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パプアニューギニア

パプアニューギニア

パプアニューギニア

はるか昔,長い年月の間に多くの人々が新たな住まいを求め,アジア大陸を経て南方へ移住しました。彼らはマレー諸島の東の端でニューギニア島を見つけます。起伏の多い熱帯の島で,世界で2番目に大きな島です。 * 人々は蒸し暑い海岸沿いを歩き,広大な湿地,深いジャングル,さらには散在する外洋の島々に住み着きました。ニューギニア島の脊梁山脈を進み,広い渓谷や肥沃な土壌に恵まれた温暖な高地に居を定めた人もいます。

人々は一つの統一国家を形成せずに,1,000余りの小さな部族に別れたまま,しばしば戦いを交えていました。習慣もさまざまで,独特の装いをし,話される言語も800を超えます。多くの集団はそれぞれに,守り固められた居住地に住み,外の世界から完全に孤立していました。人々は,水平線の向こうには悪霊や死んだ祖先の住む領域があり,良くも悪くも自分たちの生活に影響を及ぼすと信じていました。そして,それらの霊をなだめることが生活の中心となっていたのです。

身体面でも人々の間に違いが見られましたが,一つの共通の特徴がありました。この特徴に気づいたのが,1526年に島を訪れたポルトガルの役人ジョルジェ・デ・メネセスです。メネセスはこの島をイリャス・ドス・パプアスと呼びました。「縮れ毛の人々の土地」という意味です。スペインの探検家イニゴ・オルティス・デ・レテスは,島民が西アフリカのギニアの人に似ていると感じ,この島をヌエバ・ギニアと名づけました。これがニューギニアの由来です。

19世紀にヨーロッパの列強はこの島を三つの部分に分けました。最初にやって来たオランダは,島の西半分の領有を主張し,そこは現在インドネシアの一部です。イギリスとドイツは島の東半分を,南部のイギリス領ニューギニア(後のパプア)と,北部のドイツ領ニューギニア(後のニューギニア)に分けました。第一次世界大戦の後,これらの領地はオーストラリアの統治下に置かれました。結局1975年,パプアとニューギニアが統合されパプアニューギニアという独立国になりました。 *

パプアニューギニアでは,今でも昔ながらの生活が営まれています。都市部で便利な電化製品に囲まれて暮らす人もいますが,国民の8割は田舎の小さな村で生活しています。それらの場所では過去数百年にわたって人々の生活は大きく変わっていません。ブタを所有していることは豊かさの象徴であり,花嫁を迎える際に金品が支払われ,心霊術が広く見られ,一族に対する忠節が最も重んじられます。

とはいえ,多様性に富むこの国でここ数十年,もっと重要な意味を持つ変革が生じています。それによって民族を問わず,誠実な人々は益を受け,さまざまな面で生活を向上させています。それは霊的な変革であり,神の言葉 聖書の真理を学んで当てはめることによるものです。―ロマ 12:2

早い時期に良いたよりを伝えた人々

聖書の真理がパプアニューギニアに到達したのは1932年のことです。ペックという名のイギリス人の開拓者が,マラヤ(現在のマレーシア)に向かう途中に訪れたのです。ペックは機会を逸することなく,数週間にわたって地元の人々に宣べ伝えました。こうして,割り当てられた国に着く前に何百冊もの聖書文書を配布しました。

その3年後,エンジン付きの小型帆船ライトベアラー号に乗った7人の開拓者がポートモレスビーに上陸します。故障したエンジンを修理するためです。そして1か月におよぶ滞在中に,ポートモレスビー全域とその周辺で熱心に伝道しました。その中の一人でニュージーランド出身の剛健なフランク・デュワーは,大量の書籍を携えて徒歩で内陸に入り,海岸から50㌔ほど奥に住む人たちにも聖書文書を配布しました。

この時に配布された文書の幾らかは,コイアリ族出身の呪医ヘニヘニ・ニオキの手に渡りました。ヘニヘニは聖書の真理を知りますが,植えられたその種はすぐに芽を出したわけではなく,エホバの証人が再び訪れて水を注ぐのを待つことになります。―コリ一 3:6

1930年代の終わりに,別の開拓者が広範におよぶ伝道旅行を行ない,パプアニューギニアのおもな町を奉仕しました。そしてニューブリテン島,ニューアイルランド島,ブーゲンビル島も訪れました。その開拓者は聖書文書をたくさん配布します。しかし,その地域で他の人たちがさらに活動する間もなく,第二次世界大戦が始まり,国は混乱状態に陥ります。

「大きな村」で宣べ伝える

それから12年後の1951年9月22日,長身のオーストラリア人が飛行機でポートモレスビーに降り立ちます。ひどい蒸し暑さに迎えられたのは,47歳のエホバの証人トム・キットウです。太平洋の島々で王国の業を切り開く奉仕者が募られ,その呼びかけにこたえてやって来たのです。妻のロウィーナは6週間後に加わります。二人の区域はパプアニューギニア全土でした。

キットウ夫妻は程なくして,ポートモレスビーに住む白人の多くが王国の音信に関心を持たないことを知ります。しかしある時,同じオーストラリア出身のジェフ・バックネルに会います。若いころに真理から離れた人でした。ジェフは研究の勧めに応じ,後に妻のアイリーンともども,忠実なエホバの証人になります。

トムとロウィーナは次いでハヌアバダで伝道します。その名称は地元の言語であるモツ語で,「大きな村」を意味します。ポートモレスビー港に広がるこの村は,幾百もの高床式の家が,長い板を渡しただけの歩道でつながれ,海岸から行き来できるようになっています。ロウィーナはこう書いています。「良いたよりを聞こうとして人々が群がってきました。関心を持つ人が多かったため,ほぼ毎晩ここを訪れて研究を司会しました。2か月の間で,ここに来なかったのは二晩だけでした」。トムはこう続けます。「人々は,復活の希望や楽園の地で生きるという希望に大いに引きつけられました。キリスト教世界の宣教師や地元の警察官から研究をやめるよう圧力をかけられた時も,皆が堅く立ちました。真理が心に深く根を下ろしたのです」。

真理の側に立場を定めた人として,ラホ・ラカタニと妻のコニオ,オダ・シオニ,ゲウア・ニオキと夫のヘニヘニがいます。ヘニヘニは16年前,ライトベアラー号の奉仕者から文書を受け取っていました。やがて30人ほどの関心を持つ人たちがヘニヘニの家に来て,定期的に集会が開かれるようになります。そのころ少年だったオダ・シオニはこう言います。「男性と女性は部屋のそれぞれの側に別れて座りました。女性は草のスカートをはいて上半身は何も身に着けず,赤ちゃんを糸で編んだカラフルな袋に入れ,部屋の梁にその袋を吊っていました。授乳を終えると,赤ちゃんを袋に入れ,優しく揺らして寝かしつけました」。

トム・キットウは一人の通訳に助けてもらいながら集会を開きました。とはいえ,すべてが順調に運んだわけではありません。1953年に国にやって来たドン・フィールダーはこう言います。「ある時,集会でヘニヘニの兄弟バドゥヘニが通訳をしていました。当初,何も問題はないように思えました。バドゥはトムの話を通訳し,身ぶりまでまねしていたからです。しかし,あとになってバドゥは,トムの話がさっぱり分からなかったことを打ち明けました。自分が知っている真理をただ伝え,トムの身ぶりをまねて,訳しているふりをしていただけでした」。こうした問題もありましたが,その群れの人数は速やかに増え,やがて二つ目の群れが同じハヌアバダ村にあるラホ・ラカタニの家に設けられました。

『わたしの村に来て教えてください』

1952年の初め,コイアリ族の首長で,呪医として名の知られたボボギ・ナイオリが,ヘニヘニの家を訪ね,そこで開かれていた集会に出席しました。ボボギは,ヘニヘニのワントクつまり同族に当たる人でした。集会で見聞きした事柄に感銘を受けたボボギは,後にトム・キットウに近づいて,「どうかわたしの村に来て,人々に真理を教えてください」と頼みました。

トムとロウィーナはその後まもなく,古い小型トラックで舗装されていないぬかるんだ道を行き,ハイマのボボギの家に向かいます。ハイマは,ポートモレスビーの北25㌔にある小さな村です。集まった村人たちにトムが話をし,ボボギが通訳しました。その結果,約30人が聖書研究を始めました。

その同じ月に,ハイマの人々はクリスチャンの集会のための小さな会館を建てました。後日,そこでの集会に出席したエルシー・ホースバーグはこう述懐します。「会館は,自分たちで切り出した木の骨組みと草葺きの屋根,それに腰の高さまである,竹を編んだ壁でできていました。備品は,木で作った腰掛けと灯油ランプと小さな黒板だけでした」。この簡素な建物は,パプアニューギニアで最初の王国会館になりました。

ボボギは,近くの山地に住む自分のワントクたちにも良いたよりを聞いてほしいと思いました。それでトムと共に,険しい山道を登ってソゲリ高原に行きます。やがて二人は,高原にある三つの村で90人以上の人と研究を行なうようになりました。

こうした活動は当局者の注意を引きます。イオアダブでは,政府の役人が集会場に踏み込み,エホバの証人が村人たちに教える許可をだれが与えたのかと詰問しました。警察はまた,エホバの証人の活動について知ろうとし,関心を持つ幾人かの人を尋問しました。村の牧師や大農園の経営者の中には,暴力を振るって兄弟たちを脅す人もいました。

関心を持つ人の中には,このような圧力のもとで離れた人もいました。しかし,中核を成す人たちは堅く立ちました。1954年,13人の聖書研究生がハイマのラロキ川でバプテスマを受けました。これはパプアニューギニアでのエホバの証人による最初のバプテスマです。その時にバプテスマを受けたボボギは,きっぱりこう言いました。「コイアリ族の人がすべて離れるとしても,わたしは離れない。これが真理であると分かったからだ」。ボボギはこの言葉のとおりに忠誠を保ち,1974年に亡くなるまでハイマ会衆で長老として忠実に奉仕しました。

記憶に残る集まり

1955年7月,オーストラリアで奉仕するカナダ人の宣教者ジョン・カットフォースが,初めての巡回監督としてポートモレスビーを訪れます。ジョンは熱帯のこの国とそこでの生活,また謙遜な人々がすぐに気に入ります。自分がパプアニューギニアで35年以上奉仕することになるとは思ってもみませんでした。

ジョンは「躍進する新しい世の社会」という映画を持って来ていました。これは,エホバの証人が組織的に行なう活動や大会の様子を取り上げたドキュメンタリーです。3週間にわたる訪問中にこの映画を14回上映し,観客は数百人のこともあれば2,000人近くに達することもありました。その上映は,それまで映画など見たことのない人が大部分を占める地元の人々に強い印象を与えました。

ジョンの訪問の最終日は,ハイマでの一日だけの巡回大会でした。トム・キットウはこう語ります。「バプテスマの希望者は起立するようにとの呼びかけがなされた時,70人が起立しました。兄弟40人,姉妹30人がジャングルの川沿いに列を成して並ぶ様子を見て,感謝の気持ちでいっぱいになりました」。

その翌年,兄弟たちはハイマで2回目の巡回大会を計画します。村の首長だったボボギは,必要な施設を設けて出席者に食事を提供するよう割り当てられました。大会の三日前に,オーストラリア出身の新しい巡回監督ジョン(テッド)・シューエルはボボギに会い,準備の状況について話し合いました。

テッドはすぐに本題に入り,「これまで何を設置しましたか」と尋ねます。

「まだ何も」とボボギは答えます。

「でも今日は木曜日で,大会は日曜日ですよ!」とテッドは声を上げます。

ボボギは,「心配要りません。土曜日にすべてのものを作りますから」と言います。

テッドはぼう然としてポートモレスビーに戻り,この大会は悲惨なことになると頭を抱えました。

日曜日にテッドは,どうなったかと心配しながらハイマまで車を走らせます。現地に入ると目を疑いました。大きな木の下に,木で作った頑丈な演壇が据えられ,その前が大きな広場になっています。遠くでは調理が行なわれていました。地面に掘った穴にブタ,ワラビー,シカ,ハト,魚,ヤムイモ,サツマイモを入れて石焼きにしていました。また,直火にかけられた紅茶用のやかんから湯気が上がっています。食堂で大勢の人が楽しそうに交わっており,その食堂もブッシュから切ってきた材料で造られたものでした。すべてが順調に進む中,ボボギが穏やかな表情で立っていました。テッドはただただ驚きます。

「ボボギ,このすべてをどこで教わったんですか」と興奮気味に尋ねます。

「去年ジョン・カットフォースが見せてくれた映画のとおりにしたんです」とボボギは答えます。

大会には八つの民族から成る400人余りが出席し,73人がバプテスマを受けました。この大会は後に,ボボギの大会として知られるようになりました。

絵を使って伝道する

1957年,ジョン・カットフォースはパプアニューギニアに移り住み,旅行する奉仕を始めます。兄弟は国を最初に訪れた時からずっと,文字の読めない人が大半を占める地元の人々に伝道する最善の方法を懸命に考えていました。温めてきたその方法を実行に移す時が来たのです。

ジョンは,会衆や孤立した群れで話をする時,黒板にまず自分の名前と通訳者の名前を書きます。それから空を指さして,「神の名前,何?」と聴衆に尋ねます。そして,聴衆が出す「エホバ」という答えと「詩編 83:18」という文字を黒板の上のほうに書きます。その下の左のほうに「古い世」と書き,格闘する二人の人を棒線で描き,泣いている人,墓,「ローマ 5:12」という文字を書きます。右には「新しい世」という見出しと,握手する二人の人,笑顔,バツ印を付けた墓と,「啓示 21:4」を書きます。その後,絵の内容を説明する生き生きとした話をします。それから聴衆に,前に出て,同じようにやってみたい人はいないか尋ねます。聴衆がその方法を覚えると,同じ絵を紙に書き写して伝道で使うように勧めました。

「ピクチャー・サーモン 1」(絵による説教 1)と呼ばれたその絵は,パプアニューギニアにおける伝道活動に大きな影響を与えました。やがて,その続編も出されました。この国で47年奉仕したリナ・デービソンはこう言います。「私たちは何時間もかけて,その絵を幾冊ものノートに書き写しました。聖書研究生はそのノートを1冊ずつもらい,それを使ってほかの人に証言しました」。子どもたちも自分用のノートを作り,色まで塗って得意気でした。

この教え方は会衆の集会にも取り入れられました。パプアニューギニアで40年以上奉仕したカナダ人の開拓者ジョイス・ウィリスはこう述べています。「黒板に絵を描くことは公開集会や『ものみの塔』研究の時にもよく行なわれ,文字を読めない人にとって大きな助けになりました」。さらに,キャンバスに描いたピクチャー・サーモンが大会で教材として用いられました。この国で巡回奉仕をしたマイク・フィッシャーは次のように言います。「それらの大きな絵はとても好評で,聴衆は話の要点を思いに刻みつけることができました。そうした絵の多くは最終的に,孤立した区域で奉仕する人たちの家に行き着き,訪ねて来る人に証言する際に好んで用いられました」。

それから何十年かを経て,読み書きを学ぶ人が増え,また挿絵入りの文書が普及するにつれ,ピクチャー・サーモンは用いられなくなりました。

証言を拡大する

1950年代後半に,良いたよりを宣べ伝える意欲にあふれる熱心なオーストラリア人たちのパプアニューギニアへの移動が続きました。加えて,ポートモレスビーで真理を学んだ人の中には,王国の音信を携えて自分の村に戻った人が少なくありませんでした。こうして良いたよりは国内各地に速やかに広まってゆきます。

1957年,ポートモレスビーに住む26歳のオーストラリア人の兄弟デービッド・ウォーカーは,近隣のマヌマヌ村とガバディ地区で人々が真理に関心を持っていることを聞きます。デービッドは仕事を辞めて特別開拓奉仕を始め,その地区で1年間,ずっと独りで伝道しました。後に他の人たちがそこで奉仕するためにやって来て,現在マヌマヌには一つの会衆と王国会館があります。

同じころ,ドン・フィールダーはポートモレスビーのコキ・マーケットで伝道していて,真理に関心を持つ数人の漁師に会いました。その人たちは約100㌔東の海岸の村フラから来ていました。それらの漁師やその家族をさらに援助するために,ドンとアソル(ダップ)・ロブソン,それにフラ出身の関心を持つ幾人かの人が,ドンの所有する新しい8㍍の双胴型カヌーに乗ってフラに向かいます。彼らはフラに3日間滞在し,少人数の研究生から成る群れを設けました。

その後まもなく,ドン・フィールダーは特別開拓者としてフラに移動します。妻のシャーリーと2歳の娘デビーが一緒でした。ドンはこう言います。「わたしたちは小屋を建て,その地方の五つの村で伝道を始めました。毎日12㌔ほど歩いて村々を回りました。体はとても疲れましたが,霊的にはさわやかにされました。多くの聖書研究が始まり,程なくして8人の新しい伝道者と一緒に奉仕するようになったのです」。

ドンとシャーリーの活動は,地元の合同教会の牧師の怒りを買いました。ドンの地主は,その牧師から圧力をかけられ,敷地から小屋を移動するよう言い渡します。ドンはこう語ります。「近くの村の人たちはこのことを聞いて,とても腹を立てました。わたしたちがそこを去るのを望まなかったからです。20人ほどの人が小屋を自分たちの村の新しい土地に土台ごと移すのを手伝ってくれました」。

憤っていたその僧職者は,それでもまだあきらめませんでした。ポートモレスビーの当局に働きかけて,フィールダー夫妻がその地方のどこにも小屋を設置できないようにしたのです。ドンはこう続けます。「割り当てられた区域を離れる代わりに,腕利きの大工のアルフ・グリーンに頼んで,小屋の木材を使って,わたしの持つ双胴型カヌーに小さな部屋を造ってもらったのです。そのカヌーを付近の川の河口近くにあるマングローブの沼地に停泊させました。辺りにワニが潜み,蚊の大群もいましたが,それから2年半,そこで暮らして開拓奉仕をしました」。次女のビッキーが生まれてから,フィールダー夫妻はポートモレスビーに戻ります。後に二人は旅行する奉仕に携わり,ドンは支部委員会で奉仕しました。

他の人たちが良いたよりを聞く

そのころポートモレスビーで,ランス・ゴッソンと妻のダフニは,ケレマ出身の幾人かの青年と研究を始めていました。ケレマはポートモレスビーの西225㌔にある海岸沿いの村です。青年たちが休暇で帰省した際に,ランスとジム・チャンブリスはそのもとを2週間訪ね,ケレマの人々に良いたよりを伝えることにしました。

ランスはこう書いています。「村じゅうの人たちがわたしたちの話を聞きに来ました。話の最中に,地元のロンドン伝道協会の牧師が踏み込んできました。その人はわたしたちの通訳を襲って殴打を繰り返し,村人たちが止めに入らなければならないほどでした。牧師は,わたしたちが地元で歓迎されていないと言い,“自分の”地域から去るよう命じました。わたしたちは,『話を聞きたい人は一緒に村の反対側に来てください。それ以外の人は牧師と一緒にここに残ってください』と言いました。すると,村人たち全員が付いて来ました。

「翌朝,被害を届け出るため,地区の行政官のところに行きました。その道中,とても具合の悪そうな女性に会い,病院に連れていくことを申し出ました。その人は怖がって行きたがりませんでしたが,わたしたちが説得した末,ようやく行くことに同意しました。病院でその女性を医師に引き合わせてから,行政官を訪ねました。その人は見るからに,わたしたちに反感を抱いている様子でした。実際,怒りをあらわにし,人々に医療を受けないよう教えていると,わたしたちを非難してきたのです。ちょうどその時,病院の医師が入ってきて,そのやりとりを耳にします。医師は行政官に,病気の女性がわたしたちの説得に応じて診察を受けに来たばかりであることを話しました。行政官は物分かりのよい人で,すぐに謝罪してくれました。そして,地元のカトリックの司祭がやって来て,わたしたちの信条について偽りを伝えたことを明かしました。行政官は,武器を持った二人の警察官がわたしたちを護衛するよう取り計らってくれました。そのため,ライフルを持つ警察官たちが聖書研究に同席するという,珍しい経験ができました」。

その後まもなく,二人の若いオーストラリア人,ジム・スミスとライオネル・ディングルがケレマに特別開拓者として割り当てられました。二人はすぐに地元の言語であるタイルマ語の学習を始めます。ジムはこう説明します。「わたしたちがモツ語の単語を言うと,聖書研究生が対応するタイルマ語を教えてくれ,それを書き留めました。こうして少しずつ単語を覚え,さらに聖書についての簡単な証言を暗記しました。土地の人々は,わたしたちが地元の言語で話すのを聞いて驚きました。その地域でその言語を話せる白人はいなかったからです。3か月後にわたしたちは毎週,ケレマ湾の両側でタイルマ語で集会を司会していました」。

後に,やはりオーストラリア人の若い開拓者グレン・フィンレーがジムとライオネルの活動を引き継ぎ,ケレマで1年半にわたって独りで伝道しました。グレンはこう言います。「わたしにとっては試みの時期でした。何か意味あることを成し遂げているのだろうかと思うことがあったからです。そんな時,謙遜さを教えられる経験をして,見方が変わりました。

「わたしの聖書研究生の中に,村でパン屋を営むヘボコという年配の男性がいました。ヘボコは文字が全く読めず,何か月か研究しても,基本的な真理をわずかしか覚えていませんでした。その人を教えることに意味があるのだろうかと思っていました。ある朝,ヘボコの家のそばに来ると,声がしたので立ち止まって聞きました。ヘボコが声を出してエホバに祈っていたのです。その祈りは,お名前と王国についての真理を教わったことを心から感謝するものでした。この誠実な祈りを聞いて,エホバが人の知的な能力ではなく心をご覧になるということに気づかされました。エホバはご自分を愛する人のことをよく知っておられるのです」。―ヨハ 6:44

カーゴ・カルトのもとへ

1960年,やはりオーストラリアから来た特別開拓者のスティーブン・ブランディとアレン・ホスキングはサバイビリに移動しました。それはケレマから50㌔ほど東の村です。二人は3か月間テントで暮らしてから,広大な湿地帯に囲まれたココナツ農園の中の簡素な小屋に引っ越しました。

サバイビリはカーゴ・カルトの本拠地としてよく知られていました。このカルトはどのようにして始まったのでしょうか。第二次世界大戦中,地元の人々は外国の兵士たちが持ち込んだ膨大な物資,つまりカーゴを見て驚嘆しました。戦争が終わると,兵士たちは荷物をまとめて撤退しました。一部の村人たちは,水平線のかなた ― 霊の世界の方向 ― から物資が来たので,死んだ先祖が自分たちに送ってくれたに違いないが,それを兵士たちが横取りしていたのだ,と考えました。自分たちの願いが霊たちに伝わるように,人々は軍事演習のまねごとをしたり頑丈な波止場を造ったりして,新たな物資が大量に送られてくる輝かしい日のための備えをしていたのです。

スティーブンとアレンは程なくして,カーゴ・カルトの信者250人ほどと研究するようになりました。カルトの指導者とその“十二使徒”のうち幾人かも研究しました。スティーブンはこう語ります。「真理を受け入れた人も少なくありませんでした。実際,地元の行政当局の警察官は後日,わたしたちの伝道がサバイビリのカーゴ・カルトを終わらせるうえで大きな働きをした,と言いました」。

聖書文書を発行する

それら初期の開拓者たちは,聖書文書を地元の言語に翻訳することの価値をすぐに見て取りました。ですが,820もの言語グループにどうやって文書を供給するのでしょうか。

1954年,この仕事を最初に手がけたトム・キットウは,地元の兄弟たちに「神を真とすべし」 * という書籍の一つの章を,ポートモレスビーで話されるモツ語に翻訳してもらいました。『新しい地』という一つの章全体を謄写版で200部以上印刷して冊子にしました。その冊子はモツ語を話す人たちに配布され,好評を博しました。

新たな区域で奉仕が行なわれるようになるにつれ,開拓者たちは苦労しながら長い時間をかけて,文書を他の地方語に翻訳しました。ジム・スミスはこう語ります。「新しい単語や表現を書き留めながら,苦心してタイルマ語の辞書と文法の概要をまとめ,それをもとに『ものみの塔』の研究記事を訳しました。集会に出席する人たちに配るため,訳した記事をしばしば夜遅くまで紙にタイプしました。後にわたしはパンフレットと小冊子を1部ずつタイルマ語に訳しました。初期のそれらの出版物は,ケレマの人々が真理を学ぶうえで役立ちました」。

フラ語やトアリピ語で発行された出版物もあります。すべての言語で出版物を印刷するのは無理に思えたため,後に兄弟たちは二つの通商語,すなわちヒリモツ語とトク・ピシン語への翻訳に力を入れました。ヒリモツ語はモツ語を簡略化した言語で,パプア湾岸の人々がおもに話していました。ドン・フィールダーはこう述べています。「わたしたちは苦労しながら,この言語の書き方の体系を改良するように努めました。実際,『ものみの塔』誌や他の出版物は,ヒリモツ語を現在のような表現力を持つ言語に整えるうえで大きく貢献しました」。一方,トク・ピシン語は英語,ドイツ語,クアヌア語,および他の言語が混じったもので,パプアニューギニア北部の高原地帯<ハイランド>,沿岸地域,島々で広く話されています。その多様性に富む区域で,宣べ伝える業はどのようにして始まったのでしょうか。

良いたよりが北部に伝わる

1956年6月,エホバの証人として初めてニューアイルランド島に移動したのは,新婚の開拓者の夫婦ケン・フレームとロジーナ・フレームです。この島は,パプアニューギニア北東のビスマーク諸島にあります。会計士であるケンは,島のおもな町カビエンの大きな貿易会社に勤めました。ケンはこう語ります。「シドニーを離れる前,まず人々とよく知り合ってから公の伝道を始めるようにという提案を受けました。ロジーナは洋裁が得意で,程なくして多くの顧客を持つようになりました。その人たちに非公式の証言をし,やがてわたしたちの家で週に一度,関心を持つ少人数の人たちと目立たないように集まり合うまでになりました。

「1年半後,巡回監督のジョン・カットフォースが訪問し,『幸福な新しい世の社会』という映画を上映したいと言われました。わたしは地元の映画館のオーナーと掛け合い,わたしたちの“伝道団”に関する入場無料の映画を,無償で上映させてもらえることになりました。そのことを従業員が広めたに違いありません。わたしたちが映画館に到着すると,入口は人であふれ,中に入るため警察官に助けてもらわなければならないほどでした。入場者は230人余りになり,ほかにも窓からのぞきこんでいた人たちもいました。これ以降,わたしたちはもっと表立って宣べ伝えるようになりました」。

1957年7月,ニューブリテン島のラバウルに会衆が設立されました。ラバウルは,二つの活火山に挟まれた美しい港町です。ラバウル会衆の集会は,特別開拓者が借りていた家の裏庭で開かれました。開拓者のノーム・シャレーンはこう言います。「聖書研究をするために,毎晩100人余りがその家にやって来ました。人々を20人ずつのグループに分け,木の下でランプの明かりを頼りに教えました」。

この会衆が初めて巡回大会を主催した時,近くの海岸で7人がバプテスマを受けました。そのうちの5人は間もなく開拓奉仕を始めました。その人たちが奉仕する最適な場所はどこでしょうか。オーストラリア支部からの回答で,マダンに行くことになったのです。

本島の北東部の町マダンは,収穫を待つ実り豊かな「畑」のようでした。(ヨハ 4:35)そこで働く少人数の奉仕者では,関心を持つ人たちを世話しきれないほどでした。カナダ人の開拓者マシュー・ポープが家族でこの町に移り,一軒家を購入します。その家の裏庭には寝泊まりできる小屋が幾つかあったので,開拓者をさらに派遣できるようになりました。

ラバウルからやって来た8人の開拓者は,マダン地区のあちこちで奉仕します。その一人タムル・マルングは自転車を手に入れ,船でマダンから約50㌔北にある故郷の村バスケンに行きます。そしてバスケンで伝道した後,道中で証言しながら自転車に乗ってマダンに戻りました。後に再びバスケンを訪れ,会衆を設立し,続く25年間開拓奉仕をしました。その間にタムルは結婚し,家族を持ちます。娘と別の親族は後にベテルで奉仕しました。

一方マダンでは,ジョン・デービソンと妻のリナがカリプ・カナイに会います。カリプは,バスケンとマダンの間の小さな村タリディグから来た教師でした。やがてデービソン夫妻はタリディグに出かけ,カリプおよび彼の親族と研究をするようになります。このことは,学校の査察官の怒りを買います。カトリックのその人は,警察に命令を出し,カリプと親族たちを家から立ち退かせます。しかし,その人たちはめげることなく,隣の村バギルディグに移りました。やがてその村に活発な会衆ができます。会衆の人たちは後に大きな王国会館を建て,それは大会でも使われました。現在マダン地区には七つの会衆と二つの群れがあります。

マダンで奉仕がなされる中,そこから南東210㌔にある海岸の大きな町ラエでも進展が見られました。そこで奉仕していたのは,ジム・ベアード,またジョン・エンドアと妻のマグダレンです。当時についてジョンはこう語ります。「わたしたちの家でほぼ毎晩,大勢の人と研究しました。6か月足らずで,10人の聖書研究生が奉仕に出るようになりました」。その年,ラエの映画館で行なわれた「躍進する新しい世の社会」という映画を見に1,200人以上がやって来ました。観客の多くは契約労働者で,郷里の遠隔の山村に帰る際に良いたよりを携えてゆきました。

ラエから内陸に入った土地でも,たくましい奉仕者たちが立派に働いていました。ワウで,大柄な丸顔の男性ジャック・アリフィーが,熱意にあふれてエホバに奉仕し,郷里に活発な会衆を設立しました。かつては食人種として恐れられたクククク族の30人ほどの人も聖書を研究し,霊的に良い進歩を遂げていました。

そのころ,近くのブロロでは,ウォリー・バスブリッジと妻のジョイが熱心に宣べ伝えていました。しかし,その活動はニュー・トライブス・ミッションという伝道団の怒りを買います。その地域は自分たちの管轄下にあると考えていたのです。この伝道団から圧力をかけられたウォリーの雇い主は,「宗教をやめるか別の仕事を探すかだな」と通告します。ウォリーとジョイはラエに移動して伝道を続けました。後に二人は全時間奉仕を始め,幾年か旅行する奉仕を行ないました。

ラエの南東に位置する小さな町ポポンデッタに良いたよりを伝えたのは,ジェローム・ホトタと妻のラビニアです。二人はポートモレスビーから自分たちの郷里の州に戻りました。ジェロームは意欲にあふれ,聖書を説得力のある仕方で用いました。一方ラビニアは,他の人に心から関心を払う優しい人でした。二人が証言を始めると,案の定,英国国教会の牧師と大勢の信徒が家に詰めかけ,活動をやめるよう求めてきました。それでもホトタ夫妻は怖じ気づいたりせずに伝道を続け,小さいながら熱心な会衆を設立しました。

1963年には,良いたよりはパプアニューギニア北部沿岸の田舎町ウェワクに伝わっていました。二人のドイツ人建築士カール・タイノルとオットー・エベルハルトが,日中はウェワク病院の建設に携わり,晩や週末には関心を持つ100人余りの人と研究をしたのです。このことに激怒した地元のカトリックの司祭は暴徒を集め,二人のオートバイを海に捨てさせました。司祭と共謀していた人の中に,村の著名な指導者がいました。その人の息子は後にエホバの証人になりました。息子が生活を改める様子に感心して態度を和らげ,その指導者は自分の管轄下にある村々で宣べ伝える許可をエホバの証人に与えました。

支部事務所が開設される

僧職者がエホバの証人の“脅威”に対抗していた間にも,兄弟たちは最も高いレベルで『良いたよりを法的に確立する』ための手段を講じました。(フィリ 1:7)こうして1960年5月25日,エホバの証人が多くの国で用いる法人である国際聖書研究者協会が政府に登録されたのです。これによって兄弟たちは,政府の土地を使用できるようになり,王国会館や王国の業を支援するうえで必要な他の施設を建設することが可能になりました。

同じ年に,ものみの塔協会の支部もパプアニューギニアに開設され,ジョン・カットフォースが支部の僕に任命されました。しかし,借りられる土地はほとんどありませんでした。どこに支部事務所を設置したらよいのでしょうか。

その答えは,この国にやって来た一組の夫婦を通して与えられました。それはジム・ドビンズと妻のフロレンスです。ジムは第二次世界大戦中アメリカ海軍に従軍し,パプアニューギニアに配属されていました。後にジムとフロレンスは真理を受け入れ,宣教奉仕を拡大することを目標にしました。ジムはこう語ります。「1958年,ポートモレスビーの兄弟がオハイオ州の我が家を訪れ,パプアニューギニアのスライドを見せてくれました。後に,兄弟が忘れていった1枚のスライドを見つけました。そこには見たことのないような美しい景色が写されていました。妻は,『兄弟に送ってあげましょう』と言いましたが,わたしは,『いや,僕たちが持って行くことにしよう』と答えました」。

1年後,ドビンズ夫妻は娘のシェリーとデボラと共に,ポートモレスビー郊外のシックス・マイルにあるコンクリートの小さな家に引っ越しました。それから間もなく,ジムはジョン・カットフォースと支部事務所をどこに置くかについて話を始めます。

「支部を設置できる場所がないかとポートモレスビーをあちこち探しましたが,見つかりませんでした」とジョンは嘆きます。

「だったら,わたしの家はどうでしょう。正面の三つの部屋を使ってください。わたしたちは後ろ側の部屋に住みます」とジムは答えます。

やがて物事が順調に運び,1960年9月1日,ドビンズ兄弟の家はパプアニューギニアで最初の支部事務所として登録されました。

エホバの証人の活動禁止を求める

こうした進展を反対者たちは快く思いませんでした。1960年以降,キリスト教世界の各教会と退役軍人会と地元メディアが結託し,エホバの証人を中傷して禁止に追い込むための活動に乗り出しました。

反対が激しさを増したのは,兄弟たちが特定の医師や僧職者や政府の役人に,輸血についての立場を説明したパンフレットを配布した時でした。やはり,真っ先に反応したのはキリスト教世界の僧職者でした。1960年8月30日付のサウス・パシフィック・ポスト紙は,「輸血の件で教会が憤慨」という見出しを掲げました。それに続く記事の中で,教会の指導者たちはエホバの証人を「反キリスト,教会の敵」と糾弾しました。

その後も新聞は事実無根の記事を載せ,エホバの証人は破壊活動を行ない,その教えが登校拒否,税の不払い,カーゴ・カルト,さらには不衛生をさえ助長していると書き立てました。また,エホバの証人は間近に迫った日食を利用して恐れを吹き込み,「原住民の思考を操っている」という虚偽の非難を行なった記事もあります。「村人と一緒に生活し,食事をし,働いている」として証人たちを責める社説も掲載されました。サウス・パシフィック・ポスト紙は,「人はみな平等である」と教えているとしてエホバの証人を批判し,その存在が「共産主義よりも大きな脅威となる」と唱えたのです。

1962年3月25日,退役軍人会はついに植民地当局に対し,エホバの証人の活動禁止を求めました。しかし,オーストラリア政府はこの要請を却下し,その旨を公示しました。ドン・フィールダーはこう述べています。「この知らせは,国じゅうに良い影響を及ぼしました。偏見を持たない人たちは,反対者たちの主張が事実に反することを見て取ったのです」。

ハイランドへ

その同じ月に,トム・キットウと妻のロウィーナはポートモレスビーを離れ,数週間におよぶきつい旅に出ました。二人は良いたよりを手つかずの区域であるニューギニア島の険しい高原地帯<ハイランド>へ携えて行きました。

その30年前,金を掘り当てようとするオーストラリア人たちがハイランドに入り,外の世界から全く隔絶された人々を発見しました。独自の文明を持ち,その数は100万人ほどでした。ハイランドの住人たちは白人を見て仰天し,先祖の霊がよみがえったのだと考えました。

金を探す人たちに続いてやって来たのがキリスト教世界の宣教師です。ロウィーナはこう言います。「宣教師たちはわたしたちが来ることを聞くと,話を聞かないよう村人に命じました。でも,それがかえって良い宣伝になりました。もともと好奇心に富むハイランドの人たちは,わたしたちが来るのを待ち構えていたのです」。

トムとロウィーナは,マウント・ハーゲンという町から北西80㌔のワバグに小さな店を出しました。トムはこう語ります。「僧職者は信徒たちに,わたしたちから何も買ってはいけない,何も売ってはいけない,話してもいけないと言い,土地の使用契約を取り消すよう圧力をかけることまでしました。それでもやがて村人たちは,わたしたちが他の白人とは異なることに気づきました。人々に親切に接したことが特に目に留まったようです。わたしたちが親切を示すと人々はよく涙を浮かべ,ぜひここにいてほしいと言いました」。

辛抱強く教えることが成果を生む

1963年以降,国外から大勢のエホバの証人がハイランドに移り,より広い地域で宣べ伝える業を行なうのを助けました。それらの兄弟姉妹は東から西へ徐々に進み,やがてその地方全体を訪れて奉仕し,多くの場所に群れや会衆を設立しました。

イースタン・ハイランド州ゴロカでは,少人数の会衆が最初は個人の家で集まっていました。後に兄弟たちは,ブッシュから切り出した材料で簡素な集会場を作りました。1967年には,40席ある魅力的な王国会館を建てました。ハイランドで10年奉仕したジョージ・コクセンは,こう回想しています。「王国会館が満員になるのはハルマゲドン前だろうと思っていましたが,とんだ見当違いでした。1年足らずで集会に大勢の人が出席し,二つ目の会衆を作らなければならないほどでした」。

もっと東のカイナンツ付近では,ノーム・シャレーンが50人余りの村人と聖書研究をしていました。毎日数人ずつ,ノームの小屋にやって来て研究したのです。後に開拓者のベルント・アンデルソンと妻のエルナがこの群れを2年半世話します。エルナはこう言います。「人々はめったに体を洗わず,服もほとんど身に着けません。文字が全く読めず,悪霊崇拝に縛られていました。それでも辛抱し愛をこめて助けたため,中には150もの聖句をそらで言い,説明できる人も出てきました」。

ベルントとエルナは群れの人たちと緊密な絆を築きました。エルナは言います。「わたしたちがカビエンに移動することになった時,女性たちに取り囲まれました。みな涙を流し,実際,泣き叫んでいました。ずっと涙を流したまま,かわるがわるわたしの腕や顔をさすりました。わたしは小屋に入っては泣き,その都度夫が女性たちを慰めようとしましたが,無理でした。やっと出発すると,車で山を下りるわたしたちのあとを大勢の人が駆け下りて付いて来て,女性たちは泣き叫んでいました。胸が締め付けられる思いをしたその日のことを話そうとすると,今でも目頭が熱くなります。愛するそれらの女性に新しい世で会えるのを心待ちにしています」。アンデルソン夫妻が去ったあとも他の開拓者たちが奉仕し,カイナンツに立派な会衆が設立されました。

まかれた王国の種が実を結ぶ

1970年代初め,ゴロカの約130㌔西のマウント・ハーゲンで少人数のエホバの証人の群れが活動していました。この町は,毎週大きなマーケットが開かれることで有名であり,周辺の地域から大勢の村人がそこに足を運びました。恐れずに奉仕する開拓者のドロシー・ライトは,「このマーケットでたくさんの文書を配布しました」と述べています。人々は村に戻る際に王国の音信も持ち帰り,奉仕者たちが行けないへんぴな場所にも音信が伝わりました。

後にドロシーの息子ジム・ライトと開拓奉仕のパートナーであるケリー・ケイスミスがバンズに割り当てられました。そこはマウント・ハーゲンの東に位置する,自然の美しいワギ・バレーにある地区で,茶やコーヒーが栽培されていました。この場所で二人は教会の伝道団からの厳しい反対に遭います。伝道団は子どもたちをたきつけて石を投げさせ,二人を村から追い出そうとしたのです。ケリーが割り当ての変更で別の土地に移った時,ジムはバンズにとどまり,独りで開拓奉仕を続けました。ジムはこう述懐しています。「夜,草葺きの小屋の中で眠れずに,『エホバ,なぜわたしはここにいるのですか』と祈ったものです」。その疑問の答えが出たのは何年も後のことでした。

ジムはこう続けます。「2007年,地域大会に出席するためオーストラリアからバンズに旅行しました。昔,自分の小屋があった場所の近くに,新しい立派な王国会館が建っていました。その会館は,拡張すると1,000人を収容できる大会ホールとしても使えるものです。その敷地に入ると,一人の兄弟がわたしのもとに駆け寄ってきて抱きつき,肩にすがって泣きはじめました。落ち着きを取り戻すと,ポール・タイというその兄弟は,36年前にわたしが研究した男性の息子であると話してくれました。ポールは後に父親の研究用の書籍を読んで真理を受け入れ,長老として奉仕しているとのことでした。

「その大会でわたしはインタビューを受け,バンズで早いころにどんな迫害に耐えたかを話しました。聴衆のほとんどは目に涙を浮かべていました。プログラムの後,幾人かの兄弟が近づいてきてわたしを抱擁し,涙ながらわびました。その人たちは子どものころ,わたしたちを村から追い払おうと石を投げ,悪態をついたとのことです。さらに,その中の一人で,今は長老のマンゲ・サムガーは,かつてはルター派の牧師で,子どもたちを唆していた人でした。その大会は,本当に素晴らしい再会となりました」。

へんぴな地域で種が芽を出す

パプアニューギニアではエホバの証人とじかに接触して真理を学んだ人が多いとはいえ,へんぴな地域に運ばれた真理の種を通して学んだ人たちもいます。(伝 11:6)一例として,1970年ごろ,存在しない会衆の,だれも知らないある人から,野外奉仕報告が支部に寄せられるようになりました。それはへんぴなセピック川流域の,知られていない村から寄せられたものでした。それで支部は巡回監督のマイク・フィッシャーに調査を依頼しました。

マイクはこう語ります。「村まで,エンジン付きのカヌーで10時間かけて,蚊の多いジャングルの中の狭い川を進んでゆきました。ついにその日の遅くに,なぞの差出人に会えました。それは,何年も前に別の地域で排斥された男性でした。その人は郷里の村に戻り,罪を悔い改め,他の人たちに宣べ伝え始めました。村の30人以上の大人が自分はエホバの証人であると言っており,その中にはバプテスマを受ける資格にかなう人たちもいました。その後まもなく,悔い改めていたその男性は復帰し,支部はその群れを正式に承認しました」。

1992年,別の巡回監督ダリル・ブライオンは,真理に関心を持つ人たちが内陸の遠隔の村にいるという話を聞きました。ダリルはこう語ります。「その村を目指して,内陸に車を80㌔走らせ,うっそうとしたジャングルの中を1時間半歩き,さらに1時間,川上に向けてカヌーをこぎました。驚いたことに,高い山に囲まれた川の岸に真新しい建物があり,『エホバの証人の王国会館』というサインが掲げられていたのです。

「そこでは毎週日曜日に25人ほどの関心を持つ人たちが集まって,『あなたは地上の楽園で永遠に生きられます』の本を研究していました。自分たちはエホバの証人だと言うので,ビンロウジを使うかどうか尋ねました。すると,『使いません。1年前,真理を受け入れた時にやめました』という答えが返ってきました。うれしいことに,支部はその群れを,わたしが訪問する巡回区に加えたのです」。

宣教者ブーム

1980年代と1990年代,パプアニューギニアの野外における活動に弾みがつきました。ギレアデで訓練を受けた宣教者,宣教訓練学校の卒業生,特別開拓者が何十人も,アメリカ,イギリス,オーストラリア,カナダ,スウェーデン,ドイツ,日本,ニュージーランド,フィリピン,フィンランドその他の国からやって来たのです。これはしばしば二重の意味で祝福となりました。それら熱心な福音宣明者のうちのある人たちは後に結婚し,やはり熱意にあふれる配偶者が加わったからです。

この国に来た人たちはたいてい二,三か月,トク・ピシン語かヒリモツ語のレッスンを受けます。生徒たちは,午前中は言語を学び,午後は奉仕に出て学んだ事柄を実践します。こうして生徒の多くは数か月で,聖書研究を意味ある仕方で司会し,講話を行なえるようになりました。

新たな言語を学ぶという経験は,生徒たちが読み書きのできない人を教える際に辛抱し感情移入するための助けともなりました。そのおかげで兄弟たちは,関心を持つ大勢の人に,神の言葉を読む際に必要とされる,基礎的な読み書きを教えることができました。(イザ 50:4)伝道者数も増えてゆきました。1989年は2,000人でしたが,1998年には約3,000人になり,わずか9年で50%増加したのです。

それらの福音宣明者の中には,健康上の,また他の理由でパプアニューギニアを離れなければならない人もいましたが,それでも良いものをあとに残しました。実際,その人たちが示した忠実さや愛は,今でも人々の記憶に懐かしく残っています。―ヘブ 6:10

建設が業の進展に寄与する

王国伝道者の数が増えるにつれ,王国会館や大会ホールの必要も増し,より大きな支部施設も必要になりました。それはどのように備えられたのでしょうか。

1975年まで,政府の国土省は周期的に,宗教的な用途のために新たな土地を取り分け,それを提供していました。関心を持つ教会は土地の使用を申請し,政府の任命した国土委員会に対して説明を行なうことになります。申請が認められたならその土地を無償で使うことができますが,相応の期間内に建物を建てなければなりませんでした。

1963年,キリスト教世界の僧職者が強硬に反対する中,国際聖書研究者協会はポートモレスビーの一等地を借りることができました。小高い丘にあるこの土地からは,コキ・マーケットと真っ青なサンゴ海の見事な眺望を楽しめました。後にこの敷地に,2階建ての支部事務所と王国会館が建てられました。後日,ポートモレスビーでさらに土地が提供され,サバマ,ホホラ,ゲレフ,ゴードンの各地区に王国会館が建てられました。

ゴードン地区の土地は,町の中心に近い見晴らしの良い場所にあり,当初は英国国教会の大聖堂の候補地として取り分けられていました。パプアニューギニアで25年奉仕したロン・フィンはこう説明します。「ところが,公聴会で国土委員会の委員長は,委員会としては英国国教会が土地をため込み,しばしば商業用に使っていることを快く思っていないと,その教会の聖職者に伝えました。そして,すでに与えた土地を本来の目的に沿って用いていることが確認できるまではさらに土地を提供するつもりはない,と言い添えました。

「それから委員長はわたしのほうを向いて,こちらの要望を尋ねました。第一希望はゴードンの“大聖堂”候補地であることをわたしは伝えました。英国国教会の聖職者は,やにわに立ち上がり異議を唱えましたが,委員長は強い口調で座るよう言いました。わたしは最後まで説明を続けました。居合わせたすべての人が驚いたことに,委員会はわたしたちの会衆にその土地を提供したのです」。

王国会館と4階建ての支部事務所がこの敷地に建てられました。新しい支部施設は1987年12月12日に献堂されました。以前の支部があったコキの敷地は売却されました。2005年から2010年にかけて,4階建ての宿舎棟と王国会館と翻訳の事務所が増築され,それらの建物は2010年5月29日に献堂されました。

現在,国内には89棟の王国会館に加え,ほかにも幾つかの集会場があります。田舎では今も多くの場合,集会場はブッシュから切り出した材料で作られます。しかし,大きな町では現在の一般的な建築資材が用いられています。そのような新しい会館は,資金の限られた国々における建設のための取り決めのもとで建てられ,パプアニューギニアでは1999年からその取り決めが実施されてきました。

困難に面しても業を続ける

パプアニューギニアで活動するさまざまな教会は,各伝道団の活動範囲を紳士協定によって定めていました。教会にはそれぞれの会派ごとの区域があり,他の会派はそこに入り込まないことになっていました。エホバの証人は言うまでもなく,人がどこに住んでいるかにかかわらず,聞こうとする人すべてに良いたよりを伝えます。この立場と,真理に耳を傾ける人々の好意的な反応が僧職者の怒りを買いました。

ノーム・シャレーンはこう語ります。「ウェスト・ニューブリテン州の小さな島,クルマラク島に引っ越した時,真っ先に訪ねてきた人の一人が英国国教会の牧師でした。『君にはわたしの教区で伝道する権利はない。住民はすでにクリスチャンになっているんだ』と言われました。

「後日のことです。大雨で海が荒れる中,わたしの聖書研究生が丸木舟を岸まで必死にこいで来るのが見えました。実際,そのような天候で海に出ることには命の危険があります。彼は舟を浜辺に引き上げ,息を切らしながら,教会の教師の率いるカトリック信者たちがわたしを襲いに舟で向かっていることを知らせてくれました。走って逃げられる場所などなかったので,エホバに知恵と力を祈り求めました。

「舟が着き,15人ほどの男たちが降りてきました。赤い顔料を顔に塗りつけており,わたしに危害を加えるつもりであることは明らかでした。彼らがやって来るのを待つ代わりに,こちらから出向くことにしました。その時点では,怖いという気持ちはもう消えていました。近づいて行くと,男たちはわたしを口汚くののしりました。こちらが挑発に乗れば自分たちも手を出せるともくろんでいたようですが,あくまでも平静を保ちました。

「その場には別の聖書研究生もいました。この島を実質的に所有する年配の男性です。その人はよかれと思って男たちに,『エホバの証人は戦わないぞ。この人を殴ってみれば分かる!』と言ったのです。

「『いったいどっちの味方なんだ?』と内心つぶやき,黙っていてほしいと思いました。

「しばらく冷静に話し合った後,男たちに帰ってもらえないだろうかと頼み,友好のしるしとしてリーダーに右手を差し伸べました。リーダーは戸惑いながら仲間を見回し,仲間もリーダーに視線を向けました。すると彼はわたしの手を取って握手してくれたのです。こうして緊張がほぐれ,全員と握手を交わしました。その後,男たちは立ち去り,わたしは胸をなで下ろしました。パウロがテモテに語った言葉を思い出しました。『主の奴隷は争う必要はありません。むしろ,すべての人に対して穏やかで,苦境のもとでも自分を制することが必要です』という言葉です」。―テモ二 2:24,25

ベルント・アンデルソンは,ハイランドのある村で起きたことについて述懐します。ある時,ルター派の牧師と70人ほどの男たちから成る暴徒がほかの村からやって来て,エホバの証人を追い出して王国会館を破壊しようとしました。ベルントは暴徒に会うため村の外れに行き,相手の出はなをくじきます。そして牧師に近づき,ルター派の伝道団が神の名をアヌトゥと呼ぶのはなぜか尋ねました。それはキリスト教世界の宣教師たちがその土地で用いている名です。牧師が,聖書に出ていると答えたので,ベルントは,どこにあるかと尋ねました。牧師は自分の聖書を開きましたが,いくら探してもそのような聖句は見つかりません。それでベルントは詩編 83編18節を読むよう勧めました。牧師はベルントに手を貸してもらって「詩編」を開き,その聖句を声に出して読み始めます。そしてエホバという名前に差しかかると,聖書を閉じて,「これはうそだ!」と声を上げました。もうあとの祭りです。不覚にも自分の聖書にけちをつけてしまったのです。この出来事の後,牧師の支持者の中でエホバの証人に対する態度を変えた人は少なくありませんでした。

時には,宗教上の反対者たちが,ブッシュの材料で建てた王国会館を焼いてしまうこともありました。これはミルネ・ベイ州のアギ村でも起きました。この事件にかかわった放火犯の一人は,犯行時に泥酔していて,あとになって自分のしたことを深く悔やみました。実際,この人は後に兄弟たちに近づいて聖書研究を始め,その後,開拓者になりました。さらに,建て直された王国会館の隣にある,開拓者のための家に住むようになりました。今では,自分がまさに放火したその場所で,新しい建物を管理しているのです。

現在では宗教上の迫害はおおむね収まっています。クレーグ・スピーグルは,「平和な時期に入っています」と言い,こうも続けます。「ですが,別の問題が起きています。それは暴力行為で,たいていはラスコルと呼ばれるギャングまた強盗によるものです。兄弟たちは危険な地区で証言する時にはグループで行動し,互いに相手が見える場所で奉仕します」。

「エホバの証人として知られていることは益になります」。こう述べるのは宣教者のエイドリアン・ライリーと妻のアンドレアです。エイドリアンはさらにこう言います。「買い物の時にも伝道中にも,文書を携えるのは賢明なことです。それによって身の安全が保証されるとは限りませんが,エホバの奉仕者としての立場が知られ,助けになることがあります。ある時,ラエの治安の悪い場所で車が故障してしまい,わたしは独りきりでした。程なくして,いかにも顔つきの悪い若者たちに囲まれました。しかし,そのうちの二人はわたしのことを覚えていました。少し前に,聖書について証言したことがあったからです。結果として,その二人がわたしをかばってくれました。そして若者たちは盗んだり危害を加えたりはせず,驚いたことに,故障した車を宣教者ホームまでの400㍍ほどの距離をずっと押してくれたのです。本当にほっとしました」。

別の折に,ある姉妹はマーケットにいた時,ナイフを持ったラスコルたちから小声で,「バッグをよこせ」と言われました。姉妹がすぐに渡すと,彼らは走って逃げました。ところが数分後に戻ってきて謝罪し,バッグを中身ごとそっくり返してきました。なぜでしょうか。バッグを開けた時に聖書と「論じる」の本があるのを見て,気がとがめたのです。

さまざまな仕方で宣べ伝える

エルシー・スーは夫のビルと共に,1958年から1966年までパプアニューギニアで奉仕しました。姉妹は当時を振り返ってこう語ります。「どこでも人がいれば宣べ伝えました。村や家や畑や市場で人々に話しかけ,ブッシュの道で会う人とも話しました。海岸や川岸で漁をしている人にも声をかけました。そのころ,孤立した区域で会う人々に,わたしたちがどこから来たかを示すため,世界地図を携えて行きました。それが必要だったのは,飛行機で村に入ると,外の世界を知らない村人たちは,わたしたちが天から下りてきたと思い込むことがあったからです。それで地図を見せ,相手と同じ世界の別の場所から来たことを示しました」。

パプアニューギニアでは,長い海岸線や多くの川岸に村が点在しています。そのような村には,舟やカヌーでしか行けません。スティーブン・ブランディはこう回想しています。「ポートモレスビーのハヌアバダ出身の年配の兄弟ダエラ・グバは,長年舟を操ってきました。兄弟の家の床下には,中身をくりぬいた丸太が2本ありました。わたしは開拓奉仕のパートナーと共に,必要なほかの木材を調達し,兄弟にプアプアと呼ばれる双胴船を作ってもらいました。帆はキャンバス地でした。船長はダエラ,そしてハヌアバダ出身の兄弟二,三人が船員でした。わたしたちはこの船で,ポートモレスビーの近くの海岸の村々によく出かけたものです」。

1960年代の終わりに,ベルント・アンデルソンはニューアイルランド島で奉仕していました。それは本島から650㌔ほど北東に位置する美しい島です。ベルントはこう書いています。「近くの小さな島々から人々がやって来て,訪問してほしいと言われました。しかしそのためには船が必要でした。毎月の少額の払戻金では,船を持つことなどとても無理に思えました。納屋には厚板が幾らかありましたが,船を作るにはとても足りませんでした。それでこのことをエホバへの祈りに含めました。すると突然,ラエに住むある兄弟から,外洋の島々を訪ねるために使ってほしいと200㌦が送られてきました。このお金で船を作ることができ,パイオニア号と名づけました。でもエンジンまでは付けられませんでした。やはり同じ兄弟が親切にも,小型の船外機を買うのに必要なお金を提供してくださいました。こうして,住民の呼びかけにこたえて,絵のように美しい島々を訪問できるようになったのです」。

1990年ごろ,巡回監督のジム・デービースは他の3人の兄弟と共に,インドネシアとの国境に近いフライ川上流の難民キャンプで証言を行なう計画を立てました。兄弟たちは,関心を持つ女性の夫で,難民キャンプの所長に次ぐ立場にある人に宿舎を手配してもらっていました。ジムはこう言います。「エンジン付きの丸木舟で2時間近くかけてフライ川をさかのぼりました。午前9時ごろ,ジャングルの中の木が切り払われた場所に到着しました。そこからは舗装されていない道路があり,それは遠方のキャンプに通じていました。迎えの車が来るのをその場所で待ちました。

「午後5時,ようやく車がやって来ました。荷物を積んで乗り込み,100㍍ほど進んだところでステアリング装置が故障したのです。運転手は少しも慌てずに故障箇所を特定し,柵に使われる針金を見つけて車の下に潜り,切り離された部品をつなぎました。『それではうまくいかないだろう』と思いましたが,それは間違いでした。針金は切れず,5時間にわたり,悪路をずっと四輪駆動で走行していたのに持ちました。実際,泥にはまって何度も車を押さなければなりませんでした。晩の10時に,疲れて泥だらけの状態でキャンプに到着しました。

「わたしたちはキャンプ内で3日にわたって証言しました。キャンプはジャングルの広い範囲に散らばっており,文書をすべて配布しました。さらに,排斥された男性にも会い,その人はエホバのもとに戻りたいという願いを言い表わしました。後にこの人が復帰したことを知り,とてもうれしく思いました。今では,その人の妻と子どもの幾人かも真理のうちにいます。また,関心を持つ女性と,親切にも宿舎を提供した夫も真理を受け入れました」。

セピック川沿いの巡回奉仕

全長1,100㌔に及ぶセピック川は,ハイランドから海に注いでおり,曲がりくねった茶色い大蛇のようです。場所によっては川幅が広くなり,対岸が見えないほどです。重要な交通路となるこの川を兄弟たちはよく利用し,旅行する監督とその妻も例外ではありません。この大河沿いにある幾つかの会衆を訪問する巡回監督夫妻に同行してみましょう。

ウォーレン・レイノルズはこう書いています。「早朝,妻のリーンとわたしはウェワクの町を出発しました。車の屋根の上には3.5㍍のアルミ製小型ボートを積んでいます。3時間にわたって,ほぼずっと四輪駆動で走行した後,川沿いに数日間車を停めておきます。これから上流に向かい,セピック川の支流沿いにある四つの村に住む,30人ほどの奉仕者のもとを訪ねます。

「平底のボートに荷物を移してから,25馬力の船外機を始動させて上流に向かいます。1時間後,セピック川の支流であるユアト川に入ります。そしてさらに2時間進むと,ビワト村に到着します。ここで兄弟たちや聖書研究生から温かい歓迎を受け,その幾人かがボートを岸に引き上げて家の中に保管してくれました。プランテーンとココナツミルクの食事をいただいた後,さらに2時間,ジャングルの湿地の中を歩きます。地元の奉仕者たちが道を案内し,荷物を持ってくれました。ようやくディミリという小さな村に着きます。ココナツミルクでのどの渇きをいやし,高床式の小屋の中に蚊帳を吊って寝床を用意します。調理されたヤムイモの夕食を取ってから床に就きます。

「この地区の三つの村に14人の奉仕者が住んでいます。続く数日間はそれぞれの村で証言し,関心を持つ人を大勢見つけます。また喜ばしいことに,二人の聖書研究生が正式に結婚し,王国伝道者として承認されました。他の奉仕者たちは祝いのための簡単な食事を用意し,ヤムイモ,サゴ,野草,ニワトリ2羽が供されます。

「日曜日に93人もの村人が公開講演に出席したのは大きな喜びでした。集会後,リュックに荷物を詰め,真昼の太陽が照りつける中ビワトに戻ります。そして荷物を聖書研究生の家に預けて証言を始めます。数人が文書を受け取り,聖書研究の勧めに応じた人もいます。その晩,研究生の家で,火を囲んで食事をします。蚊よけのための煙もたかれています。

「翌朝早く,小型ボートを預けた家に戻ってボートを川に浮かべ,朝もやの中を出発します。野鳥や,水しぶきを上げる魚に目を奪われます。竹のいかだに乗る家族と時々すれ違います。静かに進むいかだには,地元の市場で売る品物が積まれています。

「車に戻って,ボートに燃料を給油し,飲み水や他の物資を補給します。そして再び川の旅を続けます。今度はカンボットに住む14人の奉仕者を訪ねます。2時間後に到着しますが,熱帯の豪雨に降られてずぶぬれです。カンボットからは,さらに上流に向かいます。ボートに乗れるだけ奉仕者を乗せて,川の両岸に広がる大きな村に行きます。喜んで話を聞く人たちに,午後遅くまで証言を続けます。帰路には,竹で作られた浮き桟橋に立つ人々に証言します。午前に川上に向かうわたしたちの姿を見て,戻るのを待っていたのです。へんぴなこの土地ではお金がほとんど流通していないため,村人たちはわたしたちの訪問と出版物に対する感謝を,ココナツ,カボチャ,魚の薫製,バナナなど食べ物の寄付によって表わします。日が沈むころには,カンボットでそれらの食べ物を調理していました。

「カンボットでは,集会場も周囲の他の家と同様,高床式です。その辺り一帯が冠水する雨季には,人々は集会場の入口までカヌーで乗り付けます。訪問の結びは,72人が出席した公開講演です。中には5時間も歩いて来た人たちがいました。

「巡回奉仕用の車に戻り,屋根にボートを積んで,3時間の道のりを帰ります。車を走らせながら,セピック川沿いに住む愛する兄弟姉妹のことを思い起こしました。また,エホバがその人々をいかに愛しておられるかについても考えました。だからこそエホバの組織はそれらの人が霊的に十分に養われるよう取り計らっているのです。このような素晴らしい家族の一員でいられるのは,本当に特権です」。

邪悪な霊たちと格闘する

パプアニューギニアでは人口の大多数がクリスチャンととなえますが,人々の間に伝統的な信仰も根強く残っています。それには先祖崇拝や,邪悪な霊たちを恐れてなだめることが含まれます。あるガイドブックは,近年「黒魔術や呪術が再び盛んになっている」と伝えています。そのため人々は,病気や死をしばしば呪医や先祖の霊によるものと考えます。

こうした環境の中で,聖書の真理は人々に真の解放をもたらしています。実際,呪医の中にも神の言葉の持つ力を認めてそれまでの習わしを捨て,真の崇拝を受け入れた人たちがいます。二つの例を挙げましょう。

ソアレ・マイガはポートモレスビーから50㌔ほど離れた村に住み,持っていた力のゆえにとても恐れられていました。しかしエホバの証人の信条に興味を持ち,グループで行なう聖書研究に出席し始めました。やがてソアレは真理を受け入れ,以前の生き方をやめました。ところが,心霊術の物品を処分しようとした時,不思議なことに,捨てたはずのものがその都度戻って来たのです。それでもソアレは『悪魔に立ち向かう』決意を固めていました。(ヤコ 4:7)ある日,すべての物品を一つの袋に入れ,おもしとなる石を袋に結わえつけ,ポートモレスビーの沖から海に投じました。このたびは,物品は戻って来ませんでした。勇気あるソアレはそれ以後,真の神エホバの熱心な証人となりました。

コラ・レケは呪術と薬草療法を用いて病人を治療していました。しかし,聖書を学ぶようになると,魔術を行なう力を与えてくれた霊者から逃れるために苦闘しなければなりませんでした。コラもソアレと同様,悪霊とのかかわりを断つことを決意し,エホバの助けによってそうできました。後には正規開拓者として,さらに特別開拓者として奉仕しました。高齢になって脚力が衰えてからも,この忠節な兄弟は隣人に良いたよりを伝え続けたのです。

コラは,証言のためのお気に入りの場所までどのようにして行ったのでしょうか。兄弟たちが押す猫車に乗せてもらうという,とても合理的な方法で移動したのです。後に,支部で働くアイデアに富む兄弟が親切にも,普通のいすの金属の枠と自転車のタイヤ,それに座面に使えるキャンバス地を用いて車いすを作りました。コラは,この新たな移動手段によってもっと自由がきくようになり,それを最大限に活用しました。こうした高齢者の手本は大きな励みを与えます。エホバもその人々のことを喜んでおられるに違いありません。―箴 27:11

人々に読み書きを教える

ローマ 15章4節には,「以前に書かれた事柄は皆わたしたちの教えのために書かれた」とあります。明らかに神は,ご自分の民が文字を読めることを望んでおられます。そのため,すでに触れたとおり,パプアニューギニアのエホバの証人は,人々に読み書きを教えるために多くの努力を払ってきました。

もちろん,読み書きを学ぶのは簡単ではありません。年配の人にとってはなおさらです。それでも進んで学ぶ意欲があるなら,たいていは習得できます。神の言葉は確かに,つつましい無学な人々にも強い影響を与えるのです。

セピック川源流域から来た青年サベ・ナンペンの例を挙げましょう。サベはラエに引っ越して初めて西洋の生活を目の当たりにし,カルチャーショックを受けました。それに加え,エホバの証人に出会い,王国の希望について聞きました。サベは心を動かされてクリスチャンの集会に出席し始め,程なくしてバプテスマを受けていない伝道者になりました。しかし,次の段階であるバプテスマを受けることはためらっていました。なぜでしょうか。自分で聖書を読めるようになったらバプテスマを受けるとエホバに約束したからです。それでサベは一生懸命に学んで霊的な目標を達成しました。

非識字は今も広く見られますが,幾つかの地区では学校が新設され,エホバの証人の子どももそれらの学校に通っています。実際,エホバの証人の若者たちは多くの場合,識字教育の有効性を示すよい例となっています。その成果は,親の良い教えや,神権宣教学校など会衆の集会で与えられる訓練に負うところが少なくありません。

聖書の真理が生き方を変革させる

使徒パウロはこう書きました。「わたしたちの戦いの武器は肉的なものではなく,強固に守り固めたものを覆すため神によって強力にされたものなのです」。(コリ二 10:4)時には一つの聖句が強い影響を与えることがあります。エルフレダという女性の場合がそうでした。エルフレダはウェダウ語の聖書から神の名を示されると,百科事典を調べ,神の名について聖書に記されている事柄の正しさを知りました。『エホバの証人は真理を教えている』と感じました。しかし夫のアーミテッジは,エホバの証人とはかかわりを持ちたくありませんでした。酒に酔い,ビンロウジをかみ,タバコを吸い,しかもすぐかっとなる人だったのです。

ラエで働いていたアーミテッジは退職後,エルフレダと共にミルネ・ベイ州アロタウに引っ越しました。そこにはエホバの証人がいませんでした。当時エルフレダは「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を予約し,開拓者のケイリーン・ニルセンと手紙で研究していました。「エルフレダは毎週,答えを書いてきちんと送ってきました」とケイリーンは言います。

後にギレアデを卒業したジョーディー・ライルと妻のジョアンはミルネ・ベイ州に割り当てられ,エルフレダを訪ねました。彼女を励まし,共に宣教奉仕を行なうためです。ジョーディーはこう述懐しています。「アーミテッジから聖書を研究したいと言われました。評判を聞いていただけに真意を量りかねましたが,研究を1か月行なって,誠実に学ぼうとしていることが分かりました。後にはバプテスマを受け,やがて奉仕の僕になりました」。今では3世代が真理のうちにおり,前出のケガワレ・ビヤマは彼の孫であり,ポートモレスビーで支部委員会の成員として奉仕しています。

ドン・フィールダーと妻のシャーリーは,フラで開拓奉仕をしていた時,アロギ・パラと妻のレナギとの聖書研究を始めました。ドンはこう書いています。「アロギは泥棒で,いつもけんかばかりしていました。熱帯病で皮膚が冒され外見が醜くなり,熱帯性の潰瘍で口の一部が崩れていました。夫婦ともにビンロウジをかんでいたので,歯が黒くなり,歯と歯の間はよく真っ赤に染まっていました。アロギが真理に引き寄せられることなどないと思っていましたが,妻ともども真理に関心を示して集会に出席するようになり,後ろのほうで静かに座っていました」。

ドンはこう続けます。「6か月でアロギは目をみはるような変革を遂げました。盗みやけんかや口論をやめ,妻とともに体を汚す習慣から自分を清め,集会で注解するようになりました。また,他の人に良いたよりを伝えるようにもなりました。実際,この夫婦と他の幾人かはフラで最初に伝道者になった人たちです」。

ニューアイルランド島に住むアベル・ワラクは,ハンセン病を患い,手足の感覚がまひしていました。アベルは初めて真理について聞いた時,ほとんど歩くことができず,生きる意欲も失っていました。しかし,真理によって態度や見方が大きく変わり,喜びや活力がわくようになりました。アベルはやがて開拓奉仕を始めることさえしたのです。栄養の不足を補うために以前は魚を取っていましたが,足の感覚がまひして,岩礁の上を歩けなくなってしまいました。兄弟たちはアベルに,ひざまで届く長靴を買ってあげました。アベルはまた,自転車に乗ることを覚え,もっと遠くまで良いたよりを伝えに行けるようになりました。実際,関心を持つ人を訪ねるために100㌔の道のりを自転車で行くこともありました。ある時には,関心を示した人を記念式に招待するため,自転車で片道140㌔余りの距離を行ったのです。

「エホバについての知識」により,獣のような性向を持つ人が大きな変化を遂げることもあります。(イザ 11:6,9)例えば1986年のこと,ラエの地域大会で,バンズの近くにある二つの村から60人余りが列をなして会場に入り,前方の席に座りました。ハイランドに住むこれらの人は,昔からの敵同士で,しばしば互いに戦っていました。しかし,特別開拓者から良いたよりを聞いた後,平和を保って生活することにしたのです。こうした経験を聞くと,ゼカリヤ 4章6節の言葉が思い浮かびます。そこには,「『軍勢によらず,力にもよらず,ただわたしの霊による』と,万軍のエホバは言った」とあります。この同じ霊に促され,多くの誠実な人々は自分を聖書の道徳規準に合わせてきました。

結婚という神からの賜物に敬意を払う

国によっては,土地の習慣もキリスト教世界の教会も結婚に関する聖書の見方を気に留めないという場合が少なくありません。(マタ 19:5。ロマ 13:1)パプアニューギニアでもそのような状況が見られます。エホバに喜んでいただけるように,同棲している人や一夫多妻の関係にある人は生活を大きく変えてきました。フランシスと妻のクリスティーンの例を考えてみましょう。

フランシスは軍隊を退役した時に妻と別居しました。妻と二人の子どもは,ミルネ・ベイ州グッドイナフ島にある妻の出身地の村に帰り,フランシスはマウント・ハーゲンに戻りました。その土地でフランシスはやがて,子どものいる別の女性と暮らし始めました。その女性と子どもたちはアセンブリーズ・オブ・ゴッド教会に通っていました。そのうち,彼女はエホバの証人に会い,聖書研究を始めます。後にフランシスも関心を持ち,程なくしてその女性と共にクリスチャンの集会に出席するようになりました。

フランシスは王国伝道者になることを希望しましたが,そのためには結婚に関する状況を正す必要がありました。この件について祈りのうちによく考え,同棲相手と話し合いました。その結果,彼女と子どもたちは別の家に引っ越しました。フランシスは,別れてから6年ぶりにクリスティーンに会いに行きました。クリスティーンとその親族がフランシスを見てとても驚いたのは言うまでもありません。フランシスは皆の前で,聖書を用いて誠実に,エホバの目に正しいことを行ないたいと願っていることを説明しました。そして妻に,子どもと共にマウント・ハーゲンに来て,再び家族として生活してくれないかと頼みました。このように態度を変化させたことは,だれにとっても驚きでした。クリスティーンは夫の申し出に応じました。フランシスもそれまで6年間家族を顧みてくれたことに対して,妻の親族に相応の支払いをしました。

クリスティーンもマウント・ハーゲンに来てから聖書研究を始めました。そのためには,読み方を学ぶ必要もありました。それとともに,ビンロウジとたばこをやめました。今ではこの夫婦はエホバに献身した僕となっています。

創造者を敬う子どもたち

パプアニューギニアでは,多くの子どもたちも勇気を示し,聖書によって訓練された良心の声に従っており,そのことはりっぱな証言となっています。一例として,1966年の初めに,ある小学校教諭が地元のエホバの証人の児童7人に対し,翌週に行なわれる儀式で国旗に敬礼するようにと言いました。式の際に7人全員は,集まった約300人の児童の前で敬礼を拒みました。結果として7人は放校されました。親が事前に,儀式への参加を免除してほしいと書面で求めていたにもかかわらず,そうした措置が取られたのです。その件について地元の会衆の長老が,パプアニューギニアとオーストラリア両政府の役人に訴えを起こしました。

3月23日,パプアニューギニアのオーストラリア人行政官が学校側に電話で,児童たちを直ちに復学させるよう指示しました。真の崇拝が,小さいながらも法的な勝利を得たのです。今日,パプアニューギニア政府は引き続き,子どもたちが良心上の理由で国旗敬礼を拒む権利を尊重しています。

「みどりごや乳飲み子」は他の形でもエホバを賛美することができます。(マタ 21:16)ハイランドに住むナオミの例を挙げましょう。両親のジョーとヘレンは真理のうちにいませんでした。ナオミは3歳ぐらいの時,ラエに住むヘレンの姉の家に1年ほど預けられました。その姉は熱心なエホバの証人で,定期的にナオミを連れて伝道に出かけ,肩から下げた袋の中によくナオミを入れていました。こうしてナオミは王国の希望に親しむようになりました。このおばが「わたしの聖書物語の本」の挿絵をよく使ったことが効果を上げたのです。

ナオミは親元に戻されると,エホバの証人の出版物を持ち,家の外に出てドアを強くノックしました。親たちは,「おうちに入りなさい」と言いました。小さなナオミは家に入るとこう言いました。「こんにちは。わたしはエホバの証人です。聖書のお話をしに来ました」。ジョーとヘレンが驚いて見つめると,ナオミはこう続けました。「聖書は,地上が楽園になると言っています。そしてひとりの王,イエスがわたしたちを治めます。わたしたちの周りにあるものはみんなエホバがつくりました」。

ジョーとヘレンはあぜんとしました。ジョーは強い調子でヘレンにこう言いました。「近所に知られたらたいへんだ。明日は,この子を外に出さないでくれ」。

翌日,二人が家の外で座っていると,ナオミが部屋の壁を強くたたきました。ジョーは,「出ておいで」と言いました。するとナオミが現われ,別の証言を始めます。「こんにちは。わたしはエホバの証人です。伝道しに来ました。良い人は地上でずっと生きます。でも,おこって悪いことをする人は楽園に入れません」。ヘレンはすっかり困り果てて泣き出し,ジョーは機嫌を損ねて寝室に入ってしまいました。

その晩,ジョーは好奇心に駆られ,古い「ジェームズ王欽定訳」をぱらぱらめくり,エホバという名を偶然目にしました。翌朝,ジョーは仕事に行く代わりに,エホバの証人に手紙を書き,マウント・ハーゲンまで40㌔車を走らせ,手紙を王国会館に置いてきました。

兄弟たちはジョーとヘレンの家を訪ね,定期的な聖書研究を取り決めました。またヘレンに読み方を教えました。やがて二人ともバプテスマを受け,ヘレンは他の聖書研究生たちに読み方を教えるまでになりました。このすべては,幼い女の子が心からエホバを賛美したいと思ったことの結果です。

クリスチャンの集まりに出席するための努力

世界のある場所で兄弟たちは,クリスチャンの集会や大会に出席するために,空気の汚れた渋滞する道路や込み合う地下鉄を使わなければなりません。しかしパプアニューギニアでは,問題となるのはたいてい,きちんとした道路や輸送手段が整備されていないことです。そのため,多くの家族は少なくとも幾らかの距離を徒歩やカヌーで移動せざるを得ません。例えば,奉仕者たちは子どもを連れて,毎年ポートモレスビーで開かれる地域大会に出席するため,険しく切り立った山を越える滑りやすい道を160㌔以上歩いています。1週間におよぶこのきつい旅は,世に知られたココダ・トレールを進むものです。それは第二次世界大戦中に激しい戦闘の舞台となった場所です。奉仕者たちは食料や調理器具や衣類,それに大会で必要な他の品も持って行きます。

孤立したヌクマヌ環礁に住む兄弟たちは毎年たいてい,800㌔西のラバウルで開かれる地域大会に出席します。ジム・デービースはこう言います。「船の運行が当てにならないため,大会に確実に間に合うよう6週間前に出発することもあります。帰りの旅も,やはり当てになりません。ある時など,ヌクマヌに向かう唯一の船が途中で修理のためオーストラリアに立ち寄り,しかも船の所有者の資金繰りがうまくいかなくなりました。そのため兄弟たちは家に戻るのに6か月以上かかったのです。確かにこれは極端な例ですが,数週間の遅れはざらで,足止めされた奉仕者たちは仲間のエホバの証人や親族の家に泊めてもらうしかありません」。

宣教者たちのりっぱな手本

宣教者にとって,母国よりも生活水準の低い外国の地で奉仕するには,大きな調整が求められます。とはいえ,そうした調整を行なうことは可能であり,現に多くの人がそうしてきました。そのような努力はしばしば地元の人々の目に留まります。パプアニューギニアのある女性は,自分と研究してくれた二人の宣教者の姉妹について,「肌の色は白いけど,わたしたちと同じ心を持っている」と言いました。

宣教者の中には旅行する奉仕に携わる人もいます。会衆を訪問するために交通手段を選べないこともあります。エドガー・マンゴマの場合がそうで,兄弟が奉仕する巡回区にはフライ川やマレー湖が含まれます。兄弟はこう言います。「湖畔の二つの会衆を訪問する時には,カヌーで行きました。エンジン付きのこともあれば,そうでないこともあります。エンジンが付いていないと,会衆間の移動に8時間はかかります。たいていは三,四人の兄弟が同行してカヌーをこいでくれます。兄弟たちは,わたしを降ろしてから,また同じ距離をこいで戻らなければならないのです。本当にありがたく思いました」。

宣教者のりっぱな手本,また謙遜さや人々への愛は大きな証言となります。ある巡回監督はこう書いています。「村人たちは,関心を持つ人の家にわたしが泊まり,共に食事をするのを見てとても驚きました。実際,地元の人たちからこう言われました。『あなたたちが行なっている神の崇拝は本物です。うちの牧師は,あなたがするようにわたしたちと交流したりはしません』」。

外国から来た姉妹にとって,パプアニューギニアでの生活に順応することはたいへんではないでしょうか。ルース・ボーランドは夫のデービッドと共に旅行する奉仕を行ないました。姉妹はこう言います。「最初の数か月は,とてもたいへんでした。もうやっていけないと思ったことが何度もあります。でも,やめなくて良かったと思います。兄弟や姉妹の良さが分かり,愛するようになったからです。夫もわたしもそれまで以上に,自分たちよりも他の人たちのことをもっと考えるようになりました。実のところ,何にも代え難い喜びを味わうようになったのです。物質面では何もありませんでしたが,霊的にはとても豊かでした。いろいろな物事にエホバのみ手が働くのを目にしました。良いたよりの進展に関連してだけでなく,わたしたち自身の生活においてもそうです。物質面で何もないと,本当の意味でエホバに頼り,エホバの祝福を経験できます」。

ブーゲンビル島での内戦

1989年,ブーゲンビル島で,長年くすぶっていた分離独立の動きがついに全面的な内戦に発展しました。12年におよぶ戦争中に,1万5,000人が死亡し,約6万人が避難民となりました。避難民となった人の中には大勢の奉仕者が含まれ,その多くはパプアニューギニアの他の地域に移り住みました。

開拓者のダン・アーネストは,島を離れる少し前にブーゲンビル革命軍の兵士に拘束され,大きな倉庫に連れて行かれました。ダンは当時のことをこう述べます。「中には革命軍の将軍がいました。勲章がたくさん付いた軍服を身に着け,横に剣が置かれていました。

「将軍はこう尋ねました。『おまえがダン・アーネストか』。

「『そうです』。

「『おまえはパプアニューギニア国防軍のスパイだと聞いている』。

「そう言われたので,エホバの証人はどの国の紛争にもかかわらないことを説明し始めました。すると,将軍は話をさえぎり,こう言いました。『分かっている。我々は見ていた。他の宗教は形勢が有利な側を支持するが,ずっと中立を守ったのは君たちの宗教だけだ』。そしてさらにこう続けました。『この戦争によって島民は疲弊し,慰めを与える君たちの音信が是非とも必要だ。ここブーゲンビルに残って伝道を続けてほしい。しかし,島を出ることになれば,持ち物をすべて無事に持ち出せるようわたしが手配しよう』。2週間後,妻とわたしは新たにマヌス島で開拓奉仕をするよう割り当てられ,将軍は約束どおりにしてくれました」。

支部は,戦争の影響を受けた地域に住む奉仕者たちと連絡を取るよう懸命に努めました。そして海上封鎖が行なわれていたにもかかわらず,食料や医薬品や文書を送ることができました。現地を訪れた巡回監督はこう報告しました。「戦争の被害は広範に及んでいますが,兄弟姉妹は引き続き宣べ伝える業に励み,集会を開いています。聖書研究もたくさん司会されています」。

2001年,戦争の当事者はようやく和平合意を結び,ブーゲンビル島と近くの島々は自治地域となりました。現在ブーゲンビル島に住むエホバの証人はいませんが,近くのブカ島には39人の奉仕者から成る会衆があります。

火山によってラバウルが壊滅する

ラバウル市には大きな湾がありますが,それは実際には大昔の火山噴火によって生じたカルデラです。1994年9月,湾の両側に位置する火山が噴火してラバウルは壊滅し,その州に住む人々の生活は大きく変わりました。王国会館とその敷地内にあった宣教者ホームは破壊されましたが,兄弟たちの間に死者はいませんでした。しかし,心臓病を患っていた一人の兄弟は,避難する途中で亡くなりました。兄弟たちは全員,何キロも先の,事前に指定されていた場所に向かいました。それまで数年にわたり,王国会館の掲示板には災害時の避難計画が張られており,兄弟たちはその指示に従ったのです。

支部は直ちに,被災者を援助し救援物資を送るための取り決めを設けました。寄付された衣類,蚊帳,医薬品,ガソリン,軽油その他の品と,近くの会衆から提供された米やタロイモが送られました。実のところ,救援活動がスムーズに行なわれたため,地元の当局や他の人々から多くの好意的な言葉が寄せられたほどです。

やがてラバウル会衆はなくなります。噴火から2日後のこと,70人ほどの奉仕者とその子どもたちは廃校となっていた職業訓練校に集まりました。長老たちが来ると奉仕者たちは,「書籍研究は何時に始まりますか」と尋ねました。苦境のもとでも,集会への出席や証しの業をおろそかにはしなかったのです。(ヘブ 10:24,25)ほとんどの兄弟たちは,近くの幾つかの群れに移り,結果として群れの一つは会衆になりました。

州政府は,土地を失ったすべての宗教団体に対して,ラバウルから24㌔離れたココポという町の土地を提供することを約束しました。ところが,他の宗教団体は土地を提供されたのに,エホバの証人には提供されませんでした。噴火から7年ほど後,アフリカから来た兄弟が町の計画課で働き始めました。兄弟は,エホバの証人が差別されていたことを知り,すぐにココポのふさわしい土地を見つけ,兄弟たちが申請を行なえるように助けました。その申請は承認されました。建設奉仕者のチームが王国会館と宣教者ホームを建てました。実のところ,当初の不公正な扱いは祝福となりました。なぜでしょうか。各教会に最初に提供された土地は急な丘の上にありました。しかし,兄弟たちに提供された土地は町の中心部の理想的な場所にあったのです。

翻訳における進展

支部委員会の成員で,翻訳部門の監督であるティモ・ラジャレトはこう言います。「800以上の言語があるこの国では,互いに意思を通わせるために一つもしくはそれ以上の共通語がどうしても必要です。簡単な通商語であるトク・ピシン語やヒリモツ語は,その点でうってつけの言語です。第二言語として比較的容易に習得でき,日常の物事について十分に意思を通わせることができます。しかし,込み入った概念を伝えるのには向いていません。そのため,翻訳者たちは特定の語をどう訳すかという点でしばしば苦労します。

「例えば,トク・ピシン語には,『原則』に相当するふさわしい語がないことが分かりました。そのため翻訳者たちは,トク・ピシン語の二つの単語を組み合わせて,『スティアトク』という造語を考案しました。これは,原則が人を正しい歩みへと導くことを描写したものです。この語はメディアの知るところとなり,今ではトク・ピシン語を話す一般の人たちの間でも用いられています」。

「ものみの塔」誌はモツ語で1958年から,トク・ピシン語では1960年から発行されています。研究記事はオーストラリアのシドニーで枚葉紙に印刷し,ホチキスで止めてポートモレスビーに発送されていました。1970年には,「ものみの塔」誌は24ページになり,発行部数も3,500部を超えました。「目ざめよ!」誌の24ページの版は,1972年1月に初めてトク・ピシン語で発行されました。現在支部は,トク・ピシン語では月2回発行の「ものみの塔」誌と年4回発行の「目ざめよ!」誌を,さらにヒリモツ語では月1回発行の「ものみの塔」誌の研究用の版と,年4回発行の一般用の版を準備しています。

ティモ・ラジャレトはさらにこう言います。「最近,何種類かのパンフレットをエンガ語,オロカイバ語,クアヌア語,ジワカ語,メルパ語を含む幾つかの新たな言語に翻訳しました。これらの言語を話す人は,トク・ピシン語か英語,あるいはその両方を話せるのに,なぜ翻訳したのでしょうか。人々が母語で王国の音信に接してどう反応するかを見たかったからです。真理に関心を持ち,エホバの証人に良い印象を持つためのきっかけとなるでしょうか。

「確かに,なりました。実際,一般の人から多くの好意的な言葉が寄せられました。聖書研究が始まり,かつての反対者の中にもエホバの証人に対する態度を変化させた人がいます。母語の出版物は人々に強いインパクトを与えるのです」。

現在,翻訳部門では31人が奉仕し,ヒリモツ語とトク・ピシン語のチームもその中に含まれています。2009年12月には,新しい事務所に引っ越し,みなとても喜びました。

開拓奉仕学校は多くの人に益を与える

エホバの僕の多くにとって,開拓奉仕学校への出席はとても印象深い出来事となります。この学校によって開拓者は霊的に成長するための助けを得るだけでなく,開拓者としてより効果的に働くための備えができます。学校に出席した人たちの言葉を紹介しましょう。

ルーシー・コイム: 「この学校に出席して,全時間奉仕は自分の人生で行なえる非常に価値の高い事柄であるということを認識できました」。

マイケル・カラプ: 「出席する前は,再訪問を多く行なっていましたが,聖書研究は持っていませんでした。今では多くの研究を司会しています」。

ベン・クナ: 「この学校から,エホバの考え方にいっそう倣うよう教えられました」。

サイフォン・ポポ: 「これまでの人生でこんなに勉強したことはありませんでした。そして研究はじっくり行なうべきである,ということも学びました」。

ジュリー・カイネ: 「この学校から,物質的なものについて正しい見方を持つべきであることを学びました。人々が言うほど多くの物は必要ではないのです」。

支部委員会の成員ダン・バークスはこう述べています。「開拓者は産出的な奉仕ができると,いっそう幸福に,また熱心になります。開拓奉仕学校が今後もこの国の何百人もの開拓者に益をもたらすことを確信しています。その益はもちろん,他の伝道者や区域に住む関心を持つ人々にも及んでゆくことでしょう」。

愛のうちに共に成長する

イエス・キリストは,「あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです」と言われました。(ヨハ 13:35)パプアニューギニアでは,クリスチャンの愛がさまざまな隔たりを埋めてきました。言語の違い,人種の多様性,部族ごとの文化,経済的な格差などです。心の正直な人は,そのような愛を目にすると感銘を受け,「神はあなた方と共におられる」と言うようになります。

前に出てきたマンゲ・サムガーも,そのような気持ちになった人の一人です。バンズ出身のマンゲは,バスのオーナーで,ルター派の牧師でした。なぜそのような結論に至ったのでしょうか。地元の会衆は,ラエで行なわれる地域大会に出席するため,マンゲのバスを1台借りました。バスが会場に到着した時にその大会に出ていたスティーブ・ダワルと妻のキャスリンはこう説明します。「マンゲはエホバの証人に興味を持ち,そのバスに一緒に乗って来ました。そしてエホバの民が物事をきちんと組織し,人種や部族が違っても一致していることに強い感銘を受けたのです。エホバの証人の貸し切りバスで帰宅するころには,真理を見いだしたことを確信していました。後にマンゲも,彼の息子もクリスチャンの長老になりました」。

ホエラ・フォロバ姉妹は,若いやもめの正規開拓者で,やはり夫を亡くした母親の世話をしており,新しい住まいを切実に必要としていました。姉妹は2度,お金を幾らか工面し,木材を購入するための費用として親戚に渡していましたが,そのお金は戻ってきませんでした。地元のエホバの証人は姉妹が困っていることを知り,わずか3日で家を建て直してあげました。ホエラは兄弟たちの愛に感動し,建設の期間中ずっと,何かにつけて泣いていました。その工事はりっぱな証言にもなりました。地元の教会の執事は,「お金を懇願せずに,ただ伝道かばんを持ち歩くだけの人たちが,どうして3日で家を建てられるのか」と驚きの声を上げました。

使徒ヨハネは,「子供らよ,言葉や舌によらず,行ないと真実とをもって愛そうではありませんか」と書いています。(ヨハ一 3:18)このような愛はさまざまな形で示され,その結果,パプアニューギニアにおける業は引き続き前進しています。実際,3,672人の伝道者が4,908件の聖書研究を司会し,2010年のキリストの死の記念式には2万5,875人が出席しました。これはエホバの祝福が今なお注がれていることの強力な証拠です。―コリ一 3:6

およそ70年前,一握りの勇気ある兄弟姉妹が,人を自由にする真理を携えて,驚きとなぞに満ちたこの土地に入りました。(ヨハ 8:32)その後の数十年,外国から来た人や地元出身者を含め,大勢のエホバの証人がその業に加わってきました。彼らの前には,克服し難く思える障害が立ちはだかりました。うっそうとしたジャングル,マラリア蚊の生息する湿地,悪路,道すらない土地,貧困,部族間の衝突,根強い心霊術,時に激しさを伴うキリスト教世界の僧職者やその支持者からの反対などです。兄弟たちはまた,非識字や,800以上の言語を話す幾千もの部族民に宣べ伝えるという課題とも取り組んでいます。兄弟たちは私心のない態度で王国伝道の業を推し進めてきました。その働きは,後にやって来て,すでに据えられた土台の上に建てる人々に,大いに感謝されています。

パプアニューギニアに住むエホバの僕たちは,今なおこれらの課題の多くに直面しています。それでも,神にとってはすべてのことが可能です。(マル 10:27)ですから,多様性に満ちたこの土地の兄弟姉妹は神を全く信頼し,義を求める人々をエホバがさらに加えてくださることを確信しています。エホバはその人々に「清い言語への変化」を与えます。「それは,すべての者がエホバの名を呼び求め,肩を並べて神に仕えるため」なのです。―ゼパ 3:9

[脚注]

^ 2節 世界最大の島はグリーンランドです。オーストラリアは島ではなく,大陸とみなされています。

^ 5節 この記述の中では,以前の国名の代わりに現在のパプアニューギニアという名称を用います。

^ 66節 発行: エホバの証人。現在は絶版。

[88ページの拡大文]

「ボボギ,このすべてをどこで教わったんですか」

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「映画を,無償で上映させてもらえることになりました」

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「宗教をやめるか別の仕事を探すかだな」

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バッグの中身を見て気がとがめたのです

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「肌の色は白いけど,わたしたちと同じ心を持っている」

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パプアニューギニアの概要

国土

パプアニューギニアはニューギニア島の東半分を占める国です。さらに,それより小さな151の島が含まれ,総面積は日本の約1.2倍です。内陸はほとんどが険しい山地で,海岸沿いにはうっそうとした雨林や湿地帯が続いています。

住民

670万の人口のうち,99%はパプア人かメラネシア人です。残りはポリネシア人,中国人,ヨーロッパ系の人々です。ほとんどの人は,自分はクリスチャンであると言います。

言語

パプアニューギニアは言語面で世界で最も複雑な国です。820の言語が話されており,これは世界の総言語数の12%に当たります。多くの人は,母語に加え,トク・ピシン語かヒリモツ語か英語を話します。

生活

人口の約85%は小さな村で少しの作物を育て,伝統的な生活を送っています。ハイランドではコーヒーや茶が換金作物として栽培されています。鉱物,ガス,石油,森林資源も国の経済に貢献しています。

食物

主食はサツマイモ,タロイモ,キャッサバ,サゴで,バナナを生で,あるいは調理して食べたりもします。野菜,トロピカル・フルーツ,缶詰の肉や魚も一般的です。ブタは特別な機会に食べます。

気候

季節は多雨期と少雨期の二つです。パプアニューギニアは赤道付近に位置しているため,海岸沿いは熱帯の気候ですが,ハイランドはそれほど暑くありません。

[83,84ページの囲み記事/図版]

『内気を克服することができました』

オダ・シオニ

生まれた年 1939年

バプテスマ 1956年

プロフィール パプアニューギニアで初めての地元の開拓者。現在はポートモレスビーのホホラのモツ語会衆で特別開拓者として奉仕している。

■ 姉は,トム・キットウと妻のロウィーナがハヌアバダ村で,板の歩道を渡りながら伝道しているのを見かけました。そして,この“新しい宗教”について知りたがり,一緒に集会に来てほしいと言いました。当時,集会は地元の聖書研究生ヘニヘニ・ニオキの家で開かれていました。

私は13歳で,とても内気でした。ヘニヘニの家では村の40人ほどの人が集まっていましたが,私は後ろのほうで下を向いて静かに座っていました。話は面白いと思い,いつも出席するようになりました。そのうちヘニヘニから,トム・キットウの話す英語をモツ語に通訳してほしいと言われました。モツ語はその場にいた大半の人が話していた言語です。

何年か後,地元の病院で働き始めました。医師になるための訓練を受けることを目標にしていたのです。その時,ジョン・カットフォースが私に声をかけ,親切にこう諭してくれました。「医師になれば人々を身体面で助けることができます。でも霊的な“医師”になれば,永遠の命を得るよう助けることができますよ」。その週に私は開拓奉仕を始めました。

最初に割り当てられた場所はワウです。私は少し前にこの町を訪れ,真理に関心を持つ人を幾人か見つけていました。その一人ジャック・アリフィーは,地元のルター派の教会で話をするよう勧めてくれました。私が選んだテーマは,血に関する神の律法でした。教会に集まった600人は一心に注意を払いました。人の血を食べるとその人の霊が自分の体に宿ると,多くの人は信じていたからです。教会の牧師はひどく腹を立て,私とかかわりを持たないようにと,集まった人々に言い渡しました。ですが,話に興味を持って霊的に進歩した人も少なくありませんでした。

それから約1年後,ポートモレスビーの北西50㌔ほどにあるマヌマヌに割り当てられました。そこで会った首長のトム・スラウは,自分の村で伝道するよう招いてくれました。私と3日間研究したところで,村の人たちは木で作られた処女マリアの像をばらばらに切って川に捨てました。

川下の住民はそのかけらを集めて村のカトリック司祭のところに持って行き,「マリア様が殺された!」と訴えました。二人の司祭が私に抗議しようとやって来ました。一人は私に詰め寄っていきなり顔面を殴打し,指輪でほおに深い傷を付けました。村人たちが私を守ろうとして駆け寄ると,司祭たちは走って逃げました。

私はポートモレスビーに行って傷を縫ってもらい,警察に被害を届け出ました。司祭たちは後日罰金を科され,僧職を剥奪されました。いっぽう,私は村に戻って孤立した群れを設立しました。エホバの助けで内気を克服することができたのです。

[図版]

最初のころの集会はヘニヘニの家で開かれた

[86ページの囲み記事]

ワントクという仕組み

ワントクという語は,「一つの言葉」という意味の「ワン・トーク」に由来するトク・ピシン語です。この語は,同じ言語を話す人同士の強い文化的結びつきと関係があります。この結びつきには,特定の義務や恩恵が伴います。例えば,人々は自分と同じワントク(同じ言語を話す人)の高齢者や失業者や働けない人の物質面での必要を顧みることが期待されます。社会保障の制度が限られている国において,これは大きな助けになります。

この仕組みにはマイナス面もあります。例えば,聖書研究生が真理の側に立場を定める時,他の親族に退けられるということが生じ得ます。そうなると,新しい人は失業や他の理由によって物質面で困窮する時,エホバの助けを求めることが必要になります。(詩 27:10。マタ 6:33)支部委員会の成員ケガワレ・ビヤマはこう言います。「ワントクの仕組みゆえに兄弟たちは,エホバの証人でない親族と不必要な交わりを持つよう強い圧力を受けることがあります。その親族の中に排斥された人が含まれるかもしれません。さらに,選挙で立候補する人は,親族であるエホバの証人にクリスチャンの中立の立場を曲げるよう圧力をかけることも少なくありません」。言うまでもなく,兄弟たちは妥協しません。

[91ページの囲み記事/図版]

多くの人から慕われた兄弟

パプアニューギニアで宣教者奉仕を行なったジョン・カットフォースは,多くの人から慕われました。仲間の宣教者や他の人々がジョンについて語った言葉を挙げましょう。―箴 27:2

エルナ・アンデルソン: 「兄弟からこう言われました。『真の宣教者は,あらゆる人に対してあらゆるものとなります。木の切り株に腰掛けるよう勧められたら,座ってください。それが用意できる最善のものだからです。ごつごつしたベッドをあてがわれたら,それに寝てください。心を込めて作ってくれたものだからです。食べ慣れないものが出されても,食べましょう。愛を込めて準備されたものだからです』。ジョンは自己犠牲的な宣教者として際立っていました」。

アワク・ドゥブン: 「植民地支配が行なわれていた間,ジョンは黒人と白人の間の偏見を完全に取り除きました。『黒人も白人もみな同じ!』と,口癖のように言っていました。彼はすべての人を愛していたのです」。

ピーター・リンケ: 「ある日の午後,日中のほとんどを移動に費やしたジョンは,ゴロカの我が家に,ほこりまみれで疲れて到着しました。それでも夕食を済ますと,『今日はまだみんなのために何もしていない』と言って,薄暗がりの中,地元の家族を励ますため歩いて出かけました。いつも他の人のことを気遣っていたのです。ジョンは皆に愛されました」。

ジム・ドビンズ: 「ジョンがわたしたちに教えてくれたのは,イエスに倣って,簡素に生活し,人々が理解できる例えを用いて分かりやすく教えるようにという点でした。こうして読み書きのできない人と意思を通わせることができました」。

[101ページの囲み記事/図版]

『信仰を捨てることは決してしない』

カリプ・カナイ

生まれた年 1922年

バプテスマ 1962年

プロフィール マダン地区で初期に真理を受け入れた人の一人。息子のウルペプ・カリプの語った経験。

■ 父は謙遜で物事を深く考える人でした。何か問題にぶつかると,よく話を聞いて状況を分析し,それから自分の意見を言うのが常でした。

私は15歳の時,マダンの病院に入院しました。片足のひざから下をサメに咬まれて失ったのです。私を見舞いに来た父は,その折にジョン・デービソンに会い,「新しい世でエホバが息子さんの足を元通りにしてくださいます」と言われました。この言葉に興味を持った父は聖書を真剣に学び始め,やがて強い信仰を持つようになりました。

父と父の親族はカトリック教会を脱退しました。このことがきっかけで警察は過激な行動に及び,私たちを家から立ち退かせました。緑の茂る花畑の中に私たちの家が12軒固まって建てられており,家は造ってからまだ1年もたっていませんでした。警察が燃えるたいまつを草葺きの屋根に投げつけ,家はあっという間に炎に包まれました。すぐに持ち物を取りに行こうとしましたが,火や煙に阻まれて無理でした。家が焼け落ちるのを泣きながら見守るしかありませんでした。

私たちは,重い足取りで近隣のバギルディグ村まで歩いて行きました。村の首長が親切にも,一部屋だけの小屋に住まわせてくれたのです。父はそこで家族にこう話しました。『イエスは迫害された。だから,わたしたちが迫害されてもおかしくない。でも,信仰を捨てることは決してしない』。

[107,108ページの囲み記事/図版]

“学校”を間違えたことが良い結果に

マイケル・サウンガ

生まれた年 1936年

バプテスマ 1962年

プロフィール 1964年9月に特別開拓者になり,パプアニューギニアで最も長くその奉仕を行なっている。

■ 1959年,私はさらに教育を受けるためラバウルに引っ越しました。エホバの証人が学校を開いていると聞いたので,ランス・ゴッソン“先生”の家に行きました。そこが職業訓練校であると思ったのです。ランスは毎週水曜日に行なわれる聖書研究に招いてくれました。勘違いだったとはいえ,私はその招きに応じ,学んだ事柄に深い感銘を受けました。とりわけ,神の名前がエホバであり,「新しい天と新しい地」が訪れるということが心に残りました。(ペテ二 3:13)そして1962年7月7日の午前にバプテスマを受けました。“学校”を間違えたことが本当に良い結果になったのです。

その同じ日,開拓奉仕に関心を持つ人のための集まりに出席しました。集まりを司会した地域監督のジョン・カットフォースは,畑が収穫を待って白く色づいており,より多くの働き人が必要であることを強調しました。(マタ 9:37)それで,状況が整うとすぐに休暇開拓者になりました。補助開拓者は当時,そのように呼ばれていたのです。1964年5月に正規開拓者になり,9月には特別開拓者になりました。

ラバウルの近くで伝道していた時のことを思い出します。トライ族の男性が,読みたいところがあるので聖書を貸してほしい,と言ってきました。聖書を渡すと,男性はそれをびりびりに破いて地面に投げ捨てました。私は怒りを表わすことはせず,起きたことを警察署長に通報しました。署長はすぐに巡査を遣わして男性を逮捕させ,その男性にこう言いました。「おまえは悪いやつだ。神の律法と政府の法律を破ったのだ。明日,この人のために新しい聖書を買いなさい。さもないと牢屋行きだぞ」。こう言ってから署長は私に,翌日の午前10時に警察署に来て,聖書を買うお金を受け取るよう指示しました。行ってみると,すでにお金が用意されていました。それ以来,トライ族で真理を受け入れた人は少なくありません。

別の時,ウェワクの西の地区で他のエホバの証人と「王国ニュース」を配布していました。他の人たちは私より先に奉仕していました。地元の村の指導者が兄弟たちの活動について知り,配布した「王国ニュース」を回収していきました。その人は私が来ることを知っていたに違いありません。道路の真ん中で両手を腰に当てて立ち,集めた「王国ニュース」を片手に私を待っていたのです。私は,何か問題があったのか尋ねました。するとその人は「王国ニュース」を突き出しながら,「この場所はわたしの管轄下にある。こんなものを配ってほしくない」と言ってきました。

私はそれを受け取りました。その間に,村の人たちが集まってきました。それで人々のほうを向いて,「自分の畑で作業をしたり漁に出たりする時,許可を得る必要がありますか」と尋ねました。

「必要ないわ」と一人の女性が答えます。

それから私は村の人たちに,「これを読みたいですか」と聞きました。

「読みたい」という返事だったので,回収された「王国ニュース」を再び配布しました。反対はありませんでした。とはいえ後に,集まった村の指導者20人ほどの前で弁明を求められました。うれしいことに,二人を除いて全員が宣べ伝える業に対して好意的な票を投じてくれました。

[112ページの囲み記事/図版]

「心を食われてしまったのか」

アイオコワン

生まれた年 1940年

バプテスマ 1975年

プロフィール エンガ族の中で早くに真理を学んだ人。

■ エンガ州ワバグにトム・キットウとロウィーナ・キットウが来た時,地元の伝道団は二人に関する偽りの話を広めました。例えば,二人が死体を掘り起こしてそれを食べた,と言いました。そのような話を聞いてぞっとしました。

ある日,トムは,妻の家事を手伝える若い女性を紹介してほしいと父に頼みました。父はわたしを指名したのです。怖くて仕方がありませんでしたが,父に説き伏せられ,引き受けることにしました。

後にトムとロウィーナから,「人は死ぬとどうなると思う?」と聞かれました。

「善人は天国に行くと思います」と答えました。

二人は,「聖書にそう書かれていたのですか」と尋ねました。

わたしは,「学校に通ったことがないので字は読めません」と答えました。

こうして二人から読み方を教わり,聖書の真理を少しずつ理解できるようになったのです。カトリック教会に通うのをやめると,教会の指導者の一人にこう聞かれました。「なぜ教会に来なくなったのか。あの白人の夫婦に心を食われてしまったのか」。

わたしはこう答えました。「そのとおりです。すっかり心を奪われました。わたしに真理を教えてくれるからです」。

[117ページの囲み記事/図版]

「ニワトリと交換してくれるならいいよ」

アワイワ・サレ

生まれた年 1950年

バプテスマ 1993年

プロフィール 孤立した地区で真理を学んだ。現在はムンディプ会衆で奉仕の僕として働いている。

■ 友人の家に泊まった時,「とこしえの命に導く真理」の本を見つけました。わたしは何章か読んでから,その本をもらえないか尋ねました。友人の返事は,「ニワトリと交換してくれるならいいよ」というものでした。

こうして交渉が成立し,わたしは本を持ち帰って注意深く読みました。そのうち,そこから知った素晴らしい事柄についてほかの人に話すようになりました。もっとも,教会の指導者たちに2度呼ばれ,伝道をやめるようにと言われました。

それから間もなく,支部に手紙を書き,近くのエホバの証人と連絡を取れないか尋ねました。すると,アルフレド・デ・グスマンに知らせが行き,彼はマダンの地域大会に出席するよう勧めてくれました。

わたしは,着古した普段着で,真っ黒なひげをぼうぼうに伸ばしたまま会場に入りました。それでも皆が親切に接し,敬意を払ってくれたのです。聞いた事柄に心を打たれ,プログラムの最中に泣いてしまいました。翌日には,ひげをきれいに剃って出席しました。

大会後,アルフレドがわたしの村に来てくれました。マダンからトラックに2時間乗り,さらに徒歩で5時間の道のりです。わたしの家族や友人はたくさんの質問をし,アルフレドはどの質問にも聖書から答えました。

現在,ムンディプ会衆には23人の奉仕者がおり,60人以上が集会に出席しています。

[125,126ページの囲み記事/図版]

「あなたの立場を説明しなさい」

マクイ・マレグ

生まれた年 1954年

バプテスマ 1986年

プロフィール ほかにエホバの証人がいない島で長年,独りで開拓奉仕をした。

■ 1980年にマダンで開拓者からパンフレットを受け取り,自分の家のあるバガバグ島に持ち帰りました。マダンからその島までは船で6時間かかります。素晴らしい内容だと思い,支部に手紙でさらに情報を求めました。それから間もなく,マダンに住む開拓者のバダム・ドゥブンから手紙を受け取り,地域大会に誘われました。彼女の家に2週間泊めてもらい,聖書研究を始めました。さらに,その土地の王国会館で開かれるすべての集会に出席しました。家に戻ってからも手紙で研究を続けました。

やがてわたしはバガバグ島で12の家族と聖書研究を始めました。また,マダンで見た,グループで行なう聖書研究の仕方に倣って,おじの家で集会を定期的に開きました。この行動は父の怒りを買いました。父はルター派教会の主立った成員でした。「ヤハウェなら分かるがエホバなど知らん」と怒鳴りつけました。わたしはトク・ピシン語の聖書を開き,出エジプト記 3章15節の脚注を見せました。そこには神の名について説明されています。父は,返す言葉がありませんでした。

父から3度,教会の指導者たちの前に出て自分の信仰について弁明するよう求められました。その審問の一つは,島で一番大きな教会で行なわれ,100人以上が詰めかけました。その場の雰囲気は張りつめたものでした。司会者は,「あなたの立場を説明しなさい」と迫りました。わたしは聖書をしっかり持って,「マタイ 6章33節に従って神の王国を第一にしたいだけです」と答えました。父はやにわに立ち上がって,「わたしたちを教えるつもりなのか」と声を荒げました。おじの一人がわたしを打とうと立ち上がりましたが,すかさず別の親族が止めに入りました。その場は収拾がつかなくなり,わたしは家に帰されました。

しかし,これで問題がなくなったわけではありませんでした。わたしたちが開いていた集会に一人の女性が来ていましたが,悲しいことに,その人の病気の赤ちゃんが死んでしまいました。島の人々の中に,それをわたしのせいにする人がいました。母親に新しい宗教を教えていたから死んだのだ,と言うのです。父は鉄の棒を振りかざし,わたしを家から追い出しました。それでマダンに住むおばのラミト・マレグのもとに逃げました。おばも真理を受け入れており,それから間もなく,おばもわたしもバプテスマを受けました。

後に父は重い病気になりました。マダンのわたしの家に引き取って亡くなるまで看病を続けました。その間,父はわたしの宗教に対する態度を和らげました。そして亡くなる前,ぜひバガバグ島に戻って人々に伝道してほしいと言い残していました。1987年にそれが実現し,親族が小さな家を親切にも建ててくれました。その後14年間,島にいるエホバの証人はわたしだけでした。そのうち12年は正規開拓者として奉仕しました。

後にわたしはマダンに戻り,おばのラミトと共に開拓奉仕をしました。2009年,バガバグ島から6人がマダンに来て,キリストの死の記念式に出席しました。わたしはずっと独身で,エホバに十分仕えるためにその立場を活用できたことをうれしく思っています。

[141,142ページの囲み記事/図版]

エホバが迎え入れてくださいました

ドラ・ニンギ

生まれた年 1977年

バプテスマ 1998年

プロフィール 若いころに真理を学び,家族に退けられた。後に開拓奉仕を始め,現在は支部で奉仕している。

■ 17歳の時,「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本を見つけました。とても素晴らしいものを見いだしたことにすぐに気づきました。それがエホバの証人の本であることも分かりました。4歳ぐらいの時に,二人のエホバの証人から,地上を楽園にするという神の約束について聞いたことがあったからです。

『永遠に生きる』の本を見つけてから間もなく,養父母から,自分たちも子どもが5人いるのでわたしの家族のもとに戻るように,と言われました。海岸沿いの町ウェワクに親族が住んでいたので,そこに行き,父の弟の家に住ませてもらいました。

エホバの証人にどうしても会いたくて,何とかして王国会館に行きました。到着したのは,兄弟が結びの歌を紹介する時でした。それでも,アメリカ出身のパムという宣教者の姉妹が一緒に聖書研究をするよう言ってくれました。研究はとても楽しかったのですが,わずか3回しただけで,おじからあからさまな反対を受けました。

日曜日の集会の後に家の近くまで来ると,おじの家の庭から煙が立ち上っているのが見えました。おじが聖書研究の手引きを含め,わたしの持ち物をすべて燃やしていたのです。わたしの姿を目にしたおじは,こう叫びました。「おまえがあの者たちの礼拝に行きたいなら,そこで世話してもらえ」。おじの家にいられないことは明らかだったので,生みの親の家に行くしかありませんでした。親は,ウェワクから車で2時間ほどかかる村に住んでいました。

父に近づくと,父は聞こえよがしに,わたしの弟や妹たちに向かってこう言いました。「どこの娘だ? 知らないな。そんな子は3歳の時によそにやったんだよ」。父もわたしを家に置きたくないことを露骨に示したので,ほかを探すしかありませんでした。

それからおよそ2年後,親の住む村で二人の特別開拓者の兄弟に会いました。わたしは兄弟たちにこう言いました。「どうかパムに伝えてください。教わったことを忘れていないけど,姉妹に会いに行くことができないんです」。しかし,それから間もなくパムに会え,再び研究を始めることができました。その間に三つの家族のもとに置いてもらいましたが,わたしがエホバの証人と交わっていたため,どの家からも追い出されてしまいました。パムは親切にも,ウェワクのエホバの証人の家族に頼んで,わたしが住めるようにしてくれました。わたしは1998年にバプテスマを受け,1999年9月に正規開拓奉仕を始めました。2000年にはベテルに招かれ,トク・ピシン語の翻訳チームで働くという特権をいただいています。

実の家族に退けられたことを思うと,とてもつらくなりますが,かけがえのない霊的な家族が与えられました。わたしの好きな聖句は詩編 27編10節です。そこにはこうあります。「わたしの父とわたしの母がわたしを捨て去ったとしても,エホバご自身がわたしを取り上げてくださることでしょう」。

[図版]

トク・ピシン語の出版物

[147,148ページの囲み記事/図版]

「最も偉大な教師はエホバです」

ジョン・タボイサ

生まれた年 1964年

バプテスマ 1979年

プロフィール 子どものころ,教師や生徒からひどい迫害を受け,2年通っただけで学校をやめなければならなかった。今では巡回監督として奉仕している。

■ わたしはミルネ・ベイ州のゴビゴビ村で生まれました。7歳の時に父が聖書研究を始め,学んだ事柄をわたしに教えてくれました。

そのころ,公立学校に通い始めました。担当の教師二人は英国国教会の信者で,わたしがエホバの証人と交わっていることを知り,迫害するようになりました。他の生徒もそれに倣い,棒を持ってわたしを襲うことまでしました。そのため,2年通っただけで学校をやめなければなりませんでした。

1年ほど後,地元のマーケットで例の教師の一人と会い,こう言われました。「君は頭のいい子で,きっと良い成績が取れただろう。でも君の宗教のせいで,大人になったらほかの生徒に使われることになるんだぞ」。そのことを話すと父は,「この世がおまえを教育してくれなくても,エホバが教えてくださるよ」と言って元気づけてくれました。

父と特別開拓者の兄弟は,わたしが最も貴重な教育を受けられるように助けてくれました。永遠の命に導く知識を与えてくれたのです。ヨハ 17:3)わたしの母語はダワワ語ですが,二人から聖書をヒリモツ語とトク・ピシン語で教わりました。そのため,この二つの言語も話せるようになりました。15歳でバプテスマを受け,その2年後に開拓奉仕を始めました。

1998年には,宣教訓練学校に招待されました。当時,英語があまりできなかったので,支部は学校で十分に学べるよう,わたしをポートモレスビーの英語会衆に割り当てました。こうして四つ目の言語として英語も話せるようになったのです。

卒業の際に,ミルネ・ベイ州のアロタウ会衆に割り当てられました。6か月後,思いがけない,うれしい知らせを受け,巡回監督として任命されました。最初の巡回区にはニューブリテン島,ニューアイルランド島,マヌス島,それに近隣の他の島々が含まれていました。2006年には愛する妻ジュディーと結婚し,一緒に1年特別開拓奉仕をした後,巡回奉仕を始めました。

会衆を訪問する時,若い人たちによくこう言います。「最も偉大な教師はエホバです。進んでエホバの教えを受けましょう。そうすれば,本当の意味で人生を成功させるよう助けてくださいます」。これは,わたし自身が学んだ大切な教訓です。

[図版]

妻のジュディーと共に

[156,157ページの図表/図版]

年表 ― パプアニューギニア

1930

1935 協会の小型帆船ライトベアラー号に乗る開拓者たちがポートモレスビーで伝道する。

1940

1950

1951 トム・キットウと妻のロウィーナがポートモレスビーにやって来る。

1956 開拓者たちがニューアイルランド島とニューブリテン島に移動する。

1957 ジョン・カットフォースが「ピクチャー・サーモン」を考案する。

1960

1960 国際聖書研究者協会が登録される。

1962 キットウ兄弟姉妹はニューギニア島のハイランドへ移動する。

1965 ポートモレスビーのコキに支部が建設される。

1969 「地に平和」国際大会がパプアのハイマで開かれる。

1970

1975 パプアとニューギニアが統合されパプアニューギニアになる。

1977-1979 ミルネ・ベイ州で暴徒が王国会館を破壊する。

1980

1987 新しい支部事務所が献堂される。

1989 ブーゲンビル島で内戦が勃発する。

1990

1991 トク・ピシン語とヒリモツ語の「ものみの塔」誌が英語と同時に発行されるようになる。

1994 医療機関連絡委員会が機能し始める。

1994 ニューブリテン島ラバウルが火山の噴火によって壊滅する。

1999 王国会館建設デスクが支部に設けられる。

2000

2002 ポートモレスビーのゲレフに大会ホールが建設される。

2010

2010 支部の新しい増築部分が献堂される。

2020

[118ページのグラフ/図版]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

伝道者数

開拓者数

3,500

2,500

1,500

500

1955 1965 1975 1985 1995 2005

[81ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

パプアニューギニア

ポートモレスビー

ウェワク

セピック川

カンボット

ディミリ

ビワト

ユアト川

ワバグ

マウント・ハーゲン

バンズ

ワギ・バレー

ニューギニア・ハイランド

マレー湖

フライ川

バスケン

タリディグ

バギルディグ

マダン

ゴロカ

カイナンツ

ラエ

ブロロ

ワウ

ケレマ

サバイビリ

パプア湾

ポポンデッタ

ココダ・トレール

フラ

アギ

ゴビゴビ

アロタウ

サンゴ海

マヌス島

ビスマーク諸島

ビスマーク海

バガバグ島

ニューブリテン島

ラバウル

ココポ

クルマラク島

ニューアイルランド島

カビエン

ソロモン海

グッドイナフ島

ブカ島

ブーゲンビル島

ヌクマヌ環礁

赤道

ハイマ

シックス・マイル

ハヌアバダ

ポートモレスビー港

コキ・マーケット

ソゲリ高原

イオアダブ

[74ページ,全面図版]

[77ページの図版]

ライトベアラー号

[78ページの図版]

地元の最初の奉仕者たち,左から右: ボボギ・ナイオリ,ヘニヘニ・ニオキ,ラホ・ラカタニ,オダ・シオニ

[79ページの図版]

ポートモレスビー中心部を背にしたハヌアバダ村

[82ページの図版]

パプアニューギニアに向かう前のドン・フィールダーと妻のシャーリー

[85ページの図版]

ポートモレスビーのハイマに建てられた国内で最初の王国会館

[87ページの図版]

ジョン・カットフォース

[89ページの図版]

ピクチャー・サーモンの複製

[90ページの図版]

右: 絵を使って教えるジョン・カットフォース。下: 奥地の村での伝道に使う,絵を描いた板を背負う兄弟

[92ページの図版]

アルフ・グリーン,デービッド・ウォーカー,ジム・スミス

[93ページの図版]

左: フィールダー家のシャーリー,デビー,ドン。右: ドンのカヌー

[96ページの図版]

ジム・スミスとグレン・フィンレー

[97ページの図版]

ケレマ湾を渡るスティーブン・ブランディ

[99ページの図版]

ケン・フレームと妻のロジーナ

[102ページの図版]

マシュー・ポープと妻のドリス

[103ページの図版]

ジョン・エンドアと妻マグダレンの家がラエで最初の集会場になった

[109ページの図版]

ハイランド

[110ページの図版]

ワバグの小さな店と家の前にいるトム・キットウと妻のロウィーナ

[113ページの図版]

ベルント・アンデルソンと妻のエルナ

[114ページの図版]

ケリー・ケイスミスとジム・ライト

[115ページの図版]

セピック川を行くマイク・フィッシャー

[123ページの図版]

アギの王国会館は放火され全焼したが,建て直され,別の建物も加えられた

[127ページの図版]

ビル・スーと妻のエルシー

[128ページの図版]

帆を張ったプアプア

[128ページの図版]

ベルント・アンデルソンが作ったパイオニア号

[131ページの図版]

セピック川沿いの旅

[132,133ページの図版]

左: 巡回監督のウォーレン・レイノルズと妻のリーンがビワト村を訪問する。上: ディミリ村を訪れた時の公開講演

[135ページの図版]

ソアレ・マイガ

[135ページの図版]

コラ・レケ

[136ページの図版]

サベ・ナンペン

[139ページの図版]

ジョーディー・ライルと妻のジョアン

[145ページの図版]

この子どもたちの幾人かは国旗を敬礼しなかったために放校された

[152,153ページの図版]

左: ラバウル。背後にあるのはタブルブル火山。下: 1994年に破壊されたラバウルの王国会館

[155ページの図版]

翻訳チーム,2010年

[161ページの図版]

パプアニューギニア支部

支部委員会: ダン・バークス,ティモ・ラジャレト,ケガワレ・ビヤマ,クレーグ・スピーグル