内容へ

目次へ

ルーマニア

ルーマニア

ルーマニア

真のクリスチャンに対する迫害が,終わりの日に頂点に達することを聖書は予告していました。(創 3:15。啓 12:13,17)ルーマニアは,その預言が著しい成就を見た国です。とはいえ,このあとの記述が示すように,ルーマニアのエホバの証人は,神の民の心に明るく燃える真理の炎を消すことを何ものにも許しませんでした。(エレ 20:9)むしろ,「多大の忍耐と,患難と,窮乏と,困難と,殴打と,獄」によって,自分たちを「神の奉仕者として」推薦したのです。(コリ二 6:4,5)その忠誠の記録が,困難なこの時代に神と共に歩むことを願うすべての人にとって,励みとなりますように。

1914年,人類史において極めて不安定な時代が幕を開けました。ヨーロッパの多くの国では,冷酷な独裁者,極端な政治イデオロギー,恐ろしい殺戮の時代となりました。ルーマニアはそのまっただ中に巻き込まれ,国民はたいへん苦しみました。イエス・キリストに従って,「神のものは神に」返し,政治国家を崇拝しないことを固く決意していた人々もそうでした。―マタ 22:21

1945年より前,先頭に立ってエホバの民を攻撃したのは正教会とカトリック教会の僧職者でした。彼らは説教壇から攻撃しました。また,政治家や警察と共謀したり,それらの人をけしかけたりしました。次の迫害の波は共産主義者から押し寄せ,その残忍で組織的な運動はほぼ40年にわたって続きました。

そうした過酷な環境のもとで良いたよりが前進できたのはなぜでしょうか。それはイエスがご自分の言葉どおりになさったからにほかなりません。「見よ,わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいるのです」とイエスは言われました。(マタ 28:20)では,現在東ヨーロッパと呼ばれている一帯に王国の種が最初にまかれた,約100年前にさかのぼることにしましょう。

ルーマニア人が母国に戻る

1891年,聖書研究者のチャールズ・テイズ・ラッセルは,伝道旅行で東ヨーロッパを訪問しましたが,その結果に幾分がっかりしました。「真理を受け入れるための機会や備えがまだできていなかった」と報告しています。しかし,ルーマニアで,そうした状況はやがて変化することになりました。実際,ラッセル兄弟自身,そこでの業を開始する上で,間接的とはいえ大切な役割を果たすことになるのです。どのようにでしょうか。

19世紀も終わりに近づくにつれ,ルーマニアでは社会情勢や経済情勢のために,多くの人がアメリカなど外国の地で職を探すようになりました。一部の人にとって,移動したことは物質的な利得以上の結果をもたらしました。聖書の真理の正確な知識も得たのです。カローリー・サボーとヨーゼフ・キスの場合がそうでした。霊的な思いを抱く二人は,ラッセル兄弟の聖書講演会に何回か出席しました。

ラッセル兄弟は二人が聖書に純粋な関心を抱いているのを見て取り,自分から近づくことにしました。話し合いの中で,兄弟はカローリーとヨーゼフに,ルーマニアに戻って王国の音信を親族や友人に伝えるのはどうかと勧めました。二人とも喜んで応じ,1911年に船でルーマニアへ帰り,トランシルバニアのトゥルグ・ムレシュ市に落ち着きました。

サボー兄弟は母国へ帰る途中,家族のだれかが真理を受け入れるようにと祈りました。そして帰国すると,祈りに調和して行動し,姪のズザナ・エニェディをはじめ,親族に証言しました。ズザナはカトリック教徒で,兄弟を家に泊めてくれました。夫は庭師で,ズザナは市場で花を売っていました。

ズザナは毎朝仕事の前にミサに出席し,毎晩家族が寝床に就くと庭に出て祈りました。カローリーはそうした姿を見て,ある晩,庭にいる姪に近づいて肩に優しく手をかけ,「ズザナ,君は心の誠実な人だね。きっと真理を見つけるだろう」と言いました。この立派な女性は,叔父の言葉のとおり王国の音信を受け入れ,トゥルグ・ムレシュでエホバに献身した最初の人となりました。そして,87歳で亡くなるまで忠実を保ちました。

サボー兄弟はエニェディ家で働いていたシャンドル・ヨーザという青年にも証言しました。シャンドルは二人の兄弟が司会していた集会にすべて出席し,どんどん学びました。間もなくこの18歳の若者は,故郷のムレシュ県サラツェニ村で証言し,立派な聖書講演もするようになりました。月日が経つにつれ,彼の“推薦の手紙”には6組の夫婦と24人の子ども ― 女の子13人,男の子11人 ― が含まれるようになりました。―コリ二 3:1,2

キス兄弟とサボー兄弟はトゥルグ・ムレシュから始め,トランシルバニアをくまなく伝道しました。クルジュ・ナポカから30㌔の所にあるドゥムブラバ共同体にいた時,バプテスト派のバシーレ・コステヤに会いました。バシーレは小柄で意志が強く,聖書を熱心に勉強していました。キリストの千年統治について頭を悩ませていたバシーレは,ヨーゼフとカローリーが聖句を説明してくれた時,一心に耳を傾けました。バプテスマを受けた後は,ハンガリー語も話せたので,同じ県に住むルーマニア人にもハンガリー人にも徹底的に証言しました。後に聖書文書頒布者<コルポーター>(全時間奉仕者)となり,亡くなるまでその奉仕を続けました。

サボー兄弟はルーマニアの北西の端にあるサトゥ・マーレ市にも良いたよりを伝え,そこでパラスキーバ・カルマルに会いました。神を恐れるこの女性は真理をすぐに受け入れ,エホバを愛することを9人の子どもに教えました。カルマル家は現在,5世代にわたってエホバの証人です。

ほかにも,アメリカで聖書の真理を学び,第一次世界大戦の前に母国に戻ったルーマニア人として,アレクサ・ロモチャがいます。アレクサはトランシルバニア北西部にある故郷のベネサト村に行きました。程なくして,聖書研究者(エホバの証人は当時そう呼ばれていた)の小さな群れが発足し,その地域で集まるようになりました。その群れの中に,アレクサの甥,エレク・ロモチャとガブリラ・ロモチャがいました。アレクサの一族も現在,5世代にわたってエホバの証人です。

クリスチャンの中立の立場ゆえに厳しく迫害されたエレクは,アメリカに移住し,1922年にオハイオ州シーダーポイントで開かれた聖書研究者の特別な大会に出席しました。それだけでなく,ルーマニア語の区画に座っている聴衆のために通訳者として奉仕する喜びにもあずかりました。ガブリラはルーマニアにとどまり,サボー兄弟とキス兄弟に同行してトランシルバニアで伝道し,設立されたばかりの会衆や群れを訪問しました。後に,最初の支部事務所で奉仕しました。

第一次世界大戦中にイマノイル・キンツァという名のルーマニア人が逮捕され,故郷から遠く離れたイタリアの軍刑務所に送られました。そこで,武器を取ろうとしないために投獄されていた聖書研究者たちに会い,聖書の音信を受け入れました。1919年に釈放されると,マラムレシュ県にある故郷のバヤ・マーレに戻り,良いたよりを熱心に宣べ伝え,聖書研究者のさらに別の群れの発足に貢献しました。

良いたよりを伝えた初期の開拓者や,その音信に耳を傾けた人たちの熱心さと自己犠牲の精神のおかげで,弟子の数はぐんぐん増え,聖書研究者の小さな群れが次々と設立されました。事実,カローリー・サボーとヨーゼフ・キスがルーマニアに戻ってわずか8年後の1919年には,1,700人を超える王国伝道者や関心のある人が150の聖書研究会(現在の群れまたは会衆)に組織されていました。キス兄弟は86歳で亡くなるまで開拓者として母国で奉仕しました。サボー兄弟は1924年にアメリカに戻り,そこでハンガリー語の畑における業を調整しました。

霊的食物の生産

王国の音信を広め,霊的に飢えている人を養う上で,印刷物は大きな役割を果たしました。霊的食物の必要を満たすため,兄弟たちは文書が国内の業者によって印刷されるように手配しました。1914年から,トゥルグ・ムレシュにあるオグリンダ(「鏡」の意)という名の民間印刷所が,16ページから成る月1回発行の「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌,そして書籍やパンフレットを,すべてハンガリー語で生産しました。

ルーマニア語の文書が国内で印刷されるようになったのは1916年のことです。その中には,「『より勝った犠牲』の影としての幕屋」という小冊子,「『ものみの塔』の抜粋」という8ページの雑誌,「信仰の家の者のための日々の天のマナ」(現在の「日ごとに聖書を調べる」)という書籍,「千年期黎明の賛美歌」という歌の本がありました。1918年からは,米国ミシガン州デトロイトの印刷所が,ルーマニア語版の「ものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌と,偽りの宗教を大胆に暴露した「一般人の説教壇」という月1回発行のパンフレットを印刷し,ルーマニアに送りました。

良いたよりがすばらしく前進していたため,ルーマニア出身の聖書研究者ヤーコブ・B・シーマが,業の調整およびその法的基盤を据える割り当てを受けました。1920年にクルジュ・ナポカに着いて間もなく,シーマはカローリー・サボーと,次いでヨーゼフ・キスと会いました。最優先事項は,支部事務所に適した家をクルジュ・ナポカに見つけることでした。しかし,住宅難だったため,兄弟たちはある兄弟のアパートに一時的な事務所を設けました。こうして1920年4月,最初の支部が開設され,ものみの塔聖書冊子協会という法人も設立されました。しばらくの間,ルーマニア支部はアルバニア,ブルガリア,ハンガリー,旧ユーゴスラビアでの業も監督しました。

そのころ,バルカン諸国に吹いていた革命の風がルーマニアにも吹き込むようになりました。そうした政情不安に加えて,反ユダヤ主義が特に大学などで野火のように広まり始め,幾つかの都市で学生が暴動を起こしました。政府は対応策として,公の集会を禁じました。聖書文書頒布者<コルポーター>は騒動とは何の関係もありませんでしたが,20人以上が逮捕されて手荒な扱いを受け,文書も差し押さえられました。

それでも,兄弟たちは野外で勤勉に働き,文書の需要は増え続けました。しかしながら,業者による印刷に費用がかさむようになったため,支部は他の選択肢を吟味しました。ちょうどそのころ,兄弟たちがすでに利用していた,クルジュ・ナポカのレジナマリア通り36番地にある印刷所が売りに出されました。支部は世界本部から承認を得て,4階建てと2階建ての二つの建物を含む,その理想的な不動産を購入しました。

1924年3月に改修工事が始まり,自発奉仕者が遠くのバヤ・マーレ,ビストリツァ,ロドナからもやって来ました。プロジェクトに貢献できるよう,幾人かの兄弟は持ち物を売り,他の兄弟たちも食物や建設資材を寄付しました。そうした品の多くは,肩に下げたり馬の背に載せたりすることができるデサージと呼ばれる特別な袋に入れて運ばれました。

印刷所の機能を向上させるために支部が購入した物の中に,3台のライノタイプ,2台の平台印刷機,1台の輪転機,自動折り機,箔押し機があります。こうして設備が整った印刷所はやがて,国内における印刷の水準を高めました。

印刷所ではエホバの証人でない40人の従業員が3交代で働き,8人のベテル家族のうち1人がその人たちを監督しました。操業の最初の年である1924年の生産報告に反映されているように,皆が勤勉に働きました。兄弟たちはルーマニア語とハンガリー語で印刷を行ない,22万6,075冊の書籍,10万冊の小冊子,17万5,000冊の雑誌を生産しました。書籍の中には,聖書研究用の手引きである「神の立琴」,7巻から成る「聖書研究」の第1巻である「世々に渉る神の経綸」が含まれていました。

2年間の準備の末,支部は「『創造の写真劇』のシナリオ」という書籍のルーマニア語版も印刷しました。その名が示すとおり,「シナリオ」は「写真劇」に基づいていました。「写真劇」は,色付けしたガラス製のスライドと活動写真に音声を合わせて上映されたもので,聴衆は地球の創造からキリストの千年統治の終わりまでをかいま見ることになりました。「写真劇」ほど劇的でなかったものの,「シナリオ」には400のさし絵や,教義・歴史・科学上の事柄に関する短い説明があり,多くの読者は聖書をさらに調べるように動かされました。

聖書研究会が増える

1922年,オハイオ州シーダーポイントの大会でジョセフ・F・ラザフォードは,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝しなさい!」と勧めました。この興奮を誘う諭しに世界中の神の民が感動し,一層熱意を燃やしました。ルーマニアでも,兄弟たちが良いたよりを携えて新しい区域に出かけ,さらに多くの弟子を作りました。

当時,新しい人はどうやって聖書を学んだのでしょうか。ベレア人聖書研究と呼ばれる会に加わりました。質問があらかじめ準備されており,研究用の資料はさまざまな出版物から取られていました。それらの出版物は郵便で取り寄せることができ,研究の予定表は「ものみの塔」誌に載せられました。進歩した研究生は「国際日曜学校教課」という課程からも益を得,神の言葉の教え手となるよう助けられました。

支部の代表者は群れを訪問し,講演をし,他の形でも霊的な助けを与えました。しかし,定期的な牧羊や教えることは巡礼者(今で言う旅行する監督)が行ないました。1921年には6人の巡礼者が奉仕しており,わずか2年後にはその数が8人になりました。それらの熱心な働き人は,何百もの市町村で集会を開き,霊的に飢えていた何万もの人に話しました。

それら巡礼者のうちの二人は,先に述べたイマノイル・キンツァと,オニシム・フィリポーユです。ある時,北部のブコビナ地方で,キンツァ兄弟の話に耳を傾けた人々の中に,多数のアドベンティスト派とバプテスト派がおり,その中のある人たちは真理に好意的にこたえ応じました。後に,二人の兄弟はブカレストで奉仕する割り当てを受け,そこでさらに多くの人が神の言葉の正確な知識に至るよう助けました。一人の男性は感謝の気持ちを込めてこう書いています。「イマノイル兄弟とオニシム兄弟を遣わしてくださったことを神に感謝しております。お二人は,わたしを納得させ,教え導くためにずいぶん骨折ってくださいました。主はこの町で大いなる業を行なわれるでしょう。しかし,それには辛抱が必要です」。

1920年,兄弟たちは最初の大会を,一つはサラジュ県ブレビで,もう一つはクルジュ県オクナ・デジュルで開きました。どちらの開催地も列車で行くことができ,地元の伝道者や関心のある人が宿舎を提供しました。ルーマニア各地から500人ほどの代表者が出席し,その立派な行状はたいへん優れた証言となりました。

しかし,王国宣明者が急増する中,反対がなかったわけではありません。実際,第一次世界大戦が始まって以来,兄弟たちは宗教的・政治的な分子からの迫害に面するようになっていました。

敵は戦争熱を利用する

国家主義にあおられ,僧職者にけしかけられた政治権力者たちは,国旗の下に団結して国のために戦うことを拒む人に全く同情しませんでした。そのようなわけで,最初の世界大戦が勃発した時,多くの兄弟が逮捕され,刑を宣告されました。中には処刑された人もいます。クルジュ・ナポカの南にあるペトレシュティー・デ・ミジュロク村出身で,結婚したばかりのヨアン・ルースもその一人でした。

ヨアンの姉の孫にあたるダニエルはこう述べています。「1914年,ヨアン・ルースは徴兵されました。しかし,戦争に行くことを拒んだため,ブカレストに連行され,そこで死刑を宣告されました。処刑の時,大叔父は自分の墓を掘らされ,その横に立って銃殺隊の方を向くように命じられました。それから指揮官が,最後に二言,三言言うことを許しました。大叔父は声を出して祈りました。兵士たちはその祈りに心を動かされ,ためらって刑を執行しようとしませんでした。すると,指揮官は一人をわきに連れて行き,囚人を撃てば3か月の有給の休みを与えると約束しました。その人は誘いに応じ,約束の休みをもらいました」。

1916年,キス兄弟とサボー兄弟も逮捕され,5年の刑を受けました。二人は“危険”と判断され,アユードにある厳重警備の刑務所に18か月間隔離されました。ヨーゼフとカローリーはなぜ“危険”だったのでしょうか。裁判官の言葉を借りれば,二人は「公式に認められたものとは異なる教えを告げ知らせた」からです。平たく言えば,戦うことを拒んだだけでなく,伝統的な神学と相反する聖書の真理を教えたために投獄されたのです。

刑務所から二人は会衆や群れに手紙を書き,兄弟たちを励ましました。ある手紙にはこうあります。「わたしたちが感謝と賛美と誉れをささげる優しい天の父は,『ものみの塔』誌から光を輝かせておられます。そのことに喜びを表わしたいと思います。兄弟たちが『ものみの塔』誌を高く評価し,嵐に揺らめくろうそくの火を守るように,それを守ると信じております」。二人とも1919年に釈放され,翌年の支部事務所の開設を手伝うことができました。

僧職者の反対が強まる

1918年に第一次世界大戦が終結しても,僧職者たちは神の民に対する反対を続けました。ある司祭は,魂の不滅性やマリアの役割に関する聖書研究者の見解を公に批判し,次のように書きました。「[聖書研究者]は地上でのより良い生活を切望するあまり,頭がおかしくなっている。……我々がみな兄弟姉妹であり,どの国籍の人も同じであると主張している」。また,「真理を愛し,信心深く,平和を好み,謙遜であるかのように外面を装う」ため,聖書研究者に対して法的な措置を取るのが難しいと不満を述べています。

1921年,ブコビナの司祭たちは,聖書研究者の業の禁止を求める書面を内務省および司法省に提出しました。実のところ,真理が広まったほぼすべての地域で,いら立った僧職者たちは神の民に対して怒りを燃え上がらせていました。正教会やカトリック教会などの諸教会は憎しみをあおる運動を組織し,個人や群衆を唆して兄弟たちを攻撃させました。支部は世界本部に宛てた手紙の中でこう書いています。「この国では,行政職に就いている僧職者があまりに多く,わたしたちの業はある程度彼らの手中にあります。彼らが法を守っていれば何も問題はないのですが,実際には権力を乱用しています」。

僧職者から苦情を浴びせられ,宗教省はエホバの民の伝道や集会を“公的な力”で妨害することを承認しました。こうして,警察は教会の手先となり,平和をかき乱しているというぬれぎぬを着せて兄弟たちを逮捕しました。しかし,法が明確に定められていなかったために刑はさまざまでした。兄弟たちの良い行状も悩みの種となりました。一人の裁判官はこう述べています。「聖書研究者に有罪判決を下すことはできない。……大抵,平和を最も好む人々だからだ」。

それでも,迫害は強まり,1926年の終わりには「ものみの塔」誌が発禁処分になりました。しかし,そのために霊的食物の供給が止まることはありませんでした。兄弟たちはただ雑誌の題名を変えたのです。ルーマニア語版は,1927年1月1日号から「収穫」,後に「聖書の光」,最終的には「夜明け」となりました。ハンガリー語版の題名は,「クリスチャン巡礼者」,次に「福音」,最後に「キリストの血を信じる人々の雑誌」と改められました。

悲しいことに,このころ,ヤーコブ・B・シーマが不忠実になりました。実際,1928年,シーマの取った行動のために支部の不動産と設備はすべて失われました。兄弟たちは「散らされ,その確信は大きく揺らぎました」と,『1930 年鑑』(英語)は報告しています。こうした憂慮すべき事態のため,業の管轄は1929年にドイツ支部に,後にスイスのベルンにある中央ヨーロッパ事務所に移りました。どちらの支部も,兄弟たちが新たにブカレストに開設した事務所を通して業を監督しました。

『どうか本を燃やさないで!』

そうした付加的な試練にもかかわらず,忠実な人たちは活動を再組織し,証言を続け,新しい区域を切り開くことさえしました。1933年8月24日付でルーマニア事務所はこのように書いています。「人々は真理を渇望しています。野外からの報告によれば,わたしたちの同胞が証の業に携わっている時,村人は真理をさらに聞こうとして,群れを成して戸口から戸口へついて回ります」。

ある時,とても貧しい女性が伝道者から本を求め,王国の業にささやかな寄付さえしました。村の司祭はそのことについて聞くと,女性の家に直行し,「その本をよこしなさい。火の中に投げ込んでくれる!」と言いました。

女性は嘆願しました。「お願いです,神父さま! どうか燃やさないで。この本は慰めになったし,今の惨めな状態に耐えてゆく力になるんです」。そして,本を手放そうとしませんでした。

出版物を高く評価した別の女性は,エホバの証人の召使いを雇っていた公爵夫人でした。ある日,夫人は使用人たちに,「あなた方はもはや召使いではなく,兄弟です」と言いました。別の村では,ある兄弟が好奇心の強い子どもたちに,自分は神の王国を告げ知らせていると話しました。すると,子どもたちは道行く人に文書を入手するよう勧め,「神様についての本だよ」と知らせました。兄弟は,この思いも寄らない熱烈な支援に言葉も出ないほどでしたが,間もなく手持ちの文書をすべて配ってしまいました。

話し方の穏やかなニク・パリウスという開拓者が,業を手伝うためにギリシャからルーマニアに来ました。ニクはブカレストで奉仕した後,ドナウ川の主要な港,ガラツィに移動しました。1933年の終わりごろ,次のように書いています。「ほぼ2か月半の間,ルーマニア人の間で奉仕しました。わたしはその言語を話せませんでしたが,エホバ神は多くの祝福を与えてくださいました。その後,ギリシャ人とアルメニア人の間で奉仕し,主の助けにより20の町を訪問しました。特にギリシャ人が音信を聞いて喜びました」。

そうです,憎しみをあおる僧職者の運動にもかかわらず,多くの心の正直な人々は良いたよりを聞こうとしました。その中には,数冊の冊子をむさぼるように読んだ後,新しい世を心待ちにしていると述べた町長がいます。別の町では,ある男性が何冊かの出版物を求め,読みたいと思う人たちに必ず配布すると約束しました。

業が再組織される

シーマが不忠実になって2年後の1930年,トランシルバニアのビストリツァ出身でハンガリー系ルーマニア人のマーティン・マジャロシが,業を監督するよう任命されました。ドイツ支部で6週間の訓練を受けた後,マジャロシ兄弟はブカレストに事務所を設けました。その後しばらくして,オーストリアとドイツで一時的に発行されていたルーマニア語の「ものみの塔」誌が,再びルーマニアで印刷されるようになりました。このたびは,「黄金の本」という名のブカレストの出版社が印刷を請け負いました。

かなりの努力の末,兄弟たちは1933年に新しい法人を設立することができました。エホバの証人聖書冊子協会です。所在地はブカレストのクリシャナ通り33番地でした。しかし,宗教と政治方面からの反対のために,兄弟たちは商業登記しかできませんでした。

とはいえ,そうした努力は,確信を取り戻し,宣べ伝える業を前進させるのに役立ちました。多くの伝道者が開拓奉仕さえ始めました。そうでない伝道者も活動を増やし,農村の人が時間にゆとりのある冬の時期は特にそうしました。また,兄弟たちは公営ラジオを通して,海外から放送される聖書講演にも耳を傾けました。そうした講演は,近所の人や司祭を恐れて集会に出席していない人にとって特に助けとなりました。「ものみの塔」誌には,プログラムの時間,講演の題,ラジオの周波数が載せられました。

良いたよりの前進に寄与したもう一つの備えは,エホバの組織が製造した携帯用蓄音機でした。1930年代,会衆や個人は,蓄音機および聖書講演のレコードを注文することができました。それらの聖書講演は,「兄弟たちだけでなく,蓄音機を持っていて真理を愛する家族も」励ますものとなった,と「会報」(現在の「わたしたちの王国宣教」)の発表欄に述べられています。

組織内でのさらなる試練

1920年代と1930年代,神の言葉に理解の光が一層当てられ,クリスチャン各人が真理について証ししなければならないことが明らかになってゆきました。まばゆいばかりのきらめきが発せられたのは,1931年,聖書研究者がエホバの証人という名称を採択した時です。聖書に基づくこの名称は,単なる肩書きではなく,その名を負う人がエホバの神性を擁護し,かつ告げ知らせることを意味します。(イザ 43:10-12)聖書研究者で宣べ伝える業に反対した人は,この進展につまずき,組織を去りました。中には背教者になって,自分たちを千年期説信奉者と称する人もいました。忠節な人々はこの信仰の試みに耐えられるでしょうか。僧職者と背教者の両方からの反対に面しても,宣べ伝える使命を果たしてゆくでしょうか。

圧力に屈した人もいましたが,多くはエホバへの奉仕を忠実かつ熱心に続けました。1931年の報告はこう述べています。「ルーマニアには約2,000人の同胞がいます。彼らは多大の困難のもと,1年間に5,549冊の書籍と3万9,811冊の小冊子を配布しました」。翌年,兄弟たちはそれを上回る,合計5万5,632冊の書籍と小冊子を配りました。

そのうえ迫害が,意図されたのとは逆の結果を生むこともありました。例えば,ある地域のエホバの証人は一丸となって,「大いなるバビロン」からの離脱を公に表明することにしました。(啓 18:2,4)5日間にわたって,それら勇敢な兄弟姉妹は地元の町役場に詰めかけ,かつて通っていた教会から脱退する旨の文書を作成しました。

地域共同体の指導者たちはショックを受け,地元司祭はがく然としました。司祭はまず助けを求めて警察署に走って行きましたが,無駄でした。それで,町役場に大急ぎで戻り,文書の作成を手伝った公証人を共産主義者呼ばわりして非難しました。腹を立てた公証人は,地域の人が全員来たとしても脱退届けの作成を手伝う,と言い返しました。司祭はそれ以上何もできず,兄弟たちは書類を完成させることができました。

「わたしを撃つつもりですか」

僧職者たちは説教壇からエホバの証人をののしりました。また,業を禁止させようと政府に圧力をかけ続けました。もちろん,僧職者の政治的道具となっていた宗教省も,警察を使って兄弟たちを相変わらず悩ませました。ある時,警察署長と同僚の警察官が,クリスチャンの集会が開かれていた家に不法に立ち入りました。

「礼拝の許可証を見せてもらおうか」と,署長が家の人に言いました。ここではその家主の兄弟をゲオルゲと呼ぶことにします。

ゲオルゲは署長が令状を持っていないだろうと見て,「どんな権限でわたしの家に入ったのですか」と尋ねました。

署長が返答に窮したので,引き取るようゲオルゲは求めました。署長は仕方なく戸口に向かいましたが,途中で同僚の警察官に,門の所で見張りに立って,ゲオルゲが敷地から出ようとしたら逮捕するようにと命じました。後に,ゲオルゲが外に出ると,警察官は“法の名において”逮捕しました。

「どの法の名においてですか」と,ゲオルゲは尋ねました。

「おまえの逮捕状を持っているんだ」と,警察官は言い放ちました。

かつて警察官だったゲオルゲは法律に通じていたので,令状を見せてほしいと言いました。案の定,相手は持っていませんでした。ゲオルゲを合法的に逮捕することができなかった警察官は,銃に弾を込めて怖がらせてやろうと考えました。

「わたしを撃つつもりですか」。

「いや,おれは馬鹿じゃない」。

「ではなぜ銃に弾を込めたのですか」。

そう言われて,警察官は自分の行動の愚かさに気づき,その場を去りました。ゲオルゲはこうしたことが再び起こらないよう,私有地に不法侵入したかどで警察署長を告訴しました。驚いたことに,署長は罰金を科され,15日の刑を宣告されました。

別の例では,年配の兄弟が法廷で立派な証言をしました。裁判官は,エホバの証人が発行した2冊の書籍を手に持ち,それを兄弟の前に振りかざしながら,宗教的なプロパガンダを広めたとして兄弟を非難しました。

兄弟は次のように返答しました。「神の言葉の真理を告げ知らせるという理由で刑を宣告なさるのなら,わたしはそれを処罰ではなく勲章とみなします。主イエスは追随者たちに,義のために迫害される時,昔の預言者もそのようにして扱われたゆえに歓ぶように,とおっしゃいました。実際,イエスご自身,悪行を犯したためでなく,神からの真理を語ったために迫害され,ついには杭につけられたのです」。

兄弟はさらにこう続けました。「それで,王国についてのイエスの音信をその2冊の本によって告げ知らせたことで,法廷が刑を宣告なさるのなら,それは犯罪を犯していない男に刑を宣告することになります」。裁判官は訴えを却下しました。

『兄弟たちがこれほど困難に耐えている場所はほかにない』

1929年以降,農産物価格の急落や失業の増加,政情不安が原因となって,ファシストなどの過激な政治団体が急速に勢力を伸ばしました。さらに,1930年代,ルーマニアは徐々にナチス・ドイツの勢力圏に入りました。こうした展開はエホバの証人にとって良い兆候ではありませんでした。事実,『1936 年鑑』(英語)はこう述べています。「ルーマニアほど困難な状況で同胞が業を行なっている場所は,世界のどこにもありません」。1933年から1939年の間に,エホバの証人に対する訴訟は530件に上りました。言うまでもなく,訴えを起こした人々はしきりに,業の禁止とブカレスト事務所の閉鎖を求めました。

ついに,1935年6月19日の午後8時,後に違法だと判明した令状を持って警察が事務所にやって来ました。警察は書類および1万2,000冊を超える小冊子を押収し,見張りを立てました。それでも,ある兄弟は裏口から抜け出し,議員でもあった好意的な弁護士に連絡しました。その人が関係当局に電話した結果,不法な閉鎖命令は取り消され,書類はすべて返却されました。しかし,ほっとしたのもつかの間でした。

1937年4月21日,宗教省は,官報にも新聞にも掲載されたある命令を出しました。その命令によれば,エホバの証人の活動はルーマニアで厳しく禁じられており,その文書を配布したり読んだりする者は逮捕および処罰の対象となり,出版物も没収されるということでした。

兄弟たちはその裁定に異議を申し立てました。しかし,裁定にかかわった大臣は自分のほうが不利だと分かっていたので,審理を3回も延期させました。そして,最終期日の来る前,国王カロル2世がルーマニアの独裁制を宣言しました。1938年6月,エホバの証人に対して新たな命令が出されました。もう一度,兄弟たちは訴訟を起こしました。また,国王に公式な書状を送り,エホバの証人の出版物が教育的な役割を果たしていること,危険なものでも治安を乱すものでもないことを伝えました。加えて,この件に関する上位裁判所の以前の判決にも触れました。国王はその書状を宗教省に転送しました。反応はどうだったでしょうか。1938年8月2日,宗教省はブカレスト事務所を閉鎖しました。

この困難な時期,幾人かの兄弟たち ― 時には家族全員 ― が逮捕されて,刑務所に送られました。家の中で王国の歌をひっそり歌っただけでそうなる場合もありました。刑期は3か月から2年とさまざまでした。そもそも,それらの兄弟たちはどうして見つかったのでしょうか。多くは,僧職者の影響を受けていた人々にひそかに見張られていました。それらのスパイは労働者や行商人などに変装しました。

文書を持っている人も見つかれば逮捕されました。森で木こりの仕事をしていたある兄弟は,聖書と「年鑑」を持って行きました。ある日,警察が全員の持ち物を検査し,兄弟の文書を見つけました。兄弟は逮捕され,裁判所まで200㌔の道のりを歩かされて,そこで6か月の刑を受けました。ちなみに,当時の刑務所は人がいっぱいで,不潔きわまりなく,しらみだらけでした。食べ物も水っぽいスープだけでした。

第二次世界大戦がさらに試練をもたらす

1939年9月1日の明け方,ドイツの軍隊がポーランドになだれ込み,それが引き金となって新たな世界的規模の戦争が起こりました。それは,ルーマニアに長期にわたる深刻な影響を与えることになります。不可侵条約に署名したソビエト連邦とドイツはその後,支配権を握ろうとして,東ヨーロッパをそれぞれの勢力圏に分割し,ルーマニアをまるでケーキのように切り分けました。ハンガリーはトランシルバニア北部を,ソビエト連邦はベッサラビアと北ブコビナを,ブルガリアはドブロジャ南部を取りました。その結果,ルーマニアは人口と領土の約3分の1を失いました。そして1940年,ファシストの独裁政権が誕生します。

新政府は憲法を一時無効にし,九つの宗派だけを認める法令を発布しました。主だった宗派は,正教会,カトリック教会,ルーテル教会で,エホバの証人に対する禁令はそのままでした。テロ行為は日常茶飯事で,1940年10月にはドイツ軍が同国を占領しました。そうした非常に厳しい状況下で,スイスの中央ヨーロッパ事務所とルーマニアとの通信はほぼ途絶えました。

その地方のエホバの証人の大半はトランシルバニアに住んでいたので,マーティン・マジャロシはブカレストからそちらに移動し,トゥルグ・ムレシュに落ち着きました。妻のマリアは健康上の理由ですでにそこに移動していました。やはりブカレスト事務所で奉仕していたパムフィル・アルブとエレナ・アルブは,さらに北のバヤ・マーレに移動しました。この二つの町から,マジャロシ兄弟とアルブ兄弟は宣べ伝える業,および「ものみの塔」誌をひそかに生産する業を再組織しました。仲間の奉仕者であるテオドル・モララシュはブカレストにとどまり,1941年に逮捕されるまで,残ったルーマニア領での活動を調整しました。

その間も,兄弟たちは忙しく宣教に携わり,非常に用心しつつあらゆる機会に聖書文書を配りました。例えば,文書がだれかの目につくことを願って,レストランや列車の客室など,さまざまな公共の場所に小冊子を置いてゆきました。また,霊的な励ましのために集まり合うようにという聖書の指示に引き続き留意しました。もちろん,疑われないように注意しました。(ヘブ 10:24,25)一例を挙げると,田舎に住んでいる人は収穫期に行なわれる伝統的なパーティーを利用しました。その時期,農民は作物の取り入れを互いに手伝い,その後,冗談や物語を語って収穫を祝います。兄弟たちはそのパーティーをクリスチャンの集会に置き換えたのです。

『あらゆる面で圧迫される』

マジャロシ兄弟は1942年9月に逮捕されましたが,刑務所から引き続き宣べ伝える業を調整しました。アルブ夫妻も,約1,000人の兄弟姉妹と共に逮捕されました。その多くは,殴打されて6週間ほど勾留された後に釈放されました。幾人かの姉妹を含む100人の証人たちは,クリスチャンの中立の立場ゆえに,2年から15年の刑を受けました。5人の兄弟は死刑を宣告され,その後,終身刑に減刑されました。夜の闇に紛れて,武装した警官が母親や幼い子どもたちまで引っ立て,あとに残された家畜は世話されず,だれもいない家は泥棒の入るがままにされました。

収容所で,兄弟たちは“歓迎団”の看守たちの出迎えを受けました。看守は各人の足を縛り,床に押さえつけ,その間,別の看守がワイヤで補強したゴム製のこん棒で素足を打ちたたきました。骨は折れ,足のつめははがれ,皮膚は青黒くなり,まるで木の皮のようにめくれることもありました。収容所を見回って,こうした虐待を目にしていた司祭たちは,「我々の手からお前たちを解き放してくれるエホバはどこにいるんだ」とあざけりました。

兄弟たちは「あらゆる面で圧迫され」ながらも「見捨てられているわけでは」ありませんでした。(コリ二 4:8,9)実際,王国の希望によって他の囚人を慰め,その中のある人たちは音信を受け入れました。トランシルバニア北東部のトプリツァ村出身のテオドル・ミロンについて考えてみましょう。テオドルは第二次世界大戦の前,人の命を奪うことを神は禁じておられると結論し,入隊を拒否しました。そのようなわけで,1943年5月に5年の刑を受けました。その後しばらくして,マーティン・マジャロシ,パムフィル・アルブ,そして他のエホバの証人の囚人に会い,聖書研究に応じました。テオドルは霊的に急速な進歩を遂げ,わずか数週間でエホバに献身しました。しかし,どうやってバプテスマを受けたのでしょうか。

テオドルと約50人のルーマニアの証人たちが,セルビアのボールにあるナチの収容所に迂回路で連れて行かれる時,その機会が訪れました。途中,ハンガリーのヤースベレーニに寄り,そこでハンガリー語を話す100人余りの兄弟たちが合流しました。そこにいる間,看守たちは樽に水を満たすため,幾人かの兄弟たちを川にやりました。兄弟たちは看守の信用を得ていたので監視されずに行きました。テオドルも一緒に行き,その川でバプテスマを受けました。囚人たちは,ヤースベレーニからボールまで列車と川船で連れて行かれました。

当時,ボールの収容所には,6,000人のユダヤ人,14人のアドベンティスト派,152人のエホバの証人が収容されていました。ミロン兄弟は当時を振り返ってこう語っています。「そこの環境はひどいものでしたが,エホバはわたしたちを顧みてくださいました。ハンガリーによく遣わされた好意的な看守が出版物を収容所に持ち込んだのです。その看守が留守の間,顔見知りの信用されていた証人たちがその人の家族を世話していたので,その人は証人たちにとって兄弟のようになりました。この男性は将校でもあり,何かあるときは警告してくれました。収容所には,今で言う長老たちが15人いて,週3回の集会を取り決めました。労働時間の都合で,出席できる人は平均約80人でした。また,記念式も守り行ないました」。

一部の収容所では,投獄された兄弟たちに外部のエホバの証人が食物や他の物を届けることが許可されていました。1941年から1945年の間,ベッサラビア,モルドバ,トランシルバニアから,約40人の証人たちがトランシルバニアのシボトにある強制収容所に送られました。毎日,兄弟たちは地元の製材所に働きに出ました。収容所では食べ物がわずかだったので,近くに住んでいた証人たちは毎週,食物や衣服を製材所に持って行きました。兄弟たちはそれらの物を必要に応じて分配しました。

そうした立派な行ないは,仲間の囚人にも看守にもたいへん優れた証言となりました。また,看守たちはエホバの証人が責任感のある,信用できる人たちであるのを見ました。そのため,ふつう囚人に許さないような自由を与えました。そればかりか,シボトの看守の一人は真理に入りました。

戦後の祝福

ヨーロッパでの戦争が1945年5月に終結すると,エホバの証人は刑務所や強制労働収容所から一斉に釈放されました。当時62歳だったマーティン・マジャロシがブカレストに戻ってみると,古い事務所はすっかり空になっていました。タイプライターすら残っていませんでした。「何もない状態から主の業が再開されました」と報告は述べています。業を組織することに加え,兄弟たちは法的な登録を求め,程なくしてその努力は実を結びました。1945年7月11日,ルーマニアのエホバの証人協会が登録されたのです。

これによって,公の集会や大会,文書生産を組織するのが容易になりました。そのすべては,業に新たな活気を与え,生じていた混乱や不一致の大半を払拭するのに役立ちました。戦後の最初の年,国内で紙が不足していたにもかかわらず,兄弟たちは実に87万冊近い小冊子および8万5,500冊を超える「ものみの塔」誌を生産しました。そして,1,630人がバプテスマを受けました。

兄弟たちは,業が法的に認可される前から公に伝道し始めました。また,集会や特別な公開講演も取り決めました。マラムレシュ県のエホバの証人について,ある人は自分の見たことを次のように語っています。「軍隊がまだ退却している間も,兄弟たちは集まり合いました。その地方の村々から兄弟たちが全く恐れずにやって来るのが見えました。胸の躍るような時でした。中には,道中歌ったり証言したりしながら,出席するために80㌔歩く人もいました。毎週日曜日,司会者は翌週の日曜日の集会場所を知らせました」。

エホバの証人がわずかしかいない,あるいは全くいない町や村でも,公開講演が宣伝され行なわれました。兄弟たちは真夜中ごろ出発し,遠い所では100㌔も歩きました。靴は高価だったので,はだしの場合が少なくありませんでした。もちろん,靴を持って行きましたが,肩にかけて運び,ひどく寒い時など,条件がとても悪い時だけ履きました。集会の前日,兄弟たちは一般の人々に文書を提供し,講演の題を知らせ,出席するよう勧めました。そして,講演が終わると帰途に就きました。

バヤ・マーレ,クルジュ・ナポカ,トゥルグ・ムレシュ,オクナ・ムレシュで,兄弟たちは幾つもの大会を開き,大勢のエホバの証人や関心のある人が出席しました。1945年6月に開かれたバヤ・マーレの大会のハイライトは,町から10㌔離れた場所で行なわれたバプテスマでした。ある兄弟の庭で話がなされた後,118人のバプテスマ希望者は庭のわきを流れていたラプシュル川で浸礼を受けました。それは美しい場所での忘れがたいバプテスマでした。

トゥルグ・ムレシュで兄弟たちは,3,000人を収容できる劇場を借りました。大会の前日,代表者たちが列車や馬車,自転車,徒歩で到着し始めました。中には,すぐさま伝道を始め,ノアの箱船を扱った公開講演に人々を招いた人もいました。講演を宣伝する美しい文字の書かれたプラカードを町じゅうで見た兄弟たちの多くは,喜びの涙を流しました。良いたよりを宣べ伝えるそのような自由を享受することになるとは,思ってもみなかったのです。

兄弟たちの勤勉な努力は豊かに報われました。出席者があまりに多かったので,あふれた聴衆のために劇場の外に2台の拡声器を据えなければなりませんでした。その結果,近所の多くの人が自宅の窓からプログラムを聞くことができました。市の役人その他の著名人も,エホバの証人をじかに見て話を聞けるよう,招かれました。驚いたことに,それらの人のために用意した席はすべて埋まりました。その人たちは歌にも加わりました。

最初の全国大会

1946年9月28日と29日の週末,エホバの証人はルーマニアで初の全国大会を開きました。会場はブカレストのアレネレ・ロマネ(ローマ劇場)でした。ルーマニアの鉄道会社は,特別列車を出すだけでなく,運賃を50%引き下げることにも同意しました。その列車は,国内のかなり遠方から,優に1,000人を超える代表者たちを首都に運びました。代表者の多くはプラカードを持っていて,道中,少なからず人々の好奇心をそそりました。しかし,その旅は平穏無事だったわけではありません。

僧職者が大会について聞き,列車を止めようとしたのです。大会前日の金曜日,地元の証人たちが午前9時に駅に集まり始めました。あと1時間足らずで兄弟たちを迎えられるものと思っていましたが,午後6時まで辛抱強く待たなければなりませんでした。ようやく列車がホームに滑り込み,兄弟たちが抱擁を交わした時の感動的な光景は,言葉ではとても表わせません。秩序を保つために武装警官がいましたが,何もすることはありませんでした。

約1万2,000軒の住宅を含むブカレストの大部分は戦争で破壊されていたため,宿舎は限られていました。しかし,兄弟たちは工夫に富んでいました。臨時の“ベッド”を用意するため,山ほどのわらを買い,郊外のベルチェニに住む兄弟の家の芝生に広げました。9月の終わりごろにしては珍しく暖かかったので,家族そろって大会に出席した人々は,子どもたちと星空の下,わらのマットレスの上で心地よい眠りに就くことができました。現在,まさにその場所に新しい魅力的な王国会館が建っています。

大会の土曜日午前に出席した3,400人は,「ものみの塔」誌が再びルーマニア語とハンガリー語で月2回発行されると聞いて胸を躍らせました。実際その午前中に,最初の号が1,000部,兄弟たちに配られました。しばらくの間,雑誌には四つの研究記事が載せられました。戦時中に得られなかった情報を皆が入手できるようにするためです。

日曜日の午前は証言活動に当てられ,公開講演を宣伝する伝道者たちの姿があちこちで見られました。プラカードには,つちと剣と金床が描かれており,次のような文が記されていました。「『剣をすきの刃に』― 神がこの言葉を啓示し,二人の預言者がそれを書き記した。では,実践するのはだれか」。伝道者は招待ビラを手渡し,雑誌を提供しました。雑誌は肩ひものついた白い布袋に入れて持ち運び,その袋には「エホバの証人」,「神の王国の宣明者」,または「神権政治の宣明者」という言葉がありました。

その日の午後,マーティン・マジャロシは公開講演の出だしで次のように述べました。「今日,世界の列強による平和会議がパリで開かれています。わたしたちのこの大会には1万5,000人が出席しています。ここにいるエホバの証人を一人残らず調べても,剣も銃も見つからないでしょう。なぜでしょうか。わたしたちはすでに剣をすきの刃に打ち変えたからです」。戦争の爪痕が至るところに残っている中,この話は力強く,時宜にかなっていました。

日曜日には,司法長官,内務大臣の秘書,何人かの警察官,また正教会の司祭の一団が出席していました。兄弟たちも役人たちも,司祭が騒ぎを起こすものと思っていました。そう脅していたからです。しかし,プログラムを妨害しようとしたのは一人だけでした。兄弟たちはその司祭が公開講演中に演壇に向かって大またで歩いてゆくのに気づき,司祭を制止し,両腕をしっかりつかんで席に連れ戻しました。「正教会の司祭にここで演説していただく必要はありません。でも,席について耳を傾ける分には大歓迎です」と,兄弟たちは司祭の耳元でささやきました。司祭は二度と妨害しようとはしませんでした。後に,司法長官は,話を楽しんだことや,エホバの証人の秩序正しさに感銘を受けたことを述べました。

この大会について,ある兄弟は後にこう書きました。「敵のたくらみは完全に失敗し,兄弟たちは喜びにあふれて家路に就きました」。また,兄弟たちは平和と一致の精神を新たにし,励みを得ました。その多くは,戦時中に生じた分裂のために,複雑な思いで大会に来ていたからです。

しかし,僧職者にとって事態はあまり好ましいものではありませんでした。多くの地域では,エホバの証人に関して世俗の権威を思いどおりに動かすことがもはやできなくなったからです。だからといって,僧職者が説教壇から兄弟たちを激しく非難するのをやめたわけではありません。一部の司祭はそれにとどまらず,ならず者の集団を雇って,王国伝道者が宣べ伝えているところを見つけたら男も女も袋だたきにするよう命じました。ある時など,正教会の司祭の妻が開拓者の姉妹に棒で殴りかかり,棒が折れるまで打ちたたきました。「そのような僧職者に対して多くの訴訟手続きを取りました」と,当時の報告は述べています。

一致を回復させるための一層の努力

スイス支部のアルフレート・リュティマンは,1947年にルーマニアで2か月過ごしました。大会を開き,世界本部のヘイドン・C・カビントンに同行してもらう計画でした。しかし,当局は大会を開く許可を与えず,カビントン兄弟にビザを発給しようとしませんでした。他方,アルフレート・リュティマンには2か月のビザを交付したので,兄弟は8月と9月をルーマニアで過ごすことができました。

最初の訪問地はブカレストで,リュティマン兄弟は,満面の笑みをたたえ美しい花束を抱えた兄弟姉妹に空港で迎えられました。それは花を使った伝統的な歓迎でした。兄弟姉妹はリュティマン兄弟を,アルヨン通り38番地にあるブカレスト事務所に連れて行きました。そこは関心のある人の家で,事務所は1947年1月にそこに移されていました。しかし,共産主義の脅威が増していたため,兄弟たちはバサラビア通り38番地を公式の所在地として引き続き用いました。そこの事務所は1945年7月に取得され,古いテーブルとソファー,壊れたタイプライター,黄ばんだ小冊子や雑誌を詰め込んだ戸棚がありました。つまり,押収されても損失のないものばかりでした。時折,姉妹がそこで働きました。

リュティマン兄弟は,法人の会長パムフィル・アルブと,国内の業を監督していたマーティン・マジャロシに会いました。二人は地域監督としても奉仕していました。通信が何年か制限されていたため,ルーマニアの兄弟たちは会衆の神権宣教学校の開設や,宣教者を訓練するためのギレアデ学校の設立など,エホバの組織内での最近の進展について聞いて胸を躍らせました。当然ながら,ルーマニアで神権宣教学校が始まるのを見たいとだれもが願いました。実のところ兄弟たちは,「御国伝道者のための神権的な助け」という教科書に収められた90の課を幾つかに分けて,ルーマニア語とハンガリー語で印刷するよう,すぐに取り決めました。

とはいえ,リュティマン兄弟の主な目的は,会衆や群れをできるだけ多く訪問し,兄弟たちが大会で聞くはずだった主要な話をすることでした。それで,リュティマン兄弟と通訳者のマジャロシ兄弟は,真理がよく確立された地域を2回に分けて回る旅に出発しました。まずはトランシルバニアからです。

トランシルバニアとその先

ほとんどの場所と同様,トランシルバニアでも,伝道者たちは特別集会に出席するために多大の努力を払いました。そして,訪問した二人のぎっしり詰まった予定に合わせて,喜んで遅くまで起きていました。例えば,バマ・ブザウルイ村では,プログラムが午後10時から午前2時までありましたが,75人の出席者からは少しの不平も出ませんでした。

「人々はわたしたちとは違った時間の概念を持っています」とアルフレート・リュティマンは後に書いています。「彼らは訪問客のために午前の2時や3時に起きることを何とも思いません。分単位で考えることはなく,時間単位で考えることもまれです。徒歩で移動し,時には長い距離をはだしで歩きますが,わたしたちより時間があってストレスも少ないように見えます。そんな夜遅くに集会を取り決めるなんて常識はずれだと最初は思いましたが,マジャロシ兄弟はそんなことはないと言って安心させてくれました」。

次の訪問地はトゥルグ・ムレシュで,当時は人口3万1,000人の都市でした。ここも戦争で被害を被り,橋がほとんど残っていないほどでした。それでも,25の会衆から700人の兄弟たちが片道50㌔近くを旅し,集会場所となった町外れにある森の中の空き地までやって来ました。

兄弟たちはクルジュ・ナポカにも行きました。そこでは48の会衆から300人が集まりました。この都市にいた間,マジャロシ兄弟は,1928年にヤーコブ・シーマのせいで失われた印刷所をリュティマン兄弟に見せました。シーマはどうなったのでしょうか。「昨年亡くなりました。大酒飲みになっていたのです」とリュティマン兄弟は報告しています。

その後,兄弟たちはウクライナに近いサトゥ・マーレやシゲト・マルマツィエイなどを訪問しました。その地方には,ルーマニア語,ハンガリー語,ウクライナ語の会衆が40以上ありました。地元の農民や村人はほとんど自給自足の生活をしていました。自分たちで食用の作物をすべて育てたほか,亜麻や麻を栽培し,家畜,特に羊を飼育しました。また,衣類や毛布を作り,皮も自分たちでなめしました。靴は村の靴職人が作りました。兄弟姉妹の多くは,亜麻布や麻布に刺しゅうを施した,手作りの伝統衣装に身を包んで特別集会に出席しました。

2回目の旅行で,リュティマン兄弟とマジャロシ兄弟はルーマニアの北東にあるモルダビアに行きました。最初に訪問したのはフラタウツィ共同体でした。地元の兄弟たちは貧しいにもかかわらず,二人を非常に手厚くもてなしました。石油ランプのほのかな明かりの中,新鮮な牛乳,パン,ポレンタ(お粥),溶かしバターに浸したゆで卵をごちそうしたのです。皆,小さな鉢から食べました。「とてもおいしい料理でした」とリュティマン兄弟は書いています。その夜,訪問した兄弟たちは,暖を取れるよう台所のかまどのそばに置かれたベッドで寝ました。家の人たちは,その近くで,わらを詰めた袋の上に横たわりました。

この地方の証人たちは宣教に熱心で,エホバの豊かな祝福を享受しました。記録に示されているとおりです。1945年の春,その地域には33人の伝道者がいましたが,訪問のあった1947年,その数は350人になっていました。2年で10倍に増えたのです。

田舎の旅らしく,兄弟たちはそこから2頭立ての荷馬車に乗って120㌔進み,バルカウツィとイバンカウツィに行きました。「ルーマニアの馬は小さくても実にすばらしく,どんな悪路でも,昼夜を問わず進むことができます」と,ある兄弟は書いています。1945年に発足したバルカウツィ会衆は,福音派教会に属していた伝道者たちで構成されていました。会衆の僕はかつて平信徒説教師でした。イバンカウツィでは雨のため,ある兄弟の家の中で集会が開かれましたが,それは170人の出席者にとって大した問題ではありませんでした。そこに着くために,はだしで30㌔歩いてきた人もいたのです。

二人の兄弟は合計19か所で,259の会衆から来た4,504人の伝道者や関心のある人に話をしました。スイスに帰る途中,アルフレート・リュティマンはオラシュティエとアラドでも話を行ない,幾人かの兄弟たちは集会場所まで60㌔から80㌔歩きました。実際,農家の60歳のある男性は,はだしで100㌔も歩いて来ました。それほど深い感謝を抱いていたのです。

ルーマニアでの業における主な里程標となったそれらの特別集会は,時宜にかなっていました。兄弟たちが励ましを必要としていただけでなく,霊的収穫の機が熟していたからです。ルーマニア人は圧制的な支配者や悲惨な戦争にうんざりし,その多くは宗教に幻滅していました。加えて,1947年8月に通貨レウが大幅に切り下げられたために,大勢の人が一夜にして一文無しになりました。そのようなわけで,王国の音信に反対していた多くの人が,進んで耳を傾けるようになりました。

特別集会は別の理由でも時宜にかなっていました。一層激しい迫害の嵐が新たに起ころうとしていたのです。この嵐は,無神論的なイデオロギーと冷酷で狭量な指導者たちにあおられ,ほぼ40年にわたって吹き荒れることになります。

鉄のカーテンがルーマニアに下りる

アルフレート・リュティマンの訪問の前年に当たる1946年11月,ルーマニアに共産主義政権が誕生しました。その後数年にわたって,共産党は残存する反対勢力をことごとく排除し,ソビエト化を加速させ,それによってルーマニアの文化的・政治的機構はソビエトの型に合うように再編されました。

兄弟たちは嵐の前の静けさを最大限に活用して,何十万冊もの雑誌,小冊子,その他の出版物を印刷し,国じゅうの20の集積所に分配しました。同時に,兄弟たちの多くは活動を増し加え,ミハイ・ニストルやバシーレ・サバドゥシュのように開拓奉仕を始めた人もいました。

ミハイはトランシルバニアの北西部と中部で奉仕する割り当てを受けました。共産主義者によって禁令が課された後もそこで開拓奉仕を続け,長い間,敵に追われました。どうやって捕まらないようにしたのでしょうか。ミハイは次のように述べています。「窓を売る人が使っているのとそっくりな袋を作りました。作業着を着て,窓ガラスと道具を持って,自分に割り当てられた奉仕区域の村や町の中心部を歩き回りました。警察官や怪しげな人を見かけた時はいつも,大きな売り声を上げました。他の兄弟たちもいろいろな方法で反対者の目を逃れました。胸の躍る業でしたが,危険も伴いました。わたしたち開拓者だけでなく,下宿させてくれた家族にとっても危険だったのです。それでも,聖書研究生が進歩し,伝道者の数が増えるのを見るのは大きな喜びでした」。

バシーレ・サバドゥシュも,何度も移転しなければならなかったにもかかわらず開拓奉仕を続けました。兄弟は,セクリターテ(新しい共産主義体制の広大な警備網の中心的組織)に追われて散り散りになった兄弟たちの居所を突き止め,援助を与える点でとりわけ助けになりました。バシーレはこう語ります。「逮捕を免れるためには,用心し,創意を働かせなければなりませんでした。例えば,国内の別の場所に旅行する時は,医者の紹介で湯治場へ行くといった,もっともな理由をいつも考えておきました。

「わたしは疑われないようにしたので,兄弟たちの間に通信経路を確立し,兄弟たちが霊的食物を定期的に受け取れるようにすることができました。わたしのモットーは,イザヤ 6章8節の『ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください』と,マタイ 6章33節の『王国をいつも第一に求めなさい』でした。それらの聖句は喜びと忍耐する力を与えてくれました」。バシーレにはそうした特質が必要でした。用心していたにもかかわらず,やがて他の多くの人のように逮捕されたからです。

神の組織に対する激しい攻撃

1948年ごろになると,世界本部との通信が非常に難しくなりました。それで,兄弟たちは葉書に暗号文を書くという手段をよく用いました。1949年5月にマーティン・マジャロシは,ブカレスト事務所で一緒に働いていたペトレ・ランカからの暗号文を転送しました。それにはこうありました。「家族は皆元気です。とても強い風が吹き,寒さが厳しかったので,畑で働くことができませんでした」。後に,別の兄弟はこう書いています。「家族はお菓子を受け取ることができません。……大勢が病気です」。これは,霊的食物をルーマニアに送ることは不可能で,多くの兄弟が刑務所にいるという意味でした。

1949年8月8日に司法省が下した判決に従って,ブカレストの事務所と住居は閉鎖され,個人の持ち物を含めすべての設備が差し押さえられました。続く数年間に何百人もの兄弟が逮捕され,刑を宣告されました。エホバの証人は,ファシスト政権下では共産主義者であると非難されましたが,共産主義政権が誕生すると,今度は“帝国主義者”,“アメリカ思想の宣伝者”というレッテルを張られました。

スパイや密告者は至る所に潜んでいました。共産主義者たちの取る手段が「あまりに厳しくなっているため,ルーマニアで西側からの郵便を受け取る人はだれでもブラックリストに載せられ,厳しく監視されます」と『1953 年鑑』(英語)は述べています。報告はこう続いています。「そこでの恐怖は想像もつかないほどです。身内さえ信頼できません。自由は完全に失われました」。

1950年の初め,パムフィル・アルブ,エレナ・アルブ,ペトレ・ランカ,マーティン・マジャロシ,その他大勢が逮捕され,西側のスパイであるという虚偽の告発を受けました。内密の情報を漏らすよう,また“スパイ”であることを認めるよう,拷問にかけられた人もいます。しかし,彼らが認めたのは,自分たちがエホバを崇拝し,その王国の関心事のために奉仕しているということだけでした。こうした厳しい試練の後,ある兄弟たちは刑務所に,他の兄弟たちは強制労働収容所に行きました。この迫害の波は,業にどのような影響を与えたでしょうか。1950年のまさにその年,ルーマニアの伝道者は8%増加しました。神の霊の力を示す,なんと優れた証なのでしょう。

当時60代後半だったマジャロシ兄弟は,トランシルバニアのゲルラ刑務所に送られ,そこで1951年の終わりごろに亡くなりました。報告はこう述べています。「真理のために兄弟は多大の苦しみを経験しました。1950年1月に逮捕されてからは特にそうでした。今やその苦しみは終わったのです」。そうです,およそ20年の間,マーティンは僧職者,ファシスト,そして共産主義者の猛攻撃に耐えました。兄弟の忠誠の模範は,使徒パウロの次の言葉を思い起こさせます。「わたしは戦いをりっぱに戦い,走路を最後まで走り,信仰を守り通しました」。(テモ二 4:7)投獄されなかったとはいえ,妻のマリアも逆境のもとで忍耐の立派な模範を示しました。ある兄弟はマリアについて,「主の業に全く身をささげた聡明な姉妹」と述べました。マーティンが逮捕された後,マリアの世話は養女のマリワラをはじめ,親族がしました。マリワラ自身も刑務所で時を過ごし,1955年の秋に釈放されました。

「エホバの証人は立派な人たちです」

1955年に政府は恩赦を行ない,大半の兄弟たちは自由の身になりました。ところが,その自由もつかの間でした。1957年から1964年にかけて,エホバの証人は再び追い回され,逮捕され,中には終身刑を言い渡された人もいました。しかし,投獄された兄弟たちは絶望するのではなく,堅く立つよう互いに励まし合いました。そして,その信条や忠誠でよく知られるようになりました。「エホバの証人は立派な人たちです。圧力に屈して自分の宗教を捨てるようなことはしません」と,ある政治犯は後に語りました。また,自分のいた刑務所で証人たちは「最も好かれた囚人」だったとも述べています。

1964年にも恩赦が行なわれましたが,この度も自由はつかの間でした。1968年から1974年の間に一斉検挙がさらに行なわれたのです。ある兄弟は次のように書いています。「福音を広めるという理由で,わたしたちは拷問にかけられ,愚弄されています。投獄された兄弟たちのことを祈りに含めてくださるよう懇願いたします。このすべてが,耐えねばならない試みであることは分かっています。マタイ 24章14節で予告されているように,良いたよりをこれからも勇敢に宣べ伝えてゆくつもりです。ただ,もう一度心からお願いいたします。わたしたちのことをどうか忘れないでください」。これから取り上げる点ですが,エホバは忠節な人たちの涙ながらの真剣な祈りをお聞きになり,さまざまな方法で慰めをお与えになりました。

サタンは不信の種をまく

悪魔は,神の僕を外部からだけでなく内部からも攻撃します。例えば,1955年に釈放され,逮捕前に監督の立場にあった兄弟たちの中には,元の立場に戻されなかった人もいました。彼らはそのことに対して憤慨し,不和の種をまきました。刑務所で堅く立ったのに,自由の身になって誇りに屈したというのは,本当に残念なことです。少なくとも一人の著名な兄弟は,処罰を免れるためにセクリターテに協力さえし,忠実な人々や宣べ伝える業に多大の害を及ぼしました。―マタ 24:10

神の民は良心上の事柄に関する見解の違いにも対処しなければなりませんでした。例えば,兄弟たちは逮捕された後,多くの場合,刑務所に行くか岩塩鉱山で働くかのどちらかを選ぶことができました。後者を選んだ人を,聖書の原則を曲げたとみなす人もいました。また,姉妹たちは化粧すべきでないと考える人や,映画館や劇場に行ったりラジオを持ったりするのは不適切だと考える人もいました。

しかし,積極的な面に目を向けると,大概の兄弟たちは大きな争点,つまり神に忠節を保つ必要性を決して見失いませんでした。そのことは1958奉仕年度の報告からも明らかで,5,288人が野外奉仕にあずかりました。前年より1,000人以上増えたのです。また,8,549人が記念式に出席し,395人がバプテスマを受けました。

1962年には別の試みが生じました。ローマ 13章1節にある「上位の権威」が人間の政府の権威であって,以前に考えられていたようにエホバ神とイエス・キリストではないと,「ものみの塔」誌に説明されたのです。ルーマニアの多くの兄弟たちは,残忍な支配者たちにさんざん苦しめられてきたため,新しい理解を受け入れがたく感じました。実際それを,マタイ 22章21節の原則に反して国家に全く追従させようとする,共産主義者のこうかつなでっち上げだと,まじめに考える人もいました。

一人の兄弟は,ベルリン,ローマその他の都市に行っていた仲間の証人と話をしました。当時を振り返ってこう語っています。「その人は,新しい理解が共産主義者の企てではなく,奴隷級からの霊的食物であると請け合いました。それでもまだ迷いがあったので,これからどうすべきか地域監督に尋ねました」。

「業に邁進してください。それがわたしたちのすべきことです」と地域監督は言いました。

「実にすばらしいアドバイスでした。うれしいことに,わたしは今でも『邁進して』います」。

通信がかなり妨害されたにもかかわらず,世界本部と,ルーマニアでの業を監督していた支部は,兄弟たちが明らかにされた真理についてゆき,一致した霊的家族として共に働くのを助けようと,あらゆる努力を払いました。そのために,手紙を書いたり,適切な記事を「王国奉仕」に載せたりしました。

霊的食物はどうやってエホバの民に届いたのでしょうか。国内委員会の各メンバーは,旅行する監督や会衆の長老たちとひそかに連絡を取っていました。その連絡役を務めたのは信用されていた運搬係で,彼らは手紙や報告書をスイスの事務所に届けたり,そこから持って行ったりしました。こうして,兄弟たちは少なくとも幾らかの霊的食物と神権的な指示を得ることができました。

忠節な兄弟姉妹は,自分たちの交わる群れや会衆内で調和の精神を促進するためにも勤勉に働きました。その一人にヨシフ・ジュカンがいます。兄弟はよくこう言いました。「霊的食物を定期的に取り入れ続け,“母親”と連絡を密に保たなければ,ハルマゲドンで救われることは期待できません」。エホバの組織の地上の部分と接触を保つことについて兄弟は述べていたのです。そのような兄弟たちは,神の民にとって宝のような存在で,一致を乱そうとする者たちを防ぐ壁のようでした。

敵の作戦

エホバの僕の信仰を弱めようとして,あるいは無理やり彼らを服従させようとして,共産主義者たちはスパイ,裏切り者,拷問,虚偽のプロパガンダ,死の脅しを用いました。スパイや密告者の中には,近所の人,職場の同僚,背教者,家族,セクリターテの捜査員などがいました。セクリターテの捜査員は,真理に関心があるふりをしたり神権用語を学んだりして,会衆にこっそり入り込むことさえしました。それら「偽兄弟たち」は多大の害を及ぼし,そのために逮捕される人が続出しました。偽兄弟の一人,サブ・ガボルは,責任のある立場に就いてさえいました。その正体は1969年に暴かれました。―ガラ 2:4

捜査員は,隠しマイクを使って個人や家族の様子をひそかに探ることもしました。ティモテイ・ラザルはこう言います。「わたしがクリスチャンの中立ゆえに刑務所にいた間,セクリターテは両親と弟を本部に定期的に呼び出し,時には6時間も尋問しました。そんなある時,彼らはわたしたちの家に隠しマイクを取り付けました。その晩,電気技師の弟は,電気メーターが異常に速く回っているのに気づき,あちこち調べ,二つの盗聴器を見つけました。それで,写真を撮ってから外しました。翌日,セクリターテの捜査員が来て,おもちゃを返すように言いました。彼らは盗聴器をそう呼んでいたのです」。

虚偽のプロパガンダは,他の共産主義国で発行された記事の再利用という形でしばしば入って来ました。例えば,「エホバ派とその反動的性格」と題する記事は,ロシアの新聞から取られました。その記事は,エホバの証人が「典型的な政治組織の性格」を備えており,「社会主義国において体制を弱体化させる活動」をもくろんでいると非難しました。また,証人たちの教えを広めている者がいれば報告するよう,読者に呼びかけました。しかし,考え深い人にとって,こうした政治的なわめき声は,反対者たちの側の失敗を間接的に認めるものでした。というのも,エホバの証人がいまだ健在で,決して沈黙していないことを皆に知らせたからです。

セクリターテの捜査員は兄弟や姉妹を捕らえると,巧妙な仕方で残虐の限りを尽くしました。情報を聞き出すため,精神や神経を侵す化学物質を用いることさえしました。そのような虐待の標的となったサモイラ・バラヤンは次のように語っています。「彼らは尋問を始めて間もなく,わたしに薬物をのませました。それは殴打よりも害がありました。程なくして,体がどこかおかしいことに気づきました。まっすぐ歩けなくなり,階段を上れなくなりました。それから,慢性的な不眠症に陥りました。集中できず,言葉がつかえました。

「体調は悪化の一途をたどりました。1か月かそこらで味覚を失いました。消化器系も働かなくなり,関節がみなばらばらになるような感じがしました。ひどい痛みでした。足に大量の汗をかいたため,靴が2か月でだめになり,捨てなければなりませんでした。『いつまでうそをつくんだ。自分のありさまが分からないのか』と取調官は怒鳴りました。わたしは怒りが爆発しそうだったので,自制が大いに必要でした」。やがてバラヤン兄弟はこの厳しい試練を乗り越え,すっかり回復しました。

セクリターテは精神的な拷問も用いました。アレクサ・ボイチュクは当時を振り返ってこう述べています。「いちばんつらかった夜は,彼らがわたしを起こして広間に連れて行った時のことです。そこで兄弟が殴打されているのが聞こえました。後に,姉妹が泣いているのが聞こえ,それから母の声が聞こえました。こうしたことに耐えるより自分が殴打されたほうがましだと思いました」。

兄弟たちは,他の証人たちの名前,また集会の時間や場所を明かせば放免されると言われました。妻たちは,子どもの将来を考えて,投獄された夫と別れるように勧められました。

多くの兄弟たちは,国家に土地を没収されたため,集団農場で働かざるを得ませんでした。仕事はそれほど悪くありませんでしたが,男性は頻繁に開かれる政治的な集会に出席しなければなりませんでした。欠席した人は嘲笑され,賃金が減らされてほとんど残りませんでした。当然ながら,この状況はエホバの証人に苦難をもたらしました。証人たちは政治的な集会や活動に一切参加しなかったからです。

セクリターテは証人たちの家に踏み込むと,個人の持ち物も差し押さえ,売れるものを特にねらいました。真冬には,家の中の唯一の熱源だったストーブを壊すこともよくありました。なぜそんなむごいことをしたのでしょうか。彼らが言うには,ストーブは文書を隠すのに格好な場所だからです。それでも,兄弟たちは沈黙させられませんでした。これから読んでいくと分かるように,強制労働収容所や刑務所で虐待や不自由を経験した人たちでさえ,引き続きエホバについて証しし,互いに慰め合ったのです。

収容所や刑務所でエホバを賛美する

ルーマニアには,刑務所のほかに三つの大きな強制労働収容所がありました。一つはドナウ・デルタに,もう一つはインスラ・マレ・ア・ブライレイ(ブライラの大きな島)に,三つ目はドナウ川と黒海を結ぶ運河沿いにありました。共産主義時代が始まると,かつての迫害者たちが前体制とのつながりのために逮捕され,投獄された証人たちとしばしば同じ監房に入れられました。ある巡回監督の兄弟は,20人の司祭と一緒になりました。もっとも,そうした囚われの聴衆のおかげで多くの興味深い話し合いがなされました。

例えば,ある兄弟は刑務所で,かつて司祭候補生を審査していた神学教授と長時間にわたって話しました。じきに兄弟は,その教授が聖書についてほとんど何も知らないことに気づきました。そばで聞いていた囚人の中に,前体制の軍司令官がいました。

司令官は教授にこう尋ねました。「ただの職人があなたより聖書を知っているとはどういうわけですか」。

「神学校では,教会の伝統やそれに関連した事柄を教えられますが,聖書は教えられないのです」と教授は答えました。

司令官はあきれてこう言いました。「わたしたちはあなた方の知識を信用していましたが,今は自分たちが嘆かわしいほど欺かれていたことが分かります」。

やがて,幾人かの囚人が真理の正確な知識に至り,エホバに献身しました。その中に,窃盗罪で75年の刑に服していた男性がいます。実際,この人は,刑務所当局の注意を引くほど目覚ましい人格上の変化を遂げました。それで当局は新しい仕事を与えました。窃盗で投獄された人には普通与えられない仕事です。その人は監視なしで町へ行き,刑務所のために品物を購入するようになったのです。

とはいえ,拘禁生活は厳しく,食べる物もわずかでした。囚人たちは,食べる分が減るのでジャガイモの皮をむかないでほしいとさえ頼みました。また,ただ空腹感を紛らすために,テンサイ,草,木の葉,その他の植物を食べました。時たつうちに,幾人かが栄養失調で亡くなり,全員が赤痢に苦しみました。

ドナウ・デルタの兄弟たちは夏の間,建設中のダムのために土を掘って運びました。冬は,氷の上に立って葦を切りました。鉄製の古いフェリーで寝ましたが,そこでは寒さ,不潔さ,シラミ,そして囚人が死んでも顔色一つ変えない無情な看守たちに耐えました。状況がどうあれ,兄弟たちは霊的な強さを保つために互いに励まし,助け合いました。ディオニシエ・ブルチュの経験を考えてみましょう。

ディオニシエが釈放される直前,係官はこう尋ねました。「ブルチュ,拘禁されたことでお前の信仰は変わったか」。

「お言葉ですが」とディオニシエは言いました。「あなたは高級なスーツをそれより劣るスーツと替えるようなことをなさいますか」。

「いや,そんなことはしない」。

「では,拘禁されていた間,だれもわたしの信仰に勝るものを差し伸べなかったのに,どうして信仰を変えるでしょうか」。

それを聞いた係官はディオニシエの手を握り,「ブルチュ,お前は自由だ。信仰を捨てるなよ」と言いました。

ディオニシエのような兄弟姉妹は超人ではありません。その勇気と霊的な強さはエホバへの信仰から来ており,その信仰を兄弟姉妹たちは驚くような仕方で生き生きと保ちました。―箴 3:5,6。フィリ 4:13

記憶を頼りに学ぶ

「刑務所で過ごした日々は,わたしにとって神権的な訓練の時期でした」とアンドラス・モルノスは語っています。なぜそう言えたのでしょうか。神の言葉を学ぶために毎週兄弟たちと集うことの価値を知ったからです。「大抵,情報は紙面ではなく,頭の中にありました。兄弟たちは投獄される前に学んだ『ものみの塔』誌の記事を思い起こしました。数人の兄弟は,研究記事の質問を含め,雑誌全体の内容を思い出すことさえできました」。この並外れた記憶は,一部の囚人が逮捕前に霊的食物を手で書き写す作業をしていたことによる場合もありました。―132,133ページの「複写の方法」という囲みをご覧ください。

クリスチャンの集会を計画する時,責任のある兄弟たちは考慮する主題を知らせ,各人はその論題に関して,聖句や聖書研究用の手引きから学んだ点など,できる限りのことを思い起こすようにしました。その後,討議のために皆が集まりました。集会では司会者が選ばれ,司会者は開会の祈りの後,適切な質問をして討議を進めました。そして皆が注解すると,自分も考えを述べ,それから次の点に移りました。

刑務所によってはグループ討議が禁じられていました。しかし,兄弟たちの創意に限りはありませんでした。ある兄弟は当時を振り返ってこう語っています。「わたしたちは浴室の窓を枠から外し,壁からこすり落とした石灰を石けんと混ぜ,それをガラスに塗りました。乾くと,それは書き板として使え,その日に学ぶ事柄を記すことができました。一人の兄弟が小声で内容を伝え,それを別の兄弟が書き板に書きました。

「わたしたちは幾つかの監房に分けられていて,それが研究グループになりました。書き板は毎回監房内の兄弟たちの間で回されました。一つの監房にしか書き板がなかったので,他の監房の兄弟たちはモールス信号で情報を受け取りました。どのようにでしょうか。できるだけ静かに,一人が壁か暖房のパイプに信号を打ちました。その時,他の監房の兄弟たちは壁かパイプにコップを当て,各自がコップに耳をあてがいました。コップが音を聞くための装置となったのです。当然ながら,モールス信号を知らない人はそれを学ばなければなりませんでした」。

一部の刑務所で兄弟たちは,負けず劣らず創意工夫に富んでいた姉妹たちを通して,外部から新鮮な霊的食物を受け取ることができました。例えば,姉妹たちはパンを焼く時,生地の中に文書を隠しました。この食物を兄弟たちは天からのパンと呼びました。姉妹たちは聖書の一部を刑務所に持ち込むことにも成功しました。聖書のページを小さく折りたたんで,小さなプラスチックの玉に入れ,それらをチョコレートとココアパウダーでくるんだのです。

しかし,こうした取り決めにはあまり好ましくない点が一つありました。それは,兄弟たちがトイレで読書をしなければならなかったことです。看守に監視されずに数分独りでいられる場所と言えば,そこしかありませんでした。自分の番が終わると,その兄弟は印刷物を水のタンクの裏に隠しました。エホバの証人でない囚人もこの隠し場所を知っており,多くの人が静かな読書のひとときを楽しみました。

女性や子どもたちも忠誠を保つ

実の姉妹であるビオリカ・フィリプとアウリカ・フィリプは,他の多くの証人たちと同様,家族に迫害されました。二人には7人の兄弟と1人の姉がいました。ビオリカは次のように語っています。「姉のアウリカはエホバにお仕えしたいという願いから,1973年にクルジュ・ナポカの大学を中退し,その後しばらくしてバプテスマを受けました。姉の誠意と熱意に関心をかき立てられ,わたしも神の言葉を調べ始めました。地上の楽園での永遠の命という神の約束について学んだ時,『これ以上に良いことがあるかしら』と思いました。学んで進歩するにつれ,クリスチャンの中立に関する聖書の原則を心に留めるようになり,共産党員になることを拒みました」。

ビオリカはこう続けます。「1975年,わたしはエホバに献身しました。すでに家を出て,親戚とシゲト・マルマツィエイ市に住んでおり,そこで教師として働いていました。政治とかかわらないことにしたので,学校当局から年度末に解雇すると告げられました。家族はその事態を何とかしようと,わたしと姉を迫害するようになりました」。

学校に通う子どもでさえ脅しを受けました。中には,セクリターテに脅された子もいます。暴力と言葉による虐待に加え,多くの子どもは放校されて別の学校に入らなければなりませんでした。それ以上教育を受けられなかった子もいます。捜査員たちは,子どもをスパイとして使おうとさえしました。

現在開拓者として奉仕しているダニエラ・マルツァンは,当時を思い出して次のように語ります。「クラスメートの前でよく侮辱されました。若者に政治思想を吹き込むための道具だった共産主義青年同盟に加わることを拒んだからです。9年生に進級すると,密告者であった先生や他の職員だけでなく,セクリターテの捜査員のせいで,たくさんのつらい目に遭いました。1980年から1982年にかけて,ほとんど例外なく1週おきの水曜日に校長室で尋問されました。ちなみに,校長先生はその場にいることを許可されませんでした。セクリターテの隊長だった取調官は,ビストリツァ・ナサウド県の兄弟たちの間でよく知られていました。わたしたちを憎み,執拗に追い回したからです。責任のある兄弟たちを告発する手紙を持ってわたしのところに来ることさえありました。その目的は,兄弟たちに対するわたしの信頼を弱めること,信仰を捨てさせること,また女生徒のわたしを唆してセクリターテのスパイにさせることでした。取調官はそのすべてにおいて失敗しました。

「しかし,悪い経験ばかりだったわけではありません。例えば,共産党員だった歴史の先生は,わたしがなぜそれほど頻繁に尋問されているのかを知りたいと思いました。それで,ある日,歴史の授業を取りやめ,2時間にわたってクラス全員の前で,わたしの信仰についてたくさんの質問をしました。先生は答えに感銘を受け,わたしがひどく不親切に扱われるのは正しくないと考えました。この話し合いの後,先生はわたしたちの見方を尊重するようになり,文書も受け取りました。

「とはいえ,学校当局からの反対は続きました。結局,10年生の終わりごろ,退学処分にされました。それでも,すぐに勤め口が見つかりましたし,エホバに忠節を保って後悔したことは一度もありません。クリスチャンの両親に育てられたことを本当にエホバに感謝しています。両親は,共産主義体制のもとで虐待を受けたにもかかわらず忠誠を守りました。その良い模範は今もわたしの胸に刻まれています」。

青年たちも試みを受ける

セクリターテはエホバの証人に対する運動の中で,特に若い兄弟たちを,クリスチャンの中立を保っているという理由で標的にしました。兄弟たちは逮捕され,投獄され,釈放され,再び逮捕され,刑務所に送り返されました。その目的は兄弟たちの意気をくじくことでした。そのような兄弟の一人,ヨーゼフ・サボーは,バプテスマの直後に4年の刑を受けました。

ヨーゼフは2年間服役した後,1976年に自由の身になり,程なくして将来の妻に出会いました。「わたしたちは婚約し,結婚式の日取りを決めました」とヨーゼフは言います。「その後,わたしはまたクルジュ軍事裁判所から召還状を受け取りました。式を挙げることにしていたまさにその日に出頭するようにとありました。それでも,わたしと婚約者は予定どおりに式を挙げ,そのあとでわたしは裁判所に出向きました。裁判所は,結婚したばかりのわたしにさらに3年の刑を宣告し,その刑が短くされることはありませんでした。妻と離れ離れになったつらさは,とても言葉では表わせません」。

ティモテイ・ラザルという若い証人も,当時をこう振り返っています。「1977年,わたしと弟は刑務所から釈放されました。それを祝いに,1年前に自由の身になっていた兄が家にやって来ました。でも,兄はわなにはまってしまいました。セクリターテの捜査員が待ち伏せしていたのです。わたしたちは2年7か月と15日のあいだ離れ離れにされていましたが,今度は兄がわたしたちから再び引き離され,クリスチャンの中立を保っているという理由でまた刑務所に送られました。わたしと弟は悲嘆に暮れ,その場に立ち尽くしました」。

記念式を守り行なう

記念式の夜,反対者たちはエホバの証人を捜し出すために一段と努力を傾けました。家に踏み込み,罰金を課し,証人たちを逮捕しました。兄弟たちは用心のため,小さなグループ,時には家族だけで集まって,イエスの死を記念しました。

テオドル・パムフィリエは次のように述べています。「ある記念式の晩,地元の警察署長が友人たちと遅くまで飲んでいました。兄弟たちの家に踏み込みに行く時,車を持っていた見知らぬ人に自分を乗せてくれないかと言いました。ところが,車が動き出しません。やっとのことでエンジンがかかり,彼らはわたしたちの家にやって来ました。中では小さなグループで記念式を祝っているところでした。しかし,窓にすっかり覆いがしてあったので,中は真っ暗に見え,彼らはだれも家にいないのだろうと思ったようです。それで,別の家に向かいました。でも,そこでは記念式がもう終わって,皆帰ったあとでした。

「その間に,わたしたちは式を終え,兄弟たちは急ぎ足で立ち去りました。残っていたのはわたしと兄だけでした。すると突然,2人の警察官が飛び込んで来て,部屋の真ん中に立ち,『ここで何をしているんだ』と怒鳴りました。

「『何もしていません。兄と話していたんです』とわたしは言いました。

「『ここで集まりが行なわれたことは知っているんだ。ほかのやつらはどこだ』と警察官の一人は言いました。そして兄を見て,『それにお前はここで何をしているんだ』と言いました。

「『弟に会いに来たんです』と兄はわたしを指して答えました。警察官たちはいら立って荒々しく出て行きました。翌日,警察が躍起になったにもかかわらず一人も逮捕できなかったことを知りました」。

世界本部はルーマニアの役人に訴える

エホバの証人に対する過酷な仕打ちに関して,本部は1970年3月に駐米ルーマニア大使宛てに4ページの手紙を,また1971年6月にルーマニアの大統領ニコラエ・チャウシェスク宛てに6ページの手紙を書きました。兄弟たちは大使への手紙の中で,「ルーマニアにいる兄弟たちへのクリスチャン愛と気遣いから,この手紙を書いております」と述べました。信仰のゆえに投獄された7人の名前を挙げた後,こう続けています。「上記の人たちの中には刑務所で非常に残酷に扱われた人もいることが報告されております。……エホバの証人は犯罪者ではありません。世界のどこにおいても,いかなる形の政治活動や破壊活動にも携わっておりません。その活動は飽くまで宗教的な崇拝に限られています」。そして結びに,「苦しみを受けているエホバの証人を救済」するよう政府に訴えました。

チャウシェスク大統領宛ての手紙は,「ルーマニアのエホバの証人は,ルーマニア憲法で保障されている信教の自由を享受しておりません」と述べ,証人たちが人々に信条を伝え,聖書研究のために集う時,逮捕されて残酷に扱われる危険が伴うことに触れています。また,少し前に行なわれた恩赦で多くの兄弟たちが自由の身になったことにも注意を引きました。「エホバの証人……にとっても新しい時代が始まると思われましたが,残念ながら期待どおりにはなりませんでした。現在ルーマニアじゅうから届く知らせはどれも非常に悲しい事実を物語っています。エホバの証人は相変わらず国家による迫害の対象となっているということです。家は捜索され,印刷物は押収され,男性も女性も逮捕されて取り調べを受けます。何年もの刑を宣告される人もいれば,残忍な扱いを受ける人もいます。ただエホバ神の言葉を読み,宣べ伝えているというだけでそうしたことが起きているのです。これは国家の良い評判に寄与するものではなく,私たちはルーマニアにいるエホバの証人の行く末を深く憂慮しております」。

手紙には2冊の書籍が同封されました。ルーマニア語の「とこしえの命に導く真理」と,ドイツ語の「神の自由の子となってうける永遠の生命」という書籍です。

ルーマニアがヨーロッパにおけるヘルシンキ安全保障協力会議の加盟国となった1975年以後,エホバの証人にとって事態は少しずつ改善し始めました。この会議は人権および信教の自由などの基本的自由を保障しました。その後は,兵役を拒否した者だけが逮捕され,投獄されました。

そして1986年,新憲法は,法的に認められた特定の状況を除いて,役人を含むだれも,住人の同意なしに個人の住居に入ってはならないと定めました。ついに,兄弟たちは以前よりも安心して,記念式などのクリスチャンの集会を個人の家で開けるようになりました。

ひそかに印刷を行なう

禁令の間,霊的食物は,印刷物,謄写版の原紙その他の形でルーマニアにこっそり持ち込まれ,国内で複製されました。すでにルーマニア語とハンガリー語に翻訳されていた時もありましたが,大抵は国内で英語やフランス語,ドイツ語,イタリア語から翻訳しなければなりませんでした。いろいろな人が運搬係になりました。観光に訪れた外国人,勉強をしに来た留学生,旅から戻ったルーマニア人などです。

セクリターテは,運搬係を捕まえようと,またルーマニアで文書が生産されている場所を突き止めようと躍起になりました。兄弟たちは慎重を期して,幾つかの町や都市にある,音が漏れないようにした個人の住居を拠点にしました。そうした家の中に秘密の部屋を作り,そこに複写のための設備を整えました。暖炉の裏に隠された部屋もありました。ふつう暖炉は壁に取り付けられていましたが,兄弟たちはそれを改造して動かせるようにし,秘密の出入口に通じるようにしました。

サンドル・パライディは,トゥルグ・ムレシュにある秘密の印刷所で働き,そこで日々の聖句,「王国奉仕」,「ものみの塔」誌,「目ざめよ!」誌を生産しました。「週末,多い時では40時間働き,交代で1時間ずつ寝ました」と,サンドルは当時を振り返って語ります。「化学薬品のにおいが服や皮膚に染みつきました。ある時,家に帰ると,3歳の息子が,『パパは日々の聖句のにおいがするね!』と言いました」。

妻子のいるトラヤン・キラはクルジュ県で文書を複写し,運搬しました。トラヤンは“臼”という愛称の古い手動式の複写機を与えられました。その複写機はとっくに引退していてもおかしくなく,仕事はこなしましたが,出来は決して褒められたものではありませんでした。それで,トラヤンは機械工の兄弟に分解修理を頼みました。兄弟は複写機を調べましたが,その深刻な表情がすべてを物語っていました。古い“臼”は修理不可能だったのです。しかし次の瞬間,兄弟の顔がぱっと明るくなり,「新しいのを作りますよ!」と言いました。結局,兄弟はそれ以上のことをしました。ある姉妹の家の地下室に作業場をしつらえ,自分で旋盤を作り,1台どころか10台以上も複写機を作ったのです。それら新しい“臼”は国内のさまざまな場所に送られ,質の良い仕事をしました。

1980年代に幾人かの兄弟たちが,より性能の優れたオフセット複写機の操作の仕方を教わりました。最初に訓練を受けたのはニコライエ・ベンタルで,その後ベンタルが他の人を教えました。ベンタル家での文書生産は,他の多くの場合と同様,家族そろっての作業で,各人がそれぞれの役目を果たしました。もちろん,こうしたことを秘密にしておくのは容易ではありませんでした。セクリターテが人々をひそかに見張ったり,家に踏み込んだりしたころは,特にそうでした。ですから,スピードが不可欠で,兄弟たちは文書を印刷して運び出すために,毎週末長時間働きました。なぜ週末にしたのでしょうか。平日は通常の仕事に就いていたからです。

兄弟たちは紙を購入する時も用心しなければなりませんでした。わずか1リーム(約500枚)買い求めるにも,客は理由を説明しなければならなかったのです。ところが,印刷所は月に最高4万枚もの紙を使用しました。それで,兄弟たちは店員と接する時は慎重でなければなりませんでした。また,道端での検査がよく行なわれていたので,物を運ぶ時も十分に注意する必要がありました。

翻訳に伴う困難

ルーマニアのあちこちに住んでいた少数の兄弟姉妹が,文書を地元の言語に翻訳しました。その中には北の少数民族が話していたウクライナ語も含まれます。翻訳者の中には,真理に入った語学教師もいれば,言語講習の助けを借りるなどして違う言語を習得した人もいました。

初期のころ,翻訳者は習字帳に手で書き込んで仕事をし,それを校正のために北のビストリツァ市に持って行きました。年に一,二度,翻訳者と校正者が集まり,仕事に関連した問題を解決しました。それらの兄弟姉妹は捕まると,検査され,尋問され,殴打され,逮捕されることが珍しくありませんでした。逮捕された人は,数時間ないし数日のあいだ勾留され,釈放され,それから再逮捕されました。それは一種の脅しとして何度も繰り返された手順でした。軟禁されたり,警察署に連日出頭しなければならなかったりした人もいます。投獄された人も少なくありませんでした。その中にドゥミトル・チェパナルとドイナ・チェパナル,そしてペトレ・ランカがいます。

ドゥミトル・チェパナルはルーマニア語と歴史の教師で,妻のドイナは医師でした。セクリターテは二人をとうとう見つけ,逮捕し,7年半の刑で別々の刑務所に送りました。ドイナはそのうちの5年を独房で過ごしました。実のところ,二人の名前は,世界本部が駐米ルーマニア大使に書き送った前述の手紙に含まれていました。ドイナは拘禁中,夫や投獄された他の姉妹たちに,励ましの手紙を500通書きました。

ドゥミトルとドイナが逮捕された1年後,ドゥミトルの母サビーナ・チェパナルも逮捕され,刑務所で5年10か月を過ごしました。セクリターテに監視されつつも身柄を拘束されなかったのは,家族の中でサビーナの夫だけでした。サビーナの夫もエホバの証人で,大きな危険を冒して3人を定期的に訪ねました。

1938年,ペトレ・ランカはルーマニアにあるエホバの証人の事務所の書記に任命されました。翻訳者としての仕事は言うまでもなく,この割り当てのために,兄弟はセクリターテの指名手配者リストの上位に置かれました。セクリターテは1948年に兄弟を見つけ,繰り返し逮捕し,1950年にマーティン・マジャロシとパムフィル・アルブと共に裁判にかけました。英米のスパイ団の一員であるとして告発されたペトレは,国内でも特に厳しい刑務所,すなわちアユード,ゲルラ,ジラバで17年を過ごし,ガラツィ県でも3年の軟禁状態を耐えました。それでも,この忠実な兄弟は,1991年8月11日に地上での歩みを終えるまで,エホバへの奉仕に自分のすべてをささげました。

忠誠を保つ人々の愛の労苦で思い出されるのは,次の言葉です。『神は不義な方ではないので,あなた方がこれまで聖なる者たちに仕え,今なお仕え続けているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされません』。―ヘブ 6:10

屋外の大会

1980年代になると,兄弟たちは結婚式や葬式などで機会があれば,もっと大きなグループで,時には数千人規模で集まるようになりました。結婚式では,田園地方の適当な場所に大きなテントを張り,聖書的な絵や聖句の織り込まれた魅力的なじゅうたんで中を飾りました。そして,多くの“客”のためにテーブルといすを用意し,拡大した「ものみの塔」誌のロゴと年句を載せたポスターを演壇の後ろに下げました。大抵,地元の伝道者たちが資力に応じて食べ物を提供しました。こうして,皆は二つの宴,つまり文字どおりの宴と霊的な宴を楽しみました。

プログラムは結婚式または葬式の話で始まり,そのあと,聖書の種々の論題に関する講話が続きました。妨害のせいで話し手が時間どおりに到着できないこともあったので,資格のある他の兄弟がいつでも代役を務める用意をしていました。ほとんどの場合,準備された筋書きの写しがなかったので,聖書だけを用いて話をしました。

夏の間,都会の人々はレクリエーションのために田園地方に繰り出しました。エホバの証人も同じでした。ただ,その機会を利用して,小規模な大会を小高い山や森で開きました。時代衣装を着けて聖書劇も上演しました。

ほかにも,休暇を過ごす場所として人気があったのは,黒海でした。そこはバプテスマに理想的な場所でもありました。兄弟たちは人目を引かずにどうやって新しい人に浸礼を施したのでしょうか。一つの方法は“ゲーム”をすることでした。バプテスマ希望者とバプテスマを受けた何人かの伝道者が海に入って輪を作り,互いにボールを投げ合います。話し手は真ん中に立って話をします。そのあと,バプテスマ希望者が,むろん目立たないようにしながら,浸礼を受けました。

養蜂家のための会館

1980年,ルーマニアの北西部にあるネグレシュティ・オアシュという町の兄弟たちは,王国会館建設の法的な承認を得るための名案を思いつきました。当時,国家は養蜂を推奨していました。それで,ミツバチの巣箱を持つ兄弟たちが,地元で養蜂組合を結成することを考え出したのです。そうすれば,集まる場所を建てるための正当な理由ができます。

兄弟たちは巡回区の長老たちに相談した後,ルーマニア養蜂家協会に登録し,町役場に行って集会場所を建てる許可を申請しました。当局は,長さ34㍍,幅14㍍の木造の建物の建設をすぐに承認しました。養蜂家や手伝いに来た多くの人たちは大喜びし,3か月でプロジェクトを完成させました。なんと,町の役人から特別な感謝状さえ贈られました。

最初の集いには大勢の人が出席することになっており,数時間のプログラムが予定されていたので,兄弟たちは会館を収穫パーティーに使用する許可を求め,承認されました。国内の各地から3,000人を超える証人たちが集まりました。町の役人は,それほど多くの人が収穫を手伝い,そして“祝う”ために来たことに驚いていました。

もちろん,その祝いは霊的に報いのある大会となりました。建物の表向きの目的を考慮して,プログラムではよくミツバチが取り上げられました。ただし,霊的な文脈においてです。例えば,話し手はミツバチの勤勉さ,針路を定める能力,組織的に物事を行なう能力,巣を守る時の自己犠牲的な勇気,その他多くの特性に注目しました。

この最初の集いの後も,ミツバチ会館と呼ばれたその会館は,禁令の残りの年月,そして禁令が解かれたあとも3年間,兄弟たちによって使用されました。

地帯監督は一致を促進させる

共産主義者たちは何十年にもわたって,神の民の間に疑いと不一致の種をまき,通信を断つために,あらん限りのことを行ないました。すでに述べたように,彼らはある程度成功しました。実際,1980年代に入っても幾らか分裂が見られました。この問題を正すのに,地帯監督の訪問,そして政治情勢の変化も助けになりました。

オーストリア支部の支部委員で,現在は統治体の成員であるゲリト・レッシュが,1970年代半ば以降ルーマニアを何度か訪問しました。1988年には,統治体の代表者セオドア・ジャラズとミルトン・ヘンシェルが,レッシュ兄弟と当時アメリカのベテル家族の成員だった通訳者のジョン・ブレンカを連れて二度訪れました。こうした励みのある訪問の後,エホバの民の中核から離れていた何千人もの兄弟たちが,確信をもって囲いに戻りました。

そのころ生じた度重なる政治的な変動は,ヨーロッパの共産主義諸国に動揺を引き起こし,その土台までも揺るがし,1980年代の終わりにはついに政権の大半が崩壊するに至りました。ルーマニアは1989年に重大な局面を迎えました。国民が共産主義政権に対して反乱を起こしたのです。党首のニコラエ・チャウシェスクとその夫人は12月25日に処刑され,翌年,新政府が樹立されました。

ついに自由!

ルーマニアの政治的な状況が変化する中,エホバの証人はいつものように厳正中立を保ちました。とはいえ,そうした変化は,当時ルーマニアにいた1万7,000人の証人たちの大半にとって夢でしかなかった自由をもたらしました。国内委員会はこう書いています。「42年という長い年月の後,ルーマニアでの活動について喜ばしい報告をお送りできることをうれしく思います。わたしたちは愛情深い父エホバ神に感謝しております。エホバ神は何百万人もの兄弟たちの熱烈な祈りに耳を傾け,情け容赦ない迫害を終わらせてくださいました」。

1990年4月9日,兄弟たちは「エホバの証人の宗教組織」として法的認可を得,すぐに国じゅうで巡回大会を組織しました。そうした集まりに4万4,000人以上が出席しました。約1万9,000人に達していた伝道者数の2倍を優に超える数です。野外奉仕報告も,1989年9月から1990年9月までの間にエホバの証人が15%増加したことを示しています。

そのころ,国内委員会はオーストリア支部の管轄下で業を監督していました。しかし,1995年,ルーマニアに支部事務所が66年ぶりに置かれました。

経済的な苦難の中で支えられる

1980年代までにルーマニアの経済は下降線をたどり,さまざまな商品が不足していました。その後,共産主義政府が倒れると,経済も破綻し,国民はひどい苦境に陥りました。それを受けて,オーストリア,ハンガリー,そして当時のチェコスロバキアとユーゴスラビアのエホバの証人は,70㌧を超える食物や衣服をルーマニアの兄弟たちに送り,兄弟たちはその幾らかをエホバの証人でない近隣の人と分け合うことさえできました。「援助がなされる度に,兄弟たちはその機会を活用して徹底的な証言を行ないました」と報告は述べています。

兄弟たちは物資のほかに,霊的食物も大量に受け取りました。その豊富さに多くの人は目に涙を浮かべました。群れ全体に1冊かそこらの「ものみの塔」誌しかないことに慣れていたからです。さらに,1991年1月1日号から,ルーマニア語の「ものみの塔」誌が英語版と同時出版で4色刷りとなりました。こうした変化により,区域での配布数が急増しました。

グループ討議から正規の集会へ

迫害の時期,兄弟たちは神権宣教学校などの集会を普通のやり方ではできませんでした。その代わりに小さなグループで集まり,資料を読んで討議しました。通常,考慮中の資料は数冊ないし1冊しかありませんでした。

「『神権宣教学校案内書』は1992年にルーマニア語で印刷されました」と,現在ルーマニアの支部委員であるジョン・ブレンカは言います。「その前は,少数の兄弟が,国内で印刷された版を持っていました。1991年,わたしたちは,神権宣教学校の行ない方や助言の与え方について長老たちを訓練し始めました。ところが多くの場合,長老たちは助言することをためらいました。当時,助言は演壇から与えられていたので,『人前で助言されたら兄弟たちは気を悪くするでしょう』と言う人もいました」。

また,誤解も幾らかありました。例えば,1993年に宣教訓練学校の卒業生がある会衆を訪問した時のことです。大きな会衆では第二クラスを設けることができると書かれた神権宣教学校の予定表を持って,長老が近づいて来ました。この備えを進歩した生徒のためのものと勘違いした長老は,「いつからそのクラスで話を始められるでしょうか。次の段階に進むことのできる資格のある兄弟たちがいるんですが」と言いました。訪問した兄弟は取り決めについて親切に説明しました。

ブレンカ兄弟はこう述べています。「巡回大会は,兄弟たちを教えるのにたいへん役立ちました。地域監督が司会する模範的な神権宣教学校があるからです。それでも,皆がこの取り決めに十分に慣れるには数年かかりました」。

ルーマニアで開拓奉仕学校が始まったのは1993年のことです。この学校は,何千人もの開拓者が霊的な進歩を遂げ,宣教を一層効果的に行なう上で助けとなってきました。ルーマニアで開拓奉仕を行なうのは決して容易ではありません。パートタイムの仕事に就くのがほとんど不可能だからです。それにもかかわらず,2004年には3,500人を超える兄弟姉妹が何らかの形の開拓奉仕に携わりました。

旅行する監督のための助け

1990年,イタリア支部のロベルト・フランチェスケッティ兄弟とアンドレア・ファッビ兄弟が,ルーマニアで奉仕する割り当てを受けました。その目的は,業の再組織を手伝うことでした。「当時,わたしは57歳でした」とフランチェスケッティ兄弟は語ります。「当時のルーマニアの経済状況のため,新しい割り当てはわたしと妻のイメルダにとってたやすくありませんでした。

「1990年12月7日,午後7時にブカレストに到着した時,気温はマイナス12度で,街は雪にすっぽりと覆われていました。わたしたちは市の中心部で幾人かの兄弟に会い,その夜泊まれる場所について尋ねました。『まだ分からないんです』と兄弟たちは言いました。しかし,母親と祖母がエホバの証人だという若い娘さんがこの会話を小耳にはさみ,すぐに家に招いてくれました。わたしたちは,市内に適当なアパートが見つかるまで数週間そこにとどまりました。地元の兄弟たちの精神的な支えや励ましも,新しい割り当てに慣れるのに助けとなりました」。

1967年にギレアデの第43期を卒業したロベルトは,妻と共に9年近くルーマニアで過ごし,エホバへの奉仕におけるその長年の経験から兄弟たちが益を得られるよう惜しみなく助けました。ロベルトはこう続けます。「1991年1月,国内委員会は42人の旅行する監督全員との会合を取り決めました。ほとんどの監督たちは,六つか七つの会衆から成る小さな巡回区を奉仕していました。その予定は,たいてい妻を伴わずに,各会衆と2週にわたって週末だけ奉仕するというものでした。当時,巡回監督は普通の仕事に就かなければなりませんでした。家族を養うため,また当局に疑いをかけられないようにするためです。しかしようやく,他の国の監督たちと同じ予定に従って,火曜日から日曜日まで会衆と奉仕できるようになったのです。

「この取り決めについて説明した後,わたしは42人の兄弟たちに,『旅行する監督として引き続き奉仕したいと思われるなら,どうぞ手を挙げてください』と言いました。なんと,だれも手を挙げませんでした。こうしてわずか数分の間に,国内の旅行する監督を全員失ってしまったのです。しかし,幾人かの兄弟はその件をさらに祈りのうちに考慮した後,気持ちを変えました。加えて,オーストリア,フランス,ドイツ,イタリア,アメリカから,宣教訓練学校の卒業生という形で助けが来ました」。

ルーマニア人の血を引くジョン・ブレンカは,10年間奉仕したブルックリン・ベテルからルーマニアに移動しました。最初は巡回および地域監督として奉仕しました。当時を次のように振り返っています。「1991年6月,わたしは地域監督として,新しい取り決めのもとで全時間仕える意志のある巡回監督たちと働き始めました。やがて,考えを大きく変えなければならないのはその兄弟たちだけでないことに気づきました。諸会衆も初めのうちは問題を抱えたのです。『野外奉仕を毎日のように支持するのは,伝道者たちにとって無理でしょう』と言う長老もいました。それでも,皆で一致団結し,調整を行ないました」。

兄弟たちを教える上で,王国宣教学校と宣教訓練学校も役立ちました。バヤ・マーレで開かれた王国宣教学校の際,一人の長老が涙を流しながら教訓者に近づき,こう言いました。「長老になって何年も経ちますが,牧羊訪問をどのように行なうべきかを今初めて本当に理解しました。このすばらしい情報を提供してくださった統治体に感謝します」。

兄弟たちは宣教訓練学校について聞いていましたが,自国で開くという考えは夢にすぎないように思えました。ですから,最初のクラスが1999年に開かれ,その夢が実現した時の兄弟たちの興奮を想像していただけるでしょう。それ以来,さらに八つのクラスが開かれ,その中には近隣のモルドバとウクライナから来たルーマニア語を話す兄弟たちも含まれていました。

「真理を見つけたわ!」

今では多くの人が定期的に証言を受けていますが,その一方で,人口の3分の1に当たる約700万人が未割り当て区域に住んでいます。良いたよりが一度も伝えられていない地方も幾つかあり,収穫はまだ大きいのです。(マタ 9:37)正規開拓者,特別開拓者,また会衆の長老たちが,この必要にこたえて,未割り当ての地域に移動しました。その結果,さらに多くの群れが発足し,会衆が設立されました。加えて,支部は諸会衆に,未割り当て区域で奉仕する特別なキャンペーンへの参加を呼びかけました。他の国と同様,こうしたキャンペーンはとても実りの多いものでした。

ある辺ぴな村で,83歳の女性が娘の一人から1冊の「ものみの塔」誌を受け取りました。娘はその雑誌をブカレストのごみ入れで見つけたのです。この年配の女性は雑誌を読むだけでなく,自分の聖書から一つ一つ聖句を調べました。その聖書には神の名が載っていました。次に娘と話した時,女性はうれしそうに,「母さんは真理を見つけたわ!」と言いました。

また,村の司祭とも話し,なぜ人々に神のみ名を教えなかったのか尋ねました。司祭は質問には答えず,聖書と雑誌を借りて調べたいと言いました。女性は敬意を表して従いましたが,その聖書と「ものみの塔」誌は二度と戻ってきませんでした。後に,エホバの証人が伝道で村に来た時,女性は証人たちを招き入れ,「知識」の本を用いて神の言葉を学ぶようになり,すばらしい進歩を遂げました。現在,この女性と娘たちはみな真理のうちにいます。

ついに大会が自由に!

ルーマニアのエホバの証人は,1990年に「清い言語」地域大会に集った時,大いに喜びました。多くの人にとって,大会に出席するのはこれが初めてでした。開催都市はブラショブとクルジュ・ナポカでした。2週間前には,2,000人を超える代表者が,ハンガリーのブダペストで開かれたルーマニア語の大会に出席しました。ルーマニアでの大会は1日だけでしたが,兄弟たちは統治体の二人の代表者,ミルトン・ヘンシェルとセオドア・ジャラズの話を聞いて胸を躍らせました。3万6,000人を超える人々が出席し,伝道者の約8%に当たる1,445人がバプテスマを受けました。

1996年,「神の平和の使者」国際大会がブカレストでも開催されることになりました。しかし,正教会の僧職者はあらゆる手を使って大会を中止させようとしました。僧職者とその追従者たちは,憎しみに満ちたポスターを,教会の敷地や建物,路地,壁など,市内の至る所に張りました。「正教会か死か」といったものもあれば,「我々は,この大会の中止を当局者に求めるだろう。我らの父祖の信仰を擁護できるように,来なさい。我々に神の助けがあるように」と書かれたものもありました。

こうした状況のもと,市の役人たちは考え直し,ブカレストで大会を開くことを許しませんでした。それでも兄弟たちは,7月19日から21日まで,ブラショブとクルジュ・ナポカに会場を確保することができました。また,他の大会に行けない人のために,ブカレストとバヤ・マーレでかなり小規模な大会を組織することもできました。

報道関係者たちは,兄弟たちがそうした急な通告を受けても平静を保って物事を再組織できたことに感銘を受けました。そのようなわけで,僧職者の罵声にもかかわらず,大会前日のメディアの報道は好意的なものでした。それより前の否定的な報道でさえ,エホバのみ名を前面に掲げたという点で幾らか効果がありました。ブカレストのある兄弟はこう述べています。「3週間足らずで,何年間も証言したのと同じほど私たちは世間に広く知られるようになりました。私たちを妨害できると思ったルーマニア正教会のたくらみは,実際には良いたよりを促進させる結果となりました」。大会には合計4万206人が出席し,1,679人がバプテスマを受けました。

2000年に開かれた「神の言葉を行なう者」地域大会で,兄弟たちはルーマニア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を受け取り,感激しました。一人の若い兄弟は感謝の気持ちを込めてこう言いました。「自分用にいただいたこの聖書で神の名を読み,エホバに一層引き寄せられました。エホバとその組織に心の底から感謝しています」。

ミツバチ会館から大会ホールへ

前述のミツバチ会館は別として,共産主義時代に建てられた王国会館は一つもありませんでした。ですから,禁令が解かれた時,王国会館の必要は計り知れないほどでした。しかし,多分に王国会館基金の取り決めのおかげで,兄弟たちは近年,平均して10日に1軒の割合で王国会館を完成させることができています。シンプルで機能的なそれらの建物は,規格化されたデザインに基づき,入手しやすい資材で作られています。他の国と同様,建設中,とりわけ速成建設の際に示される円滑な組織や進んで働く精神は,近隣の人々,ビジネスマン,市の職員に対する優れた証言となっています。

ムレシュ県で,兄弟たちは建設中の王国会館に電気を引く許可を当局に求めました。「なぜそんなに急いでいるんですか。許可が下りるのには少なくとも1か月かかりますが,それまでに大して作業は進んでいないでしょう」と職員は言いました。それで,兄弟たちはその件を局長のところへ持ってゆきました。

その人も,「なぜ急ぐんですか。基礎を据えたばかりでしょう?」と言いました。

「はい。でもそれは先週のことで,今は屋根に取りかかっているんです」と兄弟たちは答えました。局長は意図をつかみ,その翌日に許可を出しました。

ルーマニアで最初の大会ホールはネグレシュティ・オアシュに建てられ,座席がメインホールに2,000席,屋外の円形の会場に6,000席あります。レッシュ兄弟は献堂式の話をするよう招かれてとても喜び,ルーマニア語でその話を行ないました。五つの巡回区から90を超える会衆が建設を手伝いに来ました。ホールが献堂される前の2003年7月にそこで開かれた地域大会には,8,572人が出席しました。無理もないことですが,大会ホールは地元の正教会の人々の間でよく話題に上りました。それも,否定的な意見ばかりではありませんでした。実際,兄弟たちの進んで働く精神を褒める司祭さえいました。

神の僕たちに対してはどんな武器も功を奏さない

カローリー・サボーとヨーゼフ・キスは,1911年に母国に戻った時,自分たちが始めようとしていた業をエホバがどれほど祝福なさるか予想もつきませんでした。考えてみてください。この10年間にルーマニアで約1万8,500人の新しい人がバプテスマを受け,伝道者の数は3万8,423人になりました。そして,2005年の記念式には7万9,370人が出席したのです。この増加に対応できるよう,1998年に新しい立派なベテル・ホームが献堂され,2000年に拡張されました。三つの王国会館から成る建物も敷地内に建てられました。

この目覚ましい成長の基礎は,ここで詳細の多くを報告できないほど激しい迫害の期間に据えられました。したがって,増加の誉れはすべてエホバに帰せられるべきです。保護を与えるその方の陰のもとに,忠節な証人たちは避難所を見いだしたのです。(詩 91:1,2)エホバはご自分の忠実な僕に関して次のように約束しておられます。「あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さず,裁きのときにあなたに敵して立ち上がるどんな舌に対しても,あなたは有罪の宣告を下すであろう。これはエホバの僕たちの世襲財産……である」。―イザ 54:17

かけがえのないこの「世襲財産」を失わないように,ルーマニアのエホバの証人は,義のために非常に苦しんだすべての人たちの涙を尊び,その貴重な信仰に倣うことを決意しています。―イザ 43:10。ヘブ 13:7

[72ページの囲み記事]

ルーマニアの概要

国土: 面積が23万8,000平方㌔のルーマニアは楕円に近い形をしていて,東西が約720㌔あります。隣の国々は北から時計回りに,ウクライナ,モルドバ,ブルガリア,セルビア・モンテネグロ,ハンガリーです。

住民: ルーマニアの人口は2,200万人です。ルーマニア人,ハンガリー人,ドイツ人,ユダヤ人,ウクライナ人,ロマ族など多種多様な民族が暮らしています。住民の少なくとも70%はルーマニア正教会の信者です。

言語: 公用語はルーマニア語です。それは古代ローマ人が用いたラテン語から発達しました。

生活: 労働人口の約40%が農業,林業,漁業に,25%が製造業,鉱業,建設業に,30%がサービス業に従事しています。

食物: トウモロコシ,ジャガイモ,テンサイ,小麦,ブドウなどの作物が取れます。家畜は主に羊です。ほかにも,牛,豚,家禽がいます。

気候: 気温や降水量は地方によって異なります。全体的に,温帯気候で四季がはっきりしています。

[74ページの囲み記事]

ルーマニアのさまざまな地方

大部分が農業地帯のルーマニアは,マラムレシュ,モルダビア,トランシルバニア,ドブロジャなど,歴史のあるさまざまな地方に分かれています。北部のマラムレシュ地方は,ローマ人に侵略されなかった唯一の土地です。人々は山合いのへんぴな村に住んでおり,祖先のダキア人の文化を守ってきました。東のモルダビア地方は,ワイン醸造所や鉱泉,15世紀の修道院で有名です。南部のワラキア地方には,ルーマニア最大の都市である首都ブカレストがあります。

ルーマニアの中部に横たわるトランシルバニア地方は主に,巨大な弧を描くカルパティア山脈に囲まれた高原です。中世の城や町や遺跡があちらこちらにあり,吸血鬼として小説に描かれた伝説のドラキュラのふるさとでもあります。ドラキュラのモデルとなったのは15世紀の君主で,ブラド悪魔と呼ばれたブラド・ドラクルと,敵を処刑した方法からブラド串刺し公として知られたブラド・ツェペシュです。言うまでもなく,この地方の観光には二人の根城だったとされる場所が多く含まれています。

約250㌔にわたって黒海と接しているドブロジャ地方には,雄大なドナウ・デルタがあります。ヨーロッパで二番目に長い川であるドナウは,ルーマニアの南の国境となっていて,国土の大半の川が流れ込みます。多様な生物が見られるこの4,300平方㌔のデルタ地帯はヨーロッパ最大の湿地保護区で,およそ300種の鳥と150種の魚が生息し,ヤナギやスイレンなど1,200種類の植物が自生しています。

[87ページの囲み記事]

ザモルクシス崇拝からルーマニア正教へ

西暦前の何世紀もの間,ルーマニアとして現在知られている地方に住んでいたのは,近縁関係にあったゲタエ族とダキア族でした。その神ザモルクシスは天空と死者の神だったようです。しかし,今日,ルーマニア人のほぼすべてはキリスト教を信奉していると言います。どうしてそうなったのでしょうか。

ローマがバルカン半島に勢力を広げていた時,ゲタエ-ダキア連合は大きな脅威となりました。実際,連合のデケバルス王はローマ軍を二度打ち破りました。しかし,西暦2世紀の初頭,ローマが勝利を収め,その地方を属州にします。ダキアと呼ばれたその地方は大いに繁栄し,大勢のローマ人入植者を引きつけました。入植者たちはダキア人と結婚し,彼らにラテン語を教えて,現代のルーマニア人の祖先を生み出しました。

移住した人々はもとより小売商や貿易商も,名目上のキリスト教をその地方に持ち込みました。西暦332年,皇帝コンスタンティヌスが,ゴート人つまりドナウ川の北に住んでいたゲルマン諸族の連盟と平和条約を結ぶに及んで,キリスト教世界の影響力は増しました。

1054年の大分裂で東方教会がローマ教会から離脱すると,その地方は東方正教会の影響下に入りました。この東方正教会からルーマニア正教会が生まれます。ルーマニア正教会は20世紀末には1,600万人を超える信者を擁し,バルカン諸国最大の独立した正教会となっています。

[98-100ページの囲み記事/図版]

爆弾が降る中で歌いました

テオドル・ミロン

生まれた年: 1909年

バプテスマ: 1943年

プロフィール: 刑務所で聖書の真理を学ぶ。ナチスの強制収容所,および共産主義体制下の労働収容所や刑務所で14年過ごす。

1944年9月1日,ドイツ軍が退却する時,わたしを含む152人の兄弟たちは他の囚人と共に,セルビアのボールにある強制収容所からドイツに連れて行かれることになりました。食べる物が何もない日もありました。畑のそばの道端に落ちていたテンサイなど,わずかでも食物が手に入った時は,すべて平等に分けました。弱って歩けない人がいれば,体力のある人が手押し車に乗せて運びました。

わたしたちはやっとのことで駅に着き,4時間ほど休みました。それから,屋根のない2台の貨車から荷物を降ろし,自分たちのために場所を作りました。立つだけのスペースしかありませんでした。暖かい服はなく,めいめい毛布1枚だけで,雨が降り出した時はそれを頭からかぶりました。そのようにして夜通し移動しました。翌日の午前10時,ある村に差しかかると,2機の飛行機が機関車を爆撃し,列車を止めました。わたしたちの乗っていた貨車は機関車のすぐ後ろにありましたが,死んだ人は一人もいませんでした。この出来事にもかかわらず,別の機関車が貨車につながれ,わたしたちは旅を続けました。

約100㌔先の駅で2時間ほど足止めされた時,ジャガイモの入ったかごを持っている男女を見ました。『ジャガイモ売りだ』と思いましたが,そうではありませんでした。それは霊的な兄弟姉妹たちで,わたしたちのことを聞き,おなかをすかせているだろうと思って来てくれたのです。兄弟姉妹は一人一人に,ゆでた大きなジャガイモ3個と一切れのパン,それに少しの塩をくれました。わたしたちはこの“天からのマナ”のおかげで,ハンガリーのソンバトヘイに着くまでのさらに48時間を持ちこたえることができました。それは12月上旬のことでした。

ソンバトヘイには冬のあいだとどまり,主に雪に埋もれたトウモロコシを食べて生き延びました。1945年の3月と4月,この美しい町は爆撃され,通りにはばらばらの死体が散乱しました。多くの人が瓦礫の下に閉じ込められ,時おり助けを求める声が聞こえました。わたしたちは鋤などの道具を使って,幾人かを助け出すことができました。

爆弾は近くの建物に落ちましたが,わたしたちのいた建物には落ちませんでした。空襲警報のサイレンが鳴るたびに,みな恐怖におののきながら隠れ場を求めて駆け回りました。初めのうちはわたしたちも走りましたが,やがてそれが無駄なことに気づきました。ちゃんとした防空壕などなかったからです。それで,ただ自分たちのいる場所にとどまり,平静を保つように努めました。そのうち,見張りたちもわたしたちと一緒にいるようになりました。神が自分たちも守ってくれるかもしれない,というわけです。4月1日,ソンバトヘイで過ごした最後の晩は,かつてないほどたくさんの爆弾が降ってきました。それでも,わたしたちは建物の中にとどまって,歌でエホバを賛美し,心の平静さを保っていられることをエホバに感謝しました。―フィリ 4:6,7

翌日,ドイツに向けて出発するよう命じられました。馬車が2台あったので,それに乗ったり歩いたりしながら約100㌔進み,ロシアの前線まであと13㌔という森に着きました。裕福な地主の土地で一晩過ごし,次の日に見張りたちがわたしたちを自由の身にしました。エホバが身体的にも霊的にも支えてくださったことを感謝しつつ,わたしたちは涙ながらに別れのあいさつをし,ある者は徒歩で,ある者は列車で家路につきました。

[107ページの囲み記事]

実践されるクリスチャン愛

1946年,ルーマニアの東部が飢きんに見舞われました。第二次世界大戦とその余波の影響が少なかった地域のエホバの証人は,貧しいにもかかわらず,窮乏している兄弟たちに食物や衣服やお金を寄付しました。例えば,ウクライナとの国境近くにあるシゲト・マルマツィエイという町の岩塩鉱山で働いていた証人たちは,鉱山から塩を購入して近隣の都市や町で売り,手に入れたお金でトウモロコシを買いました。さらに,スウェーデン,スイス,アメリカ,その他の国のエホバの証人は,5㌧もの食物を寄付して援助しました。

[124,125ページの囲み記事/図版]

1,600の聖句を思い出しました

ディオニシエ・ブルチュ

生まれた年: 1926年

バプテスマ: 1948年

プロフィール: 1959年以降,幾つかの刑務所や労働収容所で5年余り過ごす。2002年に亡くなる。

投獄されている間,わたしたちは家族と連絡することを許されていて,家族は毎月5㌔の小包を送ることができました。割り当てられた仕事を終えた人だけが小包を受け取りました。わたしたちはいつも食物を平等に分けましたが,それは大抵,30ほどに分けることを意味しました。二つのりんごでそうしたこともあります。確かに分け前は少しでしたが,空腹を和らげるのに役立ちました。

聖書も聖書研究用の手引きもありませんでしたが,拘禁される前に学んだ事柄を思い出して分かち合うことで,霊的な強さを保ちました。取り決めでは,毎朝,一人の兄弟が一つの聖句を思い起こします。それを,朝の15分から20分歩かされる間,小声で繰り返しながら黙想しました。監房(20人が詰め込まれた縦2㍍横4㍍の部屋)に戻ると,その聖句について30分ほど話し合いました。全部で1,600の聖句を思い出すことができました。昼には,さまざまな論題とそれに関連した20から30ほどの聖句を考えました。皆その内容を覚えました。

ある兄弟は最初,自分は年寄りだからそんなに多くの聖句は覚えられないと感じました。しかし,兄弟は自分を過小評価していました。わたしたちが聖句を声に出して20回ほど繰り返すのを聞くと,兄弟もたくさんの聖句を思い出して暗唱することができたのです。兄弟はとても喜びました。

確かにわたしたちは身体的には空腹で弱っていましたが,霊的にはエホバが養い,強めてくださいました。釈放後も,信仰をくじこうとするセクリターテからの嫌がらせが続いたので,自分の霊性を維持しなければなりませんでした。

[132,133ページの囲み記事]

複写の方法

1950年代,聖書研究用の手引きを複製する最も簡単で手ごろな方法は,手で書き写すことでした。それにはしばしばカーボン紙が使われました。時間がかかる単調な作業でしたが,この方法にはとりわけ有益な利点が一つありました。書き写した人たちが資料をかなり覚えたことです。ですから,投獄された時,他の人たちに多くの霊的な励ましを与えることができました。兄弟たちは何台かのタイプライターも使いましたが,それらは警察に届け出る必要があり,入手も困難でした。

1950年代の終わりには謄写版が活躍するようになりました。原紙を作るために,兄弟たちはのりとゼラチンとろうを混ぜ,それをつるつるした長方形の表面 ― できればガラス ― にむらなく薄く塗りました。その一方で,自分たちで調合した特殊なインクを使って,紙の上に盛り上がった文字を書きました。インクが乾いてからその紙を,ろうを塗った表面に均等に押しつけると,謄写版の原紙ができました。しかし,その原紙はあまり長持ちしなかったので,兄弟たちは常に新しいものを作る必要がありました。さらに,記事を手で書き写した場合と同様,原紙の作成にも危険が伴いました。筆跡によって書いた人を特定できたからです。

1970年代から禁令が終わるころまで,兄弟たちは持ち運び可能な手動の複写機を10台余り作って使用しました。オーストリア製の機械をモデルにしたもので,紙をプラスチック加工した印刷版が用いられました。兄弟たちはその機械を“臼”と呼びました。1970年代の後半から,枚葉オフセット複写機を入手するようになりましたが,版を作ることができなかったので,それらの機械は使われないままでした。しかし,1985年以降,当時のチェコスロバキアから化学技術者の兄弟が来て,兄弟たちに必要な技術を教えました。その後,生産量も品質も格段に向上しました。

[136,137ページの囲み記事/図版]

エホバが訓練してくださいました

ニコライエ・ベンタル

生まれた年: 1957年

バプテスマ: 1976年

プロフィール: 共産主義時代に印刷工として奉仕し,現在は妻のベロニカと共に特別開拓者として奉仕している。

わたしは1972年にサチェレという町で聖書を学び始め,4年後,18歳の時にバプテスマを受けました。当時,業は禁令下にあり,集会は群れ単位で開かれました。それでも,わたしたちは霊的食物を定期的に受け取りました。聖書劇さえも,録音された音声とカラースライドを使って提供されました。

バプテスマの後,最初に割り当てられた仕事はスライド映写機を操作することでした。2年後,地元でひそかに印刷を行なうために紙を購入するという付加的な特権を与えられました。1980年には印刷の仕方を学び,「ものみの塔」誌,「目ざめよ!」誌,その他の出版物の生産に携わりました。謄写版と小さな手動の印刷機が用いられました。

その間に,わたしはエホバへの忠実を実証していたベロニカという立派な姉妹に出会い,結婚しました。仕事を果たすうえでベロニカは大きな支えになってくれました。1981年,初めて入手した枚葉オフセット複写機の操作の仕方を,オーストリア支部のオットー・クグリッチから教わりました。1987年にはクルジュ・ナポカに2台目の印刷機が据えられ,わたしは作業者を訓練する仕事を割り当てられました。

1990年に禁令が解かれた後も,わたしとベロニカと息子のフロリンは8か月の間,文書を印刷して分配する仕事を続けました。フロリンは印刷されたページを順番に重ねる作業を手伝い,その後,その束はプレスされ,断裁され,ホチキスでとじられ,梱包されて発送されました。2002年,わたしたち3人は,ブカレストの北約80㌔にある人口1万5,000人の町ミジルで開拓奉仕をする割り当てを受けました。わたしとベロニカは特別開拓者として,フロリンは正規開拓者として奉仕しています。

[139,140ページの囲み記事/図版]

エホバは敵の目をくらましてくださいました

アナ・ビウセンク

生まれた年: 1951年

バプテスマ: 1965年

プロフィール: 10代前半から,両親を手伝って文書を複写する。後に,出版物をウクライナ語に翻訳する仕事に携わる。

1968年のある日,わたしは複写のために「ものみの塔」誌を謄写版の原紙に手で写していました。よく考えもせず,原紙を隠さないでクリスチャンの集会に出かけました。真夜中に帰宅してすぐ,車の止まる音が聞こえました。それがだれかを確かめる間もなく,セクリターテの捜査員5人が捜索令状を持って家に入って来ました。身のすくむ思いでしたが,何とか平静を保つことができました。同時に,二度と出しっぱなしにしないのでどうか不注意を許してくださいと,エホバに懇願しました。

指揮官はテーブルにつきました。そのすぐ横には,車の止まる音が聞こえた時にわたしが慌てて布をかぶせておいた原紙がありました。指揮官は検査が終わるまで数時間そこにいました。原紙からわずかしか離れていない所で報告を書き上げる間,何度か布をきちんと伸ばしました。その報告には,発禁の文書がどこにも見当たらなかったと書かれていました。

それなのに,男たちは父をバヤ・マーレに連行しました。わたしと母は,父のために熱烈に祈りました。また,その夜わたしたちを保護してくださったことをエホバに感謝しました。父が数日後に帰って来た時は,本当にほっとしました。

それからしばらくして,出版物を手で写していた時,また家の外で車の止まる音が聞こえました。明かりを消し,覆いをした窓からのぞくと,光る肩章を着けた制服姿の男が数人,車から降りて通りの向かい側の家に入るのが見えました。次の夜には,別の一団がやって来ました。彼らがセクリターテのスパイであることに疑いの余地はありませんでした。それでも,わたしたちは複写を続けました。ただ,見つからないように,家の裏庭を通って物を運び出しました。

「わたしたちと敵の間の道路は,イスラエル人とエジプト人の間に立っていた雲の柱のようだ」と,父はよく言っていました。(出 14:19,20)わたしは自分の体験を通して,父がいかに正しかったかを学びました。

[143,144ページの囲み記事/図版]

壊れた排気管のおかげで助かりました

トラヤン・キラ

生まれた年: 1946年

バプテスマ: 1965年

プロフィール: 禁令の間,文書の生産と運送の責任を担った兄弟の一人。

夏のある日曜日の朝早く,わたしは文書の入った八つの袋を車に積み込みました。トランクに入りきらなかったので,後ろの座席を外し,座席のあった場所にも袋を置き,毛布をかぶせ,上にまくらをぽんと載せました。だれかに車の中を見られても,家族で海に行くのだろうとしか思われなかったでしょう。念のため,トランクの中の袋にも毛布をかけておきました。

エホバの祝福を祈り求めた後,わたし,妻,息子2人,娘1人の計5人は,文書を届けるため,トゥルグ・ムレシュとブラショブに向かいました。道中,一緒に王国の歌を歌いました。100㌔ほど行くと,穴だらけの道路に差しかかり,車の重みでサスペンションが下がっていたため,排気管が道路の何かに当たって破損してしまいました。わたしは車を止め,排気管の壊れた部分をトランクの中のスペアタイヤの横,毛布の上に置きました。それから,文字どおり轟音を立てながら先に進みました。

ルドゥシュという町で,警察官に止められました。車が路上での使用に適しているかどうかを調べるためでした。警察官はエンジンの番号を確認し,クラクション,ワイパー,ライトなどをチェックした後,スペアタイヤを見せるように言いました。車の後方へ向かう途中,わたしは少しかがんで窓越しに妻と子どもたちに,「祈りなさい。今わたしたちを助けられるのはエホバだけだ」とささやきました。

わたしがトランクを開けると,警察官は壊れた排気管にすぐに気づき,「これは何だ? 罰金を払ってもらわないとな」と言いました。欠陥を見つけたことで満足した警察官は,検査を終えました。わたしはトランクを閉め,ほっと胸をなでおろしました。これほど喜んで罰金を払ったことはありません。ひやっとしたのはその時だけで,無事に文書を兄弟たちのもとに届けることができました。

[147-149ページの囲み記事/図版]

セクリターテとの遭遇

ビオリカ・フィリプ

生まれた年: 1953年

バプテスマ: 1975年

プロフィール: 1986年に全時間奉仕を始め,ベテル家族の成員として奉仕する。

わたしと姉のアウリカは,エホバの証人になった時,家族に手ひどく扱われました。それはつらいことでしたが,後に何度か経験したセクリターテとの遭遇に備えさせるものとなりました。そのようなことが一度,1988年12月の晩にありました。当時わたしはハンガリーとの国境に近いオラデヤ市で,姉の家族と一緒に住んでいました。

校正中の雑誌をハンドバッグに入れて,翻訳の仕事を監督していた兄弟の家に行きました。全く知らなかったのですが,セクリターテの捜査員がそこで捜索を行なっていて,住人や訪ねて来た人を取り調べていました。幸い,起きている事柄を見て,バッグの中の雑誌を見つからずに燃やすことができました。その後,わたしと他の証人たちはさらに取り調べを受けるため,セクリターテへ連れて行かれました。

彼らは一晩中わたしを尋問し,翌日,わたしが届け出ていた住所を捜索しました。それは近くのウイレヤク・デ・ムンテ村にある小さな家でした。わたしはそこに住んでいませんでしたが,地下活動のための物資を保管するのに兄弟たちがその家を使っていました。それらの物資を見つけると,捜査員はわたしをセクリターテへ連れて帰り,ゴム製のこん棒で打ちたたきました。見つかった品物の持ち主,あるいはそれに直接関係のある人がだれであるかを明かさせるためでした。殴打に耐えられるよう助けてくださいと,わたしはエホバに懇願しました。すると,平安な気持ちになり,打たれる痛みも毎回数秒しか感じませんでした。とはいえ,やがて手があまりに腫れ上がったので,またペンを持てるようになるだろうかと思いました。その晩に釈放されましたが,無一文で,ひどくおなかがすき,疲労こんぱいしていました。

セクリターテの捜査員に尾行されながら,主なバスターミナルへ歩いて行きました。自分がどこに住んでいるかを取調官には言っていなかったので,姉の家に直行することはできませんでした。姉の家族を危険にさらすといけないからです。どこへ行ったらよいか,何をしたらよいか分からず,エホバに祈願しました。何か食べる物が欲しくて仕方ないことと,自分のベッドで寝たいことを伝えました。『ぜいたくなお願いかしら』と考えました。

ターミナルに着くと,ちょうどバスが出発するところでした。料金を払うお金はありませんでしたが,走ってバスに乗りました。たまたま,そのバスの行き先はわたしの家がある村でした。セクリターテの捜査員もバスに追いつき,バスがどこに行くのかをわたしに尋ねてから飛び降りました。このことから,別の捜査員がウイレヤク・デ・ムンテ村で待っているに違いないと思いました。運転手がバスにそのまま乗せてくれたのでほっとしました。『でも,何のためにわたしはウイレヤク・デ・ムンテに行くの?』と考えました。どのみち食べ物はないしベッドさえないので,家には行きたくありませんでした。

エホバに心配事を打ち明けていると,運転手がオラデヤの町外れで友人を降ろすためにバスを止めたので,わたしも下車させてもらいました。バスが走り去ると,幸福な気持ちに包まれました。それから,用心しつつ知り合いの兄弟のアパートに向かいました。到着した時,ちょうど兄弟の奥さんがわたしの大好物のグーラッシュをこんろから下ろしているところでした。その家族はわたしを夕食に招いてくれました。

夜遅く,もう安全だろうと思ったので,わたしは姉の家に向かい,自分のベッドで寝ました。そうです,エホバはまさにわたしが祈り求めた二つのもの,つまり十分な食事と自分のベッドを与えてくださったのです。わたしたちにはなんとすばらしい父がおられるのでしょう。

[155ページの囲み記事]

霊的な事柄に焦点を合わせている若者たち

迫害の時期,若いクリスチャンたちは称賛に値する忠誠の記録を作り上げ,その多くは良いたよりのために自分の自由を危うくしました。今,若い人たちは違う試みに直面しており,残念なことに警戒を緩めてしまった人もいます。しかし,そうでない人は霊的な事柄に焦点を合わせています。例えば,クンプヤ・トゥルジーの高校生たちは,午前中の休み時間に日々の聖句を一緒に討議しています。中庭か運動場で行なっており,他の生徒が加わることもあります。

一人の年若い姉妹はこう述べています。「友人たちと日々の聖句を調べると,避難所にいるような気持ちになります。エホバに仕えていない生徒たちとの集団生活から逃れられるひとときなんです。また,エホバの証人はわたしだけじゃないことも実感できて励みとなります」。校長と幾人かの先生は,これらの立派な若者を褒めています。

[160ページの囲み記事]

良いたよりを法的に確立する

2003年5月22日の木曜日,ルーマニアの文化宗教省は,1990年4月9日に設立された「エホバの証人の宗教組織」が国家の認可を受けている法人であることを再確認する省令を出しました。そのようなわけで,エホバの証人は,宣べ伝える権利や王国会館を建てる権利など,公認された宗教に付与される法的な特典をすべて与えられています。この認可は,長年にわたる多くの法廷闘争の最高潮となりました。

[80,81ページの図表/グラフ]

ルーマニア ― 年表

1910

1911年: カローリー・サボーとヨーゼフ・キスがアメリカから戻る。

1920年: クルジュ・ナポカに支部事務所が開設され,アルバニア,ブルガリア,ハンガリー,ルーマニア,旧ユーゴスラビアでの業を監督する。

1924年: クルジュ・ナポカに,印刷所を含む不動産が購入される。

1929年: 管轄がドイツ支部に,後にスイスの中央ヨーロッパ事務所に移る。

1938年: 政府がブカレストにあるルーマニア事務所を閉鎖する。

1940

1945年: ルーマニアのエホバの証人協会が登録される。

1946年: ブカレストで開かれた最初の全国大会に,およそ1万5,000人が出席する。

1947年: 8月と9月,アルフレート・リュティマンとマーティン・マジャロシがルーマニアを旅行する。

1949年: 共産主義政府がエホバの証人に禁令を課し,支部の全資産を差し押さえる。

1970

1973年: 管轄がスイス支部からオーストリア支部に移る。

1988年: 統治体の代表者がルーマニアを訪問する。

1989年: 共産主義体制が崩壊する。

1990年: エホバの証人が法的認可を得る。大会が開かれる。

1991年: ルーマニア語の「ものみの塔」誌が英語版と同時出版で4色刷りとなる。

1995年: ブカレストにルーマニア支部事務所が再び設立される。

1999年: ルーマニアで最初の宣教訓練学校が開かれる。

2000

2000年: ルーマニア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書新世界訳」が発表される。

2004年: ネグレシュティ・オアシュで最初の大会ホールが献堂される。

2005年: ルーマニアで3万8,423人の伝道者が活発に奉仕する。

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

40,000

20,000

1910 1940 1970 2000

[73ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ポーランド

スロバキア

ハンガリー

ウクライナ

モルドバ

ルーマニア

サトゥ・マーレ

オラデヤ

アラド

ネグレシュティ・オアシュ

バヤ・マーレ

マラムレシュ

ブレビ

ビストリツァ

トプリツァ

クルジュ・ナポカ

トゥルグ・ムレシュ

オクナ・ムレシュ

トランシルバニア

カルパティア山脈

フラタウツィ

バルカウツィ

イバンカウツィ

プルート川

モルダビア

ブラショブ

サチェレ

ミジル

ブカレスト

ワラキア

ガラツィ

ブライラ

ドナウ川

ドブロジャ

セルビア・モンテネグロ

ブルガリア

マケドニア

[66ページ,全面図版]

[69ページの図版]

1911年,カローリー・サボーとヨーゼフ・キスは王国の音信を宣べ伝えるために母国に戻った

[70ページの図版]

座っているのがパラスキーバ・カルマル。夫と子ども8人と共に

[71ページの図版]

ガブリラ・ロモチャ

[71ページの図版]

エレク・ロモチャと妻のエリサベト

[77ページの図版]

クルジュ・ナポカの新しい事務所の建設,1924年

[84ページの図版]

迫害が強まるにつれ,さまざまな題名で文書が生産された

[86ページの図版]

業を手伝うためにギリシャからやって来たニク・パリウス

[89ページの図版]

聖書講演のレコードに耳を傾ける,1937年

[95ページの図版]

マーティン・マジャロシと妻のマリア(前),およびパムフィル・アルブと妻のエレナ

[102ページの図版]

1945年のバヤ・マーレの巡回大会

[105ページの図版]

1946年に開かれた全国大会のポスター

[111ページの図版]

ミハイ・ニストル

[112ページの図版]

バシーレ・サバドゥシュ

[117ページの図版]

セクリターテが用いた盗聴器

[120ページの図版]

ドナウ・デルタの強制労働収容所,ペリプラバ

[133ページの図版]

“臼”

[134ページの図版]

ニコライエ・ベンタルと妻のベロニカ,自宅の地下にある秘密の部屋で

[138ページの図版]

ドゥミトル・チェパナルと妻のドイナ

[138ページの図版]

ペトレ・ランカ

[141ページの図版]

1980年代に開かれた大会

[150ページの図版]

ルーマニアで開かれた最初の開拓奉仕学校,1993年

[152ページの図版]

ロベルト・フランチェスケッティと妻のイメルダ

[156,157ページの図版]

僧職者からの反対にもかかわらず,大勢の人が1996年の「神の平和の使者」国際大会に出席した

[158ページの図版]

(1)七つの王国会館から成る建物,トゥルグ・ムレシュ

(2)ルーマニア支部,ブカレスト

(3)大会ホール,ネグレシュティ・オアシュ

[161ページの図版]

支部委員会,左上から時計回り: ダニエレ・ディ・ニコラ,ジョン・ブレンカ,ガブリエル・ネグローユ,ドゥミトル・オウル,イオン・ローマン