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アルバニア

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アルバニア

アルバニアは小さな国ですが,変化に富む複雑な歴史を持っています。さまざまな種族や国民が行き交い,世界の列強に翻弄され,何十年にもおよぶ鎖国状態が続きました。この土地のエホバの証人は多くの困難や逆境に直面しましたが,エホバ神の支えを経験し,喜ばしい霊的繁栄という祝福を与えられました。続く記述は,それらの証人の感動的な歴史を簡潔に描いており,「エホバのみ手」がこの国の謙遜な僕たちをどのように支えたかを示しています。―使徒 11:21

何世紀にもわたり,外国の勢力はアルバニアを手中に収めようとし,そうした企ては宗教的な対立も生み出しました。1500年代の初めには,この地域の人々はすでに宗教的にも分かれており,イスラム教徒もいれば,正教会やカトリックの信者もいました。

1800年代の終わりには国家主義の風潮が強まり,多くの愛国的な団体が結成されてゆきます。人々の大半は貧しい農民で,多年におよぶ外国の支配に不満を抱いていました。1900年代に入ると,自治や独立を求める声が強まり,ギリシャ,セルビア,トルコと戦争になりました。結局,1912年にアルバニアは独立を宣言しました。

その後,政府は組織宗教の慣行を事実上排除する政策を取りました。第二次世界大戦の後,共産主義政権はすべての宗教を廃止し,世界で初めて無神国家を宣言しました。

「喜びを抱いて真理を受け入れている」

西暦56年より前に使徒パウロは,自分と仲間たちが良いたよりを「イルリコに至るまで」徹底的に宣べ伝えた,と記しています。当時ローマの属州だったその土地には,今日のアルバニアの一部も含まれています。(ロマ 15:19)この地域で真のクリスチャンになった人たちもいたことは十分に考えられます。一般の歴史でも,キリスト教は1世紀にアルバニアに定着したとされているからです。

この地域一帯での現代における真の崇拝に関する最初の記録は,1921年にさかのぼります。その年,ジョン・ボスドヤニスはクレタからブルックリン・ベテルに手紙を書き,イオアニナの聖書研究の“会”を訪問することについて述べています。そこは現在,ギリシャ北部に当たります。同じころ,大勢のアルバニア人が米国のニューイングランド地方に移住しました。サナス(ナショー)・イドリジとコスタ・ミッチェルもその中にいました。二人は真理を知ると,すぐにバプテスマを受けます。1922年,イドリジ兄弟はアルバニアのギロカスタルに戻ります。聖書の真理を携えて母国に戻った最初のアルバニア人です。エホバは兄弟の自己犠牲の精神を祝福し,人々はこたえ応じるようになります。やがて,アメリカに住む,信者になった他のアルバニア人が,イドリジ兄弟に続いて国に戻ります。一方,コスタ・ミッチェルは米国マサチューセッツ州ボストンで,アルバニア人への伝道を続けます。

ソクラト・ドゥリとサナス・ドゥリ(アサン・ドウリス)は,アルバニアで生まれましたが,子どものころトルコに引っ越しました。ソクラトは1922年にアルバニアに戻ります。その翌年,14歳のサナスも戻り,兄のソクラトを探します。サナスはこう書いています。「以前の家に着きましたが,すぐには兄に会えませんでした。200㌔ほど離れた場所に働きに行っていたためです。それでも,『ものみの塔』と聖書,7巻そろった『聖書研究』,それに聖書の論題を扱った数枚のパンフレットを見つけました。この山合いの僻地にも,聖書を愛し,その知識を携えてアメリカから戻った活発な聖書研究者がいたのです」。サナスはついに兄と再会します。兄のソクラトはすでに聖書研究者としてバプテスマを受けており,弟に真理を教えました。

1924年,ルーマニアの事務所は,新しい区域であるアルバニアにおける業を監督するよう割り当てられます。証しの業はまだ限られていたものの,「ものみの塔」誌,1925年12月1日号(英語)はこう伝えています。「『神の立琴』の本,それに『望ましい政府』と『世界の苦悩』の小冊子が現地の言葉に翻訳され,印刷され,かなりの数が人々の手に渡った。アルバニア人は大きな喜びを抱いて真理を受け入れている」。

そのころ,アルバニアは政治的な争いの渦中にありました。エホバの僕たちはどうしていたのでしょうか。サナスはこう書いています。「1925年には,アルバニアで三つの会衆が組織され,そのほかに孤立した聖書研究者たちがいました」。さらに,兄弟たちの間の愛は,周囲に見られる争い,利己心,競争心と鋭い対照を成しているとも述べています。多くのアルバニア人が国を離れていく中で,真理を知った人たちは設立されて間もないキリストの王国について親族に伝えることを強く願い,戻ってきたのです。

一方ボストンでは,日曜日の午前に公開講演がアルバニア語で行なわれ,60人ほどが出席していました。皆が真剣に学び,「聖書研究」の本を注意深く調べていました。「神の立琴」の本も徹底的に研究しました。ただ,幾らかの誤訳もありました。(例えば,その書名は当初「神のギター」と訳されました。)それでも,この本によって多くのアルバニア人は聖書の真理を知り,強い信仰を築くことができました。

「手出ししてはならない」

1926年の「ものみの塔」誌は,アルバニアでキリストの死の記念式に13人が出席したと伝えています。『1927 年鑑』(英語)には,「アルバニアには聖別された兄弟たちが15人ほどしかおらず,王国の音信を広めるため最善を尽くしている」とあります。さらに,「アメリカには聖別されたアルバニア人の兄弟が30人ほどおり,母国に住む同胞が真理の知識を得るよう助けることを切望している」とも記されています。アルバニアの15人の兄弟たちは,1927年の記念式に27人が出席したことを喜びました。それは前年の2倍以上の出席者数でした。

1920年代の終わりに,アルバニアでは政治的な混乱がまだ続いていました。正教会の主教ファン・ノリの率いる政府が短期間政権を執りますが,大統領になったアフメト・ベイ・ゾグによってその立場を追われます。ゾグはアルバニアの王制を宣言して国王ゾグ1世となり,絶対的な権力を握ります。

1928年に,ラザル・ナソンとペトロ・スタブロ,および他の二人の兄弟が,米国からアルバニアにやって来て「創造の写真劇」を上映します。同じころ,カトリックの司祭と正教会の司祭が米国からアルバニアに来て,ゾグ1世と面会しました。

カトリックの司祭はゾグにこう警告しました。「アメリカからやって来た者たちが面倒を起こそうとしています。お気をつけください」。

しかし,正教会の司祭は賛同しませんでした。アルバニアに来ていたそれらの兄弟は,少し前に,ボストンにあるこの司祭の教会を脱退していたのです。この司祭はゾグにこう言いました。「もしアルバニア人がみな彼らのようになれば,王宮の扉に鍵をかける必要はなくなるでしょう」。

「ならば,ほっておくことだ。手出ししてはならない」とゾグは答えます。

同じ年,ボストンでは「エホバにささげる賛美の歌」という本がアルバニア語で印刷されました。そのため,アルバニアにいる兄弟たちもやがて,その曲と歌詞を覚えます。特に好んで歌われたのは,「恐るな小さき群れよ」,「神の僕よ,働け!」の二つで,その後の困難な時期に兄弟たちを強めたのです。

アルバニア人は一般に,遠回しではなく,率直な話し方をします。はたからは口論しているように見えても,アルバニア人には普通の活発な話し合いにすぎないことがよくあります。人々は,ある事柄について強い意見を持つと,それをぜひ知らせたいと思うだけでなく,強い確信を言葉と行動で表わします。こうした資質は,良いたよりに対する反応にも大きな影響を与えます。

困難が良い結果を生む

政治的,経済的な問題が増えるにつれ,国を離れるアルバニア人は多くなってゆきます。その中のある人たちは,米国のニューイングランド地方やニューヨーク州で真理を学ぶようになりました。アルバニア人が多く住む土地では,真理も実を結びました。さらに多くの文書を必要としていた兄弟たちは,「神の国」と「危機」という小冊子のアルバニア語版を受け取って喜びました。

そのころ,アルバニアの当局はわたしたちの文書を幾らか押収していました。しかし,1934年の「会報」(現在の「わたしたちの王国宣教」)は,アルバニアからの報告としてこう伝えています。「たいへん喜ばしいことに,法務長官は全行政区に通達を出し,今後はわたしたちの文書はすべて自由に配布できることを伝えた。……幾つかの県で押収されたすべての書籍や小冊子は,兄弟たちのもとに戻された。……現在,7人の兄弟が1台の自動車を借り,書籍を携えて遠方の町を訪れ,他の兄弟たちは近い場所で奉仕している」。その結果,1935年から1936年にかけて,兄弟たちは文書を6,500冊余り配布したのです。

「史上最大規模と思われる放送」

英国の新聞「リーズ・マーキュリー」は1936年の初めに次のように報じました。「史上最大規模と思われる放送が計画されている。放送されるのは,福音伝道師ラザフォード判事がロサンゼルスで行なう講演である」。当時エホバの証人の間で指導の任に当たっていたJ・F・ラザフォードは講演を行なう予定でした。その話は無線電話回線で米国と英国の各地に送信され,さらにヨーロッパの幾つかの国に中継されることになっていました。その記事の最後にはこうあります。「ヨーロッパでその講演を聞けない国が一つある。それは電話回線がつながっていないアルバニアである」。

しかし,その講演の数週間後,ボストンのアルバニア語会衆に交わるニコラス・クリストは,世界本部にあててこう書いています。「ラザフォード判事による,『国々の民を分ける』という講演を聞くことができたという知らせが,最近アルバニアから届きました。講演を聞いたたくさんの国のリストに,アルバニアも加わったことを是非お伝えしたいと思います。放送は2か所で聞かれ……短波によって受信できたようです。兄弟たちは,ラザフォード判事の声を聞いて胸を躍らせました」。

アルバニアの奉仕者たちは,「ものみの塔」誌がアルバニア語で発行される以前には,どのようにして集会を開いていたのでしょうか。真理を受け入れたアルバニア人の多くは,国の南部にあったギリシャ語の学校で教育を受けたので,ギリシャ語の「ものみの塔」誌を研究できたのです。さらに,イタリア語やフランス語の雑誌で研究した人もいます。集会はアルバニア語で開かれましたが,兄弟たちは持ち寄った文書を訳しながら集会を進めました。

ボストンに住むアルバニア人も,月曜日の夜にギリシャ語の雑誌を使って「ものみの塔」研究をしていました。そうした状況でも,多くの兄弟は子どもたちをよく教え,何年も後に息子や娘,甥や姪,孫やひ孫が全時間奉仕者になりました。実際,アルバニアの兄弟たちは熱心に証言することでよく知られていたので,人々からウンジロラと呼ばれていました。それは「福音宣明者」という意味です。

高位の人たちが証言を受ける

ゾグが王位を追われる1年前の1938年,王の妹二人が旅行でボストンを訪れました。同年12月の「慰め」誌(現在の「目ざめよ!」)はこう伝えています。「アルバニア国王の二人の妹がボストンを訪れた時,ボストンにあるエホバの証人の会のアルバニア語グループから,二人の成員が滞在先のホテルに面会に行き,神の王国の音信を伝えた。二人は温かい歓迎を受けた」。

この二人の証人とは,ニコラス・クリストと姉のリナでした。二人は王の妹たちのほかに,他の5人の要人とも面会します。その中に,当時の駐米アルバニア大使のファイク・コニツァも含まれていました。面会に先立って,この一行の前でアルバニア語による証言の記されたカードが読まれました。そこには真理を宣べ伝える業がアルバニア人の間で広く行なわれていることが説明されています。その文面は一部,こうなっています。「皆様に次のことをお伝えできるのは喜びです。この音信は多年にわたりアルバニアで告げ知らされ,何万冊もの書籍がアルバニアの当局者や人々に手渡され,啓発や慰めを与えてきました」。

コニツァ大使は王の妹たちにこう語りました。「この人たちは,あなた方のお力によって,アルバニアにおける伝道が妨げられずに続けられることを願っております。これは“新しい”教えであり,彼らは世[現在の世の組織]が間もなく終わり,そののちキリストが統治し,死者も生き返ると信じているのです」。

コニツァ氏は王国の音信について,これほどの知識をどこから得たのでしょうか。「何年も前,ある証人が真理を知る前に……この人を知っていて,真理について幾度か話し合う機会があったからである」と「慰め」誌は説明しています。

第二次世界大戦による試み

1930年代にイタリアがアルバニアを占領し,1939年,国王ゾグとその家族は国を逃れました。侵入してきたイタリアのファシスト軍がわたしたちの文書を発禁にし,50人の伝道者が行なっていた宣べ伝える業は違法となりました。1940年の夏に,約1万5,000冊の文書が押収されました。8月6日,ケルツィラでファシストたちは兄弟9人を逮捕し,縦横が2㍍と4㍍の監房に拘禁しました。後に兄弟たちはティラナの刑務所に移送されます。そして裁判を受けずに8か月拘束された後,10か月ないし2年半の刑を宣告されました。

当時,受刑者たちは食べ物を家族に持ってきてもらわなければなりませんでした。ですがこの場合,家族を養う立場にある人たちが投獄されたのです。彼らはどのようにして食べていくのでしょうか。

ナショー・ドーリーは当時を思い返してこう言います。「15日ごとに,乾燥したパン800㌘,石炭3㌔,石鹸一つが支給されました。ヤニ・コミノと私は,豆1㌔を買うだけのお金も持っていました。私たちは石炭を使って豆をゆでました。他の受刑者がそれを売ってほしいと言ったので,スプーンに一杯ずつ売りました。程なくして,五つの大きな鍋で豆をゆでて売るようになり,やがて幾らかの肉を買うだけのお金が得られました」。

1940年から1941年にかけての冬に,ギリシャ軍はアルバニア南部に侵入し,その土地の男たちに軍に加わるよう迫りました。ある村で一人の兄弟が,自分は中立なので加われないと言うと,兵士たちは髪をつかんで兄弟を引きずり,気絶するまで殴りました。

兄弟が意識を取り戻すと隊長は,「まだ言うことを聞かないつもりか」と詰問します。

「なんと言われようとわたしは中立です」と兄弟は答えます。

兵士たちはあきらめ,兄弟を行かせます。

数日後,その兄弟の家に例の隊長が訪れて兄弟の勇気を褒め,こう言いました。「少し前,おれは12人のイタリア人を殺して勲章をもらった。でも今も心がとがめ,勲章を付ける気にはならない。ポケットに入れたままだ。自分の犯罪行為の証しのようなものだからな」。

支配者が変わっても試練は続く

国が戦禍に見舞われ,ファシスト軍が支配権を維持しようと躍起になる中,アルバニア共産党は着実に勢力を強めてゆきました。1943年,共産主義者と戦う兵士たちが一人の兄弟を捕らえ,トラックに押し込めて前線に連れて行き,ライフルを持たせようとしました。兄弟は拒否します。

「お前は共産主義者だな! クリスチャンだったら,司祭のように戦うはずだ」と隊長は怒鳴ります。

隊長は兵士たちに,兄弟を処刑するよう命じます。銃殺隊が引き金を引く寸前に,別の指揮官がやって来て,何事かと尋ねます。兄弟の中立の立場について知ると,処刑の命令を取り消し,兄弟を自由にしました。

1943年9月,ファシスト軍が撤退し,ドイツ軍が侵攻します。ティラナでは一晩に84人が殺されました。さらに,数百人が強制収容所に送られました。そのような状況で兄弟たちは,聖書が差し伸べる希望や励ましの言葉をタイプして証言に用いました。だれかがそれを読むと返してもらい,今度は別の人に見せられるようにしました。さらに,隠していた数少ない小冊子を用いて伝道を続けました。兄弟たちは聖書の一部だけを用いて宣べ伝えました。1990年代半ばまで,全巻そろった翻訳聖書を持っていなかったのです。

1945年までに,兄弟たち15人が投獄されました。その中で,強制収容所に送られた二人のうち一人は,拷問を受けて亡くなりました。皮肉にも,アルバニアの兄弟たちは枢軸国の軍隊に加わらないために迫害されていましたが,米国に住むアルバニア人の兄弟たちの中には枢軸国に対する戦いに加わらないために投獄された人がいたのです。

戦時下のアルバニアで,押収された文書が税関の建物に保管されていました。その近くで激しい戦闘が起こって建物が破壊され,押収されていた文書がたくさん通りに飛ばされました。その後,通りかかった人たちが好奇心から書籍や小冊子を拾い上げ,読み始めたのです。兄弟たちはすかさず,まだ残されていた文書を集めました。

1944年にドイツ軍がアルバニアから撤退し,共産党軍は臨時政府を設けました。兄弟たちは直ちに,小冊子を再び印刷する許可を申請しましたが,それは却下されます。「ここアルバニアでは聖職者は今も認められているが,『ものみの塔』はその聖職者を非難している」と,兄弟たちは告げられました。

戦争は終わるが迫害は続く

新しい共産主義政権は重税を課し,土地,工場,会社,商店,劇場を接収しました。土地の売買や貸借は禁じられ,すべての生産物は国に供出しなければなりませんでした。1946年1月11日,アルバニア人民共和国の樹立が宣言されました。共産党が選挙で勝利を収めて政権を握り,エンベル・ホジャが国家元首となりました。

多くの学校が新設され,子どもたちは読み書きを教えられましたが,政府は国民が反共産主義的な読み物を読むことを望みませんでした。わたしたちの出版物は押収されました。また政府は,兄弟たちが持っていたわずかな量の紙と,数台のタイプライターも押収しました。

兄弟たちは,文書を発行する許可を得ようと試みましたが,そのたびに拒絶され,脅しを受けました。それでも堅く立ち,当局にこう語ったのです。「わたしたちはエホバ神から,神の目的についてアルバニア人に知らせる責任を与えられました。その業を禁じているのですから,あなたたちは責任を問われることになるでしょう」。

政府の示した態度は事実上,次のようなものでした。『ここアルバニアでは我々が支配者だ。我々は神の支配など認めない。おまえたちや,おまえたちの神エホバに煩わされるつもりはないし,エホバなど認めない』。それでも兄弟たちはひるむことなく,ふさわしい時や場所を選んで,良いたよりをできる限り伝えたのです。

1946年には投票が義務づけられ,棄権する人は国家の敵とみなされました。集会を禁止する法律が成立し,伝道することは犯罪でした。兄弟たちはどう対応したのでしょうか。

ティラナにいた15人ほどの兄弟たちは,1947年に伝道キャンペーンを組織しました。兄弟たちはすぐに逮捕されました。聖書は破られ,兄弟たちは拷問を受けます。釈放後は,警察の許可を受けずに他の地域に行くことが禁じられました。新聞には,イエスやエホバをあざける記事が載りました。

ボストンに住むアルバニア人の兄弟たちはそのことを知り,1947年3月22日,アルバニアのエホバの証人のためにエンベル・ホジャに対して2ページにわたる敬意のこもった手紙を書きました。エホバの証人は政府を脅かす存在ではないこと,また宗教上の反対者たちの非難が偽りであることを指摘しました。反対者が非難するのは,わたしたちの出版物が彼らのクリスチャンらしからぬ慣行を暴いているためであることも示しました。その手紙はこう締めくくっています。「カポ氏が率いる,アルバニアの国連代表団がボストンを訪問した際,滞在先のホテルでカポ氏との面会がかないました。カポ氏は私たちを温かく親切に迎えてくださり,偏りのない態度で話に耳を傾けてくださいました」。ヒュスニ・カポは多年にわたって,アルバニアの官僚の中でも高い地位に就いていた人です。こうした訴えがなされても,アルバニアにおける問題は増える一方でした。

1947年にアルバニアはソ連やユーゴスラビアと同盟を結び,ギリシャと対立しました。翌年にはユーゴスラビアと国交を断絶し,ソ連との接近を強めます。政府のイデオロギーを支持しない人は国賊扱いされました。兄弟たちの中立の立場は,反対や敵意をさらに招くようになりました。

例えば1948年,ある小さな村で6人の兄弟姉妹が記念式のために集まった時のことです。警察はその集まりに踏み込み,数時間にわたって殴打を加えた後,ようやく解放してくれました。数週間後,警察は記念式の話をした兄弟を逮捕し,12時間立たせました。真夜中に警察署長は厳しい口調で,「なぜ法律を破ったのか」と問いただしました。

「国の法律を神の法律より上に置くことはできません」と,兄弟は答えます。

署長はひどく腹を立てて兄弟に平手打ちを加えます。兄弟がもう一方のほほを向けたので,署長は「どういうつもりだ」と言います。

兄弟はこう答えます。「わたしはクリスチャンだと言いませんでしたか。イエスは,だれかに平手打ちをされたら他のほほを向けるように,と教えています」。

すると署長は激怒し,こう言い放ちます。「それがおまえの主の命令だとしたら,おれは従うつもりはない。これ以上おまえを打つことはしない。ここから出て行け!」

「伝道は続けます」

ティラナに住むソティル・ツェチは正教会の熱心な信者でした。子どものころに骨の結核を患い,いつも両足に激しい痛みがありました。17歳の時,ひどい抑うつ状態になり,列車の前に飛び込んで死のうと思いました。それを実行に移す少し前,親族のレオニザ・ポペが訪ねてきました。レオニザはソティルが何をしようと思っているかは知らずに,イエスが病気をいやし,地上が楽園になることを話し,ギリシャ語聖書をプレゼントします。ソティルはそれをすぐに読み始めました。

ソティルはこう言います。「それは乾いていた心に注がれた水のようでした。真理を見つけたのです!」

それから数日後,レオニザに会うことなく,ソティルはこう考えました。『聖書には,イエスが伝道したと書いてある。使徒や弟子たちもみな宣べ伝えた。わたしもそうすべきなのは明らかだ』。

こうしてソティルは伝道に出かけます。ギリシャ語聖書を片手に,もう一方の手には杖を携え,勇気をもって家々を訪ねました。

この時期には,シグリミすなわち国家保安局が国の治安維持に当たっていました。共産主義を脅かしかねない少しの動きにも目を光らせていたシグリミが,ソティルの大胆な伝道活動に気づかないはずはありません。彼らはソティルを逮捕し,何時間も拘束し,殴打を加え,伝道をやめるように命じます。

釈放されたソティルはレオニザと連絡を取ります。レオニザはソティルを,スピロ・カラヤニという医師のところに連れて行きます。その何年か前に真理を学んでいたスピロは,ソティルを治療しただけでなく,真理をよりよく理解できるようにも助けました。

スピロはソティルにこう忠告します。「もし再び逮捕されたら,書類に署名する前に,単語の数と行数を数えなさい。文章のあとに空欄があれば,線を引いて埋めておきなさい。書かれていることをすべて注意深く読むように。署名する内容が,本当に自分の言ったことかどうかを確かめなさい」。

そのわずか二日後,ソティルは伝道中に再び警察に逮捕されました。警察署で,警察官たちは調書に署名するよう求めました。署名しようとしたソティルは,スピロの忠告を思い出しました。警察にせかされましたが,時間をかけてすべての言葉を読みました。

ソティルはこう言います。「申し訳ありませんが,これには署名できません。ここに書かれているようなことは言っていません。この書類に署名したら,うそをつくことになり,わたしはうそはつけません」。

すると警察はロープでむちを作り,数時間にわたってソティルを打ちました。それでも言いなりにならなかったので,2本のワイヤーを無理やり持たせ,ひどい痛みを伴う電気ショックを何度も与えました。

その時のことをソティルはこう述べます。「もうこれ以上痛みに耐えられないと思い,涙ながらに祈りました。すると突然,ドアが勢いよく開きました。そこには署長が立っていました。中の様子を見回し,すぐに顔をそむけ,『やめろ! 何をしているんだ』と言いました」。拷問は違法であることを全員が承知していたのです。警察は拷問はやめましたが,あくまでも署名を強要しました。それでもソティルは拒みました。

警察はとうとう,「おまえの勝ちだ」と言い,ソティル自身が述べた事柄を渋々書き留めます。その内容はりっぱな証言になりました。警察はソティルに調書を渡します。何時間にもおよぶ殴打や,電気ショックという仕打ちを受けたにもかかわらず,ソティルはすべての言葉を注意深く読みました。ページの途中で文が終わると,残りの部分は線を引いて埋めました。

警察官たちは驚き,「いったいどこでそんなことを覚えたんだ」と尋ねます。

ソティルはこう答えます。「自分が言わなかったことに署名してはいけないと,エホバが教えてくださいました」。

一人の警察官は,「そうか。じゃあ,これをおまえに与えたのはだれだ?」と言い,ソティルに一切れのパンとチーズを渡します。時刻はすでに午後9時を回っていて,一日じゅう何も食べていなかったソティルはひどくお腹をすかせていました。警察官は,「与えたのはエホバじゃなくて,おれたちだろ」と言います。

「エホバはさまざまな方法で与えてくださいます。あなたたちの心をエホバが和らげたんです」と,ソティルは答えます。

警察官たちはうんざりしてこう言います。「もう帰れ。だが,また伝道したらどうなるか,分かっているだろうな」。

「それなら,帰るわけにはいきません。伝道は続けますから」。

警察官は,「とにかく,ここで起きたことをだれかに話したら承知しないぞ」とくぎを刺します。

「人に聞かれたら,うそをつくわけにはいきません」とソティルは返します。

「とっとと出て行け」と,警察官は怒鳴ります。

ソティルのほかにも,こうした拷問を受けた人は大勢いました。ソティルはまだバプテスマを受けていなかったにもかかわらず,このように信仰が試みられたのです。

長年にわたって郵便物は検閲され,アルバニアからはわずかな情報しか届きませんでした。移動や集会への出席に危険が伴うようになるにつれ,国内各地の兄弟たちは互いに連絡が取れなくなってゆきます。中心的な役割を果たす組織がなかったため,業がどのように進展しているかをはっきり知るのは困難でした。とはいえ,真理を受け入れる人の数は増えてゆきます。1940年にアルバニアには50人の兄弟姉妹がいましたが,1949年には71人になったのです。

政治的緊張の中での神権組織の拡大

1950年代には,生活のあらゆる面で締めつけが厳しくなってゆきました。アルバニアとギリシャの間の政治的緊張は高まってゆき,英国や米国との外交関係は断たれました。ソ連との関係さえ,ぎくしゃくしてゆきます。アルバニアはますます孤立し,外の世界に門戸を閉ざすと共に,すべての通信に対する監視が徹底されました。

そうした中,国内の二人の兄弟がスイスの兄弟たちに手紙や葉書を送ることを試み,何度か成功します。スイスの兄弟たちはフランス語やイタリア語で返信し,その際に暗号を使いました。こうした葉書を通して,アルバニアの兄弟たちは1955年にニュルンベルクで大会が開かれたことを知りました。ヒトラー政権が倒れた後にドイツの兄弟たちが自由を得たという知らせは,アルバニアの兄弟たちにとって,信仰を守って堅く立つための励みとなったのです。

1957年,アルバニアに75人の伝道者がいたことが報告されています。記念式の出席者数ははっきりしていませんが,『1958 年鑑』(英語)は「かなりの数の人」が出席したと伝えており,「アルバニアの兄弟たちは今も宣べ伝えています」と報告しています。

『1959 年鑑』(英語)にはこうあります。「これらエホバの忠実な証人たちは,自分にできる事柄を引き続き行なっています。真理について,はばかることなく人々に語り,自分たちで文書を作ることさえ試みています。たまに届く,時にかなった糧に感謝していますが,共産主義の支配者たちは外界との通信をすべて閉ざしてしまったようです」。この報告は次のように結んでいます。「アルバニアの支配者たちは,その国の兄弟たちを新世社会の他の部分から切り断ったとしても,兄弟たちに注がれる神の聖霊を断ち切ることはできないのです」。

困難は続く

当時,すべての国民には軍の身分証明書の携帯が義務づけられていました。それを拒めば仕事を失うか投獄されることになります。そのため,ナショー・ドーリーとヤニ・コミノは,またもや投獄され,数か月服役しました。少数ながら,仕事を失うことを恐れて妥協した人もいました。しかし,中核をなす忠節な兄弟たちは1959年の記念式を執り行ない,多くの兄弟姉妹は引き続き恐れずに宣べ伝えました。

1959年に,法務省は解散させられ,弁護士の活動はすべて禁止されました。共産党がすべての法律を制定し,施行しました。選挙で投票しない人は敵とみなされ,人々の間に恐れと疑念が広まります。

アルバニアの兄弟たちはメッセージを送り,状況がいかに厳しいかを知らせると共に,忠節を保つ決意も伝えました。その間にもブルックリンの世界本部は,アルバニアの兄弟たちと連絡を取ることを常に試みていました。アルバニア南部で生まれ,米国に住んでいたジョン・マークスは,アルバニアのビザを取得するために手を尽くすよう依頼を受けます。

1年半後,ジョンはアルバニアのビザを取得しますが,妻のヘレンは取得できませんでした。1961年2月,ジョンはドゥラスに到着し,ティラナに向かいます。そこで,真理に関心を持っていた妹のメルポに会います。メルポはジョンが翌日に兄弟たちと連絡を取れるよう助けました。

ジョンは兄弟たちと長い時間話し合い,細工を施したスーツケースの中に隠し持っていた何冊かの文書を渡しました。兄弟たちは目を輝かせました。国外の兄弟による訪問は,24年ぶりだったのです。

ジョンの計算によれば,五つの町に60人の兄弟がおり,小さな村にほかにも数人の兄弟がいました。ティラナでは,兄弟たちは毎週日曜日にひそかに集会を開くよう努め,1938年から隠し持っていた出版物を何度も学んでいました。

アルバニアの兄弟たちは,かなり長期にわたって組織との連絡がほとんど取れないでいたため,組織上の物事や真理の理解について最新の情報を得る必要がありました。例えば,兄弟も姉妹も集会を司会しており,姉妹たちが祈りをささげることさえありました。ジョンは後にこう書いています。「兄弟たちは,取り決めの調整を姉妹たちは受け入れないのではないかと心配していました。それで,姉妹たちに直接説明してほしいと言われました。私はそれを引き受け,喜ばしいことに,姉妹たちはその調整を受け入れました」。

これら忠実な兄弟たちは貧しかったにもかかわらず,熱心な態度で王国の業を支えました。例えばジョンは,ギロカスタルから来た二人の年配の兄弟が,「とても少ない収入の中から一定の額を協会への寄付のために」貯めていたことを知りました。それぞれが金貨で100㌦以上を貯めていたのです。

ティラナの兄弟たちは,「平和と一致の中に伝道し教える」という小冊子を受け取って感謝しました。そこには,会衆の活動の進め方についての指示が収められ,禁令が課された場合にどうするかということも示されていたのです。さらに,3月にジョンは,ティラナのレオニザ・ポペの家で記念式を行ない,37人が出席しました。話が終わってすぐに,ジョンはギリシャに戻る船に乗り込みました。

本部の兄弟たちはアルバニアへの訪問に関するジョンの報告を検討した後,レオニザ・ポペとソティル・パパとルチ・ジェカが,ティラナ会衆とアルバニア全体の業を世話するよう割り当てました。スピロ・ブルホは巡回監督として任命されました。スピロの仕事は,会衆を訪問し,毎晩兄弟たちと会合を持ち,話を行ない,出版物に基づく討議をすることでした。組織はあらゆる努力を払って,アルバニアの兄弟たちが霊的に強くなり,最新の情報を得られるように助けました。

言うまでもなく,郵便物が厳しく検閲されたため,組織は指示を伝えるための通常の手紙を送ることはできませんでした。その代わりに,ジョンがアルバニアの兄弟たちに情報を少しずつ伝えました。暗号を使い,出版物のどのページを参照したらよいかを知らせたのです。程なくして,報告が寄せられるようになります。兄弟たちが指示を正確に理解したことは明らかでした。ティラナの3人の兄弟たちは国内委員会としての役割を果たし,スピロは会衆を定期的に訪問していました。

アルバニアの兄弟たちは,本部に野外奉仕報告を送るための斬新な方法を編み出す必要がありました。一つの方法は,外国の特定の兄弟たちにあてた葉書に記入する,というものです。先の細いペンを使って,切手の下に暗号で報告を記入しました。例えば,「伝道し教える」の小冊子の,「伝道者」という項目のページを記入し,その横にその月の報告を提出した人の数を記入します。国外の兄弟たちは長年,同様の方法を用いてアルバニアの兄弟たちと連絡を取りました。

順調な出だし ― 加えられた打撃

国内委員会は清い崇拝を推し進めるため懸命に働いていましたが,やがて問題が起こります。1963年,メルポ・マークスが兄のジョンにあてた手紙には,国内委員会を構成する3人のうち二人,すなわちレオニザ・ポペとルチ・ジェカは「家族のもとにいない」,そして集会は行なわれていない,と記されていました。後に,スピロ・ブルホが入院し,レオニザ・ポペとルチ・ジェカは病気だという知らせが届き,それと共に使徒 8章1,3節が参照されていました。それは,タルソスのサウロがクリスチャンを獄に引き渡しているという聖句です。何が起きていたのでしょうか。

レオニザ・ポペ,ルチ・ジェカ,ソティル・ツェチは,ある工場に勤務していました。そこでは労働者全員に共産主義の理念を植えつけるための講義が共産党員によって行なわれていました。ある日,進化論を扱った講義の席で,レオニザとルチは立ち上がり,「いいえ,人間はサルから進化したのではありません」と言いました。翌日,二人は家族のもとから引き離されて流刑に処され,遠方の町で労働を科されます。アルバニア人がインテルニム(抑留)と呼ぶ刑罰です。ルチはグラムシュの山地に送られます。レオニザは「首謀者」とされたため,険しくて寒さの厳しいブレルの山地に送られました。レオニザがティラナの自宅に戻ったのは7年後のことです。

1964年8月には,集会は事実上行なわれていませんでした。アルバニアからのわずかな情報によれば,兄弟たちはシグリミによる厳しい監視のもとに置かれていました。ある葉書の切手の下に,こう記されていました。「私たちのため主に祈ってほしい。家々で文書が押収。研究は禁止。3人はインテルニムに」。当初はポペ兄弟とジェカ兄弟が釈放されたと考えられていました。切手の下に書くという方法を知っていたのは,この二人だけだったからです。しかし後日,ルチの妻フロシナがそれを書いたことが分かりました。

指導の任に当たっていた兄弟たちは連れ去られていたのです。シグリミが絶えず目を光らせていたため,他の兄弟たちも連絡を取り合うことはできませんでした。それでも,抑留された兄弟たちは,会う人たちに優れた証言をしていました。グラムシュの住人はこう言っていました。「ウンジロラ[福音宣明者]がやって来た。軍には入らないが,橋を造り,発電機を直してくれる」。これら忠節な兄弟たちは立派な評判を得,それは後々まで記憶されました。

無神国家の誕生

政治面でアルバニアはソ連との国交を断絶し,中国との同盟を強化します。人々は共産主義の理念に傾倒し,アルバニア人の中には中国共産党の主席,毛沢東の服装をまねる人もいたほどです。1966年,エンベル・ホジャは軍隊の階級を廃止します。不信感が広まり,反対意見を唱えることは許されませんでした。

国営の新聞は宗教に反対する記事を掲載するようになり,宗教を「危険因子」と呼びました。そのような中,ドゥラスでは一群の学生がブルドーザーで教会を破壊しました。それを皮切りに方々の町で,宗教建造物が破壊されてゆきます。政府は宗教に対する反感をあおり,1967年,アルバニアは世界で初めて完全な無神国家となりました。他の共産国は宗教を統制下に置いたのに対し,アルバニアは宗教をいっさい容認しませんでした。

イスラム教徒,正教会,カトリックの聖職者の中には,政治活動に携わったとして投獄された人たちがいました。多くの聖職者は,圧力に屈して宗教活動をやめたので,そこまでの害は受けませんでした。歴史的な宗教建造物の中には,博物館に変えられたものもあります。宗教のシンボル,例えば十字架やイコン,モスクや尖塔などはいっさい認められませんでした。“神”という語は専ら侮蔑的な意味で用いられました。こうした情勢のため,兄弟たちは厳しい状況に置かれます。

1960年代には,幾人かの兄弟たちが亡くなりました。散在していた他の奉仕者たちは,可能な限り真理を擁護して語り続けました。しかし,幾らか関心を抱いていた人たちでさえ,恐れのあまり話を聞きませんでした。

真理に対する愛は薄れなかった

1968年,ゴレ・フロコはジョン・マークスとヘレン・マークスにあてて,自分の健康が衰えていることを手紙で知らせました。伝道は違法であり,集会は禁止されていましたが,当時80代のゴレは,市場や公園やカフェで出会う友人や他の人たちにいつも話をしていると伝えています。それからしばらくして,ゴレは忠実のうちに亡くなります。アルバニアの他の多くの兄弟たちと同様,エホバと真理に対するあふれるほどの愛を抱いており,何もそれをとどめることができなかったのです。

スピロ・ブルホも高齢になり,以前のように巡回奉仕を行なえなくなりました。1969年の初め,スピロは井戸の底で亡くなっているのを発見されました。シグリミは,スピロが自殺したと伝えました。しかし,それは事実だったのでしょうか。

スピロが残したとされる遺書には,ひどく憂うつだと書かれていましたが,その筆跡は本人のものではありませんでした。また,亡くなる前に会った人によると,スピロは明るい様子だったということです。さらに,首の周りには不自然な黒いあざがあり,だれかに危害を加えられたことは明らかでした。井戸にロープは見つからなかったので,自分で首を吊ったはずはなく,本人の肺に水は溜まっていませんでした。

何年も後に明らかになったところによると,スピロは投票しなければ,本人も家族も刑務所に入れられ,食糧の配給が受けられなくなる,と告げられていました。ティラナの兄弟たちは,スピロが選挙の前日に殺され,井戸に投げ込まれたことを突き止めます。エホバの証人が自殺を唆しているという偽りの非難が広められたのは,その時が最後ではありません。

鎖国政策のもとでの10年

1971年,世界じゅうのエホバの証人は,ニューヨーク市ブルックリンの統治体が増員されたことを聞いて喜びました。また,長老と奉仕の僕を任命するという取り決めが発表され,期待が高まりました。しかし,こうした組織上の調整についてアルバニアの兄弟たちが聞いたのは,幾年も後のことでした。米国からの旅行者がティラナのロピ・ブラニ姉妹と短い接触を持った時,初めてそのことを知らされたのです。その旅行者たちは,集会は開かれておらず,ティラナで奉仕している証人は3人しかいないと聞かされました。もっとも実際には,それより多くいたのです。

1966年からギリシャに住んでいたコスタ・ダベは,母国アルバニアに戻るためのビザを取得しようと努力していました。76歳のコスタは,子どもたちに真理を知らせたいと願っていたのです。ビザが取れなかったので,アルバニアの国境で自分が持っていた米国のパスポートを渡して入国しました。二度と出国できないかもしれないと覚悟してのことでした。

1975年,米国在住のアルバニア人の夫婦が旅行者としてアルバニアを訪れました。二人が書き送ったところによると,監視は「かつてなく厳しく」,エホバの証人は厳重に見張られていました。外国人はどこへ行くにも公認のガイドが付きっきりで,その多くはシグリミの捜査員でした。外国人が去ると,接触のあった人はシグリミから注意人物とみなされます。旅行者は疑いの目で見られ,歓迎されません。人々は外国人を恐れていました。

1976年11月にコスタ・ダベから寄せられた手紙によると,ブロラで5人が記念式に出席したとのことです。ペルメットとフィエルの町では,それぞれ一人の人が記念式を単独で行ないました。ティラナでは,ある場所で二人が,別の場所で4人が集まりました。ですから,コスタの知る範囲では,1976年には少なくとも13人が記念式を祝いました。

何年も後に,クラ・ジザリ姉妹はどのように記念式を行なったかについてこう述べています。「朝,パンを作ってぶどう酒を取り出しました。晩になるとカーテンを閉めて,トイレの後ろに隠してある聖書を持って来ます。マタイ 26章を開き,イエスが記念式を制定された場面のところを読みました。それから祈り,パンを持ち上げ,またテーブルに置きました。マタイの書の続きを読み,もう一度祈り,ぶどう酒を持ち上げ,置きました。その後,歌を歌いました。身体的には孤立していても,世界じゅうの兄弟たちと結ばれていることを実感しました」。

クラには身寄りがほとんどありませんでした。ずっと前,まだ子どものころにスピロ・カラヤニの養女になり,ティラナでスピロの娘ペネロピと一緒に育てられました。スピロは1950年ごろに亡くなりました。

アルバニアは孤立を深める

1978年,アルバニアは中国との国交を断絶し,新たな孤立の時代が始まります。新憲法が制定され,アルバニアは完全に自給自足の国となることを目指します。統制は生活のあらゆる面に及び,映画や演劇,バレエ,文学,芸術にまで厳しい制限が課されました。クラシック音楽も扇動的とみなされるものは禁止されました。タイプライターを所持できたのは,許可を与えられた作家だけでした。外国のテレビ番組を視聴しているところを見つかるなら,シグリミの取り調べを受けることになります。

こうした厳しい抑圧のもとで,オーストリア,ドイツ,スウェーデン,スイス,米国の兄弟たちが旅行者として入国し,地元の兄弟たちと接触しようと努めました。会うことができた少数の人たちは,訪問者の努力にとても感謝しました。とはいえ,兄弟たちは概して互いに接触がなかったので,外国から仲間が訪問することを知る人はごくわずかでした。

1985年,長年の独裁者エンベル・ホジャが亡くなり,アルバニア国民はその死を悼みます。政治的,社会的な変化が起ころうとしていました。その翌年,夫のジョン・マークスを亡くし60代半ばになっていたヘレンは,アルバニアを訪れることにしました。ヘレンはビザを取得した時に当局の職員から,「滞在中にあなたの身に何が起きても,国外からの助けは一切得られないと考えてください」と言われました。

ヘレンの2週間の旅は,アルバニアの一握りの伝道者にとって画期的な出来事でした。ヘレンはついに,ジョンの妹で,25年前にジョンから真理について聞いていたメルポに会えました。メルポはまだバプテスマを受けていなかったものの,組織にとって長年重要な連絡経路となっていました。

ヘレンはまた,レオニザ・ポペと,1960年にバプテスマを受けたバシル・ジョカとも会えました。国内各地でまだ7人の証人が生きていることも知らされました。ヘレンはアルバニアのこの兄弟たちに,組織についての最新の情報を伝え,他の共産国で業が進展している様子を話しました。また,出会う人たちに用心しながら非公式の証言もしました。アルバニアで経済の問題が山積している状況も分かりました。

ヘレンはこう言います。「配給で少しの牛乳を受け取るために,午前3時から列に並ぶことも普通でした。多くの店には品物がありませんでした」。

1987年,オーストリア支部とギリシャ支部は協力して,ほかにも旅行者をアルバニアに送り込む努力を払いました。1988年,オーストリアの夫婦ペーター・マロバビッチとその妻は,旅行者として訪問し,メルポにブラウスをプレゼントしました。メルポは喜んで受け取りましたが,ブラウスの中に「神が偽ることのできない事柄」の本が隠されていることを知って,胸を躍らせました。

同じ年に,別の夫婦がメルポと接触し,文書をさらに渡しましたが,細心の注意が必要でした。シグリミが目を光らせていたからです。例の公認ガイドが離れたわずかな時間に,短い接触を持ったのです。二人は,レオニザが病気であることや,アルバニアの他の兄弟たちも年を取り,自由に動けないということを知ります。

状況が変化し始める

1989年,政治情勢は変化していきました。亡命を企てた人に対する死刑は廃止されました。ヘレンはその夏,アルバニアを再び訪れます。姉妹は多くの時間を費やして,託された情報や指示を伝えます。バシル・ジョカは,可能な限りの努力を払って兄弟たちを短く訪問しました。

シグリミはヘレンが入国したことを聞きつけてやって来ます。面倒なことを言う代わりに,アメリカ土産をせがみました。人々は短期間に変化したのです。

1989年11月9日にベルリンの壁は崩れ,その影響は速やかにアルバニアにも広がってゆきます。1990年3月,反共産主義の暴動がカバヤで起きます。国を脱出しようとする人々がティラナの外国大使館になだれ込みます。学生たちは改革を要求してハンストに入ります。

1991年2月,群衆はティラナのスカンデルベグ広場に幾年も立っていた高さ10㍍ものエンベル・ホジャの像を倒します。人々は独裁者にとらわれた状態からついに解放されたのです。3月に約3万人のアルバニア人がドゥラスとブロラで船を乗っ取り,難民としてイタリアに渡ります。同じ月には初めて,複数政党制のもとで選挙が実施されます。共産党が勝利したものの,政府の統制力が弱まったことは明らかでした。

ヘレン・マークスがアルバニアを最後に訪れたのは1991年8月で,このたびは状況が変わっていました。その1か月前に政府は宗教局を開設し,宗教活動は24年ぶりに合法化されました。兄弟たちは時を逸することなく,伝道活動を増し加え,会衆の集会を組織しました。

バシル・ジョカはギリシャに行って支部事務所にしばらく滞在し,伝道の業を組織する方法を教わります。バシルのギリシャ語の能力は限られていたため,アルバニア語を少し話せる兄弟たちが最善を尽くして教えました。ティラナに戻ったバシルは,学んだ事柄を懸命に当てはめ,週ごとの二つの集会をきちんと組織するよう努めました。そのうちの一つは,刊行されて間もないアルバニア語の「ものみの塔」誌を用いた研究です。

ある兄弟は振り返ってこう語ります。「集会は歌と祈りで始まりました。初めのころは年配の古い兄弟たちから教わった歌を歌いました。研究を楽しみ,歌で閉じます。1曲歌ったあと,2曲,3曲,さらにもっと歌うこともあったのです。それから祈りで閉じました」。

1991年10月と1992年2月に,ソマス・ザフィラスとシラス・ソメディスがギリシャからアルバニアに文書を持ってきました。二人はティラナで兄弟たちに,またベラトではバプテスマを受けていない伝道者たちに会い,関心を持っていて援助を必要とする大勢の人のリストを作りました。人々は何十年も霊的なものを全く得られなかったため,霊的に飢えていたのです。例えばベラトでは,市内にバプテスマを受けた兄弟が一人もいなかったにもかかわらず,関心を持つ人たちが集会を開いていました。人々の霊的な必要を満たすために何ができるでしょうか。

予想外の割り当て

マイケル・ディグレゴリオと妻のリンダは,宣教者としてドミニカ共和国で奉仕していました。マイケルの祖父母はアルバニア人で,1920年代にボストンでバプテスマを受けていました。そのため,マイケルはアルバニア語をある程度話せました。ディグレゴリオ夫妻は,1992年にアルバニアの親族を訪ねることにした時,三日間の滞在中にその国の兄弟たちと会ってもよいかどうか統治体に尋ねました。すると驚いたことに統治体から,アルバニアに3か月とどまって伝道の業を組織するのを助けてほしいと依頼されました。

ローマの支部で,ディグレゴリオ兄弟姉妹はギリシャとイタリアの兄弟たちからアルバニアの状況について短い説明を受け,バシル・ジョカを含むアルバニアの兄弟たちの写真を見せられました。二人は1992年4月に空路ティラナに入ります。外国に住むアルバニア人の入国が再び認められるようになっていたのです。それでも社会情勢はかなり不安定で,人々は将来を案じていました。

二人が空港から外に出ると,迎えに来ていたマイケルの親族数人が駆け寄りました。その時マイケルは,バシル・ジョカに気づきます。バシルも,二人がその日に到着することを知らされていたのです。

マイケルはリンダに,「君は先に家族と行きなさい。僕はすぐ戻るから」と言います。

親族はリンダを抱き締め,二人の荷物をつかんで車へと急ぎました。マイケルはすぐにバシルに近づきます。

そして,「日曜日にティラナに戻り,兄弟のところに伺います」とだけ伝えます。

アルバニアの親族のコチョが走ってきてマイケルに,「何をしているんだ。ここでは知らない人と話したりしないぞ」と言います。マイケルとリンダがエホバの証人であることを知らなかったのです。

二人は田舎の曲がりくねった山道をコルチャに向かって進みました。道中の景色はカリブ海とは全く異なっています。マイケルはその時のことをこう言います。「すべてのものが古く,茶色か灰色で,ほこりだらけでした。至るところに鉄条網が張り巡らされ,人々は元気がありませんでした。自動車を見ることはまれで,窓は割れ,農家の人も手作業で土地を耕していました。その様子は祖父母の時代とほとんど変わらず,タイムスリップしたかのようでした」。

「神様が君たちの旅を導いている」

コチョは,長年にわたって隠していたあるものを,マイケルに見せたいと思いました。それは長い手紙で,マイケルの祖母が死んだ時,アルバニアの家族にあててボストンの家族が送ったものです。手紙の初めの10ページは,ほとんどが家族に関係した事柄でしたが,終わりのほうで復活について説明してありました。

コチョはマイケルにこう言います。「警察は手紙を検閲し,最初の数ページに目を通したのだが,読むのが面倒になったらしく,こう言った。『持っていきなさい。家族のことばかりだ』。わたしは受け取った手紙の終わりのほうを読んで,神様のことが書かれていたので,とてもうれしかったんだ」。

ここでマイケルは,自分たちがエホバの証人であることを明かし,コチョに詳しく証言しました。

聖書時代の人々のように,アルバニア人は何としても客人を世話し,守らなければならないと感じます。コチョはマイケルとリンダをティラナまで送ると言って譲りませんでした。

マイケルは思い出してこう語ります。「ティラナでバシルの家が見つかりませんでした。通りの名称が記されていないからです。コチョは,郵便局で尋ねてみようと言いました」。

リンダはこう続けます。「郵便局から出てきたコチョはぼう然とした様子でしたが,ともかく迷わずバシルのアパートに行けました」。

あとからコチョはこう説明しました。「郵便局に入ってバシルについて尋ねたところ,こう言われたんだ。『あの方はまさに聖人です。どんな人生を送ってきた人か知っていますか。あれほど立派な人はティラナのどこを探してもいませんよ』。それを聞いて,神様が君たちの旅を導いていることが分かったよ。わたしが邪魔してはいけない」。

ティラナで業を組織する

バシルはディグレゴリオ兄弟姉妹に会えて喜び,3人は何時間も話し合いました。晩に帰るころになって,ヤニ・コミノがその日の朝に亡くなったと,バシルは言いました。コミノ兄弟は,ナショー・ドーリーと共に投獄されたことのある人です。バシルが,愛する兄弟で親しい友でもあるコミノ兄弟の葬式に行かずに,家にいたのはなぜでしょうか。「統治体から遣わされる人が来ると分かっていたからです」と本人は答えました。

マイケルとリンダはティラナに滞在する必要がありましたが,当時の政権は外国人が市内に住むことを認めていませんでした。二人はどうしたらよいのでしょうか。

マイケルはこう言います。「エホバのみ手に物事をゆだねました。やがて小さなアパートが見つかり,そこに引っ越しました」。

リンダはこう語っています。「家主がわたしたちの部屋の鍵を持っていて,自由に出入りできました。さらに,わたしたちも自分たちの部屋に入るために他人の部屋の中を通らなければなりませんでした。しかし,少なくともわたしたちの部屋は通りに面しておらず,人々の目に留まらなかったので,好都合でした」。

ディグレゴリオ兄弟姉妹は長い時間をかけて,ティラナに住む年配の兄弟たちから,試練にどのように耐えてきたかを聞きました。とはいえ,問題となっていた点の一つは,古い兄弟たちの中に,互いをあまり信用していない人たちがいたことです。

マイケルはこう語ります。「個々の兄弟たちは忠節を保っていたのですが,他の人たちは本当に忠実なのだろうかと考えていました。兄弟の中には,互いに距離を置いていた人たちもいましたが,わたしたちのことは信頼してくれました。この件について穏やかに話し合った後,エホバのみ名を知らせることが最も重要であるという点に全員が同意しました。だれもがエホバを愛する点で一致しており,将来の見込みに胸を躍らせました」。

会衆がきちんと機能していないことも分かりました。例えば,「日ごとに聖書を調べる」の小冊子を初めて目にしたクラ・ジザリとスタブリ・ツェチは,それが何であるか分からず,ページをぱらぱらめくりました。

するとスタブリは突然,「ああ,『マナ』ですね!」と声を上げます。自分が真理を学んだ当時に用いられていた,「信仰の家の者のための日々の天のマナ」という本だと思ったのです。

クラはこう尋ねます。「ところで,会長のノア兄弟はどうしていますか。友人のフレッド・フランズはお元気ですか」。これは,兄弟たちがどれほど長いあいだ孤立状態にあったかを示すものです。

画期的な記念式

兄弟たちはふだんバシル・ジョカの家で集会を開いていました。しかし,縦横3㍍と4㍍のその部屋は,記念式を開くには狭すぎました。そのため,以前は共産党の新聞社の本部だった部屋を借りて行ない,105人が出席しました。ティラナで記念式が個人の家以外のところで行なわれたのは,それが初めてです。1992年,アルバニア国内の伝道者は30人だけでしたが,喜ばしいことに記念式の出席者数は325人だったのです。

ティラナでは関心を持つ人たちが着実に増え,バシルのアパートで開かれる集会に40人近くが出席していました。新しい人の中には,伝道者になることや,バプテスマを受けることを希望する人たちがいました。兄弟たちは,バプテスマ希望者との討議に多くの時間を費やしました。アルバニア語の「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」の本は発行されていなかったので,バプテスマ希望者のためにすべての質問を口頭で訳して行なわなければなりませんでした。さらに,新しい人たちが本当に真理を理解しているかどうかを確かめるため,短期間の集中的な研究をすることもありました。その人たちは聖書研究を司会してもらったことはなかったのに,聖書の知識を驚くほど持っていたのです。

ついに法的に認可される

その後の数週間,王国伝道の業が法的に登録されることを目指し,兄弟たちは弁護士や役人とのやり取りに多くの時間を費やします。ティラナに住む,兄弟や関心を持つ人たちから成るグループは,すでに申請書を提出していましたが,新政権が発足してまだ間もなかったので粘り強さが求められました。

一人の兄弟は思い起こしてこう言います。「何をするにも徒歩で行ないました。市内を歩いていると,人権大臣,内務大臣,法務大臣,警察長官,憲法裁判所の裁判官その他の要人と出会うことがよくありました。みな親切で,自由に物事が行なえるようになったことを喜んでいました。その人たちの大半は,福音宣明者<ウンジロラ>の活動についてはすでに知っていました。アルバニアにエホバの証人が存在し,活発に活動していることは明らかでした」。

役人たちはエホバの証人に法的認可を与えるという政府の意向について伝えてはいたものの,数週間が過ぎても具体的な進展はありませんでした。しかし,米国在住のアルバニア系の兄弟であるアンジェロ・フェリオがティラナの親族を訪れた際に突破口が開かれます。滞在中に,兄弟たちはアンジェロを伴い,認可の権限を持つ大臣の法律顧問を訪ねました。法律顧問の女性は,アンジェロの親族が自分と同じ地域の出身であることを知って喜びます。

その女性は,「あなたの親族はどの村の出ですか」と尋ねます。偶然にも,彼女と同じ村だったのです。

「親族の名前は何というのですか」と,その女性は聞きます。

驚いたことに,この法律顧問はアンジェロの親族に当たる人でした。長い年月の間に,親族同士の連絡が途絶えてしまったのです。

その人はこう言います。「皆さんの定款はすばらしいと思い,協力するつもりでしたが,親族と分かったのですから助けないわけにはいきません」。

数日後,この法律顧問は兄弟たちに,アルバニアのエホバの証人に法的認可を与えるとする省令第100号の書面を手渡します。真の神エホバの崇拝は1939年以来禁止されていましたが,ついに法的に認められ,自由に行なえるようになったのです。ディグレゴリオ夫妻は,「その日,皆がどのように感じたかを言葉で表わすことなどできません」と述べています。

それから数週間後,アルバニアの業を監督していたギリシャ支部は,ロバート・カーンをティラナに遣わします。ロバートは地元の兄弟たちに,わたしたちの業が登録されたことと,ティラナ会衆が設立されたことを発表します。さらに,会衆の区域は「アルバニア全土」であると伝えます。組織的な戸別伝道の業を本格的に推し進める必要がありました。ティラナで,三つの寝室のある家を借り,宣教者ホーム兼事務所として用いることになりました。その家にはほかにも大きな部屋があって,最初の王国会館として使われることになりました。

孤立していた羊が見つかる

アルバニアにおける宣べ伝える業の進展について話し合っていた時に,兄弟たちから次の質問が出されました。「ブロラにはエホバの証人がいますか」。年配の女性が一人いるが,ぼけてしまったらしい,という情報があるだけでした。その後,一人の女性が事務所を訪れて,自分も家族も福音宣明者<ウンジロラ>であること,さらにアレティという人からブロラで真理を聞いたことを話しました。それでティラナの兄弟たちはブロラに出かけ,アレティを探すことにしました。

アレティ・ピナは小柄な年配の女性で,兄弟たちを家に招じ入れましたが,どことなくよそよそしい感じでした。自分たちが彼女の霊的な兄弟であるということを説明しても,全く反応がありませんでした。

数分後,アレティは唐突に,「ちょっとお尋ねしてもいいですか」と切り出し,矢継ぎ早にこう質問しました。「あなたたちは三位一体を信じますか。神のお名前は何ですか。火の燃える地獄を信じますか。人は死ぬとどうなりますか。地球はどうなりますか。何人の人が天に行きますか」。

兄弟たちは質問に一つずつ答えました。

するとアレティは,「あなたたちは伝道しますか」と尋ねます。

「ええ,伝道しますよ」と一人の兄弟が答えます。

「では,どのように伝道するのですか」とアレティはさらに尋ねます。

兄弟は,「家から家に伝道します」と言いました。

アレティの目から涙があふれ出し,立ち上がって兄弟を抱き締めます。

そして,はっきりこう言います。「これで兄弟であることが分かりました。家から家に伝道するのはエホバの民だけですから」。

ブロラにある幾つかのプロテスタントのグループは,アレティが信心深い人であることを知り,自分たちに加わるよう勧めていたのです。アレティは兄弟たちにこう述べます。「わたしは大いなるバビロンとは一切かかわりを持ちたくありませんでした。それで,皆さんが本当にわたしの霊的家族なのかどうかを確かめたかったのです」。

アレティは1928年,18歳の時にバプテスマを受けました。山道を上り下りし,聖書を片手に宣べ伝えました。何十年も前に兄弟たちとの連絡が途絶えましたが,一人で忠実に伝道を続けました。

アレティは涙ながらにこう語りました。「エホバはすばらしい方です。わたしのことを忘れておられませんでした」。

人々は,アルバニアの厳格な全体主義支配のもとで神への信仰を守り続けたアレティを,頭のおかしい人と見ていました。しかしアレティはぼけているどころか,ずっと明晰な思考力を保っていたのです。

なすべき業は多い

わたしたちの業が法的に登録されたことに伴い,アルバニアにおける王国の関心事を推し進めるためになすべき事柄はたくさんありました。兄弟たちは最新の情報を知り,また霊的に強められなければなりませんでした。兄弟たちと野外の人々のために,アルバニア語の出版物も必要とされていました。もっと多くの伝道者も,緊急に必要でした。だれが助けになれるでしょうか。

1992年,イタリアとギリシャから特別開拓者たちがやって来て,アルバニア語の言語コースに出席しました。同じ時期に,少人数の翻訳チームが文書の翻訳を始めます。時には最長で21日間も停電することがありましたが,兄弟たちはユーモアのセンスを持ち,ともかく仕事に専念しました。

他の雑用もいろいろありました。寒い時には宣教者ホームに暖房が必要でしたが,国内で薪は手に入りませんでした。兄弟たちはどのように暖を取ったのでしょうか。ギリシャの兄弟たちが,大きめに切られた木材と電動のこぎりを送って助けてくれたのです。しかし,まだ問題がありました。薪ストーブの開口部は小さく,のこぎりを使おうにも停電していたのです。幸い,ある兄弟の友人が斧を持っており,その人はティラナの町の反対側に住んでいました。バスがなかったので,斧を宣教者ホームに持ってくるのに2時間かかりました。しかも,夕方までにそれを返さなければならなかったのです。一人の宣教者はこう言います。「斧が手元にある間に全員交替で薪を割らなければなりませんでした。おかげで体は温まりました」。

薪を割ったり言語コースを開いたりしていたそのころ,アルバニア語の翻訳チームは,ニック・アラディスと妻のエイミーの訪問を受けます。翻訳サービス部門で働いている二人は,その後も何度かアルバニアを訪れます。その部門は現在,ニューヨーク州パタソンにあります。親切で平衡の取れた教え方をする二人から,翻訳を始めて間もない人たちは大きな助けを得ました。翻訳者たちは手順を早く学び,良い仕事をしました。さらに,イタリア支部が文書を印刷し,アルバニアに発送します。

それらの仕事は苦労が伴ったとはいえ,野外宣教で伝道者たちがすばらしい反応を得ていることを思えば,やりがいのあるものでした。新しい伝道者たちは熱意に燃えていました。例えば,伝道を始めて間もないロラという女性は,宣教奉仕に毎月150時間,200時間,あるいはそれ以上を費やすこともありました。無理をせず平衡を取るようにとの勧めを受けた時,ロラはこう答えました。「今まで人生を無駄にしてきました。これ以上に価値ある時間の使い方があるでしょうか」。

着実な前進

1993年3月は,アルバニアにとって里程標となる月でした。特別開拓者たちがベラト,ドゥラス,ギロカスタル,シュコダル,ティラナ,ブロラに新たに遣わされたのです。さらに,「ものみの塔」誌の3月1日号は,アルバニア語のチームが初めて翻訳した号です。また初めての神権宣教学校が開かれ,週の五つの集会すべてが行なわれるようになりました。アルバニア語で最初の「わたしたちの王国宣教」が出されます。そして初めての特別一日大会がティラナのスカンデルベグ広場にあるバレエ・オペラ劇場で開催されます。

この歴史的な特別一日大会には,ギリシャとイタリアから来た代表者たちも出席しました。ナショー・ドーリーが開会の祈りをささげ,得ている祝福すべてに対する感謝をエホバに言い表わしました。出席者は585人で,41人がバプテスマを受けたのです。その中にはアルバニアでエホバに忠実に仕えた兄弟たちの子どもや孫たちもいました。

1993年,アルバニアで初めて地域大会が開催されることになり,兄弟たちは胸を躍らせました。600人以上が出席し,代表者たちがイタリア,オーストリア,ギリシャ,スイス,フランスからやって来ました。非常に長く孤立状態にあったアルバニアの兄弟たちは,多くの国から訪れた大勢の兄弟たちと自由に交わることができ,感激しました。

統治体は活動をよりよく組織するため,ナショー・ドーリー,ビト・マストロロサ,マイケル・ディグレゴリオから成る国内委員会を任命し,イタリア支部の監督下で奉仕するように取り決めました。まず行なうべき事柄の一つは,事務所と増員された翻訳チームの宿舎となる建物を見つけることでした。

アルバニア語を学び始めた特別開拓者の第2陣の中に,イタリア出身のステファノ・アナトレリがいました。5週間にわたる言語訓練の後に事務所に呼ばれ,「兄弟には巡回監督として特別開拓者たちや群れを訪問していただこうと思います」と告げられました。

ステファノの最初の反応は,「でもアルバニア語をまだきちんと話すことさえできません」というものでした。それでも,この割り当てをすばらしい特権とみなしました。幾つかの話の準備を手伝ってもらった後,アルバニア各地をくまなく巡る旅に出ます。禁令期間中にスピロ・ブルホが巡回監督として兄弟たちを訪問してから約30年が経過していました。1995年,ステファノは国内委員会の成員として任命されます。

1994年には,イタリアからの開拓者の第3陣がアルバニアに到着します。アルバニアの新しい伝道者たちは,これら開拓者の熱心さに奮い立たされます。1994奉仕年度の終わりには,354人の伝道者が宣べ伝える業に携わっていました。

しかし,多くの伝道者は感情面で難しさを抱えていました。極めて圧制的な体制から完全に自由な社会への移行に付いていくのは容易ではありませんでした。全体主義体制のもとで生き延びるには,自分の気持ちを他の人,とりわけ外国人には決して明かさないよう用心しなければならなかったからです。外国から来た兄弟姉妹はこの状況を理解し,辛抱強い努力を払って新しい人たちの信頼を得るようにしました。

その同じ年,年長の兄弟姉妹も新しい伝道者たちも,統治体の成員として初めてアルバニアを訪れたセオドア・ジャラズに会って,とても喜びました。兄弟はティラナで話を行ない,600人余りが集まりました。

そのころ,ティラナで事務所のための建物が購入されました。外国から来た勤勉に働く兄弟たちのチームは,古い邸宅を半年足らずで改装し,新しい事務所と24人が住める宿舎にしました。献堂式は1996年5月12日,統治体のミルトン・ヘンシェルがアルバニアを訪問した際に行なわれました。

独りで宣べ伝えた人たち

コルチャに住むアルベンという若い男性は,姉から送られた聖書文書を読み,真理の響きを感じました。そしてアルバニアの事務所に手紙を書き,しばらくは兄弟たちとの手紙のやり取りで真理を学びました。さらに霊的な援助を与えるために,二人の兄弟が旅をして,この男性のもとに行きました。兄弟たちはアルベンと話し合ううちに,彼が伝道者の資格にかなっていると判断しました。それで二人の兄弟はアルベンをコルチャの中心部に連れて行き,通行人に伝道する様子を見せました。

アルベンはこう言います。「すると二人から雑誌を渡され,『じゃあ,やってみてください』と言われました。一人で行なうようにとのことだったので,そうしました」。

特別開拓者たちが移動してきてアルベンを助けるようになったのは,その数か月後のことでした。その間にも人々はアルベンの証言によく耳を傾けました。特別開拓者たちが到着してそれほどしないうちに群れが設立されたのです。

同じ1994年の終わりごろ,ブロラの開拓者たちから事務所に電話があり,アレティ・ピナは具合が悪く,責任ある兄弟たちの一人に会いたがっている,と伝えてきました。兄弟が訪ねると,アレティは兄弟と二人だけで話がしたいと言い,他の人たちに席を外してもらいました。

アレティは,「わたしはもう長くありません」と,苦しそうに息をつき,こう続けます。「ずっと考えていたことがあり,ぜひ尋ねたいと思いました。わたしは細かい点まで理解できないかもしれませんが,『啓示』の書の預言は成就しているのでしょうか」。

兄弟は,「アレティ,そのとおりですよ。多くの部分は成就しています」と答え,まだ成就していない幾つかの点を大まかに説明しました。アレティは,語られる一言一言を注意深く聞いていました。

そしてこう言います。「これで思い残すことはありません。約束の時がどれほど近いか,どうしても知りたかったのです」。

アレティは多年にわたり熱心に宣べ伝えました。山の中でずっと独りで伝道し,病の床にあっても証言を続けました。この会話の少し後,姉妹は忠実のうちに地上での歩みを終えます。

最後まで強い信仰を保った人

80代になったナショー・ドーリーは,かなり具合が悪く,体も弱っていました。それでも,ナショーの励ましを特に必要とする人たちがいました。兵役のために召集された若い兄弟たちです。ベラトの正教会の僧職者が,エホバの証人の急速な増加をねたんで当局に圧力をかけ,若い兄弟たちを起訴するように仕向けたのです。

ベラトに住む6人の若者たちは軍への入隊を拒んだため,数か月の懲役刑を宣告される可能性がありました。ナショーは兄弟たちが励ましを必要としていることを知って,ベッドの上で座り,メッセージをビデオに収めました。

ナショーは若い兄弟たちをこう激励します。「恐れてはなりません。わたしも同じ経験をしました。エホバは皆さんと共にいてくださいます。投獄されるとしても心配は要りません。結果としてエホバのみ名の誉れとなるのです」。

その後,ナショーは健康状態が悪化してゆき,兄弟たちを枕元に呼んでこう言います。「わたしは許しを求める祈りをささげました。先週,痛みがあまりにひどくて,死なせてくださいと祈ってしまいました。でも思い直してこう続けました。『エホバ,あなたは命の創始者です。命は全くあなたに依存しています。あなたのご意志に反することを祈り求めてしまいました。どうかお許しください』」。

ナショーはアルバニアの伝道者が942人になったと聞いて,「アルバニアの奉仕者も,ついに大群衆になったのですね」と言いました。その数日後,兄弟は亡くなり,地上での歩みを終えます。

トラジラ ― 無政府状態

1997年,国内には搾取,賄賂,汚職が横行していました。多くのアルバニア人は,手っ取り早く儲けようとして持ち物を売り払い,全財産をネズミ講につぎ込みました。しかし投資は破綻し,市民は怒りをあらわにして抗議デモを行ないました。

ちょうどそのころ,特別一日大会が開かれていました。そこへ,政府の高官のもとで働いていた姉妹から兄弟たちに知らせが入ります。首相が間もなく辞任し,それによって前例のない暴動が起きそうだと伝えてきたのです。出席者たちが急いで帰宅できるよう,大会のプログラムは途中で切り上げられました。プログラムが終わって2時間後に非常事態宣言が出され,外出禁止令が敷かれました。

何が起きているのか,正確なことはだれにも分からず,デマが広まっていました。外国の武力介入でしょうか,それとも内乱が起きたのでしょうか。ネズミ講が破綻し,ほとんどの人が投資したお金をすべて失ったのです。ブロラで暴動が起こります。人々は国の武器庫を襲撃し,武器弾薬すべてが市民の手に渡りました。起きている事柄がニュースで報道されると,暴動が他の都市にも拡大してゆきました。国は騒乱状態に陥り,警察は統制力を失います。アルバニアは武装市民の暴動によって無政府状態になったのです。

外国から来ていた全時間奉仕者125人の大半は,身の安全を守るためティラナに向かいます。外国人の開拓者たちが国外に退去するのは賢明なことでした。多くのアルバニア人は,起きている事柄を外国人のせいにしていたからです。空港は閉鎖されていたので,イタリアから来ていた開拓者の幾人かはドゥラスに連れて行ってもらいます。ドゥラスの港は武装した住民が掌握していました。開拓者たちは12時間待たされた末,母国に向かう船に乗ることができました。

国内委員会は毎日,国内各地の兄弟たちと電話で連絡を取りました。午前のまだ早い時間は,通りは不気味なほど静かでした。しかし午後になると人々は発砲を始め,それが一晩中,明け方まで続きました。高射砲を持っている人さえいたのです。この争いはトラジラ,すなわち騒乱として知られるようになりました。

「エホバのみ名の誉れとなる」

中立ゆえに投獄されたベラト出身の6人の兄弟の一人アルベン・メルコは,こう語っています。「わたしが入っていた監房の壁に小さな穴が開いていて,隣の監房の人から名前を聞かれました」。アルベンは数週間にわたってその人に証言します。ある日,隣から声がしなくなりました。

釈放後アルベンは,一人の若い男性の訪問を受けます。見たことのない人ですが,声には聞き覚えがありました。刑務所の隣の監房にいた人だったのです。

その人は「これを返しに来ました」と言い,アルベンにアンプを手渡しました。

そしてこう言います。「このアンプは騒乱<トラジラ>の最中に皆さんの王国会館から盗んだものです。でも刑務所の中であなたの話を聞いて心を打たれました。神様の前で良心のとがめを感じたくないので,これを返そうと思ったのです」。

アルベンは,ナショー・ドーリーの言葉を思い出しました。忠誠を保つ若い兄弟たちに残した次の言葉です。「結果としてエホバのみ名の誉れとなるのです」。

エホバの羊を顧みる

外国から来ていた長老たちが国を離れたため,ほとんどの会衆や大きな群れは,19歳や20歳の奉仕の僕の世話にゆだねられました。ある日,そのような3人の若い兄弟たちが,身の危険を顧みず,ブロラからティラナにやって来ました。国内委員会は,現地で食糧が不足していることを心配し,必要な物資はないか尋ねました。

若い兄弟たちは,「野外奉仕報告の用紙がなくなりました」と答えました。何十年も前の年配の忠実な兄弟たちのように,物質面での必要よりも霊的な必要を気に掛けていたのです。若い兄弟たちはさらに,多くの人が恐れや不安のために良いたよりにこたえ応じている,とも述べました。

記念式が終わって間もなく,事務所に次のような電話が入りました。「わたしたちはクカスに住む皆さんの姉妹です。開拓者たちがいなくなってから自分たちだけで集会を開いています」。

騒乱のために,ティラナの兄弟たちとクカスの伝道者たちとの連絡が途絶えていました。それにもかかわらず,7人のバプテスマを受けていない伝道者のグループは,2か所で記念式を執り行ないました。その人たちは,式の進め方が正しくなかったかもしれないと心配していましたが,二つの場所に19人が出席したことを報告でき,喜びました。驚くべきことに,外出禁止令や他の困難な状況にもかかわらず,1997年にはアルバニア全域で3,154人が記念式に出席しました。さらに,伝道者たちは無政府状態の中でも宣べ伝え続け,用心しつつ人々に慰めを与えました。

国内委員会は,ギロカスタルの兄弟たちが食糧や文書を必要としていることを知り,トラックで物資を送るのが安全かどうか話し合いました。その話し合いの最中に一人の姉妹が訪ねてきます。姉妹は,ニュースのアナウンサーをしている女性が委員の兄弟たちに会いに来ており,役立つ情報を持っているかもしれない,と伝えます。

そのアナウンサーは,委員会が何を話し合っていたかは知らずに,こう忠告しました。「どんな計画があるにせよ,明日は国の南部に行かないでください。テペレナで危険な動きがあるという情報が入っています」。ギロカスタルに行くにはテペレナを通ることになるので,兄弟たちはトラックによる輸送を取りやめることにしました。

翌日の11時過ぎ,ニュース速報が入ります。テペレナで大規模な武力衝突が起きて多くの死傷者が出,町の橋が爆破された,ということでした。兄弟たちはその日にテペレナに行くのを止めてもらえたことをエホバに深く感謝しました。

ベテル家族は幾週にもわたり,夜通し銃声を聞き,機銃掃射や爆発の音の中で朝の崇拝を行ないました。人々は空に向けてむやみに発砲していたため,流れ弾に当たる危険がありました。それでベテル家族は安全を図って外出を控え,翻訳者たちは窓から離れたところで床の上に座って作業を続けました。

1997年4月には,国の治安を回復するため7,000人の国連軍の兵士が送り込まれます。国連軍が撤退した8月には,地域大会の開催が可能になりました。奉仕者たちは大いに喜びます。数か月のあいだ少人数のグループでしか集まれなかったからです。

兄弟たちはバスを借りて大会に行く途中,その幾台かが武装強盗に止められます。しかし,強盗は乗客がエホバの証人であることを知ると,「おまえたちはほかの連中とは違う。手出しするわけにはいかない」と言ったのです。

騒乱<トラジラ>によってアルバニアにおける宣べ伝える業はどんな影響を受けたのでしょうか。それは増加の妨げとはならず,むしろ人々は危険や不安を経験することによって霊的な必要をいっそう感じたようです。そのため,わずか15か月で500人の新しい伝道者が野外奉仕を始め,伝道者の合計は1,500人を超えました。

コソボに注意が向けられる

騒乱<トラジラ>の後に,銃はほとんど姿を消し,会衆は増加してゆきました。しかし,近隣のコソボで問題が起き始めます。コソボでの戦争はアルバニアにも影響を与え,大勢の難民が流入してきます。アルバニアの伝道者たちはその機会をすぐに活用し,難民たちに希望の音信を伝え,慰めとなる文書を提供します。さらに,難民の中にはエホバの証人とその幼い子どものグループ22人が含まれており,彼らの世話もよくしました。

戦争が8月に終わると,コソボの兄弟たちは故国に帰りましたが,自分たちだけで戻ったのではありません。10人の特別開拓者を含む,アルバニア人とイタリア人の兄弟たちも一緒でした。彼らは,人々に必要な霊的援助を与えることを願っていたのです。1999奉仕年度の終わりに,アルバニアには1,805人,コソボには40人の伝道者がいました。

霊的にいっそう安定する

ナショー・ドーリーは生前このように語っていました。「これほど多くの出版物が翻訳されるのは喜ばしいことですが,本当に必要なのは『新世界訳』です。その優れた聖書は,信仰を築くための土台となります」。ナショーが亡くなって3年後の1999年,統治体は「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」をアルバニア語に訳すことを承認します。

2000年の大会で,アルバニア人の聴衆は,思いがけない贈り物を受け取ることになります。「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」のアルバニア語版が発表されたのです。勤勉に働く翻訳者たちは心血をそそぎ,わずか1年足らずで訳を完成させました。かつて共産党の国会議員だった正規開拓者の姉妹は,次のように書いています。「なんてすばらしいのでしょう。この翻訳をよく読んで初めて,聖書の散文,詩,流れるような記述の見事さがよく分かりました。イエスが奇跡を行なって非難やあざけりの的になった箇所を読んだとき,今まで感じたことのないような深い感動を覚えました。感動的な場面一つ一つをはっきり思い描くことができます」。

そのころアルバニアの伝道者は2,200人で,ベテル家族は40人になっていました。幾つかのアパートを借りていましたが,部屋はさらに必要でした。そのため統治体は,ティラナ郊外のマゼズに3ヘクタールの土地を購入することを承認します。アルバニアとコソボにおける野外の増加に対応するため,国内委員会は2000年に支部委員会として機能し始め,業を監督することになりました。

新しい支部施設の建設が始まった2003年9月,アルバニアの伝道者は3,122人になりました。さらに,ヘブライ語聖書をアルバニア語に翻訳する作業も順調に進んでいました。宣べ伝える業が急速に拡大していただけでなく,個々の伝道者も霊的によく進歩していました。2004年8月には,アルバニアで初めての宣教訓練学校が開かれ,20人の若い兄弟たちが出席しました。その多くは,ほんの数年前の騒乱<トラジラ>の時にはまだ十代の若者で,会衆を世話していたのです。兄弟たちは,より多くの神権的な訓練を受けられるようになったことをとても喜びました。

『悪魔は怒りをあらわにしている』

「エホバは自殺をあおる」。2005年2月,新聞の見出しにこうした言葉が載りました。十代の少女が自殺しましたが,テレビや新聞で,その少女はエホバの証人だったというデマが報じられたのです。実際にはその少女は研究したことも集会に出席したこともありませんでした。それでも反対者たちはその事件に乗じて一斉攻撃に乗り出しました。

教師たちはエホバの証人の子どもをあざけり,兄弟たちは職を失いました。人々は,わたしたちの業を禁止すべきであると声高に唱えました。兄弟たちはマスコミに筋道立てて説明しようとしましたが,報道の内容はますます否定的なものになってゆきました。

このような新しい攻撃に対処する方法について,エホバの僕たちが導きや支えを必要としていることは明らかでした。それで支部は特別な話を取り決め,悪意のある偽りに対抗するために引き続き真理を宣べ伝えることの大切さについて説明しました。人々と筋道立てて話すように,また人への恐れに屈しないようにとの励ましが兄弟たちに与えられました。心の正直な人には,過去数年にエホバの証人が大きく増加してきたことを指摘できます。エホバの証人が自殺しているなら,そうした増加は生じ得ないはずです。実のところ,その種の攻撃は新しいものではありません。かなり前の1960年代に,スピロ・ブルホは自殺したという偽りが伝えられたことが,兄弟たちに説明されました。今なされている報道の誤りも,いずれは明らかになるのです。実際,そうなりました。

それからほんの数か月後の8月に,統治体のデービッド・スプレーンは,アルバニアとコソボの兄弟たちと共に地域大会に出席しました。その合計は4,675人でした。スプレーン兄弟がアルバニア語の「新世界訳聖書」全巻を発表し,聴衆は喜びに沸きました。

一人の古い兄弟はこう述べました。「どうりでサタンは邪魔しようと躍起になっていたんですね。エホバの民にこれほど多くの良いことが生じているので,怒りをあらわにしているのです」。

マスコミで否定的な報道がなされたにもかかわらず,アルバニアの神の僕たちはますます強められてゆきました。信者でない夫や親族で,ニュース報道の偽りを見抜いた人たちが聖書研究を始めて伝道者になる,ということも少なくありませんでした。サタンが悪辣な攻撃を仕掛けたにもかかわらず,エホバのご意志は果たされてゆきました。ベテル家族は新しい支部に引っ越し,宣教訓練学校の第2期も始まりました。

支部の献堂式

2006年6月,新しい支部施設の献堂式が行なわれます。32の国から集まった350人の代表者の中に,統治体のセオドア・ジャラズとゲリト・レッシュもいました。さらに,ソティル・ツェチも出席していました。1940年代に電気ショックによる拷問を受けた兄弟です。今では70代終わりのソティルは,喜びをもって奉仕を続けています。

フロシナ・ジェカは,「この日を迎えられるのは夢のようです」と述べました。姉妹は何十年も多大の困難を忍び,ずっと忠節に仕えてきました。夫のヤニを亡くしたポリクセニ・コミノも出席し,娘や孫娘が正規開拓者として奉仕していることを話していました。さらにバシル・ジョカもその場にいました。兄弟は長年苦労してきて,今では腰が曲がっています。1960年にレオニザ・ポペを訪ねてひそかにバプテスマを受けた時のことを語る兄弟の目には,涙が浮かんでいました。

ティラナのかつての支部は,王国会館と宣教者ホームに改装され,14人の宣教者がそのホームに住むことになりました。宣教訓練学校の六つのクラスが開かれ,忠実で自己犠牲の精神を持つ特別開拓者たちが生み出されました。彼らはアルバニアの野外で貴重な働きをしています。950人を超える地元の正規および特別開拓者たちは,同様の熱心な福音宣明の精神を抱いています。

今後の展望

アルバニアの兄弟姉妹は,母語に訳された聖書や文書が備えられていることを深く感謝しています。この地域におけるエホバの業は着実に前進しています。意欲と能力を持ち,訓練を受けて神権的な責任を担っている男子に加え,「良いたよりを告げる女は大軍をなして」います。―詩 68:11

アルバニアのエホバの証人は,霊感のもとに記された次の言葉の真実さを示す生きた証しです。「あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さず,裁きのときにあなたに敵して立ち上がるどんな舌に対しても,あなたは有罪の宣告を下すであろう。これはエホバの僕たちの世襲財産であ(る)」。(イザ 54:17)兄弟たちは全体主義支配,拷問,孤立,マスコミの悪意ある報道,個人的な問題に面しても,エホバの過分のご親切と力によって堅く立ちました。

アルバニアのエホバの民は,神が忠節な愛を示し,祝福してくださることを全く確信して,将来に目を向けています。さまざまな困難があっても,天の父の心を歓ばせる特権と,前途にある希望に喜びを抱いています。(箴 27:11。ヘブ 12:1,2)アルバニアの神権的な歴史を通じて,次の点が繰り返し明らかにされました。エホバは老若を問わず,ご自分の忠節な僕たちが払う犠牲を,その大小にかかわらず決して忘れたりされないのです。―ヘブ 6:10; 13:16

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その書名は当初「神のギター」と訳されました

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「クリスチャンだったら,司祭のように戦うはずだ」

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「野外奉仕報告の用紙がなくなりました」

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アルバニアの概要

国土

アルバニアはヨーロッパの南東にあり,ギリシャの北,イタリアの“長靴のかかと”の東に位置します。面積は2万8,750平方㌔で,アドリア海とイオニア海に沿って362㌔の海岸線が続いています。アルバニア・リビエラとして知られるブロラからサランダまでの海岸線を彩るのは,そびえ立つ山を背にした,白い砂浜とターコイズ・ブルーの海です。国の北部と内陸部では切り立った山脈が連なり,南西部の肥沃な低地では農業が行なわれています。

住民

人口はおよそ360万人で,ほとんどがアルバニア人で構成されています。さらに,ロマ,ギリシャ人,セルビア人が少数住んでいます。

気候

南の海岸沿いの平野部では,夏の平均気温は26度です。しかし,北部のディバルの山地では冬の気温がマイナス25度にまで下がることがあります。

食物

さくさくしたパイ皮に,ホウレンソウ,トマト,タマネギその他の野菜や,チーズ,肉を詰めたものはビュレクと呼ばれます。チキンやラムを,ヨーグルトとディルの風味のよいソースにつけて焼いた,タバ・エ・コシトという料理もあります。アルバニア人はスープやシチューといった,スプーンを使って食べる料理を好みます。特別な折にはよくラムが調理され,大切な客には頭の部分が供されます。デザートの種類も多く,バクラバ(右の写真)とカダイフは,パイ生地を焼いてシロップやハチミツやナッツをかけたものです。アルバニア人の主食はパンです。食事が済んだことを伝えたい時には,「ハングラ・ブカ」と言えばよく,それは「パンを食べた」という意味です。

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初期の大会

米国ニューイングランド地方に住むアルバニア人は,日曜日に行なわれていたアルバニア語の公開集会に出席するかたわら,たいていは英語やギリシャ語の会衆に交わっていました。1920年代と1930年代には,アルバニア人はギリシャ語の大会に出席していました。しかし,それらの兄弟たちは,アルバニア語のバッジを身に着けられることを喜びました。そこに記されていたのは,「アルバニア人の聖書研究者による三日間の大会」という言葉でした。

[図版]

ボストンの大会でバッジ(右)を身に着けているアルバニア人の兄弟たち(下)。1920年代終わり

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『エホバは決して見捨てなかった』

フロシナ・ジェカ

生まれた年 1926年

バプテスマ 1946年

プロフィール 十代のころに真理を知った。両親に反対され,当局によって社会的に孤立させられても,エホバとその組織をいつも身近に感じていた。忠実を保って2007年に亡くなる。

■ フロシナは1940年代に兄たちから真理を知りました。証人ではない両親は,フロシナが自分たちの決めた相手との結婚を拒んだので,家から追い出しました。ゴレ・フロコ兄弟がフロシナを家に迎え,実の娘のように世話しました。

フロシナはこう述べています。「投票しなかったために逮捕されたことが一度あります。部屋の中に入れられ,30人ほどの警察官が私を取り囲みました。その一人が,『どんな目に遭うか分かっているだろうな』と大声で脅しました。私はエホバが共にいてくださると感じ,『主権者なる主エホバがお許しにならなければ何もできないでしょう』と言いました。警察官たちは私が気が狂っていると思い,『こいつを出て行かせろ!』と言いました。私が言ったとおりになり,エホバは確かに共にいてくださったのです」。

1957年,フロシナはルチ・ジェカと結婚し,二人は3人の子どもをもうけます。1960年代初めに,ルチは新たに発足した国内委員会の成員になり,アルバニアにおける業を監督します。やがてルチは,5年におよぶインテルニム(抑留)に処されてフロシナや子どもたちから引き離され,遠いグラムシュに送られます。その土地でルチは引き続き宣べ伝え,エホバの組織について人々に話しました。グラムシュの人々は今もルチのことを覚えています。

ルチが抑留されたことに伴い,共産党はフロシナをブラックリストに載せます。そのため,当局の定めた経路で食料を買うことができなくなりました。フロシナはこう言います。「でもだいじょうぶでした。数少ない兄弟たちが,持っていたものを分けてくれたからです。エホバが決して見捨てなかったので,やっていけました」。

ルチが亡くなってから,フロシナが兄弟たちと会う機会はほとんどなくなりますが,彼女は宣べ伝え続けました。本人はこう述べました。「1960年代にジョン・マークスが私たちを訪問してくれました。1986年,ついにジョンの妻ヘレンと会った時は,長年の友人と再会したかのように感じました。ルチと私は二人にひそかにメッセージを送り,二人はそれをブルックリンの兄弟たちに転送していたのです」。

1992年に禁令が解除された時,アルバニアにはバプテスマを受けた証人が9人いましたが,フロシナはその一人でした。フロシナは集会に定期的に出席し,2007年に亡くなったその日まで奉仕に出ていました。亡くなる少し前に,姉妹は次のように語っていました。「エホバを心から愛しています。妥協することなど,考えもしませんでした。世界的な大きな家族の一員であることは知っていましたが,いまアルバニアだけを見ても霊的な家族がこんなに大きくなっています。その様子に胸がいっぱいになります。エホバはいつも共にいてくださり,今も愛あるみ手の中に包み込んでくださるのです」。

[図版]

フロシナ・ジェカ。2007年

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文書がわずかだった時代から豊かな時代に

バシル・ジョカ

生まれた年 1930年

バプテスマ 1960年

プロフィール 全体主義支配の時代に堅く真理を擁護した。現在はティラナで長老として奉仕している。

■ 故郷の村バルマシュで1930年代にギリシャ語の「ものみの塔」を目にした時のことを,今でもよく覚えています。父はその雑誌を指さして,「この人たちの言うことは正しい」と述べました。その言葉の意味を理解したのは何年も後のことです。聖書を所持することは危険になりましたが,私はそれを読むのが好きでした。親戚の葬式で,ティラナから来たエホバの証人に会いました。マタイ 24章に出ている「終わりの日」のしるしについて尋ねると,その人は意味を説明してくれました。私は知った事柄について周りの人たちにすぐ話し始めました。

1959年に,レオニザ・ポペの家で開かれていた非公開の集会に出席しました。私は「啓示」の書を読んでいて,野獣や大いなるバビロンが何を表わしているか尋ねました。兄弟たちの説明を聞いて,真理を見いだしたことを確信し,1年後にバプテスマを受けました。

私は熱心に宣べ伝え,そのために仕事を解雇されました。それで,がたがたの古い木製の荷車を手に入れ,ティラナで配達の仕事をしました。兄弟たちと接触する機会は限られ,文書も持っていませんでしたが,伝道は続けました。

1960年代初め,レオニザ・ポペはインテルニムに処される前に,アルバニアにひそかに持ち込まれたギリシャ語の出版物を幾らか入手できました。ポペ兄弟はその内容を口頭で訳し,私はそれをノートに書き留めました。それから兄弟の指示で写しを幾つか作り,ベラト,フィエル,ブロラの少数の兄弟たちに送り届けました。

1990年代に入ってからの変化には,目をみはるものがあります。エホバが文書を豊かに与えてくださっているのを見ると,胸が躍ります。1992年以降に配布されたアルバニア語の雑誌は1,700万冊余りにもなるのです。新しい出版物が幾つもアルバニア語に翻訳され,母語の「新世界訳」全巻もあるのです。文書がなかった時代のことを考えると,喜びの涙がこみ上げてきます。長年,文書がわずかしかない時代を生きてきた私たちには,本当にうれしいことです。

[163,164ページの囲み記事/図版]

母国に戻って真の仕事を見つけました

アルディアン・トゥトラ

生まれた年 1969年

バプテスマ 1992年

プロフィール イタリアで真理を学び,後にアルバニアに戻る。アルバニアの支部委員会の成員。

■ 1991年,アルバニアを離れた大勢の難民の中に,わたしもいました。21歳の時でした。イタリアに向かう船を乗っ取ったのです。ひどく窮乏していたアルバニアを脱出できると思うと,胸が高鳴りました。これで夢がかなうと思っていました。

イタリアのブリンディジで二日過ごした後,難民キャンプを抜け出して仕事を探しに行きました。ある男性から,聖書に関する説明がアルバニア語で記されているコピーした紙を渡されました。そして,その日の午後の集会に誘われました。わたしはすぐに,『じゃあ,行ってみよう。仕事を紹介してもらえるかもしれない』と思いました。

そこでは全く予想外の歓迎を受けました。王国会館での集会の後,皆がわたしのところに来て,温かく親しみをこめて接してくれました。ある家族は夕食に招いてくれました。汚れた服を着た,不法滞在のアルバニア難民に対して,ここまで尊厳を認めて親切にしてくれたのです。

次の集会の時に,ビト・マストロロサから聖書研究を勧められました。勧めに応じ,やがて学んでいる事柄は真理であると確信しました。1992年8月,イタリアでバプテスマを受けました。

ついに正式に在留が許可され,良い仕事が見つかり,アルバニアの家族に仕送りができるようになりました。しかし,このようにも考え始めました。『アルバニアでは業が自由になり,必要も大きい。帰国してそこで奉仕すべきではないだろうか。でもわたしの仕送りを必要としている家族はどう思うだろう。周りの人は何と言うだろう』。

そんな時,ティラナの事務所から電話があり,そこに来る気持ちがあるかと聞かれました。その年の11月にイタリアから移動してくる特別開拓者たちにアルバニア語を教えてほしい,ということでした。そのような開拓者たちのことを聞いて,真剣に考えるようになりました。彼らは,わたしが離れた区域に向かおうとしているのです。その土地の言葉は話せなくても,意欲に満ちています。一方,わたしはアルバニアで育ち,その土地の言語が母語なのです。イタリアで何をしているのでしょう。

わたしは心を決め,それら特別開拓者と同じ船に乗りました。そしてすぐに小さなベテルで奉仕を始めます。午前はアルバニア語を教え,午後は翻訳の仕事をしました。家族は初め,この決定を喜びませんでした。しかし,わたしがなぜ国に戻ったのかを理解すると,良いたよりに耳を傾けるようになりました。やがて父と母,兄と二人の姉がバプテスマを受けました。

イタリアで働いてお金を得る機会を手放しましたが,そのことは全く後悔していません。アルバニアで真の仕事を見つけたのです。わたしにとって,常に喜びが得られる大切な仕事とは,自分の持つすべてのものをもってエホバにお仕えすることです。

[図版]

アルディアンと妻のノアディア

[173,174ページの囲み記事/図版]

集会が秘密ではなくなる

アドリアナ・マフムタイ

生まれた年 1971年

バプテスマ 1993年

プロフィール 秘密裏に開かれていた集会に誘われて以来,生活が大きく変わる。現在は特別開拓者。

■ いとこが1991年に亡くなった時,バリエという女性がおばに聖書から慰めを与えるのを耳にしました。わたしがすぐにいろいろな質問をすると,バリエは同じ職場で働いている友人のライモンダと会うよう勧めてくれました。ライモンダの家族は“会”に出席していたのです。ライモンダは,新しい人はすぐには会に出席できないので,まずしばらく二人で聖書の討議をする必要があると言いました。わたしはその研究をとても楽しみ,やがて出席することが認められました。

その会は,バプテスマを受けていない人たちで構成されていましたが,もともとはソティル・パパとスロ・ハサニが始めたものでした。何年も前に,シグリミの捜査員が会に潜入し,その二人の兄弟を警察に連行するという事件が起きていました。そのため,皆は用心し,だれを集会に誘うかについて注意深くなっていたのです。

初めて集会に出席した時,友人のリストを作って,学んでいる事柄を伝えるよう勧められました。それですぐにイルマ・タニに話しました。やがてイルマも会に出席することを認められます。15人から成る小さな会は,すぐに大きくなりました。

1992年4月,マイケル・ディグレゴリオと妻のリンダがベラトを訪れます。兄弟の講演に人々を公に招くよう勧められ,結果として54人が出席しました。全員バプテスマを受けていない人でした。その集会の後,わたしたちはディグレゴリオ兄弟姉妹にたくさん質問し,そのやり取りは長時間に及びました。わたしたちのグループがどのように活動したらよいのか,ついに分かりました。

程なくしてエホバの証人は法的に認可されます。わたしはイルマと二人の兄弟と共にティラナに行き,家から家の伝道の方法を教わります。そして学んだ事柄をベラトの他の人たちにも伝えるようにと言われました。わたしたちは最善を尽くしました。1993年3月,イタリア人の4人の特別開拓者がベラトに割り当てられ,会衆は勢いを増し,毎週二つの集会が公開で行なわれることになりました。

同じ月にイルマとわたしはティラナで初めて開かれた特別一日大会でバプテスマを受けました。出席者は585人でした。わたしたちは正規開拓者になり,やがて地元で最初の特別開拓者に任命されました。もう秘密裏に活動する必要はないのです。わたしたちはコルチャで奉仕することになりました。

イルマは後にアルベン・ルボニャと結婚します。アルベンはコルチャでわたしたちより数か月前に,独りで伝道を始めていました。やがて二人は巡回奉仕を始め,今はベテルで奉仕しています。あの時イルマを“会”に誘って本当に良かったと思います。

最近,地域大会で5,500人を超える聴衆の中に座り,会がまだ秘密だった時のことを思い出しました。エホバは実に大きな変化を生じさせました。集会や大会は今では自由に出席できます。経済の悪化のために大勢の兄弟がベラトを離れましたが,わたしたちの小さな会は,今では活気ある五つの会衆になったのです。

[図版]

アルベン・ルボニャとイルマ・ルボニャ(旧姓はタニ)

[183ページの囲み記事/図版]

「よし,行こう!」

アルティン・ホジャとアドリアン・シュカンビ

生まれた年 共に1973年

バプテスマ 共に1993年

プロフィール 二人とも大学を中退して開拓奉仕を始める。今は会衆の長老として奉仕する。

■ 1993年の初め,二人はティラナで大学生でした。ある友人が二人に,エホバの証人から学んでいる事柄について何時間も話しました。話されたことのすべてには聖書の裏づけがありました。後に二人はさらに知識を得て,学んだ事柄を当てはめ,その年にバプテスマを受けました。同じ年の夏,二人は伝道者がいないクチョバに行って宣べ伝えます。

ティラナに戻ってから,アドリアンはアルティンに言います。「僕たちは学校で何をしているんだ。クチョバに移動して伝道しようよ」。

アルティンは,「よし,行こう!」と答えます。バプテスマを受けて7か月の二人は,再びクチョバに行きました。

エホバは二人の努力を豊かに祝福し,現在では90人余りの伝道者がクチョバで活発に奉仕しています。クチョバで真理を学び,その地を離れて開拓奉仕やベテル奉仕をしている人は25人にのぼります。その多くは,アドリアンとアルティンが研究を司会した人です。

アルティンは大学を中退したことについて,笑顔でこう言います。「使徒パウロは世での成功を追い求めることをやめました。1993年にわたしも同じ決定をしました。『よし,行こう!』と答えたことを一度も後悔していません」。

[191,192ページの囲み記事/図版]

無神論の教え手が真理の教え手に

アナスタス・ルビナ

生まれた年 1942年

バプテスマ 1997年

プロフィール 子どもを通して真理を知るようになる前は,軍隊で兵士たちに無神論を教えていた。今は長老また特別開拓者として奉仕している。

■ 士官学校を1971年に卒業した後,私は政治委員になりました。その名称は,政府が1966年に軍の階級制度を廃止したことに伴って用いられるようになったものです。私の任務の中には,神は存在しないというイデオロギーを兵士たちに植えつけることも含まれていました。私は,宗教は人民のアヘンであるという思想を説いていました。

私には妻と3人の子どもがいます。1992年に息子のアルタンは,エホバの証人がティラナで開いていた宗教的な集まりに出席し始めました。後に息子は妹のアニラを連れて行くようになりました。私は,子どもたちのしていることが時間の無駄で,とても愚かなことだと感じ,そのため家ではよく言い争いになりました。

ある日,好奇心から「ものみの塔」誌を手に取りました。意外にも,書かれていることは筋が通っていました。しかし,アルタンとアニラに勧められても,聖書を学ぶことはしませんでした。神の存在を信じていない者が聖書を学ぶのはおかしい,と考えたのです。1995年に,「生命 ― どのようにして存在するようになったか 進化か,それとも創造か」の本がアルバニア語で発行され,子どもたちからその本をもらいます。全く反論の余地はありませんでした。神は確かに存在するのです。もう言い訳はできず,研究するしかありません。やがて妻のリリエも研究に加わるようになり,私たちはそれが真理であると確信しました。

正直なところ,進歩するのに時間がかかりました。私は53歳で,政治思想や軍人としての考え方が染みついていました。創造者エホバの助けがなければ,前に進むことはできなかったでしょう。

伝道者になることにも気後れを感じました。自分が無神論を教えてきた相手に宣べ伝えることになればどう思われるだろう,と心配したのです。ある日,研究の席で,ビト・マストロロサ兄弟はタルソスのサウロについての記述を読んでくれました。これで決心がつきました。クリスチャンを迫害していたサウロも,真理を学んだ後に伝道したのです。エホバの助けがあれば,自分も同じようにできることが分かりました。

エホバは,私が人を厳しく扱ったり命令的な態度を取ったりするのではなく,もっと穏やかな接し方をすべきことを今でも時々気づかせてくださいます。そのような時,恥ずかしく思うことがありますが,徐々に前進しています。

真理について子どもと言い争うことは,もうなくなりました。むしろ,子どもたちを誇りに思っています。アルタンは特別開拓者また長老として奉仕し,娘のアニラとエリオナはティラナのベテルで奉仕しています。

妻のリリエと私は特別開拓奉仕をしています。偉大な創造者についての真理を教え,人々が生き方を変えるのを見るのは特権であると感じています。生ける唯一まことの神,エホバの約束に基づく真の希望を人々に伝えられるのは,何という喜びでしょう。

[図版]

左から: アルタン,アニラ,リリエ,アナスタス,エリオナ,その夫リナルド・ガリ

[176,177ページの図表/グラフ]

年表 ― アルバニア

1920-1922年 アルバニア人が米国で真理を学ぶ。

1922年 サナス・イドリジが真理を携えてギロカスタルに戻る。

1925年 アルバニアで三つの小さな聖書研究の会が開かれる。

1928年 多くの町で「創造の写真劇」が上映される。

1930

1935-1936年 大々的な伝道が行なわれる。

1939年 エホバの証人の活動が禁止される。

1940

1940年 9人の兄弟が中立のゆえに投獄される。

1946年 共産主義政権が発足する。

1950

1960

1960年 国内委員会がアルバニアの業を監督し始める。

1962年 国内委員会の成員が労働収容所に送られる。

1967年 アルバニアは無神国家を宣言する。

1980

1990

1992年 エホバの証人は法的に認可される。

1996年 ミルトン・ヘンシェルがベテルの最初の献堂式に出席する。

1997年 騒乱<トラジラ>が始まる。

2000

2005年 アルバニア語の「新世界訳」全巻が発表される。

2006年 ティラナ郊外のマゼズで支部が献堂される。

2010

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

4,000

3,000

2,000

1,000

1930 1940 1950 1960 1980 1990 2000 2010

[133ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

モンテネグロ

コソボ

マケドニア

ギリシャ

イオアニナ

シュコダル湖

オフリト湖

プレスパ湖

アドリア海

アルバニア

ティラナ

シュコダル

クカス

ブレル

マゼズ

ドゥラス

カバヤ

グラムシュ

クチョバ

フィエル

ベラト

コルチャ

ブロラ

テペレナ

ケルツィラ

バルマシュ

ペルメット

ギロカスタル

サランダ

[126ページ,全面図版]

[128ページの図版]

サナス・イドリジは米国のニューイングランド地方で真理を知った後,アルバニアのギロカスタルに良いたよりを携えてきた

[129ページの図版]

ソクラト・ドゥリは弟に真理を教えた

[137ページの図版]

ニコラス・クリストはアルバニアの要人たちに良いたよりを伝えた

[142ページの図版]

ボストンに住むアルバニア人の兄弟たちがエンベル・ホジャに送った2ページの手紙

[145ページの図版]

レオニザ・ポペ

[147ページの図版]

「自分が言わなかったことに署名してはいけないと,エホバが教えてくださいました」。―ソティル・ツェチ

[149ページの図版]

ジョン・マークスと妻のヘレン。ジョンがアルバニアに行く前

[154ページの図版]

スピロ・ブルホは旅行する監督として奉仕した

[157ページの図版]

ロピ・ブラニ

[158ページの図版]

クラ・ジザリは一人でも記念式を行なった

[167ページの図版]

マイケル・ディグレゴリオと妻のリンダ

[172ページの図版]

エホバの証人に法的認可を与えた省令第100号

[175ページの図版]

1992年,ティラナの最初の王国会館で開かれた集会

[178ページの図版]

アレティ・ピナは独りで忠実に宣べ伝えた

[184ページの図版]

古い邸宅が改装されて新しい事務所になった

[186ページの図版]

「投獄されるとしても心配は要りません」。―ナショー・ドーリー

[194ページの図版]

アルバニア語の「新世界訳」全巻を発表するデービッド・スプレーン

[197ページの図版]

現在アルバニアで奉仕する宣教者

[199ページの図版]

アルバニア支部

支部委員会: アルタン・ドゥカ,アルディアン・トゥトラ,マイケル・ディグレゴリオ,ダビーデ・アピニャネジ,ステファノ・アナトレリ