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南アフリカ

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南アフリカの都会の雑踏を歩くと,さまざまな肌の色の人を目にします。とても黒い肌の人から白い肌の人まで,実に変化に富んでいます。車の騒音に混じって,いろいろな言語の会話が断片的に聞こえてきます。高くそびえるオフィスビルが強烈な日ざしを遮り,その下の歩道には,果物や骨董品や衣類を扱う露店が並んでいます。望むなら,道端で散髪してもらうこともできるでしょう。

こうした変化に富む人口4,400万余りのこの国で,典型的な南アフリカ人とはどんな人かを説明するのは困難です。先住民である黒人は総人口の75%ほどを占め,ズールー族,コーサ族,ソト族,ペディ族,ツワナ族,また他の幾つかの少数グループで成っています。白人はおもに,英語やアフリカーンス語を話す人で構成されています。この中には,17世紀半ばのオランダ人入植者の子孫や,その後フランスから逃れてきたユグノーの子孫が含まれます。英国からの入植者は19世紀初めに定住するようになりました。

この国にはインド人も大勢住んでいます。ナタール州(現在はクワズールー・ナタール州)でサトウキビ農園の労働者だった人々の子孫です。人種と文化のるつぼである南アフリカは,適切にもレインボー・ネーション(虹色の国)と呼ばれています。

過去には人種に関係した難しい問題があり,アパルトヘイト(人種隔離)政策が国際的な非難を浴びました。近年では,アパルトヘイトの廃止と民主選挙による政権の樹立が好意的に報じられました。

今では人種を問わず自由に交流でき,映画館やレストランなどの公共の場所に行く点で制約はありません。経済的なゆとりがあれば,どんな人種の人も自分の望む場所に住めます。

とはいえ,当初の興奮が収まって,次のような当然の疑問が持ち上がりました。新しい政府は,アパルトヘイトのもたらした不公正をどこまで正してくれるのでしょうか。それにはどれほど時間がかかりますか。アパルトヘイトの廃止から10年以上を経た今も,深刻な問題は解決されていません。政府が直面している大きな問題として,犯罪の増加,41%もの失業率,500万人とも言われるHIV感染者などがあります。人間の政府がこうした弊害を正せないということを悟り,他の方面に解決策を求めるようになった人々は少なくありません。

美しい景観

こうした種々の問題もあるとはいえ,この国には観光客を魅了するすばらしい自然があります。太陽がさんさんと降り注ぐ美しいビーチや堂々たる山々,豊富なハイキング・コースなどに多くの旅行者が訪れます。大きな都市には,世界でも一流の店やレストランがあります。温暖な気候も南アフリカの魅力の一つです。

変化に富む野生生物は主要な観光資源です。哺乳類は200種,鳥類は800種,花を咲かせる植物は2万種もあります。大勢の人々が動物保護区を訪れます。有名なクルーガー国立公園はその一つです。そこでは野生の状態で生息するアフリカの“五大動物”,すなわちゾウ,サイ,ライオン,ヒョウ,バッファローを見ることができます。

南アフリカには自然林が幾つかあります。その一つを訪ねるのも忘れがたい経験となります。緑で覆われた森の静けさの中,珍しいシダや地衣類や花,さらには人目を引く鳥や昆虫を観察できます。堂々たるイエローウッドを見上げると,一粒の小さな種からよくもこんな巨木ができたものだと感じるでしょう。高さ50㍍,樹齢1,000年に達するものもあるのです。

しかし,過去100年余りにわたって,この国では別の種類の種が植えられ,育てられてきました。神の王国の良いたよりという種が,人々の心にまかれてきたのです。詩編作者は,音信にこたえ応じる人々を大木になぞらえ,「義なる者が,やしの木のように咲きいで,レバノンの杉のように大きく育つのです」と書きました。(詩 92:12)義なる人々はいずれ,樹齢の極めて古いイエローウッドよりも長く生きることでしょう。エホバが永遠の命を約束しておられるからです。―ヨハ 3:16

わずかな種からの成長

19世紀中,この国は戦争や政治紛争で揺れました。19世紀後半にダイヤモンドと金が発見されたことは,広範な影響を与えました。「南アフリカの心」(英語)という本の中で,著者のアリスター・スパークスはこう述べています。「農業国が一夜にして工業国になり,農村の人々が都会に押し寄せ,生活は一変した」。

1902年,聖書の真理の種が初めて南アフリカに達しました。それはオランダからやって来た僧職者の荷物の中に混じっていました。一つの箱に,聖書研究者(当時エホバの証人はそう呼ばれていた)の出版物が何冊か入っていたのです。それらの出版物がクレルクスドルプに住むフラーンス・エイバルソーンとストフェル・フュリーの手に渡りました。二人は読んだ事柄が真理であることに気づき,他の人に証言し始めました。フュリー家では5世代にわたる80人以上が,そしてエイバルソーン家でも幾人もの子孫が,エホバの献身した僕になりました。フュリー家の子孫の一人は現在,南アフリカのベテルで奉仕しています。

1910年に,スコットランドのグラスゴー出身のウィリアム・W・ジョンストンが南アフリカにやって来ました。兄弟は,聖書研究者の支部事務所を開設する使命を帯びていました。当時30代の初めだったと思われるジョンストン兄弟は,分別のある信頼できる人でした。兄弟が開設した支部事務所は,ダーバンにある建物の小さな一室にすぎませんでした。この事務所に広大な区域が任されました。実質的に赤道以南のアフリカ全土を管轄したのです。

その初期の時代に,良いたよりはおもに白人の間で広まってゆきました。当時,聖書研究者の文書はオランダ語か英語でしか入手できませんでした。幾つかの出版物が他の現地語に訳されるようになったのは,それからずっと後のことです。やがて活動は四つのグループ,すなわち白人,黒人,カラード *,インド人の間で進展してゆきました。

1911年以降に国内の黒人の間で業が進展したことを示す記録が残っています。ヨハネス・チャンゲは,ダーバンの近くにある郷里ヌドウェドウェに戻りました。聖書の真理を知っていたヨハネスは,それを他の人に伝えました。そして,英語の「聖書研究」という書籍を使って,少人数のグループで聖書を研究する集まりを定期的に開きました。このグループはやがて,南アフリカで最初の黒人の会衆になったようです。

このグループは地元の僧職者に目をつけられました。ウェスレアン・メソジスト教会の成員たちから,教会の教えに従っているのかと尋ねられ,自分たちは聖書に記されている事柄を教えている,と答えました。幾度も話し合いが持たれた後,このグループの人々は教会から破門されました。ジョンストン兄弟はそのグループの人々と連絡を取って定期的に訪問し,集会を司会し,援助を与えました。聖書研究者は少人数ではありましたが,宣べ伝える業を多く行ないました。1912年の報告によれば,パンフレットを合計6万1,808部配布していたのです。さらに,1913年の終わりまでには,主立った聖書研究者C・T・ラッセルの説教が南アフリカの11の新聞に,四つの言語で掲載されていました。

戦時中の神権的進展

1914年は,世界じゅうの神の民にとって重大な年でした。南アフリカの少人数のエホバの僕たちにとってもそうでした。その年に天的な報いを得られると多くの人は思っていたのです。ジョンストン兄弟は,ニューヨーク市ブルックリンの世界本部にあてた年次報告の中で,次のように述べています。「前年の年次報告の中で,翌年は垂れ幕の向こう側にある本部に報告を送りたい,とお伝えしました。その希望はまだ実現していません」。とはいえ,兄弟はさらにこう綴っています。「この一年は,アフリカにおける収穫の業の歴史において,かつてなく忙しい年でした」。ほとんどの人は,なすべき業がまだあることを認識するようになり,喜んで業の一端を担いました。活動にいっそう弾みがついたことは1915年の報告からも明らかです。「聖書研究」の配布数は前年の約2倍に当たる3,141冊に達しました。

このころ真理を見つけたのが,有能な弁護士のヤピー・テロンです。ヤピーはダーバンの新聞に掲載された記事を読みました。その記事は,聖書研究者が数十年前に発行した文書に触れるものでした。そして,1914年以来の出来事は,聖書預言を解説した「聖書研究」という双書に予告されていた,と伝えていました。ヤピーはこう書いています。「この本をどうしても手に入れたくて,書店という書店を探し回りましたが,見つかりませんでした。ダーバンの支部に手紙を書いて,ついに書籍一式を手にしました。その本を読んで目が開かれました。聖書中の『隠された事柄』を理解するのは何という喜びでしょう」。やがてヤピーはバプテスマを受けて,1921年に病気で若くして亡くなるまで,聖書の真理を人々に熱心に伝えました。

1914年4月,国際聖書研究者の南アフリカにおける初めての大会がヨハネスブルクで開催されました。34人が出席し,そのうち16人がバプテスマを受けました。

1916年には「創造の写真劇」が南アフリカでも上映されるようになり,各地で評判を呼びました。ケープ・アーガス紙(英語)はこう伝えています。「聖書を題材にしたこのすばらしい映画の成功は,それをわが国に紹介した国際聖書研究者協会の活動の価値と先見性を示すものと言えよう」。「写真劇」が野外に与えた影響のほどは,すぐに明らかになったわけではありません。しかし,多数の観客を集め,りっぱな証言が短期間で大々的に行なわれたことは確かです。ジョンストン兄弟は,「写真劇」を上映するために国内各地を約8,000㌔回りました。

その年にラッセル兄弟が亡くなると,他の場所と同じく,南アフリカにおいても宣べ伝える業は一時的に後退しました。ラッセル兄弟の死後にさまざまな変更が加えられる必要がありました。その変更に腹を立てた人たちは,交わっていた会衆の中で争論を引き起こしました。例えば,ダーバンでは会衆の成員の大半が離れ,「聖書研究者の会」と称して独自の集会を開くようになりました。会衆にとどまった成員は12人だけで,そのほとんどが姉妹たちでした。バプテスマを受けて間もない十代の若者ヘンリー・ミュルダルは,難しい立場に置かれました。父親が反対派に回り,母親は成員の減少した会衆にとどまったのです。ヘンリーは祈りのうちに注意深く考えた末,会衆にとどまることにしました。よくあることですが,離れていったグループはやがて消滅しました。

1917年,支部事務所はダーバンからケープタウンに移されました。伝道者は着実に増えてゆきました。当時ヨーロッパ人の聖書研究者は200人から300人だったと推定されています。黒人で成る会衆も幾つかあり,繁栄していました。

南アフリカ支部は1917年にこう報告しました。「原住民の言語で書かれた出版物がなかったにもかかわらず,そうした兄弟たちの現在の真理に対する理解には驚くべきものがあります。わたしたちはただ,『それは主のなされることであり,わたしたちの目には驚嘆すべき事柄です』と言い得るのみです」。ニアサランド(現在のマラウイ)の兄弟たちが仕事で南アフリカに来て,弟子となるよう多くの黒人を助けました。ジェームズ・ネーピア,マコフィ・ングルーがそうです。

真理の勇敢な闘士たち

この初期の時代に,少数の福音宣明者が真理を勇敢に擁護していました。北トランスバール州(現在はリンポポ州)のニルストルームで,二人の男子生徒が,「聖書は地獄について何と述べているか」という小冊子を読みました。二人は死者の状態に関する真理を知り,興奮しました。その一人ポール・スミット *はこう述べています。「わたしたち二人の男子生徒が教会の教理は偽りであるとはっきり知らせたので,ニルストルームは旋風に襲われたかのように大騒ぎになり,ほどなくして町じゅうが新しい宗教の話で持ち切りになりました。言うまでもなく,僧職者は例の役割,つまり神の民を誤り伝えて迫害するという役割を演じました。毎週行なう説教は,何か月も,いや何年も,この『偽りの宗教』を中心にしたものでした」。とはいえ1924年には,ニルストルームに13人の活発な伝道者から成る小さなグループがありました。

1917年,ピート・デ・ヤヘルはステレンボスの大学で神学を学んでいました。そのころ,同じ大学の別の学生が聖書研究者の発行した文書を読み,話題にしていました。このことに不安を抱いた教会関係者たちはピートに対し,キリスト教学生連盟が主催する毎週の聖書研究会にその学生を誘ってほしいと頼みました。ところが,それら関係者にとって予想外の結果になりました。ピート自身が真理を受け入れたのです。ピートは教授たちと魂や地獄や他の論題について討論したものの,話し合いは平行線をたどりました。ピートは大学を退学しました。

後に,ピートとオランダ改革派の神学博士ドワイト・スナイマンとの公開討論会が取り決められ,学生1,500人が出席しました。アティ・スミット兄弟はその時の模様をこう伝えています。「ピートは,学識あるこの博士をどの点でも論破し,教会の教理には非聖書的なものがあることを聖書から証明しました。学生の一人は自分の考えをこう要約しました。『わたしは,ピート・デ・ヤヘルが間違っているという前提で話を聞いていなければ,ピートの言うとおりだと断言したことでしょう。何もかも聖句を挙げて証明したからです』」。

他の人種グループの間で種をまく

ジョンストン兄弟は,ステレンボスの近くにあるフランスフークという小さな町を訪れた際,現地のカラードの住民幾人かと接触しました。その何年も前に,アダム・ファン・ディーメンという地元の教員がオランダ改革派教会を脱退し,少人数の宗教グループを作りました。ジョンストン兄弟の訪問を受けたファン・ディーメン氏は,自分と友人たちのための文書を受け取りました。

ファン・ディーメンとその友人の幾人かは真理を受け入れ,得た知識を人々に積極的に伝えました。こうしてカラードの人々の間で王国の良いたよりを伝えるための良い土台が据えられました。当時17歳だったG・A・ダニエルズはこの時期に真理を学び,以後生涯にわたってエホバへの奉仕に打ち込みました。

後にカラードの兄弟デービッド・テイラーも,この区域で聖書の真理を熱心に広めました。兄弟は17歳で聖書研究者と研究を始めました。1950年には巡回監督に任命され,国内のカラードの会衆と孤立した群れすべてを訪問するよう割り当てられました。それらの会衆や群れの数は24に増えていました。兄弟が列車やバスで長距離を移動しなければならなかったのも,うなずけます。

困難な時期における神権的な進展

1918年,ジョンストン兄弟はオーストラリアにおける王国伝道の業を監督するよう割り当てられました。そしてヘンリー・アンケッティルが南アフリカ支部の監督として奉仕する要請を受けます。アンケッティル兄弟は以前,ナタール州議会の議員でした。退職していた兄弟は,もう若くはありませんでしたが,割り当てられた務めを6年間果たしました。

戦時の混乱や組織上の調整の時期でしたが,多くの人が聖書の真理に意欲的にこたえ応じ,増加は続いてゆきました。1921年,保線区作業班の監督クリスチアン・フェンターは,レールの下に1枚の紙が挟まっているのに気づきました。それは聖書研究者のパンフレットでした。クリスチアンはそれを読むや,娘婿のアブラハム・セリエの所に走って行き,「アブラハム,今日わたしは真理を見つけた!」と言いました。二人は聖書文書をさらに入手し,勤勉に研究しました。二人とも献身したエホバの証人になり,多くの人が真理を学ぶのを助けました。今では二人の子孫のうち100人以上がエホバの証人になっています。

一層の拡大

1924年にはケープタウンに印刷機が届きました。さらに,業を助けるため英国から二人の兄弟がやって来ました。トマス・ワルダーとジョージ・フィリップス *です。ワルダー兄弟は支部の監督となりました。その数年後に後任となったのがフィリップス兄弟です。フィリップス兄弟はこの立場で40年近く奉仕し,南アフリカにおける王国の業を確立し,推し進める点で大きく貢献しました。

1931年に,エホバの証人という名称を用いるとの決議が採択され,福音宣明の業にさらに弾みがつきました。決議文の全文は,このとき発表された「神の国 ― 全地の希望」という小冊子に掲載されました。この小冊子は国内各地で配布され,区域内のすべての僧職者,政治家,著名な実業家に渡すための努力が払われました。

新しい支部事務所

1933年,支部事務所はケープタウンのもっと広い場所に移転しました。それは賃借りしたもので,1952年まで用いられました。そのころまでにベテル家族は21人になっていました。当時のベテル奉仕者は兄弟たちの家に住み,事務所や印刷所に毎日通っていました。毎朝,仕事を始める前に,印刷所の更衣室に集合し,その日の聖句を討議しました。その後,全員で主の祈りを暗唱しました。

家が遠くて昼食時に帰宅できない人には,食事代として1シリング6ペンス(15南アフリカ・セント)が支給されました。その額で,皿に盛られたマッシュポテトと小さなソーセージ1本を駅の軽食堂で買うことができました。あるいは,パン1個と果物を買うこともできました。

1935年,印刷工のアンドルー・ジャックが,ケープタウン支部での印刷を助けるために派遣されました。スコットランド生まれのジャック兄弟は,すらりとした体つきの,ほほえみを絶やさない人でした。兄弟は以前,バルト諸国のリトアニア,ラトビア,エストニアで全時間奉仕をしていました。南アフリカに来ると印刷機器をさらに調達し,たった一人で印刷所を切り盛りしました。この印刷所は程なくしてフル稼働するようになります。最初の自動印刷機フロンテクスが設置されたのは1937年のことです。その印刷機は40年余りにわたり,アフリカーンス語のビラや用紙類や雑誌を大量に生産しました。

ジャック兄弟は,その後もずっと南アフリカ・ベテルで奉仕しました。高齢に達してからもベテル家族のりっぱな手本であり,定期的に,そして精いっぱい野外宣教に携わりました。油そそがれた人でもある忠実なジャック兄弟は,1984年に89歳で地上の歩みを終えました。58年にわたって献身的に奉仕に打ち込んだのです。

戦時中の大きな増加

南アフリカはヨーロッパほど強く第二次世界大戦の影響を受けませんでした。とはいえ,アフリカやイタリアで戦闘に加わった人は少なくありませんでした。国民の支持を取りつけ,新兵を募るために,戦況が大きく報じられました。当時,人々は強い愛国心を抱いていましたが,1940奉仕年度に伝道者は新最高数の881人に達しました。前年度の最高数である555人から58.7%の増加です。

1939年1月,「慰め」誌(現在の「目ざめよ!」誌)がアフリカーンス語で初めて刊行されました。これは南アフリカでエホバの証人が印刷した初めての雑誌です。植字は手作業で行なわれ,時間がかかりました。それから間もなく,「ものみの塔」誌もアフリカーンス語で刊行されることになりました。当時兄弟たちは理解していませんでしたが,ヨーロッパにおける後の事態の展開を考えると,それは時宜にかなった決定でした。ライノタイプと折り機が設置されました。最初に印刷されたのは1940年6月1日号です。

それ以前,兄弟たちはアフリカーンス語の読者のためにオランダ語の「ものみの塔」誌をオランダから受け取っていました。この二つの言語は似ているからです。しかし1940年5月,オランダ支部はヒトラーのオランダ侵攻に伴って突然閉鎖されました。その時にはすでに,南アフリカでアフリカーンス語の「ものみの塔」誌の印刷が始まっていたので,兄弟たちは雑誌を一号も欠かさずに受け取ることができました。雑誌の毎月の配布数は1万7,000冊に増えました。

検閲にもかかわらず業が進展

キリスト教世界の宗教指導者からの圧力と,わたしたちの中立の立場に対する政府の警戒心とが相まって,1940年,予約者あての「ものみの塔」誌と「慰め」誌が検閲当局に押収されました。さらに,両誌を発行禁止にすることが公示されました。国外からの雑誌や文書の積み荷は陸揚げの際に差し押さえられました。

それでも,兄弟たちは引き続き霊的食物をその時々に入手できました。英語の「ものみの塔」誌が1冊,何らかの方法で必ず支部に届き,それを基に組版と印刷が行なわれました。ジョージ・フィリップスはこう書いています。「禁令期間中,……ご自分の民に対するエホバの愛ある世話と保護の際立った証拠を目にしました。『ものみの塔』誌を一号も欠かさずに受け取りました。ある号が1部しか手に入らないこともよくありました。南北ローデシア[現在のザンビアとジンバブエ]やポルトガル領東アフリカ[現在のモザンビーク]の予約者,南アフリカの僻地にある農場の予約者,ケープタウンで下船した人などを通して入手できたのです」。

1941年8月,支部事務所の出す郵便物すべてが何の説明もなく検閲当局に差し押さえられました。その年に内務大臣は,国内にあるわたしたちの組織の出版物すべてを差し押さえるようにとの命令を出しました。ある日の午前10時,犯罪捜査局の捜査官たちが文書をすべて運び去るために,何台ものトラックで支部にやって来ました。フィリップス兄弟は命令書を確かめ,規則に厳密に沿った手続きが取られていないことを知りました。押収する書籍の題を命令書に明示することが「政府官報」で求められていたのに,そうしていなかったのです。

フィリップス兄弟は捜査官たちを待たせて弁護士と連絡を取り,至急,内務大臣の命令に対する差し止め請求を最高裁判所に行ないました。その請求が認められて,正午までに差し止め命令が出され,捜査官たちはむなし手で引き返しました。5日後,大臣は文書の差し押さえ命令を取り消して訴訟費用を負担しました。

文書の発禁処分に対する法的な闘いは,幾年かにわたって続きました。兄弟たちは文書を自宅に隠しました。野外で活用できる文書は減ったものの賢明に活用し,聖書研究の希望者に貸し出したのです。この時期に真理を受け入れた人は少なくありませんでした。

1943年の終わりごろ,新しい内務大臣が任命されました。発禁処分の取り消しを求める嘆願書を提出したところ,それが認められました。1944年の初めに発禁処分は解除され,当局に差し押さえられていた大量の文書が支部に戻されました。

真の崇拝に反対して王国伝道の業を阻もうとした人々は,成果を上げたでしょうか。1945奉仕年度の数字は,エホバが忠実な民のひたむきな奉仕を祝福されたことを示しています。かつてないほど業が前進したのです。平均2,991人の伝道者が,37万264冊の文書を配布し,4,777件の聖書研究を司会しました。1940年の881人という伝道者最高数と比べると,前進のほどがよく分かります。

神権的な訓練による益

1943年に,神権宣教課程(現在は神権宣教学校と呼ばれる)が始まり,その訓練によって大勢の兄弟が公開講演を行なう資格を身に着けました。また,さらに多くの人が野外宣教を効果的に行なうように助けられました。1945年には,訓練を受けた講演者が十分にそろい,公開集会の運動が始まりました。兄弟たちはビラやプラカードで講演を宣伝しました。

当時ピート・ウェンツェル *は若い開拓者でした。そのころのことを思い出してこう語っています。「わたしはフェリーニヒングに行くことになりました。開拓奉仕のパートナーとなったのはフランズ・マラーです。1945年7月から始まる公開集会の運動に先立って,わたしは四つの話のうち二つを準備しました。昼食の時間に川岸に行き,川や木に向かって1時間の話をしたものです。こうして丸1か月,講演の練習をし,ようやく聴衆を前に話す自信を得ました」。フェリーニヒングで初めて講演をした時,関心を持つ37人の人が出席しました。このようにして,後に会衆を設立するための基盤ができました。

ウェンツェル兄弟と妻のリーナは,長年旅行する奉仕をした後,ベテルに招かれました。現在,兄弟は支部委員の一人であり,宣教奉仕に対する熱意を保ち,今なお聖書を意欲的に研究しています。全時間奉仕者として59年にわたってエホバに仕えてきたウェンツェル姉妹は,2004年2月12日に亡くなりました。

愛ある援助が差し伸べられる

ブルックリンの本部による指導のもと,兄弟たちの僕と呼ばれる男子の任命も行なわれました。これは今日の巡回監督に当たる兄弟たちです。任命されたのは独身の健康な兄弟で,十分に体力があり,忙しい予定をこなせる人でした。

当初,大きな会衆は二日または三日の訪問を受け,少人数のグループは1日限りの訪問となりました。したがって,割り当てられた兄弟たちは頻繁に移動しました。たいていは公共の乗り物で移動し,人々が普通あまり利用しない時間帯に列車やバスに乗りました。訪問中には会衆の記録類を注意深く調べました。とはいえ,おもな目的は野外で兄弟たちと共に働き,宣教奉仕の訓練を施すことでした。

ヘルト・ネルは,1934年に北トランスバール州で教職に就いていたとき真理を知り,1943年に兄弟たちの僕として任命されました。兄弟は非常に多くの奉仕者を援助しました。その忠実な働きを今も覚えている人は少なくありません。細身で背が高く,どちらかと言えばいかめしい顔つきの兄弟は,真理のために果敢に闘いました。記憶力のすばらしいことでよく知られていましたが,人々を深く愛する人でもありました。兄弟は朝7時から晩の7時や8時まで,休憩を取らずに奉仕したものです。旅行する監督としての移動の際には,昼夜を問わず,どんな時間にも列車に乗りました。会衆の大きさにもよりますが,一つの会衆に何日かとどまり,次いで別の会衆に移動しました。来る週も来る週も,このペースで活動したのです。1946年に,兄弟はアフリカーンス語への翻訳を行なうためベテルに呼ばれ,1991年に亡くなるまでベテル奉仕を忠実に続けました。兄弟は,南アフリカのベテルで奉仕した油そそがれた兄弟たちのうち,最後に亡くなった人です。1982年から1985年にかけて,他の油そそがれた忠実な人たち,すなわちジョージ・フィリップス,アンドルー・ジャック,ジェラルド・ギャラドが地上での歩みを終えました。

自分を惜しみなく与えた人々

エホバの僕たちは,旅行する監督やその妻たちの働きに感謝しています。惜しみなく自分を与えて会衆を霊的に強めているからです。例えば,ルーク・ドラドラは1965年に巡回監督として任命され,今は正規開拓奉仕をしています。兄弟はこう述べました。「2006年の今,わたしは81歳で,妻は68歳です。それでも区域に良いたよりを広めるために山を登り,山を下り,川を越えることができます。わたしたちは野外奉仕に50年以上携わってきました」。

1954年に巡回監督として任命されたアンドルー・マソンドは,こう述べました。「1965年に,わたしはボツワナに割り当てられました。宣教者の任地に来たように思えました。雨が丸3年降らなかったため,国土は飢餓に見舞われていました。わたしも妻のジョージナも,夕食を取らずに床に就き,翌日は朝食を取らずに野外宣教に出かけるという経験をしました。食事はたいてい一日一食で,昼食だけでした。

「南アフリカに戻ると地域監督に任命され,アーネスト・パンダチャク兄弟に訓練していただきました。別れ際に,こう諭されました。『兄弟たちよりも自分を高めようとしてはなりません。実ると垂れ下がる穂のようになってください。それは豊かな実をつけている証拠なのです』」。

最初の巡回大会

1947年4月,南アフリカで最初の巡回大会がダーバンで開催されました。ギレアデ第5期の卒業生で,南アフリカに派遣された最初の宣教者ミルトン・バートレットは,この大会に出席した兄弟たちに関する印象をこう語っています。「黒人の証人たちの様子を見て,感動を覚えました。とても清潔で,もの静かで,身なりもきちんとしていました。真理についてたいへん誠実かつ熱心に,さらに多くを学ぼうとし,野外奉仕にも非常に熱心でした」。

黒人の人たちの関心が高まるにつれ,さらに援助が与えられました。ズールー語の最初の「ものみの塔」誌は,1949年1月1日号です。それはケープタウンの支部事務所にある手動の小型謄写印刷機で作られました。今のように色彩豊かで人目を引く体裁ではありませんでしたが,その雑誌によって貴重な霊的食物が提供されました。1950年には,識字クラスが六つの言語で開かれるようになりました。意欲ある大勢の兄弟姉妹が,神の言葉を自分で読む術を身につけました。

福音宣明の業の前進に伴い,ふさわしい集会場所も必要になりました。1948年,ケープタウンに近いストランドに一人の開拓者が割り当てられます。その町で兄弟は,南アフリカで最初の王国会館建設を組織する特権を得ました。地元の一姉妹が工事の資金を賄いました。ジョージ・フィリップスは,「その新しい会館を車に載せて国じゅうを回りたいぐらいです。そうすれば,もっと多くの王国会館を建てるよう兄弟たちを励ませます」と語りました。とはいえ,王国会館建設が全国規模で組織的に行なわれるようになるのは,まだずっと先のことでした。

励みとなるインド人の反応

1860年から1911年にかけて,インドから契約労働者たちが移り住み,ナタール州のサトウキビ農園で働くようになりました。契約が切れてからも現地にとどまった人が多く,国内に大きなインド人社会が形成されました。その人口は今では100万人を超えます。1950年代の初めには,インド人が聖書の真理に関心を持ち始めていました。

1915年生まれのベルル・ナイカーは,9人兄弟の四男です。親はサトウキビ農園で働く熱心なヒンズー教徒でした。ベルルは,学校で聖書に関する授業を受けたことがきっかけで聖書に関心を持ちました。後に青年ベルルはある人から聖書をもらいました。それを毎日読み,4年で読み終えました。こう書いています。「マタイ 5章6節に感動しました。この言葉から,真理と義に飢え渇いているなら神に喜んでいただけることが分かりました」。

ついにベルルはエホバの証人と会い,聖書研究を始めました。1954年にバプテスマを受けたベルルは,南アフリカで早い時期にバプテスマを受けたインド人の一人です。ベルルが住んでいたハウテン州アクトンビルのヒンズー教徒たちは,エホバの証人に強く反対していました。事実,ある有力者はベルルを殺すと脅したほどです。ドライクリーニング会社で責任ある立場に就いていたベルルは,聖書の真理の側に立場を定めたためにその職を失いました。それでも,1981年に亡くなるまでエホバへの奉仕を忠実に続けました。兄弟のりっぱな手本は実を結びました。4世代にわたる190人余りの親族が現在エホバに仕えているのです。

ゴパル・クープサミーは,おじのベルルから初めて真理を聞いた時,14歳の少年でした。こう述懐しています。「おじは,わたしを含む幾人かの若者に聖書について話してくれました。とはいえ,わたしは研究はしていませんでした。ヒンズー教徒のわたしにとって,聖書はなじみの薄い本だったのです。しかし,読んで,なるほどと思った箇所が幾つかありました。ある日,会衆の書籍研究に出かけるおじを見つけ,一緒に行ってもよいか尋ねました。行ってもよいと言われ,以来,集会に出席するようになりました。聖書についてもっと知りたいと思って公共の図書館に出かけ,エホバの証人の出版物を幾つか見つけました。家族から大きな反対を受けましたが,詩編 27編10節をいつも思い出すようにしました。『わたしの父とわたしの母がわたしを捨て去ったとしても,エホバご自身がわたしを取り上げてくださることでしょう』という言葉です。1955年,15歳の時にバプテスマを受けました」。

ゴパルは妻スシラと共にエホバに仕え,現在,会衆で主宰監督を務めています。エホバの献身した僕になるよう,二人で150人ほどの人を助けてきました。どのようにしてそれほど大勢の人を導くことができたのかと尋ねられ,兄弟はこう説明しています。「近くに住んでいた大勢の親族に証言することができ,かなりの数の親族がそれにこたえ応じました。自営業に携わっていたこともあり,宣教奉仕の時間も比較的自由に取れました。わたしは4年間,開拓奉仕をしました。宣教に励み,少しでも関心を示す人すべてを丹念に再訪問しました」。

愛と辛抱が実を結ぶ

ドリーン・キルゴウルは1956年に,そしてイザベラ・エラレイは1957年に,ギレアデを卒業しました。二人はダーバン近郊のチャッツワースに住むインド人を対象に24年間奉仕しました。

ドリーンはその区域での奉仕についてこう述べています。「辛抱強さが必要でした。アダムとエバさえ知らない人もいます。人々はよくもてなしてくれました。ヒンズー教徒は,訪問客を戸口に立たせておくのは失礼だと考えます。『お茶を飲んでから行きなさい』と言われたものです。次の家に行く前にお茶を,というわけです。しばらく奉仕すると,お腹がちゃぽちゃぽになりました。インド人が,固く信じてきた自分の宗教信条を捨ててエホバの崇拝者になるのを見るたびに,奇跡を目の当たりにしているように感じました」。

イザベラはこのような経験を語っています。「野外宣教で,ある男性に雑誌を配布しました。その人と話しをしていると,教会から帰宅したばかりのダリシュニーという奥さんが話し合いに加わりました。彼女は赤ちゃんを抱いていました。良い話し合いができ,再び二人を訪ねる約束をしました。ところが,ダリシュニーはいつも留守でした。後日,本人が語ってくれたところによると,わたしが訪ねてきたら出かけるよう牧師から言われたとのことです。そうすれば関心がないと思われる,と牧師は考えたのです。その後,わたしは英国の家族のもとに帰省しました。英国でもダリシュニーのことを考え続け,南アフリカに戻ってから会いに行きました。ダリシュニーは,わたしがどうして来ないのかと気になっていました。『関心がないと思われたに違いない,と考えていました。また来ていただいてとてもうれしいです』と言われました。このようにして研究が始まりました。ご主人は研究をしませんでしたが,ダリシュニーは意欲的に学び,やがてバプテスマを受けました。

「ダリシュニーの宗教では,結婚した女性は黄色いひもに付けた金の飾りを首から下げることになっていました。その飾りはターリと呼ばれます。ターリを外してもよいのは,夫が死んだ場合だけです。ダリシュニーは伝道に出たいと思うようになり,ターリを外さなければならないことを理解しました。どうすべきかをわたしに相談しました。わたしは,まずご主人に願いを伝えて反応を見るよう勧めました。ダリシュニーがそうしたところ,外さないでほしいと言われてしまいました。わたしは辛抱するよう伝え,様子を見てご主人の機嫌の良い時にもう一度尋ねてみるよう勧めました。やがて,外す許可が得られました。わたしたちは研究生に,機転を利かせるよう,またヒンズー教の教えに敬意を払いながらも聖書の真理の側に立場を定めるよう勧めました。研究生はそのようにして,友人や親族の感情を不必要に害さないようにしました。結果として,友人や親族は,研究生が宗教を変えることを受け入れやすくなります」。

ドリーンは,宣教者奉仕を長く続けるのに何が助けになったかと聞かれ,こう答えました。「わたしたちは人々を愛するようになりました。奉仕に打ち込み,奉仕から大きな喜びを得ました」。イザベラもこう語ります。「親しい友人がたくさんできました。残念ながら,わたしたちは健康上の問題を抱え,奉仕を続けられなくなりました。ご親切にも,二人ともベテルで奉仕するよう招かれ,感謝してその勧めに応じました」。イザベラは2003年12月22日に亡くなりました。

チャッツワースで奉仕した他の宣教者たちも,高齢ゆえに,奉仕を続けたり宣教者ホームでの務めを果たしたりするのが難しくなり,ベテルに割り当てられました。エリック・クックとマートル・クック,モーリーン・ステインバーグ,そしてすでに亡くなったロン・スティーブンズの場合がそうでした。

大掛かりなプロジェクト

1948年に,ブルックリン本部のネイサン・ノアとミルトン・ヘンシェルが南アフリカを訪問した際,ヨハネスブルクに近いエランズフォンテインでベテル・ホームと印刷施設のための土地を購入するという決定が下されました。その土地での建設プロジェクトは1952年に完了しました。ベテル家族の成員は初めて,同じ屋根の下で生活できるようになりました。印刷機器も大幅に増設され,平台印刷機も設置されました。「ものみの塔」誌は八つの言語で,「目ざめよ!」誌は三つの言語で発行されていました。

1959年に,ベテル・ホームと印刷施設が拡張され,建物は2倍以上の大きさになりました。ティムソン社の新しい印刷機が設置されました。この支部に初めて導入された輪転機です。

ノア兄弟はカナダ在住の4人の兄弟たちに,印刷の援助のために南アフリカへ移ってはどうかと勧めました。その4人とは,ビル・マクレラン,デニス・リーチ,ケン・ノーディン,ジョン・キコットです。これらの兄弟は1959年11月にやって来ました。ビル・マクレランと妻のマリリンは今も南アフリカのベテルで奉仕しています。ジョン・キコットと妻のローラは,現在ニューヨークのブルックリン・ベテルで奉仕しています。ケン・ノーディンとデニス・リーチはどちらも南アフリカにとどまり,結婚して子どもを育てました。二人とも引き続き王国の業にりっぱに貢献しています。ノーディン兄弟の二人の子どもは南アフリカ・ベテルで奉仕しています。

拡張されたベテルと新しい機器は,増加する,国内の関心を持つ人たちの必要を顧みるために十分に用いられました。1952年に南アフリカの伝道者数は1万人を突破し,1959年には1万6,776人になりました。

アパルトヘイトのもとでクリスチャンの一致を保つ

アパルトヘイトという制度のもとで兄弟たちがどんな問題に直面したかを理解するには,この制度がどのように施行されたかを知ることが役立ちます。その法律によれば,黒人,白人(ヨーロッパ人),カラード(混血の人々),インド人は都市部の同じ建物,例えば工場や事務所やレストランで働くことができました。しかし,夜間はそれぞれの人種グループの居住区に戻らなければなりませんでした。こうして住居は人種グループごとに区別されました。どの建物でも,食堂やトイレは白人専用とそれ以外の人種のものとに区別しなければなりませんでした。

エランズフォンテインに最初の支部施設が建てられた時,当局は黒人やカラードやインド人の兄弟たちが白人の兄弟たちと同じ建物に住むことを認めませんでした。当時,ベテルにいた人はほとんどが白人でした。他の人種の場合,都市部で働く許可を得るのが困難だったからです。とはいえ,ベテルには黒人とカラードの兄弟姉妹が合わせて12人いました。その多くは,出版物を自分の言語に翻訳する人たちです。政府はこれらの兄弟姉妹の宿舎として,宿舎棟の裏手に5部屋ある建物を作ることを許可しました。後に,アパルトヘイトの規則がより厳格に適用され,最初の許可が取り消されました。そのため,兄弟たちは20㌔ほど離れた最寄りのアフリカ人居住区から通い,男性専用の簡易宿泊所に泊まらなければなりませんでした。黒人の二人の姉妹は,居住区内のエホバの証人の家に泊まりました。

法律では,これらのベテル奉仕者が食堂で白人の兄弟たちと共に食事をすることも認められていませんでした。地元当局の派遣した検査官が違反に目を光らせていました。しかし,白人の兄弟たちにとって,他の人種の兄弟たちと別々に食事をするというのは受け入れがたいことでした。それで,食堂の窓を磨りガラスに入れ替え,皆で気兼ねなく食事できるようにしたのです。

1966年,ジョージ・フィリップスはベテルを出ることを決めました。妻ステラの体調が優れなかったためです。有能な兄弟ハリー・アーノットが支部の監督に任命され,2年間その立場で奉仕しました。1968年以降,フランズ・マラー *が支部の監督を務めました。兄弟は後に支部委員会の調整者になりました。

“青い爆弾”が増加の起爆剤となる

1968年の地域大会で「とこしえの命に導く真理」という書籍が発表されました。“青い爆弾”と呼ばれて親しまれたその書籍は,野外を大いに活気づけました。それまで発送部門が野外に送り出す書籍は年間9万冊ほどでしたが,1970奉仕年度には44万7,000冊に達したのです。

1971年,ノア兄弟は再び南アフリカを訪問しました。そのころベテルは,またもや手狭になっていました。成員が68人になっていたのです。増築の計画が立てられ,兄弟たちはそのプロジェクトのために進んで労力や資金を提供しました。工事は1972年1月30日に完了しました。後に再び増築が行なわれ,1978年に完成しました。当時,神の民に対する政府からの圧力が増大しており,いずれの工事も,エホバの後ろ盾に対する確信を深める機会となりました。

中立が試みられる

1961年5月,南アフリカは英連邦を脱退して共和国になりました。それは国内の政情が不安定になり,暴動が多発した時期でした。時の政府は事態を収拾しようと,国家主義を推し進めました。そのため,エホバの証人は以後長期にわたって困難を経験することになったのです。

長年,エホバの証人には兵役義務が課されていませんでした。しかし,1960年代後半に,南アフリカがナミビアやアンゴラでの軍事行動を本格化させたことに伴い,その状況は変わりました。新しい法律は,健康な白人の青年すべてに兵役を義務づけました。それに応じなかった兄弟たちは,軍の営倉に90日間拘置されました。

拘置されていた兄弟たちが軍服とヘルメットの着用を命じられたことがあります。マイク・マークスはこう述懐します。「わたしたちは軍の隊員と見られたくなかったので,着用を拒みました。すると指揮官である大尉は,受刑者に認められていた種々の権利を剥奪し,独房に監禁し,食事を減らすという罰をわたしたちに科しました」。そのため兄弟たちは,手紙を書くことも受け取ることもできず,面会も許されず,聖書以外の読み物を持つこともできませんでした。食事を減らすのは,矯正不能の受刑者に対する措置とされていました。パンの塊半分と水だけの食事を2日,次いで通常の軍隊食を7日,再びパンと水だけを2日という具合です。通常の食事とされるものもたいてい,質や量の劣るものでした。

兄弟たちの忠誠を砕くためにさまざまな手段が用いられました。一人一人が小さな監房に入れられました。シャワーを浴びるのが許されない時期もありました。代わりに各人にバケツ2個が渡されました。一つはトイレ用,一つは体を洗うためのものです。後に,シャワーを浴びることは再び許されるようになりました。

キース・ウィグルはこう述べています。「真冬のある日のこと,わたしたちが水のシャワーを浴びて出てみると,看守にマットレスや毛布を取り上げられていました。私服の着用を許されなかったので,短パンとアンダーシャツという姿で,冷たいコンクリートの床の上に湿ったタオルを敷いて寝ました。翌朝,上級曹長は,幸福そうで元気なわたしたちを見て驚きました。その凍てつくような寒さの冬の晩に神の保護があったことを認めていたのです」。

兄弟たちは,軍服の着用や他の受刑者と共に行なう軍事教練を拒んだとして,90日の刑期を終える少し前に再び法廷に立たされ,営倉に送り返されました。当局は,兵役義務のなくなる65歳まで兄弟たちに繰り返し刑を科すつもりであることを明らかにしました。

1972年,国民や政界からの強い圧力がきっかけとなり,兵役に関する法律が改正されました。兄弟たちは軍事教練の期間と同じ長さの刑に一度だけ服することになりました。刑期は当初12か月から18か月でしたが,後には3年,そして最終的には6年に延長されました。やがて当局は多少譲歩し,週に一度,集会を開けるようになりました。

兄弟たちは拘置期間中も,人々を弟子とするようにというキリストの命令を忘れませんでした。(マタ 28:19,20)別の受刑者や当局者,また接する他の人々に証言しました。しばらくの間,土曜日の午後には良いたよりを伝えるための手紙を書くことが許されました。

ある時期,軍当局は収容されていた350人のエホバの証人に対して,他の170人の受刑者と共に食事を取るように命じていました。そのため,兄弟たちの唯一の区域であった営倉は,エホバの証人とそうでない人の比率が2対1になったのです。当局は程なくして,兄弟たちが自分たちだけで食事をするよう取り決めました。

キリスト教世界と中立

キリスト教世界の諸教会は,兵役義務の問題にどのように対応したでしょうか。南アフリカ教会協議会は1974年7月に,良心的兵役拒否を支持する決議を採択しました。しかしその決議は,純粋に宗教上の立場に基づくものではなく,独自の政治色を帯びた内容になっていました。良心的兵役拒否を支持する理由として,軍が「不公平で差別的な社会」を守っており,したがって不当な戦争を行なっている,という点を挙げていました。アフリカーンス語を使用する諸教会や,他の教会連合は,その決議を支持しませんでした。

オランダ改革派教会は政府の軍事活動を支持し,南アフリカ教会協議会の決議については,ローマ 13章に反するとして退けました。同協議会の立場に反対した別のグループは,南アフリカ国防軍の従軍牧師です。従軍牧師の中には,同協議会に加盟する教会の僧職者たちも含まれていました。英語を使用する諸教会の従軍牧師は,その決議を非難する共同声明の中で,「我々の教会の成員すべて,特に青年たちに対し,祖国の防衛に貢献するよう強く勧める」と述べました。

また,同協議会に加盟する個々の教会も,中立に関する明確な立場を取りませんでした。「南アフリカにおける戦争と良心」(英語)という本は次の点を認めています。「ほとんどの教会は,……信者に対して教会の立場を明示せず,ましてや良心的兵役拒否を勧めることもなかった」。その本によれば,政府が同協議会の決議に強く反対し,厳しい法律を制定したため,加盟教会は自分たちの方針を表明することをためらいました。こうして,「もっと建設的な行動を取るよう教会を促す試みは失敗した」のです。

一方,「投獄された良心的兵役拒否者の大多数はエホバの証人だった」ことを,その本は認めています。さらに,「エホバの証人は,自らの良心に基づいていかなる戦争にも反対するという個人の権利に焦点を合わせた」とも述べています。

エホバの証人の立場は純粋に宗教的なものでした。証人たちは,「存在する権威は神によってその相対的な地位に据えられている」ということを認めているとはいえ,政治的には中立を保ちます。(ロマ 13:1)証人たちの忠誠は第一にエホバに対するものです。エホバはみ言葉 聖書の中で,真の崇拝者が肉的な戦いには一切加わらないことを明らかにしておられます。―イザ 2:2-4。使徒 5:29

良心的兵役拒否者を拘置する制度が幾年かにわたって実施され,明らかになった点があります。エホバの証人は厳しく扱われないで済むよう中立の立場を放棄したりはしない,という点です。加えて,軍の営倉が過密状態になり,世間の不評を買うようになりました。また,兄弟たちを一般の刑務所に送るようにとの,政府部内からの圧力もありました。

軍当局の一部の好意的な人々は,その案に反対しました。高い道徳規準を持つ若い兄弟たちに敬意を払っていたのです。一般の刑務所に送られるなら,前科がついてしまいます。また凶悪犯と一緒に収容されることになり,性的暴行を受けるおそれもありました。そのため兄弟たちには,軍とは無関係の政府部局のもとでの社会奉仕が課されることになりました。1990年代には国内の政治情勢が変化して,兵役義務が廃止されました。

若い兄弟たちは,人生の大切な時期に長期の拘置を経験してどんな影響を受けたでしょうか。多くの兄弟はエホバへの忠節な奉仕のりっぱな記録を作り上げ,その機会を賢明に活用して神の言葉を研究し,霊的な成長を遂げました。クリフ・ウィリアムズはこう述べています。「拘置期間はわたしの人生の転換点となりました。エホバが保護し,祝福してくださっていることがはっきり分かったので,王国の関心事を推し進めるためにもっと多くのことをしようという気持ちになりました。1973年に釈放されるとすぐに正規開拓奉仕を始め,翌年にベテルに入りました。今もベテルで奉仕しています」。

拘置された時に17歳だったスティーブン・ベンターは,こう語っています。「わたしはまだバプテスマを受けていない伝道者で,真理についての知識も限られていました。しかし,霊的な支えとなる備えのおかげで忍耐しやすくなりました。朝,皆で床を磨きながら行なった日々の聖句の討議や,定期的に開かれた集会,経験ある兄弟との一対一の聖書研究などがそうです。つらい時もありましたが,そうしたことはあまり覚えておらず,自分でも驚きます。実のところ,拘置されていた3年間は人生で最良の年月だったのかもしれません。その経験によって少年から大人へと成長できました。エホバを知るようになり,全時間奉仕を始めたいという気持ちになりました」。

兄弟たちの不当な拘置には良い面もありました。獄中の兄弟たちを訪問したギデオン・ベナディは,「振り返ると,実に強力な証言の行なわれたことが分かります」と綴っています。兄弟たちが忍耐し,その裁判や刑についてたびたび報道されたことで,エホバの証人の中立の立場に関する,ぬぐい去ることのできない記録が残されました。それは軍関係者にも国民全体にも強い印象を与えました。

黒人の兄弟たちが示した忠誠

アパルトヘイト政権下にあった初期のころ,黒人の兄弟たちは中立の立場に関して白人の兄弟たちと同じ試みを受けたわけではありません。一例として,黒人は徴兵されませんでした。とはいえ,黒人の政治団体がアパルトヘイト政権に反対するようになると,黒人の証人たちも厳しい試練にさらされました。中立の立場を曲げなかったために,殺された人もいれば殴打された人もいます。家財もろとも家を焼かれた人もいます。それらの証人たちは,『世のものとならない』ようにというイエスの命令に従うことを決意していたのです。―ヨハ 15:19

一部の政治団体は,地域のすべての人に党員カードの購入を強要しました。政治団体のメンバーが家々を回ってお金を要求しました。武器を買ったり,白人の治安部隊との戦闘で命を落とした仲間の葬儀費用に充てたりするというのです。黒人の兄弟たちはそのような目的でお金を渡すことを丁重に断わりました。そのため,アパルトヘイト政権のスパイだという言いがかりをつけられました。兄弟姉妹の中には,野外奉仕の最中に襲われ,白人の思想を広めているという非難を浴びせられた人たちもいました。

イライジャ・ドロドロの例を挙げましょう。イライジャは前途有望なスポーツ選手でしたが,その道を捨ててエホバの僕として献身しました。南アフリカ初の民主選挙を2週間後に控え,異なる地域に住む対抗し合う黒人グループの間で緊張が高まりました。イライジャの会衆は,数キロ離れた場所にある,あまり奉仕されていない区域での伝道を取り決めました。2か月前にバプテスマを受けたばかりのイライジャは,バプテスマを受けていない伝道者の二人の少年と共に奉仕するよう割り当てられました。一軒の家の戸口で女性と話していた時,ある政治団体に属する若者たちが話に割り込んできました。リーダーはシャンボクという皮製の重いむちを振りながら,「ここで何をしているんだ」と食ってかかってきました。

その家の女性は,「聖書について話しているんです」と答えました。

しかし,いきり立ったリーダーはその言葉を無視し,イライジャと二人の少年に向かって,「おまえたちは一緒に来い。聖書の話なんてしている場合じゃない。我々の権利のために戦うんだ」と言いました。

イライジャは憶することなく,「それはできません。エホバへの奉仕をしているからです」と答えました。

するとリーダーはイライジャをこづき,むちで打ち始めました。むちを振り下ろすたびに,「仲間になれ!」と怒鳴りました。イライジャは一回打たれたあと,痛みを感じなくなりました。真のクリスチャンはみな『迫害を受ける』という使徒パウロの言葉が力になりました。―テモ二 3:12

やがてリーダーは疲れて手を止めました。すると一味のひとりは,この男はこの土地の者ではないと言い,リーダーを責めました。若者たちは仲間割れし,けんかを始めました。そしてリーダーは,自分のむちでひどく打ちたたかれました。この騒ぎをしりめにイライジャと二人の少年は逃げました。イライジャはこの試練によって信仰を強められ,恐れることのない良いたよりの宣明者として進歩してゆきました。今では結婚して子どもがおり,会衆の長老として奉仕しています。

黒人の姉妹たちも,伝道をやめさせようとする圧力のもとで大きな勇気を示しました。フローラ・マリンダの例があります。フローラの娘で,バプテスマを受けたマキという少女は,暴徒化した若者たちに火をつけられ,殺されてしまいました。政治運動に加わろうとしなかった兄をかばったためです。母親のフローラは胸の張り裂けるような思いをしましたが,恨みを募らせるのではなく,自分の住む地域で引き続き神の言葉を広めました。ある日,娘を殺害した政治団体のメンバーがフローラに,自分たちの活動を支持しろ,さもなければ痛い目に遭わせるぞと詰め寄りました。その時,近所の人たちが弁護に回り,フローラはいずれの政治勢力の側にも付かず,聖書を学ぶよう人々を一生懸命に助けていると説明しました。この説明を聞いた活動家たちは言い争いを始め,結局はフローラを去らせました。フローラは,厳しい試みとなったその時期から今に至るまで,正規開拓者として忠実に奉仕しています。

一人の正規開拓者の兄弟は,バスで区域に向かう途中に起きた事柄を述べています。活動家の一人の青年が兄弟を乱暴に押して,白人の書いた本を持ち歩いて黒人に売っているのはなぜだ,と言いがかりをつけました。続いてどうなったかを兄弟はこう伝えています。「青年は,バスの窓から文書を捨てるように要求しました。それを拒むと,わたしの顔を平手打ちし,火のついたたばこを頬に押しつけてきました。わたしは黙って取り合いませんでした。すると青年は,文書を入れたわたしのかばんを引ったくって窓から放り出しました。また,わたしのネクタイを引っ張って外し,白人のような格好をするな,と悪態をつきました。青年はわたしをののしり続け,あざ笑い,おまえのような者は火あぶりにすべきなんだ,と言いました。エホバはわたしを救い出してくださいました。それ以上危害を受けずにバスを降りることができたからです。このような経験をしても,伝道はやめませんでした」。

南アフリカ支部には個人や会衆から,黒人の兄弟たちが忠誠を保ったことを伝える多くの手紙が寄せられました。クワズールー・ナタール州のある会衆の長老が寄せた手紙はその一例です。こうあります。「私たちの愛するモーセス・ニャムスア兄弟の死についてお知らせするためにこの手紙を書いています。ニャムスア兄弟は車の溶接と修理の仕事をしていました。ある時,一政治団体から自家製の銃の溶接を依頼されましたが,兄弟は断わりました。その後,1992年2月16日にこの団体は政治集会を開きましたが,その際,敵対している団体との間で争いが起きました。その日の晩,闘争が終わって帰る途中,ショッピングセンターに向かっている兄弟を見つけました。彼らは槍で兄弟を刺し殺しました。なぜでしょうか。『おまえがおれたちの銃の溶接をしなかったせいで,闘争の最中に仲間が何人か死んでしまった』というのが理由です。この出来事は兄弟たちにとってたいへん大きなショックでした。しかし,私たちはこれからも宣教を続けます」。

学校での反対

黒人居住区の学校でも問題が起きました。エホバの証人の子どもたちが,朝礼で祈りや賛美歌の斉唱に加わらなかったからです。このことは,白人の生徒の学校では問題になりませんでした。親が説明の手紙を書けば子どもは参加を免除されたからです。しかし,黒人の生徒の学校では,宗教儀式への不参加は学校に対する公然たる反抗とみなされました。生徒がこうした事柄を拒否するという状況に教師たちが慣れていなかったのです。親がエホバの証人の立場について説明しに行っても,教師たちは,例外を認めるわけにはいかないと言いました。

学校側は,朝礼では連絡事項が伝えられるのでエホバの証人の子どもも出席すべきである,と主張しました。証人の子どもたちは,歌と祈りには加わらず,起立したまま静かにしていました。生徒たちの列の間を行き来して,祈りの際に目を閉じているか,賛美歌を歌っているかを確かめる教師もいました。褒めるべきこととして,低学年の生徒を含め,子どもたちは勇気をもって忠誠を保ちました。

大勢の子どもが放校されるに及んで,兄弟たちはその件を提訴することにしました。1976年8月10日,ヨハネスブルク最高裁判所は,ある学校の生徒15人の関係した重要な訴訟について判決を下しました。裁判記録にはこうあります。「被告は,……申立人である子どもたちの権利,すなわち祈りや賛美歌斉唱を辞退する権利を認めた。……また,停学や放校の処分は違法であることも認めた」。これは重要な法的勝利となり,関係する学校すべてでこの問題はやがて解決されました。

学校での他の問題

一方,白人の学校に通っていたエホバの証人の子どもたちは,別の形で忠誠を試みられました。中には放校された子どもたちもいます。アパルトヘイト政権は,白人の青少年に政府のイデオロギーを支持させようとしました。1973年,政府は「青少年育成計画」を導入しました。このプログラムには,行進や護身術や他の愛国的な活動が含まれていました。

証人の親の中には弁護士に相談した人もいました。教育大臣に陳情がなされましたが,良い結果は得られませんでした。大臣は,そのプログラムは純然たる教育的なものであるとの立場を取り続けました。政府はこの問題をめぐってエホバの証人についていろいろと良くない評判を立てようとしました。校長が寛容で,聖書に反する活動については参加の免除を認めた学校もありましたが,子どもを放校する学校もありました。

クリスチャンの親で子どもを私学に通わせることのできる人は少数でした。親の中には子どもが通信教育を受けられるようにした人もいます。教員の資格を持つエホバの証人は,子どもたちを家で教えました。とはいえ,放校された子どもの多くは,中等教育を修了することができませんでした。それでも,家庭や会衆での聖書に基づく訓練から益を受けました。(イザ 54:13)そのようにして全時間奉仕を始めた若者たちもいます。これら勇気ある若者たちは,エホバに全き信頼を置き,試練のもとで忍耐したことを喜びとしました。(ペテ二 2:9)後には国内の政治情勢が変化し,愛国的活動への参加拒否を理由に子どもが放校されることはなくなりました。

アパルトヘイトと大会

兄弟たちは南アフリカの法律に従って,人種グループごとに別個の大会を取り決めなければなりませんでした。すべての人種の人が同じ会場に初めて集まったのは,1952年にヨハネスブルクのウェンブリー・スタジアムで全国大会が開かれた時のことです。そのとき南アフリカを訪問していたノア兄弟とヘンシェル兄弟は,大会で話をしました。アパルトヘイトの規定に従って,人種グループごとに座席の区画を分けなければなりませんでした。白人は西スタンドに,黒人は東スタンドに,カラードとインド人は北スタンドに座りました。給食も人種グループごとに行なう必要がありました。こうした制限がありましたが,ノア兄弟はその大会についてこう書いています。「喜びとなったのは,全員が同じスタジアムで,聖なる装いをもってエホバを崇拝したことです」。

1974年1月には,ヨハネスブルクとその周辺で三つの大会が開催されました。黒人の大会,カラードとインド人の大会,白人の大会です。しかし,大会最終日には特別な取り決めが設けられました。午後のプログラムでは,すべての人種の人がヨハネスブルクのランド・スタジアムに集まるのです。合計3万3,408人もの人がスタジアムにやって来ました。何という喜びでしょう。この時は,すべての人種の人が自由に交わり,一緒に座りました。ヨーロッパの兄弟たちが出席していたことも,忘れがたい経験となりました。なぜそのようなことができたのでしょうか。大会を組織した人たちは,人種の異なる人々の国際的な催しを開けるスタジアムを,それとは知らずに予約していたのです。その半日に関しては,許可を得なくてもそのような催しを行なえたのです。

偏見のもとでも大会を開く

その幾年か前に,ヨハネスブルクで全国大会を開催するための手配がなされました。しかし,プレトリアの政府役人がバンツー(黒人)の行政を担当するヨハネスブルクの事務所を幾つか訪れた際,そこの議事録からエホバの証人がモフォロ・パークを予約していることを知りました。黒人の兄弟たちのための大会が開催されることになっていたのです。

この役人はそのことをプレトリアの本部に報告しました。すると,バンツー行政局はすぐに会場の予約を取り消しました。エホバの証人は「認可された宗教」ではないというのです。白人の兄弟たちは同じ期間にヨハネスブルク中心部のミルナー・パーク・ショー・グランドを予約していました。カラードの兄弟たちも市の西部郊外にあるユニオン・スタジアムで大会を開くことになっていました。

ベテルの二人の兄弟がその役人と会見しました。役人は以前,オランダ改革派教会の僧職者でした。二人は,エホバの証人が多年にわたってモフォロ・パークで大会を開催してきたこと,また白人の兄弟やカラードの兄弟も大会を開くことを指摘しました。そうであれば,どうして黒人の兄弟たちは集まり合う権利を認められないのですか,と尋ねました。しかし,役人は考えを変えませんでした。

モフォロ・パークはヨハネスブルクの西部にありましたが,市の東部にも大きな黒人居住区がありました。そのため,二人の兄弟は市の東部で大会を開く手はずを整えることにしました。二人は行政局の担当責任者と会見しましたが,プレトリアの役人との会合については触れませんでした。大会の会場を探していることを伝えると,その責任者は非常に好意的で,ワットビル・スタジアムを使えるよう手配してくれました。この競技場には,モフォロ・パークの会場にはなかった観覧席があったのです。

直ちにすべての兄弟たちに会場の変更が知らされました。大会は約1万5,000人が出席し,成功しました。プレトリアから干渉されることはありませんでした。以来幾年にもわたって,その会場で何の支障もなく大会を開催できました。

法人が設立される

1981年1月24日に,統治体の指導のもと,50人の成員で構成される法人が設立されました。「南アフリカのエホバの証人協会」です。この法人組織は,霊的な関心事を推し進めるのに幾つかの点で役立ちました。

支部の兄弟たちは長年,エホバの証人が自分たちの婚姻挙式官を持てるように許可を求めていましたが,うまくゆきませんでした。フランズ・マラーはこう述べています。「政府の役人からいつも申請を却下されていました。わたしたちの宗教は,婚姻挙式官を持てるだけの立場も安定性も備えていないということを,それとなく言われました」。

さらに,法人でなかったため黒人居住区に王国会館を建設する許可も得られませんでした。申請に行った兄弟たちはいつも,「認可された宗教ではありませんので」と取り合ってもらえませんでした。

しかし,法人が設立されると程なくして,婚姻挙式官を持つことが許可されました。また,黒人居住区で王国会館を建設することも認められました。今では南アフリカで100人の長老が挙式官となっています。それらの長老は王国会館で結婚式を執り行なうことができます。そのため新郎新婦は,まず裁判所に行って民事婚の手続きを踏む必要がなくなりました。

印刷における革新的な変化

印刷の方法も急速に様変わりし,凸版印刷機が廃れつつありました。しかも,交換部品は手に入りにくく高価でした。そのため,コンピューター写植とオフセット印刷に切り替えるべき時期が来たと判断されました。スタンドアロン型のデータ入力装置と写植機が購入されました。さらに1979年には,日本支部から寄贈された東京機械製の輪転機が設置されました。

エホバの証人は非常に多くの言語で文書を生産するので,独自の写植システムを開発することに利点があると考えました。1979年,ニューヨークのブルックリンの兄弟たちは,後にMEPS<メップス>(多言語電算写植システム)と呼ばれるようになったシステムの開発に着手しました。MEPSは1984年に南アフリカに導入されました。翻訳や写植のためにコンピューターを用いることにより,さまざまな言語で同時に文書を発行できるようになりました。

将来の増加を見越した計画

1980年代の初めに,エランズフォンテインのベテルは野外の増加に対応するには手狭になっていました。そのため,ヨハネスブルクから車で30分ほどの所にあるクリュガーズドルプという町に土地が購入されました。87ヘクタールのその土地は魅力的な丘陵地にあり,近くには小川が流れています。この建設プロジェクトを支援するために仕事をやめた兄弟たちは少なくありませんでした。休暇を取って援助に駆けつけた兄弟たちもいます。ニュージーランドや米国など外国からやって来て建設に携わった人たちもおり,工事は6年で完了しました。

敷地内に黒人のエホバの証人が住むための許可を得るのは,依然として困難でした。その多くは翻訳に携わる人たちです。許可は得られたものの20人に限定され,別の住居を建設することが求められました。しかしやがて,政府はアパルトヘイトの規制を緩和し,兄弟たちは人種の別なく,ベテル内の同じ建物に住めるようになりました。

間取りの良い広々とした部屋の備わった,しっかりした造りの建物を見て,ベテル家族は喜びました。外壁が赤レンガで覆われた3階建ての建物は,美しい庭園に囲まれています。クリュガーズドルプで建設が始まった時,南アフリカの活発な証人は2万8,000人でした。1987年3月21日の献堂式の時には,その数は4万人に増えていました。もっとも,それほど大きな施設が果たして必要だろうか,といぶかった人たちもいました。事務所は一つのフロアが使われていませんでしたし,宿舎棟も一つの棟が空室のままだったのです。とはいえ,兄弟たちは先々の必要を見越すように努め,将来の増加に備えることができたと考えました。

不可欠なものを備える

会衆の増加に伴い,さらに多くの王国会館が切実に必要とされていました。おもに黒人が住む地区の兄弟たちは,難しい状況で集会を開いていました。車庫,納屋,学校の教室を用い,教室では子ども用の小さな机に向かいました。また,騒音の中で集会を開かなければなりませんでした。別の教室では他の宗教グループが大声で歌い,太鼓を打ち鳴らしていたのです。

1980年代の終わりに,地区建設委員会は王国会館の建設を速めるための新しい工法を試験的に実施し始めました。1992年に,速成建設の経験を持つ11人のエホバの証人がカナダからやって来て,ヨハネスブルク近郊のヒルブロウで2階建ての王国会館の建設を援助しました。これらの自発奉仕者は地元の兄弟たちの技術指導を行ない,建設の方法を改善するように助けました。

速成建設による最初の王国会館は,1992年にソウェト地区のディプクルーフに建てられました。兄弟たちは1962年以来,ソウェトで王国会館のための土地を入手しようと努力していました。土地の入手に尽力した人の一人ゼカライア・セディベは,1992年7月11日に行なわれたその王国会館の献堂式に出席し,満面の笑みを浮かべてこう語りました。「自分たちは王国会館を持てないのではないかと思っていました。当時は若かったのですが,今はもう退職しました。とはいえ,自分たちの王国会館があります。数日で完成した,ソウェトで最初の王国会館です」。

現在では,南アフリカ支部の管轄下にある国々に600棟の王国会館があります。王国会館はエホバの清い崇拝の中心地です。とはいえ,30人以上の伝道者のいる300ほどの会衆が,王国会館を今も必要としています。

25の地区建設委員会は支部事務所の指導のもと,王国会館の建設を希望する会衆に実際的な援助を与えています。会衆はプロジェクトの資金を賄うために無利子の貸し付けを受けられます。王国会館建設を18年以上にわたって援助してきたピーター・バットは,ハウテン地区建設委員会の司会者です。バット兄弟によれば,この委員会で働くのはたいてい家族持ちの兄弟たちで,仲間の益のために喜んで多くの時間を割いています。

やはり地区建設委員会の成員であるヤーコプ・ラウテンバッハによると,委員はたいてい建設の全期間を通じて現場で働くとのことです。しかも工事が始まる前から計画全般に携わっています。兄弟は,自発奉仕者たちが喜んで働き,協力的であると熱心に語ります。奉仕者たちは,現場が遠くても自費で駆けつけます。

ラウテンバッハ兄弟は,他の多くの兄弟たちも王国会館建設に喜んで時間や資産をささげていると言い,次の例を挙げています。「運送会社を所有する二人の実の姉妹は,機材の入った13㍍のコンテナを国内各地の,時には隣国の建設現場に移送する手配をしています。1993年以来ずっとそうしてくれているのです。これはかなりの額の寄付です。さらに,取り引きする会社の中には,わたしたちの活動を見て,寄付や値引きをしてくれるところが幾つもあります」。

兄弟たちは入念な計画を立て,作業班を組織してから,たいてい3日で王国会館を建てます。この様子に感心する人は少なくありません。ある現場で建設初日の終わりごろに起きたことですが,周辺のビヤホールでかなり飲んだ二人の男性が兄弟たちに近づいてきました。いつも帰り道として通り抜けている空き地に建物があることに驚き,道を尋ねてきました。迷ったに違いないと思っていたのです。

自己犠牲の精神

1990年代初めの政治情勢の変化は,平和や安定をもたらすどころか,かつてないほどの暴力を生みました。情勢は混迷し,暴力増大の理由についてさまざまな説が唱えられました。挙げられた理由はほとんどが政治的な対立や経済状態への不満に関係したものでした。

それでも王国会館の建設は続行されました。いろいろな人種の奉仕者が地元の兄弟たちに伴われ,黒人居住区に入りました。怒り狂った暴徒に奉仕者が襲われたこともあります。1993年にソウェトで王国会館が建てられた時,車で資材を現場に運んでいた白人の兄弟3人に暴徒が投石しました。車の窓は割れて粉々になり,兄弟たちはけがをしました。それでも運転を続けて現場にたどり着きました。地元の兄弟たちは安全な道を使い,負傷した兄弟たちを急いで病院に連れて行きました。

工事は遅れずに進められました。予防策が講じられ,続く週末にはさまざまな人種の幾百人もの人が現場で働きました。地元の開拓者が会館周辺の区域で街路証言に携わり,問題になりそうな状況に気づいたら現場の兄弟たちに知らせるようにしました。数日後には,けがをした兄弟たちも元気になり,現場に戻って来ました。

諸会衆は,王国会館建設に自発的に携わる兄弟たちの献身ぶりや,建設のために払われた犠牲に感謝しています。ファニー・スミットとイレイン・スミットは,これまで15年余りにわたり,しばしば長距離を自費で移動して46の会衆の王国会館建設を援助してきました。

クワズールー・ナタール州のある会衆は,地区建設委員会に次の手紙を送りました。「皆さんはここに来て王国会館を建てるために,睡眠や家族団らんやレクリエーションを犠牲にされました。払われた犠牲はそれだけではないでしょう。工事の成功のために金銭的な負担をいとわなかったことも知っています。『益となるように』,エホバが皆さんのことを覚えていてくださいますように。―ネヘミヤ 13:31」。

会衆が王国会館を持つと近隣の人々にも益が及びます。ある会衆から寄せられた次のコメントはそのことをよく示しています。「王国会館の建設後に出席者が増えたため,公開講演と『ものみの塔』研究を二つのグループに分けて行なわなければなりません。もうすぐ分会が必要な状況です」。

農村部の小さな会衆は時として,建設の費用を賄うことに困難を覚えます。それでも多くの会衆はいろいろな方法で費用を工面してきました。ある会衆では,兄弟たちが豚を何頭か売りました。お金がさらに必要になると,牛と馬を1頭ずつ売りました。次いで羊15頭,牛と馬をさらに1頭ずつ売りました。一人の姉妹は必要なペンキすべてを買うことを申し出ました。じゅうたんを買った姉妹もいれば,カーテンの費用を負担した姉妹もいます。兄弟たちは最後に,牛をもう1頭,羊をさらに5頭売って椅子を手に入れたのです。

ハウテン州のある会衆は,王国会館の完成後に次のような手紙を寄せました。「建設後の少なくとも2週間は,野外奉仕のあとに王国会館に寄って,美しさに見とれていました。奉仕のあと家に帰る前にどうしても王国会館に足が向いてしまうのです」。

一般の人の注目も集める

エホバの証人が崇拝に適した会館を持つために払う努力が,地域の人々の注目を集めることも珍しくありません。クワズールー・ナタール州ウムラジの会衆が受け取った手紙には,一部こう記されています。「『ダーバンを美しくする会』は,地域の美化に努めておられる貴団体に敬意を表し,その努力を続けられるようお勧めしたいと思います。皆さんの尽力により,この地域は美しく保たれています。私どもの会は,ゴミによる汚染の防止と環境の美化を目指し,きれいな街作りは住民の健康に資すると考えております。そのようなわけで,地域の美化に貢献している市民を表彰しています。すばらしい手本となっておられる貴団体に感謝をお伝えいたします。今後もウムラジ地区の美化に貢献してゆかれるよう願ってやみません」。

ある会衆は次のように書き送ってきました。「札付きの泥棒が新築の王国会館に押し入った時,周辺住民が泥棒に襲いかかり,『わたしたちの教会』を荒らしていた,と言っていました。その近辺に宗教施設はほかになかったのです。住民は泥棒を打ちたたいてから警察に引き渡しました」。

アフリカにおける王国会館の必要を満たす

1999年にエホバの組織は,資金や人材の限られた国々で王国会館を建設するための取り決めを設けました。南アフリカ支部に地区王国会館事務所が設置され,アフリカの幾つかの国々における王国会館建設を組織することになりました。この事務所は各支部に代表者を派遣し,その代表者は兄弟たちが王国会館建設デスクを設置するのを助けました。このデスクは,土地の購入と王国会館建設グループを組織する点で責任を持ちます。さらに,地元の兄弟たちを援助し訓練するためにインターナショナル・サーバントが派遣されました。

南アフリカの地区王国会館事務所は,アフリカ各地に25の王国会館建設デスクを設置してきました。それらのデスクは,37か国における王国会館建設を担当しています。この取り決めが実施されているそれらの国々では,1999年11月以降,7,207棟の王国会館が建てられてきました。2006年半ばには,さらに3,305棟の王国会館が必要であることが確認されました。

政治的変化の影響

前政権の時代,人種政策に対する国民の不満が募るにつれて,騒乱や暴動が増えてゆきました。エホバの証人の中にも直接被害を受けた人がいました。黒人居住区では激しい戦闘のために大勢の死者が出ました。しかし全体的に見て,その困難な時期にも兄弟たちは注意深く行動し,エホバに忠実に仕え続けました。ある晩遅くに,一人の兄弟の家にガソリン爆弾が投げ込まれました。そのとき兄弟と家族は眠っていましたが,何とか逃げることができました。兄弟は後日,支部に次の手紙を寄せました。「私も家族も,信仰が以前よりも強くなりました。持ち物はすべて失いましたが,エホバ神と神の民にいっそう引き寄せられました。兄弟たちは物質面で力になってくれました。私たちは,この事物の体制が終わるのを心待ちにしています。そして,霊的パラダイスの中にいられることをエホバに感謝しています」。

1994年5月10日,黒人初の大統領ネルソン・マンデラが就任しました。マンデラは,国内で初めて民主選挙により選ばれた大統領でもあります。それはまた,黒人に初めて投票権が与えられた時でもあり,国家主義の精神や高揚感が広がりました。そのため,ある兄弟たちはそれまでとは異なる種類の試みを受けました。

残念なことに,エホバの民の中にはクリスチャンの中立の立場を曲げてしまった人たちもいました。しかし,大多数の人は中立を守りました。妥協したものの,過ちを認めて誠実に悔い改め,聖書的な励ましにこたえ応じた人は少なくありませんでした。

心の中で生じる成長

王国会館の増加はエホバの祝福の表われですが,真に奇跡的な成長と言えるものは人々の心の中で生じています。(コリ二 3:3)さまざまな背景の人々が真理に引き寄せられています。幾つかの例を取り上げましょう。

ラルソン・ムラウジは1986年に投獄され,殺人のかどで死刑を宣告されました。ラルソンはエホバの証人のブロシュアーから支部の住所を知り,聖書について学べるよう手紙で援助を求めました。特別開拓者のレス・リーが面会を認められ,ラルソンとの聖書研究が始まりました。ラルソンはやがて,学んだ事柄を他の受刑者や看守に話すようになり,1990年4月に刑務所内でバプテスマを受けました。現在,地元の会衆の成員が定期的に面会に訪れています。ラルソンは毎日1時間,監房から出ることを許され,その時間を他の受刑者への証言に充てています。こうして3人の人をバプテスマまで援助し,今は2件の聖書研究を司会しています。死刑判決は,仮釈放の可能性のある終身刑に減刑されました。

それとは全く異なる背景を持つ人たちもエホバに引き寄せられています。真理に関心を持つクイーニー・ロッソウという女性は会衆の書籍研究に出席し,書籍研究の監督に,18歳の息子を訪問してほしいと依頼しました。その息子は,教理問答を受けるための準備をしていたのです。兄弟はその息子と良い話し合いができ,その青年は母親と共に集会に出席し始めました。母親は次に,夫のヤニーを訪問してほしいと兄弟に頼みました。ヤニーはオランダ改革派教会の長老で,自分の所属する教会の理事長も務めていました。幾つかの質問があり,兄弟の訪問を受けて聖書研究に応じました。

これは地域大会の週の出来事で,兄弟はクイーニーに大会への出席を勧めました。すると何とヤニーもやって来て,4日間ずっと出席したのです。ヤニーは,大会のプログラムやエホバの証人が互いに示し合う愛に強い感銘を受けました。18歳の息子と,教会の執事である長男も聖書研究に同席するようになりました。

この全員が教会を脱退し,すぐに集会に出席し始めました。野外奉仕のための集まりにも出席したのです。兄弟はヤニーに,バプテスマを受けていない伝道者の資格をまだ得ていないので一緒に野外奉仕には出られない,と言いました。するとヤニーは頬に涙し,これまでずっと真理を探してきたのでどうしても語りたい,と訴えました。

ロッソウ夫妻にはもう一人の息子がいました。22歳になるその息子は大学3年生で,神学部に通っていました。ヤニーはその息子に手紙を書き,これからは学費を出すつもりはないので家に帰ってきてほしい,と伝えました。その息子が家に戻ってから3日後,ヤニーとそれら3人の息子たちは会衆と共に丸1日,クリュガーズドルプのベテルで仕事を手伝いました。神学部に通っていた息子はベテルで目にした事柄に感動し,兄や弟と共に聖書研究を行なうことに同意したのです。その息子はしばらく研究した後,聖書について,大学に在籍した2年半の間よりも多くのことをこの1か月で学んだと言いました。

最終的に,家族全員がバプテスマを受けました。父親は今では長老で,息子の幾人かは長老や奉仕の僕です。娘の一人は正規開拓者です。

『天幕の綱を長くせよ』

ベテルは将来の拡大を見込んでゆとりをもって建てられていましたが,クリュガーズドルプの施設を献堂してからわずか12年で大掛かりな増築が必要になりました。(イザ 54:2)その12年間に,南アフリカおよび同支部の管轄下にある国々の伝道者数は62%増えたのです。倉庫と3棟の新しい宿舎が建設されました。さらに,洗濯室と事務棟が拡張され,第二食堂も設けられました。1999年10月23日,これら増築部分がエホバに献堂され,統治体のダニエル・シドリックが献堂式の話をしました。

もっと最近ではプリンタリー(印刷施設)が拡張され,床面積は8,000平方㍍広がりました。そこには新しいマン・ローランド製リソマン輪転機が設置されました。支部にはまた,雑誌の断裁,カウント,積み重ねを自動的に行なう機械も入りました。ドイツ支部からは製本ラインが寄贈され,南アフリカ支部はサハラ以南の国々のためにソフトカバーの書籍や聖書を生産できるようになりました。

大会のためのふさわしい施設

大会ホールの必要を満たすためにも,多くの建設作業が計画されてきました。最初の大会ホールは,ヨハネスブルクの南のエイケンホフに建てられ,1982年に献堂されました。ケープタウンのベルヴィルにもホールが建てられ,1996年にミルトン・ヘンシェルが献堂式の話をしました。2001年には,プレトリアとヨハネスブルクの間にあるミッドランドに,もう一つのホールが完成しました。

ミッドランドでの工事に当初反対していた地域住民は,兄弟たちについて知り,兄弟たちが行なっている事柄を見て態度を変化させました。ある住民は,1年以上にわたって2週間おきに果物や野菜を箱単位で差し入れました。寄付をした会社もあります。ある会社は,造園のために堆肥を無料で届けてくれました。工事のために1万ランド(約15万円)を小切手で寄付した会社もあります。言うまでもなく,兄弟たちも大会ホールのために惜しみない寄付をしました。

この大会ホールは,良い設計の美しい建物です。献堂式の話をした統治体のガイ・ピアースが述べたとおり,大会ホールは偉大な神エホバを敬うために用いるとき,真に美しい建物となります。―王一 8:27

人間の法律は障害にならない

長年,黒人地区でふさわしい大会会場を確保するのは困難でした。リンポポ州の黒人の兄弟たちは,リザーブと呼ばれた居留地に住んでいました。当時,そこには白人が入れませんでした。地域監督のコリー・セーヘルスは,居留地への立ち入り許可を得られなかったため,大会の会場を見つけることができませんでした。

セーヘルス兄弟は,黒人居留地に隣接する農地の所有者と交渉しました。その農場主は自分の敷地内で大会を開くことは望まなかったものの,兄弟がトレーラーハウスを止めることは許しました。結局,居留地内の空き地で大会を開くことになりました。空き地と農場主の土地とは,有刺鉄線の柵で隔てられていました。兄弟は,空き地の真横にトレーラーハウスを止め,そこから話をしました。出席した兄弟たちは,“演壇”からは柵で隔てられていたものの,大会のプログラムを楽しみました。セーヘルス兄弟も法律に違反せずに話ができたのです。

野外に益をもたらした変更

統治体は,純粋に関心を示すすべての人に文書を無償で提供する取り決めを,2000年以降に南アフリカのすべての会衆で実施するよう指示しました。伝道者は,世界的な福音宣明の業に対して少額の寄付を行なえることを人々に伝えます。

自発的な寄付の取り決めは野外の人々だけでなく,兄弟たちにも益となりました。かつては「ものみの塔」研究や会衆の書籍研究で使う出版物を手に入れるための費用を払えない人が大勢いました。伝道者が100人いる幾つかの会衆で,自分用の「ものみの塔」誌を持っていたのはわずか10人ほどでした。今ではだれもが自分用の雑誌を持てます。

ここ数年,ベテルの国外発送部門の仕事は大幅に増えました。2002年5月には,合計432㌧の物資が他のアフリカ諸国に発送されました。その大部分は聖書文書でした。

現在南アフリカ支部は,マラウイ,モザンビーク,ザンビア,ジンバブエの各支部で用いるさまざまな言語の文書を保管し,発送しています。会衆から依頼された文書は,各支部の車両にそのまま移し替えられるような形でトラックに積み込まれます。その後,各支部の車両が積み荷を文書集積所に届けます。

自発的な寄付の取り決めが実施されてから,文書の需要は大幅に増えました。南アフリカ支部での雑誌の生産量は,月に100万部から440万部へと飛躍的に伸びました。依頼される文書も急増し,年間3,800㌧に達しています。1999年には200㌧だったのです。

南アフリカ支部は他のアフリカ諸国に建築資材も送っています。さらに,困窮している兄弟たちに救援物資を送る活動も組織しています。厳しい迫害のために家を追われ,難民キャンプに定住したマラウイの兄弟たちに,幾度も援助の手が差し伸べられました。アンゴラへは,1990年に厳しい干ばつによる大きな被害が生じた際に救援物資が送られました。また,内戦のために貧困に陥った大勢の兄弟たちにも食糧や衣類がトラックで送られてきました。2000年には,大規模な洪水に見舞われたモザンビークの兄弟たちに援助が行なわれました。さらに,2002年と2003年初めに厳しい干ばつの被害を受けたジンバブエの兄弟たちに,800㌧のトウモロコシが送られました。

翻訳における進展

南アフリカ支部には大きな翻訳部門があります。聖書を翻訳する必要性が増し,幾年か前に奉仕者が増員されました。現在,102人の翻訳者が13の言語に文書を翻訳しています。

「新世界訳聖書」は今ではアフリカの七つの言語で入手できます。ツワナ語の聖書について,ある兄弟はこう述べました。「この聖書はとても読みやすく,自分で読む時も,朗読を聞く時も分かりやすいと感じます。霊的に養われるよう取り計らってくださったことを,エホバに,そして霊に導かれた組織に感謝しています」。

翻訳の助けとして,現代の科学技術も活用しています。南アフリカ支部の兄弟たちが翻訳者を助ける目的でソフトウェアの開発に携わっていたとき,同様の目的を持つ部門がブルックリン本部に設置されました。開発されたプログラムはやがて一つにまとめられ,ワッチタワー・トランスレーション・システムと呼ばれるようになりました。南アフリカ支部のプログラマーたちは,このシステムで用いるソフトウェアの開発に大きく貢献しました。

兄弟たちは,翻訳そのものを行なうコンピューター・プログラムを作ろうとしたわけではありません。そうした取り組みをする一般の会社もありますが,成果は限られています。兄弟たちはむしろ,翻訳作業に役立つツールを提供することに専念しました。一例として,聖書の本文が電子データの形で用意されています。さらに,翻訳者たちは共有の電子辞書を作ることもできます。言語によってはふさわしい市販の辞書がないため,この辞書がとても役立ちます。

ろう者の区域で種をまく

奉仕者たちは,王国の音信をあらゆる人に伝えようと努めます。ろう者と意思を通わせることは簡単ではありませんが,喜ばしい結果が得られています。1960年代に,ジューン・カリカスはろう者の女性と聖書研究を始めました。その女性と,やはりろう者である夫は進歩し,バプテスマを受けました。

それ以来,真理を受け入れるろう者が増え,手話の群れが国内の幾つかの都市に作られています。今では手話セクションのある大会も珍しくありません。ろう者の兄弟姉妹が手話で歌い,両手を振って会場の他の出席者と共に“拍手”する様子は感動を与えます。

最初の手話の群れは,ヨハネスブルクのブリクストン会衆に設立されました。その際,物事を監督したのが,ジューンの夫で長老であるジョージでした。ベテルの兄弟たちを含め,会衆内の意欲を持つ兄弟たちに手話の訓練が施されました。今では南アフリカ支部の管轄下にある区域に,手話の会衆が一つ,群れが五つあります。

王国の実は他の国々でも生み出される

南アフリカ支部は他の5か国における福音宣明の業を監督しています。それらの区域で王国の業がどのように進展しているか,手短にお伝えしましょう。

ナミビア

ナミビアの国土は,大西洋からボツワナの西部国境まで続いています。第一次世界大戦後,ナミビアは国際連盟によって南アフリカの委任統治領とされました。政情不安が続いて多くの人命が失われた後,1990年に独立しました。国土の大半は乾燥し,人口もまばらです。とはいえ,種々の野生動物と珍しい植物の生息する,目をみはるほど美しい場所もあります。ナミブ砂漠には多くの観光客が訪れます。人々は,厳しい環境で生き抜く野生動物の多様性に驚くことでしょう。雄大な景色,そして九つの公用語を話すさまざまな民族は,この国のすばらしい特色です。

ナミビアに王国の音信を広めるための努力が初めて払われたのは1928年のことです。その年,南アフリカ支部は,直接訪問できない人々に大量の聖書文書を郵送しました。そのころのこと,後にナミビアで最初の献身したクリスチャンとなる人が珍しい方法で真理を知りました。その人,ベルンハルト・バーデはある日,卵を買いました。卵は一個ずつ,エホバの証人の出版物から切り取った紙で包まれていました。ベルンハルトは包装紙に記されている事柄を,その出どころを知らずに熱心に読みました。そしてついに,出版物の最後のページで包まれた卵に行き当たりました。そこにドイツ支部の住所が載っていたのです。ベルンハルトは,さらに文書を送ってほしいと手紙で伝えました。後にベルンハルトの会衆を訪問した巡回監督によると,兄弟は亡くなるまで毎月欠かさず伝道を行ないました。

1929年,レニー・テロン姉妹がナミビアの首都ウィントフークに派遣されました。開拓者のテロン姉妹は,列車や郵便馬車で移動し,国内の主要な町すべてで証言を行ないました。姉妹は4か月で,アフリカーンス語,英語,ドイツ語の書籍や小冊子を6,388冊配布しました。ナミビアに時おり伝道に来た開拓者たちはいたものの,真理に関心のある人を助けるためにとどまった人はいませんでした。しかし,1950年に幾人かの宣教者がやって来て,その状況は変わりました。ガス・エリクソン,フレッド・ヘイハースト,ジョージ・クートなどがそうです。これらの兄弟は皆,亡くなるまで立派に,そして忠実に奉仕を続けました。

1953年には国内に,ディック・ウォルドロンと妻のコラリーを含む8人の宣教者がいました。 * 宣教者たちは,キリスト教世界の僧職者と地元の当局者からの強い反対に対処しなければなりませんでした。ウォルドロン夫妻は先住民族に聖書の音信を伝えたいと思いましたが,黒人地区に入るには政府の許可が必要でした。兄弟は許可を申請したものの,それは認められませんでした。

ウォルドロン夫妻は,1955年に娘が誕生した後に宣教者奉仕を離れなければなりませんでしたが,兄弟はしばらく開拓奉仕を続けました。1960年,兄弟はついに黒人居住区の一つ,カツツラに入る許可を得ました。「素晴らしい関心が示されました」と述べています。程なく,この居住区の幾人もの人が集会に出席するようになりました。ウォルドロン夫妻は,ナミビアに来て50年余りを経た今も,この国で忠実に奉仕しており,王国の業を推し進める点で貴重な貢献をしています。

ナミビアのさまざまな人種グループに聖書の真理を伝えることは簡単ではありませんでした。ヘレロ語,クワンガリ語,ンドンガ語など,現地語の聖書文書は全くなかったのです。当初は,教育のある地元の聖書研究生が,土地のエホバの証人の監督のもとでパンフレットやブロシュアーを幾らか翻訳しました。そのころ特別開拓者だったエスター・ボーンマン姉妹はクワニャマ語を学び,もう一つの現地語に加えてクワニャマ語も話せるようになりました。ボーンマン姉妹は,ンドンガ語を話すエイナ・ネクワヤ姉妹と共に「ものみの塔」誌を翻訳しました。こうして,一部の記事がクワニャマ語に,他の記事がンドンガ語に翻訳された雑誌が発行されたのです。どちらの言語もオバンボランドで用いられ,そこに住むほとんどの人が理解できます。

1990年には,設備の整った翻訳事務所がウィントフークに開設されました。翻訳者は増員され,今ではクワニャマ語とンドンガ語に加え,ヘレロ語,クワンガリ語,コエコエ語,ンブクシュ語にも聖書文書が訳されています。アンドレ・ボーンマンとスティーブン・ジャンセンがこの事務所を監督しています。

ナミビアはダイヤモンドの主要な産出国です。「ものみの塔」誌,1999年7月15日号,「ナミビアの,生きた宝石」という記事はその点に触れ,心の正直な人たちを「生きた宝石」に例えました。そして,福音宣明の活動がかなり行なわれてきたものの,ほとんど手の付けられていない地域も幾つかあると述べました。記事には次のような呼びかけがありました。「あなたは,熱心な王国宣明者の必要が大きい場所で奉仕できる立場にあるでしょうか。そうであれば,どうぞナミビアへ渡って来て,わたしたちが霊的な宝石をさらに見いだし,磨くのを助けていただけませんか」。

実に喜ばしい反応がありました。オーストラリア,ドイツ,日本,南米の幾つかの国など,各国の兄弟たちから合計130件の問い合わせがありました。こうして83人の証人がナミビアを訪れ,18人が現地にとどまりました。18人中16人は正規開拓者でした。その幾人かは,後に特別開拓者に任命されました。これら奉仕者の進んで働く精神は,他の人にも広がりました。今でも支部事務所には,「ものみの塔」誌に掲載された呼びかけについて尋ねる手紙が寄せられています。ウィリアム・ハインデルとエレン・ハインデルは,1989年以来,ナミビア北部で宣教者として奉仕しています。二人は,その地域に住むオバンボ族が用いるンドンガ語を学ばなければなりませんでした。この珍しい区域における二人の忍耐と勤勉な働きは豊かに報われました。兄弟はこう語っています。「若者たちが成長して霊的な男子になるのを見てきました。その中にはわたしたちの研究生だった人もおり,ある人たちは会衆で長老や奉仕の僕として仕えています。そのような兄弟たちが大会で話をしているのを見ると,誇らしく思います」。

近年では宣教訓練学校の卒業生が幾人もナミビアに派遣されており,関心を持つ人を助け,会衆に仕える点で良い働きをしています。2006年のナミビアの伝道者数は,前年の3%増に当たる1,264人でした。

レソト

レソトは人口240万人の小さな国で,四方を南アフリカに囲まれています。国土はドラケンスバーグ山脈に位置し,足腰に自信のある登山者はその見事な景色を楽しめます。

この国の歴史はおおむね平穏でしたが,政情の不安定な時期もありました。1998年には,選挙結果をめぐって首都マセルで軍と警察との戦闘が起きました。ベイヨ・クイスミンと妻のシルパは当時,マセルで宣教者として奉仕していました。兄弟はこう語っています。「幸い,戦闘でけがをした兄弟は少数でした。食料や燃料などの必需品を持っていない人のために救援活動が組織されました。結果として会衆内の一致の絆が強まり,国全体で集会の出席者数が増えました」。

レソトの経済は主に農業に依存しています。経済状態が良くないため,男性の多くは南アフリカの鉱山へ出稼ぎに行きます。物質的に貧しい国とはいえ,この山岳王国でも貴重な霊的宝が見つかっており,大勢の人が聖書の真理にこたえ応じています。2006年には前年より2%多い3,101人が王国をふれ告げました。現在,マセルでは3組の夫婦 ― ヒュティンガー夫妻,ニュグレン夫妻,パリス夫妻 ― が宣教者として奉仕しています。

アベル・モディバは1974年から1978年にかけてレソトで巡回監督として奉仕しました。現在は妻レベッカと共に南アフリカのベテルにいます。兄弟はゆったりとした口調で,レソトの印象についてこう語ります。「農村部にはたいてい道がありませんでした。孤立した伝道者のグループの所には徒歩で行きました。7時間歩くこともありました。兄弟たちはよく,馬を2頭連れてきました。1頭はわたしを乗せるため,もう1頭はわたしの荷物を積むためです。時にはスライド映写機と12ボルトのバッテリーを運ぶこともありました。川が増水していたら,水位が下がるまで数日待ちました。幾つかの村では,首長が村人全員に公開講演を聞きに来るよう呼びかけました。

「兄弟たちの中には,何時間も歩いて集会に来る人たちがいました。そのため巡回監督の訪問の週には,遠くに住む兄弟たちが王国会館の近くに住む兄弟たちの家に泊まるのが普通でした。それで,訪問は特別な機会となりました。晩になると兄弟たちは集まって経験を語り合い,王国の歌を歌います。そして翌日は野外宣教に出かけるのです」。

ペール-ウーラ・ニュグレンとビルギッタ・ニュグレンは,1993年からマセルで宣教者として奉仕しています。ビルギッタが語る経験は,他の人を助ける点で雑誌の持つ価値を示しています。「1997年にわたしはマパレサという女性と研究を始めました。マパレサは集会に出席し始めましたが,研究のために訪ねても家にいないことがありました。隠れてしまうこともしばしばでした。そのため,研究は中止しましたが,雑誌経路として訪問を続けました。幾年か後,マパレサが集会にやって来ました。怒りを抑えることに関する『ものみの塔』誌の記事を読み,自分の問題に対するエホバからの答えを得たと感じたそうです。それまでは親族と言い争いが絶えなかったのです。研究が再開され,以来マパレサは集会を休んでいません。また,野外宣教に活発に携わるようになりました」。

レソトの兄弟たちは多年にわたって,さまざまな場所を王国会館として使っていました。しかし近年では,王国会館建設の費用を賄う点で南アフリカ支部がレソトの会衆を援助しています。

モコトロングという町は標高約3,000㍍に位置し,王国会館はアフリカで最も標高の高い所にあります。この王国会館を建てるため,遠くはオーストラリアや米国カリフォルニア州から自発奉仕者が駆けつけました。南アフリカのクワズールー・ナタール州の兄弟たちは,資金面で援助し,機材を現場に運ぶための車も用意しました。自発奉仕者の宿舎はごく簡素で,寝具や調理器具は持参しなければなりませんでした。王国会館は10日で完成しました。1910年に生まれた地元のお年寄りの兄弟は,毎日現場に顔を出して建設の進捗状況を見守りました。兄弟は,エホバに仕えるようになった1920年代から集会の場所を持ちたいと思っていたのです。“自分の”王国会館が完成してゆく様子を見て,たいへん喜びました。

2002年,レソトは飢きんに見舞われました。ひき割りトウモロコシや他の必需品がトラックで運ばれてきて,被災地の証人たちに配られました。次のような感謝の手紙が寄せられています。「兄弟たちが我が家にひき割りトウモロコシを届けに来た時,ただただ驚きました。何が必要かどうして分かったのでしょうか。思いも寄らない仕方で助けがあったことをエホバに感謝しました。このことから,エホバ神とその組織に対する信仰が強まりました。私は魂をこめてエホバに仕えてゆく決意でいます」。

ボツワナ

カラハリ砂漠が国土の大半を占め,人口は170万人余りです。気候はおおむね暑く,乾燥しています。数多くある自然公園や野生動物保護区に観光客が訪れます。風光明媚なオカバンゴ・デルタは,手つかずの自然と野生動物の多いことで人気があります。このデルタ地帯の水路では昔から,地元の木で作られた,モコロという丸木船が交通手段となっています。ボツワナの経済は,おもにダイヤモンドの採鉱のために健全な状態にあります。1967年にカラハリ砂漠でダイヤモンドが発見されてから,世界の主要なダイヤモンド産出国になりました。

神の王国の音信が初めてボツワナに届いたのは,1929年のことのようです。一人の兄弟が数か月のあいだ宣べ伝える業を行ないました。1956年に,ジョシュア・トンゴアナはボツワナで巡回監督に任命されました。 * 兄弟によると,当時その国ではエホバの証人の文書は発行が禁止されていました。

熱心な宣教者たちは,実り豊かなこの区域で良い結果を得ています。ブレーク・フリズビーとグウェン・フリズビー,それにティム・クラウチとバージニア・クラウチは,ツワナ語の習得に励んできました。国の北部では,ベイヨ・クイスミンとシルパ・クイスミンが人々に霊的な援助を意欲的に与えています。

国の南部では,ヒュー・コーミカンとキャロル・コーミカンが燃えるような宣教者精神を表わしています。兄弟はこう語ります。「会衆にエディという12歳の兄弟がいます。エディはまだ幼いころから読み方を学ぼうと努力してきました。神権宣教学校に入ることと,野外宣教に出ることを目指していたのです。バプテスマを受けていない伝道者の資格をとらえると,奉仕に多くの時間を充て,クラスメートと聖書研究を始めました。バプテスマを受けてからは補助開拓をしています」。

ボツワナの会衆の多くは,繁栄した首都ガボローネとその近郊にあります。首都は東の国境付近に位置し,その地域に人口が集中しています。他の人々は,西部の村々やカラハリ砂漠に住んでいます。カラハリ砂漠では今もサン族が数家族で移動生活を行ない,食べ物を採集し,弓矢で猟をしています。奉仕者たちは,孤立した区域で特別な伝道活動を行なった際,奥地の遊牧民に聖書の真理を伝えるために何千キロも移動しました。それら遊牧民は,食物を栽培し,地元で手に入る材料で小屋を建て,まきを拾い集めるなど忙しく,他の事柄のための時間はほとんどありません。それでも,見知らぬ人がさわやかな聖書の音信を携えて来ると,屋外で快く話に耳を傾けます。人々は集まって来て,砂漠のさらさらした砂の上に座って話を聞くのです。

一時的な特別開拓者として奉仕した6人のグループの一人,スティーブン・ロビンズはこう語ります。「この土地の人々は絶えず移動しています。わたしたちが道路を渡る感覚で国境を越えるかに見えます。オカバンゴ川を渡る船の上で,聖書研究生のマークスに会いました。マークスから,友人や親族に聖書の真理を伝えに行くため仕事の休みを取ったことを聞き,うれしく思いました。マークスは自由な時間をすべて福音宣明に充てています」。

ボツワナでは良いたよりに対する励みの多い反応が見られます。2006年には,前年の6%増に当たる1,497人が宣べ伝える業に携わりました。

スワジランド

この小さな君主国には,約110万人が住んでいます。おもな産業は農業ですが,多くの男性は南アフリカに出稼ぎに出ています。スワジランドは自然の美しい国で,動物保護区も幾つかあります。スワジ族は親しみ深い人々で,今も数々の伝統に従っています。

前国王ソブーザ2世はエホバの証人に好意的で,その文書をかなり所有していました。毎年,王宮に僧職者たちだけでなくエホバの証人の一人も招いて,聖書に関する話をさせました。1956年のこと,招かれたエホバの証人は,魂の不滅に関する教理と宗教指導者を名誉称号で呼ぶことについて話しました。その後,国王は宗教指導者たちに,今の説明が正しいかどうかを尋ねました。宗教指導者は兄弟の話を論ばくできませんでした。

兄弟たちは,先祖崇拝に根ざす伝統的な喪の習慣に対して,確固とした立場を取らなければなりませんでした。スワジランドの幾つかの地域では,エホバの証人が部族の首長によって自宅を追われました。伝統的な喪の習慣に従わなかったためです。他の地域に住む霊的な兄弟たちが,そのような証人たちを必ず顧みてきました。この件についてスワジランド最高裁判所はエホバの証人に有利な判決を下し,エホバの証人が自分の家や土地に戻れるようにすべきであると裁定しました。

ジェームズ・ホケットとドーン・ホケットは,スワジランドの首都ムババーネで宣教者として奉仕しています。兄弟はギレアデ学校を1971年に,姉妹は1970年に卒業しました。兄弟は,宣教者たちが異なる習慣にどのように順応しなければならないかを示す,次の例を挙げています。「未割り当ての区域で奉仕していた時,首長から公開講演をするように言われました。首長は人々を集めました。そこは建設現場で,辺りにはコンクリート・ブロックが幾つか置かれていました。地面が濡れていたので,わたしは一つのブロックに腰掛け,妻はその同じブロックのわたしの隣に腰を下ろしました。すると,スワジ族の姉妹が妻に近づいて,自分の隣に座るよう勧めました。妻は,ここで大丈夫ですと言いましたが,姉妹はどうしても譲りませんでした。あとでその理由が説明されました。男性が幾人か地面に座っていたので,女性が男性よりも高い場所に座るわけにはいかなかったのです。それが農村地域のしきたりでした」。

ホケット夫妻は,以前に関心を示した女性教師に会おうとして,ある学校を訪れました。その教師は一人の少年に,今は都合が悪いと伝えてほしいと言いました。それで夫妻は,パトリックというその少年と話すことにし,わたしたちが何のために来たと思いますか,と尋ねました。少し話し合った後,「若い人が尋ねる質問 ― 実際に役立つ答え」の本を渡し,パトリックと聖書研究が始まりました。孤児であるパトリックは,叔父の家に続いた一つの部屋に住んでいました。料理を含め,身の回りのことは自分で行ない,学費を支払うためにアルバイトをしなければなりませんでした。パトリックはよく進歩してバプテスマを受け,今では会衆の長老として奉仕しています。

スワジランドでは,1930年代に福音宣明の業が始まって以来,励みのある反応が得られています。2006年には,国内で2,292人が神の王国の良いたよりを活発に広め,2,911件の聖書研究が司会されました。

セントヘレナ

長さ17㌔,幅10㌔のこの小さな島は,アフリカ南西海岸の西方に位置しています。概して温暖で心地よい気候の島です。人口は約4,000人で,ヨーロッパ系,アジア系,アフリカ系の人々が入り混じっています。独特のアクセントの英語が用いられています。空港はなく,南アフリカや英国への定期船が運航しています。テレビを見ることができるようになったのは,1990年代半ばに衛星放送が利用されるようになってからのことです。

神の王国の良いたよりがセントヘレナに初めて達したのは,1930年代の初め,二人の開拓者がその島に短期間滞在した時のことです。警察官でバプテスト教会の執事でもあったトム・スキピオは,その二人から文書を幾らか受け取りました。トムは学んだ事柄について人々に話すようになり,説教壇から,三位一体や地獄の火や不滅の魂などはないことを明らかにしました。聖書の真理を支持したトムと幾人かの人たちは,教会を出て行くように言われました。やがてトムとその少人数のグループは,3台の蓄音機を用いて野外宣教を始め,徒歩で,またロバに乗って島を回りました。トムは6人の子どもたちに真理をしっかり教え込みました。

1951年,この島の忠実な証人たちのグループを励まし,援助するために,南アフリカのヤコブス・ファン・スタデンが遣わされました。ヤコブスは,島の証人たちが宣教奉仕をもっと効果的に行なえるように助け,会衆の定期的な集会を組織しました。トムの息子の一人ジョージ・スキピオ *は,皆を集会に連れて行くための苦労についてこう語っています。『関心を抱いた人たちみんなには車が2台しかなかったのです。土地はでこぼこだった上,丘陵が多く,当時,立派な道路はほとんどありませんでした。中には,朝早く歩き始める人もいました。私は自分の小型車に3人を乗せて少し進んだ所で降ろし,その3人は歩き続けました。私は引き返してほかの3人を少し先まで運んで降ろすと,また引き返しました。こうして,最後にはみんなが集会に出席しました』。後にジョージは結婚し,4人の子どもをもうけましたが,開拓者として14年間奉仕することができました。息子のうち3人は長老として奉仕しています。

ヤニー・マラーは妻アネリースと共に,1990年代に巡回監督としてセントヘレナを幾度か訪問しました。兄弟はこう語ります。「野外で奉仕者と共に働くと決まって,次の家にはどんな人が住んでいるか,どんな反応が返ってくるかを教えてくれます。この島を訪問して『王国ニュース』の『いつの日かすべての人が互いを愛するようになりますか』を配布した時は,島全体を午前8時半から午後3時までの1日で回り終えました」。

マラー兄弟は,島に着いた時と島を離れる時のことが特に印象深いと言います。「船が着くと,ほとんどの兄弟が波止場に集まって出迎えてくれます。また,兄弟たちはわたしたちの出発の日について,涙があふれて止まらなかったと言います。実際にそうでした。波止場に並んで手を振る兄弟たちは皆,泣いていました」。

2006年には島全体で125人が聖書の真理を伝えました。記念式の出席者は239人でした。伝道者の比率は人口30人につき1人です。これは世界で最も高い比率です。

今後の見込み

南アフリカでは,人種間のあつれきが人々の生活に影を落としてきました。その中で,エホバの証人は人種の壁を越えた,他に類を見ない『結合のきずな』で結ばれています。(コロ 3:14)一般の人々もその様子に注目しています。1993年に,海外から大勢のエホバの証人が国際大会に出席するためにこの国を訪れました。ダーバンでは,約2,000人の証人が空港で米国や日本からの出席者を出迎えました。ロビーに出てくる仲間を,王国の歌を歌って歓迎したのです。兄弟たちは温かいあいさつを交わし,抱き合いました。見ていた人の中には,著名な政治指導者がいました。この人は,ある兄弟たちとの会話の中で,「もし我々があなたたちと同じ一致の精神を持っていれば,とっくの昔に我々の問題を解決していただろう」と言いました。

2003年の「神に栄光」国際大会は,出席者すべてを霊的に大いに築き上げました。南アフリカでは幾つかの主要都市で国際大会が開かれ,それより規模の小さな地域大会も各地で開かれました。国際大会には統治体の二人の成員,サミュエル・ハードとデービッド・スプレーンが出席し,話を行ないました。18か国から代表者たちが出席しました。代表者の中には,伝統衣装を身に着けた人たちもおり,国際色豊かな集いとなりました。大会全体の出席者は16万6,873人で,バプテスマを受けた人は2,472人でした。

ケープタウンの国際大会に出席したジャニーンは,発表された「偉大な教え手から学ぶ」の本に対する感謝をこう綴っています。「この贈り物にどれほど感謝しているか,言葉では言い尽くせません。これは子どもたちの心を動かす本です。エホバはご自分の民が何を必要としているかを知っておられます。会衆の頭であるイエスも,今の不敬虔な世でわたしたちがどのように苦闘しているかをご存じです。エホバと地上の神の僕たちに心からの感謝をお伝えします」。

過去100年余りにわたる南アフリカのエホバの証人の歴史を振り返る時,忠実な人々が示した忍耐と確固たる態度を喜ぶことができます。2006年には,7万8,877人の伝道者が8万4,903件の聖書研究を司会しました。同じ年の記念式には18万9,108人が出席しました。こうした状況を考えると,イエスの次の言葉が世界の畑のこの部分にも当てはまることが分かります。「さあ,あなた方に言いますが,目を上げて畑をご覧なさい。収穫を待って白く色づいています」。(ヨハ 4:35)なすべき仕事はまだたくさんあります。エホバが業を導いておられる数々の証拠について考えると,わたしたちは世界じゅうの兄弟たちと共に,声を大にしてこう語らずにはいられません。「地のすべての者よ,エホバに勝利の叫びを上げよ。歓びをもってエホバに仕えよ」。―詩 100:1,2

[脚注]

^ 17節 南アフリカでは,混血の人々を指してこの語が用いられました。

^ 29節 ポール・スミットのライフ・ストーリーは,「ものみの塔」誌,1985年11月1日号,10-13ページに掲載されています。

^ 40節 ジョージ・フィリップスのライフ・ストーリーは,「ものみの塔」誌(英語),1956年12月1日号,712-719ページに掲載されています。

^ 61節 ピート・ウェンツェルのライフ・ストーリーは,「ものみの塔」誌,1986年7月1日号,9-13ページに掲載されています。

^ 97節 フランズ・マラーのライフ・ストーリーは,「ものみの塔」誌,1993年4月1日号,19-23ページに掲載されています。

^ 231節 ウォルドロン夫妻のライフ・ストーリーは,「ものみの塔」誌,2002年12月1日号,24-28ページに掲載されています。

^ 250節 ジョシュア・トンゴアナのライフ・ストーリーは,「ものみの塔」誌,1993年2月1日号,25-29ページに掲載されています。

^ 266節 ジョージ・スキピオのライフ・ストーリーは,「ものみの塔」誌,1999年2月1日号,25-29ページに掲載されています。

[174ページの拡大文]

セントヘレナの伝道者の比率は人口30人につき1人。これは世界で最も高い比率

[68,69ページの囲み記事]

アパルトヘイトとは何か

「アパルトヘイト」という言葉は,文字どおりには「隔離」を意味します。1948年の選挙期間中に国民党が初めてこの言葉を用いました。この年の選挙に勝った国民党は,オランダ改革派教会の強固な後ろ盾を得て,南アフリカのさまざまな人種の徹底した分離を政府の公式の政策としました。白人が確実に優位に立てるよう意図されたこの政策をもとに数々の法律が制定され,生活の基本を成す事柄 ― 住居,仕事,教育,公共施設の利用,政治への参加など ― が規制されました。

主な人種グループは,白人,バンツー(アフリカ黒人),カラード(混血の人々),アジア人(インド人)に分類されました。アパルトヘイトを提唱した人々は,それぞれの人種がホームランドと呼ばれる指定地を持つべきであると主張しました。その場所で,独自の文化や習慣にそって生活し,発展できるというわけです。それが実現可能だと考える人もいましたが,現実は違いました。銃や催涙弾や猛犬などにより,大勢の黒人がわずかな所有物と共に自分の家を追われ,別の地域に移動させられたのです。銀行や郵便局など,ほとんどの公共施設は白人用と非白人用の区画に分けられ,レストランや映画館に入れるのは白人だけでした。

その一方で,白人は仕事においても家庭においても黒人の安価な労働力に頼っていました。そのため,家族の分離が生じました。例えば,黒人の男性は鉱山や工場で働くために都市へ行くことが許され,男性専用の簡易宿泊所で寝泊まりしましたが,妻たちはホームランドを離れることを許されませんでした。その結果,家族生活は崩壊し,不道徳がはびこるようになりました。また,白人の家で働く黒人の召使いは普通,所有者の敷地内にある建物の一室で暮らしましたが,召使いの家族は白人地域に住めなかったため,親子は長いあいだ会うことができませんでした。黒人は身分証明書を常に携帯する必要もありました。

アパルトヘイトは,教育,結婚,仕事,不動産の所有をはじめ,生活の多くの分野に暗い影を落としました。エホバの証人は,異なる人種の人どうしが一致していることでよく知られていましたが,神への神聖な奉仕が妨げられない限り,政府の法律に従いました。(ロマ 13:1,2)しかし可能な時は,さまざまな人種の仲間の崇拝者たちと交わる機会をとらえました。

1990年2月2日,当時の大統領F・W・デクラークは,アパルトヘイトの撤廃に関する措置を発表しました。それには,黒人政治組織の公認やネルソン・マンデラの釈放などが含まれていました。1994年に民主選挙により黒人多数派政権が発足し,アパルトヘイトは公式に廃止されました。

[72,73ページの囲み記事/地図]

概要 ― 南アフリカ

国土

南アフリカは,沿岸部を縁取るように低地があり,そこから山々がせり上がって広大な内陸高原を形成しています。この高原が国土の大半を占めています。内陸高原は東側つまりインド洋側で標高が最も高く,ドラケンスバーグ山脈は標高3,400㍍余りに達します。国土面積は日本の約3倍です。

住民

人口は4,400万人で,さまざまな文化的背景の人々から成っています。2003年に政府が発表した国勢調査の結果によると,国民は次の四つのグループに分けられます。黒人79%,白人9.6%,カラード8.9%,インド人またはアジア人2.5%。

言語

公用語は11ありますが,多くの人は英語を話します。公用語を使用人口の多い順に挙げると,ズールー語,コーサ語,アフリカーンス語,ペディ語,英語,ツワナ語,セソト語,ツォンガ語,シスワティ語,ベンダ語,ンデベレ語です。

生活

豊富な天然資源に恵まれ,金とプラチナの世界最大の産出国です。幾百万もの人が鉱山や農場で,また食品,自動車,機械,繊維などの工場で働いています。

気候

ケープタウンを含む,国の南端部は地中海性気候で,冬は雨が多く,夏は乾燥しています。内陸高原はそれとは異なり,夏場は激しい雷雨によってさわやかな清涼がもたらされ,冬場は空が晴れ渡って比較的暖かな日が続きます。

[地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ナミビア

ナミブ砂漠

カツツラ

ウィントフーク

ボツワナ

カラハリ砂漠

ガボローネ

スワジランド

ムババーネ

レソト

マセル

テヤテヤネング

南アフリカ

クルーガー国立公園

ニルストルーム

ブッシュバックリッジ

プレトリア

ヨハネスブルク

クレルクスドルプ

ダンディー

ヌドウェドウェ

ピーターマリッツバーグ

ダーバン

ドラケンスバーグ山脈

ストランド

ケープタウン

プレトリア

ミッドランド

クリュガーズドルプ

カギソ

ヨハネスブルク

エランズフォンテイン

ソウェト

エイケンホフ

ハイデルバーグ

[図版]

ケープタウン

喜望峰

[80,81ページの囲み記事/図版]

エホバのために証言した最初の機会

アベデネゴ・ラデベ

生まれた年 1911年

バプテスマ 1939年

プロフィール クワズールー・ナタール州ピーターマリッツバーグでの最初の黒人の会衆で奉仕した。忠実を保って1995年に亡くなる。

私はピーターマリッツバーグ近郊で生まれ育ちました。父はメソジスト派の説教師でした。私は1930年代半ばに,エホバの証人の発行した文書を何冊か手に入れ,読んだ事柄に共感しましたが,証人たちと交わる機会はありませんでした。

生活していた簡易宿泊所で,「天と煉獄」という小冊子をもらいました。それまで,こうした内容のものは読んだことがありませんでした。この小冊子のおかげで,復活や地上の希望について聖書が述べている事柄を理解するようになりました。それで,ケープタウンの支部事務所に手紙を書き,書籍を何冊か取り寄せました。

町でエホバの証人を見かけましたが,証人たちに近づくことに二の足を踏みました。「自分のほうから白人に近づくな。白人が近づいて来るのを待つように」というのが私の民族の習わしだったからです。

ある夕方,仕事の帰り道に,私の住んでいる宿泊所の脇に証人たちのサウンドカーが止まっているのが見えました。門の所まで来ると,サマースーツに身を包んだ体格の良い年配の男性が私に近づき,ダニエル・ヤンセンと名乗りました。証人たちと知り合うチャンスだと思い,ラザフォード兄弟の講話をどれか聞かせてほしいと頼みました。たちまち人だかりができました。講話が終わると,ヤンセンは私にマイクを持たせ,こう言いました。「この人たちも益が得られるように,ズールー語で講話の内容を説明してあげてください」。

「でも,話し手が述べたことを全部は覚えていません」。

「覚えていることだけでいいんです」。

手は震えていましたが,口ごもりながらもマイクに向かって一言二言,言葉を発しました。これがエホバのために証言した最初の機会となりました。そのあとヤンセンから,伝道に付いて来ないかと誘われました。しかし兄弟はまず,私が基本的な教えをどの程度理解しているかをチェックしました。聖書の教えを十分に理解し,受け入れているかを知るためです。兄弟は満足し,私はそれから4年の間,白人の会つまり会衆と交わりました。黒人は私一人でした。会衆は少人数で,ある兄弟の家で集まりを開きました。

当時,奉仕者にはそれぞれ証言カードが渡され,それを使って家の人に聖書の音信を伝えました。また蓄音機や,4分間の講話を収めたレコード数枚,文書を入れたかばんも持ち歩きました。

時間を有効に使うため,奉仕者は蓄音機を巻き上げ,新しい針に替えて,レコードをすぐかけられるようにしておきました。家の人がドアを開けると,あいさつをし,録音された講話を紹介する証言カードを家の人に手渡しました。レコードが半ばを過ぎるとかばんを開け,講話が終わった時に話に関連した書籍を提供できるようにしました。

[88,89ページの囲み記事/図版]

忠実な模範

ジョージ・フィリップス

生まれた年 1898年

バプテスマ 1912年

プロフィール 1914年に正規開拓者になる。南アフリカの支部の監督として40年近く奉仕し,1982年に忠実のうちに亡くなる。

ジョージ・フィリップスは,スコットランドのグラスゴーで生まれ育ちました。1914年,16歳で開拓奉仕を始め,1917年にはクリスチャンの中立を保ったため投獄されました。1924年に,ラザフォード兄弟から南アフリカで奉仕するよう要請され,こう言われました。「ジョージ,1年になるかもしれないし,それより少し長くなるかもしれません」。

フィリップス兄弟は,南アフリカに着いた時の印象をこう語っています。「英国と比べると万事が全く異なっていて,証言活動に関連した業は,あまりにも規模が小さく見えました。当時,全時間奉仕者は6人しかおらず,奉仕を多少なりとも行なっていたのは40人足らずでした。区域はケープタウンからはるかケニアまで広がっていました。1年でどうやって区域を網羅し,効果的な証言を行なえるのでしょうか。そんなことを心配して何になる,と自分に言い聞かせました。すべきことは,業に取りかかり,活用できる手段をすべて駆使し,あとはエホバにお任せすることでした。

「南アフリカは,多くの異なる人種や言語から成る多民族国家です。それらの人々と知り合えたことは,本当に喜びです。このような広大な畑で業を組織し,必要な土台を据えるのは容易なことではありませんでした。

「エホバは多年にわたり,私の必要すべてを愛情深く顧みてくださり,保護や導きや祝福を豊かに与えてくださいました。私は,『足ることを知りて敬虔を守る者は,大なる利益を得る』こと,また『至高者の秘められた所』にとどまりたいなら,神の組織に固く付き,一生懸命に神の業を神の方法で行なう必要があることを学びました」。―テモ一 6:6,「文語訳聖書」(日本聖書協会)。詩 91:1

[92-94ページの囲み記事/図版]

家族を霊的に援助する

ヨセファト・ブサネ

生まれた年 1908年

バプテスマ : 1942年

プロフィール 家族の頭。故郷のクワズールー・ナタール州のズールーランドから遠く離れたヨハネスブルクで働いていた時に真理を知る。

私は1908年に南アフリカのズールーランドで生まれました。家族は質素な農耕生活に満足していましたが,私は19歳の時にダンディーという町で店の手伝いの仕事をするようになりました。しばらくすると,多くの若い男性が,南アフリカの金採鉱の中心都市ヨハネスブルクでかなりのお金を稼いでいることを聞きました。それでヨハネスブルクに引っ越し,広告貼りの仕事を何年も続けました。様々な誘惑や機会に圧倒されましたが,都会での生活が私たちの民族の伝統的な道徳をむしばんでいることにやがて気づきました。多くの若い男性は田舎に住んでいる家族をほったらかしにしましたが,私は家族を決して忘れることはなく,定期的にお金を送っていました。1939年にズールーランド出身のクローディナという女性と結婚しました。結婚しても,私は400㌔離れたヨハネスブルクで働き続けました。仲間の多くも同じようにしていたのです。長いあいだ家族と離れているのは辛いことでしたが,家族が高い水準の生活を送れるよう助ける義務があると感じていました。

ヨハネスブルクに住んでいたころ,友達のエリアスと私は真の宗教を探す決意をしました。近隣の幾つかの教会に行ってみましたが,どの教会にも満足できませんでした。その後,エリアスはエホバの証人に出会い,私はエリアスと一緒にエホバの証人の会衆に定期的に交わるようになりました。それはヨハネスブルクで最初の黒人の会衆です。1942年に私はエホバに命をささげ,ソウェト地区でバプテスマを受けました。ズールーランドに戻る折には,クローディナにも私の信仰について伝えようとしましたが,妻は教会の活動に深くかかわっていました。

しかし,エホバの証人の出版物と聖書とを比較するようになると,徐々に神の言葉の真理は妻の心に達してゆきました。妻がバプテスマを受けたのは1945年です。妻はクリスチャンの熱心な奉仕者になり,聖書の真理を近所の人に伝え,子どもたちの心に教え込みました。一方,私にはヨハネスブルクで幾人かの人が聖書の真理を知るのを助けるという特権がありました。1945年の時点で,ヨハネスブルク周辺では黒人の会衆が四つになっており,私はスモールマーケット会衆で会の僕として奉仕していました。やがて,家族と離れて働いている既婚の男性に,聖書に基づく導きが与えられました。家族のもとに帰り,家族の頭として自分の責任をもっと十分果たすようにという導きです。―エフェ 5:28-31; 6:4

それで1949年,私はエホバの方法で家族を世話するため,ヨハネスブルクでの仕事をやめました。家に戻ってから得た仕事は,ある家畜検査官のもとで家畜を薬液に浸す仕事です。わずかな給料で妻と6人の子どもを養うのはたいへんでした。それで出費を賄うために,家で栽培していた野菜やトウモロコシも売りました。私の家族は物質的には富んでいませんでしたが,マタイ 6章19,20節のイエスの指示に注意を払ったため,霊的な宝を持っていました。

こうした霊的な宝を得るには勤勉でなければなりません。ヨハネスブルク近郊の鉱山で金を掘るときと同じです。毎晩,子どもたちと一緒に聖句を読み,何を学んだかを一人一人に尋ねました。週末には順番に伝道に連れてゆきました。農場から農場へ歩くあいだ,聖書に関係した事柄を話し合い,聖書の高い道徳規準を子どもたちの心に刻み込むよう努力しました。―申 6:6,7

何年にもわたって,旅行する監督をもてなすことができるのは私たちの家族だけでした。旅行する監督の兄弟たちやその妻たちは子どもたちにすばらしい影響を与え,全時間の福音宣明者になりたいという願いを抱けるよう助けてくださいました。私たちには全部で5人の男の子と一人の女の子が生まれました。今では6人とも成人し,霊的にしっかりしています。家族の霊的な必要にもっと注意を向けるよう私のような者を励ましてくださったエホバの組織の導きに心から感謝しています。その結果,お金で買えるどんなものよりもはるかにすばらしい祝福を得ました。―箴 10:22

ヨセファト・ブサネ兄弟は,1998年に亡くなるまでエホバに忠実に仕えました。成長した子どもたちは引き続き霊的相続財産を大事にしています。息子の一人テオフィルスは旅行する監督として奉仕しています。ブサネ兄弟に関する詳細な点は,「目ざめよ!」誌,1993年10月8日号,19-22ページに記されています。

[96,97ページの囲み記事/図版]

『王国を宣べ伝えることによってエホバに近づくことができました』

トマス・スコサナ

生まれた年 1894年

バプテスマ 1941年

プロフィール 開拓者として奉仕した区域で,人々を霊的に援助するために五つの言語を習得した。

私は1938年に,ある学校教師からエホバの証人の発行した小冊子を何冊かもらいました。当時私は,ヨハネスブルクから60㌔東のデルマスにあるウェスレー系の教会で説教師をしていて,以前からずっと聖書に深い関心を抱いていました。教会は,魂は不滅であり悪人は地獄で責め苦に遭うと教えていましたが,それらの小冊子は,そうした教えが正しくないことを聖書から示していました。(詩 37:38。エゼ 18:4)私は,神の民の大半は天へ行くのではなく,地上で永遠の命を得るという点も理解しました。―詩 37:29。マタ 6:9,10

こうした真理を知ることができて本当にうれしく思い,教会の信徒たちにも教えたいと思いましたが,仲間の説教師たちは反対し,私を教会から追放しようとしました。それで教会を脱退し,デルマスにあったエホバの証人の小さなグループと交わるようになりました。1941年にバプテスマを受け,1943年には開拓奉仕を始めました。

王国宣明者の必要が大きいラステンバーグに移動しました。私はその土地ではよそ者だったため,地元の首長に宿と滞在許可を願い求める必要がありました。首長から,12㍀払えば許可すると言われましたが,そのお金はありませんでした。しかし,ある親切な白人の兄弟が費用を払ってくれ,開拓奉仕を続けられるよう経済的な援助もしてくれたのです。私と研究した一人の男性はよく進歩し,私がその任命地から移動した後に会衆の僕に任命されました。

私は次に,さらに西のリヒテンバーグへ移動しました。今回は,その町の黒人地区に滞在する許可を白人の行政官に申請する必要がありました。しかし許可は得られませんでした。それで,リヒテンバーグからあまり遠くないマフィケングに住んでいた白人の開拓者の兄弟に助けを求めました。私たちは行政官の所へ行きましたが,こう言われました。「ここにいてもらっては困る。地獄などないと教えているが,地獄の火に対する恐れがないなら,人々はどうして正しいことを行なうかね」。

滞在許可が下りなかったため,私はマフィケングへ移り,現在もそこで正規開拓者として奉仕しています。母語はズールー語ですが,真理を学んですぐ,エホバの証人のすべての出版物を読むために英語を勉強することにしました。そのおかげで,霊的に成長することができました。

宣教奉仕を効果的に行なうため,セソト語,コーサ語,ツワナ語も話せるようになりました。またアフリカーンス語も少し話せます。長年にわたり,エホバに献身するよう多くの人を援助するという特権に恵まれました。その中の4人は現在,長老です。全時間奉仕は健康にも役立っています。

神への奉仕において良い齢に達することを許してくださったエホバに感謝しています。私は自分自身の力によって知識を得て野外で成功したのではありません。エホバが聖霊を通して助けてくださったのです。そして何よりも,全時間奉仕者として定期的に王国を宣べ伝えることによってエホバに近づくことができ,エホバに依り頼むことを学びました。

このインタビューは1982年に行なわれました。神の油そそがれた者の一人であったスコサナ兄弟は忠実な歩みを続け,1992年に亡くなりました。

[100,101ページの囲み記事/図版]

南アフリカで最初の地域監督

ミルトン・バートレット

生まれた年 1923年

バプテスマ 1939年

プロフィール ギレアデで訓練を受け,南アフリカに任命された最初の宣教者。特に黒人の人々の間で王国の業を推し進めた。

ギレアデで訓練を受けた宣教者ミルトン・バートレットがケープタウンに着いたのは,1946年12月のことです。兄弟は,南アフリカに派遣された最初の宣教者です。巡回奉仕と地域奉仕を組織する割り当てを受け,それを果たしました。当時,バートレット兄弟はただ一人の地域監督として奉仕しました。旅行する監督たちは,その後,長年にわたって南アフリカにおける王国の関心事の促進に,とりわけ黒人の人々の間で業を促進する点で大いに貢献しました。

バートレット兄弟は,南アフリカの兄弟たちから深く愛されました。兄弟たちが自分の問題を話す際に,辛抱強く,注意深く耳を傾けたので,兄弟たち全体に影響するような問題に関して,詳細で正確な報告を南アフリカ支部に送ることができました。こうして,兄弟たちは聖書の原則といっそう調和した行動や崇拝ができるようになりました。

このような援助ができたのは,兄弟が聖書によく精通していて,巧みな教え手だったからです。兄弟には固い決意と粘り強さもありました。それは白人である兄弟が,黒人居住区に入る許可を,アパルトヘイトを推し進める役人から得るために必要とされた特質です。偏見を抱く役人たちは大抵,許可を与えませんでした。そのため兄弟は,町議会などもっと上位の関係機関に助けを求める必要がありました。その場合,不利な決定が次の議会で覆されるまで待たねばなりませんでした。とはいえ,ほとんどの黒人居住区に,どうにかして入ることができました。

兄弟が講演する際,私服警察官が送り込まれ,講演の内容を調べられることもありました。一つには,キリスト教世界の僧職者たちが,エホバの証人は共産主義の扇動者であるという虚偽の訴えをしたからです。ある時,大会の話の内容を調べさせるために一人の黒人の警察官が送り込まれました。それから20年ほど後に,バートレット兄弟はこう書いています。「それは良い結果になりました。この警察官は,その週末に聞いた事柄によって真の崇拝を受け入れ,今も頑張っています」。

南アフリカに来た時,バートレット兄弟は23歳で,独身でした。当時この国には3,867人の伝道者がいましたが,それから26年後,その数は2万4,005人に達しました。1973年,兄弟は妻シーラと1歳になる息子ジェーソンと共に,高齢に達した両親の世話のために米国へ戻りました。1999年に兄弟姉妹は,増築された南アフリカ支部の献堂式に出席するために南アフリカを訪れました。このページの写真に写っているのは,その時の二人です。兄弟姉妹は,自分たちの愛の労苦を覚えている真理に古い大勢の人たちと再会でき,どれほど興奮したことでしょう。26年ぶりの再会だったのです。

[図版]

ミルトン・バートレットとシーラ・バートレット,1999年

[107ページの囲み記事/図版]

独特の景観

ケープタウンのシンボルとも言えるテーブルマウンテンは,この都市のすばらしい景観を作り出しています。ケープタウンをアフリカで最も美しい都市だと考える人もいます。

夏場,テーブルマウンテンの平坦な頂上全体が厚い雲に覆われることがあります。その雲は適切にも“テーブルクロス”と呼ばれています。強い風が山の斜面を吹き上がると,水蒸気が凝結して厚い雲になり,テーブルマウンテンにかかるのです。

[114-117ページの囲み記事/図版]

拘置中も忠誠を保つ

ローエン・ブルックスとのインタビュー

生まれた年 1952年

バプテスマ 1969年

プロフィール クリスチャンとしての中立の立場ゆえに,1970年12月から1973年3月まで拘置される。1973年に正規開拓者になり,1974年にベテルに入る。現在は支部委員。

軍の営倉はどのような状態でしたか。

個々の営倉は細長い建物で,通路を挟んで両側にそれぞれ34の監房がありました。通路の中央には雨水溝がありました。独房の広さは縦2㍍,横1.8㍍でした。そこから外へは日に2回出ることができました。朝は,洗顔と,ひげそり,そしてトイレ用のバケツを洗うために,午後は,シャワーを浴びるために出ることができました。手紙は書くことも受け取ることもできませんでした。聖書以外の本,またペンや鉛筆の持ち込みは許されず,面会も許可されませんでした。

ほとんどの兄弟は営倉に送られる前に,自分の聖書に「聖書理解の助け」(英語)などの本をとじ合わせました。それがアフリカーンス語やオランダ語の古い家庭用の大型聖書と似ていたので,看守には気づかれませんでした。

聖書文書を手に入れることができましたか。

はい,機会を見つけては,こっそり持ち込みました。私物は全部スーツケースに入れて,使われていない監房に保管されていました。石けんや歯磨き粉などもスーツケースの中にしまってあり,それらを補充するのに月に一度,取りに行くことが許されていました。スーツケースには文書も入っていたのです。

一人の兄弟が看守に話しかけて注意をそらしている間に,別の兄弟が自分の半ズボンとかアンダーシャツの下に本を隠しました。そして監房に戻ると,本を一つ一つの折丁に分解しました。そのほうが隠しやすかったからです。それらを兄弟たちに順に回して,全員が読めるようにしました。隠し場所もいろいろ考え出しました。補修されずに荒れた監房もあって,そこらじゅうに穴が開いていたのです。

私たちの監房はよく検査されました。それも,真夜中に検査が行なわれることもありました。看守はいつも文書を幾らか見つけましたが,全部を見つけ出すことはできませんでした。検査があることを,親切な兵士がよく教えてくれたものです。すると,私たちは文書をビニールに包んで,排水管の中に押し込みました。ある日,ひどい嵐になり,大変困ったことに,文書の包みの一つが営倉内の雨水溝に流れてきたのです。幾人かの兵士の受刑囚が,それをボール代わりにサッカーを始めました。と突然,看守が現われ,監房に戻るようにと命じました。ありがたいことに,その包みにはだれひとり見向きもしませんでした。そのすぐ後,監房から出られた時に包みを取り戻すことができました。

拘置中,忠誠の試みがありましたか。

はい,絶えずありました。刑務所の係官たちはいつも何かしら画策していました。例えば,食物を余分にくれたり,外で運動させてくれたり,日光浴をさせてくれたりして,私たちを非常に親切に扱うことがありました。ところが数日後,突然,カーキ色の軍服を着用するよう命令され,拒否すると以前のように過酷な扱いを受けました。

その後,兵士が使うプラスチック製のヘルメットをかぶるようにと命じられました。それを拒むと,大尉はひどく腹を立て,シャワーを浴びることすら許されませんでした。代わりに,一人一人にバケツが渡されました。監房内で体を洗うためです。

私たちには靴もありませんでした。そのため足から出血する兄弟もいたので,履物を作りました。まず,床を磨くのに使った古い毛布の切れ端を集めました。それから銅線を見つけて一方の端を平たくし,もう一方の端をとがらせ,平たくした方に鋲で穴を開けて縫い針の代わりにしました。自分たちが使っている毛布から糸を抜き取り,集めた古い毛布の切れ端で履物を縫い上げました。

ある時は,何の予告もなく,一つの監房に3人が入るようにと命じられました。狭くなりましたが,都合の良いこともありました。霊的に弱い兄弟たちが経験のある兄弟たちと同じ監房になるようにし,聖書研究や,野外奉仕の練習をしたのです。私たちの士気は高まり,大尉はがっかりしました。

この企てが失敗に終わったことに気づいた大尉は,エホバの証人ではない二人の囚人と一人の証人を同じ監房に入れるよう命じました。証人でない囚人たちは,私たちと口を利くことを固く禁じられていたのですが,いろいろ質問してくるようになりました。ですから,証言する機会がたくさんありました。その結果,証人でない幾人かの囚人がある軍事活動への参加を拒否しました。するとすぐに,一つの監房に一人という状態に戻りました。

集会を開くことはできましたか。

定期的に開きました。それぞれの監房の扉の上には窓があり,金網と,鉄格子が縦に7本はめられていました。毛布の両端を2本の鉄格子に結んで小さなハンモックを作り,その中に座りました。ハンモックの上からは,向かい側の監房にいる兄弟が見えました。大きな声で話すとほかの監房にも声が聞こえました。日々の聖句を毎日討議し,「ものみの塔」誌があれば「ものみの塔」研究を行ないました。毎晩,一日の終わりに交代で公の祈りもささげました。自分たちで巡回大会のプログラムを作ったこともあります。

長老が刑務所を訪れて記念式を行なう許可が得られるかどうか分からなかったので,自分たちで表象物を作りました。ぶどう酒は干しぶどうを水に浸けて作りました。また,支給されたパンを平らにして乾燥させました。ある時,外部の兄弟たちからぶどう酒の小瓶とパン種の入っていないパンを手に入れる許可が与えられました。

後に状況は変化しましたか。

状況はやがて改善されました。法律は改正され,私と同じグループのエホバの証人は釈放されました。それ以来,宗教上の理由で兵役を拒否する人は,一定の長さの刑に一度服するだけでよくなりました。私を含む22人の兄弟たちが釈放された後,拘置中の88人の兄弟たちは,刑務所での通常の待遇を受けられるようになりました。月に一度,面会が許され,手紙を書いたり受け取ったりすることもできるようになったのです。

釈放後,元の生活に戻るのは難しくありませんでしたか。

そうですね,確かに時間がかかりました。例えば,人込みにいると,どうしても不安になりました。会衆で徐々に多くの責任を担えるよう,親や兄弟たちが親切に助けてくださいました。

このように困難な時期を過ごしましたが,その経験は益となりました。信仰が試されることによって霊的に強められ,忍耐も学びました。聖書に対する感謝が深まり,聖書を毎日読んで黙想する大切さを知るようになりました。そして,エホバに依り頼むことを学びました。エホバに忠実であるためにこうした犠牲を払ったのですから,これからも忠実であり続け,できれば全時間奉仕を行なって,エホバに最善のものをささげようと決意しました。

[126-128ページの囲み記事/図版]

私たちは危険に満ちた時代にエホバに依り頼みました

ゼブロン・ヌクマロ

生まれた年 1960年

バプテスマ 1985年

プロフィール 真理を学ぶ前はラスタファリ運動の支持者。バプテスマ後すぐに全時間奉仕を始める。現在は妻のノムサを伴い,巡回監督として奉仕している。

私は,クリュガーズドルプのベテルで建設奉仕を終えると,開拓者のパートナーと共に必要の大きな所へ任命されました。港湾都市ダーバンに近いクワンデンゲジの黒人居住区です。引っ越して数日後,ある政治団体が5人の若者を我が家へよこしました。私たちのことを調べるためです。若者たちは私たちに,この居住区を対立する政治団体から守っているので自分たちを支持してほしい,と言いました。ズールー語を話すその二つの政治団体は強い敵がい心を抱いていたため,その地域では多くの流血事件が起きていました。私たちは若者たちに,どうしたらこのような暴力をなくせると思うか尋ねたところ,主な原因は白人の支配にあるという答えが返ってきました。それで,戦争によって荒廃し,貧困に苦しむアフリカの他の国々の例を挙げて,「歴史は繰り返す」ということわざを引き合いに出しました。若者たちは,黒人が国の支配権を握ったとしても犯罪や暴力や病気はなくならないことに同意しました。次いで私たちは聖書を開き,神の王国だけが人類の諸問題を解決できる政府であることを示しました。

その数日後の晩,大勢の若者が抵抗運動の歌を歌い,男たちが銃を振り回していました。家々に火が放たれ,人々が殺されていたのです。私たちは恐怖を感じ,脅しや威嚇によって意気をくじかれたり忠誠を曲げたりすることがないよう,力を求めてエホバに祈りました。また,同じような状況のもとでイエスを否認しなかったために殺された人々のことも思い浮かべました。(マタ 10:32,33)突然,若者や大人たちの一団が我が家のドアをたたきました。何のあいさつもなく,インテレジを買うお金を要求されました。ズールー語のインテレジとは,守り薬とされるもので,呪術医から手に入れることができます。パートナーと私はその人たちに,辛抱して話を聞いてくれるようにとお願いしてから,「呪術医が魔術を使い,殺人の手助けをするのは正しいことだと思いますか」と尋ねました。さらに,「皆さんの親族が魔術の犠牲になったとしたら,どう思いますか」と聞くと,そうなってほしくない,とみな言いました。それで聖書を開き,リーダーの男性に,魔術に対する神の見方が記されている申命記 18章10-12節を読むようお願いしました。リーダーが聖句を読み終わると,私たちはその人たちに,どう思うかと尋ねましたが,みな非常に驚き,何も言えませんでした。そこで,私たちがエホバに聴き従うほうが賢明だと思いますか,それとも皆さんに聴き従うほうが賢明だと思いますか,と質問しました。すると彼らは何も言わずに引き上げて行きました。

私たちはこうした難局を数多く切り抜け,エホバが私たちの側におられることが分かるようになりました。例えば,ある晩,別のグループが我が家にやって来て,住民を“守る”ための武器を買うお金を出すようにと言いました。この居住区が物騒なのは対立する政治団体のせいだと言い,もっと高性能な武器で反撃に出るしかないと息巻いていました。金を出すか,痛い目に遭うかのどちらかだと迫りました。それで私たちは,その人たちの属している組織が,人権を保障し,他の人の良心を尊重するという趣旨の憲章に署名したことを指摘し,人は自分の属している組織の理念に背くより,死を甘受すべきではないかと質問しました。そのとおりだという答えが返ってきました。それで,私たちがエホバの組織に属していること,そして私たちの“憲法”は聖書であり,聖書は殺人を非としていることを説明しました。ついにリーダーが仲間たちにこう言いました。「私はこの人たちの立場が理解できた。老人ホームを建てるなど,我々の居住区の発展のためなら,また,近所の人が病院に行く金を必要としているなら,この人たちは喜んで寄付をしてくれるだろう。しかし,人を殺すための金は出すつもりはないのだ」。すると男たちは席を立ち上がりました。私たちは握手をし,辛抱強く聞いてくれたことを感謝しました。

[131-134ページの囲み記事/図版]

翻訳の仕事に合計100年を費やした独身の姉妹たち

南アフリカのベテル家族の大勢の兄弟姉妹は,貴重な王国奉仕に独身の賜物を用いてきました。(マタ 19:11,12)次に挙げる3人の姉妹は,「忠実で思慮深い奴隷」からの霊的食物を翻訳する仕事に合計100年を費やしてきました。―マタ 24:45

マリア・モレポ

私は南アフリカのリンポポ州モレポの首長領で生まれ,在学中に姉のアレットから真理を学びました。学校を卒業した時,エホバの証人でない別の姉から,3年間の大学課程の学費を払ってあげると言われました。私に教員免許を取らせるためです。それは親切な申し出でしたが,開拓者だった二人の姉アレットとエリザベスと一緒にエホバにお仕えしたいと願っていたので断わりました。1953年にバプテスマを受け,それから6年の間,月によっては開拓者と同じほどの時間,奉仕しました。そして1959年に申込書を提出し,正規開拓者として任命されました。

1964年に南アフリカ支部から,霊的食物をペディ語に翻訳する仕事をパートタイムで行なうよう招かれました。私は開拓奉仕を続けながら翻訳の仕事を行ないました。その後,1966年に南アフリカのベテル家族の成員になりました。ベテル奉仕は私が想像していたようなものではありませんでした。野外奉仕に行けなくて毎日寂しい思いをしましたが,しばらくして自分の見方を調整することができました。開拓者ほどの時間は奉仕できないものの,週末つまり土曜日の午後から日曜日の晩までを開拓奉仕の時間と考えるようにしたのです。週末の野外奉仕を目いっぱい楽しんだため,土日は夕食の時間に間に合わないことがよくありました。ベテルの年長の姉妹たちが土曜日の午前に休みを取れることになった時,うれしくてたまりませんでした。私もその時間を野外奉仕に充てられるのです。

ベテルに入って最初の8年は,ベテルホームとは別の建物で生活し,もう一人の翻訳者と同室でした。アパルトヘイトの当局は最初,白人の兄弟たちの宿舎棟の近くに住むことを許可しましたが,1974年にそれもできなくなりました。私のような黒人の翻訳者たちは,黒人居住区に住むことを余儀なくされました。私はテンビサ地区に住むあるエホバの証人の家族のお世話になり,毎日,家からベテルまでの長い距離を往復しました。クリュガーズドルプに新しいベテルが建設されたころ,政府がアパルトヘイト政策を緩和し始め,再びベテル家族と一緒に生活できるようになりました。

今日までベテルで翻訳者として奉仕できたことをエホバに感謝しています。妹のアナも独身を保つことを選び,全時間の福音宣明者として35年間奉仕しています。独身の賜物をエホバの奉仕に十分用いてきた私を,エホバは祝福してくださったのです。

ツェレング・モチェケレ

私はレソトのテヤテヤネングという町で生まれました。母は信心深い人で,子どもたちを教会へ無理やり連れて行ったものです。私は教会へ行くのが大嫌いでした。そのうち叔母がエホバの証人になり,自分の信仰を母に伝えました。母が教会へ行かなくなってうれしく思いましたが,私は世や世の娯楽が好きだったので,真理には目もくれませんでした。

1960年,学業を終えるためにヨハネスブルクへ引っ越しました。家を離れる時,母は,「ツェレング,お願いだから,ヨハネスブルクへ行ったらエホバの証人を探して,あなたも証人になれるようにしてちょうだい」と言いました。初めてヨハネスブルクに来て驚いたのは,娯楽があふれていることでした。でも,人々の生活をよく見てみると,性の不道徳が普通に行なわれていて,ショックを受けました。その時,母の言葉を思い出し,ソウェト地区のエホバの証人の集会に出席するようになりました。最初に行った集会で,「エホバ,私を助けてください。あなたの証人になりたいんです」とずっと祈っていたことを覚えています。間もなく奉仕に出るようになり,同じ年の7月にバプテスマを受けました。学校を卒業すると,母のいるレソトに戻りました。その時には母もバプテスマを受けていました。

1968年に南アフリカ支部からの要請で,セソト語への翻訳を全時間行なうようになりました。長年,実家で暮らしながらこの割り当てを果たしました。経済的に苦しかった時期,全時間奉仕をやめて仕事に就き,家族を支えたほうがよいのではないかと家族に言ったことがあります。でも,母やバプテスマを受けた一番下の妹ドペロから,そんなことは言わないで,と言われました。母も妹も,翻訳者としての全時間の割り当てを続けることができるよう,私を支えることをとても喜んでいました。

南アフリカのベテル家族の一員になったのは,1990年のことです。クリュガーズドルプの新しい支部施設で今も翻訳の仕事を行なっています。独身を選んだことを後悔していません。それどころか,幸福で意義深い生活を送れるよう祝福してくださったエホバに深く感謝しています。

ナース・ンクーナ

私が生まれた場所は,南アフリカ北東部のブッシュバックリッジという町です。エホバの証人だった母は,父の収入を補うために全時間働きながら私を真理の内に育ててくれました。母は私が学校に入る前から,読み書きを教えてくれました。私は字が読めたので,平日に年配の正規開拓者の姉妹と伝道できました。目が悪かった姉妹を宣教奉仕で助けることができたのです。学校へ行くようになってからも,午後の時間にその姉妹と野外奉仕に参加しました。全時間奉仕者たちとの交わりを通して,宣教奉仕への愛が育まれました。人が真理の側に立場を定めるのを見ると,本当にうれしくなります。10歳ぐらいの時に,全時間の伝道活動に自分の人生を費やしたいとエホバにお祈りしました。1983年にバプテスマを受け,数年間は家族の経済的な必要を顧みるために仕事に就きましたが,金銭への愛を育てないよう母に給料の全部を管理してもらいました。金銭への愛は,私の目標である全時間奉仕を始める妨げとなるからです。次いで1987年,南アフリカのベテルに招かれ,仕事を辞めました。ズールー語への翻訳の仕事を行なうことになったのです。

独身の立場でベテル奉仕を行なうことから,多くの喜びを得てきました。朝の崇拝で語られる注解は,野外奉仕を改善する助けとなっています。背景の異なる仲間の崇拝者たちと緊密に奉仕しているので,クリスチャン人格を磨くことができました。私には子どもがいませんが,霊的な子どもや孫たちは大勢います。もし結婚して家庭を持っていたなら,これほど大勢の霊的な子や孫は得られなかったと思います。

この3人の独身の姉妹は,ベテルでの翻訳の割り当てにいそしみながらも,エホバに献身してバプテスマを受けた崇拝者になるよう36人の人を援助しました。

[146,147ページの囲み記事/図版]

美しく雄大な山々

ドラケンスバーグ山脈は南アフリカを縦断し,その総延長は1,050㌔にも及びます。しかしクワズールー・ナタール州とレソトの間の国境部分は,群を抜いて壮観です。そこはしばしば南アフリカのスイスと呼ばれます。

どっしりとしたセンティネル(歩哨)や,山肌がごつごつしていないとはいえ危険なモンクス・カウル(修道士の頭巾),それに足場が不安定で切り立ったデビルズ・トゥース(悪魔の歯)など,険しい頂は冒険心に富む登山者を引きつけます。しかし,そのような山を登るのは危険が伴います。一方,急斜面に通じる幾つもの山道は険しいとはいえ安全で,特別な登山の装備を必要としません。もちろん,山のルールは守らなければなりませんし,暖かい衣服やテントや保存食は不可欠です。急斜面は夜間にひどく寒くなることがあり,激しい風が吹くこともあります。

毎年,ハイキングやキャンプや登山にやって来る幾千人もの人々が,都会のストレスや汚染をあとにし,新鮮な山の空気,冷たくておいしい山の水,雄大な山々のすばらしい景色を求めてこの地を訪れます。

[図版]

ブッシュマンが描いた岩絵

[158,159ページの囲み記事/図版]

心霊術と一夫多妻から解き放たれた

アイザック・ツェハラ

生まれた年 1916年

バプテスマ 1985年

プロフィール 若い時にキリスト教世界に幻滅した。真理を知る前は裕福な呪術医だった。

アイザックは,マトラバネ,ルーカス,フィリップの3人の友達と共に,南アフリカの北東部のセククネ山地で育ちました。使徒教会に通っていたこの4人の若者は,信者の間での偽善を目にし,教会を脱退することにしました。そして真の宗教を一緒に探し始めました。やがて,4人は互いに連絡が途絶えてしまいました。

後に4人のうち3人が,妻と共にエホバの証人になりました。しかし,アイザックはどうなったでしょうか。有名な呪術医だった父と同じ道を歩みました。お金をもうけたいというのが動機でした。裕福になったアイザックは,牛を100頭所有し,銀行には多額の預金がありました。昔から,裕福な人は複数の妻を持つよう期待されていますが,アイザックにも妻が二人いました。そのころマトラバネは,アイザックを探し出して自分たち3人が真の宗教を見つけたいきさつを知らせようと考えました。

アイザックはマトラバネと再会できたことを喜び,昔の友達の3人がどうしてエホバの証人になったのか,是非とも知りたいと思いました。「地上での生活を永遠に楽しんでください」というブロシュアーを使った聖書研究が始まりました。地元の言語版の17番の挿絵は,アフリカの呪術医が依頼者の質問の答えを占うため,骨を地面に投げている場面でした。アイザックは引照聖句の申命記 18章10,11節を読んで驚きました。そうした心霊術の行ないは神に喜ばれないのです。また,男性とその幾人かの妻たちが描かれた25番の挿絵を見て,当惑しました。そこにはコリント第一 7章1-4節が引照されていました。真のクリスチャンは一人の妻しか持てないことを示す聖句でした。

アイザックは聖書にぜひ従いたいと思い,68歳で2番目の妻を去らせて最初の妻フロリナと正式に結婚しました。また,呪術医の仕事をやめ,占いに使う骨も捨てました。アイザックが聖書研究を司会してもらっていた時,二人の人が遠方からやって来ました。以前アイザックに診てもらった人たちで,550ランド(その当時で140㌦)を支払いに来たのです。アイザックはそのお金を受け取りませんでした。そして,自分が以前の仕事をやめ,今はエホバの証人になりたいと思って聖書を学んでいることを証言しました。アイザックは程なくしてその目標をとらえることができました。妻フロリナと共に1985年にバプテスマを受けたのです。現在90歳になるアイザックは,これまでの数年間クリスチャン会衆で長老として奉仕しています。

[124,125ページの図表/グラフ]

年表 ― 南アフリカ

1900

1902年 聖書文書が南アフリカに入る。

1910年 ウィリアム・W・ジョンストンがダーバンに支部事務所を開設する。

1916年 「創造の写真劇」が上映される。

1917年 支部事務所がケープタウンに移転する。

1920

1924年 印刷機がケープタウンに届く。

1939年 アフリカーンス語の最初の「慰め」誌が印刷される。

1940

1948年 王国会館がケープタウンの近くに建てられる。

1949年 ズールー語の「ものみの塔」誌が印刷される。

1952年 ベテルがエランズフォンテインに完成する。

1979年 東京機械製のオフセット輪転機が設置される。

1980

1987年 新しいベテルがクリュガーズドルプに建設される。1999年に拡張される。

1992年 速成建設による最初の王国会館がソウェトに建てられる。

2000

2004年 印刷施設が拡張される。マン・ローランド製リソマン印刷機が稼動し始める。

2006年 伝道者最高数が7万8,877人に達する。

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

80,000

40,000

1900 1920 1940 1980 2000

[148,149ページの図表/図版]

数多くの言語

南アフリカの印刷施設では,33の言語で「ものみの塔」誌を印刷している

さまざまなファッション

アフリカには,色とりどりの多様な民族衣装や装飾品,生地の柄がある

ズールー語

あいさつ 「サニボナ」

母語とする人々 1,067万7,000人 *

伝道者 2万9,000人 *

セソト語

あいさつ 「ルメラーン」

母語とする人々 355万5,000人

伝道者 1万530人

ペディ語

あいさつ 「トベラ」

母語とする人々 420万9,000人

伝道者 4,410人

ツォンガ語

あいさつ 「キセワニ」

母語とする人々 199万2,000人

伝道者 2,540人

コーサ語

あいさつ 「モルウェニ」

母語とする人々 790万7,000人

伝道者 1万590人

アフリカーンス語

あいさつ 「ハロー」

母語とする人々 598万3,000人

伝道者 7,510人

ツワナ語

あいさつ 「ドゥメラーン」

母語とする人々 367万7,000人

伝道者 4,070人

ベンダ語

あいさつ 「リ・ア・ブサ」

母語とする人々 102万1,800人

伝道者 480人

[脚注]

^ 519節 数字はすべて概数です。

^ 520節 数字はすべて概数です。

[66ページ,全面図版]

[71ページの図版]

イエローウッド

[74ページの図版]

ストフェル・フュリー

[74ページの図版]

「聖書研究」

[74ページの図版]

ダーバン会衆とウィリアム・W・ジョンストン,1915年

[74,75ページの図版]

ヨハネス・チャンゲとその家族

[75ページの図版]

この建物の小さな一室が最初の支部事務所となった

[77ページの図版]

ヤピー・テロン

[79ページの図版]

ヘンリー・ミュルダル

[79ページの図版]

ピート・デ・ヤヘル

[82ページの図版]

ヘンリー・アンケッティル,1915年

[82ページの図版]

グレース・テイラーとデービッド・テイラー

[82ページの図版]

エホバの証人の名称を採択するとの決議文が,1931年発行のこの小冊子に掲載された

[84ページの図版]

ケープタウンのベテル家族,1931年。ジョージ・フィリップスとステラ・フィリップスもその成員だった

[87ページの図版]

コーサ語の話を録音しているところ

[87ページの図版]

アンドルー・ジャックと印刷機フロンテクス,1937年

[87ページの図版]

アフリカーンス語の最初の「慰め」と「ものみの塔」

[90ページの図版]

大会出席者。ヨハネスブルクにて,1944年

[90ページの図版]

プラカードで講演を宣伝する,1945年

[90ページの図版]

蓄音機を携えるフランズ・マラーとピート・ウェンツェル,1945年

[95ページの図版]

兄弟たちの僕ヘルト・ネル,1943年

[95ページの図版]

農村部での証言,1948年

[99ページの図版]

アンドルー・マソンドと二度目の妻アイビー

[99ページの図版]

ルーク・ドラドラとジョイス・ドラドラ

[99ページの図版]

ズールー語の最初の「ものみの塔」

[102ページの図版]

ベルル・ナイカーの手本に倣って親族190人が真理を受け入れた

[102ページの図版]

ゴパル・クープサミー。21歳の時。そして近影,妻スシラと共に。二人で150人もの人を献身に導いた

[104,105ページの図版]

イザベラ・エラレイ

ドリーン・キルゴウル

[108,109ページの図版]

最初に建てられた部分,1952年

エランズフォンテインのベテル,1972年

[110ページの図版]

大会のハイライト

(上)「子供たち」の本が発表された時,1942年; (中)バプテスマ希望者,1959年; (下)コーサ語のコーラスで外国からの出席者を歓迎,1998年

昨年は3,428人がバプテスマを受けた

[120ページの図版]

むち打ちに耐えたイライジャ・ドロドロ

[121ページの図版]

正規開拓者のフローラ・マリンダ。娘は惨殺された

[122ページの図版]

モーセス・ニャムスアは暴徒に殺された

[140,141ページの図版]

急ピッチで進む王国会館建設

カギソの会衆は仲間の助けによって崇拝の場所を改築できた

以前の建物

工事期間中

完成後

ハイデルバーグのラタンダ会衆。新しい王国会館は皆のお気に入り

アフリカの37か国で7,207棟が完成。あと3,305棟必要!

[147ページの図版]

現在のロッソウ家

[150ページの図版]

ミッドランド大会ホール

[155ページの図版]

ジンバブエへの救援物資,2002年

[155ページの図版]

翻訳に役立つコンピューター・ソフトウェアが備えられた

[156,157ページの図版]

南アフリカ支部,2006年

宿舎棟,事務棟,新しい輪転機,発送部門

[156,157ページの図版]

支部委員会

ピート・ウェンツェル

ロイソ・ピリソ

ローエン・ブルックス

レイモンド・ムタラネ

フランズ・マラー

ピーテル・デ・ヘール

ヤニー・ディペリンク

[161,162ページの図版]

ナミビア

ウィリアム・ハインデルとエレン・ハインデル

コラリー・ウォルドロンとディック・ウォルドロン,1951年

ナミビアの翻訳事務所

[167ページの図版]

レソト

(一番上)巡回奉仕に携わるアベル・モディバ; (上)洞くつに住む人々が宣教者の周りに集まる; (左)ペール-ウーラ・ニュグレンとビルギッタ・ニュグレン

[168ページの図版]

ボツワナ

露天商に証言するトンゴアナ夫妻

小屋から小屋への伝道

[170ページの図版]

スワジランド

ジェームズ・ホケットとドーン・ホケット

ムババーネの工芸品市で真理を伝える

[170ページの図版]

セントヘレナ

「王国ニュース」の配布キャンペーンは1日で終了; (下)港町ジェームズタウン

[175ページの図版]

1993年の国際大会