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ベリーズ

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ベリーズ

ユカタン半島に位置するベリーズは,メキシコやグアテマラと国境を接し,カリブ海に面する輝く熱帯の国です。かつて英領ホンジュラスと呼ばれたこの小さな国には,さまざまな文化,言語,習慣,食物,宗教が見られます。

人口は30万人ほどで,中央アメリカの他の国と比べると多くはありません。うっそうとした熱帯のジャングルには,華やかな鳥や興味を引くいろいろな動物がすみ,すばしこいジャガーもいます。さらに,古代のマヤ遺跡も多く残り,大きなヤシや水しぶきを上げる滝に彩られた雄大な山地もあります。この土地の興味深い特色は,広範囲に及ぶ洞窟群です。曲がりくねる澄んだ川で結ばれている洞窟もあります。海岸線に伸びるベリーズ・バリアリーフには,見事なサンゴ礁やキーと呼ばれる低い小島が連なっています。島は白い砂浜で縁取られ,ココヤシに覆われています。

初期の歴史

ベリーズに早い時期に定住したのは,南米から移ってきたアラワク族とカリブ族です。後には,いわゆる新世界と呼ばれたこの地にヨーロッパ人が入ってきました。しかし,その何百年も前から,ベリーズはマヤ文明の中心地であったと考えられており,祭儀を行なう場所が栄え,壮麗な神殿も置かれていたようです。

ヨーロッパ人がベリーズに入植した初期の様子については,あまり記録が残されていません。知られているのは,スペインがマヤ人を征服しようとしたものの,失敗したということです。1638年,英国の海賊がベリーズの海岸に住み着きます。17世紀の半ばには,ロッグウッド(貴重な染料を抽出できる)を伐採するための拠点として居住地が設けられます。

イギリス人は,ロッグウッドとマホガニーを切り出すために奴隷を用いました。それらの人々は,ジャマイカや米国の奴隷市場から,さらにはアフリカから直接連れてこられました。林業においては南北アメリカの他の国々で行なわれていたように,奴隷にむちを振るって働かせることは一般になされていなかったとはいえ,生活環境は劣悪で,虐待は普通のことでした。反乱を起こす奴隷や自殺する奴隷も多くいました。脱走してベリーズの中に独自の共同体を作り上げた人たちもいます。ベリーズは1862年に英国の植民地として宣言され,1981年に独立しました。 *

真理の種が根を下ろす

ベリーズにやって来たごく初期のエホバの証人(当時は国際聖書研究者と呼ばれていた)の一人は,1918年にジャマイカでバプテスマを受けたジェームズ・ゴードンです。1923年,細身で穏やかな話し方をするこの青年は,ジャマイカを離れてベリーズに移り住みました。ジェームズは僻地にあるマヤの村ボンバに居を定め,結婚して家族をもうけました。クリスチャンの兄弟たちとは遠く離れていましたが,友人や近所の人に良いたよりを伝えます。

イギリス領であったこの国の他の部分に,王国の良いたよりはどのように伝わったのでしょうか。1931年,米国出身の50代後半の小柄な女性フリーダ・ジョンソンが,中央アメリカの国々で伝道を始めます。フリーダは,時には馬に乗って一人旅を続け,町や村,さらにはカリブ海沿いに散在するバナナ農園で宣べ伝えました。

1933年にベリーズシティーに入ったフリーダは,ビークス夫人の家の小さな一室を間借りします。ビークス夫人は,フリーダが毎朝出かける前に聖書を朗読し,賛美歌を歌うのを聞きます。その揺るぎない熱意は多くの人の目に留まります。熱帯では普通のことである,昼寝の休憩も取りませんでした。フリーダがこの国に滞在した半年の間に,証言を受けたジャマイカ出身のタディウス・ホジソンというパン屋が関心を示します。フリーダは主にベリーズシティーで奉仕しましたが,田舎の地方も幾つか訪れ,ジェームズ・ゴードンとボンバで会います。フリーダの立派な働きにより,真理を学ぶ人たちが互いに知り合い,集まり合うようになりました。

人々がさらに真理に導かれる

当時,通信連絡の手段は非常に限られていましたが,ジェームズとタディウスはそれぞれの地方で宣べ伝える業を続けながら連絡を取り合いました。早くも1934年に,タディウスはブルックリンの世界本部に手紙を書き,録音再生機と聖書の講演のレコードを送るよう依頼しました。

タディウスは土曜日の晩になると,最高裁判所の建物の前にある小さな公園でレコードを流しました。駐留軍はその公園を練兵場として使っていました。“戦場”として知られていたその公園は,まさにその名のとおりの場所となります。タディウスは公園の片側でラザフォード兄弟の講話を収めたレコードを流します。反対側では救世軍の楽隊が演奏をし,ボーモント・ボーマンが大太鼓をたたいていました。やがてボーモントが王国の音信にこたえ応じ,“戦場”のタディウスの側に付きます。「あの太鼓から手を引くよう助けてくださったことをエホバ神に感謝しています」とボーモントは言います。

公の伝道を行なうのに適していた別の場所は,ミュール・パークとして知られていた青空市場の前の広場です。そこには,運搬用の荷車を引くラバをつなぐための杭がありました。そうした荷車で荷物を町に運び,あちこちに届けていたのです。タディウスは,背が高くて顔立ちのよい,褐色の肌の男性でした。とても力強い話をすることで知られており,その場所ではよく,講話を行なう兄弟の声が聞こえていました。聖書を愛するベリーズの人々に対して,キリスト教世界の諸教会は強い影響力を振るっていましたが,多くの心の正直な人々が良いたよりにこたえ応じました。その中に,ジャマイカ出身のジェームズ・ハイアットとアーサー・ランダルも含まれています。

ベリーズシティーの北側では,タディウスが自分の店で集会を開くようになります。集会の前に,カウンターを移動し,椅子に板を渡して間に合わせのベンチを作りました。町の南側では,コラ・ブラウンの家で集会が開かれていました。さらに,ノラ・ファヤド姉妹は子どものころ,隣に住むアーサー・ランダルの家の庭で開かれていた集会に,同じ地区にいた少数の証人たちが来ていたことを覚えています。

精力的な伝道が良い結果を生む

初期の証人たちの多くを特徴づけていたのは,たゆみない伝道活動です。例えば,ジェームズ(ジムシー)・ジェンキンズは,目が見えないものの,ベリーズシティー全体を杖を頼りに歩いて回りました。モリー・ティレットは,市場で伝道する兄弟の話し声が二ブロック先からでも聞こえたと言います。ジェームズが集会でいつも注意深く話を聴いていたことを覚えている人もいます。兄弟は一言も聞き漏らすまいと,杖を支えに身を乗り出すように座っていました。さらに,多くの聖句を暗記していて伝道で使いました。

一方,ジェームズ・ゴードンはボンバ周辺の村々で,出会う人すべてに宣べ伝えることで知られていました。文書を入れたマホガニーのケースを片手に,もう一方の手には録音再生機を携えていました。日曜日には,まだ暗いうちに,丸木をくりぬいたカヌーをこいで上流に向かい,日中はずっと区域を何キロも歩きました。夕刻に辺りが暗くなるころには,岸に上がり足を引きずるようにして家まで歩く兄弟の姿がありました。夕食後,ジェームズは6人の子どもとの聖書研究を司会します。しまいには疲れて本を持ち上げられなくなるほどでした。

そのころ,ゴードン兄弟の妻はまだエホバの証人ではありませんでした。ある日など,兄弟が出かけていた時に,聖書文書の多くを燃やしてしまいました。家に戻ったジェームズは,妻のしたことを知りますが取り乱したりはせず,ただ毅然とした口調で,「二度とこういうことをしてはいけない」と言いました。子どもたちは,父親が自分を制している様子に感銘を受けます。母親の行動が父親に大きな損失と痛手を負わせたのを知っていたからです。

エホバの霊によって引き寄せられる

ある日曜日の午前,ジェームズは英国国教会の熱心な信者デリーン・ライトバーンに伝道しました。デリーンは「神の立琴」の本を受け取ります。穏やかな口調のジェームズの言葉は聞き取りにくかったのですが,何を話しているのか知りたいと思いました。後に,ベリーズシティーに住むおばのアルフォンセナ・ロバトーの家に泊まっていた時,ある人が門の前に来て,庭に入っていいか尋ねました。

デリーンはおばにこう言います。「この間,わたしの家にとてもよい本を持って来てくれた人のことをおばさんに話したでしょ。その人によく似ているわ」。

訪れたのはジェームズ・ゴードンではなく,ジェームズ・ハイアットでした。ハイアット兄弟は二人の女性に録音再生機のメッセージを聞かせ,アルフォンセナに「神の立琴」の本を配布します。アルフォンセナと妹のオクタベル・フラワーズは政治活動に深くかかわっていましたが,真理を探していました。その日に聞いた話に感動したアルフォンセナは,オクタベルに熱っぽくこう語ります。「ある人がうちにやって来て,神の国について話してくれたの。これこそわたしたちが求めていたものじゃないかしら」。オクタベルは,ハイアット兄弟が再び訪問する時,自分もその場にいることにしました。こうして3人の女性,アルフォンセナ,オクタベル,デリーンが真理を受け入れ,1941年にバプテスマを受けたのです。

アルフォンセナとオクタベルは少し前に母親を亡くしていました。二人の妹に当たるエイミーベル・アレンは,自分も死んで天国の母親のところに行きたいと神に祈っていました。オクタベルはエイミーベルに,「死者はどこにいるか」という話を聞くよう勧めました。エイミーベルはその勧めに応じ,以来,集会に欠かさず出席しています。

デリーンの娘,オルガ・ナイトはこう言います。「それらの人は,ただ出版物を読み,集会に行き,エホバの霊によって引き寄せられたのです。真理を知って胸を躍らせ,知った事柄をすぐに他の人たちに話すようになりました」。

例えば,オルガの父親ハーマン・ライトバーンは,入院中に「子供たち」という本を読んで真理を受け入れました。ハーマンは学んだ事柄に心を動かされ,毎週金曜日にトラックを借り,少人数の伝道者を乗せて近隣の村々に証言に行きました。さらに,自分の所有する農場のあるブラック・クリークという田舎に行って,くまなく伝道しました。

オルガは振り返ってこう語ります。「両親はベリーズ川に沿って伝道し,人々は晩になると手提げランプを携えて話を聞きに来ました。農場で休暇を過ごす時には毎朝,両親,おばのエイミーベルとその娘モリー・ティレット,それにわたしが父の馬に乗って連なり,細い道を進んでクルキッド・ツリーまで行きました。馬が草をはむ間,関心を持つ人たちとの聖書研究を司会しました。そのように研究して真理に入った家族もあります」。

1941年,新しい伝道者たちで成る最初のグループがベリーズシティーで,カリブ海の水に浸かってバプテスマを受けました。その中の一人だったジョージ・ロングスワースは,同じ年に開拓奉仕を始めました。ジョージは1967年に87歳で亡くなるまでその奉仕を続けました。兄弟は主に内陸部で宣べ伝えて新しい区域を切り開き,町から町,村から村へと何キロも馬で巡りました。ジョージが宣教奉仕に対していつも変わらぬ熱意を示し,集会に定期的に出席していたことは,とりわけ新しい人たちに励みとなりました。エホバはそれら熱心で忠実な僕たちを十分に用いて,心の正直な人々をご自分の組織に導き入れられたのです。

最初の宣教者たちがやって来る

1945年10月5日,ギレアデ第1期のクラスを卒業したエルマー・イーリグとチャールズ・ヘイエンがベリーズにやって来ます。しかし,その前日にハリケーンがベリーズシティーの160㌔ほど南を通過します。空港から市内までの16㌔の道路は冠水し,二人の宣教者は軍の大型車両に乗せてもらいました。タディウス・ホジソンは自宅の前にコンクリートのブロックと木箱を置き,二人が到着する時に足を濡らさないで家に入れるようにしました。

ベリーズの兄弟たちは,最初の宣教者たちの到着を楽しみに待っていました。ジェームズ・ゴードン,レオン・レケニャ,ラファエル・メディナは新しい宣教者たちにぜひ会おうと,国の北部からベリーズシティーまで出てきました。当時それはたいへんな苦労を伴いました。ラファエルの孫イスマエル・メディナはこう説明します。「国の北部とベリーズシティーを結ぶ幹線道路はなく,ラバの荷車が通るピカド,つまりわだちのついた道しかありませんでした。道中に人家はなかったので,夜はへびが出るような場所で野宿するしかありませんでした。3人の兄弟は宣教者に会っていろいろなことを教わり,文書を受け取り,来た道をまた戻って行きました。旅は何日にも及んだのです」。

二人の宣教者は例のミュール・パークで,極めて異例な仕方で地元の人に紹介されます。ジェームズ・ハイアットは話の始めに,僧職者が偽りの教理を教えていることを痛烈に非難します。すると,周りで聞いていた人の幾人かが一斉にやじを飛ばします。そして話の結びに,やにわに二人の新しい宣教者を指さし,「あとはこの二人がお答えします」と言います。人々がこの二人の新しい兄弟について知らされたのは,それだけでした。

それら初期の兄弟たちが,エホバや聖書の真理に対する強い愛と,偽りの宗教の教えに対する憎しみを抱いていたことは明らかです。同時に,意欲ある伝道者たちが効果的に宣べ伝える上で,貴重な経験を持つ宣教者たちの助けを必要としていることも明らかでした。

二人の宣教者は,当時人口が2万6,700人ほどだったベリーズシティーで奉仕を始めます。町は埋め立て地に建設され,海抜はわずか30㌢で,水はけもよくありませんでした。しかも,気候は高温多湿です。家に水道はなく,代わりにほとんどの家の庭に大きな木製の桶があり,雨季に水をためておけるようになっていました。しかし,ときおり豪雨に見舞われることもあります。1931年にも,ハリケーンで町が壊滅し,2,000人以上の犠牲者が出ました。

制限のもとで業は前進する

ベリーズのエホバの証人の活動に禁令が課されたことはありませんが,政府は第二次世界大戦中のある期間,わたしたちの出版物を発行禁止にしました。しかし,宣教者たちが到着する少し前に,その制限は解かれました。

それでも,「ものみの塔」誌,1946年7月15日号(英語)は,ベリーズにおける二人の宣教者の活動に関する報告の中で次のように伝えています。「内陸部で,ローマ・カトリックのある司祭は,文書を郵便で受け取ることを禁止しようと今なお画策している。その僧職者は,エホバの証人の二人の宣教者が送られてきたことに憤慨している。アイルランド系アメリカ人の別の司祭は,……英国の植民地政府が二人の入国を認めたことに腹を立てている。……二人[宣教者たち]は,その司祭が自分はアメリカ人だと述べたことに触れてから,アメリカの刑務所の入所者記録に注意を向け,ローマ・カトリックはアメリカ人の道徳の守り手という役割を果たしていないことを指摘した。するとその司祭はそそくさと立ち去った」。

ベリーズで伝道者数を正確に記録し始めたのは1944年のことで,その年には7人の伝道者が報告しました。伝道者たちは,より効果的な証言を行なうため,家から家の奉仕で証言カードを用いるようになりました。宣教者がやって来てから1年以内に,伝道者の数は16人になります。

1946年に,世界本部のネイサン・H・ノアとフレデリック・W・フランズがこの国を訪れ,支部事務所を開設しました。ノア兄弟は組織についての話をし,野外奉仕報告を所定の用紙で提出する必要があることを説明しました。フランズ兄弟は,王国の音信を宣べ伝えつづけることによって人々に憐れみを示すよう,会衆に強く勧めました。その週の終わりにノア兄弟は,関心を持つ大勢の人を含む102人の聴衆に話をしました。話の中で,関心を持つ人たちがなぜエホバの民と喜んで交わるべきかを説明しました。そして,エホバの証人と定期的に聖書を研究するよう勧めました。

その同じ年に,チャールズ・パリッシュと妻のアニー・ルース,コーディス・ソレルと妻のミルドレッドがやって来ました。さらに1948年には,トルーマン・ブルベイカー,チャールズ・ホモルカと妻のフロレンスが到着します。前途には多くの仕事があり,彼らは大いに歓迎されます。

なすべき業は多い

エルマー・イーリグはこう書いています。「当時は小さな会衆が一つしかなく,国の他の地方には会衆はありませんでした。そのような場所によく出かけて何週間か過ごし,書籍を配布し,予約を取り,話を行なうことによって種をまきました」。一方,チャールズ・ヘイエンは国で奉仕を始めた最初の年,トラックでオレンジ・ウォークに行きます。兄弟はその区域で奉仕し,集会を定期的に開くよう地元の兄弟たちを励ましました。

南部の町々への交通手段は船だけでした。エルマーとチャールズはヘロン・H号という船に乗って,ガリフナの人々が住む,スタン・クリーク(現在のダングリガ)とプンタ・ゴルダという海沿いの二つの町に行きました。それらの場所で伝道の業を開始することを目指していたのです。当時プンタ・ゴルダに行くためにはベリーズシティーから30時間の船旅をするしかありませんでした。その船旅をしたエルマーは,滞在先のホテルのロビーで公開講演を行ない,20人ほどの人が話を聞きました。

オルガ・ナイトは,姉妹の家族と共にエルマーが僻地の村クルキッド・ツリーに出かけた時のことを覚えています。その村でオルガの父親は,並木のある川のそばで行なわれた集会の司会をしていたのです。土地の兄弟たちは,宣教者たちが謙遜に骨折って働くことに感謝しました。

1948年には,平均38人の伝道者がおり,ベリーズシティー以外に四つの新しい会衆が設立されました。これら小さな会衆は,田舎の少人数の伝道者で構成されていました。そのころ交わっていたのは,ブラック・クリークのライトバーン家,ボンバのゴードン家,サンタナのヒュームズ家とアルダナ家,オレンジ・ウォークのレケニャ兄弟とメディナ兄弟などです。一方,宣教者や特別開拓者は,勧めに従って主にベリーズシティーで奉仕しました。エホバは兄弟たちの勤勉な努力を祝福され,エホバの僕になる誠実な人々は着実に増えてゆきました。

1949年12月,ノア兄弟の2度目の訪問は時宜にかなった励みの多いものでした。兄弟は宣教者ホームで一晩を過ごし,宣教者たちが奉仕する際に難しく感じる点について話し合いを持ちました。多くの新しい伝道者はエホバに仕えるという願いを抱いていましたが,献身することや,献身の象徴としてバプテスマを受けることの必要性を認識していませんでした。ノア兄弟は宣教者たちに,辛抱や忍耐や人々への愛が必要であること,また彼らがすでに良い結果を得ていることを思い起こさせました。

新たな宣教者が入れなくなる

1957年,兄弟たちはベリーズのエホバの証人の活動を政府が監視していることに気づきます。例えば,オレンジ・ウォークで協会の映画の一つが上映された時,警察官は支部から訪れた兄弟たちに,村に何時に着いて何時に出るのか,と聞いてきました。警察官は,署長に報告するためであると述べ,少し前の大会の時も同様の報告を行なうために私服警官が会場に来ていたことを明かしました。

1951年から1957年にかけては,さらに10人の宣教者の入国が認められました。しかし1957年6月,警察本部と入国管理局から突然,次のような手紙が届きます。「英領ホンジュラス[現在のベリーズ]政府は,今後,貴協会の伝道師が新たに国外から英領ホンジュラスに入ることを認めないという決定を下した。この決定は即刻適用される」。決定の理由を尋ねるため,総督に対して会見を申し込みましたが,それも却下されました。

他の幾つかの宗教グループも,新たな宣教師の入国は認められなかったものの,帰国した宣教師の補充は認められていました。その規定はエホバの証人には適用されませんでした。兄弟たちは,帰国した二人の宣教者に代わる人を入れたいと思っていたのです。1960年,兄弟たちはベリーズとロンドンの当局に手紙を送り,宣教者を新たに入れることではなく,補充を求めているだけであると説明しました。

返事はそっけなく,次のようなものでした。「英領ホンジュラスにものみの塔聖書冊子協会の宣教師をこれ以上入国させないという総督の決定は,変更の余地のないものである」。

兄弟たちは会見を求めましたが,こう告げられました。「英領ホンジュラスに貴協会の宣教師をこれ以上入国させないことは,総督が1957年にすでに決定している。よって総督閣下は,本件に関する貴協会との会見は何ら有用な目的を果たさないと考えている」。兄弟たちは行く手を全く阻まれたかのようでした。

支部は5年近くにわたって嘆願を繰り返し,ついに1961年10月,ベリーズの総督府から次の手紙を受け取ります。「貴協会から届いた最新の書状が英領ホンジュラス政府によって検討され,すでに入国している外国人の宣教師に代わる外国人宣教師の入国を当面認めるという決定が下されたことをここに通知する」。こうして1962年,ジャマイカからマーティン・トンプソンと妻のアリスが宣教者として入国することが認められます。

業の妨げはなくなる

宗教上の反対者たちがわたしたちの業の速度を遅らせようと図っていたことは明らかです。その思惑は成功しましたか。1957奉仕年度の報告では,最高数である176人の伝道者が七つの会衆に交わっていました。当時,ベリーズの人口は7万5,000人だったので,伝道者の割合は約400人に一人でした。1961奉仕年度には伝道者が236人になり,34%増加しました。伝道者の割合が383人に一人になったのです。エホバがご自分の民に対して行なった次の約束は真実でした。「あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さず,裁きのときにあなたに敵して立ち上がるどんな舌に対しても,あなたは有罪の宣告を下すであろう」。(イザ 54:17)宣べ伝える業は妨げられることなく続けられたのです。

聖書研究を始めた男女の中には,法的に結婚していない人も多く,何度か相手を変えてきた人たちもいます。しかし,エホバの高い規準を学ぶと,その多くは正式に結婚するため大きな努力を払い,必要な出費も惜しみませんでした。すでに80歳を超えていた人さえいたのです。

王国会館が必要になる

1950年1月,兄弟たちは4回にわたる一連の特別講演を行なうことになりました。そのために1949年12月,ベリーズシティーのリバティー・ホールを借りる予約をし,支払いも済ませていました。最後の講演の前日,ある著名人の葬儀が明日そのホールで行なわれるとの知らせがラジオで放送されました。ホールの所有者に幾度か訴えがなされたにもかかわらず,特別講演の最中に一群の人たちが会場に入ってきて,大きな音を立てながら葬儀の準備を始め,講演は中断させられました。結局,兄弟たちは警察を呼ぶしかありませんでした。自分たちの王国会館が必要であることは明らかでした。既存のホールはどれもクラブやダンスホールとして用いられ,使用料も高かったのです。

そのころ支部の監督だったドナルド・スナイダーはこう述べています。「ある日曜日の夜,『ものみの塔』研究に174人が出席しました。会場に入りきらず,かなりの人が立たなければなりませんでした。人であふれていたため,暑さも半端ではありませんでした」。支部事務所と宣教者ホームも借家で,引っ越しを繰り返していました。

1958年9月,2階建ての建物の建設が始まりました。1階は小さな支部事務所と宣教者ホームになり,2階全体は集会場として用いられます。1959年に工事が完了し,ベリーズシティー会衆はついに王国会館を持てるようになったのです。

スペイン語の畑における増加

ベリーズのエホバの民の中で目覚ましい増加が見られるのは,スペイン語を話す人たちです。国内にスペイン語が話されている地域もありましたが,1949年の時点でその言語を話せる宣教者はいませんでした。しかし後にスペイン語を話せる人たちが遣わされました。その一人は,1955年に来たレスリー・ピッチャーです。レスリーはベンケ・ビエホで奉仕するよう割り当てられました。それはベリーズ西部のグアテマラとの国境に接する町で,スペイン語が話されている所です。兄弟が来た時に,地元のある人々はすでにその到着を待っていました。なぜでしょうか。

その1年ほど前に,そこから西のグアテマラの町サン・ベニトで,ナタリア・コントレラスが真理を知り,バプテスマを受けていました。ナタリアは国境を越えてベリーズに入り,ベンケ・ビエホに住む親族に証言しました。親族の一人セルビリアノ・コントレラスは,ナタリアが聖書から偶像崇拝について説明すると興味を持って聞き,真理を受け入れました。そして1998年に101歳で亡くなるまで,エホバの証人として忠実を保ちました。セルビリアノの子どもや孫の多くはエホバの証人です。当時,少数の伝道者たちが交わるベンケ・ビエホの区域には,国境を越えたグアテマラの町メルチョル・デ・メンコスも含まれており,そこで集会が開かれていました。後にメルチョル・デ・メンコスに会衆ができ,ベンケ・ビエホ会衆には今も熱心な精神が見られます。

早くも1956年には,地域大会や巡回大会のプログラムの一部がスペイン語でも提供されていました。初めて巡回大会のプログラム全体がスペイン語で行なわれたのは1968年2月のことで,会場となったのはオレンジ・ウォークの王国会館です。85人が出席し,4人がバプテスマを受けました。

スペイン語を話す証人たちは,言語がじゅうぶんに理解できなくても,英語の集会や大会に忠実に出席していました。マルセロ・ドミンゲスとラファエル・メディナといった兄弟たち,それにディオニシオ・テクと妻のカタリナなどです。1964年10月,スペイン語会衆がオレンジ・ウォークに設立され,20人の伝道者が交わるようになります。それまでは英語の会衆に属していた人たちです。

1980年代に近くのエルサルバドルやグアテマラは内戦に見舞われ,大勢の人がベリーズに避難してきました。その中にはスペイン語を話す証人の家族がおり,長老,奉仕の僕,開拓者が含まれていました。その人たちや,他のスペイン語圏から来た英語もスペイン語も堪能な宣教者たちは,スペイン語の畑における拡大に貢献しました。

「本物のクリスチャンは家から家に伝道する」

ある日,オレンジ・ウォークのマルガリータ・サラザールの家に二人の見知らぬ人がやって来て,「マルガリータ・サラザールというエホバの証人をご存じですか」と尋ねました。訪問したのは23歳のテオフィラ・マイとその母親で,オレンジ・ウォークの34㌔南西の村オーガスト・パイン・リッジから来たのです。なぜマルガリータを探していたのでしょうか。

テオフィラはこう説明します。「1年ほど前,9か月の息子が重い病気になりました。それでボテス村に連れて行き,聖クララという処女聖人に息子をささげる儀式をしてもらうことにしました。トラックの前の席に乗せてもらい,同じ地域に住む運転手から証言を受けました。その人は,わたしが赤ちゃんをボテスに連れて行く理由を聞いてから,聖書は偶像崇拝を認めていないと言いました。その言葉にとても興味をそそられました。それ以後もその人は,エホバの証人から学んでいた聖書の真理をいろいろ教えてくれました」。

テオフィラはさらにこう続けます。「ある日,トラックに乗せてもらった時,本物のクリスチャンは家から家に伝道する,と運転手は言いました。そしてエホバの証人は伝道し,ゼパニヤ 1章14節や2章2,3節といった聖句を読むだろう,と説明しました。それでわたしは小さな息子の手を引き,もう片方の手に赤ん坊を抱いて,オーガスト・パイン・リッジで近所の家々を訪問し,それらの聖句を読みました。後にその運転手は,真理を本当に知りたいならエホバの証人と聖書を学ぶとよいと言いました。そしてオレンジ・ウォークのサラザール夫妻について話し,どこに住んでいるかを教えてくれました。オレンジ・ウォークに行ったことがなかったので,母に一緒に行ってもらい,その夫婦を探したのです」。

マルガリータは,テオフィラが母親と共に初めて訪ねて来た日の朝のことを覚えており,こう言います。「二人は聖書についてたくさんの質問をし,わたしたちは長く話をしました。エホバの証人は,人々が聖書を理解できるよう助けに来てくれるのか,どんなに遠くても来てくれるというのは本当か,知りたかったようです。わたしは,本当ですと言い,聖書研究を司会するため一週おきに二人の村に行くことを約束しました」。

マルガリータと夫のラモンがオーガスト・パイン・リッジに行ってみると,テオフィラは聖書研究のために大人の親族6人を集めていました。後にはオレンジ・ウォークの他の開拓者たちがサラザール夫妻と共に,テオフィラとその家族が聖書研究をしている村に定期的に伝道に行きました。そのためには,狭くて舗装されていない34㌔のでこぼこ道を通わなければなりませんでした。エイミーベル・アレンはその村で聖書研究を司会するため,しばしば泊まりがけで出かけました。テオフィラは1972年,最初の聖書研究から5か月後にバプテスマを受けます。1980年にはオーガスト・パイン・リッジに会衆が設立されます。これまでテオフィラの親族37人が真理を受け入れました。

奥地への伝道旅行が実を生み出す

ベリーズシティーと,国内の大きな町はくまなく伝道されていたものの,田舎の区域では定期的な奉仕は行なわれていませんでした。初期の宣教者たちは南部の町々に船で出かけていましたが,後に道路ができて,スタン・クリークやトレドといった南部の地方が国内の他の地域と行き来できるようになりました。それで1971年の初め,支部はブッシュ・トリップと呼ばれる年一度の伝道旅行を組織し,ベリーズの熱帯雨林の僻地に住むモパン・マヤやケクチ・マヤの人々に王国の音信を伝えるようになりました。

兄弟姉妹は,借りた自動車や木のカヌーに乗ってダングリガからプンタ・ゴルダまでの村や町を訪れ,さらにはグアテマラとの国境に近い最南端のバランコにまで足を延ばしました。ある兄弟たちは,自動車と2台から4台のオートバイで成るグループを作って奉仕しました。毎晩,違う村で野宿し,日中は車に乗る人たちは村で奉仕し,オートバイの兄弟たちは二人一組で細い道を上って孤立した農家まで行きました。

プンタ・ゴルダ周辺では,兄弟たちはリュックを背負って村々を巡りました。住民に伝道する前にはたいてい,村の長老たちの集会場であるカビルドに行ってアルカルデ(長)に話をする必要がありました。

宣教者のライナー・トンプソンはこう言います。「ある村に兄弟たちが到着すると,カビルドで集まりが開かれていて,トウモロコシの収穫の段取りについて話し合っていました。集まりが終わると,そこにいた男たちは王国の歌を歌うよう兄弟たちに求めました。兄弟たちは疲れていて空腹で,歌の本も持っていませんでした」。トンプソン兄弟はこう続けます。「それでも兄弟たちは心をこめて歌い,村の人たちはとても喜びました」。やがて会衆がマンゴー・クリークに設立され,後にはマヤの大きな村サン・アントニオにもできました。

サンティアゴ・ソサはこう説明します。「時には予定に間に合うよう夜間に歩いて次の村に行きました。道の真ん中を一列になって歩くようにしました。道沿いの草むらにはへびが潜んでいるからです。水がなくなった時には,つる草から水分を採ることもしました」。

時には二人か4人の組みに分かれて村の各所で伝道し,夕方に全員が合流しました。二人が残って料理をします。サンティアゴは苦笑いしながらこう言います。「ひどい目に遭うこともありました。料理の仕方を全く知らない人がいたからです。ある人が作ったものを見て,『これは何ですか』と尋ねたところ,『わたしも分からないけど,食べ物です』と作った人が答えました。作り手が何なのか分からないのなら,まず試しに野犬に食べさせてみようということになりました。でも,お腹をすかせた犬でさえ口にしなかったのです」。

ケクチの人が真理を受け入れる

コロサルに住んでいたロドルフォ・ココムと妻のオフェリアは,南部の僻地にあるケクチ族の村クリケ・サルコに引っ越しました。そこはオフェリアの育った村です。エホバの証人がその村を訪れるのは,年に一度の奥地への伝道旅行の時だけでした。オフェリアは14歳の時,オレンジの木の下で「とこしえの命に導く真理」の本を見つけ,読み始めました。もっと知りたいと思いましたが,その機会はすぐには訪れませんでした。オフェリアは結婚してコロサルに住むようになり,夫のロドルフォと共に聖書研究を始めます。司会したのは二人の特別開拓者マルシアル・ケイとマヌエラ・ケイでした。

その後,ココム夫妻は1981年にクリケ・サルコに引っ越し,エホバの証人と連絡を取りたいと思いました。それでロドルフォは徒歩で,さらに船で川と海を行き,プンタ・ゴルダまでエホバの証人を探しに出かけます。最低6時間はかかる旅です。そしてプンタ・ゴルダでドナルド・ニーブルージュという開拓者に会い,手紙で研究する約束ができました。しかし問題がありました。クリケ・サルコには郵便局がないのです。

ドナルドはこう説明します。「プンタ・ゴルダの郵便局で,クリケ・サルコにどうやって手紙を送れるか尋ねました。すると,司祭が週に一度そこに行くと言われました」。こうして6か月ほどの間,司祭が手紙による聖書研究の仲立ちをしました。エホバの証人のために配達をしていることは知らなかったのです。

ドナルドはさらにこう述べます。「司祭は自分が何を運んでいたかを知ると憤慨し,もう手紙を運んでくれなくなりました」。

その間,ドナルドはクリケ・サルコに何度か出かけ,ココム夫妻との研究を司会しました。奥地への伝道旅行が次に行なわれた時に,ロドルフォは野外奉仕を始めます。ドナルドはこう語ります。「四日間一緒に活動し,幾つかの村で伝道しました。その間に兄弟たちと共に過ごしたことが,進歩の大きな助けになりました」。

ロドルフォはこう説明します。「オフェリアと共に自分たちの村で伝道しました。学んだ事柄を二人だけで伝えていたのです。わたしと研究した人たちは,わたしたちよりももっと強い反対に遭いました。村に寄付された医薬品や食料品や衣類を受け取れなかった人もいます。妻の母も,わたしたちの活動にひどく反対しました。オフェリアもわたしも,クリケ・サルコでは霊的に進歩できないと思いました。集会に出席することが必要でした。それでプンタ・ゴルダに引っ越し,研究を続けました。わたしたちはその町で霊的に進歩し,1985年にバプテスマを受けました」。現在ココム兄弟姉妹はレディービル会衆と交わっており,ロドルフォは奉仕の僕です。

船の伝道旅行による霊的な漁獲

小島や海岸の村々に住む人々に宣べ伝えるため,船による伝道旅行も毎年取り決められました。当時,ホプキンズ,セイン・バイト,プラセンシア,プンタ・ネグラ,モンキー・リバーといった村には道路が通じていませんでした。ロブスター漁をしていたポリト・ベバンスは,漁を休む時期に自分の船に開拓者や宣教者を4人乗せ,すべての村に停泊しながら,南部まで2週間の旅行をしました。

ドナルド・ニーブルージュは,毎年の奥地や海岸地域での伝道旅行によく参加しました。兄弟は,アンブロンシオ・ヘルナンデスの帆船を借りて奉仕した時のことを懐かしく思い出します。それがきっかけで,ボチョの愛称で呼ばれていたアンブロンシオは聖書研究を始めます。

ドナルドはこのように述べます。「次の年もわたしたち4人は,南下しながら海岸沿いをくまなく訪ねる2週間の伝道旅行を計画しました。ボチョは船を売り払っていましたが,別の漁師を紹介し,その人が相棒と共にわたしたちを連れて行ってくれることになりました。ボチョも一緒でした。こうして二組の特別開拓者の夫婦と3人の漁師で出航することになりました。その旅でボチョは野外奉仕を始めます。プラセンシアの港に着くと,小船がたくさん係留されていたので,船から船へ伝道しました。信者でない二人の漁師も,2週間の旅の間とてもよく協力してくれました。ある日,村で一日じゅう伝道したのち船に戻ると,二人はチキンを買って小型の石油コンロで料理を作っていてくれました」。翌年に船での伝道旅行をした時には,ボチョはバプテスマを受けていました。ボチョはこれまで18年,ベリーズシティーで長老として奉仕しています。

未割り当て区域で得られた成果

ベリーズ南部のトレド地方には,起伏の続く丘陵やうっそうとした熱帯雨林があり,ところどころにモパン・マヤとケクチ・マヤの村が見られます。村の家は,草ぶき屋根と土間でできています。村人たちはたいてい,きつい農作業をくわだけで行ない,生活は楽ではありません。トウモロコシや豆やカカオを育てるため,乾季には畑に水を運ばなければなりません。女性の多くは,ケクチ族の伝統的な刺繍をしたり,かごを編んだりし,それは国内の土産物店で売られます。勉強や仕事をするために,村を出て人口の集中する町に行く若者も増えています。

フランク・カードーサと妻のアリスは,1995年4月と5月に,一時的な特別開拓者としてトレド地方で奉仕するよう招かれました。「王国ニュース」第34号,「人生にはなぜこれほど問題が多いのですか」を配布するためです。フランクはこう語ります。「年一度の奥地への伝道旅行で以前,この地域を訪れたことがありました。だれかがそこに移動するなら,マヤの人たちが良いたよりを学ぶようもっとよく援助できると感じました。支部はわたしが家を借り,聖書を学ぶ人たちを集めて,サン・アントニオで特別講演を行なうよう勧めました。そして,その地域に加え,他の八つの村で『王国ニュース』を配布するよう指示されました」。

カードーサ夫妻は,借りた地下の部屋で週に一度,グループで行なう研究を司会しました。数週間後には三,四家族が来るようになりました。二人はさらに,それら関心のある人たちを,プンタ・ゴルダで開かれていた神権宣教学校と奉仕会に連れて行きました。一行は,ぽんこつの小型トラックで1時間かけて,わだちのある舗装されていない道を行ったのです。移動した最初の月に,フランクはサン・アントニオで特別講演をします。初めて出席した人の中に,一心に耳を傾けていたヘスス・イチがいました。ナザレン教会に所属していたヘススは,火の燃える地獄の教えが異教に根ざしており,聖書の言う地獄は人類共通の墓を指すということを知って,とても感銘を受けました。集会後にフランクのところに行って,その点についてさらにいろいろ尋ねました。ヘススは結果として聖書研究を始め,1年後にバプテスマを受けました。

カードーサ兄弟姉妹は,2か月間の一時的な特別開拓奉仕の終わりに,重要な決定をしなければなりませんでした。フランクはこう語ります。「持ちきれないほどたくさんの研究が始まっていました。レディービルの快適な家に戻ることを考えると,良心がとがめ,心が痛みました。サン・アントニオにとどまれるかどうかについて考えました。地下の部屋ではなく,同じ建物の上の階にある部屋を借りれば,生活環境を改善できます。小さなシンクと,雨水を引くための樋を据え付けることもできます。いずれは水洗トイレを付け,電気を引くこともできるでしょう。この件についてエホバに祈り,エホバが祝福してくださればその地域に会衆を設立できるに違いないと考えました。それで支部に手紙を書き,サン・アントニオに正規開拓者としてぜひとどまりたいと伝えました」。

エホバが二人の決定を祝福してくださったことは,すぐに明らかになりました。早くも半年後の11月には,借りていた家で初めて公開集会を開けました。翌年の4月には,サン・アントニオで神権宣教学校と奉仕会を行なうまでになっていました。そのおかげで,毎週プンタ・ゴルダまでの30㌔余りの道を往復しなくてよくなり,少人数のグループはほっとしました。

『どんなに脅されてもやめませんでした』

サン・アントニオの誠実な聖書研究生たちはやがて進歩してゆきます。真理に対するその人たちの愛には,心を打たれます。フランクはこう説明します。「それらの村で,とりわけ女性は非常に内気で,父親や夫に服従すべきものと昔から考えられています。女性は普通,見知らぬ人と話をしたりはしません。そのため,家から家の宣教を行なうのが非常に難しいのです」。

当時20歳だったプリシリアン・ショーは,地元の人々に伝道したいという強い願いを抱いて,バプテスマを受けていない伝道者になりました。ある時,兄嫁のアマリア・ショーと共に再訪問をしていました。二人は突然,窮地に立たされます。

その時のことについて,プリシリアンはこう言います。「公の伝道をすることを父には話していませんでした。それを禁じられており,父を恐れていたからです。日曜日の午前中,伝道に出ていた時のことです。父が,いつも通うバプテスト教会の前に立っている姿が突然目に入りました。わたしたちは思わず草むらに隠れました。父に見られたくなかったからです。でも,わたしはこう言いました。『アマリア,エホバはわたしたちを見ておられるわよね。お父さんのことを恐れるのは正しくないわ。むしろ,エホバを恐れるべきだわ』」。

父親はひどく腹を立てます。しかし,もっと大きな難関が立ちはだかっていました。父親は彼女がエホバの証人になることに猛反対だったからです。その件についてずっと祈っていたプリシリアンは,大会でバプテスマを受ける前の日,ついに勇気を奮い起こして父親に話します。

こう切り出します。「明日,ベリーズシティーに行ってきます」。

「何しに行くんだ」と父親は尋ねます。

「バプテスマを受けに行きます。エホバが求めておられるからです。お父さんのことは愛しているけど,エホバも愛さなければいけないんです」とプリシリアンは答えます。

父親は怒って,「何だと? 本気か」と言います。

「本気です。使徒 5章29節には,人間より神に従わねばならないと書いてあります」とプリシリアンは言います。

父親は,憤然としてその場を去りました。プリシリアンはこう続けます。「会場に向かうトラックに乗るまで,心配でなりませんでした。大会が終わって家に帰ったら,父から何をされるか分かりませんでした。でもバプテスマを受けて帰るのだから,たとえ殺されるとしても正しい行動を取ったことになる,と考えました」。

父親は,家に帰ってきたプリシリアンに危害を加えることはありませんでしたが,後に殺すと言って脅しました。彼女はこう語ります。「わたしがどんなに脅されてもやめないことを知ると,父は態度を和らげるようになりました」。

反対者がエホバの側に付く

熱心な伝道者から成る,新たに設立されたサン・アントニオの群れは,霊的に繁栄していました。しかしカードーサ夫妻は突然,サン・アントニオを去るようにとの手紙を村議会から受け取ります。その少し前,フランクは村に滞在する許可を議会から得ており,その費用も払っていました。ところが,ある有力者がカードーサ夫妻を村から追い出そうとしたのです。村で会合が開かれ,フランクの3人の聖書研究生が兄弟を擁護する発言をしました。さらに家主も発言し,カードーサ夫妻を追放するならそれ以降の家賃は村議会に負担してもらうことになる,と主張しました。そしてフランク自身は,私有の家屋を借りている人に対して立ち退きを要求することはできないと記された,土地管理局からの手紙を見せました。結局,村議会はカードーサ夫妻の滞在を認めました。

二人を追い出そうとしていたのは,以前アルカルデ(長)だったバシリオ・アーでした。バシリオは引き続き政治的な影響力を持っていました。そして自分の力を利用してさまざまな方法でサン・アントニオのエホバの証人に反対していたのです。村の少人数の兄弟たちが王国会館を建てるための土地を手に入れようとした時,「この村には王国会館を立てさせんぞ」と脅しました。それでも兄弟たちは土地を手に入れ,簡素ながらも魅力的な王国会館を建てました。驚いたことに,1998年12月にその王国会館の献堂式が行なわれた時,出席者の中にバシリオもいたのです。なぜでしょうか。

バシリオには結婚した息子が二人いましたが,どちらも家庭の問題を抱えていました。バシリオは息子たちを助けてほしいと,自分の教会に二度頼みましたが,何の返答もありませんでした。後に息子たちはエホバの証人と聖書研究を始めます。バシリオの妻であるマリアは,息子たちが良い変化を遂げ,家族生活が改善していることに気づくようになります。そのため,マリア自身もエホバの証人に研究を申し込みます。

マリアはこう言います。「エホバ神についてぜひ知りたいと思い,神のことをもっと学ぶため王国会館に一緒に行ってほしいと夫に言いました」。バシリオはエホバの証人に反感を持ち,フランク・カードーサを「あの外人」と言って嫌っていました。その気持ちがすぐに変わったわけではありませんが,息子たちが聖書の真理を生活に当てはめて良くなっていることに感心していました。それで,エホバの証人について自分の目で確かめてみることにしました。そして何度か話し合いを持った後,聖書研究に同意します。だれとすることになったのでしょうか。ほかならぬ「あの外人」フランク・カードーサです。

バシリオはこう説明します。「聖書を読むことによって気持ちが変わりました。わたしはそれまで60年カトリックの教えを信じ,教会の偶像の前で香をたいていましたが,今やエホバについて学びました。エホバご自身の著作である聖書の中に,その方のことが説明されていたのです。フランク・カードーサにひどい態度を取っていたことを恥ずかしく思います。フランクは今ではわたしの兄弟です。わたしは間違っていました。それまで信念に従って,村と自分の宗教のために先頭に立って行動してきました。でも,マヤの伝統的な慣行をやめました。村で一般的な心霊術による治療とも関係があるからです。また,マヤの政治運動とのかかわりも断ちました」。バシリオ・アーと妻のマリアは現在,バプテスマを受け,幸福にエホバに奉仕しています。

エホバの僕たちの間に見られる愛と喜びと熱心さは,他の人によく知られています。ベリーズの田舎の地域では,伝道の際に家の人に会うため急な丘を3時間余りかけて上り下りすることも少なくありません。奉仕者たちは集会にも欠かさず出席しています。ある晩のこと,アンドレア・イチは神権宣教学校で家の人の役をすることになっていました。姉妹はその日,アボカドを集めるため息子たちと共にジャングルの中を四,五キロ歩き,23か所もハチに刺されました。それでも家に帰って家族のために食事を用意し,集会に行き,相手の役も果たしました。顔は虫に刺されて腫れていましたが,喜びに満ちていました。マヤの兄弟姉妹は,大会に出席するためにトラックやバスで丸一日かけてやって来ることもあります。それでも,一致して真の神エホバを崇拝できることを喜んでいます。そうした姿を見ると,いつも大きな励みが得られます。

激しいあらしがベリーズを直撃する

過去115年の間に,51のハリケーンや熱帯暴風がベリーズを襲いました。1930年以降,12のハリケーンがベリーズを直撃するか近くを通過するかして深刻な被害をもたらし,死者も出ました。とりわけひどかったのはハリケーン・ハティです。1961年10月31日の早朝のことで,最大風速は83㍍にも達し,高潮で幾百人もの死者が出ました。海抜30㌢のベリーズシティーは,深さ30㌢の泥に覆われました。支部からの報告は次のように伝えています。「[ベリーズシティーの]ほとんどの兄弟たちの家屋は,大きな被害を受けるか全壊するかしました。それでも,大けがをした人はいません。衣類は水で流されたり,だめになったりしました。

「道路に散乱したものはブルドーザーによって撤去され,破壊された家の残骸も焼かれています。ここの[宣教者]ホームも60㌢の水に浸かり,大きな被害を受けました。外では3㍍近くにまで水位が上がりました。……幸い,宣教者ホームは道路より高いところに建てられていました。……食べ物はほとんど手に入らず……今も遺体を掘り起こす作業が続いています」。

その10日後,支部はこう報告しています。「[ダングリガでは]ここ[ベリーズシティー]よりもひどい状況です。何を買うにもクーポン券が必要で,そのために人々は1日8時間働かなければなりません。軍が物事を統制し,お金で物を買うことはできません」。二人の男の子が死亡し,その父親は家が倒壊した時に両足を骨折しました。男の子はいずれも活発な伝道者で,12歳の子は学校で先生によく証言し,良い評判を得ていました。

ハリケーンはベリーズシティーとダングリガの間を通過し,兄弟たちの多くは家や持ち物の一部またはすべてを失いました。ハリケーン後に総督は非常事態宣言を発令し,外出を禁止します。治安を維持するためイギリス軍に出動を要請し,略奪者に対しては発砲するよう指示します。外出禁止令を破った男女子どもは,一晩留置場に入れられました。

混乱状態は続きましたが,会衆の集会や野外奉仕はできるだけ早い段階で再び行なわれるようになりました。これは容易なことではありませんでした。多くの人は避難所で寝泊まりし,地面は泥水に浸かったままだったからです。それでも人々は慰めとなる王国の良いたよりを必要としており,エホバの証人は進んで犠牲を払って音信を伝えたのです。

生活状態は劣悪でしたが,外国のエホバの証人が愛や寛大さを示してくれたので,ベリーズの兄弟たちはとても元気づけられました。他の支部から,衣類25箱とほかにも物資が届けられ,エホバの証人や,証人でない人たちにも配られました。猛威を振るったハリケーンに持ちこたえた建物はわずかでしたが,その中に支部事務所と王国会館が含まれていました。そのため,政府から王国会館を地域の人たちの避難所として使わせてほしいという要請があり,兄弟たちは快く応じました。 *

「プラットさん,みんなのために祈っていただけませんか」

2000年10月,アンベルグリス島のサン・ペドロの住人は,風速57㍍もの暴風と豪雨を伴うハリケーン・キースの影響を三日間受けました。ベリーズシティーの16㌔北にあるレディービルは,三日間の豪雨で80㌢の水に浸かりました。兄弟たち42名はレディービルの大会ホールに避難しました。キー・カーカーでは,ほとんどの家屋が破壊されました。アンベルグリス島とキー・カーカーに住む57人の伝道者は,家財をほぼすべて失い,数週間にわたって停電と断水が続き,電話もつながりませんでした。首相はベリーズ,オレンジ・ウォーク,コロサルの各地方,それにアンベルグリス島とキー・カーカーを災害地域に指定しました。略奪を阻止するため,それらの地域全体で外出禁止令が出されました。

キー・カーカーで奉仕する特別開拓者セシリア・プラットは,ハリケーンの警報を聞いて,万一のために避難用の持ち物をかばんに詰めました。その日,セシリアは12名の姉妹たちから野外奉仕の報告を集めており,午後の船で本土に行き,支部に報告を届ける予定でした。セシリアは群れの人たちの奉仕報告をビニールで丁寧に包み,非常用のかばんに入れました。予想どおり,夜になってセシリアと幾人かの姉妹たちはコンクリートの校舎に避難することになり,残りの姉妹たちはコミュニティー・センターに行きました。

セシリアはこう語ります。「わたしたちが最初に避難した教室のトタン屋根が風で吹き飛ばされてしまいました。全員,持ち物を抱えて別の部屋に駆け込みました。コンクリートで造られていたとはいえ,建物全体が風で震動しているように感じました。外をのぞくと,四方が海に囲まれているかのようで,地面は見えませんでした。一緒にいる姉妹たちと必死で祈りました。教室にいた40人の人は,さまざまな宗教に属していて,みな恐怖におののいていました。『このあらしは神からのものだ』と言う人もいました。カトリックの平信徒説教師がわたしのところに来て,『プラットさん,みんなのために祈っていただけませんか』と言いました。わたしは,『いえ,できません。わたしは女性ですし,頭を覆うものがありません』と答えました。するとその男性は,『わたしの帽子を使ってください』と言いました。そこにいる人たちの前で祈るのがふさわしいかどうか迷いましたが,エホバがハリケーンを起こしたのではないことを知らせたいと思いました。それで,一緒にいた少数の姉妹たちに,祈りましょうと言って,周りにも聞こえるような声で祈りました。祈りを終え,教室にいた全員が『アーメン』と言った途端,風の音がしなくなりました。ちょうどハリケーンの目に入ったのです。カトリックの説教師は,『すばらしい祈りでした。あなたたちの神はまことの神に違いありません』と言いました。このことがあって,人々はわたしたち5人のエホバの証人に,ほかの場所には行かないでほしいと言い,三日間食べ物やコーヒーをくれました。

「ですが,他の伝道者のことも心配でした。翌朝,風がやんでから,避難所を出て探しに行きました。あちこちで木が倒れ,物が破壊されていました。10㍍以上も風で飛ばされた家もありました。まずコミュニティー・センターで探したところ,二人の姉妹と子どもたちがいました。もう一人の姉妹の家はなくなっていましたが,姉妹は無事でした」。

ハリケーンの影響で,支部には被災地の会衆から野外奉仕報告がなかなか届きませんでした。しかし,キー・カーカーからの報告は真っ先に届きました。セシリアはそれを非常用のかばんに入れていたので,安否を確かめに来た支部の兄弟たちに直接手渡すことができたのです。

それから数週間,破壊された小島に住む兄弟たちに救援物資が届けられます。さらに自発奉仕者が出向いて,兄弟たちの家やアンベルグリス島の王国会館を掃除し,修理して助けました。

キー・カーカーで作業をした兄弟たちの一人,マール・リチャートはこう伝えています。「まず宿舎を設置し,物資の分配を組織しました。翌日には伝道者たちの家の修理を始めました。日曜日には全員で午前は野外奉仕に出かけ,それからある姉妹の家の庭で集会の場所を準備します。聴衆のためのベンチを作り,古いココヤシの切り株を演壇にしました。午後8時以降は外出が禁止されていたので,それまでに帰れるように集会の予定を調整しました。公開講演と『ものみの塔』研究に43人が出席しました」。

大会でエホバに教えられる

1960年代の後半には,テントを用いて国内の各所で大会を開くことができました。しかし,大型のテントを張って準備するのはたいへんな作業で,何日もかかりました。サンティアゴ・ソサはこう説明します。「週の前半に仕事を始め,テントを張り,王国会館からベンチを運び,ほかから椅子も借りました。そのころ大会では食事が提供されたので,調理用具を借り,大会に間に合わせるために,時には一晩じゅう料理や他の仕事をしました。準備が整ってから夜中に強いスコールが襲い,すべてがなぎ倒されてしまうことがありました。翌日には会場を設置し直す必要がありましたが,だれも文句を言いませんでした」。

ジーン・トンプソンは,ベリーズシティーとオレンジ・ウォークの間の田舎の集落で開かれた大会を覚えています。王国会館の横に茂みがあり,兄弟たちはそこにテントやベンチを設置できるよう草木を切り払いました。ジーンはこう言います。「地域大会の間じゅう雨が降り,テントの下も水浸しでした。それで,前のベンチに足を掛けて座りました。わたしたちはその地域にサンゴヘビが多いことを知りませんでした。雨だったので,テントから出ずに,王国会館のそばにいました。茂みの中に入って行ったら危険だったでしょう」。

1970年代には,ベリーズシティーの南東の端から120㍍ほど先にあるバーズ・アイル島という熱帯の小島で大会を開けるようになりました。島にある草ぶき屋根のホールは,持ち主が娯楽施設として建てたもので,電気や水道やトイレが整っていました。兄弟たちはベリーズシティーと島を木の橋を造って結びます。静かで穏やかなその場所で,大会が幾度も開かれました。

1983年3月,兄弟たちはレディービルに大会ホールを建てるため,政府から土地を借りました。当初はそこに巡回大会や特別集会や地域大会のための仮設の建物を造りました。しかし1988年,グアテマラにあった鉄骨の建物を購入してその土地に運び,恒久的な大会ホールとして使えるようにしました。

中国語の畑における進展

1920年代以降,中国人もベリーズに移住しています。その中には中国語の出版物を喜んで読む人も少なくありません。ロバータ・ゴンサレスは次のように語ります。「台湾から来た,パン屋を経営する愛想の良い女性に証言しました。その人は宗教にはあまり関心がなく,いつもとても忙しくしていました。十代の子どもが二人いることが分かったので,お店に行った時に『若い人が尋ねる』の本の中国語版を渡し,感想を聞かせてほしいと言いました。数日後,店の前を車で通ると,その女性がわたしに向かってしきりに手を振っているのが見えました。車を止めるとその人は,本を受け取ってからわたしがまた来るのを待っていたと,興奮気味に言いました。そして,台湾からベリーズに移住してきた人たちの子どもは,十代になると問題を抱えることが多い,と述べました。その人たちも『若い人が尋ねる』の本を読むとよいと思ったようです。息子に,同じ町に十代の子どもを持つ台湾人が何家族いるか尋ねてから,全部の家族に贈りたいので16冊ほしいと言ってきました」。

2000年10月に支部は,区域の中国人を進んで助ける気持ちのある開拓者や伝道者のために3か月の中国語の言語コースを取り決めました。どんな結果になったでしょうか。開拓者数名の交わる中国語の群れができ,後にそれは会衆になりました。強い反対に遭っても,良いたよりと会衆から示される愛にこたえ応じている人たちもいます。

例えば,チェン・モンジエという男性は,2006年に聖書研究を始めました。当初,家族は協力的でしたが,そのうちモンジエをあざけり,反対するようになりました。家族は突然,全財産を売り払います。モンジエが任されていた店も売られてしまい,新しい宗教をやめて一緒に別の国に移住するようにと迫りました。考える時間が1時間与えられましたが,モンジエが信仰を捨てることを拒むと,家族は何も残さずに引っ越してしまいました。モンジエは兄弟の家に住まわせてもらい,聖書研究を続け,集会に定期的に出席しました。本人はこう言います。「エホバとの緊密な関係を築き,エホバが顧みてくださいました。聖書の研究や黙想に加え,兄弟たちからの励ましが力になりました」。

モンジエは2008年11月にバプテスマを受けました。家族も彼の行状や話し方が変わったのを見て,態度を和らげています。本人はこう続けます。「エホバに従順を示して貧しくなるどころか,本当に幸福になれました。エホバはわたしを見捨てたりせず,愛と一致の見られる兄弟たちの中で生きられるようにしてくださったのです」。

メキシコ支部がベリーズの業を監督する

統治体は,ベリーズおよびメキシコの支部委員会と王国の業の必要について慎重に考慮した後,ベリーズにおける業をメキシコ支部が監督することを決定しました。この調整は2001年1月1日に実施され,ベリーズの兄弟たちはさまざまな益を得て喜びを経験しています。

以来メキシコ支部は,ベリーズにおける幾つもの王国会館建設を監督してきました。2002年3月16日,ベリーズシティーで簡素な造りのダブルの王国会館が献堂されました。翌日には,新築の美しい宣教者ホームと,レディービルの改装された大会ホールの献堂式が行なわれました。統治体のゲリト・レッシュによる献堂式の話を聞いた人の中には,五,六十年にわたってエホバに忠実に奉仕してきた人たちも少なくありませんでした。王国会館建設グループが立ち上げられてから進展が見られ,その助けによって国内で20の王国会館が建てられました。

2007年,メキシコから325人の開拓者がベリーズに来て,あまり奉仕されていない区域における伝道を助けました。このことで,ベリーズの兄弟たちの福音宣明の精神は大いに鼓舞され,結果として開拓者の数が飛躍的に増えました。

教会の指導者たちは毎年,国をハリケーンから守ってほしいという祈りをささげます。対照的にエホバの証人は,2007年のハリケーンシーズンに先立って,緊急時における物事の進め方について実際的な指示を受けました。8月にカテゴリー5のハリケーン・ディーンが襲った時,兄弟たちはこうした指示を与えられていたことを感謝しました。危険にさらされていた兄弟たちは全員避難し,安全な地域にある兄弟たちの家に身を寄せました。ハリケーンが通過した後,国内各地のエホバの証人が家屋や王国会館の修理に駆けつけます。地元のラジオ局はエホバの証人をりっぱな模範として褒めました。

あらゆる国の人々の一致

エホバの祝福によって,ベリーズには現在1,800人余りの伝道者がいます。人口149人につき一人の割合です。2009年の記念式には,国の人口の39人に一人が出席したので,大きな増加が見込まれています。

ベリーズで過去80年余りにわたって弟子を作る業が行なわれ,多民族から成る美しい霊的な人々が生み出されてきました。神とその目的に関する真理という「清い言語」によって結ばれている人たちです。ベリーズのエホバの証人は,世界じゅうの霊的兄弟姉妹と「肩を並べて」その清い言語をよく活用し,公の証言を行なっています。それは愛ある神エホバの誉れとなっているのです。―ゼパ 3:9

[脚注]

^ 7節 1973年までベリーズは英領ホンジュラスと呼ばれましたが,この報告では文脈に合わない場合を除いて,ベリーズという呼称を用います。

^ 123節 このハリケーンの後,首都はベリーズシティーから内陸のベルモパンに移されました。

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「本物のクリスチャンは家から家に伝道する,と運転手は言いました」

[234ページの拡大文]

「お父さんのことを恐れるのは正しくないわ。むしろ,エホバを恐れるべきだわ」

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ベリーズの概要

国土

沿岸部には海抜の低い平野が広がり,南部にはマヤ山地がそそり立ちます。森林地帯にはジャガー,ピューマ,クロホエザル,ペッカリー,グリーンイグアナ,ワニがすんでいます。60種ものヘビもおり,その中には猛毒を持つフェルデランスも含まれます。鳥はほぼ600種を数え,絶滅危惧種のコンゴウインコ,さらには色鮮やかなオオハシもいます。海洋生物も豊富で,サンゴ,カイメン,ブダイ,マナティー,バラクーダ,ジンベイザメなど,バラエティーに富んでいます。

住民

さまざまな人が住んでいます。マヤの三つのグループ(ケクチ,モパン,ユカテク),クレオール(アフリカ人とヨーロッパ人の混血),メスティソ(スペイン人とマヤの混血),ガリナグ(アフリカ人とカリブ族の混血),東インド系,レバノン人,中国人,ヨーロッパ系(ドイツ人やオランダのメノー派を含む)などが含まれます。

言語

公用語は英語ですが,ベリーズ・クレオール語,スペイン語,ガリフナ語,ケクチ語,マヤ語,ドイツ語,中国語なども話されます。

生活

多くの人は,甘蔗糖やトロピカル・フルーツの生産や栽培,また輸出に携わっています。漁業や観光を生計手段としている人たちも少なくありません。

食物

多様な文化を反映して,変化に富むおいしい料理を味わえます。米と豆をココナツミルクで煮た料理が昔から好まれており,チキンやビーフや魚をソテーにしたり煮たりしたものや,熟れたプランテーンを油で焼いたものが添えられます。シーフードも豊富で,人気があります。

気候

中央アメリカのカリブ海沿岸に位置するベリーズは,高温多湿の亜熱帯気候で,しばしばハリケーンの通り道になります。

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ガリナグの人々が真理にこたえ応じる

ビバリー・アン・フロレス

生まれた年 1961年

バプテスマ 1993年

プロフィール 真理を受け入れたガリフナ。今では同胞がエホバを知るよう助けている。

■ ガリナグ(ガリフナの複数形)の由来は17世紀初め,奴隷として連れて来られた人たちが先住民のカリブ族と結婚したころにさかのぼります。ガリフナ語は,アラワク語系の言語で,フランス語やスワヒリ語の要素が混じっています。

ガリナグの宗教は,アフリカとインディオの伝統が混じり合っていますが,カトリックの影響も色濃く受けています。例えば,ドゥグという手の込んだ儀式では,死んだ先祖をなだめるために食べ物や飲み物がささげられます。ビバリーはこう語ります。「母はドゥグの儀式を疑問に思っていました。食べ物を埋めることを神が是認するはずはないと考えたのです。『食べ物は人のためにあるはずだわ。それに,愛する家族が死んだ後,戻ってきて生きている身近な人に危害を加えたりするかしら』とよく言っていました」。

ビバリーはさらに,真理を学んだ後のことについてこう説明しています。「自分はガリフナなので,ダングリガに行って同胞にぜひ宣べ伝えたいと思いました。ほとんどのガリナグは,同じ民族の話のほうが受け入れやすいことを知っていたからです。実際,わたしがガリフナ語を話すと,多くの人は耳を傾けます。会衆と交わるようになった人も幾人かいます。聖書に反する伝統を退けても,悪霊に殺される心配はないということを悟るようになっています」。

[218ページの囲み記事/図版]

「エホバはいつも支えてくださいました」

リリー・ミラー

生まれた年 1928年

バプテスマ 1960年

プロフィール 独りで6人の子どもを育て上げ,全時間奉仕を47年続けている。

■ リリーはいつもの穏やかな口調でこう語ります。「1959年,エイミーベル・アレンが聖書について話してくれました。教会では,家々を訪ねて回る“偽預言者”に用心するよう言われていました。私は聖書だけを使う研究ならしてもよいと思い,真理を受け入れ,翌年にバプテスマを受けました。

「初めのうち,伝道はたいへんでした。手が震えてしまい,聖書をきちんと持っていることさえできませんでした。それでも,学んだ事柄を伝えたいという願いは,エレミヤが述べたとおり,『骨の中に閉じ込められた燃える火のよう』でした。人々が聴こうが聴くまいが,話さずにはいられませんでした」。―エレ 20:9

リリーは独りでどのように6人の子どもを育て,しかも開拓奉仕をしたのでしょうか。こう語っています。「エホバに祈ることによって,助けが与えられました。週3回,私は午前3時半に起きてスコーンを焼きました。娘たちと一緒に薪を使うオーブンで焼き,人々は並んで焼きたてを買いました。全部売り切ると,子どもたちは学校に行き,私は野外奉仕に出かけました。エホバはいつも支えてくださいました」。

リリーは1969年からコロサルで開拓奉仕をしています。長男と娘二人は全時間奉仕を始め,リリーは69人の人がバプテスマまで進歩するよう助けてきました。

[227,228ページの囲み記事/図版]

奥地への伝道旅行 ― 熱帯雨林で宣べ伝える

マーサ・サイモンズはこう語ります。「1991年3月,全国から来た23人の兄弟姉妹がプンタ・ゴルダに集まり,熱帯雨林における10日間の伝道旅行を行ないました。荷物の中には,衣類や毛布やハンモックに加え,英語,スペイン語,ケクチ語の文書が含まれていました。さらに食べ物も持ってゆき,日持ちのするパン200個も入れました。

「翌朝,波立つ海に丸木舟で乗り出します。大きなパンヤの木をくりぬいて造ったものです。クリケ・サルコ村で舟を降り,キャンプを設営しました。兄弟たちがハンモックを吊る間,姉妹たちは人気メニューのピッグテール・シチューを作ります。材料はキャッサバ,ヤムイモ,プランテーン,ココナツ,ゆでたまご,そしてもちろん豚のしっぽです。わたしたちがやって来たという話がケクチのその村で広まり,すぐに人々が次々とあいさつに来てくれました。こうして村じゅうの人たちに2時間で証言を終えることができました。その晩,兄弟たちは高床式になっていた警察署の床下にハンモックを吊って寝ました。姉妹たちは,村の長老たちの集会場であるカビルドという草ぶきの建物で寝ました。

「翌日,再び舟に乗り,さらに小川をさかのぼりました。マングローブの根で覆われた,暗くて不気味な場所もありました。30分ほど進んでから舟を降り,さらに雨林の中を1時間半歩いてサンデーウッドの村に着きます。人々は小柄で肌の色は浅黒く,髪は黒い直毛です。ほとんどの人は裸足で,女性はその土地特有のスカートとビーズの飾りで装っています。家の屋根は草ぶきで,床は土間になっています。仕切りも家具もなく,ハンモックがあるだけです。立ち並ぶ家の片側には,共同のかまどがありました。

「人々はとても親しみ深く,多くの人が関心を示しました。わたしたちがケクチ語の文書を持って来て,ケクチ語の聖書から聖句を見せることに,特に感心していました。

「次の日の朝は,ニワトリや森の鳥たちやホエザルの声で目を覚まします。朝食をしっかり取った後,前の日に関心を示したすべての人を再訪問しました。聖書研究に応じる人も数人おり,その全員に,来年また来るのでそれまで自分で学び続けるよう勧めました。その後の数日も,熱帯雨林の奥に入って僻地の村々で同じように活動しました。

「こうして熱帯雨林の中で過ごした,喜びの多い10日間が終わりました。移動した長い距離や,訪れた幾つもの村々,また会った人々のことが思い浮かびます。来年再び奉仕に行く時まで,わたしたちの植えた真理の種をエホバが守ってくださるようにと祈りました。足は腫れ,体も疲れましたが,心は今年も奥地への伝道旅行に参加させてくださったことに対するエホバへの感謝であふれていました」。

[235,236ページの囲み記事/図版]

エホバを愛するマヤの人々

ホルヘ・ショーとニコラス・ショー(妹のプリシリアンと共に)

生まれた年 1969年と1971年

バプテスマ 1997年

背景 マヤの伝統では,親を敬い,親への絶対服従が求められる。子どもが成人して結婚した場合でもそれは変わらない。

■ ニコラスとホルヘがエホバを知って愛するようになった時,父親は二人がクリスチャンとして活動することに断固として反対しました。

ニコラスはこう言います。「有益なことを学んでいると父に説明しましたが,バプテスト教会の信者である父にはその思いが伝わりませんでした。聖書研究をしてはやめるということが何度かありました。父を悲しませたくなかったからです。その反面,父と一緒に飲んで酔ってばかりいては,子どもたちに良い手本となっていないという思いもありました。妻と子どもたちはいつも悲しそうで,笑顔を見ることはありませんでした。

「聖書研究を始め,集会に定期的に出席するようになると,真理の力によって悪い行ないをやめることができました。勤勉に働いて,得た収入を家族のために使うようになりました。今では家族として幸福のうちにエホバへの奉仕に励み,家の中に笑い声が聞かれます」。

ホルヘも似たような状況にありました。酔っ払ったり汚い言葉を使ったりするので家庭は問題だらけで,週末に家にいることはほとんどありませんでした。しかし,聖書を学ぶと行ないが目に見えて改善されました。

ホルヘはこう言います。「わたしが進歩すると,父はますます反対するようになり,わたしたちを偽預言者と呼びました。なたで脅されたことも,一度ならずあります。研究司会者であるカードーサ兄弟は,早くからわたしたちを反対に備えさせてくれました。『お父さんから,家を出て行くようにと言われたらどうしますか』と聞かれたことがあります。『父はわたしを愛しているので,そんなことはしないと思います』と答えました。しかし残念ながら,兄弟の言葉のとおりになったのです」。

さらにこう続けます。「それでも,学んでいる事柄が心から離れず,生活も良くなっていきました。わたしがクリスチャンとして新しい人格を身に着けることは,家族にも益となりました。互いを敬い,共に幸福な時を過ごせるようになったのです。今では宣べ伝える業から大きな喜びを得ており,エホバのご親切によって正規開拓者として奉仕しています」。

[図版]

フランク・カードーサはホルヘに証言した

[238,239ページの囲み記事/図版]

必要の大きな所で喜んで奉仕する

王国宣明者の必要の大きな国に移動するのは大きな一歩です。とはいえ,移動先の国に何年もとどまって奉仕するには,多大の努力と自己犠牲が求められます。大勢の兄弟姉妹が不屈の精神と喜びをもってこうした難題に取り組んできました。

例えば,アーサー・ゴンサレスと妻のロバータは,ベリーズで奉仕するため,1989年に3歳の息子のダルトンを連れて米国から移動してきました。ロバータはこう打ち明けます。「いちばん試みとなったのは,給料のよい安定した仕事を辞めて,失業者のあふれている国に移動することでした」。

アーサーもそれに同意し,こう言います。「エホバを信頼することはどうしても必要です。聖書中のアブラハムに関する記録を読んで感銘を受けました。家や親族や慣れ親しんでいた環境をあとにしたのです。しかしエホバはアブラハムを顧みてくださいました。苦労したことの一つは,ベリーズ・クレオール語に慣れることです。でもエホバに依り頼み,助けていただきました」。

フランク・カードーサと妻のアリスは,ベリーズで開拓奉仕をするため,1991年に米国カリフォルニア州からやって来ました。フランクはこう言います。「『使徒たちの活動』の書を読んで宣教者になりたいと思いました。しかし,子どもが4人いたのでギレアデ学校に行くのは到底無理でした。それで,末の娘が学校を出てから,外国に移動する機会がないかと考えました。『ものみの塔』でベリーズに関する記事を読んで,ここだと思いました」。

アリスはこう語ります。「とりあえず3年なら行ってもいいと言いましたが,それから18年が過ぎ,ここでの奉仕がとても気に入っています」。

フランクはこう付け加えます。「人々と奉仕を愛しているので,エホバを愛するようになる人に親しみを覚えます。研究がすぐに決まり,自分たちでは持ちきれないほどです。人々が真理にこたえ応じるのを見ることができ,最良の年月を送ってきたと感じます。どれほど多くのお金を積まれても,この特権を手放すつもりはありません」。

カール・サイモンズと妻のマーサは,1988年に米国テキサス州からベリーズに移りました。マーサは言います。「移動した時,子どもたちはそれぞれ10歳と8歳でした。ベリーズでは会衆と共に丸一日,奥地の村々で伝道しました。大会ホールの建設も共に行ない,大会の時には我が家にいつも兄弟姉妹が大勢泊まりました。この国で子どもを育てられたことを感謝しています。そのおかげで子どもたちは特別開拓者や宣教者と交わることができたからです。確かに時には飛行機に乗って国に帰りたいと思うこともありました。電気や水道や電話のない時などです。こうした奉仕には良い時も悪い時もありますが,再びするよう求められるとしたら,行なうと思います。必要の大きな所で奉仕して,豊かな人生を送ることができました」。

[図版]

ゴンサレス家。左から右へ: ダルトン,ロバータ,アーサー,その母マーサ

フランク・カードーサと妻のアリス

カール・サイモンズと妻のマーサ

[250ページの囲み記事]

「気遣ってくれる人」

アレハンドロ・ラカヨとレベッカ(ベッキー)・ラカヨ

生まれた年 1950年と1949年

バプテスマ 1966年と1959年

プロフィール 1972年にギレアデを卒業してから宣教者としてエルサルバドル,ベリーズ,ニカラグア,メキシコ,ホンジュラスで奉仕してきた。現在は米国で巡回奉仕をしており,ベリーズでの救援活動が特に印象に残っている。

■ 「ハリケーン・キースのまっただ中にいます。二日半,雨が降り続いたままです」。2000年10月2日,月曜日,ベッキーはそのように書いています。

翌日,風と雨が収まってから,アレハンドロと特別開拓者のドナルド・ニーブルージュはアンベルグリス島に幾らか物資を運ぶことができました。その二人と地元の二人の長老は,島内の二つの会衆に交わる伝道者全員を訪ね,安否を確かめました。

ベッキーは振り返ってこう述べています。「水曜日には,国内各地の兄弟たちが,被災した島々の兄弟たちのためにと,支部に食糧や水や衣類を届けに来ました。やがてロビーと書庫は物資でいっぱいになりました」。

その間,アレハンドロと3人の兄弟たちはキー・カーカーにも物資を届け,時宜にかなった励ましを与え,群れの成員と共に祈りました。兄弟たちの愛と関心は,エホバの証人に加え,そうでない人たちにも深い感銘を与えました。ある女性は不平を漏らし,「教会に何年も寄付してきたのに,だれもわたしが無事かどうか見に来ないわ」と述べました。

対照的に,一人の姉妹は喜びの涙を浮かべてこう言いました。「他の人たちは本当にたいへんそうです。でもわたしたちを見てください。気遣ってくれる人がいるんです」。

[244,245ページの図表/グラフ]

年表 ― ベリーズ

1923年 ジェームズ・ゴードンがボンバで伝道する。

1930

1933年 フリーダ・ジョンソンがベリーズシティーで伝道する。

1934年 タディウス・ホジソンが自分の店で集会を開く。

1940

1941年 初期の伝道者たちがベリーズシティーでバプテスマを受ける。

1945年 最初の宣教者たちがやって来る。

1946年 支部事務所が設立される。

1950

1957年 宣教者が新たに入れなくなる。

1959年 支部事務所,宣教者ホーム,王国会館が建てられる。

1960

1961年 再び新しい宣教者が入れるようになる。

1961年 ハリケーン・ハティで壊滅的な被害を受ける。

1971年 バーズ・アイル島で初めて大会が開かれる。

1980

1988年 レディービルに大会ホールが建てられる。

1990

2000

2000年 ハリケーン・キースがベリーズを直撃する。

2001年 メキシコ支部がベリーズを監督するようになる。

2002年 ダブルの王国会館(左),宣教者ホーム,改装された大会ホールの献堂式が行なわれる。

2010

[グラフ]

(出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

1,800

1,200

400

1930 1940 1950 1960 1980 1990 2000 2010

[図版]

船で大会に行く兄弟たち

[209ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

メキシコ

グアテマラ

メルチョル・デ・メンコス

カリブ海

ベリーズ

アンベルグリス島

サン・ペドロ

キー・カーカー

コロサル地方

コロサル

オレンジ・ウォーク地方

オレンジ・ウォーク

オーガスト・パイン・リッジ

ベリーズ地方

ボンバ

サンタナ

クルキッド・ツリー

ブラック・クリーク

レディービル

ベリーズシティー

カヨー地方

ベルモパン

ベンケ・ビエホ

スタン・クリーク地方

スタン・クリーク・バレー

ダングリガ

ホプキンズ

セイン・バイト

トレド地方

マンゴー・クリーク

プラセンシア

モンキー・リバー

プンタ・ネグラ

サン・アントニオ

プンタ・ゴルダ

サンデーウッド

バランコ

クリケ・サルコ

ベリーズ川

マヤ山地

[200ページ,全面図版]

[206ページの図版]

アルフォンセナ・ロバトーとエイミーベル・アレンと3人の特別開拓者の兄弟たち

[207ページの図版]

ハーマン・ライトバーンと妻のデリーンと息子のスティーブン

[210ページの図版]

ベリーズシティーのエホバの証人。横にあるのは拡声装置を載せた荷車。1940年代。(1)タディウス・ホジソン,(2)ジョージ・ロングスワース

[213ページの図版]

エルマー・イーリグは宣教の区域を拡大し田舎の地方にも出かけた

[214ページの図版]

チャールズ・ヘイエンは集会を定期的に開くよう兄弟たちを励ました

[221ページの図版]

ベリーズシティーで支部事務所,宣教者ホーム,王国会館として使った建物

[223ページの図版]

最初のスペイン語の巡回大会。1968年,オレンジ・ウォークの王国会館で

[229ページの図版]

特別開拓者のマルシアル・ケイと妻のマヌエラ

[230ページの図版]

トレド地方にあるマヤの典型的な村

[240ページの図版]

バシリオ・アーと妻のマリア

[246ページの図版]

セシリア・プラット

[249ページの図版]

テントで行なわれたプンタ・ゴルダの巡回大会,1960年代

[251ページの図版]

アレハンドロ・ラカヨと妻のベッキー

[252,253ページの図版]

下の鉄骨の建物が現在は大会ホール(右)になっている

改装された大会ホール

[254ページの図版]

ベリーズシティーのダブルの王国会館の現場で働く兄弟姉妹