ルカによる福音書 1:1-80
脚注
注釈
ルカ: この名前のギリシャ語形はルーカスで,ラテン語名ルーカースから来ている。この福音書と「使徒の活動」の筆者であるルカは医者で,使徒パウロの忠実な友だった。(コロ 4:14。「ルカの紹介」も参照。)ギリシャ語名と文体から,ルカはユダヤ人ではなかったと主張する人がいる。加えて,コロ 4:10-14で,パウロは「割礼を受けている人たち」について述べ,その後ルカのことを言っている。とはいえ,その主張はロマ 3:1,2で述べられていることと相いれない。そこには,ユダヤ人が「神の神聖な宣言を託された」とある。それで,ルカはギリシャ語名を持ちギリシャ語を話すユダヤ人だったのかもしれない。
ルカによる福音書: どの福音書の筆者も,自分が筆者であることをその書の中で明らかにしておらず,書名は原文にはなかったと思われる。ルカの福音書の写本の中には,書名が「エウアンゲリオン カタ ルーカン」(「ルカによる良い知らせ[または,「福音書」]」)というものや,その短縮形「カタ ルーカン」(「ルカによる」)というものがある。書名がいつ加えられ,使われるようになったのかは,はっきりしない。2世紀だという見方もある。2世紀の終わりか3世紀初期のものとされる福音書写本で,長い書名のものが発見されているから。ある学者たちによると,「福音書」(直訳,「良い知らせ」)という呼び名はマルコの書の始まりの言葉(「神の子イエス・キリストについての良い知らせの始まり」)から来ているのかもしれない。書名に筆者の名前を含めるのは,各書をはっきり識別する実用的な目的のためではないかと考えられる。
全く信じている: この部分は「全く信用できる」とも訳せる。それは,徹底的に調査された出来事であることを強調している。この点と私たちがという表現から分かるように,イエスに関連した事柄全てが実現して真実となったことや,確信を持って受け入れる価値のあるものであることがクリスチャンの間ではっきり信じられていた。他の文脈で,同じギリシャ語の別の語形が「確信して」と訳されている。(ロマ 4:21; 14:5。コロ 4:12)
綿密に調べました: または,「たどりました」。ルカは記録した事柄を目撃していない。それで,聖なる力に導かれるとともに,以下のような情報を基に記したと思われる。(1)イエスの系譜をまとめる時に参照できた記録類。(ルカ 3:23-38)(2)マタイが聖なる力に導かれて書いた記述。(3)まだ生きていた弟子や,もしかするとイエスの母マリアなど,多くの目撃証人から個人的に聞いた話。(ルカ 1:2)ルカの福音書の内容のほぼ60%はこの書にしか記されていない。「ルカの紹介」参照。
閣下: 「閣下」に当たるギリシャ語(クラティストス)は高官に呼び掛ける際の公式の言い方として使われる。(使徒 23:26; 24:3; 26:25)それで学者の中には,この語はテオフィロがクリスチャンになる前に高い地位にあったことを示していると考える人がいる。一方,このギリシャ語は単に友好的もしくは丁寧な呼び掛けあるいは深い敬意を表すものと理解している人もいる。テオフィロは,イエス・キリストとその宣教について「聞いて学」んでいたので,クリスチャンだったと思われる。(ルカ 1:4)ルカの記述は,口頭で学んでいた事柄の確かさをテオフィロに確信させるものとなっただろう。テオフィロについては別の見方もある。テオフィロは最初は関心のある人で後に信者になったと考える人もいれば,「神に愛された」または「神の友」という意味のこの名前はクリスチャン一般を指すまたの名として使われたと言う人もいる。ルカは「使徒の活動」の冒頭でテオフィロに呼び掛ける際,「閣下」という表現を使っていない。(使徒 1:1)
順序立てて: ここのギリシャ語表現カテクセースは,時間順,話題ごと,論理的な順序を指すことができるが,必ずしも厳密な時系列を意味してはいない。ルカが全てを時系列で記録したわけではないことは,ルカ 3:18-21から明らか。それで,イエスの生涯と宣教に関する出来事の順番を確定するには4福音書全ての記述を調べる必要がある。ルカはおおむね時系列で記述しているが,出来事や話題を系統立てて述べる際に他の要素も加味したと思われる。
ヘロデ: ヘロデ大王を指す。用語集参照。
アビヤ: 「私の父はエホバ」という意味のヘブライ語の名前。
アビヤの組: アビヤはアロンの子孫の祭司だった。ダビデ王の時代,アビヤはイスラエルの氏族長の1人と見なされていた。ダビデは祭司を24の組に分けた。それぞれの組は6カ月ごとに1週間エルサレムの聖なる所で奉仕した。アビヤの氏族は第8の組を率いるようくじで選ばれた。(代一 24:3-10)ゼカリヤは「アビヤの組」で奉仕するよう割り当てられていたが,これは必ずしもゼカリヤがアビヤの子孫だったということではない。ルカ 1:9の注釈を参照。
ゼカリヤ: 「エホバは覚えた」という意味のヘブライ語の名前。この名前のギリシャ語形を採用して「ザカリア」としている聖書翻訳もある。
エリサベツ: ギリシャ語名エレイサベトは,「私の神は豊か」,「豊かさの神」という意味のヘブライ語名エリーシェバ(エリシェバ)に由来。エリサベツはアロンの家系の女性だったので,ヨハネの両親は2人とも祭司の家系の出だった。
エホバ: この聖書翻訳のルカの福音書で,神の名前が出てくる最初の箇所。現存するギリシャ語写本はここでキュリオス(主)という語を使っているが,もともと神の名前が使われていて後代に主という称号に置き換えられたと考える十分な理由がある。(付録C1,C3の序文とルカ 1:6を参照。)ルカの記述の最初の2章には,ヘブライ語聖書の中で神の名前が出てくる表現や章句への直接的また間接的な言及がたくさんある。例えば,おきてと法的な要求という語句や同様の法律用語の組み合わせは,ヘブライ語聖書中で神の名前が使われていたりエホバが話していたりする文脈で見られる。(創 26:2,5。民 36:13。申 4:40; 27:10。エゼ 36:23,27)
香をたく番: 当初は大祭司アロンが金の祭壇で香をたいた。(出 30:7)しかし,香やその他の幕屋の物を監督したのは息子のエレアザルだった。(民 4:16)ここでは,下位の祭司であるゼカリヤが香をたくことが述べられているので,贖罪の日を除けばこの奉仕を行うのは大祭司に限られていなかったようだ。香をたくことは神殿での毎日の奉仕の中で最も誉れあることと見なされていたと思われる。それは犠牲を捧げた後になされ,その間,民は聖なる所の外に集まって祈っていた。ラビの伝承によれば,この奉仕のためにくじが引かれ,その場にまだその奉仕を行ったことのない祭司がいる間は,したことのある祭司が再び行うことはできなかった。そうであれば,祭司がこの栄誉を得るのは生涯で1度だけだったかもしれない。
エホバの聖なる所: ルカ 1:6の注釈にある通り,ルカの記述の最初の2章には,ヘブライ語聖書の中で神の名前が出てくる章句や表現への直接的また間接的な言及がたくさんある。例えば,「エホバの聖なる所[または,「神殿」]」という言い回しに対応する表現では,テトラグラマトンがしばしば使われている。(民 19:20。王二 18:16; 23:4; 24:13。代二 26:16; 27:2。エレ 24:1。エゼ 8:16。ハガ 2:15)付録C1で説明されている通り,この節で,もともと神の名前が使われていて後代に主という称号に置き換えられたと考える十分な理由がある。そのため,ここの本文でエホバという名前を使っている。付録C3の序文とルカ 1:9を参照。
聖なる所: この文脈で,ギリシャ語ナオスは神殿の中心的な建物を指す。ゼカリヤは「香をたく番」になった時,聖所に入らなければならなかった。それは聖なる所の第一の部屋で,そこに香の祭壇が置かれていた。マタ 27:5,51の注釈と付録B11を参照。
エホバの天使: 創 16:7を初めとして,「天使」に当たるヘブライ語とテトラグラマトンを組み合わせたこの表現がヘブライ語聖書に何度も出てくる。セプトゥアギンタ訳の初期の写本のゼカ 3:5,6では,ギリシャ語アンゲロス(天使,使者)の後に,ヘブライ文字で書かれた神の名前が続いている。この断片は,イスラエルのユダヤ砂漠のナハル・ヘベルにある洞窟で見つかり,紀元前50年から西暦50年の間のものとされている。ルカ 1:11の入手できるギリシャ語写本で「主の天使」となっているのに対し「新世界訳」が「エホバの天使」という表現を本文で使っている理由は,付録C1とC3で説明されている。
ヨハネ: マタ 3:1の注釈を参照。
エホバの前で: エノーピオン キュリウーというギリシャ語の表現(直訳,「主の見ている所[前]で」)はヘブライ語の慣用句をそのまま取り入れたもので,原文でテトラグラマトンが使われているヘブライ語のフレーズの訳として,セプトゥアギンタ訳の現存する写本に100回以上出ている。(裁 11:11。サ一 10:19。サ二 5:3; 6:5)この表現に関するこうしたヘブライ語聖書の背景は,ここでキュリオスが神の名前の代わりに使われていることを示している。付録C3の序文とルカ 1:15を参照。
エホバ神: または,「彼らの神エホバ」。ゼカリヤに対する天使の言葉(13-17節)には,ヘブライ語聖書で使われている表現が色濃く反映されている。例えば,ヘブライ語聖書からの引用に,人称代名詞を伴うテオス(神)とキュリオス(主)の組み合わせ(ここでの「彼らの神エホバ」に当たる)がよく出てくる。(マタ 22:37,マル 12:30,ルカ 10:27にある「あなたの神エホバ」という表現と比較。)ヘブライ語聖書の原文で,「彼らの神エホバ」という組み合わせは30回以上あるが,「彼らの神である主」という組み合わせは一度も使われていない。また,イスラエル人(直訳,「イスラエルの子たち」)という言い回しも,ヘブライ語聖書で何度も使われているヘブライ語の慣用句をそのまま取り入れたもの。(創 36:31,脚注)付録C3の序文とルカ 1:16を参照。
エリヤ: 「私の神はエホバ」という意味のヘブライ語の名前。
父親の心を子供の心のようにし: この表現はマラ 4:6の預言の引用。ヨハネの伝える音信が父親たちに,悔い改めてかたくなな心を従順な子供の心のような謙遜で教えやすい心に変化させるよう促すということ。神の子供になる人もいる。またマラキは,子供たちの心を父たちの心のようにすると予告した。悔い改めた人が忠実な父祖アブラハム,イサク,ヤコブのようになるということ。
準備ができた民をエホバのために整えます: ゼカリヤに対する天使の言葉(13-17節)には,神の名前が使われているマラ 3:1; 4:5,6とイザ 40:3などの聖句への言及と思われる箇所がある。(ルカ 1:15,16の注釈を参照。)民を……整えますに当たるギリシャ語のフレーズと似た表現がセプトゥアギンタ訳のサ二 7:24にあり,そこのヘブライ語は,「あなたはイスラエルの民が……ご自分の民となるようにしました。エホバ,あなたは」となっている。付録C3の序文とルカ 1:17を参照。
ガブリエル: 「神の強い(強健な)者」という意味のヘブライ語の名前。(ダニ 8:15,16)ミカエルを別にして,ガブリエルは聖書の中で名前が挙げられている唯一の天使で,人間の姿で自分の名前を明らかにした唯一の天使。
良い知らせを告げる: ギリシャ語動詞エウアンゲリゾマイは,「良い知らせ」という意味の名詞エウアンゲリオンと関係がある。天使ガブリエルはここで,福音伝道者として行動している。マタ 4:23; 24:14; 26:13の注釈を参照。
聖なる奉仕: または,「人々のための奉仕」。ここで使われているギリシャ語レイトゥールギアはレイトゥールゲオー(人々のための奉仕を行う)とレイトゥールゴス(公僕,人々のために奉仕する人)と関係がある。古代のギリシャ人やローマ人はこれらの語を,国家や関係当局のための仕事や奉仕,または人々のためになされる仕事や奉仕に関して使った。例えば,ロマ 13:6(注釈を参照)で,政府当局者が人々のために有益なサービスを提供しているという意味で神の「公僕」(レイトゥールゴスの複数形)と呼ばれている。ルカによるこの語の使い方は,セプトゥアギンタ訳の用法に沿っている。そこではこの表現の動詞形と名詞形が祭司とレビ族の神殿での奉仕に関してしばしば使われている。(出 28:35。民 8:22)神殿での奉仕には,人々のための公的な奉仕という面があった。とはいえ,それは聖なるものでもあった。レビ族の祭司は神の律法を教え,民の罪を覆う犠牲を捧げたから。(代二 15:3。マラ 2:7)
エホバがこのようにしてくださいました: または,「これはエホバがしてくださったことです」。ここでエリサベツは,創 21:1に記されているサラの経験を思い起こさせるような仕方で感謝を表していて,その聖句には神の名前が出ている。エリサベツは,子供がいないという恥辱が取り去られたことについて,創 30:23のラケルの言葉とよく似た表現を使っている。付録C1,C3の序文とルカ 1:25を参照。
その6カ月目に: 文脈の24節と25節から分かるように,エリサベツの妊娠6カ月目ということ。
婚約していた: マタ 1:18の注釈を参照。
マリア: 「ミリアム」というヘブライ語の名前に相当する。ギリシャ語聖書にマリアという名前の女性は6人いる。(1)イエスの母親マリア,(2)マリア・マグダレネ(マタ 27:56。ルカ 8:2; 24:10),(3)ヤコブとヨセの母親マリア(マタ 27:56。ルカ 24:10),(4)マルタとラザロの姉妹マリア(ルカ 10:39。ヨハ 11:1),(5)ヨハネ・マルコの母親マリア(使徒 12:12),(6)ローマのマリア(ロマ 16:6)。イエスの時代,マリアはとてもよくある女性の名前だった。
エホバはあなたと共におられます: 神の名前を含むこれとよく似た言い回しがヘブライ語聖書に何度も出ている。(ルツ 2:4。サ二 7:3。代二 15:2。エレ 1:19)天使がマリアにしたあいさつは,裁 6:12でエホバの天使がギデオンに呼び掛ける時に使った,「勇士よ,エホバはあなたと共にいます」という言葉とよく似ている。付録C1,C3の序文とルカ 1:28を参照。
イエス: マタ 1:21の注釈を参照。
エホバ神: ルカ 1:6の注釈にある通り,ルカの記述の最初の2章には,ヘブライ語聖書の中で神の名前が出てくる章句や表現への直接的また間接的な言及がたくさんある。ダビデの王座に関する天使の言葉は,サ二 7:12,13,16の約束への間接的な言及で,そこではエホバが預言者ナタンを通してダビデに語っており,直前の文脈にテトラグラマトンが何度も出ている。(サ二 7:4-16)ギリシャ語聖書では,ここで「エホバ神」と訳されている表現とそれによく似た組み合わせはおもに,ヘブライ語聖書からの引用やヘブライ語の文体の影響を受けた箇所に出ている。ルカ 1:16の注釈,付録C3の序文とルカ 1:32を参照。
親族: ギリシャ語,シュンゲニス。この語形はギリシャ語聖書でここにしか出ていないが,別の語形(シュンゲネース)は他の幾つかの聖句で使われている。(ルカ 1:58; 21:16。使徒 10:24。ロマ 9:3)どちらの語も親族一般,同じ拡大家族や氏族の人を指す。マリアとエリサベツは親族関係にあったが,詳しいことは分からない。ゼカリヤとエリサベツはレビ族で,ヨセフとマリアはユダ族だったので,それほど近い関係ではなかったのかもしれない。
神にとっては,どんな宣言も不可能ではない: または,「神からのどんな言葉も果たされないことはない」。もしかすると,「神にとっては何事も不可能ではない」。「宣言」と訳されているギリシャ語レーマは,「言葉」,「言われたこと」,「宣言」を指せる。あるいは,出来事,述べられた行動,宣言されたことの結果など,「物事」,「語られたこと」も指せる。この箇所のギリシャ語は何通りにも訳せるが,全体的な意味は変わらない。つまり,神に関する限り,あるいは神のどんな約束に関しても,不可能はないということ。ここでの言葉遣いは,セプトゥアギンタ訳の創 18:14と似ていて,エホバはアブラハムに,高齢の妻サラがイサクを産むと保証した。
ご覧ください,私はエホバの奴隷でございます!: マリアはここで,ヘブライ語聖書に出てくるエホバの他の奉仕者が使ったのとよく似た表現を用いている。例えば,ハンナはサ一 1:11に記されている祈りの中で,「大軍を率いるエホバ,もしあなたが私[または,「あなたの奴隷」]の苦悩をご覧になり」と言っている。セプトゥアギンタ訳のサ一 1:11は,ルカの記述で使われているのと同じ「奴隷」に当たるギリシャ語を使っている。付録C3の序文とルカ 1:38を参照。
山地に……行った: ナザレにあるマリアの家からユダヤの丘陵地へのこの旅は,ゼカリヤとエリサベツの住む町がどこにあったかにもよるが,3,4日かかったかもしれない。距離は100キロ以上あったと思われる。
あなたのおなかの子: 直訳,「あなたの胎の実」。ここで「実」に当たるギリシャ語(カルポス)は,「胎」と訳される語と共に比喩的に使われ,胎児を指している。表現全体は,子供や子孫を人間の生殖の「実」つまりそれによって生み出されるものとして述べるヘブライ語の慣用句を取り入れたもの。(創 30:2。申 7:13,脚注; 28:4。詩 127:3; 132:11。イザ 13:18。哀 2:20)
エホバから: 天使がマリアに語ったことは,もともとエホバ神から来ていた。ここで「エホバから」と訳されているギリシャ語の表現パラ キュリウーは,神の名前が使われることの多いヘブライ語表現の訳として,セプトゥアギンタ訳の現存する写本に出てくる。(創 24:50。裁 14:4。サ一 1:20。イザ 21:10。エレ 11:1; 18:1; 21:1)付録C3の序文とルカ 1:45を参照。
マリアはこう言った: 後に続く46-55節にあるマリアの賛美の言葉には,ヘブライ語聖書への直接的また間接的な言及が20以上も含まれている。マリアは,サムエルの母親ハンナの祈りの言葉とよく似た表現をいくつも使っている。ハンナも出産に関してエホバから祝福を受けた。(サ一 2:1-10)直接的また間接的な言及の他の例として,詩 35:9,ハバ 3:18,イザ 61:10(47節),創 30:13,マラ 3:12(48節),申 10:21,詩 111:9(49節),ヨブ 12:19(52節),詩 107:9(53節),イザ 41:8,9,詩 98:3(54節),ミカ 7:20,イザ 41:8,サ二 22:51(55節)がある。マリアの言葉には,神への愛と聖書の知識がよく表れている。マリアの感謝の気持ちもにじみ出ている。エホバが権力を持つ傲慢な人を卑しめ,ご自分に仕えようとする身分の低い貧しい人たちを助ける,と述べていることから,信仰の深さも分かる。
私: または,「私の全存在」。ギリシャ語プシュケーは,ここで人の存在全体を指す。この文脈では,「私」と訳せる。用語集の「プシュケー」参照。
私はエホバをあがめ: または,「私はエホバの偉大さを賛美し(告げ)」。マリアは,詩 34:3や69:30など,ヘブライ語聖書にあるのとよく似た言い回しを使っている。それらの聖句では,その節や文脈で神の名前が使われている。(詩 69:31)セプトゥアギンタ訳では,ここの節と同じ「あがめる」に当たるギリシャ語(メガリュノー)が使われている。この節のマリアはこう言ったに関する注釈,ルカ 1:6,25,38の注釈,付録C3の序文とルカ 1:46を参照。
エリサベツがエホバから大きな憐れみを示されたこと: この表現は,創 19:18-20など,ヘブライ語聖書の言い回しの影響を受けている。そこでロトはエホバに呼び掛け,「エホバ,……あなたは……大きな親切を示して」と述べている。付録C3の序文とルカ 1:58を参照。
エホバ: または,「エホバの手」。「手」という語はしばしば「力」を指して比喩的に使われる。人体で,手は腕から伝わる力を使っていろいろな動作を行う部分なので,「手」という語は,「力がある」というだけでなく,「力を行使する」という考えも伝えているかもしれない。「手」に当たるヘブライ語とテトラグラマトンを組み合わせた「エホバの手」という表現がヘブライ語聖書に何度も出てくる。(出 9:3。民 11:23。裁 2:15。ルツ 1:13。サ一 5:6,9; 7:13; 12:15。王一 18:46。エズ 7:6。ヨブ 12:9。イザ 19:16; 40:2。エゼ 1:3)「エホバの手」と訳されるギリシャ語表現は使徒 11:21; 13:11にも出ている。ルカ 1:6,9,使徒 11:21の注釈,付録C3の序文とルカ 1:66を参照。
エホバが賛美されますように: または,「エホバが褒めたたえられますように」。この賛美の表現はヘブライ語聖書によくあり,神の名前と一緒に使われることが多い。(サ一 25:32。王一 1:48; 8:15。詩 41:13; 72:18; 106:48)付録C3の序文とルカ 1:68を参照。
救いの角: または,「強力な救い主」。聖書で,動物の角はしばしば,力,征服,勝利を表す。(サ一 2:1。詩 75:4,5,10,脚注)また,支配者や支配王朝が,正しいものも邪悪なものも,角によって象徴される。征服を遂げることが角で押すことに例えられた。(申 33:17。ダニ 7:24; 8:2-10,20-24)この文脈で,「救いの角」という表現は,救う力を持つ者,力強い救い主としてのメシアを指す。用語集の「角」参照。
神聖な奉仕を行える: または,「崇拝できる」。ギリシャ語動詞ラトレウオーは基本的に,仕えることを意味する。聖書中の用法では,神に奉仕することや神への崇拝に関して奉仕すること(マタ 4:10。ルカ 2:37; 4:8。使徒 7:7。ロマ 1:9。フィリ 3:3。テモ二 1:3。ヘブ 9:14; 12:28。啓 7:15; 22:3),あるいは聖なる所や神殿で奉仕すること(ヘブ 8:5; 9:9; 10:2; 13:10)を指す。それで,文脈によっては「崇拝する」とも訳せる。例は少ないが,偽りの崇拝,創造された物への奉仕や崇拝に関しても使われている。(使徒 7:42。ロマ 1:25)
メディア
可能な範囲で出来事の起きた順に挙げている。
各福音書の地図は異なるストーリーを追っている。
1. 天使ガブリエルが神殿でゼカリヤの前に現れ,バプテストのヨハネの誕生を予告する。(ルカ 1:8,11-13)
2. イエスの誕生後,天使たちがベツレヘム近くの野原で羊飼いたちの前に現れる。(ルカ 2:8-11)
3. 12歳のイエスは神殿で教師たちと話す。(ルカ 2:41-43,46,47)
4. 悪魔がイエスを「神殿の最も高い所に」立たせ,誘惑する。(マタ 4:5-7。ルカ 4:9,12,13)
5. イエスはナザレの会堂でイザヤの巻物を朗読する。(ルカ 4:16-19)
6. イエスは育った町で受け入れられない。(ルカ 4:28-30)
7. イエスは,恐らくカペルナウムから,ナインに移動する。(ルカ 7:1,11)
8. イエスはナインでやもめの一人息子を復活させる。(ルカ 7:12-15)
9. イエスは2回目のガリラヤ伝道旅行を行う。(ルカ 8:1-3)
10. イエスは,恐らくカペルナウムで,ヤイロの娘を復活させる。(マタ 9:23-25。マル 5:38,41,42。ルカ 8:49,50,54,55)
11. サマリアを通ってエルサレムに行く途中,イエスは「人の子には自分の家がありません」と言う。(ルカ 9:57,58)
12. イエスは,恐らくユダヤで,70人を遣わす。(ルカ 10:1,2)
13. エリコへの道を下る親切なサマリア人の例えの舞台。(ルカ 10:30,33,34,36,37)
14. イエスはペレアの町や村で教え,エルサレムに向かう。(ルカ 13:22)
15. イエスはサマリアとガリラヤの間を通る際,重い皮膚病の人10人を癒やす。(ルカ 17:11-14)
16. イエスはエリコで徴税人ザアカイの家に行く。(ルカ 19:2-5)
17. イエスはゲッセマネの庭園で祈る。(マタ 26:36,39。マル 14:32,35,36。ルカ 22:40-43)
18. ペテロはカヤファの家の中庭でイエスとの関係を3度否定する。(マタ 26:69-75。マル 14:66-72。ルカ 22:55-62。ヨハ 18:25-27)
19. イエスは,どくろと呼ばれる所(ゴルゴタ)で犯罪者に,「あなたは私と共にパラダイスにいることになります」と言う。(ルカ 23:33,42,43)
20. イエスはエマオへの道で2人の弟子の前に現れる。(ルカ 24:13,15,16,30-32)
21. イエスは弟子たちをベタニヤまで連れていき,近くのオリーブ山から天に昇る。(ルカ 24:50,51)
この動画に描かれているような様子を,ゼカリヤは神殿の入り口に近づく時に見たかもしれない。ある資料によれば,ヘロデが建てた神殿は15階建ての高さだった。入り口のある正面の壁は金で覆われていたと思われる。入り口は東向きで,朝日が当たるとまばゆいほどに輝いただろう。
(1)女性の庭
(2)全焼の捧げ物の祭壇
(3)聖所の入り口
(4)鋳物の「海」
ここに示されているのは,シュンマコスのギリシャ語訳の西暦3世紀か4世紀の羊皮紙断片で,詩 69:30,31(詩 68:31,32,セプトゥアギンタ訳)が出ている。シュンマコスは2世紀に翻訳を行った。この断片は,ビンドボネンシス・パピルス ギリシャ語 39777として知られ,ウィーンにあるオーストリア国立図書館に所蔵されている。ここに示されている部分には,ギリシャ語本文中に古代のヘブライ文字で書かれた神の名前が2回(と)出ている。ルカ 1:46のマリアの言葉は,詩 69:30,31と同じ考えを言い表していると思われる。そこには元のヘブライ語本文でも神の名前が出ている。マリアの賛美の表現にヘブライ語聖書の背景があることと,このギリシャ語訳にテトラグラマトンが使われていることは,ルカ 1:46の本文に神の名前を使う裏付けとなっている。ルカ 1:46の注釈と付録Cを参照。
ゼカリヤがヘブライ語で「名前はヨハネ」と書いた時,ここに示されているような木製の書き板を使ったかもしれない。このような書き板は古代中東で幾世紀も使われていた。書き板のへこんだ部分にろうが薄く塗られた。その軟らかい表面に,鉄や青銅や象牙で作った筆記具で文字を書いた。典型的な筆記具は一方の端がとがっていて,もう一方はのみのように平たくなっていた。平たい方を使って,書いたものを消してろうを平らにした。複数の書き板が短い革ひもでつながれることもあった。実業家,学者,学生,徴税人などが一時的な記録を取る必要がある時に書き板を使った。ここにある写真の書き板は西暦2世紀か3世紀のもので,エジプトで発見された。