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ガイアナ

ガイアナ

ガイアナ

“水の国”―「ガイアナ」にはこのような意味があります。南米のこの国の南の国境から130㌔も南下すれば,そこはもう赤道です。国土の面積は21万5,000平方㌔で,その大半を占める雨林やジャングルの水は40を優に超える河川および無数の支流となって流れ出ます。ですから,ガイアナという名称は実に適切です。幾つかの河川は,隣国 ― ブラジル,スリナム,ベネズエラ ― との国境を成しています。奥地の川沿いには村や農場が点在しており,河川はその重要な交通路ともなっています。確かに,ガイアナの交易や歴史 ― エホバの民の歴史も含む ― は,水路と深くかかわっています。

四つの主要河川を西から順に挙げると,エセキボ川,デメララ川,バービス川,コーランタイン川となります。最長のエセキボ川は全長1,000㌔に及び,幅30㌔の河口部には365の島があります。その一つがフォート島で,オランダの植民地時代には政庁所在地でした。四つの主要河川は,南の内陸部に横たわる山地にその源を発します。まず北に流れ,最後に狭い沿岸平原を蛇行しながら大西洋に注いでいます。途中にはカイエトゥール滝といった世界最大級の滝もあり,ここで川幅120㍍のポタロ川はエセキボ川に流れ落ちます。落差は226㍍あります。

ガイアナは人を引きつける自然の景観に富んでおり,自然を愛する人々の楽園です。川には,オオカワウソ,クロカイマン,またこれまでに発見された最大の淡水魚であるアラパイマつまりピラルクなどが生息しています。肺呼吸をするこの肉食の巨大な魚は,体長3㍍,体重220㌔にも達します。薄暗い森の中をジャガーが足音を忍ばせて歩き回り,樹上からホエザルが大きな鳴き声を上げます。オウギワシ,色鮮やかなコンゴウインコ,オオハシなど,700種を超える鳥もいます。

ガイアナの人口は約77万人です。その中には,インド系の人々,つまり契約労働者としてインドから移って来た人の子孫,黒人,つまり奴隷としてアフリカから連れて来られた人々の子孫,インディオ(アラワク族,カリブ族,ワピシャナ族,ワラウ族),そして混血の人々がいます。国じゅうでクレオール語が話されていますが,公用語は英語です。ガイアナは南米唯一の英語圏の国です。

真理の水がガイアナに達する

1900年ごろ,霊的な渇きをいやす,命を与える“水”がガイアナに少しずつ入り始めました。(ヨハ 4:14)コーランタイン川の河畔にあるきこりの飯場で働いていたピーター・ヨハセンという人が,「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌を1冊入手し,エルジンという人にその内容を話しました。エルジンは,ものみの塔協会に手紙を書き,「世々に渉る神の経綸」の本など,さらに別の聖書文書を注文しました。エルジンは学んだ真理を固守したわけではありませんが,ほかの人たちの関心を真理に向けさせました。こうして,バービス川の河口の町ニューアムステルダムに小さな群れができました。

一方,ガイアナの首都ジョージタウンではエドワード・フィリップスという人が,そのころ国際聖書研究者として知られていたエホバの証人の発行した文書を手に入れました。学んでいる事柄を是非ともだれかに伝えたいと願ったフィリップスは,親族や友人を定期的に自宅に招き,聖書に関する形式ばらない話し合いをしていました。1908年には,ものみの塔協会に手紙を書き,当時は英領ギアナと呼ばれていたガイアナに代表者を遣わしてほしいと頼みました。 * 4年後にイベンダー・J・カワードが来て,ジョージタウンとニューアムステルダムで,公会堂に集まった数百人の聴衆を前に聖書講演を行ないました。

フィリップスの息子フレデリックは,カワードの訪問の思い出をこう書いています。「カワード兄弟はすぐジョージタウンで有名人になり,兄弟の宣べ伝えた音信に関心を持った人たちが聖書研究者の群れと交わるようになりました。その当時は,『世々に渉る神の経綸』や『新しい創造物』などの本を討議しました。我が家はすぐに手狭になり,1913年にジョージタウンのサマセット・ハウスの2階に部屋を借りました。そこは1958年まで会衆の集会場として用いられました」。1914年,エドワード・フィリップスは再び自宅を提供しましたが,今度はガイアナの最初の支部事務所としてでした。エドワードは事務所の監督に任命され,1924年に亡くなるまでその立場で奉仕しました。

1916年,スライドと活動写真から成る「創造の写真劇」が上映されるようになり,宣べ伝える業に弾みがつきました。フレデリックはこう書いています。「わたしたちはその時期,平和と,すばらしい霊的繁栄を享受しました。地元の新聞は,聖書研究者の中心的存在だったチャールズ・T・ラッセルの一連の説教を掲載することさえしました」。

1917年には,ガイアナの様子は一変していました。戦時下の異常な興奮状態にあり,地元の著名な僧職者が英国とその同盟国の勝利を祈るよう民衆に訴えていました。カワードは新聞に投書し,聖書預言の光に照らして世界情勢を説明しました。またジョージタウンの公会堂で,「バビロンの城壁を打ち壊す」と題する力強い話をしました。

「ものみの塔」誌,1984年1月1日号の報告は,次のように述べています。『僧職者はすっかり腹を立て,カワード兄弟を追放して協会の数々の出版物を禁止するよう当局を説得することに成功しました。禁令は1922年まで続きました』。しかし,その勇敢な証言ゆえにカワードを尊敬していた人は少なくありませんでした。実際,カワードが国を去る時には,人々は波止場に並んで,「真理を宣べ伝えたただひとりの人物だ」と叫びました。港湾労働者たちは,カワードの追放に抗議してストライキをすると言って息巻きましたが,兄弟たちはそうしないように忠告しました。

第一次世界大戦後,聖書研究者はいっそう狡猾な試練に直面しました。そのため,王国の真理が広まることは少しのあいだ妨げられました。ブルックリン本部の奉仕者だった元兄弟が背教者となり,聖書研究者たちを組織から引き離そうとして何度もガイアナを訪れたのです。

前述の「ものみの塔」誌はこう述べています。「しばらくの間,英領ギアナの聖書研究者は三つのグループに分裂していました。組織に忠節な人々のグループと反対者のグループ,そしてどうしてよいか分からない3番目のグループです。しかし,エホバの祝福は忠節な人々のグループにだけ注がれ,そのグループはやがて繁栄しました」。忠節な人々の中に,マルコム・ホールとフェリックス・パウレットがいます。それぞれ1915年と1916年にバプテスマを受けた二人は,共にエホバの熱心な僕として90代まで生きました。

忠実な兄弟たちをさらに励ますために,1922年に世界本部からジョージ・ヤングがガイアナを訪れ,3か月ほど滞在しました。フェリックス・パウレットの言葉を借りれば,「彼は疲れを知らない働き人でした」。ヤングが持っていた聖書の知識や,力強い声,なめらかな身振り,また視覚に訴える資料に心を動かされ,神の言葉をもっと詳しく調べるようになった人は少なくありませんでした。「ものみの塔」誌,1923年1月1日号(英語)は,ヤングの報告に基づき,「真理に対する関心が世界のその地域において著しく深まったこと,すべての公開集会において出席者が増加し,会場が満員になったこと,それに伴い信者の側の熱意や専心が高まったこと」に言及しています。例えば,サマセット・ハウスでの集会は,当時わずか25人ほどだった王国伝道者に対して,平均出席者が100人でした。

兄弟たちは1923年にはすでに,もっと奥地に住む人たちに音信を伝えるための努力をも払っていました。持ってゆくのは大抵ハンモックと文書だけで,食べ物は人々の親切に頼りました。だれかが休む場所を提供してくれると,そこで一夜を過ごしました。そうでなければ,木の大枝にハンモックをつるして夜を過ごしましたが,蚊の大群に悩まされることもしばしばでした。朝は,エホバの組織が発行した「日々の天のマナ」(英語)という本から一つの聖句を考慮し,次の集落へ向かって歩き出すか,通りがかりのボートに乗せてもらいました。

遠隔地の人々に音信を伝える努力は第二次世界大戦まで続けられました。戦争が始まると,ガソリンは配給制になり旅行は制限されました。一方,1931年に聖書研究者はエホバの証人という名称を採用しました。海岸線に沿って点在していた聖書研究者の小さな群れは,この新しい名称を喜んで受け入れ,宣教をいっそう活発に行なうことによって熱意を表わしました。1930年代後半になると,奉仕者たちは宣教で蓄音機と聖書講演のレコードを使うようになりました。当時,支部の監督だったフレデリック・フィリップスはこう書いています。「その当時,村にはラジオなどありませんでした。ですから,わたしたちが村にやって来たことをまず知らせるのは,熱帯の静けさを破ってスピーカーから流れる音楽でした。次いで,講演のレコードが流されました。村人のほとんどがわたしたちの周りに群がり,中にはパジャマ姿の人もいました」。

良いたよりを広めるのにラジオ局も貢献しました。ガイアナのあるラジオ局は,毎週日曜日と水曜日に王国の音信を放送しました。案の定,こうした活動がサタンの目を逃れることはなく,サタンは業を妨害しようと,第二次世界大戦中の愛国心を巧みに利用しました。

第二次世界大戦と戦後の活動

第二次世界大戦中の1941年,ガイアナでは52人の王国宣明者が活動していました。その同じ年に,「ものみの塔」誌と「慰め」誌(現在の「目ざめよ!」誌)が禁書になり,1944年には,エホバの民が発行したすべての文書が禁書に指定されました。「ものみの塔」誌,1946年7月1日号(英語)は,「ものみの塔による注釈が付されていない,他の聖書協会が発行した聖書でさえ,エホバの証人に対しては禁止処置が取られた」と述べています。

1946年4月,世界本部からネイサン・ノアがガイアナを訪問しました。ノア兄弟は,ギレアデを卒業したばかりのウィリアム・トレーシーを伴っていました。訪問の目的は,兄弟たちを励ますことと,禁令の解除を政府に要請することでした。ジョージタウンで行なわれた集会で,ノア兄弟は集まった180人の兄弟たちおよび関心のある人たちに,イエスの初期の弟子たちには宣教で役立つ聖書や書籍はなかったと説明しました。それでも,エホバは著しい増加をもって祝福されました。なぜでしょうか。弟子たちが宣べ伝えつづけたからです。そうであれば,神は,業を続行している現代の僕たちにも同じような祝福をお与えになるのではないでしょうか。まさにそのとおりです。

一方,兄弟たちは禁令の解除を実現する法的手段を探し求めていました。例えば,戦争後1年足らずのうちに,禁令に反対する請願書に3万1,370人の署名を集め,政府に提出しました。さらに,エホバの組織はガイアナの人々に十分な情報を得てもらうため,事実を説明したパンフレットを発行しました。その見出しはこうなっています。「英領ギアナで聖書が禁書に ― 3万1,000人が政府への請願書に署名 信条のいかんを問わず,植民地の全住民に信教の自由が回復されることを求めて」。

ノア兄弟は,植民地担当大臣W・L・ヒープとも会見し,禁令の解除を求めました。30分に及んだ会見の終わりに,ノア兄弟はヒープ氏に「真理は汝らを自由にすべし」という書籍を贈り,注意深く読んでほしいと述べました。ヒープ氏はそうしようと言ってからノア兄弟に,実はいま執行委員会の9人の委員が協会の文書に対する禁令の再審議を行なっているところだと伝えました。再審議は本当に行なわれていました。1946年6月に政府は,禁令を解除する声明を出したのです。

その後まもなく,ほこりをかぶった130個のカートンが兄弟たちに渡されました。カートンには,1万1,798冊の書籍や小冊子が詰まっていました。70人になっていた王国宣明者は,再び文書を配布できることに胸を躍らせながら,わずか10週間ですべてを配布してしまいました。8月には街路証言も始め,素晴らしい成果を上げました。「雑誌は,地元紙が売れるのと同じような勢いで配布されています」と,支部は報告しています。

ジョージタウンの郵便本局で働いていたある兄弟の貢献もあって,兄弟たちは禁令期間中でさえ貴重な霊的食物をずっと受け取ることができました。この兄弟はこう書いています。「『ものみの塔』誌が支部に届くようにしなければならないと感じていました。姉妹たちの助けを得て,研究記事をタイプするか謄写版で印刷して幾つもの家族に回覧し,会衆の集会で用いられるようにしました」。

新しい宣教者が業に弾みをつける

車は加速してギアチェンジをすると,ぐんとスピードを増すことができます。1940年代半ばに,ギレアデで訓練を受けた宣教者たちがガイアナへやって来たことは,宣べ伝える業における“ギアチェンジ”となりました。宣教者たちの中には,第3期生のウィリアム・トレーシーや,第5期生のジョン・ヘマウェイとデイジー・ヘマウェイ,ルース・ミラーとアリス・ミラーがいました。この熱心な証人たちは,ギレアデで学んだ貴重な事柄を地元の兄弟たちに分け与え,野外でも立派な手本を示しました。

トレーシー兄弟は,遠隔地に住む人々のことを気にかけていました。兄弟はこう書いています。「私は,海岸を行ったり来たり,川をさかのぼったりして何度も旅行し,土地の様子を調べました。関心を抱いていて孤立している人々と接触したり,新たに関心を示す人々を見いだしたりするためです。旅行には,海岸沿いを走る汽車やバス,自転車,大型の川船,小さな船そしてカヌーすら利用しました」。

また宣教者は,地元の開拓者たちが区域で組織的に整然と働けるように,また開拓者の事情が許せば,活動範囲を広げてそれまで手の付けられていない区域で奉仕できるように援助しました。忘れてはならないのは,1946年当時ガイアナには五つの会衆しかなく,王国宣明者の最高数も91人だったことです。しかし,神の霊によって力付けられた人たちには,克服できない難題などありません。―ゼカ 4:6

最初,宣教者と共に働いた開拓者の多くは年配の人たちでした。とはいえ,それらの開拓者は高齢にもかかわらず,業に対するりっぱな精神を示しました。そうした人の中には,アイザック・グレーブス,ジョージ・ヘッドリー,レスリー・マイヤース,ロックリフ・ポラード,ジョージ・イヤウッドがいます。姉妹たちでは,マーガレット・ドゥークニー,アイビー・ハインズ,フランシス・ジョーダン,フローレンス・トム,アタランタ・ウィリアムズ,プリンセス・ウィリアムズ(アタランタの親族ではない)がいます。開拓者たちは書籍や小冊子や雑誌などを携え,遠く離れた場所に王国の音信を伝えました。

アイビー・ハインズ(現在はワイアット)とフローレンス・トム(現在はブリセット)は,エセキボ川の河口から80㌔ほど内陸にあるバルティカという町に任命されました。この町は,内陸部の金やダイヤモンドの産地への玄関口です。バルティカには一人だけ兄弟が住んでいました。当時,支部の監督 兼 巡回監督として奉仕していたジョン・ポンティングは,「その後2か月足らずで,集会に20人が出席するようになり,記念式には50人が出席しました」と書いています。真理を受け入れた人の中に,ジェローム・フラビウスという全盲の男性がいます。「ジェロームはじきに,アイビー・ハインズから何度も資料を読んでもらってから独力で講演を行なうようになりました」とジョンは言います。

開拓者の姉妹エスター・リッチモンドとフランシス・ジョーダンは60代後半でしたが,もっと区域を回れるように自転車の乗り方を覚えました。ポンティング兄弟はこう語ります。「開拓奉仕を何年していたか分からなくなったマーガレット・ドゥークニーのことですが,マーガレットはひどく疲れるまで歩き回っていたものです。ですから,公園のベンチで居眠りしているマーガレットを見かけることもありました。わたしたちはそうした人たちのことを決して忘れないでしょう」。

宣教者や年配の開拓者たちの模範に刺激されて,大勢の若者が開拓者の隊伍に加わるようになりました。その結果,さらに多くの人が真理に導き入れられ,国内の様々な場所に群れや会衆が作られました。1948年に220人だったガイアナの伝道者は,1954年には434人にまで増えていました。サマセット・ハウスで集まっていたキティ・ニュータウンの兄弟たちの群れは,ニュータウン会衆という別個の会衆を設立できるまでになりました。それは首都で2番目の会衆でした。現在ジョージタウンには九つの会衆があります。

拡声装置付きの荷車,自転車部隊,そしてロバ

1950年代初め,兄弟たちは支部事務所の指導のもと,ジョージタウンの至る所で,大抵は土曜日の晩と日曜日の午後に野外公開講演を行ないました。兄弟たちは自分たちで作った,拡声装置付きの荷車を使いました。強力なアンプと二つの大きなスピーカー,講演者用のスタンド,ケーブルなどが積まれていました。1949年にバプテスマを受けたアルバート・スモールは,こう言います。「昼間の間,講演を行なう場所に,『聖書に関するあなたの疑問に答えます』という言葉と集会の時間の記された看板が立てられました。そうした講演会に大勢の人が出席し,その中には後に真理に入った人たちもいます」。

1954年の初め,ネイサン・ノアと秘書のミルトン・ヘンシェルがジョージタウンのグローブ・シネマで講演を行なった際,今後の増加の見込みが明らかになりました。そこに出席していたジョン・ポンティングは,このように語っています。「1,400ある座席はすべて埋まりました。屋外では延長スピーカーを通して700人が講演を聞いていましたが,途中で激しい雨が降ってきたため,その多くが会場内に入ってきました。プログラムの宣伝は,プラカードを付けた自転車部隊が行進するという方法で行ないました。暗くなると,照明付きの大きな看板をロバに引かせ,ひとりの兄弟が一緒に歩きながら拡声器を使って宣伝しました」。

何度も奥地へ行く

ウィリアム・トレーシーは支部の監督だった間,遠隔地に住む人たちにも音信を伝えるよう,兄弟たちを励ましました。トレーシー自身もエセキボ川やバービス川の沿岸地域を訪れ,小さな群れや会衆のために巡回大会を取り決めました。大会は普通,映画館や公立学校で開かれました。しかし多くの場合,大会が開けるほど広い場所は映画館しかありませんでした。1949年,エセキボ川河口近くにあるサディーの映画館で大会が開かれ,「脅しとして利用されている地獄」という公開講演が人々に強い印象を与えました。そのため一部の人たちは,エホバの証人を“地獄を否定する教会”と呼ぶようになりました。

1950年には,結婚して間もないウィリアム・トレーシーが米国に任命替えになり,ジョン・ポンティングが支部の監督および旅行する監督の職を引き継ぎました。ジョンも,川沿いの区域の奉仕を支援しました。兄弟たちは定期船をよく利用しました。川岸に住む村人たちがカヌーでその移動郵便局の船に来て郵便物を出したり受け取ったりする時,兄弟たちは岸まで連れて行ってくれるよう頼みます。食べ物や寝る場所はだれかが提供してくれると確信していました。村で証言した後,夜になると,温かくもてなしてくれる家族がおり,翌日には,次の村で証言できるよう兄弟たちを小舟で川下に運んでくれる人がいました。ある日の午後,兄弟たちは製材所を訪問しました。そこの経営者は仕事の手を休めて従業員を集め,兄弟たちが15分間の話をすることを許してくれました。従業員全員が文書を求めました。

1952年7月,ギレアデ第19期生のトーマス・マルケビッチがガイアナに任命されました。トーマスも手の付けられていない区域に挑みました。こう言います。「王国の音信に一度も接していない人に証言することには特別な喜びがあります。と同時に,非常に驚かされることもあります。わたしの場合がそうでした。川船でデメララ川を移動し,それから徒歩でジャングルの奥深く入ると,1軒の小屋がありました。そこに住んでいた人が出てきてあいさつをし,中に入れてくれ,座るよう勧めてから,わたしの話に耳を傾けました。わたしは部屋の中を見回して驚きました。壁に『ものみの塔』誌のいろいろなページが貼ってあったのです。どれも1940年代の日付でした。この男性は以前,川船か,ジョージタウンあるいはマッケンジーで王国の音信に接したようです」。

険しい陸路でカイエトゥール滝まで最初に行ったのは,宣教者のドナルド・ボリンジャーです。ドナルドはインディオに証言していた時,インディオたちと共に働いている政府の役人に会いました。この人はやがてエホバに献身し,その地に後日設立された群れを世話しました。奉仕者たちの中には,世俗の仕事の関係で,ダイヤモンドや金の鉱山がある地区など,孤立した地域に移転した人もいます。孤立していても,それらの奉仕者が鉱山集落を戸別伝道している姿がよく見られました。霊的に強い状態を保つのに何が助けになったのでしょうか。研究と伝道の良い計画に従いつづけたのです。

『興奮に満ち,満足感のある』奉仕

宣教者のジョン・ヘマウェイとデイジー・ヘマウェイは1946年から1961年までガイアナで奉仕しました。二人は時おりベネズエラに近い北西地区で2週間の休暇を過ごしました。この地域には,カリブ族やアラワク族などの土着の部族が住んでいます。この夫婦はある時,アラワク族の人たちにたくさんの文書を配布しましたが,地元の学校を経営していたカトリックの尼僧たちがそれを快く思いませんでした。それどころか尼僧たちは子どもたちに,親が文書を何か入手したかと尋ねました。親たちはそれを聞いて腹を立て,司祭に,自分の読む物は自分で選ぶと告げました。それでも懲りない司祭は日曜の礼拝で,大勢の人が受け取っていた「あなたは地上で幸福のうちに永遠に生きられますか」の小冊子を批判しました。ところが,その策略も裏目に出ました。ヘマウェイ兄弟姉妹が帰る日に,大勢の村人がその小冊子を手に入れようとして二人のところへやって来たのです。

ジョンとデイジーは,300㌔ほど内陸に入ったこの地域へ行くのに,フェリーと列車とトラックを利用しました。必要な食料のほかに文書や自転車も持って行きました。自転車は,舗装されていない道路を通ってインディオの小道に行き着くための必需品なのです。ジョンはこう説明します。「インディオの小道は四方八方に延びているので,無事に戻りたいなら,道を覚えるか,道が交差している所の小枝を折るかしなければなりません。道でネコ科の動物と鉢合わせした時の定石は,身動き一つしないようにしてじっと見下ろすことです。すると,やがて相手は静かにその場を立ち去ります。サルは樹上高く,木から木へと跳び移りながら侵入者に向かって抗議の声を上げます。一方,ナマケモノは逆さにぶら下がって,人が通り過ぎて行くのをけだるそうに眺めます。ジャングルの開けた場所のあちこちでは,色鮮やかなオオハシがパパイアの実をついばむ姿を目にすることができます」。

ヘマウェイ兄弟は,ガイアナで15年間宣教者奉仕を行なった後,自分の気持ちをこう要約しています。「本当に興奮に満ちています。そして,非常に大きな満足感があります。ヤシの小屋の土間に座って,インディオの人たちに神の王国について話し,新しい生き方を教えるのはこの上ない満足感をもたらします。それら謙遜な人たちが聖書の教えにこたえ応じて神に献身するのを見るのは,忘れられない経験です」。

地元の開拓者たちがギレアデへ

何人かの地元の開拓者はギレアデ学校へ行く特権を与えられました。その中には,ガイアナに戻って奉仕するよう任命された人もいます。例えば,1953年に第21期のクラスに招待されたフローレンス・トム(現在はブリセット),1958年に第31期のクラスに招待されたアルバート・スモールとシーラ・スモール,1970年に第48期のクラスに招待されたフレデリック・マッカルマンなどがそうです。

フローレンス・ブリセットはこう言います。「わたしは外国の任命地を望んでいましたが,ガイアナのスケルドンに任命されました。これはエホバからの祝福でした。昔の学友や先生,友人,知人が大勢,聖書研究の勧めに応じました。皆わたしの知り合いだったからです。実際,研究を申し込んできた人もいます。エドワード・キングもその一人で,奥さんはすでにわたしと研究していました。興味深いことに,聖公会の司祭がエドワードの奥さんの研究について聞きつけ,エドワードを呼んで,研究をやめさせるようにと命じたのですが,エドワードは司祭の言葉に従う代わりに自分自身も研究を始めました」。

アルバート・スモール兄弟は妻と共にギレアデから戻った後,支部委員および巡回監督として長く奉仕しました。現在スモール兄弟姉妹は健康上の問題を抱えながらも,地元の会衆で特別開拓者として奉仕しています。兄弟は長老としても仕えています。もちろん,ガイアナ出身者がみなガイアナに戻って奉仕する割り当てを受けたわけではありません。例えば,第48期生のリネット・ピータースはシエラレオネに任命され,今も忠実に外国の任命地で奉仕しています。

映画が関心をかき立てる

1950年代にエホバの証人は,「躍進する新しい世の社会」と題する映画を大々的に用いました。それは,ブルックリンの世界本部および1953年にニューヨーク市のヤンキー・スタジアムで開かれた大規模な大会に焦点を当てた映画で,証人たちや他の人たちが,エホバの組織とその活動範囲に対する認識を高めるのに役立ちました。もちろんこの映画は,ほとんどの人が映画を一度も見たことのない雨林の奥地に住む人たちに大きな影響を与えました。

映画はしばしば屋外の広い敷地で上映されました。人々は何キロも歩いて映画を見にやって来ました。『でも電気がない場所で,兄弟たちはどうやって映画を上映できたのだろう』と思われるでしょう。1957年にガイアナに来て巡回監督として奉仕した,ギレアデ卒業生アラン・ジョンストンは,何度もこの映画を上映しました。ジョンストンはこう書いています。「電気がない場所では,発電機を使いました。夜間に店の照明に使っている発電機を地元の人が親切にも貸してくれたのです。大きなシーツを2本の木の間にぴんと張ってスクリーンにしました」。

ある上映会の後,ジョン・ヘマウェイとデイジー・ヘマウェイは蒸気船に乗って帰途に就きましたが,乗客の多くが映画のことを聞いていてそれを見たがりました。それで船長の許可を得て,甲板にスクリーンを張り,ちょうどよい所に窓がある船室に映写機を設置しました。ジョンは次のように書いています。「カトリックと聖公会の司祭も乗船していました。司祭たちは陸上では映画を見ようとはしませんでした。でも船上では,不本意ながらだと思いますが,観客になりました。というのは,司祭たちの船室から映画を上映したからです。乗客たちは映画を見終わってから,エホバの証人しか答えられないような質問を司祭たちに浴びせました」。

その映画の影響力についてジョン・ポンティングはこう述べています。「当時,エホバの証人の数も少なく,人々から証人たちは取るに足りないとみなされていた場所でこの映画を上映するのは,とりわけ効果的でした。懐疑的だった人たちは,非常に多くの人種の人たちから成る世界的な組織を目の当たりにして,わたしたちにいっそう敬意を払うようになりました。映画がきっかけで聖書研究に応じた人も少なくありません。後に長老になった人もいます。ある巡回監督は,たった2週間でこの映画を17回上映し,そのほとんどは屋外でしたが,5,000人が出席しました。

「別の時,ある巡回監督は,川の急流に2日間揺られ,それからジャングルの道を自転車で移動しましたが,幾十人ものインディオがこの映画を楽しんでいるのを見て十二分の報いを受けました。インディオたちは初めて映画というものを見たのです。村人の大半は長老派の信者でしたが,翌日,大勢の人が雑誌を受け取りました。この訪問の結果,村全体がエホバの民に対してたいへん良い態度を示すようになりました」。

1953年から1966年にかけて,ガイアナは政治的・人種的な混乱を経験しました。1961年から1964年は暴動や,略奪,殺人,ゼネストなどが起き,最悪の時期となりました。公共の交通機関は停止し,恐怖が広がりました。兄弟たちは迫害が加えられたわけではありませんが,広く見られた状況ゆえに苦しんだ人もいます。例えば,2人の兄弟は打ちたたかれ,アルバート・スモールともう1人の兄弟は散弾銃で撃たれ,銃弾を摘出するために病院へ運ばれました。事態が非常に深刻化したため,英国軍が介入しました。

そうした多難な時期に,「躍進する新しい世の社会」の映画が,あらゆる国民の中から来た真の平和と一致を示す人々に注意を向けていたのは実に適切なことでした。さらに兄弟たちは,公共の交通機関が動かなくても,集会に出席することや宣教奉仕に参加することをやめませんでした。普段より少し遠くまで歩いたり自転車をこいだりしたのです。何よりも,真のクリスチャン愛を互いに示し合いました。「兄弟たちは,気遣いを示し,物を分け合いました」とアルバート・スモールは言います。

業の先頭に立つ姉妹たち

姉妹たちも王国の音信を遠く離れた場所に携えて行きました。例えば,アイビー・ハインズとフローレンス・トムは,ジャングルのはずれにあるバルティカに特別開拓者として任命されました。バルティカには,孤立した伝道者のマハディオが妻のジャメラと住んでいました。当時,インド系の女性の大半がそうであったように,ジャメラも学校教育を受けられず,読み書きができませんでした。それでもジャメラは自分で聖書を読んだり,二人の幼い息子を教えたりしたいと願っていました。フローレンスは,「エホバの祝福があり,援助を差し伸べるとジャメラはあっという間に読み書きを覚え,他の人に証言するようになりました」と語っています。

フローレンスとアイビーはバルティカに着いてから2か月たってもふさわしい住まいを見つけられませんでした。それに,すでに10件を超える聖書研究を司会していたので,集会を開く場所も必要でした。巡回監督の訪問の知らせを受け取り,事態はいっそう深刻になりました。それだけではありません。訪問が予定されていたのは,奥地の労働者たちとジョージタウンの大勢の売春婦がバルティカへ押し寄せるまさにその週で,町の人口は3倍にも膨れ上がるのです。

しかし,エホバのみ手は短くありませんでした。フローレンスはこう述懐しています。「巡回監督が到着する前日の午後遅く,ある家主に会いました。その人は,町の中心部の,寝室が二つある小さな別荘を貸してくれました。わたしたちは死に物狂いで働きました。壁を洗ってペンキを塗り,床を磨き上げ,カーテンをつるし,家具を中に運び入れました。ようやく準備が整ったのは明け方になってからです。本当にすごい夜でした。巡回監督のジョン・ポンティングはわたしたちの話を聞いて耳を疑いました。訪問の最初の晩の集会には22人が出席したので,間もなくバルティカ会衆が誕生するのではないかという期待が高まりました」。

「王国宣明者号」で河川を行き来する

初期のころ,兄弟たちは川沿いの集落へ行くため,手に入るボートやカヌーは何でも利用しました。その後,自分たちの船を手に入れ,「王国宣明者I号」,「王国宣明者II号」といった名を付けました。これはV号まで続きました。(最初の2隻は現在使用されていません。)

フレデリック・マッカルマンはこう述べています。「私たちはよく,ポメルーン川の流れに乗って船をこぎ,河口から11㌔ほどのところにあるハクニーまで,東岸を伝道しながら行きました。ハクニーでは,当時その地域で助産婦をしていたディカンブラ姉妹の家で一晩ぐっすりと眠り,翌朝早く再び川を下って河口まで行きます。それから西岸へ移り,チャリティまでの約34㌔を奉仕しながら帰るのです」。6馬力の中古の船外モーターを手に入れるまで,兄弟たちは5年間ボートをこいでポメルーン川を行き来していました。

普通,河川を航行しても危険はありません。とはいえ,ほかの船も行き交っているので,兄弟たちは注意する必要がありました。また「王国宣明者号」のI号とII号は,手こぎの船だったため速くは進めませんでした。フレデリックはこう語ります。「ある土曜日の午後,ポメルーン川沿岸での証言を終えて帰宅する途中,全速力で走っていた大きな貨物船と衝突してしまいました。貨物船の船長と乗組員がラム酒で酒盛りをしていて注意を怠っていたのです。私は『王国宣明者I号』から川の中にほうり出され,貨物船の下に沈んでしまいました。沈みながら暗やみの中で懸命にもがきましたが,強力なスクリューから10㌢ほどしか離れていない船底に何度も頭をぶつけました。船の上の一人の青年が大変な状況に気づき,川に飛び込んで救助してくれました。けがの痛みに数週間悩まされましたが,生きていることを感謝しました」。

そのような災難に遭ってもフレデリックはひるみませんでした。こう述べています。「奉仕を続けることを決意していました。川沿いには聖書に強い関心を示す人々がいたからです。シリキーのチャリティから11㌔離れた所に,会衆の書籍研究の群れがありました。その群れの人々は私を頼りにしていました」。

巡回監督と1週間を過ごす

ガイアナの田舎で旅行する監督として奉仕すると,精神力が試されます。巡回監督たちやその妻たちは,河川や未舗装の道路,ジャングルの小道などを移動しなければならないだけでなく,蚊などの虫,大型のネコ科動物,土砂降りの雨,そして場所によっては強盗にも対処しなければなりません。またマラリアや腸チフス,他の熱帯病にかかる危険にもさらされます。

ある旅行する監督は,デメララ川沿いに住む孤立した奉仕者たちを訪問した時のことをこう述べています。「マッケンジー会衆の訪問が終わると,月曜日に大型のボートに乗って,40㌔離れたデメララ川沿いのヤルニ村に住む一人の兄弟を訪問しました。村に着くと,マッケンジーに向かう流れに乗ってカヌーで進み,川の両岸の地域を伝道しました。

「人々はもてなしの精神に富んでいて,果物をくれたり,食事に招いてくれたりしました。金曜日には,川にこぎ出して蒸気船に乗りました。スースダイクで蒸気船からカヌーに乗り移って陸に上がりました。一人の兄弟が迎えに来ていて,デメララ川を渡ってジョージアの自宅に連れて行ってくれました。その晩,その家族と集会を開きました。

「翌日,皆でデメララ川を渡ってスースダイクへ行き,そこの区域と人口の密集しているティメリ空港付近を伝道しました。また砂丘にも行きました。そこでは,ジョージタウンに運ぶ砂をトラックに積み込んでいました。土曜日の晩には,ジョージアで同じ家族ともう一つの集会を開き,次の日は,皆でまた川を渡ってスースダイクへ行き,午前中は野外奉仕,午後は郵便局のベランダで公開講演を行ないました。こうして1週間が終わりました」。熱心な巡回監督たちやその妻たちの骨折りは報われました。現在スースダイクには活発な会衆があり,兄弟たちは1997年に完成した王国会館も持っています。

巡回監督は災難に見舞われることもあります。ジェリー・マレーとデルマ・マレーはオートバイで移動中,運河に差しかかりました。そこには厚板をつなぎ合わせた橋が架かっており,デルマはジェリーがオートバイに乗って橋を渡るのを待っていました。ところがジェリーはうまく渡れずにバイクやスーツケースごと橋から転落して,濁った深みへと姿を消してしまいました。デルマが悲鳴を上げたので村人たちが走って助けに来ましたが,その直後,不安が笑いに変わりました。ある兄弟が書いているように,「この白人男性は,水草に覆われた姿で岸に上がってきました。靴も泥だらけでした」。

インディオが良いたよりにこたえ応じる

1970年代の初め,フレデリック・マッカルマンはチャリティの市場で,モニカ・フィツァレンというインディオの女性に「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を配布しました。(176ページの囲み記事をご覧ください。)モニカは,雑誌をインディオの保留地の自宅に持ち帰り,病気の時に雑誌を読んで真理の響きを認めました。やがて,良いたよりの奉仕者 ― 保留地で唯一の奉仕者 ― となり,1974年にバプテスマを受けました。

モニカはこう述懐しています。「新たに見いだした知識を集落の人々に伝えられることがうれしくて,家から家の証言を一生懸命行ないました。もっとも,人々の家には,大小の河川を舟をこいで行かねばなりませんでした。関心ある人たちが増えると集会を開くようになり,『とこしえの命に導く真理』という聖書研究の手引き書を読んで内容を討議しました」。

モニカの骨折りは実を結んだでしょうか。確かに結びました。モニカは現在13人の奉仕者との交友を楽しんでおり,夫や,息子とその妻,孫娘もその中に含まれています。最近までこの小さな群れは,最寄りのチャリティ会衆まで12時間カヌーをこいで行っていましたが,今は地元の集落で集会を開いており,伝道者の3倍に当たる人々が出席しています。

一方,チャリティ会衆も人数が増加しています。現在50人の奉仕者がおり,その多くは集会に出るのにポメルーン川を移動してやって来ます。集会の出席者数の平均は60人を超え,2004年の記念式には301人が出席しました。またチャリティ会衆には新しい王国会館もあります。

バラミータにおける驚くべき増加

ガイアナで大勢の先住民が王国の音信にこたえ応じてきた別の地域は,バラミータです。ガイアナの北西部に位置するバラミータには,カリブ・インディオの共同体があります。カリブ族は,カリブ海地域の最初期の住民に属し,カリブ海という名称はカリブ族に由来しています。彼らの話す言語はカリブ語と呼ばれています。

カリブ族のルビー・スミスという女性は,1975年に祖母からパンフレットを手渡されたのがきっかけで真理に関心を持つようになりました。(181ページの囲み記事をご覧ください。)その時ルビーは16歳でした。霊的に進歩し,1978年の「勝利の信仰」大会でバプテスマを受けました。その後まもなく,仕事の関係で家族と共にジョージタウンへ引っ越し,ユースタス・スミスと結婚しました。ユースタスはカリブ語を話せませんでしたが,二人はバラミータへ移動してルビーの親族などに王国の音信を伝えたいと強く願っていました。ルビーはこう言います。「エホバはわたしたち夫婦の心にあるものをご覧になり,祈りに答えてくださいました。というのは,1992年にバラミータへ移動できたのです」。

ルビーはこう続けます。「行くとすぐに集落で証言し始め,集会は,小さな我が家の床下で開きました。床から地面までは約1.5㍍あります。やがて出席者が多くなって床下に入りきれなくなるとテントを借りました。集会のうわさが広まり,出席者は増えてついに300人ほどになりました。わたしはカリブ語が話せたので,『ものみの塔』誌を訳して読むよう割り当てられました。どのようにしてみんなに声が届くようにしたのでしょうか。マイクと安価なFM送信機を使い,聴衆の多くはラジオを持参して,周波数を合わせたのです。

「そのころ主人とわたしは,この群れには王国会館が是非とも必要だと感じていました。それで費用を計算し,ほかの人たちと話し合ってから,計画を進めました。わたしの兄セシル・ベアードが資材の大半を寄付し,他の人は建設の仕事を手伝ってくれました。建設は1992年6月に始まり,翌年の初め,ちょうど記念式に間に合うように完了しました。旅行する監督ゴードン・ダニエルズの話に800人も集まったので驚きました。

「1996年4月1日にバラミータの群れは会衆になり,5月25日に王国会館が献堂されました。その後,会館は拡張され,今では500人を無理なく収容できるので,巡回大会や特別一日大会にも用いることができます。確かに始まりは小さな群れでしたが,今では100人近い奉仕者がおり,公開集会の出席者数の平均は300人にもなります。記念式には1,416人が出席しました」。

大規模な結婚式

バラミータ地区では,同棲していた何十組ものカップルが生活を聖書の規準に合わせるため,結婚を合法的なものにしました。とはいえ,出生証明書などの必要書類を入手するのに苦労した人もいます。それでも人々は手を尽くし,兄弟たちからの助けも得て生年月日や他の細かな点を突き止め,結婚することができました。

ある時には,79組が同時に結婚しました。結婚の話は支部委員のアディン・シルスが行ないました。その3日後,41人が伝道者になりたいと申し出ましたが,そのほとんどが結婚したばかりの人たちでした。

バラミータでは非常に大勢の人が神の言葉に関心を示し,この地区全体で大きな改善が見られました。王国会館の献堂式の際,長老の一人は,「バラミータは平穏と平和の宿る場所となっています。それは,集落全体の90%を超す人たちが定期的に集会に出席することも珍しくないからです」と述べました。

1995年,バラミータ地区はひどい干ばつに見舞われました。エホバの民はどのように切り抜けたでしょうか。教師のジリアン・パルソードは当時バラミータで授業をしていましたが,軽飛行機がすぐ近くの小さな飛行場に着陸するのが聞こえると,一目散に走って行って飛行機が飛び立つのをとどめ,操縦士にジョージタウンへ連れて行ってくれるように頼み込みました。ジョージタウンに着くと支部事務所へ直行し,兄弟たちに窮状を伝えました。

当時,支部委員だったジェームズ・トムソンはこう述べています。「統治体は,バラミータに食糧などを空輸することを許可してくださいました。わたしたちのほうは,36人の奉仕者が飛行機でジョージタウンに来て,地域大会に出席する取り決めを設けることができました。奉仕者の多くにとっては,それが初めて出席する大会でした」。

宣教訓練学校

1987年に宣教訓練学校(MTS)が始まって以来,この学校に出席した独身の長老や奉仕の僕たちの働きから,数多くの国が益を受けてきました。ガイアナも例外ではありません。近隣のトリニダードで開かれた学校に出席したガイアナの大勢の兄弟たちは,国内における王国の業をよりいっそう支えることができるようになりました。ある兄弟たちは現在,正規開拓者,特別開拓者,会衆の長老として奉仕しています。出身会衆に戻った兄弟たちも,エホバの羊を世話するために多くのことを行なっています。

幾人かのMTS卒業生は,付加的な責任を担えるようになりました。例えば,実の兄弟のフロイド・ダニエルズとラワニー・ダニエルズは,長老が大いに必要とされる会衆に特別開拓者として任命されました。デービッド・パルソードは巡回監督として奉仕する特権を与えられました。また同期生のエドセル・ヘイゼルはガイアナの支部委員に任命されました。ある巡回監督は,この学校に出席した生徒について,「これらの兄弟たちが霊的に成長するのを見てきましたが,宣教訓練学校に出席してからは特に著しい成長が見られます」と述べました。

必要の大きな所で奉仕する

1970年代後半,エセキボ川の西の大西洋岸にはおよそ3万人の住民がいましたが,奉仕者はわずか30人でした。そのため支部は時おり,1か月ずつその区域で奉仕するよう特別開拓者たちを割り当てました。そうしたグループの一つを世話していた兄弟はこう語っています。「兄弟たちは区域を回り終えることができ,書籍を1,835冊配布しました。また,多くの再訪問を行ない,聖書研究を何件か始めることができました」。

別の兄弟はこう伝えています。「わたしたちは小船を2時間こぎ,27㌔ほど移動しました。ひざまである泥の中,船を引いたり押したりしたこともありましたが,家の人たちが好意的だったので努力は報われました。ある音楽教師は,わたしたちの歌の本を用いて音楽を教えていました。『編曲の仕方がいいですね』と言い,わたしたちのために二つの曲を演奏してくれました。書籍も6冊受け取りました」。

ほかの兄弟姉妹も必要の大きな所に行って援助を与えるため,自分を役立たせました。一例として,シャーロック・パハランとジュリエット・パハランを挙げることができます。シャーロックはこう書いています。「1970年にジュリエットとわたしは,ジョージタウンの南13㌔ほどの所にある,デメララ川沿いのエックルズ会衆を援助してもらえないかと尋ねられました。会衆内に問題があり,幾人かが排斥されなければなりませんでした。そのため,会衆は活発な奉仕者が12人ほどと,バプテスマを受けていない子どもたちだけになりました。一時期,長老はわたし一人ということもありました。さらに,会衆は孤立したモカという村の小さな群れを世話していました。わたしは,月曜日の晩に会衆の書籍研究をモカで司会し,それからエックルズでも司会しました。

「『ものみの塔』研究も司会しました。いつも雑誌が不足していて皆に行き渡らなかったため,どの節も最初に本文を読み,それから質問をしました。当時の通常のやり方とは反対のことを行なっていたのです。また,よく停電したので集会にろうそくを持参しましたし,雨季にはたくさんの蚊も我慢しなければなりませんでした。その当時,ほとんどの兄弟は集会や奉仕区域に徒歩か自転車で来ていました。モカの奉仕者たちも,同じようにしてエックルズへ来ました。ですから集会が終わると,ライトバンにできるだけ人を詰め込んでモカへ送って行ったものです」。

努力の甲斐はあったでしょうか。当時のことを振り返り,パハラン兄弟は次のように書いています。「エックルズにいた時,妻とわたしはたくさんの人と研究しましたが,その多くが今も家族共々真理のうちにいます。現在会衆の長老として仕えている人もいます。これ以上の祝福はありません」。

「開拓者の楽園」での奉仕

ここ数年の間,「来なさい!……だれでも望む者は命の水を価なくして受けなさい」という招きの声に加わるべく,アイルランド,英国,カナダ,フランス,米国から約50人の兄弟姉妹 ― 大半が開拓者 ― が水の国へやって来ています。(啓 22:17)滞在期間は数か月のこともあれば,数年のこともあります。資金が残り少なくなると,故国に帰ってしばらく仕事をして,またガイアナに戻って来る人は少なくありません。大半の人は,ガイアナでの奉仕を祝福と考えています。聖書におおむね深い敬意を抱いている人たちと霊的な事柄を話し合えることを特にうれしく思っています。クリスチャンではない多くの人たちも,エホバの証人との話し合いを楽しんでいます。そのうえ,家の人が兄弟たちに食事を出してくれることもあるのです。「ですから,ガイアナを開拓者の楽園と呼んでも過言ではありません」と,現在の支部委員会の調整者リカルド・ハインズは言います。

現在,夫のエドセルと共に支部で奉仕しているアーリーン・ヘイゼルは,ガイアナの田舎での経験をこう語っています。「1997年,支部とのやり取りの後,レセムで奉仕する割り当てを受けました。レセムはブラジル国境に近い内陸部の奥深くにある町です。数か月前にレセムに来ていた同じカナダ人のロバート・ウェルチとジョアナ・ウェルチ,アメリカ人の姉妹サラ・ディオンと一緒に奉仕しました。そのころ,バプテスマを受けた一人の兄弟 ― 獣医のリチャード・アチー ― が区域内に住んでいました。支部は,以前に研究したことのある20人ほどのリストをくれましたが,大半の人はあまり関心がないことが分かりました。しかし,2人が伝道者になりたいと思っていました。

「最初の集会はマンゴーの木の下で行ない,12人が出席しましたが,そのうちの6人がわたしたち開拓者でした。数か月後の最初の記念式には60人が出席しました。その間に,開拓者は3人に減っていました。それでも40人の研究生を一生懸命に世話しました。巡回監督が訪問した際,集会に出席していない人の研究はやめるようにアドバイスされました。これは良い助言でした。というのは,残った研究生はよい進歩を遂げたからです」。

実際,4年後,レセムには14人の奉仕者から成る会衆が設立されました。レセムで開かれる特別一日大会の出席者は100人に増えました。エホバがご自分の僕たちの努力を祝福しておられることのこうした明らかな証拠は,僕たちが耐え忍んできたあらゆる困難を補って余りあります。

借りた会館と“床下の家”

ガイアナで業が開始されて以来,崇拝のためのふさわしい場所を見つけるのは非常に困難でした。1913年,ジョージタウンの一握りの兄弟たちがサマセット・ハウスに借りた部屋は,45年間大いに役立ちました。1970年に自分たちの王国会館を持っていた会衆は,ジョージタウンのチャールズタウン会衆とバービスのパルミラ会衆の二つしかありませんでした。しかしその3年前,ガイアナの伝道者数は1,000人の大台に乗っていたのです。ですから,ほとんどの会衆は何かの施設を借りて集会を開いていました。しかし,そうした施設は多くの場合,理想からは程遠い状態にありました。

例えば1950年代後半,デメララ川沿いのウィスマール会衆では人数が増え,兄弟たちはふさわしい会館を見つける必要に迫られました。島民ホールと呼ばれる場所を使わせてもらえるようになり,週の中ごろに神権宣教学校と奉仕会,日曜日の晩に公開集会と「ものみの塔」研究を行ないました。しかし,集会の準備にかなり手間がかかりました。兄弟たちはまずマッケンジーから小船に乗り,デメララ川を渡ってウィスマールに行きます。一人の兄弟が雑誌のカートン,別の兄弟が文書のカートン,3人目の兄弟が用紙類と寄付箱を運びます。言うまでもなく,こうした物を集会の前に整えなければなりませんし,集会後はその逆のことを行なう必要がありました。

集会は,“床下の家”と呼ばれる場所,つまり家の下にある空間でも行なわれました。ガイアナの家は洪水に備えて,一般に木かコンクリートの柱の上,地面からずっと高い所に建てられます。このような造りのため,会衆の集会などに使えるスペースがあるのです。とはいえガイアナでは一般に,きちんとした集会所を持てないような宗教には神の祝福はない,と考えられています。

さらに,“床下の家”で開かれている集会に邪魔が入り,その場の尊厳が損なわれるということもあります。ある時,犬におびえた鶏が飛び込んできて,6歳の女の子の上に留まりました。その子は大きな悲鳴を上げ,皆をびっくりさせました。集会後,この出来事はちょっとした笑いのたねになりましたが,もっと快適な崇拝場所の必要性がまたもや明らかになりました。さらに言えば,“床下の家”を使った王国会館の集会では,関心を持つ人たちが出席しようという気持ちになれませんでした。

王国会館建設

フレデリック・マッカルマンはこう述懐しています。「チャリティ会衆と交わっていた32年間に“床下の家”を五つ借りました。床下なので,梁に頭をぶつけないよう注意しなければなりません。ある姉妹は子どもを負ぶっていた時,梁の高さを見誤り,梁に子どもの頭をぶつけてしまいました。後で,そのことを未信者の父親に話したところ,父親も母親も会衆には独自の崇拝場所が必要だという結論に達しました。母親は会衆に一区画の土地を寄付することを申し出,父親は王国会館建設の資金を提供すると言いました。実際,その通りになりました。当初の王国会館は何度か改築されましたが,今も引き続きこの地域社会における真の崇拝の中心地となっています。また,地元の巡回区の小さな大会ホールとしても使用されています」。

初期のころ,王国会館は完成までに何か月もかかりました。エックルズで建てられた会館の場合がそうでした。当時エックルズで長老として奉仕していたシャーロック・パハランは,こう語っています。「集会は学校で開いていました。自分たちの王国会館があれば出席者が増えることは分かっていましたが,エックルズの奉仕者はほんの一握りしかおらず,お金もあまりありませんでした。それでも兄弟たちは王国会館建設の決議を採択しました。わたしは区域内でふさわしい土地を探しましたが,見つかりませんでした。

「そのような時,ジョージタウンの兄弟たちがわたしたちに型枠を二つ貸してくれ,コンクリートブロックの作り方を教えてくれました。最初,12個のブロックを作るのにも数時間かかりましたが,慣れると,特に姉妹たちがかなり上手に作れるようになりました。別の問題は,当時セメントは配給制で入手が困難だったことです。限られた量のセメントを入手するための許可を申請しなければなりません。次いで,朝早く波止場に行って並んで待ち,実際に割り当て量を確保しました。それから,エックルズへ向かうトラック,それもセメントを積める十分なスペースがあるトラックを見つける必要がありました。エホバは毎回わたしたちを助けてくださいました。とはいえ,まだ土地が必要でした」。

シャーロックはこう続けます。「1972年にジュリエットとわたしは休暇でカナダに帰り,証人ではないいとこを訪問しました。いとこは,エックルズに2か所土地を持っていてその管理を親族に任せているのだが,仕事がいい加減なので手を貸してほしい,と言いました。わたしは,喜んで力になると言ってから,ちょうど今エックルズで王国会館の土地を探しているところだ,と付け加えました。いとこはすぐに,どちらかの土地を選ぶようにと言いました。

「建設中,わたしたちはほかにも神のみ手の働きの証拠を見ました。セメントだけでなく,多くの建設資材が不足していましたが,別の材料を使って急場をしのぎ,いつもどうにか作業ができました。さらに,必要な技術を持つ兄弟はほとんどいませんでしたし,自発奉仕者を現場に集めるにはかなりの計画が必要でした。実際,わたしの小型トラックは兄弟たちを乗せて行ったり来たりし,何百キロも走りました。王国会館はついに完成し,献堂の話は何と統治体の成員カール・クライン兄弟が行なってくださいました。本当に素晴らしい献堂式でした」。

速成建設による王国会館

1995年という最近まで,ガイアナの会衆の半数以上は,“床下の家”をはじめ,借用した施設で集会を開いていました。それで支部は,必要を賄うために国内建設委員会を組織しました。兄弟たちはその年の10月に,ジョージタウンの東約50㌔にある,マヘーコニー川沿いのマヘーコニーで速成建設による最初の王国会館を建てました。近所に住む一人の人は,エホバの証人が4回の週末で王国会館を建てることを聞き,「鶏小屋を建てるなら分かるが,コンクリートの建物は絶対に無理だ」と言いました。言うまでもなく,その人はすぐに考えを変えることになりました。

人種間の緊張が高まることも珍しくない場所での王国会館建設プロジェクトは,エホバの証人が人種や国籍に関係なく,真のクリスチャンとして一致を保ちつつ働くことを証明してきました。実際,マヘーコニーでこのプロジェクトを目撃した年配の女性は感嘆のあまり巡回監督に,「六つの人種の人たちが一緒に働いているのを見ましたよ」と言いました。

支部建設

ガイアナの最初の支部事務所は1914年にフィリップス兄弟の自宅に置かれ,1946年までそこにありました。1946年における奉仕者は91人でしたが,1959年までには685人に増加し,業も拡大し続けました。ですから1960年6月,兄弟たちはジョージタウンのブリックダム50番地の不動産を購入しました。既存の建物は,幾らか改装を加えた後,支部事務所および宣教者ホームとして使われました。しかし,この施設も1986年までには手狭になり,統治体の承認を得て同じ敷地内に新しい支部が建てられました。地元の兄弟たちがインターナショナル・サーバントを助け,1987年に工事は完成しました。

父親を手伝ってエルサレムの城壁の一部を建て直したシャルムの娘たちのように,姉妹たちは支部建設プロジェクトには欠かせない存在でした。(ネヘ 3:12)例えば,120人の姉妹が10ほどのチームに分かれて,必要とされる1万2,000個のコンクリートブロックを作りました。16の型枠を使って,55日間でその仕事をやり遂げたのです。それは簡単な仕事ではありません。セメントが適度に固まり,なおかつ型枠を外した時にブロックが崩れてしまうほど柔らかすぎないよう,コンクリートをちょうどよい具合に混ぜなければならないのです。

地元の兄弟たちは夜警として働きましたが,職場から現場に直行することもしばしばでした。インターナショナル・サーバントと共に働き,有用な技術を学んだ人もいます。ハリンアライン(インダール)・パルソードもそうした若い兄弟の一人です。こう言います。「わたしの仕事は,窓の下枠にモールディングを取り付けることでした。それまで一度もしたことのない仕事でしたが,うまくできるまでがんばりました。監督は仕事の出来栄えを念入りに調べて,わたしの努力を喜んでくださったらしく,『じゃあ,支部の全体をやってもらいましょう』と言いました」。現在この若い兄弟は,王国会館建設プロジェクトで他の人たちに自分の技術を教えています。

兄弟たちはある資材を輸入しなければならなかったため,政府当局者の協力が必要でした。そのため大勢の役人が現場にやって来ました。フォーブス・L・バーナム大統領とその側近も訪れました。みな仕事の出来栄えに感銘を受けましたが,一人の地元の大工もそうでした。この人は,「皆さんはこの建設で一流の仕事をしています」と言いました。1988年1月14日,地帯監督として奉仕していたブルックリンの代表者ドン・アダムズが献堂の話をしました。

2001年2月12日,再び建設が始まりました。今度は新しい敷地においてです。前と同じようにインターナショナル・サーバントが地元の兄弟たちの助けを得て,このプロジェクトに携わりました。新しい支部は2003年2月15日,土曜日に献堂され,ドイツ支部のリチャード・ケルシーが332名の聴衆を前に献堂の話を行ないました。

このプログラムのために大勢の初期の宣教者たちがガイアナへ戻って来ました。中には数十年ぶりの人たちもいました。日曜日には,12か国から来た4,752人が特別集会に出席しました。ガイアナの伝道者の優に2倍を上回る出席者数でした。

創意工夫が求められる大会

兄弟たちは巡回大会や特別一日大会のために,しばしば施設を借りました。田舎の地域では,集会場を建てることさえしました。1952年から1956年までガイアナで奉仕したトーマス・マルケビッチは,こう言います。「わたしたちの大会はジョージタウンからデメララ川沿いに約60㌔さかのぼった所で開かれました。地元の兄弟たちを励ましたいと,ジョージタウンの200人ほどの証人たちが大会の出席を希望していました。それでわたしたちは,地元で入手できる材料を使って一時的な大会ホールを建てることにしました。竹で支柱やいすを,バナナの葉で屋根を作るのです。

「材料を集めて鉄道の小型車両に積み,レールに沿って誘導しながら坂を下りました。でも何と,カーブで車両がわたしたちの手から離れ,傾きながらものすごいスピードで進み,積み荷をみな川に落としてしまいました。ところが,この災いは良い結果をもたらしました。積み荷がそのまま建設現場の方に流れて行ったからです。大会が始まった時,都市から訪れていた兄弟たちは,数百人の村人たちと3日間のプログラムにあずかれることに胸を躍らせました」。

トーマスはこのようにも言います。「大会後,みんなで近くの未割り当て区域を奉仕しました。ある村で公開講演を行なったところ,村人全員がやって来ました。だれかに飼われているサルも1匹来ていました。サルはしばらく話を聞いていましたが,もっとよく見える場所から見たいと思ったようで,何度かジャンプしてわたしの肩に飛び乗りました。すばやく周りを見渡し,それからまた跳びはねながら飼い主の所へ戻って行き,講演の残りの時間はそこにいました。わたしは胸をなでおろしました」。

大規模な大会

20世紀初頭,大規模な集まりは,カワード兄弟やヤング兄弟といった世界本部の特別な代表者が訪問する際に開かれるのが普通でした。1954年にネイサン・ノアとミルトン・ヘンシェルが「新しい世の社会大会」のためにガイアナを訪れました。大会には,2,737人が出席しました。

それから数十年を経た1999年には,7,100人を超える代表者がガイアナで開かれた二つの大会に出席しました。一つはジョージタウンで,もう一つはバービスで開かれました。ジョージタウンでの大会は土壇場になって大きな変更があり,兄弟たちは本当に試されました。支部はこう書いています。「インドから有名な映画スターと踊り手たちの一団が来ました。それでこちらのほうが先に予約していたにもかかわらず,国立公園委員会はショーの日程は変更できないと考えました。

「わたしたちはすぐ別の会場 ― クリケット競技場 ― を手配し,直ちに諸会衆に連絡しました。大会まであと8日しかありません。しかも,問題はそれだけではありませんでした。カリブ海諸国において,クリケットは非常に高く評価されていて,クリケット競技場はほとんど神聖視されています。ですから管理者たちにとって,わたしたちが芝の上を歩くことなどおよそ考えられないことでした。では,劇はどのように上演すればいいのでしょうか。またステージをどこに設置すればいいのでしょうか。

「それでも,エホバが道を開いてくださることを確信して計画を進めました。そして神は確かに道を開いてくださいました。芝生のエリアの使用許可が得られたのです。ただし条件として,地面から一定の高さのところにステージとステージへの通路を作らなければなりません。それを完成させるために,みんな夜を徹して夢中で働きました。ほとんど一晩中雨が降り,天気も味方してくれませんでした。こうした難しい問題があったにもかかわらず,プログラムはほぼ定刻通りに始まりました。

「大会は円滑に進み,天気も最終日になるまでもちました。しかしその最後の日曜日,雨の音で目が覚めました。やがてクリケット場は水に浸かり,水位は通路やステージまであと5㌢という所まで上昇しました。雨はプログラムが始まる直前にやみました。幸いにも,電気コードは地面をはわせるのではなくステージの床裏に取り付けていました。ですから,ステージや通路を一段高くしなければならなかったのは,面倒なことに見えて実は祝福だったのです」。

劇が始まり,6,088人の出席者全員が明るい日ざしの下で劇を楽しみました。2週間後,バービスで開かれた2番目の大会には1,038人が出席しました。二つの大会の合計は7,126人で,ガイアナではそれまでで最高の出席者数を記録しました。もっと最近では,出席者数がほぼ1万人に達しました。

将来の明るい見込み

エゼキエルの預言には,エホバの回復され栄光を帯びるようになった神殿が描かれています。その神殿から水が流れ出,幅と深さを徐々に増してゆき,ついには「二倍の大きさの奔流」となり,塩分が多くて生物のいない死海にも命を生じさせます。―エゼ 47:1-12

1919年以降の清い崇拝の前進に伴い,神の民はその預言の成就を見てきました。今日,霊的な備え ― 聖書,聖書研究の手引き,集会,大会 ― が実際の川のように,世界じゅうの幾百万という人々の霊的な渇きをいやしています。

ガイアナのエホバの証人は,この預言の成就にあずかれることを特権と考えています。そして,「永遠の命のために正しく整えられた」人がこの“水の国”のどこに住んでいようと,そのような人たちすべてに命を与える霊的食物を運ぶため,まさに文字通りの意味で,これからも河川を用い続けることでしょう。―使徒 13:48

[脚注]

^ 8節 英領ギアナは1966年5月に独立し,国名がガイアナに変わりました。本書では,文脈上必要な場合を除き,ガイアナという名称を用います。

[140ページの囲み記事]

ガイアナの概要

国土: 河川によって運ばれた土壌が堆積する海沿いの地域は,大部分が海抜0㍍以下であるため,約230㌔にわたり堤防で守られています。国土の約80%は森林で覆われています。内陸の奥地も森林地帯で,ガイアナの川のほとんどはそこに源を発しています。

住民: 人口の約半分をインド系の人々が占めています。40%余りはアフリカ黒人の子孫あるいはその混血で,インディオは約5%です。40%ほどの人が自らをクリスチャンと称しています。ヒンズー教徒は34%,イスラム教徒は9%です。

言語: 公用語は英語ですが,クレオール語も国じゅうで話されています。

生活: 労働人口の約30%が農業に従事しています。漁業,林業,鉱業などの産業もあります。

食物: 主要作物は,米,カカオ,かんきつ類,ココナツ,コーヒー,トウモロコシ,マニオク(キャッサバ),サトウキビなどです。熱帯独特の果物や野菜もあります。牛,豚,鶏,羊などが食用に飼育されています。主な海産物は魚とエビです。

気候: ガイアナは熱帯性の気候で,季節の変化はほとんどありません。沿岸部の年降水量は1,500㍉から2,000㍉です。赤道に近いとはいえ,大西洋から吹く貿易風のおかげで気候は穏やかです。

[143-145ページの囲み記事/図版]

だれも彼の口を「封じる」ことはできなかった

マルコム・ホール

生まれた年: 1890年

バプテスマ: 1915年

プロフィール: レグアン島の出身。その地域で最初に良いたよりを宣べ伝えた人の一人で,レグアン島に誕生した群れの世話をした。

マルコムの兄の孫娘イボンヌ・ホールの語った経験。

選挙管理人が大叔父のマルコムに,「投票しないというのは本当か。もしそうなら,おまえを投獄して,聖書も没収する」と言ったことがあります。大叔父は管理人の目を見ながらこう答えました。「でも,わたしの口はどうするおつもりですか。宗教指導者たちが長年隠してきた真理を語らないよう,わたしの口を封じることなどできますか」。管理人のほうは,「おまえのことは後から扱うことにする」と言うのがやっとでした。

1915年にバプテスマを受けた大叔父は,ガイアナの最初期の王国伝道者の一人です。「マルコムは真理を擁護する真の闘士」だった,とある兄弟は述べています。大叔父が王国の真理に接したのは,ジョージタウンで生活し働いていた時でした。サマセット・ハウスで行なわれた公開講演を1回聞いただけで,真理だと分かりました。さらに,家に帰ってからも聖書を開いてすべての聖句を調べました。

その後レグアン島に戻り,すぐほかの人たちに証言し始めました。王国の音信を最初に受け入れた人たちの中には,大叔父の姉と妹,それに大叔父の兄の子どもたちがいました。その人たちが群れの中核となり,大叔父の家で集まっていました。

初期のころ,僧職者は島民に対して強い影響力を持っていたため,良いたよりを受け入れてもらうのは並大抵のことではありませんでした。大叔父は僧職者から「頭のおかしな聖書気違い」とよく言われました。でも,そんなことで大叔父の熱意はくじかれませんでした。例えば,日曜の朝になるとよく玄関のポーチに蓄音機を置き,聖書講演のレコードをかけました。人々は道端に立ってレコードを聞いていました。

やがて,感謝してこたえ応じる人も出てきました。記念式の晩にはそれがはっきり分かり,大叔父の家の二階は人でいっぱいになりました。大叔父は,司会者 兼 話し手で,表象物にあずかる唯一の人でした。大叔父の聖書研究生の一人リーロイ・デンボウは,開拓奉仕を始め,しばらく巡回監督としても奉仕しました。

大叔父は世俗の仕事であったエセキボ川を航行する船のパーサーを退職すると,開拓奉仕を始めてレグアン島と近くのワケナーム島で働きました。大叔父の一日は午前4時半に始まります。牛の乳を搾り,豚の世話をし,7時半ごろ体を洗って身なりを整えると日々の聖句と聖書を幾らか読みます。それから朝食を取って,伝道の用意をします。出掛ける前に自転車のタイヤに空気を入れている大叔父の姿が今でも目に浮かびます。毎日,自転車で最低20㌔は移動しました。

1985年11月2日,大叔父は地上での歩みを終えました。約70年間,エホバに忠実に仕えました。その間ずっと,だれも大叔父の口を「封じる」ことはできませんでした。実際,現在レグアン島にもワケナーム島にも会衆があります。

[155-158ページの囲み記事/図版]

子どものころに抱いた疑問の答えが人生を変えました

アルバート・スモール

生まれた年: 1921年

バプテスマ: 1949年

プロフィール: 1953年に開拓奉仕を始める。1958年に妻シーラとギレアデに行き,ガイアナに戻って奉仕する割り当てを受ける。

「神様がお前をお造りになったんだよ」― 子どものころいつもそう言われていました。それで母から,お前は4人の子どもの中で一番悪い子だと言われた時,わたしは神様が3人の良い子と1人の悪い子を造られたんだと思いました。

10歳のころ,日曜学校の先生に,「神様を造ったのはだれですか」と尋ねましたが,何も答えてもらえませんでした。それでも,当時の大半の人と同様,ある年齢に達すると教会に通うようになりました。わたしの場合は長老派教会でした。もっとも,わたしが抱いていた疑問には,ほとんど答えが与えられませんでした。例えば,教会で次のような歌詞の賛美歌を歌いました。「富んだ者は城に住み,貧しい者はその門に住む。神は身分の高い者と低い者とに造った。神は彼らの地位をお定めになった」。わたしは,『神様は本当に「彼らの地位をお定めになった」のだろうか』と思いました。ある時,牧師に,「もし神様がアダムとエバを造られたのなら,いろいろな人種はどこから生じたのですか」と尋ねました。牧師の答えは,簡単に言えば,創世記は作り話だということでした。

その後,第二次世界大戦の際,英国兵のために祈るようにと勧められました。このことがあってから,自分の教会の教えはわたしの聖書の理解と相反しているという確信を得ました。それでも,『ほかのどこへ行けばいいのだろう』という疑問があり,教会にとどまりました。24歳の時にシーラと結婚しました。

ある日,教会から帰宅するとエホバの証人が訪ねて来ました。証人たちは“地獄を否定する教会”と呼ばれていて,わたしは関心がありませんでした。証人たちは個人の家で集会を開き,聖職者の服も着用しないのです。それにわたしは,素晴らしい女性と結婚できたことなど,自分の人生の中で生じた事柄によって,神はわたしを気遣っておられると考えるようになっていました。

そのエホバの証人 ― ネシブ・ロビンソン ― が自己紹介した時,わたしは自転車のパンクの修理をしていました。わたしは,「タイヤがパンクしているんだ。クリスチャンなら修理を手伝えよ」と言うと,さっさと家の中に引っ込んでしまいました。翌週,教会へ行こうと聖書を持って玄関を出ると,ネシブがちょうど玄関の階段を上って来ました。わたしは,「お宅の宗教には関心がないんですよ。家内が中にいるから,家内に話してください」と言って,出かけました。

わたしはあんなことを言わなければよかったと後悔しました。というのも,教会では牧師の説教に集中できず,『ロビンソンさんとシーラが話し始めたら,シーラが日曜の特製スープを作る時間はなくなるな』などと考えていたからです。しかし,心配には及びませんでした。家に戻ってみるとスープはできていました。気になってシーラに,「ロビンソンという人と話をしたのかい」と聞くと,「ええ,わたしが料理をしている間,ロビンソンさんは腰を下ろして説教をしていかれたわよ」と言いました。

その後まもなく,シーラは聖書研究に応じました。そして最初の子どもを出産しましたが,死産でした。わたしはロビンソンさんに,なぜこのようなことが生じるのですか,と尋ねました。彼は,それは神の責任ではなく,アダムとエバの不従順とその二人から受け継いだ不完全さのためです,と言いました。わたしは,その答えに納得しました。

ネシブはよく,家具作りの作業場にわたしを訪ねて来ました。話は専らわたしの仕事のことについてでしたが,帰る前にそれとなく聖書の一つの点を話の中に含めました。やがて家具の話は少なくなり,神の言葉に関することが多くなりました。ある日わたしは,これまでずっと気にかかっていた疑問を,一つ二つネシブにぶつけてみることにしました。“正式な”牧師でさえ答えが分からなかったのだから,ネシブも困惑するだろうと考えたのです。

聖書から答えてくれるよう念を押してから,最初の質問をしました。「だれが神を造ったのですか」。ネシブは「ジェームズ王欽定訳」(英語)から詩編 90編2節を読みました。「山いまだなりいでず,汝いまだ地と世界とを造りたまわざりしとき,とこしえよりとこしえまで汝は神なり」という聖句です。ネシブはわたしを見ながら,こう言いました。「何と書いてあるでしょうか。神を造ったのはだれでもありません。神は常に存在してこられたのですよ」。わたしはその明快で論理的な答えに驚き,せきを切ったように,幾年もの間にたまり続けた疑問を一つ残らず吐き出しました。聖書に基づくネシブの答え,とりわけ,地球を楽園にするという神の目的に,それまで味わったことのないような喜びを感じました。

初めて王国会館に行った時は,特に大きな感銘を受けました。どうしてでしょうか。聴衆が集会に参加しているのを見てびっくりしたのです。教会では決して目にしない光景でした。妻はその時はまだ集会に出席しておらず,そこにいませんでしたが,集会の様子を話すと,「わたしも一緒に行くわ」と言いました。そして55年後の今も二人で集会に行っています。

シーラとわたしは,1949年に大西洋でバプテスマを受けました。わたしは1953年に開拓奉仕を始め,2年後にシーラも加わりました。ですから全時間奉仕50年になります。わたしたちは1958年にギレアデ第31期のクラスに招待され,ガイアナに戻る割り当てを受けました。旅行する奉仕を23年間行なった後,特別開拓者として奉仕する特権をいただき,今日に至っています。わたしは,子どものころ抱いた疑問の答えを与えられただけでなく,妻シーラと共にエホバにお仕えできることを感謝しています。

[163-166ページの囲み記事/図版]

「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」

ジョイスリン・ハマーリョ(旧姓ローチ)

生まれた年: 1927年

バプテスマ: 1944年

プロフィール: 夫が亡くなり今はやもめだが,旅行する奉仕を行なう夫に同行することを含め,全時間奉仕を54年間行なった。

わたしはカリブ海のネビス島で生まれました。母はメソジスト教徒であり看護師でした。わたしはひとり親であった母から神を信じるよう教えられました。わたしたちは母の仕事の関係で島の小さな村へ引っ越し,次の日曜日にメソジスト派の教会へ行き,信者席に座りました。ところが数分後,その席の“所有者”が来たから,ほかの席に座るようにと言われました。別の信者が親切に“自分用の”席に座らせてくれましたが,母はその教会へはもう二度と行かないことに決めました。その代わりに,聖公会へ行きました。

1940年代の初め,母は,ある友人を訪ねていた時にセントキッツ島からやって来たエホバの証人と出会い,文書を幾らか手に入れました。読書欲の旺盛な母は,むさぼるように文書を読み,それが真理だと分かりました。その後まもなく,母はある男性と結婚し,わたしたちはトリニダードへ引っ越しました。当時トリニダードではエホバの証人の出版物は禁書になっていましたが,王国会館で開かれる集会には出席できました。ほどなくして,母は聖公会から脱退し,エホバに仕えるようになり,わたしの義理の父ジェームズ・ハンリーもそうしました。

トリニダードで,わたしはローズ・クフィーという若い姉妹と出会いました。11年後にローズがわたしの宣教者奉仕のパートナーになるとは夢にも思いませんでした。それはさておき,エホバに仕えたいというわたしの願いは強くなってゆきました。初めて一人で証言した時のことは今でも覚えています。最初の戸口で,家の人が中から出てきた時,突然,声が出なくなりました。そこにどのくらい立っていたか分かりませんが,やっとのことで聖書を開き,ダニエル 2章44節を読むとすぐに退散しました。

1950年に開拓奉仕を始めましたが,2年と少したった時にギレアデ第21期のクラスに招待され,本当に興奮しました。21期のクラスの3人がガイアナに割り当てられました。ガイアナ出身のフローレンス・トム,わたしのルームメートのリンドール・ルーライ,そしてわたしです。1953年11月に任命地に着いたわたしたちは,ジョージタウンから180㌔ほど離れた,コーランタイン川の河口に近いスケルドンという町に割り当てられました。孤立した群れの人たちがわたしたちの到着を今か今かと待っていました。

スケルドンの住人の大半はインド系で,ヒンズー教徒かイスラム教徒でした。多くの人は読み書きができませんでした。ですから,証言をすると,「娘さん,もっと分かりやすく,易しく話してくれないかな」とよく言われたものです。初めのうち,集会には二,三十人出席していましたが,さほど関心のない人が来なくなると,人数は減少しました。

ある女性が野外奉仕に参加したいと思うまでに進歩しました。ところが,約束の時間に訪問してみると,身支度を整えてやる気満々でわたしを待っていたのは,その女性の14歳の息子のほうでした。女性は,「ローチさん,わたしの代わりにフレデリックを連れて行ってください」と言いました。後で分かったことですが,その女性の父親は熱心な聖公会の信者で,娘に圧力をかけていたのです。それでも,その女性の息子フレデリック・マッカルマンは素晴らしい霊的進歩を遂げ,後にギレアデに行きました。―170ページの囲み記事をご覧ください。

わたしはその後,孤立した伝道者の兄弟が一人いるヘンリエッタに任命替えになりました。その地域はチャリティ会衆の世話を受けるようになりました。新しいパートナーの開拓者は,前に述べたローズ・クフィーでした。ローズとわたしは,週に4日をヘンリエッタで過ごし,毎週金曜日の朝早く,集会に出席するため自転車でほこりっぽい道を走り,30㌔離れたチャリティへ行きました。食料やシーツ,毛布,蚊帳などを持ち運びました。

道すがら証言したり,幾人かの孤立した伝道者および一人の不活発な姉妹を励ますために寄り道したりしました。わたしたちは大抵,その人たちと「ものみの塔」誌を研究しました。日曜日にはヘンリエッタに戻り,聖書研究生たちと集まって,群れの「ものみの塔」研究の司会をしました。たまに自転車がパンクしたり雨に降られてびしょ濡れになったりしたものの,大きな事故には一度も遭ったことがありません。

わたしたちの喜びは少しも衰えませんでした。実際,ある日ひとりの女性から,「あなたたちはいつも幸福そうね。何の悩みもないみたいだわ」と言われたことがあります。エホバがわたしたちの奉仕を実り多いものとされたので,喜びは増し加わりました。訪問していた不活発な姉妹も,再びエホバに仕えるようになり,50年ほどたった今も忠実を保っています。

1959年11月10日に,開拓者のイマニュエル・ハマーリョと結婚しました。わたしたちはヘンリエッタの南23㌔にあるサディーで奉仕しました。わたしはそこで妊娠しましたが,流産してしまいました。奉仕に忙しく携わることによって,悲しみを乗り越えることができました。その後,2人の子どもをもうけましたが,何とか開拓奉仕を続けることができました。

1995年にイマニュエルが亡くなりました。わたしたち夫婦は様々な区域でエホバにお仕えしました。幾つもの小さな群れが活発な会衆になるのを見ました。それらの会衆には,長老や奉仕の僕がおり,王国会館もあるのです。また10年間旅行する奉仕も楽しみました。主人がいないのでとても寂しく思いますが,エホバの愛情深い支えと,会衆の支えが今も大きな慰めとなっています。

預言者イザヤはエホバから奉仕の招きを受けて,「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」と述べました。(イザ 6:8)亡くなった主人とわたしは,イザヤの立派な態度に倣うよう懸命に努力しました。確かにわたしたちはイザヤのように,困難な時期や気がめいるような時期を耐え忍びました。しかし,それらを補って余りあるほどの喜びを味わってきました。

[170-173ページの囲み記事/図版]

ギレアデで受けた割り当ては自分の故国でした

フレデリック・マッカルマン

生まれた年: 1942年

バプテスマ: 1958年

プロフィール: ギレアデ卒業後はガイアナに戻って奉仕する割り当てを受ける。現在,妻のマーシャリンドと共に正規開拓者として奉仕している。

わたしが12歳の時,母は宣教者のジョイスリン・ローチ(現在はハマーリョ)と聖書研究を始め,わたしもよく研究に参加しました。母は研究をやめてしまいましたが,わたしは研究を続け,すべての集会に出席するようになりました。14歳の時に,ローチ姉妹と,仲間の宣教者ローズ・クフィーとリンドール・ルーライが,わたしを自転車に乗せて証言活動に連れて行ってくれました。姉妹たちの宣教者精神は,当時考えていた以上にわたしに多大な影響を及ぼしました。

エホバの証人と研究し始めた時,聖公会の堅信礼を受ける準備もしていました。ある時,司祭が“聖”三位一体を説明しようとしました。わたしはしばらく話を聞いてから,この教理が聖書に出ているとは思いません,と率直に話しました。すると司祭は,「君が例の本を読んでいることを知っているが,その本は有害だ。読んではいけない。三位一体を信じなさい」と言いました。それ以来,わたしは二度と聖公会へは行かず,証人たちとの研究を続け,1958年にバプテスマを受けました。

1963年9月に,特別開拓奉仕への招待の手紙を支部事務所から受け取りました。わたしは招待に応じました。新しい任命地はコーランタイン川沿いのファイリッシュ会衆で,パートナーはウォルター・マクビーンでした。わたしたちは1年のあいだ川を上ったり下ったりして区域を回りました。こうして次の任命地 ― パラダイス会衆 ― のための備えができました。パラダイス会衆に来た1964年当時,その会衆の奉仕者は10人でしたが,4年余り開拓奉仕を続け,会衆が25人に増加するのを見ました。

1969年,ギレアデ第48期のクラスに招待されました。その同じ年,ブルックリンのベテル家族のゲストとなって,「地に平和」国際大会に出席する感激を味わいました。非常に大勢の忠実な兄弟姉妹とお会いできたのは霊的に素晴らしい経験でした。統治体の成員フレデリック・W・フランズ兄弟がわたしたちを部屋に招いてくださった時のことは,一生忘れません。あまりにもたくさんの本があったので,ベッドはどこにあるのだろうと思いました。さらに,神の言葉の優れた研究者として,ギレアデの教訓者ユリシーズ・グラス兄弟がいます。今でも,「上手に書いたり教えたりするための基本は,正確さ,簡潔さ,明快さです」という兄弟の声が聞こえるようです。

自分の任命地がガイアナだと知って,正直がっかりしました。ガイアナはわたしにとっては故国であり,外国の任命地ではありません。しかし,グラス兄弟は親切にもわたしを脇に連れて行き,違った見方ができるよう助けてくださいました。ギレアデに出席できること自体が大きな特権であること,そして恐らくガイアナの中でもわたしにとって外国のような所に派遣されるであろうことを教えてくださいました。その通りになりました。わたしはポメルーン川沿いのチャリティ会衆に割り当てられました。当時チャリティ会衆には5人の奉仕者しかいませんでした。

パートナーのアルバート・トールボットとわたしは,川旅の経験がほとんどなかったので,船の操り方を習得する必要がありました。簡単なことに思えるかもしれませんが,決してそうではありません。水の流れや風を計算に入れないと,どこへも進めなかったり,ただぐるぐる回転したりすることになるのです。ありがたいことに,素晴らしい援助がありました。非常に優秀な教え手の一人は地元の姉妹でした。

10年間,わたしたちは船のオールと自分の筋力に物を言わせて動き回りました。その後,ある地元の人がモーターを買わないかと会衆に話を持ちかけてきました。しかし,会衆には買えるお金がありませんでした。ですから,モーターを購入するための小切手を支部事務所から受け取った時,どれほどうれしかったかご想像いただけると思います。わたしたちが何を必要とするかを聞きつけた幾つかの会衆が,援助したいと思ったようです。わたしたちはやがて,ほかにも何隻かの船を手に入れることができ,そのすべてを「王国宣明者号」と命名しました。船名の後には番号をつけて他と区別しました。

幾人かの開拓者のパートナーと働いた後,わたしは生涯の伴侶となる女性と出会いました。マッケンジー会衆で特別開拓奉仕をしていたマーシャリンド・ジョンソンです。マーシャリンドの父親ユースタス・ジョンソンはガイアナではよく知られた人で,亡くなる前の約10年間,巡回監督として奉仕しました。現在マーシャリンドとわたしは正規開拓者ですが,二人合わせて72年間全時間奉仕を行なってきました。そのうち55年間は特別開拓者として奉仕し,その間,6人の子どもを育てました。

エホバはわたしたちの宣教奉仕も祝福してくださいました。例えば,1970年代の初めにポメルーン川沿いで証言していた時,仕立屋の若い男性と会いました。その人は聖書研究に応じ,りっぱな研究生になりました。聖書の各書の名前を覚えるように勧めたところ,1週間で名前を全部覚えただけでなく,各々のページ数まで空で言えたのです。この男性とその妻,また9人の子どものうち7人が真理に入りました。兄弟とわたしはチャリティ会衆で長老として奉仕しています。初期の宣教者たちの素晴らしい熱心な手本がなければ,わたしがこうした祝福にあずかることは決してなかったでしょう。

[176,177ページの囲み記事/図版]

文通で神の言葉を学びました

モニカ・フィツァレン

生まれた年: 1931年

バプテスマ: 1974年

プロフィール: 孤立していたため,2年間手紙で神の言葉を研究し,仲間のインディオたちによく証言した。今は目が不自由になったが,聖句を暗記して奉仕で用いている。

わたしは,ガイアナの北西地区を流れるモルカ川沿いにあるワラムリと呼ばれるインディオの保留地に住んでいます。真理と接したのは1970年代初めで,一番近い会衆はポメルーン川沿いのチャリティでした。カヌーで12時間かかりました。

チャリティで買い物をしていた時にエホバの証人と出会いました。フレデリック・マッカルマンから「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を勧められ,受け取って家に持ち帰りましたが,衣装箱に入れて2年間そのままになってしまいました。その後,病気になってしばらく寝たきりの生活が続き,ひどく落ち込みました。雑誌のことを思い出したのはその時のことです。雑誌を読んですぐに真理の響きを感じました。

ちょうどそのころ,主人のユージーンは職探しを始め,川を下ってチャリティの方へ行くことにしました。わたしは健康が回復し始めていたので付いて行きました。もっとも,主な理由は,エホバの証人を探したかったからです。とはいえ,あちこち探す必要はありませんでした。というのも,旅先でわたしたちが滞在していた家にエホバの証人の女性が訪ねて来たからです。「『ものみの塔』の方ですか」と聞くと,そうですという答えだったので,2年前に市場で会った男性について尋ねました。その女性はすぐ,その時たまたま仲間の奉仕者たちと近くの区域で働いていたフレデリック・マッカルマンを探しに行きました。

二人で戻って来ると,マッカルマン兄弟が,「とこしえの命に導く真理」の本を用いて聖書研究の方法を説明してくれました。わたしは研究に応じました。わたしは主人と家に戻らなければならなかったため,手紙で研究を行ないました。「真理」の本と「神が偽ることのできない事柄」の本をこうした方法で研究しました。「真理」の本を研究していた時,聖公会から正式に脱退し,バプテスマを受けていない伝道者になりました。司祭から,「エホバの証人の言うことを聞いてはいけません。彼らは聖書を表面的にしか理解していません。あなたとその問題を話し合うために伺うつもりです」という手紙を受け取りました。しかし,司祭はやって来ませんでした。

保留地では奉仕者はわたし一人でしたので,新たに得た知識を近所の人たちに伝えました。主人にも証言し,うれしいことに,わたしがバプテスマを受けた次の年に主人もバプテスマを受けました。主人のユージーンは現在,14人いる地元の奉仕者の一人です。

最近,緑内障と白内障がもとでわたしは視力を失いました。それで今は聖句を暗記して宣教で使っています。このような状態ではあっても,エホバにお仕えできることを感謝しています。

[181-183ページの囲み記事/図版]

エホバは『わたしの心の願い』をかなえてくださった

ルビー・スミス

生まれた年: 1959年

バプテスマ: 1978年

プロフィール: カリブ族の先住民。ガイアナの内陸部にあるバラミータというインディオの保留地に良いたよりを宣べ伝える点で重要な役割を果たす。

エホバの証人と初めて接したのは1975年,16歳の時でした。祖母が義理の息子からパンフレットをもらい,英語が読めなかったので,訳してくれないかとわたしに頼みました。そのパンフレットに説明されていた聖書の約束に驚いたわたしは,クーポンに必要事項を記入して支部事務所に郵送しました。注文した出版物が届くと,それらを研究し,学んだ聖書の真理を他の人に話すようになりました。まず祖母と叔母に話しましたが,悲しいことに,父はわたしが取った行動を快く思いませんでした。

やがて祖母と叔母も証言するようになりました。その結果,聖書についてもっと知ろうと我が家に来る村人も現われました。一方,わたしは出版物を読めば読むほど,エホバを喜ばせたいなら生活を変化させる必要があることを理解するようになりました。例えば,父の仕事場から盗んだものがあると父に打ち明けること,また弟の一人と仲直りすることが必要でした。何度も祈ってから,そのどちらも実行できました。

そのころ,支部事務所は特別開拓者シーク・バクシュ兄弟の派遣を取り決めてくださいました。しかし,バクシュ兄弟は長く滞在できなかったため,兄弟とユースタス・スミスという兄弟が手紙でわたしと研究してくれました。ユースタスは後にわたしの夫となりました。

1978年,わたしは「勝利の信仰」大会に出席するためにジョージタウンへ行きました。首都に着くと支部事務所へ直行し,バプテスマを受けたいという意向を伝えました。長老がバプテスマ希望者と討議する質問は,アルバート・スモール兄弟が扱ってくださることになりました。わたしは,バプテスマを受けたエホバの僕として,胸を躍らせながらバラミータに戻りました。

熱意にあふれ,さっそく宣べ伝える業に忙しく携わりました。大勢の人が関心を示すようになったため,崇拝の場所として簡素な建物を建てることを一部の人に提案しました。その建物ができ,わたしはそこで毎週日曜日に英語の「ものみの塔」誌をカリブ語に訳して読みました。ところが,父はわたしの活動に反対し,日曜日には自宅にいるようにと言って譲りませんでした。それで,わたしはこっそり記事をテープに録音し,集会場で兄の一人にテープを流してもらいました。そのころには,集会に100人ほどが定期的に出席していました。

その後まもなく,わたしたち家族は仕事の関係でジョージタウンへ引っ越しました。祖母もマシューズ・リッジへ引っ越しました。叔母はバラミータに残りましたが,良いたよりの伝道をやめてしまったため,バラミータでの王国の活動は一時期停止しました。

わたしはジョージタウンでユースタス・スミスと親しくなり,しばらくして結婚しました。ユースタスはカリブ語を話せませんでしたが,わたしたちは二人とも,バラミータに移動して人々の関心を高めたいと願っていました。1992年,その願いが実現しました。わたしたちはバラミータに引っ越すと,すぐに忙しく宣教に携わり,集会も組織しました。程なくして,集会の出席者は300人ほどになりました。

「ものみの塔」研究の後に識字クラスも開きました。長女のヨランドが授業を手伝ってくれました。ヨランドは手伝い始めた時11歳で,まだバプテスマを受けていない伝道者でした。現在,ヨランドと次女のメリッサは正規開拓者として奉仕しています。

1993年,エホバはバラミータに王国会館を与えて祝福してくださいました。また,カリブ語を話し,会衆で指導の任に当たることのできる「人々の賜物」も備えてくださいました。(エフェ 4:8)1996年4月1日付で,バラミータ会衆が設立されました。うれしいことに,会衆には母や祖母,さらには実の兄弟のほとんど全員がいます。確かにエホバは『わたしの心の願い』をかなえてくださいました。―詩 37:4

[図版]

ユースタスとの近影

[148,149ページの図表/グラフ]

ガイアナ ― 年表

1900年: 「シオンのものみの塔」誌や聖書に基づく出版物を読んだ人たちが,討議を始める。

1910

1912年: E・J・カワードがジョージタウンとニューアムステルダムで,数百人の聴衆を前に講演を行なう。

1913年: 集会場所としてサマセット・ハウスの一部屋を借りる。1958年まで使用される。

1914年: ジョージタウンに最初の支部事務所が開設される。

1917年: 僧職者の圧力を受け,政府は特定の出版物を禁書に指定する。

1922年: 禁令が解かれる。ジョージ・ヤングが訪問する。

1940

1941年: 「ものみの塔」誌と「慰め」誌(現在の「目ざめよ!」誌)が禁書になる。

1944年: エホバの証人のすべての出版物が禁書になる。

1946年: 6月に禁令が解かれる。ギレアデを出た宣教者の第一陣が到着する。

1950年代: 「躍進する新しい世の社会」の映画がガイアナ国内で広く上映される。

1960年: 支部はジョージタウンに不動産を購入する。既存の建物は支部および宣教者ホームとして用いられる。

1967年: 伝道者が1,000人を超える。

1970

1988年: 従来の土地に建てられた新しい支部が献堂される。

1995年: 速成建設による最初の王国会館が完成する。

2000

2003年: 新しい土地に建てられた現在の支部が献堂される。

2004年: ガイアナ国内で2,163人の伝道者が活発に奉仕する。

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

2,000

1,000

1910 1940 1970 2000

[141ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ガイアナ

バラミータ

ハクニー

チャリティ

ヘンリエッタ

サディー

ジョージタウン

マヘーコニー

スースダイク

バルティカ

ヤルニ

ニューアムステルダム

マッケンジー

ウィスマール

スケルドン

バービス

オレアラ

レセム

エセキボ川

デメララ川

バービス川

コーランタイン川

ベネズエラ

ブラジル

スリナム

[134ページ,全面図版]

[137ページの図版]

イベンダー・J・カワード

[138ページの図版]

ガイアナのジョージタウンのサマセット・ハウス。1913年から1958年まで会衆の集会場として使用された

[139ページの図版]

ジョージ・ヤング

[146ページの図版]

フレデリック・フィリップス,ネイサン・ノア,ウィリアム・トレーシー。1946年

[147ページの図版]

1946年6月,この布告が出されて,ガイアナにおけるエホバの証人の文書に対する禁令が正式に解除された

[152ページの図版]

ネイサン・ノア,ルース・ミラー,ミルトン・ヘンシェル,アリス・トレーシー(旧姓ミラー),デイジー・ヘマウェイとジョン・ヘマウェイ

[153ページの図版]

ジョン・ポンティング

[154ページの図版]

ジェラルディン・トムソンとジェームズ・トムソンは,ガイアナで26年間奉仕した

[168ページの図版]

船でのグループの証言

[169ページの図版]

「王国宣明者III号」でモルカ川沿いを伝道する

[175ページの図版]

ジェリー・マレーとデルマ・マレー

[178ページの図版]

フレデリック・マッカルマンおよびユージーン・フィツァレンとモニカ・フィツァレンが,カヌーの修理をしているインディオの男性に良いたよりを伝えているところ

[184ページの図版]

バラミータの巡回大会,2003年

[185ページの図版]

バラミータ地区では,大勢の人が聖書の真理にこたえ応じた

[186ページの図版]

カヌーで証言を行なう

[188ページの図版]

シャーロック・パハランとジュリエット・パハラン

[191ページの図版]

ガイアナ ―「開拓者の楽園」

[194ページの図版]

ガイアナのオレアラにある王国会館

[197ページの図版]

ジョージタウンのブリックダム50番地にあった以前の支部事務所,1987年に完成

[199ページの図版]

支部委員会,左から右へ: エドセル・ヘイゼル,リカルド・ハインズ,アディン・シルス

[200,201ページの図版]

新しく建てられたガイアナ支部