百年前の年 ― 1913
「ものみの塔」1913年1月1日号(英語)に,米国のジャーナリスト,ハーバート・コーフマンの言葉が引用されました。それは,当時の人々の感情を的確に伝えるものでした。「“不可能”という語は今や古語となった。……過去においては夢でしかなかったものが,ほぼすべて現実となった」。この言葉のとおり,1913年当時,世界の人々は将来を楽観的に見ていました。
その一因は,技術の進歩にありました。例えば米国では,ミシガン州ハイランド・パークにフォードモーター社が新しい工場を開設しました。自動車の価格がほぼ一夜にして大きく下がり,車は一般大衆の手の届くものとなったのです。どのように価格を下げたのでしょうか。工場に組立ラインを導入しました。この方法によってフォード社は,それまでと比べてごくわずかな時間でT型フォードという大衆車を組み立て,価格を下げることができたのです。
エホバの民も楽観的な見方をしていましたが,その理由は異なるものでした。聖書研究者たちはかねてから1914年に注意を向け,それが人類史において極めて重要な年となることを知らせていました。彼らは大きな期待を抱いていました。熱心に活動していた証拠に,その年が近づいても業のペースを落とさなかったのです。
1913年6月,米国ミズーリ州カンザスシティーにおける一日大会を皮切りに,一連の大会が始まりました。続く4週にわたって,200人を超える幸福な兄弟姉妹のグループが貸し切り列車で米国西部とカナダを巡る旅をしました。どの大会においても,初めて訪れた人たちは,さらに情報を求めるよう勧められました。大勢がその勧めにこたえ応じ,後日,聖書研究者がそれら関心を持つ人と連絡を取りました。
1913年はブルックリン本部の奉仕者にとっても忙しい年でした。「創造の写真劇」を制作していたのです。これは8時間に及ぶプログラムでした。録音された聖書講演や音楽を,活動写真やガラス製のカラースライドと組み合わせて提供しました。それら聖書研究者は「写真劇」によって,関心を持つ幾百万もの人に音信を伝えようとしていました。当時,良いたよりを活発に告げ知らせる人はわずか5,100人ほどでしたが,「写真劇」の目的として掲げられたのは「世界じゅうに可能な限り広く情報を伝える」ことでした。
1914年には何が控えているのでしょうか。「写真劇」に対する反応はどのようなものですか。異邦人の時が終わる1914年の秋に何が起こるのでしょうか。聖書研究者はエホバの後ろ盾があることを確信しつつ,これらの問いの答えが出るのを待ち望んでいました。
それから間もなく起きる“大戦”によって,世界の楽観的な見通しは失われます。後に第一次世界大戦と呼ばれた戦争です。技術の進歩は,人々が直面する問題の答えとはなりません。翌1914年は,聖書研究者にとって,さらには全世界にとって,大きな変化の年となるのです。