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アイスランド

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アイスランド

アイスランドという名称は氷や雪,それにイグルーのような氷でできた家を連想させるかもしれません。地図を見ると,寒い地域だという印象がいっそう深まることでしょう。アイスランドのような北の果てに住む人はそれほど多くありません。それもそのはず,この島国の北端は北極圏にほぼ接しているのです。

しかし実際のところ,アイスランドはその名前や位置から想像するほど寒い国ではありません。赤道の少し北から流れてくる暖流のおかげで気候はそれほど厳しくありませんし,イグルーもありません。アイスランド社会は非常に近代化されており,人々は地熱利用の暖房装置を備えた立派な家に住んでいます。

アイスランドは両極端の国です。真冬の間,太陽が水平線上に顔をのぞかせるのは一日のうちわずか数時間です。目をみはるようなオーロラが冬の長く暗い夜をしばしば彩りますが,太陽のほうは姿を現わすのを嫌がっているかのようです。しかし夏になると,それを補って余りあるほどに,夜の間も明るい日が何か月も続きます。アイスランドの北端では,太陽が何週間も水平線すれすれの所にとどまり,真夜中でも太陽を見ることができます。

アイスランドは氷と火の国と呼ばれていますが,まさにそのような所です。国土の約10分の1は氷河に覆われていますし,火山活動や地熱活動によって生じる火もあります。これまでに多くの火山が噴火しており,ここ数世紀の間は平均して五,六年に1度,噴火が起きています。温泉もたくさんあります。

人口密度の低いこの国は自然が美しく,野生生物がたくさんいます。澄んだ空気,見事な滝,険しい山々,広大な原野などを見ようと,大勢の観光客がやって来ます。春の初めには渡り鳥が,夏の生息地となる湿地帯や海岸沿いの断崖に帰ってきます。中でもキョクアジサシは,毎年の渡りで地球の反対側の南極大陸まで旅をします。ツノメドリ,ケワタガモ,カモメなども断崖や海岸で多く見かけます。田園地方では羊が草をはんでおり,高地では小型で丈夫なアイスランド・ポニーが放牧されています。初夏には大量のサケが戻ってきて,産卵のために川を遡上し,滝を登ります。

アイスランドの29万570人の住民は,1,100年以上前に定住したバイキングの子孫です。バイキングはおもにノルウェーからやって来て,古ノルド語を話しました。この古ノルド語に由来するアイスランド語は,文学的伝統が大切にされてきたこと,また国が外界から比較的隔絶されていたこともあって,おおむね元の姿を保っています。ですから現代の人々でも,おもに13世紀に書かれた古いサガ(英雄物語)を読むことができます。アイスランド人は母国語を誇りにしており,外国語が入り込むのを嫌います。

初期の定住者の大半は“異教徒”であり,アイスランド人を“キリスト教”に改宗させる試みは10世紀後半になるまで行なわれませんでした。そして10世紀の終わりごろ,アイスランドの著名な指導者たちが改宗します。西暦1000年には,アルシングと呼ばれるアイスランドの議会が,二つの宗教を評価するよう異教の重鎮の一人に依頼しました。驚いたことに,その重鎮は,一つの信仰つまり“キリスト教”のみを実践すべきだとの判断を下しました。この判断は大きな反対もなく受け入れられたようです。ただし,ひそかに異教の神々を崇拝し,異教の習慣を行ない続ける余地も残されていました。この決定は宗教上の裁定というよりも政治的な駆け引きの色が濃いものでしたが,これにより,独自の考えを持ちながらも宗教上の問題には寛容というアイスランド人の国民性が生まれた,と言えそうです。

今日,人口の約90%は国教の福音ルーテル教会に属しています。ほとんどの家庭に聖書はありますが,それを神の言葉であると信じる人は多くありません。

アイスランドに良いたよりが伝わる

20世紀が始まるころには,火山噴火や厳寒などによる苦難から逃れるという理由もあって,多くのアイスランド人がカナダに移住していました。そのため,カナダで神の王国の良いたよりを初めて聞いた人たちもいました。ギオルグ・フョールニル・リンダルはその一人です。リンダル兄弟はエホバ神に献身してからすぐに開拓者になりました。兄弟はアイスランド語を話せたので,1929年,つまり40歳の時にアイスランドに戻る決心をしました。その年の6月1日,兄弟はレイキャビクに到着し,アイスランドで良いたよりを宣べ伝えた最初の人となりました。

リンダル兄弟は,文書の第1便を受け取るのに3か月待たなければなりませんでしたが,届くとただちに,アイスランドの全住民に証言するために出かけて行きました。そして,1929年10月の終わりまでに,アイスランド語の「神の立琴」を800冊配布しました。当時,リンダル兄弟はこう書いています。「ここに着いてから,幾つもの町を回って伝道を行ないました。それらの町の住民を合わせると約1万1,000人になります。アイスランドの総人口は10万人を少し上回るので,まだ9万人ほどに伝道しなければなりません。交通が不便なため,すべての区域を独りで回るにはかなりの時間がかかりそうです。アイスランドは山が多く,海岸線が入り組んでおり,鉄道はなく,自動車の走れる道も限られています。それで,私はたいてい船で旅行しています」。

幾通かの手書きの手紙が“アイスランド”というラベルの付いた古いフォルダーに保管されていますが,そこには不平不満の言葉など一つも見当たりません。同じ1929年の手紙の中で,リンダル兄弟はこうも書いています。「最近あった励みになる経験をお伝えできるのは大きな喜びです。以前に伝道した場所を再び訪ねる機会がありました。最初の時に書籍を購入した人たちに会うことができ,一人の男性からこう言われました。『「立琴」を2回読んで,いま3回目に入っています。いい本ですね。来てくださってありがとうございます』。別の人は,『戻って来てくださったんですね。あれはすばらしい本です。ラザフォード判事の本を全部アイスランド語で出してもらえませんか』と述べました。そこで私は,デンマーク語であれば多くのものが手に入ると答えました。するとその男性はこう言いました。『あるものを全部送ってください。そう,パスター・ラッセルの本もお願いします。そうすれば,冬の間に勉強する物がなくなることはないでしょう』。ほかの人たちも書籍に対する感謝を述べていました。聞く耳を持つ人に真理の音信を伝えることを許してくださった神に深く感謝しています」。

アイスランドは英国の半分以上の面積があるため,独りで島民全員を訪ねるのは並大抵のことではありません。この国は南北約300㌔,東西約500㌔で,フィヨルドや入り江を含めると海岸線は全長6,000㌔以上もあります。それにもかかわらず,リンダル兄弟は良いたよりを宣べ伝えて文書を配布しながら,10年足らずで島全体を回りきりました。海岸沿いを旅する時には船を使い,内陸部の農家を訪ねる時にはアイスランド・ポニーを2頭使いました。1頭は自分が乗るため,もう1頭は文書と身の回り品を運ぶためでした。兄弟がアイスランドを去る前に幾年か一緒に働く機会を得た兄弟たちの話によると,リンダル兄弟は献身的でまじめな,また恥ずかしがり屋で控え目な,口数の少ない兄弟でした。堂々とした体格で背が高く,旅に使った小さなアイスランド・ポニーがかわいそうに思えたそうです。ポニーがいない時には書籍と所持品を自分で運んでしまうほど力持ちでした。

1929年にアイスランドでの業を開始した時,リンダル兄弟はそれがどれほど大変か,また氷のように冷たい反応を和らげるのにどれだけの忍耐と粘り強さが求められるかを知る由もありませんでした。兄弟は18年近くの間,アイスランドで唯一の証人でした。しかも,勤勉な努力にもかかわらず,王国の側に立つ人を1人も見いだせませんでした。1936年に兄弟はこう書いています。「ここに来てから配布した2万6,000ないし2万7,000冊の書籍を,大勢の人が読みました。真理に敵対する立場を取った人もいるようですが,大半は全く無関心なままです」。

とはいえ,リンダル兄弟の伝えた音信の価値を認める人もいました。例えば,ある年配の男性は「神の立琴」を1冊受け取りました。数か月後に再び訪問したリンダル兄弟はその人の娘に会い,男性が本を気に入っていたこと,亡くなる前に丹念に研究していたことなどを聞かされました。そして,その男性は異教の習慣に従って自分が死んだらその本をひつぎの中に入れてほしいと頼み,実際にそのとおりになされた,とのことでした。

長きにわたったリンダル兄弟の独りっきりの奉仕は,ものみの塔ギレアデ聖書学校の卒業生たちが到着した1947年3月25日に終わりました。兄弟はその後もアイスランドでの奉仕を続け,1953年にカナダに戻りました。その16年後,アイスランドで特別開拓者として奉仕していたパウル・ハイネ・ペーゼルセンは,リンダル兄弟に会うためカナダのウィニペグに行くことにしました。そのころまでに,リンダル兄弟と一緒にアイスランドで働いたことのある宣教者たちがみな国外に移っていたため,兄弟からじかにアイスランドでの業について聞こうと思ったのです。ペーゼルセン兄弟は米国での休暇の際にバスでウィニペグに向かいました。しかし到着して知らされたのは,リンダル兄弟がその朝,地上での歩みを終えたということでした。兄弟は死に至るまでエホバに忠実に仕えました。

収穫のための働き人が増える

1947年,良いたよりの伝道における新しい時代が幕を開けました。ギレアデを卒業した2人の宣教者が初めて到着したのです。2人ともデンマーク出身で,そのうちの1人はレオ・ラルセンでした。1948年12月,さらに2人の宣教者がやって来ました。デンマーク出身のイングバト・イェンセンと,イングランド出身のオリバー・マクドナルドです。それら収穫の新たな働き人たちはリンダル兄弟の業に加わり,大量の文書を配布しました。冬の間はレイキャビクとその周辺で奉仕し,短い夏の間は海岸沿いの田園地帯で働きました。イェンセン兄弟は,ある伝道旅行のことを特によく覚えていて,こう書いています。「アイスランドに来て最初の夏のこと,もう1人の宣教者と一緒に田園地帯に出かけました。たいてい,区域まではバスか船を使い,自転車,テント,寝袋,文書,食糧などを持っていきます。ある晩,西海岸にあるスティッキスホールムルという町に船で向かい,翌日の午後に到着しました。計画では,町のすべての家を訪問した後,100㌔ほど離れたボルガルネスという町まで自転車で行くことになっていました。その町からはレイキャビクまでのフェリーが毎日運行しています。旅の出だしは上々でした。6月中旬で,日も照っていました。最初の晩,私たちは町の一部での奉仕を終えて,寝袋に潜り込みました。ところが,一晩中寒くてしょうがありません。翌朝になって理由が分かりました。夜の間に雪が10㌢も積もったのです。船は1週間先までないので,旅を切り上げることは不可能でした。それで計画どおりにその町で奉仕し,自転車で山道を越えて,途中にある農家を訪問しながら次の町にたどり着きました」。

2人は,みぞれや雨,そして風速30㍍にもなる強風の中を自転車で進み,4日後にようやくボルガルネスに着きました。とはいえ,道中で訪ねた農家の人たちが必ず家に招き入れてコーヒーや食べ物を出し,手厚くもてなしてくれたので,悪天候のつらさも幾分埋め合わせられました。イェンセン兄弟は1日に8回ないし10回も食事をしたことを思い出し,こう述べています。「親切な申し出を断わると家の人の気分を害するのではないかと思いました。それに,樹立されたエホバの王国について徹底的な証しをする機会にもなりました」。

兄弟たちはアイスランドにおける宣教者奉仕の最初の3年間で1万6,000冊余りの文書を配布しました。しかし,それに比例して再訪問と研究が増えたわけではありません。人々は喜んで文書を受け取りましたが,音信にはこたえ応じなかったのです。ラルセン兄弟と妻のミッシー(兄弟と結婚するため1950年にデンマークからやって来た)の場合もそうでした。2人は東海岸に行き,ヘブン,エスキフィヨルズル,ネースケウフスターズル,セイージスフィヨルズルといった町々で奉仕しました。この旅行は大変でしたが,300冊の本と,それとほぼ同数の小冊子を配布することができました。どの本にも,聖書に基づく短いメッセージとレイキャビクの宣教者の住所とを印刷したしおりが入っており,文書を受け取った人は皆,真理に関する情報をさらに得るために手紙を書くよう勧められていました。しかし,実際にそうした人は1人もいませんでした。

1952年,北海岸の区域にもっと関心を向けたほうがよいということになりました。それで,その年の6月,オリバー・マクドナルドと妻のサリー(兄弟と結婚するため1949年にイングランドからやって来た)が,特別開拓者としてアークレイリに割り当てられました。しかしその町で,英国領事の率いるプリマス・ブレズレン(プリマス同胞教会)のグループによる激しい反対に直面しました。この領事には大勢の支持者がおり,他の人たちも,証人を攻撃する領事の演説や記事に同調しました。マクドナルド夫妻はレイキャビクでそのような反対に直面したことはありませんでしたが,恐れずに攻撃に立ち向かい,いつもどおりに業を行ない,あらゆる機会を用いて偽りの非難に答えました。一部の新聞は兄弟たちの回答を掲載しました。

2人は,その町だけでなく周辺地域にも赴いて文書を配布しました。そうした地域では大抵よくもてなされたものの,王国の音信に対する純粋な関心はあまり見いだされませんでした。マクドナルド夫妻は1953年7月にレイキャビクに戻りましたが,アークレイリで植えた真理の種は後に成長することになります。

基礎が据えられる

27年かけて植えたり水を注いだりした結果,アイスランドの兄弟たちはついに労苦の実を目にするようになりました。1956年の初め,7人の新しい人たちが王国の側に立場を定め,エホバに献身したのです。それまでというもの,真理に関心を示した人の大半は真理のうちにしっかり立ちませんでした。例外はイングランド出身のアイリス・オーベリでしたが,この姉妹は後にアイスランドを離れました。しかし今や7人の新しい人たちがバプテスマを受け,基礎がしっかりと据えられました。ところが,真理が根づくのを見届けようと一生懸命に働いてきた宣教者や開拓者たちは,おもに健康上の理由で1957年までにアイスランドを去っていました。

そのようなわけで,1957年には,前年にデンマークから来ていた特別開拓者のエディト・マルクス姉妹が小さな会衆を世話することになりました。このグループは,真理を学んでその内に堅く立つよう助けてくれた人たちが急にいなくなったため,収穫の働き人による援助を必要としていました。ほどなくして,デンマーク,スウェーデン,ドイツから特別開拓者が派遣され,また多くの伝道者や開拓者もアイスランドに移動して,王国を宣べ伝える業に加わりました。それ以降,ゆっくりと,しかし着実に増加が見られるようになりました。

増加に伴って,胸の躍るような進展がありました。例えば,巡回監督の定期的な訪問が始まり,地域大会も毎年開かれるようになったのです。アイスランド語の文書の必要が大きくなりました。「ものみの塔」誌が1960年1月1日号からアイスランド語でも発行されるようになり,業に大きな弾みがつきました。兄弟たちは母国語の雑誌を提供できるので大喜びし,同時に,この霊的食物から毎月益を得られるようになったので大いに信仰を強められました。レイキャビクの巡回大会でアイスランド語版「ものみの塔」誌の出版が発表された時には,話し手の後ろの覆いが外されて,雑誌の巨大な見本が姿を現わし,兄弟たちはエホバからのこの新しい贈り物を熱烈に歓迎しました。

ペーゼルセン兄弟によると,1959年10月にアイスランドに到着したころ,野外で提供できるアイスランド語の出版物といえば『御国のこの良いたより』という小冊子だけで,しかも家の人の多くはすでにそれを持っていました。奉仕者たちは,家の人の読める言語に応じて,デンマーク語,英語,ドイツ語,スウェーデン語の「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を提供していました。多くの人はそれらの言語のいずれかを理解できましたが,母国語で「ものみの塔」誌を読むほうがはるかに有益でした。アイスランド語版「ものみの塔」誌は伝道活動に大きな影響を及ぼしました。合計41人の伝道者と開拓者は,その奉仕年度中,809件の購読の予約を得るとともに,2万6,479冊の雑誌を配布しました。聖書研究の数も増加しました。

もう一つの里程標となったのは,1962年1月1日に支部事務所が開設されたことです。それまでアイスランドは,まずデンマーク支部の,そして後には米国支部の管轄下にありました。1969年には,アイスランドのエホバの証人が法的に認可され,司法宗教省に登録されました。これで証人たちは,他のすべての宗派と同じ権利を有するようになり,結婚式や葬式を執り行なう権限も与えられました。

僧職者からの反対

支部が開設された月に,兄弟たちは僧職者からの反対に遭いました。ある朝,主要紙に福音ルーテル教会の監督がエホバの証人について警告する小冊子を発行したという見出しが載ったのです。エホバの証人に耳を貸さないよう強く勧めるその小冊子は,「エホバの証人 ― 警告」と題するものでした。他の新聞もその話題を取り上げました。主要な夕刊紙「ビシル」が,支部事務所で働く一人の兄弟のインタビューを掲載してエホバの証人の見解を紹介すると,他紙もそれに続きました。こうして大々的な証言がなされ,多くの人が証人たちの活動を知るようになりました。新聞には,エホバの証人を支持する読者からの投書も掲載されました。教会の監督は“反論”を出して反撃しましたが,エホバの証人は最大の発行部数を誇る「モルグンブラジズ」紙の全面記事で自分たちの活動と信条を詳しく説明しました。

「警告」の小冊子は全国で配布されましたが,それはエホバの証人にとって願ってもない大規模な宣伝となり,その効果は何年にも及びました。宣伝効果があまりにも大きかったため,ある新聞は,「その監督はエホバの証人の広報部長になってしまった」と報じました。エホバの民は,伝道活動がなされていない僻地でもよく知られるようになったのです。監督の勧めに従う人もいましたが,大多数の人は好奇心をそそられました。ただし,北部のアークレイリでは敵対的な反応が見られ,開拓奉仕をしているハインリッヒ・カルヒャーとカテリーネ・カルヒャーに若者たちが石を投げつけることもありました。何年か後,この監督とは別の宗教の反対者たちがこの小冊子をアークレイリで再印刷し,配布しました。ペンテコステ派も,伝道を阻止あるいは妨害しようと考えて,同様のことをレイキャビクで行ないました。

大会を組織するという大仕事に取り組む

アイスランドの神の民にとって,大会はいつも喜びに満ちたひとときとなってきました。奉仕者が少ない時代でも,兄弟たちが大会を組織するのをためらうことはありませんでした。最初の大会は1951年7月に開かれました。二人の兄弟たち,つまりカナダのパーシー・チャップマンとブルックリンのクラウス・ジェンセンが,その夏にヨーロッパで開かれる一連の大会に向かう途中,アイスランドに立ち寄ったのです。当時,アイスランドには一握りの奉仕者しかいませんでしたが,最高出席者数は55人でした。次の大会は,7年後の1958年6月に開かれました。フィリップ・ホフマンが地帯監督として訪問した時で,38人が公開講演に耳を傾けました。それ以来,大会は毎年開かれています。

フリジリク・ギースラソンは,1950年代の大会のプログラムで割り当てを果たした数少ない兄弟の一人です。兄弟はこう述べています。「初期の大会では給食部門を任されていました。ほとんどの仕事を自分でこなしただけでなく,プログラムの割り当てを毎日三つか四つ果たすことも珍しくありませんでした。厨房で働く時にはエプロンを着けていました。そして話をする時には,背広の上着を着て急いで会場に向かうのですが,時々,エプロンを外し忘れていることを指摘してもらったものです。今では大会の出席者数は400人ないし500人になり,プログラムの割り当てを果たす資格のある立派な長老たちもたくさんいます」。

地域大会のハイライトの一つに,胸の躍る教訓的な聖書劇があります。しかしアイスランドでは,奉仕者の数が少ないたため,音声のみの劇しか提供できませんでした。デンマーク支部は,劇を視覚に訴えるものにするため,音声と同時進行で上映できるカラー・スライドを作製しました。それでも,劇の準備にはかなりの骨折りが求められました。まず,せりふをアイスランド語に翻訳しなければなりません。次いで,アイスランド語を母国語とする兄弟たちがせりふを録音した後,英語のテープから音楽と効果音を加えます。登場人物に応じて声を変えながら一人何役もこなすことがありました。後に,衣装を着けた役者による劇が上演されるようになりました。

役者たちによる最初の劇は王妃エステルに関するもので,1970年の地域大会で演じられました。兄弟たちは真剣に取り組み,非常に熱心にリハーサルを行ないました。聖書時代の衣装をまとうのも,兄弟たちが顔にひげを着けるのも初めての経験でした。その大会で劇が上演されることは内密に保たれていました。それで,聴衆は驚くとともに大喜びしました。小さな大会では,ほとんどの人が知り合いで,しかも皆がステージの近くに座っているので,だれがどの役を演じているのか当てたくなります。ある姉妹は劇が終わってから,「結局,一人しか分からなかったわ。ネブカドネザル王をやってた兄弟よ」と言い,その兄弟の名前を挙げましたが,違っていたので驚きました。小さな大会でプログラムを提供するために大勢の人が一生懸命に働いていることを,兄弟たちは本当に感謝しています。母国語で提供される劇からすばらしい教訓を学び,皆が益を得ています。

国際大会の喜び

アイスランドの兄弟たちも長年,外国での大会に出席する喜びを味わってきました。1958年にニューヨークで開かれた『神の御心』国際大会には,アイスランドから5人の代表者が出席しました。1961年にヨーロッパで開かれた「一致した崇拝者の大会」や,1963年の「永遠の福音」大会にも多くの人が出席しました。1973年の「神の勝利」国際大会でも,様々な国の兄弟たちと親交を深めることができました。1969年8月5日から10日にかけてデンマークのコペンハーゲンで開かれた「地に平和」国際大会には,アイスランドから100人以上が出席しました。これほど大きなグループがアイスランドから外国の国際大会に出席したことはありませんでした。その夏,アイスランドの奉仕者の80%が海外の大会に出席したのです。

この1969年の大会にアイスランドから大勢の人が出席する予定だったため,デンマーク支部はアイスランドの兄弟たちが一緒に座るよう取り決めました。毎朝,プログラムが始まる前に,アイスランドの兄弟たちはそのセクションに集まって自国語でプログラムの要約を聞くことができました。

この大会に出席した人の中に,ビャルトニ・ヨウンソンという男の子がいました。ビャルトニの父親は弁護士で,兄弟たちがレイキャビクで宣教者ホーム 兼 支部事務所として借りている建物の所有者でした。ビャルトニは真理についてほとんど何も知らず,兄弟たちと一緒にコペンハーゲンに行ったのも大会に出席するためではありませんでした。どうしてそのようなことになったのでしょうか。

当時,支部の僕だったチェル・ギールナルドはビャルトニの父親と話し合う用事がありました。ギールナルド兄弟は,コペンハーゲンで開かれる国際大会と,そこに出席する予定の兄弟たちのことを話しました。それを聞いた父親は,その一行にぜひ長男を加えてもらえないかと言いました。中学校を卒業したばかりの息子を海外旅行に行かせてやろうと思っているのだが,コペンハーゲンならちょうどいいというわけです。ギールナルド兄弟はそうさせてあげるのも悪くないと考え,もしビャルトニが大会に出席してそこの様子を見たいのであればコペンハーゲンでの宿舎を用意できると伝えました。これを聞いて喜んだ父親は,大会に出席する証人たちと一緒に行きたいかと息子に尋ねました。ビャルトニは,もちろん行くと答えました。

コペンハーゲンでビャルトニが宿泊できるよう宿舎部門に連絡が行き,ある証人の家族の家に泊まれるよう手はずが整いました。ビャルトニがそこに宿泊できるようになったのは,ヤコブという名のアイスランドの兄弟と相部屋になるはずのアメリカの兄弟が予約をキャンセルしたからでした。ところが,何らかの理由でヤコブも宿舎に現われず,やって来たのはビャルトニだけでした。宿舎部門はアメリカの兄弟の代わりにビャルトニが来ることをホスト家族に伝えていなかったので,ホスト家族は来たのがヤコブだと思い込みました。

いろいろな土地の兄弟たちが集まるとたいてい,それぞれが経験を語るものです。デンマークの兄弟たちは“ヤコブ”がほとんど話さないことを意外に思いました。一方ビャルトニのほうは,ホスト家族からヤコブと呼ばれて少々戸惑っていました。そして,ヤコブというのは聖書に出てくる名前なので,エホバの証人には聖書中の名前を使って呼び合う習慣があるのかもしれないと考えていました。その後,ビャルトニと同じ宿舎にいた兄弟が,アイスランドで開拓奉仕をしているデンマーク人の兄弟に会い,ようやく誤解が解けました。アイスランドでの業についてほとんど語らないことからすると“ヤコブ”は真理に新しいのかと聞いたところ,“ヤコブ”が実はビャルトニというアイスランドの学生で,兄弟たちと一緒にコペンハーゲンに来ている,ということが判明したのです。ホスト家族はビャルトニを温かくもてなし,デンマーク観光のためにもう1週間泊まっていくようにと勧めました。この親切にビャルトニは感激しました。

ビャルトニは大会に出席し,プログラムを満喫できるほどの真理の知識がなかったにもかかわらず,見聞きした事柄に大いに感銘を受けました。そして,アイスランドに戻るとすぐ,家族と共に聖書研究を始めました。ビャルトニは真理においてよく進歩し,1971年にバプテスマを受けました。1979年からは,アイスランドの支部委員として奉仕しています。

スバンベルグ・ヤコブソンはアイスランド支部で翻訳者として長年奉仕しており,現在は翻訳部門の監督です。若い奉仕者だったころ,1973年に英国のロンドンで開かれた「神の勝利」国際大会に出席しました。こう述べています。「会場となった競技場に幾千人もの兄弟姉妹が流れのように入って行くのを見てとても感動したのを覚えています。大勢のアフリカの兄弟姉妹の色鮮やかな民族衣装に目を奪われました。幾万人もの兄弟たちに囲まれて,共にプログラムに耳を傾け,共に歌を歌い,共に祈りに加わり,共に食事をしたこと,そして一緒にいられたこと自体が,忘れがたい経験となりました」。

1958年にバプテスマを受けたソウルボルグ・スベインスドッティル姉妹は,1961年のコペンハーゲンでの大会に出席するため,4人の子どもを連れてデンマークまで6日間の船旅をしました。ケブラビークの孤立した小さな群れに交わっていた姉妹は,大きな国際大会に出席してどう感じたでしょうか。こう述べています。「3万人を超える兄弟たちが五つの言語で一斉に歌う王国の歌は息をのむほど美しく,感極まりました。何もかもが非常によく組織されていました」。

国際大会に行くには多大の旅費がかかりますが,兄弟たちは出費を補って余りあるほどの価値があると感じました。エホバによって準備されたすばらしい霊的宴にあずかり,幾万人もの信仰の仲間と共に過ごすひとときは,まさに祝福でした。

霊的な“ウエーター”の訪問

必要の大きな所で奉仕するために多くの人がアイスランドに移転して来ました。それらの人すべては,複雑なアイスランド語を学ぶために長期にわたる大きな努力が求められました。とはいえ,言葉の意味の取り違えが思わぬ祝福となることもあります。例えば,ハインリッヒ・カルヒャーはある日,家から家の奉仕で,わたしは奉仕者ですと自己紹介していました。ある家でのこと,玄関に出て来た若い女性は,自己紹介したカルヒャー兄弟をすぐに中に招き入れました。アイスランド語で「奉仕者」と「ウエーター」は同じ言葉なので,その女性は勘違いし,カルヒャー兄弟を,地元のホテルでウエーターをしている夫の同僚だと思ったのです。夫がもうすぐ帰ってくるのを知っていたので,この“同僚”に中で待ってもらおうと考えたわけです。もちろん,誤解は解け,二人で大笑いしました。

さて,夫が帰ってくると,霊的な“ウエーター”はその若い夫婦に素晴らしい霊的食物を給仕し,夫婦はそれを大変気に入りました。今度は奥さんも連れて来てください,と兄弟に頼むほどでした。やがて定期的な聖書研究が始まり,関心を持ったその夫婦は他の人に証言するようになりました。そしてこの若いウエーターは,ホテルで働いている時も,耳を傾ける人すべてに話をしました。やがて夫婦はバプテスマを受けました。霊的な“ウエーター”が訪ねて来て,ためらうことなくアイスランド語で証言してくれたことを,本当にうれしく思っています。

外国から来た兄弟たちがアイスランド語を学びたてのころ,取り違えが原因でこっけいな事がよく起きました。例えば,アイスランドに来て間もないサリー・マクドナルドは,「ご近所の方を訪問して,聖書から興味深い点をお伝えしています」という出だしの言葉を準備しました。ところが「訪問する(ヘイムスキャ)」という言葉を「迫害する(オフスキャ)」という言葉と取り違えてしまい,にこやかに,『ご近所の方を迫害しています』と言ってしまいました。

ルーテル派の牧師と一緒に家から家へ

デンマーク出身のホルゲル・フレゼリクセンとトーベ・フレゼリクセンは,アイスランドで長年にわたり特別開拓者として忠実に奉仕し,しばらくは旅行する奉仕にも携わりました。アイスランド語を習得するのはフレゼリクセン姉妹にとって容易ではありませんでしたが,姉妹の熱意と意気込みに動かされて多くの人が真理を受け入れました。

巡回奉仕をしていた時のこと,フレゼリクセン兄弟は若い奉仕者と共に小さな村で家から家の奉仕を行なっていました。すると驚いたことに,地元のルーテル派の牧師が一緒について来ました。どうしてそのようなことになったのでしょうか。

少し前に,二人はその牧師の家を訪問していました。牧師は一見,好意的で,事務所の中に招き入れてくれました。しかし,提供された本にざっと目を通すと,「偽りの教えが含まれている」と言い出しました。そして,いきなり立ち上がって両腕を挙げ,兄弟たちに神の呪いが臨むようにと言い,「わたしの教区で伝道してはならない!」と叫びました。フレゼリクセン兄弟が牧師に,あなたには伝道を禁ずる権限はなく,わたしたちは伝道活動を続けるつもりですと答えると,牧師は,「わたしの教区で伝道を続けるつもりなら,わたしもついて行く」と言いました。それで兄弟は,そうしても構いませんよと応じました。

兄弟たちは牧師が後からついてくる中,牧師の家に一番近い2軒の家を訪問しました。その後,フレゼリクセン姉妹ともう一人の姉妹に会いましたが,姉妹たちは家から家の奉仕にだれが参加しているかを知ってびっくりしました。すると牧師は,コーヒーでもどうかと言って,全員を自宅に招待しました。皆で友好的な会話を楽しむことができましたが,フレゼリクセン兄弟は,牧師が急に態度を変えてもてなしたのは,区域の人たちに宣べ伝えるのを阻止するためではないかと考えました。それで翌日,4人は区域に戻って村全体をくまなく奉仕し,聞く耳を持つ大勢の人に会って多くの文書を配布しました。

雪崩で足止めされる

田舎に住む人たちに宣べ伝えるには,しばしば車で幾つもの峠を越えなければなりません。暗い冬の日々,道路は凍てつき,雪に覆われます。1974年12月,旅行する奉仕を行なっていたチェル・ギールナルドと妻のイーリスは,北海岸にあるアークレイリを訪れ,そこの会衆を訪問した週に,ホルゲル・フレゼリクセンと妻のトーベと共に80㌔以上離れたフーサビークという町に出かけました。4人は何日かかけてフーサビーク内外の区域で奉仕し,最終日には学校の構内でスライドを見せながら公開講演を行ないました。ところが集会が始まるころ,嵐が接近し,凍てつくような風と雪とみぞれが吹き荒れました。集会後,出席者たちが帰宅の用意をしていると,吹雪のせいで町全体が停電になりました。兄弟たちは真っ暗闇の中,停電になる前にスライドを見せることができたのを喜びながら学校を後にしました。

ギールナルド夫妻とフレゼリクセン夫妻はアークレイリに戻らなければなりませんでした。地元の警察とバスやトラックの運転手たちに道路状況を尋ねたところ,少し前まではほとんど問題なかったとのことでした。それで,できるだけ早く帰ることにしました。ところが,ろうそくの明かりを頼りに支度をするのに手間取ったうえ,車のガソリンを買いに行った時,店員が手動ポンプでガソリンを入れなければならなかったため,出発は夜の9時ごろになってしまいました。

ギールナルド兄弟は,帰りの旅の様子をこう述べています。「初めのうちは大丈夫だったのですが,雪がどんどん降ってきました。道路がどこにあるのか見分けられず,フレゼリクセン兄弟が車から降りて懐中電灯で誘導しなければならないこともありました。その後,雪の吹き溜まりに何度も突っ込んでしまいました。車を押したり雪かきをしたりして何とか通過することができましたが,とうとう雪の巨大な壁に行く手を阻まれてしまいました。後で分かったことですが,それは山で生じた雪崩によるものだったのです。普通ならフーサビークからアークレイリまでは車で2時間ですが,すでに6時間たっており,まだ半分しか来ていませんでした。

「朝の3時だというのに,ずぶぬれで,疲れ果て,凍えていました。そんな時,うれしいことに,近くの農家の電気がついていることに気づきました。気を取り直し,そこまで行ってドアをノックすることにしました。礼儀正しくて気の利くフレゼリクセン兄弟が玄関のドアをノックしました。だれも出て来ないので,ドアを開け,階段を上がり,そっと寝室のドアをノックしました。その農家の夫婦は驚いていましたが,突然の来客に落ち着いて対応してくれました。夫婦の話によると,停電が起きた時にそのまま寝てしまい,電気を消し忘れていたとのことでした。

「このお宅で,いかにもアイスランド人らしい心温まるもてなしを受けました。夫婦は,寝ていた子どもたちを別の部屋に移し,わたしたち4人が寝られるよう部屋を二つ空けてくれました。そして少しすると,温かいコーヒーとおいしそうなパンが食卓に上りました。翌朝,朝食を済ませると,ご主人はぜひ昼食も食べていくようにと誘ってくれました。それで,昼食をごちそうになってから,アークレイリに向けて出発しました。その時までに,道路の雪は2台の大型除雪車によって取り除かれていました。この夫婦のもてなしをきっかけに,聖書の真理を伝えることができました」。

トロール漁船で宣べ伝える

チェル・ギールナルドは以前,野外奉仕でフリジリクという若い男性に会いました。長男だったフリジリクは霊的な思いを持つ人で,聖書について話し合うのが大好きでした。多くの質問を持っていて,聖書の知識を得ることに深い関心を示しました。しかし,フリジリクはトロール漁船の機関士だったため,再び会うのは容易なことではありません。大抵は海に出ていて,漁の合間に何日か家に戻るだけです。それでもギールナルド兄弟は,漁船のスケジュールを調べたり,フリジリクの母親に帰宅予定を尋ねたりして,港か家でフリジリクと会うようにしました。そのようにして,フリジリクは霊的に成長するよう助けられました。

1982年の終わりごろ,フリジリクはレイキャビクでの大会に招待されました。そのころまでにはエホバへの信仰が芽生えていたので,フリジリクは大会に出席する道が開かれるよう祈りました。すると漁を休む予定だった同僚が急に休暇をキャンセルし,その人の代わりに仕事を休んで大会に出席することができました。プログラムに深い感銘を受けたフリジリクは,エホバに仕える決意を固めました。

故郷に戻ると,自分の決定を婚約者に伝え,それが自分の生き方にどのような影響を及ぼすかを話しました。そして,妻として迎えたいものの,もしエホバの証人と結婚したくないなら婚約を解消してもよいと言いました。翌朝,だれかが宣教者ホームのドアをノックしました。外に立っていたのはフリジリクと婚約者でした。フリジリクは手短に,しかし力強くこう言いました。「ヘルガも聖書研究をしたいと言っています!」それで宣教者たちはヘルガとの研究を取り決めました。その日の後刻に,今度はフリジリクの弟の一人も聖書研究をしたいと申し出ました。その週のうちに,フリジリクは末の妹を集会に連れて来てこう言いました。「ウンヌルも聖書研究をしたいと言っています!」

フリジリクはエホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受けたいと思いました。しかし,まず知識を増し加え,それからバプテスマの質問を討議しなければなりません。問題は,フリジリクがほとんどいつも海に出ているので,ギールナルド兄弟がフリジリクの家を訪問しても不在であるということでした。では仕事場はどうでしょうか。解決策がありました。フリジリクは兄弟を雇って,漁船の機関室で働いてもらうことにしたのです。1983年の初め,ギールナルド兄弟は聖書と研究資料を携えて,トロール船スバルバクル号に乗り込みました。

「スバルバクル号での仕事と奉仕は忘れられない経験となりました」と,ギールナルド兄弟は述べています。「一日の仕事は午前6時30分に始まって午後6時30分に終わります。正午に昼食を取り,午前と午後にコーヒーブレークがあります。仕事以外の時間はフリジリクとの研究に充て,他の船乗りたちに証言する機会もたくさんありました。夜には霊的な事柄の研究と討議を行ない,夜中の12時を過ぎてからベッドに入ることもありました。昼食の時には,食堂にいる時間をなるべく短くして,フリジリクの船室で日々の聖句を討議するようにしました」。

当然ながら,宣教者が乗組員になったことは,他の船員の注目を集めました。最初の数日間は,ギールナルド兄弟に何を期待していいのか分からず,船員たちはいぶかしげに見ていました。しかし,中には兄弟の話によく耳を傾ける人もいました。そのうちの一人はかなりの関心を示し,昼食時間に日々の聖句の討議があることを知ると,自分も参加したいと言いました。ある日,食堂での会話が長引いた時,その人はしびれを切らしてみんなの前でギールナルド兄弟とフリジリクに,「そろそろ部屋に戻って日々の聖句をしませんか」と言いました。

ある晩,ギールナルド兄弟とフリジリクは乗組員をフリジリクの船室に招待して,アルコール依存症に関する「目ざめよ!」誌の記事を用いて話し合いました。乗組員7人が参加したこの集まりは忘れがたいものとなり,他の漁船の乗組員にも話が伝わりました。

「スバルバクル号で2週間ほど奉仕と仕事を行なった後,港に戻りました」と,ギールナルド兄弟は述べています。「それまでに,フリジリクとバプテスマの質問をすべて討議しただけでなく,聖書の他のさまざまな論題について話し合い,ほかの乗組員にも証言して雑誌や文書を配布することができました」。フリジリクは1983年の春にバプテスマを受け,フリジリクの婚約者ヘルガ,そして母親と妹も真理の側に立ちました。

電話での研究

以前も今も,この大きな島の僻地で暮らす人たちに良いたよりを宣べ伝えるのは並大抵のことではありません。関心のある人に接触して連絡を保つ上で,電話は効果的な道具となってきました。

そのような方法で良いたよりの伝道から益を得た人は少なくありません。何年も前のことですが,オドニー・ヘルガドッティルという女性は,エホバの証人と研究していた息子夫婦を訪ねました。学んでいる事柄を耳にしたオドニーは,自分も聖書を学びたいと思いました。しかしオドニーが住んでいるのはアイスランドの北西海岸の僻地で,一番近い会衆から300㌔以上も離れていました。そこで,グブズルン・オウラフスドッティル姉妹が電話での研究を勧め,オドニーは喜んで同意しました。研究は祈りで始まり,オドニーは本にある研究用の質問にすらすらと答えました。研究に備えて念入りに準備し,必要な時にすぐに読めるよう参照聖句をすべて書き出しておいたので,研究中の聖句探しに時間をかけずにすみました。ある時,オドニーが近くに来る機会があり,姉妹の家で研究することになりました。顔を合わせて研究するのは初めてだったので,少しぎこちない感じがしました。そこで姉妹は,隣の部屋にも電話があるので自分がそちらに移って電話で研究したらいいかもしれないわね,と冗談めかして言いました。

真理を理解するようになったオドニーは,夫のヨウンに証言し始めました。夫は関心を示しましたが,オドニーは自分が研究を司会していいのかどうか不安に思いました。しかし,頭にかぶりものをすれば司会してよいということが分かりました。夫と研究するだけでなく近所の人たちにも証言し,バプテスマを受けたいという願いを明らかにしました。オウラフスドッティル姉妹は長老に依頼して,「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」という本にある質問をオドニーと電話で討議し,オドニーが資格にかなっているかどうかを見極めてもらいました。資格にかなっていることは明白でしたが,一つだけ問題がありました。オドニーはまだ正式に教会から脱退していなかったのです。

1週間ほどたって,オドニーは姉妹に電話し,自分は教会から脱退し,夫もそうしたと伝えました。夫にとってそれは一大決心でした。地元の教区会の司会者だったからです。その後,オドニーは巡回大会でバプテスマを受けました。それまで,小さな群れに交わったことが一度あるだけだったので,大会はオドニーにとって本当にうれしい経験でした。大会のプログラムでインタビューを受け,孤立しているのは大変ですかと尋ねられました。オドニーは,アイスランドの北西海岸にもエホバがいてくださることを知っているので,孤独だと感じることは全くないと答えました。そして,夫がこの大会に出席できなかったのは残念ですが,バプテスマを受けられるようになれば必ず大会に行くと約束してくれました,と付け加えました。夫はその約束を守りました。ほどなくして,二人は集会に定期的に出席できるよう,人口の多い場所に引っ越しました。

宣教者ホームと王国会館が必要

1968年,エホバの証人の世界本部からアイスランドを訪問したネイサン・H・ノアが,支部事務所と宣教者の住まいのためにもっとふさわしい建物を探すようにと提案しました。それまでは様々な家を借用していましたが,兄弟たちは,王国会館,宣教者ホーム,支部事務所が一体となった建物を建設するための土地を探し始めました。その間に,レイキャビクのクレブヌガタ通り5番地のふさわしい家を借りることになり,6人の宣教者が1968年10月1日にそこへ引っ越しました。この建物はその後5年間,アイスランドにおける業の中心地となりました。しばらくして,兄弟たちはレイキャビクのソガベグル通り71番地にある立地条件の良い土地を購入しました。1972年の春,新しい支部事務所の建設が始まりました。兄弟たちの人数は少なく,設計や建設の知識もあまりなかったので,かなりの困難が伴いました。兄弟たちの中には建設を請け負える人も左官職人もいなかったので,外部の業者を雇う必要がありました。業者は非常に協力的で,兄弟たちがこのプロジェクトに参加するのを許してくれました。兄弟たちは現場の隣にある古い建物の一部を借りて,食事を取るための場所としました。姉妹たちは交替で作業者のための食事を自宅で作り,現場まで運んで来ました。

建設作業は,その地域の人たちに対する立派な証しとなり,業者や市の当局者たちがエホバの証人について知る良い機会ともなりました。工事の進み具合を見ようと現場に立ち寄る人もいました。内装の左官工事をする段階になると,デンマークから左官職人の兄弟が助けに来てくれました。姉妹たちも多くの仕事を行ないました。現場に来た市の監督官たちは,姉妹たちがセメントミキサーを操作していることに気づきました。そこで監督官の一人はこう言いました。「我々の教会の女性たちにも見せてやりたいですね。寄付箱を持ち歩いて募金を求めるよりも,実際に作業をするほうがよっぽど教会の建設に役立ちますよ」。この建物は1975年5月に献堂され,アイスランドを訪問していたミルトン・G・ヘンシェルが献堂式の話を行ないました。この建物は長年にわたり,アイスランドの主要な宣教者ホームとして,またレイキャビクの諸会衆の王国会館として用いられました。現在は,支部事務所となっています。

1987年までに,アークレイリの町にも新しい王国会館と宣教者ホームが建てられました。その建設プロジェクトを手伝うためにフィンランドとスウェーデンから60人以上の兄弟姉妹が応援にかけつけ,エホバの民の一致と国際的な兄弟関係が一層よく知られるようになりました。

「こんなにおいしい木は初めて」

これまでに,エホバの証人の統治体の代表者が幾人もアイスランドを訪問し,兄弟たちに大きな励ましを与えてきました。1968年のハイライトは,先ほど述べたノア兄弟の訪問でした。ノア兄弟は,兄弟たちを奮い立たせる話を行ない,経験を述べ,アイスランドにおける王国伝道の業の進展について語りました。

ヘンシェル兄弟が最初にアイスランドを訪れたのは1970年5月でした。出迎えた宣教者の中には眠そうな顔の人もいました。それは,ヘンシェル兄弟の到着が早朝だったからだけでなく,有名な活火山であるヘクラ山が前日に噴火を始め,一晩中それを見ていたからです。

ヘンシェル兄弟は,特に宣教者と特別開拓者に注意を向けました。そして,全員を特別な集まりに招待し,大恐慌時代に開拓奉仕をしていた時の自分の経験を話しました。当時,開拓者たちは文書と引き換えに,ニワトリ,卵,バター,野菜,眼鏡,それに子犬まで受け取っていたとのことです。そのようにして,難しい時期にも業は推し進められ,開拓者たちが生活必需品に事欠くことはありませんでした。

アイスランドを訪問する人たちは,食べ物が一風変わっていることにすぐ気づきます。アイスランドの名物料理に,羊の頭を半分に切って煮たスビズがあります。歯と目が付いたままの羊の頭半分が皿の上に載っているところを想像してみてください。たいていの外国人はスビズと“目を合わせる”ことができません。言うまでもなく,新鮮な魚は年中手に入ります。アイスランドの特産品の一つは,魚の切り身を干したハルズフィスクルです。調理せず,好みによってはバターを付けて食べます。通常,ハルズフィスクルはかなり堅いので,たたいて柔らかくする必要があります。それでこの魚がヘンシェル兄弟に出された時,宣教者たちはどんな反応が返ってくるか興味津々でした。ヘンシェル兄弟が味見した後で宣教者たちは,いかがですかと尋ねてみました。兄弟はちょっと考えてから,失礼にならないよう,こう答えました。「そうですね,こんなにおいしい木は初めて食べました」。

統治体の代表者による訪問は幾度もあり,いずれも忘れがたく励みの多いものでした。それらの訪問を通してアイスランドの兄弟たちは,自分たちが少数で地理的に孤立してはいても,国際的な兄弟仲間の一部であり,クリスチャン愛のきずなで結ばれていることを実感することができました。

医師やメディアの協力を得る

1992年に,4人の兄弟からなる医療機関連絡委員会(HLC)がアイスランドで機能するようになりました。訓練のため,二人は英国でのHLCセミナーに,他の二人はデンマークでのセミナーに出席しました。この発足したばかりのHLCは大きな大学病院の医療スタッフとの会合を開き,そこに医師,看護師,弁護士,病院管理者など合計130人が出席しました。HLCが医療専門家との会合を開くのは初めてだったので,当然ながら兄弟たちは幾分不安に感じていました。しかし,すべてうまくゆき,後に,様々な病院でも少人数の医師や専門家たちとの集まりが開かれました。さらに兄弟たちは,一流の外科医や麻酔科医との良い関係を築くこともできました。こうした医療関係者たちとの連係は,無輸血医療に関する問題を避けたり解決したりするのに大いに役立っています。

1997年には,患者の権利に関する新しい法律が制定されました。この法律によると,患者の同意を得ずに医療を施してはならず,患者が無意識状態でも本人の意思が明らかであれば,それを尊重しなければなりません。またこの法律は,12歳以上の子どもには,医療処置に関して必ず事前に説明を行なわなければならないとしています。HLCの司会者であるグブズムンドゥル・H・グブズムンドソンはこう述べています。「一般に医師たちは非常に協力的で,問題はめったに生じません。大がかりな手術も輸血なしで行なえます」。

無輸血治療に関する「目ざめよ!」誌,2000年1月8日号が発行されると,支部事務所は,その号をできるだけ広く配布するための特別な努力を払うよう兄弟たちを励ましました。そして,雑誌の提供方法と,血に関する質問にどう答えたらよいかも提案しました。最初のうち雑誌の提供をためらっていた人たちも,人々がその話題に関心を持っていることに気づきました。この号は一般向けに1万2,000冊余りが配布されました。つまり国民22人に1人が受け取ったことになります。ある兄弟は,「いろんな所で良い話し合いができたので,区域をすべて回るのが大変でした」と語り,ある姉妹は,「雑誌を断わったのは二人だけでした」と述べています。

全国放送のラジオ番組を毎週司会していた女性も,無輸血治療に関するこの雑誌を受け取りました。そして番組の中で,雑誌を受け取った経緯を話し,雑誌にあるとおりに輸血の歴史を説明して,話の結びに,無輸血治療についてもっと知りたい人はエホバの証人から参考資料を入手できると述べました。

この「目ざめよ!」誌の特別キャンペーンにより,血に関するエホバの証人の見方が道理にかなったものであることに多くの人が気づきました。さらに,エホバの証人は死ぬことを望んでいるのではなく,最善の医療を求めているのだ,ということも知られるようになりました。その結果,血に関するエホバの証人の見方を誤解していた人たちが王国の音信に耳を傾けるようになりました。

4日間で二つの王国会館

アイスランドの兄弟たちにとって1995奉仕年度の際立った出来事は,6月にケブラビークとセルフォスにそれぞれ王国会館が建設されたことでした。速成建設の工法を用いてアイスランドで王国会館が建てられたのはこれが初めてで,工期はわずか四日でした。この速成建設は,ノルウェーの兄弟たちの愛ある援助によって成し遂げられました。建設資材の大半はノルウェー支部から送られ,プロジェクトを支援するため120人以上の兄弟姉妹がノルウェーからやってきました。建設現場でみんなが口々に述べていたのは,「これはすごい」という言葉でした。アイスランドの兄弟たちは王国会館の速成建設について読んだり聞いたりしたことはありましたが,今やそれを目の当たりにしていたのです。数日間でアイスランドの王国会館の数が倍増したのですから,確かに“すごい”ことでした。

アイスランドの兄弟たちは,二つの新しい王国会館を使えるようになっただけでなく,休暇を取ってノルウェーから自費でやって来て王国会館の建設に携わった兄弟姉妹とのすばらしい交わりから励みを得ることもできました。それはまさに国際的な兄弟関係を証しするものでした。アイスランドの兄弟たちもこの建設プロジェクトに加わり,国内の奉仕者の約半分にあたる150人余りが工事を手伝いました。

この王国会館建設プロジェクトは,一般の人々に対するすばらしい証言にもなりました。二つの全国テレビがニュース番組でこの話題を取り上げ,両方の現場の映像を流しました。ラジオ局や新聞もこの建設プロジェクトについて報じました。セルフォスの教会の牧師は,エホバの証人が注目を集めていることを快く思いませんでした。それで,いわゆる危険な偽りの教えについて警告する記事を地元の新聞に載せ,弱くて繊細な人たちは特に注意すべきであると述べました。さらに,ラジオのインタビューでも同じ警告を繰り返しました。ところが,牧師の言葉は期待したような効果を上げませんでした。むしろ,ほとんどの人は王国会館の建設プロジェクトに感心し,伝道で兄弟たちが会う人の多くは牧師の反応に驚いていると言いました。

牧師の警告が掲載されてから1週間ほど後,同じ新聞に一こま漫画が載りました。手前に教会があり,後ろのほうに王国会館が見えます。二つの建物の間には川が流れていて,きちんとした身なりをしたにこやかな兄弟たちが伝道かばんを手に,王国会館から教会に向かって橋を渡っています。教会の外では,車椅子の女性があわてて飛び上がり,足にギプスをはめた男性と盲目らしき男性が走りながら,「逃げろ,逃げろ,証人たちがやって来るぞ!」と叫んでいます。教会の階段には驚いた様子の牧師が立っています。この漫画を気に入った人は少なくありませんでした。新聞の編集部はこれを年間最優秀漫画に選び,拡大して事務所の壁に飾りました。その漫画は何年もそこに掲げられていたとのことです。

展示会は良い証言となる

2001奉仕年度には,第二次世界大戦の終わりまでナチスによる迫害を耐え忍んだエホバの証人の中立の立場に焦点を当てた展示会が開かれました。三つの会場で開かれた展示会に合計3,896人が来場し,最後の週末には,レイキャビクの展示ホールに700人余りが詰めかけました。すべての会場で「ナチの猛攻撃に対して堅く立つエホバの証人」というビデオのアイスランド語版が常時上映され,来場者の多くは腰を下ろしてビデオを最後まで見ました。

歴史のこの側面について何も知らなかった来場者は,強制収容所におけるエホバの証人の確固とした立場に感銘を受けました。会場に何度も足を運んだある教授は,自分は展示会にいたく感動し,エホバの証人に対する見方が大きく変わったと述べました。強制収容所で証人たちが示した強い信仰にとりわけ心を動かされたのです。エホバの証人は他の囚人とは異なり,自分の信仰を捨てれば自由になることができたからです。

この展示会は,全国テレビで,また地元のテレビやラジオによっても好意的に取り上げられました。展示会が始まったころ,ルーテル派の牧師が妻と娘を連れて来場しました。その後,ある兄弟がその牧師をベテルに招待したところ,牧師はそれに応じました。ベテルを訪問した数日後,ある女性がその牧師に近づいて聖句に関する質問をしました。すると牧師は,エホバの証人の支部事務所に問い合わせてみなさい,答えてもらえるはずだから,と言いました。後に,ある兄弟はこの牧師と聖書研究を行ないました。

長年にわたる翻訳

伝道者数の少ないアイスランドで,「忠実で思慮深い奴隷」から与えられる霊的食物をすべてアイスランド語に翻訳するのは大変な仕事です。(マタ 24:45)初期のころ,翻訳作業はほとんどカナダ在住のアイスランド人の証人たちによって行なわれていましたが,後にアイスランドでなされるようになりました。1947年にやって来た初期の宣教者たちは同じ家に住む老齢の詩人と親しくなりました。その人は英語を知っていたので,宣教者たちのアイスランド語の勉強を助けるとともに,翻訳も手伝いたいと申し出ました。それで兄弟たちはその詩人を雇って,「神を真とすべし」という本と「すべての人の歓び」という小冊子を翻訳してもらいました。残念ながら,この詩人は古い詩のスタイルを用い,古風な言葉や表現を多用したため,新しい宣教者の一人とリンダル兄弟が翻訳をチェックしてタイプし直したにもかかわらず,本は期待されたような優れた研究用資料にはなりませんでした。とはいえ,初版から広く配布され,合計1万4,568冊も印刷されました。小冊子は1949年に2万部以上印刷されました。後に,兄弟たちは別の翻訳者を雇って,「宗教は人類の為に何を成したか?」という本を翻訳しました。

その間,兄弟たちによって構成される小さなチームが幾つもの小冊子の翻訳を手がけました。1959年に発行された『御国のこの良いたより』もその一つです。この小冊子は,新しい聖書研究をたくさん始めるのに役立ちました。そのころ,アイスランド語の「ものみの塔」誌の発行も承認されました。

その後,多くのすばらしい本が翻訳・出版されました。『これは永遠の生命を意味する』が1962年に,「失楽園から復楽園まで」が1966年に,「とこしえの命に導く真理」が1970年に,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」が1984年に,そして「永遠の命に導く知識」が1996年に出版されました。1982年には,年4回発行の「目ざめよ!」誌がアイスランド語の出版物のリストに加えられました。

兄弟たちには長い間,アイスランド語の歌の本がありませんでした。1960年,大会のために四つの歌が翻訳され,謄写版で印刷されました。1963年11月の地域大会では,30曲の歌を載せたアイスランド語の小さな歌の本が発表され,兄弟たちは大いに喜びました。

それまで,会衆では様々な言語で賛美の歌が歌われていました。ギュンター・ハウビツとルト・ハウビツは1958年に特別開拓者としてドイツからアイスランドにやって来ました。ハウビツ姉妹は,外国から来た兄弟たちがそれぞれ,デンマーク語,英語,フィンランド語,ドイツ語,ノルウェー語,スウェーデン語など,自分の言語の歌の本を使っていたことを今でも覚えています。アイスランドの兄弟たちは,一番よく分かる外国語で歌いました。「寄せ集めの合唱隊のようなものでした」と,ハウビツ姉妹は述べています。王国の歌は何年もかけて徐々に翻訳されてゆき,1999年に225曲すべてを収めたアイスランド語の歌の本が発行されました。兄弟たちは,エホバを賛美するためのこの備えに心から感謝しています。

1999年8月に開かれた地域大会では,アイスランドで初めての事柄が実現しました。「ダニエルの預言に注意を払いなさい」の本のアイスランド語版が,英語版と同時に発表されたのです。大会では,まず英語版の本が発表され,聴衆はみな拍手しました。すると話し手は,アイスランド語版も追って出版されますとは言わずに,アイスランド語版の実物を見せ,この本はすでにアイスランド語にも翻訳されていますと発表しました。聴衆はみな胸を躍らせました。その後,「イザヤの預言 ― 全人類のための光」の第1巻と第2巻も英語版と同時に発表されています。

ベテルの拡張とさらなる増加

1998年に支部施設の改築工事が行なわれ,道の反対側にある二つの建物をベテル奉仕者の宿舎用に購入して,翻訳部門のスペースを拡大することができました。さらに,ここ数年,翻訳者たちはニューヨークの世界本部から派遣された兄弟たちによる援助を受けています。それらの兄弟たちから,翻訳作業を支援するためにエホバの証人が開発したコンピューター・プログラムの使い方を学んでいるのです。

最近,本部の代表者による英語理解力強化課程が支部で開かれました。この課程を通して翻訳者たちは,翻訳を始める前に英文をいっそう十分に把握するよう助けられました。

支部事務所はこう書いています。「過去を振り返ってみると,理想的とはとても言えない状況で言語の知識も十分でなかったにもかかわらず,兄弟たちが勇気を奮い起こしてアイスランド語の翻訳を手がけてくれたことに感謝しています。当時の翻訳の質は今のようなレベルではありませんでしたが,『小さな事の日を侮る』ことはできません。(ゼカ 4:10)エホバのみ名と王国がアイスランドでも知られるようになり,多くの人が真理を学べたことは大きな喜びです」。

現在,支部事務所には8人の全時間奉仕者がおり,そのほかにも週に何回かベテルに通って仕事を手伝う人たちがいます。最近,支部の王国会館の代わりとして,レイキャビクの諸会衆が使う新しい王国会館が建てられました。それに伴って支部事務所の改築が計画されており,ベテル奉仕者の宿舎が拡張される予定です。

アイスランドで良いたよりを宣べ伝えるには,粘り強さと自己犠牲と愛が求められます。熱心な王国宣明者たちが過去76年にわたって払ってきた懸命な努力は決して無駄になっていません。多くの忠実な兄弟姉妹が収穫の業にあずかってきました。何年か奉仕するために大勢の人たちが海外からやって来ました。その働きはいつまでも忘れられることがないでしょう。アイスランドにとどまって,ここを第二の故郷とした人たちもいます。もちろん,多くの立派な地元の奉仕者たちの忍耐も称賛に値します。

王国伝道者の平均数は多くありませんが,エホバの証人はこの国でよく知られるようになっています。現在,7人の宣教者がこの島の農村地帯や小さな会衆で奉仕しています。昨奉仕年度のキリストの死の記念式に543人が出席し,現在,180件近くの家庭聖書研究が司会されています。

アイスランドの兄弟たちはいつの日か,イザヤ 60章22節に描写されているような増加を経験するかもしれません。そこにはこうあります。「小さな者が千となり,小なる者が強大な国民となる。わたし自ら,エホバが,その時に速やかにそれを行なう」。いずれにせよ,アイスランドのエホバの証人は,王イエス・キリストからゆだねられた業,つまり王国の良いたよりを宣べ伝える業を成し遂げる決意でいます。感謝にあふれて心を開く人の内に,神が真理の種を成長させてくださることを,確信しているのです。―マタ 24:14。コリ一 3:6,7。テモ二 4:5

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名が姓に変わる国

伝統的にアイスランド人にはファミリーネーム(家名)がなく,ファーストネーム(名)を使って呼び合います。子どものラストネーム(姓)は父親の名に接尾辞を付けたもので,男の子であれば“ソン”を,女の子であれば“ドッティル”を付けます。例えば,ハラルドゥルという名の男性の場合,息子の姓はハラルドソン,娘の姓はハラルドスドッティルとなります。女性の名前は結婚後も変わりません。同姓同名の人があまりにも多いため,電話帳には氏名,住所,電話番号に加えて,職業も載っています。アイスランド人は系図によって自分の家系を1,000年以上もさかのぼることができます。

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アイスランドの概要

国土: この島国は北極圏のすぐ南に位置し,北大西洋,グリーンランド海,ノルウェー海に囲まれています。火山や温泉,それに蒸気を吹き出す間欠泉が数多くありますが,国土の10分の1は氷河に覆われています。

住民: アイスランド人は,おもにノルウェーからやって来たバイキングの子孫で,勤勉,独創的,寛容という国民性を持っています。人口の大半は沿岸部に住んでいます。

言語: 公用語はアイスランド語ですが,それ以外に英語,ドイツ語,スカンディナビアの言語など,二つ以上の外国語を話す人が少なくありません。

生活: アイスランドの経済を支えているのは水産業です。トロール漁業によってシシャモ,タラ,ニシンなどが取れ,その大半は加工・輸出されています。

食物: 魚と羊の肉がよく食卓に上ります。アイスランドの名物料理は羊の頭の丸煮です。

気候: 暖かい大西洋海流のおかげで,気候は穏やかです。冬には強い風が吹きますが,それほど寒くなく,夏はひんやりとしています。

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1942年9月6日: 「この国で奉仕しているのはいまだに一人の開拓者だけで,報告することはあまりありません。アイスランドの人口は約12万人で,6,000ほどの農場があります。それらの農場へ行くには,乗用と荷物用のポニーを使う以外に方法はありません。すべての家を訪問するには1万5,000㌔以上も旅しなければならず,多くの山や谷川があります。音信に関心を持つ人は今のところほんのわずかです」。

ギオルグ・F・リンダルによるこの言葉は,兄弟がアイスランドで13年も開拓奉仕を行なった後につづられたものです。リンダル兄弟はその後も5年間,アイスランドでただ一人の奉仕者でした。

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忠実な奉仕の歩み

オリバー・マクドナルド兄弟は,アイスランドで奉仕する割り当てを受けた最初の宣教者の一人で,ギレアデ第11期の卒業生です。1948年12月にイングバト・イェンセンと共に到着しました。ニューヨークから貨物船で14日かけてやって来ましたが,北大西洋がしけていたため,二人ともずっと船酔いに悩まされました。

1950年3月,マクドナルド兄弟は,英国ベテルで奉仕していたイングランド出身のサリー・ワイルド姉妹と結婚しました。マックという愛称で呼ばれていた兄弟はサリーと共に初期の時代に立派な働きをし,二人が研究を司会した人たちは今でも忠実にエホバに仕えています。

1957年,マックとサリーは英国に戻りましたが,サリーはアイスランドにいた時に見つかっていたがんがもとで亡くなりました。サリーの死後,マックは全時間奉仕を再開し,初めは正規開拓者,後に旅行する監督として13年間奉仕しました。1960年,マックは特別開拓者のバレリー・ハーグリーブズと再婚します。二人は,スコットランド北部からイングランド南沖にあるチャンネル諸島まで,英国のさまざまな巡回区で奉仕しました。マックは,巡回区内を北に進んでスコットランド北沖にあるシェトランド諸島にたどり着くたびに,「次はアイスランド,アイスランドに止まります」と言っていましたが,まさか本当に行くことになるとは思っていませんでした。

ところが1972年,マックとバレリーは宣教者として任命され,アイスランドに遣わされました。マックは支部の僕として奉仕し,後に支部委員会の調整者になりました。マックとバレリーはアイスランドで7年間過ごした後,宣教者としてアイルランドに割り当てられ,最初はダブリンで,後に北アイルランドで奉仕しました。マックはアイルランドで20年間働き,合計60年に及ぶ全時間奉仕の後,1999年12月にがんで亡くなりました。バレリーは今でも,北アイルランドのベルファストで正規開拓者として奉仕しています。

[図版]

バレリー・マクドナルドとオリバー・マクドナルド,レイキャビクにて,1970年代

[218ページの囲み記事/図版]

レイキャビク

レイキャビクはアイスランドの首都で,その名には“煙たい入り江”という意味があります。最初の定住者インゴウルブル・アルトナルソンが,温泉から立ち上る湯気にちなんで付けた名です。今日,レイキャビクは人口約18万人の,活気あふれる近代都市となっています。

[223,224ページの囲み記事/図版]

アイスランドを第二の故郷とした人たち

パウル・ハイネ・ペーゼルセン兄弟はデンマーク出身で,1959年に特別開拓者としてアイスランドでの割り当てを受けました。1961年にヨーロッパで開かれた「一致した崇拝者」国際大会のうち二つに出席し,そこでバイオレットに出会いました。バイオレットは数か所でその国際大会に出席するため,米国カリフォルニア州から来ていました。

大会後,パウルはアイスランドに戻り,バイオレットはカリフォルニアの自宅に帰りました。二人は5か月のあいだ文通し,1962年1月,バイオレットはパウルと結婚するためアイスランドにやって来ました。パウルは,アイスランド北西部の過疎地における唯一のエホバの証人として開拓奉仕を続けていました。二人が暮らした小さな町では,真冬のあいだ2か月も太陽が昇らず,区域の人に会うために,凍てついた険しい山道を通らなければならないこともありました。交通手段と言えば,パウルがデンマークから持ってきたオートバイだけでした。常夏のカリフォルニアで生まれ育ったバイオレットはアイスランドではすぐに参ってしまうだろうと,多くの兄弟たちは思っていました。しかし,バイオレットは持ちこたえ,アイスランドとその国に住む人々を愛するようになりました。

パウルとバイオレットは,1965年に娘のエリサベトが生まれるまで共に開拓奉仕を続けました。パウルはその後も1975年まで開拓奉仕にとどまり,その間,バイオレットもときどき開拓奉仕を行ないました。1977年,家族はパウルの健康上の理由でカリフォルニアに引っ越すことにしました。しばらくして,二人は王国伝道者の必要が大きい場所で奉仕したいと強く願って開拓奉仕を再開し,娘が学校を卒業して成年に達すると,宣教者としてアイスランドに戻る割り当てを受けました。そして,宣教者奉仕と旅行する奉仕に数年間携わりました。1989年,パウルは支部委員として奉仕するよう招かれ,1991年にアイスランドでベテル・ホームが正式に開設されると,パウルとバイオレットは最初のベテル家族の成員となりました。二人は今でもそこで奉仕しています。

[228,229ページの囲み記事/図版]

もてなしによって知られる

フリジリク・ギースラソンと妻のアーダは,1956年に他の5人とともにバプテスマを受けました。二人はオリバー・マクドナルドと妻のサリーから真理を学びました。最初のころ,フリジリクは聖書研究を行ないましたが,アーダは冬の間じゅう裁縫クラブで忙しくしていました。春になると裁縫クラブは終わり,アーダは研究の間ずっと台所に座っていました。そして聖書の討議に興味をそそられ,話し合いには参加しないけれども同席させてほしいと言いました。とはいえ,しばらくすると,討議に活発に加わるようになっていました。

後に,英語の「ものみの塔」研究がギースラソン宅で定期的に開かれるようになり,二人は宣教者ホームで開かれていた集会にも出席し始めました。フリジリクはこう述べています。「宣教者の住まいになっている屋根裏の小さな部屋で集会を開いていた時のことを覚えています。いすが12脚入る広さでしたが,ふだんより出席者が多い場合は隣の小さな部屋に通じるドアを開けました。今とは大違いです。今では三つの会衆があり,レイキャビクの王国会館はいっぱいなのです」。

フリジリクとアーダは,もてなしによってよく知られるようになりました。6人の子どもを育てていましたが,自宅はいつも兄弟たちに開放されていました。会衆の初期のころ,外国からアイスランドに来た多くの人は,住む家が見つかるまでフリジリクとアーダの家でお世話になりました。

[232ページの囲み記事/図版]

アイスランド語の聖書

アイスランド語に翻訳された聖書の言葉として一番古いものは,スチョウトンという14世紀の文学作品に収められています。ヘブライ語聖書の一部が翻訳もしくは意訳されているのです。アイスランド語版の「新約聖書」全巻が初めて印刷されたのは1540年のことで,翻訳したのはホウラルの司教の息子オドゥル・ゴットスカウルクソンです。ゴットスカウルクソンはノルウェーで改革派の信条を受け入れ,ドイツでマルティン・ルターと接触しました。アイスランドに戻ると,雇い主であるスカウルホルトのカトリック司教の機嫌を損なわないよう,多大の困難を忍びながら牛小屋で翻訳作業をしたと伝えられています。翻訳はラテン語ウルガタ訳から行ない,原稿を自らデンマークに運んで印刷に回しました。アイスランド語初の全訳聖書は1584年にグブズブランドゥル・ソルラウクソン司教の指示により印刷されました。1908年には原語のヘブライ語とギリシャ語から翻訳された聖書全巻が初めて印刷され,1912年に改訂版が出されました。

[図版]

「グブズブランドスビブリーア」,アイスランド語初の全訳聖書

[216,217ページの図表/グラフ]

アイスランド ― 年表

1929年: ギオルグ・F・リンダルが到着し,国内初の奉仕者となる。

1940

1947年: ギレアデを出た最初の宣教者たちが到着する。

1950年: 小さな会衆が設立される。

1960

1960年: アイスランド語で「ものみの塔」誌が出版される。

1962年: レイキャビクに支部事務所が開設される。

1975年: より大きな支部事務所が新たに建設され,献堂される。

1980

1992年: 医療機関連絡委員会が設けられる。

1995年: 6月,二つの王国会館が四日間で建てられる。

2000

2004年: アイスランドで284人の奉仕者が活発に奉仕する。

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

300

200

100

1940 1960 1980 2000

[209ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

アイスランド

フーサビーク

ホウラル

アークレイリ

セイージスフィヨルズル

ネースケウフスターズル

エスキフィヨルズル

スティッキスホールムル

ボルガルネス

ヘブン

レイキャビク

スカウルホルト

ケブラビーク

セルフォス

[202ページ,全面図版]

[207ページの図版]

右: ギオルグ・F・リンダル,1947年

[207ページの図版]

下: リンダル兄弟とアイスランド・ポニー,1930年代初頭

[212ページの図版]

アイスランドの初期の宣教者たち,左から右へ: イングバト・イェンセン,オリバー・マクドナルド,レオ・ラルセン

[220ページの図版]

この建物は1962年から1968年まで支部事務所として使われた

[227ページの図版]

1969年にデンマークのコペンハーゲンで開かれた「地に平和」国際大会に,アイスランドから100人以上が出席した

[235ページの図版]

イーリス・ギールナルドとチェル・ギールナルド,アークレイリにて,1993年1月

[238ページの図版]

右: トロール漁船スバルバクル号

[238ページの図版]

下: フリジリクとギールナルド兄弟

[241ページの図版]

右: オドニー・ヘルガドッティル

[241ページの図版]

下: グブズルン・オウラフスドッティル

[243ページの図版]

右: アークレイリの王国会館と宣教者ホーム

[243ページの図版]

下: ビャルトニ・ヨウンソン,支部の前で

[249ページの図版]

上: セルフォスにおける王国会館建設,1995年

[249ページの図版]

右: 完成した建物

[253ページの図版]

アイスランドのベテル家族

[254ページの図版]

支部委員会,左から右へ: ビャルトニ・ヨウンソン,グブズムンドゥル・H・グブズムンドソン,パウル・H・ペーゼルセン,ベルグソウル・N・ベルグソウルソン