内容へ

目次へ

タヒチ

タヒチ

タヒチ

上空から眺めると,タヒチ島,モーレア島,ボラ・ボラ島といったフランス領ポリネシアの島々は,コバルトブルーの広大な太平洋にはめこまれた宝石のように見えます。美しいサンゴ礁に飾られ,色鮮やかな魚が群がる,きらめくラグーンが,黄金色または火山特有の黒色をした海岸線に縁取られています。ココナツをたくさんつけたヤシの木が風に揺れています。島の内側の起伏の多い岩山は緑に覆われ,山頂には雲がかかっています。どの光景をとっても絵はがきができそうです。

芸術家や作家がこれらの島々を決まったように地上のパラダイスとして描くのも当然です。おそらく1,000年以上前に,この地を最初に発見して住み着いた昔の船乗りたちにとっても,パラダイスのように思えたに違いありません。東南アジアから来たと思われるそれら並外れた開拓者たちは,現在ポリネシア人と呼ばれる人たちの祖先となりました。幾世紀もの間,本拠地とした島から四方八方に散って広い太平洋をさらに帆走し,多くの島や環礁を領土としました。

ポリネシアという語には「多くの島」という意味があります。現在ポリネシアと呼ばれているのは,北に位置するハワイ,はるか南東のイースター島,さらに南西のニュージーランドを結んでできる三角形に囲まれた地域です。この報告で取り上げるのはポリネシアの一部,タヒチ島を中心としたフランス領ポリネシアです。 * フランス領ポリネシアは,ツブアイ(オーストラル)諸島,ガンビエ諸島,マルケサス諸島,ソシエテ諸島,ツアモツ諸島という五つの諸島から成っています。ヨーロッパの探検家がこの太平洋の領域を偶然見つけたのは,16世紀になってからのことでした。

ヨーロッパ人が来る

1595年,スペイン人アルバロ・デ・メンダニャ・デ・ネイラがマルケサス諸島の一部を発見しました。次いで1606年に,メンダニャ・デ・ネイラの部下だったペドロ・フェルナンデス・デ・ケイロスがツアモツ諸島の一部を発見します。また1722年にはオランダの探検家ヤコブ・ロッヘフェーンがボラ・ボラ島,マカテア島,マウピティ島を発見しました。そして1767年,英国の戦艦ドルフィン号に乗っていたキャプテン・サミュエル・ウォリスは,フランス領ポリネシアで最大の島,タヒチ島に上陸します。翌年,フランスの航海士キャプテン・ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンビルも上陸しました。

その島の美しさに感動し,住民のなまめかしい様子に驚いたブーガンビルは,タヒチ島を「ヌーベル・シテール」と名づけました。これは「ペロポネソス半島の先にあるキチラ島にちなんだ名前で,その島の近くで[愛と美の女神]アフロディテが海から上ったと言われている」と,「クックとオマイ ― 南太平洋への情熱」(英語)という本は述べています。英国の探検家ジェームズ・クックは,1769年から1777年にかけてタヒチ島を4回訪れ,タヒチ島を含む群島をソサイエティ(ソシエテ)諸島と名づけました。

探検家の次に来たのは宣教師でした。最大の成果を上げたのは,プロテスタント系のロンドン伝道協会が遣わした宣教師たちでした。その中の二人ヘンリー・ノットとジョン・デーヴィスは,タヒチ語の表記法を作ってから聖書をタヒチ語に翻訳するという膨大な仕事を成し遂げました。そのタヒチ語訳聖書は今日までフランス領ポリネシアで広く使われています。特にプロテスタント教会が優位を占めている島々ではそうです。アドベンティスト派,カトリック,モルモン教の宣教師たちも幾らか成功を収めました。例えば,カトリック教会はマルケサス諸島,ガンビエ諸島,ツアモツ諸島東部に確固とした地盤を有しています。

ところで,五つの諸島はどのようにしてフランス領になったのでしょうか。フランスは1880年から島々を少しずつ併合してゆき,フランスの新しい植民地としました。タヒチ島のパペーテに中央政府が置かれ,領内の人々にはフランスの市民権が与えられました。1946年,フランスはその島々を海外領に指定し,1957年,その領土はフランス領ポリネシアと命名されました。

王国の音信が到達する

タヒチ島を最初に訪れたエホバの証人は,1931年に来たシドニー・シェパードです。シドニーは2年間,太平洋の島々を旅して人々に証言しました。その後を引き継いだのは,ニュージーランド人のフランク・デュワーでした。兄弟たちは長くはとどまれませんでしたが,多くの文書を配布しました。実際,約20年後に巡回監督として奉仕したオーストラリア人のレナード(レン)・ヘルバーグは,こう報告しています。「会衆の僕の兄弟と一緒に車でパペーテ市内を通っていた時に,兄弟は車を止めて,山地で知り合った年配のアメリカ人を乗せました。その男性は私がエホバの証人だと分かると,『おや,ずいぶん昔にあなたの仲間の一人がやって来てラザフォード判事の本をたくさん置いていったよ』と語りました。これは,私たちより前に開拓者たちが業を行なっていたことを示す数々の証拠の一つです。この場合の開拓者は,シドニー・シェパードかフランク・デュワーでしょう」。

フランス領ポリネシアでさらに徹底的な証言を行なった初期の王国宣明者として,ジャン-マリー・フェリクスとその妻ジャンヌがいます。この夫婦は当時フランスの植民地だったアルジェリアで真理を学び,1953年にバプテスマを受けました。1955年,フランス領ポリネシアを含め,必要の大きな所で奉仕するよう王国伝道者に勧める呼びかけがなされました。その勧めにこたえ応じたフェリクス夫妻は幼い息子ジャン-マルクを連れて1956年にタヒチ島に移動しました。ところが,技術者であったジャン-マリーは仕事を見つけることができませんでした。それで一家は,ツアモツ諸島に属する,タヒチ島の北東230㌔のマカテア島に移り,ジャン-マリーはリン酸塩鉱物の採掘会社の仕事に就きました。

フェリクス夫妻は,すぐに近所の人や兄弟の職場の人たちに証言し始めました。ジャンヌはこう書いています。「島民は聖書に深い敬意を示し,王国の音信によく耳を傾け,聖書を勤勉に研究したので,私たちは励みを受けました。しかし地元の僧職者たちから歓迎されていないことは明らかでした。僧職者は教会員に,自分たちの中にいる“偽預言者”に注意するよう呼びかけ,わたしたちに話しかけないように,またわたしたちの家の前を通らないようにとさえ述べたのです」。

それでも時たつうちに,ほとんどの人はこのクリスチャン夫婦に対する見方を変えました。二人はマカテア島にいる一部のヨーロッパ人とは異なり,ポリネシア人を見下げたりしなかったので,多くの島民から深い敬意を受けるようにもなりました。

とはいえ,採掘会社の責任者はいつでも従業員を解雇できたので,業を続けるのは勇気のいることでした。その上,その島にいる二人の憲兵がときおり訪ねて来ては一家の活動について質問しました。しかし次第に,それらフランスの警察官たちはジャン-マリーとジャンヌが脅威を与える存在ではないことを理解するようになり,友好的な態度を示すまでになりました。

霊的によく進歩した最初の聖書研究生は,ジャン-マリーの同僚のポリネシア人マウイ・ピイライです。真理が心に達するにつれ,マウイは生活を大きく変化させてゆきました。例えば,喫煙と大酒をやめ,15年間同棲していた女性と結婚しました。1958年10月にバプテスマを受けたマウイは,この地域で最初にエホバに献身したポリネシア人となりました。当然ながらマウイも良いたよりを人々に伝えたので,僧職者の怒りを買いました。ある牧師はマウイが解雇されるように画策することまでしましたが,マウイは評判の良い立派な働き手だったので,その計画はうまくゆきませんでした。

マカテア島で神の言葉にこたえ応じた二人目の人は,女性教師のジェルメーヌ・アマルです。ジェルメーヌは,自分の生徒だった,フェリクス家の息子ジャン-マルクを通して真理を知るようになりました。まだ7歳だったジャン-マルクの聖書の知識にすっかり感心してその両親に電話をかけたことから,聖書研究が始まったのです。これはさらに良い結果につながりました。その後ジェルメーヌは同僚の教師モニーク・セージとその夫ロジャーがエホバの知識を取り入れるのを助けたのです。

フェリクス夫妻とマウイ・ピイライも,マカテア島のプロテスタント教会の若い執事マヌアリ・テファアタウとその友人アライ・テリイとの研究を始めました。最初のころ,その二人はまだ教会にも通っており,三位一体,地獄の火,魂の不滅などに関して聖書の真理を仲間の教会員に伝えました。予想されたとおり,これはプロテスタントの人々の間でかなり物議を醸しました。とはいえ,多くの誠実な人々は,古代のベレアの人々のように,聞いている事柄が真実かどうかを確かめるために聖書を徹底的に調べました。―使徒 17:10-12

もちろん牧師は良い印象を持たず,エホバの証人の話を聞くのをやめない人がいれば破門にすると脅すことまでしました。その脅しに屈した人もいましたが,マヌアリとアライ,またマウイ・ピイライの妻モエアやタイナ・ラタロなど,霊的に進歩して教会を脱退した人もいました。タイナの話は後ほど取り上げます。

増加を続ける伝道者と聖書研究生は最初,フェリクス家で集まり,ジャン-マリーがフランス語で話し,マウイがタヒチ語に通訳しました。1959年にフェリクス一家がマカテア島を去ると,すでにバプテスマを受けていたマウイの家で集まるようになりました。ジャン-マリーとジャンヌはその島での奉仕についてどう感じているでしょうか。今はやもめとなってイタリアで暮らすジャンヌは,亡き夫の分も含めてこう述べています。「私たちは全く後悔していません。実のところマカテアでの宣教は,私たちの人生で最高の思い出となっています」。

良いたよりがタヒチ島に達する

1955年,フェリクス家がマカテア島に行く少し前に,レン・ヘルバーグは南太平洋で巡回奉仕を始めるようオーストラリア支部から任命を受けました。割り当てられた地域は,ニューカレドニアからフランス領ポリネシアまで数百万平方キロに及びました。とはいえ,その広大な区域に住んでいる伝道者は90人足らずで,タヒチ島に伝道者はいませんでした。レンには三つの基本的な目標がありました。6か月ごとに各会衆と群れを訪問すること,孤立した場所にいる伝道者や関心ある人すべてと接触すること,「躍進する新しい世の社会」の映画を用いて可能な限り新たな区域を切り開くことです。

1956年12月,レンは初めてタヒチ島に足を踏み入れ,そこに2か月とどまりました。レンは学校で勉強したフランス語をほとんど忘れていたので,英語を話す人を見つけるために,まず商業地区で奉仕しました。そしてタヒチでも指折りの資産家に会いました。その男性は興味深げに耳を傾け,また来るようにと言いました。次の土曜日,その男性はレンと共に昼食を取ってから,レンを家に招待し,運転手付きの車で連れて行ってくれました。レンはこう書いています。「その昼下がり,この男性がホラガイを手に取って吹いたので,私はびっくりしました。それは,その人の家に隣接する集会場に集まるように村の要人たち全員に知らせる合図でした。

「村長,警察署長,プロテスタント教会の執事など,10人ほどの人が来ました。私を招いた男性は,私が『島々における新しい宗教』エホバの証人の代表者であると紹介してから,『今からヘルバーグ氏が聖書のどんな質問にも答えてくださいます』と述べました。尋ねられた質問にはすべて答えることができました」。続く2か月の間,土曜日ごとにこれが繰り返されました。その資産家は真理を受け入れることはありませんでしたが,レンがハンセン病患者の病院で「躍進する新しい世の社会」を上映できるよう手配してくれました。出席者は120人を超えました。

王国の音信にこたえ応じる人はいたのでしょうか。ヘルバーグ兄弟は当時の様子をこう語っています。「1956年のクリスマスの日,アルエ地区で家から家の奉仕を行なっていた時に,ミケリという家族のお宅を訪問しました。その家族は王国の音信を意欲的に受け入れました」。ミケリ家は,米国に住む親戚が「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を予約してくれていたので,それらの雑誌をよく知っていました。後に,ミケリ家の娘イレーヌとその夫がエホバの証人になりました。レンは,ガルニエ氏とも聖書研究を始めることができ,その家族の他の人々も真理を受け入れました。1959年にパペーテ会衆が設立された時,ミケリ家とガルニエ家はその最初の成員となりました。

1957年にヘルバーグ兄弟がギレアデに行ったため,オーストラリア支部は巡回監督のポール・エバンズとその妻フランシスにタヒチ島を訪問するよう依頼しました。その島で過ごしたわずかの間に,二人は聖書と書籍を70冊以上配布し,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌の予約を数多く得ました。エバンズ兄弟はこう書いています。「タヒチ島に住む幾人かの人たちは,すでに聖書の知識が十分にあります。関心が非常に高く,組織の指導を受けて伝道を始めたがっています」。この新しい人たちは,必要とする支えや指示を受けられるのでしょうか。

タヒチ島出身の姉妹が故郷に戻る

タヒチ島出身の若い女性アニエスは,1936年に米国に行き,アメリカ人のアール・シェンクと結婚しました。その夫婦はエホバの証人に会って真理を受け入れ,1954年にカリフォルニア州サンディエゴでバプテスマを受けました。1957年,ロサンゼルスでの地域大会で友人のニール夫妻と一緒に座っていた時に,世界本部のネイサン・ノアが,必要の大きな幾つかの所を発表しました。タヒチ島もそこに含まれていました。

「アニエスは興奮していすから飛び上がり,泣きだしました」とクライド・ニールは述べています。「そこで私はアニエスとアールの方を向き,二人が11歳になる息子を連れてタヒチに行けるように,できることは何でもすると言いました。すると,体の不自由なアールも泣きだしました。アールは芸術と文芸関係の仕事をしながら南太平洋で17年間暮らしたことがあり,やはり戻りたかったのです。さらに,アニエスは依然フランス国籍を有していました」。

クライドはさらにこう述べています。「よく祈った末に,妻のアンと私は12歳,8歳,3歳の息子3人を連れてタヒチに行くことに決めました。友人のデービッド・カラノと妻のリンも息子のデービッド・ジュニアを連れて私たちと一緒に行くことになりました。それで,1958年にニューヨーク市で開かれた国際大会に出席した後,タヒチ行きの船に乗り込みました。

「関心のある人々の名前を米国支部から受け取っていたので,到着してすぐに,その人たちを訪問することに取りかかりました。先に来ていたアニエスは,すでに宣教を熱心に行なっていました。アンと私はフランス語もタヒチ語も話せなかったので,できる限りアニエスと一緒に奉仕に出かけました。アニエスがいない時は,当時の聖書研究の手引きだった『神を真とすべし』の本の英語版とフランス語版を両方持って出かけました」。

ヘルバーグ兄弟とエバンズ兄弟姉妹が据えた土台の上にこうした努力が積み重ねられた結果,わずか数週間で17人が神の言葉を学ぶようになりました。クライドは当時を思い出してこう述べています。「プロテスタントの僧職者だったテラトゥア・バイタペという研究生のことをよく覚えています。彼は教会の教義についていろいろ質問したために職を解かれ,電気も水道もない一部屋だけの小さな家に家族と住んでいました。私たちと数週間研究しただけで,神学校での4年間と僧職者としての7年間に学んだよりも聖書について多くのことを学んだと言っていました」。

クライドはこう続けます。「その島に何週間かいると,私たちのことが“ココナツ・ラジオ”[口コミ]を通して人々に広まっていきました。タヒチ島の人は友好的だったので,それは好都合でした。しかも人々は聖書を愛していました」。

伝道者たちは最初,シェンク家で集会を開きました。関心のある人で出席したのは二人だけでした。ニール兄弟はこう述べています。「しかし間もなく,15人ほどが定期的に交わるようになりました。ある研究生は,二,三年前にヘルバーグ兄弟の自転車が彼女の家の前で壊れた時に兄弟を助けたことのある女性でした。兄弟から文書を受け取っていたその女性は,私たちが同じ宗教の人だと分かって大喜びしました。その家は私たちのところから遠かったので,訪問するといつも昼食を出してくれました。ドラム缶の上で焼いた新鮮でおいしい魚をよくごちそうになりました」。

ニール家とカラノ家が1958年12月にタヒチ島を去る前に,ニール兄弟は,フランス領ポリネシアで2回目のバプテスマの話を行ないました。1回目は,マウイ・ピイライがバプテスマを受けた10月にマカテア島でなされていました。このたびは60人が出席し,8人がバプテスマを受けました。その中にはニール家の息子スティーブンやタヒチ島民のオーギュスト・テマナハが含まれていました。オーギュストは,後にフアヒネ島で会衆の設立を援助しました。

強化期間

フィジー支部の依頼に基づき,オーストラリアから遣わされていたジョン・ヒュブラーと妻のエレンが1959年にタヒチ島に移動し,設立されたばかりのパペーテ会衆を援助しました。二人がタヒチ島にとどまれた7か月の間,ジョンは会衆の僕として奉仕しました。スイス生まれのジョンはフランス語が流ちょうに話せましたし,エレンも夫と共にニューカレドニアで何年か奉仕していたのでフランス語が話せました。ヒュブラー夫妻は新しい伝道者たちが家から家の宣教の面で大いに必要としていた訓練を施しました。ほとんどの人は非公式の証言しかしていなかったのです。

1960年,ジョンとエレンは巡回奉仕を始めました。フランス領ポリネシアが区域だったので,地元の伝道者たちに引き続き援助を与えることができました。「そして1961年,私はギレアデ学校に招待されました。卒業後は,フランス語が話されている太平洋の島々全体の巡回監督に任命されました」とジョンは述べています。

最初の王国会館

ヒュブラー兄弟はこう述べています。「タヒチ島を2度目に訪問した際,元教師のマルセル・アナホアとの聖書研究を始める特権にあずかりました。そのころ,私たちは自分たちの王国会館を建てる土地を必死に探していましたが,障害が二つありました。第一は,地所を手放しそうな人がいなかったこと,第二は,会衆基金がわずかだったことです。それでもエホバが物事を導いてくださることを信頼して探し続けました。

「マルセルとの研究の際に,この状況について話すと,彼女は『お見せしたいものがあります』と言って私を外に案内し,『この土地をご覧ください。わたしの土地です』と,指さしながら言いました。『アパートを建てる計画でしたが,わたしは真理を学んでいるので,考えを変えました。土地の半分を王国会館のために寄付します』。それを聞いてすぐに声を出さずに祈り,エホバに心からの感謝をささげました」。

パペーテ会衆は,法的手続きが済むとすぐに最初の王国会館を建設し,1962年に完成させました。両側は吹き抜けで屋根はタコノキの葉という島国特有の簡素な造りでした。ところが困ったことに,近所のニワトリたちは,会館のイスの上で落ち着き払い,梁をねぐらにしたくてたまらなかったのです。それで兄弟たちが集会に来ると,床や備品の上に,羽のある借り主の卵や,とてもありがたいとは言えないようなものを見かけました。とはいえその会館は,やがて兄弟たちがもっと大きくしっかりした建物を建てる時まで十分使えました。

法的に不確かな点がなくなる

初めのころ,フランス領ポリネシアにおけるエホバの証人の法的地位について兄弟たちにはあいまいなところがありました。フランスでは1952年以来「ものみの塔」誌の発行が禁止されていましたが,業そのものに禁令は課されていませんでした。フランス統治領のこの地域にもこれが当てはまるのでしょうか。その間に伝道者は増加しつづけ,エホバの証人は人目に付くようになりました。実際,警察が1959年の末に一度,集会で何がなされているかを見に来ました。

その結果,兄弟たちは法人を設立するように勧められました。公式に登録されれば,不確かな点はなくなり疑われることもなくなります。兄弟たちは1960年4月2日に,エホバの証人協会が公式に登録されたという確認書を受け取り,大喜びしました。

とはいえ,フランスでは「ものみの塔」誌に発禁処分が課されたままでした。この処分がフランス領ポリネシアにも当てはまると考えた兄弟たちは,中身は「ものみの塔」誌の記事である「ラ・サンティネル」(見張り番)という雑誌をスイスから送ってもらっていました。ある時,警察は,「ラ・サンティネル」が「ものみの塔」誌の代わりであることは百も承知だ,と法人の当時の代表者ミシェル・ジェラに明かしました。それでも警察はその雑誌の入荷を差し止めたりはしませんでした。その理由を兄弟たちが知ったのは,1975年にフランスで「ものみの塔」誌の発禁処分が解かれた時でした。

その処分が解かれると,タヒチ島の兄弟たちは「ものみの塔」誌を受け取る許可を得ようとしました。その時,その発禁処分が「フランス領ポリネシア官報」(フランス語)に載せられたことは一度もないことが明らかになりました。つまり,フランス領ポリネシアでは「ものみの塔」誌は禁止されていなかったのです。これは多くの兄弟たちにとって驚きでした。

その一方で当局は,ビザの発給や更新に関して厳しい態度を取りました。ですから,先に出てきたニール夫妻などフランス国籍を持たない人は,たいてい数か月しかとどまることができませんでした。ヒュブラー夫妻もフランス国籍を持っていませんでした。しかし,ヒュブラー兄弟はエホバの証人協会の役員でもあり,フランスの法律は法人の理事に外国人を一人なら含めてもよいとしていたので,兄弟のビザに関してそれほど問題はありませんでした。

これはヒュブラー兄弟が巡回奉仕を行なう上でも助けになりました。実際,ある日のこと兄弟は警察署長から署に呼ばれ,島々を頻繁に訪れている理由を尋ねられました。兄弟は,法人の役員として理事会に出席する必要があるからだと説明しました。署長はその説明に満足しました。しかし,署長のところに呼び出されたのはこの時だけではありませんでした。

1963年以降,太平洋での核実験に,少なくとも一人の著名な牧師を含む多くのポリネシア人が反発するようになりました。背教者はこの機会を利用して,ヒュブラー兄弟が扇動者の一人だと警察に訴えました。もちろん全くの偽りです。それでも兄弟は再び署長のところに呼び出されました。兄弟は,訴えた人を非難するのではなく,自分たちが聖書に基づいて中立の立場を取り,政府の権威に敬意を払っていることを丁寧に説明しました。(ロマ 13:1)そして署長に出版物を渡しました。結局,署長はだれかが証人たちを困らせようとしただけだと正しく判断しました。

とはいえ,やがてヒュブラー兄弟姉妹はビザを取得できなくなりました。その後はオーストラリアに戻って旅行する奉仕を行ない,健康が衰えて1993年に中断するまで続けました。

二人は島々にいる間に,幾人もの人がエホバを喜ばせるために自分の生活を大きく変化させるのを見てきました。ある74歳の女性には14人の子どもがいましたが,いずれも婚外子でした。ヒュブラー兄弟はこう述べています。「みんなは彼女のことをママ・ロロと呼んでいました。ママ・ロロは真理を学ぶと,同棲していた男性と結婚し,父親が違う子どもたちも全員きちんと登録してもらいました。すべての子を記載するために,村長は2枚の用紙をつなげて1枚の長い用紙を作る必要がありました。ママ・ロロは,エホバの方法で物事が行なわれるべきだと力説しました」。バプテスマを受けた後,この忠実な姉妹は開拓奉仕を始め,とりわけ雑誌配布を得意としました。他の伝道者と共に,孤立した島々に奉仕に出かけることもありました。

タヒチ語訳聖書 ― 祝福

1960年代に,タヒチ語しか話せない人に会うのは珍しくありませんでした。しかし,ノットとデーヴィスという翻訳者のおかげで,1835年以降は聖書がタヒチ語で入手できました。 * その聖書の顕著な特色の一つは,タヒチ語でイエホバという神のみ名が,クリスチャン・ギリシャ語聖書を含め聖書全体で使われていることです。

島々で広く配布されたタヒチ語訳聖書は,多くの人が真理の正確な知識に至る助けとなりました。そのような人物の一人がタイナ・ラタロです。1927年生まれのタイナはマカテア島における初期の聖書研究生の一人です。タイナは最初,母語のタヒチ語の読み書きができませんでした。しかし,勤勉に努力して良い進歩を遂げ,神権宣教学校にも入り,後に奉仕の僕に任命されました。

78歳になるエリザベト・アベは,タヒチ島から600㌔ほど離れた,ツブアイ諸島のリマタラ島で生まれました。1960年代当時はフランス語が分かりませんでしたが,タヒチ語の読み書きはできました。結婚して夫と共にパペーテに引っ越しました。その土地で,すでにクリスチャンの集会に出席していた長女のマルグリートを通して聖書の真理を知りました。エリザベトも他の9人の子どもを連れて集会に出席するようになりました。夫の強い反対に遭い,集会に行っている間に服がすべて家の外に放り出されていることもありましたが,くじけませんでした。

当時,集会はフランス語で行なわれ,ときおり一部がタヒチ語に通訳されていました。エリザベトは,聖句が出てくるとタヒチ語訳聖書を開いて目で追うことにより,霊的な糧を得ていました。研究を司会した姉妹は,フランス語の『御国のこの良いたより』の小冊子を口頭でタヒチ語に訳し,エリザベトは聖句を自分の聖書から読みました。その結果,良い進歩を遂げ1965年にバプテスマを受けました。次いで,タヒチ語しか話せない人との研究を彼女が司会しました。自分の子どもたちにも真理を教え,6人の子と幾人かの孫がエホバに献身しました。その中にはエリザベト自身が育てた孫もいます。

孫の一人ディアナ・タウトゥは,これまで12年間タヒチ支部で翻訳者として奉仕しています。ディアナはこう述べています。「タヒチ語の十分な知識を得るのを祖母が助けてくれたことに感謝しています。現在,命を救う霊的食物を人々が母語で受け取れるようにすることに,わずかながらでもあずかれるのは特権です」。

中国人がエホバを知るようになる

1960年代,タヒチの人口の約10%は中国人でした。その中で聖書の真理を最初に受け入れたのは,当時まだ十代だったクラリス・リーガンです。家が貧しかったので,クラリスは学校の授業がない毎週水曜日に,家計を助けるために働きました。エホバの証人の家族に雇われたクラリスは真理に接することになり,両親の強い反対にもかかわらず,1962年に18歳でバプテスマを受けました。

アレクサンドル・リー・クワイとアルレット・リー・クワイ,そしてキ・シン・リーガンもタヒチ島でエホバに仕えるようになった初期の中国人です。ある日,タクシーを運転していたアレクサンドルは,ジム・ウォーカーとシャーミアン・ウォーカーというエホバの証人の夫婦に会いました。二人は業を助けるために1961年にニュージーランドから来ていたのです。アレクサンドルは,英語を学びたいと言いました。シャーミアンはこう述べています。「当時,私は開拓奉仕をしていました。それでジムがアレクサンドルに,妻が教えられますよ,と言うと,彼は了解しました。その勉強は30分の英語の授業と30分の聖書研究からなっており,資料は『失楽園から復楽園まで』の本でした」。

そのうちにアレクサンドルの弟キ・シンも真理に接するようになりました。しかしそのころ二人はカトリックに改宗したばかりでその宗教の講座を受けていました。それで必然的に,聖書の教えと教会の教えの違いに気づくようになりました。そして司祭が講座の最後に,約100名の生徒に対して何か質問があるかと尋ねた際,アレクサンドルは手を挙げて,魂が不滅であることの聖書的な証拠を示してほしいと言いました。司祭は,「どうしてそんな質問をするのかは分かっている。君はエホバの証人と話しているんだろ」と言い返してから,生徒たちの前でアレクサンドルをあざけりました。

アレクサンドルとキ・シンは,この出来事を通してカトリック教会が真理を擁護していないことを確信しました。やがて二人はそれぞれの妻と共にエホバに献身し,後に会衆の長老に任命されました。アレクサンドルは,タヒチの支部委員としてもしばらく奉仕しました。その後,妻と共にソシエテ諸島にあるライアテア島に移動し,王国の業を支援しました。その後ボラ・ボラ島に移り,亡くなるまで忠実に奉仕しました。

海上で人生の“航路”を変える

アントニオ・ランツァは,イタリアのミラノにあるテレビ工場の技術者でした。その会社は1966年に,タヒチでアフターサービスの仕事を行なう人を募集しました。アントニオは,任期3年のその仕事を受け入れましたが,妻のアンナと幼い息子二人は残していく計画でした。アンナは何週にもわたって,考えを変えさせるため泣いて夫を説得しようとしましたが,うまくゆきませんでした。

フランスのマルセイユからパペーテまでの船旅は30日かかりました。アントニオは話し好きの親しみやすい人でしたが,乗船している人のほとんどは,アントニオの理解できないフランス語を話す人でした。それでも出港して二日目に,イタリア人のカトリックの修道女二人に会いました。しかし,二人は毎日の礼拝があったので,あまり話す時間がありませんでした。とはいえイタリア語を話せるフランス人女性が船に乗っていることをアントニオに教えてくれました。その女性とは,エホバの証人のリリアン・セラムでした。リリアンは,タヒチ島で仕事に就いた夫と暮らすために子どもたちと共にそこに向かう途中でした。

アントニオはリリアンを見つけ,会話を楽しみました。リリアンのほうは,聖書に基づくイタリア語の出版物を渡しました。それ以来,二人は霊的な会話を何度も交わしました。ある時リリアンは,アントニオがタヒチ島で働く3年のあいだ妻と子どもをイタリアに残しておくなら道徳的に危険な状況に身を置くことになる,という点を思い起こさせました。また,エフェソス 5章28,29節やマルコ 10章7-9などの聖句を見せて,結婚の神聖さに関する神の見方を示しました。

これを真剣に受け止めたアントニオは,自分の決定を後悔するようになりました。それで,パナマにいる間に妻に手紙を書き,資金が出来次第,妻と子どもたちが飛行機でタヒチ島に来られるようにすると伝えました。その後もう一度手紙を書き,司祭から聖書を1冊もらって持って来るよう妻のアンナに頼みました。司祭はこの考えをどう思ったでしょうか。あんな分かりにくい本を読みたいなんてご主人は頭がおかしくなったに違いない,とアンナに告げました。

アントニオがタヒチ島に来てから6か月後に家族もやって来ました。アンナは信心深い女性だったので,到着した翌日,再び一緒になれたことを神に感謝するために家族を教会に連れて行ってほしいと言いました。アントニオは,「分かった。教会に行こう」と言いましたが,連れて行ったのはカトリック教会ではなく王国会館でした。当然ながらアンナは非常に驚きましたが,集会を楽しみ,聖書研究をすることにも同意しました。だれが司会するのでしょうか。ほかでもないリリアン・セラム,船の上でアントニオに証言した姉妹です。

アントニオは,3年間一人で過ごすはずだったタヒチで,家族と一緒にもう35年も暮らしています。そして,アントニオ,アンナ,それに4人の息子全員が真の崇拝において結ばれ,アントニオは会衆の長老として奉仕しています。

必要の大きな所で奉仕する家族

幾年もの間に多くの兄弟姉妹が,王国宣明者の必要が大きい所で奉仕するため,点在する島々に移動してきました。マラ家,ハアマルライ家,テリイ家,また家族はエホバの証人ではなかったアト・ラクールなどです。バイエレティアイ・マラと妻のマリー-メドレーヌ,そして5人の子どもたちは,タヒチ島からライアテア島に引っ越しました。その島で奉仕していた特別開拓者の夫婦が別の場所に割り当てられたからです。その島には姉妹二人とバプテスマを受けていない伝道者が数人いるだけでした。

バイエレティアイは木彫りの仕事をしており,後にはサンゴの彫刻も行なったので,引っ越しをしても仕事を変えずに済みました。ライアテア島で唯一の長老として,小さな群れを5年間世話しました。その後,別の資格ある兄弟がやってきました。マラ家は次にタハア島に引っ越し,そこに4年間とどまりました。

物質的には,どちらの島での生活も楽ではありませんでした。バイエレティアイはこう述べています。「私は彫刻を売りにタヒチ島に行かなければなりませんでした。飛行機代のない時もあり,そんな時には,帰りに往復運賃を払うと約束して,小型飛行機の責任者にチケットを掛け売りしてもらいました。確かに家計が厳しいこともありましたが,必要物に事欠くことは一度もありませんでした」。バイエレティアイとマリー-メドレーヌの自己犠牲の模範は娘のジャンヌに良い影響を与えました。ジャンヌは全時間奉仕を26年間行なっており,今はタヒチのベテル家族の一員です。

1969年,アト・ラクールは転職の手はずを整えて,家族と共にツブアイ諸島のルルトゥ島に引っ越しました。バプテスマを受けてまだ3年のアトは,家族の中でただ一人のエホバの証人で,その島で唯一の伝道者でした。到着した次の日に奉仕に出かけた時のことを日記にこう書いています。「独りで伝道を始めた。難しい。大いなるバビロンがしっかり根づいているからだ」。

しかしやがて,関心を持つ人々が良いたよりにこたえ応じるようになり,群れができました。最初,集会はラクール兄弟の家の居間で開かれていました。アトはこう述べています。「その島では今までにない宗教だったので,私たちの群れは“ラクール教”と呼ばれました。しかし,エホバが『ずっと成長させてくださり』,群れは1976年に会衆になりました」。(コリ一 3:6)ラクール兄弟が2000年に亡くなる前に,妻のペレナを含め,家族のうちの幾人かが真の崇拝に加わりました。

ルドルフ・ハアマルライと妻のナルシスはボラ・ボラ島に引っ越しました。ルドルフはタヒチ島での地方電力会社の管理者の仕事を辞めて,ボラ・ボラ島でココナツを集めてコプラを作る仕事に就きました。2年間ほかの仕事は見つかりませんでした。とはいえ,エホバはこの二人を大いに祝福されました。やがてその島に会衆が設立されたのです。その会衆は25年以上の間,ハアマルライ家で集会を開いていました。そして2000年のこと,ボラ・ボラ島の絵のように美しいラグーンの近くに真新しい王国会館が出来ました。

タアロア・テリイと妻のカトリーヌは,15人の子どものうちまだ扶養していた7人と共に,ソシエテ諸島のマウピティ島という小さな島に引っ越しました。テリイ家が1977年に到着した時,ほかに伝道者はいませんでした。一家はモツで生活しました。モツとはラグーンの縁にある,草木の生えた小島です。食物は主に,魚とすりつぶしたココナツでした。また一家は食用の貝を集めて売りました。奉仕に出かける時はラグーンを歩いて渡って本島に行きましたが,毒のあるとげを持つ魚を踏まないように気をつけなければなりませんでした。

1980年,タアロアとカトリーヌはボラ・ボラ島に特別開拓者として割り当てられました。その立場で5年間奉仕した後,15年間正規開拓奉仕を行ないました。これから見ますが,彼らの初期の聖書研究生の中に,良いたよりゆえの多くの反対を忍耐した夫婦がいました。

霊的な赤子が試練を受ける

テリイ夫妻の聖書研究生でボラ・ボラ島で最初に真理を受け入れたのは,エドモン(アポ)・ライとその妻バヒネリイでした。ライ夫妻は,エドモンの母親の持ち家に住んでいました。この夫婦が6か月ほど研究したころ,牧師に唆された母親から,家を出て行くようにと言われました。エドモンとバヒネリイ,それに2歳の息子は,林の中の小屋で暮らすしかありませんでした。また,その牧師はエドモンの雇い主を説き伏せて彼を解雇させました。さらに,エドモンを雇いそうな人たちに,エドモンに仕事をさせないようにと告げることまでしました。家族3人は8か月の間,主に釣りをして何とか食べてゆきました。

そうしたある日のこと,家を建てたいと思った女性が,エドモンの以前の雇い主に会いました。エドモンの技術を高く評価しており,その仕事を彼に請け負ってもらいたいと考えたのです。それで,エドモンがエホバの証人と交わっているために解雇されたことを知ると,その女性は,エドモンを雇わない限り仕事は頼まないとその業者に言いました。その結果,エドモンは以前の仕事に戻ることができました。一方,彼の母親も態度を和らげており,息子夫婦に家に戻るようにと言いました。エドモンは現在,ボラ・ボラ会衆で長老として奉仕しています。

良いたよりがフアヒネ島に根を下ろす

1958年にタヒチ島で最初にバプテスマを受けた聖書研究生たちの中に,オーギュスト・テマナハがいました。オーギュストは,バプテスマを受けてから米国に引っ越しましたが,1960年代後半に妻のステラと3人の子どもを連れてタヒチ島に戻ってきました。その島で事業を成功させましたが,巡回監督に励まされると共に前述のマラ家の模範からも励みを受けたテマナハ夫妻は1971年に事業を売却し,タヒチ島から160㌔余り離れたフアヒネ島に家族で移動しました。

当時その島に住んでいた一人の姉妹と幾人かの関心を持つ人たちにとって,エホバの組織との接触を持てるのは,開拓者や巡回監督がたまに訪ねてくる時だけでした。それでテマナハ家が到着した時は大喜びしました。オーギュストはすぐに集会を計画し,自宅の台所で開きました。20人ほどが出席しました。

最初,オーギュストは仕事が見つかりませんでした。それでも,エホバが養ってくださるという信頼を抱き,家族で忙しく宣教に携わりました。エホバは確かに養ってくださいました。例えば,奉仕に出かける時,オーギュストはたいてい区域内に車を止めておきましたが,車に戻ると食物がいっぱい積んであるということがよくありました。だれが置いたかは分かりません。自分たちの状況を知っている区域内の親切な方がくださったのだろうと考えました。家族の経済状態が良くなるまで,そのようなことが何週間も続きました。

テマナハ家のような人たちの熱意と忍耐,それに島民の優しい気質を考えると,現在フアヒネ島で一つの会衆が繁栄しているのも驚くには当たりません。現に,その島では住民53人に対して1人の伝道者がいます。近年では,島民の12人に1人が記念式に出席するまでになりました。

同じような自己犠牲の精神を示したエホバの証人の家族はほかにもたくさんいます。例えば1988年から2年間,ジャン-ポール・ラサールと妻のクリスティアーヌはマルケサス諸島で奉仕しました。ジャン-ポールはタヒチ島で社会保障庁の理事を務めていましたが,宣教を拡大するために,その名誉ある仕事を辞めました。1994年,ラサール夫妻は,今度はツアモツ諸島のランギロア島に移動し,そこに3年間とどまりました。現在,ジャン-ポールはフランスで忠実に奉仕しています。

もっと最近では,コルソン・ディーンがタヒチ島で刑務所の副所長の仕事を退職した後,妻のリーナと共にツブアイ諸島のツブアイ島に移動しました。二人とも開拓者で,その島にある小さな会衆で立派な働きをしています。その島を含む一帯は今でも長老の必要が大きい地域です。

家族でフランスから援助に来る

はるばるフランスから業を援助しに来た家族もいます。シカリ家を取り上げましょう。フランシスと妻のジャネットには6歳と9歳の娘がいました。フランシスはこう述べています。「私たちは宣教を拡大する機会を待っていました。そして,南太平洋で奉仕するようにとの呼びかけを『1971 エホバの証人の年鑑』で目にしたのです」。友人や親族の中には止めようとする人もいましたが,シカリ家はこの難しい課題に応じ,1972年4月にパペーテに到着しました。

フランシスは長老だったので,プナアウイアの町にタヒチ島で二つ目の会衆が設立されることになりました。フランシスは,当時もう一つの会衆の主宰監督だったジャン-ピエール・フランシーヌと共に,タヒチ島で最初の支部委員会で奉仕する特権にあずかりました。支部委員会の取り決めが発足したのは1976年で,フランシスは支部委員として12年間奉仕しました。

シカリ家の友人や親族の心配は当を得たものでしたか。フランシスはこう述べています。「人々の意見とは逆に,引っ越したことは娘たちに良い影響を及ぼしました。実際,私たち4人は全時間奉仕を現時点で合計105年間行なっており,エホバが約束なさったとおり多くの祝福を得ています。―マラ 3:10」。

フランス支部は1981年に,パペーテからフェリーで30分のモーレア島で長老が必要とされているという発表を「王国宣教」に載せました。二人の兄弟が妻と共にこの呼びかけにこたえ応じました。そのうちの一組はアラン・ラファエリと妻のアイリーンです。二人はモーレア島で会衆の設立を援助し,そこで8年間奉仕しました。アランは1987年から1994年まで支部委員としても奉仕しました。

1997年,フランス支部は退職した兄弟たちに,長老が緊急に必要とされている地域を助けるために遠方の島に移動して2年以上奉仕するように呼びかけました。タヒチの支部委員会の調整者ジェラール・バルザはこう述べています。「応じるのは二,三組だろうと考えていたので,11組もの夫婦が申し出た時にはたいへん驚きました。しかも2組はずっととどまることにしたのです。霊的に円熟して経験を積んだこれらの兄弟姉妹は,伝道者たちにとって大きな助けとなっています。宣教者ではありませんが,宣教者の生活,そして遠方の島に住むことの大変さを体験しています」。

支部の設立

太平洋で業が着実に進展するにつれ,組織上の調整が行なわれてゆきました。フランス領ポリネシアにおける業はオーストラリア支部が監督していましたが,1958年から,ずっと近くにあるフィジー支部が監督するようになりました。世界本部のネイサン・ノアとフレデリック・W・フランズがタヒチ島を訪問した1975年に,さらに変更が加えられました。二人は700人以上の聴衆に励みとなる話を行ない,ノア兄弟はある王国会館で500人ほどの人にスライドを見せました。

そのプログラムの後,ノア兄弟は長老たちと会合を持ち,タヒチ支部の設立を提案しました。兄弟たちは,その提案を聞いて喜びました。英語を話す巡回監督アラン・ジャメイが支部の監督に任命されました。その年の4月1日に発足した新しい取り決めは適切なものでした。フィジーは確かにオーストラリアより近かったのですが,依然として言葉の障壁がありました。しかし,今やフランス領ポリネシアの兄弟たちは,自分たちの支部と直接かつ密接に連絡を取ることができるようになったのです。

伝道者は区域全体で300人もいなかったので,支部事務所は小さなものでした。実のところ,パペーテの王国会館に隣接した一部屋だけでした。片側に机があり,もう一方の側に在庫文書が置かれていました。初めのうち支部の監督の仕事はそれほど多くなかったので,アランは妻のマリアンと共に巡回奉仕を続け,伝道者のいない遠方の島々で宣べ伝えることもできました。

ツアモツ諸島とガンビエ諸島で宣べ伝える

タヒチ支部が設立されて,遠方の島々に良いたよりを伝えることがいっそう強調されるようになりました。兄弟たちがグループを作ってそのような島々に出かけることもありました。しばらく支部委員として奉仕したアクセル・シャンは,20人の兄弟姉妹が飛行機をチャーターしてツアモツ諸島最大の環礁であるランギロア島に行った時のことを思い返し,こう述べています。「その島の全員に証言してから,公開講演の準備を整えました。地元の村長が屋根のある場所を使わせてくれました。最初,出席者は兄弟姉妹だけになるかと思えました。『人々は宗教指導者を恐れているのかもしれない』と考えました。ところが,講演が始まると少しずつ人々がやって来て,やがて会場はいっぱいになりました」。

シャン兄弟はこう続けます。「講演の間に,カトリックの司祭が自転車を必死にこいで会場に向かって来るのが見えました。しかし近くまで来ると速度を落とし,自分の群れのだれが出席しているかを見ようと目を凝らしました。そのような行動を司祭が何度も繰り返したため,おかしくてたまりませんでした」。

アラン・ラファエリは1988年に,ガンビエ諸島への伝道旅行を計画しました。カトリック教徒が多いガンビエ諸島はタヒチ島から1,600㌔以上離れており,フランス領ポリネシアの最果てにある最小の諸島です。これまでに証言がなされたのは,1979年にアラン・ジャメイが3日間滞在した時だけでした。

兄弟たちはまず村長と面会して自分たちの活動について説明し,公開集会を開ける場所を貸してほしいと頼みました。村長は結婚式場を提供し,選挙運動があるので兄弟たちと一緒に人々を招待しには行けないことを謝りました。村長が同行しないことを兄弟たちが承諾したのは言うまでもありません。講演には村長と憲兵も含め30人が出席しました。

死者の状態を論じる公開講演の中で,アランは,聖書で言う地獄とは単なる墓でありキリスト自身もそこに行ったと述べました。「イエスが地獄に行くはずがない」と聴衆の一人が叫びました。そこでアランは,キリストが「地獄へ下った」と述べている使徒信経を引用しました。聴衆はあっけにとられました。この時,これまで長い間その句をよく考えもせずに暗唱していたことに気づかされたのです。その集会に出席した一家族が今はエホバの証人になっています。

旅行する監督たちは会衆を訪問する合間の週を活用し,伝道者のいない地域を開拓することがよくありました。タヒチ島出身の夫婦マウリ・メルシエとメラニー・メルシエもそうでした。ツアモツ諸島の環礁の中には,良いたよりを宣べ伝えたのはこの二人が初めてという島が幾つもあります。アヘ島,アナア島,ハオ島,マニヒ島,タカポト島,タカロア島です。マウリは可能な場合には公開講演やスライド上映もしました。当時の様子をこう語っています。「島民のほとんどは友好的でしたが,カトリックの拠点であるアナア島の人々だけは別でした。スライド上映の間に,叫び出す人がいるかと思えば,私たちを打ちたたこうとする人もいました。しかし何とか静めることができ,ほっとしました」。

島々に宣教者が来る

1978年以降,フランスから来た幾人もの宣教者が,かなり遠方の島々に遣わされました。ミシェル・ミュラーと妻のバベットは1978年8月に到着し,ヌク・ヒバ島に割り当てられました。マルケサス諸島で最も人口の多い最大の島です。カトリック教徒が多数を占めるマルケサス諸島をときおり訪れた兄弟たちもいましたが,だれもそこにとどまることはできませんでした。車道はなく,ミシェルとバベットは歩くか馬に乗るかして移動しました。たいてい地元の人たちが寝る場所を提供してくれました。乾燥したコーヒー豆を敷きつめたところで眠ったこともありました。

ミュラー夫妻は巡回奉仕を始めるまでの1年6か月間,マルケサス諸島にとどまりました。多くの人が訪問を感謝し,文書を受け取りました。実際,「わたしの聖書物語の本」を1年間に二人で1,000冊配布しました。これら立派な宣教者たち,そして開拓者や伝道者が努力を払った結果,マルケサス諸島だけでなく,タヒチ支部が管轄する区域全体でも業が大いに進展しました。実際,伝道者数は69か月連続で最高数を記録したのです。

もちろん,新しい人々には訓練が必要でした。しかし,一対一で援助するには,経験ある兄弟たちの数が足りないこともありました。ミュラー夫妻は,一度に新しい伝道者二人と一緒に働くことにより,この問題を解決しました。一人がミシェルかバベットと共に家を訪問する間,もう一人の伝道者は道路で自分の番を待っていたのです。ミュラー夫妻は,現在アフリカのベニンで奉仕しています。

『証言で聖書の知識が試されました』

宣教者のクリスティアン・ベローティとジュリエット・ベローティは,1982年2月にフランス領ポリネシアに到着しました。最初は巡回奉仕を行ない,その後5年間はライアテア島で宣教者奉仕をしました。この島には,アウトリガー・カヌーでしか行けない場所もありました。しかし,そこで証言する時は,ボートをこぐ技術以上のものが試されました。クリスティアンはこう述べています。「聖書の知識も試されました。油そそがれた者は自分が天に行くことをどのようにして知るのですか,黙示録の野獣は何を表わしているのですか,といった質問を何度もされました」。

小さな町ではたいていそうですが,ライアテア島の人たちは全員が顔見知りでした。クリスティアンはこう述べています。「それで,ある伝道者が不活発になると,家の人が『しばらく何々さんを見ないね。熱意を失ったのかね』とか,『何々さんには援助が必要だ。霊的に弱っているに違いないよ』とか言うのも珍しくありませんでした」。ベローティ夫妻がライアテア島を去る時には,ほとんどのファレ(タヒチ語で「家」)に,エホバの証人と研究したことのある人がだれかいました。

二人はライアテア島を拠点として,マウピティ島にも行きました。ある時,その島に書籍を直接送ってもらうことにしましたが,その荷が予定どおりに届きませんでした。それでも二人は思いとどまることなく,提供しようと思っていた書籍の見本として自分用の書籍を人々に見せました。30家族ほどが,書籍の到着を信じて依頼しました。ようやく荷が届いた時には,関心を持つ人が親切にも配ってくれました。

ベローティ夫妻の次の任命地はツアモツ諸島のランギロア島で,そこにはほかにエホバの証人はいませんでした。後に,二人はフランス領ギアナに割り当てられ,その後コンゴ民主共和国に割り当てられました。ベローティ兄弟は,そこで支部委員として奉仕しています。

「エホバが訓練してくださいます」

フレデリック・リュカスと妻のユルミンダは,1985年4月にフランスから到着し,タハア島に割り当てられました。そこには伝道者が3人しかいませんでした。最初の2週間はこの若い夫婦にとって大変な時期でした。自分たちの居間で集会を開きましたが,出席者は自分たちだけでした。王国の歌を歌い,泣きましたが,落胆してしまうことはありませんでした。

島には電気も電話もありませんでした。しかし二人はトランシーバーを持っていたので,それを使って,近くのライアテア島にいる宣教者と話をしました。もちろん,連絡が取れた場合のことです。近所の人の発電機につながった小さな冷蔵庫もありました。フレデリックはこう語っています。「ふだんは午後の6時から10時まで発電機が動いていました。ある時,家に帰るとトマトが全部カチカチに凍っていました。その近所の人がテレビでスポーツの試合を見ることにして発電機をずっと早くにつけたのです」。

リュカス夫妻はタヒチ語を学ぶ必要もありました。新しい言語を勉強したことのある人なら分かるとおり,学び始めのころは恥ずかしい経験をします。例えば,フレデリックは戸別伝道に出かけた時のことを思い出します。自分では「聖霊」(バルア・モア)と言っているつもりでしたが,モアという発音は難しく,習得できていなかったフレデリックは「ニワトリの霊」と言っていたのです。

この夫婦がタハア島に来た時,フレデリックは23歳で奉仕の僕でした。支部委員会の当時の調整者アラン・ジャメイに,自分は与えられた責任を引き受けるだけの力がないと思う,と打ち明けると,アランは,「心配しないでください。エホバが訓練してくださいます」と述べました。エホバは確かにそうされました。5年後,リュカス夫妻が次の任命地であるブルキナファソに向けて出発する時,タハア島にあった小さな群れは14人の伝道者から成る会衆になっており,自分たちの王国会館も持っていました。そしてフレデリックは長老として奉仕していたのです。

最初のころ落胆してしまわなかったことを二人は本当に喜んでいます。最近,次のように語りました。「若い時代の中で最高の日々でした。辛抱強くあること,自分の力ではなくエホバに全く依り頼むことを学びました。気持ちが落ち込んだ時は,祈ることによって元気づけられました。エホバを避難所とした私たちを,エホバは決して見捨てられませんでした。そうです,確かに訓練してくださったのです」。

独身の宣教者たちが難しい割り当てに取り組む

フランス出身の独身の宣教者たちも援助のためにフランス領ポリネシアに来ました。初めのころにやって来たのは,ジョルジュ・ブルジョニエとマルク・モンテです。二人とも支部で奉仕し,旅行する奉仕も行ないました。マルクの巡回区は,ツブアイ諸島,ガンビエ諸島,マルケサス諸島,ツアモツ諸島を含んでいました。幾つかの環礁では一人で宣べ伝え,別の時には地元の特別開拓者と共に奉仕しました。可能な場合には公開講演を行ない,島民のほとんどが出席した島もありました。結婚後もマルクは旅行する奉仕をしばらく続けました。今は,妻のジェシカと共にボラ・ボラ会衆に交わり,長老また開拓者として奉仕しています。

1986年2月,フィリップ・クジネとパトリック・ルマシフがフランスから来ました。二人はマルケサス諸島に割り当てられました。フランス領ポリネシアの他の諸島とは違い,マルケサス諸島はサンゴ礁で守られていません。その島々では,コバルトブルーの太平洋からほぼ垂直にそそり立つ高い断崖に,強い波がたたきつけています。険しい尾根の間の狭い谷は川と滝のある肥沃な土地で,島々に生息する多くのヤギ,馬,野牛にとって申し分のないすみかになっています。

長年のあいだに,開拓者や伝道者がマルケサス諸島にときおり出向くことがありました。例えば,ミュラー夫妻は1978年から1979年にかけてヌク・ヒバ島で1年6か月近く過ごしました。しかし,この諸島全体でくまなく証言がなされたことはありませんでした。フィリップとパトリックの到着は転換点となりました。もっとも,島々はカトリックの地盤が強く,多くの人が司祭を恐れていたため,業は簡単には進展しませんでした。実のところ,司祭たちの影響で二人の兄弟に脅しがかけられたこともありました。また当時はカトリックのカリスマ運動が盛んで,狂信的な行為をあおり,地域社会でひどい事件を起こしていました。

パトリックとフィリップは,最初は一緒に働きましたが,区域に慣れてくると別々に奉仕しました。一人がヒバ・オア島の宣教者ホームにとどまって集会を司会し,もう一人はボートに乗って何週間か他の島々に出かけました。最終的には,全く別々に働くほうが実際的で成果も上がることが分かりました。パトリックは北の方の島々で,フィリップは南の方の島々で奉仕しました。

支部は,この二人の宣教者を助けるために,共に働く特別開拓者をタヒチ島から遣わしました。一人はパスカル・パテールで,今は会衆の長老として奉仕しています。もう一人のミシェル・ブスタマンテは現在,巡回監督です。この熱心な若い兄弟たちは,若い時の力をエホバに喜んで差し出しました。(箴 20:29)確かに力が必要でした。マルケサス諸島での伝道は丈夫でない人や気の弱い人には向いていなかったのです。道路はなく,岩だらけでぬかるみの多い小道が峡谷を通って各家や村落につながっているだけでした。トレイルバイクと呼ばれる小型バイクを使うしか行く方法がない場所もありました。

フィリップは,バイクで狭い山道を走っていて,ほかの乗り物におびえた野牛の群れが突進してきた時のことを覚えています。片側は断崖で,反対側は山の岩壁がそそり立っており,逃げ場はありません。それでバイクを止めて岩の急斜面にぴったり寄せるしかありませんでした。野牛がすさまじい音を立てて通り過ぎ,フィリップは震えましたが,けがはありませんでした。

ミシェル・ブスタマンテはこう述べています。「私にとって,この割り当ては冒険のようなものでした。でも,島に一人でいる時などは特に,恐ろしい経験もしました。ある時,宿にしたバンガローは,一日奉仕をした場所からかなり離れた深く暗い谷にありました。近くの村で寝場所を見つけようとしましたが見つからず,歩いて戻らなければなりませんでした。もう夕暮れ時で,暗くなる中,高く切り立つ断崖が迫ってくるように思えました。その島で行なわれている心霊術や周囲に潜んでいるに違いない悪霊たちのことを考え始めてしまいました。そんなこんなで不安に襲われました。それで祈りをささげ,エホバのみ名が何度も出てくる歌を歌いました。ついにバンガローにたどり着いた時,ドアを閉め,聖書を開いて読み始めました。しだいに思いの平安が得られました」。

兄弟たちは3年間懸命に働いた末に,マルケサス諸島で最初の聖書研究生がエホバの証人になるのを見て大喜びしました。それはジャン-ルイ・ペテラノという若者でした。ジャン-ルイは,彼が“群れに戻る”ことを願う司祭の訪問を受けました。司祭は,この若者を“救う”ために,エホバという名前はエホバの証人が作り出したものだ,と主張しました。そこでジャン-ルイは,カトリックで使うフランス語のクランポン聖書(1905年)から詩編 83編18節を引用しました。この聖書は神のみ名を用いているのです。司祭は何も言わずに立ち去り,二度と来ませんでした。これは恐らく,マルケサス諸島の住民が神学上の論題でカトリックの聖書を使って司祭に首尾よく立ち向かった最初の例でしょう。後に,カトリックの司教の私設秘書も教会を脱退してエホバの証人になりました。

ヒバ・オア島で,宣教者たちはジャン・オベルランとナディーン・オベルランというヨーロッパ人夫婦に会いました。有名なフランス人画家ポール・ゴーガンと同じく,世間から離れて生活するためにマルケサス諸島に来ていたのです。二人は,ほとんど人が近づけないような場所に住み,文明の利器の全くない簡素な生活を送っていました。3年間学んで生活上の様々な変化を遂げ,バプテスマを受けました。

フィリップ・クジネとパトリック・ルマシフが1986年にマルケサス諸島に来た時,伝道者はその諸島全体で1人しかいませんでした。8年後,パトリックはすでに移動しており,フィリップの任命地はカメルーンに変更されました。その時点で伝道者は36人で,住民210人につき1人の割合となっていました。会衆は,三つの主な島,ヒバ・オア島,ヌク・ヒバ島,ウア・プー島に一つずつありました。

一番最近の宣教者の到着

フランスから来た一番最近の宣教者は,1990年11月に来たセルジュ・ゴランと妻のマリー-ルイーズです。二人もマルケサス諸島に割り当てられ,会衆を強めるために多くのことを行なってきました。ゴラン夫妻はマルケサス語を学び,驚くべきことに,人が住む六つの島の全家族を訪問しました。

セルジュは,二人が拠点とするヒバ・オア島で唯一の長老ですが,伝道者のいない二つの島を含め,他の島々にも定期的に出かけます。ファトゥ・ヒバ島を最初に訪れた時は,地元のカトリックの助祭とプロテスタントの執事が協力してくれたことに驚きました。二人ともそれぞれの礼拝の終わりに,セルジュが地元の学校で行なう30分の公開講演に出席するようにと発表しました。さらに,プロテスタントの執事はセルジュと一緒に来て講演をマルケサス語に通訳しました。当時はその執事のほうが流ちょうに話せたのです。

セルジュは黒板に聖句を書いて,聴衆が自分の聖書を開いて読めるようにしました。セルジュは祈りもささげ,全員がはっきり「アーメン」と言いました。翌日,ゴラン夫妻はファトゥ・ヒバ島の全家族に文書を配布しました。それ以来,人口600人にも満たないこの島を訪れるたびに温かい歓迎を受けます。

聖書の真理が刑務所に入り込む

他の多くの地域と同様,フランス領ポリネシアでも刑務所で聖書の知識に接する人が少なくありません。一例として,若い時に非行に走り刑務所に7年間いたアレクサンドル・テティアラヒをご紹介しましょう。アレクサンドルは少なくとも6回脱獄したので,脱走者を題材にした有名な小説の主人公にちなんで,蝶というあだ名をつけられていました。

アレクサンドルは身を隠していたライアテア島のある場所で,聖書と「神が偽ることのできない事柄」の本を見つけました。聖書を最初から最後まで読み通し,本も何度か読み返しました。真理を見つけたと確信したアレクサンドルは良心の呵責を感じるようになりました。どうしたでしょうか。

アレクサンドルは,その本を発行したエホバの証人のだれとも面識はありませんでしたが,警察に出頭し,タヒチ島の刑務所に送り返されました。そこではコルソン・ディーンが看守をしていました。アレクサンドルは刑務所に着いて間もなく,コルソンが同僚に証言しているのを耳にし,すぐにあの教えだと気づきました。それでコルソンにひそかに近づいて,もっと学びたいと思っていることを伝えました。

ディーン兄弟は刑務所の所長から許可を得て,アレクサンドルと監房で研究をしました。間もなく,研究をしたいと言う囚人たちがほかにも現われました。所長はディーン兄弟が昼休みにそれらの囚人と研究することも許可しました。後に,別の二人の長老が研究を引き継ぐほうがよいということになりました。何年かの間,30人から50人ほどの囚人が毎週の聖書の講義を楽しみ,その後で希望者は個人的に研究を司会してもらいました。

その間にアレクサンドルは急速な進歩を遂げ,それは看守たちの目にも留まりました。その結果,以前は脱獄の名人だったアレクサンドルが,ディーン兄弟の付き添いのもとで地域大会に初めて出席する特別許可を与えられました。アレクサンドルはその大会でバプテスマを受け,その後,釈放されて引き続きエホバに仕えています。

タヒチ島での国際大会

1969年,タヒチ島で初めての国際大会が開かれました。当時,この地域の島々には伝道者がわずか124人いるだけでした。ですから,16か国からの代表者210人を迎えた時の興奮を想像していただけるでしょう。代表者の中に,統治体の成員で初めてタヒチ島を訪れたフレデリック・W・フランズもいました。最高出席者数610人のこの大会は,兄弟たちにとって本当に励みとなり,翌年は伝道者が15%増加しました。そして1978年,タヒチ島は「勝利の信仰」国際大会の開催地の一つになりました。この時は,最高985人が出席しました。

タヒチ語への翻訳

伝道者の増加に伴い,支部での仕事が増えました。特に,聖書に基づく文書をポリネシアの主要言語であるタヒチ語に翻訳する仕事がありました。支部が設立される前でさえ,タヒチ語の知識が豊富な少数の年長の伝道者たちが幾つかの出版物をパートタイムで翻訳していました。たいていはフランス語から訳しました。例えば,1963年以降「御国奉仕」(「王国宣教」)を翻訳するようになり,1971年には「とこしえの命に導く真理」の本を訳し終えました。

1975年にタヒチ支部が設立されると翻訳に弾みがつきました。多くの新しい翻訳者は英語を学校で学び,よく知っていたので,フランス語訳からではなく原文の英語から直接翻訳することができました。1976年以降,支部は「ものみの塔」誌を翻訳してタヒチ語版を月に2回出し,しばらくのあいだ「目ざめよ!」誌も訳していました。『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』,「聖書から論じる」,歌の本全体も訳しました。実際,エホバの証人ほどタヒチ語の文書を出版した団体はほかにありません。

しかし,ここ30年でタヒチ語をはじめポリネシアの言語がしだいにフランス語に取って代わられています。その理由の一つは,語彙の多い主要言語であるフランス語がメディアで使用され,また学校制度の中でも大学まで一貫して使われていることです。

とはいえ,タヒチ語は自分たちの独自の文化の一部だと考えるポリネシア人も多いので,兄弟たちがタヒチ語で証言することもよくあります。支部の管轄区域内にある26の会衆のうち五つはタヒチ語会衆で,伝道者の割合では約20%を占めています。ですから,まだタヒチ語の文書の需要がかなりあります。

集中的な建設計画が始まる

パペーテの王国会館に隣接した小さな部屋が1975年から支部事務所として使われていましたが,1983年,パペーテから25㌔ほどのパエアの町に新しい支部が建設されました。すべて地元の兄弟たちが建てたこの新しいベテルの施設には,ベテル家族のための部屋が四つ,事務室が三つ,そして文書倉庫と王国会館がありました。1983年4月15日,統治体のロイド・バリーが700人の聴衆を前にしてこの新しい施設を献堂しました。

ところが,間もなくその支部も手狭になりました。それで統治体は,大会ホールも含めたもっと大きな施設の建設を承認しました。それは,タヒチ島の二つの部分をつなぐ地峡に近い,やや田舎の地区トアホトゥに建てられました。この工事を完成させたのは,アメリカ,オーストラリア,カナダ,ニュージーランド,フランスの兄弟たちから成るチームでした。もちろん地元の伝道者も大いに支えました。統治体の成員ミルトン・G・ヘンシェルが1993年12月11日にこの新しい施設を献堂しました。

同じころ,集中的な王国会館建設計画も始まりました。地元の地区建設委員会の監督のもとで,10年足らずのうちに16の新しい会館が建てられました。その結果,今ではほとんどの会衆に自分たちの王国会館があります。

支部での調整と一層の訓練

1995年までほぼ20年間,アラン・ジャメイが支部委員会の調整者を務めていましたが,家族の責任を果たすためにその仕事を続けられなくなりました。それでも支部委員としてとどまり,ときおり地域監督として奉仕することはできました。統治体は,その年の9月に,フランスのベテル家族の成員ジェラール・バルザと妻のドミニクをタヒチ島に割り当て,ジェラールを支部委員会の調整者に任命しました。

もう一人の支部委員はリュック・グランジェです。リュックは妻のレベッカと共に,必要の大きな所で奉仕するために1991年にタヒチ島に移動しました。特別開拓者として少し奉仕した後,巡回と地域の奉仕を4年間行ない,1995年に支部に割り当てられました。

1997年5月,タヒチ支部は宣教訓練学校の最初のクラスを開くことができました。20人の生徒のうち多くは,卒業後に特別な奉仕の特権にあずかりました。例えば,フェリクス・テマリイは島々を回る二人の巡回監督のうちの一人です。ジェラール・バルザはこう述べています。「私たちは,第2期のクラスが開けるように,さらに多くの兄弟たちが資格をとらえて自分を差し出すことを祈っています。確かに島々ではまだ必要が大きく,今も伝道者のいない島があります。また,会衆の責任を担う資格ある兄弟が必要とされている島もあります。そして,人口の7%に当たる58の島々の住民は,良いたよりを聞く機会がめったにありません。場合によっては,霊的に円熟しフランス国籍を持つ退職した夫婦によって必要が満たされることもありました。そのような兄弟姉妹で,たとえ2年間でも私たちを助けてくださる方がおられるなら,支部に連絡をいただければうれしく思います」。

急変する社会での課題

特にタヒチ島では経済成長が見られ,世俗化と都市化が急速に進んでいます。このため,人々は他の島々からタヒチ島へ移り住むようになっています。物質的な繁栄の結果として,物質主義,大量消費,快楽の追求が生じています。

残念ながらエホバの民の中にも,そのような巧妙な圧力に屈してしまった人がいます。特に若者たちは,霊的な物事に焦点を合わせ,道徳的に貞潔さを保つことが課題となっています。とはいえ,エホバの祝福は引き続きはっきりと見られ,区域では141人の住民に対して良いたよりの伝道者が1人という割合です。

これは,フランス領ポリネシアの大勢の人々がはるかに美しいパラダイスの価値を認めるようになってきたことの証拠です。それは霊的なパラダイス,神のみ名の民だけの領域です。(ヨハ 6:44。使徒 15:14)さらにこのパラダイスは,間もなく全地に広がる文字通りのパラダイスの前触れともなっています。そこでは,どこに住むどの世代の人々にも影響を与えてきた苦痛や悲しみ,さらには死もありません。―ヨブ 14:1。啓 21:3,4

初期のポリネシア人は,大いに勇気を示し,航海術を駆使し,水平線の向こうに陸地 ― たぶんはるかに良い地 ― があると信じていました。そして失望しませんでした。同様に,この報告の中に出てきたような現在エホバを忠節に崇拝する人たちも,エホバが自分たちの前に置いてくださったはるかに勝った賞を得ようと努めています。そして失望することはありません。そうです,エホバはご自分を信頼する人すべてを,船乗りの導きとなったどんな星よりも優れた仕方で,間近に控えた地上のパラダイスへと必ず導いてくださるのです。―詩 73:23,24。ルカ 23:43

[脚注]

^ 4節 この報告では,フランス領ポリネシア全体を取り上げますが,題は「タヒチ」となっています。タヒチ島はこの地域の中心地であり,タヒチという名前のほうがよく知られているからです。ただし,本文中で「タヒチ」といった場合には,タヒチ島のことを指しています。

^ 54節 タヒチ語訳聖書に関する話については,「ものみの塔」誌,2003年7月1日号,26-29ページをご覧ください。

[72ページの囲み記事]

フランス領ポリネシアの概要

国土: 500万平方㌔を超える大海原に点在する130の島々は,総面積が4,000平方㌔です。それらの島々は,ツブアイ(オーストラル)諸島,ガンビエ諸島,マルケサス諸島,ソシエテ諸島,ツアモツ諸島という五つの諸島を形成しています。ソシエテ諸島に属する14の島に人口の85%が住んでいます。

住民: ほとんどがポリネシア人あるいはポリネシア系の人ですが,少数ながら,中国人,ヨーロッパ人,アメリカ人もいます。

言語: フランス語とタヒチ語が主な言語で,政治や商業の分野ではフランス語が使われています。

生活: 経済の中心となっているのは,公務,そして観光業などのサービス業です。農業,製造業,真珠の養殖に携わる人もいます。真珠が輸出品の80%を占めています。

食物: 輸入食物にかなり依存しています。地元の作物として,バナナ,キャッサバ,ココナツ,レタス,パパイア,パイナップル,タロイモ,トマト,スイカなどがあります。また,魚,カキ,エビ,ウシ,ヤギ,ブタなども食べます。

気候: 高温多湿の熱帯性気候ですが,諸島ごとに幾らか違いがあります。11月から4月までが雨季(夏)です。タヒチ島の中央部では,年間降水量が900㍉を超えることもあります。

[74ページの囲み記事/図版]

高い島,低い島,モツ

フランス領ポリネシアの島々はすべて火山活動によってできた島で,主に二つの種類,高い島と低い島があります。高い島は山が多くて起伏に富み,島によっては海抜数千メートルの山もあります。タヒチ島が高い島の典型です。

マルケサス諸島以外の高い島々は,周りを囲むサンゴ礁によって守られています。ボラ・ボラ島を囲むサンゴ礁など多くのサンゴ礁には,草木の生える小さな島が見られます。その小島はモツと呼ばれており,人気のあるリゾートになっています。

低い島は環礁で,海面より1㍍ほど出ています。たいていは環状のサンゴ礁の内側が澄み切ったラグーンになっています。ツアモツ諸島の島々はこのタイプです。中には巨大なラグーンもあり,例えばランギロア島のラグーンは長さが70㌔で幅は最大20㌔もあります。

[77ページの囲み記事/図版]

教会の執事から王国宣明者に

マヌアリ・テファアタウ

生まれた年: 1913年

バプテスマ: 1959年

プロフィール: プロテスタント教会の執事だったマヌアリは,マカテア島の最初の聖書研究生たちから真理を学んだ。

エホバの証人のジャン-マリー・フェリクスと妻のジャンヌが1956年にマカテア島に来て,その最初の聖書研究生となったマウイ・ピイライとジェルメーヌ・アマルから私は証言を受けました。間もなく私が教区民に聖書の真理を伝えるようになると,教会内でかなり物議を醸しました。実際,牧師からはエホバの証人との話し合いをやめるようにと言われました。

私はためらうことなく教会を脱退し,フェリクス家で開かれていた集会に出席し始めました。教区民の幾人かも研究を始め,集会に出席するようになりました。フランス領ポリネシアにおけるごく初期の聖書研究生の一人であったことを特権と考えています。

[83,84ページの囲み記事/図版]

エホバは私に不足している点を補ってくださった

レナード(レン)・ヘルバーグ

生まれた年: 1930年

バプテスマ: 1951年

プロフィール: 割り当てられた最初の巡回区で独身の巡回監督として奉仕し,タヒチ島での業を始める。現在は妻のリタと共にオーストラリアで暮らす。

1955年,オーストラリア支部から南太平洋で巡回奉仕を行なうように割り当てられた時,その広大な巡回区には会衆が二つ,孤立した群れが六つあるだけでした。会衆はフィジーとサモアに一つずつです。タヒチ島に伝道者はいませんでした。

その島への最初の訪問を1956年12月に行なうよう計画し,大洋航路船サザン・クロス号でフィジーから6日かけてタヒチ島に着きました。絵のように美しいパペーテ港を見渡せる下宿に泊まりました。翌朝,野外奉仕に行くために着替えていると,窓からわずか数百メートル先をサザン・クロス号が通り過ぎるのが見えました。最も近くにいる兄弟からも3,000㌔離れた初めての土地で,外国語であるフランス語を話す人たちの中に独り残されたのです。手元にあった情報は,「目ざめよ!」誌を予約している人の住所が1件だけでした。

私は急に孤独感に襲われて悲しくなり,涙を抑えることができませんでした。涙が止まらなかったので,自分にこう言い聞かせました。『よし,今日は何もしない日にして,寝てしまおう。明日から始めよう』。その晩は何度も真剣な祈りをささげたので,翌朝目覚めた時は気分が良くなっていました。その日の午後,「目ざめよ!」誌を予約していたアルジェリア出身の女性を見つけました。「使徒たちの活動」の書に出てくるルデアのように,彼女と34歳になる息子はわたしを心から歓迎し,ぜひ家に泊まるようにと言ってくれました。(使徒 16:15)その途端,私の孤独感はいやされました。私はエホバに感謝しました。涙ながらの長い祈願を聞き届けてくださったのだと確信しています。

今になって振り返ると,エホバがいかに愛ある父親であられるかがよく分かります。私たちが自分を差し出すなら,エホバは私たちに不足しているどんな点をもすばらしい仕方で補ってくださるのです。

[87,88ページの囲み記事/図版]

初期の開拓者

アレクシー・ティノルアは,1950年代後半にレン・ヘルバーグが計画した集まりに出席しました。兄弟はこう述べています。「わたしはヘルバーグ兄弟がプロテスタントの執事たちと行なった聖書討論を傍聴しました。その場でエホバの証人の教えに真理の響きを感じ,証人と研究するようになりました。バプテスマを受けたのは1960年です。その後の9年間,開拓奉仕を楽しみました。1965年には,ソシエテ諸島のフアヒネ島で初めて宣べ伝えるという特権にあずかりました。聖書の真理の正確な知識を持つよう80人を援助するという特権を与えてくださったエホバに心から感謝しています」。エホバに仕え続けたアレクシーは,2002年5月に亡くなりました。

エレン・マプは,真理を学んで間もなく1963年にタヒチ島で開拓奉仕を始めました。夫はエホバの証人ではありませんでしたが,とても協力的でした。夫はタヒチ島とライアテア島を結ぶ船の仕事をしていたので,エレンがライアテア島での特別開拓奉仕の招待を受け入れることに少しも反対しませんでした。その島で良いたよりを宣べ伝えたのはエレンが最初でした。その後,エレンはタヒチ島に戻りましたが,このたびは半島のほう(島の小さい方の部分,タヒチ・イチとも呼ばれる)に行きました。そこにいるエホバの証人は彼女とメレアニ・タファアロア姉妹だけでした。エレンはこう述べています。「その半島では関心を示す人が多く,すぐに多くの聖書研究が始まりました」。

この忠実な姉妹たちをエホバが祝福されたことは明らかでした。後に区域内のバイラオの町に会衆が設立されたのです。

[101ページの囲み記事/図版]

「おれかエホバかどっちかにしろ」

イベット・ジロ

生まれた年: 1932年

バプテスマ: 1968年

プロフィール: フランス領ポリネシアのどの開拓者よりも長く正規開拓奉仕を行なっている。

エホバの証人になりたいと夫に話したところ,「おれかエホバかどっちかにしろ」と決定を迫られました。夫とよく話し合って納得してもらおうとしましたが駄目でした。夫は私と3人の子どもを残して出て行きました。でも数年後に戻ってきました。

その間も私は家族を養いながら正規開拓奉仕を行なうことができました。早朝に仕事をしてから,野外奉仕のための集まりを司会しました。1960年代後半は島々に100人ほどの伝道者しかいなかったので,司会する兄弟がおられないこともあったのです。

エホバに献身するように50人ほどの人を援助するという特権を与えてくださったことをエホバに感謝しています。その中の一人リチャード・ウォン・フーは,1991年以来,タヒチのベテル家族の一員です。二人の息子は,うれしいことに会衆の長老として奉仕しています。

[105ページの囲み記事/図版]

最後の王女の葬式

パペーテで長老として奉仕しているミシェル・ジェラは,タヒチ王家の最後の人物タカウ・ポマレ王女にかかわる珍しい経験をしました。1976年に89歳で亡くなったその王女は,タヒチ島と近隣の島々をしばらく統治していたポマレ王朝の直系の子孫でした。王女はエホバの証人ではありませんでしたが,その養女がエホバの証人で,ミシェルに王女の葬式の話を依頼しました。

ジェラ兄弟は,政界や宗教界の人々また報道関係者など多くの人に復活の希望を説明する良い機会になると考え,葬式の話を引き受けました。葬式の翌日,ひつぎの前で話をするジェラ兄弟の写真が地元の新聞に載りました。出席者の中には,高等弁務官,ポリネシア政府の大統領,他の政府関係者,そして白い法衣で正装したカトリックの大司教がいました。

[109,110ページの囲み記事/図版]

スクーターを貸してくれた僧職者と書籍を燃やした僧職者

ジャック・イノーディ

生まれた年: 1944年

バプテスマ: 1965年

プロフィール: 妻のポレットと共にフランスで特別開拓者として奉仕し,太平洋で旅行する奉仕を行なった。

1969年,ポレットと私はフランスにいる家族や友人に別れを告げ,新たな任命地タヒチ島に船で向かいました。太平洋のただ中で船が火事になり4日間漂流したので,幾らか興奮を誘う船旅となりました。タヒチ島に着くとすぐ,巡回監督として奉仕する割り当てを受けました。

その巡回区には,ニューカレドニア,バヌアツ,フランス領ポリネシアが含まれていました。当時,フランス領ポリネシアには会衆が一つと孤立した群れが二つありました。1971年,私たちの奉仕する巡回区はフランス領ポリネシアだけになり,孤立した島々を訪ねる時間ができました。王国の音信がそれまで一度も宣べ伝えられたことのない島もありました。ポレットと私はフアヒネ島で9か月を過ごし,小さなマウピティ島にも少し滞在しました。フアヒネ島にいる間に,44件の聖書研究を始めるという特権がありました。

食料にするため,たいていは水中銃を使って魚を取りました。質素な生活でしたがひもじい思いをすることはなく,物質的な必要はいつも賄われていました。ツブアイ島で証言した時は,牧師がスクーターを貸してくれるという意外な喜びも味わいました。乗り物が何もない私たちを哀れに思ったのかもしれません。

1974年,マルケサス諸島にある四つの島,ヒバ・オア島,ヌク・ヒバ島,ウア・フカ島,ウア・プー島を訪れました。その際,孤立した状況にあったカリナ・トム・シン・ビエン姉妹を訪問するようにと支部から依頼されました。姉妹は1973年に看護婦としてウア・プー島に移動していました。姉妹はそこに13か月とどまり,マルケサス諸島から野外奉仕報告を提出した最初の王国伝道者となりました。

ツブアイ島の親切な牧師とは異なり,ウア・プー島の司祭は私たちの活動に反対しました。実際,ひそかに私たちの後について区域を回り,私たちから受け取った文書を差し出すように教区民に要求しました。それからカリナの家の前で,それらを全部燃やしました。これには私たちだけでなく多くのカトリック教徒も衝撃を受けました。

そうした反対にもかかわらず,マルケサス諸島で業は前進しました。わずかながらそれに貢献できたことを特権と考えています。ポレットの健康状態のために,私たちは全時間奉仕を離れなければなりませんでした。それでも,引き続きエホバに最善のものをささげることを決意しています。

[113ページの囲み記事]

初めて島を訪れる時

自分が遠方の島や環礁に初めて到着したところを想像してみてください。一,二週間かけて住民に証言する計画です。しかし,その島にいるエホバの証人はあなた一人で,一般の宿泊施設も交通機関もありません。どうしますか。どこに泊まるのでしょうか。開拓者また巡回監督として奉仕してきたマルク・モンテとジャック・イノーディは,まさにそのような経験を何度もしました。

マルクはこう述べています。「飛行機やボートから降りたらすぐに証言を始めるようにしました。それと並行して宿のことも尋ねました。独身男性が泊まる場所を見つけるのは必ずしも容易ではありませんでしたが,たいていはだれかがベッドと食事を提供してくれました。2回目以降の訪問では,すでに私のことが知られていたので,宿泊場所を見つけるのは容易になりました。結婚後も宿を見つけやすくなりました。夫婦だと人々は安心するからです」。

ジャックは,自分の方法についてこう語っています。「たいていは村長のところを訪問して,私が希望する時に宿舎を提供してくださる方がいないかを尋ねました。ほとんどの場合ふさわしい場所を教えてくれます。多くの島の人々は,神の人とみなす人物を敬い,可能な援助を差し伸べます。それで,たいてい無料で泊まれる場所がありました」。

[117,118ページの囲み記事/図版]

一番好きなのは野外宣教

アラン・ジャメイ

生まれた年: 1946年

バプテスマ: 1969年

プロフィール: 妻のマリアンと共に,フランスおよびフランス領ポリネシアで全時間奉仕の様々な分野にあずかった。

13歳の時,家族でフランスからタヒチ島に引っ越しました。私は高校卒業後,医学を学ぶためにフランスに戻りました。そしてタヒチ島出身で生物学を学んでいたマリアンと出会い,結婚しました。1968年,エホバの証人の訪問を受け,真理を受け入れました。

当然,新たに見いだした希望を親に伝えましたが,良い結果は得られませんでした。また私たちがタヒチ島でそれぞれ属していた教会に手紙を書き,名簿から名前を削除するよう求めました。マリアンが属していたパペーテの教会は名前を削除するだけでなく,マリアンを公に破門しました。牧師は,その場に両親を呼ぶことまでしました。

私たちは1969年にバプテスマを受け,開拓奉仕を始めました。フランスのマルセイユにいた時に私は軍隊に召集され,中立の立場を取ったために2か月のあいだ刑務所に入れられました。釈放後,マリアンと私は特別開拓者に任命され,マルセイユとボルドーで奉仕しました。そして,年老いた親たちの願いに応じて1973年にタヒチ島に戻り,1年のあいだ小学校の教師として全時間働きました。

その後フィジーの支部の監督から,全時間宣教を再開することを目標にしているかと尋ねられました。フランス領ポリネシアとニューカレドニアの巡回監督が必要だったのです。親の状況は良くなっていたので,私たちはその招きに応じ,1974年8月に巡回奉仕を始めました。1975年,N・H・ノア兄弟の訪問の際に,タヒチで最初の支部の監督として奉仕するようにと言われました。

1986年に息子のラウマが生まれ,妻は全時間奉仕を離れました。うれしいことに,現在ラウマは霊的な兄弟になっています。これまでを振り返ると,数々の奉仕の特権に本当に感謝できます。それでも,私たちが一番好きなのはやはり野外宣教です。

[123-125ページの囲み記事/図版]

エホバはご自分の羊を世話される

ミシェル・ブスタマンテ

生まれた年: 1966年

バプテスマ: 1987年

プロフィール: 妻のサンドラと共に,フランス領ポリネシアにある二つの巡回区のうちの一つで奉仕している

巡回区はフランス領ポリネシアの五つの諸島すべてを含み,ヨーロッパほどの広さがあります。かなり遠方の島の中には,伝道者が一人か二人しかいないところもあります。そのように孤立している伝道者も訪問します。例えば,ツアモツ諸島のタカポト島に住むロシータがいます。この忠実な姉妹は毎週すべての集会の準備をし,エホバの証人でない夫が加わることもよくあります。毎週日曜日,たいていの人がラグーンで泳いだり魚を取ったりして楽しむ時も,ロシータは集会の服に着替えてその週の「ものみの塔」誌の記事を研究します。野外奉仕を報告する点でも忠実さを示しています。実際,ロシータは支部に電話で報告しますが,たいてい一番に報告します。これが特に褒めるべき点と言えるのは,彼女の住む小島から最も近い電話機までボートで45分かかるからです。

飛行機の到着はいつも一大イベントです。ですから,姉妹を訪ねるために飛行機で行くと,飛行場の近くに住むほとんどの人が,だれが降りてくるかを見に来ています。ある時,ロシータは一人の女性から「だれを迎えに来ているのですか」と尋ねられ,「わたしの霊的な兄弟姉妹です。わたしのためだけに,励ましに来てくれるんです」と答えました。私たちはロシータのもとに3日間とどまり,野外で共に働き,霊的な励ましを与えます。霊的な交友を楽しみたいという姉妹の願いが強いので,たいていは寝るのが真夜中を過ぎてしまいます。

別の島でのこと,私たちがある兄弟を訪問するのをアドベンティスト派の隣人が見ていました。その人は後から兄弟にこう打ち明けました。「ここに住んで7年になりますが,教会から私を励ましに来てくれた人は一人もいません」。この男性は,その島のアドベンティスト派の小さなグループで非公式ながら牧師の務めを果たしている人です。

ツブアイ諸島のライババエ島にいる伝道者は,ダニエルとドリスの二人だけです。かなり人里離れた場所に住んでいる二人をようやく見つけた時,その日の午後に家で集会を開けるかを尋ねました。二人は集会と聞いて大喜びし,私たちは全員で人々を招待しに出かけました。集会のために戻ってみると,その日の仕事を終えたばかりの農場労働者7人が家の前の道路で待っていました。タロイモの入った袋を肩にかけている人もいました。

「格好は気にせずに,とにかくお入りください」と声をかけると,彼らは中に入りましたが,用意した席には座らず床に腰を下ろしました。集会を楽しんだ後で,たくさんの質問をしました。もちろんその午後は兄弟姉妹にとってたいへん励みある時となり,私たちの訪問の主な目的も果たされました。

孤立した伝道者の住む島に飛行場がなくて,訪ねるのが大変なこともあります。ある時,飛行機を降りてから,二人の伝道者が住む島に行くためにボートに2時間乗って外洋を横切りました。ちなみに,ボートは長さ4㍍ほどで覆いのない高速モーターボートでした。言うまでもなく,操縦する人に質問して,ボートがきちんと走るか,また予備のモーターを積んでいるかを確かめました。太平洋のただ中を漂流するのは,控え目に言っても嫌な経験だからです。

目的地に着くころには,水しぶきでずぶ濡れになり,波が船体に打ち当たるせいで背中が痛みました。帰りも同様でした。サンドラはこう述べています。「本島に戻ったその午後に,伝道に行こうとして自転車に乗りました。ところが,体力が弱っていてボートで揺られていたために,サンゴを敷いた道で自転車にうまく乗れず,すぐに転んでしまいました」。

ここで述べたことから,孤立した兄弟姉妹を訪ねるたびに,エホバとその組織が兄弟姉妹に抱く深い愛について私たちがじっくり考える理由を分かっていただけると思います。確かに,私たちは非常に特別な霊的家族の一員なのです。―ヨハ 13:35

[拡大文]

「わたしのためだけに,励ましに来てくれるんです」

[80,81ページの図表/グラフ]

フランス領ポリネシア ― 年表

1835年: タヒチ語訳聖書が完成する。

1930年代: シドニー・シェパードとフランク・デュワーがタヒチ島を,また恐らくは他の島々をも訪問する。

1940

1956年: マカテア島とタヒチ島で宣べ伝える業が本格的に始まる。

1958年: バプテスマが2度行なわれる。フランス領ポリネシアで初めてのバプテスマ。

1959年: フランス領ポリネシアで最初の会衆がパペーテに設立される。

1960

1960年: エホバの証人協会が登録される。

1962年: フランス領ポリネシアで最初の王国会館がパペーテに建つ。

1969年: 国際大会がタヒチ島で初めて開かれる。

1975年: タヒチ島に支部事務所が設置される。

1976年: 「ものみの塔」誌のタヒチ語への翻訳が始まる。

1980

1983年: 最初のベテル・ホームが献堂される。

1989年: 伝道者の最高数が1,000人に達する。

1993年: 大会ホールを併設した新しいベテル・ホームが献堂される。

1997年: 宣教訓練学校が初めて開かれる。

2000

2004年: フランス領ポリネシアで1,746人の伝道者が活発に奉仕する。

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

2,000

1,000

1940 1960 1980 2000

[73ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

フランス領ポリネシア

フランス領ポリネシア

マルケサス諸島

ヌク・ヒバ島

ウア・プー島

ウア・フカ島

ヒバ・オア島

ファトゥ・ヒバ島

ツアモツ諸島

マニヒ島

アヘ島

ランギロア島

タカロア島

タカポト島

マカテア島

アナア島

ハオ島

ソシエテ諸島

マウピティ島

タハア島

ライアテア島

ボラ・ボラ島

フアヒネ島

モーレア島

タヒチ島

ツブアイ(オーストラル)諸島

ルルトゥ島

リマタラ島

ツブアイ島

ライババエ島

ガンビエ諸島

モーレア島

タヒチ島

パペーテ

プナアウイア

パエア

トアホトゥ

バイラオ

[66ページ,全面図版]

[70ページの図版]

ジャン-マリー・フェリクスとジャンヌ・フェリクスは,フランス領ポリネシアで徹底的に証言を行なった初期の奉仕者

[71ページの図版]

この地域で最初にエホバに献身したポリネシア人マウイ・ピイライは,1958年にジャン-マリー・フェリクスによってバプテスマを施された

[79ページの図版]

クライド・ニールとアン・ニール(下)は,タヒチ島でアニエス・シェンク(右)に加わって宣べ伝える業を助けた

[85ページの図版]

ジョン・ヒュブラーとエレン・ヒュブラーは1960年に巡回奉仕を始めた

[86ページの図版]

1962年にパペーテ会衆が建てた最初の王国会館 ― 両側は吹き抜けで屋根は植物の葉という簡素な造り

[89ページの図版]

「ラ・サンティネル」誌,1965年4月15日号。中身は「ものみの塔」誌の記事

[92ページの図版]

タイナ・ラタロは霊的に進歩するためにタヒチ語の読み書きを学んだ

[92ページの図版]

エリザベト・アベ(座っている)と孫のディアナ・タウトゥ

[95ページの図版]

アンナ・ランツァとアントニオ・ランツァ

[96ページの図版]

バイエレティアイ・マラとマリー-メドレーヌ・マラ

[97ページの図版]

アト・ラクール

[98ページの図版]

ルドルフ・ハアマルライ

[99ページの図版]

バヒネリイ・ライとエドモン・ライ(左)。タアロア・テリイとカトリーヌ・テリイ(右)

[100ページの図版]

オーギュスト・テマナハとステラ・テマナハ

[102ページの図版]

クリスティアーヌ・ラサールとジャン-ポール・ラサール(左),リーナ・ディーンとコルソン・ディーン(右)

[103ページの図版]

ロジャー・セージ(左)が1970年代の地域大会でフランシス・シカリの話をタヒチ語に通訳している

[107ページの図版]

アイリーン・ラファエリとアラン・ラファエリ

[108ページの図版]

マウリ・メルシエとメラニー・メルシエ

[120ページの図版]

マルケサス諸島で宣教者として奉仕するマリー-ルイーズ・ゴランとセルジュ・ゴラン

[122ページの図版]

アレクサンドル・テティアラヒと妻のエルマ,下の二人の娘ラバ(左)とリバ

[126ページの図版]

タヒチ語の翻訳チーム

[127ページの図版]

1969年に開かれた「地に平和」国際大会はタヒチ島で最初の国際大会

[128ページの図版]

ボラ・ボラ島にある,フランス領ポリネシアでいちばん新しい王国会館

[130ページの図版]

クリスティーヌ・テマリイとフェリクス・テマリイ

[131ページの図版]

支部委員会,左から右へ: アラン・ジャメイ,ジェラール・バルザ,リュック・グランジェ

[132,133ページの図版]

(1)タヒチ支部の施設

(2)2002年7月にタヒチ語の「エホバに近づきなさい」の書籍を発表しているジェラール・バルザ

(3)タヒチのベテル家族