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ザンビア

ザンビア

ザンビア

アフリカは,刺繍の施された巨大な衣のようです。白い砂浜の地中海沿岸から,黄金色のサハラ砂漠やエメラルド色の森林地帯を経て,風が吹きすさび白波が立つ喜望峰に至るまで,この大陸には世界人口の10分の1に当たる人々が住んでいます。ナイル川,ニジェール川,コンゴ川,ザンベジ川といった多くの河川がこの大陸を縫って流れています。内陸の地下深くには,大量の金や銅や宝石が眠っています。

熱帯雨林の生い茂るコンゴ盆地がせり上がって,緩やかな起伏のサバンナと出合う場所に中央アフリカ高原があります。そこに位置しているのがザンビアです。この国は,羽根の大きさの異なる巨大な蝶が地図の上に止まっているように見える,と言う人もいます。国境線は,植民地時代の名残で変わった形をしています。国土面積は75万平方㌔余りで,日本の約2倍の広さです。

現在ザンビアと呼ばれる地域の北東部には大地溝帯があり,西部から南部にかけては大河ザンベジが流れています。この国は19世紀末まで,金や象牙や奴隷を目当てにアフリカで略奪行為を働いていた外国人とは無縁の場所でした。1855年,スコットランド人の工場労働者の息子で探検家のデービッド・リビングストンが,「雷鳴とどろく水煙」のかなたの地を世界に紹介しました。リビングストンは,後に英国のビクトリア女王に敬意を表してこの瀑布をビクトリア滝と呼びました。

その後まもなく,「キリスト教,通商,文明」の普及を目指すキリスト教世界の宣教師たちが,アフリカ大陸の中央部を開拓しにやって来ました。宣教師の取った方法は多くの場合,自分たちの布教活動を推奨するものとはなりませんでした。しかし,神の助けによって自らを神の奉仕者として真に推薦できる人々が来ようとしていました。―コリ二 6:3-10

初期の時代

1890年までに五つの伝道協会が,現在ザンビアと呼ばれる地域で活動を始めていました。20世紀初頭,植民地勢力の拡大と営利企業の進出によって,アフリカ人は苦境に立たされ,ますます多くの人が導きを求めるようになりました。アフリカの各地で,風変わりで奇妙な宗教運動が出現しました。しかし,真の霊的助けを得られる時が目前に迫っていました。早くも1911年,ザンビアに住む心の正直な人々が「聖書研究」の双書を手に入れました。そこに収められていた聖書の真理はすぐに北方にも広まりましたが,音信を伝えたのは必ずしも,神に仕えることに誠実な関心を抱く人々ではありませんでした。

1910年,当時王国伝道の業を監督していたチャールズ・テイズ・ラッセルは,ニアサランド(現在のマラウイ)の兄弟たちを援助するためにウィリアム・W・ジョンストン兄弟を遣わしました。兄弟はスコットランドのグラスゴー出身で,分別のある,信頼できる人でした。残念ながら,それ以前に派遣された幾人かの人は,現地出身者も外国人も,利己的な関心事を求めて聖書の真理をゆがめてしまいました。実際その後も,説教師や牧師を自任する人たちが北ローデシア(現在のザンビア)にやって来て,宗教と解放の約束,そして汚れた慣行を織り交ぜた,刺激的な教えを広めました。ジョンストン兄弟は,ニアサランドの人々について,「神のみことばに精通したいという強い願いにあふれている」と述べ,人々を援助しましたが,現在のザンビアに当たる西方の地域にはあまり注意が向けられませんでした。その当時,聖書に基づく出版物は郵便や季節労働者によって北ローデシアに入ってきてはいましたが,王国を宣べ伝える業はほとんど監督されていませんでした。

混乱期

1920年代初めは混乱の時期でした。神の僕たちが行なっていた真のクリスチャン宣教は,地元の“ものみの塔運動”のせいで疑いの目で見られるようになりました。妻の交換や他の悪行にかかわっている人たちのいることが知られていました。それは,聖書の真理をほとんど理解しておらず,聖書研究者 ― エホバの証人はそう呼ばれていた ― と交わっているとの虚偽の主張をしていた人たちでした。とはいえ,聖書の原則に誠実に従い,熱心に伝道を行なって真理を実践しているグループも数多くあったようです。

問題は,神に仕えることに誠実な関心を抱いている人々を見分けることでした。1924年,英国人のトマス・ワルダーとジョージ・フィリップスは南アフリカにある聖書研究者のケープタウン事務所に到着しました。30代初めのワルダー兄弟は,「ものみの塔」の名称と関連のある人たちを特定するため南北ローデシアの各地を旅行しました。翌年,ヨーロッパ出身のウィリアム・ドーソンが,拡大していた幾つものグループを訪問するよう割り当てられました。兄弟は,牧師と唱える人たちが大勢の人にバプテスマを施していることを知りました。バプテスマを受けたほとんどの人は,聖書の真理を理解しておらず,認識もありませんでした。レウェリン・フィリップス(ジョージ・フィリップスの親族ではない)は後にこう書いています。「ほとんどの人が『右も左もわきまえない』ニネベの人々のようであることが極めて明白になりました」。(ヨナ 4:11)多くの人は誠実でしたが,現地語の出版物はほとんどなかったので,真理を理解するのが困難でした。業を継続的に監督するための認可を政府から得ようとして繰り返し努力が払われましたが,うまくいかなかったため,公の伝道活動とバプテスマを取りやめる決定がケープタウン事務所によってなされました。ワルダー兄弟は,聖書研究者の常任代表が任命されるまでこの一時的な取り決めに協力するよう,関心を持つ人々のグループに手紙を書き送りました。もっとも,聖書研究や崇拝のために集まり合うことをやめるように勧めたわけではありませんでした。

鉄道に沿って

何世紀ものあいだ地元の人々は,地表近くで採れる銅を用いて道具や装飾品などを作っていました。1920年代半ば,その地域を支配し,採掘権も握っていたイギリス南アフリカ会社が巨大な地下鉱脈の採掘に取りかかり,労働者が必要になりました。当初ケープタウンからカイロまで延びる予定だった鉄道の沿線に都市や町ができ,農村部から大勢の人たちが押し寄せました。

ジェームズ・ルカ・ムワンゴはこう述べています。「当時,会と呼ばれていた会衆は,現在の組織とは大きく異なっていました。1930年よりも前,聖書研究のための集会は小さなグループで行なわれていました。関心のある人の中には,ケープタウン事務所と連絡を取る人たちもいれば,直接ブルックリンに文書を依頼する人たちもいました。文書は英語だったため,多くの人にとって真理を正しく理解するのは困難でした」。グループはたいてい少人数でしたが,進歩しており,組織的な伝道活動を行ないたいという熱意や決意が強まっていました。それは,キリスト教世界の僧職者たちの目に留まらずにはすみませんでした。

弾圧運動

影響力の強い幾つもの宗教団体は以前から,北ローデシアの刑法の修正を強く求めていました。そして1935年5月,いわゆる扇動的な文書の輸入と配布が重罪となりました。何が扇動的または破壊的かを決める人々は,自らの政治的,宗教的信念に影響されるものです。その後の出来事からも分かるとおり,反対者たちがエホバの証人の活動を禁止する口実を見つけようとしていたことに疑いの余地はありませんでした。

新税導入に関する告示がきっかけとなってあちこちの鉱山で暴動が起きた時,反対者たちは,証人たちに反政府のレッテルを貼る絶好の機会と考えました。その月のそれ以前に証人たちはルサカで大会を開いていました。反対者たちは,その小規模な大会と300㌔余り北で生じた暴動とは何らかの関係がある,と主張したようです。当時まだ若かったトムソン・カンガレはこう語っています。「面倒なことが起こりそうだったので,伝道を控えて,屋内で王国の歌を練習することにしました。わたしたちは,ストライキや暴力行為に加わるべきではないことを知っていました」。しかし兄弟たちは次々に逮捕されました。多くの町で,家を追われ,聖書文書を押収されたり破棄されたりしました。総督は,証人たちの文書の20種類に対する禁止命令を出しました。

暴動の真相を究明するための調査委員会が設けられました。主な被害を受けた地域の行政長官は,「エホバの証人と組織としてのものみの塔そのものはストライキに全く加担しなかった」ことを認めました。エホバの証人はだれ一人として,暴動にはかかわっていませんでした。ところが,「コッパーベルトのクリスチャン」(英語)という本にはこうあります。「調査委員会は……非常に薄弱な証拠に基づく数々の重大な申し立てをうのみにした。その報告書がもとでエホバの証人の文書が禁止された。幾つかの地域で,[部族の]首長が激しい弾圧運動を推し進め,ものみの塔の集会所を焼き払った」。

一方,ケープタウン事務所は,証人たちが「妨害を受けずに自らの良心に従ってエホバ神を崇拝する天与の権利を行使することが許される」よう,繰り返し英国の植民地大臣に請願しました。常設の事務所を持ち,そこに代表者を置きたいとの請願もなされました。エホバは努力を祝福してくださいました。1936年3月,植民地大臣は,レウェリン・フィリップスを代表とする文書集積所をルサカに開設することを許可したのです。

四つの要求

ルサカの文書集積所の開設は,特筆すべき勝利となりました。とはいえ総督は,諸会衆に対して組織立った監督がなされているという明白な証拠が示されるまで,エホバの証人を宗教団体として法的に認可することを控えました。その後幾年にもわたってフィリップス兄弟は,誠実な人たちを援助して強めるため,また非聖書的な慣行を広める人々を排除するため,忠実な兄弟たちと共に精力的に働きました。開拓者たちは,教理や道徳や組織に関する事柄において訓練を受け,群れや会衆を援助するために出かけて行きました。

一人の兄弟はこの時期についてこう語っています。「ザンビアの奉仕者たちにとって,1940年は最良の年でした。1925年以降中止されていたバプテスマが,この年に再開されたのです」。

ジェームズ・ムワンゴはこう述べています。「聖書研究生は,バプテスマを認められる前に“四つの要求”と呼ばれるものを学ぶことが必要になりました。そのうえで,バプテスマを施す人か,会の僕に指名された兄弟から,それぞれの要求の意味について質問されるのです。最初の要求は真理を聞くこと,2番目は悔い改め,3番目は神の言葉を学ぶこと,そして4番目は献身です。四つの要求を正しく理解しているならバプテスマを受けることができました。この手順は,浸礼を受ける人がその意味を本当に認識しているかどうかを確認するために取り入れられました」。

文書が禁止される

特に第二次世界大戦中,政府高官は証人たちの中立の立場を,新兵を徴募する政策への反対と誤解しました。1940年12月,禁止命令は,エホバの証人が発行するすべての出版物に適用され,輸入も禁止されました。1941年の春,政府は,ものみの塔の出版物を所持している人はそれを引き渡すように,さもなければ起訴され,場合によっては投獄される,と通告しました。

旅行する監督として奉仕し,後にギレアデ学校に出席したソロモン・リャンベラは次のように言います。「文書をザンベジ川に浮かべたカヌーに隠しました。書籍をベッドの裏に縛り付けたり,ひき割りトウモロコシや雑穀の中に隠したりもしました」。

別の兄弟はこう言います。「書籍を地中に埋めなければなりませんでした。でも,わたしたちが非常に大切にしていた『ベレア人聖書』は,禁止されなかったので隠す必要はありませんでした。シロアリに食われたり泥棒に盗まれたりして,たくさんの書籍を失いました。わたしたちがよく書籍の埋めてある場所へ行ったので,泥棒は何か高価な物が埋まっていると思ったようです。ある日,研究をしようと茂みの中に入ると,書籍がそこらじゅうに散らばっていました。わたしたちは拾い集めて別の場所にまた埋めました」。

レウェリン・フィリップスは大胆にも,文書の禁止命令に抗議する手紙を総督に書き送りました。兄弟はその年に,兵役を拒否したため一度投獄されていましたが,さらに6か月の刑に処されました。ルサカの文書集積所で一時的に働いた一人の奉仕者は,「犯罪捜査局の捜査官が何度もやって来ましたし,フィリップス兄弟はたびたび警察署に呼び出されていました」と言います。それでも,フィリップス兄弟は諸会衆に秩序を築き,熱心さを鼓舞するために努力し続けました。有能な兄弟たちを用いることができるようになると,その人たちは訓練を受け,兄弟たちの僕,すなわち旅行する奉仕者として遣わされました。これらの兄弟たちの助けにより,伝道者は1943年に3,409人という最高数に達しました。

より大きな自由への着実な進展

戦後,英国および南アフリカのエホバの証人の支部事務所は,ロンドンの植民地省に文書を法的に認可してほしいと繰り返し請願しました。植民地政府は,エホバの証人の教育活動を支持する4万人余りの署名の付された請願書を受け取ると,幾つかの品目に対する禁止処分を取り消しました。しかし,「ものみの塔」誌は禁止されたままでした。

1948年1月,ブルックリンのエホバの証人の本部からネイサン・ノアとミルトン・ヘンシェルが初めてこの国を訪れ,ルサカで開かれた4日間の大会に出席しました。二人はその後,国務大臣と法務長官に会見し,残りの制限も間もなく解除されると告げられました。たいへん喜ばしいことに,エホバの民の活動がついに法的に認可され,1948年9月1日には,ものみの塔協会ではなくエホバの証人の名称で新しい支部事務所が開設されました。当局者や住民また兄弟たちでさえ,これでエホバの証人と,“ものみの塔”を名乗る地元の宗派の支持者との違いがはっきりすると思いました。

それに先立つ40年間,キリストの弟子を作ることにほとんど関心を示さなかった宗教上の反対者たちは,良いたよりを聴く人たちの信仰を覆すことに努力を傾けていました。「人を欺く者」と誤り伝えられていたエホバの証人は,神の真実の奉仕者としての立場を確立することに努めた時期もありました。(コリ二 6:8)戦争が終わった今,これからの自由を楽しみにしつつ,予想される増加に対応するための胸の躍るような取り決めを実施しました。

宣教者奉仕

長年ザンビアで奉仕したイアン(ジョン)・ファーガソンはこう語ります。「宣教者奉仕で経験できる報いの一つは,エホバがご自分の目的を成し遂げるうえで,あらゆる人々をどのようにお用いになるかを目撃できることです。霊的に助けられた人が感謝の気持ちを表わすのを見るのも喜びです」。他の宗教の宣教師は多くの場合,社会問題や経済問題に注意を向けますが,エホバの証人の宣教者はキリストの弟子を作る活動に専念しています。神からのこの任務を果たす際に,宣教者たちは「偽善のない愛」を抱いていることを示してきました。―コリ二 6:6

宣教者精神を発揮した人々の中に,ウィリアム・ジョンストンがいます。ジョンストンは,第一次世界大戦が勃発する数年前にアフリカ南部に来て,広く各地に足を運びました。ピート・デ・ヤヘルやパリー・ウィリアムズなどの人たちは,1921年初頭にザンビアの隣国である南ローデシア(現在のジンバブエ)の首都ソールズベリー(現在のハラレ)にまで行きました。1920年代の半ばには,ジョージ・フィリップス,トマス・ワルダー,ウィリアム・ドーソンが北ローデシアに注意を向けます。また,北ローデシア出身者の中にも,国外で働いていた時に聖書研究者と出会い,「良い事柄についての良いたより」を広めるために故国に戻った人たちもいます。(ロマ 10:15)マナッセ・ンコマとオリバー・カブンゴは初期の時代に良いたよりを広める点で大きな役割を果たしました。ザンビア出身のジョセフ・ムレンワは,ジンバブエ北部のウォンキー(現在のフワンゲ)にある炭鉱で音信を聞き,後にザンビア西部で忠実に奉仕しました。フレッド・カボンボはその地方で最初の旅行する監督として奉仕しました。これらの兄弟たちは,良いたよりの伝道がほとんどあるいは全く行なわれていない地域へ赴き,将来の拡大のための堅固な土台を据え,名実ともに開拓者<パイオニア>となりました。

第二次世界大戦の終結が近づくと,南アフリカ出身のチャールズ・ホリデイは,ケープタウン事務所のジョージ・フィリップスからの要請に応じ,西部州にある関心を持つ人たちの群れを幾つか訪問しました。ホリデイ兄弟は通訳を務める地元の兄弟を伴い,森林鉄道やカヌーやトロッコで移動しました。ビクトリア滝の北約250㌔のセナンガという小さな町に着くと,大勢の人から歓迎を受けました。聖書の真理の説明を聞きたくて幾日もかけてやって来た人たちもいました。

ギレアデの宣教者たちが到着する

1948年には,二人の宣教者ハリー・アーノットとイアン・ファーガソンがザンビアに到着しました。銅鉱山事業に関連して移転してきていた大勢のヨーロッパ人にも注意が向けられるようになり,胸の躍るような反応が見られました。その年,野外宣教に活発に携わる証人たちの数は61%も増加したのです。

多くの場所では,宣教者が聖書研究希望者の順番待ちリストを持っているということがよくありました。支部事務所は10年落ちの小型バンを購入し,旅行する監督として奉仕していた二人の宣教者が遠隔地へ行くのに用いました。「その車はよく働いてくれましたが,タイヤ3本で,あるいは車体の半分を引きずりながら支部に戻って来ることもありました」と,支部の報告は述べています。

1951年には,国内で6人の宣教者が奉仕していました。1953年12月,さらに6人の宣教者が到着します。これらの宣教者たちも人々を助けたいという願いを抱いていました。その中に,バロラ・マイルズとジョン・マイルズがいます。二人はザンビアで6年間奉仕し,その後ジンバブエへ,次いでレソトへ派遣されました。それから何年かの間に,さらに多くの宣教者が来ました。ジョセフ・ホリラク,ジョン・レントンとイアン・レントン,ユージーン・キナシュク,ポール・オンデイコ,ピーター・パリサーとビアラ・パリサー,エイビス・モーガンなども皆,愛のこもった努力を払いました。もちろん,この特別な奉仕において成果を得るには,犠牲を払い,調整を図る必要もありました。

「まだ子どもじゃない」

「まさかと思いました」。任命地がザンビアだと聞いた時の気持ちをウェイン・ジョンソンはこう語っています。ギレアデ第36期卒業生であるウェインは1962年初頭,アール・アーチボルドと共にザンビアに来ました。現在はカナダで妻のグレースと共に旅行する奉仕を行なっているウェインは,当時を思い出してこう述べます。「わたしはまだ24歳で,しかも年齢より若く見えました。ニャンジャ語[チェワ語とも呼ばれる]を学んでいたので,姉妹たちがわたしを最初に見たとき,『アカリ ムワナ』つまり『まだ子どもじゃない』とひそひそ話しているのが分かりました。

「エホバとその組織に全く依り頼まなければならないことに気づきました。わたしが使徒 16章4節の趣旨に沿って,エホバとその組織からの指示や情報を伝えているに過ぎないということをみんなに知ってもらいたいと思いました。わたしはまた,人々に受け入れられる仕方で行動するようにも努めました。当時を振り返ると,あれほど大きな特権をいただけたことを今でも不思議に思います」。

国外追放

1960年代と1970年代は変化の時期でした。時おり全土で迫害が生じました。1964年にザンビアが独立すると,兄弟たちは国旗敬礼や国歌の問題に関連してさらに多くの困難に直面しました。1960年代の終わりごろ,一部の政治家は,宣教者の及ぼす影響を政府の目標推進の妨げとみなしました。支部の報告はどんなことが起きたかを説明しています。「1968年1月20日の早朝,英語会衆の監督たちから次々と支部事務所に電話がかかってきました。退去命令を受けたとの知らせでした。ほとんどの英語会衆の監督たちが退去を命じられたのです。妙なことに,外国人のエホバの証人だけではなく,ザンビア人も対象になったのです。ジョージ・モートンとアイザック・チプングもそこに含まれていました」。

事態は急速に展開しました。その日の午前10時,入国管理官たちが5組の宣教者夫婦への退去命令書を携えて,支部事務所にやって来ました。宣教者のフランク・ルイスはこう言います。「気がつくと,玄関に入国管理官が幾人か立っていました。以前から,禁令が出された場合に行なうべき事柄が決まっていました。まず,事務所で働く宣教者の兄弟たちが裏口から出てある兄弟の家へ行き,それから決められた事柄が実行に移されることになっていました。ところが,宣教者の姉妹の一人が重いマラリアにかかって2階で寝ていたので,わたしたちは出て行くのをためらっていました。地元の兄弟たちは,姉妹のお世話はわたしたちがしますので行ってください,としきりに勧めました。兄弟たちがそうしてくれることは分かっていました。

「タイムズ・オブ・ザンビア紙は,わたしたちをものみの塔と呼び,『ものみの塔は禁止。“指導者たち”は潜伏中』と書き立てました。それを読んだ時,不思議な気持ちがしました。新聞の第1面にわたしたちの名前が載っていました。当局が一軒一軒,家宅捜索を行なっているとも書かれていました。事務所に残った地元の兄弟たちは申し分なく行動し,書類や文書をいろいろな場所に移しました。その作業が済み,翌日わたしたちは当局の求めに応じるため支部に戻りました」。

支部事務所に警察官が配置され,間もなく何人かの宣教者と他の外国籍の人たちに退去命令が出されました。ルイス兄弟はこのように言います。「わたしたちは退去させられる最後のグループに入っていました。わたしたちに別れを言い握手をするためだけに,面識のない姉妹たちが子どもと一緒にカルルシから25㌔も歩いてやって来たのです。その姉妹たちの姿を思い浮かべると,今でも胸がいっぱいになります」。

国外追放第2波

年月は流れます。1975年のある日のことです。現在ザンビアの支部委員会で奉仕しているアルバート・ムソンダは当時22歳で,ベテルの会計部門で働いていました。その日,突然警察がやって来ました。「警察は宣教者たちに,2日以内に国外へ出るよう命じました」と兄弟は言います。

ジョン・ジェーソンはこう述べます。「1975年12月に,36時間以内に国外へ退去するよう命じる短い手紙が入国管理局から届きました」。弁護士を通じて訴えがなされ,期限が延長されたので,宣教者は幾らか荷物をまとめることができました。「その後,深く愛するようになった人たちとお別れをしなければなりませんでした」。

アルバートの妻ダイレスはその時のことをこう語っています。「わたしたちは兄弟たちをサウスダウン空港へ送り届け,お見送りをしました。ジョン・ジェーソン兄弟はケニアへ,イアン・ファーガソン兄弟はスペインへと旅立って行かれました」。国外追放の波が再び押し寄せたのはなぜでしょうか。

当局が黙って見ていられなくなったのは1975年の大会が原因ではないか,と考える人は少なくありません。「あの大会は,不穏な時期に開かれた最大規模の大会でした。出席者は4万人以上いました」とジョン・ジェーソンは言います。たまたま,すぐ近くで政治集会が開かれていました。その出席者の中には,エホバの証人に対する強い処置を求める人たちがいました。証人たちが政治問題に中立の立場を取っていたからです。政治集会の出席者が少なかったのをエホバの証人の大会のせいにされたことをジェーソン兄弟は覚えています。

宣教者が戻って来る

宣教者が再びザンビアに入国できるまでに10年の歳月が流れます。1980年代は政情が多少安定し,制限が緩和されました。1986年にガンビアからエドワード・フィンチと妻のリンダが来ました。さらに多くの宣教者が続きます。その中にアルフレッド・キューとヘレン・キュー,ディートマル・シュミットとサビーネ・シュミットがいました。

1987年9月にダレル・シャープとスーザン・シャープが,ザイールつまり現在のコンゴ民主共和国から南アフリカを経由してやって来ました。二人は,1969年にギレアデを卒業し,旅行する奉仕でコンゴの各地を回っており,すでにアフリカ中部での生活に慣れていました。がっちりした体格のシャープ兄弟は,これまで特別全時間奉仕を40年以上行なっています。こう言います。「わたしたちの宣教者ホームは長年,国境に近いルブンバシにあったので,ザンビアへはたびたび行っていました」。

スーザンも当時のことをよく覚えています。「1970年代初め,コンゴは食糧難で,数か月おきにザンビアへ食料の買い出しに行っていました。その後1987年の初めに,コンゴから新しい任命地に移動するよう統治体より要請されました。どこだったと思いますか。ザンビアです!」コンゴでは活動が徐々に制限されていたため,信教の自由が増し加わっている国へ移動できることをシャープ兄弟姉妹はうれしく思いました。

とはいえ,野外と支部において幾らか調整が必要でした。公の宣教奉仕に部分的な禁令が課されていたため,大半の兄弟たちは聖書研究の司会しか行なっていませんでした。奉仕者の中には,エホバの証人の行なう公の宣教の基本的な特徴である,家から家に宣べ伝える活動になじみがなかったり不安を感じたりする人も少なくありませんでした。そのため,臆することなく家から家の伝道を行なうようにという励ましが与えられました。国内の情勢が落ち着き,警察がわたしたちの活動にほとんど注意を向けなくなっていたからです。

後退ではなく前進する

支部委員会は,1970年代に活動が停滞していたことを憂慮していました。兄弟たちは土地の伝統ゆえに自分の子どもと研究することに困難を覚え,家から家の証言も禁止されていたので,子どもの研究をほかの人にゆだねるのが普通になっていました。その一方でほかの人の子どもと研究したのです。今こそ勇気ある決定を下すべき時でした。その後,何年にもわたって,奉仕者たちは非聖書的な伝統や慣行を捨て去るよう励まされました。諸会衆がこたえ応じるにつれ,祝福を受けるようになりました。兄弟たちは,生活を聖書の原則に調和させ,世界的な兄弟関係と歩調を合わせるよう一生懸命努力しました。

国外追放のあった1975年から5年間で,伝道者数は11%近く減少しました。それとは対照的に,宣教者たちが戻って来た1986年から5年間で,伝道者最高数は50%余り増加したのです。その年から現在までに,活発な伝道者の数は2倍以上になりました。

元旅行する監督のサイラス・チブウェカは,支部への手紙の中でこう述べています。「1950年代以降,ギレアデでの訓練を受けた宣教者たちは,円熟に向かって進むよう人々を援助してきました。宣教者たちはたいへん辛抱強く,理解があり,親切です。宣教者たちは奉仕者たちと親しくなり,その結果,正す必要のある事柄が分かるようになりました」。宣教者たちのそうした偽善のない愛ある援助により,今日でも増加が続いています。

印刷物

現代のエホバの証人も,パウロとその仲間たちのように,奉仕者としての自分たちの立場を「右手と左手の義の武器」により実証しています。(コリ二 6:7)霊的な戦いを行なう際に,義の「武器」,つまり真の崇拝を促進するための手段を用い続けているのです。

初期のころ,エホバの証人の出版物は英語のものしかありませんでした。アフリカ南部に住む人の中には,早くも1909年に「ものみの塔」誌を予約する人がいましたが,聖書の真理はおもに口伝えによって広められました。当時,一人の兄弟はこう報告しました。「どの村にも[集会場所]があり,人々は関心を持つ論題について話を聞くことができました。各地を巡回する兄弟が,そのような場所で英語の出版物の内容を分かりやすく現地の言葉に訳しました。その後,人々からの質問を受け付けました」。もちろん,真理が正確に伝わるかどうかは,翻訳者の能力や動機に大きく依存していました。ですから,関心ある人たちの一致を促進すると同時に,正確な知識を増進させるには,聖書に基づく母語の出版物が必要でした。それも定期的に,また確実に供給される必要がありました。

出版物が備えられる

1930年代初めに,「神の立琴」の本と何種類かの小冊子がニャンジャ語で翻訳出版されました。1934年には,少数の活発な伝道者たちによって1万1,000冊余りの文書が配布されました。反対者はそれにいら立ち,後に「布告によって難儀」を仕組むようになります。(詩 94:20)それでも,「ものみの塔」誌の禁止命令が解かれた1949年の末には,月1回発行のベンバ語の「ものみの塔」誌が謄写版印刷され,予約者に郵送されていました。

ジョナス・マンジョニは,1950年代初めに携わった雑誌の仕事についてこう述べています。「ベンバ語の翻訳をしていたのはわたし一人でした。英文原稿を受け取ると,それを翻訳し,訂正を加え,原紙にタイプし直してから印刷しました。かなりの時間がかかりました。1号につき7,000冊印刷しなければならないこともありました。一冊一冊を手で印刷して,ホチキスでとじ,諸会衆に郵送します。雑誌に帯封をして切手を貼り,カートンに入れて郵便局へ運ぶのは大変な仕事でした」。

当時,今のような便利な機械はありませんでしたが,翻訳に携わった人たちは,有益な結果がもたらされることを知っていたので,仕事に打ち込みました。ジェームズ・ムワンゴは旅行する奉仕に忙しく携わるかたわら,手書きで翻訳作業を行ないました。それもたいてい,ろうそくの明かりのもとでの作業でした。兄弟はこう言います。「疲れすぎてこの仕事ができないと思ったことは一度もありませんでした。兄弟たちに霊的な食物を供給し,円熟するよう助ける点で貢献できていることを知り,うれしく思いました」。

“手を替える”

真理を正しく伝えるには,翻訳者は母語だけでなく,原文の英語もじゅうぶん理解していなければなりません。アーロン・マプランガはこう言います。「翻訳の際,幾つかの語が組み合わさって特定の意味を伝える慣用表現が出てきます。ある出版物にあった,『手を替える』(“change hands”)という英語の表現について話し合った時のことを覚えています。その表現は,エリヤからエリシャに職責が移行することを述べた箇所に出てきました。ある兄弟はそれを字義どおり『手を交換する』と訳したのですが,わたしは,本当にそういう意味なのだろうかと疑問に思いました。ほかの兄弟たちに尋ねて正しい意味が分かりました。直訳しないようにとアドバイスされたことも覚えています。一語一語置き換えて訳すと,まるで外国語のように聞こえるからです。直訳調の表現を避けて,自然な訳文になるように心がけました」。

科学技術の助け

1986年以来,各支部事務所でMEPS<メップス>(多言語電算写植システム)が使えるようになりました。そのおかげで,翻訳,チェック,組版の作業をより迅速に進めることができるようになりました。もっと最近では,ワッチタワー・トランスレーション・システムというソフトウェアや他の翻訳支援ツールが広く用いられています。現在,複数の言語の翻訳チームによって,聖書に基づく出版物が土地の幾つかの主要言語に翻訳されています。こうしてザンビア人の大半が理解できる出版物が備えられているのです。「新世界訳」などの「義の武器」は,エホバを知るよう心の正直な人たちを援助するうえでこれからも役立つでしょう。―コリ二 6:7

難民を援助する

アフリカでは,大勢の人が幸福で平和な生活を送っています。しかし残念ながら,戦争の影響を受ける人たちが増えています。一夜にして,隣人が敵になり,罪のない人々が家を追われ,地域社会が荒廃します。難民となった人たちはわずかな所有物を抱え,安全を求めて避難しています。これが今日幾千万もの人々が経験している事柄です。

1999年3月,コンゴ民主共和国で起きた紛争を逃れて大勢の人々がザンビアに押し寄せて来ました。多くの戦争がそうであるように,兵士たちは略奪を行ない,男たちに重い荷を運ばせ,女性や子どもを虐待しました。武器を運ぼうとしなかったエホバの証人は,辱められ,容赦なく打ちたたかれました。50代半ばの熱心な正規開拓者カタトゥ・ソンガは,当時を思い起こし,「わたしは女性や子どもたちの前で身を伏せるように言われ,気を失うまでむち打たれました」と語っています。

同様の虐待に遭わないようにと多くの家族が避難しました。マペンゴ・キタンボは,逃げる途中の茂みの中で息子たちとはぐれてしまいました。こう言います。「だれかを捜す余裕などありませんでした。子どもたちのことが心配でたまりませんでしたが,先に進むしかありませんでした」。多くの人は,安全な場所にたどり着くまで徒歩や自転車で何百キロも逃げました。

カプータという小さな町は,難民であふれ返りました。その中には5,000人近い兄弟たちとその家族がおり,長く厳しい道のりにみな疲れ切っていました。カプータに住む200人の王国伝道者は,難民が押し寄せて来ることなど予期していませんでしたが,クリスチャンとして兄弟姉妹を喜んでもてなしました。難民の一人マンダ・ントンパはその時のことをこう語ります。「示された愛やもてなしに深い感銘を受けました。わたしたちがエホバの証人であることが分かると,地元の兄弟たちは自宅を開放し,ザレパテのやもめのように,自分たちのわずかな食物を進んで分け与えてくれたのです」。

ザンビア北部のムウェル湖付近では,少数の地元の証人たちが幾百人もの難民を世話し,組織的に食物や寝る場所を備えました。近隣の諸会衆はキャッサバや魚を届けました。3か月後,コンゴ人の証人たちは難民として登録され,キャンプに移されました。

激しい紛争から逃れようとする人は,本や雑誌を持って逃げることなどまずありません。必死で安全な場所に逃げるので,貴重な品でさえ,たいてい残してこなければなりません。しかし,神の民の間ではそれとは異なる状況が見られました。大急ぎで逃げなければならなかったにもかかわらず,どうにか出版物を持ち出せる人もいたのです。それでも,聖書や聖書文書は不足していました。例えば,出席者が150人の集会で本は5冊しかない,ということが普通でした。では,出席者はどうやって集会に参加したのでしょうか。ある兄弟はこう説明します。「聖書を持っている人は聖句を開き,持っていない人は読まれる聖句に細心の注意を払いました。こうしてみんながエホバを賛美し,注解によって励まし合うことができました」。

物質面の必要を顧みる

難民のほとんどは女性と子どもでした。多くの場合,健康を害し,食べ物が何もない状態で避難して来ます。エホバの証人はどのように援助したでしょうか。タイムズ・オブ・ザンビア紙はこう報じています。「喜ばしいことに,ザンビアのエホバの証人協会は,大湖地域にいる難民の救済のためボランティアや救援隊員を旧ザイールに派遣した」。その記事は,ベルギー,フランス,スイスの証人たちが「合計,医薬品500㌔,ビタミン剤10㌧,食糧20㌧,衣類90㌧余り,靴1万8,500足と毛布1,000枚を難民に供給し,その総額は100万㌦近くに上る」とも伝えています。

ントンパ兄弟はその時のことをこう述べています。「救援物資が届いた日,わたしたちは皆,非常に興奮を覚え,信仰が強められました。わたしたちは何と思いやりのある組織に属しているのでしょう。並々ならぬ愛を示されたことは,兄弟たちの大勢の未信者の家族にとって転機となりました。それ以来,わたしたちと交わるようになり,神の崇拝者としてりっぱな進歩を遂げている人たちもいます」。救援物資は,難民すべてに分け隔てなく与えられました。

ザンビアでは1999年末までに,難民の数が20万人余りに膨れ上がりました。地元の新聞は,「ザンビアは,紛争を逃れてやって来るアフリカ難民の最大規模の避難所となった」と伝えています。当局は難民の必要を満たそうと努力しましたが,難民のいら立ちや不満は募り,暴力を伴う抗議行動へと発展しました。エホバの証人はどんな騒乱にもかかわりませんでしたが,ある暴動の後,キャンプの管理者たちが巡回監督のところにやって来て,あなたは治安維持に何の貢献もしていないと非難しました。巡回監督は,穏やかに,しかし毅然とした口調でこう答えました。「決してそのようなことはありません。さらに5,000人もの人たちが暴徒化していたならどれほど事態が悪化したか想像してみてください。少なくとも5,000人の難民が,エホバの証人であるゆえにあの暴動に加わらなかったことを有り難く思ってください。彼らはわたしの兄弟なのです」。

エホバの証人は難民社会に安定性を与える存在と認識されています。政府の一人の役人はこうコメントしました。「エホバの証人が非常に信仰の厚い人たちであることを聞いたので,その多くを地区リーダーにしました。以来,キャンプは平穏です。それらのリーダーが人々を助け,みんなが聖書を読むことに専念しているのです。こうした人たちがいてくれること,またキャンプ内に平和が行き渡っていることを神に感謝しています」。

血に関する神の禁令に従う

『血を避けていなさい』という聖書の命令に従うのが実際的かつ賢明であることはずっと以前から明らかでした。しかし,アフリカのサハラ以南では無輸血医療に対する多くの偏見や誤解がありました。(使徒 15:28,29)残念なことにエホバの証人は,屈辱的で厳しい扱いを受けてきました。夜,親の知らないうちに入院中の子どもに輸血を施すということも珍しくありませんでした。

ジェナラ・ムクサオは6歳になる孫のマイケルを育てていました。マイケルが重い貧血で入院した時,医師たちは輸血が必要だと言いました。それを拒否したムクサオ姉妹は4日間,脅されたり,ののしられたりしました。姉妹はこう言います。「輸血しないよう先生方にお願いし,わたしの『医療上の宣言』証書を見せましたが,取り合ってもらえませんでした。看護婦さんたちからは,孫を殺そうとしている魔女だと言われました」。

そうした対立を恐れ,病院へ行こうとしない人もいました。患者のインフォームド・コンセントの権利を無視する医師も少なくありませんでした。少数ながら,進んで助けを与えようとする医師もいました。それらの医師は,一般に受け入れられていない医療を施すとして,他の医師たちから厳しく批判されたり退けられたりするおそれがありました。また,病院などの施設の整備が遅れ,用い得る代替療法が限られているといった問題もありました。しかし1989年に銅採鉱会社の医療主任は,「患者の意思に反して輸血を施すべきではない」と述べました。医療関係者の見方が多少和らいでいることは明らかでした。

多大の影響を及ぼした委員会

1995年,ザンビアでホスピタル・インフォメーション・サービスと医療機関連絡委員会(HLC)が設立されました。この委員会は,無輸血治療や患者の権利に対する医学界の考え方に大きな影響を及ぼすことになります。そのことを見越していた人はそう多くありませんでした。HLCの仕事には,病院を訪問し,医師と面会し,医療従事者にプレゼンテーションを行なうことが含まれます。そのすべては協力関係を築いて対立を避けるために行なわれます。医療関係者は,提供される情報が非常に専門的であることに感心しました。ザンビア南部の病院で,ある準医師は感動して兄弟たちに,「皆さんは医師と言っても過言ではありません。皆さんは認めたがらないでしょうが」と述べました。

ザンビア西部の地方病院に勤めるオランダ人医師はこう述べました。「2週間前,わたしたちは血液の使用を最小限に抑える方法について話し合っていました。輸血には危険が伴うからです。しかし今日は,この問題について専門家である皆さんが話しに来てくださいました」。程なく,HLCのプレゼンテーションに出席した医療関係者たちが,同僚にも出席を勧めるようになりました。その内容は医学界から評価され,対立関係は次第に協力関係へと変わっていきました。

HLCの委員の中には,医師たちに近づく際,自分には資格がないという感情を克服しなければならなかった兄弟たちもいました。医師たちは長年のあいだ神のようにみなされてきたのです。ルサカ委員会の司会者だったスマート・フィリ兄弟は,「わたしには医学的な背景がなかったので,とても不安でした」と言います。

しかしやがて,粘り強さとエホバへの信頼は報われました。別の委員は,初期のころを思い出して次のように語ります。「わたしたち3人は,ある医師と面会するために出かけて行きました。その医師は大変な有力者で,保健大臣も務めた人でした。わたしたちはとても緊張していました。その医師のオフィスの前の廊下で,大胆に話すことができるようエホバに助けを祈り求めてから,部屋に入りました。良い話し合いができ,その医師は非常に協力的でした。エホバの後ろ盾があり,恐れる必要などないことに気づきました」。

HLCと医療関係者との協力関係はいっそう緊密になっています。その点は,以前なら輸血なしでは難しいと考えられていた治療を,医師たちが進んで手がけてくれるようになったことからも分かります。2000年10月,二人の外科医が,コンゴ民主共和国の生後6か月になるビアトリスの手術を決断しました。胆道閉鎖症の無輸血手術は成功したものの,マスコミは立て続けに批判的な報道を行ないました。

しかし,その手術チームの責任者ルパンド・ムンコンゲ教授の言葉が報道されて,事態は逆転しました。教授はビアトリスの両親の取った立場に敬意を表したのです。これによってマスコミの批判はずいぶん和らぎました。その2か月後,この出来事についてのドキュメンタリー番組がテレビで放映されました。そこでは,無輸血治療に対するエホバの証人の立場が好意的に取り上げられました。

「手早くしてください」

血に関する,証人たちの良心に基づく立場に疑いを差しはさむ医師はほとんどいなくなりました。今では大半の医師が,代替療法は安全,簡便,効果的であると知っています。アフリカの農村部でも同じことが言えます。また,大勢の患者は,自らの権利を大胆に主張できるようになりました。人々は血に関する重要な問題についての知識を取り入れ,自分の良心上の立場を明らかにする方法を学んだのです。

子どもたちでさえ,「教えられた者たちの舌」を与えられています。(イザ 50:4)8歳になるネイサンは左大腿部の骨髄炎を患っていましたが,手術前に医師団にこう言いました。「手術をするときは,たくさん血がなくならないように,どうか手早くしてください。僕に輸血なんかしないでください。でないと,僕のお父さんとお母さん,それにエホバも先生たちのことを許さないですよ」。手術後,ネイサンの両親は外科チームの一人の医師から,息子さんをよく教えていると褒められました。医師はこう言いました。「神を敬うことの大切さを年若い患者さんから思い起こさせられたのは,初めてです」。

使徒パウロは,『わたしたちは自分を神の奉仕者として推薦するのです。眠らぬ夜によってです』と述べました。神の僕たちは,仲間の信者や真の崇拝の促進について気にかけ,眠らぬ夜を過ごすことがあります。(コリ二 6:3-5)これは,HLCで奉仕している兄弟たちについてしばしば言えることです。しかし,そのような自己犠牲が見過ごされることはありません。ある姉妹はこう言います。「感謝を述べようにも的確な言葉が見つかりません。自己犠牲の精神を抱くHLCの兄弟たちは,急な連絡でもすぐ駆けつけてくださいましたし,どんな時間帯でも力になってくださいました。そのことを考えると,とても励まされ慰められます。わたしは手術を受けてから24時間もしないうちに再び手術室に運ばれましたが,パニックに陥ることはありませんでした。兄弟たちの励ましの言葉によって大いに強められていたからです」。エホバの証人は,「悪い評判」に面しても進んで医療関係者と協力し,自らを神の奉仕者として推薦してきました。(コリ二 6:8)さらに,「良い評判」によって強められ,『血を避けていなさい』という神の命令に従い続けます。

宣教訓練学校

「国によっては,若者が25人も集まると,問題を起こすのではないかと疑いの目で見られます」と,ザンビアの支部委員の一人サイラス・ニャングは言います。「しかし宣教訓練学校(MTS)ではこれまでに31のクラスが開かれ,献身した精力的なクリスチャンの男子を訓練してきました。それらの兄弟たちは奉仕している土地で祝福となっています」。この国際的な学校の卒業生600人余りは,アフリカ南部の六つの国でさまざまな分野の全時間奉仕に携わっています。ザンビアでは,旅行する監督の半数以上がこの学校の卒業生です。この学校はなぜ必要なのでしょうか。また,どんなことを成し遂げていますか。

ザンビアでは,1993年に第1期生が卒業して以来,活発な伝道者の数が60%近く増加しました。会衆を世話する資格ある男子は,今なお必要とされています。聖書の原則に反する伝統や習慣を守らせようとする地域社会からの強い圧力があるので,特にそう言えます。卒業生の一人は,会衆を牧して教える有能な男子の必要性を強調してこう述べています。「この土地における一つの問題点は,人々が悪行を大目に見る傾向があることです。正しいことに固く付き従い,書かれている事柄を越えてはならないという点を学びました」。

生徒たちは最初,広範な情報を考慮することや奥深い研究をすることに不慣れでした。しかし,教訓者は生徒たちをぜひ助けたいと思っていました。教訓者の一人サレル・ハートは次のように述べています。「わたしにとって,どのクラスを教えるのも山岳ガイドをするようなものです。最初はみんな不慣れで,周囲の状況に圧倒されながらも適応しようと頑張っています。時々,障害物に道をふさがれますが,うまく乗り越えながら登り続けます。そして,後ろを振り返ってみると,乗り越えがたく思えた障害も克服していて,もはや障害ではなくなっているのです」。

多くの兄弟は,この学校に出席して霊的に著しく進歩したと言います。現在,特別開拓者として奉仕しているエラドはこう語っています。「自分は教える資格がなく,会衆の責任をさらに担うには若すぎると思っていました。学校に出席して,わたしも役に立てることが分かりました。最初に任命された会衆には16人の伝道者がいましたが,進歩的な聖書研究を司会する点で問題を抱えていました。それで奉仕に出かける前に,皆で一緒に提案を考慮し,証言を練習するようにしました。2001年までに,会衆には,孤立した群れの20人を含む,60人の伝道者が交わるまでになりました」。

成功を測るもの

宣教訓練学校の成功に寄与する事柄は何でしょうか。教訓者のリチャード・フルッドはこう説明します。「わたしたちは,常に謙遜であることをよく強調し,自分のことを必要以上に考えないようにと力説します。円熟性や,思いやり,難題に対処する能力を備え,しかも笑みを絶やさない人となることを目指します。兄弟たちが他の人たちに親切に接し,仕えてもらうのではなく仕えたいと願っていることを示せるようになれば,学校の目的は達成されていると思います」。

生徒たちもこの言葉の真実さを認めています。14期生のエマヌエルはこう語ります。「会衆に任命されたからと言って,すぐさま小さな点をあれこれ正さなければいけないというわけではありません。むしろ,良いたよりを宣べ伝えるという最も重要な業に会衆と共に携わることに目を向けるべきなのです」。

開拓者のモーゼスもこう言います。「エホバは謙遜な人ならだれでもお用いになることができ,知識や経験はさほど重要でない場合がある,ということを理解するようになりました。エホバにとって重要なのは,その人が会衆や野外の人々を愛しているか,他の人たちと協力しているかということなのです」。

大規模な集い

キリスト以前のイスラエル国民の祭りと「聖なる大会」は喜ばしい時であり,そこに来ていた人たちは霊的な事柄に集中できました。(レビ 23:21。申 16:13-15)神の民の現代の集いの場合も同じことが言えます。ザンビアの大会は近代的なスポーツ総合施設では開かれません。兄弟たちが“大会村”を建設するのです。そこには寝泊まりできる小屋も作られます。

年と共に,こうした場所にもっと耐久性のある建物が建設されてきました。とはいえ,初期のころは創意工夫の求められる難しい問題が多くありました。一人の地域監督はこう述べています。「巡回大会の会場に,兄弟たちはわたしのための小屋を建ててくれたものです。それはふつう草でできていました。また,座席の区画の周囲には柵を巡らしました。座席は土を盛ったもので,草の“クッション”が敷かれました。兄弟たちは,空になったシロアリの塚をならしてステージを作ることもありました。その上に小屋を建て,そこからプログラムが提供されました」。

宣教者のピーター・パリサーはこう述懐しています。「ある大会で兄弟たちは,一段高くなったステージを設けたいと考えました。爆薬を扱う技術のある兄弟が,空になった高さ6㍍のアリ塚に爆薬を仕掛けて,上の部分を吹き飛ばしたのです。ちょうど土を盛ったような状態になり,そこにステージを作りました」。

出席するための努力

大会会場は幹線道路から離れていることが多かったため,そこに行くのは大変でした。ロビンソン・シャムルマは1959年に出席した大会についてこう語っています。「わたしたち15人ほどは自転車で中央州のカブウェに行きました。食料としてひき割りトウモロコシと干した魚を持っていき,毎晩,茂みの中で野宿しました。カブウェからは汽車に乗り,家を出発してから4日近くたって大会会場に着きました」。

ランプ・チセンガは,ある兄弟が6人の子どもを連れて130㌔もの道のりを徒歩と自転車で大会に出席したことを覚えています。「兄弟はその旅のために,焼いたキャッサバ,落花生,ピーナッツバターを準備しました。防備のないまま茂みの中で野宿することもよくあったようです」と言います。

ウェイン・ジョンソンは地域監督として奉仕していた際,大会に出席するために大勢の人が払っている努力を知りました。こう書いています。「ある特別開拓者の兄弟は,1週間近く自転車をこいで大会に出席しました。トラックの荷台に乗って来た人たちもいます。大会の週の初めごろに到着した人も少なくありません。夜はたき火を囲んで歌を歌っていました。野外奉仕の参加者が非常に多くなり,その週に区域を3度回ることもありました」。

反対されても,なおざりにしない

大規模な集まりは,兄弟たちに強さと励みを与えました。今日,大会は好意的に報じられていますが,政治上の変化の時期,特に1960年代と1970年代には疑いの目で見られていました。政府内に,何としてもわたしたちの崇拝を禁止しようとする人々がいました。兄弟たちは国歌を斉唱しないため,公の集まりを開くのに必要な許可を警察から得ることができませんでした。その後,大会に出席できる人数が制限されました。「1974年は,エホバの証人が屋外で集まりを開いた最後の年になりました」とダーリントン・セフカは言います。「国歌斉唱と国旗掲揚をしない限り公の集会を開いてはならない,と内務大臣が告示したのです」。それでも,兄弟たちは草の柵で囲まれた敷地に建つ地元の王国会館で集まることが許されました。支部は調整を図り,王国会館で巡回大会を開くことを取り決めました。多くの場合,そこに一つか二つの会衆だけが出席しました。

地域大会も小さな規模で行なわれました。大会組織に携わったある兄弟は,「一つの大きな地域大会を開くのではなく,20の小規模な大会を開きました」と言います。「大勢の兄弟が訓練を受け,プログラムやさまざまな部門で用いられました。それで,禁令が解かれた時には,大会組織で用いることのできる経験を積んだ兄弟が大勢いました」。

バプテスマ

1940年代初めから,バプテスマを受ける人がその意味を十分認識しているかどうか確認する努力が払われてきました。「大いなるバビロン」や偽りの宗教の慣行を完全に捨て去るのが難しい人もいました。(啓 18:2,4)上手に読み書きできる人が比較的少なく,多くの会衆で聖書研究用の手引きが不足していたことも,その問題の一因となっていました。そのようなわけで,巡回監督や地域監督はバプテスマ希望者の一人一人と面接し,資格があるかどうかを確認しました。ギレアデ第33期生のジェフリー・ホイーラーはこう述懐しています。「赤ちゃんのいる母親がバプテスマを希望する際,その子に迷信的なビーズやお守りがついていないか,注意深く調べました。大会の週は,毎晩,真夜中まで起きていることも珍しくありませんでした。バプテスマ希望者が本当に大勢いたからです」。やがて,こうした面接をほとんどしないですむようになりました。旅行する監督が会衆の長老たちに親切な援助を与え,後には「あなたのみことばはわたしの足のともしび」といった本が出版され,組織上の精錬が進んだからです。

舞台で上がってしまう

大会のプログラムの中で特に人気があるのは,時代衣装を着けて演じられる聖書劇です。出演者たちは役になりきって演じる責任を真剣に受け止めています。それに,ザンビア人には控え目な演技をする人などほとんどいません。元宣教者で現在は米国のベテル家族の成員であるフランク・ルイスは,こう語っています。「初期のころの聖書劇は,声を録音したテープがなく,出演者はせりふを暗記しなければなりませんでした。北部州で開かれたある大会で,初めて聖書劇が上演された時のことを覚えています。ヨセフに関する劇でした。郵便事情が悪くて兄弟たちが台本を受け取っていなかったため,わたしたちは,兄弟たちがせりふを覚えるのを夜遅くまで手伝いました。劇が上演され,ポテパルの妻が,ヨセフから犯されそうになったことを大声で夫に告げる場面に差しかかりました。その時,ポテパル役の兄弟が急に上がってしまい,ステージの袖に退いてしまったのです。わたしは,舞台裏で兄弟たちにせりふをつけていたのですが,その兄弟がステージから下りて来るのが見えました。すぐ兄弟に出だしのせりふを教え,ステージに押し戻しました。こんど兄弟は,強姦未遂のぬれぎぬを着せられたヨセフに対する侮蔑の言葉を上手に述べることができました。それは大会でのちょっとしたハプニングでしたが,わたしは聖書のこの部分を読むたびに,『もしかすると,あのようだったのかもしれない。ポテパルは怒って部屋を出,気を落ち着けてから戻って来てヨセフを非難したのではないだろうか』と思うのです」。

1978年に,大会の規模を制限する,4年間続いた政府の禁令が緩和されました。その年に開かれた「勝利の信仰」大会には挑戦となることがありました。一人の元旅行する監督は,当時を振り返ってこう述べます。「王国会館で大会を開かざるを得なかった期間に上演できなかった聖書劇を,この大会で全部上演したのです。大会は5日間で,毎日一つ,合計五つの聖書劇が上演されました。それまでの劇をようやく見ることができました。本当に素晴らしかったのですが,すべての劇のリハーサルに立ち会わなければならなかったベテルの代表者にとっては大変でした。何しろすごい量でしたから」。

ある支部委員はこう述べています。「心から言えることですが,あのころの大会ほど楽しかった大会はありません。朝,こざっぱりとした身なりで家族が小屋から出てきます。一番良い身なりでエホバのみ前に出るのです。たいてい,日陰でなく日なたに座ります。それでも丸一日そこに座って,プログラムに一心に耳を傾けています。本当に美しい光景です」。エホバの証人にとって,集まり合うことは崇拝の肝要な部分を成しています。(ヘブ 10:24,25)個人的な問題や宗教的な反対のゆえに「悲しんでいる」時も,そうでない時も,大規模な集まりに出席することが『常に歓ぶ』理由となることをエホバの民は知っています。―コリ二 6:10

王国会館建設

「上記の会衆に土地の所有を認める。その所有権は恒久的なものであり,わたしは会衆が150年間そこにとどまることを認める。何人も楽園まで証人たちを悩ませてはならない」。首長カリレレ。

アフリカ南部に住む,真理を探し求めていた人たちは,20世紀初頭から,崇拝のために集まり合うことの必要性を認識していました。1910年ごろ,ウィリアム・ジョンストンは,急速に拡大していた幾つもの群れが伝統的な材料を使って集会所を建設していたことを伝えています。その中には,600人を収容する集会所もありました。崇拝の場所を切望する人は大勢いましたが,皆がそう思っていたわけではありません。1930年代初めに真理を学んだホランド・ムシンバは,当時を振り返ってこう言います。「崇拝のために集まることは勧められていましたが,決まった集会場所を持つことは地元であまり強調されていませんでした。わたしたちは,大木の陰や兄弟の家の庭など都合の良い場所で集まったものです。兄弟たちの中には,ルカ 9章58節を引き合いに出し,イエスでさえ常設の集会所を持たなかったのだから我々が集会所の建設についてあれこれ考える必要があるだろうか,と思う人たちもいたのです」。

1950年より前の集会所は,荒削りの板や泥を用いた,簡単な造りの粗末な建物でした。活気あるコッパーベルト地区では,イアン・ファーガソンがある鉱山経営者を説得し,王国会館のための土地を分けてもらいました。1950年,最初の王国会館がウシキリに建設されました。それから10年後には,兄弟たちは標準化した王国会館の図面を作成していました。そのプランをもとに建てられた最初の王国会館は,平屋根の頑丈な建物で,工費は約1万2,000ザンビア・クワチャでした。当時としてはかなりの額でしたが,インフレが進んだ現在の価値に換算すると3米国ドルにもなりません。

エホバの証人は党員カードの購入を拒否したため,愛国的な活動家たちによる激しい暴力行為にさらされました。幾つもの崇拝場所が焼き打ちに遭いました。襲撃が続くことを心配した兄弟たちの中には,集会所を建設するよりも,屋外で集まり合うほうがよいと考える人たちもいました。1970年代初めには制限がさらに加えられ,土地の取得はますます難しくなりました。エホバの証人がどんな政党も支持しないことはよく知られていましたが,一部の地域の当局者は,すべての申請書類に党員カードを添付することを強く求めました。

ウィストン・シンカラはこう言います。「土地を取得することも建設認可を得ることもなかなかできませんでした。裁判に訴えるつもりであることを市議会に伝えたとき,市議会はわたしたちが冗談を言っていると思ったようです。有能な弁護士が見つかり,2年後,裁判所はわたしたちに有利な判決を下し,市議会に土地の提供を命じました。この判決によって,後にさまざまな面で自由を得る道が開かれました」。

黒い馬

会衆が,法的な権利関係のはっきりしている土地を取得できるのはまれでした。開発されていない土地があっても,法的な書類が整っていないために恒久的な建物を建てられない,ということがよくありました。また,資材も値が張るため,しばしば鉄板やドラム缶が使われました。ドラム缶は切って広げ,木枠に打ち付けられました。その種の建物の一つについて,ある長老はこう語っています。「鉄板にタールを塗ったので,遠くからは大きな黒い馬のように見えました。建物の中は,うだるような暑さでした」。

かつて巡回監督をしていた兄弟は,「昔を振り返ると,それらの建物を王国会館と呼ぶには気が引けます。確かに,至高の神エホバを代表する建物としてはふさわしくありませんでした」と言います。

ホールを借りることにした会衆もありました。費用のかからない解決策のように思えましたが,問題も生じました。エドリス・ムンディ姉妹は,1970年代にルサカにあった唯一の英語会衆と交わっていました。こう語っています。「わたしたちが借りたホールはディスコとしても使われていました。土曜日ともなると,人々は明け方近くまで飲んだり踊ったりしていました。それでわたしたちは,日曜日の朝早く掃除に行かなければなりませんでした。ホールの中はビールやたばこの臭いがしていました。そんな場所でエホバを崇拝するのはふさわしくない気がしました」。

エドリスの夫ジャクソンはこう言います。「ある日曜日,集会中に一人の若者がホールに入って来ました。そのまま前方へ歩いて行き,前の晩から置いてあったビールケースを持ち上げると,何食わぬ顔をして出て行きました」。ですから,兄弟たちが自分たちの王国会館を切望したのも不思議ではありません。

画期的な建設計画

王国の音信にこたえ応じる人が増えるにつれ,品位ある会館の必要性も大きくなりました。兄弟たちは意気込みや熱意があったものの,王国会館の建設資金を賄う面で協力することはおろか,家族を養うのもままならないという人もいました。しかしエホバのみ手は決して短くありません。思いがけない喜びが待ち受けていました。

調査が行なわれ,世界中の40の発展途上国において王国会館が8,000軒余り必要とされていることが明らかになると,統治体は建設のペースを速めることにしました。地域によっては,建設プロジェクトに参加できる職人が少なく,工具も不足していることが分かりました。さらに,発展途上国では,たとえ多額のローンを組んでも返済するのが難しい会衆が少なくありません。そのうえ幾つかの地域では,伝道者が急増していたため,支部が建設計画を十分に組織するのは困難でした。統治体はこうした事情を考慮し,世界中の王国会館建設計画を監督する設計・建設委員会を米国に設立しました。資金の限られた国々における王国会館建設の指針が打ち出され,技術を持つ奉仕者たちが海外の建設プロジェクトに割り当てられました。

時には,従来の建築方法や考え方を調整する必要がありました。例えばザンビアでは,女性は水汲みや砂運びや料理をして建設プロジェクトを支援していました。しかし建設チームは,姉妹たちにも実際の工事に携わってもらい,労働力をフルに活用したいと考えました。

東部州で,姉妹が王国会館の壁を作る様子を見た一人の首長は,信じられないという顔でこう言いました。「わたしは生まれてこのかた,女性がレンガ積みをしているのを見たことがありません。しかもとても上手に行なっています。いいものを見せてもらいました」。

「わたしたちの霊的な病院」

建設計画は,地域社会に大きな影響を与えてきました。以前エホバの証人に無関心だったり反対したりしていた人の多くが,もっと寛容な見方をするようになりました。例えば,当初は自分の村での王国会館建設を認めていなかった東部州のある首長は,こう述べました。「わたしはもともと皆さんのプロジェクトが良くないと思って反対していたわけではありません。他の宗派の僧職者たちに影響されていたのです。でも今は,皆さんが良い目的のためにここにいることが分かります。この美しい建物はわたしたちの霊的な病院です」。

クリスチャンは,おもに「王国のこの良いたより」を宣べ伝えるために「労苦」します。(マタ 24:14。コリ二 6:5)聖霊は,宣べ伝えるよう神の民を動かします。しかしそれだけでなく,品位ある集会所の建設という形でも王国の関心事を精力的に推し進めるよう民を鼓舞します。諸会衆は明確な目的意識を持つようになります。ある兄弟はこう語っています。「今では,奉仕の時に自信を持って人々を集会に招待できます。掘っ建て小屋のような所ではなく,エホバの栄光となる王国会館に招いているからです」。

別の兄弟はこう言います。「奥地にこんな立派な王国会館はもったいないようにも思えますが,エホバにはまさにふさわしいものです。崇拝の場所が良くなって,エホバの栄光がたたえられていることを本当にうれしく思います」。

旅行する奉仕

神の奉仕者には忍耐が必要です。(コロ 1:24,25)旅行する監督たちは,王国の関心事を推し進めるために自らを差し出す点で模範となっています。牧者として諸会衆を強めるために愛の労苦を惜しまず,自分たちが「人々の賜物」であることを示してきました。―エフェ 4:8。テサ一 1:3

1930年代の末,有能な男子は,地帯の僕や地区の僕 ― 現在は巡回監督や地域監督と呼ばれている ― として奉仕するよう訓練されました。「会衆間を移動するのは容易なことではありませんでした」とジェームズ・ムワンゴは言います。「わたしたちには自転車がありましたが,荷物を運ぶのを手伝ってくれた兄弟たちは徒歩で同行しなければなりませんでした。目的地まで数日かかりました。昔は各会衆に2週間滞在しました」。

『兄弟は気絶してしまいました』

今も昔も,農村部を移動するのは大変です。現在では80代になるロビンソン・シャムルマは妻のジュリアナと共に旅行する奉仕を行ないました。ロビンソンは,ある年の雨季にとりわけひどい暴風雨に見舞われました。嵐がやむと,行く手は晴れていたものの,自転車のサドルまである泥の中を進まなければなりませんでした。ジュリアナは次の会衆に着くころには疲れ切ってしまい,水を飲む力も残っていないほどでした。

1960年代と1970年代に巡回および地域の奉仕を行なったエノック・チルワは,こう説明します。「月曜日は特に大変な日でした。移動日だったからです。でも,会衆に着くと,移動している間のことなど忘れてしまいます。兄弟たちといると幸福な気持ちになりました」。

障害となったのは,長い道のりや困難な状況だけではありません。ランプ・チセンガが二人の兄弟と共に,ザンビア北部のある会衆に移動する道中でのことです。ほこりっぽい道を歩いていると,遠くの方に動物の姿が見えました。チセンガ兄弟はこう言います。「兄弟たちにはその動物がはっきりとは見えませんでした。道に犬のように座っています。兄弟たちに『あれは何でしょうね』と聞きました。もう一度『何でしょうね』と尋ねた次の瞬間,一人の兄弟がライオンだと気づき,悲鳴を上げて気絶してしまいました。わたしたちは,ライオンが茂みに姿を消すまでしばらく休むことにしました」。

ザンビアで26年間奉仕したジョン・ジェーソンと妻のケイは,その間,地域の奉仕も行ないました。幾度か車のトラブルに見舞われ,辛抱強さが必要であることを学びました。ジョンはこう述べています。「サスペンションが壊れたまま車を150㌔も走らせたことを覚えています。予備の部品もなく,電話で助けを呼ぶこともできませんでした。そしてとうとう,車が動かなくなってしまいました。オーバーヒートしたのです。持参していた水でエンジンを冷やすしかありませんでした。水は最後のお茶一杯分を残し,使い切ってしまいました。そこは人里離れた場所で暑く,わたしたちは疲れていました。車の中でエホバに助けを祈り求めました。午後3時に道路工事の車両が通りかかりました。その日初めて通った車です。窮状を目にした作業員たちがわたしたちの車を牽引してくれました。日が沈む前に何とか兄弟たちの所にたどり着きました」。

信頼することを学ぶ

旅行する監督はそのような状況下で,自分の力や物ではなく,もっと確かな支えの源であるエホバ神とクリスチャンの兄弟たちを信頼することをすぐに学びます。(ヘブ 13:5,6)「地域の奉仕を始めてわずか3週後に問題にぶつかりました」と,ジェフリー・ホイーラーは言います。「週末に開かれる大会に出席するため,大会会場に来ていました。携帯用石油コンロを譲り受けていたのですが,調子が良くありませんでした。その日は暑くて風も強く,コンロに火をつけると火柱が上がり,数分もしないうちに手に負えなくなりました。ランドローバーの前輪の一つに火が燃え移り,車全体に広がったのです」。

車を失っただけではありませんでした。ジェフリーはこう言います。「車内に置いてあった黒いスチール製のトランクの中には衣類が入っていました。衣類は燃えなかったのですが,縮んで着られなくなってしまいました。兄弟たちは,火が広がっていない側に回ってマットレスとワイシャツ1枚,そしてタイプライターを持ち出してくれました。兄弟たちのとっさの判断を本当に有り難く思いました」。ホイーラー兄弟姉妹の持ち物は車と一緒に燃えてしまいました。それに,二人は2か月先まで町へ戻る予定はありませんでした。では,この状況をどう乗り切ったでしょうか。兄弟はこう語っています。「ある兄弟から借りたネクタイをし,ゴム靴を履いて公開講演を行ないました。わたしたちは何とか切り抜けることができました。兄弟たちはできる限りのことをして,経験の浅い地域監督を元気づけようとしてくれました」。

ヘビを寄せつけないベッド

『人をもてなすことに努める』諸会衆から示される愛と気遣いは,自己犠牲的な活動を続けるよう旅行する監督たちとその妻を強めてきました。物質面で困窮している会衆の人々が愛に促され,旅行する監督たちに必要なものを備えたという例は枚挙にいとまがありません。そのような愛や気遣いは深く感謝されています。―ロマ 12:13。箴 15:17

旅行する監督の宿舎はたいていつつましいものですが,いつも愛の精神で提供されます。1980年代初めに巡回監督として奉仕したフレッド・カシモトは,ザンビア北部州のある村に夜,到着した時のことを覚えています。兄弟たちから温かく歓迎され,皆で小さな家に入ると,兄弟たちは大きな台の上に荷物を置きました。その台は細長い棒を組み合わせて作った物で高さが1.5㍍ほどありました。夜も更け,カシモト兄弟は,「どこで寝ればよいのでしょうか」と尋ねました。

「あそこがベッドです」と,兄弟たちはその台を指さしました。その地域にはヘビがたくさんいたので,兄弟たちは安全な台を作ったのです。カシモト兄弟はその晩,台の上に敷いた干し草のマットレスに身を横たえました。

農村部では,よく農産物の贈り物をもらいます。ジェフリー・ホイーラーはにこにこしながら,こう思い出を語ります。「ある時,兄弟たちから鶏をもらいました。暗くなる前に,その鶏を屋外トイレの横木に留まらせたのですが,その間抜けな鶏はそこから飛び降りてトイレの穴に落ちてしまったんです。鍬でどうにかすくい上げ,妻が,消毒薬をたっぷり入れた熱い石鹸水で洗ってやりました。その週末,調理して食べましたが,とてもおいしかったですよ」。

ジェーソン兄弟姉妹も,同様の寛大な贈り物から恩恵を受けました。兄弟はこう言います。「兄弟たちから何度も,生きた鶏をもらいました。わたしたちは雌の鶏を小さなかごに入れて,一緒に地域区を回りました。毎朝卵を産んでくれたので,鶏を食べる気にはなれませんでした。わたしたちが移動のために荷造りをしていると,その鶏も一緒に行きたがりました」。

活動写真

1954年,興奮を誘う教育キャンペーンが始まりました。そのキャンペーンのために「躍進する新しい世の社会」と他の数本の映画が制作されました。「多くの人はその映画を見て,宣教奉仕にも会衆の活動にも精力的に励むよう奮い立たされました」と,当時の支部事務所の報告は伝えています。映画の上映が終わって会場を撤収する時,ある人たちは「『躍進する新しい世の社会』式で行なおう」というスローガンを掲げました。つまり“精力的に”働こうという意味でした。この映画が公開された最初の年には,政府の役人や教育関係者を含む,4万2,000人余りの人がそれを見ました。映画は人々に感銘を与え,ザンビアでは最終的に100万を超す人々が,エホバの証人とそのクリスチャンの組織について知るようになりました。

ウェイン・ジョンソンはこれらの映画の影響についてこう語ります。「人々は映画を見るために遠くからやって来て,エホバの組織について多くのことを学びました。上映中,熱のこもった拍手が鳴りやまないこともよくありました」。

一時期,巡回大会の土曜日の晩のプログラムにそれらの映画の一つが上映されていました。奥地では,それはわくわくするような経験となりました。このキャンペーンは人々に強い印象を与えたものの,他の国の生活を知らない人々は,映画の幾つかのシーンを誤解してしまうこともありました。ニューヨーク市の地下鉄の出口から人々がぞくぞくと出て来る場面を見て,復活の様子だと思った人が少なくありませんでした。とはいえ,それらの映画を見た人々は,エホバの証人についてもっとよく理解するようになりました。しかし,時代は変化していました。国家の独立を求める気運が高まり,人々は兄弟たちに敵対するようになります。諸会衆も旅行する監督たちも,多大の忍耐が求められる状況に直面しようとしていました。

政治勢力による妨害

1964年10月24日,北ローデシアは英国から独立してザンビア共和国になりました。この時期,政治的緊張が高まりました。エホバの証人の中立の立場は誤解され,植民地支配の存続を暗黙のうちに支持しているとみなされました。

ランプ・チセンガは,その当時バングウェウル湖へ行った時のことを覚えています。漁業を営む証人たちを訪問するために船で島々へ行く計画を立てました。まず湖畔までバスに乗りました。バスから降りると,党員カードを提示するようにと言われました。もちろん,持っているはずはありません。党員たちが兄弟の書類かばんを取り上げ,一人が「ものみの塔」と書かれた箱を見つけると笛を吹いて,「ものみの塔だ! ものみの塔だ!」と大声で叫びました。

混乱を恐れた一人の係官が,兄弟を荷物ごとバスに押し戻しました。バスの回りに人だかりができて石を投げ始め,それがドアやタイヤや窓ガラスに当たりました。運転手は急いでバスを発進させ,サンフヤまで90㌔もの距離を一気に走り抜けました。その晩,騒動は収まり,兄弟は翌朝,湖に点在する小さな会衆を訪問するため,何事もなかったように船に乗り込みました。

旅行する監督たちは「多大の忍耐」により,自分を神の奉仕者として推薦しています。(コリ二 6:4)ザンベジ川流域の巡回区で奉仕したファンウェル・チセンガは,「巡回監督として働くには,魂のこもった専心と自己犠牲が求められます」と語ります。この地域では,長時間カヌーに乗って会衆間を移動しなければならないこともあります。それも水漏れする古いカヌーなのです。川には,小枝をポキリと折るかのようにカヌーを簡単にかみ砕くことのできる,気性の荒いカバがいるのです。チセンガ兄弟にとって忍耐強く巡回奉仕を続けるうえで何が助けになったでしょうか。動機づけとなった一つの要素は,兄弟姉妹の存在です。兄弟は笑みを浮かべ,川岸まで見送ってくれた会衆の成員の写真に目をやって,懐かしげにこう言います。「怒りに満ちたこの世の中で,ほかのどこでこんな幸福そうな顔を見られるでしょうか」。

中立

「兵士として仕える者は皆,世の仕事にかかわり合わないようにします。自分を徴兵した士官の意にかなうようにするためです」と使徒パウロは書いています。(テモ二 2:4,ウェイマス訳[英語])クリスチャンは,指導者イエス・キリストの求めにいつでも全面的に応じることができるよう,世の政治体制や宗教体制とのかかわりを避けなければなりません。この立場は,世の事柄に関して中立を保ちたいと願う真のクリスチャンに,困難や「患難」をもたらしてきました。―ヨハ 15:19

第二次世界大戦中,“愛国心”が欠けているとして多くの人が残忍な扱いを受けました。後に熱心な旅行する監督となったベンソン・ジャッジは,当時を振り返ってこう語ります。「兵役を拒否した老人たちが,トウモロコシの袋のようにトラックに放り込まれるのを見ました。その人たちが『ティドザフェラ ザ ムルング』(神のために死のう)と言っているのが聞こえました」。

ムコシク・シナアリは当時まだバプテスマを受けていませんでしたが,戦争中に中立の問題がたびたび持ち上がったことをよく覚えています。こう言います。「土を掘ってマンボンゴという植物の根を採集することがすべての人に義務づけられていました。根から重要なラテックスが取れるのです。根は裂いてから打ち延ばして帯状にされ,束ねられました。それから加工され,天然ゴムに代わるものとして軍人用ブーツの製造に使われました。証人たちは,根の採集が戦争努力に加担することになるので拒否しました。その結果,非協力的であるとして処罰されました。“望ましくない分子”とみなされたのです」。

ジョセフ・ムレンワは,そうした“望ましくない”人の一人でした。南ローデシア出身のジョセフは1932年に北ローデシアの西部州に来ました。ジョセフはある人たちから,『王国が近い』ので畑仕事をやめるよう人々をあおったと非難されたのです。こうした偽りの非難を広めたのは,ジョセフのことを快く思っていなかったマブンボ伝道団のある僧職者でした。ジョセフは逮捕され,精神障害のある男性と手錠でつながれました。その男がジョセフに襲いかかってほしいと思った人たちもいましたが,ジョセフはその人を落ち着かせました。ジョセフは釈放された後も,宣べ伝え,諸会衆を訪問し,1980年代半ばに亡くなるまで忠実を保ちました。

試練に立ち向かえるよう強められる

国家主義の気運や地域社会の緊張が高まるにつれ,良心上政治に関与しない人々に脅しが加えられるようになりました。国内は緊迫した状況でしたが,1963年にキトウェで「勇気ある奉仕者」全国大会が開かれました。それはエホバの証人の間に平和と一致が存在する証となりました。プログラムは四つの言語で提供され,2万5,000人近い出席者が楽しみました。出席者の中には,5日間の大会のためにテントを携えて来る人や,トレーラーハウスを車で引いて来る人もいました。ミルトン・ヘンシェルは,クリスチャンと国家との関係に焦点を当てた意義深い話を行ないました。フランク・ルイスはこう語っています。「兄弟が話の中で,皆さん,中立の問題を理解するよう仲間の兄弟たちを援助してください,と述べたのを覚えています。時宜にかなったその助言に本当に感謝しています。ザンビアのほとんどの兄弟たちが,その後の厳しい試練に立ち向かい,エホバに忠実を保つことができたからです」。

1960年代の10年間,エホバの証人は至る所で激しい迫害を受け,資産を奪われました。家や王国会館は徹底的に破壊されました。政府はそうした破壊行為に加わった多くの人たちを投獄しました。北ローデシアがザンビア共和国になった時,エホバの証人は,新憲法で保障された基本的人権に特別の関心を寄せました。ところが,愛国主義という大きな波が,思いも寄らない人たちの上に襲いかかろうとしていました。

国家の象徴

植民地時代,エホバの証人の子どもたちは宗教的な理由で国旗 ― その当時は英国国旗 ― に敬礼しなかったために処罰されました。また,国歌を斉唱しないということでも罰せられました。当局に陳情すると,教育省は見方を和らげ,次のように書き送ってきました。「国旗敬礼に関する貴[団体]の見方は,よく知られており,尊重されています。子どもたちが敬礼を拒否しても処罰されるべきではありません」。新しい共和国憲法の下では,良心の自由,思想の自由,信教の自由など,人々の基本的自由が重んじられるのではないかという期待が膨らみました。しかし,新しい国旗と国歌ができると愛国主義が高まり,再び学校で国旗敬礼や国歌斉唱の儀式が毎日,非常に熱心に行なわれるようになりました。証人の若者たちの中には,それを免除された人もいましたが,多くは打ちたたかれたり放校されたりしました。

1966年に新しい教育法案が可決され,希望を抱かせました。この新しい教育法に盛り込まれていた一つの条項によれば,親か保護者は子どもに関して,宗教的な儀式や式典への参加の免除を要請できました。その結果,停学や退学になっていた子どもたちの多くが復学できました。ところがその後まもなく,いくぶん秘密裏に幾つかの規定が教育法に追加され,国旗と国歌が国家意識を高める,宗教的意味を持たない象徴と定められたのです。兄弟たちは政府当局者と何度も話し合いましたが,1966年末までに,中立の立場を取ったゆえに3,000人余りの子どもが放校されました。

フェリヤの行ける学校はない

そうした処分の合法性を問う時が来ました。フェリヤ・カチャスという少女がテストケースとして選ばれました。フェリヤはコッパーベルトのブヤンタンシ学校にきちんと通い,優等生として知られていましたが,放校されたのです。この件がどのように裁判に持ち込まれたかについて,フランク・ルイスはこう語っています。「リッチモンド・スミス氏が訴訟を提出してくれました。その訴訟は政府に対するものだったので容易ではありませんでしたが,スミス氏はフェリヤから国旗敬礼をしない理由を聞いて,訴訟を引き受けようと思ったようです」。

ダイレス・ムソンダ姉妹は当時ルサカの学校に通っていました。こう言います。「フェリヤの件が裁判になった時,わたしたちは有利な判決が下されることを期待していました。兄弟たちが裁判を傍聴するためにムフリラから来ました。姉とわたしも誘われました。法廷で,フェリヤは白い帽子をかぶり,淡い色の服を着ていました。審理に3日かかりました。ザンビアにはまだ数人の宣教者がおり,フィリップス兄弟とファーガソン兄弟が傍聴に訪れました。わたしたちは,兄弟たちがそこにいることが裁判に有利に働くのではないかと思いました」。

裁判長は判決の中で次のように述べました。「本件においてエホバの証人が国歌又は国旗に不敬な行為をする意図があったことを暗示するものは何もない」。しかし裁判長は,そうした儀式は宗教とは無関係であるとし,それゆえフェリヤの信念に反するとしても,教育法の下で免除を求めることはできない,との判決を下しました。裁判長は,国家の安全を図るためにそれらの儀式は必要不可欠であると考えていました。しかし,未成年者にそうした要求を課すことがどのように国民の利益となるかについての説明はありませんでした。フェリヤはクリスチャンの信条を固守する限り,学校には行けないのです。

「わたしたちはとてもがっかりしましたが,すべてをエホバのみ手にゆだねました」とダイレスは言います。圧力は増し加わり,ダイレスとその姉も1967年に退学しました。1968年末までに,6,000人近いエホバの証人の子どもが放校されました。

公の集まりが制限される

1966年の公共秩序法は,公の集まりはすべて国歌斉唱をもって始めるよう定めていました。そのため,一般の人を招く大会を開くのは実際的ではなくなりました。兄弟たちは,私有地で少し大きな集まりを開くことにより,政府の要求を満たしました。集まりは大抵,草の柵で囲われた王国会館の周りで開かれました。好奇心をそそられ,何が行なわれているかを知ろうとして,関心を持つ大勢の人が集まりに出席するようになりました。その結果,出席者は着実に増加し,1967年のキリストの死の記念式には12万25人も出席しました。

「この時期には激しい反対が生じました」とランプ・チセンガは言います。「サンフヤではカタンシャ会衆のマボ兄弟が暴徒に殺害されました。集会中に兄弟たちが襲撃され,多くの王国会館が焼き払われました。とはいえ,当局は証人たちに引き続き敬意を払ってくれました。一部の反対者は逮捕され処罰されました」。

自分たちの空軍

反対者は,エホバの証人に対して偽りの非難を浴びせ続けました。証人たちはたいそう富んでいて,次の政権を狙っていると言うのです。ある日,キトウェの支部事務所に政権政党の幹部の一人が突然姿を現わしました。兄弟たちは,支部事務所の門の前に警察官が続々と到着するのを見て初めてその幹部の訪問を知りました。支部の代表者たちとの会合の席で,興奮したその人は声を荒げ,「我々はこれらの建物の建設を許可したが,この中で何をやっているんだ。ここはおまえたちの政府庁舎だろ」と言いました。

当局者の中には,相変わらず,ゆがんだうわさを信じる人たちもいました。北西部州では,警察が催涙ガスを使って大会を中止させようとしました。兄弟たちはどうにか支部事務所に至急電報を打つことができ,小型飛行機を所有していたある外国人農場主が,支部に残っていた代表者を幾人か飛行機でカボンポに送り届けました。代表者たちは,事態を収拾し誤解を解くための助けになりたいと思っていました。残念ながら,一部の人々の疑念を払拭することはできませんでした。証人たちは自分たちの空軍を所有しているとの報告がなされたのです。

大会会場では兄弟たちが,使用された催涙ガスの容器を注意深く拾い集めました。後日,支部の代表者たちは政府高官と会見して懸念を表明した際,警察による過剰な武力行使があった証拠としてそれらの容器を提出しました。この事件は広く報じられ,証人たちの平和的な態度が注目されました。

立場を説明する

エホバの証人の活動を禁止しようとする動きが進んでいたため,支部は証人たちの中立の立場について政府に説明したいと考えました。スマート・フィリとジョナス・マンジョニが選ばれ,大勢の大臣の前で説明することになりました。その席上,大臣の一人が兄弟たちを激しく非難してこう言いました。「おまえたちを外に連れ出して打ちたたいてやりたい。何をしでかしたのか分かっているのか。おまえたちは我々から,最良の市民,最良の人たちを奪ったのだ。あとに残ったのは,殺人者や不道徳な者,泥棒じゃないか」。

兄弟たちはすぐにこう答えました。「証人たちの中にはそのような人たちもいたのです。かつては泥棒や不道徳な者や殺人者でしたが,聖書の力によって生活を変化させ,ザンビアで最良の市民となったのです。だからこそ,自由に伝道できるようお願いしているのです」。―コリ一 6:9-11

国外追放と部分的な禁令

前にも触れたように,宣教者たちは国外退去を命じられました。フランク・ルイスはこう言います。「1968年1月のことは決して忘れません。ある兄弟が電話で,入国管理官が今しがた自宅から引き揚げたところだと知らせてきました。7日間で事業を畳んでザンビアから出国するよう命じる通知を渡されたのです。しばらくすると,別の電話がかかってきました。そしてまた別の電話がかかってくるといった状態でした。やがて,一人の兄弟が電話をかけてきて,次はキトウェのあの大きな施設の番だと聞いた,と知らせてくれました」。そうした強い措置が取られたのは,証人たちの一致を損ない,熱心な活動をやめさせようとしてのことでした。

翌年,大統領が,戸別訪問による伝道活動を禁じる治安維持法を承認しました。事実上の禁令に直面した兄弟たちは,宣教の方法を変える必要に迫られ,非公式の証言が大きなウエートを占めるようになりました。「わたしたちの王国宣教」は,「月ごとの便り」となり,「良いたよりを伝える」という部分が「内部奉仕」に変更されました。これによって政府の検閲官の注意をそらすことができました。1971年の4月には,4万8,000件近い家庭聖書研究の最高数が報告されました。業が制限されても,兄弟たちが手を緩めなかったことが明らかになりました。

現在英国に住むクライブ・マウントフォードは,大勢の宣教者と一緒に奉仕しました。当時を振り返り,こう語ります。「証言を行なう一つの方法は,自分の車に人々を乗せてあげて真理について話し合うというものでした。乗ってくる人のすぐ目につく場所にいつも雑誌を置いておきました」。

聖書の話し合いは禁止されていませんでしたが,事前に同意を得なければ家を訪問できませんでした。それで兄弟たちは時おり,親族や昔の同級生,同僚などの家を訪ねて,聖書に関する事柄に巧みに話を向けるようにしました。ザンビアは一般に大家族なので,大勢の未信者の親族や近所の人たちと接触することができました。

1975年,支部は次のような報告をしています。「ザンビアには,家から家の伝道に携わったことのない伝道者が数千人います。とはいえ,弟子は生み出されており,証言が大々的に行なわれています」。戸別訪問が禁じられていたので,兄弟たちは別の方法で証言を行ないました。その典型的な例は,ある政府機関で記録管理の仕事をしていた一人の兄弟の場合です。その兄弟の仕事には,人々の名前などの情報を記録することも含まれていました。兄弟は聖書中の名前を持つ人に,あなたと同じ名前の聖書中の人物について知っていますかと尋ね,証言の機会をたくさん得ました。ある時,一組の親子が事務所に来ました。兄弟は少女の名前がエデンだということに気づきました。“エデン”の意味を知っていますかと尋ねると,母親は知らないと言いました。兄弟は,近い将来この地がエデンにあった最初のパラダイスのようになることを手短に説明しました。興味をそそられた母親は,自宅の住所を兄弟に教えました。その女性の夫も関心を持ち,家族で集会に出席するようになり,やがて家族の幾人かがバプテスマを受けました。

職場の同僚に証言した奉仕者たちもいます。鉱山会社で働いていたロイドは昼休みを利用し,いろいろな聖句について同僚たちの考えを尋ねました。例えば,「マタイ 16章18節の『岩塊』はだれのことだと思いますか」とか「ローマ 9章32節の『つまずきの石』とはだれだと思いますか」と質問するのです。多くの場合,聖書の説明を聞こうと大勢の鉱員が集まります。こうした非公式の証言がきっかけで,ロイドの同僚の幾人かは進歩して献身し,バプテスマを受けました。

また,若者たちが学校で確固とした立場を取ることによって,人々が真理を聞く機会が開けました。数人の子どもが愛国的な歌を歌おうとしなかった時,担任の先生は怒って,クラス全員を外に立たせました。その一人は,当時のことをこう語っています。「先生はわたしたちが自分たちの宗教の歌も歌えないのだろうと思ったようです。わたしたちをあざけるチャンスだと考えたようで,生徒たちに宗派ごとに分かれるよう指示し,自分たちの教会の賛美歌を1曲か2曲歌うようにと言いました。二つのグループは1曲も歌えませんでした。すると先生は,わたしたちに歌うようにと言いました。わたしたちはまず,『これはエホバの日』という曲を歌いました。上手に歌えたようで,学校の前を通りかかった人たちが足を止めて歌を聞いていました。次に『エホバは王となられた』を歌いました。歌い終わると拍手がわき起こり,先生も拍手しておられました。教室に戻ると,たくさんのクラスメートから,あんなに美しい歌をどこで覚えたのかと尋ねられました。中には,集会に来るようになり,後に活発な証人になった子たちもいます」。

「本を置いていく人たち」

業が制限されていた期間中,兄弟たちは「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真」であることを示しました。(マタ 10:16エホバの証人は,特徴的な文書を紹介し,研究用の手引き書を熱心に用いたため,「アバポンヤ イフィタボ」と呼ばれていました。「本を置いていく(配布する)人たち」という意味です。反対者たちは兄弟たちを沈黙させようとしましたが,王国伝道の業は勢いを失いませんでした。激しい反対が生じてはやむということが幾年も続きました。しかし,1980年代初めには反対が和らいでいました。

ザンビアが独立して以来,25年間で9万人近い人たちがバプテスマを受けました。しかし,活発な伝道者の数は4万2,000人ほどしか増加しませんでした。どうしてでしょうか。確かに,亡くなった人や海外に移転した人はいました。「しかし,人への恐れも一因でした」と,当時支部事務所で奉仕していたネルディーは言います。大勢の人が宣教奉仕において不定期や不活発になりました。さらに,国の独立によって変化が生じました。それまで外国人が就いていた管理職や経営者の立場に新たに就く人材が必要になりました。住まいや雇用や教育などを得る新たな機会が開けると,多くの家族は霊的な事柄から物質の追求へと焦点を移してしまったのです。

それでも業は進展しました。賢王ソロモンはこう書きました。「朝に種をまき,夕方になるまで手を休めるな。あなたは,これがどこで成功するか,ここでかそこでか,あるいはそれが両方とも共によくなるか知らないからである」。(伝 11:6)兄弟たちは真理の種をまく努力をしました。状況が良くなるにつれて,それらの種は成長していきました。伝道者の着実な増加に伴い,より多くの文書を配達する必要が生じたため,1976年に新しいトラックが購入されました。1982年には,ベテルから数キロ離れた場所で新しい印刷施設の建設が始まりました。こうした発展によって将来の拡大のための基盤が据えられました。

アフリカ中部の国々の中で,ザンビアのように内戦を経験していない比較的平和な国はそう多くありません。ザンビアは現在,「良い事柄についての良いたよりを宣明する」のに極めて有利な状況にあります。とはいえ,「患難」についての記憶は,『永遠の命のための実を集める』業に引き続き忙しく携わるよう忠実な人々を促しています。―ロマ 10:15。コリ二 6:4。ヨハ 4:36

支部の拡大

1930年代,レウェリン・フィリップスと仲間の働き人たちはルサカに二間の家を借り,割り当てられた仕事を行ないました。250人余りの奉仕者が生活する,広さ110ヘクタールの現在のベテルを想像できた人はまずいなかったでしょう。現在ベテルで奉仕する兄弟姉妹は,12万5,000人余りの伝道者や開拓者の霊的な必要を満たすために仕えています。では,拡大の歴史を手短に振り返ってみましょう。

前にも触れましたが,1936年に当局の態度が和らぎ,ルサカの文書集積所の開設が許可されました。増加が見られ,すぐにもっと広い建物へ移転する必要が生じました。中央警察署のそばの住宅が購入されました。「その家には寝室が二つありました。居間は奉仕部門が,ベランダは発送部門が使いました」とジョナス・マンジョニは言います。ジョナスは1951年に世俗の仕事を2週間休んでベテルで働き,その後,ベテル奉仕者になりました。ジョナスはこう語ります。「ベテルはよく組織されていて,喜びの精神がみなぎっていました。わたしはフィリップス兄弟と一緒に発送部門で働きました。予約を取り扱い,帯封のされた雑誌に切手を貼る仕事をしました。兄弟たちのために奉仕していることを考えると本当にうれしく思いました」。後に,レウェリン・フィリップスにハリー・アーノットが加わりました。ジョブ・シチェラ,アンドリュー・ジョン・ムラバカ,ジョン・ムタレ,ポティファー・カチェパ,モートン・チスロなどの地元の兄弟たちも共に働きました。

ザンビアが鉱業で栄え,急ピッチで社会基盤の整備が進められると,国の各地から鉱山地帯に移り住む人々が増え,人々の注意がルサカからコッパーベルトに向くようになりました。イアン・ファーガソンはある鉱山都市に土地を購入することを勧め,支部事務所は1954年にルアンシュアのキング・ジョージ通りに移転しました。しかし,しばらくすると,急速に拡大する区域を世話するにはこの場所も手狭になりました。区域は東アフリカのほぼ全域に拡大していたのです。1959年,世界本部のネイサン・ノアは,「目ざめている奉仕者」地域大会を訪れた折に,新しい支部の候補地を幾つか視察し,工事に着手する許可を与えました。ジェフリー・ホイーラーはこう言います。「フランク・ルイス,ユージーン・キナシュクとわたしはある建築家と共に,新しいベテルの測量用の杭打ち作業のため,キトウェの新しい敷地に行きました」。1962年2月3日に,ホームや印刷室や王国会館の備わった新しい支部事務所がエホバに献堂されました。当時支部の僕だったハリー・アーノットは献堂式の話の結びに,より重要な,霊的な建てる業に注意を向けました。わたしたちは皆,信仰や希望や愛という“ブロック”を積み上げるために一生懸命働かなければならないのです。

献堂されたそれらの施設も十分とは言えなくなりました。続く10年間で,王国伝道者は3万129人から5万7,000人近くに増加したのです。「ノア兄弟は印刷の規模を拡大するよう勧めてくださいました」とイアン・ファーガソンは言います。「わたしは南アフリカのエランズフォンテインの支部へ行き,兄弟たちと協議しました。間もなく印刷機が南アフリカからキトウェに空輸されました」。

キトウェでは文書や雑誌のほかに,ケニアや他の東アフリカの国々のために毎月の「わたしたちの王国宣教」も生産していました。この小さな印刷室はすぐ手狭になったので,印刷施設を移転する必要に迫られました。わたしたちはある土地を見つけましたが,市議会がその土地の使用に対して異議を唱えました。それを知った一人の兄弟が別の土地の提供を申し出てくれ,1984年に建物が完成しました。キトウェは30年間,ザンビアの宣べ伝える業の霊的中心地となりました。

宣教者の国外追放に続く困難な時期,支部事務所の奉仕者が増え,ベテル家族のうち14人は自宅から通わなければなりませんでした。前途の業をふさわしく顧みるには,調整が必要でした。やがて,2軒の家を購入し,さらに1軒の家を借りることにより,ベテル家族を増員できるようになりました。とはいえ,新しい施設が必要なことは明らかでした。うれしいことに,状況は間もなく大きく改善されようとしていました。1986年,条件にかないそうな地域に住む兄弟たちは新しい支部の土地を探す割り当てを受けました。首都の西15㌔ほどの所にある110ヘクタールの農場を購入することができました。その地域では地下水が豊富に得られるので,この土地を選んだことは賢明でした。「エホバがこの素晴らしい場所に導いてくださったのだと思います」とダレル・シャープは言います。

献堂式と増加

1993年4月24日,土曜日,長年エホバの僕として仕えてきた幾千人もの人たちが,新しい施設の献堂式のために集まりました。地元の兄弟姉妹4,000人に加え,外国から来た160人余りのゲストが出席しました。その中には,20年ほど前にザンビアを出なければならなかった宣教者たちもいました。統治体の2人の成員がこの献堂式に出席し,その一人セオドア・ジャラズは,「自分を神の奉仕者として推薦する」という主題で話を行ないました。ジャラズ兄弟は,長年忠実に奉仕してきた兄弟たちに,もし忍耐していなかったなら建設の必要もなかったということを思い起こさせました。コリント人へのパウロの言葉に言及し,真の奉仕者が霊の実を培うなら,困難や試練や患難を忍耐できるようになるという点を強調しました。そしてこう述べました。「皆さんは自分を神の奉仕者として推薦してきました。この新しい支部施設を建設しなければならなかったのは,業が拡大したからです」。

2004年,32部屋ある4階建ての新しい宿舎棟が完成しました。1,000平方㍍近くあった印刷施設は,47室の翻訳事務所と書類の保管室,幾つかの会議室,図書室に改装されました。

経済的な苦難や他の困難にもかかわらず,ザンビアのエホバの証人は神への奉仕において豊かにされています。また,人々に霊的な富を分け与えることを特権と考えています。―コリ二 6:10

すべての人に真理を薦める

ザンビアでは家族を非常に大切にします。それで,長年にわたり大勢の人が真理の道のうちに育てられています。ザンビアの西部州には,「牛は自分の角を重たいとは思わない」という昔ながらの格言があります。家族を顧みる務めを重荷とみなしてはならないということです。クリスチャンの親は,神に言い開きをする責任があることを認識しており,クリスチャン宣教の大切さを言葉と行動によって示し,子どもたちに良い感化を与えています。今日,多くの熱心な証人たちは,そうした忠節な親の子どもたちです。―詩 128:1-4

ザンビアのエホバの証人は,エホバの辛抱と支えによって成し遂げられてきた事柄を歓んでいます。(ペテ二 3:14,15)初期の時代,兄弟たちは聖書に基づく「真実」の信仰によって混乱期を乗り越えることができました。積極的で「偽善のない愛」は今なお,さまざまな部族から集められた人々を結び付け,着実な霊的成長をもたらしています。そのような愛により,兄弟たちは不必要な心痛を味わわずにすんでいます。証人たちは「義の武器」を用い,「親切さ」をもって真理を擁護し,教えてきました。その結果,権威を持つ人々を含め,多くの人が心を開くようになり,しばしば「良い評判」につながっています。今日,2,100余りの会衆は「知識」によって堅く立てられ,必要な監督を行なう点で宣教訓練学校の有能な卒業生たちが貢献しています。さらに大きな「患難」が待ち受けていようと,共に集まり合うなら「常に歓んで」いられることを確信しているのです。―コリ二 6:4-10

1940奉仕年度には,イエスの死を記念するようにとの命令に従った人が5,000人ほどいました。それは人口約200人に1人の割合でした。ここ数年,50万人を超える人々 ― 2005年は56万9,891人 ― がその特別な晩にエホバを敬っています。それは,約20人に1人という割合です。(ルカ 22:19)エホバの民はなぜそれほど大きな成果を得ることができたのでしょうか。霊的に成長させてくださるエホバ神にその誉れは帰せられます。―コリ一 3:7

とはいえ,ザンビアのエホバの証人も自分たちの務めを果たしています。ある支部委員は,「わたしたちは良いたよりを語ることを恥じてはいません。むしろ特権と考えています」と述べています。エホバの証人が固い決意を抱き,敬意のこもった態度で宣教に携わっていることは,人々の目に明らかです。ですから,人口90人に1人の割合で伝道者がいるのも不思議ではありません。しかし,行なうべきことはまだたくさんあります。

「エホバのみ名は強固な塔。義なる者はその中に走り込んで保護される」と聖書は述べています。(箴 18:10)正しく整えられた人々が今すぐエホバの側に走り込む必要があります。現在,ザンビアでは毎月20万件近い聖書研究が司会されています。ですから,さらに大勢の人がエホバに献身し,熱心な奉仕者となることでしょう。12万5,000人を超すザンビアの活発な証人たちには,この道を推薦する十分の理由があるのです。

[168ページの囲み記事]

ザンビアの概要

国土: ザンビアは,たくさんの樹木の生い茂る平たんな内陸国です。国土の大部分は海抜約1,200㍍の高原です。ザンベジ川が南の国境の大半を成しています。

住民: 人々はおおむね読み書きができ,多くの人が自らをクリスチャンと称しています。農村部の人々は,草ぶき屋根の家に住み,家の近くで作物を栽培しています。

言語: 公用語は英語ですが,70以上の現地語も話されています。

生活: 主要産業は銅の採鉱と加工です。農産物は,トウモロコシ,モロコシ,米,落花生などです。

食物: トウモロコシが一般的です。ンシマという,とろみのあるトウモロコシ粥がよく食されます。

気候: 国土が高地に位置しているため,アフリカ中南部にしては気候が穏やかです。時おり干ばつが生じます。

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17か月の刑と24回のむち打ちを言い渡されました

コサム・ムワンザ

生まれた年: 1886年

バプテスマ: 1918年

プロフィール: 迫害や偽兄弟たちを耐え忍んだ。1989年に地上の歩みを終えるまで,開拓者また長老として忠実に奉仕した。

わたしは軍に入隊し,第一次世界大戦の初めごろ,北ローデシア連隊の衛生兵として働きました。1917年12月の休暇中,聖書研究者と交わっていた南ローデシア出身の二人の男性と出会いました。わたしは6巻から成る「聖書研究」をもらい,それらを3日間むさぼるように読みました。戦場には戻りませんでした。

エホバの証人の支部事務所と連絡を取ることは困難でした。それで何の指示も受けられないまま,共にいる兄弟たちと奉仕しました。村から村へ行き,人々を集めて説教をし,聴衆からの質問を考慮しました。やがて,国の北部に活動の拠点を置き,そこをガリラヤと呼びました。わたしたちは,聖書の説明を聞きに来るよう関心を持つ人々を招きました。わたしは物事を監督する務めを与えられました。残念なことに,多くの偽兄弟が現われ,混乱を広めました。

わたしたちは意欲的に伝道しましたが,その地域のカトリックとプロテスタントの宣教師たちの“牧草地”を荒らしてしまったようです。わたしたちは大規模な集会を開き続けました。1919年1月,イソカに近い丘陵地に600人ほどが集まった時のことをよく覚えています。わたしたちの意図を疑った警察官や兵士がやって来て,聖書や文書を破棄しました。わたしたちの多くは逮捕されました。カサマ近くで投獄された人もいれば,ムバラや,はるか南のリビングストンに連れて行かれて収容される人もいました。ある人たちは3年の刑を宣告され,わたしは17か月の拘禁刑と臀部への24回のむち打ちを言い渡されました。

釈放されると,故郷の村に戻り,伝道を再開しました。その後,再び逮捕され,むち打たれてから投獄されました。反対はなおも続きました。地元の首長は,村から兄弟たちを追放することにしました。そこで別の村へみんなで引っ越し,その村の首長からは歓迎されました。わたしたちはそこに落ち着くことにし,首長の許可を得て自分たちの村を建て,ナザレと名づけました。平和を乱さないという条件でとどまることが許されました。首長は,わたしたちの行状に満足していました。

1924年の末ごろイソカへ戻ったわたしは,ある好意的な地方行政長官の助けを得て,英語をさらによく理解できるようになりました。そのころ,指導者を自任する者たちが現われ,曲がった事柄を教えて多くの人を惑わしました。しかし,わたしたちは引き続き個人の家で人目につかないように集まり合いました。数年後,ルサカでレウェリン・フィリップスと会うよう招かれ,ザンビアとタンザニアとの国境沿いに点在する諸会衆を訪問する割り当てを受けました。遠くは,タンザニアのムベヤまで行き,兄弟たちを強めました。諸会衆を一巡すると,自分が所属する地元の会衆に戻ったものです。巡回監督が任命される1940年代まで,こうした奉仕を行ないました。

[184-186ページの囲み記事/図版]

北方の国々を援助する

1948年,新しく開設された北ローデシア支部は,英領東アフリカと呼ばれた地域の大半における王国伝道の業を監督するようになりました。当時,ザンビア北方の高地の国々には伝道者があまりいませんでした。また,当局者は外国人宣教者の入国を大幅に制限していました。では,謙遜な人々が真理を知るようだれが援助するのでしょうか。

ハッピー・チセンガは,ザンビアの中央州で正規開拓者として奉仕することを申し出ましたが,タンザニアのヌジョンベの近くの孤立した区域で奉仕するよう招かれ,驚きました。「『孤立した』という言葉を見た時,妻とわたしは,奉仕者たちと共に辺ぴな地域で働くのだろうと思いました。でも間もなく,その地域で初めて伝道するのがわたしたちだということを知りました。人々が持っている聖書からエホバというお名前やハルマゲドンといった表現に注意を向けると,人々は関心を持つようになり,そのうち妻にハルマゲドン,わたしにエホバというあだ名をつけました。わたしたちはやがてアルーシャに任命替えになり,この地を去りましたが,その時には安定した奉仕者たちが地元にいました」。

1957年にウィリアム・ランプ・チセンガは,特別開拓者としてタンザニアのムベヤ周辺の山地で奉仕するよう任命されました。こう言います。「11月に妻メアリーと二人の子どもと共に到着し,ホテルが満室だったため,バスターミナルで一夜を明かしました。夜は雨が降って寒かったのですが,エホバがこれからどのように物事を導いてくださるか楽しみでした。翌朝,バスターミナルに家族を残して宿探しに出かけました。行く当てなどありませんでしたが,ともかく『ものみの塔』誌を持って出かけました。郵便局に差しかかるころには雑誌をすでに何冊か配布していました。その時,ジョンソンという人に会いました。『どこからいらしたのですか,それにどこへ行かれるのですか』と尋ねられたので,キリスト教の伝道に来たことを話しました。ジョンソンはわたしがエホバの証人だということを知ると,自分がザンビアの東部州ルンダジの出身で,バプテスマを受けているが不活発になっていることを話してくれました。わたしたち家族はジョンソンの家に身を寄せることになり,荷物を運ぶ手はずを整えました。ジョンソンと奥さんはやがて霊的な強さを取り戻し,わたしたちがスワヒリ語を学ぶのを助けてくれました。二人はその後,ザンビアに戻り,良いたよりの活発な伝道者になりました。この経験を通して,わたしたちを助けるエホバの能力や,他の人を援助する機会を決して過小評価してはいけないことを学びました」。

全時間奉仕者のバーナード・ムシンガは,妻ポーリーンと幼い子どもたちを連れて,ウガンダ,ケニア,エチオピアなど変化に富む地域で奉仕しました。セーシェルを訪問した時のことについてこう語っています。「1976年に美しいプラスラン島の群れを訪問するよう割り当てられました。島民は熱心なカトリック教徒だったため,さまざまな誤解が生じました。例えば,一人の新しい伝道者の幼い息子が,算数の時間に足すの記号(+)を使おうとせず,『それは十字架です。僕は十字架を信じていません』と言いました。そのため宗教指導者たちが,『エホバの証人は子どもに算数を習わせない』という妙な非難をしました。わたしたちは教育大臣との会見の際,敬意を込めてエホバの証人の信条を説明し,誤解を解くことができました。大臣との友好的な関係が築かれ,それによって宣教者たちの入国が実現しました」。

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ハッピー・ムワバ・チセンガ

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ウィリアム・ランプ・チセンガ

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バーナード・ムシンガとポーリーン・ムシンガ

[191,192ページの囲み記事/図版]

「君は将来を棒に振るのか」

ムコシク・シナアリ

生まれた年: 1928年

バプテスマ: 1951年

プロフィール: ギレアデ卒業生。翻訳者として働いた。現在は会衆の長老として奉仕している。

わたしのバプテスマの日,宣教者のハリー・アーノットが話しかけてきました。ロジ語の翻訳者が必要とされているとのことでした。「手伝ってくれませんか」と,アーノット兄弟から言われました。すぐに任命の手紙と「ものみの塔」誌が送られてきました。その晩,張り切って仕事に取りかかりました。翻訳の仕事は難しく,おまけに使い古した付けペンで長時間書かなければならず,ロジ語の辞書もありませんでした。昼は郵便局で働き,夜は翻訳の仕事をしました。時おり支部事務所から,「翻訳原稿を大至急郵送してください」と催促されました。『全時間奉仕に踏み切れないものだろうか』としばしば考えたものです。しばらくして,郵便局を退職しました。わたしは郵便局の上層部から信頼されていましたが,上層部はわたしの退職に不信感を抱いたようです。お金を使い込んだのではないかと思ったのです。二人のヨーロッパ人検査官が調査のために派遣されました。検査官は徹底的に調べたものの,何の問題も見つかりませんでした。わたしがなぜ退職するのか理解できなかったようです。雇い主からは,仕事を続けてくれれば昇進させると言われました。それを断わると,「君は将来を棒に振るのか」と忠告されました。

しかし,そのようにはなりませんでした。1960年,ベテルに招かれ,その後まもなくギレアデ学校へ招待されました。わたしは気後れがしました。初めて飛行機に乗ってパリへ行き,そこからアムステルダムを経由してニューヨークに向かいました。飛行機の中で,『油そそがれた者たちが天へ行く時は,こんな気持ちなんだろうか』と思ったのを覚えています。世界本部では愛に満ちた歓迎を受け,感激しました。兄弟たちはとても謙遜で,偏見を示すことなど全くありませんでした。わたしはザンビアに戻る割り当てを受け,そこで翻訳の仕事を続けました。

[194ページの囲み記事/図版]

鷲より速く

カトゥク・ンコボンゴは体が不自由で,歩くことができません。巡回監督の訪問中の日曜日,反乱軍が村に向かっているというニュースが舞い込んできました。人々はみな村から逃げ出しました。村に最後まで残っていた人の中に巡回監督のミアンガ・マボショがいました。兄弟が自転車にまたがり,安全な場所に逃げようとしたその時,「兄弟,置いていかないでください」という声が近くの小屋から聞こえてきました。カトゥクの声です。巡回監督はすぐカトゥクを小屋から連れ出し,自転車に乗せて村を出ました。

二人は南方のザンビアへ向かいましたが,地形の険しい地域を通り抜けなければなりませんでした。カトゥクは幾つもの急斜面をはって登るしかありません。巡回監督はその時のことをこう語っています。「わたしは2本の足で登っているのに,先に頂上に着くのはカトゥクのほうなんです。わたしは思わず,『この兄弟は足は悪いが,まるで翼が生えているかのようだ』とつぶやきました。ようやく安全な場所にたどり着いて食事が出された時,兄弟に祈ってもらいました。その心からの祈りの言葉に涙がこみ上げてきました。イザヤ 40章に触れてこう祈ったのです。『エホバ,あなたのみ言葉は真実です。少年は疲れ果てることもあり,うみ疲れることもあります。また,若者も必ずつまずきます。しかし,あなたを待ち望んでいる者は再び力を得,鷲のように翼を張って上って行きます。走ってもうみ疲れず,歩いても疲れ果てることがありません』。そしてこう言い添えたのです。『エホバ,わたしを天の鷲よりも速く移動できるようにしてくださり,感謝いたします』」。

[204,205ページの囲み記事/図版]

カーキ色の半ズボンと茶色のテニスシューズ

フィレモン・カシポ

生まれた年: 1948年

バプテスマ: 1966年

プロフィール: ザンビアで,旅行する監督,MTSの教訓者また調整者として奉仕している。

祖父は宣教奉仕の面でわたしを訓練してくれました。わたしは幾度も学校の友達のところへ連れて行かれ,証言するよう励まされました。祖父は定期的に家族研究を司会していましたが,居眠りすることなどだれにも許されませんでした。わたしはいつも家族研究を楽しみにしていました。

わたしは自宅近くの川でバプテスマを受けました。1か月後,会衆で最初の話をしたのですが,その日,真新しいカーキ色の半ズボンと茶色のテニスシューズを履いていたことを覚えています。困ったことに,靴のひもをきつく結びすぎてしまいました。わたしのつらそうな様子に気づいた会衆の僕が,演壇に上がってひもを緩めてくれました。その間わたしはだまっていました。話はうまくいき,兄弟の親切から大切なことを学びました。エホバが多くの訓練を施してくださったことが分かります。

わたしは自分のこの目で,イザヤ 60章22節の成就を見てきました。会衆の数が増加したため,責任を担う十分の備えができた長老や奉仕の僕がさらに多く必要とされています。その必要を満たしているのがMTSです。MTSに出席している若い兄弟たちを教えるのは,本当に喜びです。エホバはなすべき仕事を与えてくださる時,聖霊も必ず与えてくださる,ということを学びました。

[207-209ページの囲み記事/図版]

「大したことではありませんよ」

エドワード・フィンチとリンダ・フィンチ

生まれた年: 1951年

バプテスマ: 1969年と1966年

プロフィール: ギレアデ第69期生。エドワードはザンビアの支部委員会の調整者として奉仕している。

ある年の地域大会の時期,わたしたちはザンビア北部を車で走っていました。ほとんどが整備されていない小道でした。ある村から数キロ離れた所で,人々がこちらの方に歩いて来るのが見えました。一人は腰の曲がった老人で,杖をつきながら歩いています。靴ひもで結び合わせた靴と一緒に,所持品の入った小さな袋を背負っていました。もっと近づくと,その老人やほかの人たちが大会バッジを付けていることに気づきました。車を止めて,どこから来たのか尋ねると,その年配の兄弟は少し背筋を伸ばしてこう言いました。「もうお忘れですかな。チャンサの大会でご一緒しました。わたしたちは,もうすぐ家に着くところです」。

「いつ大会会場をたったのですか」とわたしたちは尋ねました。

「日曜日のプログラム終了後です」。

「でも今は水曜日の午後ですよ。3日間も歩いてこられたのですか」。

「そうです。昨晩はライオンの声が聞こえました」。

「皆さんは大会に出席するために素晴らしい精神を示し,犠牲を払われたのですね。本当に立派です」。

その兄弟は荷物を持ち上げると,また歩き出し,こう言いました。「大したことではありませんよ。支部事務所に戻られたら,大会の新しい開催地について感謝を伝えてください。去年は5日歩きましたが,今年はたった3日でした」。

1992年が干ばつの年であったことをザンビアの人々は覚えています。その年,わたしたちはビクトリア滝から200㌔ほど上流のザンベジ川河畔で開かれた大会に出席していました。晩の時間,いろいろな家族を訪ねて回りました。ほとんどの家族は自分たちの小屋の前でたき火をし,その周りに集まっていました。ある場所では,20人ほどの人々が王国の歌を歌っていました。わたしたちは,その兄弟たちが8日間も歩いて大会に来たことを知りましたが,兄弟たちは何か特別なことをしたとは思っていませんでした。家畜に幼い子どもや,食料,料理道具などを載せて移動し,日が暮れたところで野宿するのです。

翌日の発表で,大勢の人が干ばつの被害に遭ったこと,困窮している人に援助が与えられていることが知らされました。その晩,3人の兄弟がわたしたちの小屋にやって来ました。みな靴を履いておらず,洋服も古びていました。わたしたちは,その兄弟たちがどれほど干ばつの影響を受けたのかを話すために来たのだと思っていました。ところが,被害に遭った兄弟たちがいるのを知って本当に悲しく思った,と言うのです。一人が上着のポケットからお金の詰まった封筒を取り出し,「お腹をすかせたまま兄弟たちを去らせないでください。これで食料を買ってあげてください」と言ったのです。胸がいっぱいになり,感謝の言葉を述べることもできませんでした。そして,ようやく話せるようになった時にはもう3人はいなくなっていました。兄弟たちはこのようなことを予期して大会に来たわけではなかったので,大きな犠牲を払って寄付をしたのです。こうした経験を通して,わたしたちは兄弟たちにいっそう引き寄せられました。

[図版]

さまざまな困難にもかかわらず,かなりの距離を旅して大会に出席する人たちは少なくない

上: 大会会場で夕食の支度をする

左: 屋外でパンを焼く

[211-213ページの囲み記事/図版]

集まり合うことを決意する

アーロン・マプランガ

生まれた年: 1938年

バプテスマ: 1955年

プロフィール: ベテル奉仕者,翻訳者,支部委員として働く。現在は,家族の頭で会衆の長老として奉仕している。

1974年のことです。カサマの東約10㌔の所で大会を開いていました。大会の開催許可は地元の首長から得ていたのですが,警察から解散するよう要求されました。間もなく,大柄の指揮官が準軍事警察の隊員100人ほどを引き連れて現われ,会場を包囲しました。大会のプログラムはそのまま進められましたが,草で作った事務所の中では,開催許可のことや,国歌を演奏するかどうかについて指揮官と活発なやり取りが行なわれていました。

わたしが基調をなす話を扱う番になると,指揮官はそれを阻もうとして,わたしの後についてステージに上りました。聴衆は,次に何が起きるのかといぶかっていました。指揮官は約1万2,000人の聴衆をしばらく見つめてから,憤然としてステージを下りて行きました。話の後,指揮官がステージ裏で非常にいらいらした様子でわたしを待っているのが見えました。指揮官は集まりを解散させるよう部下たちに命じましたが,士官たちの間で意見が分かれ,士官たちは車で走り去ってしまいました。しばらくすると大きな本を抱えて戻って来ました。指揮官はその本をわたしの前のテーブルに置いて,印の付いている箇所を読むようにと言いました。わたしはその部分を黙読しました。

そして言いました。「この本に書かれているとおりだと思います。ここには,『警察官は,平和を脅かすどんな集まりも解散させる権限を有する』とあります」。それから指揮官のベルトとピストルを見ながら,こう続けました。「この場所で脅威となっているのは,あなたとあなたの武装した部下たちだけです。わたしたちはと言えば,聖書しか持っていません」。

指揮官はすぐに諜報士官の方を向いて,「わたしが言ったとおりだろ。さあ,行くぞ」と言い,わたしを警察署に連行しました。

指揮官は自分のオフィスに着くと,電話で別の指揮官と話し始めました。それまでわたしとは英語で話していましたが,電話ではロジ語で話しました。わたしがロジ語を話せることは知らなかったようです。二人はわたしについて話し合っていました。わたしは静かに座り,何も分からないような素振りをしていました。指揮官は受話器を置くと,「さあ,聞きたまえ!」と言いました。

わたしはロジ語で,「エニ シャ ナ テエレザ!」と返事をしました。「はい,聞いております!」という意味です。指揮官は驚いた様子で,座ったまま,しばらくわたしを見つめていました。それから立ち上がると,事務所の隅にある大きな冷蔵庫に行き,冷たい飲み物を出してくれました。幾らか打ち解けた雰囲気になりました。

しばらくすると,その地域で名の知れた実業家の兄弟が駆けつけてくれました。わたしたちが幾つかの実際的な提案を行なったところ,指揮官の懸念は和らぎ,緊迫した状況は収まりました。エホバの後ろ盾を得て,大会はもっと開きやすくなりました。

[221ページの囲み記事/図版]

がりがりにやせる

マイケル・ムカヌ

生まれた年: 1928年

バプテスマ: 1954年

プロフィール: 旅行する監督として奉仕した。現在はザンビアのベテルで奉仕している。

わたしの巡回区は,そそり立つ断崖のさらに向こうにある谷合いの地へとずっと続いていました。ツェツェバエにはよく悩まされました。虫や強い日差しを避けるため,午前1時に起きて出発し,丘や山を登って次の会衆に向かったものです。ひたすら歩くので,荷物は最小限にとどめました。食べ物があまりなかったため,がりがりにやせていました。兄弟たちは支部に,わたしの割り当ての変更を要請する手紙を書くことについて考えていました。わたしがそのうち死んでしまうと思ったからです。そのことを話してくれた兄弟たちに,こう答えました。「わたしのことを思ってくださるのは分かりますが,これはエホバからの割り当てですし,エホバは必要なら割り当てを変更することがおできになります。わたしに,もしものことがあるとしても,人は皆いずれ死ぬのではありませんか。とにかく業を続けさせてください。万一わたしが死んだときには,支部事務所に知らせてください」。

3週間後,割り当ての変更が知らされました。エホバに仕えるのが容易でないときも確かにありますが,業は続けなければなりません。エホバは幸福な神です。もし僕たちが幸福でないなら,喜びのうちに奉仕を続けられるよう何らかの方法を講じてくださいます。

[223,224ページの囲み記事/図版]

迷信を信じない

ハーキンス・ムキンガ

生まれた年: 1954年

バプテスマ: 1970年

プロフィール: 妻と共に旅行する監督として奉仕した。現在はザンビアのベテルにいる。

妻のアイダとわたしは,2歳になる一人息子を伴って旅行する奉仕をしました。ある会衆に到着し,兄弟たちから温かい歓迎を受けました。木曜日の朝,息子が泣き出し,泣きやみませんでした。午前8時,息子の世話を妻にゆだね,野外奉仕のための集まりに出かけました。1時間後,聖書研究を司会していた時,息子が亡くなったという知らせが入りました。たいへんつらかったのですが,息子が呪い殺されたのだと思い込んだ兄弟たちが少なからずいることを知り,いっそう心が痛みました。多くの人が抱くそのような恐れには根拠がないことを一緒に考えましたが,この知らせは区域の隅々まで野火のように広まりました。わたしは,サタンが力を持ってはいても,エホバとその忠節な僕たちを打ち負かすことはできないと説明しました。「時と予見しえない出来事」はわたしたちすべてに臨みます。恐れにとらわれて早計な判断を下すことがないようにしなければなりません。―伝 9:11

翌日,息子は埋葬され,集会は葬式の後に開かれました。このことから兄弟たちが学んだのは,エホバの証人は邪悪な霊を恐れることも迷信を信じることもしない,という点です。息子を亡くしてとてもつらかったのですが,わたしたちはその特別な週の活動を予定どおり続けてから次の会衆に向かいました。会衆が痛手を負ったわたしたちを慰めるというよりも,こちらが会衆を慰め,近い将来に死はなくなるということを伝えて仲間を励ましました。

[228,229ページの囲み記事/図版]

大胆さを奮い起こしました

レナード・ムソンダ

生まれた年: 1955年

バプテスマ: 1974年

プロフィール: 1976年以来,全時間奉仕を続けている。旅行する奉仕に6年携わり,現在はザンビアのベテルで奉仕している。

1985年ごろ,国の最北部の諸会衆を訪問していました。それまでの幾年か,その地方では政治的な思惑による強い反対が生じていました。巡回監督の任命を受けてまだ間もないわたしは,信仰と勇気を示す機会に直面しました。ある日,野外奉仕のための集まりを終え,近くの村に行こうとしていた時のことです。エホバの証人がそこで伝道しようものなら村じゅうの人たちから袋だたきにされるといううわさを聞いたと,一人の兄弟が語ったのです。1960年代の終わりから1970年代の初めにかけては暴徒による襲撃も起きましたが,この時期に地域を挙げて人々が暴力を振るうとは考えにくいと思いました。

とはいえ,その話を聞いた一部の伝道者は,ひるんでその場にとどまりました。しかし,かなりの数の人は大胆さを奮い起こし,その村に出かけました。全く予想外の展開になりました。雑誌をたくさん配布でき,良い話し合いもできました。一方,わたしたちが村に入るのを見て逃げ出した人々もいました。煮立ったままのなべが放置され,家は開け放たれたままでした。人々は対決するどころか退散したのです。

[232,233ページの囲み記事/図版]

命からがら逃げました

ダーリントン・セフカ

生まれた年: 1945年

バプテスマ: 1963年

プロフィール: 特別開拓者,旅行する監督として働き,ザンビアのベテルでも奉仕した。

社会情勢が揺れ動いていた1963年のことです。野外宣教に出かけると,強い政治思想を持つ若者たちの一団が先回りし,わたしたちの話を聞かないよう人々に告げるということがよくありました。言うとおりにしなければ,仲間を向かわせて家の窓やドアを壊してやる,と脅したのです。

わたしは,バプテスマを受けてからわずか2日後の晩,若者15人に囲まれてひどく殴打されました。口と鼻から血が流れ出ました。別の晩には,もう一人の兄弟と一緒にいたところを40人ほどのグループに襲われました。わたしが滞在していた場所まで跡をつけてきたのです。わたしは主イエスの経験を思い起こして力を得ました。バプテスマの時にジョン・ジェーソン兄弟が行なった話の中で,クリスチャンは何の問題もない生活を送れるわけではない,という点がはっきり示されました。ですから,起きた事柄は意外なことというよりも,むしろ励みとなりました。

政治家たちは当時,独立闘争に対する支持を取りつけようと躍起になっており,わたしたちの中立の立場をヨーロッパ人やアメリカ人に対する同調とみなしました。政治団体を支援していた宗教指導者たちはその機に乗じて,わたしたちについての否定的な話を広めようとしました。独立前の状況は厳しく,独立後も難しさは続きました。多くの兄弟は,党員カードを買わないという理由で職を失いました。さらには,政治運動に対する寄付の要請を受けないで済むよう,都市部から故郷の村に移転して収入の低い仕事に就いた兄弟たちもいました。

わたしがまだ十代のころ,エホバの証人ではないいとこが面倒を見てくれていました。しかし,わたしの中立の立場ゆえにいとこの家族は脅迫され,恐れを抱くようになりました。ある日,仕事に行こうとしていたいとこから,「今晩わたしが戻るまでに出ていってほしい」と告げられました。初めは冗談ではないかと思いました。町にはほかに親族がいませんでしたし,行く当てなどなかったのです。しかし程なくして,いとこが本気でそう述べていたことを思い知らされました。家に戻ったいとこは,わたしを見かけると怒り狂いました。石を拾ってわたしの跡を追いはじめ,「おまえのくだらない仲間たちのところに行け!」とわめき散らしたのです。わたしは命からがら逃げました。

事の次第を聞いた父は,「これからも中立を守るというのなら,家には帰って来るな」と伝えてきました。それはつらいことでした。わたしはまだ18歳だったのです。だれがわたしを迎え入れてくれるのでしょうか。会衆がそうしてくれました。わたしはダビデ王の次の言葉をよく思い巡らします。「わたしの父とわたしの母がわたしを捨て去ったとしても,エホバご自身がわたしを取り上げてくださることでしょう」。(詩 27:10)これだけははっきり言えます。エホバはご自分の約束を必ず守ってくださるのです。

[236,237ページの囲み記事/図版]

行状ゆえに教師たちから良い評価を得る

ジャクソン・カポベ

生まれた年: 1957年

バプテスマ: 1971年

プロフィール: 会衆の長老として奉仕している。

1964年を境に,国内の各地でエホバの証人の児童や生徒が放校されるようになりました。支部事務所は,親が子どもをそのような状況に備えさせるよう勧め,必要な援助を与えました。学校から帰ると,父が一緒に座って出エジプト記 20章4,5節から話し合ってくれたことを覚えています。

全校集会では,あえて問題を起こさないよう,できるだけ後ろの方に立ちました。国歌を歌わないところを見られた生徒は前に呼ばれました。なぜ歌わないのか校長先生に聞かれた時,聖書を用いて答えました。すると,「君は字が読めるのに歌わないのか」と語気荒く言われました。そして,学校を作って読み方を教えてくれた政府に忠実であるべきだと諭されました。

1967年2月,ついにわたしも放校されました。がっかりしました。勉強が好きで,まじめに取り組んでいたからです。父は仕事仲間や信者でない親族から圧力を受けましたが,わたしがしていることは正しいと言ってくれました。母も圧力をかけられました。母の畑仕事を手伝っているわたしを見たよその母親たちから,「子どもを学校にも行かせないで」と嫌味を言われたものです。

しかし,これで教育の機会が絶たれてしまったわけではありません。1972年,会衆内に識字クラスを設けることが強調されるようになりました。やがて各地の学校で状況が緩和されました。わたしの家は学校の向かいにありました。校長先生はよく,冷たい飲み水をもらいに我が家を訪ねたり,教室を掃除するためのほうきを借りに来たりしました。ある時にはなんと,お金を借りに来ました。家族が示した親切は,先生の心を動かしたようです。ある日,「息子さんはまた学校に行きたいと思っていますか」と聞いてきたのです。父はわたしが今もエホバの証人であることを伝えましたが,校長先生は「別に構いません」と答えました。そしてわたしに,「何年生のクラスに入りたいかね」と尋ねました。わたしは6年生になりたいと答えました。こうして前と同じ学校で,同じ校長先生のもと,同じクラスメートと一緒に勉強することになりました。違っていたのは,わたしがほとんどの子よりも読むのが上手だったことです。王国会館での識字クラスのおかげです。

よく学び,立派な行状を心がけたので多くの先生から良い評価を得,学校であまり問題を経験しないですみました。勉学に励み,幾つかの資格試験を受けました。そのため,鉱山で責任ある立場に就くことができ,後に家族を養えるようになりました。妥協して国歌を歌ったりしなくて本当によかったと思います。

[241,242ページの囲み記事/図版]

「伝道をやめることなどできるでしょうか」

ジョナス・マンジョニ

生まれた年: 1922年

バプテスマ: 1950年

プロフィール: ザンビアのベテルで20年余り奉仕した。現在は長老また正規開拓者。

第二次世界大戦のさなかに,兄が聖書と数冊の書籍を携えてタンザニアから帰国しました。「政府」や「和解」といった書籍もその中に含まれていました。エホバの証人の出版物は禁書にされていました。なぜわざわざ禁止されるのだろうと思い,「和解」の本を読みましたが,意味がよく分かりませんでした。その幾年か後,兄のもとを訪ねた時,一緒に会衆の集会へ行きました。王国会館はなく,草を刈って,竹の柵で仕切った区画で集会が開かれていました。印刷された筋書きによる話ではありませんでしたが,聖書の内容を直接論じた講演を聞くことができ,実に満ち足りた思いがしました。聖書についての説明は,わたしが通っていた教会の説明とはかなり異なっていました。教会に来る人たちは,国旗敬礼や太鼓を打ち鳴らすことに熱心です。それに,部族の違いや,どの言語で歌うかといったことをめぐって言い争いが起きていました。ところが,集会ではエホバを賛美する美しい歌を耳にし,家族全員が座って霊的食物を取り入れているのを目にしました。

わたしはバプテスマを受け,その後も病院の用務員として働きました。仕事柄,鉱山地の町々をよく訪れました。1951年,2週間の休みを取ってルサカの支部事務所の仕事を手伝いました。それから間もなくベテルに招かれました。最初は発送の仕事をしました。事務所がルアンシュアに移ってからは,通信物の処理や翻訳を行ないました。1960年代の初めに政治情勢は変化しはじめましたが,兄弟たちはそうした中でも引き続き良い実を生み出し,中立の立場を保ちました。

ケネス・カウンダ博士と会見する機会が何度かありました。少し後にザンビアの大統領になった人です。1963年3月にカウンダ博士と会った時,わたしはエホバの証人が政党に加わったり党員カードを購入したりしない理由を説明しました。政治的な理由で反対する人たちから脅迫されないですむよう力になっていただけないかと頼むと,博士はもっと情報を得たいと述べました。わたしたちはその幾年か後,大統領になっていたカウンダ博士から議会に招かれ,大統領および主要閣僚と会見する機会を得ました。会合は夜遅くまで続きました。大統領は,宗教組織としてのエホバの証人に反対していたわけではありませんが,伝道せずに他の宗教と同じようにただ集会を開くという方法は取れないのか,と言いました。わたしたちは,「伝道をやめることなどできるでしょうか。イエス・キリストも伝道しました。パリサイ人たちのそばで礼拝所を建てるだけでよいとは考えませんでした」と答えました。

わたしたちが何度も陳情したにもかかわらず,宣教奉仕の幾つかの面に禁令が課されました。とはいえ,わたしたちはそれまでと同様,いろいろな方法を見つけてはエホバに誉れを帰してきました。エホバは,僕たちを用いてご自分の目的を成し遂げられる方です。

[245,246ページの囲み記事/図版]

学習意欲は旺盛でした

ダニエル・サカラ

生まれた年: 1964年

バプテスマ: 1996年

プロフィール: 会衆の長老として奉仕している。

シオニスト教会に所属していたときに「読み書きを学びましょう」の小冊子を受け取りました。字が読めませんでしたが,学習意欲は旺盛でした。それで,その出版物を手に入れてから時間をかけて勉強しました。人に尋ねては知らない単語を覚えてゆきました。こうして先生に教わることなく短時間で進歩し,読み書きの基本を習得しました。

そのおかげで聖書を読めるようになりました。ところが,聖書と矛盾する事柄が幾つも教会で行なわれていることに気づきました。エホバの証人である義理の兄弟が,「死者の霊 ― あなたを助けることや害することがありますか それは本当に存在しますか」のブロシュアーを送ってくれました。読んで気づいた点について,牧師に尋ねることにしました。ある日,教会で申命記 18章10,11節を読み上げてから,「どうしてわたしたちの教会では聖書が禁じていることをするのですか」と聞きました。

「わたしたちには,わたしたちなりの務めがあります」というのが牧師の答えでした。どういう意味か,よく分かりませんでした。

次に,伝道の書 9章5節を読み,「死んだ者には『何の意識もない』と聖書が述べているのに,死者を敬うよう人々に勧めるのはどうしてですか」と尋ねました。牧師も,礼拝に来ていた人たちも何も言いませんでした。

あとで教会員が幾人か近づいてきて,「我々はエホバの証人ではないのだから,しきたりどおり死者をあがめてもよいはずだ」と述べたのです。不思議に思いました。話し合いの中で聖書しか使わなかったのに,教会の人々はわたしがエホバの証人と交わっていると考えたのです。それ以後,教会の仲間二人と共に,王国会館での集会に出席しはじめました。クリスチャンの集会に出席するよう親族にも勧め,3か月ほどで幾人かに来てもらえるようになりました。そのうち3人は今ではバプテスマを受けています。妻もその一人です。

[176,177ページの図表/グラフ]

ザンビア ― 年表

1910

1911年: 「聖書研究」の双書がザンビアに届く。

1919年: コサム・ムワンザおよび150人ほどがむち打たれ,投獄される。

1925年: 聖書研究者のケープタウン事務所が伝道とバプテスマを取りやめる。

1935年: 政府が文書の輸入を制限する。20種類の出版物が禁止される。

1936年: ルサカに文書集積所が開設され,レウェリン・フィリップスが監督となる。

1940

1940年: 政府がエホバの証人の文書の輸入と配布を禁止する。バプテスマが再び施されるようになる。

1948年: 最初のギレアデ卒業生たちが到着する。

1949年: 政府が「ものみの塔」誌に対する禁止命令を解除する。

1954年: 支部事務所がルアンシュアに移転する。

1962年: 支部事務所がキトウェに移転する。

1969年: 政府が公の伝道活動を禁止する。

1970

1975年: 宣教者が国外追放される。

1986年: 宣教者の入国が再び許可される。

1993年: ルサカにある現在の支部施設が献堂される。

2000

2004年: ルサカの支部施設が増築され,献堂される。

2005年: ザンビアで12万7,151人の伝道者が活発に奉仕する。

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

130,000

65,000

1910 1940 1970 2000

[169ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

コンゴ民主共和国

ザンビア

カプータ

ムバラ

イソカ

カサマ

サンフヤ

ルンダジ

ムフリラ

カルルシ

キトウェ

ルアンシュア

カブウェ

ルサカ

セナンガ

ザンベジ川

リビングストン

ボツワナ

ジンバブエ

モザンビーク

マラウイ

[162ページ,全面図版]

[167ページの図版]

トムソン・カンガレ

[170ページの図版]

レウェリン・フィリップス

[178ページの図版]

ハリー・アーノット,ネイサン・ノア,ケイ・ジェーソンとジョン・ジェーソン,イアン・ファーガソン,1952年

[193ページの図版]

右: マンダ・ントンパとその家族。ムワンゲ難民キャンプにて,2001年

[193ページの図版]

下: 典型的な難民キャンプ

[201ページの図版]

ザンビアの宣教訓練学校の第1期生,1993年

[202ページの図版]

生徒と面談する,MTSの教訓者リチャード・フルッドとフィレモン・カシポ

[206ページの図版]

大会の施設は,泥や草など地元で入手できる材料で作られた

[215ページの図版]

左: 時代衣装を着けた聖書劇,1991年

[215ページの図版]

下: 「神の平和の使者」地域大会の浸礼希望者,1996年

[235ページの図版]

リッチモンド・スミス氏,フェリヤ・カチャスとその父親ポール

[251ページの図版]

ルサカの現在の支部の建設に携わった,喜びにあふれる奉仕者たち

[252,253ページの図版]

(1,2)最近建設された王国会館

(3,4)ザンビア支部,ルサカ

(5)スティーブン・レット。増築された支部の献堂式で,2004年12月

[254ページの図版]

支部委員会,左から右へ: アルバート・ムソンダ,アルフレッド・キュー,エドワード・フィンチ,サイラス・ニャング,ダレル・シャープ