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レユニオン

レユニオン

レユニオン

レユニオン島を最初に目にした人々 ― おそらくアラブ人の貿易商たち ― は,熱帯の楽園を偶然に見つけました。紺碧のインド洋に浮かぶ緑の宝石のようなレユニオンは,大陸に匹敵するほどの自然の美と多様性に満ちています。火山砂の浜辺,数え切れないほどの滝,熱帯雨林,咲き乱れる野花,深い谷,険しい火山の頂,直径何キロもの緑豊かなカルデラ,活火山 ― これらはこの島の財産のほんの一部に過ぎません。

レユニオンの多くの人々は,この魅惑的な島に住んでいるとはいえ,目に映るものよりもっと美しいものに引き寄せられてきました。神の言葉の貴重な真理を愛するようになったのです。レユニオンに最初に足を踏み入れた王国宣明者は,近くのモーリシャスでの奉仕を割り当てられた宣教者のロバート・ニズベットでした。1955年の9月に滞在したわずか数日の間に,ロバートは聖書に対する関心を少なからずかきたて,たくさんの文書を配布し,「目ざめよ!」誌の予約も得ました。その後も関心のある人たちと手紙で連絡を取り続けました。

1955年から1960年の間に,ロバートと地帯監督のハリー・アーノットは,何度か島を短く訪問しました。1959年,フランス支部は,マダガスカルで奉仕していた元炭鉱労働者でポーランド系フランス人の開拓者アダム・リシアクに,レユニオンを訪問するよう依頼しました。アダムは1959年12月,島で丸1か月過ごし,こう書きました。「人口の90%は熱心なカトリック教徒ですが,大勢が神の言葉や新しい世についてもっと知りたがっています。司祭たちは真理が広まるのを阻止しようとしています。『目ざめよ!』誌を予約していたある人は,地元の司祭がエホバの証人の発行した『神を真とすべし』の本を借りたがっていると聞いて,『ご本人がいらっしゃるならお貸しします』と言いました。司祭は結局やって来ませんでした」。

フランスから助けが来る

当時,業を監督していたフランス支部は,資格ある兄弟たちに,レユニオンへの移動を呼びかけました。ペグー家 ― アンドレとジャニン,そして6歳の息子クリスティアン ― が,親戚のノエミ・デュレイと共に招きに応じ,1961年1月に船で到着しました。ミミとして知られるノエミは,フランスに帰る前に特別開拓者として2年間奉仕しました。

家族はすぐに関心のある人たちをたくさん見つけ,首都サンドニのホテルの部屋で集会を開くことさえしました。一軒家に引っ越すと,早速そこで集会を開くようになりました。約1年後,できたばかりのサンドニの群れは,30人ほど座れる小さな会館を借りました。トタン屋根で,よろい戸付きの窓二つとドアが一つある,木造の建物です。兄弟たちは許可を得た後,中の壁を取り壊し,小さな演壇を作り,背もたれのない木のベンチを設置しました。

雲一つない熱帯の日曜日の午前中,トタン屋根は性能の良いラジエーターのようになり,出席者は全員すぐに玉のような汗をかきました。演壇に立つ人は頭が屋根から数センチしか離れていなかったため,特にそうでした。その上,会館はしばしばいっぱいになり,多くの人が外に立ってよろい戸付きの窓や戸口の所で聴いていたので,ただでさえよくない換気がますます悪くなりました。

「圧倒されています」

多少の不便さはあったものの,集会ではだれもが歓迎され,1年目の終わりごろには50人ほどが定期的に出席していました。王国伝道者の数は7人に増え,聖書研究は47件もありました。新しい人の中には,週に2回研究する人もいました。「わたしたちはとても喜んでいますが,いささか圧倒されています」と,兄弟たちは書いています。

マダガスカルで1961年に研究を始めたミリアム・アンドリアンは,新しい聖書研究生の一人でした。ミリアムは,前述の会館がちょっとした大会ホールとしても使われたことを覚えています。その際,兄弟たちは,やしの枝を使って,影になる部分を付け足しただけでした。初期のそうした大きな集まりには,最高で110人が出席しました。

1961年10月にモーリシャスで行なわれた大会でバプテスマを受けた人たちの中に,ダビド・スリ,マリアンヌ・ラン-ニョー,ルシアン・ベショーがいます。その後3人とも,宣べ伝える業に大きく貢献しました。2年目には伝道者が32人に増加し,開拓者たちはそれぞれ約30件もの聖書研究を司会しました。日曜日の集会の出席者は100人に増え,様々な人種の人が集まりました。

レユニオンに住むインド人の多くは,カトリック教とヒンズー教が混じり合ったものを信奉しています。ある人たちにとって,古い習慣を捨て去るのは大変なことでした。しかし,兄弟たちの辛抱強さや親切,また正しい事柄に対する毅然とした態度は,しばしば良い結果を招きました。例えば,開拓者と2年間研究していたある女性は,相変わらず偽りの宗教を奉じ,占いをし,男性と同棲していました。開拓者は,別の姉妹なら助けられるかもしれないと思い,研究を引き継いでもらいました。その姉妹はこう書いています。「数か月たって,女性はだんだんと認識を深め,とてもうれしいことに心霊術をやめました。でも結婚の届けはまだ出していませんでした。彼女によれば,男性のほうが結婚を渋っているとのことでした。結局彼女はその男性との生活を続けることにしたので,研究をやめるしかありませんでした。

「ある日,路上でその女性に会い,研究を再開してほしいと言われました。わたしは,もしあなたがこれまでに学んだ事柄を当てはめて誠実さを示すならいいですよ,と答えました。そのことに関してエホバに祈るよう提案すると,彼女はそうしました。そして,勇気を奮い起こして同棲相手に率直に話しました。すると男性は結婚に同意し,彼女は大喜びしました。それだけでなく,彼は妻となったその女性と一緒に集会に出席するようになったのです」。

1963奉仕年度中,王国伝道者が新最高数に達した月は11回あり,最後は93人でした。レユニオンには今や二つの会衆と一つの群れがありました。地元での最初のバプテスマが,1962年12月にサンジルレバンの海岸で行なわれ,20人の新しい人が浸礼を施されました。2回目は1963年6月に行なわれ,38人がバプテスマを受けました。1961年,レユニオンの伝道者は,人口4万1,667人に対して一人でした。3年後,その割合は2,286人に一人になっていました。まさにエホバはこの霊的に肥沃な島で,真理の種を「成長させて」おられたのです。―コリ一 3:6

王国の音信をさらに遠くへ伝える

最初のエホバの証人の家族が到着してから4年しかたっていない1965年までに,サンドニの会衆は伝道者が110人を超え,近隣の区域を3週間に一度網羅していました。とはいえ,他の地域にはまだほとんど手がつけられていませんでした。解決策はあるでしょうか。兄弟たちはバスを借りて,サンルー,サンフィリプ,サンピエールなど,他の海辺の町で宣べ伝えました。

区域によっては着くまでに何時間もかかったので,兄弟たちは朝早く出かけ,しばしば狭くて急な曲がりくねった道を行きました。サンドニからル・ポールという都市まで,今は車で15分ですが,当時は2時間もかかる大変な旅でした。「その道を行くには信仰がいりました」と,ある兄弟は思い出して言います。新しい道でさえ危険がないわけではありません。岩が落ちてくるからです。山が道路端からほとんど垂直にそびえ立っている場所もあり,大雨が降ると,時として重さが何トンもある頭上の岩が落ちてきます。長年の間に,幾人もの死者が出ました。

クリスティアン・ペグーはこう語ります。「わたしが8歳ぐらいの時,わたしたちのグループはよく孤立した区域で400冊から600冊もの『目ざめよ!』誌を配布しました。『ものみの塔』誌は発禁中でした。幾人かの好意的な未信者のご主人たちは出かけるのが好きだったので,証言活動はしないものの妻たちについて来ました。野外奉仕の後,皆でお弁当を外で食べましたが,わたしたち子どもにとってはそれがとても楽しみでした。こうした特別な活動は,確かにわたしの人生に大きな影響を与えました」。

組織上の調整により,業にはずみがつく

1963年5月,ミルトン・G・ヘンシェルが世界本部の代表者として初めてレユニオンを訪れました。兄弟は155人の聴衆を前に特別な話を行ないました。この訪問の結果,4人が特別開拓者として任命され,会衆の世話を助け,良いたよりがまだ宣べ伝えられていない地域で奉仕することになりました。ダビド・スリはル・ポールに,ルシアン・ベショーはサンタンドレという都市に,そしてマリアンヌ・ラン-ニョーとノエミ・デュレイ(現在はティスラン)はサンピエールに遣わされました。

1964年5月1日には,業の監督がフランスからモーリシャスに移され,レユニオンに文書集積所が設けられます。そのころ,伝道者たちは未割り当て区域でもっと働くことを勧められました。さらに兄弟たちは,真理を求めて集まる大勢の新しい人たちを良く世話するため,会衆内の責任ある立場をとらえるよう励まされました。実際,1964奉仕年度中に57人がバプテスマを受け,そのうち21人は同じ大会で受けました。

その前の年,サンタンドレの群れは会衆になるための申請を行ないました。申請書の内容は次のようなものでした。「1963年6月末にはバプテスマを受けた伝道者が12人になり,今後2か月の間に新しい伝道者が五,六人増える見込みです。兄弟たちは30件の聖書研究を司会しています」。申請は承認され,二人の兄弟が会衆の世話をしました。ジャン・ナッソーが会衆の僕つまり主宰監督で,ルシアン・ベショーが補佐でした。どちらも真理に入ってまだ2年もたっていませんでした。

心も体も大きな38歳のジャンは,工業学校の講師で,腕の立つ大工でした。バプテスマを受けたのは1962年で,王国の業の促進に役立つ事柄を成し遂げるための技術や能力を持っていました。事実,レユニオンで二つ目となる王国会館を,サンタンドレの自分の地所に自費で建てました。それはがっしりとした,仕上げも見事な木造の建物で,50人余りが楽に座れました。サンタンドレの群れが最初に奉仕していた区域に,今では八つの会衆があります。ジャンは1997年に亡くなるまで,エホバへの忠実を保ちました。

1960年代の初めに発足した三つ目の群れは,港町のル・ポールにあり,南に8㌔ほど離れたサンポールに住む関心のある人たちも交わっていました。ル・ポールの家々はシンプルな木造家屋で,とげのないサボテンのようなアオサンゴに囲まれていました。ダビド・スリは家を借り,そこで集会を開きました。1963年12月に,群れは会衆になることを申請しました。バプテスマを受けていた8人を含む16人の王国伝道者がおり,皆の野外奉仕時間の平均は月に22.5時間でした。ダビドと補佐の兄弟だけでも38件の聖書研究を司会していたのです。その同じ月に訪問した巡回監督は,53人の聴衆を前に公開講演を行ないました。

特別開拓者のクリスティアン・ボヌカズと妻のジョゼットも,ル・ポールでの奉仕を割り当てられました。クリスティアンはフランス領ギアナでバプテスマを受け,1960年代の初めにレユニオンに来ました。当時は独身で,家族は真理のうちにいませんでした。集会が行なわれていた家にクリスティアンとジョゼットが住めるように,スリ兄弟は親切に別の家に引っ越しました。ところが,やがて会衆があまりに大きくなったので,ボヌカズ夫妻も出なければならなくなりました。

そのころ,カトリック教徒が住民の大半を占めるこの地域の僧職者たちは,エホバの証人に反対するよう人々を仕向け始めました。子どもや若者たちは,昼間にはしばしば伝道者たちに石を投げつけ,夜になると兄弟たちの家の屋根に石をほうりました。

聖書研究を始めたばかりのラファエラ・オアロは,それらの若者たちを幾人か知っていました。ある時,石を投げた犯人たちを家まで追って行き,「わたしの兄弟に石を投げつけるのをやめなかったら承知しないわよ」と言いました。

「オアロさん,すみません。あなたの兄弟だとは知らなかったんです」と,若者たちは答えました。

ラファエラと3人の娘たちは真理に入り,娘の一人ヨレーヌはルシアン・ベショーと結婚しました。

僧職者たちが人々に偏見を吹き込んだにもかかわらず,兄弟たちの熱意と神の祝福により,ル・ポールには熱心な会衆ができ,間もなく集会場は人であふれるようになりました。実際,中で聞いている人より外で聞いている人のほうが多いことも珍しくありませんでした。ステージの上も含めて,至るところにいすが置かれ,子どもたちはステージのへりに,聴衆の方を向いてずらりと座りました。やがて兄弟たちは立派な王国会館を建て,今ではその地域に六つの会衆があります。

開拓者たちは先頭に立つ

レユニオンの初期の開拓者の一人に,アニク・ラピエールがいます。ミリアム・トマは当時を振り返ってこう述べています。「アニクは,母やわたしと研究をしてくれました。宣教奉仕を一生懸命行なうよう励ましてくれたので,わたしは開拓者になりたいと彼女に言いました。バプテスマを受けたのは,研究を始めて6か月後です。当時は島全体がわたしたちの区域で,バスはなく,車も少なかったので,たいてい歩きました。でもナッソー兄弟が車を持っていて,できる時はいつでも奉仕に乗せて行ってくれました。伝道は楽しく,みんなやる気十分でした」。

家族思いのアンリ-ルシアン・グロンディンはこう言います。「わたしたちはいつも,開拓奉仕を行なうよう子どもたちを励ましました。巡回監督たちは,エホバに最善のものをささげることの大切さを気づかせてくれました。いちばん上の子どものアンリ-フレッドは40歳になりますが,全時間奉仕を生涯の仕事にしています」。

アンリ-フレッドは昔を思い出して語ります。「わたしたちの会衆には,熱心な若者が大勢いました。バプテスマを受けていた子もいましたし,わたしのように受けていない子もいました。でも学校の休みには,皆がとにかく宣教に60時間を費やしました。だれも霊的な目標を見失うことはなく,現在わたしは妻のエブリンと共に巡回奉仕を行なっています」。

悪霊の反対

レユニオンでは心霊術が広く行なわれています。ジャニン・コリノ(以前はペグー)は,ある出来事を思い出してこう言います。「ラ・モンターニュという村で一人の男性に会い,人形に針を刺してのろってやると言われました。何を言っているのか分からなかったので,聖書研究生に説明してもらいました。『あの人は呪術医で,霊を呼び出してあなたに害を加えようとしているんです』と,研究生は言いました。わたしは彼女に,エホバはご自分に全く依り頼む人たちを保護してくださると言って安心させました。もちろん,何の害も受けませんでした」。

ある兄弟は,自分が子どもだったころに,家族が降霊術の会を開いていたことを覚えています。この人は1969年にエホバの証人に会い,聖書を学び始めました。ところが悪霊たちがやめさせようと邪魔をしたため,集会に行くと耳が聞こえなくなりました。それでも集会に行き続けただけでなく,話を録音してもらって自宅で聞けるようにしました。程なくして悪霊たちは手を引き,この人は間もなく野外奉仕に参加するようになりました。―ヤコ 4:7

1996年に,ロゼダ・カロというペンテコステ派の女性がエホバの証人と聖書研究を始めました。ロゼダは,教会の友人たちのアドバイスに従って糖尿病の薬を使うのをやめたため,失明していました。夫のクレドは地元の共産党に入っており,気性が荒かったので地域社会で恐れられていました。さらに,魔術を行ない,ヒンズー教の儀式に参加し,後にペンテコステ派の一員になりました。

ロゼダが研究を始めると,クレドは反対し,会衆の長老たちを脅すことさえしました。しかしロゼダは恐れませんでした。数か月後,クレドは病院に担ぎ込まれ,昏睡状態に陥りました。ようやく意識が戻った時,二人のエホバの証人がスープを届けましたが,クレドは妻に持ってきたのだろうと思いました。

「いいえ,カロさん。これはあなたのスープです」と姉妹たちは言いました。

クレドはその時を振り返ってこう言います。「わたしは強く胸を打たれました。ペンテコステ派の人はだれも来なかったのに,なんとわたしが強く反対していたエホバの証人の二人が食事を持ってきてくれたのです。『妻が信じているエホバ神は本当にいるんだ』と思いました。それから無言で祈りをささげ,ロゼダと自分が信仰において一つに結ばれるようお願いしました」。

クレドは衝動的にその謙虚な願い事をしたわけではありませんでした。体調を崩す前に,態度を幾らか和らげ,妻が近所の人の家で研究することを許していたのです。そしてある日,ロゼダと司会者の姉妹に,「あそこで勉強するのはよくない。うちに来なさい」と言いました。二人はそのとおりにしました。二人は知りませんでしたが,クレドは隣の部屋で聞き耳を立てており,聞いた事柄に好感を持っていました。クレドは読み書きができませんでしたが,病気から回復すると週に2回研究をし,1998年にバプテスマを受けました。クレドとロゼダは,老齢に伴いがちな健康上の問題を抱えているものの,神に忠実に仕え続けています。

内陸部に達する

レユニオンの住民のごく一部は,海岸から離れた所に住んでいます。高さ1,200㍍以上の険しい山々に囲まれた深い谷間に住んでいる人もいれば,巨大な死火山の上の方にある青々とした広大なカルデラに住んでいる人もいます。ある人たちは,海を見ることがほとんどありません。例えば,シルク・ド・マファトというカルデラには,徒歩かヘリコプターでしか行くことができません。

アフリカの奴隷を祖先に持つルイ・ネロープは,シルク・ド・マファトで育ちました。若いころには,カトリックの司祭を輿に乗せて運ぶのを手伝ったことがあります。ルイはやがてサンドニに引っ越し,そこで真理に入りました。そして当然ながら,新たに見いだした信仰について親族にも話したいと思いました。それで,1968年のある日,ルイと妻のアンは,15歳と67歳の二人の姉妹と一緒に,歩いて内陸部へ向かう旅に出かけました。リュックサックと,文書のいっぱい詰まったスーツケースとかばんを持って行きました。

まず一行は川に沿って歩き,それから狭くて曲がりくねった山道を登ってゆきました。場所によっては,道の片側は切り立った岩の壁,反対側は断崖でした。一行は途中で見つけたどの家にも宣べ伝えました。ルイはこう語ります。「その夜,エホバはその地域に一つしかない店の主人を通して,わたしたちの必要を顧みてくださいました。部屋が二つあり,ベッドや台所を備えた小屋を貸してもらえたのです。朝になると,わたしたちはまた出発し,高さ1,400㍍の山の峰を越えてカルデラに入りました。そこは広大な自然の円形劇場のようでした。

「やがてわたしたちは古い友人の家にたどり着き,親切なもてなしを受けました。次の日,その友人に荷物を幾らか預けて,目的地に向かって旅を続けました。途中,野生の小さなグアバの実を食べて空腹をしのぎ,王国の音信を聞いたことのない謙遜な人たちに宣べ伝えました。午後6時に,親戚の女性の家に到着しました。その人はわたしたちを見て喜び,おいしい鶏肉の料理を作ってくれたので,神のみ使いたちに食事をさせたアブラハムとサラを思い出しました。(創 18:1-8)もちろん,彼女が料理をしている間わたしたちは証言をし,午後11時にようやく食事を取りました。

「翌日の木曜日,カルデラの中を歩き回り,グアバを食べながら,目にした家をすべて訪問しました。ある親切な男性がコーヒーをごちそうしてくれたので,少し休むことができました。ただし,休ませたのは足だけで,舌は休めませんでした。この男性は聖書に関する話し合いがとても楽しかったらしく,なんと自分の家から1㌔以内にあるすべての家をわたしたちと一緒に訪ね,歩きながらハーモニカを吹きました。

「ついにわたしたちは一周して荷物を預けた家に戻り,そこで一泊しました。金曜日遅くに自分たちの家に帰り着くまでに,愛する67歳の姉妹を含むわたしたち4人は,約150㌔歩き,60軒の家を訪問し,文書を100冊以上配布しました。確かに身体的には疲れを感じていましたが,霊的にはさわやかでした。もちろん,わたしにとって,シルク・ド・マファトへの旅は,自分のルーツをたどる旅でもありました」。

二人の伝道者から五つの会衆へ

1974年,クリスティアン・ペグーは母親と共に南のラ・リビエールという町に引っ越しました。当時そこには会衆がありませんでした。その時20歳になっていたクリスティアンはこう話します。「わたしたちはガレージで集会を行ない,間もなく30人が出席するようになりました。わたしはある女性とその娘のセリーヌと研究を始めました。セリーヌはユリース・グロンディンと婚約していました。闘争的な共産党員だったユリースは,婚約者が研究することを快く思いませんでした。しかしセリーヌはわたしたちの話を聞くようユリースを説得し,母がユリースとその両親に会いに行きました。とてもうれしいことに,皆が母の話に耳を傾け,聞いた事柄に好感を持ちました。家族全員が研究を始め,1975年にユリースとセリーヌはバプテスマを受けて結婚しました。ユリースはやがて長老に任命されました」。

クリスティアンの話は続きます。「ラ・リビエール以外に,わたしたちの区域には,シラオ,レ・ザビロン,レ・マーク,レタンサレという内陸寄りの町村が含まれていました。レ・マークには関心のある人がたくさんいました。その村の上の方には,死火山の峰の一部でル・カプと呼ばれる場所があります。よく晴れた日の朝は,そこから300㍍余り下に,青々とした円形の窪地が広がっているのが見えます」。

ル・カプのすそに近い小さな借地に,プドローという家族が住んでいました。長子のジャン-クロードは,昔を思い出してこう語ります。「弟4人,妹5人と一緒に,父が市場で売る野菜を作るのを手伝いました。父はゼラニウムも栽培して蒸留し,香水に使うエッセンスを抽出していました。わたしたちは5㌔歩いて地元の村の学校に通っていましたが,ついでによく農作物を運びました。家に帰る時には,重さ10㌔ほどの食料品を頭に載せて運ぶこともありました。

「父は働き者だったので,尊敬していました。しかし,多くの人と同じように大酒飲みで,酔うと暴力を振るいました。わたしたち子どもは,家で目を背けたくなるような場面をよく目撃したので,うちの家族は今後どうなるのだろうと思いました」。

ジャン-クロードはこう続けます。「1974年に,一人の開拓者に会いました。わたしはラ・リビエールで教師として働いていました。教会で偽善や不公正を目にしていたので,無神論者のようになっていましたが,その兄弟が聖書を使ってわたしの質問にすべて答えたので,感銘を受けました。それで,妻のニコールと一緒に研究を始めました。さらに,家族を訪ねて聖書の真理を伝え,よく夜遅くまで弟や妹たちと話しました。両親が耳を傾けることもありました。

「程なくして,弟のジャン-マリーとジャン-ミシェル,それに妹のロズリンが,定期的にわたしたちの家に来て研究に同席するようになりました。わたしたちは皆,霊的に進歩し,伝道者になり,1976年に一緒にバプテスマを受けました。残念なことに,父はわたしが弟や妹に悪い影響を与えたと非難し,口をきいてくれなくなりました。あまりに敵意をあらわにするようになったため,人前で会うのを避けなければならないほどでした。

「母は読み書きができませんでしたが,研究するようになりました。父もやがて態度を和らげたことをお知らせできるのをうれしく思います。実は,父も2002年に聖書の研究を始めました。現在,家族のうち26人がバプテスマを受けています。その中には,わたしと9人の弟や妹たち,それぞれの配偶者,そして母がいます。母は高齢にもかかわらず,今も熱心です。ジャン-ミシェルとジャン-イブはしばらく巡回監督として奉仕しましたが,健康上の理由でやめなければなりませんでした。でも二人とも会衆の長老で,ジャン-イブは妻のロゼダと共に開拓奉仕もしています。わたしとわたしの長男も長老として仕えています」。

クリスティアン・ペグーが母親と共にやって来た1974年,ラ・リビエールや周辺の町には会衆がありませんでしたが,今では五つあります。一つは,高地のシルク・ド・シラオにある,湧き水や温泉で有名なシラオという町の会衆です。シラオ会衆はどのように始まったのでしょうか。1975年から1976年にかけて,毎週木曜日にラ・リビエールの伝道者たちが,落石で悪名高い,狭くて曲がりくねった37㌔の道をシラオまで上って行き,午後5時ごろまで宣べ伝えたのです。その努力は実を結びました。今では町に30人ほどの伝道者がいて,自分たちの王国会館を持っています。

南部での霊的進展

地元住民はレユニオンの南部を“南の荒れ地”と呼んでいますが,それにはもっともな理由があります。緑の少ない海岸に大波が激しく打ち寄せて白いしぶきを上げ,レユニオンの活火山ピトン・ド・ラ・フルネーズ(炉の峰)がそびえ立っています。サンピエールは,その地域で最大の町です。1960年代の後半に,特別開拓者のデニーズ・メローとリリアン・ピエプシクがそこに遣わされました。後に,関心を持つ人が増えてきた時,特別開拓者のミシェル・リビエールと妻のルネが二人の姉妹たちに加わりました。

その地域の初期の聖書研究生に,クレオ・ラピエールがいます。クレオは大工で,1968年に真理に入りました。こう述べています。「わたしが出席した最初の集会は,大きな木の下で行なわれました。3㍍四方の小屋だった“王国会館”は取り壊されているところで,もっと大きい建物を建てることになっていました。わたしもその建設に参加することができました」。

その同じ年,陸軍の予備兵だったクレオは,軍務に就くよう招集されました。その時のことについてこう語っています。「聖書の知識は少ししかありませんでしたが,わたしは当局に手紙を書き,自分が中立の立場を取るようになったことを説明しました。返事が来なかったので,その件について調べるため,島の反対側にあるサンドニの陸軍基地まで行きました。一人の将校から,家に帰れ,ただし刑務所に行く用意をしろ,と言われました。それで,わたしは頻繁に祈り,研究に精を出しました。程なくして,基地に呼び戻されました。基地に到着すると,一緒に車に乗って来てくれた兄弟に,1時間待つようお願いしました。『1時間たってもわたしが戻ってこなかったら,おそらくもう戻らないと思うので,その時はどうかわたしの車を売ってお金を妻に渡してください』と言いました。

「中に入ると,わたしをどうするかについて将校たちが議論しているのが見えました。45分ほどして,一人の軍曹が近づいてきました。

「『とっとと失せろ! 家に帰れ』と軍曹は言いました。

「ところが,50㍍も歩かないうちに呼び戻され,全く違う口調でこう言われました。『君たちには感心している。フランスでエホバの証人のことは聞いていたが,会ったのは君が初めてだ』。

「当時わたしはサンピエールで唯一の兄弟だったので,会衆の集会をすべて司会していました。でも時おり援助を受けていましたし,1979年には宣教者の夫婦,アントワーヌ・ブランカとジルベル・ブランカがやって来ました」。

王国会館の建設

最初のころ,会衆や群れは大抵,家を改装して使ったり個人の住宅で集まったりしていました。しかし,たびたびサイクロンに見舞われるため,もっと頑丈な建造物が必要でした。とはいえ,石造りの建物は費用がかかり,建設もずっと長期にわたります。それでも,エホバの手は短くなく,やがてそうした王国会館がレユニオンに建てられるようになりました。―イザ 59:1

一例として,サンルイという町では,会衆が新しい王国会館の見取り図を受け取った時,一人の若い兄弟が学校で石造建築の勉強をしていました。兄弟は講師に証言をし,王国会館について話し,自発奉仕者たちによって建てられることを説明しました。講師はどう反応したでしょうか。実地訓練のために生徒たちを現場に連れて来たのです。生徒たちは基礎のために地面を掘るのを手伝い,後に講師は土台に使う鋼材を寄付しました。

兄弟たちは190平方㍍の床面のためのコンクリート打ちを祝日に行なうことを計画し,100人を超える意欲的な自発奉仕者たちが朝早くやって来ました。ところが,どういうわけか町は給水を止めてしまったのです。しかし,進取の気性を持つある兄弟が,知り合いの消防署長にその難しい状況について説明すると,親切な署長は作業を行なうのに十分な量の水が入った消防車を速やかに送ってくれました。

王国会館が完成した時,関心を持ち始めた一人の男性が,兄弟たちとその働きに感銘を受け,小切手帳を取り出して,新しい音響設備がほぼ買えるほどの額を寄付しました。1988年12月,統治体のケアリー・バーバーは,モーリシャスを訪問した際,献堂式の話をするためにレユニオンに立ち寄りました。1996年には速成建設による最初の王国会館がサンジルレバンに完成しました。今では島に17軒の王国会館があり,34の会衆が使用しています。

巡回大会をどこで開くか

レユニオンでの業は滑り出しが非常に良かったため,大会を開くのに十分な広さの場所を探すのが大変でした。1964年,兄弟たちは地元での最初の巡回大会を計画しました。しかし,何か月も会場を探したものの,1か所しか見つかりませんでした。それはサンドニにある階上のレストランで,建物は古く,使用料は高く,しかも木造でした。予想出席者数は200人余りでしたが,オーナーによると,それぐらいの重みなら耐えられるということでした。

ほかに選択肢がなかったため,兄弟たちはレストランを予約し,ある好意的な男性が音響装置を寄贈しました。いよいよ当日になり,建物が兄弟たちでいっぱいになってくると,床はミシミシと音を立てましたが,持ちこたえました。日曜日には230人が出席し,21人がバプテスマを受けました。

それから少しして,シルク・ド・マファトで育った前述のルイ・ネロープ兄弟が,サンドニにある自分の地所の一画を快く提供し,仮設の大会ホールを建てられるようにしました。その建物は壁のないシンプルなデザインで,骨組みは木,屋根は鉄,そしてやしの葉を編んだものが壁代わりでした。

そこで開かれた最初の大会は,3日間の地域大会でした。出席したミリアム・アンドリアンは,その時のことを思い出してこう言います。「初日の午前中,わたしたちは野外奉仕に出かけ,帰ってきて熱々のランチを食べました。米,豆,鶏肉で作った本格的なクレオール料理で,トウガラシが入っていました。料理をした人たちは,トウガラシの辛さに慣れていない人のために,ルゲル・マルメーユ,つまり子ども向けチャツネも作りました」。

出席者の増加に伴って大会ホールは拡張され,王国会館としても使われました。そのうち,同じ土地に建っていた住宅を借りていた家族がみな引っ越し,ルイはその地所をそっくり会衆に寄付しました。今ではそこに見栄えのよいれんが造りの王国会館が建っており,サンドニの二つの会衆が使用しています。

1997年,ラ・ポセションという町で5年前に購入された一区画の土地に,大会ホールが完成しました。壁のない建物で,バプテスマ・プールはステージに埋め込まれています。1,600人を収容できるこの大会ホールは,年に少なくとも12回,大会のために使用されています。隣には,9人が住める宣教者ホームがあり,そこには文書集積所およびレユニオンの野外の必要を顧みるための事務所もあります。

地域大会をどこで開くか

自分たちの大会ホールを持つ前,兄弟たちは地域大会のために,サンポールにあるオリンピック・スタジアムを借りていました。ところが,スポーツの大会や文化的な行事が優先されたため,土壇場になって別の場所に行かなければならないことが少なくありませんでした。やがて市当局は,スタジアムの隣にある展示広場を使うよう兄弟たちに勧めました。そこは博覧会や展示会を行なうための場所で,座席や屋根はなく,出席者たちは自分でいすや日よけを持って来なければなりません。そのため,ステージから見渡すと,熱心に聞き入るたくさんの顔の代わりに,色とりどりの傘が見えました。

レユニオン事務所はこう書いています。「ある時,市当局はその広場の予約を二重に入れてしまいました。もう一方の側は,ズークを演奏するマルティニークの音楽グループでした。ズークというのは,アフリカ風のリズムとレゲエとカリプソを混ぜ合わせた音楽です。当局者たちはズークのグループをひいきし,わたしたちには“最初のフランス人の洞窟”と呼ばれるレクリエーションのための場所をあてがいました。そこはフランス人の最初の入植者たちが上陸した美しい場所で,後方には高い崖があり,陰になる木もたくさんありましたが,座席はなく,トイレは少なく,ステージもありませんでした。

「しかし,このたびはそこで良かったと思います。というのは,大会の土曜日の晩にあらしが来て,稲妻によってスタジアムの電気系統がすべてだめになり,ズークのコンサートは終わってしまったからです。5㌔ほど離れた所にあったわたしたちの会場は影響を受けませんでした。その出来事について,『神の裁き』が下ったのだと言う地元の人たちもいたほどです」。

組織上の改善

1967年6月22日,アソシアシオン・レ・テモワン・ド・ジェオバ(エホバの証人協会)という法人組織が設立されました。1969年2月には,アルジェリア生まれでフランス育ちのアンリ・ザミが,地元の兄弟として初めて巡回監督になりました。その巡回区には,レユニオンの六つの会衆と,モーリシャスの四つの会衆,また幾つかの孤立した群れが含まれていました。今ではレユニオンだけで二つの巡回区があります。

1975年,フランスで「ものみの塔」誌に対する22年に及ぶ禁令が解かれ,兄弟たちはすぐにその雑誌をレユニオンの野外で用い始めました。それまでは,「ブルタン・アンテリエール」という出版物が使われていました。それはフランスで印刷され,中身は「ものみの塔」誌と同じ情報でしたが,一般の人には配布されませんでした。1980年1月にフランス支部は,レユニオンや周辺の島々の必要に合わせて調整したフランス語版の「わたしたちの王国宣教」を印刷するようになりました。さらに,レユニオン・クレオール語を話す人々のために,パンフレット,ブロシュアー,また「永遠の命に導く知識」や「唯一まことの神を崇拝する」の本などの出版物が,その言語に翻訳されました。こうした優れた霊的な備えは,この世界の片隅における良いたよりの進展に役立ってきました。

確かに,広大なインド洋の中で,レユニオンは小さな点にすぎません。しかし,そこから神に向かって,なんと力強い賛美の叫びが上がってきたのでしょう。このことは,「島々で[エホバ]の賛美を告げ知らせよ」という,預言者イザヤの言葉を思い起こさせます。(イザ 42:10,12)その賛美を告げ知らせるレユニオンのエホバの証人が,島の火山から生まれた海岸にとめどなく打ち寄せる青い大波のように,変わらず忠実であり続けますように。

[228,229ページの囲み記事/地図]

概要 ― レユニオン

土地

長さが約65㌔,幅が約50㌔あるレユニオンは,マスカリン諸島(モーリシャス,レユニオン,ロドリゲス)の中で最大の島です。島の中央付近には,人が住む緑豊かなカルデラが三つあります。それらはシルクとも呼ばれ,大昔に巨大な火山が崩れてできた,急斜面に囲まれた窪地です。

住民

アフリカ系,中国系,フランス系,インド系,東南アジア系の人々が混じり合って,78万5,200人の住民の大半を成しています。人口の約90%はカトリック教徒です。

言語

公用語はフランス語ですが,レユニオン・クレオール語が広く話されています。

生活

経済の基盤となっているのは,主にサトウキビとその加工品(糖蜜,ラム酒など),および観光業です。

食物

主要な食物は米,肉,魚,豆類です。作物はサトウキビ以外に,ココナツ,ライチ,パパイア,パイナップル,キャベツ,レタス,バニラビーンズなどがあります。

気候

南回帰線の少し北に位置するレユニオンは,熱帯性で湿度が高く,地域によって降雨量や気温が異なります。サイクロンによく見舞われます。

[地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

マダガスカル

ロドリゲス

モーリシャス

レユニオン

レユニオン

サンドニ

ラ・モンターニュ

ラ・ポセション

ル・ポール

サンポール

サンジルレバン

シルク・ド・マファト

シルク・ド・サラジー

シラオ

シルク・ド・シラオ

サンルー

ル・カプ

レ・マーク

レ・ザビロン

レタンサレ

ラ・リビエール

サンルイ

サンピエール

サンフィリプ

ピトン・ド・ラ・フルネーズ

サンブノワ

サンタンドレ

[図版]

宇宙から撮った写真

溶岩流

サンドニ

[232,233ページの囲み記事]

レユニオン略史

昔のアラブ人の船乗りたちは,この島をディナ・モルガビン(西の島)と呼びました。1500年代の初めに,まだ人が住んでいなかったこの島を見つけたポルトガル人の航海士たちは,サンタ・アポローニャと名づけます。フランス人のジャック・プロニは,1642年に12名の謀反人たちをマダガスカルからサンタ・アポローニャへ強制移送した時,その島に対するフランスの領有権を主張しました。1649年,島の名は,フランスの王家にちなんでブルボン島に変えられます。フランス革命のさなかの1793年にブルボン家が没落すると,パリ国民軍とマルセイユの革命家たちとの団結(ユニオン)を記念して,島はレユニオンと名づけられました。その後も改称が続き,1848年に再びレユニオンという名称が採用されます。1946年,この島はフランスの海外県となりました。

1660年代の初め,フランスはこの島に植民地を建設し,コーヒーと砂糖のプランテーションを設けました。そこで働いたのは,東アフリカから船で運ばれてきた奴隷たちです。1848年に奴隷制度が廃止されると,フランスは主にインドと東南アジアから契約労働者たちを連れて来ました。現在この島にいる,様々な人種から成る住民の大半は,それらの人々の血を引いています。1800年代の初めにはコーヒーの栽培が下火になり,サトウキビが主要な輸出用作物になりました。

[236,237ページの囲み記事/図版]

ボディービルダーから特別開拓者へ

ルシアン・ベショー

生まれた年 1937年

バプテスマ 1961年

プロフィール かつては有名なボディービルダーだった。1963年から1968年まで特別開拓者として奉仕し,1975年からは長老として仕えている。

忘れもしない1961年のあの日,わたしは友人のジャンをエホバの証人から“救う”ためにジャンの家へ行きました。ジャンの妻はエホバの証人を偽預言者と呼んでいて,彼らが議論をふっかけて夫を攻撃するかもしれないと恐れていたので,わたしに来てくれるよう頼んだのです。

わたしは,『やつらがジャンに手を出したら,たたきのめしてやる』と考えていました。しかし証人たちは感じが良く,理性的で,攻撃的なそぶりなど少しも見られませんでした。そのうちわたしは,十字架に関する話し合いに夢中になりました。証人たちは,イエスがただの棒もしくは杭に掛けられて亡くなったことを,聖書からはっきり示しました。

その後わたしは,み使いの頭ミカエルが神の民のために「立つ」と述べた預言者ダニエルの言葉の意味を尋ねました。(ダニ 12:1)証人たちは,ミカエルとはすなわちイエス・キリストであり,1914年以来『立っている』,つまり神の王国の王として支配しているということを,聖書から説明してくれました。(マタ 24:3-7。啓 12:7-10)わたしはそうした答えや,聖書に関する証人たちの知識に驚きました。それからというものは,証人たちが近所に来ると,いつもその機会をとらえて神の言葉について話し合いました。家から家へついて回って話し合いに加わることさえしました。やがてわたしは,サンタンドレで集まっていた,孤立した群れと交わるようになりました。

初めての集会で,わたしはよく読めなかったにもかかわらず,当時「ものみの塔」誌の代わりに使われていた「ブルタン・アンテリエール」の数節を読みました。その後,バプテスマを受けるとすぐ,ほかに兄弟がいなかったので,書籍研究の司会を頼まれました。『でも書籍研究はどうやって司会するんだろう』と思いました。わたしの不安やためらいを察知したジャニン・ペグーが親切にも,自分が節を朗読し,わたしが印刷されている研究用の質問をすることを提案してくれました。それでそのようにし,研究はうまくいきました。

1963年にレユニオンを訪問したミルトン・ヘンシェルは,資格にかなう人たちに,特別開拓奉仕ができないか考慮するよう励ましました。わたしはエホバに自分のすべてをささげたかったので,申込書に記入し,任命を受けました。割り当てられた都市はサンタンドレで,やがてそこで9件の聖書研究を司会するようになりました。

できたばかりの会衆は,ジャン・ナッソーの家で集まっていました。ジャンが自動車事故で腰の骨を折った時には,わたしが6か月のあいだ会衆の世話をしました。それには,話を行ない,神権宣教学校と奉仕会を司会し,支部事務所への報告を作成することが関係していました。そうしたことはすべて,わたしにとって貴重な経験となりました。

区域では,カトリック教とヒンズー教が奇妙に混じり合って生じた迷信と闘わなければなりませんでした。それでも,人々は良いたよりにこたえ応じました。実際,ある家族の場合,少なくとも20人が真理に入りました。現在では,サンタンドレとその周辺に五つの会衆があります。

[238ページの囲み記事/図版]

あざけりによって信仰が試されました

ミリアム・トマ

生まれた年 1937年

バプテスマ 1965年

プロフィール 1966年以来,開拓奉仕を続けている。

いとこのルイ・ネロープとわたしが宣べ伝え始めた1962年当時は,ほとんどすべての家の人が招き入れてくれました。コーヒーやレモネード,果てはラム酒まで出てきたこともあります。ところが,間もなく僧職者たちの影響により,多くの人が態度を変えました。神の名をわざとゆがめて使って,わたしたちをばかにする家の人もいました。ある町では石を投げつけられました。

その結果,宣教奉仕で神のみ名を使わなくなった人もいました。巡回監督はそのことに気づき,理由を尋ねました。わたしたちは説明するうちに,少し恥ずかしい気持ちになりました。でも巡回監督は優しく助言を与え,もっと勇気を持つように励ましてくださいました。わたしたちはその助言に深く感謝し,話されたことをエホバからの懲らしめとみなしました。(ヘブ 12:6)実際,もし神の辛抱強さや憐れみや聖霊がなかったなら,わたしはとっくの昔に開拓奉仕をやめていたことでしょう。しかしそうする代わりに,40年以上の貴重な年月を開拓奉仕にささげてくることができました。

[246,247ページの囲み記事/図版]

試練の間エホバが支えてくださいました

シュリー・エスパロン

生まれた年 1947年

バプテスマ 1964年

プロフィール レユニオンで初期にバプテスマを受けた人の一人。軍に入隊しなかったため,刑務所に3年間入れられた。

わたしは15歳で真理を受け入れた時,両親に家から追い出されました。しかし,エホバに仕える決意は弱まりませんでした。1964年に正規開拓奉仕を始め,1965年から特別開拓奉仕を行ないました。また,サンタンドレとサンブノワにあった会衆を共同で監督する特権もありました。ジャン-クロード・フュルシーとわたしは,その二つの会衆の間を自転車で定期的に行き来しました。伝道者はそれぞれ12人と6人でした。

1967年,兵役のために招集されました。わたしは,クリスチャンなので武器を持つことはできない,と説明しました。しかし,レユニオンでは初めての事例だったこともあり,当局はわたしの立場を理解もしなければ受け入れもしませんでした。それどころか,一人の将校が約400人の入隊者の前でわたしを打ちたたき,足を引きずるわたしを事務所に連れて行きました。将校は自分の机の上に軍服を置き,わたしにそれを着るようにと言いました。もし着なければまた殴ると言うのです。身長が180㌢近くあってがっしりした体格の将校は,わたしを威圧的に見下ろしました。それでもわたしは勇気を奮い起こして,「フランスでは信教の自由が保障されていますから,もしまた殴るようなら正式に苦情を申し立てます」と言いました。将校は怒りに震えてにじり寄りましたが,自分を制し,指揮官のところへわたしを連れて行きました。指揮官からは,フランスでの3年の重労働を科すと告げられました。

わたしはその3年の刑に服しましたが,場所はレユニオンでした。しかも,重労働ではありませんでした。裁判官は刑を宣告した後,わたしを事務所に招き入れました。そしてほほえみながらわたしの手を握って同情を示し,自分は裁判官として法を適用しなければならなかったと説明しました。刑務所長補佐も友好的で,裁判が行なわれる部屋でわたしが働けるように取り計らってくれました。面会所までついてきて,わたしの両親や会衆の仲間に会うことさえしました。

最初わたしは20人から30人の人たちと一緒の監房に入れられていましたが,その後,2人用の監房に移されたので,少し自由が利くようになりました。電気スタンドを頼んだところ,驚いたことに支給されました。普通,電気製品は禁止されています。受刑者が感電死を図るかもしれないからです。そのスタンドのおかげで聖書の研究を行なうことができ,会計の通信教育を修了することもできました。1970年に釈放された時は,ある裁判官が親切にも仕事を見つけてくれました。

[249ページの囲み記事]

サイクロンの脅威

1962年2月,サイクロン・ジェニーがレユニオンとモーリシャスを襲いました。周りのインド洋は荒れ狂う怪物と化し,沿岸地域に洪水をもたらしました。特にレユニオンの被害は甚大でした。サンドニでは建物が壊れ,木々は葉をむしられ,道路には折れた枝が散乱しました。電柱は危険な角度に傾き,電線が地面に垂れ下がりました。小さな王国会館が無傷だったのは驚きです。サイクロンによって37人が命を失い,250人が負傷し,何千人もが家を失いました。兄弟たちはその時,それほど被害が大きくなかったモーリシャスで大会に出席していました。数日のあいだ家には帰れませんでしたが,何はともあれ無事に生き残ったのです。

2002年には,サイクロン・ディナによって地滑りが発生し,シラオへの道が3週間通行止めになりました。レユニオン事務所は,そこにいる30人の兄弟たちのために,物資を積み込んだ四輪駆動車を送り込むよう急いで手配しました。その車は,警察が先導する他の15台の車列に加わりました。舗装道路が何か所か川に流されていたので,車列は川に下りて川床を走り,また道路に戻らなければなりませんでした。車が到着した時,シラオの兄弟たちは大喜びしました。

[252,253ページの図表/グラフ]

年表 ― レユニオン

1955年 9月にロバート・ニズベットが訪れる。

1960

1961年 フランスからエホバの証人の家族が到着し,関心のある人たちをたくさん見つける。

1963年 世界本部から来たM・G・ヘンシェルが,155人の聴衆を前に話を行なう。

1964年 業の監督がフランスからモーリシャスに移される。地元での最初の巡回大会に230人が出席する。

1967年 アソシアシオン・レ・テモワン・ド・ジェオバという法人組織が登録される。

1970

1975年 フランスで「ものみの塔」誌に対する禁令が解かれる。

1980

1985年 伝道者数が1,000人を超える。

1990

1992年 伝道者数が2,000人を超える。支部は,レユニオン事務所,大会ホール,宣教者ホームのための土地をラ・ポセションに購入する。

1996年 速成建設による最初の王国会館が完成する。

1998年 新しいラ・ポセション大会ホールでの最初の大会が開かれる。

2000

2006年 レユニオンで2,590人ほどの伝道者が活発に奉仕する。

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

3,000

2,000

1,000

1960 1970 1980 1990 2000

[223ページ,全面図版]

[224ページの図版]

レユニオンで1か月間伝道したアダム・リシアク,1959年

[224ページの図版]

レユニオンに向かうノエミ・デュレイ,ジャニン・ペグーと息子のクリスティアン,1961年

[227ページの図版]

ル・ポールの王国会館,1965年

[230ページの図版]

伝道旅行のために借りた,横が開いているバス,1965年

[230ページの図版]

ジョゼット・ボヌカズ

[235ページの図版]

ジャニン・コリノ

[235ページの図版]

サンポールでの証言活動,1965年

[243ページの図版]

クレオ・ラピエール

[244,245ページの図版]

ルイ・ネロープと妻のアンは,途中でグアバを食べながら,孤立した村で宣べ伝えた

シルク・ド・マファト

[248ページの図版]

サンルイに完成した王国会館,1988年

[251ページの図版]

大会

地元での最初の巡回大会が開かれた階上のレストラン,1964年

地域大会の会場となった“最初のフランス人の洞窟”

サンドニの仮設のホール,1965年