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旧ユーゴスラビアの国々

旧ユーゴスラビアの国々

旧ユーゴスラビアの国々

かつてユーゴスラビアとして知られた国は,魅力的で多様性に富んだ所です。その北には中央ヨーロッパと東ヨーロッパ,南にはギリシャとトルコ,西にはイタリアがあります。この地域には,さまざまな文化や言語や宗教が混在しています。とはいえ,ユーゴスラビアと聞くと,多くの人は紛争や衝突を思い浮かべるものです。1914年のフランツ・フェルディナント大公の暗殺に始まり,もっと最近の民族浄化に至るまで,バルカン半島のこの地域で紛争が絶えることはほとんどありませんでした。この地域の人々が独立を得るために争う中で,連邦を構成していた共和国はそれぞれ別個の国になりました。こうしてユーゴスラビアは解体し,今ではかつてのその国の領域に,クロアチア,スロベニア,セルビア,ボスニア・ヘルツェゴビナ,マケドニア,モンテネグロがあります。

政治や民族や宗教上のこうした反目を背景とする中で,特筆すべき記録が目に留まります。それは愛と一致と信頼の歴史です。この地域のエホバの証人は,バルカン諸国を引き裂いた偏見や敵意を乗り越えてきました。異なる文化を持つ証人たちの間の一致は,勝った政府である神の王国に対する忠節の結果です。

事の始まり

この地域でエホバの民の業はどのように始まったのでしょうか。最初に登場するのは,ユーゴスラビア北部のボイボディナ地方出身のフランツ・ブラントという若い理髪師です。フランツは仕事を探しにオーストリアに移動し,真理に接しました。そして1925年に真理を携えて郷里に戻ります。フランツはそこで,「聖書研究」という本を読んで討議していた少人数のグループに加わります。聖書を学ぶためのその本は,それらの人が米国の親族から受け取っていたものでした。

このグループは,人々に伝道する必要があることを悟ります。それで,聖書の教えを説明した2冊の小冊子がセルビア語に翻訳されます。残念なことに,それらの小冊子を配布しないうちに,ある主立った兄弟がそのグループのもとを訪れました。その人物は組織に反対の立場を取り,独自の派を作っていました。その人の説得によって,グループ全員が聖書研究者との関係を絶ってしまい,それに加わらなかったのはフランツだけでした。

その後フランツはスロベニアのマリボルに引っ越し,理髪店で仕事を見つけます。店の主人であるリヒャルト・タウツに証言し,その人は真理を受け入れます。聖書通の床屋と呼ばれたフランツとリヒャルトは,その店を伝道の場とします。客はまじめに話を聞きました。かみそりを当てられている間は,じっと黙って聞くしかなかったのです。客の一人は,ジュロ・ジャモニャという政治家でした。もう一人は,タイプライターの修理店を経営していたルドルフ・カッレです。ジュロもルドルフも急速に進歩し,程なくしてバプテスマを受けます。ジュロは政治家を辞め,ユーゴスラビア王国の聖書研究者灯台協会の設立を助けます。この法人が設立されたので,兄弟たちは自由に宣べ伝え,集会を開くことができました。

「写真劇」がきっかけとなる

1931年,スイスにあるエホバの証人の支部事務所は,ユーゴスラビア全土の大きな都市で「創造の写真劇」を上映するため,二人の兄弟を遣わしました。会場は満員になり,観客はジュロが上映する映画を熱心に見ました。「写真劇」は国じゅうで聖書の真理に対する関心を引き起こします。そのころマリボルで,兄弟たちは集会をスロベニア語とドイツ語で開いていました。ザグレブとその周辺では,幾つかのグループが集まって,クロアチア語に訳された出版物を討議していました。

次に兄弟たちは,「ものみの塔」誌をスロベニア語とクロアチア語に翻訳することに決めます。当時それはたいへんな仕事でした。雑誌の翻訳が終わると,一人の姉妹がそれを,カーボン紙を挟んだ紙にタイプライターで打ちました。一号につき,できるのは20部だけでした。後に謄写版印刷機が手に入り,でき上がる「ものみの塔」誌は200部に増えました。

兄弟姉妹たちはこれらの雑誌を携え,ユーゴスラビアの各地を列車で訪れて宣べ伝えました。スロベニアの兄弟たちは時折,覆いのないトラックを借り,証人ではない運転手を雇いました。そして,自分たちが伝道したい場所に連れて行ってもらい,一日じゅう運転手を待たせて宣べ伝えたものです。当時の王国宣明者はあまり訓練を受けておらず,時には話し方が率直すぎることもありました。それでもエホバは兄弟たちの努力を祝福し,「永遠の命のために正しく整えられた者」を見つけられるよう助けてくださいました。―使徒 13:48

フランツ・ザグマイスターは思い起こしてこう語ります。「私は1931年に,おばのテレジヤ・グラディッチとその夫フランツから真理を聞きました。フランツはスロベニアの初期の伝道者です。かつて宗教に強く反対していたフランツは,聖書を熱心に読み始めました。私はそのことに強く興味を引かれ,フランツと共に聖書を学ぶようになりました。家族に反対されましたが,新たに得た知識を他の人に分かちたいと思いました。このことを知った教区司祭は,すぐに私を呼びつけました。君が聖書を持つことは許されていない,なぜなら聖書を理解することなど君にはできないからだ,と言われました。でも私は自分の聖書を渡しませんでした。後に父が死んだ時,例の司祭が通りで私を見かけて近づいてきました。父のミサをまだ一度も行なっておらず,費用も払っていない,ということでひどく腹を立てていたのです。私は,『ミサで父を助けることができるなら,百回分,いや千回分の費用を払いますよ』と言いました。

「『助けられる,もちろん助けられる』と司祭は述べます。

「『もし父が天国にいるのならあなたにミサを行なってもらう必要はありませんし,地獄にいるのならもう手後れです』と私は答えます。

「『でも,煉獄にいるならどうかな』と,司祭は食い下がります。

「私はこう言いました。『司祭様,あなたもご存じのとおり,私はたくさん土地を持っています。人間には死後も生き続ける不滅の魂があること,また地獄も煉獄も存在すること,さらには神が三位一体のようなものであることをあなたが聖書から証明できるなら,今すぐ弁護士のところに行って,土地をすべてあなたに差し上げることにしましょう』。

「司祭は私をにらみつけ,たばこに火を付け,歩いて行ってしまいました」。

開拓者たちが野外に

1930年代のこと,一群の献身した男女がユーゴスラビアで真理の光を輝かせるための道を開きました。例えば,スロベニアのマリボルでは,グレーテ・シュタウディンガーとカタリナ・コネチュニク,そして後にはカロリナ・ストロプニクが,後に休暇開拓奉仕と言われた活動を始めました。もっと南の,ヘルツェゴビナ地方の主要な町モスタルでは,真理の響きを識別したオーケストラ指揮者アルフレード・トゥチェックが開拓奉仕を始めました。クロアチアのザグレブでは,23歳のドゥシャン・ミキッチが,「死者はどこにいるか」という小冊子を手に入れました。ドゥシャンも速やかに進歩し,バプテスマを受け,開拓奉仕を始めました。やがてドイツから熱心な兄弟姉妹がやって来て,開拓者の業は増強されます。

こうしてユーゴスラビアで真理が根を下ろしつつあった時,ドイツでは禁令が敷かれてゆきます。スイスの支部事務所は,20人ほどの経験ある開拓者をユーゴスラビアに派遣するよう取り決めます。その中には,マーティン・ポエツィンガー,アルフレート・シュミット,ビンコ・プラタイスとヨゼフィーネ・プラタイス,ウィリー・ウィルケとエリーザベト・ウィルケなどがいました。それら自己犠牲的な開拓者たちは,スロベニア語やセルボ-クロアチア語を話せませんでしたが,憶することなく証言カードを用いて宣べ伝え,将来の拡大のための道を開いたのです。

開拓奉仕に伴う困難

エホバのために抱く熱意や人々に対する愛は,開拓者が言語や金銭面での問題を乗り越える助けになりました。一つの場所から別の場所に移動するのもたいへんでした。遠くの村に行くために,厳しい天候の中,地形の険しい道を40㌔も歩いてゆくことも珍しくありませんでした。一人の開拓者の姉妹は,靴を長持ちさせるため,村から村へ移動する時は靴を脱いで歩いたことを覚えています。後に統治体の成員になったマーティン・ポエツィンガーは,文書の詰まったリュックを背負い,耳を傾けるすべての人に伝道しながら田舎の村々を歩いたことを懐かしく語っていました。

スイスのある兄弟が自転車を購入し,忠実な開拓者たちに贈ってくれたため,移動がかなり楽になりました。それらの自転車は長年奉仕で用いられました。

ユーゴスラビアの人々は元来もてなしの精神に富んでいます。しかし,そのような中でも宗教上の反対があり,開拓者たちは多くの迫害に直面しました。司祭は教区民に対して権力を振るい,小さな村ではなおのことそうでした。開拓者に付いて行って石を投げつけるよう,司祭が子どもたちをけしかけたこともあります。さらに,司祭の差し金によって開拓者が当局から嫌がらせを受け,文書を押収され,逮捕されることもありました。

ウィリー・ウィルケがクロアチアのへんぴな村で伝道した時のこと,村の広場から怒号が聞こえてきました。ウィルケ夫妻,それにグレーテ・シュタウディンガーともう一人の開拓者がその村で「正義の支配者」という小冊子を配布しており,その表紙にはイエス・キリストが描かれていました。ウィリーはこう語ります。「その場に行ってみて,身の縮む思いがしました。いきり立った20人ほどの人が鎌を手に,妻を取り囲んでいたのです。そのそばでは,幾人かの人が小冊子を盛んに燃やしていました」。

開拓者たちは,素朴な村人たちがなぜいきり立っているのか,見当がつきません。ウィルケ姉妹は,村の人たちの言語がよく話せず,理由を聞くこともできませんでした。しかし,グレーテはドイツ語とその土地の言語によく通じていました。グレーテが近づき,こう尋ねました。「皆さん,いったい何事でしょうか」。

すると,人々は声をそろえて,「ペータル王なんかご免だ!」と答えます。

「わたしたちも同じです」と,グレーテは答えました。

人々は驚いて,小冊子の絵を指差し,「それなら,なぜペータルの宣伝をするんだ」と言いました。

それでグレーテは合点がゆきました。その前年の1934年に,ユーゴスラビアの王アレクサンダル1世が殺され,息子ペータルが王位を継ぐことになっていました。しかし,村人たちはセルビアの王による支配よりも自治を好んでいました。挿絵に描かれているイエス・キリストがペータル王だと思ったのです。

こうして誤解が解け,王イエス・キリストに関する徹底的な証言がなされました。小冊子を燃やした人の中には,改めてそれを求める人もいたほどです。開拓者たちは,エホバのみ手の保護を実感し,喜びのうちに村をあとにしました。

開拓者たちは地元の習慣にも配慮しなければなりませんでした。イスラム教徒が大半を占めるボスニアの村々で宣べ伝える時には,地元の人の感情を害さないよう特に注意する必要がありました。例えば,イスラム教徒の既婚女性と目を合わせると,夫の怒りを買うことになりかねません。

当時,国内には会衆や群れがわずかしかありませんでした。そのため,遠方の村で一日じゅう伝道した後,泊まる場所がなかなか見つからないこともありました。開拓者はあまりお金がなかったため,適当な宿に泊まる費用を払えなかったのです。ヨゼフィーネ・プラタイスは,こう語っています。「ある村では私たちを家に泊めてくれる人がだれもいませんでした。カトリックの司祭を恐れていたのです。村を去るころには,すでに暗くなっていました。村の外れで,乾いた葉をいっぱい落とした大きな木が目に留まりました。ここなら一夜を明かすことができそうです。洗濯物を入れた袋を枕にし,夫は自転車をロープで足首につないでおきました。翌朝,目を覚ますと,すぐそばに井戸があり,その水で体を洗うことができました。エホバは私たちを保護し,しかも身体面での必要も顧みてくださったのです」。

開拓者たちは,エホバが小さなことにおいても自分たちを顧みてくださることを実感しました。彼らは,快適に暮らすことではなく,良いたよりを広めることに目を向けていたのです。

マケドニアへ渡る

開拓者の夫婦アルフレード・トゥチェックとフリーダ・トゥチェックは,スロベニアからブルガリアへの旅行の折に,王国の音信を人々に伝えました。マケドニアの町ストルミツァで,二人はディミタル・ヨバノビッチという店主に証言し,文書を何冊か貸しました。1か月後,ブルガリアから戻る途中にディミタルを再び訪ねます。ディミタルが文書を読んでいないことを知ると,きちんと読む人に渡したいので返して欲しい,と言いました。このことで興味をそそられたディミタルは,今度こそ読むのでもうしばらく貸してくれないか,と頼み込みます。そして読んだ後,真理を見つけたことを悟ります。ディミタルはマケドニアで最初にバプテスマを受けてエホバの証人になった人です。

次いでディミタルは二人の男性に真理を伝えます。アレクサ・アルソブとコスタ・アルソブという実の兄弟です。やがてマケドニアの証人は3人になります。彼らは,雑誌と蓄音機と講話を録音したレコードを携えて伝道を始めます。そして1冊の雑誌がメソジスト派の牧師の手に渡り,牧師はその雑誌を自分の教会に通うトゥショ・ツァルチェブという聡明な青年に渡しました。トゥショは読んだ事柄が気に入り,牧師にお願いして雑誌のほかの号も手に入れられるようにします。やがてトゥショは,福音伝道に対して報酬を受け取るのは正しくないことを知ります。そのことを興奮気味に牧師に話すと,牧師は雑誌を渡してくれなくなりました。トゥショは雑誌の中からマリボルの支部事務所の住所を見つけ,さらに雑誌を送ってくれるよう手紙で頼みます。支部はディミタル,アレクサ,コスタと連絡を取り,トゥショを訪問するように依頼します。こうして間もなく群れが設立されたのです。

1935年,兄弟たちはスロベニアのマリボルにあった支部を,ユーゴスラビアの首都である,セルビア地方のベオグラードに移しました。フランツ・ブラントとルドルフ・カッレが業を監督することになりました。

業が禁止される

当時の兄弟たちが熱心に活動していた証拠は,1933年にカトリック教会が発行した冊子からも見いだせます。その中では,証人たちの伝道活動の様子が非常に詳しく説明されていました。またカトリック教会は,わたしたちの業が間もなく終わるであろうとも予告していました。それはたいへんな見当違いでした。

ユーゴスラビア北部では,僧職者は少人数の開拓者のグループが熱心に活動することに腹を立てていました。また,王国伝道の業を制限しようとするたくらみを裁判所が阻止したため,ますます激高しました。しかし,そのうちにスロベニア出身のイエズス会の司祭が内務大臣になります。この大臣が最初に出した布告の中に,灯台協会を解散させることが含まれていました。こうして1936年8月,業に対する禁令が敷かれます。当局は王国会館を閉鎖し,文書をすべて押収します。幸い,関係する会衆に事前に連絡が入り,当局が押収できたものはわずかでした。引き続き業を進められるように,ベオグラードにクラ・ストラジャラ(ものみの塔)という名の小さな出版社が開設され,集会は個人の家で引き続き行なわれました。

禁令が敷かれたので,政府は宣べ伝える業をやめさせるため,いっそう圧力をかけるようになりました。全時間奉仕者が特に標的とされ,ドイツ出身の兄弟たちの活動はますます困難になります。それら開拓者の多くは,ヨーロッパの他の国々で業が禁止されたためユーゴスラビアに来ていたのですが,今やここでも宣べ伝える業が禁じられたのです。開拓者は逮捕や投獄を経験しましたが,熱意が揺らぐことはありませんでした。ある姉妹はこう語ります。「刑務所に入れられていた時,面会が許されないこともありましたが,エホバは決して私たちをお見捨てにならなかったのです。ある時,一人の兄弟が面会に来てくれたものの,許可は与えられませんでした。その時,刑務所長とやり取りをするその兄弟のとても大きな声が私たちにも聞こえてきました。それが聞こえただけでも,大きな励ましでした」。

こうした不穏な時期に,「ラザフォード判事は第五列を暴露する」と題する小冊子を翻訳し,配布するには大きな勇気が要りました。その小冊子は,ナチ政権の政策を支持する点でカトリック教会が果たしてきた役割を暴露するものでした。それはセルビア語,クロアチア語,スロベニア語に翻訳され,それぞれの言語で2万部印刷されました。その小冊子は当初から発禁処分になり,外国から入っていた開拓者たちは追放されました。また検察官が小冊子の発行者を起訴し,10年から15年の刑を求めるという結果になりました。危険を伴いましたが,数が少ないユーゴスラビアの伝道者は,6万部を速やかに配布したのです。

「当時の人々はみ言葉を学ぶことを切望しており,読むことが好きでした」。第二次世界大戦の終わりに真理を知り,忠実な兄弟姉妹と親しくしていたリナ・バビッチは,そのように説明しています。姉妹はさらにこう述べます。「いつも用心深くあることが必要でした。私は文書を自分でノートに書き写していました。捜索を受けた時,自分用のノートを作っただけだという印象を与えられるようにしたのです」。

トルストイか,エホバか

世界に戦雲が垂れ込めていたころ,ユーゴスラビアの大きな会衆の一つで分裂が生じました。ロシアの作家で宗教哲学者のレフ・トルストイの思想を唱道する人たちが現われたのです。かつてロシア正教会に属していたトルストイは,キリスト教会すべては腐敗しており,キリスト教を全く誤り伝えていると強く考えるようになりました。兄弟たちの中には,宗教組織はすべて信頼できないというトルストイの見方に影響され,エホバの組織に対して不満を抱くようになった人たちがいました。ザグレブ会衆で指導の任に当たっていた一人の兄弟が,自分の立場を悪用して会衆を説得したため,ほとんどの伝道者がトルストイの見方を持つようになりました。会衆の大半の成員に対する兄弟の影響力は非常に強く,60人以上の成員が,エホバの組織との関係を絶つという決議を採択したのです。

ルドルフ・カッレはこのことを聞くと,会衆全体との会合を持つため,急いでベオグラードからザグレブへ向かいました。ルドルフは,エホバが忠実で思慮深い奴隷級を通して啓示された聖書の基本的な真理について論じました。(マタ 24:45-47)そしてこう尋ねました。「これらの真理を皆さんに教えたのはだれでしょうか。トルストイですか,エホバの組織ですか」。ルドルフはヨシュア 24章15節を引用し,エホバの組織のもとにとどまりたいと思う人たちに挙手を求めました。手を挙げたのは二人だけでした。

「私は愕然としました」とルドルフは言います。

それまで会衆で成し遂げられてきた良い事柄がすべて失われてしまうかに見えました。

そこでルドルフは,忠実な二人をステージ上に呼び寄せ,こう言いました。「残ったのはわたしたち3人だけです。今後,この都市でエホバの民と言えるのはわたしたちだけです。そのほかの人は,ここから出て,好きなようにしてください。わたしたちのことは構わないでください。わたしたちはエホバ神に仕えたいのです。皆さんは行って,トルストイに仕えるとよいでしょう。あなたたちとは,もうかかわりを持ちたくありません」。

しばしの沈黙の後,一人また一人と手を挙げ始め,「わたしもエホバに仕えます」という声が上がりました。最後には,背教した会衆の僕と数人の支持者だけが出て行きました。この忠節の試みによってエホバの忠実な僕たちは強められ,間もなく直面する,はるかに厳しい試練に備えることができました。

戦時中の困難

1941年4月6日,ドイツ軍はユーゴスラビアに侵攻しました。ベオグラードに対する大規模な空襲で,支部は被害を受けました。ユーゴスラビアはドイツ軍によって分割されます。戦闘のため,セルビアのベテルの兄弟たちと,スロベニア,クロアチア,マケドニアの兄弟たちとの連絡がしばらく途絶えました。マケドニア最南の兄弟たちの場合,状況はもっと厳しく,戦争が終わるまで連絡を取ることができませんでした。

兄弟たちは突然,新たな難しい状況に立たされました。世界は大戦に突入し,兄弟姉妹は厳しい試みとふるい分けの時期に置かれたのです。エホバとその組織に対する信仰や愛は試されることになりました。

ベオグラードの支部は閉鎖され,霊的食物を兄弟たちに分配する仕事はクロアチアのザグレブで組織されます。それまでの罰金刑や懲役刑から,強制収容所送りや死刑判決へと状況が変わるにつれ,慎重さや内密を保つことがいっそう重要になりました。

ドイツ軍がユーゴスラビアを分割・占領した際,各地に強制収容所が置かれました。クロアチアでは強制収容所は,幾つかの少数民族や,カトリックでない少数派や,政権に反対する宗教グループを隔離し,殺害するために用いられました。セルビアでは,ナチの軍隊が労働収容所や強制収容所を作りました。150人以上のハンガリー人の兄弟が中立の立場ゆえに,セルビアのボールにある収容所に入れられました。ユーゴスラビアにおいても,エホバの証人はナチ政権の標的となります。そのため,宣べ伝える業は主に非公式の証言によって行なわれました。伝道者たちは自分の聖書と文書を1冊だけ持つように勧められ,逮捕された場合にどう答えるかも指示されました。兄弟たちは,集会を少人数のグループで開き,ほかにどこで行なわれているかは知りませんでした。

文書は国内に安全に持ち込むことができなかったので,地下で生産されました。兄弟たちはいろいろな場所で雑誌や小冊子を印刷し,綴じるため夜通し働きました。また,印刷の資金を調達するために懸命に働くこともしました。さまざまな仕事上のつながりを利用して,印刷に必要な材料を常に手に入れることができました。ユーゴスラビア国内に国家的また宗教的な偏見が満ちていた時も,兄弟たちは一致しており,命を救う霊的食物を供するため,自分たちのお金を差し出したのです。では,管轄する地域内の,伝道者たちの孤立したグループに,どのように文書を届けるのでしょうか。

セルビア人の鉄道員ステバン・スタンコビッチは,出身や背景の別なく兄弟たちを進んで助けようとする人でした。危険を顧みず,クロアチアから軍の占領下にあったセルビアにひそかに文書を運ぶ役割を担いました。ある日,運んでいたスーツケースの中の文書が,警察に見つかってしまいます。警察は,どこで文書を手に入れたかを問い詰めました。しかし,ステバンは情報を漏らして兄弟たちを裏切ることなどしませんでした。警察は尋問のためステバンを刑務所に連れて行き,その後,近くのヤセノバツにある強制収容所に移しました。収容者を残忍に扱うことで知られていたこの収容所で,忠実なこの兄弟は命を落としました。

慎重で機知に富む兄弟,ミホビル・バルコビッチは,その困難な時代にクロアチアで配管工として働いていました。世俗の仕事を行なうかたわら,兄弟たちを訪問して励ましを与え,文書を届けていました。兄弟の孫に当たる人はこう語っています。「ある時,祖父は列車で移動していましたが,次の町で検問があることを知りました。そのため,一つ手前の駅で降りました。その町はほぼ全体が鉄条網で囲われていましたが,あるぶどう園に,通れる場所を見つけました。祖父は,リュックに文書を詰め,その上にラキヤ(自家製のブランデー)2本と幾らかの食料品を入れて運んでいました。周囲に気を配りながらぶどう園の中を歩き,掩蔽壕のそばを通った時,突然兵士が『止まれ! お前はだれだ』と怒鳴りました。祖父が兵士たちのほうに近づくと,その一人から『何を運んでいるんだ』と尋ねられました。

「『小麦粉を少しと,豆と,ジャガイモだよ』と祖父は答えます。

「びんの中身は何だと聞かれると,『においをかいで,味見してみるかい?』と勧めます。

「兵士がそれをひとなめすると祖父は,『これはお兄さんに上げよう。もう一本はわたしのだ』と言います。

「その申し出とラキヤに満足した兵士たちは,『じいさん,行きな』と答えました。

「こうして文書を無事に届けることができたのです」と,ミホビルの孫は話を終えます。

ミホビルは確かに勇気のある人でした。戦争で相対する勢力が掌握している地域のただ中を移動したのです。ミホビルは共産党員であるパルチザンの兵士たちに出くわすこともあれば,ファシストのウスタシャ, * さらにはチェトニクの兵士たちに遭遇することもありました。しかし,おじけるのではなく,そのような時に証言を行ない,聖書が差し伸べる将来の希望について説明しました。これは非常に勇気の要ることでした。エホバの証人はいつも命の危険にさらされていたからです。ミホビルは幾度も逮捕され,尋問され,投獄されました。

終戦が近い1944年11月9日の夜,パルチザンの兵士たちがミホビルの家に踏み込んで文書を押収し,ミホビルを連れ去りました。悲しいことに,ミホビルが帰ってくることはありませんでした。後で分かったことですが,首をはねられてしまったのです。

ヨシップ・サボーは,クロアチアのスラボニア地方において自転車で文書を届けていた時,まだ少年でした。荷台に載せる箱を作り,その中に文書を入れ,上のほうに覆いとして梨を置きました。当時,ほとんどの村の入口にはゲートがあり,見張りがいました。

どの検問所でもヨシップは,「箱の中のものは何だ?」と見張りに聞かれました。

その都度,「おじさんのところに届ける梨です」と答えると,兵士たちは一,二個の梨を取ります。目的地に近づくころには,文書を覆う梨が少しになってしまいます。それで,残り少ない梨と隠した貴重な文書を守るため,ヨシップは使われなくなった道を通りました。

最後まで忠実

ザグレブのれんが職人レスタン・ファビヤンは,イバン・セベル,フラニョ・ドレベン,フィリップ・フゼク-グンバジルに真理を伝えました。全員が6か月以内にバプテスマを受けます。そして伝道を始め,集会を開くようになりました。1943年1月15日の晩,見回りの兵士たちがイバン・セベルの家にやって来て,イバンおよびフラニョ・ドレベン,それに別の兄弟フィリップ・イリッチを拘束しました。兵士たちは家を捜索し,文書をすべて押収し,兄弟たちを連れ去りました。

その拘束について聞いたレスタンは,フィリップ・フゼク-グンバジルと共に,フラニョの母親と妹を慰めに行きました。しかし,そのことを知ったパルチザンの兵士たちは,レスタンとフィリップも拘束してしまいます。5人の兄弟は,自分たちが仕えているのはエホバだけであること,また自分たちがキリストの兵士であることを,聖書から説明しました。兄弟たちは皆,武器を取って戦うことを拒んだため,死刑を言い渡され,監禁されました。

ある晩,5人の兄弟たちは寝ているところを起こされ,衣服を脱がされ,森の中に連れて行かれました。歩いている間,考えを変える機会が与えられました。兵士たちは,家族への愛に訴えて決意を打ち砕こうとしたのです。フィリップ・フゼク-グンバジルには,身重の妻と4人の子どもがいましたが,そのことを引き合いに出されたフィリップは,エホバが家族を顧みてくださることを全く確信している,と答えました。妻子がいないフラニョ・ドレベンは,だれが母親と妹の面倒を見るのか,と言われました。

所定の場所に着くと,兵士たちは寒風の中で兄弟たちを立たせました。そして処刑が始まりました。まず,フィリップ・フゼク-グンバジルが銃殺されます。次いで兵士たちは間を置き,考えを変えるつもりはないのかと迫ります。それでも兄弟たちは動じませんでした。そのため兵士たちはフラニョを,次にイバンを,そしてレスタンを処刑しました。最後に残ったフィリップ・イリッチは妥協し,入隊することに同意してしまいます。しかし3か月後,病気になって家に帰り,起きたことを話しました。フィリップは生き延びようとして妥協しましたが,結局,病気で早死にしました。

スロベニアでは,多くの兄弟姉妹が迫害の犠牲になりました。例えば,38歳の鍛冶屋フランツ・ドロズグは武器を取ろうとしなかったため,1942年6月8日,マリボルでナチの兵士たちによって処刑されました。処刑を目撃した人たちが語ったところによると,フランツは「わたしは世のものではない」と記された板を首にかけられて銃殺されました。(ヨハ 17:14)フランツが強い信仰を持っていたことは,刑の執行の数分前に書いた手紙からも明らかです。そこにはこうあります。「親愛なる友へ。ルペルト,今日,死刑を宣告された。悲しまないでくれ。君と君の家のみなさんに愛を送る。神の王国で会おう」。

当局者たちは宣べ伝える業をやめさせるため執拗に反対を続けましたが,エホバは救いの神であることを示されました。例えば,警察は頻繁に手入れを行ない,地域の住人を並ばせては身分証明書をチェックしました。不審に思われた人は皆,刑務所に入れられてしまいました。それと同時に,他の警察官が家やアパートを捜索します。兄弟たちはしばしば,エホバが保護のみ手を差し伸べてくださるのを目にしました。警察が,もう捜索は終わったと思い込んで,兄弟たちの家を飛ばすことがあったのです。そういうことが少なくとも2回,兄弟たちのアパートに大量の文書と謄写版印刷機が置かれていた時にありました。この危険な時期に宣べ伝える業に携わった人たちは,「エホバは優しい愛情に富まれ,同情心の豊かな方なのです」という聖書の保証が真実であることを幾度も経験しました。―ヤコ 5:11,脚注。

死刑を宣告される

1945年,人類史上類例のない流血を招いた第二次世界大戦が終わりました。ヒトラーとその同盟国の敗戦に伴って兄弟たちは,制限が解除され,宣べ伝えるための自由が再び得られるのではないかと期待しました。そのように楽観視することには理由がありました。新しく政権を執った共産主義政府が,出版,言論,信教の自由を約束したからです。

それにもかかわらず,1946年9月に兄弟15人と姉妹3人が逮捕されたのです。逮捕された人の中に,ルドルフ・カッレ,ドゥシャン・ミキッチ,エドムント・ストロプニクも含まれていました。取り調べは5か月にも及びました。当局はエホバの証人が人民と国家に敵して行動し,ユーゴスラビアの存在そのものを脅かしている,と訴えました。わたしたちの業が米国からの指令のもとに行なわれ,神の王国の布教活動を隠れみのにして,社会主義の破壊と資本主義の復興をもくろんでいる,と申し立てたのです。カトリックの一司祭は先頭に立って,兄弟たちが宗教活動を装ったアメリカのスパイであると非難しました。

訴えられた兄弟たちは,法廷で堂々と弁明を行ない,エホバとその王国について立派に証言しました。ビエコスラブ・コスという若い兄弟は法廷でこう述べました。「裁判官の皆様,私は聖書の教えを説いたこの宗教を母親から受け継ぎ,神を崇拝してきました。ドイツ軍が国を占領した時に,母は刑務所に入れられました。兄と二人の姉も,母と同じ信仰を持ち,ドイツ軍によってダハウの収容所に入れられ,そこで銃殺されました。神を崇拝する方式のゆえに,共産主義者とみなされたからです。私はその同じ宗教を信奉しているために,今度はファシストであるとの嫌疑をかけられ,この法廷で裁かれているのです」。ビエコスラブは釈放されました。

法廷は他の人たちに対しても同じように寛容だったわけではありません。訴えられた人のうち3人が銃殺刑を,残りは1年から15年の懲役刑を宣告されました。しかし,こうした不公正な処置に対して,世界じゅうの兄弟たちはすぐに,強い抗議の声を上げました。米国,カナダ,イギリス諸島,ヨーロッパの証人たちがユーゴスラビア政府に対して幾千通もの抗議の手紙を書き送り,幾百本もの電報を打ちました。政府の高官の中にも兄弟たちのために手紙を書いてくれた人たちがいたほどです。こうした強い働きかけの結果,死刑判決は20年の刑に減刑されました。

しかし,反対がこれで終わったわけではありません。その2年後にスロベニアの当局は,伝道したことを理由に,ヤネズ・ロバスと妻のマリヤ,それに仲間の証人であるヨジェ・マロルトとフランチシュカ・ベルベツを逮捕しました。起訴状には,一部こう記されています。『“エホバ派”の者たちは,新しい信者を取り込み,それらの者を扇動して,現在の社会体制と兵役に反対させた』。当局は,兄弟たちが国防力の弱体化を図っているとして,3年から6年の懲役刑を言い渡しました。

1952年,政策の変化に伴って兄弟たちは全員釈放され,王国の音信は引き続き宣べ伝えられてゆきました。エホバの次の約束のとおりになりました。「あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さず,裁きのときにあなたに敵して立ち上がるどんな舌に対しても,あなたは有罪の宣告を下すであろう」。―イザ 54:17

それでも,政府はなおも兄弟たちの決意を弱めようとしました。マスコミは兄弟たちに,「精神異常者」,「正気を失った狂信者」といったレッテルを張りました。執拗に行なわれる否定的な報道や,常に監視されていることへの不安によって動揺する兄弟たちもいました。釈放された忠実な証人たちが,会衆の他の成員からスパイとみなされることもあったのです。しかし,エホバは忠節で円熟した兄弟たちによって引き続き会衆を強めました。

第二次世界大戦の終わりにヨシップ・ブロズ・チトーが政権を握ると,ユーゴスラビアでは軍隊が重要な役割を担うことがはっきりしてきました。兵役を拒否する人は,理由のいかんを問わず,政府の意向に背く者とみなされたのです。

忠節の試み

第二次世界大戦中,クロアチアの9歳の少年ラディスラブ・フォロは,町民全員の出席が求められた集会で,カトリックの司祭の話を聞きました。その話の後にラディスラブは好奇心から,ステージそでのカーテンの後ろをのぞき,司祭が僧衣を脱ぐのを目にしました。司祭はその下にウスタシャの制服を着ていて,腰の弾薬帯には手りゅう弾が装着されていました。司祭はサーベルを握り,外に出て馬にまたがり,こう叫びました。「兄弟たち,行くぞ! 一人残らずキリスト教徒にしよう。従わないやつらにはどうすればいいか,分かっているだろうな!」

ラディスラブは,神に仕える人がそのような行動を取るべきではないことを知っていました。その後まもなく,おじと共に,エホバの証人が秘密裏に開いていた集会に出席し始めました。そのことで両親に怒られましたが,集会に引き続き出席し,霊的によく進歩しました。

1952年,徴兵されたラディスラブは,クリスチャンとしての中立の立場をはっきり示します。官憲は何度もラディスラブを尋問し,入隊の宣誓をするよう強要しました。一度は新兵1万2,000人が宣誓のために集められていた兵営に連れて行かれました。兵士たちはラディスラブを全員の前に立たせ,肩にライフルを載せました。しかし彼は即座にライフルを肩から振り落とします。兵士たちは皆が聞こえるように拡声器で,もう一度落としたら銃殺だ,と脅します。ライフルを持つことを再度拒むと,ラディスラブは兵士たちに連行され,爆撃でできた深さ数メートルの穴に突き落とされます。そして処刑が命じられ,一人の兵士が穴の中に銃弾を2発撃ち込み,その後,彼らは兵営に戻りました。ところが,銃弾は兄弟に当たっていなかったのです。

その晩,官憲はラディスラブを穴の中から引き上げ,サラエボの刑務所に連れて行きました。ラディスラブはその刑務所で一通の手紙を受け取りますが,そこには,他の証人たちは妥協しているのに,ラディスラブは刑務所で犯罪者扱いされてやせ衰える一方だ,と書かれていました。官憲は同じような主張を長々と繰り返し,何度も圧力をかけてきました。しかし,ラディスラブはこう自分に問いかけました。『わたしがエホバに仕えているのは,ほかの人がそうしているからだろうか。いや違う。わたしは人を喜ばせるためにここにいるのだろうか。そうではない。わたしの命は,他の人の言動や考えにかかっているのだろうか。もちろん違う』。

ラディスラブはこのような霊的な考え方をしたため,4年半後に釈放されるまで忠実を保つことができました。後には,信仰を共にする献身的な妻アニツァの支えを得ながら巡回監督として奉仕しました。

限定的な法的認可

チトーは1948年にソ連との関係を絶った後,地方分権化を進め,人々に対して自由の枠を徐々に広げてゆきました。社会主義の体制は変わらなかったとはいえ,政府は宗教に対していっそう寛容になりました。

政府はエホバの証人の代表者を会見に招き,新しい定款を作成するよう提案しました。それによって,証人たちの業に法的認可を与えることが可能になるとのことでした。兄弟たちは定款の草案を作成し,1953年9月9日,ユーゴスラビアのエホバの証人は再び法的認可を得ました。

共産圏の他の国々で兄弟たちが国外に追放されていた中,ユーゴスラビアの証人たちは,指定された会館でなら集会を開くことが認められました。さらに,マケドニアの兄弟たちが文書を受け取り,ザグレブの支部と連絡を取ることが可能になりました。エホバの証人は1953年に宗教団体として法的認可を得たとはいえ,合法的に家から家の宣教を行なえるようになったのはその38年後のことでした。

その後も問題は続きました。兄弟たちの中立の立場ゆえに,当局は宣べ伝える業を政治的な宣伝活動とみなしました。国内に配備されていた秘密警察や密告者のために,宣べ伝える業は困難を極めました。伝道しているところを見つけられると,逮捕され,罰金刑を科されるおそれがありました。ある報告にはこう記されています。「逮捕や起訴は続いています。カトリックの影響が非常に強いスロベニアでは特にそうで,エホバの民の多くは警察やその協力者に監視されています。だれかと神の言葉を研究しているところを見つけて捕まえようとしているのです。しかし,兄弟たちは迫害の目的を遂げさせまいという決意を貫き,人よりも神に従っています」。

「蛇のように用心深く」

兄弟たちはスロベニアの農村で宣べ伝える際,まず家の人に,卵を売ってくれないか尋ねました。手ごろな値段なら卵を買い,怪しまれないようにします。十分な卵を手に入れたら,別の家では薪がないか尋ねます。そのように買い物をしながら,ふさわしい時には聖書についての話し合いに移るのです。―マタ 10:16

一方,クロアチアのザグレブ周辺では,兄弟たちは当局に見つからないようにしながら,区域を組織的に回りました。一つの方法は,10軒ごとに家を訪ねることです。例えば,伝道者たちは1軒目の家から始めるように言われたなら,次は11軒目,21軒目,31軒目といった具合に訪問します。このような努力によって,多くの人がエホバについて知るようになりました。しかし,家から家の宣教には困難が伴ったため,一番よく用いられたのは非公式の証言でした。

セルビアでは,兄弟たちは個人の家に集まりました。ダミル・ポロビッチは,第二次世界大戦後に祖母の家で開かれていた集会について次のように述べています。「5人から10人が出席していました。祖母の家は二つの道に通じていたので,とても好都合でした。皆が目立たないように出入りすることができ,怪しまれずに済んだのです」。

ベロニカ・バビッチはクロアチアで生まれ,家族は1950年代半ばに研究を始めました。1957年にバプテスマを受けた後,夫と共にボスニアのサラエボに移りました。クロアチアのスラボニア地方出身のミリツァ・ラディシッチは,1950年にバプテスマを受け,やはり家族でボスニアに移りました。これらの家族が,ボスニアで一緒に王国の真理を広めるようになります。ユーゴスラビアの他の土地と同様,宣べ伝える際には注意が要りました。ベロニカはこう言います。「私たちは警察に通報され,文書を押収されました。逮捕されて取り調べを受け,投獄すると脅され,罰金を科されました。しかし,そのために落胆したりおびえたりはしませんでした。むしろ,エホバに対する信仰が強まりました」。

ミリツァは振り返ってこう述べます。「ある日,一人の男性が王国会館にやって来て,関心を示しました。その人は皆の歓迎を受け,しばらく兄弟たちの家に泊まることさえありました。集会では熱心に注解していました。そんな時,私の娘が働いている所で秘密警察の会合があり,娘はその中に例の男性がいるのを見かけました。その人は警察が送ったスパイだったのです。警察の関係者であることが知られ,もう集会には来なくなりました」。

初期の王国会館

エホバの証人が政府に登録される前は,個人の家で集会を開くのは違法なことであり,兄弟たちは逮捕を覚悟で集まっていました。しかし,公の集会が自由に開けるようになってからも,集会場所を見つけるのはたいへんでした。人々はエホバの証人を嫌っていて,建物を貸そうとしなかったからです。それで兄弟たちは,集会を開けるよう建物を購入することにしました。

やがてクロアチアのザグレブの中心部に,作業場として使われていた建物が見つかります。兄弟たちはそれを約160席の美しい王国会館に改装し,文書を生産するための小さな印刷所を建て増します。この王国会館は大会のためにも用いられ,1957年,初めてユーゴスラビア全土の証人たちが集まった大会の時も使われました。数年後,兄弟たちはザグレブ中心部のカマウフォバ通りにある家を購入します。それは1998年までベテル家族によって使用されました。

1957年,セルビアのベオグラードでも建物が購入され,王国会館またベテルの事務所として使われました。その後,兄弟たちはスロベニアのリュブリャナで畜舎を手に入れ,王国会館に建て替えます。1963年,サラエボでは車庫を会館に改築し,ボスニア・ヘルツェゴビナの最初の会衆が使用します。建物によってはかなりの作業が必要でしたが,兄弟たちは労力や資金を惜しみなく提供し,エホバはその努力を祝福されました。

よく組織され,霊的な成長に弾みがつく

1960年,会衆を助け,また励ますために旅行する監督たちが任命されました。兄弟たちの中には,“週末の”巡回監督として奉仕するよう要請された人もいます。そのような兄弟は休日を旅行のために進んで用い,初期の兄弟たちを励まし,一致を促進しました。

クロアチアの支部委員会の成員ヘンリク・コバチッチは,こう語っています。「妻と共に1年ほど週末の巡回監督として奉仕し,後には全時間の旅行する監督として奉仕しました。兄弟たちは非常に貧しく,私たちは水道や水洗トイレのない家によく泊まりました。それでも私たちの訪問にとても感謝し,普通以上の愛やもてなしを示してくれました。毎回,自分たちのベッドを使わせてくれ,乏しい中から食事を準備してくれました。会衆によっては,成員に負担をかけないよう,毎晩別の家に泊まりました」。

現在セルビアの国内委員会の成員として奉仕しているシャンドル・パルフィは,こう語ります。「週末の巡回監督として奉仕するのは,難しい面もあったとはいえ,非常にすばらしい経験でした。兄弟たちは訪問を首を長くして待っていてくれました。貧しくても,最良のものを与えたいと願って,できる限りのことをしてくれました。兄弟たちにとって,巡回監督の訪問は本当に特別な機会だったのです」。

ミロシュ・クネジェビッツは,巡回監督として奉仕するかたわら,ユーゴスラビアの支部事務所での業を監督しました。共産主義政権のもとで幾十年にもわたり,兄弟たちに対する法的な訴えを解決する上で大きな働きをしました。

マケドニアにおける励みある進展

1968年,マケドニアのコチャニ出身の若者が,ザグレブの大学に通っていた時,真理に接しました。その若者は帰省した時,親族や友人に良いたよりを伝えました。

「その若者は私のいとこでした」と言うのは,コチャニで最初にバプテスマを受けたストヤン・ボガティノブです。「私はウエーターとして働いていて,ときどき仕事仲間と宗教談議をすることがありました。そのような話し合いをした後のこと,正教会の教会員が食事をしに来ました。その人に給仕しながら,あなたの教会で聖書が手に入りますか,と尋ねました。神についてぜひとも知りたいと思っていたからです。その人は,手に入れられるかどうか当たってみましょう,と言ってくれました。こうして私は“新約聖書”を持つことができたのです。とてもうれしくて,仕事が終わると急いで家に帰って読むことにしました」。

「その途中,ザグレブから帰省中のいとこにばったり出会いました。いとこは,自分の家に来るよう誘ってくれましたが,私は家に帰ってどうしても聖書を読みたいので行けない,と答えました。するといとこは,『興味を引くものがあってもですか。うちには,聖書をとても分かりやすく説明している本があるんですよ』と言いました。それでいとこの家に行きました。うれしいことに,全巻そろった聖書,幾らかの冊子,そしてクロアチア語の『ものみの塔』誌が数冊あったのです。いとこがくれたそれらの出版物を,私はその場で読み始めました。これはただの読み物ではないと,すぐに気づきました。エホバの証人はだれも知りませんでしたが,彼らのことをよく知りたいと思いました。

「いとこがザグレブに戻る時,私も付いて行きました。ザグレブで,イビツァ・パブラコビッチという親切な証人の家に三日間泊めてもらいました。強い感銘を受けたのは,滞在中に私がするたくさんの質問に,イビツァがいつも聖書から答えてくれたことです。会衆の集会に出席し,兄弟たちの間に見られる温かさに励まされました。

「イビツァは私をザグレブのベテルに連れて行ってくれました。私はたくさんの文書をもらい,幸せな気持ちでそこをあとにしました。忘れがたい数日が過ぎ,見つけた霊的な宝を携えてコチャニに戻ります。付近には証人が住んでいなかったので,イビツァと手紙のやり取りを始めました。私が質問をびっしり書いて送ると,イビツァは答えを書いて返事をくれました。知識が増すにつれ,学んだ事柄を妻と子どもたちに話したところ,家族も関心を持ちます。やがて家族そろって真理を受け入れ,聖書についてさらに多くのことを学びました。私たちはうれしくて,親族や友人に良いたよりを熱心に伝えるようになり,多くの人が耳を傾けました。しかし,宣べ伝えることで迫害も生じました」。

ドイツで一致のうちに集まる

ユーゴスラビアの兄弟たちは他の共産主義国の兄弟ほど孤立していたわけではありません。とはいえ,人数は少なく,愛に満ちた世界的な兄弟関係をぜひとも体験したいと思っていました。ですから,1969年に「地に平和」国際大会が開かれると聞いた時,出席のため外国に行く許可を政府に求めました。許可が与えられた時,兄弟たちは大喜びしました。

大会は,ドイツのニュルンベルクにある大きなスタジアムで開かれました。そこはヒトラーが数十年前,エホバの証人を根絶すると脅し,軍事パレードを行なった場所です。プログラムは多くの言語で提供されました。ユーゴスラビアからの代表者は,スタジアムの近くの,林に囲まれたスポーツ広場で,自分たちの言語でプログラムが提供されることを知り,胸を躍らせました。その広場の真ん中に大きなステージが置かれ,広場の一方の側に座る人々はセルボ-クロアチア語で,もう一方の側ではスロベニア語で話を聞くことができたのです。その8日間のプログラムによって,兄弟たちは知識と信仰を大いに深めました。

ユーゴスラビア各地から代表者がドイツに行くため,列車やバスが手配されました。クロアチアからドイツに行った兄弟は,こう語っています。「各国の兄弟姉妹と会えることがとても楽しみで,大会を宣伝するサインを客車の窓に目立つように掲げました」。

兄弟たちは,世界本部のネイサン・ノアとフレデリック・フランズと実際に会って話すことができ,大いに喜びました。ある代表者は当時を振り返ってこう述べています。「二人が私たちの言語のセクションに来て歓迎の言葉をかけてくれた時は,興奮を抑えることができませんでした」。ユーゴスラビアの兄弟たちは,出席するために多くの犠牲を払いましたが,受けた祝福はそれを補って余りあるものでした。セルビアから来たミロシヤ・シミッチはこう語ります。「大会の旅費は2か月分の給料に相当しました。10日間の休みを取るのは容易ではなく,解雇されるおそれもありましたが,出席することを心に決めていました。言葉にできないほどすばらしい大会でした。40年ほどたった今も,その時の喜びを思い出すと,涙があふれます」。兄弟たちは,ユーゴスラビア全土の仲間の証人たちと一つになり,国際的な兄弟関係による一致を経験して強められ,その後の難しい業を果たすための備えができて帰国しました。

国内の開拓者の活躍

1930年代初めにやって来たドイツの開拓者たちは,良いたよりを広める点で大きな働きをしました。伝道者の増加に伴い,開拓奉仕を始めるユーゴスラビア人も増えました。例えば,スロベニアには,ユーゴスラビア国内の必要の大きな遠隔地に赴くことができる経験ある開拓者たちがいました。それらの開拓者は果敢に,新しい言語や文化を学ぶという課題に取り組みました。

ヨランダ・コツヤンチッチはこう語っています。「私はコソボ最大の都市プリシュティナに行きました。そこで話されているのはアルバニア語とセルビア語です。共に奉仕したミンカ・カルロブシェクも私もそれらの言語が話せませんでしたが,とにかく伝道を始めることにし,結果的に言語も学べるようになったのです。最初に訪ねた家で,チェコ人のやもめの長男が出てきました。スロベニア語と片言のセルビア語で話を切り出し,『聖書の良いたよりについてお話ししています』と言いました。

「すると,『お入りください。皆さんが来るのを母は待っていたんですよ』と言われました。

「家の中に入ると,母親のルジツァが急いで出てきました。ルジツァが言うには,14日前,あなたについて教えてくれる人を遣わしてください,とエホバに祈ったとのことです。チェコに住むお姉さんがエホバの証人で,エホバに助けを求めて祈るようたびたび勧めていたのです。そのためルジツァは,私たちが訪れた時,祈りが聞かれたと感じました。こうして,ルジツァが私たちにセルビア語を教え,私たちは聖書の真理を教えました。さらに,ルジツァの家に下宿していた学生たちも聖書研究に加わりました。そのうちの一人がくれたアルバニア語の辞書は,その言語を学ぶのに助けになりました」。

モンテネグロに住むゾラン・ラロビッチは,クロアチアのザグレブ出身の開拓者から聖書を受け取った時,まだ少年でした。5年後の1980年,セルビアから特別開拓者がやって来て,ゾランと研究を始めました。ゾランはこう言います。「ディスコ仲間との付き合いを絶つのは大変でしたが,やがて離れることができました。それから速く進歩し,数か月後にはセルビアのベオグラードでバプテスマを受けました。兄弟たちがとても少なかったので,私はバプテスマを受けてすぐに公開講演をするよう割り当てられました。さらに私たちは,ポドゴリツァ市での集会すべてを司会するようになったのです」。

水田でバプテスマ

マケドニアのストヤン・ボガティノブはこう語ります。「だれかがバプテスマの資格にかなうと,私がバプテスマを施しました。バプテスマに使える浴槽はなく,付近の川も水量が十分ではありませんでした。しかし,水田はたくさんあり,用水路が引かれていました。用水路の幾つかは,バプテスマを施せるだけの深さがあり,水もきれいでした。水田で初めてバプテスマを施した時のことを思い出します。あぜ道を通って用水路に向かう際に,ある人から,『ストヤン,労働者を新しく雇ったんだね!』と声をかけられました。

「『そう,そのとおり。仕事がいっぱいあってね』と答えました。私たちはマケドニアで霊的な収穫に携わる働き人だったのです。周りの人はそのことを知る由もありませんでした」。

マケドニアの兄弟たちは,支部事務所とほとんど連絡が取れず,神権的な手順にもあまり通じていませんでした。ドイツで集会に出席するようになっていたストヤン・ストイミロブは,マケドニアに帰国し,コチャニに証人がいることを知って喜びました。「兄弟たちのもとを訪ね,ドイツで集会がどのように開かれているかを話すとすぐに,『ものみの塔』研究の司会と公開講演を行なってもらえないだろうか,と頼まれました。私は,まだバプテスマを受けていないことを伝えました。それでも兄弟たちはあきらめず,最も資格があるのはあなたなので是非お願いしたい,と言いました。それで,引き受けることにしました。やがて妻も私も進歩し,例の水田でバプテスマを受けました」。

現在コチャニで長老として奉仕するベセリン・イリエブは,こう述べています。「神権組織についての私たちの知識はわずかでしたが,真理に対しては大きな愛を抱いていました」。やがてエホバは,物事が正されるように導かれました。その一つとして,マケドニア語の文書がさらに出版されることによって,王国の真理が行き渡り,会衆が強められたのです。

増し加わった自由を思慮深く用いる

ユーゴスラビアはソ連の統制下にはなかったため,人々は鉄のカーテンの向こうにはない自由を得ていました。1960年代の終わりにユーゴスラビアは,共産圏の国としては初めて,ビザを廃止し,国境の出入りをより自由にしました。移動の自由が増したため,ユーゴスラビア北部の兄弟たちは,ソ連に隣接する国々に文書を運ぶことになりました。それらの国々では,宣べ伝える業がまだ禁令下にあったのです。

まず,兄弟たちはドイツから貨物自動車でユーゴスラビアに文書を持ち込みました。クロアチアの支部委員会の成員ジュロ・ランディッチは,ソ連が崩壊するまで自宅が文書集積所だった時を思い起こし,こう語ります。「うちの車には,床の下とダッシュボードの中に,文書を隠す場所がありました。もし見つかれば,車は没収され,私たちは刑務所行きになるおそれがありましたが,兄弟たちが文書を受け取って喜ぶ様子を見ると,行って良かったと感じたものです」。

セルビアからブルガリアに文書を運んだミロシヤ・シミッチ姉妹は,振り返ってこう語ります。「だれに文書を届けるかは知らされず,住所が知らされただけでした。ある時,バスを降りて届け先の家を見つけましたが,家にはだれもいませんでした。その家のある区画を一回りして最初とは逆の方向からもう一度訪ねましたが,やはり留守です。その日,不審に思われないよう注意しながら同じことを10回ほど繰り返しましたが,家の人には会えずじまいでした。それは結果的には幸いでした。あとで分かったことですが,住所が間違っていたのです。

「持って行った文書は,写しを作るために自分で苦労してタイプしたものだったので,どうしたものかと思い悩みました。とても捨てる気にはなりません。それで,有効に使えるようセルビアに持ち帰ることにしました。しかし,まだ問題があります。往復の切符は買っていましたが,乗り継ぎ駅までの切符を買う必要があったのです。普通は文書を届けた時に,受け取った兄弟から切符代をもらうことになっていました。届け先の国に持ち込めるお金の額が制限されていたからです。私は,窓口の人が女性でありますようにと祈りながら,駅の切符売り場に近づきました。私が売り場に行くと,窓口に座っていた男性が立ち上がり,女性と交替しました。私は文書をくるんでいた衣服を見せ,それと引き換えに切符をもらえないか尋ねました。その女性は同意し,こうして切符を手に入れることができたのです」。

1980年代の初め,兄弟たちは文書をアルバニア語とマケドニア語に翻訳し,手書きの原稿をベオグラードの小さな支部に送っていました。ミロシヤはそこでタイプライターとカーボン紙を使って一度に8枚,打ち込んでいました。それは難しい仕事でした。原稿は手書きで,しかもよく知らない言語で書かれていたからです。

若い兄弟たちが確固とした立場を取る

公式には宗教の自由が認められていたものの,政府はわたしたちの中立の立場をユーゴスラビアの団結を脅かすものと見ました。そのため,兄弟たちは反対に直面しました。第二次世界大戦中には,中立の立場ゆえに死に至るまで忠実だった兄弟たちが少なからずいました。ところが,続く30年ほどの間,すべての兄弟がそれと同じほど強い信仰を示したわけではありません。クリスチャンの集会に出席し,王国の業を支持する一方で,兵役のために召集されると,それに応じることを正当化しようとする人たちがいたのです。

中立の立場を取った若い兄弟たちは,最高10年の懲役刑に処せられました。さらに,30歳になる前に幾度も懲役刑を宣告されることもありました。忠誠の試みに立ち向かい,妥協を拒んだ人の中には,真理にとても新しい人もいました。そのような兄弟の多くは現在,会衆内で責任ある立場に就き,指導の任に当たっています。

感動的な国際大会

ユーゴスラビアのエホバの証人はそれまで,国際大会の開催国となる喜びを経験したことがありませんでした。ですから,統治体が1991年にクロアチアのザグレブでも「自由を愛する人々」国際大会が開かれると発表した時,兄弟たちは沸き立ちました。

しかし,問題もありました。クロアチアがユーゴスラビアからの独立を宣言して以来,いつ戦争が始まってもおかしくない状況だったのです。大会を開くのは賢明なのでしょうか。最優先する必要があったのは,外国からの代表者と国内の出席者の安全でした。多くの祈りと熟慮の末,兄弟たちは大会の準備を進めることに決めました。

統治体の成員セオドア・ジャラズは,大会の数週間前にクロアチアに入り,大会を組織する面で援助を与えました。ザグレブでの他の催しはすべて取りやめになっていたため,人々はディナモ・スタジアムで行なわれる事柄に注目していました。大会が近づくにつれ,国内の情勢は混迷を深めてゆきました。兄弟たちは日々,危険を推し量り,同じ問いかけを繰り返しました。準備を続けるべきでしょうか,それとも大会を中止すべきでしょうか。そして,繰り返しエホバに請願し,導きを求めました。驚いたことに政情は安定し,1991年8月16日から18日に大会を開くことができたのです。

状況は極めて対照的でした。周辺の国々に戦争の危機が迫っていた中,クロアチアのエホバの証人は「神の自由を愛する人々」国際大会 *にやって来た幾千人もの代表者を歓迎していたのです。大勢の地元の人々が国外に脱出していた時,証人たちは15の国から来た兄弟姉妹と共に集まり,そこには愛と自由がみなぎっていました。米国やカナダや他の西側諸国の兄弟たちのグループが飛行機でやって来ました。軍事情勢のゆえにザグレブの空港は閉鎖され,すべての航空機はスロベニアのリュブリャナに着陸しなければなりませんでした。代表者たちはそこからバスでザグレブに向かいました。訪れた兄弟たちの勇気は,一般の人々に良い証言となりました。地元の兄弟たちにとって,代表者の存在はこの上ない励ましとなりました。最大のグループはイタリアから来た約3,000人の証人たちです。その温かな愛と燃えるような情熱により,大会は大いに盛り上がりました。―テサ一 5:19

とりわけ信仰を強めたのは,統治体の5人の成員を迎えたことです。それはケアリー・バーバー,ロイド・バリー,ミルトン・ヘンシェル,セオドア・ジャラズ,ライマン・スウィングルです。それらの兄弟の話を,今でも多くの人は懐かしく思い出します。長年の経験を持つ統治体の兄弟は,地元の兄弟たちを強めるため,不穏な情勢にひるむことなくこの国を訪れ,励みとなる話を行なったのです。

当局は政情不安のゆえに,ユーゴスラビアの様々な地域から来た出席者の間で民族の違いをめぐって衝突が起きるのではないかと懸念しました。証人たちが平和裏に集まっているだけでなく,温かい兄弟愛を表わしている様子を見て,当局は安堵したに違いありません。会場に配置される警察官の人数は,日ごとに少なくなってゆきました。

記憶に残るこの大会は,エホバの証人が国際的な真の兄弟関係にあることをはっきり示しました。兄弟たちはこの点を思い返し,その後の試練の時期に一致を保ったのです。セルビアやマケドニアからの出席者がバスで帰る際,クロアチアとセルビアの間の検問所はまだ通過できました。兄弟たちが境界線を安全に越えた後,そこは閉鎖されたのです。内戦が始まったのはその時だったと,多くの人は言います。

その後の年月に,かつてユーゴスラビアを構成していた共和国は,独自の政府を持つ国として独立してゆきます。それに伴って生じた激変により,幾十万もの人命が奪われ,計り知れない苦しみがもたらされました。その騒乱の時期に兄弟たちはどうしていたのでしょうか。内戦の後,現在は独立国となっている場所で,エホバは王国を宣べ伝える業をどのように祝福してこられたのでしょうか。では,見てみましょう。

ボスニア・ヘルツェゴビナの現代の歴史

「1992年5月16日,私たち13人はサラエボのアパートの一室で身を寄せ合っていました。町の至るところで迫撃砲弾が炸裂し,破片が飛び散っていました。私たちが避難していた建物に,2発の砲弾が当たります。その部屋にいたのはクロアチア人,セルビア人,ボスニア人で,外ではまさにその三つのグループが殺し合っていましたが,私たちは清い崇拝で結ばれていたのです。夜が明けるころ,砲撃が弱まる時を見計らってアパートから脱出し,安全な場所を探しました。前の晩にもしたように,大声でエホバに祈り,エホバはその祈りを聞いてくださいました」。―ハリム・ツリ。

当時のサラエボは人口40万を超えており,現代史上,他に類を見ないほど長くて過酷な包囲のただ中にあったのです。国を引き裂く民族的,宗教的紛争が続く状況に,わたしたちの霊的な兄弟姉妹はどう対処していたのでしょうか。その話をする前に,ボスニア・ヘルツェゴビナについてもう少し説明しましょう。

ボスニア・ヘルツェゴビナは旧ユーゴスラビアの中心に位置し,クロアチア,セルビア,モンテネグロに囲まれています。同じ文化を持つ人や家族の結びつきは強く,人をもてなすことが重んじられています。人々は自由な時間に,近所の家でトルコ・コーヒーを飲み,またカフィッチと呼ばれるコーヒー店でくつろぐことを好みます。ボスニアの住民は,ボスニア人,セルビア人,クロアチア人で構成されていますが,外見ではほとんど見分けがつきません。多くの人は,自分は宗教心が非常に強いとは考えていませんが,宗教によって人々が分裂してきたというのが現状です。ボスニア人のほとんどはイスラム教徒で,セルビア人はセルビア正教会に,クロアチア人はローマ・カトリック教会に属しています。

1990年代初めに,宗教上の不寛容や民族間の憎しみが激化し,民俗浄化と呼ばれる無情な政策が実施されました。進撃する各軍隊は,小さな村でも大都市でも一般市民を追い出します。掌握した地域から他民族を排除し,自分たちの宗教に属する人だけが住めるようにするためです。そのため,兄弟姉妹は中立の試みを受けることになりました。旧ユーゴスラビアの他の国々と同様,ボスニアでもほとんどの人は親の宗教に属しており,たいていは名字からその家族の宗教的な背景が分かります。心の正直な人たちがエホバの僕になると,家族や伝統に背いたとみなされかねません。それでも兄弟たちは,エホバへの忠節が保護になることを学んできました。

包囲された都市

すでに見たとおり,ユーゴスラビアの兄弟たちは1991年にクロアチアのザグレブで開かれた「神の自由を愛する人々」大会で示された愛や一致に強い感銘を受けました。その忘れがたい大会によって強められ,前途の苦難に対する備えができました。それまでサラエボでは,ボスニア人,セルビア人,クロアチア人が共に平和に生活していました。しかし,突如として軍隊が市を取り囲み,兄弟たちを含め,すべての人が閉じ込められてしまったのです。政情は混迷を深め,紛争がいつまで続くか,予測しようがありませんでした。

サラエボに住む長老ハリム・ツリはこう伝えました。「人々は飢えに苦しんでいます。月に一度,小麦粉数キロ,砂糖100㌘,油0.5㍑が配給されるだけです。市内に空いた土地が少しでもあれば,野菜が植えられています。サラエボじゅうの木は切られ,たきぎにされています。木がなくなると,アパートの床板をはがして料理や暖を取るのに用います。燃えるものは何でも,古い靴まで燃やす有様です」。

サラエボが包囲された時,リリアナ・ニンコビッチと夫のネナドは市内から出られず,しかも二人の娘と離れ離れになってしまいました。リリアナはこう言います。「それまでは,二人の子どもを持ち,アパートと車のある普通の家族でしたが,急にすべてが変わってしまったのです」。

しかし,この家族はしばしばエホバの保護のみ手を経験しました。リリアナはさらにこう述べています。「住んでいたアパートを出た直後にそこが砲撃を受けるということが二度ありました。また,苦しい中でも小さなことを喜ぶようにしました。例えば,公園に行ってタンポポの葉を摘んだものです。それをサラダにして,お米だけの食事に添えました。あるもので満足し,何にでも感謝することを学びました」。

物質的な備えと霊的な備えを得る

大きな問題となったのは,水の確保です。ほとんどの場合,家の水道は止まっていました。人々は水を手に入れるため,狙撃されるおそれがある中,時には5㌔先まで歩いて行かなければなりませんでした。給水所では,何時間も列に並び,容器を満たしてから,重い水を運んで帰ることになります。

ハリムはこう伝えています。「試みとなったのは,家の水道が短時間だけ使えるようになると知らされた時です。その間にだれもがシャワーを取り,洗濯をし,できるだけ多くの容器に水をためなければなりません。しかし,この待ちわびていた時と会衆の集会の時間が重なったらどうでしょう。集会に行くか,家にいて水を確保するか,決めなければなりません」。

物質的なものは必要だったとはいえ,兄弟たちは霊的な備えが欠かせないことを認識していました。集会では,霊的な食物が得られただけでなく,投獄された人やけがをした人,さらには死亡した人についても知らされたのです。会衆の長老として奉仕するミルティン・パイッチはこう言います。「わたしたちは家族のようでした。集会に集まった時,そこを離れがたく思いました。集会後はたいてい,兄弟たちと長い時間,真理について語り合ったものです」。

生きてゆくのは容易ではなく,命の危険を感じることもしばしばでした。それでも兄弟たちは,霊的な関心事を第一にしました。戦争で国が分断される中で,エホバの民は互いにいっそう親しくなり,天の父にもいよいよ近づきました。親の忠節な態度を目にした子どもたちは,自らもエホバに対する揺るぎない忠節心を培いました。

クロアチアとの境界に近いビハチという町は,4年近く孤立状態にありました。住民は町の外に出ることができず,救援物資も届きませんでした。この町に住む唯一の兄弟,オスマン・シャチルベゴビッチはこう語ります。「戦争が始まったころがいちばん大変でした。困難な状況そのものというよりも,それまでに経験したことのない,新たな状況に対処することを難しく感じたのです。意外なことでしたが,迫撃砲による攻撃が始まっても,さほどぴりぴりしないで済みました。飛んでくる砲弾で必ずしも命を落とすわけではないことが分かったからです。砲弾が不発の場合もあるのです」。

戦闘がいつ終わるかだれも分からなかったので,クロアチアのザグレブとオーストリアのウィーンにあるベテルは協力して,人道援助物資を保管するための取り決めを設けました。物資はサラエボ,ゼニツァ,トゥズラ,モスタル,トラブニク,ビハチの王国会館や証人の家に置かれました。戦闘が激化するにつれ,都市が突然包囲されて孤立するということが起きました。補給路が不意に断たれると,物資はたちまち底を突いてしまいます。こうしてボスニアの町々は外界から切り断たれていましたが,エホバの証人の兄弟間の一致は揺るぎませんでした。それは,国内の至るところで燃え盛る民族的・宗教的憎しみとは鋭い対照を成すものでした。

熱心で,しかも用心深い

サラエボでは,生活に必要なものを手に入れる苦労に加え,各所に配置された狙撃兵による危険もありました。罪のない市民を無差別に撃つのです。飛んでくる迫撃砲弾によって,人々は常に死の脅威にさらされました。包囲された町の中を移動するのは,時に危険を伴います。人々は恐怖におののきながら生活していました。とはいえ,兄弟たちは思慮深さと勇気の釣り合いを保ち,王国の良いたよりを伝え続けました。人々は慰めを切実に必要としていたからです。

ある長老はこう語っています。「サラエボがとりわけ激しい攻撃を受けた時のこと,わずか1日の間に幾千発もの砲弾が炸裂しました。その土曜日の朝,兄弟たちは長老に電話をかけ,『野外奉仕のための集まりはどこでありますか』と尋ねてきたのです」。

一人の姉妹はこう述べています。「人々はまさに真理を必要としていました。そのことが分かったので,困難な状況を忍耐するだけでなく,喜びを保つことができたのです」。

聖書の希望の必要性を認める地元の人々も少なくありませんでした。ある兄弟はこう言います。「関心のある人を探さなくても,人々のほうが霊的な助けを求めてわたしたちを探しました。王国会館にやって来て,研究をしたいと言うのです」。

戦争中も伝道活動に成果が見られた大きな理由として,クリスチャンの兄弟たちの一致を挙げることができます。その一致は,人々の目に明らかでした。特別開拓者として長年奉仕してきたナダ・ベシュケル姉妹はこう述べています。「それは大きな証言となりました。多くの人は,ボスニア人とセルビア人の兄弟が宣教奉仕で一緒に働く様子を目にしました。クロアチア人の姉妹と,かつてイスラム教徒であった姉妹が,セルビア人の女性と研究しているのを見ると,わたしたちが異なっていることを認めざるを得ないのです」。

兄弟たちの熱心さの結果は,今も明らかです。現在エホバに仕えている人の多くは,戦争中に真理を受け入れたからです。例えば,バニャ・ルカの会衆では,伝道者100人が他の会衆に転出しましたが,それでも人数が倍になりました。

忠実な家族

兄弟たちは常に用心を怠りませんでした。それでも,居合わせた時と場所が悪く,「時と予測できない出来事」の犠牲になってしまった人もいます。(伝 9:11,脚注)セルビア人のボジョ・ジョレムは,1991年にザグレブで開かれた国際大会でバプテスマを受けました。ボジョはサラエボに戻った後,中立の立場ゆえに何度か刑務所に入れられ,ひどい扱いを受けました。1994年には14か月の刑を受けました。ボジョが最もつらく感じたのは,妻のヘナ,また5歳の娘のマグダレナから引き離されたことでした。

ボジョが釈放されて間もなく,家族は悲劇に見舞われます。ある静かな日の午後,この夫婦は聖書研究を司会するため,子どもを連れて家の近くに出かけました。3人が歩いていると,不意に砲弾が炸裂し,辺りの静けさが破られます。ヘナとマグダレナは即死し,ボジョは担ぎ込まれた病院で後に亡くなりました。

クリスチャンの中立

民族間の偏見が強まるにつれ,中立の立場が容認されることはまずありませんでした。バニャ・ルカの会衆は,主に若い兄弟たちで構成されていました。それは軍隊が戦争のために必要としていた人々でした。兄弟たちは,中立を保ったために殴打されました。

オスマン・シャチルベゴビッチは当時を振り返ってこう語ります。「私たちはしばしば警察に尋問され,家族を守ろうとしない憶病者と呼ばれました」。

そのような時,オスマンは警察官と次のようなやり取りをしました。「警察官は銃があれば身を守ることができますよね」。

「そうだ」と警察官は答えます。

「銃を大砲と交換できるとしたら,より確実に身を守るために交換しますか」。

「交換するとも」。

「では,大砲を戦車と交換できるとしたら,そうしますか」。

「もちろんだ」。

オスマンはこう続けます。「しっかり身を守るために,より強力なものに頼るわけですね。わたしを保護してくださるのは,全能の神で宇宙を創造した方エホバです。それよりも強い保護となるものがほかにあるでしょうか」。こう言うと警察官は納得し,オスマンに干渉することはなくなりました。

援助物資が到着する

ボスニアの証人たちの窮状は近隣の国の兄弟たちも知るところとなっていましたが,しばらくは,困窮した兄弟たちに救援物資を届けることができませんでした。1993年10月になって当局は,人々が任意で現地に救援物資を運べる可能性があることを示しました。それで兄弟たちは危険を覚悟で,その機会を最大限に活用することにしました。10月26日,食料や薪16㌧を積んだ5台のトラックがオーストリアのウィーンからボスニアに向けて出発します。まだ激しい戦闘が行なわれている多くの地域をどのように通り抜けるのでしょうか。 *

兄弟たちは時として大きな危険の中を移動しました。運転手の一人はこう思い起こしています。「その朝,出発が遅くなってしまい,援助物資を運ぶ何台ものトラックの後ろを走行しました。ある検問所に近づくと,すべてのトラックが止められ,書類のチェックが行なわれていました。すると突然,ライフルの銃声が聞こえました。エホバの証人ではない一人の運転手が狙撃されたのです」。

トラックでサラエボに入ることが許されたのは運転手だけで,同乗していた他の兄弟たちは市の外で待たなければなりませんでした。しかし,サラエボの伝道者たちを是非とも励ましたいと思い,電話を見つけ,受話器を通して公開講演を行ないました。そのような励ましは大いに必要とされていたのです。戦争中に,旅行する監督やベテル奉仕者や国内委員会の成員は,兄弟たちが身体面でも霊的な面でも生き続けられるよう,幾度も命がけで助けました。

ビハチの兄弟たちは,4年近くにわたって物資を受け取ることができませんでした。町はバリケードで封鎖されていたため,食料は入ってきませんでしたが,霊的な食物は幾らか受け取れました。どのようにでしょうか。ファックスを利用して,「わたしたちの王国宣教」や「ものみの塔」誌を定期的に受け取ることができたのです。そして,それをタイプし直したものを各家庭で1部ずつ受け取ることができました。戦争が始まった時,その少人数の群れにはバプテスマを受けた伝道者は3人だけで,バプテスマを受けていない伝道者12人が共に交わっていました。それらの人は,エホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受ける機会を2年も待ちました。

それほど長く孤立状態にあるのは,たいへんなことでした。オスマンはこう言います。「私の聖書研究生たちは,大会に出席したことも,巡回監督の訪問を受けたこともありませんでした。兄弟たちとの交流を楽しめるようになる時が来ると,よく語り合ったものです」。

1995年8月11日,「エホバの証人の救援物資」というサインをはっきり掲げた2台の車両がビハチに入ってきた時,兄弟たちがどれほど喜んだか想像してください。その車は,町が包囲されてから援助物資を運んできた最初の民間車両でした。兄弟たちが,身体面でも精神面でも限界を感じていたまさにその時,到着したのです。

近所の人は,救援に来た兄弟たちが壊れた窓の修理などを行なって,互いの必要を顧みる様子を目にしました。オスマンはこう語ります。「うちの近所の人々は,その様子に感銘を受けました。私たちがお金を持っていないことを知っていたからです。この出来事は大きな証言となり,人々は今でもその時のことを話題にします」。ビハチには現在,伝道者34人,開拓者5人が奉仕する熱心な会衆があります。

忘れがたい旅

兄弟たちは,戦禍に見舞われたボスニアの町々に食料や文書を届けるため,幾度も命を危険にさらしました。しかし,1994年6月7日の旅はそれまでと異なっていました。その日の早朝,国内委員会の成員や他の奉仕者を乗せた3台のトラックが,クロアチアのザグレブを出発しました。救援物資を届け,また3年ぶりとなる特別一日大会を開き,短縮したプログラムを提供するのが目的でした。

この特別一日大会が開かれた場所の一つはトゥズラです。戦争が始まった当時,会衆にはバプテスマを受けた伝道者が20人ほどしかいませんでした。ところが驚いたことに,大会には200人以上が集まってプログラムに耳を傾けたのです。30人がバプテスマを受けました。現在,トゥズラには三つの会衆があり,300人を超える伝道者がいます。

ゼニツァでは,兄弟たちは適当な会場を確保できましたが,バプテスマのプールを見つけるのに苦労しました。あちこち探した末,そのために使える桶を見つけました。唯一の問題はにおいでした。その桶には魚が入れられていたのです。しかし,「人をすなどる者」になるようにとのイエスの招きに応じたバプテスマ希望者たちは,ひるみませんでした。(マタ 4:19)バプテスマの話をしたのは,現在クロアチアの支部委員会の成員であるヘルベルト・フレンツェルです。兄弟はこう伝えています。「浸礼希望者はこの時をずっと待っていたので,何にも妨げられまいと心に決めていました。バプテスマの後,ついに願いがかなったことをとても喜んでいました」。今日,ゼニツァには伝道者68人が奉仕する熱心な会衆があります。

サラエボでは,唯一大会を開くことができる会場は,狙撃されやすい交差点の近くにありました。兄弟たちは会場に無事に着きましたが,バプテスマをどこで施すか,また貴重な水をいかに上手に使うかという問題に直面しました。最後の人までバプテスマの水が残るよう,体格の順に並び,小柄な人から始めて体の大きな人が最後に受けるようにしたのです。

兄弟姉妹にとって,それは何とすばらしい日だったのでしょう。周囲では恐ろしい事柄が起きているとしても,共に集まって神を崇拝する喜びがそがれないようにしたのです。今日,サラエボには三つの活発な会衆があります。

あらしの後

再び物資が補給されるようになるにつれ,兄弟姉妹の生活は幾らか楽になりました。しかし,民族浄化とそれに伴う強制退去は続きました。クロアチアで奉仕する長老のイビツァ・アラバドジッチは,バニャ・ルカにある自分の家から追い出された時のことについて,こう語ります。「ある男が銃を持ってやって来て,ここはわたしの家になったので出て行くようにと言いました。その人はセルビア人であるゆえに,クロアチアのシベニクにある自宅から強制的に退去させられていました。そして今度は,わたしたちが出る番だと言うのです。わたしと研究していた警察軍の隊員が間に入って,助けてくれました。自分の家にとどまることはできませんでしたが,そのセルビア人とわたしたちが互いの家を交換するということで折り合いがつきました。自分の家と,真理を学ぶよう助けてくれた会衆とをあとにするのは忍びないことでしたが,ほかに道はありませんでした。ごくわずかな持ち物だけで,クロアチアにある“新しい”家に向けて旅立ちました。ところがシベニクに着くと,わたしたちのものであるはずの家に,知らない人がすでに引っ越していたのです。どうしたらよいのでしょう。地元の兄弟たちがすぐに迎え入れてくれました。家の問題が解決するまで,ある長老が1年にわたってわたしたちを同居させてくれたのです」。

政情不安は今でも続いていますが,人口のほぼ40%がイスラム教を奉じるボスニア・ヘルツェゴビナにおいて,真理は広まっています。戦争が終わって以来,兄弟たちは新しい王国会館を建設してきました。特に,バニャ・ルカに王国会館ができたことで,切実に必要とされていた集会場所が備えられました。それだけではありません。この建物は法的な勝利を物語るものでもあるのです。兄弟たちは長年,セルビア正教会の影響が極めて強いこの地域で,王国会館の建設許可を得るよう努めてきました。戦争が終わって,ボスニアの兄弟たちは法的認可を与えられてはいたものの,バニャ・ルカの王国会館の建設許可は得られませんでした。しかし,多くの祈りと懸命な努力の末に,必要な許可を取得できました。この勝利が法的な先例となり,ボスニア・ヘルツェゴビナのこの地方でその後も王国会館を建てることが可能になりました。

信教の自由が得られたことで,32人の特別開拓者が,必要の大きな場所で業を助けるための道が開かれました。その多くは,外国から来た人たちです。特別開拓者が宣教奉仕に熱心で,神権的な手順を忠実に守っていることは,大きな祝福となっています。

サラエボは,ほんの10年ほど前にはいつも狙撃されるおそれがある所でしたが,今では平和裏に大会が開かれるようになり,旧ユーゴスラビア全域から兄弟たちが訪れています。この美しい山岳国は,20世紀に起きた戦争によって損なわれてきましたが,エホバの民は「偽善のない兄弟の愛情」の絆によっていっそう緊密になっています。(ペテ一 1:22)現在,ボスニア・ヘルツェゴビナの16の会衆に交わる1,163人の伝道者は,一致してまことの神エホバを賛美しています。

クロアチアの現代の歴史

1991年にザグレブで国際大会が開かれた後,クロアチアとセルビアとの境界は突如閉鎖されました。主要な道路や橋は軍によって破壊されるか封鎖され,クロアチア東部からの出席者の多くは自分の家に帰ることができませんでした。国の他の地域に住む証人たちは温かい兄弟愛を示し,自分たちも貧しい中で,それらの兄弟を自宅に泊めたのです。

ザグレブでは昼夜を問わず空襲警報のサイレンが鳴りました。人々は避難用のシェルターに駆け込み,そこに数週間,あるいは数か月とどまる人もいました。ベテルの地下は安全な場所だったため,市から避難所として指定されていました。そのため,優れた証言の機会が開け,人々は身の安全を確保するだけでなく,他の面でも益を得ました。例えばある日のこと,サイレンが鳴り,人々はいつもしているように路面電車から急いで飛び出し,ベテルの地下のシェルターに駆け込みました。不安そうに成り行きを見守っている人たちに,ベテルで奉仕する長老の一人は,数か月前にザグレブで開かれた国際大会のスライドを見るのはどうかと言いました。皆がその勧めに応じ,上映後にはとてもよかったと感想を述べました。

戦闘が行なわれていたため,集会に行くのは本当にたいへんでしたし,残念ながら,銃弾や砲弾で王国会館が被害を受けることもありました。しかし,兄弟たちはそれまで以上に霊的な食物の大切さを意識し,「集まり合うことをやめ」ませんでした。(ヘブ 10:25)例えば,シベニクでは6か月にわたってロケット砲弾による攻撃が続いたため,王国会館で集まることができませんでした。一人の長老はこう述べています。「私たちは市の外に住んでいたので,私の家で集まって書籍研究と『ものみの塔』研究を行ないました。そうした状況の中でも宣べ伝える業のペースを落としたりせず,近所や周辺の村で伝道したのです。私たちがエホバの証人であり,他の人たちと異なっていることは皆に知られていました」。

戦時下で示された兄弟愛

家を失った兄弟たちは多くの場合,他の人の家に身を寄せました。会衆も何であれ必要な助けをすぐに差し伸べました。例えば,クロアチアのオシイェクの王国会館で兄弟たちは,ボスニアのトゥズラから苦境のもとで避難してきた家族を温かく迎えました。会衆の成員は,この家族の奥さんが霊的な姉妹であることを知って,喜びました。

この家族は,一軒の家に住む許可を当局から得ましたが,それは古くて荒れ果てた家でした。兄弟たちはその家がひどい状態なのを見て,援助の手を差し伸べます。ストーブを持ってきた人もいれば,窓をつけてくれた人,ドアやベッドを提供してくれた人もいました。さらには,建材を持ってきた人,食べ物や薪を用意してくれた人もいました。次の日までに,一つの部屋が住める状態になります。しかしその家は,一家が冬を越すにはまだ不十分でした。それで会衆は,必要な品物のリストを作り,伝道者各自ができるところに応じて持ち寄りました。兄弟たちは貧しい生活をしていましたが,スプーンから屋根材に至るまで,必要なものがすべて集まりました。

戦争が続くにつれ,食料はすぐに底を突きます。支部は兄弟たちが物質面でも霊的な面でも必要とするものを備えるために手を尽くし,統治体と連携しながら,食料,衣類,靴,医薬品を組織的に集めました。初めは主に国内の兄弟たちで助け合いましたが,兄弟たち自身も困窮していたため,できることは限られていました。やがてイタリア,オーストリア,スイス,ドイツの兄弟たちがたくさんの衣類や医薬品を寄付し,霊的な出版物も送りました。昼も夜もトラックが到着します。運転を買って出たのは,自分の身の安全よりもクロアチアの兄弟たちの必要を気に掛けていた兄弟たちです。物資はザグレブの集積所から,それを必要としている会衆に届けられました。

こうしてクロアチアの兄弟たちは助けを得ました。今度はボスニアの兄弟たちを助けに行かなければなりません。どうすればよいのでしょうか。食料や薪16㌧を積んだ数台のトラックがボスニアとの境界に向かいました。これは危険なことでした。無法な軍事行動が横行していると伝えられていたからです。そのような行動を取る人たちに遭遇するなら,援助物資を奪われるばかりか,運転手も命を失いかねません。

ある兄弟はこう語っています。「私たちは森林地帯を進み,幾つもの検問所を通過し,時には最前線に沿って車を走らせました。危険に面しながらも,ボスニアのトラブニクに無事到着しました。ある兵士は私たちが到着したことを聞きつけると,兄弟たちが集まっていた家に走って行き,『お前たちの仲間がトラックでやって来たぞ!』と叫びました。兄弟たちの喜びを想像してください。私たちは食料を家の中に運び込み,言葉を少し交わしましたが,先を急がなければなりません。まだ行かなければならないところがあったのです」。

多くの兄弟たちは,与えられた助けについてザグレブのベテルに感謝の手紙を送りました。ある会衆はこう書いています。「わたしたちが霊的食物を欠かさずに受け取れるよう勤勉に働いてくださり,本当にありがとうございます。いただいた救援物資にも感謝します。それらは兄弟たちが切実に必要としていたものです。皆さんの尽力と愛ある気遣いに心から感謝します」。

別の手紙にはこうあります。「難民となった兄弟たちも幾名かおり,収入のない人もいます。そうした人たちは,物資を受け取り,しかもたくさんあるのを見て,涙を流していました。示された愛ある気遣いや寛大さ,また利他的な態度に,会衆の人々は深く感動し,励みを受けました」。

この困難な時期,信仰を強める霊的食物を兄弟たちに供給するために特別な努力が払われました。また,エホバの霊の助けが実際に与えられたことも明らかです。それによって,心に傷を負わせる苦難に耐えるだけでなく,霊的にいっそう強くされたのです。―ヤコ 1:2-4

希望の音信によって支えられる

さまざまな人道支援機関が物質面での援助を行なったとはいえ,恒久的な救済となるものを提供してきたのはエホバの証人だけです。兄弟たちは,戦争が終わるのをただじっと待つのではなく,王国の良いたよりを他の人に伝えるためにできる限りのことをしたのです。

セルビアとの境界に近いブコバルは壊滅的な被害を受け,兄弟たちを含む住人の大半は,市内から脱出しなければなりませんでした。しかし,マリヤという一人の姉妹はそこに残りました。その後の4年間,クロアチアの兄弟たちはマリヤと連絡が取れませんでしたが,彼女は市内に残った少数の人々に引き続き熱心に宣べ伝えました。マリヤの熱心さは大いに報われました。1996年の地域大会にブコバルから20人もの人が出席するのを見て,クロアチアの兄弟たちがどれほど驚いたか,想像してください。

わたしたちが伝える希望の音信にはまた,人の生き方を変えるほどの力があります。戦争が始まった時,クロアチア軍のある若い兵士は,配属されていた精鋭部隊の中で,早い勢いで昇進していました。1994年のこと,列車を待っていた時,「実際に世界を支配しているのはだれですか」のパンフレットを受け取ります。それを一気に読み,人々に対する暴力行為の元凶はエホバ神ではなく,サタンであることを知りました。この真理は強烈な印象を与えました。その若者が兵士として訓練を受けたのは,戦争中に殺された19歳の妹と他の二人の親族の復しゅうをするためでもあったのです。肉親を殺した者たちの住む村に行くつもりでしたが,パンフレットを読んで考え直しました。聖書研究を始め,数年がかりで人格を改めた後,1997年にバプテスマを受けました。そしてついに,肉親を殺した者たちの住む村に行きます。それは復しゅうのためではありません。思いの平安を得たその若者は,神の憐れみについて知る必要のある人たちに神の王国の良いたよりを伝えるために出かけたのです。

激しい戦闘が行なわれた期間にも伝道者たちが熱心に宣教奉仕を行なったため,クロアチアですばらしい増加が見られました。戦争が行なわれた1991年から1995年の間に,開拓者の数は132%増えました。聖書研究は63%,伝道者数は35%増加しました。兄弟たちは神の言葉を大胆にふれ告げ,エホバはその努力を豊かに祝福されました。

自己犠牲を示す働き人たち

1991年の国際大会の少し前,カナダ出身のダニエル・ニザンとヘレン・ニザンが,ギレアデで訓練を受けた最初の宣教者としてクロアチアにやって来ました。さらに,ヨーロッパの他の国に住む夫婦で,クロアチアの言語を学習していた人たちが派遣されてきました。

オーストリア出身のハインツ・ポラハとエルケ・ポラハも,そのような夫婦です。二人はデンマークで特別開拓者として,ユーゴスラビア出身の人々に伝道していましたが,1991年にクロアチアで奉仕することになりました。旅行する奉仕を行なうようになった矢先,戦争が始まりました。最初の巡回区にはダルマティア海岸やボスニアの各地が含まれ,それらの地域すべてに戦禍が及んでいたのです。ハインツはこう言います。「戦争中にボスニアで訪問を行なうのはたいへんでした。危険が伴うため自家用車を使うことはできず,当てにならないバスを交通手段にするしかありません。あまり多くの物は持って行けず,わずかな数のスーツケースとタイプライターが1台だけでした。

「臨機応変であることが必要でした。トゥズラとゼニツァの間を移動中,乗っていたバスが兵士たちに止められました。その先はとても危険なので乗客は全員降りるように,と言われました。しかし,ゼニツァの兄弟たちは私たちを待っていたのです。それで他の車に,乗せてもらえないか頼みました。ついに私たちを乗せてくれるトラックを見つけました。通行許可証を持つガソリン運搬車の一団です。道中,運転手に証言し,その人はとてもよく聞いてくれました。

「またもや戦闘のために行く手を阻まれ,迂回路を使わなければなりませんでした。道の状態は悪く,しかも雪のためになかなか進めません。よくトラックが立ち往生して道をふさいでいたので,その都度手を貸す必要がありました。ある地点では砲火が飛び交う中を急いで通り抜けなければなりませんでした。目的地から50㌔手前のバレシュまでたどり着くと,そこで一夜を明かすことになりました。

「運転手は座席で横になって眠り,妻と私は体が冷えないよう,座席の後ろで寄り添いながら体を丸めていました。人生で最も長く感じた夜でした。それでも翌日,ついにゼニツァに着き,兄弟たちは大喜びで迎えてくれました。苦労のかいがありました。兄弟たちは水道も電気もない生活をしていましたが,私たちをもてなそうと,できる限りのことをしてくれました。物質的には貧しかったものの,霊的には豊かであり,真理に対してあふれるほどの愛を抱いていたのです」。

戦争の後,イタリア,オーストリア,ドイツなどの国から50人近くの特別開拓者がクロアチアに割り当てられました。後にエホバの組織は,兄弟たちを強め,また励ますために,宣教者をさらに派遣しました。それら熱心な全時間奉仕者は,野外においても会衆においても大きな助けになってきました。

「この日を生きて迎えられるとは,夢にも思いませんでした」

1980年代の終わりまで,「ものみの塔」誌は月に1回発行され,ベテルの外に住んでいた兄弟たちによってドイツ語からクロアチア語に翻訳されていました。1991年以降,翻訳はベテルで行なわれるようになります。やがて統治体は,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」の翻訳を始めることを承認しました。それまでは150年前に訳された聖書が用いられ,そこには古い言葉や一般に使われていない表現が出ていました。クロアチア語の翻訳チームは,セルビア語やマケドニア語のチームと密接に協力しつつ,先導役を務めました。とはいえ,皆が互いの仕事やアイディアから益を得たのです。

クロアチア,ボスニア・ヘルツェゴビナ,モンテネグロ,セルビア,マケドニアのエホバの証人にとって,1999年7月23日,金曜日は忘れがたい日となりました。計4か所で開かれていた「神の預言の言葉」地域大会で,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」がクロアチア語とセルビア語で発表され,マケドニア語の翻訳も順調に進んでいることが知らされたのです。数分にわたって拍手が鳴りやまず,話を続けることができないほどでした。うれしさのあまり,出席者は涙を抑えることができませんでした。長年奉仕してきたある長老は,「この日を生きて迎えられるとは,夢にも思いませんでした」と述べました。そして,聖書全巻がそれら三つの言語で発表されたのは2006年のことです。

1996年までは,オーストリア支部による監督のもとで国内委員会がクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナにおけるエホバの証人の活動を世話していました。1996年,4人の成員で構成される支部委員会が任命され,それらの区域における伝道活動を監督することになりました。その取り決めをエホバが祝福してこられたことは明らかです。

新しい支部施設と王国会館

他の場所についても言えることですが,クロアチアのザグレブに住むベテル家族も,神権的な増加がはっきり見られることを感じ取っていました。初めは10人だったベテルの成員は50人ほどに増えていましたが,ベテル・ホームは夫婦が四,五組住める大きさでしかなかったため,近くの家を借りなければなりませんでした。

支部委員会が設置されてから程なくして,統治体はザグレブに新しいベテル・ホームを建てるための土地を購入するように指示しました。国内の奉仕者やインターナショナル・サーバントがやって来て,短期間のうちに美しい施設を完成させます。それは以後何年も王国の関心事を推し進めるために活用できるものです。新しい支部施設と王国会館は,ザグレブ中心部にあるダブルの王国会館と共に,1999年10月23日,土曜日に献堂されました。代表者は15か国から訪れ,統治体のゲリト・レッシュ兄弟が献堂式の話をしました。翌日には4,886人が大きな競技場に集い,喜ばしい霊的プログラムを楽しみました。それはクロアチアのエホバの民にとって,いつまでも記憶に残る日となりました。エホバへの奉仕を50年以上忠実に行ない,現代史の中でも極めて悲惨な時代を生きてきた人たちもそこにいたのです。

さらに,各地で新しい王国会館を建設するための計画も進められていました。1990年までは,多くの会衆は地下の部屋や個人のアパートで集会を開いていました。一例として,スプリトのある会衆は,20年間,個人の家の狭い部屋で集まっていました。50席しかないその部屋に,その倍を超える人が来ることがあり,外で立ったまま話を聞く人もいるほどでした。その同じ場所では大会も開かれ,150人以上の出席がありました。現在スプリトには四つの会衆があり,2軒の美しい王国会館を用いています。伝道者が増えたため,大会はホテルの会議室で開かれています。王国会館建設デスクが,ドイツのゼルターズにある地区設計事務所の監督のもと,実用的で魅力的な王国会館の建設を組織的に進めています。

若い人から年配の人に至るまで,王国会館の建設のために時間や労力を提供し,膨大な仕事を行なってきました。現時点で,25軒の王国会館が新築され,改装された会館は7軒に上ります。それによって王国の業がさらに前進し,エホバの賛美となっています。

王国の業が勢いを増す

1991年にクロアチアが独立した時,当時の政権は新しい法案が可決されるまで,宗教に関するそれまでの法律を継続して施行しました。この新しい国は,カトリック教徒が90%近くを占めていました。ですから,僧職者が政府に対して大きな影響力を持っていました。とはいえ,エホバの証人がそれまで得ていた法的立場や,兄弟たちの非常によい評判のゆえに,2003年10月13日,法務省はエホバの証人がクロアチアで宗教団体として登録されたことを明らかにしました。幾年にも及ぶ困難の後,エホバの僕たちはクロアチアで法的な認可を得て,どんなに喜んだことでしょう。

1990年代初めには,旧ユーゴスラビアの国全体で開拓奉仕学校が年に1回しか開かれていませんでしたが,今ではクロアチアだけでも毎年幾つかのクラスが開かれています。2008年9月の時点で,喜ばしいことに,69の会衆に5,451人の伝道者が交わっています。記念式には9,728人が出席し,喜びに包まれました。こうしたことは,今後の大きな増加の見込みを示すものです。

宗教上の不寛容が広く見られ,生活上の圧力が日々増大していても,この土地に住むエホバの僕たちは,神の王国の良いたよりを伝え続けることを決意しています。たとえサタンの怒りの矛先が向けられるとしても,その決意が揺らぐことはありません。(啓 12:12)大多数の人は生計を立てるために日々奮闘しており,それが生活の中で最も重要な事柄になっています。しかし,そういう人の中にも,世界が道徳的に退廃しているゆえに嘆息し,また霊的な飢えを感じている人たちがいるのです。(エゼ 9:3,4。マタ 5:6)そのような人が見いだされ,唯一まことの神を崇拝するよう助けられています。そして次の呼びかけを行なう側に加わります。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。神はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。―イザ 2:3

マケドニアの現代の歴史

「マケドニアへ渡って来て,わたしたちを助けてください」。1世紀に使徒パウロが見た幻の中で,一人の人はそのように語りました。(使徒 16:8-10)パウロとその伝道仲間は,この呼びかけに進んでこたえ応じました。手のつけられていないその区域で神の王国の良いたよりを宣明するよう,神が自分たちを導いたのだと結論したのです。程なくして,キリスト教はその地方に広まりました。現代のマケドニアは,古代マケドニアの北部に位置する,面積の狭い地域です。この国でも,真の崇拝に関して古代と同様の増加が生じてきました。どのようにでしょうか。

第二次世界大戦後,マケドニアはユーゴスラビア最南の共和国となりました。マケドニアが独立したのは1991年です。2年後の1993年,この新しい国でエホバの証人は正式に登録され,喜びました。その結果,オーストリアの支部委員会による監督のもと,マケドニアに事務所を設置することができました。こうして1993年,兄弟たちはスコピエのアルジルスカ通りに家を購入し,この新たに取得したベテルに,クロアチアのザグレブからマケドニア語の翻訳チームが移ってきました。

ドイツ出身のミハエル・シーベンとディナ・シーベンが巡回奉仕を行ない,セルビアで奉仕していたカナダ出身のダニエル・ニザンとヘレン・ニザンがマケドニアに移動することになりました。国内委員会が設置され,ベテルが機能しはじめました。

文書に関連した制限

エホバの証人は正式に登録されたとはいえ,文書の輸入は困難でした。1994年から1998年にかけて,政府は輸入できる雑誌を伝道者一人あたり1冊に制限しました。そのため兄弟たちは,聖書研究生のために「ものみの塔」の研究記事をコピーしなければなりませんでした。他の国から個人あてに郵送される雑誌であれば受け取ることができ,またマケドニアへの旅行者が少量なら持ち込むこともできました。やがて幾年にも及ぶ訴訟手続きを経て,最高裁判所はエホバの証人に有利な判断を下し,以後証人たちは文書を望むだけ輸入することが許可されました。

2000年8月,伝道者数は1,024人になり,宣べ伝える業に携わったことを報告した人が初めて1,000人を超えました。マケドニア語の文書がさらに出され,伝道者の数が増加したため,ベテル家族も増えてゆきます。そのため,アルジルスカ通りの家は手狭になりました。翌年,兄弟たちは隣接する3軒の小さな家を購入します。それらの家を取り壊し,二つの新しい建物を建てることにしたのです。現在,マケドニアの34人のベテル家族は,設備の整った三つの建物に住み,そこで奉仕しています。2003年5月17日の献堂式に,統治体のガイ・ピアースを迎えることができたのは喜びでした。

王国会館の建設

マケドニアじゅうの兄弟姉妹は,資金の限られた国々での王国会館建設を援助するための取り決めにとても感謝しています。5人の兄弟から成る建設チームが派遣され,地元の会衆の王国会館建設を助けました。こうして2001年から2007年にかけて9軒の王国会館が新築されました。さまざまな国籍の人から成るこの建設チームは,民族的な偏見を抱くことなく,一致して平和に働き,それはりっぱな証言となりました。完成した王国会館を訪れたある商人は,出来栄えの良さに目を留め,「愛に結ばれて働いた結果であることがよく分かります」と言いました。

この建設チームがシティプという町で新しい王国会館を建てていた時,ある近所の人は,働いているのが経験のない若者たちのように見えたので,果たしてうまくいくのか疑っていました。しかし,完成した建物を見ると,自分の家のための設計図を持ってきて,その若い兄弟たちに,ぜひ建ててほしいと頼み込んだのです。仕事の仕上がりに感心し,高い工賃を申し出ました。兄弟たちが,王国会館はお金のためではなく,神と隣人への愛ゆえに建てているのだと答えると,その人はたいへん驚きました。

「新世界訳」

同じころ,献身した兄弟姉妹から成る別のグループが全く異なる仕事,すなわち「新世界訳聖書」をマケドニア語に翻訳する仕事をしていました。その勤勉な働きにエホバの祝福が注がれ,「新世界訳聖書」全巻をわずか5年で翻訳したのです。2006年にスコピエで開かれた「救出は近い!」地域大会で統治体の成員ゲリト・レッシュは,この新しい優れた翻訳聖書を発表しました。出席者たちは大喜びしました。熱烈な拍手がわき起こって鳴りやまず,多くの人は涙を抑えることができませんでした。母語に訳されたこの優れた翻訳聖書を昼休みに手に入れ,座ってすぐに読み始めた人たちがいました。

多くのマケドニア人は聖書に深い敬意を抱いています。例えば,オルハンは6年前に聖書研究を始めました。読むことができませんでしたが,研究を司会した兄弟から読み書きを教わりました。そして3年前にバプテスマを受けてから,聖書をすでに6回読み通しています。

オルハンはしばらくの間レセンという町で唯一のエホバの証人でした。以前は字が読めなかったオルハンについて,町の多くの人は好意的に述べています。親の中には,我が子がオルハンのようになることを願って,自分の子どもにも聖書を教えてほしいと兄弟たちに頼む人もいるほどです。真理に対する関心が高まり,やがてこの町で会衆の書籍研究が毎週行なわれるようになりました。関心を持つ一人の男性がバプテスマを受けていない伝道者になり,オルハンは今では正規開拓者また奉仕の僕として働いています。

マケドニアへ渡る

マケドニアに住むアルバニア人に伝道するため,2004年7月,アルバニアから特別開拓者の夫婦がやって来ました。アルバニア人はこの国で人口の25%を占めているのです。この夫婦にとって,助けの必要なことはすぐに明らかになります。50万を超すアルバニア人の中で奉仕する伝道者は自分たちしかいないからです。そのため1年後には,もう一組の夫婦がアルバニアから派遣されました。4人の特別開拓者はキチェボという町で,関心を持つ7人の人から成る小さなグループを援助するようになります。その町は,マケドニアの中でアルバニア人がとりわけ多い地域の中心にあります。翌年の春,少人数のこの群れは,記念式の話に61人も出席したことを喜びました。その話はアルバニア語とマケドニア語で行なわれました。以来,群れは増加して17人の熱心な伝道者が奉仕するようになり,集会には平均30人以上が出席しています。

マケドニアの区域全体をくまなく回るための助けとして,統治体は2007年4月から7月にかけて,特別なキャンペーンを行なうことを承認しました。それまで奉仕されていない区域で伝道し,アルバニア語を話す人々に良いたよりを広めるのが目的でした。

七つの国から来た337人の兄弟姉妹がその取り決めを意欲的に支持し,人々を喜んで助けました。どんな結果になったでしょうか。マケドニア各地の200以上の地区で良いたよりが宣べ伝えられました。そこには40万ほどの人が住んでおり,そのほとんどが王国の音信をこれまで一度も聞いたことがありません。4か月のキャンペーン期間中に,2万5,000冊以上の書籍やブロシュアー,また4万冊余りの雑誌が配布されました。宣教奉仕に約2万5,000時間を費やし,200件を超す聖書研究が取り決まりました。

ある兄弟はこう報告しています。「私たちがどこから,どんな目的で来たかを聞いて,目に涙を浮かべる人もいました。神の言葉を読むと,感動して泣く人もいたほどです」。

キャンペーンに参加した人たちから,数多くの心からの感謝の言葉が寄せられました。一人の姉妹はこう書いています。「ある学校教師から,『神様の祝福がありますように。皆さんはすばらしいことをしていますね。お話を聞いて,本当にさわやかになりました』と言われました」。

ある伝道者はこう述べています。「宣教者が入るようなその区域を去りがたく感じました。人々が本当に真理を必要としていることが分かりましたし,聖書研究を始めた人と別れるのはつらいことでした」。

このように語った夫婦もいます。「もっと長く休暇を取らなかったことを後悔しました。必要がどんなに大きいか分かったからです」。

ある伝道者は皆の気持ちをまとめて,「家族としてこれほど楽しい経験をしたことはありません」と述べました。

テトボ市に近い山間部で,伝道者たちのグループはそれまでだれも宣べ伝えたことのない村で奉仕しました。二人が道の左側に沿って,もう二人が右側に沿って伝道を始めました。証言を3軒の家でしただけで,エホバの証人が来ていることをその道沿いのすべての家が知りました。そのことはすぐに村じゅうに知れ渡り,関心を持つ女性が大勢集まってきて姉妹たちを取り囲みました。同じ通りの先では,兄弟たちが来るのを16人の男性が待っていました。家の人たちはすぐに椅子を4脚出して伝道者たちを座らせ,一人の男性がコーヒーを入れてくれました。伝道者たちは全員に文書を手渡し,聖書を開きながら,集まった人たちに真理を伝え始めました。

人々は質問をし,全員がよく話を聞きました。訪問の終わりに,多くの村人たちはすぐにその場を去るのではなく,一人一人が近づいてきてお礼を述べました。そんな中で,ある年配の女性が杖を振りかざしてやって来たので,兄弟たちは戸惑います。杖を兄弟たちに向けながら声を荒げ,「これであんたたちをぶつよ!」と言います。兄弟たちは何か気に障るようなことをしたのでしょうか。「みんなには本を上げといて,わたしにはくれない」と言うのです。そして近所の人が受け取った「聖書物語」の本を指さしながら,「あの黄色い大きな本が欲しい!」と言いました。兄弟たちはすかさず,持っていた最後の1冊をその人に渡しました。

ロマに宣べ伝える

マケドニアには,ロマと呼ばれる人々が大勢います。その人たちはマケドニア語を話すとはいえ,母語は口頭の言語であるロマニー語で,それは幾つかのロマニー語方言が混ざったものです。首都スコピエにはヨーロッパ最大とされるロマ居住区があり,3万人ほどが住んでいます。シュト・オリザリと呼ばれる地区にダブルの王国会館があり,三つのロマニー語会衆がそこを使っています。実り豊かな区域で200人の伝道者が奉仕しており,人口に対する伝道者の比率は150人に一人です。これは国内でもとりわけ高い比率です。ロマの人々の反応がよいことは,2008年の記念式に708人が出席したことにも表われています。

謙遜で真理を渇望するロマの人々が母語で神の目的について学ぶのを助けるために,どんな努力が払われているでしょうか。2007年,特別講演の筋書きがロマニー語に翻訳され,ロマの背景を持つ長老が話を行ない,506人の聴衆が熱心に耳を傾けました。さらに,2007年の地域大会で「神はわたしたちに何を求めていますか」のブロシュアーがロマニー語で発表された時,ロマ,マケドニア人,アルバニア人など,さまざまな民族の伝道者はとても喜びました。伝道者たちはそれまで,マケドニア語の文書を用いながら,ロマニー語で聖書研究を司会することがよくありました。今ではロマニー語の「求め」のブロシュアーを用いることで,誠実なロマの人々の心が動かされ,大きな成果が見られています。

現在,マケドニアの21の会衆に交わる1,277人の伝道者は,1世紀の使徒パウロの手本に倣って勤勉に奉仕しています。真理を求める多くのマケドニア人が好意的にこたえ応じていることは,『マケドニアへ渡る』現代の活動の価値を物語るものです。

セルビアの現代の歴史

バルカン半島の中心に位置するセルビアは,多様な文化が混在する国で,そこに住む人々の国籍もさまざまです。セルビアの都市ベオグラードに支部事務所が開設されたのは1935年のことで,旧ユーゴスラビアの区域全体を世話していました。その結果,胸の躍るような神権的発展を見てきました。近年,旧ユーゴスラビアでは新しい国々が形成されてきましたが,それらの地域における業を助ける面でセルビアの兄弟たちはどのような働きをしてきたでしょうか。

隣接する地域との境界が閉鎖され,宗教的・人種的憎しみが広がりを見せる中,さまざまな民族の兄弟たちがクロアチアのザグレブにある事務所で平和のうちに働いていました。そのうち,ベテルの外では人種や国籍の異なる人同士の偏見が激化し,セルビア人の兄弟たちはその土地を離れることを余儀なくされます。こうして1992年,セルビア語の出版物の翻訳は,ほぼ50年ぶりに再びベオグラードで行なわれることになりました。これから見てゆきますが,この移動は賢明で,時宜にかなったものでもありました。

激しい戦闘が行なわれていたボスニアでは,人道的援助が大いに必要とされていました。オーストリアの支部事務所が救援物資を組織的に準備して愛を表わします。セルビアの兄弟たちは物資を届けるのに良い立場にありました。ボスニアの中の,セルビアが掌握していた地域にそれを届けたのです。

セルビアでは戦闘が行なわれていませんでしたが,それでも戦争の影響は受けました。文書はドイツで印刷されていましたが,経済制裁のために送ってもらうことが困難でした。会衆に新しい雑誌が届かない時には,それが届くまで古い記事を研究しました。とはいえ,結果的に兄弟たちは,1号も欠かさず雑誌を受け取ることができました。

「強める助け」

ギレアデ卒業生のダニエル・ニザンはこう述べています。「私たちがセルビアに来た1991年当時,政情は極めて不安定でした。兄弟たちが厳しい状況の中でも示す熱心さに,私たちは心を打たれました。妻と共に初めて出席した特別一日大会で,約50人の新しい人がバプテスマのために起立するのを見て驚いたことを思い出します。非常に励まされました」。

ニザン兄弟姉妹は,ベオグラードに事務所を新たに開く上で大きな働きをしました。当初,それはミロラダ・ミトロビチャ通りにあり,10人の兄弟たちが奉仕するのに十分な大きさでした。下の階には王国会館もありました。翻訳者が増えるにつれ,さらに部屋が必要になります。やがて土地が見つかり,建設が始まりました。1995年の終わりに,ベテル家族は新しい施設に引っ越しました。

生活がますます困難になっていたため,人々は以前よりも真理にこたえ応じるようになりました。伝道者の増加に伴い,愛をもって監督する必要も大きくなります。イタリアから来た特別開拓者たちは,その必要を満たす上で貢献しました。それらの全時間奉仕者は,精力的で自己犠牲の精神を持ち,骨身を惜しまずに働いたのです。戦時下で,新たな言語を学び,なじみのない習慣に順応するのは簡単ではありませんでしたが,彼らはセルビアの兄弟たちを「強める助け」になりました。―コロ 4:11

他の国々から来た開拓者たちも多くの良い働きをしました。とりわけ助けになったのは,「開拓者が持っていた,神権的な事柄における経験でした」と,セルビア国内委員会の調整者ライナー・ショルツは言います。現在,セルビアの55の会衆は,70人の特別開拓者の働きに感謝しています。

超インフレの打撃

セルビアは,戦争による経済の圧迫,とりわけ歯止めの利かないインフレの影響をまともに受けました。ある資料によると,1993年10月から1994年1月24日にかけての116日間の「インフレ率は500兆%に達し」ました。1982年からベテルで働いているミラ・ブラゴイェビッチは,少しの野菜を買うのに,手提げ袋にお札をいっぱい詰めて市場に行ったことを覚えています。

別の姉妹であるゴルダナ・シリシュキは,母親が1か月分の年金を受け取った時,トイレットペーパー1個分の値打ちしかなかったと述べています。姉妹はこう続けます。「全財産が突然に価値を失うという状況で,人々がいったいどうやって生きているのか,見当もつきませんでした。感謝すべきことに,世界的な兄弟関係にあるわたしたちは,外国の仲間から救援物資を受け取ることができました。銀行と政府に対する信頼を失った人々の中には,神への信仰を見いだした人が少なくありません。さらに,兄弟たちの絆は強まりました」。

聖書の翻訳

多年にわたり,ユーゴスラビアのいろいろな言語への翻訳は,一か所で協力し合って行なわれてきました。それはクロアチアのザグレブです。戦争の後,翻訳者たちは言語ごとにそれぞれの国に移動しましたが,引き続きザグレブの翻訳チームと緊密に連絡を取り合いました。このことは,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」をセルビア語に翻訳し始めた時,特に助けになりました。その聖書を1999年のエホバの証人の大会で発表するのが目標でした。

しかし,翻訳者たちが聖書の翻訳を終えようとしていたころ,国は臨戦態勢にありました。空爆が始まるなら電話回線は当てにならなくなり,ベオグラードからドイツの印刷施設へ翻訳データを送ることが難しくなります。3月23日,火曜日,空爆を目前にして兄弟たちは徹夜で働き,翌朝早くにデータをドイツに送信することができました。その数時間後に空爆が始まります。翻訳者たちはシェルターに避難しましたが,喜びにあふれていました。4か月後,印刷された聖書がベオグラードの大会で発表された時,翻訳者たちの喜びは頂点に達しました。兄弟たちは,空爆が行なわれ,頻繁に停電していた時にも,他の出版物の翻訳を続けました。しばしば作業を中断し,安全な場所に駆け込まなければなりませんでした。緊張の多い時期ではありましたが,大いに必要とされていた霊的食物を供給できたことを皆は喜んだのです。

こうして1999年7月,多くの労力とエホバの祝福によって,「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」のセルビア語版が発表されました。大会の出席者たちは,母語の「新世界訳」を受け取り,喜びと感謝の気持ちで沸き立ちました。その後,2006年の大会で,セルビア語の「新世界訳」全巻が,キリル文字とラテン文字で発表されました。

宗教上の反対が激しくなる

この国の主な宗教はセルビア正教会なので,多くの人はセルビア人と正教徒を同一視しています。正教会に属していなければセルビア人ではない,と思っているのです。とはいえ1990年代に,わたしたちが聖書から伝える希望の音信を受け入れる人は少なくありませんでした。1999年に戦争が終わるころには,伝道者数がほぼ倍になり,最高数の4,026人に達しました。

この霊的な繁栄は,エホバの民に対する正教会の怒りを引き起こしました。正教会は,国家主義の感情をあおることによって,わたしたちが行なうクリスチャンの伝道活動をやめさせようとしました。反対者たちは,公然と暴力を振るい,法律を悪用することにより,兄弟たちの意気をくじこうとしました。その例として,戦争が終わった時にもまだ21人の兄弟が,政治的な中立を保ったため刑務所に収容されていました。戦争の後,程なくして,ほとんどの兄弟は釈放されました。それらの兄弟は,試練のあいだずっとエホバが信仰を強めてくださったことを感謝しています。

2001年4月9日,連邦内務省は突然,わたしたちの文書の輸入を禁止しました。理由は何でしたか。わたしたちの出版物が国の若者たちに悪影響を与えるというのです。禁止された出版物の中には聖書さえも含まれていました。

わたしたちの業についてテレビや新聞で否定的な報道がなされていたため,家の人から暴力を振るわれることもありました。ある特別開拓者はこう言います。「戸別に伝道していると,殴られたり,平手打ちに遭ったり,さらには石を投げつけられたりすることがありました」。ある王国会館は壊されてしまいました。現在,セルビアの兄弟たちは慎重な行動が必要とはいえ,合法的に集まり合うことができます。

兄弟たちは引き続き熱心に宣べ伝えています。エホバの民は,自分たちが偏見を抱くことなく,キリストのような真の愛を表わしていることを実証してきました。近年,ヨーロッパの他の国の兄弟たちが休暇を用いてセルビアとモンテネグロの未割り当て区域を奉仕するというキャンペーンが組織され,良い成果が得られました。とはいえ,それらの区域に住む300万ほどの人に音信を伝えるには,まだ多くの業がなされなければなりません。

今日,ベオグラードのベテルは,庭園のような所にある三つの建物から成っています。国内委員会の3人の成員が,セルビアとモンテネグロにおける業を監督しています。かつては戦禍に見舞われたこの地域で,エホバはご自分の民に祝福を注いでおられます。ですから今,セルビアと聞いて思い浮かぶのは,その土地のエホバの証人が示す熱心さや決意である,と言えるでしょう。

コソボの現代の歴史

1980年代にコソボで生じていたセルビア人とアルバニア人との間の緊張は,1990年代に本格的な戦闘へと発展し,多くの苦難や心痛をもたらしました。この状況は兄弟姉妹にとって,民族的背景を問わず,すべての仲間に対して「偽善のない兄弟の愛情」を表わす機会となったのです。(ペテ一 1:22)兄弟たちはまた,『あなた方の敵を愛し,あなた方を迫害している者たちのために祈りなさい』というキリストの命令に従ってきました。(マタ 5:43-48)しかし,そうすることは時として困難を伴いました。

イスラム教徒だったアルバニア人のサリウ・アバジはこう説明しています。「かつてイスラム教徒だった兄弟たちは,熱心なイスラム教徒の理解を得られるとは限りません。私の場合,宗教を変えることによって家族を捨てたと誤解されました。さらに,アルバニア人とセルビア人との関係が緊張しているため,イスラム教徒だった人がセルビア人に宣べ伝えるのは必ずしも容易ではありません」。

とはいえ,民族の異なる30人ほどの人がサリウの家で集まり合っていました。サリウはこう述べています。「そのころ,集会はセルビア語で開かれ,文書はベオグラードから届けられていました。ある日,警察官が数人,不意に私の家にやって来ました。ちょうど文書を運んできたベオグラードの兄弟たちと一緒に皆で交わっているところでした。警察官に,その人たちが仲間の兄弟だと話したのですが,セルビア人とアルバニア人がどうして兄弟になり得るのか,理解できなかったようです」。1998年,これらの伝道者は,コソボ最大の都市プリシュティナで集会場を借りることができ,そこを王国会館として用い始めました。

1999年春,民族間の緊張や国家主義が危険なまでに激化しました。サリウはこう語ります。「近所のある人から,私が息子と共に戦いに加わらないなら家を焼き払うと脅されました。政治情勢のゆえに,人々は常軌を逸した行動を取るようになりました。当時のセルビア政府に対する反発から,無政府状態になり,暴力行為がまかり通っていたのです」。

政情が悪化の一途をたどり,コソボに住むセルビア人にとって状況はますます厳しくなります。1999年に起きた衝突により,セルビア人もアルバニア人も大勢,隣接する国々に逃げることを余儀なくされました。しかし,民族間の対立が頂点に達していた時にも,サリウは命がけで,セルビア人の兄弟たちを自宅にかくまったのです。

エホバの思いによって形作られる

ある姉妹はこう語っています。「セルビア人とアルバニア人の間の憎しみは根深く,それは幼少期から植え込まれたものでした。真理を学ぶようになっても,そうした感情をすぐにぬぐい去ることはできません。エホバの考えを自分のものにするために,大きな変化を遂げなければならなかった人も少なくありません。こうした憎しみゆえに,エホバは愛の神であると学んでいながら,会衆の一姉妹をセルビア人というだけで避けてしまうことがありました。しかし,研究を続けるにつれ,他の宗教の教えが人を分裂させるのに対し,エホバの言葉の真理は人を一致させる,ということが分かってきました」。確かに,神の言葉には人を変革させる力があり,それによってクリスチャンとしての新しい人格を身に着けることができます。この姉妹の場合はどうだったでしょうか。本人はこう言います。「今ではセルビア人の兄弟姉妹と共に同じ会衆で楽しく奉仕しています」。―コロ 3:7-11。ヘブ 4:12

宗教面で分裂したこの世界にあって,真のクリスチャンの一致は際立っています。人々が国家主義に影響されて家々を焼き払い,手りゅう弾を投げていた時に,兄弟たちはセルビアのベオグラードの大会に出るために旅行していました。それは1998年7月のことです。アルバニア人,クロアチア人,マケドニア人,ロマの兄弟たちが仲良く同じバスに乗っていました。バプテスマを受けるためにその大会に向かっていたダシュリエ・ガシはこう語ります。「バスを止めた兵士たちはあっけに取られた様子でした。民族間の緊張のただ中で,私たちは一つの民,つまりエホバの民として一致していたのです」。

ロマの血を引くある若い女性は,子どものころ,外国に住むおばたちから真理を学びました。乗り越えなければならなかった最初の障害は,文字が読めないことでした。エホバへの愛に動かされ,聖書を研究していた3年間に読み書きを覚えました。二つ目の障害は,一緒に住んでいた祖父の反対でした。その女性は,「集会に行くため家をこっそり抜け出していました」と言います。しかし,集会から帰るたびに祖父に打ちたたかれました。「真理のために暴力を振るわれても,わたしはくじけませんでした。忠実なヨブの忍耐についてよく思い起こしました。エホバを強く愛していたので,研究はやめないと決意していました」。この女性は今は開拓者として奉仕し,読み書きのできない二人の少女との聖書研究を司会しています。姉妹自身,学校に通ったことはありませんが,神権宣教学校で他の人に教えるための訓練を受けてきたことを感謝しています。

以前イスラム教徒だったアデム・グライチェブチは,1993年にドイツで真理を学びました。1999年,生まれ育ったコソボに戻り,証人になった他の多くの人のように,家族からの偏見や反対を乗り越えなければなりませんでした。こう語ります。「真理を学んでいたころ,私の助けになったのは,サタンがこの世界の支配者で,生じているあらゆる残虐行為の黒幕であるのを知ったことです」。アデムがキリスト教の教えを受け入れたことを父親は快く思わず,エホバを取るか家族を取るか決めるよう迫りました。アデムはエホバを選んで霊的に着実に進歩し,現在はクリスチャンの長老として奉仕しています。喜ばしいことに,父親は年月と共に態度を和らげ,今では息子の決定を尊重するようになっています。

アデムにはアドナンという息子がいますが,子どものころには宗教に全く関心を持ちませんでした。武道にのめり込み,対戦相手からは“無敵”というあだ名をつけられるほどだったのです。しかし,ついに真理に心を動かされて武道をきっぱり捨てます。そして順調に進歩し,バプテスマを受けます。アドナンはこう述べています。「バプテスマを受けてそれほどしないうちに,決定を迫られました。よい仕事に就き,物質面でも潤っていましたが,霊的には低調で,宣教の時間をほとんど取れませんでした。いま変わらなければならないと考え,仕事を辞めました」。アドナンは開拓奉仕を始め,奉仕の僕に任命され,後にはアルバニアにおける第1期の宣教訓練学校に招かれました。今は長老になっているアドナンは,妻のヘディエと共に特別開拓奉仕をしています。自分の決定についてどう感じているでしょうか。「これ以上の幸せはありません。全時間奉仕を選んだことを少しも後悔していません」と述べています。

崇拝と教えの面での一致

現在,コソボの六つの会衆はすべて,借りた会場を王国会館として用いています。中には小さな会衆もあり,ペチ市の会衆の伝道者は28人です。また,任命された兄弟たちが少ないため,公開講演を毎週行なえない会衆もあります。それでもペチの兄弟姉妹と同じように,毎週開かれる「ものみの塔」研究や会衆の他の集会に忠実に集まり合っています。

幾年にもわたってセルビアの国内委員会は,コソボの兄弟たちが非常に厳しい状況にあった時も,愛情をもって牧してきました。兄弟たちが必要とする事柄は変化しており,それに対応するため,統治体は2000年に,アルバニア支部がコソボにおける伝道活動を世話するよう取り決めました。

最近まで,コソボのエホバの証人はほとんどがセルビア人で構成されていたため,集会はセルビア語で開かれていました。兄弟たちはアルバニア語を話す人たちがプログラムに付いていけるように喜んで助けていました。現在では逆の状況が見られます。コソボの兄弟たちの大半はアルバニア人です。そのため,セルビア語の一つの会衆以外は,集会がアルバニア語で開かれています。セルビア人の出席者たちが内容に付いていけるよう,兄弟たちは喜んで話を通訳しています。すべての大会は両方の言語で開かれています。例えば,2008年の地域大会は全体がアルバニア語で提供されました。セルビア語の場合,話は通訳を介して行なわれましたが,主要な話はコソボの長老たちがセルビア語で行ないました。一人の兄弟はこう述べています。「外では憎しみが渦巻いていますが,会場の中では皆が一つの家族のようです」。

コソボの住民の大半はイスラム教徒ですが,それでも人々は聖書に敬意を払い,宗教についての話し合いに快く応じます。コソボの兄弟たちは,2008年に伝道者が新最高数の164人に達したことを大いに喜びました。エホバに全く依り頼みつつ,区域を回って奉仕に励み,あらゆる国籍の人々に良いたよりを携えて行くことを決意しています。

モンテネグロの現代の歴史

地中海地域の輝く真珠のような小さな国,モンテネグロは,アドリア海に面しています。アルバニア,コソボ,セルビア,ボスニア・ヘルツェゴビナの間に位置するモンテネグロは,多様性に富む,息をのむほどに美しい国です。293㌔にも及ぶアドリア海の海岸線はまさに絶景です。タラ渓谷はヨーロッパの渓谷の中で,深さも長さも共に際立っています。バルカン半島でいちばん大きいシュコダル湖は,ヨーロッパ最大級の鳥類保護区に位置しています。このすべてがスイスの3分の1ほどの国土の中にあるのです。

しかし,この国の歴史は戦争,動乱,苦しみによって特徴づけられています。モンテネグロ人のそうした苦闘の歩みは,その伝統や考え方や文化に大きな影響を与えてきました。モンテネグロ人の文化の根幹を成すのは,勇気,忠誠,威厳,謙虚さ,自己犠牲,他者への敬意といった特質を重んじることです。剛健なモンテネグロ人の中には,神の王国の良いたよりを受け入れて,聖書の真理を忠節に擁護するようになった人が少なくありません。

霊的な進展

1991年にクロアチアのザグレブで開かれた意義深い大会に出席した人たちは,旧ユーゴスラビア全域から集まった兄弟たちの一致や愛を目にしました。その様子はいつまでも記憶に残るものでした。当時,聖書研究を始めて間もなかったサボー・チェプルニッチはこう述べています。「戦争が今にも始まろうという時に,モンテネグロからクロアチアに行くのは危険なことでした。会場にバスが次々と支障なく到着するのを見て,驚きました。それよりもっと印象深かったのは,証人たちの間の平和と一致です。大会初日には幾百人もの警察官が配置されていましたが,平和的な集いであることが分かると,二日目からは少人数になりました」。

戦争が始まる前,ある夫婦がサボーとの研究を司会していて,クロアチアとモンテネグロの間を定期的に往復していました。しかし,二つの地域の境界が閉鎖された後,どのようにして研究を続けたのでしょうか。

サボーはこう説明します。「研究が皆より先に進んでいた関心のある人が,他の人を教えなければなりませんでした。私の場合,バプテスマを受けていた兄弟が,『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の本を用いて研究を司会してくれていましたが,それができなくなると,今度はバプテスマを受けていない人が司会を引き継ぎました。1992年には,ヘルツェグ・ノビ市で書籍研究と『ものみの塔』研究のために集まっていた人たちが15人に増えました」。サボーは妻と娘と共によく進歩し,1993年にバプテスマを受けました。現在,風光明媚なこの海岸都市には王国会館が1軒あり,25人の伝道者が交わっています。

1990年代初めに,首都ポドゴリツァで幾人かの伝道者が集会を開いていました。その人数は増えてゆき,1997年には,王国会館のための土地を購入する計画を立てました。兄弟たちが手に入れた土地にはもともと塀が立っていましたが,目隠しになるので残すことにしました。しかし,隣接する建物の地階に住む警察官が,日当たりが悪いので塀を取り除いてくれないかと言ってきました。兄弟たちは,良い関係を保つために塀を取り壊すことにし,代わりにフェンスを設けました。この親切が良い結果になったのです。

隣接するその建物の他の住人が兄弟たちに嫌がらせをしてきた時,警察官は住人に,王国会館を壊すなら起訴されることになる,と警告しました。今ではその敷地に,美しい王国会館と特別開拓者の宿舎,また大会の会場としても使える屋根付き駐車場があります。

ニクシチという町では,それほどうまく事が運びませんでした。兄弟たちは1996年に土地を手に入れましたが,地域住民は王国会館の建設に強く反対していました。兄弟たちは,近所の人が現場に踏み込んできて破壊行為を行なうことのないよう,昼夜を問わず見張りを立てました。ある日,地元の司祭が,銃やこん棒を持つ200人ほどの暴徒を率いて乱入してきました。暴徒は空に向けて発砲し,積み上げた王国会館のレンガを崩してゆきました。警察官はただ傍観するだけでした。

問題を平和裏に解決することができなかったので,兄弟たちは他の土地を探すことにしました。4年後,ふさわしい建物が見つかり,それを改装して王国会館にしました。当初,住民との関係に問題はないように思えましたが,数か月後,王国会館は不審火で焼失してしまいました。しかし,兄弟たちは強い願いを持っていたので,あきらめませんでした。再び仕事に取りかかり,会館をもう一度建てました。それ以来,問題は起きていません。

モンテネグロの四つの会衆は,セルビアの国内委員会の監督のもとにあります。人口に対する伝道者の比率は2,967人に一人なので,201人の伝道者は6人の特別開拓者の働きをとても感謝しています。一般にモンテネグロの人々は,宗教で大切なのは,聖書を読むことよりも伝統を守ることだと考えています。しかし,そうした中でも兄弟姉妹は引き続きたゆむことなく良いたよりを大胆に宣べ伝えています。

スロベニアの現代の歴史

旧ユーゴスラビアの北西部に位置するスロベニアは,1991年に独立しました。その後,この国の経済は着実に成長し,2004年には欧州連合に加盟しました。スロベニアは比較的小さいとはいえ,その景観は変化に富んでいます。国の中には,雄大なアルプス,山間の湖,緑豊かな森,大規模な鍾乳洞,魅力的なスロベニア・リビエラがあります。すがすがしいアルプスの斜面をほんの1時間ほど下ると,そこはアドリア海沿岸で,オリーブ畑やぶどう園がのどかに広がっています。さらに,文化遺産や史跡も多く見られ,探索する人を飽きさせません。しかし,この小さな国ですばらしいのは,国立公園や歴史的な町だけではありません。豊かな霊的遺産も受け継がれているのです。

王国会館と開拓者

マリボルと聞いて思い起こすのは,その都市で“聖書通の床屋”と呼ばれた二人の理髪師が,新たに見いだした教えについて伝道したことかもしれません。その都市にできた少人数のグループは,集会場所として便利な,あるレストランに集まるようになりました。そのレストランは,後に適切にもノヴィ・スヴェト(新しい世)と呼ばれました。今日,スロベニアの証人たちは,崇拝と教育のために集まる美しい王国会館があることをエホバに感謝しています。伝道者が増加し,また1990年代に状況が改善されたため,地区建設委員会が設置されました。100人以上の自発奉仕者の援助と外国から寄せられた寄付によって,1995年以来,14軒の王国会館が新築もしくは改装されてきました。

伝道者の増加に伴って,正規開拓者も増えました。1990年には10人だったのが,2000年には107人になったのです。それら熱心な開拓者の一人に,真理を受け入れる前は有名な政治家だったアニツァ・クリスタンがいます。

他の国からスロベニアにやって来た兄弟姉妹は,宣べ伝える業に大きく貢献してきました。1992年には,この国に最初の宣教者フランコ・ダゴスティーニとデビー・ダゴスティーニが到着しました。割り当ての変更で二人がアフリカに移動すると,オーストリア出身のダニエル・フリードルとカリン・フリードルがスロベニアに遣わされました。ごく最近では,ジェフリー・パウエルとトニア・パウエル,ヨッヘン・フィッシャーとミハエラ・フィッシャーという二組のギレアデ卒業生がやって来ました。それらの宣教者は,オーストリア,イタリア,ポーランドからの特別開拓者と共に,エホバへの深い愛と,人々を助けたいという燃えるような願いを抱いています。

医療機関連絡委員会

1994年,ベテルに医療機関情報デスクが置かれ,二つの医療機関連絡委員会が設けられました。この委員会の成員の幾人かは,保健相と面会しました。それを受けて保健相は,スロベニアにあるすべての病院の院長との会合を取り決めました。その会合で兄弟たちは,医療機関連絡委員会の働きについて説明し,エホバの証人が輸血を拒む理由を明確に示しました。結果として,医師と輸血を拒む患者との協力関係が築かれ,無輸血治療について説明する記事が医学誌に掲載されたのです。

1995年,スロベニアの医師たちは初めてのこととして,無輸血で心臓切開手術を行ないました。手術の成功について報道がなされ,執刀医と麻酔医はその手術に関する専門的な記事を書きました。こうして無輸血治療への道が開かれ,医療に関するエホバの証人の選択を尊重する医師が増えています。

野外での増加に対応する

1991年に政情が変化した後,統治体は王国の活動をよりよく世話できるよう,スロベニアに事務所を設立することを決定しました。首都リュブリャナの中心部にある1階建ての建物が購入されます。その建物は改装され,1993年7月1日にベテル奉仕者が入居しました。当初は10人だったベテル家族は,10年足らずで35人になっていました。そのため,近くの建物を借りて厨房,食堂,洗濯室として使いました。事務所を確保するため,ベテル家族も近くのアパートに引っ越しました。1997年,スロベニアの事務所はエホバの証人の支部として機能し始めます。

統治体がスロベニアに新しい支部を建設することを承認すると,兄弟たちはふさわしい土地を探し始めます。40ほどの候補地を調べた後,兄弟たちは首都から約20㌔離れた町カムニク近郊の土地を選びました。そこは美しい山々のふもとです。やがて,土地の使用に関する要求を満たし,建築許可を取得し,土地を購入し,建設会社と契約を結び,インターナショナル・サーバントたちも来ることになりました。作業は順調に進むかに見えました。

しかし,計画が公になると,すぐに近所の住民の反対が始まります。着工予定日に,抗議行動を取る人々がバリケードで現場をふさぎ,中に入れないようにしました。次いで,建設反対の横断幕を掲げます。六日後の正午近くに,30人ほどの警察官がやって来て,バリケードの撤去作業を行なう市の作業員を守ります。反対者たちは警察官を罵倒します。その日は兄弟たちも建設会社の人も現場で働いていませんでした。工事はしばらく延期されていたからです。その間に反対は弱まり,兄弟たちは平和的な解決を図ります。

現場を囲うフェンスは,抗議行動を取る人たちによって3回壊されましたが,1か月後,ついに工事が始まります。それ以後,妨害はありませんでした。実際のところ,当初エホバの民に加えられた攻撃はマスコミの注意を引き,最終的には良い結果になりました。テレビやラジオや新聞で,建設のことが150回余り報道されたのです。工事は約11か月後に完成し,2005年8月にベテル家族は新しい施設に引っ越しました。

その後,兄弟たちと地域住民との関係は大きく変わりました。支部を見に来た近所の人も少なくありません。かつて反対していたある人は,後に建設に強い関心を示すようになり,わたしたちがどんな人で,その建物の中で何をするのかと尋ねてきました。完成した建物の中を案内された時には,温かい歓迎ぶりと建物の清潔さに感銘を受けました。その人は兄弟たちにこう語りました。「近所の人から,エホバの証人の味方になったのかとよく聞かれるんだが,そういう時は,『前は反対だったが,今はいい人たちだと分かったので味方している』と答えているよ」。

2006年8月12日は喜びの日となりました。統治体のセオドア・ジャラズが約20か国から来た144人の聴衆に献堂式の話をしたのです。さらに,リュブリャナで開かれた特別集会では,スロベニア各地に加え,クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナから来た聴衆に話を行ない,出席者は3,097人でした。

明るい将来

スロベニアのエホバの証人は,天の父が導きと祝福を与えてくださるという全き確信を抱いて,将来に目を向けています。2004年の地域大会では,スロベニア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」を受け取って喜びに沸きました。設備の整った新しい支部による支えのもと,勤勉に働く大勢の開拓者と共に,兄弟たちは宣べ伝えて弟子を作る使命を果たしてゆくことを決意しています。―マタ 28:19,20

ローマ・カトリック教徒が大半を占めるスロベニアでは,共産主義政権の時代に無神論的な考えをするようになった人も少なくありません。さらに,生活上の思い煩いを抱えている人や,物質主義のわなに陥っている人も大勢います。スポーツや娯楽中心の生活をする人もいます。しかし,聖書に記されている神の約束に引き寄せられる,心の正直な人も確かにいるのです。

業は引き続き進展しており,2008年8月に伝道者は最高数の1,935人に達し,伝道者の約4人に一人は何らかの開拓奉仕に携わりました。外国語の区域には,アルバニア語,英語,クロアチア語,スロベニア手話,セルビア語,中国語が含まれています。スロベニアにおける業は,始めはささやかなもので,二人の理髪師が良いたよりを宣べ伝えていただけでした。今では多国籍の大勢の熱心な伝道者がふさわしい人を,すなわち,まことの神エホバに仕えようとする人を捜し出しています。―マタ 10:11

バルカン半島の中で,かつてユーゴスラビアとして知られていた地域は,多くの争いや心痛や苦しみを経験してきました。しかし,宗教上の不寛容や民族間の憎しみが噴出してきた中で,エホバの民は愛を示しています。その愛によって,自分たちがキリストの真の弟子であることを明らかにしてきました。その愛はまた,エホバの真の崇拝を高め,それが世の提供するものすべてに勝ることを示しています。神に倣ったこの愛により,ますます多くの人が清い崇拝の側に引き寄せられています。そして兄弟たちは,一致して永遠にエホバを崇拝する決意を固くしているのです。―イザ 2:2-4。ヨハ 13:35

[脚注]

^ 65節 ウスタシャはファシストの革命勢力で,カトリック教会の後ろ盾を得ながらクロアチアの独立を目指して戦いました。残虐行為を働くことでよく知られていました。

^ 147節 当時の政治情勢を踏まえ,兄弟たちがどんな自由を求めているかを説明するものとして,「神の」という言葉が加えられました。

^ 190節 「ものみの塔」誌,1994年11月1日号,23-27ページ,「ボスニアの仲間の信者を助ける」という記事をご覧ください。

[165ページの拡大文]

ユーゴスラビア国内に国家的また宗教的な偏見が満ちていた時も,兄弟たちは一致していた

[173ページの拡大文]

『わたしは人を喜ばせるためにここにいるのだろうか。そうではない。わたしの命は,他の人の言動や考えにかかっているのだろうか。もちろん違う』

[144ページの囲み記事]

旧ユーゴスラビアに見られる相違

旧ユーゴスラビアの中に見られる相違について人々に尋ねるなら,おそらく幾つかの異なる答えが返ってくることでしょう。とはいえ,人々が同意するのは,七つの民族があり,それぞれ宗教も違えば,言語や文字体系さえ異なっている,という点かもしれません。民族の違いを特によく示しているのは宗教です。今から1,000年以上前,キリスト教世界はローマ・カトリック教会に属する人々と,正教会の教えを信奉する人々に分かれました。この二つの教会の境が旧ユーゴスラビアを貫いています。クロアチアとスロベニアの人々はおもにローマ・カトリック教徒であり,セルビアとマケドニアの人々はほとんどが正教会の信者です。ボスニアには,イスラム教,カトリック教会,正教会に属する人々がいます。

人々は宗教だけでなく言語によっても別れています。コソボを除き,旧ユーゴスラビアではほとんどの人が南スラブ系の言語を話します。それぞれ異なる言語を持つとはいえ,セルビア,クロアチア,ボスニア,モンテネグロの場合,同じ単語が多く用いられているために意思を通わせることが可能です。しかし,コソボ,マケドニア,スロベニアの場合,そこまでは通じません。19世紀の終わりに,共通点を持つ言語を統一するための努力が払われましたが,1991年にユーゴスラビアが解体し,達成には至りませんでした。以来,どの国も言語面で独自性を打ち出そうとし,それぞれ用いる言葉や排除する言葉を決めるようになっています。

[148ページの囲み記事/図版]

時計職人がスラボニアで真理を広める

1930年代に,アントゥン・アブラモビッチはクロアチアの村々を巡り,時計を修理していました。そして,ある宿屋でエホバの証人の小冊子を見つけました。それを読むとすぐに真理であることを悟り,深く感動します。アントゥンは支部に手紙を書いて,ほかの文書も送ってほしいと伝えました。程なくしてアントゥンは,エホバの献身した僕になります。それ以降,村々を巡る際には,時計を修理するだけでなく,人々に証言もしました。当時,業は禁止されていたため,時計職人としての立場は都合の良いものでした。プリブラカという小さな集落で幾人かの人が心から真理を受け入れ,やがてそこに小さな会衆ができました。その土地からビンコブチとその周辺に真理が広まりました。

第二次世界大戦中,アブラモビッチ兄弟は地下で行なわれていた文書の印刷を助けました。それらの文書はユーゴスラビア各地で配布されました。1947年に,14人の兄弟たちが長期の刑を宣告されましたが,熱心に活動していたアブラモビッチ兄弟もその中に含まれていました。そして,釈放後は旅行する監督として奉仕します。兄弟は生涯を通じてエホバへの奉仕に熱心でした。

[151ページの囲み記事/図版]

指揮者から開拓者へ

ずいぶん前のことになりますが,今のボスニア・ヘルツェゴビナに当たる地域で,近衛隊のオーケストラの指揮者アルフレード・トゥチェックが,フリッツ・グレーガーという団員から聖書文書を受け取りました。そして,1920年代の終わりと思われますが,マリボルの灯台協会と連絡を取り,正規開拓者になりたいと伝えました。やがてアルフレードは,ユーゴスラビアの初期の開拓者の一人として働き始めます。軍楽隊の指揮者として高い収入があったにもかかわらず,エホバへの愛ゆえにその仕事を辞め,「後ろのものを見る」ことはしませんでした。(ルカ 9:62)1930年代の始めには,ドイツから来た開拓者の兄弟たちと共に旅行し,「創造の写真劇」を上映しました。さらに,ユーゴスラビアにおける宣べ伝える業を組織するため,区域のカードを作る仕事を手伝いました。1934年には,ドイツ人の開拓者フリーダと結婚しました。二人が最初に割り当てられたのは,ボスニアのサラエボでした。後には良いたよりを宣べ伝えるためにマケドニア,モンテネグロ,クロアチア,セルビアといった地域にまで行きました。初めのころは自転車で移動することが多かったものの,後にはオートバイを使うようになりました。当時,良いたよりを喜んで聞く人は少なく,宣べ伝える業は禁止されていましたが,二人はできるだけ多くの人に音信を伝えることの重要性を理解していたのです。

[155,156ページの囲み記事/図版]

病気の時も健康な時も

マーティン・ポエツィンガーは,中央ヨーロッパの幾つかの国で奉仕した後,ユーゴスラビアの開拓者たちのグループを監督するよう任命されました。ドイツ出身の熱心な開拓者ゲルトルート・メンデに出会ったのはそのころのことで,後に二人は結婚します。開拓者たちは,健康上の問題に関してエホバに全く依り頼む必要がありました。健康保険はありませんでしたが,必要な助けはいつも与えられました。時には危機的な状況の中で,エホバが好意的な人々を用いて助けてくださることもありました。例えば,ザグレブでポエツィンガー兄弟の具合がとても悪くなった時,メンデ姉妹が看病を買って出ました。

ゲルトルートは振り返ってこう述べています。「1930年代の半ばに,マーティンも私もサラエボでの奉仕を割り当てられました。ところが,思っていたようには事は運びませんでした。ある晩,マーティンは具合が悪くなり,夜中に熱が40度近くまで上がりました。翌朝,マーティンの様子を見に,下宿していた家に行ってみると,家主の女性は彼の容態をとても心配していました。その女性と共に,温めたワインに砂糖をたくさん加えて飲ませるという民間療法を試してみましたが,効果はありませんでした。電話帳で幾人かの医師を探して電話しましたが,すぐに来てくれる人はおらず,すべて断わられてしまいました。

「家主の女性は病院に電話をかけたらどうか,と勧めてくれました。それで院長に電話をかけ,マーティンが寝込んでいて40度の熱があると伝えました。その院長は非常に親切で,救急車を出してくれました。マーティンが救急車に乗せられる時,家主の女性から,『もう会えないかもしれないわよ』と言われました。

「心配に追い打ちをかけるかのように,お金の問題もありました。私たち開拓者が持っていたお金は,文書と引き換えに受け取った寄付だけで,それで生活するのがやっとでした。どうしたらいいか分からず,治療費が幾らになるか見当もつきませんでした。マーティンを診た院長のターラー先生は診断を下し,『胸膜炎ですね。手術が必要です。回復するのにしばらく時間がかかるでしょう』と言いました。

「ターラー先生は私たちの厳しい経済状態を理解していたようです。『あなたたちのような信仰を持つ人の力になりたい』と言ってくださり,手術費を請求しなかったのです。エホバの助けによって,その困難を何とか切り抜けることができました。マーティンが病気になったため,私たちはサラエボに行くことはできず,ドイツに戻らざるを得ませんでした」。

[図版]

マーティン・ポエツィンガー,1931年にドイツで

[161,162ページの囲み記事/図版]

昼は仕事,夜は印刷

リナ・バビッチ

生まれた年 1925年

バプテスマ 1946年

プロフィール 業が法的に認可された1953年以来,ベテルで奉仕する。雑誌や文書の印刷と発送を手伝った。現在もザグレブのベテルで忠実に奉仕している。

兄弟たちが刑務所から釈放された後,すぐに雑誌を生産するための準備が行なわれました。しかし,兄弟の数は少なく,なすべき業は多くありました。その状況について知った私は力になりたいと思い,世俗の仕事に就いていましたが,印刷を手伝うことにしました。日中は世俗の仕事をし,夜は遅くまで文書を印刷しました。

当時,市内にはまだ支部の建物はありませんでした。そのため,年配の夫婦であるペータル・イェリッチとイェレナ・イェリッチが一部屋しかない自分たちのアパートを提供し,そこで文書を謄写版で印刷する作業が行なわれました。部屋の広さはわずか4.5㍍四方で,木の枠にシーツを張ったものをベッドの上に置き,そこに印刷した紙を積み重ねました。ベッドの脇のテーブルには,手動の謄写版印刷機が置かれていました。1時間に印刷できたのは800ページほどでした。今の印刷機とは比べものになりませんが,辛抱と多大の労苦によって必要な文書をすべて生産することができ,満足していました。

イェリッチ夫妻は,私たちが印刷を終え,印刷物の束を移動させてからようやく寝ることができました。作業が終わるのを辛抱強く待つ二人の姿に,心を打たれました。二人は決して不平を言わず,むしろ幸福そうでした。王国の業をそのように支援できることを喜び,目を輝かせていました。イェレナは他の年配の姉妹たちと共に,できる時には刷り上がったページを順に重ね,綴じ,折る作業を手伝いました。それは貴重な助けでした。

1958年に,電動の謄写版印刷機が手に入り,印刷がずっと楽になりました。1931年に雑誌が出るようになった時は,わずか20冊しか発行していませんでしたが,1960年代始めには三つの言語 ― クロアチア語,セルビア語(キリル文字),スロベニア語 ― で2,400冊印刷していました。書籍を生産することはできませんでしたが,多くの小冊子を印刷しました。1966年には,それまでで最大の部数が出されました。外部の印刷所で,「神が偽ることのできない事柄」という本が12冊の小冊子に分けて印刷されたのです。12冊で書籍1冊分になります。三つの言語で書籍5万冊分を印刷するために,小冊子を60万冊印刷する必要がありました。

現在,私はザグレブのベテルで奉仕しています。長年の奉仕を振り返り,エホバが旧ユーゴスラビアのすべての国における業を祝福してこられた様子を見て,うれしく思っています。

[176,177ページの囲み記事/図版]

「明日になれば,事態が全く変わることもあるのです」

イビツァ・ゼムリャン

生まれた年 1948年

バプテスマ 1961年

プロフィール 中立を保ったため刑務所に5回入れられる。後に週末の巡回監督として働き,現在はザグレブの会衆で長老として奉仕する。

両親は真理のうちにおり,家族で真理についていつも話していました。兵役に召集された時,出頭した私は,自分の立場を説明させて欲しいと言いました。中立の立場について説明した後,裁判にかけられ,9か月の懲役刑を宣告されました。釈放後,すでに次の召集が来ていました。やはり裁判にかけられ,刑を宣告されました。このたびは懲役1年です。釈放されると,3度目の呼び出しが来ていて,もう一度裁判にかけられ,15か月の刑を言い渡されます。4度目は20か月,5度目は2年の刑で,合計すると6年以上刑務所にいたことになります。これらのことはすべて1966年から1980年の間に起きました。

私は,アドリア海のゴリ・オトク島に2度送られました。島の全体が政治犯のための刑務所になっていたのです。私は政治犯同様の扱いを受けました。課された仕事は“海を埋める”ことでした。木の箱に入れた石を,島の一方の側から反対の側に運び,海に投じるのです。一度に運ぶ石の重さは100㌔以上ありました。それを海に投じると,歩いて戻ってさらに石を運びます。こうした意味のないことを,一日じゅう繰り返しさせられました。

ゴリ・オトク島に2度目に送られた時は,新しい囚人を全員1か月のあいだ独房に入れることが行なわれていました。閉じ込められ,全く独りのまま放置されるのは耐え難い経験で,私はそれまでになく頻繁に祈りました。聖書も出版物もありませんでした。私にとって,他の人との接触を完全に絶たれるのは,ひどくつらいことでした。唯一励みとなったのは両親からの手紙です。けれどもそのつらい時期に,「わたしが弱いとき,その時わたしには力がある」という使徒パウロの言葉が真実であることを強く感じました。(コリ二 12:10)釈放され,そして仕事が見つかった時は本当にうれしく,元気が出ました。

別の刑務所では,精神科医のところに行かされました。その医師は非常に厳しい態度を取り,私を罵倒しました。私をさんざんばかにした上,お前は気が狂っていると怒鳴りつけました。弁明の機会は与えられず,話すことは許されませんでした。翌日,同じ医師は私を再び呼び出し,前日とは全く違う口調でこう言いました。「君のことを考えていたんだが,ここは君がいるような場所じゃない。刑務所の外で仕事ができるようにしてあげよう」。驚いたことに,本当にそうしてくれたのです。なぜ気が変わったのか分かりませんが,この出来事から,恐れたり,どうにもならないとあきらめたりする必要はないことを知りました。明日になれば,事態が全く変わることもあるのです。さまざまな経験によってエホバに引き寄せられたことに,感謝しています。

[179ページの囲み記事/図版]

『サッカーについて話してもよいのはどこですか』

ヘンリク・コバチッチ

生まれた年 1944年

バプテスマ 1962年

プロフィール 1973年に週末の巡回監督として奉仕し,1974年から1976年には全時間の旅行する監督を務めた。現在はクロアチアの支部委員会の成員。

宣教奉仕に出かける時は,家に帰れるかどうか,分かりませんでした。しばしば警察に逮捕され,取り調べを受けました。私たちの活動はよく誤解されました。

ある時,警察署で,神についての話はそのために登録された場所だけで行なうべきで,街路や家々で行なうことは許されない,と言われました。私はネヘミヤのように短い祈りをささげ,適切に返答できるようエホバに助けを求めました。それから取調官にこう質問しました。「サッカーについて話してもよいのはスタジアムの中だけですか。それとも,他の場所でも話せますか」。取調官は,サッカーについてはどこでも話すことができる,と答えました。それで私はこう言いました。「それなら,神様についての話も,教会や礼拝所に限らず,どこで行なってもいいのではありませんか」。取り調べは5時間に及びましたが,私も一緒に奉仕していた兄弟も家に帰してもらえました。

40年に及ぶ奉仕を振り返って言えることですが,私も妻のアナも,世が何を提供しようとも,この奉仕を手放すつもりはありません。私たち夫婦は,真理を学ぶよう70人近くの人を助ける特権にあずかりました。エホバが差し伸べてくださるどんな割り当ても,生活を真に充実させるのです。

[195,196ページの囲み記事/図版]

戻ると約束しました

ハリム・ツリ

生まれた年 1968年

バプテスマ 1988年

プロフィール サラエボで人道援助活動を組織し,物資の分配を助けた。現在は長老,また医療機関連絡委員会の成員として奉仕する。ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるエホバの証人の法的な代表者の一人。

サラエボ市が包囲されていた1992年のことです。文書が届かないことがあり,そういう時は古い雑誌を研究しました。兄弟たちは古いタイプライターを使って,手元にある研究記事の複製を作りました。わずか52人の伝道者でしたが,集会には200人以上が出席し,会衆全体で司会していた研究の数は240件ほどでした。

1993年11月,戦闘が最も激しかったころ,娘のアリヤナが生まれました。子どもを世に生み出すにはたいへんな時期でした。数週間にわたって水道も電気も来ないことがあり,家具を燃料にしました。集会に行くにも危険な場所を通らなければなりません。狙撃兵が無差別に発砲するため,ある道を渡る時やバリケードを通過する時には,走らなければなりませんでした。

ある静かな日,集会からの帰り道でのことです。私は妻と娘,またドラジェン・ラディシッチ兄弟と一緒でしたが,突然機関銃の発射音がし,私たちは地面に伏せました。しかし,銃弾が私の腹部に命中し,激しい痛みに襲われました。多くの人が窓からその様子を見る中,幾人かの勇気ある若者が家から走り出てきて,私たちを安全な場所に連れて行ってくれました。私は病院に担ぎ込まれ,医師たちからすぐに輸血が必要だと言われました。私は,良心上の理由で輸血は受けられないと説明しました。すると,考え直すよう圧力をかけられましたが,私は固く決意しており,どんな結果になろうと輸血を避ける覚悟でいました。医師たちはともかく手術に取りかかり,それは2時間半に及びました。輸血を施されることはなく,私は快方に向かいました。

手術の後に静養する必要がありましたが,戦争のためにそれは不可能でした。それで親が住むオーストリアに行くことにしました。しかし,サラエボを脱出するには,空港の下に造られたトンネルを通るしか方法がなかったのです。トンネルは長さが900㍍で,高さが120㌢ほどのものでした。妻が娘を抱き,私は荷物を持とうとしましたが,手術を受けていたので妻の助けが必要でした。

オーストリアに滞在できた喜びは,言葉では言い表わせないほどのものでした。私たちはサラエボを出る時,兄弟たちと創造者に,また戻ることを約束していました。オーストリアの親族のもとを離れるのは,とりわけ母と別れるのはとてもつらいことでした。それでも神に約束した事柄を説明しました。サラエボを脱出するのを助けてくださり,幾らかの休養を取れるなら再び戻る,という約束です。今になって,「ここに来られるよう助けてくださり感謝します。とても居心地がいいので,これからもここにいさせてください」と神に言えるでしょうか。それに,サラエボの兄弟たちは私たちを必要としていたのです。その間ずっと,妻のアムラは大きな支えとなってくれました。

こうして1994年12月,私たちはサラエボのトンネルの入口に立ちました。このたびは,外から市内に入るのです。私たちがトンネルを通って戻ってくるのを見た人たちは,「どういうつもりですか。だれもが出たいと思っているのに,あなたは包囲された都市の中に戻るんですか」と言いました。サラエボの王国会館で兄弟たちと再会を果たしました。その時の感動は言い尽くせません。私たちは,戻ったことを一度も後悔していません。

[210ページの囲み記事]

クロアチアの島々

クロアチアには1,778㌔に及ぶ海岸線があります。それに沿って1,000を越える島が点在し,そのうち人が住んでいるのは50ほどです。島の大きさは,1平方㌔ほどから400平方㌔までさまざまです。

島の人々はおもに漁業,オリーブやぶどうの栽培,畑仕事に携わっています。140以上の島やサンゴ礁から成るコルナティ国立公園は,絶好のダイビングスポットです。クラパニ島やズラリン島の人々は,潜ってサンゴや海綿を取ります。フバル島の産物は,ラベンダー,ハチミツ,ローズマリー油です。荒涼としたパグ島では,丈夫な羊が,ハーブや塩分を含む草をはんでいます。この羊の乳で造るチーズは,島の名産になっています。

エホバの証人は,島のすべての住人に会うため特別な努力を払っています。橋で渡れる島もあれば,フェリーで行かなければならない島もあります。証人たちのグループは特別活動を組織し,一つの島で幾日か伝道することをとても楽しんでいます。しかし,島の人と話をするのはなかなかたいへんです。島独特の方言が,本土から訪れる人には分かりにくいからです。

うれしいことに,島の人たちは良いたよりにこたえ応じており,コールチュラ島には52人の伝道者から成る会衆があります。この島は孤立しているので,公開講演をする人にとって,そこまで行くのは容易なことではありません。それでもそうした努力は,この孤立した会衆が世界の他のクリスチャン仲間と一致する助けになっているのです。―ペテ一 5:9

[224ページの囲み記事/図版]

『11日早く出頭しました』

パブリナ・ボゴエブスカ

生まれた年 1938年

バプテスマ 1972年

プロフィール 1975年に開拓奉仕を始める。1977年,マケドニアで最初の特別開拓者になり,真理を学ぶよう80人以上を助けた。

伝道していると警察に通報されることがよくありました。警察署に連れて行かれて取り調べを受け,時には何時間にも及ぶことがありました。たびたび罰金を科されました。裁判では,国の政策に敵対的な立場を取り,西側の政治思想を広めている,という偽りの嫌疑をかけられました。一度は20日間の,別の時には30日間の投獄を言い渡されたことがあります。

指定された20日間の刑期と,地域大会の日付が重なってしまいました。刑務所に入る日付を延期してほしいと裁判所に願い出ましたが,却下されたため,11日早く出頭することにしました。刑務所の職員は私を見て驚きました。できるだけ早く刑務所に入りたいという人がいるとは,信じられなかったのです。証言する機会が開け,職員も私のために力になろうと言ってくれました。11日後,私が出頭したかどうかを確かめるために警察官が刑務所にやって来ました。私がすでに11日間そこにいることを刑務所の職員から聞いて,とても驚きました。こうして無事に地域大会に出席することができたのです。

[232ページの囲み記事/図版]

『最良のものを与えてくれました』

シャンドル・パルフィ

生まれた年 1933年

バプテスマ 1964年

プロフィール 兄弟の両親は,パルチザンが建設した収容所で第二次世界大戦後まもなく真理を学ぶ。週末の旅行する監督として奉仕し,現在はセルビアの国内委員会の成員。

ハンガリー人だった私の家族は,少しの期間,パルチザンが建設した収容所に入れられました。しかし,それは良い結果につながりました。両親がそこで真理を学んだからです。私は十代のころ,真理にはあまり関心がありませんでした。それでも,フランツ・ブラント兄弟が私の家に何年か住んだことが大きな転機になりました。兄弟からハンガリー語の出版物をセルビア語に訳してくれないかと頼まれ,助けになればと思い,引き受けました。あとで分かったことですが,実は訳す必要などなかったのです。私にその出版物をしっかり読ませたかっただけでした。兄弟の策は功を奏し,しばらく後の1964年に私はバプテスマを受けました。

これまでの人生で特に喜びが大きかったのは,旅行する監督として奉仕したことです。その奉仕は必ずしも楽なものではありませんでした。兄弟たちはつましい暮らしをしていたからです。家族全員と共に同じ部屋で寝ることがよくありました。払ったどんな犠牲も無駄ではありませんでした。兄弟たちは訪問を楽しみに待っていてくれました。皆が喜ぶ様子を見るのは,本当にすばらしい経験でした。兄弟たちは,最良のものを与えようと,できる限りのことをしてくれたのです。感謝せずにはいられませんでした。

[236,237ページの囲み記事/図版]

「どこでその人たちに会えるんだ」

アグロン・バショタ

生まれた年 1973年

バプテスマ 2002年

プロフィール コソボ解放軍の兵士だった。現在は正規開拓者また奉仕の僕として働く。

戦争中に私は無残な光景をたくさん目にしてきました。幼い子どもが殺されるのも見ました。そのため,神などいるはずがないと考えました。『神がいるのなら,人々が苦しんでいてもなぜ何もしないのか』と思ったのです。さらに,イスラム教の宗教指導者がセルビア人との戦いを支援しているのを見て,神への不信感がますます強くなりました。戦争の前はイスラム教徒でしたが,戦争が終わるころには無神論者になり,またコソボ解放軍に入隊していました。兵士だった期間は長くはありませんでしたが,周りから一目置かれ,さまざまな面で優遇されていました。人を動かす立場にあったことも手伝って,私はますます攻撃的で誇りが強くなっていたのです。

恥ずかしいことに,妻にも同じような接し方をしていました。いつも私の言うとおりにすべきだと考えていたのです。妻のメリタは戦争中に証人たちと知り合い,文書を幾らか受け取っていました。ある晩,寝る前に妻から,「これを読んでみて。神様について書いてあるのよ」と言われました。神について教えるつもりなのかと,私は腹を立てました。妻はけんかにならないよう,寝室に行って寝てしまいました。

一人になった私の目の前には文書が置かれています。それで,「神はわたしたちに何を求めていますか」のブロシュアーを読むことにしました。次に,「神への真の服従が求められる時」という小冊子を読みました。イスラム教徒だった私は,その小冊子にコーランが引用されていたことに驚きました。それから「ものみの塔」と「目ざめよ!」を幾らか読みました。もう夜も深まっていましたが,寝室に行って妻を起こし,「これをだれからもらったんだ。どこでその人たちに会えるんだ」と尋ねます。

私は読んだ事柄に純粋に感動していましたが,妻は不安そうでした。私が何かをしでかすのではないかと疑ったのです。ともかくその夜,証人の家に電話をし,集会の時間と場所を聞きました。こうして翌朝,私たちは集会に行き,兄弟たちの親切な物腰や歓迎ぶりに深い感銘を受けました。こんな人たちが今の世の中にいるとは,信じられなかったのです。兄弟たちが他と異なっていることはすぐに分かりました。集会中,どうしても尋ねたいことがあって待ちきれず,質問するために手を挙げました。私のはやる態度に,長老たちは緊張したようです。しかし,どうすればエホバの証人になれるかを尋ねたいだけだと分かると,長老たちは安心しました。

私はその日から聖書研究を始めました。人格面で改めたい点はたくさんありましたが,容易ではありませんでした。たばこをやめたいと思いましたし,以前の友人との付き合いも絶つ必要があると感じました。よく祈り,また集会に定期的に出席することによって,それまでの生き方を悔い改め,新しい人格を身に着けました。私と家族の生活は真理によって大きく変わりました。今は妻と共に正規開拓奉仕をしています。2006年には奉仕の僕に任命されました。現在は,人々が苦しみを経験する理由や,エホバが人間の抱えるすべての問題を間もなく解決されるという点を理解できるよう,他の人を助けることができます。

[249,250ページの囲み記事/図版]

「エホバが見えなくさせているかのようでした」

ヤネズ・ノバク

生まれた年 1964年

バプテスマ 1983年

プロフィール 信仰ゆえに刑務所に3年間入る。現在はスロベニアの支部委員会の成員。

私は1984年12月,軍隊から幾度も召集を受けました。家の戸口に出頭命令書が張り付けられ,拒否すれば憲兵が拘束するとの警告文が記されていました。それで,自分の立場を説明するため軍の施設に出頭しました。しかし,それは認められず,軍は無理やり私を入隊させようとしました。私の髪をそり,着ていた服を脱がせて軍服を着るよう命じました。それを拒むと,無理やり着せられました。そしてペンを握らせ,入隊の意思を表明する書類へのサインを強要しました。私はそれを拒みました。

さらに,朝の訓練や国旗敬礼などに参加することを拒否しました。4人の兵士が私を広場に連れ出して体操をするよう命じましたが,私は両手を上げようとしませんでした。兵士たちは無理やり手を上げさせようとしますが,自分たちがばかげたことをしていると気づきます。それで私にライフルを向け,殺すと脅します。時にはコーヒーとケーキを差し出して買収しようとしました。

私の決意を見て,ある兵士たちは泣きました。さらに,私の顔の前にチトー元帥の写真を掲げ,つばをかけてみろと言う兵士もいましたが,それも拒むと兵士たちは激怒しました。数日後,兵士たちは武器を持たせようとしましたが,それも拒みました。これは軍規違反とされていたので,私は1か月間営倉に閉じ込められました。その後,クロアチアのザグレブにある刑務所の監房に数週間入れられ,判決を待ちました。監房の中では一晩じゅう赤いライトが照らされており,トイレに行けたのは看守の機嫌のよい時だけでした。

最終的に私は3年の懲役刑を宣告され,アドリア海のゴリ・オトク島に送られます。罪の重い囚人が送られる場所です。ここは悪名高い刑務所で,囚人同士の暴力行為で知られており,私は軍役を拒んだために両手を鎖でつながれていました。その刑務所で,中立の立場ゆえに投獄されていた,他の4人の証人に出会いました。

聖書も他の文書も持ち込むことは許されていませんでした。しかし,すでに聖書が1冊あったのです。家族は「ものみの塔」誌を二重底の箱に入れて送ってくれました。看守に文書を見つけられたことは一度もなく,集会を開いていることも気づかれませんでした。時折,看守が監房に入って来て,文書が目の前にあるにもかかわらず全く気づかない,ということがありました。エホバが見えなくさせているかのようでした。

1年後,私はスロベニアに移され,刑期が終わるまでそこにいました。まだ服役中にラヘラと結婚しました。そしてついに釈放され,妻と共に開拓奉仕を始めます。1993年からはスロベニアのベテルで奉仕しています。

[244,245ページの図表/グラフ]

年表 ― 旧ユーゴスラビアの国々

1920年代 スロベニアのマリボルで少数の人たちが集まって聖書について討議する。

1930年代 ドイツ人の開拓者たちがユーゴスラビアに遣わされる。

1935年 業を監督するため,セルビアのベオグラードに支部が置かれる。

1940

1941年 ドイツ軍が侵攻し,厳しい迫害が生じる。

1950

1953年 エホバの証人は法的認可を得るが,家から家の奉仕は制限される。

1960

1969年 ドイツのニュルンベルクのこのスタジアムで国際大会が開かれる。

1970

1990

1991年 初めての国際大会がクロアチアのザグレブで開かれる。ギレアデで訓練を受けた最初の宣教者が来る。オーストリア支部による監督のもと,スロベニアに事務所が開かれる。戦争が始まる。

1993年 マケドニアでエホバの証人が登録される。

1994年 スロベニアに医療機関連絡委員会が設置される。

2000

2003年 クロアチアでエホバの証人が法的認可を得る。マケドニアで新しいベテルが献堂される。

2004年 スロベニア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発表される。

2006年 スロベニアで新しい支部が献堂される。「新世界訳聖書」全巻がクロアチア語,セルビア語,マケドニア語で発表される。セルビアのベオグラードに中国語の群れができる。

2007年 マケドニアでロマニー語による特別講演が初めて行なわれる。ロマニー語の最初の出版物が発表される。

2010

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

14,000

10,500

7,000

3,500

1940 1950 1960 1970 1990 2000 2010

[147ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

チェコ

オーストリア

ウィーン

スロバキア

ブラチスラバ

ハンガリー

ブダペスト

ルーマニア

ブルガリア

ギリシャ

アルバニア

ティラナ

イオニア海

イタリア

アドリア海

旧ユーゴスラビア

スロベニア

リュブリャナ

マリボル

カムニク

クロアチア

ザグレブ

スラボニア

オシイェク

ブコバル

ビンコブチ

プリブラカ

ヤセノバツ

シベニク

スプリト

ダルマティア海岸

ゴリ・オトク島

パグ島

コルナト島

ズラリン島

クラパニ島

フバル島

コールチュラ島

ボスニア・ヘルツェゴビナ

サラエボ

ビハチ

バニャ・ルカ

トゥズラ

トラブニク

ゼニツァ

バレシュ

モスタル

セルビア

ベオグラード

ボイボディナ

ボール

モンテネグロ

ポドゴリツァ

ニクシチ

ヘルツェグ・ノビ

タラ渓谷

シュコダル湖

コソボ

ペチ

プリシュティナ

マケドニア

スコピエ

テトボ

コチャニ

シティプ

キチェボ

ストルミツァ

レセン

注記: 国際連合は,「[2008年]2月,コソボはセルビアからの独立を宣言した」と伝えています。コソボの政治的な立場を巡る論争を解決するため,国連総会は「国際司法裁判所の勧告的意見」を求めています。

[142ページ,全面図版]

[145ページの図版]

フランツ・ブラント

[146ページの図版]

ルドルフ・カッレと,使っていたタイプライター

[149ページの図版]

トラックを借りてスロベニアで伝道する

[154ページの図版]

初期の開拓者は多くの困難に直面した

[157ページの図版]

自転車で移動するアルフレード・トゥチェックとフリーダ・トゥチェック

[158ページの図版]

ルドルフ・カッレ。セルビア,ベオグラードのベテルの前で

[168ページの図版]

フランツ・ドロズグと手紙の複製

[180ページの図版]

右: かつての畜舎を建て替えた王国会館,スロベニアのリュブリャナ

[180ページの図版]

下: 初期の王国会館,クロアチアのザグレブ

[182ページの図版]

ストヤン・ボガティノブ

[184,185ページの図版]

背景: ドイツのニュルンベルクで開かれた「地に平和」国際大会,1969年。左: ユーゴスラビアからの大会列車。右: ネイサン・ノア

[188ページの図版]

ジュロ・ランディッチ

[192ページの図版]

話をするミルトン・ヘンシェルとバプテスマの様子。クロアチアのザグレブにおける「神の自由を愛する人々」国際大会にて,1991年

[197ページの図版]

リリアナと娘たち

[199ページの図版]

人道援助物資がオーストリアからトラックで運び込まれた

[200ページの図版]

ジョレム家,1991年

[204ページの図版]

魚の入っていた桶の中でのバプテスマ,1994年にゼニツァで

[209ページの図版]

クロアチアのザグレブに集められた援助物資

[215ページの図版]

エルケ・ポラハとハインツ・ポラハ

[216ページの図版]

クロアチアの支部委員会と支部事務所

[228ページの図版]

ボスニアに届けられた援助物資

[233ページの図版]

セルビアの国内委員会とベオグラードのベテル

[235ページの図版]

サリウ・アバジ

[243ページの図版]

ポドゴリツァでの伝道の様子と,その土地の王国会館

[247ページの図版]

スロベニアの古い町,ピラン

[251ページの図版]

スロベニア,リュブリャナの以前の支部事務所,2002年

[253ページの図版]

スロベニア,カムニクの支部事務所,2006年

[254ページの図版]

スロベニアの支部委員会