内容へ

目次へ

ミャンマー(ビルマ)

ミャンマー(ビルマ)

アジアの大国であるインドと中国に挟まれたミャンマーは,変化に富み興味をそそる国です。 * 国内最大の都市ヤンゴン(旧称ラングーン)には,高層ビルや人でにぎわう商店,往来の激しい場所があります。しかし,市内から外に出ると,辺りの村ではスイギュウが土地を耕し,人々は外国人を不思議そうに見つめ,また季節の変化で時を測ります。

ミャンマーには今も,往年のアジアの面影が残っています。おんぼろのバスに揺られながらでこぼこ道を進むと,市場に運ぶ作物を載せた牛車や,ヤギの群れを野原に連れて行く人たちを追い越すことでしょう。ミャンマーの男性は今も伝統的な巻きスカートであるロンジーを身に着けます。女性は,木の皮で作られたタナカと呼ばれるペーストを化粧のため顔に塗ります。人々は宗教に深く傾倒しています。仏教徒は僧侶を有名人よりもあがめ,金色の仏像に毎日,捧げ物として金箔を貼ります。

人々は穏やかで思いやりがあり,好奇心に富んでいます。この国には八つの主要民族,また少なくとも127の少数民族が住んでいます。民族ごとに言語,服装,食べ物,文化が異なります。人口の大半が住んでいるのは,雄大なエーヤワディー(イラワジ)川に潤された中央平原です。全長2,170㌔に及ぶこの川は,凍てつくヒマラヤの山中に源を発し,水温の高いアンダマン海に注ぎます。さらに,沿岸の広大なデルタ地帯や,インド,タイ,中国,バングラデシュ,ラオスと国境を接し弓状に連なる高地に住む人たちも大勢います。

ミャンマーのエホバの証人は100年近くにわたり,揺るぎない信仰や忍耐の記録を積み上げてきました。争いの収拾がつかず政治的変動が続く中でも,中立の立場を貫きました。(ヨハ 17:14)苦難に見舞われ,宗教的な反対を受け,世界の他の土地の兄弟たちとの行き来が制限された時にも,エホバの民は神の王国の良いたよりをたゆみなく宣べ伝えたのです。心を打つその話をご紹介しましょう。

ミャンマーの兄弟たちは100年近くにわたり,揺るぎない信仰や忍耐の記録を積み上げてきた

活動が始まる

重要な年である1914年,ヤンゴンの波止場に着いた蒸気船から二人のイギリス人が降り立ちました。うだるような暑さでした。それは二人の開拓者であるヘンドリー・カーマイケルとそのパートナーです。インドから旅をしてきた二人は,ビルマで宣べ伝える業を始めるという大きな割り当てに取り組みます。国全体が区域でした。

「あなたの代わりに新しい世に入ってもらいたいと言うのでしたら構いませんよ」

ヤンゴンで奉仕を始めたヘンドリーたちはやがて,王国の音信に純粋の関心を示した二人の英国系インド人の男性に出会います。 * その二人とはバートラム・マーセリーンとバーノン・フレンチです。二人は速やかにキリスト教世界とのつながりを断ち,友人たちに非公式の証言をするようになりました。程なくして,20人ほどがバートラムの家で定期的に集まり,「ものみの塔」誌を参考にしながら聖書を研究するようになりました。 *

ヤンゴンの奉仕者たち,1932年

1928年,やはりイギリス人で開拓者のジョージ・ライトがインドからビルマを訪れます。ジョージは5か月をかけてこの国を巡り,聖書文書をたくさん配布しました。真理の種としてまかれた文書の中に,1920年に発行された英語の「現存する万民は決して死することなし」という小冊子が含まれていたに違いありません。この小冊子は後にビルマ語に翻訳されます。わたしたちクリスチャンの出版物のうち,早い時期にビルマ語で翻訳されたものの一つです。

2年後,開拓者のクロード・グッドマンとロナルド・ティピンがヤンゴンにやって来ます。ヤンゴンでは少人数の兄弟たちから成るグループが集会を忠実に開いていましたが,組織的な伝道は全く行なっていませんでした。クロードはこう述べています。「日曜日には伝道に来るよう兄弟たちを励ましました。ある兄弟は,開拓者たちを経済的に支援するので自分の代わりに伝道してくれないかと言いました。ロナルドはその兄弟にこう言いました。『あなたの代わりに新しい世に入ってもらいたいと言うのでしたら構いませんよ』」。この率直な励ましは,兄弟たちがまさに必要としていたものでした。やがてクロードとロナルドは,共に伝道を行なう仲間を大勢持つようになりました。

「レイチェル,真理を見つけたぞ!」

同じ年,ロナルドとクロードは,ヤンゴンの鉄道の駅長であるシドニー・クートに出会います。シドニーは,10冊から成る“レインボーセット”と呼ばれていた書籍を受け取りました。それは表紙の色の違いにちなんで付けられた名称です。そのうちの1冊を幾らか読んだシドニーは妻に,「レイチェル,真理を見つけたぞ!」と言いました。やがてクート家全員がエホバに仕えるようになりました。

シドニーは聖書を熱心に学ぶ人でした。娘のノーマ・バーバーは,宣教者として長く奉仕し,現在は英国支部で働いています。ノーマはこう言います。「父は自分で聖書の項目索引を作りました。聖書のある教えについて説明する聖句を見つけると,該当する見出しのもとにその聖句を書き留めました。父はその索引を『それはどこにあるか』と呼んでいました」。

シドニー・クート(中央)は聖書を勤勉に研究した。シドニーと妻のレイチェル(左)は聖書の音信を人々に伝えた

シドニーは聖書を学ぶだけでなく,その音信を他の人にも伝えたいと思っていました。それでインド支部に手紙を書き,ビルマにエホバの証人がいるかどうか尋ねました。すると,大きな木箱に入った文書と名前のリストが送られてきました。ノーマはこう述べています。「父はリストに挙げられていた一人一人に手紙を送って自宅に招き,一日一緒に過ごすよう誘いました。後日,五,六人の兄弟が我が家を訪ね,非公式の証言の仕方を教えてくれました。両親は早速,友人や近所の人に文書を配り始めました。また,親族全員に手紙と文書を送りました」。

シドニーの姉でマンダレーに住むデージー・デスーザは,シドニーから手紙と「神の国 ― 全地の希望」という小冊子を受け取るとすぐに返事を書き,他の出版物と聖書を送ってほしいと頼みました。デージーの娘フィリス・ツァトスはこう述べています。「母は我を忘れるほど喜び,夜遅くまで文書を読みふけりました。そして,わたしを含む子ども6人を集め,『カトリック教会を脱退します。真理を見つけたのです』という衝撃的な発表をしました」。後にはデージーの夫と子どもたちも真理を受け入れました。デスーザ家は4世代にわたってエホバ神に忠実に仕えています。

勇敢な開拓者たち

1930年代の初めには,熱心な開拓者たちが良いたよりを北部の主要な鉄道沿いで広めていました。その鉄道はヤンゴンから,中国との国境に近い町ミッチーナーにまで延びるものです。さらに,沿岸の町でヤンゴンの東に位置するモーラミャイン(モールメイン),また西に位置するシットウェ(アキャブ)でも宣べ伝えていました。結果として,モーラミャインとマンダレーで小さな会衆が設立されました。

1938年以降,ビルマにおける活動をインド支部に替わってオーストラリア支部が監督することになりました。そのため,オーストラリアとニュージーランドから開拓者たちがビルマに入って来るようになりました。剛健な働き人として,フレッド・ペートン,ヘクター・オーツ,フランク・デュワー,ミック・エンゲル,スチュアート・ケルティーを挙げることができます。これらの兄弟は皆,名実ともに開拓者でした。

フランク・デュワー

フレッド・ペートンはこう回想します。「ビルマにいた4年間,国内のほぼ全域で伝道しました。マラリア,腸チフス,赤痢などの病気にかかりました。まる一日の奉仕を終えたあと,寝る場所がないこともしばしばでした。それでもエホバは常に必要なものを備え,ご自分の霊の力によって支えてくださいました」。ニュージーランド出身のたくましいフランク・デュワーはこう語っています。「盗賊,反政府グループ,役人などに遭遇しました。それでも,礼儀や穏やかさや謙遜さを示し,分別を働かせることにより,難しい障害もたいてい克服できました。多くの人はやがて,エホバの証人が危険な存在ではないことを悟りました」。

それらの開拓者は,一般の外国籍の人たちと大きく違っていました。他の外国人が地元の住民を蔑視する傾向を持つ中で,開拓者たちは敬意と愛を示しました。その親切さに謙遜なビルマ人は好感を抱きました。人々は,ストレートに意見を主張するよりも,穏やかで察しのよい対応を好みました。開拓者は言葉と行動により,エホバの証人が本当のクリスチャンであることを示したのです。―ヨハ 13:35

画期的な大会

開拓者たちが到着してから数か月後,オーストラリア支部はヤンゴンで大会を開催することを計画しました。会場に選ばれたのは,ヤンゴン・シティーホールです。宮殿建築のその建物には,大理石の階段と青銅の大きな扉があります。タイ,マレーシア,シンガポールから出席した人たちもおり,オーストラリア支部の僕アレキサンダー・マギラブレイは,シドニーから兄弟たちの一行を引き連れてきました。

戦雲の垂れ込める中,広く宣伝された公開講演の題は「宇宙大戦近し」というもので,人々の興味を引きました。フレッド・ペートンはこう語ります。「会場がこれほど早く人で埋まるのを見たのは初めてです。正面の扉を開くや,人々が一斉に階段を昇ってホールに入りました。10分足らずで,850席の会場は1,000人余りの人でいっぱいになりました」。フランク・デュワーはこう言い添えます。「群衆が押し寄せてきたので正面の扉を閉めなければならず,会場の外にも1,000人ほどがあふれていました。その扉を閉めたのに,幾人かの若者たちが強引に会場横の小さな扉から中に入り込みました」。

兄弟たちは,示された関心の度合いだけでなく,多様な出席者たちの姿にも胸を躍らせました。地元の多くの民族の人が集まったのです。それまでは,真理に関心を示す地元の人はごくわずかでした。ほとんどの人は熱心な仏教徒だからです。クリスチャンととなえる住民(カレン族,カチン族,チン族が多くを占める)は,良いたよりがほとんど伝えられていない辺鄙な土地に住んでいました。国内の畑は豊かに実り,収穫を待っているかに見受けられました。聖書が予告していた多国籍の「大群衆」にやがて,ビルマの多くの民族も加わるようになりました。―啓 7:9

カレン族の最初の弟子たち

カレン族で初めて弟子になった姉妹。左: チュ・メイ(デージー)右: ニン・メイ(リリー)

1940年,開拓者のルビー・ゴフはヤンゴン郊外の小さな町インセインで伝道していました。その日は関心を示す人がほとんどおらず,ルビーは「エホバ,家に帰る前に一人でいいので“羊”に会わせてください」と祈りました。祈って入った最初の家で会ったのがムウェ・チャインです。バプテスト派に属していたカレン族のその女性は,王国の音信に意欲的に耳を傾けました。やがてムウェ・チャインと娘たち,チュ・メイ(デージー)とニン・メイ(リリー)が聖書を学び,霊的によく進歩します。その後まもなくムウェ・チャインは亡くなりましたが,下の娘のリリーが後にバプテスマを受け,カレン族の最初のエホバの証人になりました。デージーもバプテスマを受けました。

リリーとデージーは熱心な開拓者になり,多くの成果を残しました。二人の子孫や聖書研究生は大勢おり,その人たちは現在ミャンマーや国外で奉仕しています。

第二次世界大戦中の困難

1939年にヨーロッパで勃発した第二次世界大戦は,世界じゅうに広がりました。戦争熱の高まる中,ビルマのキリスト教世界の僧職者たちは植民地政府への圧力を強め,わたしたちの文書を発行禁止に追いやろうとしました。その対抗策として,ヤンゴンの文書集積所を世話していたミック・エンゲルは米軍の高官に掛け合いました。そして,約2㌧の文書を軍のトラックでビルマ・ルートを使って中国に運ぶことを許可する書状を取得しました。

フレッド・ペートンとヘクター・オーツは,中国との国境に近い町ラシオの駅に文書を運びました。二人が中国への物資の輸送を取り仕切る役人に近づくと,役人は不快感をあらわにし,こう言い放ちました。「何だと。ここで野ざらしのまま台無しになりそうな軍用・医療用の緊急必要物資を積むスペースが全くないのに,どうしてお前らのくだらん紙切れのためにトラックの大事なスペースをやれると言うんだ」。フレッドはちょっと考え,かばんから例の書状を出し,ヤンゴンから出された正式な指示を無視するなら重大な問題になると指摘しました。すると役人は小型トラックを手配し,運転手と物資も兄弟たちにあてがってくれたのです。兄弟たちは中国中南部の重慶<チョンチン>まで約2,400㌔の旅をし,そこで貴重な文書を配布しました。また,中国国民政府主席の蒋介石にも直接証言をしました。

当局者がやって来た時,集積所はすでに空でした

1941年5月にはついに,インドの植民地政府がヤンゴンに打電し,地元の当局にわたしたちの文書を押収するよう命じました。電報局で働いていた二人の兄弟はその電報を目にし,すぐミック・エンゲルに事態を知らせました。ミックはリリーとデージーを呼んで急いで文書集積所に向かい,残りの40箱の文書を持ち出し,ヤンゴン周辺の安全な家に分散して隠しました。当局者がやって来た時,集積所はすでに空でした。

日本軍が真珠湾を攻撃した三日後の1941年12月11日,日本軍はビルマに爆撃を始めました。その週末,少人数のエホバの証人がヤンゴン中央駅の上にある小さな間取りのアパートに集まりました。厳粛な雰囲気の中,聖書に基づく話がなされた後,その家の浴槽でリリーにバプテスマが施されました。

それから3か月後,日本軍はヤンゴンに入りますが,市内に人の姿はありませんでした。10万を超える人がすでにインド方面に逃げていたのです。その道中に大勢の人が飢えや衰弱や病気のために命を落としました。家族と共に逃げたシドニー・クートは,インドとの国境の近くで脳マラリアで亡くなりました。日本兵に射殺された兄弟もいます。さらに,別の兄弟は,家が空襲を受けた時に妻を含む家族を亡くしました。

ビルマに残ったエホバの証人はごくわずかでした。リリーとデージーはピン・ウー・ルウィン(メイミョー)に移り住みます。丘陵地にあるその静かな町は,マンダレーに近い所にあります。二人はそこで真理の種をまき,その種は後に実を結びました。もう一人の証人シリル・ゲイは,ターヤーワディに移ります。ヤンゴンからおよそ100㌔北に位置する小さな村です。兄弟は終戦までその村で平穏に暮らしました。

喜ばしい再会

戦争が終わると,インドに逃げていた兄弟姉妹の多くはビルマに戻り始めます。1946年4月には,ヤンゴン会衆に8人の活発な奉仕者がいました。その年の終わりには24人に増え,兄弟たちは大会を開くことにしました。

二日間の大会は,インセインの学校で開かれました。ヤンゴンで1932年に真理を学んだテオ・シリオプロスは,こう回想します。「インドから戻ると,私が1時間の公開講演を行なう予定であることを知りました。それまでインドの集会で5分の話を2回しただけでした。ともかく大会は大成功で,100人以上が出席しました」。

数週間後,真理に関心を持つカレン族の首長が,アーロン地区の土地を会衆に提供してくれました。それはヤンゴンの中心部に近い川沿いの地区です。兄弟たちはその土地に竹で王国会館を建て,約100人分の座席も作りました。会衆は喜びにあふれていました。戦争を生き延びた兄弟姉妹は信仰を堅く保っており,意欲的に宣べ伝える業を推し進める心積もりでいました。

ギレアデの宣教者の第一陣が来る

上: ギレアデの宣教者の第一陣,ヒューバート・スメッドスタッド,ロバート・カーク,ノーマン・バーバー,ロバート・リチャーズ 下: (後列)ナンシー・デスーザ,ミルトン・ヘンシェル,ネイサン・ノア,ロバート・カーク,テレンス・デスーザ,(前列)ラッセル・モブリー,ペネロープ・ジャービスバッグ,フィリス・ツァトス,デージー・デスーザ,バシル・ツァトス

1947年の初めに,喜びつつヤンゴンの波止場に集まった兄弟たちは,ロバート・カークを出迎えます。ギレアデで訓練を受けてビルマに入った最初の宣教者です。それから程なくして,さらに3人がやって来ます。ノーマン・バーバー,ロバート・リチャーズ,ヒューバート・スメッドスタッドです。また,戦時中にインドで開拓奉仕をしていたフランク・デュワーも加わります。

宣教者たちが入った都市には,至るところに戦争の爪痕が残されていました。焼け焦げた建物が随所に見られ,大勢の人が道端に竹で掘っ立て小屋を作って住んでいました。煮炊きも洗濯も寝起きも屋外で行なわれていました。宣教者たちは聖書の真理を教えるためにやって来たので,そうした状況に順応して宣教奉仕に励みました。

1947年9月1日,ものみの塔協会の支部事務所が,市の中心に近いシグナル・パゴダ・ロードの宣教者ホームに開設されました。支部の監督に任命されたのはロバート・カークです。それから間もなく,ヤンゴン会衆はアーロン地区にある竹でできた会館から,ボガレイ・ゼイ通りのアパートの2階に移りました。そこから徒歩で数分の場所に,イギリスの植民地政府の庁舎である堂々たる建物がありました。そのころ,植民地政府の統治は終わりを迎えようとしていたのです。

内戦が始まる

1948年1月4日,イギリスは新しいビルマ政府に権力を委譲します。60年に及ぶ植民地支配の後にビルマは独立しました。ところがこの国は内戦に突入します。

さまざまな民族がそれぞれ独立した国を作ろうとして戦うとともに,民兵組織や強盗団が勢力争いを繰り広げました。1949年の初めには,反政府勢力が国内の大部分を掌握し,ヤンゴン近郊でも戦闘が始まりました。

戦闘の形勢が定まらない中,兄弟たちは注意深く宣べ伝えました。支部事務所はシグナル・パゴダ・ロードの宣教者ホームから,39番通りの大きなアパートの2階に移されました。外国の大使館が並ぶ安全な地域で,中央郵便局から徒歩3分の場所でした。

ビルマ軍は少しずつ勢力範囲を広げ,反政府勢力を山岳地に追いやりました。1950年代半ばには,政府は再び国内の多くの部分を掌握するようになりました。しかし,内戦は終結せず,さまざまな形の争いが今日まで続いています。

ビルマ語で宣べ伝えて教える

1950年代半ばまで,ビルマの兄弟たちは宣べ伝える業をもっぱら英語で行なっていました。都市や大きな町に住む教育を受けた人は,英語を話せました。しかし,それ以外の非常に多くの人はビルマ語(ミャンマー語),カレン語,カチン語,チン語その他の地方語を話していました。どうすればその人たちにも良いたよりを伝えられるでしょうか。

1934年に,シドニー・クートはカレン族のある教師に,幾つかの小冊子をビルマ語とカレン語に翻訳してもらいました。後に,「神を真とすべし」の書籍と数冊の小冊子が他の奉仕者たちによってビルマ語に翻訳されました。そして1950年,ロバート・カークはバ・オーに,「ものみの塔」の研究記事をビルマ語に翻訳するよう依頼しました。手書きの翻訳原稿をもとに,ヤンゴンの印刷業者が植字と印刷を行ない,印刷された記事が会衆の集会に出席する人たちに配られました。後に支部はビルマ語のタイプライターを購入し,翻訳作業の効率が上がりました。

バ・オー(左)は「ものみの塔」の研究記事をビルマ語に翻訳した

初期の翻訳者たちは多くの苦労を経験しました。バ・オーが翻訳を続けられなくなり,ネイガ・ポ・ハンが作業を引き継ぎました。兄弟はこう回想します。「日中は家族を養うために働き,夜は遅くまで薄暗い電球の明かりを頼りに記事を訳しました。英語の知識が限られていたので,訳には正確でないところも多かったと思います。ともあれ,できるだけ多くの人がこの雑誌から益を得て欲しいという一心でした」。ロバート・カークがドリス・ラジに,「ものみの塔」誌をビルマ語に翻訳するよう依頼した時,姉妹は圧倒され泣き出しました。ドリスはこう言います。「私は基礎的な教育を受けただけで,翻訳の経験はありませんでした。それでもカーク兄弟は,まずやってみるよう励ましてくださいました。それでエホバに祈り,仕事に取りかかりました」。50年近くたった今も,ドリスはヤンゴンのベテルで翻訳者として奉仕しています。93歳になったネイガ・ポ・ハンもベテルにおり,王国の業を推し進めようという熱意にあふれています。

1956年,ネイサン・ノアは「ものみの塔」誌がビルマ語で刊行されることを発表した

1956年,世界本部のネイサン・ノアはビルマを訪問し,「ものみの塔」誌がビルマ語で刊行されることを発表しました。兄弟はさらに宣教者たちに,ビルマ語を学ぶよう強く勧めました。より効果的に宣べ伝えられるようにするためです。この勧めに励まされた宣教者たちは,ビルマ語の学習に力を入れました。翌年,同じく世界本部から訪れたフレデリック・フランズは,ヤンゴン鉄道のホールで開かれた五日間の大会で基調をなす話をしました。そして,宣べ伝える業をさらに拡大するため,地方の都市や町に開拓者を送り出すよう兄弟たちに勧めました。開拓者が遣わされた最初の地域は,ビルマのかつての首都で国内第二の都市マンダレーです。

マンダレーにおける成果

1957年の初め,6人の新しい特別開拓者がマンダレーに到着します。そこではすでに,結婚して間もない宣教者のロバート・リチャーズと,カレン族の妻ベビーが奉仕していました。開拓者たちにとってその都市は,かなり努力の要る区域でした。仏教の中心地の一つであるマンダレーは,ビルマの僧侶の半数ほどが住む都市です。それでも開拓者たちは,古代コリントと同様,その都市にエホバの「民が大勢いる」ことを知りました。―使徒 18:10

その一人,ロビン・ザウジャはカチン族の21歳の学生でした。こう回想しています。「ある日の朝,リチャーズ夫妻の訪問を受けました。二人はエホバの証人と名乗りました。イエスが伝道するよう命じたので,家から家へ良いたよりを伝えている,とのことでした。(マタ 10:11-13)二人は証言をして自分たちの住所を教え,また雑誌や書籍を残してゆきました。その晩,わたしは書籍の一つを読み始め,明け方に読み終えました。その日のうちにロバートの家に行き,数時間にわたって質問攻めにしました。ロバートはどの質問にも聖書から答えてくれました」。やがてロビン・ザウジャは,カチン族で真理を受け入れた最初の人となりました。後に彼はビルマ北部で特別開拓者として長く奉仕し,真理を学ぶよう100人近くの人を助けました。子どものうち二人は現在,ヤンゴンのベテルで奉仕しています。

熱心な弟子になった人として,プラミラ・ガリアラもいます。当時17歳のプラミラは,ヤンゴンで真理を学び始めたばかりでした。こう述べています。「父はジャイナ教徒で,わたしが別の宗教を始めたことに激しく反対しました。二度,わたしの聖書と聖書文書を焼き捨て,人前でわたしを殴ったことも数回あります。クリスチャンの集会に行かせないよう,家に閉じ込めることもしました。リチャーズ兄弟の家を焼き払うと脅したことさえあります。しかし,何をしても信仰を捨てないのを見ると,徐々に反対しなくなりました」。大学をやめたプラミラは熱心な開拓者になり,後に巡回監督のダンスタン・オニールと結婚しました。これまでに真理を受け入れるよう45人の人を助けてきました。

マンダレーで業が進展する間に,支部は地方の他の主要な都市に宣教者や開拓者を派遣しました。パテイン(バセイン),カレーミョ,バモー,ミッチーナー,モーラミャイン,ミェイ(メルグイ)などです。エホバがその活動を祝福なさったことは明らかで,これらの町にしっかりした会衆ができました。

宣教者たちが追放される

宣べ伝える業が拡大する一方で,政治的・民族的緊張が高まってゆき,国は崩壊の危険に直面するようになります。1962年3月,ついに軍が政権を掌握します。インド人や英国系インド人が何十万人もインドとバングラデシュ(当時の東パキスタン)に追放されました。外国から訪れる人が取得できるのは24時間のビザだけでした。ビルマは鎖国政策を取り始めていたのです。

兄弟たちは不安を募らせながらこうした進展を見守りました。軍事政権は信教の自由を保障しましたが,宗教団体が政治に介入しないことがその条件でした。案の定,キリスト教世界の宣教師は政治への干渉をやめませんでした。1966年5月,政府は業を煮やし,外国人の宣教師全員に国外退去を命じました。エホバの証人の宣教者は政治に関して厳正中立の態度を取っていましたが,程なくして退去させられました。

地元の兄弟たちはショックを受けましたが,意気をくじかれることはありませんでした。エホバ神が共におられることを知っていたからです。(申 31:6)とはいえ,王国の業が果たして続けられるのだろうかと考える兄弟たちもいました。

エホバが物事を導いておられることは,やがて明らかになりました。以前の巡回監督で,支部で訓練を受けたことのあるモリス・ラジが,支部の世話をするよう速やかに任命されたのです。もともとインド人のモリスは,インド人が退去させられた時にも国にとどまることができました。本人はこう説明します。「何年か前に,私はビルマの市民権を申請しました。市民権証明書を発行してもらうのに必要な450チャット *がなかったので,申請を先に延ばしました。そんなある日,幾年か前に勤めていた会社の事務所の前を歩いていると,元上司が私を見かけて,大声でこう呼びかけてきました。『おい,ラジじゃないか。お金を持って行けよ。退職金を受け取るのを忘れているだろ』。その額は,ちょうど450チャットでした。

「私は事務所を出ながら,450チャットでできる事柄をあれこれと考えました。しかし,それが市民権証明書を得るのにちょうど必要な額だったので,その目的のために使うのがエホバのご意志だ,と思いました。それが最善の選択であったことは,あとで明らかになりました。他のインド人がビルマから追放された時にも,私はこの国にとどまることができ,自由に移動したり,文書を輸入したり,伝道活動に肝要な他の務めを果たしたりすることができたからです。それは私が市民権を得ていたためです」。

モリスとダンスタン・オニールは,国内の各地を巡り,会衆や孤立した群れを励ましました。モリスはこう語ります。「兄弟たちにこう話しました。『心配しないでください。エホバが共にいてくださいます。忠節を保つなら,エホバは助けてくださいます』。実際,エホバは助けてくださいました。やがて大勢の新しい特別開拓者が任命され,宣べ伝える業はさらに勢いを増し拡大してゆきました」。

それから46年たった現在でも,モリスは支部委員の一人としてミャンマーの各地に足を運び,会衆を強めています。古代イスラエルの年長者カレブのように,神の業に対する兄弟の熱心さは衰えていません。―ヨシュ 14:11

チン州にも業を広げる

早くに特別開拓者が入った地域の一つはチン州です。それはバングラデシュとインドに国境を接する山岳地です。この地域にはクリスチャンととなえる人が多くいます。英国の植民地だったころ,バプテスト派の宣教師たちが活動していたことによります。そのため,チン族の人は概して聖書を,また聖書を教える人たちを尊びます。

1966年の終わりに,ラル・チャナがファラムにやって来ます。元兵士のこの兄弟は,特別開拓者になっていました。ファラムはそのころ,チン州最大の町でした。後にはダンスタン・オニールと妻のプラミラ,それにタン・トゥムもやって来ました。タン・トゥムも以前は兵士でしたが,少し前にバプテスマを受けていました。これら熱心な奉仕者は,関心を持つ家族を幾つか見いだします。やがて小さいながら活発な会衆が設立されました。

翌年,タン・トゥムはファラムの南にあるハカという町に引っ越します。そこで開拓奉仕を始め,少人数の群れを設立しました。後にはチン州各地に伝道に行き,バンナ,スルクワ,ガンゴーをはじめとする場所で会衆を設立するのを助けました。兄弟は45年後の今も,郷里の村バンナで特別開拓者として奉仕を続けています。

タン・トゥムがハカを去った時,20歳の特別開拓者ドナルド・デュワーが後任となりました。両親のフランク・デュワーとリリー・デュワー(結婚前はリリー・メイ)は少し前に国外に退去させられ,18歳の弟サミュエルと共に奉仕することになりました。ドナルドは語ります。「トタン屋根の掘っ立て小屋に住んでいたため,夏はひどい暑さで,冬は凍えるような寒さでした。もっとつらかったのは孤独感に襲われたことです。いつも一人で奉仕し,地元の言語であるハカ・チン語をほとんど話せませんでした。集会はわたしとサミュエルと他の一人か二人の伝道者だけで開いていました。だんだん憂うつになり,割り当てられた場所を去ることも考えました。

「そのころ,『年鑑』を読んでマラウイの兄弟たちが残忍な迫害のもとで忠実を保っていることを知り,とても励まされました。 * 『孤独感に打ち負かされるようでは迫害に耐えられるわけがない』と考えました。不安な胸の内を祈りの中でエホバに注ぎ出すと,気持ちが安らぐようになりました。さらに,聖書や『ものみの塔』の記事を読んで思い巡らすことから力を得ました。思いがけずモリス・ラジとダンスタン・オニールが訪問してくれた時は,二人のみ使いを見ているような気持ちでした。少しずつ,でも着実に喜びを取り戻してゆきました」。

ドナルドは後に旅行する監督として奉仕した時,孤立した土地に住む証人たちを励ますために自分の経験を用いました。ハカにおける努力も実を結び,現在は活発な会衆があります。ハカではクリスチャンの大会が定期的に開催されています。ハカでの集会に出席していた伝道者のジョンソン・ラル・ブンとダニエル・サン・カも熱心な特別開拓者になり,チン州全域で良いたよりを広めました。

「山を登る」

大部分が標高900㍍から1,800㍍に位置するチン州には,3,000㍍に達する峰々もあります。多くの山はうっそうとした森に覆われ,高くそびえるチーク,堂々たる針葉樹,色とりどりのシャクナゲ,美しいランなどが見られます。起伏の激しい山岳地を旅するのはたいへんですが,雄大な眺めも楽しめます。この地方の町々を結ぶのは,舗装されていない曲がりくねった道です。雨季には,かろうじて通行できる道が,しばしば地滑りで通れなくなります。僻地の多くの村には,徒歩でしか行けません。こうした障害も,エホバの僕の意気をくじくことはありません。できるだけ多くの人に良いたよりを伝えようと決意しているからです。

チン州で夫と共に巡回奉仕をしたエイ・エイ・ティは,こう語っています。「平地のエーヤワディー・デルタで育ったわたしは,美しいチン丘陵の景色に魅了されました。最初の丘をいそいそと登りはじめましたが,丘の上まで来ると,ひどい息切れで座り込んでしまいました。幾つか丘が続いて疲労困ぱいし,このまま死んでしまうのではないかと思ったほどです。そのうち,山を登るこつが分かりました。時間をかけ,体力の消耗を防ぎながら登るのです。やがて,一日30㌔ほどのペースで,六日かそれ以上に及ぶ旅をこなせるようになりました」。

マトゥピ会衆の成員はハカで開かれるクリスチャンの大会に出席するため270㌔の距離を歩いた

チン州の兄弟たちは,これまでさまざまな交通手段を使ってきました。らばや馬や自転車に乗り,ごく最近になってオートバイ,乗り合いトラック,四輪駆動車なども使われるようになりました。ですが,たいていは徒歩で移動します。例を挙げましょう。特別開拓者のチョー・ウィンとデービッド・ザマは,マトゥピの周辺の村々に行くために,上り下りのある山道をひたすら歩きました。また,マトゥピ会衆の人たちは,270㌔離れたハカで開かれるクリスチャンの大会に出席するため,徒歩で片道六日から八日の旅をし,同じ距離をやはり歩いて戻りました。道中では王国の歌を歌い,美しい丘陵地に歌声が響きました。

このような移動は体力を大きく消耗させます。兄弟たちは山の厳しい天気にさらされ,蚊の大群や,気持ちの悪いさまざまな虫にも対処しなければなりません。とりわけ雨季には虫がよく出ます。巡回監督のミン・ルウィンはこう述べています。「森を歩いていた時,足にヒルが何匹か食いついているのに気づきました。払いのけると,もう2匹が這い上がってきました。倒木の上に飛び乗りましたが,ヒルが一斉に木に上がってきました。恐怖に襲われ,森を全速で駆け抜けました。開けた道にやっと出て,見ると,ヒルがたくさん食いついていました」。

地域監督のグムジャ・ノと妻のナン・ルはチン州で会衆間を歩いて移動した

チン州を移動する人が立ち向かわなければならない相手は,ヒルだけではありません。ミャンマーにはイノシシ,クマ,ヒョウ,トラも生息しています。毒ヘビの種類が世界のどの国よりも多いとも言われています。地域監督のグムジャ・ノと妻のナン・ルは,チン州で会衆間を歩いて移動し,夜は周りに焚き火をして野生動物を寄せつけないようにしました。

疲れを知らないこれら福音宣明者は,長く続くものを残しました。モリス・ラジはこう語ります。「その人たちは力を尽くしてエホバに仕えました。チン州を去ったあとも,ぜひまた行きたいという意欲にあふれていました。その働きは,紛れもなくエホバの誉れとなっています」。チン州は国内でも人口の極めてまばらな州ですが,現在七つの会衆と幾つかの孤立した群れがあります。

「ミッチーナーに“羊”はいません」

1966年,幾人かの特別開拓者がミッチーナーにやって来ました。美しいこの小さな町は,大きく湾曲するエーヤワディー川に挟まれる所に位置し,中国に近いカチン州にあります。その6年前,ロバート・リチャーズと妻のベビーはこの町で短期間伝道をしました。二人は,「ミッチーナーに“羊”はいません」と報告していました。とはいえ,新たに入った開拓者たちは,真理を切に求める人々を見いだしました。

その一人ミャ・マウンは,バプテスト派の19歳の男性で,聖書を理解できるよう助けてほしいと神に祈っていました。本人はこう語っています。「仕事場に開拓者が訪れて聖書研究を勧めてくれたので,とてもうれしく思いました。祈りの答えだと感じました。弟のサン・エイと一緒に週に2回研究し,弟もわたしも霊的に急速に進歩しました。

「援助してくれたウィルソン・テインは優れた教え手でした。どうすべきかをただ告げるだけでなく,実際に示してくれたのです。演じて見せたり練習の機会を作ったりしてくれたので,わたしたちは聖書を効果的に使い,大胆に宣べ伝え,反対に対処できるようになりました。会衆の話を準備し行なう方法も教わりました。ウィルソン・テインは,わたしたちが話をする時には必ず練習に立ち会って,改善のための提案を与えてくれました。そのように親身に訓練してもらえたので,霊的な目標をとらえる意欲を持つことができました。

「今では鉄道沿いの町であるナムティ,ホーピン,モニン,カターに活発な会衆があります」

「1968年にわたしとサン・エイが開拓奉仕を始め,ミッチーナーの開拓者は8人になりました。母とわたしの兄弟7人も早くにわたしたちと聖書を研究し,その全員が後に真理を受け入れました。わたしたちはまた,ミッチーナーとマンダレーの間の鉄道沿いの町や村でも伝道し,その旅は一日から三日かかりました。植えられた種は,後に実を結びました。今では鉄道沿いの町であるナムティ,ホーピン,モニン,カターに活発な会衆があります」。

サン・エイはミッチーナーの商業地区で奉仕していた時,プム・ラムに会いました。カチン族でバプテスト派のプム・ラムは,役所で働いていました。熱心な態度で真理を受け入れ,後にプタオに引っ越します。ヒマラヤ山脈のふもとの小さな町です。その町に住む大勢の親族に宣べ伝え,やがて25人がクリスチャンの集会に出席するようになります。兄弟は開拓者として奉仕するとともに,妻と7人の子ども,親族の多くが真理を学ぶよう助けました。現在,開拓者また長老としてミッチーナーで奉仕しています。

客車が来ない

1969年の大会でヤンゴンからミッチーナーに向かう特別列車に乗るエホバの証人

カチン州で霊的に急速な増加が見られたため,支部は1969年の「地に平和」国際大会を,通常の開催地であるヤンゴンではなくミッチーナーで行なうことに決めました。ヤンゴンから北に1,100㌔のミッチーナーに出席者を運ぶため,支部は客車6両を借り切る許可をビルマ鉄道に求めました。これは極めて異例な要請でした。カチン州は反政府活動の拠点であり,州への出入りは厳しく規制されていたからです。しかし驚いたことに,鉄道局は兄弟たちの要請を快く受け入れてくれました。

1969年にミッチーナーで開かれた「地に平和」国際大会に出席した長老たち。(後ろ)フランシス・バイドパウ,モリス・ラジ,ティン・ペイ・タン,ミャ・マウン,(真ん中)ダンスタン・オニール,チャーリー・アウン・テイン,アウン・ティン・シュエ,ウィルソン・テイン,サン・エイ,(前)マウン・カル,ドナルド・デュワー,デービッド・エイブラハム,ロビン・ザウジャ

大会のための列車がミッチーナーに到着することになっていた日,モリス・ラジと幾人かの兄弟は出席者を歓迎するため駅に行きました。モリスはこう語っています。「列車を待っていたところ,駅長が駆け寄り,ちょうど電報を受け取ったことを知らせてきました。当局が出席者を乗せた6両の客車を切り離したため,彼らがマンダレーとミッチーナーの間で足止めされたというのです。列車は余分の車両を引いたままでは坂を登れなかったようです。

「どうしたらよいでしょうか。まず思いついたのは,大会の日程を変更することでしたが,そうしようとすれば,一連の許可を申請し直さなければならず,受理されるまでに何週間もかかってしまいます。わたしたちがエホバに熱烈に祈っていたちょうどその時,列車が駅に入ってきました。わたしたちは目を疑いました。6両の客車すべてが兄弟たちでいっぱいだったのです。みんな,笑顔で手を振っています。いったい何が起きたのか尋ねると,一人がこう説明してくれました。『確かに6両が切り離されたのですが,わたしたちの乗った6両ではなかったのです』」。

「確かに6両が切り離されたのですが,わたしたちの乗った6両ではなかったのです」

ミッチーナーの大会は大成功でした。大会ではビルマ語の三つの新しい出版物と英語の五つの出版物が発表されました。3年前に宣教者が追放された時,ビルマに入る霊的食物は激減しましたが,今やあふれるほどに入って来たのです。

ナガ族の間で教える

ミッチーナー大会の4か月後,カムティの郵便局員から支部に手紙が寄せられました。カムティは,ビルマ北西部の川沿いの町で,インドとの国境に連なる高い山のふもとに位置しています。この辺りに住むナガ族は,さまざまな部族から成り,かつては首狩り族として恐れられていました。手紙を寄せた郵便局員のバ・イーは,以前はセブンスデー・アドベンティスト派の信者で,霊的な助けを求めてきました。支部は速やかに二人の特別開拓者アウン・ナインとウィン・ペを遣わします。

ウィン・ペはこう語ります。「カムティの飛行場で,ナガ族の怖そうな戦士たちが腰に布を巻いただけの姿で立っていたので不安になりました。するとバ・イーがわたしたちを出迎え,関心を持つ人たちのところにすぐに連れて行ってくれました。やがて5人の人と研究するようになりました。

ビアク・マウィア(後列の右端)とカムティ会衆。ナガ族の間で業が始まったころ

「しかし地元の当局者は,わたしたちがバプテスト派の牧師だと思い込みました。当時バプテスト派の牧師は,地元の反政府勢力とつながっていました。わたしたちが政治的に中立であることを説明しましたが,到着して1か月足らずで,その地域を去るよう命じられたのです」。

3年後,役人が替わり,以前に開拓者たちがいたその町で,18歳の開拓者ビアク・マウィアが奉仕を始めました。やがてバ・イーは郵便局を退職し,開拓奉仕を始めます。さらに,他の開拓者たちもやって来ました。これら熱心な奉仕者は程なくしてカムティに会衆を立ち上げます。また近隣の村々にも少人数の群れを作ります。ビアク・マウィアはこう回想します。「ナガ族の兄弟姉妹は学校で教わったことがなく,文字を読めません。それでも神の言葉を愛し,出版物中の挿絵を上手に使って熱心に宣べ伝えました。聖句をたくさん暗記し,王国の歌の歌詞も覚えました」。

今ではカムティで地域大会が定期的に開かれています。川船で15時間かかる,南方の町ホマリンからも出席者が訪れます。

“ゴールデン・トライアングル”での反対

一方,国の反対側でも業は拡大し,中国,ラオス,タイと国境を接する高地においても奉仕が行なわれるようになりました。そこは“ゴールデン・トライアングル”と呼ばれる三角地帯の中心です。なだらかな丘と肥沃な谷の続く美しい土地ですが,アヘンの生産,反政府活動,他の違法行為が横行する地域でもあります。この不安定な地域に真理を携えていった開拓者たちは,用心し,思慮を働かせました。(マタ 10:16)その宣べ伝える業に断固として反対してきた一つのグループがあります。それはキリスト教世界の僧職者たちです。

開拓者のロビン・ザウジャとデービッド・エイブラハムがシャン州の繁華な町ラシオにやって来ると,地元の僧職者はすかさず二人を反政府勢力の一味として告発しました。ロビンはこう語ります。「わたしたちは逮捕され,留置場に連行されました。留置場で警察に必要書類を提示しました。そのうち軍の少佐が出てきて,『ザウジャさんではないですか。エホバの証人はとうとうラシオにも来たんですね』と言いました。少佐は昔,同じ学校に通っていた人で,すぐわたしたちを釈放してくれました」。

二人の開拓者は奉仕を始め,やがてそこに会衆を設立しました。後には王国会館を建てました。2年後,二人は地元の役所に呼び出されます。そこには軍の関係者や部族の長や僧職者たち70人以上が集まっていました。ロビンはこう回想します。「僧職者は怒りをあらわにしながら,人々に伝統宗教を捨てるよう強要しているとしてわたしたちを非難しました。集まりの司会者が弁明の機会を与えてくれたので,聖書から答えてよいか尋ねました。許しが与えられて,すぐに短い祈りをささげ,偽りの宗教の伝統や兵役や国家主義的儀式について聖書の見方を説明しました。説明を終えると司会者は立ち上がり,ビルマの法律はどの宗教にも崇拝の自由を認めている,と発言しました。わたしたちは放免され,伝道を続けることを許されました。僧職者はひどく落胆しました」。

その後,中国との国境に近い小さな村モンポーで,激高したバプテスト派の暴徒たちが王国会館を焼き払いました。地元のエホバの証人がこの暴挙にも屈しないと,今度は特別開拓者の家を焼き払い,さらには兄弟姉妹の家に押しかけて兄弟たちを脅すようになりました。兄弟たちはその地区の指導者に介入を求めましたが,その指導者はバプテスト派の肩を持ちました。最後には役所が仲裁に入り,兄弟たちに新しい王国会館を建てる許可を与えました。しかも,元の王国会館のあった村の外れではなく,中心部に建てることを許可してくれたのです。

さらに南下し,ゴールデン・トライアングルに接するカイン州のレイトという山あいの辺鄙な村でのこと,グレゴリー・サリロはカトリック教会に執ように反対されました。こう述べています。「村の司祭は信徒たちに,わたしの菜園を荒らして使えなくするよう命じました。その後,信徒たちはわたしに食べ物を持って来ましたが,毒が入っていると友人が警告してくれました。ある日,司祭の取り巻きたちから,わたしが次の日にどの道を通るのかを聞かれました。当日,わたしは別の道を通り,待ち伏せして殺そうとする人たちの裏をかきました。命が狙われたことを通報したところ,当局は,わたしに手出ししないようにと,司祭と信徒たちに厳しく言い渡しました。エホバは『わたしの魂をつけねらっている』者たちから保護してくださったのです」。―詩 35:4

厳正中立の立場を保つ

注目すべき点として,ビルマの兄弟姉妹は多年にわたり,別の面でも忠誠の試みを受けてきました。クリスチャンとしての中立の立場が民族間の戦争や政治的な紛争によってしばしば試みられたのです。―ヨハ 18:36

南部の町タンビザヤでのことです。そこは,タイとビルマを結んだ泰緬鉄道の西側の起点です。“死の鉄道”として知られたその鉄道は,第二次世界大戦中に建設されました。特別開拓者のフラ・アウンはその町に住んでおり,折しも分離を目指す反政府勢力と政府軍との戦闘が生じました。本人はこう説明します。「軍は夜間に村々に押し入っては男たちを集め,銃で脅して連れ去りました。軍で運搬作業をさせるためです。多くの人は,二度と戻ってきませんでした。ある晩,家でドナルド・デュワーと話をしていた時,軍の兵士が村に押し入ってきました。妻が大声で危険を知らせてくれたので,私たちは森に逃げることができました。危うく難を逃れたその出来事のあと,隠れ場所を家の中に作りました。また来ても,すぐに身を潜められるようにするためです」。

特別開拓者のラジャン・パンディットは,タンビザヤの南にある町ダウェーにやって来ました。やがて近くの村で数人と聖書研究を始めましたが,その村は反政府勢力の拠点でした。兄弟はこう語ります。「村から戻ると兵士たちに拘束され,殴打されました。反政府の活動家たちと結託しているだろう,と言うのです。自分がエホバの証人であることを知らせると,どうやってダウェーに来たのかと詰問されました。わたしは記念として取っておいた飛行機の切符を見せました。それは飛行機で町に入った証拠になりました。反政府勢力が飛行機で移動することはあり得ませんでした。そのため,それ以上は殴打されずに済み,後に解放されました。とはいえ,兵士たちはわたしの聖書研究生の一人を尋問しました。その人は,一緒に聖書を学んでいただけであると証言しました。それ以後,兵士たちに煩わされることはなくなり,その中にはわたしの雑誌経路になった人さえいます」。

町の役人が兄弟たちに,選挙で投票したり国家主義的な儀式に加わったりするよう圧力をかけ,中立の立場を曲げさせようとすることがありました。ヤンゴンから約130㌔北の川沿いの町ザルンで,役人たちは地元のエホバの証人に選挙で投票するよう圧力をかけました。兄弟たちは堅く立ち,根拠として聖書の言葉を引き合いに出しました。(ヨハ 6:15)役人たちは,町を管轄する自治体に苦情を申し立てました。ところが当局者は,エホバの証人が政治に関して中立であることをよく知っていたのです。そのため,兄弟たちは選挙活動への参加を免除されました。

ビルマとインドの国境の町カムパトで,エホバの証人の児童23人が国旗に礼をすることを拒むと,校長は児童を放校しました。さらに,役人が大勢集まる会合に会衆の長老二人を呼び出しました。そこには町長や軍の司令官もいました。長老の一人ポール・カイ・カン・タンはこう語ります。「わたしたちの立場について聖書的な理由を説明しましたが,敵意をあらわにする役人もいました。それからわたしたちは,エホバの証人が『国旗の掲揚式の際に敬意を払いつつ静かに立っている』ことを認める旨を記した,政府の通達の写しを見せました。役人たちは唖然としました。動揺が収まると,軍の司令官が校長に,放校した生徒たちを復学させるよう命じました。校長はまた,その通達の写しを他の教育関係者に配布しました」。

現在では,ミャンマー政府の最高位の役人たちもエホバの証人が政治に関して中立であることを知っています。イエス・キリストが予告したとおり,エホバの僕たちが聖書の原則を堅く守ることは,りっぱな証言となっています。―ルカ 21:13

軍人がクリスチャンになる

騒然としたミャンマーの現代の歴史において,市民の中には以前に国軍や反政府勢力に属していた人も少なくありません。1世紀のローマ軍の士官コルネリオのように,「篤信の人で……神を恐れ」る人もいます。(使徒 10:2)そのような人は真理を知ると,生活をエホバの義の規準に合わせるため勤勉に努力します。

憎しみの連鎖から自由になったこの二人は,今では愛の絆で結ばれている。それは神の言葉の持つ,人を自由にする力を示すもの

その一人で,海軍の下士官だったフロン・マンは,モーラミャインに配属されていた時に真理を知りました。本人はこう語ります。「伝道をすぐに始めたいと思いました。しかし,除隊しようとしていた矢先,昇格して西側の豊かな国の軍学校に公費で留学する人の候補に挙がったことを知りました。それでも,神に仕えるという決意は揺るぎませんでした。上官たちは驚きましたが,除隊願いを提出し,エホバへの奉仕を始めました。30年ほどたった今も,その選択は正しかったと確信しています。真の神に仕えるという特権に勝るものはありません」。

アイク・リン(左)とサ・タン・トゥン・アウン(右)は,かつてジャングルにおける激戦で敵同士として戦った

ラ・バン・ガムは,軍病院で療養中に,「失楽園から復楽園まで」の本をロビン・ザウジャに見せてもらいました。 * ラ・バン・ガムはその本がすっかり気に入り,もらえないか尋ねました。しかしロビンは,それが1冊しかない個人用の本だったので,一晩だけ貸すことにしました。翌日ラ・バン・ガムを訪ねると,「本をお返しします。自分用ができたので」と,うれしそうに言われました。250ページの本全体を,徹夜でノート数冊に書き写したのです。それから間もなくラ・バン・ガムは除隊し,その「楽園」の“本”を使って大勢の人が真理を学ぶように助けました。

山岳地のシャン州でのこと,ビルマ軍の隊長サ・タン・トゥン・アウンと,ワ州連合軍の指揮官アイク・リンは,ジャングルにおける激戦で敵同士として戦ってきました。両勢力が最終的に停戦に合意すると,二人ともシャン州に居を定めました。後に別々に真理を知って除隊し,バプテスマを受けました。かつて敵同士だった二人は巡回大会で再会し,クリスチャンの兄弟として温かく抱擁し合いました。憎しみの連鎖から自由になった二人は,今では愛の絆で結ばれています。神の言葉の持つ,人を自由にする力のおかげです。―ヨハ 8:32; 13:35

「あらゆる人」と論じ合う

1965年から1976年にかけて,ビルマの伝道者の数は300%以上増えました。新しい人の多くは,キリスト教世界から出てきた人たちです。教会員の中に,エホバの証人による伝道に好意的にこたえ応じる人が多くいたのです。それでも兄弟たちは,「あらゆる人が救われて,真理の正確な知識に至ること」が神のご意志であるのを知っていました。(テモ一 2:4)そのため,1970年代半ば以降,他の宗教の人たちにも宣べ伝える努力を傾けるようになりました。仏教徒,ヒンズー教徒,精霊崇拝を行なう人がそれに含まれます。

僧衣をまとった仏教の僧侶をよく見かける

難しい面も多くあります。仏教徒は人格神または創造者を信じていません。ヒンズー教徒は何億もの神を崇拝します。この国の精霊崇拝者は,ナットと呼ばれる強力な霊たちを崇めています。これらの宗教は迷信,占い,心霊術に染まっています。宗教を持つ人の多くは,聖書を一つの聖典と見てはいますが,聖書の人物や歴史や文化や概念についてはほとんど知りません。

兄弟たちはそれでも,神の言葉の強力な真理にはどんな人の心も動かす力があることを知っています。(ヘブ 4:12)必要なのは神の霊に頼り,「教えの術」を用いることです。つまり筋道立った論議により人の心に訴え,生活を変化させようという意欲を抱かせるのです。―テモ二 4:2

例を挙げましょう。長く特別開拓奉仕をしてきたロザリーヌは,仏教徒と筋道立てて話をします。本人はこう言います。「創造者の存在について仏教徒に教えると,『ではだれが創造者を創造したのですか』とよく聞かれます。動物を人間の生まれ変わりと見ている仏教徒には,相手のペットを例に取って話を進めます。

「こう尋ねます。『ペットは主人が存在していることを知っているでしょうか』。

「『知っています』。

「『では,主人の仕事のことや,結婚しているか,どんな背景の人かなどは知っていますか』。

「『知らないでしょうね』。

「『人間も神とは違いますね。神は霊者です。そうであれば,神がどんな存在でどうして存在しているのか,人間が全部理解できるでしょうか』。

「『できませんね』」。

「兄弟たちが示してくれた愛は,『糖蜜にシロップ』のようでした」

このような論じ方によって,誠実な仏教徒の中には,神の存在についてさらに証拠を調べる気持ちになった人が少なくありません。筋道立てて話すとともに,純粋なクリスチャン愛を示す時,人々は心を大きく動かされます。以前に仏教徒だったオン・トゥインはこう語ります。「仏教の涅槃の教えと,聖書の述べる地上の楽園の約束を比べ,楽園のほうに心が引かれました。ですが,真理に至る道は幾つもあると考えていたので,学んだ事柄を行動に移す必要があるとは思いませんでした。そのような折にエホバの証人の集会に出席し始めました。兄弟たちが示してくれた愛は,『糖蜜にシロップ』のようでした。ビルマ語で,非常に心地よい経験を意味する表現です。示された愛に動かされ,学んだ真理に基づいて行動するようになりました」。

ビルマのエホバの証人,1987年

もちろん,自分の宗教的な信条について再考するよう人々を助けるには,巧みさや辛抱が必要です。クマール・チャカラバニの父親は厳格なヒンズー教徒でした。クマールが10歳だった時,ベテル奉仕者のジミー・ザビアーから読み方を教わることを許しました。クマールはこう語ります。「父は,息子には読み方を教えるだけで宗教は教えないでくれと,釘を刺しました。それでジミーは,『わたしの聖書物語の本』は子どもに読み方を教えるための教材としてうってつけであると伝えました。また,読み方のレッスンを終えたあと,時間を割いて父と話し,純粋な関心を示しました。父が宗教的な事柄を尋ねるようになると,ジミーは巧みに,『答えは聖書にあるので,一緒に答えを探してみませんか』と言いました。やがて父は真理を受け入れ,さらに家族や親族63人がエホバの証人になったのです」。

不穏な時期に大会を開く

1980年代半ばに,ビルマの政治情勢はますます不安定になりました。ついに1988年,多数の市民が街頭に繰り出し,政府に対する抗議活動を行ないました。しかし,その活動は速やかに鎮圧され,ほぼ全土に戒厳令が敷かれました。

ベテル奉仕者のチョー・ウィンはこう回想します。「当局は厳格な外出禁止令を出し,6人以上の集まりを禁止しました。わたしたちは,予定していた地域大会をキャンセルすべきかどうか迷いました。しかしエホバに信仰を置きながら,ヤンゴン管区の軍司令官に近づき,1,000人規模の大会を開く許可を求めました。二日後,何と許可が下りたのです。他の地区でも許可証を見せると,当局は大会を開くことを認めてくれました。エホバの助けによって,一連の大会を無事に開催することができたのです」。

クリスチャンの集まりをやめたりしない

1988年の抗議行動の後,国の経済情勢は悪化の一途をたどりました。それでも兄弟姉妹は,神への深い信仰を示し,引き続き王国の関心事を生活の中で第一にしました。―マタ 6:33

家族と共に辺境の村サガインに住むチン・カン・ダルの例を取り上げましょう。こう語っています。「家族でタハンでの地域大会に出席したいと思いました。片道,船とトラックで二日かかります。留守中にニワトリの面倒を見てくれる人がいませんでしたが,エホバに信仰を置いて出席しました。戻ってみると,19羽が死んでおり,それは経済面で大きな痛手でした。しかし1年後には,残ったわずかなニワトリが60羽以上に増えたのです。しかも,その年に村人の多くがニワトリを病気で失ったのに,うちのニワトリは無事でした」。

霊的な事柄に焦点を合わせてきた別の夫婦として,アウン・ティン・ニュンと妻のニェイン・ミャの例を挙げましょう。二人は子ども9人と共に,ヤンゴンの北西約60㌔の小さな村チョンシャに住んでいました。アウン・ティン・ニュンはこう語ります。「我が家の食事はたいてい,おかゆと野菜だけでした。お金はなく,売れる物もなかったのですが,落胆しませんでした。家族にはこう言いました。『イエスには頭を横たえる場所もなかったんだ。だからお父さんは,たとえ木の下で暮らすことになるとしても,飢え死にすることになっても,忠実を保って神の崇拝を続けようと思う』。

「エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人がわたしに何をなしえよう」。―ヘブ 13:6

「ある日,我が家の食べ物は底を突いてしまいました。妻と子どもたちは不安げにわたしの顔を見つめました。わたしは,『心配しなくて大丈夫だよ。神が助けてくださるから』と言いました。午前の野外奉仕に参加した後,息子たちと魚を取りに行きました。でも,取れた魚は一回の食事の分しかありませんでした。魚取りのかごを川辺の,スイレンの茂みのそばに残し,子どもたちに『集会のあとにまた来てみよう』と言いました。その日の午後は,強い風が吹いていました。戻ってみると,スイレンの葉の下に,風をよけようとして魚がたくさん集まっていました。それでかごを水中に下ろしたところ,大量の魚が取れました。その魚を売って,一週間分の食べ物が買えたのです」。

ミャンマーのエホバの僕たちは折あるごとに,神の心温まる約束が実現するのを経験してきました。「わたしは決してあなたを離れず,決してあなたを見捨てない」という約束です。そのためきっぱりと,「エホバはわたしの助け主,わたしは恐れない。人がわたしに何をなしえよう」と言えるのです。―ヘブ 13:5,6

出版における前進

1956年以降,定期的に発行される「ものみの塔」誌のミャンマー語(ビルマ語)版によって霊的食物が供給され,人々は益を得てきました。民族間の戦争,内乱,経済の混乱にもかかわらず,一号も欠かさず発行されました。雑誌はどのようにして作られてきたのでしょうか。

支部は多年にわたって,雑誌の翻訳原稿をタイプしたものを何部か,政府の検閲局に送ってきました。検閲を通過すると,支部は印刷用の紙を購入する許可を申請します。紙が手に入ると,一人の兄弟が雑誌の原稿と紙を印刷業者に持ち込みます。業者は全ページのミャンマー語(ビルマ語)の活字を一文字ずつ組んでゆきます。組み終わると,同じ兄弟は本文が正確かどうか校正します。それから,業者はおんぼろの印刷機で雑誌を印刷します。刷り上がった雑誌は何部か検閲局に送られ,その号について,番号の振られた発行許可証が交付されます。言うまでもなく,骨の折れるこの工程は何週間もかかり,しかも紙の質も印刷の質もあまりよくありませんでした。

1989年,支部に新しい出版システムが導入され,印刷の工程が一新されました。世界本部が開発し製作した多言語電算写植システム(MEPS<メップス>)は,コンピューターとソフトウェアと写植機を使って印刷用データを186の言語で出力できました。それはミャンマー語にも対応していたのです。 *

支部で働いていたミャ・マウンはこう語ります。「ミャンマーでコンピューターを使って印刷物の組版と出版を行なうようになったのは,エホバの証人が初めてだと思います。MEPSシステムは,わたしたちの支部でデザインされた美しいミャンマー語の文字を採用したこともあり,地元の印刷業界に波紋を起こしました。なぜそれほどきれいな文字を作れたのか,人々は理解できませんでした」。MEPSはオフセット印刷にも対応し,それまでの活版印刷と比べると大きな前進でした。さらに,質のよい挿絵を載せることもでき,「ものみの塔」誌は見た目にも一層魅力ある雑誌となりました。

1991年,ミャンマー政府は「目ざめよ!」誌を発行することを認め,兄弟たちはとても喜びました。一般の人々もそうでした。情報省の高官は,多くの読者の気持ちを反映した,次の意見を述べました。「『目ざめよ!』は宗教関係の他の雑誌とは違いますね。興味深い論題がいろいろ扱われ,分かりやすいので,とても気に入っています」。

過去20年の間に雑誌の印刷部数は900%も増えた

過去20年にわたって,支部で印刷された雑誌は1万5,000部から14万1,000部に増えました。これは900%もの増加です。「ものみの塔」と「目ざめよ!」は,今ではヤンゴンでよく目にし,国内各地に読者がいます。

新しい支部施設が必要になる

1988年の抗議行動の後,軍当局はミャンマーの社会組織や宗教組織に対し,政府への登録を呼びかけました。支部は当然ながらすぐに応じました。2年後の1990年1月5日,ミャンマーの「エホバの証人(ものみの塔)協会」が政府に正式に登録されました。

ベテルは手狭になっていた。床で衣類のアイロン掛けをする姉妹

このころ,支部は39番通りから,インヤー通りの約2,000平方㍍の敷地にある2階建ての家に移されていました。市の北部の郊外にある高級住宅街です。しかし,その新しい施設はすでに手狭になっていました。そのころ地帯監督としてミャンマーを訪問したビブ・モリッツはこう回想します。「ベテル家族25人は困難な状況で奉仕していました。厨房にはガスこんろがなく,一人の姉妹が電熱器1台で料理をしていました。洗濯室には洗濯機がなく,姉妹が床のくぼんだ場所を使って衣類を洗濯していました。兄弟たちはこんろと洗濯機を購入したかったのですが,輸入はできませんでした」。

もっと大きな建物が必要なことは明らかでした。そのため統治体は,既存の2階建ての家を取り壊して,同じ敷地に4階建ての宿舎と事務所を新築するという案を承認しました。しかし,この案を実施するには,幾つかの大きなハードルを乗り越えなければなりませんでした。第一に,政府の六つの部局から許可を得る必要がありました。第二に,地元の建築業者は鉄骨構造の建設をしたことがなく,作業を行なえませんでした。第三に,外国からのエホバの証人の奉仕者が国内に入ることはできませんでした。第四に,建築資材は地元では手に入らず,また輸入するのも無理でした。建設は最初から不可能に思えました。それでも兄弟たちはエホバを信頼しました。エホバが望まれるなら,新しい支部は必ず建設されるのです。―詩 127:1

「力にもよらず,ただわたしの霊による」

支部の法律部門のチョー・ウィンは,こう説明します。「建築の申請は政府の六つの部局のうち五つを順調に通りました。それには宗教省も含まれていました。ところが,今度はヤンゴンの都市開発委員会が,4階建ては高すぎるとして申請を却下しました。再度提出しましたが,やはりだめでした。支部委員会は,あきらめないよう励ましてくださいました。それでエホバに熱烈に祈り,3度目の申請を行なったところ,承認されたのです。

「次に入国管理省に掛け合いました。役人たちには,外国人は七日間の観光ビザでしか入国できないと言われました。しかし,外国から訪れる熟練した奉仕者たちから地元の人々が高度な建築技術の指導を受けられることを説明すると,6か月のビザを発給してくれたのです。

「今度は貿易省を訪れましたが,輸入はすべて凍結されていることを知らされました。しかし,どんなプロジェクトかを説明したところ,100万㌦を上回る建築資材を輸入する許可を与えてくれたのです。輸入税についてはどうでしょうか。財政省を訪問したところ,無税で輸入することが認められました。このほかにも数多くの方法で,神の語られたとおりであることを経験しました。『「軍勢によらず,力にもよらず,ただわたしの霊による」と,万軍のエホバは言った』という言葉です」。―ゼカ 4:6

外国の兄弟たちと地元の兄弟たちが一緒に緊密に働いた

1997年,奉仕者たちが建設現場に到着しました。建築資材の大半を寄付したのはオーストラリアの兄弟たちです。他の物資はシンガポール,タイ,マレーシアから寄せられました。工事を監督したブルース・ピカリングはこう語ります。「オーストラリアの何人かの兄弟が,鉄骨枠をすべて前もって作っておき,ミャンマーに出向いてそれらの枠をボルトで接合してゆきました。驚いたことに,穴の位置がずれている箇所は一つもなかったのです」。奉仕者たちは,英国,ギリシャ,ドイツ,ニュージーランド,フィジー,米国からもやって来ました。

地元の奉仕者たちが外国の兄弟姉妹と自由に交わることができたのは30年ぶりのことでした。ドナルド・デュワーはこう回想します。「興奮に包まれ,夢を見ているようでした。来てくれた人たちの霊性や愛や自己犠牲の精神に,大いに励まされました」。別の兄弟はこう語ります。「建築の技術を学べたのも貴重な経験でした。それまではろうそくしか使ったことのない奉仕者が,電灯の配線工事の方法を学んだのです。うちわしか使ったことのない人が,エアコンの設置方法を教わりました。電動工具の使い方も覚えたのです」。

ミャンマーのベテル

外国から訪れた奉仕者たちは,ミャンマーの兄弟姉妹の信仰と愛に深く心を動かされました。ブルース・ピカリングはこう述べています。「兄弟たちは貧しくても,心は非常に寛大です。家に招き,自分たち家族の数日分の食べ物でもてなしてくれたのです。生きてゆくのに本当に重要なものは何か,考えさせられました。それは家族,信仰,仲間の兄弟,神の祝福なのです」。

2000年1月22日,ナショナル・シアターで特別な集まりが開かれ,新しい支部施設が献堂されました。地元の兄弟たちは,統治体のジョン・E・バーによる献堂式の話を聞くことができ,胸を躍らせました。

新しい王国会館を建てる

新しい支部の工事の完成が近づくにつれ,兄弟たちは緊急に必要とされていたもう一つのもの,つまり王国会館に注意を向けました。1999年,日本から小山展彦と彩がやって来ました。兄弟の助けによって,支部に王国会館建設デスクが設置されました。こう語っています。「兄弟たちと一緒にまず,国内各地の会衆の集会場所を見て回りました。バス,飛行機,オートバイ,自転車,船,徒歩などで移動しました。多くの地区は外国人の立ち入りが制限されていたので,政府に立ち入りの許可を求めなければならないこともしばしばでした。新しい王国会館がどこで必要とされているかが明らかになると,統治体は親切にも,資金の限られた国々における建設のための取り決めから資金を提供してくださいました。

「結成された自発奉仕者のチームは,ヤンゴン郊外のシュウェピタに向かいました。新しい王国会館第一号の建設地です。外国の兄弟たちと地元の兄弟たちが一緒に働く様子を見て,地元の警察は仰天しました。工事を何度か止め,そのような共同作業の許可が下りているかどうか上官に確認していました。見ている他の人たちは,兄弟たちを称賛しました。ある男性はこう言いました。『外国人がトイレ掃除をするのを見たよ。外国人がそんなことをするのは見たためしがない。あなたたちは全く違うんだね』。

建設されて間もない王国会館に舟でやって来る

「ミャンマーとタイの国境沿いの町タチレイでも,別の建設チームが新しい会館の建設を始めました。国境を越え,ミャンマーの兄弟たちと現場で毎日作業したタイのエホバの証人も少なくありませんでした。二つのグループは,話す言語は違いましたが,一致していました。それとは全く対照的に,会館がほぼ完成したころ,国境沿いに対峙する二つの武装組織が戦闘を始めました。王国会館の周りに多数の爆弾や銃弾が落ちてきましたが,建物は無事でした。戦闘が収まると,72人が王国会館に集まり,平和の神エホバにその建物を献堂しました」。

1999年以降,王国会館を建設するチームは国内に65棟を超える王国会館を建ててきた

1999年以降,王国会館を建設するチームは国内に65棟を超える新しい王国会館を建てました。地元の奉仕者にはどんな益が及びましたか。感謝の厚い一人の姉妹は,喜びの涙を流してこう語りました。「これほど美しい王国会館を持てるとは,思ってもみませんでした。もっとがんばって,関心のある人を集会に招待するつもりです。示してくださった親切について,エホバと組織に感謝します」。同様の言葉はほかにも寄せられました。

宣教者たちの入国

ミャンマーでは多年にわたって鎖国状態が続いていましたが,1990年代には徐々に外国への門戸が開かれるようになりました。支部はその機会をとらえ,宣教者が入国する許可を政府に求めました。2003年1月,ついにギレアデ卒業生の青木浩志と潤子が日本からやって来ました。ミャンマーに宣教者が入るのは37年ぶりでした。

37年ぶりにミャンマーに宣教者として入った青木浩志と潤子

浩志はこう語ります。「この国には外国人があまりいなかったので,宣べ伝える業の性質について当局の誤解を招かないよう思慮深く行動する必要がありました。それで最初は,地元の兄弟姉妹の再訪問と聖書研究に同行するだけにしました。やがてミャンマーの人々が霊的な事柄に関する話し合いに喜んで応じることを知りました。奉仕に出かけた最初の日の午前中に,5件の新しい聖書研究が始まったのです」。

潤子はこう続けます。「エホバの導きを何度も経験しました。ある日,マンダレーの近くで聖書研究を終えてオートバイで帰る時,タイヤがパンクしてしまいました。近くの工場までオートバイを押して行き,タイヤの修理をお願いしました。守衛は主人とオートバイを中に入れてくれましたが,わたしは詰め所で待たなければなりませんでした。守衛はわたしが何者かと思ったようです。

「『ここで何をしているんですか』と聞いてきました。

「『友人を訪ねていたんです』と答えました。

「すると,『何のためですか。宗教の集まりですか』と問い詰められました。

「動機が分からなかったので,その問いには答えませんでした。

「守衛は,『はっきり言ってください。どの組織の人なんですか』とねばります。

「それでかばんから『ものみの塔』を取り出して見せました。

「守衛は,『やっぱりそうだ!』と興奮気味に声を上げました。そして同僚のほうを向いて,『ほら,天使がタイヤをパンクさせてエホバの証人を遣わしてくれたんだ!』と言いました。

「そして自分のかばんから,聖書と1枚のパンフレットを取り出しました。その人は以前,別の地区でエホバの証人と研究していましたが,マンダレーに引っ越してから連絡がつかなくなっていたのです。その場で聖書研究が取り決まりました。後には同僚の幾人かも研究に応じました」。

2005年には,さらに4人の宣教者がミャンマーにやって来ました。今回はフィリピンの宣教訓練学校(現在の「独身の兄弟のための聖書学校」)を出た兄弟たちです。その一人ネルソン・フニオは,多くの宣教者がぶつかる問題であるホームシックを経験しました。兄弟はこう言います。「寝る前には,泣きながら祈ることがよくありました。そのような折に,親切な兄弟がヘブライ 11章15,16節を見せてくれました。アブラハムとサラがウルにあった以前の家のことを思い出していたのではなく,神の目的に調和して前進しつづけたことが書かれています。その聖句を読んでからは,泣かなくなりました。割り当てられた場所を故郷と見るようになったのです」。

良い手本が多くの人に感化を与える

1世紀に使徒パウロはテモテにこう助言しました。「わたしから聞いた事柄,それを忠実な人々にゆだねなさい。次いでそうした人々は,じゅうぶんに資格を得て他の人々を教えることができるようになるでしょう」。(テモ二 2:2)この原則を心に留めた宣教者たちは,ミャンマーの地元の会衆が,世界じゅうのエホバの民の用いる神権的な手順にいっそう調和できるよう助けてきました。

例えば,宣教者たちは,地元の奉仕者の多くが聖書研究生を教える際,答えを本文から読み上げるよう促していることに気づきました。それはミャンマーの多くの学校で採用されている方法です。ジョーマー・ウビニャはこう述べています。「根気強く奉仕者たちを励まし,見解を知る質問を用いて研究生の考えや気持ちを引き出すよう勧めました。奉仕者たちはその勧めをすぐに当てはめ,結果としてもっと効果的な教え手になりました」。

宣教者たちは別の点にも気づきました。多くの会衆には長老か奉仕の僕が一人しかいませんでした。任命されたそれらの兄弟の中には,忠実かつ勤勉に働きながらも,成員に対して権威を振りかざす傾向のある人もいました。そのような人間的な傾向は1世紀の会衆にも見られたようです。当時,使徒ペテロは長老たちにこう促しました。「あなた方にゆだねられた神の羊の群れを牧しなさい。……神の相続財産である人々に対して威張る者のようにではなく,かえって群れの模範となりなさい」。(ペテ一 5:2,3)宣教者はどのように兄弟たちを援助できましたか。ベンジャミン・レイエスは,「自分たちが良い手本を示し,ひときわ親切に,優しく,近づきやすくなることを意識しました」と語っています。この良い手本は徐々に浸透してゆきました。多くの長老は接し方を改め,いっそう思いやり深く成員を牧するようになりました。

翻訳の質の向上がもたらした益

ミャンマーの兄弟たちは多年にわたり,19世紀に訳されたミャンマー語訳聖書を使ってきました。それはキリスト教世界のある宣教師が,仏教の僧侶たちの助けを借りて訳したものです。この翻訳は,すでに使われなくなったパーリ語の言葉を多用しているため,非常に難解です。それで2008年にミャンマー語の「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」が発表されると,兄弟たちは大喜びしました。モリス・ラジはこう語ります。「聴衆の拍手が鳴りやみませんでした。自分用の聖書を受け取り,喜びの涙を流す人もいました。この新しい訳は明解で分かりやすく,正確です。仏教徒にも理解しやすい訳です」。「新世界訳」が発表されてから間もなく,国内の聖書研究の数は40%以上増えました。

50年近くたった今も,ドリス・ラジはヤンゴンのベテルで翻訳者として奉仕している

他の多くの言語と同様,ミャンマー語にも二つの形式があります。一つはパーリ語とサンスクリット語に由来する文語で,もう一つは日常会話で用いられる口語です。文語も口語も,話す時にも書く時にも用いられます。エホバの証人の古い出版物の多くは文語を用いており,今では理解しにくいと感じる人が増えています。この点を踏まえ,支部では最近,出版物を日常のミャンマー語に訳すようになりました。ほとんどの人にとって,そのほうが理解しやすいからです。

ミャンマー支部の翻訳チーム

新しい出版物は,すぐに反響を呼びました。翻訳部門の監督タン・トゥエ・オーはこう説明します。「以前はよく,『あなたたちの本は格調高いけど,意味が分からないよ』と言われました。今では人々は目を輝かせ,すぐに読み始めます。『これはとても分かりやすい』という意見をたくさん耳にします」。会衆の集会での注解もよくなりました。聴衆は,出版物の内容をはっきり理解できるようになったからです。

現在,翻訳部門では26人の翻訳者が三つの言語,ミャンマー語,ハカ・チン語,スゴー・カレン語に翻訳する仕事に全時間携わっています。さらに,国内の他の11の言語に訳された文書もあります。

サイクロン・ナルギス

2008年5月2日,サイクロン・ナルギスがミャンマーを襲いました。風速66㍍にもなったそのサイクロンは,エーヤワディー・デルタからタイとの国境に至るまで破壊の爪痕を残し,多くの人命を奪いました。200万人以上が被災し,死者と行方不明者は14万人にも上りました。

非常に多くのエホバの証人も被災しましたが,驚異的なことに死傷者は出ませんでした。建設されて間もない王国会館に避難して生き延びた人は少なくありません。エーヤワディー・デルタの沿岸の村ボシンゴンでは,エホバの証人20人と村人80人が王国会館の天井の梁の上に9時間とどまりました。洪水の水は天井すれすれまで上がってきたところで引いてゆきました。

メイ・シン・オー。建設中の家の前

救援チームとトゥン・キン兄弟姉妹。二人の家はサイクロン・ナルギスで破壊されたが再建された。家の前で

支部は甚大な被害の及んだ河口部に救援チームを速やかに派遣しました。チームは,死体の散乱する荒廃した土地を通り,ボシンゴンに食料と水と医薬品を届けました。彼らは,その地域に最初に入った救援チームでした。地元の兄弟姉妹に物資を渡した後,聖書の話をして励まし,聖書と聖書文書も渡しました。持ち物はすべてサイクロンで流されてしまったからです。

大掛かりな救援活動を組織するため,支部はヤンゴンとパテインに災害救援委員会を設置しました。これらの委員会は何百人もの自発奉仕者を組織し,水や米や他の必需品が被災者に行き渡るようにしました。さらに,被災地を巡る建設チームを立ち上げました。サイクロンで損壊または全壊したエホバの証人の家の再建を行なうためです。

救援の奉仕を行なったトビアス・ルンドはこう語ります。「妻のソフィアと一緒に,16歳のメイ・シン・オーを見つけました。家族の中でこの少女だけが伝道者でした。崩れ落ちた家の横で聖書を日に当てて乾かしていました。わたしたちの姿を見ると笑顔になりましたが,涙がほおを伝っていました。程なくして,建設チームがやって来ました。ヘルメットをかぶり,電動工具と建築資材を携えてきた奉仕者たちが,家の新築工事に取りかかります。近所の人たちは目をみはりました。現場の周りには何日も,しゃがんで様子を見る人たちが集まり,その場所はちょっとした名所になりました。人々は,『こんなことは見たためしがない。あなたたちの組織は本当に一致して愛にあふれているね。わたしもエホバの証人になりたいよ』と言いました。今ではメイ・シン・オーの両親と兄弟たちも集会に出席するようになり,家族全員が霊的によく進歩しています。

救援活動は何か月も続きました。兄弟たちは何トンもの救援物資を届け,家屋160棟と王国会館8棟を修理もしくは建て直しました。サイクロン・ナルギスはミャンマーに悲劇と苦難をもたらしましたが,その嵐が去ったあと,愛の絆が際立ちました。その絆は,神の民を一致させエホバのみ名の栄光となりました。

忘れがたい催し

2007年の初め,ミャンマー支部は胸の躍るような知らせを受け取りました。「統治体からヤンゴンで国際大会を計画するようにとの要請があったのです」。こう語るのはジョン・シャープで,兄弟は前年から妻のジャネットと共に支部で奉仕していました。「2009年の大会では,10の国から何百人もの代表者を迎えることになりました。わたしたちの支部では全く初めてのことです」。

ジョンはこう続けます。「たくさんの疑問がわきました。『これほど大規模な大会を開ける会場があるだろうか。辺鄙な土地に住む奉仕者たちは出席できるだろうか。その人たちはどこに泊まるのか。どうやって来るのだろう。兄弟たちは家族を養えるだろうか。関係する当局はどう出るだろう。そのような集まりを許可してくれるだろうか』。難問を挙げれば切りがありませんでした。それでもイエスが語った,『人には不可能な事も,神にとっては可能です』という言葉を思い起こしました。(ルカ 18:27)それで神を信頼し,真剣に計画を始めました。

「やがてふさわしい会場が見つかりました。ミャンマーのナショナル・インドア・スタジアムです。座席数1万1,000の,空調設備の整ったその会場は,市の中心部近くにあります。すぐに当局に使用許可を申請しました。ところが,何か月も後,大会まであと数週間の時点で,まだ申し込みが承認されていませんでした。そのような折に,耳を疑うような知らせが入りました。スタジアムの管理者はその会場で,大会と同じ日にキックボクシングの試合の予定を入れていたのです。代わりの会場を探す時間はなかったので,難局を打開するため,競技の主催者および何十人もの役人と粘り強く交渉しました。ついに主催者は,試合を延期してもよいと言ってくれました。ただし,出場するプロのキックボクシングの選手16人が契約の変更に応じてくれればという条件付きでした。選手たちは,エホバの証人が特別な大会のために会場の使用を希望していることを知ると,全員が変更に同意してくれました」。

支部委員会,左から右: チョー・ウィン,フラ・アウン,ジョン・シャープ,ドナルド・デュワー,モリス・ラジ

支部委員会の別の成員チョー・ウィンはこう続けます。「しかし,政府からのスタジアムの使用許可はまだ得られず,申し込みはすでに4回却下されていました。エホバに祈った後,わたしたちはミャンマーのすべてのスタジアムを管轄する軍の高官と会見しました。大会は2週間後に迫っていました。これほど高い地位にある政府関係者との会見が認められたのは,初めてのことでした。たいへん喜ばしいことに,その高官は申し込みを承認してくれたのです」。

人知れずこうしたドラマが繰り広げられる中,国内全域と外国から大勢の出席者がヤンゴンに向かう準備を進めていました。飛行機,列車,船,バス,トラックで,さらには徒歩で行くのです。国内の多くの家族は,何か月も前からお金を貯めてきました。兄弟たちの中には,作物を栽培した人,豚を育てた人,服を縫った人もいれば,砂金を採りに行った人もいました。大きな都市に行くことや外国人を見ることは初めて,という人も少なくありませんでした。

ミャンマー北部に住む1,300人余りの兄弟たちはマンダレー駅に集合しました。借り切った特別列車でヤンゴンに向かうためです。ナガ山地から来たあるグループは,すでに六日の旅をしていました。その人たちは,二人の伝道者を手製の車椅子に乗せて出発しましたが,車椅子が出発後間もなく壊れたため,道中背負ってきたのです。何百人もが駅のホームに野宿し,しゃべったり笑ったり王国の歌を歌ったりして過ごしました。輸送関係の世話をしたプム・チン・カイはこう語ります。「みんなわくわくしていました。わたしたちは食べ物や水や寝るためのマットを配りました。列車がついに到着すると,長老たちはそれぞれのグループを指定された客車に誘導しました。ようやく『エホバの証人列車が出発します!』という放送が入ります。乗り遅れている人がいないかどうかホームをさっと見回してから,列車に飛び乗りました」。

ヤンゴンでは外国からの700人近い代表者がホテルに滞在しました。国内の3,000人を超える兄弟たちはどこに泊まればよいのでしょうか。宿舎部門で奉仕したミン・ルウィンはこう言います。「エホバがヤンゴンの証人たちの心を動かし,その人たちは兄弟姉妹を進んで世話しました。ある家族は15人を泊めました。客を泊めるための当局への登録の費用を自分で払い,朝食を出し,毎日スタジアムに通うための交通手段を提供したのです。地元の王国会館に泊まった人もいれば,大きな工場に泊まった人も大勢いました。このように手を尽くしたものの,まだ500人分の宿舎が足りませんでした。状況をスタジアムの管理者に説明したところ,会場内に泊まることを認めてくれました。それは前代未聞のことでした」。

「エホバがヤンゴンの証人たちの心を動かし,その人たちは兄弟姉妹を進んで世話しました」

2009年「ずっと見張っていなさい!」国際大会はヤンゴンの兄弟たちの信仰を強め,大きな証言となった

スタジアムはかなり傷んでいたため,350人を超える自発奉仕者が大会に向けて10日間働きました。大会監督のテー・ウィンはこう語ります。「水道と電気と空調設備の修理をしてから,会場全体の塗装と清掃をしました。この膨大な作業は,良い証言となりました。そのスタジアムの責任者である軍の士官は感激して,『ありがとう,本当にありがとう。あなたたちがこれからも毎年このスタジアムを使ってくれるよう神に祈ります』と言いました」。

大会は2009年12月3日から6日にかけて開かれ,5,000人余りが出席しました。最終日には,大勢の出席者が伝統衣装を身に着け,色とりどりの装いが目を引きました。ある姉妹は,「皆が抱擁を交わし涙を流していました。プログラムが始まる前からそうでした」と述べています。統治体のゲリト・レッシュが結びの祈りをささげ終えると,拍手がわき起こり,聴衆は何分も手を振り続けました。86歳の姉妹は,「新しい世にいるようだわ」と言いましたが,そう感じた人は少なくありませんでした。

政府の当局者の多くも感銘を受けました。ある役人はこう語りました。「この集まりはすごいですね。汚い言葉を使う人,たばこを吸う人,ビンロウジをかむ人がいません。いろいろな民族が一致しています。このようなグループは見たことがありません」。モリス・ラジは,「ヤンゴンの軍の高官から,自分も同僚たちもそのような印象深い催しを見たことはないと言われました」と述べています。

多くの出席者は,特別な場に居合わせることができたと感じました。地元のある兄弟はこう語っています。「大会前は,国際的な兄弟関係について聞くだけでした。今回はそれを経験できたのです。兄弟たちに愛を示していただいたことは決して忘れません」。

「大会前は,国際的な兄弟関係について聞くだけでした。今回はそれを経験できたのです」

収穫を待って白く色づく

2,000年近く前,イエスは弟子たちにこう言いました。「目を上げて畑をご覧なさい。収穫を待って白く色づいています」。(ヨハ 4:35)この言葉は現在のミャンマーにも当てはまります。国内の伝道者は3,790人で,人口1万5,931人に一人の比率です。収穫のための広大な畑があることは明らかです。2012年の記念式に8,005人が出席したことも,増加の見込みが大きいことを示しています。

増加の見込みを示すものとして,ラカイン州の例も取り上げましょう。バングラデシュと国境を接する沿岸のその州には,400万人近くが住んでいますが,エホバの証人は一人もいません。モリス・ラジはこう語ります。「その地域の人たちから,文書や霊的な援助を希望する手紙が毎月たくさん寄せられます。さらに,ミャンマーの仏教徒,とりわけ若い人の中で真理に関心を示す人が増えています。ですから,収穫に働き人を遣わしてくださるよう,収穫の主人にお願いしています」。―マタ 9:37,38

「収穫に働き人を遣わしてくださるよう,収穫の主人にお願いしています」

100年近く前,仏教徒が多くを占めるこの国に,二人の勇敢な開拓者が良いたよりを携えてきました。それ以来,民族的な背景の異なる幾千人もの人たちが真理の側に立場を定めました。暴力的な紛争,政情不安,貧困の蔓延,宗教的迫害,国際社会からの孤立,自然災害などにもかかわらず,ミャンマーのエホバの証人はエホバ神とみ子イエス・キリストに対する揺るぎない専心の念を示してきました。彼らは,王国の良いたよりを宣べ伝え,「十分に耐え忍ぶ者,また喜んで辛抱する者」となることを決意しています。―コロ 1:11

^ 2節 ミャンマーは以前ビルマと呼ばれていました。その国名は,最大の民族であるバマー(ビルマ族)から取られたものです。国名は1989年にミャンマー連邦に変更されました。この「年鑑」では1989年以前の出来事についてはビルマという呼称を,それ以降についてはミャンマーという呼称を用います。

^ 8節 英国系インド人とは,インド人とイギリス人の血を引く人たちです。ビルマは英国の統治下で「英領インド」の一部とされ,大勢のインド人がビルマに移住しました。

^ 8節 バートラム・マーセリーンはビルマでバプテスマを受けてエホバの証人になった最初の人です。1960年代の終わりにビルマで亡くなり,最後まで忠実でした。

^ 62節 この額は当時,約95㌦に相当し,かなりの金額でした。

^ 71節 「1966 エホバの証人の年鑑」(英語),192ページをご覧ください。

^ 113節 発行: エホバの証人。現在は絶版。

^ 140節 MEPSは現在,600を超える言語に対応しています。