチスの収容所として使用されたほぼ全期間を通じて,常時300人から450人の証人たちが収容されていました。

その銘板は,紫色の三角形のマークを付けた囚人たちに,ナチ政権の犠牲者たちの間でのしかるべき位置を与えるものです。また,そこを訪れる人たちに,証人たちの不動の姿勢を思い出させるものともなります。「この銘板は,エホバの証人に関する事実が,今日の社会において知られ,認められていることを示すものである」とリュトゲナウ氏は述べました。

2002年3月7日木曜日,ハンガリー西部の町ケルメンドの関係者によって,殉教の死を遂げた3人のエホバの証人を記念する銘板の除幕式が行なわれました。その3人とは,ベルタラン・サボー,アンタル・ホーニシュ,およびヤーン・ゾンドルです。これらの人は皆,第二次世界大戦中に兵役を拒否し,公衆の面前で処刑されました。その銘板には,『1945年3月に良心的兵役拒否者として処刑されたクリスチャンたちをしのんで』と記されています。支部の報告によると,この銘板が除幕された記念式典には500人を超える人が出席し,町の中を通って兄弟たちが処刑された建物へと向かいました。

米国支部委員会の設立

2001年2月9日金曜日,統治体は米国のベテル家族に対して,2001年4月1日より,米国において支部委員会が機能を開始するという発表を行ないました。2002奉仕年度中,同支部委員会は段階的にその責任を担うようになりました。米国支部は米国本土と,バミューダ諸島,タークス・カイコス諸島における王国宣明の業を監督します。米国には100万人を上回る伝道者がおり,うち21万5,000人はスペイン語会衆と交わっています。1万1,700を超える会衆のうち,約2,600はスペイン語会衆です。過ぐる奉仕年度には,210の新しい会衆が設立されました。そのうちの123がスペイン語の会衆,63が英語の会衆,24が他の言語の会衆です。

現在,米国内には,英語とスペイン語以外に37の言語の会衆あるいは群れがあります。スペイン語会衆や他の外国語会衆の多くでは,公開集会の出席率が200%を超える場合も少なくありません。伝道者数を上回る聖書研究を報告している会衆もあります。英語を話す兄弟姉妹はこの急速に成長している分野を援助するために他の言語を学んでいます。

米国支部は他と異なり,ベテルの施設がブルックリン,パタソン,ウォールキルの3か所に分かれています。さらに,ニューヨークのサウスランシング近郊およびフロリダのイモカリーに農場があり,ベテル家族のための果物を栽培しています。米国のベテル家族は全部で5,465人を数えます。

現在,世界中に109の支部があります。支部委員会がそれぞれの国や地域に住む兄弟たちの霊的な必要を顧みるという取り決めは,1976年以来機能してきました。これらの委員会は統治体から与えられる聖書的な指示や指導に従います。支部委員会にはその支部に割り当てられた区域で良いたよりを宣べ伝える業を監督する責任があります。支部委員会はクリスチャン会衆,宣教者,開拓者に対して必要な指導を与えます。また,会衆を巡回区や地域区に組織し,巡回監督,地域監督,ベテル家族の成員,ギレアデ学校の生徒の任命に関する推薦を統治体に行ないます。野外奉仕全般を監督する以外に,ベテルでの仕事の組織も顧みます。この取り決めの上にエホバの豊かな祝福が注がれてきたことに疑問はありません。

翻訳により多くの必要を満たす

近年,たくさんの出版物がますます多くの言語で入手できるようになってきました。その陰では,正確かつ分かりやすく,楽しく読める出版物の生産を目指して,大勢の勤勉な翻訳者たちが奮闘しています。

神の民が基本的に必要とするのは,忠実に翻訳された聖書です。この必要を満たすため,「新世界訳」が44の言語で出されています。そのうち,29の言語のものは全訳です。過ぐる奉仕年度中に,アフリカの三つの言語,すなわちシベンバ語,イボ語,リンガラ語のクリスチャン・ギリシャ語聖書が完成しました。また,アフリカーンス語で全訳が出ました。

最近出されたそれぞれの言語の「新世界訳」は大いに感謝されています。ヨーロッパからのある報告はこう述べています。「中国語の畑で働いている兄弟たちは特に,中国語の聖書に対する感謝の言葉を述べています。この聖書は“卓絶した翻訳”と見られているとのことです」。カナダ在住の,関心を抱いている中国人の研究生数名は,「この聖書を翻訳したのは中国人に違いありません。とても分かりやすい訳です」と言いました。南アフリカでは,コーサ族である家の人はこう尋ねました。「こんなに分かりやすい聖書をどこで手に入れたのですか」。アルバニアのある兄弟は単刀直入に,「『新世界訳』は,エホバのお考えが心に達するような仕方で訳されています」と述べました。クロアチアのある伝道者はこう書いています。「物事をずっと上手に思い描くことができますし,自分でそれらの言葉を語っているような気になります。新しい訳は,たいへん簡単かつ自然な言葉を用いつつも,深い知恵を示しています。わたしたちに対するエホバの音信と教えのすばらしさをよりいっそう理解できるようになりました」。

「すべての国民と部族と民と国語」に王国の良いたよりを広めるためには,基礎的な出版物がさらに必要です。(啓 7:9)近年,タイ北部と近隣の山岳部族の言葉であるラフ語のブロシュアーが良い影響をもたらしています。ある宣教者はこう書いています。「『求め』のブロシュアーがラフ語の最も優れた道具であることは確かです。このブロシュアーは区域の隅々にまで配布されています」。その結果,「多くの村から訪問してほしいとの手紙が来ているのですが,距離や道路事情の関係で,そのすべてを訪ねることができていない状況です。マタイ 9章37節の真実さを身をもって味わっています。例えば,チェンマイから北へ160㌔ほど行ったあるへんぴな村では,関心を持つ一女性が数人の孤児に独力で『求め』のブロシュアーを定期的に教えてきたと聞きました」。

米国では,多くのアメリカ先住民が自分の母語で証言を受けています。ナバホ語では幾つかの出版物を入手できるようになりました。その一つに,「神はわたしたちに何を求めていますか」というブロシュアーのカセットテープがあります。ある伝道者はこう書いています。「わたしたちの区域の一番端にあるナバホ山には,元羊飼いの老人が住んでいます。年齢は80代で,もう目がよく見えません。孫娘が,聖書についてのナバホ語のテープを聴きたいですかと尋ねると,老人は,ぜひと答えました。そして,病床から起き上がり,ソファーに座って耳を傾けました。自分の母語で話される聖書の言葉に耳を傾けているこの人の表情をお目にかけたかったです。こう書いているだけで涙が出てきます。老人は『ニジョーニ』,つまり『すばらしい』と言いました」。

モザンビークでは,同国で使われている言語のうち五つで出版物が生産されています。読者が益を得られるようにするため,それらの言語で「読み書きに励む」というブロシュアーも出版され,現在,読み書き能力向上キャンペーンが大々的に進められています。このことに大いに感銘を受けたモザンビークのシサノ大統領は,わたしたちの聖書教育と読み書き能力向上運動に対する心からの支持を表明しました。

「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌は現在,それぞれ146の言語と87の言語で入手でき,実に国際的な雑誌です。これらの雑誌は,霊的・教育的価値ゆえに世界中で高く評価されています。例えば,太平洋の島々から成るキリバスの住民約8万人はキリバス語を話します。キリバスの証人たちは100人足らずですが,ここ数年は一人当たり毎月20冊近くの雑誌を勤勉に配布してきました。ブルガリアの1,200人の伝道者は,2002年4月中,10万冊を超える雑誌を配布しました。

エホバがご自分の民に仕事を割り当て,それに必要なものを備えてくださっていることに疑問はありません。その仕事は世界中で,様々な言語で成し遂げられつつあります。―フィリ 4:20

支部の献堂

2002奉仕年度中,カリブ海に浮かぶ美しい島トリニダードでは,支部の献堂式が行なわれました。1985年にトリニダードの支部施設がエホバに献堂されて以来,伝道者数は94%も増加しました。そのため,支部施設を増改築する必要が生じ,結果として床面積は2倍になりました。現在の支部には,新しい宿舎棟,事務所,図書室,受付ロビー,食堂,厨房などがあります。隣接している王国会館も改築され,拡張されました。このプロジェクトは地元の自発奉仕者たちだけで成し遂げられました。

2001年9月29日,14の国や地域の代表者220名ほどと,地元の兄弟姉妹695名が一堂に会して,献堂式が行なわれました。出席者は,業の神権的な歴史に関する励みの多い報告に耳を傾けました。その中では,イベンダー・J・カワードやウィリアム・R・ブラウンの果たした役割にも触れられました。今なお正規開拓奉仕を行なっている88歳の姉妹を含め,外国から来ている宣教者幾人かが,50年余り昔のトリニダードでの割り当てに関する感動的な経験を述べました。

統治体のスティーブン・レットが献堂式の話を行ないました。レット兄弟は,「昔と今のエホバの崇拝の家を高く評価する」という主題で話を展開し,エホバを崇拝するのは人であって,建物ではないという点を強調しました。そして,感謝にあふれた崇拝者であることを,従順と行状によって示すよう,兄弟たちを優しく励ましました。

次の日には,スペースの関係で献堂式のプログラムに出席できなかった人たちのために,ポートオブスペイン市で特別集会が開かれました。1万3,000人余りの人たちが出席しました。お隣のトバゴ島でも,300人余りの兄弟たちが電話回線で同じプログラムに耳を傾けました。レット兄弟は,「謙遜さを培ってエホバとの関係を守りなさい」という話をしました。出席者全員は,拡張された支部施設の献堂のことで「ただ喜びに満ち」ました。―申 16:15

近年,チェコ共和国でも支部の拡張工事が行なわれてきました。ベテルの建物1棟,別館1棟,および二つの大会ホールを献堂するために,統治体のサミュエル・F・ハードがその地に赴きました。献堂式のプログラムは2002年5月4日土曜日に行なわれました。2,125名が出席して,ハード兄弟の話を聞きました。次の日には特別集会が開かれ,5,286名の出席者がハード兄弟の,「再び力を得て,疲れ果てることがない」と題する,築き上げる話を楽しみました。チェコ共和国の兄弟たちはそれらのプログラムから大いに励みを受けました。

世界中にあるこのような支部施設では,合計1万9,823人の叙任された奉仕者が働いています。これらの奉仕者は皆,世界的なエホバの証人の特別全時間奉仕者団の一員です。

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2002奉仕年度の出来事

2001年9月1日

9月11日: 世界貿易センターが崩壊。

9月29日: トリニダード支部の献堂式。

11月20日: 王国宣教学校が始まる。

2002年1月1日

1月17日: コンゴで火山噴火。

4月4日: エホバの証人の活動禁止を目的とする,モスクワの審理が中断される。

2002年5月1日

5月4日: チェコ共和国支部の献堂式。

5月9日: かつてのナチ強制収容所で苦しみに遭った証人たちを記念する銘板の除幕式。

6月17日: 事前の許可なしに戸別訪問して宣べ伝える権利を米国最高裁判所が擁護する。

2002年8月31日

8月31日: 234の国や地域の630万4,645人の伝道者。

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上: こうした災害に遭いながらも,兄弟姉妹はキリストに倣った愛を示す

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下: ルワンダのこの王国会館は避難所として使われた

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新設された米国支部委員会,左から右へ: (腰掛けている)ジョン・キコット,マックス・ラーソン,ジョージ・カウチ,マックスウェル・ロイド;(立っている)バルタサル・ペルラ,ハロルド・コーカーン,レオン・ウィーバー,ウィリアム・バンデウォール,ジョン・ラーソン,ラルフ・ウォールズ

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アフリカーンス語の「新世界訳」

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ナバホ語の「神はわたしたちに何を求めていますか」

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トリニダード支部の献堂式には14の国や地域の代表者と地元の兄弟姉妹が出席した

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チェコ共和国の兄弟たちは,新しいベテルの建物,別館,および二つの大会ホールの献堂式を喜んだ