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エストニア

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エストニアへようこそ!「バルト海の愛されてやまない宝石」と評されるこの国の美しい景観は,人々を魅了します。この国には森や草原,風光明媚な海岸の村々,1,400を超える湖,1,500余りの島があります。国土のほぼ半分は,深い森と下草で覆われています。それは,かつてヨーロッパの大部分を覆っていた原生林の名残です。エストニアはスイスやデンマークほどの大きさで,ヨーロッパでも小さな国に属します。

小さいながらも魅力的なこの国に住んでいるのは,控えめながら温かい人たちです。それらの人が多くの優れた資質を持っていることにお気づきになるでしょう。人々は一般に十分な教育を受けており,識字率が非常に高く,読書を好みます。人口のおよそ30%はロシア語を話しますが,公用語はエストニア語です。この言語はとても複雑で,習得するのは簡単ではありません。一例として,エストニア語には「島」に相当する語が幾つかあり,島の形や大きさや古さに応じて呼び名が変わります。

壮絶な過去

エストニアは力を持つ隣国の支配を相次いで受けてきました。13世紀初めに,ドイツの騎士団とデンマークの軍隊が国土に侵攻します。以後数百年にわたって,スウェーデン,デンマーク,ノルウェー,ポーランド,リトアニア,ロシアがこの国を手中に収めようと戦いました。

それからスウェーデンによる支配が100年以上続き,次いで1721年にロシアの支配下に入ります。1918年に独立しますが,それは長くは続かず,1940年にソ連が侵攻し,エストニアを併合しました。1941年にはナチス・ドイツの占領下に置かれますが,1944年に占領軍はソ連軍に破られます。その後エストニアは50年近くにわたってソ連の一部でしたが,1991年,ソ連の共和国の中で最初に独立を宣言しました。

エストニアのエホバの証人は,これらの出来事からどんな影響を受けましたか。圧制的なドイツの占領期と過酷なソ連時代に,真の神の僕たちはどんな経験をしたのでしょうか。残忍な迫害に面しても信仰や勇気や才覚を示した人々の,胸を打つ記録が残されています。

偽りの宗教による傷

13世紀にエストニアを侵略した十字軍は,住民に剣を突きつけて“キリスト教”への改宗を迫りました。しかし,その改宗は上辺だけのものでした。村人たちは後に,無理やり受けさせられた洗礼を無効にしようと,自分の体と家に水をかけ,それから異教の崇拝に戻りました。人々は自然崇拝と異教の儀式を続け,やがてそれらがカトリック信仰と徐々に融合してゆきました。

17世紀に,エストニアの人々はルター派教会に改宗します。後にはロシア正教会が国教となります。1925年には政教分離が実施されました。ある調査によれば,エストニア人の中で宗教が日常生活において重要な部分を占めていると述べる人は14%にすぎません。

とはいえ近年,多くの誠実なエストニア人が傷を癒やすバルサムのような神の言葉,「幸福な神の栄光ある良いたよりに基づく健全な教え」を受け入れてきました。(テモ一 1:11)結果として1991年以降,神の王国をふれ告げるエホバの証人の数は1,000人足らずから4,000人以上にまで増えました。良いたよりは,この小さな国エストニアにどのようにして最初に伝わったのでしょうか。

「口があるのです」

20世紀初めのこと,マルティン・コセと兄のフゴは,アメリカにいる時に聖書研究者(当時のエホバの証人の呼称)の発行する文書を幾らか入手しました。マルティンは,読んで知った事柄に胸を躍らせ,母国の人々のことを気に掛けました。当時マルティンが知る限り,エストニアには聖書研究者がいませんでした。後にマルティンは,持っていた冊子に書かれていた住所を頼りにニューヨークの本部を訪れます。そして,聖書研究者の活動を当時監督していたJ・F・ラザフォードに,気がかりな点を伝えました。

「どうしたらよいのでしょう」とマルティンは尋ねます。

「口があるのですから,あなたが国に戻って伝えてください」とラザフォード兄弟は答えます。

マルティンはこの勧めのとおりにしました。1923年ごろにエストニアに戻ると伝道を始め,その国で最初の聖書研究者になったのです。マルティンは家族にも聖書の真理を教えます。息子のアドルフは,その後の困難な年月に,神の忠実な僕であることを示し,人々を支える柱のような存在となりました。マルティンの兄のフゴも聖書研究者になりましたが,帰国して母国に住むということはありませんでした。

「心細く思う必要はありません」

1926年にロンドンで開かれた聖書研究者の大会で,ラザフォード兄弟はバルト諸国に赴く意思のある人たちを募りました。アルバート・ウェスト,パーシー・ダナム,ジェームズ・ウィリアムズはその呼びかけにこたえました。その後まもなく,3人は良いたよりを宣べ伝える業を組織するため,それぞれエストニア,ラトビア,リトアニアに割り当てられました。当時,デンマークに置かれていた北ヨーロッパ事務所の監督ウィリアム・デイは,アルバート・ウェストと共にエストニアの首都タリンまで旅をしました。デイ兄弟はアルバートが滞在できる部屋を見つけた後,彼の肩をたたいてこう言いました。「ではアルバート,お元気で。心細く思う必要はありません。もうすぐ『ものみの塔』も届きますよ」。

業を助けるため,聖書文書頒布者<コルポーター>として知られていた開拓者たちがイギリス,ドイツその他の国から来ました。とはいえ,ビザの延長が難しく,長くはとどまれませんでした。フィンランドから来たコルポーターたちは早く慣れることができました。エストニア語とフィンランド語は同じ系統に属する言語だからです。外国から来た何十人もの全時間奉仕者が勤勉な態度で王国の種を植えました。外国人は珍しく,人々から温かく歓迎され,しばしば愛称で呼ばれました。「ソーメ・ミーナ」(フィンランドのミーナ)といった具合です。講演者がイギリス人であれば,ただ「ロンドンの人」と紹介されました。

最初の支部

事務所に適した場所は,ほとんどありませんでした。外国人は裕福であるとみなされ,高い家賃が要求されたからです。それでも1926年,タリンのクロイツワルティ通り17番の小さなアパートに支部が開設され,アルバート・ウェストが支部の僕となりました。同じ年,初めてのこととしてエストニア語で小冊子が幾つか刊行されました。「現存する万民は決して死することなし」もその中に含まれていました。

エストニア人の若い女性ヒルタ・アンクは,友人たちから真理について聞きました。文書を入手するため支部を訪ねた時,ドイツ人の兄弟から,自分が行なう公開講演を通訳してもらえるかどうか尋ねられました。ヒルタはそれを引き受け,1928年,支部で翻訳者として働くよう招かれます。後にヒルタは,イギリス人の兄弟で,全時間の伝道を行なうためエストニアに移動していたアリグザンダー・ブライドソンと結婚しました。ヒルタは翻訳の仕事を効率よく勤勉に行ないました。後に業に禁令が課され,夫と共に国を離れざるを得なくなりましたが,国外で数十年にわたってひそかに翻訳を続けました。この夫婦の全時間奉仕の年数は,合計100年以上になりました。

1928年,聖書研究者たちはエストニア語の最初の書籍である「神の立琴」を刊行しました。それに加え,第二次世界大戦の前までに,「ものみの塔」誌,他の7冊の書籍,また多くの小冊子が発行されました。

初期の福音宣明者

コルポーターたちは広い区域を自転車で回り,民家や干し草の上など,どこでも泊まれる場所で寝ました。人々は貧しい生活をしていましたが,王国の音信に好んで耳を傾けました。そのため,全時間の奉仕者たちは宣べ伝える業に月に150時間ないし200時間を喜んで充てました。中には,ある月に239時間を報告した人もいたほどです。勤勉さ,大胆さ,粘り強さがそれら奉仕者の特徴でした。ある姉妹が初めて野外奉仕に出た時の様子は次のようなものです。

フィンランド人の熱心な姉妹がこう尋ねます。「自転車に乗れますか」。

新しい姉妹は,「乗れます」と答えます。

フィンランド人の姉妹は,「だったらサーレマー島に行きましょう」と熱っぽく言います。それは200㌔ほど離れたところにある,エストニア最大の島です。

二人はサーレマー島の最初の村に来ます。するとフィンランド人の姉妹は,「あなたは村のこちら端から始めてください。わたしは向こう端から始めます。夕方に村の真ん中で会いましょう」と言います。新しい姉妹にとって,伝道するのはその時が初めてでした。それでも最初の家を訪問した時,エホバが助けてくださっていると感じ,すぐに自信を得,その後楽しく奉仕を続けられました。

ヘリン・アールトネン(結婚後はグロンルンド)は,ボルムシ島から来た人たちに会いました。その人たちは耳慣れない言葉を話していました。

「エストニア語を話しますよね」とヘリンは尋ねました。

「いや,スウェーデン語だよ」という答えが返ってきました。

ヘリンは,「ではスウェーデン語の読み物を持っていますか」と尋ねました。

すると人々は大げさに,「スウェーデン語の本なんて,もう何百年も見たことがないよ」と答えました。

ヘリンは,ボルムシ島の人々にはスウェーデン語の文書が必要だと思い,スウェーデン語を話すファンニ・ヒエタラと共に島を訪れることにしました。

当時を思い返してヘリンはこう語ります。「支部にあったスウェーデン語の書籍をすべて携え,船で島に行きました。島全体を3日で回り,文書をほとんど配布しました。何十年も後,スウェーデンに住むある兄弟が,ボルムシ島で手に入れた書籍から真理を知った,ということを聞きました」。王国宣明者たちは伝道の書 11章6節の言葉が真実であることをたびたび経験してきました。そこにはこうあります。「朝に種をまき,夕方になるまで手を休めるな。あなたは,これがどこで成功するか……知らないからである」。

コルポーターが経験した困難

コルポーターの奉仕は容易ではありませんでした。冬にはスキーや徒歩で一日に20㌔から40㌔移動しました。寒さは非常に厳しく,快適な宿舎はほとんどありませんでした。文書の箱も運ぶので,食べ物や他の必需品は最低限のものしか携えることができませんでした。大雨で道路が通れなくなることもしばしばでした。屋外で寝なければならないこともよくありました。こうした厳しい状況下での奉仕には,心身両面の強靱さが求められました。それらの献身的な宣明者は,行なった奉仕についてどう感じているでしょうか。

フィンランド人の熱心な兄弟ビルホ・エロランタは,孤立した地域で何か月も全時間の伝道を行ないました。兄弟はこう語ります。「本当に必要なものに事欠くことはありませんでした。多くの場合,文書と引き換えに食べ物や宿舎を得ました。お金はほとんど必要ではありませんでした。夕刻になると,泊めてもらえないか人々に尋ねました。断わる人はほとんどいませんでした。すでに遅い時間になっていたり隣の農場まで距離があったりした場合は,なおのことそうでした」。

ビルホはこう続けます。「王国の音信を人々にぜひ伝えたいという思いが強かったので,生活がどんなに簡素でも,宣べ伝える業から得られる満足や喜びが失われることはありませんでした」。

これらの兄弟姉妹の労苦によって大量の文書が配布され,そのことは将来の増加の足掛かりとなりました。1929年には,一握りの福音宣明者が合計5万3,704冊もの書籍や小冊子を配布しました。

アドルフ・コセはこう述べています。「エストニアには30人ほどのコルポーターがいて,第二次世界大戦前までに国内全域で奉仕しました」。

初期のそれら勤勉な宣明者の活動は,今でも良い結果を生んでいます。例えば1990年代の初めに,ルトという年配の女性がエホバの証人の訪問を受けました。その音信は,ルトにとって聞き覚えのあるものでした。それより60年以上前に,近所に住む人をドイツ人の聖書研究者が何度か訪問していました。ルトはその時に話を聞いていたのです。すでに年を取り,耳も不自由でしたが,伝えられた音信が真理であることを悟り,聖書研究の勧めに応じ,バプテスマを受けました。最初に音信に接した時からほぼ70年が経過していました。

支部での初期の活動

この初期の時代に,小さな支部事務所で大会も開かれました。最初の大会が開かれたのは1928年6月で,25人が出席し,4人がバプテスマを受けました。翌年には,大会の開催を助け,また野外奉仕をするために,フィンランドから80人の兄弟が訪れました。

エストニアで支部の僕として奉仕していたアルバート・ウェストは,デンマークの支部の僕ウィリアム・デイを援助する割り当てを受け,後にはその立場を引き継ぎました。では,ウェスト兄弟の代わりにだれがエストニアで支部の僕になるのでしょうか。スコットランド出身のウォーレス・バクスターです。兄弟はユーモアのセンスに富む温かい人で,第一次世界大戦中,真理を知る前に,イギリス軍に従軍してフランスで戦ったことがあります。兄弟が戦時に見聞きし経験した事柄は,イエス・キリストの教えに沿わないものでした。

バクスター兄弟はこう語ります。「わたしは混乱し,敵がだれであろうと,人間による戦争はすべて間違いであることを理解するようになりました。かねがね人はみな兄弟であると信じ,神を探し求める人はいずれ神を見いだせるとも信じていました。こうした事柄を思い巡らし,塹壕の中でひざまずき,神に,もし命を助けてくださり無事に帰れるなら生涯お仕えします,と固く誓いました」。

実際,彼はそのとおりにしたのです。真理を学んだ後,1926年に熱意にあふれて全時間奉仕を始めました。2年後には,エストニアで奉仕するようにとの招きに応じ,引き続き熱心に働きました。ウェスト兄弟が国を離れた1930年に,バクスター兄弟は支部の僕に任命されました。1932年,支部はタリンのスール・タルトゥ街72番に移されます。翌年,エストニアのものみの塔聖書冊子協会は正式に登録されました。

多言語による放送

早くも1927年に,ウェスト兄弟はタリンの民間ラジオ局で放送を行なう許可を得ました。兄弟が行なった「千年期の祝福」という講演は,エストニア語に通訳されました。この放送は多くの人の関心を高めましたが,同時に物議を醸しました。そのため,再び放送を行なう許可が得られたのは1929年になってからでした。その年以降,毎週日曜日にレギュラー番組が放送されるようになりました。話は英語,エストニア語,フィンランド語,ロシア語で,そして時折スウェーデン語とドイツ語で,また少なくとも1回はデンマーク語で行なわれました。それらの話も多くの人の関心を誘い,遠くはノルウェー,デンマーク,スウェーデン,フィンランド,ロシアのレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)でも聞くことができました。1932奉仕年度に200の講演が放送され,エホバのみ名を知らせるための効果的な手だてとなりました。僧職者が反対したのも驚くには当たりません。

僧職者は,エストニアの当局が共産主義と関連のある活動に強い不安を抱いていることを知り,エホバの証人は共産主義者と結びついているという偽りの主張をしました。エストニア当局は,国体を弱めかねない事柄に敏感に反応し,1934年にラジオによる講演を禁止しました。しかし,その措置に皆が同意したわけではありません。ある男子生徒は英語で次の手紙を寄せました。

「ものみの塔」とラザフォード判事へ

エストニアの政府があなたの講演の放送を禁止したことをとても残念に思います。わたしは学生です。親は裕福ではなく,わたしたち子どもに食べさせるため,きつい労働をしています。しかし,主に対する愛や希望は,両親の顔を照らす光のようです。わたしはこの冬,大病を患い,その中で唯一慰めとなったのは,ラジオで聞くあなたの講演でした。悲しみの涙は幸せの涙に変わりました。……どうしたらあの講演を聞けるのでしょう。……英語の勉強を始めました。この手紙は,辞書を見ずに英語で書いた最初の手紙です。……ラザフォード判事のご多幸を祈ります。

ラザフォード兄弟は自ら手紙の返事を書き,自分の講演のレコードを何枚かこの学生に送りました。

「天の王国の兵車」

イギリス出身の熱心なコルポーターのジョン・ノースは,エストニアで伝道する際に家族と共にトレーラーハウスで生活しました。このことはエストニア南部全域でかなりの関心を引き起こしました。地元の新聞はこのトレーラーハウスについて次のように説明しました。「[ものみの塔]協会はタルトゥで家のような乗り物を作っている。その目的は,国の各地を回って礼拝を行なうことにある。『天の王国の兵車』で移動して人々に伝道し,聖書について説明する書籍を配布している。この“兵車”の乗員は5人 ― 指揮に当たる伝道師と妻とその子ども,そして活力に満ちた二人の若い男子である。二人は(エヒウさながら)“兵車”を拠点に方々を自転車で飛ばしては出版物を配布している」。

1930年代半ばの政情不安の際,かつて民兵組織のパイロットだったニコライ・トゥイマンは,エストニアのファシスト運動にかかわったとして投獄されました。刑務所の図書室でニコライは,J・F・ラザフォードの著書を何冊か見つけ,自分の生き方が誤っていたことを悟りました。釈放後,タリンに出かけ,妻が入手した書籍に示されていた住所を訪ねました。その書籍はエホバの証人が発行したものでした。ニコライはバクスター兄弟の援助を受けて生き方を大きく変え,政治活動をやめ,平和を好む熱心なエホバの証人になりました。後に業が禁令下に置かれた時には,会衆において柱のような存在となり,地下活動で行なう印刷を助けました。シベリアへ流刑にされた15年ほどの間もずっと忠実を保ちました。

医師のアルトゥル・イントゥスも,政治にかかわり,また幻滅した人です。真理が最初に心に響いたのは,往診のためにマルティン・コセの家を訪ねた時のことです。コセ兄弟は聖書を学ぶようアルトゥルに勧めました。そして,ドイツ語を理解できるアルトゥルのために,入手できるドイツ語の文書をすべて注文しました。アルトゥルはマルティンの援助を受けて真理を受け入れ,エホバに献身し,バプテスマを受けました。医師としてよく知られ,敬意を受けていたアルトゥルは,熱心な兄弟としても知られ,敬意を受けるようになりました。

暗雲が垂れ込める

1930年代半ばは不穏な時期でした。ナチス・ドイツとカトリック教会による圧力のため,1935年1月に「正義の支配者」という小冊子は押収されました。

同じ年に,内務省はエストニアのものみの塔協会を閉鎖し,文書を押収し,財産を差し押さえました。すでに多くの文書が隠されていましたが,押収された文書は7万6,000部ほどになりました。しかし,こうした妨害によって業が停止することはありませんでした。思いがけないことに,押収された2冊の冊子の内容が二つの主要紙に掲載され,兄弟たちは大いに喜びました。それらの新聞の発行部数は合計10万部でした。ですから,文書を失ったとはいえ,エホバのみ名は兄弟たちが冊子を配布していた場合よりも広く知らされたのです。

その間にも宣べ伝える業は続けられ,さらに支部の活動は再開されました。その後の年月にも,かなりの書籍が押収されます。ヘリン・アールトネンは捜索が行なわれた時に支部で働いていました。

アールトネン姉妹はこう語ります。「3人の若い警察官が踏み込んできて,主に『現存する万民は決して死することなし』の小冊子を押収しようとしましたが,1冊もありませんでした。警察官たちは棚からすべての書籍を引っ張り出して,床の上に無造作に積み上げてゆきました。バクスター兄弟は,監視されていたため手出しできませんでした。しかし,わたしは警察が荒らした場所を片づけ始め,目立たないようにバクスター兄弟の机に行き,警察に見られてはいけない書類がないか確かめました。伝道者全員の住所氏名が記された手紙があったので,隅のゴミ箱に入れました。警察官たちが書籍を箱に入れ始めた時,指揮に当たる警察官は横柄な態度で箱をつかみ,無理に動かそうとして腕を骨折してしまったのです。警察官たちはその人を急いで病院に連れて行きました。そのため,箱の中身を仕分ける時間を稼ぐことができました」。

その続きについてバクスター兄弟は語ります。「警察官たちは戻って来ました。押収の際に,一人の警察官が『神の救い』の書籍を1冊,自分のオーバーの大きなポケットに入れるのが見えました。私はよく,そうした人々が書籍を自分用に持って行って読むことがどれほどあるのだろうと考えたものです」。

1939年は不安と恐れに満ちた年でした。かなりの数のソ連兵が,エストニアに駐留することが認められました。バクスター兄弟はこう書いています。「毎日ラジオで共産主義の宣伝が繰り返し流されました。憶測,興奮,心配,恐怖心などが度を増していました。上空には,空挺部隊を乗せたソ連の軍用機が轟音を立てながら頻繁に飛んでいました」。こうした脅威に萎縮して,証しの業は停止してしまうでしょうか。

騒乱が続く中でも,エホバの忠節な僕たちは1940年に,書籍や小冊子を5万9,776部配布しました。伝道者27人,開拓者15人だけで,これほどのことを行なったのです。残された自由の時期を最大限に生かして活動したのです。

自由な中での最後の大会

兄弟たちは,ソ連の支配が始まる少し前に,タリンで大会を計画することができました。その後50年,大会は自由に開くことができなくなります。兄弟たちは「ものみの塔」誌の記事,例えば「神権政治」,「中立」,「わな」,「宗教の運命」などの記事を討議しました。どれも時宜にかなった霊的食物で,神の民は前途の備えができました。

エストニアは第二次世界大戦に巻き込まれ,兄弟たちもその影響を被ります。1940年6月16日,ソビエト社会主義共和国連邦はエストニア政府に最後通牒を突きつけ,新政府の樹立とソ連兵の増派を認めるよう求めます。党員150人に満たないエストニア共産党が合法化され,エストニアはソ連に併合されます。その後の数か月に,多数のエストニア人がシベリアへの流刑に処され,家や農場は放棄させられるか焼かれるか,流入するロシア人のものになるかしました。小型漁船で脱出を試みた人も大勢おり,それらの人は主にスウェーデンに向かいました。成功した人たちもいましたが,荒海の中で命を落とした人も少なくありませんでした。

残った外国人が出国する

共産主義政権の樹立に伴い,支部は再び閉鎖されました。バクスター兄弟,またアリグザンダー・ブライドソンと妻のヒルタも国にとどまる決意でいましたが,外国人が残ることはますます危険になりました。そのため,ラザフォード兄弟は彼らに出国するよう勧めます。バクスター兄弟とラトビアから来ていたダナム夫妻は,列車で出国し,シベリア経由でオーストラリアに行き着きます。ブライドソン夫妻は1年ほど後にスウェーデンに出国します。バクスター兄弟は,1994年6月21日に地上の歩みを終えるまで,オーストラリアの支部委員会で忠実に奉仕しました。 *

外国人の兄弟たちが国を離れ,地元の少人数の兄弟たちはどうなるのでしょうか。兄弟たちは真理に比較的新しく,否応なく戦渦に巻き込まれます。戦争の影響によって業の速度は低下しました。1941年に最後の報告が寄せられてから20年ほど,兄弟たちの消息は分かりませんでした。

信仰の厳しい試み

第二次世界大戦が続く中,ドイツ軍はソ連軍を掃討し,1941年から1944年にかけてエストニアを占領しました。それによって兄弟たちの状況が好転したわけではありません。ろう者の兄弟ヤーン・パッラトは,1942年にタルトゥで伝道していた時,ドイツ軍に逮捕されました。兄弟は政権転覆を企てたとして投獄されました。刑務所の記録によると,刑務所長は囚人のヤーン・パッラトを「特別な処置のために引き渡す」ようにとの命令を受けました。これは実質的に処刑命令でした。その場に居合わせた幾人かは,兄弟が外に連れ出されるのを目撃し,次いで数発の銃声を聞きました。兄弟が連れ戻されることはなく,再び姿を見た人もいませんでした。

確かにそれは兄弟たちにとって困難な時期でした。最初にソ連軍が,次いでドイツ軍が若い男子を徴兵しました。アドルフ・コセはこう述懐します。「入隊しないですむよう身を隠す必要がありました。捕まれば,命令に従って従軍するか,銃殺されるかのいずれかでした。何をするにも困難を極め,必然的に王国の業は影響を被りました」。

再び戦況は変わり,1944年の終わりごろ,ソ連軍がドイツ軍を掃討し,エストニアはまたもやソ連の過酷な支配を受けることになりました。戦争と,それに続く幾年にも及ぶ抑圧によって,エストニア国民はひどく疲弊させられます。人口の少なくとも4分の1は殺されるかソ連の遠隔地に強制移送されるか,あるいは何とかして国を逃れました。その後の年月に数十万人のロシア人がエストニアに流入し,人口の構成は大きく変わりました。これから取り上げますが,ソ連の支配は兄弟たちの信仰を厳しく試みるものとなりました。

森の兄弟から霊的兄弟へ

このころ,反ソ連の国家主義者によるパルチザン活動が行なわれ,「森の兄弟」として知られるようになりました。活動家たちが深い森に身を潜めたからです。中にはパルチザンではないものの,ソ連の国家保安委員会,すなわちKGBの係官の追跡を逃れるために隠れていた人もいました。推計によれば,森に隠れていた人は一時期1万5,000人ないし2万人に達したとされています。当局に見つからずに幾年も隠れた人もいました。事実,その最後のメンバーが発見されたのは1978年のことでした。「森の兄弟」の中に,真理を受け入れ,霊的な兄弟になることを選ぶ人がいたのでしょうか。

エリク・ヘインローはエストニア政府で諜報活動を行なっていたため,自分の身が危険であることを悟りました。ソ連がエストニアを占領した時,エリクは妻のマクタと共に,船で何度かスウェーデンへの脱出を試みました。最後に脱出を試みた時には,エンジンの故障のために戻らざるを得ませんでした。エリクは7年にわたって森に隠れて当局の追跡をかわしましたが,やがて逮捕されました。そしてエリクと妻は,ソ連の別々の収容所に送られます。

収容所でマクタは二人のエホバの証人に出会い,王国の希望について聞きました。マクタは真理を見いだしたことをすぐに悟り,小躍りして喜びました。彼女は1956年に釈放され,1960年にバプテスマを受けました。エリクも,釈放されてから7年後に真理を受け入れました。「森の兄弟」がついに霊的な兄弟になったのです。

追跡と逮捕

外国人の兄弟たちがやむなく国を離れた後,勇敢で熱心な兄弟であるマルティン・コセが,エストニア北部における業を監督するよう割り当てられました。エストニア南部の業を監督したのはフリードリヒ・アルトペレです。長身で礼儀正しいエストニア人のフリードリヒは,中等学校で英語の教師をしていました。1930年代のこと,フリードリヒはブルに来ていた外国人の開拓者の話を通訳するよう頼まれました。通訳をした後,フリードリヒは真理を見いだしたことを悟りました。そしてこのころまでには進歩を遂げ,エストニア南部における宣べ伝える業を指導できるほどになっていたのです。

二人の兄弟にとって,この割り当てを果たすことは簡単ではありませんでした。組織と連絡を取ることができず,経験も限られていたからです。地下で活動するという困難にもかかわらず,二人は1940年から逮捕される1948年の終わりまで忠実にその務めを果たしました。

マルティン・コセとフリードリヒ・アルトペレに代わって奉仕委員会が設置されました。アルベルト・クルース,カルル・タルベルク,アルトゥル・イントゥスがその成員で,レンピット・トームが援助者となりました。委員会の兄弟たちは表だって活動できず,自由に移動して群れを訪問できたのはトーム兄弟だけでした。なぜでしょうか。兄弟は風車で粉をひく仕事をしていたので,風のない日には自由に活動できたのです。

エストニアの責任ある兄弟たちは,信仰の仲間を助けるために自分の命を危険にさらしました。指導者と目される人たちの写真が鉄道の駅に貼られ,まるで指名手配犯のように扱われました。KGBは,それら羊のような温和な兄弟たちの動きを掌握しようと,一人につき最大4人の諜報員を当てました。1948年から1951年までは困難な時期でしたが,エホバは宣べ伝える業を献身的に行なう僕たちの努力を祝福なさいました。結果として伝道者の数は100人を超えました。

『蛇のように用心深く,はとのように純真』

エストニアのイエスの弟子たちは,主人の次の警告が真実であることをいっそう経験するようになりました。「蛇のように用心深く,しかもはとのように純真なことを示しなさい。人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです」。(マタ 10:16-18)サタンによる抑圧行為に対してエホバは必ずしも奇跡的な保護を差し伸べるわけではありません。優れた信仰を持つ人の中にも,この点を十分に理解していない人がいました。(ヨブ 1:9-12; 2:3-6)エホバの証人の中には,時として蛇のような用心深さを示さなかったために残酷な迫害者のえじきになってしまった人もいました。

アドルフ・コセはこう回想しています。「関心を持つ男性がいました。非常に熱心で大胆な人でした。その人は会衆の中で責任をゆだねられ,姉妹たちにとても好かれていました。しかし,兄弟たちは不審に思うようになり,集会を開いている場所すべてにその人を連れて行くことのないよう姉妹たちに注意しました」。残念ながら,この注意に従わなかった人たちがいたため,その男性は多くの情報をKGBに直接流しました。

レンピット・トームはこう語ります。「1950年に,ドイツから『ものみの塔』誌が何冊か手に入り,その情報をエストニアの兄弟たちすべてに分かちたいと思いました」。

国の片田舎にある干し草小屋で大会が計画されました。しかし,KGBはその計画をかぎつけ,兄弟姉妹全員を逮捕する準備を進めました。待ち伏せをし,兄弟たちが下車する駅に2台のトラックに分乗した兵士を配備しました。3人のエホバの証人が出席者を案内するため,大会会場に通じる道路の要所で待っていました。その兄弟たちの一人は,木立の中で怪しい物音がしたので様子を見に行きました。すると突然,自分に突きつけられた銃口が目に入ります。兵士たちはその兄弟を他の二人の兄弟の所に連行し,3人とも逮捕されてしまいました。

レンピット・トームとエラ・キカス(結婚後はトーム)は,3人の兄弟が逮捕されたことを察知して速やかに行動します。次の列車でやって来る兄弟たちに危険を知らせるため,レンピットはオートバイにエラを乗せて一つ手前の駅まで全速力で飛ばします。二人は駅に着くと急いで列車に乗り,兄弟たちをすぐに列車から降ろします。その列車が次の駅に入った時にはエホバの証人は乗っておらず,待っていたKGBの係官たちはがっかりしました。

その間に,他の兄弟たちは大会を別の農場で開く手はずを速やかに整えました。出席者たちは新しい会場に向けて,静かな裏道を10㌔ほど歩くことになりました。一方,兵士たちは主要道路を車で行き来し,忽然と消えた出席者たちを探し回りました。大会は邪魔されず,111人が出席しました。その場の雰囲気は非常に厳粛なものでした。だれがいつ逮捕されてもおかしくなかったからです。プログラムでは,他の国の兄弟姉妹に関する報告も扱われ,ナチスの強制収容所に入れられたエホバの証人についての信仰を強める経験が語られました。兄弟たちは一斉逮捕をしばしのあいだ免れたにすぎませんでしたが,その大会から前途の試みに備えてぜひとも必要な導きや力を得ました。

尋問と刑の宣告

続く数か月にわたって,責任ある兄弟たちすべてが相次いで逮捕されてゆきました。70人以上の奉仕者や,エホバの証人と何らかのつながりのある人々も逮捕されました。平和を愛するエホバの僕たちは,果てしなく続くかに見える尋問を受けることになります。まだ自由の身である人も,明日は我が身と覚悟します。

尋問はたいてい夜間に行なわれ,何か月も続くため,拘束されている人は長期にわたって正常な睡眠が取れませんでした。睡眠不足が重なると,精神的ストレスによるダメージが大きくなります。兄弟たちは法廷で審問を受けずにただ刑を宣告され,刑務所や労働収容所における5年から12年の刑を科されました。大半の人が受けたのは10年の刑です。どんな罪状ですか。公的な記録によれば,「反国家的宣伝と政権転覆の企て」です。その少し後に法律が改正され,エホバの証人は25年の刑を受けるようになります。伝えられるところによれば,63歳のアウクスト・プレッスラウトは,刑の宣告を受けて皮肉混じりにこう述べました。「こんなに長い刑を宣告していただいて光栄です。あと10年ぐらい生きられれば上等だと思っていたのに,25年も生きろと言うわけですか」。

エホバの証人はソ連各地の悪名高い刑務所や労働収容所に送られました。たいていはシベリア,もしくはロシアの極東や極北にあり,その環境は過酷でした。家に帰れるという希望は断たれたかに思え,囚人の中には,いっそ死んだほうがましだと感じた人も多くいたほどです。

当局と結託した偽兄弟たちさえも,迫害者が加える仕打ちを免れませんでした。それを如実に示す例は,KGBのスパイとなった二人の兄弟の身に起きたことです。二人は任務を果たし終えるや,KGBによる迫害の的となり,共に収容所に強制移送されました。卑怯な情報提供者を,KGBは大切に扱うつもりはなかったようです。 *

エストニアからシベリアへ

KGBは中心人物と目したエホバの証人を逮捕し終えるや,残っている証人を一掃することを決意します。この攻撃は1951年4月1日の早朝に実施されました。極めて周到に練られた作戦に従い,エストニア全域,さらにはラトビア,リトアニア,ウクライナ西部の証人たちが同時に標的とされたのです。

実質的にエホバの証人全員,また近親者の多く,さらには関心を持つ人たちさえも家から速やかに連れ出され,幾つかの駅で集められ,貨車に乗せられました。少しの食べ物や持ち物を携えることは許されましたが,そのほかの財産は没収されました。その日,裁判も説明も受けることなく,エストニアの300人近くの人が鉄道でシベリアへ,主として5,000㌔離れたトムスク地方へ連れて行かれたのです。

勇気を示した若い人

17歳のコリンナ・エンニカと13歳の妹エネはその日,親族を訪ねていました。帰宅した二人は,家が閉じられ,母親の姿がどこにもないことに気づきます。どれほど不安に思ったか想像できるでしょうか。とはいえ,母親が逮捕されたことを聞いた二人は,少し気持ちが楽になります。なぜでしょうか。

コリンナは言います。「母はともかく生きていたからです。ほかの人も逮捕されたようだということを知り,母はエホバの民と一緒であるに違いないと考えました。エホバがしっかり自分たちを支え,平安を与えてくださるのを感じました。わたしは泣きませんでした。感受性が強く繊細な妹も泣きませんでした。月曜日には二人とも登校し,母が逮捕されたことはだれにも話しませんでした」。

コリンナとエネは,当局者が自分たちを連行しに来た時も平静を保ちました。コリンナはこう続けます。「貨車の中で取り乱す人はいませんでした。ある姉妹は,エホバは耐えられる以上の患難を与えたりされず,わたしたちを助けるという約束を信頼しなければならない,と言って慰めてくれました」。二人は6年以上,母親から引き離されました。

迫害者たちの憎しみがいかに常軌を逸していたかは,6か月の乳児を強制移送した際の書類からも読み取れます。その子は,「国家の敵」という罪状で移送されたのです。

強制移送は大きな心の傷を残し,移送された人はあらゆる面で恥辱的な扱いを受けました。朝と晩に全員がトイレに行くため列車から降ろされました。ただ実際にはトイレなどありませんでした。ある姉妹はこう語ります。「個人の尊厳や人間性は全く顧みられませんでした。男性と女性を区分することなど無理でした。用を足しているそばを他の人が通り,看守は全員,辺りに立って様子を見ていました」。

シベリアでの生活と死

列車での2週間に及ぶきつい旅の後に,人々はわずかな所持品を携え,ようやく貨車を降りました。辺りは冷たい雪で覆われています。近くの集団農場から農場長たちがやって来て,自分たちの所で使えそうな人を選んでゆきます。さながら奴隷市場で品定めをする地主のようです。

シベリアで暮らす人の多くは自らも強制移送された人たちで,新たにやって来る人に対して同情的でした。そのため,流刑に処された兄弟たちは信仰の仲間や友好的な住人の助けを得て,やがて生活に慣れました。比較的普通の暮らしができるようになった人たちもいます。思いがけず健康状態が上向いた人も少数ながらいます。例えば,二人のエストニア人の姉妹は結核を患っていましたが,乾燥した気候のシベリアに移ってから治りました。

しかし,だれもがそれほど恵まれていたわけではありません。列車の中で少なくとも一人の子どもが死亡しました。さらに,一人の年配のエホバの証人は厳しい状況や心的外傷のために亡くなりました。適切な医療を受けられなかったり極度の重労働をさせられたりして障害を負った兄弟たちもいます。過酷な生活状態,栄養不良,病気,事故,極端な寒さによる害を被った人もいます。さらに,多くの人は感情的な苦痛を耐えました。何年も家族から引き離され,愛する家族が送った手紙も全く受け取れなかったのです。

ティーナ・クルーセはこう言います。「うちの家族の場合,子どもや十代の少女しかいなかったので,貧しい集団農場に連れて行かれました。共同体の人々は,自分たちの食料さえ十分にはなかったため,わたしたちに分けられる食べ物はありませんでした。新入りのわたしたちは,マツの樹皮を噛み,食べられる根を口にし,しばしばイラクサのスープでしのぐしかありませんでした」。

シベリアの冬は長く,寒さも半端ではなく,流刑にされたエストニア人はそのような厳しい気候に慣れていませんでした。ジャガイモを育てるといったごく普通の作業さえ,まずうまくいきません。流刑1年目の生活はたいてい非常に厳しく,絶え間ない飢えの苦しみが付きものでした。

ヒーシ・レンペルは当時についてこう語ります。「零下50度という寒さのため,ニワトリのかごをベッドの下に置きました。凍死するおそれがあったからです。子牛が冬に生まれるなら,家の中に入れておく人もいました」。

国の費用で新しい区域へ

かなり以前にウィリアム・デイは,ソ連がバルト諸国を手に入れるとしたら,兄弟たちは伝道のための新たな広大な区域を持つことになる,と言いました。確かにそのとおりでした。ソ連政府はエホバの証人をシベリアや他の遠隔地に移送することにより,それらの土地まで証人たちの伝道区域を広げたのです。エホバはご自分の証人たちが試みに遭うのを許されたとはいえ,結果として,神のみ名を聞いたことさえなかった多くの人は真理を知る機会を持ちました。

レンピット・トレルの例があります。反政府活動のために逮捕されたレンピットは,1948年に変わった方法で真理について聞きました。タルトゥの監獄の中で聞いたのです。やはり投獄されていたソ連軍の将校が,別の監房で出会ったエホバの証人についてレンピットに話しました。この将校はレンピットに,エホバの証人の教えをかいつまんで説明しました。唯一の解決策は神の政府であり,神は間もなく地上を支配するようになる,と話しました。この話はレンピットの興味を引きました。

やがてレンピットは,北極海に近い,シベリアの極北にあるボルクタの収容所に送られました。その収容所で,幾人かのエホバの証人が聖書について話しているのが聞こえました。そばに行くと,例の将校から聞いたのと同じ内容であることに気づきました。それで会話に加わることにしました。

兄弟たちはレンピットに,「どうして刑務所に入れられたのですか」と尋ねます。

「正義のために戦ったからです」とレンピットは答えます。

「目的を果たせましたか」と証人の一人が尋ねます。

答えは明らかでしたが,レンピットは「果たせませんでした」と述べます。

一人の兄弟はレンピットにこう言います。「間違った戦いをしていたのではありませんか。正しい戦いをしませんか」。そして,聖書が霊的な戦いについて何と述べているかを説明しました。レンピットは話を聞けば聞くほど,真理を見いだしたことを悟り,霊的な戦いにおいてエホバの側に付く必要性を理解しました。

釈放後,レンピットはエストニアに戻り,霊的な戦いを始めました。今では正規開拓者として奉仕しています。妻のマイムも同様の方法で真理を見いだしました。刑務所の中で,エホバの証人ではない受刑者の話を聞いて関心を持ったのです。

ロシア語をよく話せない兄弟たちにとって,宣べ伝えることは簡単ではありませんでした。しかし,語彙が限られていても,シベリアに流刑にされた理由について話すと,容易に会話を始めることができました。この方法により,非公式の証言を上手に行なえるようになったのです。兄弟たちはさらに,エストニアから強制移送された人たちに母語で証言する機会もたくさん持てました。ある生還者の推計によると,幾つかの収容所で真理を知ったエストニア人は15人ないし20人であり,そのほかにかなりの人数のロシア人やリトアニア人も真理を学んだとのことです。

霊的食物をどのように得たか

刑務所や,孤立した地域に強制移送されたエホバの証人に聖書や霊的食物をひそかに渡すため,さまざまな方法が用いられました。ある兄弟はこう説明します。「ラードなど動物性の油脂が入った容器に,数ページの文書が入れられていました。低い気温によって油脂が白く固まると,紙は見えにくくなります。役人は容器にナイフを突き入れましたが,薄い紙は容器の縁に沿うように入れられていたため,まず見つかりませんでした」。文字どおりの食物の容器に隠された貴重な霊的食物が発見されることは,めったになかったのです。

縮小サイズの文書は,手提げ袋や衣類に縫い込まれたり,石鹸を入れた箱に隠されたり,棒状の石鹸をくり抜いた中に詰め込まれたりしました。エラ・トームは,「箱入り石鹸の中に『ものみの塔』を4部入れることができました」と言います。

手紙は検閲されましたが,エホバの証人は聖書の真理や神権的な用語を日常の言葉と置き換えて,考えを伝えました。例えば,ある姉妹はこう書きました。「父の良い世話を受けています。綱もあるので,井戸の水をくむことができます」。「父」エホバが霊的な備えを設け,「井戸」であるエホバの組織とつながっており,命を与える真理の水である聖書文書が手に入る,と言っていたのです。

多くの文書は手で書き写されましたが,初歩的な印刷術を用いて複製することもありました。証人たちは文書を書き写す時,伝道した罰として独房に入れられることを喜びました。なぜでしょうか。ある姉妹はこう言います。「独りにされるのは好都合でした。あまり邪魔が入らないので,『ものみの塔』の翻訳作業に打ち込むことができたからです」。これは,迫害者の策略が功を奏さず,むしろ王国の関心事の促進につながった数多くの例の一つにすぎません。―イザ 54:17

集会の重要性

集会で他の証人と交わる機会は非常に少なく,とても大切にされました。コリンナ・エンニカは,別の姉妹と共に勇気を奮い起こし,許可を得ずに仕事を数日抜け出して集会に出席しました。その時のことを本人はこう説明します。「作業していた区画を晩に離れ,25㌔先の駅まで歩きました。午前2時に列車は出発し,6時間後に降りました。そこから集会場所まで10㌔歩きました。家が見つかり,だれが合い言葉を言おうかと考えていると,一人の兄弟が出てきました。わたしたちが仲間の姉妹であることを見て取り,明るい口調で,『ここですよ。入ってください』と言ってくれたのです。皆で『ものみの塔』を研究し,王国の歌を歌いました。とても築き上げられ,信仰が強められました」。姉妹たちは3日後に仕事に戻りましたが,農場の管理者は二人がいなかったことすら気づきませんでした。そのことを知り,二人はほっとしました。秘密の集会に出席することで,エホバの忠実な僕たちは信仰と勇気を大いに強められました。

別の折に,幾人かの兄弟が刑務所で集会を開いていたところ,看守たちが突然姿を現わし文書を捜し始めました。一人の兄弟は何ページかの文書を持っていましたが,すかさずほうきをつかんで周囲を掃き始めました。看守は捜しましたが,何も見つけられずに立ち去りました。文書は,ほうきの柄を持って床をせっせと掃く兄弟の手の中に固く握られ,無事でした。

真のクリスチャン愛の力

アドルフ・コセはこう語ります。「5年間,地下の炭鉱で働きました。わたしたちがいたのは北極圏で,冬季には太陽が昇りません。交替勤務を終えて地上に出るころには,真っ暗になっており,日の光を何か月も見ませんでした。支給される食料も十分ではありませんでした。そのため,記憶力や時間の感覚がおかしくなりました。労働が過酷で,食料も不足し,ただただ疲れていると,普通の会話でも何分か行なうのがやっとでした。でも,王国の真理について話す時は疲れを感じることなく,いつまでも話し続けることができました」。

こうした苦難の中でも,エホバの民は互いに自己犠牲的な愛を示すことを学びました。コセ兄弟は言います。「持っているものや受け取ったものは何でも,兄弟たちの間で均等に分けました。皆が困窮していたので,持ち物を互いに分け合うことを学びました」。―ヨハ一 4:21

看守たちでさえ,エホバの証人が互いに助け合うことを知るようになりました。アイノ・エートマーはある収容所から別の収容所に移された時,必需品であるスプーンとボウルを持っていませんでした。

収容所の責任者はこう答えました。「問題ない。お前の姉妹たちが必要なものをくれるだろう」。実際そのとおりでした。こうして表わされるクリスチャン愛は幾度となくエホバのみ名の誉れとなりました。

とはいえ,忠節の試みがなくなることはありませんでした。例えば,エートマー姉妹は収容所に入れられてかなりたってからも,看守たちから絶えず,「まだ協力を拒むつもりなのか」と言われました。協力とは言うまでもなく,エホバの証人に関する内密の情報を明かすことでした。

エートマー姉妹はいつもこう答えました。「あなたたちはわたしを収容所に入れました。父も母もあなたたちのせいで死にました。それなのに協力できるわけありません」。

流刑に処された証人たちは,「獄につながれて」も引き続きキリストのような愛を示し,可能な時には王国の良いたよりを伝えました。ですが,だれに宣べ伝えたのでしょうか。共産主義を支持しない知識階級の市民を他の土地へ移送するというソ連の政策により,証人たちには『発言の扉が開かれ』ました。多くの兄弟姉妹は,流刑に処されたそれら教養豊かな人々と実りある会話をしました。こうして,さもなければ王国の音信を聞き,それにこたえ応じる機会のなかった人たちも聞くことができたのです。―コロ 4:2-4

コセ兄弟はこう説明します。「後にわたしたちは別々の収容所に入れられました。どの監房でも大きな証言が行なわれました。わたしがそんなに証言できたことは,それ以前もそれ以後もありませんでした」。

流刑の期間を通じて,エホバの証人に対する攻撃は執ように続けられました。証人たちは財産や自由を奪われ,考え得るあらゆる方法で辱められました。しかし,精神的にも霊的にも,迫害者に打ち負かされることはありませんでした。

エストニアへ戻る

1953年,ヨシフ・スターリンが死亡し,その熱烈な支持者の多くは深い悲しみに包まれました。そのころ,エラ・トームは他の6人の姉妹と共に刑務所の監房に入れられていました。看守は目を潤ませながら入ってきて,姉妹たちに起立しスターリンに敬礼するよう命じましたが,姉妹たちは勇敢にもそれを拒みました。

スターリンの死去に伴い,政治情勢が変化し始めました。流刑にされた兄弟たちのために,1956年から1957年にかけて,世界じゅうのエホバの証人から何百通もの嘆願書がソ連政府に送られました。流刑にされた証人たちに,徐々に恩赦が与えられました。刑務所に入れられた人は釈放され,強制移送された人は郷里に戻ることが許されました。エホバの証人の中には,スターリンの死後まもなく釈放された人もいましたが,もっと待たなければならなかった人もいます。例えばトゥイマン家の場合,1951年に強制移送されましたが,郷里に戻ることが許されたのは1965年になってからでした。エストニアに戻ることができた兄弟たちも,移送された時に全財産が差し押さえられていたため,住む場所を自分で探さなければなりませんでした。

過去を振り返って

脅しや残酷な仕打ち,過酷な労働,刑務所の劣悪な環境はエホバの証人にどんな影響を与えたでしょうか。証人の大多数は,死に面しても霊的な強さと忠実さを保ちました。刑務所や移送先で死亡したエストニア人の証人は少なくとも27人に上り,その中には移送前にエストニアの奉仕委員会の成員だったアルトゥル・イントゥスが含まれています。フリードリヒ・アルトペレは釈放後まもなく死亡しました。過酷な重労働が原因だったと思われます。エホバの僕たちはシベリアで信仰の厳しい試みにさらされました。それでも大切な点を多く学び,破れることのない忠誠を示しました。猛攻撃を切り抜け,強い信仰と一層の忍耐力を身に着けたのです。―ヤコ 1:2-4

ビルヤルド・カールナはこう語ります。「責任ある兄弟たちは全員収容所におり,わたしたちはそれらの兄弟と連絡を保ちました。そのため,シベリアではいつも文書が備えられ,霊的に良い状態にありました。エストニアでは,霊的食物を定期的に得るのがはるかに困難でした。エストニアにとどまっていたら,霊的にそれほど良い状態は保てなかったと思います」。

エホバの証人以外の強制移送された人は,経験した苦しみについて反感を募らせました。しかし,エホバの証人は強制移送を,霊的に強められる経験として受け止めました。

コリンナ・エンニカはこう言います。「わたしたちは苦しんだ事柄から従順を学びました。エホバに希望を置いたことを決して後悔していません。生きるのに必要なのはわずかなものだけである,ということが分かりました。妹のエネとわたしが持っていたものは,小さなスーツケース一つとベッドの下に収まる一つの箱だけでした。今,もっと多くのものが欲しくなる時は,当時の経験を思い出すようにしています。17歳から23歳という若い最高の時期をシベリアで過ごしました。流刑にされていなかったら霊的にそれほど強くなれただろうか,とよく考えます。シベリアは,当時のわたしたちにとって最善の場所だったと思います」。

別の姉妹はこう語ります。「シベリアでの5年間のことはすぐに忘れました。ただ映画を何時間か見ていたような気持ちです」。

アイノ・エートマーはこう回想します。「波打つように舞うオーロラ,凍てつく日に海や川から立ち上る蒸気がきらめくさま,太陽が2週間沈まない白夜,2週間昇らない極夜が目に焼き付いています。短い夏に実をつける野イチゴ,細い木々の小枝に止まってえさをついばむ極北の野鳥を思い出します。つらいことも多かったのですが,シベリアを旅行しているかのように感じました。その土地でも,エホバにあって幸福を保つのは可能であることが分かりました」。

時代は変わっても手口は変わらない

兄弟たちがシベリアからエストニアに帰還した後も迫害は終わりませんでした。秘密警察は組織についての情報を得るため,また組織を中傷するため,直接間接を問わずさまざまな手口を用いました。

兵役を拒否したとして逮捕されたユーリー・シェーンベルクは,労働収容所から連れ出され集中的な尋問を受けました。ウクライナのキエフからKGBの特別係官がエストニアに来て,KGBの協力者になるようユーリーの説得に当たりました。係官はユーリーに,エホバの証人の文書は反政府的で間違いだらけであることを示そうとし,「ものみの塔」誌を何冊か渡して読むよう言いました。雑誌はそれらしく見えましたが,ユーリーは受け取りませんでした。エホバの証人の間に混乱を引き起こすことを意図してKGBが時おり作る偽の「ものみの塔」誌かもしれないと思ったのです。係官は丸1週間,KGBに協力するよう朝から晩まで圧力をかけましたが,ユーリーは堅く立って妥協を拒みました。

“母”と再び連絡がつく

鉄のカーテンは固く閉ざされたままでしたが,聖書の真理という光が透過するのを完全に阻むことはできませんでした。兄弟たちは何年もの間,それまで持っていた文書で活力を保たなければなりませんでした。しかし,流刑地のシベリアでエストニアの証人たちは,ソ連の他の地域から来た兄弟たちと会うことができました。彼らはエストニアに帰還した後も,勇気をもってそれらソ連の兄弟と連絡を取り,その時々に新鮮な霊的食物を得ました。例えば,1956年以降,兄弟たちはイワン・ドジャブコをはじめとするウクライナの証人たちと連絡を取り,文書を入手することができました。とはいえ,そのように連絡を取り合えることはまれで,手に入る文書の量も限られました。他の方法も必要でした。程なくして,兄弟たちの大胆な取り組みにエホバの祝福が注がれるようになります。

フィンランド支部は統治体の指導のもと,エストニアの兄弟たちに系統だった援助を行なうための計画を立てました。1930年代にエストニアで開拓者として奉仕したビルホ・エロランタが連絡役として割り当てられます。1960年代初め,ビルホはエストニアへの最初の旅でファンニ・ヒエタラと接触できました。その後,フィンランドのいろいろな兄弟たちが旅行者を装って運搬人として働き,連絡の経路が確立されました。エストニアの兄弟たちはついに“母”― 兄弟たちがエホバの組織を指して用いていた呼称 ― と連絡が取れるようになったのです。野外奉仕報告や通信物を送り,またマイクロフィルムで文書を受け取ることができるようになりました。しかし,この取り決めは厳重に内密を保ち,極めて慎重に実施しなければならなかったため,連絡が取れたのは年に二,三回だけでした。

アドルフ・コセのいとこで米国在住のフゴ・コセ・ジュニアは,運搬人として15回,エストニアに旅行しました。ある旅行の際,国境警備隊はフゴを入念に検査しましたが,何も見つかりませんでした。すると隊員はぶしつけにフゴの宗教を尋ね,その場の空気が張りつめました。フゴは,隊員たちの英語が流ちょうでないことに気づき,早口の英語でまくし立てました。隊員たちは,ゆっくり話すよう求めるなら自分たちの無知をさらけ出すことになると思ったようです。そのため電話が鳴るや,船がもう出るので急いで乗るよう指示しました。フゴがすぐに従ったことは言うまでもありません。

運搬役の人は,重要な任務を果たしていることを認識し,その務めを真剣に受け止めました。自信過剰になることの危険を絶えず意識し,常に用心深くありました。野外奉仕報告は,万一意図しない人の手に渡った場合に備えて暗号化されました。運搬人たちは,注意が足りないと自分や他の人の命を危険にさらしてしまうということを理解していました。KGBの係官たちに尾行されていることに気づくこともありました。ビルヤルド・カールナは,二人の兄弟から荷物を受け取るのを待っていた時,係官がその二人を撮影し尾行するところを目にしました。その人は,エホバの証人に不利な証拠を集めていたに違いありません。とはいえ,その年月を通じて兄弟たちが,文書の包みや通信物や報告を失ったことは一度もありませんでした。

組織上の改善

ソ連における宣べ伝える業はある期間,ウクライナに拠点を置く国内委員会によって監督されていました。さらに,幾人かの兄弟が地域監督として広大な国土の全域で奉仕していました。そのような中,エストニアで組織が拡大していたため,地元で監督の業を行なう人が必要になりました。アドルフ・コセは,1967年にこの業を組織するよう割り当てられました。気質が温厚で,信仰の種々の試みによって強められた兄弟です。後にその責任は増し加わり,ラトビア,リトアニア,カレリア,レニングラード(現在のサンクトペテルブルク),ムルマンスクからの通信物や報告を扱うことも含まれました。コセ兄弟はまた,各地で行なわれていた印刷の業を組織しました。

コセ兄弟は,こうした責任をすべて果たしながら,妻のコイトゥラと共に,タパの町に近い養豚場で全時間の仕事に就いていました。どのようにすべてをこなしたのでしょうか。兄弟は,世俗の仕事の労力を省く機械を考案することによって,神権的な割り当てを果たすための時間を見いだしたのです。

後にはビルヤルド・カールナ,レンピット・トーム,シルベル・シルリクサルなどの兄弟が加わり,エストニアやソ連内の隣接する共和国にある会衆を訪問しました。エストニアにおけるロシア語の区域の拡大に伴い,アレクサンドル・エフドキモフも同様の奉仕をしました。後に印刷はそれぞれの土地で行なわれることになり,エストニアに住むロシア語を話す兄弟たちは自分たちで印刷を始めます。マイクロフィルムで送られてくるのはロシア語の出版物で,そのまま印画紙に焼き付けることができました。それでも,時とともに会衆の数が増え,手間のかかるこの方法は用いられなくなりました。そのやり方では必要を賄いきれず,数か所で大勢の兄弟たちが印刷を行なうことが求められたからです。資金は限られていましたが,兄弟たちは20種類以上の書籍をそれぞれ数百冊,地下で印刷しました。1966年から1989年にかけて,500万ページ余りに相当する文書が手作業によってエストニア語とロシア語で生産されたのです。

用心深くある必要

ある時,警察が,盗まれたオートバイを捜しているとの名目で兄弟の家を捜索しに来ました。それにもかかわらず警察官たちは書棚に直行しました。目当てが盗難車ではなく,禁止された文書であることは明らかでした。文書は何も見つからず,警察官たちはがっかりしました。

兄弟たちはどんな方法で,それと分からないように文書を隠したのでしょうか。文書を作ると,よく行なうこととして,市販の古い書籍や雑誌の表紙を付けたのです。そのため,不意に捜索が入っても,多くの場合そうした“古い”出版物は目に留まりませんでした。

エホバの証人は,結婚式のような特別な機会をうまく利用して集会や大会を開きました。例えば,ヘイマル・トゥイマンとエルビ・トゥイマンの結婚式は二日がかりで行なわれました。そうした集いが三,四日続くこともありました。エストニアの長老たちは,結婚式を計画するカップルに,あまり規模を大きくしないように勧めました。少人数の集いであれば,注意を引かずにすむため,問題が起きにくかったのです。

ロシア語を話す兄弟たちが移動して来る

1970年以降,ウクライナやベラルーシなどソ連の各地から,長年の経験を持つエホバの証人がエストニアに移動して来ました。その兄弟たちにとって,エストニアでの生活はずっと容易でした。それまでいた土地では残忍な迫害に耐えていたのです。

1972年,最初のロシア語会衆がタルトゥに設立されました。伝道者50人ほどから成るその会衆は,長い経験を持つウクライナ出身の長老ニコライ・ドゥボビンスキーをはじめとする兄弟たちの援助のもとに設立されました。ロシア語の畑は肥沃で,2010年にはロシア語の会衆が27,群れが四つになりました。エストニアの伝道者の半数を上回る人々がそれらの会衆や群れに交わっています。

非公式の証言のためのさまざまな工夫

ロシア語を話す兄弟たちは熱心かつ大胆に伝道し,日常のさまざまな状況で人々に話すのをためらいませんでした。例えば,タリンでは教会を訪れる旅行者に話しかけて証言の機会としました。旅行者は,聖書について話してくる人をガイドと思い,兄弟たちの話に耳を傾けることが少なくありませんでした。

列車の中で証言した姉妹たちもいます。タルトゥとタリンの間の往復切符を購入したのです。8時間の旅の間には,会話を切り出し,乗客に良いたよりを伝えるための時間がたっぷりありました。

カザフスタンからエストニアに移動したマリア・パセチュニクは,「聖書研究を司会したいと祈っていました」と語ります。姉妹は少し考えて方法を思いつきました。地元の商店で食品を買うには長い列に長時間並ばなければなりませんが,その並ぶ時間に証言することにしたのです。

マリアはこう続けます。「ある日,列に並びながら一人の女性に話しかけ,少しずつ聖書的な話題に持っていきました。結局,その女性はあまり関心がありませんでしたが,知り合いの人たちをわたしに紹介し,話ができるようにしてからその場を離れました。結果として4件の聖書研究が始まりました。そのうちの一人の女性はバプテスマを受けてエホバの証人になり,今も忠実に奉仕しています」。

他の土地でもそうですが,エホバの僕の多くは仕事場でも模範的な行状ゆえに際立っています。こんな例があります。ある発電所に派遣された共産党組織者は,レオンハルト・ニルスクは宗教を信じているので会社には不要な人物であると指摘しました。しかし,電気研究室の室長はレオンハルトを擁護し,「宗教を持って周りから信頼されている人よりも,酔っ払ってまともに働かない共産党員のほうが必要だと言うのですか」と返答しました。他の同僚たちも,良い評判ゆえにレオンハルトを支持し,その件は却下されました。組織者であるその女性は,党の上役たちに取り入るつもりだったようですが,エストニアで共産党政権が倒れた時にその職を失いました。

禁令下で証言を行なう

現在エストニアの支部委員会で奉仕するレンピット・レイレはこう語ります。「学校時代には注意しながらも,多くのクラスメートに話をしました。ある男の子をよく家に誘い,それとなく証言しました。学校を出てからほぼ20年,その人とは接触がありませんでした。最近,郷里の町の会衆で公開講演をした時,聴衆の中に見覚えのある顔がありました。何とそのクラスメートでした。エホバの証人と研究をしていたのです。その人は,わたしが講演をした少し後にバプテスマを受けました。とてもうれしく思いました」。

わたしたちの業は禁止されていたので,兄弟たちは用心しながら証言する必要がありました。ある長老はその方法をこう説明しています。「まず時間を取って周りの人たちをよく観察し,話を切り出しても問題のなさそうな人を見極める必要がありました。知らない人に話す時には細心の注意が必要でした。しばらくすると,KGBの情報提供者がだいたい見分けられるようになりました。さらに,口数の多い話好きの人には用心しました。むしろ,すぐに打ち解けない人のほうが安心な感じでした。共産主義政権を支持しない,いわゆる非協力者にはよく声をかけました。一般に,そのような人は開けた考え方をしていたのです」。

公園での励みある訪問

統治体は,その成員の一人ロイド・バリーとフィンランド支部のビブ・モリッツが,エストニアにおける業を組織していたアドルフ・コセと会うよう取り決めました。彼らはレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の公園で会いました。

その秘密の会合についてモリッツ兄弟はこう語ります。「初めのうちコセ兄弟は口が堅く,用心のため新聞に顔をうずめたままでしたが,話が進むにつれて新聞を降ろし,気を許して話すようになりました」。

バリー兄弟はその時のことをこう伝えています。「食事に誘いましたが,兄弟は辞退し,必要な用件を話し合うだけにしたほうがよいと述べました」。

コセ兄弟は,ソ連のエホバの証人に重くのしかかる迫害や制限について不安に思っていると打ち明けました。それで,モリッツ兄弟とバリー兄弟は励みとなる多くの考えを伝えました。二人は次のような現状を引き合いに出しました。「試みは他の国でも生じています。それらの試みは対処しやすく見えますが,もっと危険です。この国にはないような誘惑がたくさんあり,西側ではこの国における以上に多くの仲間が失われています」。

これはコセ兄弟にとって,時宜にかなった霊的に強められる訪問となりました。統治体の成員と話していたことをあとから知った兄弟は,エホバの組織から与えられた励ましの言葉を,圧迫や虐げのもとで忠誠を保つ仲間すべてに喜んで伝えました。

後にバリー兄弟はこう書いています。「ソ連の兄弟たちのことをわたしたちは心に掛けています。コセ兄弟に会えたのは大きな喜びでした。別れ際に兄弟は握手し,がっしりした体で抱擁してくれました。こうして非常に喜ばしい会合を終えました」。

若い人が学校で勇気ある立場を取る

エホバの僕である若い人はとりわけ,政治組織を支持するようにとの圧力にさらされてきました。さらに,聖書によって訓練された良心に背く他の活動をするよう強要されました。

エステル・タムは振り返ってこう語ります。「わたしが小さい時のことです。学校でクラス全員は,起立し,前に出て,独裁者ヨシフ・スターリンの誕生日を祝う手紙に署名するよう求められました」。

エステルは起立しましたが,前には出ませんでした。そして,手紙に署名しません,と敬意をこめて言いました。先生は腹を立てましたが,驚いたことに,他の幾人かの児童もエステルに味方し,手紙に署名しないことを勇気をもって伝えました。そのため,手紙を送るという話はなくなりました。

別の問題もありました。共産主義を支持しているしるしとして,生徒は赤いネッカチーフを着用しました。着用しない生徒は,成績を下げるかほかの罰を与えると脅されました。若い兄弟姉妹は妥協を拒みました。古代バビロンで,ダニエルと3人のヘブライ人の仲間が示したのと同じ,忠節な態度を取ったのです。―ダニ 1:8

全く新しい時代

エストニアで共産党員は人口の7%に過ぎませんでした。そのことから,国民が一般にソ連の体制を支持していなかったことがうかがえます。エストニアの当局者も,モスクワからの指示に進んで従うとは限らず,中にはエホバの証人に協力する人さえいました。例えば1985年に,地元の当局者がレンピット・トームのところにやって来て,こう忠告しました。「あなたがエホバの証人の幹部クラスの人だと承知しています。集会は,国の祝日には行なわないほうがいいですよ」。

レンピットは,「そのことを知らせておきます」と答えました。エホバの証人が国の祝日に集会を行なっていたことがKGBの反感を買ったものと思われます。兄弟たちはかなり大っぴらに集会を開いていたようで,この親切な勧めにしたがって幾らかの調整を行ないました。

1986年にソ連がペレストロイカもしくは改革の政策を導入したことは,全く新たな時代の始まりとなりました。統治体は兄弟たちに,新たな開放と自由の流れを活用し東ヨーロッパで大会を取り決めるよう勧めました。ソ連の兄弟たちにとって,ハルマゲドン前に自由が得られるというのは,信じがたいことでした。受けた苦しみはまだ記憶に鮮明に焼き付いており,家宅捜索の脅威もなくなってはいなかったのです。

一般の人たちからの講演依頼

自由が増し加わるとともに,宗教や聖書に関心を示す人も増えてゆきました。一般の人々は,エホバの証人の立場に興味を持つようになり,さまざまな団体から兄弟たちに,エホバの証人の信条について講演を行なってほしいとの依頼が寄せられました。

とても驚かされる依頼もありました。レンピット・レイレは,一群の人々に対して講演を行なうことを引き受けました。講演の当日,その手配をしたアイナル・オヤラントはラジオを聴きながらひげを剃っていました。すると,「本日サカラ・センターで,『聖書は何を教えていますか』と題する講演が行なわれます」という知らせが聞こえてきました。それはタリンの大きな会議場で,共産党が定例の集会を開いてきた場所だったのです。アイナルは,かみそりを落としそうになりました。しかも,予想よりはるかに大きな集まりになることをレンピットに知らせる術はなく,バス停で落ち合って初めて伝えるしかなかったのです。

レンピットはこう続けます。「会場は満員で,それほど大勢の聴衆を前に話したことはありませんでした。マイクを使ったことも,演壇から話したこともなかったのです。短い祈りをささげた後,アレオパゴスに立ったパウロのことを思い,出だしの言葉を考えました。聴衆の多くは菜食主義者だったので,話の始めに,神が最初の人間に与えた食べ物は果物と野菜だけであること,そして肉食を許されたのは大洪水後である,ということを説明しました」。

この出だしの言葉が功を奏したようで,講演後にかなりの数の人が並んで住所氏名を記入し,文書が入手できるようになったら受け取ることを希望しました。兄弟たちはこれまでに,図書館,学校,文化センターで大勢の聴衆を前に話をしてきました。結果として,義を求める多くの人が真理を見分け,受け入れてきたのです。

霊的に目覚めている

1989年,ソ連に住むエホバの僕たちは一層の宗教的自由を得るようになり,ある兄弟たちはポーランドに旅行して大会に出席することが認められました。締め付けや抑圧が長年続いた後に自由に集まれた兄弟たちは,どんな気持ちだったのでしょうか。

エラ・トームはこう回想します。「とても幸せに感じ,涙が止まりませんでした。この大会は紛れもなく霊的パラダイスでした」。

別の姉妹はこう語ります。「ポーランドに早く到着したので,王国会館での集会に連れて行ってもらえました。会館に入る兄弟や姉妹の姿を見て,涙があふれました。王国会館に行ったのは,それが初めてだったのです」。

その年,統治体のセオドア・ジャラズとミルトン・ヘンシェル,それにドイツ支部のウィリー・ポールはソ連各地を旅行しました。兄弟たちと会って励ましを与え,状況を把握したいと思ったのです。この世のありさまは速やかに変化しており,時間を無駄にせずにソ連のペレストロイカの流れを活用する必要がありました。霊的な再組織のための時が訪れたのです。まず翻訳の業に注意が向けられました。

エストニア系カナダ人で,かつてアイスホッケー選手として際立った活躍をしていたトーマス(トム)・エデュールは,1983年からカナダ支部でエストニア語への翻訳の仕事を手がけていました。 * 当時,それらの出版物は主に国外に住むエストニア人を対象としたものでした。しかし,エストニアで自由に業が行なえるようになったことに伴い,1990年にトーマスと妻のエリザベスはフィンランド支部に割り当てられ,文書をエストニア語に翻訳しました。それから間もなく,二人はエストニアに移りました。

それ以前,翻訳者たちは別々の場所で作業していましたが,翻訳チームとして一箇所で作業したほうが益となるのは明らかでした。そのため,幾人かの翻訳者がタルトゥのレンピット・トームの家で仕事を始めました。ところがソ連でコンピューターを入手するのは実質的に無理で,翻訳を効率よく行なうための機器が不足していました。その折に,地元のある兄弟が米国支部を訪れてコンピューター2台を持ち帰り,状況が改善されました。それにより,翻訳部門が効率よく機能するようになりました。とはいえ,コンピューターや,組織が用いる多言語電算写植システム(MEPS<メップス>)を使ったことのある翻訳者はほとんどおらず,作業は簡単ではありませんでした。しかし,兄弟たちは意欲的に学び,程なくして上手に仕事をこなすようになりました。

外国での喜ばしい別の大会

東ヨーロッパでソ連の統制が緩和されるにつれ,人々の自由は増してゆきました。実際,エストニアの200人ほどの兄弟姉妹にビザが発給され,1990年6月にフィンランドのヘルシンキで開かれる「清い言語」地域大会に出席することができたのです。

エストニアからの船が港に着き,代表者たちが船を降りると,出迎えたフィンランドの兄弟たちの拍手が沸き起こり,30分ほど鳴りやみませんでした。エホバの証人でない人たちは何事かと興味をそそられ,どんな有名人が来ているのか知ろうとしました。何という状況の変化でしょう。ソ連の当局者による虐げを何十年も経験した謙遜な兄弟たちは,オリンピックの勝者のような歓迎を受けたのです。

エストニアの兄弟たちは,エストニア語で行なわれた話を聞き,また母語の新しい発表文書を受け取り,胸を躍らせました。ある古い兄弟はこう述べました。「エストニア語のブロシュアーを初めて受け取った時は,貴重な宝石を手にしたような気持ちでした」。

結びの話の中で行なわれた感動的な発表を聞き,エストニアの代表者たちはさらに沸き立ちました。話し手は,1991年1月以降,エストニア語の「ものみの塔」誌を月2回,4色刷りで英語版と同時に発行することを統治体が承認した,と述べたのです。聴衆は我を忘れて立ち上がり,拍手が延々と続きました。拍手がやんで静かになると,聴衆の一人から,「雑誌は以前のように研究の群れごとに1冊でしょうか,それとも全員が受け取れるのでしょうか」という質問が上がりました。全員が自分用の雑誌を受け取れるという答えは,あまりにもすばらしく,再び感謝の拍手が沸き起こりました。

フィンランド支部はエストニア語の文書の印刷で忙しくなり,さらに1990年以降の雑誌もさかのぼって生産しました。エストニアのエホバの証人は霊的な面での助けを得ることに加え,多くの援助物資も受け取り,分配しました。それらの物資は,国の経済状況ゆえに切実に必要とされたもので,さまざまな国の兄弟たちから寄せられました。

自由な中での最初の大会

エホバの組織は,増し加わる宗教的自由を速やかに活用し,ソ連各地で大規模な地域大会の開催を取り決めました。エストニアの兄弟たちは,1991年7月13日と14日に国で最初の「[神の]自由を愛する人々」大会をタリンで開催することになり,大きな興奮に包まれます。

年配の一部の出席者にとって,この大会はひときわ喜ばしいものとなりました。前回,エストニアで自由に行なえた大会に出席したのは1940年のことだったからです。それから50年余り後に再び自由に集い合うことができ,どれほど胸を躍らせたことでしょう。

ソ連北西部,バルト諸国,カリーニングラードから来たロシア語を話す兄弟たちは,タリン・リンナハル(市コンサートホール)に集まりました。隣接するヤーハル(アイスアリーナ)ではエストニア語のプログラムに1,000人近くが出席し,二つのホールを合わせた出席者の最高数は4,808人でした。447人もがバプテスマを受け,まさに大きな歓喜の時でした。

このような大会は,新しい人が真理を学ぶうえで大いに助けとなりました。例えば,レオンハルト・ニルスクの祖母アマリエは,アドベンティスト派教会に通っていましたが,教会の教えに疑念を抱いていました。レオンハルトは,何が真理かを聖書に照らして判断するよう勧めました。それでも,アマリエにとって転機となったのは,1991年にタリンの大会に出席したことでした。大会初日が終わると,もう教会には戻るつもりはないことを宣言しました。エホバの民を自分の目で見たことは,レオンハルトの言葉以上にアマリエを動かしたのです。アマリエは聖書研究の勧めに応じ,後にバプテスマを受けました。

夢が現実になる

重くのしかかる迫害や虐げがエホバの僕の脅威となる時代は過ぎ去りました。ある人たちにとって,崇拝の自由が本当に得られたというのは信じがたいことでした。一例として,長年奉仕してきたある長老は,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本がエストニア語で入手できる日が来ることをずっと夢見てきました。1991年,増し加わった新たな自由の時代に,それはエストニア語で印刷されるエホバの証人の最初の書籍となったのです。

その長老はこう言います。「自分の手にこの本があるというのが信じられませんでした。集会でこの本を発表した時,涙を抑えることができませんでした。その瞬間,全員が沈黙し,耳を疑いました。それから歓声が上がりました。兄弟の中には喜ぶ人もいれば泣く人もいました。その時のことは忘れることができません。思い返すたびに涙がこみ上げてきます」。

兄弟たちは幾度となく「夢を見ている者のように」感じました。(詩 126:1-6)多くの人は,何十年も辛苦を忍んだ後,神の言葉に示されている幸福な結末を自分の目で見ることができたのです。「うみ疲れてしまわないなら,しかるべき時節に刈り取ることになる」と約束されているとおりです。―ガラ 6:9

喜ばしい神権的里程標

1991年10月31日は,エストニアの兄弟姉妹の記憶に長く残る日です。エストニアでエホバの証人の会衆が初めて正式に登録された日なのです。

大がかりな霊的再建の時が前途に控えていました。多くの人が良いたよりに関心を持ち,人々は聖書や宗教に関心があることをはばからずに言い表わしました。聖書研究を司会し,会衆の集会,巡回大会,地域大会を組織する必要がありました。翻訳者たちの仕事も増え,ふさわしい施設が必要でした。

同時に,ギレアデの宣教者たちも入って来たため,適当な宣教者ホームを探さなければなりませんでした。宣教者は,ビザの問題を解決し滞在許可を得るための助けを必要としました。わたしたちの中立の立場をめぐる問題について,政府当局者との間で解決を図ることも必要でした。王国会館を建設するための許可を取得することも求められました。

当時巡回監督として奉仕していたレイノ・ケスクはこう述懐します。「その時期は瞬く間に過ぎ去り,ほんの数か月に思えました。神権的な活動すべてについてまず基盤を据えなければならなかったからです。そのうえ,だれもがとても高揚していました。人々は真理を愛し,それを素早く受け入れました。どの会衆でもバプテスマを希望する人が大勢いました。エホバの証人についてあまり知らない,関心を持つ人が大会にやって来て,話を聞き,すぐにバプテスマを受けたいと言うことがありました。その人たちを助けるためにすべきことがたくさんあったのです」。

エストニアがソ連の統治下にあった時,宣べ伝える業はドイツの支部事務所が監督していました。ドイツとエストニアの間の秘密の連絡経路の一つは,フィンランド支部を介するものでした。しかし,国境の往来が可能になり,自由に連絡を取り合えるようになったことに伴い,1992年,エストニアにおける業を監督する務めはフィンランド支部に割り当てられました。

熱意と意欲にあふれる

急速に進歩する人がとても多かったため,バプテスマを受けていない伝道者になることを希望する新しい人すべての霊的な状態を把握するのは簡単ではありませんでした。例えば,トム・エデュールはこんな経験をしました。キリストの死の記念式が行なわれる日の朝,発足して間もない少人数の群れを訪問したところ,野外奉仕に出ようと集まった人がとても多く,驚きました。

トムは地元の兄弟に,「ここにいる人すべてをご存じですか」と尋ねました。

すると,「まだ伝道者ではない人もいるようです」という答えが返ってきました。

それでトムは野外奉仕のための集まりを司会してから,「まだ伝道者になっていない人とは,集まりの後に個別にお話ししたいと思います」と発表しました。

約10人の聖書研究生が,伝道に出たいと申し出ました。バプテスマを受けていない伝道者の基本的な資格についてトムが説明すると,3人の若い女性が教会をまだ脱退していないことを明かしました。それでトムは,エホバの証人であると言うためには,教会から除籍してもらう必要があると説明しました。3人はそのとおりにしました。すぐに以前の教会に行き,名簿から名前を除いてもらい,宣べ伝える人々の隊伍に加わったのです。

野外奉仕のための集まりに来ていた一人の男性は,まだ喫煙をやめていませんでした。生活を清めるのに幾らか時間がかかるため,伝道者になるという目標を持って,その日は帰宅しました。

政府の制限を受けずに宣べ伝える業を行なえるようになった兄弟たちは,あらゆる機会をとらえてできるだけ多くの人に良いたよりを伝える,という意欲にあふれていました。その気持ちがあまりに強く,健全な霊的平衡を保つうえで助けを必要とする人もいたほどです。こんな例があります。トム・エデュールはある若者とバプテスマの討議をした時,その人に,長老から何か助言を受けたことがあるか尋ねました。

すると,「あります。時間の用い方の点でもう少し平衡を取るようにというアドバイスを受けました」という答えが返ってきました。

トムは,「どんな問題があったのですか」と聞きました。

若者はこう答えました。「野外奉仕を毎月150時間していて,他の聖書的な責務がおろそかになっていたんです。長老たちは,宣教を100時間に抑えれば個人研究と集会の予習のための時間が取れる,と提案してくださいました」。

ロシアでの喜ばしい大会

神権的な歴史における別の重要な里程標となったのは,1992年6月にロシアのサンクトペテルブルクで開かれた国際大会です。エストニアからは1,000人が出席しましたが,ある人たちにとっては,シベリアへ流刑にされた時に同じ刑務所にいた人や,そのころに出会った他のエホバの証人との喜ばしい再会の時となりました。

代表者の一人はこう語ります。「大会のタイミングもまさに好都合でした。特別列車は,ロシアの通貨ルーブルで格安で手配することができました。さらに,大会のちょうど1週間前に,エストニアの通貨はルーブルからエストニア・クローンに変わりました。お金を交換する週に国外に出ていたなら,手持ちのお金を全く換えることができなかったでしょう。交換が行なわれる時にわたしたちはエストニアにいました。ですが,交換できる金額には上限がありました。交換できなかったルーブルはどうすればよいのでしょう。ルーブルはロシアで用いられていたため,兄弟たちはそれを大会に持って行って寄付に充てました。一方,大会がもう1週あとに行なわれていたなら,新たな規定が施行され,国境を越えるために高額のビザ申請料を支払わなければならなかったでしょう。ですから,大会は兄弟たちにとってちょうどよい時に開かれたのです」。

歴史に残るこの大会に出て感動した人の中に,関心を持つある女性がいます。その人は,大会のために他のエホバの証人と共にエストニアから旅行する手配をしていました。本人はこう言います。「わたしは出発時刻を勘違いし,駅に着いたのは列車が出発したあとでした。しかも,運賃はすでに払っていました。どうしたらいいのでしょう。エホバに祈り,助けてください,そこに行くために何でもします,と言いました。

「切符を買い直さなければ別の列車には乗れないと駅長に言われましたが,そんなお金などありませんでした。すると不意に,一群の人が駅にやって来ました。みな幸福そうで,きちんとした服装をしていました。サーレマー島から来たエホバの証人でした。その人たちの列車はまだ到着しておらず,わたしは持っていた切符で一緒に乗れることになったのです。とてもほっとしました。

「車中でエホバの証人は王国の歌を歌い,それが心に響きました。霊的な家族の一員として迎えられたような気持ちでした。大会中ずっと一緒に行動し,エホバの証人が誠実で愛情に富む人であることが見て取れました。迷いや不安はなくなりました。神が地上に組織をお持ちであることがはっきり分かったのです」。関心を持っていたこの女性は,今では夫と共に正規開拓者として奉仕しています。

進んで行なう働き人を迎える

宣べ伝える業と組織は速やかに前進してゆき,神権的な物事について経験を持つ兄弟たちが必要でした。この必要をだれが満たせるでしょうか。多くの人がイザヤのようにこたえ応じ,「ここにわたしがおります! わたしを遣わしてください」と言いました。―イザ 6:8

ギレアデで訓練を受けた宣教者の第一陣は,ベサ・エドビクと妻のレーナマリア,ヤーエル・ニッシネンと妻のエサの4人で,1992年にやって来ました。カナダで旅行する奉仕を17年行なっていたレイノ・ケスクと妻のレスリもエストニアに割り当てられました。さらに1993年の春には,フィンランドから20人の開拓者が特別開拓者として,エストニア語とロシア語の区域で奉仕するよう割り当てられました。また,さらに4人の宣教者も入って来ました。

その後,ギレアデの幾つかのクラスから連続して宣教者がエストニアに派遣され,その人たちは喜びや熱意にあふれていました。ギレアデでの訓練を受けずに宣教者として割り当てられた人もいます。精力的に働く宣教者や意欲的な特別開拓者は,何十年にもわたってエストニアの忠節な兄弟姉妹が据えた堅固な土台の上に築く業を続けました。

加えて,約200人の兄弟姉妹が外国から,必要の大きな所で奉仕するためにやって来ました。それら霊的に円熟した人々は,会衆を強めて安定させる働きをしました。新しい会衆が数多く設立され,会衆の長老が外国から来た兄弟たちだけで構成されていることも珍しくありませんでした。後に地元の兄弟たちが進歩して,さらに責任を担えるようになりました。

レンピット・バルヤも援助に駆けつけた人の一人です。エストニアで生まれ第二次世界大戦を生き延びたレンピットは,オーストラリアに移住し,そこでエホバの証人になりました。退職が近づいた1990年,エストニアに戻って,関心を持つ多くの人の霊的な渇きをいやすために働くことにしました。兄弟の記憶によれば,ある時点でエストニアの半分余りの地域に散らばる18のグループと研究し,80人ほどがそれらの研究に加わっていました。兄弟はそれらの群れをバスで訪ね,夜には駅で寝袋に入って過ごすことも少なくありませんでした。兄弟の聖書研究生のうち50人以上がバプテスマを受けました。84歳の今も4件の聖書研究を司会しています。その勤勉な奉仕や払った犠牲は優れた実を生み出し,兄弟が訪れた町の多くに,今では活発な会衆と王国会館があります。

人々を助けるためにこの国にやって来た,それら進んで行なう兄弟たちも益を受けました。地元の人々やその生活を知ることは良い経験になった,と述べる人は少なくありません。レイノ・ケスクはこう説明します。「自分の見方が広がり,全世界を見ておられるエホバの見方に少し近づけたような気がします」。

巡回監督による訪問が始まる

その急速な拡大の時期に,旅行する監督による励みある訪問は会衆を大いに強めました。巡回監督は精力的に奉仕し,1日15時間活動することも珍しくありませんでした。野外奉仕,集会の出席や司会に加え,兄弟たちによるたくさんの質問に答えたのです。

設立された最初の巡回区には,エストニア,ラトビア,リトアニア,カリーニングラードが含まれていました。その区域に46の会衆と12の群れがあり,四つの言語が話されていたのです。巡回監督にはまた,時間のかかる付加的な務めがありました。ラトビアとリトアニアにおける登録の手続きはその一つです。今ではエストニアだけで四つの巡回区があります。

地元の兄弟で1995年に巡回監督として奉仕したラウリ・ノルトリンクは,当時のことをこう語ります。「巡回監督の訪問に対する奉仕者の認識は際立っていました。野外奉仕のための集まりに行くと部屋は人でいっぱいということがよくありました。一部屋だけの小さなアパートに70人ほどの兄弟姉妹が詰めかけたこともあります。りんごをほうり投げても,床には落ちるすき間はなかったでしょう」。

新たな言語の学習という課題

多くの人にとって,新たな言語を学ぶのは容易なことではありません。エストニア語は習得するのが特に難しい言語です。一例として,新しい宣教者だったマルック・ケットゥラは,ある男性とイエス・キリストの話をしていました。イエスはラフビュルストつまり“平和の君”であると言うべきところを何度か,ラフボルストつまり平和のソーセージと強調してしまったのです。マルックが聖書のイザヤ 9章6節を開いて初めて,真の平和の源は食べ物ではないということが伝わり,男性のなぞは解けました。

ある開拓者の姉妹は,エストニアに移動してからロシア語を学んでいました。姉妹は伝道中,知らずに地元の長老の家をノックしました。姉妹はその兄弟と面識がなかったため,辞書を片手に証言を始めました。兄弟は,自分が会衆の長老であることを説明しようとしました。姉妹が急いで辞書を開き「長老」という語を調べると,「年寄り」という説明が載っていました。

姉妹は,「えっ,年寄りには見えませんけど。それに,楽園ではみんな若返るんですよ」と言いました。兄弟が自宅にある神権的な図書を見せて初めて,お年寄りではなく長老であることが伝わったのです。

無神論者の裁判官が真理を学ぶ

ソ連時代のこと,ビクトル・センは兵役を拒否したため2年の刑に処されました。1年服役した後,自由移民としてシベリアへ流刑にされることを願い出ました。当時はそのような選択肢があり,それによって一層の自由が得られました。仮釈放のための審問で,裁判官たちはビクトルに対して憤りをあらわにしました。ある裁判官は,お前のようなやつは絞首刑か銃殺刑にすべきだと言い放つことまでしました。

それから何年もたってから,大会でビクトルはある兄弟から関心を持つ幾人かの人を紹介され,「この中に見覚えのある人がいますか」と聞かれました。

ビクトルは,「いません」と答えます。

兄弟は,「本当ですか」と言いながら一人の男性を指さし,「この人はどうですか」と聞きました。その人は見るからにきまり悪そうな様子でした。

そう言われてもビクトルには見覚えがありません。驚いたことに,ユーリーというその男性は,ビクトルの仮釈放のための審問で裁判官を務めた人の一人だったのです。ユーリーは今では聖書を研究し,ビクトルと同じ大会に出席していました。何がきっかけでエホバの証人に対する考え方が変わったのでしょうか。

ユーリーは説明します。「わたしは強硬な無神論者の家庭で育ちました。学生時代には,宗教の危険についてのスピーチをよく行なっていました。それから幾年も後,友人がエホバの証人と聖書研究をしていて,何度か研究に同席しました。わたしは宗教上の偽りについてはよく知っていたものの,聖書については実際に何も知らないことに気づかされました。そのため,聖書を学んでみようと思ったのです」。

バプテスマを受けた後,ユーリーはビクトルにこう言いました。「法廷では,裁判官と被告人として違う席に座りました。でも,このような裁判が再び行なわれるとすれば,今度は同じ側に座ることでしょう。あなたに刑を宣告する者とはなりません」。ユーリーもビクトルも,今ではタリンで長老として奉仕しています。

印象深い記念式

エストニアに移動したばかりのある兄弟は,パベルとマルカリタという夫婦に近づき,片言のエストニア語で次のように言いました。「永遠の命が欲しければ,今晩,キリストの死の記念式に来てください」。二人は興味をそそられ,出席することにしました。

記念式でパベルとマルカリタは温かい歓迎を受けました。しかし,プログラムの途中で少し不安になります。通路を行き来しながら出席者を見てメモを取る人がいたからです。ただ人数を数えているだけだということを知らなかったのです。パベルとマルカリタは,自分たちが来て大丈夫だったのだろうかと思い始めましたが,帰ることをちゅうちょしました。二人の大柄の男性が入口で警備しているように見えたからです。実際には案内係の兄弟だったのですが,その夫婦は帰らないほうがよいと考えました。

とはいえ,記念式の話の結びに,希望者は自宅で無料の聖書研究ができるという知らせがなされ,二人は関心を持ちました。式の後,兄弟たちが温かく自己紹介してくれたので不安が消え,聖書研究を申し込みました。二人はあと2週間で引っ越す予定だったため,毎日研究することができるでしょうか,と言いました。新たな住まいに引っ越すと,近くの兄弟たちに早速自分から電話をかけ,自己紹介し,聖書研究を続けたのです。

『あなた方のりっぱな業を実際に見る』

エストニアのエホバの証人は,世界じゅうの兄弟姉妹と同様,互いに愛を表わします。(ヨハ 13:35)他の人たちはそのような愛を見て,真の崇拝に引き寄せられます。―ペテ一 2:12

理髪店で働く一人の姉妹は,自分が散髪したことのあるトイボという男性に「神を探求する人類の歩み」の本を渡しました。トイボはそれを読み終えて,王国会館での集会に出席しようと思いましたが,エホバの証人に気をつけるよう言われていたので,ためらいもありました。それで,車の中なら安全だと思い,王国会館に集まるエホバの証人をそこから観察することにしました。集会前に王国会館に入っていくのはどんな人か,集会後にはどんな様子で出てくるかを見たいと思ったのです。

トイボは,姉妹たちが温かく抱擁し合う様子を見て心を打たれました。エホバの民が互いを本当に気遣っていることがすぐに分かりました。そのため意欲的な態度で集会に来るようになり,聖書研究も始めました。そして急速に進歩し,やがて他の人に熱心に宣べ伝えるようになりました。今ではバプテスマを受けたエホバの証人です。

「エホバは祈りに答えてくださいました!」

1997年,トーツィという小さな村に住むマリアは,「王国ニュース」第35号を受け取りました。そのパンフレットを読んだマリアは,支部に手紙を書いて聖書研究を申し込みました。それから間もなく,パルヌに住む宣教者のマルック・ケットゥラと妻のシルパがマリアと研究を始めました。マリアはすぐに真理について他の人に話し始めます。やがて義理の娘のインクリト,またインクリトの家の近所に住むマッレも研究に加わりました。マリアは宣教奉仕に出ることを希望するようになりましたが,長老たちは,まず会衆の集会に定期的に出席することを勧めました。しかし,最寄りの会衆は40㌔離れたパルヌで,そこまで行くためのお金がありませんでした。それで宣教者夫婦の励ましに応じ,助けを求めてエホバに祈りました。

宣教者夫婦が次に家に来た時,マリアはうれしそうに,「エホバは祈りに答えてくださいました!」と言いました。

マルックとシルパは,「どのように答えてくださったのですか」と尋ねました。

マリアは意欲満々にこう言いました。「わたしの家に幾人かの人を集めますから,ここで集会を開き,会衆を設立すればいいんですよ。そうすればわたしは集会に行けますし,野外奉仕を始めることもできます」。

二人の宣教者は熱意をそぐようなことはしたくないと思いながらも,新しい会衆はそれほど簡単に設立できるわけではないことを巧みに説明しました。そして,まずは日曜日だけでもパルヌの集会に行く努力を払うよう励ましました。

マリアは,集会に出席したいと再び祈るようになりました。さらに,お金をためるため新聞の購読を中止しました。やがて月に4回集会に行くための費用をじゅうぶん賄えるようになり,またうれしいことに,伝道に出られるようにもなりました。しかし,祝福はそれだけではありませんでした。

トーツィで関心を持つ人が増えたため,長老たちはその村に書籍研究の群れを設け,マリア,インクリト,マッレ,また関心を持つ他の人々が出席できるようにしました。わずか数か月後には,マリアとマッレがバプテスマを受け,次の夏にインクリトがバプテスマを受けました。それから程なくしてマッレの夫,そして次の冬にはマッレの妹がバプテスマを受けました。トーツィにある少人数の熱心な群れの人たちは,その小さな村にも「王国ニュース」第35号によって真理が伝わり,ささげた多くの祈りに対する答えとしてエホバの祝福を経験できたことに感謝しています。

過去20年にわたって,王国に関連した活動が数多く行なわれ,成果が得られました。心の正直な人がエホバの組織に大勢集められたことも,大きな喜びのいわれです。では,それら義を求める人すべては,真の神を崇拝し,その方に教えていただくため,どこに集まればよいのでしょうか。

王国会館が緊急に必要とされる

最初の集会場が建設されたのはエストニア南部のラピナで,兄弟たちは長年その建物を用いてきました。しかし,国内の兄弟たちだけで建設を進めても奉仕者の増加のペースに追いつかないことは必至でした。フィンランド支部の設計事務所が援助の手を差し伸べ,バルト諸国のために王国会館や事務所の設計を始めました。1993年,国内初の王国会館がマールドゥに建てられたことは大きな喜びでした。建設は他の場所でも相次いで行なわれました。

現在エストニアには王国会館が33棟あり,53の会衆が使用しています。喜ばしいことに,大会ホールも二つ,タリンとタルトゥにあり,どちらも1998年に完成しました。

長年奉仕してきたアレクサンドラ・オレーシュク姉妹はこう語ります。「タルトゥに王国会館が建てられることは以前からの夢でした。ですから,建設予定地の整地を手伝うようにとの呼びかけがあった時,79歳のわたしは真っ先に駆けつけました。片づけや運搬をしました。バスに乗って現場に来るたびに喜びの涙がこぼれ,完成した時にも涙があふれました」。

新しい翻訳事務所

奉仕者の増加が続き,国内の必要を顧みるため,とりわけ翻訳チームを収容するための大きな施設が必要になりました。タリンのヘルツェニ通り(現在はプハンク通り)77番に,内装の施されていないアパートが見つかり,使えそうでした。とはいえ大掛かりな改築が必要でした。

フィンランド支部が工事のために施工図,材料,資金,労働力を提供しました。この助けがなかったら,改築はまず無理だったでしょう。例を挙げると,そのころ国内で建築資材は品質が劣っているか,そもそも手に入らないという状況でした。加えて,必要な建設の技能を持つエストニアの兄弟は,当初はごく少数でした。それでも,地元の兄弟たちは徐々に訓練を受け,経験を積んでゆきました。1994年2月には,最初の建物が完成しました。その年に国内委員会(トーマス・エデュール,レイノ・ケスク,レンピット・レイレ)が任命され,フィンランド支部の管轄下にあるバルト三国の世話をすることになりました。その後,さらにスペースが必要とされたため,1997年と1999年に増築が行なわれました。

そのころ,事務所に隣接して水道会社の建物があり,その会社はベテルの庭園のデザインに関心を示しました。そのため,水道の料金を下げてもらうことと引き換えに,兄弟たちが会社の庭園,フェンス,照明装置を設計する運びとなりました。結果として,その会社の建物はベテルによく似た外観になりました。後に水道会社は建物を兄弟たちに格安で売却しました。新たに加わった建物は録音スタジオとして活用され,そこで大会の劇やDVD(手話のDVDを含む)が制作されています。その建物は一部改築され,そこで宣教訓練学校も開かれています。

タリンでの国際大会

エストニアで1996年に「神の平和の使者」国際大会が開催されると知らされ,兄弟姉妹は胸を躍らせました。タリンで開かれた二つの大会に,エストニア語やロシア語を話す兄弟たちに加え,ラトビアとリトアニアの兄弟たちが出席しました。他の15か国の代表者も招待されました。三日間の二つの大会は8月に行なわれました。統治体から5人の成員,バーバー兄弟,ヘンシェル兄弟,ジャラズ兄弟,シュローダー兄弟,シドリック兄弟が来て励み多い話をし,兄弟たちを強めました。二つの大会の出席者の最高数は1万1,311人で,新たに献身の表明としてバプテスマを受けた人は501人でした。

大会は素晴らしい証言になり,一般の人の関心を大いに集めました。報道の一環として,テレビのトーク番組で10分のインタビューが行なわれました。あるラジオ局のオーナーが流した番組の中では,エホバの証人は「善良な市民」であるという褒め言葉が語られました。

大会終了後の別れの場面は,出席者たちが温かい兄弟愛を抱いていることをはっきり示すものでした。大勢の人々が一斉に手やハンカチを振る様子や,目に浮かべた喜びの涙は,エホバの真の崇拝者たちの内奥の感情の表われでした。結びの祈りのあとも会場の拍手が鳴りやまず,兄弟たちは極めて寛大で愛情深い天の父エホバに対する深い感謝を表わしました。これらの大会は,エストニアにおけるエホバの証人の歴史の中で里程標となっています。

再び支部になる

1926年から1940年にかけて,タリンに事務所が開設されていました。1994年以降は,フィンランド支部の管轄のもと,エストニアで国内事務所が機能するようになりました。多くの物事が成し遂げられ,エストニアも再び支部になるのだろうかと考える人は少なくありませんでした。その答えは1999年3月1日に明らかになり,統治体はトーマス・エデュール,レイノ・ケスク(現在はコンゴ民主共和国で奉仕する),レンピット・レイレ,トンミ・カウコをエストニアの支部委員会として任命しました。支部では現在,50人ほどが奉仕しており,エストニアで勤勉かつ忠節にエホバに奉仕する4,300人の兄弟たちの世話をしています。

確信を抱いて将来に目を向ける

エストニアに住むエホバの民の将来の見込みはどのようなものでしょうか。エホバは忠節な僕たちをこれまで常に導き,また強めてこられました。実際,ナチスやソ連による迫害の時期に忠誠を貫いた兄弟姉妹は,忘れがたい特異な仕方でエホバが力を与えてくださることを経験してきました。彼らは,世界各地の兄弟姉妹と共に,旧ソ連を構成した各共和国の隅々においてもエホバの偉大なみ名が知らされ,神聖なものとされてきたことを喜んでいます。―マラ 1:11

同時に,エストニアには真の神について学ぼうとする謙遜で誠実な人がまだ大勢います。宗教的な自由が認められている現在,エホバの証人は一層の熱意を込めてエホバの王国の良いたよりをふれ告げているのです。

[脚注]

^ 71節 兄弟のライフ・ストーリーは「ものみの塔」1963年9月15日号564-567ページに掲載されています。

^ 97節 刑の種類,また刑務所や収容所の状態については,「2002 エホバの証人の年鑑」157ページで説明されています。

^ 207節 「目ざめよ!」1986年2月22日号には,エデュール兄弟がプロのアイスホッケー選手を引退した経緯と理由が記されています。

[172ページの拡大文]

「本当に必要なものに事欠くことはありませんでした」

[204ページの拡大文]

「独りにされるのは好都合でした」

[168ページの囲み記事]

エストニアの概要

国土

手つかずの自然が残る,人口密度の低いエストニアには,丈の高い樹木の茂る森林や,1,400を超える湖,7,000ほどの川,人の住めない湿地などがあります。1,500を超える島があり,それは総面積の10分の1に相当します。国土の大部分を占めるのは,標高50㍍以下の平坦な土地です。南東部には,起伏のなだらかな美しい景観が広がっています。

住民

人口構成はエストニア人68%,ロシア人26%で,残りは大部分がウクライナ人,ベラルーシ人,フィンランド人です。宗教はルター派や東方正教会など名目上のキリスト教に加え,イスラム教,ユダヤ教などです。どの宗教にも属さない人や,属する宗教を明らかにしていない人も多くいます。

言語

公用語のエストニア語は,フィンランド語やハンガリー語と同じ語族の言語です。ロシア語を話す人は人口の4分の1を超えます。

食物

レイブ(黒パン)やジャガイモに加え,カボチャの酢漬け,アカカブのサラダ,サワークラウトなどがよく食されます。シュルト(子牛肉のゼリー寄せ),ロソリエ(ニシンのアカカブ添え),野生キノコのスープ,ブタ,魚,薫製の肉なども好まれます。デザートとしては,クリンゲルと呼ばれる,レーズンやナッツを振りかけた甘いねじりパンがあります。

気候

夏は涼しく,冬は極端に寒くありません。日照時間は,夏のいちばん長い日は19時間を超え,冬のいちばん短い日はわずか6時間です。南西部の海岸では,夏は心地よい地中海性気候に恵まれますが,冬には零下20度にも下がることがあります。

[183,184ページの囲み記事/図版]

「一つの家族のようでした」

アドルフ・コセ

生まれた年 1920年

バプテスマ 1944年

死亡した年 2004年

プロフィール 1951年から1956年までシベリアの収容所に入れられた。バルト諸国やソ連北西部における宣べ伝える業を組織した。

■ アドルフはこう語っています。「私は1950年に逮捕され,シベリアのインタにある強制労働収容所に送られました。最初の1年半は,妻と二人の幼い娘の消息が全く分かりませんでした。妻と娘たちはシベリアの別の場所に強制移送されていたのです。

「兄弟たちの間には強い一体感があり,一つの家族のようでした。霊的な食物も物質的な食物も分け合いました。

「エストニアに戻ってからも,多くの難題を抱えました。“母”である組織と連絡を取るにはどうすればよいのでしょう。どうすれば兄弟たちの間で一致を保てるでしょうか。宣べ伝える業をどのように続ければよいのでしょうか。

「運搬役の人たちとの意思疎通がうまくいくよう,フィンランド語を学ぼうと思いました。しかし,これは思っていたより苦労しました。市販の文法書や辞書はなかったからです。

「印刷について言えば,登録されていないタイプライターの所持は犯罪でしたし,印刷機を持つことなどもってのほかでした。禁書を生産すると,7年の刑に処されるおそれがありました。印刷に必要な品はどれも不足していたので,その作業自体たいへんでした。手に入る材料を用いて試行錯誤を繰り返した末,ついに印刷法を編み出しました。まず,印刷機を作りました。(下)次いで,布に自分でろうを塗り,そこにタイプライターで活字を打ちつけました。そうすると,表面のろうが削れます。最初の出版物は,すすとタールを混ぜて作ったインクで印刷しました。ろうの削れた部分に自家製インクが染みこみ,布の下の紙に文字が転写されます。手間ひまがかかり,気化するインクや他の化学物質は健康に有害でした。部屋をきちんと換気することは無理でした。作業が知られないように窓を全部覆ったからです」。

アドルフはさまざまな困難の中でも,恐れることなく組織からの指示に従い,エホバがふさわしい時に答えを与えてくださることを常に確信していました。揺るぎない姿勢と信仰を保ちながら,2004年に亡くなるまでエホバに奉仕しました。

[186ページの囲み記事/図版]

スターリンへの手紙

1949年6月,エストニアの責任ある兄弟たちは勇敢にも,モスクワの当局者たちに手紙を送りました。1通はヨシフ・スターリンに,もう1通はソ連最高会議幹部会議長のニコライ・シベールニクに送られました。

その手紙の中で兄弟たちは,逮捕されたエホバの証人をすぐに釈放するように,また証人たちに対する迫害をやめるように要求しました。さらに,強い警告も記され,イスラエル人がエホバに自由に仕えるのを認めなかった古代エジプトのファラオの例を引き合いに出しました。(出 5:1-4)兄弟たちは大胆にこう言明しました。「エホバ神の組織には,エホバの王国の良いたよりをソビエト連邦に住むあらゆる人々に,妨害されることなく宣べ伝えることが許されるべきである。さもなければ,エホバはソビエト連邦と共産党を完全に滅ぼされるであろう」。

コセ兄弟はこう語ります。「かなり思い切った内容でした。タリンからその手紙を出すのはあまりにも危険でした。差出人が突き止められる可能性があったからです。それでレニングラード(サンクトペテルブルク)に行き,そこで投函しました」。

スターリンがじかにその手紙を読んだかどうかは分かりませんが,その手紙が注目を集めたことは確かです。尋問を受けた兄弟たちは手紙の写しを見せられ,そこには「この組織を抹殺せよ」と記されていたのです。やがて,さらに多くの兄弟が逮捕され,迫害は激しくなりました。シベールニクに送られた手紙が国の公文書館にあり,その手紙には政府のスタンプが押されています。

[189ページの囲み記事/図版]

KGBとわたしたちの組織

1940年代の終わりに,秘密警察はエホバの証人の業がどのように組織されているかを突き止めることに全力を挙げました。KGBに流す情報を手に入れるため,ある人たちは真理に関心を持つふりをしました。下の表は,タリンの政府公文書館で見いだされたもので,KGBがかなり事情に通じていたことを示しています。そこには奉仕委員会の兄弟たち,エストニアの主要都市で業を監督する兄弟たち,また印刷に携わる人たちの名前が記されています。

[191ページの囲み記事/図版]

反対されても語るのをやめなかった

エラ・トーム

生まれた年 1926年

バプテスマ 1946年

プロフィール 合計13年の刑を宣告されたが,5年半服役した後に釈放された。

■ エラはこう言います。「当局者はわたしを3日間独房に入れ,信仰を捨てさせようとしました。神の政府について他の人に話すのをやめさせ,その政府に対するわたし自身の信頼を失わせるためです。役人はこう怒鳴りました。『エホバという名をエストニアから永久に消してやる! お前は収容所行きで,ほかのやつらはシベリア行きだ!』。そしてあざけるように,『お前のエホバはどこにいる?』と言いました。裏切るつもりなどありませんでした。神との関係を保って収容所に入れられるほうが,その関係を失って家にいるよりもよいと考えました。収容所の中でも自分が閉じ込められているとは思いませんでした。エホバがその状況をお許しになり,わたしが新しい区域で宣べ伝えられるようにしておられるのだと,いつも感じました。

「ある収容所でのこと,関心を持つ人と毎日散歩していました。ところがある日,散歩に行かないことを二人で決めました。後で知ったのですが,その日にわたしを川で溺れさせようとする計画があったのです。わたしの伝道活動を快く思わない宗教上の狂信者たちが企てたことでした」。エラは反対されても語るのをやめず,今でも正規開拓者としてエホバに忠実に奉仕しています。 *

[脚注]

^ 353節 エラ・トームのライフ・ストーリーは「目ざめよ!」2006年4月号20-24ページに掲載されています。

[193,194ページの囲み記事/図版]

「エホバ,ご意志がなされますように」

レンピット・トーム

生まれた年 1924年

バプテスマ 1944年

プロフィール ドイツによる占領期間中エストニアにいた。1951年から1956年はシベリアの労働収容所で過ごした。

■ エホバの証人の若者は,ドイツ軍による徴兵を拒み,そのため身を隠さなければなりませんでした。レンピットはそのような若者の一人でした。ある晩,泊めてもらっていた家に警察が踏み込みました。その農場に不審な人物が隠れているという通報があったのです。レンピットはすぐに寝床を隠し,下着姿のまま床下に潜り込みました。警察官たちの靴の音が頭上で響きました。

警察官は農場主の頭に銃を突きつけ,「この家に潜んでいるやつがいる。床下に入るにはどうしたらいいんだ?」とがなり立てました。農場主は何も言いませんでした。

警察官は声を荒げ,「出てこなければ床下に手榴弾を投げ込んでやる!」と言いました。

床下にいる自分を探す懐中電灯の光が見えました。レンピットにできるのは,「エホバ,ご意志がなされますように」と祈ることだけでした。

本人はこう述懐します。「耐え難い極度のストレスを感じました。床下の別のすき間に体をずらし,いっそ出てしまおうかと思ったほどです」。

それでも,じっと横になっていました。生きた心地のしない数分が過ぎ,やがて警察は立ち去りました。レンピットは床下でもう1時間ほど待ちます。また戻ってくるおそれがあったからです。その後,夜明け前に家を出て,別の隠れ場を探しました。

ソ連が統治するようになると,レンピットはほかの試みに直面しました。「シベリアのノリリスクの収容所における10年の刑を言い渡されました。エストニアから8,000㌔離れた土地です。ニッケル鉱山の露天掘りという重労働を科されました。収容所の生活環境は劣悪で,作業による疲労は極限に達しました。ソ連北部の北極圏の冬は厳しく,気温が零下30度かそれ以下にまで落ち込むこともあります。冬の2か月間,太陽は地平線より上に昇りません」。

レンピットは5年の奴隷労働の後に釈放され,1957年にエラ・キカスと結婚します。兄弟は長年,文書の翻訳と印刷にも携わりました。感情移入をする温かい長老として知られ,いつも聖句を用いて仲間の兄弟姉妹を強めています。 *

[脚注]

^ 369節 レンピット・トームのライフ・ストーリーは「目ざめよ!」1999年2月22日号10-16ページに掲載されています。

[図版]

レンピット・トームとエラ・トーム

[199ページの囲み記事/図版]

「あなたのお母さんよ」

カリン・レイレ

生まれた年 1950年

バプテスマ 1965年

プロフィール 刑務所で生まれたのち母親から引き離され,祖母に育てられる。

■ カリンは言います。「母のマイムは政治活動のために刑務所に入れられている時にわたしを産みました。わたしは生まれつき体が弱く,刑務所の監房の寒さで両側性の肺炎になってしまいました。ですが,別の受刑者ライネ・プリョームのおかげで生き延びました。ライネは後に真理を学びました。

「当時,受刑者が産んだ赤子は親を忘れさせるため,ソ連各地の孤児院に送られました。わたしは幸い,祖母に預けられました。母はモルドビアの収容所に送られ,そこで勇敢な姉妹エラ・トームに出会います。そして真理を受け入れ,収容所でバプテスマを受けました。

「5歳までは祖母が育ててくれました。ある日,不意に見知らぬ女の人が家にやって来ました。祖母に,『あなたのお母さんよ』と言われました。わたしはとても戸惑い,その事実を受け入れるのに何年もかかりました」。喜ばしいことに,カリンも祖母も真理を受け入れました。

後にカリンは英語を学び,出版物の翻訳に携わるようになりました。そしてレンピット・レイレと結婚し,二人は現在エストニア支部で奉仕しています。

[201ページの囲み記事/図版]

エストニア語の聖書における神のみ名

ギリシャ語聖書は早くも1686年にエストニア語の南部方言に訳され,1715年には北部方言に訳されました。全訳聖書の「ピープリ・ラマト」は1739年に刊行され,一般の人も容易に入手できました。注目できるのは,その訳がヘブライ語聖書と同じ箇所で神の名エホバを用いていることです。この方法は,その後の数世紀にわたって踏襲されてきました。1988年版のエストニア語聖書では,ヘブライ語聖書の中で神のみ名が6,867回用いられています。結果として,神の名がエホバであることは多くのエストニア人に知られています。

2009年7月3日,エストニアのタルトゥにおけるエホバの証人の地域大会で里程標となる出来事がありました。その日,統治体の成員ガイ・ピアースは「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」のエストニア語版を発表しました。

[202ページの囲み記事/図版]

手作りのノート

ヘルミ・レーク

生まれた年 1908年

バプテスマ 1945年

死亡した年 1998年

プロフィール 投獄されシベリアへ送られた。

■ ヘルミはエホバの証人であるということで逮捕され,シベリアへ送られました。シベリアでヘルミは,ノートを入れるための小さな巾着を作りました。そこに慰めとなる聖句,ローマ 8章35節を刺しゅうしました。「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すでしょうか。患難,あるいは苦難,迫害,飢え,裸,危険,剣でしょうか」という言葉です。

ヘルミは包み紙を見つけてノートを作り,そこに励みとなる聖書的な考えを記しました。印刷された出版物はあまり手に入らなかったので,多くの兄弟は出版物全体を手で書き写しました。

シベリアから帰還した後,ヘルミは当局者にこう言いました。「あなたたちに追放されたおかげで,シベリアの美しい山々を見に行けました。そんな遠くまでの旅費など,わたしにはとても出せませんでした」。

[209,210ページの囲み記事/図版]

自己犠牲の精神

ファンニ・ヒエタラ

生まれた年 1900年

バプテスマ 1925年

死亡した年 1995年

プロフィール 1930年にエストニアに移動し,開拓奉仕を行なった。また,エホバの証人の親を亡くした子を養子にした。

■ ファンニは1925年にフィンランドでバプテスマを受け,2年後に全時間奉仕を始めました。ヘルシンキの大会で,北ヨーロッパ事務所の監督ウィリアム・デイに会いました。デイ兄弟は違う言語を話しましたが,その話の中で「エストニア」という言葉が何度も出てきました。それを必要の大きな所に移動するようにとの勧めと受け止めたファンニと他の開拓者たちは,1930年にエストニアに移動します。以後ファンニは,自転車を乗り回しエストニアの幾つかの郡で良いたよりを宣べ伝え,サーレマー島でも奉仕しました。

ファンニは結婚しませんでしたが,エステルという孤児の少女を養子にしました。エステルは,母親とエホバの証人の父親を亡くし,8歳の時にみなしごになりました。エステルはファンニの愛情深い世話を受けて育ち,真理を受け入れました。

共産主義政権が発足して迫害が始まった時,ファンニはフィンランドに戻ることもできました。しかし,自己犠牲の精神を示して,地元の少人数の伝道者たちのもとにとどまったのです。そのため多くの困難を経験し,貧しい生活を送りましたが,フィンランド国籍を有していたためシベリアに流刑にされることはありませんでした。

ファンニは運搬役を務め,1950年代にはフィンランドからエストニアにマイクロフィルムや通信物を運びました。勇気のある思慮深い姉妹として知られていました。間一髪の状況を何度か切り抜けたとはいえ,捕まることはありませんでした。例えばある時は,レニングラード(サンクトペテルブルク)に行き,公園でフィンランド人の運搬役の兄弟からマイクロフィルムの包みを受け取ることになっていました。姉妹はその包みを二人のエストニア人の兄弟にできるだけ早く渡すよう指示されていました。しかし,その二人の兄弟は自分たちが秘密警察に付けられていることを察知し,ファンニに気づかれないようその場を離れることにしました。ところが何と,ファンニとフィンランド人の兄弟がエストニア人の兄弟たちの方に向かって歩いて来るではありませんか。もしファンニが二人にあいさつしたり包みを渡したりしようものなら,自分たちの関係が秘密警察に知られてしまいます。驚いたことにファンニは,全く知らない相手であるかのように二人の兄弟の横を通り過ぎて行きました。実は,二人をとてもよく知っていたのですが,その姿がともかく目に入らなかったのです。結果として,秘密警察はだれが運搬人かを突き止めることができず,包みは後で安全に手渡されました。ファンニの連絡役としての働きによって,霊的食物は滞ることなく手に入りました。幸いにも,マイクロフィルムが当局に発見されることはありませんでした。

この愛情深い姉妹は95歳で亡くなるまで70年間,エホバに忠実に奉仕しました。亡くなった時もエストニアに住んでいました。

[図版]

レニングラードで運搬役を務める,1966年

[213ページの囲み記事/図版]

中傷の的となる

イエスは弟子たちにこう言われました。「人々がわたしのためにあなた方を非難し,迫害し,あらゆる邪悪なことを偽ってあなた方に言うとき,あなた方は幸いです」。(マタ 5:11)主人のこの言葉のとおり,エホバの証人はしばしば悪意ある中傷の的とされます。エホバの証人は,政権転覆工作とスパイ活動に手を染める政治組織であるとして誹謗されてきました。とりわけ1950年代の終わりから1960年代の初めにかけて,新聞の紙面に,わたしたちの活動がアメリカ政府によって主導され,アメリカの裕福な資本主義者に利用されている,という記事が掲載されました。

1964年に兵役を拒否したシルベル・シルリクサルは,祖国を裏切ったとして非難され,刑務所に入れられました。さらに,エストニアじゅうの映画館で,シルベルの裁判の模様を収めた短い映画が上映され,その映画には尊大な共産主義思想の宣伝が織り交ぜられていました。兵役を拒否した兄弟たちはたいてい2年から3年の刑を科されました。ユーリー・シェーンベルク,タービ・クースク,アルトゥル・ミキトはそれぞれ二度投獄され,ミキト兄弟の刑期は合計5年半に及びました。

[図版]

信仰ゆえに裁判にかけられるシルベル・シルリクサル

[226ページの囲み記事]

地下の神権宣教学校

兄弟たちは禁令下で,文書を,さらには聖書でさえいつまで所持していられるか分かりませんでした。そのため,文書の隠し場所をいろいろ設けることに加え,聖句をできるだけ覚える努力も払いました。

仲間との交わりの場はよく,聖句について話し合い,聖句を覚えるために用いられました。そのような交わりで用いられるよう,ある人たちは記憶を助けるための小さなカードを作りました。カードの片面には,聖句の章節番号が「マタイ 24:14」というように書かれたり,質問や聖書の人名が記されたりしていました。裏面には,聖句を書き出すか,質問の答えを記すかしました。

兄弟たちは何でも手元にある出版物を用いて集会を司会しました。例えば,神権宣教学校は毎週のプログラムに加え,宿題,口頭試問,さらには試験までありました。3か月ごとに復習が行なわれ,春には最終試験もありました。

生徒の一人はこう語ります。「毎週の宿題の一つに,聖句を五つ暗記するというものがありました。その聖句は次の授業で暗唱しなければなりませんでした。1988年の最終試験のことは忘れません。試験問題のカードに,『100の聖句をそらで言いなさい』というものがありました。意外かもしれませんが,だれもがそのカードを引き当てたいと思ったのです。そのような課題は,伝道の時にとても役立ちました。聖書を伝道で自由に用いることは,まず無理だったからです」。1990年,エストニアの会衆でも,ついに世界じゅうの兄弟たちと同じ方法で神権宣教学校が行なえるようになり,みな大いに喜びました。

[236,237ページの囲み記事/図版]

「野外宣教は最高でした」

幾人かの宣教者は,エストニアでの奉仕について次のような感想を寄せています。

マルック・ケットゥラとシルパ・ケットゥラ: 「実質的に手つかずの区域に割り当てられました。野外奉仕に出ると,聖書に対する人々の関心がとても強く,驚くばかりでした。わたしたちがパルヌに移った時,伝道者は30人ほどでしたが,今ではそこに三つの会衆があります」。

ベサ・エドビクとレーナマリア・エドビク: 「店にはほとんど商品がありませんでした。人々はショッピングに行ったりはしないので,聖書についての話をする時間がありました。街路証言をしているとしばしば,文書を求める人の列ができるほどでした」。

エサ・ニッシネンとヤーエル・ニッシネン: 「他の人から学べることはたくさんあります。極めて厳しい試みのもとで忠実を保った人たちと知り合えたのは特権でした」。

イルッカ・レイノネンとアンネ・レイノネン: 「毎日,毎週,どの区域でも,聖書の音信について聞くのは初めてという人に会いました。朝早くから夜遅くまで奉仕して急速な増加を見ることができ,大きな喜びを味わいました。20世紀の終わりに,自分の目でそうした増加を見ることができるとは,思ってもみませんでした。当時のことは忘れられません」。

リチャード・アーゲンズとレイチェル・アーゲンズ: 「人々はもてなしの精神に富み,野外宣教は最高でした。ペイプシ湖沿いの村で伝道した時,食べ物を持参する必要はありませんでした。家の人が食事に招いてくれたからです。マタイ 10章9,10節のイエスの指示は現代にも当てはまることを知りました。エストニアに来て,より重要な事柄に焦点を合わせるべきで,あまり重要でない事柄に気を散らされてはならない,ということを学びました」。

[図版]

マルック・ケットゥラと妻のシルパ

ベサ・エドビクと妻のレーナマリア

イルッカ・レイノネンと妻のアンネ

エサ・ニッシネンと妻のヤーエル

リチャード・アーゲンズと妻のレイチェル

[244,245ページの図表/図版]

年表 ― エストニア

1920

1923 マルティン・コセがエストニアに戻って伝道する。

1926 支部事務所がタリンに開設される。

外国からコルポーターが伝道を助けるためにやって来る。

1928 最初の大会が支部で開かれる。

1930

1933 ものみの塔聖書冊子協会が登録される。

1940

1940 エストニアの兄弟たちが自由に開いた最後の大会。次に自由に開くことができたのは50年後。

1948 一部のエホバの証人がソ連の刑務所や収容所に送られる。

1949 エホバの証人はスターリンに抗議の手紙を送る。

1950

1951 エホバの証人やその親族など,300人近くがシベリアへ流刑にされる。

1953 スターリンが死去し,エホバの証人の釈放が始まる。

1960

1970

1972 最初のロシア語会衆が設立される。

1980

1990

1991 翻訳事務所がタルトゥに開設される。

エホバの証人が宗教上の自由を得る。

ソ連初の大会がタリンで開かれる。

1992 ギレアデの宣教者の第一陣がやって来る。

1993 エストニアで最初の王国会館が建設される。

1994 翻訳事務所がタリンに移される。

1998 大会ホールがタリンとタルトゥに建てられる。

1999 エストニアは再び支部になる。

2000

2000 宣教訓練学校第1期のクラスが行なわれる。

2009 エストニア語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発表される。

2010

[246ページのグラフ/図版]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

4,000

2,000

1990 2000 2010

[169ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

フィンランド

ヘルシンキ

フィンランド湾

ロシア

サンクトペテルブルク

ラトビア

リガ

エストニア

タリン

ナルバ

マールドゥ

タパ

ボルムシ島

パルヌ

ブルツ湖

タルトゥ

ラピナ

ブル

ヒーウマー島

サーレマー島

リガ湾

ペイプシ湖

プスコフ湖

[162ページ,全面図版]

[165ページの図版]

フゴ・コセとマルティン・コセ

[166ページの図版]

アルバート・ウェスト

[167ページの図版]

アリグザンダー・ブライドソンと妻のヒルタ,1930年代

[167ページの図版]

最初の支部はこのアパートに設けられた

[170ページの図版]

フィンランドから来た初期の開拓者イエンニ・フェルトとイルヤ・マケラ

[174ページの図版]

1932年に支部はタリンのスール・タルトゥ街72番に移された

[175ページの図版]

ラジオで講演を行なうカールロ・ハルテバ

[177ページの図版]

ジョン・ノースと彼の“兵車”

[178ページの図版]

ニコライ・トゥイマン

[179ページの図版]

警察は大量の文書を押収した

[181ページの図版]

ソ連統治前の自由な中での最後の大会,1940年

[188ページの図版]

クルース兄弟,タルベルク兄弟,イントゥス兄弟,トーム兄弟が奉仕委員会を構成した

[200ページの図版]

レンピット・トレルと妻のマイム,1957年

[212ページの図版]

エネと姉のコリンナ

[218ページの図版]

ヘイマル・トゥイマンとエルビ・トゥイマンの結婚式は二日間の大会になった

[227ページの図版]

トーマス・エデュールと妻のエリザベス

[228,229ページの図版]

記念すべき大会

フィンランドのヘルシンキで「清い言語」地域大会への出席者を歓迎する,1990年

「自由を愛する人々」地域大会,エストニアのタリン,1991年

[238ページの図版]

ロシアのサンクトペテルブルクでの国際大会,1992年

[241ページの図版]

ラウリ・ノルトリンクと妻のエレナ

[243ページの図版]

レイノ・ケスクと妻のレスリ

[247ページの図版]

ユーリーとビクトル

[251ページの図版]

マールドゥの王国会館とタルトゥの大会ホール

[254ページの図版]

エストニア支部

支部委員会,左から右へ: トンミ・カウコ,トーマス・エデュール,レンピット・レイレ