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過ぐる1年の際立った事柄

過ぐる1年の際立った事柄

過ぐる1年の際立った事柄

この世界が,相次ぐ危機的状況に翻弄される中,神の民は霊的地所で喜びにあふれており,その美しさと豊かさは増しゆくばかりです。(マラ 3:12,18)そのような着実な進展は,イエスが昇天の直前に弟子たちに語った次の約束を思い起こさせます。「見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」。―マタ 28:20

昨年の活動は,慰めとなるイエスのその約束の真実性を裏書きしています。まず,エホバの僕たちが楽しんだ「神と共に歩む」地域大会の霊的な宴について考えましょう。

「神と共に歩む」地域大会

預言者ミカは,義なる者と不義なる者との違いを示してこう予告しました。「もろもろの民は皆,それぞれ自分たちの神の名によって歩む。しかしわたしたちは,定めのない時に至るまで,まさに永久に,わたしたちの神エホバの名によって歩む」。(ミカ 4:5)話し手が基調をなす話の中で説明したように,この言葉は,エノクやノアといった,まさに激動の時代に神と共に歩んだ古代の忠実な人々の態度を端的に言い表わしています。(創 5:22-24; 6:9,22)そのような人たちの足跡に倣えるのは本当にすばらしいことです。

地域大会によって,引き続き「エホバの名によって歩む」決意が強まりましたか。大会のノートを復習するなら,記憶をよみがえらせ,プログラムから永続的な益を得ることができます。

発表文書

あなたの会衆の区域には,外国語を話す人々がいますか。そうであれば,「あらゆる国の人々のための良いたより」という新しい小冊子をすでに用いておられるかもしれません。この小冊子は,32ページ,64ページ,96ページと三つのタイプが準備されており,それぞれの国の言語事情に合わせたオーダーメードと言うことができます。それで,この新しい優れた道具をぜひ伝道用かばんの中に入れておきましょう。そして,外国語を話す人と出会ったなら,小冊子の2ページに示されている三つの段階を踏んでください。そのことに命がかかっているかもしれません。

「ずっと見張っていなさい。……用意のできていることを示しなさい」という2004年の年句と調和して,大会2日目の最後の話し手は,「ずっと見張っていなさい!」のブロシュアーを発表しました。(マタ 24:42,44)この出版物を通して,さらに多くの人々が今の時代に対する緊急感を持ち,これから生じる劇的な出来事や将来について真剣に考えることができますように。また,話し手が述べたように,わたしたち各自が生活上の多くの重圧や不安に対処し,試みに遭っても霊的なバランスを保つことができますように。

旅行する監督のための学校

過去6年間に,米国ニューヨーク州パタソンにあるものみの塔教育センターで,旅行する監督のための学校が13クラス開かれ,アラスカやハワイを含む米国とカナダの600人以上の巡回および地域監督が出席しました。2004奉仕年度中,この学校は他の87の支部でも開かれました。そのうちの23の支部で行なわれたクラスには,他の国からの生徒も出席しました。例えばドイツ支部は,オーストリア,イスラエル,マケドニア,スイス,トルコの兄弟たちを招待しました。ポルトガル支部は,ルクセンブルクから,またアゾレス,カボベルデ,マデイラ,サントメ・プリンシペといった島々から来た生徒たちを世話しました。ケニア支部は,エチオピア,ルワンダ,タンザニア,ウガンダなどアフリカ諸国の旅行する監督を招きました。

カリキュラムには,巡回および地域監督の仕事のあらゆる面が含まれています。学校の目的は,それら懸命に働く兄弟たちが,会衆や大会で教えることや,福音宣明の業を率先して行なうことなど,多くの責任をさらに効果的に果たせるように助けることです。(テモ二 2:2; 4:5。ペテ一 5:2,3)さらにこの課程では,自分の霊性を維持することや,他の人を助ける際に識別力と洞察力を働かせつつ聖句を適用することも励まされます。

クラスはたいてい支部事務所で開かれるので,旅行する監督と妻は,ベテル生活の楽しさも体験します。あるクラスは次のように書きました。「ベテルの日課から霊的な益を得ることができました。聖書や『年鑑』の朗読を含む,朝の崇拝のプログラムは本当にすばらしいものでした。宿題があっても,月曜日の夕方にはベテル家族の『ものみの塔』研究に出席し,健全な交わりからも益を得ました」。

生徒である兄弟たちは順番に,毎日午後の最初の1時間,奉仕部門で働きました。そこでは,支部事務所にいっそう協力すること,受けた指示をより効果的に実行すること,正確で意義深い報告を作成することなどを学びます。

毎週金曜日,生徒たちは妻と共に講義を受けます。この話に含まれる霊的な励ましは,特にそれら忠実な姉妹たちのために準備されています。例えば,妻として服する点で引き続きよい手本を示すための有益な諭しが与えられます。また,会衆の姉妹たちと共に働くことによって夫を支えるように教えられます。ある旅行する監督は,この毎週の話を「極上の霊的デザート」に例えました。

もちろんこの学校では,聖書に,とりわけ「新世界訳聖書 ― 参照資料付き」に重きが置かれました。ドイツの生徒の一人はこう述べました。「『参照資料付き聖書』を個人研究でも会衆の集会でも使うつもりです。改めてその価値を認識しました」。英国で長年旅行する奉仕を続けている監督は,神の言葉に注意を向けることによって自分の霊性と教える能力の両方が向上したと感じました。こう書いています。「話をする時によい例えを用いることは有益ですが,聖書を読んで説明することはそれ以上に重要であると学びました」。

多くの生徒がこの学校に対する感謝の言葉を記しています。米国の兄弟はこう述べました。「エホバと組織がわたしたちを励まし,割り当てに備えさせてくださったことを考えると,感謝の気持ちでいっぱいです。これからもいっそうたゆむことなく,エホバの方法に対するより深い認識を抱き,エホバの貴重な羊をもっと愛して,奉仕を行ないたいと思います」。フランスの生徒はこう書きました。「この課程を通して,兄弟姉妹に愛をもって接することや,兄弟たちが喜びつつエホバへの奉仕を行なえるよう最善を尽くすことの必要性をつくづく感じました」。ポルトガルの旅行する監督の次の言葉は,多くの生徒の気持ちを代弁しています。「この学校は,これまでの私の神権的な歩みの中で最も報い豊かな経験でした」。

教訓者からは次のような言葉が寄せられています。「兄弟たちを教えるのは特権であり,重責でもあります。今後,彼らは大勢の兄弟姉妹の命にかかわる指導を与えてゆくのです。エホバの祝福によってこの学校の益がずっと続いてゆくことを確信しています」。―ヤコ 3:1

2004奉仕年度の終わりまでに,この学校は14の言語で開かれ,1,700人以上の旅行する監督が出席しました。2005奉仕年度も引き続き大きな支部で開かれます。

法律上の進展

2004年5月19日,フランスのストラスブールにあるヨーロッパ人権裁判所(ECHR)は,「ロッター 対 ブルガリア」事件の判決を下しました。宣教者だったエホバの証人のロッター夫妻は,宗教を理由に政府によってブルガリアから追放されることになったため,訴訟を起こしていました。ブルガリア当局は,原告に損害賠償金を支払うことに同意し,滞在許可無効の決定を取り消しました。さらに,ブルガリアにおけるエホバの証人の法的地位を認める明確な通知を出すことにも同意しました。エホバの証人は,1998年に正式に宗教として登録されていたのです。

ヨーロッパ人権裁判所は,2003年12月16日にセラフィーヌ・パラウ-マルティネスに有利な判決を下しました。6対1の評決で,フランスがパラウ-マルティネス姉妹の,家族に対する権利を侵害したと判断したのです。姉妹は,フランスの上訴審の判決によって二人の子どもの親権を失ったため,ヨーロッパ人権裁判所に訴えを起こしていました。上訴審の判決では,「エホバの証人の……子どもに課されている厳しくて狭量な子育ての規則に[この子どもたち]を従わせないこと」が最善である,とされたのです。ヨーロッパ人権裁判所は判決の中で,フランスの上訴審が子どもたちの本当の生活状態や最善の益を度外視して判決を下したこと,また,その判決が宗教上の差別に当たることを指摘しました。

グルジアのエホバの証人は,狂信者たちによって扇動された暴徒の襲撃に何年も耐えてきましたが,狂信者の一部が投獄され,平和のうちに「神と共に歩む」地域大会に出席することができました。そこでは大きな喜びを経験しました。「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」のグルジア語版が発表されたのです。また,2003年11月28日,グルジア法務省が,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会のグルジア支部の登録を認めました。1998年,グルジアの最高裁判所は当時エホバの証人が用いていた法人団体の認可を取り消す判決を下しましたが,今や新しい団体が正式に認可されたのです。兄弟たちは大喜びしました。

とはいえ,グルジアに関する幾つもの訴訟がヨーロッパ人権裁判所でなおも係争中です。それでも,この国の兄弟たちの状況が改善されつつあることを知るのは喜びです。

1990年以来,ドイツの兄弟たちは,公益法人に関する法律の下で宗教団体の登録がなかなかできませんでした。連邦行政裁判所はエホバの証人に対し,法の要求よりも高い基準の「カエサル」への忠節を求めましたが,連邦憲法裁判所はそれを違憲とし,再審理を行なうよう裁判を差し戻しました。(マル 12:17)連邦行政裁判所は,2004年3月25日に再審理を始め,血,子育て,排斥処置,中立に関するエホバの証人の見方を示す付加的な情報を請求しました。裁判長は,政府の関係する審理は統計や公文書などの信頼できる証拠に基づいていなければならず,インターネットからの疑わしい引用や,私的な悪感情を含む個人からの手紙などは論拠にならない,と述べました。

ギリシャの徴兵用紙の宗教選択欄には,「千年王国信奉者<キリアスト>もしくはエホバ信奉者」という項目がありました。ギリシャ支部は,その用語が軽蔑的であるとして,国防省に苦情の申し立てを行ないました。2004年3月24日,同省からエホバの証人に対して,何ら侮辱の意図はなかったこと,また「問題の表現を早急に訂正するべく,すでに事を進めていること」が書面で伝えられました。訂正された用紙には,「エホバのクリスチャン証人」となっています。

ペルーで,エホバの証人は長年,宗教として認められてきました。ところが1997年11月,教育省が,証人たちの文書に対する免税申請を却下し,税関での文書の受け取りに先立ってかなりの金額を要求したため,裁判所に提訴しました。2003年12月11日,裁判官はエホバの証人に有利な判決を下し,教育省の対応は「気まぐれで道理を欠いたものであり,理解に苦しむ」と断言しました。さらに,「当局者の取った行動は,差別的[かつ]侮辱的」とも述べました。文書の輸入に伴う問題はすぐに解決しました。

米国の自治領プエルトリコには,門や壁やセキュリティーシステムなどによってある地区を外部から遮断することを認める法律があります。そうした障壁によって野外の活動が制限されています。州警察は,伝道者たちをそのような地域から立ち退かせることまでしてきました。これまで,法廷外で問題の解決を図ろうとしてきましたが,うまくいきませんでした。現在,プエルトリコの連邦地方裁判所に提訴しており,その法律が違憲であるとともに,信教の自由と言論の自由の侵害に当たる,と裁定されることを求めています。判決はまだ出ていません。

2003年10月28日,ブカレストの上訴裁判所は,判決第1756号を出し,エホバの証人を認可宗教の課税調整リストに加えるようルーマニア政府に命じました。2004年2月6日,官報第112号は,「ルーマニアで正式に認可された宗教」のリストを掲載し,エホバの証人をそこに含めました。

2004年3月21日,大韓民国のソウル地方裁判所は,宗教上の理由で兵役を拒否したとして刑事責任を問われていた3人の兄弟に対し,無罪判決を言い渡しました。これは,この国の法廷が良心的拒否を市民の権利として認めた最初の例です。韓国では今も大勢の兄弟たちが,『剣をすきの刃に打ち変える』という“罪”のために投獄されています。(イザ 2:4)残念ながら,最高裁判所も憲法裁判所も,韓国の憲法が保障する信教の自由を適用して兄弟たちを擁護することを拒否しました。とはいえ,韓国の議会は最近,資格にかなう徴兵適齢者全員に一般市民的奉仕の機会を提供する法案を提出しました。―箴 21:1

「ものみの塔……対 ストラットン村」事件の裁判で米国最高裁判所が下した判決は,家から家の宣教を行なうエホバの証人にその後もよい影響を与えています。例えば米国ニューヨーク州のある地域の警察官は,公の宣教奉仕を行なう前に許可を取るようエホバの証人に求めていました。しかし警察署長は,その状況と最高裁の判決について知り,次のように書きました。「私としましては,今回の件で部下の取った行動を恥ずかしく思っております。ご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」。

イリノイ州のある村は,地元の警察署に対し,巡回に当たる警察官などに次のような通知を行なうよう指示しました。つまり,米国最高裁判所の判決により,「エホバの証人は戸別訪問を行なう前に許可を取る必要はない」ということです。さらに,「証人たちは,伝道に出かける際に我々に届け出る必要はない」ということも伝えられました。

2003年10月8日,アイオワ州の最高裁判所は,輸血拒否に関する訴訟でレスター・キャンベルに有利な判決を下しました。キャンベル兄弟は,書面と口頭で輸血拒否を指示したにもかかわらず術後に自己血を輸血されたため,損害賠償を求める訴えを起こしていました。事実審裁判所は外科医と病院側に有利な判決を下しましたが,アイオワ州最高裁判所はそれを覆し,本人の同意なしの輸血が標準医療に達していないと判断するのは医療専門家でなくレスター・キャンベル自身であるとの判決を下しました。そして,キャンベルへの損害賠償も命じました。

モスクワの禁令とその影響

2004年3月26日,ロシアのゴロビンスキー合同地方裁判所は,モスクワのエホバの証人の活動すべてを禁止し,法人団体を解散するとの判決を下しました。これに対して上訴が行なわれました。2004年6月16日,モスクワ市裁判所は下級審の判決を支持し,禁令および解散命令が法的効力を持つようになりました。兄弟たちはヨーロッパ人権裁判所に上訴し,禁令による数々の困難ゆえに早急に審理がなされることを希望しています。

とはいえ,禁令になっても兄弟たちの霊はくじかれていません。事実,多くの兄弟たちがエホバへの奉仕にさらに励むよう動かされています。その熱意は,パウロがローマでの投獄中に述べた次の言葉を思い起こさせます。「わたしに関することがかえって良いたよりの前進に役立つ結果とな(っています)」。―フィリ 1:12

例えば,2004年3月には,伝道者13万6,034人,聖書研究13万6,903件という新最高数を記録しました。研究の数が伝道者の数を上回ったのは,ここ7年間で初めてのことでした。さらに3月から6月にかけて,支部は1,000通を超える正規開拓奉仕の申し込みを受け取りました。そして,4月には新最高数の1万5,489人が正規開拓者として奉仕しました。支部の報告によると,「同様に6月16日の判決も,いっそう精力的に活動するよう兄弟たちを奮い立たせたにすぎません」。さらに,信者でない夫など他の人々も刺激を受け,クリスチャンの集会に出席するようになりました。

6月の判決が出た時,米国の一人の大学生が偶然ロシアにいました。支部の報告によると,この学生は,「実情についてさらに詳しく知るため,サンクトペテルブルク郊外にあるベテルまでわざわざ旅行し,施設の清潔さとそこで受けた歓迎に感銘を受けました」。この学生は,どうしてエホバの証人を禁令にするのだろうかと驚き,カリフォルニアに戻って宗教学の教授に見せるため出版物とビデオを求めました。

モスクワで大会が平和裏に行なわれる

上訴審による不利な判決が下される直前の6月11日から13日にかけて,二つの「神と共に歩む」地域大会がモスクワで開催されました。一つはロシア手話で行なわれました。当初,大会は審理の後に開かれる予定でしたが,支部委員会は裁判を延期させることができました。兄弟たちからの報告によれば,大会は順調に進み,市当局者も協力的でした。事実,スタジアムの入り口で務めに当たった警察官は上司から,「人々をスタジアムの中に誘導する時は,たばこと乱暴な言葉遣いは厳禁」と指示されていました。

モスクワの地下鉄でのこと,一人の男が,お金を盗んだとして姉妹たち数人のグループに不当な非難を浴びせ,警察署に同行するよう要求しました。警察署では,姉妹たちだけでなく“この派”の全員が盗みを働こうとして執ように混雑を引き起こしている,とも非難しました。それを聞いた警察官は,姉妹たちの方を向いて「あなた方はだれですか」と尋ねました。

姉妹たちは上着の襟につけたバッジを指差して,「エホバの証人で,大会に行くところです」と答えました。

警察官は男の方を向き「エホバの証人が盗みを働くことはない。この人たちに謝りなさい。君はこの人たちを侮辱したんだ」と言いました。それから警察官は,姉妹たちに「急いで大会に行ってください」と言い,男には「だが,君はここにいなさい。もう少し話を続けよう」と言いました。

スタジアムで開かれた大会の最高出席者数は,2万1,291人で,497人がバプテスマを受けました。王国会館で行なわれた手話大会には929人も集まり,19人がバプテスマを受けました。

ハイチでの試みに対処する

2004年,島国ハイチは,政情不安,暴動,生活必需品の不足,物価の高騰に苦しみました。さらに,5月の壊滅的な洪水で1,500人以上が死亡し,大勢の人が家を失いました。エホバの証人で犠牲になった人はいませんでしたが,何人かは家を含むすべての物を失いました。

それでも,兄弟たちはエホバの助けと導きを目の当たりにして,また統治体と世界中の兄弟姉妹から愛ある気遣いを示されて強められました。そのような愛は実際的な方法で示され,被災者に物資が供給されました。言うまでもなく,地元の兄弟たちも食料などの必要物を入手するために助け合いました。

ハイチ支部は,諸会衆に指示を与えるため事態の推移を見守りました。例えば,首都のポルトープランスで暴力行為がエスカレートしたため,支部委員会は,通常なら2月29日の日曜日に開かれる集会を1日早めるよう勧告しました。これは,実に賢明な勧めでした。まさにその日曜日,包囲状態に置かれていたハイチ大統領が辞任し,国外に脱出したのです。あるニュース報道は,「首都は混乱状態に陥り,至るところで銃声が響いています」と伝えました。支部はこう記しています。「こうした事態になるとはだれも予測していませんでした。その日曜日に集会を開くのは無理だったでしょう。兄弟たちを安全に保護してくださったことをエホバに感謝しています」。

一触即発の不穏なその期間,警察や反政府軍それに強盗が路上にバリケードを築き,政府は夜間外出禁止令を出しました。しかし諸会衆は,外出禁止令が出される前から,集会時間を調整して全員が暗くなる前に安全に帰宅できるようにしていました。報告によると,多くの会衆で集会の出席者数が増加しました。

兄弟たちは野外宣教にも忙しく携わり,区域の人々によい印象を与えました。「あなた方エホバの証人が普段どおり伝道しているのを見ると安心できます」と述べた人もいます。もちろん,伝道者たちは細心の注意を払い,安全に野外奉仕を行なえる場所について情報をやり取りしました。

クリスチャンであることが保護になる

ハイチ支部は,「兄弟たちの多くは,区域の人々によく知られ,政治に関与しないとの評判を得ていたので,暴行や略奪に遭わずに済みました」と書いています。例えば,ある宣教者夫婦は,武装した凶悪な強盗団に3か所のバリケードで呼び止められました。その夫婦は二つのことを行ないました。自分たちがエホバの証人であることを明らかにすることと祈りです。祈りは,無言でも声に出しても行ないました。どのバリケードでもだれかがこの二人の肩を持ち,エホバの証人はよい人たちで政治にはかかわらない,と言ってくれました。宣教者夫婦は安全に家に帰ることができました。

ベテル家族の成員が武装勢力に呼び止められることもありました。それらの兄弟たちも,宣教者夫婦がしたように,エホバの証人であることを明らかにして祈ったところ,同じような結果になりました。ある兄弟は強盗から,「ご無事で。我々のために祈ってほしい」と言われました。別のベテル奉仕者は警察の検問で止められ,武器を所持していないか車内を調べたいと言われました。兄弟が,「わたしが持っている武器は,聖書と『ものみの塔』誌と『目ざめよ!』誌だけです」と答えると,警察官はにこりとして車を出すよう合図しました。それ以後,警察官たちは遠くからその兄弟の車だと分かると,そのまま通行させてくれました。

支部からの報告によれば,続く何か月かの間,事態は幾らか落ち着きを見せました。それでも様々な問題が未解決のままで,緊張状態も続いたため,兄弟たちは引き続き注意深く行動しました。

能力の向上した米国の印刷施設

2002年,統治体の指示のもとに印刷業務がアフリカ,アジア,ヨーロッパ,北米,南米の五つの主な地区に分けて行なわれるようになりました。この取り決めにより米国を含む様々な支部の施設がもっと効率よく使用できるようになり,米国支部の仕事の負担が軽減されています。

米国の印刷,製本,発送業務のすべては,2004年にニューヨーク州のウォールキルに集められました。2002年8月6日,全体的な計画と構想が都市計画局に提出され,9月3日の公聴会を経て,最終的な認可が下りました。2002年10月5日に行なわれたペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の年次総会では,ウォールキルへの業務統合が統治体によって承認されたことが発表されました。2台の新しいマン・ローランド製リソマン輪転機が発注され,それを設置する建物を2004年2月までに建設することが計画されました。

どのようにしてこれほど巨大なプロジェクトをわずか14か月で完成させることができたのでしょうか。兄弟たちは,エホバが物事を導いてくださり,皆が進んで自らをささげるよう動機づけを与えてくださることに信頼を置きました。その信頼は確かに報われました。工事は2003年2月に始まり,印刷施設の増築は9月までに完成しました。12月,ウォールキルにあった3台の既存の印刷機のうち最初の1台が,新しい拡張部分に移設されました。2004年4月と5月には,2台の新しい印刷機が届き,6月と7月から生産が始まりました。全部で5台の印刷機は,9月にフル稼働態勢に入りました。

以前,製本部門は,ブルックリンのアダムズ通りにある3棟の建物群の11のフロアを占めていました。しかし今では,全ての製本設備がウォールキルの一つのフロアに設置されており,占有面積は58%減りました。2004年7月にペーパーバックの製本が始まりました。その月の後半には,堅表紙の最初の製品が新しい製本ラインから出てきました。その新たなラインは長さが400㍍余りあり,33台の機械が70のコンベヤーで結ばれています。人が本の折丁に触るのはラインの最初だけです。1分間に120冊の本を生産するこの堅表紙の製本ラインは,25人のオペレーターだけで動かすことができます。つまり,必要人数が66%減ったことになります。2004年10月には,製本部門全体もフル稼働態勢に入りました。

ウォールキルの新しい発送部門は,2004年11月より,コンピューター化された新しいシステムを用いて会衆からの文書依頼を処理しています。その設備は,以前のブルックリンのものに比べて占有面積が45%少なくて済みます。コンピューターが発送文書の量を見積もり,適当な大きさの箱を選択します。それぞれの依頼文書は,約800㍍のコンベヤーで所定の場所に運ばれ,そこで委託発送の準備が整えられます。車を横づけできるスペースもあり,地元の会衆が文書を取りに来られるようになっています。

ベテル奉仕者や一時的にベテルで働いた自発奉仕者,五つの州の地区建設委員会の指示の下にチームとして働いた兄弟たち,自営事業の機材や資材を寛大に提供した兄弟たちなど,このプロジェクトを援助してくださった大勢の兄弟姉妹に心からの感謝を申し上げます。そしてもちろん,金銭的に支援してくださった多くの『快く与える方々』にも感謝いたします。―コリ二 9:7,11

様変わりするブルックリン

印刷,製本,発送の仕事がウォールキルに移ったことにより,ブルックリン・ベテルは様変わりしました。2004年4月29日には,感動の伴う歴史的瞬間を迎えました。その日の夕方,歓声と涙の中,60年以上にわたり印刷施設の監督を務めてきたマックス・ラーソンがブルックリンの最後の印刷機のスイッチを切り,84年間途絶えることなく行なわれてきたブルックリンでの印刷業務にピリオドを打ちました。数週間後には製本の仕事も終了しました。

こうした調整によってブルックリンでの必要床面積がかなり減ることを踏まえ,統治体は,2003年6月,ファーマン通り360番の建物を売却する予定であることを発表しました。2004年6月18日金曜日に契約が成立しました。床面積が9万3,000平方㍍もあるその建物に入っていた洗濯室や事務所,種々の作業場は,アダムズ通り117番の建物群の空いたスペースに移されています。

さらにコロンビア・ハイツ107番の建物では,現在大がかりな改装を行なっています。宿舎部分は2005年の後半までに,そしてプロジェクト全体は2006年9月までに完成する予定です。改装後の建物にはベテル家族の成員300人余りが住めるようになり,売店や王国会館,図書室,ロビー,事務所,個人用洗濯室,新しい庭も備えられます。

世界的な増加に備える

ブラジル英国日本メキシコ南アフリカにも新しいマン・ローランド製リソマン印刷機が導入されました。この新しい機械はまず,2003年7月に英国支部に設置され,10月から生産が始まりました。1日に雑誌を75万冊,2交替制の場合は150万冊印刷することができます。以前の印刷機のほぼ3倍の生産量です。

この新しい印刷機は,聖書や他の出版物の折丁も印刷することができます。例えば南アフリカ支部では,南アフリカで話されているセソト語の「新世界訳」の折丁がすでに印刷されています。日本支部の報告では,以前,書籍の生産の際,小型版から大型版へ移行するのに丸1日を要していましたが,今では1時間でできます。また,100万部のパンフレットを生産するのに10日かかっていましたが,現在はわずか5時間で行なえます。日本のこの印刷機は,最初の3か月間でパンフレットを1,200万部,雑誌とブロシュアーを1,200万冊,書籍を24万冊,聖書を4万8,000冊印刷しました。

印刷された物は,自動化された他の新しい機械によって断裁,カウント,積み重ね,ラベル張り,包装が行なわれます。印刷用の版は,CTP(computer to plate)と呼ばれる技術によって以前よりも効率よく正確に作られています。この方法はフィルム出力を必要としないため,作業工程を一つ減らすことができます。英国支部の報告によると,こうした改良により,生産力が向上しただけでなく,必要人数を減らすこともできています。

ドイツへ行って訓練を受ける

六つの支部の兄弟たちが,印刷の訓練のためにドイツのマン・ローランド社へ行きました。同社の指導員たちは,エホバの証人ではない印刷業者を訓練してきた経験から,兄弟たちもいくぶん休暇気分でいるのだろうと考えていました。ですから,兄弟たちの真剣な態度には驚くとともに感銘を受けました。実際,兄弟たちは,この訓練でなるべく多くを学ぶため,始業時間を早めて終業時間を遅くすることを求めたのです。

訓練を受けた兄弟たちの中には,語学力が課題だった人もいました。口頭の指導も機械のマニュアルも英語だったからです。日本から派遣された兄弟たちはそのことを見越し,ドイツへ行く前に一生懸命勉強して英語力を磨きました。一時的に英語会衆へ移動した人も少なくありません。

ベテル奉仕者の優れた証言

その後,印刷機が支部に届くと,マン社のエンジニアがベテルの作業者の協力を受けながら機械の組み立てを行ないました。六つの支部すべてにおいて,ベテルの幸福で健全な雰囲気が,エホバの証人ではない業者の人たちによい感化を与えました。ロンドンでの設置に携わった一人の男性は兄弟たちにこう言いました。「昨日の夜,家に帰ると,隣の家の人に庭で会ったよ。これまで絶対に好きになれなかったのに,昨晩20分ほど話してみたら,なかなかいいやつだった」。この技術者は,妻が自分の態度やそぶりの変化に気づいたことについても話しました。妻は言いました。「あなた,愛想がよくなったわよ。笑っているし,他の人にあいさつしているじゃない」。

それに対して技術者はこう答えました。「エホバの証人と6週間一緒に働いているんだ。ここ2週間は汚い言葉を一度も使ってないし,できるなら二度と使いたくないね」。

ロンドン支部での設置作業が完了した時,マン社の重役は,電話を通して,社員への待遇に対する感謝を兄弟たちに伝えました。そして,申し分のない設置作業だった,と述べました。

支部によっては,新しい機械の設置作業を行なう人たちのため,現場に食堂が設けられました。多くの人,特にエホバの証人ではない人にとって,服装のきちんとしたウエーターに給仕されながら食事をするのは,経験のないことでした。日本のある技術者は,日本支部にあるような清潔で整頓された印刷施設を見たことがありませんでした。それで,「ここほどすばらしい仕事場は,世界中でほかにありません」と述べました。さらに兄弟たちの正直さにも感心しました。他の場所では,盗難の心配をせずに自分の工具を置いたままにすることなど,決してできないことなのです。エホバの証人についてもっと知りたいと思ったこの人は,出版物を幾らか受け取り,支部を見学しました。

メキシコの兄弟は,マン社の技術者を記念式に招待しました。4人が応じましたが,いずれもふさわしい服を持っていませんでした。4人がスーツを買いたいと言ったので,一人のベテル奉仕者が買い物に連れて行きました。さらに兄弟たちは4人に聖書を渡し,記念式の話のあいだも聖句を見つけるのを助けました。集会後,技術者たちが写真を取り,とてもにこやかな表情をしていたので,会衆の多くの人は4人をドイツのベテル奉仕者だと思いました。

どの支部でも,地元の建設業者や納入業者にも優れた証言がなされました。米国の請負業者の一人はこう書きました。「皆さんの組織,とりわけ人々のすばらしさにたいへん感銘を受けました。これより楽しかった建設プロジェクトは,これまでなかったと思います。皆さんの組織は,人類の将来に対する希望を与えてくれます。熱意や気遣いといったものを瓶詰めにして売り出せるとしたら,皆さんは間違いなくだれもが飛びつく商品を生産することになるでしょう」。

メキシコの新しい印刷機のためにダクトの納品に来た男性は,支部の穏やかな雰囲気に感心しました。この人はたくさんの質問をし,今では本人も家族も聖書を勉強してよい進歩を示しています。地元の建設業者の監督は,少し変わったことを要求しました。「普通なら,仕事への感謝としてチップをもらうのですが,代わりにわたしたち一人一人に聖書をいただけないでしょうか。ここで目にしたことからして,聖書の知識はお金よりもずっと価値があると思います」。

インド支部の献堂式

「2003年12月7日,ついに待望の日を迎えました」と,インド支部は報告しています。「南インド中央のバンガロールに新しく建設された支部が献堂されたのです」。

17ヘクタールの敷地に立つ総面積3ヘクタールの建物群は,まるで小さな町のようです。大きな支部としては世界で初めて一般の業者によって建設され,敷地内には飲料水用の浄水施設や下水処理施設,発電施設もあります。建物群には122のオフィスがあり,そのうち80は翻訳者用です。ほかに,魅力的な王国会館と大きな印刷施設もあります。宿舎棟には,快適な部屋,洗濯室,食堂,設備の整った厨房があります。今回の建設プロジェクト全体は,地元の資材を最大限に活用して進められ,2年で完成しました。

インドにおける王国の業は1905年に始まりました。現在,翻訳と印刷の仕事がインドの26の言語で行なわれています。献堂式では,何十年もインドで奉仕をしてきた宣教者たちが励みとなる経験を語り,統治体の成員のスティーブン・レットが献堂の話を行ないました。出席した2,933人の中には,25の国から来た150人の訪問者も含まれていました。

フィリピン支部の献堂式

「我々も,ものみの塔のように仕上げたいものだ」。これは,エホバの証人ではないマニラの建設作業者たちが,フィリピン支部の建物の見事な出来栄えを見て述べた言葉です。事実,建築基準に関するドキュメンタリーを制作していたあるテレビ局のスタッフは,同市の技師を訪ねたところ,「建築基準に厳密に従っている建物を見たければ,ものみの塔に行くといい」と言われました。

兄弟たちは,10階建ての宿舎棟と幾つかの建物を新たに建設し,1991年に建てられた10階建ての既存の宿舎棟の改装工事も行ないました。なぜ拡張する必要があったのでしょうか。1991年から2003年にかけて伝道者数が3万4,000人増加して14万4,000人を超え,王国伝道者の新最高数に達していたからです。

献堂式は2003年11月1日に行なわれました。晴れ渡ったその土曜日の午前中,ベテル家族,元宣教者,13か国からの海外ゲスト,フィリピン国内の2,000人を超える兄弟姉妹たちを合わせた2,540人が出席しました。スティーブン・レットが,「過去と現在のエホバの崇拝の家に対する認識を深める」という主題で話を行ないました。次の日には,地元の開拓者と,長老とその妻を合わせた8,151人の群衆が,マニラ首都圏の大会ホールで提供された特別プログラムを楽しみました。

世界中にあるこのような支部施設では,2万92人の叙任された奉仕者たちが働いています。これらの奉仕者は皆,世界的なエホバの証人の特別全時間奉仕者団の一員です。

[21,22ページの囲み記事]

白昼の誘拐

2004年3月19日金曜日の真昼に,20歳のエホバの証人カールは,ハイチのペションビルのにぎやかな通りを歩いていました。突然,武装した黒装束の男たちに無理やり小型トラックに押し込められ,頭に覆いをかぶせられたかと思うと猛スピードで連れ去られてしまいました。カールは次のように語っています。

トラックから降りると,ある部屋に連れて行かれました。そこには,ほかにも連れ去られてきた人たちがおり,どうやら政治運動への参加を疑われている大学生のようでした。誘拐犯の男たちはいよいよ攻撃的になり,立て続けに銃を発射して人質の一人を殺しました。犠牲になった人の頭がわたしの足に触れるのを感じました。次に男たちは,わたしに対する尋問と脅迫を始めました。いらだった彼らはわたしを殴り,先ほど殺された男の上に投げ飛ばしました。

リーダーが,「おれたちの質問に答えろ!」と迫りました。

「そう言われても政治のことは何も分かりません」と,わたしは答えました。

「じゃあ,お前を今すぐ殺してやる!」と,リーダーは怒鳴りました。

「その前に,どうかわたしの神に,エホバに祈らせてください。両親と兄弟たちを助けてくださるようお願いさせてください。わたしとはもう会えなくなるんです」とお願いしました。

リーダーは,「さっさと済ませろ! 急いでるんだ」と吐き捨てるように言いました。

声に出して祈っている間に,彼は部屋から出て行きました。彼が戻ってきた時,わたしは,『さあカール,死ぬ覚悟を』と自分に言い聞かせていました。すると驚くべきことが生じました。

「お前はカールか。姓は何々か」と尋ねてきたのです。

わたしの名前を知っていることを不思議に思いながらも,「そうです」と答えました。

リーダーは,何度かわたしの車に乗せてもらったことがあると話し,わたしがだれだか分かった今,傷つけることはできない,と言いました。わたしの頭には覆いがかぶせられていましたが,祈りの中でわたしが述べたことからわたしのことを識別できたようです。彼は再び部屋を出て行き,仲間と激しいやり取りをしました。ようやく一人がわたしを小型トラックに乗せて走り出し,最後にわたしを路上に押し出しました。とても恐ろしい経験でしたが,エホバと祈りの力に対する信仰がたいへん強まりました。

[12,13ページの図表/図版]

2004奉仕年度の出来事

2003年9月1日

9月: 2004奉仕年度中,88の支部で旅行する監督のための学校が開かれる。

10月: 英国支部でマン・ローランド製リソマン印刷機による生産が始まる。

10月28日: ルーマニアの裁判所が,認可宗教の課税調整リストにエホバの証人を加えるように,との判決を下す。

11月1日: フィリピン支部の献堂式。

11月28日: グルジアの法務省がエホバの証人の支部事務所を登録する。

12月7日: インド支部の献堂式。

2004年1月1日

3月26日: ゴロビンスキーの裁判所がモスクワのエホバの証人の活動を禁止する判決を下す。これに対し上訴が行なわれる。

4月: ロシアの正規開拓者数が1万5,489人の新最高数を記録。

4月29日: 84年間途絶えることなく印刷を続けてきたブルックリンの印刷施設が操業を終える。新しい印刷施設はウォールキルに。

2004年5月1日

5月: 政情不安の中,ハイチは壊滅的な洪水に見舞われるが,兄弟たちで犠牲になった人はいない。

6月16日: モスクワ市裁判所が3月26日の判決を支持する。これにより禁令と解散命令が法的効力を持つようになる。ヨーロッパ人権裁判所に上訴が行なわれる。

2004年8月31日

[11ページの図版]

「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」のグルジア語版が発表される

[27ページの図版]

米国ニューヨーク州ウォールキルで2台の新しいマン印刷機のうちの1台を動かす兄弟たち

[29ページの図版]

インドのバンガロールにある,最近献堂された支部

[30ページの図版]

拡張されたフィリピン支部