マタイによる福音書 5:1-48
注釈
山に: ガリラヤ湖畔でカペルナウムの近くと思われる。イエスは,山の少し高い所に登ったようだ。そこで目の前の平らな所に広がる群衆に教え始めた。(ルカ 6:17,20)
腰を下ろす: ユダヤ教の教師たちの習慣。特に,改まった場での講義でそのようにした。
弟子たち: 「弟子」と訳されるギリシャ語名詞マテーテースが出てくる最初の箇所。学ぶ人,教えを受ける人を指し,教師への個人的な愛着が含まれる。それが弟子の生き方を方向付けるものとなった。大勢の人がイエスの話を聞くために集まったが,イエスはおもに,自分のそばに座っていた弟子たちのために話したようだ。(マタ 7:28,29。ルカ 6:20)
神の導きが必要であることを自覚している人たち: または,「聖なる力を乞い求める人たち」。「自覚している人たち」と訳されているギリシャ語の表現は字義的には,「貧しい人たち(貧乏な人,困窮者,物乞い)」という意味。この文脈では,何かを必要としていて,そのことを強く意識している人に関して使われている。ルカ 16:20,22でラザロに使われている「物乞い」も同じ語。このギリシャ語は他の幾つかの翻訳では「霊において貧しい」人たちとも訳されていて,神との関係で窮乏していて神が必要であることを痛感している人たちという考えを伝えている。ルカ 6:20の注釈を参照。
幸福: ここで使われているギリシャ語マカリオスは,楽しいひとときを過ごしている時のような,陽気な状態だけを指すのではない。この語が人に使われる場合,神に祝福されて恵みを得ている状態を指す。神や,天の栄光を受けたイエスにも使われている。(テモ一 1:11; 6:15)
その人たち: イエスの後に従う人たちを指す。イエスはおもにその人たちに向けて話していた。(マタ 5:1,2)
嘆き悲しむ人たち: 「嘆き悲しむ」と訳されるギリシャ語(ペンテオー)は,一般的な意味での深い嘆き悲しみや,罪のゆえに打ちのめされた気持ちを指す。この文脈で,「嘆き悲しむ人たち」は,マタ 5:3の「神の導きが必要であることを自覚している人たち」と同種の人たち。神との関係で窮乏しているために,また自分の罪深い状態や,人間の罪深さに起因する苦しい状況のために嘆き悲しむ場合がある。パウロは,コリント会衆で起きたひどい不道徳のために嘆き悲しまなかった会衆をとがめた時に,この語を使った。(コ一 5:2)コ二 12:21では,コリントの会衆で罪を犯して悔い改めない人について「嘆くことになる」かもしれないと心配している。弟子ヤコブは,「罪人たち,手を清めてください。優柔不断な人たち,心を清めてください。悲しみに暮れ,嘆き,泣いてください」と語っている。(ヤコ 4:8-10)自分の罪深い状態を本当に悲しんでいる人は,慰められる。キリストの贖いの犠牲に信仰を抱き,エホバの望まれることを行って真の悔い改めを示すなら,罪を許されるから。(ヨハ 3:16。コ二 7:9,10)
温和な: 神の意志と導きに進んで従い,他の人を支配しようとしない人たちの内面の気質。ギリシャ語に臆病さや弱さの含みはない。セプトゥアギンタ訳で,この語は「温厚な」や「謙遜な」と訳せるヘブライ語に対応する語として使われている。モーセ(民 12:3),教えやすい人(詩 25:9),地上に住み続ける人(詩 37:11),メシア(ゼカ 9:9。マタ 21:5)に関して使われている。イエスは自分を温和な人,温厚な人と述べた。(マタ 11:29)
地球を与えられる: イエスは,詩 37:11に言及していたと思われる。そこには,「温厚な人は地上に住み続け」るとある。「地」と訳されるヘブライ語(エレツ)とギリシャ語(ゲー)は共に,地球も,約束の地などの特定の地域も指せる。聖書は,イエスが温和な人の最高の手本であることを示している。(マタ 11:29)さまざまな聖句から分かるように,イエスは王として地球の一部ではなく全体に対する権威を与えられ(詩 2:8。啓 11:15),天に行くよう選ばれた弟子たちもその権威を受ける。(啓 5:10)一方,イエスの統治の下で地上に住む温和な弟子たちは,地球を所有するのではなく,王国の地上の領域であるパラダイスでの生活を楽しむ素晴らしい機会を「与えられる」。マタ 25:34の注釈を参照。
正しいことを切望している人たち: または,「正しいことに飢え渇いている人たち」。腐敗と不公正に代わって正邪に関する神の基準が守られるのを見たいと強く望む人のこと。その人たちは神の基準に従うよう努力する。
憐れみ深い: 「憐れみ深い」また「憐れみ」と訳される語の聖書中の用法は,裁きの際の許しや慈悲に限定されてはいない。たいていの場合,困っている人を進んで助けるよう人を動かす,思いやりやかわいそうに思う気持ちを表す。
心の純粋な: 内面が清いこと。道徳的また宗教的な清さを指す。愛情,欲求,動機の面を含む。
神を見る: 「[神]を見て生きていられる人はいない」ので,必ずしも文字通りの意味ではない。(出 33:20)ここで「見る」と訳されているギリシャ語は「頭で見る,知覚する,知る」ことも意味する。エホバの地上の崇拝者は,神の言葉の研究で信仰を築いて神の性質を深く理解し,神が行動してくださるのを認識することによって,「神を見る」。(エフ 1:18。ヘブ 11:27)天に行くよう選ばれたクリスチャンは,復活する時,実際にエホバを「ありのままに」見る。(ヨ一 3:2)
平和をつくる: または,「平和を求める」。ギリシャ語エイレーノポイオスは,「平和をつくる」という意味の動詞に由来し,単に平和を維持するだけではなく,平和がないところに平和をもたらす人を指す。
塩: 食物の保存や味付けに使われたミネラル。この文脈で,イエスは塩の保存作用に注目していたと思われる。弟子たちは,人々が神との関係や正しい道徳観を保つよう助けることができた。
塩気を失った: イエスの時代,塩は死海地方産のものが多く,他の鉱物が混入していた。その混合物から塩気のある部分がなくなると,味がなく役に立たない物だけが残った。
山の上にある町: イエスは特定の町のことを言っていたのではない。当時,たいていは敵が攻めにくいように,多くの町は山の上にあった。そのような町は大きな城壁に囲まれていたので,遠くから見え,存在は隠せなかった。小さな村でも,たいていの家は壁が白く,同様だっただろう。
ランプ: 聖書時代,普通の家庭用ランプはオリーブ油を入れた小さな土器。
籠: 穀物などの乾いた物を量るのに使われた。ここで言われている「籠」(ギリシャ語モディオス)は容量が約9リットル。
父: イエスは福音書で,エホバ神のことを160回以上「父」と呼んでいるが,ここはその最初の箇所。イエスがこの語を使ったことは,聞き手がヘブライ語聖書中の用法から神に関するこの語の意味合いを理解していたことを示している。(申 32:6。詩 89:26。イザ 63:16)神に仕えたそれ以前の人たちは,エホバについて「全能の神」,「至高者」,「偉大な創造者」など,さまざまな高尚な称号を用いたが,イエスが「父」という簡単で日常的な言葉をよく使ったことは,神が崇拝者にとって身近な存在であることを際立たせている。(創 28:3。申 32:8。伝 12:1)
律法……預言者: 「律法」は聖書の創世記から申命記までの書,「預言者」はヘブライ語聖書の預言書を指す。とはいえ,これらの語が一緒に使われる時,それはヘブライ語聖書全体を意味する場合がある。(マタ 7:12; 22:40。ルカ 16:16)
はっきり言いますが: または,「真実に言いますが」。ここのギリシャ語に含まれているアメーンという語は,ヘブライ語のアーメーンを翻字したもので,「そうなりますように」もしくは「確かに」という意味。イエスは発言や約束や預言の前置きとして頻繁にこの表現を使って,絶対的な真実性と信頼性を強調した。イエスのこの語の用い方は,宗教的文書で他に例がないとされている。ヨハネの福音書全体に見られる通り,イエスはこの語を2度重ねて(アメーン,アメーン)自分の言葉の信頼性をさらに強調することもあった。ヨハ 1:51の注釈を参照。
最も小さな文字: 当時のヘブライ語アルファベットで,最も小さな文字はヨード(י)だった。
文字の1画: 幾つかのヘブライ文字は小さな1画で他の文字と区別された。イエスの誇張法によって,神の言葉がごく小さな点まで実現することが強調された。
天地が消え去る方がまだ早い: 「決してない」という意味の誇張表現。聖書は,文字通りの天地が永続することを示している。(詩 78:69; 119:90)
あなたたちは……こう命じられたのを知っています: これは,ヘブライ語聖書で述べられていることも,ユダヤ人の伝承の教えも指せる表現。(マタ 5:27,33,38,43)
法廷に引き出される: イスラエル各地にあった地方法廷のいずれかで裁判にかけられる。(マタ 10:17。マル 13:9)地方法廷には殺人事件を裁く権限があった。(申 16:18; 19:12; 21:1,2)
憤りを抱き続ける: イエスは,この間違った態度を殺人につながりかねない憎しみと関連付けている。(ヨ一 3:15)最終的に,神はその人を殺人者と裁くかもしれない。
ひどく侮辱的な言葉: ギリシャ語のラカ(ヘブライ語かアラム語に由来する可能性がある)を訳したこの表現は,「空の」あるいは「頭が空の」という意味。仲間の崇拝者にそのような侮蔑の言葉を浴びせる人は,心の中で憎しみを募らせており,それを侮辱的な言葉であらわにするのだろう。
最高法廷: サンヘドリン全体。エルサレムにあり,大祭司および70人の長老や律法学者たちで成る司法機関。ユダヤ人はその裁定を最終的なものと見なした。用語集の「サンヘドリン」参照。
どうしようもない愚か者: ここのギリシャ語は,「反逆の」あるいは「反乱の」という意味のヘブライ語と似た響きを持つ表現。道徳的に腐敗し切った人や背教者を指す。仲間をそのように呼ぶのは,その仲間が神への反逆者に相応の処罰である永遠の滅びに値すると言うのと同じ。
ゲヘナ: この語は,ヘブライ語ゲー ヒンノームに由来し,「ヒンノムの谷」という意味。その谷は古代エルサレムの南から南西にあった。(付録B12,「エルサレムとその周辺」の地図を参照。)イエスの時代には,ごみ焼却場になっていたので,「ゲヘナ」という語は完全な滅びの象徴として適切だった。用語集参照。
供え物を祭壇に: イエスは特定の捧げ物や違反に限定せずに述べた。この供え物は,モーセの律法に従ってエホバの神殿で差し出されるどんな犠牲の捧げ物も含む。この祭壇は,神殿の祭司の庭にあった全焼の捧げ物の祭壇のこと。一般のイスラエル人はこの庭に入れず,その入り口で祭司に供え物を渡した。
仲間: 直訳,「兄弟」。ギリシャ語,アデルフォス。ある文脈では,家族関係にある兄弟。しかしこの文脈では,信者同士の関係を述べており,神を崇拝する仲間を指す。当時のエホバの神殿での崇拝について述べられているから。さらに別の文脈で,この語はより広い意味で,仲間の人間を指す。
供え物を……残して,出掛けていきなさい: イエスが描写した場面で,崇拝者は今にも祭司に犠牲を渡そうとしている。それでも,兄弟との問題をまず解決する必要があった。神に受け入れられる仕方で供え物を捧げるには,出掛けていって,感情を害している兄弟を見つける必要があった。その兄弟は,季節ごとの祭りのためにエルサレムに来た非常に大勢の巡礼者の中にいただろう。普通,神殿に犠牲を持ってくるのは,そうした祭りの時期だった。(申 16:16)
仲直りし: ここのギリシャ語は,「敵意から友情へ変化する」,「和解する」,「通常の関係や良い関係に戻る」と定義されている。それで,目指すのは,できるなら,感情を害している人の心から悪感情を除き去って,変化を生じさせること。(ロマ 12:18)他の人との良い関係を保つことが神との良い関係を持つための必要条件であることをイエスは言おうとしていた。
最後の小さな硬貨: 直訳,「最後のクワドランス」。1デナリの64分の1。1デナリは1日分の賃金。付録B14参照。
あなたたちは,こう命じられたのを知っています: マタ 5:21の注釈を参照。
姦淫をし: 結婚している人が性的に不忠実な行為をすること。ここでギリシャ語動詞モイケウオーが使われていて,引用元の出 20:14と申 5:18には,それに対応するヘブライ語動詞ナーアフがある。聖書で,姦淫は結婚している人とその配偶者ではない人との間の意図的な「性的不道徳」行為のこと。(マタ 5:32の注釈と比較。そこには,ギリシャ語ポルネイアの訳である「性的不道徳」という語の説明がある。)モーセの律法が有効だった間,他の人の妻や他の人の婚約者と意図的に性関係を持つことは姦淫と見なされた。
あなたに罪を犯させている: 直訳,「あなたをつまずかせる」。または,「信仰の妨げとなっている」。ギリシャ語聖書で,ギリシャ語スカンダリゾーは比喩的な意味で使われていて,罪に陥ることや人を罪に陥らせることが含まれる。この文脈では,「わなとなる」とも訳せる。この語が聖書で使われるとき,その罪とは,道徳に関する神の律法を破ること,信仰を失うこと,偽りの教えを受け入れることを意味すると思われる。このギリシャ語は「腹を立てる」という意味でも使われる。マタ 13:57; 18:7の注釈を参照。
ゲヘナ: マタ 5:22の注釈と用語集を参照。
離婚証書: モーセの律法は離婚を勧めてはいない。証書を作ることは,性急に結婚を解消するのを思いとどまらせ,女性を保護するものとなった。(申 24:1)証書を得ようと思う夫は,しかるべき権限を持つ人たちに相談しなければならなかっただろう。その人たちは夫婦に和解を勧めたかもしれない。
誰でも……妻を離婚するなら: マル 10:12の注釈を参照。
性的不道徳: 聖書中の用法では,ギリシャ語ポルネイアは,神に禁じられた性的な行動を広く指す語。姦淫,売春,結婚していない人同士の性関係,同性愛,獣姦などが含まれる。用語集参照。
妻は姦淫をすることになりかねません: 妻は離婚されただけで姦淫に至るわけではないが,姦淫をすることになりかねない状況に置かれる。性的不道徳(ギリシャ語ポルネイア)以外の理由で夫が妻を離婚すると,妻が他の男性と性関係を持って姦淫に至る可能性が生じる。聖書の基準では,夫が死んだり性的に不忠実になったりするなど,離婚した夫の状況に変化がない限り,その女性には結婚する自由がない。クリスチャンの場合,性的不道徳以外の理由で妻が夫を離婚したら,夫にも同じ基準が適用される。
離婚された女性: 「性的不道徳」(ギリシャ語ポルネイア,この節の性的不道徳に関する注釈を参照)以外の理由で離婚された女性のこと。マル 10:12(注釈を参照)のイエスの言葉から分かるように,ここでの基準は離婚しようとする夫にも妻にも当てはまった。イエスは,夫か妻が性的不道徳以外の理由で離婚して再婚するなら,それは姦淫に等しいということを指摘した。独身の男性もしくは女性が,そのようにして離婚された人と結婚するなら,やはり姦淫の罪を犯すことになった。(マタ 19:9。ルカ 16:18。ロマ 7:2,3)
あなたたちは……こう命じられたのを知っています: マタ 5:21の注釈を参照。
エホバ: これはヘブライ語聖書の特定の節からの直接引用ではないが,イエスが言及した2つの命令はレビ 19:12,民 30:2,申 23:21などの聖句を連想させる。これらの聖句の元のヘブライ語本文には,ヘブライ語の4つの子音字(YHWHと翻字される)で表される神の名前が出ている。付録C参照。
一切誓ってはなりません: イエスはここで,あらゆる誓約を禁じていたのではない。重要なことについて誓いや誓約を立てることを許す神の律法はまだ有効だった。(民 30:2。ガラ 4:4)イエスは,見境なく気まぐれに誓いを立てて誓いを無意味なものにしてしまわないように強く戒めた。
天に懸けても: 人々は,発言に重みを加えるために,「天」,「地」,「エルサレム」に懸けて,さらには「頭」つまり命に懸けて誓うことがよくあった。(マタ 5:35,36)しかし,ユダヤ人の間では,神の名前ではなく創造物に基づくそのような誓いの有効性について論議がなされていた。そのような誓いの言葉は撤回しても罰を受けないと感じる人もいたようだ。
偉大な王: エホバ神のこと。(マラ 1:14)
頭: つまり,命。
それ以上のことは邪悪な者から出る: 「はい」や「いいえ」と言うだけでなくそれをいつも誓わなければと感じる人は事実上,当てにならない人間であることを示している。「うその根源」であるサタンの精神を表している。(ヨハ 8:44)
あなたたちは,こう命じられたのを知っています: マタ 5:21の注釈を参照。
目には目,歯には歯: イエスの時代,律法のこの言葉(出 21:24。レビ 24:20)は私的報復を容認するものとして誤用されていた。しかしこの律法は,まずその件が裁判にかけられ,任命された裁判官が適切な処罰を決めて適用されるべきものだった。(申 19:15-21)
右の頰を平手打ちする: ギリシャ語動詞ラピゾーはこの文脈では「手のひらで打つ」という意味で使われている。それは傷つけるためというより挑発や侮辱を意図してなされただろう。イエスは,弟子たちが仕返しせずに進んで侮辱に耐えるようにと教えていた。
外衣も与えなさい: ユダヤ人の男性は通常2枚の衣服を着た。内衣(ギリシャ語キトーン,長袖か半袖のシャツに似ていて,膝か足首まであり,肌の上に着た)と外衣(ギリシャ語ヒマティオン,ゆったりした長い服か上着,あるいは単なる長方形の布)。衣服は借金の担保にもなった。(ヨブ 22:6)弟子たちは平和のために,内衣だけでなくさらに価値のある外衣も進んで手放すように,とイエスは言っている。
キロ: 直訳,「マイル」。1479.5メートルに相当するローマ・マイルと思われる。付録B14参照。
要求された: ローマの当局者たちが市民に要求できた強制奉仕に言及している。例えば,人や動物を奉仕に徴用したり,公務の遂行に必要とされる物を何でも徴発したりできた。ローマの兵士たちがキレネのシモンにイエスの苦しみの杭を「強制的に」運ばせたのはその1例。(マタ 27:32)
あなたたちは,こう命じられたのを知っています: マタ 5:21の注釈を参照。
隣人を愛し: モーセの律法はイスラエル人に,隣人を愛するよう命じた。(レビ 19:18)「隣人」という語は単に仲間の人間という意味だが,ユダヤ人の間では狭い意味に解釈して,仲間のユダヤ人だけ,特に,口頭伝承を守る人だけと取る見方もあった。他の人は皆,敵と見なされることになった。
敵を憎まなければならない: モーセの律法の中に,このような命令はない。ユダヤ教のラビの中には,隣人を愛するようにという命令は敵を憎むべきことを暗示していると信じる人もいた。
敵を愛し続け: イエスの助言はヘブライ語聖書の精神と調和している。(出 23:4,5。ヨブ 31:29。格 24:17,18; 25:21)
徴税人: ローマ当局のために税を徴収するユダヤ人が多くいた。そのようなユダヤ人は,人々が反感を持つ外国勢力に協力していただけでなく,公式の税率以上のものを取り立てたので,嫌われていた。徴税人はたいてい仲間のユダヤ人から避けられ,罪人や娼婦と同格に扱われた。(マタ 11:19; 21:32)
兄弟たち: イスラエル国民全体を指す。共通の父ヤコブの子孫で,兄弟であり,同じ神エホバへの崇拝で結ばれていた。(出 2:11。詩 133:1)
あいさつ: あいさつには,相手の幸福や繁栄を願うことも含まれた。
異国の人々: ユダヤ人以外で,神との関係を持たない人々。ユダヤ人はその人々を神を認めない汚れた存在で,避けるべき人たちと見ていた。
完全: ここで使われているギリシャ語は「完成した」,「十分に成長した」ことを意味し,ある権威が定めた基準に照らして「非の打ちどころがない」ことも意味する。絶対的な意味で完全なのはエホバだけなので,この語が人間に用いられる場合,相対的な完全さを言っている。この文脈で,「完全」とはクリスチャンとしてエホバ神と仲間の人間への愛が完成していることを指す。人は罪人であっても,そうなれる。
メディア
今日,死海(塩の海)の水は世界の海洋の約9倍の塩分を含んでいる。(創 14:3)死海の水の蒸発によってイスラエル人に十分な量の塩が供給された。ただし,他の鉱物が混入していたので,質は劣っていた。イスラエル人は,フェニキア人からも塩を入手したかもしれない。フェニキア人は地中海の水を蒸発させて塩を得ていたとされている。聖書で塩は味を付ける物として述べられている。(ヨブ 6:6)イエスは人々の日常生活に関係するものを例えに使うのが巧みで,塩を例えにして重要な教訓を与えた。山上の垂訓では,弟子たちに「あなたたちは地の塩です」と述べた。弟子たちは,人々に神との関係や正しい道徳観を保たせる保存料のような働きをする。
家庭や建物内で使われた普通の土製ランプにはオリーブ油を入れた。灯心が油を吸い上げることで火がともっていた。ランプはたいてい,粘土,木,金属でできた台に置かれ,室内を照らした。壁に設けたくぼみや棚に置いたり,天井からロープでつるしたりもした。
この家庭用のランプ台(1)はエフェソスやイタリアで見つかった1世紀の工芸品に基づいて画家が描いたもの。この種のランプ台は裕福な家で使われたと思われる。貧しい家庭では,ランプを天井からつるすか,壁のくぼみ(2),あるいは土製や木製の台に置いた。
ギリシャ語でゲヘナと呼ばれるヒンノムの谷は,古代エルサレムの南から南西に位置する峡谷。イエスの時代,そこはごみ焼却場だったので,完全な滅びの適切な象徴だった。
ヒンノムの谷(1)はギリシャ語聖書でゲヘナと呼ばれている。1世紀,神殿の丘(2)にユダヤ人の神殿建造物群があった。神殿の丘で現在一番目立つ建物は岩のドームとして知られるイスラム教の寺院。付録B12の地図を参照。
この離婚証書は西暦71年か72年のもので,アラム語で書かれている。ユダヤ砂漠の干上がっている川,ワジ・ムラバアトの北側で見つかった。この証書はマサダに住んでいた2人に関するもので,ユダヤ人の反乱の6年目にナクサンの息子ヨセフがヨナタンの娘ミリアムと離婚したことを述べている。