ウガンダ
ウガンダ
今から数百年前,探検家たちは大河ナイルの源流を探し始めました。この川は,アフリカ大陸の北半分を蛇行して地中海に注ぎます。やがて,ある探検家たちは,ビクトリア湖とそれを取り巻く山地が,年間を通して水をたたえるナイル川の主な水源であることに着目します。その地域に住む多くの人は近年,もっと貴重な水,すなわち「永遠の命」を得させる「生きた水」の源を見いだし,胸を躍らせています。(ヨハ 4:10-14)これは「義に飢え渇いている」ウガンダの人々の物語です。―マタ 5:6。
“アフリカの真珠”
ウガンダはアフリカ中央部に位置し,赤道をまたぐ,気候の穏やかな美しい国です。“月の山”と呼ばれる,雄大なルウェンゾリ山地の高みにある氷河が解け,輝く水が滝のように無数の川や湖に流れ込みます。肥沃な土地に豊富な雨の降るウガンダは,コーヒーや茶や綿花の栽培に適した地域です。プランテーンと呼ばれる料理用バナナがたくさん作られ,ウガンダの代表的な料理であるマトーケに用いられます。キャッサバ,コーンミール,キビ,モロコシなども一般に食されています。
熱帯のこの国には,ライオン,ゾウ,カバ,ワニ,ヒョウ,キリン,レイヨウ,チンパンジーや,さまざまな種類の人目を引くサル,絶滅の危機にあるマウンテンゴリラなどもいます。華麗な鳥たちの歌声が辺りに響きわたります。実際,ウガンダは国土の美しさゆえに“アフリカの真珠”と呼ばれているほどです。
ウガンダの美しい人々
ウガンダの人口は約3,000万人で,30ほどの種族から成っています。多くの人は宗教心が強く,キリスト教世界の教会に属していますが,他の土地と同様,教会での礼拝と伝統的な宗教の習わしがしばしば混在しています。人々は概して友好的で,もてなしの精神に富み,年長の人にあいさつしたり給仕したりする時にひざまずくことも珍しくありません。
悲しいことに,1970年代と80年代に,美しい“真珠”とも言えるこの国とその貴重な人々は大きな傷を負います。政治的動乱によっておびただしい数の人が命を落としたのです。さらに,破壊的なエイズの蔓延が人々の悲しみに追い打ちをかけました。こうした状況の中でエホバの証人は,困難を生き抜く人々に慰めと希望を与えてきました。
まさに開拓者
ウガンダにおける王国伝道の業の最初の記録は1931年にさかのぼります。当時,南アフリカの支部事務所が赤道以南のアフリカ全域における伝道の業を監督していました。とてつもなく広大なこの区域を切り開くために,支部はロバート・ニズベットとデービッド・ノーマンという二人の開拓者が,今ではケニア,ウガンダ,タンザニアとして知られている地域で伝道するよう割り当てました。
ニズベット兄弟とノーマン兄弟は,王国の良いたよりをアフリカの奥地にまで携えてゆくことを決意していました。彼らは200カートンの文書を用意し,1931年8月31日,ダルエスサラームで活動を開始します。そこからザンジバル島に行き,次いで海港モンバサを経由してケニアの高地を目指します。列車で移動しながら鉄道
沿いの町々で奉仕し,ビクトリア湖の東岸に至ります。二人の勇敢な開拓者は,蒸気船で湖を渡ってウガンダの首都カンパラに着きました。大量の文書を配布し,「黄金時代」誌の予約をたくさん得た後,自動車でさらに内陸に向かいました。4年後の1935年,南アフリカの4人の開拓者が東アフリカへの伝道旅行に向かいます。グレー・スミスと妻のオルガ,ロバート・ニズベットと弟のジョージです。進取の気性に富む開拓者たちは,居住用の設備が整った2台の大型バンで悪路を走り,丈が3㍍にもなるエレファントグラスという草が生い茂る中を進みました。ある報告はこう述べています。「彼らはしばしば野宿したので,野生動物に満ちたアフリカの大地の鼓動を肌で感じました。暗闇に響くライオンの声を聞き,のどかに草をはむシマウマやキリン,恐ろしげなサイやゾウを間近に見たのです」。兄弟たちはひるむことなく,王国の音信が伝えられたことのない町々を訪れました。
スミス夫妻はタンガニーカ(現在のタンザニア)にしばらく滞在し,ニズベット両兄弟はケニアのナイロビに向かいました。スミス夫妻は後に植民地当局からタンガニーカを去るよう命じられ,ウガンダのカンパラに行きました。しかし,このたびの状況はあまり
よいものではなく,カンパラの警察から絶えず監視されました。それでも二人は憶することなく,わずか2か月の間に書籍や小冊子を合計2,122冊配布し,公開集会を6回開きました。結局,総督が退去命令を出したので,ウガンダを離れなければなりませんでした。二人はナイロビに移動してニズベット兄弟たちに会い,その後南アフリカに戻ります。エホバの祝福によって,こうした伝道活動は大きな成果を収め,優れた証言がなされました。宗教上の反対や植民地当局からの強い圧力にもかかわらず,それらの開拓者は書籍を3,000冊余り,小冊子を7,000冊以上配布し,雑誌の予約もたくさん得ました。この活動の後,ウガンダで伝道が再び行なわれるまでに幾年もの歳月が経過します。
活動の再開
1950年4月,英国出身の若い夫婦キルミンスター兄弟姉妹がカンパラに居を定めます。二人は良いたよりを熱心に宣べ伝え,喜ばしいことに,ギリシャ人とイタリア人の二家族が王国の音信にこたえ応じました。
1952年12月には,ニューヨークのエホバの証人の本部からノア兄弟とヘンシェル兄弟がケニアのナイロビを訪れます。キルミンスター兄弟は二人に会う機会を逃したくないと思い,カンパラからはるばるナイロビまでやって来ました。ノア兄弟とヘンシェル兄弟はナイロビに集まった少数の人々に励ましを与え,カンパラに会衆を設立するよう取り決めました。その新しい会衆はやがて良い実を生み出すようになり,1954奉仕年度には最高数である10人の伝道者が宣教に携わりました。
その同じ年,南ローデシア(現在のジンバブエ)の支部事務所からエリック・クックが東アフリカを訪れ,しばらくの間カンパラの新しい会衆を訪問しました。兄弟たちは会衆の週ごとの「ものみの塔」研究を行なっていましたが,宣教奉仕の面ではまだそれほど活発ではありませんでした。そのため,クック兄弟はキルミンスター兄弟に,毎週の奉仕会を含む会衆のすべての集会を司会するよう励ましました。伝道の業をさらに推し進めるため,クック兄弟は家から家の奉仕を強調し,親切にも幾人もの伝道者を個々に訓練しました。
それまで伝道は主に,ウガンダに住むヨーロッパ人を対象に行なわれていました。しかしクック兄弟は,カンパラに住む地元の人々の多くはガンダ語を話すことに目を留めます。それで,土地の人々の心を動かすため出版物をガンダ語に訳すことを提案します。1958年に,伝道者たちは新たに翻訳された『御国のこの良いたより』という小冊子を用い始めました。これは確かに良い刺激となりました。業は進展してゆき,1961年には新最高数の19人の王国宣明者が奉仕に携わったのです。
キルミンスター兄弟は世俗の仕事を通して,ジョージ・カドゥと知り合いました。40代初めの熱意にあふれるウガンダ人で,母語のガンダ語に加え,英語も堪能でした。ジョージは,神の名はエホバであることを知って聖書の真理に対する関心が呼び起こされ,聖書研究を始めました。そのうちキルミンスター兄弟が家から家に伝道する際に同行し,通訳を務めるようになります。そして1956年,ウガンダで最初のバプテスマがエンテベに近いビクトリア湖で行なわれた時,ジョージはエホバへの献身を表明しました。
残念ながら,その後まもなく王国の業は停滞してしまいます。外国から来ていた兄弟たちの中には,仕事の契約が切れて母国に戻った人がいました。幾人かの兄弟が排斥され,さらに,聖書に反する行動を取っていた会衆の一部の人につまずいた人たちもいました。それでもカドゥ兄弟はエホバを愛しており,真理を見いだしたことを確信していました。「順調な時期にも難しい時期にも」真理に堅く付き,1998年に亡くなるまで長老として忠実に奉仕しました。―テモ二 4:2。
必要の大きな所で奉仕する
東アフリカの畑は広く,王国伝道者は大いに必要とされていました。しかも,植民地政府はその地域に宣教者が入ることを認めなかったのです。このような状況で何ができるでしょうか。
1957年に,必要の大きな所で奉仕できる人を募る世界的な呼びかけがなされました。霊的に円熟した兄弟たちに対し,王国伝道者の必要の大きな土地へ移動するようにとの励ましが与えられたのです。この招きは,使徒パウロが幻の中で,「マケドニアへ渡っ使徒 16:9,10)現代のこの招きによって,ウガンダにおける王国伝道の業はどのように進展しましたか。
て来て,わたしたちを助けてください」とある人が懇願するのを見た時の状況に似ています。(フランク・スミスと妻のマリーは,イザヤのような精神を抱いてその呼びかけにこたえ応じ,東アフリカへ移動する準備を直ちに始めました。 * (イザ 6:8)1959年7月,二人はニューヨークからケープタウンを経由してモンバサに向かう船旅に出ます。次いで列車でカンパラに行き,そこでフランクは地質調査局の化学者として公務員の職に就きます。スミス夫妻は,カンパラから35㌔ほど南のエンテベに居を定めました。ビクトリア湖沿岸のこの美しい都市では,王国伝道の業がまだ全く手つかずでした。二人は小さいながらも増加していたカンパラの会衆の集会に定期的に出席しました。
スミス夫妻はやがて,ピーター・ギャビと妻のエスターに真理を伝えます。ピーターはウガンダの公務員として責任ある立場に就い * という本をすでに持っていたものの,仕事がとても忙しく,転勤も多かったために,あまり読みませんでした。その後,二つの部族間の緊張を伴う複雑な土地争いの調停役を命じられました。それで,「神様,助けてくださるならあなたについてもっと知るようにします」と祈ります。争いは平和裏に解決し,ピーターは自分がささげた祈りを思い出し,例の本を読み始めました。そこに書かれている事柄は真理であると思い,エホバの証人を探し始めました。そしてフランク・スミスに出会い,フランクが自分と妻との聖書研究を司会してくれることになり,とても喜びました。この感じのよい夫婦はやがてバプテスマを受けます。二人はこれまで40年以上忠実に奉仕しており,今も王国宣明者として活発です。
ていました。「宗教は人類の為に何を成したか?」必要の大きな所で奉仕するようにとの呼びかけにこたえ応じた外国の兄弟たちはほかにもいます。ある人たちは,少人数の伝道者が交わるカンパラ会衆から遠く離れた場所で勤め口を見つけました。一組の夫婦は,ウガンダ南西の緩やかな丘陵地にある小さな町ムバララに住みました。カンパラから約300㌔離れた場所です。二人は「ものみの塔」研究と書籍研究を自宅で行なうよう取り決めました。しかし時折,はるばるカンパラやエンテベまで出かけ,仲間のクリスチャンと温かい交友を楽しみました。彼らはまた,東アフリカにおける王国伝道の業を当時監督していた北ローデシア(現在のザンビア)のルアンシュアにある支部事務所と連絡を取っていました。そのころ支部を監督していたハリー・アーノットは地帯監督としてカンパラを訪れ,ウガンダの一握りの伝道者を励ましました。彼らは,その愛ある気遣いに深く感謝しました。
王国伝道者の必要が大きい所で働くことを強く願っていた別の夫婦は,英国出身のトム・クックと妻のアンです。トムは幾つかの国に勤め口を求め,ウガンダの教育省に採用されます。仕事の関係で最初に住むことになったのは,カンパラの130㌔ほど東にあるイガンガという小さな町でした。妻と4歳になる娘のサラが一緒でした。そして次女のレーチェルが生まれてから,ジンジャという町に移ります。その町は,一般にナイルの源流と言われている所にあります。後に一家はカンパラに引っ越します。
犠牲と祝福
これらの家族は,ウガンダにおける王国伝道の業に大きく貢献しました。慣れ親しんでいた快適な生活をあとにしたのは確かですが,その代わりに,謙遜な人々が生き方を変え,王国の良いたよりにこたえ応じるのを見る喜びを味わったのです。さらに,地元の家族と強いクリスチャン愛の絆で結ばれるという経験もしました。そうした絆は,崇拝と楽しい交友のために集まり合うことによって培われたのです。
トム・クックはこう述懐します。「宣教で会う人々の温かさや礼儀正しさ,また慎み深さや品位がとても印象的でした。会衆の増加にわずかでも貢献できたことは非常に大きな特権です」。
この国に移動してどう感じているかという問いに,トムはこう答えています。「幼い子どものいる家族としてエホバに仕えるうえで,これ以上に良い環境はなかったと思います。いろいろな国から来た兄弟姉妹のりっぱな手本,愛に富む忠節な地元の兄弟たちとの交友,さまざまな奉仕の特権,テレビに毒されない暮らし,アフリカのすばらしい大自然に触れたことなどは,数知れない祝福の一部です」。
必要の大きな所で働く人がクリスチャンの交わりに深い認識を抱いていたことは,巡回大会への出席のために遠くケニアまで喜んで出かけたことにも表われています。それはバスや列車による片道750㌔もの旅を意味するのです。
地域大会への出席にはもっと努力が要りました。例えば1961年には,ウガンダとケニアの代表者が北ローデシア(ザンビア)のキトウェで開かれる地域大会に出席しました。その一人は振り返ってこう語ります。「タンガニーカ(タンザニア)の極めて走りにくい悪路 ― ほとんどが舗装されていない ― を抜ける,1,600㌔を超す4日がかりの旅となりました。そして帰りも,うだるような暑さのほこりだらけのアフリカのサバンナを4日かけてウガンダに戻ります。かなりの冒険だったとしても,たくさんの兄弟姉妹と楽しく交われたことは大きな祝福でした」。確かに骨の折れる,並々ならぬ努力の要る旅でしたが,霊的にとてもさわやかにされたのです。
宣教者が肝要な業を行なう
1962年,ウガンダは英国から独立しました。翌年,ヘンシェル兄弟
がケニアのナイロビを訪れ,ウガンダに宣教者を派遣する見込みについて話し合いました。だれが割り当てられるのでしょうか。その少し前,ギレアデ第37期生のトム・マクレーンと妻のベテルは,奉仕することになっていたナイロビに到着したばかりでした。二人はその後まもなくカンパラに行くよう割り当てられ,とても驚きました。しかし,この変更に進んで応じ,ギレアデで訓練を受けてウガンダに遣わされた最初の宣教者になりました。トムはこう述べています。「ケニアを離れることになって初めは寂しく思いましたが,すぐにウガンダでの奉仕がとても好きになりました。人々は友好的で,喜んで証言に耳を傾けるのです」。
トムとベテルはケニアでスワヒリ語の学習を始めていましたが,今やさらに別の言語,ガンダ語を学ぶ必要がありました。決意は固く,エホバへの信頼は強かったものの,活用できたのは独習のためのテキストだけでした。ウガンダに来た最初の月は,新しい言語の学習に250時間を,翌月は150時間を充てました。野外奉仕に100時間を充てながら,それだけの学習をしたのです。二人は徐々に新たな言語を習得し,奉仕で良い結果を得ました。
1964年1月に,ギレアデ第38期生のギルバート・ウォルターズと妻のジョーンがマクレーン夫妻に加わります。同じ38期生のもう二組の夫婦,スティーブン・ハーディーとバーバラ・ハーディー,ロン・ビクネルとジェニー・ビクネルは近くのブルンジに割り当てられていましたが,ビザの都合でウガンダで奉仕することになりました。短期間のうちにカンパラでは2軒目の宣教者ホームが必要になったのです。
当時のカンパラ会衆の様子は忘れがたいものです。交わっていたのはカドゥ兄弟とその家族,北ローデシア出身の特別開拓者ジョン・ブワリと妻のユーニスと子どもたち,さらにマーガレット・ニエンデとその子どもたちでした。集会は外からよく見える場所で開かれました。ギルバート・ウォルターズはこう述懐します。「少人数の私たちの様子は通行人から見え,声もよく聞こえました。そうした中でブワリ家の人たちは,伴奏がなくても王国の歌をハーモニーを付け
て力強く歌っていました。とても元気づけられました」。やがてウォルターズ兄弟姉妹は,伝道がまだ組織だって行なわれていなかったジンジャに宣教者ホームを開設するよう割り当てられました。後にはさらに2軒の宣教者ホームが開設されます。1軒はケニアとの国境に近いムバレに,もう1軒はムバララにです。これらのホームに住む宣教者たちは,他の国から来た幾人かの特別開拓者と共に奉仕しました。明らかに,畑は「収穫を待って白く色づいて」いました。(ヨハ 4:35)とはいえ,取り入れの速度を増すために何ができるでしょうか。
組織上の改善
ウガンダの全時間奉仕者たちは,広大な区域をできるだけ組織的に網羅するよう努めました。週日に,通りの名称や家の番号が付いている住宅街で伝道しました。では,名称や番号のない区域をくまなく回るにはどうすればよいのでしょうか。
トム・マクレーンはこう説明しています。「区域を丘ごとに分けました。二人が丘の片側を,別の二人がもう一方の側を奉仕しました。道沿いに,丘を上ったり下ったりしながら,最後に4人が会えるようにしました」。
外国から来た兄弟たちはやがて,数を増すウガンダの証人たち
の助けを得られるようになりました。彼らは区域や地元の習慣に通じていたからです。一方,地元の伝道者は,外国人の兄弟姉妹と働いて貴重な経験を積むことができました。例えばジンジャでは,ウガンダ人の兄弟たちがすでに宣教者たちと一緒に野外奉仕に参加していました。日曜日の奉仕は午前8時から10時までの家から家の伝道で始まり,もう1時間は再訪問をし,それから正午まで聖書研究を司会するのです。このようにして会衆のすべての人が互いに学び,励まし合いました。当時,国内第二の町だったジンジャは,水力発電所が置かれていたので,産業開発に適した場所でした。宣教者たちは人通りの多いバスやタクシーの乗り場で証言し,大きな成果を上げていました。遠方からの旅行者が移動中の読み物として聖書文書を喜んで受け取りました。こうして王国の種が周辺の田舎の地域に遠く広くまかれたのです。
兄弟たちはできるだけ多くの人に良いたよりを伝えるためにラジオ放送も用いました。国のラジオ局で週1度の放送枠を得,「人々が考えている事柄」という番組を流すことができました。兄弟たちが取り上げたテーマは,「家族生活の危機に立ち向かう」,「犯罪と暴力から身を守る方法」といった興味を誘うもので,番組は“ロビンズ氏”と“リー氏”の対談という形で提供されました。担当した兄弟の一人はこう述べています。「アフリカのラジオ局でアメリカ英語とスコットランド英語のやり取りが放送されるのを聞くのはとても珍しいことでした。野外宣教でその番組についての
意見をよく耳にしたので,番組は確かに有用な目的を果たしたと思います」。新しい伝道者のための助け
ジンジャの群れは当時,主な住宅街であるワルクバのコミュニティー・センターで集会を開いていました。トム・クックはそのころのことについてこう語ります。「兄弟たちの多くは新しく,集会での割り当てを準備するにも,必要な出版物をあまり持っていませんでした」。何ができるでしょうか。
トムはこう続けます。「宣教者たちは住宅街の中心部に住んでいた兄弟の家に共同の図書を置きました。割り当てのある人は,毎週月曜日の晩にそこに行って図書を使い,話の準備を助けてもらいました」。今ではジンジャの周辺に会衆が幾つかあり,ナイル
の主な源流となっているこの地で霊的な漁は引き続き成果を上げています。旅行する監督が霊的な増加に弾みをつける
1963年9月,ウガンダにおける伝道の業は設立されて間もないケニア支部の監督下に置かれます。そしてウィリアム・ニズベットと妻のミュリエルが,ナイロビに拠点を置く巡回区の一部としてウガンダを訪問するよう割り当てられます。興味深いことに,ウィリアムは二人の実の兄,ロバートとジョージの歩みに倣っていました。その二人は30年以上前に先駆者としてウガンダで伝道をしていたのです。その地の奉仕者たちは今や,ニズベット家の“二代目”の熱心な働きから益を得ることになりました。
関心を示す人が増え,群れがさらに設立され,奉仕者たちが広い地域に散在して活動するようになりました。そのため,旅行する監督の定期的な訪問は,孤立して働く兄弟姉妹に肝要な訓練や励ましを与える機会となりました。それによって兄弟たちは,『エホバの目は義にかなった者たちの上にある』ことを実感できたのです。―ペテ一 3:12。
1965年,スティーブン・ハーディーと妻のバーバラは,ウガンダとそこから2,600㌔離れたインド洋上のセーシェル諸島にまで広がる巡回区の諸会衆を訪問しました。二人はある時,ウガンダへの“調査旅行”に出かけます。開拓者たちが産出的な奉仕を行なえそうな土地を見定めるためです。ケニア支部から借りたフォルクスワーゲンのバンを移動と寝泊まりのために用いて,ウガンダのほぼ全域をわずか6週間で回りました。訪れたのは,マサカ,ムバララ,
カバレ,マシンディ,ホイマ,フォート・ポータル,アルア,グルー,リーラ,ソロティなどの町々です。ハーディー兄弟は振り返ってこう語ります。「興奮を誘う旅で,とても楽しく伝道できました。地元の当局者を含め,だれもが親切で友好的でした。1軒の家を訪問していると,近所の人や通りがかりの人も加わって話に耳を傾け,“公開講演”に発展することがよくありました。人里離れているように思えた場所に車を停めると,人々が笑みを浮かべて近づいてきます。自分たちに会いに来てくれたと思うのです。手持ちの文書はすぐに底を突きます。書籍を500冊ほど配布し,『ものみの塔』や『目ざめよ!』の予約もたくさん得ました」。
ウガンダの人々は友好的で好奇心に富み,霊的な関心が強いので,大きな霊的増加の見込みがあると,ハーディー夫妻は感じまし
た。何にもまして二人は,肥沃な畑とも言えるこの地で,伝道の業にエホバの祝福が注がれているのを経験して胸を躍らせました。エホバが成長させてくださる
1965年8月12日,ウガンダのエホバの民の歴史における一つの里程標として,国際聖書研究者協会の登録がなされ,証人たちの弟子を作る業に対して法的な認可が与えられました。心の正直なウガンダ人,例えばジョージ・マエンデ,ピーター・ギャビとエスター・ギャビ,アイダ・サリといった人は,1960年代に,まだ少数とはいえ決意の固い証人たちの中核を成しました。1969年,人口が約800万人のウガンダに,75人の伝道者がいました。エホバの証人の比率は10万人以上に一人でした。1970年には王国宣明者は97人,1971年には128人になります。1972年には,162人のエホバの証人がウガンダで活発に奉仕していました。
こうした増加は励みとなりましたが,兄弟たちは自分たちの強さは人数の増加によるのではなく,「成長させてくださる神」によるということを知っていました。(コリ一 3:7)とはいえ,1970年代に生活が大きく変わり,信仰が厳しく試みられるようになるとは知る由もありませんでした。1971年,イディ・アミン将軍が軍事クーデターを起こし,それに続く独裁支配によって幾百万もの人がひどく苦悩し,幾十万という死者が出ました。政府と,新たな政治機構に反対する党派との間での衝突が増えてゆき,隣国との国境が閉鎖されることもしばしばでした。外出禁止令が出され,さらに人々が突然いなくなってしまいます。監視下に置かれる人もいました。平和を愛するウガンダの兄弟姉妹は,こうした混乱・脅迫・暴力が続く中でどう対応したのでしょうか。
「神の支配権」か,人間の支配権か
ちょうどそのころ,1972年の「神の支配権」地域大会をカンパラで開催する計画が練られていました。ウガンダ初の地域大会です。代表者がケニアやタンザニア,また遠くはエチオピアから来る予定でした。代表者たちは,高まる緊張状態,激しさを増す政党間や部族間の衝突,国境を越える際の困難にどう対処するのでしょうか。大会は中止すべきですか。兄弟たちはその件について熱烈に祈り,大会の取り決めと代表者の旅程にエホバの導きが与えられるよう請願しました。
その後,状況はさらに険悪な様相を呈します。国境に到着した代表者たちは,国外に脱出する大勢の人の姿を見たのです。多くの人が出国したのは,政府がウガンダ国籍を持たないアジア人,特にインド人とパキスタン人の追放を命じたためです。他の国の
人も,追放されるのは時間の問題だと危惧し,外国から来ていた教員などがウガンダを離れていました。そうした中で,大会出席者たちが次々に到着しました。政治的緊張の高まるその都市で,代表者たちはどんな様子を目にするのでしょうか。意外にも,カンパラは平静を保っており,会場では兄弟たちや関心を持つ人たちが到着する人を笑顔で迎えていました。代表者たちはまた,当局が市内の目抜き通りに,大会の日時と場所を知らせる大きな横断幕を掲げる許可を与えたのを知って驚きました。かつてない不穏な情勢にもかかわらず,横断幕には,「神の支配権 ― 全人類に唯一の希望を与えるもの」という公開講演の主題が大きな字で記されていたのです。
大会は妨害されることなく無事に行なわれ,最高出席者は937人でした。これはウガンダにおける清い崇拝の歴史の中で重要な意味を持つ出来事でした。外国から来ていた代表者たちは帰途に国境で足止めされたものの,意気をくじかれることはなく,全員が無事に帰国できました。政治情勢が混迷を深める中,エホバの詩 138:3。
民は主権者なる支配者エホバに忠誠を保つことを勇敢に示しました。この重要な時に,神はご自分の民が『力をもって大胆になる』ようにされたのです。―ウガンダ人でその大会に出席した人の中に,ジョージ・オチョラと妻のガートルードがいます。ガートルードはこう回想します。「それは初めて出席した大会で,わたしはその時にバプテスマを受けました」。しかし,ジョージはまだ証人ではありませんでした。熱狂的なサッカーファンで,大会が競技場で開かれるというので出席したのです。それでも,聖書研究と妻の良い振る舞いによって心を動かされ,1975年のケニアの大会で献身を水のバプテスマによって表わしました。
ウガンダ北部では早い時期に真理を学んだ一人であるガートルードは,こう思い返しています。「わたしがバプテスマを受けた1972年,自分が住んでいる場所は本当に田舎だと思っていました。今ではこの土地に王国会館,宣教者ホーム,それに翻訳事務所があります。バプテスマを受けた時よりも感動を覚えます」。
「難しい時期」
1973年6月8日,何の前触れもなくラジオやテレビで,エホバの証人を含む12の宗教グループの活動が禁止された,と報じられました。新しい政府は人々の間に恐れや疑念を植えつけ,不当にも外国人をスパイ扱いしました。宣教者が公の宣教奉仕を行なうことはますます困難になりました。ウガンダのエホバの証人は極めて「難しい時期」に入ったのです。(テモ二 4:2)彼らはどうなるのでしょうか。
同じ年に,すでに二組の宣教者の夫婦が在住許可の延長を認め
られず,国から出ていました。7月半ばには,残る12人の宣教者全員が退去させられていました。必要の大きな所で奉仕するため外国から来ていた兄弟たちは,世俗の仕事に就いていたのでもう少し滞在することができましたが,その自由も長くは続きませんでした。翌年までに全員が国外に退去させられたのです。『堅く立って,動かされない』
あとに残されたウガンダ人の奉仕者たちは当然ながら,愛する外国の兄弟姉妹が国を離れたことを悲しみました。それでも,『堅く立って,動かされません』でした。エホバが力を与えてくださったのです。(コリ一 15:58)兄弟たちの忠節な精神の典型と言えるのは,年長の兄弟アーネスト・ワマラが示した率直な反応に表われています。エホバの証人の活動が禁止されたと知らされて,「私の心にあるものまで禁止することができるでしょうか」と述べたのです。
外国人の長老が全員いなくなって,ジョージ・カドゥやピーター・ギャビのようなウガンダ人の長老はどのように対応するのでしょうか。その長老たちが深い霊性を培い,地元の文化に通じていたことは祝福となりました。ギャビ兄弟はこう説明します。「ウガンダの人が真理の側に立ってエホバに仕えるには,エホバの規準に反する習慣を捨てなければならず,多くの面で自分を厳しく律することが必要です。エホバの組織から書面で与えられる指示に全く頼って物事を進めなければならない責任ある兄弟たちにとって,自分を律することはとりわけ重要でした」。地元の長老たちは注意深く個人研究をしたので,人間の
誤った知恵に惑わされずにすみました。結果として,この試練の時期はエホバの民にとって後退の時ではなく,霊的に進歩する時となったのです。一方,一般の人々の間では不安がますます増大してゆきました。多くの人が虐げられ,軍の行動におびえて暮らす人たちも少なくありませんでした。汚職が横行したため経済が崩壊しました。美しい国土はひどく損なわれていたのです。この困難な時期に,ウガンダに住むエホバの忠実な僕たちは喜びを保つことができるのでしょうか。
喜ばしい集い
政府は,政権にとって脅威となりそうな政治集会をすべて禁止し,そのためには手段を選びませんでした。エホバの証人は厳正中立の立場を保ちながらも,集まり合うことをやめたりせず,互いに励まし合うようにという聖書の指示に従いました。(ヘブ 10:24,25)疑り深い当局の監視下で集まり合うことを続けるには,多大の勇気と創意工夫が必要でした。神の僕たちの集いにやましいところは何もないとはいえ,当局の注意を引かずに集まり合うために何ができるでしょうか。
まず,ほとんどの集会を組織し直し,少人数のグループが個人の家で集まるようにしました。大人数の時には,ピクニックに見せかけて集まりました。例えば,会衆全体は月に1回集まって,講演と「ものみの塔」研究をしました。兄弟たちは公園や個人の家の庭でピクニックを取り決めたのです。ウガンダの人々は社交好きなので,この方法はうまくゆきました。友人や親族が集まって親睦を申 16:15。
楽しむのを疑う人はいないからです。兄弟たちは,聖書や研究用の書籍を目立たないように持参しながら,実際のピクニックや屋外での調理に必要なものをすべて用意することが上手になりました。そうした集会は,古代イスラエル人が宗教的な祭りの際にどれほど喜んだかを考える機会となりました。―禁令期間中に同様の方法で,短縮された巡回大会も開かれました。政府による妨害があっても,兄弟たちは集まり合うことや良いたよりの伝道を決してやめませんでした。中には,ナイロビで開かれる地域大会に出席し,戻ってから励みとなる経験を伝えることができた人さえいました。
「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真」
責任ある兄弟たちは,証人たちが「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真」であるなら,禁令はそれほど厳格に施行されず,神権的な活動を続けられるだろうとの結論に至りました。(マタ 10:16)そのため,用心しつつも,特別開拓者は引き続き割り当てられた土地で奉仕し,伝道者たちも家から家の宣教を続けました。
とはいえ,エホバの証人の訪問を快く思わない人たちもいました。1970年代半ばのある日,ピーター・ギャビは十代の若者フレッド・ニエンデと共に奉仕していました。フレッドは,母親が1962年に真理を学んだ時はまだ赤ちゃんでした。そして十代になった今,霊的にどれほど成長したかが試みられることになります。
ある家の人は,兄弟たちがエホバの証人であることを知って怒り出します。その人は私服の警察官で,兄弟たちを逮捕し,自分の車に押し込みました。二人は当然ながら不安になりました。大勢の人がそのようにして捕まって,二度と帰って来なかったからです。ささいなことで,あるいは何の理由もなしに拷問が行なわれることもよくありました。ピーターとフレッドは警察署に行く間,エホバに平静と忠実を保つための力を祈り求めました。その警察箴言 25章15節の,「辛抱強さによって司令官も説得され,温和な舌は骨をも砕く」という言葉が真実であることをじかに経験します。幸い,その日の午後,だれの骨も文字どおり砕かれることはありませんでした。ピーターは,証人たちが法律を守り,聖書の教えに付き従うことを穏やかに説明します。それに加えて,二人の敬意のこもった態度と答えが署長の偏見を打ち砕きました。どんな結果になったでしょうか。
官は兄弟たちを署長のところに連れて行き,その前で二人を非難し,質問を浴びせました。しかし,ピーターとフレッドは署長はピーターとフレッド少年を釈放しただけでなく,例の警察官に対し,二人を元の場所に車で連れて行くよう命じたのです。面目を失った“送迎人”はしぶしぶ応じ,兄弟たちはエホバが逃れさせてくださったことに感謝しました。
警察に見つかっても,それほど不安を抱かずに済むこともありました。例えば,イマニュエル・キャミザとその妻は,エンテベの自宅で,自分たちの家族と関心を持つ少数の人たちのため,ひそかに集会を開いていました。定期的に集まっているという印象を与えないため,イマニュエルは場所を変えて,聖書研究の集いを司会していました。しばらくしてイマニュエルは,自分はうまく警察の目をかわして
いると思うようになりました。ある日,エンテベ植物園で聖書研究の集いを終えた時のことです。警察官が近づいてきたのでイマニュエルは素早く研究用の出版物を隠そうとしました。警察官は,「なぜ本を隠そうとするんですか」と尋ね,こう続けます。「あなたたちが何をしているかは分かっているし,エホバの証人であることも知っています。どこで集まっているかも知っていますよ。その気になれば,とっくに逮捕していました。まあ,これまでどおり続けたらいいでしょう」。イマニュエルは確かに集まり続けました。しかも非常に忠実にそうしたのです。イマニュエルは退職後,郷里の村に戻り,多くの反対やあざけりを忍耐しました。イエスと同じで,『自分の郷里では敬われなかった』のです。(マル 6:4)それにもかかわらず,70代という「白髪のときにもなお栄え」,集会に行くため片道30㌔の道のりを自転車で通いました。(詩 92:14)今は80代後半になり,以前ほど自転車には乗らなくなりましたが,奉仕の僕として忠実に働いています。
粘り強い開拓者たち
不穏な情勢が続く中でも,何とかして開拓奉仕を行なおうとする人たちはいつもいました。その時期に働いた温厚な開拓者ジェームズ・ルウェレケラは,1974年にバプテスマを受けました。公務員だったジェームズはその後まもなく,郷里の村の近くで伝道ができるよう,農業に転職しました。妻もしばらく研究しましたが,やがてジェームズに反対するようになり,その反対はひどくなったのです。
例えば,ある朝まだ暗いうちに,ジェームズと幾人かの兄弟はナイロビで開かれる地域大会に出席するために出かけました。後に車が警察の検問所で止まった時,兄弟たちはジェームズの服装が
おかしいことに気づきました。いつもの兄弟らしくない,場違いな服装をしていたのです。兄弟は最初,暗い中で急いで着替えたので気づかなかったと,とぼけていました。しかし,同乗していた兄弟たちから問い詰められ,妻が大会に行かせまいとして,集会用の服を隠したことを打ち明けました。そのため,そばにあった服をともかく身に着けるしかなかったのです。ジェームズは親切な旅仲間たちから服をもらい,ふさわしい装いで会場に到着しました。ジェームズが家族や近所の人たちから受けた反対は,単に不都合という程度のものからもっと激しいものまで,さまざまでした。その反対はずっと続きましたが,ジェームズは終始温和な態度で耐え,2005年に亡くなるまで忠実な歩みの記録を残しました。兄弟たちは今もジェームズが示した信仰を忘れていません。エホバ神もジェームズのことを覚えておられるに違いありません。
「苦難のときのために生まれた兄弟」
「真の友はどんな時にも愛しつづけるものであり,苦難のときのために生まれた兄弟である」と聖書は述べています。(箴 17:17)ウガンダのエホバの証人が1970年代に苦難や危険を忍んだ時,ケニアの兄弟たちは確かに真の友となりました。旅行する監督や支部の代表者が国境を越えてウガンダに入り,愛する兄弟姉妹に支援や励ましを与えるには,勇気が必要でした。
1978年にウガンダ軍の一党派はタンザニア領に侵攻し,政治的混乱が生じました。タンザニア軍は応戦して1979年4月にウガンダ政府を倒し,恐れられていた独裁者イディ・アミンは国外に逃れます。アミンの突然の失脚は,ウガンダに多くの変化をもたらしました。ある兄弟は,「アミンと共に禁令は去った」と述べています。ウガンダ・タイムズ紙(英語)には,「宣教者は自由に戻ることができる」
という知らせが掲載されました。エホバの民は再び宗教的自由を得たのです。「わたしを殺そうとする人がいるとしても,行こう」
政権が替わった後も混乱は続き,自由になったという実感は得られず,国は疲弊する一方でした。無政府状態の中で略奪や蛮行がまかり通ります。そうした状況でしたが,ケニア支部の兄弟たちは,ギュンター・レシュケとスタンリー・マクンバがウガンダを訪れて巡回大会を再び開くよう直ちに取り決めます。
ギュンターは当時を振り返ってこう言います。「戦争が終わったばかりのウガンダに行く2週間前,私たちはケニア山に近いメルーで開かれた開拓奉仕学校で教訓者を務めていました。カンパラで,特に夜間に人が大勢殺されていることが新聞に出ていました。ある部分を声に出して読んでから,『しかも,ここは自分たちが来週行く場所じゃないか』と思わず声を上げました。でも,『割り当てから逃げたヨナのようになりたいのか』と考えました。すぐに不安を振り払うことができ,『わたしを殺そうとする人がいるとしても,行こう。ヨナのように逃げたりはしない』と自分に言い聞かせました」。
兄弟たちは予定どおり出発します。スタンリーは国の奥地の会衆を訪問し,ギュンターは大きな町で奉仕しました。二人はこう報告しています。「戦争の後に,多くのことを組織し直す必要がありました。そのころウガンダの活発な伝道者は113人しかいませんでした。再び自由に集まり,堂々と大会を開けることを皆が喜んでいました。うれしいことに,241人が出席したのです」。真理の種はひどく踏み荒らされたものの,まだ実を結ぶことは明らかでした。
危険な時期
ウガンダを訪問していた二人の兄弟ギュンターとスタンリーは,
東部国境に近いムバレで,宿泊した家の前に一晩車を停めました。その晩,泥棒が車の部品を取り外す音が聞こえました。ギュンターは泥棒を追い払おうかとも思いましたが,その週の初めに,ある人が盗みを阻もうとして強盗の一味に撃ち殺されたことを思い出しました。それで思い直し,命のほうが車よりも大切だと考えて手出ししませんでした。夜が明けて見てみると,タイヤ2本とフロントガラスが盗まれていました。警察に被害を届け出ると,「ほかの部品も取られないうちに,さっさと車を移動させておくことですね」と忠告されました。二人の兄弟はできるだけ早く,カンパラに向かうことにしました。しかし,フロントガラスなしで雨風の吹きつける中を,ギュンターは毛布を,スタンリーは帽子をかぶって250㌔の旅をするのですから,快適とは程遠い状態でした。盗まれたタイヤの代わりに,1本はスペアタイヤを,もう1本は空気が漏れるタイヤを借りて付けました。心配に追い打ちをかけるかのように,借りたタイヤは二日以内に返してほしいと言われたのです。兄弟たちはタイヤの空気が抜けないことを願い,肩の力も抜けませんでした。
さらに厄介なことに,ギュンターとスタンリーは,強盗がよく出ることで知られる森の中の道を通らなければなりませんでした。泊めてくれた家の人から,「スピードを上げて走り,だれにも追い越されないようにすることです」と忠告されました。勇敢な兄弟たち
は,記録的な速さでカンパラに無事に到着し,胸をなで下ろしました。借りたタイヤを期限内にムバレに持ち帰ってくれる人も,ちょうど見つかりました。新たな見込みと問題
ギュンター・レシュケ兄弟は,1980年にニューヨーク,ブルックリンの世界本部を訪れた際,ウガンダにおける進展についてベテル家族に対して報告を行ないました。その報告を聞いた統治体の兄弟たちは,可能ならウガンダに再び宣教者を派遣したいという意向を示しました。宣教者の活動を再開する時期が来たというのは,だれもが認めるところでした。大きな集まりを再び持てるようになり,すでに1981年にはウガンダの伝道者の数は回復し,175人になりました。同じ年の7月には喜ばしいことに,新最高数の206人を記録したのです。
残念なことに,それまでの10年に及ぶ戦闘の後,捨てられた武器や弾薬が多くの無法者の手に渡りました。銃の乱射や窃盗が頻発しました。良いたよりの伝道者たちは用心しつつ,慰めとなる聖書文書を国じゅうで配布するよう努め,7月には伝道者の雑誌配布の平均は12.5冊でした。しかし,野外奉仕も他の活動と同様,日中のみに行なうのが賢明であると判断されました。暗くなると襲撃される危険が増すからです。こういう危険にもかかわらず,増加の見込みがあることは明白でした。
宣教者を再び迎える
1982年9月,ギレアデ卒業生のジェフリー・ウェルチとアリ・パルビアイネンが,ケニアからカンパラに移ってきました。ジェフとアリとして知られた二人は,最初から喜ばしい成果を得ました。ジェフ
は振り返ってこう述べています。「当時人々は霊的に飢えていたので,興味深いテーマの雑誌は,何も言わなくても配布できるほどでした」。12月には,ドイツのウィースバーデンのギレアデ分校を出たハインツ・ウェルトホルツと妻のマリアンネがジェフとアリに加わります。奉仕を始めたウェルトホルツ夫妻は,ウガンダの兄弟たちが疲弊した危険な土地でたくましく生きていることに心を打たれました。
ハインツはこう語ります。「水道や通信などの公的サービスはほとんど機能しておらず,政治情勢も緊迫したままでした。クーデターが起きるといううわさが一度ならず流れ,あちこちで軍が道路を封鎖していました。銃の発砲や盗みが頻発し,夜間は特にそうでした。暗くなると,通りから人影は消え,皆が家の中にとどまりました。招かれざる客がやって来ないようにと願いながら,祈る気持ちで夜を過ごしたのです」。
ハインツとマリアンネは,宣教者ホームとなる家が見つかるまで,サム・ワイスワの家に同居させてもらいました。サムは教職に就いていましたが,国の経済状態のために蓄えがわずかになってしまいました。そうした中でサムの家族が示したもてなしは,特筆すべきものでした。
ハインツはこう言います。「安全な地域でなかなか家が見つからなかったので,結局サムの家に5か月お世話になり,その間に互いによく知り合うことができました。サムの家族は大人数で,食事が1日1回だけということもありましたが,いつも幸せそうでした。子どもたちは従順で,よく人に敬意を払っていました。水道が当てにならなかったため,子どもたちは水をくみに行きました。20㍑入りのポリ容器に水を入れ,頭に乗せて家まで運ぶのです。私たち
が奉仕を終えて帰ると,きれいな水がいつもありました。もちろん,節水するよう心がけました。例えば,少しの水で体を洗い,使った水を取っておいてトイレを流すために用いました」。1983年4月,比較的安全な地域で4人の新しい宣教者が住める家が見つかります。以前の宣教者たちがウガンダを去ってから10年近くたっていました。治安はまだ悪く,物資も乏しかったため,苦労も多くありましたが,地元の兄弟たちが愛を示してくれたので,そうした不都合は何でもないように思えました。
マリアンネはこう言います。「良いたよりを伝えることはいつも喜びでした。人々は信仰が厚く,たいてい聖書を持っていて,会話もよくできました。皆とても近づきやすく,礼儀正しいのです。経済的な困難や他の問題があっても,いつも笑顔で接してくれました」。
意欲あふれるお年寄り
ウガンダでは一般にお年寄りは敬われています。年配者の中には良いたよりにこたえ応じ,高齢でもエホバへの奉仕を行なうようになった人も少なくありません。例えば,若いころに教師をしていたパウロ・ムカサは,89歳で真理を学びました。二度の世界大戦,植民地支配,残虐な独裁支配,他の政治的動乱の時代を生き抜いたパウロは,神の王国について熱心に学びました。メシアなる王イエス・キリストが『貧しい者,また,苦しんでいる者を虐げと暴虐から救い出す』ことを知って,とても喜んだのです。―詩 72:12,14。
その2年後にパウロがバプテスマを受ける資格を備えた時,兄弟たちは,『これほど高齢の人を水中に完全に浸して大丈夫だろうか』と案じました。しかし,心配は無用でした。若いバプテスマ希望者の中には水に入るのを怖がる人もいましたが,91歳のパウロはバプテスマを受け,満面に笑みをたたえて水から上がりました。宣教奉仕の面でできることが限られていたとはいえ,その数年後に亡くなるまで,家に訪ねて来る人に王国の良いたよりを熱心に伝えました。
ロビンサ・ナカイマ姉妹は,高齢の上,健康の問題を抱えていました。病気のために両足が腫れてしまい,介助なしでは出かけることができませんでした。それでも,記念式の時期に1か月補助開拓をするようにとの励ましが会衆で与えられ,自分もしてみたいと思いました。会衆の成員は,関心のある人をロビンサの家に連れて来て聖書研究をし,開拓奉仕ができるように助けました。宣教者たちはまた,手紙の書き方を教えたので,ロビンサは都合の良い時間に村の人たちに手紙を書くことができました。そして土曜日
には,一人の長老がロビンサをカンパラの繁華街に連れて行き,座りやすい低い塀の上に腰掛けて一日じゅう通行人に証言できるようにしました。月末にロビンサは喜びと満足にあふれ,「わたしにもできました。とても楽しかったですよ」と言いました。姉妹は補助開拓をその月だけでなく,会衆の親切な支えによって11か月連続で行なったのです。「……は何と言うのですか」
1980年代には,ウガンダに毎年のように宣教者が入って来るようになり,地元の勤勉な伝道者たちは意欲あふれる宣教者を温かく迎えました。新たにギレアデを卒業した人もいれば,宣教者として割り当てられていたザイール(現在のコンゴ民主共和国)を退去させられた人もいました。カンパラとジンジャで宣教者が増えたため,人口の集中したそれらの区域を以前よりもよく回れるようになりました。ウガンダの畑は収穫の時を迎えており,宣教者たちは胸を躍らせます。実のところ,関心を持つ人を見いだすことよりも,いかにして関心を高めてゆくかが課題となったのです。
ギレアデでの数か月におよぶ訓練を受けて熱意にあふれていたマッツ・ホルムクビストは,真理に対する人々の関心を高めるため地元の言語を習得する意欲に燃えていました。そのころ,フレッド・ニエンデがエンテベで特別開拓奉仕をしていました。フレッドは翻訳や通訳ができたので,新しい宣教者たちがガンダ語をきちんと話せるよう教えることになりました。ガンダ語は,発音しにくい言葉がとても多い言語です。マッツもこの言語を学ぶ際に圧倒されそうになりました。
マッツは言語の授業を受け始めたころ,「ガンダ語で『神の王国』は何と言うのですか」と尋ねました。
するとフレッドは,「オブワカバカ・ブワ・カトンダ」とすらすら答えます。
『絶対無理だ』とマッツは思い,質問したことを後悔しました。それでも,マッツは急速に進歩し,ガンダ語を上手に使えるようになりました。
取り入れが進む
1980年代のほとんどの期間,ウガンダの人々は困難を経験したにもかかわらず,聖書の真理に対する反応には目をみはるものがありました。伝道者の数は急増し,増加率は130%を超えました。1986年には328人でしたが,1990年には766人になったのです。国内のあちこちに新しい群れが発足しました。カンパラでは会衆の数が倍になりました。ジンジャの会衆は,喜ばしいことに伝道者数が3倍以上になり,イガンガの群れはすぐに会衆になったのです。
ジンジャに住む長老は当時の様子をこう述べています。「増加がとても早く,これらの伝道者はどこからやってきたのだろうと思ったほどです。しばらくのあいだ,日曜日はほぼ毎週,伝道者になることを希望する人たちと会合を持たなければなりませんでした」。
さらに大きな畑で収穫する
目覚ましい増加に貢献した一つの要素は,兄弟たちのりっぱな開拓者精神です。1世紀の伝道者パウロ,シラス,テモテのように,ウガンダの全時間奉仕者も『自分自身を見倣うべき手本として示し』ました。(テサ二 3:9)野外における必要が増し,良い手本があったので,熱意を抱く大勢の伝道者が宣教奉仕を拡大するよう 動かされました。若い人も年配の人も,独身者も既婚者も,男性も女性も,さらには扶養家族を持つ人も,勤勉に働く開拓者の隊伍に加わったのです。1980年代の終わりには,平均で全伝道者の25%以上が何らかの開拓奉仕を行なっていました。その中には,現在まで全時間の奉仕を続けている人もいます。
開拓者たちは毎年の特別な伝道活動を進んで支持し,それを“マケドニア・キャンペーン”と好んで呼びました。(使徒 16:9,10)これまで幾年もそうしたキャンペーンが行なわれています。未割り当ての区域やあまり奉仕されていない区域で会衆は最長3か月,伝道をします。さらに,正規開拓者の中には必要の大きな区域に一時的な特別開拓者として割り当てられる人もいます。とても喜ばしい結果が得られました。多くの誠実な人がそうした活動に対して感謝を表わしています。それによって人々は真理に接し,さらには新しい群れや会衆がたくさん設立されたのです。
ある年のキャンペーンで,宣教者のペーター・アブラモフとミハエル・ライスはカバレという町で伝道し,以前に聖書研究をしたことのあるマーガレット・トファヨに会いました。マーガレットは,学んだ事柄が真理であると確信し,自分が信じた教えについて周りの人たちに話していました。宣教者たちは,マーガレットを何とか助けたいと思い,手元に1冊しかなかった個人用の「聖書から論じる」の本をあげました。兄弟たちは,帰る前にもう一度マーガレットのもとを訪ねると,自分たちのためにごちそうを準備してくれたことを知って驚きました。彼女の親切と寛大さに心を打たれましたが,一羽しかいないニワトリを調理してくれたことを知って申し訳なく思いました。そのニワトリの産む卵が,いつも質素な食事をしている家族の貴重な栄養源だったことを知っていたからです。すると
マーガレットは,「だいじょうぶですよ。皆さんはここにおられる間,この一度の食事よりも多くのものをくださったのですから」と言いました。彼女は後にバプテスマを受け,亡くなるまで伝道者として熱心に奉仕を続けました。急速な増加の別の要因として,兄弟たちが優れた出版物をよく活用したことも挙げられるでしょう。少し前に出てきたマッツはこう述べています。「教え手として技術を磨くよう努めたとはいえ,人々の心を大きく動かし,生活を変える力となったのは聖書と出版物です。真理を渇望している人の中には,文字をよく読めなくても,有用なブロシュアーによって心を動かされた人たちがいます」。
障害に取り組む
1980年代終わりに胸の躍るような前進が見られたものの,問題がなかったわけではありません。1985年7月に起きたクーデターで,再び軍が政権を握りました。またもや治安が悪化し,ゲリラ戦が激しさを増したのです。敗走する兵士たちが凶行におよび,略奪を働き,人々に対して無差別に発砲しました。しばらくは,ジンジャの宣教者たちが住む地域でも戦闘が行なわれました。ある日,宣教者ホームが兵士たちに襲撃されましたが,住んでいるのが宣教者だと知ると,器物を壊したりはせず,わずかな物を奪っただけでした。1986年1月には再び政権が替わり,国内の安定を回復させる努力が払われました。
発足した政府は程なくして,新たな,しかも破壊的な敵との対決を余儀なくされます。その敵とはエイズです。1980年代にエイズが大流行した時,ウガンダはとりわけ深刻な影響を受けた国の一つでした。その死者は100万人とも言われており,15年以上に及ぶ
政治的混乱と内戦による死者の数を上回るものと思われます。この病気は兄弟たちにどんな影響を与えたでしょうか。正規開拓者のワシントン・セントンゴはこう述べています。「新しい兄弟姉妹の中には,大きな熱意と活力にあふれて真理に入ったものの,エイズに打ち負かされた人たちがいます。真理を学ぶ前に感染していたのです」。信者でない配偶者からエイズをうつされた人たちもいます。
ワシントンはこう続けます。「時には毎月のように,愛する仲間の葬式の知らせを聞きました。だれもが家族や親族を亡くしていました。さらに,エイズについての迷信も広まっていました。エイズを魔術やのろいと関連づける人も少なくありませんでした。そうした思い込みのために人々は恐れを抱き,根拠のない偏見を持ち,物事を論理的に考えることができなくなっていたのです」。そういう中で兄弟姉妹は忠節な態度を示し,復活の希望によって互いを慰め,クリスチャンとしての愛が純粋なものであることを明らかにしました。
1980年代の末になると,国内で楽観的な見方が広がります。治安が回復し,国の経済も好転していました。生活基盤の整備も進み,公的な制度が新たに確立されたり再び機能したりするようになりました。
とはいえ,人々が政治的な理想を追求するようになるにつれ,エホバの証人の中立の立場について,時に誤解が生じました。一例として,王国会館の建設が当局により理由もなく中止させられたことがあります。幾つかの大会は,開催の許可が下りませんでした。宣教者の中には滞在の延長が認められず国を離れなければならくなった人たちもいます。1991年の終わりには,国内に二人
の宣教者の兄弟が残っているだけでした。状況を改善するために何ができるでしょうか。結局,エホバの証人の代表者たちが当局と会見し,中立の立場について説明しました。当局はわたしたちの立場を理解すると,宣教者たちがウガンダに戻る許可を与えました。以来,業は妨げられることなく続けられ,1993年には喜ばしいことに伝道者が1,000人に達します。それからわずか5年で王国伝道者は2,000人になりました。現在では約40人の宣教者が国内各地で良い働きをしています。
翻訳によって取り入れの業が速まる
国のどこでも英語は通用しますが,最も広く用いられている地元の言語はガンダ語です。ほかにも種族ごとにさまざまな言語が話され,その数は30以上になります。そのため,翻訳の業における進展が最近の速やかな増加に大きく貢献しています。
フレッド・ニエンデはこう述べています。「母は忠実なエホバの証人ですが,私が研究記事を英語からガンダ語に訳したところ,集会からもっと益が得られるようになりました。そのことが将来,より多くの翻訳を行なう際の練習になるとは思ってもみませんでした」。どういう意味でしょうか。
フレッドは1984年に開拓奉仕を始め,その少し後,宣教者たちにガンダ語を教えるよう頼まれます。翌年には,ガンダ語の翻訳チームの一員となります。初めのうち,フレッドと他の翻訳者たちは,空いた時間に自宅で作業をしていました。後には宣教者ホームにつながった小さな部屋で,全員一緒に翻訳ができるようになります。興味深いことに,1970年代半ばの禁令期間中に,「ものみの塔」誌の幾つかの号はガンダ語に訳され,謄写版で印刷されて
いました。しかし,しばらく後にこの作業は中止されました。1987年になって,「ものみの塔」誌は再びガンダ語で発行されることになります。それ以来,翻訳チームは増員されてきました。そしてガンダ語の会衆の増加に伴い,さらに多くの出版物を翻訳するために勤勉な奉仕が行なわれています。今では国内の半数近くの会衆でガンダ語が用いられています。やがて出版物は他の言語にも翻訳されます。現在では,アチョリ語,ルコンゾ語,ルニャンコーレ語への翻訳を全時間行なうチームがあり,継続的にその仕事をしています。さらに,幾つかの出版物がテソ語(アテソ語),ルグバラ語,マディ語,ルトロ語に訳されています。
アチョリ語のチームはグルーの翻訳事務所で,ルニャンコーレ語のチームはムバララの翻訳事務所で作業をしています。それぞれの言語が主に用いられている場所で翻訳が行なわれているのです。そのおかげで翻訳者たちは,母語にいつも通じ,分かりやすい訳を作ることができます。同時に,地元の会衆はそれらの兄弟たちが交わることから益を得られます。
翻訳は確かに多くの労力や出費を要する仕事です。世界の他の言語の翻訳チームと同じように,ウガンダの勤勉な翻訳者たちも,言語の理解力と翻訳の技術を向上させる面で優れた訓練を受け,その益にあずかっています。実際,つぎ込まれた労力や費用を補って余りある成果が見られているのです。ウガンダではこれまで以上に,さまざまな「部族と民と国語」の中から来た人たちが,聖書の真理を母語で読んで益を受けています。(啓 7:9,10)結果として,2003年にはウガンダの王国伝道者は3,000人を超え,わずか3年後の2006年には4,005人になったのです。
崇拝の場所がさらに必要になる
兄弟たちは最初のころ,個人の家やコミュニティー・センターや学校の教室で集会を開いていました。専用の集会場として最初に作られたのは,ナマインゴとルセセという田舎の村にあった,日干しレンガと草ぶき屋根の建物です。この二つの地域の兄弟たちが進んで払った努力が祝福されたのは明らかで,現在では両方の村に安定した会衆があります。
しかし,都市部では簡素な建物を造るにしても多額の資金が必要で,ウガンダの経済状況を考えると王国会館を持つのは現実的でないように思えました。それでもついに1988年3月,国内初の王国会館がジンジャで献堂されたのです。それは大きな労力を要するものでした。近くの森から木を切り出し,それを積んでぬかるんだ道を行き,ようやく建設にこぎつけます。後にはムバレ,カンパラ,トロロに住む兄弟たちも,創意工夫をし,技術を生かして王国会館を建てました。
王国会館の建設に弾みがついたのは,1999年に南アフリカ支部の地区設計事務所の支援によって建設グループが立ち上げられた時のことです。支部は9人の奉仕者から成るグループを任命し,その中にはインターナショナル・サーバントの夫婦が二組含まれていました。意欲的な奉仕者たちはすぐに仕事を覚え,同時に地元の兄弟たちを訓練することもできました。こうして建設は順調に進み,平均1か月半に1軒のペースで67軒の王国会館が完成しました。電動工具が少なく,水がしばしば不足し,建設資材の調達も当てにならない状況を考えると,これは驚くべき速さです。
今ではウガンダのほとんどの会衆が自分たちの王国会館で集会を開き,地元に会館があることから益を得ています。関心を持つ
人は,学校の教室ではなく,崇拝のためのきちんとした場所があるのを知ると,喜んで出席しようとします。実際,集会の出席者数は急速に増え,会衆は速い勢いで拡大しています。急速な拡大に対応する
一方,会衆における驚異的な増加に伴い,大会についても,使用できる既存の数少ない会場では対応しきれなくなっていました。田舎に住む人たちは特にそうですが,どうすれば兄弟たちが遠くまで出かけずにふさわしい場所で大会を開けるでしょうか。皆が喜ぶ解決策として,拡張可能な王国会館を建てることが承認されたのです。会館そのものは普通の大きさで,拡張部分は壁がなく,屋根と床だけになっています。大会の時に王国会館の後方の壁を開放すると,拡張部分の屋根の下でも聴衆はプログラムを聞くことができるのです。そうしたホールはすでにカジャンシとルセセとリーラで完成し,四つ目のホールがセタで建設中です。
エホバの祝福によってウガンダで霊的な増加が生じたことに伴い,組織上の調整も必要になりました。1994年以前には,国全体の巡回区は一つだけでしたが,後にはさらに多くの巡回区が設けられました。増加する会衆や群れ,また異なる言語を用いる人たちの必要を顧みるためです。現在ウガンダには,111の会衆,50ほどの群れ,八つの巡回区があり,そのうち三つはガンダ語の巡回区です。
ウガンダの巡回監督の一人であるアポロ・ムカサは,1972年にバプテスマを受けました。そして1980年,高等教育を追い求める代わりに全時間奉仕を始めました。アポロはその決定を後悔していますか。
本人はこう言います。「そんなことはありません。特別開拓者と
して奉仕し,さらに旅行する監督として会衆を,初めのころは群れを訪問することで,報いの多い経験をたくさんしてきました。特に良かったのは,宣教訓練学校で霊的,また組織的な事柄に関する優れた訓練を受けられたことです」。1994年以降,アポロのほかにもウガンダの50人以上の兄弟たちが宣教訓練学校で貴重な教育を受けました。当初,幾つかのクラスはケニア支部で開かれました。進んで働くこれらの兄弟たちの中には,小さな会衆や群れで特別開拓者として肝要な奉仕をする人もいれば,旅行する監督として兄弟姉妹に仕えている人たちもいます。
1995年にはウガンダに国内委員会が任命され,ケニア支部の監督下で奉仕することになりました。カンパラの宣教者ホームのうち一軒が8人の全時間奉仕者の住まいとなります。その家族の中にガンダ語の翻訳チームも含まれていました。2003年9月,ウガンダは支部になりました。
「ここはまるで楽園ですね」
その間にも翻訳チームは増加し,事務所の仕事も増え,国内委員会はそうした状況に対応しようと努力していました。これらの必要を満たすために,カンパラの事務所に隣接する二つの物件が購入されます。やがて,さらなる増加に対応するため,もっと大きな施設が必要になります。2001年,統治体はカンパラ郊外のビクトリア湖の近くに,新しい支部施設のための4ヘクタールの土地を購入することを承認しました。
初めのうち,建設を依頼するのに最適と思えた会社は,すでに仕事がいっぱいで請け負ってくれませんでした。しかし,突然気が変わり,しかも驚いたことに,新しい支部の建設費として最も低い
額を提示してきたのです。すでに受注していた大口の契約が急に取り消されたらしく,すぐにでも支部建設の契約を結びたかったようです。2006年1月にベテル家族は,部屋が32ある,新しい2階建ての立派な宿舎に引っ越し,とても喜びました。敷地内には事務棟,広々とした食堂,厨房,洗濯室があります。さらに,環境に配慮した下水設備,発送部門と文書部門のための倉庫,またメンテナンスの作業場や貯水や自家発電のための建物もあります。一人の兄弟
は熱っぽく,「ここはまるで楽園ですね。ないのは永遠の命だけですよ」と語りました。献堂式は2007年1月20日,土曜日に行なわれ,統治体の成員アンソニー・モリスが話をしました。真の知識が満ちあふれる
ウガンダのエホバの民はここ数十年,情勢が不穏な時と平穏な時とを経験し,『順調な時期にも難しい時期にもみ言葉を宣べ伝える』とはどういうことかを学んできました。(テモ二 4:2)喜ばしいことに,2008年には4,766人の伝道者が1万1,564件の聖書研究を司会し,キリストの死の記念式に1万6,644人が出席しました。これらの数字や,6,276人に一人という伝道者の比率も,この土地の畑が今なお『収穫を待って白く色づいている』ことを示しています。―ヨハ 4:35。
それと共に,ウガンダの兄弟姉妹は,状況が突然変わって不意に信仰の試みが臨む場合があることを悲痛な経験から学んできました。ですがそうした経験を通して,エホバとみ言葉による導きに,さらには世界的な兄弟たちの支えに信頼を置くことを教えられたのです。
み使いは忠実な老齢の預言者ダニエルに,『終わりの時に真の知識が満ちあふれる』ことを告げました。(ダニ 12:4)エホバの祝福により,ウガンダにおいても真の知識が確かに満ちあふれています。大河ナイルの源流であるこの地域において,真理の水は今後も豊かにわき出て,霊的真理を切望するすべての人の渇きをいやしてゆくに違いありません。エホバはこれからも全地における活動を祝福してゆかれ,やがてすべての人が一致してエホバに力強い賛美の声を上げる時が来るでしょう。わたしたちはその時を待ち望んでいます。エホバへの賛美は,永遠にわたってささげられるのです。
[脚注]
^ 25節 フランク・スミスの生涯に関する経験は,「ものみの塔」誌,1995年8月1日号,20-24ページに掲載されています。フランクの父親であるフランク・W・スミス,おじ夫婦のグレー・スミスと妻のオルガは,東アフリカでごく早い時期に伝道を行なった人たちです。フランクの父親は,ケープタウンの家に戻る途中にマラリアで亡くなりました。フランクが生まれる2か月前のことです。
^ 26節 発行: エホバの証人。現在は絶版。
[84ページの拡大文]
『アフリカのラジオ局でアメリカ英語とスコットランド英語のやり取りを聞くのはとても珍しいことでした』
[92ページの拡大文]
「私の心にあるものまで禁止することができるでしょうか」
[111ページの拡大文]
「ガンダ語で『神の王国』は何と言うのですか」「オブワカバカ・ブワ・カトンダ」
[72ページの囲み記事/図版]
ウガンダの概要
国土
ウガンダは驚くほど変化に富んだ国で,うっそうとした熱帯雨林,広大なサバンナ,多くの川や湖,雪を頂く雄大なルウェンゾリ山地などがあります。面積は24万1,551平方㌔で,その中にはアフリカ最大の湖,ビクトリア湖のほぼ半分が含まれています。
住民
30ほどの種族で構成され,人口の85%以上は田舎の地域に住んでいます。
言語
ウガンダで話される32以上の言語の中で最も広く用いられているのはガンダ語です。公用語は英語とスワヒリ語です。
生活
コーヒー,紅茶,綿花その他の換金作物が生産されています。ウガンダは農業国で,人々はたいてい農業で生計を立て,自給自足の生活をしています。中には漁業や観光で生活している人もいます。
食物
プランテーンで作ったマトーケ(写真)という蒸し料理は,国の南部の大部分で一般的です。コーンミール,サツマイモ,キビやキャッサバの粉で作ったパンと共に,さまざまな野菜を食べます。
気候
ウガンダは高原に位置し,その標高は南は約1,500㍍,北は900㍍ほどです。熱帯の国でありながら気候は穏やかで,ほとんどの地域では乾季と雨季がはっきりしています。
[77ページの囲み記事/図版]
純粋なクリスチャン愛に心を打たれる
ピーター・ギャビ
生まれた年 1932年
バプテスマ 1965年
プロフィール 長老で,禁令期間中に出版物を翻訳した。妻のエスターと共に4人の子どもを育てた。
■ エホバの証人の宣教者たちが初めてウガンダにやって来た当時は国の中で人種偏見が根強く,ほとんどの白人はアフリカの黒人と距離を置いていました。それら宣教者の純粋なクリスチャン愛に心を打たれ,私たちも宣教者を深く愛するようになりました。
1970年代に,私たちの家族は65㌔離れたムバララに住む宣教者たちと共に交わり,伝道をしていました。ある日,ムバララに向かう途中,兵士たちに車を止められ,その一人から,「命が惜しければ引き返すことだな」と言われます。その時は言われたとおり家に戻るほうが良いと感じました。しかし,それから数日が過ぎ,宣教者たちのことがますます心配になりました。安否を確かめに,できるだけ早く宣教者ホームに行かなければと思ったのです。その地域への通行は厳しく規制されていましたが,私は病院職員としての立場を利用し,病院のステッカーの付いた車で出かけ,道中の検問を通過することができました。宣教者たちが無事であることを知り,胸をなでおろしました。私たちは食糧を補給してそこに数日滞在しました。その後,宣教者たちがカンパラに安全に引っ越すまで,毎週様子を見に行きました。状況が困難になればなるほど,貴重な兄弟愛の絆の強さを経験したのです。
[82ページの囲み記事/図版]
「人に話すことなどできないと思ったのです」
マーガレット・ニエンデ
生まれた年 1926年
バプテスマ 1962年
プロフィール ウガンダ人の中で真理を受け入れた最初の姉妹。正規開拓者として20年以上奉仕し,今も活発な伝道者。
■ キルミンスター兄弟と聖書研究をしていた夫は,私も研究したらよいと考えました。私が聖書を深く愛していたからです。それで,ジョン・ブワリの妻ユーニスと研究することになりました。
研究は楽しかったのですが,伝道に出ることに恐れを感じました。私はもともと内気なほうで,人に話すことなどできないと思ったのです。しかし,ユーニスは辛抱強く助け,まず聖句を一つだけ読むよう勧めてくれました。そして家々を訪問する合間に,その聖句をどう説明するかを教えてくれました。エホバの支えによって恐れを克服することができました。
私がバプテスマを受ける少し前に,衝撃的な出来事がありました。夫が真理を退け,私と子ども7人を捨てて家を出て行ったのです。それでも兄弟姉妹は本当に親切で,私や子どもたちに生活の面や霊的な面で助けを与えてくれました。ある外国人の夫婦は,カンパラでの集会に向かう途中に立ち寄って,私と子どもたちを車に乗せてくれました。たいへん喜ばしいことに,今では子ども4人とその家族がエホバに仕えることを選んでいます。
やがて私は正規開拓奉仕を始めました。関節炎のためにあまり動けなくなってからは,家の前にテーブルを置いて文書を並べ,そばを通る人に話しかけるようにしました。こうして全時間奉仕を続けることができました。
[98,99ページの囲み記事/図版]
神は霊的収穫の業を祝福してくださった
サミュエル・ムクワヤ
生まれた年 1932年
バプテスマ 1974年
プロフィール 多年にわたって法的な面で組織の代表者を務めてきた。長老また開拓者としても奉仕した。
■ ケニアのナイロビにある支部事務所を見学した時のことは,今も忘れません。
ウガンダの地図を見ながら,「この色付きのピンは何を示しているのですか」と私は尋ねました。
「ここは関心のある人が大勢いる場所ですよ」と,ケニアの支部委員会の成員ロバート・ハートは答えました。
私の郷里イガンガに,目立つ色のピンが刺してあったので,「ここにはいつ開拓者を送るのですか」と聞いてみました。
すると,「だれも送る予定はありません」という答えが返ってきました。そしてハート兄弟は私を見つめ,茶目っ気たっぷりに,「行くのはあなたですよ」と言ったのです。
兄弟の意外な答えに驚きました。私は開拓者ではなく,郷里に住んでいたわけでもなかったからです。ですが,このやり取りがずっと心に残り,公務員だった私は退職後,郷里に戻って正規開拓者になることにしました。その地で,ほんの一握りしかいなかった伝道者が急速に増え,自分たちの王国会館を持つしっかりとした会衆になるのを見るのは,大きな喜びでした。
パトリック・バリゲヤがイガンガに特別開拓者として割り当てられた時,兄弟は私の家に住み,私たちは一緒に開拓奉仕をしました。さらに,
自家用にトウモロコシを植えました。毎日,早朝にその日の聖句を討議した後,何時間かトウモロコシ畑で作業をしました。そして午前のうちに区域に向かい,日中ずっと宣教奉仕をしました。トウモロコシの苗が育つにつれ,近所の幾人かの人から,伝道よりも,もっと畑の世話をしてはどうか,と言われました。トウモロコシが実をつける時期には,サルに食い荒らされないよう見張っている必要があるということは分かっていました。でも,サルを追い散らすだけのために霊的な収穫の業を中断したくはありませんでした。
それから間もなく,私たちの畑のそばを2匹の大きなイヌがうろつくようになりました。どこから来たのか,だれのイヌなのかは分かりませんでしたが,追い払わずに毎日えさと水を与えました。イヌが畑のパトロールをしてくれたおかげで,サルは姿を見せませんでした。約4週間後,2匹のイヌは来た時と同じように,突然姿を消しました。しかも,トウモロコシ畑を見張る必要がある間は,ずっといてくれたのです。たくさん収穫できたことをエホバに感謝しました。トウモロコシはサルの口ではなく,私たちの口に入ったのです。さらに,もっと重要なこととして,神が私たちの霊的収穫の業をも祝福してくださったことに,感謝の思いを深めました。
[101,102ページの囲み記事/図版]
拘束され,また支えられる
パトリック・バリゲヤ
生まれた年 1955年
バプテスマ 1983年
プロフィール バプテスマを受けたのち間もなく全時間奉仕を始める。妻のシンフロニアと共に旅行する奉仕をしている。
■ 新しい政府が権力を握った1979年,旧政権とつながりのある人々に対し,保護拘置に応じるようにとの“招き”がなされました。この取り決めに協力しない人は新政権に敵対しているとみなされ,相応の扱いを受けるということが告示されました。私は軍楽隊に所属していたことがあったので,拘置所に入らなければなりませんでした。
感謝すべきことに,拘置されているあいだ知力が鈍らないよう聖書を毎日読むことができました。さらに,真理を求めていた私は,他の受刑者と聖書に関連した事柄について語り合うのが好きでした。同じ施設内に,エホバの証人のジョン・ムンドゥアも収容されていました。ジョンは,公務員だったため,また前政権を支持していた部族の出身であるということで収容されていたのです。
ジョンは良いたよりについて熱心に話してくれ,私も喜んで話を聞きました。手元にあったのは,「ものみの塔」誌16冊と「あなたを幸福にする良いたより」 * の本だけでしたが,学んでいる事柄が真理であると,すぐに分かりました。聖書を3か月研究した後,ジョンは私が伝道者の資格にかなっていると感じたようです。それから間もなく, ジョンはすべての容疑が晴れて釈放されました。私はエホバの組織との唯一のつながりを断たれてしまいますが,その後もできる限りの努力を払い,拘置所の中で関心を持つ人との研究を司会しました。
1981年10月に釈放され,故郷の村に帰りました。そこにはエホバの証人はいませんでした。親族から,宗教的な慣行に加わらせようとする圧力を受けましたが,私は神に仕えたいと願いました。エホバはそれをご覧になり,支えてくださいました。イエスの手本に倣うべきことは知っていたので,一人で伝道を始め,やがて何件も研究を持つようになります。ある日,家の人が「とこしえの命に導く真理」 * という本を出してきて,「あなたが言っていることはこの本に書かれていることとよく似ていますね」と言いました。その男性はあまり関心がないようでしたが,私はその本と,その人がためていた「ものみの塔」誌をどうしても読みたいと思いました。それでこのたびは,家の人が私に文書を配布したのです。
しかし,私はまだエホバの民を見つけていませんでした。ムンドゥア兄弟から,ジンジャにエホバの証人がいると聞いていたので,その町に行って兄弟たちを探すことを決意しました。ほぼ一晩じゅう祈った後,翌朝早く,朝食も取らずに出かけました。歩き始めて最初に見かけた人は,透明なビニールケースを持っていました。私は目を疑いました。その中に「目ざめよ!」誌が入っていたのです。仲間の兄弟をついに見つけました。
1984年,ウガンダで最初の開拓奉仕学校に出席することになり,胸を躍らせました。同じクラスにだれがいたと思いますか。愛するジョン・ムンドゥア兄弟です。兄弟は74歳になった今も,引き続き正規開拓者として忠実に奉仕しています。
[脚注]
^ 228節 発行: エホバの証人。現在は絶版。
^ 229節 発行: エホバの証人。現在は絶版。
[113ページの囲み記事/図版]
ついに真の宗教を見つける
ある姉妹が宣教者のマッツ・ホルムクビストに,ムテサーシラ・ヤフェシと会ってくれるよう頼みました。セブンスデー・アドベンティスト教会の牧師をしていたムテサーシラは,エホバの証人に関心を持っていました。そして20の質問をきれいに書き出し,マッツと会った時にそれを見せました。
ムテサーシラは聖書に基づく2時間におよぶやり取りの後,こう言いました。「ついに真の宗教を見つけました。またお会いしたいので,わたしの村まで来ていただけませんか。エホバの証人についてもっと知りたいと思う人は,ほかにもいます」。
五日後,マッツともう一人の宣教者はカランガロに住むムテサーシラを訪ねるため,オートバイで出かけました。そのためには110㌔の道のりを行き,茶畑が広がる中,ぬかるんだ悪路を抜けなければなりません。ムテサーシラは兄弟たちを草ぶきの小屋に案内します。そこに“王国会館”と表示されているのを見て,兄弟たちは驚きました。聖書研究や集会のための建物がすでに用意されていたのです。
ムテサーシラから真理について聞いて関心を持った人がほかにも10人いて,聖書研究が始まります。距離が遠くてもマッツはひるむことなく,研究を司会するため月2回,その村に通いました。研究生たちはよく進歩し,カランガロで20人以上が伝道者になります。近くの町ミティアナには活発な会衆があります。ムテサーシラも急速に進歩してバプテスマを受け,今は70代になり,会衆の長老として奉仕しています。
[108,109ページの図表/グラフ]
年表 ― ウガンダ
1930
1931年 ロバート・ニズベットとデービッド・ノーマンが東アフリカで伝道する。
1940
1950
1950年 キルミンスター兄弟姉妹がウガンダに移る。
1952年 最初の会衆が設立される。
1956年 最初のバプテスマが行なわれる。
1959年 外国の兄弟たちが霊的な援助を与える。
1960
1963年 ギレアデを出た宣教者たちがやって来る。
1972年 最初の地域大会が開かれる。
1973年 エホバの証人の活動は禁止され,宣教者たちが退去させられる。
1979年 禁令が解除される。
1980
1982年 宣教者たちの入国が再び認められる。
1987年 「ものみの塔」誌がガンダ語に定期的に翻訳されるようになる。
1988年 最初の王国会館が献堂される。
1990
2000
2003年 支部事務所が設立される。
2007年 新しい支部施設が献堂される。
2010
[グラフ]
(出版物を参照)
伝道者数
開拓者数
5,000
3,000
1,000
1930 1940 1950 1960 1980 1990 2000 2010
[73ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
コンゴ民主共和国
スーダン
ケニア
ウガンダ
カンパラ
アルア
グルー
リーラ
ソロティ
キョーガ湖
マシンディ
ホイマ
ムバレ
トロロ
ナマインゴ
イガンガ
ジンジャ
セタ
カジャンシ
エンテベ
ミティアナ
カランガロ
フォート・ポータル
ルセセ
アルバート湖
ルウェンゾリ山地
赤道
エドワード湖
マサカ
ムバララ
カバレ
ケニア
ビクトリア湖
タンザニア
ブルンジ
ルワンダ
ウガンダ
カンパラ
ケニア
ナイロビ
メルー
ケニア山
モンバサ
タンザニア
ダルエスサラーム
ザンジバル島
[87ページの地図/図版]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ウガンダ
カンパラ
アルア
グルー
リーラ
ソロティ
マシンディ
ホイマ
フォート・ポータル
マサカ
ムバララ
カバレ
ビクトリア湖
[図版]
ハーディー兄弟は妻と共にウガンダのほぼ全域を6週間で回った
[66ページ,全面図版]
[69ページの図版]
デービッド・ノーマンとロバート・ニズベットは東アフリカに良いたよりを伝えた
[71ページの図版]
ジョージ・ニズベットと兄のロバート,グレー・スミスと妻のオルガがバンをいかだに乗せて川を渡るところ
[75ページの図版]
フランク・スミスと妻のマリー。1956年に結婚する少し前
[78ページの図版]
アン・クックと子どもたち。マクンバ兄弟姉妹と共に
[80ページの図版]
トム・マクレーンと妻のベテルはギレアデで訓練を受けてウガンダに遣わされた最初の宣教者
[81ページの図版]
ジンジャの最初の宣教者ホーム
[83ページの図版]
ギレアデを出た宣教者のスティーブン・ハーディーと妻のバーバラ
[85ページの図版]
メアリー・ニズベット(中央)と息子たち。ロバート(左),ジョージ(右),ウィリアムと妻のミュリエル(後方)
[89ページの図版]
カンパラで開かれた「神の支配権」地域大会で話をするトム・クック
[90ページの図版]
ジョージ・オチョラと妻のガートルード
[94ページの図版]
禁令の中でも兄弟たちは引き続き集まり合った
[95ページの図版]
フレッド・ニエンデ
[96ページの図版]
イマニュエル・キャミザ
[104ページの図版]
スタンリー・マクンバと妻のエシナラ,1998年
[107ページの図版]
ハインツ・ウェルトホルツと妻のマリアンネはドイツのギレアデ分校第1期のクラスに出席した
[118ページの図版]
翻訳チーム
ガンダ語
アチョリ語
ルコンゾ語
ルニャンコーレ語
[123ページの図版]
最近の王国会館は以前の建物(左)と大きく様変わりしている
[124ページの図版]
ウガンダ支部
支部委員会: マッツ・ホルムクビスト,マーティン・ロウム,マイケル・ライス,フレッド・ニエンデ。事務棟(下)と宿舎(右)