モルドバ
モルドバ
モルドバは,巨大なカーブを描くカルパティア山脈の東に位置し,平野と深い谷や峡谷,そして森林に覆われた丘陵地から成る肥沃な国です。この変化に富んだ3万4,000平方㌔の土地には,キツネ,オオカミ,野ウサギ,アナグマ,シカ,オコジョ,イタチ,イノシシなど,様々な動物がすんでいます。
豊かな黒土と概して穏やかな気候のおかげで,果実,穀物,野菜などの農産物が豊かに実ります。2,200もの湧水と大小3,000もの河川によって灌漑と排水も十分です。河川はすべて南の黒海に流れ込んでいます。流れの速いドニエストル川が大動脈となっており,国内を流れるほとんどの部分で船の航行が可能です。そして国内ではその大部分がウクライナとの国境を成すか,国境に平行して流れています。モルドバは北と東と南でウクライナに接しており,ドナウ川の支流であるプルート川が,西のルーマニアとの国境になっています。
モルドバの波乱の歴史
ドニエストル川とプルート川に挟まれた土地 ― 何世紀もの間ベッサラビアおよびモルダビアと呼ばれていた ― は,ヨーロッパへの主要な陸路でした。この地域は,西暦前1千年紀にはスキタイの一部となり,その後ローマ帝国の影響下に置かれました。その波乱の歴史は他民族による侵略の歴史でもあります。ゴート人,フン族,アバール人などが次々と押し寄せて来たのです。モルダビアは13
世紀と14世紀にはタタール人の属国となり,16世紀にはオスマン帝国の一部となりました。1812年のブカレスト条約により,トルコ人はベッサラビアと,モルダビアの半分をロシアに割譲しました。当時,ベッサラビアという名称はその地域全体を指していました。ベッサラビアは1918年に大ルーマニアの一部になったものの,1940年に一時的に,そして1944年に再び元のようにロシアの領土になりました。ソビエト連邦の下では,その領土はモルダビア・ソビエト社会主義共和国と呼ばれました。ソビエト共産主義が崩壊すると,モルダビア共和国はモスクワとのつながりを絶ち,1991年8月27日に独立してモルドバ共和国となりました。 * かつてのキシニョフであるキシナウが首都となっています。
1960年代にモルドバの人口は急増しましたが,その後増加の勢いは鈍くなり,1970年以降は横ばい状態です。現在の人口は約430万人で,モルドバ人の多くは国の主要産業であるワイン作りに従事し,世界のワインの約3%を生産しています。モルドバのワインはロシアや東ヨーロッパでたいへん人気があります。(71ページの囲み記事をご覧ください。)とはいえ,もっと見事なぶどう園がモルドバを豊かにしてきました。そのぶどう園は,エホバへの快い賛美という最良の実を生じさせています。
「泡だつぶどう酒のぶどう園よ!」
エホバは預言者イザヤを通して,霊的イスラエルを「泡だつぶどう酒のぶどう園」と描写されました。予告されていたとおり,その比喩的なぶどう園は,「産出的な地の表」を滋養豊かな霊的食物イザ 27:2-6)その結果,油そそがれたクリスチャンに幾百万もの「ほかの羊」が加わるようになりました。―ヨハ 10:16。
という「産物」でいっぱいに満たしました。(モルドバにいるエホバの民はその驚くべき預言の成就にあずかり,胸を躍らせてきました。エホバの組織から霊的な産物が絶えず供給されている結果として,現在モルドバには人口229人に1人の割合で伝道者がいます。それどころか,ある村では何と4人に1人がエホバの証人です。
しかし,後ほど述べるとおり,この増加には火のような試練が伴いました。神の民はほぼ70年にわたり,ルーマニア王制,ファシスト体制,共産主義体制によって禁令を課され,迫害され,投獄されたのです。それにもかかわらず,他の場所と同様モルドバにおいてもエホバは,「泡だつぶどう酒の[霊的な]ぶどう園」に関するご自分の預言的な言葉どおりに事を行なってこられました。イザヤを通してこう述べておられます。「わたし,エホバが,彼女を保護している。わたしは絶えず彼女に水を注ぐ。だれも彼女に注意を向けて攻めることのないよう,わたしは夜も昼も彼女を保護する」。(イザ 27:2,3)モルドバにおけるエホバの民の歴史を考えるとき,反対者サタンがあなたの道筋にどんな障害物を投げ込もうと,貴重な実を生み出してエホバを賛美してゆこうというあなたの決意が,兄弟たちの勇気や信仰の模範によって強められますように。
ラッセルが畑を調査する
文字通りのぶどうの木の実り豊かな枝も最初は小さな芽にすぎません。モルドバで始まった霊的な成長もそれと同じでした。ではエホバがどのようにして,か弱い新芽を,今日モルドバに見られる,実を結ぶ丈夫なぶどうの木へと育ててゆかれたかを振り返ってみましょう。(コリ一 3:6)話は,今をさかのぼる19世紀の終わり,聖書 研究者チャールズ・テイズ・ラッセルがヨーロッパ旅行中にこの国を訪問したところから始まります。
ラッセルは「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌の1891年9月号に,ユダヤ人弁護士であるクリスチャン,ジョセフ・ラビノウィッチの家を訪ねたことをこう書いています。「これまでのところ特に興味深い経験は,ロシアのキシェネフ[現在はモルドバのキシナウ]にあるジョセフ・ラビノウィッチ兄弟の自宅を訪問したことである。兄弟と家族全員が我々を温かく歓迎してくれた。全員が主イエスの信者である。……兄弟は『黎明』[『千年期黎明』と題する双書]の教えによく通じ,深く共感していた」。聖書について話し合った二人が多くの点で意見の一致を見たことは,ラッセルがこのモルドバの友人を「ラビノウィッチ兄弟」と呼んでいることからうかがえます。
ラビノウィッチとその家族は,キリストとメシアに関する希望とを受け入れるよう,キシナウの5万人余りのユダヤ人を積極的に助けていました。ラッセルによると,ラビノウィッチの自宅 兼 事務所の棟続きには,「125席ほどある,新しくてこぎれいな崇拝の家」がありました。ラビノウィッチは新しい手動印刷機も持っており,それを使って,ユダヤ人の考え方に合わせたパンフレットを作っていました。約6年後の1897年,ラビノウィッチはラッセルに次のような手紙を送っています。「大いに敬愛するラッセル兄弟: 年の終わりにあたり,定期的に受け取っております定評ある『シオンのものみの塔』誌を通して兄弟が与えてくださる霊的な喜びに感謝せずにはおられません。私にとってそれは商船のようなもので,遠い所から霊的な食物を運んで来てくれます」。このユダヤ人男性は聖書の真理に対する愛と熱意を抱いていました。とはいえ,王国の種がモルドバにしっかりと根づいて実を生み出し始めるのはさらに30年後のことです。―マタ 13:1-8,18-23。
第一次世界大戦は大勢の人を幻滅させる
第一次世界大戦中にヨーロッパで生じた政治上の激変によって,モルドバにも王国の種のための肥沃な土壌が作り出されました。大戦 ― 当時そう呼ばれていた ― が終結すると,モルドバは,共産主義者が権力を握ったロシアとのつながりを絶ち,ルーマニアと結びつきました。大勢のモルドバ兵は戦争の恐ろしさを目の当たりにし,幻滅を感じながら戻って来ました。ほとんどの兵士は正教会
への強い忠誠心を持つよう育てられていましたが,今やその教えに疑問を持つようになったのです。その一人にイオン・アンドロニクがいます。イオンは1919年に生まれ故郷のコルジェウツィ村に帰って来ました。聖書に関心を持つようになったのは,捕虜となっていた時にアドベンティスト派やバプテスト派の信者と話し合ったからです。イオンが捕虜収容所から聖書を持ち帰り,その音信を家族や近所の人たちと話し合ったところ,彼らも関心を持つようになりました。
イリエ・グローザという男性もそのような近所の人の一人でした。戦時中米国にいたイリエは,旅行中に手に入れた“新約聖書”を持ち帰りました。親しかったアンドロニク家とグローザ家は一緒に神の言葉を討議するようになりました。また,そのころ聖書研究者と呼ばれていたエホバの証人の発行した文書も入手しました。
イリエ・グローザの娘イオアナは当時を思い出して,次のように述べています。「家族が聖書研究者の文書を初めて手に入れた時,わたしはまだ6歳だったと思います。それらの文書をどこから入手したのかはよく分かりませんが,両親や姉たちが,出版物中にある聖句の明快な説明に興奮しながら話し合っていたのは覚えています」。
イオン・アンドロニクはエホバに献身しませんでしたが,イオンの家族とグローザ家の大半の人たちは違いました。「最初のうち,わたしたちの集会は二家族だけのものでした」とイオアナは言います。「うちには女の子が4人,アンドロニク家には女の子のほかに男の子もいました。それで,じきに恋が芽生え,
姉のフェオドリナがバシレ・アンドロニクと結婚しました。「しばらくすると,この聖書研究のグループに,うちの遠縁に当たる夫婦トゥドル・グローザとダリア・グローザが加わりました。トゥドルはとても熱心な聖書研究生で,文書を手に入れるため,また聖書に関するたくさんの疑問の答えを得るために,ルーマニアのクルジュナポカの支部事務所まで出かけて行きました。後にトゥドルは,わたしたちの小さな会衆にとって大きな霊的支えになりました。
「近所に住んでいたヤクボイ家も,我が家で行なわれていた聖書の話し合いに加わりました。家族の頭のペトル・ヤクボイは以前,聖書を頒布している人を親切にもてなしたことがありました。その人が聖書に対するペトルの関心をかき立てたのです。ペトルはしばらくバプテスト派の教えを調べた後,真理は別のところにあると考えて,数を増すわたしたちの聖書研究者グループに加わりました。
「わたしたちのグループは学んでいる事柄に強く促され,友人や親族すべてに王国の良いたよりを熱心に伝えました。その多くは,わたしたちと同じ村や近隣の村々に住んでいました」。
「ものみの塔」誌(英語),1921年12月15日号は,王国の音信がモルドバでどれほど速く広まっているかを強調し,こう報告しています。「最近までアドベンティスト派の説教師だった一人の兄弟は,ベッサラビア[当時のモルドバの呼び名]からこのような手紙を寄せている。『近隣の多くの場所と同様,当地でもおよそ200人が真理を受け入れました』」。
1920年代の初めにシラウツィという村で,正教会の筋金入りの信者イラリオン・ブガヤンが真理を知り,亡くなるまで忠実にエホバに仕えました。また,モイゼ・チョバヌという聖書研究者がドイツからバルツィ市に戻って来ました。モイゼは第一次世界大戦中,ドイツで投獄されている時に真理を学んでいました。程なくして群れが設立され,その後バルツィの最初の会衆になりました。
ルーマニアの証人たちが援助を差し伸べる
1920年代にルーマニア支部は,区域を耕すのを助け,神の民と交わり始めた人たちを強めるために,資格ある兄弟たちをモルドバへ遣わしました。そうした初期の福音宣明者の中に,トランシルバニアのバシレ・チュカシュがいます。兄弟はルーマニア語とハンガリー語を話せました。設立されて間もないコルジェウツィ会衆を訪問する時はいつもイリエ・グローザの家に滞在しました。イオアナは懐かしそうにこう語ります。「わたしは当時8歳だったと思いますが,チュカシュ兄弟の訪問は今でも覚えています。兄弟はとびきり親切で,いつもとても興味深い話を聞かせてくださったので,だれも先に寝たいとは思いませんでした。姉とわたしは兄弟の隣に座ろうとよく争ったものです」。
ルーマニアの証人たちは地元の熱心な伝道者たちと共に,近隣の村々にも良いたよりを広めてゆきました。コルジェウツィから11㌔離れたタバニという村では,カジミル・チスリンスキイが,聖書から学んだ良い事柄を人々に伝えました。カジミルが王国の音信を聞いたのはルーマニア軍にいた時です。タバニでカジミルの伝道に最初にこたえ応じた人たちの中に,非常に熱心な研究生となったドゥミトル・ゴロベツがいます。ドゥミトルや他の人たちの熱心さの結果として,今ではタバニの住民3,270人のうち475人がエホバの証人です。
1920年代の初め,王国の音信はコルジェウツィから三,四キロ離れたカラクシェニ村にも伝わりました。その村で最初に真理を受け入れた人の中に,1927年にバプテスマを受けたブラディミル・ルングがいます。ブラディミルはクリスチャンの信条ゆえに受けた幾多の迫害を耐え忍び,2002年にエホバへの忠実のうちに亡くなりましたが,存命中に,非常に多くの村人が真理を受け入れるのを目にしました。現在カラクシェニの人口は4,200人で,何とその4人に1人がエホバの証人です。
アレクサンドル・ミキトコフという忠実な兄弟は,1929年にルーマニアのヤシという都市を訪れていた時,初めて真理を知りました。息子のイワンはこう言います。「父は故郷のツァウル村に戻るとすぐに良いたよりを宣べ伝えはじめました。そして間もなく,我が家でクリスチャンの集会が開かれるようになりました」。
イワンはこう続けます。「父はルーマニアの支部事務所と連絡を取っていました。それで,時折ルーマニアの円熟した兄弟たちが訪問してくださいました。悲しいことに,1931年のそうした訪問の際,赤ちゃんだった妹が死にました。わたしの家族はよく知られていたので,大勢の村人が葬式に出席しました。ルーマニアから訪問中のバニカ兄弟が葬式を執り行なってくださいました。兄弟は素晴らしい証言を行ない,聖書研究者は品位ある葬式を執り行なわないという僧職者の広めたうわさが偽りであることを明らかにしました。さらに,バニカ兄弟は復活の希望も明快に説明されたので,幾人かの参列者の心にりっぱな種が植えつけられ,やがて,それらの人たちも聖書の真理の側にしっかりと立つようになりました。
「バニカ兄弟の霊的な励ましは,わたしの家族にも多大の影響を及ぼしました。例えば,兄のドゥミトルは聖書文書頒布者<コルポーター>(全時間奉仕者)になる決意をしました。できるだけ多くの人を援助したい
と強く願っていた兄は,程なく,モルドバ国内の手つかずの区域で宣べ伝えるために出かけてゆきました。家族は兄の決意を心から支持しました。でも正直なところ,わたしは兄がいなくなってとても寂しく感じました。とはいえ,兄が胸の躍る奉仕の経験をどっさり持って帰って来るたびに,家族は本当にうれしく思いました」。僧職者からの反対が強まる
正教会の僧職者たちは当初から良いたよりの伝道に反対していました。そして,教会員だった人が聖書の真理を学んで,十字を切ることや自分の子どもに洗礼を受けさせることを拒むようになると,僧職者たちは激怒しました。
イオアナ・グローザは10歳ぐらいの時,信念を曲げるよう地元の正教会の司祭から圧力をかけられました。イオアナはこう言います。「父はわたしたち子どもに,十字を切るのは聖書に反する行ないだと説明してくれていました。でも学校では司祭から,十字を切るようにと強く言われました。わたしはその司祭が怖かったのですが,一方では父をがっかりさせたくありませんでした。それで学校へ行かず,納屋に隠れていました。でも数日後に,学校へ行っていないことが父に知られてしまいました。それでも父はしかったりせず,理由を優しく尋ねました。司祭を恐れていることを話すと,父はわたしの手を取り,まっすぐ司祭の家へ行きました。
「父はきっぱりと司祭に言いました。『もしあなたがわたしの娘に衣食住を備えてくださっているのでしたら,宗教面で何をすべきかを娘に指図していただいて構いません。でも実際にはそうではあり
ませんから,わたしが自分の子どもに教えている事柄について口出ししないでいただきたいと思います』。うれしいことに,その後,学校に通っている間ずっと,その司祭に悩まされることはありませんでした」。一般に,地域社会で最も影響力があるのは僧職者でした。僧職者たちはイエスの時代の宗教指導者と同様,自らの影響力を利用してエホバの僕たちの良い評判を損なおうとしました。そうすれば,教区民は兄弟たちをはねつけたり,兄弟たちと話すのを恐れたりするようになります。僧職者たちが好んで用いた戦術の一つは,政治的な敵対感情を利用することでした。例えば,当時の人々は国境の向こうのソビエト連邦にいるボリシェビキを“脅威”とみなし,恐れや不信感を抱いていました。正教会の司祭たちはこの恐怖心に付け込み,聖書研究者が十字を切ろうとしないのは政治的な思惑があるからだと唱え,共産主義者呼ばわりしました。
さらに,ずる賢い僧職者たちはそれ以上のことも行ないました。イエスの時代の書士やパリサイ人のように自分たちの地位を悪用して,神の民に反対するよう役人を唆すことさえしたのです。―ヨハ 18:28-30; 19:4-6,12-16。
モルドバは1918年から1940年まで,当時,王国つまり君主国であったルーマニアの支配下に置かれました。ルーマニア政府は,宗教関係の事柄を管轄する新興宗教担当の大臣を任命しました。この大臣は正教会の力に屈して聖書研究者の活動に反対し,聖書研究者とその聖書文書に禁令を課そうとしました。お察しのとおり,ボリシェビキと結託しているとして兄弟たちを告発したのです。
このようにして当局がエホバの民への侮蔑をあらわにしたため,モルドバの査察長官はある警察署長に行政指令を送りました。
1925年4月25日付のその指令にはこうあります。「警察保安指令第17274/925号に基づき,国際“聖書研究者”の宣伝活動を禁止ならびに中止させる旨,内務省が決定したことを,謹んで通知する。この目的達成のため,必要な措置を講じられたい」。こうした当局からの反対が兄弟たちに与えた影響は,ルーマニア事務所が1927年10月17日に世界本部に提出した報告に記されています。その報告は事態を総括して,至る所で会衆の集会が中止ならびに禁止され,『幾百人もの兄弟たちが軍事裁判所や一般裁判所に召喚されました』と述べ,さらにこう伝えています。『夏の間はほとんど集会を開けませんでした。会衆はいまだに,秘密調査官や警察に厳しく監視されているからです。会衆の大半が存在する農村部において特にそうです。集会はたいてい,森の中の人目につかない場所で開かれました』。
報告はこう続きます。『3月以降,旅行する監督の業も縮小されました。その月に内務大臣から,聖書文書頒布者<コルポーター>を探し出し,それら“宣伝活動家”を全員逮捕するようにとの厳命がひそかに出されました。それから間もなく,聖書文書頒布者<コルポーター>のほぼ全員が投獄されました。わたしたちも兄弟たちも,この国で業が始まってからずっと,恐れることなく反対を耐え忍んできました。しかし今回は,わたしたちを一掃しようとする組織的な取り締まりがあまりにも徹底しているため,ほとんど身動きが取れません』。
1920年代の終わりごろにも,勇敢な人たちや家族が次々と正教会を離れ,聖書の真理の側にしっかり立場を定めました。その点は,ある村の司祭が1928年に上司にあてて書いた手紙からうかがえます。その手紙には,シラウツィにあるその司祭の教区にいる大人と子ども43人の名前が記されており,こう書かれています。「“聖書研究者”派のメンバー・リストを謹んで添付いたします。この派
の者たちはいくらあがいても何の成果も上げられず,礼拝所もなく,個人の家で集まっています」。しかし実際のところ,司祭が添付したリストは,聖書研究者が『何の成果も上げられずにいる』という司祭の主張の偽りを示していました。リストにある43人の大半はかつて正教会員だったからです。リストに挙げられていた子どもの中に,アグリピナ・バルブツァがいます。姉妹は現在では80歳を超えていますが,今でも活発にエホバに仕えています。
公に宣べ伝えるのが難しくなると,兄弟たちは非公式の証言,特に親族への証言に力を入れました。当時,人々は親戚付き合いにかなり多くの時間を割いていました。兄弟たちはこの慣習を活用して,良いたよりを伝えました。言うまでもなく,家族の成員同士の話し合いを阻める法律などありませんでした。
宣べ伝える業を合法化するための努力
宣べ伝える業が1925年に禁止された後,ルーマニアのクルジュナポカ支部事務所の兄弟たちは,タイプした50ページに及ぶ意見書を新興宗教担当の大臣に送りました。その意見書はエホバの証人詩 94:20。ダニ 6:5-9)その点に関して,1932年5月29日付の公文書は,国際聖書研究者の「あらゆる活動が全面的に禁止されている」と述べています。
の教えと信条を簡潔に説明し,禁令の解除を公式に要請していました。その後,1927年9月に,支部の一人の兄弟が3回にわたり大臣と個人的に会うことができました。兄弟は最後の面会を終える時,信教の自由に有利なように法律が変わるだろうと期待しました。しかし残念なことに,政府は兄弟たちの訴えを無視しました。実際,当局は引き続き布告によって難儀を仕組み,エホバの民の境遇を良くするどころか悪くしました。(それでも,神の民に対するこうした攻撃は,ルーマニアとモルドバにおける一致した組織的な運動というほどのものではありませんでした。地方自治体や役人たちは,聖書研究者について,ある程度独自の判断を下すことができました。それで兄弟たちは,少なくとも地元で良いたよりを擁護して法的に確立するために,それら役人たちに働きかけました。―フィリ 1:7。
そうした努力は幾つかの場所で実を結びました。ルーマニアのブカレストがそうです。支部事務所がクルジュナポカからそこに移った後の1933年,長い苦労の末,支部はついにブカレストでエホバの証人聖書冊子協会を法的に登録することができました。
興味深いことに,高名な裁判官の中にさえ,神の民に課された制限に公然と異議を唱える人がいました。例えば1935年5月8日,クルジュナポカ控訴裁判所は勇敢にも,エホバの証人に課された禁令が違憲であるとの裁定を下しました。裁定文はこう述べています。「押収された[エホバの証人の出版した]小冊子は,互いへの愛および神とキリストへの信仰を説き勧めている。よって,それらの小冊子の内容が破壊的であると唱えるのは間違っている。それらは国家の安全を脅かすものではないのである」。
理性の声が無視される
しかし当局は,全般的に神の民の業に反対し続けました。例えば,1934年3月28日,モルドバのソロカという町の公安局長は上司であるキシナウの地方警察長官に手紙を書き,1927年にソロカ近隣のある村で「この派の教えを信奉していたのは二家族だけ」だったのに,その二家族が「33家族も改宗させてしまった」と嘆いています。また,証人たちが「教会」とその「宗教的な伝統や慣習をはねつけ」,「司祭に礼拝を行なってもらわずに自分たちで独自の崇拝を執り行なっている」とも書いています。そして,「[証人たちは]いまだに新たな改宗者を生み出しており,これは既存の秩序と国家の安全に対する脅威である」と述べて手紙を結んでいます。
1937年5月6日,その地区の兄弟たちは知事に書簡を送り,エホバの証人を非合法セクトのリストから除外するよう求めました。それに対する公式の反応は,ソロカ地区の郡長官から同地区の知事に送られた手紙にはっきり示されています。1937年6月15日付のその手紙にはこうあります。「[エホバの証人]の活動は,……新興宗教・芸術省によって禁止されている。それゆえ,[非合法]セクトのリストからの削除請求に応じることはできない。彼らがそのセクトの利益のためにまだ活動を続けているからである」。
政府の公式機関誌「モニトルル・オフィチャル」(ルーマニア語)は,1939年7月12日付の紙面でそうした敵対的な見解をあらわにし,エホバの証人とそのすべての法人組織は「全面的に禁止されている」と述べました。前述のとおり,モルドバは当時,東方正教会を奉じるルーマニア王制の統治下にありました。残念ながら,宗教的な偏狭によって,法律による禁令以上の仕打ちをエホバの民に加えた役人が少なくありませんでした。
役人たちによる残虐な扱い
ドゥミトル・ゴロベツとカジミル・チスリンスキイが経験した事柄から分かるとおり,宣べ伝える業への反対の炎をあおり立てたのはたいてい,宗教的な憎しみを抱く頑固な正教会信者の役人たちでした。ドゥミトルとカジミルは,タバニ村で聖書の真理を学ぶようになりました。二人はすぐに,りっぱな特質や宣教奉仕に対する熱心さによって,兄弟たちからよく知られ,愛されるようになりました。その後,1936年に二人は逮捕され,ホチン(現在はウクライナ領)という町の警察署に連行されました。
警察はまず,ドゥミトルとカジミルを容赦なく打ちたたきました。それから二人に十字を切らせようとしました。二人は幾度となく打ちたたかれたにもかかわらず妥協しませんでした。警察はついにあきらめ,ドゥミトルとカジミルを家に帰らせました。とはいえ,この二人の忠実な兄弟たちが経験した試練はそれだけではありません。ファシストと共産主義の支配下でも,良いたよりのために多くの苦難を耐え忍んだのです。ドゥミトルは1976年の初めにロシアのトムスクで,カジミルは1990年11月にモルドバで亡くなりました。
1930年代には,モルドバでの活動はルーマニア支部が監督していました。当時,1922年にバプテスマを受けたマーティン・マジャロシが支部の僕でした。マーティンは兄弟たちへの愛ある関心に動かされ,とりわけ試練に遭っている兄弟たちを気遣い,義理の息子パムフィル・アルブと共にモルドバ北部の多くの会衆を訪問して,神の民を力づけ励ましました。その訪問は本当に適切な時に行なわれました。なぜでしょうか。ヨーロッパは間もなく第二次世界大戦のまさに中心になったからです。そして,望ましい領地とみなされたモルドバは,敵対し合う強力な近隣諸国に翻弄されました。
第二次世界大戦でヨーロッパは疲弊する
1939年8月23日,ソビエト連邦とドイツのナチ政府が不可侵条約に調印しました。その1週間後の1939年9月1日,ドイツがポーランドに侵攻し,第二次世界大戦の火ぶたが切られました。次いで1940年6月26日,ソビエトの外相ビャチェスラフ・モロトフはルーマニア政府に,当時ベッサラビアと呼ばれていた地域をソビエト連邦に無条件で割譲するよう要求しました。ルーマニアはこの要求をのみ,1940年6月28日にソ連軍がモルドバに入りました。1940年8月,ソ連はモルダビア・ソビエト社会主義共和国を創設し,キシナウを首都と定めました。
ところが,ソ連がモルドバを占領したのもつかの間,1941年6月22日,ドイツが1939年の不可侵条約をほごにしてロシアに侵攻したのです。この事態の変化に乗じて,ルーマニアはドイツ側に付くことを宣言し,ソ連からモルダビア共和国を奪い返そうとし始めました。
その企ては成功し,ルーマニア軍は1941年7月26日にはロシア軍をドニエストル川まで押し戻していました。このようにしてモルドバは,1年と少しの間ソ連に統治された後,再びルーマニアの支配下に置かれました。しかしこの度ルーマニアを統治していたのは,1940年9月に政権を握った独裁者イオン・アントネスク将軍の率いる超国家主義的ファシスト政府でした。この政権は,神の王国を忠節に支持するゆえに政治上の中立を保つ人たちを寛大に扱おうとしませんでした。
ファシストによる厳しい試練
ヒトラーおよび枢軸諸国と同盟を結んでいたアントネスクのファシスト政府は,直ちにエホバの証人を思いどおりにしようとしました。一例として,1919年生まれのアントン・プンテアの場合を考えてみましょう。アントンは十代で真理を知り,家から家の宣教奉仕に熱心でした。打ちたたかれそうになったことが幾度もありましたが,自分の信仰について語るルーマニア市民としての法的権利を大胆に主張し,しばらくは身体的な暴行を免れていました。しかし,ついに警察に逮捕され,ファシストの警察官によって警察署に引きずって行かれ,一晩じゅう打ちたたかれました。しかしその後,驚いたことに釈放されました。プンテア兄弟は現在84歳になりますが,今なおエホバに忠実を保つことを決意しています。
忠誠を保った人としては,1920年代にモルドバで聖書の真理を学んだパルフィン・パラマルチュクもいます。パルフィンも良いたよりの熱心な宣明者となり,よく何週間も出かけては,ウクライナのチェルノフツイからリボフに至る都市や村々で伝道しました。兄弟は武器を取ることを拒んだため,1942年にファシストに逮捕され,チェルノフツイで軍法会議にかけられました。
パルフィンの息子ニコラエは,その時のことについて次のように
述べています。「その軍法会議で合計100人の兄弟が死刑判決を受けました。刑は直ちに執行されることになっていました。将校が兄弟たちを全員集め,最初に銃殺する10人を選びました。その人たちは残りの90人が見守る中,まず自分たちの墓を掘らされました。将校は兄弟たちを撃つ前に,信仰を捨てて入隊する機会をもう一度与えました。2人が妥協し,残りの8人は銃殺されました。そして,次の10人が整列させられました。しかし,その兄弟たちは銃殺される前に死体を埋めなければなりませんでした。「兄弟たちが墓に土を入れている時に,高級将校がやって来て,考えを変えた証人たちは何人だ,と尋ねました。そして,たった2人だと分かると,20人を入隊させるのに80人も殺さなければならないのなら,残っている92人を強制労働収容所へ送るほうがよいではないか,と言いました。それで,死刑は25年間の強制労働に減軽されました。とはいえ,その証人たちは3年もたたないうちに,侵攻して来たソ連軍によってルーマニアの収容所から解放されました。父はこのほかにも多くの厳しい試練を生き延び,1984年にエホバへの忠実を保って亡くなりました」。
正教会に従わないのは犯罪!
バシレ・ゲルマンという若い男性が1942年12月にファシストに逮捕された時,その妻は女の子を産んだばかりでした。バシレは二つの“犯罪”で告発されました。兵役を拒否したことと,正教会で娘に洗礼を受けさせなかったことです。その時のことをバシレはこう述べ
ています。「1943年2月にわたしは,他の69人の忠実な兄弟たちと共にチェルノフツイの軍事裁判所で審理を受けることになっていました。判決が言い渡される前に,わたしたちは6人の犯罪者の処刑を無理やり見させられました。それで,次はわたしたちが死刑になるのだと思いました。「わたしたちはそのことについて話し合い,信仰を強く保って,裁判の間ずっと喜びを失わないよう最善を尽くそうと決意しました。エホバの助けによってその決意を貫くことができました。予想どおり70人全員が死刑判決を受けましたが,義のために苦しんでいるのだという実感があり,だれも意気消沈しなかったので,敵対者たちは大いに悔しがりました。その後,驚くべきことが起きました。当局は銃殺を取りやめ,刑をルーマニアのアユード収容所での25年間の強制労働に切り替えたのです。それに,その刑も完全には執行されませんでした。わずか1年半後の1944年8月,侵攻して来たソ連軍によって収容所は解放されたのです」。
1942年にファシストは,アントネスク将軍の軍隊で兵役に就かせるため,モルドバのシラウツィ村から800人ほどの男子を徴集しました。その中には,ニコラエ・アニスケビチを含む幾人ものエホバの証人がいました。ニコラエはこう言います。「警察は手続きの初めに,宗教儀式に参加するよう命じました。わたしたちエホバの証人はそれを拒みました。また武器を取ることも拒否しました。そのため,警察はわたしたちを共産主義者であるとして逮捕しました。でも,収監する前に,中立の立場を取る理由をその場の全員に説明することを許可しました。
「翌日,その地区の司法の拠点ブリチェニへ移送されました。そこで衣服をはぎ取られ,徹底的に検査されました。それから,軍で高い地位にある司祭に尋問されました。この司祭は親切で,良心上の立場に理解を示し,わたしたちに食物が与えられるよう取り計らってくれました。さらに報告書に,わたしたちが武器を取ることを拒否するのはイエスに対する信仰ゆえであると記しました。
「わたしたちはブリチェニからリプカニの警察署へ連れて行かれ,夜までずっと容赦なく打ちたたかれました。その後,他の二人の兄弟と,そして驚いたことに一人の女性と同じ監房に入れられました。後で分かったのですが,その女性はスパイでした。数日のあいだ毎日打ちたたかれました。しばらくして,わたしはチェルノフツイへ連れて行かれ,軍法会議にかけられました。そこでは弁護士をつけられましたが,その弁護士はとても助けになってくれました。しかし,虐待のためにわたしの健康が非常に悪化していたので,軍当局はわたしが死ぬのではないかと考え,結局,刑を宣告せずに家に送り返すことにしました」。
忠誠を保つ勇敢な姉妹たち
姉妹たちも,怒りに燃えるファシストにひどく苦しめられました。その一人にマリア・ゲルマン(バシレ・ゲルマンの親族ではないが,同じ会衆)がいます。姉妹は1943年に逮捕され,バラシネシュティの警察署に連行されました。姉妹はその時のことを振り返り,こう述べています。「警察に逮捕されたのは,正教会へ行こうとしなかったからです。まずモルドバのリプカニへ,それからウクライナのチェルノフツイ
へ移送され,そこで刑を宣告されました。「なぜ教会へ行こうとしなかったのかと裁判官に尋ねられ,エホバだけを崇拝しているからですと答えました。この“犯罪”のために,他の20人の姉妹たちと一緒に20年の刑を言い渡されました。幾人かは他の受刑者30人と共に狭い監房に押し込められました。ところがわたしは,その日のうちに,裕福な人たちの家で家事をするために出されました。ついでながら,その人たちは刑務官よりは優しく扱ってくれました。少なくとも食べる物は十分に与えてくれたのです。
「やがて,刑務所の別棟にいた兄弟たちと連絡が取れました。それは祝福となりました。兄弟たちが霊的な食物と物質的な食物を得るのを手助けできたからです」。
忠誠を保ったこれらの人たちは,他の多くのモルドバの証人たちと同様,ファシストの怒りを耐え忍んだだけではありません。その後,別の攻撃を受けて,またもや信仰を試みられたのです。その攻撃は,次の地域大国である共産主義ロシアからのものでした。
ソビエトの策略 ― 強制移住
大戦が終わりに近づいた1944年,形勢がドイツにとって不利になると,国王ミハイの率いるルーマニア政府内部の一派がアントネスク政権を倒しました。そしてルーマニアは,忠誠の対象を枢軸国からロシアに切り替えました。その同じ年,進撃するソ連軍はこの地域に対するロシアの支配を再び主張し,モルドバをモルダビア共和国としてソビエト連邦に再併合しました。
当初,モルドバを支配する共産主義者たちはエホバの証人をほうっておきました。しかしそれもつかの間,証人たちが地元の党選挙で投票しないことなど,クリスチャンの中立がまたもや大問題になりました。ソ連の体制は政治的な中立を全く容認しませんでした。それで1949年以降,政府は,エホバの証人などの“望ましくない輩”を追放して問題を解決しようとしました。
ある公文書には,モルダビア共和国から追放される人々に関する「共産党中央委員会政治局の決定」が提示されています。追放されるのは,「旧地主,大商人,ドイツ侵略軍の積極的共犯者,ドイツおよびルーマニア警察当局の協力者,ファシスト支持政党および組織のメンバー,白衛軍のメンバー,非合法セクトのメンバー,ならびに上記該当者の家族」などでした。全員が「無期限で」西シベリアに送られることになっていました。
強制移住の第2弾は1951年に始まりましたが,この度はエホバ
の証人だけが対象でした。この強制移住はスターリン自らが命じたもので,セーベル作戦と呼ばれました。720家族を超えるエホバの証人 ― 約2,600人 ― が,モルドバから,約4,500㌔離れた西シベリアのトムスクに送られました。公式の指令によれば,待機している列車に連れて行かれる前に身の回り品をそろえる十分な時間が与えられることになっており,車両は「人間の輸送用によく整えられた」ものであるはずでした。しかし,実際には全く違っていました。
真夜中に,多い場合には8人の兵士と役人がエホバの証人の家にやって来て家族を起こし,強制移住命令書を見せます。次いで,持ち物をそろえるのにわずか数時間しか与えずに,待機している列車に連行してゆきました。
輸送に使われたのは有蓋貨車でした。2週間に及ぶ旅のあいだ,車両には様々な年齢の人が40人も押し込められました。座席もなければ,寒さを遮る物もありません。貨車の片隅の床にはトイレ用の穴がありました。地元の役人たちは,追放する前に兄弟たちの所有物を帳簿につけることになっていましたが,たいていあまり価値のない物しか書き留めず,高価な品はいつの間にか“消えて”しまいました。
このような幾多の不正や苦難にもかかわらず,兄弟たちは決してクリスチャンの喜びを失いませんでした。実際,証人たちを乗せた列車が鉄道の交差地点で出会うと,他の貨車から王国の歌が聞こえてきました。それで,各列車の兄弟たちは,自分たちだけでなく幾百人もの仲間の証人たちも一緒に追放されていることを知りました。こうした困難な状況でも互いが喜びに満ちた精神を発揮しているのを見聞きし,すべての人が大いに元気づけられ,何が起きようとエホバに忠実を保とうという決意を固めました。―ヤコ 1:2。
見倣うに値する信仰
シベリアに追放されたモルドバ人の中にイワン・ミキトコフがいます。兄弟はまず1951年にモルドバで他の証人たちと共に逮捕されてトムスクへ流刑にされ,シベリア・タイガでの樹木の伐採作業を割り当てられました。強制労働収容所には入れられなかったものの,移動の自由は制限され,絶えず秘密警察に監視されていました。それでも,イワンと霊的な兄弟たちは,あらゆる機会をとらえて人々に証言しました。
イワンは次のように述べています。「この難しい新たな状況のもとで,わたしたちは会衆を組織しました。自分たちの用いる文書の生産も始めました。やがて,わたしたちが伝道した人の幾人かが真理を受け入れ,バプテスマを受けました。しかし,そうした活動がやがて当局に気づかれ,わたしたちの一部は強制労働収容所送りになりました。
「仲間の証人のパベル・ダンダラ,ミナ・ゴラシュ,バシレ・シャルバンと共に,わたしは厳重な監視下での12年の強制労働を宣告されました。こうした過酷な刑罰によって他の兄弟たちが恐れを抱いて沈黙することを当局は望んでいましたが,そうはなりませんでした。兄弟たちはどんな場所へ送られようと,宣べ伝え続けたのです。わたしは刑期満了まで服役してから1966年に釈放され,トムスクへ戻って,3年間そこにいました。
「1969年にドネツ盆地へ移動し,マリアという忠実で熱心な姉妹と知り合い,結婚しました。1983年に再び逮捕され,今度は,5年
間の投獄および5年間の追放という二重の刑を宣告されました。無理もないことですが,前の刑よりこの刑のほうがはるかにつらく感じられました。妻や子どもと離れ離れになり,妻子も様々な苦難を耐え忍ばなければならないのです。しかし幸いなことに,刑期満了まで服役しないで済みました。ミハイル・ゴルバチョフがソビエト共産党の書記長に就任した後の1987年に釈放されたのです。ウクライナへ,そして後にモルドバへ戻ることを許されました。「モルドバ第二の都市バルツィに戻った時,そこには370人の伝道者がおり,三つの会衆がありましたが,現在では伝道者は1,700人を超え,会衆は16もあります」。
「お前もバシレのようになりたいか」
収容所当局やKGB(ソビエトの国家保安委員会)職員は,兄弟たちの忠誠心を弱めようとして冷酷非情な策略を考案しました。コンスタンチン・イバノビッチ・ショベは,祖父のコンスタンチン・ショベの身に起きたことをこう語っています。「1952年に祖父は,シベリアのバイカル湖の東にあるチタ地区の強制労働収容所で服役していました。収容所の係官たちは,信仰を捨てなければ銃殺すると言って,祖父やほかの証人たちを脅しました。
「兄弟たちが妥協しなかったため,係官たちは兄弟たちを収容所の外の,森の外れに集合させました。そして,辺りが暗くなってきた時,祖父の親友バシレを森の中に少し入った所へ連れて行き,これからバシレを銃殺すると告げました。兄弟たちが心配しながら待っていると,ライフルの銃声が2度,3度,夕方の静けさを破りました。
「看守たちは戻って来て,次の証人,つまり祖父を森の中に連れて行きました。そして,しばらく歩き,開けた場所で立ち止まりました。そこには幾つかの墓が掘られていて,一つには土が盛られていました。指揮官はその墓を指さしながら祖父のほうを向き,『お前もバシレのようになりたいか。それとも自由の身になって家族の元へ戻りたいか。2分やるから考えろ』と言いました。祖父は2分も考える必要はなく,すぐにこう答えました。『わたしは銃殺されたバシレとは長年の知り合いです。そして今は,新しい世で復活してくるバシレと再会することを楽しみにしています。わたしはその新しい 世でバシレと共になることを確信していますが,あなたはそこにいらっしゃるでしょうか』。
「それは指揮官が望んでいた答えではありませんでした。指揮官は祖父や兄弟たちを収容所に戻しました。後で分かったことですが,祖父はバシレと会うのに復活を待つ必要はありませんでした。すべては兄弟たちを妥協させるために仕組まれた残酷な計略だったのです」。
共産主義者の宣伝は逆効果になる
共産主義者たちは,エホバの証人に対する憎しみや疑念を人々に抱かせるため,神の民を中傷する本やブロシュアーや映画を作りました。あるブロシュアーは「二重底」(ロシア語)という題でした。これは,兄弟たちがスーツケースやかばんの底に作った,文書を入れる秘密の仕切りを指していました。ニコライ・ボロシャノブスキは収容所長がこのブロシュアーを使って,囚人たちの前で自分を辱めようとしたことを思い出します。
その時のことをこう述べています。「収容所長は,バラックの一つに受刑者全員を集めました。そして,『二重底』から幾つかの言葉を引用しましたが,その中には,わたし個人に対する中傷の言葉も含まれていました。所長が話し終えると,わたしは質問する許可を求めました。所長は,わたしを笑い物にするチャンスだと思ったに違いありません。許可してくれたのです。
「わたしは所長に,この強制労働収容所に連れて来られたわたしを初めて尋問した時のことを覚えておられますか,と尋ねました。所長が覚えていたので,わたしは,入所書類に記入するために出生地や市民権などについてどんな質問をしたか覚えておられるでしょうか,と尋ねました。今度も所長は覚えていると言い,わたしがどんな返事をしたかということまで,その場にいた人たちに話しまし
た。それでわたしは,書類に実際には何と書いたか話していただけますかと言いました。所長は,わたしの答えとは違うことを書き込んだと認めました。そこで,わたしはみんなの方を向いて,こう言いました。『もうお分かりでしょう。このブロシュアーはそれと同じ方法で書かれたのです』。囚人たちは拍手かっさいし,所長は怒って出て行きました」。分裂させて征服するという策略
1960年代,業を煮やしたソビエト当局は,エホバの証人の一致を乱そうと,新たな方策を講じました。1999年発行の「剣と盾」(英語)という本は,政府の公文書保管所に収められているKGBの元秘密文書の幾つかを取り上げ,こう述べています。「『エホバ信奉者[エホバの証人]との闘い』の指揮を執るKGB幹部は1959年3月に会議を開き,『かく乱を伴う弾圧という手段の継続』こそが適切な戦略であるとの結論に達した。KGBは,この派を分裂させ,士気をくじき,その評判を落とすことに加え,特に影響力のある指導者たちをでっち上げの容疑で逮捕することを企てた」。
「かく乱」には,ソビエト連邦じゅうの兄弟たちの間に不信感を植えつける組織的な作戦が含まれていました。KGBは,幾人もの主要
な兄弟たちが国家保安局に協力するようになったという悪質なうわさを流しはじめました。KGBの偽情報はあまりにも巧妙だったので,だれを信用したらよいのか分からなくなってしまう証人が少なくありませんでした。KGBのもう一つの策略は,特別捜査官を訓練して“活発な”エホバの証人になりすまさせ,組織内の責任ある立場に就くようにさせることでした。言うまでもなく,それらのスパイはKGBに絶えず情報を流します。さらにKGBは,本物の証人たちとひそかに接触し,多額の金銭で買収して協力させようとしました。
残念ながら,この卑劣な手口は,モルドバなどの兄弟たちの一致を乱す点である程度成功しました。そのため,互いを疑う空気が生まれました。一部の兄弟たちは組織から離脱して,反対派と呼ばれる分派を作りました。
これより前,ソビエト連邦内の兄弟たちは,エホバの組織,および組織が生産する霊的食物,また組織が任命した責任ある兄弟たちを経路とみなしていました。しかし今や,その経路に関する疑惑や疑念がつのりました。どうすれば兄弟たちはこの疑惑を一掃できるでしょうか。驚くべきことに,ソビエト国家の助けを得てそうすることができました。陰謀を企てた者たち自身が,自らの作り出した問題の解決に手を貸したのです。どのようにでしょうか。
神の霊を計算に入れていなかった
1960年代初め,ソビエト当局はソビエト連邦中の大勢の“指導的な”証人たちをひとまとめにして,西ロシアのモルドビニア共和国サランスク市から150㌔ほど離れた収容所に入れました。それ以前には,兄弟たちは互いどうし遠く離れていたためになかなか連絡を取り合うことができず,誤解が生じていました。しかし,このようにして,いわゆる反対派の人たちとそうでない人たちが一堂に会しました。そのおかげで,兄弟たちは顔を合わせて話をし,事実と作り話とをより分けることができました。当局はなぜ,これらの兄弟たち全員を一緒にしたのでしょうか。兄弟たちが対立し合い,分裂がいっそう進むだろうと思ったようです。巧妙な企てではありましたが,一致をもたらすエホバの霊を計算に入れていませんでした。―コリ一 14:33。
モルドビニアで投獄されていた兄弟たちの一人ゲオルゲ・ゴロベツは,当時のことをこう語ります。「逮捕され,刑務所へ送られてから間もなく,反対派と交わっていた兄弟がわたしたちと同じ刑務所に入れられました。その兄弟は,責任ある兄弟たちがまだ捕らわれの身であるのを見て驚きました。全員自由になってKGBから金をもらい,ぜいたくな暮らしをしている,と聞かされていたからです」。
ゴロベツ兄弟はこう続けます。「わたしが投獄されてからの1年間に700人余りが宗教上の理由で収監されましたが,その大半はエホバの証人でした。全員一緒に工場で働いたので,分派に加わっていた兄弟たちと話し合う時間がありました。その結果,1960
年と1961年の間に多くのもやもやした点が解消されました。そして1962年に,ソビエト連邦での業を世話していた国内委員会が強制労働収容所からソビエト連邦内のすべての会衆にあてて手紙を書き,KGBの組織的な作り話によって生じた被害の多くが取り除かれてゆきました」。真の経路を見分ける
ゴロベツ兄弟は,1964年6月に強制労働収容所から釈放されるとすぐにモルドバへ戻りました。タバニに着くと,エホバはだれを用いて民を養い,導いておられるか,という点で地元の証人の多くが依然混乱していることに気づきました。聖書しか読もうとしない兄弟たちもいました。
もやもやした点を解消するために,霊的に円熟した3人の兄弟から成る委員会が設置されました。兄弟たちがまず行なったのは,エホバの証人の大半が住むモルドバ北部の諸会衆を訪問することでした。それらの兄弟や他のクリスチャンの監督たちが幾多の迫害を経験しながらも忠実を保っているのを見て,多くの人は,最初に真理を教えてくれた組織をエホバが今でもお用いになっていることを確信しました。
1960年代後半,KGBは,迫害などの戦術にもかかわらず,宣べ伝える業が相変わらず前進していることを知りました。「剣と盾」の本は,KGBの反応を次のように記しています。「強制労働収容所においてさえ『エホバの指導者や上層部は敵対的な信条を捨てようとせず,収容所にいながらエホバの活動を続行している』という報告を受け,[KGB]本部は頭を悩ませた。1967年11月,エホバの証人対策を練っているKGBの幹部たちが[キシナウ]で会議を開き,『この派による敵対的活動』および『イデオロギー破壊工作』を『阻止する』ための新たな方策を話し合った」。
元兄弟たちからの嫌がらせ
残念ながら,一部の人たちはこの「新たな方策」に引っかかり,KGBの思うつぼにはまってしまいました。貪欲や人への恐れに屈した人もいれば,証人たちに対して憎しみをつのらせた元兄弟たちもいました。当局は,忠実な兄弟たちの忠誠を破らせるため,それらの人たちを利用し始めました。投獄や強制労働収容所での生活を耐え忍んだ証人たちは,元兄弟たちからの嫌がらせは特につらかった,と述べています。それら元兄弟たちの中には背教者となった人もいました。
前述の反対派の中から多くの背教者が生まれました。当初このグループには,KGBの偽情報に惑わされただけの人もいました。しかし,1960年代後半になっても反対派から離れなかった人々の中には,よこしまな奴隷級の邪悪な精神を示す人たちがいました。その人たちはイエスの警告を無視して,「仲間の奴隷たちをたたき」始めました。―マタ 24:48,49。
しかし,KGBとその手先が長年にわたって圧力を加えたにもかかわらず,神の民を分裂させて征服するという策略は失敗しました。1960年代初めにモルドバの組織を再び一つにしようと忠実な兄弟たちが働き始めた時,その国の兄弟たちの大半は反対派に属していました。しかし1972年には,兄弟たちの圧倒的大多数が再びエホバの組織と共に忠節に働いていました。
真価を認めた迫害者
共産主義時代にモルドバに残っていた忠実な人々は,最善を尽くして伝道を続けました。家族や友人,学友や同僚などに非公式の証言をしましたが,用心を怠りませんでした。モルドバの党役員の多くは狂信的なまでに共産主義思想に傾倒していたからです。とはいえ,共産主義者がみなエホバの証人を蔑視していたわけではありません。
シメオン・ボロシャノブスキはこう言います。「警察が我が家を捜索して大量の文書を押収した時,担当の警察官が内訳をリストに記録しました。後でその警察官がリストを持って戻って来て,記載事項を確かめるようにとわたしに言いました。内容を確認したところ,家族や家庭生活をいっそう幸福にする方法に関する『ものみの塔』誌が1冊抜けていることに気づきました。尋ねると,警察官は多少きまり悪そうに,『ああ,それなら家に持ち帰って家族で読んだよ』と言いました。それで,『どうです,気に入りましたか』と聞くと,『もちろん,みんなで楽しく読んだよ』と答えてくれました」。
反対が弱まり,増加が続く
1970年代に共産主義当局は,エホバの民を捕らえて流刑に処すという方針を捨てました。それでも,兄弟たちは依然として,証言したとか,クリスチャンの集会に出席したなどという理由で捕らえ
られ,裁判にかけられることがありました。とはいえ,刑は以前より軽くなりました。1972年,他の国と同様,モルドバでも長老の取り決めが実施されました。ゲオルゲ・ゴロベツはその時のことをこう語っています。「兄弟たちは,その新しい取り決めをエホバの霊の働きのさらなる証拠とみなし,大いに喜んで受け入れました。さらに,任命された男子が増えたことは,モルドバの諸会衆が霊的な面でも数の面でも成長するのに貢献しました」。
もちろん,このころまでに兄弟たちは,宣べ伝える業を組織する点で,また聖書関係の文書を用心深く印刷する点でかなりの経験を積んでいました。共産主義者による圧制が始まった時,文書はモルドバ国内の2か所で生産されており,迫害の激しかった数十年間は夜間だけ作業が行なわれました。ですから,奉仕者は二重生活を強いられました。一つは昼の生活で,ほかの市民と同じく普通の活動を行ない,もう一つは夜の生活で,諸会衆のために明け方まで文書を生産しました。
しかし反対や監視が弱まると,この状況は変化しました。兄弟たちは,秘密の印刷所をもっと効率よく稼働させたり,仕事を行なう自発奉仕者を増やしたりできるようになったのです。その結果,生産量が増加しました。
兄弟たちは印刷の腕も上げました。例えば,タイプライターで作れる特別な版を用いたり,印刷機を改造して紙の両面を同時に印刷したりしました。こうした改良により,生産量がさらに増えました。手書きの聖書研究の手引き書を使っていた時代は,今や遠い昔のように感じられました。
いっそう多くの文書が供給されたので,兄弟たちは聖書の個人研究をもっと行なえるようになりました。加えて,情報の伝達がずっ
と円滑になったため,以前の混乱の名残をすっかり消し去ることができました。とはいえ,こうした進歩は,モルドバのエホバの民が経験するより良い事柄のほんの前触れにすぎませんでした。真の崇拝が繁栄する
政治・軍事上のゴリアテであるソ連の共産主義体制は,その絶頂期にあっても,真の崇拝を根絶できませんでした。実のところ,ソ連は自らの強制移住計画によって,良いたよりを「地の最も遠い所にまで」広めるのに図らずも一役買いました。(使徒 1:8)エホバはイザヤを通してこう約束しておられました。「あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さ(ない)。これはエホバの僕たちの世襲財産であり,彼らの義はわたしからのものである」。(イザ 54:17)この言葉がまさに現実のものとなったのです。
1985年に政権に変化が生じ,ソビエト連邦のエホバの証人の生活はずっと楽になりました。秘密警察に尾行されることも,宗教的な集まりに出席したとして罰金を科されることもなくなりました。モルドバの兄弟たちは引き続き10人以下の小さなグループで通常の集会を開いていましたが,結婚式や葬式などの特別な機会を用いて小規模な巡回大会も開くようになりました。
次いで,1989年の夏にポーランドの都市ボジュフ(カトビツェの近く),ポズナニ,ワルシャワで三つの国際大会が開かれると,宣べ伝える業に拍車がかかりました。それらの大会にモルドバからも幾百人もの代表者が出席したのです。小人数でひそかに集まっていた忠実な兄弟たちにとって,世界各国の喜びに満ちた大勢の証人たちと共にエホバを崇拝するのは,何と感動的な経験だったのでしょう。
モルドバの兄弟たちは1991年にも霊的なごちそうにあずかりました。この国における活動史上初めて,人目をはばかることなく巡回
大会を開催できたのです。1992年にはもう一つの際立った出来事がありました。ロシアのサンクトペテルブルクでの国際大会です。この大会には,1989年のポーランドでの三つの大会より大勢の代表者がモルドバから出席しました。このように,エホバは天の水門を開き,感謝の念の厚い忠節な僕たちに次々と祝福を注いでゆかれました。旅行する監督を訓練する
より自由になったので,ソビエト連邦の国内委員会と旅行する監督たちとの連絡もいっそう緊密になりました。1989年12月に,それら
霊的に円熟した兄弟たち60人がウクライナのリボフに集まって教育を受けました。出席者全員が刑務所や強制労働収容所での生活や他の形の迫害を耐え忍んだ人たちだったこともあり,本当に楽しくて啓発的な授業が行なわれました。実のところ多くの兄弟たちは,それまでの困難な時代にすでに親しい関係を築いていました。このクラスの旅行する監督のうちの4人はモルドバから来ていました。兄弟たちはモルドバに戻ると,リボフで与えられた賢明な助言,特に宣べ伝える業に関する助言を諸会衆に伝えました。例えば,新たな自由を得たとはいえ,引き続き慎重に神の言葉を宣べ伝えるように,との勧めが与えられました。(マタ 10:16)なぜ引き続き用心深くあるべきなのでしょうか。表向きには,業はまだ禁令下にあったからです。
王国会館がすぐにも必要
宣べ伝える業がモルドバで確立された当初から,兄弟たちは自分たちの集会所を持つ必要性を意識していました。例えば,1922年にコルジェウツィ村の聖書研究者たちは自分たちの資金で集会所を建設しました。集まりの家と呼ばれたその集会所は,長年にわたり兄弟たちの必要を満たしました。
1980年代の後半に当局からの反対がかなり和らいだころには,多くの町や村には数百人もの伝道者から成る会衆があり,小さなグループに分かれて個人の家で集まっていました。いよいよ王国会館の建設を始める時が来たのでしょうか。それを確かめるため,兄弟たちはほうぼうの村の役人たちに接触しました。
当局者の中には,非常に協力的な人もいました。モルドバ北部の人口3,150人のフェテシュティ村の場合がそうです。地元の兄弟
たちが1990年1月に村長に面会したところ,この村では公式の規制はないと考えてよい,と言われました。まだ警戒していた兄弟たちはその言葉をなかなか信じることができず,会衆には伝道者が185人もいたのに,ある兄弟の家を小さな王国会館として使用できるよう改装許可を村長に願い出ました。村長はプロジェクトを認可し,兄弟たちは仕事に取りかかりました。ところが,すぐに大きな障害に直面しました。プロジェクトを進めるためにある壁を取り払うと,家が倒壊するおそれがあったのです。作業は中断しました。どうしたらよいでしょうか。兄弟たちは,再び村長のところへ行って事情を説明することにしました。すると,村長はなんと王国会館の新規建設を許可してくれ,兄弟たちは大喜びしました。会衆は直ちにその建設工事に全力を注ぎ,わずか27日で完成させました。
すべての伝道者が新しい王国会館に入れるよう,フェテシュティ会衆は二つに分けられました。とはいえ,多くの新しい伝道者がまだバプテスマを受けていませんでした。では,献堂式のプログラムにバプテスマを組み込むのはどうでしょうか。兄弟たちは,そのアイディアを実行に移しました。バプテスマの話の後に全員が近くの川へ行き,そこで80人がエホバへの献身の象徴としてバプテスマを受けました。
言うまでもなく,王国会館を緊急に必要とする会衆はほかにもたくさんありました。出版物に掲載された王国会館の写真を見て,同じようなものを建てることにした会衆もありました。資金を出し合い,進取の気性を存分に働かせて,建設に取りかかりました。こうしたことは,まれなケースだったわけではありません。1990年から1995年にかけて30軒余りの王国会館が建設されましたが,そのすべては地元の兄弟たちの労働力と資金で賄われたのです。
幾つかの王国会館が選ばれて巡回大会にも使用されましたが,出席者が非常に多かったため,大勢の人が会館の外でプログラムを聴かざるを得ませんでした。それで,兄弟たちは大会ホールの建設を考えるようになりました。この場合も迅速に事が進められ,1992年にわずか3か月で,モルドバ初の大会ホールとなる800人収容の建物がコルジェウツィに建設されました。翌年,証人たちは再び自前の労働力と資金を用いて,フェテシュティに1,500人収容の大会ホールを建てました。
これらの建設工事のタイミングは神慮によるものと思えました。1990年代半ばに,政変や景気の悪化によりモルドバの通貨価値が急落したからです。そのため,1990年代初めに王国会館1棟を丸ごと建設できた資金でも,数年後には椅子一式さえ購入できなくなりました。
南部での王国会館建設
モルドバ北部と比べると,南部では王国会館を持つ会衆は多くありませんでした。そのため,1990年代に業が急速に拡大すると,南部で新たに設立された幾つもの会衆はふさわしい集会場所を
見つけるのに苦労しました。以前から公立学校が使用されていましたが,借りるのもだんだん難しくなってきました。エホバはまたしても,ご自分の組織を通して兄弟たちを助けられました。ちょうど良い時に統治体が,王国会館基金の取り決めを通して,モルドバのように会衆資金の限られている国が王国会館建設資金を調達できるようにしたのです。
兄弟たちはこの備えを効果的に用いました。その良い例がキシナウです。1999年,首都キシナウには王国会館が一つもありませんでした。しかし,2002年7月には10棟の王国会館が,キシナウにある37の会衆のうち30会衆の必要を満たしており,さらに3棟が建設中でした。
ついに法的認可を得る
1991年8月27日にモルドバは独立共和国になりました。エホバの証人の活動に対する禁令はソ連によって課されたものだったので,もはや効力はありませんでした。それにもかかわらず,当時4,000人ほどいたエホバの証人は,宗教団体としてまだ法的に登録されていませんでした。
統治体から有益な指導を受けたモルドバの事務所は,すぐに関係省庁と交渉し,エホバの証人の法的認可を求めました。新政権は好意的でした。必要な事務手続きに幾らか時間がかかったものの,1994年7月27日,ついに事務所は公式の登記書類を受け取りました。
モルドバのエホバの証人にとって,それは本当に記念すべき日となりました。約60年にわたり禁令や迫害や投獄を耐え忍んだ後,大手を振ってエホバを崇拝し,良いたよりを宣べ伝えることができるようになったのです。地域大会も開けるようになりました。実際,法的認可を得た翌月の1994年8月に,エホバの証人はキシナウ
最大のスタジアムに集まり,モルドバ初の地域大会を開きました。何と胸の躍る出来事だったのでしょう。ベテルの拡張
1995年には王国伝道者数が1万人を突破しました。モルドバでの業の幾つかの面はキシナウの小さな事務所が世話していましたが,全般的な監督は,約2,000㌔離れたロシアの支部事務所が行なっていました。とはいえ,わずか500㌔しか離れていない所にルーマニア支部があり,しかもモルドバ人はたいていルーマニア語を話します。実際,モルドバ共和国の公用語はルーマニア語です。それで統治体はすべての点を検討した後,モルドバでの業をルーマニア支部が監督することを提案しました。
その間も増加は続き,小さなアパートにすぎないキシナウの事務所にはますます多くの仕事が求められました。ベテル家族を設ける時が来たのは明らかでした。そのようにして最初のベテルの成員となった人たちの中に,イオン・ルスとイウリア・ルスがいます。ルス兄弟は,1991年から1994年まで代理の巡回監督として奉仕していました。ベテル家族の別の成員はゲオルゲ・ゴロベツで,この新しい割り当てを受けるまで地域監督として奉仕していました。兄弟はベテルの外に住んでいて,毎日通っていました。ギレアデ第67期生のギュンター・マズラとロザリア・マズラは,数年間ルーマニアで奉仕した後,1996年5月1日にモルドバにやって来ました。
伝道者の数が増えるにつれ,ベテル奉仕者の必要も増大しました。しかし,スペースが限られていただけでなく,1998年にはモルドバのベテル・ホームは5棟の都市アパートに散らばっていました。それで,1か所にまとまったベテル施設を建設するため,ふさわしい土地を探し始めました。キシナウの行政当局は親切にも,市のまさに中心部の3,000平方㍍もの土地を提供してくれました。兄弟たち
はそれを喜んで受け入れ,さらに,いっそうの拡大の可能性を念頭に置いて,隣接する土地も購入しました。地元の業者が躯体工事を請け負い,残りの仕事はインターナショナル・ボランティアと地元の兄弟姉妹が行ないました。建設は1998年9月に始まり,わずか14か月後に,ベテル家族はわくわくしながら新しい宿舎へ引っ越しました。ついに皆一緒に生活できるようになったのです。
新しいベテルの建物の献堂式は2000年9月16日に行なわれ,11か国からのゲストが出席しました。翌日,地元の競技場で統治体のゲリト・レッシュが1万人を超える聴衆を前に講演を行ない,出席者全員は,世界中のエホバの民を結び合わせる温かい愛のきずなを実感しました。
現在,モルドバのベテル家族は26名です。その中には,ダビド・グロゼスクとミリアム・グロゼスクのような海外から来た在外ベテル奉仕者もいます。また,エンノ・シュレンツィヒのように,自国の宣教訓練学校で学んだ後にモルドバという外国の地での割り当てを受け入れた人もいます。ですからこのベテル家族は,小さいとはいえ,それを補って余りあるほど様々な国籍の人たちで構成されているのです。
収穫の働き人を訓練する
禁令や迫害の下にあった数十年間,モルドバのエホバの民は思慮深く,そしてもちろん非公式に,良いたよりを伝えました。しかし,今や堂々と戸別訪問や街路証言を行なう時が来ました。兄弟たちは従順にこたえ応じて,こうした分野の宣教奉仕に携わり,とりわけ街路証言をよく行ないました。しかし,伝道者の数が増加するにつれて平衡を取る必要が生じたので,諸会衆は戸別訪問に重点を置くようにと励まされ,そのとおりにしました。
奉仕者は以前にも増して,人々が真の霊的食物にどれほど飢えているかに気づくようになりました。その必要にこたえる助けとして,エホバの組織は諸会衆に,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌などの聖書研究の手引きをルーマニア語とロシア語で供給しました。一方,奉仕者たちは,「わたしたちの王国宣教」に提案されている提供方法を用いて宣教奉仕の質を向上させようと一生懸命努力しました。また,神権宣教学校を通して与えられる漸進的な訓練も活用しました。
さらに,特に組織面での援助が,他の国々の経験豊かな円熟した兄弟たちから与えられました。様々な国から来た,物事を進んで行なうこれら有能な援助者たちは,実を結ぶぶどうの木を支える格子棚のように諸会衆の支えとなり,安定性をもたらしました。
急速な増加の期間
モルドバにおける弟子の数の急速な増加は,人口66万2,000人の首都キシナウではっきり見られます。エホバの証人が法的認可を受ける前の1991年1月,キシナウでは二つの会衆に350人ほどの伝道者がいるだけでした。しかし,2003年1月には,37会衆の3,870人余りの伝道者へと膨れ上がりました。ある会衆では,ほんの9か月間に101人の聖書研究生が新たに伝道者となりました。そうした急速な増加のため,キシナウの会衆はわずか2年ほどで分会することも珍しくありません。
1993年8月にはモルドバ全土で6,551人の伝道者がいましたが,2002年3月には1万8,425人に増大しました。9年間で280%にまで増加したのです。その同じ期間に,正規開拓者の数も28人から1,232人へと増えました。
助役が開拓者に
エホバを知るようになった人たちの中には共産主義者だった人
も大勢おり,政治上の要職に就いていた人もいます。例えば,人口3万9,000人ほどの町ソロカの助役だったバレリウ・ムルザがそうです。パレードのある特別行事の時には,バレリウは要人たちと共に貴賓席で,前を行進するパレード参加者たちから敬礼を受けていました。バレリウはソロカの有名人だったのです。しかし,やがて聖書の研究をするようになり,バプテスマを受けました。人々はバレリウの証言を受けて,どう反応したでしょうか。「ほとんどの人がわたしを中に招き入れてくれました」と,ムルザ兄弟は言います。「伝道するための非常に良い機会に恵まれていました。妻とわたしにとって,あの町は非常に産出的な区域となりました」。ムルザ兄弟は程なくして特別開拓者に任命されました。この夫婦はベテルでも1年間奉仕し,現在は巡回奉仕を行なう特権にあずかっています。
開拓者たちが援助を差し伸べる
現在,モルドバの人口に対する伝道者の割合はヨーロッパでトップクラスです。それでも,証人がまだ一人もいない村や小さな町は
少なくありません。難しい経済状態のため,伝道者や開拓者の大半は必要の大きな所で奉仕することができません。それでルーマニア支部は,区域全体に良いたよりを伝えられるよう,モルドバで50人近い特別開拓者を任命しました。そのうち20人余りは,ルーマニアやロシアやウクライナで開かれた宣教訓練学校においても有益な訓練を受けています。それら勤勉な福音宣明者は非常に良い成果を上げています。例えば,1995年に,特別開拓者の夫婦セルゲイ・ジゲルとオクサナ・ジゲルがカウシェニという町に任命された時,そこには15人の伝道者から成る一つの群れしかありませんでした。ジゲル兄弟姉妹は,地元の兄弟たちが新しい聖書研究をたくさん始められるよう援助しました。また,喜びにあふれた開拓者精神を発揮したので,大勢の人が全時間奉仕に加わりました。現在カウシェニには二つの会衆があり,155人ほどの伝道者がいます。わずか7年の間に10倍の増加です。ジゲル兄弟姉妹は今は巡回奉仕を行なっているので,さらに多くの会衆を援助することができます。
自由だが,困難がないわけではない
どんな形態のものであれ,人間による支配には問題が付きものです。モルドバのエホバの民は,ルーマニア王制,ファシスト独裁体制,共産主義体制のもとで,僧職者からの反対,禁令,迫害,強制移住に耐えなければなりませんでした。今日でもエホバの証人は,他の人々と同じように経済上の問題に対処しなければなりません。夫婦共働きを余儀なくされることもあれば,職探しそのものに苦労することもあります。
一方,物質主義や道徳の退廃の影響で,犯罪や不正行為が増加しています。霊性を損なう,こうした油断のならない脅威にさらさテモ二 3:1-5。ヤコ 1:2-4。
れているエホバの民は,勝利を収めることができるでしょうか。もちろんです。試練や誘惑に直面した時に助けを求めてご自身に頼る忠節な人々をエホバは決して見捨てない,ということを神の民は身をもって経験してきました。―現在の状況は,二つの象徴的な収穫について述べる啓示 14章を思い出させます。一つは「地のぶどうの木」の収穫です。預言のとおり,この終わりの日には邪悪な作物がはびこっています。(啓 14:17-20。詩 92:7)間もなく,この「ぶどうの木」はその腐った実すべてと共に根こぎにされ,「神の怒りの大きなぶどう搾り場に」投げ込まれます。その時を,エホバの僕たちは切に待ち望んでいます。
他方,油そそがれたクリスチャンとその仲間たちは霊的に繁栄し,歓んでいます。エホバの「泡だつぶどう酒のぶどう園」は今後も,滋養に富む霊的食物をあふれんばかりに産出し続け,羊のような人たちをその豊かな恵みに引き寄せてゆきます。神の民はなぜそれを確信できるのでしょうか。エホバ自ら,貴重なぶどう園を保護しておられるからです。(イザ 27:2-4)そのことはまさにモルドバで実証されてきました。確かに,迫害,強制移住,偽りの宣伝,偽兄弟といったサタンの策略は神の民に苦難をもたらしてきましたが,民を霊的に打ち負かすことは一度もありませんでした。―イザ 54:17。
そうです,「試練に耐えてゆく人は幸いです。なぜなら,その人は是認されるとき,エホバがご自分を愛し続ける者たちに約束されたもの,すなわち命の冠を受けるからです」。(ヤコ 1:12)あなたも,この貴重な言葉を思いに留め,モルドバのエホバの証人の歴史から力を得て,エホバを「愛し続け」,『試練に耐えてゆき』,『多くの実を結びつづける』ことができますように。―ヨハ 15:8。
[脚注]
^ 6節 文脈上必要な場合を除き,ベッサラビアやモルダビアの代わりにモルドバという名称を用います。とはいえ,留意すべき点として,現在のモルドバの国境線は旧ベッサラビアやモルダビアの境界線と同じではありません。例えば,ベッサラビアの一部は今ではウクライナ領に,モルダビアの一部はルーマニア領になっています。
[71ページの囲み記事/図版]
ロシアと東ヨーロッパ向けのワイン生産地
モルドバは,長い夏と肥沃な土壌のゆえにワイン生産に理想的な場所で,幾千年も前からワイン作りが行なわれています。モルドバの人々が西暦前3世紀の終わりにギリシャ人と,その後,西暦2世紀にローマ人との結びつきを確立すると,ワインの生産量は増大しました。
今日でも,モルドバの農業の主力はワイン生産です。130近くあるワイナリーで毎年1億4,000万㍑も生産され,その約90%が輸出されています。おもな輸出先はロシアとウクライナで,それぞれ約80%と7%です。
[72ページの囲み記事]
モルドバの概要
国土: モルドバの中央部と北部は森林地帯ですが,緑豊かな高原や,ステップと呼ばれる草原も広がっています。南部は大部分が,耕地化されたステップです。
住民: 人口の約3分の2はモルドバ人です。残りの3分の1はおもに,多い順で言うと,ロシア人,ウクライナ人,ガガウズ人,ブルガリア人,ユダヤ人で構成されています。モルドバ人の大半が東方正教会に属しています。
言語: ルーマニア語が公用語です。特に都市部ではロシア語も話せる人が多く,一般的に二つの言語を話せます。
生活: 農業と食品加工業が経済の二本柱で,製造業は発展途上にあります。
食物: ぶどう,小麦,トウモロコシ,テンサイ,ヒマワリなどが栽培されています。また肉牛,乳牛,豚などが飼育されています。
気候: 気温は,1月には零下4度ぐらいまで下がり,7月には20度前後になります。気候は概して温暖で,冬も比較的暖かく,年間平均降水量は約500㍉です。
[83-85ページの囲み記事]
クリスチャンの中立の際立った手本
ジョルジェ・バカルチュク: バカルチュク兄弟はエホバの証人として育ちました。1942年12月にファシストによって兵役に召集されましたが,武器を取ることを拒否したため,真っ暗な監房に16日間監禁され,食事もほとんど与えられませんでした。その後,再び当局に召集され,以前の命令に従えば,まだ兄弟には読み上げられていなかった刑を取り消してやると約束されましたが,やはり拒否しました。
そのため,兄弟は25年の刑を宣告されました。もっとも,1944年9月25日にソ連軍がやって来たので刑期は短くなりました。ところが2か月もたたないうちに,今度はソビエト当局が兄弟を徴兵しようとしました。兄弟は聖書によって訓練された良心に背こうとはしなかったため,10年の強制労働を言い渡され,さまざまな収容所を転々としました。1年もの間,家族には兄弟の消息が分からなくなりました。バカルチュク兄弟は5年間服役した後,1949年12月5日に釈放され,コルジェウツィの自宅に戻り,1980年3月12日に亡くなるまで忠実を保ちました。
パルフィン・ゴレアチョク: 1900年生まれのゴレアチョク兄弟は,1925年から1927年にかけてフリナ村で聖書の真理を知りました。兄弟のニコラエおよびイオンと共に,村で最初の聖書研究者だったダミアン・ロシュとアレクサンドル・ロシュから真理を学んだのです。
1933年,パルフィンは他の証人たちと共に逮捕されてホチン
という町に連行され,尋問された後,伝道したかどで罰金を科されました。1939年には,村の司祭の扇動により,隣村のギラバツの警察署に連れて行かれました。警察官たちはパルフィンを板だけのベッドにうつ伏せに縛りつけて,足の裏を何度も打ちたたきました。ファシストが政権を握ると,パルフィンは再び逮捕され,投獄されました。同じ年にソビエト当局によって解放されたものの,兵役を拒否したため逮捕されました。そして,数か月間キシナウの刑務所に入れられた後,釈放されました。
1947年,ソビエト当局はまたしてもパルフィンを逮捕し,今度は神の王国を宣べ伝えたかどで8年間の流刑に処しました。1951年にはパルフィンの子どもたちもシベリアへ追放されましたが,父親と一緒になることはありませんでした。実のところ,二度と再び父親に会うことはなかったのです。パルフィンは流刑中に重い病気にかかり,1953年に亡くなりました。最後まで忠実を保ちました。
バシレ・パドゥレツ: パドゥレツ兄弟は1920年にコルジェウツィで生まれ,ファシスト時代の1941年に真理を学びました。そのため,兄弟もファシストおよびソビエト当局によって苦しめられました。兄弟は勇敢にもソビエト当局に対してこう述べました。「わたしはボリシェビキのメンバーに銃を向けませんでした。ファシストを殺すつもりもありません」。
このような聖書に基づく良心的な立場を取ったバシレは,ソ連の強制労働収容所での10年の刑を宣告されました。しかし,5年に減刑され,1949年8月5日に家に戻りました。3度目に逮捕された時には,すでにセーベル作戦が始まっていました。それで1951年4月1日,バシレは家族と共にシベリア行きの貨車に乗せられました。シベリアで5年ほど過ごした後,モルドバのコルジェウツィに戻ることを許されました。この報告が準備されていた間の2002年7月6日に,バシレはエホバに忠実を保って亡くなりました。
[89,90ページの囲み記事/図版]
『お仕えする人生は,いかなるものとも交換したくありません』
イオン・サバ・ウルソイ
生まれた年: 1920年
バプテスマ: 1943年
プロフィール: 共産主義の時代に巡回監督として奉仕する。
わたしはモルドバのカラクシェニで生まれ,第二次世界大戦が始まる前に真理を知りました。1942年に妻が亡くなり,葬式の時に,わたしは群衆によって墓地から追い出されました。なぜでしょうか。わたしが宗旨を変えていたからです。その後,同じ年に,ファシスト政府はわたしを徴兵しようとしましたが,わたしは政治上の中立を保ちたいと願っていたので兵役を拒否しました。死刑を宣告され,その後,25年の刑に減軽されました。収容所を転々としましたが,ルーマニアのクラヨバの収容所にいた時にソ連軍がやって来て,自由の身になりました。
ところが,自由を味わう間もなく共産主義者たちによって再び投獄され,ロシアのカリーニンへ移送されました。2年後の1946年に故郷の村へ戻ることを許され,その村で,宣べ伝える業の再組織を援助しました。そして1951年に,ソビエト当局によって再び逮捕されました。今度は大勢の証人たちと共にシベリアに追放され,1969年になるまで故郷に戻れませんでした。
人生を振り返ると,忠誠を保てるよう様々な状況下でエホバが力を与えてくださったことが思い出されます。創造者にお仕えする人生は,世界のいかなるものとも交換したくありません。今は老齢や健康の衰えによる限界と闘わなければなりませんが,新しい世における命の確かな希望は,「りっぱなことを行なう点であきらめない」という決意を強めてくれます。新しい世で,わたしの体も若いころの活力を取り戻すのです。―ガラ 6:9。
[100-102ページの囲み記事/図版]
歌いたいことがたくさんあります
アレクサンドラ・コルドン
生まれた年: 1929年
バプテスマ: 1957年
プロフィール: ソビエト政権下で苦しみを経験し,現在は会衆の伝道者として奉仕している。
わたしは歌うことが大好きだったおかげで真理を知ることができ,その後,信仰の試みに遭った時も霊的な強さを保てました。話は1940年代,わたしが十代だったころにさかのぼります。わたしはコルジェウツィで,暇な時間に楽しく王国の歌を歌ったり聖書について討議したりしていた若者たちと知り合い,そのような討議や歌を通して学んだ霊的な真理に深い感銘を受けました。
やがて良いたよりの伝道者になり,1953年に10人の証人たちと共に逮捕されました。裁判を待つ間,キシナウの拘置所に勾留されました。王国の歌を歌って霊的な強さを保ちましたが,看守の一人を怒らせてしまったようです。「お前は拘置所にいるんだぞ。ここは歌を歌う場所じゃない!」と言われました。
それで,こう答えました。「子どもの時からずっと歌ってきました。どうして今やめなければならないのですか。わたしを閉じ込めることはできても,わたしの口に錠をかけることはできません。わたしの心は自由で,わたしはエホバを愛しています。ですから,歌いたいことがたくさんあるんです」。
わたしは,北極圏に近いインタの強制労働収容所での25年の刑を宣告されました。短い夏の間,他の証人たちと一緒に近くの森で働きました。その時も,わたしたちは暗記していたたくさんの王国の歌によって霊的な強さを保つことができ,心の中では自由でいられました。そのうえ,そこの看守たちはキシナウの看守とは違い,歌うようにと言ってくれました。
インタの収容所には3年3か月と3日いました。その後,恩赦を受けて釈放されました。モルドバへ戻ることがまだ許されていなかったため,ロシアのトムスクへ行き,やはり刑務所に入れられていた主人と再会しました。主人とは4年間離れ離れになっていました。
逮捕されたので,まだエホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受けていませんでした。それで,トムスクの兄弟たちに相談しました。ほかにも何人かの人がバプテスマを受けたがっていたため,兄弟たちはすぐにバプテスマの取り決めを設けてくださいました。とはいえ,禁令下だったので,近くの森の中にある湖で夜行なうことになりました。
わたしたちは指定された時刻に,怪しまれないよう二人一組になって,トムスクの町外れから森の中に歩いて入って行きました。それぞれが前を行くペアについて行けば,みんなが無事に湖に行き着くはずでした。計画ではそうなっていたのです。けれども,わたしたちの前を行く二人の年配の姉妹がなぜか迷ってしまいました。わたしたちはその二人について行き,後ろの人たちも忠実にわたしたちについて来ました。間もなく10人ほどが暗闇の中をうろうろ歩き回り,ぬれた下草でびしょびしょになって震えていました。その地域はクマやオオカミがうろつくことで知られていましたから,そうした動物の姿が頭に浮かんで神経が張り詰め,ちょっとした物音にもびくっとしました。
パニックを起こしたり元気を失ったりしてはいけないと思ったわたしは,騒がずに王国のメロディーを口笛で吹いてみましょうよ,ほかの人たちに聞こえるかもしれないから,と言いました。わたしたちは熱烈な祈りもささげました。それで,暗闇の中から同じメロディーが聞こえてきた時は本当にうれしく思いました。兄弟たちに聞こえたのです。兄弟たちはすぐに懐中電灯の光をつけて,わたしたちが合流できるようにしてくださいました。それから間もなく,わたしたちは氷のように冷たい水に浸されましたが,あまりのうれしさにほとんど寒さを感じませんでした。
わたしは現在74歳で,真理を知った場所であるコルジェウツィで暮らしています。年は取りましたが,今でも歌いたいことがたくさんあります。何よりも,天の父を賛美する歌を歌いたいと思っています。
[104-106ページの囲み記事/図版]
両親の模範に倣うよう努めました
バシレ・ウルス
生まれた年: 1927年
バプテスマ: 1941年
プロフィール: 会衆の僕として奉仕し,秘密のうちに文書生産も行なった。
両親のシメオン・ウルスとマリア・ウルスは1929年にバプテスマを受けました。わたしは5人兄弟の一番上でした。ファシスト時代,両親は中立の立場ゆえに逮捕され,25年の強制労働を宣告されました。近くのコルジェウツィ会衆の霊的な兄弟姉妹がわたしたち子どもの世話と農場の管理をしてくださったので,食物はいつも十分ありました。真理にいない年老いた祖母もわたしたちの面倒を見てくれました。当時わたしは14歳でした。
両親の良い模範があったので,弟や妹の霊的な世話を一生懸命行ない,毎朝早く弟や妹を起こして,聖書に基づく出版物を一緒に討議しました。弟たちがすぐ起きようとしないときもありましたが,わがままを言わせませんでした。しっかりした研究の習慣が大切であることを理解していたからです。それで両親は,早めに釈放されて1944年に家へ戻った時,子どもたちが霊的にとても健康なのを見て非常に喜び
ました。本当にうれしい再会でした。しかし,喜びは長続きしませんでした。翌年,父がソビエト当局に逮捕され,北極圏内にあるシベリアのノリリスクの収容所へ送られました。それから3年後にわたしは,霊的な思いを持つ快活な姉妹エミリアと結婚しました。わたしたちは一緒に育ったも同然で,わたしはエミリアのことをよく知っていました。結婚してわずか1年後,わたしは母と共に逮捕されてキシナウに移送され,25年の強制労働を宣告されました。エミリアは,両親だけでなく今度は兄も奪われた弟や妹たちを愛情深く世話してくれました。
しばらくして,わたしはボルクタの炭鉱に送られました。北極圏内にある悪名高い強制労働収容所です。2年後の1951年,エミリアと,わたしの弟3人と妹が,西シベリアのトムスクへ流刑にされました。エミリアは1955年に,わたしと一緒に暮らせるようボルクタへの移動を願い出ました。ボルクタで,エミリアはわたしたちの3人の子どものうちの最初の子を出産しました。女の子で,タマラと名づけました。
1957年9月に恩赦があり,わたしたちは自由の身となりました。ところがその1か月後,わたしは再び逮捕されました。今度は,ロシアのサランスクに近いモルドビニアの強制労働収容所での7年の刑を宣告されました。そこには大勢の兄弟たちが収容されていましたが,さらに多くが移送されてくることになっていました。面会に来る奥さんたちがこっそり持ち込んでくれたので,出版物を定期的に受け取ることができ,本当にありがたく思いました。1957年12月に,エミリアは西シベリアのクルガンに引っ越しました。エミリアの実家
に預けられていた娘タマラの世話をするためです。そのためエミリアとわたしは7年間離れ離れになりましたが,タマラが国営の施設に送られないようにするにはそうするしかありませんでした。わたしは1964年に釈放されたものの,故郷のモルドバへ帰ることは許されませんでした。移転は正式にはまだ制限されていましたが,クルガンで妻と娘と一緒に暮らすことができ,そこで会衆の書籍研究の司会者として奉仕しました。1969年に,家族でカフカスのクラスノダールに引っ越しました。そこで8年間奉仕した後,ウズベキスタンのチルチクに移動し,秘密の印刷所で働きました。1984年,ついにモルドバに戻ることが許され,ティギナ市に落ち着きました。そこには人口16万人に対して奉仕者が18人しかいませんでした。この小さなグループは今では,1,000人近い伝道者と開拓者から成る九つの会衆へと成長しています。
主のために多くの年月を強制労働収容所や刑務所で過ごしましたが,そのことを後悔などしていません。バプテスマを受けたばかりの14歳の時でさえ,大事な点ははっきり理解していました。神を愛するか,世を愛するかのどちらかだということです。エホバに仕えることを決めた時から,妥協するなど考えたこともありません。―ヤコ 4:4。
[図版]
左: バシレ・ウルス
左端: バシレと妻のエミリア,そして娘のタマラ
[108-110ページの囲み記事/図版]
花を持った少年に心を動かされた
バレンチナ・コジョカル
生まれた年: 1952年
バプテスマ: 1997年
プロフィール: ソビエト政権下で幼稚園教諭として無神論を教える。
わたしは1978年にモルドバのフェテシュティで幼稚園の教諭をしており,無神論者でした。職員会議で,エホバの証人の子どもに無神論を教え込むことに力を注ぐよう指示されました。それは良いことだと思い,証人の子どもの心を動かす独創的な方法はないかと考え,これだと思う方法を考えつきました。
子どもたちに,二つの花壇を作らせました。一方は子どもたちが花を植え,水をやり,雑草を取ります。でも,もう一方には何もしません。あっちの花壇は神様のものなのよ,と子どもたちに教えました。神様が自分で花壇を世話するでしょう,というわけです。子どもたちは夢中になって取り組みました。もちろん,子どもたちが自分たちの花壇に花を植え,水をやり,雑草を取っている間に,“神様の小さな花壇”は雑草だらけになりました。
しばらくして,ある天気の良い日に,二つの花壇の前に子どもたちを集めました。そして,子どもたちのりっぱな努力を褒め
てから,注意深く考え抜いた次のような言葉を述べました。「神様が自分の花壇に何もしなかったことに気づきましたか。この花壇がだれのものでもないことがはっきり分かるでしょ」。子どもたちは,本当にそう思うと言って同意しました。そこでわたしは,決め手となる言葉を述べました。「皆さん,この花壇がこんなになっているのは神様が人の空想の中にしかいないからですね。神様が本当にいるなら,花の世話ぐらいのことはできるはずよね」。
話しながら子どもたちの反応を見ていると,両親が証人である男の子がそわそわし始めました。その子はとうとう我慢できなくなり,近くの原っぱに駆けて行ってたんぽぽを摘み,わたしに差し出してこう言ったのです。「もし神様がいないなら,この花を育てたのはだれですか。ぼくたちはだれも世話をしていません」。この子の考え方に衝撃を受けました。そして心の奥底で,この子の言うことは核心を突いていると思いました。
わたしは共産主義者として育ったため,聖書を調べるという次の一歩を踏み出すのに何年もかかりました。しかし,1995年に地元のエホバの証人に近づき,研究をしてもらえませんかと頼みました。教えてくれる人たちの中にかつての教え子がいることを知った時の喜びは言葉にできません。
確かに,共産主義体制はわたしに良い世俗の教育を受けさせてくれました。しかし,人生における最も重要なことは教えてくれませんでした。今わたしが霊的な知識と世俗の知識を用いて,神が実在し,創造物である人間を深く気遣っておられることを認識できるよう人々を援助できるのは,エホバと勇敢な少年のおかげです。
[113-115ページの囲み記事/図版]
流刑地で生まれました
リディヤ・セバスチャン
生まれた年: 1954年
バプテスマ: 1995年
プロフィール: エホバの証人の母親と未信者の父親に育てられたが,長いあいだエホバの証人と接触ができなくなる。
母と祖母は1940年代の初めにエホバの証人になりました。父は立派な人でしたが,当時は聖書の真理を受け入れませんでした。1951年,すでに二人の子どもがいた母は双子を妊娠していました。その年の4月,当局は家族を引き裂こうとしました。父が仕事に出ていた時に,出産間近の母と子どもたちがシベリア行きの列車に乗せられました。でも,その前に母がどうにか父に連絡することができたので,父が急いで家に帰って来ました。父はエホバの証人ではありませんでしたが,列車に乗り,家族と一緒に流刑地へ向かいました。
シベリアへの旅の途中,母は双子の出産のためにアシノという町に短期間滞在することを許されましたが,残りの家族はトムスク地区まで行かねばなりませんでした。到着後,住む家を父が用意しました。父は兄弟たちと一緒に働くよう割り当てられました。数週間後,母と生まれたばかりの双子の赤ちゃんが家族に加わりましたが,悲しいことに赤ちゃん
は二人とも,家族の置かれた劣悪な状況のために死んでしまいました。それでも流刑地で,わたしと双子の兄を含め,さらに4人の子どもが生まれ,父は誠実に家族全員を顧みてくれました。1957年,ついに故郷の村に帰ることが許されました。母は,秘密警察に尾行されていましたが,わたしたちの心に聖書の原則を教え込むことをやめませんでした。
他方,父の主な関心は,子どもたちに世俗の良い教育を受けさせることでした。それで,わたしは16歳の時に,大学で勉強するためにキシナウへ行きました。その後,結婚してカザフスタンへ引っ越し,両親だけでなくエホバの組織からも孤立してしまいました。1982年にキシナウへ戻るとすぐにエホバの民の会衆を探しましたが,見つかりませんでした。8年もの間,キシナウでエホバを崇拝したいと願っているのは自分だけのように感じていました。
ある日バス停に立っていると,二人の女性がエホバについて話しているのを耳にしました。もっとよく聞こえるようにと近づいたのですが,二人はわたしをKGBの捜査官だと思って話題を変えました。二人が歩き始めたのでついて行くと,ますます怪しまれてしまいました。それで,急いで二人に近づいて少し話し合い,誠実さを分かってもらいました。エホバの組織と交わるという夢が,とうとうかなったのです。しかし,悲しいことに主人は反対しました。
その時までにわたしたちには子どもが二人いました。1992年にわたしは脊椎の手術を受け,病院のベッドに6か月間寝たきりになりました。ところが,この憂うつな時期に,素晴らしいことが起きました。息子のパベルがエホバの側に立場を取り,1993年のキエフ国際大会でバプテスマを受けたのです。やがて,わたしは歩けるまでに回復し,1995年にエホバへの献身を公にしました。
現在,親族の多くがエホバの証人となっており,そのことをエホバと母に感謝しています。母の確固とした手本は片時も忘れたことがありません。そして,本当に誠実だった父も亡くなる前にエホバの僕になった,ということをお伝えできるのは大きな喜びです。
[117,118ページの囲み記事/図版]
わたしたちが払った犠牲は,エホバの犠牲に比べると全く取るに足りないものです
ミハイ・ウルソイ
生まれた年: 1927年
バプテスマ: 1945年
プロフィール: ファシスト体制と共産主義体制のもとで迫害される。
わたしは1941年に良いたよりの伝道者になりました。1942年,15歳の時に地元の学校で軍事訓練を受けることになりました。教室には,ルーマニア国王ミハイとアントネスク将軍の写真,それに聖母マリアの絵が飾られていました。教室に入ったなら,それらに礼をして十字を切ることになっていましたが,わたしを含め3人がそれを拒否しました。
そのため,わたしたちは地元の警察官にひどく打ちたたかれました。学校で一夜を過ごし,朝になるとコルジェウツィに連れて行かれ,またもや打ちたたかれました。そこから何か所か連れ回された後,軍法会議のため100㌔ほど離れた場所まで歩いて行かされたので,足から血が出ました。結局,刑を宣告されずに家に送り返されましたが,それは年齢のためだと思われます。
18歳の時,ソビエト当局に徴兵されました。中立の立場を曲げることを再び拒否すると,容赦なく打ちたたかれました。友人のゲオルゲ・ニメンコも同じ目に遭い,この時の傷
がもとで6週間後に亡くなりました。わたしはまた家に送り返されました。やはり年齢のためでしょう。1947年にソビエト当局に再逮捕され,今度は,兵役を拒否したら銃殺すると脅されました。しかし実際には独房に2か月間入れられ,その後ボルガ・ドン運河建設の強制労働に送られました。それは非常に危険な作業で,大勢の人が命を落としました。多くの犠牲者が出たある事故でわたしも危うく負傷しそうになり,モルドバに送り返されました。モルドバで結婚しましたが,1951年に,妊娠中の妻ベラとわたしは流刑に処されました。最初は列車で,それから船で,シベリア・タイガへ連れて行かれました。そこは亜寒帯の広大な森林地帯で,わたしは伐採の仕事をさせられました。ベラとわたしは他の16家族と一緒に1軒の小屋で暮らしました。うれしいことに,1959年にモルドバへ戻ることが許されました。
そうしたつらい年月の間,またそれ以後も,わたしを強めたものが幾つかあります。一つは,兄イオンの信仰の手本です。(89ページをご覧ください。)死刑を宣告された兄は,減刑になるとは知りませんでしたが,妥協しなかったのです。またわたしは,エホバのみ名のために試練に耐えていた時にエホバがいつもわたしを,そして後には妻をも顧みてくださったことを考え,力を得ています。わたしたちが払った犠牲は,エホバがみ子を遣わし,わたしたちの贖いとして死ぬようにしてくださったことに比べると全く取るに足りないものです。その比類のない備えについて思い巡らすと,毎日喜びを持って過ごすことができます。
[121-123ページの囲み記事/図版]
エホバの優しい気遣いを感じました
ミハイリナ・ゲオルギツァ
生まれた年: 1930年
バプテスマ: 1947年
プロフィール: 禁令期間中に配達人および翻訳者として働く。
わたしは1945年に真理を知り,故郷のグロデニ村と近くのペトルネア村で楽しく良いたよりを伝えていました。学校で証言したために学校から卒業証書をもらえませんでしたが,受けた教育を生かして,聖書の出版物をルーマニア語とウクライナ語からロシア語に翻訳するのを手伝えたのはうれしいことでした。
バプテスマを受けて間もなく,翻訳しているところを捕らえられ,北極圏内のボルクタでの25年の強制労働を宣告されました。そこには大勢の姉妹たちが収容されていました。試みとなる状況のもとでも,わたしたちはみな宣べ伝え続け,文書を手に入れることもできました。それどころか,自分たちが使う文書を収容所のただ中で作ることさえしました。
ある日,エホバの証人と間違えられて逮捕された若い女性と出会いました。わたしはその人に,エホバにはご自分の目的にかなうならご自分の民を自由にする力があるの
で,神の言葉を調べてみませんかと勧めました。その女性はやがて聖書研究に応じ,わたしたちの姉妹になりました。そして程なく,収容所から早期釈放されました。その後,わたしはカザフスタンのカラガンダへ移送され,結局1956年7月5日に釈放されました。トムスクに移り住み,そこでアレクサンドル・ゲオルギツァと知り合い,結婚しました。アレクサンドルは信仰のゆえに6年間投獄されていました。わたしたちは,まだ秘密警察に監視されていると分かっていましたが,シベリアの広大な区域で伝道を続けました。それから,バイカル湖の少し西のイルクーツクへ移転し,引き続き秘密裏に文書を生産しました。その後,キルギスタンのビシケクでも奉仕しました。用心深く証言していましたが,主人は捕らえられ,10年の刑を宣告されました。
検察官から,拘置所で裁判を待つアレクサンドルに面会できると言われました。普通は許可されていないことなので,どうしてこのように親切にしてくださるのですか,と尋ねました。すると検察官は,「あなたたち夫婦はまだ若い。それに子どももいる。たぶん二人で考え直すでしょう」と言いました。わたしが,主人もわたしもずっと前にエホバに仕える決定をしており,忠実を保とうと決意していると答えると,検察官は,「生きている犬は死んだライオンよりもましだ,とあなたの聖書に書いてあるではありませんか」と言いました。(伝 9:4)それでわたしは,「確かにそうです。でも,あなたのおっしゃるような意味で生きている犬は神の新しい世を受け継げません」と答えました。
主人は10年の刑期満了まで服役し,さらにもう1年,自宅に軟禁されました。主人が自由の身になってから,わたしたちはカザフスタンに,次いでウズベキスタンへ移って業を援助しました。その後,1983年にモルドバに戻って来ましたが,エホバについて知るよう多くの場所の心の正直な人々を援助するというたぐいまれな特権をいただけたことをうれしく思いました。
振り返ってみると,わたしの人生は必ずしも容易だったとは言えません。しかしそれは,エホバの証人でない近所の人たちも同じでした。その人たちもたくさんの問題に対処しなければなりませんでした。違うのは,わたしたちは良いたよりのために苦しんだということです。ですから,エホバの優しい保護や気遣いを感じていました。それだけではありません。わたしたちは,試練の向こうに輝かしい永遠の将来があることを知っているのです。
[80,81ページの図表/グラフ]
モルドバ ― 年表
1891年: C・T・ラッセルがベッサラビアのキシニョフ(現在はモルドバのキシナウ)を訪問する。
1895
1921年: 年次報告によると,聖書の真理を受け入れた人が200人を超える。
1922年: 最初の“集会所”がコルジェウツィに建設される。
1925年: 聖書研究者の活動が禁止される。
1930
1940年: ルーマニアがベッサラビアをソ連に割譲し,ベッサラビアはモルダビア・ソビエト社会主義共和国と改名される。
1941年: ルーマニアがモルドバを奪還する。ファシズムと戦時下の狂乱状態とにより,証人たちが迫害を受ける。
1944年: ソ連が再びモルドバを占領する。迫害が続く。
1949年: ソビエト当局がエホバの証人などの追放を始める。
1951年: スターリンがセーベル作戦を開始する。
1960年代: KGBが神の民の間に混乱と分裂を引き起こそうとする。
1965
1989年: 証人たちは,信教の自由をいっそう享受する。モルドバの代表者たちがポーランドの大会に出席する。
1991年: モルダビア・ソビエト社会主義共和国がモルドバ共和国に改名される。最初の巡回大会が開かれる。本部の代表者によって最初の地帯訪問が行なわれる。
1994年: エホバの証人が法的に登録される。最初の地域大会がキシナウで開かれる。
2000
2000年: キシナウの新しいベテル・ホームが献堂される。
2003年: モルドバ国内で1万8,473人の伝道者が活発に奉仕する。
[グラフ]
(出版物を参照)
伝道者数
開拓者数
20,000
10,000
1895 1930 1965 2000
[73ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ウクライナ
モルドバ
ブリチェニ
タバニ
リプカニ
シラウツィ
コルジェウツィ
ツァウル
フェテシュティ
ソロカ
バルツィ
ペトルネア
キシナウ
カウシェニ
ドニエストル川
プルート川
ルーマニア
ヤシ
[66ページ,全面図版]
[74ページの図版]
イリエ・グローザ,モルドバにおける初期のエホバの証人の一人
[75ページの図版]
トゥドル・グローザ
[78ページの図版]
イオアナ・グローザ
[92ページの図版]
パルフィン・パラマルチュクと息子のニコラエ
[93ページの図版]
バシレ・ゲルマン
[94ページの図版]
ニコラエ・アニスケビチ
[95ページの図版]
マリア・ゲルマン
[96ページの図版]
証人たちをシベリアに輸送するために用いられた有蓋貨車
[98ページの図版]
イワン・ミキトコフ
[99ページの図版]
コンスタンチン・ショベ
[107ページの図版]
ニコライ・ボロシャノブスキと「二重底」のブロシュアー
[111ページの図版]
ゲオルゲ・ゴロベツ
[126ページの図版]
フェテシュティの大会ホール
[131ページの図版]
モルドバの国内委員会,左から右へ: ダビド・グロゼスク,アナトリエ・クラブチウク,ティベリウ・コバクス